1:足利幕府(北朝)内での足利直義と足利尊氏の執事“高師直”との政治対立が深刻化する。
1-(1):高師直・師泰兄弟の強引な政治姿勢への反発と“恩賞遅引”への不満から、足利直義派に鞍替えする武士層
1-(1)-①:“恩賞遅引”で信頼を失った高師直”政権
後醍醐天皇が崩御した後の畿内は比較的平穏な状態であった。しかし、軍事指揮権を持ち、足利尊氏から政治を任された形の“執事・高師直は兄・尊氏と二頭政治の一翼を担う弟・足利直義と政治スタンスの違いから真っ向から対立した。
足利直義は保守的で秩序維持を重視する政治スタンスであったが、高師直派には、守護家の庶子、京都周辺の新興御家人等が多く、実力で所領を奪う事も是とする革新的考えの武士達が集まっていた。彼等の高師直への期待は恩賞給付や守護職補任であった。
しかし当時の“高師直政権”の最大の問題点は合戦で手柄を立てた武士達に対する“恩賞充行(所領や俸禄をあてがう事)”が停滞し、時には実行されない状況があった事である。この事は1343年(南朝:興国4年・北朝:康永2年)に、武士達に対する“恩賞遅引”への対策を定めた法“室町幕府追加法第十二条”が制定された事が裏付けている。
こうした状態に、斯波高経・桃井直常といった有力武将が足利直義派に鞍替えするという事態が発生していた。
1-(1)-②:“足利直義”の政策に期待した一般武士達
足利直義派には、司法官僚を初めとした実務官人、守護家の嫡子、地方豪族等、守旧派の人達が集まっていた。足利直義の政策は決して新興の“武士層の利益”を重視したものでは無かった。現存する足利直義の“処務沙汰裁許”の判決が残っているが、その殆んどが荘園を侵略する“武士側”を敗訴とし、荘園領主である寺社や公家(寺社本所)側の権益を守るものであった。
保守的で伝統的権威を重んじる足利直義の政策は“寺社本所”層からの絶大な支持を受けた一方、一般武士層に対する政策は“代々領有して来た実績や文書に拠る証明(相伝の由緒)”を重視するという極めて保守的な“所領安堵政策”であり、鎌倉時代以来の伝統的な“地頭御家人層”を利する政策ではあったが“悪党”と呼ばれた“新興武士層”を利するものでは無かった。
しかし、新興武士層をはじめ一般武士層から支持される筈の執事“高師直”の政治がその強引な手法に対する反感を生んだ上に、彼を支持した武士達の最大の関心事である“恩賞支給”に遅引が続いた為“足利直義の方が寧ろ熱意を以て我々武士達の為に恩賞を分配して呉れるのではないか”との期待へと変わり、鞍替えする者が増えて行った。
1-(2):“土地政策”の違いも“高師直と足利直義の対立”を深めた
1-(2)-①:飽くまでも平時の“土地領有政策”をベースとした足利直義の政治
兄との二頭政治体制下で政務担当責任者としての責任を担った足利直義は“延喜・天暦”並びに“北条義時・泰時”に象徴される“平時”の秩序をベースとし、公家社会との接合を図りながら武士の規律化を目指す政治を指向した。
従って武士が“寺社本所領”に対する濫妨(らんぼう=暴力により他人の物などを強奪する)を働いたり、押領に対しては“停止命令”を出し、それでも実力行使に及んだ場合には“犯罪”として処断する方針で臨んだ。所領支配に対しては公家秩序を守ろうとする彼の政策は、公家社会からの要求に応えるものであった。
1-(2)-②:戦時に即した土地領有政策をベースとした“高師直”の政治
これに対して“高師直”の政策は“南朝”との“戦時下”という現実問題を抱える中での政策であった。“土地領有政策”は戦場への軍需物質補給、つまり“兵站”の観点から、戦地付近の荘園・公領を奪い、兵糧米を確保する事が一番手っ取り早く確実であるという考えに基づいていた。
1-(2)-③:足利直義が発布した“排除命令”で両者の対立に火が付く
1340年(南朝:興国元年・北朝:暦王3年)4月:
上述した“土地領有秩序”の遵守を徹底させる為、足利直義は“寺社本所領を横領した者への排除命令”を新たに発布した。寺社本所領を横領し“排除命令”を受け、それに抵抗した場合には“足利直義”に報告する事を義務づけるという之までの令よりも一層厳しいものであった。この“排除命令”の発布で高師直との対立は“武力抗争”へと拡大して行く事に成る。
2:足利幕府の内部抗争をチャンスと捉え“南朝方”の勢力拡大に動いた“北畠親房”
1338年9月に後醍醐天皇が描いた“奥羽・関東対策”が派遣船の難破で挫折し、義良親王、宗良親王を奉じる事が出来なかった“北畠親房”は単独で常陸国(茨城県北東部)に上陸した。
1339年(南朝:延元4年・北朝:暦応2年)8月15日:
皇太子となった義良(親王)(のりよし・生:1328年・崩御:1368年)は、後醍醐天皇の譲位を受け“後村上天皇(歴代第97代)”として吉野行宮で践祚した。又、その直後には“興良親王(護良親王の皇子・後醍醐天皇の孫・1336年末に親王宣下:生:1326年・没年不詳)”が“征夷大将軍”に任じられるという動きが“南朝”方であった。
北畠親房は足利幕府(北朝)内の対立を関東の“南朝勢力”拡大の好機と捉え,小田治久(生:1283年・没:1353年)の小田城に拠り、陸奥国(東北地方太平洋側)白河(福島県中通り南部)の結城親朝(生:不詳・没:1347年)小山朝郷(おやまともさと・生:不詳・没:1346年)はじめ関東各地の武士達に“南朝方”として結集する様、呼びかけた。
1341年 :北畠親房が“興良親王”を迎え入れる。
この時期北畠親房は関東と奥州の交通の要衝・陸奥白河に拠る“結城親朝”の説得に特に注力していた。現存するだけでも実に70余通の“大義名分に奉仕すべき”事を説き、参陣を促す書簡を送っている。又、足利幕府内部の抗争を伝え、足利幕府の滅亡は近いと、次の様な文書を送っている。
“(足利)直義・(高)師直不和、已(すで)に相克に及ぶと云々、滅亡程あるべからざるか”
3:ほゞ隠居状態だった足利尊氏
足利氏の執事・高師直と弟・足利直義が対立を深めて行く状況に幕府初代将軍・足利尊氏は政治から距離を置き、ほゞ隠居状態であった。しかし両者の抗争の落とし所を模索して苦悩していたと伝えられる。この時期の足利尊氏は後醍醐天皇に背いた事を悔やみ、1345年には天龍寺を建立し、又、全国に66箇所もの“安国寺利生塔”を創建する等の仏教的活動に没頭した時期でもあった。
4:主だった武将を失っていた“南朝”を支えた“北畠親房”が南奥州・関東武士勢力の結集に失敗する
日本に南北二つの王朝が分かれて存在し“武士層”が主導権争いに夫々の王朝を利用した“南北朝時代”という大混乱の時代は結果的には57年間に亘って続いたが“南朝”方が“足利幕府”をバックにした“北朝”と武力面で互角に戦う事が出来た期間は最初の数年間だった。
後醍醐天皇を支えた楠木正成、名和長年が1336年5月、6月に戦死し“南朝”成立直後に北畠顕家が1338年5月に戦死、そして同年、閏7月に新田義貞も戦死して“朝方”の主だった武将が殆ど欠けてしまったからである。
それでも“南朝方”が存続した理由を以下に記して行くが、第一に足利幕府内で“観応の擾乱”と呼ばれる内部抗争が1349年から1352年にかけて起り、その過程で足利幕府ナンバー2の足利直義が“南朝方”に降ったばかりか、足利尊氏までもが1351年11月に、自ら北朝を消滅させて“南朝”に降るという思い切った策“正平一統”によって“弟・足利直義”を追討するという大混乱状態を作り出した事に因る。
そして第二に“観応の擾乱”が終息した後も、幕府内の主導権争いは収まらず、その争いから“南朝”方に次々と新しい勢力が注入される事態が続いたからである。
4-(1):南奥州・関東地区の“南朝”方勢力の結集の為に書いたとされる北畠親房の “神皇正統記”
北畠親房は小田治久に迎えられ、以後1343年(北朝:康永2年南朝:興国四年)迄の5年間、常陸に在って関東並びに南奥州の武士達に南朝方へ与(くみ)する様、説得活動を続けた。彼は“南朝”存立の根拠を明らかにし“南朝に殉ずる事”こそが“大義名分”であると説得した。この論点を骨子として書いたのが“神皇正統記”だとされる。この書物は1339年秋~1340年頃に書かれたとされるが、誰に対して書かれたのかについては以下の3説がある。
4-(1)-①:定説
後醍醐天皇が崩御した事を受けて、義良皇太子が1339年8月に第97代後村上天皇(即位1339年・崩御1368年・生:1328年)として践祚したが、まだ11歳の少年であった。北畠親房が事実上の“南朝の総帥”として、幼帝“後村上天皇“を教育する為に書いたとする説である。
4-(1)-②:関東武士を説得する為に書いたとする説
根拠は“神皇正統記”の奥書(おくがき=末尾の記事)に“或童蒙(あるどうもう=幼くて物の道理の分からない者)に宛てる“と書かれている箇所をとりあげ、関東の武士を説得する為に書かれたとする説。
4-(1)-③:“結城親朝”を説得して南朝方に味方させる為に書いたとする説
関東・南奥州の武士勢力を“南朝方“に与させる事が北畠親房の使命であり、中でも関東と奥州の交通の要衝である”白河“の“結城親朝”を説得する事が最重要テーマであった。しかし説得は困難を極めた上に後述する“近衛経忠”に拠る“北畠親房”排斥の動きも湧き上がるという状況であった。こうした状況を打開し“結城親朝”を説得する為に“北畠親房”が書いたとする説である。
4-(2):北畠親房の努力を水泡に帰させた“藤氏一揆”が起こる・・“南朝方”の内部分裂と噂される
足利幕府(=北朝方)の内部抗争は北畠親房が主導する“南朝”方にとっては勢力固めの格好のチャンスであった。しかしこのチャンスを失わせる“藤氏一揆“と呼ばれる大きな事件が起きた。
4-(2)-①:藤氏一揆(藤原氏同盟)
1341年(南朝:興国2年・北朝:暦応4年)5月:
“近衛経忠”が、北畠親房と関係が悪化していた“興良親王”を奉じて“第三の王朝”を興そうと画策したとする“藤氏一揆”説である。この案に藤原氏の後裔を自認する小山、小田、結城氏が同盟した為“藤原氏同盟”とも称される。
興良親王(おきよししんのう・生:1326年・没不詳)とは“中先代の乱(1335年7月)”の際に足利直義によって殺害された“護良親王(生:1308年没:1335年)”の皇子であり、北畠親房とは伯父・甥という関係であった。
興良親王は“南朝”の後村上天皇から“征夷大将軍”に任じられ、伯父である北畠親房の要請で関東の在地武士の結束に協力すべく、1341年夏から常陸国・小田城に入っていたが、関東・南奥州地区の武士の結束も、南朝方の勢力拡大も思った様に進まなかった為、北畠親房は交代を求めた。この事から興良親王と伯父・北畠親房の関係は悪化した。
この状況に“近衛経忠”が付け込み、興良親王を戴いて第三の王朝を興し“近衛経忠”がその政権の長と成り、小山朝郷(おやまともさと:下野守護:生不詳・没1346年)が“坂東管領”に就き、その下で“小田・結城”両氏が支えるというのが“藤氏一揆構想”の中味とする説である。
又“南朝”の内部で足利幕府(=北朝)に対して主戦派の代表格の北畠親房と講和派の“近衛経忠”の間に対立があり、北朝との講話をスムーズに持って行きたい“近衛経忠“が北畠親房を排除する必要から“藤氏長者”の立場を活かして北畠親房が頼っていた“小田氏・小山氏・結城氏”がいずれも藤原氏の後裔を自認している事に乗じて三氏を誘い“反北畠親房連合”を企てた事が露見した事件が“藤氏一揆”だとする説もある。
4-(2)-②:首謀者とされた“近衛経忠”という人物について
近衛経忠(生:1302年没1352年)は後醍醐天皇からの信任が厚く、異例の抜擢で1330年、28歳の若さで“関白”並びに藤原氏の“氏長者”の地位を得た。1336年8月に足利尊氏が“光明天皇”を擁立した際に“関白宣下”を受けている。
しかし後醍醐天皇がその4カ月後の1336年12月に吉野に逃れると、近衛経忠は後醍醐天皇に対する旧恩から吉野朝廷(南朝)への参仕を決意し、翌1337年4月に京都から出奔した。激怒した北朝側は後任の関白職に近衛家の嫡流の座を巡って近衛経忠と激しく争った従弟の近衛基嗣(生:1305年没1354)を任じた。
“近衛経忠”は南朝で左大臣に就いたが、北畠親房とは政策面で対立した。更に1339年8月に後醍醐天皇が崩御した事で、以後の南朝での立場が弱まり、志を得ぬまゝ、1341年に再び“京(北朝)”に戻っている。しかし北朝方には政敵の“近衛基嗣”が関白の地位にあり、政治権限の全てを握っていた。“近衛経忠”には亡屋一宇(あばら家一軒)と所領二ヶ所が与えられただけの冷遇振りであったとの記録がある。
“第三王朝“説であれ”北畠親房排除゛説であれ“藤氏一揆”はこうした苦しい状況下にあった“近衛経忠”が画策した事件であったとされる。
4-(2)―③:“藤氏一揆(藤原氏同盟)”事件が北畠親房に与えたダメージ
“藤氏一揆”は噂の段階で終息した事件ではあったが、風聞が広まった事で東国武士達を“南朝”方へ集結させる事に注力していた北畠親房にとって以下夫々の観点から大打撃となった。
工:“藤氏一揆”は“近衛経忠”を盟主とした“南朝方”の別派の動きと捉えられ、その構想内容から“北畠親房から東国の支配権を奪おうとする南朝内部のクーデターが発覚した”との噂が広まった。南朝側が一枚岩で無いとの印象を与え、北畠親房の政治的立場は大いに動揺した。
Ⅱ:“北朝”に対し強硬な主戦論を展開して来た“北畠親房”を葬り、講和派の“近衛経忠”を関東に於ける“南朝方盟主”に擁立する動きと“藤氏一揆”を解釈する向きもあった。この事は、北畠親房の政治基盤を揺るがせ、南朝方への“関東武士集結”の説得工作に大きなダメージとなった。
Ⅲ:藤氏一揆の露見は“南朝(吉野朝)”の内部には“二派の動きがあり一枚岩では無い”との印象を“南朝”方に与していた関東武士達に与えた。その為、武士達は集結するどころか疑心暗鬼状態に陥った。結果として北畠親房の“南朝方”への武士勢力を結集する努力を水泡に帰させたのである。
4-(2)―④:近衛経忠の最期
藤氏一揆(藤原氏同盟)が露見した後の“南朝”は軍事力の増強もはかどらず、足利幕府の攻撃にあって“行宮”を転々と移す事態となる。以後“近衛経忠”についての政治的な動きは全く伝えられていない。そして1352年(南朝:正平7年・北朝:観応3年)8月13日に当時の“南朝”の行宮であった“賀名生“で数奇な生涯を閉じたとされる。
4-(3):北畠親房の関東・奥州武士結集策が暗礁に乗り上げ、そうした状況に乗じて高師冬軍が攻勢を強める
4-(3)―①:“高師冬”軍は北畠親房が拠った小田城を攻め、敗れた“小田治久”は足利方に寝返る。
1339年(南朝:延元4年、北朝:暦応2年):
足利幕府(北朝)は高師直の従弟であり猶子でもあった“高師冬”(生:不詳・没:1351年)を関東の幕府軍大将に任じた。彼は足利尊氏の命で1338年から関東平定に当たっており、1339年には“関東執事”に就き、南朝の勢力拡大に動いていた“北畠親房”並びに“小田治久”と戦っていた。
1341年(南朝:興国2年・北朝:暦応4年)11月:
北畠親房が最初に頼った“小田治久”は1331年に後醍醐天皇が笠置山で旗揚げした“元弘の乱”の際には“鎌倉幕府方”だったが、鎌倉幕府が滅亡すると“後醍醐天皇”方に鞍替えし“常陸瓜連城(うりづら城:茨城県那珂市瓜連)”の楠木正家(楠木正成の甥、又は弟とも言われる・生:不詳・没:1348年)と共に足利方の佐竹氏と戦うなど、南朝方に与して来た武将である。
こうした経緯を持つ“小田治久”は1338年9月、常陸に漂着した“北畠親房”を受け入れたが、それを知った足利幕府は高師冬に小田城を攻めさせ降伏させたのである。敗れた“小田治久”は今度は足利幕府(北朝方)に鞍替えした。
頼りにした小田治久に寝返えられた北畠親房は1341年11月、関宗祐(せきむねすけ・生:不詳・没:1343年)を頼り、関城(茨城県筑西市)に入った。
5:“南朝”方の九州地区に於ける勢力拡大=その1=薩摩に上陸した“征西大将軍・懐良親王(12歳)”
後醍醐天皇が1338年9月に“征西大将軍”として派遣した時点では未だ9歳だった“懐良親王”は4年後に九州に上陸、畿内や東国で“南朝方”の勢力が衰退して行く中で、唯一、九州地区の“南朝方”は勢力を拡大して行った。
1342年 5月(南朝:興国3年・北朝:康永元年):
“懐良親王(12歳)”は、熊野水軍や伊予の海賊衆の支援を得て薩摩に上陸した。
6:“南奥州・関東武士の結集策”に失敗し吉野に戻った北畠親房
6-(1):“結城親朝”が北朝方へ寝返り、関宗祐の関城も陥落、万事休した北畠親房
1343年(南朝:興国4年・北朝:康永2年)8月:
北畠親房の“関東武士の南朝方への勧誘”行動の中でも、要衝・白河小峰城の城主である“結城親朝”の勧誘の成否が最も重要だった。しかし“藤氏一揆”の影響で北畠親房の政治基盤が動揺し、説得工作も暗礁に乗り上げていた。それに乗じて足利幕府(北朝)方の攻勢が強まる中で1343年8月“結城親房”が“知行地安堵”と引き換えに“北朝方”に寝返るという最悪の展開となった。
同年 11月:関城も高師冬が落とす
“関宗祐”を頼って関城(茨城県筑西市)に入った北畠親房にとって、南朝勢力の拡大どころか、大宝城(茨城県下妻市)の下妻氏、伊佐城(筑西市)の伊佐氏など、限られた南朝勢力を結集する事で精一杯の状況と成っていた。
こうした状況を見た足利方・高師冬は2年間に亘って攻め続けた来た“関宗祐”の関城攻撃を強化し、遂に1343年11月に落城させた。北畠親房は脱出に成功したが、関宗佑並びに子息は籠城戦の末、討ち死した。続いて下妻氏の大宝城も陥落し、北畠親房の“関東武士結集”策は水泡に帰したのである。
“南朝”方は重要な関東拠点を失ない、策に失敗した北畠親房は吉野に戻る事になる。一方、“南朝“方を討ち、関東平定を成し遂げる功績を挙げた“高師冬”は武蔵国守護、並びに伊賀国守護に任じられた。
6-(2):北畠親房が“関東・奥州武士結集“に失敗した理由
関東武士達にとって北畠親房の“大義名分論”は彼等の“生きる現実”とは“かけ離れた”ものであり“説得力”を持たなかった。北畠親房の基本スタンスは“所領の授与、そして官位授与も、昔からの慣習に則って行われるべき”であった。しかし“所領獲得”こそが全てであった武士達にとって“新たな恩賞地”を手っ取り早く得られるか否かが加担するか否かの判断基準だったのである。
こうした武士達の要求を北畠親房は“商人の如き所存”として退け“将来、朝廷の役に立つ事”を至高の目的に掲げて東国武士を説得しようと努めた。貨幣経済の浸透、旧秩序の動揺、目まぐるしい政治情勢の転変の中で身を処し、家を保全して行かねばならない武士達の心を捉えるには程遠い理想論を振りかざして“南朝方への勧誘”を行ったのである。当然の事として彼に賛同する者は極めて少なかった。後醍醐天皇以上に彼が“観念が先走りした人物”であった事が失敗の主因だったと言えよう。
7:九州地区では足利方(北朝)の一色氏(九州探題・博多本拠)と少弐氏(大宰府本拠)が主導権争いをしていた事が“南朝方”に突け入る隙を与えた
足利尊氏は10年前(1336年)、一時的に九州に退き軍勢を立て直して“多々良浜”の戦いで勝利し、九州地区での勢力を固めた。そして京都奪還の途に着き“湊川合戦”で勝利し、後醍醐天皇方を比叡山に追いやり、足利幕府を開いた。その際に九州地区の守備の為に残した“一色範氏(生1300年没1369年)“が初代・九州探題となったのである。
しかしこの地区には“少弐氏”という古くからの勢力が居た為、九州探題“一色範氏”の権力基盤は脆弱だった。1340年(南朝:延元5年・北朝:暦応3年)2月付で一色氏が幕府宛に窮状を訴え、援助を求めた書状がその裏付け史料として残っている。こうした状況に足利幕府は1346年、嫡男の一色直氏(生没不詳)に“九州探題職”を交代させ、父子で九州地区の地域支配に当らせた。
一方の“少弐氏”は建武新政下で筑前国・豊前国・筑後国の守護に任じられた名門であり、少弐貞経(1333年5月・足利尊氏の六波羅探題攻略に呼応して鎮西探題の北条英時を討つた人物・生:1272年・没:1336年)並びに、嫡男の少弐頼尚(生:1294年・没:1372年)は一色氏と主導権争いを続ける関係と成っていたのである。
7-(1):“鎮西奉行~鎮西探題~九州探題”への変遷史
九州地区の支配組織は下記3段階の変遷を経ている。
第①段階:鎮西奉行・・鎌倉幕府の地方統治機関として1185年に源頼朝が“源義経追捕”目的で“天野遠景”を鎮西奉行人に任じたのが最初であった
第②段階:鎮西探題・・1274年・1281年の“元寇”後の1293年、第9代執権・北条貞時の時代に北条兼時・名越時家を派遣したのが最初とされる
第③段階:九州探題・・1336年に足利尊氏が一色範氏を九州博多に残し、筑前・築後を押さえ、九州の統括に当たらせたのが始まりであった。
7-(2):足利(室町)幕府の全国統治区分について
足利(室町)幕府は京都が中央政府であり、関東地区は“鎌倉公方” 東北地方は“奥州探題”九州地区は“九州探題”が統治を担うという全国統治区分であった。尚“九州探題”は後に“李氏朝鮮(1392年~1910年=朝鮮王朝)“との外交も担う事になる。
8:“南朝方”の九州地区に於ける勢力拡大=その2=“懐良親王”は薩摩から熊本に拠点を移す
1347年 6月:(南朝:正平2年・北朝:貞和3年)
1342年5月に薩摩に上陸した“懐良親王”は、この地の薩摩平氏“谷山隆信”を頼り、居城の千々輪城(=谷山本城・鹿児島市福元町)を丸5年間拠点とした。
この地の守護大名は薩摩・大隅・日向(薩隅日三州)を治める島津氏で“東福寺城(鹿児島市清水町)”を本拠としていた。島津氏が在庁官人の“肝付氏”並びに在地勢力の“谷山氏”との間に軋轢があった状況に突け込み、懐良親王は諸豪族を勧誘して“島津貞久(島津氏5代当主・生:1269年・没:1363年)”と紫原、笹貫で激戦を繰り返したが、敗れ、熊本の“菊池氏”を頼って拠点を移した。
9:河内国・摂津国に於ける“南朝”方の状況・・足利方を脅かした“楠木正行”
楠木正行(くすのきまさつら=生1326年没1348年)は“太平記”に書かれた父・楠木正成との“桜井の別れ”の時の年齢が11歳とある事から、嘉暦元年(1326年)生まれと推測されるが、彼に関する史料は極めて少ない。
楠木正成の嫡男として河内国で生まれ、父の楠木正成が“大楠公”と尊称されるのに対して“小楠公”と呼ばれ、父の遺志を継いで“南朝方”に尽す武将として期待が大きかった。以下に彼の戦歴を記述する。
1347年(南朝:正平2年・北朝:貞和3年)9月:
藤井寺近辺で従兄弟の和田賢秀(にぎたえんしゅう・生:不詳・没1348年1月5日)と共に“北朝方”の細川顕氏(生不詳:没1352年讃岐国・河内国・和泉国守護)軍と戦い、勝利している。この時楠木正行は21歳であった。
同年 11月:
楠木正行・和田賢秀軍は摂津国天王寺の“住吉浜の戦い”で山名時氏(生1303年没1371年)・細川顕氏(生:不詳・没:1352年)連合軍との戦いにも勝利し京へ敗走させている。9月の戦、そしてこの11月の戦で用いた戦法は共に“父・楠木正成”が得意とした“ゲリラ戦法”だったと伝えられている。
10:“南朝方”の九州地区に於ける勢力拡大=その3=懐良親王の九州地区の勢力拡大が順調に進む
1347年(南朝:正平2年・北朝:貞和3年)12月:
懐良親王は肥後の菊池武光(15代当主・生:1319年没1373年)並びに、阿蘇惟時(生不詳・没1353年)を味方に付け、隈府城(わいふじょう=菊池城・熊本県菊池市隈府)に入り、征西府(懐良親王が征西将軍として九州を転戦した時に各地に設けた在所)を開いた。九州攻略は順調に進んでいたのである。
11:“南朝方”が大打撃を蒙る・・楠木正行が“四条畷の戦い”で討ち死する
1348年1月5日(南朝:正平3年・北朝:貞和4年)
南朝方は上記した九州地区で“懐良親王”の“征西府“が順調に勢力を拡大し、又“京都周辺”でも“楠木正行”軍が連戦連勝の勢いであった。こうした状況に足利幕府方(北朝)は危機感を強め“高師直”を大将とする大軍を編成し、南朝方を“四条畷(大阪府北河内地域)の合戦”で一気に討伐する動きに移った。
幕府(北朝)軍は高師直と細川頼春(生:1304年・没1352年室町幕府の管領職を世襲する細川京兆家の祖となる人物)から成る約70,000人の兵力で、僅か3,000人の楠木正行軍を攻撃した。楠木正行軍は足利軍の圧倒的な兵力の前に敗れ、1歳下の弟・楠木正時(生:1327年・没1348年)と刺し違え、自決するという悲惨な最期を遂げた。
北畠親房が関東・奥州武士を南朝方へ集結する事に失敗して吉野に戻る等、南朝方の勢力の衰えが顕著に成っていた事態に加えて“希望の星”であった楠木正成の遺児“楠木正行”の討ち死は“南朝方”に大きな打撃を与えた。
11-(1):“四条畷の戦い“関連史跡訪問記
11-(1)-①:吉野“如意輪寺”:2016年11月22日
“後醍醐天皇御陵”訪問記でも触れたが、吉野・如意輪堂の宝物殿には“楠木正行”が高師直との“四条畷の決戦”に臨む際に“後村上天皇”に拝謁し、国難に殉ずる事を誓って“如意輪堂の扉”に鏃(やじり)で遺した“かへらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる”の“決死の和歌=辞世”が展示されている。
楠木正行が“生還を期せぬ決意を固め戦場に臨んだ”と“太平記巻二十六”に書かれた話で有名な史跡である。史実としての信憑性は疑わしいとされるが、如意輪寺の寺宝の扉に刻まれた文字は今日では判別も難しい。鏃で書いたとは思えぬ程の達筆であった。
11-(1)-②:“楠木正行公”御墓所:2016年12月16日
大阪のJR東西線(学研都市線)に乗り“四条畷駅”で下車し、徒歩で7~8分程の処に“楠木正行公墓所”がある。
精々200坪程の境内であろうか。“小楠公墓地”と書かれた案内板には“(略)正行公が足利尊氏の武将・高師直の大軍と戦い戦死し葬られた所である。正平三年(1348年)一月、今から633年前(昭和56年時点)、戦死後80年経ってここに小さな石碑が建てられ、何人かが碑の近くに二本の楠木を植えたところ、その後この二本の木が合わさり、石碑を挟み込み、この様な大木(樹齢約550年・天然記念物)となった。(略)この大木は、楠木正行、並びに共に戦って戦死した人々の“忠誠”を永遠に称えている、と書かれてあった。
昔、楠木正行の墓は”楠塚”と呼ばれていた。上述した“小楠公御墓所”と改められたのは明治11年(1878年)であり、その折に整備され“従三位楠木正行朝臣之墓“と刻まれた高さ3~4m、幅1m程の立派な石柱の墓碑も建立された。墓の銘は“大久保利通”の自筆との事である。
大久保利通は西南戦争で盟友の西郷隆盛を明治10年9月に自刃に追い遣った僅か8カ月後の明治11年(1878年)5月14日に東京の紀尾井坂で5人の士族に襲われ48歳の人生を終えている。従ってこの史跡の石碑の揮毫は彼が暗殺される直前のものである。
四条畷の地元の人々は形勢不利と分かってい乍ら、父・楠木正成の遺志を継いで“南朝”の後村上天皇に忠義を尽くしたばかりか、敵に対しても温情をかけた正義の人として“楠木正行”を昔から大切に祀って来た事を裏付ける史蹟である。
11-(1)-③:和田賢秀公墓:2016年12月16日
四条畷駅から“楠木正行公の墓地”とは反対方向に曲がり、旧国道170号線を左折して5分程歩いた処に“和田賢秀(にぎたけんしゅう)“の墓がある。150坪程の墓地であろうか、石の門柱には右には”忠“とあり左の門柱には“烈”と刻まれている。
“和田賢秀”は常に“楠木正行”と共に戦って来た武将で、楠木正行の自刃を聞くと単身敵の高師直陣に潜入したが、嘗ての味方“湯浅本宮太郎左衛門”に背後から討たれた。その“討ち死”した場所が現在の墓所であり、位牌型の墓石には“天保2年(1831年)”建立とある。彼は討たれた際に敵の首に噛み付き、睨んで離さず“湯浅本宮太郎左衛門”はそれが原因で死んだと伝わる。和田賢秀は未だ20歳前後の若さだった。
案内板には“四条畷の人々は“和田賢秀”の霊を“歯噛様(はがみさま)=歯神様”として祀っている“と書かれていた。
11-(1)-④:四条畷神社:2016年12月16日
四条畷駅からバスも利用出来るが、我々は歩いて四条畷神社に行った。案内書には約1100m、徒歩約15分と書いてある。駅から“楠木正行公墓地”とは反対方向、右折をして真っ直ぐ飯盛山に向って歩くとその山麓に“四条畷神社“がある。
神社の前に掲げられた”四条畷神社由緒記“には”御祭神 贈従二位楠木正行卿 贈正四位楠木正時卿 贈従四位 和田賢秀卿 外 殉節将士二十四柱“と書かれている。そして“創立 明治天皇の思召により明治二十二年(1889年)別格官幣社に列格仰下され翌年鎮座“とあった。
同神社は上述した“楠木正行公墓地”と“和田賢秀公墓”を統合する形で新たに”別格官幣社・四条畷神社”として建立されたとあった。新しい日本の国家像を国民に植え付ける為の動きの一貫として、南朝に尽くした人々を顕彰する事業が日本各地で展開された事を“別格官幣社”の第一号として“楠木正成”を祀った“湊川神社”の訪問記で述べたが、今回の史跡訪問もそうした当時の明治政府の意図がはっきりと読み取れるものであった。
12:“南朝”攻撃を激化させた政敵・高師直に、養子・足利直冬を起用して軍事的に対抗した足利直義”
12-(1):楠木正行を滅ぼした勢いに乗じて“吉野”を焼き払い、後村上天皇を“賀名生”に追い遣った高師直
1348年1月(南朝:正平3年・北朝:貞和4年):
高師直は吉野の“南朝拠点”を襲撃し全山を焼き払った。吉野山はほゞ全焼し、追い落とされた後村上天皇は“賀名生”に後退した。軍功を挙げた高師直が幕府内の立場を更に強めた事で“足利直義”との対立は更に先鋭化して行った。
12-(2):養子・足利直冬を“南朝討伐軍の大将“に任じ、高師直に対抗した足利直義
1348年(南朝:正平3年・北朝:貞和4年)5月28日:
足利尊氏は側室の越前局に若い頃に産ませた“足利直冬(生:1327年・没:1387年・説1400年)”を実子として認知しなかった。その為、弟の足利直義が養子として育てた。
養父・足利直義は紀伊などでも勢力拡大を続ける“ 南朝”方勢力を足利直冬(当時21歳)を“南朝討伐軍大将”に任じ、討伐させる事を隠居状態だった兄・足利尊氏に進言した。足利尊氏はこれを渋々認めたとされる。この人事に拠って“足利直冬”は従四位下左兵衛佐に叙任された。
世間はこれを尊氏が実子として認知したと解釈し、これを境に足利直冬には“足利尊氏の息子”という“権威”が備わった。以後、周囲の武将達の彼に対する扱いが大きく変わったのである。
同年 6月18日:
“足利直冬”は紀伊に向けて出陣し、以後3カ月に亘って“南朝”勢力と攻防戦を繰り返し、戦功を積み上げ乍ら各地を転戦した。
同年 9月28日:
数多くの戦功を立てて“足利直冬”が凱旋した。“太平記”は彼の活躍に対し、足利尊氏はじめ、正妻の赤橋登子、足利義詮、高師直、二木義長、細川顕氏等が冷ややかな態度であったと伝えている。一方、養父・足利直義や直義派の武将達は高く評価したと記している。
足利直義が“足利直冬”を起用した事を切っ掛けに、高師直と足利直義の幕府内抗争は“足利尊氏・足利義詮“父子を巻き込んだ争いへと拡大して行くが、それを暗示する記事である。
同年 9月:
一方、吉野を焼かれた“後村上天皇”は紀伊花園(和歌山県かつらぎ町)に一旦避難していたが、9月初旬に“穴生(あなふ=奈良県五條市)”に到着し“華厳院御所”を建立した事が“賀名生の里・歴史民俗資料館“の案内板に書かれている。
大和”賀名生(あのう=奈良県五條市)“は当時は“穴生”と書かれていた。後村上天皇はこの地の“堀家住宅”を行宮とした。この地は“後醍醐天皇”が京の花山院から逃れて最初に吉野に入った時に一度は“行宮”として考えた場所であった。“後村上天皇“は“穴生(あなふ)”と称された当地の名称を“南朝”に拠る統一を願って“賀名生=叶う”に改めたと伝わる。明治になって原音に近い読み方に戻した為、今日では“あのう”と読む。
13:観応の擾乱(かんのうのじょうらん)・・1349年~1352年
足利幕府に起こった一連の内紛の中“観応の擾乱”がその最大のものである。その第一幕が、足利尊氏の執事“高師直”と尊氏の弟・足利直義との間で1349年8月“京都騒動”という形で始まる。
“高師直”を筆頭として、守護家の庶子や京都周辺の新興御家人等の革新派が“高師直派”を形成し、一方の“足利直義派”は訴訟や公権的支配に関する司法官僚、並びに守護家の嫡子、そして地方の豪族の保守派が形成した。
13-(1):“京都騒動”の伏線
1349年(北朝:貞和5年・南朝:正平4年)4月:
“足利直冬(生:1327年没:1387年説1400年説あり)”が“長門探題”に任ぜられる。この人事は、高師直に対する足利直義の対抗策だとの説もあるが、足利尊氏や正妻の赤橋登子、並びに嫡子・足利義詮が“足利直冬”を遠ざける為に特別に設置した官職に就けて彼を遠隔地に追い遣ったとの説もある。
長門探題は備後(広島県東部)、備中(岡山県西部)、安芸(広島県西半分)、周防(山口県南部)、長門(山口県北西部)、出雲(島根県東部)、因幡(鳥取県東部)を菅領する。
鎌倉時代はモンゴル帝国の襲来に備えて常設されていた官職だが、足利幕府には置かれておらず、新たに設置された職であった。上記した様に“足利直冬”が足利尊氏の実子として扱われた為、仁科盛宗等多くの評定衆、奉行が同行した。
同年 閏6月:
足利尊氏・直義の従弟で足利直義の執事的存在であった“上杉重能(うえすぎしげよし=生:不詳・没:1349年)と直義の側近・畠山直宗(はたけやまただむね・生:不詳・没:1349年)が禅僧“妙吉(みょうきつ)”を抱き込んで高師直・師泰兄弟の讒言をし、排除すべきと直義に進言した。
僧妙吉は足利直義が深く帰依する夢窓疎石の兄弟弟子であり、その“夢窓疎石“の推挙があった事で、足利直義は”僧妙吉“にも深い信頼と保護を寄せていた。
“僧妙吉”にも上杉重能と畠山直宗の高師直・師泰兄弟に対する讒言を信じる十分な背景があった。それはバサラ党の高師直・師泰兄弟は古い権威を否定し、神社仏閣すらもお構い無しに焼き払った為“僧妙吉”も高師直・師泰兄弟に対し敵意を抱いていたのである。讒言を受けた“足利直義”は高師直・師泰兄弟排除の決心を固め、兄・足利尊氏に高師直の執事職を罷免する様迫った。
この事は“太平記”に書かれている他、公家の洞院公賢(とういんきんかた)が残した“園太暦”の日記(1349年閏6月2日条)にも明記されている。当時“京”で広く知られた“史実”であった事を裏付けている。
足利尊氏は足利直義の要求を受け入れ、代わりに“高師世(こうのもろよ=高師泰の子・生:不詳・没:1351年)”を執事職に任じた。この動きが“高師直”の“足利直義”に対する敵意に火を付け、8月の“京都騒動”へと繋がる。
13-(2):高師直がクーデターを起こす(京都騒動)・・観応の擾乱第一幕
1349年(南朝:正平4年・北朝:貞和5年)8月12日
足利直義は高師直の執事職罷免に止まらず、追放を画策した(一説として高師直を足利直義邸に招いて暗殺を謀ったとの説もある)。それを察知した高師直は先手を打って兵を集め、8月12日の夜に足利直義を襲撃した。足利直義は兄・足利尊氏の邸に逃れたが、高師直は足利直義に与して今回の“執事職罷免”に関わった“畠山直宗”と“上杉重能”の引き渡しを求め、足利尊氏邸を包囲した。
足利尊氏と高師直との交渉となり、畠山直宗と上杉重能の配流と足利直義の政務への関与停止、その後任に鎌倉に居た尊氏の嫡子・足利義詮(よしあきら:足利幕府第2代将軍:生1330年没1367年)を充てる事が決まり、高師直は包囲を解いた。足利直義は足利義詮の補佐に廻り、高師直は執事に返り咲いた。尚、高師直の要求の中には裏で暗躍したとされる“僧妙吉”の引き渡しもあったとする説がある。
=この裁定を下した足利尊氏のスタンスについて=
高師直のクーデターに関して“足利尊氏は弟・足利直義の勢力を削ぐ良いチャンスだと考え、高師直にクーデターの兵力動員を承認していた“との説がある。
しかし“太平記の時代”の著者“新田一郎゛氏は、足利尊氏と弟・足利直義との間に権力闘争があった訳では無く、又(前項で詳細に紹介した)足利尊氏の“その場凌ぎの対応をする性分”からして、今回だけに限って“高師直”を使って足利直義を陥れる謀略を考えたとする上記説を否定している。
上記、足利尊氏(当時44歳)の裁定からは彼が政務の権限を弟の直義(当時43歳)から嫡子義詮(当時19歳)に譲らせ、直義にはその補佐に廻らせる事で一線から退かせる“世代交代“を考えていた事を窺い知る事が出来る。
同年 9月:
足利尊氏の嫡子・足利義詮(当時19歳)が鎌倉から呼び戻され、その後任には足利尊氏の正妻、赤橋登子の次男で、当時未だ9歳だった“足利基氏”(生:1340年・没:1367年)を充てた。彼が将軍が鎌倉を留守にしている間の代理を務める初代“鎌倉公方(在職1349年~1367年)”となった。
13-(3):足利直義の失脚を知った“養子・足利直冬”が動く
1349年(南朝:正平4年・北朝:貞和5年)9月:
養父・足利直義が高師直のクーデターで失脚した事を知った“足利直冬”は上洛の動きを見せた。足利直冬が動いた理由を養父・足利直義の求めに応じたとする説がある。その裏付けは“園太暦”の1349年6月3日条に“近来権勢を振るっている僧妙吉が京から逐電した。八幡に参籠に行ったとも、美作に行ったとも噂されたが、どうやら(足利)直冬の許へ使者として備後(広島県東部)に向ったそうだ“の記述としている。
つまり、当時長門探題として備後に赴任していた“足利直冬”との連絡役を “僧妙吉”が常日頃行なって居り、失脚させられた足利直義が高師直へ対抗する為の軍事的措置として養子・足利直冬の上洛を画策した事が読み取れるとする説である。
13-(3)-①:足利尊氏が“足利直冬討伐令”を出す
“京”への動きを開始した足利直冬軍は播磨で赤松則村(円心)に阻止され、備後の鞆津に留まった。備後(広島県東部)は長門探題の管轄下ではあったが、本国は長門(山口県北部・西部)であり、備後に彼が留まる行動は幕府からすれば命令違反であった。
更に“足利直冬”は、中国地方(岡山・広島・山口・島根・鳥取)で武士達に恩賞を与えるなど、軍勢を増強する動きを見せており、こうした動きを危険視した足利尊氏は“足利直冬討伐令”を出すに到ったのである。
13-(3)-②:討伐令を逃れ“足利直冬”は九州に渡り、足場を築く
1349年(南朝:正平4年・北朝:貞和5年)9月13日:
高師直の命を受けた“杉原又三郎”等200余騎が“足利直冬”を鞆津で襲撃した。足利直冬は“磯部左近将監”や肥後の“河尻幸俊”に助けられ、船で九州に逃れ、肥後国河尻津(熊本市)に上陸した。足利直冬は足利尊氏の実子という権威を利用して、地元の国人勢力や阿蘇氏に所領を安堵する等で九州に足場を築いて行ったのである。
こうした“足利直冬”を幕府は見逃す訳に行かず、彼に“出家をし上洛する様”命じたが従わず、南朝の征西将軍宮“懐良親王”と結び“討伐令”に従って足利直冬を追う“九州探題“の一色範氏(道猶)”との戦いを繰り広げたのである。
“足利直冬”は九州の武士達に“私の立場は両殿の御意を息(やす)め奉らんが為、打立つ所存也“つまり”足利尊氏と養父の足利直義の争いの調停者“だと喧伝する事で現地の豪族達を味方につけ、更に、軍事催促状も発する等、己の地盤強化に努めた。
同年 12月8日:
一方、京の足利直義は高師直一派の圧力に抗し切れず出家させられ“慧源”と号した。京都騒動で 高師直の“執事職罷免”の動きに関わったとして越前国江守に配流された、足利直義側近の“畠山直宗”は高師直の密命を受けた部下に拠って家族・主従53名と共に自害に追い込まれ、又“上杉重能”も貞和5年(1349年)12月20日死没との記録が残る事から、同様に殺害されたものと考えられる。高師直の足利直義に対する“執拗”な仕返しの犠牲と成ったのである。
13-(3)-③:九州探題の“一色範氏”との長年の抗争に勝利すべく“足利直冬”を味方に引き入れ、利用した“少弐頼尚”
1350年(南朝:正平5年・北朝:観応元年)6月:
北朝・光厳上皇の“足利直冬討伐令”の院宣を受けた“高師泰”軍が京を出発する。
同年 9月:
九州地区の主導権を巡っては、2年前の1347年に肥後・菊池迄北上した①南朝方“懐良親王”の勢力②九州探題で博多を本拠地とした一色氏③筑前国・豊前国・肥後国・対馬国の守護職で大宰府を本拠地とした少弐氏、以上三勢力が争う状況であった。
“一色範氏(生:1300年没1369年)“との主導権争いに決着を付けるチャンス到来と考えた”少弐頼尚“は、九州に逃れて来た足利尊氏の実子で、足利直義の養子という“貴種”の“足利直冬(当時22歳)”に目を付け、引き入れる事を考え、己の娘を彼に娶らせた。更に“懐良親王”並びに親王を擁立する菊池氏とも結び“一色範氏“を博多から追い払う事に成功したのである。
13-(4):足利尊氏が“足利直義追討”の院宣を得、終に争いは兄弟対決に発展・・“観応の擾乱“第3幕
13-(4)―①:九州地区で勢力を拡大する“足利直冬”を討伐する為、自ら出陣した足利尊氏
1350年(南朝:正平5年・北朝:観応元年)10月26日:
九州探題“一色範氏”を博多から追い出し、九州地区で勢力を拡大する“反・足利幕府勢力“は”足利直冬+少弐頼尚+南朝方“という勢力図となった。この連合に危機感を抱いた足利尊氏は“高師直軍”を率いて先ずは“足利直冬討伐”の為、中国地方に向け出陣、この為、京は留守となった。
13-(4)-②:出家させられた足利直義が“高師直・師泰兄弟”討伐の為に立ち上がる
1350年(南朝:正平5年・北朝:観応元年)11月3日:
養子“足利直冬”が“少弐氏+菊池氏+懐良親王”の連合で九州地区で勢いを増す活躍に呼応する形で、出家の身の“足利直義”が京を脱出し大和へ出奔し“畠山国清(生不詳・没:1362年・河内守護)の河内・石川城に入った。
足利直義は“高師直・高師泰兄弟追討”の兵を募り、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏、吉良貞氏、山名時氏、斯波高経等多くの武将を味方に付けた。この事は“高師直・師泰”兄弟の政治専横に反感を抱く武将が如何に多かったかを物語っている。
13-(4)-③:足利直義方が全国的に勢力を拡大する動きに出た事に対して足利尊氏は遂に弟“足利直義追討”の院宣を得る・・観応の擾乱第3幕(定説では“観応の擾乱“の始まりとしている)
1350年(南朝:正平5年・北朝:観応元年)11月:
足利直義の動きに全国の武士達の多くが呼応した事を知った足利尊氏は急遽中国地方から引き返し“光厳上皇”から“足利直義追討”の院宣を得た。之を以て終に“足利直義と高師直・師泰”の間の内部抗争は“足利尊氏と足利直義”の兄弟直接対決、幕府二大巨頭が直接に対決する局面へと拡大する事に成った。“足利幕府=北朝方”が完全に内部分裂状態になったのである。
この時点を以て“観応の擾乱の始まり”とする説が“定説”であるが、既述した様に一連の“足利幕府内部抗争”は既に始まって居り、この時点は“観応の擾乱第3幕”と考える方が正確であろう。
“観応の擾乱”とは呼ぶものの、一連の抗争は“観応”の年号が“正平一統(後述)”で廃される1351年11月時点以降も続く。1352年閏2月~5月に掛けて戦われた“男山八幡の戦い”で北朝側が勝利した事を以て終息したと考えるのが妥当である。
しかもその後、足利幕府は自ら廃した“北朝”を再興するが、この事が“南朝”方を益々延命させる事に成る。結果として“南北朝時代”の大混乱状態は1392年に足利義満に拠って“南北朝合一”が成るまで収まる事は無いのである。
=飽くまでも中立的立場を保とうとした足利尊氏=
足利尊氏は執事・高師直・師泰兄弟に政治を専横させた結果、弟・足利直義との対立が深まり、両者の抗争の間に立って右往左往したと伝わる。しかし飽くまでも中立の立場を保とうとした足利尊氏の“優柔不断”の姿勢が状況悪化を招き“足利直義追討”の院宣を得て幕府の2トップ(尊氏と直義)が直接争う最悪の事態にまで到って了ったと言えよう。
13-(5):兄からの“討伐令”に対抗して“南朝”に降った足利直義・・観応の擾乱第4幕
1350年(南朝:正平5年・北朝:観応元年)12月:
当時の武将は己の“正当性”を得る為に“南朝”方であれ“北朝”方であれ“天皇家の与党“である事が戦いを有利に進める必須条件と考えた。
足利尊氏は“光厳上皇・光明天皇”を擁立し“北朝”を開いた張本人であり、そうして“天皇家の与党“の立場を自ら作り上げ、征夷大将軍の官職を得て足利幕府を開いた。こうした策は全て弟・足利直義の提案だったとされる。その兄・足利尊氏が“足利直義追討”の“大義名分”を光厳上皇の院宣という形で得た。
こうした動きに対抗する為には“足利直義”にも“大義名分と正当性”が必要であり、そこで彼は“南朝“に3ケ条の講和条件を提示し“南朝”方に降る事を願い出“高師直・師泰兄弟追討”の大義名分と正当性を得て戦いを有利に進める“ウルトラC策”に出たのである。
13-(5)-①:足利直義の“帰服”だけを許した“南朝”
“南朝”にとって足利直義は足利尊氏以上に“敵”の存在であった。その理由は後醍醐天皇を慕い、直接戦う事を常に躊躇していた兄・足利尊氏の尻を叩いて後醍醐天皇に逆らう動きを決意させたのは、足利直義だったからである。従って“南朝”の中で足利幕府(=北朝)に強硬姿勢を貫く北畠親房に次ぐ権力者“洞院実世(とういんさねよ:生・1308年没・1358年:公卿:公家大将)”は足利直義が“南朝に降る”事に対して反対したばかりか、殺害を主張したのである。
しかし北畠親房は“足利幕府打倒~王朝統一~天皇親政復活”という最終目的の為には、ここは“足利直義”と結んで足利尊氏を攻撃した方が得策であると主張し、結果、足利直義の“講和条件”は拒否するものの、帰服(支配下に入る事)だけを許す事に成った。
1350年(南朝:正平5年・北朝:観応元年)12月23日:
“南朝”から帰服を許された事で“足利直義”は後村上天皇から“義兵”を挙げる“綸旨”を得る事が出来た。これに拠って“高師直・師泰兄弟”と戦う大義名分を得たのである。綸旨の効果は大きく、早速、生駒山で“石塔頼房(いしどうよりふさ・生:1321年・没:1413年)が参加し挙兵した。
13-(5)-②:勢いを増す足利直義方は“上杉憲顕”が関東で挙兵し、鎌倉の関東執事・高師冬を滅ぼす
1351年(南朝:正平6年・北朝:観応2年)1月4日~7日:
“南朝”方に帰服し後村上天皇の与党の立場を得た強みに加えて“高師直・師泰”兄弟の“政治専横”に対する武士達の反感が爆発し“足利直義”方への参加は急増した。直義派の越中守護・桃井直常(もものいただつね・生:不詳・没:1376年)は1月4日には男山八幡(石清水八幡宮)を目指して東坂本(比叡山の東麓)迄到り“足利直義”自身も男山八幡に進軍していた。この時点で比叡山を味方に引き入れる事にも成功していたとされる。
同年 1月17日:“高師冬”を滅ぼす
“足利直義“が“高師直・高師泰兄弟追討命令”( 1350年11月3日)”を発すると全国の足利直義派の武士が決起する流れになり“上杉憲顕”(うえすぎよしのり・生:1333年・没:1378年)”も呼応して12月初頭に上野(群馬県)に進出し、子の上杉能憲と共に高師直の従弟で1339年以来“関東執事”の職にあった“高師冬”(生:不詳・没:1351年)”を襲い鎌倉から追い出している。
上杉憲顕(うえすぎのりあき・生:1306年・没:1368年)と高師冬は“足利基氏”が初代鎌倉公方に就いた時には共に補佐役を務めた間柄であったが“京都騒動”の後に従弟の“上杉重能”が高師直の密命で殺害(1349年12月20日)された事で両者は“敵対”関係に変わっていたのである。
鎌倉から追われた“高師冬”は甲斐国の須沢城に逃れたが、足利直義方の“諏訪直頼”の軍勢に包囲され1351年1月に自害して果てた。“高一族”滅亡の最初の人物である。
13-(5)-③:足利直義派の“桃井直常”軍が入京を果たす
1351年(南朝:正平6年・北朝:観応2年)1月10日:
“足利直義”方には畠山・細川の諸将、並びに、山名・斯波・佐々木等の重臣達も加わり、勢力を拡大し乍ら京を目指して進軍を続けた。その中から、北陸から進軍した“桃井直常”が京で留守を預かっていた尊氏の嫡男・足利義詮(あしかがよしあきら・室町幕府第2代将軍・生:1330年没:1367年)を攻撃した。
足利義詮軍は自軍から兵が脱走するなど劣勢となり、京を放棄して父・足利尊氏の下に落ち延びた。その結果、足利直義方の“桃井直常”軍が“入京”を果したのである。
13-(5)-④:足利直義方の増勢を見て“足利尊氏・義詮”軍は播磨まで後退する
1351年(南朝:正平6年・北朝:観応2年)1月15日:
“足利直義”方が軍勢を拡大する状況に足利尊氏は出陣先の中国地方から急遽、山崎にまで引き返していた。嫡子・足利義詮が京を追われ、足利直義方の“桃井直常”軍が“入京”すると足利尊氏は四条河原に進出し、桃井直常軍を撃破した。しかし足利直義方には斯波高経・上杉朝定・今川範国・山名時氏・佐々木貞氏等が加わり、敵方の軍勢は増すばかりという状況に、戦況不利と判断した足利尊氏は一端“播磨書写山(兵庫県姫路市書写)“にまで軍勢を撤退させている。
13-(6):高師直・師泰兄弟の滅亡
13―(6)-①:南朝に降るというウルトラC策が奏功し“足利直義”軍は“高師直・師泰兄弟軍“との戦闘に連戦連勝する
1351年(南朝:正平6年、北朝:観応2年)2月6日:
“南朝”への帰服を許された足利直義はこの時点で使者を派遣し“銭一万疋”という大金を献上した事が、醍醐寺の房玄大僧都が記した”房玄法印記“に記されている。未だ”高師直・師泰兄弟軍“を中心とする“足利尊氏”方との戦いに決着はついていなかったが“足利直義“はすでに勝利を確信し、戦後政策、つまり”南朝との講和“に向けて動き始めていた事を裏付けている。
同年 2月17日:
足利直義軍は更に“光明寺合戦”並びに“摂津打出浜(兵庫県芦屋市)の戦い”でも高師直・師泰兄弟軍(=足利尊氏方)を連破した。
=光明寺合戦=兵庫県加東市光明寺
“播磨最大の合戦”とされたのがこの戦いであった。“足利直義・石塔頼房・愛曽伊勢守”軍と高師直軍(足利尊氏方)との戦いで、石塔頼房(生:1321年・没:1413年)軍は“光明寺城”に籠城し、引尾山に布陣した“足利尊氏”軍、並びに鳴尾山に布陣した“高師直”軍を堅い守りで退散させ、勝利した。
=摂津打出浜の戦い=
兵力で勝った足利尊氏・高師直軍であったが、この戦いでも志気に勝る足利直義軍の前に敵前逃亡をする者が多く、戦意喪失の状況から敗戦を重ねた。
=天才的な武将・足利尊氏が何故敗戦を繰り返したのか=
多くの主要な戦闘では必ず勝利し、足利幕府を開いた“天才武将”足利尊氏が敗戦を重ねたのは何故であろうか。
弟・足利直義と高師直・師泰兄弟間の内部抗争がエスカレートし、傍観していた足利尊氏にとって看過出来ない程に“足利直義”方が優勢の状況と成っていた。政治を両者に任せた足利尊氏ではあったが、自らの執事が圧倒される状況を最早放って置けず、重い腰を上げ“足利直義討伐”に動かざるを得なくなったのである。
本意では無い出陣である上に、生来余り物事を深く考えず、その場凌ぎで行動する足利尊氏であったから、自分が出陣すれば難なく勝利すると考えていたのであろうが、思いの外の敗戦の連続であった。
その理由は“高師直・師泰兄弟”に反感を抱く多くの武将が“足利直義”に味方する連鎖が起きた上に、戦闘中でも味方から敵方“足利直義軍”に寝返る武将や“敵前逃亡”する者が多く出る始末で“数”では勝っていたものの“戦意”の面で圧倒的に劣り、流石の“天才武将足利尊氏”と雖も予想外の苦戦を重ねたのである。
13-(6)-②:足利尊氏が敗戦を認め“足利直義”との“和議”が整う・・“高師直・師泰兄弟の出家・配流が決まる
1351年2月20日:
敗戦を認めた足利尊氏は足利直義との“和議”交渉に入った。そもそもこの戦いの元凶が“高師直・師泰兄弟”と足利直義との政策の違いにあり、両者が政治の主導権を巡って争った事にあった。足利直義が兄・足利尊氏に対抗して戦った訳では無かったから“和議”に際して足利尊氏は“首長”としての姿勢を崩していなかったし、嫡子の足利義詮の立場にも変更は無かった。
執事・高師直を失脚させ、足利義詮が政務を握り、それを“足利直義”が補佐する形で政務に復帰するという決着内容となった。細川顕氏・石塔頼房ら足利直義方の主だったメンバーが“引付”等の主要な役職に就き、足利直義を支えるという体制が整ったのである。
足利尊氏は“高師直・師泰の出家・配流”を約束した。“太平記”には足利尊氏に仕え“容貌当代無双の児・寵童”と表現され、当時未だ16歳の“饗庭氏直(あえばうじなお=生1335年没不詳)”が交渉役を担い、足利尊氏が彼に“(弟)直義には高師直の殺害を許可すると伝えよ”と命じたと書かれている。
この事から“足利尊氏は弟・足利直義と高師直の争いを利用して巧妙に両者を排除する陰謀を巡らし、先ずは高師直の処分を行った”とする説があるが、足利尊氏という人物の性分から、その様な緻密な策を巡らすとは考えられ無い。足利尊氏は“面倒となると簡単に投げ出す性分”である事から、今回の内乱の元凶と成った高師直の一派に見切を付け、失脚させる結論に同意したとの説の方に説得力があろう。
13-(6)-③:“高師直・師泰の出家・配流”の決定に承服出来ない“上杉能憲”が養父の仇討ちを決行する
1351年2月26日:配流途中の高師直・師泰が討たれ“高氏一族”が滅亡する
高師直は“京都騒動(1349年閏6月~同8月)”の後、1349年12月に“上杉重能”を自害に追い込んだ。高師直・師泰兄弟を憎む武将は多く居たが、養父を討たれた上杉能憲(うえすぎよしのり:実父は上杉憲顕・生:1333年没:1378年)は“高兄弟”に対して激しい敵意を抱いていたと伝わる。
足利尊氏と足利直義との間に和議が成った事を知った“上杉能憲”は京に護送中の高師直・師泰兄弟を摂津武庫川(兵庫県伊丹市)で襲い、首を取り、その胴体を川に投げ捨てたと記録されている。彼は既述した様に1351年1月17日に“高師冬”を滅ぼしている(市河頼房代泰房軍忠状)から“高氏一族”の3人全てを自らの手で討ち取ったのである。
“上杉能憲”はこの時18歳であったが、17年後、第3代将軍足利義満並びに第2代鎌倉公方・足利氏満の時代、1368年~1378年の間、関東管領職に就いている。
=上杉家と関東管領職=
関東管領職は当初“関東執事”と呼ばれ、その起源は足利尊氏の嫡男・足利義詮(足利幕府第2代将軍・生:1330年・没:1367年)が6歳~19歳(1336年~1349年)迄、鎌倉府の長官として居た時に、斯波家長・上杉憲顕・高師冬・高重茂が補佐役として就いた事に始まる。
其の後、弟の足利基氏(足利尊氏四男・生:1340年・没1367年)が1349年9月から1367年の間“鎌倉府長官”の立場を引き継いだ時点で“初代鎌倉公方”と呼ばれる様になった。この期間は高師冬・畠山国清・高師有・上杉憲顕が補佐役に就いている。
1367年4月に足利基氏が急死した為、息子の足利氏満(生:1359年・没:1398年)が第2代鎌倉公方に就くが、8歳と幼かった為、上杉能憲の父・上杉憲顕が再び後見職に就いている。この頃からこの職は“関東管領”と呼ばれる様になった。
記録では上杉憲顕(在職1336年~1368年)が関東管領職に就いた後“上杉政虎(在職1561年~1578年)“迄の実に200年に亘って“上杉氏”がこの職を独占している。地元に強大な影響力を持つた事がその理由である。
“関東管領”職の歴史は当初の“鎌倉公方の補佐役”という役割から“武蔵国守護”を兼ねる強大な権限を持つ職に変化し、次第に“鎌倉公方”と対立する様になる。そして“享徳の乱(1455年~1483年)”という大事件を経て、以後1455年から1578年迄の120年間は“関東管領”が事実上“鎌倉公方“に取って代わる”権力“を握るのである。こうした“関東管領職”を巡っての歴史展開については次項以降で記述するが、1561年~1578年の間“関東管領”職に就いていたのが“上杉政虎“すなわち後の”上杉謙信(生:1530年・没:1578年)“である。
13-(7):“足利直義主導”の政治が開始された直後から始まった“足利義詮”との新たな“対立”
高師直滅亡後“足利直義”は政務に復帰した。兄・足利尊氏は“足利直義”を嫡子・足利義詮(当時21歳)の補佐役として就け“世代交代”を図ったが、戦闘に勝利したのは足利直義だという事情もあり、実態は“足利直義”主導の政治が開始された。しかし直後から足利義詮と足利直義の間には新しい対立が生れたのである。
足利義詮の人物評については“太平記“には”他者の口車に乗りやすく酒色に溺れた愚鈍な人物“と描かれているが、1368年(南朝:正平23年・北朝:応安元年)には“半済令(応安の半済令)を発布し、全ての荘園年貢を本所側(皇室・公家・寺社)と守護側(武士)とで均分する事を永続的に認める政策を実行するなどの実績を残している。この発令の結果、各地で荘園・公領が分割され、守護の権益、支配権が拡大し、守護大名に拠る“領国支配体制”の確立に繋がるのである。
軍事面でも対立する足利直義の養子“足利直冬”の侵攻を防いだ実績の他“南朝“方だった大内弘世、山名時氏、仁木義長、桃井直常、石塔頼房等を足利幕府に帰参させるという功績も残している。
13-(8):早くも足利直義の政治主導に暗雲が垂れ込める
1351年(南朝:正平6年・北朝:観応2年)3月:
足利直義は養子“足利直冬”を“九州探題”に任命した。この人事で“足利直冬“は九州地区に於いて他の勢力に抜きん出た存在となった。
1351年 3月末~5月:
足利直義の信任が厚かった奉行人“斎藤利泰”が何者かに殺され、更に5月には“直義”方の桃井直常(生:不詳・没:1376年)が“直義”を訪ねた帰路で何者かに襲撃されるという事件が起きている。政権を主導する立場になった足利直義と“高師直・師泰滅亡”後に実質的後継者と成った足利義詮との間の新たな対立を暗示する事件とされ、早くも足利直義の政治主導に暗雲が垂れ込めたのである。
13-(9):“足利直義”が失政を重ねる
13-(9)-①:失政その1・・“南朝”との和睦交渉の不様な決裂
足利直義が“南朝方”と和睦交渉に臨んだ記録が“吉野御事書案”に残されている。交渉は“幕府側”を代表して“足利直義”自らが動き“南朝側”の代表“北畠親房”との間で五カ月に亘って行われたとある。足利直義は正面切って交渉の論点を“内乱の原因は国家体制を巡る見解の相違と所領問題である“として①天皇親政か幕府主権かに就いての議論②適正な“恩賞分配”に関する議論“の2点として南朝側と渡り合った。
南朝側を代表した“北畠親房”は北朝方(足利直義案)の提案を一方的に拒否し、五カ月に亘った足利直義の交渉努力にも拘らず、立場の違い、隔たりの大きい侭に和睦交渉は決裂した。北畠親房は足利直義が提出した交渉文書を“後村上天皇”に取り次ぐ事すらせずに突き返す無礼極まる態度であった様子が“房玄法印記”に書かれている。
“南朝方”に見下され、不様な“交渉決裂”に終わった事が、生真面目な足利直義を打ちのめし、彼を政治を主導する立場から失脚へと追いやる事に成った。
1351年5月19日(南朝:正平6年・北朝:観応2年)・・“房玄法印記”より
“十九日、(中略)公武合体の事、北畠禅門以下然るべからずの由塞ぎ申すの間、御和睦の儀成立すべからず。仍って楠木においては、武家に参ずるの上は、早く大将軍を吉野殿に差し進せらるべし、然らば楠木殊に軍忠を致し、吉野殿の通路を打ち塞ぎ、不日に責め落とし申せしむ、御没落時日を廻るべからず“と云々(以下略)”
=要約=“十九日、(中略)南朝と幕府の合体の事について、北畠親房が反対したので講和は成立しなかった。“かくなる上は楠木は幕府に帰参するので早く大将を派遣して頂きたい。そうして頂ければ楠木は懸命に戦い、南朝の通路を封鎖してただちに攻め落としてみせます。南朝天皇はすぐさま没落されるでしょう“と(楠木の使者が)述べたそうだ。
この記事は当時、京都近郊に住んでいた醍醐寺の“房玄大僧都“が伝え聞いた事を日記に残したものであるが、北朝の重臣“洞院公賢(とういんきんかた=藤原公賢・生1291年没1360年:光厳院の院執事であり有職故実に明るかった)の日記“園太暦”(えんたいりゃく)にも同様の記述があるので史実としての信頼性は高い。
ここで“楠木”と名指しされている人物は“楠木正儀(くすのきまさのり:楠木正成の三男・生:1330年・没:1389年)”で“四条畷の合戦”で自刃した楠木正行・楠木正時の弟である。合戦時には18歳で、兄達は自刃したが、彼は生き延び、楠木家の家督を継ぎ、南朝方の先鋒武将として勢力挽回に努める一方で“和平派”として足利方との講和交渉に南朝方の使者として双方の連絡役を一貫して務めた人物である。
南朝方を代表した“北畠親房”は、先に関東武士達の“南朝方への勧誘“に失敗し”吉野“に戻らざるを得なかったという過去が示す様に”最高位の公卿“という誇りがそうさせるのか、武士層に対する尊大な態度が終生抜け切れなかった様である。足利尊氏(1338年正二位)と比べても3ランクも官位が低い“足利直義(1344年従三位)”であったから猶更尊大な態度で交渉に臨んだ事が想像出来る。
“房玄法印記”の記事が裏付けているが、北畠親房と足利直義との間にあって“講和交渉”の経緯を一部始終見ていた“楠木正儀”から見ても“北畠親房”の尊大で無礼な態度は目に余ったと言う事である。“楠木正儀”が憤慨の余りに発した激しい“南朝”への反発の言動は同じ武士としての怒りからでもあろう。
“楠木正儀”のその後の生き方が残されている。“南北朝合一”に向けて活動した人物であるが、その後も“南北朝合一”に強硬に反対した南朝・第3代長慶天皇(歴代第98代天皇・生:1343年・崩御:1394年)と袂を分かち、足利幕府第3代将軍・足利義満(生:1358年・没:1408年)に帰服し“北朝”に投降している。
其の後、彼の後ろ盾となっていた細川頼之(第2代室町幕府管領・生:1329年・没:1392年)が失脚した為、北朝での居場所を失い、再び南朝に戻るが、その後の彼の功績は記されていない。彼が生涯を通じて目指した“南北朝合一”が成ったのは彼の死後3年経った1392年の事である。
13-(9)-②:失政その2・・一般武士の期待を踏みにじった“寺社領荘園への侵略禁止令”の発令
1351年(南朝:正平6年・北朝:観応2年)6月:
足利直義の生真面目過ぎる交渉態度が“南朝”方を高飛車にさせ、彼が熱心に進めた南朝との“講和交渉”は無残な形で決裂した。“講和交渉”の失敗は足利直義の政治主導に大きな汚点と成ったが、重ねて“寺社領荘園の侵略禁止令”を出した事が一般武士の期待を裏切る“大失政”であった。
そもそも“南北朝時代”は“内乱時代”であるから“恩賞問題”はそうした状況下に置かれた武士達にとって最大の関心事であった。命を賭けて戦う武士達にとって“所領確保”が全てであり、既述した様に“高師直(=足利尊氏)”側に付くか“足利直義”側に付くかは“何方に付いた方が所領確保の面で有利か”が決め手であった。
“高師直”政権時代に“恩賞充行遅れ“が頻発し、それが一般武士達の大きな不満と成り、業を煮やして“高師直(=足利尊氏)”派を去って“足利直義”からの”恩賞“を期待して鞍替えした武士達も多かった事も既述の通りである。
そうした事を全く意に介さないかの様な、自力による所領拡大を一方的に禁じる“寺社領荘園の侵略禁止令”を発布したのである。
この令の発布は一般武士達の期待を失望に変え“裏切られた”という感情を抱く武将達が続出し、足利直義に対する信頼は瓦解した。“南朝の真実“の著者・亀田俊和氏は“寺社領荘園の侵略禁止令”を発布した“足利直義”に対して“政治センスの無さ過ぎ”と酷評している。
南朝との不様な“和議交渉”の決裂、そして上記“禁止令”の発布と大きな“失政”が重なり“足利直義”派の急激な衰退が始まった。加えて、足利直義は“観応の擾乱”の戦乱の最中、40歳を過ぎて漸く授かった“実子・如意丸“が夭折するという不幸も重なっていた。彼は一気に政治に対する覇気、熱意を失って行ったのである。
13-(10):弟・足利直義が足利義詮との決別を伝え、政務返上を申し出た事に対して直義討伐を決意した足利尊氏・・“観応の擾乱”第5幕
13-(10)-①:足利直義の政務返上の理由は足利義詮との“不快”
1351年(南朝:正平6年・北朝:観応2年)7月19日:
足利義詮(当時21歳)を補佐して足利直義が政務を見るという形で再開された幕府政治であったが、両者の政治スタンスの違いが“決別”という結果となった。足利直義にとって足利義詮は新たな“高師直”であった。政治に対する意欲を失っていた事も重なり,足利直義は足利義詮との“不快”を理由として“政務返上”を兄・足利尊氏に申し出たのである。
13-(10)-②:“足利尊氏・足利義詮”父子は“足利直義挟撃作戦”に出るも失敗する
1351年(南朝:正平6年・北朝:観応2年)7月:
弟“足利直義”が嫡子・足利義詮との“不快”を理由に“政務返上”した事を“足利尊氏”は“直義”が幕府に対する反逆行動に出る前兆だと捉えた。それを未然に防ぐべく、弟・足利直義の捕縛を決意したのである。
同年 7月28日:
“足利尊氏”は足利政権成立の立役者である“佐々木道誉”が南朝と通じて近江に城郭を築いたとの嫌疑をわざと掛け“佐々木道誉討伐”の名目を掲げて近江へ出陣する動きを見せた。又、嫡子“足利義詮”も“赤松則祐(あかまつのりすけ:赤松円心の3男・生:1314年・没:1372年・播磨、備前、摂津国守護)“が挙兵したと偽って”赤松円心討伐“の出陣と称して京を進発した。
“足利尊氏”と嫡子“足利義詮”が同時に京を離れるという行動は極めて不自然であり、二人が申し合わせて、京に残る“足利直義”を双方から挟撃する為の作戦行動であったと歴史家は結論付けている。
同年 8月1日:
ところが、この“足利直義挟撃”謀略を察知し、足利直義は未明に京を脱出し、若狭を経て越前国金崎に入る行動をとった。
足利直義には、斯波高経・上杉朝定・桃井直常・石塔義房・畠山国清・山名時氏・吉良満貞等、直義派の武士達に加え、儒学者の日野有範・二階堂行綱・問注所の太田顕行等の鎌倉幕府以来の譜代の実務家達や奉行人等多くが従った。この事は足利尊氏に先の“高師直・師泰”軍を率いた自軍が“光明寺合戦”や“摂津打出浜の戦い”で連戦連敗した事を想起させた。
足利尊氏は必勝を期して驚愕の“天皇家利用策“を用いて“足利直義討伐”を果たす事を決意する。
尚、ここで足利直義に与した武将の中に“吉良満貞(生年不詳・没:1384年)”の名があるが、彼は吉良満義の嫡男で西条吉良家・西条城主である。1356年に父・吉良満義が没すると、吉良満貞と弟・吉良尊義が争い、結果、弟が“東条吉良家”として独立する事になる。忠臣蔵の吉良上野介(義央)は吉良満義(西条吉良家)の系統で、足利家から吉良家が分家してから17代目の当主である。
13-(10)―③:常に足利尊氏と足利直義の間を取り持った“夢窓礎石”の死が二人の対立を防げなかった一つの原因とされる
1351年(南朝:正平6年・北朝:観応:2年)9月:
鎌倉末期から足利幕府初期、そして“南北朝時代”の大混乱期に、後醍醐天皇をはじめ、足利尊氏・足利直義からも帰依を受け、常に足利兄弟の相談相手、並びに、争いの際には仲裁役を担って来た“夢窓礎石”が没した。
夢窓礎石(生:1275年・没:1351年)が没する1カ月程前に足利尊氏が“足利の一族家臣が末代に到る迄、夢窓派に帰依する“と誓った書状が残っている。弟・足利直義並びにその養子・足利直冬と戦う状況下にありながらも“一族家臣の団結”を願って足利尊氏が夢窓礎石に“一族帰依の誓約”書状を書いた事は“足利一族の長”として“直義・直冬”との抗争がいかに彼にとって、大きな悩みであった事かを裏付けるものである。
公家並びに武士層の信仰を一身に集めたばかりでなく、政治面でも多大な影響力を持ち、まさに“聖俗両界の教導者“として君臨した夢窓礎石の死によって”観応の擾乱“の嵐は一段と激しくなって行ったのである。
13-(11):足利尊氏が用いた“天皇家権威の利用策”・・“正平一統”
13-(11)-①:足利尊氏が“正平一統”に走った背景と決断
=その1=足利直義討伐
足利直義が挟撃策を見破り“京”を脱出し“越前国金崎”へと向かったが、その彼には多くの武将達が従った事は足利尊氏に先の戦いでの敗戦を想起させた。足利直義の政権離脱を重大視し、危機と捉えた足利尊氏は“足利直義追討の戦い”に必勝を期した。その為“足利直義”が用い、大勝利に結びつけた“南朝”との結託という“天皇家権威”の利用を極限まで広げた策を用いる事が必要と考えた。
=その2=九州で勢力を伸ばす“反幕勢力”対策
1351年(南朝:正平6年・北朝:観応2年)10月下旬:
既述の様に、九州地区では“足利直冬”が“少弐頼尚”に擁立されて足利幕府・九州探題の“一色範氏”を敗り博多から追い出していた。少弐頼尚は懐良親王(征西府)とも結び、勢力を伸ばしていた。従って足利尊氏としては“足利直義討伐”だけで無く、九州地区の“反幕勢力”を抑える必要に迫られていた。
以上の“足利直義方”の勢力の討伐を行う為に足利尊氏が考え付いた事は“南朝との和議”を手早く、しかも確実に実現する事であった。
生真面目な“足利直義”が“あるべき国家体制”等、合意見込の無いテーマを南朝との“和議交渉”の場に持ち込み、結果的に“北畠親房”に一蹴された失敗を知る“足利尊氏”は“北朝を消滅させ、政権を南朝に返還する”という南朝方が耳を疑う様な条件を後村上天皇との交渉テーマとして掲げたのである。
13-(11)-②:“正平一統”が成る
“正平一統“とは”南北朝“期の正平年間(1346年~1370年)の1351年10月下旬に合意され、1352年閏2月に“南朝”方が武力行動に移り破棄する迄の半年に満たない期間、和議に拠って“南北朝”が合体し”北朝“の天皇を廃位とし、年号も”南朝年号“の”正平“に統一された事を指す。
思い切った足利尊氏の提案で、南朝側との交渉はスムーズに進み、講和交渉は纏まり“正平一統”が成った。しかし“足利尊氏”がテーブルに載せた“北朝を消滅させて政権を返還“するという内容の解釈については”南朝“側と”足利尊氏”側との間には大きなギャップがあった。
13-(11)-③:“南朝”方を増長させた“正平一統”策
足利尊氏からの思わぬ“政権返還”提案は、北畠親房が主導する“南朝”方を一挙に増長させ、南朝方は“政権移行”を急いだ。一方の“足利尊氏”にとって“南朝との和睦=正平一統”の目的は先ずは幕府から離脱し“越前国金崎”に向った“足利直義”を追討し、更には九州地区で勢力を拡大していた“足利直冬”の追討を確実に行う事であった。
足利尊氏は、南北両朝が存在する事に拠って、反幕勢力側が南朝の天皇家を担ぎ、大義名分と正当性を得、戦いを有利に運ぶカードを持つ事になる、それを阻止、つまりカードを持たせない為に“正平一統”を行う、と、至極単純に考えていたと思われる。
13-(11)-④:武士層が“天皇家の権威”を必要とし、利用した日本の政治構造の特異性
”光厳上皇・光明天皇“を強引に擁立して北朝を開き、その与党として足利尊氏は1336年11月に幕府を創設した。ところが翌12月に後醍醐天皇が吉野に逃げ、そこで“南朝”を主宰した事で日本は“南北朝分立”の大混乱時代に入った。
平清盛の後、源平合戦を経て源頼朝に拠る鎌倉幕府が創設されて以降、本格的に武士層が政治の実権を握ったが“天皇家の権威”を必要としたという“日本の政治構造の特異性“はその後もその構図を変える事は無かった。
征夷大将軍に任じられ、足利幕府を開いた足利尊氏も“光厳上皇・光明天皇”の天皇家の“権威”の配下にあるという鎌倉幕府と同じ構図を踏襲した。“天皇家”の護衛機能に過ぎなかった“武士層”が政権の座に上り詰める過程で、その“正当性”を天下に受け入れさせる為の“仕掛け”として、天皇家の権威の下に政治を担うという構図が定着して行ったのである。
“正平一統”は、足利尊氏が足利幕府を共に担って来た“弟・足利直義”並びにその養子“足利直冬”を討伐する事を天下に向けて“正当化”し“大義名分”を得る為に“天下唯一の天皇家の与党“である事を宣する為に用いた究極の”天皇家権威の利用策“だった。
武士層が出現して以来、どの時代の”至強(将軍・幕府・武士層)勢力”も“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)”勢力を抹殺していない。武士層が出現する前の至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力に拠る日本統治の歴史は余りにも長く、既に日本の政治構図から除去する事が出来ない程に根付いていたからである。
13-(11)-⑤:何故1000年の都の“京都御所”に“石垣・堀”等の防御体制が無いのか
日本の“政治構図”の特異性を具体的に示す分かり易い史跡(建造物)が“防御の為の深い堀”も無く、高い石垣も無い“京都御所”である、と天皇家に関する著作の多い“竹田恒康゛氏は書いている。武力闘争を主たる機能として来た武士層が、その気になれば、難なく“天皇家”を武力で消滅させる事は幾度となく可能であった。しかし1000年の都“京都”でそうした事態は起こらなかった。
諸外国の多くの王城は戦いの為の堅固な防御体制を備えた城が殆どであり、諸外国の歴史では勝利者は完全な征服者となり、被征服者の歴史・伝統・文化等を一網打尽に殲滅し“王朝交代の歴史”を繰り返して来たのである。
“日本の特異性”であろうが、日本の歴史上、殆どの“戦い”で武士達には“正当性と大義名分”が求められた。こうした武士達の行動モラルが“日本人固有の魂”として先ず武士の中に醸成され“武士道”と言われる“行動規範”として定着して行った。従って“武士道“には”経典“に類するものは無い。
こうした土壌の中で武士層は”至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”が持つ“権威・伝統・経験値・叡智”を重視し、利用する事に価値を見出し、可能な限り共存の途を選択して来たのである。勿論“武士層の出現に拠って始まった混乱と闘争の500年”の歴史の過程で、日本の歴史は“ばさら大名”の出現に見られる様に“一切の過去の権威、伝統を壊そうとする動き”を何度も経験して来ている。
そうした“変化を求める抵抗勢力”に対応する渦中にあり乍らも“至尊勢力と至強勢力の共存”という日本特有の“政治の構図”を守り続ける力が常に働いて来たのである。具体的には“変化を求める抵抗勢力”を完全に否定するのでは無く、必要な部分を取り入れるという対応をして来たのが“日本の歴史“であったと言える。
政治面にも見られたこうした柔軟性が、日本の文化、伝統等に“強靭”さを加えて来たとされる。如何なる状況下でも“天皇家の権威”を温存する事を各時代の“至強勢力”が選拓して来た事が“日本の特異性”を醸成し、岩盤の様に根付いた特異な社会、文化、伝統、それと共に在る“特異な国民性”を生み出したのである。
これを“日本人のバランス感覚”が成した事と結論付ける事も出来よう。今日の“日本の政治構図、感性、伝統”に見られる“特異性”のベースには“天皇家”の存在が関わって居り、加えて日本が征服者に拠って分断された事の無い“世界最古”と言われる歴史を持てた事で“日本オリジナル”のものが醸成されたと言う事であろう。
13-(11)-⑥:足利尊氏の“正平一統”策は“天皇家の権威”の“寸借”
“足利直義”とその養子“足利直冬(実は足利尊氏の庶子)“の存在に脅威を感じる迄になっていた足利尊氏にとって、両者を討伐する事が解決すべき最重要課題であった。
“南朝”に降る事に拠って多くの味方を得、足利尊氏軍を破った“足利直義”の先例に学んだ足利尊氏は“南朝と北朝の二つの天皇家が存在する事”こそが危険であり、それを除去する事を考えた。そして、自らが擁立した“北朝”を消滅させた上で自らも“南朝”に降ると言う大胆な策、世に言う“正平一統”を提案し、実行に移したのである。
思いもかけない条件を提示された“南朝”側には反対する理由も無く“足利直義”が歯牙にも掛けられずに失敗した“講和交渉”は忽ちの中に纏った。この結果は“足利尊氏“という人物の持つ優れた“政治力”に拠るものと言うよりも、目的達成の為には手段を選ばず実行に移し、後に状況変化があれば“掌返し”を平気で遣って退ける彼の“特質”が成せる“講和交渉”であったという方が正しい。
こうした“正平一統”を行ってまで“足利直義並びに養子・足利直冬討伐”に全力を傾けた足利尊氏・義詮父子であったが、この政策は結果として後世“足利尊氏が天皇家を弄んだ策”とされ“南北朝期の混乱”を一層増幅させる事になるのである。
13-(12):“正平一統”後の南朝方の動きと足利尊氏の動き
13-(12)―①:南朝方は“(旧)北朝”からの政権接収を急ぎ、足利尊氏は“足利直義討伐“に全力を傾ける
南朝方は“正平一統(=北朝廃止)”は“南朝に拠る政権奪還”が成ったと解釈して、早速“北朝からの政権接取”の作業を開始した。主導したのは北畠親房である。
南朝方の政権接収の基本方針は①北朝の崇光天皇を廃し元号”観応“を廃す。北朝の三種神器は“虚器”として没収②北朝に拠る官位叙任は全て破棄③足利尊氏の“武士管領”は認める、の3点であり、それに基づいた作業を急いだ。
一方“正平一統”が成った事で敵方が“南朝”に降る危険を除去した足利尊氏は“足利義詮”に京都の留守を任せ、仁木頼章、仁木義長、畠山国清等を伴って東海道を東進し“足利直義”討伐に出陣した。京に残った“足利義詮”のもとには“南朝”から“後村上天皇”が帰京する知らせが早々と通告されて来た。
1351年(南朝:正平6年・北朝:観応2年)11月7日:
“正平一統”の合意を受けて“南朝”の後村上天皇は“穴生の御所”から北朝第3代崇光天皇(すこうてんのう・生:1334年崩御:1398年:光厳天皇の第一皇子)の廃位と皇太弟直仁親王(なおひとしんのう=第95代花園天皇の皇子と伝わるが実際には光厳天皇の皇子:生1335年没1398年)の廃太子を宣した。又、後醍醐天皇が吉野に逃げた際に偽物だと称した“北朝方に渡っていた三種の神器”を接収した。
北朝廃止に伴い元号の“観応“が廃され、正平6年に統一する手続きを完了した。ここに“北朝”は事実上消滅したのである。
又、北朝で関白職にあった二条良基(生:1320年:没1388年)の関白職を停止し、その代りに北朝側の代表として“正平一統”の作業を纏めた阿野廉子の養父・洞院公賢(とういんきんかた=生1291年没1360年)を左大臣に任じている。
同年 11月:
後村上天皇は北畠親房の功労に報いて“准后”(准三后=太皇太后・皇太后・皇后の三后に准じた処遇)の待遇を与えている。
13-(13):足利尊氏が“足利直義討伐”を果たす
1351年(南朝:正平6年)11月30日:
北陸・信濃を経て鎌倉に11月に入った“足利直義”に対して足利尊氏は、3000の兵力で由比の“薩多山”に着陣した。“足利直義”は10,000の兵を率いて三島の伊豆国府に本陣を置き対抗したが“薩多峠の戦い”並びに“相模早川尻(神奈川県小田原市)の戦い”共に足利尊氏軍が勝利し、鎌倉へ攻め入った。
同年 12月15日:
“上野・越後”両国の守護で、鎌倉公方・足利基氏(足利尊氏四男・生:1340年・没:1367年)に仕えた武将“宇都宮氏綱”は足利尊氏軍との合流を図ったが、足利直義軍に阻まれた。しかし、兵力に勝る足利直義方の“桃井直常軍”を破り“箱根竹ノ下”に到着し、足利尊氏軍との合流を果たした。これを境に“足利直義”軍の劣勢が顕著となったとされる。
1352年(南朝:正平7年)1月2日:
“正平一統”が成った為、足利尊氏に対抗して擁立する天皇家カードの無い“足利直義”軍は次第に劣勢に陥り、兵が脱走する等の悪循環に陥って行く。足利尊氏が“北朝”を廃した“正平一統”の狙いが見事に的中したのである。
足利方“宇都宮氏綱”の軍勢は3000から数万に膨れ上がり、宇都宮氏綱と足利尊氏の両軍に挟撃された“足利直義”軍からは更に脱走兵が続出する事態と成り、相模国・早河尻(神奈川県小田原市)の戦いでも敗戦を重ねた。
同年 1月5日:
“足利直義”は敗北を認め“鎌倉”で武装解除をした。勝利した足利尊氏は彼を“浄妙寺”境内の延福寺に幽閉した。観応の擾乱は“足利直義の死“を以て終息とする説もあるが、戦闘自体は1352年(南朝:正平7年・北朝:観応3年)閏2月~5月、つまり“観応“の元号が”文和“に変わる直前に戦われた”男山八幡の戦い“まで続く。この時点で終息したと考えるのが妥当である。
史実としては尚、この一連の戦闘の流れは続き、足利直義方の残党が彼の“養子・足利直冬”を盟主とした抵抗を続け、12年後の1364年迄くすぶり続けたとの記録が残る。
13-(14):南朝方が“正平一統”の和議を破棄し、武力行使に拠って京、鎌倉を占拠する
13-(14)-①:足利幕府の“兄弟抗争”の隙を突いて一気に武力攻勢に転じた南朝方
1352年(正平7年)閏2月6日:
“正平一統“は足利尊氏の投降と解釈した”南朝“方は、北畠親房の主導で増長とも思われる“北朝からの政権接収”作業を進め、更にそれをエスカレートさせた武力行使に拠る“政権接収”の完了を急いだ。
足利尊氏”の征夷大将軍職を解任し“宗良親王(母は二条為子・生:1311年・没:1385年)”を征夷大将軍に任じ“京都・鎌倉”を足利幕府(北朝)勢力から同時に奪還すべく、東西の“南朝軍”が呼応して攻撃を開始したのである。
“宗良親王”は1338年に北畠親房に奉じられたが、陸奥国へ渡る船が座礁し、井伊谷の豪族“井伊道政(井伊家第12代当主・生:1309年・没:1404年)”の元に身を寄せた。両者の関係は井伊道政が比叡山延暦寺の座主であった宗良親王の元に参じ、挙兵して以来と伝わる。2017年の“NHK大河ドラマ”女城主(井伊)直虎(伝・生:1536年・没:1582年)の時代からは200年以上遡った話である。
北畠親房の主導で“南朝”が“正平一統”の和議を一方的に破棄して武力行使に打って出た理由は、足利幕府(=旧北朝方)の両トップが分裂し“足利尊氏”が南朝に降ってまで弟・足利直義討伐に全力を傾注するという“大混乱状態”を見て“足利幕府もこれ迄“と判断した為である。
“南朝”方の武力行使を“足利尊氏”が放置して置く筈も無く、事態は“足利尊氏”が自ら廃した”北朝“を再興するという行動に移った事で、益々混乱が拡大して行くのである。
13-(14)-②:井伊谷“龍潭寺”訪問記・・2017年7月22日
東京杉並の家から車で260㎞程走って浜松市北区引佐町伊井谷にある“龍潭寺(りょうたんじ)“に着いた。奈良時代の733年に創建され、開基は行基(生:668年・没:749年)である。寺の由緒書には“井伊家菩提寺・宗良親王菩提寺”とある。古墳時代(四世紀半ば)に“井の国の大王“が治めたとの伝承が”伊井谷“の発生であり、平安時代の井伊共保(いいともやす・生:1010年・没:1093年)が“井伊家”の元祖である。“保元物語”にも遠江の有力武士として既にその名が見える名門だと記してあった。
現在の第41代井伊直岳氏(いいなおたけ・現・彦根城博物館長)に至る家系図が掲げてあった。NHK大河ドラマで女優・柴咲コウが演じている“井伊直虎(生:不詳・没:1582年)”は“歴代”当主としての扱いでは無く、第23代当主井伊直親(なおちか・幼名亀之丞・生:1536年・没:1563年:同、俳優・三浦春馬)と第24代井伊直政(なおまさ・生:1561年・没:1602年・同、俳優・菅田将暉)との間に“次郎法師”と注釈が付けられ“井伊直虎”の名だけが連ねられていた。
因みに“桜田門外の変“で暗殺された”井伊直弼“(生:1815年・没:1860年)は第36代の当主である。
女城主“井伊直虎”は今川、武田、徳川という周囲の大国が領地を狙う戦国時代の真っ只中にあって、勇気と知恵を以て領国を守り抜き、後に“徳川四天王”と称えられる“井伊直政”を養母として育て上げ、井伊家発展の礎を築いた功績から龍潭寺の家系図にもその名を残した人物とされる。
この人物が女性であったか如何かについては今日でも諸説があるが、井伊家墓所には元祖“井伊共保”と女城主“井伊直虎”の父で、第22代当主“井伊直盛(生:1506年・没1560年・同、俳優杉本哲太)”二人の墓石が正面に並び、それを囲むように直盛の妻千賀(同、女優財前直美)、そして直虎等の墓が並んでいる。
井伊家墓所の奥に宮内庁管轄の“後醍醐天皇皇子・宗良親王墓(御陵墓)”があり、そこから少し歩くと明治8年(1875年)に創建された“摂社(宗良親王を祭神とする本社・井伊谷宮に付属し、祭神と縁故の深い神を祀る神社)井伊社“があった。
その案内板には”動乱の南北朝時代(1330年~1390年頃)、当時の有力豪族であり井伊直虎の御先祖に当たる井伊道政公(第12代当主)とその息子・高顕公(第13代当主・生不詳・没1386年)は井伊谷を来訪された宗良親王様を奉じて尽力しただけでなく、親王様と駿河姫(道政公の娘・重子姫)との間に“尹良親王(ゆきよし・ただなが・これなが・生:1364年・没:1424年)”を授かるなど、吉野朝(南朝)と非常に深い関わりを持ちました。(以下略)と書かれている。要は井伊家と“南朝”とは深い繋がりがあったという事である。
参道には“宗良親王”の和歌を掲げ、その意味を解説している。“偽りの言の葉のみ聞きなれて人のまことぞなき世なりける“の歌には”人の心は移ろいやすく、繰り返される裏切りに誠の心などこの世に無いのではないか、と嘆いた歌だ“との説明が加えられていた。“南北朝時代”という大混乱期に劣勢を免れなかった“南朝”方の“征夷大将軍”であった“宗良親王”の日常が、不安の連続であった事を訪問者に訴える歌である。
13-(14)-③:足利直義の死
1352年(南朝:正平7年)2月5日:
“正平一統“で願いが叶った南朝の”後村上天皇“は行宮とした“穴生(あのう)”の地名を“願いが加名生(かなう)”と、改める勅書を出す程、その喜び様は大変なものであったと伝わる。この地名は紆余曲折を経て今日では“賀名生”と書き、読み方も“あのう”である。この日、後村上天皇は足利義詮に“帰京する旨”を通告している。
同年 2月26日:
この日に“足利直義”が急死した。46歳であった。“太平記”をはじめ、多くの書物には“足利尊氏が毒殺した”と書かれているが、足利尊氏が関与した事を裏付ける史料は無い。又この日、後村上天皇は“賀名生”を出発し、28日には“摂津住吉”に入り、その後、閏2月19日には“山城・男山(石清水八幡宮)”に到着している。
13-(14)-④:足利直義の最晩年と足利尊氏毒殺説の否定
“南朝の真実“の著者、亀田俊和氏は”失脚した政治家が失意の中に没する例は多く、加えて、嘗ての足利尊氏と弟・足利直義との強い絆、信頼関係、“弟思い”の姿からは、既に軟禁され、政治への熱意を失った弟・足利直義を敢えて毒殺したとは考えられず、直義の死は自然死であった可能性が高い“と書いている。
更に足利尊氏が自らの死の直前(1358年:南朝:正平13年・北朝:延文3年)に、亡き弟・足利直義を従二位に叙する様“後光厳天皇”に願い出た史実からも亀田氏の説には説得力があるのではなかろうか。
13-(14)-⑤:“南朝軍”が“鎌倉”を占拠
1352年(南朝:正平7年)閏2月15日:
“南朝”方の武力行使は勢いを増し、越後・関東では“鎌倉”を目指す挙兵が相次いだ。上野(群馬県)では、新田義興(新田義貞の次男:生:1331年・没:1358年)・新田義宗(新田義貞三男:生1331年・没:1368年)更には、従弟の脇屋義治(脇屋義助の子息:生1323年・没:不詳)が挙兵し、鎌倉街道を南下し、武蔵国金井原(東京都小金井市)で足利尊氏軍との間に合戦となっている。
”征夷大将軍・宗良親王“も信濃国で足利直義方の”諏訪直頼“(すわただより・諏訪大社の大祝職=神官:生没年不詳)等と共に挙兵し、それに”北条時行”と足利直義派残党の”上杉憲顕”も加わり“南朝”軍は一斉に鎌倉を目指して進撃した。
同年 閏2月18日:
”新田義興“が鎌倉に突入し、未だ12歳の足利基氏(尊氏四男:初代鎌倉公方・生:1340年・没:1367年)軍を敗走させ“鎌倉”を占拠した。
13-(14)-⑥:“南朝”方は“京”も占拠する
1352年(南朝:正平7年)閏2月19日:
“賀名生”を一ケ月程前に発った“後村上天皇”は河内国東条(河南町)から、摂津国住吉(大阪市住吉区)を経て男山八幡(京都府八幡市・石清水八幡宮)に行宮を移し“京”を目前としていた。北畠親房の“京・鎌倉同時奪還作戦”はこの段階までは完璧な成功を収めていた。
同年 閏2月20日:
足利尊氏の不在に付け込んだ北畠親房の“京奪還作戦”は楠木正成の三男“楠木正儀”を南朝軍の総大将とし、自らの三男・北畠顕能(きたばたけあきよし:生1326年・没1383年)・千種顕経、それに“山名時氏”等の足利直義派の残党も糾合して行われた。
足利尊氏が南朝に降った事で足利義詮にとってこの戦は“南朝軍”が官軍であり、彼の軍は“正当性・大義名分”を持たない軍として不利な戦いを強いられた。忽ちの中に総崩れとなり、京を放棄して近江へ逃れた。足利方はこの戦いで細川管領家の祖とされる細川頼春(生:1304年・没1352年)が戦死している。
尚、その後の細川家は、嫡男・細川頼之(生:1329年・没:1392年)が跡を継ぎ、1367年に執事・管領職に就き、斯波氏、畠山氏と並ぶ地位に迄出世を遂げ“細川氏繁栄の祖“と言われている。
南朝軍が“南北朝分裂”以来、初めて京都を奪還した事で、北畠親房は実に17年振りに京都の土を踏んだのである。
13-(14)-⑦:南朝方が“(旧)北朝・三上皇”を拉致する
入京を果たした南朝軍は“(旧)北朝”方の崇光天皇を捕え、光厳上皇、光明上皇、更に光厳天皇の皇子で“崇光天皇の皇太弟”を廃された“直仁親王(なおひとしんのう:生1335年没1398年)”の計四人を拉致し、南朝の本拠地“賀名生”に幽閉した。拉致の目的は足利方がこの中の誰かを担いで再び“北朝”を再興する可能性を絶つ事であった。
“正平一統”を破棄し、武力行使に拠って“北朝からの政権奪還”を強引に進めた北畠親房の策は此処までは周到に行われ、成功していた。しかし所詮軍事力に劣る“南朝軍”が京都・鎌倉を占拠出来ていた期間は僅か1カ月に過ぎなかった。そして忽ちの中に“足利軍”の反撃に会い後退して行くのである。
13-(15):足利方が逆襲に転じ、南朝軍から“京・鎌倉”を奪還する・・観応の擾乱第6幕
13-(15)-①:入京に沸く“南朝”方への反撃に移った“足利幕府軍”
1352年(南朝:正平7年)閏2月23日:
京を追われ、近江に逃れた足利義詮は“正平一統”の和議が破棄された事で、廃されていた“観応”の元号に戻した。同時に諸国の守護の力の結集を急いだのである。佐々木道誉・細川顕氏・土岐頼康に加え、足利直義派だった斯波高経等が味方に加わった。
同年 閏2月24日:
一方、北畠親房の武力行使の成功に沸く“南朝”方は“後村上天皇”が北畠親房を“准后”に任じその功に報いる“祝勝”ムードであった。准号の地位は三宮(太皇太后・皇太后・皇后)に准じた待遇を皇族や臣下に与えるもので、摂関政治が始まった頃の871年に第56代清和天皇(即位858年・譲位876年)当時の太政大臣“藤原良房(生:804年・没:872年)“に与えられたのを初めとして其の後多くの人達が任じられている。
有名な例としては藤原道長(1016年)美福門院(鳥羽天皇の后:1141年)、平清盛並びに時子(1180年)、足利義満(1383年)等が挙げられる。源頼朝が受けていない理由は彼が“朝廷”との距離を置く政治姿勢に徹した為である。
13-(15)-②:足利尊氏軍が先ず“鎌倉”を奪還する
1352年(正平7年)閏2月20日~閏2月28日:
新田義興(新田義貞次男・生:1331年・没:1358年)に拠って閏2月18日に鎌倉を占拠された“足利尊氏”は、武蔵国・狩野川に布陣し、金井原(東京都小金井市)並びに人見原(東京都府中市)で“新田義興・新田宗”らの軍勢と合戦した。この戦闘で双方に相当の被害が出、足利軍は“武蔵国石浜(東京都台東区)“まで撤退して兵力の回復を図った。
一方、南朝方の“新田義宗”(新田義貞の三男・生1331年・没1368年)軍は笛吹峠(埼玉県鳩山町と嵐山町の境)に陣を敷き、征夷大将軍・宗良親王を奉じる信濃勢や上杉憲顕軍と合流している。その後“新田義宗”は、高麗原(埼玉県日高市)・入間河原(埼玉県狭山市)・小手指原(埼玉県所沢市)の各戦場で“武蔵野合戦”を“足利尊氏”軍との間で繰り広げた。
南朝方は戦いに敗れ、新田義宗は越後方面に落ち延び、征夷大将軍“宗良親王(生:1311年・没:説1385年)”は信濃方面に落ち延びた。その後の宗良親王は、南朝勢力の衰退と共に頽勢を挽回出来ない侭1389年以前には没したと伝わる。
同年 3月2日:
三浦氏の支援を得て鎌倉に入った南朝方の新田義興(新田義貞の次男)、彼の従兄の脇屋義治、そして17年前の”中先代の乱(1335年7月)”を生き延びた“北条時行”(北条高時の遺児・生:不詳・没:1353年)は上述した“武蔵野合戦”で新田義宗等“南朝”方が敗北した事を知ると、鎌倉を持ち堪える事は困難と判断、鎌倉を放棄して相模国河村城(神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠った。足利方は20日足らずで鎌倉を奪還したのである。
“北条時行”に就いて述べるが、彼は“中先代の乱(1335年7月)”を生き延び、その後、後醍醐天皇に拝謁して朝敵を免除され“南朝”に降り、この戦いに参加している。“梅松論”には、北条時行の奇跡的復活劇が足利尊氏をはじめ、世間を仰天させたと記している。何度も敗れては姿を晦まし、水面下で足利尊氏を突け狙い続けた“北条時行”の執拗さに尊氏は恐怖を感じていたと伝えている。
しかしさしもの“北条時行”も“足利基氏”の手勢に拠って間もなく鎌倉付近で捕えられ、翌年1353年5月20日に龍ノ口で処刑された。
13-(15)-③:“京”も奪還した“足利幕府”軍
1352年(南朝:正平7年)3月9日(3月15日説もあり):
元々軍事力に劣る南朝方であったから“足利軍”が早々と軍勢を立直した事に驚愕し、さっさと“京”を放棄した。“足利義詮”軍は労せずに京の“無血開城”に成功したのである。南朝方が“京”を占拠していた期間も“鎌倉”占拠の場合と同様、閏2月20日から僅か20日間の極く短い期間であった。
しかし“南朝”方が拉致し“賀名生”に幽閉した(旧)北朝の3上皇と直仁親王を取り戻す事は出来なかった。
13―(16):南朝方最期の抵抗“男山八幡の戦い”・・“観応の乱”第7幕(終結)
“京”を放棄した南朝方は“後村上天皇”が行宮としていた“男山八幡(石清水八幡宮)”を攻撃され、最期の砦を失う。“後村上天皇”は入京を目前にし乍ら再び“賀名生”への後退を余儀なくされたのである。
13-(16)―①:“男山八幡の戦い”
1352年(南朝:正平7年)閏2月~5月
“京”を回復した足利義詮は続いて後村上天皇が仮御所とした“男山八幡”(石清水八幡宮)を包囲し、兵糧攻めを行なった。兵糧攻めは凡そ2カ月に及び、飢えに苦しんだ熊野の武将“湯川荘司”を初め北朝方に寝返る者が多く現われた。
同年 5月10日:
後村上天皇は足利軍による“男山八幡”の包囲を北畠顕能(きたばたけあきよし・北畠親房三男・生:1326年・没:1383年)名和長重(名和長年の甥)等に護られて脱出した。この際の殿(しんがり)を務めた四条隆資(しじょうたかすけ・公卿・生:1292年・没1352年)は奮戦空しく討ち死し、一条内嗣(いちじょううちつぐ・生:1336年・没:1352年)や、公卿の滋野井実勝(じのい)が戦死している。
13-(16)-②:男山八幡(石清水八幡宮)訪問記・・2017年7月5日
東京を一番の新幹線で発ち、京都駅で友人と合流し、京阪電車に乗り換え“八幡市駅”で下車。駅から100m程の処に“男山ケーブル”の駅があり、これを利用して10分弱で標高143mの“山上駅”に到着。そこから数分歩くと南総門があり、この門を通ると“石清水八幡宮上院”が広がる。
860年(貞願2年)に第56代清和天皇(生:850年・崩御:880年)によって創建され、伊勢神宮と共に二所宗廟(君主の祖先の霊を祀った建物)に位置付けられる“石清水八幡宮”は、幕末迄は神仏習合の宮寺として“石清水八幡宮護国寺“と称したが、1871年(明治4年)に官幣大社に列せられ、社号も”男山八幡宮“に改称された。1918年(大正7年)1月に”石清水八幡宮“の名称に戻ったとある。
御本殿・幣殿・舞殿・桜門含め10棟が国宝であり“はちまんさんの御使い”とされる“神鳩“の図柄が有名であり、後述する鳥居等、数多くの箇所に見られる。訪問の主目的は“男山八幡の戦い”に関する“史実確認”であったが“由緒書”にも記述が見付からず、戦いに関係した建物や史跡等も残されていなかった。それどころか、社務所の若い神官や職員に“男山八幡の戦い”について質問すると“そうした歴史があった事は聞いた事がある“程度の反応で“歴史は風化して了うのか”と心配になった。
“石清水八幡宮上院”を見物した後はケーブルカーを使わず、織田信長が1580年に寄進した重要文化財の“信長塀“に沿って表参道をゆっくりと20分程徒歩で下った。そこに広がるのが”石清水八幡宮下院“である。この山麓の下院も往時は壮大で”徒然草“の記述には”山麓社殿を八幡宮と勘違いした“と書かれている。
本来、お詣りは下院からスタートするのが順路であるが、我々はケーブルカーでいきなり山頂の上院に着いた為、逆コースを辿る事に成った。下院への入り口には立派な石造りの”一の鳥居“が構え、鳥居の扁額の“八幡宮”の“八”の文字が有名な向かい合う“神使の双鳩“から成っていたのが印象的であった。
上院で心配した“男山八幡の戦い”に関する“史話”は幸いにも“下院”の入り口の社務所の神官から聞き出す事が出来た。戦いで殿(しんがり)を務め、討ち死にした“南朝”方の公卿“四条資隆”の話については上述したが、それを裏付ける話を神官の口から直接聞き出す事が出来た。最後にやっと今回の史跡訪問の目的を果たす事が出来、満足であった。
13-(17):後村上天皇が賀名生の行宮へ戻り“(旧)北朝三上皇”の幽閉生活が始まる
1352年(南朝:正平7年) 5月11日:
“男山八幡“の戦いで、足利軍の包囲を辛うじて脱出した後村上天皇は側近と共に、三輪社・宇陀(奈良県)を経て“賀名生”に戻っている。
同年 6月:
南朝軍が閏2月20日に京を奪還した時から拉致されていた(旧)北朝の光厳・光明・崇光の3上皇、並びに廃太子・直仁親王の四人は、楠木氏の本拠・河内東条を経て大和国賀名生(奈良県五条市西吉野町賀名生)に到着している。此の地に2年近く幽閉された後、1354年3月に“河内金剛寺”に移され、金剛寺には3年余り幽閉され、合計5年間に亘る幽閉生活の後、漸く京に戻される。その5年間の様子については次項で記述する。
14:自らが擁立して開きそして“正平一統”で消滅させた“北朝”を再興する足利尊氏(足利幕府)
“正平一統”の主目的であった“足利直義討伐”に出陣中の隙を突かれ、思わぬ“南朝“方の武力行使に会って一時的とは言え、京と鎌倉の占拠を許した足利尊氏であったが、直ぐに反撃に移り、奪還に成功した。
しかし、(旧)北朝の3上皇と直仁親王は拉致された侭であり、更に関白だった二条良基も“南朝”に拠ってその職を停止されていた為、京都の公家社会の公事(朝廷で行われる政務・人事・儀式・祭事)の遂行が不可能という事態を足利幕府は抱えた。
14-(1):弥仁皇子(いやひとおうじ)を“北朝復興の天皇”として践祚させるべく、その役割を光厳上皇の生母“広義門院”に懇請する
1352年(南朝:正平7年)6月3日:
京は奪還したものの、三上皇が南朝方に拉致された事で、足利幕府方には“治天の君(天皇家の長)”も不在、三種の神器も無い状態に加え“公事”を司る人物が居ない状態であった。こうした状況に足利方を陥れ”北朝再興“を不可能にする事が“南朝”方が行った(旧)北朝“3上皇拉致”の主目的だったのである。
足利幕府がその“正当性”を回復する為には、何としても“北朝”を再興する事が不可欠であった。足利幕府側が”三上皇“の返還交渉を繰り返し行ったとする説もあるが、南朝方が応ずる筈も無かった。
そこで足利方は“広義門院と弥仁皇子”の活用を考えたのである。
14-(1)-①:光厳上皇の第二皇子“弥仁皇子”(いやひとおうじ)に目を付けた足利義詮
何としても“北朝”を再興すべく、足利義詮(当時22歳)は当時14歳で、妙法院(京都市東山区にある天台三門跡と称された名門寺院)へ入室予定であった光厳天皇の第二皇子“弥仁皇子”(生1338年・崩御:1374年)を引き留め、天皇践祚への方策を考えた。
14-(1)-②:光厳上皇の生母“広義門院(西園寺寧子:生1292年没1357年)“に上皇・治天の君の代行役を懇請する。
三上皇が拉致され“治天の君(天皇家の長)“不在という状況下、足利幕府はその役割を、第93代・後伏見天皇(生:1288年崩御:1336年)の女御(位順は、皇后~中宮~女御~更衣=女官となっている。女御の中から選ばれ立后した者が中宮となった)で、北朝の光厳上皇の生母の“広義門院”(西園寺寧子:生1292年没1357年)に懇請した。
しかし(旧)北朝の三上皇並びに直仁親王が拉致された際に、全くなすすべも無かった足利幕府に強い不信感を抱いていた“広義門院”はこの要請を頑なに拒んだ。
1352年(南朝:正平7年)6月19日:
何が何でも“広義門院”の受諾を得る他に手段の無い足利幕府は“佐々木道誉”を使って“光厳院”の寵臣で公卿の“勘修寺経顕”(かしゅうじつねあき・生:1298年没:1373年)に広義門院の説得を依頼した。広義門院は遂に説得に折れ、上皇・治天の君の代行役を引き受けたのである。
14-(1)-③:“広義門院”が引き受けた役割に関する2つの説
(Ⅰ):“上皇の役割の代行であるから、治天の君、に相当する“と解釈する説。
(Ⅱ):“弥仁皇子(後光厳天皇)”の践祚に向けた一連の手続・作法を発動させる為の緊急避難的役割であり”治天の君“には相当しないとする説
の2説があるが”南朝の真実“の著者・亀田俊和氏は“広義門院は女性で、しかも非皇族の出身から治天の君と成った唯一の人物だとの(Ⅰ)説をとっている。一方”太平記の時代“の著者・新田一郎氏は(Ⅱ)説をとっている。
14-(2):“北朝再興”が成り“南朝”側の圧倒的優位が喪失する
足利幕府にとっては自ら消滅させた”北朝“を兎に角再興し”京”の公事を作動させる事が喫緊の課題であった。広義門院が引き受けた政務受諾とは公事を作動させる為の”仰せ“を彼女が発する事なのである。執拗な説得工作に拠ってこの役割を広義門院に受諾させた事で、足利尊氏(足利幕府)は難題を強引に解決した。
6-11項の副題を“天皇家を弄んだ足利尊氏”としたが、過去の足利尊氏と天皇家との關係に於いても同様の場面が多く見られたが、今回の“北朝再興”の場面はその極みであったと言えよう。
14-(2)-①:広義門院に拠る政務が開始される
1352年(南朝:正平7年)6月19日~27日:
広義門院は、先ず“二条良基“を関白に復職させる令旨を出し、政務処理に当たらせた。公家社会の“公事“を再興する為のスウイッチが漸く入ったのである。6月27日付で“官位等を正平一統以前の状態に復旧する”旨の令旨も出され、それまで停滞していた政務、人事、儀式等の全てが動き出した。
14-(2)-②:北朝第4代“後光厳天皇”の誕生・・“北朝”再興成る
1352年(南朝:正平7年・北朝:文和元年)8月17日:
“三種の神器“も没収された状態であった上に”院宣“を発する事も不可能だった為、足利義詮は太古の”継体天皇(古事記の下つ巻に登場する第26代天皇:在位507年・譲位崩御531年)“が廷臣に擁立されて即位した先例を引照した形で“広義門院の令旨”という苦肉の策を用いて北朝第4代“後光厳天皇(践祚:1352年・譲位:1371年・生:1338年・崩御:1374年)の践祚を強引に行なった。
“正平一統”(1351年11月)で(旧)北朝の第3代崇光天皇が廃されてから、後光厳天皇践祚迄の9カ月間は“北朝の皇位が空位”だった。この事を“北朝の断絶”とする学者(落合莞爾氏)もいる一方、この間は(旧)北朝は消滅したのだから“(新)北朝の成立”とする学者もいる。しかし“北朝再興”説が主流で“新北朝の成立”説は殆ど採られていない。
15:明治時代に“南朝”を正統とした経緯
北朝の初代天皇は“光厳天皇”とされるが、北朝の最初の天皇として擁立されたのは弟の“光明天皇”である。光明天皇も“三種の神器”が“後醍醐天皇”に拠って吉野に持ち去られた為、三種の神器無し(後に戻されるが)で践祚した天皇である。
又、北朝第3代“崇光天皇”(光厳天皇第一皇子:即位1348年・廃帝1351年11月7日)は“正平一統”で廃位された天皇である。北朝が“断絶”或は“消滅”状態の期間を経た後に足利幕府が上述した異例、強引な手続きで誕生させたのが“北朝・第4代後光厳天皇”であったから“後光厳天皇”の正統性には大きな疑問符が付いていた。
更に、その後継の北朝・第5代“後円融天皇(後光厳天皇第二皇子:生1359年崩御1393年:即位1371年・譲位1382年)”そして最後となる北朝第6代“後小松天皇(後円融天皇第一皇子:生1377年・崩御1433年:即位1392年譲位1412年)も“三種の神器無し”に践祚した天皇であった。
この様に“北朝の天皇6人”全員が“三種神器無し”の践祚という共通点を持つ上に、いずれの天皇にもその践祚に至る経緯、並びに、手続きの点でも“正統性”という観点からの疑問符が付いた。
ただ、後小松天皇は、室町幕府第3代将軍“足利義満”に拠る“南北朝合一”が成った為、“南朝”の“後亀山天皇(歴代第99代:在位1383年譲位1392年)”から譲位を受けた天皇として北朝の6人の天皇の中で只一人“歴代第100代天皇”として扱われる事に成った天皇である。
15-(1):“南北朝正閏論”
近世以来“南北朝の何れが正統かを巡って議論が戦わされて来た。これを“南北朝正閏論(せいじゅん=正統とそうでない系統)と呼ぶが①南朝正統論②北朝正統論③両統対立論④両統並立論の夫々を主張する歴史家の間で長い間、議論が戦わされて来たのである。
水戸藩主の徳川光圀が“南朝”を正統とする“大日本史”を編纂した。この“南朝正統論”がその後の議論の流れに大きな影響を与えたとされる。
上記①~④の各論についての詳細は省略するが、明治維新を迎え、王政復古を掲げる“明治政府”の下でも議論は続き、帝国議会で“政治論争”にまで発展した記録が残っている。こうした長年の議論に決着を着けたのが“大日本史”の記述を根拠に、明治天皇が1911年(明治44年)に下した“三種の神器を所有していた南朝が正統である“との裁断であった。
16:“北朝”が再興された後も40年間に亘って“南朝”は存続し“南北朝”期の混乱状態は尚も続いた
1352年8月に“北朝”が再興され“足利幕府”の基盤は再び固められた。殆ど国家としての実体を喪失していた“南朝”であったが①中国地区に於ける足利直冬の勢力②九州地区に於ける懐良親王の征西府の勢力が“反足利幕府勢力“としての南朝の存在を支え続けた時期があった。
しかし“懐良親王の征西府”も“足利直冬”の勢力も結果的に足利幕府勢力の前に消え去る。この過程に就いては次項で記述するが、そうした後にも“南朝”方には新たな勢力が注入され続けたのである。
それは“足利幕府中枢”に居た人物が政争で敗れ、失脚した後に“南朝方”に降る事で、大義名分と正当性を獲得して“足利幕府=北朝”と戦い続けるという、南朝成立以来の同じ構図が繰り返されたからである。
“南朝”の存在は武士達にとって“足利幕府の政敵”と戦う為の“手段”と化した為、北朝再興が成った1352年8月(南朝:正平7年・北朝:文和元年)から、紆余曲折を経て1392年閏10月、室町幕府第3代将軍・足利義満が“南北朝合一“を成し遂げる迄の40年間に亘って“南朝”方には新たな勢力が注入され続け“南北朝期”と呼ばれる“大混乱期“は結果として60年近くにも及んだのである。
17:日本の“南北朝大混乱期”に“倭寇”が活発と成った理由
日本がこの6-11項で記述した“南北朝時代中期”の大混乱が深まっていたこの時期、隣国周辺に目を転じると、歴史上極めて大きな影響を残した“倭寇”の活動が活発となっていた。
“高麗・忠定王”の二年(1350年)の記事に“倭寇之侵之始”とある。倭寇が1350年(南朝:正平5年・北朝:観応元年)に南朝鮮の港湾を襲い、米穀の輸送船(漕船)を掠め(かすめ=隙を狙って素早く盗む)守備隊と交戦した記録が残っている。
又、朝鮮の記録に“三島之倭寇”に関したものがある。三島とは、対馬・壱岐・肥前松浦地方を指し、倭寇の根拠地となっていた。この記事からは、日本国内の諸産業や商業が発展し、当時の人々が私貿易を展開し得る状態にまで、経済力を伸ばしていた事が分かる。
この時期の高麗王朝(918年~1392年)は、モンゴル帝国(1271年~1368年)への対応に追われ、日本との通交関係を拒否し続けた。その為、それ迄貿易を行っていたグループは、海賊へと変質して行ったのである。元王朝が公私の貿易を認めていた時期には、中国大陸への倭寇の侵入は無かったが、元末期~明初期になって貿易が禁止されると、倭寇は大陸への侵入を激化させた事も記録されている。
日本列島を約60年間に亘って戦火に巻き込んだ“南北朝期の内乱”が“倭寇”を活発化させた理由として、熊野水軍、村上水軍、松浦党や対馬・壱岐の海賊衆が南北両朝から貴重な軍事力と見做され、絶えず動員された事で彼等の戦闘能力、造船技術、航海術等が飛躍的に向上していた。物資の大量輸送を可能にする大型船も造られる様になり、日本から朝鮮半島へ、更には中国大陸の奥地にまで荒海を自由に航行できる諸技術を彼等は修得していたのである。
こうした熊野水軍、村上水軍等が能力を拡大させていた一方で、高麗王朝は、財政的に破綻状態にあり、軍隊を維持する食糧に欠く程に弱体化していた。こうした状況も倭寇に拠る侵略を誘発させ、永続させた理由であった。
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