menu,css

2018年5月11日金曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代と院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
第13項:“南北朝合一”後に構築した新たな統治機構“北山殿義満”と絶頂期での急死


1:この項の概要と権力の絶頂期にあった足利義満最晩年の16年間

足利義満が“南北朝合一”を1392年に成し遂げたのは34歳の時であった。その彼が満50歳で急死する1408年までの状況を表に纏めた。

この16年間に足利義満は“公武”双方の権力を一手に掌握した後に将軍職を譲り、太政大臣の職を辞し、更には出家をして俗世の身分制度から自由な立場に身を置き、之までの日本に無い“新しい形の統治機構”で“日本に君臨する“事を考え出した。

天皇・上皇(法皇)の地位を簒奪し“王権掌握”を目指したとする説もあるが、開明的な人物だったとされる足利義満は伝統的な政治機構の下で日本国内に君臨するという視野では無く“中国皇帝を中心”とした“中華世界システム”の中の“日本”という視野で、その中で世界に認められる“日本”に君臨するという“国家観”を抱いていたと考えられる。

彼が決断し実行した明国との冊封関係締結という行動もそうした視点からのものであると理解すると整合性がとれる。

“南北朝合一”を成し遂げた後の足利義満は、高々日本一国内で通用するに過ぎないローカルな“天皇”よりも、遥かに高い権威・権力を求め、その結果が中国の歴史書に残る“倭の五王(413年~502年)”以来の“中国王朝との冊封”締結という開明的な歴史的行動に繋がったのである。

義満は明皇帝から“日本国王源道義”の号を得たが、この号は足利義満にとっては“日本と中華世界システムとの国境”を画する道具、世界と日本を繋ぐ為の道具に過ぎなかった。

厳然として存在する“天皇家の権威”を超え“北山殿義満”として日本に君臨する為には東アジアに於ける世界の中心としての“明国皇帝”の権威を冊封下に入る事によって加える事は有効と考えたと思われる。

16年間の彼の行動は“世界に認められる日本造り”にあり“南北朝合一”後の足利義満はそうした視点から考え、行動したと考えると整合性がとれよう。

言わば国境を越えた“国家観”の下で“北山殿義満”という新しい権威・権力行使のシステムを構築し、日本に君臨した絶頂期に足利義満は急死する。彼の死が無ければ、日本の歴史は違った展開をしたであろう。16年間の政治の要点を下表に記す。

=表:南北朝合一を成した後、権力の絶頂期に到り急死した足利義満の16年間=


1393年(明徳4年)4月26日:北朝第5代・後円融上皇崩御(44歳)

1394年(応永元年)12月17日:将軍職を辞し、嫡子義持(8歳)に譲任する。足利義満36歳
12月25日:太政大臣に任ぜられる 

1395年(応永2年)6月3日:太政大臣を辞任する

同年  6月20日:世俗の身分制度から自由な立場になる、という考えから出家をする。(法名・道 義)対明外交を積極化する

同年  8月:今川了俊の九州に於ける勢力並びに独自の外交権の拡大を危険視し、九州探題職を解任する。大内義弘が外交権を狙って讒言をしたとの説がある。

1397年(応永4年):北山第(邸)の造営に着手する(金閣寺=鹿苑寺含む)・・諸大名に土木の役を命ずるが大内義弘は従わなかった(応永の乱の遠因となる)

1399年(応永6年)9月15日:父・足利義詮33回忌の名目で建立した相国寺大塔が完成する。落慶法要に延暦寺以下1000名の僧侶が出仕し、関白一条経嗣が天皇の行幸に准じた儀式で足利義満を扱う 

同年 10月:“応永の乱”で大内義弘を滅ぼす

1401年(応永8年):北山第(邸)を政庁とし“沙汰始め”が行なわれる・・将軍(室町殿)に対して北山殿義満と称される

同年 5月:同朋衆の僧祖阿(そあ)を正使、博多の商人肥富(こいつみ)を副使として“日本准三后道義 上書大明皇帝陛下”とした国書を持たせ、明国に派遣する

1402年(応永9年)9月15日:明国から返礼として僧“天倫道彝”と“一庵一如”が来朝し8月兵庫に到着。9月に北山第に到着する・・冊封関係成立

1403年(応永10年)2月:政変で“成祖永楽帝”に代わった為、義満は早速“堅中圭密゛を正使として”日本国王臣源表ス“の表文で永楽帝の即位を祝賀し万物を献ずる

1404年(応永11年)5月:“日本国王源道義”宛の詔書に併せ、日本国王の印と刻した金印、通交に必要な“永楽勘合符”が与えられる。正式国交が成る

1405年(応永12年)4月:後円融天皇13回忌で義満の前に法皇出座の際に用いる“三衣筥(さんえばこ)”が置かれた。足利義満が太上法皇待遇を受け始めた事の証とされる

1406年(応永13年)12月:足利義満の妻室・日野康子が後小松天皇の准母(国母)となり、翌1407年3月5日に天皇・院との配偶関係の無い女性として前例の無い院号“北山院”が宣揚される

              
1408年(応永15年)3月8日:北山第(邸)に後小松天皇を迎える(20日間滞在する)

同年 4月25日:足利義嗣(義満四男)が内裏に参上して親王の礼に准じた元服の儀式が行われる。世間は北山第に住み、足利義満が溺愛した四男の“足利義嗣”が北山殿義満の後継者との噂が広まる

同年 4月28日:足利義満が発病する。咳が酷く、公家・山科教言(やましなのりとき)との対面を中止したとの記事あり(教言卿記)

同年 5月6日:症状悪化し、後継者を遺言せずに急死。風邪から急性肺炎に移行したとの説がある。


2:既に日本に岩盤の様に根付いた“天皇家の権威”並びに“天皇家”という日本の身分制度上の“最高身分”を敢えて廃絶する事は得策で無いと考えた足利義満

足利義満が明国の“冊封体制”下に入る事を決断した狙いは、中国皇帝を中心とした“中華世界システムの中での日本“という”国家観“が信念として育ち、ローカルに過ぎない日本の“至尊(天皇・朝廷・貴族層)”勢力と“至強(将軍・幕府・武士層)”勢力が併存する伝統的統治システムから脱却し、尚且つそれを超える“新たな権威・権力”の立場で日本に君臨する事にあった。

表で示した16年間の足利義満の行動は一貫してそうした考えの下に為されたものである。足利義満が“自ら上皇、法皇に成ろうとし、その地位を簒奪しようと行動した”との説もあるが、彼の16年間の行動はもっと開明的で、より高邁な“国家観”からのものとする説が近年では有力となっている。

“南北朝合一“を果した足利義満は実質的に”公武“双方に君臨する前例の無い強い立場にあった事から、古代から日本社会に岩盤の様に根付いた至尊(天皇家・朝廷・公家層)勢力トップの座(天皇・院)を“簒奪”する意図を持っていたとの説を生んだ。

しかし足利義満は”天皇・院“の地位の簒奪、廃絶は“日本の特異性”への挑戦であり、“至尊(朝廷・貴族層)勢力“のみならず”宗教勢力“更には“至強(幕府・武士層)勢力”を加えた“日本全体”を敵に廻す危険が大であり“労多くして益なし”と考えていたものと思われる。

“南北朝合一”を果した足利義満は、中国皇帝を中心とした“中華世界システムの中の日本“という国家観への確信を強め、その確信の下に日本の特異性として岩盤の様に根付いた“至尊(天皇・朝廷・貴族層)”勢力の政務機構と“至強(将軍・幕府・武士層)”勢力の政務機構を温存し、尚且つ、現状の権威・権力を凌駕する“新たな権威・権力者”として日本に君臨する事を考え、実行した16年間であった。

義満は、まさかの急死を遂げるのであるが、実質的に“公武”双方に君臨した義満に対して周囲は“天皇・上皇”と同等の格式を以て待遇する以外に方法が無かった事が“北山殿義満”は天皇・上皇の地位の簒奪を図ったとの説を生んだ。しかしそれは足利義満が真に意図したものでは無い。

ずば抜けた開明さと、強い大陸への憧憬を若い頃から抱き、思った事は成し遂げるという強い意志力、気質を持った足利義満は、同時に“生まれながらの将軍”であった。

次々と実績を積み上げ、晩年、北山第(邸)に拠った足利義満は”室町幕府第4代将軍を嫡男・足利義持に継がせたが、全くの傀儡状態に置いた。最晩年には、四男の”足利義嗣”を溺愛し、北山第(邸)に住まわせた。彼の元服式を内裏で、しかも“親王に准ずる儀式”で行った事で、世間は”北山殿義満”の後継者は足利義嗣だと噂した。

しかし、足利義満が敷いた高邁な政治路線は彼の”急死“によって頓挫する事に成るのである。

3:“治天”同様の立場を得ていた事を裏付ける史実、並びに“公武”双方の実権を握っていた“足利義満”

足利義満が“公”に於いて“治天”(ちてん=天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇)同様の権力を握ったベースは前項で記述した様に“二条良基(1388年6月12日に関白職を次男の二条師嗣に譲り翌13日68歳で没す)“が当時の衰退していた“北朝”を室町幕府将軍・足利義満を“朝廷政治”に引き入れる事によって、経済的・政治的に浮揚させる策をとった事によって築かれた。足利義満はこの結果“公武”双方の実権を握った。

表に示した様に、1393年に傀儡状態であった後円融上皇(北朝第5代天皇・生:1359年・崩御:1393年)が崩御し“足利義満”は未だ16歳だった後小松天皇(歴代第100代天皇・生:1377年・崩御:1433年)の父親代わりの立場を得た。この時点で上皇でも法皇でも無い義満が”治天代行的な存在“として宮廷内を牛耳ったのである。

1393年時点での明国と日本との関係は、洪武帝による“功臣の大粛清の嵐”の最中であり、洪武帝は“日本国王良懐”との通交関係を1380年には既に停止していたのである。

足利義満は嘗て(1373年・1380年)“明国の冊封相手は日本国王良懐”だとの理由、並びに、冊封相手としての資格不備との理由から、通交を拒絶されたまゝの状態であった。“日本国王良懐(=征西府将軍・懐良親王)”と洪武帝との通交が停止されていたという事は義満にとっては“通交交渉”への障害の一つが除去された事でもあった。

“南北朝合一“後の足利義満の頭の中には常に明国との通交再開があり、それを念頭に置いて、先ずは日本に於ける“絶対権力”の確立を急ぎ、冊封の資格を整える事に注力したのである。

3-(1):征夷大将軍職の辞任の目的は天皇の“臣下”の立場からの脱出

1394年(応永元年)12月17日:

足利義満は征夷大将軍の職を辞し、未だ8歳だった足利義持(母は側室の藤原慶子・生:1386年・没:1428年)に譲任した。足利義持には、腹違いの兄弟が居たが、嫡男として扱われた。第4代室町幕府将軍が誕生したのである。

しかし政治の実権、並びに足利家の“家督”は未だ36歳だった足利義満が握り続けた。尚、朝廷は義満が征夷大将軍職を辞した直後の12月25日付で“太政大臣”職に任じている。“公”側が義満の存在を重視していた事が分かる。

将軍に就任した僅か8歳の足利義持の官職は父親・足利義満の強い影響力を反映して、下表に示す様に急速に上昇して行った。

=表:足利義持の官位・官職の上昇=

1395年(応永2年)6月3日:9歳・従四位

1396年(応永3年)4月20日:10歳・正四位下

同年       9月12日:参議

1397年(応永4年)1月5日:11歳・正三位

1400年(応永7年)1月5日:14歳・従二位

1401年(応永8年)3月24日:15歳・権大納言

1402年(応永9年)1月6日:16歳・正二位

同年      11月19日:従一位

1406年(応永13年)8月17日:20歳・右大将兼務


3-(2):世俗の“身分序列”からの脱出を図って出家する

3-(2)-①:“太政大臣”職も辞して天皇の臣下の立場からの更なる脱出を図る

1395年(応永2年)6月3日:

足利義満は征夷大将軍職の辞任に続いて、半年後には“公”の最高位である太政大臣も辞した。“天皇の臣下”という全ての立場から脱する事を決意した足利義満の意図を理解する為には、彼の“国家観“を理解する必要がある。

当時の世界の中心は中国と捉える開明的な足利義満は“明王朝”との関係を重視した。1395年の時点では“洪武帝”が明王朝創設の“功臣”の大粛清の真っ最中であり、その関連で“日本との通交を永遠に禁ずる”旨を子孫に厳命し、国交断絶を決断していた。しかし一方で、博多の商人“肥富”等、民間では明国との密貿易が盛んに行なわれていた。1394年頃の記録に“肥富”が足利義満に貿易の利を説いていたとある。

足利義満が“開明的”な人物であった事は何度も述べた。南北朝合一(1392年閏10月)を成し遂げた彼の権力は実質的に至尊(天皇・院・朝廷)勢力をも完全に抑えるものであった。“北山第(邸)”の造営にも既に取り掛かっており(1397年)、相国寺大塔の落慶法要も終え(1399年5月)足利義満の“公武”双方に君臨する権力は既に絶頂期にあった。

彼の脳裏には、中国皇帝を中心とした“中華世界システムの中での日本“という国家観が政治の軸となっていたものと考えられる。

既存の“至尊(天皇・朝廷・貴族層)”勢力と“至強(将軍・幕府・武士層)”勢力を温存しながらも、それを凌駕する“新たな権威・権力”の形、即ち“北山殿義満“と称される立場が足利義満の16年間に亘る“日本に君臨する”姿であった。

日本の特異性として根付いて来た“至尊(天皇・院・朝廷)”勢力の“政務システム”と至強(室町幕府・室町殿)勢力の政務システム双方を“装置”として従える“北山殿義満”主導の“新しい日本の政務システム、統治システム“を構築して、日本に君臨したのである。

3-(2)―②:“世俗の身分序列からの脱出”を果たす意図からの出家。

1392年8月に“大臣の寺(相国寺)”を建立し、その落慶供養に多くの公卿を従えた足利義満であったが“至尊(天皇家・院・朝廷)”勢力に君臨し、そこに安住しようとした訳では無い。彼の視点はもっと開明的で、高邁であったと思われる。

視点は日本に止まらず、当時としての“世界観”つまり“中国皇帝を中心とした中華世界システム“の中の”日本国王“という立場で日本に君臨しようとの考えであった。足利義満がその様な考えを持った行動を鮮明にしたのは、表からも明白な様に、1394年からである。

生まれながらの“室町幕府将軍”として育ち、生来の気質として周囲が制御出来ない奔放さを持った足利義満であったが、彼の行動を制御していた3人が1388年に相次いで没し、更に“南北朝合一“直後の1393年4月に後円融上皇が崩御した事で、彼の行動の自由度が全開となった事が大きい。

=足利義満の行動を制御していた人物3人とその死=

①義満の有力なブレーンであった義堂周信(ぎどうしゅうしん)・・1388年5月没(63歳)

②義満を朝廷社会の権力掌握に尽力した二条良基・・1388年6月没(68歳)

③義満に禅宗の教養を与え、相国寺創建を勧め、実質的な開山であった春屋妙葩(しゅんおくみょうは)・・1388年9月没(76歳)


3-(3):足利義満が”准上皇・法皇(治天)“と同格の待遇で行動した事を裏付ける史料

例ー1 :足利義満の出家後“伝奏”が彼の“仰せ“を奉じた文書の存在

1396年(応永3年)6月6日付文書:

“伝奏”とは本来院政を行う上皇への上奏を取り次ぎ、その意向を伝える朝廷政治の中枢を担う重要な役職である。既に太政大臣を辞し、しかも出家をした足利義満の“仰せ”を、内大臣であった“万里小路嗣房“(生:1341年・没:1401年)が奉者として伝える文書が存在している。

この史実は従来の公家社会の秩序ではあり得なかった異例の事である。伊藤喜良氏は“大臣・大納言”という高い地位にあった“万里小路嗣房”が足利義満の命を伝えるこの文書の存在は、彼が義満の臣下として行動していた事を裏付けるものであり、足利義満が事実上“国王”の様な権力を持って“公武権力の中枢”を成していた事を裏付けるものだ“と述べている。

以下は万里小路嗣房が東寺長者“俊尊”に“東寺及び最勝光院寄検非違使俸禄”の権益を返付する旨を足利義満からの“仰せ”として伝奏した文書である。

当寺並びに最勝光院寄検非違使俸禄の事、官人章頼・章忠等の申請に任せ、料所に付け らるといえども、文保の勅裁ならびに康暦の御執奏以下の支証等を帯び、歎き申すの上、 (略)元のごとく料所を寺家に返付せらるー所なり。其旨を存ずべきの由、東寺に下知 せしめ給べきの旨、仰せ下され候なり。恐―謹言。応永三六月六日 金剛乗院僧正御房 (=俊尊)

例ー2 :仏教行事で“足利義満”が法王同様の振舞いをした事例

1396年(応永3年)9月:延暦寺大講堂落成供養に臨んだ際の記録

出家後の足利義満は、仏教行事に於て、際立って上皇や法皇の行動を模倣した振る舞いをした事が伝わる。1332年(元弘2年)に兵火で焼失した延暦寺大講堂が60余年後に再建され、その落成供養に臨んだ時の振舞いが“法皇”同様だった事が伝えられている。

=足利義満の法皇同様の振る舞い=

①天皇家の葬礼に奉仕する八瀬童子(やせどうじ=比叡山延暦寺の雑役や神輿を担ぐ役を努めた村落共同体の人々)に足利義満の輿を舁かせ(かかせた=肩に乗せて運ぶ)た事

②関白一条経嗣(二条良基の三男・生:1358年・没:1418年)はじめ、左右大臣はじめ、殆んどの公卿を従えた事

③延暦寺戒壇院で受戒をした際に、後白河法皇並びに後嵯峨法皇の時の儀を模倣した事


4:北山第(邸)造営と益々顕著になった義満の“天皇・上皇”の地位を凌ぐ振る舞い

1397年(応永4年)4月16日:

この日足利義満は北山第(邸)の寝殿の立柱上棟を行っている。北山第全体の規模に就いては諸説があるが、元々は鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経の外租父で関東申次を務めた、西園寺家の実質的な祖、西園寺公経(さいおんじきんつね・生:1171年・没:1244年)の別荘を足利義満が気に入り、譲り受けたものである。

金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に現したものと言われる。当時は現在の“金閣寺”を含んだ一大区画であり、東は北野天満宮の西端を流れる紙屋川まで、南は一条通までが創建当時の規模だった。

後に父・足利義満を嫌った第4代将軍・足利義持が仏舎利のある“金閣”だけを残して全てを取り壊したが、義満期の規模は天皇の御所の5倍との説もある。現在の立命館大学や洛星高校を含んだ広大な敷地である。足利義満が北山第へ定住する様になるのは1399年(応永6年)3月頃と考えられている。

表の1397年に、北山第造営を機に良好だった足利義満と大内義弘との間に亀裂が生じた事を記したが“北山第”造営に義満は諸大名に人数の供出を求めたが、大内義弘は“武士は弓矢をもって奉公するものである“と言って従わなかったのである。これが2年後の”応永の乱“へと繋がった一つの理由とされる。



(西園寺家の旧跡と書いた説明版が立つ)
(戒名鹿苑院殿から鹿苑寺と名付けられた)


4-(1):”相国寺大塔供養”の様子と絶頂期にあった足利義満の振る舞い

1399年(応永6年)9月15日:

”中華世界システムの中の日本“という国家観を抱き、彼を制する何人も存在しない状況下の足利義満の行動は、後円融上皇の崩御(1393年)後は(上皇・法皇が在位していなかった)“後小松天皇”を息子同様に扱った上に、自分に対する扱いは当然の事の様に“上皇”並みのものを要求したと伝わる。上記した様に周囲に”北山殿義満”の権威・権力に逆らう者は居なかったのである。

父・足利義詮の33回忌供養を名目に、足利義満は(現在は焼失し、史跡としても存在しないが)高さ109mにも及ぶ“相国寺大塔”の建立を“南北朝合一“を成した翌月(1392年11月)から始め、7年後(1399年)に完成させていた。

その供養式典で足利義満が“亀山法皇”の記録に准じ、それを模した作法で臨んだ事が、当時の関白“一条経嗣”(二条良基三男・生:1358年・没:1418年)の仮名日記“相国寺塔供養記”に書かれている。記述に拠るとこの巨大な塔の高さを”さるはたかさも法勝寺の塔にはまさりたりとぞうけ給わる“と表現し、驚嘆している。

名目は亡父・足利義詮の菩提供養としてはいるが、足利義満の主眼は、嘗て白河院(院政を制度として始めた第72代天皇・生:1053年・崩御:1129年)が“院権力”の象徴として建立した“法勝寺の塔”(八角九重の巨塔で高さ81mと伝わる)を超える塔を建立し、“院権力”を凌駕した事を天下に示す事にあった。

又“法勝寺の塔の消失”(康永元年・1342年:室町幕府初代将軍足利尊氏の時期に焼失)に象徴される様に、世の中は不安定で荒れていたが、そうした天下を義満が再建した事を象徴する相国寺大塔建立でもあった。

大塔供養の式(9月15日)の準備は5月下旬から始められ、当日は延暦寺から400人、興福寺から300人、園城寺・東寺・東大寺から夫々100人の合計1000人の僧侶が招待された。儀式の進行も当時左大臣の三条実冬(後の太政大臣・生:1354年・没:1411年)二条師嗣(生:1356年・没年:不詳)そして広橋兼宣(生:1366年・没:1429年)の3名の公卿が担った。

足利義満は北山第(邸)から関白一条経嗣(二条良基の3男・生:1358年・没:1418年)が掲げた御簾を潜って姿を現し、出仕していた法親王、並びに、関白全員が跪(ひざまずいて)いて迎え、北山第の総門を出てからは廷臣・僧侶等、供奉の人達が連なって大塔に向って行列して行った事が記録されている。

落慶供養の様子も伝えられている。詳細は省略するが“散華”と称される、僧侶が花びらを撒く行事が泉涌寺・法勝寺・安楽光院・太子堂・元応寺等五つの律院から各10人の僧侶が七層の塔の腰の三階から七階まで登り、そこから花びらを散らすという、塔の高さを効果的に演出したもので行なわれた。100メートル程の目も眩む様な高さからの“散華“は多くの参列者に足利義満の絶頂期の権力、すなわち“天皇・上皇”を超えた“北山殿義満“の権威・権力を伝えるには十分な効果があったとされる。

儀式は夜明け前から日没までの一日中行なわれた。足利義満が北山第に引き揚げる道には灯籠が設置され、路地全体が照らされ、灯籠に映し出された終着点・北山第の金色に輝く“舎利殿(金閣寺)”の豪華さと美しさは足利義満の絶頂期を象徴する大イベントの最後を飾るものとして相応しいものであった。

4-(1)-①:足利義満が寵愛した“世阿弥”の偉業と生涯について

上記儀式の最後に、舞楽が行われ“大塔落慶法要”を更に盛り上げたとの記録が残っている。足利義満と芸能との関わりは雅楽の笙(しょう)の“豊原英秋”(とよはらのひであき・生:1347年・没:1387年)を寵した事も知られるが、何と言っても“世阿弥”を寵愛した事が知られている。以下に紹介して置きたい。


観阿弥と世阿弥 

世阿弥の父親“観阿弥”(本名:清次・生:1333年・没:1384年)は村の祭礼や社殿の造営時に“猿楽師”として招かれ、各地を巡回、後に興福寺、春日大社等の神事能に奉仕する様になる。大和猿楽四座の“結城座”の一員として活躍し、評判を得て1370年頃から彼が一座を率いて“醍醐寺”など、京都周辺へも進出して行った。

当時は猿楽(奈良時代に大陸から伝わった軽業・曲芸・物真似・奇術等を見せる芸で身のこなしが猿の様に軽快な事からそう呼ばれた)よりも“田楽”(田植えの際に豊穣を祈った農村の歌や踊りが演目と成った)の方が評価が高く、足利尊氏等の権力者も“田楽”を後援していた。

1372年頃の記録に、観阿弥が京都で名声を得る切っ掛けになった“結城座”の醍醐寺7日間公演に、未だ9歳だった子息の“世阿弥”(本名:元清・生:1363年・没:1443年)が初舞台を踏んだとある。そして一座の評判は足利義満の耳にも届く様になった。

世阿弥の美しさに一目ぼれした足利義満 

1375年京都の“今熊野神社”で行われた“神事猿楽興業”に、評判を聞いた足利義満が観賞に訪れた。足利義満にとっては初めての“猿楽能”観賞であり、従来の“猿楽”を大幅に向上させ、全く新しい猿楽を誕生させていた“観阿弥”の演技の素晴らしさもあったが、並み居る大名の前で獅子を舞った12歳の”世阿弥“(当時は二条良基が与えた幼名・藤若であった)の美しさに17歳だった足利義満が一目惚れしたと伝わる。以後“観阿弥親子“(観世座)は足利将軍家の大きな支援を受ける事になる。

当時の関白“二条良基”が東大寺尊勝院の僧に宛てた手紙に“よくぞこんな美童が輩出したものだ”と絶賛した事が残されている。“世阿弥”の美少年ぶりを裏付けるものである。尚“世阿弥”に“藤若”という幼名が“二条良基”によって与えられたのはこの時である。


足利義満と“世阿弥=藤若”の男色関係について 

少年“藤若(当時11歳)”は将軍・足利義満(当時17歳)の寵童として側近く召し使われる事に成る。1378年(足利義満20歳、世阿弥15歳)の祇園会では将軍足利義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判を浴びた事が“後愚昧記(三条公忠の日記)”に書かれている。

当時は“男色“は決して珍しい事では無く、現代人が考える様な不健康な性的倒錯とは考えられていなかった。上述した“相国寺大塔落慶法要”の記録にも各門跡(平安末以降、皇族・公家の子弟が住する特定の寺院)達が寵愛する上童(うえわらわ=見習いなどの目的で殿上あるいは貴族の側に仕えた童)の“美童コンテスト”さながらに贅を尽くした格好をさせ、競った事が書かれている。


足利義満生存時に大いに活躍した“世阿弥” 

息子の世阿弥と共に能を大成したとされる父・観阿弥は1384年(至徳元年)駿河国、静岡浅間神社での演能の後、体調を崩し51歳で没している。

父の死後、世阿弥が“観世太夫”を引き継ぎ、足利義満の後援を受け、室町幕府の“御用役者”的地位を与えられ、その期待に応えるべく数多くの能を作った。それらの作品は現在でも名作として頻繁に上演されている。一般に猿楽者の教養は低いものだったが、将軍足利義満はじめ二条良基等の貴族からの保護を受けた世阿弥は連歌を習うなど、多大な教養を蓄積した。そうした深い教養をバックに“死後の世界と現世の世界、亡霊や化身等を主人公“とした“幽玄能“を磨き上げる事に成る。

世阿弥は父の遺訓、自ら会得した芸術論を記述した“風姿花伝(=花伝書)”を37歳(1400年)から執筆し始め、最初の能の理論書を含め、21種の伝書を残している。名言として今日まで伝わる“初心忘るべからず”はその後の20年間の著述を集約したとされる能芸論書“花鏡(かきょう)=1424年成立”の中にある言葉である。

世阿弥の作品とされる演目は“高砂・忠度・実盛・井筒・老松”など50番以上、謡曲も200番程書いたとされ、そのうち120番以上が今日でも演じられている。


足利義満没後に暗転した世阿弥の人生 

1408年(応永15年)絶頂期の足利義満が急死する。1394年に8歳で既に第4代室町幕府将軍に就いていた足利義持は22歳の成年将軍と成って居り、父・足利義満の政治を次々と否定して行く。それは芸能にも及び、田楽を支持し、父・義満が寵愛した世阿弥は将軍家から遠ざけられた。

世阿弥が作り上げた“幽玄能”は既に高尚な芸術として育って居り、民衆から離れたものとなっていた為、将軍家から見放された事は命取りであった。更に1428年正月に将軍義持が没し、くじ引きで決まった事と恐怖政治で知られる第6代将軍足利義教(あしかがよしのり)に引き継がれると、事態は一層悪化する。

足利義教の兄で足利義満に寵愛された“足利義嗣”が世阿弥を支持した為、足利義教は“世阿弥”を遠ざけた。そして世阿弥の甥“音阿弥(おんあみ・生:1398年・没:1467年)を支持し、世阿弥には露骨な迫害を加えたのである。

世阿弥は仙洞御所での演能を禁止されるという不遇に加え、後継者として観世太夫の座を譲った長男の“観世元雅”(かんぜもとまさ・生:1394年・没:1432年)が1432年(永享4年)伊勢安濃津で客死するという不運に見舞われる。(これには暗殺説もあるが不詳)

世阿弥の不幸は尚も続き、1434年、世阿弥71歳の時に、足利義教(室町幕府第6代将軍)の不興を買い、佐渡に流罪となる。その理由には“観世元雅”客死後の観世4世家元を“音阿弥”に継がせよ、と将軍足利義教が強要した事に世阿弥が抵抗した事が原因とする説、観阿弥の母親、つまり世阿弥の祖母が“楠木正成”の姉妹だった事から“南朝方のスパイ“だとされた説があるが、いずれにせよ、将軍・足利義教の意向によって“音阿弥“が”観世太夫“の地位に就いた。

世阿弥は暴政、恐怖政治を行った第6代将軍・足利義教が暗殺された(1441年)後に後小松天皇の落胤説のある“一休和尚”(一休宗純・生:1394年・没:1481年)の尽力で漸く許され帰京する。

その後は娘夫婦の元に身を寄せ“観世小次郎画像賛”に拠れば、嘉吉3年(1443年)に80歳で没したと書かれている。墓所は一休和尚が後に後土御門天皇(第103代天皇:在位1464年∼1500年・生:1442年・崩御:1500年)の勅命により1474年(文明6年)80歳で第47代住持となり、7年後の1481年に87歳で没した京都・大徳寺の“真珠庵”にある。残念ながら一般人は普段はこの墓地に入れないとの事である。


能楽発祥の地“新熊野神社”(いまくまのじんじゃ)訪問記・・2018年2月19日(月)

京都駅からJR奈良線に乗り東福寺で下車するか、又は、京都駅から市バス208系統に乗り“今熊野バス停”で下車、徒歩3分程で行ける。

神社の由緒書には“熊野信仰が盛んだった平安末期の1160年(永暦元年)後白河法皇によって創建されたとある。“平治の乱(1159年12月)”で敗れた源義朝(頼朝・義経の父親)が尾張で殺され、源頼朝が伊豆に流された年である。

“後白河上皇”は平清盛に命じて紀州熊野の神を此の地にあった仙洞御所、法住寺殿の内に勧請して当社を創建した。平清盛は熊野の土砂や材木を用いて社域や社殿を築き、那智の浜の青白の小石を敷いて霊地熊野を再現したとあり、境内には今日でもそれが残されている。

神と仏は異なる存在であるが“一体”の存在であるとする“神仏習合思想”が平安時代以降日本人の間に定着した事は以前の項で記述したが“新(いま)熊野神社”は本地垂迹説(本地である仏・菩薩が救済する衆生の能力に合わせた形態をとってこの世に出現して来るとする説。垂迹である神と本地である仏・菩薩の対応は必ずしも一定していない)に拠って、本殿の祭神は “イザナミ命”であり“千手観音”が本地仏だと神社の由緒書にある。

又、上之社の祭神は“イザナキ命”と“スサノヲ命”であり“薬師如来”と“阿弥陀仏”が本地仏である、との説明がある。

日本の家庭にも神棚と仏壇の双方を備えるケースがある。後白河法皇の場合を家に例えると“神棚”が“新熊野神社”であり、そして“三十三間堂”が“仏壇”として創建されたという事である。実際に新熊野神社(神棚)と三十三間堂(仏壇)の位置関係はJR東海道線を挟んでほゞ南北に等距離にある事からその事が理解出来る。

“新熊野神社”は、足利義満が初めて観阿弥・世阿弥父子の能を観た場所として“能楽発祥の地”とされている。“猿楽“という芸能を”能楽“という我が国を代表する“芸術”に進化させた“世阿弥”が未だ“藤若丸”と名乗っていた頃、父の“観阿弥”と共に大和猿楽の一座“結城座”を率いて興行を行った時にそれを観た足利義満がその至芸に感激し二人を“同朋衆”に加え、この時“観阿弥・世阿弥”と名乗らせたと説明書に書かれている。




(能楽発祥の地・新(今)熊野神社)   (義満が世阿弥を見初めたとされる)

4-(2):“北山第(邸)”に於ける“如法経会”でも“天皇・上皇”の立場を凌ぐ足利義満の様子が記録されている

1401年:

この年の5月、既述した様に足利義満は僧祖阿・肥富を明国との交易再開の使節として派遣している。又“李朝”に向けても使節を送っている。足利義満と言う人物が、元々周囲が制御出来ない奔放さを持った人物だという事は述べたが“中華世界システム”の中での”日本“という国家観の下で君臨する事を目指す彼は、既存の”公武“の政務機構を活用し、独自の“北山殿義満”としての新しい政務機構で日本に君臨したのである。

“後小松天皇”(当時24歳)を息子同然として扱い、周囲には自分に対する扱いを空位だった”上皇・院“と同等の作法を求めたのである。

如法経会(にょほうきょうえ)とは一定の法式に従って経文を筆写する仏教行事で、1188年の後白河法皇に拠るものが盛大であった事が伝わるが、足利義満は1401年の同行事では、後白河法皇の“仙洞経会”に倣って開催した事が伝わっている。

5:北山第(邸)が完成し、以後“北山殿義満”として之までに無かった“新しい政務処理システム“の下で日本に君臨する

明国の皇帝を中心とした“中華世界システム”の中の“日本”という“国家観”を抱いた足利義満の具体的政策は①明国との冊封関係の締結②国内における“北山殿義満”として“公武”双方に君臨する新しい“日本統治システム”の構築であり、北山第(邸)に移り住んだ(1399年3月頃)足利義満は、この“新統治システム”を用いて日本に君臨した。

5-(1):“北山第(邸)”が政務の中心に成って行く

1397年(応永4年)4月から“北山第(邸)”の造営を始め、改築と新築に拠って造営された旧西園寺家の別荘は“金閣”を含む豪壮な政庁・迎賓館に生まれ変わった。足利義満が造営で最重要視した機能は“明国使者”を受け入れる“迎賓館”としての機能だとされる。

造営の進展を伝える情報としては“北山第(邸宅)”で1398年(応永5年)4月22日に“安鎮法”(あんちんほう=密教の修法の一つで国家の安寧、家屋の安全を願って行われる)を修した記録、並びに、1399年正月に雪見をした記事が残っている。

これ等の情報からこの記事が伝えられた頃には壮大な“北山邸”の完成が近かったものと考えられる。以降の記録からも“北山第”の機能が徐々に重要さを増して行った様子が分かる。

1401年(応永8年)2月:

管領・畠山基国(畠山氏からの最初の管領・在職:1398年~1405年・生:1352年・没:1406年)等を着座させて、初めての“沙汰始(政務開始の為の儀式)”が行なわれ、北山第(邸)が院の機能、並びに、武家の政庁としての場となった記録が残る。“北山殿義満“政権は“公武”双方の政務を担う強力な政権として此の地で動き始めたのである。

5-(2):“上皇・院(=朝廷)”並びに“室町殿(=幕府)”の機能を“装置”として活用し、新たな政務機構として日本に君臨する“北山殿義満”

1401年の時点で天皇は“南北朝合一”後、最初の天皇として即位した24歳の“後小松天皇(歴代第100代天皇・即位:1392年・譲位:1412年・生:1377年・崩御:1433年)である。父親の後円融上皇は1393年に崩御しており、足利義満は実質的に父親代わりの立場にあった。“公武”双方の実権を握り、事実上の“上皇”の機能を担っていた“北山殿義満“の下で”後小松天皇“は全くの傀儡状態であった。

後小松天皇の皇子の誕生も遅く、この年、1401年に後の第101代称光天皇と成る“躬仁皇子”が誕生している。“北山殿義満”存命中は後小松天皇は上皇に就く事は無く、上皇と成って院政を開始するのは足利義満が急死した4年後の1412年まで待つ事に成る。

“北山殿義満”は以上の様に“公”で君臨し“武”の面でも将軍職を7年前(1394年)に当時8歳の足利義持に譲ったものの、実質的な政務処理は全て”北山殿義満“の指示に拠るという全くの”傀儡“将軍化していた。

5-(2)-①:“北山殿義満”が王権を簒奪したとの説への反論

こうした“公武”の政務の姿から“北山殿義満”を“法皇”と称し、政治形態を“義満の院政”と呼ぶ学説もあるが、明王朝との冊封関係を結んだ足利義満の開明的な“国家観”に基づく“北山殿義満”と称された政治体制はあくまでも義満ならではの独自の政治体制と捉えるべきであろう。

如何に足利義満が“院同様の行動”をとり“院政同様の政治体制”で政務を行ったとしても“北山殿義満”は“法皇”でも“治天”でも無かった。又、その地位の簒奪を図ろうと動いた史実も無い。

足利義満は日本の政治体制の“特異性”として既に岩盤の様に根付いた“天皇家の血統(皇統)“のみに与えられる”権威・権力“を簒奪する動きをしなかったばかりか、寧ろ温存する選択をしたと言える。

“足利義満には順徳天皇5代の孫説があり、上皇・院の地位を簒奪した上で自らの皇統を主張しようと思えば不可能では無かったとする説もある。しかし、足利義満が“皇統簒奪”の動きをしなかったのは、日本の皇統の歴史は既に岩盤化しており、現実的には簒奪する事は、如何に当時“万能”に近い権力を握っていた足利義満であっても不可能な“日本の身分上の壁”である事を義満は充分承知していた。

従って足利義満は“至尊(天皇家・朝廷)”体制を温存し、むしろそれを活用する事を選択したのである。

至尊(天皇家・朝廷)勢力が日本の岩盤として伝えて来た“権威”は活用すべきと考え、行動した事例が、妻“日野康子”を後小松天皇の“准母”としたケースである。之に拠って自分は自動的に“准父”と成り、実質的には既に“治天の代行”として振る舞っている自分を“正当化”する事に役立てたと考えられる。

“足利義満”の著者“伊藤喜良”氏等は“足利義満は確かに天皇・院と比肩出来る、或は超える立場、実権を得る事に注力した。しかし、その意図は“天皇・上皇(院)”からの王権簒奪にあったのでは無い“として、以下の論点を挙げて“簒奪説”を否定している。

①:建武政権下の専制君主“後醍醐天皇”がとった“公家一統”の権力形態に近い事は確かだが、著しく弱体化していたとは言え、天皇は存在して居た。

②:足利義満の行動は確かに“治天の代行”としての行動が多く見られ、その他、宮廷内での“前代未聞“の行動もあったが、それらは全て天皇制の温存と天皇制を必要なものとして成り立つものであった。義満が“簒奪”を図ったのなら“全く別の政務システム”を用いた筈である。

③:浄・穢の観念が強い日本に於いて義満が“王権掌握”を実現する為には既に実現している武門・武人の従属と統治権掌握だけでは充分では無かった。日本の歴史の上で根付いて来た天皇家の持つ“最も聖なる存在”であるという点、つまり“身分、序列における頂点”に立つ“天皇家の血統“の具備という”観念的権威“が必要であった。これと同等のものを”真似る事“は可能であっても現実的には義満にも超える事の出来ない”壁“であった。

④:従って“中華世界システム”の下に“日本国王として君臨する“という”国家観“を持つ足利義満にとって、既存の“至尊(天皇家・朝廷政治・貴族層)“勢力、並びに”至強(将軍・幕府・武士層)“勢力を温存した上で、それを超越する権威・権力を持つ”北山殿義満“として日本に君臨する事が最善の選択肢と判断し行動した。


 “公武”双方の権力を完全に掌握した“北山殿義満”であったが“日本の特異性”として既に根付いている“天皇家”の“観念的権威”を簒奪する事は不可能であり、他の方法で権威付を行い、日本に君臨する方策もあるとの考えに至ったという事である。

他の方法とは“北山殿義満”として、日本の既存の政治システム、すなわち“朝廷”並びに“幕府”という装置を活用し、権威付けには中国皇帝の権威を借りるという選択をしたという事である。

6:“中華世界システム”の中の日本という“国家観”が“北山殿義満”を明国との“冊封”締結に駆り立てる

1372年に懐良親王が大宰府を追われ、翌1373年に室町幕府・管領の細川頼之が明国との国交を求めたが“将軍足利義満は天皇の臣に過ぎない”事を理由に“拒絶”された。

この時点の義満は開明的な資質と大陸への強い憧憬から明国との通交を望んでいたであろうが、未だ17歳であり、確たる“国家観”を持っていたとは思われない。

“公武”双方の権力をほゞ掌握し、重要課題であった“南北朝合一“を1392年閏10月5日に成し遂げた後に”中国皇帝“を中心とした”中華世界システム“の中の”日本“という“国家観”に確信を持ち、それを具体化する政治に注力して行ったのである。

足利義満の“大陸への憧憬”そして、どの様な手段を用いても目的を達成するという生来の強い意志力とが相まって“明国”との“冊封関係”締結に向っての行動を開始したのである。

6-(1):明国側並びに日本側での政情変化を乗り越えて成した“冊封締結”

初代皇帝“洪武帝”の時期に日本との国交断絶期があった。しかし、幸いにもこの時期は足利義満が“南北朝合一”を目指して国内課題の解決に傾注した時期であり、明国との通交交渉に本腰を入れて着手する前であったという“歴史の偶然”が重なった。

6-(1)-①:洪武帝が“懐良親王”との“冊封関係”を結んだ後に、明国側並びに日本側で起きた変化

明国は1368年1月に創設され、その当初の動きとして倭寇の取り締まりを“日本国王”に求め、結果として征西府の“懐良親王”が1370年に洪武帝から“日本国王良懐”として冊封された。その背景に東アジアの宗主国“明国皇帝“の冊封下に入る事で室町幕府の政治体制からの離脱を図るという懐良親王の戦略があった可能性がある。(6-12項参照)

しかし洪武帝が皇帝の地位にあった1368年から1398年迄の30年間の中、1380年から1398年迄の実に18年間は“独裁体制”作りの為の“胡藍の獄”と呼ばれる10万人に及ぶすさまじい数の犠牲者を出した“大粛清事件”が繰り広げられたのである。

しかもその大粛清の嵐の過程で洪武帝は日本と“断交”する決断をする。こうした明国側の国内事情に拠る大変化があったが、日本側にも冊封相手の“懐良親王”の征西府が大宰府を追われるという大変化が起きる。

6-12項で記したが、明国から冊封関係を正式に認める“冊封使”が博多に着いた時には“日本国王良懐(懐良親王)”は今川了俊に拠って大宰府を追われていた(1372年)のである。この日本側の大変化は、将軍に就いたばかりの、14歳の“足利義満”の主導では無く、管領・細川頼之主導下で起きた。

征西府(懐良親王)を討った室町幕府は管領・細川頼之の下で“明国”との通交交渉を行ったが、拒絶された事は既述した通りである。幕府としても“明国”との通交に関心があったという事である。

洪武帝は独裁体制作りの為に“大粛清“を行ったが、その経緯を以下に詳述して行く。この間日本では足利義満が“南北朝合一“という大きな国内課題解決に向け、そのステップとして“公武双方の実権掌握”に全力を傾注していた時期であった。

国内課題を全て解決し“南北朝合一”を果たした足利義満が晴れて“明皇帝”から“日本国王に封じる”との詔を得、冊封関係締結に成功するのは、日本との国交断絶を命じた”洪武帝“が歿し”建文帝“(生:1383年・没:1402年・在位:1398年~1402年)に代わった1401年の事である。

6-(2):日本との通交断絶を決断するに至った“洪武帝恐怖政治”の経緯

結果として“足利義満”は明王朝との冊封関係締結に成功するが、そこには歴史の偶然もあった。開明的で大陸に憧憬を抱く義満が明国との冊封締結を望んでいた事は確かであり、その前提の解決すべき課題としての①国内権力の掌握、並びに②南北朝合一、に全力を傾注した。そうした時期は“明国”では洪武帝が奇しくも独裁体制作りの為の“大粛清恐怖政治”を行っている最中だったのである。

“日本との断交”はその煽りで行われたものであった。この期間の明国の政治がどの様に展開していたかを以下に記述して行く。

6-(2)ー①:洪武帝が征西府の“懐良親王”を冊封した当時の“明国”の状況

1370年:

冊封が成った事を正式に日本に伝える冊封使者“趙秩”を派遣し“日本国王良懐“との間に冊封関係が成立した。

1371年:

“倭寇禁圧”の目的で洪武帝は“海禁令”を発布。外国貿易によって沿岸地方の都市が発展し、皇帝の統制に服さなくなる事を防ぐ事が大きな目的であった。漢・唐時代の“冊封”体制の復活に拠って、貿易は中国皇帝の徳を慕って“朝貢”して来る相手のみに限る“朝貢貿易”に限定されたのである。冊封国は明皇帝に朝貢の物資を献上する見返りとして、明皇帝からの“回賜”に拠って莫大な利益を得たとされる。

海禁政策によって海外貿易は急激に衰退した為、福建省や広東省の沿岸の人々は“密貿易”という形で貿易を続けた。こうした“海禁令”の影響は東南アジアに逃れた中国人が“華僑”として活躍する端緒となったとされる。

1372年:

この年、懐良親王が大宰府を追われ、明使“仲猶祖蘭・無逸克勤は日本が南朝(良懐)と北朝(持明院統)に分かれて争っている事を知ったとされる。室町幕府(足利義満)が征西府(懐良親王)に代わって冊封関係締結の要請をしたが、拒絶された事は既述の通りである。

明実録などには“日本国王良懐”の名で(騙って?)明国への使者が渡来した記録が見られるが、当時の明国が征西府(懐良親王)が幕府に追われる立場であったという日本の政情を把握していたかどうかは疑わしい。従って、九州の守護大名(島津氏など)などが“日本国王良懐”の名を騙った“偽りの使者”を送った可能性もある。

1374年9月:

“市舶司”は唐・玄宗皇帝時代の714年に当時から貿易港だった広州に設置されたのが始まりである。内外商人の出入国の手続きや禁制品の取締まり、貨物の検査、徴税、外国使節の接待等を行う貿易管理機関である。“寧波・泉州・広州”の“三市舶司”が置かれていたが“海禁”政策が採られた事で“市舶司”の役割は小さくなり、廃止された。貿易の多くが“密貿易”に拠って行われる状況に繋がって行ったのである。

6-(2)ー②:優しい性格の嫡男“朱標”を皇太子に立てた事で、後顧の憂いを取り除く必要から“大粛清”を開始した“洪武帝”

洪武帝は嫡男の朱標(しゅひょう・生:1355年・没:1392年)を皇太子に立てた。しかし彼は温厚な人柄であり、父が進める重臣達の粛清を諌(いさ)めたりした為、父・洪武帝は彼の将来に不安を募らせて行ったとされる。

老いるに従って後継の“朱標”の為に“後顧の憂い”を除去する必要に駆られた洪武帝は、明王朝創設に功のあった重臣の“大粛清”を決断した。1376年~1394年に亘る18年間に“6大粛清事件”と称される“大粛清”が行われ、多くの犠牲者を出している。洪武帝による“日本との断交”は、この“大粛清”の過程で行われた。

以下に“6大粛清事件”を記述して行く。

:空印事件・・1376年

1375年に“北元”の将軍“ココテルム”が病死し、モンゴル勢力が北へ後退した事で、洪武帝は外政面で余裕が出来た。これを機に内政を整備し“皇帝専制体制”構築に向けて18年間に亘る“大粛清(恐怖政治)”が開始された。その最初が“空印事件”である。この事件は“南人出身地方官の総入れ替え”と“行中書省(行省=地方統治の最高単位として設置された行政機関)の解体“を狙って計画的に進められた粛清事件であった。

長官の印が予め押してある空欄の書類(空印)を用意するのが公然の秘密として慣習化されていたが、洪武帝はこれを不正の温床として摘発し、多くの官僚を誅殺し、又は流罪とした。この地方官僚の摘発を最も熱心に行ったのが宰相(右丞相)の“胡惟庸”であった。

洪武帝はこの事件に関わった“行中書省”を3分割し、皇帝権力を強化したとされる。

洪武帝(朱元璋・生:1328年・没:1398年)は中国はもとより、全世界の帝王、王朝創始者の中で最も悲惨な境遇(殆ど乞食同然の生活)から身を起した人物とされる。修羅場を潜り、皇帝にまで上り詰めた人物だけに人一倍猜疑心も強かったとされ、信頼したのは、慎み深く献身的な女性で、夫を内助の功で良く助けた“馬皇后”(生:1332年・没:1382年)だけだったと伝わる。

:“胡惟庸”の獄・・1380年~1393年

中央統治機関の中書省は左・右丞相(じょうしょう=天子を補佐して政務を処理した最高の官)が百官を統率していた。

左・右丞相は“宰相”と呼ばれる地位で、権限は極めて大きく、皇帝権力と対立し兼ねない危険性をはらんでいた。1373年に右丞相に就いた“胡惟庸”(こいよう・生年不詳・没:1380年)は先任の左丞相が洪武帝に逆らい、死罪になった為、後任の左丞相に就いた。

“胡惟庸”は中書省を“陳寧”等、側近で固め、次第に洪武帝をも蔑にする言動が目立つ様になった。1379年にベトナム南部の占城(チャンパ)からの朝貢使節の到着を洪武帝に報告しないという事態が起き、洪武帝は不満を爆発させた。胡惟庸と陳寧の両名が“謀叛”の罪で逮捕され、直ちに処刑されるという大事件に発展したのである。以後10年に及ぶ“胡惟庸の獄”と呼ばれる“大粛清事件”へと繋がる。

“明実録“に”胡惟庸“の謀叛計画に日本が関わっていたと書かれている。その結果が“洪武帝”が日本と断交する決断と成った。事件の要旨は以下である。

=“胡惟庸の獄”と日本との関わりについて記した明実録の一部分=

朝廷で専権を極め、洪武帝すらも凌駕する権力者と化した“胡惟庸”は(省略)帝位ま でうかがう様になった。そこで“陳寧”・・(省略) 一方で、明州(寧波)衛の“林賢”を日本に、元朝の臣下であった“封績”をモンゴル に遣わすなど、外国の支援を取り付け、反乱の準備を整えた。


この記述は“明朝”側の公式文書だが、真相で無い可能性が高いとされる。“胡惟庸”らが処刑された翌日に洪武帝は中書省を廃止し、歴代王朝で皇帝を補佐し、強大な権限を持った“宰相職”そのものを廃止している。

中書省に所属していた六部も“皇帝直属”とし、軍事を統括していた“大都督府”も5つに分割され、一人に権力が集中しない様に改組する事で皇帝権力を格段に強化したのである。皇帝専制を目指す洪武帝は、以後10年以上に亘って“胡惟庸”事件に絡めた粛清を続ける。

“胡惟庸の一党”の名目で江南地方の地主達、官僚達が摘発、弾圧され、その犠牲者の数は“空印事件”を遥かに超え、15,000人以上に上ったとされる。

:郭桓の案(事件)・・1385年3月

 “胡惟庸の獄“から僅か5年後に再び全国を揺るがす大粛清事件が発生した。戸部尚書(民部省の唐名)“郭桓”(かくかん・生年不詳・没:1385年)が北平布政司の官吏と結託して朝廷の糧米700石を着服し、地主に転売したとして逮捕され、即日処刑された。これに連座して数万人が誅殺される疑獄事件へと発展したのである。

“胡惟庸の獄”で中書省を廃止し、六部に編成替えをし、皇帝直属としたが、その官僚機構の頂点に立つ六部に腐敗が蔓延した事は“洪武帝”にとっては許し難い事件であった。六部の長官の全員を誅殺したばかりで無く、処刑者は地方官・一般民衆にまで及んだ。粛清総数は数万人を超えたとされる。

綱紀粛正の名目を正当化する為、洪武帝は1386年にかけて“諸司の納賄を禁戒する詔”を発した他“御製大誥”を初めとする訓戒書を刊行している。これは具体的な不正の事例と、それらに対する懲罰の様子が書かれた“勧善懲悪書”であり“国子監(こくしかん=隋以降近代以前の中国歴代の最高学府・最高教育文化機関)”をはじめ、全国の府・州・県の教育機関に配布され、学生には暗唱が義務付けられた。

洪武帝の粛清行動がエスカレートして行った背景には二つの理由が挙げられる。先ず第一が、1382年に洪武帝が唯一人心を許し、深く愛したとされる“馬皇后”が没した事である。慎み深く、質素で、決して驕る事が無かった彼女は、大粛清に走り出した洪武帝を時には支え、又、時には行き過ぎを諫言した。彼女の死後、洪武帝の粛清は酷くなった。

二番目の理由は、洪武帝も54歳に達し、皇太子“朱標(生:1355年)”にそろそろ後事を託す時期に達していた事である。“朱標”の将来を不安視し、皇位を狙い兼ねない有能な人物を自分の存命中に壊滅させるべく、粛清を加速させたのである。

:林賢事件・・洪武帝刊行の文書に書かれた“日本国王”への援軍要請・・1386年10月

洪武帝が“郭桓の事件“の翌年に6年前の“胡党”問題を蒸し返したのが“林賢事件”である。当時の明国は依然として対抗する“北元”を“北慮”そして、南東沿海地方を略奪して廻る“倭寇”を“南倭”としてその対応に苦慮していた。

洪武帝は“胡惟庸”が謀叛を計る際に“日本”に協力を得る為、秘密裏に使者を派遣したとの疑いを持ち“寧波衛指揮使“だった”林賢”並びに一族全員を南京で突如処刑している。更に4年後の1390年には、モンゴルに謀反の為の協力を得る為に派遣された“元朝”の旧臣“封績”も処刑したのである。

洪武帝が刊行した“御製大誥三編”並びに“指揮林賢胡党第九”に“林賢”に対する取り調べで、彼が日本国王へ謀反の為の援軍要請をした事が真相だとする文書が残されている。

=洪武帝刊行文書の内容=

洪武9年(1376年)㋃“日本国王良懐“の使者”帰廷用“が寧波に来貢した際に、南京で洪武帝に拝謁する為“寧波衛指揮使”の“林賢”が使節を護衛して往復した。しかしその間“林賢”は南京で“胡惟庸“と通じていた。胡惟庸は叛乱を起こす為に日本の協力を必要として居り“林賢”を密かに日本へ派遣する策略を練る。胡惟庸の密命を受けた林賢は“帰廷用”(注:海外への関心が高かった足利義満の周囲には外国人が多かった。彼も海外情報を得る為に義満がブレーンとして用いた一人と思われるが、謎の人物である)が日本へ帰国する際に“倭寇”と偽ってその船を襲撃し、中央に報告した。

胡惟庸はこれを林賢の過失として上奏した。事情を知らない洪武帝は激怒して林賢を日本へ3年間の流罪に処した。

日本へ流された“林賢”は日本国王に根回しを行って胡惟庸への協力を取り付ける。胡惟庸は秘密裏に使者を日本に派遣し、林賢を呼び戻すと共に日本国王に援軍を要請。日本国王は快諾し、朝貢使節と偽って洪武14年(1381年)7月、僧の“如瑶”を正使とした精兵400余人を寧波へ送り込んだ。

しかし援軍が到着した頃には既に当の“胡惟庸”は処刑されており、計画は失敗に終わった。行き場を無くした日本軍は雲南に流され、その場で守備に当たらされたと言う。しかし帰国した“林賢”は逮捕を免れ、その後も素知らぬ振りで寧波衛指揮使の任に当たり、漸く6年後に発覚した。


=洪武帝刊行文書は日本と断交する為の理由づけの為に“捏造”した文章だとする説=

中国史学者で京都女子大学名誉教授の“檀上寛”氏は以下の論点を挙げて、洪武帝の“林賢事件の真相“とする文書は捏造と見るのが自然であるとしている。

1:この文章の内容は余りにも不自然で辻褄の合わない部分が多い。当時の日本の情勢とも全く合わない記述も多い。


2:“林賢”は罪を得て日本へ流謫(りゅうたく:罪によって遠方へ流される事)されたと書いているが、当時の史料に、罪人が外国へ流謫された等という事例は一切見付かっていない。しかも倭寇の根拠地と見られていた日本へ流謫する等、奇妙な点が多すぎる。


3:又、罪人(林賢)を胡惟庸が呼び戻し、再び元の指揮使に復帰させるという事も、当時の慣習からしてあり得ない。


4:勿論、日本側には上記の事件に関する史料は存在しないが、日本側が“胡惟庸の乱“に加担するメリットも皆無であり、そもそも“南北朝動乱”最中の日本で、外国へ兵力を派遣する余裕のある勢力が存在していたとは思われない。


5:“日本国王良懐”の正体である懐良親王は既に1372年には大宰府を失陥していた上に“胡惟庸事件“の起きた1380年前後には今川了俊に拠って、九州の南朝勢力は、ほゞ崩壊状態であった。この事からも日本国王が快諾し、400余人の兵力を“寧波”へ派遣出来た主体が存在した事はあり得ない上に、リスクを冒して明国に渡った日本兵がその後“雲南”の守備に当たったとする記述に至っては全く説明がつかない。


6:以上から、洪武帝が刊行した文書で林賢事件の“真相”としている内容は洪武帝側に拠る捏造であったと見るのが自然である。




壇上教授が論ずる様に “林賢事件の真相”とする文書は、洪武帝が日本と断交する為の捏造であった事は明白である。


この文書は内容は捏造ではあるが、1380年に“胡惟庸”の謀叛計画が発覚してから、1401年に足利義満が“建文帝“に代わっていた明国に“日明通交”の使節を派遣する迄の20年余は、両国が国交断絶状態であった事を裏付ける史料としての意味がある。

この文書が示す様にこの時期の明国内は乱れて居り、従って日本側でも“禅宗界”などは、明国との国交に及び腰だったのである。

“洪武帝”による“日本国王良懐(懐良親王)”との国交断絶決断までの経緯を伝える“明国”側の情報・・1386年

明国側の記録による、洪武帝の“日本国王良懐”との国交断絶決断の経緯は以下となる。

①:洪武帝は即位直後から倭寇の黒幕と信じて疑わなかった日本に対し、取り締まりを期待した。しかし日本側の反応は、ほゞ無視の状態であった

②:明国側は日本を征伐するとの恫喝を含んだ国書を送った。しかし、倭寇の被害は止むどころか寧ろ増加の一途を辿った

③:“日本国王良懐”(名を騙って度々入貢したケースもあった)の使者は傲慢な態度で、上呈する表文(皇帝への正式な国書)も無礼で不遜な文言ばかりであった。

④:1380年の“日本国王良懐”の使者(上記した懐良親王の名を騙った偽使)が齎した無礼でしかも挑発的な文言を含む国書に怒った洪武帝は使者を即座に追い返した。

⑤:1381年7月の日本国王良懐の使者“如瑶”が寧波に入港したが、君臣の義を弁えず、貧利のみを目的とする横柄さに誅殺すべし、との意見も出た。(如瑶が林賢事件で共謀者とされたが、この件が理由とされる)

⑥:こうした日本側の不誠実な対応に洪武帝はこれ以上日本と通交するメリットが無いと判断し、断交に考えが傾く。

⑦:“如瑶”の帰国に当たり洪武帝は“日本国王良懐“に対して”倭寇を放置し、隣国を侵略していると非難し、更に将軍足利義満に対しても“如瑶”の非礼を詰問し、再び日本征伐をちらつかせる恫喝の書状を送った。

⑧:1384年、最早、従来の“海禁政策”では生ぬるいとし、海上警備を強化すると共に浙江沿岸や福建・広東の島の住民を悉く内陸部へ移民させ、倭寇との結託を断ち切る強硬策を実施。

⑨:寧波の“林賢”を胡惟庸の“胡党”と見做して“日本との断交”の理由に挙げ、1386年“日本国王良懐”との関係を断交。併せて“御製大詰続編・続御製大詰三編”を発刊
する。

⑩:“林賢事件〈1386年10月〉”から半月後、又も“日本国王良懐”の使者として“宗嗣亮”が寧波に入港。(既に懐良親王は1383年に没している事から、送り出した主体は貿易の利益のみを狙った偽りの使者であった事は明白である)“宗嗣亮”が持参した表文は受理されなかったばかりか“国交断絶”が通告され、送り返された。

⑪:以後20年間に及ぶ国交断絶状態が続く。

=上記、明国側の記録の矛盾点=

洪武帝が発刊した“林賢事件の真相”とする文書の矛盾点とも重なるが、明国側から伝わる情報に登場する“如瑶”や“宗嗣亮”の名は日本側の記録には出て来ない。又、時系列的にも“懐良親王(日本国王良懐)”との断交を1386年にしたとしているが、16-12項でも記述した様に“征西府将軍”の職を“懐良親王“は1374年に”良成親王“に譲っており、1383年には“懐良親王”も没し、明国側が断交したとする1386年には“征西府”は、ほゞ実態の無い状態だった。従って明国の情報は日本側の史実との整合性を欠く。


“日本との通交を永遠に子孫に禁じる”事を厳命した“洪武帝” 

洪武帝は“林賢事件”(1386年)の後、日本と断交しただけで無く、永遠に日本と通交しない様に祖訓として子孫に厳命した事が“皇明祖訓”に残っている。“日本国は朝ずる(朝貢する)と言えども実は詐りなり。ひそかに好臣“胡惟庸”に通じ、謀りて不軌を為さんとす。故にこれを断つ“と子孫に遺した事が明国側の記録に残されている。


明国側と日本側との情報の祖語が断交に至った 

中国王朝が“モンゴル族(元王朝)”の手から“漢民族(明王朝)“の手に移った事は”政権の継承“では無く“断絶”という面が強い。

周辺諸国の中でもモンゴル軍の日本侵略(元寇)に加担した“高麗”は変わり身速く、すみやかに明王朝との関係樹立に乗り出した。それとは対照的に“日本”は元王朝に対する徹底抗戦姿勢を最後迄貫いた。(2度の元寇の後も3度目の元寇に備えていた)。

その後は鎌倉幕府の崩壊、そして室町幕府創設、南北朝に分かれての闘争・・と日本側は国内課題への対応に余念が無く、国際情勢の激変に対応する暇も無かった。従って“元王朝”に対するギクシャクした関係をそのまま“対明関係”にまで引きずった事が、明国側からの“関係修復の姿勢”に応じなかった背景とされる。

一方の“明王朝”側も当時の日本側の国内事情を殆ど把握していなかった。“征西将軍”の懐良親王(中国側は“良懐”としていた)を日本国王と誤認して、結果的に無駄な交渉を続けた事がその裏付けである。

こうした両国の行き違いが“洪武帝”の期待を裏切り、彼に日本との“朝貢”と“倭寇取り締り”を諦めさせ“林賢事件”での捏造へと繋がり、日本との断交を決意させたのである。

:“李善長の獄”・・1390年~1392年


元々貧乏僧侶出身である事、盗賊の様な低い身分から皇帝になった事に強いコンプレックスを抱いていた洪武帝は“僧・盗・賊”の文字並びに、それらと発音が通じる文字、言葉は“洪武帝”個人を誹(そし)るものとして禁止した。洪武帝の恐怖政治はその矛先を官僚層のみならず“文字の獄”として“庶民”に対しても向けられたのである。

粛清の嵐は“胡惟庸の獄”で処刑を免れた高官にも向けられ、1385年には朱元璋(洪武帝)の旗揚げ時から協力し、軍功第一と称された将軍“徐達”(生:1332年・没:1385年)が親族と共に殺され、尚も生き残っていた功臣に向けられた。

初代左丞相で“胡惟庸”と姻戚関係にあった“李善長”は陰謀の罪を被せられ、本人は自殺に追い込まれ、一族70余人が誅殺されるという獄となった。(李善長の獄)

エスカレートし続ける粛清は“胡党“捜索の名目で19人の功臣が一切の弁明も許されず、直ちに処刑され、関連して処刑された者は15,000人に及んだとされる。殆どが“胡党”関連の人々であった事から“李善長の獄”は“第二次胡惟庸の獄“と称される。

1392年まで続いた大粛清も漸く終結を迎えたかに思われた直後の1392年4月に、後事を託す予定であった皇太子・朱標(生:1355年・没:1392年)が父・洪武帝に先立って急死する事態が生じた。

:藍玉の獄・・1393年~1395年

1392年4月:

洪武帝の皇太子“朱標”が急死し“朱允炆(しゅいんぶん=第2代皇帝建文帝・生:1383年・没:1402年)が皇太孫として擁立される。

急死した皇太子“朱標”は、母親“馬皇后”譲りの温厚な人柄であった為、洪武帝が後顧の憂いを絶つ為の“大粛清”を行って来た訳だが、その彼が急死した為、洪武帝は今度は“朱標”の次男“朱允炆”を皇太孫に立てざるを得なかった。未だ15歳の孫を後継者とした64歳の“洪武帝“の先行き不安は更に募り、終結を迎えたかに思われた大粛清は更に続けられたのである。

 “元”を北に追って明王朝創業第一の功臣とされ、奢る事も無い人物として軍内でも人望の高かった“徐達”(生:1332年・没:1385年)はその有能さと名望故に洪武帝によって真っ先に毒殺されていた(1385年)。

その“徐達”亡き後、軍の中核的存在と成って華々しい軍功を誇り、名将とうたわれたのが“藍玉(らんぎょく・生:不詳・没:1393年)”であった。彼は1388年に“北元”のトグス・テルム皇帝軍を15万の兵を率いて撃破し凱旋した。しかし、トグス・テルム皇帝の妃と姦通し、妃が自害する事件を起こす等、彼の無学・狡猾・粗暴な行動、並びに、軍功を背景とした傲慢な振る舞いに拠って彼自身が討伐の対象と成る。

“明史“にも、藍玉には洪武帝の軍令に背いて出動したり、勝手に部下を任免した件等、不法な振る舞いが多かった事が記録されている。

1393年、皇帝直属のスパイ機関(錦衣衛=きんいえい)に拠って謀叛の謀議を行っていた処を捕えられ“藍党”15,000人~30,000人と共に処刑された(明史紀事本来)。

趙翼(ちょうよく・生:1727年・没:1812年)が清代に表した“廿二史剳記(にじゅうにしさっき)“は中国の正史、廿二史の編纂形式や構成・内容について考証・論評した書であるが“洪武帝はこの時既に60歳を超え(65歳)最愛の長男で皇太子だった朱標(生:1355年・没:1392年)が病没し、孫の“朱允炆”(しゅいんぶん・生:1377年・没:1402年?)が皇帝(実際に第2代建文帝・在位1398年~1402年と成る)に就いた時の危険の芽を摘む為に大規模な粛清を行なったと書き、この事件を裏付けている。

6-(2)-③:大粛清の嵐の終了と洪武帝の死

“空印の案“に始まり”胡惟庸の獄“を経て”藍党の粛清“に至る18年間の粛清事件全般を”胡藍の獄“と称する場合もある。合計10万人に及ぶ犠牲者を出した”胡党・藍党“に対する追及を禁止する事で“大粛清の嵐の終了”を1393年9月に洪武帝は宣言している。しかし、個別の功臣への処罰は尚も1394~1395年迄続いたとされる。

結果的に洪武帝は死の直前まで“大粛清”を続け、1398年(洪武31年)6月24日に70歳で没した。皇太孫“朱允炆”が直後の1398年6月30日に21歳で新皇帝として即位した。

“洪武帝”存命中に命を永らえた功臣は“湯和・耿炳文・郭”のみとされ、その彼等も、粛清されない様、死ぬまで謹慎同様の生活を秘密警察機関である“錦衣衛(きんいえい)”で過ごしたとされる。

6-(3):国内の諸課題を解決し、絶頂期を迎えていた足利義満は明国との冊封関係締結に本腰で臨む

1392年閏10月に“南北朝合一”を果たした足利義満は、洪武帝が没する前年の1397年に北山第(金閣を含む)の棟上げを終え、洪武帝が没した翌年の1399年12月には“応永の乱”で最強の守護であった“大内義弘”を滅ぼした。

“公武”双方の実権を完全に掌握し”北山殿義満“として日本に君臨する体制を整え、中華世界システムの中の“日本”という開明的な“国家観”を軸に“明国との冊封関係締結”に本腰で臨んで行くのである。

7:足利義満が“明国”との“冊封”関係締結に至る迄の経緯

既述の様に明国は1368年の建国以来“北慮・南倭”という課題を抱え、その“南倭”問題解決を期待し“日本国王良懐(懐良親王)”を日本の統治者と誤認して冊封関係を結んだという経緯があった。その後の明国内の事情変化については上述した通りであり、両国の行き違いが洪武帝の期待を裏切り、日本との国交断絶へと繋がった。

日本側にも6-12項で記した通り、足利義満として為すべき国内課題(南朝勢力の駆逐・有力守護大名の勢力削減・南北朝合一)解決を優先した時期であり、結果として、日本との国交断絶が義満による冊封関係締結の動きの障害とは成らなかった。

国内の課題を解決した足利義満がいよいよ明国との冊封関係締結に本腰を上げた時に、丁度“明国”皇帝も“日本との国交断絶を厳命”した洪武帝から“第2代皇帝・建文帝”へと世代交代していたのである。

以下に日本側(足利義満側)の視点から、明国との“冊封関係”締結がどの様な経過で成ったかを記述して行く。

7-(1):“胡惟庸の謀叛計画発覚”(1380年)で、洪武帝が“日本国王良懐”との通交を停止した史実が足利義満による冊封関係交渉に影響したか否かに関する諸説の紹介

7-(1)-①:この事が足利義満にとっては幸いであったとする説

6-12項で記した様に“室町幕府”から“明国”に対して足利義満の名で1373年と1386年の2度に亘って通交要請をしたが、既に征西府の“良懐(懐良親王)”が封じられている、との理由で拒絶された。その後、洪武帝は征西府(懐良親王)との断交を決めた。そしてその後、征西府(懐良親王が将軍)は滅亡した。

これ等の展開は室町幕府が“冊封相手”として拒否された一つの理由が無くなった事を意味する。

南北朝合一を成し“公武”双方の実権を握った“足利義満”は、新たに“日本国王”として冊封交渉を行なう障害もなくなり、資格が整った事になった。従って征西府・懐良親王との国交断絶は“ラッキー”だったとする説である。

7-(1)-②:足利義満にとって“貿易の利益だけが冊封の目的”であったとし“足利義満の冊封の熱意を阻害した”とする説

北大の“橋本雄氏”は“室町幕府外交の成立と中世王権”の中で“至徳3年(1386年)の室町幕府からの明国との通交要請は“日本国王良懐”の名を偽って行った可能性がある、と指摘している。

大陸に強い憧憬を抱く足利義満であるから、偽りの名義を使ってでも明国との貿易を望み、なりふり構わぬ行動に出た可能性があるとし“貿易さえ出来れば、征夷大将軍でも、日本国王良懐でも何でも良かった“との説を展開している。

更に同氏は”足利義満にとって、明国に服従する冊封という体裁、その為の日本国王号等は、貿易をする為の手段以上の何物でも無かった“とし、従って、洪武帝の日本との国交断絶は、朝貢貿易による利益を得る機会を失ったとして、足利義満の当時の熱意を阻害した可能性があるとしている。


冊封関係締結が朝貢利益追求の為だけであったとする説に対する反論 

北大の“橋本雄氏”の説は“商売人足利義満”として捉えた説であり“中華世界システム”の下に“日本を世界に認められる国にする“という高邁な”国家観“の下に日本に君臨しようとした”北山殿義満“説の対局に位置するが、前後の史実との整合性からも彼の説は説得力に欠けるとされる。

7-(1)-③:洪武帝が日本との国交断絶を決断(1386年)した時期の足利義満には、国内課題が山積しており、左程重大な出来事と認識するに至らなかったとする説

佐久間重男氏もその著“明初の日中関係をめぐる二、三の問題”の中で、至徳3年(1386年)に明国の洪武帝が日本との断交を決断した同時期に、室町幕府が明国へ通交要請をした可能性があるとしている。(注:この時、橋本雄氏が指摘する様に室町幕府が日本国王良懐の名を偽ったか否かは不詳)

何れにしてもこの時期に明国との冊封関係締結交渉は成功していない。この時点での交渉不成立を、明国の内政問題の為に阻害されたとし、足利義満の熱意に水を差したとの説を生んだ。

しかしこの時期の足利義満は、冊封交渉の前に処理して置くべき2大政治課題を国内に抱えて居り、明国の“国交断絶”が大問題となる程に通交交渉に心血を注ぐ事が出来た時期では無い。従って“国交断絶”は当時の足利義満にとって、左程重大な出来事では無かったとする説であり、説得力がある。

この時期(1386年)足利義満が抱えていた2大政治課題とは①九州地区では“良成親王“の征西府(懐良親王は1383年に没す?)が”宇土城・河尻城“で必死に滅亡を免れていた時期(征西府の滅亡は1395年?)であり、征西府を完全に討伐する事、そして、有力守護の土岐氏、山名氏の勢力を削減する事によって“武”の面での“国内権力の掌握を完全にする”事であった。そしてそれを成した上で②“南北朝合一”を成し遂げるという大きな政治課題があったのである。

7-(2):明国との国交に及び腰だった当時の日本禅宗界

国際日本文化センターの“榎本渉氏”は“元末内乱期の日元交通”の中で“14世紀半ば以降の日本の禅林(禅宗の寺院)には、中国への渡航成果への疑問、日本禅林の質への自信、渡航の危険性の増加等の理由から、渡航を忌避、自粛する動きがあった“と指摘している。

又、京都大学の“宮紀子氏”は“義堂周信”の言を引用して“明建国から11年後(1379年?胡惟庸の獄が起こったのが1380年)大陸の著名な禅院が戦乱などにより惨憺たる状態であった“と述べている。

又、中国では、元から明への交代期の混乱に続いて、洪武帝が“北慮・南倭”問題への対応策として“海禁政策”を実施した事“大粛清政策”に拠る“恐怖政治”が18年間に亘って続いた事、その余波が“文字の獄“を含め、あらゆる分野への“統制”と成って広まり、元の時代に花開いた“仏教文化”を大きく後退させる結果と成った事を指摘している。

こうした状況から、日本の禅宗界には“荒廃した中国大陸の禅宗に比べた日本禅林の質への自信”を生み、その結果として明との国交に対する及び腰の姿勢を生んだ”と結論付けている。

7-(3):開明的な“足利義満”は消極的な“禅僧”達の意見に拠らず“筑紫の商人”が説く“明国との通交の利(政治的・文化的・経済的)”を選択

7-(3)-①:足利義満に明国への使節派遣を勧めた博多の商人“肥富(こいとみ・生没年不詳)”

1394年(応永元年):

明から帰国した“肥富”が応永元年(1394年)足利義満に日明通交の利を説いたとの記録がある。

この頃“明国”では洪武帝による海禁令が出され、1374年には“三市舶司”が廃止され、民間貿易は全面的に禁止されていた。しかしこの事は“密貿易”を盛んにし、海禁令の効果は限定的なものに止まった。“肥富”も網の目を潜って明国との貿易に従事した一人であった。

7-(4):明国との“冊封関係”が成立する

1401年(応永八年)5月13日:

足利義満は20年振りに書を明皇帝に献じ、冊封関係締結に動いた。使節は8月に無事、南京に入っている。足利義満は6年前に出家しており、国書には“日本准三后道義、上書大明皇帝陛下”と書き出されていた。(康富記・・やすとみき:1417年~1455年に至る権大外記・中原康富の日記)

上述した様に、洪武帝は1398年6月に没して居り、皇帝に就いた孫が明国第2代皇帝“建文帝”(生:1377年・没:1402年?・在位1398年~1402年)として即位して居り、義満は“建文帝”に宛てた表文を添えたのである。

義満の出家の狙いについては既述した通りだが、前2回の通交要求の際、明国・皇帝からの拒絶の理由に“天皇の臣に過ぎない“という理由があった事に鑑み、将軍職並びに太政大臣の職を辞し、更に、出家の身分となる事で、世俗の身分序列から離れた立場に成る事で“拒絶理由”をクリアした状態を作っている。

7-(4)-①:僧ではなく、同朋衆の“祖阿弥”を正使、商人“肥富“を副使に立てた理由

正使の“祖阿弥”は、同朋衆(どうぼうしゅう=室町時代以降、将軍の近くで雑務や芸能に当たった人々。一遍の起した時衆教団に芸能に優れた者が集まったものが起源。時宗を母体としている為、阿弥号を名乗るのが通例。主な同朋衆には茶道の千利休の祖父、千阿弥、猿楽能の観阿弥・世阿弥、作庭では竜安寺・大仙院の石庭で有名な相阿弥が有名。その他連歌、立花、水墨画で活躍した能阿弥など、後の東山文化の形成に大きな影響を与えた一芸に秀でた人達の集団であった)である。

又、副使は“肥富“であった。日明貿易開始の使者が二人共、禅宗と関わりの無い人物だった理由は明国との通交開始に日本禅宗界が及び腰だったという背景があったからである。そうした状況下でも明国へ使節を派遣する事に踏み切った“足利義満”の大陸への憧憬の強さ、そして、明王朝の皇帝を中心とする“中華世界システム“の中の日本という国家観が彼を駆り立てた事、そして周囲がどうあれ、自分の信念は貫き通すという個性を裏付けている。

7-(4)-②:日本からの使節が携えた物

国書は足利義満からの信任が厚く“孟子”を講義した文章博士で、公卿の“東坊城秀長“(ひがしぼうじょうひでなが・生:1338年・没1411年)が草案を作り、それを能筆家三蹟(小野道風・藤原佐理・藤原行成)の一人“藤原行成”を祖とする“世尊寺行俊“(せそんじゆきとし)が清書した。

明国への貢ぎ物として、金1000両・馬十疋・鎧一領・筒丸一両・剣十腰・刀一柄・扇百本・薄様(薄葉紙)千張・屏風三双・硯箱・文台一を用意し、更に明国からの漂流民若干名を送還した。

8:“北山殿義満”を明王朝との“冊封”関係締結に駆り立てた国内の事情

8-(1):対外関係の窓口だった九州地区の事情が“開明的”な“北山殿義満”に火を付けた

足利義満に積極的に大陸に目を向けさせたのは九州地区をほゞ支配するまでに勢力を拡大していた征西将軍“懐良親王”の存在があった。1361年には大宰府を抑え、懐良親王は今川了俊に拠って追われる1372年6月迄、この大宰府を制していた。この間の1370年3月には、明王朝の洪武帝と冊封関係を結び“日本国王良懐”として認知された。

この頃の足利義満(生:1358年)は未だ少年期であり、政治の実権は第2代室町幕府管領“細川頼之”の主導下にあったが、長ずるに従って生来の開明的資質が芽生え、次第に”懐良親王“への対抗意識が生れ、大陸への関心が強くなって行った。

“征西府”が完全に滅亡(1395年10月20日)した後は九州探題だった“今川了俊”や“大内義弘”等、西国の有力武将が洪武帝の“海禁令”下、更には1380年の日本との国交断絶という状況下にはあったが“日本国王良懐”の名を騙わって明国との通交を積極的に展開した可能性もあるとされる。それ程に貿易に拠る利益は大きかったのである。

“肥富”の様な有力商人や禅僧の中にも、海禁令を潜って明国との貿易を行ったり、又、朝鮮との通交を展開する者がいたのである。

 “肥富”等の情報から“国際認識”を次第に高めて行った“足利義満”の“開明的な資質”に火が付き、大陸の重要さ“中華世界システム”の中に於ける“日本”という国家観が育まれ“外交権限”を一手に掌握すべきとの考えから1395年に今川了俊の九州探題解任、続いて1399年の“応永の乱”で大内義弘を滅ぼすという行動を展開する。

8-(2):外交権を掌握した足利義満

8-(2)-①:今川了俊の九州探題職を解任する

1395年(応永2年)7月:

7カ月前(1394年12月)に将軍職を足利義持に譲り、1カ月前(1395年6月)に出家したばかりの足利義満は、1391年に征西府を滅ぼし、九州の南朝勢力を帰順させ、九州平定を果たした功労者の九州探題“今川貞世(了俊)”に上京を命じ、直ちに九州探題職を罷免した。解任に至る背景、状況は下記である。

ア:今川了俊を九州探題に推薦した幕府管領“細川頼之”が“康暦の政変(1379年閏㋃)”で失脚し1392年に没した。今川了俊の反対派である斯波義将が幕府管領職に就いた事で(在職1393年~1398年)了俊の支持基盤が無くなった。

イ:後任の九州探題には足利義満と縁戚関係にあり、妻が斯波義将の娘の“渋川満頼”(生:1372年・没:1446年)が就いた。今川了俊は後年“難太平記”を著すが、その中でこの人事が政敵“斯波義将”に拠るものだった事を記している。

ウ:今川了俊は九州探題職の立場を利用して、独自に高麗の使者“鄭夢周”と折衝に当たり、倭寇禁圧を約し高麗人の開放を行ったりして関係を深めた事が足利義満に危険視された一つの要因となった。

エ:足利義満が“南北朝合一”を果し“公武”双方の実権を掌握した時点になると、海外との窓口である大宰府を拠点とし“九州探題”として貿易に拠る利益を蓄え、勢力拡大を図り、独自の外交権を作り上げて行く今川了俊は除去すべき存在に変化していた。

8-(2)-②:“応永の乱”に拠って“大内義弘”も除去する

“北山殿義満“として日本に君臨する為に”外交権“は極めて重要な権限と位置付け、先ずは“今川了俊”を除去したが、後任として外交権を担わせた“大内義弘”が危険な存在へと変化して来ていたのである。

滅ぼすべき対象に変わった“大内義弘” 


前項(6-12項)で足利義満が将軍権威・権力を確立する為に有力守護大名の弱体化を図り、1389年に土岐康行を滅ぼし、1391年に“明徳の乱”で山名氏を追い込み11カ国の守護大名から、3カ国の守護大名に弱体化させた事を記した。

大内義弘は“明徳の乱”の功績で“周防・長門・岩見・豊前・和泉・紀伊”の6ケ国の守護を兼ね、足利一門の待遇を受ける立場にまで成っていた。対外通交を独占していた“今川了俊”が失脚した後は大内義弘が対外通交の窓口として公認され、又、同時に倭寇の取り締まりも命じられていた。

こうした流れの裏では大内義弘が今川了俊除去に暗躍し、大陸との貿易、外交権拡大を狙った事が伝えられている。

ア:朝鮮との直接通交を望んだ“大内義弘”は今川了俊が諸大名による朝鮮との直接通交を規制した事に対抗、その解任を足利義満に働きかけた。結果、今川了俊が解任され、大内義弘は直後の1395年11月に朝鮮との直接通交を開始している。

イ:更に大内義弘は今川了俊解任後の九州探題職に就く事で自身の外交権拡大を狙った事を当事者であった今川了俊が自著“難太平記”で明らかにしている。

従来から大内義弘は本拠が大陸と近い利点を活かして中国大陸の“明国”並びに“朝鮮”との貿易を営み、巨万の富を蓄えたとされる。幕府から命ぜられるまでも無く、倭寇の取り締まりに努力し、倭寇に拠って日本に連れ出されていた捕虜を朝鮮に返す事で朝鮮国王から称賛されたという記録も残る。

今川了俊が罷免され、足利義満から対外通交の窓口として公認された以降の大内義弘の外交は、より積極的に展開されたのである。1399年頃からは大内氏の祖先が“倭国”に仏教を伝えた“百済聖王(聖明王・在位523年~554年)”の王子“琳聖太子”だと称し、朝鮮との繋がりをより強めた。

こうした大内義弘の存在も“北山殿義満”にとっては“滅ぼすべき対象”となっていたのである。


大内義弘と足利義満の確執が徐々に拡大 


:大内義弘に少弐氏並びに菊池氏の討伐を命ずる

1397年12月:

大内義弘が1397年4月に始まった“北山第造営”への協力を拒否した事で足利義満の不興を買った事は既述したが、足利義満は大内義弘に九州探題・渋川満頼の指揮下に入って“少弐貞頼(生:1372年・没:1404年)”と“菊池武朝(生:1363年・没:1407年)を討つよう命じた。少弐貞頼は筑前の守護、菊池武朝は肥後守護代であったが、2年前に今川了俊の後任の九州探題に就いた渋川満頼の命に従わず、菊池武朝と同盟して反抗する動きを見せていたからである。

九州探題・渋川満頼の指揮下に入った大内義弘は少弐貞頼・菊池武朝軍と筑前で戦った。この際、大内義弘の弟の大内満弘(生年不詳・没:1397年12月)が討ち死した。

:弟の“大内満弘”の戦死という貢献に報いなかった“足利義満”に対して“大内義弘”が不信感を募らせる

弟の大内満弘が戦死という犠牲を払った事に対して、足利義満は恩賞・加増等、一切の評価を与えなかったばかりか、裏で少弐貞頼と菊池武朝に大内義弘を討つよう命じたとの噂が耳に入り、大内義弘の足利義満に対する不信感は最高潮に達したとされる。

:斯波義将等の讒言に動かされ、足利義満が“大内義弘”に上洛命令を出す

1398年:

大内義弘が“朝鮮(1392年に李成桂が即位し、1393年に国号を朝鮮とする)”に対する倭寇の取り締まりに努力をし、100余人の捕虜を返還した事で“朝鮮王国”から称賛された史実については紹介した。又、李朝成立後の1395年11月に大内氏は李朝と直接、通交を成立させていた。

更に、こうした関係を利用して大内義弘は莫大な進物を朝鮮使節から受け取る等の不正を重ねていると、幕府重鎮・斯波義将が足利義満に讒言したのである。

これを聞いた義満は大内義弘に上洛命令を下した。

:“反足利義満”の結束に動いた“大内義弘”

中国並びに朝鮮との対外通交を独占していた“今川了俊”に1395年7月、足利義満からの上洛命令が出て、そのまま“九州探題”を罷免された経緯を知っている“大内義弘”は同様の処罰を想定し、足利義満からの数度の上洛命令に応じなかった。そればかりか“反足利義満”派の結束工作に動いたのである。

:大内義弘が挙兵を呼びかけた武将達


①:足利満兼(あしかがみつかね・生:1378年・没:1409年)・・第3代鎌倉公方


②:土岐詮直(ときあきなお・生年不詳・没:1399年)・・義満によって1390年の“土岐康行の乱”等で勢力削減された土岐康行の従弟


③:宮田時春・・明徳の乱(1391年)で室町幕府軍に粉砕され、戦死した山名氏清の嫡男と伝わる


④:京極秀満・・幕府方に付いた兄・京極高詮との家督相続への不満から、結束工作に応じ、挙兵に加わる


⑤:その他・・・比叡山、興福寺衆徒、楠木正秀、菊池兼朝等、旧南朝系の武将に挙兵を促した。



=応永の乱の経緯=

以下に“南方紀伝”(江戸時代前期に成立したとされる南朝の盛衰とその後の“後南朝期”を扱った史書・軍記・作者不詳)に書かれた戦況を記す。

:大内義弘が軍勢を率いて“和泉堺の浦”に着く

1399年(応永6年)10月13日:

足利義満の懐柔の試みに応ぜず、大内義弘は堺に城砦を築き臨戦体制を敷いた。

:1399年(応永6年)10月21日:

大内義弘の挙兵に呼応して鎌倉公方“足利満兼”軍は一万騎を率いて鎌倉を発ち、武蔵府中・高安寺に到着する。“足利満兼”の挙兵に就いては“今川了俊”の関与が疑われた。その理由は、既述の様に、今川了俊は九州探題職を罷免されて居り、大内義弘は今川了俊も足利義満を恨んでいるに違いないとの考えから“反足利義満派”結束の呼び掛けを行うと共に、鎌倉公方“足利満兼”への仲介役を持ち掛けたという。今川了俊は終生幕府の命に忠実だったとされ、大内義弘の呼び掛けを拒絶し、仲介にも関与したとは考えられ無い。

しかし乍ら今川了俊の関与を疑った足利義満は後に “今川了俊追討令”を関東管領・上杉憲定(“応永の乱”で大内義弘の呼び掛けに応じ、挙兵した鎌倉公方・足利満兼を途中で押し止めた人物・生:1375年・没:1413年)に命じている。今川了俊は一族の嘆願で以後一切“政界に関与しない事”を条件に1402年に赦免されている。晩年の今川了俊は“難太平記”等の執筆活動を行ない、長寿を全うした。享年については87歳~94歳の諸説がある。

大内義弘の呼び掛けに応じた諸将のうち、旧南朝方の“楠木正秀”(楠木正儀の男子説がある・生年不詳・没:1446年)が百騎を率いて大内義弘軍に加勢した事、並びに“菊池兼朝”(菊池氏第18代当主・生:1383年・没:1444年)が軍を率いて摂津に到着した事が書かれている。

“山名満氏”(山名氏清の二男・宮田時晴の弟)、その他“土岐詮直”が700騎を率いて尾張へ討ち入り、美濃へ侵攻した記録、京極秀満(京極高詮の弟)が近江で1000余騎を率いて挙兵し、宮田時晴軍は300余騎で丹波に討ち入り、京へ侵入して火を放った事も記述にある。大内義弘の挙兵に呼応して、各地で“反・足利義満“派の蜂起の連鎖が起こった様子を伝えている。

:1399年10月27日:
   
足利義満は禅僧“絶海中津”を使者として堺に派遣し、大内義弘に“上洛説得”の面談を行なわせた。大内義弘は重臣達の意見を聞いたが、弟の大内弘茂(生年不詳・没:1402年)と平井備前入道は“恭順すべき”との意見を出したが、杉豊後入道は“足利義満は大内家を滅ぼす積りであるから“抗戦すべし”との意見であったと記している。

“大内義弘”は“絶海中津”へ足利義満に対する不満を伝え、更に“政道を諫める為、鎌倉公方・足利満兼と同心している事、そして、11月2日には、足利満兼と共に上洛する“と事実上の宣戦布告を伝えた。“絶海中津”は説得を諦め、京に帰った。

:1399年10月28日:

“絶海中津”からの報告を受けた“足利義満”は“治罰御教書”を出し、直ちに細川満元(後の室町幕府第11代管領・生:1378年・没:1426年)、京極高詮(生:1352年・没:1401年)赤松義則(生:1358年・没:1427年)軍から成る6000余騎を先発隊として和泉へ発進させた。

迎え撃つ大内義弘軍は“籠城作戦”を採る事で決した。 “大内義弘”は、“討ち死”を覚悟していたと伝わり、かねて帰依していた僧を招き自らの葬儀を行った他、周防に残した母親に遺言並びに形見を送り、弟の“大内盛見”(おおうちもりはる・生:1377年・没:1431年)には周防を固く守る様申し送った事が書かれている。

詳細は省略するが“大内盛見”はこの戦いで討ち死した兄・大内義弘の遺志を継ぎ、足利義満への抵抗を生涯続ける事になる。1404年には家督相続、並びに周防・長門守護職を足利義満に認めさせ、討伐に失敗した義満に屈辱を与えた上に足利義満存命中は決して上洛をしなかったと伝わる。

:1399年11月14日:

11月8日に馬廻、2000余騎を率いて“東寺”に陣を構えた足利義満は八幡迄進軍した。総兵力は3万騎とされ、軍勢の内訳は、室町幕府・第6代管領・畠山基国(在職1398年~1405年・生:1352年・没:1406年)、斯波義将(初代・3代・5代・7代幕府管領・生:1350年・没:1410年)、細川満元(生:1378年・没:1426年)等、幕府重鎮による部隊をはじめ、山名満氏(山名氏清の子息・安芸国守護)、京極高詮、赤松氏、吉良氏、石塔氏、武田氏、小笠原氏、富樫氏、河野氏の名前が記録されている。

幕府軍主力3万騎は同日、和泉に向けて進発した。

尚、室町幕府は前年の1398年に京極氏、赤松氏に一色氏、山名氏を加えた4家を武家の家格“四職”とし“侍所頭人”をこの四家が交代で務める事を定めている。

:1399年11月29日:

幕府軍3万余騎が“堺”を包囲。海上は四国、淡路の海賊衆100余艘が封鎖した。大内義弘軍は“堺”に5000の兵力を集中させ、幕府軍の総攻撃に備えた。矢倉から射まくり、幕府方“畠山基国”軍は700人の死傷者を出したとされる。幕府軍は細川勢、赤松勢の5000騎が南側から、京極、六角勢が東側から“大内軍”を攻め立て、この攻防戦での両軍の死傷者数は無数に上ったと記されている。

:1399年12月24日:

四方より火を放った幕府軍が “堺城”に攻め入る。大内義弘は長刀を振るって畠山基国の嫡子・畠山満家の200の軍勢に僅か30騎で向かった。大内義弘郎党の“杉備中守”は“山名満氏”に討たれ“森民部丞”も大内義弘を守って敵陣に切り込み、討ち死した。

一人になった大内義弘の最期は“天下無双の名将・大内義弘入道である。討ち取って将軍の御目にかけよ“と大音声を発し、討ち取られたと書かれている。

:大内義弘に加担した“第3代鎌倉公方・足利満兼”の顛末

“足利満兼”は“大内義弘”の挙兵に呼応して、1399年10月21日に10,000騎を率いて武蔵府中高安寺まで進軍した事は既述の通りだが、此処まで進軍した処で、時の関東管領・上杉朝宗(うえすぎともむね・犬懸上杉家3代当主・生:1337年・没:1414年)が諫めた為、進軍を止めた。

12月に成って“大内義弘敗死”の報に接し、翌1400年3月5日に鎌倉に引き返したと書かれている。

日本中世史学者の田辺久子氏は“人物叢書・上杉憲実“の中で“足利満兼”の進軍を諌止したのは“上杉朝宗”では無く、1405年に後任の関東管領に就く“上杉憲定”(山内上杉家6代当主・生年不詳・没:1417年)だったと指摘している。(尚、代表的戦国武将として知られる上杉謙信はこの山内上杉家の16代当主である)

何れにしても鎌倉公方“足利満兼”は翌1400年6月15日、伊豆の三島神社に納めた願文によって足利義満に恭順の意を示し、進軍に及んだ罪を許されている。

:“応永の乱”での敗軍の将のその後

土岐詮直:生年不詳・没:1399年。従弟で敵方の美濃国守護の土岐頼益が大内義弘追討の為、和泉に出陣していたが、引き返し、美濃長森での合戦となった。激戦の末“土岐詮直”は討ち取られている。

京極秀満:生没年不詳。近江で挙兵し京へ向かう途中で三井寺の衆徒500人に行く手を阻まれた他、土一揆の蜂起に遭い漬走し、行方不明と成る。

宮田時晴:生没年不詳。京へ侵入し、火を放ち、300騎で八幡の幕府軍本陣に突入したが力尽き、退却したと伝わる。その後の消息は不明である。

大内持盛:生:1394年・没:1433年。大内義弘の子息であるが、未だ5歳であった。降参した為許され、周防国、長門国の守護に任じられている。1433年に大内氏の後継争いの戦闘で討ち死している。

楠木正秀:生年不詳・没年:1446年。敗走し、生き永らえたと伝わる。

菊池兼朝:生:1383年・没:1444年。菊池氏18代当主。敗北後、九州に逃げ、父・菊池武朝と同じく生涯幕府に反抗的な姿勢をとり続けた。

:“応永の乱”で勝利(幕府側)した武将のその後

畠山基国:生:1352年・没:1406年。“明徳の乱(1391年)”で功を上げ、1398年6月に斯波義将の後の第6代幕府管領になった。“応永の乱”の功で大内義弘の所領であった“紀伊国”を与えられる等、畠山中興の祖とされる。

細川満元:生:1378年・没:1426年。父・細川頼元が1397年に没した為、家督を継ぎ“応永の乱“後に摂津国・和泉国を与えられている。第4代将軍・足利義持の時期に第11代室町幕府管領に就く(在職1412年~1421年)

9:冊封成立の直後に明王朝で政変が起きる

9-(1):目的を達し日本の使節が“明使”を伴って帰国する

1402年(応永9年)8月3日

“建文帝”に対する“日本准三后道義”の表文を携えた日本の使節は歓迎され、日本出発から1年3ケ月後に帰国した。

“建文帝”からは返礼として使僧“天倫道彝(てんりんどうい)”と“一庵一如(いちあんいちにょ)”が日本に遣わされた。帰港する船を迎える為に足利義満が態々(わざわざ)兵庫まで出向いた事が“吉田家日次記“に書かれている。足利義満の大陸への強い憧憬と明国との通交を如何に待望していたかを裏付ける史料である。

尚、明国からの返礼の使者が僧侶だった事で、以後日本側も遣明船の正使・副使は共に、臨済宗五山関係の僧から選任される事になった。

尚、五山とはインドの“天竺五精舎”に倣って南宋に由来を持ち、日本でも禅宗の普及に伴って広まる様になり、鎌倉幕府第9代執権・北条貞時が1299年に浄智寺を五山に列したのが史料上の初見である。その後、1310年に建長寺・円覚寺・寿福寺が五山に列位され、それに浄妙寺を加えて鎌倉・臨済宗の五大寺と称する様に成った。

足利義満は京都五山と鎌倉五山に分割し、両五山の上に別格として南禅寺を位置付けている。京都五山は第一位が相国寺で、第二位天龍寺・第三位建仁寺・第四位東福寺・第五位万寿寺の序列であった。(足利義満没後の1410年に従来通り第一位を天龍寺に戻している)

鎌倉五山の序列も1386年に第一位建長寺・第二位円覚寺・第三位・寿福寺・第四位浄智寺・第五位浄妙寺と定められている。

9-(2):天皇に対する“拝賀奏慶”に准ずる儀礼で明使を迎えた“北山殿義満”の意図

9-(2)-①:明使の北山第への到着

1402年(応永9年)9月5日:

足利義満の明国との冊封関係締結の願いは終に実現した。“日本国王源道義”宛ての“建文帝(洪武帝の孫・生:1377年・没:1402年)からの“詔書”と冊封許可の証である明皇帝から下された“大統暦”を携えた明使が北山第に到着した。“詔書”の内容について関白二条満基(生:1383年・没:1411年)の“福照院関白記”が伝えている。

茲爾日本国王源道義、心を王室に存じ愛君の誠を懐き、波濤を踰越し遣使来朝す。逋流の人を帰し,宝刀、駿馬、甲冑、紙硯を貢し、そうるに良金を以てす。朕はなはだこれを嘉す

明国の使者が“大統暦”をもたらした事は明王朝として正式に“日本国王源道義”つまり足利義満を“冊封”相手として認めた事を意味した。“逋流の人を帰し”とあるのは明国が最も日本に期待した“倭寇の禁圧”に応えるかの様に(倭寇に拠って)捕虜となっていた人々を足利義満が送還した事を“建文帝”が評価した事をこの史料が伝えている。

捕虜の帰還は今回の通交交渉が成功した大きなポイントとされ、足利義満には“外交センス”があったと後世、評される根拠となっている。

9-(2)-②:感激して明使を北山第(邸)の“四脚門”まで出迎えた足利義満の態度に対し“公武”からの陰口もあった

足利義満は明使を北山第の“四脚門”迄出迎え、母屋の前に高机を用意し、その上に“詔書”を置いて焼香し、ついで三拝して跪(ひざまずいて)き、これを拝見した事が記録されている。これは天皇に対する拝賀奏慶に近い儀礼であった。

従来の外交慣例と大きく異なる仰々しい対応をした足利義満に対して“公武”双方の重鎮から批判の陰口が伝わっている。

“武”からの批判としては、室町幕府の初代・3代・5代・7代の管領職を務め、当時の幕府重鎮であった“斯波義将”(生:1350年・没:1410年)からのもの、並びに第3代将軍足利義満、第4代将軍足利義持、第6代将軍足利義教の信任を得て“黒衣の宰相”の異名をとり、僧として破格の“准号”を授かった“三宝院満済”(生:1378年・没:1435年)のものがあり、共に“明使を迎えた足利義満の応接が鄭重に過ぎる”との陰口であった。

“公”側からも“福照院関白記”の中で“関白二条満基”(二条良基の孫で二条師嗣の男子・生:1383年・没:1411年)が“今度ノ返牃、書様以テノ外ナリ。コレ天下ノ重事ナリ”と明皇帝詔書が日本に対して高飛車な書き様であると批判している。

しかし“中華世界システムの中の日本”という“国家観”を持ち、しかも“天皇・上皇”を抑えて絶大な権力を集約する“北山殿義満”と称される新たな政務機構によって“日本に君臨”する“足利義満”には“斯波義将・三宝院満済”等の陰口、批判は届かなかったのである。

9-(3):明使滞在中に“靖難の変”で“建文帝”が追われる

9-(3)ー①:靖難の変・・1399年7月~1402年7月

1399年7月:燕王“朱棣”(後の永楽帝)が挙兵する

洪武帝は王朝創建の功労者を粛清する一方、自らの男子を各地の王に封じる政策を執った。その洪武帝が1398年5月に没した為、洪武帝の孫”允炆(16歳)”が明国第2代皇帝“建文帝”(在位1398年6月~1402年7月・生:1377年・没:1402年?)として跡を継いだ。

若い“建文帝(当時22歳)”にとっては、祖父によって功臣は粛清されていたが、その代り、叔父達が諸王として配置されており、彼等の存在に強い警戒感を抱いた。側近の“斉泰”や“黄子澄”の進言を容れた“建文帝”は、即位直後に自らの権力強化の為に先ず、5人の王を廃絶する事から始めたのである。

中でも最大の政敵は洪武帝の四男で“燕王”の“朱棣”(後の永楽帝・生:1360年・没:1424年)であった。この時、燕王の“朱棣”は39歳であった。

“朱棣”(後の永楽帝)は“建文帝”の叔父に当たる。幼い頃からその優秀さで知られ、将軍として、北方の要衝である“燕”に配置され“北元”対応の拠点戦場でその能力と勇敢さで父・洪武帝にも認められた人物であった。その燕王“朱棣”に対して建文帝は“燕軍”の解体を命じる等の挑発行為を行ない、更に、王位を剥奪する為の罪状を課す等、追い詰めたのである。

“建文帝”側からの執拗な攻撃に対して、燕王“朱棣”は遂に北平(現在の北京)で“建文帝”の側近“斉泰・黄子澄“の両名を”君側の奸“として討伐する事を大義名分として挙兵を決断した。

兵力では燕王軍の数万に対し“建文帝”軍は50万と圧倒的に勝っていた。

しかし燕王軍は“北元”と度々戦った実戦経験豊かで、しかも“朱棣”(後の永楽帝)自身が陣頭指揮に当たった軍であった。

一方の“建文帝軍”は洪武帝時代に、有能な将軍が次々と誅殺された後の軍隊であり、指揮官の質に於いても劣勢、指令もチグハグで、軍の中から離反者が出る始末だった。

内乱は長引き、ほゞ3年後の1402年6月、数に勝った“建文帝”軍の南京が陥落するという結果と成った。敗れた“建文帝”は混乱に乗じて行方不明と成り、その後の消息については“南京陥落の折に僧に変装して逃亡した”との説も出たが、殺されたか自殺したかとされている。(推定24~25歳とされる)

1401年5月に足利義満からの“正使・祖阿弥、副使・肥富“が到着した時は“靖難の変”(1399年7月~1402年7月)の最中であったが“建文帝“は喜んで受け入れ“冊封”を認める“冊封使”を日本に向けて送り出し、その後間もなくして皇帝の座を追われる事になる。“建文帝“は自軍の敗戦を予想していなかったのであろう。

冊封使は1402年8月3日に神戸港に着き、9月5日に北山第(邸)に到着したのである。

10:明国第3代皇帝“永楽帝”が即位する

1402年7月17日:

“靖難の変”に勝利した“朱棣”は明国第3代“永楽帝”(在位1402年7月17日~1424年8月12日)として南京で即位した。1403年に国都を“北平(今日の北京)“に定めてはいたが、永楽帝が南京から“北京順天府”に移るのは1406年から改築を進めた“紫禁城”が完成した後の1421年からとなる。

10-(1):“建文帝”即位の事実を歴史から抹消した“永楽帝”

“永楽帝”は皇位簒奪者と後世呼ばれる事を極端に嫌い、その為“建文帝”の存在を歴史から抹殺しようと試みた。即位後“建文”の年号を廃止して“洪武”に編入し、この年を“洪武35年”としている。(これは後世撤回された)又、自らを“洪武帝を継ぐ二世皇帝”と称したのである。

10-(2):“永楽帝”の内政・外政

“洪武帝”が農本主義政策をとったのに対して“永楽帝”は“世界帝国”を目指すという大きな違いがあった。永楽帝の海外への積極姿勢も、中国皇帝を中心とした“中華世界システム”の中の“日本国王”という“国家観”の下で“北山殿義満”政治を推し進める姿勢と真に合致したのである。

“永楽帝”の内政、対外政策の特色を大まかに記す。


内政


皇帝直属の“錦衣衛(秘密警察)”に“建文帝”に関する言動を監視させる“東廠(とうしょう=明代に置かれた特務機関。政治的陰謀の摘発を行った)”と呼ばれる組織を設置した。

具体的には、宦臣(かんがん=中国王朝で古くから歴史を持つ、去勢された官吏を指す。統一王朝の場合でも宦官は数千人程居たとされ、主に后妃や女官達が住む宮中の奥御殿に配属された)達に宮廷内の事情を探り出させ、内通させる組織であった。永楽帝も洪武帝同様“恐怖政治”を行い“明国の皇帝独裁体制”を固めた。

文化的には、勅撰書である“永楽大典”“四書大全”“五経大全”“歴代名臣奏議”などを編纂させているが“建文帝”についての記述を禁じたとされる。



対外政策

=永楽帝の主な対外政策=

①領土拡大に於いて漢人皇帝として初のモンゴル親征を行い、タタール・オイラト部を威圧

②ベトナムに軍事侵攻を行い、胡朝を滅ぼし直接支配を実現(1407年)

③李氏朝鮮、並びに琉球王国を服従させる

④日本に対しては足利義満を日本国王に封じ“朝貢貿易”を許可

⑤世界が“明国”の脅威を認める政策を展開。その為“宦官鄭和(生:1371年・没:1434年)の大艦隊を東南アジアからアフリカ東海岸迄の30カ国に“朝貢関係樹立”の為に派遣。鄭和は“永楽帝”期に第6次迄の航海(1405年~1422年)を行い、孫の“宣徳帝”期には、最後の第7次航海(1430年~1433年)を行なっている。



11:“靖難の変”直後に“永楽帝”に新たな使者を派遣“足利義満”の積極的、且つ、スピーデイーな対応

1403年(応永10年)2月:

永楽帝への“遣明使”を出発させる。“建文帝”からの使者を“天皇に対する拝賀奏慶”に近い儀礼を以て迎えた時には(1402年9月5日)“靖難の変”で“建文帝“が滅び“永楽帝”に代わっていた。

その情報を得た足利義満は、直ちに臨済宗の禅僧“絶海中津”(ぜっかいちゅうしん・生:1334年・没:1405年)に“日本国王臣源表・臣聞・・“に始まる表文を作らせた。彼は1368年から10年間“明国”で修業し、帰国後、足利義満はじめ、周囲から一目を置かれる存在となり、義堂周信と並ぶ五山文学者と評された人物である。正使は“天龍寺住持・堅中圭密”(けんちゅうけいみつ・生没年不詳)であった。

“靖難の変”(1402年7月17日に終わる)に素早く対応した足利義満が開明的で“外交センスに優れた政治家”であった事を裏付ける史実である。

この時、明国に渡った人員数は300人余りと伝えられる。持たせた表文の主旨は“永楽帝の即位を祝賀し、方物を献じる“というものであり、明らかに”臣下から皇帝“に奉呈する文書であった。これに就いては後に、第8代室町幕府将軍・足利義政(在位:1449年~1473年)の時代の幕府外交文書作成の担当の立場にあった“瑞渓周鳳”(ずいけいしゅうほう=生:1391年・没:1473年)が①自らを王と称した事②臣の字を用いた“足利義満”の姿勢を批判している。

“足利義満”急死後、歴史の振り子は跡を継いだ室町幕府第4代将軍“足利義持”に拠って“もとに戻される。

結果的に足利義満の“国家観”は理解されずに“日本の特異性”である“至尊(天皇・朝廷・貴族)“勢力と”至強(将軍・幕府・武士層)“勢力とが併存する伝統的政治構造が以後も継承されて行く事に成るのである。

先の明使に対する“拝賀奏慶”に近い儀礼で迎えた事にせよ、表文の文言にせよ、陰口、批判は伝わるが、全ては権力の絶頂期にあった“北山殿義満”に直接ブレーキをかけるものとはならなかった。義満は彼の国家観、そして強い“大陸への憧憬”から“永楽帝”に代わった明国に対しても躊躇する事無しに“主従関係”すなわち“冊封関係”を積極的に推進して行く事になるのである。

田中健夫氏は中国との“対等”な関係を標榜(主義・主張・立場を公然と唱える)して来た日本が、従来の慣例に全く反し、明国の冊封下に入るという政策を“北山殿義満”が強行出来た理由として下記5点を挙げている。


①:義満が誰にも拘束されない絶対権力者の立場であった

②:明側の政策も冊封関係を広く世界規模に拡大、強化する事であった

③:倭寇は東アジア海上に存在する国際的重大問題であり、明王朝としては、その解決を足利義満に期待するところ大であった

④:武家政権の外交面の発言権は、時代を経るに従って大きくなって来ていた

⑤:中国文化受容の態勢が醸成されて来ていた

そして狙い通り、成祖・永楽帝は“北山殿義満”からの賀表を喜んで受け入れたのである。

11:“永楽帝”の世界帝国政策とタイムリーに合致した“足利義満”の“冊封”関係締結の動き

“永楽帝”の世界帝国を目指した“対外政策”展開に対し、日本でも、西国の有力者と結び付いた“肥富”の様な国際的な商人が出現し始めていた。又、中国の禅文化等を受容する、広い視野を持った文人も出現して来ていた。“東アジア世界“全体に広がる経済・文化・流通の渦が生じていたのである。

“足利義満”の著者“伊藤喜良”氏は“足利義満という権力者が開明的であったからこそ、偏狭なナショナリズムから脱する“冊封関係締結”という行動に出たのであろう。彼は中国皇帝を中心とした“中華世界システム”の中に朝鮮・ベトナム等の君主が冊封関係を結び、規律をもって位置付けられた状況を受け入れ、日本も東アジアの国際秩序の中で位置を占め、認知される事が、政治、経済、文化、夫々の側面にとって大きな利益になると確信し、明国との冊封関係を決断したとしている。

12:朝貢貿易による利益独占のメリットに加え“明皇帝”の権威を借りられる事は伝統的“至尊(天皇・院・朝廷)”の権威を超えた“北山殿義満”として日本に君臨するベストの策だと確信

12-(1):“北山殿義満”が必要とした“明皇帝”の権威

“応永の乱”を制した事で“武”に於ける権力を完全なものにした“足利義満”に残された課題は、明王朝との冊封関係締結によって明皇帝の“世界的権威”を借りる事であった。

明王朝の“永楽帝”が“世界帝国”を目指して積極的な外征・対外進出を政策として進めている事は足利義満も情報として掴んでいたと思われる。そうした明皇帝と“冊封”という形で関係を結ぶ事で①中国皇帝の権威を借り“北山殿義満”として国内に君臨する②東南アジアからアフリカ東岸に及ぶ30以上の国々と同様“中国王朝”との朝貢貿易に拠る莫大な利益を権力強化に活用する、この二つを“足利義満”は目指したのである。

①については“北山殿義満”という“公武”双方に君臨する“新しい政治機構”を既に作動させていたが、そこに、世界の中心としての“明皇帝”の権威を背景として付加する事は”天皇・上皇“という日本社会に岩盤の様に根付いた“伝統的権威”に更に“権威”が加わった事を意味し“日本全体を納得させるに足る”と判断したと考えられる。

“明国”の“冊封体制”下に入った事で“日本国王”の号が明国皇帝から与えられた。

しかし、義満にとって“日本国王”の号は“北山殿義満”として日本に君臨するに当たって“明王朝の権威”を伝統的“天皇・上皇”の権威を超えるものとして周囲に感じさせる事を期待するという意味だけであり、日本国内の政治を執行する場面では一切用いていない。

足利義満は明王朝の皇帝の“権威”は強大なものと考えていた。その裏付けが、明国の使節を迎える為に兵庫まで出掛けて行ったという史実、船舶をわざわざ見学する行動を繰り返したという史実、そして、何よりも既述した明使に対する“拝賀奏慶”に准じた儀礼を用いた史実である。

ところが“明国皇帝の臣に成る”事に等しい“冊封体制”下に入った事を周囲の重鎮達は蔭で批判した。開明的な“国家観”に基づく“北山殿義満”の行動は、伝統的日本固有の価値観に閉じ込められていた重鎮、並びに周囲には“屈辱的”と捉えられていたのである。

“北山殿義満”の国家観は周囲の理解を超えていたという事であろう。

“冊封“が成立し、通交が開始されると、足利義満は殆ど毎年の様に使船を明国に派遣した。明皇帝はこれに応えて、幕府を潤した銅銭など多額の回賜品を与えた。一方で明王朝は“倭寇禁圧“を益々要求したのである。

12-(2):莫大な回賜品が幕府を潤す

“北山殿義満”は冊封に入る事に拠って、先進的な中華文明の恩恵、政治面での利益も貪欲に求めた。伝統的に中国皇帝の冊封下の国家に対する考えは、中国皇帝の徳を慕って遠方から使者を送り、儀礼を尽くす外臣という位置づけから、それらの国の労をねぎらって莫大な回賜品を下付したのである。

足利義満が中国王朝のこうした伝統的考えによる莫大な朝貢貿易利益を期待した事は言うまでも無い。

12-(2)-①:朝貢貿易が齎した莫大な富について記した史料

1406年(応永13年)6月8日・・“教言卿記”の記述から 

権中納言・山科教言(やましなのりとき・生:1328年・没:1411年)の自筆の日記が現存している。その中に“兵庫に土倉を建てる計画”が書かれている。この事は遣明船の齎(もたらす)す“銭”や“唐物”が余りに莫大な量だったので、それらを一時管理する場所が必要となった事を裏付けている。

上述した“銅銭”については、一度に20万貫に及ぶ膨大な“銭”が遣明船によって齎された記録がある。室町幕府財政運営上、極めて大きな意味を持ったのである。

1407年の“成祖(永楽帝)勅書”等から

明国側の情報からも朝貢貿易の様子が分かる。

成祖勅書に拠れば、花銀1000両、銅銭15000貫、錦10匹、紵糸(ちょし=麻の一種)50匹、羅30匹、紗20匹、綵絹300匹が永楽帝から贈られたと書かれている。この年の遣明船が齎した利益が20万貫に上ったとの記録もある。

佐藤進一氏は、朝貢貿易によって、足利義満は“国内通貨発行権の独占”を得たと指摘し“外交権”は勿論“軍事権”も強化され“北山殿義満”の権威・権力は最大化したとしている。

こうした絶頂期の義満に対して“太上法皇の待遇”が開始され、妻・日野康子は1406年12月に後小松天皇の准母となり、1407年3月には前例の無い“院号宣下”が成されるのである。

13:足利義満が“天皇制・天皇家“に最大の危機を齎(もたら)したとの説への反論

足利義満が皇位を簒奪する意図があったとする説は“田中義成”氏が“足利時代史”の中で論じ、又“今谷明”氏も“室町の王権”の中で“出家して政務を執った足利義満はその子・足利義嗣を天皇の位に就けようとした“と論じ”天皇制はこの時期にこそ存続の最大の危機に瀕していた“と主張した。いずれにせよ、史実として”足利義満の急死“に拠って未然に終わり、足利義満の内心に止まった意図を解明する事は容易では無い。

足利義満は父・後鳥羽上皇と共に“承久の乱(1221年)”を起した“順徳天皇(第84代天皇・在位1210年・譲位1221年・生:1197年・崩御:1242年)五代の孫という解釈が出来るとされる。従って若し足利義満の“皇位簒奪”が実現されていたら“天皇制”は“万世一系“の神話を喪失していた可能性があった。

この事から、足利義満の存在は“皇統”に重大な変質を齎した可能性が論じられた。しかし、このケースでも”天皇制の最大の危機では無く、天皇家の最大の危機(皇統)という事である“と“太平記の時代“の著者・新田一郎氏は述べている。

結果的に足利義満は中国皇帝を中心とした“中華世界システム”の中の日本という“国家観”の下で“至尊(天皇・院・朝廷)”勢力と“至強(将軍・幕府)“勢力が併存する日本の基本的政治構造は温存した。そして、それらを超越する“権威・権限”を“明王朝への冊封体制”下に入る事に拠って付加して、日本に君臨する“北山殿義満”という新しい立場を創出したと解釈するのが近年、主流となっている。

14:“日本国王源道義”の号は“北山殿義満”が天皇・院に代って“国家主権”を掌握する意図の象徴だとする説への反論

 “永楽帝”の冊封に応じ“日本国王道義”という呼称の“外臣関係”を明王朝と結んだ足利義満は“後円融上皇”崩御後“後小松天皇”の父親として振る舞った上に、冊封によって古来から天皇家が握っていた“外交権”を取り上げた。この事は“国家主権の掌握”であり、天皇・上皇(院)の存在を葬ったに等しいとする説がある。

足利義満が時の“後小松天皇”の権威・権限を超越する立場に立っていた事は既述した通りであるが、それは日本国創建以来の“天皇家が持つ岩盤の様な権威”そして“至尊(天皇家・朝廷)”勢力の存在までを葬り去る意図からでは無く、又、そうした形跡も無い。

既述して来た様に、足利義満は公卿として公家社会の作法の中に身を置き、政務を総攬する立場に迄達し、天皇・院を超える行動が伝えられている。しかし、義満の行動は己の権威・権力を示す為のものであり、飽くまでも“天皇・上皇(院)”の存在を前提として、それを准(なぞらえた)えたものに留まっていた。

外部民族が侵略によって日本を制圧するという事が起ったとしたら、日本に岩盤の様に根付いた“天皇・上皇(院)・朝廷”という日本の特異性たる伝統的政務システムを根こそぎ除去したかも知れない。

しかし、足利義満は“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)”勢力側に自ら身を投じ、公卿トップとして積極的に日本古来の“公”の政務機構と、政務システム温存に加担したと言える。“武”側のトップとして君臨した“足利義満”が“公”のトップとしても君臨した事で“至尊”勢力の補強・増強に貢献した事は既述の通りである。

義満という人物が開明的で“日本”をローカルな存在と理解し、中国皇帝の権威を上位に置いた可能性はあるが、長い歴史の上に岩盤の様に根付いた日本の政治・社会構造、取り分け“至尊(天皇家・朝廷)”を上述した様に、寧ろ、積極的に温存する事を選択したと解釈出来る。

既に実質的に“公武”権力を掌握し、至尊(天皇・上皇・朝廷)そして至強(将軍・幕府)を“北山殿義満”という政務機構の“装置”として自由に動かす事が出来た足利義満に唯一欠けていたものが“至尊”の持つ“不可侵の権威”であったと考えられる。

そこで“北山殿義満”は明国皇帝との冊封関係締結に拠って得た“日本国王源道義”の号を“国境を画する新たな権威・権限の獲得“つまり“明国皇帝の権威を背景にした己の権威の補強“と考え、活用したと解釈すべきであろう。その結果“北山殿義満”政権は既存の内政力に“冊封”関係をフルに活用した外政力が加わり、安定した“室町幕府”の最盛期を築く事になったのである。

“天皇家”が日本の身分制度上の最高位であり、古代から日本に岩盤として根付いた言わば“不可侵の存在”である事を知る“北山殿義満”は、その“現実”を直視し“天皇家”を温存したのであり、取って代わる事を図った形跡は無い。

従って“日本国王源道義”号取得が“北山殿義満”が天皇・院に代って“国家主権”を掌握する意図の象徴であったとする説は当たらない。

14-(1):“日本国王”の称号を日本国内の政治執行場面に一切用いていない事が裏付ける“国家主権簒奪目的”では無かった”冊封“

“太平記の時代”の中で、新田一郎氏は“足利義満が国内政治、取り分け、中央政治の局面で“日本国王”の称号を全く用いなかった理由は“中央政治に於ける足利義満の権力は“日本国王源道義”の称号に拠って支えられては居らず、飽くまでも公家社会の作法の上に成り立っていた“としている。

“公武”双方の権力を完全に掌握していた“北山殿義満”は“冊封”に拠って得た“日本国王”の号を更なる“権力補強”に用いる必要が全く無かったとして、下記を挙げている。


①:日本国内で“日本国王”を標榜し、その権威を振り回した事実はない

②:“日本国王“という肩書を国内で通用させた事もなかった。

③:従って明皇帝から与えられた“日本国王“の肩書を”北山殿義満“は国際関係に於ける”日本国代表“として通用する権威としてのみの活用に止めている。


15:足利義満が明王朝と結んだ“冊封関係”の歴史的意味

“北山殿義満”が明王朝と結んだ冊封関係の歴史的意味は以下3点とされる。

①:古代以来天皇が主体となっていた日本の外交権を天皇の存在を視野の外に置き“日本国王源道義”として自ら“臣”を以て任じた事

②:中国王朝との冊封関係を結んだのは“倭の五王“として伝えられる413年~502年以来の事であった事

③:遣唐使廃止(838年)以来の中国との正式な国交回復となった事

以上の歴史的意味合いからも、足利義満が“開明的な権力者”と称される理由は十分にある。

1404年(応永11年)5月:

建文帝からの明使が北山第(邸)で大歓迎されてから2年半後に、永楽帝から“正式な外交”を結ぶ為の“明使”が来航した。

即位して2年に満たない“明国”の“永楽帝”は日本からの使節到来を喜び“日本国王源道義“に宛てた詔書に併せて”日本国王之印“と刻した金印と、通交に必要な勘合(日本の2字を割書して底簿との照合に備えた証明書)百道を与えた事が記されている。

足利義満は“日本国王”の称号を得、明国の永楽帝は“源道義”を中華皇帝に臣従する“外臣“として認知し、正式に通交の相手としての承認を与えた。以後”足利義満“は朝貢貿易の利益を独占する一方で倭寇禁圧に務めるのである。

15-(1):“倭の五王”(413年~478年)時代以来の事とされる”冊封関係“締結の決断

”北山殿義満“が明王朝と”冊封関係“を結んだ事で”宗主(永楽帝)“と”外臣(足利義満)“という関係が成立した。これは中国の歴史書に残る“倭の五王”が5世紀~6世紀初頭に中国王朝と冊封関係を結び、朝貢を行って以来の事と成る日本としては歴史的な政策決定であった。

“倭の五王”とは日本のどの“天皇”に該当するのか等については第2章の第2項で触れたが、晋書と宋書(夷蛮伝~文帝記)に伝わる“倭王・讃”の朝貢の記録(413年~430年)に始まり、その弟と記録される“倭王・珍”の朝貢の記録(438年)並びに、宋・文帝から安東将軍倭国王として封じられた“倭王・済”の朝貢記録(443年~460年)が宋書に書かれている。

続いて、その“済”の世子とされる“倭王・興“が、宋・順帝から同じく“安東将軍倭国王”に封じられ、朝貢した記録(462年~477年?)が残っている。そして最後の五番目の”倭王“が”武“であり、478年~502年に亘って朝貢したとある。

この間、中国王朝は宋王朝が479年に滅び、齊王朝(南齊)となったが、朝貢は続けられ、更にその齊王朝が502年に滅びて梁王朝(502年~557年)に代わったが”倭王・武“の朝貢が続けられた記録が残されているのである。

“倭の五王”は誰なのかについては諸説があるが“日本書紀”などの天皇系譜から

“讃=第17代履中天皇(りちゅう・在位:400年~405年)
“珍=第18代反正天皇(はんぜい・在位:406年~410年)
“済=第19代允恭天皇(いんぎょう・在位:412年~453年)
“興=第20代安康天皇(あんこう・在位:453年~456年)
“武=第21代雄略天皇(ゆうりゃく・在位:456年~479年)

に比定されるのが有力説である。済・興・武については研究者間でほゞ意見が一致しているが“讃”については応神天皇(第15代天皇・在位:270年~310年)とする説、仁徳天皇(第16代天皇:在位:313年~399年)説もある。

16:専権化した足利義満の晩年の政治と武士層の不満

“応永の乱”を制し“冊封”を成した足利義満は、世界の中心と信ずる“明国”皇帝の“外臣”としての立場を権威の背景とし“怖いもの無し“の“北山殿義満”として“日本”に君臨した。彼の最晩年の政治姿勢は益々独断的なものになって行ったとされる。

16-(1):“武家政権”を“公家社会の周縁部に取り込む”形となった“北山殿義満”体制

16-(1)-①:武家に対する“北山殿義満”体制下の政務処理システム

“北山殿義満”という新しい政務機構は“公家”の機構と“武家”の機構の双方を併存させ、その上に“北山殿義満”が“君臨”する形であった。“公武”双方の人々から見た政権の形は“武門”に強大な権力が及ぶ“院政”としか映らなかったであろう。

“将軍職”にあった“足利義持”は“幕府の長(室町殿)”として“武家”の年初の政務開始の儀式“沙汰始め”や、管領の新任の際の“評定始め”の政務を行なったが、これらは“官制上の形式”として行われたに過ぎなかった。

“北山殿”(義満の院政とも言うべき新しい機構)と“室町殿”(幕府政治機構)は並列状態にあったが、日常的に“評定”が開かれるのは“北山第(邸)”に於いてであり、実質的な武士に関する政務処理も“北山殿義満”が指示したのである。

“北山第”に於ける”武家の評定”には“管領”並びに“評定衆”などの主だった幕臣が参仕し、守護職や侍所等、武家関係の人事もこの場で決せられた。最も重要な機能の遵行(じゅんぎょう=室町時代に将軍の命を守護が下達する事)手続発動でさえもが“北山第”での評定を経て“北山殿義満”の意志を受けた後に“形式的”に“室町殿・足利義持”が“仰せ”の形で“管領奉書”と呼ばれる文書の形で関係国の守護に宛てて発せられたのである。

“北山殿義満”の政務機構下の重要なスタッフは”室町殿(幕府将軍)”の奉行人として仕える形であった。

“北山殿義満”がその意思を直接に示す文書様式は“御判御教書(ごはんのみぎょうしょ)”と呼ばれ、所領所職の給付や安堵を武士や寺社本所に対して行う場合に用いられる重要書類であるが、この文書も武家奉行人が起案したものに足利義満が“花押”を据えて発行されたのである。尚“北山殿義満”は、こうした武家に対する文書に“公家様花押”を用いたと伝わる。

 “太平記の時代“の著者・新田一郎氏は”幕府組織は北山殿義満の決裁を実施に移す為の装置として用いられたに過ぎなかった“としている。

16-(1)ー②:“武家”が公家社会の周縁部に取り込まれた形となった“北山殿義満”政権

言わばオールマイテイーと成った“北山殿義満“が主導する政治機構は

①公事を遂行する公家の機構

②京都内外への伝達遵行(じゅんぎょう=室町時代に将軍の命を守護が下達する事)を担う武家の機構

の二つの官僚機構を持つ“専権的な政治システム”であった。

“北山殿義満“から武家奉行人への業務の指示も”伝奏(公家政権内に置かれた天皇・上皇に報告・上奏を行う役職)“を介して行われる事もしばしばであった。

公家社会で“治天(天皇・院)”が“伝奏”を介して官僚機構を作動させるという“公家政権の方式“を“北山殿義満”政権は武家に対しても准用した。又、公家社会の官位・格式を物差しとした“作法序列”は武士層に対しても適用される様になった。

こうした事を総合し“北山殿義満”政権は“武家が公家を制圧した”のでは無く“武家が公家社会の周縁部に取り込まれた“というのが実態であった。”北山殿義満“と称された足利義満最晩年の“専権政治”は、公家達には歓迎されたという見方がある一方で、武家達には“不満”が鬱積して行ったのである。

16-(2):近習優遇の恣意的な人事に“武士層”には不満が鬱積して行った

1406年~1407年の人事:

“応永の乱”(1399年)で足利義満が勝利した後の京都の内外は平穏な日々が続いた。そして諸国の守護職を担った武将達も概ね足利義満の権力下に服した状況であった。こうした状況下、足利義満は幕府第6代管領(在職1398年6月~1405年)を務め畠山氏中興の祖とされ、1406年(応永13年)に没した“畠山基国”の後継者として、長子“畠山満家”を退け、次子の畠山満慶を就けたのである。

又、1407年末には和泉守護であった仁木義員(にきよしかず・生没年不詳・仁木義長の子)を更迭して、後継者を自らの寵童(側近・当時の風習として男色の相手ともされる)の一人であった“奥御賀丸”(おくおんがまる・生没年不詳)とした。この二例はいずれも“近習優遇策、恣意的な人事“として不評を買った。

最晩年の足利義満は、自分の意に違う者に対しては厳しい態度で臨んだとされる。しかし、圧倒的な権力者の足利義満に対して、軍事的な抵抗も不可能な状態であり、武士達は側近優遇人事、恣意的な人事を行う足利義満の専権政治に唯々不満を鬱積させるだけであった。

17:“北山殿義満”の専権政治を裏付ける“皇族でも無く、天皇・院との配偶関係も無い”妻・日野康子に“北山院”の女院号が宣賜された史実

1407年(応永14年)3月:

足利義満の妻・日野康子(生:1369年・没:1419年)は前年12月に後小松天皇の准母に冊立された。(詳細は省略するが、後小松天皇の生母通陽門院・三条厳子が1406年12月27日に薨去した為である)そして翌1407年3月には“北山院”の女院号が宣賜された。

女院号は天皇と縁の深い女性に対してのみ宣揚(広く世の中にはっきりと示す事)され、太上天皇に准ずる待遇が与えられる。日野康子は皇族でも無く、又、天皇・院との配偶関係も無い。そうした女性に“女院号”が宣揚されたのは前例の無い事であった。

18:“北山殿義満“の治世下で、最も抑圧された二人・・第4代将軍足利義持と南北朝合一後の最初の天皇“歴代第100代・後小松天皇”

18-(1):第4代室町幕府将軍・足利義持(生:1386年・没:1428年)

“北山殿義満”の専権政治下に置かれた”武士層“の不満は“公家層”の不満よりも大きく、鬱積された状態であった事は上述の通りである。取り分け、官制上は”室町幕府・第4代将軍の地位に8歳から就いてはいたものの、形式上に過ぎず、日常的な評定は“北山第”に於いて行われ、その他、実質的な政務処理も全て父・足利義満の指示に拠って行われていた足利義持の不満の鬱積は相当大きかったと伝わる。

20歳に成り、将軍職在位も12年に及んでいた足利義持と父親・足利義満との関係が下記史料から窺える。

1406年(応永13年)3月末:

第4代将軍・足利義持が、父・足利義満に叱責され、慌てふためいて足利義満の妻、日野康子の弟で“伝奏”の“日野重光”(生:1370年・没:1413年)へ駆け込み、父・義満へのとりなしを求めた事が記録に残されている。

足利義満が何が原因で足利義持をそれ程までに叱責したのかは明らかで無い。確かな事は足利義持は将軍職に在りながら事態を収拾する事が出来ず、叔父で“足利義満の側近”の日野重光に縋(すが)らなければならなかったという父子の力関係である。武家の棟梁たる将軍の運命ですら“北山殿義満”の胸三寸という力関係であった事が分かると共に、足利義持が、父・足利義満に対する反抗心を強めて行ったであろう事が想像出来る。

次項で記述するが、父・足利義満の急死後、後継者となった足利義持は“足利義満政治の全面的否定”を行ない、足利義満が大きく動かした歴史の振り子を元に戻す結果に成るのである。

18-(2):“南北朝合一”後の最初の天皇・歴代第100代“後小松天皇”

18-(2)-①:後円融上皇の存命期から“足利義満”は“公”の実権を握り“治天”の様な立場にあった

“北山殿義満“の治世下で、最も抑圧された二人目は歴代第100代“後小松天皇”に他ならないが、この状態は父親の北朝・第5代“後円融天皇”の時期から始まっていた。

既述した様に後小松天皇の父”北朝第5代・後円融天皇“は義満に拠って“治天“の地位・立場を棚上げされた状態であった。後円融上皇(1382年㋃~)は形の上では院政を敷いていたが、義満が院別当に就いた事で政治の実権は足利義満の手にあった。

こうした状況に至るまで、義満に力を貸したのが、北朝に於いて、4代に亘って天皇家の摂政・関白を務めた二条良基(生:1320年・没:1388年)であった事は既述した通りである。

“後円融上皇”の院政を担う院使の多くも,足利義満の“家礼(けらい)”たる公家で占められ、政務に関する事実上の決定権も後円融上皇には無く、公家社会の人々が足利義満に追従したのである。この様に“天皇・上皇”を凌ぐ“足利義満”の権力が確立されて行った状況を世間は“足利義満による院政・治天”と称したのである。

18-(2)-②:後円融上皇崩御後“後小松天皇“の後見役を任じ、完全に”公“の権力を掌握した“足利義満”

“公武”双方の実権を握り“北山殿義満”として“日本に君臨”した16年間の動きは“後円融上皇“の崩御(1393年)後、鮮明となった。後継の後小松天皇(生:1377年・崩御:1433年)が北朝最後の第6代天皇に就けたのも(1382年、当時5歳)足利義満の支援無しには不可能であったし“南北朝合一”で“歴代第100代後小松天皇”として即位(1392年)する事が出来たのも足利義満の主導があっての事であった。

後小松天皇は父・後円融上皇以上に足利義満には頭が上がらない立場だったのである。

実態面で“公”に対しても完全に権力を握っていた足利義満は“後円融上皇”の崩御後は誰に憚る事無く伝統的“至尊(天皇・上皇・朝廷)”側の権威を超える既述した“新しい体制作り“に動いたのである。

“公武“双方の実権を掌握した足利義満は、日本社会に岩盤として根付いた伝統的“天皇制”の廃止を意図した形跡は無い、又“天皇家が継承して来た皇統の簒奪“を図った形跡も無い。日本の伝統的”権威“は温存し乍ら、しかもそれを超える“権威”の下に日本に君臨する事を図ったのである。

19:“公武”双方に君臨した足利義満ならではの“北山殿義満”の政務機構、並びに当然の事として与えられた“上皇並みの待遇”

将軍職を1394年に足利義持(当時8歳)に譲り、翌1395年6月3日に太政大臣を辞任、更に6月20日に出家した足利義満は未だ37歳であった。“公武”双方の政務の全実権を握るという前例の無い存在であった“北山殿義満”は既存の伝統的な公武双方の政務システムを自分の指揮下に置き、そっくり活用する事が可能だったのである。

“北山第(邸)”を政庁とする“新しい政務システム”が日本に君臨する“北山殿義満“の政治機構として機能し始めたのである。

19-(1):“天皇・院”が用いる“伝奏奉書”システムを活用

 “伝奏奉書”という文書様式は“伝奏”と呼ばれる“公卿”が、政務の担い手(通常は天皇・院)の意を奉じて、然るべき相手にその旨を伝達する政務処理システムである。天皇であれば“綸旨”そして上皇であれば“院宣”が代表的な形態である。“北山殿義満”はこのシステムをそっくり用いたのである。

義満は自らの意思を“伝奏”に伝え、それは“伝奏奉書”の形で伝達された。体制としては事実上の“治天”と言ってもおかしく無い“北山殿義満”の政務処理システムであった。

この政務形態の初見は1395年9月とされる。こうした体制を執る事が可能であったのは、かつて“後円融上皇”の院政の実務を支えた院庁の下級職員の多くが“庁官”として“北山殿義満“に仕えていたからである。

後円融上皇崩御後の“後小松天皇”が全くの“傀儡”状態であった事がこの事からも裏付けられる。

19-(2):“北山殿義満”に当然の事として与えられた“上皇並みの待遇”

出家をし、官位を離れたものの“公武”の実権を完全に握り、後小松天皇を“傀儡”状態に置いた“足利義満”を制するものは何も無かった。又、こうした立場の足利義満に適応すべき“儀礼”等に際して、如何待遇するかの“先例”が無かった。具体的には、比叡山への出行の際の行粧(服装・装束)や、受戒の作法、公卿との間に交わされる書礼札(しょれいさつ=書簡などを出す時に守るべき礼法)に至るまで、礼法上の先例モデルが無かったのである。

足利義満は当然の事として“摂関家”より上位の礼遇を求めた。準拠しうる先例が無かった為、当然の事として“上皇”並みの待遇を用いた事が当時の日記、記録に残されている。

“御幸(ごこう)ニ准ズ“とか”上皇ニ准ジ奉ル“更には”亀山法皇ノ御跡ニ模フ“と記録されている事から、礼式に於ける“北山殿義満”に対する格式として、天皇・院と並ぶものが用いられ、それが次第に常態化して行った事が分かる。

20:“北山殿義満”の後継者と噂された足利義嗣(生:1394年・没:1418年)

1394年、足利義満に春日局との間に四男が生れた。幼名“鶴若丸”であるが、この年の12月に義満は将軍職を側室・藤原慶子との間の足利義持(当時8歳)に譲っている。

その後、1397年から“北山第(邸)”の造営を開始し“北山殿義満”と称される既述した“新しい政治システム”を用いて日本に君臨したのである。

既存の①“至尊(天皇・院・朝廷)”政治機構、つまり“公事”を執行する公家の機構、そして②“至強(将軍・幕府)”政治機構、つまり京都内外への伝達遵行を担う武家の機構、この二つの官僚機構は、装置として活用する事で温存し、既述した“北山殿義満”と称される“新しい政治機構”を動かしたのである。

最晩年の足利義満は“中華世界システム”の下の“日本”という“国家観”が軸と成り“北山殿義満”という、上記した既存の“装置”を活用した“新しいオールマイテイーの政務機構“を機能させる事で日本に君臨したのである。

20-(1):足利義満に反感を抱く“足利義持”

成人後も全く政治の実権を与えられず、無視状態に置かれた第4代将軍“足利義持”は当然の事乍ら、父・足利義満に対して強い反感を抱いていた事が伝わる。彼の感情を伝える史料は無いが、足利義満没後の足利義持の行動がそれを裏付ける事に成る。

20-(2):四男“鶴若丸”を溺愛したとされる“足利義満”

足利義満は嫡男以外は出家させる当時の慣例に従って四男“鶴若丸”を梶井門跡(明治以降に三千院の呼称となる)に入室させていた。しかし、1408年、鶴若丸が14歳の時に、家の定めを破って還俗させ、しかも“北山第(邸)”に住まわせた。

“鶴若丸”は下記する“元服式”で“義嗣”と名乗る事になるが、足利義満はこの四男を溺愛したと伝わり“嗣”の字には義満の“北山殿義満”を“嗣ぐ”意味が込められているとされた。

又、足利義嗣の官位上昇も異例の早さであり“元服式”に至っては”親王“並みの格式で行われたのである。これ等の事は、最晩年の“北山殿義満“の権力がいかに大きかったかを裏付けると共に“足利義嗣後継者説”の根拠となったのである。

=足利義嗣の異例の官位上昇の早さ=

1408年3月4日:元服前、しかも還俗した直後に早くも従五位下に任官(14歳)
 
     3月24日:後小松天皇が“北山第”行幸中に天盃を下賜され、正五位下・左馬守に叙任


20-(3):内裏で異例の親王並みの“元服式“が行なわれ、世間は”北山殿義満“の後継者は”足利義嗣“であろうと噂する

1408年(応永15年)4月25日:

“椿葉記(ちんようき)”は“伏見宮貞成親王”(生:1372年・没:1456年)の日記だが、

“准后の若公、梶井門跡へ入室ありしを取り返し申され、愛子にていとはなやかにもてなされしほとに、此行幸にも舞御覧色々の御あそひ(遊)ともにさふら(候)はれて、色花にこそありし其四月に内裏にて元服して義嗣と名のらる。親王御元服の准拠なるよし聞こえし。御兄(足利義持)をも押しのけ(退)ぬへく世はとかく申あいし”

と記している。

この史料は①足利義満が1408年に入るや、梶井門跡(明治以降三千院と呼ぶ)から14歳だった鶴若丸(足利義嗣)を還俗させ②“北山第”に住まわせ、更に上記した異例の早さでの官位上昇をさせ③後小松天皇が北山第に行幸した際に天盃を下賜した事④同年4月25日には“親王の作法”に準拠して“元服の儀式”を宮中で執り行い、同時に従三位参議に任官した事⑤幼名・鶴若丸をこの時点で“義嗣”に変えた事⑥そして世間が後継者として“義嗣”が異母兄・将軍足利義持(当時22歳)を押し除けるのではないかと噂している事

以上①~⑥の事柄を裏付ける史料である。

尚、宮中での“元服の儀式”の際に足利義満が “繧繝(うんげん)緑”と称される天皇と上皇のみが座る事を許される畳に座り、天皇・上皇と同じ作法で足利義嗣に対面した記録が残っている。

この事も“北山殿義満”が“天皇・上皇(院)”の位を簒奪しようと図ったとの説の根拠となったのであるが、既述の通り否定されている。尚、6-12項の“等持院訪問記”で13体の足利将軍木像の中で、足利義満の木像の台座だけが天皇が座る台座であった事を紹介したが、上記の記事がそれを裏付けている。

21:足利義満の急死

1408年(応永15年)4月28日:

足利義嗣の元服の儀式が終わった僅か3日後に足利義満が発病した。最初は風邪と伝えられた。公家の山科教言(生:1328年・没1411年)が残した“教言卿記(のりとききょうき)“に、山科教言が北山第へ出仕したところ、義満の咳が少し酷いので、本日の対面は中止である旨を知らされたとある。義満の咳は翌日には少し治まり、周囲を安堵させた。

同年 5月1日:症状が一転、悪化して容態は重篤となり、様々な祈祷が行われた。

同年 5月4日:病は急性肺炎に移行し、危篤に陥る。

同年 5月6日:夕方死亡、余りにも唐突な死であった。享年51歳

発病から10日も経たずに急死した足利義満の遺骸は5月10日に“等持院”で荼毘に付された。

21-(1):足利義満暗殺説の否定

21-(1)-①:皇位簒奪の意図を“北山殿義満”は持たなかった

作家の海音寺潮五郎、井沢元彦氏は“足利義満は皇位簒奪を阻止する為に暗殺された”との説を展開している。既述したが、義満は日本全体を敵に廻す可能性もあり、リスク大にして益の無い行為だとして“皇位簒奪”を図った形跡は無い。

足利義満は“生まれながらの将軍”であり、強烈な上昇思考の資質を発揮して“室町幕府第3代将軍”として“大業”を成し、室町幕府の最盛期を築いた人物である。開明的な思想を持ち、大陸に強い憧憬を抱き“南北朝合一”を成した後には、中国皇帝を中心とした“中華世界システム”の中の“日本”という“国家観”に基づく政治を推し進めた。

繰り返しとなるが、彼の“国家観”は、日本という“ローカルな天皇”よりも遥かに高い権威・権力を持つ、世界の中心としての“中国皇帝”の権威と結んで、世界に認められる“日本”に君臨する事であった。

“足利義満”の“皇位簒奪”を否定する最も強い根拠は、当時の記録に“足利義満の行為が皇位簒奪計画の一環である”とした史料が一切無い事であろう。

実質的に“公武”双方の実権を握り、しかも、明王朝“永楽帝”の権威もバックにして“北山殿義満”という新しい政治機構による“日本君臨”を果たした義満が、敢えて“皇位簒奪”という日本神話に挑戦する事に意味を見出さなかったというのが結論である。

21-(1)-②:暗殺説の否定

当時の記録に皇位簒奪を阻止するグループに拠る足利義満の暗殺を疑った記事も存在しない。足利義満の“公家化”は、義満の権力を利用する事で朝廷の政治的安定と経済的支援を得ようとした公家側にとっては寧ろ歓迎すべき事であったとする考えは定説化しており、それを裏付ける史実についても既述した通りである。こうしたあらゆる観点からの検証からも、上記両氏の“暗殺説”は説得力が無い。

22:相国寺訪問記:2016年12月15日&2018年1月11日

22-(1):“相国寺”が“室町幕府と隣接”していた事を示す2ケ所の“室町幕府跡石碑”

京都駅から“地下鉄烏丸線”の今出川駅で下車するか、市バスで“同志社前”で下車すると、そこが“相国寺”前である。京都御所の今出川御門前でもある。相次ぐ戦乱で室町幕府自体の遺構は何も残っていない。僅かに”従是東北足利将軍室町第址“と刻まれた小さな石碑が今出川通に面した烏丸通との交差点近くに立っている。

烏丸通との交差点を北に歩くと左側に“大聖寺(臨済宗系の門跡尼寺・開山は日野宣子・生:1325年・没:1382年)”があり、その境内に“花の御所”と刻まれた石碑が立ち、此の地も室町幕府跡の一角であった事を示している。“相国寺”は“室町幕府”のすぐ東側に隣接して建てられたと史料には書かれているが、この2ケ所の幕府跡石碑によってその事が確認出来る。



(今出川通りに面し、烏丸通りとの交差点近くに立つ室町幕府跡石碑)
(“大聖寺”境内に立つ“花の御所”と刻まれた室町幕府跡石碑)



22-(2):相国寺の今日の姿

相国(しょうこく)とは“国を治める”という意味であり、左大臣の位が“相国”と呼ばれており、相国寺は足利義満が左大臣の頃、後小松天皇の勅命で10年程を費やして1392年に完成した。

今日でも4万坪の規模であるが、創建当時の規模は132万坪と伝わり、東京ドーム90個分の壮大な敷地には50余の塔頭寺院があったとされる。

足利義満が1399年9月15日に完成式典に臨んだ記録が残っている。開山は夢窓国師(疎石)とされるが、彼は既に1351年に没して居り、事実上の開山は弟子で甥の“春屋妙葩(生:1312年・没:1388年)”である。

応仁の乱“をはじめ兵火に何度もあった為、諸堂宇(建物)は灰燼に帰し、焼失と復興の歴史を繰り返した“相国寺”は1605年に“豊臣秀頼”に拠って再建された法堂(はっとう)が1788年の“天明の大火“でも奇跡的に残り、日本最古の“法堂建築”として今日に伝わり、重要文化財に指定されている。法堂の天井の狩野光信によって描かれた“蟠龍図”は“鳴き龍”として有名である。

浴室、塔頭九院も“天明の大火“を逃れた建物との説明があった。その後“方丈(住持の居室)”や“庫裏(くり=寺の台所・住職や家族の居間)”も再建され、壮大だった旧観を復している。

“公武”双方の実権を握った足利義満が父・足利義詮の33回忌供養を名目に南北朝合一が成った翌月、1392年11月に建立を計画したのが既述した“相国寺大塔(七重大塔)”であった。

塔の高さが109mとされる当時としては巨大な建造物であったが、この塔も1403年(応永10年)に落雷で焼失したと大日本史料に書かれている。“相国寺大塔”の痕跡が無いか僧侶に訊ねたが“跡地は現在居住地になっており、残念乍ら史跡としては何も残っていない“との事であった。



(相国寺:1399年に足利義満が完成式典に臨んでいる)
(1605年に“豊臣秀頼”に拠って再建された重要文化財の法堂)


22-(3):足利義政・藤原定家・伊藤若冲の墓地

法堂の西側、見学者も殆ど気付かない場所に小さな墓地があり、そこに3つの小さな墓が並んでいる。

左側が小倉百人一首の撰者として名高い“藤原定家(生:1162年・没:1241年)の墓で、真ん中の一番小さな墓が室町幕府・第8代将軍・足利義政(生:1436年・没:1490年)のものであり、右側の墓が今日注目を浴びている江戸時代中期の絵師“伊藤若冲(生:1716年・没:1800年)“の墓である。尚、初代将軍・足利尊氏の墓所は“等持院”そして第2代将軍・足利義詮の墓所は“宝筐院”にある。




(“宝筐院”2018年1月訪問) 
“宝筐院”については6-12項で紹介したが足利義詮が憧憬する“楠木正行(小楠公)”の首塚の隣に自分の墓を作る様に遺言したと伝わる。左側が足利義詮の墓で右が“楠木正行”の首塚である。“宝筐院”の名は平安時代に白河天皇(生:1053年・崩御:1129年)によって建てられた“善入寺”を義詮の院号に因んで改めたものである。


第3代将軍・足利義満の墓所に就いては“相国寺鹿苑院”に葬られたとの記録があるが“応仁の乱”で京都は焼け野原になっており、旧相国寺の境内にあったとされる“鹿苑院”の場所が今日現在(2018年4月)特定されていない。

同志社大学による発掘調査で仏堂跡と見られる礎石が発見されたが、未だこれが足利義満の墓所だと確定した訳では無い。

0 件のコメント:

コメントを投稿