1:承久の乱が起きる迄の至尊(天皇家・朝廷)側と至強(政子・執権義時)側との綱引き
1-(1):将軍継嗣問題で素早く動いた政子と北条義時
前項で記述した経緯を辿って源家将軍は3代で断絶した。そして第3代将軍源実朝が暗殺された後の鎌倉側の動きは素早かった。その理由は先ず第一に政子・北条義時が実朝暗殺事件以前から、次期将軍職には“権威”だけを求め、京から迎える事を決断していたからである。そして第二の理由として政子・義時が懸念していた源氏一族による乱が起こって居り、こうした関東の動揺を防ぐ為であった。
1-(2):阿野時元の乱・・1219年2月11日~22日
阿野時元は阿野全成の子である。阿野全成は源義経が“牛若”時代の兄“今若”と言えば分かり易かろう。共に常盤御前と源義朝の男子であり、源頼朝の異母弟である。阿野全成は政子の妹の阿波局と結婚し、源実朝の乳母夫と成っていた。政争の末、1203年に第2代将軍頼家の手の者によって殺害された事は記述した。その時、時元の兄・阿野頼全も殺害されている。阿野時元は運良く生き延びていたのである。
この阿野時元が実朝が暗殺された直後の1219年2月11日に駿河で“東国管領の宣旨を賜った”として駿河国・阿野で挙兵した事件である。
吾妻鏡の2月15日条には下記の様に書かれている。
“多勢ヲ引率シ、城郭ヲ深山ニ構フ、コレ宣旨ヲ申シ賜ハリ、東国ヲ管領スベキノ由相企ツト云々・・”
北条義時は直ちに御家人を駿河に向かわせ、2月22日にはこの乱を鎮めた。事件の真相は不明な部分が多いが、源氏の血を引く阿野時元が名乗りを挙げた乱であり、源家3代の将軍が断絶した直後の幕府、並びに世の中の混乱ぶりを示す事件であった。
1-(3):実朝暗殺直後から親王将軍下向の要請に動いた政子と北条義時
吾妻鏡の記事から実朝暗殺後の政子と北条義時の動きを見てみると、迷う事無く親王将軍の獲得に動いた事が分る。
この動きに対して後鳥羽上皇は素直に応じなかった。倒幕の機会が愈々近づいて来たと判断しつつあったのである。後鳥羽上皇と鎌倉幕府との間では以下の様な“駆け引き・綱引き”が行われた。その最大のポイントは後鳥羽上皇からの“地頭免職”を要求する院宣であった。
“吾妻鏡”の記述を元に時系列に後鳥羽上皇と鎌倉幕府の動き、交渉状況を紹介する。
1219年1月28日・・勝長寿院で実朝の葬儀が行われ、京都へ実朝死去の使者を発する
2月2日・・鎌倉の使者が京に参着。実朝死去の報が伝わる
2月11日・・阿野時元の乱起こる(上述)
2月13日・・幕府・親王将軍の下向を京に要請、候補者として六条宮・冷泉宮の2名を挙げる
2月22日・・北条義時・御家人を向かわせ、阿野時元の乱を鎮める。
閏2月1日・・鎌倉からの親王将軍下向要請が後鳥羽上皇に届く
閏2月4日・・親王将軍要請に対して“近い将来の事”と後鳥羽院からの内諾ともとれる返事が出される。
閏2月12日・・後鳥羽上皇内諾の報が鎌倉に伝わる
閏2月24日・・幕府から親王将軍の早期下向を再度京に要請する
3月9日・・内蔵頭・藤原忠綱が親王将軍下向内諾の交換条件として摂津国長江・倉橋両荘園の地頭免職要請を北条義時に伝える
3月12日・・院の使いの藤原忠綱が鎌倉での用務を終え京に戻る
3月15日・・幕府は院からの“地頭免職要請”を拒否する事を決める。その上で尚も親王将軍下向要請交渉の為、北条時房が1000騎の兵力を率いて上洛する
7月9日・・親王将軍は拒否され、代替案として摂家からの将軍下向が承諾され、九条頼経(満1歳半)が鎌倉に向けて京を出発する
7月13日・・京で源頼茂が後鳥羽上皇の軍勢(西面の武士団)によって討ち取られる(後述)
12月 ・・摂家将軍として下向した九条頼経の着袴の儀(ちゃっこのぎ)が政子の介添え役で行われる
1-(4):3代将軍源実朝の死に対する後鳥羽上皇の反応、並びに親王将軍下向要請に対する基本姿勢
後鳥羽上皇は第3代将軍源実朝の訃報を1219年2月2日に受けた。至尊(天皇家・朝廷)体制内に至強(将軍・武士層)勢力を包摂(取り込んでしまう)する事を狙っていた後鳥羽上皇は実朝に対して異例と言えるスピードで右大臣に昇進させていた。
実朝の死はこれ迄の“官位・官職授与策”が水泡に帰した事を意味した。
しかし一方で後鳥羽上皇はこの暗殺事件を“鎌倉幕府の自壊”のはじまりと捉えたと思われる。そして後鳥羽上皇に鎌倉側からの親王将軍下向要請が届いたのは閏2月1日であった。
時系列で書いた上表では、閏2月4日に上皇が“近い将来の事として内諾した”ともとれる返事を出したと記した。後鳥羽上皇から幕府に対して親王将軍下向要請に対する明快な承諾の答えではなかったが、幕府側は“拒絶では無く、留保、少なくとも可能性を含んだ返答”と解釈したものと思われる。
従って閏2月24日に念を押す様に再度の要請を京に対して行っている。
一方“愚管抄”の記述によると後鳥羽上皇の意向ははっきりと親王将軍の下向要請を拒絶し、摂関家の子弟位なら幕府の要請に応えても良いというニュアンスだとしている。
“愚管抄“の記述は“イカニ将来ニコノ日本国フタツニ分ル事ヲバシヲカンゾ(略)次々ノタダノ人ハ、関白摂政ノ子ナリトモ申サムニシタガフベシ”とある。
つまり“親王の東下については、日本国を二分する原因ともなり、許可出来ない。かりに親王以外の人物、摂関家の子弟くらいなら要望に従う事も出来ない事は無い“という意向だとしている。後鳥羽上皇は政子並びに北条義時からの要請を退ける意向だという事がはっきりしていたのである。
関幸彦氏は“愚管抄”の記述は信憑性が高いとし、史実も“愚管抄“の記述内容に沿った形で展開する。
倒幕(討幕)の機会を常にうかがっていた後鳥羽上皇としては、只、幕府からの親王将軍下向要請を拒絶するのでは無く、上表3月9日の記述にある様に“地頭免職要請”を交換条件として突き付けたのである。
地頭職は幕府と御家人との“御恩と奉公”つまり鎌倉幕府存立の根幹であり、この交換条件を突き付けたと言う事は明らかに鎌倉幕府、つまり、政子・北条義時に対する挑戦であった。
3月9日に後鳥羽上皇の使、内蔵頭・藤原忠綱は先ず政子のもとに参上して後鳥羽院からの源実朝薨去に対する弔意を伝えている。その後、北条義時に会い、後鳥羽上皇からの院宣という形で、親王将軍下向要請を受ける前に“摂津国の長江及び倉橋の院領荘園に配置されている地頭職を解補せよ”と伝えたのである。
後鳥羽上皇は寵愛する伊賀局(元、白拍子の亀菊)に所領として与えた長江・倉橋の両荘園に配属された地頭とのトラブルが多い事を伊賀局から苦情として持ち込まれていたのであろう、従ってそれらの地頭を免職にせよとの交換条件を突き付けたのである。
1-(5):地頭罷免問題は鎌倉幕府の生命線に関わる上皇からの露骨な挑戦であった
後鳥羽上皇は幕府が親王将軍を要請して来た事を“治天の君”としての権威を内外に示す絶好の機会と捉えた。
院の近臣・藤原忠綱を遣わして3月9日に北条義時に“地頭免職”の命令を院宣の形で伝えたのである。これに対して幕府首脳は評議した。その結論が“吾妻鏡”に書かれている。藤原忠綱が京に戻った後の1221年3月12日頃に結論を出したものと考えられる。
政子・北条義時・時房・泰時・大江広元らの幕府首脳による評議の結論は下記の様に書かれている。
“幕下将軍ノ時、勲功ノ賞ニ募リテ定補セラレルノ輩、サセル雑怠ナクシテ改メガタキ・・(略)“ である。
つまり、頼朝時代以来、勲功で御家人達に与えた所領(地頭職)は大罪を犯さない限りは免職しない・・のが大原則であり、鎌倉幕府の生命線である“御恩と奉公”のルールを崩す事はあり得ない。幕府として親王将軍下向の要請は緊急課題ではあるが、後鳥羽上皇からの“地頭罷免”の交換条件は到底受け入れられない、という結論に到ったのである。
1-(6):北条時房が1000騎を率いて上洛する・・1221年3月15日
北条時房(生:1175年没1240年)は北条時政の男子で政子・北条義時の異母弟である。後に鎌倉幕府初代の“連署”となって北条泰時の執権体制を支える人物である。2代将軍源頼家並びに3代将軍源実朝の和歌・蹴鞠の相手を務めたという記録が在り、又、後鳥羽上皇の前で蹴鞠を披露する等、上皇にも気に入られ、京で出仕したという経験を持つ人物である。
この様な経歴を持ち、当時46歳になっていた北条時房を幕府側はこじれた“親王将軍下向要請問題“に決着を付けるべく、1000騎の軍兵をつけて上洛させたのである。
“地頭免職“を交換条件にするなど、幕府に揺さぶりを掛ける後鳥羽上皇に軍事的圧力を掛ける目的もあった上洛であった。
1-(7):交渉結果は親王将軍の代わりに摂家将軍の下向で決着となる
後鳥羽上皇の長江・倉橋両荘園の地頭職罷免の院宣は鎌倉幕府成立以前の荘園・公領における支配権の状態に逆戻りする事を意味した。東国武士達が鎌倉殿を担いだ意味は幕府が御家人の所領支配を保証する“本領安堵”というシステムがあったからである。新しい所領の場合は“新恩給与”という形で保証すると言う信頼関係があったからである。
その手段が“地頭職”への補任であった。
後鳥羽上皇が提示した“地頭免職”は“御家人集団と幕府間の経済保障システム”を崩壊させる事を意味し、鎌倉幕府存立の基盤が失われる事を意味した。
幕府側は後鳥羽上皇の“地頭職罷免”の要求を拒否した。
後鳥羽上皇は“治天の君”としての“権威”を賭けた交渉条件を院宣という形で出し、幕府側も“権威としての親王将軍下向”の要請をした。双方共に譲れない状況下での交渉であった。
結果としては折衷案としての“摂家将軍”の下向が決まり、幕府側もこれを受け入れたのである。
1-(8):九条道家の三男、九条三寅(九条頼経)を第4代将軍として迎える
父親の九条道家(生1193年没1252年)の母親が源頼朝の姪であったという関係から親幕派と見られていた九条家、つまり、源頼朝の同母妹(坊門姫)の曽孫(ひ孫)という関係が大きな決定理由となり、2歳に満たない“三寅”が第4代鎌倉将軍として下向する事が決定した。
生まれ歳の1218年が寅年であり、生まれた日が寅の日、更に生まれた時刻も寅の刻であった事から幼名が“三寅”になったとされる。
第4代鎌倉幕府将軍“九条頼経(生1218年没1256年)”と名乗るのは1225年に7歳で元服して以降の事である。
この将軍後継問題では、後鳥羽上皇も幕府側も共に所期の目的を果たす事は出来なかった。
幕府側は親王の下向が実現出来なかった。後鳥羽上皇は“地頭職罷免宣旨”を実現出来なかった。しかし“治天の君”としての意志を貫徹出来なかった後鳥羽上皇の方が面目を失ない、ダメージは大きかったとされる。幕府の方は“地頭罷免の宣旨”を切り抜け、将軍問題もベストの親王将軍では無かったが、摂関家から迎える事で一応の形はついたからである。
既述の様に政子・北条義時は、源実朝の後の将軍職には“権威”だけを必要とした。源氏の嫡流が絶えた源家からの将軍継承に拘らない方針を既に決断していたのである。
以上の様に将軍継嗣問題に絡む幕府と後鳥羽上皇との綱引の結果は幕府側に軍配が上がったのである。
1-(9):“承久の乱”に繋がる後鳥羽上皇の行動と有力御家人達の去就
1-(9)-①:源頼茂事件(1219年7月13日)・・後鳥羽上皇軍が討つ
源頼茂(生1179年没1219年8月24日)という人物は以仁王が平氏追討の令旨(1180年4月9日)を全国に発した時から行動を共にした源頼政の孫で、摂津源氏の棟梁であっ
た。
鎌倉幕府の御家人として京で“大内守護”の職に就いており、3代将軍源実朝の政所別当も務めた人物であった。言わば鎌倉幕府の在京御家人として幕府と朝廷双方の仲介役を担っていた人物であった。朝廷側からすると監視役である。源実朝が暗殺された鶴岡八幡宮での式典にも殿上人として京方の一条信能・源仲章と並んで参加している。
実朝が暗殺された後の源氏の血統としては公暁並びにその血縁の全ても滅ぼされ、上述した様に阿野時元も2月22 日に北条義時に拠って討たれ、実朝を継ぐ有力な源氏の血統として残ったのは源頼茂、後に述べる大内惟義、そして足利氏の3家だけとなっていた。
その中の一家、摂津源氏の棟梁・源頼茂が後鳥羽上皇の軍に拠って7月13日に突如討たれた事件である。
後鳥羽上皇が彼を討った理由には諸説がある。“愚管抄”には“将軍に成らんと思たり”と記述されており、“吾妻鏡”には“後鳥羽上皇の意志に背いた”と書かれている。
源頼茂は子息の頼氏等と共に後鳥羽上皇の軍によって攻められ、内裏の仁寿殿(じじゅうでん)に火をかけて自刃する。ここに摂津源氏も滅びたという事件である。
源頼茂事件の背景については既に鎌倉幕府側は摂家将軍の九条頼経を獲得し、頼経は7月9日には鎌倉に向けて出発した後であった。従って将軍後継問題は決着しており、愚管抄にある“将軍に成らんと思たり”が討たれた原因とする説は当たらない。
1-(9)-②:源頼茂が討たれた理由
事件が起きたのは九条頼経が摂家府軍として鎌倉へ下向した4日後である。
事件の背景を要約すると下記である。
後鳥羽上皇の日頃の行動を監視する立場の源頼茂は上皇が幕府を呪詛している事、最勝四天王院に関東調伏の壇を設けている事等、上皇が幕府に知られては困る事を掴んでいた。当時は呪詛、祈祷の力を人々は信じていた。後鳥羽上皇が呪詛、祈祷を行った記事は多い。第3代将軍源実朝死去の報に接した後鳥羽上皇は“陰陽師”に関東調伏の祈祷を止めさせ、調伏を行っていた陰陽師を追放した事が記されている。
吾妻鏡の記述は下記の通りである。
“故右府将軍(実朝)ノ御祈祷ヲ致スノ陰陽師等、コトゴトク以テ所職ヲ停メラル”
この記事にある通り、後鳥羽上皇は鎌倉幕府を陰陽師に呪詛させていたが、それは“将軍実朝”個人を対象とした呪詛ではなかった。ところが、まさかの将軍実朝暗殺という事態が勃発した為、周章狼狽し、呪詛の証拠隠滅をはかったというのが上記吾妻鏡に記された内容である。
源頼茂を討った6日後の1219年7月19日に国家守護神の四天王を祀る為、後鳥羽上皇自身が建立(1207年)した“最勝四天王院”を打壊した事も書かれている。
後鳥羽上皇が源頼茂を討ち、続いて“最勝四天王院”を打壊している事からは、関東への調伏、呪詛を行っていた事、更には最勝四天王院にも“調伏の壇”を立てて呪詛していた事の全てを見破っていた源頼茂が幕府へ報告する事を阻止する必要があり、先ず頼茂を討ち、その後、最勝四天王院を壊したという筋書きとなる。
尚、武闘派として知られ、倒幕を常に念頭に置き、“北面の武士”の他に“西面の武士”を養成して来た後鳥羽上皇が“愈々倒幕近し”と考え、西面の武士を源頼茂討伐に起用する事に拠って“院の武力”を誇示しようとする意図もあったとされる。
1-(9)-③:残る源氏の正統血筋とされる“大内家”と“足利家”の動きについて
源頼茂が討たれた事で摂津源氏も滅び、この時点で残った源氏の正統血筋を受け継ぐのは“大内家”と“足利家”の2家だけとなった。
(ア):大内家は京方に付き没落
大内氏は新羅三郎義光の曽孫に当たる源氏一門で、平賀義信は平治の乱で源義朝と共に戦い敗れたが生き延び、後に源頼朝の信頼を得た人物であった。
その子が大内惟義(おおうちこれよし)で、彼は一の谷の戦いで活躍し、後に伊賀の国大内荘の地頭職も兼ね、鎌倉幕府の有力御家人となった。
彼の名は実朝が暗殺された1219年1月27日の鶴岡八幡宮の式典に“修理権大夫惟義朝臣”の名で参加者の中に書かれているがその後の史料には一切名前が出て来ない。実朝の暗殺事件後、間もなくして没した可能性が高い。
北条時政・牧の方夫妻が謀った1205年閏7月の“牧氏事件“で異母弟の平賀朝雅が誅殺されたが、大内惟義は幕府からの信頼が厚かったのであろう、連座せず、逆に平賀朝雅が有していた伊勢・伊賀の守護職を引き継ぐ等、越前・美濃・丹波・摂津も加えた近畿6ケ国の守護に任命されていた。
この様に大内惟義が当主だった頃の大内家は鎌倉幕府内の重鎮であった。
政子・義時の寡頭政治体制になり、第3代将軍源実朝が政治権力から遠ざけられ、源家を将軍家として継承して行くという考えが無くなるにつれて源家血統を継ぐ大内惟義と北条氏との距離は自然と遠くなって行った。
更に源実朝が暗殺され、その直後に大内惟義が家督を嫡子の大内惟信(おおうちこれのぶ)に譲る頃には大内家の幕府内に於ける地位も下がり、結果、“承久の乱”では後鳥羽上皇側の主戦力として加わる事になるのである。
後鳥羽上皇から倒幕への参加命令を拒んだ京都守護職“伊賀光季”の邸を1221年5月15日に院近臣・藤原秀康と共に襲い、討ち取って“承久の乱”の戦端を開くと言う役割を果たす事になる。
承久の乱で敗れた後は逃亡、潜伏を続けたが最後は捕えられ、西国に配流となり、名門大内氏は没落したのである。
(イ) 足利家は北条氏の覇権達成に貢献する途を選ぶ
足利家は第2代当主とされる足利義兼(生1154年没1199年)が北条時政の娘を娶り、この時期の第3代当主・足利義氏(生1189年没1255年)は北条泰時の娘を娶っている。
源家の正統血筋の足利家ではあったが北条氏と近い関係を結び、幕府の要職には就かなかったが、承久の乱など重要な局面では北条義時、泰時父子を補佐して北条氏の覇権達成に幕府長老として貢献する途を選んだのである。後述する子孫の足利高氏(尊氏)は鎌倉幕府を倒し室町幕府を開く事になる。
1-(9)-④:最有力御家人の三浦氏が分裂した経緯・・“禅暁阿闍梨(ぜんぎょうあじゃり)”暗殺事件(1220年4月)
“仁和寺日次記“の1220年4月15日条に“今夜、禅暁阿闍梨東山辺ニ於テ、之ヲ誅ス”
と書かれている。誰が手を下したかは明記されていない。
関幸彦氏は“義時ニ誅セラレケリ”と明記している“承久記”の記事を紹介している。実は“承久記”と称する異本は多くあり“承久記・前田本”には“童名をば千歳殿とぞ申しけるは承久二年(1220年)4月11日討たれ給へり“とだけ書かれ、ここでも北条義時が討ったとまでは記述していない。
第3代将軍・源実朝を暗殺した“公暁”の関係者を政子も幕府も徹底的に追い、処分している事からもその弟の第2代将軍・源頼家の四男・禅暁が北条義時に拠って誅された可能性は高い。“吾妻鏡”にこの件に関する記事が見当たらないのは、北条得宗家の子孫に拠って書かれた歴史書であり、北条義時(=得宗)にとって不利益になる記述は特に避けるであろうから当然と考えられる。
異母兄の“公暁”が将軍実朝を暗殺した事から、それに荷担した事を疑われて“禅暁”迄もが討たれたと考えられるが、政子・北条義時は“源家からの将軍継承は考えず、断絶でも良い”と決断し、摂関家から九条頼経の下向を決めている。こうした史実から考えると将来、将軍後継問題の火種とも成りかねない源家の血筋は邪魔であり、禅暁を暗殺した事も幕府としての一貫した考えから出た行動と考えられる。
“仁和寺日次記”は1210年~1222年迄の記録であり、信憑性が高い。2代将軍源頼家の四男で仁和寺の僧であった“禅暁”が葬り去られた記録が書かれている以上、この事は紛れもない事実であり、その指示は北条義時から出たと結論づけて良いのではなかろうか。
この事件が鎌倉幕府の最有力御家人“三浦氏”の分断に繋がる。
“禅暁”の母親は第2代将軍源頼家の側室であり、将軍頼家が暗殺された後にこの側室は三浦胤義(みうらたねよし)と再婚した。妻の子息・禅暁が殺された事で夫の三浦胤義は北条義時に敵対する関係となる。
三浦胤義は後鳥羽上皇の近臣で後の“承久の乱“の戦いでは京方の武力の中核、藤原秀康と近くなり、鎌倉の兄・三浦義村を上皇側に誘う。しかし三浦義村は応じなかった。結果、北条氏に対抗し得る最有力御家人であった“三浦氏”が京方と幕府側とに分裂する展開となった。
この事は幕府勢力の分断を策した後鳥羽上皇にとっては都合の良い展開でもあった。京方に付いた三浦胤義も上皇側の武力の中核となる。
しかし、三浦胤義という人物は単純で、深慮遠謀タイプでは無かった様だ。軍議で後鳥羽上皇に“朝敵となった北条義時に味方する者は1000人も居ないだろう“と楽観論を述べ、この事が京方を終始油断させた。京方の戦術展開は粗末で、軍も纏まりを欠いていた。そして忽ちの中に戦いに敗れたのである。
更に三浦胤義は大失態を演じる。それは兄の三浦義村に京方に付くよう手紙を書いた。幕府幹部である兄の三浦義村は弟の誘いを無視したばかりかその手紙を幕府軍のトップである北条義時に暴露したのである。彼の度重なる軽挙妄動はこの様に幕府側を大いに利する結果となった。
1-9-⑤:(参考)・・鎌倉時代の一級資料について
鎌倉時代に書かれた日記、公日記、旅行記などの一級資料は凡そ50程ある。上記“仁和寺日次記”もその中に含まれる貴重な一級史料であり“禅暁事件”が史実だと確認できるのはこの一級資料のお蔭である。
藤原定家の“明月記”、近衛家実の“猪隈関白記”、九条道家の“玉葉”等も鎌倉時代の一級資料であり、この通史を書くに当たって何度も引用している。
又、各、天皇の記録としては、後鳥羽天皇宸記、順徳院御記、後深草天皇宸記などがあり、これらも貴重な一級資料である。
藤原為家の側室、阿仏尼が1277年から1280年にかけて実子・藤原為相が関わった所領相続問題解決の為、鎌倉での訴訟に赴いた折の日記“十六夜日記”は鎌倉時代の所領紛争の実相を当事者の阿仏尼が伝える資料として非常に有名であり、一級資料としての価値があるものとされる。
作者はこの日記に名を付けておらず、阿仏尼の旅立ちが10月16日であった事から後世名付けられたものである。当時の公家法で解決出来ない所領問題を武家法での解決を求めて阿仏尼が60歳の高齢をおして鎌倉に出た時の道中記、並びに鎌倉滞在の記録である。
100首以上の和歌も含まれている。しかし肝心の所領紛争の解決を見る事もなく彼女は没し、日記もそこで終わっている。
2:“承久の乱”直前の後鳥羽上皇の思い切った行動・・第85代仲恭天皇を誕生させる
(1221年4月20日)
第85代仲恭天皇(践祚1221年4月20日3歳半・廃位・同年7月9日)は第84代順徳天皇(即位1210年譲位1221年)の第一皇子、懐成親王(かねなりしんのう)として1218年に生まれた。
祖父・後鳥羽上皇の喜びは特別であった。その理由は、倒幕(討幕)を決意していた後鳥羽上皇としては自分と同じ、或は自分以上に倒幕へと傾いている息子の第84代順徳天皇を後顧の憂い無く譲位させ、懐成親王を即位させる事を待ち望んでいたからである。
懐成親王の誕生は後鳥羽上皇がそれまで漠然と抱き、温めて来た“倒幕”の決意を愈々具体的な実行計画として固めて行く大きな出来事だったと言える。
翌年1219年には満1歳で皇太子に立て“承久の乱”を起こす僅か1カ月前の1221年4月には計画通り第85代天皇として誕生させる。
1221年4月20日に満3歳で践祚式(せんそ=天皇の位の象徴である剣、璽、神鏡を先帝から受け継いで天皇の位を継ぐ儀式、天皇家の内部だけでの即位式である。桓武天皇以降、践祚の後に即位の礼を行う様になった。現行の皇室典範では先帝崩御後、直ぐに即位する事を規定している)を行った。
しかし後鳥羽上皇、順徳上皇が5月に起こした“承久の乱”での敗北が決まり、両上皇は夫々隠岐・佐渡に配流となるという“天皇家”にとって予想外の展開と成った。
従って即位式(天皇の位につく事を天皇家の外部に公表する儀式)も大嘗祭(即位後初めて行う新嘗祭)も未だ行なっていなかった“新帝”は7月9日に幕府によって皇位を廃され、高倉天皇の第二皇子である守貞親王の皇子・茂仁王が第86代後堀河天皇(即位1221年譲位1232年)に即位するという前例の無い形となった。
践祚式の後、僅か78日で廃位された天皇であり、その為、九条廃帝、承久の廃帝と呼ばれる。当時は歴代天皇としては扱われなかった憐れな天皇であった。
650年後の1870年(明治3年)5月に明治政府が同じ様な境遇であった三天皇(大友皇子・淡路廃帝・九条廃帝)に追諡(ついし=死後におくり名を贈る事)を行った。三天皇夫々に、弘文天皇(大友皇子)・淳仁天皇(淡路廃帝)・仲恭天皇(九条廃帝)の諡号が贈られ、晴れて歴代天皇の仲間入りをしたのである。
3:後鳥羽上皇が倒幕(討幕)実行を可能と考えるに至った最大の根拠・・膨大な“院領荘園群“が後鳥羽上皇に集積された経緯
既述したが、1086年に白河上皇が“院政”を開始し、天皇家も“院領荘園群“として領有出来る新しい制度を整える。以後、摂関家に牛耳られていた荘園群による膨大な“経済力”を“天皇家”が奪い返して行く。
後鳥羽上皇が何故、膨大な“院領荘園群“を管轄下に置く事になったか、ここではその経緯を簡単に述べて置く。
① :後鳥羽上皇の8代前の天皇であった鳥羽法皇が集積した院領荘園群は皇女の八条院暲子内親王(はちじょういんあきこないしんのう)に伝領された。全国に230ケ所を超える膨大なもので“八条院領”と呼ばれた。
② :後鳥羽上皇の5代前の天皇であった後白河法皇の管轄下にあった院領荘園群は第六皇女の宣陽門院覲子内親王(せんようもんいんきんしないしんのう)に伝領され、長講堂領と呼ばれた。全国180ケ所の荘園群であった。
① の八条院領は暲子内親王が1211年に75歳で没すると彼女の養子となっていた後鳥羽上皇の皇女・春華門院昇子内親王へと伝領され、この昇子内親王も没した為、結果として後鳥羽上皇の管領するところと成った。
② の長講堂領は後白河院の皇女宣陽門院、同じく宣陽門院の姉で且つ後鳥羽天皇の准母であった殷富門院亮子(いんぶもんいんあきこ)内親王に伝領されていた(金剛勝院領)。藤原定家の日記“明月記”に書かれているが、これらの荘園群もいずれは後鳥羽上皇の皇子達が養子という形で伝領する様に構想されていたのである。
後鳥羽上皇はかくして上記①と②、つまり鳥羽院と後白河院が二代で築き上げた“院領荘園群”のほゞ全てを自らの管轄下に収める結果となったのである。
こうして鎌倉幕府と対決し得る経済力、武力を蓄えていた事が後鳥羽上皇の倒幕(討幕)に対する決断を強く後押ししたのである。
4:文治の勅許(地頭配置)が伝統的土地領有権に与えた変化とそのインパクト
1185年11月28日に後白河法皇から“文治の勅許”が下され、守護・地頭の設置権並びにその人事権が頼朝に与えられた事が“鎌倉幕府成立時期”論の最有力な説である。
この勅許によって“地頭”と言う形で御家人が全国に配置される事になり、それ迄の日本の荘園制に代表される土地領有権の在り方に大きな変化を起こした。
“地頭職”の機能は時代を経るに従って変化するので単純には定義付けられ無い。鎌倉殿への奉仕をする“御家人”としての立場と、徴税、警察、裁判の責任者として国衙(こくが=国府領)や荘園領主に奉仕する二重の立場があった。
“文治の勅許“で鎌倉幕府は地頭の補任権、解任権を得た。荘園領主・国司にはその人事権は無かったから地頭は荘園領主や国司に対して強い立場だったと言える。地頭はその強い立場を利用して徐々に荘園・公領の管理支配権を奪って行った。具体的には地頭は様々な理由を付けては荘園領主や国司への年貢を滞納し横領したのである。
この為、両者間には紛争が絶えなくなり、妥協案として毎年一定額の年貢を納入する事を地頭が請け負う制度が出来る。これを“地頭請(じとううけ)”と言うがこの制度は地頭にとって多大な利益をもたらす場合が多かった。結果、地頭が荘園・公領の事実上の支配権を握る事に繋がって行った。
こうした状況を“文治の勅許”以前の状態に戻そうとしたのが後鳥羽上皇が起こした“承久の乱”だと言える。
既述の様に後鳥羽上皇が愛妾“亀菊”に与えた摂津国・長江・倉橋(大阪府豊中市)の荘園に配置された地頭と、領主の亀菊との間のトラブルが絶えず、そこで後鳥羽上皇は幕府からの“親王将軍下向要請”との引き換え条件として両荘園の地頭廃止を宣旨の形で要求した。これが“承久の乱”のトリガー(引き金)になったのである。
5:天皇家は藤原摂関家の膨大な荘園群を積み上げる基となった土地領有権を“院政”の開始に拠って取り戻し、院領荘園群を積み上げ、復権した。しかし武士層が新たな脅威として台頭する
日本の政治史は土地領有に関する権力闘争である。そもそも後鳥羽上皇時代に集積された“院領荘園群”は藤原摂関政治時代の“摂関家荘園群”が元である。
その様に考えて行くと“荘園”の起こりとその発展が如何であったのか、そしてどの様な経緯から“承久の乱”に繋がったのかについて整理して置く必要がある。
概要は下記の様に纏められよう。
藤原摂関家が“天皇家との共存体制”を組み、有力貴族に与えられた経済的特権を最大限に利用し、膨大な荘園群を獲得して行く事で“天皇家を遥かに凌ぐ経済力”を握ると共に摂政・関白を独占し政治権力をも握った。
こうした状態を“院政”という新しい“政治体制”によって“院領荘園群”を積み上げ、摂関家に奪われていた経済力、並びに政治権力を再び“天皇家”の手に取り戻したのが白河法皇(生1053年崩御1129年:天皇即位1072年譲位1086年)であった。
“院政”は白河院から鳥羽院、そして後白河院へ引き継がれたが院政体制が育んだ武士層の台頭、就中、平清盛という時代の寵児の登場があった事で武家政権の誕生という事態を招くという展開となった。
平清盛の急逝に拠って平氏一門の排除を行なう為に後白河法皇が用いたのが“源頼朝”であった。平清盛の失敗に学んだ源頼朝は後白河院の繰り出す“官位・官職授与策”に乗らず、独自の武家政権樹立を目指した事で事態は大きく変化する。
源頼朝は“守護・地頭の配置、人事権”を“文治の勅許”という形で得る。この事で伝統的朝廷政治から独立した“東国政権”を成立させたのである。
とりわけ“地頭職”は荘園、公領に於ける領主の経済機能を徐々に奪い、院領荘園群を含め、日本の伝統的土地領有権の姿を変えて行った。
“地頭職“が荘園・公領の支配権を徐々に奪って行く事態を、至尊(天皇家・貴族層)勢力は恐れていたが、時が経つにつれてその脅威は大きくなり、この排除の為に後鳥羽上皇は“承久の乱”を起こしたのである。
以上、天皇家が摂関家の荘園群を院領荘園群という形で取戻した経緯、その後、武士層が新たな土地領有権者として台頭した経緯を記述したが、そもそも、“荘園“がどの様な経緯で興り、拡大する事になったのかもここで整理して置く必要があろう。
それには“大化の改新”にまで歴史を遡る必要がある。
6:公地公民を掲げ“天皇を中心とした律令国家作り”を目指した大化の改新の理想は結果に於いて“摂関家荘園群”を生む事に繋がった
6-①:承久の乱は日本の土地領有権の“分水嶺“となった戦いである
―鎌倉時代以降の土地領有権の変化―
承久の乱は院政という政治制度の下での院領荘園群という土地領有権と鎌倉幕府・武家政権が獲得した“地頭職”を介しての新しい土地領有権との戦いであった。そして幕府側が勝利した。
その結果、京方の荘園3000ケ所は没収され“新補地頭”として新しく全国に御家人が任じられた。この状態は“日本史上の民族大移動”と称される程の大規模なものであった。
こうして伝統的な土地領有権(支配権)を覆して行った鎌倉時代の地頭職であるが、その後、室町期になって守護職に土地領有の経済機能が付与されて行く。例えば“半済(はんぜい)”の経済機能が挙げられる。これに拠って守護の力が一挙に増す事になる。
“半済”とは荘園や公領の年貢を武士と荘園領主が折半する制度であり、1352年に足利尊氏(高氏)が始めたとされる。これによって南北朝・室町期に諸国の守護が次第に荘園や公領の利権を侵食する事が本格化し、守護領国制、守護大名が誕生する展開となる。
力を増した守護は地頭や名主などを被官として自分の統制下に置き“守護領国制”が成熟する。かくして“地頭”は室町中期迄には名実共に消滅し、“守護大名”が領国を支配する様に変化する。こうした土地領有権(土地支配)変遷の分水嶺となったのが“承久の乱”だったのである。
6-②:“大化改新”は土地領有権の大変化を目指したものであった・・公地公民制
以上、承久の乱が日本の土地領有権にとって、その後の変化の分水嶺になった事を述べたが、遡って承久の乱の570年前には“大化の改新”という当時の日本の土地領有権の分水嶺となった大きな出来事があった。
大化の改新で目指したものは”公地公民“制度であった。しかしこの制度は所期の目的を果たせず崩壊する。どの様な経緯で当初目指した“公地公民”が崩れ、結果的に摂関家の膨大な荘園群を生み、そして院政下で後鳥羽上皇が膨大な“院領荘園群”を集積するに到ったかを以下に記す。
6-③:公地公民の宣言と実施
第三章2項で記した様に645年の乙巳(いっし)の変はその後“大化の改新”と呼ばれる古代日本の制度を当時の国際情勢(唐)に合わせる為の諸制度を整えて行くという大事業の切っ掛けとなったクーデターであった。
その目指す処は“天皇を中心とした中央集権の律令国家”の構築であり、土地の領有に焦点を絞れば“公地公民”をベースとした“班田収授の法”に代表される大改革であった。
日本書紀に時の第36代孝徳天皇(即位645年退位654年)が645年の乙巳(いっし)の変の翌年、646年の正月に“改新の詔”を発して、戸籍・計帳・を整え、班田収授法に基づく土地管理、人民管理、税管理を行う事を含めた“大化の改新”を宣言した事が記されている。
唐に倣った“律令国家体制”を日本でも構築して行く事を宣言したものであり、その骨子は“全ての土地と人民は公、即ち天皇に帰属する”とする事であった。
詔の第一条には“従前の天皇の全国の屯倉(みやけ=直轄地)や民、そして臣・連・村主等が所有していた田荘や部曲(かきべ)も廃止する“と明記してある。
屯倉(みやけ)は王室の私的財産であり、日本全国、並びに海外にも存在していた。大化の改新前に存在した“屯倉制度”とは天皇家が土地支配、地域民衆を直接支配する事である。後述するが当時の臣・連、職に就いていた豪族達も同様の私有地(田荘)、私有民(部曲=かきべ)を持っていた。
古事記・日本書紀・風土記に“屯倉の一覧”が記載されている。第11代垂仁天皇(即位紀元前29年退位70年)から第33代推古天皇(即位592年退位628年)迄の屯倉の名やその所在地域も記録に残っている。
又、第14代仲哀天皇、第21代雄略天皇、第27代欽明天皇等の記録には保有していた百済や新羅そして任那などの屯倉についても記載されている。こうした事から大化の改新以前には天皇家は大規模な土地を領有していた事が分る。
こうした状況を第三章2項―②で記した中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我入鹿を誅して“乙巳の変=645年”を起こし“大化の改新”で古代日本の土地並びに人民の私有制度を廃止して土地・人民を全て公(=天皇・国)のものとする制度に変えるという大改革に挑んだのである。
6-④:大化の改新の詔
第36代孝徳天皇(即位645年退位654年)は“改新の詔”を発した。唐に倣った“天皇を中心とする律令国家”への大改革の中心政策が“公地公民制”であり、王家、豪族たちの私有地、私有民を廃し、全国的な戸籍を整え、民に“口分田”と称する“班田”を与えるという考えが“詔”の骨子である。
租・庸・調の税制に基づいて、与えた口分田からは“祖=穀物”を確実に徴収するという仕組みで“班田収授法”と呼ばれた。日本の律令制の根幹を成す制度である。しかし“改新の詔”が出た直後にこの制度が施行される程、当時の日本の政治体制は整っていなかったのである。
6-⑤:班田収授法は何時実施されたか
大化の改新の理想を掲げ、公地公民を大原則とした班田収授法の詔は646年に発せられたが、実際に施行されたのは早くても孝徳天皇の詔から40年以上経った時だと考えられる。
大前提としての全国的な戸籍の整理から始めなければならなかった事も時間が掛かった理由の一つであった。
初めての全国的な戸籍(庚午年籍)が漸く整ったのは670年である。従って班田収受法の実施は“飛鳥浄御原令”が頒布された689年頃が史実から推定される最も早い時期だと考えられている。“改新の詔”からは実に43年後だった。
689年4月に天武天皇の皇太子だった草壁皇子が急逝し、急遽、天武天皇の皇后が第41代持統天皇(即位690年退位697年)に即位した時期である。
6-⑥:班田収受法の原則と中身
班田収受法の詳細に関する記録が残るのは“養老律令”である。養老律令は718年に藤原不比等によって編纂が完了されたとされる。当時の政治状況は720年に藤原不比等が没し、737年には藤原四家を継いだ全員が天然痘で没するという極めて不安定な時期であった。
政治的に不安定な時期であった為、養老律令は718年に完成してから約40年後の757年に施行された。聖武天皇から引き継いだ娘の第47代孝謙天皇(即位749年譲位758年)の時代であり、光明皇太后の甥の藤原仲麻呂が紫微内相として政治を専横していた時代である。
養老律令“第四篇・田令“に口分田(農民各個人に終身貸与された耕地)に関する規定が書かれている。
①:戸籍に基づいて6年に1回、6歳以上の男子に2段(24アール=2400平方メートル約727坪)が支給された。女性はその3分の2・・等
②:その収穫から祖(穀物)の徴税が行われた
③:口分田・・良民男子2段(727坪)、良民女子・・1段120分(男子の3分の2)等
位田 ・・正1位80町(792千平米=24万坪)従五位8町(79千平米=2万坪)等
職田 ・・太政大臣40町(396千平米=⒓万坪)太宰少弐(4町=1.2万坪)等
④:死亡者の田は国に収公される
6-⑦:日本的修正が加えられた律令制であり、班田収授法にも日本的配慮が加えられた。
唐の律令制を模した“大化の改新”による律令制の導入ではあったが、大化の改新以前に豪族達が持っていた特権をある程度認める“日本的修正”を加えた“日本的律令制”であった。今から1300年以上も前から“八百万の神”を信仰する“極力全てを飲み込む”という“日本人の特異性”は“大化の改新”という大きな“革新作業”にも色濃く残されていた事が分る。
その典型的な例が“蔭位(おんい)の制”である。この制度は従前に高位者の父祖を持った子孫には父祖の位階に応じて一定以上の位階を与えるという制度であった。自分自身の功績に拠って位を上げ官職を得る“官位相当の制”もあったが、異民族の征服に拠って一夜にして全てが変わる改革と違って、日本的伝統を飽くまでも考慮した“大化の改新”であった。
唐の“均田制”に倣った“班田収授法”は“大化の改新“の中心的施策であるが、ここでも日本の実態が考慮されていた。
公地公民制を大原則とし、人民に口分田を与えた“班田収授法”ではあったが、この制度でも大化の改新以前に豪族達が持っていた特権をある程度認めるという“日本的修正”が加えられた。又、班田収授法に基づいて土地を人民に分配する手続には“太政官府(班符)”の発給を必要とする等、中央政府の統制が強く働いた制度とした事で“官人”が力を持つ仕組みは既にこの時から存在したのである。
この様に特権を与えられた“貴族”階級と“官人”が律令国家の成立の過程で、次第に高級貴族と中・下級貴族とに分化しながら互いが連携して“日本的律令制”を支えるという官僚制が整えられて行ったのである。
こうした状況は口分田という土地に縛られ,租庸調という税の徴収から逃げ道の無い百姓の中から自分の土地を棄てて逃亡する者、浮浪する者を生み出す。国はこれを取り締まれず、結果として放棄された口分田は荒地(荒廃田)と成って行った。こうした百姓達を特権に守られた荘園領有者が受け入れた。こうして大原則であった公地公民・班田収授法は次第に弛緩して行ったのである。
6-⑧:公地公民制が具体的に崩れて行く第一ステップとしての三世一身法とその限界・・723年
大宝律令の修正法令(格)として養老7年(723年)に発布されたこの法は“養老七年格”とも呼ばれた。三世一身法の中身は灌漑施設(溝や池)を新設して墾田を行った場合は三世(本人・子・孫)迄の所有を許すという法である。しかし既に在った古い溝や池を改修して墾田を行った場合は開墾した本人が一世代限り所有が許されるという法であった。班田収受法が施行されてから35年後である。
この法が発布された時の日本の状況は720年に“日本書紀”が完成し、同年8月には藤原不比等が62歳で没し、藤原氏を四家に分ける策を不比等が講じて子息達に引き継いた時期である。長男の武智麻呂は中納言、次男房前(ふささき)もまだ参議という地位であったから、政治の実権は“長屋王”が右大臣として握っていた。
当時の天皇は後の聖武天皇がまだ14歳と若かった為に繋ぎとして母親の第43代元明天皇から娘の第44代元正天皇(即位715年退位724年)が皇位に就いていた時代である。
三世一身の法の背景は人口増加に伴い食糧不足が生じた事があり、又、辺境国防の為の費用等、財政需要を充足する為であった。史実としても724年には蝦夷の反乱が起き、陸奥の国に“多賀城”を設置している。
当時は律令国家作りの途上であり“公地公民”を原則とする以上、不足していた農地の新規開墾は国家が行うべき大テーマであり、しかも急を要していた。
しかし新地開拓は困難な作業であり、現実的には民間の力を借りなければ進まなかった。そこで民間による農地開墾を奨励する為に特別措置法的に考えられたのが“三世一身法”だったのである。
三世一身の法が発布される前年、722年閏4月25日付けで太政官が奏上して裁可された政策に“良田100万町歩(30億坪)開墾計画”があった。この計画は当時の政治実権を握っていた右大臣・長屋王(生684又は676年没729年)が出したものであるが、当時の日本の農地全体でも100万町歩に達していない状況下での倍増計画であり、こうした史実からは“長屋王”という人物はかなり野心的な政治家であったと推定される。
彼は藤原不比等の没(720年8月)後の724年に第45代聖武天皇(即位724年譲位749年)が即位すると同時に左大臣に登った。
その後、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)との対立が強まり“国家転覆の疑いあり”との密告に拠って729年2月10日に藤原宇合(式家)の軍に拠って邸を取り囲まれ、捕えられ、服毒自殺に追い込まれたのである。(長屋王の変)
こうした史実展開から、この“三世一身の法”は長屋王が自分の権勢を誇示する目的で発布した法だと指摘する学者も多い。事実この法は結局開墾した土地は三代を経た後に国に再び収公されて仕舞う為、新田開発の効果が余り無かったとされる。
6-⑨:墾田永年私財法の施行・・743年
“三世一身法“の施行から20年後に農地の開発が益々迫られる中”墾田永年私財法“が生まれ施行された。743年の事である。645年の“乙巳の変“からほゞ100年という長い月日が流れていた。
天皇家を中心とした中央集権国家の建設を理想とし、目指した100年間であったが、現実の政治の動きは第四章で記述した様に“天皇家との共存体制“という途を選んだ藤原氏が実利を拡大して行く事に繋がる。
律令国家体制のそもそもの大原則の”公地公民制“は理想と現実との狭間で崩れて行った。
墾田永年私財法は”私有地私有民“を認める法であり、この法が施行されると掌を返す様に農地開墾は飛躍的に進む。そして”律令制“の岩盤が崩れ”荘園制“の時代へと堰を切って流れて行くのである。
以上の様に“大化改新”の詔が発せられ、公地公民の大原則は掲げられたのだが、実態は理想とはかけ離れた展開をして行った。その状況を、関連法律の施行時期とその時の権力者と共に時系列で記す。
・689年・・戸籍が整い飛鳥浄御原令の下で班田収授法が施行される・・持統天皇の称制時期に当たる(持統天皇は称制時代を終え、690年に天皇に即位した)
・701年・・大宝律令施行・・文武天皇時代。藤原不比等はじめ四人が編纂(飛鳥浄御原令に律を加え整備する)
・723年・・三世一身法施行・・元正天皇時代。右大臣長屋王が人口増、周辺国防費調達目的で施行したが初期の目的を果たせず
・743年・・墾田永年私財法・・聖武天皇時代に勅として出され施行される。藤原四兄弟の死亡(737年)、藤原広嗣の乱(740年)等に困惑し、聖武天皇は都を恭仁京に遷都中という混乱期であった。
この時期、聖武天皇は皇族出身の橘諸兄(たちばなのもろえ)に政治を委ねていた。橘諸兄は従一位・左大臣にまで昇進していた。749年に聖武天皇が娘に譲位し第46代孝謙天皇(即位749年譲位759年)が誕生した。藤原仲麻呂が政治の実権を握り、橘諸兄は756年に辞職する。政治の混乱期に施行された公地公民制を根底から覆す“法“であった。
・757年・・養老律令施行・・756年2月に上記、橘諸兄が辞職し、同5月に聖武天皇が崩御。藤原不比等の娘・光明皇后(聖武天皇の皇后)の甥に当たる藤原仲麻呂が紫微内相として政権を握り専横した時期である。この藤原仲麻呂の時期に“養老律令”が施行される。
田令に口分田の規定がある事は上記したが、“田令第29条”には“私田”に関する記述もある。
“公地公民”を大原則とする“律令国家作り”の法体系としての“養老律令”の中で土地の“私有化“を認めた第29条があったという事は“墾田永年私財法”が743年に施行されて14年が経ち、既に土地の私有化が相当に進んでいた事を物語っている。
6-⑩:墾田永年私財法の中身
743年5月27日付けで第45代聖武天皇(即位724年譲位749年)の勅(天皇の命令)として“墾田永年私財法“が出された。その概要を紹介して置こう。
“之まで墾田の取り扱いは三世一身法に基づき、期限到来の後に収公した。この為農夫は怠け、開墾地は再び荒れた。今後は三世一身に関係なく、全ての場合、永年に亘って私財として良い事とする。但し耕地を開墾して占有しようとする者は先ず国に申請する事。許可を得た3年後にも開墾しない場合は他の者に開墾の許可をしても良い事とする。”
というのが“勅”の内容である。
この法が施行された事によって資本を持つ中央貴族・大寺院が諸国の国司を通じて地方諸国を開墾し“墾田永年私財法”の恩恵に浴するという動きが活発化し、祖・藤原不比等の遺訓を守って勢力を伸ばした藤原氏の後継者達は“天皇家との共存体制”を維持するという遺訓を守りつつ、後に“摂関家”として繁栄を極める“格好の法”としてこの“墾田永年私財法”をフルに活用した。
この法に拠って“大化の改新”で目指した“天皇家を中心とした中央集権の律令国家体制“の構築、並びにその根幹であった“公地公民・班田収授”の制度が実質的に崩壊して行ったのである。
天皇家は“公地公民”の大原則の下で自己の“私有地”を確保する事はあり得なかった。一方で国としての開墾ニーズに基づいて制定された“墾田永年私財法”によって私有地確保が合法となり“新田開発”は一挙に盛り上がったのである。
“墾田永年私財法“で開墾が許可される広さも”身分“に拠って異なっていた。要は”大化の改新“以前から有力者だった者には益々有利となる”法“だったのである。
・親王の一品、並びに一位:500町=496万平米(約150万坪)
・四位:200町=198万平米(約60万坪)
・初位~庶民:10町=9.9万平米(約3万坪)
6-⑪:(参考)墾田永代私財法の禁止(太政官符)をした一時期があったが、道鏡の失脚で再び法は復活した・・765年3月6日
一方的に藤原氏を初めとする有力貴族を利し”私的荘園拡大“の元凶となった”墾田永年私財法“を禁止した時期があった。
荘園開発が過熱し過ぎ、有力貴族・大寺院の私有耕地が拡大する状況を是正する為、第46代女帝の孝謙天皇が重祚(退位した天皇が再び皇位に就く事)して第48代称徳天皇(即位764年退位770年)として即位していた時期にこの女帝に寵愛された“道鏡”が太政大臣禅師に就き、765年3月6日付けで“寺院以外の新しい開墾を禁ずる”という太政官符を発布しブレーキを掛けたのである。
しかし道鏡事件(宇佐八幡の神託・769年)で道鏡が失脚し、称徳天皇も770年に崩御し、第49代光仁天皇(即位770年譲位781年)の時代となった時点でこの太政官符は撤回された。
こうした道鏡の追放、光仁天皇の擁立に貢献したのが藤原百川であった。恵美押勝(藤原仲麻呂)以降、後退していた藤原氏を再び隆盛期へと導く“藤原氏一族”が再び登場したのである。大寺院と共に光仁天皇に圧力を掛ける事によって道鏡の発布した太政官符を撤回し“墾田永年私財法”は772年10月14日に8年ぶりに復活したのである。
6-⑫:不輸・不入権が藤原氏を大いに利した
“墾田永年私財法“が施行された当初から、寺社には租庸調の税を免除される特権(これを不輸祖と言った)が与えられていた。一般の墾田や貴族の私有地にはこの特権は与えられておらず、国司の立ち入りがあり、租税が課されていた。
しかし“墾田永年私財法”が出来て凡そ100年後の9世紀半ばには藤原氏を初めとする有力貴族は各種租税の免除を“不輸の権”として次々と獲得して行く。更に有力者の荘園は役人(検田使、収納使)の立ち入りを拒否する権利(不入権)をも獲得する様になる。
9世紀半ばと言えば藤原氏が徐々に政治権力を拡大し、親政を行おうとする天皇との間に政争を繰り広げた時期であった。この辺の状況についてはもう一度、第四章の3項を参照されたい。
850年には第55代文徳天皇(即位850年858年崩御)下で藤原冬嗣が太政大臣に就き、857年には後に関白となる藤原良房が太政大臣になるなど、藤原氏の“摂関政治時代”の始まりを10年後(866年に藤原良房が清和天皇期に初めての人民摂政となる)に控えた時期であった。
“墾田永年私財法”が施行されて以降、100年の間に藤原氏がこの法の最大の受益者となって覇権を握って行ったのである。
6-⑬:荘園時代の到来と藤原摂関時代
再度許可された“墾田永年私財法“は政治の実権を握った藤原氏を利し、その後の藤原摂関政治時代、イコール、荘園制時代になる原動力となった。
公地公民制は“荘園制”に取って代わられた。天皇を中心とする律令国家体制が公地公民を大原則とする以上、天皇家は“摂関政治”と“荘園制”の下で政治権力並びに経済力の両面で栄華を享受した“藤原摂関家”の風下に甘んじる時代が到来したのである。
その頂点が藤原道長の時代であり、藤原氏は膨大な“摂関家荘園群”を領有した。
6-⑭:院政の開始に拠って天皇家が摂関家から政治権力を奪還し、膨大な“院領荘園群”を集積して行く
天皇家を“摂関家”の風下に立つ状態から脱する政治体制を考えたのが第72代白河天皇(即位1072年譲位1086年)である。上皇と成り、尚も政治の実権を持つ“治天の君”という天皇家内での絶対的権力を握り、政治体制としては“院政”という新しい政治体制に拠って“院領荘園群”を蓄積する途を考え出したのである。
以後、天皇家は藤原摂関家が牛耳っていた政治権力、経済力の両方を奪還する。
既述した様にこうした歴代の“治天の君”が集積して来た“院領荘園群”を一括して管理下に置くという状況になったのが“後鳥羽上皇”である。
鎌倉幕府の成立に拠って地頭職という新たな土地領有権を脅かす存在が現われた。この存在は後鳥羽上皇にとって大きな脅威であり、取り除かねばならない障害であった。
7:承久の乱の勃発
“承久の乱”が承久3年(1221年)5月に勃発する。
後白河法皇を尊敬し、自らも“誇り高き治天の君”を認ずる後鳥羽上皇の考えの根底には“鎌倉幕府・将軍家の家司筆頭に過ぎず、中級公家程度の身分に過ぎない北条氏”が幕府の実権を握り、今回の将軍後継問題で親王将軍を要求したばかりか、御家人の地頭が“院領荘園群”に利権を持ち、影響力を拡大している事態は甚だ不愉快な事であり、同時に危機感を抱いていた。
後鳥羽上皇が諸国の御家人、守護、地頭等に対して発した院宣の趣旨が“北条義時の追討”だったという理由は以上の考えに根差したものである。
7-(1):北条義時追討を明記した院宣の内容・・承久3年(1221年)5月15日付
“右弁官下す。五畿内諸国(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・大宰府)応に早く陸奥守平義時朝臣の身を追討し、院庁に参り裁断を蒙(こうむ)らしむべき諸国荘園守護人地頭等の事・・”という書き出しで始まる。
“承久記”にも同じ趣旨の文面が記載されており、後鳥羽上皇が院宣に記した狙いは“北条義時の追討”だとしている。更に
“偏ニ言詞ヲ教命ニ仮リ恣ニ裁断ヲ都鄙ニ致ス”と書く事に拠って北条義時が欲しいままに裁断を下し、幕府の政治を専横しており、それを正す、という趣旨を院宣の中味としている。
幕府と御家人との間には“御恩と奉公”という強い絆がベースにある以上、鎌倉幕府の御家人達を京方に味方させる為の院宣の文面としては“鎌倉幕府全体を討伐する”とするよりも、鎌倉幕府を専横する北条義時追討に焦点を絞った文面の方が効果的と判断したのであろう。
7-(2):後鳥羽上皇(京方・官軍)側に付いた人々
① 倒幕計画に参加した“至尊(天皇家・公卿)”勢力
順徳天皇・六条宮・冷泉宮(既述)
院外戚(藤原忠信・信成・親兼・親仲・親忠)
院外戚(藤原忠信・信成・親兼・親仲・親忠)
② 院近臣(公家)
藤原光親・宗光・宗氏・範宗・信能・源有雅
③ 院近臣(武士勢力)
藤原秀康:北面・西面武士として後鳥羽院に仕えた一族。三浦胤義と共に鎌倉側からは京方の中心人物とされた。大将軍として弟の藤原秀純と共に戦い討たれる(後述)
大内惟信:牧氏事件で誅殺された平賀朝雅の流れを汲む平賀源氏。次第に北条氏から遠くなり後鳥羽上皇の近臣となる(既述)
④ 北条氏への怨みから京方勢力へ付いた武将達
三浦胤義:禅暁暗殺の怨み(既述)
糟屋有季:比企能員の娘婿であり、比企氏が滅ぼされた怨み
勝木則宗:梶原景時の家人で主人が討ち取られた怨み
糟屋有季:比企能員の娘婿であり、比企氏が滅ぼされた怨み
勝木則宗:梶原景時の家人で主人が討ち取られた怨み
仁科盛遠:幕府に無断で後鳥羽上皇に西面の武士として仕えた為所領を没収された怨み
7-(3):後鳥羽上皇に批判的で幕府側に付いた“至尊(天皇家・公卿)”勢力の人々
京に居た公家達も一枚岩であった訳では無い。後鳥羽上皇は以下の人達に秘密裏に倒幕運動を進めたのである。
土御門上皇:父後鳥羽上皇の倒幕運動に同意せず、弟の順徳天皇に無理矢理譲位させられた。“承久の乱”の後、処罰の対象と成らなかったが、自ら申し出て土佐に流された。日蓮宗の日蓮は土御門上皇の皇胤(皇子)だとの説がある。
右大臣九条(藤原)道家:摂家将軍として下向した九条頼経の父親である事から警戒された。
西園寺公経:西園寺家の実質的“祖“とされる人物で、源頼朝とも親戚関係に当り、鎌倉幕府とは近い関係にあった。4代将軍九条頼経の下向に中心的役割を果たした人物である。こうした事から後鳥羽上皇に直ちに”幽閉“される。承久の乱の後に幕府に貢献した功績から”太政大臣“に上る。
7-(4):承久の乱・・乱勃発直後(5月14日~5月19日)の切迫した状況
以下に“承久の乱”が勃発した1221年5月14日から19日迄の切迫した状況を時系列に記述する。
① 5月14日:後鳥羽上皇は城南寺(せいなんじ)の“流鏑馬揃え”と称して諸国の武士、諸寺の僧兵、北面・西面の武士、検非違使判官だった三浦胤義等を招集した。京都守護の大江親広(大江広元の子)も止む無く加わったという。合計1700騎程が集まった。
:2年前に大江親広と共に京都守護職に就いた伊賀光孝は後鳥羽上皇の招聘を拒んだ。
:親幕派と見られた大納言・西園寺公経・実氏の父子は後鳥羽上皇側によって弓場殿に幽閉された。
② 5月15日:大内惟信・三浦胤義・佐々木広綱等、京方の有力御家人軍、800騎が伊賀光孝邸を襲撃。伊賀光孝は子の光綱と共に自害する。
:伊賀光孝は北条義時の義理の兄弟であり、討たれる前に後鳥羽上皇等、京方の動静を知らせる急使の飛脚を鎌倉に向けて発していた。(19日に着)
:伊賀光孝が討たれた報を含め西園寺公経が鎌倉幕府に急使の飛脚を出す(この飛脚も19日に鎌倉に着く)
③ 5月16日:後鳥羽上皇の宣旨を携えた使いの押松丸(おしまつまる)が鎌倉に向けて出発する
④ 5月19日:後鳥羽上皇が発した“諸国荘園守護人地頭等”宛ての北条義時追討の院宣は19日には全国に届いたものと考えられる。
:鎌倉に潜伏していた“押松丸(おしまつまる)”が幕府に捕縛される。彼が携えていた書状は幕府の首脳の前で披露された。
:上記、伊賀光孝、西園寺公経からの京方の動静を伝える飛脚も幕府に到着する。又、京方の弟、三浦胤義から京方に加わる様、誘引する手紙を兄・三浦義村が北条義時に伝える。自分は幕府側に忠節を尽くす旨を明らかにする。
:この様にこの日に京方の情報が一挙に伝わった為、鎌倉方は騒然となった。
:朝廷側は三関(伊勢国の鈴鹿関、美濃国の不破関、越前国の愛発関)に固関使(こげんし=律令時代からの非常事態に際して関所を封鎖して通行を禁じる役目を負う。非常事態とは天皇・上皇・皇后の崩御、天皇の譲位、謀反・政変を指した)を派遣した。
7-(5):京方の情報が集まった5月19日の鎌倉幕府側の素早い対応について
“吾妻鏡”には鎌倉幕府の5月19日の“長い一日”の様子が記述されている。概要は下記である。
7-(5)-①:政子が“京に攻め上る(上洛)”事を決断
北条義時、北条時房、北条泰時、大江広元、足利義氏、三浦義村、安達景盛等、幕閣が協議、内容は後鳥羽上皇軍に対して“守る”のか“攻める”のかを決める事であった。
“迎撃(守り)”を主張したのは宿老達である。箱根の足柄で迎撃する作戦を主張した。
“攻め”を主張したのが大江広元並びに三善康信であった。二人共、京での駐留経験があり、京の状況を知る人達だった。彼らの主張は鎌倉で迎撃(守る)した場合には幕府側の御家人達を纏める事に難しさがあり、逆に軍勢を一刻も早く京に向けて進撃させる事こそが肝要だと主張した。
北条義時は軍議で二分した両案を”政子“に提示した。政子が最終的に”京に攻め登る案“を決定したのである。
7-(5)-②:動揺する御家人達を一挙に結束させた政子の名演説
鎌倉に参集した御家人達へ政子が与えた“最期の詞(ことば)”は後鳥羽上皇が挙兵したとの報に動揺する御家人達を鎮め、御家人達が京方と戦う意志統一がなされたという面で非常に効果があったとされる。
“吾妻鏡”では御家人の前に進み出た政子の傍らで安達景盛が政子の“最期の詞(ことば)”を代読したと記している。“承久記”では政子が館の庭先にまで溢れんばかりの動揺する御家人達を前に、涙ながらの演説を行ったとしている。
吾妻鏡に書かれた承久3年5月19日条の政子の声明文は下記の通りである。
“皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍(頼朝)朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ、俸禄と言ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ浅からんや。而に今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康、胤義等を討取り三代将軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし”
政子の声明文の要旨は下記である。
ア:関東の草創を成した源頼朝の功績を讃え、御家人達に源家三代の将軍の恩顧は山よりも高く海よりも深い、今こそ結束して“鎌倉幕府”を討とうとする京方に向かうべしと訴えた。
イ:後鳥羽上皇の綸旨を“非義”と決め付けている。“治天の君“たる後鳥羽上皇は“正しい政治の支配者”でなくてはならない。しかし政子は北条義時追討の院宣を“鎌倉幕府”を討とうとする意味に読み替えた上で“後鳥羽上皇の院宣の内容は讒言に基づいた理不尽なもので道理に反する”と決め付けた。
ウ:最後に“それでも後鳥羽上皇側に付くと欲する者は留め立てしないからこの場で申し出でよ”と伝えている。
摂家将軍として迎えた九条(藤原)頼経はまだ3歳の幼児であり、政子が後見役、並びに鎌倉殿代行も担っていた。
執権で弟の北条義時とは協力体制を組む形で幕政の実権を握っていた。政子は尼将軍と言われ、幕府で実質的に最高権力者の立場であったのである。
源頼朝の後家という立場も相俟って、源頼朝を崇拝する御家人達に対する政子の“最期の詞”の声明文は説得力絶大だったのである。
7-(5)-③:政子の攻撃指令を受けて北条義時が遠江以東14カ国に命令を下す
“京都ヨリ坂東ヲ襲フベキノ由、ソノ聞ヘアルノ間、相模守(北条時房)、武蔵守(北条泰時)御勢ヲ相具シテ打チ立ツトコロナリ、式部丞(北条朝時)ヲ以ツテ北国ニ差シ向フ、コノ趣早ク一家ノ人々ニ相触レテ、向フベキモノナリ・・“
幕府軍の陣立てを伝え、御家人達には遅れる事無く参陣する様、命じた内容である。
以上が一挙に騒然となった5月19日の様子でああった。
政子は“京に攻め上る”という指示を与え、又、動揺する御家人達に対しては、後鳥羽上皇が“北条義時を追討すべし”とした院宣の言葉を巧みに“鎌倉幕府全体の追討”という表現にすり替え、上述した“最期の詞”に拠って御家人達の団結を呼びかけ、見事に幕府軍としての総意を纏め上げた。
これ等は政子の政治家としての優れた能力を証明するものとして後世高く評価される史実である。
以上の様な経過で鎌倉方の方針は決まったが、後鳥羽上皇軍と戦う事は“賊軍”として戦う事と成り、御家人達は逡巡し、異論も根強い中で、政子の説得が奏功して“上洛”の動きとなった。
そして幕府側の承久の乱における勝因は“異論”に再び火が付く事を警戒して北条義時が素早く行動に移り、軍勢を動かした点にある。
7-(6):一挙に19万人に膨れ上がった幕府軍
7-(6)-①:承久3年(1221年)5月22日、先ず、北条泰時が僅か18騎で出撃する
政子の声明文から僅か1日半後の5月22日の早暁、小雨の降る中を北条義時の長男、北条泰時が僅か18騎を率いて先発した。義時の子息の北条有時、実泰、そして北条泰時の子息の北条時氏も従った。
7-(6)-②:次々と主力武将が続き、5月25日迄に幕府軍の勢力は19万騎までに膨れ上がった・・吾妻鏡
幕府軍の主力部隊を構成した武将を下記に列挙する。その構成は(ア)源平の内乱を経験し、勝ち抜いた幕府の宿老達と(イ)源平内乱以降に活躍した武将達、とに大別される。
(ア)宿老グループ:吾妻鏡の記事には“然ルベキ東士ニヲイテハコトゴトク以テ上洛“とある様に錚々たる武将の名が連なっている。
・北条時房・・義時の弟で後に泰時の要請で初代連署に就く
・三浦義村・・北条氏と肩を並べる有力御家人。弟の胤義からは京方に味方する様、誘いがあったが拒否。義村は幕府軍の主力として出陣する
・足利義氏・・足利家第3代当主。足利尊氏の祖である。庶長子の長氏を吉良荘(愛知県西尾市)に住まわせた事から分家“吉良氏”が誕生する。この末裔が忠臣蔵で有名となった吉良上野介で480年後に赤穂浪士に討たれる人物である
・武田信光・・甲斐武田氏第5代当主・・武田信玄は300年後の1521年に生まれる第19代当主である
・小笠原長清・・弓馬術礼法の小笠原流の祖となった人物である
・結城朝光・・梶原景時から讒言をされ“梶原景時の変“の原因となった人物である。(既述)後に幕府の評定衆の一人となる。
(イ)源平の内乱以降に活躍する中堅・若手グループ
・北条泰時(生1183年没1242年)・・北条義時の長男だが母は側室の阿波局。当時38歳。幕府軍の総大将として東海道から上洛。初代六波羅探題北方と成る
・北条朝時(生1193年没1245年)・・義時の次男だが母は正室の姫の舞。承久の乱の時は28歳。北陸道の大将軍として活躍。祖父北条時政邸を継承した為、名越流と称される。嫡男光時はじめ後継者は宮騒動・二月騒動で常に得宗家に反抗的立場をとる事になる。
尚、三道地域に分けて配置された19万の軍勢の大将軍と三道夫々の軍勢の規模が吾妻鏡に下記の様に書かれている。
・東海道:軍勢10万騎・北条時房、泰時、時氏、足利義氏、三浦義村、千葉胤綱
・東山道:軍勢5万騎・武田信光、小笠原長清、結城朝光、小山朝光
・北陸道:軍勢4万騎・北条朝時、結城朝広、佐々木信実
7-(6)-③:京方の勢力
一方後鳥羽上皇方の戦力は幕府勢力の十分の一の1万9千騎だったと“承久記”に書かれている。主たる大将軍と三道夫々の軍勢は下記である。
・東海道:軍勢7千騎・藤原秀康、三浦胤義、大内惟忠、藤原秀澄、佐々木広綱他
・東山道:軍勢5千騎・大内惟信、蜂屋入道、足利忠広、高桑次郎他
・北陸道:軍勢7千騎・藤原清定、大江能範、仁科盛遠
東海道に配置された大将軍は能登・河内・山城・安房・下総・上野などの国守であった。その他検非違使、衛門府など西面・北面系の武官職による主力が東海道の軍勢として配置されていた。
東山道、北陸道の軍勢には大江惟信、大江能範などの有名な武将も名を連ねているが主として美濃地域、尾張、越中、越前出身の在地武士で構成され、その数、質から言って後鳥羽上皇の挙兵の決断が拙速に過ぎた感が否めないとされる。要は“烏合の衆”的戦力であった。
7-(6)-④:後鳥羽上皇側に付くか、鎌倉幕府側に付くかを分けた双方の“御恩”に対する中味の違い
後鳥羽上皇側も参陣を説得する言葉として“朝恩”を用い“恩賞は望みのままにとらす“と武士達に発した。しかしその中味は基本的には“官職授与”で報いる事を意味した。
この言葉を武士達は鎌倉幕府側が御家人との間で保証している“本領安堵・所領保全”と比較して判断した。結果は後鳥羽上皇の意味する“御恩”には魅力が無いと判断した。その結果が京方と幕府方との武力の大きな差となったのである。
後鳥羽上皇はその院宣で“義時追討”を主目的としたが、御家人・武家達はそれは“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)“側の方便だと受け取った。至尊側の本音は源頼朝によって後白河法皇が36年前の1185年11月の“文治の勅許“で強引に武家政権に簒奪された“守護地頭設置権”を取り上げる為の戦争だという事を見破っていたのである。
御家人(地頭職)の圧倒的多数が鎌倉殿に拠って付与される”本領安堵の御恩“の方が後鳥羽上皇の“官職授与という形での恩”よりも遥かに経済的に安定的していると判断し、選択したという事である。
7―(7):“承久の乱”の終結・・1221年5月22日以降、承久の乱が終結する6月14日迄の戦況
5月22日・・“京攻め”が政子の決断で決り、北条泰時が18騎で京に向けて先発する。
5月25日・・幕府軍の東海道軍勢(泰時・時房)、東山道軍勢(武田信光・小笠原長清)、北陸道軍勢(北条朝時・結城朝広)が大挙して京に向って進軍を開始する
5月30日・・幕府軍の北陸道軍勢が越後国府に到着する。地元の武士を糾合し、京へ向う。
6月1日・・捕えられた京方の“押松丸”が幕府側の意図で放され、京に戻る。鎌倉側の固い結束の状況を京方の軍勢に伝える
6月2日・・鎌倉幕府側の軍勢状況に驚き、漸く後鳥羽上皇軍の北陸道軍勢7千騎が主戦場の越中加賀の堺の砺波山の黒坂・志保を目指して出発する
6月3日・・京方軍勢は大内惟信を筆頭に在京御家人、美濃・尾張の御家人、並びに西国の御家人を大井戸渡し(可児市)・鵜沼渡し(各務原市)、洲俣(大垣市)の最重要拠点に着陣させ、幕府軍迎撃体制を整える。
6月5日:幕府軍が尾張一宮に到着。両軍の合戦が夜から鵜沼の北方、木曽川“大井戸渡し“で始まる。
幕府軍の東山道軍勢5万余騎(武田信光・小笠原長清・結城朝光)という圧倒的勢力を目の前にして迎撃の為に配置についていた後鳥羽上皇軍勢の大内惟信以下は敗走する。西方の魔免戸(各務原市)を守備していた藤原秀康・三浦胤義・佐々木広綱の軍勢も守備地を放棄して西へと退却する。
6月6日:幕府軍の主力部隊・東海道軍勢(北条泰時・北条時房・北条時氏・足利義氏・三浦義村)10万余騎が木曽川を渡り後鳥羽上皇軍の墨俣陣地(藤原秀澄・三浦胤義・山田重忠)を襲うが、藤原秀澄と三浦胤義は宇治・瀬田で京防御の為、既に退却した後であった。京方は山田重忠のみが僅か300騎で杭瀬川で奮戦するが大敗する。
6月7日:幕府軍の東海道と東山道両軍勢が合流(15万余騎に膨れる)し、野上(関ヶ原町)と垂井(不破郡垂井町)に布陣する。京都進攻作戦を決定する。
6月8日:摩免戸から敗走した後鳥羽上皇軍の藤原秀康等が幕府軍の圧倒的優勢を京に戻って報告。“諸人顔色ヲ変ズ、オヨソ御所中騒動ス”との記録が吾妻鏡の承久3年(1221年)6月8日条に残っている。自軍の劣勢の報に接した後鳥羽上皇はじめ公卿達が驚き、大混乱に陥った様子を記述したものである。
:官軍の士気を鼓舞する策として坊門忠信・土御門定通等、院近臣や公卿侍臣を宇治・勢多方面に特派する。
:三院(後鳥羽・土御門・順徳上皇)が比叡山に避難する。鎌倉幕府第4代将軍候補として下向を要請され、後鳥羽上皇が拒絶した六条・冷泉二人の親王は騎馬で叡山に避難した。
:仲恭天皇(2歳7カ月)も叡山に遷幸した。天皇と三院達は西坂本の修学院に近い“梶井”を仮の御所とした。
6月9日:後鳥羽上皇側が叡山・山門側に助太刀を要請したが拒否される。吾妻鏡の記事では叡山側の拒否の理由は“宗徒ノ微力ヲ以テ東士ノ強威ヲ防ギガタシ”と記している。“東国(鎌倉幕府)軍の勢いを微力な比叡山の僧兵では防御出来ない“として助太刀を拒否したのである。
6月10日:助太刀を拒否され、仲恭天皇・三上皇は京に還御、高陽院に戻る。
6月12日:劣勢に焦る後鳥羽上皇軍は決戦の為の軍勢を藤原秀澄の作戦で分散配置する。新規の兵力の調達も出来ず兵力は量の問題もさる事ながら質の問題があったとされる。統率力も明瞭性を欠いていた。
:軍事のプロばかりの幕府軍に対して、京方にも軍事のプロはいたが軍勢としての統制力からすると急拵えの軍であった。
:更に戦闘に参加した武士の気概にも大きな差があったとされる。東国武士達は敗北した場合には全て失い、負けられない戦いであった。一方の京方は上皇の院宣という伝統に培われた王威がある事、並びに緒戦で京都守護職の伊賀光季の討伐に成功していた事等、兵士達には過信があり、終始、油断とスキの多い軍勢だったとされる。
6月13日:幕府軍は近江の野路(草津市)に集結する。そして
・北条泰時軍・・宇治方面から京都へ進軍
・北条時房軍・・勢多方面から京都へ進軍
・北条泰時軍・・宇治方面から京都へ進軍
・北条時房軍・・勢多方面から京都へ進軍
:後鳥羽上皇軍は残った全勢力を宇治・瀬田に布陣。宇治川で幕府軍を
防ぐ事を決めた。
防ぐ事を決めた。
6月14日:宇治川の合戦で激しく防戦する後鳥羽上皇軍は橋を落とす戦術に出た。天候も悪く雷鳴が轟く早朝から幕府軍は水嵩の増す宇治川に馬を進め、強行突破作戦を行う。濁流に呑まれて多大な犠牲者が出たとされる。中でも北条泰時の長男・時氏と共に川を渡り官軍を破った幕府軍の渡河作戦を成功させ、大功労者となった佐々木信綱の活躍が特筆されている。
:宇治川攻防戦で幕府軍の勝利が決まり、幕府軍は一挙に京に雪崩れ込み、承久の乱は1カ月で終結した。
8:君子豹変し“乱は配下の武士達のやった事だ”と“シラ”を切った後鳥羽上皇・・1221年6月15日
8-(1):京方(後鳥羽上皇軍)の敗走と京の惨状
敗北が決定的と成り、京方の軍勢は敗走、幕府軍が追撃して各所に火を放ち略奪が横行したと記録にある。“承久記”では京の惨状について下記の様に記している。
“天地開闢(かいびゃく)より、王城洛中のかかる事いかでかあらじ、かの保元の昔、又、平家の都落ちしもこれ程にはなかりけり”
京の惨状は保元の乱(1156年)や平家の都落ち(1183年)の際に京が焼き払われた時の惨状よりも酷い、と記している。
8-(2):敗戦の報に急遽、吾が身の保身に走った後鳥羽上皇
吾妻鏡には1121年6月15日の早暁、敗軍の将となった藤原秀康・三浦胤義らが四辻殿の後鳥羽上皇を訪れ、官軍敗北を奏聞したとある。承久記には6月14日の夜半に高陽院を山田重忠・三浦胤義らが訪れたとある、等、双方の記述に違いがあるが、敗北の報を受けた後鳥羽上皇は直ちに幕府に対して自らの保身に走った動きをした。
“男共御所ニ籠ラバ、鎌倉ノ武者共打囲ミ、我ヲ攻メン事ノ口惜ケレバ、只今ハトクトク何クヘモ引退ケ”
要するに敗戦の報告等の為に京方の武将達が御所の周囲に集まっていると幕府側から私(後鳥羽上皇)が攻撃される事になり、口惜しい事だ。一刻も早くこの場から立ち去る様にと御所の門を閉ざしてしまったのである。
更に後鳥羽上皇は6月15日午前8時に勅使・小槻国宗を遣わして下記院宣を幕府軍に伝えている。
“今度ノ合戦ハ叡慮ニ起ラズ、謀臣等ガ申シ行フトコロナリ”
“今度の戦は私(後鳥羽上皇)の考えからでは無く、臣下が勝手に謀って起こしたのだ”と、全責任を臣下の武将達に擦り付ける院宣を幕府に送ったのである。
藤原秀康・三浦胤義・山田重忠ら、上皇側に付いた諸将は後鳥羽上皇を守って最後の戦いを覚悟していただけに後鳥羽上皇の豹変ぶりに驚愕した。その無念の様子も“承久記”に書かれている。
8-(3):敗軍の将達の最期
1121年6月15日の巳の刻(午前10時頃)に北条泰時・北条時房が京の六波羅に到着した。幕府軍の官軍掃討戦は厳しく、吾妻鏡の記事には西面の武士、北面の武士達も全て亡び、京方の重臣達も捕えられ、天皇家も当時の第85代仲恭天皇で絶えて仕舞うかの様な書き振りである。
“武勇ヲ好ム西面・北面タチマチニ亡ビ、辺功ヲ立ツル近臣・重臣コトゴトク虜ヘラル、悲シムベシ、八十五代ノ澆季(末世)ニ当リテ、皇家絶エント欲ス”
“承久の乱”の敗北が日本の歴史に与えた影響は極めて大きい。天皇家が85代で途絶える事にはならなかったが、以後、武家が政治権力の主役に踊り出る決定的な戦いであった。
100年後の1333年から1336年の3年間という短い期間であったが、後醍醐天皇に拠る“建武の中興”によって天皇家が再度、政治権力を奪還する時期が訪れる。
しかし、歴史の大勢は至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力は以後、明治維新迄の650年の永きに亘って至強(将軍・幕府・武家層)勢力に政治、経済両面での主導権を渡す事になる。
その分岐点となった日本史上特筆すべき戦いが“承久の乱”だったのである。
官軍の敗北と後鳥羽上皇の“態度豹変”で京方に付いた武将達の最期は惨めなものであった。以下に京方で戦った主な人物の最期の様子を記述する。
8-(3)-①:藤原秀康・・生年不詳・没1221年10月30日
北面、西面の武士として院に仕える畿内近国の武士の一族出身で、河内守、備前守、下野守などの国司を暦任。三浦胤義を京方に引き入れた人物である。承久の乱では美濃・宇治川合戦で弟の藤原秀澄と共に戦い、敗北。後鳥羽上皇の態度豹変で上皇からは乱を起こした“謀臣”と名指しされた上、院宣の中で“逮捕すべし”とされたのである。
逃れて奈良に潜伏していたが1221年10月に河内国で捕えられ、弟の藤原秀澄と共に京で処刑された。
8-(3)-②:三浦胤義・・生年不詳・没1221年6月15日
兄の三浦義村を京方に引き入れる事に失敗し、北条氏に並ぶ幕府の有力御家人であった三浦氏を分断させた人物である。政子の“最期の詞”の大演説(声明文)で藤原秀康と共に“逆臣”と名指しされた。彼も藤原秀康と共に後鳥羽上皇の豹変に拠って“乱を起こした謀臣”と院宣で名指しされ、哀れな最期となった。
後鳥羽院の豹変の言葉に対して三浦胤義は“口惜マシマシケル君ノ御心カナ。カカリケル君ニカタラワレマイラセテ謀反ヲ起シケル胤義コソ哀レナレ”と自嘲気味に語ったとされる。
東寺に立て籠って兄・三浦義村が指揮する幕府軍と戦う羽目になり、敗北。西山木嶋(京都市右京区太秦)で6月15日に自害した。
8-(3)-③:山田重忠・・生年不詳・没1221年6月15日
源頼朝が鎌倉幕府を創設した後、尾張国山田壮(名古屋市北西部、瀬戸市、長久手氏一帯)の地頭に任じられた御家人である。山田重忠は京で後鳥羽上皇に近侍していた事から上皇が倒幕の挙兵をすると一族を率いて京方に参じた。
後鳥羽上皇軍の大将・藤原秀澄が少ない兵力を更に分散して戦うべし、との愚策に異を唱え、鎌倉に攻め入るべきとの積極策を主唱したが聞き入れられなかった。美濃の防衛線が破られ、自軍が敗走する中で300余騎で杭瀬川で多勢の幕府軍を相手に奮戦した事は有名である。
京に退却し、藤原秀康・三浦胤義と共に最後の一戦を交えるべく御所に駆けつけたが、後鳥羽上皇の豹変で“門前払い”を喰った。“大臆病の君に騙(かた)られて、無駄死にするわ”と御所の門を叩いて悲憤したと記録にある。
山田重忠も藤原秀康・三浦胤義等、京方の武士の残党と共に東寺に立て籠り、幕府軍と戦い嵯峨般若寺山(右京区)に落ち延び1221年6月15日に自害した。
9:承久の乱の戦後処理
承久3年(1221年)6月16日北条泰時並びに時房は六波羅に入り、鎌倉に“合戦無為”つまり合戦の状況をありのままに伝える報告書を送っている
この報告書は6月23日に鎌倉の北条義時の許に届き、吾妻鏡にはその時、鎌倉が喜びに沸いたと記述している。
“承久記”には鎌倉から北条義時が指示した処断の内容が書かれている。以下の通りである。
9-(1):処断の内容と日本の歴史に与えた重大な意味、並びにその後の変化について
①:幕府は後鳥羽上皇に代えて同母兄の“守貞親王”を“治天の君”に決める。(後高倉院)。安徳天皇の皇太子という立場で“都落ち”後も平氏一門と行動を共にし、壇ノ浦の戦いで源氏軍に救出された人物である。(5-9項3-2参照)
②:天皇には“守貞親王の三男・茂仁(ゆたひと)親王”を即位させる事(第86代後堀河天皇)を決めた。先帝・第85代仲恭天皇は践祚は済ましていたが、その直後に承久の乱が起きた為、即位式を済ませていなかった。その為“帝王編年記”には“九条廃帝”と記された。
明治3年に同様の境遇にあった他の天皇と共に追諡が行われ歴代天皇の仲間入りをした事は既述の通りである。
幕府主導による①②の処断について“承久記”には下記の様に記している。
“院ニハ持明院ノ宮ヲ定メ申スベシ、御位ニハ同宮ノ三郎宮ヲ即マイラセスベシ・・”
ここで史実として重要な事は、政子・北条義時の寡頭専制体制下にあった幕府が“承久の乱”に勝利し、“治天の君”を決め、更に“天皇の皇位継承”にも大きく関わった事である。そして以後も、干渉を強めて行く端緒となったのである。
更に下記⑦で記すが、京方の膨大な領地を幕府側が獲得する事に拠って“東国の武家政権“に過ぎなかった鎌倉幕府が畿内並びに西日本にも統治範囲を拡大し、ほぼ日本全国を統治する“武家政権”へと大きく脱皮した事である。
土地領有権の観点からは院政下の“院領荘園群”は以後大きく制限される事になり、院政が終息して行く切っ掛けとなった戦いでもあった。具体的には鎌倉時代の地頭職の権限は拡大し、変化を遂げ、室町時代には守護大名が領国の支配権を握ると言う歴史展開になる。まさにこうした変化の“分水嶺”となった“承久の乱”であった。
幕府主導による①②の処断について“承久記”には下記の様に記している。
“院ニハ持明院ノ宮ヲ定メ申スベシ、御位ニハ同宮ノ三郎宮ヲ即マイラセスベシ・・”
ここで史実として重要な事は、政子・北条義時の寡頭専制体制下にあった幕府が“承久の乱”に勝利し、“治天の君”を決め、更に“天皇の皇位継承”にも大きく関わった事である。そして以後も、干渉を強めて行く端緒となったのである。
更に下記⑦で記すが、京方の膨大な領地を幕府側が獲得する事に拠って“東国の武家政権“に過ぎなかった鎌倉幕府が畿内並びに西日本にも統治範囲を拡大し、ほぼ日本全国を統治する“武家政権”へと大きく脱皮した事である。
土地領有権の観点からは院政下の“院領荘園群”は以後大きく制限される事になり、院政が終息して行く切っ掛けとなった戦いでもあった。具体的には鎌倉時代の地頭職の権限は拡大し、変化を遂げ、室町時代には守護大名が領国の支配権を握ると言う歴史展開になる。まさにこうした変化の“分水嶺”となった“承久の乱”であった。
③:後鳥羽院は隠岐へ配流(配流・承久3年1221年7月13日隠岐・到着8月5日1239年2月22日隠岐の行宮で崩御59歳)、順徳院は佐渡へ配流(同7月20日佐渡・到着8月15日1242年9月12日崩御45歳)される。
④:土御門院は父後鳥羽院、弟順徳院と意見を異にし、唯一人倒幕に消極的だった。しかし“承久の乱”の後に自らの意志で土佐へ赴いた。(1121年閏10月10日土佐へ配流)翌1122年幕府の配慮で阿波に移り、1131年10月11日阿波で崩御。37歳であった。
⑤:後鳥羽院の皇子・六条宮雅成親王・同じく冷泉宮頼仁親王(共に拒絶されたが親王将軍の候補であった)の処分は北条泰時に委ねられた。結果的に六条宮は但馬・城崎郡高屋郷(兵庫県豊岡市)に配流され、この地で1255年52歳で没し、冷泉宮は備前国・児島(倉敷市)に配流され、この地で1264年64歳で没した。
⑥:斬首された人々・・“吾妻鏡”には執行日と対象者が記されている。
1121年7月2日:西面武士・・後藤基清・大江能範・佐々木広綱・五条有範
7月5日:一条信能
7月11日:佐々木勢多伽丸(佐々木広綱の息子)
7月12日:前権中納言藤原(葉室)光親
7月14日:前権中納言藤原(葉室)宗行
7月29日:源有雅
10月6日:藤原秀康・秀澄(捕縛後に斬首)
7月11日:佐々木勢多伽丸(佐々木広綱の息子)
7月12日:前権中納言藤原(葉室)光親
7月14日:前権中納言藤原(葉室)宗行
7月29日:源有雅
10月6日:藤原秀康・秀澄(捕縛後に斬首)
一条信能の名は源実朝の鶴岡八幡宮での右大臣拝賀列席者の中に在る。承久の乱以前には幕府と近い関係に在った彼も“合戦張本ノ公卿”と指弾され、他の貴族、公卿と共に斬首刑になるという極めて厳しい処分であった。
源実朝まで三代の鎌倉幕府将軍は朝廷側と幕府との協調路線を保った、つまり至尊(天皇・朝廷・貴族層)と至強(将軍・幕府・武家層)との間の“安全弁“の役割を果たしていたが、実朝の死によって朝幕関係が大きく変化した事を示す処断であった。
⑦:幕府は京方の公卿・武士の所領、3000余カ所を没収し、幕府側の御家人に与えた。この事に拠って執権北条氏と御家人との“御恩と奉公の絆・信頼関係”はより強固になると共に、多くの御家人が西国に移り住む事になった。東国の武家政権に過ぎなかった鎌倉幕府の支配圏は畿内並びに西国にも強く及ぶ様になったのである。
長講堂・八条院を主とする後鳥羽上皇の膨大な院領荘園群は幕府に没収され、守貞親王(後高倉院の称号が贈られる)に与えられた。しかし支配権の実態は幕府が握っていた。
“承久の乱”は京の朝廷と鎌倉幕府という二元政治の状態から”本格的武家政権の時代への移行“の入り口となった日本の歴史上、極めて大きな意味を持った”戦い“であった。
上記①②で記した様に幕府は天皇に即位した事の無い“守貞親王(後高倉院)”に異例の太上天皇の尊号を贈り院政を行わせる。
それは、巡り巡って彼の皇子が第86代後堀河天皇(即位1221年譲位1232年)に即位する事になった為である。
“承久記”では守貞親王(後高倉院)を“持明院ノ宮”と称している。彼が院制を行った御所が“持明院宮”と呼ばれ、後堀河天皇も退位後にここで院政を行い、後に第88代後嵯峨天皇(即位1242年譲位1246年)、第89代後深草天皇(即位1246年1259年譲位)も退位後に院制の御所とした。この皇統を“持明院統”と呼ぶ事になる。
又、第90代亀山天皇(即位1259年譲位1274年)が退位後に“大覚寺”を御所にして院制を行ない第91代後宇多天皇(即位1274年譲位1287年)、第94代後二条天皇(即位1301年崩御1308年)そして第96代後醍醐天皇(即位1318年崩御1339年)へと続く。この皇統は“大覚寺統”と呼ばれた。
後にこの両方の皇統が皇位継承を巡って争う事になる。鎌倉幕府が仲立ちをして両方の皇統から交互に皇位継承を行う事になり、これを“両統迭立“の時代と言う。
両統迭立が鎌倉幕府の公式な方針として表明されるのは大覚寺統の後二条天皇が践祚した1301年で、後宇多上皇として院政を開始した時である。この幕府の方針は鎌倉幕府が滅亡する迄続く。
“承久の乱”の敗北以降、朝廷はこの様に鎌倉幕府に院を含めた皇位継承問題にまで主導権を奪われる事になるのである。
第96代後醍醐天皇(即位1318年崩御1339年)が鎌倉幕府の衰退に乗じて”建武の中興(1333年~1336年)“と呼ばれる”天皇親政“を復活するが、余りにも至尊(天皇家・朝廷・公家)側を優遇した政治に武士層は反発、足利尊氏が離反した事で多くの武士層が尊氏に従うという流れとなった。
尊氏は持明院統から光明天皇(北朝)を擁立し、後醍醐天皇との和解を図り、三種の神器を醍醐天皇から接収し、建武式目を定める等の手続きを経て、1336年11月に“室町幕府”を成立させる。ここに後醍醐天皇の3年間の建武の親政(中興)は崩壊したのである。
以後、後醍醐天皇は吉野に移り南朝を開く事に成る。“光明天皇に渡した神器は贋物(にせもの)であり北朝の皇位は正統でない”とし、以後日本は1392年に室町幕府第3代将軍足利義満によって南北朝が合一される迄の60年近くの間、日本の天皇家が二分された状態の“南北朝時代”を経験する事に成る。
“承久の乱”は以上の様に天皇家が“両統迭立~南北朝時代”という二分される時代を含め、350年に亘る極めて厳しい時代を迎える切っ掛けとなった戦いだったのである。
再び朝廷を重んじ、その権威を回復させる動きをするのは出自(生まれ)が低いハンデイを至尊(天皇家・朝廷・貴族層)の権威を借りる事でカバーした豊臣秀吉の登場迄、待つ事になる。
“承久の乱”は京の朝廷と鎌倉幕府という二元政治の状態から”本格的武家政権の時代への移行“の入り口となった日本の歴史上、極めて大きな意味を持った”戦い“であった。
上記①②で記した様に幕府は天皇に即位した事の無い“守貞親王(後高倉院)”に異例の太上天皇の尊号を贈り院政を行わせる。
それは、巡り巡って彼の皇子が第86代後堀河天皇(即位1221年譲位1232年)に即位する事になった為である。
“承久記”では守貞親王(後高倉院)を“持明院ノ宮”と称している。彼が院制を行った御所が“持明院宮”と呼ばれ、後堀河天皇も退位後にここで院政を行い、後に第88代後嵯峨天皇(即位1242年譲位1246年)、第89代後深草天皇(即位1246年1259年譲位)も退位後に院制の御所とした。この皇統を“持明院統”と呼ぶ事になる。
又、第90代亀山天皇(即位1259年譲位1274年)が退位後に“大覚寺”を御所にして院制を行ない第91代後宇多天皇(即位1274年譲位1287年)、第94代後二条天皇(即位1301年崩御1308年)そして第96代後醍醐天皇(即位1318年崩御1339年)へと続く。この皇統は“大覚寺統”と呼ばれた。
後にこの両方の皇統が皇位継承を巡って争う事になる。鎌倉幕府が仲立ちをして両方の皇統から交互に皇位継承を行う事になり、これを“両統迭立“の時代と言う。
両統迭立が鎌倉幕府の公式な方針として表明されるのは大覚寺統の後二条天皇が践祚した1301年で、後宇多上皇として院政を開始した時である。この幕府の方針は鎌倉幕府が滅亡する迄続く。
“承久の乱”の敗北以降、朝廷はこの様に鎌倉幕府に院を含めた皇位継承問題にまで主導権を奪われる事になるのである。
第96代後醍醐天皇(即位1318年崩御1339年)が鎌倉幕府の衰退に乗じて”建武の中興(1333年~1336年)“と呼ばれる”天皇親政“を復活するが、余りにも至尊(天皇家・朝廷・公家)側を優遇した政治に武士層は反発、足利尊氏が離反した事で多くの武士層が尊氏に従うという流れとなった。
尊氏は持明院統から光明天皇(北朝)を擁立し、後醍醐天皇との和解を図り、三種の神器を醍醐天皇から接収し、建武式目を定める等の手続きを経て、1336年11月に“室町幕府”を成立させる。ここに後醍醐天皇の3年間の建武の親政(中興)は崩壊したのである。
以後、後醍醐天皇は吉野に移り南朝を開く事に成る。“光明天皇に渡した神器は贋物(にせもの)であり北朝の皇位は正統でない”とし、以後日本は1392年に室町幕府第3代将軍足利義満によって南北朝が合一される迄の60年近くの間、日本の天皇家が二分された状態の“南北朝時代”を経験する事に成る。
“承久の乱”は以上の様に天皇家が“両統迭立~南北朝時代”という二分される時代を含め、350年に亘る極めて厳しい時代を迎える切っ掛けとなった戦いだったのである。
再び朝廷を重んじ、その権威を回復させる動きをするのは出自(生まれ)が低いハンデイを至尊(天皇家・朝廷・貴族層)の権威を借りる事でカバーした豊臣秀吉の登場迄、待つ事になる。
⑧:幕府軍の総大将の北条泰時・時房は京の六波羅に留まって朝廷の監視や西国武士の統率を行う。京都守護職に代わって“六波羅探題”が南北に新たに設置され、朝廷の監視に当たる。北条泰時は初代六波羅探題北方となり、北条時房は初代六波羅探題南方となった。上述した皇位継承問題も含めて朝廷に対する鎌倉幕府の管理・統制が以後強化されて行ったのである。
10:後鳥羽上皇の隠岐国への配流について
10-(1):配流直前の行動
承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は1221年7月6日に身柄を“四辻殿”から離宮の“鳥羽殿”に移送された。7月8日には出家をして法名“金剛理(こんごうり)”と成った。又、これに先立ち似せ絵で名高い藤原信実に“御影(宸影)”を描かせている。
形見として母親の七条院殖子に贈ったとされる。この御影は現在、国宝として京都国立博物館に所蔵されている。
後鳥羽上皇がしばしば訪れ、歌合せ、狩猟、蹴鞠を楽しみ、又、刀剣鍛作も行ったとされる“水無瀬離宮”の史跡を2015年8月に訪ねた。JR京都線の島本駅から徒歩で15分程の処に在る。現在は“水無瀬神宮”として残っている。
その本殿に上記“御影”の写しが掲額されているが、既述した後鳥羽上皇御製の刀剣、御置文(おきぶみ)の何れもが国宝であり、管理の問題からであろう、全ては京都国立博物館に所蔵されている為、水無瀬神宮で本物を見る事が出来ない。
10-(2):隠岐の配流先に随行した人々
後鳥羽上皇の隠岐国配流には以下5人の近臣・医師、並びに侍女達が随行した。
①:藤原能茂
京の軍勢の中心となった藤原秀康の弟である。元、北面の武士であったが、出家した為、処罰を免れた。後鳥羽院崩御の後に遺骨の一部を持ち帰り、京都・大原の西林院・法華堂に納めた人物とされる。医師でもあったらしく道元禅師が1253年に死去した際に最期の治療に当たった人物とされる。
②:藤原清房
藤原房前を祖とする藤原北家の流れを汲む正五位下の公家である。蔵人・出羽守を務めた近臣である。彼の次男・藤原重房が丹波国何鹿郡上杉庄(京都府綾部市上杉町周辺)を領する事になり、“上杉重房”を名乗る。
この重房は第5代執権・北条時頼の時代に初めて親王将軍を迎える事になるが(第6代将軍・宗尊親王:将軍職在位1252年~1266年)、その時、親王と共に鎌倉に下った。この上杉重房の子孫が室町時代に関東管領・戦国大名の上杉氏であり、上杉謙信の祖先である。
この重房は第5代執権・北条時頼の時代に初めて親王将軍を迎える事になるが(第6代将軍・宗尊親王:将軍職在位1252年~1266年)、その時、親王と共に鎌倉に下った。この上杉重房の子孫が室町時代に関東管領・戦国大名の上杉氏であり、上杉謙信の祖先である。
③:和気長成
権侍医、施薬院使、等を務めた医師である。
④:伊賀の局(白拍子・亀菊)
既述した様に摂津国長江・倉橋(大阪府豊中市)の荘園を後鳥羽院から与えられた愛妾である。その荘園の地頭を排除する事を交換条件として後鳥羽院と幕府側とが親王将軍降下向問題を交渉した。いわば“承久の乱”勃発の一因となった女性だと言えよう。
⑤:坊門の局
後鳥羽院の外叔父として権力を振るった坊門信清の次女である。信清は既に1216年に他界している。後鳥羽上皇の後宮に入り親王をもうけている。後鳥羽上皇没後には京に戻っている。
10-(3):隠岐に配流された後鳥羽院の生活状況について
“我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け“
この歌は隠岐国に配流された己が身の境涯を超然として受け入れる後鳥羽上皇の悲愴な決意を込めた歌として有名である。
1201年に後鳥羽院は藤原定家以下6人に命じて勅撰和歌集の”新古今和歌集“の撰進を始めたが、院自身も撰者の一人でもあったとされる程、優れた歌人であった事は知られている。
隠岐に配流されていた後鳥羽上皇が19年の在島期間に詠まれた歌を書き写し“遠島百首”として安永元年(1772年)に編集したのが冷泉家中興の祖とされる“冷泉為村(生1712年没1774年62歳法号・澄覚)であった。
和歌の他に後鳥羽上皇が隠岐在島時代に熱を入れたものが“刀剣鍛錬”である。壇ノ浦の戦いで海底に沈んだ宝剣”草薙剣(くさなぎのつるぎ)“は終に回収される事は無かった。伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を“草薙の剣”に代わる”宝剣“として定めたのが後鳥羽上皇であった事は既述の通りである。こうした事も後鳥羽上皇が刀剣に並々ならぬ熱意を抱いた事に影響していると思われる。
現在、京都国立博物館に重要文化財の“菊御作”と称される刀が展示されている。後鳥羽上皇は水瀬離宮に鍛冶場を作って自ら刀を製作したと伝わる。“菊御作“の刀の茎(なかご)の部分に菊紋の銘が打たれている。通常は16枚の花弁であるが“菊御作”の花弁は24葉で非常に珍しい事で有名である。
後鳥羽上皇が刀剣製作の折に“菊紋”を入れたとの記録が残っており、これ等は“御所焼・菊御作”と呼ばれるが、天皇家の”菊紋“は後鳥羽上皇が刀剣製作の折に入れた”刃紋“から始まったとされる。
隠岐在島中に後鳥羽上皇は“隠岐国御番鍛冶”と呼ばれる6名の鍛冶師を召し出し、刀剣製作を熱心に行ったと伝えられる。
11:私の隠岐訪問記・・2014年9月10日~13日
史跡巡りの友人と共に隠岐国の史跡を訪れたのは2014年9月10日から13日までの4日間であった。
先ず、新幹線で岡山駅で下車、そこから特急“八雲(やくも)”で米子駅迄行き、そこから境港駅迄はローカル電車に乗継いだ。そこから七類港まで10分程なので、タクシーを利用した。七類港からは隠岐の西郷港までを僅か1時間で結ぶ“ジェット船”を利用した。幸いに天気も良く、海も、島々の景観も美しく非常に快適な旅であった。
隠岐島は島前(どうぜん)と島後(どうご)から成っている。今日でも韓国との間での領土問題が絶えない竹島は島後の西北にあるロウソク島から西方158キロの距離に位置する。ジェット船は島後の西郷港に着いた。島後には隠岐空港もあるので、飛行機も利用出来る訳である。
スケジュールの都合で我々の隠岐島の史跡訪問は“島後”地域から始めた。レンタカーを西郷港で借り、後醍醐天皇の行宮とされる国分寺の見学、隠岐島の一宮水若酢神社等を巡って再び西郷港に戻り、レンタカーを返して西郷港からフエリーで島前の菱浦港に渡って旅程二日目(9月11日)迄が終った。
第三日目(9月12日)も朝に菱浦港でレンタカーを借りる事から始まった。
後鳥羽上皇の配流を中心とした史跡巡りは“島前”の中島の海土(あま)町にある後鳥羽院資料館・行在所跡・御火葬塚・村上家資料館などの訪問が主たるものであった。
先ず、海士町の後鳥羽院資料館を訪ねた。“承久の乱”に敗れた後鳥羽上皇は承久3年(1221年)8月5日に隠岐国の“島前”中島南方の崎で上陸し、三保神社で宿泊し、陸路を北上して源福寺に到着し、ここを行在所にしたと“海士町史”に書かれている。
それから延応元年(1239年)2月22日に59歳で崩御する迄の実に19年間を失意の中にこの地で過ごした事になる。
資料館には、後鳥羽院が崩御する13日前の暦仁2年(1239年)2月9日付の“御手印御置文”(国宝の写しで正文は水瀬神宮に保管されている)と称される後鳥羽院自らが押した両手の朱の手印が付された遺言状が展示されている。又、後鳥羽院が自身で製作する程にまで熱心だったとされる数点の刀剣も展示されていた。
資料館の女性スタッフがそれらの展示物を前に丁寧に後鳥羽院の隠岐・在島の様子を説明して呉れた。訪問し甲斐のあった後鳥羽院資料館であった。
後鳥羽上皇の行在所跡、そしてすぐ側には後鳥羽院が崩御後に火葬された火葬塚がある。これらの史跡は明治維新の廃仏毀釈で焼失した“源福寺”があった場所である。
更に海士町指定文化財・村上家資料館も訪ねた。ここは配流された後鳥羽上皇の世話をしたという由緒ある有力在地豪族の家であり、明治政府からは後鳥羽院の火葬所の“守部”に任じられた。
後鳥羽上皇が“承久の乱”を起こした事に対して、“愚管抄・神皇正統記・六代勝事記”の何れもが後鳥羽上皇の政策が“武力的過ぎた”為だとの批判が多い。その背景には源平の内乱期に“三種の神器”を欠いたまま、天皇践祚・即位式が行われた天皇であった為、そのコンプレックスを生涯持ち続けた事があった事は既述した。
こうした背景を持つ後鳥羽上皇(天皇)は殊更に“覇道(武力や策略で国を治める事)的”な“治天の君”と成り、打倒“鎌倉幕府”に熱意を燃やす事に繋がった。そして終に決起し、大敗という展開となったのである。
こうした史実が背景にあるだけに、訪れた史跡からは後鳥羽上皇の19年間に亘る無念の想いが我々に逐一伝わって来る様であった。
御在所跡・火葬塚の史跡から島を南に走ると後鳥羽上皇が京を発ってから20余日を掛けて隠岐に到着し、最初に上陸した場所“三穂神社”がある。この史跡もレンタカーがあれば簡単に行ける。
承久の乱から100余年後、鎌倉時代末期に第96代後醍醐天皇も隠岐国に配流された。後醍醐天皇の配流後の行在所については9月11日に訪ねた島後の隠岐国分寺にあったという説もあり、又、島前の西島(西島別府)の黒木御所跡だとする説もある。今日でも2ケ所が史跡として残されている。
1934年に当時の文部省は隠岐の国分寺を後醍醐天皇の行在所として国の史跡に指定した。私達は島前の“黒木御所の史跡”と“黒木御所碧風館”も訪ねたが、説明に当たったスタッフが隠岐に伝承されて来た話と史実を挙げて“黒木御所こそが真の行在所だと信じている”と熱心に解説して呉れたが、彼の説には非常に説得力があった。
後の項で記述するが後醍醐天皇の配流に関する史跡も併せて、隠岐島には史跡が数多く点在しており、史跡巡りには是非レンタカーの利用をお勧めする。史跡巡りの他にも菱浦港、明屋海岸、金光寺山等、離島ならではの美しい展望スポットも多く、海鮮料理の美味は言うまでも無い。
隠岐は歴史に余り興味のない人々にも充分楽しめるお勧めの観光スポットである。
12:鎌倉幕府の支配体制を全国に拡大し、執権体制を盤石にし、確立した政子・北条義がこの世を去る
12-(1):“承久の乱”で後鳥羽上皇軍に勝利した事で第2代執権・北条義時は鎌倉幕府の最高権力者としての地位を確定する
鎌倉幕府は第3代将軍・源実朝が暗殺された後に第4代摂家将軍として2歳の三寅(後の九条頼経)を迎えていた。(1219年7月)
鎌倉幕府は“承久の乱“の勝利で京方の貴族、武士達の所領、3,000ケ所を没収し、幕府の御家人達に恩賞として与え、地頭に任じ、東国の武家政権から全国政権に統治範囲を拡大した。執権職としての権限、地位を飛躍的に拡大し、確立した“北条義時”と尼将軍並びに鎌倉殿代行として“三寅”を後見する“政子“の二人に拠る寡頭政治体制は盤石なものに強化されていた。
この体制は北条義時が1224年に、そして政子が1225年に死去する迄、続いた事が“吾妻鏡”に明記されている。
組織の上でも京都守護職に代えて京の北と南に六波羅探題を置き、京の警備、並びに朝廷の監視を行わせた事は“承久の乱”後に至強(幕府・執権・尼将軍)勢力が至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力を完全に凌駕した事を示すものであった。
“承久の乱”の勝利こそが“武家層”の時代を確立したと言える日本の歴史上の大転換をもたらした“大事件”だったのである。
この戦いで勝利をもたらした最大の功労者は“政子(生1157年没1225年)であろう。政子の存在が鎌倉幕府を守ったと言える。
源家将軍の継承に拘らず、将軍職には権威だけが必要と割り切って”摂家将軍“を冠として頂く事を決めた”政子“の政治感覚は並外れたものがあったと言える。
政子の弟の北条義時との協力体制がベースにあった事が政子の政治決断に大きな影響を与えた事は明らかである。
執権体制という鎌倉幕府独自の政治体制下で北条義時が安定した政治運営を行っていた事が政子に“将軍職は冠・権威”、“執権職は政治の実権を握る”という体制が鎌倉幕府を安定して運営するベストの形だという事を確信させたのだと言えよう。
こうして鎌倉幕府は北条得宗家が執権職として政治の実権を握り、将軍職を“権威”として頂くという形を基本形として以後引き継がれて行く。
こうした鎌倉幕府の基礎を築き上げた政子と北条義時の二人が相次いでこの世を去る事になる。
12-(2):北条義時(得宗:生1163年没1224年在職1205年~1224年)と政子(生1157年没1225年)の死
鎌倉幕府を守り、支え、“承久の乱”の勝利で統治圏を日本全国へと拡大した二人の巨星が相次いでこの世を去る。“承久の乱“の後、僅か3年後の1224年6月13日に北条義時が61歳で急死する。偉大な幕府指導者だっただけに、後妻の“伊賀の方”が毒殺したとの風聞が“明月記”に書かれている。
承久の乱の翌年、1222年に北条義時は陸奥守を辞職する等、無官となっていた。義時の別称、或は法名が“得宗”であるという事から以後、北条氏の嫡流を指す呼び名となった。
姉の政子と常に協調路線の政治を行い、父・北条時政が始めた“執権職”を鎌倉幕府の実権を握る地位として確立した偉大な幕府指導者と位置づけられる人物であった。
翌年、1225年7月に政子も病気の為にこの世を去る。満68歳であった。
政子と北条義時による寡頭政治時代は初期の鎌倉幕府の不安定な時期を乗り切り、安定させた。この偉大な二人が相次いでこの世を去った事で一気に鎌倉幕府の政治基盤は弱体化する。
こうした状況下で鎌倉幕府の第3代執権職に就いたのが北条泰時(生1183年没1242年在職1224年~1242年)である。
彼は政子・父北条義時に拠る寡頭政治に対し、明らかに政治のリーダーシップが弱体化する事を素直に認め、執権・連署・評定衆から成る“評定会議”を幕府の最高決定機関とした“合議制”の政治体制、つまり集団指導体制の政治を打ち出す事で北条執権体制の維持、強化を図る事になるのである。
彼の政治については次項で記述する。
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