2014年4月17日木曜日
第六章 武士に拠る闘争の時代の始まりと院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
第1項 鎌倉幕府成立までの経緯
1:鎌倉幕府が何時成立したのかについては下記5つの説がある。
この項ではそれらの説を関連する事柄を含めて時系列に記述して行くが鎌倉幕府の成立時期も“平氏政権が何時から成立したのか”を前章5-6項で論じたと全く同じ様に、ある一時期を以て成立したと見るのでは無く“頼朝が支配権を徐々に拡大し乍ら結果として鎌倉幕府として成立して行った”と理解するのが正しいのであろう。
以下に鎌倉幕府が何時成立したとする代表的な“5説”をその説と関連する史実、逸話等も紹介しながら記述して行く。
説1:1183年10月14日(寿永2年)の院宣が下された時点を成立したとする説
百錬抄の記事に明記された“源頼朝に後白河法皇から東海・東山両道の国衙・荘園の支配権を承認する院宣が下された時点”を以て鎌倉幕府が成ったとする説である。
この宣旨が下された時の状況は7月に平氏一門が都落ちをし、木曽(源)義仲・行家が後白河法皇を保護して入京し、平氏一門追討の院宣が出され、8月には後白河法皇が三種の神器の無いまま尊成親王を第82代後鳥羽天皇として践祚式を行ったという時期であった。又、5-8項で記述した様にこの皇位継承問題に木曽義仲が関与する発言をした事で、彼は早々と後白河法皇に切捨てられる立場に陥落していたのである。
後白河法皇としては平氏一門と木曽義仲を切り捨てる決断をした直後に次に利用する人物として誰を選ぶかに際して、従来から評価していた“源頼朝”を選び、その頼朝に与えた権限が1183年10月14日の宣旨であり、これを以て源頼朝に拠る政権すなわち鎌倉政権が成ったとする説である。
説2:1184年10月6日(寿永3年、元暦元年)説・・頼朝は1180年に鎌倉に“大倉御所”を構えて先ずは武士達の統率を目的とする“侍所”を置き、政治拠点としたが、更に4年後に公文所・問注所を開設して本格的な政治体制を整えた。この時点を以て鎌倉幕府成立とする説
頼朝は1180年4月27日に叔父の源行家から以仁王の平氏追討を命ずる令旨を受けたが、暫くの間は静観していた。前章で記した様に同年8月17日に北条時政(政子の父親)等が頼朝の命で伊豆国目代の山木兼隆を討ち取った事を以て源頼朝が平氏討伐の旗揚げをしたとされる。
以後、一度は敵対していた畠山重忠、河越重頼、江戸重長等も頼朝軍に従い、上総広常、千葉常胤が大軍を率いて合流するなど頼朝軍の軍勢は拡大して行く。頼朝は1180年にかって父・義朝、兄義平が住んだ鎌倉に入り、ここを政治拠点とし、大倉御所を構えていたが上記の様に組織も拡大し、1184年10月6日に公文所、問注所を設けて本格的な政治体制を整えた。これを以て鎌倉幕府の成立とする説である。
奥州の藤原秀衡の許にいた異母弟の源義経が頼朝の下に参じるのはこの頃である。頼朝37歳、義経25歳であった。
義経についてはこの6-1項を通して関係する重要な人物であるから、生まれから頼朝の旗揚げに呼応して馳せ参じる迄の状況から整理して置こう。
源義経は平治の乱が起きた1159年の生まれと伝わる。父・源義朝の側室だった母親の常盤御前が今若・乙若・そして牛若(義経)の3人の子供を連れて平清盛の下に自首をする。今若・乙若・そして牛若(義経)が共に仏門に入る事を条件に3人の男子は命を助けられ、その後、義経(牛若丸)は鞍馬寺に入る。それは1169年、10歳の頃とされる。その後16歳まで鞍馬寺で修行をした後に1175年頃から奥州の藤原秀衡を頼ったとされる。
何故義経が奥州の藤原秀衡を頼ったのかについては奥州藤原秀衡の政治顧問的存在であり且つ秀衡の舅であった藤原基成と義経の母親・常盤御前が再婚した相手、一条長成が親戚だったという関係からとされる。この一条長成という人物も大蔵卿(正四位下)になった公家であり、常盤御前が彼の継妻となった事で義経の養父としての関係からの縁だと言われている。
母親の常盤御前についてはその美貌は有名である。2012年のNHK大河ドラマ・平清盛では女優・武井咲が演じていた。生まれは1138年とされる事と1162年頃(常盤御前24歳)に平清盛の下から一条長成に嫁ぎ、一条能成と女子を生んだ事だけは判っているがその後の消息については、様々な逸話は残るものの史実としてはっきりとした事は判らない。玉葉と吾妻鏡の両方に1186年6月の記事があって、義経追討の動きの中で常盤御前は義経の生母として義経の妹に当たる女性と共に捕えられた事が書かれている。
吾妻鏡には二人を鎌倉に護送するか否かについての記事があるが、二人が鎌倉に送られた形跡が無い為、そのまま釈放されたものと考えられる。1186年6月13日の記事が最後でその後の常盤御前の消息は一切分かっていない。没した時期も不明である。常盤御前の墓と伝わるものも数か所にある。
義経と母親を同じくする異母弟の一条能成(生1163年没1238年)については、後に4歳年上の兄に当たる義経の近臣として尽くし、義経が兄・頼朝に追討され都落ちをした際にも義経に随行している。この為、源頼朝からは後に弾劾され解官されるという逆境に立たされたが、頼朝の死後、政界に復帰し、最後は従三位にまで昇っている。1225年62歳の時に出家をし、75歳で没したとの記録が残っている。
この様な経緯で義経が奥州藤原秀衡の許から1180年8月17日に旗揚げをした異母兄・頼朝に馳せ参じた訳だが、この時点では頼朝は既に大倉御所を構え、平氏一門との富士川の合戦(1180年10月20日)で勝利して黄瀬川に陣(静岡県駿東郡清水町)を進めていた。その時に“兄弟涙の対面”が成ったという事である。
平維盛を総大将として意気揚々と源氏軍討伐に向かった平氏軍であったが、半ば貴族化した平氏一門の軍勢は水鳥が一斉に飛び立つ音に驚き、戦場を逃げ出したとされる程の大混乱に陥り、頼朝軍は戦わずして“富士川の戦い”に大勝利していた。そのまま進軍すれば一気に上洛も可能という勢いであったが、先ずは“東国平定”に的を絞った頼朝は鎌倉に戻って元来は三位以上の貴族が警備の侍の詰所として認められていた“侍所”を後の鎌倉方の軍事統率の中心機関として設ける等、内部体制を固める事を優先したのである。
1180年11月17日にその侍所の別当(長官)に和田義盛を据え、所司(次官)には後に義経弾劾報告書で有名な梶原景時を任命した事が記録に残っている。この様に将来を見据えて武家政権としての組織作りを1180年の時点から着々と整えて行った処が並の武将と異なり、政治家としての卓越した能力を兼ね備えた源頼朝の非凡さだとされる。
頼朝は4年後の1184年10月6日に上記侍所を置いた“大倉御所”に更に公文所・後の政所(政務・財政:別当・大江広元)と問注所(訴訟:執事・三善康信)を開設して幕府としての形を整えた。この時点を以て鎌倉幕府が成立したとする説である。
この8カ月前の1184年2月には源平合戦の事実上の雌雄が決したとされる“一の谷の合戦”があり、源氏が大勝した事は前章で述べた通りである。しかし、源平合戦は尚も1年間継続される。その理由は既述した様に後白河法皇が命じていた“三種の神器”の奪還がまだ果たせていなかった為である。“壇ノ浦の合戦“まで続く戦いの結果は平氏一門が滅亡し、安徳天皇の入水という悲劇へと繋がる事になるのである。
説3:1185年11月28日(文治元年)“文治の勅許”が下された時とする説・・後白河法皇が頼朝に守護、地頭の設置権並びにその人事権を与えた時点とする説
吾妻鏡と玉葉にも明記されているが“文治の勅許”が下される4日前の11月24日に、北条時政(北条政子の父親)は頼朝の代官として千騎の軍勢を率いて入京し、後白河法皇が源義経・源行家に頼朝追討の院宣を与えた事に対する源頼朝の怒りを朝廷(院)に伝え、その一方で朝廷(院)と交渉に入り、守護・地頭の設置をはじめその他の要求を突き付ける。その結果11月28日に吉田経房を通じて頼朝に義経等の追捕の為に諸国への守護・地頭の設置とその任免権が与えられる事になる。
この後白河法皇からの勅許を“文治の勅許”と呼ぶ。これを以て鎌倉幕府成立とする説である。
この吉田経房という人物は前章でも何度も引用した一級資料で彼の日記である“吉記(きっき)”を書いた人物である。この人物は平清盛によるクーデターで多くの後白河法皇の近臣・官僚達を追放した為に、人材を欠いた事が平氏政権の弱点だったと記述したが、この吉田経房はその中で実務官僚として高倉院政・安徳天皇の時期を蔵人頭・院別当として平氏政権を支えた人物だったのである。
その平氏政権の重要閣僚的存在だった吉田経房が源頼朝に何かと重用されたのは頼朝と偶然の関係があったからである。彼は元々後白河法皇の姉・上西門院や寵妃・建春門院の側近という家柄の良さに加えて、兄が前任の伊豆守で、吉田経房もその後を継いだ事から地元の官人であった北条時政(政子の父親)と交流が出来たのが切っ掛けであった。1183年頃から源頼朝の“友人”として急浮上した人物であり、以後何かと重用された人物である。
“文治の勅許“の話に戻るが、1184年以降、源頼朝と彼の代官として京に常駐していた異母弟の源義経との間には不信感が芽生えていた。どんどん後白河法皇に取り込まれて行く義経と、朝廷(院)との距離を置く事を重要政策としていた頼朝との齟齬は広がり、両者の関係は悪化する一方だったのである。
紆余曲折を経て、その結果が頼朝が1185年11月28日に“文治の勅許”を得る事に結び付く展開と成る。この守護・地頭の設置権は義経を滅ぼす為だけでは無く、頼朝が東国を中心に武士による支配権を後白河法皇に認めさせる事になる非常に重要な事柄であった。逆説的ではあるが頼朝と義経の兄弟関係が悪化する事に拠って頼朝の目指す本格的武家政権・鎌倉幕府の基盤が強くなる施策が次々に打たれて行く事になって行ったのである。
結果として異母弟・源義経は有能な武将として源平の合戦で兄・源頼朝を助けただけで無く、その後は自らが追討される人物となる事に拠って、兄・頼朝の鎌倉幕府の支配権拡大に大いに貢献したという皮肉な展開となるのである。
以下に頼朝が“文治の勅許”を得る迄の推移を時系列に記述する事にする。
説3-①:壇ノ浦の戦い(寿永4年・文治元年1185年3月24日)で平氏一門を滅亡させた後に生じた源頼朝と義経の関係変化
壇ノ浦の戦いで平氏一門は滅亡し、総帥平宗盛が捕えられた。こうした一連の功績によって源頼朝は1185年4月27日に従二位へ昇った。一方で義経の補佐役として前線に派遣されていた侍所の所司(次官)の梶原景時からは義経の戦場における所業に関する弾劾状が届いた。この事から頼朝と義経の関係悪化が加速したと伝わる。
何故源頼朝が元々は敵方であった梶原景時をそれ程までに信頼する様になったかについては有名な逸話がある。余談となるが以下に梶原景時という人物を紹介する為にこの逸話を紹介して置こう。
頼朝は挙兵直後の1180年8月に“石橋山の戦い”で平氏一門の大庭景親・梶原景時軍に敗れた。この時山中に逃げた頼朝を大庭景親が探し出し、頼朝は絶体絶命と思われた状況下で梶原景時が頼朝を助け、逃がしたのである。詳細は省略するがこの事は吾妻鏡と源平盛衰記に書かれている。その後、同年の12月に梶原景時は平氏一門を見限って頼朝に下り、御家人に取り立てられるという経緯を辿る。
以後、命の恩人という事が大きかったのであろうが、頼朝の梶原景時に対する信任は絶大であった。その後、鎌倉方の軍事統率機関の侍所所司(次官)に就き、源平合戦で義経部隊に派遣された時に梶原景時が頼朝に書き送ったのが有名な“義経弾劾状”だったのである。
総じて梶原景時の人物評は良くない。平家物語や源平盛衰記では義経の“敵役”として書かれている。庶民文化が隆盛だった江戸時代の歌舞伎や講談では勧善懲悪が好まれる中で義経は“悲劇の英雄”であり梶原景時は“敵役の大悪人”として描かれている。上横手雅敬氏は“如才は無いが人間性が卑しい、虎の威を借る狐”と評している。
梶原景時は重用された源頼朝が急死した後も鎌倉2代将軍・源頼家に仕え、権力を振るった。その事に不満を持った和田義盛、三浦義村ら諸将66人が景時排斥の連判状を書き、将軍・源頼家に提出したと言う史実が残る程の嫌われ者だった様だ。
鎌倉を言わば追い出された格好で梶原景時は一族を連れて京に向かう。縁故を持つ景時は京の武士として朝廷に仕えようとしたものと思われる。しかし、京に向かう途中の駿河国清見関で吉香友兼はじめ在地の武士との戦闘となり、33人の一族と共に討ち取られている。正治3年(1200年)正月の事である。
源義経を讒言して陥れた事から“讒言を以て人を陥れる人物”又、“力のある者にはへつらい、格下の相手には高圧的で尊大に振る舞う“との人物評は彼の最期の様子からしてもそう実像とかけ離れたものでは無かったのであろう。
一方の義経という人物は悲劇のヒーローとして歌舞伎・演劇等、大衆娯楽が盛んに成るにつれて人気者として仕立て挙げられて行った。史実から義経を分析した限りでは武将としての戦略・戦術には並外れた能力を持った人物ではあるが、源頼朝の片腕となって役割を果たす為には余りにも“政治音痴”な人物であったと思われる。
今日、組織人としての要諦とされる“報・連・相(報告・連絡・相談)”を組織のトップである源頼朝はじめ鎌倉方にタイムリーに行う気配りに欠けた人物であった為に、次第に大きな齟齬を生み、尚且つそれを修復する能力も持ち合わせなかった為に最後は自滅した人物である。
前章5-9項で記述した様に源頼朝が最重要とした“朝廷(院)との距離を置くという基本方針を義経は故意では無く、生来の政治的音痴からであろうが、完全に無視をした行動を重ねた。具体的には後白河法皇の近臣として抱き込まれ、1184年8月6日には平氏一門の残党“平信兼”等の襲撃に対する京の治安維持の為、検非違使に任じられた。頼朝は鎌倉方の許可無く義経がこの職に任官した事に怒ったがこの時は目をつぶった。続く1184年9月に朝廷(院)から従五位下の官位を受け、同10月には昇殿を許された。この様に義経の頼朝の基本政策無視の行動は続くばかりか更にエスカレートして行ったのである。
京の代官の義経がこの有様であった為、在京の東国武士の間にもこうした傾向が広がり、終に激怒した頼朝は壇ノ浦の戦い(寿永4年1185年3月24日)で平氏一門を滅亡させた直後の1185年4月15日付けで、源頼朝の推挙無しに朝廷から任官を受けた関東武士達に東国への帰還を禁じる旨を通達した。こうした規制措置は“自由任官の禁止”として、源頼朝のケースに限らず、当時、従者・郎党を持つ“権門“であれば一般的に行われていた事ではあったが、平氏政権の失敗を教訓としていた源頼朝の場合は徹底したものだったのである。
そしてこの方針は頼朝の政治基盤が整うに連れてますます徹底されて行った。頼朝は関東の武士達を戒める為、1186年2月2日付けで配下の御家人の”任官返上“を朝廷に申し出た事が吾妻鏡に明記されている。
1185年5月、上記梶原景時の弾劾状に続いて源範頼の管轄事項に義経が越権行為に及んだ事、鎌倉の承諾を得ずに東国武士を処罰した事など、義経の更なる専横振りを訴える報告が続いた。ここに到って、これまで義経に対して制裁を加えずにいた頼朝が堪忍袋の緒を切った。頼朝は“義経に従ってはならない”との命を終に御家人達に下したのである。
頼朝が義経に対して警戒感を抱き、信頼を失なった理由、事柄は挙げればきりがない程多々記述されている。義経と言う人物が余程鎌倉に対する報・連・相(報告・連絡・相談)をしなかったのであろう。
そもそも、壇ノ浦の戦いで世間での義経評は“英雄”であったが、異母兄・源頼朝の義経評は異なっていた。安徳天皇並びに清盛の妻・二位尼(平時子)を入水に追い込んでしまった事、その結果、戦後に頼朝が後白河法皇との取引材料として重要視していた宝剣(天叢雲剣=あめのむらくものつるぎ)を海中から回収出来なかった事は全て義経が性急に戦いを進めた事が原因だったとの不満が頼朝にはあったと言う。これらの失態が重なり、頼朝の戦後構想が狂ってしまった事も義経に対する大きな不満だったのである。
更に義経は壇ノ浦から凱旋した直後に、平氏一門が後白河院政の軍事的支柱の官職として独占して来た“院御廐司”に任官した。この事も源頼朝にとっては義経に対する不信感を増大させた。義経はこれら官職への任官に加えて、自ら進んで捕虜となった平時忠の娘を娶るなど、周囲の目も義経がかっての平氏一門の後継者に納まるが如き動きに映ったのである。
後白河法皇の近臣者としての官職に就く事を含めてこうした動きは鎌倉の源頼朝の目指す方向と真逆であり、頼朝としては最早、義経の存在そのものが邪魔となり、危険視する様になったという事である。
こうした状況下で“義経の腰越状”事件が起きた。壇ノ浦の合戦で平氏一門を滅亡させ、義経は凱旋将軍として鎌倉の異母兄・源頼朝に迎え入れられると思っていた。平宗盛・清宗父子をはじめ他の平氏方の捕虜を連れて意気揚々と鎌倉に向かった義経だったが、義経だけは鎌倉入りを許されず、満福寺に留め置かれたのである。
この頼朝の仕打ちに対して切々と誤解を解く様に訴え、許しを乞う手紙が有名な“腰越状”として伝わるものである。この腰越状の内容は吾妻鏡に掲載されているが、前章でも述べた様に吾妻鏡の記述そのものに疑問も多く、真偽の程は疑わしいとされている。いずれにしても義経は鎌倉に入れず、頼朝による平宗盛等の引見が終わった後に再び捕虜達を連れて京に戻った。この仕打ちを義経は深く恨む事になり、以後、頼朝と義経は明確に敵対関係となるのである。
先ず、義経と行動を共にしていた源行家の排除を決めた頼朝の動きは早かった。頼朝が叔父であり、以仁王の令旨を最初に伝えた源行家を討伐する事に至った理由は下記である。
以仁王の令旨を伝えた後の源行家は、鎌倉の頼朝の指揮下には入らなかった。生来、交渉力、扇動者としての才能に長けた独立心の強い人物だった様である。頼朝に所領を要求して拒否され、叔父としての面目を潰されたという背景もあって、木曽義仲の傘下に走る結果となった。1183年7月、平氏一門が都落ちをした際には木曽義仲と共に後白河法皇を奉じて入京し、朝議で勲功順位が決められた際に一位源頼朝、二位木曽義仲、三位源行家と決められた事にも大いに不満を漏らした事が伝わっている。行家は相当の野心家でもあったのである。
行家は行動を共にしていた木曽義仲とも不仲となり、義仲軍の樋口兼光に追われるという始末となり、敗北し,暫く行方をくらませていた。弁舌が立つ人物ではあったが武将としては見るべき戦歴の無い人物で、敗戦ばかりを重ねていた。
木曽義仲が1184年1月21日に義経・範頼軍に討たれた直後の1184年2月に行家も後白河法皇に召し出され、京に戻っている。後白河法皇一流の常に対抗馬を用意し、彼らを天秤にかけるという策からであろうか。行家はその後朝廷(院)から和泉国と河内国を与えられ、源義経とも近い関係を保ったと言う。鎌倉の頼朝に対してはあくまでも対抗する立場に居たという事である。
一方、頼朝の徹底した考えは“朝廷(院)に取り込まれ将来、鎌倉の敵となる可能性のある勢力は一掃する”という事であった。従って後白河法皇に取り込まれ、鎌倉と完全に独立した行動をする行家は討伐の対象者となっていた。
頼朝は側近として信任の厚かった佐々木定綱に1185年8月4日、源行家の追討を命じたのである。
当然、この時点から頼朝は行家だけでなく、義経を追討する事も決心していた。そこで1185年9月には梶原景時の嫡男・梶原景季(かげすえ)を源義経の許に遣わし、源行家追討に加わる様伝えたのである。頼朝の思惑は明らかである。3ケ月前の1185年5月24日に上述した腰越状事件が起き、義経は惨めにも鎌倉入りを許されず、義経はこの屈辱から頼朝に対して決定的な恨みを抱いた時期であるから、頼朝の要請に従う事は考えられない、寧ろ義経としては反・頼朝の意志を固めていた筈である。従ってこの頼朝から義経に対する行家追討の出陣要請は、義経から拒否の態度を引き出し、それを口実に義経を反逆者として追い込む作戦だったのである。
説3-②:頼朝が暗殺使“土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)”を京に送り込む・・堀川夜討ち(1185年10月17日)
梶原景季は1185年9月に頼朝からの源行家追討の命を伝えるべく義経邸を訪ねたが、病を理由に面会を断られた。数日後に面会が叶い、義経に命を伝えると、脇息にもたれ衰弱した様子で“病が癒える迄行家追討は出来ない”との返答があった。頼朝が読んだ通りの筋書である。
梶原景季という人物はあの義経を弾劾する書状を頼朝に出した梶原景時の嫡子である。息子から次第を聞いた梶原景時は義経に対する讒言を頼朝に伝えた。即ち、“面会を数日待たせたのは不審である。食を断って衰弱した様子をわざと見せたのに相違ない。義経と行家とは同心(味方になっている)している”と頼朝に報告したのである。
源頼朝の梶原父子に対する信頼は非常に厚かったので頼朝はこの報告を信じた。頼朝自身、既に義経に対する信頼を失っており、既に異母弟の義経を討つ決心を固めていた頼朝はこの報告に拠って決行を早める事にしたのである。
1185年10月17日、土佐坊昌俊以下60余騎(83騎との説もある)が京の義経邸を襲撃する。この襲撃に対して義経は事前に情報を入手していたと考えられる。義経自らが応戦し、後に行家軍も応援に加わって逆に土佐坊昌俊は返り討ちに会い梟首された。この史実からは襲撃に関する情報を事前に入手していた事も含め、義経と言う人物がいかに武将としての戦闘能力に優れていたかが分かる。
義経・行家サイドは捕えた土佐坊昌俊からこの襲撃が頼朝の命に拠るものだという事を聞き出した。この後、義経側は“打倒頼朝“の旗を挙げる事を決意し、以後、鎌倉方との全面的対決が開始されるのである。
ところでこの事件の主役、土佐坊昌俊という人物には余り馴染みがないが彼を描いた長谷川等伯(生1539年没1610年)の“弁慶・昌俊図絵馬”が京都の北野天満宮の宝物館の地下室にある。2015年2月に宝物館の係員が是非見て欲しい作品が地下室にある、という事で案内され見る機会を得た。
1608年の作とあるから長谷川等伯の最晩年、69歳の作品である。長谷川等伯は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師であり、当時、狩野永徳を初めとする狩野派に強烈なライバル意識をもって絵画一筋に生涯をかけた人物として知られる。
この絵馬は北野天満宮の本殿を出、南に少し歩いた桜門の横にある“絵馬所”に掛けられていた為、絵の傷みもあり、国宝では無く“重要文化財”なのだそうだ。
説3-③:源義経と行家が後白河法皇から“源頼朝追討”の院宣を強引に得る・・1185年10月18日
土佐坊昌俊等の義経邸襲撃(堀川夜討)の翌日、10月18日に義経と行家は後白河法皇から“源頼朝追討”の院宣を強引に得る事に成功する。この背景については後述する。
院宣は得たものの、京周辺の武士からも義経・行家軍に加わる武士達は少なく、逆に敵対する武士も現れるという状況であった。その理由の一つには丁度1185年10月24日に頼朝が父・義朝の菩提寺として“勝長寿院“を建て、その落成供養の法要を行う為に家臣団を集め、鎌倉方の結束を固めた事が影響したと思われるが、基本的に義経と行家に信望が無かったという事であろう。
説3-④:頼朝自らが義経・行家討伐に出陣し、逆に後白河法皇から“義経・行家追討”の院宣を得る-・1185年11月11日
10月24日に源氏一門並びに多くの御家人が父・義朝の法要に集まった際に頼朝は義経・行家追討の為の上洛を命じた。集まった2100人程の武士達のうち、頼朝の命に応じた者は僅か58人だけだったとの記録もあるが疑わしい。もしそれが史実だとすると、この時点では後白河法皇が義経と行家に下した“頼朝追討”の院宣が影響していたという事になるが、義経・行家軍に兵が集まらないという事と矛盾している。
いずれにせよ頼朝はこうした状況に対応する為、自らが出陣する事を決め1185年10月29日に鎌倉を発ち、11月1日には駿河国黄瀬川に着陣した。一方の義経・行家軍も頼朝追討の院宣は得ていたものの、上記の様に兵が集まらず、11月3日には行家並びに郎党と共に京を落ちるという展開となったのである。
次第に軍勢を増す頼朝軍は11月上旬には義経、行家が去った京に入った。当然、頼朝は義経・行家軍に院宣を与えた朝廷(院)に対して怒りをぶつけた。そうした頼朝の剣幕に狼狽した後白河法皇はこれまでにも何度も使って来た“掌返し”で頼朝追討の院宣を義経・行家に与えてから(10月18日)1ケ月も経たない11月11日に今度は真逆の“義経・行家追討”の院宣を諸国に下したのである。
こうした後白河法皇の節操のない行動は前章迄で記述して来た過去の数々の事件の手口と全く同じで今回に限った事では無い。平治の乱では近臣の藤原信頼にクーデターをさせ、同じく近臣だった信西入道を切捨て、伝統的貴族達に拠る二条天皇を担いだ平治の乱第二幕が起こると今度はその藤原信頼を見殺しにした。
後白河法皇の政治基盤の確立に協力させ、利用した平清盛が安徳天皇の外祖父となるなど力を伸ばすと、今度は一転、露骨な平氏一門排除に動いて、清盛にクーデターを起こさせ、結果的に平氏一門を滅亡に追い込んだ。そして一時的に利用した木曽義仲を頼朝による鎌倉方の勢力が優位だと判断すると直ちに見限り、切捨てる・・という具合である。
その結果残った勢力が頼朝、義経、そして行家の3人となった。そして今回、後白河法皇はこの3人に対しても“天から与えられた超越的権威“を振り回し、一度は義経・行家に頼朝追討の院宣を与え乍ら、掌返しで“義経・行家追討”の院宣を全国に下すという行動を平然と行ったのである。
後白河法皇にとって重要な事は“鎌倉”の源頼朝に権力が過度に集中しない事である。その手段として異母弟の源義経を取り込み、院の近臣として活用し、又、源行家も適宜活用する事によって常に3人の勢力の分断を謀るという策を用いたのである。
この手法は30年間に亘って用いた後白河法皇の常套手段であるが、何故この様に“超越的権威“を振り回す事が可能であったのであろうか。
それは前章でも触れたが、貴族層は勿論、武士層を含めた日本の社会全体に当時、既に700年近くの“天皇家の治績と絶対的権威“が岩盤として日本の国に存在していたという事に尽きよう。こうした“天皇家”の権威の継承が後白河で既に77代目の天皇という事でも明らかな様に、当時の世界でも稀な、特異な統治体制が日本に既に根付いていたという事であろう。
“治天の君”である後白河法皇にとっては“臣下である武士層は治世を行う上で徹底して利用すべき対象であり、利用出来なくなった時点で切捨てるだけの存在である”という考えに徹して”掌返し“を何度も平然と行ったという事である。
源頼朝が平清盛が成し得なかった本格的武家政権の実現に向かって着々と政治体制並びに戦闘体制を固めて行った状況に比べ、義経・行家軍は後白河法皇から頼朝追討の院宣を得たにも拘わらず、肝心な兵が集まらないという状況であった。2人の限界を見た後白河法皇は、義経・行家の2人を切捨てる決断をし、1185年11月11日には一転して掌を返して“義経・行家追討の院宣”を迷う事無く全国に下したのである。
説3-⑤:文治の勅許(守護・地頭の設置権)を源頼朝に与える:1185年11月29日に口宣(口頭院宣)を先ず与え、12月6日正式勅許(文書)を下す
京を捨てた義経は300騎程で行家と共に船で九州に逃れる事を計画したが、文治元年(1185年)11月6日“大物浦(だいもつのうら=兵庫県尼崎市大物町)で暴風雨に会い難破、九州に逃れる事に失敗し、結果、義経一行は吉野の地に逃れる事になる。
“大物浦”は古くから海上で運ばれた物資がここから川船に積み替えられ、都に運ばれる重要な拠点であった。現在は埋め立てられて海岸線は遥か沖合となっている。2015年1月にその史跡を訪ねた。大阪駅から阪神・神戸線の“大物駅”で下車すると直ぐ脇に“大物主神社”がある。義経・主従が一時身を隠したと伝わる”義経・弁慶隠れ家跡の碑“があるだけで、第二次大戦の戦火を受けた為、今日では当時を偲ぶ他の史跡は全く無いのが残念であった。
1747年(延亨4年)11月に大阪竹本座で初演となった二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作の”義経千本桜“の二段目に義経一行が大物浦から船で九州に向かおうとする場面がある。義経との同道をせがむ静御前に対して”女は供には出来ぬ“と義経が振り切る名場面であるがこの場面の面影を残す風景も全く残っていない。
史実に話を戻すが、大物浦の暴風雨で義経・行家の二人の命運も尽きたと言える。
一行は散り散りになった。後白河法皇は1185年11月7日付で義経に以前与えた“検非違使・伊予守・従五位下”などの官位、官職を全て解任している。有名な義経の愛妾、静御前の話が史実として出て来るのはこの頃の事で、吾妻鏡には上記“大物浦”で暴風雨の為に船が難破して九州へ逃れる事に失敗、僅かに源有綱、堀景光、武蔵坊弁慶、そして静御前だけとなった義経一行が大和国吉野山に身を隠した事が記されている。
2012年4月21日に桜が殆ど散った吉野山を訪ねた事がある。白鳳年間に役行者が創建したとされる世界遺産の吉水(よしみず)神社がある。後に後醍醐天皇が南朝の行宮と定め、以後南朝・四代57年間に亘る歴史の舞台となった場所である。その中に義経・静御前潜居の間や弁慶思案の間と称した史跡が保存されているが、静御前は11月6日頃、大阪の天王寺付近で義経一行と別れたと考えられるから、吉水神社にある潜居の間の史跡の真偽の程は疑わしい。
吾妻鏡の記事に拠れば、義経一行は静御前を伴って吉野山に入ったものの修行僧兵による探索が厳しく、1185年11月17日以前には涙の別れをしている。その後、静御前は修行僧に拠って藤尾坂から蔵王堂に辿り着いた処を捕えられ、尋問されたとある。
その後、1185年12月8日に静御前は京都に居た北条時政の許に送られ、翌1186年3月1日に母親の磯禅師と共に鎌倉に到着し、安達清常の屋敷に入った。北条時政はじめ鎌倉方は静御前から義経一行の行方を聞き出そうとするがこの時点でも義経一行の行方は分からなかった。
有名な静御前が鶴岡八幡宮社前で頼朝に命ぜられて白拍子の舞を披露し“しづやしづしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな”と義経を慕う歌を唄った事で頼朝が激怒するが、妻の北条政子に“私が静御前の立場だったら同じ様に謡うでしょう”とたしなめられ、静御前の命を助けるという話は1186年4月8日の事であると吾妻鏡の記事にある。
静御前の舞に鎌倉の御家人達を含め皆が絶賛した事は史実の様である。
その3ケ月後の文治2年(1186年)閏7月29日に静御前は義経の子を出産するが、この赤児は男であった為、殺された。静御前に関する最後の記録は文治2年(1186年)9月16日のものだ。母親の磯禅師と共に京に返されるがその際、静御前を憐れんだ北条政子と娘の大姫が重宝を多く持たせたと書かれている。
こうした静御前の動きの中で源義経がどうしていたのかについては前川佳代氏の“源義経経年表”が参考になる。それに拠れば義経一行は吉野潜伏を続けた後に伊勢、鞍馬、比叡山、南都を転々とした後で奥州の藤原秀衡を頼って伊勢・飛騨経由で山伏姿で平泉に向かう事になる。その時期は文治3年(1187年)2月初旬だと記されているから、静御前が鎌倉から京に戻された頃には義経一行はまだ奥州には入っていなかった事になる。
頼朝が文治の勅許を後白河法皇から得る迄の話に戻るが、上記した様に、逃げ回る義経・行家に対して頼朝は義経・行家追討の手段として、北条時政(政子の父親)を代官として京に派遣し、朝廷(院)側と強硬に交渉させ、守護・地頭設置の許可を得る事になる。これが後に“文治の勅許”と呼ばれるものである。
この“文治の勅許”の獲得は冒頭に記述した1183年10月14日の院宣、つまり後白河法皇が頼朝に“東海・東山諸国の東国の支配権を承認“した事と同様に今日では鎌倉幕府が成立したとする5つの説の中でも有力な論拠とされるものである。
以下に北条時政が朝廷(院)と交渉した状況を記すが、交渉の原案は腹心の“大江広元”に拠るものとされる。
頼朝は“頼朝追討の院宣”が義経と行家に下された事に憤慨していた。頼朝の怒りを知った朝廷(院=後白河法皇)は11月15日に高階泰経を弁明の使者として鎌倉に遣わした。弁明の内容は”義経・行家の謀反の事は天魔の所為と言う他は無い。頼朝追討の院宣を義経に与えなければ宮中で自害すると言うので当座の騒ぎを避ける為の処置として与えたのであり、後白河法皇の本心では無かった” というものであった。
こうした言い訳に頼朝は後白河法皇の無責任さを怒り“日本国第一の大天狗だ”と痛罵したのである。
1185年11月24日に北条時政は千騎の兵を率いて京に入った。朝廷(院)側が頼朝の剣幕に臆した事は確かであり、こうした状況を逆手に取り北条時政は朝廷(院)との交渉を強気そのもので行った。伝えた内容は“諸国では騒乱が頻発しておりその度に東国武士が派遣され、鎮定に当たっていたのでは疲弊する。畿内はじめ諸国の国衙領(荘園化せず国司の支配下に置かれた国領)並びに荘園に守護・地頭を設置する事、そしてその任命権を鎌倉方(頼朝)に与える事を要求したのである。
更に、守護・地頭には“反別五升の兵糧米の徴収権”並びに“田地の知行権、武士の動員権”を含む強大な権限を認めさせよ“とするものであった。明らかに鎌倉方(頼朝)の権限をかなり拡大する様、迫ったのである。
この鎌倉方からの強い要請を後白河法皇が何時“文治の勅許”として正式に認めたのかについては諸説がある。北条時政が交渉した翌日の1185年11月29日に即座に後白河法皇から勅許が下されたと吾妻鏡は記している。しかし、玉葉の記載とは異なる。
玉葉は1164年から1203年迄の40年に亘って九条兼実が書いた日記である。九条兼実は保元の乱時期の関白・藤原忠通(NHK大河ドラマ・平清盛で俳優堀部圭亮が演じた)の六男で九条家の祖となった人物である。自身も摂政・関白・太政大臣を務め、源平合戦を含め後白河法皇の側近として自ら実際にこの時期の状況を見・聞きした人物であるからその日記・玉葉は、北条得宗家の数人の人物によって書かれ、100年も後の1300年頃に成立した鎌倉幕府の歴史書としての吾妻鏡よりも信憑性があるものと考えざるを得ない。
こうした背景から専門家の議論の結論として11月29日に先ず後白河法皇から“口頭”で鎌倉方からの申し出に対する了承の旨が伝えられ(口宣)、後の1185年12月6日に正式の“文治の勅許”として書面で下されたとしたのである。
説4:頼朝が義経を藤原泰衡の手で滅ぼさせ(衣川館襲撃)、続いて奥州合戦で藤原泰衡を滅ぼした時点を以て鎌倉幕府が成立したとする説・・1189年9月3日
源頼朝は1183年10月14日に後白河法皇から“東海・東山諸国の支配権”を与えられる院宣を得ていた事は何度も述べた。1185年3月24日には壇ノ浦の合戦で平氏一門を滅亡させ、更には義経・行家追討を名目とした“守護・地頭の設置権、任免権”を手中にする文治の勅許を1185年11月29日(又は12月6日)に得た事は極めて大きく、頼朝は着々と“鎌倉殿“として本格的な武家政権としての支配権の拡大と東国を完全に統治するに足る体制を整えて行ったのである。
頼朝の目指す“朝廷(院)政治から独立した武家政権”構想に反して後白河法皇に取り込まれた義経・行家は頼朝にとっては既に排除すべき存在であったし、それ以上に重要だった事は奥州の覇者として永い間、独立独歩の立場を築いて来た奥州藤原氏も排除する事であった。こうした構想を固めていた頼朝にとっては藤原秀衡が義経を庇護した事は3者を一挙に滅ぼすお膳立てが整った事を意味したのである。
頼朝はこの機会を逃さず、源行家・源義経、そして藤原泰衡の3人を一気呵成に滅ぼし“東国支配”を確立し、鎌倉幕府の成立を完成させる為の戦いを開始する。源行家、義経の順に滅ぼし最後に大軍を以て奥州の覇者・藤原氏を滅ぼすのである。3年間を掛けたこの一連の戦いの勝利を以て鎌倉幕府が成立したとする説である。
説4-①:源行家の討ち死・・1186年5月12日
1185年11月の“文治の勅許”が下されて以後、徹底した鎌倉側の全国捜査で益々追い詰められた源義経・源行家一行は九州に逃れようと謀ったが、既述した様に暴風雨に会い船が難破して一行は散り散りに成った。
源行家は和泉国で潜伏していたが、地元民の密告で北条時定に捕えられ、彼の子息4人と共に1186年5月12日(グレゴリオ暦1186年6月1日)にあえなく斬首された。
義経の娘の婿とされる“源有綱”も大和で討ち取られる。更に佐藤忠信、伊勢義盛等、義経の郎党達が次々に鎌倉方に発見され、殺害されたのである。しかし1186年11月になっても義経の行方は掴めなかった。この状況に頼朝は“後白河法皇や京の貴族が義経を逃がしている”と疑い“鎌倉から京に大軍を送る”と恫喝する事で膠着状態を打開しようとしたのである。
更に強化された鎌倉方の捜査網に、終に京には居られないと判断した義経は藤原秀衡を頼って奥州へ逃れる事を決断する。吾妻鏡の記事には正妻と子供を伴った義経一行が山伏と稚児の姿に身をやつして、厳しい鎌倉方の追捕の網をかいくぐり、奥州を目指し伊勢、美濃を経て1187年2月10日に“平泉”に身を寄せたと書かれている。従って義経一行が伊勢、美濃を出立したのは1186年の末、乃至は1187年初頭という事であろう。
上述した静御前が鶴岡八幡宮で頼朝や政子の前で白拍子の舞を披露してからは8~9カ月後の事であり、静御前が義経の男子を生み、その赤児が殺されてから半年近くが経っていた頃という事である。
歌舞伎の“勧進帳”で有名な安宅関(所)の話はこの頃の義経一行の苦難の様子を歌舞伎の題材としたものである。歌舞伎の“勧進帳”のストーリーは、義経一行が奥州藤原氏の拠点、平泉を目指して逃避行を続けている途中で、現在の石川県小松市にある安宅関(所)を通過する際に難儀をする場面として描かれている。頼朝からは全国に捜索が手配されており、安宅関所の役人が“義経の一行に違いない”と疑い、武蔵坊弁慶が白紙の勧進帳を読み上げ、義経が疑われた事に腹を立てて金剛杖で打ち据える等、一世一代の大芝居を打つという名場面である。
芝居では安宅関所の富樫泰家は義経一行に間違いない事を確信するが目の前で繰り広げられる義経と武蔵坊弁慶の必死の大芝居と、固い主従関係、更には源平合戦最大の英雄・源義経がこの様な惨めな姿で放浪している姿に同情して一行の安宅関所通過を許可するという大衆を感涙させるストーリーが展開する。歌舞伎の演目“勧進帳”最大の見せ場である。ところが史実では守護・富樫氏が設けたとされる安宅関所の実在性そのものも疑問視されて居り、この芝居の名場面は残念乍ら全くの創り話であるとされている。
説4-②:頼朝は奥州藤原氏(秀衡)を滅ぼす準備を1186年4月から始めていた・・頼朝からの挑発的、屈辱的な書状に藤原秀衡は取り敢えず忍従する
上記の様に義経一行は文治3年(1187年)2月10日には平泉に到着し、藤原秀衡は快く迎えた。追討人である義経を庇護する事は真っ向から源頼朝に対抗する事である。義経を受け入れる事を決断したという事は藤原秀衡には相当な覚悟があった筈であり、鎌倉方(頼朝)と戦う決断に到った背景があったものと考えられる。それを具体的に語るのが1186年4月の頼朝から藤原秀衡への書状である。
内容は“秀衡は奥六郡の主であり自分(頼朝)は東海道の惣官である。従って我々は水魚の交わりをすべきものと考える。秀衡が京の都に定期的に献上している馬や金は今後は秀衡が直接京に送る事を止め、先ずは鎌倉方に送る様に。鎌倉で管領した上で改めて鎌倉から京に伝送する事にする”という趣旨のものであった。“奥州藤原氏が鎌倉の頭越しに中央政界と繋がる事は問題あり”との鎌倉方の意向を伝える書状であり、藤原秀衡を源頼朝の下位に位置づけようとする作為のもとにこの書状は書かれたものだったのである。
代々奥州藤原氏は祖となった藤原清衡(生1056年没1128年)以来、奥州出羽国と陸奥国の奥六郡を領し、押領使(平安時代に諸国の内乱や暴徒の鎮定、盗賊の逮捕などに当たった令外官)を務める武門の雄であり、二代藤原基衡((生1105年没1157年)そして三代秀衡の時代へと受け継がれて来た奥州の覇者である。当時の秀衡の武士団は17万騎と言われる程の大軍団を擁していた。
秀衡の時代の平泉は平安京に次ぐ人口を誇り、中尊寺を中心とする仏教文化は栄え、金の産出と優れた軍馬を産出し、豊かな財力を誇示する大都市であった。加えて中央政界との人脈を独自に築き、金を贈り、馬を献上し、寺社への寄付等を通じて朝廷(院)はじめ中央に対する発言力も持ち、鎌倉方にとっては甚だ厄介な存在だったのである。
しかし乍ら後白河法皇から東海・東山道、東国を治める権限を院宣に拠って与えられ、更に文治の勅許で与えられた権限をフルに行使し、東国の支配権拡大を目指す頼朝(鎌倉方)にとっては、奥州藤原氏と雖も鎌倉方の支配下に置かねばならない存在だったのである。
こうした立場の藤原秀衡に対して鎌倉方(頼朝)が上記内容の居丈高で挑発的な書状を突きつけた背景には、既に頼朝が奥州藤原氏を完全に支配下に置くか、或は秀衡の反応に拠っては直ちに滅ぼさねならないという断固たる考えがあった事が分る。
この書状は奥州の伝統的盟主としての実績と誇りを持つ藤原秀衡にとっては真に無礼な書き様であった。しかし秀衡は直ちに鎌倉と衝突する事は避け、頼朝の申し出通りに馬と金を京に直接では無く、鎌倉に送った事が吾妻鏡の1186年4月24日条に記されている。この時点では頼朝からの屈辱的申し出に素直に従った藤原秀衡であったが、同時に”いずれ頼朝との衝突は避けられない“と覚悟を決めたからこそ、この10カ月後に源義経を受け入れたのである。
説4-③:源義経を受け入れ、鎌倉方(頼朝)との対決を決心した藤原秀衡
義経が奥州平泉に辿りつき、藤原秀衡が受け入れたのは1187年2月10日の事である。秀衡としてはこの瞬間に鎌倉方(源頼朝)と戦う事を覚悟したのである。
文治3年4月(1187年)の記録がある。藤原秀衡は既に義経一行を受け入れていた時期のものだが、この時点では鎌倉方ではまだその事を知らず、義経の行方を必死に占う祈祷が行われていたとする内容のものである。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼすべく、秀衡に対する上記挑発行為を尚も続けていたが、その方法はあくまでも朝廷(院)を表に立て、後白河法皇の院宣という形で秀衡に負担を掛け、追い詰めて行くというものであった。
優れた武将でもあったが、それ以上に非常に有能な政治家としての頼朝の一面をフルに発揮した戦術である。その具体例が“東大寺再建”とする口実で“3万両の貢金要求”を院宣の形で藤原秀衡に下したものである。如何に裕福な奥州藤原氏ではあっても、これはとてつもなく多額の貢金要求であった。
秀衡は“近年商人が砂金の売買を盛んにする様になって、大概の金は掘り尽くしてしまっている。又、先例でも貢金額は千両程が通例であり、今回の3万両もの貢金要求には応じられない“と返答し院宣を拒絶した形となったのである。
こうしたやり取りの最中の1187年9月4日に鎌倉方は義経が平泉の藤原秀衡の元に匿われている事を確信した。まさに頼朝が描いて来た義経と秀衡を一気に滅亡させる一石二鳥の証拠を掴んだのである。以後一挙に両者を滅亡させる作戦が動き出す。
朝廷(院)を介しての藤原秀衡への法外な貢金の要求、そして挑発する手段は益々エスカレートして行った。秀衡が院宣を拒絶したタイミングを捕えて、頼朝は後白河法皇に対して“秀衡入道は義経を匿い反逆を企てている”と訴え、院庁下文を出す事を要求した。
これに対して藤原秀衡は“異心は無い”と弁明したが頼朝が放った偵察役人が“秀衡に反逆の用意がある様だ”との報告がなされ、いよいよ事態は頼朝の筋書に添って奥州藤原氏をも対象とした討伐の戦いへと進んで行くのである。
こうした状況を1187年9月29日付の玉葉には“藤原秀衡は院宣を重んぜず要請を承諾しないのは奇怪であり、源頼朝からは更に朝廷(院)から奥州藤原氏に圧力を掛けるべきとの要請がある”と記している。朝廷(院)側の人間で、頼朝にも信頼されていた九条家の祖・九条兼実の日記であるから当然の書きぶりではあるが、頼朝が秀衡を滅亡させる動きを加速させていた事が分かる。
説4-④:藤原秀衡の急死・・文治3年(1187年)10月29日、65歳
今日では世界遺産となっている中尊寺を1127年に建立し、経済的にも軍事的にも栄華を極めた藤原清衡(生1056年没1128年)を初代とし、二代基衡(生1105年没1157年)三代秀衡(生1122年没文治三年1187年10月29日)と続いた奥州藤原氏は“文治の勅許”が頼朝に下された事で一気に討伐される立場へと変化していた。
こうした状況の変化に対して、藤原秀衡の選択肢としては、鎌倉方に服従して生き残る策もあり得た訳だが、誇り高い藤原秀衡は鎌倉方に服従する道は選ばず、戦う道を決断したのである。
ところが1187年10月にその藤原秀衡が病に倒れ、10月29日には急死するというとんでもない事態が勃発した。
中尊寺の金色堂を訪ねた方はご存知であろうが、中央の須弥壇(しゅみだん=仏像を安置する台)の内に初代清衡、向かって左側の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡の遺体が安置されている。私が大学生の時だったと思うが、中尊寺の金色堂の大改修が行われた時に、奥州藤原三代のミイラ化した遺体を一般公開した事があり見学した記憶がある。後述するが4代目の藤原泰衡については首級だけが納められているとの事である。
4代の遺体の学術調査が1950年に大々的に行われたとされ、後の1994年7月には“中尊寺御遺体学術調査最終報告“が出されている。それに拠ると3代目の秀衡は血液型A型、身長は3代の中で最も高く167センチメートルとされる。肥満体で右半身不随の痕跡が見られる事から死因は脳溢血か脳栓塞であろうと報告されている。追討されていた義経を受け入れ、鎌倉の頼朝と雌雄を決する覚悟をした程の人物であるから太っ腹の剛毅なタイプの人物だった事がその体格からも推察される。
秀衡の急死の跡を継いで奥州藤原氏の4代目に就いたのは正室の子息・藤原泰衡(生:1155年説と1165年説あり・没文治5年・1189年9月3日)であった。父親・藤原秀衡は“義経を主君として仕え、泰衡、国衡の三人で結束して頼朝軍の攻撃に備えよ”と遺言し、三人に起請文を書かせてこの世を去った事が玉葉に記されている。
説4-⑤:奥州藤原氏4代目を継いだ藤原泰衡は鎌倉方の攻勢と父、秀衡の遺言との間のプレッシャーに押し潰され、義経を急襲し、自害に追い込む・・衣川館の襲撃(文治5年1189年閏4月30日)
玉葉の記事に拠ると父・藤原秀衡が心配した様に子息の泰衡と国衡の仲は険悪であった。理由は、国衡は長男で武勇にも優れ、一族内での期待も高い人物であったが、母が蝦夷の娘で側室であった事から、京の公家の娘で正室の息子の泰衡が秀衡の死後、後継者に決まった事が原因だとされる。
こうした後継問題から生じた兄弟二人の確執を生前から心配し、父親の藤原秀衡は来るべき鎌倉方との戦いには義経を主人として子息2人が結束して頼朝と戦う様、起請文を書かせ、誓わせていたのである。
一方の鎌倉方は藤原秀衡の急死という事態が生じた事で、奥州藤原氏を滅ぼす絶好のお膳立てが頼朝の思惑通りに整ったのである。頼朝の動きは素早かった。
文治4年(1188年)2月、藤原秀衡の急死後わずか3カ月余りで頼朝は朝廷から後白河法皇の院宣の形で4代目を継いだばかりの藤原泰衡と後見人的立場にあった藤原基成に対して義経を追討する事を命じたのである。
ここで藤原基成という人物について紹介して置こう。
彼は1120年生まれの従五位上・民部少輔の貴族で1143年23歳の時に鎮守府将軍・陸奥守であった関係から奥州藤原氏の第2代・藤原基衡時代から親交を結び、自分の娘を奥州藤原氏の3代目となる藤原秀衡に嫁がせたという関係が出来た。
京に戻り、1155年に民部少輔に補任されたが、1159年の平治の乱・第二幕で首謀者として斬首された藤原信頼(2012年NHK大河ドラマ・平清盛でドランクドラゴンの塚地武雄が演じた)が異母弟であったという関係から陸奥に流されたという経緯を持つ人物である。
泰衡の父・藤原秀衡の舅であるから泰衡にとっても母方の祖父に当たる人物である。当時の藤原基成は奥州藤原氏の政治顧問のような立場であった。泰衡の父・秀衡がそもそも義経を受け入れた理由の一つには義経の生母(源義朝の妾・常盤御前)を後添えとした“一条長成”と、この藤原基成が親戚であった事がある。上記1188年2月に後白河法皇からこの藤原基成に義経追討の院宣が下された時には彼は既に68歳の高齢であった。
この文治4年(1188年)2月の義経追討の院宣に対して2月9日付けで藤原基成・泰衡は“義経の所在が判明したら”と、その場凌ぎの回答をした。こうした反応に対して朝廷(院)はそれ以上の追及をしていない。この事からは朝廷(院)としては奥州藤原氏の滅亡を望んでいた訳では無く、又、義経討伐を急ぐ考えも無かった事が分る。
この様な結果、瞬く間に1年の歳月が過ぎたのである。
翌、文治5(1189年)年2月22日付で頼朝は“藤原泰衡が義経の叛逆に加担している事は間違いない”として義経並びに藤原泰衡の温存を望む朝廷(院)を外して鎌倉方(頼朝)だけで直接“義経征伐”を行う事を朝廷に強硬に申し入れた。
こうして言わば鎌倉方(頼朝)がしびれを切らした状態の文治5年(1189年)閏4月頃の記事として“朝廷(院)から義経討伐を躊躇する藤原泰衡に対して藤原泰衡追討の院宣が下されるであろう”との情報が流された事が書かれている。
明らかに鎌倉方からの宣伝作戦である。この鎌倉方の戦術がまんまと効を奏して、義経追討に消極的だった藤原泰衡は自分に追討の火が降りかかって来ると言う噂に怯えたとの記録がある。
こうした鎌倉方の心理作戦を交えた攻勢に怯え切った藤原泰衡は1189年閏4月30日に父・秀衡が起請文を書かせて迄強く遺言した”義経を大将として頼朝と戦う“との盟約を破り、数百騎の兵で義経が起居していた衣川館(高舘の判官館とも呼ぶ)を襲撃して義経と妻子を自害させ、彼の郎党も滅ぼしたのである。
この襲撃では“弁慶の立ち往生”の話が有名であるが、史実として“武蔵坊弁慶”の名が出て来るのは1185年の11月3日と11月6日の吾妻鏡の記事だけである。平家物語でも義経の郎党としてただ名前が出て来るだけである。従って後世、講談など創作の世界では弁慶は大活躍した事になっているが、史実としての裏づけは全く無い。立ち往生の話も無い。和歌山県田辺市の出身の人物だという事は史実らしいが、その他の情報は殆ど無いのが実情である。
いずれにしても館を囲まれた義経は一切戦う事をせず持仏堂に篭り正妻の郷御前と4歳の娘を殺し、潔く自害したとされる。優れた武将であるだけに勝ち目の無い事を瞬時に判断したのであろう。
2012年2月26日、東北地方は大雪であったが、2011年に世界遺産に登録されたばかりの中尊寺・毛越寺(もうつうじ)そして高館・義経堂(たかだちぎけいどう)等、奥州藤原氏関連の史跡を訪ねた。高館・義経堂は藤原秀衡に庇護された源義経が居所を与えられたとされる場所に残る史跡である。高舘の丘の頂上、北上川を東側に見る景勝の地にある。ここにあった館を藤原泰衡が夜襲し、義経が自害した。
1683年に当時の仙台藩第4代藩主伊達綱村が義経を顕彰して建てたのがこの義経堂(ぎけいどう)だがこの堂を創建した時に制作されたとする義経の木像が本尊として祀られている。松尾芭蕉が元禄2年(1689年)にこの地を訪れ“夏草や兵(つわもの)共が夢の跡”の句を残しているが、その句碑なども近くにある。
奥州藤原氏の4代目の藤原泰衡という人物については上記藤原基成の娘を娶っている事、1188年2月以降、義経追討について朝廷(院)から矢の催促を受けていた事、そしてこの年1188年12月には祖母(父・秀衡の母)を殺害し、翌年1189年2月には末弟の頼衡までをも殺害しているという事が分かっている。義経を衣川館に襲い、自害に追い込む数ケ月前に、これら身内を次々と殺害した背景については分からないとされるが、要は泰衡が、内外から押し寄せるプレッシャーに耐え切れずに身内を次々に殺害したという事である。
上述の様に奥州藤原氏も3代目の藤原秀衡時代になると頼朝が背後で動き、朝廷(院)からは無理難題が突き付けられる様になって来ていた。奥州藤原氏が独立独歩の立場を守る事が出来ていた頃と1185年11月、頼朝に“文治の勅許”が下された以降とでは状況は一変していたのである。
更に父親・秀衡の急死によって、奥州藤原氏の4代目を継いだ藤原泰衡に対する鎌倉方からの攻勢は強まる一方であった。身内でも父・秀衡の遺言、つまり“義経を主人として泰衡・国衡の3人が協力して頼朝(鎌倉方)と戦へ”の存在が泰衡に与えていたプレッシャーは耐えられない程の重圧として圧し掛かっていたのであろう。
頼朝は奥州藤原氏を滅亡させる事を決心していた。そして泰衡は鎌倉方が朝廷(院)を前面に立てて攻め立てる状況に的確に対応出来る能力を持ち合わせた人物では無かった。彼は寧ろ小心者で無能な人物であった様だ。父の遺言を守って頼朝と戦う度胸も覚悟も持ち合わせなかった人物であったと思われる。遺言をした父・秀衡の母親(泰衡にとっては祖母)ともこうした対応に関して、衝突があった事が想像出来るし、兄弟間でも意見の対立が日々激しくなって行った状況だったのであろう。
こうしたプレッシャーの積み重ねの結果が祖母(1188年12月)と末弟の頼衡(1189年2月)の殺害に結び付いたのであろう。そしてその直後に父の遺言を破って義経を急襲する(1189年閏4月)という結果に繋がって行ったのである。
藤原泰衡が小心者であった事は後述する奥州合戦での行動からも証明出来る。泰衡は奥州合戦に敗れて逃げ回るが、隠れ先から源頼朝に助命嘆願書を書いている。
その内容は頼朝の御家人に加えて欲しいとの願いであり、不可能であれば命だけは助けて欲しいと懇願するものであった。この手紙からも泰衡という人物が4代目として奥州藤原氏を率いるだけの資質を備えていない凡庸な人物だった事が明白であり、奥州藤原氏が滅亡したのも致し方ないという事となる。
かって壇ノ浦で捕虜となった平氏一門の棟梁・平宗盛が如何に無能で小心者であったかについても記述したが、奥州藤原氏の4代目藤原泰衡も全く同様の小心者で無能力の後継者であったという事である。
説4-⑥:奥州合戦で奥州藤原氏が滅亡する・・1189年7月19日~9月3日
藤原泰衡は父・秀衡の遺言であり、盟約まで交わした約束を破り、鎌倉方の圧力に屈して衣川の館を襲撃して義経を自害に追いやった。義経の首が酒に浸されて鎌倉に送られたのは1189年6月13日である。頼朝を恐れ、さらなる恭順の意を示す為であろう、泰衡は義経と近かったとされる弟の藤原忠衡までも殺害し頼朝の関心を引こうと懸命だったと伝わる。小心者の哀れな行動が続いたのである。
義経滅亡を知った後白河法皇は内乱は全て終了したと頼朝に告げたと吾妻鏡に記されている。後白河法皇としては奥州藤原氏だけは鎌倉方(頼朝)との勢力バランスの点からも温存して置きたかった意図が読み取れる。
しかし頼朝の目的は義経追討だけでは無く、奥州藤原氏を滅亡させる事であったから内乱の終了を告げた後白河法皇を尚も動かし、義経を匿った藤原泰衡を叛逆以上の罪があるとして“藤原泰衡追討の院宣”を出す様執拗に求めたのである。
後白河法皇は泰衡追討の院宣を出す事に躊躇した。朝廷(院)と奥州藤原氏との永い間の良好な関係が後白河法皇を躊躇させた事もあるが、“治天の君”後白河法皇としては上記の様に源頼朝に勢力が余りにも偏る事は好ましい事では無く、常に対抗する勢力を拮抗させ、天秤にかけ、利用する事が出来る状態が“天から与えられた超越的権威”を振り回すのには好都合であったのである。
後白河法皇の院宣が得られず困っていた頼朝を助けたのが大庭景義(生1129年没1210年)の策であった。彼は保元の乱(1156年)に頼朝の父・源義朝に従った長老である。奥州合戦の時には60歳になっていた。“文治の勅許”を得た源頼朝の立場を大庭景義は“奥州藤原氏は源氏の家人に過ぎない立場である。従ってそれを誅罰する事に後白河法皇の勅許は不要である。又、戦場では現地の将軍の命令が朝廷(院)の意向より優先される”との解釈を与え頼朝に進言したのである。この意見を頼朝は採用して後白河法皇の院宣無しに奥州合戦の出兵を決断した。
義経滅亡から僅か3ケ月後の文治5年(1189年)7月19日、頼朝は大手軍を率いて鎌倉を出発。かって頼朝と敵対関係にあった城氏、佐竹氏も頼朝軍に加わり、東海道軍、北陸道軍の三軍を構成して鎌倉方は奥州合戦に臨んだ。その数は定かな記録は無いが、1カ月半後の9月3日には28万4千騎に達したとの記述があるから、当初から10万近い大軍であったのであろう。
迎え撃つ藤原泰衡軍は2万の兵と伝えられる。奥州藤原氏の軍勢は17万騎と称されていたから、もっと多かったのかも知れないが記録に書かれた数は2万騎である。異母兄の藤原国衡が総大将となり阿津賀志山に陣を築いた。藤原泰衡は多賀城の国府で戦況を総覧していたとある。8月10日の畠山重忠軍の総攻撃で藤原国衡が和田義盛軍に討たれると藤原泰衡は多賀城から平泉に逃げ更に平泉を放棄し平泉館をはじめ全てに火を放った。これに拠って奥州藤原氏が四代に亘って拠点として来た平泉は灰燼に帰したのである。1189年8月21日の事であった。
8月26日に頼朝の宿所に泰衡からの助命嘆願の書状が投げ込まれたと吾妻鏡は記している。
内容は“義経を庇護した事は全て父・秀衡の所業であり、私は全く預かり知らない事である。父・秀衡の死後、貴命を受けて義経を討ち取った。これは勲功では無いのでしょうか。然るに罪もない私が征伐されるのは何故でしょうか。(中略)自分を許してもらい、鎌倉方の御家人に加えて欲しい。さもなければ死罪を免じて流罪にして欲しい”というものであった。
頼朝は泰衡の助命嘆願を受け入れず、泰衡の捜索を命じた。1189年9月3日、藤原泰衡は比内郡贄柵(秋田県大館市)に河田次郎を頼ったが彼に裏切られ殺害された。享年は25歳とも35歳とも伝わる。河田次郎は泰衡の首を頼朝に届けたが“恩を忘れた行為は重罪、裏切り者”として打ち首の刑に処せられたのである。泰衡の首は頼朝に届けられた後、平泉の中尊寺金色堂の父・秀衡の傍らに納められた。
泰衡が討ち取られた3カ月後の1189年12月に泰衡の家臣であった大河兼任が主君の仇討と称して挙兵したが討ち取られ、この結果、1190年3月を以て全ての奥州藤原勢は鎮圧された。以仁王が1180年4月9日に平氏追討の令旨を発してから凡そ10年に亘った内乱状態が終息したのである。
源頼朝が文治の勅許を得て以来、全国に御家人、守護、地頭を配置する権限を得て鎌倉方の支配権を全国に拡大し、更に“奥州合戦”が終了した時点を以て鎌倉幕府の成立とするのが第4の説である。
説5:建久3年(1192年)7月、後白河法皇崩御 (1192年3月) 直後に源頼朝が後鳥羽天皇からの征夷大将軍任官要請を受諾した時点を以て鎌倉幕府成立とする説
大河兼任を討ち、伊沢家景を陸奥国の留守職に任命して奥州の支配を強化し、建久元年(1190年)11月7日に頼朝は千余騎の御家人を率いて入京した。鎌倉から上洛する途中では父・源義朝が平治の乱で敗れ関東に逃れる途中で長田忠致(ただむね)・景致父子の裏切りで無念の死をとげた尾張国・野間(現在の愛知県知多郡美浜町)に立ち寄ったと伝えられる。
京に入った頼朝は且つて平清盛が住んだ六波羅に建てられた新邸に入り、12月14日に京を離れる迄の40日間在京した。
この間、後白河法皇とは8回対面し、双方の蟠(わだかまり)りを払拭し、朝廷(院)と鎌倉との関係に新たな局面を開いたとされるが、朝廷から任じられた権大納言・右近衛大将等の官職は朝廷の公事への参加義務が生じる事を嫌って、1カ月も経たない1190年12月3日には早々と辞任している。頼朝の“朝廷(院)の政治との距離を置く”という基本方針は後白河法皇が存命中、如何に徹底していたかを示す史実である。
説5-①:頼朝は後白河法皇に“征夷大将軍職”を望んだが拒否されたとの説について
前章5-6項の7でも論じたが、頼朝が後白河法皇に征夷大将軍の官職を願ったが拒否された為、大納言・右近衛大将の官職に甘んじたという説があるがこの説には説得力が無い。
この説が信じられて来たのは“吾妻鏡”の建久3年(1192年)7月26日条の記事に拠るものである。しかしその後の研究に拠って同じ吾妻鏡の寿永3年(1184年)4月10日及び玉葉の寿永3年(1184年)2月20日並びに3月28日条の記録から、木曽(源)義仲滅亡(1184年1月21日)の直後に後白河法皇から頼朝に“征夷大将軍”任官の打診があったが頼朝はこれを辞退しているという真逆の事が書かれている事が判明している。
前章5-6項でも記述した様に当時、征夷大将軍の職は形骸化し、実質的権限も無く、頼朝にとっては“制約”だけが付随した“受ける魅力の無い官職”であった。こうした事から吾妻鏡の記事には説得力が無い。頼朝の基本は“京の朝廷からの影響を一切断つ事”であり、上記した様に1190年12月3日には権大納言・右近衛大将の官職もさっさと辞任している事からも裏づけられている。
平清盛に多くを学んだ頼朝が自身が“日本国第一の大天狗”と痛罵した後白河法皇を軽々に信ずるとは考えられない。むしろ常に相当の警戒心を持って後白河法皇には接したものと思われる。従って頼朝がその後白河法皇に“征夷大将軍”の官職が欲しいと頭を下げて要求したとする説には説得力は無いという事である。
説5-②:源頼朝が一転、後鳥羽天皇からの征夷大将軍職の任命を受諾した史実とその理由について・・建久3年(1192年)7月
後白河法皇は特異なタイプの人物であった。“治天の君”である自分には“超越的権威“が天から与えられていると信じて臣下の貴族であれ、武士層であれ、国を治める為に利用出来る者は利用し、不都合に成れば掌返しで切捨てる事を30年に亘って繰り返して来た“治天の君”であった。
平清盛の失敗を脳裏に焼き付けていた源頼朝は後白河法皇並びに朝廷(院)政治とは徹底して距離を置いた。従って後白河法皇が存命中は朝廷(院)からの征夷大将軍職への任官要請は受諾しなかったというのが真実であろう。
しかしその後白河法皇が建久3年(1192年)3月に65歳で崩御した。そして4ケ月後の1192年7月12日に、頼朝は一転して後鳥羽天皇からの征夷大将軍職への任官要請を受諾したのである。一般的にはこの征夷大将軍の任官を以て“鎌倉幕府の成立”とする説が鎌倉幕府成立時期に関する5つの説の中で最も支持されて来た。私達が学生時代の定説もこの説である。
1151年から1194年までの長い期間を記した公卿・中山忠親の日記・山槐記に源頼朝が征夷大将軍の官位を受諾したいきさつが記されている。後白河法皇を“日本国第一の大天狗”と痛罵した程の頼朝であるから、後白河法皇を信用せず、警戒した。従って後白河法皇から実権も無い官位を有難がって受ける事はしなかったのである。
しかし後鳥羽天皇の治世に代った事で“征夷大将軍”就任要請を尚も拒否し続ける事が憚られる状況もあったのであろう。頼朝は渋々受諾したと思われる。当時の頼朝の心境について書かれたものは無いが、山槐記に拠れば“平宗盛”が任官した“惣管職“も木曽義仲が任官した”征東大将軍職“も共に”凶例“であったという理由から、嘗て坂上田村麻呂が蝦夷征討の折に任官した“征夷大将軍”が“吉例”であるとして最終的に選んだという経緯が記されている。
五味文彦、本郷和人、西田友広氏等の研究に拠ると、頼朝は同じ奥州の地で戦い、河内源氏の飛躍の基礎を作った“河内源氏三代(源頼信・源頼義・源義家)”の中、源頼信の嫡男で河内国古市郡壺井村(現在の大阪府羽曳野市壺井)で生まれ、奥州における河内源氏の基礎を作った“源頼義”を最も尊敬し誇りとしていたと伝わる。従って尊敬する頼義の“鎮守府将軍”を超え、しかも実権を伴なった官職が提示された場合にのみ、頼朝は受諾する用意があったのであろうとしている。
ここで源頼朝がそれ程までに尊敬していた“源頼義”について述べて置こう。
頼義は頼朝から5代前(頼朝―①義朝―②為義―③義親―④義家―⑤頼義)の先祖で988年に生まれて1075年に87歳で没した人物である。
源頼義が活躍した時期はまさに藤原摂関家の全盛期で、藤原道長、藤原頼通時代を生きた武将である。鎌倉・大倉の屋敷を河内源氏の東国支配の拠点としたのもこの源頼義である。陸奥守・鎮守府将軍に任ぜられ、1051年から1062年の長い間を安倍頼時との“前九年の役”を戦い、苦労の果てに漸く鎮定した事で“河内源氏”の存在感を世に示した。
続く白河法皇時代に開始された“院政“下で武士層が飛躍的に台頭した訳であるが、まさにその先鞭をつけた先祖、河内源氏の祖となったのが源頼義である。奥州の地でその源頼義(生988年没1075年)が任じられたのが“鎮守府将軍職”であった。従って頼朝にとって“鎮守府将軍”という官職には思い入れがあったと五味文彦・本郷和人・西田友宏氏らは述べている。頼朝にとって頼義の“鎮守府将軍”を超える実質的官職以外には関心は無く“大将軍”の官職ならば”征夷“であれ”征東“であれ、どちらの官職でも良かったのでは無いか、との説である。
結果として頼朝は後鳥羽天皇から“征夷大将軍”の官職を受諾した。しかし2年後の1194年には早々とこの官位を辞退する意向を示している。頼朝にとって朝廷(院)政治が下す官職には全く拘泥していなかったという事を証明する出来事である。しかし朝廷側は頼朝の征夷大将軍職の辞退を受理しなかったと記録にある。
頼朝が誇りとした河内源氏の第2代“源頼義”は有名な“八幡太郎義家“の父親である。八幡太郎義家の名は余りにも有名であるが、その由来は彼が石清水八幡宮で元服をした事から来ている。
源頼義はその河内源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請(かんじょう=神仏の分霊を他の場所に移し祀る事)して3カ所に八幡神社を建てた。鎌倉の鶴岡八幡宮(鎌倉)、東京の大宮八幡宮(東京杉並区)そして最後の3番目に分祠したのが生誕地である壺井村(大阪府羽曳野市壺井)に創建した壺井八幡宮である。
鶴岡八幡宮は余りにも有名であるが、2番目の大宮八幡宮は東京の杉並区にある神社で私の住居から徒歩で5~6分程の処に在る。地元の人間以外には余り知られていない神社であろうが、靖国神社、明治神宮と並んで都内で3指に入ると言われる大きな神社である。2013年5月26日には流鏑馬の神事が行われ、毎年9月には16基程の神輿が繰り出し、杉並区全域の人々が賑やかに集う地元の祭りが催されている。
頼朝から5代前の源頼義、そして頼朝は“河内源氏”一族である。その発祥地が壺井村である。この地の史跡を2015年(平成27年)の1月11日に訪れた。近鉄南大阪線の“上ノ太子駅”で降り、駅前のレンタサイクルで自転車を借りて南西方面に20分程走ると“壺井八幡宮”に着く。頼義が分祠して創建した3番目の八幡宮である。丁度宮司が居られ、壺井八幡宮の縁起を直接聞かせて頂き、頂いたパンフレットでより詳しい事を知る事が出来た。
既述の様に源頼義が前九年の役を鎮圧し、1062年以降に氏神である“石清水八幡宮”を分祠する形で3カ所の八幡宮を創建した訳であるが、最後に建立したのがこの壺井八幡宮であり1064年5月15日とある。この時源頼義は既に76歳の高齢であった事になる。
壺井八幡宮を中心に河内源氏の発祥の地の史跡巡りをしたが、“源氏館跡”は館があった事を説明する看板が原っぱに立っているだけであった。河内源氏三代(頼信・頼義・義家)の墓は壺井八幡宮の近くにあった。
先ず源頼義の墓を訪ねたが、今日では廃寺同然になっている“通法寺跡”にあった。河内源氏の初代の源頼信と第3代・源義家の墓は2代頼義の墓からは少し離れた荒れた小山の頂上にあった。墓は小高い山にあるので歩いて行くわけだが、墓に到る山道は草が生い茂る石段で、上る途中に倒れ掛かった木の標識があり“イノシシ注意”と書いてある。私と友人が訪れた時は夕方になって居り、山道は薄暗く、山頂の義家の墓に向かう迄は緊張したものである。墓自体は山頂が平坦な広場になっており、その場所に更に3メートル程の築山を作り、その上に義家の墓が築かれていた。墓の傍らには義家が石清水八幡宮で元服した処から“八幡太郎”と名乗ったという由来、その他、彼を顕彰する説明版が立っていた。
河内源氏の初代・源頼信と3代とされる源義家の墓所はこの様な場所に在る為、日頃参拝者も殆ど訪れる事が無い様であった。上記“通法寺”にある2代源頼義の墓も大いに荒れていたが、頼信・義家の墓はもっと放置された状態であった。歴史に名を残した人物の墓だけにこうして荒れ果てた墓地を見るのは残念である。
説5-③:武家政権=幕府では無い
一般には源頼朝が後鳥羽天皇から1192年7月に征夷大将軍に任命された時を以て“鎌倉幕府の成立”とするのが定説である。又、武士が戦場で幕を張って将軍の陣営とした事から将軍の本営を“幕府”と呼び、それが武家政権の語源となった。しかし、それだからと言って武家政権=幕府でない事は“平清盛の政権が最初の武家政権か否か”について記述した前章を参照願いたい。又、同様に武家政権=征夷大将軍職では無い事も前章で記述済みなのでここでは繰り返さない。
現に当時の人々が“鎌倉幕府”と呼んでいた訳では無い。
朝廷や公家達は“関東”と呼んでいた様であるし、武士達は“鎌倉殿”と称していたと記されている。吾妻鏡の記事には征夷大将軍の館を“幕府”と称していたケースも見られるし、大倉御所を“幕府”と称した事もあった様だ。
武家政権時代の政府を意味する言葉として“幕府”という言葉を初めて使ったのは“江戸時代中期の儒学者”であって、その前の鎌倉幕府・室町幕府時代には幕府という言葉は使われていなかった。江戸時代でも幕府を指す言葉としては“大公儀(おおこうぎ)“であったと言う説もあり、藩の事を”公儀“と呼んだとする説もある。
説5-④:朝廷と鎌倉幕府の役割分担
そもそも“朝廷”と“鎌倉幕府”との役割分担がどうであったかについては現在でも諸説がある。次章で詳しく述べる事になるが、鎌倉時代の国家機能がどの様に分担されていたかについては黒田俊雄氏を中心とする“権門体制論”と佐藤進一氏を中心とする“東国国家論”がある。
“権門体制論”は国家の中心としての朝廷(院)と公家、寺社そして武家権門が相互補完し乍ら国家機能を担っていた体制だとする説であり、もう一方の“東国国家論”とは京・並びに西国を治める朝廷(院)に対して東国に頼朝が治める事実上の国家が樹立されたとする説である。
武家政権と一口で言うが、源頼朝が朝廷から独立した支配上の権限を与えられた範囲は東国を中心としたものであって西国や九州については鎌倉幕府の力はある程度は及んではいたが、まだまだ限られた範囲でしかなかった。
源頼朝が征夷大将軍の宣下を受けてから鎌倉幕府が成立したとする説が定説となったと述べたが、そこに到る経緯を知る事が鎌倉幕府成立の実態を理解する上で重要である。
鎌倉幕府が成立する経緯については時系列で5つの説を紹介する形で記述して来たが、組織の面からは1180年10月の鎌倉に“侍所”設置した事を皮切りに、頼朝が常に朝廷(院)政治から独立した、武家に拠る政権を頭に描いて独自の統治機構を整えて行き、1184年に公文所・問注所を加えた事で体制は整えたものと考えられる。
邪魔となる政敵を次々と排除する過程で、朝廷(院)との交渉によって段階的に統治権限を拡大し、それに則した政治体制を整え、最後に形式として1192年7月に後鳥羽天皇からの征夷大将軍職への任官要請を受諾した事に拠って“鎌倉幕府が成立”したとするのがこの6-1項の結論である。
2:関連史跡訪問記・・衣川館(高舘判官館)の襲撃~奥州合戦の拠点となった奥州の地は8世紀頃から、朝廷が日本の東国支配の拠点として整えて行った重要な史跡の地で
ある
2014年の10月中旬に奥州合戦で藤原泰衡が指揮をとったとされる多賀城史跡をはじめ、9世紀以降に朝廷が支配権を北に拡大する為に城柵を築いて拠点とした胆沢城・志波城・徳丹城の史跡を訪れた。
更に奥州藤原氏が4代に亘って覇権を握り、京・大宰府と並んで当時の大都市として繁栄させた平泉を訪れ、政治拠点であった“柳之御所跡“並びに中尊寺等を訪れた。
この地は朝廷が統治範囲を蝦夷の地にまで広げる拠点とした歴史上の重要性に加えて、時代は12世紀に迄下がるが、頼朝が以後700年近くに及ぶ武士の世のベースとなる本格的な武家政権を打ち立てる為の最期の戦いを行った”奥州合戦“の舞台となった歴史的に非常に重要な地でもある。
6-1項、つまり鎌倉幕府の成立に関連する史跡については文中で述べて来たので以下に奥州藤原氏の拠点となった史跡について簡単に触れ、あとは主として8世紀以降、朝廷が奥州地方の支配権をどの様に拡大して行ったかに関連する史跡について細かく記述する事にしたい。
2-①:柳之御所跡・・岩手県西磐井郡平泉町平泉字伽羅楽
奥州藤原氏4代が政治を行った拠点は吾妻鏡には“平泉館”として記されている。今日では“柳之御所遺跡”として発掘調査が行われている。駐車場前の資料館では“柳之御所”の遺構全体のガイダンスが見られる他、400点程の出土品が展示されている。その中には奥州藤原氏が京の都や海外との交流があった事を裏付ける多量の土器や陶磁器もある。又、当時の通路跡として、側溝のある2本の道路や巾14メートル、深さ4メートルの堀、中島のある池、井戸、トイレ(汚物廃棄穴)そして中心的建物の遺構が発見されている。
この遺構の西方に中尊寺があり、世界文化遺産となった金色堂をはじめ、経蔵等、関連する施設を見学出来る。金色堂自体は1124年に奥州藤原氏の初代藤原清衡が前九年の役・後三年の役で戦死した命を平等に供養する為に造営したと伝えられる。
2-②:多賀城跡(特別史跡)並びに多賀城碑(重要文化財)訪問
大化の改新によって大和朝廷は脅威でもあった隣国の中国の唐王朝に追い着く為の施策として遣唐使を派遣して学び、律令国家体制作りを急いだ。全国を国・郡・里に分け、朝廷が土地と人民を直接支配し、税を納めさせるという体制である。ところが出羽・陸奥地方に住む蝦夷(えみし)と呼ばれた人々は大和朝廷になかなか従わず、朝廷は蝦夷征討の為に“城柵”を築いて征討の拠点として行った。従って当時奥州に次々と建築された“城柵”は南から北へと朝廷が支配を広めるに連れて移って行ったのである。
その言わば初期時代に設けられた多賀城が何時、誰によって建設されたのかを記す史跡が多賀城の南門の跡の直ぐ傍に建っている。1998年に“国の重要文化財”に指定された“多賀城碑”である。この碑は既に江戸時代初期に発見されていたが、碑文の内容が正確でない処がある事、書風・書体、文字の彫り方などにも不審な点がある等の理由から、明治時代になってもまだ偽物と見做され重要視されなかったと言う。
ところが昭和に入って多賀城の政庁跡が発見される等、多賀城の全容が解明されるに従ってこの石碑が偽物で無い事が指摘される様になり、一転して“多賀城碑”に刻まれてある内容の重要性が指摘され、今日では重要文化財に指定されている。
以下が石碑に刻まれた内容であり、この内容には不正確な内容もあるが石碑そのものは762年に建てられたものに間違いないという事が認められ、史跡としての重要性が増して来ている。
多賀城碑に刻まれている内容は下記の通りである。
・多賀城は京から1500里(6000キロ)
・常陸の国から412里(1650キロ)
・靺鞨(まっかつのくに=渤海国)から3000里(12000キロ)
・多賀城は神亀元年(724年第44代女帝元正天皇から第45代聖武天皇に代わった年)
に鎮守府将軍の大野朝臣東人に拠って設けられた
・恵美押勝の専横時代)鎮守府将軍の藤原恵美朝臣朝獦(えみのあそんあさかり)が大々的な改修を行った
・天平宝字6年(762年)12月1日(多賀城碑が建てられた日)
この碑には他に実際の資料がなかなか得られない8世紀の日本の状況が刻まれている。“大化の改新”という大作業を天皇家と共存体制を組んで藤原氏が推し進め、律令国家体制の整備を急いでいた時期の事柄である。朝廷の支配権がこの碑に刻まれている724年には多賀城地域に迄広まっていた事等を具体的に知る事が出来る貴重な石碑である。
大野朝臣東人は鎮守府将軍の職にあった事が明記されている事から724年時点で朝廷の軍事組織がこの地域にまで整然と機能していた事、そして陸奥国府が置かれていた事も明確となった。更に興味のある事は762年に多賀城を大修理し、その任に当たった人物がこの石碑が建てられた2年後の764年に僧道鏡、第48代女帝称徳天皇に対して乱を起こし、滅びた“恵美押勝”の子息だったという事である。
2014年10月に私も“多賀城址”そして“多賀城碑”を歴史研究の仲間達と訪れた。当時の多賀城の規模は発掘された建物の礎石などからは1キロメートル四方程のものであった様だ。古代奥州の政庁跡も発掘され、当時の政治・文化・軍事の中心地であった事が偲ばれる。奥州地区を支配下に納める事は当時の天皇家・藤原氏にとって重要事項であった事が多賀城が4期に分けて改修され続けて来た事を示す発掘現場の痕跡から明らかとなっている。
その第2期目の大改修を行ったのが“多賀城碑”に刻まれている藤原仲麻呂(恵美押勝)の息子の藤原恵美朝臣朝獦(あさかつ)という事である。
史跡として記述内容の信憑性が極く最近まで否定され来た“多賀城碑”だが、水戸光圀は大日本史編纂に際して石碑の確認の為、家臣を派遣し、大切にこの石碑を保存する様に当時の仙台藩主に手紙を書いている。その後すぐにこの石碑を大切に保存すべく覆堂が建てられ、今日に至っている。新井白石、井原西鶴、松尾芭蕉などもこの“多賀城碑“について書き残しており、江戸時代初期から注目された石碑であった様だ。
2-②:胆沢城跡・志波城古代公園・徳丹城跡
ア:胆沢城(奥州市埋蔵文化財調査センター)・・・岩手県奥州市水沢区
蝦夷征討に全力を注いだ第50代桓武天皇(即位781年退位806年)時代の802年に坂上田村麻呂が造営し、鎮守府を置いて蝦夷征討の拠点とした城である。朝廷が支配地域を北へ北へと広げて行った城柵であるから、胆沢城は多賀城よりも北方に築かれている。城の規模は一辺675メートルの築地(土を突き固めて造る土塀)の外塀で囲まれ、中央に一辺90メートル程の政庁の城があったとされる。
胆沢地区の蝦夷の長として朝廷軍と13年間に亘って闘ったとされるアテルイ(阿弖流為)の話はNHKでもドラマ化されたが、朝廷と蝦夷との和平交渉の為、坂上田村麻呂は蝦夷民衆の代表のアテルイを伴って京に上った。朝廷側の蝦夷討伐の意向は強く、和平交渉に来たアテルイを処刑すると主張した。必死に助命嘆願をした坂上田村麻呂であったがその努力も空しくアテルイは処刑されるという悲劇が残された。
胆沢城跡は北上川の西方に位置し、東北自動車道の水沢インターチェンジを出て東に走った処にある。この城は10世紀半ば迄の150年間機能した城柵だとパンフレットには書いてある。史跡からは政庁跡、外郭南門跡、外郭北門跡が発掘されている。
イ:志波城古代公園・・803年建設(岩手県盛岡市上鹿妻)
アテルイ(阿弖流為)の悲劇の翌年、胆沢城から更に北上して803年に同じ坂上田村麻呂に拠って造営されたのが志波城である。桓武天皇はその治世期間の殆どを蝦夷討伐に費やした。こうした朝廷軍と蝦夷軍との所謂“38年戦争“が終結したのは811年とされるが、この時には桓武天皇は既に崩御(806年)しており、皇子の第52代嵯峨天皇(即位809年退位823年)の世に代わっていた。朝廷から志波城に派遣された将軍も文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)に代わっていた。彼の官職は大将軍では無く“征夷将軍“である。
志波城跡は1976年(昭和51年)の東北自動車道の建設の際に多くの史跡が見つかり、国の指定史跡になった。今日では公園として整備され、外郭の南門、築地塀や櫓も大溝も復元されており2014年10月13日に訪問したが復元史跡の立派さに驚いた。
外郭の築地塀の高さは4.5メートルあり、長さは930メートル四方と書かれている。今日復元されている築地塀の長さは252メートルに及ぶ。更に60メートル間隔で櫓があったとの事で、これも一部が復元されている。政庁も南門・東門が復元されていた。当時の官衙(かんが=役所・官庁)の建物も再現されており、それが展示館になっている。スタッフが丁寧に説明をして呉れ、置かれた展示物と共に、当時の役人が仕事をする様子なども見る事が出来、色々と楽しめる史跡だ。
ウ:徳丹城跡:812年建設(岩手県紫波郡矢巾町)
志波城は建設から10年で水害が重なり徳丹城に移った。それまでの城柵は北へ北へと築かれて行ったのであるが、徳丹城は志波城の南方に位置する場所に建設された。この城も志波城と同じく征夷将軍の文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)によって弘仁3年(812年)に造営された。特筆すべきはこの城が律令国家時代最後の城柵という事である。
第4章の3-5項で記述したが、延暦24年(805年)に桓武天皇は藤原緒継と管野真道に天下の徳政について論じさせ、蝦夷征討を初めとする軍事並びに度重なる新都造営(長岡京造営中止並びに平安京への遷都が重なった)で膨大な費用を掛けた事に拠って国の財政が逼迫し、二人の諫言を受け入れたのである。この結果、平安京の更なる造営を中止し、軍事費の大幅圧縮も行ったとされる。
この結果、陸奥・出羽両国に対する蝦夷征討も段階的に規模の縮小が計られ、この徳丹城が律令国家時代に行われた最後の城柵となったと言う事である。時の天皇、第52代嵯峨天皇(即位809年退位823年)が父・桓武天皇の緊縮財政策を引き継いだという事である。
その影響であろう、この城柵の規模は一辺355メートルの正方形の築地と丸太材木塀で囲み、中央に一辺76メートルの板塀で囲まれた政庁があったとされるが、志波城と比べるとかなり小規模な城柵である事が分る。
小さな民族資料館に隣接した原っぱには徳丹城の政庁跡や外郭の丸太材木塀があった位置を示す杭が埋められているだけの史跡であり、全体として志波城や多賀城と比べると史跡としては整っていない。しかし資料館には2006年の第65次発掘調査で井戸跡から出土した“木製冑(かぶと)”が展示されている。木製の冑(かぶと)としては前例が無く、武具研究の上で貴重な資料として大きな話題となった。
更に徳丹城が築かれる前に既にこの地に“官衙(かんが=役所)”が置かれていた事を示す竪穴式住居跡や建物跡、工房跡が発掘されている。第二章の2-2項で記述した様に日本には4世紀には“天皇家”が日本列島を代表する“倭王”として登場し、5世紀以降には大和王朝として支配地域を拡大して行ったと考えられているが、こうした奥州での城柵を目の当たりにすると、確かに古代から“天皇家”が中心となって東北地方まで統治の範囲を広げて行った事を実感出来る貴重な史跡である。
上記した様に律令制を日本全土に広めるべく、奥州地域への支配拡大に尽力した代表的天皇は桓武天皇である。その治世の大半を蝦夷地域の征討に費やし、9世紀には奥羽地方に律令制度を広めるべく坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、軍事力を使って大和朝廷の支配権を拡大して行った史実をこれらの城柵、史跡が我々に具体的に語って呉れる。
3:結び
この6-1項では鎌倉幕府が成立する迄の過程を詳細に記述したが、源頼朝が京から離れた鎌倉を選び、朝廷(院)の政治から独立した東国に“武家に拠るもう一つの国家”とも言える政治体制を確立したのである。
源頼朝は平清盛の失敗に学び、平清盛が成し遂げる事が出来なかった本格的武家政権を誕生させた。鎌倉幕府が成立した事に拠って、以後の日本は朝廷(院)という伝統的・政治体制と武士層が東国を中心に統治する鎌倉幕府という政治体制の二つの統治機構が併存する日本特有の政治体制の時代を迎える事になったのである。
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