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2025年1月13日月曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代と院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
6-23項:“天下人”を自認した“織田信長”は“天下人の城・安土城”を築城、同盟関係を維持して来た最強戦国大名“上杉謙信”並びに“毛利氏”との“同盟”も破綻し両者との“戦闘”へ突入する

“織田信長”と“中国の覇者”として台頭した“毛利元就”との間には“領土境界問題”等に拠る武力衝突を避ける為1569年(永禄12年)には“通交関係~同盟関係”が結ばれたと思われる

“織田信長”は1561年(永禄4年)閏3月に“関東管領職”に就いた“上杉謙信”との間の関係でも“上杉謙信”の自尊心を尊重した返書を出しており、上位、又は同等の力を持つと思われる“強力戦国大名”に対しては巧みな外交術を労した事が知られる。

しかし乍ら“天下布武”の旗印の下で“全国統一事業”を進める“織田信長”の動きは“中国地域の覇者・毛利氏“そして”北陸地域の雄・上杉謙信“との同盟関係維持がいずれは破綻するであろう事は避けられない状況を辿っていた。

遠心力が働いていた戦国時代の日本には、各地域に於て“武将間の抗争”が存在した。その抗争は例えば“織田信長”の代理戦争の形で同盟関係にある“毛利氏”或いは“上杉謙信”を巻き込むケースへと発展した。結果“織田信長”は“毛利氏”そして“上杉謙信”との抗争へと突入する。そして、こうした抗争を助長するかの様に動いたのが“織田信長”に“京都”を追われたものの“室町幕府の再興”そして自身の“京への帰還”への執念を燃やす“足利義昭”であった。

こうした周囲の状況下“織田信長”に“天下布武・全国統一事業”への意思を決定的に強くさせる出来事が1575年(天正3年)11月の“正親町天皇”からの“足利義昭”と並ぶ“従三位権大納言・右近衛大将“の叙位、昇任であった。以後“天下人”を自認した“織田信長”の行動はガラリと変わる。

この項では“毛利氏”との“抗争”に突入し、そして“上杉謙信”との“最初で最後の直接戦闘“に至る迄の歴史展開を記述して行く。

“織田信長”と“中国地区の覇者・毛利氏”との動きは“山陰地域・山陽地域”夫々の状況に就いて記述して行く形とした。

先ずは“山陰地区”に於ける動きから記述して行く。

1-(1):”山中鹿之助“率いる”尼子再興軍“の活動に対抗する為”織田信長“に支援を要請した”毛利元就“

“別掲図:織田信長と毛利氏の同盟関係時代そして決裂”を理解の助に参照されたい。

”毛利氏“と”織田信長“との”通交関係“開始は”毛利元就“存命中の1569年(永禄12年)8月の記録に見られる。別掲図に付した”注記①“にある様に、この時期”毛利元就“率いる”毛利“軍は”山中鹿之助“率いる”尼子再興軍“の活動に対抗する為”織田信長“に支援を要請した。

”織田信長“は”毛利元就“の要請に応えて”木下秀吉“を”但馬・播磨地区“に支援部隊として派遣している。この史実が”織田信長“が”足利義昭“を擁立して上洛した翌年、1569年以降”毛利元就“と”織田信長“との間に”通交関係・同盟関係“が結ばれた事を裏付けるものである。

“織田信長”と“毛利氏”との“通交関係・同盟関係”は“織田信長”と”武田信玄“並びに”上杉謙信“との関係程には古くは無い。”織田信長“は”天下布武“の旗印の下”全国統一事業“を進めたが、それが西に向かうにつれて”毛利氏“との間の”領国境目問題“が生じた。そこで”武田信玄”並びに“上杉謙信”と同様“通交関係・同盟関係”を結んだという訳である。

“織田信長”と“毛利氏”との“通交関係・同盟関係”は”別掲図“に付記した①~⑧のコメントの様な経緯を辿る。そしてこの“通交関係~同盟関係”は、凡そ7年間は維持されるが、1576年(天正4年)5月を以て破棄され“織田信長”と“毛利氏”は以後6年間に亘る死闘を繰り返すのである。


1-(2):”織田信長“の”全国統一事業“が西に向かって進むにつれて次第に“西国の雄・毛利氏”との間に直接的、間接的に生じて来た”領国間の境界問題“

“織田信長”は“全国統一”という大事業に動き“中国地域の覇者・毛利元就”も“天下を望まず”を家訓にしたとは伝わるものの、周囲の“有力国人・戦国大名”に伍して行く為には好むと好まざるとに拘わらず“領国拡大”に動いたのが現実である。

”中国地域の覇者・毛利元就“の闘いは”次男・吉川元春“(生:1530年・没:1586年)を“山陰地区”担当とし“三男・小早川隆景”を“山陽地区”担当とする“両川体制”を敷いて領土拡大を行って行った。夫々の地区に於ける歴史展開を記述して行くが先ずは“山陰地区”に於ける“毛利氏”の領土拡大の動き、そしてそれが如何“織田信長”との間の”通交関係・同盟関係維持“と関わって行ったのか、について記して行く。

2:“毛利軍”が“出雲・尼子義久”を滅亡させる

“山陰地区”に於ける“織田信長”と“毛利氏”の“通交関係・同盟関係”は“尼子氏・再興運動”に手を焼く“毛利元就”が“織田信長”に支援を要請した事から始まった。その発端は“出雲国戦国大名・尼子氏”の滅亡にあった。

2-(1):“第2次月山富田城の戦い”

注:“第1次月山富田城の戦い“は1542年~1543年に大内義隆が毛利氏等を引き連れて45,000兵もの大軍で15,000兵の”尼子晴久“軍を攻撃した戦いである。結果は”尼子晴久軍“が”大内義隆“軍を撃退し、勝利している

2-(1)-①:当初は“尼子勢”が有利に戦いを進めた

1565年(永禄8年)4月17日:

“毛利元就”(生:1497年・没:1571年)は“尼子晴久嫡男・尼子義久”(生:1540年・没:1610年)の“月山富田城”を1565年(永禄8年)4月17日に総攻撃(第2次月山富田城の戦いと称される)した。しかし“月山富田城”の守りは固く“毛利方”の“吉川元春”軍は撃退されている。
メモ:“京”ではこの1ケ月後の1565年5月19日に“第13代将軍・足利義輝”が“三好義継・松永久通”等によって殺害された“永禄の変”が勃発している。

2-(1)-②:“毛利軍”が再び“月山富田城”を攻めるも、尚も“尼子勢”は持ち堪えた

1566年(永禄9年)5月24日:

“毛利”軍は1年後(1566年/永禄9年/5月24日)に再び“月山富田城”への攻撃を行った。しかしこの時も“月山富田城”は持ち堪え“毛利”軍の勝利は成らなかった。

2-(1)-③:“毛利軍”は“月山富田城”を兵糧攻めにし、結果“出雲・尼子義久”は城を開城し滅亡した

1566年(永禄9年)11月28日:

度重なる“月山富田城攻めの失敗”に“毛利軍”は兵糧攻めに切り替えた。“月山富田城”の兵糧は次第に欠乏し“尼子”側の士気も衰え、累代の重臣“亀井氏、河本氏、佐世氏、湯氏、牛尾氏”等が“毛利氏”に降伏した。

更に、こうした苦しい戦況に加え“尼子氏”内部で“謀叛事件”が発生(尼子義久が宇山久兼を謀叛の疑いで誅殺・1566年1月)する等、城内の混乱が重なり、遂に“尼子義久”(生:1540年・没:1610年8月)は開城を決意した。(11月28日)

“尼子義久”が降伏、さしもの堅城“月山富田城”を開城した事で、大名としての“出雲・尼子氏”は滅亡した。“尼子義久”は弟達と共に自決を申し出たが“毛利元就”は自決を認めず、助命と安芸在住を条件とし“尼子”側はこれを受け入れた。従って“尼子義久”は1610年(慶長15年)満70歳迄生き延びる。

この処置は“毛利元就”が儒の道に根差した“人道主義の武将”である事を後世に伝えたものとされる。

2-(1)-④:“第2次・月山富田城の戦い”の纏め

年月日:1565年(永禄8年)~1567年(永禄10年)
場所:月山富田城
結果:出雲国(島根県の一部)“月山富田城”陥落し“出雲尼子氏”滅亡

        【交戦戦力】
毛利軍
        【指導者・指揮官】
毛利元就
吉川元春
小早川隆景
        【戦力】
約30,000~35,000兵
        【交戦戦力】
尼子軍
        【指導者・指揮官】
尼子義久
尼子倫久(尼子義久の弟)
尼子秀久(同上・尼子倫久の弟)
        【戦力】
約10,000兵

3:“第一次尼子再興運動”・・自1568年(永禄11年)至1571年(元亀2年)8月21日

3-(1):極めて順調に進んだ“第1次・尼子再興運動”

1568年(永禄11年):

“尼子氏“滅亡に拠って旧臣達は”出雲国“から追放された。しかし追放された”牢人“達の中から”尼子一族の再興“を目指す者達が現れた。その中心となった人物が”山中鹿之助幸盛“(生:1545年?・没:1578年7月17日?)である。

”山中鹿之助幸盛“は各地を放浪した後に”尼子遺臣“で”松永久秀“の配下に成っていた”横道秀綱“(尼子十勇士の一人・毛利軍との布部山城の戦いで戦死・生年不詳・没:1570年2月)と連絡を取り”京・東福寺“で僧侶として入っていた”尼子勝久“(尼子義久のハトコに当たる・生:1553年・没:1578年)を還俗させ”尼子再興軍“の大将として擁立した。

旗印を得た尼子旧臣達は、以後”山中鹿之助幸盛“を中心として集結し“京”に潜伏し、密かに“尼子氏再興・月山富田城奪還“の機会を窺う活動を始めた。

1569年(永禄12年)4月:

挙兵の機会を窺っていた“山中鹿之助幸盛”は“毛利元就”が“大友氏”を攻撃する為に“北九州”へ軍を派遣した機会をチャンスと捉え、挙兵し“出雲国”への進攻を開始した。

この時“尼子再興軍”を“但馬守護・山名韶凞”(やまなつぐひろ=祐豊・生:1511年・没:1580年)並びに甥の“山名豊国”(兄の死後1564年に因幡山名家の家督を継ぐ・生:1548年・没:1626年)が支援した。その理由は“山名氏”は領国“備後国”(広島県の一部)“伯耆国”(鳥取県)そして“因幡国”(鳥取県)を“毛利氏”によって制圧されており、勢力回復を図る為、同じく“毛利”氏に対抗する“尼子再興軍”と手を結んだのである。

1569年(永禄12年)6月23日:

“尼子再興軍”は“丹後国”(京都府の一部)若しくは“但馬国”(兵庫県の一部)から数百艘の船に乗って海を渡り“島根半島”に上陸し“忠山砦”(ちゅうやま=島根県松江市美保関町北浦)を占拠し、此処から“尼子再興”の檄を飛ばした。

3000余りの旧臣等が終結し“新山城”を攻略、そして”末次城“(現在の松江城の建設地にあった城)を築城し、此処を拠点に”山陰地方“各地で合戦を繰り広げ、勢力を拡大して行った。この動きは”尼子再興軍の雲州(出雲国)侵攻“と呼ばれ、その勢いは可成り大きなものに成っていた。

尚、この“尼子再興軍”の動きの僅か5ケ月前には“織田信長”に擁立されて入京を果たし“将軍”に就いた(1568年10月)ばかりの“足利義昭”が1569年1月に“三好三人衆”によって“本圀寺”に襲われるという事件(本圀寺の変)が起きている。つまり“織田信長”と“足利義昭”が連携した形で“足利義昭”政権が成立したばかりであり“京都”の治安の実態も極めて不安定だったのである。

1569年(永禄12年)7月中旬:

”山中鹿之助“等は嘗ての”尼子氏“の居城であった”月山富田城“の奪還に取り掛かった。
(尼子再興軍による月山富田城の戦い) 

戦況は”尼子再興軍“が城に籠る”毛利軍”を兵糧欠乏に陥れる等、優勢に進めていた。“山中鹿之助”軍は余勢を駆って“毛利軍”の16の城(陰徳太平記では15城と書いている)を攻略した。

この時点での“尼子再興軍”の勢力は6000余兵に拡大し、更に“米原綱寛”並びに“三刀屋久扶”等の“出雲国”の有力国人が味方に付き“出雲国一円”(全体)を支配する迄になったのである。

その後も“尼子再興軍”は勢力を拡大し続け“伯耆国”(鳥取県の一部)全土、並びに“因幡国”(鳥取県の一部)更には“備後国”(広島県の一部)“備中国“(岡山県の一部)”美作国“(岡山県の一部)に迄、その勢力を広げた。この様に“第1次尼子再興運動”は極めて順調に運んでいたのである。

3-(2):“毛利元就”が“織田信長”に“尼子再興軍”対応の為の支援を依頼し“織田信長”がこれに応えた。これを契機に戦況は大きく変わった

1569年(永禄12年)8月

”毛利元就”が“織田信長”に“尼子再興軍”に対する支援を依頼した背景には“毛利氏”が同時に“大内氏再興軍”にも対応しなくてはならず、しかも“毛利軍”は苦戦を強いられるという状況にあった事が大きい。尚、この1569年(永禄12年)8月の時点では“織田信長”と“将軍・足利義昭”の関係は未だ壊れては居らず“協調関係”を維持していた。

“織田信長”は“毛利元就”の依頼に応じて“木下秀吉”等の支援部隊を“但馬国・播磨国“に送った。“毛利元就”は上記した“大内氏再興軍”への対応の為、九州に派遣していた“毛利軍”を急遽引き上げるという決断をして“尼子再興軍”への対応に当たった。こうした“毛利元就”の決断が“毛利”方にとって劣勢だった“第1次・尼子再興軍”との戦況を劇的に変えた。

以下に“大内家・再興軍問題”と“毛利元就”が下した“九州からの撤退”とはどういう事かに就いて紹介して置きたい。

3-(3):“毛利元就”が抱えた“大内家・再興軍問題”と対応

1569年(永禄12年)10月10日:

上記した“尼子再興運動”の勢力拡大という状況を見た“大内輝弘”(生:1520年・没:1569年10月25日)は“大内家再興”のチャンスと判断し“周防国・山口”へ攻め込んだ。“毛利”方は同時に“二件の再興運動”に悩まされる事に成ったのである。

この背景には“大友宗麟家臣”で、一族でもある“吉岡長増”(=吉岡宗歓・生年不詳・没:1573年?)の存在があった。“吉岡長増”は“大内氏の後継者”を自認し、博多の権益を狙って豊前、筑前国へ侵攻を開始した“毛利氏”を九州から撤退させる為には“尼子再興運動”との連携が有効と考え“山中鹿之助”に軍資金を渡し、結果”尼子再興軍“は“雲州侵攻”を成功させたと伝わる。

“尼子再興軍”に手こずる“毛利氏”の様子を見て”大内輝弘“は”豊後国“(大分県の一部)から”大友氏家臣”の“若林鎮興“(わかばやししげおき・生:1547年・没:1593年)率いる“大友水軍”に護衛され、軍勢2000兵を率いて“周防国”(山口県の一部)へと渡航し“秋穂浦”に上陸したのである。

この”大内輝弘“軍の動きに6000兵もが呼応し“大内家再興軍”の兵力は膨れ上がった。

1569年(永禄12年)10月13日~10月21日:

“長門国・赤間関”(山口県の一部)で九州攻略の指揮を執っていた“毛利元就”は“大内輝広軍”が“秋穂浦”へ上陸したとの急報を受けると、九州からの撤退を指示した。10月15日から撤退を開始し、18日には“長府”に着き、21日には“吉川元春”と“福原貞俊”が10,000兵を率いて“大内家再興軍”に与した者達を徹底的に討伐し乍ら“周防国・山口”に急行した。

“毛利軍”は“大内輝弘”の“大内家再興軍”を包囲した。こうした展開に“大内遺臣”達は、次第に“大内家再興軍”からの離散を始めた。

1569年(永禄12年)10月25日:

“大内輝弘”軍の手勢は僅か800兵に迄減った。そして上陸地の“秋穂浦”(大内時代の表玄関とされここから山口に入る道は高貴な人達が往来するのでお上使道と呼ばれた)へ撤退したのである。

既に“大内再興軍”を 護衛し、渡航を助けた“大友水軍”は“毛利軍”に襲撃されたか,あるいは帰国したかで、その姿は無かった。この間“毛利”方の追撃に遭った“大内再興軍”に従う兵は更に減り、100名程に減っていた。そして“浮野峠・茶臼山”(山口県)に引き返した“大内輝弘”軍に“吉川元春”軍が迫り“大内輝弘”等は自刃した。

こうして“大内輝弘の乱”(自1569年10月10日至同年10月25日)は終息したのである。

メモ:
主力軍を撤退させ“門司城”等の一部を残して“豊前国”での拠点から去った“毛利氏”は、以後”豊前国(大分県の一部・福岡県の一部)“並びに”筑前国(福岡県の一部)“で”大友氏“と戦う事は無くなった。結果として上記した“大友宗麟”の家臣、参謀役、そして一族でもある“吉岡長増”(大分郡の鶴崎城、千歳城主・生年不詳・没:1573年?)の“毛利氏”を九州から撤退させる為の“尼子再興運動”との連携による“大内輝弘の乱”支援策が“毛利軍”への“後方攪乱策”としての役割を果たし“大友氏”を滅亡の危機から救うであろう、との読みは見事に的中した。

結果、1569年(永禄12年)に“多々良浜の戦い”で敗れ“毛利”軍によって“筑前国”(福岡県の一部)の大半を奪われ、滅亡の危機に立たされていた“大友氏”は救われたのである。

3-(4):“毛利元就”の判断で、九州から撤退し“大内輝弘の乱討伐”に注力した“毛利元就”軍は討伐を成功させ、再び“尼子氏再興運動討伐”の為に“出雲国”へ向かった

“毛利元就”が“織田信長”に1569年(永禄12年)8月、援軍を依頼し“織田信長”が要請に応えて“木下秀吉”等の軍勢を但馬・播磨に派遣したと別掲図“織田信長と毛利氏の同盟関係時代そして決裂“に付したメモ①“はこの時の状況に関するものである。

”織田信長“は”天下布武“の下”全国統一“の動きを進めるに当たって主要な戦国大名との間に”通交関係・同盟関係“を結んで来た。“武田信玄”に就いては既述の通りであり“上杉謙信”との間の”通交関係・同盟関係“に就いては後述する。

“織田信長”は“足利義昭”を擁立して“上洛”し(1568年9月)“足利義昭”を将軍に就ける事に伴って“畿内制圧”を果たした。そして“全国統一”を視野に“中国地域の覇者”として東進する“安芸国・毛利氏”との間に“通交関係”を結ぶ事の必要性を感じていた“織田信長”にとって“上洛”の11カ月後の1569年8月に“尼子氏再興運動”等への対応下にあった“毛利元就”の方から軍事支援を要請して来た事は“渡りに船”であった。そして“毛利氏との同盟関係”を成立させたのである。

“織田信長”と“毛利”方との“同盟関係”成立は“織田信長”が“桶狭間の戦い”で“今川義元”に勝利し“全国区”の“戦国大名”として名乗りを上げ“武田信玄”との間に結んだ“通交関係・同盟関係”開始(1560年頃)のケースの9年後、そして後述する”織田信長・上杉謙信“との間の”通交関係・同盟関係“成立(1564年と考えられる)からは5年後の事であり、最も遅いものであった。

この時間差の背景には“織田信長”の“畿内以西”への進出が順序として後となったという事があった。又“毛利氏”側には“周防国・長門国”(両国を併せて現在の山口県)並びに“出雲国”(島根県の一部)等の支配を固める為に“大内氏”並びに“尼子氏”の残党掃討対応を何とかしなくてはならない、という事情があった。

上記した様に“毛利元就”は“大内輝弘の乱”を1569年(永禄12年)10月25日に掃討した。しかしこの時点では“尼子再興運動”方は未だ可成りの勢力を保持しており“毛利元就”は1569年(永禄12年)8月に“尼子再興軍”への対応の支援を主たる理由に“織田信長”と結ぶ事のメリットを見出したのであろう。そこでこの様な背景が“毛利元就”が“織田信長”に“軍勢派遣”を要請し、両者の“同盟関係”成立に至った経緯である。

3-(4)-①:“織田信長”と“毛利元就”が“通交関係・同盟関係”を成立させる前に既に両者の間には“領国境界問題”が発生していた

1569年(永禄12年) 8月:

”織田信長“は家臣“木下秀吉”そして“坂井政尚”に命じて“但馬国(兵庫県の一部)・生野銀山”を制圧させた。この動きは“因幡国(鳥取県の一部)”制圧を目指す“毛利元就”との間に“領国境界問題”を生じさせた。

しかし“織田信長”と“毛利元就”は、この“領国境界問題”を戦闘に至らせず“朝山日乗”(日蓮宗の僧・毛利氏、織田信長とも以前から関係があった・生年不詳・没:1577年9月15日)を介しての外交交渉で“但馬国”と“因幡国”の境を両者の“境界線”とする事で解決したのである。上記で、1569年(永禄12年)8月の”織田信長・毛利元就“間での“通交関係・同盟関係成立”は“尼子再興軍”への対応支援が主たる理由としたが、この事も今一つの理由であった。

更に言えば”因幡国制圧“を邪魔する”但馬国守護・山名祐豊”(やまなすけとよ・生:1511年・没:1580年)を“織田方・木下秀吉”軍と“坂井政尚”軍が“但馬国”に侵攻し(1569年永禄12年)追い出した事も“毛利氏”にとってメリットであった。以上の事柄を総合して”尼子再興軍“の制圧が”山陰地区統治“に於ける重要課題であった”毛利元就“にとって”織田信長“との同盟に前向きにさせたのである。

3-(5):“織田信長”との同盟成立により“尼子再興軍”との戦況を逆転させた“毛利元就”

1569年(永禄12年)に“出雲国”に向け挙兵した“山中鹿之助幸盛”が率いる“尼子再興運動”軍は一時“島根半島全域”に迄拡大し“十神山城“並びに”末吉城”等“出雲・伯耆”の国境にある城を次々と奪還した。

しかし、上記した“毛利元就”の戦略転換(大内輝弘の乱平定、九州からの引き揚げ、織田方との同盟)により“毛利氏”は押されていた“尼子再興運動軍”との戦況を逆転する事に成る。

4:“第1次・尼子再興運動”が失敗に終わる

4-(1):“毛利軍”からの“嘘の降伏書状”に騙された“尼子再興軍”

1569年(永禄12年)7月:

“山中鹿之助幸盛”率いる“尼子再興運動”軍は“毛利軍”によって占拠された“月山富田城”への攻撃を開始した。(1569年7月)

しかし“毛利”方は“天野隆重”(あまのたかしげ・生:1503年・没:1584年)が“降伏”する旨の“嘘の書状”を送り“尼子再興軍”を“月山富田城”の奥深く迄進んだ場所まで誘引した上で急襲した。

これにまんまと騙された“秋上宗信”(尼子十勇士に出てくる秋宅庵助のモデルとされる武将・生没年不詳)率いる“尼子再興軍”2000兵は多数の死者、負傷者を出して“末次城”へ撤退する敗北を喫した。

4-(2):“毛利軍”の猛攻に“尼子再興軍”は“山陰地区”から一掃される

“尼子再興軍”は“山中鹿之助幸盛”並びに叔父の“立原久綱”(尼子3傑の一人・尼子義久の近習衆の筆頭格であった・生:1531年?・没:1613年)等が再度”月山富田城“を攻撃したが失敗に終わった。

1570年(元亀元年)10月下旬~同年12月:

日本海側の制海権を奪われた“山中鹿之助幸盛”率いる“尼子再興”軍は、1570年(元亀元年)10月下旬には“十神山城”(島根県安来市新十神町・松田氏が築城、応仁の乱後に尼子氏が支配)そして同年12月には“満願寺城”(島根県松江市西浜佐陀町・湯原信綱が1521年に築城・1562年の毛利氏の出雲侵攻で毛利氏の支配下となった。1570年には尼子氏残党の奈佐日本之介・なさやまとのすけ/生年不詳・没:1581年/が一時奪還していた)も落された。

1571年(元亀2年)8月20日:

更に1571年に(元亀2年)に入っても“毛利”軍の“尼子再興軍”への猛攻は続き、8月20日には最後の拠点であった“新山城(真山城・島根県松江市法吉町・築城主平忠度?平清盛の異母弟で一ノ谷の戦いで討ち死:生:1144年・没:1184年)”も落城した。

籠城していた、擁立された“総大将・尼子勝久”(生:1533年・没:1578年)は隠岐に脱出したが、重なる敗戦で“尼子再興軍”の勢力は縮小して行った。尚“敗北”した“尼子勝久”が“織田信長”を頼ったと“歴史学研究会編・日本史年表“の1571年8月欄に記述されている。

同じ頃“尼子再興運動”のリーダー“山中鹿之助幸盛”は“末吉城”(すえよしじょう・末石城の名称も・鳥取県西柏軍大山町末吉・築城主は山中幸盛とされるが、蒙古襲来の時の海岸線防衛強化の為、伯耆国小波城の支城として築城されたのが始まりだとの説もある)に籠城して戦っていたが“毛利方・吉川元春”(きっかわもとはる・毛利元就の次男・生:1530年・没:1586年)軍との戦いに敗れ、捕らえられ“尾高城”(別名泉山城・鳥取県米子市尾高・築城は鎌倉時代)に幽閉されたが、敵方の隙を突いて脱出する事に成功している。しかし、この時点で“尼子再興軍”は“山陰地域”から一掃されたのである。

メモ:尚、この2ケ月前の1571年6月に“毛利元就”が病死した。“織田信長”との通交関係、同盟関係が成立してから僅か10ケ月後の事である。“毛利元就”病死後の“毛利氏”が“三子教訓状(遺訓)”を守り通して“織田信長”方との間の“領国境目問題”をはじめとする諸々の対立する状況を平和裏に対処して行く事になるのか“毛利方”の動きに就いては後述する。こうした“織田・毛利”間の“通交関係・同盟関係”を維持するか否かで揺れる時期に“毛利氏”を相手に、飽くまでも“尼子再興運動”を諦めようとしない“山中鹿之助”は後述する“第2次尼子再興運動”にも失敗する。(1576年5月)
それでも尚“山中鹿之助”は今度は“織田信長”を頼り“山中鹿之助”の人物、人柄を大いに気に入った“織田信長軍”の傘下で活躍する事に成る。
“毛利氏”との間の“通交関係・同盟関係”の破局がいずれは避けられない事を見通した“織田信長”の判断であろう。彼の判断通り、同時期、1576年5月に“織田・毛利”間の“同盟”は破棄される。

4-(3):“第1次尼子再興運動”の纏め
期間:自1568年(尼子勝久を還俗させ擁立)至1571年8月
結果:
“尼子再興軍”は最後の拠点であった“新山城”を落され、籠城していた“尼子勝久”は隠岐へ逃れ“山中鹿之助” は“毛利方・吉川元春”に捕らえられ“尾高城”に幽閉された。この段階で“尼子再興軍”は“山陰地域”から一掃された

4-(4):“月山富田城”訪問記・・2023年(令和5年)6月18日(日曜日)

住所:島根県安来市広瀬町富田
交通機関等:
大阪からレンタカーで“月山富田城”を訪問する事に決めた。理由は今回の史跡訪問では加えて“松江城”並びに“出雲大社”の訪問、更には大阪への帰途に“鳥取城”の訪問も考えた為、長距離ドライブとはなるが、時間を有効に使う為にはレンタカー利用が最も効率的だと考えたからである。

宿舎に近い地下鉄南森町駅近くの“トヨタレンタカー”で“プリウス”を借りた。“ナビ”で大阪市内から“月山富田城“迄の距離を検索すると凡そ260kmと出た。朝9時にスタートして途中、PAで食事休憩を取り、ゆっくりと”ナビ“の命ずるままに自動車道を景色を楽しみながらドライブした。約4時間後、13時過ぎには”月山富田城“に到着した。

訪問記:
歴史等:
“月山富田城”は1185年頃に“平景清“(藤原景清・伊藤景清とも・生年不詳・没:1196年?壇ノ浦の戦いで敗れた後に捕らえられ八田知家の邸で絶食して果てたとの説の他、諸説があり不明)が築城したとの伝承がある。

鎌倉時代に成って”承久の乱“(1221年)の功績によって”佐々木義清“(生年不詳・没:1248年)が”出雲・隠岐“両国の守護となり”月山富田城“に入ったとの記録がある。6代170年に亘って”尼子氏“の盛衰の舞台と成った”月山富田城“は”尼子経久“(生:1458年・没:1541年)の時期に出雲に於ける基盤を造り上げ、嫡孫”尼子晴久“(初名は詮久・あきひさであった。第12代将軍足利義晴から偏諱を賜って晴久と改名する・生:1514年・没:1560年)の代には山陰・山陽11ケ国の中の8ケ国の守護職を兼任し当時の中国地方随一の”大大名“と成り”尼子家“の最盛期を創出した。

しかし1560年(永禄3年)12月に”尼子晴久“が急死し、嫡男”尼子義久“(生:1540年・没:1610年)が家督を継ぐが、以後”毛利元就“の勢力に圧され1566年(永禄9年)11月28日、遂に”月山富田城“は陥落し大名としての”尼子氏“は滅亡した。その後の”山中鹿之助“等に拠る”尼子再興運動“の経緯に就いては本文を参照されたい。

訪問記:
先ずは“月山富田城”の側にある“安来市立歴史資料館”に立ち寄り基礎知識、並びに資料を入手してから“月山富田城”城址訪問に向かった。
訪問前に得ていた情報からは本丸迄には相当厳しい石段を登らなければならないと覚悟を決め、同好の友人が膝痛を抱えているという事も考慮して、お互いに無理はしないと申し合わせて臨んだ。しかし、実態は写真に示す様にかなり整備された石段だったので幸いにして我々は楽に山頂まで行く事が出来た。

写真に“大土塁“を載せたが”戦国時代“の山城の中でも尾根や谷など、自然の地形を利用した“月山富田城”は最も難攻不落の城として有名であり、その片鱗を窺う事が出来た。麓から山頂まで凡そ30分~40分かけて途中の景色を眼下に見ながら“月山山頂”の“本丸跡”に建てられた“山中幸盛(山中氏鹿之助)塔”(記念碑)に到着。山頂の“大国主命”を祭神とした創建“欽明天皇”期の570年とある“勝日高守神社”もお参りした。“尼子・吉川・堀尾”等の歴代の城主からは城の鎮守社として崇敬庇護された神社である。


5:“第2次尼子再興運動“も失敗に終る・・自1572年(元亀3年)2月~至1576年(天正4年)5月頃

5-(1):“尼子再興運動”のリーダー“山中鹿之助”は“第1次・尼子再興運動“に敗れ乍らも、尚も“尼子再興運動”を続けた

1572年(元亀3年)3月~4月:

“毛利・吉川元春”軍に敗れ(1571年8月)“尾高城“(鳥取県米子市尾高・築城鎌倉時代・廃城1601年)に幽閉された”山中鹿之助“は脱出に成功し、海を渡って”隠岐国“(島根県の一部)に逃れた。

そして半年後の1572年(元亀3年)2月~3月頃には再び海を渡って”但馬国”(兵庫県の一部)に潜伏した。その間“瀬戸内海の海賊・村上武吉”や“美作国“(岡山県の一部)の”三浦氏重臣・牧尚春“(生没年不詳)と連絡を取り、尚も”尼子家再興“の機会を窺っていた。この間“山中鹿之助”は“亀井”姓を名乗っていたとされる。

5-(2):”尼子再興軍・山中鹿之助“は“因幡国・伯耆国・出雲国”での勢力挽回に成功する

1573年(元亀4年)初頭?(1572年説もあり):

“山中鹿之助”をリーダーとする“尼子再興軍”は潜伏していた“但馬国“から”因幡国”(鳥取県の一部)に攻め込み“桐山城”(鳥取県岩美郡岩美町浦富)を攻略して此処を拠点として“伯耆国“(鳥取県の一部)並びに”出雲国“(島根県の一部)に於ける勢力の挽回を図っている。

ここで“因幡国・岩井城主・山名豊国”(生:1548年・没:1626年)が支援に加わっている。その背景には、ほゞ10年前の1563年頃に“因幡国・岩井城主・山名豊国”は、兄で当主の“山名豊数”(鳥取城主・生年不詳・没:1564年・失意の中死去したとの説、或いは隠居説もある)と共に家老”武田高信”(生:1529年?・没:1573年)の反逆、そして“武田高信”を支援した“毛利氏”によって“因幡国・岩井城並びに鳥取城”を追われ、その為“武田高信”には深い恨みを抱いていた。

“山名豊国”は、亡き兄“山名豊数”の家督を引き継ぎ、奪われた“因幡・山名家”の再興を図るべく動いた。この点で同様の志を以て奮闘する“尼子家再興運動”のリーダー“山中鹿之助”と共闘する事に成った。“山中鹿之助”は“毛利”と戦うべく“因幡国・甑山城”(こしきやまじょう・鳥取県鳥取市国府町美歎・築城は1334年~1338年とあるから、後醍醐天皇に拠る建武新政が行われていた真っ最中の時期である)に移動した。

5-(3):“鳥取のたのも崩れ”で“鳥取城”を奪取し“尼子氏再興”の足掛かりを築いた“山中鹿之助”であったが、、、、

”山名豊国“が敵とする”武田高信“は”毛利氏“と連携しながら”尼子再興軍”が”鳥取城“に近い“因幡国・甑山城”に拠点を移した事を知った。そして“討伐”の為“鳥取城”から500騎を率いて“尼子再興軍”が拠点とする“甑山城”へ進軍した。

5-(3)-①:“鳥取のたのも崩れ“(戦闘)

上記戦いの語源は、戦いの場所が鳥取(因幡国邑美郡鳥取郷)であり、戦いのあった日が旧暦の8月1日(八朔)であった事から“鳥取の田の実崩れ”と呼ばれた事からだと伝わる。下記の様に小規模の戦いであり“尼子再興軍”が勝利した。

戦況

“武田高信“軍500騎が侵攻して来た事に対して”山中鹿之助“をリーダーとする”尼子再興軍“は”甑山城“(こしきやまじょう)に籠城する作戦を採った。一方”武田高信“軍は力攻めによる城の攻略を行った。しかし”山中鹿之助“軍が弓矢、鉄砲、大石で一斉攻撃を仕掛けると”武田高信“軍は総崩れとなり、撤退を開始した。

しかも、城下には“山中鹿之助”から指示を受けていた“秋里佐馬充”軍が退路を塞いでいた為“武田高信”軍は“城内”からの“山中鹿之助”軍と“秋里佐馬充”軍に挟撃され、殆ど壊滅状態で“鳥取城”へ敗走した。

“鳥取のたのも崩れ“の纏め

年月日:1573年(天正元年)8月1日~9月下旬
場所:甑山城(こしきやまじょう・現鳥取県鳥取市国府町町屋)
結果:甑山城で籠城作戦を採った“尼子再興軍”の勝利

        【交戦戦力】
尼子再興軍

        【指導者・指揮官】
山中幸盛(山中鹿之助)
秋里佐馬充

        【戦力】
約140~150兵+不明(秋里軍)
(因幡民談記、隠徳太平記
        【損害】
不明

        【交戦戦力】
武田高信軍(毛利軍)

        【指導者・指揮官】
武田高信


        【戦力】
約400~500兵(因幡民談記)

        【損害】
不明(ほゞ壊滅説あり)


5-(3)-②:合戦後の動きに就いて

”武田高信“軍の被害は”ほゞ壊滅”説がある様に”甑山城“から”鳥取城“までのほゞ1里(4km)に亘って死体が道に溢れていたという。

”敗戦“後の”武田高信“の勢力は大きく減衰し、一方の”山中鹿之助”率いる“尼子再興軍”は“因幡国”の実質的領主であった“武田高信”に勝利した事で、この地域における勢力を大きく拡大させた。

5-(3)-③:”鳥取城の戦い“
メモ:
上記“鳥取のたのも崩れ“(戦闘)に引き続いて戦われた戦闘として”尼子再興軍による鳥取城の戦い“として”太閤記“には書かれている。この戦いは後の1581年に”羽柴秀吉“が”毛利・吉川経家“との戦い(自1581年6月至1581年10月25日)で、戦国時代最悪とされる”鳥取城の渇え殺し“の舞台となった”第2次鳥取城の戦い“とは異なるので注意されたい。

“尼子再興軍”が勝利し、結果”東因幡国“帯を支配し”尼子家再興“を実現する為の足掛かりとなった戦いである。
太閤記が尼子再興軍に拠る”鳥取城の戦い“として伝える戦闘の纏め

年月日:1573年(天正元年)8月~同年9月
場所:鳥取城
結果:“尼子再興軍”が勝利し“武田高信”が居城としていた“故・山名豊数”の城“鳥取城”を奪還する

        【交戦戦力】
尼子再興軍
        【指導者・指揮官】
山中幸盛(山中鹿之助)
山名豊国
        【戦力】
約1,000兵(太閤記)
        【損害】
不明
        【交戦戦力】
武田高信軍(毛利軍
        【指導者・指揮官】
武田高信

        【戦力】
約5,000兵(太閤記
        【損害】
約200人(太閤記)

5-(4):“鳥取城”には“山名豊国”を入れ、共闘の恩に報いた“山中鹿之助”だったが・・・

1573年(天正元年)9月下旬:

”因幡国“の実質的領主の座を兄の”山名豊数“から奪った”武田高信“に勝利し”武田高信“が居城としていた”鳥取城“を奪還した”尼子再興“軍は奪取した”鳥取城“に城主だった”故・山名豊数“の弟の”山名豊国“(生:1548年・没:1626年)を共闘の恩に報いる形で入城させた。そして”尼子再興軍“は”因幡・私部城“(鳥取県八頭郡八頭町市場)を居城としたのである。

“山中鹿之助”はその後、僅か10日間で敵方の15城を攻略したと伝わる。こうして”尼子再興軍“の勢力は3000余に復し”東因幡国“の一帯を支配し、以後この地を”尼子再興運動“の足掛かりとしようとした。

5-(5):この時期“織田信長”は基本的には“毛利”方との“通交関係・同盟関係”を維持する姿勢であった。しかし両者の関係には徐々に亀裂が生じていた

“織田信長”はこの時期“将軍・足利義昭”を“槙島城の戦い”(1573年7月)で敗り“京”から追放している。(日本史上、この事件を以て実質的な室町幕府滅亡としている。しかし、既述の様に足利義昭は朝廷に征夷大将軍の官位を返納していない、返納するのは15年程後の1588年1月13日の事である)

この時点(1573年9月頃)の“織田信長”と“毛利氏”との関係は、既述の様に“足利義昭”の京帰還について両者で協議するという関係であった。しかし、堺に於ける協議で,余りにも高飛車な“足利義昭“の条件提示を担当に当たっていた“羽柴秀吉”が拒否し、結果的に決裂させた(1573年12月)のである。(前6-22項参照方)

又、同月“織田信長”が“反毛利”の急先鋒の“備前・浦上宗景”に“備前・播磨・美作“3ケ国の支配権を認める朱印状を出す等の動きもあって“織田信長”と“毛利氏”の“通交関係・同盟関係“に少しづつ亀裂が生じ始めていた。(別掲図:織田信長と毛利氏の同盟関係時代そして決裂、のメモ①、②、③参照方)

5-(6):“毛利方・小早川隆景“が”羽柴秀吉“に、再び”第2次・尼子再興運動“を阻止する為の援軍を要請した。又“山名豊国”が“毛利方へ寝返る”等の事態も重なり“毛利方”が優勢と成る

“尼子再興軍“は上記した様に”第2次・尼子再興運動“を活発化させ、再び勢力を盛り返していた。この状況に“毛利方・小早川隆景“は”羽柴秀吉“に援軍の要請を出したのである。この時期”織田信長“と”毛利氏“との間の”通交関係・同盟関係“に少しずつ”亀裂“が生じる上述した事態が起きていた。しかしこの時点の“毛利方”は2年前に病死した(1571年6月)“毛利元就”の遺訓“天下を競望せず”を遺児“吉川元春”と“小早川隆景”が守り続け“織田信長”との”通交関係・同盟関係“を維持する姿勢に変わりは無かった。

そこに“毛利方”にとって幸いな事態が発生する。

5-(6)-①:“尼子再興軍”は共闘した“山名豊国”を、奪還した“鳥取城”に入城させたが、その“山名豊国”が“毛利方”に寝返り“第2次・尼子再興運動”の失敗に繋がる大誤算と成った

1573年(天正元年)11月上旬~1574年(天正2年)2月頃:

“山中鹿之助”をリーダーとする“尼子再興軍”と共闘し“毛利氏”との“鳥取城のたのも崩れ”(鳥取城の戦い)に勝利し“故・山名豊数“が”毛利氏“によって奪われた”鳥取城“を奪還後”尼子再興軍“は共闘の報酬として”弟・山名豊国“を入城させた。しかしこれが大誤算と成った。

”毛利方・吉川元春“が1574年(天正2年)2月頃に軍勢を率いて”因幡“(鳥取県の一部)に攻め入ると”尼子再興軍“と共闘し”鳥取城“に入っていた”山名豊国“(生:1548年・没:1626年)が何と”毛利氏“に寝返り、あっさりと降伏してしまったのである。

この結果“第2次・尼子再興運動軍”の拠点としての”鳥取城“が、奪還してから僅か数カ月後に再び”毛利”方に奪われてしまった。“尼子再興軍”と共闘した筈の“山名豊国”は1573年(天正元年)11月上旬には “毛利“方の”田公高次“(たきみたかつぐ・田公氏は因幡国の守護代であった家系である・生没年不詳 )等に懐柔され”毛利“方に寝返っていたのである。

“山名豊国”が寝返り、降伏した事のダメージは大きく“山中鹿之助”率いる“第2次尼子再興”軍の勢いもここ迄であった。

5-(7):“鳥取城”訪問記・・訪問日2023年6月19日(月曜日)

住所:鳥取県鳥取市東町2丁目5
交通機関並びに旅行記:

既述の“島根県・月山富田城”を前日の6月18日(日曜日)に訪問した直後に、我々は既に時計は15時25分になっていたが、更に40分程西にある“松江城”を訪問した。”松江城“に着いた頃にはPM16:00を回っており、17:00の見学制限時間一杯迄、1時間弱の”松江城“見学を行った。その後、15分程の距離にある“宍道湖”近くの宿舎“天然温泉だんだんの湯・野乃”で一泊した。

翌日6月19日に、同行の友人が更に西の“出雲大社”訪問を是非したいという事で“鳥取城”とは逆方向に成るが、早朝にホテルの食事を済ませ、7:00AMには“出雲大社”に向けて出発した。“宍道湖”沿いの道を1時間ほど西に走り、8:10AMには“出雲大社”に着いた。宝物館も含め、ゆっくりと見学した後、愈々目的地“鳥取城”に向けて出発した。

“出雲大社”から“鳥取城”までの走行距離は凡そ80km位であったと思う。9:20AM頃に“出雲大社”を出発、途中“琴浦PA”で休憩、兼、昼食を採り”鳥取城“(久松公園)には12:50PMに着いた。

”鳥取城“の様子は添付した写真を参照されたい。現在も石垣等の補修作業が続けられており”名城・鳥取城“が嘗ては壮大な規模であった事を今日に伝えている。

”鳥取城祉“見学を1時間程で終え”大阪“の”トヨタレンタカー営業所”に向けて帰途に就いたのは14時頃、そして17時頃には車を返す事が出来た。以上2日間の走行距離は670km程であった。

歴史等:
戦国時代から江戸時代にかけての城であり、築城主は諸説がある。有力な説は“但馬守護”だった“山名祐豊”(生:1511年・没:1580年)が付城として築城した説である。築城年は1532年~1555年(天文元年~弘治元年)に室町幕府・第12代将軍足利義晴~第13代将軍足利義輝の時期とされる。時の天皇は“第105代・後奈良天皇”(生:1497年・崩御:1557年)である。現在に伝わる城の石垣の姿は1582年~1849年の約270年の間に時間を掛けて段階的に整備されたものとされる。

現在の立派な石垣城址の主要な部分は“池田光正”(生:1609年・没:1682年)が入城し、それまで5~6万石級だった城を32万石の居城として一新し、大手登城路、天球丸、二ノ丸、も整備した事に拠るものである。城内の建物は明治時代に大半が取り壊され、残った石垣も1943年(昭和18年)の“鳥取大地震”で多くが崩れて了った。既述の通り、今日でもその補修作業が続けられている。

訪問記:
石垣だけが残る城跡ではあるが、他の類似の城址を多く見学して来た私から見ても“鳥取城”の石垣城址は屈指の壮大さを誇るものである。その様子は添付した写真でお分かり頂けると思うが、是非訪問される事をお勧めしたい。”羽柴秀吉“が”織田信長“の”中国攻め“の責任者として”鳥取城の渇得殺し”と言われる程の凄惨な兵糧攻めを行った事でも知られる城だが、上記文中で記した”尼子再興軍“と”毛利方“との戦闘でも知られる名城である。

城址を巡っていると石垣を補修している人々を見かけ、色々と説明をして頂く事が出来た。2005年(平成17年)に“史跡鳥取城跡附太閤ケ平保存整備基本計画”が策定され、30年の歳月と51億円を投じて幕末期の姿へ復元している途上だという説明があった。写真でも分かる様に“鳥取城跡天球丸”は角を持たない球面の石垣として国内唯一の大変珍しいものである。


5-(8):“第2次・尼子再興運動失敗”への流れ

5-(8)-①:“反毛利“の諸勢力との連携を探った”山中鹿之助“

“山名豊国”の“毛利方”への寝返りを基点に一挙に“第2次・尼子再興運動軍”の勢いは削がれ劣勢と成った。その状況に“毛利軍”は弱体化した“尼子再興軍”に対して休まず攻撃を加え続けた。こうした苦しい状況下“山中鹿之助”は“因幡国”内での体制を立て直すべく、同じく“反毛利”として戦う“美作国・三浦氏”そして“備前国・浦上氏”更には、遠く“豊前国”(大分県、福岡県の一部)の“大友氏”との連携を探った。

既述の様に“毛利方・小早川隆景“は”織田・毛利”間の“通交関係・同盟関係”が未だに維持されていた時期でもあった事から”羽柴秀吉“に援軍を要請した事が伝わる。しかし実態は”織田・毛利”間の“の“通交関係・同盟関係”には少しずつ亀裂が生じていた。情報力こそが戦国時代を生き抜く最重要事項である。”山中鹿之助“は両者の亀裂状態を見逃さず“織田方”の“柴田勝家”に、密かに支援要請の動きをしていた事が記録されている。

5-(8)-②:“第2次・尼子再興運動”に止めを刺した“山名豊国”の叔父“但馬国守護・山名祐豊”が“毛利氏”と結んだ“芸但同盟”

1574年(天正2年)10月~1575年(天正3年)1月:

“山名豊国”は“毛利氏”に寝返り、そして“鳥取城”を“毛利方”に開け渡し和睦した。それに止まらず“山名豊国”は、叔父で“但馬国守護・山名祐豊”(生:1511年・没:1580年)に、重臣“太田垣輝延”(但馬国守護代)とに“毛利方・吉川元春”と和睦する事を説得した。結果、それまで“毛利氏”と敵対し“尼子再興軍”を支援していた“叔父・但馬国守護・山名祐豊”(生:1511年・没:1580年)も説得されて“毛利氏”と手を組む事と成ったのである。

“但馬国守護・山名祐豊”は“毛利方・吉川元春”に誓紙を送り“芸但和睦”が結ばれた。(芸担同盟とも呼ぶ)

この頃に成ると“別掲図:織田信長と毛利氏の同盟関係時代そして決裂“のメモ①、②、③でコメントした様に”毛利氏“と”織田信長“方との“通交関係・同盟関係”には、はっきりと亀裂が入り“毛利方・吉川元春”は、近い将来、衝突が避けられないものと考え“信長対策”として“太田垣輝延”(但馬国守護代)等、多くの“但馬国・国人衆”との和睦を成立させたと考えられる。
こうした、頼りにしていた“山名一族”の全てが敵方“毛利氏”に与するという動きは”尼子再興運動軍“にとって“第2次・尼子再興運動”に止めを刺された事に等しかった。

メモ:
“毛利方”に寝返った“山名豊国”の叔父“但馬国守護・山名祐豊”が”尼子再興軍“を支援して来た経緯、そしてその”山名祐豊“は嘗ては”織田“傘下に与していたという
史実
”織田信長“が家臣“木下秀吉”(羽柴秀吉に改姓するのは浅井長政を滅ぼした小谷城の戦いでの大功を挙げた後、1573年7月20日とされる)並びに“坂井政尚”に命じて“但馬国(兵庫県の一部)・生野銀山”の制圧を行ったのは1569年(永禄12年) 8月の事である。繰り返しとなるが、此の頃“織田信長”と“毛利元就”との間は“通交関係・同盟関係”で結ばれていた。

こうした“織田信長”軍の侵攻に対して“但馬国守護・山名祐豊”(生:1511年・没:1580年)は居城とした“此隅山城”から出て、より堅固な“有子山城”を築城し、此処に“但馬守護所”を移し、防戦に努めたが“木下秀吉”軍の激しい攻撃を受け、結果“山名祐豊”は領国を追われ“和泉国・堺”に逃げている。

この時“堺”の豪商“今井宗久”の仲介で“織田信長”に会った“山名祐豊”は“織田信長”軍の西進に加勢する事を誓い、その代りに“但馬国・出石郡”の領有を認められ“有子山城”(ありこやまじょう・築城は1574年で築城主は山名祐豊)の“城主”としての復帰を認められたのである。

こうした経緯で“山名祐豊”は“織田信長”傘下の武将と成った。嘗て1569年の“尼子勝久・山中鹿之助”の“尼子再興軍”の出雲国侵攻に際して、これを支援し“毛利軍”と戦ったという背景もあり“反毛利”の立場には変わりがなかったが、上記した経緯で甥の”山名豊国“が”毛利方“に寝返った事で”山名祐豊“も”毛利方・吉川元春“と”芸但和睦“を結ぶに至るのである。

5-(8)-③:一時的に息を吹き返した“第2次・尼子再興運動”であったが、以上の“毛利方”への寝返り“芸但同盟”の動きの結果失敗に終わる

1575年(天正3年)6月14日~6月15日:

”毛利”方は“吉川元春・小早川隆景”軍が47,000兵もの大軍で“因幡国”へ進軍し“尼子再興軍”への総攻撃を開始し、諸城を次々と攻略して行った。

“山名豊国”が“毛利方”に寝返った事を基点に“叔父・山名祐豊”も“毛利氏”と“芸但和睦”を結んだ事で“第2次・尼子再興運動軍”は止めを刺された状態と成った。しかし乍ら、苦境に立たされ乍らも“山中鹿之助”は“矢部某”を捕らえ、謀略に拠って“因幡国・若桜鬼ケ城”(わかさおにがじょう・鳥取県八頭郡若桜町三倉・築城1200年・廃城1617年)を攻略し、手に入れ、拠点を此処に移したのである。

1575年(天正3年)10月上旬:

“毛利軍”の“尼子再興軍”への大軍に拠る攻撃は尚も執拗に続き、次々と“尼子再興軍”の拠点が攻略されて行った。“山中鹿之助”が1574年(天正2年)に入城、対抗拠点の一つとしていた“因幡国・私部城”(きさいちじょう・市場城とも言う・鳥取県八頭郡八頭町市場・築城主は因幡毛利氏・築城年は室町時代前期とされる)も“毛利”方の猛攻に拠って落城した。

これに拠って“第2次・尼子再興運動”は“因幡国・若桜鬼ケ城“だけが拠点と成ったが”第2次・尼子再興運動“は尚も続けられていたのである。

5-(8)-④:“織田信長・毛利氏”間に“山陽地域”で緊張関係が生じた為“毛利方”の“尼子再興軍”に対する総攻撃の手が緩み、一時的に窮地を逃れる事が出来た“第2次・尼子再興運動”

1574年(天正2年)11月~1575年(天正3年)5月:

2年前の1573年(天正元年)12月頃に“織田信長”は“反毛利”の急先鋒の“備前国・浦上宗景”に“備前・播磨・美作”3ケ国の支配権を認める“朱印状”を与えた事は既述の通りである。

”織田信長“が未征服、自国領にも成っていない国を先んじて武将に与える人事策は”織田信長“の部下へのインセンテイブ手法だが”毛利氏”にとっては“通交関係・同盟関係”を結ぶ立場である筈の“織田信長”が“反毛利”の“浦上宗景”の後ろ盾となった事を意味し、明らかに敵対行為であった。

更に、凡そ1年後の翌1574年(天正2年)11月には“毛利方”として忠誠を尽くして来た“備中国・三村元親”が“三村氏”にとって“不倶戴天の敵”である“備前国・宇喜多直家”を“毛利氏”が支援する事を決めた為”毛利氏“からの離反を決め”織田信長“に与するという事態も重なった。この”三村元親“の”毛利氏“からの離反は、次項6-24項で詳述する”備中兵乱“(1574年末~1575年5月で三村氏が敗れ、備中松山城が陥落した)と呼ばれる”毛利氏・小早川隆景+宇喜多直家“連合軍と”三村元親“との戦闘と成り”備中国“の名門“三村氏”が滅亡する事に繋がる。

“備中兵乱”も含め、これ等一連の“山陽地域”に於ける“織田方”そして“毛利方”双方に関わる“領国境目問題”それに関わる戦闘に就いては“次項・6-24項”で詳述する。

“山陰地域”に於て“毛利氏”の頭を悩ませた“尼子再興運動”は尚も“織田信長・毛利氏”間の“通交関係・同盟関係”の行方に少なからず関わり乍ら燻り続けるのである。

”全国統一事業“に向かって”織田信長“の”西進“が続く事で、一方の”毛利方“の”東進“の動きに拠って”織田信長“に与する武将と”毛利氏“に与する武将間の”領国境目問題“が生じる事は避けられない。従って“毛利氏”と“織田信長”との間に結ばれた“通交関係・同盟関係”は、そうした武将間に生じた抗争からも亀裂を拡大させ、結果として“織田・毛利”間の“緊張関係”が増して行くのである。

“第2次・尼子再興運動”に止めを刺されて尚、諦めようとしない“山中鹿之助”率いる“尼子再興運動軍”は“織田信長”へ接近して行った。この動きも、当然の事乍ら”織田・毛利”間の“通交関係・同盟関係”破綻と結果的に無関係では無くなる。

こうした“毛利方”が抱えた“山陽地区”に於ける“領国境目問題”への対応の必要性が増した為“毛利軍”は“尼子再興軍”への総攻撃の手を緩め、主力部隊を“因幡国”から撤退させた。しかし”尼子再興軍“の唯一の拠点“若桜鬼ケ城“の周辺に多数の”付城“を築いての撤退であり、何時でも攻撃を再開出来る、油断の無い体制は維持していた。

“因幡国・若桜鬼ケ城”1ケ所だけに追い込まれ、崩壊の危機にある状態に変わりは無かった“山中鹿之助”率いる“尼子再興軍”に拠る“第2次・尼子再興運動”であったが、一時的にではあったが終焉の危機を免れたのである。

5-(8)―⑤:“尼子再興軍”は唯一の拠点“若桜鬼ケ城”からも退去する事態と成り、この結果“因幡国”からの撤退、つまり“第2次尼子再興運動”は失敗に帰した

1575年(天正3年)10月21日:

一時的に窮地を免れた“尼子再興軍”ではあったが、以前の勢いを回復するチャンスは訪れなかった。“反毛利”勢力の“三村元親”(備中松山城主・生年不詳・没:1575年6月2日)が“備中兵乱”(1575年5月備中松山城陥落)で滅亡し、又“毛利元就”の時代に“高田城”を奪われたが、その後“山中鹿之助”の支援で所領を奪回し、以後“尼子再興軍”を支援していた“美作国”(岡山県の一部)の“三浦貞広”も居城“高田城”を再び“毛利軍”に陥落させられ、1575年9月11日に事実上滅亡した。

この様に“尼子再興軍”にとって周囲の“反毛利”勢力が次々と敗れ去った事で“尼子再興軍”は“因幡国・若桜鬼ケ城”で孤立し、四面楚歌の状態と成っていた。

5-(8)-⑥:最終的に失敗に終わった“第2次・尼子再興運動“

1576年(天正4年)5月:織田信長・毛利氏の“同盟”破綻

“織田信長”方と“毛利氏”との間の“通交関係・同盟関係”は既述の“山陽地域”に於ける両者の“緊張状態”に加えて、1576年(天正4年)2月に“足利義昭”が“毛利領内・鞆”へ強引に“移座”するという歴史的決定打が放たれ、以後、両者の同盟は“破棄”され、以後6年間に亘る“戦闘”が開始されるのである。この6年間に就いては次項6-24項に亘って記述して行く。

“尼子再興軍”の件に戻るが“毛利方”の主力部隊は撤退したが“尼子再興軍”の唯一の拠点と成った“因幡国・若桜鬼ケ城“の周囲には”毛利方“の多数の”付城“が築かれ”毛利”軍は執拗に攻撃を続けていた。こうした”毛利”方の攻勢に“尼子再興運動”のリーダー“山中鹿之助”も遂に”因幡国・若桜鬼ケ城“からの撤退、つまり”因幡国“から去る事を決断した。

この事は”第2次尼子家再興運動“の終焉を意味した。しかし”山中鹿之助“率いる一団は尚も”尼子再興運動希望の灯“を”織田信長軍“傘下で燃やし続けるのである。

6:“中国地域の覇者・毛利氏”は“第2次・尼子再興運動”を封じ込め“織田方”の拠点と成った“上月城”の守城部隊として入っていた”山中鹿之助“率いる”尼子再興軍“を“第2次・上月城の戦い“で壊滅させた事で山陰地区の問題を解決し山陽地区の諸問題に対応して行く

“毛利氏”は“山陰地区”に於ける頭の痛い問題であった“第2次・尼子再興運動”を上記の様に封じ込めた事に拠って一応の解決を見た。しかし“尼子再興運動”を完全に壊滅させるのは“第2次・尼子再興運動”に失敗した“リーダー・山中鹿之助”以下が“第2次・上月城の戦い”(1578年4月18日~7月3日)で“毛利軍”に拠って殲滅される迄待つ事に成る。

これ等“第1次・上月城の戦い”並びに“第2次・上月城の戦い”に就いては“織田軍と毛利軍“との一連の戦闘の記述の中で、次項(6-24項)で詳しく記述する。概要だけを紹介すると“織田信長軍”の傘下に組み入れられた“山中鹿之助”以下の“尼子再興軍”は”羽柴秀吉“が”毛利氏“との”第一次上月城の戦い“で勝利し、奪った“上月城”の守城を任され入城する。“上月城”は、言わば“織田信長”軍と“毛利軍“との”領国・境界問題“の地であった。”毛利氏“を敵とし、守城を任された“山中鹿之助”以下の“尼子再興軍”は以後“上月城”を拠点に“第3次・尼子再興運動”を展開しようとしたとされる。

一方の“毛利氏”にとって“東進”の拠点である“上月城奪還”は重要であり、隙あらばと狙っていた。ここで“織田軍”の“羽柴秀吉”部隊に災難が襲い掛かる。次項(6-24項)で詳述するが“織田方”の“同盟者”で“三木城々主・別所長治”の寝返りである。

この緊急事態に“織田信長”は“上月城”は見捨てよとの命令を出し“山中鹿之助”以下“第3次・尼子再興軍“は支援も無く”毛利氏“の”上月城奪還“の大軍に攻撃され、奮戦空しく城は落ち“山中鹿之助”も討たれるのである。これが“第2次上月城の戦い”(1578年/天正6年/7月3日)と呼ばれる戦いであり、同時に“尼子再興運動”の終焉と成った。

“尼子再興運動”が滅亡した事に拠って“毛利氏”の“山陰地区支配”に於ける大きな悩みが解決した。“毛利氏”の“中国地域”に於ける“領土拡大”の動きは以後“山陽地区支配”に焦点が絞られて来る。

6-(1):”織田信長“が支援する”備前国・浦上宗景“の被官?(従属的同盟者?)の”宇喜多直家“が”毛利方“に与し、台頭した事で”浦上・宇喜多“の対立が生まれる。更にその”宇喜多氏“を”父の仇“とする“備中国・三村氏”が”毛利氏“と袂を別つ事態と成り”毛利氏“の”山陽地区支配“を不安定にする。この事が”織田信長“と”毛利氏“との間の”通交関係・同盟関係“が破綻して行く事へと繋がる

先ずは“備前国・浦上宗景”と彼の被官?(従属的同盟者?)“宇喜多直家“そして”毛利氏“に忠節を尽くして来た”備中国国人・三村氏“が絡む抗争から記述して行く。
以後の文に登場する山陽地区の地区、武将、城の名前等の理解の助に別掲図を参照されたい


6-(2):“反毛利“の急先鋒“備前国・浦上宗景”が被官?(従属的同盟者?)の“宇喜多直家”に命じて“備中国・三村家親”を暗殺させる

6-(2)-①:“備中国・三村家“に就いて

1561年(永禄4年):

“備中国”(岡山県の一部)では“守護・細川家”の威光が早くから衰え、国人層が台頭“三村家親”(生:1517年?・没:1566年2月5日)もその一人で、彼は“備中”の“国人領主“として初めて”尼子氏“と敵対する”毛利氏“を頼るという立場をとった。(他は尼子方に属する国人が多かった)

”三村家親“は”毛利元就”からの評価が極めて高く“毛利”氏の支援を得て“備中国”に於ける勢力を拡大して行った。結果、初めは“尼子氏”に属する“荘氏”と連携していた“三村家親”であったが、次第に“荘氏”との間に勢力争いが起り1561年(永禄4年。この年の大きな出来事としては長尾景虎が関東管領と成り上杉家を継いでいる)の戦いで“荘高資“を敗り“備中松山”に進出して“備中国”の中心勢力と成った。

“三村家親”は拠点を“鶴首城(成羽城)”から“備中・松山城”に移している。

6-(2)-②:“備前国”並びに“美作国”への侵攻を図った“三村家親”

1565年(永禄8年):
メモ:
この年の5月19日に京都二条御所で“室町幕府第13代将軍・足利義輝”が“三好義継・松永久通“等によって殺害された”永禄の変“(永禄の政変)が起きている。

“備中国・三村家親”は、更なる勢力拡大を図り“備前国”並びに“美作国”への侵攻を図り“美作・三星城“の”後藤勝元“を攻撃した。”後藤勝元“は”備前国・浦上宗景“の被官?(従属的同盟者?)”宇喜多直家“の娘婿であった。

”三星城“攻撃は”浦上宗景“並びに”宇喜多直家“が支援した為“三村家親”の攻撃は失敗に終わった。この軍事行動が“三村家親”にとって“運の尽き“と成る。後述する様に以後“策謀家・宇喜多直家”が大出世の階段を駆け上がる“三村氏滅亡への戦い”へと展開するのである。

6-(2)-③:“備前国・浦上家”では兄弟分裂が起こった

1551年(天文20年)・・“浦上家”が兄弟分裂を起こす

“備前国・浦上宗景”(生没年不詳)は1551年(天文20年)“尼子晴久”(生:1514年・没:1561年)の“備前国“侵攻に対して”尼子晴久“と与同した”兄・浦上政宗”(生年不詳・没:1564年1月)と対立し“毛利元就”と同盟した。

この事で“浦上家“は兄弟分裂状態と成った。(この年1551年には尾張国・戦国大名の織田信長の父親・織田信秀が没したとの説がある・しかし織田信秀の没年に就いては1549年説、1552年説もある・織田信秀の生年は1511年である)

6-(2)-④:弟“浦上宗景”が兄“浦上政宗”を敗り“備前国”の支配権を握る

1554年(天文23年)~1560年(永禄3年):

“兄弟分裂”は弟“浦上宗景”が1554年に“備前国・天神山城”を築き、旗揚げし“毛利氏本隊”並びに“毛利氏”に従う“備中国・三村家親”軍の援軍も得て勝利し、兄“浦上政宗”(生:1520年代?・没:1564年1月11日)勢力を“備前国・東部”から駆逐した。1560年(永禄3年)頃までに“弟・浦上宗景”は“備前国”の支配権を握ったとされる。

只、1560年(永禄3年・この年5月に織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を敗死させている)頃の時点では“毛利氏”の庇護下に置かれており、内政面でも“毛利氏”の介入を受けるという力関係であった。

6-(2)―⑤:10年以上続いた“兄弟分裂状態”を終息させた“浦上宗景”

1563年(永禄6年)5月:

“美作国”へと勢力を伸ばす“三村家親”とは同じ“毛利”氏と同盟するという点では“浦上宗景”も同じ立場であった。又“兄弟分裂”の際“尼子氏”と同盟した“兄・浦上政宗”との戦いの際には“毛利元就”に従う“三村家親”率いる“備中衆”の援軍を得て勝利したという関係でもあった。

そうした“三村家親”との関係ではあったが“三村家親”が“美作国“で勢力を伸ばすに従って“浦上宗景”との間に軋轢が生じ始めていた。こうした状況下、敵を多く抱える“浦上宗景”としては、弱体化したとは言え“備前国”で力を持つ“兄・浦上政宗”との10年以上に亘った対立関係に終止符を打つ事が得策と考え“和睦”を成立させたのである。

メモ:この時期の“徳川家康”

“徳川家康”は彼の“三大危機”(①三河一向一揆②三方ヶ原の戦い③伊賀越え)と称される中の“三河一向一揆”が蜂起し、戦いが1563年~1564年春にかけて、半年間程続いた。この一向一揆には“本田正信”はじめ、多くの家康家臣が“一向一揆側”に付き“徳川家康”にとって“宗教勢力”の恐ろしさをマザマザと見せつけられる事態となった。

1564年(永禄7年)1月15日の“馬頭原合戦”で“徳川家康”方が優位に立った事で、春には和議が整ったという歴史的出来事である。又、翌年1565年(永禄8年)7月に“松平元康”は“今川氏真”と絶交し“徳川家康”に改名している。

6-(2)―⑥:“毛利”氏と断交し“戦国大名”としての道を歩み始めた“浦上宗景”

~1563年12月迄:

“浦上宗景”は内政への介入を行う“毛利氏”との断交を決断し1563年(永禄6年)12月迄には戦国大名としての道を歩み始めたとされる。

6-(2)-⑦:“兄・浦上政宗“並びにその嫡男”浦上清宗“が”赤松政秀“(赤松晴政説もあり)に殺害される

1564年(永禄7年)1月11日:

兄“浦上政宗”(生:1520年代?・没:1564年1月11日)が“常山城“(つねやまじょう・岡山市南区迫川と玉野市宇藤木・用吉・木目にまたがる標高300mの常山山頂の城・築城1469年~1486年・廃城1603年)で息子“浦上清宗”と“黒田職隆”(くろだもとたか=小寺職隆・黒田官兵衛の父親・播磨守護赤松氏重臣小寺政職の家臣・生:1524年・没:1585年)の娘(従って黒田官兵衛の妹)との婚礼の最中“赤松政秀”(赤松晴政説も)の奇襲を受け、父子共に戦死するという事件が起こった。

6-(2)-⑧:“浦上宗景”と“宇喜多直家”の関係

1559年(永禄2年)~1562年(永禄5年):

“宇喜多直家“(生:1529年・没:1581年)は策謀に長けた人物として知られる。舅で”沼城“の城主”中山勝政”(生年不詳・没:1559年?)を誅殺し、以後“備前国・沼城”を預かり、自分の拠城とした。この他にも祖父“宇喜多能家“の復讐を果たす為”島村盛実“を暗殺した件、更には”龍ノ口城主・穝所元常“を殺害した話も伝わる。(穝所元常殺害の件は後の研究で毛利家に拠る暗殺だという事が明らかになっている)

こうした事から“江戸時代初期”に書かれた“小瀬甫庵・太閤記”では“斎藤道三・松永久秀”と並んで“梟雄”の悪名を被せられた人物である。いずれにせよ“宇喜多直家”と“浦上宗景”との関係は“浦上宗景”の直接の被官という説もあるが、傘下の国衆、つまり“従属的同盟者”であったとする説が今日の主流である。

上記“中山勝政誅殺事件”の背景も“備前国”を完全に影響下に置こうとした“備前・浦上宗景”にとって“沼城城主・中山勝政”は邪魔な存在であった事から1559年~1562年の間に被官?(従属的同盟者?)の“宇喜多直家”に命じて殺害させたのが史実とされる。

既述の様に“備中国・三村家親”は更なる勢力拡大の為“備前国”並びに“美作国”への侵攻を行い“美作国“では”三星城“等”宇喜多直家“の諸城を攻撃した。ところが“三星城”の城主は”後藤勝元“であり”後藤勝元“は”浦上宗景“の被官(従属的同盟者?)”宇喜多直家“の娘婿という関係であった。この事が”三村家親“にとって”大不運”の始まりと成った。“三村家親”が“三星城“を攻撃した事に対して娘婿が攻撃された”宇喜多直家“は当然の事乍ら”後藤勝元“の支援をした。そして”宇喜多直家“の主君?(従属的同盟相手?)の“浦上宗景”も同じく“後藤勝元”を支援した。この為“三村家親”の“美作国諸城攻撃”は失敗に終わったのである。

6-(2)-⑨:“備前国・浦上宗景”が被官?(従属的同盟者?)の”宇喜多直家“に”備中国・三村家親“の暗殺を命じた

1565年(永禄8年):

”備中・三村家親“は“弟・浦上宗景”が“兄・浦上政宗”と戦った際には“弟・浦上宗景”を支援するという関係であった。

しかし“備中・三村家親”はその後、1565年(永禄8年)には”備前国・美作国“へ侵攻を行い”美作国“の”三星城城主・後藤勝元“を攻撃し、更には“浦上宗景”の被官?(従属的同盟者?)である“宇喜多直家”に属する諸城を攻撃した。この際“浦上宗景”並びに彼の被官?(従属的同盟者?)・宇喜多直家“が救援に入った事で”備中・三村家親“の侵攻が失敗に終わった事は上述の通りである。

こうした“備中・三村家親”の動きを食い止める為“備前国・浦上宗景”は彼の被官?(従属的同盟者?)“宇喜多直家”を使って“三村家親”の排除を考えたのである。

6-(2)-⑩:“浦上宗景”に“三村家親”の排除を命じられた被官?(従属的同盟者?)の“宇喜多直家”は部下に命じて火縄銃を用いて“備中国・三村家親”の暗殺を実行した

1566年(永禄9年)2月5日:

“浦上宗景”の命を受けた“宇喜多直家”は、自分にとっても敵対関係にある“備中国・三村家親”を火縄銃の扱いに長け、且つ“三村家親”の顔を見知っていた“遠藤秀清”(宇喜多家家臣・後に浮田家久に改名する・生年不詳・没:1604年8月21日)と“遠藤俊通”(生:1533年?・没:1619年)兄弟を刺客に命じ“美作国・興善寺“で重臣一同と評議中だった”三村家親“を火縄銃で襲わせ謀殺した。

メモ:
”鉄砲”に拠る暗殺は、当時としても珍しく“日本史上初”とされる。2番目の例としては、前項で紹介した有名な“杉谷善住坊”(生年不詳・没:1573年/天正元年/9月10日・彼は鋸引きの刑に処せられた・1978年のNHK大河ドラマ・黄金の日々・で俳優川谷拓三が鋸で処刑される場面を演じている)がこの事件の4年後の1570年(元亀元年)に“織田信長”を火縄銃で暗殺しようとして失敗した事件がある。

6-(3):父親を暗殺された“三村元親”は仇討ちとして“明善寺合戦”(明善寺崩れ)を起こす。しかし“三村元親”は返り討ちにされ、この結果“備中・三村家”は威光を失い、没落する事と成る。逆に“浦上宗景”の被官?(従属的同盟者?)“宇喜多直家”の見事な戦闘ぶりが彼の名を世に知らしめる結果と成った

1567年(永禄10年)7月:

“三村家親”が暗殺された後の家督は“長兄・元祐”が既に“備中荘氏”の養子と成っていた(生年不詳・没:1571年9月4日説)為、次男の“三村元親”(生年不詳・没:1575年6月2日)が引き継いでいた。

前年の1566年(永禄9年)2月5日に“宇喜多直家”の家臣に拠って狙撃され殺された“父親の仇“を取るべく“三村元親”は“宇喜多直家”への復讐戦“明善寺合戦“に臨んだのである。

“明善寺城“は”宇喜多直家“が”備前国“に於ける支配領域拡大を図る為に”明善寺山“(備前国・上道郡沢田村=現岡山県岡山市中区沢田)に築いた城で軍隊を駐屯させていた。合戦に於ける戦力に就いては諸説があるが“三村元親”軍は20,000兵の大軍だったのに対して一方の“宇喜多直家”側は僅か5000兵程であった。

6-(3)-①:“明善寺合戦”の戦況

戦いは“三村元親”軍が“明善寺城”に夜襲を掛けた事で勃発した。不意打ちされた“宇喜多直家”軍は50~60人の守備兵が討たれた為“明善寺城”から撤退し、城は一端“三村元親“軍の手に落ちた。そして“三村元親”は奪取した“明善寺城”に“根矢与七郎”と“薬師寺弥七郎”を責任者とし、更に兵150人を預け守備をさせたのである。

“明善寺城”が“三村元親“方に拠って陥落したとの報を”備前・亀山城“(沼城とも称す・別掲図:織田信長が毛利氏との同盟破綻に至った山陽地域勢力図・・で位置関係確認方)で受けた“宇喜多直家”は謀計を巡らせた。“岡山城主・金光宗高”並びに“中島城主・中島元行”そして“船山城主・須々木豊前守”を寝返らせる策に出たのである。結果、見事に彼の策は成功し彼等は寝返った。

“宇喜多直家”方に寝返った“岡山城主・金光宗高”並びに“中島城主・中島元行”そして“船山城主・須々木豊前守”に就いてであるが、2年前の1565年(永禄8年)に“三村元親”の父親”備中国・三村家親“が”毛利元就“を後盾に”備前国“に進攻し、彼等を降伏させ、支配下に置き、本拠地”備中国のほゞ全域“に加えて”備前国“の一部を勢力下に収めたという経緯があった。この為彼等には“三村氏に対する基本的な恨みがある筈”と読み“宇喜多直家”は彼らが再び寝返る素地がある事を見抜いた上で、調略策を用い、寝返りを成功させたのである。

結果”三村元親“方が守備兵だけで守る”明善寺城“は”宇喜多直家“方に寝返った”諸城“に囲まれる形と成り、孤立した。

“宇喜多直家”は降伏勧告の使者を“根矢与七郎”と“薬師寺弥七郎”が守備隊として守る“明善寺城”に遣わし、無血開城を呼び掛けた。しかし”岡山城主・金光宗高“と”中島城主・中島元行“更には“船山城主・須々木行連“が”宇喜多直家“方に寝返った事を信じない”明善寺城“側は“宇喜多直家”が出した降伏勧告を拒否し”備中・松山城主・三村元親”に“明善寺城”への救援を要請する使者を送ったのである。

この事は“備中・松山城”から“三村元親”を誘き寄せる策を考えていた“宇喜多直家”の思惑がズバリ的中した事を意味した。“宇喜多直家”の思惑通り”三村元親“は10,000余兵を率いて”明善寺城“を救援する為”備中・松山城“から出陣した。

これに対して”宇喜多直家“は5,000兵で本拠地の”備前・沼城“から出発した。(位置関係は再度別掲図を参照願いたい)

“明善寺城”を守備する“根矢与七郎”並びに“薬師寺弥七郎”の守備隊と協力して“宇喜多直家”軍を挟撃するという“三村元親”の戦略は“明善寺城”を孤立化させる作戦を速攻で行なった“宇喜多直家”軍の動きに見事に裏をかかれる結果と成った。“根矢与七郎”と“薬師寺弥七郎”が僅か150兵で守備する“明善寺城”は早々と陥落しており“明善寺城”の守備隊と協力して“宇喜多直家”軍を挟撃するという“三村元親”の作戦は完全に失敗したのである。

戦闘の詳細は省略するが、結果は少数兵の“宇喜多直家”軍に大軍の“三村元親”軍が大敗するという有様と成った。不様な敗戦の結果“三村”家中の者が“宇喜多”方へ寝返る等“備中・三村家”が威光を失墜した戦いと成り“三村元親”が意図した“復讐戦”は皮肉にも“三村家”の没落へと繋がった。逆に“宇喜多直家”は、武将としての見事な手腕を世に知らしめる結果と成った。多勢だった“三村元親”軍が総崩れに成った事から“明善寺崩れ”とも呼ばれる。

6-(3)-②:“明善寺合戦”の纏め

年月日:1567年(永禄10年)7月
場所:備前国上道郡沢田村(岡山県岡山市中区沢田)
結果:浦上氏の被官?(従属的同盟者?)の“宇喜多直家”の活躍で“三村元親”が“備前国”から追われ“宇喜多直家”が以後“戦国大名”としての地歩を固める戦いと成った
        【交戦戦力】
浦上氏
        【指導者・指揮官】
宇喜多直家
松田元堅
伊賀久隆
        【戦力】
5000余兵
        【損害】
不明
        【交戦戦力】
三村氏
        【指導者・指揮官】
三村元親
石川久智

        【戦力】
20,000兵(10,000兵説等諸説あり)
        【損害】
不明

6-(4):“明善寺合戦”に勝利し、名声を得た“宇喜多直家”は“浦上宗景”家中での発言力を強めたばかりで無く“独立性”を確保した。そして“備前国”に於ける“戦国大名”としての地位を確立して行く

“宇喜多直家”にとって最大の対抗勢力であった“三村氏”を“備前国・西域”から撃退し、又“三村氏”を支援していた“毛利氏”も撃退した結果、一躍その名を世の中に知らしめ“備前国・浦上宗景”の被官?(従属的同盟者?)の立場に過ぎなかった“宇喜多直家”は“浦上家中”に於ける発言力独立性を確保した。

“明善寺合戦”の勝利によって“鉄砲鍛冶場”として有数の“福岡”(岡山県瀬戸内市長船町福岡)地区を握った事も“宇喜多直家”が“備前国”に於いて“戦国大名”としての地位を確立して行く為の有利なスタート台と成ったのである。

6-(5):一方そうした彼の被官?(従属的同盟者?)“宇喜多直家”の働きによって“浦上宗景”も“備前国全域” 並びに”美作国“にも版図を広げる事が出来た。一方“浦上宗景”は被官?(従属的同盟者)“宇喜多直家”を牽制する事も忘れず、その策として“領内統治”に対して制限を掛けた。この事は両者間に軋轢を生じさせ、関係は益々微妙なものに成って来た

6-(5)-①:“宇喜多直家“に劣らず野心的であった”浦上宗景“

1567年(永禄10年)5月18日:

“浦上宗景”は、1563年(永禄6年)12月迄には“毛利氏”と断交し、戦国大名としての道を歩み始めていた事は既述の通りである。(同時期に美濃国・三河地域では1562年1月に織田信長と松平元康/後の徳川家康/の同盟が成っている)

“浦上宗景”も“宇喜多直家”に劣らず野心家であり、1567年(永禄10年)5月18日には“浦上惣領家・浦上政宗”の子で甥の“浦上誠宗”(うらがみなりむね・生年不詳・没:1567年5月18日)を家臣の“江見河原”に命じて暗殺させている。

6-(5)-②:“備前国全域“並びに”美作国“に版図を広げた”浦上宗景“だが、その事に功績があったのは“宇喜多直家”であった

上記の様に被官?(従属的同盟者?)の“宇喜多直家”の活躍もあって “三村元親“のみならず”三村元親“を支援した”毛利氏“を“備前国西域”から撃退する事で“浦上宗景”は版図を拡げる事に成った。更に“宇喜多直家”は13代235年続いた“備前国名門・松田氏宗家“も滅ぼしている。

1568年(永禄11年)7月5日:

“浦上宗景”の被官?(従属的同盟者?)“宇喜多直家”は“姻戚関係”にあった“備前国・金川城主”(岡山県岡山市北区御津金川)の“松田元輝”(松田元輝嫡子、松田元賢に宇喜多直家は娘を嫁がせている・生年不詳・没:1568年7月5日)並びに“松田元賢”父子を1年前の“明善寺合戦”の際に援軍を出さなかった事を理由に討伐軍を起こし滅ぼしている。

メモ:
この戦で“松田元輝”は“備前国・虎倉城城主”の“伊賀久隆”の寝返りに遭っている。これを策したのも“宇喜多直家”であった。“松田元輝”は“金川城”を包囲され、寝返った味方の“伊賀久隆”勢による鉄砲隊に拠って狙撃され櫓から落下し討ち死した。嫡男“松田元賢”も討たれ、13代235年続いた“備前国・松田氏”の宗家は滅亡したのである。

6-(5)-③:拠点を“備前国・沼城(亀山城)”から“備前国・旧石山城”に移した“宇喜多直家“・・現在の”岡山城”は子息の“宇喜多秀家”が築城

1570年(元亀元年):

“備前国”全体を領有し“岡山”の地に城下町を建設するという野望を抱いていた“宇喜多直家“は、“明善寺合戦”に勝利した事で、嘗ての戦闘で”備中・三村氏“の指揮下に心成らずも置かれていた“備前・石山城主”の“金光宗高”(生年不詳・没:1570年)を自分の指揮下に置いた。

策謀家で知られる“宇喜多直家”は今度は指揮下に置いた“金光宗高”に対して“毛利氏”と内通しているとの言い掛かりをつけ“石山城”を明け渡させた上に切腹させたのである。その際“金光宗高”を切腹させる代わりに、彼の子息二人“金光文右衛門”と“金光太郎右衛門”夫々に900石、400石の所領を与える約定を与えた事が伝わる。

こうして“石山城”を手に入れた“宇喜多直家”は自らの居城として、城の大改修に着手し、当時石山にあった“岡山神社・今村宮・岡山寺・蓮昌寺“等の社寺を城外に移転する等の城の大幅拡張を行った。そして3年後の1573年に拠点を”沼城“(備前・亀山城)から改修し終えた”岡山城“(旧石山城)に移し”備前国・中原“への進出を果たしたのである。

6-(5)-④:こうした目覚ましい被官?(従属的同盟者?)“宇喜多直家”に対して“領内統治”に制限を掛け、牽制した“浦上宗景”

この様に“宇喜多直家”は“備前国“に於ける名家を次々と没落させ、その所領を自身の知行とする事で勢力を拡大し“浦上家中”で随一の実力者に伸し上がった。結果“浦上宗景”の被官?(従属的同盟者?)という立場であった“宇喜多直家”と“浦上宗景”との関係に軋轢も生じ始め、対立を含めた微妙な関係へと変化して行った。

自己の勢力を伸ばし続ける被官?(従属的同盟者?)“宇喜多直家”に対して“浦上宗景”も手をこまねいていた訳では無かった。”宇喜多直家“の領地の水運等、重要な拠点に”浦上宗景“の直轄地を多く設け、そこに”代官“を派遣する等の策を用いて“宇喜多直家”の領内統治に制限を掛けたのである。

“美作国“に対して”浦上宗景“が行った”領土拡大の動き“に対しては”沼本氏・菅納氏“等、在地の国人にそのまま統治を行わせた。この為“宇喜多直家”に与えられた所領は“西備前周辺”程度に留まっていたと伝わる。

しかし上記した13代235年続いた“備前国名門・松田氏宗家“を滅亡(1568年7月5日)させたケースでは“宇喜多直家”は“松田氏“の旧領の一部を自領として取り込んだばかりか”松田氏家臣“も取り込んだ。このケースの様に”浦上宗景“の制限、牽制策にも拘わらず”宇喜多直家“は着々と“備前国”に於ける勢力拡大を実現して行った。こうした結果、両者の間の確執は最早、修復が出来ない程の状態に成って行った。

7:“播磨国守護・赤松宗家・塩置城主・赤松義祐”と”西播磨守護代・龍野城主・赤松政秀“との戦い・・“青山・土器山の戦い“は”宇喜多直家“が”浦上宗景“から第1回目の離反をした戦いである

“青山・土器山の戦い“(あおやま・かわらけのたたかい)は”播磨国“で起った”西播磨守護代・龍野城主・赤松政秀“と“播磨国守護・赤松宗家・塩置城主・赤松義祐”の戦闘である。しかし、実際の戦闘は“赤松政秀”と“赤松義祐・家臣”で“播磨国姫路城主・黒田氏”との戦闘として記録される。

7-(1):“青山・土器山の戦い”と、その背後にいた“浦上宗景”そして“織田信長”等の勢力

“青山・土器山の戦い”自体は“龍野城主・赤松政秀”と“播磨守護・赤松宗家・播磨置塩城主・赤松義祐”との“闘争をベースに“赤松政秀”軍と“赤松義祐家臣・黒田”軍との間の小規模な戦闘であった。しかし、その背後には下表に示す様に“黒田軍”に与した“浦上宗景“そして”龍野・赤松政秀“に与した”織田信長“そしてその”織田方“に与する形で ”宇喜多直家“が絡むものであった。

        =“青山・土器山の戦い”の戦闘メンバーとその背後に関わった勢力=

        【交戦戦力】

龍野赤松軍

        【指導者・指揮官】

赤松政秀









            【背後で絡んでいた勢力】
・足利義昭

・織田信長
・摂津国衆
・東播磨国衆
・別所安治
宇喜多直家


        【交戦戦力】

黒田軍(播磨国守・赤松宗家・赤松義祐軍)

        【指導者・指揮官】

・黒田職隆(播磨・姫路城城代・官兵衛父親・小寺政職の部下・職隆の娘と浦上清宗の婚姻の当日浦上政宗・清宗が赤松政秀に奇襲を受け殺された事は既述)
・黒田孝高(職隆の嫡子・通称黒田官兵衛)
・三木通秋(黒田官兵衛の叔父・播磨国・英賀城主)


        【背後で絡んでいた勢力】
・小寺政職(播磨御着城主・赤松宗家・赤松義祐の家臣
浦上宗景


7-(2):“将軍・足利義昭”に接近した“龍野城主・赤松政秀”

1569年(永禄12年)2月:

“龍野城主・赤松政秀”(生:1510年・没:1570年11月12日)は1568年9月7日に“織田信長”が“足利義昭”を擁立して上洛する前の1567年(永禄10年)に“足利義昭“から支援要請が来ており、以後、両者は諠(よしみ=親しいつきあい)を通ずる仲であった。

“赤松政秀”は“足利義昭”が“織田信長”と共に上洛した後は“足利義昭+織田信長“勢力と同盟関係を結び、取り分け”足利義昭“との結びつきを深めるべく、自身の娘を“足利義昭″付きの侍女として側仕えさせる為に“京”へと向かわせる(1569年2月)動きをする等“西播磨”で侮り難い勢力であった。

しかしこうした動きを危惧した“播磨守護・赤松宗家・赤松義祐”は家臣の“御着城主・小寺政職”(こでらまさもと・生:1529年・没:1584年)に命じて“龍野城主・赤松政秀”が“京”へと向かわせた娘の身柄を拘束させるという手段に出た。しかし、結果的に“龍野城主・赤松政秀”の娘は無事に“京”の“将軍足利義昭”の許に送り届けられた。

7-(3):“龍野城主・赤松政秀”の討伐を図った“播磨国守護・赤松宗家・赤松義祐”・・“青山・土器山の戦い”

こうした“龍野城主・赤松政秀”の動きを“播磨守護・赤松宗家・赤松義祐”は“赤松政秀”が“播磨守護職”を簒奪しようと“将軍・足利義昭”に近づいているものとして“備前・浦上宗景”に支援を頼み“龍野城主・赤松政秀”を挟撃して討ち果たす事を図った。これが“青山・土器山の戦い”の背景である。

両”赤松家“が、夫々、どの勢力と組んだかは上表の通りである。要は“播磨守護・赤松宗家・赤松義祐”は家臣で“御着城主・小寺政職”に命じて“備前・浦上宗景”の支援を頼み“赤松政秀”方への攻撃を図った。それに対抗すべく“龍野城主・赤松政秀”は“将軍足利義昭”を擁立し、上洛を果たしたばかりの“織田信長”に支援の為の“播磨出兵”を要請したという組み合わせである。

“織田信長”は“龍野城主・赤松政秀”の要請に応えて“摂津国衆”を中心とした軍団に加えて“東播磨軍団”(別所安治・別所重宗・明石祐行)を送り込んだ。“東播磨軍団”は“播磨国守護・赤松宗家・赤松義祐”(播磨国・置塩城主・生:1537年・没:1576年2月15日)領に攻め込み、戦闘となった。

7-(4):開戦・・青山の戦いの戦況

1569年(永禄12年)5月:

“赤松政秀”方は3000の兵で出陣、一方の“赤松義祐”方は“黒田軍”が主体として戦ったのだが“主君”に当たる“小寺政職“が殆どの兵を”置塩城“に入れ”播磨国守護・播磨置塩城主・赤松宗家・赤松義祐”と共に籠城してしまった為、動員出来た兵数は僅か300人程度であった。

この為、戦況優勢と判断した“播磨国龍野城主・赤松政秀”軍は敵方“黒田政職”並びに嫡子“黒田孝高”(=黒田官兵衛・生:1546年・没:1604年)軍が僅か300の兵で守る“姫路城”を3000の兵で目指し進軍した。“青山の戦い”が始まったのである。

尚“赤松政秀”軍3000兵の中には“織田信長”が送り込んだ“摂津国衆軍”そして“摂津・池田家当主・池田勝正”軍、そして“別所安治・別所重宗・明石祐行”等の“東播磨軍団”が含まれている。

7-(4)-①:“赤松義祐”軍(実態は黒田軍が主)が頼みとした“浦上宗景”が“備前国”に急遽戻ってしまう

“織田信長”が送り込んだ“池田勝正・別所安治”等の軍勢に悩んだ“播磨国守護・置塩城主・赤松宗家・赤松義祐”が支援部隊として“浦上宗景”に頼っていた事は上表の通りである。しかし“浦上宗景“の“被官?”(従属的同盟者?)の“宇喜多直家”が自分から離反し、敵方“龍野城主・赤松政秀”方として戦闘に加わった事を知った“浦上宗景”は対応の為、急遽“備前国”に戻って了ったのである。

“浦上宗景“が”備前“に戻って了った為、援軍の当てが外れた”赤松宗家・播磨置塩城主・赤松義祐”軍は家臣の“御着城主・小寺政職”と共に“織田信長”が派遣した“池田勝正”(摂津国池田城主)並びに“別所安治”(別所長治の父親・生:1532年・没:1570年)更には“播磨国最大の国人・別所重宗”(弟の別所吉親とは異なり羽柴秀吉に与した・生年不詳・没:1591年)等の勢力を相手に苦しい状況に陥った。

“浦上宗景”軍の支援が得られない状況と成った”赤松宗家・播磨置塩城主・赤松義祐”軍が“龍野城主・赤松政秀軍”との比較に於いて戦力上の劣勢は明らかで“庄山城”並びに“高砂城”を次々と落され、忽ちの中に窮地に立たされた。“赤松宗家・播磨置塩城主・赤松義祐”は家臣“小寺政職”と共に拠点の“置塩城”(姫路市夢前町宮置)に籠り、ひたすら“織田信長”が派遣した“池田勝正”並びに“別所安治・別所重宗”軍の攻撃に耐えたのである。

7-(4)-②:劣勢にあった“赤松義祐”軍が持ち堪えられたのは“黒田孝高”(=黒田官兵衛)の活躍であった

”黒田軍“は”姫路城“(当時は今日の様な大城郭ではなく3層の天守閣が築かれたのは黒田孝高=黒田官兵衛が羽柴秀吉に城を献上した1580年~1581年である。更に1601年からは池田輝政が大改修を行い1609年に5重7階の連立式天守が完成した)での籠城策はとらなかった。

1569年(永禄12年)8月9日:

”黒田軍“は”黒田孝高“(黒田官兵衛)率いる僅か150兵軍が先鋒を務め“姫路・置塩城“から駆け付けた父親“黒田職隆”軍が殿(しんがり)という布陣で8月9日の夜に“小丸山”の敵方“赤松政秀”軍を強襲するという野戦を仕掛けた。

この奇襲戦術が奏功し“赤松政秀”軍は撤退した。(尚、金子堅太郎著の黒田如水伝では1569年の5月と6月の2度に亘って攻撃があったと記し、小寺政職家中記には8月9日と書かれている)尚この時“黒田孝高”(=黒田官兵衛)は23歳で、これが初陣だったとの説もある。

7-(5):土器山の戦い(かわらけやま)・・兵力的に劣勢の“赤松義祐軍”であったが“黒田父子”の働きで窮地を脱する

3000の兵を率いた“赤松政秀軍”は“小丸山”に布陣し、一方の“黒田軍”は“土器山”に陣を張った。戦闘は“土器山”の裾野の“土器坂”で“赤松政秀”軍の夜襲から始まった。

“黒田孝高(黒田官兵衛)“軍は僅か150兵で戦い”叔父・井手友氏“(父親・黒田職隆の実弟)そして“黒田家家臣・母里小兵衛”(もりこへえ・生年不詳・没:1569年)更に一族を失う等、窮地に陥入る戦いと成った。しかし、夜明けには“三木通秋”(播磨・英賀城主)が280兵を率いて“赤松政秀”軍を南から攻撃し、更に父親の“黒田職隆(姫路城城代)”も姫路から出撃して“赤松政秀”軍の背後を突いた。この為“黒田軍”は甚大な被害を被り乍らも持ち堪えていた。

7-(5)-①:支援軍に頼る軍の脆弱さが典型的に表れた戦であった。何と、今度は“織田信長”からの支援軍が急遽“畿内”に戻れとの“織田信長”の命令で引き揚げた為“龍野城主・赤松政秀”側が窮地に陥り“赤松宗家・播磨置塩城主・赤松義祐”軍が窮地を脱した

1569年(永禄12年)9月:

苦しい劣勢が続いた“播磨国守護・赤松宗家・播磨置塩城主・赤松義祐”軍にとって幸運が舞い込んだ。“織田信長”が支援に送り込み“赤松宗家・播磨置塩城主・赤松義祐”軍を“置塩城”に囲み攻撃していた“池田勝正”等の“摂津衆”並びに“別所安治・別所重宗”軍に“畿内に戻れ”との命令が“織田信長”から下ったのである。

この結果“織田信長”から支援軍として送られていた“池田・別所軍”等が早々と“播磨国”から畿内に戻され、撤兵した為、兵力的には劣勢だった“赤松義祐”方が一挙に劣勢を挽 回した。

7-(5)-②:“織田信長”からの支援軍が急遽“織田信長”からの命令で“畿内”へ引き揚げた事で今度は一変して“赤松政秀”軍が劣勢と成る

1569年(永禄12年)11月12日:

“織田”方の支援軍が引き揚げた事で劣勢を挽回した“黒田軍”は“小丸山”に布陣した“赤松政秀”軍を今度は逆に夜襲で強襲した。既に先の攻撃で甚大な被害を与えた“黒田軍”が夜襲反撃をして来る事を予想していなかった“赤松政秀”軍は大混乱に陥り敗走した。“赤松政秀”軍の“衛藤忠家”そして“播磨・島津蔵人”並びに4人の弟達が討ち死にした。こうした“赤松義祐軍”が劣勢から優勢に転じた戦況を見た“浦上宗景”も“赤松政秀討伐”の好機と判断し“龍野・赤松領”に侵攻した。

以上の様に紆余曲折を経て“青山・土器山の戦い”は結果“赤松義祐”(実態は黒田軍)方の勝利に終わったのである。

7-(6):戦国の習いである“寝返り策”を労して“織田信長”に近づき、結果“龍野城主・赤松政秀“を滅ぼした”播磨国守護・赤松宗家・播磨置塩城主・赤松義祐“

“織田信長”方からの支援軍が急遽“畿内”へ引き揚げ“置塩城包囲”の窮状から脱した“播磨守護・赤松宗家・播磨置塩城主・赤松義祐”とその“家臣・小寺政職”軍であった。

この状況に“赤松義祐”は敵方の背後に居た“織田信長”へ接近する策が得策だとして乗り換えたのである。

具体的には“臣従の証”として“赤松義祐”は自身の嫡男“赤松則房”(赤松氏13代当主・生:1559年・没:1598年7月17日)を自軍の支援部隊として頼んだ“浦上宗景”軍と対峙させるべく出陣させたのである。この行為は、言うまでも無く“浦上宗景”を裏切るものであった。

しかし“浦上宗景”は、自身は“播磨守護・赤松宗家・播磨置塩城主・赤松義祐”を支援する立場であった事から“織田信長”に近づく為の策である事を理解し“赤松義祐”の行動を責める事はしなかったと伝わる。又、父の命で“浦上宗景”軍と対峙すべく出陣した“赤松則房“としても”浦上宗景“と交戦する意図も無かったと伝わる。戦国時代の”駆け引き“の事例である。

7-(7):“青山・土器山の戦い“の纏め

年月日・・1569年(永禄12年)5月~6月(小寺政職家中記には8月9日との記録)
場所・・播磨国
結果・・“播磨守護・赤松宗家・赤松義祐”方が“黒田職隆”(くろだもとたか・播磨国守護の赤松宗家重臣・小寺政職の家臣・黒田官兵衛の父)そして“黒田孝高”(=黒田官兵衛)父子の働きで勝利する。与した“浦上宗景”も“赤松政秀”降伏に功を挙げた

        【交戦戦力】
龍野城主・赤松政秀軍

        【指導者・指揮官】
赤松政秀




        【戦力】
約3,000兵



        【損害】
黒田軍のまさかの夜襲反撃を受け
衛藤忠家
島津蔵人並びに4人の兄弟他数百兵が討ち死し敗走する
 
        【交戦戦力】
黒田軍(播磨国守・赤松宗家・赤松義祐軍)

        【指導者・指揮官】
黒田職隆(姫路城城代)
黒田孝高(職隆の子息・通称黒田官兵衛)
三木通秋(播磨・英賀城主)
浦上宗景・・赤松義祐軍の支援部隊

        【戦力】
黒田軍:約300兵
三木通秋軍:約280兵
浦上宗景軍:不明

        【損害】
井手友氏(黒田職隆の実弟)
母里一族等死傷者 287人



8:“龍野城主・赤松政秀”に止めを刺した“浦上宗景”は、その後“西播磨”の覇権を握った

“織田信長”からの支援軍が畿内に引き揚げた為、自軍に勝ち目が無いと悟った”龍野城主・赤松政秀”は“浦上宗景”軍に降伏する形と成った。“浦上宗景”は“龍野城”を手中に収めると同時に“西播磨国“に於ける覇権を握ったのである。(別掲図:織田信長が毛利氏との同盟破綻に至った山陽地域勢力図を参照方)

尚“龍野赤松・赤松政秀”は1570年11月12日に“浦上宗景”の手の者によって毒殺されたと伝わる。

9:“浦上宗景”は今回、被官?(従属的同盟者?)の“宇喜多直家”が敵側“織田方”に与するという離反行為をしたが、結果としてそれを許した理由

“足利義昭+織田信長”軍は未だ“畿内”での統率も固まらなかった状況下“第一次越前国侵攻”( 1570年4月20日~4月28日)の進軍を行い、結果“織田信長”自身が既述の“金ケ崎退口”という“九死に一生”を得る事態に陥った事は6-21項61-4で記述した通りである。

“青山・土器山の戦い”の戦況が急激に変化したのは先ずは“播磨国守護・播磨国置塩城主・赤松宗家・赤松義祐”が支援を依頼した“浦上宗景”サイドで、彼の“被官?”(従属的同盟者?)である“宇喜多直家”が敵方“龍野城主・赤松政秀”方に与する事態と成った事で“浦上宗景”が急遽“備前国”に戻らねばならない事態となった事、結果“浦上宗景”の支援を頼んでいた“赤松義祐”方が窮地に陥った事は既述の通りである。

一方“浦上宗景”を離反した“宇喜多直家”にとって思わぬ事態が発生した。それは、味方の“織田信長”から派遣されていた支援軍が“織田信長”の命令で急遽“畿内”に戻る事と成り“宇喜多直家”としては“浦上宗景”から離反してまで与した“赤松政秀”方が突如劣勢に成った。最終的には“浦上宗景”軍が駄目押しの“龍野・赤松領”侵攻を行い“龍野城主・赤松政秀”方を敗り、結果“浦上宗景”は“西播磨”の覇権を握ったのである。

こうした展開は“宇喜多直家”にとっては完全にあてが外れた最悪の結果と成り“備前国”で孤立状態と成った。

9-(1):何故“浦上宗景”は離反した“宇喜多直家”を許したのか

この時点の“浦上宗景”は“反・足利義昭+織田信長”の立場であり、且つ“反・毛利”の姿勢でもあった。“青山・土器山の戦い“で勝利した“浦上宗景”としては、離反した“宇喜多直家”の処分を行うのが当然であったが“反・毛利”の立場で共闘する“尼子再興軍”の“尼子勝久”とも協議し、結果“宇喜多直家”の離反の罪を許し、厳罰に処す事を避けたのである。

その理由は“青山・土器の戦いの戦闘メンバーとその背後に関わった勢力”で図示した様に”宇喜多直家“は“将軍足利義昭+織田信長”方に与していた。上記した様に“浦上宗景”が支援した“赤松義祐”方は戦況の途中で“織田信長”に接近、言わば勢いのある方に鞍替えした。従って“宇喜多直家”に厳罰を加える事は“公儀“(将軍足利義昭)並びに”織田信長“に対して明確に敵対の意思があると見做される危険があるとの判断から、それを避ける為に“浦上宗景”は“宇喜多直家”の今回の離反を許したのである。

9-(2):“宇喜多直家”は許されたが“浦上宗景”との関係は悪化したままであった

上記“浦上宗景”の処断の結果“宇喜多直家”は“浦上宗景”に離反の謝罪をし、許される形と成った。“宇喜多直家”の側から言えば、形の上で許されたが“浦上宗景”との関係を改善しようとの考えは無く、両者の関係は悪化したままであった。

“宇喜多直家”としては今回は“浦上宗景”を倒す事は出来なかったが、何れは倒すとの考えは捨てていなかった。両者が再び戦闘に至らなかった背景には、共通の脅威である“毛利氏”に抵抗を続けるという点で一致していた事である。

10:“反・毛利“の急先鋒だった”浦上宗景“が”将軍足利義昭+織田信長“の仲裁で”毛利氏“との”和睦“を成立させる

この頃“織田信長”と“将軍・足利義昭”の関係は“織田信長”が既述の“17ケ条の意見書”(1572年9月説、並びに12月説もある)を突き付けて以来、あからさまな敵対関係に変わっており“足利義昭+織田信長”政権は分裂の危機にあった。(両者がこうした状況下にあった事を念頭に以下を読んで頂きたい)

1572年(天正元年)10月:

“北九州”に於ける“大友宗麟”(=大友義鎮/おおともよししげ=ドン・フランシスコ・生:1530年・没:1587年5月23日)との競り合いにケリを付けた“毛利氏”の“東進”の動きが強くなった。

こうした動きに対し“浦上宗景”は“将軍・足利義昭”そして“織田信長”に仲介を頼み“毛利氏“との”和睦“を図ったのである。”毛利元就“は既に前年1571年6月に病死しており、孫の”毛利輝元“が家督を継いでいたが、その彼は”和睦“に反対した。しかし亡父”毛利元就“の”天下を競望せず“の遺訓“三子教訓状”を頑なに守ろうとする“毛利元就”の次男“吉川元春”そして三男“小早川隆景“が甥の”毛利輝元“を説得して1572年10月に“毛利氏”と“浦上宗景”との間の“和睦”が成立した。

11:“天下布武”の旗印の下“畿内(=天下)”を制し“全国統一事業”を進めるべく愈々“西”への侵攻を活発化させた“織田信長“に新しい障壁が次々と立ちはだかる

前項6-22項では“日本の天下“つまり”畿内“の覇者となるべく“足利義昭”を擁立して上洛を果たし、その“足利義昭”を“征夷大将軍”に就けた“織田信長”が“将軍・足利義昭”から“天下之儀”の全てが“織田信長“に託されたと信じて“全国統一事業”を強力に進め、その為の戦いに邁進して来た事は既述の通りである。

一方の“将軍・足利義昭”は“天下之儀”を“織田信長”に託した訳では無い、と“織田信長包囲網“を敷いて対抗した。この結果、1573年7月の”槙島城の戦い“に至り、勝利した”織田信長“は”足利義昭“を”京“から追放した。繰り返しとなるが、これを以て“日本史”の上では“室町幕府”は実質的に崩壊したものとして“安土桃山時代”に入ったとしている。

しかし、史実は“そうはさせない”と抵抗を強める“足利義昭”に拠る“織田信長包囲網”の動きはまだまだ続くのである。

つまり追放された“足利義昭”は“征夷大将軍職”を朝廷に返上せず“毛利領国”の”鞆“に”鞆幕府“らしきもの設立し”毛利輝元“を”第3次信長包囲網“の中核にして、尚も“打倒織田信長”の動きを続けるのである。“織田信長”はこの“第3次織田信長包囲網”の障壁をも数々の“戦闘”をクリアーしながら“全国統一事業”を進めて行く。


12:“織田信長”の“全国統一”への最期の7年間の戦いの総括:

“織田信長“が”全国統一事業“を進めて行く先には”足利義昭“が主唱する”織田信長阻止“の”第3次織田信長包囲網“の動きが立ち塞がった。その先頭に立たされたのが”毛利氏“である。そして”大坂(石山)本願寺“も”織田信長“への抵抗を続けた。

これ等の障害に立ち向かわせた“織田信長”のモーチベイションは何であったのか。それが1575年(天正3年)11月に“正親町天皇”から“足利義昭”と並ぶ“従三位・権大納言・右近衛大将”への叙任、昇任であった。”織田信長“という人物が“世間の評判“を殊更、気にする武将であった事は既述の通りであるが、以後、己が自他共に認める“天下人”であると確信した“織田信長”は其れ迄の彼とは大きく変わり、はっきりとした“天下人”としての動き、構えをとって行く。

”天下人“を自認して以降の”織田信長“の心境の変化、それに伴って表れた行動の変化等、の詳細に就いて、以下に纏めたのでレジメ(要約・概要)として紹介して置きたい。

12-(1):“天下人”としてのお墨付きを“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”から得た事を、日本国の“権威”からの“資格認定書”が与えられたと解釈した“織田信長”は、より一層強い姿勢で“天下布武”の旗印の下“全国統一事業”を推進して行く

12-(1)-①:“織田信長”が“天下人”を自認し“至強勢力”のトップとして“全国統一事業”に益々確信を抱いて動いた最期の7年間の出来事(表中、A・B・Cは織田信長に天下人たる事を自認させた事に繋がる出来事、並びに行動を示し、数字の①~⑬は以後の戦闘を示す)

A:1575年(天正3年)11月4日~11月7日
“正親町天皇”より“足利義昭”と並ぶ“従三位権大納言・右近衛大将”に叙任、昇任を受ける

B:1576年(天正4年)1月~
“安土桃山城”築城開始・・天守閣完成は1579年5月である

①1576年(天正4年)4月14日:天王寺砦の戦い(大坂本願寺)
②1576年(天正4年)7月13日:第1次木津川口の戦い(毛利氏と同盟破綻後、初の戦い・・毛利水軍に織田水軍が大敗する)
C:1576年(天正4年)11月28日
嫡男“織田信忠”に家督、並びに“岐阜城”を譲り自身は未完成の“安土城”に移る

③1577年(天正5年)2月~3月:織田信長の紀州攻め(雑賀攻め・紀州征伐)
④1577年(天正5年)9月23日:手取川の戦い(上杉謙信)

以上は6-23項で記述する
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以下は次項(6-24項で記述する)

⑤1577年(天正5年)10月5日~10月10日:信貴山城の戦い(松永久秀)
⑥1577年(天正5年)11月:第1次“上月城の戦い”(毛利方の赤松政範を羽柴秀吉軍が討つ)
⑦1578年3月~1580年1月:三木合戦・有岡城の戦い(別所長治・荒木村重)
⑧1578年(天正6年)4月18日~7月3日:第2次“上月城の戦い”(毛利氏)・・“山中鹿之助”等“尼子再興軍”の終焉
⑨1578年(天正6年)11月6日:第2次木津川口の戦い・・“織田水軍”が“毛利水軍”に勝利する
⑩1580年(天正8年)閏3月~8月2日:本願寺法主・顕如が“和睦”に応じ石山合戦が終息、退去日8月2日(石山が信長のものに成る)
⑪1580年(天正8年):加賀一向一揆平定・・92年間に亘った一揆持ちの国加賀国が消滅する
⑫1581年(天正9年)3月~10月25日:“第2次・鳥取城籠城戦”・・吉川経家が自刃
⑬1582年(天正10年)2月3日~3月11日:武田征伐・・甲州征伐・武田勝頼自刃
甲斐武田氏の滅亡

12-(2):“織田信長”は強豪“戦国大名”との間では“同盟”関係を結ぶ事で“直接対決”を避けた。しかし“全国統一事業”が進む程に“領土境界問題”が、より深刻と成り“通交関係・同盟関係”維持が困難と成り、結果、全ての“同盟”関係が破綻する

戦国乱世は“織田信長”が“天下布武”の旗印の下“全国統一”を果すべく戦い続けた事で
遠心力が働いていた日本に徐々に求心力が働き“全国統一”の方向に向かう。しかし乍ら“織田信長”の“全国統一”の動きが進む程、その過程には必然的に“武田・上杉・毛利”という“強豪戦国大名”達との間に結んだ“同盟”によって“戦闘回避”を図る策が次々と破綻を来す事が避けられなくなる。

こうした状況を助長する役割を担ったのが“室町幕府再興”を掲げ“第3次・織田信長包囲網”に拠って“打倒・織田信長”に燃える“足利義昭”であった。“足利義昭”の武器は、日本社会に伝統的に根付いた“将軍権威”である事は言うまでも無い。

”足利義昭“の動きは”織田信長“が戦闘を避けるべく築いた各”有力戦国大名“との“通交関係”並びに“同盟関係”を破棄せざるを得ない事態に追い込む結果と成った。具体的には“織田信長”が“全国統一事業”を進め“織田信長領”を拡大させて行くにつれ“武田信玄”と結んだ“通交関係・同盟関係”は1572年10月に破綻した。そして“毛利氏”との“同盟”も1576年5月に破綻した事も既述の通りである。そして“軍神・義の武将・毘沙門天の化身”と称された“上杉謙信”との“通交関係・同盟関係”も1576年秋頃に破綻という結果に至るのである。

“武田信玄”との“通交関係・同盟破綻”に就いては前項(6-22項)で詳述した。当6-23項では“織田信長”と“中国地区の覇者・毛利氏”との間に結んだ“通交関係・同盟関係”が、どの様な過程で崩壊して行くか、そして“上杉謙信”との間の“通交関係・同盟”が破綻して行ったかに就いて詳細に記述して行く。

先ずは”毛利氏“との“通交関係・同盟関係“の破綻だが、1576年(天正4年)5月に起き、両者は以後”織田信長“が“本能寺の変”で命を落とす(1582年6月)迄の6年間に亘って死闘を繰り返す事に成る。

”天下人・織田信長“と”毛利氏“との間の6年間に亘る戦闘、そしてその間に起った”上杉謙信“との最初で最後の戦いに就いても上表に紹介した。夫々の戦闘が“織田信長”にとって決して楽勝であった訳では無く、敗戦を喫したものもあった事が分かる。

① に掲げた“天王寺砦の戦い”でも“織田信長”は“大坂(石山)本願寺勢”の攻撃の中“九死に一生を得る戦闘場面”があった。結果として“織田信長”は既述した13の戦闘を切り抜け、愈々”全国統一事業“の完成が視野に入って来た処で“本能寺の変”で命を落すのである。

“織田信長“は”戦国時代“という過酷な時代を運も味方に付け乍ら類稀な”人間としての総合力“つまり“IQ+EQ+人間力“の高さで勝ち抜き、遠心力が働いていた当時の日本を再度“統一”するという果てしなく困難な事業の道筋をつけた。その志は途中で断たれ“豊臣秀吉~徳川家康”に引き継がれるのだが“織田信長”が“日本全国再統一事業“の最も困難な部分を担った偉大な武将であった事を否定する人はいないであろう。

12-(3):“織田信長”が天下に晒した最大の弱点は“身近な者”に対して程“傍若無人”に振舞い、且つ“無防備状態”であったという人間関係に於て“不器用すぎた天下人”であった事とされる

“織田信長”は最も信頼した家臣の一人である“明智光秀”に討たれた。この史実は“織田信長”には“最大の弱点”があったという事を証明している。それは“身近な者達への配慮の欠如、傍若無人な言動”が挙げられる。しかも“織田信長”はそうした“身近な者”に対して、信じられない程の警戒心欠如振りを晒し、油断極まりない状態を平気で晒した事が指摘される。

一番重要な人事面でも、家臣、身近な者達への信頼の裏返しなのか、過酷な要求を課し、その上、その者を不安に陥れる言動を用いた。そうした身近な者達への不器用な対応は“自尊心を踏みにじる人事”に見られた。“逃げ道を閉ざす”様な言動を浴びせられた家臣達、身近な武将達の中には“羽柴秀吉”の様に“織田信長”の真意を巧く読み取れた者達ばかりでは無かった。

“窮鼠猫を噛む”状態に陥る者、そこ迄には至らずとも“織田信長”への反抗心を煮え滾らせる者が多く出たという。こうした“織田信長”の不器用さが“羽柴秀吉・徳川家康”との比較に於ける“人間力”で劣ったとされる。

こうした“織田信長”の“自己中心”的性格が極めて強いという弱点を裏付けるのが、裏切られた“織田信長”が必ず発したと伝わる“家臣達には充分報いて来たでは無いか、何が不満なのか?“と訝り、不審がった言葉である。

“義弟・浅井長政“の裏切りのケースでも”織田信長“は”浅井長政“の大名としての誇りを踏みにじる様な扱い、言動で対した為、誇り高い彼を不安に陥れ、反逆に走らせた。”松永久秀“の反逆のケースも全く同様であった。

”天下人・三好長慶“下で最も優れた家臣として栄華を誇った“松永久秀”に就いても“織田信長”に抵抗し戦闘に及んだ彼を許し、傘下に加えている。そこ迄は良かったが、その後が拙かった。例に拠って“織田信長”は彼の誇りを踏みにじる様な処遇、言動、人事に拠って、彼を不満と不安に陥れ、結果“松永久秀”は反旗を翻し、次項(6-24項)で記述する“信貴山城の戦い”を起こす。同じく次項で記述する“荒木村重”の“有岡城の戦い“のケースも同様である。

”織田信長“は”強豪戦国大名“との”同盟関係の破綻“というリスクに対しては十二分に警戒し、準備し、そして対応した。しかし“身近な家臣”あるいは“従属的同盟者”たる武将”達に対しては不器用さを晒し、結果“裏切り”や“反逆”の危険に自らを置くという“警戒心欠如の状態、無防備”という“油断癖”を晒した。

結果“織田信長”は最も信頼していた筈の近臣“明智光秀”に討たれる。しかも“織田信長”自身だけでなく、後継者として天下に喧伝していた嫡子“織田信忠”迄が討たれるという“油断三昧”の“歴史的失態”を演じたのである。

13:“織田信長”をして自身を“天下人”と自認させ、確信させた出来事・・“至尊勢力”からの“叙任”

“正親町天皇”(第106代天皇・生:1517年・崩御:1593年)は“織田信長”を“足利義昭”と並ぶ“従三位権大納言・右近衛大将”に叙任、昇任を与えた。“織田信長”はこの事で“至尊(天皇・朝廷・貴族層)勢力”から“天下人”としてのお墨付きを与えられたものと解釈し、以後、世間も彼を“天下人”として認識すると考えたのである。

以後“織田信長”の行動は“天下人”を意識、自認した、より確信的、強い行動と成る。

“織田信長”が“天下人”となったのは“将軍・足利義昭“を”京“から追い出した”槙島城の戦い“で勝利した1573年(元亀4年)7月19日とする説もあるが、下記に紹介して行く諸史実からも“織田信長”が“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”から“天下人”としてのお墨付(叙任)を得た1575年(天正3年)11月7日以降と考えるのが妥当であろう。

13-(1):己の官位昇進よりも“老臣達”への“賜姓・任官”を優先させた“織田信長”

1575年(天正3年)7月3日:
“織田信長”は自己の官位昇進の勅諚(ちょくじょう=天皇の仰せ)を辞退し、代わりに老臣達への賜姓、任官を優先し勅許された

”織田信長“が内面でも”天下統一事業“への自信を持ち、更に”天下人“としての自覚を具体的に持つように成ったのは、一大脅威であった“武田勝頼”に“長篠・設楽ケ原の戦い”(1575年5月21日)に大勝利した時であると考えられる。

“武田氏”を警戒して“畿内以西”に兵を動かす事が出来なかった“織田信長”にとって、この勝利が与えた自信は大きかった。

そして“長篠・設楽ケ原の戦い”の勝利から1ケ月半後の7月3日“禁中”に於ける“誠仁親王”(さねひとしんのう・正親町天皇の嫡男・早世した為皇位に就いていない・後陽成天皇の父・今日の皇室はこの誠仁親王の男系子孫にあたる・本能寺の変の際、二条御所から禁裏に逃げ込んだ事も伝わる・生:1552年・没:1586年7月24日)主催の“鞠会”(まりかい=蹴鞠の会)に“織田信長”は出席し、そこで“官位昇進”の勅諚(ちょくじょう=天皇の仰せ)が下された。

しかし“織田信長”はこれを辞退し、代りに老臣達への賜姓(しせい=天子から姓氏を与えられる事)並びに任官を請い、勅許(ちょっきょ=天子の許可)された。この時、賜姓、任官された老臣達の“信長公記”並びに日記、文書に書き遺された状況は下記である。こうした行動は“織田信長”の“IQ+EQ+人間力=リーダーとしての総合資質“が高い事を示す史実である。

①松井友閑(まついゆうかん・生没年不詳・代々室町幕府幕臣):内卿法印
②武井夕庵(たけいせきあん・生没年不詳・斎藤氏から信長の右筆に):二位法印
明智光秀(生:1516年/1528年説/没:1582年6月13日):惟任日向守
④簗田広正(やなだひろまさ・生年不詳・没:1579年6月6日・馬廻り):別喜右近
⑤丹羽長秀(にわながひで・生:1535年・没:1585年・佐和山城主):惟住(これずみ)
⑥塙直政(ばんなおまさ・生年不詳・没:1576年5月3日三津寺一向宗攻めで鈴木重秀率いる雑賀衆の鉄砲隊に討ち死に):原田備中守
羽柴秀吉(生:1537年2月6日・没:1598年8月18日):筑前守
⑧村井貞勝(京都所司代・生年不詳・没:1582年6月2日):長門守
⑨滝川一益(生:1525年・没:1586年):伊予守

13-(2):老臣達に賜った“受領名・姓”は“織田信長”が未征服の“西国のもの”であった。

上記老臣達への“受領名”は、実質を伴うもので無く、又、将来の各人の封地を約束したものでもない。しかし注目すべきは、この時点で“織田信長”の老臣達が賜(たま)わった“受領“はいずれも、この時点では“織田信長”が“未征服の西国であったという点である。

又、同様に“惟任・惟住・別喜・原田”の姓が見られるが、これ等のいずれもが“未征服”の“九州”の名族とされるものである。

この賜姓、任官は“織田信長”側が提出した名簿に基づいて“朝廷”の方で割り振ったものだと考えられる。この事から“西国”へ向けて“天下統一”の大事業を推し進めようと動き出した“織田信長”の意図を“朝廷”が汲み取って行った除目(じもく=大臣以外の諸官職を任命する儀式)であったと判断出来(谷口克広著:信長の天下布武への道)、且つ“織田信長”が既に“確固たる全国統一”に至るロードマップを描き終わっていた事が分かる。

13-(3):“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”が“織田信長”に叙任した“足利義昭”と全く同列の官位

1575年(天正3年)11月4日:

上記の様に“織田信長”は“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”の持つ“日本の社会に岩盤の様に根付いた権威“の獲得を重視し、先ず老臣達への賜姓、任官の勅許を得た。そして4ケ月後の1575年(天正3年)11月4日に“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”は“織田信長”を“従三位権大納言”に任じ、更に3日後の1575年(天正3年)11月7日には“右近衛大将”に任じた。

13-(3)-①:叙位に拠って“足利義昭”と並んだ“織田信長”

“織田信長“が “従三位権大納言”の官位を与えられた事はそれ迄の“弾正忠”(だんじょうのちゅう=弾正とは律令制で非違/非法、違法/の取り締まり、風俗の粛正などを司った役所だが、検非違使が置かれてからは形骸化した)から一気に大幅な昇進を果たした事を意味した。

“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”“側が”織田信長“に“従三位権大納言”の官位を発令した事を“織田信長”は“京都”から2年前(1573年7月)に“将軍・足利義昭”を追い出した事に対し“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”が“足利義昭”に代わる者として“織田信長”を任じた、それ故“足利義昭”と同じ“官位”を与えたのだと解釈した。“将軍位”は無いが、将軍と同格と言っても良い武将、つまり“織田信長”はこの時点で“天下人として公認された”と考えたのである。(谷口克広著・信長の天下布武への道)

”至尊勢力=権威“が認めた“天下人”であると確信した“織田信長”の行動は、以後、明らかに大きく変化して行くのである。そして周囲の“織田信長”に対する態度にも変化が現れた。

13-(4):“織田信長の家臣達”が主君”織田信長“に対する”尊称“を”殿様”から“上様”に変えた

”織田信長“の家臣の発給文書からは”足利義昭“を京都から追放(1573年7月)した後も家臣達は”織田信長“に対する尊称を”殿様“としている。しかし1575年(天正3年)8月24日付けの”武井有庵“の書状には“上様御朱印を遣わされ候”とある。これが文書上で“織田信長”に対して“上様”を用いた初見である。

諸説はあるが“織田信長”が“天下人”としての自分を意識したのは1575年(天正3年)7月3日が起点であろうとされる。但し既述の様に“織田信長”は自身への叙任を辞退し、代りに老臣達への賜姓、任官を優先した。そして4ケ月後の11月4日に従三位権大納言の叙任を受け11月7日に右近衛大将に任じられた。従って“織田信長”が“天下人”を自認したのは“従三位権大納言・右近衛大将”への叙任、昇任以降と考えるのが妥当であろう。

14:“天下人”として“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”から“公認”されたと考えた“織田信長”は“天下人の居城”として相応しい城として“安土城“の築城を開始し、又、一戦国大名としての家督にすぎない”織田家の家督“並びに、一戦国大名の居城に過ぎない“岐阜城”を嫡子”織田信忠“に譲る

“織田信長”は先ず“天下人の城・安土城築城”から取り掛かっている。そして“織田家”の“家督”並びに“岐阜城”を譲るのは“毛利氏”との“同盟決裂”(1576年5月)の直前に起こった“天王寺砦の戦い”(1576年4月)並びに“同盟”が遂に決裂し、以後6年間に亘る“毛利氏”との戦闘の端緒と成った“第1次木津川口の戦い”(1576年7月13日)の大敗後という決して周囲の状況が“順風満帆”では無かった1576年11月28日の事であった。

”織田信長“の不退転の覚悟が見て取れる行動である。

15:“天下人”の城“安土城”の築城開始

1576年(天正4年)1月:

1576年(天正4年)1月に“安土城築城”を始めた“織田信長”は、完成にはまだ早い時期から“茶道具”だけを持って“佐久間信盛”(生:1528年・没:1582年2月18日)の邸宅に1577年(天正5年)になってから身を寄せたと伝わる。尚“岐阜城”を嫡子“織田信忠”に譲るのは1576年11月28日である。

”安土城“の“総普請奉行”には“丹羽長秀”(生:1535年・没:1585年4月16日)を任じ“近江守護・六角氏”の“居城・観音寺城”の支城があった“安土山”に“天下人”として相応しい“安土城“の築城が始まった。

15-(1):“安土”の地を選んだ理由
①京都に近い事・・その日の中に着ける
②東国・北陸への交通が便利・・中山道がすぐ南を通る。佐和山から北国街道で越前へも行きやすい
③琵琶湖に面している・・水運を利用して近江国の何処へでも抜ける事が出来る

15-(2):“安土城建築進行”と並行して“官位昇進”を受け入れた“織田信長“
1577年(天正5年)11月20日:従二位右大臣に昇進、この直前の10月に信長は秀吉 に播磨出陣を命じている
1578年(天正6年)1月:正二位に昇叙

しかし“織田信長”は1578年4月に“右大臣”と1575年11月に受けた“右近衛大将”の官職を返上している。これは“織田信長一流の考え”で、日本に岩盤の様に根付いた“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力“からの官職は権威として認める。従って、一度は受けるが”織田信長“にとっては、それを得た事を世間が周知するだけで充分であり、それ以上は“官職”に縛られたく無いという考えから“返還”した。

“織田信長“が”返還“しようが、しまいが”世間“は”織田信長“は”右大臣・右近衛大将“という”権威“のある官職に値する武将である、という事を世間が認める事だけが“織田信長”にとって重要だったのである。

“織田信長“は”世間の評判を非常に気にする武将だ“という事は何度も記述して来たが、こうした“権威”に対する彼の考え方、つまり“重要だとは思うが決して阿ねる(おもねる=へつらう、追従する)事はしないという態度を貫いたのである。

良く知られる具体例として“織田信長”は“足利義昭”を奉じて上洛し、彼を将軍にした。その際に“将軍・足利義昭”は“織田信長“を”副将軍“にと勧めた。しかし”織田信長“は辞退した。”織田信長“にとって”室町幕府“自体が最早“死体”であり“阿ねる価値”も権威も無い“存在だと考えたのであろう。

今回の“官職返還”は“副将軍辞退”と根っ子を同じくする“革命児・織田信長“としての考え方であろう。

15-(3):“安土城”城址から発見された“御幸の間”並びに“大手道“の存在から探る”織田信長“の”天皇“に対する考え方

1989年(昭和64年・1月8日から平成)から滋賀県が“安土城”の徹底的な発掘調査を行い、様々な事が明らかに成った。最大級の発見は“御所”の清涼殿に酷似した建物跡が見つかった事である。この建物は“信長公記”にも書かれている“天主”のすぐ近くに位置していた“御幸の御間”であり“天皇”の行幸に備えた建物であろうとの結論が出された。

“織田信長”が天皇を“安土城“に迎える計画を持っていた事は”信長公記“の他の史料にも書かれており、立証されている。“御幸の御間”の発見は、それを裏付けるものである。(谷口克広著:信長の天下布武への道)

“橋本政宣氏“(歴史学者・東大名誉教授)の研究によると”織田信長“は”安土城“の築城開始の翌年、1577年(天正5年)に天皇を迎える事を予定していたと考えられる。しかし“正親町天皇”に譲位問題が生じていた事等で実現していない。又、大いに注目すべき点として“大手道”の存在の発見がある。“安土城跡”の研究者“木戸雅寿”氏の調査結果に拠れば“安土城の大手道“は城下町とは直結しておらず、日常全く使われた形跡が無い”との事である。この事から“安土城の大手道”は天皇一行だけが進む道ではなかったのか?と推論されている。

“織田信長”の尊王の念がどれほど強かったのかについては諸説があるが、何度も述べて来た様に“織田信長”程、世間の評判を気にした武将はいない。従って“織田信長”は“天皇家”が持つ“日本に岩盤の様に根付いた古代からの権威”を重視した武将でもあった。これらの事からも“織田信長”が“安土城”を“天皇の権威を背景にした天下人の城である”と考えた事は間違い無い。

15-(4):“安土城祉・安土城考古博物館”並びに“信長の館”訪問記・・訪問日2021年10月23日(土)
住所:安土城考古博物館・・滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678
信長の館・・滋賀県近江八幡市安土町桑実寺800番地
交通機関等:
私は東京駅朝6:21分発の“ひかり“に乗って9時前に”米原駅“で下車。友人と合流し”米原駅“から東海道線(琵琶湖線)に乗り換え、約30分程で”安土駅“に着いた。”信長の館“そして”安土城考古博物館“並びに”安土城祉“は、以下の写真で示す様に夫々が至近距離にある。我々は”安土駅前レンタサイクルたかしま“で自転車を借り、史跡訪問を行った。

①信長の館
パンフレットには“原寸大にて復元”とある。1992年スペインのセビリア万博に出展された“安土城天主最上部”の2層を移築した見事なものである。(写真添付) 織田信長が徳川家康をもてなした“饗応膳”も展示されている。是非訪問する事をお勧めする。
②安土城考古博物館
1992年(平成4年)に開館したという立派な建物である。20年に及んだ安土城跡の発掘調査の結果としての出土品等の他、観音寺城跡と安土城跡を中心に日本の城郭の歴史、織田信長について展示している。
③安土城祉
JR琵琶湖線の線路を越え、琵琶湖に向かって自転車を走らせ“安土城祉”に着いた。駐輪場に自転車を置いて写真に示す“安土城天主”へ続く“大手道”と称される石の階段を登る。
標高は199mとある。大手道の脇には“伝羽柴秀吉邸跡”そして“伝前田利家邸跡”などの家臣達の館跡が続く。1583年(天正11年)2月に“二の丸跡”に“羽柴秀吉”が太刀、烏帽子、直垂等の“織田信長”の遺品を埋葬したと伝わる“信長公本廟”があり、此処もお参りした。
“天主跡”なども写真に示す通り礎石が残っているだけではあるが当時の“安土城”の壮大さを感じる事が出来た。
下から登る石段の“大手道”は80歳目前の私達にはかなり厳しい道のりであり、慣れない貸自転車で、少年の頃の気分でかなり張り切り、スピードを出した事が祟って、後日“変形膝関節症“を煩い、治療に通う羽目に成った。幸い大事に至らず今日に至っている。
75歳以上の方は貸自転車を使って“安土城周辺史跡”を訪問する場合には十分に注意してゆっくり石段を登る事、そして自転車もゆっくり走る事をお勧めする。


16:“天王寺砦の戦い”・・1576年(天正4年)4月~5月7日

“織田信長”が“天下人”を自認し、益々“全国統一事業”への意欲を強めて行った最初の戦いが1570年(元亀元年)9月12日に“本願寺第11代宗主・顕如”が当時“野田城・福島城“を攻撃中の”将軍足利義昭+織田信長“連合軍に突如攻撃を仕掛けて来た“石山合戦”勃発以来続く“大坂(石山)本願寺包囲戦”である。この戦いは“天王寺砦の戦い”と称され“織田方”は当初大ピンチと成ったが“織田信長”が急遽、支援に駆け付けた事で逆転勝利した戦いと成った。

16-(1):最初から双方共に決裂する事を覚悟していた“織田信長”と“本願寺・顕如”との束の間の和睦が結ばれる

1575年(天正3年)10月:

“大坂(石山)本願寺”と“織田信長”とが1575年(天正3年)10月に“和睦”を成立させている。この背景には、2ケ月前の1575年(天正3年)8月に“織田信長”が“越前一向一揆殲滅戦”に勝利し“越前国”を“一揆持ちの国“から“織田領(自分の国)”として作り替えた事を含め、一連の“一向一揆討伐”の動きを進めて来た事に圧力を感じていた“大坂(石山)本願寺”側が“和睦”を望んで来たものであった。

“織田信長”方としても、2年前の1573年(元亀4年)7月に“槙島城の戦い”で“京”から追放した“足利義昭”が懲りる事無く“第3次・織田信長包囲網“を構築する動きを進めていたという事情もあり”大坂(石山)本願寺“との”和睦“の道を選択した。

しかし“織田信長”も“大坂(石山)本願寺宗主・顕如”もこの”和睦“が長続きするとは思っておらず“顕如”は“織田信長が裏切る事は覚悟していた”と記していた事が“大系真宗史料文書記録編“に残されている。又”大坂本願寺“側は”和睦“中にも拘わらず、決裂する事を前提に兵糧を集める動きを続けていた事も史実として残されている。後述するが、したたかな“本願寺・顕如”はこの半年後の1576年(天正4年)4月に“上杉謙信“との間にも”和睦“を成立させたのである。

“本願寺・顕如”は“上杉謙信”との“和睦成立”が成ると、それを担保として“織田信長”との“和睦”を破棄して戦闘を再開したのである。これが“天王寺砦の戦い”である。(1576年4月~同年5月7日)

16-(2):“織田方大将・塙直政“が“石山本願寺”を包囲する。しかし、戦況は“石山本願寺”側が優勢で“塙直政”が討たれるという状況に陥った為“天王寺砦”側から“織田信長”に“緊急救援依頼”が出された

16-(2)-①:1576年2月に“足利義昭”が“毛利領・鞆“に一方的に”移座“し”毛利輝元“が中核と成る”第3次・織田信長包囲網“が形成される動きが”大坂(石山)本願寺“側を強気にさせた

1576年(天正4年)4月14日:“大坂(石山)本願寺・顕如”が“上杉謙信”との“同盟”を成立させる

”織田信長“との”和睦“(1575年10月)を成立させた“大坂本願寺・顕如”であったが、上記した様に初めから“決裂”を予想し、戦闘再開の準備は進めていた。

そうした処に1576年2月“足利義昭”が“毛利領・鞆“に強引に”移座“した事で”毛利輝元“を中核とする”第3次・織田信長包囲網“が形成されるものと“大坂(石山)本願寺”側は考えた。そこで“大坂本願寺・顕如”はそれ迄対立していた”軍神・義の武将・毘沙門天の化身“と称され”最強戦国大名の一人“として知られる”上杉謙信”との間の“同盟”を1576年(天正4年)4月に成立させたのである。

一方“上杉謙信”と“武田勝頼”との間にも“和睦“が1575年10月に成立している。”織田信長“が”大坂(石山)本願寺“と束の間の”和睦“をしたのと同時期である。こうした動きは“足利義昭”にとっては、執念を燃やす“第3次・織田信長包囲網”形成にとって願っても無い良いニュースが続いた。

“情報収集能力”が“戦国大名達”の生き残りにとって死活問題であったから“織田信長”も上記“大坂(石山)本願寺“方の動きは掴んでおり”本願寺“との“同盟破棄”は必至と読んでいたと思われる。“織田信長”はそうした動きに対抗すべく“荒木村重・細川藤孝・明智光秀・塙(原田)直政・筒井順慶・中川清秀・高山右近“等の重臣達を”大坂(石山)本願寺包囲“の為に出兵させた。

この時“織田信長”が“明智光秀・細川藤孝”に宛てた下記書状が“織田信長”の“大坂本願寺攻撃”に対する戦略、戦術を伝える史料として伝わる。
其表(石山本願寺)の麦悉く薙捨て候哉。猶以て油断無く申付くべき事専一に候。然して隙を明け候はば、大坂籠城候男女の事は相免ずべき候間、早々罷出ずべきの旨、口々に立札然るべく候。坊主以下用にも立ち候者をば、赦免すべからず候。其意をなすべく候也
=大意=
本願寺周辺の麦を薙ぎすてよ。油断の無いようにせよ。籠城している一般の信徒の男女は赦免するので早々に城を出る様、立て札をたてよ。指導者である坊主は許すな(殺せ)
コメント:
一般の信徒の男女を赦免するという今回の戦術は“長島一向一揆”並びに“越前一向一揆”に於ける“殲滅戦”とは異なる対応を“織田信長”がとっている点に注目されたい。

16-(2)-②:“天王寺砦”から出撃した“織田方”は散々に敗れ“大将・原田直政”(=塙直政)はじめ、多くが“鈴木重秀”(鈴木孫一)隊に迎撃され戦死。“大坂(石山)本願寺一揆勢”が逆に“天王寺城(砦)”を包囲する事態と成った

“大坂(石山)本願寺”との戦闘に対する“織田軍”の体制は“石山本願寺”の南側に位置する“織田方・天王寺砦“から出撃した部隊の大将には”塙直政“(=原田直政)が就き、与力として”筒井順慶“と”三好康長”並びに“根来衆“等が続いた。

一方の”石山本願寺(大坂本願寺)“側は、難波方面への水路を確保し”桜の岸”並びに“木津”に砦を築き、兵糧を確保していた。

“織田方”は“石山本願寺”への兵糧搬入を断つべく、敵方の“木津砦”の攻撃を“塙直政”部隊が行った。“天王寺砦”から出陣した”塙直政“(=原田直政)部隊の留守部隊として”天王寺砦“の守りに入ったのは“佐久間信盛“の嫡男“佐久間信栄“(さくまのぶひで・生:1556年・没:1632年)と”明智光秀“の部隊であった。

“織田方”の“木津砦”への攻撃は早朝から始まった。“塙直政”は“摂津国・三津寺”(下記写真参照)の“一向衆門徒”を攻撃した。先ず“三好康長”(入道号は笑岩・三好長慶の叔父である・第二次高屋城の戦い/1575年4月8日~4月21日/で織田信長に敗れたが赦免され織田方と成った)率いる“和泉国”の兵、並びに“根来衆”が攻撃、次いで“大将・塙直政”が率いる“山城国”そして“大和国衆”軍が攻撃をした。


これに対して“石山(大坂)本願寺一揆勢“は”桜岸砦“からの加勢を加えて凡そ10,000兵が出撃し、対抗した。その中の”鈴木重秀“(平井孫一の名でも知られ、又、鈴木孫一の名でも知られるが、この名は雑賀衆の雑賀党鈴木氏の棟梁、有力者が代々継承した名であった・生:1546年・没:1586年説・鉄砲傭兵集団雑賀衆の棟梁)率いる“雑賀衆・鉄砲部隊”が数千挺の鉄砲で激しく攻撃して来た。この攻撃で“織田方・三好康長”軍が先ず崩れ、逃亡した。

1576年(天正4年)5月3日:

“三好康長”軍が逃亡した為“織田方大将・原田直政”(=塙直政)部隊は“大坂(石山)本願寺“勢に包囲され、数時間は持ち堪えたが、乱戦の中“大将・原田直政”自身が討たれた。(1576年5月3日)それだけに止まらず“塙安弘・塙小七郎・箕浦無右衛門・丹羽小四郎”等も枕を並べて討ち死した。

“石山本願寺”勢はその勢いのまゝ、余勢を駆って“四天王寺”を焼き“天王寺砦”に襲い掛かった。“天王寺砦”(城)を守っていた“佐久間信栄“並びに”明智光秀“等は籠城戦で“石山本願寺”勢の猛攻に耐えつつ”織田信長“に救援を求めるという窮地に追い込まれたのである。

16-(3):大急ぎで救援に駆け付けた“織田信長”は自ら負傷しながらも“天王寺砦”に辿り着く

1576年(天正4年)5月5日:

“天王寺砦”を守る為に入っていた“明智光秀”並びに“佐久間信栄“軍は迫り来る”大坂(石山)本願寺“勢に窮地に追い込まれ”京都“に滞在していた“織田信長”に援軍を要請した。これに対して“織田信長”は諸国に動員令を出したが、突然の動員令であった為、直ぐに兵力が集まる訳もなかった。

“織田信長”が出した動員令の宛先には、既に隠居をし、軍事行動にも、又“大和国”支配にも携わらなくなっていた満68歳の“松永久秀”も入っていた。“織田信長”としては“松永久秀“の過去の輝かしい戦闘実績、軍事動員力を期待しての事ではあったが、この人事も、次項(6-24項)で詳述する“松永久秀”が“織田信長”に反旗を翻し“信貴山城の戦い”を起こす原因の一つと成ったのである。

“織田信長”は“天王寺砦の窮地”は待ったなしの状況であると判断し“織田信長”一流の“先ずは自らが行動する!!”を実践した。その“優れた動きの速さ”で“織田信長”が動いた様子を“信長公記”は以下の様に伝えている。
五月五日、後詰として御馬を出だされ,明衣の仕立、僅か百騎ばかりにて若江に至って御参陣。次日御逗留あって、先手の様子をもきかせられ、御人数を揃えられ候といへども、俄懸の事に候間、相調はず、下々の者、人足以下中々相続かず、首々ばかり着陣候
=解説=

京都に居た“織田信長”は“天王寺砦”が大苦戦しているとの報、支援要請に対して先ずは自ら“僅か百騎”を率いて“若江城“まで出陣し、翌5月6日迄は後続の軍勢が到着するのを待った。しかし、突然の招集だった為、兵力が集まらなかった。一方“天王寺砦”からは“あと3,4日持ち堪えるのは難しいと大苦戦の戦況を伝えて来た。

1576年(天正4年)5月7日:

“織田信長”は兵力が整う間も無く3,000程の兵で“天王寺城(砦)”を包囲する15,000の“敵方・石山本願寺勢”への突撃を敢行した。

この“突撃“戦に関する史料は少ないが”織田信長“自身が決死の覚悟で僅か3000の兵等を鼓舞し、自らも先頭に立って突撃した事が伝わる。敵方は総勢15,000の兵で”織田方・天王寺砦“を包囲していた。既述の様に“鈴木孫一“が率いる”雑賀衆・鉄砲隊”が頑強な包囲網を敷いていたのである。

“織田信長”部隊はそうした”石山本願寺“勢の囲みを破り、味方が守備する”天王寺砦部隊“に合流出来たと史料は伝えている。流石の”織田信長“も強引な”本願寺勢突破作戦“で“鈴木孫一”(鈴木重秀)率いる“雑賀衆鉄砲隊”の攻撃を受け、足に軽傷を負った事も書かれている。

16-(4):“織田信長”が負傷しながらも“天王寺砦”の守備隊と合流した事で戦況を逆転する

“織田信長隊” 3000兵が“天王寺砦”に突入し、守城隊と合流した。“石山本願寺勢”はまさか“織田信長”方が“天王寺砦”への合流直後に打って出る事は無いであろうと油断する事を“織田信長”は読み、裏をかき、攻撃に出た。しかし“天王寺砦守城隊”の兵力に“織田信長”隊の3000兵”が加わった“織田軍総兵力”をもってしても“石山本願寺勢”の15000兵”には遠く及ばなかった。(合流後の織田信長勢は10,000兵程との説もあるが不明)

そもそも“織田信長隊”の3000兵”を“天王寺砦・守備隊”に合流する事を許した事が“石山本願寺”方としては失策であったが“天王寺砦“から退却する様子を見せず、逆に陣形を立て直して包囲を続けた。こうした状況に“織田信長”の重臣達は“多勢に無勢”だとして“織田信長”の“石山本願寺勢への突撃”命令にたじろいだ。

しかし“織田信長”は“敵方は、まさか直ぐに攻撃しては来る事はあるまいと油断している、今こそが打って出るチャンスなのだ!!“と頑として譲らず“突撃強行”を命じたのである。こうした“機を見る天与の才”が“織田信長”の“非凡さ”である。以下がその際“織田信長”が部下に言い放った言葉だと伝わる。

“今度間近く寄り合ひ候事、天の与ふる所の由”
解説:今、敵が間近にいるのは天の与えた好機である

“織田信長”の読み通りに、驚いた敵方“石山本願寺勢”の陣形は乱れ“織田”軍は有利に敵への反転攻勢、つまり“突撃”を敢行する事が出来た。

“織田信長隊”が加わった“天王寺砦守備隊+織田信長隊”(3000兵+守備隊)は“天王寺砦”を包囲していた“石山本願寺勢“を追い返し“石山本願寺”の木戸口までに到った。
この“織田信長”方の突撃強行策の結果“石山本願寺”方は2700兵余りが討ち取られたとされる。

(メモ)
この戦闘に於ける“織田方”の陣立ては3段で、先陣は“佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・若江衆”の軍であった。
2番手は“滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄”の軍であった。
そして3番手として”織田信長“が”信長の馬廻り“役を引き連れて出撃した事が伝わる。
尚、この時“織田信長”は先陣を“荒木村重”に任せようとしたが“荒木村重”は木津方面の守備を引き受けると言って断った。後述するが“荒木村重”は“織田信長”から離反し“毛利”方に寝返る。“荒木村重”の離反後に“織田信長”は“天王寺砦の戦い”の際に“荒木村重”に先陣を任せなくて良かったと回想している。(信長公記)

16-(5):“天王寺砦(城)の戦い“の纏め

戦況:
“織田信長”は“石山(大坂)本願寺”勢に包囲された“天王寺砦守城隊”を救済すべく“京”から駆け付け、足に鉄砲による傷を負いながらも“天王寺砦”に突入し、守城隊と合流した。 直後に陣形を2段に立て直し、包囲する“石山本願寺勢”に突撃し、撃破しながら“石山本願寺”の木戸口まで追撃した。最初は窮地に追いやられた“織田”軍が“織田信長”自身が参陣し突入を敢行し、戦況を逆転、巻き返しに成功した戦闘であった。この戦いもトータル10年に及ぶ“石山合戦”の一部として数えられる戦いである。

年月日:1576年(天正4年)5月7日
場所:摂津天王寺付近(現在の大阪府大阪市)
結果:
包囲された“天王寺砦”を“石山本願寺勢”から開放した上に“石山本願寺勢”を“石山本願寺“の木戸口まで押し戻した。”織田信長“が直接参加し窮地を勝利に結び付けた”逆転勝利“の戦闘であった

        【交戦戦力】
石山本願寺
雑賀衆
        【指導者・指揮官】
鈴木孫一


        【戦力】
約15,000兵

        【損害】
2,700兵

        【交戦戦力】
織田軍

        【指導者・指揮官】
織田信長
明智光秀・・天王寺砦(城)守城部隊として

        【戦力】
天王寺砦:不明
織田本隊:約3,000兵
        【損害】
不明


17:“松永久秀”が“織田信長”から離反し“信貴山城の戦い”(1577年10月)に繋がる原因となったのは“天王寺砦の戦い”での辛勝後に“織田信長“が”松永久秀“に与えた”屈辱的配置人事“であった

”織田信長“は“天王寺砦の戦い”で窮地に陥った。しかし既述の様な“突撃敢行”策が奏効して辛うじて“石山本願寺勢”を押し返す事に成功した。しかし、これで“石山本願寺”との戦いに決着が付いた訳でも無く“織田信長”は“大坂(石山)本願寺”との次の戦闘に備えて、周辺に十か所の付け城を設け“松永久秀”並びに“佐久間信盛“等を”天王寺砦守備隊定番“(じょうばん=駐在して警備等に当たる任務)に命じ、自らは戦場を離れた。

この人事は“天下人・三好長慶政権期”の最重要家臣として前項で記した様に、栄耀栄華を極めた“松永久秀”にとっては耐えられない屈辱的配置人事であったのである。

既述の様に“織田信長”の“最大の弱点”でもある“他人の思いに考えが及ばない”人間性が露呈した人事を“誇り高き・松永久秀”に対して行った。有力戦国大名、権威者に対しては“忖度・気配り”をする“織田信長”であるが、配下となった武将には不用意、傍若無人に対応してしまう“不器用”さが表れたのである。

“松永久秀”に対する今回の人事は“織田信長”にしてみれば“何故、松永久秀がそこまで怒るのか?“と信じ難いものであったのであるが、当の”松永久秀“にとっては”自尊心“を根底から傷付けられ“織田信長”に対する信頼を失うものであった。

”松永久秀“は過去に”織田信長“に対する”敵対行為“に及んだが、既述の通り、命は救われた。“織田信長”が彼を許した理由は“松永久秀”には使い途がまだまだあると考えた事、そして“松永久秀”の膨大な財力だったとされる。

1575年11月の“従三位権大納言・右近衛大将”への叙位、昇任以降“天下人”を自認した“織田信長”の“近親者”並びに“従属的同盟者”あるいは“傘下”に加わり、信頼関係で繋がった武将達に対しての対応は益々“傍若無人”そして“不器用”なものと成ったと伝わる。“義弟・浅井長政”への対応の拙さから窮地に陥った経験から学ばなかったのか“天下人”を自認した“織田信長”の近親者、並びに“従属的同盟者”に対する“人間関係の不器用さ”は以前にも増して悪化した様だ。

次項6-24項で記述する“別所長治“そして”荒木村重”等への対応も同様に不器用なものであったと言えよう。

“彼等、武将達が一様に抱く自尊心、将来への安心感”を砕く様な言動を吐いて了う性癖に拠って“身近で信頼関係で繋がった家臣、武将達”が“織田信長”に抱きたい“信頼感、安心感“を自ら砕いて了うのである。

“松永久秀”は“織田信長”の今回の“配置人事”にブチ切れ”天王寺砦守備隊定番“を勝手に放棄し、1年半後の“信貴山城の戦い“(1577年10月5日~10月10日)で決起する。実は“松永久秀”が謀叛に及ぶ背景にはそこまでに至る不満の積み重ねがあった。“今回の屈辱的人事”の他にも“屈辱的扱い“の数々の事例の積み重なりがあったのである。これ等の経緯、そして”信貴山城の戦い”に至る経緯に就いては次項6-24項で詳述する。

“織田信長”はこうした“裏切り”に及んだ“近臣・従属的同盟者”等の理由、背景に対して全く意を介さず、鈍感であり、従って油断をしているケースが多い。繰り返しと成るが”浅井長政”が反逆に及んだ時も全く同じであった。“松永久秀”のケースも彼の不満、怒りに全く意を介さず、結果、彼が謀叛に及ぶ動機を理解出来ずに“何故だ?”と訝りの言葉を残している。“織田信長”が最期に“明智光秀”に討たれる必然性がこれ等の前例からも見えて来るのである。

18:“織田信長”と“毛利氏”との“通交関係・同盟関係”が遂に破綻する

“織田信長”は“毛利氏”と“通交関係・同盟関係”を結び、その維持に努めた。しかし“織田信長“の”全国統一事業“が進むにつれて”領国境界問題“が発生する。武力闘争に発展する事を何とか避ける為の“有力戦国大名”達との間に“通交関係・同盟関係”を結んで来た“織田信長“であるが”京“を追われた”足利義昭“は”織田信長“に抗う事を決して止めなかった。そうした両者であったが“織田信長”が“天下布武”の旗印の下“全国統一事業“の動きを一層強気に推し進める起点と成った史実が重なった。

既述の様に、その第一が“武田勝頼”を“長篠の戦い”(1575年5月)に破った戦闘であり、そして第二が、その後に“正親町天皇”から“足利義昭“と並ぶ”従三位権大納言・右近衛大将“の叙位、昇任(1575年11月)を得た事であった。

こうした“織田信長”の変化は逆に、今や天敵とも言える“足利義昭”の“第3次・織田信長包囲網“構築への動きを先鋭化させた。そして”足利義昭“が選んだのが”毛利家“を引きずり込む事であった。

“別掲図・織田信長と毛利氏の同盟関係時代、そして決裂“を理解の助に参照願いたい。①から⑧迄のコメントを付けてある。ここに“織田信長”と“毛利元就”との間に“通交関係・同盟関係”が開始され、そして“毛利元就”死後(1571年6月)紆余曲折を経ながら“通交・同盟関係“は維持されたものの、徐々に綻びが生じ始め、遂に“破棄に至る7年間の史実が記されている。

特に④⑤⑥⑦⑧のコメントが両者の”通交関係・同盟関係”に綻びが入り、遂に決裂に至った経緯の説明である。同盟関係決裂後“織田信長”と“毛利氏”は以後6年間に及ぶ戦闘状態に入る。この戦闘状態の最中“織田信長”は“本能寺の変”で命を落とすのである。


18-(1):“毛利”方では“同盟破棄”(1576年5月)に至る9ケ月前から“織田”方との“通交関係・同盟関係”の破棄について検討に入っていた

”毛利氏“の領土拡大に関して”山陰地区・山陽地区“夫々の地域に於ける記述の中”山陽地区“に就いては次項(6-24項)で更に詳述して行くが、その中で”天神山城“の戦いに就いては少し此処で紹介して置きたい。

1575年(天正3年)9月:

“天神山城の戦い”( 1575年/天正3年/9月上旬)の結果“毛利輝元+宇喜多直家“軍が勝利し”織田信長“が支援する“浦上宗景”は所領を追われ“美作国”の“三浦貞広”と共に滅亡する。“織田信長“はこの期間、後述する戦闘に多忙で、支援する関係にはあったが、この戦いで”浦上宗景“に援軍を送る事が出来なかったのである。

“天神山城の戦い”(岡山県和気郡和気町田土)に積極的な役割を果した“宇喜多直家”は“備前国・播磨国”に於て勢力を拡大する結果と成る。“宇喜多直家”の勢力拡大は“宇喜多直家”を支援した“毛利氏”にとっても“東”へ更なる勢力を拡大する結果とも成った。

こうした動きは当然の事として“天下布武”の旗印の下“全国統一”を掲げ“西”へと侵攻を図る“織田信長”勢力との“領国境界問題”に繋がり、通交関係、同盟関係の維持を益々難しくした。

“織田信長”は“反・毛利”の急先鋒である“浦上宗景”支援を“播磨国“で明確にしていた。“別掲図・織田信長と毛利氏の同盟関係時代、そして決裂“で⑥のコメント“表面上は織田信長との同盟関係を維持しているものの、毛利方は織田信長との戦いを真剣に検討し始めている“の通り”山陽地域“に於いて”織田・毛利“いずれかと与する”周辺の武将“間の抗争関係が結果的に“織田・毛利”間の“通交関係・同盟関係”に影響を及ぼし、結果的に“織田・毛利”間の同盟関係が破綻する事に繋がるのである。

“別掲図”に記した⑥のコメントに関連して、1575年(天正3年)9月の項に“毛利輝元”が1575年9月の段階で、叔父の“穂井田元清”(ほいだもときよ・穂田元清とも表記する・毛利元就の四男だが側室の子であった・猿掛城のあった穂田郷の在名から1575年11月から穂井田姓を名乗った・生:1551年・没:1597年)宛に“織田信長”を敵とした場合を想定した書状を出した史実が書かれている。この記述に上記が裏付けられている。

更に“毛利氏”は同年10月に後述する“東西弓箭の儀”に関する“家中”の談合も行っている。以上から“毛利氏”家中では最終的に“織田信長”との“同盟破棄”となる9ケ月前から密かに“織田信長”と戦う事の是非についての議論、検討が開始されていた事が分かるのである。

19:“毛利氏”が“織田信長”との“通交関係・同盟関係”の破棄を決断するに至る決定打と成った“足利義昭の鞆受け入れ”に至ったプロセス

19-(1):“吉川元春“の書状から”毛利“家中では“織田信長“と戦う可能性について既に議論されていた事が分かる

1575年(天正3年)10月21日:

“毛利氏”と“織田信長”の“同盟関係”の維持が“山陰地域”並びに“山陽地域“両方の状況から難しくなった事を“吉川元春“は”因幡国“(鳥取県の一部)の”山名豊国“(生:1548年・没:1626年)の家臣“大坪氏”に宛てた書状に記している。

“山名豊国“に就いては”第2次・尼子再興運動“の項で記述した様に”山中鹿之助“方に与し、その賞として“鳥取城”を奪還したが、彼はその後“尼子再興軍”を裏切り“毛利方・吉川元春”に寝返った。(1573年11月頃?)

この史料からは”毛利”家中では1575年10月の時点、つまり“足利義昭“が”鞆“へ強制的に移座して来る4ケ月前、そして”織田信長“との”同盟破棄“に至る7ケ月前に“織田信長”と戦闘関係に突入する“ケーススタデイー”をしていた事が分かる。以下がそれを裏付ける史料である。

年内のことは吉田(安芸にある毛利氏の居城吉田郡山城)に集まり“東西弓箭”(弓矢)の儀について相談したいと輝元(甥の毛利輝元を指す)からつづけざまに言って来ているので、まず吉田に参ります

文中“東西弓箭の儀”(とうざいきゅうせんのぎ)とは“織田信長との戦い”を意味し“毛利家中“として”織田信長“と戦う事の是非が検討されていた事が史実である事を裏付ける史料である。

19-(2):“毛利氏”は従属する領主達に対し“織田信長”と戦闘に成った場合には協力する様求めた

19-(2)-①:毛利氏織田信長和戦対策書

“大日本古文書“に”毛利氏織田信長和戦対策書“と名付けられた文書がある。”毛利氏“が家中の談合に際して、予め談合の内容を出席者に示して置いた議事メモで、具体的には①弓矢(合戦)にならない時②弓矢(合戦)になった時、の大きく二つの仮定に添って“毛利家中”として考えるべき事柄を示している。

=弓矢(合戦)にならない時の対応=
①“宇喜多直家”(現在は毛利方だが)が“織田方”と成り“織田氏“が五畿内はもとより、家中が結束して手強くなり、毛利方に仕掛けて来た時にどう対応するか(つまり織田氏が強力な支配圏を確立した場合の毛利氏としての外交方針は?)

②足利義昭の処遇をどうするか・・毛利家中の考え方を如何まとめるか

③毛利家領内の結束の事

=弓矢(合戦)になった時の対応=
①合戦の最中に“毛利家中”の結束
②出雲・伯耆・因幡の国(山陰地区)をどの様に維持して行くか
③“宇喜多直家”をいかにして“毛利方”に繋ぎとめて置くか

又以下の様な史料も存在する。
織田信長の毛利輝元に対する逆意(逆心)は明らかであるから、まず、そちらに向かう事にする(吉川家文書)

19-(3):“毛利氏”と“織田信長”が“通交関係・同盟関係”を破棄するに至った決定打と成った“足利義昭”からの“毛利領鞆への移座”を要請して来た事に対し、受諾する事を決めた

19-(3)-①:“足利義昭”が“毛利領国”の“備後国・鞆”(広島県の一部)に強引に下向して来る

1576年(天正4年)2月8日:
“足利義昭”は1576年(天正4年)2月8日付けで “吉川元春”に“鞆”に下向するとの御内書を発行している。“織田信長”によって“京”を2年半程前(1573年7月/元亀4年・天正元年)に追われた“足利義昭”は“毛利輝元”の“安芸国”に入りたいとの要請を繰り返し寄越して来ていた。こうした動きに対し“織田信長”との“通交関係・同盟関係維持”を重視する“毛利氏”は、要請を断って来たという経緯があった。

しかし乍ら“足利義昭”は諦めず、御内書を“吉川元春”(毛利輝元の叔父・生:1530年・没:1586年)に発行し続け、遂に強引な“鞆下向”を敢行したのである。

メモ:“毛利元就”が病床に3人の息子を呼び“3本の矢の遺言をした”というのは史実では無い

“毛利家”には“毛利元就”が1557年(弘治3年)に3人の息子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に遺した文書が“三子教訓状”として伝わる。それは“天下と距離を置く”つまり“織田信長“の様に”天下統一“を目指す事はせず”大内氏“追討の次は”九州北部“並びに”中国地方“に於ける支配を盤石なものとし、地元に於ける基礎固めに終始する事”を命ずるものであった。

世間に“逸話”として伝わる“毛利元成が3人の息子を枕元に呼び、3本の矢を折って見せ、3本纏めると容易には折れない事を示す事で、3人が結束して毛利家を守る様に“と言い遺し“毛利元就”の死後、3人の息子達は必ずこの教えに従う事を誓ったという話は”史実”とは異なる。史実は下記である。

史実
そもそも“三子教訓状”に“3本の矢“に就いての記述は無い。しかも”毛利元就“が死の間際に3人の息子に逸話に伝わる様な教訓を残す事は物理的に不可能だった。長男の“毛利隆元”は父・毛利元就よりも8年も前に没していた事、又、次男“吉川元春“は”山中幸盛“(山中鹿之助)率いる”尼子再興軍“との戦いの為”出雲国“で在陣中であった事である。従って史実として1571年6月14日の“毛利元就”の死を見届けたのは3男の“小早川隆景”と、孫の“毛利輝元”だけだったのである。“毛利元就”が3人の息子を病床に呼び“3本の矢”を示して結束の重要さを遺言したとの“逸話”が生まれたのは“江戸時代”に編纂された“前橋旧蔵聞書”に書かれた話からだとされる。

19-(4):“足利義昭“が”移座地“の候補として”鞆“を選んだ理由

“織田信長”との“通交関係・同盟関係”の維持を重視して来た“毛利家中”であったが、執拗、且つ強引な“足利義昭”の“自国領内の鞆への移座”が“毛利輝元”の決断を揺るがせ“足利義昭”の“毛利領・鞆”への下向を受諾した。

以下2点が“足利義昭”が執拗、且つ強引に“毛利氏”の領国内の“鞆”への移座を敢行した理由とされる。

1:嘗て“足利尊氏”が“光厳上皇”(北朝初代天皇・生:1313年・崩御:1364年)の院宣を得て“新田義貞”追討の旗揚げをした由緒と縁起の良い場所(1336年)

2:都を追われた“第10代将軍・足利義稙”(生:1466年・没:1523年)が“大内義興”(生:1477年・没:1529年)の庇護の下“京”への復帰を無事果たす事が出来た(1508年)吉兆の地であった

解説:
何としてでも“足利家の栄光よ再び!”の執念を燃やす“足利義昭”にとっては上記の経緯を持つ“鞆”は“足利家“にとっての”地域ブランド“という意味もあった。”織田信長“に”京“を追われた(1573年7月:槙島城の戦い)“足利義昭”は“湯川直春”(亀山城主・生年不詳・没:1586年)を頼り“紀伊国・由良”の“興国寺”に“1574年(天正2年)11月9日に着き、滞在したが“由良”周辺はほゞ全てを“織田信長”勢に囲まれつつあった。こうした“環境”から逃れる為“足利義昭“は起死回生を図るべく、逃げ出す様に”由良“を諦め”鞆“への脱出を図ったのである。

20:“鞆”への強引な“移座”で“足利義昭”は“織田信長”と“毛利輝元”間の“同盟関係”の分断にも成功する

“足利義昭”は“室町幕府再興”の執念を持ち続けた。“第一次”そして“第二次”の“織田信長包囲網”が失敗したにも拘わらず“毛利氏・備後国・鞆”への“移座”を強行した。結果“毛利氏”に受け入れられた“足利義昭”は、此の地を拠点として“第3次織田信長包囲網”構築に動いた。

“織田信長”と“毛利家”との友好関係は1569年(永禄12年)8月頃に”織田信長“が”毛利元就“の求めに応じて”木下秀吉″等の軍勢を“但馬国”(兵庫県の一部)並びに“播磨国”(同左)へ派遣した事が始まりだという事は既述の通りである。その後の“織田信長”と“毛利氏”との“通交関係・同盟関係”の変遷に就いては“別掲図”の通り紆余曲折を経乍らも維持されて来ていた。

“足利義昭”が過去にも“織田信長”と“有力戦国大名”との“同盟関係・友好関係”を分断させる動きを展開して来た事は既述の通りである。そして今回も“足利義昭”は、周囲の“武将間の対立関係”等に注意深く目を配り、時として関与し“織田信長”と“毛利氏”との関係分断を図るべく、四方に手を廻す動きを怠らなかったのである。

嘗て“足利義昭”を“織田信長”が“上洛”させた1568年(永禄11年9月)時点での“織田信長”と“毛利元就”は敵対関係には無く、翌1569年8月頃には“通交・同盟関係”を結んだのである。“毛利元就”死後(1571年3月14日病死)も“次男・吉川元春”(生:1530年・没:1586年11月15日)と“三男・小早川隆景”(生:1533年・没:1597年)は“三子教訓状”を守り“織田”との同盟関係を維持する事に努めた。その後“織田信長”が“将軍・足利義昭”と決別、敵対関係と成り“将軍・足利義昭”を”京“から追放”(1573年7月)するという事態と成ったが“織田信長”と“毛利輝元”は“足利義昭”の“京都帰還”に就いて前向きに相談し合う関係にあった事は既述の通りである。(1573年12月の交渉で余りにも足利義昭の条件が高飛車であった為、担当者であった秀吉が交渉を決裂させた事は既述の通りである)

その後も紆余曲折があったが、両者の同盟関係は維持された。しかし、その協調関係、同盟関係が次第に決裂に向かう事態が次々と起こった。“足利義昭・織田信長政権期”に与した“備前国”(岡山県、香川県の一部)の戦国大名“浦上宗景”(生没年不詳)と“毛利輝元”に与した“宇喜多直家”との対立がその原因の一つである。この両者の抗争が“織田信長”と“毛利輝元”との関係に亀裂を入れるものであった。

この抗争の展開に就いては次項6-24項で詳述するが、こうした武将間の抗争に拠る“織田・毛利間”の同盟に及ぼした亀裂よりも決定的な“織田・毛利間の同盟”を分断する事態が起こる。“織田信長”に拠って“京”を追われた“足利義昭”にとって“織田・毛利”両者の同盟関係が他の“武将間の対立がトリガーとなって崩壊して行くという消極的な分断策には飽き足らず、自らが強引に“毛利領国内”の“鞆”への“移座”を強行する事に拠って“分断”させるという強行手段に出たのである。

この“足利義昭”の強行策が“織田信長”と“毛利輝元”間の“同盟関係”の分断を決定付けた。

21:“鞆幕府“があったとされる地を史跡探訪する・・2022年7月8日

“幕府の体をなしていたのか?”の批判的な説もあるが“川西利衛“氏は1983年(昭和58年)の“戦国史を斜めに斬るー鞆幕府”の著作で“鞆幕府”という表現を用いている。又“藤田達生“氏も”鞆幕府論(2010年)“で”将軍義昭とその関係者一行の逗留によって、あたかも“鞆の浦”周辺には幕府が成立したような様相を呈していた“と記述し、その際に”鞆幕府“の呼称を用いている。


22:“毛利氏”と“織田信長”軍が遂に戦闘状態に突入

1576年5月~1577年2月21日:

“毛利”方が“足利義昭”の強引な“鞆”への移座を受諾(1576年2月)した事が“毛利”方と“織田信長”方との“通交関係・同盟関係決裂”(1576年5月)の決定打と成り1576年(天正4年)5月に“毛利・織田”の8年近くに及んだ“通交関係・同盟関係”が破棄され、その2ケ月後に“大坂(石山)本願寺”からの支援要請に応えて“毛利氏”は水軍による兵糧支援を行った。

此処に両者は、以後6年間に亘る“戦闘状態“に突入した。その緒戦となったのが1576年(天正4年)7月13日の海戦”第一次木津川口の戦い“である。

22-(1):“天下人”を自認した“織田信長”は1570年以後1580年まで続く“石山合戦”を本格的に再開“天王寺砦の戦い”では辛勝した後に“大坂(石山)本願寺包囲”を陸上に於いては整えた。そこで“石山本願寺”側は兵糧搬入等を“毛利氏”の“水軍”に頼った。それを阻止しようとする“織田水軍”は海戦を挑んだ

”天王寺砦の戦い“で”石山本願寺勢“を押し返し辛勝した”織田信長”は“石山本願寺“周囲に付け城を築き“松永久秀”等を定番に置く人事を済ませると“安土”へ戻った

“石山本願寺包囲作戦”が“天王寺砦の戦い”で辛勝であった事から“石山本願寺勢”の戦闘力が侮れない事を身を以て知らされた”織田信長“は”陸上“での“本願寺包囲網”策としては“付け城配備策“で対応した。しかし、1576年5月をもって“同盟関係”が破棄され、敵方に回った“毛利軍”は“大坂(石山)本願寺”からの“兵糧搬入要請”に応じて“毛利水軍”を使って“石山本願寺”から”大阪湾“へと繋がる”水路“を活用しての”大坂(石山)本願寺“支援策をとった。

具体的には”織田信長“が”安土“へ戻った隙を突いて“兵糧攻め”に苦しむ“大坂(石山)本願寺”を“小早川水軍”並びに“村上水軍”を中心とした“毛利水軍”が“700~800艘”の“大船団“を編成し、瀬戸内海を使った”兵糧補給作戦“を展開したのである。“石山本願寺包囲作戦”が“毛利水軍”の水路を使った“兵糧支援”で結果的に尻抜けに成っている現実にぶち当たった“織田信長”は“織田水軍”を以て“毛利水軍”の兵糧支援を阻止する“海戦”を決断した。

22-(2):“第一次木津川口の戦い”の戦況・・“織田水軍”が大敗する

1576年(天正4年)7月12日~13日:

“毛利”軍が”石山(大坂)本願寺“の要請に応えて”毛利水軍“と“村上水軍”を中心とする700~800艘の船団で兵糧を“石山(大坂)本願寺“に運び入れる支援作戦を展開した。これに対して“織田信長”軍は“和泉・摂津”の水軍を中心とする300余艘で阻止する作戦に出た。“織田方”の主たる武将は“佐久間信盛”の下で海上警固に当たっていた“真鍋貞友“(和泉国大津城主・生年不詳・没:1576年7月13日)と“沼野伝内”(生年不詳・没:1576年7月13日)の名が記録されている。

“毛利水軍”は淡路島の岩屋を出発、泉州の貝塚に渡り、その後“紀州・雑賀衆”と合流して翌7月13日に“堺津”から“木津川口”に進んだところで“織田水軍”との海戦が始まった。

出典:谷口克広著・信長の天下布武への道

22-(2)-①:“織田水軍”が壊滅する

1576年(天正4年)7月13日:

この時期の“織田信長”の畿内での戦いの主たる戦法は“麦薙・苅田”を頻りに命じた“地上戦“に拠る“兵糧攻め”であり“海戦”となると“毛利水軍・村上水軍”に比べ“織田水軍“は船数でも明らかに劣った。更に“海上戦術”でも“毛利”方が用いた“焙烙火矢”(ほうろくびや=陶器に火薬を入れ、導火線に火を点けて敵船に投げ込む手榴弾の様な兵器)攻撃に“織田信長”方の船は焼かれ、応戦した“織田水軍”の指揮官級の8名の武将の内7名が討ち死にする等、多くの戦死者を出し、壊滅した。

大勝利した“毛利”方は“大坂本願寺”(石山本願寺)に兵糧を届ける任務を果たし帰国した。一方の”織田信長“軍は“毛利水軍”による“大坂本願寺(石山本願寺)への兵糧搬入阻止“という目的を果たせなかったのである。

“織田信長”方のこの敗戦は“足利義昭”にとっては、彼が主唱する“第三次・織田信長包囲網“が”毛利氏“を抱き込んだ結果、その緒戦から大勝利を収めるという結果を出した事を意味した。“織田信長”にとってこの海戦での大敗は彼が構築して来た“大坂(石山)本願寺包囲網”作戦上の盲点が“水軍の弱点”にある事を露呈した。“石山本願寺封鎖”が海上から見事に“強行突破”されるという大きな弱点を晒したのである。

22-(3):“第1次・木津川口の戦い”の纏め

年月日:1576年(天正4年)7月13日~14日早朝
場所:木津川口
結果:毛利水軍、小早川水軍、村上水軍等“瀬戸内水軍衆”が勝利し“石山本願寺”への補給路が確保された

        【交戦戦力】
毛利水軍
小早川水軍
村上水軍
宇喜多水軍
雑賀衆

        【指導者・指揮官】
乃美宗勝(生:1527年・没:1592年)
村上元吉
村上景広(村上元吉の従弟)
児玉就英
戸川秀安(宇喜多氏)
他、計15名

        【戦力】
約700~800隻

        【損害】
不明
        【交戦戦力】
織田水軍





        【指導者・指揮官】
真鍋貞友(戦死)
沼野伝内(戦死)



他、計8名

        【戦力】
約200~300隻

        【損害】
敵方の焙烙玉(陶器に火薬等を入れ導火線に火を付けて敵に投げつける手榴弾の様な兵器)火矢の前に“織田水軍”の船は焼かれ、指導者、指揮官、並びに多くの戦死者を出すという壊滅的打撃を受けた


23:“毛利”氏との“緒戦”で“毛利水軍”に大敗した”織田信長“の巻き返し策

“織田信長”にとって“足利義昭”が“毛利”勢を“第3次・織田信長包囲網”の中核に据えた緒戦の海戦で大敗した事は”痛恨“の極みであった。“第一次木津川口の戦い”で敗れた“織田信長”は自軍の“水軍力”が“毛利水軍”に比して大いなる弱点を露呈した事に対して“石山本願寺包囲網”を完成する為には“毛利水軍”に勝つ事が不可欠との認識から“九鬼嘉隆”(九鬼氏11代当主・生:1542年・没:1600年)に2年間の時間を与え“織田水軍”の抜本的強化策を命じた。

“織田信長”は“九鬼嘉隆”に与えた“水軍強化”を成す迄の2年間を既述した③紀州攻め④手取川の戦い⑤信貴山城の戦い⑥第1次・上月城の戦い⑦三木合戦⑧第2次・上月城の戦い、に全力を傾注する。この間に漸く“織田水軍”の対策が成り⑨第2次・木津側口の戦いへと向かうのである。

この2年間の間の戦闘③~⑧は何れも一つとして楽なもので無かった事は後述する。

中でも④の“手取川の戦い”(1577年9月23日)は“織田信長”が“越前・加賀・能登”を含めた“北陸全域の平定”を狙い、最初で最後の直接対決と成った“軍神・義の武将・毘沙門天の化身“として知られる”上杉謙信“との直接戦闘であり、しかも大敗を喫する事に成る。

“織田信長”は“関東管領”という“室町幕府の権威”の立場に就き、その上“名門・上杉家”を継いだ“上杉政虎”(後の上杉謙信)に忖度し、既述の様に1564年6月頃から丁寧な“通交関係”を保って来た、その“上杉謙信”との直接対決である。“手取川の戦い”に就いては後述するが、何しろ“上杉謙信”の戦歴は“川中島の戦い”での引き分けはあるが、その生涯の戦で殆ど負け知らずとされ、明らかに”最強戦国大名“の一人であった。

“天下人”を自認し“全国統一事業”に邁進する“織田信長”の動きに対し“毛利氏”との“同盟決裂”から半年にも満たない1576年の秋頃にその”上杉謙信“からも”通交関係・同と盟関係“の破棄がなされるのである。

24:“天下人”を自認した”織田信長“は”全国統一事業“を成す為に”戦国大名“としての己の退路を断つ行動をとる

“織田信長”は“天下人”を自認した直後の行動として、既述の様に“天下人の城・安土城”の築城を開始した。そして“大坂(石山)本願寺攻め“を本格化し”天王寺砦の戦い“に辛勝したものの“毛利氏”との同盟が破棄された直後の緒戦”第1次木津川口の戦い“の海戦に大敗するという苦しいスタートであった。しかし”織田信長“は全く怯む事無く“天下人として全国統一事業を成す”という強い意志には一点の陰りも見せなかった。

それを裏付ける行動が“戦国大名家”としての“織田家家督”並びに”織田家領国“更には”居城・岐阜城“の全てを”嫡子・織田信忠“に譲る行動をとった事である。

1576年(天正4年)11月28日:

“織田信長”(当時41歳)は満19歳の“嫡子・織田信忠”(生:1557年・没:1582年6月2日)に“織田家”の家督と岐阜城を譲った。

“天下人”を自認した“織田信長”は“全国統一事業”への動きを早めた。嫡男“織田信忠”が”秋田城介“(古代からの国司で平安時代に令外官と成り、鎌倉幕府の有力御家人・足立景盛も任じられた官位。室町時代以降は名誉職であった・何故朝廷がこの官職に任じたのかに就いては織田信長の全国統一を朝廷も後押しをする、という姿勢、戦略が透けて見え、その一環だと考えられる)に任官した日(この日,1575年11月7日に、織田信長自身も、右近衛大将に任官している)に”一戦国大名家“としての”織田家家督“を嫡男“織田信忠”に譲ったのである。

“織田信長”は同時に”岐阜城”並びに“岐阜城”を中心とした“美濃国・尾張国“等”織田家領国“も”嫡男・織田信忠”に譲っている。通常の“戦国大名”ならば“隠居”に際しての行動だが“天下人・織田信長”にとって“織田家家督・織田家領国”は“一戦国大名“に属するものであり”天下人・織田信長“に属するものでは無い、との考えなのである。

”織田家家督“継承に関しては”織田信忠“に”斎藤利治“(斎藤道三の末子とされる・生:1541年?・没:1582年6月2日)並びに”河尻秀隆“(黒母衣衆筆頭・生:1527年・没:1582年6月18日)そして“林秀貞”(生:1513年・没:1580年)等“譜代家臣団”を後見役として付けるという措置を講じている。

25:“天下人”としての“全国統一事業”を加速すべく戦った最初の戦いは既述の通り“大坂(石山)本願寺”との“天王寺砦の戦い”であった。辛勝した“織田信長”は“石山本願寺勢”をここまで強力な戦闘集団にさせている“雑賀衆”の存在を重要視し、排除すべく“紀州攻め”に動いた

25-(1):“雑賀衆”と“石山本願寺”との結び付き

“大坂本願寺(石山本願寺)“の戦闘力には”浄土真宗本願寺派“の信徒だけで無く”鉄砲隊“として“紀伊国”の“雑賀衆”(さいかしゅう)と“根来寺”が傭兵として協力していた。

“雑賀衆”は①雑賀荘②十ケ郷③社家(宮)郷④中郷⑤南郷で構成された土豪集団を形成しており“本願寺”に傭兵として協力はしているが、全員が“浄土真宗信者”であった訳では無い。

“雑賀衆”は海運や貿易も営み、彼等の地は経済的に豊かな地域であった。鉄砲伝来以来 、豊かな経済力、そして“堺”に近いという、地の利を生かして“根来衆”に続いて一早く“鉄砲”を取り入れ、優れた射手を養成して来た。更に、鉄砲を有効に用いた戦術を考案した結果“戦国一”と言われる“鉄砲軍事集団”を作り上げていた。

又“雑賀衆”には“鈴木孫一”(鈴木重秀)という優れたリーダーがいた。10年に亘る“石山合戦”の緒戦と成った“野田城・福島城”の戦い(1570年8月26日~9月23日)で“三好三人衆”軍の傭兵としても働き“織田信長”軍を苦しめている。“雑賀衆”は最盛時には8000挺の鉄砲を有する“戦国一の鉄砲軍事集団”として知られる存在だったのである。

この“雑賀衆”の他に“根来寺”(和歌山県岩出市根来2286)も僧兵に拠る鉄砲隊が傭兵として“石山本願寺”の兵力の一部を担っていた。しかし言うまでも無く“根来寺”は“真言宗”であり“浄土真宗”では無い。従って“雑賀衆”も“根来寺”も両勢力共に“本願寺”と“一蓮托生“(結果の良し悪しに関わらず行動、運命を共にする)という強い関係では無かった。

”根来寺“は”織田派“と”本願寺派“に分裂していたという内情もあり”織田信長“にとっては調略するチャンスが大きかった。この件については後述する。

25-(1)-①:根来寺訪問記・・2021年(令和3年)10月26日(火曜日)

住所:和歌山県岩出市根来2286
交通機関等:
既述の安土城見学を23日(土)に終えており当日は大阪市北区のJR桜ノ宮JR駅から天王寺駅迄行き、阪和線に乗り換え凡そ40kmの“和泉砂川駅”で下車、そこから“和歌山バス”で“根来寺”で下車というルートであった。

歴史等:
和歌山県岩出市にある“新義真言宗総本山”である。開山は“鳥羽上皇”(第74代天皇・生:1103年・崩御:1156年)が帰依した空海以来の学僧と言われた“覚鑁”(かくばん・興教大師・生:1095年・没1143年)である。本尊は大日如来、金剛薩埵、尊勝仏頂の三尊。
本拠地を高野山から根来寺に移ったのは1288年頃とされる。室町時代末期に最盛期を迎え、坊舎450の一大宗教都市を形成し、1万余の根来衆と呼ばれる僧兵軍団を擁した。根来寺僧が種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺を持ち帰り、僧兵に拠る鉄砲隊が作られた。以後の根来寺の歴史展開に就いては“羽柴秀吉”に拠る“雑賀攻め”(紀州征伐)等、次項6-24項以降で記述して行く。“徳川家康”によって再興され、“紀州徳川家”の庇護の下で主要な伽藍も復興されるという歴史を辿った。

訪問記:
往時の“根来寺”の規模は400万平方メートルと壮大であったと伝わる。(因みに現在の大阪城の規模は公園を含めて105万平方メートルとされるから4倍程の規模であった)
写真に示す“国宝大門”は我々が“根来寺”の大伝法堂(本堂)大塔、そして開山“興教大師”が祀られている“奥の院”を含めた主たる建造物を訪ねた後、境内を離れ、帰りのバス停(岩出図書館前)に行く道の途中に聳え立つ壮大な門であった。根来寺の境内からは凡そ1km程離れて立つていたと思われる。当時の“根来寺”が如何に壮大な規模であったかを実感出来た。
“根来寺”の訪問を終え、再び和歌山バスに乗り“和泉砂川駅”で下車、そこから“JR桜ノ宮駅”に着くまで凡そ2時間程の旅であった。



25-(2):“織田水軍強化”をすべく“九鬼嘉隆”に2年間の猶予を与え、その間、既述の各戦闘に向かった“織田信長”は“本願寺勢”の戦闘能力の源と考えられる“雑賀衆攻撃”を行った

既述の様に“大坂本願寺“の戦闘力は”浄土真宗本願寺派“の信徒だけで無く”鉄砲隊“として“紀伊国”の“雑賀衆”(さいかしゅう)並びに“根来寺”の傭兵に依存する点に焦点を絞った“織田信長”は“雑賀攻め(=紀州征伐)”を決断した。

下記“別掲資料:石山合戦1577年2月~3月の織田信長の雑賀攻めと状況図”を先ず理解の助に参照願いたい。


25-(2)-①:“根来寺”内の“織田派”、並びに“雑賀内五郷“の中の“雑賀三郷”(宮郷・中郷・南郷)を味方に付けるべく“調略”に成功した“織田信長”

1577年(天正5年)2月:

“石山(大坂)本願寺“方の”鉄砲隊“の戦闘力は強力であった。その力を削ぐべく”織田信長“は“紀伊国”の“雑賀衆”と“根来寺”の調略を試みた。

その結果“根来寺”は1577年(天正5年)2月に“根来寺”の有力子院“杉坊”の院主“杉坊照算”が上洛し“織田信長”に協力する旨を申し出た。“杉坊照算”は現地の状況を伝え“織田”方が“雑賀侵攻”をする際の案内役を担った。

一方の“雑賀衆”は別掲図にある様に“五ケ荘の地域連合”から成って居り,その中の三郷(これを三緘/みからみ/と呼んだ・宮郷、中郷、南郷の総称である)に対しては“織田方”への味方をする様、約束させる事に成功した。しかし、残る“鈴木孫一”(雑賀衆、雑賀党鈴木氏の棟梁や有力者が代々継承する名前・居所から平井孫一の名でも知られる・鈴木重秀、鈴木孫一に比定される・生没年不祥)に率いられた“雑賀荘”と“十ケ郷”は一貫して“反・織田信長”の立場を変えなかった。

“根来寺・織田派“並びに”雑賀三郷”の調略に成功した“織田信長”は愈々“雑賀攻め”に動いた。

25-(3):“雑賀攻め”(=第一次紀州征伐)を決行

1577年(天正5年)2月9日~2月22日:

“毛利水軍”との“第一次木津川口の戦い”(1576年7月13日)で惨敗してから僅か7ケ月後の戦いであったが“織田信長”は“安土”を出発(安土城の天守が完成するのは1579年5月であるが、既述の様に信長は築城開始後、早い時期から移り住んでいた)その日の中に“京都”に入り、2月16日には“和泉国・香庄”(こうのしょう・大阪府岸和田市)に着陣した。

ここに至る迄に“織田”軍は“畿内・近国”からの兵で100,000もの大軍勢と成っていた。2月22日に“信達”(しんだち・大阪府泉南市)に到り、ここで全軍を二手に分ける戦術をとった。下に示す様に“山の手進軍”と“海岸沿い”を進み“淡輪口”に出る部隊とに二分して進軍したのである。(別掲図:織田信長の1577年/天正5年/2月~3月雑賀攻めのルート、も参照方)

山の手進軍:佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重・別所重宗・美濃三人衆・・・根来寺の“杉坊照算”並びに上記した“雑賀”の三郷(三緘/みからみ)衆が案内者を担った

海岸沿いを進軍:滝川一益・明智光秀・丹羽長秀+織田信忠・織田信雄・・・淡輪(現在の岬町)に出た


25-(4):戦況

25-(4)-①:山の手を進軍 した隊の状況・・(図の①)

1577年(天正5年)2月9日~2月22日:

別掲図“織田信長の1577年2月~3月雑賀攻めのルート”図の①で示した“山の手を進軍した”軍の方が早く“雑賀表”に着いた。ここで“小雑賀川”を①軍が渡ろうと試みた時、敵方は予め川底に“逆茂木、桶、壺、槍先”等を沈めて渡河の妨害を図っていた。

“織田方”の兵達は足をとられて前進出来ず、動きが鈍った。この状況を見て“雑賀軍”は一斉射撃を行い、弓隊は射立てた。“織田信長”軍は多大な損害を受け退却した。

25-(4)-②:海岸沿いを進軍 した隊の状況・・(図の②)

1577年(天正5年)2月28日:

一方”海岸沿いを進軍“した上図②の“織田軍“の部隊は”紀ノ川“を渡り、北方から”雑賀荘“に迫る作戦であった。“雑賀荘”に近い“中野城”(別掲資料:4頁前の石山合戦1577年2月~3月の織田信長の雑賀攻めと状況図、を参照方・中野城は㋐、雑賀城は㋑で示してある)を包囲した。

2月28日に“織田信長”は“淡輪”に本陣を進めた。この動きに同日“中野城”は降伏、開城した。

1577年(天正5年)3月1日:

”織田“勢は”中野城“の東方”平井“(別掲資料:織田信長の1577年/天正5年/2月~3月雑賀攻めのルートを参照方)の“鈴木孫一“(鈴木重秀)の居館(雑賀城上記㋑)を攻撃した。“滝川一益・明智光秀・丹羽長秀”が指揮する大軍が日夜攻め続けた。しかし、敵方も抵抗し、以後戦況は膠着状態と成った。

25-(5):“織田信長”軍は果たしてこの戦いに勝利したのか?

25-(5)-①:“信長公記”の記事から“織田信長”軍が勝利したとする説

“信長公記“には、上記”戦闘が膠着状態“に入った状況から一挙に”雑賀衆“が降参したとの記述と成っており、その間の攻防に就いての記述が無い。”雑賀衆“が降参した時期に就いても明確で無い。しかし”織田信長“が″鈴木孫一“を筆頭とする”雑賀領袖七人“宛に出した”朱印状“が存在する。これを裏付けとして”織田”方が勝利したとする説がある。

この説を受け入れれば“織田軍”が“勝利?”した日付はこの朱印状の日付、つまり、1577年(天正5年)3月15日、乃至は、その前の日の3月14日という事になろう。

25-(5)-②:紀伊風土記の記事を裏付けとして“織田信長”軍が勝利したとする説

今度雑賀の事、成敗を加うべく候ところ、忠誠を抽ん(ぬきん)ずべきの由、折帋(おりがみ=折紙・・用紙を横長に二つ折りにして書く手紙)をもって申し候段、聞こしめ届けられ候。然る上は、異儀(議)なく赦免せられおわんぬ

解説:
“雑賀衆”は降参し“織田信長”は“鈴木孫一”を筆頭とし“土橋若大夫”並びに“粟村三郎大夫”等“雑賀”の領袖(集団の主だった人)七人が連署して誓紙を差し出し降伏したとの記事である。“紀伊続風土記”の記事は“雑賀衆”側からの降伏状に対して“織田信長”が“信長公記”が伝える朱印状を出し、赦免したとしている。

”織田信長“軍が勝利したとする記録は、攻城が半月(自3月1日至3月14日~3月15日)に及び“雑賀城”は力尽きて陥落し、他の豪族達(7人?)と共に降参したとしている。“織田信長”軍が“雑賀”側の降参を受け入れ、勝利したと伝えている。

25-(5)―③:一方“織田信長”方が敗れたとする2説がある

上記は“織田信長”方が体裁を繕った記述であり、史実は“織田”方が敗れたとする下記2つの説がある

説1:“足利義昭・毛利輝元”は“織田軍が雑賀攻めに失敗した”と喧伝していた事、又“織田軍”が引き揚げる際に“佐野砦”を築城した史実、この2つから“織田軍”は敗戦したとする説

1577年(天正5年)3月21日:

“織田信長”軍は陣払いをして“京都”へ引き揚げた。この情報を得た“足利義昭”並びに“毛利輝元”側が“織田信長”軍は“雑賀攻めに失敗、敗北した“と喧伝している。

更に“雑賀攻め”後“織田信長”軍は、引き揚げに際して“佐野砦”(現在の泉佐野市)を築かせている。この事は“織田信長”は“雑賀衆”が手強い相手だという事を十分に認識し、再度“雑賀衆”を攻撃する時の為の準備として砦を築いたのであり、従って今回は戦闘に敗れ、引き揚げた証だ、としている。

説2:ルイス・フロイスが遺した“豊臣秀吉”が8年後に行った“雑賀制圧戦に関する回想記事”の中で“織田信長″期に行った(今回の)雑賀攻め(=第一次紀州征伐)も失敗していたと言及している事を根拠とした“織田信長敗北説”

“1577年(天正5年)の雑賀攻め”(第一次紀州征伐)で”雑賀城“の攻囲戦をそこそこ進めたところで“織田信長“方の被害が大きく“織田”方から”和睦“を呼びかけたとして“織田”方が敗れたと“フロイス”が書き遺している。この説を敗北の論拠とするものである。

“織田信長”が上記した“雑賀攻め”を行ってから、8年後の1585年(天正13年)3月21日に“羽柴秀吉”(注:正親町天皇から豊臣姓を賜るのは1586年9月9日)が再び“雑賀制圧戦”(秀吉に拠る紀州征伐)を行っている。その時の状況を“ルイス・フロイス”(生:1532年・没:1597年)が回想録として遺した内容には“第1回目”(織田信長期)も“第2回目“(羽柴秀吉期)の“雑賀攻め”も,共に失敗に終わった、と書き遺している事から“織田信長”に拠る1577年(天正5年)の“雑賀攻め”が“織田信長”方の敗北であったとする説である。

織田信長は雑賀(城)が陥落するならば、多年包囲してきた“大坂”(本願寺)は自滅する外なきことを知っていたので、既述の様に再度にわたって攻撃し、初回に(これが1577年/天正5年/3月14日/15日?/の織田信長による雑賀城攻撃の事)一連の軍勢を投入した時には、兵数十万に及び、次回(これが1585年/天正13年/3月~4月の羽柴秀吉に拠る雑賀攻め/紀州攻め)には七万人の軍勢をもってした。

だが(雑賀の)地はあまりにも堅固であり、二度(信長、秀吉に拠る2度の雑賀攻めが)ともその試み(討伐)は不首尾に終わったばかりか、味方(織田・秀吉軍夫々共に)はいくらかの損失を被った


解説:

上記回想の中で“ルイス・フロイス”は2度に及んだ“雑賀攻め”(第1次・第2次紀州征伐)が不首尾に終わったと明記している。その中で、8年前(1577年)と記した“雑賀攻め”(第1次紀州征伐)でも“織田信長”軍が“雑賀荘”を10万もの大軍で取り囲んだが、戦場は狭隘であり、大軍が必ずしも有利であった訳では無く、不首尾だった事を回想録として遺している。そして“雑賀傭兵軍団”は最盛時には8000挺もの“鉄砲隊”を有した戦国最強とされる傭兵軍団であった事から“織田信長”軍が可成りの被害を被った事も伝えている。

“織田信長”は“毛利氏”が“第3次・織田信長包囲網”の中軸に加わり“同盟破棄“に及び”石山本願寺包囲“作戦では”天王寺砦(城)の戦い“で辛勝、続く”第一次木津川口の戦い“の”海戦”では大敗している。こうした“本願寺勢”の戦闘能力の源である“雑賀衆攻撃”を決断し、大軍で挑んだ“雑賀攻め”(第1次紀州攻め)でも上記した様に、実際は何方が勝利したかに就いては諸説があり,確証は無い。この戦いでも“織田信長”軍が苦戦を強いられた事は間違い無い。

こうした苦しい戦況下“織田信長”は大坂他域のみならず、他の多くの戦闘案件を抱えていた。従って何時までも“雑賀攻め”に各国から集めた大軍を張り付けて置く訳にも行かなかった。これ以上、自軍の被害が広がる事を恐れた。雑賀荘の“攻囲戦”をそこそこ進めたところで“雑賀軍”に“和睦”を呼びかけた事はあり得ない話では無い。

25-(6):結論

“信長公記”並びに“紀伊続風土記“では“雑賀衆“があたかも降参した様な記述になっている。しかしこの記述は”織田信長“方が体裁を繕った記述だとする説には説得力がある。戦況の実態からも”織田信長“方の敗戦と言って良い程の苦戦であった言うのが正しいのではなかろうか。

25-(7):“織田信長”の“雑賀攻め”(第1次紀州征伐)の纏め

年月日:1577年(天正5年)2月~3月
場所:紀伊国“雑賀荘”周辺
結果:織田軍は“和睦“し撤退する(実質的には織田軍は敗北に等しい状況であったと考えられる)

        【交戦戦力】
織田信長軍

        【指導者・指揮官】
織田信忠
堀秀政
羽柴秀吉 他

        【戦力】
100,000兵(150,000兵説もあり)

        【損害】
700
        【交戦戦力】
雑賀衆

        【指導者・指揮官】
鈴木孫一(鈴木重秀)
土橋若大夫 他


        【戦力】
2,000兵以上

        【損害】
1,500

26:“織田水軍”を立て直す為に“九鬼嘉隆”に2年間の猶予を与えた。その間“織田信長”が行った戦闘の中に“北陸全域の平定”があった。・・その結果“毛利氏”との“同盟決裂(1576年5月)”後の数カ月後に“上杉謙信”との“同盟”も破棄された

“越前一向一揆”の殲滅戦を1575年(天正3年)8月15日~8月末に戦い、勝利し“越前国”を回復し、分国化した“織田信長”は、前項で記述した様に“柴田勝家”(越前国八郡)並びに“佐々成正・前田利家・不破光治”(府中近辺二郡)更には“金森長近・原政茂”(大野郡)、そして“武藤舜秀”(敦賀郡)等を夫々分封するという形で“越前国”の支配体制を整えた。

この事は“織田信長”の“全国統一”に向かっての動きが愈々“北陸全域”の平定という新たな動きへと向かった事を意味した。しかし、此の地域には“加賀一向一揆”の存在があり、又“同盟関係”を維持して来た“最強の戦国大名”の一人であり、又“軍神・義の武将・毘沙門天の化身”として知られる“上杉謙信”の存在があった。

26-(1):“織田信長”の“北陸全域平定”の前に立ち塞がった“加賀一向一揆“

“加賀国”は1488年6月に“富樫政親”(守護大名・富樫氏21代当主・生:1455年?・没:1488年6月9日・下記富樫家御廟の写真参照方)を自害させ“加賀”の“本願寺門徒”が中心と成り、国人、並びに農民に拠る“惣国一揆”(一国内の国人、土豪、地侍が結合した惣国を主体として国内の統治を自ら行う一種の共和制)を為し(一揆持ちの国)た事は既述の通りである。(詳細は6-18項3-4~をもう一度参照願いたい)その影響力は隣国の”越中国“(富山県)そして”能登国“(石川県の一部)にも根強く及んでいた。

“織田信長”軍の“柴田勝家”率いる“北陸方面軍”が“加賀一向一揆”に対応すべく、その任に当たるが“平定”する為には、一揆勢の向こう側に居る“軍神・上杉謙信“を敵に回すという事でもあった。

26-(1)-①:“織田信長”との“同盟決裂”そして戦闘再開が必至と考えた“本願寺・顕如”はその担保として“上杉謙信”との“同盟”を成立させた

1576年(天正4年)4月:

”本願寺・顕如“は前年、1575年(天正3年)10月に”織田信長“と”和睦“をした。この和睦は直ぐに決裂するものと両者が見ていた事は、既述の通りである。従って”織田信長“との”和睦“が成立した僅か半年後の1576年4月に”本願寺・顕如“は積年、対立関係にあった”上杉謙信“との”和睦・同盟“成立に動いた。

”本願寺・顕如“の意図は”織田信長“との対立は避けられないものと覚悟し”織田信長“と”戦闘再開“となった場合に”上杉謙信“からの支援を取り付けたいとの考えから、その担保としての”上杉謙信“との”和睦・同盟“の成立に動いたのである。

メモ:
”加賀一向一揆“の平定“は”柴田勝家“が1580年(天正8年)11月17日に”松任城“に”鈴木出羽守“以下19名の門徒主導者を捉え、悉く処刑した事で、実に92年間に亘った”一揆持ちの国・加賀国“を消滅させる形で成った。しかし”本願寺・顕如“の息子”教如“(きょうにょ・本願寺第12代門主・生:1558年・没:1614年)は尚も檄を飛ばし、一向一揆の抵抗は続いた。従って、実態としては1582年(天正10年)3月”織田方“の”佐久間盛政“並びに”前田利家“等に拠って鎮圧・解体される迄”加賀一向一揆“の抵抗は続いたのである。
以下の写真は1488年(長享2年)6月9日に“加賀一向一揆”が“加賀国守護・富樫政親”を “高尾城”に攻めて自害させ“百姓の持ちたる国(一揆持ちの国)を誕生させた際に自害に追い込まれた”富樫一族“の御廟である。この史跡探しは苦労した。県の役所に電話をして漸く写真の様な山中に史跡を探し当てたのであるが、今日では全く人も訪れない”熊出没注意!!“の標識がある中を恐る恐る木の茂る山道を歩いて探し当てたのである。6-18項3-4~で載せたものであるが、再度紹介して置く。


27:“上杉謙信”は“武田信玄”が病没(1573年4月)した事で“西方”への領土拡大の動きを開始した。この動きは“同盟”を結ぶ“織田信長”の動きもあって両者の“領国境目問題”を発生させる要因と成った。何れにしても“織田信長”と“上杉謙信”が最初で最後の戦闘“手取川の戦い”で相まみえる事は避けられない事態が近づいた

“越後国”(新潟県の一部)の“上杉謙信”は長い間“武田信玄”と“信濃国”(長野県)方面で戦って来た事は周知の史実である。突然の“武田信玄”の病没(1573年4月12日)によって“上杉謙信”は“西方”への動きを開始した。具体的には“上杉謙信”は“越中進攻” 更には“加賀国”へと影響力を伸ばし始めた。

この“上杉謙信”の動きは当然の事乍ら“同盟関係”にある“織田信長”の動きと絡んで、双方の間に“領国境目問題”を生じさせた。具体的には“加賀・能登”が両者の“領国境目問題の地”と成った。両者の“同盟関係”が決裂し“武力闘争”に突入したのが“手取り川の戦い”である。

先ずは“別掲史料:織田信長と上杉謙信の同盟関係時代そして決裂に至る経緯”の詳細を理解の助に添付したので参照願いたい。


27-(1):“織田信長”と“上杉謙信”が最初で最後の直接対決と成った“手取川の戦い”へと繋がる経緯

添付した別掲図のコメント④にある様に“織田信長”と“上杉謙信”との通交関係開始は、知られる限りでは、1564年(永禄7年)頃と考えられ、両者は親しく通交を重ねる間柄であった。

“将軍・足利義昭”は両者の関係が悪化する様、盛んに煽った。しかし両者は友好関係を維持し続けた。“織田信長”が“天下布武”を掲げ“全国統一事業“を目指し、その事業が進展、つまり”越前国“から”加賀国“そして”越中国“へと”全国統一“の動きを拡大して行くにつれ“上杉謙信”との間の“領国境目問題”が現実的な軋轢と成って来るのは必然の事であった。

“織田信長”が1575年(天正3年)8月に“越前一向一揆”の殲滅戦を行い“柴田勝家“等を分封し(9月)“加賀国征服”を目論むに至り“上杉謙信”も“織田信長”との衝突が避けられない現実を意識せざるを得なくなったと思われる。

以下に“織田信長”が“加賀国征服”を進めて行った経緯を要約する。“手取川の戦い”はその経緯の中で“上杉謙信”との関係が悪化し、そして1576年(天正4年)秋頃には“上杉謙信”の方から“織田信長”との“通交・同盟関係”を打ち切り、1年後の1577年(天正5年)9月23日に遂に、両者が“最初で最後の直接対決”である“手取川の戦い”へと向うのである。

1.両者の通信が1575年(天正3年)6月13日付け“織田信長”から“上杉謙信”への書状を最後に途絶える(上杉家編年文書)

2.“織田信長“が”加賀国“平定戦を始めた当初”織田信長“と”上杉謙信“が直接軍事面で対抗する場面は無かった

3.加賀南半国から一向一揆勢力を追った“織田信長“は未征服状態の地域を含めた”加賀一国“を“簗田広正”(やなだひろまさ・別名別喜広正/正次とも・尾張国九之坪城・沓掛城城主・生年不詳・没:1579年/天正7年/6月6日)に与えるというインセンテイブを付して“加賀国全域”の平定を命じた(1576年/天正4年)

4.“簗田広正”は“檜屋・大聖寺城(共に加賀市)”を拠点に“加賀国”の平定に取り掛かったが、加賀国の一向一揆は失地回復の動きを始め“大聖寺城”にまで攻め込む事態と成った。“織田信長”が抜擢した“簗田広正”に期待した事は、未征服状態の地域を含めた“加賀国全体”の平定の為には、その国の国衆を懐柔し、味方に加えて行く政治力だったのだが、彼にはその能力が無かった。しかも“加賀国“は1488年の頃から”一揆持ちの国“(百姓の持ちたる国)であり、強大な軍事力を持つ”一向一揆“を僅か4000~5000の兵力を与えられただけの“簗田広正”軍がこの大役を果すのは無理であった。この任務を与えた“織田信長”の人事上、並びに対応上のミスである事は明らかであった。

5.そこで“織田信長”は翌1577年(天正5年)秋に早くも“簗田広正”に見切りを付け“越前国八郡の領主”に任じていた“柴田勝家”に“加賀国平定”の任を委ねた。

6.“柴田勝家”は自分の家臣達に加え、同じく“越前国”に封じられた“佐々成正”及び“前田利家“らを組下とした”大軍団“を組織して”加賀一国平定“に取り組んだ。兵力10,000余の”北陸方面軍“の誕生である。しかし”柴田勝家“をもってしても”加賀一向一揆“は手強く、一進一退が続いた。

7.結果的に“織田軍”の“加賀征服戦”は遅々として進まず、既述の通り1580年(天正8年)11月17日の“松任城”に於ける“19名の門徒主導者の処刑”という形で制圧に成功する迄には、尚4年間程を要する事に成る。そうした中“上杉謙信”の西方への進出は“越中国”(富山県)そして“能登国”(石川県の一部)を経て“加賀国”まで及んで来た。そして遂に“織田信長”と“上杉謙信”とが直接対決する“手取り川の戦い”に至るのである。

27-(2):“手取川の戦い”への大きな要因と成ったと思われるのは“織田信長”の“加賀南国平定”であった・・“加賀国全域平定”への動きに就いて

27-(2)-①:“加賀国”を攻めさせ“加賀南国”を平定した“簗田(別喜)広正”に“加賀一国”を与えるとのインセンテイブを与え“加賀国平定”を託した“織田信長”の人事は失敗した

“織田信長”は彼の“馬廻り役”(大将の護衛、伝令、決戦兵力として用いられた武家の職で親衛隊的な存在)で“尾張国・国人”出身の”簗田(やなだ)広正”(織田信長が家臣達の任官を朝廷に願い出た1575年7月の際に別喜/べっき/の名を勅許された/生年不詳・没:1579年)を抜擢して、未だ全域の平定が出来ていないにも拘わらず“加賀一国”を与えるとの人事を発令した。

これまでに“織田軍”が征服し終えた”加賀国”領土は“加賀南半国”のみであり、未だ未征服の領域が残っていたが“織田信長”の意図は“簗田広正(別喜)”にインセンテイブを与える事で“加賀国全域”の平定の可能性を探ったと思われる。こうした云わば“馬の鼻先にニンジンをぶら下げる人事”を“織田信長“は嘗て(1573年/天正元年/12月)”浦上宗景“に対しても行っている。

既述の様に”浦上宗景“の場合も、完全征服した状況では無い“備前・播磨・美作”3ケ国の支配権を“浦上宗景“に認める朱印状を与えている。この事は”浦上宗景“に対する周囲の反感を惹起させ、結果的に“浦上宗景”は滅ぼされる事に繋がった。(浦上宗景が嘗て被官?従属的同盟者?であった宇喜多直家+毛利軍に滅ぼされる山陽地区の天神山城の戦いの戦闘状況に就いては次項6-24項で詳述する)

”簗田広正”のケースも同様の人事であった。“織田信長”が”簗田広正”に与えた兵力は4000~5000兵程度であった上に“加賀一向一揆”は“織田信長”が“越前国”を分国とする体制を敷いた後、1575年9月23日に“越前国“を離れると、直ちに失地回復の動きに出たのである。

何せ90年近くの間“一揆持ちの国”を維持した“加賀一向一揆“勢力である。その失地回復の反撃に”簗田広正”に与えられた4000~5000程度の兵力では“加賀全域平定”どころか“加賀一向一揆“との戦いに敗戦を重ね、本拠地とした“大聖寺城”(別名錦城・現在の石川県加賀市大聖寺錦町・狩野氏に拠って鎌倉時代に築城された・戦国時代に入り日谷城と共に加賀一向一揆の拠点となっていた・主たる改修者は柴田勝家・廃城1615年頃)まで、逆に攻め込まれるという有様と成ったのである。

27-(2)-②:“簗田(別喜)広正”をクビにし“柴田勝家”をトップとする“北陸方面軍“に”織田信長“は”加賀国全域平定“を命じた。しかし”加賀一向一揆“の激しい抵抗に戦況は一進一退となる

クビにした“簗田(別喜)広正”に代えて“織田信長”は早々と“越前一向衆殲滅戦”勝利後“越前国八郡”の領主に任じ“北陸方面軍”のトップに据えた“柴田勝家”に“加賀国平定”を命じた。そして“越前国”に封じた“佐々成政”並びに“前田利家”等を彼の組下とし、総兵力10,000の“大軍団”を編成して“加賀国全域平定”に当たらせたのである。

しかしこうした新しい体制下の“柴田勝家”指揮下の“北陸方面軍”をもってしても、90年以上に亘って“一揆持ちの国”を維持して来た“加賀一向一揆”の軍事力は手強く“加賀国全域平定”の戦いは一進一退が続いた。

28:“織田信長”と“上杉謙信”との間の“同盟関係”の亀裂は“織田信長”が“上杉謙信”からの要請を無視した事が端緒だとする説、そして、その後の展開

”織田信長“と”上杉謙信“との“同盟関係”は1564年(永禄7年・この年7月に織田信長に先んじた天下人とされる三好長慶が病没している)には結ばれていたと考えられる。“長尾景虎”(上杉謙信)が関東管領職を譲られ“上杉家”を継いでから(1561年)3年後の事である。

この同盟の目的はそもそもが、両者にとっては“武田信玄対策“であった。従って”武田信玄“が病没(1573年/元亀4年/4月)した事で、急速に両者の同盟意識は薄れて行ったとされる。

既述の様に、その後の歴史展開は“織田信長”は“越前国”を制圧し(1575年8月)更に“加賀国”の全制圧に動いた。更に“織田信長”は1575年(天正3年)11月に“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力“から“従三位権大納言・右近衛大将”を叙位、昇任を得た。この事は既述の通り“織田信長”に“日本に岩盤の様に根付いた権威”から公認された天下人”であるとの自負を与え、その行動にも大きな変化を見せた。そして“全国統一事業”の動きにも、これ迄以上に“天下人”を自認した、より強気な動きへと変化を見せたのである。

こうした“織田信長”の“天下人意識の高揚”が昂じてか、別添資料“織田信長と上杉謙信の同盟関係時代、そして決裂に到る経緯“に付したコメント⑦⑧にある様に“上杉謙信”は“武田勝頼攻略”の協力を“織田信長”に要請するが“織田信長”はそれを無視する状況が続いた。こうした“織田信長”の態度にブチ切れた“上杉謙信”は“越中攻め”に動く。

1575年(天正3年)7月に“上杉謙信”が“越中進攻”に動いた事に対し“織田信長”は“村上国清”(上杉謙信を頼って猶子と成る・山浦上杉家を継いで山浦国清を名乗る・謙信死後の御館の乱の功績で山浦景国に改名・生:1546年・没:1592年)に以下の様な“上杉謙信“の”越中出陣“を訝る(いぶかる)書状を送っている。

*1575年(天正3年)7月20日付け“織田信長”から“村上国清”宛て書状*

約束していた事を違えてしまうのは世間体が悪く無念です

“上杉謙信”が“織田信長”に“武田攻め”に協力を要請した事に対し“織田信長”は無視をして来た。その過去のいきさつを忘れたかの様に、今回は“上杉謙信”の方が意趣返しの様な動きをしたと、恨み言を伝える文書を送ったのである。両者の“同盟関係”は翌年1576年(天正4年)秋には決裂するが、この短い文面からも既に両者の信頼関係に大きなズレ、齟齬を来していた事が読み取れる。

28-(1):“上杉年譜”の記事からも“織田信長”と“上杉謙信”の同盟に“亀裂”が入った事が裏付けられる

“長篠の戦い”(1575年5月21日)で大敗した“武田勝頼”は直後の6月に“上杉謙信”に密使を送り“和睦”を申し入れて来た。”足利義昭“から再三”第3次・織田信長包囲網“への参加”織田信長討伐“を要請されていた事と併せ”義の武将・上杉謙信”としては“武田勝頼”からの申し出を受け入れたものと思われる。“武田勝頼”に協力し“織田信長”との“同盟破棄”を決断したと“上杉年譜“には書かれている。(上杉年譜は上杉家が江戸時代に編んだ公式記録)

28-(2):“長篠の戦い”(1575年5月)で“武田勝頼”に大勝、直後に至尊(天皇家・朝廷・貴族層“勢力は”織田信長“に“従三位権大納言・右近衛大将”の叙位、昇任を与えた。(1575年11月)“伝統的権威”を得た事を確信した“織田信長”は、そうした“権威”を世間の前で棄てて見せた。その狙いはそうする事によって世間は“織田信長”をより高い“権威”を纏(まとう)った“天下人”と見做すであろうとの“織田信長”一流の処世術と思われる

28-(2)-①:“上杉政虎”(謙信)が“関東管領”に就いた時にはその権威に忖度した文書を送る事で“上杉政虎”(後の上杉謙信)の自尊心を満足させた“織田信長”の処世術

別掲資料“織田信長と上杉謙信の同盟関係時代、そして決裂に至る経緯”に付した①~⑩のコメントを再度参照されたい。両者が“同盟破棄”に至る経緯の理解に役立つものと思う。

“織田信長”と“上杉謙信”は“桶狭間の戦い”(1560年5月)以前から通交関係があったとされる。翌1561年閏3月16日に“長尾景虎”が“上杉家”の名跡と“関東管領職”を“上杉憲政”(うえすぎのりまさ・山内上杉家15代当主・生:1523年・没:1579年)から譲られた。

この事は“長尾景虎”(上杉政虎~上杉謙信)が“日本の特異性“である”至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“の中で重要視された”家格秩序“に於て、大ジャンプを果たした丈で無く“室町幕府設立”以来の“伝統的な権威”を背負う“戦国大名”として世間が認める立場に立った事を意味した。戦国大名の中でも“大義・秩序”を重んじ“義の武将・毘沙門天の化身”と称された“ゴリゴリの守旧派・長尾景虎“(後に上杉政虎~上杉謙信に改名)にとっては大きな変化であったに違いない。

“革命児”と伝わる“織田信長”ではあるが、彼のベースには既述して来た様に“世間の評判”に対して“戦国大名”の中でも特別に気を遣い、日本の伝統的権威に敏感な武将であった点を見逃してはならない。

その事は“織田信長”が“上杉政虎”(上杉謙信)との通交関係に於いて彼が“上杉政虎”として名跡を継ぎ、更に“至強勢力”の“権威”である“関東管領職”に就くと“上杉政虎”の立場、並びに自尊心に忖度した内容の文書を交わし始めたという史実からも裏付けられている。

28-(2)―②:“織田信長”一流の処世術として挙げられるのが、彼は日本社会に岩盤の様に根付いた“伝統的価値観”を先ず評価し、それを己が得る事で“世間の己に対する評価”を固めた。しかし決して其処に留まる事をせず、後にそれを破棄して見せた。この事は彼が伝統的な世間の評価の更にその上を行く武将だという事を世間が認める効果を狙うものであった。この“織田信長”の処世術を世間は“真の革命児”と讃えたのである

“織田信長”と“上杉謙信”とは共に“戦国期切っての卓越した戦国大名”と評価されるが、その“処世術”に於いて全く異なっていた。“織田信長”の“処世術”の巧みさは“日本の特異性“である”至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“に根付いた“家格秩序”等“世間が認め、根付いている権威と成っている事柄を軽視せず、先ずは受け入れ、抗う事もしなかった点にある。

既述の様に“織田信長”は“世間の評判”に対しては人並以上に気を遣い、重視し、寧ろ活用すべきと考えた。繰り返しとなるが“織田信長”が“関東管領”に就いた“上杉政虎”(1561年12月に時の将軍・足利義輝から偏諱を受けて上杉輝虎を名乗る・法号不識庵謙信を名乗るのは1570年・元亀元年12月以降である)に対して、彼の自尊心に忖度した態度で接し始めた事がそれを裏付けている。

後述する“織田信長”から“上杉謙信”に“狩野永徳作・洛中洛外図屏風”を贈った例もその表れであるが、そうした“織田信長”の姿勢を裏付ける丁重な文書も残されている。

28-(2)-③:“天下人”としての世間からの見え方、評判に気を遣った“織田信長”の処世術は“強力戦国大名”に対しては上記した様に“忖度”に溢れた対応に徹し、その一方で“近臣者”あるいは“従属的同盟関係”と成った武将達への対応は強圧的、且つ“傍若無人”なものであった。この不器用すぎた人間関係の拙さが“織田信長”の最大の弱点と成り、結果、墓穴を掘る事に繋がる

“織田信長”が“IQ+EQ+人間力”の総和で優れていた点は“忖度すべき同盟者又は協力を要請すべき対象者”には上記“上杉政虎”(1561年輝虎~1570年上杉謙信)に接した様に、極端な程の丁重な対応による巧みな外交術を労する事で“領国・境界問題”から生じる対立を避け、或いは遅らせた事に見出せる。

他方“身内”や手の中に入った“従属的同盟者”への対応は極めて強圧的、且つ、傍若無人なものであった。この事例が“義弟・浅井長政”に対するケースであり、後に記述する“松永久秀”に対するケース“有岡城の戦い”へと追い込まれた“荒木村重”のケースであり、そして極め付けが“本能寺の変”で討たれる事になる“明智光秀”に対してのものであった。

いずれも“織田信長”が重用した有能な家臣達、乃至は“従属的”な関係の下で同盟する武将達であった。彼等は有能であり、武将としての誇りを持つ者達であった。“傍若無人”的性格の強い“織田信長”は彼等の自尊心を平気で踏みにじる言動を不用意に放ち、人事を行った。一方で彼等を重用した事も史実であり、それだけに“油断”も見せた。その結果“織田信長”は彼らの離反、寝返りに際して“まさか!信じられない!”との言葉を発した事が伝わるのである。

28-(2)-④:“武田攻め”への協力要請を無視された“上杉政虎(謙信)”は“織田信長”との同盟関係に見切りを付ける

“武田信玄”の病没(1573年/元亀4年/4月12日)は“武田信玄対抗”の為に結んでいた“織田信長”と“上杉謙信”との“同盟関係”であった丈に、以後“同盟”の意味が薄れた事は疑いが無い。

“上杉謙信”にとっては“北条氏康”(後北条氏第2代当主・生:1515年・没:1571年10月3日)も1571年に没しており“武田信玄・北条氏康“の2人の強敵が居なくなった事で”関東方面“への武力行使の必要性が減じた。そこで”上杉謙信“は“越中・加賀”に於ける“一向一揆“への対応を含む”北陸方面“への勢力拡大、つまり”西進“に目を向けたのである。

そこで“上杉謙信”は“同盟関係”にある“織田信長”に対して別掲図“織田信長と上杉政虎(謙信)の同盟関係時代、そして決裂に至る経緯”の⑦に記した様に、1574年(天正2年)前半に“織田信長”に対して再三“武田勝頼攻め”に協力して欲しいとの要請をしている。“織田信長”はこれに対して協力を約束しながら、一向に履行しなかった。そればかりか、何と単独で“武田勝頼”に“長篠の戦い”(1575年5月21日)で大勝するという事をやってのけて了ったのである。

これに止まらず“織田信長”は3ケ月後の1575年8月15日~8月末には“越前一向一揆殲滅戦”を戦い、この勝利に拠って“一揆持の国・越前国“に”柴田勝家“等を配し”織田分国“としての体制作りを固めた。

こうした“織田信長”の言わば“同盟関係”を無視した単独行動は“上杉謙信”からすれば仕打ちとも言えるものであったが“軍神・義の武将・毘沙門天の化身”と称された“人格者”としての態度で応じ“長篠の戦い”の直前には“陣中見舞い”の書状を“織田信長”に送った事が確認されている。

28-(2)―⑤:“織田信長”からの更なる傍若無人、且つ、余りにも厚かましく、不遜な態度にブチ切れた“上杉謙信”

こうした“上杉謙信”に対し“織田信長”は1575年(天正3年)6月13日に文書で“長篠の戦い”での戦勝を報告している。そして“今度こそ、お互いに協力して信濃国・甲斐国に武田勝頼軍の攻撃を致しましょう“と送ったのが下記文書である。

“さすれば信濃に出兵しようと思います。幾度もそちらから承っていた事でもありましたのでこの時こそ信濃、甲斐に攻め入る好機でしょう”

前年1574年(天正2年)に”上杉謙信“から再三”武田勝頼攻め“への協力要請をして来た事を無視し、単独で“長篠の戦い”で“武田勝頼”に大勝した事も忘れたかの様な“織田信長”からのこの文書は“上杉謙信”にとっては傍若無人、破廉恥な態度のものであった。実は“上杉謙信”は前年(1574年/天正2年)の前半に“織田信長”の支援が無いままに“武田勝頼攻め”を行って居り、苦杯を舐めていた。こうした背景を持つ“上杉謙信”にとって、何を今さら言っているのだ!と思わせる“織田信長”からの文書に怒りを抱いた“上杉謙信”の心情は理解出来る。

”長篠の戦い“で“武田勝頼”軍に大勝し、鼻息も荒くなったのであろう”織田信長“の”忖度すべき相手には気を遣うが、己が優位に立ったと思えた相手には途端に傍若無人な態度での対応に変わる“という、彼の最大の欠点を、人もあろうに“誇り高き人格者”で“義の武将“と称される”不識庵謙信(上杉謙信)”に対して上記文書を送り付けた事に拠って晒してしまったのである。

自尊心を砕かれ“織田信長”に対する信頼感は吹っ飛び、ブチ切れた“上杉謙信”が“織田信長”との“同盟関係”に見切りを付けた瞬間だと“織田信長・不器用すぎた天下人”の著者“金子拓氏”は記述している。

29:“織田信長”との同盟関係に見切りを付けた“上杉謙信”は“越中攻め”に動く。こうした”上杉謙信“を“織田信長“は訝り始める

“織田信長”との“同盟関係”維持に期待が持てないと決断した“上杉謙信”は“織田信長”が協力を要請して来た“武田勝頼攻め”に対し、今度は“上杉謙信”の方から無視し“越中国”(富山全県)に向けて兵を動かし始めた。”上杉謙信“は”越中国“に止まらず”加賀国“(能登を除く石川県)への進攻、つまり“西進”を本格化させたのである。

こうした“上杉謙信”の動きに対し“織田信長”は1575年(天正3年)6月13日の“長篠の戦い”の大勝で弱体化させた“武田勝頼軍”を更なる攻撃に拠って壊滅させようと“上杉謙信”に今度は“織田信長”の方から協力要請をしている。しかし“織田信長”はその一方で1575年8月の”越前一向一揆殲滅戦“後に”北陸方面軍“の責任者に任じた“重臣・柴田勝家”に命じて“上杉謙信”の“西進”の動きを監視させる体制を敷いた。

29-(1):“織田信長”と“上杉謙信”間に生じた“領土境目問題”

上記した様に1575年(天正3年)5月の“長篠の戦い”を境に、実際の処“織田信長”と“上杉謙信”との同盟関係には亀裂が入っていた。しかし両者はその後も1年以上に亘って形の上では“同盟関係”を維持する。破綻するのは1576年(天正4年)秋頃である。

別掲資料“織田信長と上杉謙信の同盟関係時代、そして決裂に至る経緯”の⑨のコメントは“織田信長”と“上杉謙信”との“同盟関係”に亀裂が入り(1575年/天正3年)翌1576年秋に“同盟破棄“に至る経緯を示している。こうした経緯を裏付ける出来事として、1575年(天正3年)7月20日付けで“織田信長”が“上杉謙信”が“越中国”へ出陣した動きに対して、それを訝る書状を出した事は既述の通りである。

こうした“織田信長”と“上杉謙信”との虚々実々に揺れる“同盟関係”の裏で“長篠の戦”から僅か1ケ月後の1575年(天正3年)6月時点に“織田信長”に大敗した“武田勝頼”からの“和睦申し入れ”を“上杉謙信”が受けた事も既述の通りであり、この時点で“上杉謙信”が“織田信長”との決裂を決断していた事は確実と思われる。

29-(2):“織田信長”と“上杉謙信”との間の信頼関係が崩壊しつつあった状況を察知した“大坂(石山)本願寺・顕如”は“上杉謙信”との“和睦・同盟”を申し出た。そして“上杉謙信”はそれに応じた

29-(2)-①:“越前一向一揆殲滅戦“後に“織田信長”との一時的和睦を結んだ”本願寺・顕如“は”織田信長“との”戦闘再開“は必至と読み、その際の担保に”上杉謙信“との”和睦・同盟“締結に動いた

1576年(天正4年)4月:

”織田信長“軍が”オールスター軍勢“による”越前一向一揆殲滅戦“(1575年8月15日~8月末)を行い”大坂(石山)本願寺“から派遣された”下間頼照“を始めとする”首魁“が悉く討たれた上に、12000人以上の死者を出した”大坂(石山)本願寺”側の危機感は大きかった。

“織田信長”軍に殲滅された“越前一向一揆”の残党が“上杉謙信”の家臣“河田長親”(生:1543年?・没:1581年)に救援を求めて来たとの記録がある。結果的に”本願寺・顕如“と”上杉謙信“との間の”和睦・同盟“成立は“足利義昭“がその仲介役を果たした形で為された。”織田信長“との戦闘再開は必至と読んだ”本願寺・顕如“が”上杉謙信“との同盟を担保としたのである。

”本願寺顕如“との交渉に当たったのは”上杉謙信“の招きで仕え”上杉謙信“の教師的役割を果たした儒学者”山崎秀仙“(生年不詳・没:1581年9月9日)であった。この結果”上杉謙信“は”足利義昭“が主導する”第3次・織田信長包囲網“に加わったとの理解もある。
”上杉謙信”の“反・織田信長”の姿勢は決定的と成った。

検証:“織田信長”と“上杉謙信”の“同盟関係”の強さの象徴だとの説を裏付けた“狩野永徳作・洛中洛外図屏風“が何時”織田信長“から”上杉謙信“に贈られたのか?そして外交的に効果があったのか?に就いての諸論の紹介
”洛中洛外図屏風“は”狩野永徳“(生:1543年・没:1590年)が”第13代将軍・足利義輝“の命により制作が開始され、完成時期は、注文主”将軍・足利義輝“が1565年(永禄8年)5月19日に”永禄の変“で討たれた後であったとされる。
そのままになっていた”洛中洛外図屏風“に目を付けた“織田信長”が、友好の証に“上杉謙信”に贈ったとされるが、その時期に就いては下記説がある。
絵画史料研究の第一人者“黒田日出男氏”(東大名誉教授・東京大学史料編纂所所長)は“1574年(天正2年)3月説”を展開しており、この説が定説と成っている。
この時期は“別掲資料・織田信長と上杉謙信の同盟関係時代、そして決裂に至る経緯”のコメント⑦で示した様に、両名の関係が、やや、こじれかかった時期である。つまり“織田信長”が“上杉謙信”の再三の“武田勝頼攻撃”の協力要請に対して出陣を約束しながら(1574年6月)も実施出来なかった時期である。つまり“織田信長”は“長島一向一揆”への対応、更には“第二次高屋城の戦い”等超多忙の時期であった。
既述の通り“織田信長”は1574年~1575年の1年半の間に“越前一向一揆殲滅戦”を最後に、5連戦を戦うという過密スケジュールだった。結果“上杉謙信”からの出陣要請が重ねてあったが、1574年秋には出陣を約束しながら結果として約束を反故にした。“織田信長”としてはこの事を詫びる意図から“上杉謙信”に”狩野永徳“の”洛中洛外図屏風“を贈ったとする説である。具体的には1574年(天正2年)正月に”武田勢“が”美濃国“に侵攻した事に対し”上杉謙信“は深雪にも拘わらず西上野に出陣し支援している。しかし”織田信長“からは何の礼も無く”上杉謙信“はこれを遺恨とする書状を”織田信長“に出したと伝わる。しかしこの書状は残っていない為、真偽の点で問題はあるが”織田信長“は“上杉謙信”の不満を宥め、お詫びの気持ちから“洛中洛外図屏風”を1574年(天正2年)3月に贈ったとするのが黒田氏の説である。
“織田信長不器用すぎた天下人”の著者“金子拓”氏は“1574年(天正2年)3月に”織田信長“が洛中洛外図屏風を贈ったのが史実だとすると、その事は”上杉謙信“に彼の再三の要請に応えて”織田信長“が出陣するとのメッセージを送ったものと捉えられて了った可能性がある。
しかし”織田信長“は”長島一向一揆殲滅戦“に出陣する等で”上杉謙信“の要請に応えていない。結果“上杉謙信”は“織田信長”に裏切られたとの思いを抱く流れと成った事が考えられる。“上杉謙信”の心中を察すればこの屏風を贈った事は“織田信長”にとって、甚だ逆効果ではなかったのか?としている。“織田信長”には自らの過怠(かたい=武家時代に罪、過ちを償う事)を棚に上げた言動を吐くケースが度々見られる。今回もそのケースであると“金子拓”氏は論じ“織田信長”は“上杉謙信”との“洛中洛外図屏風・外交”で大きな過ちを犯したとしている。

30:既に“織田信長”との同盟破棄を決断していた“上杉謙信”は徐々に“織田信長”との対決準備を進める

30-(1):“長篠の戦い“に大敗した直後に”武田勝頼“が密かに”上杉謙信“への“和睦”交渉を持ちかけ“上杉謙信”はこれを受けた

1575年(天正3年)6月:

“上杉年譜”(上杉家が江戸時代に編んだ公式記録)に拠れば既述の様に“長篠の戦い”(1575年5月21日)に大敗した“武田勝頼”が直後に使者を派遣し“上杉謙信”に対して“和睦”を申し入れたとの記録が残る。

“織田信長”との“同盟関係破綻”は必至と判断した“上杉謙信”は“足利義昭”から“第3次・織田信長包囲網”への参加要請(命令)が来ていた。情報こそが使命を制する“戦国時代”であるから“武田勝頼”も“上杉謙信”と“織田信長”の間に生じた亀裂を掴んでいた事は確かであろう。

“織田信長”に大敗した“武田勝頼”が父の時代の敵であった“軍神・義の武将・人格者”で知られた“上杉謙信”との和睦を望み、申し入れたとの説は史実と考えられる。

しかし“別掲図:織田信長と上杉謙信の同盟関係時代そして決裂に至る経緯”に示す様に”上杉謙信“が”織田信長“との”同盟関係“を破棄するのは1576年(天正4年)秋頃の事である。凡そ1年半程前となるこの時点で“上杉謙信”と“織田信長”との“同盟”は破棄”に至っていない。しかし、上記した“織田信長”から“この時こそ信濃、甲斐に協力して攻め入りましょう”との鉄面皮な“武田勝頼攻め”の申し出が寄せられた事に対して、今度は“上杉謙信”の方がこれを無視し“織田信長”からの要請に対して一切、協力する姿勢を見せず、逆に、兵を“越中国”(富山県)に差し向けたのである。

30-(2):“織田信長”との“同盟破棄”を決心した“上杉謙信”は更に“北陸地区・加賀国・能登国”への進攻を開始する

30-(2)-①:“織田信長”が“越前一向一揆殲滅戦”(1575年/天正3年/8月15日~8月末)で勝利し、その後“一揆持ちの国・越前国“を“分国化”した動きは“織田信長”との対決を決心していた“上杉謙信”からすれば“西進”の動きに対する牽制策に映った


“越前国”を“織田信長分国”とし、譜代の武将達を分封(耕地を分け与える)し“重臣・柴田勝家”を“北陸方面軍”の責任者に任じ“越中”そして“加賀国”への進攻までをも見据えたと映る“織田信長”の体制は“上杉謙信”が動きつつある“西進策”を牽制する体制と映った。(金子拓著・織田信長不器用すぎた天下人)

“天下布武”の旗印の下“全国統一事業”に邁進する“織田信長”にとっては順序として不思議では無い当然の動きであったが、未だ“織田信長”との“同盟関係”を破棄していなかった“上杉謙信”にしてみれば、最早、許せない“織田信長”の動きであった。

30-(2)―②:“上杉謙信”が“加賀国・能登国”への進攻を開始する

既述の様に“武田勝頼”からの“同盟”の話が持ち掛けられ(1575年6月)“大坂(石山)本願寺”との同盟も成立させ(1576年/天正4年/4月)言わば“織田信長”との対決体制を整えた“上杉謙信”であったが、それでも“織田信長”との“同盟関係”は破棄する事無く“加賀国・能登国”への進攻に動いたのである。

“上杉謙信”が“加賀国・能登国”へ侵攻したタイミングは、1576年(天正4年)5月に“織田信長”と“毛利氏”との同盟が破綻し“織田水軍”と“毛利水軍”が“第1次・木津川口の戦い”(1576年7月13日)に突入し“織田水軍”が大敗した状況下であった。

30-(3):遂に“上杉謙信”が“織田信長”を裏切る形で両者の“同盟関係”が破棄される

1576年(天正4年)秋頃~:

以上の様な経緯を経て“1564年(永禄7年)”頃から結ばれていたと思われる“上杉謙信”と“織田信長”との“通交関係・同盟関係”は破綻に至る。破綻の時期については”織田信長“にとって”もう一人の“強大戦国大名・毛利輝元“との”同盟“が破棄された1576年5月から僅か半年も経たぬ時期だったと考えられている。

”織田信長“が1575年(天正3年)11月4日~7日の間に”正親町天皇“から”足利義昭“と並ぶ”従三位権大納言・右近衛大将“の叙任、昇任を得た事で”天下人“を自認し、以後の行動は”天下人“を強く意識したものへと大きく変化した事は繰り返し述べて来た。彼の”天下布武“の旗印の下での”全国統一事業“の動きは益々強力なものと成り、それにつれて”足利義昭“が主唱する”第3次・織田信長包囲網“構築の動きも強くなって行ったのである。

”足利義昭“の”織田信長“に抵抗する動きも強まり、又”至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“の権威の”足利義昭“側に立つ”強大戦国大名・毛利輝元“に続いて”上杉謙信“もその半年後には”織田信長“との間の”同盟関係“を破棄する展開と成ったのである。

そもそも“天下人”を自認し“全国統一事業”に邁進する“織田信長”のスタンスと“自国の領土の安定と拡大”を目指すスタンスの“毛利氏”や“上杉謙信”とはその目指す最終ゴールに大きな隔たりがあった。従って“織田信長”と“毛利氏”並びに“上杉謙信”との間の“通交・同盟関係”には“領国境目問題”だけで無く、何かと“ボタンの掛け違い”が生ずる事も多く“同盟破棄”に至る事は避けられなかったのである。

果たせるかな“上杉謙信”と“織田信長”との“同盟関係”は1575年(天正3年)7月~8月を境に愈々破綻へと向い、ほゞ1年後の1576年(天正4年)秋頃に“上杉謙信”の方から同盟を破棄し、両者は戦闘状態へと向った。

31:“上杉謙信”が“越中国”に侵攻“手取川の戦い”の前哨戦と成った“七尾城の戦い”

31-(1):“上杉謙信”侵攻に至る迄の“越中国(富山県)”並びに“能登国”(石川県の一部)の状況について

31-(1)-①:内紛で隠居した“能登畠山8代当主・畠山義続”に代わって“畠山七人衆”が実権を握る

“越中国、能登国”両国の守護職は“畠山氏”が任じられ、代々“能登・七尾城”を守護所としていた。

1547年(天文16年)~1550年(天文19年):

内情は1547年に“加賀国”に追放されていた叔父“畠山駿河”(生没年不詳)が“一向一揆”の助力を得て“能登国”に攻め込み“押水の合戦”を起すという状況であった。しかし筆頭重臣の“温井総貞“(ぬくいふささだ=温井紹春・生年不詳・没:1555年)等を中心とする”当主・畠山義続“軍がこの内紛を鎮圧した。

その後“温井総貞”は専横に振舞う様に成り“畠山家”は“温井総貞”を筆頭とし“守護代・

遊佐続光”(ゆさつぐみつ・生年不詳・没:1581年6月27日)等の“畠山七人衆”と呼ばれる重臣達が“大名権力”を傀儡化し“政治合議組織=年寄衆組織”として実権を握ったのである。

こうした“大名権力の失墜”並びに一連の内部騒乱の責任を取る形で“畠山義続”は家督を嫡男“畠山義綱”(はたけやまよしつな・能登畠山氏第9代当主・生年不詳・没年:1594年12月)に譲り隠居した。

1553年(天文22年)12月10日~12月28日:“大槻一宮合戦”

“能登畠山9代当主・畠山義綱“時代にも、重臣“遊佐続光”と“温井総貞”の権力争いは続き“大槻一宮合戦”を起こし“温井総貞(紹春)”が勝利している。この結果”遊佐続光“が追放され”畠山七人衆“のトップは”温井総貞“が握り”畠山家“を牛耳った。ここに至る迄の第一次、第二次に及んだ“畠山七人衆”の構成メンバーを以下に示して置く。

第1次畠山七人衆(1552年~1553年)
①伊丹総堅②平総知③長総連温井総貞(=紹春)⑤三宅総広遊佐宗円遊佐続光

第2次畠山七人衆(1553年~1555年)
①飯川光誠②神保総誠③長総連温井続宗(温井総貞の子・温井景隆の父親)⑤三宅総広⑥三宅綱賢(初名:三宅総賢)⑦遊佐宗円


31-(1)-②:”能登畠山当主・畠山義続“並びに”畠山義綱“父子が”温井総貞(紹春)“を討ち”大名権力“を復活させた

1555年(弘治元年)~1560年(永禄3年):“弘治の内乱”

家督を嫡男の“畠山義綱”に譲り、隠居していた“畠山義続”は、権力奪還を図り“畠山七人衆”を崩壊させるべく他の重臣達と協力し“温井総貞”を暗殺した。

“温井総貞(紹春)”を暗殺された“温井一族“並びに”温井氏“と縁が深い”三宅氏“は”畠山義綱派”並びに“長続連”に対して反乱を起こした。これが1555年~1560年頃まで“能登国”で起った“弘治の内乱”と呼ばれる合戦である。結果はほゞ“畠山義綱・長続連”の勝利で終息し、敗れた反乱軍は一端“加賀国”へ退去する等、甚大な被害を被り“畠山義続・畠山義綱”父子は“大名権力奪還”を果たした。しかしこの復権も一時的なものに終わる。

31-(1)-③:“永禄9年の政変(1566年)”が起り、再び”能登畠山当主・畠山義続“並びに”畠山義綱“父子が“遊佐続光、長続連、八代俊盛“等の重臣達に拠って国外追放される

1566年(永禄9年)11月頃:

この時期“京都”では“覚慶”が還俗し(1566年2月17日)“足利義秋”(後に足利義昭に改名)と名乗り、将軍に就く為の前提条件としての“従五位下左馬頭”の叙位(1566年4月21日)を受けている。(6-21項11-1参照方)

”大名権力奪還“を果した”畠山義続・畠山義綱父子”であったが、権力強化を図り過ぎた事で、力を削がれた重臣達が反発し“遊佐続光、長続連、八代俊盛“等を中心にクーデターを起こした。彼等は“畠山義綱”の嫡子で、当時12歳の“畠山義慶”(はたけやまよしのり・生:1554年・没:1574年)を擁立して“畠山義続・畠山義綱“父子を追放した。これが”永禄9年の政変“である。

“能登・畠山家”の傀儡状態は、以後1577年(天正5年)9月15日に2次に亘った“七尾城の戦い”で“上杉謙信”軍に敗れ、滅亡する迄の凡そ11年間続く。

尚、追放された“畠山義続・畠山義綱“父子は”近江国・六角氏“と縁戚関係があった為”近江国・坂本“に逃れ、2年後の1568年(永禄11年)に能登国への復帰を目指して挙兵したが失敗し”畠山義続“は1590年に、そして”畠山義綱“は1594年に没した。

31-(1)-④:再び重臣“遊佐続光”並びに“長続連”そして“温井景隆”等に実権を握られた“能登畠山家”

当時12歳で“遊佐続光、長続連、八代俊盛“等の重臣達に拠って担ぎ出された当主”畠山義慶“に実権は無く、傀儡状態であった。しかも”畠山義慶“は1574年に僅か20歳で没した。彼の死には病死説もあるが”遊佐続光“と”温井景隆“(生年不詳・没:1582年6月24日)によって暗殺されたとの説もある。

以下に述べる“七尾城”に就いては、その立地等を下記図に示すので参照願いたい。

出典:谷口克広著:信長の天下布武への道

31-(2):“上杉謙信”が侵攻を目論んでいた当時の“能登・畠山氏”の実権者、そして“守護所”としていた“七尾城”の状況

“上杉謙信”が侵攻を目論んだ当時の“越中国&能登国”両国の守護職は既述の通り、傀儡状態であった。“畠山義慶”が1574年(天正2年)に僅か20歳で没し、その跡を“畠山義綱“の息子(次男?)“畠山義隆”(はたけやまよしたか・生:1556年・没:1576年/1574年説もある)が継いだが、彼も2年後の1576年(天正4年)に死去(栃尾市史料・本朝通鑑では1574年7月12日に遊佐続光に毒殺されたとある)そして家督は“畠山義隆”の子で満4歳(本朝通鑑では満2歳となる)の“畠山春王丸”(生:1572年?・没:1577年)が擁立された。

この様に“能登畠山家”の当主の存在は極めて不安定なものだったのである。

“能登国”の実権は“遊佐続光”(ゆさつぐみつ・畠山七人衆の一人・親上杉派・生年不詳・没:1581年6月27日)“長続連”(ちょうつぐつら・畠山七人衆の一人・親織田信長派・生年不詳・没:1577年9月15日)“温井景隆”(ぬくいかげたか・親上杉派・生年不詳・没:1582年6月24日)“三宅長盛”(みやけながもり・温井景隆の実弟・親上杉派・生年不詳・没:1582年6月26日)“平総和”等が握るという状態は変わらず“畠山氏”の代々の守護所“能登国・七尾城”の城主に就いても実態としては“不在”と言うに等しかった。

31-(3):“七尾城”訪問記

訪問日:2023年(令和5年)9月26日(火曜日)
住所:石川県七尾市古府町竹町古屋敷町入会大塚14番1ほか

交通機関等:

今回の北陸地方“史跡探訪”は①手取川古戦場②松任城祉③末森城跡④七尾城祉訪問を計画した。訪問順序は最後が④の七尾城訪問であった。
何れの史跡訪問地もBUS,電車等の“公共交通機関”利用では時間制約等もある為、名古屋駅でレンタカーを借りて回る事にした。

前日9月25日(月)の朝一番の新幹線で名古屋駅に行き、新幹線沿いに見える“トヨタレンタカー”営業所で友人と待ち合わせ,乗り慣れた“プリウス”を借り①“手取川古戦場”そして②“松任城祉”更に③“末森城祉”を訪問して1日目の史跡訪問を終えた。宿泊は翌日の“七尾城祉”訪問に便利な“和倉温泉・金波荘”であった。1日目の史跡訪問の中①の“手取川古戦場”に就いては後述する。

9月26日(火曜日)のスケジュールは、先ず“七尾城史料館”訪問から開始し、続いて“七尾城祉訪問”を行った。状況は写真を添付したので参照願いたい。名古屋迄帰らなければならないので時間的には余裕は無かったが、正午迄には見学を終え、帰途に着いた。“七尾城跡”から名古屋駅近くのレンタカー営業所までは4時間半程掛かった。

以下に“七尾城祉”訪問記を載せたが、我々の訪問の3ケ月後、2024年1月1日(月)PM16:10分に起きた“能登半島を襲ったM7.6、最大震度7の大地震(令和6年能登半島地震)で我々が訪問した各地が大被害を被った。このBlogを書いている2024年6月9日現在”立ち入り禁止“の状態が続き尚復旧の見込みが立っていないと訪問先に掛けた電話でのお話であった。一日も早い復旧を祈りながら、以下に“訪問記”を綴る。

歴史等:

築城は1428年~1429年(正長元年~2年)というから第4代将軍“足利義持”(生:1386年・没:1428年1月18日)が、生前に後継将軍を定めなかった為に“足利義持”が没した翌日の1428年1月19日に、籤引きで第6代将軍“足利義教”が決まるという事態に成った時に重なる。この事に就いては6-15項に記述したので参照されたい。

室町幕府が以後、求心力を失って行く境目の時期であった。この時期に“能登・畠山初代当主・畠山満慶”が築城したのが“七尾城”である。

七尾湾が一望出来る石動山系北端の標高300m程の“七つの尾根”に無数の砦を配置した大規模な山城である。七尾城下町遺跡の規模、保存状態の良さから“越前朝倉氏”の“一乗谷遺跡”に匹敵する城とされる。本文で記述した“当主・畠山義続・義綱父子”の期には戦乱が続いた為、増築され、最大の縄張りと成ったとある。“七尾城”の威容は“天宮”と表す記録もある程で①近江国・観音寺城②越後国・春日山城③近江国・小谷城④出雲国・月山富田城等と並んで“日本五大山城”の一つに数えられる。

訪問記:

“和倉温泉金波荘”をAM8:20分に出て、周囲を少し見学しようと雨の中を“能登島”に渡り“半浦町”まで行ってみた。雨ではあったが時間があれば輪島方面にも走って見たかった。しかし時間の制約から難しく、美しい輪島の景観を楽しむのは次回のチャンスに、と諦めて“七尾城史資料館”に向かった。
尚、我々が宿泊した“和倉温泉金波荘”はこの訪問記を書いている“2024年6月9日”現在、2024年1月1日(月)PM16:10分に能登半島を襲ったM7.6、最大震度7の大地震で大被害を被り、今日現在、復旧の見通しも立っておらず、営業再開の見通しは全く分からないとの話であった。一日も早い再開を願っている旨をお伝えして電話を切った。
七尾市古屋敷町にある“七尾城史資料館”には“半浦町”から30分も掛からずに到着。能登畠山氏の歴史“上杉謙信”軍に拠って“七尾城”を開城し“1577年(天正5年)”に“能登畠山氏”が滅亡した年譜などが展示されている。

次の訪問地である“七尾城址“への”ナビ“が正確に出ず”七尾城史資料館”を出発してから可成り迷い、本来、左程掛らない筈が、七尾城古城町の“城址”に着くのに40分も掛かってしまった。AM11:15分着と成った為、昼食を採る時間を惜しんで“本丸駐車場”に着き、其処から本丸までを急いで歩いた。凡そ10分程で着いた。“二の丸跡”までは其処から歩いて約10分である。更に“三の丸跡”迄も同じく10分程であった。こうして“七尾城址訪問”を終え、戻りは来た道を30分程歩き“本丸駐車場”に着いた。トータル1時間程のWalkingであったが道は整備されているので、他の山城を訪問したケースと比較しても、80歳を超えた私でも特別困難という道程では無かった。

尚“能登大地震”の影響は“七尾城史資料館”に電話を入れ確認したところ、地震後4ケ月が経った6月9日現在“七尾城史資料館”はオープン出来ているとの事であったが隣接する“懐古館”のダメージは酷く、復旧の目途が立っていないとの事、又“七尾城址”は“本丸駐車場”迄は車で登る事が出来るが、その先“本丸~”へは50m先からが石垣の崩れ等で立ち入り禁止となっており、復旧の目途は立っていないとの話であった。


32:“手取り川の戦い”の前哨戦だった“七尾城の戦い”

32-(1):“第1次・七尾城の戦い”・・自1576年11月~至1577年3月

32-(1)-①:先ず“越中国“への侵攻を開始した”上杉謙信“

1576年(天正4年)9月:

既述の様に“織田信長”との同盟関係を破棄(1576年秋頃)した“上杉謙信”は既に“大坂(石山)本願寺・顕如”との同盟(1575年4月)も結んでおり、20,000兵を率いて“越中国”(富山県)に侵攻した。“越中国”も元々“河内能登畠山家“が守護職であったが、既述の様に政治の実権は①遊佐続光”②“長続連”③“温井景隆”④“三宅長盛”等に握られていた。“軍神・義の武将・毘沙門天の化身”の“上杉謙信”が侵攻した“大義名分”は“能登畠山家”の内部紛争の調停だと伝わる。

32-(1)-②:“上杉謙信”の“七尾城孤立策”にも拘わらず“堅城・七尾城“は陥落せず

“能登・畠山氏”の守護所は“第5代・能登畠山当主・畠山慶致”(はたけやまよしむね・生年不詳・没:1526年11月18日)の頃に“七尾城山の麓”から“七尾城”に移された。

“七尾城”は“畠山義続”(能登畠山氏・第8代当主・生年不詳・没:1590年3月12日)の嫡子“畠山義綱”(はたけやまよしつな・生年不詳・没:1594年12月21日)の期には既述の様に戦闘が続き不安定であった為、城は増築増強され、最大の縄張り規模、且つ堅城に成っていた。こうした“七尾城”の状況に”上杉謙信“は当初“能登・畠山家”との“同盟”も働き掛けたが“上杉謙信”の介入を嫌う“能登・畠山家中”は“上杉謙信”との対決姿勢を鮮明にして、老臣“長続連”(ちょうつぐつら・畠山七人衆の一人・生年不詳・没:1577年9月15日)以下兵2,000で籠城戦を決断したのである。

守備体制は“長続連”が“七尾城”の大手口を守り“温井景隆”が古府谷、そして“遊佐続光”が蹴落口の守備に就くという体制であった。重臣“長続連”は更に“上杉謙信”軍の背後を攪乱する為“笠師村・土川村・長浦村”等の領民に一揆を起こす様、扇動した事が伝わる。

1576年(天正4年)11月~1577年(天正5年)3月:

“上杉謙信”軍は“能登国・七尾城”を4ケ月に亘って包囲した。過去“一向一揆”に悩まされた経験から“上杉謙信”は一揆に関する情報網を活かす事によって“一揆”の全てを鎮圧してから“七尾城”を包囲した。しかし難攻不落の堅城“七尾城”は堪え続け、容易に陥落しなかった。

次なる策として“上杉謙信”軍は “七尾城孤立策”を採り、支城郡(熊木城、富来城、城ケ根山城、粟生城、米山城等)を先ず落城させ“七尾城”の孤立に成功した。しかし“長続連”等が守る“七尾城“は尚も降伏せず、1576年(天正4年)を越年した。

32-(1)-③:“上杉謙信”が一端“越後国”に帰国すると、その隙を突いて“畠山軍”が反撃に出た

1577年(天正5年)3月:

北関東方面で“北条氏政”(後北条氏第4代当主・上杉氏と対決する等、勢力拡大に努め、最大版図を築いた・生:1538年/1539年説・没:1590年)が“里見氏”を敗り“上総国”攻略を進める等、動きを強めた状況に対応すべく“上杉謙信”は上記落城させた“七尾城支城群”(熊木城、富来城、城ケ根山城、粟生城、米山城等)に“上杉家家臣”を配置し、自身は一端戦場を離れ“越後国”(新潟県の一部)に帰国した。尚、上記した様に、主城である“七尾城”そのものは未だに陥落していない。

32-(1)-④:“上杉謙信”が“越後国”に帰り、去った後“能登・畠山軍”は“上杉・留守部隊”が占拠し、守城していた“七尾城支城群”を次々と攻撃し、奪還した

“上杉謙信“が”越後国“に帰った事を確認した”畠山軍“は即座に反撃を開始した。先ず①熊木城に配置された”上杉方“の”斎藤帯刀“を”能登畠山家臣・甲斐庄親家“が策略で”上杉家“から寝返らせ”熊木城“は”畠山方“が奪還した。

この結果、同じく”熊木城“に配置された”上杉方“の”七杉小伝次“は自害し、同じく”上杉方“の”三宝寺平四郎“並びに”内藤久弥“も討ち死にした。更に“②冨来寺”に配置された“上杉方・藍浦長門“も捕らえられ処刑された。この様に”能登・畠山軍“は”上杉謙信“の留守中に”上杉留守部隊“が守城していた”七尾城支城群“を次々と奪還して行ったのである。

又”能登・畠山家老臣・長続連”も“上杉謙信・家臣・長沢光国”(生年不詳・没:1578年)並びに“白小田善兵衛”が配置された“穴水城”を奪還すべく軍事行動を展開した。此処までが“第1次・七尾城の戦い”である。

32-(2):“第2次・七尾城の戦い“・・自1577年(天正5年)閏7月至同年9月15日

”上杉謙信”が戦場に戻った事で“七尾城”に内紛が起り、その結果“上杉謙信派”が“七尾城”を開城、同時に“能登・畠山氏”が滅亡した

32-(2)-①:“上杉謙信”が未だ“能登国”の戦場に戻っていなかった期間の“七尾城“内では、疫病が起り”畠山軍“方に多くの死者が出た。そればかりか”幼君・畠山春王丸“までもが僅か5歳で死去する事態と成った

1577年(天正5年)7月23日:

擁立されて間も無い“幼君・畠山春王丸”(生:1572年?・没:1577年7月23日)が“七尾城”内で蔓延した疫病に罹り僅か5歳で死去した。“幼君・畠山春王丸”を傀儡とし“能登・畠山家”で実権を握っていた“能登・畠山家老臣・長続連”は幼君の死に窮し“小伊勢村”の“八郎右衛門”に命じて“上杉謙信”軍に対して“一揆”を起こすよう扇動した。

32-(2)-②:“上杉謙信”が再び“能登国”の戦場に戻った。この状況下“第2次七尾城の戦い”が始まった

1577年(天正5年)閏7月:

北関東方面の“北条氏政”の進攻が大規模なものでは無かった為“上杉謙信”は領国の仕置きを済ませると再び“能登国”の戦場に戻った。

“能登畠山家・重臣・長続連”等は慌てて奪還した“七尾城支城群”を放棄し、領民に“一揆”を扇動し“上杉謙信軍”への徹底抗戦を告げ、同時に半ば強制的に領民を“七尾城”に籠らせ、自軍の総兵力を増強した形で戦う作戦をとった。この為“七尾城内”は兵士と領民合わせて15000人が立て籠もる過密状態と成った。しかも“長続連”が扇動しようとした“一揆”は“上杉謙信”に拠って事前に封じ込められていたのである。

肝心な“七尾城”自体への攻撃は“穴水城・甲山城”に配置されていた“上杉謙信家臣・長沢光国”(生年不詳・没:1578年)並びに“轡田肥後”(くつわだひご・生没年不詳)軍によって行なわれた。しかし堅固な“七尾城”は尚も陥落しなかった。

32-(2)-③:“織田信長”と結ぶか“上杉謙信”と結ぶかで“七尾城〝内は二分された・・・“長続連”の“嫡子・長綱連“が弟”長連龍“を使者として”安土城“に遣わし”織田信長“の支援を依頼した

“七尾城”内は下記に示す様に“上杉謙信”に付くか“織田信長”に付くかで二分される事態と成った。

上杉謙信との同盟に賛成派・・遊佐続光・温井景隆・三宅長盛 等
織田信長との同盟に賛成派・・長続連・長綱連(続連の嫡子)

“反・上杉派“の“能登畠山家老臣・長続連”は“上杉謙信”が再度戦場に戻った事に危機  感を強め、僧職にあった息子(孝恩寺宗顓/こうおんじそうせん)の“長連龍”(ちょうつらたつ・彼は生き延び 後に織田家臣と成り、その後、前田家の家臣と成る・生:1546年・没:1619年)を”安土城“の”織田信長“の許に使者として派遣し、支援を求めた。(史料に拠っては嫡男で兄の長綱連/ちょうつなつら・生:1540年・没:1577年9月/が弟・長連龍を信長の許に派遣したと書くものがある。此処では“長綱連”が弟“長連龍”を遣わしたとの説をとった)

32-(2)-④:“能登畠山家・織田信長派”の“重臣・長続連”の嫡男“長綱連”が派遣した“長連龍”からの支援要請を承諾した“織田信長”

1577年(天正5年)8月8日:

既に“上杉謙信”との“同盟関係”は1年前の1576年秋には破棄されており“織田信長”は使者“長連龍”の要請を受け入れた。しかし当時の“織田信長”は“足利義昭”の“第3次・織田信長包囲網”の動きに呼応して敵対する勢力が増えるという状況下に置かれていたのである。

具体的には“織田方”は“第1次・木津川口の戦い”(1576年7月)で“毛利水軍”に大敗し、加えて“毛利氏”と共闘する“石山本願寺”との戦い後の“石山本願寺包囲戦”の守備隊の任を命じられた“松永久秀・久通”父子が、それ迄の屈辱的扱いに上塗りされた今回の人事に自尊心を砕かれ“織田信長”から離反する動きを見せていた。(結果、信貴山城に立て籠もって謀叛に及ぶ・・1577年10月5日~10日の戦いに就いては次項6-24項で詳述する)

この様な“第3次・織田信長包囲網”勢力が動きを増す状況下であり“織田信長”自身が“七尾城救援”の為に“北陸遠征出陣”をする訳には行かなかったのである。

“軍神・義の武将・毘沙門天の化身”と称される最強の戦国大名の一人“上杉謙信”との直接対決に対し“織田信長”は家臣の“滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀”に加えて“美濃国・若狭国”の兵を“北陸方面軍”(柴田勝家軍をトップに、既述の越前に封じられた佐々成正、前田利家を組下とした大軍団)への援軍として“能登国”に派遣する決断をした。この大軍の総大将には言うまでもなく“北陸方面軍”を率いる“柴田勝家”が命じられた。

32-(2)-⑤:“織田信長”軍が“能登国”に大軍“北陸遠征軍”を出動させる動きに“上杉謙信”は“七尾城”攻略を急いだ。こうした動きに“七尾城”内の“上杉謙信派”は反乱を起こした

1577年(天正5年)8月9日~9月15日:

“上杉謙信”は“織田信長”が大部隊を“七尾城支援”に向けて派遣する事を知ると、指揮下にあった“加賀一向宗惣領・七里頼周“に”織田軍“(実態は柴田勝家を総大将とする大軍)の進軍妨害をする様、求める書状を送っている。そして自身は“石動山”(せきどうさん・石川県鹿島郡中能登町・七尾市・富山県氷見市にまたがる標高564mの山)に本陣を築いて“七尾城攻略”を急いだ。

尚、前項6-22項(39-(4)を参照方)で記述した様に“織田信長”の“越前一向一揆殲滅戦″(1575年8月15日~8月末)に敗れた”七里頼周“は”加賀国“に逃れ、以後も執拗に”織田信長“への反抗を続けていた。”上杉謙信“はその”七里頼周“を用いたのである。

32-(2)-⑥:“上杉謙信”との同盟を主張していた“遊佐続光・温井景隆・三宅長盛”等のグループは、結託して“七尾城”で反乱を起こし“織田信長”派の“長一族”を討ち“織田信長”からの援軍“北陸遠征軍”の大軍が押し寄せる前に“上杉謙信”に“七尾城”を開城した

“遊佐続光”(生年不詳・没:1581年6月27日)は“能登畠山七人衆“の一人で1566年に“畠山義続・畠山義綱”父子を追放し“畠山義綱”の子“畠山義慶”を傀儡として擁立した事は既述の通りである。その後“畠山義慶”が1574年に急死した。“遊佐続光”が暗殺したとの説がある程“能登畠山家”で専横の限りを尽くしたとされる人物である。

メモ:
”七尾城訪問記“の中で写真を添付したが”遊佐屋敷跡“と伝わる曲輪がある。”七尾城跡中心部“に位置する事からも“城主・畠山氏”に次ぐ“守護代”の地位にあり、実権を握っていた“遊佐氏”の勢力が裏付けられる。

そうした“遊佐氏”の勢力も“織田信長”が1575年5月に“長篠の戦い”で“武田勝頼”軍に大勝し、続けて3ケ月後の1575年8月には“越前一向一揆殲滅戦”に勝利し、その後“柴田勝家”をトップとした“北陸方面軍”を組織し“能登”周辺に勢力を伸ばした事で、陰りが出て来た。

その結果“能登国・七尾城”の勢力図は“織田信長”との同盟を主張する”長続連・長綱連(続連の嫡子)“の勢力が主導権を握り“遊佐続光”を筆頭とする“温井景隆・三宅長盛”等のグループの勢力を凌駕する状況と成っていたのである。

1577年(天正5年)8月9日~9月15日:

そこで“遊佐続光・温井景隆・三宅長盛”等の“親・上杉謙信派”は1577年(天正5年)8月9日に“七尾城”内で反乱を起こした。

この反乱に拠って“織田信長”派の“長続連″並びに“息子・長綱連“そしてその弟の”長則直“更には”長綱連“の子息”竹松丸・弥九郎“を始め”長一族100余人“が“遊佐続光”並びに“温井景隆”(上杉謙信派)等に拠って悉く殺された。

この結果”長一族“で生き残ったのは”安土城“の“織田信長“の許に援軍要請に走った“孝恩寺宗顓(後の長連龍)“並びに”長綱連“の末子”菊末丸“だけと成った。

反乱で勝利した“七尾城内”の“上杉謙信派”は1577年(天正5年)9月15日に“七尾城”の城門を開けて“上杉謙信”軍を招き入れた。“第2次・七尾城の戦い”は結果として“上杉謙信”軍が“七尾城“に入り“能登国”を完全に支配下に収める事と成ったのである。

32-(2)-⑦:“第1次・第2次・七尾城の戦い“の纏め

年月日:1576年(天正4年)11月~1577年(天正5年)9月15日
場所:能登国能登郡七尾(現在の石川県七尾市古城町)

結果
“第1次・七尾城の戦い“の段階では”能登畠山“方の、重臣達の結束も堅く”上杉謙信”軍の攻撃に“七尾城の支城群”は落とされたものの“主城・七尾城”は持ち堪えた。“上杉謙信”が領国で起きていた戦況への対応で一端“越後国”に帰国した留守中に“能登・畠山”方が反撃を開始し、奪われた“支城群”を奪還した。

しかし“上杉謙信”が戦場に戻ると聞くや“七尾城”内で“親・上杉謙信派”と“親・織田信長派”との分裂が起り“親・上杉謙信派”は“親・織田信長”方が支援を依頼した“織田信長”からの“大支援軍”が“七尾城”に到着する前に反乱を起こし“親・織田信長派”を殺害し、その上で“七尾城”を“上杉謙信”軍に明け渡したのである。
この為“上杉謙信“軍の勝利と成り”七尾城“は開城され、同時に”能登・畠山氏“は滅亡した

        【交戦戦力】
上杉謙信軍
        【指導者・指揮官】
上杉謙信
        【戦力】
約20,000兵
        【交戦戦力】
能登畠山軍
        【指導者・指揮官】
長続連
        【戦力】
約15,000兵

33:“手取川の戦い“・・”織田信長“軍(実態は柴田勝家軍)と”上杉謙信“軍の最初で最後の直接戦闘(1577年/天正5年/9月23日)

33-(1):“織田信長”への信頼を失い“越中”並びに“加賀・能登国”へと“西進”の動きを見せた“上杉謙信”は“織田信長”との直接戦闘も辞さない決意を固めていた。そうした両者間の関係を裏付ける様に、両者の通信は1575年6月13日付けの“織田信長”からの書状が終見であり、その1年後(1576年秋頃)に“上杉謙信”の方から“同盟”が破棄された

“越前国一向一揆殲滅戦”(1575年8月)に勝利し、1574年(天正2年)5月に“加賀国”(1488年頃から/百姓の持ちたる国/と成っていた事は既述の通り)に続いて“一揆持ちの国=百姓の持ちたる国)“であった“越前国”を“織田信長分国”として作り替えるべく、譜代の武将達を“越前国”に分封した“織田信長”はその勢いを駆って“一揆持ちの国(=百姓の持ちたる国)”としては先輩の“加賀国”( 6-18項/3-4/参照方)へ攻め入り、1575年8月には“簗田広正”(やなたひろまさ・生年不詳・没:1579年6月29日)軍が“加賀国南半国”を平定した。(翌1576年9月に簗田広正軍は織田信長が岐阜城に帰還後、再び蜂起した加賀一向一揆勢の攻撃に遭い、織田信長に救援を求める事態に陥った事で罷免された)

既述した背景から“上杉謙信”は“織田信長”との信頼関係を失って居り、加えて“織田信長”との戦闘に対する担保として同盟を求めて来た①武田勝頼(1575年6月)並びに②大坂(石山)本願寺・顕如(1576年4月)との間に“和睦・同盟“を成立させていた。

一方の“織田信長”は1575年11月4日~11月7日に“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”から“従三位権大納言・右近衛大将”の叙任、昇任を得た事で“世間が認める権威”に裏付けられた“天下人”を自認しており“天下布武”の旗印の下の“全国統一事業推進”の意思は勢いを増していた。従って“上杉謙信”が開始した“西進”の動きとは、必ず“領国境目問題”を起こす事に成る“越前国“の分国化のみならず”北陸地域全域“を平定する動きを全く躊躇する事なく進めたのである。(谷口克広著:信長の天下布武への道)

”織田信長“の”北陸地域全域平定“の動きを“軍神・義の武将・毘沙門天の化身”と称され、尚且つ“守旧派”の“上杉謙信”が無策のまゝ放置する筈も無い。そこに“室町幕府再興・将軍権威復活”に燃える“足利義昭”が“1576年2月”に“毛利領・鞆への移座”を強行した。“毛利氏”を中軸にした″第3次・織田信長包囲網“への大きな布石が打たれたのである。

裏付ける史料は乏しいが”守旧派・家格秩序重視”の“上杉謙信”は“足利義昭”が主唱する“第3次・織田信長包囲網”への参加に前向きであったと考えられる。

33-(1)-①:“上杉謙信”を“織田信長”との対決“手取川の戦い”に対する姿勢を前向にさせた”七尾城の戦い“での勝利

上述した“七尾城の戦い”の勝利は“織田信長”の“北陸侵攻”の動きを阻止すべく“上杉謙信”が“織田信長”に真正面から挑んだ“手取川の戦い”への前哨戦と成った。

”手取川の戦い“は1577年(天正5年)9月23日とされる。戦いに至る迄に、両者の同盟関係が既述の経緯を辿って破綻した事は史実と考えられる。両者の“同盟関係破綻”について“上杉謙信”が“織田信長”を裏切る形で成った事、そしてその時期が“手取川の戦い”の凡そ1年前の1576年秋頃である事は既述の通りである。

“上杉謙信”は“織田信長”にとって、今一つの重要な“織田・毛利”の“同盟関係”が、その半年程前に破棄されていた事は当然知った上で“織田信長”との“同盟破棄”をした事と思われる。

“織田信長”は“毛利氏”に続いて、もう一人の“最強の戦国大名・上杉謙信”をも敵に回す状況に成ったのである。

33-(2):“上杉謙信”軍の情報を掴まずに進軍した“柴田勝家”率いる大軍“北陸遠征軍”

以下に“手取川の戦い”に就いて記述するが、結論的に言うと“織田信長”方(実態は柴田勝家軍)は戦国武将にとって最も重要であるべき上記した“上杉謙信”方が“七尾城の戦い”で既に勝利し“七尾城”を占拠し、更に、実質的に“能登国”を支配下に置いていたという情報を掴んでいなかったばかりか“上杉謙信”が既述の様に1576年(天正4年)4月には“本願寺・顕如”の要請を受け“和睦・同盟関係”を結んでいた事、この事から“加賀一向一揆”が“上杉謙信”方に与していた事も掴んでいなかったのである。

この様な“情報不足”の“柴田勝家”率いる“織田方・北陸遠征軍”であったから、結果“上杉謙信”との最初で最後の直接交戦とされる“手取川の戦い”は“織田信長”方(実態は柴田勝家軍)の大敗と成った。

これ等の戦闘の理解の助に“別掲図・半年後に上杉謙信が病死した為、又もや難を逃れた織田信長軍/柴田勝家軍/が惨敗した/手取川の戦い/に至る両軍の動き”を添付したので参照願いたい。


33-(3):“織田方・柴田勝家”が率いた大軍“北陸遠征軍”について

33-(3)―①:“織田信長”自身は遠征軍に従軍していない

“織田信長”は“七尾城”からの支援依頼の為の使者“長連龍”の要請を承諾し、愈々“上杉謙信”との直接対決を決断し“柴田勝家”の“北陸方面軍”に加えて“支援部隊”を加えた、総兵力30,000の大軍“北陸遠征軍”を編成して“七尾城支援”に向かわせた。“上杉謙信・織田信長”間の1576年秋の“同盟破棄”からほゞ1年が経過していた。

”織田信長“自身はこの大軍”北陸遠征軍“に出陣していない。

その理由は1576年2月の”足利義昭“の”毛利領・鞆“への強行移座の結果“第3次・織田信長包囲網“の主軸に”毛利氏“が組み込まれ①石山本願寺との戦い=石山合戦の天王寺合戦=天王寺砦の戦い(1576年4月~6月)②第1次・木津川口の戦いでの敗戦(1576年7月3日)③紀州攻めでの苦戦(実質的には敗戦?1577年2月~3月)、加えて”織田信長自軍内部の分裂“つまり”松永久秀“が謀叛に走るという状況が重なっていた為である。

“松永久秀”の謀叛は“織田信長”が抱える事に成る“自軍内部の分裂”の一つに過ぎない。詳細に就いては次項6-24項で詳述するが、要は”織田信長“は以前の戦いで”松永久秀“を助命し、配下に加えた上で”松永久秀“が心血を注いだ”多聞山城“を自らの手で解体させるという屈辱的役割を与え、更に、既述の”天王寺砦の戦い“での辛勝後の人事で、満68歳の”松永久秀“に”大坂(石山)本願寺包囲戦”の為の“守城定番“を命じた。こうした”織田信長“の対応は”天下人・三好長慶政権“で栄耀栄華を極めた”松永久秀“にとっては、自尊心を踏みにじられる屈辱的な扱いの連続だったのである。

こうした不満の積み上がりから”松永久秀“は”織田信長“からの離反の動きを見せた。こうした不安定な周辺状況への対応から“織田信長”は、拠点の”安土城“を離れる訳には行かなかったのである。

33-(3)-②:“織田信長”が編成した“北陸方面軍+支援部隊”30,000兵の陣容

1577年(天正5年)8月8日:

“織田信長”は支援部隊も加えた、30,000兵に上る大軍“北陸遠征軍”を編成したが、その陣容には“北陸方面軍”に加えて“滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀”軍、更に“美濃国・若狭国”の部隊が支援部隊として加わった。“織田信長”が“軍神・義の武将・毘沙門天の化身”と称された“誇り高き戦国最強の戦国大名・上杉謙信”との最初の直接戦闘に対して、極めて“警戒感”を持っていた事が分かる。

“柴田勝家”をトップとして“越前国”に封じられ“佐々成正・前田利家”を組下として組織された“北陸方面軍”そのものも大軍団であったが、支援部隊を加えた今回の“北陸遠征軍”は総兵数30,000兵の大軍と成った。“織田信長“軍の主力勢力を投入したと言えるものであった。

“羽柴秀吉軍”も“柴田勝家”軍の指揮下に従軍したと“太閤記”にはあるが、この件については後述する。この大軍が“越前国・北庄城”を”能登国“に向けて出発したのは1577年(天正5年)8月8日であった。

33-(4):“羽柴秀吉”の“戦線離脱”事件が勃発したと書く“太閤記”

”太閤記“には大軍”北陸遠征軍“が“加賀国”に入った途端、支援部隊として参加していた“羽柴秀吉軍“が“柴田勝家”との意見衝突の結果“織田信長”の許可も得ず、勝手に戦線から離脱するという大事件が発生した事が書かれている。以下はその紹介である。

1577年(天正5年)8月:

“柴田勝家”をリーダーとする大軍“北陸遠征軍”が“七尾城”に向けて“越前国・北庄城”を出陣して間もなく、内容の詳細は伝わらないが、軍議の席上“知略”を用いて攻撃すべきとの“羽柴秀吉”の提案に対して“伝統的”且つ“保守的”な戦術を用いての戦闘を頑なに主張する”柴田勝家“が激しく対立した。

”羽柴秀吉“は”柴田勝家“の策は”非効率で危険“だと、リーダーの”柴田勝家“に異を唱えた。双方共に譲らず、結果、何と”羽柴秀吉“は、戦国時代では”死“を意味する”主君・織田信長”の許可も得ずに兵を纏めて勝手に戦線を離脱し”長浜城“に引き揚げてしまったと伝わる。この背景には”羽柴秀吉“はリーダー”柴田勝家“が掴んでいない”七尾城の情報“を掴んでいたのではないか?とする説、その他の説がある。

メモ:“織田信長”“の許可も得ず、勝手に戦線を離脱し”長浜城“に引き揚げた”羽柴秀吉“へ”織田信長“が下した処置

これも“太閤記”が伝える記事であるが、勝手に戦線離脱をした“羽柴秀吉”に下された処置は“長浜城”での謹慎であった。謹慎に対して“秀吉”は“弟・秀長”や“蜂須賀・浅野”等の家臣達を集めて、連日、派手な宴会を催した。益々信長の怒りに火を注ぐ、と諫める周囲の者達に“秀吉”は“静かに謹慎をすれば、信長様は却って謀叛でも企んでいるのでは?と猜疑心を強める。だから、馬鹿騒ぎをしていた方が信長様は安心するのだ“と、一向に宴会を止めなかった。見事な“秀吉”の“IQ+EQ+人間力”を発揮した一幕を伝えている。果たせるかな“秀吉”の読み通り“信長”は怒りを解いて“中国攻め総大将”に任じた。

以上の“太閤記”の記述には脚色も多いとされ、史実であるか否かは不明である。

一方“今井宗久茶湯日記”には“秀吉”が1577年(天正5年)8月26日の“茶会”に出席した記録が残る。又、史実として1577年(天正5年)10月5日~10月10日の間には“秀吉”が“松永久秀・討伐”の“信貴山城の戦い”に“織田信長嫡男・織田信忠”(1576年11月28日に織田信長から家督・岐阜城を譲られていた)に従って出陣をした記録が残されている。

更に1577年9月27日付けの“織田信長”から“江見九郎次郎“宛の書状(美作江見文書)には”秀吉“を”中国方面司令官“として派遣する旨を伝えた事が確認されている。
”秀吉“は実際に1577年10月23日には”小寺(黒田)孝高“(=黒田官兵衛)が”秀吉“に譲ったと伝わる”姫路城“に入城している。

こうした諸記録から“羽柴秀吉”が“手取川の戦い”の前哨戦である“七尾城”に向かう途中“柴田勝家”と、何らかの軍事作戦上の意見の相違から“戦線離脱”をしたという史実は無いとする説がある。“羽柴秀吉”は初めから“織田信長”から“中国方面司令官”の人事を命ぜられていたとする説である。これ等諸説の折衷案的な説となるが、“羽柴秀吉”は一端は“北陸遠征軍”に参加したが、途中で“織田信長”からの“中国攻め”の人事命令が出された為“北陸遠征軍”への参加が途中で変更されたとする説には説得力があろう。

“手取川の戦い”も史実として本当にあったのか否かも判然としない事も、冒頭に記述したが、ことほど左様に“太閤記”の記述の信憑性には疑問が多いとされるのである。


33-(5):“羽柴秀吉”軍が離脱(?)した後の“柴田勝家”率いる大軍“北陸遠征軍”は“上杉謙信”側によって“情報”を遮断され、敵状も掴めないままに強引な進軍を続けた。

1577年(天正5年)9月10日:

”羽柴秀吉“軍が離脱(?)した“柴田勝家”率いる大軍“北陸遠征軍”は“松任”近くまで軍を進めた。(既述の別掲図・半年後に上杉謙信が病死した為、又もや難を逃れた織田信長軍/柴田勝家軍/が惨敗した/手取川の戦い/に至る両軍の動き、の③でその位置が示されている)

しかし、それ以後の進軍は困難を極めた。大軍“北陸遠征軍”は敵の状況も掴めない状態、手探り状態での進軍を続けた。それでも、目指す“七尾城”で何かが起こったのではないか?通常では無い!!と思わせる事態を漸く感じ取った“柴田勝家”等武将達が“織田信長側近・堀秀政”に送ったのが以下の文書である。

柴田勝家等、武将達が連署で織田信長側近の堀秀政に宛てた文書

“上杉謙信”の兵は高松(石川県かほく市)に3000ばかり“加賀”の兵も加えて在陣していると“末森”(別掲図:手取り川の戦いに至る/織田信長軍と上杉謙信軍の動き/参照方、㋐で表示)から伝えて来た

今日になっても“七尾“(同上別掲図で㋑で表示)より飛脚が一人も来ない。不思議に思っていたところ”末森“からの飛脚が言うには、能登の農民達が悉く”上杉謙信”の味方に成っており”末森“迄の通路が一切使えないとの事だ。


上記文書は“七尾城”内が分裂し“遊佐・温井”派が“上杉謙信”方へ内応し(ないおう=内部の者が密かに敵と通じる事・内通)そして“織田信長”派の“長続連・長綱連(続連の嫡子)“他の”長一族“を悉く殺し“七尾城”を“上杉謙信”に開け渡し“能登国”が“上杉謙信”の支配下に成ったという史実展開を“柴田勝家”指揮下の武将達が漸く、朧気ながらも掴み、置かれた状況を訝って文書で伝えたものと考えられる。

この文書発行の5日後の1577年(天正5年)9月15日には“七尾城”が“上杉謙信”に開け渡されて行ったという状況下“柴田勝家”はじめ幹部が、何かおかしいと、薄々感じ取っていたというお粗末な情報戦の状況を伝えるものである。

“七尾城”が“上杉謙信軍”に開城され“能登国”も“上杉謙信”の支配下に成って行くという流れを全く掴み切れていない状況下で“柴田勝家”をトップとする大軍“北陸遠征軍”の幹部の武将達は“遠征“が何故、こうもスムーズに行かないのか、に疑問を抱き、不安を吐露したのが上記“織田信長側近・堀秀政”(生:1553年・没:1590年5月27日)へ書き送った文書である。

改めて既述の“別掲図・半年後に上杉謙信が病死した為、又もや難を逃れた織田信長軍/柴田勝家軍/が惨敗した手取川の戦いに至る両軍の動き”を参照願えれば、そうした情報不足の状況下にも拘わらず“柴田勝家”率いる“北陸遠征軍”が強引に進軍した経緯、そして、結果“手取川の戦い”で大敗した経緯が理解頂けるであろう。その経緯は同別掲図に①~⑥のコメントに示しているので、理解の助とされたい。

33-(6):“松任”以降の進軍が困難を極めた状況に“柴田勝家”は“情報把握”が不十分である状況に漸く気付いた。“七尾城”が既に“上杉方”に落ちたのか?変化が起きたに違いない事を漸く悟り、退却を始めた。しかし“時すでに遅し”で“上杉謙信軍”に追撃され、惨敗を喫した

“手取川の戦い”に就いては“織田信長(柴田勝家)”方の大敗だった為であろう“信長公記“には記載が無い。”北陸地域“を舞台とした軍記物の中にも”手取川の戦い“を記したものは後世に書かれた“北越軍記”が残るだけである。“谷口克広”氏(信長の天下布武への道の著者)に拠ればこの“北越軍記”の信憑性は極めて低く“俗書”と言うべき本だと酷評しており、これ等の事から、果して“手取川の戦い”が史実として存在したのかとの議論が生まれた。しかし“上杉謙信”が“手取り川の戦い”の後に国元の家臣に宛てた書状が遺されていた事から“手取川の戦い”が史実である事が裏付けられている。

この史料の信憑性が高い事は“谷口克広”氏も認めている。この書状で“上杉謙信”は“手取川の戦い”で勝利した状況を以下の様に誇らしげに唱いあげて居る。(歴代古案)
七尾城・末森城が1577年(天正5年)9月15日~に落城した情報を“織田信長軍”(柴田勝家軍)は全く得ておらず、18日(1577年9月18日)に“手取川”まで進軍し、数万騎が陣取った。そこへ“越後・越中・能登”の軍勢を先鋒として派遣した“上杉謙信”も自ら馬を進めた。それを知った“織田信長”(柴田勝家軍)は、23日(1577年9月23日)夜中に逃げ出した。(注記:既述の様に織田信長自身は此の軍に参加していないが、上杉謙信は“織田信長”が参加していたと思っていたと思われ、織田信長が逃げ出したと表現している)“上杉謙信軍”はそこを攻撃し、千人あまりを討ち取り、残った者を悉く川(手取川)へ追い込んだ。折から洪水で川は溢れていたので渡る事も出来ず,人馬を押し流してしまった。(織田信長は)案外に弱かった。この分だと今後“京都”まで行くのもたやすい事だ。

上記史料が“手取川の戦い”が実際に戦われ“上杉謙信”軍が“柴田勝家”(上杉謙信は文面から織田信長が自ら出陣していたと思っていたと思われる)軍を追撃し、勝利した事が史実である事を僅かに伝えるものであり、決定付けていると“信長の天下布武への道”の著者“谷口克広”氏も結論付けている。

1576年(天正4年)秋に“織田信長”との“同盟関係”を破棄し“打倒織田信長”を決した“上杉謙信”にとって“手取川の戦い”の勝利は、彼をしてその意気は眞に天を衝くものがあったであろう事がこの書状から伝わって来る。

情報が無いとは言うものの以下に“手取川の戦い”の状況を要約して置きたい。

1577年(天正5年)9月23日:

 “手取川”の手前で追撃を開始した“上杉軍”は“柴田勝家”率いる“北陸遠征軍”を捉えた。手取川を渡って引き揚げようとしていた“北陸遠征軍”に“上杉追撃軍”が襲い掛かった。運悪く“手取川”は増水しており逃げ場を失った“北陸遠征軍”は千余人が討ち取られ、更に川に流された兵士はその数知らずとされる。これが“上杉謙信”と“織田信長(実態は柴田勝家)”がただ一度だけ矛を交えた戦い“手取川の戦い”であり“織田信長(柴田勝家)”の大敗であった。

33-(7):“手取川”訪問記

訪問日:2023年(令和5年)9月25日(月曜日)
住所:石川県白山市湊町
交通機関等:
既述の“七尾城訪問記”に書いた様にスケジュールとしては“七尾城”訪問等とセットで行った名古屋駅でレンタカーを借りての歴史探訪であった。その最初の訪問地が“手取川古戦場訪問”であった。

訪問記:
名古屋駅に近いレンタカー営業所をAM8:15に出発し“手取川古戦場”を漸く探し当てたのがPM12:20であるから4時間も掛かった事に成る。
史跡探訪も建造物の史跡の場合は割と楽に探せるが“古戦場”となると、どのケースも石碑等の場所を探すのにも苦労するケースが多い。
この“手取川古戦場”もなかなか探し出す事が出来ず時間を費やした。戦場の様子を伝えるものは無く、ただ“手取川の戦い”を伝える石碑を見付ける事が出来たのは幸いであった。手取川の様子、石碑の写真を添付したので参照されたい。
”織田家が上杉謙信に木っ端微塵にされた戦い“と”織田信長“に厳しい言葉を伝えているパンフレット、更には写真にある石碑にも”手取川での両軍の激突の様子を後世の人は、上杉に逢ふては織田も名取川(手取川)はねる謙信逃ぐるとぶ長(信長)という狂歌に詠んでいる、、、と刻んでいる。北陸地方に於いては“上杉謙信”の人気が絶大であり“織田信長”に対しては厳しい言葉で“手取川の戦い”に於ける“織田方”の大敗を伝えている。


33-(8):“手取川の戦い”で“北陸遠征軍”(柴田勝家軍)が大敗した諸要因を纏める

33-(8)-①:“上杉謙信“が”加賀一向一揆“を味方に付けていた事を知らなかった事

“手取り川の戦い”に於ける“上杉謙信”軍の勝因はその戦闘力もさる事乍ら“加賀一向一揆”を味方に付けていた事が主たる勝因だとされる程、重要な事であった。既述の様に“織田信長”が”越前一向一揆殲滅戦“(1575年8月15日~8月末)に勝利し”石山本願寺“から派遣された”下間頼照“を始めとする”首魁“が悉く討たれた等、多大な被害を被った”石山本願寺”側の危機感は大きく、結果”本願寺・顕如“は既述の様に1575年(天正3年)10月に“織田信長”と”和睦“(双方とも直ぐに破棄される事を覚悟の上の締結であった)を整立させた。

しかし“織田信長”との戦闘再開は必至と読み、半年後の“1576年(天正4年)4月には“上杉謙信“との間の”和睦・同盟“を成立させ”織田信長“との戦闘再開時に備え、担保としていたのである。

この時点で“上杉謙信”が“織田信長”との対決を決断していた事は述べたが“織田信長”は“不器用すぎた天下人”の著者“金子拓”氏が指摘した様に“身勝手さ”故に、それに気付いていなかったと思われる。“上杉謙信”との“同盟関係”は形の上では続き、その後1年間は維持された。“柴田勝家”をリーダーとする大軍“北陸遠征軍”は“上杉謙信”軍が“加賀一向一揆”勢力を味方に付けていた、という情報も把握しておらず、結果“情報こそが戦国時代を生き抜く最重要の武器である”という点に甚だしく後れをとったのである。

33-(8)-②:“北陸遠征軍”の主目的である“七尾城の戦い”が既に内紛に拠って“織田派”が謀殺され“上杉謙信派”が“七尾城”を開城、結果“能登国”が“上杉謙信”の支配下に置かれたという重要情報も掴んでいなかった事

第2の“重要情報不足”は“上杉謙信”軍との“七尾城の戦い”の最中“七尾城”で内紛が起り“上杉謙信派”が“織田信長派”を討ち“七尾城”を“上杉謙信”に開城し“能登国”が“上杉謙信”の支配下に置かれるという事態と成った。“加賀国・松任“以北が”上杉謙信”方の支配下と成っていた為“柴田勝家”率いる大軍“北陸遠征軍”が求めた情報が遮断されていた。こうした重要情報を欠いた大軍“北陸遠征軍”に次なる悲劇が襲った。

“上杉謙信軍”が“柴田勝家”率いる大軍“北陸遠征軍”を追撃して来るという情報も直前まで掴めていなかったのである。その後の“北陸遠征軍”の大敗振りに就いては既述の通りである。

33-(9):“手取川の戦い”で“柴田勝家”率いる“北陸遠征軍”に大勝した“上杉謙信”軍はそれ以上深追いせず“柴田勝家”軍にとっては非常にラッキーであった

上記“上杉謙信”の文書にある様に“手取川の戦い”に大勝した“上杉謙信”は“(織田信長は)案外に弱かった。この分だと京都に行くのもたやすい事だ!!”と意気軒高であった様子が伝わる。

そもそも“織田信長”との“同盟“関係を破棄する決断に至った背景には“鞆”の“足利義昭”から“第3次織田信長包囲網”への誘いがあったと考えられ“守旧派”の“上杉謙信”としては“室町幕府再興”という“足利義昭”の“大義”に大いに動かされていた可能性はある。そして今回の“手取川の戦い”での大勝利は“上杉謙信”の鼻息を荒くさせた。

敗走した“柴田勝家”率いる大軍“北陸征服軍”は大いなるピンチを迎えていたが、幸いだったのは“上杉謙信”軍がそれ以上深追いして来なかった事である。“上杉謙信軍”は攻略したばかりの“能登・七尾城”に戻り“能登国”の平定を優先したのである。

今一つのラッキーは“手取川の戦い”に“上杉謙信”軍が勝利した旧暦9月23日は現在の11月3日に当たり“領国・越後国”(新潟県)ではそろそろ雪の降る季節を迎え“上杉謙信”軍としては、雪に閉ざされる危険を避ける事を考えると“加賀国”から更に南下して進軍を続ける時間の余裕が無かった事である。

34:“毛利領国・鞆“への強引な”移座“(1576年2月)の結果”毛利氏“を“第3次・織田信長包囲網”の中核として取り込む事に成功し“本願寺・顕如”の要請に応えて“本願寺”と“上杉謙信”との間の“和睦・同盟“を成立(1576年4月)させる等、その後の”第3次・織田信長包囲網“の展開に自信を得つつあった“足利義昭”

“加賀国・手取川の戦い”(1577年9月23日)で“織田(柴田勝家)軍”に大勝した“上杉謙信”は“能登国”を支配下に置いた後“越後国・春日山”に帰った。

こうした状況は“鞆“への強引な”移座“(1576年2月)以来”毛利氏“が”第3次・織田信長包囲網“の中核と成り”織田・毛利“の同盟が決裂し(1576年5月)その両者の緒戦たる“第一次・木津川口の戦い”(1576年7月13日)で“毛利水軍”が“織田水軍”に圧勝する展開と合わせ“足利義昭”にとっては”第3次・織田信長包囲網“が今度こそ成功するとの大いなる期待を持たせた。

加えて“足利義昭”には“織田信長”との“仮の和睦“をしたものの(1575年10月)戦闘再開が必至と見越した”石山本願寺・顕如“の要請に応えて自らが仲介役と成って“上杉謙信”と”加賀一向一揆“の関係修復を成し、その結果1576年(天正4年)4月には”上杉謙信・本願寺顕如“との間の”和睦・同盟”を成立させる役割も果たした。

こうした動きが結果として、今回の“手取川の戦い”(1577年9月23日)で“上杉謙信”軍が“織田軍(柴田勝家軍)”に大勝する大きな要因と成ったのであるから“第1次、第2次・織田信長包囲網”を掲げ“織田信長”と戦い続けたものの、結果は”織田信長“との戦いに敗れ(1573年7月槙島城の戦い)”京“から追放された”足利義昭“にとっては、今度こそ“第3次・織田信長包囲網”を成功させ、悲願の“織田信長討伐”が実現するとの期待を抱かせるに十分な展開が続いたのである。

以下に改めて“足利義昭”が執念を燃やして来た“第1次~第3次織田信長包囲網”の経緯を纏めて置く。

“足利義昭”が主唱して来た“第1次~第3次”までの“織田信長包囲網”の纏め

① 第1次織田信長包囲網(1570年/永禄13年~元亀元年)
包囲網
越前国・朝倉義景+大坂本願寺顕如+四国・紀伊半島勢力

② 第2次織田信長包囲網(1571年/元亀2年~1573年/元亀4年・天正元年)
包囲網
武田信玄+朝倉義景+浅井長政+三好勢

③ 第3次織田信長包囲網(1576年/天正4年~1582年/天正10年)
包囲網
武田勝頼+毛利輝元+上杉謙信+本願寺顕如+松永久秀+紀伊半島勢力

35:“上杉謙信”の急死・・“足利義昭”が再び大きな誤算に襲われ“織田信長”にとっては再度の幸運であった

“足利義昭”が“第3次・織田信長包囲網”に拠る“室町幕府再興”の“大義”に、守旧派の“上杉謙信”が賛同し“足利義昭”が念願とする“再上洛”を支援する力となってくれる事を願った事は間違い無い。

ところが“手取川の戦い”で“織田・北陸遠征軍(柴田勝家軍)”に大勝したものの“上杉謙信”は、先ずは“能登国”の統治を固める事を優先し、又、冬が近い時期(旧暦9月23日は現在の11月3日に当たる)である事から、そのまま“西上作戦”を続ける事無く“越後国”へ引き揚げた。

この事は大軍“北陸遠征軍”を率い、負け戦と成った“柴田勝家”つまりは“織田信長”方にとって、大きなピンチを逃れる事と成った。

35-(1):更なる“織田信長”にとってのラッキーは“武田信玄”と並び立つ“戦国最強”で“軍神・義の武将・毘沙門天の化身”と称された“上杉謙信”の急死であった

“上杉謙信”の急死は“織田信長軍(柴田勝家軍)”が“手取川の戦い”に大敗した後、半年も経たない間に起こった。

1578年(天正6年)3月9日:

三月九日ノ午刻、管領(上杉謙信)卒中風(脳卒中)煩セ玉イ、忽困倒(タチマチ昏倒)シテ人事ヲ顧ミ玉ハス。御一族ヲ始メ、諸将群臣以下、驚動スル事、限リナシ
(謙信公御年譜)

以上が当日の記録である。

35-(2):“上杉謙信”の死因に関する諸説

35-(2)-①:通説

“上杉謙信”の死因は“厠で脳卒中で倒れ、意識を失い遺言を遺す余裕すら無く没した”というのが通説となっている。“冬の寒い正午頃、厠に立った上杉謙信が脳卒中を起こし気絶したまま永遠に帰らぬ人になった”という説である。家中大騒ぎになったと書かれている。
しかし他の説もある。

35-(2)-②:上杉謙信が倒れたのは“厠”では無く“私室=書斎”だとの説

上記、冒頭紹介した“謙信公御年譜”の表現に“厠”で、とは書かれていない。“厠”と書かれたのは“武田“方の軍記”甲陽軍艦“に”寅の三月九日に謙信閑所にて頻出し、五日煩い“と記された処を江戸時代の軍学者”宇佐美定祐“が”閑所“を”厠“の意味で著述した事で拡散したとされる。

しかし“閑所“は”厠“だけでなく”私室“の意味でも使われる。従って”上杉謙信“は”書斎“で脳卒中を起こした、との説である。

1578年(天正6年)3月13日:

何れにせよ“上杉謙信”(生:1530年・没:1578年)は5日間煩い1578年3月13日に没した。満48歳であった。

36:“織田信長”にとって更にラッキーだった史実・・
①”上杉謙信“は”第3次・織田信長包囲網“に参加する意図が強くは無かった
②“上杉謙信”急死後“上杉家”が“内紛”に陥り、結果“第3次・織田信長包囲 網”への参加どころでは無くなった事

36-(1):“上杉謙信”は“第3次・織田信長包囲網”に参加する意図が強くは無かった

“上杉謙信”は“手取り川の戦い”(1577年/天正5年/9月23日)で大勝した後、1578年(天正6年)に入り“下総国・結城晴朝”(ゆうきはるとも・下総国結城城主・生:1534年・没:1614年)の支援要請を受けて関東への出兵を計画していた事が伝わる。“義の武将・上杉謙信”の真骨頂であろうか・・。しかしその出兵前に倒れ1578年3月13日に49歳で病死したのである。

こうした“上杉謙信”の最期の動きを見ると“足利義昭”の“室町幕府再興”の“大義”に賛同し“第3次・織田信長包囲網”への参加を決断し“足利義昭”や“毛利輝元”と共に“打倒織田信長”を目指した、とする説に疑問が生じる。

”織田政権の登場と戦国社会“の著者”平井上総“氏は“上杉謙信”には“足利義昭”を助けて“上洛”する事よりも“上杉領“の経営、並びに”関東諸大名“との関係の方をより重視していたとの説を展開している。従って“上杉謙信”には“足利義昭”の“第3次・織田信長包囲網”に協力して“織田信長”を討つ意図が強くは無かった、との説である。

そうした“上杉謙信”の姿勢を“織田信長”も見越しており、従って本格的な“上杉対策”を講じる必要は無いと考えていたとしている。“上杉謙信”は“下総国・結城晴朝”支援の為の出兵をより重視し、その出兵直前に倒れ、1578年(天正6年)3月13日に49歳で急死した、とするのが“平井総氏”の説である。

36-(2):“上杉謙信”急死の翌日(1578年3月14日)から“後継者争い”が始まり2年後”上杉景勝“が勝利し終息する(御館の乱:自1578年3月14日至1580年3月)・・従って”上杉家“は”第3次・織田信長包囲網“に参加するどころでは無くなった

上記の説にある様に、そもそも“上杉謙信”が“足利義昭”が主唱する“第3次・織田信長包囲網”に積極的に参加し“織田信長打倒”をどれ程真剣に考えていたのかは彼の突然の死で計り知れない。しかも“織田信長”にとって“上杉家”が“上杉謙信”が急死した翌日から“御館の乱”と呼ばれる、以後2年間に及ぶ内紛に陥った史実は“最強戦国大名・上杉氏”を敵に回す事が無く成った事を意味し“織田信長”にとってラッキーであった事は間違いない。

”上杉家“は“上杉謙信”の死後直後から、子の無い“上杉謙信”が養子にしていた①母親が上杉謙信の姉、つまり甥の“上杉景勝”(生:1556年・没:1623年)と②父親が北条氏康でその七男の“上杉景虎”(生:1554年・没:1579年3月24日)との間で“家督”を巡っての内紛と成った。以下にその“内紛”について記述する。

36-(2)-①:“御館の乱”

“御館の乱”(1578年~1580年)と呼ばれるこの内紛は2年間も続いた。この戦いで“山内上杉家”の元当主で1561年3月“長尾景虎(後の上杉謙信)”に家督と関東管領職を譲った“上杉憲政”は敗れた“上杉景虎”に加担したと伝わる。“上杉憲政”は1579年(天正7年)に両者の仲裁を図るべく和睦交渉の為に“春日山城”に向かうが“上杉景勝軍”の兵によって殺されるという事態と成った。(1579年3月18日)

戦いに敗れた“上杉景虎”は実家の“北条氏”を頼って“小田原城”に逃れようとしたが彼も又“上杉景勝”軍に追撃され、自刃した。(1579年3月24日)結果“上杉景勝”が勝利し“上杉家当主”の座を継いだのである。

こうした状況の“上杉家”であったから“第3次・織田信長包囲網”へ参加するどころでは無かったのである。

37:“織田信長包囲網”の中核として期待した“武田信玄”そして“上杉謙信”を急病死によって失うという不運に見舞われた“足利義昭”の一方でラッキーを手にした“織田信長”であったが“人間関係に不器用な天下人・織田信長”は次々と“家臣、並びに従属的同盟者”達からの離反が絶えない状況下に置かれる

“足利義昭”は主唱し続けた“織田信長包囲網”を何としてでも完成させ“織田信長”を討伐する事を決して諦めなかった。しかし乍ら既述の通り“織田信長包囲網”の中核に据えようとした“武田信玄”に続き“上杉謙信”という“戦国最強の戦国大名”2人を共に“急病死”によって失なうという不運に見舞われた。

この“戦国最強の戦国大名”2人の急病死は“天下人”として“全国統一事業”に邁進する“織田信長”にとってはラッキーそのものであった。あとは3人目の“戦国最強の戦国大名の一人”である“毛利氏“との戦いを残すのみとなる筈であった。

しかし”人間関係に不器用な天下人・織田信長“は次々と足下から与党であるべき身近な武将達、つまり“家臣、並びに従属的同盟者”達からの離反、謀叛が絶えない状況下に身を置くのである。