2014年4月17日木曜日
第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第9項 平氏一門滅亡に到る最後の一年間と戦後の平氏の人々
―はじめにー
平氏一門にとって敵側であった後白河法皇にも源平の内乱(治承・寿永の内乱)を早く終息させたいと言う“治天の君”としての希望があった。又、源頼朝側にも徒らに源平合戦を続行して戦力を消耗する事には何のメリットも無かった。この様な状態であったから5-8項で記述した様に、若し平氏側に歩み寄る姿勢があったならばこの戦いを終息するチャンスは何度もあった。
平氏一門の棟梁・平宗盛の大局観を欠いたとしか思えない誤った判断で後白河法皇としても源頼朝にしても、只々“三種の神器と安徳天皇奪還”の為の戦いが続いた最後の1年間となったのである。
一方、ほゞ戦況は源頼朝軍の勝利が確定した状況になると、後白河法皇の今回の“治天の君”としての“超越的権威”発揮の行動は源氏勢力の分断に向かうのである。この5-9項では標題の様に“平氏一門滅亡に到る源平合戦最後の1年”の状況を記述するが、寿永4年3月24日(グレゴリオ暦1185年4月25日)に壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡して行く過程の記述が主題ではあるが、こうした過程でこの状況下で後白河法皇が源義経を取り込み、そして源氏という新たな“共存体制”の相手の分断にとり掛かる状況も重要である。
平治の乱の信西入道、藤原信頼、そして平清盛、木曽義仲に続いて又しても後白河法皇の“天から与えられた超越的権威”の前に振り回される人々の姿がこの5-9項でも記述される訳である。この5-9項の平氏一門の滅亡の記述の過程で次に後白河法皇に利用され、その後切捨てられる対象は“源義経”である。後白河法皇の信念とも言える“治天の君である自分には天から超越的権威が与えられている“という考えに基づく”臣下の者は国の為に利用して捨て去る“という行動もこの項のもう一方の主題である。
後白河法皇が“超越的権威”の信念に基づいて源頼朝軍の分断を謀り、源義経を囲い込む処までを記述するが、その分断行動の舞台が“平氏一門滅亡に到る”一の谷の戦い、屋島の戦い、そして壇ノ浦の戦いだったのである。
1:源平合戦(治承寿永の内乱)の雌雄を決した“一の谷の戦い”
1-(1):源義経、源範頼が頼朝の代官として入京する
木曽義仲討伐の為に源義経と源範頼が頼朝の代官として1184年1月に入京し、前項で記した様に、1月20日の宇治川の合戦、1月21日の近江国粟津の戦いで木曽義仲を討ち取った。
こうして木曽義仲が入京し、平氏一門が都落ちをし、木曽義仲が後白河法皇の信任を得ていた期間もあったが次第に後白河法皇に排除され、法住寺合戦の後に木曽義仲が60日間の政権略奪を成し、その政権を源頼朝が源義経・範頼軍によって滅ぼす等、目まぐるしい混乱の期間が続いていた。
この期間は後白河院政としても平氏一門討伐に源頼朝の軍事力を割く余裕がなかった。従ってこの期間は本格的な源平合戦が戦われた事は無く、戦闘休止状態にあったと言える。
平氏軍はこの間、既述した寿永2年閏10月1日(グレゴリオ暦1183年11月24日)の金環日食の日の“水島の戦い”で木曽義仲軍に大勝する等、都落ち以後失って来た勢力を大いに回復したのである。一時は九州の大宰府まで落ち延び、在地の武士達の抵抗にあい、ここも追われて船で流浪していた状態から、阿波国の田口良成に迎えられて讃岐の国屋島に本拠地を置き、徐々に勢力回復を計って来た。そして京の都への再入京を企てる程までに勢力を回復、福原に戻り、一の谷に城を築き、兵力も数万騎を擁する迄になっていたのである。平氏一門の支配権は瀬戸内海、中国地方、四国地方、そして九州地区に及ぶ迄に回復していた。
1-(2):実質的に雌雄を決する“一の谷の戦い”で平氏一門は大敗する・・1184年3月20日
木曽義仲の60日天下は、後白河法皇が頼みとする源頼朝軍によって追討された。義仲による幽閉から解放された後白河法皇は“三種の神器”を何としても奪還する為、それを主目的とした平氏追討の戦いを本格化するのである。“一の谷の戦い”は源平両軍が総力を結集した戦いであり、この戦いが実質的な雌雄を決する戦いとなった。以下にこの戦いの経過状況を時系列に記述する。
① 1184年1月26日:木曽義仲が近江国粟津で討死した僅か5日後に後白河法皇は源頼朝に平氏追討と“三種の神器奪還”の院宣を下した。前項で記述した様に1183年8月20日に第82代後鳥羽天皇の践祚(天皇の位を受け継ぐ事)は行ったものの、三種の神器の無い天皇家という異例の状態を一刻も早く解消した上で新帝の“即位式”をあげさせたいとの後白河法皇の執念が伝わって来る。
② 1184年2月4日:源範頼が56,000人の兵力、源義経が10,000人の兵力を率いて摂津(大阪府西部と兵庫南東部)へ向かう。これに対して平氏軍は福原の外周に防御陣を築いて待ち構えた。
③ 1184年2月7日:源氏、平氏の両軍が総力戦で臨んだ“一の谷の戦い”は4ケ所で開戦となった。東の生田口、山の手の夢野口、一の谷、そして最も西の塩谷口の4ケ所である。一番早く戦闘が始まったのは、払暁に義経部隊から抜け出した熊谷直実、熊谷直家父子が平忠度と戦った塩谷口であった。
一の谷の合戦と言うと源義経の“鵯越(ひよどりごえ)”が有名であるが、義経が本当に馬で鵯越えをしたのかどうかは疑わしい。平家物語には義経が一の谷の裏手の断崖絶壁から選りすぐった精鋭70騎を選んでその急坂を馬で駆け下った事が書かれている。“義経の鵯越の逆落し”として今日でも多くの読者から喝采を浴びる余りにも有名な場面である。吾妻鏡には“源九郎(義経)が勇士70余騎を率いて一の谷の後山(鵯越)に到着”とある。しかし実際に逆落しをしたかどうかは書いていないので史実とは断定出来ない。只、源義経が得意とした奇襲戦法によって味方をこの雌雄を決する重要な戦いで勝利に導いた事は確かな様である。
九条兼実の日記、玉葉にも源義経が一の谷を攻め落とした事が明記されている。しか
し此処でも義経が断崖を馬で逆落としをした事は書かれていない。又、実際の“鵯越”という場所は一の谷の東方8キロも離れた場所であり、義経が馬で逆落としを行ったとすれば“鵯越”では無く一の谷の背後の“鉄拐山の崖”からであろうとされる。
吾妻鏡、平家物語など文献によって平氏軍が“一の谷の戦い“で蒙ったダメージの記述には温度差があるが、平氏軍が壊滅的な大敗を喫した事は事実であり、この戦いで源平合戦(治承寿永・の内乱)の雌雄が決したと言えよう。
安徳天皇、建礼門院徳子、二位の尼(平時子)と共に戦況を沖合の船で見ていた総大将の平宗盛は敗北を悟り再び福原を放棄して四国の屋島へと向かった。源氏軍にとってこの戦いの主要目的は後白河法皇からの至上命令であった“三種の神器”の奪還であったが、今回もそれに失敗した事で、源平合戦としての雌雄は決したものの“三種の神器”の奪還が成るまでは更なる追撃をせざるを得なかったのである。その結果平氏一門の滅亡に繋がる屋島の戦い、そして安徳天皇の入水をはじめ平氏一門の滅亡へと繋がる壇ノ浦の戦いへと尚も戦いは続き、悲惨な結末が展開される事になるのである。
この戦いに関して注目すべき事として、平氏軍の副将で平家の棟梁・平宗盛の弟の平重衡が東の生田口の戦いで梶原景時・畠山重忠の大軍との戦いに敗れ、捕虜となった事が挙げられる。後白河法皇は平宗盛に対して捕虜にした平重衡と“三種の神器”との交換をする交渉をしたが、平宗盛は拒絶した。
拒絶の理由は、後白河法皇が一の谷の戦いの開戦前に平氏軍を騙したという事にあった。一の谷の戦いの前日、1184年2月6日に平氏一門は3年前の1181年2月4日に急死した平清盛の法要を営んでいた。そこに後白河法皇の使者が現れ“源平の戦いの停戦命令”を伝えた。これを信じた平氏軍は大幅に武装解除をした。ところが一方で後白河法皇は源氏軍に対して“三種の神器”の奪還を至上命令とする平氏討伐を命じていたのである。
こうした二枚舌は後白河法皇が過去の争いで何度も用いた“我には天から超越的権威が与えられている”との確信に基づいた“治天の君に臣下の者は従うべし”とする行動である。この言葉を信じて平氏側は武装を解き、和解策を講じていた処に源義経、範頼軍の奇襲、急襲があった為、平氏軍は壊滅的大敗を喫したという事である。
流石のお人好しの平宗盛も立腹し、以後一切、後白河法皇の言葉を信じないという事になったという。数度にわたる“三種の神器の返還交渉”に応じないばかりか、ますます抗戦の姿勢を強めて行った理由はこうした後白河法皇に対する徹底した不信感を抱いた為であろう。
こうした“後白河法皇の騙し戦法”が一の谷の戦いに於ける平氏軍の惨敗の原因だとする研究者は“鵯越”の真偽も含めて、一の谷の戦いに於ける源義経軍の大勝は、必ずしも義経の武将としての卓越した能力だけに拠るものでは無いと主張している。
④ 熊谷直実と平敦盛の逸話について
“一の谷の戦い”での別の有名な逸話として16歳の美少年、平敦盛と熊谷直実の話が源平盛衰記、平家物語の双方に書かれている。塩谷口で開戦の一番乗りを果たした熊谷直実(生1141年没1208年)が敵を探していると、馬に乗って沖の船に逃れようとする一人の武者を発見する。その武者に熊谷直実が“返せ!返せ!”と叫ぶとその武者は陸に引き返し熊谷直実と組み合いになった。
猛者として名高い熊谷直実にとってこの平氏の武者は到底敵では無く、忽ちの中に直実によって組み伏せられた。そしてまだ16歳の少年、平敦盛だと分かるのである。熊谷直実は自分の息子、直家と同じ年齢の平敦盛を討ち取る事を憐れみ、その場から逃がそうとするが、他の源氏の武者の手前もあり、泣く泣くこの年若き美少年、平敦盛を討ち取るという話である。熊谷直実は武士の世の無常観から後に出家をして高野山に入り、平敦盛を生涯供養したという有名な話である。
史実として熊谷直実は確かに出家をし“蓮生”と称して浄土宗の開祖、法然(生1133年没1212年)に仕えている。しかし、熊谷直実の出家の本当の理由は平敦盛を討ち取った事では無く、1192年に伯父の久下直光と所領の境界を巡っての訴訟となり、口下手の熊谷直実は源頼朝の前で行われた訴訟弁論の席上、腹を立ててその場で髷を切り、そのまま逐電したというのが真相である。その場の熊谷直実の言動に源頼朝も呆気にとられた事が吾妻鏡にも書かれている程、熊谷直実という人物は剛直で純朴な人柄であったのであろう。
能の演目“敦盛”で有名なこの美談も残念ながら史実とは異なる様である。しかし高野山には現実に熊谷直実の墓と平敦盛の墓が並んで建っている。又、生涯を通して全国に10以上の寺院を開基した程、仏教に帰依した人物であるから、熊谷直実(法力房蓮生)が生涯、平敦盛の供養をし続けた事は事実であろう。尚“埼玉県熊谷市“の名は彼が本拠地とした”武蔵国熊谷郷“から来ている。
2:屋島の戦い・・寿永4年2月19日(グレゴリオ暦1185年3月22日)
2-(1):屋島の戦いが開戦される迄に1年間の休戦期間があった理由
一の谷の戦いが寿永3年2月7日(グレゴリオ暦1184年3月20日)であるから、源氏軍として雌雄を決した戦いに勝った勢いに乗じて何故、一気呵成に平氏一門を追い、後白河法皇からの“三種の神器奪還命令”を果たさなかったのであろうか。
それは“一の谷の戦い”で大敗し、壊滅的なダメージを蒙った平氏軍ではあったが、伝統的に強力な水軍を擁し、瀬戸内海の制海権はまだ握っていた。そして敗戦後に讃岐国・屋島(現在の高松市)に逃れ、ここに安徳天皇の内裏を置き拠点とした他にも、長門国彦島(山口県下関市)に拠点を持つ等、兵力的にもまだまだ蓄えがあったのである。
一方の源頼朝軍は十分な水軍を保有しておらず、屋島、彦島の平氏一門の拠点を陥落させるだけの戦闘能力がまだ整っていないとの判断の結果、1年間もの長い間の休戦状態となったという事である。
2014年の3月に私もこの地を訪れたが“屋島ドライブウエイ”の側道の150号線を北に走ると安徳天皇社と書いた100坪程と思われる小さな神社がある。そこに掲げられた案内板には、“平宗盛が後ろに険しい屋島の峰があり東に八栗の山が控え要塞として地の利を得た場所として寿永2年(1183年)この地に安徳天皇の行宮を建て、陣営とした”と記されていた。
小さな安徳天皇社をお参りしながら、一の谷の戦いで大敗し、再び漂浪の旅となった未だ5歳だった安徳天皇や29歳の母親・建礼門院徳子、58歳になっていた清盛の継妻・平時子(二位の尼)達はさぞ心細い思いでこの地に居たのであろうと思わせる史跡であった。眼前には瀬戸内海の入江が広がり、切り立つ八栗の山が望める。湾内は埋め立て地や防波堤などが出来ていて、830年前の様子とは相当に変わっているのであろうが、それでも屋島の戦いが展開された場所だという景観は僅かに残っている。
屋島ドライブウエイをJR屋島駅方面から北に少し走ると、奈良時代に中国から招かれた名僧・鑑真が、伽藍建立の霊地を開創した事を起源とする四国84番札所の屋島寺がある。隣接して立派な宝物館があり、那須与一の子孫が寄進したとされる源氏の白旗や、土佐光起筆の屋島合戦屏風などが多数展示されている。
2-(2):休戦状態の1184年に後白河法皇が決断した重大事項・・第82代後鳥羽天皇
の即位
流浪状態の平氏一門にとって休戦状態であった寿永3年(=元暦元年)7月28日(グレゴリオ暦1184年㋈4日)源氏による“三種の神器奪還”を待ち切れなくなった後白河法皇が三種の神器の無いままで、後鳥羽天皇の“即位式”を敢行した。この事は平氏一門にとっても重大事であった。1年前の1183年8月20日に後白河法皇は後鳥羽天皇の践祚は敢行している。何故今回の“即位式”が“三種の神器無しに”行われた事が平氏一門にとってそれ程に重大事なのであろうか。
天皇家に於ける皇位継承に係る式事の中で、践祚(せんそ)の践とは“ふむ”事を意味し、祚とは“東側の階段”の事を意味する事から“東宮(皇太子)が正式の天皇になる”という事を意味するとある。桓武天皇以前は践祚の式と即位の式は同じ日に行われていたが、後に別の日に行うのが常例となったという。一方の“即位”は践祚した後に位に即(つ)く事を意味する。つまり、践祚は天皇家の内で天皇家の始祖に対して自分が皇位を継承する事を報告する式事であり、即位式は天皇に即(つ)いた事を世間(百官)に伝える儀式である。言わば践祚は天皇家一族の“内向き”の儀式であり、即位は世間・公に対する“外向き”の儀式だという事である。
従って第82代後鳥羽天皇の即位式が1184年9月4日に行われた事を以て平氏一門が“三種の神器”と共に奉じて西海に逃れている第81代安徳天皇は廃されたにも等しい事を意味した。平氏一門にとって正当性の拠り処であった“天皇家との共存体制”という形が崩れた事を意味し、平氏一門と天皇家(=朝廷)との関係が決裂した事を意味する重大な事柄だったのである。後白河法皇は安徳天皇の“廃帝”は行っていない。従ってこの時期に日本には二人の天皇が同時に在位していたという異常な事態となったのである。
2-(3):1184年に生じたもう一つの重大事・・後白河法皇が仕組んだ(?)源頼朝と源
義経の間の亀裂のはじまり
源平合戦がほゞ1年間、休戦状態だった1184年に源氏側にとっても後に重大な事態に発展する状況が生じた。トラブルは1184年8月に後白河法皇が京の都の治安維持の為に源義経を必要と判断し、彼を左衛門少尉・検非違使に任じ、これを義経が鎌倉の源頼朝の許可を得ずに任官した事に始まる。この事が後に源頼朝と義経との修復不可能な亀裂となって広がり、5年後の1189年閏4月に義経が滅亡する事に繋がるのである。
何故、源義経が京の治安維持の為の検非違使に任じられたのかについて説明して置こう。
1183年7月に木曽義仲軍との戦いに敗れ、都落ちをして西国に逃れた平氏一門だが、元々の本拠地である伊勢・伊賀の両国には気骨のある、昔から平氏一門に恩顧を感じている平氏の家人達が多く残っていた。
彼等は京の平氏一門の都落ちの後も長期間に亘って京の周囲に潜伏し、蜂起し、京の都を中心に反乱を繰り返したのである。この乱は“3日平氏の乱(みっかへいしのらん)”と呼ばれるが、これら一連の平氏残党による乱は3日間で終わる様な短期間の乱では無く、長期間に亘って治まらなかったのが実態であった。話は少し横道に外れるが、では何故“3日平氏の乱”と呼ばれるかについての原因は平家物語にあるとされる。
平家物語の著者が1184年7月以降に起る一連の平氏残党による反乱を“3日平氏の乱“と誤って書いてしまった為に長期に亘った平氏の残党による一連の反乱も、以後その様に呼ばれる様になったという事である。では何故こうした誤りが生じたのであろうか。それは鎌倉時代に入った1204年に伊勢・伊賀の平氏一門の残党“若菜盛高”が鎌倉幕府に対して蜂起した、本当の3日間の反乱があった。この乱こそが正真正銘の“3日平氏の乱(鎌倉時代)”であったのだが、この事件と一緒くたにされたのである。
歴史辞典を引くと今日でも“3日平氏の乱”として“平安時代”“鎌倉時代”の二つが出て来る。
治承・寿永の乱(源平の内乱)の戦いの一つとされる“平安時代の3日平氏の乱”は1184年7月7日以降に起こる長期に亘る平氏一門の残党による抵抗戦であるが、教科書でも余り取り上げられておらず一般的には知られていない。従って我々は平氏一門は源平の戦いに敗れ、あっさりと滅亡したと考え勝ちである。しかし、平正盛、平忠盛、そして平清盛と三代に亘って繁栄を積み重ね、全国規模にまで及んだ平氏一門、更には短期間とは言え、初めての武士政権を成立させた平氏一門という大勢力がそう簡単に消滅する筈が無いのである。
平氏一門の本隊は既述した経過を辿って源氏に拠る討伐に会って敗れ、京の都を落ち延び、九州、西国に流浪する事態に陥ったが、平氏発祥の地である伊勢・伊賀では残党がその後も永い期間に亘って激しく京周辺で抵抗を繰り返していたのである。
1184年7月7日の反乱(3日平氏の乱)では“平家継”を大将軍として源氏方の伊賀の守護の大内惟義を襲い多数を殺害した。又、平信兼の一派が伊勢に派遣されていた源氏方の御家人・大井実春を鈴鹿山に襲うという事件が連続していたのである。こうした状況に後白河法皇は恐れと動揺の日々であった事が玉葉に記されている。
1184年7月19日に上記“平家継”が近江国(滋賀県)大原荘の合戦で終に討ち取られ、梟首されたという記録が残っているがこの戦いで討ち取られた数人の侍大将の中に“家清入道”という人物が含まれている。この人物が平頼盛(俳優西島隆弘)の家人・平宗清(俳優梶原善)の子息であった事も判明している。要するに名門伊勢、伊賀の平氏一門の抵抗はそれ程に根強いものだったのである。
1184年8月3日、平氏一門の残党に拠る京周辺での反乱の事態を重く見た源頼朝はその中心人物である“平信兼”の捜索を源義経に命じた。義経は先ず平信兼の3人の子息を斬殺し、8月12日には平信兼本人の追討に出撃した事が山槐記に記されている。伊勢国の滝野城に立て篭もった平信兼はじめ100騎以上が激戦の末、源義経軍に討ち取られたという事が源平盛衰記に記されている。
この様に平氏一門の残党に悩まされた後白河法皇は、反乱が続く最中の1184年8月6日、京の都の治安維持の為に源義経を左衛門少尉・検非違使に任じたという流れの話である。この任官の僅か三日前の8月3日に鎌倉の源頼朝は義経に対して“平信兼追討”を命じていたのである。その3日後の8月6日に、義経が後白河法皇からの検非違使への任命を源頼朝の承諾無しに受けてしまった事になる。
こうした源義経の組織人としての“鈍感さ”が彼の命取りになって行くのである。後白河法皇という人物が“超越的権威”の信念の下に、平清盛、木曽義仲を利用し、次々と切捨てた事を知っていた源頼朝はこの二人が陥った失敗を繰り返すまいと後白河法皇との距離を置く事を最重要視していた。ところが京の都に頼朝の代官として残した弟の源義経はそうした頼朝の意を解せず、後白河法皇の術中に嵌り、近臣的立場として取り込まれ、鎌倉の源頼朝の意に逆らう結果となって来ていたのである。
吾妻鏡によると、1184年9月9日に源頼朝は討伐した平信兼はじめ平氏の家人に属していた所有地を義経が支配する事を許す書状を出している。この時点で源頼朝は京の代官・義経が頼朝に無断で後白河法皇から官位を受けてしまうという“鈍感さ”には目をつむり、ギリギリの忍耐で義経を許していたという事である。
ところが当の義経は同じ9月に、又しても後白河法皇から従五位下の官位を得たばかりか、10月には昇殿を許され、後白河法皇の側近的立場として更に取り込まれて行く事を平然と行うという始末だったのである。
この辺が後白河法皇という人物の凄さなのであろうか。“天から超越的権威を与えられている治天の君”であるから、余りにも源氏勢力が強大に成ることは望ましくなく、ここでお人好しで政治的には鈍感な義経を掌中に納め、手ごわい源頼朝と分断する事を画策したのかも知れない。
これ迄に京に代官として残る源義経を最大限利用して、平氏一門の残党、平家継と平信兼を滅ぼした後白河法皇であったが、まだもう一人強力な平氏の家人が残っていた。“NHK大河ドラマ・平清盛“では俳優、藤本隆弘が演じた”伊藤(藤原)忠清“である。彼は平維盛の乳父(めのと)であった事からも平氏軍の中心的な侍大将であった。この伊藤忠清は1183年7月の平氏一門の都落ちの際には出家し、同行しなかった。そして1年後の1184年7月19日の”平安時代の三日平氏の乱”で梟首された平家継と共に戦い、そのまま逃亡を続けていたのである。
後白河法皇は伊藤忠清の存在を非常に恐れていた。そして翌、1185年3月の屋島の戦いに出撃しようとする義経を引き止めようと必死で動いた事が伝わっている。理由は言うまでも無く義経の留守中に伊藤忠清が京を攻撃する事を恐れたからである。伊藤(藤原)忠清は平氏一門が壇ノ浦の戦いで滅亡した後も生き延びた。しかし1185年の5月に捕えられ、5月16日に六条河原で処刑された事が吾妻鏡に記されている。
2-(4):屋島の戦いの準備として水軍を整える等、海上戦の準備を完了させた源義経
“一の谷の戦い”で主力部隊を任され、東の戦場生田口で平知盛、平重衡軍と戦い勝利した源範頼はその後鎌倉に帰還していた。一方源義経はその後も頼朝の在京代官として京都に残った。義経は上記平氏の残党の討伐に任たる他、在京代官としての実務を通して広範な人脈を作り上げ、主目的の水軍整備の準備にとり掛かっていたのである。
こうした日頃の活動からも、京の都での源義経の存在感は大きく、頼朝の主力部隊を率いて戦った後に鎌倉に戻った源範頼と比較して、義経の認知度は格段に高かった。その為、一の谷の戦いに於ける“鵯越(ひよどりごえ)”などの逸話が出来る程に義経の戦功の話は史実よりも遥かに大きく、且つ誇張されて伝わったとされる面があるが、確かに在京の代官として、畿内の軍事と治安維持を任され、源頼朝からも平氏討伐の総大将とする事を後白河法皇に奏請している様に、義経の武将としての能力は卓越していたのであろう。
この様な状況であった1184年の春から秋頃迄は源頼朝と源義経との間にはある程度の信頼関係が保たれていたものと考えられる。
義経は1185年に入ると源氏の弱点であった水軍の整備に奔走する。摂津国(大阪府西部と兵庫県南東部の地域)の水軍であった渡辺党、熊野水軍、伊予水軍を味方に付ける事に成功し、平氏一門追討の最終段階の準備を完了させたのである。政治的には極めて鈍感な源義経だが武将としての戦略、戦術にかけては極めて優れた面をここでも発揮したのである。
新たに整備され、組織された源氏の水軍兵力は、摂津国の渡辺津(わたなべのつ)に集められた。現在の大阪市の淀川の河口にあった古くから瀬戸内海の交通の要衝として重要視され栄えた港である。いよいよ屋島の戦いの準備完了である。源氏軍は源範頼が3万の兵を率いて九州に渡り、平氏軍の彦島拠点(現在の山口県北西部)を攻撃し、義経軍が安徳天皇の行宮が置かれていた屋島の本拠地を攻撃する事によって平氏軍を挟み撃ちにするという作戦であった。しかし強力な水軍を持つ平氏軍の抵抗も激しく、九州の源範頼軍はなかなか進軍出来ない状況であった。従って義経軍による平氏の屋島拠点の攻略の成否は極めて重要だったのである。
2-(5):義経の屋島攻撃出陣を引き留めた後白河法皇、義経と梶原景時の確執の始まり
義経の水軍の準備が整い、いよいよ屋島に向けて出撃という直前に、上述した伊藤(藤原)忠清ら平氏残党の襲撃を恐れる後白河法皇始め公家達は義経の出撃に猛然と反対した。そして後白河法皇の使者(高階泰経)が渡辺の津を訪れ、引き止めるという事態になった事が記されている。後白河法皇の近臣同様に扱われ始めていた源義経も流石に鎌倉の頼朝の配下の武将として後白河法皇の要求を振り切り、更に後白河法皇からは平氏追討の為の出撃許可を得るという手順で屋島に出撃したのである。
この様に、義経は鎌倉の源頼朝と後白河法皇の両方に仕えるという状態にまで後白河法皇に取り込まれていたという事である。
源義経については多くの逸話が残されている。屋島の戦いの場面での逸話も平家物語に書かれている。その中で屋島攻めの軍議で源義経と梶原景時が大激論となりこれが原因で梶原景時は義経に対して深い遺恨を持っ事になったという逸話を紹介して置こう。
この激論は“逆櫓論争”と呼ばれ、内容は梶原景時が船を自在に前後に漕げる様、双方向に櫓をつけるべきだと主張した事に対して源義経は、その様な逃げる手段を用意する事は兵の士気が下がる事だと反論し二人の間で大激論の末、義経が景時の意見を退けた。これを恨んで以後、梶原景時は鎌倉の源頼朝へのあらゆる報告に源義経の誹謗中傷を書き、義経の没落へと繋がったという話である。
以上の逸話も後世の史実研究によると当時、梶原景時は源義経の配下には居らず、源範頼と行動を共にしていたという説が有力となっている。従ってこの源義経と梶原景時との大激論の場面も創作であろうと元木泰雄氏は結論付けている。
2-(6):屋島の戦い・・寿永4年2月19日(グレゴリオ暦1185年3月22日)
1185年2月18日の午前2時、暴風雨を逆に利用して、源義経は僅か5艘150騎で阿波国(徳島県)東部の勝浦に上陸したとされる。通常は3日間掛かった航路を僅か4時間で航行した事になる。先頃まで実際に航行していたエンジンの着いたフエリー船の場合でも3時間半掛かったとされる航路である。暴風雨の風を利用したとは言え、当時の船で4時間で航行したとは考えられず、今日の見解では、吾妻鏡の記述に日付けの間違いがあって“1日と4時間”の誤りであろうと結論付けている。
夜襲、奇襲戦法を得意とする源義経軍は屋島の平氏軍の布陣が手薄だった事を情報として得ていた。徹夜の行軍をして翌2月19日には屋島の対岸に至った。海上からの攻撃だけを予想していた平氏軍は干潮時を利用して騎馬で襲撃して来た僅かな兵力の義経軍の攻撃に大混乱し、屋島の内裏を捨てて庵治半島まで逃げたのである。
平家物語ではここで、那須与一の扇の的の話が登場する。余りにも有名な話であるが、平氏軍の小船の竿の先に付けた扇の的を見事に射た義経軍の那須与一の美技に浮かれた平氏軍の老兵がその場で舞い始めた。義経はこの老兵を射る事を那須与一に命じ射倒した。これに怒った平氏軍との戦闘が再開された。1185年2月21日に平氏軍は志度浦(香川県東部)からの上陸を試みるが、義経は僅か80騎でこれを撃退した。義経と大激論をした梶原景時の大規模な水軍が渡辺津から遅れて漸く到着するが、その時には既に殆んどの平氏軍は退いた後であったという。
屋島の安徳天皇の行宮も、平氏一門の本拠地も失った平氏軍は1185年3月16日に安芸国厳島に退く。九州地区もこの時期迄には源範頼の大軍が押さえており、行き場が無くなった平氏軍は長門国(山口県北西部)の彦島の拠点で孤立し、いよいよ追い詰められた状態になっていたのである。
3:壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水、平氏一門が滅亡する・・寿永4年3月24日(グレゴリオ暦1185年4月25日)
1159年末の平治の乱以降を平氏一門の栄華期のスタートだとすれば、その平氏一門は僅か四半世紀後にここで記述する壇ノ浦の戦いで栄華の象徴とも言える哀れな安徳天皇を道連れにして滅亡するという悲惨な結果になる。
繰り返しとなるが、そもそも寿永3年2月7日(1184年3月20日)の“一の谷の戦い”の敗戦で源氏側の勝利が既に決していたのにも拘わらず源平の戦い(治承・寿永の内乱)が屋島の戦い、そして壇ノ浦の戦い迄続行された理由は既述した様に、ひとえに“三種の神器”の奪還を後白河法皇が至上命令とした事、後白河法皇の言動を一切信用出来ないとする平氏一門の総帥・平宗盛が戦闘終息の術を失っていた事による帰結であった。
源平合戦の最終戦となった壇ノ浦の戦いは寿永4年3月24日(1185年4月25日)に以下の様に戦われた。
3-(1):壇ノ浦の戦いの戦況
この戦いの戦力について、吾妻鏡では平氏軍500艘、源氏軍840艘と記している。平氏軍の500艘の内訳は、松浦党100艘、山鹿秀遠300艘、平氏一門100艘である。源氏軍の840艘の内訳は、渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍から成る840艘である。源義経が短期間に整備、組織させた強力な水軍となっていたのである。
開戦の時間については、吾妻鏡では午前中に開戦し午の刻(12時頃)に終ったと記述しているが、玉葉には午の刻(12時頃)に開戦して申の刻(午後4時頃)に終ったと記されている。
戦況については潮流説が有名で、潮の流れの変化が午前中は平氏軍に有利に働き、午後に潮流が変わって源氏軍が断然有利になったとする“黒板勝美東京帝国大学教授の説”が長い間定説となっていた。最近になって海事史の専門家である金指正三博士や船舶史の専門家の石井謙治氏、東京商船大学名誉教授の飯島幸人氏の研究によって“壇ノ浦の戦い時点で潮流は合戦の勝敗には大きく影響していない”との説が優勢となって来ている。
1181年2月、平清盛の急死直後に平宗盛が後白河法皇に政権を返上した事で平氏政権は既に消滅していたが、その後4年間に亘る源平の内乱(治承・寿永の内乱)の最終戦となった壇ノ浦の戦いの敗戦を以て、安徳天皇の入水という悲惨な結果と共に平氏一門そのものが滅亡するという結末を迎えたのである。
3-(2):平氏一門の人々の戦後
寿永4年3月24日(グレゴリオ暦1185年4月25日)の壇ノ浦の戦いで入水、又は戦死した主な人々、入水後に海中から源氏方の兵士によって引き揚げられた人々、自ら生き延びた人々など、平氏一門の人々の戦後について記述する。
① :入水死した人々
・第81代安徳天皇:満6歳4カ月 在位期間 治承4年4月22日(1180年5月18日)~寿永4年3月24日(1185年4月25日)
未婚の男性天皇としては第22代清寧天皇(即位480年退位484年)と第79代六条天皇(即位1165年退位1168年)に次いで3人目であり、その後は例がない。二位の尼(平時子)に抱かれて入水、壇ノ浦の戦いの翌日に漁師達の網に遺体がかかり引き上げられたとされる。“極楽浄土という結構な処にお連れ申すのです”と言い聞かされて小さな手を合わせて念仏を唱えて入水したと平家物語に記されている。
・二位の尼(平時子):満59歳・・平清盛の継妻。愚管抄には安徳天皇を抱き、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と神璽(八尺瓊勾玉・・やさかにのまがたま)を身に着けて入水したと記されている。源氏軍は必死で八尺瓊勾玉を回収したが、宝剣は遂に回収出来なかった。鎌倉の頼朝は義経の責任としてこの大失態を強く責める事になる。
・平教盛:満57歳・・清盛の異母弟。NHK大河ドラマ・平清盛では俳優鈴之助が演じた役柄である。兄の平経盛(同俳優駿河太郎)と共に手を取り合って海に沈んだとされる。
・平知盛:満33歳・・清盛と継妻時子(女優深田恭子)の次男。勇猛で知られ“見るべき程の事は見つ”の有名な言葉を残して入水。水面に浮かび上がらぬ様、鎧を二領着て入水したと伝わる。
② :入水したが源氏軍の兵士に海中から引き揚げられる等で捕虜となった人々
・建礼門院徳子・・清盛の娘であり、安徳天皇の生母である。海中から源氏の兵士・渡辺昵に髪の毛を絡め取られて引き揚げられ京に護送された。その後の人生については5-5項で記した通りである。1214年1月25日に59歳の人生を閉じている。
・平盛国・・NHK大河ドラマ・平清盛で俳優の上川隆也が演じた清盛の側近、5歳年上の兄貴分的役割を果たした人物である。1113年生まれであるから壇ノ浦の戦い時では既に72歳という老齢であった。捕虜となって鎌倉に連行され、源頼朝は盛国の人柄からその一命を助けたという。岡崎義実の元に預けられた平盛国は一切を語らず、法華経三昧の日々を過ごした後に一切の食を断ち1186年7月25日に餓死をした。73歳であった。源頼朝は盛国のこうした武士としての一貫した態度を称賛したという。
・守貞親王(もりさだしんのう):生1179年崩御1223年44歳・・高倉天皇の第二皇子であり、安徳天皇の異母弟、後鳥羽天皇の同母兄に当る人物である。平氏一門の元で育てられ、平氏の都落ちの際に安徳天皇の皇太子という立場で西国流転を経験し、壇ノ浦の戦いで救出された。その後、承久の変(1121年)で後鳥羽天皇系の皇統が全て排除された事に拠って、守貞親王の子が第86代後堀河天皇(即位1221年退位1232年)として即位するという巡り合わせとなった為、守貞親王に大変化が起きる。
そもそも守貞親王は1221年3月に出家をし“行助入道”と称していた。院政時代の政治体制は何度も記して来た様に上皇又は法皇が天皇家の最高権力者“治天の君”となり、院政を行う。皇子が後堀河天皇に即位したという巡り合わせから皇位に就いた事も無く、しかも出家していた守貞親王が“承久の変の勃発”という歴史の巡り合わせで一挙に太上天皇号と法皇の位を得る事になり“後高倉院”として院政を敷く事になるのである。
・その他、僧侶、多くの女房達が海中から救出されたり、捕虜となったとの記録が残っている。
③ :命乞いをした人々
・平時忠(生1130年没1189年3月12日59歳)・・清盛(俳優松山ケンイチ)の継妻・平時子(女優深田恭子)の同母弟である。又、後白河法皇に寵愛された建春門院滋子(女優成海璃子)の異母兄という人物である。
2012年のNHK大河ドラマ・平清盛では俳優の森田剛が演じたが、史実でも義妹の建春門院滋子の側近として動き、後に滋子が皇子(後の高倉天皇)を出産すると、軽率な皇位継承に関わる舌禍問題を起して二条天皇派の反感を買い、配流される等、平氏一門の人間であり乍ら時として平清盛の意向とは異なる動きをした人物である。
壇ノ浦の戦いで平時忠は捕虜となった。彼の場合は進んで捕虜になったと思われる。何故ならば彼は三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)を守っており、それを減刑要請の交渉条件としたからである。平時忠は源義経に自分の娘を差し出すなど、自分の減刑工作の為にありとあらゆる手段を尽くしたと伝わる。
その後、死罪を免れて1185年㋈23日に能登国に配流となり、4年後の1189年3月12日に59歳で没する。平家物語には時忠が配流先に赴く途中、京都大原の寂光院に建礼門院徳子を訪ね、別れの挨拶をした事が書かれている。
・平宗盛(生1147年処刑1185年7月19日38歳)・・清盛の継妻平時子の長男である。清盛の嫡男平重盛が1179年に病死してから平氏一門の棟梁となった人物だが、何度も記述して来た様に武将、平氏一門の棟梁として一門を率いるだけの資質に欠けた人物であった。平重盛と比べて人物としてもかなり劣った様だ。
源平の内乱(治承・寿永の内乱)中で、何度も平家一門が生き残るチャンスがあったと思われるが、棟梁である平宗盛の判断でこれら和平に持ち込むチャンスの全てを潰してしまった事は既述の通りである。平清盛が急死した翌日に後白河法皇に詫びを入れると共に政権返上を申し出た事に始まり、ある時は後白河法皇から、又、ある時は源頼朝から和平の手を差し伸べられたが、こうした生き残りのチャンスの全てを結果的に逸がすという判断を何度も下した人物である。
更に壇ノ浦の戦いの際にもその生き恥を晒し、源頼朝を呆れさせ、鎌倉での尋問が終わった後に処刑されるという武人としてあるまじき姿を最後まで晒した人物だった。河合敦氏は“平清盛と平家四代”の著で平氏一門にとって平宗盛を棟梁に持った事が不幸であったと断じている。
愚管抄によると寿永4年3月24日(1185年4月25日)の壇ノ浦の戦いで弟の平知盛、経盛、教盛らが次々と入水する中で平宗盛と息子の平清宗は死に切れずに泳ぎ回っていたという。これを源氏側が引き上げ捕虜とした。4月26日、平宗盛は他の捕虜と共に京へ連行される。その後5月7日に宗盛と息子の清宗は源義経に連行されて鎌倉に向い、5月16日に鎌倉に入った。
この時有名な“義経の腰越状”の話がある。実は義経は鎌倉に入れず、山内壮・腰越の(現在の鎌倉市)の満福寺に留め置かれている。義経に不信を抱く頼朝が義経の鎌倉入りを許さず、宗盛・清宗父子だけを入れたのである。この時、義経が頼朝に対して叛意が無い事を切々と訴え、大江広元に託した書状が“腰越状”である。
2013年2月にこの“満福寺”を訪ねたが、腰越状の版木がショーウインドウに展示されている。満福寺の場所は江の島電鉄の腰越駅から3~4分程の処にある。
平宗盛の話に戻ろう。平宗盛は輿に乗って鎌倉入りをしたとの記録がある。源頼朝としても平氏軍の総帥であった平宗盛に武士としての最後の礼を尽くしたのであろう。ところが簾越に宗盛を観察し、比企能員を通じて会話を交わした源頼朝は平清盛の後継者として後事を託された人物とは思えない平宗盛の卑屈な言動と、ひたすら出家と命乞いを求める態度に呆れ、且つ腹を立てたと言う。この様子に接した鎌倉の武士達も平宗盛を非難し、嘲笑したとの記録が残っている。
其の他一級資料としては信憑性には問題があるが、源平盛衰記や平家物語の夫々に書かれた平宗盛評も散々である。壇ノ浦の戦いで逃げ回った宗盛を平氏の諸将が無理やりに海に突き落としたという記述もあれば、醜態をさらす息子の姿に二位の尼(時子)が“宗盛は私と清盛の息子では無い。京の傘売りの男の子と清盛との間に出来た女子を取り替えたのだ”と言い放ったという逸話が残されている。
鎌倉で源頼朝の尋問を終えた平宗盛は1185年6月9日に満福寺に留め置かれた源義経に連れられ、再び京都に送還される。そして6月21日に源義経の命を受けた橘公長によって近江国篠原宿で斬首されたのである。38歳であった。宗盛の嫡男、平清宗はじめ、全ての男子も処刑され平氏の正統はここに全てが絶えたのである。
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