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2025年12月22日月曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代と院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
6-25項:1582年(天正10年)6月2日に“織田信長”が“本能寺の変”で迎えた最期は自ら敷いた“路線“であった


1:伊勢国・北畠家を簒奪した“織田信長”

1-(1):“大河内の戦い”(1569年/永禄12年)で“伊勢国”に橋頭保を築いた“織田信長”

1569年(永禄12年)10月:

“伊勢国“攻略を狙う“織田信長“は”伊勢国司・北畠具房“(伊勢北畠家・第9代当主・生:1547年・没:1580年)を”大河内城の戦い“(1569年10月)で攻め、和睦条件として信長の次男”茶筅丸“(後の織田信雄・・下図で*印6の人物・生:1558年・没:1630年)を”北畠具房”の妹“雪姫”と婚姻させ、北畠家の養嗣子とする事を条件として受け入れさせた。

1570年(4月23日から元亀元年):

上記した50余日に亘る“大河内城の戦い”の籠城による抵抗戦で息子の“北畠具房”と共に敗れた父親“北畠具教”(伊勢北畠家‣第8代当主・生:1528年・没:1576年)は上記和睦後の翌1570年に42歳で隠居、出家し“三瀬御所”と呼ばれた館に入り“不智斎”と号した。しかし密かに側近達と“織田信長”への抵抗準備を進めていたのである。

1572年(元亀3年):

“織田信長”は、次男”茶筅丸“を14歳で元服させ”北畠具房”の妹“雪姫”と婚姻させ”北畠具豊“を名乗らせた。“北畠具豊”(織田信長次男・茶筅丸)は“大河内城”を廃し “南北朝時代”(自1336年至1392年)に“神皇正統記”の著者で名高い“北畠親房”(生:1293年・没:1354年)が築いたとされる“田丸城”(三重県渡会郡玉城町田丸字城郭)を新たな本拠とした。

1-(1)-①:“北畠具豊”(織田信長次男・茶筅丸)の義父“北畠具教”(不智斎)は“武田信玄”と水面下で密約を結ぶ

1572年(元亀3年)3月:

“北畠具豊”(織田信長次男・茶筅丸)の義父“北畠具教”(不智斎)は“織田信長”への抵抗を密かに続けた。そして既述の様に“織田信長”との同盟関係を表面上は維持していたが、1572年572年/元亀3年/10月に“織田信長”を裏切って“遠江”に出陣、同年12月に“三方ヶ原の戦い”で“徳川家康・織田信長連合軍”を敗り“西上作戦”を続けていた“武田信玄”と協力関係を結ぶという裏面工作をしていた。

“北畠具教”(不智斎)は、側近の“鳥屋尾満栄”を“武田信玄”の陣に遣わし“武田信玄”が上洛の際には船を出して協力するという密約を交わした。しかし“武田信玄”は既述の様に“三方ケ原の戦い”で勝利した僅か4ケ月後の1573年(元亀4年)4月に病没して了うのである。

1-(1)-②:この頃の“織田信長”の状況、そして“北畠具教”(不智斎)の“武田方”との接近を知っていた“織田信長”の動き

1575年(天正3年)5月:

1575年5月に”織田信長“は”徳川家康“と共に”長篠の戦い“で”武田勝頼軍“に大勝し、8月には“越前一向一揆殲滅”を行い“越前国”を分国として“柴田勝家”等を分封した事は既述の通りである。(6-22項38を参照方)

勢いに乗る“織田信長”は“伊勢国攻勢“も更に強め“北畠具教”の息子の“北畠具房”にも隠居を迫り”北畠具豊“を名乗らせた次男を”伊勢北畠家“の”第10代当主“を引き継がせると共に”北畠意“と改名させた。”信“の偏諱を与えた事から”織田信長“が”北畠氏“つまり”伊勢国支配“を更に強化しようとする意図が歴然としていた。

別掲図:“織田家系図”(出典:谷口克広著 信長の天下布武への道)の次男“織田信雄”
別掲図:織田家系図(出典:谷口克広著 信長の天下布武への道)の次男織田信雄

参考写真“織田信雄家系図”・・出典“U-tube
織田信雄家系図

1-(2):“織田信長”は“三瀬の変”によって“北畠家簒奪”(=伊勢国支配)をし“伊勢国攻略”を完了した

1-(2)-①:“織田信長”に無理やり隠居させられた“北畠具教”(不智斎)“並びに息子の“北畠具房”は水面下で“織田信長”への抵抗を続ける

1576年(天正4年)正月:

“大河内の戦い”(1569年/永禄12年)で“織田信長“に敗れ、翌1570年に42歳で隠居、出家し”不智斎“を名乗り“三瀬御所”と呼ばれる館に入った“北畠具教”が“織田信長”への抵抗として密かに“武田氏”との密約を結んでいた(1572年3月)事は“武田信玄”の“病死”(1573年4月)によって実らなかった。

“北畠具教”(不智斎)が水面下で抵抗の動きを続けている事を掴んでいた“織田信長”は“北畠具教”が1576年正月の挨拶の為“岐阜城”に遣わした(織田信長は安土城築城を1576年1月から始めた)“側近・鳥屋尾満栄”には会おうともせず、待たせた後に、漸く現れ“鳥屋尾満栄”を白洲に座らせたま々、縁側で刀を抜くという挑発的行動で威嚇した事が伝わる。“織田信長”のこの行動の意味は”北畠信意“と改名させた”次男(後の織田信雄)”を当主として“伊勢国・北畠家簒奪”をする事を明らかにしたという事である。

1-(2)-②:“三瀬御所”で戦闘に及んだ“織田信長”

メモ:“北畠信意“を”織田信雄“の名に戻した時期について
諸説があるが“織田家”の“伊勢国“に於ける勢力が確立し”北畠家“の名跡を使う必要性が薄れた1575年(天正3年)以降との説が有力である。上記” 鳥屋尾満栄”に対する話(1576年正月)が象徴的な話とされ、”織田信雄“への変更はこの頃とされる。

1576年(天正4年)11月:

”織田信長“そして”北畠信意“と改名させていた”次男(後の織田信雄)”は”藤方朝成“(ふじかたともなり・北畠氏家臣・1569年に主家を裏切って織田信長に臣従した・生:1530年・没:1597年)そして”長野左京進“並びに”奥山知忠“の3人を呼び出し “北畠具教”(不智斎)の殺害を指示した。しかし、この計画に参加したのは“長野左京亮”だけで“藤方朝成”は、代わりに家臣の“軽野左京進”を参加させたとある。

尚“奥山知忠”(奥山常陸守・今徳城主・生年不詳・没:1576年)は“旧主人”を切る事は出来ないとして“織田信長”からの朱印状を焼き、病と称して直前に出家し脱落した。この脱落は“主人・北畠具教”に対する“忠義“を尽くした武士として彼の名が伝わる。

1576年(天正4年)11月25日:

“織田“方は”滝川雄利“(たきがわかつとし・伊勢国神戸城主・織田信雄家老・生:1543年・没:1610年3月21日)そして”柘植保重“(つげやすしげ・生年不詳・没:1579年)並びに” 長野左京亮“3名の軍勢が“北畠具教”(不智斎)の“三瀬御所”を包囲した。更に“織田方”に内通していた“北畠具教”の近習“佐々木四郎左衛門”が”滝川雄利・柘植保重・ 長野左京亮“の3名を“北畠具教”の許に連れて行き、その中の” 長野左京亮“が、いきなり、槍で“北畠具教”(不智斎・生:1528年・没:1576年)を突くと“北畠具教”は太刀を抜いて反撃しようとした。

数少ない“公家大名”として知られる“北畠具教”は“塚原卜伝”に剣を学び“塚原卜伝”から“奥義”の“一の太刀”を伝授される程の腕前であった。そうした腕前を知る“近習・佐々木四郎左衛門”は刀が抜けない様に細工を施していた為、刀を抜く事が出来ず(他の説では北畠具教は応戦したが近習・佐々木四郎左衛門に拠って討ち果たされたとある)そのまゝ討ち果たされた。享年満48歳であった。

その後“織田方軍勢”は“三瀬御所”に討ち入り“北畠具教”(不智斎)の4男“徳松丸”そして5男“亀松丸”を殺害、更に14人の家臣、30人余の家人を討った。“北畠具教”の“正室・北の方”は走って逃げようとする等“三瀬御所”は大混乱であった事が伝わる。

1-(2)-③:“田丸城”での戦闘

一方“織田信長”の次男(後の織田信雄)は”北畠具房”の妹“雪姫”を妻として“北畠信意”として“北畠氏・第10代当主”を継いでいた事は既述の通りである。彼は“北畠親房”が1336年(室町幕府が成立した建武3年)に築いた“田丸城”を本拠としていた。そして、父親“織田信長”の“伊勢国簒奪”の意向に沿って“三瀬御所での戦闘”が起った同日に“田丸城”(三重県渡会郡玉城町田丸字城郭)に於て“北畠家根絶やし計画“に動いたのである。

1576年(天正4年)11月25日:

“北畠信意”(織田信長次男、後の織田信雄)は同日の朝に饗応の席だと偽って“田丸城”に呼び出した“北畠具教”の次男“長野具藤”(ながのともふじ・長野氏第16代当主・生:1552年・没:1576年11月25日)並びに三男“北畠親成”(生:1560年・没:1576年11月25日)そして“坂内具義”(北畠具教の娘婿)の3名を招き入れた。そしてその席で“北畠信意”の合図の鐘と共に上記3名が討たれ、更に、城内の“北畠家臣”達も次々に討たれたのである。

この討伐隊のメンバーとして“日置大膳亮”(ひおきだいぜんのじょ・元々は北畠家臣であった・生没年不詳)“土方雄久”(ひじかたかつひさ・生:1553年・没:1608年)“森雄秀”“津田一安”(つだかずやす・織田忠寛とも言う・尾張国日置城主・生年不詳・没:1576年12月)
“足助十兵衛尉”そして“立木久内”(たちききゅうない)等の名前が伝わる。

”北畠一門根絶やし討伐“の中で只一人助命されたのは“北畠信意”(織田信長次男、後の織田信雄)の養父“北畠具房”(きたばたけともふさ・伊勢北畠家第9代当主、中の御所と呼ばれた・生:1547年・没:1580年)であった。彼は“滝川一益預かり”として“長島城”に幽閉されたが、幽閉が解かれた1580年(天正8年)1月に京で没した。

1577年(天正5年):“織田氏”に拠る“伊勢国・北畠家簒奪”が完了

戦後“北畠一族謀殺”の報に“北畠具教”の実弟“奈良興福寺東門院院主”が還俗して“北畠具親”(きたばたけともちか・生年不詳・没:1586年6月9日)を名乗り“鳥屋尾満栄”並びに“家城之清”等“北畠旧臣”の協力、並びに“三瀬谷・河俣谷・多気・小倭衆”等の在地武士等、旧臣を集め“飯高郡森城”で挙兵した。

しかし“北畠信意”(織田信長次男、後の織田信雄)麾下の“日置大膳亮・日置次太夫”兄弟軍に拠ってこの反乱も1577年の年内には鎮圧された。“北畠具親”は“毛利輝元”を頼って“安芸国“に亡命した。これに拠って“伊勢畠山勢力”はほゞ“伊勢国”から駆逐され“織田氏”による“伊勢北畠家簒奪”が完了したのである。

1-(2)-④:“三瀬の変”(みせのへん・=三瀬御所、田丸城の戦闘)の纏め

年月日:1576年(天正4年)11月25日
場所:伊勢国“三瀬御所”並びに“田丸城”
結果:“織田軍”の勝利“北畠一門”の抹殺

交戦戦力
織田軍
指導者・指揮官
北畠信意(北畠具豊、後の織田信雄)
柘植保重(三瀬御所)
滝川雄利(三瀬御所)
土方雄久(田丸城)
木造具政
長野左京亮(北畠具教家臣・三瀬御所)
日置大膳亮(田丸城)
軽野左京進(藤方朝成家臣・三瀬御所)
佐々木四郎左衛門(織田方に内通し北畠具教の元に織田方を連れて行った人物)

戦力:不明
損害:不明

交戦戦力
北畠軍
指導者・指揮官
北畠具教(隠居して不智斎・三瀬御所で戦う)
長野具藤(北畠具教の弟・田丸城で戦う)
北畠親成(北畠具教の3男・田丸城で戦う)
坂内具義(北畠具教の娘婿・田丸城で戦う)
大河内具良





戦力:不明
損害:不明



2:“伊賀平定戦”

“伊賀国”(三重県の一部、現在の伊賀市、名張市)は、山に囲まれた地域で“二木長政”(生没年不詳)が守護職として“織田信長”に忠誠を誓う旨の連絡をして来たとの記録はあるが“二木長政”の支配力は緩く、守護とは言え、戦国時代を通じて、多数の国人、土豪が割拠する状態
であった。

“伊賀惣国一揆”と呼ばれる、外部からの侵攻を防ぐ為に“国人領主”だけでなく百姓層“も巻き込んだ広範囲な連合体が、広くも無い国内に546もの城郭や館を作り、団結して他国からの干渉を排除して来た。“伊賀惣国一揆”の組織はしっかりしており“守護・二木長政”に彼等を束ねる力は無かった。“伊賀国”は近国の中で“織田信長”の版図(はんと=領土)に属さない唯一の国だったのである。

2-(1):第一次“伊賀攻め”(第一次天正伊賀の乱)を無断で行い、失敗して“織田信長”から“親子の縁を切る”との御内書を突き付けられた“織田信雄”(織田信長次男)

”織田氏“と”伊賀惣国一揆“との戦いは2度行われた。1578年(天正6年)~1579年(天正7年)を”第一次”そして1581年(天正9年)の戦いを“第2次”として区別する。

“三瀬の変” (1576年11月25日に三瀬御所、並びに、田丸城で行われた戦闘)の勝利で“伊勢国・北畠家簒奪”を父“織田信長”と共に完了させた“北畠信意“(きたばたけのぶおき・のぶもと・後の織田信雄・生:1558年・没:1630年)は“伊勢国・北畠家”の養嗣子と成り、第10代当主として、家督の地位を得“北畠信意“(のぶおき・のぶもと)を名乗った事は既述の通りである。そして彼の支配は“南伊勢”並びに“大和東部宇陀郡”に及んでいた。

既述の様に1577年(天正5年)には“兄・北畠具教”を“三瀬の変”で殺され、その他“北畠勢力”が一掃された仕返しを“弟・北畠具親”が“北畠旧臣”の協力、並びに在地武士達の協力を得て“飯高郡森城”での反乱という形で試みたが“北畠信意”(織田信長次男、後の織田信雄)麾下の“日置大膳亮・日置次太夫”兄弟軍に拠って同年年末迄に鎮圧された。

“北畠信意“(織田信雄)の兵力は連枝衆(織田の家系に繋がる代々の兄弟)の中で最大の軍団と成っていた。それを裏付ける記録として1577年(天正5年)2月の”雑賀攻め、並びに“1578年(天正6年)8月10日には”羽柴秀吉“の救援に7500余の兵力で赴き”別所長治“の謀叛”三木合戦“(1578年3月29日~1580年1月17日)に同調した”志方城攻略“(兵庫県加古川市・現宝積山観音寺、加古川市立志方小学校)を行い”城主・櫛橋政伊”(くしはしまさこれ・生年不詳・没:1578年8月10日)を降伏させた戦歴が残っている。

2-(1)-①:父“織田信長”に無断で“伊賀攻め”を行い失敗した“織田信雄“(織田信長次男)

1578年(天正6年)2月:

“織田信雄”(既述の様にこの頃には完全に北畠信意から織田信雄に名を変えていたと思われる)は“伊賀国”へ攻め込む為“三瀬の変”で殺害された“北畠具教“が隠居後に築城した”丸山城“の大規模な修築作業を開始した。

1578年(天正6年)10月25日:

この事を知った“伊賀国郷土衆”は“平楽寺”に集まり“丸山城修築完成”の前に攻撃すべしと決して総攻撃を開始したのである。不意を突かれた“滝川雄利”(たきがわかつとし・伊勢国神戸城主・織田信雄の家老・生:1543年・没:1610年)軍等は混乱し“伊勢国”に敗走する事態と成った。

1579年(天昇年)9月16日:

“織田信雄”はこうした事態に“父・織田信長”に相談もせず、独断で8000の兵を率いて“伊賀国”に出兵し、東方、並びに南方の二方から攻め入った。しかし複雑な“伊賀国“の地形の中で軍は右往左往したという。そこを”伊賀衆“の反撃を受けて散々に討ち破られ“織田信雄”軍は重臣“柘植保重“(生年不詳・没:1579年)が討たれる等の損害が大であった。この戦いは“第1次天正伊賀の乱”(第1次伊賀攻め)と呼ばれ、被害は甚大で大失敗に終わったのである。

2-(1)-②:“第1次・天正伊賀の乱“の纏め

年月日:1578年(天正6年)~1579年(天正7年)
場所:伊賀国
結果:“伊賀衆”の勝利

交戦戦力
織田軍


指導者・指揮官
織田信雄(北畠信意から名を変える)
滝川雄利
柘植保重
土方雄久
日置大膳亮

戦力
8,000兵
損害
不明

交戦戦力
伊賀惣国一揆
伊賀十二人衆

指導者・指揮官
百地丹波(生:1556年・没:1640年)
植田光次(柘植保重を討ち取った・生没年不詳)



戦力
1,500兵
損害
不明

 
2-(1)-③:無断で“伊賀攻め”を行いしかも大敗した“次男・織田信雄”に対する怒りを爆発させた“織田信長”

“父・織田信長”に無断で“伊賀国侵攻”を試み、老臣を戦死させた上に敗戦という大失態を演じた“次男・織田信雄”に対する“織田信長”の怒りはすさまじく“親子の縁を切る!”との詰責状(きっせきじょう=失敗、怠慢、罪等を厳しく問い詰めた書状)を送っている。

しかしこの年1578年(天正6年)~1579年(天正7年)の“織田信長”は既述の“三木合戦”の勃発(1578年3月29日)、その“織田方”の内部崩壊に乗じる様に“第2次上月城の戦い”で“毛利方”に“上月城”を奪還され(1578年4月18日~同年7月3日)、更に畳みかける様に“荒木村重”の”有岡城の戦い“(1578年7月~)が勃発し”織田信長政権“を謀叛の連鎖に陥れていた。

従って“次男・織田信雄”の大失態を叱責はしたものの“織田信長”は“小国・伊賀国”が決して侮れない、警戒すべき国だと言う事を学習したと言える。この時点では“未征服地・伊賀国”の平定に動く訳には行かなかったが、この学習が、来たるべき“第2次・天正伊賀の乱”で“伊賀国”を平定する事に役立ったのである。

2-(2):“第2次天正伊賀の乱“

1581年(天正9年)9月:

”織田信長“は”信貴山城の戦い“(1577年10月5日∼10月10日)、そして”三木合戦“(自1578年3月29日~1580年1月17日)更に”有岡城の戦い“(1578年7月~1579年11月)という”織田政権の内部崩壊“とされる”外様家臣・従属的同盟者“からの離反~謀叛の戦闘を制した。又、前項(6-24項38参照方)で記した様に”第2次上月城の戦い“(1578年4月18日~7月3日)で”毛利方“に”上月城“を奪還されるという危機に直面する一方で”毛利方“にも”宇喜多直家“が離脱するという動きが生じると言う、戦況面での大変化が起こるという局面にあった。

その後”宇喜多直家“の動きは、翌1579年(天正7年)10月?に”毛利方“から寝返り”織田信長“との”和睦“を成すという展開となった。この事が”織田信長“方にとって”対毛利戦況“を大きく好転させた。

更に“織田信長”の自信を強くさせたのが、1580年(天正8年)3月の“本願寺顕如”との“和睦成立”であった。“顕如”の子息“教如”の抵抗があった事も既述の通りであるが、これもクリアーした。又、同年、1580年11月には“織田方・柴田勝家”が“加賀一向一揆”を平定し、1488年(長享2年)に“富樫政親”を滅ぼして以降、百姓の持ちたる国となっていた“加賀国”を92年振りに“一向一揆”の手から取り上げたのも“織田信長”であった。

こうして周囲を制圧し終えた“織田信長”にとって、近国の中で、ぽっかりと空いた“未征服地・伊賀国”は2年前の“第1次・天正伊賀の乱“で”次男・織田信雄“が惨敗していたが、その敗戦に学んだ”織田信長“は、4万を超える大軍で本格的に制圧に取り掛かったのである。

2-(2)-①:“総大将”を“織田信雄”にして2年前の復讐戦“第2次天正伊賀の乱”に臨んだ“織田信長”

1581年(天正9年)9月3日~9月6日:(信長公記・多聞院日記)

”織田信雄“を総大将とした4万の”織田軍“は下図に示す四方から分かれて”伊賀国“に攻め入った。


2-(2)-②:戦闘の様子

1581年(天正9年)9月3日:

2年前に“織田信雄(=北畠信意)”が大失敗した“伊賀平定戦”に学んだ“織田信長”は再び“織田信雄”を大将とし、4万を超える大軍で進軍した。上図で示した様に①“滝川一益・丹羽長秀“軍が甲賀口(滋賀県甲賀市)から攻め入り、そして②信楽口(滋賀県甲賀市)からは”堀秀政“が主将として近江衆を率いて攻め入った、更に③“加太口”(かぶとくち・三重県亀山市)からは“織田信雄老臣・滝川雄利“と”織田信包“(おだのぶかね・織田信長弟・生:1543年・没:1614年)軍が攻め入った。④南の”大和口“(奈良県月ケ瀬村)からは“筒井順慶”率いる大和衆が攻め入るという具合で、各軍が分かれて”伊賀国“に攻め入ったのである。

1581年(天正9年)9月4日~9月6日:

大部分の“伊賀国衆”は勇敢に戦ったが、一部の“伊賀国衆”には裏切る者も現れ、9月4日には多くの城砦が落ち、放火に拠る煙が“奈良”から見えたと“多聞院日記”に書かれている。

北部の“阿閇郡”(あべぐん)では柘植の“福地”川合の“田屋”等が直ぐに降参して来た。上図①②の“滝川・丹羽”軍と“堀秀政”軍が1手と成り1581年9月6日からは“壬生野城”(現伊賀市)並びに“佐那具城”(同伊賀市)を攻撃したと記録されている。

④の大和口から入った“筒井順慶”は南部の“伊賀郡・名張郡”を攻撃した。(多聞院日記)この中で最も激戦に成ったのが“佐那具城”の攻防であった。

注:
“伊乱記”(江戸時代に菊岡如玄が天正伊賀の乱に就いて著した軍記物語り。伊賀で語り継がれた伝承、情報を集めて書物にしたもの)には、攻撃開始時期が1581年9月27日と書かれている。又上記①~④からの攻撃口の他に⑤“蒲生氏郷・脇坂安治”軍が玉滝口から入り、更に⑥“浅野長政”軍が初瀬口から入ったと書かれている。又“伊賀衆”は“比自山城”(ひじやまじょう)に非戦闘員を含め10,000人が籠城し“平楽寺”(後の伊賀上野城“に1500人が籠城した。

1581年(天正9年)9月10日~9月11日:

“伊賀平定復讐戦“で最も激戦だった”佐那具城“(伊賀市)の攻防は”伊賀国衆“が城から激しく攻撃して来た。これに対し”滝川一益”軍と“堀秀政”軍が激戦の末“伊賀国衆”軍を城に追い込んだ。遂に“伊賀国衆”は観念して翌9月11日には退散した。

2-(2)-③:勝利を確信した“織田信長”は“伊賀国”の掃討戦を行う

1581年(天正9年)10月初め:

ほゞ“伊賀国衆”等の反撃を制圧した“織田信長”軍は“伊賀国“の地域に於ける”城砦“をしらみ潰しに破却して行った。”筒井順慶“軍が担当した”名張郡“では戦闘を交える事無く数十に上る城砦が開け渡された。”織田方“は其れ等の城砦を次々と破壊し(多聞日記)た上で、山中に隠れた敵兵を探し出し、老若男女、僧俗の区別も無く首をはねたと言う。(蓮成院記録=興福寺蓮成院の朝乗、印尊、寛尊、懐算等別会五師が残した1490年/延徳2年/4月~1614年/慶長19年11月迄の記録)

こうした殺戮は1581年10月初め頃まで繰り返された。

2-(2)-④:“伊賀平定”後の”織田信長“が行った”伊賀国・支配体制“

1581年(天正9年)10月10日:

“織田軍”に拠って一掃され、平定された“伊賀国”の状況視察に“織田信長”は“一宮”(別掲図・第2次天正伊賀の乱、伊賀要図のAとした阿閇部に在る現伊賀市)迄やって来た。

“嫡子・織田信忠“並びに甥の”織田信澄“(=津田信澄・信長の側近、並びに織田信忠配下の遊撃軍団の一員としても活動した・明智光秀の娘を妻としていた為、本能寺の変の共謀者とされ6月5日に大坂城千貫櫓を丹羽長秀と神戸信孝/=織田信孝・織田信長3男/に攻撃され討ち取られた・生:1555年・没:1582年6月5日)を連れて”国見山“に登り、平定が成った”伊賀全域“を眺め、満足の体であった事が伝わる。

同、別掲図に示した様に“織田信長”は、平定された“伊賀の国・四郡“の中”山田郡“を”織田信包“(おだのぶかね・織田信長の弟・一時長野工藤家養子に入り17代当主であった・生:1543年・没:1614年)に与え、残り3郡(伊賀郡・阿排郡・名張郡)を”織田信雄“に与えた。

2-(2)-⑤:“第2次天正伊賀の乱“の纏め

年月日:1581年(天正9年)9月4日~同年10月10日
場所:伊賀国
結果:“織田軍”の勝利

交戦戦力
織田軍


指導者・指揮官
織田信長
織田信雄
津田信澄
滝川一益
丹羽長秀
蒲生氏郷
筒井順慶
筒井定次
脇坂安治
不破光治
浅野長政
堀秀政
滝川雄利
土方雄久


戦力
10万兵以上(諸説あり)
損害
2,000兵以上

交戦戦力
伊賀惣国一揆
伊賀12人衆

指導者・指揮官
滝野吉政(伊賀12人衆・伊賀国柏原城主・生年不詳・没:1602年)
町井清兵衛(伊賀12人衆・生没年不詳)
森田浄雲(伊賀12人衆・生:1510年?没:1581年?)
百地丹波?(生:1556年・没:1640年)
植田光次(うえだみつつぐ・伊賀12人衆)









戦力
9,000兵
損害
壊滅、非戦闘員含め30,000人以上死亡


3:“高天神城の戦い“の敗戦で”衰退が決定的となり、滅亡へと進んだ“甲斐・武田勝頼”

“長篠の戦い”(1575年5月21日)で“織田・徳川”連合軍に大敗した“武田勝頼”はその後、次第に衰勢に向かって行った。表面では未だ“甲斐国・信濃国・駿河国”の3国を維持していたが“武田氏”内部では“第17代当主・武田勝頼”(当時満29歳)の信頼が失われて行き、領地拡張の為の大規模な作戦等は不可能な状況と成っていた。(著者:谷口克広“信長の天下布武への道”)その決定打と成ったのが“高天神城の戦い“の敗戦である。

“高天神城の戦い”にも“第1次”があり(1574年/天正2年)この時は“長篠の戦い”で“織田方”に大敗する前の“武田勝頼軍”が勝利し、武将として“名声”を得た戦いであった。しかしこの戦いが“武田勝頼軍”としてのピークであり”長篠の戦い“で大敗を喫した後の“第2次・高天神城の戦い“(1581年/天正9年/3月22日夜玉砕)では”第1次“の時とは全く様相を異にした”戦況“と成り”後述“する”甲州・武田氏滅亡“のプロローグとも言える悲惨な敗戦を喫するのである。

3-(1):“高天神城の戦い”に至る前の関連する歴史背景に就いて

3-(1)-①:“今川氏”麾下の城代が治めていた“高天神城”

“高天神城“は”源平合戦“の頃に築城されたとの伝承がある。又”南北朝時代”に築城されたとの説もある。しかし、確認出来る文献も考古学的発見も今日の処無い。“遠江の要”と称される防衛上の重要拠点の城であった事は確かで、16世紀初頭に“今川氏家臣”の“福島助春”が城代として土方の城に駐屯した”との記述が“高天神城”に関する文献上残る確実とされる記録の初見である。

3-(1)-②:“今川氏のお家騒動”・・“花倉の乱”で“今川義元”が勝利する

1536年(天文5年)5月25日~同年6月10日:

”福島氏“は1536年の(天文5年・この時期は第105代後奈良天皇、室町幕府は第12代将軍・足利義晴期であった)”花倉の乱“(今川家の家督を巡るお家騒動。嫡流の今川義元派が勝利)で”今川義元派“に反対し”今川氏親“の”重臣・福島助春“(生:1519年・没:1560年)の娘の子の”玄広恵探“(げんこうえたん・今川義元の庶兄今川良真?・生:1517年・没:1536年)を擁立して対抗、挙兵したが、結果は“今川義元”派に敗れ“花倉城”は落城し”玄広恵探(今川良真?)“は自刃、そして”福島助春“は”久能山“に退却し没落した。

3-(1)-③:“今川氏真”が“徳川家康”に敗れ“今川氏”が滅亡

1568年(永禄11年)~1569年(永禄12年):

”今川義元“が”桶狭間の戦い“(1560年/永禄3年/5月19日)で”織田信長“に討たれた後に第12代当主を継いだ”今川氏真“(いまがわうじざね・今川氏第12代当主・生:1538年・没:1615年)が”武田信玄+徳川家康“軍に拠って攻められ”駿河国”を放棄して“朝比奈氏”の“掛川城”に”籠城“する。しかし、この”掛川城“も”徳川家康“に攻められた。

”今川氏真“は”徳川家康“と”和議“を結んだが”小田原“の”後北条氏“を頼って落ち延びた。この事で”今川氏“は事実上1569年(永禄12年)に滅亡したのである。

”掛川城“を1568年(永禄11年)に手に入れた”徳川家康“は以後、22年間”遠江“を支配下に置く事に成る。尚”徳川家康“が”遠江“支配から離れるのは1590年(天正18年)に”豊臣秀吉“の命令で”関東“に移封された時である。

3-(1)-④:1568年の“武田信玄+徳川家康”軍の侵攻で”今川氏“が没落し滅亡する。そして”徳川家康“が”遠江国“の支配者と成ると”今川氏”麾下の武将だった“小笠原信興”(氏助から改名)が”徳川家康“に仕え“高天神城”に入った

”小笠原氏興“(おがさわらうじおき・生:1529年・没:1569年6月)並びに息子の”小笠原信興“(氏助から改名・長忠の名でも知られるが疑問視される?生没年不詳)父子は”徳川家康“に仕えた。父親”小笠原氏興“は間もなく病死。“高天神城”は“小笠原信興”が1000名で守る城と成った。

3-(1)-⑤:“武田信玄”が同盟を破り“徳川家康”を攻撃する

”織田信長“が”武田信玄“並びに”上杉謙信“との”同盟関係維持”に努力した事は6-22項の
13以降で詳しく述べたので参照願いたい。しかし、、、、、

1572年(元亀3年)10月3日:

“武田信玄”が“織田信長”との同盟関係を破り“織田信長”と固い”同盟関係“を結ぶ”徳川家康“の“遠江国”への侵攻を行った。(1572年10月3日・6-22項の13参照方)この決断には“武田信玄”の“徳川家康憎し~”の気持ちが強かった事は6-22項の13-(4)で記した。

この結果、1572年12月22日の“三方ヶ原の戦い”で“徳川家康”軍が“武田信玄”軍に惨敗し”浜松城“に逃げ帰った話は余りにも有名である。しかし”武田信玄“は4ケ月後の1573年(元亀4年)4月12日に病死し”武田勝頼“が”武田氏第17代当主・甲斐武田氏第20代当主“を継いだ。”織田信長+徳川家康“連合と”武田勝頼“との戦闘は激しさを増して行く。

3-(1)-⑥:“武田信玄病没”後の“武田勝頼体制”が整う前に攻勢に出た“織田信長+徳川家康”連合軍

“武田信玄”が3ケ月前の1573年(元亀4年)4月12日に病死した事を“織田信長”が情報として得ていたかは不明だが“織田信長”の“第3次織田信長包囲網”に対する反撃は既述の通り激しく成った。以下の通りである。

①1573年7月18日:“将軍・足利義昭”を京から追放する・・“槙島城の戦い”(6-22項28を参照方)
②1573年8月20日:“越前守護職・朝倉義景”を自刃させ滅ぼす・・“一乗谷の戦い”(6-22項33を参照方)
③1573年9月1日:“浅井長政“を自決させ滅ぼす・・”小谷城の戦い“(6-22項33-を参照方)

3-(1)-⑦:”美濃・尾張・三河・遠江・駿河“攻略が亡き”武田信玄“の遺志を継ぐ使命だとして反撃に出た“武田勝頼”


1574年5月下旬~6月上旬?:

”武田信玄“の後継者として”甲斐武田氏“の”第20代当主“と成った”武田勝頼“(生:1546年・没:1582年3月)は、上記した様に攻勢を強める“織田信長+徳川家康”連合の動きに対し下記の様に反抗姿勢を強めた。

①1574年2月?:“武田勝頼”軍は“東美濃”の織田領に侵攻し“明知城”を陥落させた
②1574年5月下旬~6月上旬?:“織田方・遠山氏”の本拠地“飯羽間城”(いいばまじょう・美濃国恵那郡遠山荘・現在の恵那市岩村町飯羽間)を陥落させた

明知城の戦い
“明知城”は別名“白鷹城”(しろたかじょう)と称され“美濃国明知”(岐阜県恵那市明智町)にあった平山城である。築城は1247年(2月28日から宝治元年・第89代後深草天皇期・鎌倉幕府は前年3月に執権北条氏の権力を確立した第5代執権・北条時頼に代わっている)に鎌倉幕府重臣“加藤景廉“(かとうかげかど・生:1156年・没:1221年)の孫”遠山景重“(三郎兵衛)によるものだと伝わる。

戦国時代は美濃攻略を狙う“武田氏”と“織田氏”との間で争奪戦が繰り返された。“遠山家”は初めは“武田信玄”に与したが“遠山景行”(生:1509年・没:1570年)が城主の時期に“織田信長”の婚姻政策によって“織田信長”に与したという。

”武田勝頼“は”武田信玄“の遺志を継ぐという大義で”美濃・尾張・三河・遠江・駿河“の攻略を謀った。その拠点となるのが“明知城”(別名白鷹城)であった。“武田勝頼”は15,000の大軍で“明知城”を陥落させるべく”苗木城、串原城”等、遠山十八支城の各城を次々と陥落させて行った。

”織田信長“も手をこまねいていた訳では無く”長男・織田信忠“軍、並びに”明智光秀“軍等同じく3万の軍勢で対峙した。しかし“武田勝頼”麾下の“山県昌景”(生:1515年・1529年?・没:1575年)軍に退路を脅かされ、後退した。この間に“武田勝頼方”は”遠山十八支城“の17城目に当る“拠点・明知城(白鷹城)”を落城させる事に成功した。結果”遠山十八支城“の中で最後に残った城は”飯羽間城“だけと成った。

飯羽間城(いいばまじょう)について:
遠山十八支城(明知城・苗木城・阿寺城・阿木城・千旦林城・串原城・飯羽間城等)の中の一つ。遠山氏の本拠地“岩村城”(別名霧ケ城・奈良県高取城、岡山県備中松山城と並ぶ日本三大山城の一つ・鎌倉幕府御家人、遠山氏初代の遠山景朝/生没年不詳/に拠って1221年以降に築城されたと伝わる)に最も近く、防衛の最前線にある重要な城であった。

飯羽間城を攻撃した“武田勝頼”軍

1574年5月下旬~6月上旬?:

明知城の戦いと同様、正確な日付は一次資料には明記されていない。“信長公記”に東美濃を“武田勝頼”軍が攻撃し“明知城”並びに“岩村城”が陥落した事が記されている。“飯羽間城”の戦いに就いても簡単な記述がある。従って“飯羽間城” (美濃国恵那郡遠山荘・現在の恵那市岩村町飯羽間)も“武田勝頼”軍に拠って周辺の”遠山十八支城“の城と共に陥落、又は放棄されたと考えられる。

3-(2):“第1次・高天神城の戦い“・・”武田勝頼“軍が勝利し”高天神城“を奪取する

“高天神城“に就いては過去に”武田信玄“が三河・遠江に侵攻を開始し”遠江“への南下を目指し、東海道ルートを確保する為に、その要衝である”高天神城“を攻撃したが、失敗するという経緯がある。”父・武田信玄“の遺志を継ぐべく”武田勝頼“は25,000兵の大軍を率いて”今川氏真“没落後”徳川家康“の家臣と成っていた”小笠原信興“(おがさわらのぶおき)が僅か1000名で守る”高天神城“の奪取を計ったのである。

劣勢の“小笠原信興”は“徳川家康”に援軍を要請した。しかし、当時の”徳川家康軍“の総兵力は1万程度であり、支援に兵力を割く余裕は無かった。そこで”徳川家康“は”同盟”を結ぶ“織田信長”に窮状を訴えた。しかし“織田信長”も“上洛”その他、直ぐに“援軍要請”に応える事が出来なかったのである。

結果“小笠原信興”軍は60日に及ぶ“高天神城籠城戦”を戦ったが、城内の兵糧は尽きかけ、遂に“城兵の命は助ける”という条件で降伏、開城した。これが“第1次・高天神城の戦い”である。

この戦いで勝利した“武田勝頼”の戦後の立派な処理は後世に伝わるものであった。“城主・小笠原信興”が降伏の条件とした約束を守り“高天神城”は奪ったが“高天神城の将兵”の処分は誰一人も行わず、助命したのである。更に“徳川方”へ戻る事を希望した将兵に就いてはそれを許した。こうした寛大な処置に感激した“高天神城城主・小笠原信興”は“徳川”を見限り“武田勝頼”の配下と成ったのである。

“第1次・高天神城の戦い“(1574年/天正2年/5月)の結果”武田勝頼“は勝利の外に武将としての声望を高めた。逆に”織田・徳川陣営“は”援軍“を派遣出来なかった事に拠り名声を失った。しかし“武田勝頼”のピークは“第1次高天神城の戦い”までであった。以後は1年後の”織田・徳川連合軍“との”長篠・設楽原の合戦“(1575年5月21日)で既述の様な大敗を喫し“武田勝頼軍“は急速に勢力を失って行くのである。

3-(2)-①:“第1次・高天神城の戦い“の纏め

年月日:1574年(天正2年)5月
場所:高天神城
結果:“武田勝頼”軍の勝利、“高天神城”開城し“武田勝頼”が奪取する。これが“武田勝頼軍”のピークであった

交戦戦力
武田勝頼

指導者・指揮官
武田勝頼

戦力
25,000兵


損害
400兵程

交戦戦力
徳川家康

指導者・指揮官
小笠原信興

戦力
籠城軍1,000兵
織田・徳川援軍(*約25,000兵だが実際には支援には間に合わなかったとの説が有力)
損害
600兵


3-(3):“第2次・高天神城の戦い“・・”第1次”の時とは異なり“武田勝頼”軍は大きな勢力衰退後の戦闘と成り、大敗する

3-(3)-①:“第1次・高天神城の戦い”で勝利した後“織田・徳川連合軍”の反撃に遭い敗戦を重ねた“武田勝頼軍”

1574年5月頃の“第1次・高天神城の戦い”で勝利した“武田勝頼”であったが、凡そ1年後の状況は様変わりし、下表の様に連戦連敗を重ねる状況に陥っていた

①1575年5月:長篠・設楽原の戦いで“織田・徳川連合軍”に“武田勝頼軍”は大敗
②1575年8月:
諏訪原城(江戸時代は牧野城と呼ばれた・築城主は武田四天王と称され長篠の戦いで討ち死にした馬場信治/=房信/が遠江攻略の出城として1573年に築城したもの)も徳川氏に拠って奪われた。これに拠って“高天神城”への補給路を“武田勝頼”軍は失うというダメージを被っていた

3-(3)―②:“第2次・高天神城の戦い“で”武田勝頼“は”徳川家康“軍に大敗し、敗戦ばかりか、武将としての威信を致命的に失墜した

1581年(天正9年)3月22日:

“第1次・高天神城の戦い”(1574年/天正2年/5月)”の敗戦に学んだ“徳川家康”は以後“織田信長”との結束に本腰を入れ“武田勝頼”との再度の戦いに備えた。先ずは1575年5月(天正3年)の“長篠の戦い”で“武田勝頼”軍に大勝し、以後衰勢に向かった“武田勝頼”に対する目標を、1574年5月に敗北を喫した“高天神城奪還”に置き“第2次・高天神城の戦い”への準備を進めた。この戦いは“徳川方”と“武田方”の何方が“高天神城への補給路”を確保するかが勝敗を決する戦いであり、その前哨戦は3年に亘って戦われた。

3年間に亘った前哨戦に就いては省略するが、結果として“高天神城”の城将(城の防衛を任された武将)に抜擢された“武田方・岡部元信”(元、今川家の家臣であったが甲斐武田氏の家臣と成った・生年不詳・没:1581年3月22日)は“徳川方”の攻撃に堪えるべく“籠城策”を続けたのである。

これに対し“徳川軍”は22ヶ所に上る砦や付城を築いて“高天神城”を包囲する作戦を採った。“徳川軍”の包囲戦に対して“高天神城”の“城将・岡部元信”以下の武将達は連名で“武田勝頼”に対して“緊急救援要請”の書状を送った。しかし“武田勝頼”からの支援軍派遣は無かった。その理由は下記だと伝わる。

=武田勝頼が高天神城に救援部隊を送らなかった理由=

①“上杉謙信“死後(1578年3月13日)起った”越後“の“御館の乱“後に”武田勝頼“は”上杉景勝“と甲越同盟を結んだ。その為”上杉景勝“と敵対した”上杉景虎“(北条氏康7男・生:1552年・没:1579年3月24日)の実家である”北条氏政“との”甲相同盟“が破綻”駿河東部“で”北条氏政“と戦闘状態と成った
②“織田信長”との和睦を考えていた“武田勝頼”としては“高天神城”に支援部隊を送る事は“織田信長”の“同盟者・徳川家康”と戦闘状態に入る事であり“織田信長”との関係悪化は何としても避けたい思惑があった。一方の“織田信長”には“武田勝頼”との和睦などは全く考えて居らず、和睦要請に対する返答を出さなかった。“武田勝頼”の一方的思い込みであった。
③“武田勝頼“方の内部には“武田にとって補給路の長い”高天神城“は負担であり、捨てて、兵力を温存すべきとの意見があった為、支援する事に消極的だったのである。

以上の背景から“武田勝頼”からの支援は来なかった。遂に“高天神城”の兵糧は尽き、城兵900人全員が城外に出て決死の突撃戦を展開、壮絶な玉砕、大敗という結果と成ったのである。

3-(3)―③:“高天神城の戦い”に勝利した“徳川家康”は“遠江国”そして“三河国”2ケ国を領国とする“戦国大名”としての立場を確立した

“高天神城の戦い”に勝利した“徳川家康”は“武田氏“との領有争いに苦しめられ続けた“遠江国”の平定を成し遂げた。1581年(天正9年)10月からの文書形式に“三河守”での発給を始めた事がこれを裏付けている。

この結果“徳川家康”は“遠江国”そして“三河国”2ケ国を領国とする“戦国大名”としての立場を確立した。

3-(3)-④:第2次“高天神城の戦い”の纏め

年月日:徳川方の包囲戦は1580年8月頃から始まり~1581年(天正9年)3月22日夜に終わる
場所:高天神城
結果:“武田方”は溜まらず城外に出て突撃し玉砕という敗戦と成り、勝利した“徳川家康”は“遠江国・三河国”2ケ国を領する戦国大名としての地位を確立する

交戦戦力
武田勝頼

指導者・指揮官
岡部元信(生年不詳・没:1581年3月22日)
横田尹松
江馬信盛
孕石元泰


戦力
1,000兵

損害
岡部元信討死、壊滅(戦死688兵以上)

交戦戦力
徳川家康

指導者・指揮官
徳川家康





戦力
5,000兵

損害



3-(3)-⑤:“高天神城”“に支援部隊を送る事をせず“見殺し”にした結果と成った事で“武田勝頼”は威信を致命的に失墜した

”高天神城“には”駿河国・遠江国・甲斐国・飛騨国・上野国・信濃国“からの国衆達が詰めていた。従って“高天神城”を見殺しにした“武田勝頼”に対する”武田領全域“からの国衆達の認識は“武田勝頼”という主君に“安全保証”を委ねる事は出来ないとの悪評が広まった。

こうした事が翌1572年(天正10年)初頭から“織田信長“軍に拠る”武田攻め“(甲州征伐)で“武田勝頼軍”が士気の低い戦闘を繰り返し、結果“滅亡”に追い込まれる大きな背景と成ったのである。

3-(3)-⑥:“高天神城”を落城させた“徳川家康”の功績を賞した“天下人・織田信長”

1581年(天正9年)3月25日:

“徳川家康”勢の攻撃を受け“城将・岡部元信”等“籠城衆”は討ち死にし“高天神城”が落城した事が“家忠日記”に記されている。

メモ:
“家忠日記”は“徳川家”の家臣で“深溝松平家”の第4代当主“松平家忠”(生:1555年・没:1600年)の日記である。彼が1575年~1594年10月迄の19年間に起こった事柄を簡潔に書き綴っている。本人は“関ケ原の合戦”の前哨戦の“伏見城の戦い”(1600年7月18日~同年8月1日)で戦死した。
戦国武将の生活や当時の有力大名の事に就いて知る上で貴重な史料とされる。例えば“織田信長“が家臣とした黒人の”弥助“に就いて甲州征伐の帰国途上で”松平家忠“自身が目撃したとして“身の丈六尺二分、身は炭の如く・・”等との記述を残している。

“織田信長”は1581年(天正9年)3月25日付けの“徳川家康”に対する書状で、高天神城攻落の功績を賞し、引き続き“甲斐武田氏との対戦”に慎重を期して臨むよう求めている。(萬葉荘文庫所蔵文書)

尚この頃の“織田信長”発行の文書には“天下人として君臨していた事を示すべく”天下布武印“が押捺された“印判状”を使っており、そしてこの“徳川家康”への書状には“織田信長”の“花押”が書かれている。尚、この“織田信長”の花押が現在確認出来る最後のものとされる。(柴裕之著:徳川家康・・境界の領主から天下人へ)

4:“甲斐・武田氏滅亡”へのプロローグ・・“武田方”の“木曽義昌”が“織田信長”へ寝返る

4-(1):“木曽義昌”も“武田勝頼”への信頼を失う

”木曽義昌“(生:1540年・没:1595年?)は”信濃国・木曽谷“の領主”木曽氏・第18代当主”であり当初は“小笠原氏”や“村上氏”と共に“武田信玄”の信濃侵攻に対抗する立場であった。

しかし1555年(天文24年・10月23日以降弘治元年・毛利元就が陶晴賢を安芸国厳島で敗った年・第105代後奈良天皇・第13代足利義輝将軍期である)“武田信玄”に更なる侵攻を受け“木曽義昌”は降伏した。降伏後、彼は“武田信玄”の“三女・真理姫”(真竜院・生:1550年・没:1647年)を正室とし“武田家親族”の扱いを受ける事で“木曽谷”を安堵された。しかし実態は“木曽”の政治は全て“武田家”の監視の下で行われ、主だった家臣や親族は“甲府”に人質として置かれるという状況であった。

“武田勝頼”とは“義弟”という関係と成った“木曽義昌”は“武田信玄“の命で1572年(元亀3年)には”飛騨国・三木氏“を攻撃し軍功を挙げた。 “木曽谷”は“甲斐・武田氏”にとって“美濃国”並びに“飛騨国”へ侵攻する際の“最前線基地”であったから“武田信玄”没(1573年4月12日)後の1574年(天正2年)にも“城主・遠山友重”の“阿寺城”(あてらじょう・現在の岐阜県中津川市手賀野にあった砦の様な城である)も陥落させ“遠山友重”を討死させる軍功も挙げている。

そうした“木曽義昌”にとって“武田勝頼”が“第2次・高天神城の戦い“(1581年/天正9年/3月25日)に救援部隊を送らず、既述の様に”高天神城“を見殺しにした敗戦で、武将としての威信を失墜した事は“木曽義昌”にとっても“甲斐・武田氏”の行く末に不安”を抱かせる重大な出来事であった。

4-(2):“新府城の築城”を“穴山信君(梅雪)”が献策、この対応も“木曽義昌”が“武田勝頼”からの離脱要因と成る

1581年(天正9年)3月:(1580年/天正8年/7月説もある)

“甲陽軍艦“には1581年(天正9年)3月に”御一門衆・甲斐国河内領“並びに”駿河国・江尻領“を領する”穴山信君(梅雪)“(あなやまのぶただ・1582年2月に徳川家康の誘いに乗り織田信長に寝返る。その後の彼は織田氏の従属国衆、徳川家康の与力と位置付けられる・本能寺の変を知り、畿内脱出を図るも、宇治で郷民一揆の襲撃で殺害された・生:1541年・没:1582年6月2日)が”武田勝頼“に”新府城“(山梨県韮崎市)築城の献策をした事が書かれている。この築城が”武田勝頼“転落の決定打と成った。

4-(2)-①:“新府城築城”と“武田勝頼”

1575年(天正3年)5月21日の“長篠の戦い”で“織田・徳川”軍に大敗し、衰勢に向かった“武田勝頼”ではあったが、1580年(天正8年)頃に“穴山信君”(=穴山梅雪)の献策に乗り“新府城”の築城を決めた。

築城開始時期に就いては、1581年正月21日に“真田昌幸”が配下の国衆に“新府城”築城の為の人員動員を命じた“真田宝物館文書”の記事がある事から“甲陽軍鑑”に書かれた1581年3月説が有力とされる。いずれにせよ“武田勝頼”は“伝統的武田家本拠”だった“躑躅ケ崎館”から未だ完成されていない“新府城”に1581年12月24日に移っている。

後述するが、この築城が“武田勝頼滅亡”つまり“甲州・武田家滅亡”の決定的出来事となった事は確かである。この築城をトリガーとして“武田勝頼”を見限った“木曽義昌”を鎮圧すべく“武田勝頼”は1582年(天正10年)2月に“諏訪”に出兵した。しかしこの出兵は“織田・徳川連合軍”に阻まれ失敗し、帰国を余儀なくされる始末と成った。

こうした“武田勝頼”の状況を見て“織田軍”は“甲州征伐”を決断し“甲州・武田家滅亡”へと繋がったのである。

4-(2)-②:“新府城”訪問記・・2025年(令和7年)4月7日

住所:山梨県韮崎市中田町

交通機関等

同好の友人は大阪から来る都合上、待ち合わせは静岡駅近くの“トヨタレンタカー店”に午前9時集合とした。私は従って東京駅AM8:02発の新幹線に乗り“新幹線静岡駅”で降り、駅から5~6分程歩いて“トヨタレンタカー営業所”で友人と合流、いつものプリウスを借りAM9:15分には“韮崎・新府城”を目指して出発した。途中朝食をとったり、ゆっくりと走った為、目的地に到着したのはAM11時30分に成っていた。

訪問記
築城開始を1581年3月説をとると“武田勝頼”が同年12月24日に未だ完成していない“新府城”に入ったという史実からは、当時の“甲州・武田家”が衰退しつつある状況に焦りを感じての動きだったのであろうと思われる。戦国時代末期の築城という事でそれ以前の城が“山の頂上”に立地したのとは異なり“鉄砲”等の“火器”が戦闘の主役と成った為 “平山城”が主と成った時期の築城である。しかし“新府城”の立地としては“八ヶ岳”の岩屑流を“釜無川”と“塩川”が侵食して形成された“七里岩台地”を利用しての築城であった。西側は侵食崖、そして東側には塩川が流れるという地形に立地されており“平山城”とは言え、自然の地形が防備する“新府城”であった。
しかし乍ら“武田勝頼”は、こうした築城時に期待された要害としての“新府城”の機能を発揮する前に早々とこの城に火を放ち廃城にして了うのである。
添付した写真に“新府城”に関する詳細説明、並びに“概要図”等があるので参照願いたい。櫓等の遺構は一切残されて居らず“支城を含め規模に於いては群を抜く”との記録はあるものの、史実としては、全くそうした“鉄壁の城砦郡”の機能を果たせぬまま終わり“新府城”は今日その“城址”を晒している。
“七里岩突出部”の南北7~8km、東西2kmという周辺の自然地形全体が軍事的意味を持つ“武田家”を代表する“甲州流築城術”の“集大成”と言える城であった、との記録だけが空しく残る史跡である。
5:“織田信長”が“甲州征伐”を開始する

5-(1):“武田方・木曽義昌”が遂に“織田信長”に寝返る

”武田方“だった”木曽義昌“は上記した①”武田勝頼“が”第2次・高天神城の戦い”で“高天神城”を支援せず、見殺し状態にした事で“武将としての威信”を致命的に失墜した。この事で“甲斐・武田氏”の行く末に不安を抱いた。②加えて”武田勝頼“は”新府城”築城の為の賦役を増大させたばかりか、増税を課した。

これ等の“武田勝頼”に対する大きな失望、そして不満が遂に爆発し“木曽義昌”は“織田方の“遠山友忠” (美濃国飯場城、苗木城城主・正室は織田信長の姪・生没年不詳)を通じて“織田信長”方へ寝返る決断をしたのである。


5-(2):“甲州征伐”のトリガーと成った“木曽義昌”の“織田信長”への内通

1582年(天正10年)2月1日:

“信濃国・木曽“を領し”正室“が”武田信玄の娘・真理姫“であった”木曽義昌“(木曽氏第18代当主・生:1540年・没:1595年?)が、上述した諸理由から”武田勝頼“を見限った。そして”美濃国・飯羽間城・苗木城々主“で”織田信長“の姪を正室にする”遠山友忠“(生没年不詳・信長公記では苗木久兵衛の名で登場する。遠山譜では明照遠山久兵衛として記載されている)を通じて”織田信長“に内通(密かに敵に通ずる事、裏切り)して来たのである。

これがトリガーと成り“織田信長”は長年の宿敵“甲斐・武田氏”を滅亡させるという宿題を果すべく、並々ならぬ決意で“甲州征伐”に臨んだ。

5-(3):“織田方”の動きに直ちに反応した“武田勝頼”

“木曽義昌”の動きは直ちに“武田勝頼”の知るところと成った。彼は既述の様に、未だ完全に築城が終わっていない“新府城”に1581年(天正9年)12月に早々と移っていたが、直ちに“木曽義昌討伐軍”を信濃に向けて派遣したのである。

5-(4):“武田勝頼”が“木曽義昌”討伐に動いた事に対して“織田信長”は自らの出陣と“嫡子・織田信忠”軍の出陣を以て対応し“織田軍”は二手に分かれて“信濃国”に出兵した

5-(4)-①:“嫡子・織田信忠”軍の先発隊として“森長可”軍並びに“団忠正”を岐阜から出陣させる

1582年(天正10年)2月3日:

”嫡子・織田信忠“は準備する間があったのか?と思われる程の速さで先発隊として”森長可“(もりながよし・森蘭丸の兄・生:1558年・没:1584年)並びに”団忠正“(だんただまさ・美濃国岩村城主・本能寺の変の際、主君織田信忠と共に二条新御所で明智光秀軍勢と戦い討死した・生年不詳・没:1582年6月2日)の二人を岐阜から出陣させた。二人の軍は”木曽口“(現在の中津川市)から”信濃”に進軍した。

5-(4)-②:“嫡子・織田信忠”軍も岐阜から出陣、それに“滝川一益”軍が合流した

1582年(天正10年)2月12日~14日

“嫡子・織田信忠”軍も先発隊に遅れる事10日後の1582年(天正10年)2月12日に岐阜を出発、14日には“岩村城主・河尻秀隆”(黒母衣衆の筆頭として知られる・生:1527年・没:1582年6月18日)の居る“岩村”に着陣した。(岩村城は大和国・高取城、備中・松山城と並ぶ日本三大山城の一つに数えられる標高777mに築かれ、霧ケ城とも呼ばれる名城である。築城は1185年/文治元年/であり、その3月には壇ノ浦の戦いで源義経が平氏を滅亡させた年である。築城主は源頼朝の重臣・この地の地頭に任じられた加藤景廉である)

この地で“嫡子・織田信忠”軍は“毛利長秀・水野守隆・水野忠重”等“織田信忠軍団”の諸将、並びに“遊撃軍団”を率いる“滝川一益”軍と合流した。

5-(4)-③:主家を守ろうとする忠誠心が全く見られない“武田勝頼軍”はたやすく、次々と“織田軍”に屈して行った

1582年(天正10年)2月14日:

早くも“武田勝頼”の“家臣”で“信濃国・松尾城主”の“小笠原信嶺”(生:1547年・没:1598年)が“敵方・織田信忠”軍が“岩村城”に入った(2月14日)事を聞くと直ちに“織田方”に寝返り、降伏した。

メモ:
“小笠原信嶺”は後に“織田信忠”が3万の大軍で行った“高遠城”(築城主、築城年不詳・改修者は武田信玄・当時の城主は武田勝頼の異母弟の仁科盛信で、守備兵は僅か3000兵であった。*500兵の説もあり)攻撃を“織田方”として行っている。
“小笠原信嶺”が離反した事を知った“武田勝頼”は人質として捉えていた彼の母親を処刑した。(開善寺過去帳)

”木曽口“から進軍した”織田方・森長可”軍、並びに“団忠正”軍は“飯田城”を攻め、その日の中(2月14日)に陥落させた。この戦いに、上記メモで紹介した様に、人質の母親を“武田勝頼”軍に拠って殺された“小笠原信嶺”が活躍した事が書かれている。この史実からも如何に“武田勝頼”から人心が離れ“内部分裂”を起こし、内部が崩壊していたかが分かる。

1582年(天正10年)2月16日:

① “織田方・遠山友忠”(美濃国・飯羽間城・苗木城々主・正室は織田信長の姪・生没年不詳)
並びに”織田方“に寝返った②“木曽義昌”の軍、そして③“織田信忠”の“馬廻り軍が加わって“武田方”の“今福昌和”(いまふくまさかず・生年不詳・没:1,582年3月2日)の軍と“鳥居峠“(標高1197mの塩尻市奈良井と木曽郡木祖村薮原を結ぶ峠で旧中山道の難所であった)で戦った。”今福昌和“(生年不詳・没:1582年3月2日)軍が40余の兵を討ち取られ敗北した。敗れた”今福昌和“は敗走した。(後の高遠城の戦いで戦死)

1582年(天正10年)2月17日:

こうした“武田方”の不甲斐なさに助けられ”織田信忠“の軍は、やすやすと信濃に侵攻し、2月17日には“飯田”に進軍した。“武田方”の“大島城”(長野県下伊那郡松川町元大島)は10kmも先にある城にも拘わらず、戦わずに城を明け渡し逃げ去った。この様な史実からも“武田勝頼軍”の兵士達には“主家”を守ろうとする“忠誠心”が全く見られない状況だったのである。

5-(4)-④:“武田家中NO.1の武将”と称された“穴山信君(梅雪)”が“武田勝頼”から離反、その理由

“武田信玄”の甥で“武田家中NO.1の武将との評判で“遠江”(とおとうみ=静岡県西部、中部の一部)方面からの“徳川家康”軍に対する“押さえ役”を担っていた“穴山信君(梅雪)”(あなやまのぶただ・武田氏御一門衆の一人・1580年に出家して梅雪と号した。生:1541年・没:1582年6月2日)が1582年2月末に“徳川家康”の誘いに乗り“織田信長”方に寝返った。
“穴山信君”(梅雪)は事前に“甲斐府中”(現甲府)に居た妻子を逃がした事が伝わる。尚“穴山信君”(梅雪)は、後に“本能寺の変”で“織田信長”が自刃した事を知り“畿内”からの脱出を図るも“宇治田原”で“郷民一揆”に襲撃され“本能寺の変”の同日、1582年6月2日に落命した。

”穴山信君“(梅雪)が寝返った理由に挙げられるのが“武田勝頼”が次女を“穴山梅雪斎”の嫡男に娶らせる約束を反故にして“武田信豊”(武田勝頼の従弟・生:1549年・没:1582年3月)の子と婚約させた事だとされる。激怒した“穴山信君”(あなやまのぶただ・梅雪斎)が、その他の理由も併せて“徳川家康”の誘いに乗り“織田信長”方に寝返ったのである。(飯田忠彦著・大日本野史/1851年成立/)


5-(4)-⑤:“穴山信君“(梅雪斎)の寝返りが”武田勝頼“からの”寝返りドミノ“を起こす

”武田勝頼“はこの時”諏訪“に陣取っていた。”穴山梅雪斎“の寝返りを知った”武田勝頼“は驚きと共に、怒りを覚え乍らも“諏訪”の陣から“甲斐府中”に退却せざるを得ないと決断した。ところが、退却の途中で、総兵力7000兵~8000兵だったものが、大半が退却の途中で逃亡するという事態が起きた。この背景には、明らかに“穴山信君(梅雪)”の寝返りに拠るドミノ現象が生じたのである。

“甲斐府中”に着いた時には1000兵に満たない兵数に迄減っていた。”武田勝頼軍“がこの様な体たらくの状態であった為”織田信忠”軍は戦闘らしい戦闘の無いまま“信濃国”を北上して行った。

5-(4)-⑥:長年の宿敵“武田氏”を自らの手で葬りたい“織田信長”は“嫡子・織田信忠”の進軍にブレーキをかける

1582年(天正10年)2月15日~同年2月28日:

“織田信長”は他の件への対応もあり“武田勝頼討伐”の出陣が遅れていた。従って2月中の出陣は難しかった。しかし“武田勝頼”を自らの手で葬り去りたい“織田信長”は快進撃を続ける“嫡子・織田信忠”が先に“武田勝頼討伐”を終えてしまわない様に、討伐の侵攻にブレーキを掛けた史実がある。以下がそれを裏付ける文書である。

1582年(天正10年)2月15日付け“滝川一益”宛て朱印状
信忠は若いので、この機会に一人で頑張って名を上げようという気持ちが見える。その為軽率な振舞いがあるだろう。(建勲神社文書)

1582年(天文10年)2月23日付け“河尻秀隆”宛て黒印状
信忠のこと、自分が出陣する迄、先を越さないよう、滝川と相談して堅く説得する事が 一番大切なことだ。先鋒の森長可と団忠正が相談なしにずっと攻め込んでいるという、若い者達だから、この機会に手柄を立てようとしている様だ。軽率な動きをしない様、度々説得する様に。(徳川黎明会文書)

1582年(天正10年)2月28日付け“河尻秀隆”宛て朱印状
武田勝頼のところには、自分がその地に出張して、大軍で追い詰めるつもりだ。それまでは違反の無いよう、行動を見合わせている様に。(古今消息集)

5-(5):“父・織田信長”の申し付けを守り、進撃を止めた“嫡子・織田信忠”は“武田勝頼“が”甲斐府中“に戻った事を知り”高遠城攻城”のチャンスと見て進軍した

”父・織田信長“から再三の”進軍ブレーキ命令“を無視する訳に行かず“嫡男・織田信忠”は“伊那・大島城“(長野県下伊那郡松川町元大島・台城とも呼ぶ築城は平安末期の12世紀とある・武田氏の伊那谷南部の拠点であった)迄進撃したところで進撃を止めたとの記録がある。

尚記録に拠ると“嫡子・織田信忠”の上記“伊那・大島城“進撃に対しても“国人衆の動揺、戦意喪失“という状況に“城将・武田信廉“(武田信玄の弟・生:1532年1528年説もある・没:1582年3月24日)並びに”安中七郎三郎“(生没年不詳・後に織田方の滝川一益に仕え、更に後北条氏の北条氏直に仕えている)が、戦う事無く“大島城”を“織田方”に開城したとある。

”武田勝頼軍“の崩壊振りは下記の話にも伝わる。

“農民達”の話では“武田勝頼”が新規の税や労役を課し、関所を設けて通行料を取る等、苦労が絶えなかったとの事、更には、酷い刑罰に嘆いたと訴える者があったと言う。領民は“武田勝頼“を憎み、この土地が”織田信長領“に成る事を望んでいたと口々に語ったというのである。真偽の程は別にして、既述の様に“武田家家臣等の忠誠心の欠如に加え、領民達からの信頼も失った末期的状況であった事は確かな様である。

1582年(天正10年)3月1日:

“嫡子・織田信忠”は“武田勝頼”が“穴山梅雪斎”の裏切りに驚き、そして怒り乍らも戦況を考えて“諏訪上原”の陣を引き払い”甲斐府中“に戻った事を知り、この状況は“信濃国”に於ける敵方の最大の要衝である“高遠城“を攻めるチャンスと判断した。”父親・織田信長“からは”甲州征伐にブレーキをかけよ“との命に近いものが出ていたが”この機を逃す訳には行かない“と”高遠城“への進撃を決断し、開始したのである。

5-(6):“織田信忠”が“高遠城”をも制圧する

“高遠城”の歴史に就いては後述の“史跡訪問記”の処で記述する。三方が崖と川に囲まれた要害(守り易く攻めにくい所)である。既述の様に“武田家”の家臣には“主家”を守ろうとする“忠誠心”が全く見られなかった。そうした状況下で“穴山信君”(梅雪斎)の寝返りが起り“武田勝頼“が怒り心頭の体で”甲斐府中“に陣を引いたのだから、取り残された形の”高遠城“を落す事は“たやすい事だ!”と“織田信忠”は判断した。

しかし、そうした“武田勝頼”の一族、並びに重臣の逃亡や、寝返りが続く中で、勢力に於いて圧倒的な不利と言う状況で在るにも拘わらず、唯一人“高遠城”を守るべく勇敢に戦い、最後まで抵抗した武将がいた。それが“武田勝頼”の異母弟“仁科盛信”(生:1557年?・没:1582年3月2日)であった。彼は僅か3000の籠城兵で“織田信忠”率いる50,000(30,000との説もある)の大軍に徹底抗戦を挑んだのである。

5-(6)-①:“仁科盛信“のプロフイール

①生:1557年(弘治3年)?没:1582年(天正10年)3月2日・高遠城の戦いで自刃
②武田信玄五男・・武田勝頼は異母兄に当る
③仁科氏継承時期:1569年(永禄12年)以降
④1581年“信濃国・森城“に加えて”高遠城主“を兼務
⑤1582年3月1日:“織田信長嫡男・織田信忠”が5万の軍勢で“高遠城”に進軍し包囲する
⑥1582年3月2日:自刃・享年満25歳

5-(6)-②:圧倒的に優勢な“織田信忠”軍は“高遠城”に降参を勧めた。しかし“仁科盛信“はこれを拒否し”織田信忠“の大軍と一戦する事を選んだ

1582年(天正10年)3月1日:

“甲乱記“(著者・成立年不詳の全一巻の歴史書・1582年成立説もある)の内容は”甲斐・武田氏の滅亡を記した軍記物であり“武田勝頼”に対する“木曽義昌”の謀叛から恵林寺の焼失・織田信長の入甲迄を記したものである。この記録が伝えるところに拠れば、大した戦闘も無いままに“信濃国”での侵攻を続ける“織田信忠”にとって“高遠城の戦い”が“武田方”との初めてと言える戦闘らしい戦闘となった。

”織田信忠“の5万(3万との説もある)の総兵力の中、集結が出来ていた兵力で1582年(天正10年)3月1日の中に”高遠城“を囲んだ。

1582年(天正10年)3月2日:

”織田方“の”河尻秀隆・森長可・団忠正・毛利長秀“等の軍が、半年前の1582年(天正10年)2月14日の時点で早々と“織田方”に降伏し、寝返った事で、母親を“武田勝頼”によって処刑された“信濃国・松尾城主・小笠原信嶺”が手引して、夜の間に川を渡り2日の明け方には“高遠城”の城壁に突進した。又“織田信忠”の本隊も尾根続きの山側から“高遠城”の攻撃を行った。これ等の軍の位置関係に就いては下記“別掲史料:天正10年(1582年)嫡子・織田信忠軍の進軍”を参照されたい。


5-(6)-③:“高遠城の戦い”に於ける“仁科盛信”の奮戦の様子

既述の様に“織田信忠”率いる大軍は“別掲資料図”に示す様に“織田信忠”軍と“森長可・団忠正”軍の二手に分かれて“信濃国”を北上した。その間、戦闘らしい戦闘も無い状態であった。1582年(天正10年)3月2日に両軍は合流し、1万を下らない大軍と成って“高遠城”を囲城した。“武田勝頼軍”は既述の様に“主家を守ろうとする忠誠心”が全く見られない状況であり、取り残された形の“高遠城”も同様と考え“織田信忠”は“高遠城”に手紙を送って降参を勧めた。しかし意外にも“仁科盛信”からは、それを拒否する回答があり“高遠城の戦い”が開始されたのである。

メモ:高遠城について
“高遠城”(長野県伊那市高遠町東高遠)は“武田信玄”後期から“武田勝頼”期にかけて、領国を接する“織田・徳川″連合軍との間に”領国境界“を巡っての対立が激しくなった際の”武田方“の重要な軍事拠点であった。築城年、築城主は不明である。諏訪一門の”高遠頼継“(生年不詳・没:1552年?)が居城としていた記録があり、1545年(天文14年)4月に“武田信玄”との間の”高遠合戦“で敗れ”武田信玄“の勢力圏に入ったと考えられる。
三方を崖と川に囲まれた要害であるこの城を“武田勝頼”の異母弟“仁科盛信”が守備していたが、文中、記した様に、圧倒的に劣勢の“武田方・仁科盛信”に対して“織田信忠”は手紙を送って降参を勧めたが“仁科盛信”は拒否し、戦闘と成ったのである。

1582年(天正10年)3月2日:

“織田信忠”軍の“森長可・団忠正・毛利長秀・河尻秀隆”軍は、明け方には“高遠城“の城壁に達し、突進した。(甲乱記=著者、成立年代不詳・1582年の甲斐武田氏の滅亡を記した軍記物語)”主将“の”織田信忠“軍は”織田信忠“自身が”高遠城“の塀に取り付き“塀の上”から指揮を執る形で“高遠城の戦い”の乱戦が開始された。

“信長公記”には敵方の“諏訪勝右衛門”の妻が、女性の身でありながら、刀をとって切り回った様子、未だ15~16歳程の美少年が弓をもって大勢の“織田方”の兵士を射倒し、矢が尽きると刀を抜いて戦い、最後に討ち死にした事を伝えている。士気の低かった“甲州征伐”の戦いの中で、唯一“高遠城の戦い”が攻守共に死力を尽くした乱戦であった事を伝えている。
しかし多勢に無勢には抗えず、両軍による攻防戦はその日の中に“織田方”の圧勝に終わった。“城将・仁科盛信“以下、主だった者達は討ち死にし”高遠城“は”織田信忠“軍に占領されたのである。

5-(6)-④:“高遠城“訪問記・・訪問日2025年(令和7年)4月8日(火曜日)

住所:長野県伊那市高遠町東高遠城跡
交通機関等:
前日は山梨県韮崎の“新府城”の史跡探訪をし、そのまま、レンタカーで1時間半程走って“諏訪湖”を眼前に見る“浜ノ湯ホテル”に到着。此処で宿泊した。翌4月8日に7時半からの朝食を済ませ“高遠城”に向けて9時頃出発したが、意外と時間が掛かり、到着はAM10:50に成っていた。凡そ車で2時間近く掛かった事に成る。

歴史等:
築城の年代も築城主も不明とされるが、歴史としては“諏訪氏一門”の“高遠頼継”(生年不詳・没:1552年?)が城主であったとの記録が残る。1545年(天文14年・第12代足利義晴将軍期・第105代後奈良天皇期)に“甲斐・武田晴信(信玄)軍”と“高遠頼継”との“高遠合戦”で“高遠城”も“武田方”に落城させられ“高遠頼継”も“武田方”に降伏したとある。“高遠城”の主たる改修は“武田信玄”の命で“山本勘助”や“秋山虎繁(信友)”が行った。その後、1562年(永禄5年)に“諏訪氏”の娘を母とする“武田勝頼”が“諏訪氏”を継承し“高遠城主”並びに“上伊那郡代”に就いた。“高遠城”はその後“織田・徳川連合軍”と“武田方”が対立関係に成ると対抗する“武田方”の“重要軍事拠点”と成った。上記した“仁科盛信”が“高遠城主”と成ったのは“新府城”が“武田氏“の本拠地と成った1581年(天正9年)の事である。
訪問記:
“高遠城”は“織田氏”の“甲州征伐”の際に、攻撃に拠って壊滅しており、遺構として“空堀”等が残されている程度である。“本丸跡”並びに“江戸時代”に使われたという“太鼓櫓”そして“高遠城の戦い”の“古戦場跡”を偲ぶ史跡が残るが“桜の名所”として今日は知られるが“史跡”として見るべきものが少ないのが残念であった。
その“名所”としての“桜”も、訪問日が4月8日であった為、当日の係員の話では“2日早かったですね!”と、これ又“肩透かし”を喰った格好の訪問であった。桜は満開では無かったが写真に示す様に“桜の高遠城”の片鱗は味わった気がする。今回の“高遠城の戦い”とは関係ないが、今一つの“史跡“として”絵島囲み屋敷”があり、多くの見学者が居た。この史跡は“江戸時代(1714年)、大奥に仕えた(7代将軍当時6歳の徳川家継の生母・月光院に仕えた女中のトップ)”絵島“が歌舞伎役者”生島“との関係を疑われ、30名以上の大奥関係者が重罪、その他を合わすと70名以上が処分されるという大事件となり、当の”絵島“は高遠へ流罪と成り、1741年に病死する迄の28年間に及ぶ幽閉生活を此の地で過ごした事を伝える史跡である。当時の”幕府財政逼迫“の折に運悪く”贅沢禁止のみせしめ“、或いは当時の”間部詮房・新井白石“の政治に反対する”譜代大名“間の”政争“の具にされたとも言える史実を伝えている。

5-(7):“甲斐・武田氏滅亡”

1582年(天正10年)3月3日:

”武田方“の軍事拠点であり、要害を誇る”高遠城“が落城したとの報は3月2日の夜に”新府城“にいた”武田勝頼“に届いた。翌3月3日の早朝に”武田勝頼“は側近、並びに付き従う女性達を連れて“新府城”から脱出した。その際“前年末”に入城したばかりの城館に火を放ったのである。城中には敵方の人質女性、子供達が閉じ込められたまゝであり、生きながら焼かれたと伝わる。

5-(7)-①:“織田信長”は長年の宿敵“武田氏”を自分の手で葬るべく“嫡子・織田信忠”の快進撃にブレーキを掛ける様、何度も命じた。しかし“武田勝頼”の滅亡は“織田信長”の到着を待たずに訪れた。

1582年(天正10年)3月5日~3月11日:

“主家”を守ろうとする“忠誠心”が全く見られない“武田家臣“達の不甲斐無さの中で“嫡子・織田信忠”を主将とする“織田方”は、快進撃を続け“武田勝頼”軍は最早、滅亡寸前の状態と成っていた。

宿敵“武田氏”を自らの手で最後は葬りたいと願う”織田信長“の”安土城“からの出陣は1582年(天正10年)3月5日と、大幅に遅れた。そして”別掲資料:天正10年(1582年)嫡子織田信忠軍の進軍“の③に注記した様に”織田信長“が6日後の1582年(天正10年)3月11日に”岩村“に着陣した時には”武田勝頼“は追い詰められ”天目山“で”自刃し、名門”甲斐武田氏“が滅亡した日だったのである。

5-(7)-②:“武田勝頼”が自刃する・・甲斐“武田氏”滅亡

1582年(天正10年)3月11日:

”武田勝頼“は1582年(天正10年)3月3日に“新府城”を脱出し、目指すは一族の譜代家老衆であり“武田二十四将”の一人に数えられる国衆“小山田信茂”(生:1539年?1540年?・没:1582年3月24日)が守る“岩殿山城”(山梨県大月市賑岡町・築城主小山田氏・築城年1530年代)であった。此処が“武田勝頼”としては最後の拠り所であった。

しかし“武田勝頼”一行が“勝沼”を経て“駒飼”(甲州市)迄来た時、一行は“小山田信茂”の離反を知らされた。最後の頼みとした“小山田信茂”の裏切りに“武田勝頼”一行は行方を塞がれ、しかも、後方からは“織田方・滝川一益”軍が追って来ていたのである。“万事休す”状態である。

“武田勝頼一行”は“天目山棲雲寺“(せいうんじ・山梨県甲州市大和町木続122)を目指して“天目山”を臨む“田野“(現甲州市)に急ごしらえの陣屋を作り、そこで止まった。この時の兵数は”新府城“を出た時にはそれでも500~600兵は居たのだが、そこから更に、多くの逃亡者が出て、遂に、僅か41人が残るのみと成った。

”田野“の急ごしらえの陣で”武田勝頼一行”は遂に追って来た“滝川一益“軍に捕捉された。そして1582年(天正10年)3月11日の“巳の刻”(AM11時頃)に”武田勝頼“は、当時15歳の”嫡男・武田信勝“(生:1567年11月1日・没:1582年3月11日)そして”正室“(北条氏政の妹)と共に自害して果てた。享年37歳であった。ここに“新羅三郎義光“(生:1045年・没:1127年)から続いた”名門・甲斐武田氏嫡流“が滅亡したのである。

5-(7)-③:“主君・武田勝頼”を裏切り“織田方”に寝返った“小山田信茂”を卑怯者として処刑した“織田信長”

主君を裏切り“田野”で“野垂れ死”に近い状態で自刃という“主君・武田勝頼”を“無念の死”に至らしめた“小山田信茂”を“織田信長”は“卑怯者”として寝返りを許さず“武田勝頼自刃”後、僅か13日の1582年3月24日に処刑した。

下記“別掲図:甲州征伐(武田征伐)で追い詰められ自害に至った武田勝頼のルート”を参照されたい。“甲州征伐”で追い詰められ“新府城”からの逃避行で“田野”に至り、此の地で自刃した“武田勝頼”の最期を確認願いたい。


6:“甲斐・武田氏”を滅亡させた“織田信長”は、勝ち取った国々を家臣達に分配し“東国の覇者”としての地固めをした

1582年(天正10年)3月19日~21日:

”織田信長“は、自らの手で宿敵”甲斐・武田氏“を葬りたいと願ったが上記の様に”安土城“からの出陣が3月5日と遅れ”美濃国・岩村“に着いた3月11日に”武田勝頼“は”甲斐国・天目山“で”自刃“して了ったのである。自身の手で”武田勝頼“を葬るという希望は叶わなかったが、宿敵”甲斐・武田氏“を滅亡させる”大勝利“であった。”織田信長“は3月19日に”信濃国・諏訪“に到着すると“東国の覇者”として、地固めの作業をする為に此処に陣を張った。以下の諸将が“織田信長”の陣を訪れ“甲州征伐”の勝利に対する祝意の挨拶をした記録が残っている。

3月19日:“徳川家康”(甲州征伐に協力し駿河から甲斐に攻め込んでいる)
3月21日:“北条氏政”の使者(駿河まで兵を進め武田氏を牽制した):主君“武田勝頼”を裏切り織田方の勝利に貢献した①木曽義昌②穴山信君(梅雪)③小笠原信嶺等は次々と“織田信長”に“礼“を伝える為に訪れている

1582年(天正10年)3月23日:

“織田信長”は諏訪の陣地に滞在し、以下の体制を定め、武田領の分配を行なう等“東国支配権”を固めた。

 氏名       信長が新たに与えた領国      その他(与えた役割)
          
① 滝川一益      上野国一国+信濃国の二郡  関東八州の御警固+東国の儀御取次=北条氏を始めとする関東の大名達の統轄+奥州群雄を従属させる役割
② 徳川家康      駿河国一国
③ 河尻秀隆      甲斐一国(但し穴山梅雪の本領分は除外)+信濃国一郡
④ 森長可(蘭丸の兄) 信濃国四郡
⑤ 木曽義昌      信濃国二郡
⑥ 毛利長秀(毛利秀頼)信濃国一郡

メモ:
後代の軍記物で“滝川一益”が与えられた役割・地位は“関東管領”だとする説がある。しかし“織田信長”は“室町幕府“を否定する立場であり”室町幕府“の”関東管領職“と言う職に”滝川一益“を任じたとの説を”否定“する学者が多い。

7:“織田信長”が“安土城”に凱旋する

1582年(天正10年)4月21日:

“東国”の支配権を定めた“織田信長”は4月2日に“諏訪”を出発し“甲府”経由で“駿河国”に出て“富士山”を見物しながらゆっくりと“西”へ向かい“安土城”に4月21日に戻った。

8:“朝廷”は勅使を派遣し、長年の宿敵“甲斐・武田氏”を滅ぼし“安土城”に凱旋した“織田信長”に “三職推任”の動きを見せた。しかし“織田信長”はこれを断った

1582年(天正10年)4月23日:

朝廷からの“戦捷参賀”(せんしょうさんが=戦争に勝った事を祝う)の勅使が“安土城“を訪れた。”織田信長“へ”朝廷“が①太政大臣②関白③将軍 の何れかに就任させようとした動きである。

8-(1):“三職推任”の動きが“織田信長”からの要請だったか否かの議論

8-(1)-①:“武家伝奏・勧修寺晴豊”の日記

1582年(天正10年)4月25日:

“京”在住で“織田政権”下の“京都所司代”であった“村井貞勝”(生年不詳・没:1582年6月2日。本能寺の変で織田信忠の妙覚寺に駆け込み、信忠を二条新御所に移して戦い戦死した)の自宅を“武家伝奏・勧修寺晴豊”(かじゅうじはるとよ・勧修寺家14代当主・晴豊記、日々記は一級史料とされる・生:1544年・没:1603年)が訪れている。以下の日記に“勧修寺晴豊”の訪問目的が記されている。

廿五日天晴。村井所へ参候。安土へ女はうしゅ(女房衆)御くたし(下し)候て、太政大臣か関白か将軍か、御すいにん(推任)候て可然(しかるべく)候よし被申(もうされ)候その由申入候

8-(1)-②:上記文意の中被申(もうされ)候の解釈に就いて

“立花京子“氏は1991年に発表した論文の中で”推任の事を持ち出したのは京都所司代の村井貞勝の方からで、織田信長の意を受けたものでは無い“との説を展開した。

上記動きは“1582年(天正10年)4月25日”の事であるから”本能寺の変“の僅か1ケ月程前の事である。”織田信長“に対する①太政大臣②関白③将軍の”三職“の何れかへの就任を推任(推挙)する事について”朝廷“と”織田方“との間でなされた事を史実として裏付ける文書である。”立花京子〝氏は、この文面から“京都所司代・村井貞勝”が動いて“朝廷”から“主君・織田信長”に”三職“の何れかを推任する様、要請したものと解釈している。

果たして”村井貞勝“は主君“織田信長”の意を受けて“朝廷”に“三職いずれかへの推任”を要請したのか?に就いて“立花京子氏”は以下の史実から“京都所司代・村井貞勝”が馴染みの関係にある“武家伝奏・勧修寺晴豊”に何気なく漏らした事が正式の要請の形と成って了った訳で、当然“織田信長”の意を受けたものでは無く、結果的に“京都所司代・村井貞勝”の“勇み足”の動きであったと結論付けている。

8-(1)-③:“立花京子”氏が史実を根拠として挙げる“織田信長が朝廷からの三職推任を望まなかった理由

1582年(天正10年)5月4日:

“朝廷”側としては“織田信長”を“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”側の“官位体制”の中に組み込む事が出来れば“朝廷”として“至強(武士政権・武士層)勢力”の支援を確保出来ると考え、切望していた。

従って“公家(公卿)”で“武家伝奏”の“勧修寺晴豊”(生:1544年・没:1603年)にとって“1582年(天正10年)4月25日”に“京都所司代・村井貞勝”が漏らした上記発言は、結果としては“京都所司代・村井貞勝”の“勇み足”ではあったが“朝廷”としては“渡りに船”だったと考えられる。

しかし“織田信長”は4年前の1578年(天正6年)4月に“右大臣”並びに“右大将”の官職を辞任し、以後“無官”を通していた。この事から“織田信長”が“朝廷”を超える“日本国王”等の立場を目指しているのではないか、との“危険性”を“明智光秀”が抱き、それが“本能寺の変”の原因となった、との説が生まれた。

“日本国王”等の“天皇を超える立場”を考えているとしたら“織田信長”にとっては“村井貞勝”と“勧修寺晴豊”が仕組んだ“朝廷”からの“三職推任”などは何の意味も持たない。“三職推任”の“勅使”が“安土城”に遣わされたが“織田信長”が、当然の事の様に辞退した事は“天皇を超える立場”を“織田信長”が志向しているのでは?との説に斉合(つじつまが合う)する。

9:“三職推任”を辞退し、それを“嫡子・織田信忠”に与えて欲しいと言った“織田信長”の真意は“朝廷を超える日本国王を目指しているのではないか?との“危険性”を見た“明智光秀”

“織田信長”は人一倍世間の評判を気にした武将であった事は繰り返し述べて来た。従って日本の社会に岩盤の様に根付いている“天皇家”の“権威”そしてその存在を“織田信長”は巧みに活用、又、己の“権威付け“に利用した。”天下布武“の旗印の下で”全国統一“を進める上で”天皇家の権威“は極めて有用であった事は、具体的事例として紹介して来た。

こうした”織田信長“の”朝廷権威“に対する姿勢を“信長の天下布武への道“の著者”谷口克広”氏は以下の様に記述している。

要するに“織田信長”は律令以来の官職には何らの執着心も持たなかったのである。しかし、その態度は“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力“とりわけ”天皇の権威“の大きさ(岩盤の様に古代から日本に根付いた天皇の権威)を無視するものでは無かった。
“織田信長”は必要な時には、寧ろ積極的に“天皇の持つ権威”を利用した。日本では“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“にとって、簡単には乗り越えられない“日本社会に岩盤の様に根付いた伝統的権威”が“天皇家”にはある、という事を聡明な“織田信長”は知っていた筈である

こうした基本的考えを“朝廷権威”に対して持っていた“織田信長”ではあったが、既述した様に1578年(天正6年)4月に“右大臣・右大将”を辞任し、以後は“無官”を通した。そして上記した様に1582年(天正10年)5月4日には三職推任をも当然の事の様に辞退し、その推任は“嫡子・織田信忠”に対してして欲しいと伝えたのである。

こうした頑なな“官職就任拒否”の姿勢から“織田信長”は“朝廷を超える存在、具体的には“中国(CHINA)を征服して中華皇帝“に成ろうとしていたのでは?との説が生まれた。

“織田信長”の近臣として仕え、重臣として“織田信長”の動き、考えに沿って行動して来た“明智光秀”は、後述する“四国・長宗我部元親”と“織田信長”との関係に亀裂が入り、そして敵対する関係に変わって行く事に拠る“織田家中に於ける立場の弱体化”もあり、次第に“将来への不安感”に襲われる状態に成っていた。

そうした状況下での1582年(天正10年)5月4日の三職推任問題拒否は“天皇家の権威”を重んじる“守旧派”の“明智光秀“をして”天下人“にして”主君“である”織田信長“という人物は、この先“天皇家”を超える立場を志向し“天皇家”の上に“君臨”し兼ねない”危険人物“だとの危惧を急激に抱かせた可能性は否定出来ない。

“織田信長”は、先ずは“日本全国統一”を完成させ、その後は“中華皇帝を目指して”中国制圧“に動き、制圧後は”日本国“は”嫡子・織田信忠”に任せるという遠大な構想を描いていた、との説である。この説があながち荒唐無稽のもので無かった事は“織田信長”の後継者を自認した“豊臣秀吉”が、晩年“明国”を制圧しようと考え“朝鮮出兵”を敢行した。この行動こそが、彼が“主君・織田信長”が抱いていた構想を実現しようとした事を裏付けている、との説に繋がるのである。

10:“明智光秀“の立場を窮地に追い込んだ”織田信長“の”四国政策”に対する“掌返し”・・“明智光秀”が“本能寺の変”に及んだ“政治的主要因”か?

10-(1):“四国全土統一”を着々と進めた“長宗我部元親”

10-(1)-①:“長宗我部元親”の出自に就いて

“長宗我部氏”は“秦の始皇帝”の後裔である“秦河勝”(はたのかわかつ・生没年不詳)の子孫だと称した。“秦河勝”は当時の秦氏の族長的人物であり“聖徳太子”にも仕えたとされる。又、京都最古の寺“広隆寺”を建立した(603年・推古天皇11年)事でも知られ、その“広隆寺”には“秦河勝”が“聖徳太子”から賜ったという“国宝指定第1号”の“弥勒菩薩像”が本尊として祀られている。

話は外れるが“用明天皇”(第31代天皇・聖徳太子の父親・在位585年~587年5月・生年不詳・崩御:587年5月21日?)が崩御し“蘇我馬子”と“物部守屋”の間で仏教受容を巡る対立が激化し“蘇我馬子”が“聖徳太子“や他の豪族と協力して”物部守屋“を討ち取り”物部氏“を滅亡させた。この権力闘争が、587年(用明2年)の“丁末の乱”(ていびのらん)である。

“丁末の乱”の後“皇位”は“第32代・崇峻天皇”(生:553年?・崩御:592年12月?)が継いだが“蘇我馬子”と対立し“蘇我馬子”は身を守るべく“東漢駒”に命じて“崇峻天皇”を暗殺させたのである。

臣下に拠って“天皇”が暗殺された例は他にも“第20代・安康天皇”の例“第47代・淳仁天皇”の例、そして明治維新時の“第121代・孝明天皇”の例を挙げる説があるが、いずれも“疑わしい”とされる事例である。従って“確定した例”としては“崇峻天皇”の事例だけが唯一とされる。

その後“蘇我氏”出身の“推古天皇“(第33代天皇・在位592年~628年・生:554年・崩御:628年)期の604年に制定された“冠位十二階“の第3に当るとされる”大仁“(だいにん)に”秦河勝“は其れ迄の功績に対して叙されている。尚史料に見える”大仁“には”秦河勝“を含め、12人が就いており”小野妹子“も608年に就いている。

こうした由緒ある氏族の“長宗我部氏”は“鎌倉時代初期”に“信濃国”から“土佐国”に移った“地頭”クラスの豪族だったとされる。“長岡郡宗部郷(ながおかぐんそかべごう・現在の高知県南国市)に定着し、地名をとって”長宗我部氏“と称したという歴史を持ち”家格“に重きを置く当時の武家社会に於いては”長宗我部氏“は”誇り高き“家系であった。

10-(1)-②:“土佐国”の統一に成功した“長宗我部元親”

“長宗我部元親”の父親である“長宗我部国親”(国親の国の字は室町幕府第31代管領・細川高国からの偏諱である・生:1504年・没:1560年)は衰えた“長宗我部”家を再興し1560年6月15日に病死した。その後を継いだのが “土佐国・岡豊城“で1539年(天文8年)に生まれ、21歳に成っていた、嫡男”長宗我部元親“(生:1539年・没:1599年)である。

幼少期には色白、軟弱な様子であった“長宗我部元親”は“姫若子”と嘲笑されたとの話が伝わるが、そうした揶揄は彼が21歳に成り、しかも“父親・長宗我部国親“が急死する1ケ月前の”長浜の戦い“(1560年/永禄3年/5月28日)で彼が遅い”初陣“を果し、その戦いで”土佐郡朝倉城主・本山茂辰“(もとやましげとき・土佐七雄の一人・生:1525年・没:1564年?)を自ら槍を持って突撃し、武名を一気に高めた事で払拭したのである。以後も彼の勇猛振りは“父・長宗我部国親”が急死した事にも拘わらず尚も“本山氏”への攻撃を続ける等、急速に知れ渡った。

“長宗我部元親”は“一領具足”(いちりょうぐそく)と呼ばれる戦時対応体制を農民に取らせた事でも知られる。普段は農作業に従事する“百姓達”に常時、側に置かせた“一領具足”(鎧や甲冑)を戦時には直ちに身に着けさせ、出陣出来る体制を整えさせたのである。これは後の“兵農分離”に先立って整えられ、編成された“半農半兵”の体制であり“長宗我部元親”が編み出した“戦時体制”として知られる。

“長宗我部元親”はこの“一領具足体制”を原動力として“本山氏・吉良氏・安芸氏・津野氏”等の諸氏を従え“領土拡大”を飛躍的に進めたのである。

10-(1)-③:“土佐一国統一”を成した時点で“織田信長”に誼(よしみ)を通じた“長宗我部元親”

1575年(天正3年)7月:

“長宗我部元親”(生:1539年・没:1599年)は1575年(天正3年)7月の“四万十川の戦い”(=渡川の戦い)で7500の兵力で3500の兵力の“一条兼定”軍を敗り“土佐一国統一”を完了させた。この戦いでも、当時は常備軍の制度が一般化しておらず”栗本城“に拠って”長宗我部元親”方を挑発した“一条兼定”軍に対し“一領具足制度”が有効に働き“長宗我部元親”軍の動きは早く、忽ちの中に7000兵を整え“四万十川“東岸に現れ”一条兼定“軍に僅か数刻で勝利し、夕刻前には200余の首実検を終えた事が伝わる。7月と言う事で、田植えの時期を過ぎていた事もこの素早い大軍編成を可能にしたとされる。

敗れた“土佐・一条兼定”(第4代土佐一条家当主・生:1543年・没:1585年7月)は戦場から逃げ去り“宇和海の戸島”で隠遁生活を行い10年後の1585年7月に満42歳で没した。

“一条兼定”を倒し“土佐国統一”を成し遂げた時点で“長宗我部元親”は“織田方・明智光秀”を仲介役として“織田信長”に“誼”を通じて来たとの説があるが“元親記”(長宗我部氏家臣の
高島孫右衛門正重が長宗我部元親の33回忌に著作したもの・1631年/寛永8年/成立・長宗我部元親一代の事暦を記述したもの)には、それ以前から“長宗我部元親”と“織田信長”との間には交流があったと伝えている。

10-(1)-④:“岡豊城跡”訪問記・・2024年(令和6年)11月29日(金曜日)

住所:高知県南国市岡豊(おこう)町1099
交通関係他:

今回の史跡訪問には東京から遠く離れた“四国”の史蹟訪問の旅という事もあって“長宗我部元親”とは関係の無い“今治城”並びに“伊予・松山城”を途上で訪問した。その両城訪問に就いても合わせて記述した。

その1:今治城
今回の旅程は前日(2024年11月28日)に大阪駅から新幹線で福山駅に着き、此処で“こだま”に乗り換えて“新尾道駅”で降り、そこからは“トヨタレンタカー”でプリウスを借り“瀬戸内しまなみ海道”をひたすら“藤堂高虎”が築いた“今治城”を目指して走る事から始まった。日記にはAM8:50分に“トヨタレンタカー営業所”を出発して“日本3大水城”の一つに数えられる“今治城”にAM10:00到着とある。

今治城の見学はAM10:00~PM12:10まで行った。そこから“愛媛・松山城”を訪問する予定があるので昼食は“今治城”の前にあるラーメン屋に何も考えずに兎に角、空腹を満たす為に飛び込んだ。店に入ってみてビックリしたのだが、80歳の私より、遥にご年配と思われる御夫婦が“いらっしゃい~!”と迎えてくれたのである。次の訪問地の事もあり、なかなか頼んだラーメンが出来て来ない事に心配しながら辛抱強く待ち続けた。漸く出された昭和時代を思い出させるや々ぬるい(温い)“支那ソバ”を食べ終え、早々に“伊予・松山城”に向かった。

その2:伊予・松山城
”今治城“の前のラーメン店を出て”愛媛県・松山城“に急いだが、車で40分程で着いた。名城がこんな賑やかな街にあるのか?との心配が頭をもたげる様な場所で、先ずは駐車場を見つける事から始まった。幸いに駐車場を見つけ、1955年に設置されたというロ-プウエイの駅に向かった。ロープウエイの駅は近代的な街並みに在り、私達は”名城・伊予松山城“は屹度、すっかり観光地化され、史跡としての価値は無いのではなかろうか?と、心配しながらロープウエイに乗った。しかしそうした心配はロープウエイを降り、眼前に広がる”伊予・松山城“の威容を見た途端すっ飛び、大きな感激に変わった。

1602年(慶長7年)に”加藤嘉明“(かとうよしあきら・秀吉の賤ケ岳七本槍の一人・生:1563年・没:1631年9月)が築城した。当城は現在、大天守を含む21棟が国の”重要文化財“に指定されている。建造物の現存数は”京都二条城“の28棟に次ぐものだとある。その他、堀を含む22棟が木造で復元されており、城としての景観は添付した写真にある様に、壮観である。山頂の天守(大天守)は”日本三大平山城“に数えられ威容を誇る。1945年7月26日の”松山空襲“をはじめ、それ以前にも何度も火災にあい、その度に復元された歴史であるが、2006年に”日本100名城“の81番目に選定された。現在は“松山城公園”として“日本さくら名所100選”にも選定され、年間を通して多くの観光客で賑わっている。“史跡訪問”としても是非お勧めする“伊予松山城”である。

“伊予・松山城”の見学には2時間をかけた。当日は“新尾道駅”からレンタカーで“瀬戸内しまなみ海道“を走り”今治城“を見学、その後”伊予・松山城“へドライブし、史跡探訪を終えたが、流石に疲れた事と、翌日が今回の”歴史探訪“の本命である”長宗我部元親“に関する訪問である事から、11月28日の史跡探訪は早めに切り上げ、宿泊先の”大江戸温泉物語道後“に向かった。凡そ”伊予・松山城“から1時間程で宿泊先に到着し、ゆっくりと休養出来た。


その3:“長宗我部元親”関連史跡訪問記:訪問日2024年(令和6年)11月29日(金)

当日は朝食を早めに済ませAM8:25分に愛媛県松山市道後姫塚の”大江戸温泉物語道後“を出発し高知県南国市に入った。途中“石鎚山サービスエリア”で30分程休憩をしたので“高知民族歴史博物館”に着いたのはAM⒒:30分に成っていた。


その3-1:岡豊山歴史公園・・高知県立歴史民俗資料館(岡豊城跡)訪問記
・・同上AM⒒:30~PM12:35
“岡豊城祉“(おこうじょうし)見学の前に”高知県立歴史民俗資料館“に立ち寄った。史跡訪問の際にこうした資料館に先に入って基礎知識を得てから“史跡”訪問をするのが常である。下記写真に示す様に“長宗我部元親”並びに“長宗我部氏”に関する史料が展示されており、非常に有効であった。
その3-2:長宗我部家が代々居城とし“元親”が生まれた“岡豊城跡”を見学。写真にある様に、城郭等の建物が残されていないのが残念であった
その3-③:“長宗我部元親”並びに“4男・長宗我部盛親”にとって最後の居城とした“浦戸城。太平洋(土佐湾)と“桂浜”を眼下に望む海上交通の拠点としての立地であった

スケジュールとしては後述する“長宗我部元親”の墓所訪問が先であった。墓所は“岡豊城跡”から50分程で着き(訪問記・写真は後述)其処から“巨大な坂本龍馬”の像がある“桂浜”に向かった。“桂浜“の背後の山一帯が”長宗我部氏“の最後の居城と成った”浦戸城“である。
“浦戸城”は桂浜から車で5分程の標高59mの”浦戸山“に”土佐国本山郷の豪族“で”土佐七雄の一人“とされ最盛期を築いた”本山茂宗(清茂)“(生:1508年・没:1555年)が築き”長宗我部元親“は満52歳、1591年(天正19年)に、この城に移転したと伝わる。この年に
”豊臣秀吉“は関白職を甥の”豊臣秀次“に譲っている。
城址として残されているのは写真に見る様に石垣が極く僅かであり、城の全体像が描ける史跡は残されておらず“岡豊城跡”同様、残念であった。
桂浜
その3-④:“長宗我部元親”の墓所訪問・・2024年(令和6年)11月29日(金)PM13:30~PM14:20
“岡豊城祉“(おこうじょうし)の見学を終えたのがPM12:35であった。そこから”長宗我部元親“の墓所に着いたのはPM13:30 分頃であった。戦国時代の墓はどれも立派な墓として残されているものは殆ど無い。“長宗我部元親”の墓も写真に示す様に、余程、歴史に興味を持つ人で無ければ訪れない様な場所にある簡素な墓であった。

10-(2):“長宗我部元親”と“織田信長”並びに“明智光秀・斎藤利三”を巡る関係

10-(2)-①:上洛以前から“長宗我部元親”は“織田信長”との交流があった

“元親記”に“信長卿御上洛以前より申し通じられし也”と記されている。この事は1568年(永禄11年9月)以前から何らかの交流があった事を裏付けている。既述の様に“長宗我部元親”は1560年に21歳で家督を継いでいるからあり得ない事ではなかろう。

10-(2)-②:“蜷川道標”が“長宗我部元親”と“織田信長”との交渉成立の為に動く

“蜷川家”は代々“足利将軍家”に“幕府政所代”として仕えた家柄である。“蜷川道標”(=蜷川親長・にながわどうひょう・ちかなが・生:1533年・没:1610年)も“室町幕府・第13代将軍足利義輝”を主君とした。

“足利義輝”が“永禄の変”(1565年5月19日)で殺害されると“蜷川道標”(=蜷川親長)も所領を失い没落した。彼の妻と“長宗我部元親”の妻が“異父姉妹”という関係から“蜷川道標”(=蜷川親長)は“土佐国”に下向して“親族”の誼(よしみ)で“長宗我部元親”の“同朋衆“として近侍し、雑務や芸能、美術品の鑑定等に任じた僧体の”特別技能集団“の一人として仕えた。”有職故実“に通じており、京の礼法にも詳しく、連歌の達人でもある事で厚遇された。

“地方大名・長宗我部元親“にとって”天下人・織田信長“に面会する事は極めて難しく、簡単な事では無かった。そこで“蜷川道標”(=蜷川親長)が、上記した“親族”という関係に加え“明智光秀”の家臣“斎藤利三”(後の春日局の父親・生:1534年・没:1582年6月17日)の“妹婿”という関係も役立つ事になる。

1575年(天正3年)夏:

“長宗我部元親”の側近として仕えた“蜷川道標”(=蜷川親長)は上洛して“天龍寺”の高僧で当時の外交官も担った“策彦周良”(さくげんしゅうりょう・生:1501年・没:1579年)に“長宗我部元親”の法号命名を依頼した事が“土佐物語”(1708年/宝永5年/に成立した長宗我部氏の興亡を描いた軍記物。作者は土佐藩の馬廻り記録方の吉田孝世・生没年不詳)に書かれている。

既述の通り“四万十川の戦い”(=渡川の戦い・1575年7月に勃発した土佐・一条氏との戦い)に勝利し“土佐国統一”を成した“長宗我部元親”は“蜷川道標”(=蜷川親長)を上洛させた。“蜷川道標”が“斎藤利三”と“親族”だという繋がりから、彼を“明智光秀”の家臣“斎藤利三”のみならず“明智光秀”自身にも接触させ“織田信長”に“長宗我部元親”からの使者を派遣する件を伝える事が出来た。“織田信長”への使者派遣が受け入れられ、結果①“加久見因幡守”と②“中島可之助”(なかじまべくのすけ・生没年不詳)が使者として選ばれた。

10-(3):“織田信長”は“長宗我部元親”の“嫡男・弥三郎”に”長宗我部親“の偏諱を与えその上”長宗我部元親“自身に”四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ“との”朱印状“を与えた

1575年(天正3年)10月:

“明智光秀”の仲介が功を奏し“長宗我部元親”の使者①“加久見因幡守”並びに②“中島可之助”(なかじまべくのすけ・生没年不詳)の“織田信長”との対面が実現した。(元親記)

この時“長宗我部元親”からの進物として①長光の太刀②馬代金10枚③大鷹2聯を贈った事が記録されている。これを取り次いで“織田信長”に披露したのが“明智光秀”である。その様子は“御奏者は明智殿“と、記録されている。こうした“史実”から、以後も”織田信長“と”長宗我部元親“との関係の”交渉“等の”仲介ライン“として”明智光秀~斎藤利三“の仲介ラインが、スタート時点から重要な役割を果した。(“本能寺の変の首謀者はだれか”著者“桐野作人氏)

10-(3)-①:“主人・長宗我部元親”に対して“織田信長”が屈辱的発言をした事に、使者の一人”中島可之助”が“織田信長”が感心する、見事な応酬をする

“土佐物語”には“織田信長”が“長宗我部元親”の使者を引見した時の様子が書かれている。例に拠って“上から目線”で“織田信長”は“使者・中島可之助”の主君“長宗我部元親”を称して“無鳥島の蝙蝠(コウモリ)なり”と揶揄(からかう)した。その意は“織田信長”は“長宗我部元親”などは四国では目覚ましく勢力を伸ばしている様だが、四国などは所詮、鳥さえ寄り付かない荒れ果てた小さな島である。そうした“四国”で“長宗我部元親”は鳥のように振舞うが、実は彼は鳥でさえも無い。取るに足らない“コウモリ”の様な存在だ。そんな彼が“四国”という島を我が物顔で飛んでいるに過ぎない!、と、強烈に侮辱した。

“主人・長宗我部元親“に浴びせられた侮辱の言葉に対して”使者・中島可之助”は“蓬莱宮のかんてん(寛典・漢天)に候”と返したのである。

この意味には諸説があるが“蓬莱宮”は“神仙思想の蓬莱山にある宮殿“の意味だと作家で”南国市立教育研究所長“を務めた”岩原信守“氏(生:1923年~)は解説している。そして”漢天“は”天の川が見える空“の意味、つまり”家臣・中島可之助”は“織田信長”の主君への侮辱に対して“主君・長宗我部元親”は神仙が棲む様な蓬莱宮に居り、夜空に広がる天の川の様な人物だ“と返したのである。(土佐物語)

10-(3)―②:“中島可之助”の当意即妙の返答に感心した“織田信長”は“使者・中島可之助”を褒め彼への褒美として①“長宗我部元親”の“四国切り取り自由”を認め、更に②嫡男“弥三郎”への偏諱授与を承諾した事が伝わる(土佐物語)

“長宗我部元親”の“使者・家臣中島可之助”の“当意即妙”(即座にその場に適した機転を利かせる事)の返答に、甚く(いたく)感心した“織田信長”が“中島可之助”を賞賛したとの逸話は“土佐物語”の創作だとされる。しかし、結果として“織田信長”が“長宗我部元親”に“四国切り取り自由”の朱印状を与え、更に“長宗我部元親”の嫡男“弥三郎”へ偏諱授与を承諾し“長宗我部親”と名乗らせ“左文字の太刀”並びに“栗毛馬一疋”を与えた事は史実である。

ここでも”偏諱授与“に関して”明智光秀“が尽力している。”長宗我部譜“の中に”偏諱授与、明智兼ねて申すの故也“と記されている事が裏付けている。

果たして“長宗我部元親”がこの時点で“織田信長”の“従属的同盟者”に成ったか否かに就いては“藤木久志”氏が定義する“戦国時代の同盟成立の4要素をベースとして”本能寺の変の首謀者はだれか“の”著者・桐野作人”氏が下記の様に論証を試みている。

     同盟成立の要件            長宗我部元親と信長の場合
① 攻守軍事協定が結ばれている事              X
② 相互不可侵協定が結ばれている事             X
③ 領土協定が結ばれている事(基礎的要件)         X
④ 縁組(付帯的条件)                   X

”織田信長“と”長宗我部元親“の場合は領国が接していない為”基礎的要件“である③の領土協定が存在しない事、又、①の攻守軍事協定が結ばれていない事、同じ理由から②の相互不可侵協定も結ばれていない。又“長宗我部元親”は“織田信長”の戦いに動員されておらず、更に“織田信長”が援軍を送った事も無い。つまり①の攻守軍事協定も結ばれていない事から“徳川家康”と“織田信長”間の同盟関係と比べて“長宗我部元親”の立場は“独立性・自立性”が強いと言える。これ等の事から“長宗我部元親”と“織田信長”との関係は“同盟“関係では無く”東西の遠国大名“との間の“儀礼的服属関係”に近いと言える。(本能寺の首謀者はだれか・著者“桐野作人”氏)

10-(3)―③:“偏諱授与”の件、そして“四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ”の”朱印状“を”織田信長”が与えた、との“元親記”の根拠

根拠と成ったのは1575年(天正3年)10月26日付け“織田信長”から“長宗我部元親”の嫡男“長宗我部弥三郎”(偏諱を得た後の名は長宗我部親)宛ての以下の書状である。

惟任日向守に対する書状披見せしめ候、よって阿州面に在陣もっともに候、いよいよ忠節を抽んでらるべき事簡要に候、次に字の儀信を遣わし候、即ち信親然るべく候、猶、惟任申すべく候也、謹言、
十月廿六日         信長
長宗我部弥三郎殿 

上記文書の解説:

①当時の慣行として地位の低い“長宗我部元親”から直接地位の高い“織田信長”に書状を宛てる事は無い。従って両者の取次役だった“惟任日向守=明智光秀”に“長宗我部元親”は書状を出した筈である

②その書状を“取次役・明智光秀”が“織田信長”に披露し“織田信長”がそれに就いて返信したという流れである。文冒頭の“惟任日向守に対する書状披見せしめ候“が、その事を伝えている。こうした手続き順番を取っている事からも“織田信長”と“長宗我部元親”の関係は上記した様に“儀礼的服属関係”に近いものと言える。

③“阿州面に在陣もっともに候”の文面は重要である。“土佐国”を統一した“長宗我部元親”並びに“長宗我部弥三郎”(信親)父子(と言っても当時の弥三郎は未だ10歳の少年)が”阿波国“へ出陣した事を(織田信長に)忠節を尽くす行為だと認める文意である。

④“長宗我部元親”は“この文意を”四国の儀は長宗我部元親の手柄次第に切り取り候、と御朱印頂戴されたり“と理解した、と“元親記”には書かれているのである。”元親記“は”長宗我部元親“の”家臣・高島正重“が1631年に書き、成立した”長宗我部元親の一代記“であり信憑性が高い史料とされてはいるが、この“朱印状”が本当に存在したのか否かに就いては不明である。従って残念ながら“四国の儀は長宗我部元親の手柄次第に切り取り候へ”と“織田信長”が下した事が“史実”と断定する事は出来ないと“本能寺の変の首謀者はだれか”の著者“桐野作人”氏は述べている。

⑤しかし乍ら“桐野作人”氏は上記“信長文書・五七三号=信長直状”は、明らかに“織田信長”から“長宗我部弥三郎”(信親)に発給されたものである。“織田信長”から“長宗我部弥三郎”(信親)への書状がある以上、必ず父親の“長宗我部元親宛”の書状も存在したに違いないと断じ、従って“元親記”が伝える“四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ”の朱印状が存在したに違いない、と推論しているのである。

⑥最後の“字の儀信を遣わし候、即ち信親然るべく候、猶、惟任申すべく候也”の文意は“織田信長”が“長宗我部弥三郎”に一字を与えて“長宗我部親”と名乗らせる事を許可したと共に“惟任”即ち“明智光秀”がこの偏諱授与に関して尽力した事を“織田信長”自身が、この書で伝えている。この事からも“明智光秀”が“長宗我部元親”と“織田信長”の関係を強めるべく、熱心に動いた事が裏付けられている。

⑦尚“織田信長”がこの“偏諱授与”を許可した際に“長宗我部元親”から“織田信長”に“左文字の太刀”並びに“栗毛馬一疋”を贈った事は既述の通りであり、又、1575年当時の“織田信長”の置かれた周囲の政治情勢は既述の様に㋐“大坂(石山)本願寺との対峙㋑4月の第2次高屋城の戦いで三好康長を降伏させ㋒5月の武田勝頼との長篠の戦いに圧勝、更に㋓同年8月には”越前一向一揆の殲滅戦“に勝利している。(前項6-22項39~40を参照方)この史実が裏付ける様に”織田信長“は前年1574年9月の”長島一向一揆殲滅戦“を含めると1年半程の間に実に5連戦を戦い勝利すると言う超多忙な時期であった。

従って“織田信長”が“四国”に関心を持つ余裕があったとは思えない。こうした状況下で“人間関係に不器用な天下人・織田信長”が、結果的に“四国政策”に於いて後々“長宗我部元親”との間に大きな“掌返し”を起こす事に成る“四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ”との“迂闊な約束”を“朱印状”の形で与えた可能性は充分考えられるのである。

“織田信長”から“四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ”の朱印状を得た(であろう)“長宗我部元親”は、翌1576年(天正4年)から“阿波国侵攻”を本格化させている。

10-(4):“長宗我部元親”の“阿波国”侵攻

次ページの “別掲図:長宗我部元親の阿波国~讃岐国への侵攻”を参照されたい。

① に図示した様に弟“香宗我部親泰”(こうそかべちかやす・長宗我部元親の4歳年下の弟で婿養子の形で1567年~1568年に長曾我部一族である香宗我部氏を継いだ・織田信長との外交を兄を助けて成したのも香宗我部親泰であった・生:1543年・没:1594年)を“阿波国・南部”の“海部郡侵攻”の軍代(主君・長宗我部元親に代わって戦陣での指揮を執る任務)として“海部城”を築城、此処に入らせた。

先ずは、弟“香宗我部親泰”が“長宗我部元親”の“阿波国侵攻”の“橋頭堡“(不利な地理的条件の下での戦闘を有利に運ぶ為の砦)を築いたのである。

メモ:長宗我部氏と香宗我部氏に就いて

諸説があるが“長宗我部氏”は“丁末の乱”(用明2年=587年)で聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋を倒した戦いで“秦河勝”が功を立て“信濃国”に与えられた領地に子の“秦広国”を派遣したのが最初とされる事は既述の通りである。
その子孫で“信濃国更級郡”の“秦能俊”(=長宗我部能俊・生没年不詳)が“土佐国”に入り“長宗我部氏”を称したのが初代である。時代としては“平安時代末期から鎌倉時代初期”の頃である。地頭クラスの豪族で“長岡郡宗我部郷”(現在の高知県南国市)に定着し、その地名をとって“長宗我部氏”と称した。

一方“香宗我部(こうそかべ)氏“は”中原秋家”(平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・生年不詳)が1193年に“土佐国・香美郡宗我‣深淵郷”(現在の高知県香南市)の地頭職に補任されていた。処が主君の“一条忠頼”(平安時代末期の武将・甲斐源氏棟梁の武田信義の嫡男だが甲斐国山梨郡一条郷を領した事から一条氏と名乗った・生年不詳・没:1184年)が“源頼朝・頼家”の家臣“天野遠景”(あまのとおかげ)によって暗殺されるという事態が起きた。“中原秋家”は遺児“一条秋通”を養子とし、後に養子の“一条秋通”が“香宗我部秋通”を名乗った事が始まりである。

時代は降り“香宗我部氏”が東には“安芸氏”そして西からは“長宗我部国親”(長宗我部元親の父親・土佐守護を兼ねていた室町幕府第31代管領・細川高国より偏諱を受け国親と名乗った・生:1504年・没:1560年)が勢力を拡大し、東西から圧迫される状況に“香宗我部親秀”(生没年不詳)は“長宗我部国親”の三男“親泰”を養子に迎え、彼が“香宗我部親泰”(生:1543年・没:1594年12月21日)を名乗り、以後“長宗我部氏一族”として影響下に入ったのである。

“長宗我部国親”の後を継いだ“長宗我部元親”の弟でもある“香宗我部親泰”は“兄・長宗我部元親”の下で“長宗我部一門”として“土佐国統一”並びに“四国統一”の戦闘に参加し、大活躍をした。彼は外交面でも“明智光秀”を介して“織田信長”との間で仲介役としての目覚ましい活躍をした人物である。

10-(4)-①:“長宗我部元親”が“阿波国”の南部“海部郡”に侵攻、その頃の“阿波国”並びに“讃岐国”に就いて

1576年(天正4年):

弟の“香宗我部親泰”を軍代として前年(1575年10月)に“織田信長”から“四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ”の朱印状を得た(であろう)“長宗我部元親”は上記“別掲図:長宗我部元親の阿波国~讃岐国への侵攻”の①に示す様に“阿波国・南部”の“海部郡”に侵攻し“阿波国侵略”の“橋頭堡”を築いた。

1577年(天正5年)

“長宗我部元親”は“阿波国西部・三好郡”に攻め入り“白地城”を拠点とする“大西覚用”(妻は三好長慶の妹・生年不詳・没:1578年)を追放“白地城” (現在の徳島県三好市池田町白地)を奪い改修し“阿波国・讃岐国・伊予国”の3ケ国が接する要所を得た。(別掲図の②で表示)

尚“讃岐国”に逃げた“大西覚用”は“長宗我部元親”に降伏し“重清城“(しげきよじょう・徳島県美馬市美馬町・1579年廃城)の守備を任される。しかし、1578年に”阿波三好・十河存保“(三好長治の実弟の彼は1578年に阿波三好家の家督を継ぎ三好民部大輔存保を名乗り、織田信長の命で阿波国の守護職として下向している)に攻撃され、敗死した。

1578年(天正6年)正月:

”阿波三好家“は”信長に先んじた天下人・三好長慶”から“三好義継”に受け継がれた“三好本宗家”とは別で“三好長慶”の弟“三好実休”(みよしじつきゅう・生:1527年?・没:1562年)が“阿波守護家・細川持隆”(=細川氏之・細川阿波守護家第9代当主・生:1516年・没:1552年)を討ち“兄・三好長慶”と共に“第13代室町幕府将軍・足利義輝”の“相伴衆”になった(1561年)。“三好本宗家”とは別に成立した家である。1570年(永禄末年)頃の支配範囲は“阿波国・讃岐国”並びに“淡路国の一部”と“南河内”であった。

この”阿波三好家“は”三好実休“が”久米田の戦い“(1562年3月5日)で戦死(6-20項64-(5)参照方)した後”嫡子・三好長治“(生:1553年~?・没:1576年12月)が重臣”篠原長房“の補佐を受ける形で継いだ。拠点は”阿波国”東端の“勝瑞城”としていた。同族で長老格の“三好康長”は“南河内”の“高屋城”に在り“讃岐国”は“三好長治”の弟が“十河存保”(そごうまさやす・生:1554年・没:1586年12月)を名乗り“十河城”(香川県高松市十川西町)に在った。

10-(4)-②:“阿波三好家”の長老“三好康長”が“織田信長”に帰順し“河内半国守護”として厚遇された事で“阿波三好家”が更に分裂する

“阿波三好家”の長老で“三好実休”を支えた“三好康長”(三好長慶の叔父・生没年不詳)“は”三好長慶“に仕え”河内国・高屋城“を守った。1564年(永禄7年)に”三好長慶“が病没し、既述の通り“松永久秀”が“三好三人衆”と対立し“三好宗本家”も分裂した。“三好康長“は“三好三人衆”側に与し、1569年(永禄12年)1月5日~1月6日に勃発した“将軍・足利義昭”を襲った“本圀寺の変”(六条合戦)では“三好三人衆“と共に行動した。しかし”細川藤孝・三好義継・荒木村重“等の将軍方の援軍に敗れたばかりか”織田信長の援軍も来る“との情報に”阿波国“に逃げ返ったのである。(6-21項52を参照方)

以後も“三好康長”は“織田信長”に抵抗を続け“三好一族”の中では、最後まで畿内で“織田信長”に抵抗を続けた。しかし、1575年3月22日の“第2次高屋城の戦い”で“織田信長”に敗れ、降伏したが、1575年(天正3年)4月8日に“松井友閑”の仲介で“相国寺”で“織田信長”に面会、帰順する展開となった。

1575年10月:

”織田信長“が”三好康長“を赦免したのは”名門三好家“そしてその”長老格“の彼には利用価値があると考えたからである。そして“織田信長”は“三好康長”を“河内国・南半分”の守護に任じた。そればかりでは無く、更に彼を”本願寺“との”和睦交渉の担当者“として重用したのである。

この様に“織田信長”に一貫して激しく敵対して来た“三好康長”が“織田信長方”として帰順した事で“阿波三好家”は分裂した形と成った。“織田方”として帰順した”三好康長“と”四国“で”阿波三好家“と対立する”長宗我部元親“との関係は表面上は良好なものであった。

10-(4)-③:着々と“四国全土統一”を進め、残すところは㋐“伊予の北部㋑”阿波国 “そして㋒”讃岐国東部“だけと成っていた“長宗我部元親”勢力

”織田信長“から”四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ“との”朱印状“を手にした(であろう)”長宗我部元親“は”阿波国“(徳島県)そして”讃岐国“(香川県)並びに”伊予国“(愛媛県)への侵攻を続けた。

1578年(天正6年)2月:

既述の様に”長宗我部元親“は”阿波国・白地城”(1335年に近藤京帝が築城・1585年廃城・徳島県三好市池田町白地)の“城主・大西覚用”(おおにしかくよう・戦国時代の阿波西部の最大勢力であった・彼の妻は伯父三好実休の娘・生年不詳・没:1578年)を降伏させた。

“元親記”には“長宗我部元親”の様子を“先ずはこの大西さへ手に入り候へば、阿波、讃岐、伊予3国の辻にて何方へ取り出づべくも自由なりと満足し給ひけり“と伝えている。

1579年(天正7年)夏:

”讃岐国“では既述の“十河存保”(そごうまさやす・三好長慶の弟で阿波国主で久米田の戦いで戦死した三好実休の次男、尚実休の嫡男が三好長治・生:1554年・没:1587年)並びに“三好康俊”(三好康長嫡男・阿波岩倉城主・生没年不詳)が激しく抵抗したが“長宗我部元親“軍は”十河存保”軍に大勝し“十河存保”が“大西覚用”から奪った“重清城”(徳島県美馬市美馬町)を奪い“三好康俊”を“岩倉城”に追い詰め、彼の実子を人質にとり、降伏させた。

1580年(天正8年):

”讃岐国“の”羽床城“(香川県綾川町)を居城とする有力国衆の”羽床資載氏〝(はゆかすけとし・生:1533年・没:1582年)に対しても“長宗我部元親”軍は、彼の次男“羽床資吉”を人質として入れさせ、降伏させた。

“伊予国“に就いては①東伊予地方は金子元宅、妻鳥友春、石川勝重らを味方にして平定した。しかし②南伊予地方では”長宗我部“氏の家臣”軍代・久武親信”(ひさたけちかのぶ・生年不詳・没:1579年5月)が1579年(天正7年)春に“岡本城”を攻められ戦死する敗戦を喫している。又、③中伊予地方でも“伊予守護・河野氏”が“毛利氏”の援助を得て“長宗我部元親”に激しく抵抗した為“伊予国全国“の平定は成らなかった。

こうした状況下” 長宗我部元親“が”織田信長“から”四国は切り取り次第領有を認める“との朱印状を得た、と信じる”長宗我部元親“に対する”織田信長“の”四国政策“に対する考えが変わったのか?と思わせる動きが生じて来る。

10-(4)-④:“長宗我部元親”は“三好康長”が“織田信長” に降伏(1575年4月8日)、帰順した事で“阿波三好家”が“分裂”状態と成り“三好康長”も“織田方”と成った事で、彼にとって“四国統一”の好機到来と考え、それを“織田信長”に確認する為の遣使を行った。

”長宗我部元親“は”織田信長“から”四国切り取り次第“の”朱印状”を獲得し、更には既述の“嫡男・長宗我部弥三郎”への“親”の偏諱を得た事で“儀礼的服属関係”と成っていた。この状態は“四国統一”に動く“長宗我部元親”にとって、ここ迄は思惑通りの結果であった。こうしたこれ迄の順調な“四国統一”の進展の背景には“明智光秀”の“後押し”があったからこその結果だと、感謝していたに違いない。(“本能寺の変の首謀者はだれか”の著者“桐野作人“氏)

10-(5):“織田信長”の“四国政策”は“長宗我部元親“の考えとは異なるものに変化し、その為“三好康長”と“長宗我部元親”の、そもそも微妙だった関係が崩れはじめ、対立が激化する

10-(5)-①:“長宗我部元親”が“織田信長”と“儀礼的服属関係”を結んだという関係にある以上“長宗我部元親”並びに“元親”の弟“香宗我部親泰”に服属する形であった“三好康長”の内心は“阿波三好家の長老”の立場としては“屈辱”的なものであった

”織田信長“は1580年(天正8年)末迄は”長宗我部元親“が”阿波国支配“の実績を積み上げて行った事を追認して来た。これも“明智光秀”の取次が功を奏したとされる。当時の状況として“三好康長”の嫡子で“阿波国岩倉城主・三好式部少輔”(=三好康俊・生没年不詳)は“父・三好康長”が畿内へ移動した後“阿波国・勝瑞城主”と成っていた。

1580年(天正8年)6月12日:

”織田信長“から”長宗我部元親“の”弟・香宗我部親泰“宛ての文書①がある。更に”三好康長“(この時点では三好康長は服属する織田信長に対して自分の名が不敬であると忖度し、康慶へと改名している)から“香宗我部親泰”への副状(そえじょう)②もあり、それ等を示す。

“三好康長(康慶)は既述の様に”織田信長“に服属する形に成ったが、飽くまでも彼は”阿波三好家”の“長老格”という立場であり、その彼にとって“嫡子・三好式部少輔”(=三好康俊)が“長宗我部元親”に降った形であった事は、極めて屈辱的だったのである。更に“阿波三好家”が分断した形と成った事で“阿波国主”であり“三好家・主家”の立場の“三好存保”に自分が敵対する事を余儀なくされる立場となった事、更に“本貫の地”(ほんがんのち=氏族集団の発祥の地や個人の本籍地や出身地を意味する)を“長宗我部元親“に譲ると言う状況も、極めて屈辱的な事であった。

以下の文書は“三好康長”(三好康慶)として、そうした心情が背景にあった状況下での文書である事を理解した上で読まれたい。

文書①:“織田信長“から”長宗我部元親“の弟の”香宗我部親泰“に宛てた文書・・(信長文書九二八号)

三好式部少輔の事、此方に別心なく候、然してその面において相談ぜられ候旨、先々相通わすの段、異儀(議)なきの条珍重に候、猶もって阿州面の事、別して馳走専一に候、猶三好山城守(康長)申すべく候也、謹言
六月十二日(天正八年)               信長(朱印)
香宗我部安芸守(親泰)殿

解説
“織田信長”は“三好式部少輔”(三好康長の嫡子)が自分に異心を持っていない事は   認めてはいるが“長宗我部元親”と“三好式部少輔”が果たして良好な関係であるかどうかを確認する事がこの文書の目的と考えられる。その背景に“三好式部少輔”(三好康長の嫡子)が“阿波三好家”の一員ではあるものの、上記した様に“長宗我部元親”に降った為“阿波国主”で主家である“三好存保”に敵対する事を余儀なくされる立場になったという彼の微妙な立場を“織田信長”が追認するものである。“阿波三好家長老格”の“三好康長”としても、子息“三好式部少輔”(三好康俊)の処遇を取り計らって呉れる様“長宗我部元親”に依頼する立場であり、その事は“三好康長”(三好康慶)としては不承不承(嫌々ながらの)の事であった。又、この文書が“織田信長”が“長宗我部元親”の弟“香宗我部安芸守”(親泰)に出された事から“長宗我部元親”が“阿波国”に於ける“既得権益“を”織田信長“に承認させた事でもある。

文書②:”三好康長“(康慶に改名)から”長宗我部元親“の弟の“香宗我部親泰”への副状(そえじょう)・・(信長文書九二八号)

爾来申し承らず候、よって阿州表の儀、信長より朱印を以て申され候、向後は別して御入眼快然たるべき趣、相心得申すべく旨に候、随って同名式部少輔の事、一円若輩に候、殊更近年忩劇に就きて、無力の仕立て候条、諸事御指南希う所に候、いよいよ御肝煎我等においても珍重たるべく候、恐々謹言
六月十四日(天正八年)             三好山城守
                            康慶(康長)
香宗我部安芸守殿
       御宿所

解説:
これは文書①の副(添え)状である。①は“織田信長”からの文書であり、通常は両者の“取次役”の“明智光秀”が書くものであるが、既述の通り“三好康長”が“織田信長”に服属した事で“阿波三好家”が分裂状態に成ったという状況に成った。“阿波三好家”の長老格の“三好康長”としては“長宗我部元親”の弟で“長宗我部方”の外交を取り仕切っている“香宗我部安芸守(親泰)“に、何かと気を遣い、そうした立場から、例外的に”織田信長“から”香宗我部親泰“への文書の副(添え)状を付ける形と成ったものである。

内容に就いては“御入眼快然たるべき趣”とあるが、これは“三好康長”が“香宗我部親泰”に対して、彼の兄“長宗我部元親”が“阿波国”を平定した事を喜んでいる事を伝えたものである。此の文からも”織田信長“が”長宗我部元親“の”阿波国“に於ける”既得権“を承認した事を裏付けている。

問題は“近年忩劇”(忩劇とはいざこざに拠る世の騒ぎの事)の文意である。“本能寺の変の首謀者はだれか”の著者“桐野作人”氏は、1579年(天正7年)12月に起こった“岩倉城合戦”の事を指しているとしている。“岩倉城合戦”では“三好康長”の“嫡子岩倉城主・三好式部少輔”(=三好康俊)“を攻めた”阿波国主・三好民部大輔存保“の軍が重臣、並びに多くの兵を失う大敗北を喫した。その結果”三好存保“は”阿波国“を保てなく成り”讃岐国“へ退隠を余儀なくされた。”阿波国主“が国外逃亡したこの事態を”三好康長“は “近年忩劇”とこの副状(添え)で表現している、と“本能寺の変の首謀者はだれか“の著者”桐野作人“氏は述べている。

この時“三好康長”の“嫡男・阿波国岩倉城主・三好式部少輔”(三好康俊)は”長宗我部元親“に降っていた。従って、同族ではあるが”阿波国主・三好存保“に敵対する事を余儀なくされ、しかも彼に勝利して了ったのである。主家から離脱して“長宗我部元親”に服属する事になった“三好式部少輔(三好康俊)”としては、心ならずもの立場であった事は“織田信長”も理解していたと思われる。当然“阿波三好家”の長老格である“三好康長”もこうした展開については不承不承(渋々)認めざるを得なかったという背景が上記①②の文書に含まれているのである。

”阿波三好家“の長老格の“三好康長”にとっては“本願の地”を“長宗我部元親“に譲ると言う結果も甚だ屈辱的であり、そうした意味合いがこの文書の背景にはあったという事を理解して置くと、この文書の意味、並びに後の歴史展開がより理解出来よう。

10-(5)-②:基本的に“長宗我部元親”に服属する事は大いなる不満だった“三好康長”

1580年(天正8年)末:

“長宗我部元親”と“織田信長”との友好関係は“1575年(天正3年)10月26日付け”織田信長“からの“長宗我部元親”の嫡男“長宗我部弥三郎”宛ての書状から読み取れる。

“長宗我部元親”に“四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ”と“織田信長”が承認(少なくとも長宗我部元親はそう理解していた)して以来、両者の関係は良好だった様だ。こうした過程には“明智光秀”の取次が功を奏していた事は既述の通りである。しかし“阿波三好家”の長老格“三好康長”にとっては“長宗我部元親”に服属する形で“四国”の状況が進む事には、内心大いに不満だったのである。そして彼の“嫡子・三好式部少輔”(三好康俊・生没年不詳)が既述の“織田信長朱印状”に拠って“長宗我部元親”に服属する形になった事態も当然、屈辱的以外の何物でも無かったのである。

10-(5)-③:“三好康長”と“長宗我部元親”双方を両天秤に掛け、結果“三好康長”を選んだ“織田信長”

1581年(天正9年)正月23日:

”織田信長“は洛中で”馬揃え“(基本的には騎馬を集めてその優越を競い合う武家の行事の一つであったが、軍事パレードの色彩が主と成り、家臣にとっては軍役である)を行った。このイベントの総奉行に命じられたのが“明智光秀“であった。

”馬揃え”に動員される家臣団は国毎に書き上げられたものが記録として残されている。注目すべきは“立入左京亮入道隆佐記”並びに“信長文書”によると“河内国”からは“三好山城守(康長)”の名が挙げられ、更に“多羅尾綱知”等、父子三人、そして“池田教正丹後守”そして“野間長前(左橘兵衛尉)等の名も挙げられている。そして続く文にこれは阿波へ遣わし候間、その用意これを除くべしと書かれているのである。

この“朱印状”で“三好康長”等は“阿波国”に渡海する事に成った為、その準備の為馬揃えの軍役を免れて良い“と伝えたのである。

1581年(天正9年)2月20日:

“織田信長”から渡海を許された“三好康長”の目的は①個人的目的としては、本貫の地“岩倉”の奪回”②大義名分として“阿波三好家当主・三好存保“を援助しての”阿波三好家再興“であった。そして、この趣旨を”織田信長“にこれ迄の”長宗我部元親“に委ねた”四国政策“を変更する様訴え、それを“織田信長”が裁可したのである。“織田信長”が“四国政策”に関して“長宗我部元親“から”三好康長“に乗り換えた瞬間である。

裁可を得た“三好康長”は既述の“岩倉城合戦”(1579年12月)後の状況の修正に動いた。つまり“長宗我部元親”の阿波侵攻で敗れ、不承不承“長宗我部元親”に与した“三好康長”の“嫡子・岩倉城主・三好康俊“並びに”脇城城主・武田信顕“が”阿波三好家当主・阿波国守・三好存保”軍と戦い、これに大勝利し、重臣、並びに多数の兵を失なった“三好存保”が“阿波国”を保てず “讃岐国”へと“国外逃亡“を余儀なくされた状況を”阿波三好家“の長老として修正に動いたのである。

具体的には”阿波三好家当主“たる“三好存保”を再び“勝瑞城”に戻すべく、先ずは“讃岐国”に渡り“十河城”の“三好存保”との合流を図った。(南海通記:1718年/享保3年/に刊行された四国/南海道/の中世史・著者:香西成資)

10-(5)-④:“長宗我部元親“にとっては”掌返し“を喰った形の“織田信長”の“三好康長”への軸足移し

“織田信長”は“三好康長”と“長宗我部元親”を天秤にかけ、結果“三好康長支援”に軸足を移した。この結果“長宗我部元親”と“三好康長”の間に取り交わされた“和睦”は反故と成った。この事は同時に“織田信長”が“長宗我部元親”に与えた(と思われる)“1575年/天正3年/10月26日の朱印状”の内容、つまり“長宗我部元親”に“四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ”の約束(と、長宗我部元親は理解していた)を反故にしたに等しい“三好康長”に対する“阿波渡海”の承認であった。この承認は“織田信長”がそれまでの“四国問題への不干渉政策”を大きく変更した事でもあった。

10-(5)-⑤:“長宗我部元親”が“一条内政”を追放し、名実ともに“土佐国”の大名と成る

1581年(天正9年)2月:

“一条内政”(いちじょうただまさ・土佐一条氏の第5代当主・生:1562年?・没:1585年)は“権中納言・一条兼定”(公家、大名・土佐一条氏の第4代当主・キリシタン・生:1543年・没:1585年)の嫡男で“長宗我部元親”の娘を正室に迎えていた。“土佐一条氏”は“一条兼定”の期に信望を失い家老の合議に拠って1573年(天正元年)9月に32歳で出家、隠居をさせられていた。“土佐物語”や“土佐國紀事略編年”には“家臣達は長宗我部元親”と示し合わせたと書かれている。

家督を継いだのが当時、満11歳の“一条内政“であるが”長宗我部元親“の父”長宗我部国親“が幼年期に“土佐一条氏”に庇護され、その後援によって“岡豊城”(おこうじょう)に復帰した等の恩義があった事から“長宗我部元親”は11歳の“一条内政”の後見を引き受けたとされる。(長宗我部氏の研究家・朝倉慶景”氏説)

ところが“長宗我部元親”の妹婿に当り、父親“長宗我部国親”の側近として仕え“長宗我部元親”の“四国統一”に貢献し“幡多郡・山路城主”と成っていた“波川玄蕃清宗”(はかわげんばきよむね・波川城主・生年不詳・没:1580年12月)が“伊予国”で“大野直之”を援護する為に派兵されていた際に、敵方の“小早川隆景”と独断で和睦を結び“大野直之”を見捨てて退却するという失態を演じた。その為、蟄居させられた“波川玄蕃清宗”は不満から反乱に及ぼうとしたが、その企てが露見した為“阿波国海部”へ逃れた。

“長宗我部元親”は”弟・香宗我部親泰“に命じて“波川玄蕃清宗”を自刃に追い込んだ。一族郎党も抵抗したが悉く戦死するという事態となった。

この言わば“長宗我部元親”方の内乱に“大津御所”の“一条内政”が絡んでいた証拠と成る“廻文状”が出て来た為“長宗我部元親”は女婿でもある“一条内政”を“伊予国”に追放した。これに拠って“大津御所体制”が解体し、名実ともに“長宗我部元親”が“土佐国大名”となったのである。

10-(5)-⑥:“一条内政”を“伊予国”に追放し“大津御所体制”を解体させた事が“織田信長”と“長曾我部元親”との断交に繋がる展開と成る

“大津御所体制”とは“長宗我部元親”が昔の恩義に報いるべく、11歳の“一条内政”の後見を引き受け“岡豊城“にほど近い”大津城“に移して庇護・後見した上に、長女を”一条内政“に娶らせて”舅“という関係に成った。こうした“長宗我部元親”と“一条内政”の関係は“大津御所体制”と称された。

この体制は“長宗我部元親”と“京一条氏”との政治的妥協の産物ではあるが“土佐一条氏”を形式的な国主的地位に推戴する事に拠って“土佐国”が中央との関係を持ち“天下人・織田政権“としては“統一的な支配秩序の確立”が成った形ではあった。しかしこの体制の実態は“長宗我部元親”が実力で“大津御所体制”を規定する性格のものであった。

ところが“大津御所体制”は“織田信長政権”と“摂関家一条氏”に拠って信任されるという形を建前としていた。従って上述した“1581年(天正9年)2月に”長宗我部元親“が”一条内政“を追放して了った事に拠り”大津御所体制“は解体された。この事は”織田信長“からすれば“織田政権”として“長宗我部元親+一条内政”体制として信任していた体制を“長宗我部元親”自らが崩壊させた事を意味した。“本能寺の変の首謀者はだれか”の著者“桐野作人”氏は、この事も”長宗我部元親“と”織田信長“の外交関係が破綻する一大契機と成った、としている。

10-(6):更に悪化する“織田信長政権”が“長宗我部元親”との関係を破綻させた具体的動き・・“羽柴秀吉”を“三好氏後援者”として”四国政策”に介入させる

情報と人脈が極めて重要であった“戦国時代”であったから“長宗我部元親”も“織田信長政権”との交流に関しては“明智光秀”に限定せず“羽柴秀吉”との交流も持ち“織田家中”並びに“畿内”の情報入手に努めていた。

この“羽柴秀吉”と“長宗我部元親”との取次役が“明智光秀”の家臣で後の“春日局“の”父親・斎藤利三“(生:1534年・没:1582年6月17日)だった事は注目に値する。“羽柴秀吉”は、“織田信長”が“政策”を変更した事に拠り“長宗我部元親”が独占していた“四国政策”に介入するという形と成ったのである。

10-(6)-①:“阿波国・勝瑞城”を“織田信長”の命で“三好康長”が奪還する

1580年(天正8年)12月:

“三好存保”は1579年(天正7年)12月の“岩倉城合戦”で“長宗我部方”に大敗し“勝瑞城”を保てずに翌1580年正月に“讃岐国・十河城”に退いた事は既述の通りである。その後“勝瑞城”は“大坂本願寺”(石山本願寺)側と“織田信長”が“勅命講和”を成立(1580年閏3月5日)させたが“顕如”の子息の“教如“が”講和“を反故にする形で、尚も”大坂(石山)本願寺“に立て籠もった。しかし、遂に”大坂(石山)本願寺“の開城を決断するが(1580年8月2日)開城直後に“大坂本願寺(石山本願寺)”は灰燼に帰した。

“大坂本願寺(石山本願寺)”が開城された後も、抗戦の意思を捨てない“牢人衆”は海を渡り“紀州衆”並びに“淡州衆”を誘って“勝瑞城”そして″一宮城“を包囲するという事態が続いたのである。これ等、反乱衆と戦い“両城”が“牢人衆+紀州衆+淡州衆”に占拠されるのを“長宗我部元親”は防いだ。

ここ迄は“長宗我部元親”は“織田信長”方としての支援の戦いをした。未だ“織田信長”との“儀礼的服属関係”を維持すべく”長宗我部元親”は“織田信長“に忖度して、防衛した “勝瑞城”を自分の城とはしなかったのである。

1581年(天正9年)2月:

“長宗我部元親”が上記“両城”(勝端城・一宮城)が“牢人衆+紀州衆+淡州衆”の反乱衆によって占拠される事を防いだ2ケ月後に“織田信長”の命令を受けた“三好康長”が“阿波国”に入った。

そして”長宗我部元親”が“本願寺残党”の“牢人衆”等が“勝瑞城”を囲む状況を掃討し、占拠を防ぎ、且つ“織田信長”に忖度して接収しなかった“勝瑞城”にあたかも自分が奪還したかの様に“三好康長”が入城してしまったのである。この他“三好康長”は“阿波国北半”を確保し“十河城”に逃げていた“三好存保”を救出すると共に“讃岐国東半“も勢力圏に収めるという展開と成った。

こうした”三好康長“軍の一連の動きは”織田信長“が承知した上でのものであった。こうした展開は当然の事乍ら “長宗我部元親”に“織田信長”に対する“疑惑”並びに“不信感”を一気に強めたのである。

10-(6)-②:“長宗我部元親”は“羽柴秀吉”と交わした書状で“自分と三好康長のどちらをとるのか?”を“織田信長”に打診してくれ、と頼んだ。下記がその内容である。

阿(阿波国)・讃(讃岐国)平均においては、不肖の身上たりといえども、西国表お手遣いの節は、随分相当のご馳走を致し、粉骨を詢(はかる=相談する)るべく念願ばかりに候
文意:阿波、讃岐の両国を平定できれば、西国表への出兵に最大の協力を惜しまない、と記している。“長宗我部元親”が“織田信長”に確かめて欲しい事は、1575年(天正3年)の“朱印状”にあった様に“阿波国”そして“讃岐国”の領有を認めて貰わねば困る。それが“織田信長”に従う条件なのだから、と伝えたものである。

1581年(天正9年)7月:

”三好康長“が”讃岐国“から”阿波国“に入り”勝瑞城“を回復し”三好存保“(=十河存保・三好実休嫡男・生:1554年・没:1587年)を同城に復帰させた。復帰した“三好存保”は家宰の“篠原自遁“(しのはらじとん・阿波国木津城主・生没年不詳)等と共に”長宗我部方“の”一宮成助“(いちのみやなりすけ・妻は三好長慶の妹・生年不詳・没:1582年)に対する攻撃を開始した。

この攻撃に対して”長宗我部元親“が”一宮成助“を支援した為に“三好存保+篠原自遁“軍は攻め切れずに退却した。これを機に“阿波国”に於いて“三好方”と“長宗我部方”との対立が鮮明となった。

10-(6)-③:“長宗我部元親”軍が“三好存保+家宰篠原自遁”軍に対して、反攻を開始する

上記した“三好存保+家宰篠原自遁”軍は1581年(天正9年)7月の“一宮城攻め”に失敗し退却したが“三好康長”軍は“阿波国”に居座り続けていた。

この段階迄は“長宗我部元親”は“織田信長”とは“儀礼的服属関係”を結んでいる関係にあったから、同じく“織田信長”に服属する“三好康長”と争う事は避けて来た。しかし“長宗我部元親“軍と”三好存保+家宰・篠原自遁“軍との対立が明確と成り”三好康長“が”阿波国“に居座り続ける事に“長宗我部元親”は“織田信長政権”が“1575年/天正3年/10月26日の朱印状”つまり “四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ”と約束した(と、元親は理解して来た)事を反故にしたと判断した。そして遂に“長宗我部元親”は“三好康長”軍への反攻に出たのである。

記録に拠れば”長宗我部”方の攻勢に対して“三好康長”軍は耐え切れず“上方”に帰還したとある。

10-(6)-④:“阿波三好家・家宰・篠原自遁”が“羽柴秀吉”に“水軍派遣”を要請する・・“織田方”は“長宗我部元親”よりも“阿波三好家”を選んだ

1581年(天正9年)9月:

“一宮城攻め”(1581年/天正9年/7月)に失敗した“阿波三好家家宰・篠原自遁”に加え、更に“三好康長”も“長宗我部元親軍”の反攻に耐え切れず敗れた。この状況に“阿波三好家”の力だけでは“長宗我部元親軍”の反攻に抗しきれない、と”羽柴秀吉“に水軍の派遣を要請した。これを受けて”羽柴秀吉“の水軍が”阿波国“に進攻したのである。

“長宗我部元親“はこれ迄”明智光秀“だけでなく”羽柴秀吉“も仲介役として頼み”織田信長“に”阿波・讃岐“の領有を承諾してもらうべく訴えて来た。しかし“織田信長”はその“長宗我部元親“に委ねる(と、元親は理解して来た)とした”四国政策“を”掌返し“をして、その“仲介者”だった“羽柴秀吉”をして“長宗我部元親”の前に立ち塞がらせるという展開に成ったのである。

10-(6)-⑤:“織田信長”が“長宗我部元親”に“掌返しをして”羽柴秀吉”に”阿波国“へ介入させた事は”織田信長政権内部“に於いて”明智光秀“と”羽柴秀吉“という重臣間の対立抗争を生む事に成った

“羽柴秀吉”軍が、上記した様に“阿波国”へ介入する様に成った事は“四国政策”を任され“長宗我部元親”と“織田信長政権”との間の取次役を其れ迄一手に担って来た“明智光秀”からすれば、同じ“織田信長政権”内であり乍ら“三好氏”を支援する立場の“羽柴秀吉”が立ちはだかる格好と成った。

“織田信長”が“長宗我部元親”に対する“掌返し”の“四国政策変更“をした事で”織田政権内“に“三好氏”をとるのか“長宗我部元親”をとるのかを巡って“羽柴秀吉”と“明智光秀”の重臣間の“対立構図”を生じさせたのである。

結果“織田信長政権”内で”羽柴秀吉“が”明智光秀“との抗争に於いて優勢と成り、結果”明智光秀“は”織田政権“に於ける発言力が低下する危機感を抱く事に成った。この事が“明智光秀”が”本能寺の変“を決断する大きな要因と成ったのである。

10-(7):“織田信長政権”は“対毛利戦略”として“瀬戸内海東半”を確保して、毛利水軍の分断を図る為の策として“羽柴秀吉軍+三好康長軍”を用いる策の方が得策と考え“長宗我部元親”からの軍事支援は“必要無し“と決断する

理解の助に別掲図:“羽柴秀吉が三好水軍の服属を図り瀬戸内東半確保と毛利水軍分断に成功した事で長宗我部氏が不要と成る”を作成した。図に示した①~⑤の順に添って、歴史展開を記述して行くので参照しながら読まれたい。


1581年(天正9年)9月12日:

”織田信長“に“阿波国”並びに“讃岐国”の領有に関しての了解を求める為の“仲介役”を依頼して来た“羽柴秀吉”が“主君・織田信長”の命令で4年前の1577年(天正5年)夏頃からは“中国方面司令官”つまり“毛利攻め”の責任者として“毛利軍”に対する作戦に多くの力を注ぐ立場に成っていた。具体的には“海路”から“毛利勢”の補給路、連携路を断つ事が重要戦略と成り“瀬戸内”の“制海権確保“こそが優先事項と成っていた。

“羽柴秀吉”は“毛利氏”の勢力下にあった“吉川経家”(きっかわつねいえ・吉川経安の嫡男・生:1547年・没:1581年10月25日自刃)が守る“鳥取城攻め”(第2次鳥取城攻め)を行い“鳥取城の渇え殺し”と伝わる“兵糧攻め”(1581年/天正9年/7月下旬~同年10月25日頃)によって“城主・吉川経家”を自刃に追い込み、開城させた。

一方“瀬戸内”の“制海権確保”を急ぐ“羽柴秀吉”は“黒田孝高”(=官兵衛)に命じて“淡路島”に進軍させた。(別掲図:“羽柴秀吉が三好水軍の服属を図り瀬戸内東半確保と毛利水軍分断に成功した事で長宗我部氏が不要と成る”の③を参照方)

1581年(天正9年)10月:

更に”羽柴秀吉“は”黒田孝高“(=官兵衛)に命じて”阿波国“の”三好水軍拠点“である”木津城“(築城は篠原自遁・徳島県鳴門市撫養町木津)並びに”土佐泊城“(とさどまりじょう・阿波水軍を率いた森氏の居城・徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦)の両城に“兵糧+玉薬”を備蓄して置くよう命じている。これ等の策は全て“中国攻め”(=毛利攻め)への準備である。これ等に関する“羽柴秀吉”から“黒田孝高(官兵衛)”に宛てた文書が残っており、史実として裏付けられている。(別掲図:“羽柴秀吉が三好水軍の服属を図り瀬戸内東半確保と毛利水軍分断に成功した事で長宗我部氏が不要と成る”の④参照)

これ等の“羽柴秀吉”による軍事行動からは“織田政権”が“長宗我部元親”に“1575年朱印状”で約束した(と、長宗我部元親は理解した)“四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ”を反故にし“長宗我部元親”からすれば“掌返し”をされたという事である。

1581年(天正9年)11月17日:

“織田信長”は“羽柴秀吉”と“池田元助”(父池田恒興・弟池田輝政・常に秀吉に従い長久手の戦いで討死した・生:1559年?/1564年説あり・没:1584年4月9日)に“淡路島”を攻めさせ、占領に成功した。(別掲図:“羽柴秀吉が三好水軍の服属を図り瀬戸内東半確保と毛利水軍分断に成功した事で長宗我部氏が不要と成る”の⑤を参照)この攻略の成功で“織田信長”方は“岩屋城”等の“毛利方前線拠点”を確保したのである。(信長公記)

当初”織田信長“は”中国毛利氏“を包囲する戦略として”長宗我部元親“の加勢を得る考えであった。しかし、上記した“羽柴秀吉”の働きで“瀬戸内東半確保”並びに“毛利水軍の分断”が予想以上に進捗した。“中国攻め”(=毛利攻め)こそが最重要課題と成っていた“織田信長”にとって“三好康長率いる阿波三好家の領域を阿波国・讃岐国に確保する戦略の方が”長宗我部元親“勢力を”四国政策“の中心に据えるより”有利な戦略だ“との”作戦変更“つまり”長宗我部元親“からすれば”四国政策“に於ける掌返しを喰った形と成ったのである。(同上、別掲図の⑤参照)

10-(8):“織田信長”は“三男・織田信孝”に“三好康長”への養子入りをさせ“新たな四国国分”の“朱印状”を与える

下記に以前も用いた“別掲図・織田家家系図”並びにU-TUBEからの“織田信長”の次男“織田信雄”の家系図を示す。前図で*3と記したのが“3男・織田信孝”であり、U-Tubeの図からは“織田信孝”が“織田信忠“そして”織田信雄“の2人の兄達とは異なる、身分の低い母親(名前が書かれて居らず、ただとのみ書かれている)の子である事が分かる。

出典:谷口克広著:信長の天下布武への道

メモ

上図で*3とマークされたのが“織田信長”の3男“織田信孝”(神戸信孝)である。
出典:U-TUBE

メモ

“織田信孝”(生:1558年・没:1583年)に就いては“伊勢国北部”を支配した“豪族・神戸氏”を乗っ取る策略で“父・織田信長”から養子に入らされ“第8代当主・神戸信孝“(生:1558年・没:1583年)と名乗った(期間があった)事は既述の通りである。二人の兄(信忠、信雄)が上記図にある様に“吉乃”を母親としたのに対し“3男・織田信孝”(神戸信孝)は上記図で“女”と書かれた母親からの子供という事、つまり、身分の低い母親であった事が伝わる。

10-(8)-①:“織田信長”と“長宗我部元親”の関係が著しく悪化し、そして“明智光秀”は“織田信長政権“に於ける”四国政策”から排除される

“羽柴秀吉”が水軍を用いて“阿波進出”を果した。“織田信長政権”は“三好氏”を支援する事で“長宗我部元親”の“四国制覇”にブレーキをかける形の“四国政策”を鮮明にしたのである。この結果“織田信長政権”と“長宗我部元親”との関係は著しく悪化した。

“元親記”には“織田信長”と“長宗我部元親”の間に応酬があった事が記されている。その時期は1582年(天正10年)正月と考えられる。“羽柴秀吉”の水軍による“阿波国進出”は、前年1581年(天正9年)9月~11月に掛けてであり(別掲図:羽柴秀吉が三好水軍の服属を図り瀬戸内東半確保と毛利水軍分断に成功した事で長宗我部氏が不要と成る・・の③④⑤を参照方)一方で“信長公記”に“織田信長”は、翌1582年(天正10年)2月9日に、各地方に散った部将達に向けて“甲州攻め”(武田勝頼攻め)の軍令を発している。

この際発した軍令の条々の中に“三好山城守(=三好康長)”に対してだけは“甲州攻め”にでは無く“四国”への出陣を命じている事が“織田信長政権”の“四国政策”の変更があった事を裏付けている。即ち“織田信長”は“長宗我部元親”との間の“1575年”の“朱印状”で約束した(と、長宗我部元親は少なくとも理解した)“四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ”を反故にして“三好康長”に“四国出陣“を命じたのである。

以下が“元親記”(1631年に書かれた長宗我部元親の生涯を描いた歴史書:著者は家臣の高島正重)に記された、上記“織田信長”と“長宗我部元親”の間の応酬の内容である。

1582年(天正10年)正月(南海通記:四国/南海道/の中世史に就いて記した通史・香西成資著1718年刊行)
(信長が)その後御朱印の面御違却(違反)ありて、豫洲(伊予国=愛媛県)・讃州(讃岐国=香川県)上表申し,阿波南郡半国、本国に相添へ遣はさるべしと仰せられたり。 元親、四国の御儀は某(それがし)が手柄を以て切取り申す事に候。更に信長卿の御恩たるべき儀にあらず。存じの外なる仰せ、驚入り申すとて、一円御請申されず。又重ねて明智殿より斎藤内蔵助の兄石谷兵部少輔(いしがいひょうぶのしょう)を御使者に下されたり。是にも御返事申し切らるるなり。

解説
“織田信長”は“朱印状”で約束した“四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ”を覆して“伊予国”並びに“讃岐国”を返納させ“阿波南郡半国”だけを“本国(土佐)”に添えて与えると告げた。“長宗我部元親”は当然これに反発し“四国の事は私が自分の手柄で切り取ったもので決して“織田信長”からの御恩では無い。意外な事を仰せられるので驚き入っているとして“信長”の命を全く受入れ(一円御請け)なかった。その為“明智光秀”が彼の“家老・斎藤利三”(後の春日局の父親)の兄“石谷兵部少輔”を“長宗我部元親”を説得する為に遣わした。しかし“長宗我部元親”はこの使者が伝えて来た“信長”の趣旨を拒絶したのである。

10-(8)-②:何故“明智光秀”は“織田信長政権”が“長宗我部元親”に対して“掌返し”をした事に対する言い訳をする為の使者として“家老・斎藤利三”の兄の”石谷兵部少輔”を遣わしたのか、その理由について

以上の出来事で注目すべきは、文面にある様に何故“明智光秀”は通常、仲介担当だった“家老・斎藤利三“では無く、代わりに彼の実兄で”幕府奉公衆・石谷光政“の養子に入っていた”石谷兵部少輔”を“長宗我部元親”への言い訳、そして説得に遣わしたのかという点である。

その理由は“長宗我部元親”の正室が“斎藤利三”と“兄・石谷兵部少輔”の義理の妹に当った為(彼女は兄石谷兵部少輔の養父・石谷光正の娘であった)つまり”石谷兵部少輔”と“長宗我部元親“が姻戚関係にある為であった。頑として“織田信長”の趣旨を認めず“織田信長”の掌返しの“四国政策変更”に納得しない“長宗我部元親”を説得すべく“明智光秀家老・斎藤利三”(後の春日局の父親)の“兄・石谷兵部少輔”を苦肉の策で遣わしたという事である。

しかし”明智光秀“のこうした説得工作は実を結ばず”織田信長政権“と”長宗我部元親“の関係は悪化して行った。

10-(8)-③:“四国政策”で“三好康長”が“長宗我部元親”よりも利用価値がある、と判断した“織田信長”の理由

”三好康長“(6-20項54-2参照方。三好長慶の父三好元長の弟、つまり、三好長慶の叔父に当り、甥・三好長慶の弟で阿波国主の三好実休を支え、阿波を拠点とした武将・生没年不詳)は、既述の様に“織田信長”への抵抗を“三好一族”としては、最後まで続けた武将である。1575年(天正3年)の“織田信長”との戦い後、同年4月8日に“松井有閑”を通じて降伏し、7月に“相国寺”で“織田信長”に面会し、赦免された経緯を持つ事に就いては既述の通りである。

”三好康長“がその後、同年10月には“織田信長”に中国の宋~明代の輸入茶碗として知られた“名物・三日月”を献上した事が記録に残る様に“織田信長”との関係は“敵”から一転して“織田信長政権内”で重用される立場へと変化した事も既述の通りである。

その後“三好康長”は“塙直政”の与力として“三津寺の戦い”にも参加“塙直政”は戦死したが“三好康長”はこの戦いでも辛くも脱出し、生き延びた。

“織田信長”が“三好康長”を重用した理由には“阿波国”に強い地盤を持つ“三好一族”の“長老格”であり、強い影響力を“三好康長”が持っている事への評価が大きい。“織田信長”は“四国攻略”の担当として“長宗我部元親”よりも“三好康長”の起用の方が有効と考える様に成ったのである。

一方で“長宗我部元親”は“織田信長”から“四国切り取り次第”の“朱印状”が与えられたものと理解していた。一方で“四国攻略”の担当に任じられた“三好康長”は、1576年(天正4年)~1578年(天正6年)には“三好一族”の“淡路国洲本・由良城主”の“安宅信康”(あたぎのぶやす・生没年不詳・三好長慶の次弟で三好長慶に拠って自害に追い込まれたとの説がある安宅冬康の嫡男・安宅冬康に就いては6-20項70-5を参照方)に働き掛け、降誘(味方に引き入れる事)に成功している。

10-(8)-④:“織田信長”が“四国切り取り次第領有を認める”の“朱印状”を反故にし“土佐一国と阿波南半国領有”だけを認める、と“掌返し”の命令に激怒した“長宗我部元親”

”長宗我部元親“としては”四国統一“は、もう、時間の問題であった。しかし”織田信長“は既述した“四国政策変更”に拠って“長宗我部元親”には“土佐一国”並びに“阿波国・南半国”は領有を許すが、その他の領有は認めないと、先の1575年に“長宗我部元親”に与えた“四国切り取り次第領有を認める”との“朱印状”を反故にしたのである。

10-(8)-⑤:”長宗我部元親“との関係悪化に至る経緯は、これ迄“不器用すぎた天下人・織田信長”が“家臣・外様家臣・従属的同盟者”に対する拙い“人間扱い”を次々と繰り返して来た事と全く同じであった。そして今回は、それが“明智光秀”に及ぶ事に成る

”織田信長“の”朱印状“を反故にする指令に”長曾我部元親“は激怒した。”讃岐国の切り取り”も“伊予国“への侵攻も自らの武力で行った事で”織田信長“の恩義によるものでは無い。しかも”長宗我部元親“は”織田信長“との間に主従関係を結んだ訳では無いと、その反発は強かった。

ましてや“長宗我部元親”には“織田信長”と1575年(天正3年)に”明智光秀“を仲介役として”誼“(よしみ)を通じて来た信頼関係があった筈だとの思いがあった。その結果が”長宗我部元親“の嫡男に対しての偏諱授受があり、嫡男は”長宗我部親“を名乗る事に成った。更に”長宗我部元親“はその際”織田信長“からは”四国の件は切り取り次第領有を認める“との”朱印状“を得、それを信じて動いて来たとの思いがあった。

人間関係に於いて“不器用すぎた天下人・織田信長”は “長宗我部元親“とは”儀礼的従属関係“にあるにも拘わらず”従属的主従関係“或いは”同盟関係“にあるものと考え”長宗我部元親“の立場は”臣従した立場に過ぎない“と判断していた可能性がある。“織田信長”の生来の“独りよがり”そして“唯我独尊”とされる性癖は、過去に“義弟・浅井長政”への対応の例、又“松永久秀”に対する扱いの例に見る様に“長宗我部元親”に対しても“拙い人間扱い“から“織田信長”に対する不信感、そして“敵愾心”を生んだ事は間違い無い。それよりも今回の事が“明智光秀”をも窮地に陥れる事に成り、それが日本の歴史を動かす事に繋がったのである。

10-(8)-⑥:“長宗我部元親”の奏者(取次者)として“織田信長”との間を取り持っていた“明智光秀”の立場をどんどん悪化させた“四国政策”の展開

“羽柴秀吉水軍”の“阿波国”への進出を機に“織田信長政権”と“長宗我部氏”との関係は著しく悪化した。“織田信長”は”三好氏の救済“を目指し”長宗我部元親“の”四国制覇“にブレーキをかけるという“四国政策”の変更を実行した。“織田信長”が掌返しの政策変更に変えた背景には“織田信長政権”の本拠地である“畿内”の下腹に位置する“四国”に、強大な外様大名領が形成される事を望まなかった“事も一要因だったかも知れないと“本能寺の変の首謀者はだれか”の著者“桐野作人”氏は述べている。

10-(8)-⑦:命令に従わない“長宗我部元親”に対する制裁措置として“四国政策変更”を目に見える形とすべく“織田信長”は“三男・織田信孝”を“三好康長”の養子とし、その結果“親族”と成った“三好康長”を軸とした“四国政策”を積極化する

1582年(天正10年)2月~5月:

”織田信長“が”四国政策“を変更し”長宗我部元親“よりも”三好康長“を優遇した政策に切り変える事を決断したのは1582年(天正10年)2月の事であった。“織田信長”が“武田勝頼”を討つべく“甲州出陣”に際して多くの武将達に参戦を命じたが“三好康長”には“甲州征伐”への出陣では無く“阿波国への渡海”を命じた事がこの“史実”を裏付けている。

“三好康長”は出陣支度を整え、3,000兵の軍勢を率いて1582年(天正10年)5月初めに“阿波国”に渡った。“元親記”にはこの時の様子が下記の様に書かれている。

信長卿御息三七殿(織田信孝)へ四国の御軍代仰付けらる。先手として三好正厳(三好康長)、天正十年五月上旬、阿波勝瑞へ下着す。先ず一の宮・蠻山表へ取掛り、両城を攻落す

“織田信長”の3男”織田信孝“は”織田信長“の”陣代“つまり”織田信長“の代理としての”御軍代“(主君に代わって軍務を執る者)を命じられている。“三好康長”は“織田信孝本隊”に先んじた“先手衆”という位置づけであった。

又“織田信長”は“3男・織田信孝”を将来“四国管領”的な地位に置く事を考えていたと思われる。その為の“3男・織田信孝”の“三好康長”への養子縁組と考えられる。この策は“織田信長”が“次男・織田信雄”を“伊勢国制圧政策”として“畠山氏”に養子として送り込んだ手法と同じである。これを裏付ける“史料”が“神宮文庫所蔵文書”に残っている。“織田信孝”領内にある“神戸慈円院”の“住持・正似“が”伊勢神宮内宮“の神官に宛てた書状である。この文書には、下記にその一部を示すが、はっきりと“織田信孝”が“三好康長”の養子に成ったのは“表向き“と書いてある。

尚々御朱印は四国切り取りの御朱印に候。おもてむき(表向)は三吉(三好)養子に御なり候分に候。八月は寺に・・・(以下略)

”織田権力“と”長宗我部元親“はこれまでの”友好関係“から”四国国分令“(しこくくにわけれい)に“長宗我部元親”が抵抗した事で“織田信長”は“3男・織田信孝”に“朱印状=四国国分令”を与えた。この事が両者が完全に”敵対関係“と成った事を裏付ける史実である。

10-(8)-⑧:“織田信長”が3男“織田信孝“に”四国国分令“(朱印状)を発行する

“長宗我部元親”の不満、反抗を全く無視し、彼の頭越しに現状変更をし、領地配分を決定する意図の“織田信長”の行為は統一権力の専制君主としてのものであった。以下が“信長文書1052号“にある、その全文である。

今度四国へ至って差し下るに就きての条々、
一、讃岐国の儀、一円其方に申し付くべき事、
一、阿波国の儀、一円三好山城守(三好康長)に申し付くべき事、
一、其外(伊予、土佐)両国の儀、信長淡州(淡路国)に至って出馬の刻、申し出ずべきの事
右条々、聊(いささか)かも相違なくこれを相守り、国人等の忠否を相糺(ただ)し、立て置くべきの輩(ともがら)は立て置き、追却(ついきゃく=追放)すべきの族(やから)はこれを追却し、政道以下堅くこれを申し付くべし、万端山城守(三好康長)に対し、君臣・父母の思いをなし、馳走すべきの事、忠節たるべく候、よくよくその意を成すべく候也、
天正十年五月七日                     朱印
三七郎(織田信孝)殿

解説
“織田信長”は“讃岐国”は“織田信孝”に与え“阿波国”は“三好康長”に与えるとし、残りの“伊予・土佐”2国に就いては“織田信長”自身が“淡路島”に出馬してから申し渡すとしている。又、領内の国人のうち“織田家”に忠節を誓う者は取り立て、反抗的な者は追放して徹底した領国支配を断行せよと命じている。“万端山城守~”以下では四国入部する“織田信孝”に対して“飽くまでも三好康長”を父とも主君とも思って仕えよ(馳走=世話をするために駆け回る事)と命じている。

10-(9):1575年に“四国の儀は元親手柄次第切り取り候へ”の“朱印状”を“長宗我部元親“に与えて(少なくとも長宗我部元親はそう理解していた)おき乍ら、それを反故にした”織田信長“と”長宗我部元親“の関係は決定的に悪化

”織田信長“と”長宗我部元親“の関係が悪化して行く経緯を3段階に分けて示す。

第1段階 友好期 自1575年(天正3年)10月~至1580年(天正8年)中
*“長宗我部元親”宛て“織田信長”直状“四国の儀は元親手柄次第”

第2段階 悪化期 自1581年(天正9年)1月~至1582年(天正10年)1月頃
*“織田信長”が“長宗我部元親”に“土佐国”と“阿波南半国”のみ安堵・・決裂

第3段階 敵対期 自1582年(天正10年)2月頃~至1582年(天正10年)6月頃
*“織田信孝”に“讃岐国”を与え“三好康長”に“阿波国”を与え“伊予・土佐国”は留保し“長宗我部元親”の改易の可能性までが現実的と成った

11:“織田信長”の“四国政策変更”が“明智光秀”に決定的な危機感を与えた・・“3男・織田信孝”を中心とする“四国渡海軍”の編成から排除された“明智光秀”

第一段階“友好期”の後半、1580年(天正8年)迄は“織田信長”は言わば“四国政策”を“対毛利攻略”の観点から、未ださ程重要視していなかったと考えられるが、上表の第2段階“悪化期”( 自1581年/天正9年/1月~至1582年/天正10年/1月頃)つまり“織田信長”が“長宗我部元親”に“土佐国”と“阿波南半国”だけを安堵するという“掌返し”をした事で“長宗我部元親”が抵抗した段階に至った。そしてこの事が “奏者”(取次)としての“明智光秀”の“織田信長政権”に於ける立場を大きく悪化させた。

11-(1):“甲州攻め“(武田勝頼討伐)にも目途が立ち”毛利攻め“に軸足を移すに連れて”長宗我部元親“の協力が不必要と考えるに至った”織田信長“

上表の第3段階即ち“敵対期”( 自1582年/天正10年/2月頃~至1582年/天正10年/6月頃)とは“織田信長”が“3男・織田信孝”に“讃岐国”を与え“三好康長”には“阿波国”を与え、更には“伊予・土佐国”の領有を留保し“長宗我部元親”に対しては“土佐国”並びに“阿波国・南半国”のみの領国とする。若し、それが不満ならば“改易”の可能性までが現実化するという一方的な“四国政策変更”を決めた。

更に1582年5月、つまり“明智光秀”が本能寺の変”を起こす1ケ月前には“3男・織田信孝”を中心とする“四国渡海軍”を編成した。つまり“長宗我部氏”と濃密な親族・姻戚関係を持ち、その関係を梃子(てこ)に“織田信長政権”として仲介役を果たして来た“明智光秀”は“織田信長政権“の”四国政策“から完全に”排除”されたのである。

11-(2): “明智光秀”が“織田信長”への謀叛決心した背景に両者の間に、巷間伝わる“徳川家康接待”時の“料理や準備の際の不手際”そして“織田信長”への機嫌を損ねたとされる“3男・織田信孝”への“朱印状発行(四国国分令)”を再考すべしと進言した事で“織田信長”から激怒された事が“本能寺の変“のトリガー説として広まっているが、その信憑性は甚だ疑わしい

1582年(天正10年)5月7日に発行された“四国国分令”とも言うべき“3男・織田信孝”への“信長朱印状”は“明智光秀”にとって“織田信長政権”の“四国政策”から外され、且つ“長宗我部元親”に対しての面子を失なわされた史実であった。

しかし、逸話として伝わる表題に掲げた2つの事柄は、そもそも、それ等の信憑性も含め、甚だ疑わしい、と“本能寺の変の首謀者はだれか”の著者“桐野作人氏”も断じており“明智光秀”が“織田信長”への謀叛を決心したトリガーであったとは考え難い。

”安土城“に於ける”徳川家康接待“の席で”織田信長”が“明智光秀”を足蹴にして叱る事件が本当に起きたのか、その信憑性は甚だ疑わしいと“桐野作人”は断じている。又“明智光秀”が“織田信長“に”四国国分令“とも言うべき”信長朱印状“を発行した事に対して”再考“を願い、それが“織田信長”の激怒を買った、という逸話も史実展開等からも信憑性が疑われる。

上記2つの事柄に就いて以下の様に検証している。

問題意識:
上記2つの事柄に関する“逸話”は、1582年(天正10年)5月7日に発行された“四国国分令”とも言うべき“信長朱印状”が発行された直後に、集中した事件として扱われている。それ故に、必要以上に“本能寺の変”の主要なトリガー説として伝えられた可能性が高い。しかし、以下の検証から何れの事柄も“本能寺の変”の主要なトリガー説としての信憑性が無い

検証
①この2つの事柄に関する逸話は“信長公記”等の一級史料には書かれて居らず“日本史”又“常山紀談”等に登場する逸話であり、史料的裏付けの薄い話とされる

②”徳川家康接待“の場面で逸話の舞台は“安土城”での出来事とされ、料理に就いて、饗応の魚が腐っていた事や準備の不手際が“織田信長”の逆鱗に触れ“織田信長”が“明智光秀”を足蹴にしたとの話であるが、この逸話は“川角太閤記”だけが伝えるもので、他の史料の何処にも載っていない。従ってこの逸話は“作り話”だと結論付けられている。

③“明智光秀”が1582年(天正10年)5月7日に発行された“四国国分令”とも言うべき“信長朱印状”について“再考すべき”と“織田信長”に諫言した事に“織田信長”が激怒した、との逸話である。

既述の様に“1582年正月“の段階で”明智光秀“は”長宗我部元親“に対して”織田信長“の”掌返し“の”四国政策変更“を受けて、その言い訳、説得の為に”石谷兵部少輔“を派遣している。(結果は失敗に終わって”長宗我部元親“は納得しなかったが・・)
この史実からも逸話が伝える1582年5月17日の時点で“明智光秀”が正月に既に失敗した事を、しかも“主君・織田信長”に対して“信長朱印状(四国国分令)“の再考を諫言したとは考えられない。

以上の検証結果から、上記2件の逸話には信憑性が無い事が理解された事と思う。

12:“斎藤利三“が”本能寺の変”の“仕掛け人”であった?との説について

“明智光秀“の家中で”長宗我部氏“と最も深い関係にあったのが”明智光秀“の”家老・斎藤内蔵助利三“(さいとうくらのすけとしみつ・後の春日局の父親・生:1534年・没:1582年6月17日)である。

”斎藤利三”の娘は“長宗我部元親”の正室であり、彼女は“織田信長”から偏諱を授けられ“長宗我部親”と名乗った嫡子をはじめ、9人の子供を出産している。

12-(1):“山科言経”の日記に書かれた“斎藤利三こそが本能寺の変を起こした張本人だ”との記録

“山科言経”(やましなときつね)は“公家・山科言継”(やましなときつぐ)の子で山科家の13代当主である。(生:1543年・没:1611年)彼も父と同じく“言経卿記”(ときつねきょうき)と呼ばれる日記を残している。“父・山科言継”の日記“言継卿記”(ときつぐきょうき)は1527年~1576年の日記だが、息子の“言経卿記”は父の死後の1576年(天正4年・織田信長が2月に安土城に移り住んだ年)~1608年(慶長13年・江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠期)の日記であり“詰将棋”に関する最古の記録がある事でも知られる。

“斎藤利三”は後述する“本能寺の変”で“織田信長”を自刃に追い込んだ後、1582年(天正10年)6月13日に“明智光秀軍”として“摂津国”と“山城国”の境に位置する“勝龍寺城”一帯で“備中高松城”から引き返して来た“羽柴秀吉軍”と激突した“山崎の戦い”(天王山の戦い)で敗れ“近江国・堅田”に潜んでいる処を捕縛され、6月17日に京都六条河原で処刑された。

この日の“言経卿記”に “日向守(明智光秀)内斎藤蔵助(内蔵助今度謀叛随一也“と書かれている。つまり“山科言経”は“斎藤内蔵助利三“こそが”本能寺の変“を起こした張本人だと書いているのである。

12-(2):“言経卿記”を含め“斎藤利三が本能寺の変の首謀者だ”とする4つの史料が存在する

以下に表記に関する4つの史料を示す。

  史料名             記事内容
① “言経卿記”:  日向守(明智光秀)内“斎藤蔵助(内蔵助)今度謀叛随一也
(解説)
“山科言経”は“斎藤利三”こそが本能寺の変を起こした張本人だと述べている

② “晴豊公記”:  早天に済藤蔵助(斎藤内蔵助)と申す者、明智の者也、武者なる 物也、かれ(彼)など信長打ち談合衆也、いけ(生)とられ(捕)  車にて京中わたり(渡)申し候

(解説)
“武者なる物”とは“豪の者”という意味で斎藤利三が明智家中でもひときわ目立つ武将だった事が分かる。“信長打ち談合衆”は“本能寺の変”の直前“明智光秀”が謀叛を相談した家老衆の事であり“斎藤利三”がその一員だった事を示している。
この事は“信長公記”によっても裏付けられている。

③ “元親記”:   扨て斎藤内蔵助は四国の儀を気遣いに存ずるによってなり。明智殿謀叛の事いよいよ差し急がれ、既に六月二日に信長卿御腹をめさる々

(解説)
“斎藤利三”が“四国の儀”つまり“長宗我部氏”が“3男・織田信孝”に攻撃される事を 心配し、その為に謀反を急いだ(明智殿謀叛の事いよいよ急がれ・・・)と記録さ れている。“明智光秀”の“本能寺の変”決行の動機という点から注目に値すると“本 能寺の変の首謀者はだれか“の著者”桐野作人“氏は述べている

④ “長宗我部譜”: 四国異変によりて“斎藤”殃(わざわい・災難)がその身に及ぶを    思ひて、明智をして謀叛せしめんと存ず

(解説)
“家老・斎藤利三“が”織田信長“の掌返しによって”明智光秀・家中“が失脚する状況になった事を案じて”主君・明智光秀“を使嗾(しそう=けしかける)して謀叛を起こさせたとの意である。”斎藤利三“の方が”主人・明智光秀“以上に”本能寺の変“の張本人だとのニュアンスで書かれた一次史料である。

以上が“斎藤利三”が“本能寺の変“で、重要な役割をしたとする史料である。表の②は“公家”で、代々武家伝奏を務めた“勧修寺晴豊”(かじゅうじはるとよ・生:1544年・没:1602年)の日記“晴豊公記”(1578年/天正6年/から1594年/文禄3年/迄16年に渡る日記だが、1年を通して残っているのは1590年/天正18年/分のみである)の記事であり、③④の“長宗我部氏”方の記録にも“斎藤利三”が首謀者であったかの如く、匂わせる記録である。

13:“本能寺の変“を決断するに当たって”明智光秀“の心は揺れ動いていた

13-(1):“明智光秀”の“心情分析”

“織田信長”は“天下布武”の旗印の下“全国統一”を目指して“室町幕府第15代将軍・足利義昭”に拠る“織田信長包囲網”の闘いを勝ち上がり、その過程で“足利義昭”を追放し“権力”は無いものの“日本国“に岩盤の様に根付いた”至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力“の持つ”権威“をバックボーンとして、利用する事をし、実質的に“織田信長政権”を打ち立てた。

その“象徴”として“天下人の城・安土城”を築城し“全国統一の戦い”をより積極化させた。こうした“織田信長政権”に対して“足利義昭”は“毛利氏”を中核に据えて尚も抵抗を続けた。既述の様に“織田信長”はそうした抗う敵を次々と倒し“西進”を続けたのである。

こうした“織田信長”の“西進”には“織田信長”に忠実に従った優秀な家臣達の大活躍があった。にも拘わらず“金子拓”氏の著作“織田信長・不器用すぎた天下人”が示す様に“織田信長”という人物には、リーダーとして“家臣・外様家臣・従属的同盟者”に対する“人間の扱い方”に於ける不器用さが災いした。その結果“織田信長政権”の内部に“恐怖・危機感・失望・絶望・不安”の何れかを抱く武将が生まれ、彼等の中から、心情を“怨恨”へとエスカレートさせる者が“織田政権”の“内部崩壊”つまり“謀叛”という行動を起こす多くのケースを生んだのである。幸いにも“織田信長”はそれ等の内紛に全て勝利し“織田政権”は“全国統一”に向けてひた走った。

しかし遂に“織田信長”の最も近臣者であり、従って“織田信長政権”の急所を握る程、相互信頼関係にあった“明智光秀”が、彼の家老である“斎藤利三”と共に担った“四国”の“長宗我部元親”に対する“取次役”としての役割に於いて“織田信長”の掌返しの“四国政策変更”の為“織田家中”に於ける立場を喪失するという事態と成った。

この事が“本能寺の変”を決断させる一つのトリガーと成ったのである。この史実、そして過去に於いて“織田信長”が何度も犯した“家臣・従属的同盟者”等に対する“不器用な人間扱い”が、最近臣の一人である“明智光秀”に及んだ事で“織田信長”は “本能寺の変”で討たれる事に成る。“明智光秀”は“最近臣”の一人であったが故に、他の謀叛のケースとは異なり“本能寺の変”が成功する“必然性”とも言える背景を持っていたと考えられる。

“明智光秀”が“主君・織田信長”に対して“謀叛”に至る“感情”に関しては、これ迄記して来た他の家臣、外様家臣、従属的同盟者が“織田信長”への“謀叛”に至った経緯、彼らが最終的に抱いた複合的感情と同類のものだと考えられる。ではあるが、最も信頼された近親者の一人であったが故に“主君・織田信長”との接触の期間も長く、段階を経た複合的感情としての変化があったと言えよう。

以下に“明智光秀”が“謀叛”に至る“複合的感情”とはどういう事か、彼の感情はどの様に高まって行ったのか、に就いて史実に基付き、時系列に分析し、下表に纏めた。

第一段階・・恐怖・危機感:1576年5月
“本願寺勢力”との“摂津三津寺攻撃”で“大将・原田直政が討ち死に。これを失態として激怒した”織田信長“は、戦死した”原田直政“の側近を尚も捕縛するという罰を課した。“織田信長”の非情な扱いに“明智光秀”が恐怖感を抱いた可能性がある

第二段階・・失望・絶望:1580年8月25日
”織田信長“は“大坂本願寺”が灰燼に帰した責任を問い30年尽くした筆頭家老“佐久間信盛“を追放した。”明日は我が身か?“と失望感を抱いた可能性がある

第三段階・・“織田信長は”至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力“を超える存在を目指している、との使命感の違いに拠る危険性:1582年5月4日

朝廷からの“三職推任”を拒否し“嫡子・織田信忠”に与えて欲しいと伝えた“織田信長”には“至尊勢力“を超える存在、つまり、中国を征服して”中華皇帝“に成ろうとしたとの説がある。”織田信長“から多くを学び、後継者を自認する“豊臣秀吉”が、最晩年に“明国征服”を目指し“文禄・慶長の役“を行った史実が上記を裏付けている。守旧派の”明智光秀“は”織田信長“のこうした考えを危険視し“織田信長”の暴走を止める事が“天下の為”になるとの正義感を強めた

第四段階・・怨恨

“織田信長”が“四国政策”で“長宗我部元親”に掌返しをした。この事で“明智光秀“は”取次役“としての屈辱を味わい、羽柴秀吉との比較に於ける家中での影響力の喪失という政治的大打撃を被った。1582年(天正10年)5月17日とされる“四国国分令”とも言うべき“信長朱印状”の再考を“織田信長”に求めた事で激怒を招いたとの逸話の信憑性を否定したが、“明智光秀”が“織田信長政権”内での政治的ダメージが“主君・織田信長”に対する“怨恨”の感情を抱くに至った可能性は否定出来ない

14:“織田信長”は“本能寺の変”で討たれる“物理的条件”を“明智光秀”に与えていた

“織田信長”は彼の“人間扱いに不器用すぎた天下人”故に“政権内部”に“恐怖・危機感・失望・絶望・不安感”からの“内部崩壊”つまり“家臣・外様家臣・従属的同盟者”からの“謀叛”を何度も生じさせた。幸いそれ等の戦闘の全てに勝利して来たが、最近臣の一人である“明智光秀”に拠る“謀叛”(本能寺の変)だけは何故、勝利する事が出来なかったのであろうか?

“明智光秀”が“謀叛”に至る“複合的感情”がどの様に高まって行ったのかに就いては、史実に基付いて、時系列に分析し、上表の様に“明智光秀”が謀叛に及ぶ“複合的感情段階の高まり”として分析した。

上記疑問に対する答えは“織田信長”が“明智光秀”に対してだけは“本能寺の変”で彼が“主君・織田信長”を討つ事に成功する物理的条件を与えていた事に帰結するのである。

14-(1):“明智光秀”が京の“本能寺”で“主君・織田信長”を討つ事は物理的には極めて容易であった。

”織田信長“が”明智光秀“が”京の本能寺“で自分を討つ事を容易にさせる物理的条件を自ら与える行動を重ねて来ていたという事は既述の通りである。

第1に挙げられる史実は“大坂(石山)本願寺”との“勅命講和成立”(勅命講和成立・1580年閏3月5日)後に尚も“織田信長”に対する抵抗を“教如”が続けたが、遂に諦め“大坂(石山)本願寺”を退城した。ところが直後に“大坂(石山)本願寺”は灰燼に帰したのである。これを失態として“織田信長”は激怒し、責任者で、30年間に亘って“織田信長”に尽くして来た“筆頭家老・佐久間信盛”を追放したのである。

そして“織田信長”は“佐久間信盛”の後任として彼が担っていた“畿内方面軍軍団長”に“明智光秀”を任じたのである。この人事に拠って“明智光秀”は“織田家中”でも最大規模、且つ“最重要の軍団”そして“京・畿内”を統括する軍事力を握った。従って“本能寺の変”の起った1582年6月2日に“明智光秀”が大軍を率いて“主君・織田信長”が滞在する“京都市内”の“本能寺”に向かっても、職制上、誰からも咎められない、言い訳を労せる立場にあったと言えるのである。この観点から、結果論ではあるが“織田信長”は“明智光秀”が“本能寺の変”を実行する為の格好のお膳立てを与えていたと言えよう。(この件に就いては前項6-24項47で詳述したので参照方)

14-(2):“3日前”でも“明智光秀”の挙兵は決断されていなかった。従って“本能寺の変”は性急な決断から実行された

14-(2)-①:“明智光秀”が“本能寺の変”の決行を3日前迄は決断していなかった事を裏付ける手紙の存在

‟川角太閤記“(川角三郎右衛門著作で江戸時代初期の1621年~1625年に成立した豊臣秀吉に関する逸話を纏めた書籍)には”日向(明智光秀)事、但馬より因幡え入り、彼の国より毛利輝元分国伯州(伯耆国=鳥取県中西部)・雲州(出雲国=島根県東部)え成る程乱入申すべきものなり“と書かれている。

”織田信長“は”明智光秀“に対する”中国“への出陣に関する軍令として”但馬~因幡~伯耆~出雲“の進軍ルートを指示したとされる。これに従って”明智光秀“が”愛宕百韻“として知られる連歌の会が開かれた当日(1582年/天正10年/5月28日)に”山陰“の国人に、下記に示す進軍に関する書状を送っている。

”明智光秀“が書いた”山陰“に行くとの文面からは”本能寺の変決行“の3日前にも拘わらず彼は”本能寺の変の決行を決断していなかったのではないか“と思わせる様な内容、そして”謀叛“を匂わす様な言葉を一切用いていないのである。従って”本能寺の変“の3日前でも”明智光秀“は”謀叛を決断していなかった“とされるのである。その根拠と成った文書が下記である。

猶以去春歟(か)、山喜(山田喜兵衛)迄御内状毎事御気遣歓悦候、其以来、不能音問候、依遼遠互不任心底所存之外ニ候、抑(そもそも)山陰道出勢之義被仰出付、於其面可有御入魂之由、誠以祝着候、南勘(南条元続=俗名勘兵衛、1579年には毛利氏を離れ織田方になった伯耆国の国人)御内證之通、是又御懇意満足之旨能々申入度候、随而(したがいて)山陽道毛利(輝元)・吉川(元春)・小早川(隆景)於出、羽藤(羽柴秀吉)対陣之由候間、此度之義ハ、先至彼面(かのおもて)可相動之旨上意ニ候、着陣之上、様子見合、令変化、伯州(伯耆国)へ可発向候、至其期別而御馳走所希候、猶以、去年以来、園許御在城、貴所御粉骨、南勘(南条勘兵衛)両度之御働、彼是以、御忠節無浅所候、委曲(=委細)山田喜兵衛自(尉カ)可有演(説カ)候、恐々謹言
五月廿八日(天正十年=1582年)
福屋彦太郎殿(隆兼)
                    惟任日向守(明智光秀)
                     (在判)
解説:
猶、去年の春だったか(家来の)山田喜兵衛まで御内状を頂き、いつもお気遣い頂き歓悦しています。それ以来便りが出来ませんでした。遠く離れているので思う様に任せず残念です。さて(織田信長が)山陰道に出陣する様に仰せになった事についてその方面でご入魂(じっこん・親しくつきあう)になれたら、まことに喜ばしく思います。“南条 元続“が内々にお示しした通り、これ又御懇意にされている様子(私も)満足している旨、よくよく(南条に)申し入れたいと思います。従って、山陽道に”毛利輝元・吉川元春・小早川隆景“が出陣するところと成り”羽柴秀吉“と対陣しているので、今度の儀(出陣)は先ずその方面(備中)でつとめるようにとの上意です。(備中に)着陣のうえ、様子を見て(方向を)変え“伯耆国”へ発向するつもりです。その時は格別に馳走(走り回って準備、手配する事)されるよう望んでいます。尚、去年以来、そちら(伯耆国)にご在城され、あなたのご粉骨、そして“南条元続”の二度のお働きは、ともかく御忠節が浅からぬところです。詳しくは“山田喜兵衛(尉)”に申し述べさせます。

14-(2)-②:“明智光秀”が“本能寺の変”決断の3日前に上記文書を送った“福屋彦太郎(隆兼)”とは何者か?

この書状が書かれたのが“愛宕百韻”の当日だと言う事は色々と研究された結果、間違いの無い事だとされている。書かれた場所は“愛宕山・西坊威徳院”か“亀山城”の何れかとされる。書かれた背景として宛先と成っている“福屋彦太郎”から“伯耆国”への“来援要請”に対する返信として書かれたと考えられる。

“福屋彦太郎”
“福原彦太郎(隆兼)“は”石見国邑智郡“(島根県の郡)の国人で”本明城々主“だった。”尼子氏”と“毛利氏”という大勢力の狭間で双方の間を行き来した後“松永久秀”を頼った。その後“福原彦太郎(隆兼)“は”織田信長“に仕え“羽柴秀吉”の麾下(きか=部下)として“伯耆国・羽衣石城”(うえしじょう・鳥取県東伯郡湯梨浜町・南条貞宗が1366年に築城)に居た事から上記文書の宛先の“福原彦太郎(隆兼)“と”南条元続“(毛利氏・吉川元春方であったが、父・南条宗勝の死を毛利方の謀略と考え、羽柴秀吉方に付いた武将・生:1549年・没:1591年)が昵懇の間柄だったとある事と符合する。

“福原彦太郎(隆兼)“はこの文書が書かれた前年、1581年(天正9年)から“伯耆国・羽衣石城”(うえしじょう)に在って“南条元続”と共に“毛利方”と対峙していたと思われる。詳細は省くが“明智光秀”と“福原彦太郎(隆兼)“は旧知の間柄であった。

14-(2)-③:上記“福原彦太郎(隆兼)“への手紙から”明智光秀“は3日前でも”本能寺の変“に対する挙兵を決断出来ていなかった?

”本能寺の変の首謀者はだれか“の著者”桐野作人‟氏は下記を論拠に”明智光秀“は3日前でも”本能寺の変“に対する挙兵を決断出来ていなかったとしている。

①明智光秀は既に謀叛決行を決断していたのでそれをカムフラージュしている文面だとの説があるが、それは正しくない。文意から分かる様に、態々(わざわざ)書状を書く程、急用でもない内容であり、カムフラージュする手間を掛ける位なら書く必要もない位の内容の書状である。
②敢えて“明智光秀”がこの書状を書いた理由は、相手の領地のある“中国”に“明智光秀”が出陣する意図を知らせる積りであったからである

15:“明智光秀”が“天下人・主君・織田信長”を“本能寺”で討つ事が物理的に可能と判断した背景

15-(1):“明智光秀”自身が後日(1582年6月9日)“細川父子”(藤孝・忠興)に宛てた手紙で明らかにした様に“謀叛”は性急な決断ではあった。しかし“京”の“本能寺”に“織田信長”が“警固手薄の状態で入った”事を確認出来ており、物理的には“織田信長”を討つ事が可能との判断があった

”織田信長“は上記”明智光秀“が“福原彦太郎(隆兼)“に”中国出陣“の手紙を書いた翌日の1582年(天正10年)5月29日に僅か100名程の供廻と共に上洛して“本能寺”に入った。又“嫡男・織田信忠”も“妙覚寺”(京都市上京区)に滞在していた。“織田信忠”が率いていた兵の数も(諸説があるが)凡そ1000兵程度であった。この事を“明智光秀”は確認していたとされる。

”織田信長“の警固が極めて手薄だった事、そして”嫡男・織田信忠“迄もが少数の兵力で”京市内“に滞在している事が分かった事で、心情的には既に“織田信長”に対して“怨恨”を抱く段階に達していた“明智光秀”にとっては、加えて“物理的”にも”天下人・主君・織田信長“を討つ又と無い”隙・油断”を衝ける“千載一遇のチャンス”と理解したと思われる。“明智光秀”に性急な決断とは言い乍ら“謀叛決行“を決断させる”物理的条件“までが揃っていた事に成る。これ等を裏付けする史料を紹介して置く。

光秀に謀叛決行を決断させた史実

光秀は信長並びに世子(信忠)が共に都(京市内)に在り、兵を多く随えてゐないのを見てこれを殺す好機会と考へ、その計画を実行せんと決心した

我等不慮の儀存じ立て候事(私が不意に思い立ちました事=明智光秀にとっても、謀叛は性急な決断であったと手紙に書いている)

裏付け史料

*日本年報(イエズス会士によって毎年作成された報告書



*1582年6月9日に明智光秀が細川父子に宛てた手紙



16:“明智光秀”が“謀叛決断”を誰に、何時、打ち明けたか?

1582年(天正10年)6月1日夜:

“信長公記”には“明智光秀”は“本能寺の変”の前日の夜“丹波亀山城”で、下記の宿老達を集め”信長を討ち果し、天下の主となるべき調儀(計画、策略、攻撃)を究(きわめる=行動に於いて深く研究した上で解き明かす)める事を宣言した“と書かれている。下記5名の名の中“溝尾茂朝”の名だけは“信長公記”に無く他の史料には載っている。

尚、下表の名の中で    で囲んだ2人“斎藤利三“並びに”明智秀満“は”謀叛“は無謀だとして、反対したと伝わる(備前老人物語)。しかし、主君“明智光秀”の命令には逆らえず、首謀者として参加せざるを得なかったと書いている。

=主人“明智光秀”が“謀叛の決断”を打ち明けた部下、そして銘々の反応=
    で囲んだ2人が反対した

明智秀満:・光秀の叔父“明智光安”の子=従兄弟説あり(明智光秀の娘を妻にしている)
・福知山城々代・生:1536年?・没:1582年6月14日
・明智光春、明智左馬之助の名でも登場する

②明智次右衛門:・光秀の叔父“明智光久”の子=従兄弟とされるが一次史料では確認出来ない(明智光秀の二女を妻にしている)
・八上城々代・生:1540年・没:1582年6月15日?

③藤田行政:・通称は伝五・明智光秀の父“明智満綱”の代から仕えた人物
・山城国“静原山城々主・生:1520年・没:1582年6月14日
・“本能寺変”では第2陣4000兵を率いた
・“本能寺の変”後“大和郡山城主・筒井順慶”に味方に成る様にと説得したが失敗した

斎藤利三:・春日局の父親・斎藤道三とは別系譜、美濃斎藤氏の一族
・生:1534年・没:1582年6月17日
・堺の豪商“津田宗及”と茶の湯を嗜む等、高い教養を兼ね備えていた

⑤溝尾茂朝:・“明智5宿老”の一人(三沢秀次と同一人物とされる。通称溝尾少(庄兵衛)
・明智姓を賜り“明智茂朝”とも称した(生:1538年・没:1582年6月13日)
・“山崎の戦い“で敗れ坂本城へ落ち延びようとした”明智光秀“が落ち武者狩りの百姓に致命傷を負わされた際、明智光秀の命令で介錯し、その首を持ち帰ろうとしたが再び落ち武者狩りに遭い竹藪に隠して自害したと伝わる

17:“明智光秀軍・総勢13,000兵”の“亀山城”から“本能寺”までの行軍について

当時の“亀山城“~老ノ坂(此処迄約5.6km)~本能寺(此処迄11.5km)合計17km程の狭い山道も含めた道を人馬13,000兵が進軍した事に成る。イメージが沸く様に図を示すので参照されたい。


出典:ユーチューブ“なるほど歴史ミステリー・市橋章男氏“の番組画像から

17-(1):“本能寺”へ進発した“兵数”に就いて

”明智軍13,000兵“は3ルートに分かれて行軍したとの説がある。いずれにしても、3ルート共、京都を目指した事には変わりないが、一部の部隊は“本能寺”そのものには突入せず“二条御所”や周辺を制圧、牽制する役割を担ったとの説がある。

総兵数に就いては“川角太閤記”や“本城惣右衛門覚書”等の史料から“明智光秀”が“斎藤利三”に“この人数何ほどあるべく候や”と聞くと“内々御人数のつもり一万三千は御座あるべし“と答えたとの記録に基づき,13000兵と考えられる。

17-(2):“本能寺の変”に於ける“出発時間”そして“戦闘開始時間”並びに“織田信長”は何時頃に自刃したのか、その時間等についても諸説がある

”明智軍“が何時”進発“したかに就いては①6月1日の”酉刻“(午後6時頃)これは”兼見卿記・多聞院日記に書かれている。又②”信長公記(江戸期に書かれた軍記物)には当日・6月2日深夜~午前2時と書かれている。それ等諸説を下表に纏める。

又、17kmの“進軍”は既述の様に、3ルートに分かれて行ったとの説もあるが、狭い山道を具足を着けての“進軍”を考えると1時間に4km進むのが精一杯だと考えられる。すると、先鋒隊、数千兵は6月2日の午前4時~午前5時頃に“本能寺”に着いたと考えられる。当時の6月2日は今日の“グリゴリオ暦“では6月21日に当たる。従って午前4時~午前5時頃には夜はほゞ明け、明るかったと考えられる。

戦闘開始から“織田信長自決”に至る時刻に関しても諸説があるが、以下に纏めて紹介して置く。


亀山城出発時刻

1:6月1日夕刻(PM18時)説

(出典:信長公記)

2:6月2日未明(午前0時)説


3:6月2日早朝(午前2時)説

本能寺到着時刻

午前4時~5時


(信長公記に“暁”とある)

1時間に4kmで進軍すれば午前4時~5時に着く事は可能

午前6時頃:明るくなってからの襲撃、且つ数時間続いたとの説

織田信長自刃時刻

言経卿記には朝5時頃には自刃していたと書かれている


同上



“本能寺の変“決着が午前8時とする説だが、戦闘が数時間続いたとする史料は存在しない

結論:上記各説から   で囲んだ説が妥当と思われる。つまり

①出発は6月2日午前0時頃 ②本能寺到着は午前4時~5時頃 ③織田信長の自刃は午前5時頃と考えるのが妥当と思われる

*尚“山科言経”の日記“言経卿記”にも“本能寺の変”の戦闘は多勢に無勢という状況等から、短時間で“織田信長”は“自刃”したと書かれている


18:“本能寺の変”で“明智光秀”が“織田信長”を簡単に討つ事が可能であった“物理的”理由

18-(1):“佐久間信盛”が失脚したその後任として“織田信長”は“明智光秀”を“畿内方面軍軍団長”つまり”京市内“の”軍事権限“を掌握する立場に任じていた・・・13000兵の大軍が“亀山城”から“本能寺”に向かっても世間等が、これを引き留めるリスクを“明智光秀”は回避出来た


6-24項47で詳述した様に“大坂(石山)本願寺”は“勅命講和”が成った後も“教如”が“講和”を反故にし、抵抗を続けた。しかし“教如”は遂に折れ“開城”した。しかし “大坂(石山)本願寺”は開城直後に灰燼に帰した。この不始末を激怒した“織田信長”は19ケ条に及ぶ“折檻状”を責任者だった“佐久間信盛“に突き付け、30年間も”織田信長“に仕え、支え続けた”筆頭家老“の彼を追放した(1580年8月25日)事は何度も記した通りである。

”佐久間信盛“は”朝廷守護“も担い”織田家中“でも”最大規模“且つ”最重要“の軍団を統括する権限を持った筆頭家老だった。追放した”佐久間信盛“の後任に”織田信長“は”明智光秀“を充てたのである。これに拠って”明智光秀“は”京市内“の最強の軍事権限を掌握する立場に就いた。

“明智光秀”が“本能寺の変”に至った“心情分析”でも述べたが、この人事は、彼にとっては大いなる出世には違いなかったが“明智光秀の心情分析”で示した様に、この”佐久間信盛“に対する処置は、先の”原田直政“への過酷な処罰で感じた”第一段階“の”主君・織田信長“に対する“恐怖・危機感”を抱いた感情から”第二段階“の”主君・織田信長“に対する”失望・絶望”の感情段階へと高まったと言えよう。

功績を積み重ねて来た上記2人の“功労家臣“の非情な処罰を目の当たりにした“明智光秀”としては、今回、自分が“佐久間信盛”の後任に充てられた“出世”を喜ぶよりも、いずれは己の身に降りかかるかも知れないとの“織田信長家臣”としての“失望感・絶望感”を同時に抱いたであろう事は容易に想像出来るのである。

”明智光秀“にとって”京市内“の最強の軍事権限を掌握した人事は”本能寺の変“つまり”謀叛“の為の軍事行動を起こし”主君・織田信長“を討つ格好の”お膳立て“が整ったと言える。”織田信長”にしてみれば“宿老・佐久間信盛追放”という苛烈な人事を行ったばっかりに、結果、自身が“本能寺の変”で討たれる“既定路線”を敷いてしまったと言えよう。

18-(2):“織田信長”は“中国出陣”を命じた“明智光秀”に対して“整えた軍の様子を私に見せよ“との要請をしたとの史料が存在する。謀叛を決意した”明智光秀“にとって”本能寺“に13000の大軍を率いて向かう”大義“が与えられたのである・・川角太閤記

18-(2)-①:“川角太閤記”とは

“江戸時代初期”の1621年(元和7年・第2代徳川秀忠将軍期)~1625年(寛永2年・第3代徳川家光将軍期)に成立した“豊臣秀吉”の軍功を中心に書かれた全5巻の逸話集である。“川角太閤記”(著者は“田中吉政”・筑後柳河城主/の家臣“川角三郎右衛門”/内容は“豊臣秀吉”と同時代の武士から聞いた話の“聞書“や”覚書“が元)は時代的には“1582年/天正10年/の”織田信長“に拠る”甲州征伐“から”太閤秀吉期“そして”関ケ原の戦い“の1600年(慶長5年)位迄を書いたものである。

比較的に史料としての価値があるものと評価され”本能寺の変“に関する史料としてもしばしば引用される。表記の“織田信長”が“中国出陣”を命じた“明智光秀”に“整えた軍の様子を私に見せよ“と要請をした事が書かれている。

18-(2)-②:“織田信長”が“明智光秀”を“本能寺に来させた”との記述

京都森お乱(森乱丸=蘭丸)より、上様御諚には、中国への陣用意出来候はば、人数のたきつき、家中の馬ども様子御覧なさるべく候間、早々人数召連られ、罷り上り候得と、お乱所より飛脚到来候。
左が“川角太閤記”に書かれた“織田信長”が“森蘭丸”を介して飛脚を使って“明智光秀”に“本能寺”迄来て軍備状態を見せよと伝えた事を記したものである。”羽柴秀吉“の”毛利攻め“を支援すべく“明智光秀”に中国に出陣を命じた“織田信長”(上様)が“出陣準備が整ったならば“兵数”その他“馬”等の様子を見せに来るようにとの要請があった事を“森乱(蘭)丸”から飛脚で知らせて寄こした“事を伝えている。
この件、並びに以下の史実紹介に就いては“ユーチューブ”の“なるほど歴史ミステリー”で“市橋章男氏”が詳しく紹介している。

18-(2)-③:“本能寺の変”が起きた場所から極近くの“南蛮寺”に居た“ルイス・フロイス”の記録からも“明智光秀”率いる大軍が“特に世間を驚かす事無く“本能寺”に当然の様に静かに入った事が伝わる・・“織田信長”が“明智光秀” に“出陣準備が整ったならば“兵数”その他“馬”等の様子を見せに来るようにと呼び寄せた、との説を裏付ける史料である

=ルイス・フロイの記録=

天王寺(本能寺の誤り)と称する僧院の附近に着いて、三万人(これも一万三千人を誤って書いている)は天明前僧院を完全包囲した。(中略)わが聖堂は信長の所より僅に一街を距てたのみであった故、キリシタン等が直に来て、早朝のミサを行ふ為着物を着替へていた予(パードレ・カリヤンならん)に対し、宮殿の前で騒が起り、重大事件と見ゆる故暫く待つことを勧めた。その後銃声が聞え、火が上った。つぎに喧嘩ではなく、明智が信長に叛いてこれを囲んだといふ知らせが来た。明智の兵は宮殿(本能寺)の戸に達して直に中に入った。同所ではかくの如き謀叛を嫌疑(悪い事が起ったのではないかとの疑い)せず、抵抗する者がなかった。

この記録からも“明智光秀”の大軍は“襲撃する体”では無く“織田信長”の要請で“京・本能寺”に入った事を裏付けており“かくの如き謀叛を嫌疑せず、抵抗する者がなかった”との記述も“本能寺”側は“謀叛軍”だとは思わず、抵抗しなかった事を伝えている。この事も“織田信長”が“明智光秀”に兵を見せに来るように“と要請した事を裏付けている。

18-(2)-④:“明智光秀軍”の一員として進軍した“本城惣右衛門”の“覚書”がある。その記録からも“本能寺”側は大軍の到着をまさか“謀叛軍”とは思わず簡単に門を開けた・・この事も“織田信長”が“明智光秀軍”に“出陣準備が整ったならば兵数その他、馬等の様子を見せに来るように“と立ち寄る事を要請したとの説を裏付けている

明智光秀が謀叛を起こし、織田信長様に腹を召させた時、本能寺に私たち(明智光秀軍)より先に(本能寺に)入ったという人がいたら、それは真実ではありません。まさか、私たちが信長様に腹を召させるとは夢とも知りませんでした。その時は秀吉様が備中で毛利輝元様と対峙していたので、明智さまが援軍を申しつけられたのです。京都の山崎の方向へ行くと思っていたら、逆の京都市内の方へ行けと命じられましたので、この時は討つ相手は徳川家康様であるとばかり思っていました。また、本能寺というところも知りませんでした。・・・本能寺に入る道に出ました。・・・・門は簡単に開いて、中はネズミ一匹いないほど静かでした。

“本城惣右衛門”(生年1558年?説・没:1640年~?)の人物像については諸説がある。“明智方の先手の一人”であった事は史実であり、又、後の彼の記録に”大坂夏の陣“で馬に乗っているとの記述がある事から下級武士では無かったと言える。”明智光秀”没後は豊臣秀長~増田長盛~藤堂高清~松平忠直に仕えている。この“本城惣右衛門覚書”は、彼が晩年に書いたとされ、自筆との説がある一方、代筆の可能性もあるとされ、この点は不明である。

進軍した彼が“門は簡単に開いて、中はネズミ一匹いないほど静かでした”と書いている事から“明智光秀軍”の進軍が“襲撃”という形だとは“本能寺側”は構えていない。そして襲撃は静かに行われた。こうした史実からも“織田信長”が“明智光秀”の大軍を“本能寺”に立ち寄る様にと、呼び寄せたとの説に説得力がある。

19:“本能寺の変”の戦闘状況・・戦闘時間は短かかった

”本能寺の変“の戦闘状況に就いては映画やTVドラマでは“織田信長が明智光秀軍を”本能寺“に呼んだ”という説では無く、早暁に“明智光秀”の大軍が不意に“本能寺”を襲撃したとの説をとり、従って、双方で激しい戦闘が行われた場面を制作し、それを見せ場としている。しかし史実はどうやら“静かに終わった本能寺の変”つまり“明智軍”が“本能寺”内に攻め込んでからが寺を包むまで,恐らく1時間も掛からなかった様である。

その裏付けの一つが“言経卿記”に書かれた“織田信長は明智光秀軍に拠って、直ちに討たれた”との記事であり、又、“信長公記”にも“本能寺の変”がその現場で激しい戦闘が行われたとは書いていない。“織田信長”が早々と覚悟を決め、有名な“是非に及ばず”との言葉を残して自害した事を伝えているのである。以下に“言経卿記”と“信長公記”に書かれた“本能寺の変”の戦闘状況を紹介する。

=言経卿記(ときつねきょうき)=      = 信長公記 =

二日、戊子(ぼし・つちのえね)晴陰、一、夘刻(午前5時~7時の間)前右府(織田信長)本能寺、へ 明智日向守(光秀)依謀叛押寄了、即時ニ前右府(織田信長)打死、同三位中将(織田信忠)妙覚寺ヲ出て下御所(誠仁親王・さねひとしんのう・正親町天皇の嫡男・の御所)へ取籠(閉じ込める)之處ニ、同押寄、後刻打死、村井春長軒(貞勝)已下悉打死了、 下御所(誠仁親王)ハ辰刻(午前8時頃)ニ上御所(内裏)へ御渡御了、言語道断之為躰也、京洛中騒動、不及是非了
信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者共仕出(しで)し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿(本能寺)へ鉄砲をうち入れ候。是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚(仰せ)のところに、森乱(森蘭丸)申す様に、明智の者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。

出典:ユーチューブ“なるほど歴史ミステリー“市橋章男氏”講義画面より

上記(言経卿記)の解説:

”明智光秀“が本能寺に謀反の襲撃を行った。織田信長は即座に討ち死にし、嫡子織田信忠は滞在していた妙覚寺を出て誠仁親王のいる“下御所”(二条御所)へ入った。そこへ明智光秀軍が押し寄せた為、織田信忠、村井貞勝等も全て討死した。親王は午前8時頃に内裏に避難した。京中は大騒ぎで全く言語道断の始末、何ともならない事態である。
上記(信長公記)の解説:

”織田信長“も”御小姓衆“も(外の騒がしさは)下々の者が喧嘩でもしているのだろうと思っていたがそうでは無く軍団が鬨の声を上げて“本能寺”へ襲撃し鉄砲を撃ち入れて来た。“織田信長”は“これは謀叛か?“と問い”それなら誰の仕業か?”と仰せになった。“森乱丸(蘭丸)”が“明智光秀の様です”と答えると“織田信長“は”是非に及ばず“と仰せに成り迷いなく次の行動に移った。(本能寺に火を放たせ自決)
19-(1):“本能寺の変“が起った時の”本能寺“と”現在の本能寺“の位置関係、そして”妙覚寺“と”二条御所“の位置について

写真下の指で差しているのが“本能寺の変”が起った当時の“本能寺”の位置である。現在の“本能寺“の位置(現本能寺と書かれている)は写真でも分かる様に、かなり右方向に位置している。“織田信長”の“嫡子・織田信忠“が宿泊した”妙覚寺“は写真の地図の上方に位置し、その直ぐ隣に”二条御所“(下御所)があった。”織田信忠“は戦闘により適した”二条御所“で”明智軍“を迎え、戦ったのである。これ等の位置関係が良く理解出来るであろう。

出典:ユーチューブ“なるほど歴史ミステリー”市橋章男氏講義

19-(2):短時間だった戦闘

”織田信長“は大軍”明智軍”の来襲に覚悟を決め“本能寺”に火を放たせ自決した。巷間伝えられるように“織田信長”の遺体を“明智光秀”は必死に探させたが何も得られなかった。因みに“本能寺の変”に於いて先陣隊として真っ先に切り込んだのは“斎藤利三”だと伝わる。以下に“本能寺の変”に係わる他の史実を記述して行きたい。

20:“妙覚寺”に宿泊していた“嫡子・織田信忠”そして“二条御所”の“誠仁親王”に就いて

“妙覚寺”に宿泊していた“嫡男・織田信忠”は“本能寺”が襲撃された事を知って隣の“二条御所”(上記、山科言経の言経卿記では下御所と書いている)に移って守りを固めた。
20-(1):“二条御所”に移って“明智光秀軍”との戦闘に及んだ“嫡子・織田信忠”

“二条御所”は元々“織田信長”の京都屋敷として造営されたが、3年前(1579年)に“織田信長”が“東宮・誠仁親王”に譲渡していた。因みに“誠仁親王”(生:1552年・没:1586年)は“正親町天皇”の第一皇子だったが、1586年(天正14年)に薨去した為、皇位に就いていない。後に“東宮・誠仁親王”の遺児の“和仁親王”が“第107代後陽成天皇”(在位1586年譲位1611年・生:1571年・崩御:1617年)についた事で天皇の尊号“陽光院”を追贈されている。
20-(2):“二条御所”の戦闘から逃れた“誠仁親王”

“二条御所”は、すぐさま“明智光秀軍”に取り囲まれた。“誠仁親王”(さねひとしんのう・生:1552年・没:1586年)は“京都所司代”であった“村井貞勝”の進言に従い、外の“明智方”と交渉した事が“イエズス会日本報告集”に記録されている。通常“武士”が戦闘相手でも無い“公家”を討つ事は無い。ましてや“誠仁親王”と分かっているのであるから討つ事は無い。

しかし“織田信長”から“二条御所”を譲られ、しかも“織田信長”からは“正親町天皇”を譲位させ、その後に“誠仁親王の即位”を進める事が表明されていたという関係もあった事から“織田信長”が討たれた以上、自分は“織田信長”に殉ずるしか無いと“誠仁親王”は“自刃”を覚悟していたとされる。以下がそうした“誠仁親王”の心境を知る事の出来る、かなり信憑性が高いとされる“イエズス会日本報告集”である。

都の所司代、村井(貞勝)殿が世子(嫡子織田信忠)に同伴していたので、彼(村井貞勝)の勧めによって、武具を付け馬に乗って件(くだん=例の)街に来ていた“明智(光秀)”に使者を送り、如何に処することが望みか、また御子(誠仁親王)も同様に切腹すべきか問うたところ“明智(光秀)”は“御子に何も求めもしないが、信長の世子(嫡子織田信忠)を逃さぬため、馬にも、また駕籠にも乗らず即刻、邸から出るように”と答えた

解説:
文中ある様に“誠仁親王”は切腹するという悲壮な覚悟でいた事に注目したい。上記した様に“織田信長”から強いバックアップを得て来た事を自覚する“誠仁親王“としては、ましてや”二条御所“までもが”明智軍“に包囲された事で自分は”織田信長“の死に”殉“ずるしかない、と思い詰めたと考えられる。
親王一家と公家衆が“二条御所”の外に出た時の様子は“明智光秀”の指示通りに馬や駕籠を使わなかった事が“兼見卿記”(公卿吉田兼見/生:1535年・没:1610年)からも裏付けられている。

20-(3):“朝廷(誠仁親王)が本能寺の変の黒幕として介在した”とする“立花京子”説の否定

”立花京子“氏(日本の歴史家・生:1932年・没:2011年)は”本能寺の変“の黒幕に”朝廷“とりわけ”誠仁親王“が”首謀者的役割を果たした“との説を唱えていた。しかし、彼女の説には説得力が無い。

その決定的理由が、上記史料が裏付ける様に、若し“誠仁親王”が黒幕であったなら“織田信長”に殉じて“切腹”するとまで言う筈が無い。又“誠仁親王”にとって“織田信長”は“殺すべき相手”では無く“恩人”以外の何者でも無いのである。“正親町天皇”を譲位させ“誠仁親王”を1~2年の間に即位させると“織田信長”が表明していた事は史実であり、その“織田信長”が討たれた事で“誠仁親王”の即位は遠のいたのである。現実として、彼の即位は実現しないまゝ“誠仁親王”は4年後の1586年に病死して了うのである。

“織田信長”の死は当時30歳の“誠仁親王”(生:1552年・薨去:1586年)にとっては大きな政治的打撃であったと考えられ、決して“誠仁親王”は“本能寺の変”の黒幕では無かったのである。

21:巷間伝わる①“家康接待”で不始末を起こし解任された事への怨念説②制圧した“丹波国を取り上げられた危機説③愛宕山で開かれた“連歌”の会で読んだ発句から“明智光秀”はそもそも“天下を取る”との野心を抱いていた、これ等の説が“本能寺の変”のトリガー”だったとする説の検証と否定

以上3つの説に就いて、ユーチューブ“なるほど歴史ミステリー”と題する“市橋章男氏”の講義がある。それを紹介する形で検証し、否定して行きたい。

“明智光秀”は1年前に書いたとされる“明智家法”で“今日私がこの様な立場で居られるのは織田信長様のお陰である。子孫共々織田家に忠節を尽くすべし”と“織田信長”に対する感謝の念を子孫に伝えようとした事は良く知られる。

その彼が、僅かの期間に心変わりをして“本能寺の変”を起こしたのか?に就いては、既述の通りの史実展開、それらを目の当たりにした“明智光秀”の複雑な心理上の変化に加え、直前に“織田信長”が“明智光秀”の目の前に晒した“謀叛が可能”と誘うかのような数々の“物理的条件”が整った事が“明智光秀”に咄嗟(とっさ)の“本能寺の変実行”のトリガーを引かせたと考えるのが妥当である。

しかし“巷間”では、以下の3つの説が“本能寺の変のトリガー説”として広まった。これ等の説の何れもが信憑性に問題があるとして、その理由を以下に検証して行きたい。

=巷間伝わる“本能寺の変”のトリガーと成ったとされる3つの事柄について=

①家康接待役解任に関して“明智光秀”が怨念を抱き、それがトリガーと成ったとする説
②“織田信長”が1582年(天正10年)5月17日に“羽柴秀吉”の“中国攻め(毛利攻め)”の支援を“明智光秀”に命じた。その際に“丹波国”領有を“明智光秀”は取り上げられた。過去に宿老達が追放等の処分を“織田信長”から食らった事と重ね合わせ“明智光秀”は危機感を抱き、この人事がトリガーと成ったとする説
③“明智光秀”が謀叛の決断をした事は1582年5月28日の“連歌の会”で詠んだ“愛宕百韻”の発句から明らかであるとし、彼はそもそも“織田信長”に取って代わる野心を抱いていた、その事がトリガーである、とする説

21-(1):ユーチューブ“なるほど歴史ミステリー”の“市橋章男氏”講義

“市橋章男氏”は以下の3つの事柄が“本能寺の変”のトリガー説として巷間広まった。即ち① 怨念説②危機感からとの説、そして③そもそも野心を抱いていたとの説である。市原章男氏は、3説夫々の疑問点を挙げ、従って何れの説も信憑性に掛ける事を検証している。
出典:“ユーチューブ・なるほど歴史ミステリー”・・“市橋章男氏”講義画面より

以下は上記①②③に就いての検証である。

21-(1)―①:“家康接待”で不始末をし解任された事に“明智光秀”は怨念を抱いた。それが“本能寺の変”のトリガーと成った、との説の検証

後述する“本能寺の変”に至る関連した史実表にも示す様に、確かに“明智光秀”は“徳川家康”等に対する“安土城”に於ける接待役を1582年5月15日から5月17日迄行っている。

巷間“食材が古くて異臭を放ち織田信長から明智光秀は人前で屈辱の折檻を受けた”と書くのは“川角太閤記”だけであり“信長公記”並びに“兼見卿記”には真逆の事、つまり“明智光秀”の接待は大成功だったと書いてある。

諸文献等からも”川角太閤記“の”食材異臭説“は創作であり、見当違いであった事が明白だとされている。(谷口克広著:信長の天下布武への道)

信長公記:京都・堺にて珍物を調へ(ととのへ)、生便敷(おびただしき)結構にて
兼見卿記:この間の用意、馳走もってのほかなり(思いのほかすばらしかった)

21-(1)-②:“丹波国”を取り上げられた事が“明智光秀”に将来不安を抱かせ、彼の危機感が“本能寺の変”のトリガーと成ったとする“危機説”の検証

“明智光秀”は“織田信長”に命じられた“丹波国平定”に1575年(天正3年)から掛かり1579年(天正7年)6月1日に“波多野兄弟”の“八上城”を落城させ、同年8月“丹波黒井城”の“城主・赤井忠家”を城から逃亡させた事を以て、1579年(天正7年)10月24日に“丹波国平定”を終えたとして“安土城”に凱旋した記録が残る。

”明智光秀“は、その後“福知山城”を築き、城下町を整備している。“丹波国”の領地のどの程度が“明智光秀”に与えられたかに就いては諸説があるが、一般的には“丹波一国”が与えられ“丹波亀山城”を拠点に領有したとされる。“明智光秀”は“近江国”を“坂本城”を拠点に領有していたから両国を領有したという事である。しかし別の説に“織田信長”は“丹波国”を“織田信長直轄地”とし“明智光秀”には“丹波国”の一部のみ”を与えたとの説もある。

尚“織田信長”が1582年(天正10年)5月17日に“明智光秀”に“羽柴秀吉”の“中国攻め(=毛利攻め)”の支援を命じ、その際“丹波国”を取り上げた、その事が過去に①摂津三津寺攻撃で本願寺一揆勢に敗れ戦死した“大将原田(塙)直政”への更なる仕打ち②教如退城の跡“大坂(石山)本願寺”が灰燼に帰した責任を問われ、追放された“佐久間信盛”等に対する“織田信長”の苛烈な人事と重ね合わせて“明智光秀”に“将来に対する危機感”を決定付けたとの“危機説”である。

この説は“明智軍記”並びに“後世の講談本”等に書かれたものであり“織田信長”や“明智光秀”の実際の書状等に裏付けられたものでは無い。しかも、史実として“織田信長”が“明智光秀”の“丹波領”を取り上げたという事は“一次史料”でも一切書かれていない。そして、何よりも、この説が信憑性を欠くのは“1582年(天正10年)6月2日”に“明智光秀”が“本能寺の変”に出発したのが“丹波国”の“亀山城”からであるという紛れも無い史実である。

言うまでも無く、若し“1582年(天正10年)5月17日”の“中国攻め支援命令”時に“織田信長”から“丹波国”を没収されて居たら“明智光秀”は“亀山城”から13,000兵に上る大軍の出発をするという事はあり得ない話なのである。この事から“明智光秀”が“織田信長”によって“丹波国”を召し上げられた事で“危機感”を抱き“本能寺の変”を決断した、という説に信憑性が無い、という結論となる。

21-(1)-③:“福知山城”訪問記・・訪問日2020年2月27日(木曜日)

住所:京都府福知山市字内記内記一丁目付近

交通機関等:

朝6時26分の新幹線に乗り9時15分程に京都駅着。友人と合流して京都タワーのRestaurantで朝食をとり、京都駅から山陰線に乗り“福知山駅”に到着。駅からそう遠くない“福知山城”へ向かって歩いた。丁度NHK大河ドラマ“麒麟が来る”が放送されており“主人公・明智光秀”が築城した“福知山城”の史蹟訪問であったが、丁度2020年1月15日に最初の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が日本で確認され、40日後の4月7日からは“安倍政権”の下で“緊急事態宣言”が出され“学校の閉鎖”そして“不要不急の外出制限“が求められる状況に至る直前の歴史探訪であった。

既にコロナ感染者が急増しつつある状況下であった為、以下の写真に示す様に、訪問した
”福知山城博物館“並びに”福知山城“では観光客の訪れも極めて少なかったのを鮮明に覚えている。“博物館”そして“福知山城”を2時間掛けて見学し“福知山駅~京都駅~新大阪駅”へと向い大阪市内の宿舎には18時前に着いた。
21-(1)-④:“丹波・亀山城”並びに“明智光秀首塚”のある“谷性寺”訪問記
・・訪問日2025年(令和7年)6月10日(火曜日)

丹波・亀山城
住所:京都府亀岡市荒塚町周辺・・大正時代に新宗教“大本”が購入・詳細は歴史の記述の処で紹介
交通機関:
前日から“大阪”に入っていたので“史跡訪問”は6月10日朝8時に南森町の“トヨタレンタカー”でプリウスを借りる事から始まった。史跡訪問は①谷性寺②亀岡市文化資料館③亀山城祉の順に行った。①の谷性寺にはAM8:30分に南森町のトヨタレンタカー営業所を出発し、途中“黒松寺”が“明智光秀“の首塚がある史跡だとの情報を得ていた為、探し回ったが結局は見付からず、近所の会う人、数人に尋ねたが首を傾げるばかりで“黒松寺”の存在そのものが怪しく、私の得た情報が間違っていたのであろうと諦め”谷性寺“に向かった。

後日調べたら“黒松寺と谷性寺”は同じ寺の事である事が分かった、古い記録で“谷性寺”は“黒松院“の号を持つ時期があったとの事、これが資料によって呼び方が異なった為、私達は混同させられたという次第であった。歴史探訪の難しさである。こうした事で時間を取られた為“谷性寺”に着いたのはAM10:40分に成っていた。“谷性寺”の訪問記は後述する。先ずは“亀岡市文化資料館”の訪問記、そして“亀岡城祉”の訪問記から始めたい。

スケジュール的には、後述する“谷性寺”の見学を終え“亀岡市文化資料館”へ出発したのがAM11:00で、到着は30分後のAM11:30分であった。“亀岡市文化資料館”の見学を12時に終え、そのまま“亀岡城祉”に向けて出発し、到着したのは午後12:30分であった。

亀岡城祉の歴史等:
“丹波亀山城”は1579年(天正7年)頃“織田信長”の命を受けた“明智光秀”が“丹波国“攻略の拠点として築城した。外堀までの規模でも3万人は収容出来たとされ、同時期に築城された”安土城“よりも大きく、当時”日本最大の城郭“であったと言われている。”本能寺の変“を決行すべく”明智光秀“はこの”亀山城“を13000兵を率いて出発”老ノ坂“を越え”本能寺“に到着。そして”織田信長“を自刃に追い込んだ、と”説明版“(写真添付)に記してある。”豊臣秀吉“期に”亀山城“は重要拠点と成った。”徳川幕府“期には築城の名手”藤堂高虎“が五重五層の”天守“を献上、名古屋城、大坂城を凌ぐ壮観な城と成ったと書かれている。”天守”の総高は31mに達したとある。現在の城址の石垣の13段目迄は“明智光秀”時代のものだとある。明治6年(1873年)に廃城が決まり、城の“天守閣・石垣”が売却される等の時代を経たが以後は“新宗教大本”(聖師・出口王仁三郎・でぐちおにさぶろう・生:1871年・没:1948年)が“本丸・二の丸祉”の13,000坪を1919年(大正8年)に入手し、その後は紆余曲折を経る。“大本教”は“開祖”を“出口なお・生:1837年・没:1918年)そして”聖師“を”出口王仁三郎“として今日も二大教祖として仰いでいる。

*第一次大本事件・・1921年(大正10年)2月21日
日本政府は“国家神道”とは異なる“神話解釈”を行いメデイアを通じて信者数を拡大し当時の“陸海軍”にも影響力を及ぼす“大本教”に危機感を覚え“原敬首相”も1920年の日記で“大本”への不快感を記している。そうした経緯から“大本教”は“皇室の尊厳冒涜、王仁三郎は陰謀家だ”更に“日本神話に勝手な解釈を加えた”等を理由に告発され、1921年(大正10年)2月12日に“不敬罪・新聞紙法違反”として弾圧された。その後も下記歴史を経て今日に至っている。

*第二次大本事件・・1935年(昭和10年)12月8日
1930年以降の“大本”は満州事変、国際連盟からの脱退、五・一五事件等不安定な情勢下イメージ向上に成功し、時代の流れを掴む事に長けた“王仁三郎”が、メデイアの積極利用、活用で“大本”の“右翼化・愛国化”を進めた。1934年(昭和9年)に“王仁三郎”が結成した“昭和神聖会”の発会式には“後藤文雄内務大臣・文部大臣・農林大臣・衆議院議長・陸海軍高級将校・大学教授・政財界指導者”達も参加した事が記録されている。石原莞爾、板垣征四郎等も“王仁三郎”の信奉者、或いは影響を受けたとされる。勢いを増す“大本”の動きに、政府は裁判前にも拘わらず“亀山城址”にあった神殿をダイナマイトで爆破するという行動に出ている。61名が起訴され、16名が拷問等により死亡している。綾部そして地方の施設も全て破壊され“大本関連団体”も含めて解散や活動停止に追い込まれたのである。しかし、1942年(昭和17年)7月31日“治安維持法違反無罪判決”が出て6年8ケ月ぶりに“王仁三郎”は、満71歳で保釈出所となった。彼は敗戦後の1946年(昭和21年)2月に“愛善苑”として教団活動を新発足させ、同時に破壊された“亀山城祉”並びに“石垣”等の再修復と整備を開始した。今日残る“城址”はその時のものである。“王仁三郎”は脳溢血で倒れ1948年(昭和23年)1月19日に没し、綾部の“天王平”に歴代教主と共に埋葬された。
“亀岡市文化資料館”
住所:京都府亀岡市古世町中内壺―1
交通機関等:
上記した様に2025年6月10日に“谷性寺”を最初に訪問した後に“谷性寺”をAM11:00に出発し“亀岡文化資料館”には、車で略、30分程で着いた。
写真等
谷性寺(こくしょうじ)

住所:京都府亀岡市宮前町猪倉土山39
交通機関等:
上記した様に“谷性寺”の“史跡訪問”は6月10日朝8時30分に南森町の“トヨタレンタカー営業所”出発から始まった。既述の通り、途中“黒松寺”と“谷性寺”が同じ寺だという事を知らず、あたかも別の二つの寺があると“情報”を理解して“黒松寺”を先ず探し回った為に手間取り、結果“谷性寺”に到着したのはAM10:40であった。尚、この日は①谷性寺②亀岡市文化資料館③亀山城祉、の3史跡をレンタカーで回った。3史跡訪問を終え、レンタカーを返したのはPM15:00丁度であった。走行距離は132kmであった。

歴史等:
“谷性寺“は”通称・光秀寺“と呼ばれる”平安時代”に創建された“真言宗”の寺院である。“天正年間”(1573年~1592年・第106代正親町天皇~第107代後陽成天皇期)に “丹波国制圧”を命ぜられた“明智光秀”が、この寺の本尊“不動明王”を篤く尊信し“将兵”共々加護を得た寺と伝わる。又“明智家”の家紋は“桔梗”である事から“谷性寺”には7月初頃から9月に至り“桔梗”の花が次々と咲き乱れ、境内が“桔梗一色”に塗り拡げられる事から“桔梗寺”とも呼ばれる。
訪問記
寺の歴史は上記した通りであるが、今一つの“谷性寺”訪問のポイントは“明智光秀の首塚”である。“明智光秀首塚”は京都府内だけでも“谷性寺“を含めて3ケ所ある(①盛林寺・京都市東山区梅宮町②宮津市喜多)その他にも”明智光秀首塚“は伝わるが、一般的に“明智光秀首塚”と言うと“谷性寺の首塚”を指すとされる。何故、京都府内に首塚があるのか?に就いては“明智光秀の首が三条大橋に晒された後に密かに埋葬された”と言う伝承に基づくものである。“谷性寺”の首塚は“明智光秀の家臣が埋められた”明智光秀“の首を掘り返して持ち帰ったという”伝承“に基づくものである。写真に示す様に今日の“谷性寺”はさして大きな寺ではない。時期的に“桔梗”の咲く時期には1ケ月程早かったのが残念ではあるが“明智光秀の首塚”はじめ彼の無念を感じながらの史跡探訪であった。
21-(1)-⑤: “明智光秀”には天下を取る野心があり、本能寺の変を実行したとの説がある。そしてそれを裏付けるものが“1582年5月28日の連歌の会で詠んだ所謂”愛宕百韻の発句“だとする説である。果たしてそうであろうか?”明智光秀“の発句から読み取れるとする”野心説“を検証する

“市橋章男氏”は“本能寺の変”のトリガーと成ったと巷間伝わる2つの説、つまり“怨念説”並びに“危機説”の何れもが“史実”では無い事を検証し“本能寺の変”のトリガー説とは成り得ないと断じた。

次に“通説”として広く伝わる“明智光秀”が1582年5月28日に開いた“連歌の会”で詠んだ”愛宕百韻の発句“から”明智光秀“には”織田信長“に対して”謀叛“をし”天下を取る“という”野心“がそもそもあったとする”野心説“についても検証した。

“野心説”の否定の根拠としたのが“明智光秀”が “本能寺の変”決行の僅か1年程前の“1581年(天正9年)”に“明智家法”を定めた際に“今日の自分があるのは信長様のお陰である”と書き添え、これを子孫に伝えようとした事が“信長公記”そして“兼見卿記”更には“光秀書状の研究”からも裏付けられている事である。

この“史実“から“明智光秀”は少なくとも1年程前迄は“織田信長”に対して恨みを抱き、又“危険な人物”と排除を考えていたとは考え難く、それどころか“明智光秀”は“織田信長”に対する“感謝の念”そして“忠誠心”を抱いて来た事を自身から表し、且つ、それを子孫に伝えようとした事が分かるのである。

確かに“明智光秀”には、その後、既述の様々な、彼を窮地に陥れる事態が起こった。従って“明智光秀”が“織田信長”に対して“不満・不安・失望”を抱く様に成ったとしても無理からぬ事だと言えよう。しかし“愛宕百韻”の“発句”から“明智光秀”という人物が、そもそも“天下人への野心”を抱き、それを隠しながら“織田信長”に仕えて来た。そうした素地を持った“明智光秀”に次々と不安、不満、危機感が“織田信長”から与えられ、心情的に“怨念”を抱く迄に達していた。そうした“明智光秀”に、突如“織田信長”から“本能寺へ中国出陣の軍勢の状態を見せよ”との呼び出しがあった。

”野心説“は、そもそも“織田信長”を倒して“天下人”と成る野心を抱いていた“明智光秀”にとっては、眞に千載一遇のチャンスが来た事であり、従って”愛宕百韻の発句“に思わず隠れた本心が詠まれたのだ、とした。そしてこの説が巷間広まったのである。

しかし、上記“明智家法”を絶対的論拠として“市橋章男”氏は”発句“の一字一字に”本能寺の変“決行の強い意志が隠されているとする”野心説“は当たらないとして、以下の様な論を展開している。

”織田信長“が”明智光秀“を格別に遇して来た事は史実であり”明智光秀“が”織田信長“の期待に充分応えて来た事も史実である。従って“明智家法”で“明智光秀”が“織田信長”への感謝を“子孫へ伝えようとした”事も彼の偽らざる心情であったであろう。従って“明智光秀”が”主君・織田信長“への”謀叛“の”決断、実行“に至ったのは”もともと明智光秀が抱いていた”野心“からでは無く”心情分析“で既述した様に”第四段階〝つまり“怨恨”に達していたという変化が起きていた処に”謀叛“が可能であるとの”物理的条件“が”織田信長“自身から与えられた事で”中国出陣直前“の”明智光秀“をして突如”謀叛“を決行させる歴史の偶然が起きたと考えるべきであろう。

21-(1)-⑥:“本能寺の変”に至る3ケ月前に起こった諸出来事、そして“明智光秀”が“本能寺の変決行”の僅か3日前に詠んだ“愛宕百韻発句”との関係性を考える

以下に“本能寺の変”に至る3ケ月前に起こった諸々の出来事を理解の助に示す。(出典・金子拓著・織田信長・不器用すぎた天下人)

諸出来事を時系列に見てみると“明智光秀”が“中国出陣”の準備の為に“丹波・亀山城”に入ったのが“本能寺の変”決行の僅か5日前、そして“愛宕百韻”で有名となった“発句”を詠んだ“1582年5月28日”が3日前である事が分かる。

繰り返しと成るが“明智光秀”が“主君・天下人”の“織田信長”に対して“謀叛”という大事の決断に至るには、先ずは、既述した様な累積した“心情”の変化があった事は確かであろう。最近臣の一人である“明智光秀”にその様な心情に至らしめた事は“人間関係”に不器用すぎた“天下人・織田信長”の最大の弱点であった事も何度も指摘して来た。

“明智光秀”の心情の変化は既述の通り第一段階“恐怖・危機感(1576年)第二段階”失望・絶望(1580年8月25日)、そして第三段階“使命感の違いによる危険性(1582年5月4日)そして、第四段階の”怨恨”へとエスカレートして行った。

“明智光秀”の“心情変化”がエスカレートの頂点、つまり“第四段階”に達していた折に“織田信長” は“明智光秀”に“天下人・織田信長“に対する“謀叛”が成功すると確信させる“物理的お膳立て”を与えて了った。こうした前提条件が“本能寺の変”と言う“日本史上最大級の謀叛事件“を成功させたのである。

“明智光秀”が詠んだ“愛宕百韻”の発句が“明智光秀”が永年抱いていた“天下人への野心”の発露だとする野心説が当たらない事は、彼が子孫へ伝えようとした“明智家法”という“史料”の存在が野心説とは明確に矛盾する事を証明している。しかし“本能寺の変”で“謀叛”に及んだ事は“史実”である。そして“明智光秀”が“愛宕百韻の発句”を詠んだ時点では既に“本能寺の変”を決断していた可能性は高い。

繰り返すしとなるが“本能寺の変”は“謀叛成功の諸条件が偶然に、しかも完璧に揃った為の歴史の偶然の上での出来事と考えるべきであり、決して“明智光秀”が永年、天下人への野心を抱いていた結果の行動では無い。

“川角太閤記”並びに“本城惣右衛門覚書”(本能寺の変に明智光秀の配下として従軍した彼が晩年に書き残したもの。天理大学付属天理図書館所蔵・生年不詳・没:1640年~?)には“織田信長が森乱(蘭)丸”を通じて“中国への出陣部隊の様子を見せに本能寺に来い”と飛脚を使って“明智光秀”に命じた事を伝えている。加えて“明智光秀”には“京都市内”を含む“機内方面軍軍団長”の立場に“織田信長”から任じられていた事も既述の通りである。従って”明智光秀“には、当日彼が大軍を率いて”京都市内“の”本能寺“に向かって進軍する”大義“が与えられており、誰もがその大軍を怪しまなかったという歴史の偶然が揃っていたのである。

“本能寺の変”に至る3ケ月前の諸史実“
出典:“金子拓著・織田信長 不器用すぎた天下人”
メモ:この略年表では“明智光秀軍”の進発を1582年6月1日としているが、本文では1582年6月2日未明(午前0時~)説を有力説と結論付けた

21-(1)-⑦:終わりに・・“愛宕百韻”で詠まれた“明智光秀”の発句に“本能寺の変”に対する決断が隠されていた“との語句の解釈について

“本能寺の変”の5日前の1582年5月27日に“神仏習合”の“愛宕権現”に“明智光秀”は入っている。本地仏は“勝軍地蔵”であり“軍神”として知られていた。ここで“明智光秀”は“鬮”(クジ)取りをしている。それが“羽柴秀吉支援軍”の戦勝祈願なのか“本能寺の変”を決断し、その“戦勝祈願”なのかに就いて具体的に記した史料は無い。

上表にある様にその夜“明智光秀”は知己の“行祐法印”が住持(住職)の“西坊威徳院”に一宿している。そして翌1582年5月28日に“愛宕百韻”が催された。連歌の会に参加した者として①明智光秀②行祐法印③宗匠・里村紹巴④門下の昌叱⑤同・心前⑥連歌師・猪苗代兼如等の名が挙がる。

以下が“惟任(明智光秀)退治記”(本能寺の変から山崎の戦いを経て、織田信長の葬儀に至る迄の記録・本能寺の変から僅か数ケ月後の1582年10月に書かれたもの、創作性はあるとされるが、一連の歴史の流れを知る上では重要とされる史料)が伝える“愛宕百韻”として伝わる“連歌”である。右から“明智光秀”の発句、2番目の歌が“行祐法印の歌、3蕃目の歌が
”宗匠・里村紹巴”の歌・・である。
出典:“ユーチューブ・なるほど歴史ミステリー”・・“市橋章男氏”講義画面より

明智光秀が詠んだ発句(百韻の始まりの句)について
黄色の字で書かれている様に“時”は“明智光秀”の出身母体である“土岐氏”をも意味し“天が下“は”天下“を意味し、更に”しる“は”知る=統治“をするという”寓意“(ぐうい=他の物事にかこつけ、ほのめかして表した意味)と解釈出来るとしている。つまりは”明智光秀“が”織田信長を討ち、代わって天下を取る“事を暗示した句だと解釈出来るとし”野心説“の根拠としている。

又“愛宕百韻”で詠まれた、その他の参加者の“歌“も”明智光秀“の”本能の変“の決意に関わる
として以下の様に解釈する説が続く。

“紹巴”が詠んだ句(発句から3番目の花落つる池の流れをせきとめて・・の句)当時“連歌界の第一人者”である“里村紹巴”(さとむらじょうは・生:1525年・没:1602年)が“愛宕百韻”に参加した事は有名ではある。しかし、彼が“明智光秀”と交流したとの伝承はあるものの、それ以上の近しい関係を記した“史料“は存在しない。

“花落つる”とは“天下人・織田信長”が討たれる事を意味したとの解釈説がある。しかし“本能寺の変の首謀者はだれか“の著者”桐野作人‟氏は“連歌は元来、多義的で多様な解釈を許容する詩歌文学である。従って”明智光秀“の発句に対する上記”歌“を”織田信長が討たれる事を意味した“との解釈は、あくまで後世の我々が本能寺の変という史実を知っている事から逆規定された一種の主観的産物つまり、多くの人が同意する客観的な見方では無く、無理矢理”本能寺の変“に結び付けた解釈だと言える、としている。

22:“浄土宗・阿弥陀寺“訪問記・・訪問日2018年(平成30年)11月28日(水)

住所:京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町

交通機関等:

東京駅AM6:26分発の新幹線でAM9:16分に京都駅に着き、友人と合流。この日は①十念寺(籤引き将軍と言われ恐怖政治を敷き1441年6月24日の嘉吉の変で赤松満祐邸で首を討たれた室町幕府第6代将軍足利義教の墓がある)を訪問した後に同寺とは並んで位置する②阿弥陀寺を訪問した。同日はその後③皇族や摂関家の子弟が住職(門主)を務める“門跡寺院”として知られる“精蓮院”並びに“知恩院”を訪問し15時頃京都駅から大阪に向かうという行程であった。

阿弥陀寺歴史

由緒書きに拠ると“玉誉清玉”(ぎょくよせいぎょく)が1555年(天文24年)に“近江国坂本”の地に創建したのが始まりとある。”織田信長“と“玉誉清玉”との関係に就いては、一部の説には“玉誉清玉”は“織田信長の末弟だ”とする言い伝えがあるが、その説は疑わしいとの事であった。そこで“阿弥陀寺”に直接電話をして問い合わせた。住職は生憎不在であったが、奥様が出られて“戦場で身重だった玉誉清玉の母親を当時の織田信長が助け、そして生まれたのが玉誉清玉だったという縁だと伝え聞いている“との話であった。
“織田信長”が“本能寺の変”で自刃し“本能寺”が灰燼に帰した後“清玉聖人”は自ら現地に行き“織田信長”の遺灰を持ち帰り、墓を築いたとの事である。更に“二条御所”で戦い、討たれた“嫡男・織田信忠”の遺骨も拾い集めて“織田信長”の横に墓を建てたと伝わる。それが写真に示す両人の墓である。“本能寺の変”で戦死したその他の武士達の墓も“阿弥陀寺”に埋葬され、供養されている。

現在の“阿弥陀寺”は“本能寺の変”の3年後の1585年(天正13年)に上記京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町の現在地に移転された。


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