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2025年9月24日水曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代と院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
6-24項:“本能寺の変”へのプロローグ期間の“織田信長”・・“不器用すぎた天下人・織田信長”の家臣、外様家臣、従属的同盟者への拙い人間扱いが“本能寺の変”への規定路線を敷いた


プロローグ

前項では“織田信長”が1575年(天正3年)11月に“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”から“従三位・権大納言”の叙位、並びに“右近衛大将”の昇任を得“権威”を纏(まとう)ったその後から”織田信長“は、一層、不退転の覚悟で”全国統一”事業を進め始めた状況を記述した。

其の中には、1577年(天正5年)9月23日の“手取川の戦い”で“上杉謙信”軍に大敗したが幸運にも1578年(天正6年)3月13日に“軍神・義の武将・毘沙門天の化身”と称され“戦国最強の戦国大名・上杉謙信”が急死するという“織田信長”にとってはラッキーな事態が生じた。

この事は“足利義昭”にとっては、彼が主唱する“第3次・織田信長包囲網”の中心に据えるべき有力武将が“武田信玄”に続き、又もやこの世を去るという不運な事態であった。この結果“足利義昭”にとって残る頼みの武将は“毛利輝元”だけと成ったのである。

この項で一つ目の主題は“織田信長”にとって残る一人と成った“最強戦国大名・毛利氏”の動き、そして“毛利氏”と同盟し“山陽地区進出”への多大な貢献をした“宇喜多直家”そして彼の台頭、並びに“備前”(岡山県の一部、香川県の一部)地域で戦われた戦闘に就いてである。

“宇喜多直家”は“毛利氏”に徹底して敵対した“浦上宗景”の被官?従属的同盟者?という立場であった。前項6-23項では“宇喜多直家”がその“浦上宗景”を裏切り“青山・土器山の戦い”(1569年5月~6月)で敵方の“龍野城主・赤松政秀”方に与して戦い、結果は敗れたものの“赤松政秀”方を支援する“将軍足利義昭+織田信長”が背後に居た事に忖度した“浦上宗景”が“宇喜多直家”を罰する事は得策では無いとの判断から彼に“帰参”を許した。しかし“宇喜多直家”は再び“浦上宗景”に対し対抗を始める。“毛利氏”に従う事を決断した“宇喜多直家”は遂に“浦上宗景”を“天神山城の戦い”で敗り“備前国”から追い落とすという展開であった。

こうした“宇喜多直家”の動きは“江戸時代”以降の武士が“儒教思想”の浸透に拠って“武士は二君にまみえず”が忠義の基本であり、其れが“武士道”だと摺りこまれている我々には理解出来ない部分である。しかし“戦国時代”の武将達は“両属”(二人の主君に属する事)が当たり前の様に行なわれた事が数々の“寝返り”が起ったという史実から理解出来よう。

二つ目の主題が“宇喜多直家”の活躍もあって“東進”する“毛利氏”の一方で“天下人・織田信長”は“天下布武”の旗印の下“西進”策を進め“全国統一事業”を進めるが、内部で“家臣秩序編成”に無頓着であった為、矛盾を噴出させる。具体的には、次々と“家臣”そして“外様家臣”そして“従属的同盟者”からの離反が起る。結果“織田信長”は“謀叛”による“戦闘”に見舞われるのである。

“不器用すぎた天下人・織田信長”(金子拓氏著)は“家臣”そして“外様家臣・従属的同盟者”に対する自尊心を打ち砕く様な言動、独善的扱いを重ね“織田信長”に対する信頼を失なわせ、将来不安を与える。“織田信長”が 持って生まれた性癖、欠陥とも言える“人間関係の不器用さ”に拠って、彼等からの“離反”そして“謀叛”の連鎖に見舞われる。この項の第2の主題は“織田政権の内部矛盾”が露呈した“政権内部の崩壊”に拠る“戦闘”に多大のエネルギーを費やす史実展開である。

具体的には①“松永久秀”に拠る“信貴山城の戦い”であり②“別所長治”に拠る“三木合戦”そして、それと呼応して起こった③“荒木村重”による“有岡城の戦い~尼崎城の戦い~花隈城の戦い”と続く“織田政権内部の戦闘”を記述して行く事になる。

これ等の“織田政権内部の戦闘”が連鎖した背景には“足利義昭”が主唱した“第3次織田信長包囲網”の中軸と成った“毛利氏”の存在が当然あった。“家臣・外様家臣”そして“従属的同盟者”にとって人間関係が不器用で信頼性に欠け、将来不安を与える“織田信長”と比較し“毛利氏”へ寝返るという“選択肢”が存在したからである。

“毛利氏”と“織田信長”軍との間の直接の戦闘は,1576年5月に両者の“同盟”が破棄された直後から開始される。1576年7月13日の“第1次・木津川口の戦い”が緒戦であり、1577年11月の“第1次・上月城の戦い”で“織田方”が“毛利氏”の東進を阻むと“三木合戦”が勃発し(1578年3月)、この勃発に乗じて“毛利軍”は大軍で“上月城奪還”に臨む。“第2次上月城の戦い”(1578年4月~7月)である。この間の“毛利軍”の攻勢は“織田信長”への不満、不信、そして将来不安を抱く“家臣・外様家臣・従属的同盟者”に“毛利方”に付いた方が将来、より良い“受け皿”に成る、との見方を与え、結果、次々と“織田政権”からの“離反”そして”謀叛“が起こったのである。

更に“織田信長”は“四国の雄・長宗我部元親”に“四国制圧”の朱印状を与えた。“長宗我部元親”は“織田信長”と同盟する形で四国制覇に動いた。彼の立場も“従属的同盟者”であった。“長宗我部元親”との歴史上の絡み、戦闘、等に就いては次項6-25項で記述する。“長宗我部元親”も結果的に、この項の一つ目の主題”不器用すぎた天下人、織田信長“の“家臣、外様家臣、従属的同盟者“に対して”自尊心を打ち砕く様な言動“そして”独善的で扱い“を受けた一人として”織田信長“に抗う事に成るのである。

”織田信長“は1582年(天正10年)6月2日に“明智光秀”に拠って“本能寺の変”で討たれるが、その原因に関する諸説の中で、今日最有力説とされるのが上記した“四国の雄・長宗我部元親”に対する”独善的で自尊心を打ち砕く扱い“の結果が背景と成ったとの説である。

詳細は次項で記述するが”織田信長“は“四国の儀は(長宗我部)元親手柄次第”だとの朱印状を与えたものの、それを反故にする。この事は“長宗我部元親”との間に立って仲介役を果たしていた“明智光秀”並びに“明智家家臣・斎藤利三(徳川家光の乳母春日局の父親)”の立場を著しく損なわせ“織田信長”への信頼を失わせた。“明智光秀”はこの項で記す諸事件で見た“織田信長”の“家臣、外様家臣、従属的同盟者“に対する冷酷な対応から、果たして”織田信長“に付き従う事が己の将来にとって安全なのか、に就いての”将来不安“から“本能寺の変”を決断する事へとと繋がるのである。

以上が今項(6-24項)の概要である。理解の助に以下の表に以上の歴史展開を纏めたので参照願いたい。

表中A~Mは“織田信長”が“本能寺の変”で討たれる原因となったと思われる事項、又は遠因となったと思われる事項である。そして⑤~⑭は“織田信長”が“全国統一事業”に向かって戦った戦闘の数々である。前項6-23項で記した戦闘とは異なり、その多くが“不器用すぎた天下人・織田信長”が“家臣”或いは“外様家臣”更には“従属的同盟者”に対して“自尊心を打ち砕く様な言動”そして“独善的な扱い”を重ねた結果、彼らの信頼を失わせ、結果“離反”と成り”謀叛“の戦闘に至ったケースが多かった事を理解頂けよう。

6-24項に関する史実を総括した暦年表

A 1574年(天正2年)4月~1575年(天正3年)9月:
“毛利氏”に敵対し続け“織田信長”に与した“浦上宗景”が天神山城の戦いで“毛利氏+宇喜多直家“連合軍に敗れ備前国を追われる
B 1575年(天正3年)7月:
“長宗我部元親”が“土佐国”を統一する“織田信長”は“長宗我部元親”に“四国の儀は元親手柄次第”との朱印状を与える
C 1575年(天正3年)11月:
“織田信長”が“足利義昭”と同格と成る“従三位権大納言・右近衛大将”に“正親町天皇”からの叙任、昇任を受ける
D 1576年(天正4年):
“織田信長”からの朱印状を基に“長宗我部元親”は“阿波国への侵攻を本格化させる
E 1576年(天正4年)1月~:
“安土桃山城”築城開始・・天守閣完成は1579年5月である
F 1576年(天正4年)10月26日:
“織田信長”が“長宗我部元親”の“嫡男・弥三郎”に“信親”との偏諱を与える
G 1576年(天正4年)11月28日:
嫡男“織田信忠”に家督、並びに“岐阜城”を譲り自身は未完成の“安土城”に移る

*①1576年4月(天王寺砦の戦い)②1576年7月(第一次木津川口の戦い)③1577年2月~3月(紀州征伐)④1577年9月(手取川の戦い)の戦闘に就いては6-23項で記述済み

⑤ 1577年(天正5年)10月5日~10月10日:“信貴山城の戦い”で“松永久秀”を討つ
⑥ 1577年(天正5年)11月:第1次“上月城の戦い”で“毛利方・赤松政範”を“羽柴秀吉”軍が討ち“上月城”を奪う
⑦ 1578年3月~同年7月:三木合戦・有岡城の戦い勃発(別所長治・荒木村重)
⑧ 1578年(天正6年)4月18日~7月3日:
第2次“上月城の戦い”で“毛利氏”が“上月城”を奪還し“山中鹿之助”等が討たれ“尼子再興運動”が終焉と成る
⑨ 1578年11月6日:
第2次“木津川口の戦い”・・“織田水軍”が“毛利水軍”に勝利し“大坂(石山)本願寺”にとって致命傷と成る
H 1579年(天正7年)10月頃(6月頃?説):
宇喜多直家 が“毛利氏”から寝返り“織田信長”に臣従する(宇喜多直家は1581年11月~1582年1月の間に没する)

I 1579年(天正7年)10月:
“織田信長”が“丹波国”を平定した“明智光秀“ に”丹波・丹後“両国を与える
⑩1580年閏3月~8月2日:
本願寺法主・顕如が“和睦”に応じ石山合戦が終息(閏3月勅命講和)石山 が織田信長のものと成る(8月2日)

J 1580年10月:
佐久間信盛父子を追放、彼の地位“近畿管領”に“明智光秀”を昇進させる
この事が明智光秀に拠る京都本能寺襲撃を容易にさせた

⑪1580年3月1日:
加賀一向一揆平定・・92年間に亘った一揆持ちの国 加賀国が消滅する(柴田勝家と佐久間盛政)
⑫ 1581年(天正9年)3月~10月25日:“第2次・鳥取城籠城戦”
・・吉川経家自刃
 
K 1581年後半に“織田信長”と“長宗我部元親” が決裂。1582年早々から“織田信長”は“長宗我部元親”討伐を開始する

⑬ 1582年2月3日~3月11日:甲州征伐・・武田勝頼が自刃、甲斐武田氏滅亡
 
L 1582年(天正10年)5月7日:
3男“織田信孝”に“四国国分令”を出し“長宗我部氏” の既得権益を全否定する
⑭ 1582年5月29日:“織田信孝”率いる“四国方面軍”が14,000兵で“四国占領”の為“堺”の北“住吉”に着陣、6月2日 に四国へ出航予定であった

M 1582年(天正10年)6月2日 :“本能寺の変”で“織田信長”が“明智光秀”に急襲され自刃


1:“東進”する“毛利氏”そして“西進”する“織田信長”にとって“火薬庫”状態であった“山陽地域”の状況

1-(1):“播磨国”の歴史と“赤松氏”に対する“浦上氏”の下剋上

1-(1)-①:“播磨国”の“守護・赤松家“の再興

山陽道の入り口に当たる“播磨国”(兵庫県の一部)は室町時代を通じて“赤松氏”が守護職を務めていた。“赤松氏”は“嘉吉の乱”(1441年6月~9月)で“第6代室町幕府将軍・足利義教”を“赤松満祐”(生:1381年・没:1441年9月10日)が殺害するという大事件(6-15項34を参照方)を起こした為“幕府軍・山名持豊”軍(=山名宗全)の追討にあい、敗れ“赤松満祐”は“城山城”(きのやまじょう・兵庫県たつの市にあった山城)で自害して果てた。

旧赤松領は①“播磨国守護職”に任じられた“山名持豊(宗全)”②“備前国守護職”に任じられた“山名教之”③“美作国守護職“に任じられた”山名教清“の”山名氏一族“の領国として分割された。(6-15項44-1参照方)

その後、領国を失った“赤松家旧臣”達は“主家再興”を悲願として動き“後南朝一派”が”禁闕の変“(1443年9月23日)を起こして奪い去った”天皇家・神璽“を15年振りに奪還するという大勲功を挙げ(=長禄の変・1458年/長禄2年8月30日に神璽は無事、朝廷に返還された)幕府から”赤松政則“(生:1455年・没:1496年)は“第9代・赤松家当主”として認められ、悲願の”赤松家再興“が成った。

”赤松政則“には”加賀北半国“の守護職、並びに“備前国新田荘”そして“伊勢国高宮保”が与えられるという形での“赤松家復活”であった。(6-16項11を再度確認願いたい)

この時の当主“赤松政則”(生:1455年・没:1496年)は僅か3歳であったが、その後“応仁の乱”(1467年~1477年)で“細川勝元”に与して軍功を挙げた。そして、1488年(長享2年)“室町幕府第9代将軍・足利義尚”期(1473年~1489年)に“山名政豊”を“坂本城の戦い”で敗り”山名氏“の勢力を”播磨国“から駆逐して”播磨、美作、備前“の守護大名と成り、中央政界でも影響力を高め、1496年には“足利一門”以外ではそれ迄例の無かった“従三位”に叙位される等の実績に拠り“赤松政則”は“赤松家中興の祖”と称されたのである。

=メモ=
この時期,1488年の6月に“加賀国”では“一向一揆”が“加賀国・高尾城”を攻め“富樫政親”を自害させるという大事件が起き(長享の一揆)、以後“加賀国”は“百姓の持ちたる国“として1582年3月6日”織田軍“(佐久間盛政)に拠って滅ぼされる迄、94年間に亘って続くという歴史展開があった時期に当る


しかし“播磨・美作・備前”の守護家と成った“赤松家”の実態は不安定であった。その理由が“赤松政則”が当主に成った時、僅か満3歳の幼児であった為、家政の大半が“赤松政則”の養育担当を兼務する“重臣・浦上則宗”(生:1429年・没:1502年)の手に握られた事であった。

そして“赤松政則”が1496年に病没すると後継には“養嗣子”の“赤松義村”が成ったが,依然“浦上則宗”が実権を握るという形が続いたのである。

1-(1)-②:“赤松政則”病没後の“守護代・浦上家”の専横

1496年(明応5年)4月~1521年(大永元年)9月:

上記の様に“赤松政則”期に隆盛を迎えたが“赤松政則”が1496年4月に病気の為急逝した事で“守護代・浦上家”の専横が強まる。“浦上則宗”の力が主家を凌ぐ程に成るのである。

幼少で婿養子の“赤松義村”(生年不詳・没:1521年9月)を後継者に据えたが、守護代の“浦上則宗”が“赤松家”の実権を握り続けた。“浦上氏”は“浦上則宗”の実子?(孫との説もある)“浦上村宗”(生:1498年・没:1531年)の代には更に勢力を増し“赤松義村”を殺害したとの説もある。(1521年9月)

何れにせよ、嫡子の“赤松晴政”(播磨、備前、美作守護・生:1495年/1513年説?/・没:1565年1月)に家督を譲らせ、以後”赤松晴政“は”浦上村宗“の傀儡として実権を持つ”守護代・浦上村宗“が戦国大名化し、勢力を伸ばして行く。

この様に“下剋上”の波に巻き込まれた“守護・赤松家”は16世紀後半には“浦上氏”の陰で全く名ばかりの存在と成った。しかし“播磨国”では後述する“浦上兄弟”の分裂があり“別所氏”が実力を蓄え勢力を伸ばして行く。

1-(1)-③:“播磨・美作・備前”の“実質的支配者”と成った”浦上村宗“が戦死し、その後を継いだ長子”浦上政宗“と弟”浦上宗景“が対立、分裂する

”浦上村宗“に拠って実質的に支配された”播磨国・美作国・備前国“であったが“大物崩れ”(天王寺の戦い、天王寺崩れとも称される1531年6月4日に赤松政祐・細川晴元・三好元長連合軍が細川高国・浦上村宗連合軍を壊滅させた戦い・6-19項の39を参照方)で“浦上村宗”が戦死した。

その後、本家を継いだのは”嫡子・浦上政宗“であったが、次男の”浦上宗景“と”尼子氏“への対応を巡って対立した。弟の”浦上宗景“は”播磨国・赤松氏”から完全に独立し“備前国”へ移り“毛利元就”に属すという分裂を起こしたのである。

この兄弟の対立状態は10年に及んだが、その後”兄・浦上政宗“は1563年(永禄6年・この年松平元康が松平家康に改名している)に“弟・浦上宗景”と和睦し“播磨国・小寺職隆”(=黒田職隆・こでらもとたか・黒田官兵衛の父親・生:1524年・没:1585年)と縁組して再起を図った。

その翌年、1564年1月11日に”兄・浦上政宗“の息子“浦上清宗”(生年不詳・没:1564年1月11日)と“小寺(黒田)職隆”の“娘”の婚礼当日の夜に“赤松政秀”(生:1510年?・没:1570年・赤松晴政が奇襲したとの説もある)は”兄・浦上政宗“並びにその息子“浦上清宗“を奇襲し、両者が討ち取られるという事件が起こった。

しかし、5年後の1569年5月~6月の“青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)で”姫路城城主(城代説もある)黒田職隆“(小寺職隆とも称す)の息子”黒田孝高“(後の黒田官兵衛)の活躍で”赤松政秀“は仇を討たれる形で敗れ、降伏し”西播磨“の覇権も失い凋落した。(別掲図・織田信長が毛利氏との同盟破綻に至った山陽地域勢力図を参照方)

その後”赤松政秀“は翌年、1570年(元亀元年)11月12日に”浦上宗景“の手の者に拠って”毒殺“された。”浦上宗景”が兄“浦上政宗”と甥の“浦上清宗”の仇を討った事でもある。

こうした経緯から“播磨国・赤松氏”は、16世紀後半には名ばかりの存在と成って居り、1573年(天正元年)頃の“播磨国”の実力者は①別所長治②小寺政識③龍野赤松氏、赤松広秀(斎村政広・赤松広通とも称す・後に但馬国竹田城主となる・1575年10月20日に別所長治、小寺政職と共に上洛して織田信長に謁見している・生:1562年・没:1600年)の3人と成った。

下記に“播磨国・美作国・備前国”の位置関係、並びにその簡単な歴史を記した“別掲図・織田信長が毛利氏との同盟破綻に至った山陽地域勢力図”を挿入して置く。理解の助に参照されたい。


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1-(2):当時“播磨国”で勢力を持っていた地域武将

”播磨国“(兵庫県の一部・兵庫県南西部で現在の姫路市・明石市・相生市・加古川市・三木市・高砂市・小野市・龍野市・西脇市・赤穂郡・等)に於ける勢力者は①“三木城主・別所長治”並びに②“姫路城主・小寺政識”③そして“守護家一族”で“龍野城”の“赤松広英”(生:1562年・没:1600年)を挙げる説があるが“龍野城”は1569年に父“赤松政秀”が“浦上宗景”に降伏し、翌1570年11月に没した為(一説には浦上宗景の手の者に毒殺されたとの説もある)当時僅か8歳の“赤松広英”が跡を継いだばかりであるから、実力者の一人とする説には説得力が無い。

従って“別所氏”か“小寺氏”のどちらか?という事に成るが、結論として“播磨国”に於けるNO.1の実力者は”播磨東八郡の守護“と評される程の実力を持っていた“別所長治“と考えるべきであろう。それを裏付ける史実として”織田信長“が”三木城主・別所長治“に、彼の支配領域に保証を与えていた記録がある。

1-(3):“備前国”そして“美作国”並びに“但馬国”3ケ国の実力者

1-(3)-①:“備前国“(岡山県、香川県の一部)の実力者・・”浦上宗景“

“備前国“は東隣の”播磨国“を本拠とする”赤松氏“が”守護職“ではあったが、上記の様に実態としては”天神山城“(1554年浦上宗景が築城)を本拠とする”守護代・浦上宗景“が実力者であった。”浦上氏“に就いては”織田信長“との関係等、後述する。

1-(3)-②:“美作国”の実力者・・“三浦貞広”

古代から歴史上一貫して安定勢力が出現せず“南北朝時代”の動乱期から“戦国時代”が終焉する迄①山名氏②赤松氏③尼子氏④浦上氏⑤毛利氏⑥宇喜多氏等、周辺の大勢力の草刈場と成っていたのが“美作国”である。

常に①~⑥の勢力争いの浮沈に巻き込まれた地域であったが“浦上宗景“と”反毛利“という点で協調関係にあった”三浦貞広“(生没年不詳・美作勝山城=高田城の城主)がこの地域で勢力を保つていたとするのが当時の実態と考えられる。

1-(3)-③:“但馬国“の実力者・・”織田信長?“

”但馬国“(兵庫県の一部・豊岡市・養父市・美方郡)では”山名韶熙(やまなあきひろ・山名政豊=山名宗全の後継者で山城、安芸、但馬、備後国の守護で 生:1441年・没:1499年の孫で、山名致豊=やまなむねとよ・但馬・備後守護で生:1468年・没:1536年の二男で生年不詳・没:1580年5月)が実力者とする説がある。

しかし“織田信長”は1569年には“木下秀吉”(羽柴秀吉に改名するのは1573年7月20日)に命じて同国内の“生野銀山”を支配するに至っている。“織田信長”が“足利義昭”を奉じて上洛に動いたのは1568年9月7日であり“足利義昭”を将軍に就けたのは、同年10月18日である。こうした展開を考えると、実質的に“但馬国”に力を及ぼしていたのは“生野銀山”の支配をした“織田信長”であろうと考えられる。

“天下布武”の旗印(この朱印を使い始めるのは1567年11月以降)の下“織田信長”は “全国統一”を決断し、その実現の為には“財力確保”が必要と見越して“生野銀山”の支配を強行したと考えられる。因みに“織田信長”が“天下人の城・安土城”の築城を開始するのは1575年11月に従三位、右近衛大将を朝廷から得て、自他共に“天下人”と認められた直後の1576年1月~である。上記“生野銀山支配”から実に7年後の事である。

“全国統一事業”実現の為には先立つ物の確保に早々と動いた“織田信長”の他の戦国
大名達との比較に於ける先見性、並びに“現実重視の姿勢”が抜きん出ている事を裏付
ける史実である。

2:既に“播磨国・備前国・但馬国”にも及んでいた“織田信長”の威勢

1575年(天正3年)10月20日:

上記“播磨国”の①“別所長治・小寺政識・赤松広英”の3人、並びに上記②“備前国”の実力者“天神山城城主・浦上宗景”そして③“但馬国守護・山名韶熙”の計5人が、揃って当時、在京していた“織田信長”を訪ね謁見した記録が残る。この中では“但馬国守護・山名韶熙”は“織田信長”に従うポーズを見せる一方で“毛利氏”とも結び、戦国時代に良く見られた“両属”という状態であった。

この史実からも“織田信長”は1573年(天正元年)7月に“将軍・足利義昭”との“槙島城の戦い“で勝利し“京”から追い出し、2年後の1575年の7月頃には“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”から、ほゞ“足利義昭に代わる天下人”としてのお墨付きを得ていた事が分かる。そして、1575年11月には“従三位権大納言”の叙位、並びに“右近衛大将”への昇任を果していた。こうした史実からも“織田信長”の威勢は絶対であり、従って“織田信長”の威勢を借りる様に、上記“5人の有力武将達”が,1575年(天正3年)10月20日に揃って“織田信長”に謁見したと考えられる。

“播磨国・備前国・但馬国”3国の実力者の名を挙げたが“織田信長”の勢力が、この
3国に迄及んでいたと、この史実から考えてもよかろう。

3:“織田信長”が“備前国守護代・浦上宗景”に未だ征服をした訳でも無い“備前・播磨・美作”3ケ国の支配を認める朱印状を与えた事が、この地域を紛争の火薬庫とする原因と成った

3-(1):“備前守護代・浦上宗景”と“別所長治”の和解をさせる為の仲介役を果たした“織田信長”

1573年(天正元年)12月:

“備前国”の実力者で“備前国守護代・浦上宗景”は既述の様に支配状況が曖昧だった“備前国守護・赤松家”を下剋上で実質的に傀儡下に置いていた。そして“播磨国”の実力者である“別所氏”(家督は1570年に当時12歳の別所長治に引き継がれていた/生:1558年・没:1580年)と敵対関係にあったのである。

1573年12月には“浦上宗景“が”別所長治“の“三木城”を攻撃した事が記録に残っている。“浦上宗景”と“織田信長”との関係は“織田信長”の威勢がこの地域にも及んでいたと考えられ“浦上宗景”は“織田信長”の“従属的同盟者”の立場にあった可能性がある。

“播磨国”に於ける“別所長治”と“浦上宗景”の関係を修復すべく“織田信長”は“別所長治”に命じて1573年12月(天正元年)に“浦上宗景”との間の“和睦”を成立させたのである。

3-(2):“浦上宗景”と“別所長治”との“和睦成立”を成した際“織田信長”は“浦上宗景”に“備前国・播磨国・美作国”3ケ国の支配権を認める“朱印状”を与えた

既述の様に、実質的に“播磨・備前・但馬”3国に威勢を及ぼしていた“織田信長”は“播磨国”NO.1の実力者“別所長治”には、彼の支配領域に保証を与えたという記事がある。一方で“浦上宗景”に上記した“備前・播磨・美作”3国の支配権を与える“朱印状”を下した事が“山陽地域”に於ける、各武将間の“領国境界問題”を争う火種と成ったのである。

3-(2)―①:“槙島城の戦い”(1573年7月)で“室町幕府”を倒した直後の織田信長”の鼻息

1573年(天正元年)12月:

“織田信長”は“備前国”の実権を実質的に握っていた“浦上宗景”に“備前・播磨・美作”3国の支配権を認める朱印状を与えた

1573年~1574年(天正元年~天正2年)の“播磨国”の勢力図は1573年7月に“織田信長”が“将軍・足利義昭”を“槙島城の戦い”で敗り“京”から追い出し、日本史の上では“室町幕府“を崩壊させ、そして彼が実質的に天下人と成った”織田信長政権“のスタートの時であった。そしてこの時期に”織田信長“は”浦上宗景“に上記”朱印状“を与えた。

”織田信長“は、翌1574年9月には“長島一向一揆殲滅戦“を戦い、勝利し、更に1575年5月には“武田勝頼”を“長篠の戦い”(1575年5月21日)で敗り、更に同年8月には“越前一向一揆”を鎮圧し、愈々“軍神・義の武将・毘沙門天の化身”と称された“戦国最強武将の一人・上杉謙信”との“領国境目問題”の戦闘を覚悟し“北陸地域”まで“全国統一事業”を進めるという段階に至るという勢力拡大の時期であった。(1577年9月の手取川の戦いで柴田勝家軍が大敗した事は前項6-23項33~で記述した)

但し“織田信長”が本格的に“天下人”としての自覚を持って、より強力に動き出すのは既述の様に1575年11月4日~7日に“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”から“従三位権大納言“への叙位、並びに”右近衛大将“への昇任を得て以降である。

3-(2)-②:“毛利氏”との“同盟”関係に大きな亀裂を生んだ“浦上宗景”への朱印状

1573年(天正元年)12月:

未だ“織田信長”が征服もしていない“備前・播磨・美作”3国に対する支配権を“浦上宗景”に認める“朱印状”を与えた事は、当然の結果として“浦上宗景”に対する反感を生み、この地域の実力者を巻き込む“火薬庫”と成った。

この状況変化は、この地域への“東進”を図っていた“毛利氏”にとっても“領国境界問題”であり“織田信長”と“毛利氏”の間の“同盟関係”の維持を危うくするものと成る。結果的に両者の同盟関係は1576年(天正4年)5月迄は維持され、両者が直接対決する事は無かった。しかし実態は“浦上宗景”が“織田信長”の代理戦争を担う形と成った。

3-(2)-③:“織田”と“毛利”の代理戦争であった“備中兵乱”と“天神山城の戦い”

“浦上宗景”に与した“反毛利”の“備中松山城・三村元親”が“備中兵乱”(1574年末~1575年5月)を戦い“美作高田城・三浦貞広”は“浦上宗景”と共に“毛利氏+宇喜多直家“連合軍と“天神山城の戦い”(1574年4月~1575年9月)を戦い、敗れ、滅ぼされるという結果と成った。

詳細は後述するが“備中兵乱”(自1574年末至1575年5月)と“天神山城の戦い”(自1574年4月至1575年9月)で“備中松山城主・三村元親”並びに“美作高田城主・三浦貞広”更には“備前・天神山城・浦上宗景”の三者が滅ぼされ、勝利した“毛利氏”そして“宇喜多直家”がこの地域に於ける勢力を伸長させるという結果と成る。

3者の中“備中兵乱”を戦った“備中松山城・三村元親”は“備中松山城陥落”(1575年5月22日)後の1575年6月2日に自刃し“美作高田城・三浦貞広”は“浦上宗景”と共に“天神山城の戦い”を戦い、敗れたが“毛利方・宇喜多直家”の周旋に拠り、降伏した事で命だけは助かり、後の“羽柴秀吉の備中高松城の水攻め”で知られる“備中高松合戦”に参陣した記録が残る。そしてその後“播磨国・林田”で病死した事が“高田城主次第”に記録されている。

“浦上宗景”は“天神山城の戦い”で敗れた後に“宇喜多直家”軍の包囲をかい潜り“播磨・小寺政職“の元へ逃げ(1575年9月)その後”同盟”しながらも“浦上宗景”を支援する事が出来なかった”織田信長“が”荒木村重“に命じて彼を庇護させた事が伝わる。

この様に“織田信長”が“反毛利”の急先鋒である“浦上宗景”の後ろ盾になった事で“浦上宗景”が“毛利氏”との上記した代理戦争を戦う事に成った。“毛利氏”としては、この時点では未だ“織田信長”との“同盟関係”が保たれていた丈に、大きな衝撃であったと思われる。

しかし“織田・毛利”の“同盟関係維持”が困難になっていた事はこうした史実からも明らかである。

前項6-23項で添付した“別掲図:織田信長と毛利氏の同盟関係時代そして決裂”を再度下記に示す。注記⑥にある様に“毛利輝元”は1575年9月の段階で“織田信長”が敵に成った時を想定した書状を叔父の“穂井田元清”(毛利元就の四男・生:1551年・没:1597年)に送っている。“毛利氏”側では“織田方”と戦闘状態に突入した場合を仮定してのシュミレーションを行った会議が持たれていた事は既述の通りである。両者の“同盟関係”は、刻一刻と破綻の危機にあったのである。




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3-(3):“織田”と“毛利”の代理戦争を戦ったのは“織田”側の“浦上宗景”と“毛利”方の“宇喜多直家”だった

“浦上宗景”の被官?従属的同盟者?の立場にあった“宇喜多直家”は“織田信長”が“浦上宗景”に“備前国・播磨国・美作国”3ケ国の支配権を認める“朱印状”を与えた事に激しく対抗心を燃やした。

“宇喜多直家”が“浦上宗景”に対抗する手段として用いたのは“日本の特異性”である“血統信仰”であった。具体的には“浦上宗景”には“家系継承の正統性”が無い、という血統上の弱みを突き攻撃の大義としたのである。

3-(3)-①:“播磨国”の“御着城主・小寺政職”の許に預けられていた“浦上宗景”の兄“浦上政宗”の孫“浦上久松丸”こそが“浦上家の正統な継承者”だとして“浦上宗景”攻撃を開始した“宇喜多直家”

“足利義昭“を京から追放し、実質的に”天下人“としての勢いを増した”織田信長“と繋がり“織田信長“から“備前国・播磨国・美作国”3ケ国の支配権を認める“朱印状”を1573年(天正元年)12月に得た“浦上宗景”は“4ケ国”に跨る戦国大名としての勢力を伸ばしていた。旧主である“守護・赤松氏”を凌ぎ“守護職”に相当する実権(守護代)を持つに至っていた“浦上宗景”は“浦上氏”として隆盛の頂点に上り詰めていた。

しかし、先の”青山・土器山の戦い“(1569年5月~同年11月)で”浦上宗景“に反旗を翻し、敗れ謝罪した”被官?同盟者?“で”希代の策謀家・宇喜多直家”を罰すると”将軍足利義昭“に対抗すると思われる事を避ける為、罰しなかったばかりか、帰順(反逆心を改めて服従する事)を許した事が裏目に出た。許された“宇喜多直家”はその後も“浦上宗景”に屈する考えは全く無く、常に再び”浦上宗景“に対する離反行動に動くチャンスを窺うのである。

メモ:
“宇喜多直家”が何故“主君的立場・同盟者的立場”の“浦上宗景”にそれ程の敵意を抱いていたかに就いては“小説・宇喜多直家/秀吉が恐れた希代の謀将”の中で“著者・黒部亨氏”は“宇喜多直家の母親が浦上宗景によって不当に殺された”と記している。この事が史実であるとの裏付けを小説の中では言及していない。

希代の策謀家と称せられる“宇喜多直家”が用いた策は“日本の特異性”である“家系”継承の正統性、つまり日本に岩盤の様に根付く“血統信仰”に訴えるという策であった。具体的には“浦上宗景”は“浦上家”の嫡流では無い。其処を“大義名分”として“宇喜多直家”は“浦上宗景”の“兄・浦上政宗”の孫で“小寺城主・小寺政職”の許に預けられていた”浦上久松丸“(生:1567年・没:1575年)を”小寺政職“の許可を得た上で”彼こそが正統の浦上家当主だ!“として擁立、旗揚げし“浦上宗景”と対立したのである。

“浦上家”の嫡流としての“正統性”を持つ“浦上久松丸”を擁立した“宇喜多直家”の策がまんまと当り“備前国”並びに“美作国”に於いて“浦上宗景は浦上家の嫡流では無い”として離反が続いた。“嫡流当主・浦上久松丸”を擁立した“宇喜多直家“の策がまんまと当り、多くの武将達が”嫡流当主・浦上久松丸“の味方に加わったのである。加えて“浦上宗景”が不倶戴天の敵とした“毛利氏”までが“宇喜多直家”の旗揚げを支援したのである。

4:“毛利氏”を不倶戴天の敵として対抗して来た“浦上宗景”を“討伐”する為に“宇喜多直家”と共闘する事は“毛利氏”にとっても好都合であった。又“毛利氏の東進”の為にも“宇喜多直家”は役立つた

“備前国・浦上宗景”は前項でも記述した様に“反毛利”の“急先鋒”であった。従って”槙島城の戦い“(1573年7月)で”将軍・足利義昭“を”京“から追放し、事実上の”天下人“としての地歩を固めた“織田信長”が“西進”に役立つ武将として1573年(天正元年)12月“浦上宗景”に“備前国・播磨国・美作国”3ケ国の支配権を認める“朱印状”を与えた事は既述の通りである。

ここに“織田信長”が“浦上宗景”の後ろ盾と成り、一方の“毛利氏”は“浦上宗景討伐”の為に“宇喜多直家”を支援するという構図が出来上がり“同盟関係”にある“織田信長”と“毛利氏”が間接的に対立する関係と成ったのである。

しかし、別掲図“織田信長と毛利氏の同盟関係そして決裂“が示す様に”織田信長“と”毛利氏“との”通交・同盟関係”は、こうした構図が出来上がってから3年後の“1576年5月”迄、維持される。つまり“毛利氏”が“足利義昭”の“鞆“への”強行移座“(1576年2月)を受け入れ”第3次・織田信長包囲網“の中軸として参加する事を決断する迄は両者の”同盟関係“は維持されるのである。

しかしその間”毛利氏“と”織田信長“との”同盟関係”の維持が徐々に難しく成る事態が積み重なって行った。“毛利氏”が”宇喜多直家“を使って“浦上宗景潰し”を進めた“天神山城の戦い”(1574年4月~1575年9月)そして“備中松山城主・三村元親”を自刃に追い込んだ“備中兵乱”がそれである。結果“毛利氏”は“獅子身中の虫・浦上宗景”を追放する事に成功した。

4-(1):“血統信仰”に則り“浦上家”の嫡流である“浦上久松丸“を擁立し”浦上宗景打倒“に動いた“宇喜多直家”を“毛利氏”が支援した事で“宇喜多直家”に父親を謀殺された“備中松山城主・三村元親”を敵に回す事と成る

“三村元親”にとって“宇喜多直家”は“父・三村家親”の仇である。その“父の仇”を永い間、協力関係にあった“毛利氏”が支援する事を決断した事は“備中松山城主・三村家“として許す事は出来ず”毛利氏“からの離反を決断し“織田信長”と結ぶ展開と成った。

1573年(天正元年)12月~1574年(天正2年)11月:

“毛利氏”が支援する事を決めた(1574年)事は“毛利氏”と永年協力関係にあった”三村氏”にとっては大問題であり、結果“毛利氏”からの離反を決断し“織田信長“に与するという展開と成った。

こうした“浦上宗景”と“宇喜多直家”の対抗関係に“宇喜多直家”を父親の仇とする“三村元親”が絡む関係の背後には、同盟関係を結ぶ“織田信長”と“毛利輝元”が、間接的に対立関係、つまり“代理戦争”が行われるという構図と成った事を意味した。これ等の関係を理解の助に纏めたのが下記である。

織田信長:浦上宗景+三村元親(備中松山城主・1574年8月備中本領+備後一国を与えるとの織田信長方からの調落があった)+三浦貞広(美作国高田城城主・兄の三浦貞勝は三村家親の調略で切腹、貞勝の妻福が後に宇喜多直家の妻と成る/円融院/浦上宗景と宇喜多直家が対立すると浦上宗景方に付いた)

毛利輝元:宇喜多直家・・三村元親が毛利から離反した事で“毛利氏”と共に“備中兵乱”(自1574年/天正2年/11月~1575年/天正3年/5月)で“三村元親”を自刃させる


4-(1)-①:“毛利氏”を不倶戴天の敵とした“浦上宗景”が“織田信長”に与する事に成った経緯を改めて纏めると下記と成る。

①1554年(天文23年):
“浦上宗景”は“天神山城”(標高390mの天神山の西嶺山頂・岡山県和気郡和気町田土)を築城、本拠地とする“毛利氏”と対立する“九州・大友宗麟”とも同盟関係を結び、同じく“毛利氏”と対立した”尼子再興軍“を支援した

②1573年(天正元年)7月:
“織田信長”と“将軍足利義昭”が決定的な対立(6-22項ではその時期を異見17ケ条を織田信長が将軍・足利義昭に突き付けた1572年9月~12月末とした)関係と成り、その結果“織田信長”が“槙島城の戦い”(1573年7月)で勝利し“将軍・足利義昭”を“京”から追放した。この時点で“浦上宗景”は“織田信長”と組むという関係を築いた

③1573年(天正元年)12月:
“織田信長”は“別所長治”と“浦上宗景”との間の紛争の和解の仲裁役を担った。その際“織田信長”は“浦上宗景”に未だ征服していない“備前国・播磨国・美作国”3ケ国の支配権を認める“朱印状”を与えている

4-(2):“希代の謀将“と伝わる”宇喜多直家“が2度目の“浦上宗景”からの離反行動に出る

上記した様に“織田信長”は1573年(天正元年)12月に“浦上宗景”に“備前国・播磨国・美作国”3ケ国の支配権を認める“朱印状”を与えた。この事は“播磨国・東播磨”の“小寺政職”そして“播磨国”の最有力者であり“織田信長”に早くから従っていた“別所長治”からすれば“浦上宗景の臣下として扱われ兼ねない事態と成る事を意味した。“織田信長”の“浦上宗景”に与えた“朱印状”は“東播磨・小寺政職”並びに“播磨国”の最有力者“別所長治”が“備前国天神山城主・浦上宗景”との対立を鮮明にして行った。

4-(2)-①:“希代の謀将・宇喜多直家”が“浦上政宗の孫・浦上久松丸”こそが“浦上氏嫡流”だとして擁立し2度目の“浦上宗景”に対する戦闘つまり“浦上宗景打倒”の兵を挙げる。

“宇喜多直家”は”播磨国・小寺政職“(こでらまさもと・播磨国守護、赤松氏の重臣・御着城主・黒田官兵衛を厚遇した事で知られる・生:1529年・没:1584年)に預けられていた“浦上政宗”(浦上宗景の兄)の孫“浦上久松丸”こそが“浦上氏嫡流“であると主張、擁立し“浦上宗景討伐”の大義名分として“浦上宗景”に真っ向から対抗した。そして軍事面の不利をカバーすべく“浦上宗景”の不倶戴天の敵である“毛利氏”を味方に引き入れるという見事な策略を用いた。

メモ:ウインウインの関係にあった“浦上宗景”と“宇喜多直家”との期間、そして亀裂が生じ“戦闘”関係に成った両者の関係を総括する

WinWin関係期
前項6-23項の6~7で記述した様に“宇喜多直家”を活用して“三村氏”を没落させた“浦上宗景”は翌1568年(永禄11年)には“備前国”の名家“松田氏”を滅ぼし“備前国”のほゞ全域に加え“美作国・備中国・播磨国の一部“を含め”4ケ国”に跨る(またがる)大名へと勢力を伸ばした。

亀裂“浦上宗景”の下で勢力を拡大した“宇喜多直家”と両者の間の軋轢が拡大 
      
こうしたWinWinの関係は長くは続かなかった。“浦上宗景”の被官、従属的同盟者の立場であった“備前国沼城主・宇喜多直家”は“明善寺合戦”(1567年)で“三村元親”を返り討ちにして、武将としての名声を博し、勢力拡大の基盤を固め、更に天与の”謀略の才“を発揮して飛躍的に勢力を拡大して行った。こうした” 被官・従属的同盟者?・宇喜多直家“の勢力拡大を黙って見ていた“浦上宗景”では無かった。

戦闘関係に入る:第1回目の浦上宗景に対して宇喜多直家が起こした謀叛

当然の“宇喜多直家”の勢力拡大抑止策として、あれこれ制限を設けた事も既述の通りである。しかし両者共に策謀家であり、両者の間には軋轢が次第に拡大し、それを避ける事は出来ず、前項6-23項の6~7で記述した“宇喜多直家に拠る浦上宗景に対する第1回目の”離反~謀叛“である”青山・土器山の戦い”(1569年5月~6月/小寺政職家中記には8月9日と記録)が起きた

宇喜多直家の第1回目の戦闘(謀叛)の罪を問わなかった“浦上宗景”の判断ミスが更なる戦闘へと発展する

“将軍足利義昭+織田信長政権”側に属した”宇喜多直家“を第1回目の戦闘(謀叛=青山・土器山の戦い)の際に処罰は拙かろうと“宇喜多直家”を許し、帰参迄させたのは“浦上宗景”の判断ミスであった。

“宇喜多直家”の“浦上宗景”に対する第1回目の“離反”そして“謀叛”(青山・土器山の戦い)は失敗に終わった。前項6-23項9-(1)で記した様に“宇喜多直家”は言わば“将軍・足利義昭+織田信長”方に協力していた事から“浦上宗景”として“被官?従属的同盟者?“の”宇喜多直家”を厳罰に処する事は当時の“公儀・将軍足利義昭”並びに未だ“将軍足利義昭“と協力関係にあった”織田信長“に対し”敵対する意思在り”と見做される危険があった。

それを避ける為に“浦上宗景”は“宇喜多直家“を許したばかりか、帰参を許したのである。しかし乍ら”宇喜多直家“はこの時点で事実上”浦上宗景“から独立したとされる。“両雄相並び立たず”の格言の通り、その後も“浦上宗景”と“宇喜多直家”の関係が改善される事は無く“浦上宗景”から独立した“宇喜多直家”は5年後に2度目の“浦上宗景”への造反行動に出る。それが“天神山城の戦い“である。

5:“毛利方”に与した“宇喜多直家”は“毛利氏”と共に“備前天神山城主・浦上宗景” 並びに“備中松山城主・三村元親”に対して以下の2つの戦闘で勝利する

天神山城の戦い:自1574年(天正2年)4月18日・至1575年(天正3年9月)・・浦上宗景と三浦貞広を敗る

備中兵乱:自1574年(天正2年)11月~1575年(天正3年)5月
・・三村元親を自刃させる

5-(1):天神山城の戦い

5-(1)-①:“浦上家の嫡流”浦上久松丸“を擁立した“希代の謀将・備前国沼城主・宇喜多直家”は”浦上宗景“の”非正統性“を大義名分として”浦上宗景討伐”の旗上げをした

1574年(天正2年)3月:

“宇喜多直家”は“浦上家の嫡流・浦上久松丸“(生:1567年・没:1575年/1567年説もある)を擁立し”浦上宗景“は”浦上家“の”正統”では無いとして、それを大義名分として2度目の“浦上宗景”への謀叛行動を起こした。

第1回目の“浦上宗景”に対する“離反”に失敗したものの、厳罰を逃れたばかりか“浦上宗景”に帰参を許された“宇喜多直家”が2度目の“浦上宗景”への“謀叛行動”を起こしたのは“青山・土器山の戦い”(1569年5月~6月)から僅か5年後の事であった。

尚“宇喜多直家”は“浦上宗景“に対する2度目の離反行動に先立って“浦上宗景”と連携していた“美作国・高田城主・三浦貞広“方の”美作国衆“を調略し、味方に付ける事に成功していた。

5-(1)-②:“天神山城の戦い”の勃発

1574年(天正2年)4月18日~同年6月:

“備前国・鯛山”で“浦上宗景”軍と“宇喜多直家”軍との戦闘が開始された。緒戦は“宇喜多直家“軍が勝利を収めた事を“黄薇古簡集”(岡山藩士・斎藤一興が1793年/寛政5年/編纂した古文書集)が伝えている。

”浦上宗景“は当初”宇喜多直家“軍との戦闘を楽観視していた事が当時の書状等で明らかにされている。“希代の謀将・備前国沼城主・宇喜多直家”は”美作国“の”管納氏“並びに”沼本氏“等を寝返らせ“美作国”と“備前国”間の連絡路を差し押さえる事に成功し、1574年(天正2年)6月には“高尾山の合戦”で“浦上宗景”軍を敗っている。

1574年(天正2年)9月~10月:

敵方“宇喜多直家”軍が戦局を優位に展開している状況に、漸く危機感を強めた“浦上宗景”は対抗策を講じた。既述の様に“宇喜多直家”は“美作国”の“国人衆切り崩し策”に成功し、味方に付けていた。それを覆すべく“浦上宗景”は国人衆を引き留める策として“段銭”(銭納が原則であったが、臨時の支出が必要な時に地域を限定して臨時に課した税)や“兵粮料所”並びに“公用田”等を配下の国衆に与える等を行った。

これが奏功し“浦上宗景”軍は戦況を巻き返し1574年10月下旬の“美作豊田の戦い”並びに“備前・鳥取の戦い”で反撃に成功した。

こうして両軍の攻防が続き“浦上宗景”軍が拠点とする“天神山城”並びにその“支城群”を中心とする守りに入った事で”宇喜多直家“軍の当初の快進撃は止められ、戦いは”膠着状態“に入った。

尚この頃“浦上宗景”を支援する立場にあった“織田信長”は、1574年9月29日には“長島一向一揆殲滅戦”を戦っており、2万人以上の敵を焼き殺し、勝利を収めてはいるが(6-22項の37-5-③を参照方)“浦上宗景”方に支援の部隊を送る余裕は一切無かったのである。

5-(1)-③:“毛利輝元”が“宇喜多直家”への“支援”を明確にした事で“備中松山城主・三村元親”は“毛利氏”からの離反を決めた。この為“備中兵乱”が起り“三村元親”は自刃し“三村氏”は滅びた

“天神山城の戦い”が膠着状態に入った事で“宇喜多直家”は“小早川隆景”(毛利元就の三男・生:1533年・没:1597年)に支援依頼の書状を送っている。一方の“浦上宗景”も“吉川元春”(毛利元就の次男・生:1530年・没:1586年)に支援依頼の書状を送っている。

相対する両軍が夫々に“毛利両川”のトップに支援要請をしたのである。

1574年(天正2年)11月:

”宇喜多直家“そして”浦上宗景“両者からの支援依頼が来た事に対して“毛利家”家中では意見が真っ二つに分かれたという。

“吉川元春”(毛利元就次男・山陰地方担当・生:1530年・没:1586年)は“宇喜多直家は表裏の者であり、到底信用出来る相手では無い。宇喜多直家を支援する事は、歴代、忠孝を働いて来た三村家を蔑ろ(ないがしろ)にするものであり、義から外れる行いである“として”三村元親“と同盟する”浦上宗景“を支援すべきであると主張した。これに対して“小早川隆景”(毛利元就三男・生:1533年・没:1597年)並びに”安国寺恵瓊〝(あんこくじえけい・毛利氏に仕える臨済宗の僧で武将であり、又、外交僧・生:1539年・没:1600年10月1日)は“宇喜多直家”を支援すべきと主張した。

結果“当主・毛利輝元”(毛利元就の長男であった毛利隆元が病死した為、父を継ぎ第14代当主と成った・生:1553年2月4日・没:1625年4月27日)は”毛利家 “として“宇喜多直家支援”を決めた。

5-(1)-④:“毛利氏離脱”を決め“織田信長”陣営に属する事を決めた“三村元親”・・備中兵乱で滅ぶ

“毛利家”が“宇喜多直家支援”を決めた事は、父親“三村家親”を“宇喜多直家”に暗殺された“三村元親“にとっては許し難い事であり、猛反発した。そして“毛利氏”からの離反を決め“浦上宗景”が与する“織田信長“方陣営に入ったのである。こうした結果成立した“織田信長”陣営“毛利輝元”陣営の構成を再度下表に示す。

織田信長陣営浦上宗景+三村元親(1574年8月備中本領+備後一国を与えるとの調落)+三浦貞広(毛利氏から離反した三村元親を浦上氏との同盟に引き入れた)

毛利輝元陣営宇喜多直家・・三村元親が毛利から離反した事で3方を敵方に囲まれる形と成った宇喜多直家だったが、上記の様に“毛利”が“浦上宗景”と同盟した“三村元親”を討伐する為、軍を備中に送り込み“三村元親”を自刃に追い込んだ。(=備中兵乱:自1574年/天正2年/11月 至1575年/天正3年/5月)

5-(1)-⑤:“三村元親”が“毛利氏”から離反し“浦上宗景”に与する決断をする

既述の様に“三村元親”にとって“宇喜多直家“は”父・三村家親“を暗殺(1566年)した父親の仇であり、その敵討ちの為の戦”明善寺合戦“(1567年)でも返り討ちにされた悔しい経緯があり“不倶戴天の敵”であった。その“宇喜多直家”を“毛利氏“が支援する事を決めた以上“備中松山城主・三村元親”としては“毛利氏”からの離脱を決めざるを得なかったのである。

”三村家中“でも“毛利氏”から離脱し“浦上宗景”そしてその背後に居る“織田信長”と与する“三村元親”の決定に反対する意見もあった。叔父で“鶴首城城主・三村親成”(みむらちかしげ・生年不詳・没:1609年)等、一部重臣が反対したのである。しかし“三村元親”はそれらの反対を押し切って“毛利氏”からの離反を決断した。

5-(1)-⑥:永年協力関係にあった“三村氏”の討伐を決めた“毛利氏”

“浦上宗景“と”宇喜多直家“が”主従?間の”天神山城の戦い“を展開する中、両陣営の夫々から支援を頼まれた”毛利氏“であったが“宇喜多直家”を支援する決断をした。

この結果”三村元親“は”毛利氏“から“離反”し“浦上宗景”方に与した。この事は“三村元親”が“織田信長陣営“に属した事を意味し“毛利陣営”にとっては由々しき事態と考えられた。

5-(1)-⑦:“備中兵乱”へ

“毛利氏”は、結果的に“当主・毛利輝元”が“小早川隆景”の意見を採用し、長年毛利氏と協力関係にあった三村氏の討伐を決断し、8万の大軍で兵力で圧倒的に劣る”三村元親“軍を敗り”三村元親“を自刃に追い込んだ。これが”備中兵乱“である。

5-(1)-⑧:備中兵乱の纏め

年月日:1574年(天正2年)11月~1575年(天正3年)5月
場所:“備中松山城”他
結果:“毛利軍+宇喜多直家”連合軍が勝利し、戦国大名“備中・三村氏”が滅亡。“備中”の大半が“毛利氏”の領土と成り、共闘した“宇喜多直家”には“備中国”の南方の一部が与えられた


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5-(1)-⑨:開戦

“毛利”方から離反した“三村元親”に対して“毛利氏・小早川隆景”を大将とする8万の“三村元親討伐軍”が編成され“毛利本隊”による“備中侵攻”つまり“備中兵乱”の口火が切られた。

“毛利軍”は“三村元親”が要塞化した“本城・備中松山城攻め”を後回しにして、先ずは“支城群”(杠城・国吉城・美袋城・鬼身城等)を次々と陥落させて行く戦術をとった。

5-(1)-⑩:“三村元親”の最期と成った戦況

1574年(天正2年)11月~1575年(天正3年)1月29日:

“毛利・小早川隆景”は上記した様に“本城・備中松山城”を後回しにして、先ずは5つの支城を次々と落して行く戦術を採った。具体的には、先ず“備中松山城”に次ぐ規模の①“杠城”(別名楪城:ゆずりはじょう・岡山県新見市)を1574年11月に落し、同年12月23日には②“猿掛城”(さるかけじょう・岡山県倉敷市真備町妹と小田郡矢掛町横谷の間に存在した。築城年・平安末期・築城主:庄家長)そして1575年(天正3年)1月1日に③“国吉城”(高梁市上川町七地)を落し、更に1月20日には④“美袋城”(=大渡城・岡山県総社市美袋)を、続けて1月29日には⑤“鬼身城”(岡山県総社市山田)を落したのである。

1575年(天正3年)3月16日:“本城・備中松山城“への攻撃開始

“三村元親“方の支城を一通り陥落させた”毛利“軍は愈々“本城・備中松山城“攻撃に移り“松山城”を取り囲み、攻撃に移った。しかし“本城・備中松山城“の守りは固く”毛利方“に被害が出た為、力攻めを止め“持久戦”に切り替えた。

1575年(天正3年)4月:

“毛利軍”は“持久戦”の常套手段である“麦刈”を“備中国”から“美作国境”迄の広範囲に行った。この為、流石の要塞化された“本城・備中松山城“は孤立化した。

1575年(天正3年)5月22日:

孤立化に追い込まれた“備中・松山城”からは、たまらず“毛利方”に寝返る者が続いた。“城主・三村元親”は覚悟を決め“毛利”軍に遣いを出し切腹を願い出た。“城主・三村元親”の切腹が認められ、5月22日に“備中・松山城”は陥落した。

1575年(天正3年)6月2日:

“松連寺”(岡山県高梁市にある真言宗御室派の寺院・現在の寺は1657年/明暦3年/に備中松山城の砦の役割を兼ねて創建された)に於いて“三村元親”は自刃した。

“毛利”軍は“三村元親“自刃後も尚も“備中平定”の為“三村氏”所縁の諸城を掃討して行った。そして“三村氏一族“の最後の城”常山城“も陥落させ、ここに”戦国大名・備中三村氏“は滅亡し”備中兵乱”が終息したのである。

実は、後の歴史展開を見れば“備中兵乱”の数年後に“宇喜多直家”は“織田信長“方に寝返っている。上述した”吉川元春“が”そもそも宇喜多直家は表裏の者であり、到底信用できる相手では無い“との主張が的中していた事に成る。この段階で“三村元親”のバックアップをする立場にあった“織田信長”は未だ“毛利氏”との“通交・同盟関係“を継続中であり”三村元親“と”毛利・小早川隆景“との戦いに支援軍を送る動きは一切起こしていない。

その理由としては6-22項(39参照方)で記述した様に1574年~1575年に至る1年半の間に実に5連戦を戦う(①②第1次、第2次高屋城の戦い③長島一向一揆殲滅戦④長篠の戦い、最後の戦闘が⑤越前一向一揆殲滅戦・1575年8月15日~8月末であった)という超人的な過密スケジュールであり“三村元親”支援の軍事行動を起せる状況に無かったのである。

又、上記の様に“強国毛利氏“との間に”同盟“関係が維持されていたが、この段階では”毛利氏“との”同盟維持“を続ける事の方が得策であるとの判断から”備中兵乱“に支援軍を送る考えは無かったとする説もある。

同時並行的に“天神山城の戦い”で“宇喜多直家”の猛攻に晒された“浦上宗景”に対しても“織田信長”は支援の為の軍事行動を一切起こしていない。これも同じ理由からである。

“天神山城の戦い”で“毛利方・宇喜多直家”に攻められ、滅亡の危機にあった同盟者“浦上宗景”としては“備中兵乱”で苦戦していた“三村元親”の苦しい状況は知っていたが、自分も苦戦中であり、軍事支援を行うどころでは無かった。結果“備中松山城主・三村元親”は孤軍奮闘状態と成り、自刃に追い込まれたのである。

5-(1)-⑪:軍事支援を送る事が出来ない“織田信長”は“備中兵乱”で“三村元親”を自刃させた。“天神山城の戦い”で苦戦する“浦上宗景”の状況は知ってはいたが既述の理由で支援が出来る状況には無く“浦上宗景”も“毛利方・小早川隆景+宇喜多直家”軍の猛攻に敗色濃厚と成った

“備中兵乱”では“浦上宗景”と同盟する“三村元親”が“毛利軍”の“小早川隆景+宇喜多直家”軍に“備中・松山城”を落され自刃した。同時並行的に“天神山城の戦い“で苦戦する“浦上宗景”は“同盟者・三村元親”を失った上に“備中兵乱”で“毛利方”が“宇喜多直家“に対する支援を決め、その応援体制を“天神山城の戦い”にも向けた為“浦上宗景”の敗色は益々濃厚に成って行った。

5-(1)-⑫:“備中松山城”訪問記・・2024年(令和6年)1月9日(火曜日)

住所:岡山県高梁市内山下1

交通機関等
史実として“天神山城の戦い”と同時並行的に“備中兵乱”が戦われ“備中兵乱”の方が先に終結した。従って“備中松山城”の訪問記を“天神山城訪問記”よりも先に記述する事とした。
実際の我々の“史跡訪問”の順序は“天神山城の戦い”関連の史跡訪問が先であった。前日の1月8日に東京から新幹線で岡山駅に到着した私は、友人と合流し、岡山駅の”トヨタレンタカー“でプリウスを借り、先ずは①美作勝山城(高田城)そして②備前・天神山城を訪問した。そして翌1月9日に”備中・松山城“を訪ねた。

前日1月8日に“天神山城の戦い”史跡訪問等を終えて、宿泊した”和気郡和気町“の“和気鵜飼谷温泉”を朝8時半にスタートした。“備中松山城”に着いたのはAm10時であった。

訪問記:
歴史:
鎌倉時代の1240年(延応2年・3代執権北条泰時期でこの年初代執権北条時房が没している)地頭“秋庭三郎重信”が築城。城の縄張りは時代と共に変化したが“備中兵乱”(1574年/天正2年/11月~1575年(天正3年)5月)時には“砦21丸”と呼ばれた出丸が築かれた記録がある。標高約480mの“臥牛山”全域が一大要塞と成っていたと考えられる。
訪問記:
城に着く途中からVolunteerの人々が“備中松山城”を訪問する我々に、熱心に案内パンフレットを配っていた。平日にも拘わらず当地が如何に観光スポット“備中松山城”を大切にしているかが伝わった。
添付した写真に見る通り、数々の山城を訪問したが“天守が現存する唯一の山城”である。又、話題性にも事欠かない城であり①2016年のNHK大河ドラマ“真田丸”の冒頭に流れるテーマ音楽と共に映し出された城壁、城の雄姿はこの備中松山城で行ったロケからのものであり②忠臣蔵の“大石内蔵助”が赤穂城の明け渡しを立派に行う(1701年元禄14年4月19日)シーンはTV,映画等で有名であるが、実はその7年前、1694年(元禄7年)に“水谷家”が三代で世継ぎが無く、断絶した為、その収城使として任命されたのが“播州赤穂浅野家”であった。奇しくも城受け取りの役割を担ったのが“大石内蔵助”だったのである。
“大石内蔵助”はこの“備中松山城収城”の大役を無事“無血開城”で済ませた。言うまでも無く“大石内蔵助”は7年後に逆の立場と成る。つまり、今度は自らが“赤穂城”明け渡す事と成り、収城使に“無血開城“をせねばならないという、武士として辛い立場を経験する。この事は忠臣蔵の名場面として知られるが、こうした史実と絡む“備中・松山城”である。
③つ目の話題性は添付した写真に映る様に“城主”が“猫城主・さんじゅーろー”と名付けられた“猫”なのである。天守閣のある広場(曲輪)の小屋に長い紐に繋がれた“猫城主・さんじゅーろー”に会えたのはラッキーだったと後から言われた。その理由は、我々が訪ねた厳寒の1月には寒さが苦手の“猫城主・さんじゅーろー”はなかなか姿を我々に見せないからだ、との事であった。
天守、二重櫓、NHK大河ドラマ“真田丸”の冒頭流された“三の平櫓東土塀”は四角い矢狭間と丸い筒狭間を備えた櫓土塀であるが、永年の風雪に耐え、今日まで残るその勇姿は極めて貴重であり、又、見事である。“備中松山城”の史跡はいずれも“国指定重要文化財”であり、是非訪問される事をお勧めする。城の勇壮な姿は添付した写真をご覧願いたい。凡そ2時間弱“備中松山城”を見学し、我々は次の史跡探訪地“羽柴秀吉に拠る水攻め”で知られる“備中・高松城”へと向かった。




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5-(2):“天神山城の戦い”が終結する・・“浦上宗景”が敗れる

“天神山城の戦い”(自1574年4月至1575年9月)が開始され、1574年(天正2年)4月18日~同年6月迄の戦闘開始直後“宇喜多直家“軍を甘くみていた”浦上宗景“軍は苦戦を重ねた。

しかし、1574年(天正2年)10月からの戦いでは1574年10月下旬の“美作豊田の戦い”並びに“備前・鳥取の戦い”で“浦上宗景”方が反撃し、勝利を収め”宇喜多直家“軍の快進撃を止めた。その後“浦上宗景”軍は拠点の“天神山城”とその支城群を中心とした“守備戦”へと戦術を変えた事で”戦況“は”膠着状態“と成った。

ところが“戦況膠着状態”に陥入った頃に“毛利輝元”が“宇喜多直家”への“支援”を決定した。この事で“宇喜多直家“を”父親の仇”とする“三村元親”が“毛利氏”から離脱した。この事は“毛利氏”にとっては由々しき事態であり”毛利氏“は”三村氏討伐“を決め、大軍を送った。結果、既述の”備中兵乱“(自1574年冬至1575年5月)と成り”三村元親“は滅亡する事態となったのである。

”三村元親“の滅亡(1575年5月)で”同盟者“からの支援が望めなくなった”浦上宗景“に更に大きなダメージが重なる。それは”天神山城の戦い“で同盟し、共に戦っていた”美作国・高田城主・三浦貞広”が“敵方”宇喜多直家“の周旋(宇喜多直家が仲に入って取り持ちをして)に拠り、1575年(天正3年)9月に”毛利”方に降伏する事態となった事である。この背景に就いては“黒部亨氏”の小説“宇喜多直家/秀吉が恐れた希代の謀将”から後に紹介したい。

こうして“天神山城の戦い”に於ける“浦上宗景”方の弱体振りが内外に晒された事で“浦上宗景”方に与していた“国衆”並びに“天神山衆”が相次いで離反し“浦上宗景方”は総崩れ状態と成り、敗北が明らかと成った。

5-(2)-①:“天神山城の戦い“の纏め

下記に“天神山城の戦い”の結果を纏めて置く。

年月日:1574年(天正2年)4月~1575年(天正3年)9月
場所:“備前国(岡山県の一部、香川県の一部)及び“美作国”(岡山県の一部)
結果
“天神山城の戦い” の結果“浦上宗景”は“毛利氏+宇喜多直家”連合に敗れ“播磨国“に落ち延びる。既述の様に”浦上宗景“の同盟者である”三村元親“は”備中兵乱“で”毛利・小早川隆景+宇喜多直家“軍に敗れ、自刃(1575年6月2日)した。又”同盟者“の“美作国・三浦貞広”も“宇喜多直家”の周旋(仲に立って取り持ちをする)に依り“毛利氏”に降伏した。求心力を失った“浦上宗景”の旧臣の多くが“宇喜多直家”に鞍替えし、又“国衆”並びに“天神山衆”が“浦上宗景”を見限り“浦上宗景”軍は総崩れ状態と成り敗北した。勝利した“宇喜多直家”は”備前国・美作国・播磨国西部“での勢力を大幅に伸長させる結果と成った。


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5-(2)-②:“天神山城の戦い”で“織田信長”は。“浦上宗景”と“宇喜多直家”の“和睦”を提案したものの失敗した。こうした代理戦争の結果“織田信長”と“毛利方”の“同盟継続”は難しく成って行った

“吉川家文書”によれば“天神山城の戦い”(自 1574年/天正2年/4月至1575年/天正3年/9月)で当時“織田”方に属した“浦上宗景”が既述の経緯で劣勢に陥入った。一方“毛利”方からの支援を得た“宇喜多直家”は、優勢に戦闘を進めた。こうした状況に、この時点では未だ“毛利氏”との“同盟関係”を維持していた“織田信長”は“同盟関係”が破綻しかねない事を案じて“毛利方・吉川元春“に“浦上宗景”と“宇喜多直家”の“和睦”を考え、その為の協力を要請した事が記録されている。

しかし”毛利氏+宇喜多直家“連合軍は”浦上宗景“の居城”天神山城“を攻め続け、遂に陥落させるに至った。“織田信長”の“和睦提案”は成らず、しかも“織田軍”の支援を得られなかった”浦上宗景“は所領を追われる結果と成った。”織田信長“としては”浦上宗景“に対して面目を失う事と成ったのである。

この戦いの勝利で“宇喜多直家”は“備前国”(岡山県の一部)のほゞ全域と“美作国“(岡山県の一部)の東部、そして”播磨国“(兵庫県の一部)の西部等に大きく所領を拡大した。

“織田信長“に与した”浦上宗景“が”備前国“を追われ、隣国の”播磨国“に逃れるという状況と成った。”浦上宗景“にとっては不運であったが、この期間“織田信長”は既述の様に他地域に於ける戦闘に明け暮れる状態であり“浦上宗景”に軍事支援を行う余裕が無かったのである。とは言え“天神山城の戦い”にしても“備中兵乱”にしても”織田信長“は結果として“三村元親“の滅亡(備中兵乱)そして”浦上宗景“の敗北を座視したのである。穿った見方をすれば“織田信長”はこの時点では未だ“強国・毛利氏“との”同盟維持“を優先したとも言えよう。

再度、別掲図“織田信長と毛利氏の同盟関係時代そして決裂”を掲げるが、コメント㋒③~⑥で示した様に“織田信長”と“毛利氏”との関係は、1575年(天正3年)4月~1575年(天正3年)9月の時点になると“同盟”関係は維持はされてはいたが、コメント⑥にある様に“毛利輝元”は“織田信長”が敵と成った時の事を想定する手紙を“穂田元清”(穂井田・毛利輝元の叔父・毛利元就の四男)に送っている。

更に、1ケ月後の、同年10月に“毛利・吉川元春“は”東西弓箭の儀“に関する談合が年内に”安芸吉田“で行われる事を報じている。要するに”同盟破棄“が時間の問題と成っていた事をこれ等の史実が示しているのである。(同盟破棄は翌1576年5月)因みに”備中兵乱“の終結は”同盟破棄“の1年前、そして”天神山城の戦い“の終結は”同盟破棄“の8ケ月前の事である。そして“足利義昭”の“鞆への移座”は“同盟破棄”の3ケ月前の事であった。

5-(2)-③:敗れた“浦上宗景”を支援し続けた“織田信長”

1575年(天正3年)9月12日:

“天神山城”を追われた“浦上宗景”は“播磨国”に逃れた 。そして“黒田官兵衛”の進言を受けて、今や“織田信長”に従属している“小寺政職“の許に身を寄せていた。

”織田信長“は“小寺(黒田)政職”(こでらまさもと・生:1529年・没:1584年・黒田官兵衛の母親は小寺政職の養女であり、官兵衛の妻も小寺政職の養女である)宛ての1575年9月12日付け書状で“荒木村重を播磨国に派遣する。その目的は浦上宗景の居所を整えさせる為だ“と支援の旨を伝えた事が史実として残っている。(花房文書)

”織田信長“がこうした動きをした背景には、2年前の1573年12月に“備前・播磨・美作”3ケ国の支配権を与えるとの朱印状を“浦上宗景”に下した事が“天神山城の戦い”の原因とも言えるのだが、その戦いに既述の事情から“織田信長”からの軍事支援が行えず“浦上宗景”が領国を追われる結果に成った事に対する責任を感じていた事がある。従って“播磨国”に落ち延びた“浦上宗景”を庇護する様、部下に命じたという事である。

1575年(天正3年)10月8日:

この日付けの“織田信長”から“長岡藤孝”(=細川藤孝・既述の様に1573年に細川から改姓している。1582年には長岡幽斎を名乗ってもいる。幽斎没後の細川忠興の代に成って細川姓に復している)書状でも“織田信長”は“浦上宗景”支援の為“荒木村重”に命じて“毛利方・宇喜多直家“の端城を攻略させ、その城郭を整備して”浦上宗景“の新たな拠点として与えている。

其れだけでなく“織田信長”は“浦上宗景”が持ち堪えられるだけの支援をさせた事も確認されている。上記手紙でも分かる様に“織田信長”は“山陽地区・備前・美作”における“反毛利勢力”の中心人物であった“浦上宗景“が”天神山城の戦い“で敗れた責任を感じていたのであろう、その後一貫して”浦上宗景“を援助し続けた。

5-(2)-④:“山陽地域”の有力3武将が“織田信長”に揃って拝謁した史実から明白な“毛利氏”との“同盟破棄”間近!!

1575年(天正3年)10月20日:

”織田信長“が山陽地域に於ける”天下布武“の旗印の下で”全国統一“の動きを進める上で“同盟者”の協力を得、支援しようとしていた事を裏付ける史実が“1575年10月20日”の①”浦上宗景”並びに②“小寺政職”そして③“別所長治”等に拠る“織田信長”への拝謁である。(信長公記・吉川家文書)

“天神山城の戦い”に敗れ、備前から1ケ月前に追われたばかりの“浦上宗景”もこの拝謁に参加しており“織田信長“が対”毛利“の軍事体制を整えようとしている事が明らかである。この8ケ月後に“毛利氏”との“同盟関係”が破綻する前触れを告げる史実である。尚“浦上宗景”のその後に就いては諸説があるが、確実な史料は残されておらず、没年等も定かでは無い。

5-(3):“天神山城の戦い”で“浦上宗景”並びに“三村元親”と与して“宇喜多直家”そして“毛利・小早川隆景”軍と戦い、敗れた“美作国・三浦貞広”に就いて

5-(3)-①:地理

別掲図“織田信長が毛利氏との同盟破綻に至った山陽地域勢力図”を参照願いたい。“美作国”は北東に“因幡国”そして北西に“伯耆国”西隣に“備中国”東隣りに“播磨国”そして南に“備前国”と隣接する山間部の国である。

古代から歴史上一貫して“美作国”を基盤とする安定勢力が出現せず“南北朝時代”の動乱から戦国時代の終焉まで①山名氏②赤松氏③尼子氏④浦上氏⑤毛利氏⑥宇喜多氏、等、周囲の大勢力が草刈り場とした地域と成り、常にその浮沈に巻き込まれた地域である。


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5-(3)-②:歴史概略

最終的に1600年の“関ケ原の戦い”で東軍に寝返った“小早川秀秋”(生:1582年・没:1602年)が“備前国”と共に“美作国”を領した。しかしそれも僅か2年で改易されたという歴史である。

以下に“美作国”(岡山県の一部)“三浦貞広“に就いて紹介して行くと共にこの地の興亡史に就いて記述する。

5-(3)-③:“天神山城の戦い”で敗れたが“宇喜多直家”の周旋で命を救われた“美作国・三浦貞広”の出自に就いて

その1 兄“三浦貞勝”が家督を相続する

1547年(天文16年):

“美作国”の国人領主“三浦氏”は“高田城”を拠点とした。しかし何度も“尼子家”の最盛期を創出し“山陽・山陰”の11ケ国の中の8ケ国(出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆)を兼任した“尼子晴久”(生:1514年・没:1561年)の侵攻を受け、父“三浦貞久”(生年不詳・没:1548年9月16日)の時期の1547年(天文16年)に“備中呰部”に於ける“尼子軍”との戦闘で敗退した記録が“下河内牧家文書”に残されている。

1548年(天文17年)9月16日:

父“三浦貞久”が死去した後に“三浦貞広”の兄“三浦貞勝”(生:1543年・没:1564年?1565年?)が家臣団に擁立されて家督を相続し、当主と成った。

その2 兄“三浦貞勝”が“三村家親”に滅ぼされ憤死を遂げる

1565年(永禄8年)12月:(1564年/永禄7年/12月15日説もあり)

兄”三浦貞勝“(生:1543年・没:1564年5月?1565年?)に関する史料も乏しいが“黒部亨”氏著作の“宇喜多直家”に拠れば1565年(永禄8年)5月に開始された“三村家親”の“美作国侵攻”に拠って“真庭郡勝山の高田城主三浦貞勝が憤死した”と書いている。“三浦貞勝”の憤死時期には2説あるが、いずれにせよこの敗戦に拠って“三浦氏”は“所領”並びに“高田城”を奪われた。(1565年12月憤死説が正しいと思われる)

メモ:
“黒部亨”氏著作の“宇喜多直家”に拠れば“三浦貞勝”の妻“お福”と嫡子“桃寿丸”は“高田城”陥落の際、郎党に守られて城から逃れ“宇喜多直家”の庇護を受ける事に成る。“お福”の美貌に“宇喜多直家”は取りつかれ、時を経て両者は結ばれる。そして妻と成った”お福“は”宇喜多直家“との間に後の”宇喜多秀家“(幼名八郎・生:1572年・没:1655年11月20日)を1572年に生む。此処までの“黒部亨”氏の記述は全て史実である。尚“お福”は後の円融院”(生:1549年・没年不詳)である。


その3 “三浦貞勝”が滅びた後“尼子氏”の庇護下で“三浦貞尚”の時期に“三浦家”としての命脈を保つ事が出来た

凋落はしたが“三浦家”の命脈を保ったのは“三浦貞尚”の功績とされる。後述する当主に擁立される“三浦貞盛”の兄に当る人物とされる。

彼は“三浦貞勝・三浦貞広”の父“三浦貞久”(生年不詳・没:1548年)の弟で“大河原氏”に養子に入り“尼子国久”(生:492年・没:1554年)の娘と婚姻する等で“尼子氏傘下”として“三浦家”の命脈を保ったとされる。

この時“出雲国・尼子氏”の許に居た”三浦貞勝”の弟“三浦貞広”は、紆余曲折の末“美作国”に帰国し”美作国・国人領主“として再び”高田城“を拠点したと伝わる。

その4 ”三浦氏家臣団“は”故・三浦貞勝“の叔父に当る”三浦貞盛“を擁立し”三浦氏再興“に動いた

1566年(永禄9年)2月5日:

“三浦貞勝”を憤死に追いやった“三村家親殺害”を“浦上宗景”が“被官?従属的同盟者?”の“宇喜多直家”に命じた。“宇喜多直家”は“刺客・遠藤又二郎・遠藤喜三郎兄弟”を使って“興禅寺”で1566年(永禄9年)2月5日に〝銃殺“した。
“備中松山城“では”当主・三村家親“が暗殺された事件への対応で大混乱と成った事は既述の通りである。

”三浦家臣団“はこの機に乗じて”三村家親“によって滅ぼされた”三浦貞勝“の叔父の”三浦貞盛“(生年不詳・没:1568年2月19日)を擁立し”三村家親“に拠って奪われた所領、並びに”高田城“を奪い返した。

1568年(永禄11年)2月19日:

“三浦貞盛”が奪還した“居城・高田城”であったが、2年後の1568年2月19日に“毛利元就”が再び攻撃して来た為落城し“三浦貞盛”は討ち死、そして“三浦氏”の所領も再び奪われた。

その5 “三浦貞広”が“尼子氏遺臣・山中鹿之助”の支援を得て“高田城奪還”を果たす

1570年(元亀元年)

“三浦貞広”(生没年不詳)が“尼子氏遺臣・山中鹿之助”の支援を得て”高田城”を奪還した。しかし、その後も”毛利軍“と睨み合いを続ける状態が続いた。こうした史実からもこの地が、眞に、冒頭紹介した草刈り場であり、地理的に歴史上”興亡の地“であった事が分かる。

5-(3)-④:“宇喜多直家”との対立を深めた“美作国高田城主・三浦貞広”

1574年(天正2年):

“浦上宗景”と彼の“被官?従属的同盟者?”の“宇喜多直家”は1573年(天正元年)12月に“織田信長”が“浦上宗景”に“備前国・播磨国・美作国”3ケ国の支配権を認める“朱印状”を与えた事が起点と成って対立関係に成った事は既述の通りである。

両者が対立すると“美作国・三浦貞広”は(図示参照方)“毛利氏”を宿敵とする“浦上宗景”側に与した。そして”宇喜多直家“に父親”三村家親“を謀殺された“備中国・三村元親”は“毛利氏”が“宇喜多直家”支援を決めた動きに怒り“毛利氏”から離脱する。こうした結果“三村氏”によって“兄・三浦貞勝”が憤死に追い込まれ、領地並びに“居城・高田城”を奪われ“三村氏”を敵とする筈の“三浦貞広”が巡り巡って“三村元親”と組む形と成った。

こうした結果“浦上宗景+三浦貞広+三村元親”という連携陣営が構成された。こうした構図は織田信長陣営毛利元就陣営という対立構図の視点で纏めると下記のグループ分けと成る。

織田信長陣営:浦上宗景+三村元親(1574年8月備中本領+備後一国を与えるとの調落)+三浦貞広

毛利輝元陣営宇喜多直家
三村元親が毛利から離反した事で3方を敵方に囲まれる形と成った“宇喜多直家”だが“毛利”は離反した“三村元親”に対し素早く討伐軍を備中に送り込む。これが“備中兵乱”であり“三村元親”は討伐され1575年6月2日に“松連寺”で自刃した。
(備中兵乱:自1574年/天正2年/11月・至1575年/天正3年/5月)

5-(4):“天神山城の戦い”で“敵将・三浦貞広”の命は取らず城から退去させた“宇喜多直家”の不思議

“三浦貞広”が拠点としたのは代々“三浦氏”が城主を務めた“美作国高田城”(=美作勝山城とも称した・岡山県真庭市勝山・築城主三浦貞連)である。

“三浦貞広”は“天神山城の戦い”で“浦上宗景陣営”として“毛利方・宇喜多直家”軍と戦ったが、敗れた。しかし敵側の“宇喜多直家”は“敵将・三浦貞広”の命は取らず降伏を周旋(仲に立って取り持ちをする)という形を執り“高田城”を退去させたのである。この結果、240年に亘って続いた“高田城・三浦氏”は滅亡したが“三浦貞広”は生き延びた。

彼のその後の消息に就いては伝わらないが“播磨国・林田”で病死したと、江戸時代初期に書かれた”高田城主次第“には記録されている。

“黒部享”氏の著作“宇喜多直家・秀吉が恐れた希代の謀将“に拠れば“三村家親”が“三浦貞勝“(三浦貞広の兄・生:1543年・没:1565年/1564年説もある)の”高田城“を攻撃し落城させ切腹させた。その“三浦貞勝”の妻“お福”と遺児の“桃寿丸”は落ち延び“宇喜多直家”に庇護され、二人は当時の“宇喜多直家居城・沼城”の“二の丸”に住まわされた。

その後“宇喜多直家”は“三浦貞勝未亡人・お福”の仇である“三村家親“を部下に命じて鉄砲で暗殺させ”お福“の夫の仇を代わりに討つ形となった。”嫡子・三村元親“が”父・三村家親”の仇を討つとして“明禅寺合戦“を起こすが”宇喜多直家はこの“三村元親“軍にもを返り討ちの形で勝利した。

“夫の敵・三村家親”を討ち、そしてその仇討に動いた“三村元親”をも返り討ちにした“宇喜多直家”は“三浦貞勝未亡人・お福“にとっては”大恩人“と成ったのである。

小説は、その後“宇喜多直家”と“お福”の仲は深まり“お福”は“宇喜多直家“の”愛妾“の立場から”妻“と成り発言力を増して行く展開を綴っている。史実としてこの小説の内容は本当の事であり、この“お福”こそが、後に“豊臣秀吉政権”の五大老の一人として知られる“備前岡山城主・宇喜多秀家”(生:1572年・没:1655年)を生み、後に“円融院”(生:1549年・没年不詳)と称した史実上の女性である。

メモ:
秀吉に可愛がられた“宇喜多秀家”であったが、秀吉の死後、関ヶ原の合戦で西軍として戦った為“徳川家康”に改易され、死罪は免れたが“八丈島”に流された。
“宇喜多秀家”は以後50年間を“八丈島の公式史上初の流人として過ごし,満83歳で”八丈島“で没した

“お福”の“夫・三浦貞勝”の弟の“三浦貞広”(生没年不詳)は“天神山城の合戦”で敗れた。しかし、勝利した“宇喜多直家“が彼の命までは取らなかった理由は”高田城主・三浦貞広“が”お福“にとっては”実家の当主“である。そうした関係から”お福“の意向を常に大切にした”宇喜多直家“は”三浦貞広“を助命したのである。“黒部融”氏は著作”宇喜多直家・秀吉が恐れた希代の謀将“の中でこの件について以下の様に記述している。

=小説:“宇喜多直家/秀吉が恐れた希代の謀将“に書かれた記事

“お福”の実家とも言える“高田城”の“三浦貞広”が“浦上宗景”と結んだのは当然の成り行きだった。“妻・お福“の立場を考えて(三浦貞広と戦う)”宇喜多直家“も複雑な心境だった。(略)孤立無援と成った“三浦貞広”は城を枕に討死の覚悟を固め、本城に立て籠って最後の抵抗を続けた。“宇喜多直家”は出来れば“三浦貞広”を説得して命だけは助けようと、兵糧攻めの策にする事を“毛利輝元”に進言した。“毛利輝元“もすぐ”宇喜多直家“の意図を察して”三浦貞広はご辺とは特別ご縁のある家。お気持ち、ごもっともでござる。よきよう計らわれよ“との返事なので、ただちに城内へ矢止めを申し入れ、使者を派遣して降伏を勧告した。”浦上宗景”にも“織田信長”にも見放されて万策尽きていた“三浦貞広”は“宇喜多直家”の説得を受け入れて“高田城”を退去した。“宇喜多直家“としてはこれが精いっぱいの処置だった。”高田城“の”三浦氏“は在城・240年をもって”宇喜多直家“の手により滅亡した。

5-(5):“高田城主・三浦貞宗公“と刻まれた墓がある真庭市の寺の史跡訪問記

訪問日:2024年(令和6年)1月8日
住所:岡山県真庭市勝山
交通等
東京駅始発の新幹線(のぞみ)AM6:00に乗り“岡山駅”で友人と合流した。新幹線が途中の雪で遅れた為、私が岡山駅に到着したのは9時35分であった為、友人が先にトヨタレンタカー営業所で手続きを進めて呉れており、直ぐに“プリウス”で出発、先ずは本日の訪問目的地である①美作勝山城(高田城)そして②備前・天神山城をナビに入れ、向かった。
日記にはAM10時10分に出発し“美作国・勝山城”(高田城)の史跡周辺に到着した
のは12:00近くと書いてある。

訪問記:歴史
正式な名称は“美作・勝山城”で、本文で用いた“高田城”ではない。“美作・勝山城 勝山城”の方が通っている様だ。築城主は“美作・三浦氏” の初代とされる“三浦貞宗”が14世紀頃に築城したとされるが、信憑性は薄い。その後“江戸時代初期”に書かれた“高田城主次第”に“三浦貞連”の名が書かれている事から、彼が整備して本格的な“戦国城郭”としたと考えられる。“高田城”(美作・勝山城)は実に4度も奪われるという歴史を持つ。1度目が“三浦貞勝”(生:1543年・没:1565年)の時期で“尼子氏麾下”の“宇山久信”に攻められ1548年に奪われた。しかし、1559年に“尼子氏”が“毛利元就”に攻められている隙に奪還している。2度目に奪われたのが文中に記した1565年(永禄8年)12月に“備中松山城城 城主・三村家親”に”三浦貞勝“が再び攻撃され、憤死した時である。その後、1566年(永禄9年)2月5日に”三村家親“が”宇喜多直家“が放った刺客に拠って〝暗殺“された大混乱の隙に”三浦貞盛“が奪われた所領、並びに”高田城“を奪い返している。しかし1568年(永禄11年)2月19日に“毛利元就”による攻撃で“居城・高田城”は落城し“三浦貞盛”が討ち死にし3度目の城が奪われる事態と成った。その後1570年に“三浦貞広”が“山中鹿之助”の支援を得て“高田城”を奪還するも、以後は“宇喜多直家”との対立、そして1574年4月から起った“天神山城の戦い”で“三浦貞広”は敗れ“宇喜多直家”の降伏周旋があって、命だけは助けられるが、240年続いた“高田城・三浦氏”は滅亡した。“高田城”(美作・勝山城)はこの時4度目の城が奪われる事態と成ったのである。
訪問記
肝心の“美作国・高田城(=美作勝山城)の史跡を探し回ったが分からず”如意山“の本丸跡、そして南の”太鼓山“(勝山)に”出丸“があった事は突きとめた。三の丸遺跡”は“真庭市役所“そして”二の丸跡“も今日ではグラウンドに成って居り、書物にもある様に、僅かな史跡しか残っていない。他の関係史跡を探した結果、やっと探し当てたのが写真にある“勝山歴史さんぽ道”の“藩主三浦家墓所”で、この地には“旭川”に近い順に“安養寺・妙円寺・玉雲宮・化生寺・高田神社”が横一線に並んでいた。“美作国・三浦氏”の初代とされる“三浦貞宗”の墓があり“高田城主三浦貞宗公“と刻まれていた。写真に載せたものがそれである。史跡探訪では山中の朽ちた墓地、その他大阪市の史跡の様に市街化が進み片隅に史標を僅かに残すものも多く、目指す史跡に辿り着けないケースもある。例えば“豊臣秀吉”が建てた“聚楽第“の史跡も有名な史跡ではあるが、なかなかその史跡自体を探し当てるのが難しい。今回の“美作国高田城”(=美作勝山城)の史跡訪問もその事例と言えよう。時間に余裕があれば、郷土資料館、武家屋敷館、侍屋敷跡等が頂いた“城下町勝山ガイドマップには載せられている。興味のある方は是非時間に余裕を持ってこの地を訪れて頂きたい。


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5-(6):“天神山城“訪問記・・訪問日2024年(令和6年)1月8日(月曜日)

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6:1574年以降”毛利氏“に属した”宇喜多直家“は“天神山城の戦い”で“主君?同盟者?”であった“浦上宗景”を敗り“備前国“の実力者に上り詰めた。”毛利氏“は東進を図り”播磨国“をも窺う状況に到った

6-(1):“毛利輝元”は“足利義昭”の強引な自国領“鞆”への移座を受け入れざるを得なくなった為“織田信長”との“同盟破棄”並びに“戦闘突入”も覚悟した

1576年(天正4年)2月22日:

“足利義昭”が毛利領国の“備後・鞆”に強引に移座して来た(1576年2月22日)事が“毛利輝元”に此れ迄維持して来た“織田信長”と“毛利氏”間の“同盟”の破棄が避けられない事を決心させた。下記“毛利輝元”が“備前国領主・湯浅氏”に協力を要請した文書からも“毛利輝元”の覚悟が分かる。

備前・播磨の件(宇喜多直家が浦上宗景を天神山城から追い出し/1575年9月/浦上宗景は播磨に逃げた。“織田信長”は“荒木村重”に“浦上宗景”を支援する様命じた事等を指す)では、去年(1575年)以来“織田信長”が考えを申し入れて来た。(織田信長が宇喜多直家と浦上宗景が戦闘状態にある事に対して、吉川元春に和睦の仲介を要請した事を指す。結果的に宇喜多直家は聞き入れなかった)“公方様”が下向して来た(上述した1576年2月に足利義昭が強引に毛利領鞆に移座した事を指す)事で“織田信長”が私達(毛利方)に疑心を持ち(領国の)境目地域に攻め込んで来るかも知れません。その時は此方(毛利方からも)からも兵を出しますから、どうぞご協力ください。

この文書からは1576年(天正4年)2月下旬の時点で“毛利方”は“織田信長”が“天神山城の戦い”で“宇喜多直家”に敗れた“浦上宗景”を支援すべく“荒木村重”に命じて彼を保護させた事を知っていた事に成る。

上記の文書から“織田信長”が“毛利方・吉川元春”に“浦上宗景”と”宇喜多直家”との和睦仲介を申し入れた事が分かる。(宇喜多直家が和睦を拒否したが)又、上記文書から“足利義昭”が強引に毛利領鞆に移座した事で“毛利輝元”も“織田信長”との“同盟破綻”を覚悟せざるを得ない状況になった事も伝えている。

上記文中の“此方(毛利方から)からも兵を出しますから~”は、最早“織田信長”が“毛利氏”を“敵”と見做して敵対して来る事は明白だとしており“織田信長”が領国の境界を越えて攻め込んで来た時には“毛利氏”として“備前国領主・湯浅氏”を支援すべく出兵をするからその際には共闘する事を要請した文である。

注目すべきは、この文書を出した段階では未だ“毛利輝元”は“織田信長”との“同盟関係”が決裂し、戦闘が確定したとは言ってはいない。(同盟破棄は3ケ月後の事である)従って“織田信長”と戦闘に突入するのは、飽くまでも“宇喜多直家”と“織田信長”が支援する“浦上宗景”との戦闘を中止すべく“織田信長”が“毛利方”の“吉川元春”に仲介を頼んだのにも拘わらず、両者の和睦が成らなかった場合だと“毛利輝元”は仮定しているのだ。

別掲図“織田信長と毛利氏の同盟関係時代、そして決裂”を再度参照されると“織田信長”と“毛利氏”側との同盟は首の皮一枚で繋がっていた状況下の文書であった。従って、この1ケ月後の1576年(天正4年)3月欄に“吉川元春・小早川隆景、織田信長に年頭の祝儀を贈る”と書かれているのである。(小早川家文書)

“毛利方“としては、上記“備前国領主・湯浅氏”への文書を出し“織田信長”との同盟破棄は不可避と覚悟しつつも“織田”との決裂は避けたいとの複雑な心境の下で“年頭の祝儀“を贈ったのであろう。“織田信長”と“毛利家”との“同盟”関係が殆ど崩壊寸前であったにも拘らず、兎に角“友好関係・同盟”を維持しようとの意図が見える最後の動きであった。

一方の“織田信長”は、この半年前の1575年(天正3年)11月には“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”から“従三位・右近衛大将”に任じられ“足利義昭”と同格と成り、言わば“足利義昭”に代わって“公認された天下人”となった事を自認し、益々“天下布武・全国統一”の事業を進める覚悟を新たにし、正に意気軒高という状態にあった。

これを知る“毛利氏”は“織田信長”との“同盟”を破棄し、敵対関係に突入する事に対して躊躇する状況にあった事を示す史実である。

6-(2):“天神山城の戦い“終結(1575年9月)から8ケ月後、遂に“毛利氏”との“同盟”が破棄され(1576年5月)“織田信長VS毛利氏”は戦闘状態に突入した

“第1次・木津川口の戦い”は“織田信長”に抵抗を続ける“大坂(石山)本願寺”(注:大坂本願寺が当時の正式名称とされ、石山本願寺の名称は見られなかったとの説が有力である)の要請で兵糧支援を“毛利水軍”を使って行う“毛利方”と“織田方”が直接戦闘を交え、以後6年間に亘る戦闘状態に入る“緒戦”と成った。

1577年(天正5年)10月23日:

1574年以降”毛利氏“に属し“備前国“の実力者に上り詰めた”宇喜多直家“の貢献は大きく”毛利氏“は”宇喜多直家“の協力を得て”東進“を図り”播磨国“をも窺う状況と成った。こうした状況を阻止すべく“織田信長”は“羽柴秀吉”に“播磨平定”を命じた。

命ぜられた“羽柴秀吉”は1577年(天正5年)10月23日“京都”から出陣、10月中に“播磨国”に入り“播磨国“中を駆け回って国衆から人質を徴集する等の策が奏効し”播磨国”の西端部分を除く全域を平定して了った。この素早い対応で“播磨国”のほゞ全域の国衆は“織田信長”に服する形と成った。

6-(3):“播磨東八郡の守護”と評され“播磨国”NO1.の実力者と成っていた“三木城主・別所長治”

1575年(天正3年)10月20日:

在京中の“織田信長”が1575年10月20日に“山陽地区”の3人の有力武将“浦上宗景・小寺政職・別所長治”達の拝謁を受けた。この事は“織田信長”が“毛利氏”の東進に備えていた事を裏付けている。上記3人の他に“但馬国護・山名韶熙”(やまなあきひろ)も同行した事が伝わる。この史実から“織田信長”の威勢はこの時点で“播磨国”だけで無く“但馬国”そして“備前国”を含む周辺諸国に迄及んでいた事が分かる。

7:“不器用すぎた天下人・織田信長政権”は、家臣、外様家臣、及び従属的同盟者?という近しい武将達に対する“家臣編成”並びに“家臣秩序”を打ち立てる事に失敗し、離反を招くと言う“弱点”を露呈した。“松永久秀”の謀叛(信貴山城の戦い)がその事例として噴出した

前項で記した様に“織田信長”の“天下布武・全国統一”事業の前に立ち塞がる“最強戦国大名“の一人であった“上杉謙信”が“手取川の戦い“(1577年9月23日)で”織田軍“(柴田勝家北陸遠征軍)に大勝した。しかし”上杉謙信“はそれ以上の追撃をする事無く”越後“に戻り、しかも僅か半年後の1578年3月13日に急死して了う。この事が“織田信長”にとってはラッキーであった事は間違い無い。

“武田信玄“の急死(1573年5月13日)に続く”上杉謙信“の急死という戦国最強の大名二人が急死した事に拠って“織田信長”が残す“戦国最強大名”は“足利義昭”が旗を振る“第3次織田信長包囲網”の中軸として取り込まれた“毛利氏”だけと成ったのである。

しかし、こうした外部の敵に対抗する丈で精一杯の筈の“織田信長”は“人間関係に不器用な天下人・織田信長”(著者・金子拓氏)と称される様に、次々と“家臣・外様家臣・従属的同盟者”つまり織田信長政権内部の“家臣秩序”を打ち立てる事に失敗し、内部からの離反、そして謀叛が連続するという事態を抱える事に成るのである。

しかもこれ等の武将達は“織田政権”を構成していた武将達であったが故に”織田信長“の身近に軍事力を持ち、且つ”織田信長政権“の弱点をも掴んでいた事から、若し敵に回れば”手強い敵”と成り得たのである。

“松永久秀”も既述の様に“外様家臣?”あるいは“従属的同盟者”の立場で“織田信長政権”の周囲に組み入れられた存在であった。“織田信長“から、自尊心を打ち砕かれる屈辱的対応、人事、等の扱いに堪え、積み重なった”恨み“を抱いて来た事は述べた。”三好長慶政権”下のトップとして栄耀栄華を極めて来た彼の誇りを、故意に打ち砕く様な“織田信長”の“不器用過ぎた人扱い”に忍耐の緒を切った“松永久秀”は遂に謀叛に及んだのである。それが1577年(天正5年)10月5日~10月10日に戦われた“信貴山城の戦い”である。

以下の7-(1)から7-(4)に“松永久秀”が“織田信長”から受けた自尊心を砕かれ“織田信長”からの離反、そして謀叛に至る原因となった経緯・並びに諸出来事を紹介して行く

7-(1):“松永久秀謀叛”に至る直前の状況

“前項6-23項の17”で簡単に記述したが“石山本願寺”との“天王寺砦の戦い”(1576年5月7日)で劣勢だった“天王寺砦守備隊”の“明智光秀”等から“織田信長“自らの出陣要請が入った。慌てた“織田信長”は、急遽兵を募り、敵陣に突撃し、負傷しながらも結果的に“天王寺砦の戦い”に辛勝した。

この戦いの際“織田信長”は既に68歳の老齢で“隠居”状態であった“松永久秀”にも出陣を命じていた。“織田信長”は辛勝の後“大坂(石山)本願寺包囲策”として“天王寺砦守備隊”を強化し、その“定番役”に“佐久間信盛”と共に“松永久秀”を加えたのである。この人事も“松永久秀”にとっては“屈辱的人事”であった。そしてこれが謀叛への発火点とされる。

“天王寺砦の戦い”で辛勝した後の“織田信長”の“大坂(石山)本願寺”への包囲作戦、そして戦闘に就いては下記に紹介するが“松永久秀”は命じられた“持ち場を放棄”して“信貴山城”へ立て籠もり“織田信長”に“謀叛”の戦闘を起こしたのである。“松永久秀”には、それ以前から積もり積もった“不器用すぎた天下人織田信長”からの自分への対応に不満を鬱積させていた。以下にそれ等を詳述する。

7-(2):“松永久秀・松永久通”父子が“織田信長”の家臣と成った経緯

1573年(天正元年)12月26日:

“織田信長”は“若江城の戦い”で“三好義継”を自害に追い込んだ後に、生き残った“畿内に於ける反・織田信長方のエース格・松永久秀”の討伐に向かった“織田軍”の“佐久間信盛“は”多聞山城“を包囲し”松永久秀“軍を降した。

通常”織田信長“は討伐の対象と成った”松永久秀“を殺すのだが、今回の”織田信長”は2つの条件を付けて助命した。①多聞山城を明け渡し“子息・松永久通の子”を人質に出す事②“多聞山城”を無血開城し、天下の至宝、茶道具等多くの財宝を“織田信長”に引き渡す事、であった。

“織田信長”が“松永久秀”を助命した理由としてその他にも③そもそも“松永久秀”は“足利義昭”とは袂を別っており、敵対した真の相手は“足利義昭”だった筈であり“織田信長”では無い。従って“織田信長”とは戦闘も行っていない。④“松永久秀”を生かしておけば、彼が“三好長慶政権”下で培って来た“交渉力”等の影響力を“信長政権”下でも発揮して貰う事で、彼の利用価値は大いにある。

この4つが“松永久秀”を助命した理由であった。

こうして命だけは助けた“松永久秀”に対する“織田信長“の扱いは”不器用すぎた天下人・織田信長“と著者”金子拓氏“が称す如く”三好長慶政権”下で栄耀栄華を誇った人物に対する扱いでは無く“松永久秀”の自尊心を打ち砕く”屈辱的“なものであった。”織田信長“の”松永久秀”に対する“屈辱的扱い”は更に積み重なって行った。

7-(3):”松永久秀“の”大和国支配権“を剥奪した後の後釜に、何と、彼が”不倶戴天の敵“とした”筒井順慶“を任じた人事。これは”不器用すぎた天下人・織田信長“の”人扱いの拙さ“であり”松永久秀“の自尊心を打ち砕き”織田信長“への憎しみを生むばかりであった

1574年(天正2年)3月27日~3月28日:

前年1573年(7月28日から元亀4年~天正元年へ改元)12月26日に既述の戦いに敗れた“松永久秀“は“多聞山城“を”織田方“に引き渡した。”多聞山城“には次々と”織田方“の武将が“番替”(ばんがわり=勤務を交代する事)の為に入城した。

翌1574年(天正2年)3月27日に“織田信長”は“正親町天皇”から勅許を得て、3,000の軍勢を率いて“多聞山城”に入城し、その翌日、3月28日には、有名な“蘭奢待”の切り取りを行い、それを“正親町天皇“に献上する等”至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力“への気遣いを示している。

“織田信長“が”世間体に人一倍気遣う武将“であった事は既述の通りであるが、今回も日本に岩盤の様に根付く”天皇の権威“を利用する事で自己の権威を高めようと”蘭奢待“を切り取る行動で”天下“にアピールしたのである。

この行為に秘めた“織田信長”の野心は“歴代の足利将軍を上回る天下人“としての”正統性“を”正親町天皇“から得る事であり、その為の”世間への抜け目無いアピール“に他ならなかった。果せるかな”織田信長“は翌年、1575年11月4日に”従三位・権大納言への叙任“そして同年11月7日には”右近衛大将への昇任“を”正親町天皇“から得て、その目的を果たすのである。

1574年(天正2年)12月24日:

“多聞山城“は”織田信長“方に開城させられたが”信貴山城“(しぎさんじょう・奈良県平群町)は“松永久秀”に安堵された。以後”松永久秀“の発給文書は無く“松永久秀”は剃髪して“道意”と号し、活動も殆ど伝えられていない。”松永氏“の
”大和国支配“が終わった事を意味した。“松永久秀”は“隠居同然”の身と成り、年齢も満66歳に達していた。当時としては相当な高齢に達していたのである。

1575年(天正3年)3月23日:

その“松永久秀”が怒りを爆発させる事態が生じた。”織田信長“が”松永久秀“に代えて行った”大和国支配体制“の人事である。“塙直政“を責任者に任じたまでは良かったが、その与力として”松永久秀“にとっては”不倶戴天の敵・筒井順慶“を任じたのである。”大和国支配“がこの2人に拠って支配される体制と成った。

この人事は”不器用すぎた天下人・織田信長“と”金子拓氏“が彼の著書で”織田信長“を称し、彼が生涯を通じて最期は”同盟者“は勿論“織田政権内部”の“家臣・外様家臣・従属的同盟者”等からも信頼されず、結果的に“家臣編成・秩序”を打ち立てる事に失敗し、最後に“明智光秀”に離反され、討たれる人生を著述しているが“松永久秀”もその事例である。

“織田信長”はこうした“人扱いの拙さ”から“近臣武将達”からの“織田信長”に対する信頼を失わせ、武将達へ“将来への不安”を抱かせ、結果として“織田信長”を憎ませ、その結果、彼等を離反させ“謀叛”へと走らせたのである。

“松永久秀”は“織田信長“に対する信頼を完全に失ったばかりか”屈辱感“が恨みと成って積み重なるという”織田信長“としては実に拙い扱いをし続けた武将と成ってしまった。しかし“松永久秀”は直ちに軍事的反抗に及ぶ事は無かった。その間に“大和国支配”の人事で責任者に就いた“尾張出身・塙直政”(ばんなおまさ・生年不詳・没:1576年5月3日)が“松永久秀・久通”父子の“織田信長”への不満、怒りを収める存在と成っていた事があったからである。

7-(3)-①:“塙直政”という人物に就いて

“塙直政”は“赤母衣衆”(あかほろしゅう=織田信長の周囲で付き従った直轄部隊。母衣とは矢や石等から防御する為の武具。大将側近だけが着用を許され、選りすぐりの部隊)に取り立てられ、1574年(天正2年)に“山城国・南部”の守護に任じられた人物である。“織田信長”は“塙直政”を更に4ケ月後の1575年7月(前項6-23項13-1参照)に“朝廷”が”織田信長“に対する叙任の申し出があったが、それを断り、その代わりに“老臣達への賜姓・任官”に対する“勅許”を優先させた。その中に“塙直政”も含まれていた事は既述の通りである。

“塙直政”は“原田備中守”の賜姓の下賜を受け、任官もした。彼が“織田信長”が“畿内”で最も重用した家臣の一人であった事を裏付けており“松永久通”との折り合  
いも良かった。

既述の様に“織田信長”は1575年11月に“正親町天皇”から“足利義昭”と同格に並ぶ“従三位・権大納言”への叙任、並びに“右近衛大将”への昇任を得た。この事が“織田信長”を己が天下人である事を確信させ“天下布武・全国統一”事業への思いをより強くし“室町幕府”とは異なる新たな武家政権の成立を目指す事を明確に自認した時だと“松永久秀と下刻上”の著者“天野忠幸”氏は述べている。

しかし同時にこの事が、以後“織田信長”の“家臣・外様家臣・従属的同盟者”に対する“傍若無人・屈辱的扱い”に歯止めが掛からなくさせたとも言えよう。生来、人扱いに於いて、決して器用で無かった“不器用すぎた天下人・織田信長”は以後“織田信長政権内”の“家臣団編成秩序”を打ち立てる事に失敗し、体制内に爆弾を抱えたまゝ進んで行く。

7-(3)-②:既述の“天王寺砦の戦い”に辛勝後の“天王寺砦守備隊定番”役に“織田信長”は68歳の老齢で“隠居”状態の“松永久秀”を任じた。しかしこの人事は“松永久秀”にとって“屈辱的”で、我慢ならないものであった

“天王寺砦の戦い”(1576年5月7日)で”織田信長”からの“支援要請命令”に急遽駆り出された武将達の中に、68歳、しかも隠居状態であった“松永久秀”も居た。辛勝した“織田信長”は戦後の“大坂(石山)本願寺包囲作戦”を強化すべく“本願寺”の周囲に多くの付城を設け”天王寺砦守備隊“を編成、その部隊の”定番役“に“松永久秀”を加えたのである。

若い武将に命ずべき今回の人事は“織田信長”に先んじて“天下人“と称される”三好長慶政権下“で栄華を極めた“松永久秀“にとっては甚だ“屈辱的”なものであった。そしてこの人事が前述した“大和国支配”での“筒井順慶”が絡んだ人事への不満とも重なって“織田信長からの離反”のトリガーと成り、以下の事柄も加わって“信貴山城の戦い”へと繋がるのである。

7-(3)-③:“大坂(石山)本願寺包囲作戦”の“摂津三津寺攻撃“で“大将・塙直政”が戦死する

1576年(天正4年)5月3日:“天王寺砦“の大将”塙直政”が戦死する

“原田直政”(=塙直政)は“天王寺城(砦)”の大将に任じられ“筒井順慶”並びに“三好康長”そして“根来衆”等が与力として付く体制で“大坂(石山)本願寺攻め”を行った。“本願寺一揆勢”は“木津川”の両岸に“木津砦、桜岸砦”の出城を築き,これ等を拠点として“毛利水軍”に拠る、海路からの兵糧補給を受けていた。

“織田信長”はこうした補給路を断つべく“塙直政”(=原田直政)に、両砦の中間の中州に位置する敵方の“摂津三津寺”の攻撃を命じた。“塙直政“軍は”摂津三津寺“の一向宗門徒を攻撃したが、背側の”桜岸砦“から出撃した”鈴木重秀“率いる雑賀衆の数千挺の鉄砲で狙撃された。“三好勢”が先ず崩れ“塙直政部隊”も数時間は持ち堪えたが敵に包囲され、乱戦の中で何と“大将・塙直政”はじめ“織田方武将”達が枕を並べて討ち死するという敗戦と成った。

“本願寺一揆勢”は“摂津・三津寺”で勝利した余勢を駆って“四天王寺”を焼き、更に“天王寺砦”(天王寺城)に向かって襲い掛かった。窮地に陥った“天王寺砦・守城部隊”の“明智光秀”等は“京”に居た“織田信長”に救援を求めた為“織田信長”は急遽“京”から支援に駆け付け、その際“老齢”の“松永久秀”も招集されたのである。

7-(3)-④:“織田信長”は“摂津三津寺攻撃“で“大将・原田直政”(=塙直政)が不様にも“本願寺一揆勢”に討たれ、戦死し、結果“織田勢”を窮地に陥れた事に怒り、事後の責任を問い、戦死した“大将・原田直政”(=塙直政)の側近達に迄、罰を課した。身内に対する厳しすぎる対応を見た“松永久秀”は“織田信長”からの離反を決断して行く

“織田信長”は重用して来たはずの“原田直政”(=塙直政)並びに彼の部隊の“摂津・三津寺攻撃“に於ける敗北、しかも、その後“大坂(石山)本願寺”勢を勢いづかせ“天王寺砦”を危機に陥れたという結末、しかも既述の様に“織田信長”自らが急遽支援に駆け付ける事態と成り、信長も負傷しながらも辛勝した事態に至らせた“大将・原田直政”(=塙直政)に対し、彼は戦死したにも拘わらず、彼の部隊が敗れた事に対する怒りが収まらず、戦闘が終わった後にも拘わらず“原田直政”の側近達の捕縛を命じ、処罰したのである。(多聞院日記)

“松永久秀”にとって“塙直政”は、彼が“織田信長”との戦いに敗れ”大和国支配者“の立場を失った後、新たな”大和国支配体制“のトップに就いた“塙直政”(=原田直政)は、自分の与力に就いた“筒井順慶”が“松永久秀・久通”父子とは”不倶戴天の敵“であるという関係に配慮し、双方の面目が保てる様な“大和国支配体制”で政治を行なう等、評価は極めて高い人物であった。

それだけに”織田信長“が今回”塙直政”(=原田直政)が敗戦を喫した事に対する怒りが収まらず戦死した“塙直政”の部下全員を更に処罰するという冷徹な仕打を目の当りにした“松永久秀”は“織田信長”の“唯我独尊的”で極めて拙い“人間扱い”に“織田信長政権”の“家臣編成秩序”が成っていない事、並びに“内部統治力”が不備である事を見、いずれ内部から崩壊して行くであろうと考え“織田信長”からの離反を決断したのである。

7-(3)―⑤:“摂津国・三津寺”訪問記

訪問日:1回目・・工事中期間の2023年(令和5年)7月26日(水)2回目・・工事完成後の2023年(令和5年)12月9日(土)

住所:大阪府大阪市中央区心斎橋筋2丁目7-12

交通機関等
大阪駅からOsakaMetroの御堂筋線に乗り、心斎橋駅で下車。グーグルマップを頼りに繁華街を探しまくった。“三津寺”の地名は知られているが、地元と思われる若い人達、数人に“三津寺の史跡を探している”とその所在を聞いても“そんなお寺があったかな?”の答えが多く、なかなか史跡に辿り着く事が出来なかった。
“そこの工事中の場所が三津寺ですよ!”と漸く教えて貰えたが、工事中で“三津寺”自体は工事の柵、カバー等でスッポリ覆われていた。この様に2023年7月の史跡訪問では“三津寺史跡”自体の所在地を探し当てるのに大変苦労した。
工事中の写真は6-23項の16-(2)-②に載せた。
完成後の“摂津国・三津寺”の姿も見たいと思い、5ケ月後の工事完成の知らせを得て行った2度目の訪問時には、添付した写真にある様に、大阪市の一等地にある“三津寺”はすっかり近代的なホテルとコラボする建築物へと大変貌を遂げていた。
“摂津・三津寺”に戦国期の面影は全く見られず残念だったが、今日のモダンな“摂津国・三津寺”も是非一度訪ねる事をお勧めする。当時の“大坂(石山)本願寺”(現在の大阪城の辺り)と“摂津・三津寺”が極めて近い距離にある事を確認出来、上述した“織田信長軍”と“大坂(石山)本願寺”の一揆勢との戦闘が行われた事を実感出来る点で、意義のある史跡訪問となると思う。

歴史等
正式名は“七宝山大福院三津寺”で、創建は744年(天平16年)。遷都を度々繰り返した“聖武天皇”(第45代天皇・在位724年~749年)が同年“難波宮”( 現在大阪歴史博物館やNHK大阪放送会館がある一角が難波宮の跡である)に遷都した際に“行基” (渡来僧・生:668年・没:749年)が御堂を建立した事を以て開山とされる“真言宗”の名刹である。
寺院名は“三津(御津)”という地名に由来し、中世には“三津寺荘”という荘園地名があったと伝わる。1945年(昭和20年)3月13日、14日の大阪大空襲の焼夷弾で周囲は大火災になったが“三津寺”は辛くも被害を免れた。庫裏(くり=伽藍のひとつ)は1933年(昭和8年)には既に鉄筋コンクリート造の3階建の建物として再建されていたとの事であり、凡そ100年前に“摂津国・三津寺”は既にその面影を全く残していなかったという事である。

訪問記
“みってらさん”の通称で地元では親しまれている。現住所は大阪市中央区心斎橋筋2丁目であり,大阪のメイン通り“御堂筋”に面しており、大阪の特等地にある史跡である為写真に示す様に2023年秋に完成した“摂津・三津寺”は“ホテル・寺院・物販店舗“等の機能から成る複合ビルへと変身を遂げた。

“三津寺史跡探訪”をした事で“大坂(石山)本願寺”と、この歴史上の史跡の位置関係が分かり“大坂(石山)本願寺”と、本文で記述した“摂津・三津寺”との戦場間の距離が極めて近い事が実感として掴めた。
文中でも記述した様に“織田信長”が“本願寺一揆勢”の兵糧補給路を断つべく“大将・塙直政”に命じて敵方の両砦(木津砦、桜岸砦)の中間の中州に位置する“摂津・三津寺”の攻撃を命じたという歴史であるが、今日の大阪、それも大阪市の中心地、繁華街のど真ん中に再建されたモダンな複合ビルへと変身した“摂津国・三津寺”を目の前にして450年という月日が与えた変貌ぶりに複雑な思いが交錯した今回の“歴史探訪”であった。

下記に工事中だった時の“摂津三津寺”( 2023年7月26日に訪問)並びに工事完了後の同 寺の写真を示す。ほゞ同じ写真を前項6-23項の16-(2)-②で“摂津三津寺攻撃” に就いて記述した際に載せている



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7-(4):“松永久秀”の“多聞山城”を“安土城築城”の為に解体させ、その“多聞山城解体”作業の責任者に“松永久秀”の“不倶戴天の敵”の“筒井順慶”を任じた“織田信長”の人事

”織田信長“は”松永久秀“が心血を注いで築城した“多聞山城”を“安土城築城”の為に解体させた。しかもその“多聞山城解体の責任者”に“松永久秀”の“不倶戴天の敵・筒井順慶”を任じた。更に“多聞山城解体作業”を“松永久秀嫡子・松永久通”自らの手で行わせた。これ等の“松永久秀・久通父子”に対する対応は“屈辱的”で“織田信長“への信頼を失わせたばかりか、恨みを倍加させ、離反を決定的にするものであった。

7-(4)-①:”多聞山城解体作業”の詳細

1577年(天正5年)閏7月22日:

”松永久秀・松永久通“父子にとって”面目を踏みにじられ“そして”心無い仕打ち“以外の何物でもなかった“織田信長”の“多聞山城解体”に関わる人事は、更に“多聞山城解体作業”そのものを“松永久秀“の嫡子”松永久通”自らの手で行わせるという残酷な仕打ちの様なものであった。この史実は“松永久秀・久通”父子が“信貴山城の戦い”(1577年10月5日~10月10日)を起こす直前に起こった事であった。以下にその経緯を紹介する。


“信貴山城の戦い”の直前に“織田信長”が“松永久秀・久通父子”に行わせた“多聞山城の解体作業”

① :1576年(天正4年):“多聞山城”の主殿を“織田信長”の京都屋敷に移築させる
② :1577年(天正5年)6月1日:“織田信長”が“筒井順慶”に“多聞山城”の“高矢倉”を“安土城”に移す様に命じ“松永久通”に人夫を出す様に命じる
③ :1577年(天正5年)6月5日:“多聞山四階櫓(高矢倉)”が“解体され”安土城”に移築される(多聞院日記)
④ :1577年(天正5年)7月22日:“多聞山城”解体に“松永久通”が解体担当者として命じられる


8:“松永久秀”の謀叛は不満、恨みからの“単独行動?”或いは“第3次・織田信<長包囲網への誘い?“

8-(1):“松永久秀“の”織田信長“からの離反の背景は”織田信長“に対する積年の不満、恨みからの”単独行動“では無く”足利義昭“が主唱する”第3次・織田信長包囲網“への誘い説の方が有力

1577年(天正5年)8月8日:

“織田信長”は“松永久秀”が“信貴山城籠城”を決起する前月の1577年(天正5年)閏7月に“能登国・七尾城”の“長氏”から“上杉謙信”軍の“七尾城進攻”に対する援軍要請の使者が来た。これに対し“織田信長”は“支援要請”を受諾した。

“軍神・義の武将・毘沙門天の化身”と称され“戦国最強の武将の一人・上杉謙信”との戦闘も覚悟した“柴田勝家”率いる40,000兵から成る“織田軍・北陸遠征軍”を出陣させ、以後“手取り川の戦い”で“織田方・柴田勝家軍”が大敗する事等は“前項6-23項33-2で記述したので参照されたい。

“織田信長”が“天下人”を自認し“天下布武”の旗印の下“全国統一事業”を推し進める中、1576年5月に“毛利氏”との“同盟関係”も破棄され“毛利氏”並びに“大坂(石山)本願寺”との戦闘が激しさを増し、まさに“織田信長”は“周囲”を“足利義昭”が主唱する“第3次・織田信長包囲網”に加担する勢力に拠って囲まれ兼ねない状況下に置かれた。

1577年(天正5年)8月17日:

”織田信長“からの度重なる屈辱的対応に”切歯扼腕”(せっしやくわん=歯をくいしばり、腕を握りしめて悔しがり、怒る事)忍耐を重ねて来た”松永久秀“からすれば”天王寺砦の戦い“(1576年5月7日)後の”大坂(石山)本願寺包囲作戦“の”定番”(じょうばん=見張り役)に命じられ、しかも“佐久間信盛”の指揮下に入るという人事は耐えられない屈辱であった。

遂に”堪忍袋“の緒を切った“松永久秀”は突如“定番役”の陣を引き払って“信貴山城”に子息“松永久通”と共に“籠城”に及んだ。

この1577年(天正5年)8月17日は“織田信長”が“七尾城支援“の為に”柴田勝家“率いる総兵力30,000の”北陸遠征軍“を編成し”越前国・北庄城“を出陣させた僅か9日後の事であった。”上杉謙信“との戦闘を覚悟した”北陸遠征軍“に”織田信長“自身が出陣しなかった背景には“松永久秀”が離反し、謀叛に至る動きが燻っていた事があったと考えられる。

8-(1)-①:”織田信長“が置かれた”毛利氏+大坂(石山)本願寺“との戦いに加えて”上杉謙信“との対決も迎えるという苦しい状況を知る”松永久秀“が”足利義昭“主唱の”第3次・織田信長包囲網“へ参加する様に“調略”させられる

“足利義昭”が強引に“毛利領・備後鞆”へ移座し(1576年2月)その3ケ月後の1576年5月に“織田信長”との“同盟破棄”をし、直後に“毛利氏”は“第1次・木津川口の戦い”(1576年7月)で“織田水軍”に勝利し“大坂(石山)本願寺”への兵糧搬入を支援した。この戦いが“毛利氏”と“織田信長”との以後6年間に亘る武力闘争の端緒となった戦闘であった。

又“北陸”地域では“最有力戦国大名”の一人である“上杉謙信”との“同盟“も同じく1576年の秋頃には破棄され”織田信長“は1577年8月に“上杉謙信”との直接軍事対決に繋がる“能登国・七尾城”への“北陸遠征軍派遣”を決断している。この遠征軍に“織田信長”自身は参加していないが“加賀国・手取川の戦い”(1977年9月23日)で“織田方・柴田勝家”軍が大敗を喫した。

”松永久秀“が”信貴山城籠城“を決行したのは1577年(天正5年)8月17日の事であるから、未だ“織田信長”方としては“上杉謙信”軍との直接対決と成った“手取川の戦い”で大敗を喫する(1577年9月23日)1カ月以上前の事である。

この時点で“松永久秀”が“織田軍”の“手取り川の戦い”での“劣勢”を知っていた訳では無いが、既述の様に“摂津・三津寺の戦闘”(三津寺攻撃・1576年5月3日)の時点から“織田信長政権”が内部から崩壊する事を彼は予知していたと思われる。従って“松永久秀”が、より将来の安定した受け皿として“毛利輝元”との連繋を謀り、その上で“信貴山城籠城”を決断した可能性は否めないとする説に説得力はある。

8-(2):“松永久秀”が“信貴山城の戦い”を起こしたのは“足利義昭”からの“第3次・織田信長包囲網”への参加へと調略されたと書く“鷺森別院文書”の存在

“鷺森別院”(さぎのもりべついん)は1476年(文明8年・応仁の乱が一応終わる1年前・室町幕府は第9代将軍・足利義尚の時代)に“了賢”(蓮如上人の直弟子と成った紀伊国清水浦の住人・喜六太夫/きろくだゆう/が蓮如上人から頂いた法名)が開創した和歌山市鷺ノ森にある“浄土真宗本願寺別院”の通称である。“鷺ノ森御坊”“雑賀御坊”とも呼ばれる。

1580年(天正8年)閏3月に“織田信長”と“本願寺・顕如”が朝廷を介して10年間に亘った“石山合戦”に終止符を打つ“和睦”が成り“顕如”が“大坂(石山)本願寺”を退去して移った(1580年4月6日)先が“紀伊国鷺森御坊”(本願寺鷺森別院、雑賀御坊とも称される)である。“顕如”は以後1583年(天正11年)7月に“貝塚御坊“(現在の願泉寺)に移り、そして1585年(天正13年)に”豊臣秀吉“が石山の北に位置する”天満“へ”顕如”を呼び戻し、寺地を寄進して“天満本願寺”(現在の大阪造幣局の辺りに位置していた)を造営したという歴史である。

この鷺森別院文書に“松永久秀”が”第3次・織田信長包囲網“を主唱する”足利義昭“の”調略“に乗り”織田信長“への謀叛”信貴山城の戦い“を決断とした事が記されている。“信貴山城の戦い”が“松永久秀”の“織田信長”への私怨から蜂起したとする“単独暴発説”を否定する有力な裏付け史料とされるものである。以下にその記事を紹介して置く。

1577年(天正5年)10月11日付け“鷺森別院文書”の記事(注:戦闘が終結した翌日の記録)

本願寺坊官で“顕如”の側近“下間頼簾”(しもつまらいれん・生:1537年・没:1626年)が“紀伊国”(和歌山県)の“雑賀御坊”(=鷺森別院)の”惣中”(そうちゅう=農村に住み着いている有力者の国人)に宛てた書状に下記の様に書かれている。

“松永久秀”は単に“織田信長”からの仕打ちに対する不満からだけで無く、毛利氏の“鞆”に於いて“亡命政権を構成し、尚も“上洛作戦“つまり”第3次織田信長包囲網“構築によって”織田信長討伐“を図る”足利義昭“からの”松永久秀“に対する”調落“があり”松永久秀“がそれに応じた。
(解説)
史実として当時の“織田信長”方は“北陸、西国、紀伊”から挟撃されかねない状況下であった。従って“織田信長”方の兵力は分散させられる状況であり、こうした状況下“松永久秀”は“畿内”から“織田信長”方の弱点、隙を突くという狙いで“謀叛=”信貴山城の戦い“を起こした。“鷺森別院文書”が伝える文意から“天野忠幸″氏は著書”松永久秀と下克上“の中で”松永久秀単独行動説“否定の根拠としている。


8-(3):“織田信長”軍が各方面への対応に戦力を分散せざるを得なかった状況下“織田信長政権”の内情を知る“外様家臣”又は“従属的同盟者”の立場の“松永久秀”は“今こそ織田信長への謀叛の絶好のチャンスだ!”と判断し“信貴山城への籠城”を決断したとの説がある。これも“勝算の無い単独暴発説を否定する説である

”松永久秀“が”信貴山城の戦い“に至ったのは”織田信長“に対する度重なる不満から、単独で起こした勝算の無い暴発行動説を否定する説がある。

この説は“松永久秀と下剋上”の著者“天野忠幸”氏が主張している説であるが、”織田信長”が“北陸・西国・紀伊”方面夫々の敵との戦闘を抱えた状況下にあった、つまり“足利義昭”が主唱する“第3次織田信長包囲網”に拠って、各方面からの敵に挟撃され兼ねない状況に置かれていた事を“織田信長政権”の内情を知る立場にあった“松永久秀”は冷静に判断し”織田信長軍“は総兵力を夫々の地域に分散せざるを得なかった“という弱みから”信頼性“の観点からも”己の将来にとっての受け皿“としての”安定性“という視点からも、今こそが”織田信長“から離脱し”毛利氏“が中軸となっている“第3次・織田信長包囲網”に加わる“千載一遇のチャンス”だとの判断をして“信貴山城の戦い”を決断したとの“単独暴発説の否定”である。

9:史実が裏付ける“松永久秀”の“信貴山城の戦い”直前の状況、並びに“織田信長”の対応

9-(1):“信貴山城”への入城後、直ちに”籠城戦“の為の工事を開始した”松永久秀“

1577年(天正5年)8月17日:

“松永久秀”は“天王寺砦”部隊の“定番”を命ぜられた人事に、堪忍袋の緒を切り、突如持ち場の戦場から離脱し“嫡子・松永久通“が移っていた”信貴山城“に入城した。“和州諸将軍伝”には、入城時の“松永久秀”が引き連れた軍勢は“騎馬三百余其勢八千余人”と書かれている。そして”織田軍“との“籠城戦”を覚悟した“松永久秀・松永久通”父子は、入城した翌日から“信貴山城”の補強工事を開始した事が伝わる。

9-(2):“松永久秀”が“織田信長”から離反・籠城した事を“浅井長政”の謀叛を信じられなかった時と同様に、当初は理解出来なかった“織田信長”

“松永久秀”が“信貴山城”に“籠城”したとの知らせを受けた“織田信長”はその理由が分からなかったとされる。

これを裏付けるのが“織田信長”が側近の“松井友閑”(12代将軍・足利義晴、13代将軍・足利義輝に仕えた代々の幕臣、その後、織田信長の家臣となった人物・信長の右筆に任じられ、東大寺正倉院の名香蘭奢待拝受の際には奉行を務めた)を“松永久秀”に遣わし“一体、どの様な不満があるのか、考えを言上すれば望み通りにしよう“と伝えさせたという史実である。

過去、2度まで“織田信長”を裏切った“松永久秀”を、此処まで助命して来たの は異例の事であった。“織田信長”には彼の財力”天下人・三好長慶政権”下で養った“交渉力”等、まだまだ“織田信長陣営”に在って使い途がある“と考えて来たからであった。今回も何とか”松永久秀“を翻意させ、関係修復を試みた事が”信長公記“に伝わる。

こうした史実から“織田信長”が“家臣・外様家臣・従属的同盟者”等、近い関係の者達に対する“傍若無人”な対応に拠って“信頼関係“を崩壊させ、その結果”彼等からの離反、そして謀叛“に迄至らせる”人扱いの不器用さ“を裏付けている。

謀叛を起こされて初めて”何故だ?“を繰り返す”不器用すぎた天下人・織田信長“の生まれ持っての“人間関係の鈍感さ・不器用さ”という弱点を晒した史実である。人間の誰しもが一番犯されたくない“自尊心”を散々に踏みにじり“屈辱的扱い“を繰り返し”松永久秀”の“織田信長”への信頼を失なわせ、強烈な“反逆心”を抱かせるに至った時点で、今さら“松永久秀”が“松井友閑”の説得に応じて翻意する筈も無かったのである。(天野忠幸著・松永久秀と下克上)

9-(3):“織田信長”は“松永久秀”を翻意させる事は無理だと諦め、先ずは彼の“知行差し止め”を行った

1577年(天正5年)9月22日:

“翻意”を促す為に訪れた使者“松井友閑”の説得に“松永久秀・松永久通”父子が応じなかった事に対し“織田信長“は“大和国人・岡周防守”に“松永久通”の知行差し押さえを命じる朱印状を送った。更に、百姓が年貢を“松永”方へ納入したら成敗せよと命じている。(八代弘賢氏所蔵文書)“織田信長”は漸く“松永久秀”が翻意はしないと諦め“対決止む無し”を決断したのである。

9-(4):“信貴山城攻め“開始を決断するに当たって”織田信長“が”上杉謙信“が”西進“する事は無かろうと下した正しかった状況判断

”織田信長“は”足利義昭“が主唱する”第3次・織田信長包囲網“からの各方面からの”織田信長討伐“の動きへの対応に迫られていた。加えて“北陸方面”では“上杉謙信”軍が“七尾城の戦い”を制し“織田信長”軍としては“上杉謙信”軍の後塵を拝する形と成った。

更に“柴田勝家”の“北陸遠征軍”が“手取川の戦い”(1577年9月23日)でも“上杉謙信軍”に大敗を喫する”という苦しい状況下に置かれていたのである。

こうした”織田信長“にラッキーな状況が生まれた。それは“上杉謙信軍”がその後“越後”に戻ってしまった事である。この事は“上杉謙信”には当面“上洛”の意図が無く、又“西進”の為の進軍も無かろうとの判断が出来た為“信貴山城の戦い”に本格的に注力する事を決断出来たのである。“織田信長“は嫡子”織田信忠“を総大将とし”細川藤孝・明智光秀・筒井順慶・佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀“等の主力武将達を”信貴山城“に差し向けた。

9-(5):“織田信長”は“信貴山城”への攻撃を開始する前に”明智光秀・筒井順慶・長岡(細川)藤孝“軍5000兵に”片岡城“を攻撃させ落城させた

1577年(天正5年)10月1日:

”織田方“の”明智光秀・筒井順慶・長岡藤孝(細川藤孝)“軍5000兵と”松永久秀“に加勢して”片岡城“(別名:下牧城・興福寺一乗院方の片岡氏の居城・奈良県北葛飾郡上牧町)に籠った“森正友”軍、並びに“海老名友清”連合軍の計1000兵との合戦を行い、激戦の末”片岡城“を落城させた。

この戦闘で”織田方・明智光秀“軍に大きな損害が出たと”多聞院日記“に記されている。一方で、この戦いで”長岡藤孝(細川藤孝)”の当時満14歳だった長男”細川忠興“(肥後細川家の初代と成った人物・生:1563年・没:1646年)並びに”細川輿元“(常陸国谷田部藩初代藩主となった人物・生:1566年・没:1619年)が活躍した。”織田信長“が兄弟の軍功を賞して自筆の感状を与えた事が”細川家文書“に記録されている。

9-(6):“織田信長”は“信貴山城総攻撃”を開始する前に“人質”にとっていた“松永久通”の2人の息子を処刑する

1577年(天正5年)10月3日:

“織田信長嫡男・織田信忠”が陣頭指揮をして“信貴山城総攻撃”が開始された。先ずは城下を焼き払い、夜には“信貴山真言宗”の総本山である“朝護孫子寺”(奈良県生駒郡平群町信貴山・・下記写真参照)の“毘沙門堂”を焼いた。(多聞院日記・信長公記)

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1577年(天正5年)10月5日:

“織田信長”軍は愈々“信貴山城総攻撃”を開始する前に人質と成っていた“松永久通”の2人の息子を処刑した。

”織田家“に人質として預けられていた”松永久通“の14歳と12歳の息子であったが”信貴山城総攻撃“開始前に”洛中“を引き回され、その後に”京都六条河原“で処刑されたのである。この事は”兼見卿記“並びに”信長公記“に記録されており、著者“太田牛一”はこの二人の息子達の堂々と死に臨んだ様子を姿・形・心もゆうにやさしき者共と記している。

又“織田政権”下の“京都所司代・村井貞勝”(生年不詳・没:本能寺の変で織田信忠の宿所妙覚寺に駆け込み二条新御所で討ち死にした)は、幼い2人を助命する為に天皇の御所に逃れさせようと画策した話が伝わる。しかし二人は“村井貞勝”の好意に対して厚く礼を述べ、さらに人質であった間の世話役だった“佐久間与六郎”に礼状を書き、その後、処刑に臨んだと記録されている。

10:“信貴山城の戦い”・・自1577年10月5日・至同年10月10日

10-(1):開戦初期は優勢に戦っていた“松永久秀”軍

“松永久秀”(生:1508年・没:1577年10月10日)は1573年11月の“若江城の戦い”で旧当主の“三好義継”が敗死し、その後、同年12月に“多聞山城”を“織田信長軍”に包囲され“多聞山城”を差し出す等“織田信長”からの“降伏”条件を受け入れた結果、助命され“織田信長家臣・佐久間信盛”の与力として組み込まれた事は既述の通りである。

その後“松永久秀”の活動は殆ど見られなくなり、1年後の1574年(天正2年)12月24日、満66歳の時に出家し“道意”と号した。

その後“織田信長”は1575年11月に“足利義昭”と並ぶ“従三位権大納言”の叙任、並びに“右近衛大将”昇任を“正親町天皇”から得、それ以後“天下人”として公認されたとの自意識の高まりからであろう“家臣・外様家臣・従属的同盟者”達に対して以前にも増して“唯我独尊的人扱い”が目立つ様に成った。“不器用すぎた天下人・織田信長政権”(金子拓氏)は、家臣編成の秩序作りが出来ないまゝ拡大が続き、政権内部から崩壊する危険を増幅させて行った事は既述の通りである。

“松永久秀・松永久通”父子に対する屈辱的扱いはその典型的事例であった。“松永久秀父子”の“織田信長”に対する不信感、不満は募り、忍耐の限界に達した“松永久秀・松永久通”父子は“毛利氏”が中軸と成り、順調に拡大している様に映っていた“第3次織田信長包囲網”に加わる事で将来の受け皿としての優位性を見出し“信貴山城の戦い”を決断したのである。

1577年(天正5年)10月5日~10月7日:

開戦は10月5日であった。当初の戦況は“松永久秀”軍が優勢であったと伝わる。しかし時が経つにつれて“織田軍”との圧倒的兵力差は如何ともし難く“松永久秀”は”毛利氏“と同盟する“本願寺・顕如”の援軍を要請すべく10月7日に“森好久”(筒井順慶の元譜代だった武将。筒井城が落城した為、松永久秀に仕官し、松永久秀の信頼は厚かったと伝わる)を使者として遣わした。“信貴山城の戦い”が“松永久秀”の単独暴発行動では無かったとの説を裏付ける記事が此処でも見られる。

10-(2):信頼した家臣“森好久”に裏切られた“松永久秀”

1577年(天正5年)10月8日:

“本願寺・顕如”への支援依頼の命を受けた“森好久”が翌10月8日に“大坂(石山)本願寺”から200名の“加賀鉄砲衆”を引き連れて“信貴山城”に戻ったとの報告が“松永久秀”に齎された。更に“森好久”は“両3日の中に毛利軍からの援軍も到着する。そうなれば大坂(石山)本願寺からも更なる援軍を差し向けるとの顕如の言葉があった”と伝えた。“松永久秀”はこの“森好久”の報告を素直に喜んだとされる。

しかし、これ等の“森好久”の言動は全て“松永久秀”への裏切りであり嘘の報告であった。“森好久”は“大坂(石山)本願寺”に行ってはおらず、敵方“筒井順慶”の重臣“松倉重信”(生:1538年・没:1593年)の陣所に駆け込み“信貴山城”の内情を敵方につぶさに漏らした。“森好久”は“松永久秀”を裏切り“旧主君・筒井順慶”に再び仕えるという“寝返り工作”をし、それを隠して“松永久秀”の“信貴山城”に戻り上記嘘の報告をしたのである。

哀れ“松永久秀”は“森好久”の裏切りに全く気付かず、まんまと敵方(森好久)の鉄砲隊を“信貴山城中”に入れてしまう事に成った。旧主君である“筒井順慶”は褒美として金子10両を“森好久”に与えた上で、200名の鉄砲衆を伏兵として備える様命じたと“和州諸将軍伝”(1707年/宝永4年/の遊客閑雲子の作・筒井順慶没後100年を経て、筒井氏一族の記述が遺されている)は伝えている。

1577年(天正5年)10月9日:

“多聞院日記”には“夕六ツ過ヨリ信貴城猛火天ニ耀テ見了”と書かれている。つまり10月9日の午後6時過ぎには“信貴山城”周辺の砦、並びに“雌岳”の兵達が調略され、寝返り、しかも“森好久”率いる200名の鉄砲衆が伏兵として城中に入り込んだ上に、城内が焼かれ“信貴山城”の落城が決定的となった。

10-(2)-①:“筒井順慶”軍の“信貴山城総攻撃”並びに“寝返った”森好久“軍勢の200名の”伏兵鉄砲隊”に拠って討たれた“松永久秀・

久通父子”の最期   

1577年(天正5年)10月10日:

”織田軍“総掛かりの“信貴山城総攻撃”は朝から始まった。“総大将・織田信忠“傘下に属した”筒井順慶“軍が前線隊として”松永久秀“の”信貴山城“の攻撃を行った。これに対する”松永軍“が抵抗し”筒井順慶“軍は一時は押し返される場面もあった。しかし、ここで寝返った”森好久隊“の200名の鉄砲隊が”信貴山城“の天守に近い”三の丸“付近から突如、反乱部隊として、火の手を挙げたのであるから”松永軍”の驚きが如何に大きかった事は想像に難くない。そればかりか、これに拠って“松永久秀部隊”の統率力は一挙に失なわれたのである。

この時の火災に拠って”安土城の天守のモデル“と伝わる”信貴山城・四層の天守櫓”が炎上した。

“万事休す“の状況に”松永久秀・松永久通“父子は自害を決意した。”多聞院日記“には”本城“で自害したと書かれ”信長公記“には”天主“で腹を切り、自焼して果てたと書かれている。”松永久秀“(生:1508年・没:1577年)は満69歳、息子”松永久通“(生:1543年・没:1577年)は満34歳であった。

尚“松永久通“(生:1543年・没:1577年10月10日)の自害に就いては“柳本衆”が“織田方”の調略を受け、寝返り”松永久通“を”柳本城“で自害に追い込んだと書いている。又、別の説には”松永久通“は”柳本城“から逃れ”父親・松永久秀“と共に”信貴山城“で自害したとの説もある。いずれにせよ、彼等の首は翌日1577年(天正5年)10月11日に”安土城“の”織田信長“の許へ送られた。

10-(3):“信貴山城の戦い”の纏め

場所:信貴山城(奈良県生駒郡平群町信貴山1308)
年月日:1577年(天正5年)10月5日~10日
結果:“織田信長軍”の勝利・・この戦いを“第3次・織田信長包囲網”の戦いとして位置付ける説もある


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戦況が入ります戦況が入ります
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10-(4):“松永久秀”が“信貴山城の戦い”を決断する上で犯した誤算

“松永久秀が“信貴山城の戦い”を決断した背景には“織田信長”の”松永久秀“に対する度重なる傍若無人、且つ”自尊心“を打ち砕く屈辱的対応に対しての”織田信長への単独暴発“では無く、諸背景、裏付けと成る史料等からも“足利義昭”が主唱し“毛利氏”が中軸と成った“第3次・織田信長包囲網”からの誘い、調略に乗ったとの説の方に説得力があるとされる。

しかし結果として“松永久秀”の“信貴山城の戦い”は失敗し”信貴山城籠城“(1577年/天正5年/8月17日)に対する”信貴山城総攻撃”を受け(1577年/天正5年/10月5日~10日)しかも“毛利氏”そして“本願寺”側からの支援部隊を得る事も出来なかった。こうした経緯から“松永久秀”の“単独暴発説”が伝えられた事に無理は無い。そして“松永久秀”の戦いは、僅か2ケ月程で鎮圧されてしまったのである。

こうした結果に至った事を“松永久秀”には“誤算”があった、として“松永久秀と下克上”の著者“天野忠幸”氏は以下の様な説を展開している。

“松永久秀”は“織田信長”軍が“上杉謙信”軍との“同盟”が前年、1576年秋に破棄され、何れは両者は“戦闘状態”に入ると読んでいた。“毛利輝元”と“織田信長”との間の“同盟”は既に1576年5月には破棄されており、直後の1576年7月13日には“第1次・木津川口の戦い”で“織田信長・毛利氏”は戦闘状態に突入したという事を“織田信長”の“家臣・外様家臣・従属的同盟者”の立場であった“松永久秀“は当然知っていた。

更に“織田信長”は“七尾城の戦い”に対する支援要請を持ち込まれ、それを受諾した。この事は前年同盟が破棄された“上杉謙信”との間の戦闘を覚悟した事であり“織田信長”は1577年(天正5年)8月8日には“柴田勝家”率いる40,000兵から成る“織田・北陸遠征軍”を出陣させた。こうした動きを“松永久秀”は逐一情報として捉えていた筈であり“松永久秀”が離反をした時点の判断としては“信貴山城“で”籠城戦“を挑んでも”織田信長“方には”松永久秀討伐“の軍隊を“信貴山城“へ向かわせる余力は多くないと読んだと思われる。

こうした判断から“松永久秀”は“1577年/天正5年/8月17日“に”信貴山城籠城“を決行した。史実展開は“上杉謙信”は“手取川の戦い”で“柴田勝家”が率いる“織田信長・北陸遠征軍”に大勝したが(1577年9月23日)その後は“能登国”の平定を優先し“織田方・北陸遠征軍”をそれ以上打ちのめす軍事行動に出なかった。こうした“上杉軍”の動きに“織田信長”は“上杉謙信”は冬を迎える前に“越後国”へと軍を引き揚げてしまい、当分西進する動きは無いであろうと読み“松永久秀討伐”を本格化させる決断に至った。

一方“松永久秀”は上記した様に“織田信長”には“松永久秀討伐”の為に派遣する軍の余力は大きくないであろうと読んだ。これが全くの“誤算”であった。“織田信長”の読みが当たり“松永久秀”の読みが大きく外れた結果“松永久秀”の“織田信長”への謀叛“信貴山城の戦い”は上記“信貴山城の戦いの纏め”に記した様に40,000の大軍を派遣した“織田信長軍”に対し8000兵程の兵力しか持たない“松永久秀軍”が僅か6日間の“総攻撃”にあえなく鎮圧されてしまったのである。

10-(5):“松永久秀”が”平蜘蛛の釜“を抱いて“爆死”したとする諸説の紹介

説1
“千利休“の高弟で”堺の豪商・山上宗二“(やまのうえのそうじ・生:1544年・没:1590年)が1588年(天正16年/1586年説もある)に記した”茶道具の秘伝書“として伝わる”山上宗二記“の中では”信貴山城の落城に際して平蜘蛛の釜も失われた“と書かれている。
説2
又“浮世絵”には“松永久秀”が“平蜘蛛”を打ち割って切腹する姿を描いたものが知られる。
説3
“元和”年間(1615年7月13日~1624年2月)に成立した“老人雑話”(儒医江村専斎の談話を門人伊藤担庵が筆録編集した書)では“松永久秀”の首も“平蜘蛛の釜”も、鉄砲の火薬で微塵に砕け散ったと書かれている。この話も“茶の湯”に命を懸けた“松永久秀”の心意気を賞して伝えられて来た話である。
説4
“松永久秀”が、彼が所有した“名物茶器・平蜘蛛”と共に爆死したとする話は、第2次世界大戦後に生まれた俗説だと“松永久秀と下克上”の著者“天野忠幸”氏は記述している。

10-(5)-①:“平蜘蛛の釜が復活した!”との説、並びに“砕いた釜は偽物であった!”との説の紹介


以上4説は、いずれも“平蜘蛛の釜”が失われたとの説という点では共通している。しかし“平蜘蛛の釜”が復活いているとの説が以下の様に伝わる。

”松屋名物集“(生:1567年・没1652年と伝わる大和奈良の塗師松屋の5代目松屋久重が編集したもの)には”多羅尾光信“(多羅尾綱知の子息)が落城した”信貴山城“で砕けた”平蜘蛛の釜“の破片を集めて復元したとの記述”平蛛ノ釜ツキ集メ持ナリ“も伝わる。

この話を裏付ける史料として”津田宗及“(千利休、今井宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた・生年不詳・没:1591年)の”天王寺屋津田宗及茶湯日記他会記“に1580年(天正8年)閏3月13日の茶会(1581年11月12日の茶会と書く説もある)に”若江三人衆“の筆頭で上記”多羅尾光信“の父親”多羅尾綱知“(たらおつなとも・生年不詳・没:1590年以前?)が”平蜘蛛の釜“を使用したとの記述がある。又”松永久秀“と親交のあった”柳生家“の家譜”玉栄拾遺“には”松永久秀“が砕いた”平蜘蛛“は偽物で、本物は友人の”柳生松吟庵“に譲ったとの記述もある。

以上“平蜘蛛の釜”がどうなったかに就いては、諸説が交錯し、残念乍ら実態は不明というのが今日での結論である。

11:“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”は“信貴山城の戦い”で“松永久秀”を討った“織田信長・織田信忠父子”に対し破格の表彰をした。この事は“至尊勢力”が“織田信長政権”を殊更に頼っていた事を裏付ける一方で“矛盾した行為”だと批判する説

1577年(天正5年)10月15日:

”信貴山城の戦い“に総大将として勝利した”織田信長“の”嫡子・織田信忠“が上洛すると”正親町天皇“(生:1517年・崩御:1593年・在位1557年~譲位1586年)は”松永久秀征伐“に対する褒美として“従三位左近衛中将“の官位を”織田信忠“に与えた。そして”父親・織田信長“を1ケ月後の11月20日に”従二位右大臣“に叙任し、昇進もさせている。

この事は当時の“織田信長”が“天皇”を擁する言わば“官軍”の立場であった事、そして“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”が“織田信長政権”を殊更に頼っていた事を裏付ける史実ではある。しかし“松永久秀と下克上”の作者”天野忠幸“氏は、以下の論拠を掲げて“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”がそれと同時に“矛盾した行為”を犯したと批判している。

11-(1):至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力が犯した矛盾とする論拠

“信貴山城の戦い”で“織田信長”軍は“松永久秀”軍を討伐した。“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力からすれば“織田信長”に敵対した大名を“織田信長・織田信忠父子”軍が討伐した事は“官軍”が“賊軍”を討伐した事と考え“織田信長父子”を表彰し、上記“官職・位階”(官位)を与えた事に何の不思議の無い行為に映る。

しかし“松永久秀・父子”は“織田信長”の配下の言わば“家来”或いは“従属的同盟者”という立場である。そして“松永久秀・父子”は“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”に対する“謀叛”に及んだ訳では無い。“信貴山城の戦い”は単に“戦国大名家中”で起きた“謀叛騒動”であり、それを鎮圧した事に対して“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”が上記の様に格別の官位官職を与え、表彰した事は“矛盾行為”であるとの指摘である。

“矛盾行為では無い”と考えるには“正親町天皇”が“官軍・織田信長軍”が“松永久秀・松永久通父子”が起こした、結果的には“単独の謀叛”を討伐した事に対して表彰したのでは無く“松永久秀”の背後に存在した“足利義昭”が主唱する“第3次・織田信長包囲網”の中軸たる“毛利氏”並びに“同盟”する“本願寺”を含めたグループを今回の反乱軍と理解し、それを鎮圧した事に対する表彰をしたと考える他は無い、と“天野忠幸”氏は指摘している。

“信貴山城の戦い”は結果としては“松永久秀・久通父子”が単独で暴発した謀叛の戦いの形で終息した形と成った。従って“織田信長家中の謀叛騒動”に“正親町天皇”が表彰をした形と成った事は否めない。この見方に立てば、今回の“織田信長父子”に対する表彰は至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力が犯した矛盾と考えられるとの見解が成り立つとしている。

12:“信貴山城の戦い”は“不器用すぎた天下人・“織田信長”が“織田信長政権”内の“家臣秩序の編成”に失敗し“織田政権の矛盾”が露呈した“織田信長政権”が“内部崩壊”する事を予見させた戦闘であると同時に“本能寺の変”規定した事件であったと“松永久秀と下克上”の著者“天野忠幸“氏は指摘する

“天野忠彦”氏の指摘に関する2つの論拠を下記に示す

12-(1):論拠その1

“信貴山城の戦い”の後も、後述する様に相次いで“織田信長”の“外様の家臣”並びに“従属的同盟者”からの離反者が出る。この事は“織田信長”が“家臣団”を纏め上げる正統性を作れていなかった事が露呈したと言える。“織田信長”へ“外様の家臣”又は“従属的同盟者”が抱く不満は“佐久間信盛”そして“滝川一益”等、譜代並びに尾張時代から従う家臣団の中にも当然あった。
しかし“佐久間信盛”そして“滝川一益”等、譜代並びに尾張時代から従う家臣団は“織田信長”から預けられた与力によって形成された軍勢しか持たなかった。従って彼等武将は“織田信長”の後見を失ったら没落しかなかったので忍従するしかなかったのである。
一方、自立出来た武将は①独自の家臣団を持つ外様②自らの力で敵地を平定し“織田信長”から預けられた与力を自分の家臣として再編成した“明智光秀”並びに“羽柴秀吉”位であったと考えられる。
“松永久秀・松永久通”父子は②の分類に入る。この立場の“家臣?”又は“従属的同盟者”が謀叛を起こした事は“織田政権内の矛盾、つまり”一枚岩になっていない状態“を露呈した事と成り、後に起こる“本能寺の変”を規定した事件として位置づけられる。

12-(2):論拠その2

“織田信長”は“人間関係に於いて不器用すぎる天下人”であった。この傾向は文中でも記した様に1575年11月に“第106代・正親町天皇”(生:1517年・崩御:1593年)から“足利義昭”と並ぶ“従三位・権大納言”への叙任と“右近衛大将”への昇任を得“天下人”である事を世間が認め、又、自認した事により一層顕著に成った。“天下布武”の旗印の下“全国統一事業”を進める過程で“織田信長”は“家臣団編成”に於ける秩序を打ち立て、その上で家臣団からの信頼を勝ち取る事が出来なかったと言えよう。この事が“人間関係に於いて不器用すぎる天下人・織田信長”の最大の弱点と成った。

“織田信長”は先の義弟“浅井長政”が謀叛に及んだ時と同じように“松永久秀”が離反し、謀叛行動に及んだ時も“何故?”と、彼の離反理由が分らなかったと伝わる。“人間関係に於いて不器用すぎる天下人・織田信長”にとっての敵は、結果的に“足利義昭”を擁する“毛利氏”並びに“毛利氏”と同盟する“本願寺”そして“上杉謙信・武田氏”等の“有力戦国大名”即ち目に見える敵では無く、自らの“家臣団内部”からの自壊であった。

“軍事力”には優れていたが”家臣団を巧く編成する術“に失敗した”織田信長“は、精神的な紐帯(ちゅうたい=紐や帯の様に、二つのものを結び付けて繋がりを持たせる大切なもの)となる、家臣団を自分に対して結束させる秩序を打ち立てる事が出来ない状況下で不満と不安を募らせて行った家臣達の存在に余りにも鈍感であった。要するに”人間関係“に余りにも”不器用すぎた天下人“だったのである。
特に“外様の家臣達”は“織田信長”に“軍事力”を担保(危険に対する保証を与える事)されない立場であったから“織田信長”に対する信頼のみが“家臣団結束”の要諦だったのである。“松永久秀”は“織田信長”の家臣団としての居場所が無いと判断し“信貴山城の戦い”を起こした。彼は“足利将軍家”としての“足利義昭”が主唱する“第3次・織田信長包囲網”の中にこそ“自分が存在出来る秩序の存在“があると判断し、其処に”織田信長“から離反した場合の己の受け皿があると考えたと思われる。
“明智光秀”は“織田信長”の“松永久秀”に対する対応を見るにつけ、先の“塙直政”に対する対応と重ね合わせ、離反の考えを芽生えさせたものと考えられる。そして“明智光秀”を後の“本能寺の変”決行へと走らせたのである。“松永久秀”の“織田信長”への謀叛“信貴山城の戦い”が後に“明智光秀”が“本能寺の変”を起こす萌芽と成り、そして“本能寺の変”への規定路線と成った可能性があると言えよう。

13:“戦国武将・松永久秀”は“戦国の梟雄”との悪評で知られるが、それとは全く異なる人物であった。“松永久秀”の“本当の人物像”に就いて考察する

“松永久秀”は①斎藤道三②宇喜多直家③伊勢宗瑞(後の北条早雲)と共に“戦国の梟雄”として後の世に悪評が伝えられている。しかし“松永久秀”のこうした後世の評価は歪められたものであり“実像”は“室町の秩序”と終生戦い続け”真の下剋上“を追求した武将”と評価すべきである。

以下に史実に基づいた彼の人生を通して彼の“実像”を検証して行く

13-(1):“日本の特異性”である“血統信仰・家格秩序重視”という日本に岩盤の様に根付いた伝統に捉われず、出自も定かでない“松永久秀”を重用し“織田信長”に先んじる“天下人”と成った“三好長慶”という上司に恵まれた“松永久秀”

“松永久秀”は“織田信長”に先んじた“天下人”とされる“三好長慶“に評価、重用され、破格の出世を成し遂げた。彼の幸運は”上司・三好長慶“が”三好氏家臣団”内部の“家格秩序”に捉われ無い武将であり、多くの“大名家”が“当主一族”や、有力家臣の名跡を継がせる形で家臣を取り立てるという“血統信仰・家格秩序重視”という“日本の特異性”に捉われる中で、それを打ち破る上司だったという幸運があった事は既述の通りである。

“三好長慶“は”松永久秀“を”松永姓“のまゝ”三好一族“並びに”家臣団“の最上位まで引き上げたばかりか”主家並み“に取り立てたのである。”三好長慶“がそこまで”松永久秀“を評価した最大の理由は彼のずば抜けた”交渉能力“の高さであった。

“三好長慶”自身も戦国時代で初めて“足利将軍家”を推載せずに“首都・京都”を支配した人物であり“血統信仰”並びに“家格秩序重視”という日本の伝統的価値観に捉われない武将であった。そして“織田信長”に先んじて“天下人”と称される歴史上の武将と成った。

そうした上司に仕えた“松永久秀”は守旧的な“大和国”に於いて、日本最大の宗教権門であった“興福寺”とその膝下の“奈良”という守旧的な土地柄と対峙する形で“新たな武家権力の支配の在り方”を示した。その功績は大きく、その象徴として築城した“多聞山城”は“南都の宗教建築群”を圧倒したとされる。

13-(2):“下剋上を成した代表”として伝わる“松永久秀”だが、その彼が戦い、達成した“下剋上”の相手は、当時の“室町時代の秩序”であった。それを具体的に示すと下記と成る

① “阿波三好家譜代”を中心とした“三好氏家臣団”の“家格秩序”
② “足利将軍”を中心とした武家社会全体の“家格秩序”
③ 宗教権門である“興福寺”を中心とする“大和国の支配秩序”

“松永久秀”は生涯をかけて上記“室町時代”の日本を形作っていた身分制度との闘いに挑んだのである。当時は“身分”並びに“家格”に規定された“秩序”が厳然と存在していた。そうした日本の社会に根付いた“社会秩序”と闘い、改革する事が“松永久秀”にとっての“下剋上”であった。

13-(3):“松永久秀”が“戦国の梟雄”とされ、彼の“3大悪行”とされるのが①主君の暗殺②将軍の殺害③東大寺大仏殿の焼き討ち、である。しかし、何れの悪行も史実で無い

“3大悪行“の第1に挙げられた”松永久秀“が”主君の暗殺”をしたとの史実は無い。6-20項で詳述したが“松永久秀”は“主君・三好長慶”は勿論、その後継者である“嫡子・三好義興”にも忠義を尽くし“三好義興”が夭折した為、彼の後を継いだ“三好義継”に対しても、生涯忠節を尽くした事は既述の通りである。

第2の悪行として挙げられた“第13代将軍・足利義輝“殺害に就いても6-21項―1で詳述した様に、殺害を実行したのは”三好義重”(後に改名して三好義継を名乗った)と”松永久秀“の”嫡子・松永久通“が首謀者であった。そして後に“三好三人衆“と称される”三好長逸・三好宗渭・岩成友通“等が1565年(永禄8年)5月19日に”二条御所“を襲い“足利義輝”を殺害したというのが史実である。(永禄の変)

6-21項の冒頭にも記したが“父・松永久秀“は”永禄の変“の暴挙には加わって居らず、当然首謀者でも無かった。寧ろ、彼は” ”三好義重(三好義継)“並びに”嫡子・松永久通“等、若者達の暴挙“を批判した事も既述の通りである。

“松永久秀”が闘い、そして成した“下剋上”は実力のある地位下位の者が、実力の無い地位上位者を殺害等の手段を用いてとって代わる“と一般的にイメージされる“暴虐非道”な手段を用いて行う“下剋上”では決して無かった。“松永久秀”の“行動理念”は“主君・三好長慶”への忠節、そしてその後継者である“三好義興”並びに“三好義継”への忠節に貫かれたものであり、自分を取り立ててくれた“三好本宗家”への恩義を終生忘れなかったのである。

“三好長慶”の嫡男で、将来を嘱望された“三好義興”(生:1542年・没:1563年)の後見役を担った“松永久秀”が“三好義興”の病気が重篤であると知った時、悲嘆に暮れたとの記録が残っている。この史実が“松永久秀”の忠節ぶりを裏付けている。

“永禄の変”で“三好義重(義継)”等、若者達が“13代将軍・足利義輝”を殺害した際には”若者の暴挙“として批判したばかりか“奈良一条院”に居た“覚慶”(後の第15代将軍・足利義昭)を保護した事は史実であり、既述の通りである。

こうした“松永久秀”の行動は、後に“反・三好勢力”と交渉が出来る余地を残す為の“深慮遠謀”だった。“将軍・足利義昭”にとっては“松永久秀”は兄“室町幕府第13代将軍・足利義輝”を殺害した“敵・松永久通“の父親である事から、同じくと見做され兼ねないが、史実としての”松永久秀“の立場は全く逆だったのである。”松永久秀“のお陰で、一生を”一条院覚慶”として過ごさなければならなかったであろう処を“第15代・室町幕府将軍・足利義昭”に就く結果と成る命の恩人だったのである。

従って“永禄の変”で“三好義継”(義重)並びに“松永久通”と共に“将軍足利義輝殺害事件”の仲間であった”三好長逸・三好宗渭・岩成友通“(後に三好三人衆と呼ばれる)からすれば”将軍殺害“に加わらなかったばかりか“松永久秀”は“足利義輝”の弟“覚慶”(後の第15代将軍・足利義昭)を保護したばかりか”三好長逸・三好宗渭・岩成友通“等が敵とする”和田惟政・細川藤孝・三淵藤英“等の幕臣、そして”朝倉義景“等に“覚慶”を奪われるという大失態を犯した人物になったのである。

こうした“松永久秀”は”三好長逸・三好宗渭・岩成友通“(後に三好三人衆と呼ばれる)からすれば許す事が出来ない人物であり“松永久秀”を“三好一族”から排斥した。こうした歴史展開に就いては6-21項の4-(3)で詳述したので再度参照願いたい。

基本的に“主君”である”三好本宗家当主・三好義継“に忠節を尽くす”松永久秀“のその後の動きに就いても6-21項で記述したが”松永久秀“は”三好一族“から排斥された期間中も“当主・三好義継”に対して、一切、遺恨を抱くという事は無かった。相変わらず“主君”として”当主・三好義継“を守る姿勢を保ち、後に”三好義継“が”三好三人衆“並びに”篠原長房“等と対立関係に成り”三好本宗家“の”当主“としての”立場“を失なうと”松永久秀“は真っ先に手を差し伸べ、以後、保護し続けた事も既述の通りである。

前々項6-22項7-(1)で記述した様に“元亀争乱”最中の1571年(元亀2年)5月に“松永久秀”は、彼の宿敵“筒井順慶“を重用した”将軍・足利義昭“と袂を別ち対立関係と成った。これを機に“松永久秀”は6年ぶりに”三好三人衆・阿波三好家“との和解を成し”三好勢力再結集“を果たしている。この史実からは、自分を取り立ててくれた“三好本宗家”への恩義を終生忘れなかった”松永久秀“の忠節心が裏付けるられている。

儒者で明経博士の“清原枝賢“(きよはらのえだかた・生:1520年・没:1590年)や”広橋国光“(公家・生:1526年・没:1568年)そして”高山右近“の父親でキリシタン大名で勇猛で教養もあり領民に慕われた”高山飛騨守ダリオ“(高山友照・生年不詳・没:1595年)更には“柳生宗矩”の父親“柳生石舟斎宗厳”(やぎゅうせきしゅうさいむねよし・生:1527年・没:1606年)等、錚々たる人物が“松永久秀”の下に集結した史実からも、彼が“戦国の梟雄”と称され、悪の代表の様に伝えられて来た事が全く史実とは異なる間違った説である事を裏付けている。

“松永久秀と下剋上”の“中で著者“天野忠幸”氏は“将軍・足利義昭”並びに“織田信長”と“松永久秀”の関係が敵対関係ばかりであったとの印象が後世に伝わったのは“信長公記”の記述の影響が余りにも強かった為であるとしている。

第3の“松永久秀”の悪行として伝わる“東大寺大仏殿の焼き討ち”についても6-21項の29~31に詳述したので参照されたい。“松永久秀”が“東大寺大仏殿”を故意に焼き払った事では決して無い事が理解出来よう。

13-(4):“松永久秀”墓地、並びに“信貴山城”訪問の写真

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14:“松永久秀”の“信貴山城の戦い”以降、連続した“織田信長政権”の“外様家臣”並びに“従属的同盟者“の“織田信長”からの“離反”そして“謀叛”

”松永久秀”の離反、そして挙兵に拠る“信貴山城の戦い”は、結果的に“不器用すぎた天下人・織田信長“の著者”金子拓“氏が一貫して同書で指摘した様に”家臣・外様家臣・従属的同盟者“達との人間関係に於いて”織田信長“の余りにも拙い人扱い、対応が”離反“を呼び、そして”謀叛“へとエスカレートさせた結果である。

“織田信長政権”に於て“織田信長”は、政権内部の“家臣団編成”に於ける秩序を打ち立てる事が出来ず“本能寺の変”で、最も信頼した家臣の一人である“明智光秀”に討たれる事になるが、その規定路線となったのが“信貴山城の戦い”だとする説に就いては紹介した。

“信貴山城の戦い”以降“織田信長”は“外様家臣”並びに“従属的同盟者”が“織田信長”から、次々と離反し“謀叛”に至った為、その“戦闘対応”に苦しめられる事に成る。この項の冒頭に“6-24項に関する総括暦年表”を示した。以後の歴史展開の理解の助に再度“信貴山城の戦い”以降の部分を切り抜いて示すので参照願いたい。

この時系列表からも“織田信長”は“従属的同盟者”等からの“離脱”そして“謀叛”が重なる事態を自ら招き、その対応に手一杯となる事が明白である。尚、表中A~Mは“織田信長”が“本能寺の変”で討たれる原因、又は遠因となったと思われる事項を表し⑤~⑭は“全国統一事業”に向かっての戦闘を示している事は冒頭注記した通りである。

注記1
① 1576年4月“天王寺砦の戦い
② 1576年7月“第1次木津川口の戦い
③ 1577年2月~3月“紀州征伐”
④ 1577年9月“手取り川の戦い”

以上の戦闘に就いては6-23項で記述済みなので省いている。従って下表は1577年10月以降に就いての記事のみを取り上げた。

⑤ 1577年(天正5年)10月5日~10月10日:“信貴山城の戦い”で“松永久秀”を討つ
⑥ 1577年(天正5年)11月:第1次“上月城の戦い”で“毛利方・赤松政範”を“羽柴秀吉軍”が討ち“上月城”を奪う
⑦ 1578年3月~同年7月:三木合戦・有岡城の戦い(別所長治・荒木村重)
⑧ 1578年(天正6年)4月18日~7月3日:第2次“上月城の戦い”・・上月城が“毛利方”に拠って奪還され“山中鹿之助”等が討たれ“尼子再興    軍”が終焉を迎えた
⑨ 1578年11月6日:第2次木津川口の戦い・・“織田水軍”が“毛利水軍”に勝利し“大坂(石山)本願寺”にとって致命傷と成る
                   
H 1579年(天正7年)6月頃?:宇喜多直家が“毛利氏”と袂を別ち“織田信長”に臣従する(宇喜多直家は1581年11月~1582年1月の間に没する)
I 1579年(天正7年)10月:“織田信長”が“丹波国”を平定した“明智光秀”に丹波・丹後の両国を与える
⑩ 1580年閏3月~8月2日:本願寺法主・顕如が“和睦”に応じ石山合戦が終息(閏3月勅命講和)石山が織田信長のものと成る(8月2日)
J 1580年10月:佐久間信盛父子を追放、一方で明智光秀を“近畿管領”に昇進させる(この事が明智光秀に拠る京都本能寺襲撃を容易にさせた)
⑪ 1580年3月1日:加賀一向一揆平定・・92年間に亘った一揆持ちの国加賀国が消滅する(柴田勝家と佐久間盛政軍)
                                  
⑫ 1581年(天正9年)3月~10月25日:“第2次・鳥取城籠城戦”・・吉川経家自刃
  
K 1581年後半に“織田信長”と“長宗我部元親”が決裂。1582年早々から“織田信長”の“長宗我部元親”討伐が始まる
⑬1582年2月3日~3月11日:甲州征伐・・武田勝頼自刃、甲斐武田氏の滅亡
L 1582年(天正10年)5月7日:3男“織田信孝”に“四国国分令”を出し“長宗我部氏”の既得権益を全否定する
⑭ 1582年5月29日:“織田信孝”率いる“四国方面軍”が14,000兵で“四国占領”の為“堺”の北“住吉”に着陣、6月2日に四国へ出航予定であった
  
M 1582年(天正10年)6月2日:“本能寺の変”で“織田信長”が“明智光秀”に急襲され自刃
 
 
注記2
表中⑤で示した“信貴山城の戦い”に就いては既述の通りである。同表にある表⑥で示した“第1次“上月城の戦い”以降の戦闘が以下に記述して行く戦闘である。 こうした戦闘の間に、表中H,I、J,K,L、Mの事柄が起きる。これ等の出来事は“織田信長”が“本能寺の変”で“明智光秀”に討たれる迄の史実だが、これ等は、あたかも“本能寺の変”に至る規定路線と成った事柄であり“織田信長”は自身の行動で“本能寺の変に至る規定路線”を敷いてしまったのである。
 
15:“毛利氏”との“同盟破棄”(1576年5月)直後の“第1次木津川口の戦い”(1576年7月)で“織田信長”は初の直接戦闘で敗れた。又“手取り川の戦い”(1577年9月)でも“上杉謙信”軍に大敗した“織田信長”(柴田勝家)であったが“上杉謙信”が幸いにも更なる軍事行動に出ないと判断した“織田信長”は“信貴山城の戦い”で“松永久秀”を敗った。その後の“西進策”を本格化すべく“羽柴秀吉”に“播磨平定”を命じた“織田信長政権”は内部からの離反、謀叛の連鎖に悩まされる

“播磨国” の支配状況は当時は、曖昧、且つ不安定であった事は記述した。“第9代当主・赤松政則”の時期に再興が認められたものの、当時、僅か満3歳の幼当主であった為“重臣・浦上則宗”(生:1429年・没:1502年)が台頭した。その後“備前守護代・浦上村宗”(生:1498年・没:1531年)期に、実質的支配者として“浦上氏”は勢力を拡大し“播磨国・美作国・備前国”3国で、大きな力を持つ存在と成った。

“浦上村宗”の時期に“当主・赤松義村”(赤松家第10代当主・生年不詳・没:1521年)を死に追いやり、後継に“赤松義村”の子“赤松政村”(後に晴政に改名・赤松家第11代当主・生:1513年?・没:1565年)を擁立し、全くの傀儡状態とした。その“浦上村宗”の息子が“浦上政宗”(生:1520年?・没:1564年1月)と”浦上宗景“(生没年不詳)兄弟“である。

しかし、既述の様に“浦上兄弟”は当時の“尼子氏”への対応を巡って対立、弟の“浦上宗景”は“播磨国”から“備前国”に移り“毛利元就”に属すという分裂を起こしたのである。そして兄弟が再び和睦するの1563年で“浦上氏”にとっては10年間のロスが生じた。

従って、この時期の”播磨国“の実力者として名が挙げられるのは①“三木城主・別所長治”がトップで②“姫路城主・小寺政識”そして③“守護家一族”で“龍野城主・赤松広英”である。

15-(1):“播磨国”の平定を命ぜられた“羽柴秀吉”は1577年(天正5年)10月中にほゞ“平定”の目途をつけ、尚も“播磨国”西部にある“毛利方・最前線の城”の”上月城攻略”更に“竹田城攻略”を行った

1577年(天正5年)10月23日:

“播磨国衆”と“織田信長”との間のパイプ役を担っていたのは“摂津国一職支配”(一国或いは郡を単位とした地域的支配権)を任されていた“荒木村重”であった。ところが“織田信長“は”荒木村重“では無く“播磨国平定”の責任者に“羽柴秀吉”を任じたのである。

“毛利氏”とは“同盟破棄”(1576年5月)した後でもあり、且つ、既に“木津川口の戦い”(1576年7月13日)で直接戦闘を交えた戦闘関係に成っていた。しかも“毛利氏”は“備前国“で台頭著しい“宇喜多直家”を使って東進を図り“播磨国“をも窺う状況であった。こうした状況下であったから“荒木村重”よりも“毛利氏”との外交関係を担当して来た“子飼いで譜代”しかも“尾張出身”の”羽柴秀吉“の方が”適任“だと“織田信長”が判断した上での人事であった。

この様にして“播磨平定”の任務を“羽柴秀吉”に任せた“織田信長”の判断は正しかったが“荒木村重”にとっては不満な人事であった。

”播磨国平定“に向け1577年10月23日に”京都“を出発した”羽柴秀吉“はその月のうちに“播磨国”に入り、すぐさま平定の軍事行動を開始した。そして“播磨国中”を駆け回って国衆から人質を徴収し“播磨国の西端の部分”を除く全域を平定して了ったのである。

“羽柴秀吉“は“上月城”の攻城戦に向かう、更に“弟・羽柴秀長”(豊臣秀長・生:1540年・没:1591年1月22日)を“毛利氏”に帰属する“太田垣輝延”の居城“但馬国・竹田城”に向かわせ、攻略させたのである。

16:“羽柴秀吉”が“弟・羽柴秀長”に命じた“竹田城”攻めとその目的

“播磨国平定”を命じられた“羽柴秀吉”は“織田信長“に“播磨国”以西を攻めるには“姫路城“に拠点を変えた方が良い、と申し出て許された。

この話の背景には“織田方”に与していた“小寺政職”(こでらまさもと・当初は織田方に敵対した武将だが小寺孝隆=黒田孝高=黒田官兵衛の進言で1575年に織田方と成った・生:1529年・没:1584年)の家臣で“姫路城”の城代の“黒田孝高”(くろだよしたか=小寺孝隆、黒田官兵衛・生:1546年・没:1604年)が1577年10月の“信貴山城の戦い”後に“播磨平定”を命ぜられ進軍して来た“羽柴秀吉”の才能を見抜き、主君の“小寺政職”と共に“羽柴秀吉”に仕える事を決断したという事があった。(長篠の戦い/1575年5月/で武田勝頼軍に圧勝した時点で織田信長の将来性を見た時から決断していたとの説もある)

その際(1577年)に小寺孝隆=黒田孝高=黒田官兵衛は自らは“姫路城二の丸”に移り“本丸”を“羽柴秀吉”に譲ったと伝わる。

以後の“羽柴秀吉”の進軍は早く”播磨国“の西端部分を除いて1577年10月中にほゞ平定を終え“上月城”の攻城に向かった。又“弟・羽柴秀長”は“但馬国・武田城攻略”に向かったが、その狙いは①毛利軍に帰属する”但馬諸将の制圧②生野銀山を管轄する“竹田城”の確保であった

16-(1):“羽柴秀吉”が“弟・羽柴秀長”を“但馬国・生野銀山”を管轄する“毛利方・太田垣景近”の“竹田城攻め”に向かわせた

1577年(天正5年)10月末:

”弟・羽柴秀長“は3000の兵を率いて北方に位置する”但馬国・竹田城攻略“に向かった。“竹田城“は”生野銀山“を管轄しており、その確保が”羽柴秀長“軍の第一の使命であった。

1577年(天正5年)11月:

“羽柴秀長”軍は“真弓峠”から“但馬国“に進軍し、先ずは”岩洲城“(兵庫県朝来市岩津)を攻め落し、次いで“竹田城”攻撃に移った。この状況を“信長公記”は以下の様に伝えている。

直に但馬国へ相働き,先山口岩洲の城を落城し、此競に“小田恒”(=太田垣輝延)楯籠る“竹田”へ取懸り、是又退散、則、普請申付け“木下小一郎”(羽柴秀長の事)城代として入れ置かれ候
(解説)
文中の通り岩洲城を落してから“小田垣(太田垣輝延)”が立てこもった“竹田城”への攻城を開始、すると敵は退散し“木下小一郎(羽柴秀長)”が竹田城の城代として入った。

16-(2):“竹田城の戦い”の纏め

年月日:1577年(天正5年)11月
場所:竹田城
結果:“織田信長”軍(羽柴秀長軍)の勝利


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戦況が入ります戦況が入ります
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16-(3):2年5ケ月後に“竹田城”を巡って、再び“織田方”と“毛利方”の攻防が起った、その結果“織田方”が“竹田城奪還”を果たした

1580年(天正8年)4月:

上記1577年(天正5年)11月に“羽柴秀長“が城代として入った”竹田城“であったが“織田信長”が“明智光秀”に命じた“丹波国”(京都府の一部・兵庫県の一部)制圧の支援を“羽柴秀長”にも命じた為、その隙を突いた”毛利方“の”太田垣輝延”軍が城奪還に動き“竹田城”を奪還した。しかし、2年後に”織田信長“は再び”羽柴秀長“に”竹田城奪還“の為、6400兵を与え、奪還に成功した。”竹田城”並びに“有子山城”(ありこやまじょう・兵庫県豊岡市出石にあった山城・山名氏城跡として国の史跡に指定)は、さしたる抵抗もせずに降伏し“山名祐豊”(やまなすけとよ・但馬国守護・有子山城々主・生:1511年・没:1580年)並びに“太田垣輝延”(おおたがきてるのぶ・但馬国人衆・生没年不詳)は夫々の城を追われ、滅亡した。

“羽柴秀吉”は弟“羽柴秀長”を“有子山城”の城主に、そして“竹田城主”には“羽柴秀長配下・桑山重晴“(生:1524年・没:1606年)を命じた。尚、現在の見事な“竹田城”が完成したのは、後に”羽柴秀吉“に投降した”龍野城主・斎村政広“(赤松政秀の子で赤松広秀、赤松広通とも称す・生:1562年・没:1600年)が”竹田城主“と成った時期の事である。

16-(4):“竹田城訪問記”:訪問日2023年(令和5年)12月7日

住所:兵庫県朝来市和田山町竹田

交通機関等

“竹田城城址”は会社勤務時代に“和田山”にあった客先を訪ねた関係で周辺を車で何度も通りかかる機会があり、その存在は知っていた。今回の史跡訪問の機会には、後に記述する“三木城“も訪ねるスケジュールであったので時間を有効に使う為にも、大阪市内からのレンタカー利用が良いと判断し、車での史跡探訪と成った。

午前8時に大阪市南森町のトヨタレンタカー営業所で予め予約していた普段乗り慣れているプリウスを借り、AM8:30分に出発、途中赤松PAで朝食と休憩をし、和田山の“竹田城祉”に着いたのはAM11時50分であった。我々は“竹田城”訪問の後“三木城祉訪問”も済ませ、大阪市南森町のトヨタレンタカー営業所に戻ったのは17時過ぎであった。今回の歴史探訪全行程の走行距離は270km程であった。

訪問記
“竹田城祉”訪問は、城址入り口から途中迄はレンタカーの乗り入れが許可されたが、其処から先は徒歩で40~50分かけて登るか、史跡内を巡回するタクシーで城壁が連なる史跡近くまで行くかのどちらかを選択するシステムになっていた。我々は時間の制約もあったので、往路だけ1000円程のタクシー料金を払って城壁の連なる地点近くまで行き、それから先は写真に写した見事な城壁が聳える城址を見学しながら歩いた。天気は添付の写真に見る通りの曇天で、タクシーを降りて山頂を目指して歩きだした直後から小雨模様となった。“日本のマチュピチユ“と呼ばれる壮大な石垣群の威容が見られないのでは・・と心配したが、幸いにも写真に在る様に”竹田城“らしい雲の姿をバックにした素晴らしい風景を楽しむ事が出来た。駐車場までの戻り道は凡そ20分程であった。“竹田城祉”の美しい景色は是非一度は訪れる事をお勧めしたい。
歴史等
築城主は”応仁の乱“(1467年~1477年)の西軍の総大将”山名持豊(宗全)(生:1404年・没:1473年)で、1443年に築城し”太田垣光景“を初代城主にしたと伝わる。標高354mの”虎臥山“の山頂に築かれ、南北約400m、東西約100mに天守台、本丸、二の丸、三の丸等が連郭式に配置された名城である。廃城は1600年とされるから、廃城後、今日迄、既に420年以上も経っているにも拘わらず、写真に見る様に石垣がほゞ当時のままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模のものとされる。
1441年(嘉吉元年)6月24日、室町幕府“第6代将軍・足利義教”が当時の“播磨・備前・美作国”の守護“赤松満祐”に暗殺された“嘉吉の変(乱)”が起った。(6-15項の34参照方)その“赤松満祐〝追討令を幕府から受けたのが”山名宗全“であり3ケ月後の1441年9月に”赤松満祐“を討った。”但馬国“守護であった”山名宗全“は、その恩賞として”播磨守護“にも任じられ、その後”太田垣氏“を守護代として”播磨奪還“を図る”赤松一族“の”掃討戦“を続けたという歴史である。
文中記述した様に1577年(天正5年)に”羽柴秀長“軍が”竹田城“を攻略し”羽柴秀長“が城代として入城した。”竹田城攻略“の”織田信長軍“の狙いは①”但馬諸将の制圧“②”生野銀山の確保“であった。その後“毛利方”が奪還したが、1580年には再び“羽柴秀長”が“竹田城”を奪還した事、並びに、現在の見事な“竹田城”を完成させたのは、後に”羽柴秀吉“に投降した”龍野城主・斎村政広“(赤松政秀の子で赤松広秀、赤松広通とも称す・秀吉の直臣・生:1562年・没:1600年)が”竹田城主“と成った時期である事も既述の通りである。その”斎村政広“は“関ケ原の戦い”で西軍に属し、敗れ、切腹している。

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17:“毛利軍・東の最前線・上月城”を攻略した“羽柴秀吉”軍・・“第1次上月城の戦い”

“第1次上月城の戦い”は“織田信長”が“羽柴秀吉”に命じて“毛利方”の“東の最前線基地“を叩く”本格的西進“の為の軍事行動であった。   

17-(1):“毛利方・宇喜多直家“に帰属していた”上月城“を”羽柴秀吉“軍が攻略する

1577年(天正5年)11月28日:

“羽柴秀吉”軍は1577年(天正5年)11月28日、約3万の兵で“備前国・宇喜多直家”と同盟を結ぶ“城主・赤松政範”の“播磨国・上月城”を攻めた。(位置関係に就いては別掲図:織田信長が毛利氏との同盟破綻に至った山陽地域勢力図を参照方)

“羽柴秀吉”は先ず“竹中重治“(通称竹中半兵衛・生:1544年・没:1579年6月13日)と”黒田孝高“(通称黒田官兵衛・生:1546年・没:1604年3月20日)の隊に命じて“福原城”(上月城の北東に近接の城で上月城、高倉城と共に赤松氏の城郭郡を成していた)を攻略させている。その後“上月城”への総攻撃と成った。“福原城”の記録には250余人が切り捨てられ、皆殺し状態だったとある。

“上月城”側は”上月城主・赤松政範“(生年不詳・没:1578年12月3日)の本隊7,000兵と“毛利方”に属した“備前国・宇喜多直家”の“舎弟”で”赤松政範“の妹婿に当たる“沼城主・宇喜多広維“(生年不詳・没:1577年)の援軍3,000兵(メモ)の計10,000兵で迎え撃った。

メモ:黒部享氏著作の“宇喜多直家/秀吉が恐れた希代の謀将”の中では援軍は“宇喜多広維”の名では無く“長船貞親”(宇喜多氏家臣で宇喜多三老の一人・生年不詳・没:1591年閏1月6日)と“岡剛介”の軍3000兵と記している

しかし“織田方・羽柴秀吉”軍の総攻撃は凄まじく、兵力の差もあって“西播磨殿”と呼ばれた“毛利方・赤松政範”軍は敗色濃厚となり“羽柴秀吉”に和議を申し入れた。ところが“羽柴秀吉”は聞く耳を持たなかった。“赤松政範”は先に妻を刺殺し、その後一族郎党と共に自害して果てた。“宇喜多直家/秀吉が恐れた希代の謀将”の中で著者“黒部亨氏”は“赤松政範は家臣に拠って殺害された”と記述している。

“上月城攻城戦“の七日後、城兵が”城主・赤松政範“の首を持って降参して来た。しかし”羽柴秀吉“は赦さず、城兵だけでなく、城内の女性や子供までを捕らえ”播磨・備前・美作“の国の境目まで連れて行き、悉く磔にかけ、そのまま晒し者にした。こうした殺戮方法は、敵への威嚇が目的であり、これに怖気づいてあっさりと降参すれば次は寛大な処置で済ますという一種の宣伝戦である。“織田信長”が時々用いた戦法だった事が“下村文書”に記されている。

勝利した“織田方・羽柴秀吉”は奪った“上月城”に“尼子再興軍”の“尼子勝久・山中鹿之介”を入れ、以後の守城を任せた事は既述の通りである。“尼子家再興”の為に“毛利氏“と戦闘を続けて来た“尼子勝久・山中鹿之介”以下“尼子再興軍”にとって、宿敵“毛利氏”に勝利し“上月城”の守城を任された喜びは大きかったのである。

これで“播磨国”をほゞ平定し終えたかに見えた“織田方”であったが、3ケ月後に大きな落とし穴が待ち構えていた。

“織田信長”に従う事を続けるか“毛利氏”の方が信頼出来るのか、の議論が“別所氏内部”で沸き上がったのである。そしてその結果が後述する“三木合戦”である。以下に上述した“第1次・上月城の戦い”に就いて纏めて置く。第1次と称する理由は“上月城”を奪われた“毛利方”はこの4ケ月後に“上月城”を奪還すべく大軍を送り“第2次上月城の戦い”が起きるからである。

17-(2):“第1次・上月城の戦い”の纏め

年月日:1577年(天正5年)11月28日~12月3日:
場所:上月城(兵庫県佐用郡佐用町)

経緯、並びに結果:

“信貴山城の戦い”(1577年10月)に勝利し“松永久秀”討伐を終えた“織田信長”は“羽柴秀吉”を播磨に派遣した。10月23日に“姫路城”に着陣した“羽柴秀吉”は軍を2手に分け、既述の通り、自らは“上月城攻略”に向かい、そして弟の“羽柴秀長”を“但馬国・竹田城攻略”に向かわせた。

10月中に“播磨平定”をほゞ終えた“秀吉”軍であったが“西播磨”の“毛利方”の言わば“東進”の為の最前線拠点である“上月城攻略”は未だであった。先ずは11月27日に“福原城”を陥落させ、その勢いのまゝ、11月28日に“上月城”を15、000の兵で包囲し、12月3日に3万の兵で総攻撃を開始した。戦闘は“羽柴秀吉”軍が圧倒し、城主“赤松政範”(生年不詳・没:1577年12月3日)はじめ、多くの城兵の首を討つた。尚、戦死した者の中に“毛利方・宇喜多直家”の舎弟で“赤松政範”の妹婿の“沼城主・宇喜多広維“が含まれていた。


“羽柴秀吉”軍の残虐な対応は、女・子供にも容赦無いものであった。子供達を串刺しに、そして女達迄をも磔にしている。その上、彼等を“備前・美作・播磨”3ケ国の境目に並べ置き、晒し者にした事が“下村文書”に残されている。“毛利氏”への牽制をすると共に、未だどちらにも就こうとしない“播磨国衆”への見せしめとする為に敢えて行った殺戮であった。

18:“外様家臣?・従属的同盟者?”等の“家臣団編成”に於ける秩序を打ち立てる事が出来なかった“不器用すぎた天下人・織田信長政権”内に生じた矛盾


先の“松永久秀”に拠る“信貴山城の戦い”(1577年10月5日~10月10日)は“不器用すぎた天下人・織田信長”が“人間扱いの稚拙さ”故に“家臣団編成”に於ける信頼関係に基づいた秩序を打ち立てる事が出来ず“外様家臣?・従属的同盟者?”が“織田信長”への信頼を失い、将来への不安に見舞われ、そして“離反”し“謀叛”に至るという“織田信長政権”の内部崩壊とされる戦闘であった。

こうした事態の背景には、そうした“織田信長政権”の“家臣団編成”に於ける秩序不安に対して”足利義昭”の”第3次・織田信長包囲網“の中核と成った”毛利輝元“軍が比較出来る対象として存在していた事があった。当時の武将達に”天下人・織田信長“に与するか、又は”毛利軍“に与するかの選択を迫る状況があったのである。

そうした中で”織田信長政権“の内部崩壊とも言える”信貴山城の戦い“はじめ”内部崩壊を招き兼ねない事態が続いていた事は”毛利輝元“方を利する状況下にあったと言える。

先の“松永久秀”の“信貴山城の戦い”を制した“織田信長”にとって、協力関係にあり“従属的同盟者”であった“播磨国最有力武将・別所長治”が目の当りにした“第1次・上月城の戦い”に於ける”織田方・羽柴秀吉“に拠る虐殺は決して”別所長治“の”織田政権“に対する信頼感にとってプラスに働くものでは無かった。そして後述する”加古川城“に於ける”羽柴秀吉“と”別所吉親“の”加古川評定“の結果、両者は決裂し”別所氏“は”織田信長陣営“からの“離反”を決断し“毛利方”に与する“謀叛”を起こし“三木合戦”と成ったのである。

“三木合戦”の勃発は“外様家臣・従属的同盟者”の立場である“荒木村重”に波及し、彼も“織田政権”からの“離反~謀叛”の動きを起こし”有岡城の戦い“が勃発する。

1578年(天正6年)3月29日~1580年(天正8年)1月17日:
“三木合戦”・・・“播磨国・別所長治”
          
1578年(天正6年)7月~1579年(天正7年)11月19日:
“有岡城の戦い”・・・“摂津国・荒木村重”

”別所長治“そして”荒木村重“は、共に“織田信長政権”内の“外様家臣?”又は“従属的同盟者?”の立場の武将である。その両武将が“足利義昭”が主唱する“第3次・織田信長包囲網”勢力の中核をなす“毛利氏”の方が“織田信長”よりも受け皿としての信頼感、将来の安定性に於いて比較有利と判断しての“織田信長政権”からの離反であった。勿論、彼等に対する“毛利方”からの“調略”があったとされる。

”別所長治“そして”荒木村重“両武将の“離反・謀叛”に至る経緯は異なる。しかし両者共に“織田信長政権内”の“家臣団統制”に不満を持ち“足利義昭”が主唱する“織田信長討伐”を掲げる“第3次・織田信長包囲網”に参加する事の方に、より安定した将来の受け皿としての魅力を見出し“織田信長”からの離反を決断させたと言えよう。

“別所長治”並びに“荒木村重”夫々の離反の経緯、背景に就いては後述するが、こうした“外様家臣?”又は“従属的同盟者?”の“離反”そして“謀叛”に至った経緯、そして背景には“浅井長政・松永久秀”が“織田信長”から“離反”し“謀叛”に至ったケースと共通した根っ子があろう。

つまり“織田信長“の言動から”織田信長“という人間への不信感が拭い切れなかった事、そして功績を重ねた家臣にさえ、容赦無い厳罰を与えた事を知る彼等は”織田信長“に対する恐怖感、嫌悪感を募らせたのであろう。そこに、一方の”毛利氏“との”信頼性・安心感・安定性“の比較の余地が生まれ”毛利氏“に与する事を決断させ”織田信長政権“からの離反、そして謀叛へと向かわせたのである。

結論的に“織田信長”は“家臣・外様家臣・従属的同盟者”に対してその“人間対応”に於いて“不器用すぎた天下人”であった。

“織田信長”は”信頼“し、より身近に感じた”家臣・従属的同盟者”を確かに優遇もした。しかし反面、彼等に対して容赦なく“傍若無人“と思われる言動を吐き、人事を行った。若い頃の”織田信長“から発せられるそうした言動、対応、人事と”天下人・織田信長政権“を率いる立場の彼が発する対応は”家臣“並びに”従属的同盟者“に与える影響度は全く異なるという事に無頓着であった。結果”織田信長“は”家臣“並びに”従属的同盟者“達からの”信頼感“を著しく失ない”不安感“を抱かせ、彼等を招来に対する疑心暗鬼に陥れた。

”織田信長“の”不器用すぎる天下人振り“は、比較対象として存在した”毛利氏”の“家臣団編成”の方に、より“安定感・信頼感”を抱かせたのである。

”不器用すぎた天下人・織田信長“は、そうして”離反“し”謀叛“に及ぶかも知れない”危険な家臣・外様家臣・従属的同盟者”達に対する軍事力付与等の面でも、又、配置の面でも全く無頓着だったと言える。

こうした“織田信長政権”内部の矛盾は“政権”を不安定にした。そうした中で”織田信長政権“は巨大化して行ったが”織田信長“は“家臣団編成”に於いて秩序を打ち立てる事に一向に改善を加えた形跡は無かった。その結果、次々と“家臣・外様家臣・従属的同盟者”からの“離反”そして“謀叛”の連鎖を生んで行った。こうして“織田信長政権”は矛盾を抱えたまゝ“本能寺の変”へと向かって行ったのである。

以下に“松永久秀”の謀叛“信貴山城の戦い”に続く、言わば“本能寺の変”への“既定路線上の戦い”とも言える“三木合戦”を記述して行く。

19:“羽柴秀吉”に従っていた“三木城々主・別所長治”が“織田方”に反旗を翻した背景

以下の3説がある。

① “織田信長”並びに“羽柴秀吉”に不信を抱いていた“叔父・別所吉親”の影響に拠るとの説(別所長治記)
② “毛利氏”の許で“第3次・織田信長包囲網”を主唱する“足利義昭”が“織田信長“からの離反工作を”別所長治“に働きかけたとの調略説(吉川家文書)
③ 当時”播磨国・有力国衆“の中から”織田信長“から離反する動きが加速しており“別所長治”もその流れに乗り“有力国衆”と連携したとの説

これ等の説の何れかが、或いは全てが、大なり小なり“別所長治”の“織田信長”からの離反に影響を与え“三木合戦”へと結び付いた。

19-(1):別所氏と“織田家”との結びつき

“別所氏”の始祖は“赤松(別所)頼清”(生:1140年・没年不詳)で“平安時代”に遡り、彼が20歳の時(1160年)に“加茂郡別所村”(現在の加西市別所町)に城を築き、地名の“別所”を名乗ったとある。古くから“播磨国・三木”近辺を拠点としたとされる。“播磨国”は“守護大名・赤松氏“が領国としたが、その興亡に就いては既述の通りである。

“三木城”が築かれたのは1492年(明応元年・第10代将軍足利義材時期)前後とされ、築城主は ”別所則治“(生年不詳・没:1513年10月)とされる。この間”赤松本家“は”赤松政則”(第9代当主・生:1455年・没:1496年)が当主の時期で、1488年(長享2年)には“山名政豊“を”播磨国”から撤退させ“播磨・備前・美作”を回復し“赤松家中興の祖”として“赤松家全盛時代”を築いた事は既述の通りである。
没落していた“赤松家”の“中興”が成った事で“別所家”も没落状態から“赤松政則“期には同じく”中興“が成ったという歴史である。

“赤松政則”期の政治体制は①”浦上則宗“(生:1429年・没:1502年)②”宇野政秀“(=赤松政秀・彼は別所則治が台頭した事で守護代の担当区分は西播磨半国へと縮小されたとの記録が残る・生:1421年?・没:1502年10月)そして③”別所則治“等が分担、連携して行われた。“別所則治”が”東播磨八郡守護代“に任じられたとの事は1488年(長享2年)3月14日付けの発給文書で確認出来る。

以後”播磨国最大の国人”と称された“別所氏“は“織田信長”に早くから従って来ていた。それを裏付けるものとして、1575年(天正3年)7月“別所長治”が17歳の時に“織田信長”に謁見した記録があり、その後も度々上京し“織田信長”に挨拶をした事も記録で確認出来る。

19-(2):父“別所安治”死去後、若い“別所長治”を後見する二人の叔父達の間に不和が生じる

“別所長治”(生:1558年・没:1580年1月17日)は父“別所安治”(生:1532年・没:1570年)が1570年に没した為、12歳で家督を継いだ。若かった為、叔父の“別所吉親(賀相)”(べっしょよしちか・生年不詳・没:1580年1月17日)そしてその弟の“別所重宗(重棟)”(べっしょしげむね・生年不詳・没:1591年6月6日)が後見役に就いた。“別所氏”は“三好三人衆”と協力関係にあった。しかし、1568年9月に“織田信長”に擁立されて“足利義昭“が上洛した際に”三好三人衆“と手を切って”足利義昭・織田信長“方に付いた。

しかし、翌1569年(永禄12年)1月5日に“三好三人衆”が“本圀寺”に“将軍・足利義昭”を襲った“本圀寺の変”が起ったが、この際には“兄・別所吉親”は“弟・別所重宗(重棟)”に“別所氏”を代表して“将軍・足利義昭”支援の為の出陣をさせ、その戦功で“弟・別所重宗(重棟)“は“将軍・足利義昭”から賞されている。

その後“弟・別所重宗(重棟)”は、いち早く“織田方“の”羽柴秀吉“に取り入り、信頼を勝ち得て行った。史実として”羽柴秀吉“が“別所重宗(重棟)”の娘と“黒田孝高”(くろだよしたか=黒田官兵衛=黒田如水・生:1546年・没:1604年)の嫡男“黒田長政”(生:1568年・没:1623年)との縁組を進める等“別所家”と“織田方・羽柴秀吉”の関係が近付いていた事を裏付ける史実も確認されている。

メモ:
“織田信長”は“播磨平定”の際“播磨諸侯”に人質の提出を命じている。当時“黒田孝高“(=黒田官兵衛)は”羽柴秀吉“に従い1577年(天正5年)10月15日に起請文を提出、その折“人質・松寿丸”を“長浜城”の“羽柴秀吉“に預けている。“秀吉”と“ねね”夫妻が“松寿丸”(後の黒田長政・生:1568年・没:1623年)を我が子の様に可愛がった事は良く知られる。上記した“別所長治”の叔父の中“弟・別所重宗(重棟)”の娘と“松寿丸”を婚約させたという縁組の話は“秀吉”が“長浜城主”(1575年~1582年)であった1577年頃の話である。この時“松寿丸”は未だ9歳であった。この縁組は“三木合戦”の勃発等に拠り破談と成った。

しかし、一方の“兄叔父・別所吉親(賀相)”は“反・羽柴秀吉”派であり“毛利氏”との接近を主張しており、当然の事乍ら“弟叔父・別所重宗(重棟)”が“織田方”にどんどん接近して行く事に反発した。“当主・別所長治“はこうした後見人である二人の叔父が”織田方“と”毛利方“に分かれて”不和“と成る状況下、自身も”織田“に付くか”毛利“に付くかの選択を迫られる事に成った。(別所長治記)

19-(3):最初は“織田方”に従った“別所長治”であったが“織田信長・羽柴秀吉”に不信を募らせる“毛利派”の“兄叔父・別所吉親”の説得に従い“織田方”からの“離反”を決定する

1577年(天正5年)10月23日

”織田信長“に”平定“を命じられた”羽柴秀吉“が”播磨国”に入国し“播磨平定”に動いた時点では“羽柴秀吉”に接近していた“弟叔父・別所重宗(重棟)”の意見に従っていた“当主・別所長治”であった。

しかし“当主・別所長治”を後見する二人の叔父達の“織田”に付くか“毛利”に付くかの意見対立は激しさを増して行った。“兄叔父・別所吉親(賀相)”が“弟叔父・別所重宗(重棟)”の意見を抑えて“織田信長”から離反し“毛利氏”と組む事で甥の“当主・別所長治“(当時19歳)を説得した。この結果”三木城生・別所長治“の”織田“方からの離反が決定したのである。

19-(4):“羽柴秀吉”が開いた“加古川評定”(対毛利戦略評定)で“織田方(羽柴秀吉)”からの離反態度を明らかにした“別所氏”

1577年(天正5年)10月:

”第1次・上月城の戦い“に勝利し”播磨国“を西部も含め、ほゞ手中に収めた”羽柴秀吉“は、西方に構える大勢力“毛利氏”との戦闘に関する“戦略評定”(=加古川評定)を“加古川城”(現在は称名寺・兵庫県加古川市加古川町本町)で行った。

“播磨国”の主たる勢力が集まる中で代表格は“別所氏”であった。しかしこの評定に“当主・別所長治“は出席せず”毛利贔屓“で”アンチ・織田“しかも名門意識の強い”兄叔父・別所吉親”が当主の代理として家老の“三宅治忠”と共に出席した。“当主“が欠席した事からも既に”当主・別所長治“が”反織田“の”別所吉親“に説得されていた事を裏付けていた。

”評定の席で”毛利攻め“の先鋒(道案内)を命ぜられた“別所吉親”は農民出身の“羽柴秀吉”を見下すニュアンスを込めた発言を繰り返し“羽柴秀吉”の不興を買った。“別所吉親”は家中で、百姓上がりの“羽柴秀吉”の配下で働く事に日頃から反発し“毛利方”への寝返りを主張していたのである。既に“当主・別所長治”を“反織田”で説得しており、この評定の席では、彼としての本音を吐露したという事である。

”羽柴秀吉“の不興を買った“別所吉親”はこの“加古川評定”から途中退座したとも、或いは退場を命ぜられたとも諸説があるが、憤懣の体で“三木城”に戻った“別所吉親”から“当主・別所長治”は“織田信長”からの離反が最早、引き返せない事を改めて聞かされたのである。

19-(5):“加古川城”訪問記・・2024年2月17日(土曜日)

住所:兵庫県加古川市加古川本町(現在の称名寺)

交通機関等

当日は①加古川城(称名寺)を最初の訪問地とし②花隈城(兵庫県神戸市中央区花隈城)そして③黒染寺(兵庫県伊丹市中央6-3-3)を探訪するスケジュールであった。3ケ所を効率良く巡る為にはレンタカーを使うのがベストと考え、使い慣れた“大阪市北区南森町”の“トヨタレンタカー営業所“で前もって友人が予約しておいてくれた”プリウス“を借り、AM9:00に出発、最初の”歴史探訪地”の“加古川城祉”に向かった。

例によってレンタカーをする場合、先ずその車の機能(ナビ、ウインカー操作、エアコン、ワイパー等の操作方も含めて)をレンタカー営業所員から細かく説明を受け、理解してから運転を開始するのがルーテイーンである。日頃“プリウスPHV”を運転している私だが、最新の“プリウス”は全ての機能が新しくなっており、それ等の機能を理解する迄は相当慎重に運転する事を心掛けている。運転を開始してから暫く経って朝食休憩を取る等して、ゆっくり“加古川城祉”(現在は称名寺と成っている)を目指した。AM11時20分に到着した。

歴史等
“播磨国“では”白旗城“に次ぐ古い城とされ1221年(承久3年)に”糟谷有教“(生年不詳・没:1268年)が築城したとされる。文中、記した様に、1577年10  月の“羽柴秀吉”に拠る“対毛利戦略”の為の“評定”の席で“別所吉親”が“羽柴秀吉”を見下す発言を繰り返し“羽柴秀吉”の不興を買い“加古川評定”の場から退場させられ“三木合戦“へと展開したと伝わる。

この時の“加古川城主”は”第12代糟谷武則“(生:1562年・没年不詳)であった。彼は”羽柴秀吉“にその後も従い“羽柴秀吉”が“柴田勝家”と戦った“賤ケ岳の戦い”(1583年6月10日~6月11日)で武功を挙げ“七本槍”の一人に数えられた記録が残る。後に12、000石の大名に出世したが“関ケ原の戦い”では西軍として戦い、敗れ、領地を没収された。その後“糟谷家”は断絶“加古川城“は1615年(元和元年)6月15日に破却された。尚”第12代糟谷武則“の死亡時期等は明らかで無い。

訪問記
“加古川市誌“によると”加古川城“は石垣を高くし、中央には”物見櫓“があり、城壁には矢、鉄砲の為の狭間もあったとの事である。又、外部は塹壕を巡らし、逆茂木も設けて、敵が容易に接近出来ない様になっていたと書かれている。廃城後は“称名寺”が建てられ“加古川城”の遺構は皆無と言って良い状態である事が添付した写真からも分かって頂けよう。余談だが、私の長男のお嫁さんが、加古川出身であり、彼女の話によると友人に“糟谷”と名乗る生徒が居たとの事である。当時の加古川城主の末裔であろうか?
“加古川城”の遺構は残っていないが“称名寺”の墓地に“加古川城主・糟谷家”の墓が遺されている。その写真を添付したが、可成り墓も荒れ果てており、寺の若い奥さんが親切に案内して頂いたお陰で探し当てる事が出来た。この墓が当時を僅かに偲ばせてくれる重要な史跡であり、案内して頂いた事に感謝し、お礼を述べて、当日の次の史跡訪問地である“花隈城”へ向かった。

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20:“三木合戦”勃発

“織田信長”から“播磨国平定”を命じられた“羽柴秀吉”は、順調に“播磨国平定”を進め“毛利方”の“東進”への最前線である“上月城”を奪った(1577年12月3日)事は既述の通りである。しかしこの事は必然的に同盟関係も破棄(1576年5月)され“戦闘状態”に入っていた“毛利氏”との戦闘が激しさを増して行く事を意味した。

“織田信長政権”は“毛利氏”との直接戦闘が激しさを増して行く事が避けられないという状況に加えて“織田政権内”の“家臣団秩序編成の失敗”に起因した“織田政権内部”の“外様家臣・従属的同盟者”達による“織田信長”からの離脱、そして“毛利氏”を受け皿として頼む“謀叛の連鎖”を生じさせていたのである。

“三木城主・別所長治”が“織田方”から離反し”三木合戦“を勃発させた事で”織田方“は”西“に”上月城奪還“を図る”毛利軍“そして”東“に”三木合戦“を抱えた状況、つまり”毛利方“から挟撃される状況に陥入ったのである。

20-(1):“三木城”を支援する“支城群攻略”を優先し、先ずは“野口城”の攻略から始めた“羽柴秀吉”は順調に“三木合戦”に対応した

“三木合戦勃発”時点(1578年3月29日)では未だ“毛利軍”が“上月城奪還”に動いていなかった為“羽柴秀吉軍“は”毛利軍“の存在を気にする事無く”三木城攻略“に集中出来た。戦略としては、先ず“三木城”の支城“野口城”を攻め、陥落させ“三木合戦”のすべり出しは順調に進んだ。

20-(2):“諸籠り”を見た“羽柴秀吉”は“三木城兵糧攻め”を決断

1578年(天正6年)3月29日~:

“毛利軍”が“上月城奪還”に大軍を送り込むのは1578年4月18日~の事である。その半月前に“三木城主・別所長治”は“籠城戦”を開始した。“三木城”には“東播磨一帯”から凡そ7500人の人達が籠城に集まった。“領主・別所氏“に同調した国人衆の他に、その家族、そして”浄土真宗“の門徒等も含まれていた。これは“諸籠り”(もろごもり)と称され、所謂”領民ごと“城に立て籠もった状態であった。

この“籠城”状態は籠城した多くの人々の為に多くの兵糧(食料)等が必要と成る事であり、この状況を見た“羽柴秀吉”は迷わず”兵糧攻め作戦“を決断した。結果的に”三木城・籠城戦”は2年近くに及び“三木城内”の食料は底を尽き“三木の干殺し”と後世に伝わる悲惨な結末と成り“別所長治”の作戦としては大失敗と成る。

20-(3):“三木城”の兵糧確保に就いて<

1578年(天正6年)4月3日~4月6日:

”別所長治“が”三木合戦“を決断し”三木城諸篭り作戦“を決断した際の兵糧確保に対する考えは①瀬戸内海の制海権を握っていた“毛利氏”からの海上輸送、並びに瀬戸内海に面した②“英賀城”(あがじょう・兵庫県姫路市飾魔区英賀宮町にあった城三木城、小寺氏の御着城と並び播磨三大城の一つ・永享年間初期/1430年代?/に赤松祐尚が築城した・赤松祐尚は赤松満祐の弟・その後支配は三木氏に移り当時の城主は三木通秋)の“三木通秋” (みきみちあき・英賀三木氏9代当主・本願寺門徒を多く抱え自身も熱心な本願寺門徒で石山本願寺を支援し織田信長と対立した武将。生:1534年9月・没:1584年1月)からの海上輸送に頼れば問題なかろう、とするものであった。

“別所氏“自身も海沿いの”高砂城・魚住城“等で兵糧を陸揚げし、支城と連繋して“三木城”に兵糧を運び込ませたのである。

ところが“織田方”は早々と(1578年6月~10月)“英賀城”を攻略し、海上輸送による“三木城”への兵糧支援を阻んだ。

これ等のルート等の理解の助に“別掲図:三木合戦に織田氏援軍が下記”三木支城“を落し引き揚げた”(1578年/天正6年/6月~10月)を添付したので参照願いたい。


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21:“三木合戦”の勃発をチャンスとして“毛利方”は“織田方挟撃作戦”の形での戦闘を開始すべく“上月城奪還”に大軍を送る・・“第2次・上月城の戦い”=(第3次・尼子再興運動の終焉)1578年4月18日~同年7月3日

1578年(天正6年)3月29日:

“別所長治”の“織田信長陣営”からの“離反・謀叛”に至った理由は”毛利氏“に通じた”兄叔父・別所吉親(賀相)”が”羽柴秀吉“そして”織田信長“方への不信を”甥“の”当主・別所長治“(当時20歳)に吹き込み、説き伏せ、離反を決心させたものだと“別所長治記”は伝えている。同様の事を“播磨別所記“(大村由己記著)も伝えている。

”別所長治“の謀叛が“兄叔父・別所吉親”に影響されたとする説を裏付ける史料として“歴史学研究会編・日本史年表“には”播磨三木城主、別所長治、本願寺並びに毛利氏と通じて挙兵する“と書いている。

いずれも”別所長治“が“大坂(石山)本願寺”並びに“大坂(石山)本願寺”と同盟、支援する“毛利氏”双方から“足利義昭”主唱の“第3次・織田信長包囲網”へ参加する様にとの要請に応じた動きであったと結論付けている。

次ページの“別掲図:織田と毛利が同盟破棄をし(1576年5月~)播磨・摂津国で戦闘に突入“を参照願いたい。此処に示す様に”織田方“と”毛利方“の”同盟“が破棄され”足利義昭“が主唱する”第3次・織田信長包囲網“の中軸に”毛利氏“が組み込まれ”織田信長“と”毛利軍“が愈々直接戦闘に突入した1576年7月13日の”第1次・木津川口の戦い“を緒戦として、図に書かれた諸戦闘が連鎖的に起こり、更に次項(6-25項)で記す”長宗我部元親“との同盟関係破棄を経て”織田信長政権“は”本能寺の変“に拠って崩壊するのである。

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上記の“別掲図”に見る様に“織田信長”は“毛利氏”との“同盟破棄”(1576年5月~)以降“毛利氏”との直接戦闘に突入する。ここを基点として“織田信長政権”は属する武将達が“政権内部からの崩壊”とも言うべき“離反~謀叛”を起こす事による“戦闘”にも見舞われるのである。“織田信長政権”内の“外様家臣・従属的同盟者”が既述の様に“毛利氏”をより安心、安全、安定した受け皿と考え“織田信長政権”から“離反~謀叛”という形で“毛利氏”に寝返る形での戦闘が展開されるのである。

それを時系列に纏めると下記と成る。表中の③⑤が“三木合戦”そして呼応して起こった“有岡城の戦い”である。

① 第一次木津川口の戦い:1576年(天正4年)7月13日
② 第一次上月城の戦い:自1577年(天正5年)11月28日・至同年12月3日
③ *三木合戦:自1578年(天正6年)3月29日・至1580年(天正8年)1月17日
④ 第二次上月城の戦い:自1578年(天正6年)4月18日・至同年7月3日
⑤ *有岡城の戦い:自1578年(天正6年)7月・至1579年(天正7年)10月19日
⑥ 第二次木津川口の戦い:1578年(天正6年)11月6日

21-(1):上表の説明と①~⑥の戦闘の解説

① は“毛利氏”に兵糧支援を仰ぐ“大坂(石山)本願寺”を支援する“毛利水軍”と“織田水軍”が、最初の直接対決と成った戦闘である。この緒戦で“織田方”は“毛利水軍”に完敗した。

② の戦闘は”西進“を本格的に始める為“織田軍”が“播磨平定”を“羽柴秀吉”に命じ“毛利方”にとっては、東の最前線である“上月城”を奪う為の“第1次・上月城の戦い”に勝利した戦闘である。この戦闘の意義は“毛利方”の“東進拠点”を奪った戦いであった。

③ ④⑤ の戦いは“織田方”の“西進“の動きに対して”織田政権“から離反して”別所長治“が、そして、それに呼応して”荒木村重“が共に離反して”毛利方“の”東進“の動きに加担する戦を起こした事に成る。③と⑤の戦闘は”織田政権“が巨大化し“家臣団編成”に於いて秩序を打ち立てる事に失敗し、次々と“家臣・外様家臣・従属的同盟者”が、敵方“毛利氏”の方に受け皿としての比較優位性を見出し“離反・謀叛”の連鎖を起こした,言わば“織田信長政権”の内部矛盾が露呈し“織田政権”が内部から崩壊して行く事を示した戦闘であった。

この背景には“毛利方”としては“織田政権”内部に“離反・謀叛”の連鎖が起り、崩壊する可能性を読み取り、先ずは“播磨最強の国人・別所長治“を調略する事が必要、且つ、可能だと読み、動き、調略に成功したという事があった。

結果的には③と⑤の”織田政権内部崩壊“とも言える謀叛に対する戦闘を“織田軍“は鎮圧する事が出来た。しかし④の戦いは”三木合戦鎮圧“を優先した”織田信長“の判断で”上月城“が捨て駒とされた為”毛利軍“は”守城軍・尼子再興軍“の滅亡、そして“上月城の奪還”を果すという成果を上げた。

“上月城守城軍”として任務に就いていた“山中鹿之助”以下の“尼子再興軍”にとっては“第3次・尼子再興運動”の遂行を目論んだ“上月城守城”の任務ではあったが“織田方”からの支援部隊も得られず、奮闘空しく敗北し“山中鹿之助”を始めとする一党は3万余の“毛利大軍”に敗れ、討たれ“尼子再興運動”が終焉を迎えた。“山中鹿之助”以下“尼子再興軍”の非劇は、映画・小説等にも取り上げられ、広く知られる史実である。

⑥の戦いは“織田水軍”が“毛利水軍”に大敗した後、2年間の猶予を与えて“織田水軍”を整備させ、強力な“織田水軍”として生まれ変わらせ、見事に“毛利水軍”を敗った海戦である。この結果“大坂(石山)本願寺”が“毛利水軍”に頼った兵糧補給が断たれ、10年間に亘って“織田信長”に抵抗して来た“大坂(石山)本願寺”が遂に“最終的和睦”を“織田信長”と結び、さしもの“石山戦争”が終結と成る事に繋がるという“織田信長政権”にとっては起死回生の戦闘勝利であった。

以上の総括を頭に入れた上で、先ずは④の“第2次・上月城の戦い”から記述して行きたい。

22:“第2次上月城の戦い”(1578年4月18日~7月3日)

“織田政権”の言わば“内部崩壊”とも言える“三木合戦”が勃発した事は、半年前の“信貴山城の戦い”(1577年10月10日終了)で同じく“外様家臣・従属的同盟者”の”松永久秀“に拠る”離反~謀叛“を鎮圧したばかりの“織田信長”にとってはショックであったに違いない。ましてや今度は“播磨国NO.1の実力者”の“別所長治”に拠る謀叛である。

”織田信長“は”三木合戦勃発“と呼応して”上月城奪還“に3万の大軍で攻め寄せる”毛利軍“の動きに対し”羽柴秀吉“に”上月城は捨て、三木城攻略に注力せよ!“と命令した。“羽柴秀吉軍”としては“三木城攻略”に戦力を集中させねばならず、従って“上月城”への援軍を送る余裕は無く“上月城”は見捨てられた。“織田方”が戦力を分断せざるを得ない状況に成る事を見越しての“毛利方”の“上月城奪還”の動きであった。

この戦いで“上月城”の“守城”に就いていた“山中鹿之助”をリーダーとする“尼子再興軍”に対して“織田軍(羽柴秀吉軍を含む)”は支援の部隊を送る余力が無い、との判断から“上月城の放棄”そして“山中鹿之助”以下の“上月城守城部隊”に対して“先ずは命を守れ!城から脱出せよ!”との指示が出された。しかし“山中鹿之助”以下の“尼子再興軍”による“守城部隊”は“上月城”に留まり3万の“毛利軍”を相手に戦ったのである。結果は“上月城”は落城し“尼子勝久”そして“山中鹿之助”は討たれ、此処に“尼子再興運動”も終焉を迎えたのである。

22-(1):“毛利方”にとって必須であった“上月城奪還”

“毛利方“にとって”第1次・上月城の戦い”(1577年11月28日~12月3日)で“上月城”が“織田方・羽柴秀吉”軍の手に渡った事は2重の危機感を“毛利方”に与えた。

第1の危機感は“上月城”は“毛利方”にとっては“東進の最前線”であった。それが逆に“西進”を続ける“織田方”の拠点として奪われた事に拠って“毛利方”としては“東進基地”が後退した事を意味し、危機感を抱いたのである。

第2の危機感は“上月城”を奪取した“織田方・羽柴秀吉”軍が“毛利方”が長年戦い続けて来た”山中鹿之助“率いる“第2次・尼子再興運動軍“を“上月城守城部隊”として入れた事に対する危機感であった。”織田信長“と繋がり、軍功を重ねて来た”尼子再興軍“の優れた戦闘能力を知る”毛利方“にとって、このまま放置すれば”織田信長“軍に援護されて、更に戦闘能力を強化し、又もや”第3次・尼子再興運動“を活発に展開し”毛利軍“を今後共、煩わし兼ねないとの危機感であった。

こうした2重の危機感を抱いた“毛利方”であったから”第3次・尼子再興運動“を壊滅させる事にも通ずる”上月城奪還“の戦闘には”毛利軍“の総力を挙げて臨んだという事である。

22-(2):“毛利方”の“上月城奪還”にとってベストシナリオと成った“東播磨”に於ける“三木合戦”の勃発

“東進”を図る“毛利軍”にとって“西播磨・上月城”の奪還は既述した2つの危機感を除去する為にも必須事項であった。そうした状況下“毛利軍”からの調略も効果があり“東播磨・三木城”で“別所長治”が“織田信長”からの離反、謀叛に踏み切った事で“毛利方”にとってベストシナリオが展開し始めた。

22-(2)-①:“第2次・上月城の戦い”(=第3次尼子再興軍の終焉)の展開に就いて

“三木合戦”が勃発した事で“織田方・羽柴秀吉軍”は戦力を集中せざるを得ない状況と成り“上月城“は捨て駒状態と成った。これは“毛利氏”にとってはベストシナリオが展開し始めた事であり“毛利方”は3万の大軍で“上月城奪還”に動く。

1578年(天正6年)3月29日:

“上月城”を奪った後の体制として“尼子再興軍”を“守城部隊”として常駐させた“羽柴秀吉”であったが、最も危惧していた事態が起った。

“東播磨最大の国人・三木城主・別所長治“が”毛利氏“と同盟し”織田方・羽柴秀吉軍“を挟撃すべく謀叛(三木合戦)を起こしたのである。“羽柴秀吉”軍は戦力を“三木合戦”対応に向けざるを得なくなった。その隙を突いて“三木合戦”勃発の僅か20日後に“毛利軍”は3万の大軍をもって4ケ月前に“織田方・羽柴秀吉軍”が奪ったばかりで“山中鹿之助”以下“尼子再興軍”に守城を任せた“西播磨”の“上月城奪還”の進軍を開始したのである。

”羽柴秀吉“軍は”三木合戦“への対応に加えて”毛利大軍“による”上月城奪還“の動きへの対応という事態に陥った。まさに”毛利方“に拠って”挟撃“される窮地に陥った。

22-(2)-②:3万の大軍をもって“西播磨・上月城奪還戦”(=第2次上月城の戦い)に動いた”毛利軍“

1578年(天正6年)4月18日:

“毛利方”は“吉川元春”並びに“小早川隆景”軍3万余が“尼子再興軍”が守城部隊として常駐する“上月城”を包囲した。“第2次・上月城の戦い”の始まりである。東では“三木合戦”が勃発し“織田方”はその対応で精一杯と読んだ上での行動であり“第3次・織田信長包囲網”の中軸に“毛利氏”を得た“足利義昭”が目指す“織田信長討伐”にとって理想的な展開が始まったのである。

下記“別掲資料:三木城の別所長治が反旗を翻し上月城が見捨てられる(尼子再興軍の最期)”を参照願いたい。①~⑥のコメントが、この“第2次上月城の戦い”の推移に就いて説明している。


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22-(2)-③:“上月城は見捨てよ!”との“織田信長“の厳命で”第2次上月城の戦い“を捨てた”羽柴秀吉“に訪れた幸運・・”毛利方・宇喜多直家“の寝返り

1578年(天正6年)5月4日:

“上月城”を“毛利”の3万の大軍から守る為には“尼子再興軍”による“守城部隊“だけでは余りにも手薄な事は明らかであり“羽柴秀吉”は“荒木村重”軍を伴い、10,000の兵力を動かし“上月城”の後巻き(味方の上月城を攻める毛利軍を更にその背後から取り巻く事)をすべく西に向かった。そして“上月城“の東、川を隔てた”高倉山“に着陣し”毛利軍“と対峙した。

しかし乍ら、一方で“羽柴秀吉”軍は“東播磨”で“別所長治”が起こした“三木合戦”にも対応せねばならない。西に3万の“上月城奪還”を至上命題として押し寄せる“毛利軍”そして東に“別所長治”率いる“三木城”並びにその“支城群“との戦闘を抱え”羽柴軍“は眞に軍事力を分断され、思い切った軍事行動をとれない状況のまゝ凡そ2ケ月が経過したのである。

圧倒的な大軍の”毛利軍“にも拘わらず2ケ月余りも”羽柴秀吉+荒木村重“軍が”上月城“を”毛利軍“の手に渡さないで済んだ理由は”毛利方“が大軍にも拘わらず、積極的な攻城戦に出ず、兵糧攻めで“尼子再興軍”が籠城する”上月城“の城兵の戦意を徐々に喪失させるという策をとった為であった。

1578年(天正6年)6月16日:

“上月城は見捨てよ!”との“織田信長”の厳命に対し、必死に“上月城支援”の必要性を説得する努力をした“羽柴秀吉”

”毛利軍“の”東進“を阻み”織田方“としての”西の防御最前線“として”上月城“は重要であった。従って”上月城“への支援軍を是非送るべきと”羽柴秀吉“は”京  都“まで出向いて”織田信長“に直訴した事が伝わる。

しかし”織田信長“は飽くまでも離反し”毛利方“に寝返った”播磨国最大の国人・三木城々主・別所長治”の討伐・殲滅が最優先だとして、その方針を崩さず”羽柴秀吉“の要請を却下した。

”織田信長“は“策も無く上月城を後巻きしても仕方が無い。荒木村重共々他の応援部隊と合流し、先ずは神吉城と志方城を攻撃し、その後、三木城を攻囲せよ、その為には上月城は見捨てよ!”と厳命した。“羽柴秀吉”の説得に貸す耳は持たなかったのである。

“播磨国最大の国人・別所長治”の離反に拠って勃発した“三木合戦”に拠って“織田信長”としては“東の別所長治軍”そして”西の毛利軍“からの挟撃を受ける事の危険だけは回避すべきと考えたのである。”織田信長“は”播磨国最大“の勢力を持つ、身内と考えていた”別所長治“が”毛利方“に寝返った動きを相当危険視したと思われる。その結果が”上月城“は失っても、何よりも”三木合戦“での勝利を優先させ”別所長治“を討ち”東播磨“を確保する事が第1との判断を下したのである。

この判断は、更に畳みかける様にして“身内・荒木村重”が離反、謀叛(有岡城の戦い)行動を“三木合戦”勃発から僅か4ケ月後の1578年7月に起こすという史実展開を考えると”織田信長“の慧眼(物事の本質や裏面を見抜く優れた眼力)であったと言えよう。

”羽柴秀吉“の”上月城支援“の要請を却下した”織田信長“は”毛利方“に挟撃され兼ねない事態を看過した訳では無い。“上月城落城”は避けられない事と割り切りながらも“東西播磨国”の危険な状況に対する手を打った。嫡男”織田信忠“を主将とする”応援部隊“を派遣する決断をしたのである。”応援部隊”は”佐久間・滝川・丹羽・明智・細川“等”織田“方の錚々たる顔ぶれの武将達から成り、その数は数万に上った。その意図は唯一点”播磨国最大の国人“で”織田方“から離反し”毛利方“に寝返った”三木城主・別所長治“の討伐、殲滅であった。

羽柴秀吉に訪れた幸運・・毛利方・宇喜多直家の寝返り

結果的に“第2次上月城の戦い”を捨てる形になった“織田方・羽柴秀吉”であったが、此処で最大の幸運が訪れる。それが“毛利方・宇喜多直家”の寝返りであった。

“黒部亨”氏の小説“宇喜多直家/秀吉が恐れた希代の謀将”には“毛利方”が“第2次・上月城の戦い”に動く時点で“毛利方”として重要な役割を果たして来た“宇喜多直家”は既に“毛利氏”からの離脱、つまり寝返りを考えていた事を紹介している。この史実を小説は“毛利方”も一枚岩では無かったという弱点があったとして以下の様に紹介している。

“毛利氏”と“織田方・羽柴秀吉”の共倒れこそが“宇喜多直家”の密かな願望だった。(略)“わしは暫く死んだ振りをするから”と彼は弟“忠家”に囁いた。
(略)“上月城”の落城の報に接した直後の“宇喜多直家”は人を食ったとしか言いようのない行動をとった。“織田方”への内通工作などケロリと忘れた顔で“黒沢山“の”毛利陣“へ勝利のお祝い言上に出掛けた(略)
“小西弥九郎“(後の小西行長)が大いに弁じ立てて”羽柴秀吉“の(織田方へ宇喜多直家が寝返る為の交渉)心を動かした。

23:“織田信長”と“山中鹿之助”の関係に就いて

23-(1):“織田信長方”と“山中鹿之助”率いる“尼子再興軍”との繋がりを記す“関西陰徳太平記”(“陰徳太平記”)

23-(1)-①:“山中鹿之助”は“第1次・尼子再興運動”の頃から“織田信長”に謁見していた史実を伝える“陰徳太平記”

江戸初期の“周防国岩国家老・香川正矩”(生:1613年・没:1660年)が“毛利方”として“主君・吉川氏”の正当性を訴えるべく執筆したのが“陰徳記”で1660年に成立した軍記である。その父の遺志を継いで、次男の“香川景継”(かがわかげつぐ・吉川家家老香川正矩の次男・宣阿に改名・生:1647年・没:1735年)が、更に書き遺したのが1771年(明和8年・2025年のNHK大河ドラマ“べらぼう”に登場する俳優眞島秀和氏が演じた第10代将軍・徳川家治期)に出版された“陰徳太平記”(正式には関西陰徳太平記と呼ぶ・1717年/享保2年出版)である。

1571年(元亀2年)に“明智光秀”の仲介で“山中鹿之助”が“織田信長”に謁見した事が書かれている。

“山中鹿之助“等は”第1次尼子再興運動“に失敗し(1571年8月)”新山城“を落された”尼子勝久“は”隠岐“へ逃れ”山中鹿之助“も”末吉城“での籠城戦に敗れ”吉川元春“に捕らえられ”尾高城“に幽閉された。(1571年/元亀2年/8月20日頃)その後”山中鹿之助“は”尾高城”から逃れる事に成功し“第2次尼子再興運動”へと向かった事は既述の通りである。

しかし”山中鹿鹿之助”率いる“尼子再興軍”は“第2次・尼子再興運動“にも失敗”因幡国・若桜鬼ケ城“から退去した。この時に”織田信長“を頼った様だ。”陰徳太平記(関西陰徳太平記)“には”山中鹿之助“はそれ以前から”織田信長“との面識があったと記している。

23-(1)-②:“第2次尼子再興運動”にも失敗(1576年5月)し“織田信長”を頼った“山中鹿之助”の人柄を気に入った“織田信長”は“織田軍”に加えた

“山中鹿之助”が“織田信長”を頼った時期に就いては諸説があるが“太閤記”には“第2次尼子再興運動”に失敗した半年後の1577年(天正5年)正月とし、以下の様に記している。

1577年(天正5年)正月:

”第2次尼子再興運動“に失敗し”因幡国“から撤退した(1576年/天正4年/5月頃)”山中鹿之助“は1577年(天正5年)正月に”京“で“織田信長”に謁見した。”山中鹿之助“を謁見した“織田信長”は”良き男“と評価し”四十里鹿毛“という駿馬を与え”山中鹿之助“率いる”尼子再興軍“を”織田軍“の傘下に加える事にした。”山中鹿之助“は”織田信長“に謁見した後“岐阜城“に行き”嫡男・織田信忠“にも会った。

23-(1)-③:“織田信長”軍の傘下に加わった“山中鹿之助”率いる“尼子再興軍”は“松永久秀討伐”の“信貴山城の戦い”でも大活躍する

1577年(天正5年)10月5日~10月10日:

“山中鹿之助”率いる“尼子再興軍”は”織田・明智光秀“軍に組み入れられ“信貴山城の戦い”に参加し“松永久秀”が籠城する“信貴山城攻め”で2番乗りの軍功を上げた記録が残る。“山中鹿之助”自身が“松永久秀”の将“河合将監”を一騎討ちで討ち取った事も記されている。

23-(1)-④:”第2次・丹波平定戦“でも“明智光秀“軍に組み入れられた”山中鹿之助”軍は“籾井城攻城戦”に於ける軍功を挙げ“明智光秀”から表彰されている

1577年(天正5年)11月~1578年(天正6年)4月:

”明智光秀“は”信貴山城攻め“(1577年10月)の勝利から僅か1ケ月後に”第2次・丹波平定戦“を開始した。その時”尼子再興軍“が活躍した記録が残されている。

”奥三郡“を基盤とし”丹波国”(兵庫県並びに京都府の一部)で勢力を誇った”赤井直正”(=荻野直正・生:1529年・没:1578年)並びに“多紀郡”を固めた“波多野秀治”(八上城主・丹波波多野氏最後の当主・生年不詳・没:1579年6月8日)は“毛利氏”と通じて“第3次信長包囲網”戦線の一角を成していた。

更に、一度は“織田方”に降った筈の“内藤氏”と“宇津氏”も再び“反信長”方として寝返り、敵方に加担するという事態であった。

”織田方・明智光秀“軍にとって厳しい状況であったが、この戦いでも”明智光秀軍“に組み入れられた”山中鹿之助”率いる“尼子再興軍”は”第2次丹波平定戦“の緒戦と成った“丹波国・籾井城攻め”(別名・安田城・福住城・福住古城、とも称される。兵庫県丹波篠山市福住・廃城1577年10月~11月)で、比類無き働きをした事が記録されている。

具体的な戦況は“明智軍”は、一時“籾井城攻め”で敗走する事態に陥ったが“山中鹿之助”率いる“尼子再興軍”が“殿”を務め、追撃して来る“波多野秀治軍”、並びに“赤井直正軍”(=荻野直正)を迎撃し、切り崩し“明智軍”の崩壊を防いだのである。“明智光秀”はこの軍功に対して褒美を与えた記録も伝わる。

24:“尼子再興軍“の最期に就いて

“第2次・上月城の戦い”で“織田方・羽柴秀吉軍”は既述の背景から“上月城”を捨てた。“毛利大軍”は大軍をもって“上月城”を奪還し、同時にこの事は守城軍として戦った“第3次・尼子再興運動”の終焉と成り“尼子勝久”並びに“山中鹿之助”等は“毛利軍”に討ち取られた

1578年(天正6年)6月25日:

”上月城“は”織田信長“の”見捨てよ!“との厳命で”尼子再興軍“つまり”尼子勝久“(生:1553年・没:1578年7月3日)を総大将とし”山中鹿之助“(生:1545年?・没:1578年7月17日)率いる”尼子通久“(尼子勝久の弟説・生:1554年?・没:1578年?)並びに”神西元通“(じんざいもとみち・生年不詳・没:1578年7月2日)等、劣勢の2,300~3,000兵が30,000兵を擁する”毛利大軍“に拠って奪還された。

”羽柴秀吉“は”上月城は放棄して脱出する様“との書状を送った。しかし”尼子主従“はこれを黙殺し徹底抗戦を選んだのである。

1578年(天正6年)6月26日:

”織田信長“の命に拠り”上月城“の支援を諦めざるを得なくなった”羽柴秀吉“軍は”荒木村重“軍と共に”高倉山“の陣を引き払い”書写山“(しょしゃざん・兵庫県姫路市にある標高371mの山)まで軍を引いた。(別掲資料:三木城の別所長治が反旗を翻し上月城が見捨てられる/尼子再興軍の最期/のコメント⑤を参照方)

以下の写真が現在の“書写山史跡”の様子である。

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1578年(天正6年)7月1日:

”毛利軍“の”兵糧攻め・孤立化策”の為“上月城“からは脱出者も出る状況と成って行った。”山中鹿之助“は城兵の助命を条件に7月1日”毛利軍“に降伏、開城に応じた。これで“織田方・羽柴秀吉軍”の“第2次・上月城の戦い”での敗北が決定し“第1次・上月城の戦い”(自1577年11月28日至12月3日)で奪った“上月城”は“毛利方”に奪還された。

1578年(天正6年)7月3日:

“総大将”に擁立された“尼子勝久”並びに“嫡子・尼子豊若丸”(あまごとよわかまる・生年不詳・没:1578年7月3日)そして“尼子氏久(生没年不詳)”と“尼子通久”が自刃した。

1578年(天正6年)7月17日:

リーダー“山中鹿之助”と、彼の叔父で“尼子三傑の一人・立原久綱”(たちはらひさつな・生:1531年?・没:1613年?)は共に人質として捉えられた。“山中鹿之助”は“備中・松山城”に在陣する“毛利輝元”の下へ連行される事になっていた。(吉川元春自筆書状・1578年7月12日付け記録)

しかし、途上の“備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)で毛利家家臣”福間元明“(生:1539年・没:1586年)に拠って同年7月17日に謀殺されたと記録されている。満33歳(38歳説もある)であった。

“山中鹿之助”率いる“第3次・尼子再興運動”はここに、完全に終焉し“第1次~第3次”に亘る9年間に及んだ“山中鹿之助”が率いた“尼子再興運動”は失敗という結果で終焉を迎え“尼子家”も消滅した。

24-(1):生き延びた“山中鹿之助”の叔父“立原久綱”のその後

“山中鹿之助”と共に“毛利軍”の捕虜となった“立原久綱”は当時“病”に冒されていた。”毛利方“は”回復したら処分を下す“との配慮をし”毛利軍“の監視下に置いていたという。処が”立原久綱“(当時47歳?)は脱走に成功し”蜂須賀氏“の許にいた娘婿(岳父との説もある)の”福屋隆兼“(ふくやたかかね・生没年不詳・尼子再興軍にも加わったとされる)を頼って”阿波国・渭津“(いのつ・1585年/天正13年/藩祖蜂須賀家政が現在の徳島に改名したとの説がある)に居住した事が伝わる。

その後“立原久綱”は1613年(慶長18年)満82歳まで生きた。

25:“鴻池財閥”と“山中鹿之助”末裔との関係について

“山中鹿之助”の遺児“山中幸元”(鴻池新六)は武士を廃して“摂津国川辺郡鴻池”で酒造業を始め、財を成し“豪商鴻池財閥”の始祖となったと“鴻池家”の家伝は伝えている。しかし、史実かどうかに就いては諸説がある。

26:“第2次上月城の戦い”(=第3次尼子再興運動の終焉)の纏め

年月日:1578年(天正6年)4月18日~7月3日
場所:播磨国“上月城”
結果:毛利軍が勝利し“上月城”を奪還“尼子氏”の“第3次尼子再興運動”が終結し“尼子勝久”並びに“山中幸盛(鹿之助)”が討たれた。一方、この時点では未だ“毛利軍”に与していた“宇喜多直家”は“反毛利”に転じる意を固めつつあった。


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27:“上月城”訪問記・・2023年(令和5年)11月11日(土曜日)

交通機関等

今回は偶々別用で前日は大阪に居た。従って当日“新幹線”で新大坂駅から明石駅迄行き、“明石駅前”のトヨタレンタカー営業所で予約してあったプリウスの新車を借り、同好の友人と出発した。
ナビを頼りに、主として一般道を走り“兵庫県佐用郡佐用町上月”の“上月城跡”を目指した。高速道路を使わなかった為、AM9時に明石駅前を出発したにも拘わらず、到着はほゞ3時間後の正午近くに成っていた。
後日、この辺の地域に詳しい友人の話を聞いたが“中国縦貫自動車道”を使えば“明石駅”からは1時間半程で目的地に着けた筈、との事であった。“上月城”の歴史等に就いては添付の写真(説明版)にあるので参照願いたい。

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28:“不器用すぎた天下人・織田信長”の最大の弱点は“家臣団編成”に於ける秩序を打ち立てる事が出来ず“外様家臣?・従属的同盟者?”の離反~謀叛の連鎖を生んだ事であったが“別所長治”に続いて“有岡城々主・荒木村重”も離反する

“織田方・羽柴秀吉”軍が”三木合戦勃発“(1578年3月29日~1580年1月17日)と“第2次・上月城の戦い”(1578年4月18日~7月3日)に挟まれた状況に乗じる形で、第3の事件が起こった。

“羽柴秀吉”軍に属し“三木合戦”を共に戦っていた“荒木村重“が”三木合戦の戦場“を放棄して”居城・有岡城“に突如、帰城し“謀叛”に及んだのである。

“別掲図:織田と毛利が同盟破棄と成り(1576年5月)以後戦闘に突入”に示す様に“荒木村重”の離反も“三木合戦”勃発から僅か4ケ月後の事である“荒木村重”は“第2次・上月城の戦い”で“毛利軍”がほゞ“上月城”を奪還する戦況を注意深く観察し、確認した上で、1578年(天正6年)7月に“有岡城の戦い”を起こしたのである。

”荒木村重“は“足利義昭”が主唱し“毛利輝元”を中軸に据えた“第3次・織田信長包囲網”が次第に整い“織田信長討伐”が実現するものと判断し“毛利氏”の支援を期待(確保?)して“織田信長”からの離脱、そして“謀叛”行動を決断したのである。

メモ:
“織田信長政権”が次々と“外様家臣?・従属的同盟者?”の離反、謀叛に見舞われ“内部崩壊”を起こす状況を“至尊(天皇家・朝廷貴族層)勢力””旧至強(旧将軍・旧幕府)勢力“との争いの構図だとする説に就いて

上記①“三木合戦”②“第2次上月城の戦い③”有岡城の戦い“が連動して起こった現象を“足利義昭”が主唱し“毛利輝元”を中軸に据えた“第3次・織田信長包囲網”が愈々整い“織田信長討伐”が現実化する状況が生まれた、として以下の様な説が唱えられている。
                                        上記“織田信長政権内部”からの“離反~謀叛”の動きが連続して勃発した背景には上記した“不器用すぎた天下人・織田信長”が“家臣団編成”に於ける秩序を打ち立てる事が出来なかった事に拠る“織田信長政権の内部崩壊“が起った、との説が先ず挙げられる。その原因として”天下布武“の下”全国統一“を本格化させる”天下人・織田信長“に対して”積年の恨み“を晴らそうという”足利義昭“の強い信念が”毛利氏“を中軸として抱き込んだ事で、他の武将達の間に“織田信長”に付くべきか“毛利輝元”に付くべきかで揺れ動く状況を生み出した。

“不器用すぎた天下人・織田信長政権”と比較して”足利義昭“の主唱する”織田信長討伐“を主眼とする“第3次・織田信長包囲網“に与する方が”受け皿“としての安定性に優れると判断した武将達は”毛利氏“を中軸とする”第3次・織田信長包囲網“に与し”天下人・織田信長政権“への抵抗勢力として結集した。こうして”天下人“として”至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力“からお墨付きを得、いわゆる“官軍”としての“織田信長政権軍”と、それに抵抗する勢力、という構図が出来上がったのである。

この構図は“織田信長”を“至強(武士層)勢力”の代表として認める“至尊(天皇家・朝廷貴族層)勢力“対”織田信長“に”京“から追われ”至尊勢力“からも見放され”天下人(室町幕府第15代将軍)“としての立場を剥奪された”旧至強(旧将軍・旧幕府)勢力“が”第3次・織田信長包囲網“と称される”抵抗勢力“として戦う構図と捉える事が出来る。
具体的には“足利義昭”を擁立した形で”毛利氏“並びに“毛利氏”に支援を仰ぐ”大坂(石山)本願寺“そして”大坂(石山)本願寺“と共闘する”雑賀衆”等の“武装集団”即ち ”旧至強(旧将軍・旧幕府)勢力“と“天下人”としてのお墨付きを得て新至強勢力として政治権力を任されたた“織田信長”率いる “至尊(天皇家・朝廷貴族層)勢力”との争いの構図だとする説である。

29:“荒木村重“に就いて

29-(1):常に“戦乱の地”と成り、一つに纏まらなかった“荒木村重”の“摂津の国”

6-19項の4~5で“永正の錯乱”(1507年6月に細川政元が謀殺された細川殿の変以降の細川京兆家の内紛時代)に就いて詳述したが“摂津国”(大阪府、兵庫県の一部)はこの“永正の錯乱”以後、常に戦乱の地と成り、一つに纏まる事は無かった。

“足利義昭”を擁立した“織田信長”が西上し“摂津国”に至り“三好氏”が本拠地とした“芥川山城”を攻め落し“三好三人衆”を阿波国に撤退させ“和田惟政・伊丹親興・池田勝正”の3人を“摂津3守護”に任じ(1568年永禄11年10月~)以後“摂津国”が安定した統治が出来る事が期待された。

29-(2):“織田信長”に認められた“荒木村重”の主君“池田勝正”

“荒木村重”(利休十哲の一人・生:1535年・没:1586年)は“摂津国人”で“足利義昭”上洛後”摂津3守護“の一人に任じられた”摂津国・池田氏当主・池田勝正”の家臣であった。

“荒木村重“の妻は1563年に没した”先代当主・池田長正”(生年不詳・没:1563年)の娘であった。こうした関係から“荒木村重”は“中川清秀”(生:1542年・没:1583年4月)と共に所謂“池田二十一人衆”として一族扱いをされた。その一族の中で“荒木村重”は次第に頭角を現して行ったのである。

当主“池田勝正”が優れた武将である事を“織田信長”は認め“摂津3守護の一人”として任じた事は6-21項の48-(1)で記述したので参照願いたい。“織田信長”が“足利義昭”を擁立して上洛(1568年9月)した直後に“摂津国”等を次々に制圧して行った際“池田勝正”は“摂津国・国人“達が次々と降伏して行く中で一人”織田信長“軍の圧倒的軍事力に敢然と抵抗したのである。その事を“織田信長”が逆に評価して、戦いの後には、彼を咎めるどころか反対にその後の組織作りの中で“摂津3守護の一人”に任じたのである。

”織田信長“の傘下に入った後の”池田勝正“は軍功を重ね、1570年(元亀元年)4月28日に勃発した“織田信長”が”浅井長政“の裏切りに拠って絶体絶命の窮地と成った“金ヶ崎の退き口“の際に”木下藤吉郎・明智光秀“と共に見事に“殿”(しんがり)軍の大任を果たしたのである。(6-21項61を参照方)

29-(3):その“主君・当主・池田勝正”を“池田知正”と共謀し、追放して“池田家”の“実権”を握った“荒木村重”

1570年(元亀元年)6月19日:

”荒木村重“(生:1535年・没:1586年)は“三好三人衆”の調略に乗り“足利義昭+織田信長”の政権から“三好方”に寝返った。“舅”の“池田長正”(生:1519年・没:1563年・注:荒木略記によると荒木村重は池田長正の娘を正妻とし池田一族の立場を得、池田村重を名乗ったとの記述がある)の次男“池田知正”(=後に荒木久左衛門と称す・生年不詳・没:1604年)を当主として擁立し“中川清秀“(生:1542年・没:1583年)の協力を得て“主君”の“当主・池田勝正”を追放するという“池田家の内紛劇”の主導役を演じたのである。

この“池田家”の内紛で“荒木村重”が擁立した“池田知正”は家督を相続し“摂津国・池田城主”に成った。しかし“池田家”の“実権”は“当主家の一族”である立場を利用して“荒木村重”が握った。

29-(4):“三好三人衆”対“足利義昭+織田信長=幕府”との代理戦争でもあった“白井河原の戦い”で勝利した“荒木村重”等が新たな“摂津国”の支配者として躍進する

“荒木村重”が“三好三人衆方”へ寝返り“中川清秀”並びに“池田重成(=池田知正)を誘って“足利義昭+織田信長=幕府方“に拠って”摂津3守護“の一人に任じられた“主君・池田勝正”を追放し、直後に“白井河原の戦い”(1571年8月28日)を起した。この戦闘で“摂津3守護体制”の中の2人目“和田惟政”(生:1530年?・没:1571年8月)も討つ事に成る。

この結果“摂津国”が“旧摂津3守護”(和田惟政・伊丹親興・池田勝正)体制から①荒木村重②中川清秀③高山右近④高山友照に拠る支配体制に代わった。こうした新体制を生む結果に成った“白井河原の戦い”は“戦国時代から安土桃山時代への世代交代が為された合戦”と称される。

以下に“白井河原の戦い”に就いて記述して行く。

29-(4)―①:“将軍・足利義昭”方と戦った“荒木村重+中川清秀”連合軍

1570年(元亀元年)6月26日:

”荒木村重“に拠って追放された“池田勝正”が、当時“将軍・足利義昭”方に与していた“三好義継”に伴われて上洛した記録がある。この頃は未だ“将軍・足利義昭”と協力関係にあった”織田信長“は憎き”浅井・朝倉連合軍“と戦うべく”織田・徳川連合軍“を組んで”姉川の戦い“(1570年6月28日)に出陣中であった。(6-22項3を参照方)

“白井河原の戦い”(1571年8月28日)の構図は下記に纏める様に“茨木重朝”(室町幕府幕臣・摂津国茨木城城主・和田惟政麾下の武将・生年不詳・没:1571年8月28日)と“和田惟政”の連合軍、即ち“将軍・足利義昭”方と“荒木村重+中川清秀”連合軍という構図での戦闘と成った。

29-(4)-②:戦況

以下に纏めたが、交戦戦力は“荒木村重+中川清秀”連合軍が凡そ4500兵であり、一方の“幕府方”の“茨木重朝+和田惟政”連合軍は、馬廻り500以上とだけしか記録に伝わらない。多勢に無勢の“幕府方・茨木重朝+和田惟政”連合軍の“郡正信”が大将の“和田惟政”に“多勢に無勢、これでは勝ち目は無い。大将は強いだけが能では無く、可を見て進み、不可をみて退き、無事をもって利を図るのが名将だ“と進言したが”幕府方・和田惟政“は全く聞き入れず、200騎を引き連れて”荒木村重+中川清秀“軍に突撃した。この無謀な突撃で”郡正信”自身も敵方の武将“山脇源太夫”に討ち取られた。

指揮官2人共が討たれた“幕府方・茨木重朝+和田惟政”連合軍の残兵は玉砕覚悟で討って出て、結果、ほゞ全滅したと伝わる。“陰徳太平記“には”白井河原は名のみにして唐紅の流れと成る“と書かれ、戦場が赤く血に染まった事を記している。(陰徳太平記=香川景継著、1717年/享保2年/に出版された古典)

尚、上記“和田惟政“と”高山氏“の庇護を受けていた”ルイスフロイス”は著書“日本史”に“白井河原の戦い”が“幕府方”の大敗であった事を記し、この史実を裏付けている。

29-(5):“白井河原の戦い“の纏め

年月日:1571年(元亀2年)8月28日
場所:白井河原周辺(現在の大阪府茨木市の茨木川河原一帯)
結果:
“荒木村重+中川清秀”連合軍が“将軍・足利義昭”方の“和田惟政+茨木重朝”連合軍との戦闘に勝利した。
この戦いで“和田惟政・伊丹親興・池田勝正”の“摂津3守護”の勢力は後退し、新たに“摂津支配者”として荒木村重、中川清秀、高山右近、それに、高山右近の父で高山飛騨守の高山友照(松永久秀の与力、洗礼名ダリオ・生:1524年・没:1595年)等が台頭した。既述の様に、この“白井河原の戦い“は”戦国時代から安土桃山時代初期への世代交代が為された戦闘“と称される所以である。

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29-(5)-①:“白井河原の戦い”史跡訪問記・・2025年5月11日(日曜日)

住所等:大阪府茨木市
交通機関、並びに訪問記
大阪市立美術館で開催されていた“日本国宝展”(京都国立博物館・皇居三の丸尚蔵館特別協力)の見学等の用事もあり当日は大阪に居た為、同好の友人と大阪駅からJRに乗り、茨木駅で下車した。此処までは良かったが“駅北側の阪急バス1番の乗り場から86、87”茨木サニータウン行き“の案内を頼りにバスを待ったがバスは来ない。30分程してバス停に書かれている標示をもう一度見ると別のバス停が指示されているではないか!慌てて新たなバス停に行くと目的のバスは既に出て終っていた。
史跡案内には目的地のバス停”中河原“から先も”勝尾寺川に沿って幣久良橋に行き着く、この付近一帯が白井河原合戦跡だ“とある。
時間の制約もあり、又果たして史跡に正しく辿り付けるかも不安だった。バス停の側にTaxiが居たので史跡地に就いて尋ねるとそう遠くは無い、との答えが返って来た。結果、良心的に思えたドライバーを信じてTaxiを利用する事に決めた。15分程でドライバーは添付写真に示す”白井河原合戦跡“と書かれた看板のある場所に我々を届けて呉れた。合戦が行われた”河原・周囲の様子“は写真に示す通りである。周囲は宅地化が進み当時の大合戦が行われた戦場の面影は無い。表示板、並びに”河原“の写真を撮った後待たせてあったTaxiに戻るとドライバーが“近くにそれに関連した碑がある様です”と言うので其処にも向かった。“耳原公園”と言う45千平米(約13000坪)の自然環境豊かな公園であったが“碑”は“白井河原合戦”に関するものでは無かった。
この間待って貰っていたTaxiに戻り、JR茨木駅まで送って貰った。Taxi料金は3500円であった。 

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29-(6):“摂津池田家当主・池田知正”の没落

“白井河原の戦い”( 1571年/元亀2年/8月28日)で“中川清秀”更には“高山右近・高山友照”等と組み“将軍・足利義昭”方の“和田惟政”並びに“茨木重明”軍を敗った“荒木村重”は“中川清秀、高山右近、高山友照”と共に“摂津国3守護”(池田勝正・和田惟政・伊丹親興)に代わる新たな“摂津国”の“支配者”と成った。

29-(6)-①:“三好三人衆”方から“織田信長”方に寝返った“荒木村重”

“織田信長”が“将軍・足利義昭”と完全に袂を別った(1572年9月の17ケ条の意見書以降)時点での“荒木村重”の立ち位置は“前当主・池田勝正”が“将軍・足利義昭+織田信長”に与していた為“将軍・足利義昭+織田信長”方に属したが“池田勝正”とは反対の勢力、即ち“三好三人衆”方に属する形と成った。

ところが“白井河原の戦い”(1571年8月28日)で“足利将軍方・和田惟政・茨木重朝”連合軍と戦い、勝利した“荒木村重”を“織田信長”が気に入り、結果“織田信長”に属する事に成った。この背景には“織田信長”と“将軍・足利義昭”の間には“織田信長”が1年前の1570年1月23日に“将軍・足利義昭”に対して“五ケ条条書”を出しており、この時点から1572年9月の“17ケ条の意見書”で完全に両者が袂を別つ事が決定的と成っていたという事があった。

そもそも“織田信長”は“将軍・足利義昭”を“血統信仰に基づいた彼の将軍家の血筋であるという権威”だけを利用する為に必要としたのであって“将軍・足利義昭+織田信長政権”運営に於けるすれ違いは日増しに拡大していたのである。

従って“白井河原の戦い”(1571年8月28日)で“将軍・足利義昭方”との戦いに勝利した“荒木村重”を“織田信長”が評価し、自分の陣営に取り込む理由、メリットがあったのである。

こうして“織田信長”に与した“荒木村重”は“勢力基盤”を整えて行き”池田知正“を当主とする”池田家中“に於ける立場は“名目上”は“当主・池田知正”であったが、実権は“池田知正”を凌駕するものであった。“名目上の当主・池田知正”の家中に於ける立場は“荒木村重の配下”であり“池田家”に於ける地位逆転が起っていたのである。

“池田知正“は“織田信長”と“将軍・足利義昭”の亀裂がいよいよ明確と成ると“細川藤孝”の説得にも拘わらず“将軍・足利義昭”に与する事を選択した。此処に“池田知正”の没落は決定的と成った。

29-(6)-②:“池田知正”が没落し“荒木久左衛門”を名乗らされた史実

”池田知正“と”荒木村重“の”池田家中“に於ける地位が逆転した事を裏付ける史実として“池田知正”が“荒木久左衛門”を名乗らされた事が“信長公記”に記されている。又別の3番目の名前を名乗った事が“陰徳太平記”(1717年に出版された室町幕府12代将軍・足利義稙の時代/1507年~1598年慶長3年/迄の約90年間を記した軍記物語・著者:香川景継)の中にも見出せる。

“陰徳太平記”に記される第3番目の“池田知正“が名乗らされたとする名は”池田久左衛門“である。この2つの史料は共に”池田知正“が没落した事を裏付ける史実である。

メモ:池田家当主としての血統上の正統性に於いて“前当主・池田勝正”より“池田知正”の方が“正統”であるとの説に就いて

“荒木村重”と“池田知正”(生年不詳・没:1604年3月18日)に拠って“摂津三守護”の一人であった“当主・池田勝正”(生年不詳・没:1578年)が追放された。この背景として“池田氏”の当主としての家系では、血統上は“池田知正”の方が“池田家“に於ける正統性があるとの説がある。

その論拠として、追放された“前当主・池田勝正”は“前々当主・池田長正”(生:1519年?・没:1563年)の息子では無く、単に“池田一族”に過ぎないとの研究結果が報告されている。一方の“池田知正”は“前々当主・池田長正”の(脇腹?)の息子(次男?)と記録されている。従って“池田知正”の方が“池田家嫡流”としての血統を継いでいるという事に成り“池田家当主”の血統上、正統だという説である。

では、何故“池田勝正”が“池田知正”を押さえて“池田家当主”を継ぎ“摂津三守護”の一人に成ったのか?に就いては“池田勝正の方が文武に秀でていた為”という説が有力とされる。

29-(6)-③:“名門・池田家”に於ける内紛に協力した“池田知正”が何故“荒木村重”に実権を握られたのかの理由は“池田知正”が“将軍足利義昭”と与した事である。一方“織田信長”と与した“荒木村重”の勢力が優る事になり“池田知正”は“荒木村重”の家臣と成る迄に没落した

“荒木村重”が“主君”であり“当主”だった“池田勝正”を“池田知正”と共謀して追放し(1570年/元亀元年/6月19日)“池田家”の実権までをも握った。“荒木村重”と共謀し“名目上”の“池田家当主”の座に就いた“池田知正”ではあったが、彼には没落が待ち受けていた。

“織田信長”と“将軍・足利義昭”の関係が“17ケ条の意見書”を“織田信長”が“将軍・足利義昭“に突き付けた事(1572年9月説、12月説がある。6-22項9~参照方)がトリガーと成り、両者は袂を完全に別ち、以後、戦闘状態に展開した事は既述の通りである。

そして“将軍・足利義昭”は“槙島城の戦い”(1573年7月16日~18日)で圧倒的な武力差で“織田信長”軍に敗北し”京“を追われる事態と成った。こうした展開を読み切れず”細川藤孝“の”織田信長方に与するべき“との説得に従わず“池田知正”(池田久左衛門・荒木久左衛門)は“将軍・足利義昭”を支持するという大きな誤りを犯した。

一方”織田信長“に与した“荒木村重”は “槙島城の戦い”で軍功を挙げた。結果“池田知正”は没落し“摂津国・池田家“は”荒木村重“に乗っ取られた形となった。(これを荒木村重は摂津国・池田家に於いて下剋上を成したと表現する歴史書もある)“池田知正”は“摂津国”から一時的に追放されたが、後に“織田信長”に降伏し、その結果“荒木村重の家臣”として組み入れられたのである。

“荒木村重“は”池田一族“であった事から”池田信濃守村重“を名乗った。一方で家臣の立場に成り下がった“池田知正”は“荒木久左衛門”を名乗らされた。これを“名門摂津国池田家”に於ける“荒木村重”に拠る“下剋上”と書く書物もある。

29-(7):“池田城”訪問記・・訪問日2021年4月3日(土曜日)

交通機関等:

前の日は既述の“桑実寺”並びに“興聖寺”を訪ね、大阪市内に宿泊していたので、大阪市北区の宿舎から大阪駅に出て、阪急池田線に乗り換え“池田駅”で下車、そこから徒歩15分程で“池田城跡公園”に着いた。

歴史等:

築城は1334年(建武元年)前後と言うから1333年4月に足利高氏(尊氏)が後醍醐方に転じて全国に激をとばし翌6月には六波羅を落し、東では“新田義貞“が鎌倉を陥落させるという “鎌倉幕府滅亡”の大混乱の時期の築城という事である。築城主は“豊島土着豪族・池田教依”とある。代々城主は池田氏が務めた事が、添付の写真(池田城の歴史版)に載っている。“荒木村重”も城主を務めた様であるが、1574年(天正2年)に“有岡城”に居城を変えている。

その後“池田知正”が城主となったという話もある。“有岡城の戦い”(自1578年7月至1579年11月19日)の際“織田信長”が1578年11月に“荒木村重”が捨てたとされる“池田城”に陣を張ったとの記録もある。“池田城”は“有岡城”が落城(1579年11月19日)した翌1580年(天正8年)に“織田信長”の命で廃城と成ったとされる。

訪問記

写真に示す様に、現在は“大阪府池田市城山町”の“池田城跡公園”として整備されている。“室町時代初期から戦国時代にかけて現在の池田市域一帯を支配していた”地方豪族・池田氏“の居城であった”池田城“の歴史を後世に伝える目的の為に整備されたとある。城址として園内に池田城の土塁、建築物の礎石等が遺されているが、当時の城の規模、建物の面影は残されていない。展示された図に当時の城郭の様子が知れるのみである。




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29-(8):“若江城の戦い“で”織田信長“に与し、戦功を挙げた”荒木村重“は“伊丹城”を陥落させ“摂津国”を任され”伊丹城“を“有岡城”と改称して“摂津国・統治”の中心に据えた

1573年(天正元年)11月5日~11月16日:

“荒木村重”は“織田信長”が“三好義継”を討った“若江城の戦い”でも戦功を挙げ“織田信長”を“若江城”に迎え入れた。

1574年(天正2年)11月15日:

”摂津国“は”将軍足利義昭“が”摂津三守護“(池田勝正・和田惟政・伊丹親興)を任じていた(1568年末~1569年)が、常に国人達が絡んで争いが絶えない地域であった。その状況に乗じて“荒木村重”が1570年(元亀元年)6月19日に“池田家“で内紛を起こし、当主の“池田勝正”を追い出し、更に、翌1571年(元亀2年)8月28日の“白井河原の戦い”でもう一人の摂津3守護“和田惟政”を討った事は既述の通りである。

残った“摂津3守護”の一人“伊丹親興”(生年不詳・没:1574年11月15日)も“荒木村重”は“伊丹城”を攻め落し自害させた。此処に“旧攝津国・三守護”の全員が滅んだのである。

“荒木村重”はこの“伊丹城”の城主となり“有岡城”と改名した。こうした“荒木村重”に“織田信長”は“摂津一国”を任せた。

29-(9):“有岡城”訪問記・・2023年(令和5年)12月9日(土曜日)

住所:兵庫県伊丹市伊丹1丁目12
交通:大阪駅からJRに乗り“伊丹駅”で降りると駅の西側前に“有岡城址”が広がる。

訪問記
大阪市の心斎橋にある“三津寺”を訪問した後、JR大阪駅に出てJR西日本の伊丹駅で降りた。駅前に“有岡公園”があり、其処が城址である。
写真を添付したので城の歴史、有名な“黒田官兵衛”が“荒木村重”に謀反を思い止まらせようと説得に行ったが捉えられ牢屋に幽閉された話にまつわる“官兵衛ゆかりの藤の碑”等を見学した。
伊丹駅周辺は今日では、すっかり、近代的な街に生まれ変わり、当時総構え東西800m南北1700mに及ぶ堅固な“有岡城”は後の“織田信長”の大軍の攻撃にも1年に亘って持ち堪えたと伝わる。しかし、そうした堅固な城の面影は、今日、全く残されていないのが残念であった。




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29-(10):“織田家”の譜代宿将と同等の優遇地位を与えられていた“荒木村重”

1574年(天正2年)11月15日:

“伊丹親興”を討伐し“旧攝津3守護”の3人全てを滅ぼした“荒木村重”に“織田信長”は“摂津一職”(但し本願寺領域は除く)という強大な支配権を与えた。この地位は外様の“荒木村重”にとって“柴田勝家・佐久間信盛”をはじめとする“織田家・譜代宿将”達の待遇と比べても遜色のないものであった。

こうした地位を“織田信長”から与えられた”荒木村重“は、その後“摂津国”に於ける他勢力を軍事的に制圧して行った。

1575年(天正3年):

“荒木村重”は更に“摂津国・有馬郡分郡守護・赤松氏“を継承した”摂津・有馬氏を滅ぼした。ここで“細川政権~三好政権”の時期を通じて“摂津国統治”の中心であった“芥川山城”(築城主・細川高国1515年~1516年・改修者細川晴元&三好長慶)並びに“越水城”(築城主・瓦林正頼1516年・主な城主は瓦林正頼~三好長慶~篠原長房)両城を廃し、更に“伊丹城”を改称して“有岡城”と改名し、此処を本拠として“織田信長家臣”としての新たな支配体制をスタートさせたのである。

1575年(天正3年)9月上旬:

既述の通り“浦上宗景”は“天神山城の戦い”(自1574年4月至1575年9月)の結果1575年(天正3年)9月上旬に“毛利輝元+宇喜多直家“軍に敗れ、所領を追われた。”荒木村重“は”織田信長“の指示で”浦上宗景“を支援し”宇喜多端城“(所在地不明)に入城させた事が伝わる。

29-(11):“織田信長”と“毛利氏”間の“同盟・通交関係”が破棄された(1576年5月~)状況を知った“荒木村重”は“毛利氏”が“織田信長”に比べて受け皿としての信頼性、安定性に勝るのかの選択に迷った。そして、結果は“織田信長”から離脱し“毛利氏”に付く事を選んだのである

“荒木村重”は“織田信長”の外様家臣としては“織田家・譜代宿将”達の待遇と比べても遜色のない地位と信頼を得て来た事は既述の通りである。

しかし”荒木村重“も”松永久秀“並びに”別所長治“等”外様家臣・従属的同盟者“達が“織田信長”に対して感じていたと全く同じ“不器用すぎた天下人・織田信長”からの人扱い並びに言動から来る不満と不安を抱え“織田信長政権の矛盾”に悩んでいたとされる。その内容に関しては3説が挙げられるが、後述する。

更に“織田信長軍”が不利な戦況下にあった事も“荒木村重”が“織田信長政権”からの“離脱”そして“謀叛”を決断した客観的事実であった。

”織田信長軍“が不利な戦況下にあった事とは①“毛利氏”が先の“第1次・木津川口の戦い”(1576年7月13日)で“織田水軍”に大勝し“大坂(石山)本願寺”に対する支援体制を固めた事②更に“第2次・上月城の戦い”(1578年4月18日~7月3日)で“上月城”を奪還した事である。“荒木村重”はこれ等の足下の状況から“足利義昭”が主唱する“第3次・織田信長包囲網”方の中核を成す“毛利氏”に付く方が、将来に対する受け皿として“比較優位”だとの判断をしたのである。そして“織田信長政権”からの“離反”そして“謀叛”を決断した。

30:“荒木村重”が“織田信長”からの“離反”そして“謀叛”の結論に至った不信感・不満、そして不安の蓄積の内容に関する3説

30-(1):厚遇されていた“荒木村重”が初めて挫折を味わった“織田信長”が“羽柴秀吉”を選んだ“播磨国平定命令”

1575年(天正3年)10月20日:

既述の様にこの日の記録に“①別所長治②小寺(黒田)政職③赤松広秀(斎村政広、赤松広通とも)④浦上宗景⑤山名韶熙“の5人が揃って在京していた”織田信長“に謁見した事が記されている。

この史実は”織田信長“の威勢が既に”播磨国“そして”但馬国“更には”備前国“にまで伸びていた事を裏付けている事は述べた。この時点で“織田信長政権”に於いて、こうした諸国と”織田信長“とのパイプ役を担っていたのが”摂津国・支配者“に任じられた(1577年/天正5年/10月23日)”荒木村重“だった。

”荒木村重“の”織田信長“からの”離反・謀叛“の諸理由を下記に挙げるが、その中に“人事上の扱いに不満”があった事がある。それは“織田信長”が“摂津国”の西に隣接する“播磨国平定”に関して“荒木村重”では無く”羽柴秀吉“を任じた事である。そして発令に応じて”羽柴秀吉“は”播磨国“に向け”京都“から出陣し、既述の成果を瞬く間に上げた。

諸々の条件を考えると“羽柴秀吉”を任じた“織田信長”の人事が妥当であった事を“信長の天下布武への道”の著者“谷口克広”氏が挙げている事は紹介したが“荒木村重”としてはこの人事が不満であり“織田信長政権”に於ける人扱いに対する挫折を味わったと同時に自らの将来に対する不安を抱いた事であろう。

“荒木村重”が“織田信長”に“謀叛”に及ぶ決断をした理由は、この人事の事だけでは無く、以下の3つの理由があったとされる。

30-(2):“荒木村重”を“織田信長”からの“離反“そして”謀叛“に至らしめた3つの理由<

30-(2)-①:理由1・・“播磨平定”の役割を“羽柴秀吉”に命じた“織田信長人事”に対する不満が理由1

”織田信長“は1577年(天正5年)10月に”播磨平定戦“の人事を行った。それまで”播磨国衆“と”織田信長“との間のパイプ役と成って働き”摂津国一職支配者“に任じていた”荒木村重“では無く”羽柴秀吉“を任じたのである。

この“織田信長”の人事は“摂津国”の支配を任され、その上”織田信長“軍の“大坂(石山)本願寺包囲”戦の一角を担い”播磨国“にも出兵し”播磨国の勢力“を味方に付ける等の働きを重ねて来た“荒木村重”からすれば、大いに不満であった。


しかし“織田信長”の判断は“羽柴秀吉”が“毛利輝元”との外交を担当して来たという政治的背景を重要視したものであり、至極妥当なものであったとも言える。しかし“荒木村重”にとっては自分の守備範囲と言える“播磨国”攻略の担当を外された事は意外であり、又、屈辱的なものであった。結果この人事が“荒木村重”が“織田信長”への信頼を失い、自分の将来への不安を抱かせる切っ掛けと成ったのである。将来の自分の受け皿として考えた場合”毛利方“と組む方が自分にとっては有利であろうと考え”織田方“からの寝返りを決断したという説である。

30-(2)-②:理由2・・“第3次・織田信長包囲網”側からの“荒木村重”への誘いが何よりも“離脱~謀叛”を決断する強いインパクトであったとする理由2

1578年(天正6年)7月以降:

この説は後述する理由3と重なる理由とも言える。“第2次・上月城の戦い”で“毛利方”が3万の大軍で“上月城奪還”に動いた事で“織田信長”は“上月城放棄”を“羽柴秀吉”に命じた。結果“上月城”は1578年(天正6年)7月3日に落城し“毛利氏”が奪還した。

“毛利氏”と“織田信長”は1576年(天正4年)5月を境に“同盟関係”が破棄され、早速、戦闘状態に突入し“毛利氏”は“第1次・木津川口の戦い”(1576年7月13日)そして“第2次・上月城の戦い”(1578年7月3日)に於いて大勝利を収めた。この事は当然“荒木村重”も知っており“毛利氏”が“足利義昭”が主唱する“第3次・織田信長包囲網”の中軸を成し“大坂(石山)本願寺”とも同盟し、支援を行っている戦況を考えると“織田信長討伐グループ”の存在は“官軍・織田信長政権”にとっては厄介、且つ、侮れない存在と成って来ていると判断したのであろう。

1577年10月には“松永久秀”が“信貴山城の戦い”を起し、その5ケ月後に同じ“織田信長政権”の内部から“別所長治”が“織田信長”から離反・謀叛し“三木合戦”を勃発させた。これ等の動きを見るにつけ“荒木村重”は“織田信長政権”が内部から崩壊して行く姿が想像されたのかも知れない。

そして“荒木村重”は、一方の”毛利氏“が中軸を成す“第3次織田信長包囲網”の方に、より受け皿としての優位性を見出し、加わる決断をしたのである。こうした状況下“毛利方”は“荒木村重”に対し“調略交渉”を仕掛け、彼がそれに応じたとするのが理由2である。

30-(2)-③:理由3・・“荒木村重は既に“足利義昭”並びに“毛利輝元”そして“大坂(石山)本願寺・顕如”との“同盟”関係を結んでいた。この事を“織田信長”から疑いを掛けられた為、逃げ場が無く成り“離反~謀叛”を決断した理由3

この説は“荒木村重”の“織田信長”からの“離反~謀叛”の諸理由の中で、最も決起に近い時点で起きた事柄とされる。具体的には“大坂(石山)本願寺”との間の“起請文“がこの事を裏付けているとされる。

“信長の天下布武への道”の著者“谷口克広”氏は“荒木村重”は“謀叛”に至る4ケ月前、つまり1578年(天正6年)3月頃には“毛利氏”と通じていた疑いがある事、更には“足利義昭・毛利輝元・大坂(石山)本願寺顕如”に人質、並びに誓書を出して“同盟”を誓っていたとしている。この事を“織田信長”に疑いを掛けられた為、開き直って“織田信長”からの“離反~謀叛”を決断したとする説である。

“谷口克広”氏はこの理由説を裏付けるものとして1578年10月17付け“本願寺顕如“から”荒木村重・村次父子“に宛てた”起請文“の存在がある事を挙げ”織田信長“の疑いが当たっていたとしている。”本願寺・顕如“は起請文で下記三ケ条を誓約している。(古文書集)

第一条:本願寺と一味の上は善悪については相談、入魂にする事。本願寺の要求には承諾する事。織田信長を倒し、天下の形勢がどの様になろうとも、本願寺は荒木を見捨てない事
第二条:知行については本願寺は口出ししない。又、本願寺の知行分については異存はない。百姓門徒については荒木が支配すること。本願寺は干渉しない
第三条:摂津国の事は申すに及ばず、所望の国々の知行の件についても本願寺は手出ししない。公儀(足利義昭の事)及び毛利に対して忠節を尽くすので、望みを任せるように本願寺は最善を尽くす。又荒木と戦っている牢人門徒は本願寺がやめさせる

31:“有岡城の戦い”勃発:自1578年(天正6年)7月~至1579(天正7年)年11月19日:

31-(1):戦い勃発前の“織田信長”と“荒木村重”の様子

1578年(天正6年)元旦:

“安土城“で行われた正月儀礼で”織田信長“は”林秀貞・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉“等に加えて”荒木村重“を朝の茶に参加させた。この事は”荒木村重“が”織田信長“からの”離反・謀叛“に及ぶ7ケ月前に”織田信長“は”荒木村重“を”織田政権“の”重鎮の一人“と位置付けていた事を裏付けている。

31-(2):”羽柴秀吉“軍に属して”三木合戦“に参戦していた”荒木村重“が突如戦線を離脱し、無断で居城の“有岡城”(伊丹城)に帰る

1578年(天正6年)7月:

“主君・織田信長”からの“離反・謀叛”を決断した“荒木村重”は“嫡子・荒木村次“の正室に成っていた“明智光秀”の娘を離別させ“明智光秀”の元に帰らせた。そして“三木合戦”の戦場から“有岡城”に帰城したのである。

31-(3):“荒木村重”の“離反”そして“有岡城”への無断帰城を信じなかった“織田信長”

1578年(天正6年)10月21日:

“信長公記”に拠れば“織田信長”に謀反の話が伝わったのが1578年10月21日だとある。“浅井長政”並びに“松永久秀”の謀叛のケースと全く同じで“織田信長”は当初はこの噂を信じなかった。そして“糾問使”(罪や不正を厳しく問い正す)3名を“荒木村重”の許に派遣した。

派遣されたのは“明智光秀・松井友閑・万見重元“の3名であった。“明智光秀“の娘が”荒木村重“の嫡男”荒木村次“(生没年不詳)に嫁いでいた為(上記した様に有岡城の戦いが始まる前に離別している)“明智光秀”は“親戚”という関係から“糾問使”に選ばれたと考えられる。

メモ:
“荒木村重”麾下(部下)の“中川清秀”の家臣が“織田軍”が攻囲中の“大坂(石山)本願寺”に兵糧を売った事に対して“織田信長”が“荒木村重”への疑いを抱いたとの話がある。しかし、そうした事実は無かった事が“陰徳記“(慶長18年/1613年/生まれの岩国藩家老・香川正矩が戦国時代から安土桃山時代に至る約100年、西日本を舞台に繰り広げられた群雄の治乱興亡史の集大成として記したもの)に書かれている。

この状況を耳にした“高槻城主“の”高山右近“も”有岡城“へ”荒木村重“の説得に向かった。“荒木村重”は一端“糾問使”の説得を聞き入れ“嫡男・荒木村次“と共に”事実無根“だと弁明の為“安土城”に向かったとの説がある。

“立入左京亮入道隆佐記”(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき・立入宗継による天正から文禄年間に起こった出来事の記録)が伝える話であるが“荒木村重”が“安土城”に向かう途中“茨木城”に立ち寄ったところ“茨木城主”で、部下の“中川清秀”(生:1542年・没:1583年)から“織田信長に一度疑われたら赦されない。安土城に出向くのはもってのほか、安土城に行って切腹させられるより摂津国で一戦に及ぶべき“と説得され”荒木村重“は”有岡城“に戻り、謀叛に踏み切ったという事である。

しかし、この説は上述した“荒木村重”が“織田信長”からの“離反“そして”謀叛“に至った3つの理由の中の理由3の信憑性が高いという点からも極めて疑わしい。

31-(4):次第に“荒木村重”の“謀叛”を信じた“織田信長”の対応、そして”荒木村重“の対応

上述した様に、3人の“糾問使”を遣わし、翻意に努めたが、結果は思わしく無く“織田信長“は”人質に荒木村重の母親を差し出せ“との命を出した。”荒木村重“はこの命に従おうとはせず、説得交渉は決裂した。

“荒木村重”のその後の対応が“大河ドラマ”等“の場面でも知られる有名な話である。つまり、単身“有岡城”に乗り込み、最後の説得を試みた“小寺孝隆”(=黒田孝高=黒田官兵衛)を“有岡城“の牢獄に閉じ込めるという対応であった。そして”有岡城の戦い“が開始される。

31-(5):“有岡城の戦い”の勃発は“三木合戦”の勃発、そして“第2次・上月城の戦い”の敗戦、加えて、同時並行で進行する“大坂(石山)本願寺包囲戦”を抱える“織田信長軍”にとっては“四面楚歌”状態と成る事であった

”荒木村重“を翻意(ほんい=一端した決意を変える事)させる事に失敗した“織田信長”は“三木合戦”(1578年3月29日~1580年1月17日)に加えて継続中の“大坂(石山)本願寺包囲作戦”更には“毛利軍“が”第2次・上月城の戦い”に大軍をもって勝利を収め(1578年7月3日)“上月城”を奪還し、愈々“東進“を本格化させるという戦況と重なり、眞に“四面楚歌”状態であった。

31-(6):”織田信長“軍を“四面楚歌状態”から救った“第2次・木津川口の戦い“での勝利

1578年(天正6年)11月6日:

四面楚歌状態にあった“織田信長”方に“石山(大坂)本願寺包囲戦”に活路を齎す朗報が舞い込んだ。

それは1578年11月6日の“第2次・木津川口の戦い”で“織田方”の“九鬼水軍”が2年間の準備の末、見事に“毛利水軍”に大勝した事であった。(この海戦で九鬼嘉隆の船が鉄鋼船であったとの話が伝わるが真偽は不明である)

この結果“毛利軍”からの“石山(大坂)本願寺”への“兵糧”補給が困難と成った。“大坂(石山)本願寺“の戦力が弱まると判断した”織田信長“は“大坂(石山)本願寺”との“和議”工作に動いた。しかし“大坂(石山)本願寺”は“和議には毛利氏の承諾が必要”として、この時点での”和議“には応じなかった。

32:“有岡城の戦い”(=伊丹城の戦い)は16ケ月後(1579年11月19日)に“織田方”の勝利と成る。しかし当の“荒木村重”は“支城群”を渡り歩き逃げ回る

32-(1):“荒木村重”を“離反”させ、更に“謀叛戦闘”を長期に亘って継続可能とさせたのは“人間扱いに不器用すぎた天下人・織田信長”が“荒木村重”を信用し、彼が抵抗活動を継続する為に充分な軍事力 が持てる様な命令を出していた事等、結果的には“油断”があったとされる

“織田信長”が“家臣・明智光秀”に拠って“本能寺の変”によって討たれるが、其処に至る“規定路線”とも言える“織田信長”の言動、そして軍事的配置に関する人事等“油断”があったと何度も述べた。

“人間扱いに不器用すぎた天下人・織田信長”が“明智光秀”を“京都方面軍管区長”に任じた事は後に“本能寺の変”で討たれる“既定路線”を敷いた代表的行動であったと言えよう。

この結果“織田信長”は“明智光秀”が軍事の全てを掌握する地区、つまり“京都”の“本能寺”に、言わば“無防備状態”で、しかも”嫡子・織田信忠“と共に入り(1582年5月29日)父子が共に討たれた(1582年6月2日)のである。

次項6-25項では”織田信長“が討たれる別の視点からの”既定路線を敷いた”と言える”四国の雄・長曾我部元親“との関係、そこに”仲介役“として絡んだ”明智光秀“が“織田信長”の対応に拠って“不満と将来に対する不安“を感じ、追い詰められ、結果”窮鼠猫を噛む“の諺通り”織田信長“を”本能寺“で討つ迄の史実を記述する。

”外様家臣?従属的同盟者・荒木村重“の”謀叛“は”明智光秀“の”謀叛“とは経緯は異なるが“織田信長”が政権内の“外様家臣・従属的同盟者”に対する扱いの拙さ等から、彼等に不満と将来に対する不安を与え、信頼を失なわせ、敵意を抱かせて行くという変化に全く無頓着であった事は確かであり“織田信長”の最大の弱点であった事も確かである。

“1575年11月”に“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”から“足利義昭”に代わる“天下人”としての叙任、昇任を得た事が“織田信長”の“全国統一”への自身を倍加させた事が“人間扱いに不器用すぎた天下人”として彼の振舞いを増幅させたと言えよう。そして“家臣・外様家臣・従属的同盟者”達が“足利義昭”が主唱する“第3次・織田信長包囲網”の中軸である“毛利氏”との“比較”で、何方が“受け皿”として、より“安定”で、又“信用出来るか”を常に天秤に掛けていたという事に、余りにも無頓着であった事が“織田信長”の命取りに成るのである。

32-(1)-①:“明智光秀”を“京都方面軍管区長”に任じた“油断”と共通する“荒木村重”に“築城・修築”を命じ、結果“荒木村重”に十分な“謀叛の為の支城群”等の軍事力を与えた“織田信長”の結果としての“油断“

”織田信長“は”荒木村重“に命じて以下に示す10の城の”築城・改修“をさせている。後述する様に”荒木村重“はこれ等の城を”織田信長“に対する”謀叛“の際に”抵抗の為の支城群“として活用し、結果”逃げ切りに成功するのである。

”荒木村重“の”織田信長“に対する”謀叛“は”有岡城“を本拠としたが、下表①の”有岡城“での戦況が思わしくなくなると(1579年11月19日陥落)城を抜け出し②の”尼崎城“に移り(1579年9月)そして、此処も戦況が危うくなると、今度は⑩の花隈城に移るという具合で”織田信長“への抵抗を続けたのである。(自1580年閏3月2日至同年7月2日)

“本能寺の変”で“明智光秀軍”に討たれたケースと全く同じ構図で“人扱いに不器用すぎた天下人・織田信長”は結果として“油断癖”と称されても仕方が無い状況を自ら作って了ったのである。具体的には“危険な権限移譲”を行なってしまったという事である。

上述した“支城群の整備命令”も“織田信長”が“家臣団の編成、秩序作り”に慎重に気を配り、部下の扱いに無頓着で無かったならば“謀叛”等を避けられたであろう。ところが史実の“織田政権”は“荒木村重”の“謀叛”に拠る“戦闘の勃発”を招いたばかりか、その“長期化”を招き、更には“荒木村重”の逃げ切りまでを許してしまうのである。

荒木村重が織田信長の命令で築城、修築した10の城と“謀叛”での活用状況


① 有岡城(本城)・・城主:荒木村重 
② 尼崎城(大物城)・・城主:荒木村次・・荒木村重の息子で妻は明智光秀の娘 
③ 大和田城・・・・・城主:安部仁右衛門・・荒木村重家臣
④ 吹田城・・・・・・城主:吹田村氏・・この城が史料に現れる初見は1336年 
⑤ 高槻城・・・・・城主:高山右近(重友)・・キリシタン大名、荒木村重に属す
⑥ 茨木城・・城主:中川清秀・・“白井河原の戦い”で滅んだ茨木氏の居城であった
⑦ 多田城・・城主:塩川国満・・“松永久秀”に与し後に“織田信長”に仕え“荒木村重”に属す
⑧ 能勢城・・・・・城主:能勢頼道・・摂津国能勢郡の国人
⑨ 三田城・・・・・城主:荒木重堅(木下重堅とも称す)・・摂津池田氏家臣、荒木村重の小姓であったとされる
⑩ 花隈城・・・城主:荒木元清(生:1535年・没:1610年)・・荒木村重と同じ歳で親戚・花隈城から脱出し“鞆”に逃れ、後に“荒木流馬術”を創始する

   で囲われた城が“荒木村重”が“有岡城の戦い”“尼崎城の戦い” そして“花隈城の戦い”で“織田信長”に徹底抗戦を挑んだ城である

注:上記①~⑩の中③④の大和田城と吹田城に就いては次ページの別掲図“荒木村重が信長の命で築城、修復し自軍の城とした城”の図中、載せていない

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33:“有岡城の戦い”の初期段階で“高山重友(右近)”が降伏した。この事が“織田信長”方にとって戦闘を有利に進める上で決定打と成った

33-(1):“荒木村重”の与力として従っていた“高山重友(右近)”は“織田信長”への謀叛に驚き“荒木村重”に“翻意”する様、説得に動いた

“高山右近(重友)”(生:1552年、1553年説もある・没:マニラにて1615年1月6日)は与力として“荒木村重”に従っていたが“荒木村重”が“主君・織田信長”への謀叛に動いた事に驚き、翻意させようと“織田信長”が派遣した3人の“糾問使”(罪や不正を厳しく問い正す為の使者)とは別に”有岡城“へ単独で説得に行った。しかし”荒木村重“は翻意しなかった。

“荒木村重”の説得に失敗した“高山右近(重友)”は“荒木村重”と“織田信長”の間に挟まって悩み、尊敬するイエズス会員“オルガンテイノ神父”(イタリア人・1570年来日し布教、仏僧の様な着物を着、米を食べての布教で日本人からの人気があった)に助言を求めたという。神父のアドバイスは“織田信長に降るのが正義であるが、良く祈って決断せよ”との事であった。“高槻城”内は“織田信長”に徹底抗戦派と開城派で真っ二つに割れる状態であった。

”織田信長“は”荒木村重“に属し”有岡城“の支城群の一角を成す”高山重友(右近)“が城主の”高槻城“(上図⑤)も攻撃の対象としていた。しかし“畿内”を代表するキリシタンとして知られる“高山重友(右近)”が“荒木村重”の謀叛に懊悩している事を知った“織田信長”は“高山重友(右近)”を翻意させるべく“宣教師”を派遣したと伝わる。その際“織田信長”は“宣教師”に“高山重友(右近)”説得に成功すれば“キリスト教”を保護する、しかし失敗すれば“禁教だ!”との厳しい条件を付けたという。

33-(2):“高山重友(右近)”が“織田信長”に降伏した。この事が“茨木城主・中川清秀”にも波及し、彼も降伏した

苦渋の選択を迫られた“高山重友(右近)”は領地を返上する事、その代りに、人質処刑も無し、との条件を願い、自らは“紙衣”(かみころも=和紙を材料とした着物)一枚で“高槻城”を出て“織田信長”の前に出頭した。この“高山重友(右近)”の戦闘を回避したばかりか、潔い打開策に“織田信長”は“高山重友(右近)”を許したのである。

1578年(天正6年)10月24日:

“高山重友(右近)”が“荒木村重”から“離脱”した事は“荒木村重”に属した他の重臣“茨木城主・中川清秀”にも影響を与えた。“中川清秀”は1578年(天正6年)10月24日に“織田信長”軍に降参し“荒木村重”から寝返った。早くも“有岡城攻略”の前哨戦として上記2城の攻略に成功した事で“織田信長”はこの時点で“有岡城の戦い“の勝利が見えたと判断した。

33-(3):“高山重友(右近)”の降伏が“有岡城の戦い”の勝利に貢献したと“高山重友(右近)”を高く評価した“織田信長”

“有岡城の戦い”にその支城群の攻略から始める作戦を立てた“織田信長”にとって“高山重友(右近)”の“高槻城”(図⑤で表示)そして“中川清秀”の“茨木城”(図⑥で表示)が攻略戦の初めの戦闘であった。

ところが上記の様に“高槻城”の“高山重友(右近)”が潔く降伏し、その影響で“茨木城”の“中川清秀”も“荒木村重”から寝返った。こうした展開で、早々と”有岡城の戦い“の勝利を確信した”織田信長“の喜びは大きく”高山重友(右近)“の功績を評価し、彼に“高槻城主”の地位を安堵したばかりか“摂津国・芥川郡“を与え、2万石から4万石に加増させたのである。

33-(3)-①:“四面楚歌”状態にあった“織田信長”にとって“高山重友(右近)”が一早く戦争回避の動きをし、降伏した事が如何に嬉しかったかは、其れだけ“荒木村重”の謀叛に拠る“有岡城の戦い”の勃発が辛かったかを裏付けている

1578年(天正6年)11月:

“高山重友(右近)”は“摂津国”に出陣して来た“織田信長”に謁見した。喜んだ“織田信長”は自らの小袖に加えて名馬を“高山重友(右近)”に与えている。“三木合戦“の勃発に呼応し”第2次上月城の戦い“で”上月城“を奪還して東進の動きを見せる”毛利軍“の動きに乗じた”荒木村重“の謀叛”有岡城の戦い“の勃発という事態が”織田信長“にとって如何に苦境であったか、そしてそれを救った形の”高山重友(右近)“の素早い降伏が如何に喜ばしかったかを裏付ける史実である。

“織田信長”は“高山重友(右近)”を戦いの最重要目的である“荒木村重”の居城“有岡城攻略“に配属した。

33-(4):“高槻城祉”訪問・・2020年8月26日(水曜日)並びに2024年10月23日(水曜日)                

高槻城址公園住所:大阪府高槻市城内町3

交通機関等

大阪駅からJR新快速に乗ると15分程で“高槻駅”に着く。“高槻駅”から城祉公園、高槻しろあと歴史館、高山右近高槻天主教会堂跡までは、2020年(令和2年)8月26日に訪問している。又、2回目の訪問を4年後の2024年10月23日に行った。
史跡はJR高槻駅から近く、徒歩で訪問出来る。
第1回目の訪問時は猛暑の中、かなりの暑さだった。しかし2024年(令和6年)10月23日に行った第2回目の訪問は気候的にも楽で、周囲の景色をゆっくり見ながら快適な史跡訪問であった。2024年10月の2度目の訪問をした目的は5年前の2019年に発見され、マスコミでも大きく取り上げた“松永久秀の肖像画”見学の為であった。

歴史等
戦国時代、高槻地域は多くの戦闘の舞台と成っていた。“三好長慶”が7年間に亘って近畿地区で君臨し“芥川政権”を確立した“芥川山城”があり、又“和田惟政”並びに“高山右近”等のキリシタン大名が城主を務めた“高槻城”が築かれた地である。“高槻城”は“大阪府内”でも古い歴史を持つ地域に立地する城で“築城主”は“近藤忠範”と伝わり“築城年”は990年(正暦元年)とある。この年は2024年のNHK大河ドラマ“光る君へ”の中で“藤原兼家“(藤原道長の父親)が62歳で病没するシーン(俳優は段田安則氏)を描いていたがその年に当る。
江戸時代に入ると徳川譜代大名の“永井直清”(生:1591年・没:1671年)が“摂津高槻藩”の初代藩主として入城している。
以後1871年(明治4年)に実施された“廃藩置県”迄の約200年間、13代に亘って“高槻藩・永井家・36,000石”の城下町であったという歴史である。
訪問記
1回目の訪問はコロナ禍の最中の史跡探訪、しかも猛暑の中であった。我々はJR高槻駅で降り、徒歩で、先ず“城跡公園”(歴史民俗資料館)に向かった。約13500坪の市民の憩いの公園として開設されたのは1956年(昭和31年)とある。残念ながら、戦国時代当時の“高槻城”を偲ぶ事の出来る遺構は僅かに当時の城の石垣や堀を模した池を中心とするゾーンだけであった。

すぐ近くの“しろあと歴史館”は入場無料であった。しかし、2回目の訪問時には“戦国・桃山甲冑と大名具足展”が特別展として開催されていた為、200円の有料であった。2回目の訪問目的は“松永久秀像”が2019年に東京の古美術商によって発見され、その事がメデイアで取り上げられた。肖像画に書かれた“松永久秀“の命日並びに戒名等も正しく、この肖像画は本物だという事が判明し、一躍世間が注目した。
其れまで”松永久秀“の姿は恐ろしい形相の肖像画で知られ”戦国の梟雄“と、これ又、史実とは全く異なる逸話と共に彼は戦国時代の悪者としてのイメージを我々に焼き付けて来ていた。上記の経緯で”松永久秀“の肖像画が発見された事で、これ迄の恐ろしいイメージとは全く異なる”穏やかな面体の姿“に拠って我々に”松永久秀“の実像は”忠義心の篤い武将“であるとの説を裏付ける事になるであろう。
新発見の“松永久秀”の姿は添付した写真に示すので、参照願いたい。“しろあと歴史館”には“高槻城”の歴史パネルや“芥川山城”の城主として“織田信長”に先んじた“天下人・三好長慶”に関する展示等もある。殆どの歴史遺産が焼失、或いは破壊され、史料が乏しい中で“高槻城キリシタン墓地”から出土した“木製のロザリオ“等の展示物がある等一度は訪問される事をお勧めする。

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34:“四面楚歌“状態だった”織田信長”方に“有岡城の戦い”の勃発から4ケ月後”に“第2次・木津川口の戦い”で“毛利水軍に大勝”したとの朗報が齎された

1578年(天正6年)11月6日:

”荒木村重”与力の“高山右近”が降伏した事を切っ掛けに、同じく“荒木村重”に属した“重臣・中川清秀”が寝返った。こうした初期の段階での戦況の変化で“有岡城の戦い”の勝利を確信した”織田信長“に、更に“別掲図・織田と毛利が同盟破棄となり/1576年5月~/以後戦闘に突入”に示してある様に1578年(天正6年)11月6日付けで”織田方“の”九鬼水軍“が2年間の水軍増強策を終え、その成果を見事発揮し”第2次・木津川口の戦い“で”毛利水軍“に大勝したとの朗報が齎された。

この勝利は①“大坂(石山)本願寺包囲戦”が継続中であった事②其の最中に“身内からの離反・謀叛”である“三木合戦”が勃発した事③“織田信長政権内の矛盾”そして“弱点”を突いて“毛利方”が3万の大軍を繰り出して“第2次・上月城の戦い”を起こし“上月城”を奪還し、東進を本格化する動きを露わにした事等“織田信長”にとっては眞に“四面楚歌”の状態であった。更にこうした状況をチャンスと見て④又もや“織田政権内部”から“荒木村重”が謀叛を起こし“有岡城の戦い”が勃発した。

こうした苦しい状況下であったから“第2次・木津川口の戦い”の勝利に拠って“毛利氏”からの兵糧の補給路が断たれた①の“大坂(石山)本願寺”の戦力が弱まる事は確実であったから“織田信長”軍にとっては起死回生とも言える大きな勝利であり“織田信長”は一気に“有岡城の戦い”に決着をつけるべく攻勢を強める決断をした。

35:”第2次・木津川口の戦い“

“三木合戦”(1578年3月29日~1580年1月17日)勃発と呼応して“毛利軍”は
“第2次・上月城の戦い“(1578年4月18日~7月3日)を3万の大軍をもって行い“上月城”放棄を決断した“織田・羽柴秀吉軍”から“上月城”を奪還し”東進“への  
体制を整えた。

こうした状況に“毛利方”に付く事の方が“我が身の受け皿”として、将来の安定に成ると確信した“荒木村重”は“織田信長”からの離脱を決断し“三木合戦”の戦場から無断で離脱し“有岡城”に籠城し“有岡城の戦い”を起こしたのである。

これは“三木城・別所長治“と呼応した形で”毛利軍“を中軸とした”第3次・織田信長包囲網“への参加を意味し、この結果“織田信長”軍を四方に敵を抱える形の窮地に陥れる事に成る筈であった。

しかし“有岡城の戦い”勃発から4ケ月後の1578年11月6日に”織田方“の苦しい戦況を一気に変える朗報が齎された。それは”第2次・木津川口の戦い“での”毛利水軍“に対する”織田水軍“の大勝利である。この勝利で”織田信長包囲網“の一角の“大坂(石山)本願寺”が弱体化する目途を得た“織田信長”は“有岡城の戦い”に勢力を集中させ、一気に終息させる行動に移った。

35-(1):“第2次・木津川口の戦い”大勝利の背景と成った“織田信長”が建造を命じていた大型の“安宅船”

“第1次・木津川口の戦い”(1576年7月13日)時点では“毛利水軍”は“大坂(石山)本願寺“からの支援要請に応えて“村上水軍”を中心とした700~800艘の大船を用いた水軍で“大坂(石山)本願寺”に“兵糧”を運び入れるという支援を行っていた。これを阻止すべく“織田”方は海戦を挑み“和泉国”並びに“摂津国”から集めた300余艘から成る“織田水軍”を構成して“毛利水軍“との戦いと成った。

既述の様にこの”第1次・木津川口の戦い“が”織田・毛利“間の”同盟・通交関係“が破棄(1576年5月)された直後に行われた最初の戦闘だったのである。

“第1次・木津川口の戦い”では“毛利水軍”は“焙烙火矢”(ほうろくびや)攻撃で“織田水軍”を壊滅させ“毛利水軍“は“大坂(石山)本願寺に兵糧を届ける”という大きな役割を果たした。この大敗に“織田信長”は“九鬼水軍”を率いた“水軍武将・九鬼嘉隆”(11代当主・生:1542年・没:1600年)の進言を入れ鉄の装甲(銃火器や爆弾から保護する為の壁)を備えた大型の“安宅船”(あたけぶね=室町後期から江戸初期にかけて日本で用いられた軍船で主として水軍の旗艦として運用された。数十人の漕ぎ手で推進し、数十人から百人を超す戦闘員を乗りこませる事が出来た)の建造を含め“織田水軍”の整備、強化に2年間の猶予を与えた事が伝わる。

1578年(天正6年)6月:

“九鬼嘉隆”は1578年6月に“伊勢湾”で6艘の“大型安宅船”の建造を終えた。

メモ:
“戦国政権の登場と戦国社会“の著者”平井上総“氏は”織田信長は毛利水軍に対抗出来る水軍の強化を試みた。その一つとして鉄甲船の建造が有名である。(略)信長公記によると“織田水軍”が整えた戦力は“九鬼嘉隆の大船六艘”並びに“滝川一益の白船一艘”の合計七艘であった・・と書いている。
又“信長の天下布武への道”の著者“谷口克広”氏は“多聞院日記”の下記記述を紹介している。“横へ七間(約13m)竪へ十二,三間(約22m~24m)のこれあり。鉄の船也”
尚、本当に鉄張りの船だったのかについて疑問を投げかける研究家もいるが“焙烙火矢”(ほうろくびや)攻撃で壊滅させられた“第1次・木津川口の戦い“を踏まえた対策船であったから”織田信長“は火に耐える工夫を行った造船を命じた事は間違い無い。”鉄板装備“を施した船であった事は十分に考えられる事から鉄張りの船の話が全くあり得ない事でも無い、と”平井上総“氏は結論付けている。

35―(2):“堺”の港で披露された“織田水軍・観艦式”

1578年(天正6年)9月末:

“第2次・木津川口の戦い”で“織田水軍”が“毛利水軍”に大勝する1ケ月程前の記録に“織田信長“そして”摂関家・近衛前久“が”堺“まで完成した”大型安宅船”を見物に行った様子が遺されている。

“九鬼嘉隆“は”大型屋形船“を指物・幕で飾り立て、各地からの”織田水軍兵士“に武器を持たせて乗船させ、それを勢揃いさせて見せた。更にそれ等の“大型安宅船”に“織田信長”の“御座船”も加わった。“堺”の港は一種の“観艦式”とも言える盛大なイベント会場と成ったのである。“堺”の多くの人々がこのイベントを見る為に集まって来た様子も記録に残されている。

尚“多聞院日記”に残る“横七間(約13m)長さ十二,三間(22~24m)”という船のサイズが正しいとすると、随分とずんぐりとした船である。一方“安土日記“に記された船のサイズは”横六間(約11m)長さ18間(約32m)“であり、この記録の方が正しく船のサイズを記しているものと思われる。この“大型安宅船“には鉄甲による防備だけでなく”大鉄砲“と呼ばれた”大砲“が各船に三門ずつ備えられていた事が”堺“の港で“観艦式”を見物した“宣教師・オルガンチノ”の記録にある。

35-(3):“第2次・木津川口の戦い”の戦闘状況

1578年(天正6年)11月6日:

海戦は“毛利・村上水軍”の約600隻が西方から姿を現し“木津川河口”を襲撃した。これに対して“織田方・九鬼嘉隆“が率いる”大型安宅船(鉄甲船)“6隻が応戦し、辰の刻(午前8時前後)から午の刻(正午)にかけての海戦と成った。

開戦直後から“織田方・九鬼水軍”の6隻の”大型安宅船(鉄甲船)“を”毛利水軍“が囲み“焙烙火矢”攻撃を仕掛けて来た。しかし“大型の鉄甲船”に“焙烙火矢”が届かず、従って船が燃える事も無く“第1次・木津川合戦“の時とは様相を異にした戦いと成った。

“織田方・九鬼嘉隆“は”毛利水軍”を近くまで引き寄せ“大型安宅船”6隻に備えた計18門の大砲で“毛利水軍”に向けて一斉射撃をした。この一斉射撃に拠って“毛利水軍“の”大将船“が破壊され、勝負は”織田水軍“が圧倒する状況となり“毛利水軍”は散り散りになって大坂湾を西へと逃れて行ったのである。

1578年(天正6年)11月9日~11月10日:

結果“第2次・木津川口の戦い”は“織田水軍”の圧勝に終わり“織田方”は大坂湾の制海権を握った。この海戦で雪辱を果たし、大勝利したとの報に“織田信長”は“京都“を出発し(11月9日)”織田信忠“以下の”連枝衆“(織田信長の親族のみで構成されているグループ)そして”滝川・明智・丹羽“等の武将達、数万の軍勢を引き連れて”摂津国“に入った。(11月10日)

今回の進軍の目的は“第2次・木津川口の戦い”に敗れた“毛利方”は“大坂(石山)本願寺”への兵糧補給を行う事が困難と成り、結果“大坂(石山)本願寺”の戦闘力が弱体化すると読んだ“織田信長”が“有岡城”への途上にある“有岡城支城群”を討伐し乍ら“本丸・有岡城”攻略を一気に進める事であった。そして未だに籠城戦に耐えている“三木合戦”への対応も視野に入れたものであった事は言うまでも無い。

35-(4):“第2次木津川口の戦い”の纏め

年月日:1578年(天正6年)11月6日
場所:木津川口
結果:“織田”方“九鬼水軍”の圧勝

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35-(5):“第2次木津川口の戦い”に関する史跡訪問、並びに写真

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36:“織田信長”方が“有岡城”に本格的攻撃を開始

”荒木村重”方に属していた“高山右近・中川清秀”が早々と降伏し“織田方”に寝返った事に加え”第2次・木津川口の戦い“(1578年11月6日)で”毛利水軍“に大勝した”織田信長“は“大坂(石山)本願寺”の戦力弱体化が確実と見て、後顧の憂い無しに“有岡城”に本格的攻勢を開始すべく、先ずは“支城攻撃”を徹底した。

”荒木村重”方に属する10城の中、③の“大和田城”(現在の大坂市西淀川区で大坂と有岡城を結ぶ位置にあった城)を忽ちの中に陥落させ、残る“荒木村重”方の城は①“主城・有岡城”そして“荒木村重”の嫡男“荒木村次”(生没年不詳・正室は明智光秀の長女)が守る②“尼崎城”並びに従兄弟の“荒木元清”(馬術家として知られ、後に羽柴秀吉に仕えた・生:1535年・没:1610年)が守る⑩の“花隈城”(神戸市中央区)と成った。

36-(1):一気に“有岡城”を“力攻め”にした“織田信長軍”であったが、大きな被害を出して失敗し“持久戦”に切り替える

1578年(天正6年)12月8日:

“織田軍”は“力攻め”を敢行し“酉の刻“(午後6時頃)から火矢、鉄砲に拠る攻撃を開始し”有岡城“の城内へと乗り込んだ。

しかし“有岡城”内からの反撃も強く“織田信長”の側近で鉄砲隊を指揮した“万見重元”(まんみしげもと・生:1549年?・没:1578年12月8日)が塀を乗り越えようとした処を“有岡城兵”の長刀で突き抜かれて戦死する等“織田”方の“力攻め”は多くの近臣と2000兵を失う被害を被り、結果は失敗に終わった。反省した“織田信長”は“持久戦”へと戦術を変えた。

1578年(天正6年)12月21日:

”織田信長“は”持久戦“に移るべく”有岡城“の周囲に多くの砦を築き、武将達を配置し”摂津国“の東半分を占める”大包囲網“を造り上げた。”兵糧攻め”に拠る持久戦への切り替え対応を整えた”織田信長“は”安土城“に帰城し、後を“嫡子・織田信忠”に任せた。

36-(2):“織田信長”が“嫡子・織田信忠”に与えた役割は単に“有岡城攻囲戦”だけで無く“三木合戦”並びに“大坂(石山)本願寺攻囲戦”の全てを含む摂津・東播磨作戦の総大将と言う重大な任務であった

“摂津国・有岡城の戦い”を持久戦に切り替えた“織田信長軍”は、この戦いの他に、既に勃発から9ケ月となる“播磨国・三木合戦”への対応、更に“摂津国・大坂(石山)本願寺包囲戦”と、3つの戦いを同時並行的に抱える状況であった。これ等の戦闘は“足利義昭”が主唱する“第3次・織田信長包囲網”の中軸を成す“毛利軍”がその背後にいる戦闘でもある事は言うまでも無い。

“織田信長”は、以上3つの戦いの責任者に下記武将達を任じ“嫡子・織田信忠“をこれ等3方面全ての作戦を統括する立場に任じたのである。






3方面の中①の“有岡城攻囲作戦”に就いては“織田信長”自身が“有岡城大包囲網”を築き、その体制が出来上がって居り、兵力的に余裕があったとされる。

又、③の“大坂(石山)本願寺攻囲”作戦も既述の通り”第2次・木津川口の戦い“で”毛利水軍“が大敗した為”兵糧“が以前ほど十分に届かなく成り“大坂(石山)本願寺“勢としては守勢に徹するという状況と成っていた。結果”大坂(石山)本願寺包囲戦“を任された“佐久間信盛”軍団にも、兵力の余裕が出た。“織田方”としては、それ等兵力の余裕を活かして②の“羽柴秀吉”が担った“三木合戦”の支援に“播磨国”まで支援部隊を送った事が記録されている。

“織田信長軍”として、兵力の余裕が生じ“主城・有岡城攻略”を一気に加速させるという動きに“荒木村重”は“有岡城”を捨て、脱出するというあり得ない行動に出た。

36-(3):“荒木村重”が“有岡城”から脱出する

1579年(天正7年)9月2日:

”織田信長“が”有岡城の戦い“を”持久戦“に切り替えてから9ケ月が過ぎた。“有岡城籠城策”を採った“荒木村重”の考えは”毛利軍“並びに”大坂(石山)本願寺“からの支援軍が”有岡城“を”後巻き“(味方を攻める敵を更にその背後から取り巻いて攻撃する事)にして勝利する事であった。若し、その体制が整わなければ、この戦いの勝利は無い、との読みもあった。

“荒木村重”の期待に反して“毛利軍”からも“大坂(石山)本願寺”からも、支援軍は送られて来なかった。勝利は無い、と判断した“荒木村重”は何と、僅か(5~6人の側近)の伴だけを連れて“有岡城”を脱出して、息子の“荒木村次”(生没年不詳)が守備する②の“尼崎城”(大物城)へと脱出したのである。その手段は、夜半に船で猪名川(いながわ)を下り“嫡男・荒木村次”の“尼崎城(大物城)”に入るというものであった。

”荒木村重“は突然“有岡城”に残る家族、並びに多くの城兵を棄てて“茶道具と側室”を連れて城を脱出した。これを“織田方”の“細川藤孝”は皮肉を込めて下記の歌に残している。



”荒木村重“の突然の”有岡城脱出行動“を擁護する説もある。”彼の目的は毛利軍の桂元将(かつらもとまさ・生没年不詳)が尼崎城に少人数ではあるが、供回りと共に在番していた事から、桂元将を通じて毛利軍の支援を依頼する為だった“としている。

又“荒木村重”は“大坂(石山)本願寺”並びに“雑賀衆”に援軍派遣を要請する為に“尼崎城”に脱出したのだ、との擁護説もある。しかし乍らこれ等の擁護説は“説得力”に欠けるとされる。

“城主・荒木村重”が城から脱出した事態にすっかり戦闘モラルが下がった“有岡城”に対して“織田軍”は容赦なく猛烈な攻撃を加えた。

36-(4):“織田信長”は“有岡城”の開城、並びにその他の“講和要求”を“荒木久左衛門”(=池田知正)に突き付け、脱出した“荒木村重”と交渉する様、命じた

1579年(天正7年)10月15日:

“織田信長嫡子・織田信忠”を主将とし、その傘下で”有岡城攻囲軍“の責任者“滝川一益”(生:1525年・没:1586年)は“城主・荒木村重”が城を脱出したという前代未聞の事態に、動揺が大きい敵方に対しての寝返り工作を行った。寝返り工作が巧く進んだ後の午後10時頃“織田軍”は愈々“有岡城”に対する総攻撃”を開始した。

総構え“の中(城中)に攻め込んだ“滝川部隊”を助ける形で、調略され、寝返った”荒木村重方“の”足軽大将“4人が”有岡城内への誘導“を行なった。この史実からも“城主・荒木村重の脱出”が“有岡城の守備隊”の戦意を大きく喪失させていた事を裏付けている。

1579年(天正7年)11月19日:

”織田”方の攻囲軍は町に火を放ち、次々と砦を落した後に“有岡城”の城中にも迫った。城から脱出し“尼崎城”に入った(逃げ込んだ?)“荒木村重”に代わって“有岡城”の“城守”を任されていたのは“荒木村重“に実質的に”池田家“を乗っ取られた上に、既述の通り”白井河原の戦い”以降、配下の立場に成り下がった”池田知正“であった。(この頃彼は荒木久左衛門と名乗っていた)

そして、この“荒木久左衛門”(池田知正)並びに“荒木家老臣達”が開城後“荒木村重”に代わって“織田軍”との開城交渉、講和交渉の責任者として当たったのである。

“織田信長”が突き付けた条件は①城主の“荒木村重”自身が出頭する事②“尼崎城”(兵庫県尼崎市北城内27番地)並びに“花隈城”(兵庫県神戸市中央区花隈町・築城1568年・廃城1568年)を明け渡す事、そうすれば、城兵、及びその妻子は助命する事であった。

36-(5):“城主・荒木村重”は出頭を拒み“講和条件”を拒絶した

36-(5)-①:“有岡城の戦い“の終結
1579年(天正7年)11月19日:

“織田信長”の甥の“津田信澄”(摂津国大坂城城代・明智光秀の娘と結婚・本能寺の変で明智光秀と共謀したとして織田信孝軍、並びに丹羽長秀軍に大坂城千貫櫓を攻撃され討たれた・生:1555年/1558年説あり/没・1582年6月5日)が接収部隊を率いて“有岡城”に入城し“有岡城の戦い”は終結した。

36-(5)-②:“荒木村重”の説得に失敗した“荒木久左衛門”(池田知正)も“淡路島”へ出奔し“有岡城”に遺された妻子を含む122人の人  

質が処刑された

1579年(天正7年)12月13日:

“織田信長”と交わした“講和”条件を携えて“荒木久左衛門”(池田知正)等は”有岡城“に人質を遺して”尼崎城“に行き其処で”荒木村重“に会い”織田信長“と交わした”講和“条件を呑む様、説得を行った。

しかし”荒木村重“は”講和条件“の全てを拒否した。説得に失敗した“荒木久左衛門”(池田知正)は“有岡城”に戻る勇気も無く、人質の女房子供達を見捨てて自分も“淡路島“へ出奔してしまったのである。

こうした結末に怒った“織田信長”は“荒木村重”並びに“荒木久左衛門”(池田知正)に対する見せしめとして“有岡城”に人質として残された“荒木村重”の妻子は無論の事“荒木久左衛門”(池田知正)の妻子等を含む女房衆122人の処刑を行った。その悲惨な様子を“信長公記”は下記の様に伝えている。




“織田信長”は“有岡城”に人質になっていた“荒木一族”並びに他の人質を虐殺の体
で処刑した。その残虐さは上記“家臣並びにその妻子122人を磔刑に処した他、軽輩達とその家族512人を農家に閉じ込め、そのまゝ焚殺(ふんさつ=焼き殺す事)するという惨いものであった。”荒木村重“の妻を始めとする親族16人は最後に”京都六条河原“で斬首されたと伝わる。

“有岡城の戦い“は上記の様に勃発から”1年4ケ月後“の1579年(天正7年)11月19日の開城で終結した。しかし”荒木村重“の”織田信長“への抵抗は逃亡先の”尼崎城“での戦闘(1579年2月説?1580年説)更には“三木合戦”が終結した1580年(天正8年)1月17日以降も続き、1580年閏3月2日から同年7月2日迄闘われた”花隈城の戦い“が戦闘としては最後であった。

これ等の戦いに就いては後述するが“織田信長政権内の矛盾”とされる“織田信長”が“家臣団秩序作り”に失敗した結果として“外様家臣”そして“従属的同盟者”を従え切れず、結果、次々と“離反”そして“謀叛”に至ったのであるが“荒木村重”には“織田信長”の“見せしめの為の人質処刑”の効果さえも全く通じず、彼の“織田信長”に対する抵抗は1580年(天正8年)3月に“大坂(石山)本願寺・顕如”が“織田信長”と“勅命講和”を結び“大坂”を退去(1580年4月)する時期まで続いた。

しかし”花隈城の戦い“(1580年閏3月2日~同年7月2日)以後は”荒木村重“にとって、拠って戦う城も無くなり、戦闘継続が不可能と判断した“荒木村重”は“毛利氏の本拠地・安芸国”に亡命したとされる。しかし“毛利氏”側からは積極的な支援は受けられなかったと伝わる。

しかし“荒木村重”は“織田信長”との戦いを生き抜き、晩年は茶人としての生涯を送るのであるがこれに就いては後述する。




 36-(5)-③:“有岡城の戦い”の纏め

年月日:自1578年(天正6年)7月~至1579年(天正7年)11月19日
場所:摂津国“有岡城”周辺
結果:“織田信長”軍の勝利



37:“三木合戦”の終結

“織田信長軍”は”第2次・木津川口の戦い“(1578年11月6日)の大勝で“摂津国・有岡城攻略“に対しても、又”大坂(石山)本願寺包囲“に対しても,充分な兵力の余裕が出来た。

この兵力の余裕を”播磨国・三木合戦”に於ける支城群攻撃の応援に用いた事で“三木城支城群”攻略に片が就いた。そこで“織田信長”は各地から応援の為に来させていた“三木合戦支援部隊”を引き揚げさせ、後の“三木城攻囲戦”は“羽柴秀吉”に任せたのである。

1578年(天正6年)6月~同年10月:

”三木合戦“が勃発してから3ケ月後に”荒木村重“に拠る”摂津国・有岡城の戦い“(1578年7月)が誘発されたが、上述した様に“織田信長軍”は“第2次木津川口の戦い”(1578年11月6日)で大勝し“毛利軍”の“大坂(石山)本願寺”への兵糧支援を断った事で、各戦闘地域に配置した兵力に余裕が生じ“三木城支城群”攻撃の為の支援軍として活用出来た。その効果は、先ずは“別所長治”方に付いた“神吉城” (かんきじょう・城主は神吉頼定・播磨国印南郡/現在の加古川市の城)を7月16日に  攻略、続いて“志方城”(しかたじょう・城主櫛橋政伊・同じく播磨国印南郡/現在の加古川市の城)を8月10日に陥落させる事に現れた。

更に“魚住城”(うおずみじょう・城主魚住頼治・現在の兵庫県明石市にあった)“高砂城攻略”にも活かされ“主城・三木城“は孤立して行った。

この4支城の位置関係の理解の助に再度“別掲図:三木合戦に織田支援軍が下記三木支城を落し引き揚げた(1578年6月~10月)“を参照、確認されたい。(下図の中で赤く囲んだ範囲に“神吉城・志方城・高砂城・魚住城が位置する事が分かる)


“織田信長”は、他の戦闘地区の戦況を素早く見極め、その戦闘地域の兵力の余裕を的確に掴み“三木城・支城攻略戦”の為の支援軍を素早く編成し、送り込み”三木城孤立化“という目的を果した。そしてその後の”三木主城攻略“は”羽柴秀吉“に任せ、各地から集めさせた”三木支城群攻略“の為の”支援軍“は早々と引き揚げさせた。”織田軍総帥“としての”織田信長“の秀でた作戦力が見られた史実である。


37-(1):“織田方・羽柴秀吉軍”に拠る“三木城兵糧攻め”の開始

・・“三木の干殺し”

1579年(天正7年)2月6日:

”織田信長”が積極的に動き“三木城支城攻略戦”の為の支援軍が編成され、目的を果して“支援部隊”が引き揚げると”羽柴秀吉“は堅牢な”三木城攻略策“として“補給路の徹底遮断作戦“を敢行した。世に言う“三木の干殺し”作戦の開始である。

“補給路遮断作戦”を打破すべく“三木城主・別所長治軍”も“叔父・別所吉親”を大将に“羽柴秀吉軍”の本陣“平井山”への攻撃を行った。(平井山合戦)

しかし、僅か2500兵の“別所軍”は兵力の差に加え“羽柴秀吉軍”が高所から矢を射かけ、鉄砲を撃ちかけるという地形の有利さを活かした攻撃に遭い“三木城主・別所長治軍”にとっては不利な戦いと成った。結果、突撃隊の大将に担がれた“別所長治”の弟“別所治定”が討ち死する等の被害を出し、この戦いに敗れた。

1579年(天正7年)6月13日:

ところが、こうした戦いが続く中“羽柴秀吉”にとって悲しい報がもたらされた。“三木合戦”に勝利すべく諸作戦の知恵を出し“羽柴秀吉”を“黒田官兵衛”と共に支えた“竹中半兵衛(重治)”(二人の軍師を称して両兵衛と呼ぶ)が“平井山”の“秀吉本陣“で病没したのである。(1579年/天正7年/6月13日)

”竹中半兵衛“の死は両兵衛のもう片方の“黒田官兵衛“も“有岡城”に幽閉され、その生死も分からない状況を案ずる“羽柴秀吉”にとって2重の痛恨の極みであった。

下記に史跡を訪ねた時の写真を示すが“竹中半兵衛の墓”の説明版には“秀吉はお先真っ暗!!と、人前も憚らず遺体にとりすがった”とある。いかに“秀吉”が“竹中半兵衛”の死に落胆したかを伝えている。

37-(2):“羽柴秀吉“が”三木城“攻撃の為に築城した”平井山“の”付城・本陣跡“並びに”竹中半兵衛の墓“訪問記

訪問日:2018年9月20日(木曜日)
住所:兵庫県三木市平井
交通並びに訪問記:




37-(3):“織田方・羽柴秀吉”の“三木城兵糧攻め”(“三木の干殺し”)に対して“毛利軍”が支援軍を送るが失敗に終わる

1579年(天正7年)9月10日:

“三木城”の“兵糧攻め“に対し”毛利軍“は”別所氏支援“の為の”兵糧を”三木城”に運び入れるべく“平田合戦”そして“大村合戦”を挑んだ。“平田砦”は“三木城”への兵糧補給ルートだからである。“毛利軍”の支援を得て“三木城”方が“羽柴秀吉軍”に奪われた“平田砦”の奪還を図るべく“羽柴秀吉軍”軍と戦ったのが“平田合戦”である。

この戦いで活躍したのが“毛利方”の“紀伊国・雑賀衆”であった。“平田砦”を守っていた“羽柴軍”の“谷衛好”(たにもりよし・通称が谷大膳・生:1529年・没:1579年9月10日)を急襲して討ち取り“叔父・別所吉親”が“雑賀衆”と合流して“三木城”内に“兵糧“を運び入れる寸前のところ迄、戦況を好転させていた。しかし”羽柴秀吉軍“は”三木城“への兵糧搬入を先回りして阻止した。

これが“三木城”への兵糧搬入の最後のチャンスであった。以後は“兵糧搬入”の手立てが無くなり“三木城内”は“兵糧”が完全に尽き、餓死者が続出する状態となったのである。

38:“毛利方”として最大の打撃と成った“宇喜多直家”の離脱、そして“羽柴秀

吉”への寝返り

38-(1):“毛利方”の“三木合戦”への協力体制が決定的に揺らぐ

1578年3月29日の“三木合戦”勃発と呼応するタイミングで“毛利方”は“織田方”に奪われた“東進拠点・上月城”を3万の大軍をもって“第2次・上月城の戦い”(1578年4月18日~7月3日)を起こし奪還した。そして4ケ月後の“1578年7月”には”織田政権内部崩壊“とも言える”外様家臣・従属的同盟者“の“荒木村重”が“織田信長”からの離脱、そして“謀叛・有岡城の戦い”を起こした。

こうした一連の動きは“足利義昭”が主唱する“第3次・織田信長包囲網”による“織田信長討伐”の動きが、その中軸に加わった“毛利氏”の影響下、益々順調に進んでいる様に思われた。ところが“三木合戦”を“支援”する立場の“毛利方”にとって最大の打撃と成る事態が起こった。

それは”毛利方“と同盟する“宇喜多直家”が“角南重義”(=如慶・すなみしげよし・生:1538年・没:1609年)並びに”小西弥九郎“(小西行長・生:1555年・没:1600年)を使って“毛利氏”からの離脱、そして“羽柴秀吉”方に寝返る動き、つまり“織田信長”に臣従し“同盟”する交渉を始め“羽柴秀吉”との“同盟”を成立させた事である。

この動きに拠って“毛利軍”は“三木城”への進路を塞がれ“三木合戦”へ協力する体制が決定的に揺らぎ“東進”の動きに対しても大ブレーキがかかった。

1579年(天正7年)10月?:

既述の“第2次・上月城の戦い”(1578年4月18日~7月3日)の纏めの表中に“宇喜多直家“の名前は無い。代わりに“異母弟・宇喜多忠家”の名があるのを再度確認願いたい。宇喜多忠家と彼の名前は   で囲って置いた。

この時点で“宇喜多直家”(当時満50歳・生:1529年・没:1582年2月1日)は病気と称して“第2次・上月城の戦い”の戦場には行かず“異母弟・宇喜多忠家“(生:1533年・没:1609年?)を代わりに”宇喜多軍・総大将”として参戦させたのである。この時点で“宇喜多直家”は“毛利氏”からの“離反“そして”織田方“への寝返りを決断していたのである。

この状況を“小説・宇喜多直家/秀吉が恐れた希代の謀将“の著者”黒部亨“氏は以下の様に記述している。


既述の様に“毛利方”は“吉川元春・小早川隆景・宇喜多忠家”軍から成る3万の大軍で“織田軍”が見捨てた形の“尼子再興軍”が守城する“上月城”の攻撃を行ったのである。“上月城”は“尼子再興軍”が籠城する2300~3000兵だけが守城する状態であり“毛利の大軍”が“上月城”を“奪還”する事は容易であった。結果“毛利氏”は“東進”への前線基地“上月城”を再び確保し、続けて“三木合戦”を支援し、そして“有岡城の戦い”に勝利すれば、一気に“東”への進軍が可能と成る状況であった。

しかし“毛利軍”が以前から危惧していた“宇喜多直家”の“織田方”への寝返りという大事件が起きたのである。

“宇喜多直家/秀吉が恐れた希代の謀将”の著者“黒部亨”氏は“毛利方・宇喜多直家”が彼の居城“石山城”(後の岡山城)を動かなかった理由は、この時、既に“織田方・黒田官兵衛”の調略が奏功し“宇喜多直家”は“織田方”に寝返り、その盟約を守ったと記している。“宇喜多直家”が離反した事で”毛利“方は”本国と播磨国・摂津国“が分断される形と成り”播磨国・三木城“への支援が不可能となった。兵糧攻めに耐え、ひたすら”毛利援軍“を命綱とした”三木城主・別所長治“にとっては、最後通牒を突き付けられたのも同然であった。

こうした状況に“羽柴秀吉”からは”三木城主・別所長治“に対して“降伏勧告”が出された。しかし“別所長治”はそれを拒否したのである。

39:“三木城開城”

1580年(天正8年)正月6日:

上記した1579年(天正7年)10月?の”宇喜多直家“の”毛利方“からの離脱、そして”織田信長”方への寝返りは“毛利軍”にとっての最大の打撃であり、弱体化を齎した。

“三木城”への支援が難しく成った“毛利方”の状況は同じく“毛利方”からの支援を期待し“有岡城の戦い”を敢行した“荒木村重”にも大きな影響を齎した。勝利は無理と判断した“荒木村重”は1579年11月19日に“有岡城”を脱出し“尼崎城”へ逃げ込むという行動をとった。“有岡城の戦い”に於ける“織田方”の勝利(1579年11月)そして“三木合戦”に於ける“降伏勧告”を行ったという戦況は”足利義昭“が主唱する”織田信長包囲網“が”毛利軍“の弱体化が明確に成ったという状況変化に伴って大きく後退して行く事を暗示した。

“宇喜多直家”の“毛利氏”からの離反に拠って“別所長治”が命綱と頼った“毛利氏・本国”と“東播磨・三木城“の間が分断される状況を生み”毛利氏“からの支援軍、兵糧が期待出来なくなった。結果”三木城内“の食料は底を尽き”三木の干殺し“と後世に伝わる悲惨な状況と成ったのである。

”羽柴秀吉軍“は畳みかける様に、久々に軍を動かし”別所長治“の弟”別所友之“(生:1560年・没:1580年1月17日)が守る”宮ノ上砦“を攻略した。諸説があるが、この戦いに敗れた”別所友之“は”宮ノ上砦“が陥落した1580年正月17日に自害した。

1580年(天正8年)正月11日:

甥の“三木城主・別所長治“に”織田信長”への造反を説き、今回の“三木合戦”に至らしめた“叔父・別所吉親”(生年不詳・没:1580年1月17日)の”鷹尾山城“(居
城山城構とする説もある)も正月11日(17日説もある)に陥落した。“別所吉親“が自らの首を”織田信長“に渡す事を拒み、城に火を付ける等、激しい抵抗を続け様とする姿に、家臣達は”別所吉親“を殺害したと伝わる。

1580年(天正8年)正月15日:

“三木城”の籠城に耐え、生き残った兵達には抵抗する力も残されていなかった。心は勇んでいても、肝心の身体が動かず、ただ討たれるばかりであった“と“別所長治記”(別所氏譜代の武士、來野弥一右衛門が合戦の討ち死する武勇の状況を後世に伝える為に書いた合戦記)は伝えている。

“三木城”の本丸に閉じ込められていた“城主・別所長治”から降伏が申し出された。その内容は“自分をはじめ、弟・別所友之、並びに、叔父・別所吉親、3人の切腹を条件に城内の兵達、並びに領民達の命は助けて欲しいとの要望が書かれていた。“羽柴秀吉”はそれを了承し“三木城“の開城が決まった。

1580年(天正8年)正月17日:

“別所長治”は妻子や弟らと共に自害して果てた。同じ城主ではあるが、城内の人質を見殺しにして尚も逃げ回った“有岡城々主・荒木村重”とは対照的な行動であった。
“羽柴秀吉”はこの若く、有能な“別所長治”の死への贈り物として前日に“宴”を催したとの記録が残っている。“別所長治”は享年23歳であった。(26歳説もある)下記が彼の辞世の句であり、その歌碑は写真と共に、以下に記す“三木城跡訪問記”で紹介する。


(自分が自決する事に拠って城兵、領民達の命が救えると思えば何の恨みも無い)


39-(1):“三木合戦”の纏め

年月日:1578年(天正6年)3月29日~1580年(天正8年)1月17日
場所:播磨国(現在の兵庫県三木市上の丸町)
結果:“織田信長”軍の勝利。“播磨国”最大の国人“別所長治”を滅ぼし“織田信長”に拠る“播磨国平定”が成る


39-(2):“播磨国・三木城祉”訪問:2023年(令和5年)12月7日(木曜日)



40:“有岡城”を捨て“尼崎城”に入り、尚も“織田信長”への抵抗を続けた“荒木村重”

1579年(天正7年)9月2日:

“有岡城籠城戦”を決断し”毛利軍“等からの支援軍が”有岡城“を”後巻き“(味方を攻める敵を更にその背後から取り巻いて攻撃する事)をする戦闘体制が整えば勝利出来るとの読みの上での”織田信長”方への謀叛であったが“荒木村重”の読みは外れ“毛利軍”も“大坂(石山)本願寺”からも支援軍は現れなかった。

”織田信長“方の”包囲戦“による圧力が高まり、最早これ迄と見限った“荒木村重”は“有岡城“からの脱出を決断し、何と、僅か(5~6人の側近)の伴だけを連れ、夜中に息子の“荒木村次”(生没年不詳)が守備する “尼崎城”(大物城)へと向かった(逃げた?)のである。(1579年/天正7年/9月2日)

40-(1):“尼崎城の戦い”も数ケ月で戦況不利と成る

1579年(天正7年)11月19日:

既述の様に“荒木村重”が“有岡城”を脱出し”尼崎城“に向かった理由として”尼崎城“に行けば”毛利方“の”桂元将“が居り、彼を通して”有岡城“では得られなかった”毛利軍“の援軍を得る事が出来るかも知れないとの考えからの行動だとする”荒木村重の行動を擁護“する説もある。

しかし、結果として“尼崎城の戦い”も“毛利方”は既述した“宇喜多直家”の離反等の状況変化があり“荒木村重”に援軍を出す事は無かった。

1580年(天正8年)春:(1579年12月説もある)

“織田信長”に拠る“有岡城人質全員処刑”そして“荒木村重”の妻子を始めとする親族16人が“京都・六条河原“で斬首処刑されたという展開にも拘わらず”荒木村重“は支城への逃亡を続ける事で”織田信長“への抵抗を続けた。

“尼崎城”での戦況が思わしく無くなると“荒木村重”は今度は“大物城=尼崎古城”に残る兵を連れて“城主・荒木元清”(生:1535年・没:1610年)の”花隈城“へと
移ったのである。尚“荒木元清”は“荒木村重”の親戚筋に当り、同じ歳で“荒木流馬術”を創始した事で知られる武将である。

40-(2):“近世・尼崎城祉”並びに“大物城=尼崎古城”訪問記・・訪問日2020年(令和2年)12月19日(土)

住所:現在の尼崎城は兵庫県尼崎市北城内27番地ほか・・とある

交通機関:
宿泊した大阪市北区から大阪駅に出て、そこから阪神電車で“尼崎駅”で下車、電車の窓から見えていた城を目指して歩いた。しかし車窓から見えていた“尼崎城”は上記した“荒木村重“が”有岡城“から逃げ込んだ(移った?)”尼崎古城“(大物城)史跡とは異なる。”尼崎古城“の史蹟訪問に就いては以下の“訪問記”の中で解説した。


41:“織田軍”に“尼崎城”も落された“荒木村重”は更に“花隈城”へと逃れた

“尼崎城”で“織田軍”への抵抗を続け“毛利軍”の支援を期待した“荒木村重”であったが“毛利軍”の支援は得られず“尼崎城の戦い”の戦況も思わしくなくなった。ここで“荒木村重”は“尼崎城”を脱出し、今度は従兄弟の“荒木元清”(馬術荒木流の創始者・生:1535年・没:1610年)が城主として守備していた“花隈城”(既述の荒木村重に属した城の⑩で示した城で18000石の城であった)へと逃れたのである。

“織田信長”方は“池田勢”(池田恒興・池田元助・池田輝政)並びに“紀伊・雑賀衆”も含めた軍勢で“花隈城“を包囲、その後、4カ月程の攻防が続いた。

41-(1):“花隈城”の築城者

“花隈城”(兵庫県神戸市中央区花隈町)は1567年に“織田信長”の命で“荒木村重”が築城したとの説もあるが、その時点で“荒木村重”は“池田勝正”の家臣であった事、又“織田信長”が“足利義昭”を奉じて上洛した1568年9月以前に“荒木村重”の勢力がこの地に迄、及んでいたとも考えにくい。従って“花隈城”は“摂津三守護”の一人に任じられ“摂津国池田家当主”だった“池田勝正”が“織田信長”に命ぜら  
れ、その重臣であった“荒木村重”が築城の指揮をとり、築城が成ったと考えるのが妥当である。

別に“池田勝正“同様”織田信長“に降り”摂津3守護“の一人と成った”伊丹親興“(いたみちかおき・伊丹城主・生年不詳・没:1574年11月)が築いたとする説もある。又、3人目の“摂津3守護・和田惟政”(生:1530年・没:1571年8月28日)が築城者だとする説もあり、今日の処“花隈城”の築城主が誰であるかについての結論は出ていない。

41-(2):“花隈城の戦い”

1580年(天正8年)7月2日:

“織田方・池田恒興”(織田信長の乳兄弟・生:1536年・没:1584年)による“花隈城”への総攻撃が開始された。“池田恒興”並びに“嫡男・池田元助”(生:1559年、1564年説も・没:1584年)は“諏訪山”(現在の神戸の中心地にある)に陣取った。“池田恒興次男・池田輝政”(後の小牧・長久手の戦いで父・恒興と兄・元助が討死した為家督を継ぐ・姫路城を現在の姿に大規模修築した事で知られる・生:1565年・没:1613年)は“生田神社の森”に陣取り、更に援軍として“紀伊・雑賀衆軍”が“大倉山”に陣取り“花隈城”を取り囲んだ。

こうした“攻城戦”に耐え切れなくなった“花隈城”は“城主?・大河原具雅“が城兵の助命を”織田信長“方に嘆願し、自らは自刃した。こうした状況下でも、この城に逃げ込んだ側の“荒木村重・荒木村次”父子、並びに“荒木元清”は“花隈城”から更に“備後国・毛利領”へと逃げ出したのである。

41-(2)-①:“花隈城の戦い”の纏め

年月日:1580年(天正8年)閏3月2日~同年7月2日:
場所:花隈城とその周辺(現在の兵庫県神戸市中央区花隈町)
結果:“織田信長”軍(池田・九鬼連合軍)の勝利



42:“花隈城”&“墨染寺”訪問記・・2024年(令和6年)2月17日(土)

住所:
“花隈城“:兵庫県神戸市中央区花隈町
”墨染寺“:兵庫県伊丹市中央6-3-3

交通機関等:
当日の史跡訪問予定は①加古川城(称名寺)②花隈城そして“荒木村重”の供養塔があり、そして“有岡城落城”の際に人質と成っていた婦女子122名が 祀られている③“墨染寺”であった。
我々は“トヨタレンタカー南森町営業所”でプリウスを借り、AM9時に出発、11時半には“加古川市加古川町本町”にある“称名寺”に着いた。この“称名寺”は“加古川城”の城跡に建つとされる。“称名寺”を1時間程見学したあと“花隈城跡”に向けて出発、13時には着いた。
今日の“花隈城跡”は小さな公園と成っており、住所にある様に大都市“神戸”の中央区にある史跡であるから、当時の“花隈城”の面影は無い。当時の状況を少しでも探そうと40分程公園の周囲を歩いたが史跡らしきものの発見は出来なかった。
見学を終え、界隈にある商店街のRestaurantで昼食を済ませた。そこから凡そ40分程車で走り、ナビを頼りに“墨染寺”に着いた。この寺も伊丹市の市街地にある。写真に示す様に此処には“有岡城の戦い”から脱出した“荒木村重”の墓と伝わる“九層の石塔”がある。この石塔がTV番組で紹介された事がある。寺内をゆっくり見学した後“墨染寺“からは40分程、16時半頃には”トヨタレンタカー南森町営業所“に帰着した。




43:“荒木村重”並びに“荒木久左衛門(池田知正)”のその後

43-(1):“荒木村重”のその後

”花隈城の戦い“の敗戦が決まった。逃げ込んで来た当の”荒木村重・荒木村次父子“そして”従兄弟・花隈城々主・荒木元清“は共に“毛利方”の“備後国・鞆“に逃れた。しかし、逃げた”城主・荒木元清“の重臣”大河原具雅“は、立派に城兵の命と引き換えに自分は自刃する事を“織田方”の“池田恒興・九鬼”連合軍に嘆願し、受け入れられ自刃した。“毛利領・鞆城”へ亡命した“荒木村重”はその後“尾道”に隠遁し“道薫”と名乗り隠遁生活に入った事が伝わる。

“本能寺の変”(1582年6月2日)で“織田信長”が討たれた事を知った“荒木村重”(道薫)は“尾道”を離れ“堺”に移り住んだ。その背景には、謀叛を起こす前の“荒木村重”は“津田宗及・今井宗久・千利休”等“堺の茶人”等と度々茶会を行ない“利休10哲”の一人と称される程の“茶人”であった事がある。




1583年(天正11年)初:

”堺“に移った”荒木村重”(道薫)が存命だった事を裏付ける記録として“道薫”の名で“津田宗及”(生年不詳・没:1591年/天正19年/4月20日)の茶会に出席した事が名簿に残る。

1586年(天正14年)5月4日:

“荒木村重”(道薫)は“堺”で没した。その事は“有岡城跡”の史跡碑に認められる。享年満51歳であった。

43-(2):“荒木久左衛門”(池田知正)のその後

当主であった”池田知正”が、その後“荒木村重”の“池田家中”に於ける“下剋上”にあい“家臣”の立場に成り下がり“荒木久左衛門”と名乗り“有岡城の戦い”で“尼崎城”に逃げた”城主・荒木村重“に代わって”織田方“との”有岡城開城“等の交渉責任者と成った。しかし、既述の様に”尼崎城“に出向いて行った”荒木村重“の説得に失敗、そのまま”有岡城“に戻る勇気の無かった”池田知正”(=荒木久左衛門)は己の妻子を含む、女房衆122人が人質として処刑される事を知りながら“淡路”へ逃げたのである。

“淡路島”に於ける”池田知正”(=荒木久左衛門)の様子は伝わらない。しかし1582年(天正10年)6月2日に“本能寺の変”で“織田信長”が殺害された後、その後継者として“天下人”に成った“羽柴秀吉”(1586年9月9日に豊臣秀吉)に仕えている。”豊臣秀吉“の死後は“徳川家康”に仕え“関ケ原の戦い“の軍功で5000石となった様だ。

”池田知正”(=荒木久左衛門)の人生に就いては不明な点があるが、1604年(慶長9年)3月18日に現在の”大阪府池田市神田(コウダ)の“神田館”で没したとの記録が残るから“淡路島”へ逃げた後、実に24年間も生き延びたという事は確かである。

44:“本願寺・顕如”との“勅命和睦”に持ち込み“大坂(石山)本願寺”を開城させた“織田信長”

44-(1):“大坂(石山)本願寺”との間に“恒久的和議”を結ぶ検討を開始した“織田信長”

 “第二次木津川口の戦い”の勝利(1578年11月6日)で“織田信長”は“大坂湾の制海権”を“毛利水軍”から奪った事で“大坂(石山)本願寺”は“毛利氏”の支援を得て“織田信長軍”に勝利する術は断たれていた。

難敵“大坂(石山)本願寺”との10年に及ぶ戦闘にほゞ勝利を得たと確信した“織田信長”にとって、各地に抱えた戦闘でも有利な展開が待っていた。“有岡城の戦い”に勝利し“有岡城”を1579年11月19日に開城させ、その勢いのまゝ“三木合戦”の戦況も圧倒的に有利と成り、1580年1月17日には“三木城”も陥落させたのである。

1579年(天正7年)12月:

“三木合戦”での勝利がほゞ見えた1579年(天正7年)12月時点で“織田信長”は“最大の宗教的武装勢力・大坂(石山)本願寺”を“力攻め“で葬り去る事は得策で無いと考えるに至った。“勅命講和”に拠って“大坂(石山)本願寺”との間に“恒久的和議”を結ぶのがベストと考えた“織田信長”は“大坂(石山)本願寺”との“恒久的和議”を結ぶには“朝廷”への働きかけが必要とし、動いたのである。

日本に岩盤の様に根付いた“伝統的価値観”を持つ“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”の力を利用する事が有効であると考えると同時に、民衆の味方“大坂(石山)本願寺”のトップである“本願寺第11世宗主・顕如”を徹底的に敵視する事は“得にならず”との“織田信長”の巧妙な政治感覚が導いた結論であった。

44-(2):“三木城陥落”(1580年1月17日)を成した“織田信長”は“大坂(石山)本願寺”との“和睦条件”を纏め、仲介役として“朝廷”を

活用した

1580年(天正8年)3月1日:

“織田信長”は上記1579年12月から“大坂(石山)本願寺”との“恒久的和議”を結ぶべく“朝廷(正親町天皇)”にも働き掛け、1580年(天正8年)3月には“和睦条件”を纏め“朝廷”に仲介役を依頼し“大坂(石山)本願寺”との交渉に入った。

以下が“本願寺文書”に残る“和睦条件”である。(谷口克広著:信長の天下布武への道)


44-(3):“織田信長”と“大坂(石山)本願寺”の間の“勅命講和”が成立し10年に亘った“石山合戦”が終結する

1580年(天正8年)閏3月5日:

”大坂(石山)本願寺“側の代表として“勅命講和”へ署名したのは“本願寺11世法主・顕如”の3人の側近①“本願寺家老・坊官奏者・下間頼康”(しもつまらいれん・生:1537年・没:1626年)②同族“下間頼龍”(しもつまらいりゅう・生:1552年・没:1609年)そして③“下間仲孝”(しもつまなかたか・生:1551年・没:1616年)であった。

”大坂(石山)本願寺“が大坂を退城する期限は1580年7月20日と決められた。(信長公記)

45:“勅命講和成立”に反対し、父親“本願寺11世法主・顕如”の意向を無視して“雑賀衆”を引き込んで“大坂(石山)本願寺”での籠城を続けた“嫡男・教如”

“大坂(石山)本願寺11世法主・顕如”の嫡男”教如“(生:1558年10月27日・没:1614年11月6日・東本願寺)は、勅使に提出した”勅命講和受諾“を撤回し、父の意向を無視する形で諸国の門徒に”織田信長への徹底抗戦“を呼びかけ“大坂(石山)本願寺”での籠城を継続した。この動きに、これ迄軍事力で“大坂(石山)本願寺”側を支えて来た“雑賀衆”も同調した。

1580年(天正8年)4月9日:

“本願寺11世法主・顕如“は門徒に”教如に味方をしない事“を書状で伝えた。しかし”嫡男・教如“を説得出来ないまゝ”顕如“は大坂の地を離れ”紀伊国・鷺森“(さぎのもり・現和歌山市)に移った。一方の”織田信長“側も”本願寺11世法主・顕如“の動きに協力する形で通路の封鎖を解き、各地で”本願寺門徒“達と戦闘を続ける家臣達に停戦を命じた。

1580年(天正8年)7月14日:

”本願寺11世法主・顕如“が”大坂(石山)本願寺“を撤退したにも拘わらず”嫡男・教如“は強硬姿勢を和らげず、一度は承諾した退去期限の7月に成っても“大坂(石山)本願寺”に籠城を続けた。

”教如“が何故一度は受諾した”勅命講和“に反対し籠城を続けたのかの理由には



がある。“織田信長“はこうした事態に”安土城“を出て”上洛“をし、兵を”大和”に集結し、臨戦体制をとった。しかし乍ら此処でも“民衆の味方・大坂(石山)本願寺”を徹底的に敵にする事は得策では無い“との方針を貫き“教如”と再度の交渉に臨むという“織田信長”としては異例の忍耐をもっての対応をした。

45-(1):“至尊勢力”から“公卿・近衛前久”も説得に加わり“大坂(石山)本願寺・教如”は漸く退城を決めた。しかし退城直後に火災が起き、建物の全てが焼失するという事態が起きた

”織田信長“は”天下布武“の旗印の下”全国統一“の為の多くの”統一戦“を戦った。その中でも”本願寺“との10年に及ぶ戦い程“手を焼いた戦い”は無いとされる。

今回、父親の“本願寺11世法主・顕如“との間に漸く成った”勅命講和”を一度は受諾したにも拘わらず、それを反故にして再び“大坂(石山)本願寺“に籠城を続けた”嫡子・教如“の動きに対し”織田信長“は異例の寛容な態度で臨んだのである。いざという時に備えて、臨戦態勢はとってはいたが”武力行使“を飽くまでも抑え、更には”宗門勢力“も”日本に岩盤の様に根付く至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力に対して忖度の気持ちを働らかさせるであろう、との考えから“公卿・近衛前久”を応援に駆り出し、再度の講和交渉を進めたのである。

45-(1)-①:“教如”が遂に説得に応じ“大坂(石山)本願寺”から退城する

1580年(天正8年)8月2日:

“近衛前久”(このえさきひさ・近衛家17代当主・従一位、関白、左大臣、太政大臣、准三宮・生:1536年・没:1612年)は”永禄の変“(1565年6月に起こった13代将軍・足利義輝が三好義継、松永久通等によって殺害された事件)に関与したとの疑いを持つ”足利義昭“が1568年10月に”織田信長“の擁立によって上洛を果した際に”近衛前久“は”三好三人衆“と近い関係にあったとして”朝廷“から追放した。この”近衛前久追放“劇には”近衛前久“と対立する立場で”足利義昭“を支援した”前関白・二条晴良“(生:1526年・没:1579年)が加担したとされる。

“近衛前久”はその後“織田信長”と協力関係を結び、1575年2月には“織田信長”の奏上に拠って帰洛を許されている。

こうした”織田信長“との強い繋がりを持ち”至尊勢力”として復権した“近衛前久”の説得も奏功し、強硬姿勢を崩さなかった“教如”も漸く“大坂(石山)本願寺”からの退城に同意し、8月2日に退城した。この時、共に“籠城”していた“雑賀衆”も一斉に大坂を離れたのである。

46:“教如”の最後の抵抗?・・“大坂(石山)本願寺”が灰燼に帰す

“教如”(真宗大谷派第12代宗主・法主・門主・生:1558年9月・没:1614年10月)を始め“籠城”していた信徒、並びに“雑賀衆”等が退城し、誰も居なくなった筈の“大坂(石山)本願寺”に火災が起り、全ての建物が灰燼に帰した。(多聞院日記)火災の原因は不明とされるが“教如”等が退城する際に火災が起るよう仕掛けて置いたのではないかと推測された。

1580年(天正8年)8月15日:

”織田信長“は大坂に入って”灰燼“となった”大坂(石山)本願寺跡“を検分した。
“織田信長”としては上記の様に最後の最後まで妥協に妥協を重ねて“全国統一戦”の中で、最も手を焼いた“大坂(石山)本願寺”との間に“勅命講和”を成し、大坂の拠点から退去させる事が出来たと安堵した直後の“敵本拠地“の無残な焼け落ちた姿であった。この予定外の惨状に”織田信長“の”達成感“は打ち砕かれ”悔恨の念“を抱かざるを得なかったのである。



47:“大坂(石山)本願寺”を灰燼にさせた責任者は“佐久間信盛”だとして“織田家臣団・筆頭家老”として30年間“織田信長”に尽くした彼を追放した“織田信長”



1580年(天正8年)8月25日:

”織田信長”は4年間“本願寺攻め総大将”を任せ“畿内方面軍”の“軍団長”並びに“筆頭家老”という立場にあった“佐久間信盛”(生:1528年・没:1582年1月16日)が最後の最後の段階で“敵本拠地”の“大坂(石山)本願寺”を灰燼に帰した不始末に大いに怒り、19ケ条に及ぶ“折檻状”(詳細は省略)を“佐久間信盛”に突き付け“職務怠慢”の罪等を負わせ、追放したのである。

”信長公記“には追放され”嫡男・佐久間信栄“(さくまのぶひで・生:1556年・没1632年)並びに少数の郎党達と”高野山“そして”熊野“へと落ちて行った凋落ぶりを憐れみをもって記している。“高野山”へ従った者は2~3名だけで、更に“熊野”へと最後まで”佐久間父子“に従ったのはたった1名だった。


47-(1):“佐久間信盛”の後任に“明智光秀”を任じた.この事も“織田信長”が“本能寺”で討たれるお膳立てと成った。結果として、この怒りの人事が“織田信長”自身が討たれる“油断の人事”と成り“既定路線”とも成った


”佐久間信盛“は”羽柴秀吉“や”明智光秀“の様に”城“や”領国“を与えられ”大名化“する立場の家臣では無く”近衛師団“的な立場の家臣であった。しかし彼の”筆頭家老“そして“朝廷”守護をも担う“畿内方面軍軍団長”という立場は“織田家中”でも“最大規模、且つ、最重要の軍団”を統括する地位だった。

“織田信長”はそうした立場の“宿老・佐久間信盛”のこれ迄の貢献を全く評価しないかの如く彼を追放したばかりか“佐久間信盛”が掌握していた“京市内”の最強の軍事権限を掌握する後任として“明智光秀”を選んだのである。

”明智光秀“が後任として引き継いだ“畿内方面軍軍団長”という立場は2年後の1582年(天正10年)6月2日に彼が大軍を率いて“京都市内”の“本能寺”で“織田信長”を襲う軍事行動を起こすには格好のお膳立てと成った。

”佐久間信盛“という”宿老“を、いとも簡単に追放した事は、又しても“不器用すぎた天下人・織田信長”が犯した“家臣・外様家臣・従属的同盟者”に対する非常に拙い人事対応であった。この事は、嘗て”塙直政“(原田直政)が”天王寺砦の戦い“に敗れ、戦死した(1576年5月)際に、その敗戦を”塙直政“の不手際だとして怒り”塙一族“を探索、捕縛を命じた対応と同根であり”織田信長“は”家臣団編成に於ける秩序作り“を打ち立てる事に無頓着であり、ここでも“織田信長政権”の“内部崩壊”を生じさせる事と成ったのである。

“佐久間信盛”の担った役割の後任に就いた“明智光秀”の心境を推し量れば“宿老・佐久間信盛”に対する“織田信長”の今回の人事対応を見て、喜びどころか“浅井長政・松永久秀・荒木村重”そして“戦死した塙直政”が至った最期の姿を思い出し“主君・織田信長”に従う事に対する“不信感”並びに“明日は我が身か”との“将来不安”を強くしたのに違いない。

”織田信長“は今回の”宿老・佐久間信盛追放”という苛烈な人事を行った結果、自身が“本能寺の変”で討たれる“規定路線“を敷いてしまったのである。






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