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2023年8月23日水曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代と院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
6-22項:“天下布武“を掲げ他の戦国大名とは異次元の”革命武将“としての動きで“全国統一”を進めた“織田信長”の強さは何処にあったのか、そして弱点は?


どの時代にあっても“人間”が社会生活に於いて成功する為には“IQ+EQ+人間力”の3要素の合計値が高い事がその条件だとされる。従って如何にIQ(IntelligenceQuotient=知能指数)が高くてもEQ(EmotionalIntelligenceQuotient=心の知能指数)つまり自己や他者の感情を知覚し、又、自分の感情をコントロールする知能に欠けていたら“社会生活に於いて成功する(リーダーシップを発揮する)事が難しい。

加えて必要なのが“人間力”である。

内閣府が定義した“人間力”とは、抽象的でいかにも役人の発想的でピンと来ないが、要するに“あいつの為なら力を貸そう”と上司、仲間、あるいは部下達に思わせる人間性の事である。書物には“目標を達成する為に周りに働き掛け、巻き込みながら物事を先に進める力の事“と書いてある。”困難に立ち向かう力“と説明する説もある。あの人に任せておけば安心・あの人は肝が据わっていて揺るがないから付いて行きたい“と思わせる人が“人間力”を備えた人物と定義している。

“織田信長”は“全国統一”を真近にし乍ら“本能寺の変”で家臣“明智光秀”に討たれた。“全国統一”という大事業は“主君・織田信長”の一挙手一投足を学びながら家臣“羽柴秀吉”が彼の天与の“IQ+EQ+人間力”を発揮して成し遂げる。“織田信長”は他の戦国大名達とは異次元の動き、彼独自の革命的考え方、価値観で戦国乱世を切り拓いて行った。

しかも“織田信長”は“三好義継”が“13代将軍・足利義輝”を謀殺するという日本社会の特異性として守られて来た“家格秩序”を壊すという暴挙に訴えるという行動は一切とっていない。逆に“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”並びに“至強(将軍・幕府・武士層)勢力”が伝統的に積み上げて来た秩序に無暗に抗う事をせず、しかし乍ら旧制度の中で、自身が壊すべきと信じた伝統的価値観には果敢に挑んだ武将であった。

こうした点から彼は“IQ+EQ+人間力”に於いて優れた武将であった事は間違い無いが記述して行く様に、同盟した有力武将達に裏切られ、そして最後には最も信頼した家臣に討たれるという結果からは決して万全な人物で無かった事も確かである。

以下に“織田信長”が“天下布武”の旗印の下に“全国統一”という極めて困難な事業を一歩一歩進めて行った史実を記述して行く。この過程から“織田信長”の卓越した“革命武将”としての資質を読み取って頂くと共に、一方で“IQ+EQ+人間力”という観点からの彼の弱点も読み取って頂きたい。

1: “元亀の争乱“

この争乱期は“織田信長”にとって“来迎寺要書”に“信長卿御一代の中の難儀の合戦”とある様に多難な合戦期であった。“織田信長”が勢力を拡大するにつれて、周辺の諸勢力が反発し包囲網を形成して行った事がその大きな要因である。

1570年(4月23日から元亀元年)の戦闘期を“第一次元亀の争乱”そして1573年(元亀4年7月28日から天正元年)の戦闘期を“第二次元亀の争乱”と呼ぶ。

2:第一次“元亀の争乱”の纏め

 
①:“若狭国・武藤友益“討伐に起因する”織田信長”軍出兵・・1570年(永禄13年4月20日~元亀元年4月25日)

②:“浅井長政”が裏切り”金ケ﨑の退き口”・・1570年(元亀元年)4月28日~4月30日
=以上は6-21項で記述済み=

③:“姉川の合戦”:1570年(元亀元年)6月28日”織田・徳川連合軍”が”浅井・朝倉連合軍と戦う。敗れたとされる浅井・朝倉軍ではあるが、致命的な被害に至らず以後も執拗に“織田信長”を苦しめる

④:“摂津の陣”: 1570年(元亀元年)7月21日~9月12日“三好三人衆+阿波三好家“の軍勢が摂津国中島・天満森(大阪市北区)に進軍、そこに大坂本願寺”顕如”が蜂起して”織田信長“軍を攻撃する

⑤:“志賀の陣”:1570年(元亀元年)9月16日~12月17日“朝倉義景+浅井長政”軍が再度蜂起、それに”比叡山”が連携、加えて”近江国”並びに“山城国”で一揆が”織田信長”に抵抗して蜂起し“織田信長”を苦しめる。“織田信長” は人生最大とも言える窮地を“和睦”策で切り抜ける


上記“第一次・元亀の争乱”の中、➀と②に就いては前項(6-21項)で記述したので参照願いたい。

③、④、⑤の戦闘に就いて記述するが、この第一次“元亀の争乱”の段階に於ける戦闘の期間“将軍・足利義昭”と“織田信長”は発端から終戦まで協同して行動した期間であった。

“第二次・元亀の争乱”(1573年/元亀4年/7月28日からは天正元年と成る/7月~9月)期になると”将軍・足利義昭“は”織田信長包囲網“を形成して“織田信長”と対立関係と成り、1573年5月の”槙島城の戦い“で”織田信長“に拠って京から追放され“室町幕府”はこの時点で実質的に滅亡した。その後“織田信長“は”織田信長包囲網“を形成した”朝倉義景・浅井長政“等を次々と滅ぼして行く。

以上が“将軍・足利義昭”が将軍としての威光を示す為に元号を“元亀”へと変更し“織田信長包囲網”を形成し“織田信長”にとっては生涯の合戦歴に於いて最も苦しい時期となった“第一次・及び第二次・元亀争乱期”の要約である。

先ずは“将軍・足利義昭”と“織田信長”が表面上は協同して戦った期間である“第一次・元亀の争乱”期の各戦闘に就いて記述して行く。

理解の助に(別掲図)“第一次元亀の争乱(1570年6月28日~12月17日)図“を参照願いたい。


3:姉川の戦い ・・1570年(元亀元年)6月28日

“金ヶ崎の退き口“で危機をどうにか切り抜けた”織田信長“であったが、義理の弟として信用し”同盟“を結んでいた”浅井氏“の離反という事態は深刻であった。こうした”織田信長“の窮状をチャンスと見て”湖南・湖東・甲賀郡”に逃れていた“六角氏”の残党や“一揆”が各地で蜂起した。“江北三郡”の“浅井長政”領でも、至る所の道筋は塞がれ“織田信長”が“上洛”時に征圧した“近江国”を通過して自国の岐阜へ帰還する事が不可能と成る状況であった。

止む無く“織田信長”は“伊勢国”に抜ける“千草越え”をして岐阜に向った。しかし、その途中“六角”方の手の者に狙撃され、足に傷を受けると言うきわどい危険を冒して1570年5月21日に漸く“岐阜”に帰還した事が伝わる。

この様に“織田信長”は“浅井長政”の離反に拠って領国の“岐阜”と“京都”を往来する事にも支障が出る状態となった。(因みに姉川の戦いの呼称は徳川方の資料に拠る後世の通称であって当時は布陣した土地の名前から/野村合戦・三田村合戦/と呼ばれていた)

1570年(元亀元年)6月中旬:

”織田信長“に朗報が入る。”浅井長政”方の有力国人“堀秀村”(ほりひでむら・国人領主・蒲葉城主・生:1557年・没:1599年)が“木下秀吉”の家臣“竹中重治”(竹中半兵衛・生:1544年・没:1579年6月13日)の調略で“織田”方に寝返ったのである。これを聞いた“織田信長”は“浅井長政”攻めを決断し直ぐに出陣の触れを出した。


写真:竹中半兵衛の墓(兵庫県三木市平井)・・2018年9月20日(木)レンタカーで訪問

3-(1):“金ヶ崎の退き口”という事態に“織田信長”が陥った事で、若狭計略から撤退するという結果に成った。この事で“将軍・足利義昭”としては“将軍権威”を失墜”した。“将軍・足利義昭”並びに“織田信長”が“権威回復”の為に行った合戦が“姉川の戦い”である

“姉川の戦い”は従来の定説に”織田信長“が国盗りの野望から越前国・近江国を侵略すべく”朝倉義景“並びに”浅井長政“との戦闘を仕掛けた
とするものがあった。

この説は誤りだとして“将軍・足利義昭”並びに“織田信長”が“金ヶ崎の退き口”という事態で失った“権威回復”の為の合戦だとの説が“久野雅司”氏等によって展開されている。

この説は、前項(6-21項)で記述した様に“第一次越前侵攻”は“将軍足利義昭”が主体と成り“若狭国・武藤友益”の成敗を目的とした侵攻であった。”織田信長“が”将軍・足利義昭“から軍事指揮権を委任され、真の討伐目的であった”朝倉義景“討伐に向かったが義弟“浅井長政”の裏切りにより“金ケ崎の退き口”という事態に追い込まれ失敗した。

この事態は、将軍権威の失墜と成った事から、それを回復すべく“将軍・足利義昭“は”織田信長“を補完する形で、今回は自らも出陣を表明し、且つ、1570年(元亀元年)6月18日の文書で、畿内の幕臣や江南の勢力に軍事動員を掛け“姉川の戦い”に臨んだのである。

こうした史実から“姉川の合戦”は“将軍・足利義昭”が主体と成り、将軍権威失墜を回復する為の合戦だった”とされている。

3-(2):上記“姉川の戦い“が”将軍・足利義昭“が主体と成った戦いであるとの“久野雅司”氏の説を裏付ける”織田信長“が”天下布武印“を捺した軍事催促の朱印状の存在

尚もって人数の事、分在よりも一廉奔走簡要に候、次に鉄砲の事、塙九郎左衛門尉(直政)・丹羽五郎左衛門尉(長秀)かたより申すべく候、別して馳走専用候、江州北郡に至りて相働くべく候、来月廿八日以前に各岐阜迄打ち寄すべく候、今度の儀、天下のため、信長のため、旁もってこの時に候間、人数の事は老若を選ばず、出陣においては、忠節祝着たるべく候、働きによりて訴訟の儀、相叶うべきの状、件の如し、
五月廿五日                           信長(朱印)
遠藤新右衛門尉殿(胤俊)
遠藤新六郎殿(慶隆)
(武藤文書・信長文書)

(解説)
“遠藤胤俊“(えんどうたねとし・美濃国郡上郡木越城主・生:1546年・没:1570年11月26日)は”斎藤義龍“の家臣であったが、1567年(永禄10年)に”織田信長“が稲葉山城を陥落させると”遠藤慶隆”(えんどうよしたか・美濃国郡上郡八幡城主・斎藤龍興家臣・上記、遠藤胤俊は従兄弟に当たる・生:1550年・没:1632年3月21日)と共に“織田信長“に従った武将である。

上記“天下布武”印を捺した朱印状で“遠藤氏”に参陣を命じた“織田信長”は文中“天下のため、信長のため“に所領の分限に応じた軍役以上に一層奔走し、領内から老若を問わず、出来るだけの軍勢を集める様に伝えている。

“天下のため、信長のため“と併記している意味は上述の1570年(元亀元年)6月18日付文書で“足利義昭”が自ら出陣を表明している事に絡めて“将軍・足利義昭(天下)”と“織田信長”の為に出陣して“忠節”を尽くす事を求める軍事催促だと解釈出来る。

“足利義昭と織田信長”の中で、著者“久野雅司”氏は“織田信長”がこれほどまでに老若に限らず必死に軍勢を招集している史料は極めて希少であるとし“織田信長”がこの時点で如何に苦しい状況にあったかを裏付ける史料だとしている。

“織田信長”は“姉川合戦”が終結する1570年(元亀元年)6月28日付でも“細川藤孝”宛てに下記文書を出している。

横山(横山城)に楯籠もり(立て籠もり)候者共、種々佗言(わびごと=愚痴、思い悩み、辞退の言葉)を申し候へ共、討ち果たすべき覚悟に候、今明日間たるべく候
(津田文書)

(解説)
この文書では“浅井勢”が立て籠もる“横山城“(滋賀県長浜市)を一両日中に攻める強い覚悟を”細川藤孝“に求めている。こうした“織田信長”の文書からは”朝倉義景“並びに”浅井長政“との合戦に敗戦する事は絶対に許されず、必ず勝たなければならないとの覚悟が伝わって来る。

当時の“足利義昭・織田信長”協調体制下では、別掲図に示した様に、多くの敵に“包囲”された状況にあった。“老若を限らず、兵力と成る人員には鋤・鍬の農具を武器として持たせてでも”と、必死になって軍勢を招集し合戦に臨む“織田信長”の“第一次元亀争乱”期の苦しい状況を伝える史料である。

“久野雅司”氏は更に”織田信長“から協調関係にあった時期の”松永久秀“宛に、更なる協力を要請する以下の文書を出していた事も紹介している。
来る七月七日、郷(江)北小谷表に至って相働らき候,即(時)刻を違えず老若を撰ばず、打ち立つべく候、仍って取出(砦)を相構え候間、鋤・鍬以下を持たしむべく候、其のために廻文を指し遣わし候、果たして朝倉・浅井と一戦に及ぶべく候、時節を見合わせて伐り懸け討ち果たすべく候、仍って件の如し、
元亀元(注:原文は元亀三年とあるが書写する際の誤記と思われる)
七月朔日                           信長
松永弾正殿
郷南国衆中
(願泉寺文書・信長文書)

(解説)
“織田信長”は“姉川の戦い”に勝利を収め一旦“京都”に入り“将軍・足利義昭“に報告をした後の7月7日に”岐阜“に戻っている。しかし”足利義昭・織田信長“に対する包囲網が形成され、別掲図に示した様に、周囲に敵が控えていた状況下、ゆっくりと”岐阜城“に留まってはいられなかった。

この文書はそうした状況下の“織田信長”が“松永久秀”に“姉川の戦い”後も続くであろう“浅井長政・朝倉義景”との交戦に対する“軍事催促”を1570年(元亀元年)7月1日(朔日)付けで出したものである。

上記文書にも“即(時)刻を違えず老若を撰ばず、打ち立つべく候、仍って取出(砦)を相構え候間、鋤・鍬以下を持たしむべく候とある。この史料からも既述の“遠藤新右衛門尉殿(胤俊)”並びに“遠藤新六郎殿(慶隆)”に宛てた印状と同じく、老若に限らず、必死に軍勢を招集し続ける“第1次元亀の争乱”期の“織田信長”の苦しい状況が伝わって来る。

3-(2)-①:“朝廷”並びに“幕府”は日本社会に於ける“伝統的権威”として活用すべきと考えていた“織田信長”

“織田信長”は革命的考えを持つ武将であった事は確かであるが“三好義継”が1565年(永禄8年)5月1日に,時の13代将軍“足利義輝”を殺害した“永禄の変”を起こして覇権を握るという乱暴な行動を是とする考えの武将ではなかった。

“天皇・朝廷・将軍・幕府”は“伝統的権威”として尊重し、それを操り、活用すべき存在であると考えていた。“天下布武”の下に掲げた“全国統一”を成す為にも“室町幕府・将軍足利義昭”は“織田信長”の傀儡政権として存在させる事で、世の中を安泰とする事が必須であると考えていた事は既述の通りである。

従って“将軍・足利義昭”に敵対し“天下静謐”(天皇の命を受けて将軍が逆賊を退治し、全国に亘る平穏な社会状況を作り出す事)を乱す勢力を“成敗”し“将軍・足利義昭”の権威を守る事が“将軍代行”を自ら任ずる“織田信長”にとっての使命だと考えていたのである。

“第一次“元亀の争乱”の期間(1570年)の“織田信長”の戦闘の全ては“朝倉義景・浅井長政”討伐(姉川の戦い)に於いても“将軍・足利義昭”と一体となって戦った理由はそうした“織田信長”の考えに基づいたものだった。(久野雅司氏著:足利義昭と織田信長)

3-(3):“姉川の戦い”の戦況展開について

1570年(元亀元年)6月19日:

記録には”織田信長“は軍勢が整わないまゝ出陣し”美濃国“と”近江国“の境界の”長比砦”(たけくらべとりで・標高390mの野瀬山に1570年に浅井長政に拠って築かれた)で家臣達の軍勢の到着を待ったとある。”織田信長“の特異性である迅速性が発揮された話である。

1570年(元亀元年)6月21日:

家臣達の軍勢も整い“織田信長”は“浅井長政”の“小谷城”の南方の“虎御前山”(とらごぜやま・標高230m・滋賀県長浜市中野町)に着陣した。琵琶湖からの比高凡そ300mの険しい山上に位置する“小谷城”の要害を一気呵成に攻める為に、長期戦に持ち込む戦法に変えた“織田信長”は“小谷城”の南方約9kmにある“横山城”攻撃に狙いを定めた。“横山城“は1561年に”浅井長政“が”六角”氏との戦闘の防御拠点として築城し、城代に一門の“浅井井演”(あざいいひろ・生没年不詳)を置いた城である。

1570年(元亀元年)6月22日:

“横山城“攻めに切り替えた”織田信長“軍は6月22日、一斉に南へ向かって進軍した。これを”退却“と見た“浅井長政”軍は“小谷城”を出て追撃をした。“織田軍”は“殿軍“(しんかり)を“佐々成政“(後の豊臣秀吉時代になって、肥後国人一揆の責任を取らされ切腹させられる・生:1536年?・没:1588年)等3人の武将に任せた。彼等の見事な働きで、味方は全軍が無事に姉川南岸“竜ケ鼻”に移動した。

”織田信長“軍が”横山城“(滋賀県長浜市堀部町・石田町)攻撃を開始した頃には、同盟”する“徳川家康“が5,000程の兵を率いて”織田軍“に合流した。しかし”浅井”方にも“越前国”から“朝倉景健”(あさくらかげたけ・生年不詳・没:1575年8月21日)を主将とする8,000の軍勢が加わった。更に“浅井長政”も“小谷城”を出て“朝倉軍”に合流し、包囲された”横山城“の後巻をすべく”大依山“に布陣した。

1570年(元亀元年)6月28日:“姉川の戦い“の決戦

“小谷城”南方の“姉川”を挟んで”姉川の戦い“の決戦が始まったのは”卯の刻(午前6時頃)“説(信長公記)並びに”巳の刻(午前10時頃)説(毛利文書他)がある。“浅井長政”軍は“織田信長”軍に、そして“朝倉義景”軍は“徳川家康”軍に攻めかかった。軍勢は“織田・徳川”軍が25,000兵“朝倉・浅井軍”が14,000兵であり、兵数に於ては“織田・徳川”軍が圧倒的に優勢であったと“信長の天下布武への道”の著者“谷口克広”氏は書いている。

戦闘の記録は簡単な記述しか存在し無い。“信長公記“の記述も以下の様にごく簡単に済まされている。

卯刻、丑寅(北東)へむかって御一戦に及ばる。御敵(朝倉・浅井軍)もあね川へ懸り合ひ、推つ返しつ散々に入りみだれ、黒煙立て、しのぎをけづり、鍔(つば)をわり、爰(ここ)かしこにて思ひ思ひの働きあり。終に追崩し(以下略)

この戦いで“織田軍”は“浅井軍”に押されて危うかった。しかし“徳川軍”が“朝倉軍”を打ち負かした事を以て“姉川の戦い”は“織田・徳川”軍の勝利とされる。この戦いで“浅井長政”軍も大きな損害を受けたが“小谷城”が要害であった為“織田信長”はこの城を直接攻撃する事を諦めている。“織田・徳川連合軍”は“姉川の戦い”に勝利したと伝わるが、実態は“朝倉・浅井“軍に致命的なダメージを与えたものでは無かった。

史実として”織田信長“にはこの時点で”朝倉義景“と決着を付けようとの意思は無く”朝倉軍“も決戦を望んだ“浅井長政”に引きづられる形での“姉川の戦い”であった。“戦国”の数多くの合戦の中で絵に描いたような遭遇戦として特筆すべき合戦だとされる。

この合戦の戦況に就いて詳しく伝えている当時の史料は存在せず、存在する史料は全て江戸時代に成ってから書かれたものばかりなのである。その幾つかを下記に紹介する。

①“甫庵信長記”(ほあんしんちょうき・諸説があるが江戸時代初期に儒学者で医師の小瀬甫庵が著した仮名草子②“松平記”(阿部四朗兵衛定次著と伝わるが成立年未詳・1535年(天文4年)尾張森山崩れ~1579年(天正7年)徳川家康夫人築山殿の自害までを年代順に収めたもの③“三河物語”(大久保忠教=大久保彦左衛門著作・信憑性に問題があるとされるが、戦国時代から江戸時代初期を知る為の一次史料とされる)のいずれもが“織田信長“軍が危うかった事で一致している。

“浅井三代記”(浄信寺の僧侶雄山の著作・寛文末年/1673年?/に加賀藩主に献上された。架空の軍談が多く、史料的価値は低い)には“織田軍”13段の備えの中、11段までが“浅井軍”に打ち破られたと書かれている。これ等の記述の全てを信ずる訳には行かないが“姉川の戦い”に於ける“浅井長政”の意気込みが”織田信長・徳川家康“そして”朝倉景健“等とは一段違っていた事が伝わる。義兄”織田信長“を裏切った立場である”浅井長政“としては”織田信長“を倒すか、さもなければ滅亡しかなかったから当然の事であろう。

3-(4):“姉川の戦い“の纏め

期日:1570年(元亀元年)6月28日
場所:滋賀県長浜市姉川河原
結果:織田・徳川連合軍の勝利とされるが、敵方に致命的なダメージは与えていない

織田・徳川連合軍
          
指導者・指揮官  織田信長
         徳川家康
         和田惟政

戦力:25,000兵?

損害:不明(浅井・朝倉軍と同様?)

*両軍の損害については諸説がある
浅井・朝倉連合軍

指導者・指揮官 浅井長政
        朝倉景健
        六角義賢(承禎)

戦力:14,000兵?

損害:1,100~?

3-(5):両軍の戦死者に関する諸説

戦いの帰趨が明らかに成るまで、それ程の時間は掛からなかったとされる。切崩された“朝倉・浅井”軍は“北国脇往還”を北に向って逃げ“織田・徳川”連合軍はそれを追って“小谷城”近辺まで追撃した。“姉川”を挟んでの遭遇戦は“織田・徳川”連合軍の勝利と伝わるが、既述の様に“朝倉・浅井”両軍に致命的なダメージを与えたものでは無く、両軍の戦死者に就いても諸説がある。

*敗れた“朝倉・浅井”連合軍の戦死者

  言継卿記・・9600人
  益田家什書・・8,000人
  信長公記・・1,100余人

*勝利した“織田・徳川”連合軍の戦死者

  言継卿記・・“多く死ぬ“の記述のみ
  東寺光明講過去帳・・“越前衆、浅井衆、信長衆、双方討死数千人“の記述がある。

3-(5)-①:“姉川の戦い”の戦死者に関する評価

“朝倉・浅井”連合軍の死者数に関して“言継卿記”の9600人、並びに“益田家什書”の8,000人は共に余りにも多すぎるとの評価である。”姉川の戦い“で両軍共に致命的な被害があったとは思われない。何故なら”朝倉氏“も”浅井氏“も“姉川の戦い‟以降も執拗に”織田信長“を苦しめるのである。従って”信長公記“の1,100余人程が正しいのであろうと”信長の天下布武“の中で”谷口克広”氏は指摘している。

同様に“織田・徳川”連合軍の使者数については“織田・徳川”連合軍も苦戦した事は認められる。従って“朝倉・浅井”連合軍と同様の戦死者があったのであろうと考えられる。

3-(6):“姉川古戦場”訪問記

訪問日:2022年(令和4年)10月17日(月)
住所:陣杭の柳(織田信長本陣跡)・・滋賀県長浜市東上坂町
戦場跡・・滋賀県長浜市野村町及び三田町一帯

交通機関等:
東京駅から新幹線で米原駅に行き朝9時前に友人と合流、駅前のトヨタレンタカーでプリウスを借り、実宰院~小谷城祉~同歴史館を訪問し、雨の中“姉川古戦場”に着いたのは午後13時40分頃であった。写真を載せたので参照願いたい。織田信長が本陣を置いたとされる“陣杭の柳”(添付地図②)も訪ねた。文中“織田信長”軍が攻撃した“横山城址”(添付地図④)も周囲にある史蹟である。

=姉川古戦場関連写真=

4:“摂津の陣”・・1570年(元亀元年)7月21日~9月12日

“第一次元亀の争乱”の戦闘中で“将軍・足利義昭”が“摂津中島・天満森”(大阪市北区)に進軍した“三好三人衆+阿波三好家“軍勢と戦う中、突如9月12日に”大坂本願寺”の“顕如”が”織田信長が本願寺を破却すると言って来た“として本願寺門徒に檄をとばし“織田軍”の攻撃に出た。これが以後1580年8月2日迄、10年に及ぶ“石山合戦“の始まりと成った。

”姉川の戦い“の直後から”摂津方面“(兵庫県・大阪府の一部)では又もや”三好党“が”本願寺“と結びながら”反・織田信長“の動きを活発化させた。”織田信長“軍が”第一次元亀の争乱“期の苦しい戦いを続ける間隙を捉え”三好党“が失地回復に出たのである。

1570年(元亀元年)7月7日:

”姉川の戦い“に何とか勝利した”織田信長“は一旦”京都“に入り”将軍・足利義昭“への報告を済ませ”岐阜“に戻った。しかし敵対する”三好党“による失地回復の動きもありゆっくりと”岐阜城“に留まる暇は無かった。

1570年(元亀元年)7月21日:

“三好三人衆“並びに”三好康長“等”三好一党“が”阿波“から渡海し”摂津国・中島、天満森(大阪市北区)“で”細川信良“(ほそかわのぶよし=細川昭元・阿波、摂津、丹後守護・父は細川晴元で正室は織田信長の妹お犬の方・生:1548年・没:1592年)と共に挙兵した。”織田信長“が”三好三人衆“等を”畿内“から駆逐した事は既述の通りであるが,まだまだ一大勢力として存在していたのである。

そして”将軍・足利義昭”方の“野田・福島”(現大阪府大阪市福島区)を攻撃し“大坂本願寺”の西のデルタ地帯に砦を築き“畿内回復”の機会を窺う態勢を作っていた。

“摂津国・池田重成”(=池田知正・生年不詳・没:1604年3月8日)は“織田信長”を裏切り“三好三人衆”に通じる等“畿内”に新たな混乱が生じ始めていた。


4-(1):“三好三人衆“を不倶戴天の敵と考える”将軍・足利義昭“が自らも”京都“から”摂津“に出陣する

“第一次元亀の乱”期に“姉川の合戦”に引き続いて“足利義昭・織田信長”方に挑んで来たのは“三好三人衆+阿波三好家“軍勢であった。彼等は”摂津中島・天満森“(大阪市北区)に進軍、この合戦は“摂津の陣”と称され、既述の様に”大坂本願寺・顕如”が突然蜂起するという事態となり、戦闘は1570年(元亀元年)7月21日~9月12日に及んだ。

“将軍・足利義昭”にとって“三好勢”は1569年(永禄12年)1月5日の“本圀寺の変”に拠る襲撃を受けて以来、不倶戴天の敵とする相手であった。“摂津の陣”では“将軍・足利義昭”は“河内守護・畠山昭高”に軍事動員をかけている。“畠山昭高”を介して“根来寺‟衆も参加する戦いと成った。

4-(1)-①:”摂津の陣“で“三好一党“が優勢だった事に対して”将軍・足利義昭“は”織田信長“に参戦を要請した

1570年(元亀元年)7月21日:

“三好三人衆“(三好長逸・三好政勝・岩成友通)に加えて”三好康長“(三好長慶の叔父・生没年不詳だが阿波に強い地盤を持ち、その影響力を評価され、後に織田信長軍の四国・長宗我部元親攻略の担当となった人物。1585年7月25日に羽柴秀吉に降伏した長宗我部元親を出迎えた記事が見られる)等“三好一党”の軍勢が“阿波国”から渡海し“摂津国中島・天満森”(現大阪市北区)に陣を張った。

“三好”方の軍勢は13,000兵程で、鉄砲隊として“雑賀衆”の応援を依頼していたと伝わる。“野田城“には“畿内”から駆逐されたとは言え、未だ一大勢力を保っていた”三好三人衆“が主力として居り”福島城“には”織田信長“に”稲葉城“を追われ、その後も”織田信長“への抵抗を続ける”斎藤龍興“そして彼の重臣”長井道利“(斎藤道三、斎藤義龍、斎藤龍興3代に仕えた・生年不詳・没:1571年8月)が居た。

1570年(元亀元年)8月17日:

“三好三人衆”は1567年(永禄10年)2月16日に袂を分ち、今や幕府方(将軍・足利義昭方)つまり敵方となった“三好義継”並びに“畠山秋高”軍が守る“古橋城”((大阪府門真市御堂町8の願得寺が推定地とされる)を攻撃、攻略している。“古橋城”に籠城して戦った“三好義継”並びに“畠山秋高”方の兵力は夫々150兵の計300兵程(400兵説もある)と伝わる。“細川両家記・陰徳太平記・尋憲記”等の記録には“幕府”方は220~300兵が討ち死にしたとあるから籠城した兵の総数は不明だが“幕府”方が“三好三人衆”方に可成りの大敗を喫したという事である。

4-(1)-②:士気が上がらぬ“幕府軍”を叱責した“将軍・足利義昭”は“三好一党”への対応として“織田信長”に援軍を求めた

“将軍・足利義昭”は“三好義継“と”畠山秋高“(昭高ともされるが秋が正しい)が”古橋城“の戦いで“三好一党”に忽ちの中に攻め落とされた事に対して、御内書を送って叱責した記録が残る。”細川文書“の記録からは守護や国人の中には真剣に“三好一党”に対抗する気の無い者が居た事が伝わる。“幕府”方の士気が高く無かった事は史実の様である。

こうした状況に”将軍・足利義昭“は”岐阜“の”織田信長“に連絡し援軍を求め、一方で”畿内の守護‟達にも討伐の命令を降した。

4-(1)-③:“織田信長”が“摂津の陣”で優勢に戦う“三好一党”の“討伐”に動く

1570年(元亀元年)8月20日~8月26日:

“摂津の陣”で苦戦する“将軍・足利義昭“からの支援要請に対し”将軍・足利義昭“とその与党だけでは”三好三人衆・一党“を抑える事は無理だと判断した”織田信長“は8月20日に”岐阜“を出陣し、8月23日には”京都”に入った。一日休息を取っただけで、総勢4万程(3万兵説もある)の軍勢を率いて25日には敵方の”野田城・福島城“から5km程南方の”天王寺“に布陣した。(26日説もあり)

この軍には”第一次越前攻め“の時と同じく“武家昵近公家衆”(ぶけじっきんくげしゅう)の“飛鳥井雅敦・烏丸光宣・高倉永相“達も参加していた。”織田信長“が”将軍・足利義昭“の支援要請に応じて”入京“した事で”畿内“の守護達も漸く馳せ参じた。”細川両家記“に拠れば、敵城を取り囲んだ総兵力は6万に膨れ上がったとある。

1570年(元亀元年)8月30日:

“言継卿記”に“将軍・足利義昭”自身が2000余の奉公衆等の軍勢を率いて“京”から出陣し“摂津”に向ったと記されている。“織田信長”軍は敵方の4倍以上の兵力と成り、この戦いに勝利する事は時間の問題と成った。“将軍・足利義昭”自らの出陣について“本人の意思だったのか、それとも織田信長が要請したのか~”に就いての論議があるが、これに就いて“信長の天下布武への道”の著者“谷口克広”氏は“足利義昭は自らの意思で出陣したとして、下記の様に解説している。

本来”将軍”に従うはずの“畿内の守護”が上記した様に”織田信長”の指揮下に馳せ参じた。一方、敵方は形ばかりの主将として管領家嫡流”細川六郎“(=細川昭元・摂津国普門寺で1563年に病没した父・細川晴元の跡を継ぎ三好三人衆方が足利義栄を第14代将軍に擁立した際に名目上の管領としての処遇を受けた・生:1548年・没:1592年/1615年説もある)を担いでいた。こうした状況下、将軍・足利義昭としては自ら出陣し、将軍親征の形をとって置く事で、将軍の権威回復のチャンスと考えたのであろう。

”細川両家記“の記録には”将軍・足利義昭”軍は“和田惟長・池田勝正・伊丹親興”等“守護の軍勢“それに”茨木佐渡守“そして“塩川・有馬・畠山”並びに“和泉国衆”の軍勢を糾合して“摂津国・中島、天満森(てんまがもり)“に陣取ったと書かれている。

1570年(元亀元年)9月2日:

“将軍・足利義昭“が率いる総兵力は畿内の①守護勢力と奉公衆・15,000兵②根来寺衆・和泉国衆等・15,000兵であり、幕府軍として合計30,000兵と成った。それに”織田信長“軍(美濃・尾張・三河・遠江)の30,000兵(前記した様に40,000兵とする説もある)が加わり、合わせて総勢60,000兵という大軍と成った。

尚“武田文書”には“将軍・足利義昭”はこれ等の軍勢に加えて更に“徳川家康“にも出兵を促したとの記録がある。“将軍・足利義昭”は9月2日に”細川藤賢“(ほそかわふじかた・御供衆・生:1517年・没:1590年)の居城”中島城“(大阪市淀川区・堀城とも称す)に入城した。(足利季世記)

4-(1)-④:思惑通り“将軍権威”を復活させた“摂津の陣”に於ける“将軍・足利義昭”

形の上では守護や畿内・近国から“将軍・足利義昭”軍として30,000兵を動員する事が出来た“足利義昭”は思惑通り“将軍権威”を回復出来た。

“織田信長”軍が後述する様に“志賀の陣”に対応する為“近江国“に移動した後も”将軍・足利義昭“率いる”幕府軍“は”摂津国“に留まり”三好勢+本願寺勢“と対峙して”京都侵攻“を防いだ。この事は”将軍・足利義昭“の“軍事力”が看過する事の出来ないレベルであったと見るべきであると“足利義昭と織田信長”の著者“久野雅司”氏は述べている。

既述の様にこの時点での“将軍・足利義昭“の主目的は“不倶戴天の敵”である“四国・三好勢“との戦に勝利する事であり”織田信長“との協調関係を保っていたのである。しかし”将軍権威“を回復して自分の存在価値を高めた”将軍・足利義昭“の本音としては真の将軍権威回復の為には”織田信長“に握られている”主導権“に対抗して行こうとする意識が日増しに強くなっていた事も”摂津の陣“の対応に於ける両者の関係であったと言える。

4-(1)-⑤:“摂津の陣”に於ける“将軍・足利義昭”と“織田信長”連合軍が敵方を南北から挟み討ちにする態勢を整える

“将軍・足利義昭”軍が“中島城”に入った事で“将軍足利義昭・織田信長”連合軍は“野田・福島”の“三好方”の両城を南北から挟撃する態勢を整えた。

敵方“織田信長”の素早い動きに“三好方”の“三好為三”(みよしいさん・三好三人衆の三好宗渭/三好政勝/の弟・摂津榎並城城主・生:1536年・没:1632年)並びに“塩田”氏、そして“和久宗是”(わくそうぜ・生:1535年・没:1615年)“香西佳清”(こうざいよしきよ・野田城、福島城の戦いに三好方として参陣した折に疱瘡に罹り失明、以後盲目の大将として知られる・讃岐国の国人・生:1553年・没:1588年)等が早くも8月30日に“三好三人衆”方から離反した。(尋憲記=興福寺大乗院門跡の尋憲に拠る1562年~1577年迄の自筆日記)


4-(2):“三好一党”の拠点“野田城・福島城”を“将軍足利義昭・織田信長”連合軍が攻め立てる

1570年(元亀元年)9月8日~9月12日:

“織田信長”軍は“天満森”に本陣を進め(9月8日)、更に敵城とは目と鼻の先の“海老江城”(大阪市福島区海老江)に本陣を移した。(9月12日)そして“大鉄砲”で“三好”方の“野田城・福島城”への攻撃を開始した。

=織田信長が本陣とした“海老江城城址”訪問=2022年(令和4年)10月18日(火曜日)

進退窮まった敵“三好”方からは“和睦”の要請が出された。しかし“織田信長”は取り合わなかった。この時点までは“将軍足利義昭・織田信長”連合軍は順調に戦闘を進めていた。ところが“戦況”は俄かに逆転する。

4-(3):“大坂本願寺”が蜂起する・・1570年(元亀元年)9月12日夜半

1570年(元亀元年)9月10日:

この日付で“顕如”が“浅井久政・長政”父子宛に連絡をとった記録が残る。この事は“顕如”が“将軍足利義昭・織田信長”連合軍に対して蜂起する事を事前に“浅井”方と充分に示し合わせた事を裏付けている。

1570年(元亀元年)9月12日夜半:

突如“大坂本願寺”(一般に石山本願寺の呼び名で知られるが戦国期には石山では無く大坂と呼ばれていた)の鐘が打ち鳴らされた。“大坂本願寺“は戦場となっている”福島砦“から東へ僅か4kmの距離である。これを切っ掛けに“織田信長”軍の基地“楼岸(ろうのきし)・川口砦“を”大坂本願寺“方の兵が襲った。”本願寺“からの兵は”織田信長“方に鉄砲を撃ち込んだのである。

言うまでも無く”織田信長“方は鉄砲伝来(1543年・天文12年)以来、最も早く“鉄砲隊”を編成していた。当時最強と言われた“紀州”の“根来衆・雑賀衆“が”織田“方として3,000挺程の鉄砲隊として参加していたのである。しかし”大坂本願寺“方の夜討に加えて“織田信長”方は”三好三人衆”方による淀川の堤防を切った“水攻め”にされた。

”本願寺・顕如“は”織田信長“が上洛した当時は友好的であったと伝わる。今回”反信長“に転じた理由はその後の”織田信長“の本願寺に対する威圧的な態度に敵対を決意したとされる。9月2日には“美濃国・郡上郡”更には9月6日付で“近江中郡”の門徒宛てに檄文を飛ばし“織田信長が本願寺を破却すべきの由、確かに告げ来たり候”と、無理難題を懸けて来る“織田信長”と戦うよう命令していた。

4-(3)-①:“本願寺第11代宗主・顕如”が蜂起に至った背景についての“永原慶二”氏の説

“永原慶二”氏は著書”戦国時代“で本願寺の”顕如“が”野田福島落去候はば、大坂滅亡之儀は目前“と語った言葉を紹介し”顕如“が”反・織田信長“の決断をし”浅井長政“及び”三好党“と手を握り、各地の門徒に蜂起を指令したと書き、その裏付けとして“山科言継”が日記に“九月十三日、(中略)晩頭雑説、大坂謀反、一揆発ると云々“とこの衝撃的ニュースを書き遺した事を紹介している。

“大坂本願寺”はこの年(1570年/元亀元年)の正月には“織田信長”に対して贈り物をする等、敵対はしていなかった。ところが上記した様に次第に“織田信長”が難題を迫る様に成り、取り分け今回“大坂本願寺を破却する”とエスカレートした事に“本願寺第11代宗主・顕如”(当時27歳・生:1543年・没:1592年)が堪忍袋の緒を切り“伊勢国門徒“に”仏敵織田信長が押し寄せて来るが、防ぎ切れないので加勢する様に“との檄を飛ばすに至ったのである。

”織田信長“が”本願寺“に課した難題とは”美濃国“並びに”尾張国“の真宗寺院に新たな課税をした事、有力寺院や“堺”に“矢銭”(室町時代に幕府や戦国大名によって賦課された軍資金の総称)を払わせた事(細川両家記・足利季世記)等が具体的内容であった。

又“本願寺”が“三好三人衆”と友好関係にある事に関して“三好三人衆”を不倶戴天の敵とする“将軍・足利義昭”は前年(1569年)両者の関係に就いて疑問、不審な点について問い質した記録が残っている。更に“本願寺”は“浅井・朝倉・六角氏”とも以前から関係を結んでいた事が知られる。こうした事からも“本願寺”の蜂起は“反幕府・反織田信長勢力”と繋がった“政治的動機“が大きかった”と“織田政権の登場と戦国社会”の著者“平井上総”氏は指摘している。

”本願寺“は”将軍・足利義昭+織田信長“勢力と関係を結ぶ一方で”反足利義昭・反織田信長“勢力との関係も両者とのバランスをとる意図から保って来た。しかし、今回の”三好三人衆“と“幕府+織田信長”軍との戦闘に際しては“大坂本願寺”も破却、接収される危険があると感じた“顕如”は“三好三人衆”からの誘いに乗って”将軍・足利義昭+織田信長“勢力に対して蜂起の決断をしたのである。(織田政権の登場と戦国会・著者平井上総氏)

4-(3)-②:“大坂本願寺”の突如の参戦で戦況は逆転し“正親町天皇”に和睦仲介を依頼しようと動いたが、タイミングを逸し“将軍足利義昭・織田信長”連合軍は“撤退”に追い込まれる

1570年(元亀元年)9月22日:

”大坂本願寺“が敵対、参戦した事で”戦況“は逆転した。、勢いを増した”三好三人衆”方が“淀川”の堤防を切った為“織田信長”の本陣は水浸しと成った。完全に挟撃される形と成った事で“織田信長”の方から”正親町天皇“に“本願寺“との“和睦仲介”を依頼した。しかし、最早手遅れで”本願寺“は受け付けず”朝廷“から”和睦“の”勅使“が来る前に攻撃を開始したのである。“織田信長”は“将軍・足利義昭”を伴って“野田・福島”の攻囲を解き“海老江”の陣を引き払い“天満森”に後退した。

こうした折に“京都”からは“織田信長包囲網”を形成する“朝倉義景・浅井長政”連合軍が“本願寺・顕如”の蜂起に呼応する形でこの好機を捉えて“南近江”に兵を進めたとの報が入った。この報を受けた“織田信長”は敵方の予想を超える敏捷さで“京都”に兵を返すと共に“下坂本”に進んで陣を張ったのである。

一般的に“野田城・福島城の戦い”と云われるこの1570年(元亀元年)8月26日~9月23日に亘る戦いは“第一次・元亀の争乱”と称される中の一つの戦いでもあり“織田信長包囲網”による合戦の一つでもあった。繰り返しとなるが、何よりもこの戦いは10年に及ぶ”石山合戦“の端緒の戦いともなり”第一次石山合戦“として知られる戦いでもあった。

4-(3)-③:“第一次元亀の乱”の“摂津の陣”史跡訪問

訪問日:2020年(令和2年)11月21日(土曜日)
写真に拠る説明

写真下左:“三好一党”が陣を置いた”野田・福島”と”織田信長”方の“海老江”の砦が近い事が分かる。野田城・福島城はJR環状線で大阪駅から2つ目の駅から行ける。”大坂本願寺”(石山本願寺)も極めて至近の距離にある。

写真下右:北御堂ミュージアムの展示版・・本願寺第11代“顕如上人”は第10代宗主”証如上人“の長男だと記してある。彼は”第一次石山合戦“を端緒に”織田信長”との間に10年に及ぶ”石山合戦”を戦う事に成る。

写真下右下:顕如上人(生:1543年・没:1591年)関係者略系・武田信玄とは“義兄弟”という関係である

5:“第一次・元亀の争乱=織田信長包囲合戦”の後半は“志賀の陣”と称される“織田信長“が最大の危機を迎えたとされる戦闘となった・・1570年(元亀元年)9月16日~12月17日

“志賀の陣”は“将軍足利義昭・織田信長”連合軍が“三好三人衆”方を“野田城・福島城”に攻撃している際に“大坂本願寺法主・顕如”が蜂起した事で戦況が逆転“織田信長“が”天満森“に後退を余儀なくされる等”摂津の陣“で釘付けにされる展開に変化した。この状況をチャンスと捉えた“朝倉義景・浅井長政”連合軍は“京都”に向って押し出し“織田信長”軍の守備体制が手薄な琵琶湖西岸を南下し“織田信長”方の“森可成”(もりよしなり・森蘭丸の父親・生:1523年・没:1570年9月19日)が守る“宇佐山城”を攻撃した。

新たに“志賀の陣”が始まったのである。


5-(1):摂津国に“織田信長”が釘付けになった状況を知った“朝倉義景・浅井長政”軍は合流し“宇佐山城”を攻撃し“京都”に進軍する

5-(1)-①:“坂本の戦い”を有利に進めた“朝倉義景・浅井長政”軍

1570年(元亀元年)9月16~9月21日:

既述の様に“将軍足利義昭・織田信長”連合軍は当初は“三好三人衆”等“三好一党”との間の“野田城・福島城の戦い”を優勢に進めていたが“大坂本願寺・顕如”が蜂起した事で、戦況が逆転“将軍足利義昭・織田信長”連合軍は“正親町天皇”に和睦仲介を依頼するものの時既に遅く“撤退”に追い込まれた。

こうした戦況に乗じて“本願寺”側と連携した“朝倉義景・浅井長政”軍が“織田信長”軍の手薄な状態を突いて“宇佐山城”を攻撃し“京都”へ進軍するとの知らせが“織田信長”軍主力が投入されていた摂津の戦場に齎された。そしてその“宇佐山城”攻撃には“顕如”の蜂起の檄に呼応した1万を越える“一向一揆”が加わっていた。

“宇佐山城の戦いの纏め”を下記に示すが、この戦いは“朝倉・浅井”連合軍の多勢に対して“織田“方が無勢の戦いであった。“織田信長”の弟“織田信治”(おだのぶはる・生:1544年・没:1570年9月19日)そして有名な“森蘭丸(成利)”の父親で城主“森可成“(もりよしなり・生:1523年・没:1570年9月19日)更には”青地茂綱“(あおちしげつな・生年不詳・没:1570年9月19日)が交通の要所の”坂本“を先に占領、街道も封鎖して“朝倉義景・浅井長政”軍の進行妨害を試みるべく“城”を出て坂本の町はずれで戦闘を行ったが、奮戦及ばず戦死したのである。

上記城将を失った“宇佐山城の戦い”であったが、城兵の頑張りで“織田”方は城の陥落は免れ、尚且つ和睦に持ち込む事が出来た。しかし“朝倉義景・浅井長政”軍には大津の馬場、松本への放火を許し、更に9月21日には、そのまゝの勢いで“京都”への進軍、そして“山科・醍醐”への放火も許す事となった。

1570年(元亀元年)9月22日:

こうした“近江国”で苦戦する状況は“摂津の陣”で同様に苦戦していた“織田信長”にも伝わった。“織田信長“は”浅井長政・朝倉義景“連合軍との対決を優先すべく行動を開始した。

5-(1)-②:“宇佐山城”の戦いの纏め

年月日:1570年(元亀元年)9月16日~12月14日
場所:宇佐山城、坂本周辺
結果:引き分け(和議成立)しかし“朝倉・浅井”軍の京都への進軍を許した

【交戦戦力】
浅井長政軍
朝倉義景軍
六角義賢軍
比叡山延暦寺軍

【指導者・指揮官】
浅井長政
朝倉義景
六角義賢
朝倉景鏡
朝倉中務
山崎吉家
阿波賀三郎

戦力:約30,000兵

損害:1,000兵以上
【交戦戦力】
織田信長方




【指導者・指揮官】
織田信治
森可成
青地茂綱
各務元正




戦力:約1,000~3,000兵

損害:不明(但し森可成、織田信治、青地茂綱等は討ち死に)

5-(2):“摂津の陣”から“織田信長軍”は主力を撤退させ“三好三人衆+大坂本願寺”方との戦闘を切り上げ”浅井長政・朝倉義景“連合軍との対決を優先して“京都”に戻り“志賀の陣”が始まる

1570年(元亀元年)9月23日:

上記“宇佐山城の戦い(坂本の戦い)”での苦戦状況に“織田信長”は“柴田勝家”軍を先発隊として“京都”に戻した。“三好三人衆”並びに“大坂本願寺”との戦い(=摂津の陣)を切り上げ、全軍を“天満森”に集め一同に退陣を告げた。

5-(2)-①:“織田信長本隊”が帰京するとの報に“朝倉義景・浅井長政”軍は“京都“を離れ”比叡山“の峰々に分散して陣を張った

この予想を超えた”織田信長“軍の素早い行動に虚を突かれた”朝倉義景・浅井長政“軍は”比叡山”に立て籠もった。これに対し“織田信長”は“京”から直ちに“比叡山“の麓に陣を敷き”比叡山“に対して協力せよとの申し入れをした。しかし兼ねて所領没収等で苦汁を飲まされていた“比叡山”側は受け容れず、逆に“朝倉・浅井”連合軍を庇護する立場を取った。

山峰に散っている敵を攻撃するのは難しい。そこで“織田信長”は“延暦寺”の僧侶10人程を呼び寄せ、下記条件を出し、話して聞かせただけでなく“朱印状”をしたためて“延暦寺に送った。(別の説によると、この朱印状は9月25日の戦闘の後に朝倉・浅井勢からの和睦申し入れを断わった織田信長が送ったものだとしている)

1:朝倉・浅井への味方を止め、織田方に味方してくれるならば織田の分国にある叡山領を全て返す

2:出家の身ゆえにどちらにも味方出来ないというならばせめて中立を保って欲しい
(朝倉・浅井勢を山から下ろしなさいとの意味)

3:このま々敵方に味方するならば延暦寺と日吉大社を焼き打ちする

しかしこの朱印状は“延暦寺“側に無視された。”織田信長“方は戦闘を開始すべく”朝倉義景“軍を挑発したが、相手は乗って来なかった。

3万を超す“朝倉・浅井”連合軍であったが“織田信長”の挑発に乗らず“比叡山”から動かなかった。“朝倉・浅井”方は湖上交通、物流の要衝の“堅田”を抑えていた為、直ちに兵糧難に陥る様子も無かった。その為、持久戦の状態が1570年(元亀元年)12月中旬迄続く事になる。


=写真=比叡山延暦寺・・訪問日:2023年(令和5年)3月20日(月)
写真下:①比叡山延暦寺と琵琶湖、並びに②“堅田”の位置関係を示した地図“佐和山城祉③はこの地図から北上し彦根城を超えた地点に位置する


5-(2)-②:“織田信長”にとって”志賀の陣“は3カ月に亘る意にそぐわない対陣期間であった

“志賀の陣“と呼ばれる長い対陣は1570年(元亀元年)9月19日(16日説もあり)~12月15日(14日説、17日説もあり)迄、3カ月も続いた。憎き”朝倉義景・浅井長政”を殲滅したい“織田信長”は4万もの大軍で“坂本”一帯に陣を張ったが、此方から攻撃する事が出来ず、ただ対陣状態の日々を送るだけの持久戦と成った。

“摂津の陣”に於ける戦闘を中断し退却して来た“織田信長”としては“摂津国”(野田城・福島城の戦い)の今後の戦況展開も気懸りであり、又、留守が続く自領の“尾張国・美濃国”の状況も気懸りという状況下での“志賀の陣”に於ける持久戦であった。

5-(2)-③:“織田信長”が懸念した通り、引き揚げた“摂津の陣”には“阿波国・三好家”が渡海し“三好三人衆”方と連合し尼崎に着陣した。勢いを増した両軍は“朝倉・浅井”連合軍と“志賀の陣”で戦う“織田信長”軍に迫ろうとしていた

1570年(元亀元年)9月27日~10月1日:

”将軍足利義昭・織田信長“連合軍が引き揚げた”摂津の陣“には“阿波国“から”三好長治・篠原長房・細川真之“等の軍勢2万が尼崎に着陣した。(9月27日)

加えて“織田信長”に抵抗し突如“摂津の陣”に参戦した“大坂本願寺顕如“は”阿波・三好家“側と誓紙を交わした事が伝わる。”篠原長房“の妻が本願寺一家衆の”教行寺住職・兼詮“の娘という繋がりがあった事がその背景にはあった。”篠原長房“は”顕如“にとって最も頼りになる武将だったのである。

1570年(元亀元年)9月28日~10月3日:

一方“近江国“の”志賀の陣“でも既述の様に”大坂本願寺・顕如“の蜂起に呼応して10,000を超える“本願寺門徒”達が蜂起していた。彼等は“阿波三好家“の軍勢2万が”摂津国”に渡海し“京都”に向けて進撃中である事、そして“三好三人衆“と合わせて3万を越える軍勢が“篠原長房”に率いられ”瓦林城“(かわらばやしじょう・兵庫県西宮の日野神社の辺り説・築城1336年・城主瓦林正頼・廃城1570年)を不意打ちし“瓦林氏”を滅亡させた(9月28日)事に勇気付けられていたのである。

“三好″方は更に“茨木城”(大阪府茨木市に遺構が僅かに残る・築城は1334年~1336年に楠木正成説,安富氏説、福富氏説がある・主たる改修者は中川清秀・一国一城令で1616年に廃城)も調略した事が“三浦講中文書”に記録されている。勢いに乗る”三好三人衆・阿波三好家”連合軍は”畿内“の国人を次々と調略して行ったのである。

1570年(元亀元年)10月4日:

“将軍足利義昭・織田信長“連合軍に抵抗する勢力が”包囲網“を広げ、挙兵が相次いだ。”山城国・西岡“では”土一揆“が蜂起した為”室町幕府”が“徳政令“を発したという記録が残る状況であった。

5-(2)-④:“比叡山”に登ったまま、戦闘に応じない“朝倉義景・浅井長政”軍

1570年(元亀元年)10月20日:

“織田信長”は“朝倉義景”に側近の“菅屋長頼”(菅谷とも書く・1573年9月に杉谷善住坊/1978年のNHK大河ドラマ・黄金の日々で俳優・川谷拓三氏が演じた人物/を織田信長狙撃事件の犯人として鋸引きによる処刑を執行した人物・本能寺の変では信長に従って上洛、市中に宿をとっており本能寺に駆け付けたが入れず、二条新御所で織田信忠に殉じた・生年不詳・没:1582年6月2日)を立てて“朝倉義景”を戦闘に誘い出そうとしたが“朝倉・浅井”軍の本隊は“比叡山”に登ったまゝであった。

この為“織田信長”軍は“延暦寺”への遠慮もありこの段階で“朝倉義景・浅井長政殲滅戦“に持ち込む事を仕掛けなかった。

1570年(元亀元年)10月22日:

“将軍・足利義昭”方も“御牧城”(京都府久世郡久御山町)を”三好三人衆”並びに“阿波三好家”軍に攻略された。しかし“和田惟政”や“細川藤孝”が奪還し、敵方が“京都“へ突入する事を防いだ。しかしこの日“若狭国・武田”氏が“足利義昭・織田信長”方から離反した為、戦況は“将軍足利義昭・織田信長”連合軍にとって益々苦しいものに成って行ったのである。
 
5-(3):“志賀の陣”(1570年9月16日~12月17日)での“睨み合い”が続いたが一度だけ”堅田の戦い“があった

3カ月に亘る長い対陣は“織田信長”の戦歴の中で最も長い“睨み合いの日々”であった。しかし、その間、一度だけ“堅田の戦い”と呼ばれる“朝倉義景”軍との戦闘が記録されている。又、この長い睨み合いの“志賀の陣”の期間中に“織田信長”にとって“尾張国”で“長島一向一揆“に拠る最悪の事態が起った。

5-(3)-①:“長島一向一揆”が“尾張国・小木江城”を攻略し“織田信長”の弟“織田信興”を自害に追い込む

1570年(元亀元年)11月21日:

“長島一向一揆”が“織田信長”が“伊勢国・長島”の“一向宗”の抑えとして築いた“尾張国・小木江城”(古木江城とも書く・愛知県愛西市・城主は信長の弟の織田信興・築城年1567年・廃城1571年)を攻撃し“織田信興”(おだのぶおき・小木江城城主・生年不詳・没・1571年11月21日)を自害に追い込んだ。

“織田信長”の信頼が厚かった弟“織田信興”を自害に追い込んだこの戦いは“長島一向一揆”に対する“織田信長”に深い憎しみと憎悪を与えた。これが2年後の“長島一向一揆“衆に対する大虐殺(第3次長島侵攻・1574年7月~同年9月)に繋がるのである。

5-(3)-②:“地侍”が“織田信長”方に寝返った事を切っ掛けに起こった“樫田の戦い”で“朝倉義景”軍に敗れた“織田信長”方

1570年(元亀元年)11月25日~11月26日:

志賀郡の“堅田”(滋賀県大津市北部)は、古くから“琵琶湖水軍”の基地であった。湖上の特権を“室町幕府”から容認された他“水軍”を擁して活動する“軍備”も“堅田”は保持していた。又“堅田”では“本福寺“(比叡山、佐和山城祉訪問時の写真参照方・滋賀県大津市本堅田)を中心に”浄土真宗“の勢力が強く、琵琶湖西岸を支配下に置いていた”織田信長“でさえも、この“堅田”に関しては支配が及んで居らず“志賀の陣”が起きた時点の支配者は“朝倉義景”であった。

しかし”織田信長“方は”堅田“の地侍”猪飼野昇貞・居初・馬場“等が”織田“方に通じて来た事を切っ掛けに、このチャンスを生かし”堅田“を占領し支配する事で“朝倉義景”の通路を断ち切ろうと考え重臣“坂井政尚”(さかいまさひさ・生年不詳・没:1570年11月26日)を主将に1000兵を“堅田”に送り込んだ。(1570年11月25日)

“比叡山”の山上でそれを察知した“朝倉義景”は翌日(1570年11月26日)自軍を“堅田”に差し向けた。結果“堅田”の地侍は二派に分かれて参戦した。この戦闘には“浄土真宗門徒”も“朝倉“方に味方した。”樫田の戦い“の結果は“朝倉義景“方の勝利と成り”織田信長“の重臣“坂井政尚”は奮闘空しく討ち死にした。

この戦闘は局地戦ではあったが激戦であった。“織田信長”方は500兵“朝倉義景”方も800兵もの戦死者が出た事が“言継卿記”に記されている。この“堅田の戦い”は両軍の主力は加わらない戦闘であった。両軍の主力同士は“比叡山”の“山上“と”麓“で睨み合いを続けていた。

”堅田の戦い“が行われた11月末は”冬“が真っ盛りを迎える時期であり、勝利した“朝倉義景”方には“越前国”へ戻る道が次第に積雪で閉ざされる心配が出て来ていた。一方の“織田信長”にとっても“岐阜”を離れて3カ月余であった事、既述の通り直近の1570年(元亀元年)11月21日には“長島一向一揆”が“尾張国・小木江城”を攻撃した事で、弟“織田信興”が自害に追い込まれる事態が起って居り“織田信長”としても“尾張国・美濃国”の情勢が気懸りだったのである。

5-(4):敗戦を含め人生最大のピンチと言える状態を“和睦策”で切り抜けた“織田信長”

“六角義賢・本願寺・三好三人衆・阿波三好家”そして“朝倉義景・浅井長政”連合軍によって“織田信長包囲網”を形成された“織田信長”は、人生最大級の危機的状態にあった。そして“志賀の陣”に於ける長い睨み合いの中で唯一起った“堅田の戦い”でも”織田信長“方は敗北を喫したのである。

既述の様に“若狭国・武田氏“が離反し“六角義賢“(承禎・生:1521年・没:1598年)並びに“比叡山”までもが”将軍・足利義昭・織田信長包囲網“を形成し、徐々にその“包囲網”を狭めて行くという状況だった。

しかし“織田信長”はこの絶対的に不利な状況を奇跡的とも言える”和睦“に持ち込む事で切り抜けるのである。以下に“織田信長”が一つ一つ“和睦”に持ち込んだ経緯を記述して行く。

5-(4)-①:“六角義賢”(承禎)との間の“和睦”を成立させる

1570年(元亀元年)11月11日:

“観音寺城の戦い”で大敗し“甲賀郡”に本拠を移した“近江国・六角義賢”(承禎・生:1521年・没:1598年)並びに子息“六角義治”(生:1545年・没:1612年)父子との“和睦”が先ず成立した。“六角″氏は”朝倉・浅井“氏と1570年8月に同盟し”南近江“の地で”織田信長“軍を圧迫し、苦しめていた。

“織田信長“はこうした局面で“将軍・足利義昭”の持つ“伝統的権威”を巧みに操り、1570年(元亀元年)11月11日に強引に”和睦“を成立させたのである。”言継卿記“にその経緯について記されている。但しこの“和睦”によって“六角”氏は“観音寺城”を奪還出来なかった。従って実質的に“六角”氏は降伏したに等しいとされ“和睦”をした事で名門大名“六角”氏は滅亡したに等しいとされる程“織田信長”にとって有利なものであった。

5-(4)-②:“本願寺”との“和睦“・・1570年(元亀元年)11月13日

“本願寺”との“和睦”に就いては1570年(元亀元年)10月晦日に“青蓮院門跡尊朝法親王”(そんちょうほっしんのう・生:1552年・没:1597年)から“大坂本願寺”の“顕如”に講和が打診され、11月13日に“顕如”が受諾した事に拠って和議が成立したと“青蓮院文書・顕如上人御書札案留”が伝えている。“六角義賢”との和睦から僅か2日後に2番目の和睦を成立させたのである。

5-(4)-③:“三好三人衆・阿波三好家”との和睦成立・・1570年12月7日

“織田信長”は“松永久秀”の仲介で“三好三人衆・阿波三好家”との和睦交渉を成立させた。“松永久秀”の娘を“織田信長”の養女にして“三好長治“に嫁がせ、その結果、同年12月7日に”和睦“を成立させたのである。この”和睦”に就いては“尋憲記”に詳しい。

“尋憲記”(奈良興福寺大乗院門跡の日記・全12冊・生年不詳・没:1585年)に拠れば“松永久秀”が仲介して“三好三人衆”並びに“阿波三好家当主・三好長治“(三好実休の嫡男・阿波三好家当主・生:1553年・没:1577年)との和睦交渉が1570年11月12日に始まった。11月18日条に“三好三人衆・阿波三好家”それに“将軍・足利義昭”そして“織田信長”が“和睦交渉”をした事が記されている。

交渉の過程の11月21日には“松永久秀”の娘を“織田信長”の養女とした上で“三好長治“(当時17歳)に嫁がせている。言わば“人質結婚”である。因みにこの11月21日という日は“長島一向一揆”が“織田信長”の弟“織田信興”を“尾張国・小木江城”を攻め、自害に追い込んだという日でもある。

この“人質結婚”の見返りとして“阿波・三好家”方からは“篠原長房”が“人質”を“松永久秀”方に遣わしている。こうしたやりとりを経て1570年(元亀元年)12月7日に“三好三人衆・阿波三好家“と”織田信長“方との間に”和睦“が成立した。こうした記録からは、この時点では”松永久秀“が”足利義昭幕府“の有力な構成員として、その役割を十分に果たした事が分かる。“将軍・足利義昭”が“織田信長”のみによって支えられていた訳では無いという事である。

後述するがこうした“和睦”の動きが“阿波・三好家”の“篠原長房”に拠る“備前侵攻”をひき起す事に成る。力を得た“篠原長房”が“阿波三好家+備前国・浦上宗景+出雲国・尼子勝久+能島村上武吉+豊後国・大友宗麟“という連合を結成し”毛利元就+讃岐国・香川氏+伊予国・河野氏+土佐国・長宗我部元親+肥前国・龍造寺隆信“から成る連合軍との間に“西日本一帯”を巻き込んだ戦闘を繰り広げる。

こうした歴史展開も“足利義昭幕府”が益々グリップの効かない幕府へと変質して行った事を裏付けている。

5-(5):最後に”朝倉義景・浅井長政・延暦寺“との間に”和睦“を成立させた事で最大のピンチ“志賀の陣”を終息させる事に成功した“織田信長”

5-(5)-①:“志賀の陣”終息を成し得た最大の要因は“織田信長”が“伝統的権威”を操る“IQ+EQ+人間力”を発揮した点にある

1570年(元亀元年)12月9日~12月13日:

“正親町天皇”そして“関白・二条晴良”更には“将軍・足利義昭“の斡旋を入れるという形での“比叡山・延暦寺”との講和が命ぜられ(12月9日)そして”織田信長“と”朝倉義景・浅井長政・延暦寺“の間での”和睦“が成立した。(12月13日)

”戦国時代“の著者”永原慶二”氏は“織田信長”が最大の危機に陥った状況を回避し得た“包囲網脱出”の主因である“奇跡的和睦”の成立は“織田信長”が1570年(永禄13年)1月23日付で“将軍・足利義昭”宛てに出した“五ケ条の条書”で“将軍代行”の立場を確立し同年3月1日に“将軍に匹敵する待遇”での“内裏参内”を果たした事が成功の背景としての第一の要因であると書いている。

つまり“織田信長”が自身を“将軍に匹敵する立場”である事を世間に認めさせていた事が、この和睦成立に効力を発したとしている。つまり“織田信長”は危機回避に当たって“禁裏”(天皇・朝廷)そして“将軍(=幕府)”という日本社会に根付いた“伝統的権威”を見事に操つる事が出来たとしている。

5-(5)-②:“志賀の陣”終息を成し得た第二の要因は“冬”が近づいていた事であろう。

“正親町天皇と将軍・足利義昭”の調停という形で朝倉・浅井方との和睦が成立した。勿論、織田信長の工作に拠るものだが、冬に入り、北国との交通が困難になればなるだけ朝倉も危険に陥る訳である。両者共に妥協する他は無かったと言えよう。この時ばかりは織田信長も天皇・将軍の効用を身に染みて実感した訳である。

上記“織田信長”が“伝統的権威”を操った“IQ+EQ+人間力”の発揮もあったが”堅田の戦い“に勝利した”朝倉義景”サイドも、そして”織田信長“サイドも領国帰還に関して厳冬を真近にした気懸りを抱えていた事、つまり、双方共に“和睦”に対するニーズが大であった事が和睦が成立した第2の要因と言えよう。

以上2つの要因が“志賀の陣”で窮地にあった“織田信長”が奇跡とも言える“織田信長包囲網“下で敵方との“和睦”を成し得た背景であった。

5-(6):“尋憲記”に書かれた“和睦交渉”の実態

“信長公記”には“和睦”に至った状況を“朝倉義景”の方が先ず和睦を望み“将軍・足利義昭”に仲介を頼んだと書いている。そして“織田信長”としては“和睦”に不満だったが“将軍・足利義昭”が自ら“三井寺”まで出向いて“織田信長”を説得した為仕方なく同意したとある。しかし“信長公記”は、窮地にあった当事者である“織田信長”の本当の状況を伝えていない。

”興福寺別当・大乗院尋憲“の日記”尋憲記“(興福寺別当・大乗院尋憲/生年不詳・没:1585年/が1562年~1577年までを書いた日記)にはこの時の和睦の展開に就いて詳しく記述しいる。“尋憲”がこの和睦交渉を中心と成って進めた“関白・二条晴良”(にじょうはれよし・藤氏長者、二条家14代当主・生:1526年・没:1579年)の弟であるという関係からも”尋憲記“の記述内容の信憑性は高いものと考えられる。

以下に”尋憲記“に基づいた”和睦交渉の実態“を詳しく記す。

5-(6)-①:“和睦成立”(1570年/元亀元年/12月13日)に至るまでの経緯

和睦調停交渉は“関白・二条晴良”が中心となって務めた。彼はこの交渉が巧く行かなければ“関白”を辞して高野山に引き籠る覚悟で臨んだとある。結果的に和睦交渉に半月を要した理由は“延暦寺”がなかなか承諾しなかった事にあった。尚、以下の交渉経緯からも分かる様に、この和睦は“織田信長”と“朝倉義景”の間の”和睦“として処理され“浅井長政”はここでも対等の存在として扱われなかった事に注目すべきであろう。(桐野作人著:信長起請文にみる志賀の陣和睦の真相)

以下に“和睦”に至るプロセス、そして“両軍”が引き揚げた状況に就いての記録を紹介する。

“織田信長“が”将軍・足利義昭“並びに”関白・二条晴良“を動かし”朝倉義景“の陣に“織田信長”の出した条件を伝える使者を遣わし、説得に当たらせた


“朝倉義景”はその使者を3~4日自陣に留め“浅井長政”並びに“延暦寺”の意向を尋ねている


”延暦寺“だけが“調停案”に異議を唱えた為”関白・二条晴良“は”正親町天皇“に綸旨を出して貰う。この事で漸く“延暦寺”は承知した。その理由はこの綸旨に“延暦寺領の安堵”が明記されていたからである。(1570年/元亀元年/12月9日)


和睦が成立し“織田”方そして“朝倉”方双方から人質が交換された。(1570年/元亀元年/12月13日)更に、幕府方からの人質として“三淵藤英”(2021年NHK大河ドラマ/麒麟がくる/で俳優・谷原章介氏が演じた。細川藤孝の異母兄)の子息が“朝倉“方の陣に渡された。この事からも“朝倉義景”は“将軍・足利義昭”を中立扱いでは無く、敵方として扱っていた事が分かる


誓紙が交換され“織田信長”軍が12月14日、そして“朝倉・浅井”軍が12月15日に戦場から引き揚げ“志賀の陣”は終結した

5-(6)-②:和睦に際して交わされた条件

上記した様に“和睦交渉“が始まってから半月も要した理由は既述の様に”延暦寺“がなかなか承諾しなかった為である。この“和睦”は“朝倉義景”と“織田信長”の間の“和睦“として処理されたものと思われ“浅井長政”は尚も対等の存在として扱われなかったと“桐野作人”氏はその著“信長起請文にみる志賀の陣、和睦の真相”で述べている。以下が和睦条件であった。

1:”織田”そして”朝倉”双方が起請文と人質を交換する事
2:”朝倉義景”は“将軍・足利義昭”に背かない事
3:山門領を返却する事
4:“浅井領”は分割し”織田勢“は攻撃を止める事

5-(6)-③:“将軍・足利義昭”の“天下静謐”に対する強い意志に“織田信長”並びに“朝倉義景”が講和に応じる結果となる

“尋憲記”には“織田信長”と“朝倉義景・浅井長政”連合が講和に動いた状況が以下の様に記されている。

1570年(元亀元年)12月13日:

公家の“二条晴良”が“将軍・足利義昭”に仕え、その後“明智光秀”の家臣と成った“上野秀政”(生年不詳・没:1582年)を介して“将軍足利義昭“に仲裁を提案した。”足利義昭“は”似合の御儀候“と提案を受け入れ”三井寺へ御越し成され候て、万一同心なく候者、高野の御すまいと仰せられ候“との記録がある。”将軍・足利義昭“は”近江国・三井寺“へ移り、和議が成功しなかった場合には“高野山”へ隠遁すると、彼が必死の覚悟をもって和議仲裁に臨んだ事を記している。

こうした“将軍・足利義昭”の強い“天下静謐”に対する意志表示が“織田信長”と“朝倉義景”を動かした。“然らば御意に応ずるべき由、朝倉も信長も申し候て、相調い候由候也”とある様に“将軍・足利義昭”の講和に対する強い意志に動かされて両者が“講和”に応じた事を記している。

下記が”足利義昭と織田信長“の著者”久野雅司“氏が総括した交渉過程である。

将軍・足利義昭と二条晴良は“朝倉義景”と”織田信長”両者の主張を聞いた。”朝倉義景”は”浅井長政”の援軍として進軍したのであって”織田信長”に遺恨は無いと述べ”織田信長”も”朝倉義景”に遺恨は無く、講和の条件として”是よりこの方は信長存知、是より是は浅井存知”と領分を主張している。この記録からは、この度の合戦は“浅井長政”との“国郡境目相論”であったとしている。結果として”近江国“の国分けと城割り、人質交換等、具体的な条件に就いて”織田信長“と”朝倉義景“の間で交渉がなされ、そこに“比叡山”が加わった形での交渉が行われた結果”講和“が成立した。

尚、今回の講和に“将軍・足利義昭”から“朝倉義景”に人質を差し出している。この史実から“将軍・足利義昭”は“織田信長”方としてこの講和に臨んでいた事が分かる。そして“朝廷”が第三者の立場でこの和睦の仲裁役として“織田信長”と“朝倉義景”との間を取り持ったという事となる。

5-(6)-④:“比叡山”との講和交渉に就いて

“比叡山”との講和交渉も“朝倉・浅井”との交渉と併行して行われていた。この交渉も“朝廷”側は“公家・二条晴良”が担当した。そもそも公家の“二条晴良”が何故“朝倉・浅井”並びに“比叡山”との交渉担当として動いたのかに就いて“足利義昭と織田信長”の著者“久野雅司”氏は以下の様に解説している。

1:“朝倉・浅井”との和睦交渉に関して

そもそも”朝倉義景・浅井長政”と”織田信長”との抗争は”朝倉義景・浅井長政”が“将軍・足利義昭”に敵対した事に起因している。その事は両者の講和に際して “将軍足利義昭“が”朝倉義景”に対して人質を差し出した事から分かる。“志賀の陣”に於ける“将軍・足利義昭”の立場は“織田信長”方と連合しており“織田信長”としては“将軍権威”を上回る“朝廷権威”を利用する事が“和睦”を勝ち取る上で、有効策と考え“戦闘”に関しては第三者の立場の“朝廷”に両者の間を取り持つ役割を担わせるという“IQ+EQ+人間力”を発揮した場面であった。

2:“比叡山”との和睦交渉に関して

併行して行われていた“比叡山”との講和交渉も”朝廷“側として”二条晴良“が担当した。”比叡山”は鎮護国家の天皇の祈願所であり、従って“講和交渉”に”朝廷”が関与する事はむしろ自然であった。従って“公卿・二条晴良“が交渉担当者として動いた事には必然性があったと言える。結果として“山門領”に就いての“綸旨”が発給され”勅命講和”としての”和睦”が成立した。


6:既述した“三好三人衆・阿波三好家”と“織田信長”との”和睦“には”松永久秀“が一役買い“人質結婚策”を労しての“和睦”と成った。この和睦の結果は“阿波三好家”の“篠原長房“に力を与える事となり、彼の”備前侵攻“に繋がった

1571年(元亀2年)1月:

“織田信長”は人生最大のピンチ状態にあったが、それを奇跡的に回避出来たのは“織田信長包囲網”を構成した敵方も“織田信長”との”和睦“を選択した事にある。その後の史実展開を知る現代の我々だから言える事ではあるが、明らかに敵方にとって“織田信長”打倒の好機を逸したのである。

上記“阿波三好家”が“織田信長”との和睦に応じた背景には“阿波三好家”には下記に述べるその後の戦略があった。後述するが“朝倉義景”も“織田信長”を窮地に追い込み乍ら“和睦”に応じた。既述の様に“朝倉義景”の優柔不断な性格に拠るものとされるが、この“和睦”条件の結果“浅井長政”は“北近江国”の3分の2を“織田信長”に譲渡するよう迫られる事になった。

しかもこの和睦交渉で“浅井長政”は対等の存在として扱われなかった。彼としては到底承服出来るものでは無く“織田信長”との対立は深まり“小谷城の戦い”(1573年8月8日~9月1日)で滅びるという展開へと繋がるのである。“志賀の陣”に於ける“朝倉義景”の“浅井長政“を無視した”和睦条件“の承諾は“朝倉義景”にとっては己の領国外の問題であり“織田信長“と”浅井長政“との間で解決されるべき問題だと割り切り、自国の事情を優先して”織田信長“との”和睦“を成立させたのである。

この“和睦”を成立させる事は“包囲網”を形成する敵方との非常に苦しい状態を乗り越える上で“織田信長”にとっては不可欠な事であった。奇跡的にクリア出来た訳であるが、元々は滅ぼそうと考えていた”朝倉義景“であったが”朝廷“並びに”将軍・足利義昭“の仲介を頼み”和睦命令“という形で窮地を脱した”織田信長“であった。”朝倉義景“を滅ぼす機会を逸したという点では“織田信長”にとって”痛恨“の極みであったと言えよう。

今一つ痛恨の極みと言える事は、今回の”朝廷“並びに”将軍・足利義昭“の仲介は“伝統的権威”を操った結果成し得た“和睦成立”であった一方で“織田信長”としては1570年(永禄13年)1月23日付で“将軍・足利義昭”に出した“五ケ条の条書”で勝ち得た“天下の主催者“の立場、即ち“将軍から天下の事は自分に任された、従って抵抗する者は誰でも成敗出来る“という名目を自ら放棄してしまった事である。

1570年(元亀元年)12月7日に“織田信長”と“三好三人衆・阿波三好家“との間に”和睦“が成立した事で”阿波三好家当主・三好長治“と、その重臣”篠原長房“は帰国し、その直後に“篠原長房”と“篠原長重”父子が軍勢を“讃岐国“(香川県)に向け”備前児島“の”本太城“を攻撃するという行動に発展した。

6-(1):“毛利元就・輝元”の孤立化を目論んだ“篠原長房”の戦略

1571年(元亀2年)5月:

”篠原長房“に対して1570年から同盟関係にあった”備前国・浦上宗景“(戦国大名・生没年不詳)が”毛利氏“からの圧迫を受けたとして救いを求めて来た。求めに応じて”備前国・児島“に上陸した”篠原長房“軍は”小早川隆景“(毛利元就の3男・生:1533年・没:1597年)の配下の”粟屋就方“(あわやなりかた・毛利氏の譜代家臣・生年不詳・没:1592年4月10日)軍を”本太城合戦“で敗った。

1571年(元亀2年)5月26日:

“篠原長房“軍の突然の攻撃に困惑した”毛利元就・輝元“父子から”織田信長“に対して“織田信長“と“三好三人衆・阿波三好家“方との間に、1570年(元亀元年)12月7日に”和睦“が結ばれた事に関して”毛利方“には一言の相談も無かったとの抗議があった事を”柳沢文書“が伝えている。

抗議内容は“阿波三好家”の“篠原長房”が1570年(元亀元年)12月7日に“将軍・足利義昭”並びに”織田信長“と”和睦“した事は”京都御宥免“であると称して、それを大義名分に掲げて”浦上宗景“と協力して”備前国・児島”に侵攻したとの事、並びに、この侵攻は1568年(永禄11年)以来、同盟関係にある“将軍・足利義昭+織田信長+毛利元就”3者の離間を企てるものではないか、との抗議であった。

”三好一族と織田信長“の中で”篠原長房“の意図を”著者・天野忠幸”氏は以下の様に解説している。

“篠原長房”は、あたかも“将軍・足利義昭+織田信長+篠原長房(阿波三好家)“の同盟が成ったかの様に見せかけ”毛利元就“を孤立化させようと画策したものと考えられる。これに驚いた“毛利元就・輝元”父子は真偽を“織田信長”に確かめると共に“篠原長房”の行動を“中国錯乱の企て”と批判したのである。

6-(2):“将軍・足利義昭”に拠る和睦斡旋の動きを利用する形で“篠原長房”は備前侵攻を始め、それが“西日本一帯”を巻き込んだ戦闘へと拡大して行った

“篠原長房”の侵攻の動きによって齎された“西日本一帯”を巻き込んだ戦闘拡大を理解する助として以下の別掲図“を参照願いたい。


6-(2)-①:“織田信長”が“阿波・三好家”と結んだ“和睦”を利用した“篠原長房”による“備前侵攻”は途中の“毛利元就”の病死もあって西日本一帯を巻き込んだ戦闘状態へと拡大して行った

“篠原長房”の行動を“中国錯乱の企て”と批判した“毛利元就・輝元”父子は“豊後国”(大分県)の“大友義鎮“(おおともよししげ・宗麟と号したのは1562年に門司城の戦いで毛利元就に敗れ出家後の事・洗礼を受けドン・フランシスコの洗礼名を得たのは1578年である・生:1530年・没:1587年)から挟撃される事を恐れ“将軍・足利義昭”に拠る“和睦斡旋”を受け入れる旨を伝えている。

1571年(元亀2年)6月12日:

“将軍・足利義昭”は“篠原長房”の行動を言語道断と批判し“毛利”方の“小早川隆景“に“香川氏”と相談して“篠原長房”軍が進出した“讃岐国”を攻撃するよう指示した。(小早川家文書)

1571年(元亀2年)6月14日:“毛利元就“が74歳で没す

軍略・政略・謀略とあらゆる手段を弄して一代の中に一国人領主から“芸(安芸)・備・防・長(長門・周防)・雲(出雲)・石(石見)“六カ国を支配する太守(複数の守護職を兼ねる大名)へとのし上がった“毛利元就”(生:1497年・没:1571年6月14日)は、1560年代前半から度々体調を崩していた。大病を患った“毛利元就”に対して“13代将軍・足利義輝“が名医”曲直瀬道三“(まなせどうさん・日本医学中興の租と称された・生:1507年・没:1594年)を遣わし全快したとの話も伝わる。

1567年(永禄10年)1月、満70の時“毛利元就”に最後の息子“才菊丸”(後の毛利秀包)が誕生している。1569年、満72歳の時には最後の出陣をしたと伝わる程に元気な彼であったが、流石に1571年5月になると病状が重く成り、6月13日、吉田郡山城で危篤に陥り、翌6月14日の巳の刻(午前10時頃)に病死(老衰、食道癌説)した。満74歳であった。

1571年(元亀2年)6月20日:

“毛利輝元”に対して“織田信長”は1570年(元亀元年)12月7日に“将軍・足利義昭”と共に“三好三人衆・阿波三好家“方と”和睦“した事は本意では無かったと弁明している。同時に現状“将軍・足利義昭”が“毛利元就”と“篠原長房”との“和睦”を仲介しているのにも拘わらず“篠原長房”が受けつけないであろうと伝えた事が“宍戸文書”(1455年~1597年にかけて豪族・宍戸氏関係について伝えた文書。宍戸氏は毛利氏の一門衆として毛利両州/小早川家&吉川家/に次ぐ待遇を受けた)に残されている。

この頃、瀬戸内海で最強を誇った“村上水軍”が分裂し“能島”の“村上武吉”は“篠原長房”に味方し“毛利元就”から離反している。そして“毛利元就”の敵方“大友宗麟”に呼応している。(別掲図:阿波三好家の篠原長房の備前侵攻が西日本一帯を巻き込む戦闘へ拡大、を参照方)

既述の“毛利元就”の病死はこうした状況下であった。(1571年6月14日)

7:”織田信長“に比べて発言力が低かった”松永久秀“並びに”三好義継“が“将軍・足利義昭“が上洛した時点で構成した政権の枠組みから離脱した事で始まった”将軍・足利義昭幕府“の変質

7-(1):“松永久秀”が“将軍・足利義昭”から離脱“織田信長包囲網”が増強される

1571年(元亀2年)5月11日~12日:

”松永久秀・久通”父子が“河内国・交野城”(かたのじょう・私部城/きさべじょう/とも称す・築城は1558年~1570年・城主は安見右近?・大阪府交野市私部)を攻め“安見右近“(畠山秋高の武将=将軍足利義昭方)を討ち取った。(多聞院日記)

“松永久秀”が“将軍・足利義昭”方から離反した理由としては“足利義昭幕府“下に於ける”松永久秀“並びに”三好義継“に対する処遇に不満を募らせていたとの説、そして”将軍・足利義昭“が”松永久秀“にとって敵の”筒井順慶“に接近する動きが顕著に成った事が挙げられる。

”松永久秀”並びに“三好義継”の“将軍・足利義昭”に対する反抗は“将軍・足利義昭”が対立して来た“三好三人衆・阿波三好家”(三好長治・篠原長房)“と”松永久秀・三好義継“が和睦する動きから始まった。これに拠って”三好長慶“没後、分裂状態にあった“三好勢力”が再結集されたのである。(1565年11月に松永久秀を追い出し、1567年2月に本宗家当主・三好義継が離脱して以来の再結集と成った)

1571年(元亀2年)5月30日:

”三好三人衆“は”将軍・足利義昭”方の”畠山秋高“(河内国半国及び紀伊国守護・高屋城々主・生:1545年・没:1573年)を攻撃した。又、既述の様に“松永久秀”父子も“将軍・足利義昭“方の“畠山秋高”の武将“安見右近”を“交野城“に討った。これ等の動きから”松永久秀・三好義継“を加えた”三好三人衆+阿波三好家“が再結集し、新たな”三好“方として“将軍・足利義昭”方と対立する構図と成った事が鮮明となった。

7-(1)ー①:5年間も協力関係を結んでいた“松永久秀”を切り捨てた “足利義昭”

1571年(元亀2年)6月11日:

“松永久秀”の方から“将軍・足利義昭”からの離反に動いたという説があるが、史実は“将軍・足利義昭”が“松永久秀“を切捨てたのである。

7-(1)-②:何故“松永久秀”が“足利義昭幕府”で失脚したのか

“将軍・足利義昭”と“松永久秀”との亀裂は“松永久秀”が仲介し成った“将軍・足利義昭・織田信長“方と”阿波三好家“との”和睦”が出発点となったと考えられる。

既述の様にこの“和睦“が成った事を”篠原長房”は”京都御宥免“と称し、これを大義名分として”備前国・児島”に侵攻し”毛利元就“を孤立化させようと画策した。

この動きは“将軍足利義昭+織田信長”と“毛利氏”との同盟関係に大きな亀裂を生じさせた。“毛利元就・輝元”父子からの抗議に対し“織田信長”が1571年(元亀2年)6月20日付の文書で“1570年(元亀元年)12月7日の三好三人衆・阿波三好家方との和睦は本意では無かった“と弁明した事は既述の通りである。

こうした事態に陥った事に対して“将軍・足利義昭”は“松永久秀”が“篠原長房”の“備前侵攻”の片棒を担いだと見做し、不信感を抱き“松永久秀”を切捨てたと“三好一族と織田信長”の著者“天野忠幸”氏は述べている。

7-(1)-③:“三好義継“も”足利義昭幕府“から離脱した事で“織田信長・松永久秀・三好義継”に拠って支えられて来た“足利義昭幕府”体制の中の三分の二が欠け、大きく変質して行く

1571年(元亀2年)7月12日:

“三好義継”と“松永久秀”が“将軍足利義昭幕府”から離反した背景について“織田政権の登場と戦国社会”の著者“平井上総”氏は①領地を巡って幕臣達との対立があった事②幕府に属する畠山・和田惟政と不仲であった事③第13代将軍・足利義輝の時期の“三好長慶”に比べて足利義昭政権における松永久秀・三好義継の位置付けが低く“三好三人衆対策”として都合よく使われるだけで、明らかに織田信長と比べて幕府内に於ける発言力が小さかった事④そして結果として上述の様に“三好三人衆”と“松永久秀+三好義継”間の対立が解消した事、以上4点を挙げている。

“三好義継”は“松永久秀”に呼応して“和田惟政”(生:1530年?・没:1571年8月)が守る“高槻城”(築城は990年と古い。1553年には芥川山城の支城となっていた。1568年織田信長が芥川山城を落城させると高槻城も無血開城。1569年和田惟政が織田信長から高槻城を与えられる。城主は代々代わり高山右近も城主となり1576年には教会を建設している。1649年に永井直清が城主と成り以後13代に亘り永井氏が城主として明治を迎えた。1871年廃藩置県に依り廃城と成った。)を攻撃すべく出陣している。(多聞院日記)

この史実も“三好義継”が“松永久秀”と共に“将軍・足利義昭”から離脱した事を裏付けている。

1568年(永禄11年)9月に“織田信長”方として加わり“足利義昭”を奉じて“入京”し、その後は“織田信長+松永久秀+三好義継”体制に拠って支えられて来た“足利義昭幕府”が大きく変質して行くのである。


7-(1)-④:“将軍・足利義昭”が“筒井順慶”に近づいた事が“松永久秀”が“将軍・足利義昭”から離脱した理由の一つであった。その“筒井順慶”との戦闘で大敗し“大和国”に於ける勢力を衰退させた“松永久秀”

1571年(元亀2年)8月4日:

“将軍・足利義昭”が“松永久秀”にとっては敵の“筒井順慶”に近寄り”筒井順慶“を幕府の構成要員として新たに取り込むべく“九条家”の娘を養女にし“筒井順慶”に嫁がせた事が“松永久秀”が“将軍・足利義昭”から離反した大きな理由であった。その“筒井順慶”を“松永久秀・三好義継”軍は攻撃した。結果は1571年8月4日“辰市城”(奈良県辰市)での合戦で“松永久秀”軍は1万の兵力で戦ったが500兵以上が討ち取られ、他に500兵が負傷、鉄砲、槍、刀を捨てて“多聞山城”に逃げ帰るという惨敗を喫した。更に“多聞山城”(奈良県奈良市法蓮町)から出陣した息子の“松永久通”軍も敗れている。

“松永久秀”方の大敗ぶりを”多聞院英俊“は”当国(大和国)初めて是程討ち取る事これ無し、城州(松永久秀)の一期(一生)もこれ無き程の合戦也“と書き遺している。この大敗の結果“松永久秀”方の国人が“筒井順慶”に寝返る等で“大和国”に於ける“松永久秀”の勢力は衰退して行ったのである。

7-(1)-⑤:“将軍・足利義昭”とは“敵対関係”になったが“織田信長”との関係は維持した“松永久秀”

上記“松永久秀”の動きは“将軍・足利義昭幕府”の“大和国”に於ける変質の象徴的な出来事とされる。

”摂津国“方面では”足利義昭幕府”の“和田推政“(摂津半国守護・生:1530年?・没:1571年8月28日)”が“白井河原の戦い“(しらいかわらのたたかい)で“三好三人衆”方の“荒木村重・中川清秀”等によって“茨木重朝”(いばらきしげとも・摂津国茨木城城主・生年不詳・没:1571年8月28日)と共に討たれ、幕府方は全滅に近い敗北を喫した。

この結果“足利義昭”上洛後に定めた幕府体制の“摂津三守護”(池田勝正・伊丹親興・和田惟政)体制が崩れ“摂津国”の“池田勝正”等を追放して結ぶ”荒木村重・中川清秀・高山友照・高山右近“等が台頭した。これが“摂津国”に於ける“将軍・足利義昭”体制の変質の姿である。

こうした“将軍・足利義昭幕府体制”の変質を起こさせたと言うべき“白井河原の戦い”(現在の茨木川)は“戦国時代”から“安土桃山時代”初期への“世代交代の戦い”とも称される。

“足利義昭幕府体制”の変質は具体的には”織田信長“が”足利義昭“の“京上洛”を為した際に“足利義昭”の名の下に行った”恩賞人事“(6-21項48-1参照方)で畿内に配置した大名の中”摂津国“では”和田惟政“が戦死し“三好”方の“荒木村重”等が台頭した事、そして“河内国”では“三好義継”の“将軍・足利義昭”からの離反、更に“大和国”では“松永久秀”も離反した。この様に“足利義昭政権“を支える”構成要員“に変化が起きた事で、その結果“足利義昭幕府”が“織田信長”への依存度を強めて行った事である。

8:許せない存在“伊勢国・長島一向一揆”そして“比叡山・延暦寺”を“織田信長”が攻撃する

8-(1):“伊勢国・長島一向一揆”への攻撃・・第一次長島侵攻(第二次は1573年9月~10月)

1571年(元亀2年)5月12日~5月16日:

大坂の本願寺との和睦を既述の通り1570年(元亀元年)11月13日に成立させ“三好三人衆・阿波三好家“との和睦を同年12月7日、そして”朝倉・浅井“並びに”延暦寺“との”和睦“も“正親町天皇”並びに“関白・二条晴良”そして“将軍・足利義昭“という”日本の伝統的権威“を操る事によって同年12月13日に成立させた事で”志賀の陣“の窮地を脱した”織田信長“であった。

“大坂本願寺“との”和睦“は成ったものの”織田信長“としては1570年(元亀元年)11月21日に“長島一向一揆”が“尾張国・小木江城”を攻撃し、弟“織田信興”を自害に追い込んだ事に対する恨みは消えなかった。

“長島一向一揆”に対する警戒心は最大の不安として高まるばかりであった。”織田信長”は“延暦寺”も同じく不安要素ではあったが“長島一向一揆”への攻撃を優先し“織田信長”自身が“津島”まで出陣した。

“織田信長”軍は5万余の大軍を3手に分けて中州(長島はもともと七島であり、尾張国と伊勢国の国境にある木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の地帯を指した)を包囲した。しかし幾筋もの川に遮られて、攻撃する事が出来ずに、放火し撤退しようとしたところを一揆勢のゲリラ攻撃に遭ったのである。

状況としては“織田信長“方に”長島一向一揆”方が謝罪して来た為 “織田信長”は”徳川家康”並びに“幕臣・大館晴光”に“長島一向一揆”を許す様に伝え、撤退しようとしていた。その矢先に“長島一向一揆“側がゲリラ攻撃による”騙し討ち“を行ったのである。

このゲリラ攻撃で“織田信長”方は“柴田勝家”が負傷し“氏家直元”(西美濃三人衆の一人・氏家卜全とも・大垣城主・生:1512年?・没:1571年5月12日)並びに“蜂須賀正元”(蜂須賀小六の弟・生:1545年・没:1571年5月6日)が戦死する等、大きな被害を出した。前年(1570年)11月21日に弟“織田信興”が自害に追い込まれ、その報復の為の今回の“長島一向一揆”攻撃であったが、最後の段階で敵方からの”騙し討ち“同然の攻撃に遭い2名の武将が戦死した事が”織田信長“に”第二次・第三次“の“長島一向一揆”攻撃を敢行させ、後世に伝わる“1573年~1574年の大虐殺“という”恨み骨髄“の戦いへと繋がったのである。

8-(2):比叡山“延暦寺”焼き打ち・・1571年(元亀2年)9月12日

上記の様に“織田信長”方は“伊勢国・長島一向一揆”との戦いで“一向一揆”側が謝罪をして来た事を信じ、撤兵しようとしていたところを“騙し討ち的ゲリラ攻撃”に遭って、手痛い損害を受け“敗北”を喫した。(1571年/元亀2年/5月12日~5月16日)

こうした失敗をした直後ではあったが“織田信長”は、もう一方の許せない存在“比叡山・延暦寺”攻撃に取り掛かった。

“志賀の陣”の窮地を脱する決め手となった1570年(元亀元年)11月11日~12月13日に亘っての“和睦交渉”で①六角義賢②大坂本願寺③三好三人衆・阿波三好家④朝倉義景・浅井長政⑤延暦寺の順に“織田信長”は”和睦“成立を成し遂げた。”志賀の陣“の窮地を脱出する為に”織田信長“にとっては必要、不可欠な”和睦“交渉ではあったが、後に”織田信長“は”毛利元就・輝元“父子への文書で”和睦は本意では無かった“と弁明している事は既述の通りである。(宍戸文書)

“織田信長”が本音を漏らした通り、これ等の”和睦“は束の間の“和睦”であり、遅かれ早かれ破棄される事は目に見えていた。

”比叡山延暦寺”側は“朝倉義景・浅井長政”軍を保護したばかりか“正親町天皇”と“将軍・足利義昭“の仲裁という形で”志賀の陣“の最中の1570年(元亀元年)12月9日~12月13日の交渉、すなわち“勅命講和”という形で“織田信長”と講和したが、既述の様に交渉成立にあたっては“延暦寺領の安堵”が明記されていない等“延暦寺”側は条件に対する不満を挙げ“和睦交渉“は始まってから妥結に至る迄に時間を要した。

”延暦寺“は”延暦寺“の保護を”和睦条件“として要求した。その為”織田信長“は不本意乍ら”誓紙“の中にその旨を明記せざるを得なかった。漸く”和睦“が成立し、誓紙が交換され、両軍が戦場から引き揚げ“志賀の陣”は終結したのである。

出家の身にありながら俗世間に容喙(ようかい=当事者でない者が横あいから差し出口をする事)する“延暦寺”の僧侶達の態度は“織田信長”にどうしても許せないという感情を残した。従って”志賀の陣“での”和睦締結“(1570年/元亀元年/12月13日)を完遂し”織田信長“は”岐阜“に戻ったが、直ちに戦いの準備に取り掛かったのである。

8-(2)-①:“志賀の陣”のピンチを“和睦”戦術で切り抜けた直後から“比叡山焼き討ち”の準備に着手した“織田信長”

1571年(元亀2年)8月18日:

”織田信長“の”比叡山・延暦寺“攻撃は”横山城“を拠点とし”小谷城“の北”余呉・木の下“周辺への放火を行い”朝倉氏・浅井氏“を牽制する軍事行動から始まった。

そこに到る前段階の準備として“織田信長”は1570年12月13日に“志賀の陣”の窮地を脱した“和睦”を成立させた直後から”浅井“氏の家臣”磯野員昌“(いそのかずまさ・佐和山城主・姉川の戦いで員昌の姉川十一段崩しと伝わる織田本陣に迫る猛攻を行った武将として知られる・生:1523年・没:1590年)が城主の”佐和山城“を”織田方“が拠点とした”横山城“で分断し”小谷城“から孤立させる戦略で1571年2月24日に降伏させ、開城させた。

開城後は”丹羽長秀”(安土城普請の総奉行・柴田勝家に続ぐ2番家老・清州会議では三法師を担ぐ秀吉を支持した・生:1535年・没:1585年)が“佐和山城主“として入城した。そして、その“佐和山城“へ”織田信長“が入城し”比叡山”攻撃の準備を進めたのである。

1571年(元亀2年)9月1日~11日:

”石山本願寺“に呼応し”織田信長“に敵対”浅井長政”方に寝返った‟志村城“(当主・志村佐衛門忠資・滋賀県東近江市新宮町)を9月1日に、そして”小川城“(1582年6月2日に起きた本能寺の変の後、徳川家康が伊賀越えをした際に道中一夜を過ごした事で知られる・城主小川土佐守祐忠・滋賀県東近江市小川町)を9月11日に”柴田勝家”並びに“佐久間信盛”等に攻めさせ降伏させた。“志村城”攻撃の際には670もの首級を上げた。殆んど皆殺しと伝わる。これを知った“小川城”方の戦意は萎え“城主・小川土佐守祐忠”(おがわとさのかみすけただ・生:1535年・没:1601年)は7人の人質を進上して降参した。

更に“織田信長”は“江南地域”に於ける“真宗”の拠点として知られ“大坂本願寺・顕如”の檄文に呼応して“一向一揆”の拠点と成った“金森城”(かねがもりじょう・滋賀県守山市金森町・築城主川那辺氏)を“佐久間信盛“に攻めさせたが”比叡山焼き討ち“を優先する”織田信長“はこの戦では一時的な人質交換によって”和睦“をした。

“比叡山”を目指す“織田信長”軍は“三井寺”の近くに3万の軍勢を集結させた。ここまでの“織田信長”軍の動きに“京都”の公家達はそのまま“入京”するものと思っていたと伝わる。そして“京”の人達が想像もしていなかった“比叡山焼き討ち”という行動に“織田信長”は出たのである。

1571年(元亀2年)9月12日:“叡山焼き討ち”の日

この日は時折小雨がちらつく天候だったとある。“織田信長”は早朝から軍勢を動かした。北に進み“坂本”に入るや町に火を放った。”坂本“は当時”近江国“で最も繁栄した町で“陸上、湖上の交通の基点であった。平安時代から“延暦寺”と関係を持ち続け“戦国時代にはほゞその支配下にあった。多くの“堂舎”(社寺の建物)が“坂本”に“比叡山”から移って来ており、それに伴って大勢の僧侶が移住していた。

写真:大津市坂本訪問・・2017年8月3日(木)
写真上・下:50余りの里坊があり今日でも門前町の面影を残している。坂本には延暦寺の僧侶でありながら妻帯と名字帯刀が認められた“公人”(くにん)と呼ばれる年貢、諸役を収納する寺務を務める人々がおり、その屋敷 (旧岡本邸)を見学する事が出来た。

8-(2)-②:容赦無く放火と殺戮を重ねた“織田信長”軍

“織田信長”軍は町家・堂舎を見境なく燃やし続け、郊外に在る”延暦寺“の守護神”日吉神社”(ひえじんじゃ)にも放火した。その”神輿(御輿)“は諸人を畏怖させたものだが、この放火で呆気なく燃えてしまった。“織田信長”軍は逃げ惑う僧侶達を追いかけ殺戮を繰り返したと伝わる。日吉神社の北方(添付写真では比叡山の右手)の“八王子山”では、僧侶だけでなく大勢の俗人も殺された。女性、少年も容赦されなかったと伝わる。

”比叡山“の山頂に攻め込んだ”織田信長“軍は”根本中堂・講堂“をはじめ伝統ある建築物を焼き、大勢の住人を殺戮した。

この“比叡山・延暦寺焼き討ち”で殺された者は“言継卿記”には3000~4000人とあるが従軍した“美濃国”の“遠藤胤基”(えんどうたねもと・生:1548年・没:1594年)並びに彼の従兄弟の“遠藤慶隆”(えんどうよしたか・生:1550年・没:1632年)が“安養寺”に宛てた書状には1000余人とある。その他諸書にまちまちな数字が書かれているが1000人前後が実態であったであろう。

“信長公記”にもこの時の惨憺たる状況が書かれている。“言継卿記”に書かれた内容と比較して、記事が誇張で無い事が裏付けられている。以下に紹介する。

僧俗・児童・智者上人(しょうにん)一々に頭をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧・貴僧・有智(うーち=知恵のあること)の僧と申し、其外美女、小童其員(かず)を知らず召捕り、召列れ御前へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、是は御扶(おたす)けなされ候へと声々に申上候といへども、中々御許容なく、一々に頭を打落され、目も当てられぬ有様なり。数千の屍(しかばね)算を乱し、哀れなる仕合(なりゆき)なり。

8-(2)-③:殲滅された“延暦寺”の復興を死ぬまで許す事が無かった“織田信長”

伝統的に“京都”を鎮護するものとされた“延暦寺“並びに”日吉神社“は”織田信長“によって殲滅され、その存在すら消された。中世の”比叡山延暦寺“は僧兵を擁して”朝廷“や”幕府“にしばしば“強訴”をして来ており“歴代権力”は手を焼く存在であった。

”朝廷・幕府“と”延暦寺“との軍事衝突の歴史は”籤引き将軍・恐怖政治“で知られる“室町幕府第六代将軍・足利義教“(在職:1429年~1441年・生:1394年・没:1441年)の時に”永享の山門騒乱“(1433年7月~1435年2月)が起きている。この時、幕府は”延暦寺弁澄”等を殺している。衆徒、僧等が、総寺院・根本中堂を焼き、自殺する者も多く出たとして知られる。(この事件については6-15項27-3に記述したので参照願いたい)

“永享の山門騒乱”と“織田信長”に拠る“比叡山焼き討ち”との違いは“第六代将軍・足利義教“は比叡山の山上迄攻め入った訳では無く”根本中堂“への放火は僧に拠るものであった。彼は”延暦寺”の存在自体を否定した訳でも無かった。この点で“織田信長”の“比叡山焼き討ち”とは大きく異なる。“織田信長”の行動は“朝廷”もかなり衝撃を受け“言継卿記”には“仏法が破滅したから王法(天皇・朝廷)もどうなるか分からない”と記している。

“織田信長”は“仏教嫌い”から“比叡山焼き討ち”に及んだのでは無い事は“敵対”をして来ない寺院に対してはこの様な徹底した殲滅行動を起こしていない事からも分かる。 “延暦寺”は既述の様に歴代政権に対して政治行動を繰り返して来た。そして”志賀の陣“では”幕府・織田信長“に敵対する勢力を公然と支持した。こうした敵対行動が”織田信長“を激高させ、過激な反応へと繋がったのである。

“織田信長”が”京都周辺“の宗教勢力に対して”過度な政治介入をすると弾圧する“という意志をはっきりと示したのが”叡山焼き討ち“であると”織田政権の登場と戦国社会“の著者“平井上総”氏は述べている。そして”織田信長“は彼が”本能寺の変“で死ぬまで”延暦寺“の復興を許さなかった。

この時期の“織田信長”は“朝倉義景・浅井長政”勢、そして“本願寺勢の一向一揆”更には“三好党”といったこれ迄の敵に加えて主君“将軍足利義昭”との間の対立を鮮明にして来た時期であった。更に“松永久秀・武田信玄”も“信長包囲網“を形成しつつあり”絶体絶命“の窮地に追い込まれつつあったのである。こうした状況を一蹴するという意味も込めた”織田信長“の”乾坤一擲“の策が”叡山焼き討ち“であり、歴史を明らかに大きく変えた行動であった、と”戦国時代“の著者”永原慶二”氏は記述している。

8-(2)-④:殲滅された“延暦寺”並びに“日吉神社”の寺領、社領は分配された

“延暦寺”や“日吉神社”は殲滅されてその存在すら消された。寺領、社領は悉く没収されて南“近江国“に配置されていた①明智光秀②佐久間信盛③中川重政④柴田勝家⑤丹羽長秀の5人の武将に分配された。

9:広範囲に亘って“反・織田信長”を呼び掛ける一方で、表面的には協調するポーズをとって来た“将軍・足利義昭”が明らかな対立態度へと変貌する

”足利義昭と織田信長“の著者”久野雅司”氏は“天下静謐”を実現化させる為には“織田信長”の強大な軍事力と、優れた軍事の指揮統率能力は不可欠である事から“将軍・足利義昭”は“織田信長“に”天下静謐維持権“を委任したのである。”将軍・足利義昭“はその上で彼を積極的に利用、活用するという事でやって来た。”将軍・足利義昭“と”織田信長“との相互依存の関係は1572年(元亀3年)の末迄は”御一味“との表現を著者”久野雅司“氏が用いた様に、両者が一体となって軍事行動も展開していたのである。

9-(1):“将軍・足利義昭“が”織田信長“と決定的対立に到り、遂に挙兵する

9-(1)-①:“将軍・足利義昭”が“織田信長”と対立し遂に挙兵に至った時期は何時か?に関する説・・1572年9月(12月説もある・後述)の“異見17ケ条”がトリガーとする説

“将軍・足利義昭”と“織田信長”は1572年(元亀3年)末迄は“御一味”つまり、協力関係を持って“軍事行動”を展開していた。しかし1573年(元亀4年)になると“将軍・足利義昭”は“織田信長”に“御逆心”し、遂には挙兵する事態に至った。この行動のトリガーに成ったのは1572年9月(12月説もある。後述)の“異見17ケ条”であるとする説が有力である。この説の論拠は以下である。

“将軍・足利義昭”は1571年(元亀2年)頃から“本願寺”そして“朝倉義景・浅井長政・武田信玄”等の武将達に御内書を送り“第二次織田信長包囲網”を形成し始めていた。この様に、既に両者の間の信頼関係には齟齬が拡大し亀裂が生じていた。そして1572年(元亀3年)9月(12月説もある、後述)に“織田信長”は“将軍・足利義昭”を叱責する内容の“異見十七ケ条”を出したのである。

この“異見十七ケ条”こそが、両者の協力関係を敵対関係へと変貌させ、決定付け、遂には“将軍・足利義昭”が蜂起するに至ったトリガーと成ったとする説がある。

9-(1)-②:“将軍・足利義昭”の“織田信長”への敵対は1571年(元亀2年)頃から始まっていたとする説もある。しかしこの説は以下に示す根拠から早すぎ、誤りだとされる

根拠の説明:

“将軍・足利義昭”は“松永久秀”と連携する“武田信玄”に期待し“織田信長包囲網”そして“天下静謐”を“武田信玄”に託す御内書を発給した。以下がその文書である。

当家に対し忠節を抽んず(ぬくんず=他よりひときわすぐれて)べき由、法(宝)印を翻し言上、慥かに(確かに)聞こし召されO、疐に無二の覚悟、最つとも感悦に候、然らば親疎なき通り誓詞を進め、その旨を存知、いよいよ忠功肝要、急度(屹度)行(てだて)に及び、天下静謐之馳走(奔走)、油断あるべからざる事専一候、猶一色駿河守(幕臣)申すべく候也
五月十三日
法性院(武田信玄の戒名法性院機山信玄から)            花押

この文書は“武田信玄”が“将軍・足利義昭”に忠節の意志を示した“起請文”を差し出した事に対して“将軍・足利義昭”から“武田信玄”に“天下静謐”の為の軍事行動を指示した、所謂“織田信長”を切り捨て“武田信玄”に乗り換えたとされる文書とされる。この文書の発行日付に関しても1572年5月13日説があったが、これも、既述した史実との整合性との観点から1年後の1573年5月13日が正しいと訂正された。

1572年5月から1573年5月に訂正された論拠

当初、1572年(元亀3年)5月13日と比定された時の論拠は“武田信玄”は上記“将軍・足利義昭“からの”御内緒“を受け”京“への”西上作戦“を展開し”遠江国・三河国“侵攻を開始したとする説であったが。しかし“将軍・足利義昭”が“織田信長”を切り捨てる決断をしたのが“異見17ケ条”が“織田信長“から発給された1572年9月(12月説もある)以降である事から1572年5月説はあり得ない。

更に“武田信玄”の”遠江国・三河国侵攻開始“(1572年10月3日~)に対する“織田信長”の怒りが“将軍・足利義昭”に対する“異見17ケ条”(発給1572年9月~)の文意にも表れている点からも、上記“将軍・足利義昭”が“織田信長”を切って“武田信玄”に“天下静謐“を任せる”御内書”の発行日、つまり“織田信長討伐”を命じた時期は1572年5月では無く、1年後の1573年であるとする説の方が史実との整合性の点からも説得力があるという結論に成る。(1573年5月13日の40日前には武田信玄は既に病死しており、この御内書は見ていない事になる)

9-(2):“将軍・足利義昭”と“織田信長”の対立を決定的にした“織田信長”が発給した“十七箇条の意見書”(異見十七ケ条)について

9-(2)―①:“十七箇条の意見書”(異見十七ケ条)の発給時期について

当時の文書には年号が記されていないケースが多い。”年代記抄節“には”九月、武家(将軍)へ信長より御異見として十七箇条一書を進上す、是より御仲(仲)悪くなり候“とある。又”大日本史料“や”信長文書“にも”1572年/元亀3年/九月に発給されたと書かれている。尚、1572年12月説もあるが、後述する。

種々の研究からも“異見十七ケ条”が“将軍・足利義昭”と“織田信長”の決裂を決定的にしたトリガーだとする説が説得力を持つ事に成った。“足利義昭”は“織田信長“に反発し既述した様に”武田信玄“に”天下静謐“を任せる”御内書“を発給するに至っている。この”御内書“は”武田信玄“の病死後のものであったがこうした”将軍・足利義昭“と”織田信長“の確執は”武田信玄“も以前から知る処であったであろう。こうした”将軍・足利義昭“と”織田信長“の関係悪化状態に呼応して”武田信玄“が西上の動きを開始したとされる説には説得力がある。

“十七箇条の意見書”(異見十七ケ条)の内容を下記に紹介して置きたい。“織田信長”と“将軍・足利義昭“の確執が既に修復不可能な迄に拡大していた事が分かる。

9-(2)―②:“十七箇条の意見書”(異見十七ケ条)の内容
 
第一条:宮中に参内される事に就いて、13代将軍足利義輝は怠りがちだったゆえに不幸な最期を遂げた.毎年怠りなく勤められるようにと入京時から言っていたのに、近年すっかり怠っているのは遺憾だ
第二条:諸国の大名に御内書を出し,馬などを献上させている事は外聞も良く無いので改めた方が良い.もし必要な場合、信長に言ってくれれば添え状を付けて取り計らう約束だったのにそうしていない.内密で直接に指示するのは良く無い
第三条:幕府出仕の人々で、よく奉公をして忠節を尽くしている者に相応の恩賞を与えずに新参者で大した身分でもない者に扶持(米や銭)を与えている.それだと忠.不忠の別も無用だろう.人々の評判も良くは無い.
第四条:最近、将軍と信長との関係悪化の風説があるが、将軍が将軍家の重宝類をよそに移動させた為、事が京の内外に知れ渡り、京都で騒然としているそうだ.将軍の為に苦労して御所を建てたのに、重宝類をよそへ移し、今度は何処に居を移すのか.残念だ.そんな事をすれば、信長の苦労も無駄になって仕舞う
第五条:賀茂神社の所領の一部を没収し、岩成友通に与え、表向きはその神社の経費を負担する様に厳重に言いながら、本当のところはそれほどしなくて良いと指示した事を聞いた.大体、この様に寺社領を没収するのは良くないと思う.岩成が所領不足で困っているというから、彼の要求を将軍に聞き届け、又、将軍の御用を彼に命じようと思っていたのに、この様な内密の取り計らいをしたのは良くない事だ.
第六条:信長に対して友好的な関係にある者には、女房衆(幕府の女子職員)にまで不当な扱いをしているそうで、彼等は迷惑している.信長に友好的な者と聞いたら、特別に目を懸けて貰ったら有難いと思うのに、逆に考えているとは、いかなる理由があるのか.
第七条:真面目に奉公している者に扶持を加給してやらないので、京都での暮らしに困っている者達が信長に泣き言を言って来る.以前に私から将軍に彼等の扶持の件を伝えたが、誰一人加給されていない.余りにも苛酷な処置なので、私は彼等に対して面目が無い.
第八条:若狭の国安賀庄(福井県若狭町)の代官の件に就いて、粟屋孫八郎が訴訟を起こし、信長がこれを取り持って色々と将軍に進言したのに、今に至って未だ決裁されていない.
第九条:小泉の身の回りの品の他、刀.脇差などまで没収されたとの事.小泉が故意に悪事を働いたのなら、徹底した処分をしても当然だが、偶発的な喧嘩で死んだ(喧嘩相手が)のだから、一般的に適用される法規通りに処置されるのが正しい。没収までするのは、将軍の欲得ずくだと世間では思うだろう.
第十条:世間一般の意見に基づき,元亀の年号は不吉だから改元した方が良いと信長は言い、宮中からも催促があったそうだが、そのためのわずかな費用を献上しようとしない.これは天下の為なのだから,怠るのは良くない.
第十一条:烏丸光康を懲戒された件で、息子光宣については当然だけれど、信長は光康を赦免なさる様言った.しかし、光康から金銭を受け取って出仕をお許しになったそうで、嘆かわしい事だ.人や罪によっては過料として徴収する事はあるだろうが、彼は公卿だ.こういうやり方は他への影響もあり、良くない事だ.
第十二条:諸国から将軍に御礼をして金銀を献上している事は明らか.なのに内密に蓄えて宮中の御用にも役立てないのは、何のためなのか.
第十三条:明智光秀が京の町で地子銭を徴収し、買い物の代金としたのに、その土地は延暦寺の領だと言いがかりをつけて預けておいたものを差し押さえたのは不当だ.
第十四条:昨年の夏、幕府に蓄えてある米を売却して金銀に換えたそうで.将軍が商売するなどは古今東西聞いた事がない.今の時代だから蔵に兵糧米があることこそ、世間への聞こえも良いのだ.この様なやり方に信長は驚いている.
第十五条:寝所に呼び寄せた若衆(男色の相手)に扶持を支給しようというなら、その場その場で何か褒美の物をやればいいのに、代官職に任命したり、道理に合わない訴訟の申し立てに肩入れするのは、世間から悪評が立っても仕方ない
第十六条:幕臣達は武具.兵糧などには気を配らずに、専ら金銀を蓄えているそうで.これは浪人になった時のことを考えての準備なのだと思う.原因は将軍自身が金銀を蓄え、いざという時に御所を出る様に見受けられるからだろう.部下の者達は”さては京都を出奔するつもりなのか”と推察しての事だと思う.”上に立つ者は自らの行動を慎む”という教えを守る事は(将軍に)出来ない事はないだろう.
第十七条:世間では”将軍は欲深いから、道理もウワサも構わないのだ”と言っている.百姓さえもが”悪しき御所”と呼んでいるそうだ.何故このように陰口を言われるか、今こそ良く考えたほうが良い.

上記“十七ケ条の意見書“の概要は下記と成る。


①:“織田信長“が”足利義昭“に対して出した”五ケ条条書“(1570年1月23日付)の内容が守られず朝廷への奉仕を怠っている事
②:信長に無断で諸国の大名へ御内書を遣わしている事
③:信長に親しい者には女房衆にまで、辛辣に当たっている事
④:幕臣の賞罰に不公平があり公平に裁判が行われていない事
⑤:幕臣に恩賞が与えられず、困窮している為違乱(秩序を乱す事)が起きている事
⑥:それにも拘わらず将軍・足利義昭は金銭を過度に蓄えている事
⑦:“悪御所“と土民・百姓達までが批判している

9-(3):“十七ケ条の意見書“(異見十七ケ条)1572年12月発給説

“柴裕之”氏は“十七ケ条の意見書“(異見十七ケ条)は”大日本史料“や”信長文書“によれば”1572年(元亀3年)9月“発給では無く3ケ月後の”1572年(元亀3年)12月“に発給されたとしてその根拠を以下の様に論じている。

①:宣教師ルイス・フロイスの書簡に“美濃より公方様に十五ケ条(十七ケ条の誤り?)を書送り”とある。この記録から“織田信長”が美濃国に居た“1572年(元亀3年)末”に書かれたものと考えられる



②:“武田信玄”が“松永久秀”の家臣“岡国高”に宛てた文書には“織田信長”に対して蜂起を決断した“将軍・足利義昭”に対し“武田信玄”は連繋して西上する意図を滲ませた事が書かれている。”柴裕之“氏は“武田信玄は遠江国・三河国への侵攻に就いても書いており、史実との整合性からこの等の軍事行動からこの文書の5月17日とは明らかに1573年(元亀4年)発給という事である。(既述の様に武田信玄は40日前の4月13日に病死しており1573年発給は納得できるが5月という日付けは矛盾している。戦国期の史料は数も少なく、残念ながらこうした齟齬がある文書もある)

“武田信玄”から“岡周防守(国高)”への手紙とは以下である。

珍札披見酢、快然に候、来意の如く,今度遠(遠江)・参(三河)へ至り発向す、過半本意に属し候、御心安かるべく候、抑公方様信長に対せられ御遺恨重畳故、御追伐のため、御色立てられるの由候条、この時無二忠巧を励まされるべき事肝要候、公儀の御威光をもって、信玄も上洛せしまば、他に異なり申し談ずべく候、よって寒野川弓十三張到来、珍重候、委曲彼口上に与み附し候の間、具に能わず候、恐々謹言 五月十七日
岡周防守(国高)殿                       信玄(花押)

上記書状の解説:

この書状は“武田信玄”が“松永久秀”の家臣“岡国高”(おかくにたか・生没年不詳)に宛てたものである。“武田信玄”が“織田信長”と固い同盟で結ばれた“徳川家康”の領土“遠江国・三河国”に侵攻(1572年10月3日出陣~1573年4月病死)する事を記している。又、文中1572年9月(12月説もある)に“将軍・足利義昭”に“織田信長”が突き付けた“異見17ケ条”に“将軍・足利義昭”が堪忍袋の緒を切り“織田信長”との決裂を決断し“織田信長包囲網”強化に動き出した。その状況を知った“武田信玄”が“将軍・足利義昭”に協力して“西上”する意図を表明した書状である。
(上記した様に5月17日の日付は矛盾であるが戦国期の史料は数も少なくこうした箇所があるケースがある)この文書も1571年と比定(他の書状と共に比べ合わせて同時期のものとして推定する事)された事があったが、研究が進んだ結果、史実との整合性の観点から1573年説が正しいと訂正された。

③:“当代記“に”この冬、信長十七ケ条書き付、義昭へ諫言を遂げられる“とある事から”十七条の意見書“は1572年9月の発給では無く冬(12月)説が正しいと考えられる。

④:又“細川家記”にも“十二月、義昭公、信長より諫書十七ケ条を呈せられる”とあり、この事からも“十七ケ条の意見書”の発行は“1572年(元亀3年)12月”だったと考えられる。

以上“柴裕之”氏は“十七ケ条の意見書”(異見17ケ条)の発給日は1572年9月では無く3ケ月後の12月だとの説を展開している。ここに両説の間には3ケ月の差が生じるが“将軍・足利義昭”と“織田信長“の対立、決裂した時期を”1571年頃からとする説“が誤りである“とする事に変わりは無い。

9-(4):“1572年(元亀3年)中”は”将軍・足利義昭“は”反・織田信長“の動きを開始していたものの、表面上は”織田信長“との協調ポーズは崩していない。その事を裏付ける史実が以下である

9-(4)-①:“将軍・足利義昭”自らが動いて“織田信長”の京都の屋敷の造成をしてい た史実

9-(4)-②:“1572年(元亀3年)1月4日~4月:”将軍・足利義昭“が”織田信長軍“をサポート

1571年(元亀2年)7月12日の記録からこの時点で“三好義継”と“松永久秀”は“将軍・足利義昭幕府”から離反し、幕府方(将軍・足利義昭)の“畠山秋高”(=昭高・生:1545年・没:1573年6月25日)の諸城を攻撃し“畠山秋高”(=昭高)が城主であった“高屋城“も攻撃している。しかし“織田信長”とは未だ袂を別った訳では無い。

この動きに対して“織田信長”は“高屋城”支援に向けて出陣”将軍・足利義昭“もこの時点では”織田信長”軍をサポートし“幕府軍”を派遣している。“将軍・足利義昭”としては、切捨てた“松永久秀”を討伐するという観点から、当然の“織田信長”支援であった。この史実は1572年閏1月4日~4月の時点で“将軍・足利義昭”と“織田信長”が未だ協調関係にあったをはっきりと裏付けている。

10:“志賀の陣”を“和睦”で取り敢えず切り抜けた“織田信長”ではあったが,依然“反・織田信長”勢力に囲まれていた事に変わりはなかった

“近江国”には不安定な状況を齎した元凶の“浅井”氏、そして、1571年の和睦で実質的に大名としては滅亡したとされる“六角”氏が存在した。“大坂本願寺”との関係も“和睦“後も両者に対立の火種が無くなった訳では無かった。更に守護クラスでは“池田重成・伊丹忠親・和田惟長”等は“反・織田信長”派として存在し、加えて、次第に“松永久秀・三好義継”との対立関係も鮮明になって来ていた。

周囲を敵に囲まれるという状態に変わりなかったのである。

10-(1):味方の方が圧倒的に少ない状況下で“織田信長”を救ったのは“敵方”が“反・織田信長勢力”としての纏りを欠いていた事であった

10-(1)-①:求心力に欠けた“将軍・足利義昭”

“反・織田信長“勢力が旗頭と考えていたのは”反・織田信長“の動きを自ら広範囲に呼び掛け始めた”将軍・足利義昭“であった。しかし、中心になるべき”将軍・足利義昭“の求心力は弱く”反・織田信長勢力“を全体として組織する事が出来なかった。 従って“同志”であるべき“守護”や“国人”同志が争いを起こす事も度々あるという纏まり(まとまり)の無さであった。この事は“織田信長”にとっては大きな“救い”と成ったのである。

11:“反織田信長勢力”に共通した“期待”は“甲斐国・武田信玄”の上洛であった

“武田信玄”は“将軍・足利義昭”に対して忠節の意志を示し“起請文”を差し出していた。これに対して“将軍・足利義昭”からは既述の様に1573年(元亀4年)5月13日付け(前年1572年5月13日付けと比定された事があったが今日では誤りとされる事は既述の通りである)の文書(御内書)で“武田信玄”が忠節を誓って来た事を“将軍・足利義昭”は褒めた後“急度(屹度)行(てだて)に及び、天下静謐之馳走(奔走)、油断あるべからざる事専一候“と”天下静謐“の軍事行動を指示している。

この“天下静謐”という文言が“織田信長打倒”を示している事は言うまでも無い。“武田信玄”は言わば“将軍・足利義昭”へ支援をコミットした事であり”京“へ向かう”西上作戦“の実行を決心したものと考えられる。

”織田信長“と固い同盟関係にある”徳川家康“の領国である”遠江国・三河国“への侵攻を開始したという史実は“織田信長”との対決を覚悟したという事に他ならず、史実展開と整合する。しかし乍ら既述の様に“将軍・足利義昭”からの“天下静謐”を委任した文書の日付の40日前には“武田信玄”は病没していたのである。

“織田信長包囲網”を形成するメンバー達の中で“武田信玄”への期待が大きかった人物は“本願寺・顕如”であった。彼は1572年(元亀3年)正月十四日に“武田信玄”に太刀等を贈り、同時に“織田信長が攻めて来そうなので、それを牽制して欲しい”と頼んだ事が“顕如上人御書札案留”に遺され、上記を裏付けている。

11-(1):“織田信長”と“武田信玄”の協調関係が対立関係へと変化した経緯について

1568年(永禄11年)9月の“上洛”以前から“織田信長”は“武田信玄”との協調関係を築き上げていた。その状況は“別掲図・・織田信長と武田信玄の蜜月時代、そして決裂”を参照されたい。


11-(1)-①:“六角義賢(承禎)“も“反・織田信長”の動きを始める・・対抗策として“織田信長“は”六角氏に協力しない事を誓わせる主旨の“誓約書“を周囲の村々に出させる(元亀の起請文)

“近江国“で”織田信長“は” 朝倉氏・浅井氏“並びに”本願寺“を相手に手こずった。そこに“将軍・足利義昭”が既述の様に“三好義継・松永久秀”を切捨てた事で(1571年/元亀2年/5月11日~12日)”松永久秀”並びに“三好義継”が、永く対立関係にあった“三好三人衆・阿波三好家(三好長治・篠原長房)“と和睦し”三好長慶“没後、分裂状態にあった“三好勢力”が再結集するというアゲインストの状況が加わった。

この事は、当時は未だ協力関係にあった”将軍・足利義昭“と”織田信長“連合にとっては“敵方の勢力強化”の動きであった。

1572年(元亀3年)初:

“観音寺城の戦い”(1568年9月12日)で大敗を喫し“甲賀郡”に逼塞していた“六角義賢“(承禎・生:1521年・没:1598年)が“湖南”の“一向一揆“と連合して”将軍・足利義昭・織田信長”連合に対抗すべく“琵琶湖“近辺まで進出し“金森・三宅両城”に立て籠もった。“金森“は現在の”滋賀県守山市の集落地名で‟寺内町“の初期形態として知られる地域である。戦国時代には近在の”三宅“(現在の蓮正寺)と連携した“城”としての機能が整えられ(三宅城が金森城の出城の役目を担ったとされる)“湖南地域”の“一向宗徒”の拠点と成っていたのである。

この地域は“織田信長”にとって、領国“岐阜”と“京都”を結ぶ通路に当たる重要な地域であった。“大坂本願寺”の“顕如”から発せられた“反織田信長”の“檄文”に応えて1571年6月~9月にかけて“一向一揆”が蜂起した。“織田信長“は”柴田勝家“と”佐久間信盛“に攻撃させたが”比叡山焼き討ち“(1571年9月⒓日)を優先させる決断をし、人質を交換して、この戦闘は“和睦”に拠って収めている。

1572年(元亀3年)1月23日:

“六角義賢(承禎)”が湖南の“一向一揆”と結んで“織田信長”軍への反抗に及んだ事に対し“織田信長”は上記した様に”柴田勝家“と”佐久間信盛“に“金森・三宅両城”を攻撃させるという軍事行動だけで無く、近在の100を越える村々に“金森・三宅への出入り、並びに”一向一揆”側に荷担(力を添えて助ける)をしない事、六角氏に味方をしない事の起請文を取り懐柔を図るという策を家臣の“佐久間信盛”の名の文書で伝えている。これは“元亀の起請文”として今日“国立国会図書館”に伝わる当時の“織田信長”の政治手法を伝える興味深い史料である。以下がその要旨である。

“佐々木承禎”(六角義賢)父子、一向の僧侶をかたらい、三宅・金森の城に立て籠もり候。それに就きて、南都一向の坊主・地士長の輩(ともがら)一味内通(ないつう=ひそかに敵に通ずる事)致すまじきの由、このたび信長より仰せ出されおわんぬ。   これにより、面々の誓署・請書を御取り収め有るべきの旨、御治定の間(決まった事であるから)、その旨を得られ、親類の者どもたりとも、一味内通仕るまじきの由、御請書の連署をつぶさに見参せらるべく候。なお違の輩においては急度(きっと=厳しく)御仕置たるべし。この趣き承引(しょういん=承諾)すべく候なり(以下略)

正月廿三日(1572年/元亀3年/1月23日)
佐久間右衛門尉信盛(花押)
南都高野庄坊主中
地士長等中

11-(1)-②:“織田信長”の戦闘への誘い出しに乗って来なかった“朝倉義景・浅井長政”連合

“近江国”は“織田信長”にとって“京都”と“岐阜”とを結ぶ重要な通路であった。“志賀の陣“を終束させた”和睦”(1570年12月13日成立)後も離合集散等の変化もあり、実質的に対立は続いていた。相変わらず“浅井長政”の存在は邪魔であり“織田信長”の立場を極めて不安定なものにしていた。

1572年(元亀3年)3月5日~3月12日:

岐阜を出発した“織田信長”は“浅井氏”と同盟する“朝倉氏”も共に滅ぼすべく“近江国”と“越前国”の境界に近い“余呉・木ノ本”近辺を放火し“浅井氏”並びに“朝倉氏”との合戦を仕掛けた。しかし“朝倉“軍は”近江国“に姿を現さず”浅井“軍も”小谷城“から出て来なかった。

11-(1)-③:数の上では圧倒的に多かった“織田信長包囲網”を構成する敵方であったが、中心と成るべき“将軍・足利義昭”と“本願寺”の求心力が弱かった事が“織田信長”に幸いした

“朝倉・浅井”を戦闘に引っ張り出す策を諦めた“織田信長”は“京都”に入り(3月12日)以後2ケ月余り留まった。

① “将軍・足利義昭“②本願寺③三好義継④松永久秀⑤池田重成⑥伊丹忠親⑦和田惟長、そして、その他にも“織田信長包囲網”を構成する多数の国人クラスが居り、味方の方がずっと少ない状況下ではあった。しかし幸いにも“織田信長包囲網”の状況は、中心となるべき“将軍・足利義昭”も“本願寺”も求心力が弱く“反信長包囲網”の全体を組織化出来ていなかった。これが“織田信長”に幸いした。

一方、こうした纏りを欠いた“反・織田信長”派の武将達が共通して待望したのが“甲斐国・武田信玄“の上洛であった。

11-(2):“反織田信長”勢力が“武田信玄”の上洛を期待した事を裏付ける史実

11-(2)-①:本願寺派第11世宗主“顕如”

1572年(元亀3年)正月14日:

“顕如上人御書礼案留“に”顕如“が”武田信玄“に太刀等を贈った際に添付した書状の中で”織田信長が攻めて来そうなので、それを牽制して欲しい“と頼んでいる。

11-(2)-②:将軍・足利義昭

既述の様に“将軍・足利義昭”は1573年5月13日付(当初は1年前の1572年5月13日発給説があったが、武田信玄の遠江国・三河国侵攻が1572年10月16日~1573年2月16日である事との整合性から1573年5月13日発給説に訂正された)の“武田信玄”への文書(御内書)で“急度(屹度)行(てだて)に及び、天下静謐之馳走(奔走)、油断あるべからざる事専一候”と伝えている。この“天下静謐”という文言が“織田信長打倒”を示している事は既述の通りである。

別掲図“織田信長と武田信玄の蜜月時代そして決裂”をもう一度参照されたい。そこに示されている様に“織田信長”と“武田信玄”との関係は1558年から密接度を増し“桶狭間の戦い”(1560年5月)で“今川義元”を倒し全国区と成った“織田信長”と“武田信玄”が1565年以降、婚姻政策を用いた同盟関係に至っている事が分る。


11-(3):“織田信長”と“武田信玄”との“信頼関係”にヒビが入った時期

“織田信長”と“武田信玄”の信頼関係は別掲図“織田信長と武田信玄の蜜月時代、そして決裂”に示した様に、少なくとも1572年の上旬迄は維持されていた。ヒビが入る要素は以前から生じていたであろうが“将軍・足利義昭”と“織田信長”との関係悪化が深まるにつれて“将軍・足利義昭”並びに“本願寺・顕如”側が意図的に“武田信玄”と“織田信長”との関係悪化を煽る事によって徐々に亀裂が大きくなって行った事は否めない。その背景には“武田信玄”と“徳川家康”との関係悪化があった。

それでも何とか“武田信玄”との関係維持に努めた“織田信長”であったが“武田信玄”と“徳川家康”との不信感は修復出来ず、 1572年10月3日“武田信玄”が“遠江国・三河国”侵攻を決断し、出陣した事を以て“織田信長”と“武田信玄”の関係も決裂に至ったのである。

12:“小谷城”攻略に手こずった“織田信長”軍

12-(1):“小谷城”に就いて

“小谷城“に就いては2022年10月17日に訪問した”小谷城址“の説明版の写真を別掲したでその”由緒“を読まれたい。

50年に亘って”浅井三代“と称された”初代・浅井亮政、二代・浅井久政・三代・浅井長政“が根拠としたのが”小谷城“である。”京極氏“の一被官に過ぎなかった初代”浅井亮政“(あざいすけまさ・生:1491年・没:1542年)が、お家騒動など混乱の中、頭角を現し、国人一揆の盟主となり”京極家中“に於ける実権を掌握し、主家”京極氏“を傀儡化し、自立し、1525年頃(大永5年・室町幕府第12代将軍・足利義晴期・幕府最後の管領細川高国期)に築城したのが”小谷城“である。”浅井三代“の写真も参照されたい。

現在の滋賀県長浜市小谷郡上町、湖北町伊部が所在地である。標高495mの山全体に18の曲輪(くるわ=尾根や斜面に造成して作った平坦地)を配置した戦国時代屈指の山城と呼ばれた名城とされる。

12-(1)-①:“小谷城祉”訪問記・・2022年(令和4年)10月17日

住所:滋賀県長浜市小谷郡上町
交通機関等:
当日は①実宰院(浅井三姉妹が匿われたゆかりの寺とされる)②小谷城址③姉川古戦場等を訪問する予定を立て私は東京駅から新幹線に乗り,米原駅で友人と合流した。旅程等の打ち合わせをした後、駅前のトヨタレンタカーで予約してあったプリウスを借り9時20分に実宰院に向けて出発。10時20分頃に到着、訪問を終え“小谷城“関連の施設(歴史博物館等)見学を終え”小谷城址“への山道を走り城址見学を終えた時には13時近くになっていた。我々は更に既述の姉川古戦場、そして”姉川の戦い”で“織田信長”が本陣を置きその柳の木に陣太鼓を掛けて指揮をしたという伝承が残る“陣杭の柳”と称される史跡を訪問した。

これ等の史跡訪問を終えたのは15時近くであった。

史跡訪問:
“小谷城”の歴史に就いては現場の説明版の写真を載せたので参照されたい。落城後に“浅井長政“攻めの功績で”織田信長“から”浅井長政“の旧領を拝領した“羽柴秀吉“が当時”今浜“と呼ばれていたこの地を”織田信長“の一字を拝領して”長浜“と改名し”小谷城“の城樓、城下町、寺院、等を移した為、そのまま廃城と成ったとある。

1573年(天正元年)が”長浜城“の築城年である。尚”木下藤吉郎秀吉”から“羽柴秀吉”に改名した時期は“小谷城”を陥落させたほゞ1年前の1572年8月頃とされる。”丹羽長秀”そして”柴田勝家“を敵に回したくないとの忖度から両氏の名を頂き改名したと伝わる。

“小谷城址”への山道の入口に“2011(年)NHK大河ドラマ 浅井三姉妹 江~姫たちの戦国放映記念”と題した大きな“兜”が記念碑として我々の目を引いた。(写真)

“クマ出没注意!”の看板が掲げられた“小谷城祉”を見学した後に“小谷城戦国歴史資料館”に立ち寄り“浅井三代”並びに“元亀争乱”に関わる史料展示等もゆっくり見学し次なる訪問地“姉川古戦場”等へと向かった。一日中雨模様の史蹟訪問であった。

12-(2):第二次“元亀争乱”期に突入

そもそもこの6-22項は“元亀の争乱”の記述から始まった。“第一次元亀の争乱“は既述の様に1570年の“織田信長”軍の“若狭国・武藤友益討伐”(本音は朝倉義景討伐)に始まり、1570年12月17日に終息した“志賀の陣”迄であり“第二次元亀の争乱”は“織田信長”が“将軍・足利義昭”と袂を別ち“槙島城の戦い”で京都から“将軍・足利義昭”を追放し、更に“織田信長包囲網”を形成して抵抗を続けた“朝倉義景”を討ち、そして”織田信長“にとって永い間”北近江“を不安定要素にした元凶の”浅井長政“を1573年(天正元年)9月1日の”小谷城落城“で自刃させ”浅井三代“を滅亡させる迄の一連の戦い期間を指す。

12-(2)-①:“織田信長”は嫡子“織田信忠”の初陣に総勢5万の兵力を動員して“朝倉義景・浅井長政”討伐を仕掛けたが失敗に終わった

1572年(元亀3年)7月19日:

“織田信長”は嫡男“織田信忠”(生:1557年?・没:1582年6月2日)の初陣という事で主だった武将の殆んどを動員し、総勢5万の軍隊をもって“小谷城攻め”を行っている。この目的は“浅井長政”と同盟する“朝倉義景”を誘い出し、一気に“朝倉・浅井“連合軍を壊滅させる事であり”織田信長“はそうした強い決意の下に出陣したのである。

理解の助に関係する城の位置関係が前ページに添付した地図写真で分かる。①小谷城②織田信長の本陣(茶臼山)④横山城跡⑤織田信長が付け城を築いた虎御前山等を示してあるので参照されたい。

1572年(元亀3年)7月20日:

“織田信長”は現在の滋賀県長浜市堀部町・石田町にあった“横山城“(写真の④)に入った。この城は”木下秀吉“(後の豊臣秀吉)が城番として守備をしていた。翌21日から”小谷城”(写真①表示)攻撃を開始。城と城下の町ばかりで無く、北方の余呉、木ノ本周辺までを放火し“小谷城総攻撃”の態勢を作るべく僅か2km程南方の“虎御前山”に付城を築いている。(写真⑤表示)

1572年(元亀3年)7月28日:

“朝倉義景”も流石にこの状況に出陣し“越前国”から自ら1万余の大軍を率いて“近江国”に入った。しかし“小谷城”の南方に5万もの“織田信長”軍が陣を張る状況を見て決戦を避け“小谷城”の後方の“大嶽”(おおづく)と呼ばれる高山に軍を上らせた。これに対し”織田信長“は“虎御前山砦”を着々と築く一方で”朝倉義景軍“が陣取る”大嶽“に少数の兵で奇襲をかけ、挑発した。しかし”朝倉義景“軍はその挑発に乗って来ず、山を下りる事はなかった。

“大将・朝倉義景”の優柔不断な態度に愛想を尽かした朝倉氏家臣の中からは次々と“織田信長”に寝返る者が出たという。彼等は“織田信長”に仕える事に成り、翌年の“朝倉義景攻め”で越前の案内役を務め、前主君“朝倉義景”を討伐する功績を挙げる事になる。
“前波吉継”(まえばよしつぐ・後に桂長俊に改名・生:1524年・没:1574年)並びに“富田長繁”(とだながしげ・生:1551年・没:1574年)等が寝返った武将として知られる。

こうして戦闘に“朝倉義景”を引きずり出す事に失敗した“織田信長”ではあったが“越前国の雄”と称された“朝倉義景”は彼の優柔不断さ故に“織田信長”との決戦の前に、家中の結束の乱れを生むという弱点を晒した。

この機会に“織田信長”が“小谷城”を攻め落とす事は可能であったと思われる。しかし結果的に“織田信長”は決戦に応じない“朝倉義景”との対決を諦め“小谷城”攻略を完遂せずに“岐阜”に帰った。その背景には”武田信玄“が“将軍・足利義昭“の誘いに応じて”織田信長包囲網“に加わり兼ねない状況を察知した”織田信長“がその事態に備える方を優先する判断をした事があった。

13:“織田信長“との”同盟“を裏切り”遠江“(とおとうみ・静岡県西部=浜松領域)への進軍を開始した“武田信玄”

別掲図“織田信長と武田信玄の蜜月時代そして決裂”に示した様に“織田信長”と“武田信玄”とは同盟関係にあったが“1572年(元亀3年)10月3日“に”武田信玄“が”織田信長“の同盟者”徳川家康“の領国‟遠江国“への侵攻を決断し、自らも出陣した事で破綻した。

13-(1):何故“武田信玄”は“織田信長”を裏切り“同盟”を破棄したのか

“織田信長・不器用すぎた天下人”の著者“金子拓”氏は“織田信長”の一生が➀浅井長政②武田信玄③上杉謙信④毛利輝元⑤松永久秀⑥荒木村重に裏切られ、そして⑦家臣・明智光秀の謀叛に遭って劇的な形で幕を閉じた事を記している。夫々の史実をとり上げ“織田信長”が夫々の人間関係に於いて結果的に裏切られたその背景、事情について書いている。この書物から“織田信長”という希代の武将(政治家)が“IQ+EQ+人間力“の何処に人並優れた点を持ち、何処が弱点であったのか、つまり彼の“IQ+EQ+人間力“の総和に就いて考えさせられる。

13-(1)-①:“織田信長”と“武田信玄”との“同盟”時期とその関係の推移について

1565年(永禄8年)頃~並びに1567年(永禄10年)~1568年(永禄11年)にかけて:

詳細に就いては、別掲図“織田信長と武田信玄の蜜月時代そして決裂”を参照願いたい。そこに見られる様に“織田信長”は“政略結婚策”を用いて“武田信玄”との関係を強めた。“織田信長”の妹と“美濃国岩村城主・遠山直廉”との間に生まれた女子を養女にして、1565年(永禄8年)頃に“諏訪勝頼”(後の武田勝頼)に嫁がせているのである。

この二人の間に1567年(永禄10年)に僅か15歳で夭折する甲斐武田家最後の当主“武田信勝”(第21代当主・生:1567年・没:1582年)が生れている。この政略結婚をもって“織田・武田”の同盟が成立したとされる。

更に“甲陽軍鑑”には3年後の1568年(永禄11年)に“織田信長”の嫡男“織田信忠”と“武田信玄”の娘“松姫”との間の縁談が成立した事が書かれている。

しかしこの縁談はその後の歴史展開により“輿入れ”には至らなかった。“土御門文書”には“輿入れ”を具体化させようとした動きが書かれているが、上記した様に両者の同盟は 1572年(元亀3年)10月3日に”武田信玄“が”織田信長“の同盟者”徳川家康“の‟遠江国“の”二俣城“攻略の為の出陣(1572年10月16日~12月19日)した事をもって事実上破棄され“織田信忠”と“松姫”との婚姻は実現しなかったのである。

13-(1)-②:“足利義昭”を擁して“上洛”した際には“武田信玄”とは“和睦”関係にあった“織田信長”

標記“織田信長”と“武田信玄”の“和睦”が史実であった事を裏付ける史料として“足利義昭”を“織田信長”が美濃国“岐阜”に迎えた(1568年7月25日に足利義昭が岐阜に到着)直後の1568年(永禄11年)7月29日付の“織田信長”から“上杉輝虎”(既述の様に上杉謙信に改名するのは1570年12月)に出した文書を挙げている。(志賀槙太郎氏所蔵文書上610号)

(文書意訳)武田・織田の関係に就いては、私が公方様の入洛に付き従う事を受け入れたので、隣国の妨げを除く為、和睦しました。

この文意を“金子拓”氏は“上杉輝虎(謙信)と敵対関係にあった”武田信玄“が”織田信長“と和睦した事が1564年(永禄7年)頃から既に同盟関係にあった“上杉輝虎(謙信)”と自分(織田信長)との関係にヒビが入る事を懸念した“織田信長”が誤解が生じない様“上杉輝虎”に報告した文書だとしている。

”将軍・足利義昭“を擁立して幕府の片棒を担う“織田信長”としては“上杉謙信”と“武田信玄”とが“和睦”に至って欲しいとの願いを持って動いた。そうした状況下で“上杉輝虎”(謙信)に忖度しての“報告文書”の意味があったと解説している。

こうした事から“金子拓”氏は、前掲した“別掲図・織田信長と武田信玄の蜜月時代そして決裂”の“永禄11年/1568年/頃の7月”の欄に“信長、上洛にあたり信玄との同盟関係を確認し、信玄と上杉謙信の和睦を働き掛ける“と注記している。

13-(1)-③:“織田信長”が“徳川家康”と、生涯切れる事が無かった“同盟関係”を結んだ“清州(清須)同盟”について

1562年(永禄5年)1月:“織田信長”と“松平元康”(後の徳川家康)間で“清州同盟” が結ばれる

”織田信長“と”松平元康“(後の徳川家康)との関係は前項で記述した様に1560年(永禄3年)の”桶狭間の戦い“で“織田信長”が”今川義元“を討った事から強まったとされる。

”今川氏“との関係では従属関係にあった”松平元康“(1563年6月~10月の間に松平家康に改名し、更に徳川家康への改名は三河一国の平定を成した1566年5月に行っている)は“桶狭間の戦い“で”今川軍“が敗れ”駿河“方面に撤退し、放棄され、空き城となっていた“岡崎城“を取り戻し、以後自立を図る動きをした。従って以後は、今川家当主を継いだ嫡子“今川氏真”(いまがわうじざね・2023年NHK大河ドラマ・どうする家康では俳優の溝端淳平氏が演じる・生:1538年・没:1615年)とは敵対関係と成った。

こうした状況下”松平元康“(NHK大河ドラマドラマ・どうする家康ではタレントの松本潤氏が演じる)は西の隣国である”尾張国・織田信長“に接近し”石川数正“(同左NHK大河ドラマでは俳優松重豊氏が演じる・1585年に羽柴秀吉の下に出奔する・尚秀吉は1586年9月9日正親町天皇から豊臣姓を賜り豊臣秀吉を名乗る・1586年12月26日に太政大臣に就任し豊臣政権発足・生:1533年・没:1593年)を交渉役として”同盟“を模索した。

一方の”織田信長“(2023年のNHK大河ドラマ/どうする家康/ではタレントの岡田准一氏が演じる)もこの時期”美濃国・斎藤龍興“と交戦中であり”松平元康“との同盟は渡りに船であったと思われる。同盟に至るまでの経緯には諸説があるが“桶狭間の戦い”から1年半後の1562年(永禄5年)1月に“松平元康“が”織田信長”の当時の居城“清州城”に出向き、両者の間で会見が持たれ“清州同盟”が締結されたとの説が有力である。


13-(1)-④:“清州(清須)同盟“が終焉し”豊臣秀吉“と”徳川家康“の臣従関係が成立する・・1586年(天正14年)10月27日

この“清州同盟”は“織田信長”が“本能寺の変”で横死した後“羽柴秀吉”が“織田家筆頭家老・柴田勝家”を"賤ケ岳の戦い”(しずがたけのたたかい・1583年4月)で敗り“織田政権”継承者の実質的トップとして台頭した事で終息する。

“羽柴秀吉”が関白にまで上り詰める(1585年7月11日)と”徳川家康”も流石に彼の勢威に抗し切れず、1586年(天正14年)10月27日に“大坂城”で“豊臣秀吉”(1586年9月9日に正親町天皇から豊臣の姓を賜る)との謁見に至った。この事を以て”清州(清須)同盟”は終焉し、不完全ではあったが、新たに“関白豊臣秀吉”と”徳川家康”との“臣従の関係”が成立したのである。

13-(2):その他、当時の主たる同盟であった“甲・相・駿”の“三国同盟”が“今川義元”が討たれた事を契機に、破綻に向かった経緯

“甲・相・駿三国同盟”とは1554年(天文23年)3月に“甲斐”の“武田信玄”(甲)と “相模”の“北条氏康”(相)そして“駿河”の“今川義元”(駿)の間で結ばれた和平協定であり➀攻守軍事協定②相互不可侵協定③領土協定④婚姻の4つの要素から成っていた。東国情勢に大きな影響を及ぼした同盟であった。

しかしこの同盟は“武田信玄”が“織田信長”との通交関係を深める等の動きが背景となり“今川氏真”と“武田信玄”との関係に確執が生じ、1567年(永禄10年)6月に“今川氏真”は“武田”氏への“塩止め”をするに至った。この事から“甲・駿”の間の同盟は事実上破綻し、そして“武田信玄”は“徳川家康”との間に“今川領国”を分割する提案をするに至るのである。

“武田信玄”が長年、関東や信濃侵攻を試みる“上杉謙信”と衝突を繰り返した事は“川中島の戦い“として有名だが”武田信玄“が”上杉謙信“との戦いに専念出来た背景には、この“甲・相・駿三国同盟”があった為“北条氏”(相)そして“今川氏”(駿)から攻撃される心配が無かったという事があったのである。

上記した“甲・相・駿三国同盟”の“甲・駿”の間に入った今回の亀裂は“同盟4要素”の1つである“婚姻関係”にも波及した。

13-(2)-①:“甲・駿同盟”の破綻が”婚姻関係“に及んだ事で”武田信玄・武田義信“父子が対立する事態へと発展した

“武田信玄“(生:1521年・没:1573年4月・・1536年に元服した時に武田晴信に改名した。1559年2月、第三次川中島の戦いの後に出家し徳永軒信玄と号している。信玄の初見史料としては翌1560年信濃佐久郡松原神社に奉納した願文がある)は”今川義元“の娘(嶺松院)を嫡子”武田義信“(生:1538年・没:1567年)の正室に迎えるという”姻戚関係“を結んでいた。“甲・駿同盟”の一つの重要な要素であった。

ところが“桶狭間の戦い”で“今川義元”が討たれて以降、上記の様に“武田信玄”は“織田信長“との通交を強めた為“今川家”の後継者“今川氏真”(生:1538年・没:1615年)との関係が悪化、既述の抗争へと発展した。

“武田信玄”は“今川家”の領国侵攻を図った。この事で妻の実家“今川氏”とは近しい関係にあった嫡子“武田義信”は父“武田信玄“に猛反発し、父と嫡子との間に亀裂が生じた。“武田氏”父子の対立は、1565年(永禄8年)10月に父“武田信玄”の暗殺を狙った謀反事件に嫡子“武田義信”が関わったとする大事件に発展した。

結果“武田義信“は“甲府東光寺”に幽閉され、2年後の1567年(永禄10年)10月19日に自害を余儀なくされたのである。(甲陽軍鑑)

別掲図“濃密な姻戚関係を結んだ甲・相・駿三国同盟と破棄”を理解の助に参照されたい。嫡男“武田義信”の正室(今川義元の娘:嶺松院)は夫自害後、実家の今川家に返された。“甲・駿”の同盟関係の亀裂は“武田氏と今川氏”の“婚姻関係破綻”に止まらず、上記“武田家の内紛“へと拡大し、そして同盟自体を消滅させたのである。

13-(2)-②:“武田信玄”が“駿河侵攻”に踏み切り甲・相・駿三国同盟が完全に破綻する

1568年(永禄11年)12月上旬:

“武田義信”が実父“武田信玄”によって自害に追い込まれ“武田義信”の正室であった“今川氏真”の妹(嶺松院)が“今川家”に返された事で“武田(甲)・今川(駿)”両家の関係が悪化した。対抗策として“今川氏真”は“上杉謙信”との同盟に動いたのである。

この動きを知った“武田信玄”は“今川氏”との同盟破棄は言うまでも無く“駿河国”に侵攻したのである。この機に乗じて“三河国・徳川家康”も“今川氏領国・遠江“に侵攻した。この時、大井川を境にして“遠江国”を“武田信玄”と“徳川家康”とで、東西に折半するという約束が交わされたのである。(武田氏と徳川氏の起請文)以上を下記“別掲図”に纏めたので参照願いたい。


13-(3):“今川領国”を折半にする動き迄は協調関係にあった“武田信玄”と“徳川家康”の関係がぎくしゃくし始める

13-(3)-①:“今川氏”領国に侵攻し,折半する約束の下、友好関係にあった“武田信玄”と“徳川家康”

1568年(永禄11年)12月上旬:

“武田氏重臣・秋山虎繁”(伊那郡代・生:1527年・没:1575年)の名は別掲図“織田信長と武田信玄の蜜月時代そして決裂”の最上段、1558年(永禄元年)11月の記事に登場している。“織田信長が武田氏家臣秋山虎繁に大鷹の調達を依頼した”の記述がそれである。

又、別掲図“濃密な姻戚関係を結んだ甲・相・駿三国同盟と破棄”に書かれている様に1568年(永禄11年)12月上旬に“武田信玄”は“今川氏”(駿)との同盟を破棄して“駿河侵攻”に及んだ。同じ同盟相手である“北条氏”に対して“駿河(今川氏真)が越(上杉謙信)と申し合わせ、信玄滅亡を企んだ為に手切れ(同盟破棄)したのだ”と申し送った文書が“上杉氏文書・春日俊男氏所蔵文書”に残されている。

1568年(永禄11年)12月23日:

”徳川家康“も”武田信玄“の“駿河侵攻”と軌を一にして“三河国”から“今川氏”領国の“遠江国”に侵攻している。この行動に対して“武田信玄”は“徳川家康”に“手合わせ(軍事協力)のため、急速にご出張してくれた事を感謝する”との感謝状を出し、両氏が友好関係にあった事を裏付けている。(恵林寺所蔵文書)この時期“武田信玄”と“徳川家康”との間で“大井川を境にして遠江国を東西に折半するという約束”があった事は“家忠日記増補”で確認出来る。

”金子拓“氏は著書”織田信長、不器用すぎた天下人“の中で”徳川家康“のこうした動きの背後には当然”清州同盟“(1562年1月)の同盟者”織田信長“も関与していたと考えられるとしている。

13-(3)ー②:“武田信玄”と“徳川家康”の関係がギクシャクし始める

1569年(永禄12年)正月八日付文書:“武田信玄”から“徳川家康”への弁明の文書

“今川氏“の領国だった”遠江国“の分担については、上記の様に”武田信玄“と”徳川家康“との間で協力し合うという形で決められた。しかし“武田”方重臣“秋山虎繁”等“信濃   下伊奈衆”が突出した動きに出た事に対して“徳川家康”は“武田方が遠江国の全てを奪おうとしている”との疑念を抱き“武田信玄”に抗議をしている。そしてこの抗議に対して“武田信玄”が弁明の返事を出した事が“松雲公採集遺編類纂”で確認出来る。

“武田信玄“は”徳川家康”に対する弁明で“徳川家康”を刺激しない様、極めて慎重に対処している。そして翌1569年(永禄12年)正月9日付で今度は“徳川家康”の同盟者の“織田信長”にもわざわざ弁明の文書を出している。その内容は“三河衆(徳川家康)が出勢(武田方が遠江国へ侵攻した事)に対し当方に疑心を持っているようなので、遠慮して(私は)駿府に滞在したまゝです”と”徳川家康“との関係悪化を避けるべく”織田信長“を頼りにしている事を伝えている。

13-(3)-③:“甲・相・駿”同盟が破棄された事で(甲相同盟は継続していたとされるが)“武田信玄”にとって“北条(相)”氏も脅威であり、従って“徳川家康”との関係悪化は避けたかった。こうした状況下では“上杉謙信”との”和睦“に仲介役として動いて呉れる”織田信長“の存在は有難かった

既述の様に“武田信玄”は1568年(永禄11年)12月に“甲・相・駿”の“三国同盟”を破棄する形で“今川氏領国”(駿河)に侵攻した。既述の様に、その前年の1567年に“今川氏真”が“武田”に対して“塩止め”をした事で“甲・駿“間の同盟は実質的に破綻していた。

こうした状況に“北条氏”(相)は“今川氏”援護の為に“駿河国”の“薩埵山”に兵を出すという動きが見られた。背後に“北条氏”の脅威が加わった“武田信玄”にとって“徳川家康”との間の友好関係維持は重要であり、それを確認する為の“起請文”を交わしている。
”起請文“を望んだのは”武田信玄“の方からであった事は”武徳編年集成・田島家文書“が伝えている。(残念乍らこの起請文自体は確認されていないが)

1569年(永禄12年)3月10日:

この時期の“武田信玄”の“危機意識”は強く“徳川家康”と上記“起請文”を交わす一方で長年の敵“上杉謙信”との和睦にも積極的であった。そして“織田信長”が“武田信玄”と“上杉謙信”との間に立って和睦仲介に動いた事は良く知られ“武田信玄”は“織田信長”の努力に感謝し、又、頼りにしていた事が伝わる。

上洛後、将軍に補任された(1568年/永禄11年/10月18日)“足利義昭”が、和睦を促す“御内書”(将軍が出す書状)を“武田信玄・上杉謙信”双方に発給し“武田信玄”がこれを受諾し、1569年(永禄12年)3月10日付で“織田信長”にその旨の返答をした事が“妙興寺文書”(みょうこうじもんじょ・837年に創建された寺。北朝、並びに、足利幕府と結びつき、その後豊臣秀吉、尾張徳川家から寺領を給され多くの中世文書を有する〉で確認出来る。

“金子拓”氏の著作“織田信長 不器用すぎた天下人”の“武田信玄”の項の年表の1569年(永禄12年)3月欄にも“信玄、謙信との和睦を受諾する”と書かれている。

13-(3)-④:“織田信長”を頼りにした一方で“織田信長”の同盟者“徳川家康”には強い不信感を抱いていた“武田信玄”

“将軍・足利義昭”の“室町幕府”政治に協力する立場の“織田信長”は“武田信玄”が望む“上杉謙信”との“和睦”を成立させるべく、一貫して取り組んでいた。こうした“織田信長”に対して“武田信玄”は強い信頼を寄せていた。それを裏付ける“武田信玄”が家臣で、外交を担わせていた“市川十朗右衛門尉”に“織田信長”の意向を調べる様指示した下記書状が存在する。

今、家康は、専ら信長の意向を受けている人物である。今川氏没落後、遠江はほゞ家康が手中にしており、それに異論はないが、今川氏真と家康に和睦の動きがあるようで不審だ。 この点、信長の考えを知りたい。

13-(3)-⑤:“織田信長・武田信玄・徳川家康”3者の関係に“捻れ“が生じていた

1569年(永禄12年)5月23日:

この日付で“武田信玄”は“織田信長”の右筆で、側近の“武井夕庵”(たけいせきあん・生没年不詳)並びに“津田国千世”に“徳川家康“の行動を非難し、疑う内容の書状を出している。(神田孝平氏旧蔵文書)内容を要約すると以下の様な事である。

①:北条氏と徳川氏が会し、和睦と称して掛川城に籠城していた“今川氏真”以下“今川”方の兵達を無事、駿河方面に撤退させたのは存外の次第である


②:“今川氏真“並びに”北条氏康・氏政“父子とは和睦をしない事は”家康“の起請文に明記されている。これに就いて“織田信長”はどうお考えなのか?と問いただしている


③:その上で“徳川家康”には“今川氏真”や“北条氏康”に敵対するよう“織田信長”から急いで促して欲しい、と強く要請している

3者間の複雑に絡む“同盟関係”を“別掲図・織田信長を中心とした主たる戦国大名間の同盟、そして決裂図“に示す。”武田信玄“と”織田信長“の間には既述の”婚姻関係“等に拠る”同盟“に近い関係が結ばれ、又”織田信長”は“上杉謙信”と“武田信玄”の和睦が成る様に奔走している。

又“織田信長”と“徳川家康”の間は“清州(清須)同盟”で固く結ばれており“武田信玄”と“徳川家康“との間にも”今川氏領国“を攻撃するに際して協調する事を約束した”起請文“が”織田信長“を介在させる形で取り交わされてはいた。

しかし“武田信玄・徳川家康”の関係は決して安定したものでは無く“武田信玄“の”徳川家康“に対する不信感は強かった。結果”武田信玄“は”織田信長“と堅い同盟で結ばれた”徳川家康“の領土への侵攻(①二俣城の戦い・1572年10月16日~12月19日②三方原の戦い・1572年12月22日)を決断する事に成るのである。

こうした複雑な戦国大名間の“離合集散”(協同したり反目関係に成る事)を“別掲図:織田信長を中心とした主たる戦国大名間の同盟そして決裂図“を再度掲げたので、理解の助に参照されたい。


13-(3)-⑥:“徳川家康“が”武田信玄“と断交し”上杉謙信“と”起請文“を交わす

1570年(元亀元年)10月8日:

”上杉家文書“に”徳川家康“が”武田信玄“と手を切って”上杉謙信“と結び、以下の“二箇条”を誓う“起請文”を取り交わした事が伝わる。

“上杉謙信”と交わした起請文で“徳川家康”は1568年に“武田信玄”の娘“松姫”と“織田信長”の嫡子“織田信忠”との縁談を破棄する様“織田信長”に献策するとしている。つまり“織田・武田”の結びつきが強まる事を阻む事を“上杉謙信”との起請文で誓っているのである。(この件も別掲図・織田信長を中心とした主たる戦国大名間の同盟そして決裂図を理解の助に参照されたい)この事は“徳川家康”と“武田信玄”の対立が修復不可能な程に悪化していた事を裏付けている。

1570年(元亀元年)10月8日付”徳川家康”が”上杉謙信”と交わした“起請文”での誓い

①:武田信玄との断交に就いては家康の深慮によるものなので、少しも嘘偽りない事
②:織田信長と上杉謙信との関係が巧く行く様に家康から意見する事。武田氏と織田氏の縁談に就いては、破談になるよう、家康が諫める(誤りや良く無いところを改める様進言する)事

13-(4):“武田信玄“が”織田信長“との”同盟関係“を裏切るまでの経緯

”武田信玄“は”徳川家康“との関係が修復不可能な程に悪化しても依然”織田信長“との”同盟“関係は維持しようと務めた形跡が”武家事紀“(山鹿素行によって書かれた歴史書・武家故実書・全58巻・山鹿素行が赤穂藩に配流中の1673年に書いた序文がある)に伝わる。

“織田信長”の右筆で側近の“武井夕庵”に“武田信玄”が伝えた文書がそれである。要は“徳川家康”があれこれ自分(武田信玄の事)についての悪口を“織田信長”の耳に入れてもそれを信じないで欲しい、と伝える内容である。

佞者(ねいじゃ=悪賢く媚びへつらう者・・徳川家康を指している)の讒言(ざんげん=他人を陥れる為、ありもしない事を目上の人に告げ、その人を悪く言う事)油断信用なく候様・・例え扶桑国(ふそうのくに=日本)の過半が手に入ったとしても、何の宿意(しゅくい=前々からの恨み事、年来の恨み)があって信長に敵対しようか(同盟を維持したい)

こうした文書で“武田信玄”は“徳川家康”の行動に対する抗議をし、同盟者として“織田信長”は“徳川家康”の行為を看過すべきで無い、との要望を伝えて来た。しかし“織田信長”はこうした“武田信玄”からの讒言があっても“徳川家康”への信頼を失う事は無かった。そして両者の仲裁に乗り出す気配も見せず、中立的な態度をとっていたと伝わる。(柴裕之著:徳川家康)

13-(4)-①:“織田信長”は“武田信玄”と“上杉謙信”との間の和睦成立に尽力していた。その事に“武田信玄”そして“上杉謙信”も理解を示し協力する姿勢であった事が伝わる

1572年(元亀3年)10月5日:

“織田信長”は“武田信玄”と“上杉謙信”との“和睦実現”を重視し、力を入れていた。“織田信長“から”武田信玄“への書状がこれを裏付ける史料として”酒井利孝氏所蔵文書“に伝わる。

内容は”織田信長“が”武田信玄“と”上杉謙信“との間の”和睦交渉“を進めている最中の1572年8月頃に”武田信玄“が”北条氏“との”甲相同盟“(1571年12月に復活していた)に基づいて”北条氏政“(後北条氏第4代当主・正室が武田信玄の娘・生:1538年・没:1590年)と連携して”上野国“(群馬県)に出兵しようとしていた。この出兵は”上杉謙信“との和睦交渉にマイナスになるから遠慮してほしいと”織田信長“は”武田信玄“に申しいれたのである。

”武田信玄“はこの申し入れを受諾し”上野国“(群馬県)への出兵を止めている。これに対して”織田信長“から”武田信玄“へ礼状を出した事も記録に残っている。

こうした”織田信長“の”上杉謙信“と”武田信玄“との和睦仲介の労に対して”上杉謙信“も翌日の 1572年(元亀3年)10月6日付で”武田信玄との和睦が将軍・足利義昭と織田信長の仲介で進んでいる。いずれ決着するであろう“と述べている事が”上杉家文書“で確認出来る。

13-(4)-②:“武田信玄”が“織田信長”を裏切り“徳川家康”の領国に向け進撃を開始する

1572年(元亀3年)10月3日:

ところが、上記した様に”上杉謙信“と”武田信玄“との和睦仲介に”織田信長“が力を注いでいた最中に”武田信玄“は”徳川家康の領国“に向けて進撃を開始していたのである。”織田信長“に対する裏切りである。

これを裏付ける史料が”織田信長“にとっては積年の敵”朝倉義景“に出した”武田信玄“からの以下の趣旨の書状である。

1572年(元亀3年)10月3日付書状:(思文閣古文書目録所収文書)
畢竟(ひっきょう=結局)この時に候条、当敵(徳川家康、並びに織田信長)討ち留めらるべきご調略肝要に候

”武田信玄“は1572年(元亀3年)10月3日に出陣した。上記は”織田信長“の敵”朝倉義景“に対して”武田信玄“が共に協力して”当敵“(徳川家康・織田信長)を討つ事を要請した書状である。

“武田信玄”が直接攻撃する相手は“徳川家康”の領国“遠江国”であり文中の“当敵”とは“徳川家康”であるが、彼と“清州同盟”を結ぶ“織田信長”も“当敵”と成る事を覚悟の上   の行動である。

13-(4)-③:“武田信玄”がよりはっきりと“織田信長”と戦う覚悟を明らかにした史実・・“将軍・足利義昭”主導の“織田信長包囲網”への参加

“武田信玄“が“徳川家康”の領国“遠江国”侵攻に出陣する際に“武田信玄”の味方の“美濃国・遠藤加賀守”に“春には美濃国に出馬するので岐阜に向い敵対の色を顕して欲しい“と伝えていた事が”鷲見営造氏所蔵文書“に残っている。”武田信玄“がはっきりと“徳川家康”と同盟する”織田信長”との戦闘に入る覚悟を決めた事を裏付ける史料である。

”織田信長、不器用すぎた天下人“の中で著者”金子拓”氏は“兎に角、武田信玄には徳川家康憎しの気持ちが強かった。織田信長を敵としたのは織田信長と徳川家康が固い同盟関係にある以上,やむを得ないとの考えからであろう“と述べている。”将軍・足利義昭“が主導し、本願寺並びに朝倉氏が協力する“織田信長包囲網”に“武田信玄”も加わったのである。

14:“武田信玄”の裏切りに激怒した“織田信長”

1572年(元亀3年)11月20日:

“織田信長”は、自ら“武田信玄”と“上杉謙信”との和睦に力を注ぎ、その経過、並びに“浅井氏攻め”等の現況も書き添えた書状を1572年(元亀3年)10月5日付で“武田信玄”に送っている。ところが、この書状の日付の2日前に“武田信玄”は“織田信長”との同盟を裏切り“織田信長”と“清州(清須)同盟”で固く結ばれた“徳川家康“を攻撃する為に出陣していたのである。

“武田信玄”の裏切りを知った“織田信長”の激烈な怒りが以下の“上杉謙信”に出された書状に現われている。“織田信長”はこの書状で“上杉謙信”に、共に協力して“武田信玄”に対決する事を求めている。

謙信と武田信玄との和睦に就いて将軍・足利義昭の仲裁に依り、去る秋から使者を派遣して動いていたところ、武田信玄のやり口は前代未聞の無道(人の道に背いた暴悪非道なふるまいをする事)である。彼は侍の義理も知らず、都鄙(都会と田舎)の物笑いとなる事すら顧みない事をしでかした。(略)
武田信玄がそうした態度をとった以上、こちらも永久に武田信玄とは義絶する事は勿論である。(略)
信長と武田信玄との間には貴方(上杉謙信)がお考えに成っている以上に遺恨が消えずに残り続けるだろう。こうなった以上、未来永劫、再び彼と通交(国どうしが互いに仲良くし交わりを結ぶ事)する事は無い

14-(1):“武田信玄”が“徳川家康”並びに“織田信長”を敵に回す行動に出た事に対し“上杉謙信”は家臣への手紙で“武田信玄”が両者(徳川家康&織田信長)に敵対行動を起こした事は大きな判断ミスだ、と漏らした史実

1572年(元亀3年)10月18日付文書:

“上杉謙信”は家臣の〝河田重親“(生:1531年・没:1593年)宛の書状の中で”武田信玄“が”徳川家康“並びに”織田信長“と敵対する行動をとった。この事は”武田信玄“の重大  な判断ミスだとの意見を下記の表現で伝えている。

武田信玄はハチの巣に手を入れた様なもので無用の事をしでかしたものだ。

又“歴代古案”(江戸時代に越後上杉氏関係の古文書を編纂したもの)の記録にも“上杉謙信”の“武田信玄のこの判断ミスは、武田信玄の運の極みだ”との感想が伝わる。

15:“遠江国・三方原“で”武田信玄”軍と“織田・徳川連合軍”が戦闘に入り“徳川家康”が這々の体(ほうほうのてい)で“浜松城”に引き揚げる

理解の助に“別掲図:1572年~1573年(元亀3年~元亀4年)武田信玄の遠江・三河侵攻と病死”を参照願いたい。


15-(1):“武田信玄”の1572年(元亀3年)10月3日の出陣が“上洛”を目指したものだったのか否かに関する諸説

”信長の天下布武への道“の中で著者”谷口克広”氏はこれに就いては3説があり、その論者を紹介している。

①:上洛が目的であったとする説
奥野高廣氏・小和田哲男氏
②:遠江国、三河国の確保が目的であったとする説
高柳光壽氏
③:打倒“織田信長”が目的であったとする説
磯貝正義氏・染谷光廣氏

15-(1)-①:“谷口克広”氏の上記3説に関する見解

① 説の“一気に上洛を目指した”という説に対して“2万の兵で京都まで進軍する事には、長く延びる兵站線の点から考えると賛成出来ない説だ“と結論づけている。②説への見解は”単なる遠江国・三河国確保が目的であったとは考えられない“としてこの説も否定している。

結論的に③説の”打倒織田信長が目的であった“とするのがこの段階での”武田信玄“の決断だと考えるのが妥当であろう、との”谷口克広”氏の見解である。

この説を裏付けるものとして“武田信玄“が”徳川家康“方の”二俣城攻略“中の1572年(元亀3年)11月19日付けで”朝倉義景“に宛てた”信玄条書“を挙げている。”谷口克広“氏はこの文書を分析し、下記の様に”染谷光廣“氏等の説を支持している

“信玄条書”の条文に
一、 来年五月に至り、御張陣の事 とある。
武田信玄の意図は,まず“織田信長・徳川家康”連合軍と決戦を交え、その上で体制を整え、翌(1573年/元亀4年)5月頃に上洛する予定だったと“染谷光廣”氏は述べている。“谷口克広”氏もこの意見に賛同した上で、更に“武田信玄”は“朝倉義景・浅井長政”軍に近江から牽制させ“美濃国”辺りで“織田信長”と戦うつもりだったのではなかろうかとしている。

15-(2):“三方ケ原の戦い”に至る前に“武田信玄”は“二俣城の戦い”で“織田信長”の援軍が無い“徳川軍”を敗る

この時点では、既述の様に“織田信長”は“武田信玄”の裏切りを知らない。しかも“織田信長”は“織田信長包囲網”に参加した近畿の各勢力との戦いもあり”徳川方“に援軍を送っていない。諸説があるが”二俣城の戦い“で”織田信長“が”徳川家康“軍へ援軍を送ったのは”徳川軍“が”降伏、開城“に至る直前だったとされる。

1572年(元亀3年)10月16日~12月19日:

“二俣城”は“遠江国”の諸城の中でも特に重要な拠点であった。城主は“中根正照”(徳川家の家老・生年不詳・没:1572年12月22日)であった。城兵数は僅か1200兵程であったと伝わる。

“武田信玄”軍は本隊22,000兵、それに“武田四天王”の“馬場信春”軍5000が加わり27000兵の大軍であった。“武田軍”は“二俣城包囲”作戦を取り(10月16日)降伏勧告をしたが“家康軍”並びに“同盟”している“織田信長”軍の援軍を期待する“中根正照”軍は拒否した為“武田軍”の攻撃が開始された。(10月18日)

“二俣城“方の抵抗によって戦闘は長引き12月に入った。“武田”軍は城内に井戸が無い事に目を付け“城の水の手を絶つ戦術”をとった。この為、助命を条件に“二俣城”は降伏、開城したのである。(12月19日)この結果“遠江国・北部”は“武田領”と成った。
“武田信玄”は次の標的を“徳川家康”の居城“浜松城”に置き、そして次なる戦闘“三方ケ原の戦い”へと進んだ。

15-(2)―①:“二俣城の戦い“の纏め

年月日:1572年(元亀3年)10月16日~12月19日
場所:二俣城
結果:城主“中根正照”(徳川方)が降伏,開城し“遠江国・北部”は“武田領”に成る

武田軍
【指導者・指揮官】
武田信玄
武田勝頼

戦力:27,000兵
徳川軍
【指導者・指揮官】
中根正照


戦力:1200兵(二俣城兵のみ)

15-(3):“三方ヶ原”の戦い

“三方ヶ原の戦い”について書かれた良質な史料は皆無だとされる。“徳川氏創業史”の中で比較的に信頼度が高いとされる“松平記”(徳川氏創業時代の事件を記した家伝・7巻・阿部四郎兵衛定次著・成立年は未詳・1535年/天文4年/尾張森山崩れから1579年/天正7年/徳川家康夫人・築山殿・の自害までの諸事件を年代順に収めたもの)並びに“三河物語”(旗本大久保忠教・彦左衛門/生:1560年・没:1639年の著作・戦国時代から江戸初期を知る史料とされるが徳川史観に偏った記述が多いとされ正確性に於いて問題があるとされる)も戦闘の展開については僅かしか述べていない。

しかし、この戦いについて以下4点だけは確実だとされる。

①:戦闘が午後4時頃から始まった、薄暮の戦いだった
②:戦場は台地であった、武田軍は徳川家康の思惑に反して台地から降りずに待ち構えていた
③:戦闘は“武田軍”の足軽達が礫(つぶて=小石)を投げつける事から始まった
(注記:鈴木眞哉氏の研究では戦国期の戦闘で戦傷者の受けた疵の10%が石疵、礫疵である)
④:短時間で勝負がついた

15-(3)―①:“三方ケ原の戦い“の纏め

年月日:1572年(元亀3年)12月22日
場所:“三方ケ原”周辺
結果:“武田軍”の圧勝

*“三方ケ原の戦い”に就いては良質な史料が皆無だとされ、下記は諸説の中の一つの説である

【交戦戦力】
武田軍

【指導者・指揮官】
武田信玄
馬場信春
山県昌景

戦力:27,000兵~43,000兵

損害: 200兵

【交戦戦力】
徳川・織田連合軍

【指導者・指揮官】
徳川家康
佐久間信盛


戦力:11,000兵~28,000兵

損害: 2,000兵(1000兵?)


15-(3)-②:“織田”軍から“援軍”として派遣され“三方ケ原の戦い”に参加した武将、並びに“徳川・織田連合”軍“対”武田軍”の兵数比較

既述の“二俣城の戦い”では、城主“中根正照“が期待した”織田“方の支援は間に合わず”中根正照“は結局のところ、僅かな兵で戦う事を余儀なくされ、奮戦空しく開城に追い込まれた。

“二俣城の戦い”の直後に行われた“三方ケ原の戦い”についての確かな情報は“徳川方”が大敗した為であろう、後世の歴史に残す側(徳川)の判断から極めて少ない。従って上記“三方ケ原の戦いの纏め“の記述に於ける”徳川・織田連合軍”の戦力も“11,000兵~28,000兵”という極めて大雑把な数字しか残っていない。

又”織田信長”軍から派遣された武将の名に就いても“信長公記・松平記・佐久間軍記・明智軍記・総見記”等、史書によって違いがある。“織田軍最有力武将”の①佐久間右衛門尉の名は全ての史書に挙げられているが“織田家代々の家老”の家柄の②平手甚左衛門、並びに尾張から三河にかけて大きな勢力を持ち水野一族の惣領である③水野下野守(信元)そして④林佐渡守の②~④の3名は上記5つの史書の中、3つの史書にはその名が挙げられているが全ての史書に名が挙がっている訳では無い。

主君“織田信長”の全国統一事業に大いに貢献した事で知られる⑤織田家宿老、滝川左近将監(一益・生:1525年・没:1586年)の名は上記5つの史書の中“明智軍記”だけに登場するという状態である。

15-(3)-③:“武田軍”に大敗した“徳川家康軍”

”信長の天下布武への道“で著者”谷口克広“氏は”基本的には兵力の差であった。その上、相手に動きを読まれていて、徳川家康の方に10分の1の勝機も無かった“と解説している。

“徳川家康・・境界の領主から天下人へ”の著者“芝裕之”氏は“武田勢の攻撃に徳川家康は家臣の夏目広次を身代わりに残し、這々の体(ほうほうのてい)で浜松城に引き揚げるしかなかった。尚、敗戦後に徳川家康が教訓として自身の姿を描かせたという、顰めた面(しかめっ面)の画像が有名だが、原史彦氏の研究によれば、この合戦時の像が徳川家康のものだとされたのは近代になってからである“と述べている。

15-(3)-④:三方ケ原の戦い“に於ける”徳川・織田連合軍“の被害について

裏付け史料としては

①“武田信玄“が”朝倉義景“に送った書状”伊能文書“・・徳川,織田軍1000余人討死
②当代記(1624年~1644年頃に成立した史書。安土桃山時代から江戸初期までの諸国の情勢、諸大名の興亡、江戸幕府の政治等に関する記録。著者は亀山城主/松平忠明/との説もあるが不明)にも同様に、徳川、織田軍1000余人討ち死と記録されている。
③“寛永諸家系図伝、寛政重修諸家譜・・三方ヶ原の戦いで戦死と書かれた者多数

以上から“徳川・織田”連合軍の戦死者は1000人近くであった事は間違いなかろう。
尚”織田信長”が支援に出した3将の中の一人“平手汎秀”(ひらてひろひで・母親は加藤清正の姉・生:1553年・没:1572年12月22日)も”武田軍”の追撃を受けて戦死している。

16:“武田信玄“最期の戦いとなった”野田城の戦い“

“三方ケ原の戦い”に勝利した“武田信玄”は“三方ケ原台地”西麓の刑部(おさかべ=現在の静岡県浜松市)で年を越した。そして年が明けると“三河”に入り“徳川家康”方の“三河・野田城”(別名根古屋城とも称す・築城1508年・築城主菅沼定則・廃城1590年・黒沢明監督の映画影武者はこの時の戦いで武田信玄が鉄砲で狙撃され、その傷が原因で死亡したとの伝説を元に制作された。史実として菅沼家譜で記述が見られるが命中したとの記述も無く信憑性は低い)を包囲した。

16-(1):戦況

“武田信玄”軍が攻撃した“野田城”は“藪のうちに小城あり”と“三河物語”の記録に残る程の小さな城であった。“三方ヶ原の戦い“で敗れた”徳川家康”軍は戦線を維持出来る様な状態でなく“野田城”の兵力は城将の“菅沼定盁”(すがぬまさだみつ・築城主の菅沼定則の孫にあたる・主君は今川義元~徳川家康・生:1542年・没:1604年)並びに援軍を合わせて500兵程であった。

しかし乍ら30,000兵もの“武田信玄”軍を相手に1ケ月も持ち堪えたのは“野田城”が河岸段丘を利用した立地に拠るところが大であった為である。武田軍は力攻めを行わず、地下道を掘り、水の手を断ち切る戦法で落城に追い込んだ。“菅沼定盁”の子孫が書き遺した“菅沼家譜“には”徳川家康“は途中、後詰に現れたが戦況を見て引き返してしまった、と書かれている。

結果、1573年(元亀4年)2月16日に城兵の助命を条件に降伏、開城し“城主・菅沼定盁”は捕虜として“武田軍”に連行されたが同年3月10日に徳川軍と武田軍との人質交換で解放され”徳川家康“方へ帰参している。この戦闘で勝利した後に”武田信玄“は病死する。

16-(2):“野田城の戦い“の纏め

年月日:1573年(元亀4年)1月~2月16日
場所:野田城並びに野田城周辺
結果:武田軍の勝利、城将の身柄を拘束“武田信玄”最期の戦い

【交戦戦力】
武田軍

【指導者・指揮官】
武田信玄
菅沼定忠

戦力:30,000兵
損害:不明

【交戦戦力】
徳川軍

【指導者・指揮官】
菅沼定盁
設楽貞通

戦力:500兵
損害:不明


16-(3):“武田信玄”が病死する

1573年(元亀4年)4月12日:

“三方ヶ原の戦い”並びに“野田城の戦い”は“武田信玄”にとっては“死期の迫った身体をだましだましの軍事行動であった。(信長の天下布武への道・著者谷口克広氏)“野田城”が陥落した事で“徳川家康”方の”三河防衛網“が崩壊状態と成り、重要拠点の”吉田城“並びに”岡崎城“が危機に陥ったのである。

しかし“野田城”を陥落させたところで“武田信玄”の病状が悪化“武田軍”は侵攻を止めて“甲斐国“に引き返す事に成った。その途中の”駒場“(長野県阿智村)で”武田信玄“は病死したのである。満52歳であった。

“武田信玄”は遺言で“自分の死を3年の間は秘匿し,遺骸を諏訪湖に沈める事”と遺した。家督を相続した“武田勝頼”は遺言を守り3年後の1576年(天正4年)4月16日に“恵林寺”で“三周忌”の葬儀を行なうのである。

16-(4):“武田信玄”の病死が“織田信長”の“全国統一作業“を可成りやり易くした事は確かである

“武田信玄“を”織田信長包囲網“で共闘する仲間として当てにした”朝倉義景“は”近江国“迄は軍を進めた。しかし途中で”越前国“に引き揚げてしまった。この史実が証明する様に“朝倉義景”の軍事行動からは、彼はあまり頼りにならない武将との評価がされている。

”朝倉義景“の行動が象徴する様に”畿内“の”反織田信長勢力“は纏まりが無かった。従って”武田信玄“が上洛行動を本格的に起こした場合、果たしてこれ等”反・織田信長勢力“との共闘が可能であったかに就いて、その可能性は極めて低かったであろうと“信長の天下布武への道”の著者“谷口克広”氏は述べている。

従って“武田信玄”の病死は“織田信長にとって絶体絶命のピンチを脱した“とする説は当時の”織田信長包囲網“を構成する勢力の状況から言って必ずしも当たらない。しかし、以後の”織田信長“の”全国統一“への動きを“可成りやり易くした“事は確かであるとされる。

17:”武田信玄“の”徳川家康領土への侵攻開始”が“織田信長“が”将軍・足利義昭“に突き付けた訣別状ともされる”17ケ条の意見書“の発行と密接に関わるとする説に就いて

上記1572年(元亀3年)12月22日の“三方ケ原の戦い“に始まり”野田城の戦い“(1573年/元亀4年/1月~2月16日)に至る“武田信玄”の“徳川家康領国”への侵攻、そして快進撃は“京都“の人々に大きな動揺を与えた。“別掲図:織田信長を中心とした主たる戦国大名間の同盟、そして決裂図“をもう一度参照願いたい。

この図からも、又、既述の様に“徳川家康”は1570年(元亀元年)10月8日に“武田信玄”と断交し“上杉謙信”と“起請文”を交わすという動きに出ている。この事は“武田信玄”と“徳川家康”が共に“足利義昭幕府”方として属しながらも“対立関係”になった事を意味した。

先に“織田信長”と“足利義昭”の対立の端緒は1570年(元亀元年)1月23日に“織田信長”が発給した“五ケ条の条書”であると記述した。そして1572年(元亀3年)9月(12月発給説もある)に発給されたと考えられる“十七ケ条の意見書“が”将軍・足利義昭“に”織田信長“との訣別を決断させ、両者の関係を決裂に至らしめ、紆余曲折を経て、遂に”織田信長“に拠る”将軍・足利義昭“追放という歴史展開へと進む。

“将軍・足利義昭”が“織田信長”との対決を決断したトリガーが”17ケ条の意見書“(=異見十七ケ条)の発給であった事、そしてその時期は諸説がある中で1572年(元亀3年)9月説(併せて柴裕之氏の12月説も紹介した)と結論付けた。

以下に”武田信玄“の”徳川家康領土への侵攻開始”が”17ケ条の意見書“(異見十七ケ条とも)の発給時期、そして文面にも深く関わっているという事に就いて述べてみたい。

17-(1):“武田信玄”が“徳川家康領国”への侵攻、快進撃を続けた事に“京都”の人々が動揺した。それに影響され“将軍・足利義昭”が同じ様に動揺した事を“織田信長”が“十七ケ条の意見書“の中で咎めている

“武田信玄”の“徳川家康領国”への侵攻、そして快進撃に“京都”の人々が大きく動揺した事が伝わる。そして“将軍・足利義昭”がこの成り行きに“将軍家伝来の宝物”を退避させ、それを見た“京都市民“が京都が戦場になるとの思いから、動揺を拡大させたとして“織田信長”は“将軍のそうした動揺が悪影響を齎している“と”17ケ条の意見書“の中で批判した点を”織田政権の登場と戦国社会“の著者“平井上総”氏が指摘している。紹介した“十七箇条の意見書“(異見十七ケ条)の第4条、並びに、第16条がこの事を指している。

更に同氏は①元亀元年(1570年)の“五ケ条の条書”の内容が守られていない事②幕臣の賞罰に不公平がある事,等々に加えて、上記した“将軍・足利義昭”の動揺ぶりに対して、恫喝に近い批判を“17ケ条の意見書”で指摘したのだ、としている。

こうした指摘からは“信長の天下布武への道”の著者・谷口克広氏が“17ケ条の意見書”の発給時期が“武田信玄”の“徳川家康領国”への侵攻の決断(1572年10月3日発進)前の1572年(元亀3年)9月としているのに対し“武田信玄“の“徳川家康領国”への侵攻を知った“織田信長”がその怒りを“十七箇条の意見書“にぶつけていると”平井上総“氏は主張している。“17ケ条の意見書”の文面との整合性の観点からは“平井上総”氏の説の方に“より”説得力があるように思える。

先に”柴木裕“氏の1572年12月発給説を紹介したが”平井上総“氏の”徳川家康領土への侵攻開始”後に発給されたとする説と整合する説であろう。

17-(1)-①:“17ケ条の意見書”の中で“織田信長”が指摘した“将軍・足利義昭”へのその他の批判から両者が訣別に至った理由を更に理解できる

“17ケ条の意見書”の全文に就いては既に紹介した。以下に就いては全文を再度参照し乍ら読んで頂きたい。

“平井上総”氏は“織田信長”は“将軍・足利義昭”が“織田信長”に黙って他の大名達に馬を献上させている事を非難(第二条)し、大名達から贈られた金銀を“足利義昭”が密かに隠し持っているとして非難している。(第十二条)

更に“足利義昭幕府”の戦力の代表として“朝倉義景、三好一統、本願寺”等と戦って来た“織田信長”としては、自分の知らない処で“将軍・足利義昭”が動き、勝手に他大名を味方にしたり、敵にしたりする事は許せない事であった。(第五条)

取り分け今回の“武田信玄”の裏切りといえる軍事行動は同盟で結ばれた“徳川家康領国”への侵攻であり、これを目の当たりにしたばかりの“織田信長”としては上記に指摘した行動をとる“将軍・足利義昭”への不信感と疑念を増大させるものであった。従って恫喝とも言える“17ケ条の意見書”の内容と成ったと書いている。

又、朝廷への奉公を怠る“将軍・足利義昭”に対して“朝廷”から“織田信長”に苦情があったとし(第一条)、幕臣の扱いについても“将軍・足利義昭”は一部を優遇し、他を冷遇した(第三条、第五条)為“織田信長”を頼る幕臣がいた(第七条)事も“十七ケ条の意見書“で咎めている。

”17ケ条の意見書“は”天下静謐“を委託されたと自認する”織田信長“が“将軍・足利義昭政治”への不満を集約し、それらを是正する様、半ば“最後通牒”の形での勧告を一部恫喝まで加えた文書として“将軍・足利義昭”に突き付けたものだったと言えよう。

18:”17ケ条の意見書“を突き付けられた後に“主君・将軍足利義昭”は“織田信長”との決裂を決断した。その態度の急変に“世間の悪評”を忌み嫌う“織田信長”は、仲直りの為の“講和交渉”の為、必死に低姿勢をとった。しかし“足利義昭”は受け入れず“講和交渉”は進展しない

18-(1):“天下静謐”を“将軍・足利義昭”から委任されたと自認する“織田信長”と逆に“織田信長”こそが“天下静謐を脅かす存在”と態度を変化させた“将軍・足利義昭”が破局に向かう

既述の通り“天下静謐”とは“天皇の命を受けて”将軍“が”逆賊“を退治し、全国に亘る平穏な社会状況を齎す事である。

”織田信長“は”足利義昭“を擁立して上洛を果たし、彼を”征夷大将軍“に就け、その時点から”将軍・足利義昭“から“天下静謐”を担う役割は自分に“委任”されたと信じて来た。しかし乍ら“将軍・足利義昭”は時間が経つにつれて“織田信長”の傀儡と成る事に断じて承服しまいとの考えを強め、抵抗する様に成った。

次第に両者の関係はギクシャクしたものへと変化し“将軍・足利義昭”は“織田信長”を“天下静謐”を脅かし、自分に敵対する存在として考える様になり、遂には“成敗”する事を決断するに至ったのである。

以後“将軍・足利義昭”と“織田信長”は“天下静謐”を巡って対立を強める。以下に述べるが“織田信長”にとって“主君・将軍足利義昭“と真っ向から対抗する事は”天下の嘲弄“(あざけり)”外聞の悪さ“と成る事から最も避けたい事であった。

”信長の天下布武への道“の著者”谷口克広“氏は”織田信長程、世間の思惑・世論を気にした為政者はいない“と指摘している。史実からも“織田信長”が終始”世論“を気にした行動をとって来た事ははっきりしている。

“17ケ条の意見書”の発給以来、はっきりとした“将軍・足利義昭”の“織田信長”に対する敵対姿勢に対して“織田信長”は低姿勢で臨み、仲直りの為の“講和交渉”に臨んでいる。しかし、既に“武田信玄”を筆頭に“織田信長包囲網”を形成して対抗する決心をした“足利義昭”は頑な態度を崩さず“講和交渉”を拒んだ。

そして遂に“将軍・足利義昭”は“織田信長”に対する挙兵に及ぶのである。

18-(1)―①:“織田信長“から突き付けられた“十七ケ条の意見書“が”将軍・足利義昭“に”織田信長“との訣別を決断させた

“将軍・足利義昭”は“十七ケ条の意見書“を突き付けられた時点で”織田信長“との決別を決断した。決断の背景に就いて“織田政権の登場と戦国社会”の著者“平井上総”氏は“武田信玄”並びに“朝倉義景”そして“本願寺・第11世宗主顕如”から“織田信長包囲網”に協力する旨の回答が“将軍・足利義昭”の元に届いた事を挙げ“織田信長”方が劣勢と判断し“織田信長”を切り捨てて彼等に乗り換えたとしている。

当然の事乍ら“将軍・足利義昭”の側近の中に“織田信長”との断交を唆した者もいたと考えられる。

18-(2):“織田信長打倒”を決断した誇り高き“主君・将軍足利義昭”は、それ迄敵対していた“三好義継・松永久秀”とも同盟するという“掌返し”を行い“織田信長”への挙兵に及ぶ

1573年(元亀4年)2月13日(2月14日とも):

”将軍・足利義昭”は戦力を増やすべく己が“筒井順慶“へ接近した事で対立関係になっていた”松永久秀”並びに“三好義継”と和睦して“織田信長包囲網”の一角に組み入れた。そして“挙兵“に及んだのである。この挙兵を“足利義昭と織田信長“の中で著者”久野雅司゛氏は“将軍・足利義昭の織田信長に対する御逆心”という表現を用いている。

18-(3):主君との対決が“天下の嘲弄、外聞の悪さ”を招く事を忌み嫌う“織田信長”は、剃髪した上に人質まで出す事を申し出る程の低姿勢で“主君・将軍足利義昭”との仲直りの“講和交渉”を続けた

”主君・将軍足利義昭“が”17ケ条の意見書“発給を機に、あからさまに敵対姿勢に転じた事で“天下の嘲弄”を回避したい“織田信長”は、飽くまでも温厚に,且つ“将軍・足利義昭“に敬意を表する態度に改め、低姿勢での”講和交渉“を続けた。

この時期“織田信長”は“岐阜城”を動いていない。“柴田勝家”“丹羽長秀”“羽柴秀吉”等の武将を“近江国”に止めながら、自身は“美濃国・尾張国”の兵を終結させて“武田信玄”の進攻に備えていたのである。

従って“京都”に於ける心強い味方は“将軍・足利義昭”の奉公衆“細川藤孝“であった。彼は”織田信長“に”京都・畿内“の情勢を細かく報告して来た。それに対して“織田信長”が返信した“黒印状”が“細川家文書”に伝わる。この史料が上記“織田信長”の基本的姿勢を伝えている。

“将軍・足利義昭”が蜂起したが“君臣”の間のトラブルなので先ずは自分(織田信長)の方から詫び、和睦を申し入れた。“松井友閑”(織田氏の祐筆)“島田秀満“(奉行)を遣わして意見を申し上げ、人質も進上し、起請文も提出した。義昭様が聞き入れてくれれば“天下再興”と成ろう。

“主君・将軍足利義昭”との仲直りの為の“講和”を成す事が基本と考えた”織田信長“に対し”幕府奉公衆“等は”人質“の提出を含む”12ケ条“の条件を”織田信長“に求めて来た。これに対して”織田信長“は重臣”塙直政“(ばんなおまさ・生年不詳・没:1576年)を使者として派遣し、全面的に”主君・足利義昭“の”上意“に随う姿勢を示している。

つまり”奉公衆“が要求して来た”織田信長の実子“を人質として差し出す要求にも応じたのである。この様子を“細川家文書”は以下の様に伝えている。

天下再興の為に御理(おことわり=物事の筋道)を申す(略)上意の趣,条々成し下され候、一々御請け申し候(略)殊に十二ケ条の理とも、具に(全て)聞き届け(足利義昭の要求を全て受け入れて十二ケ条に及ぶ条件を受諾する)(略)然りといえども君臣間の儀により深重に愁訴(しゅうそ=辛い事情を明かして嘆き訴える事)してその上意に随うべし、何をもっても背き難きの間、領掌仕り候(全面的に主君足利義昭の上意に随う、無条件降伏に拠って関係修復を図っている)

更に“講和交渉”に対する“織田信長”の驚くべき低姿勢を示す記録が“日本耶蘇会年報”に残されている。“主君・将軍足利義昭”と対抗する事に拠って“世論・外聞”の悪さが立つ事を忌み嫌う“織田信長”の必死の姿勢が表れている。

戦国時代を代表とする武将“織田信長“と雖も“日本の特異性”である“至強(将軍家・幕府・武士層)”勢力の中に於ける“家格秩序”を無視した行動を控えた事を裏付ける史料である。

この“日本耶蘇会年報“に残る史料には”織田信長”が子息の“織田信忠?”と共に剃髪し、丸腰で“主君・将軍足利義昭”に謁見し、恭順の意思を表すと共に“主君・将軍足利義昭”に対しては“公方”としての地位を保全して“室町幕府”を維持する事が“織田信長”としての本望だと述べた事を伝えている。“将軍・足利義昭”に全面的に降伏する旨を申し出た史料として“久野雅司著・足利義昭と織田信長”に紹介されている。

公方様、もし可なりと認めば、彼及び其子は頭を剃り、少しも武器を帯びずして彼に謁見すべし、しこうして彼は公方様の地位を回復することの外、考へたることなく、これがため辛苦したるが故に、これを維持することのほか、望む所なし

18-(4):“将軍・足利義昭”は“織田信長”が差し出す“人質”も受けいれず、頑なに“講和交渉”を拒否した。そして遂に蜂起する

18-(4)-①:“将軍・足利義昭”が蜂起を決断したのは何時か?

1573年(元亀4年)2月13日:

既述の様に“将軍・足利義昭(幕府)”と“織田信長”は表面上“協調体制”で政治を行って来た。“将軍・足利義昭”が“異見17ケ条”に反発して“織田信長”との決裂、そして敵対を決断した事は何度も述べた。1573年(元亀4年)2月13日“将軍・足利義昭蜂起”これを裏付ける史料が同年2月26日付け“勝興寺”に宛てた“浅井長政”の書状である。

当月13日に公方様御色を立てられ(勝興寺文書) と“将軍・足利義昭”の蜂起を明示している。

18-(4)-②:“将軍・足利義昭”が蜂起に至った政治的背景に関する諸説
その1“武田信玄・朝倉義景・浅井長政・本願寺”諸勢力との関係

“武田信玄”の西上の動きに“本願寺・顕如”が反応し“朝倉義景”からの使者が連繋の件で来た事、そして“本願寺・顕如”からは“朝倉義景”に急ぎ出馬を要請した事等のやりとりを”武田信玄“に伝えた事が”顕如上人御書札案留“に記録されている。(久野雅司著:足利義昭と織田信長)

そして”武田信玄”が既述の様に“三河国・野田城”を1573年(元亀4年)1月から攻撃し愈々本格的に“西上”するであろうとの形勢を受けて“浅井長政”が“将軍・足利義昭”に働きかけ、結果1573年(元亀4年)2月13日に“将軍・足利義昭”が蜂起したとしている。

“足利義昭と織田信長”の著者“久野雅司”氏は“武田信玄・本願寺・朝倉義景・浅井長政”に拠って“第二次織田信長包囲網”が形成され“将軍・足利義昭”がそれに呼応したとの政治的背景を結論付けている。

18-(4)-③:“将軍・足利義昭”が蜂起に至った政治的背景に関する諸説
その2:“織田信長”への幕臣の不満

“織田信長”は“異見十七ケ条”の中で“将軍・足利義昭”の幕臣に対する所領政策の失敗を挙げ叱責した事は既述の通りである。(第三条・第五条)一方で幕臣の中には“織田信長”に対して領地の少なさから不平を募らせ“将軍・足利義昭”に蜂起すべしと進言する一派があり“将軍・足利義昭”が蜂起を決断する一要因になった、との説である。

18-(4)-④:“朝倉義景”が出馬を表明する

1573年(元亀4年)2月26日:

“武田信玄”の“三河国”侵攻は1ケ月前の“三方ヶ原の戦い”に続いて、1573年1月11日~2月16日の“野田城攻め”でも勝利し、快進撃を続けていた。“将軍・足利義昭”はまさかこれが“武田信玄”の最期の戦いであるとは思いも寄らなかったのである。そして“武田信玄”が快進撃を続ける状況下“朝倉義景”は“将軍・足利義昭”を支援すべく出馬を表明した。

18-(4)-⑤:畿内の守護達の支援も得られると判断した“将軍・足利義昭”は益々意気軒高たる姿勢で“安芸国・備前国”にも支援の出馬を求めた

1573年(元亀4年)3月7日:

挙兵した“将軍・足利義昭”のもとに“畠山昭高・遊佐信教”が帰参した。更に“池田知正”並びに“宇津頼重”も御供衆として加わった。“将軍・足利義昭”は“畿内”の守護家からの支援を得られたと考えた。この様な状況判断から“織田信長”に対しては飽くまでも強硬な対抗路線を貫き、敵対する強気の姿勢をとった。この姿勢は、この時点ではまさにズバリ的中していたと“年代記抄節”の記録からは読める。

1573年(元亀4年)3月22日:

“将軍・足利義昭”は”安芸国・小早川氏“備前国・浦上氏”にも出馬を求めた事が伝わる。

19:“将軍・足利義昭”を最も強気にさせた背景には、飽くまでも“武田信玄”が“織田信長包囲網”の核として参加して来るとの確信を得ていた事にあった

2023年4月29日に歴史家の“加来耕三”氏が解説を担当する番組を観ていた時に下記“織田信長包囲網”の状態を分かりやすく解説した図が出たので参照願いたい。但しこの図は“武田信玄”病死後の図である。


19-(1):“織田信長包囲網”の脆弱性を見落としていた“将軍・足利義昭”

“織田信長包囲網”を形成していた①“朝倉義景”にしても②“本願寺”にしても、彼らが中心に据えた“将軍・足利義昭”が表面的には“織田信長”と“協調するポーズ”をとる期間が長かった為に“織田信長包囲網”に求心力を与える核としての“将軍・足利義昭”の存在感は薄かった。

従って“織田信長包囲網”は形造られて来てはいたが“織田信長”を現実的に打ち負かすだけの“組織化”が出来ていなかったのである。“将軍・足利義昭”が見落としていた“織田信長包囲網”の“脆弱性”である。。

19-(2):“織田信長”が発した“十七ケ条の意見書“が”将軍・足利義昭“に”反織田信長“を決断させるトリガーと成り”武田信玄“加入に確信を持った事で”織田信長包囲網“は盤石だと過信した”将軍・足利義昭“は“強気一点張り”を通した

19-(2)-①:“十七ケ条の意見書“を突き付けられた“将軍・足利義昭”が以後も強気に振舞った背景

世間の思惑(世論)を“織田信長“程気にした為政者はいない、と”信長の天下布武への道“で、著者”谷口克広“氏が記述している事は何度も述べた。従って“十七ケ条の意見書“を“主君・将軍足利義昭“に突き付けた際”織田信長“は世間に対してその趣旨、内容を書き写した手紙を彼方此方に配り“主君非難の行動”を世間から批判されない様、手を打っている。

こうした一連の行動で“織田信長”は“主君・将軍足利義昭“の方に非がある事を世に知らしめ、同時に自分の“主君・足利義昭”への諫言は”正義に則っている“という事を世間に喧伝する事を忘れていなかった。

“織田信長”の“十七ケ条の意見書“の発給時の時期に就いては諸説があるが既述の様に、結論として”武田信玄“の”徳川家康領国への侵攻“開始後、つまり“1572年(元亀3年)10月~12月迄の時期であるとした。

この“発給時期”説の裏付けと成る更なる史料がある。”織田信長“が“十七ケ条の意見書“の正当性を広く世間に伝えるべく“十七ケ条の意見書“の趣旨、内容を書き写した手紙を彼方此方に配った事は既述の通りだが、その実例が1573年(元亀4年)2月下旬の日付の手紙として“奈良”で見つかっているのである。

この史料も”十七ケ条の意見書“が”武田信玄“が”徳川家康“の領国侵攻を開始した事を”織田信長“が知って発給した事を裏付けている。

この”十七ケ条の意見書“(異見17ケ条)を”武田信玄“本人も何らかのルートを通じて知るところとなったと考えられる。”織田信長という人物はただ者では無い“と”武田信玄“が呻いたとの話を”当代記“(寛永年間/1624年~1644年/に成立した史書・信長公記を中心に他の記録資料を再編した二次史料である)が伝えている。

いずれにせよ、1573年(元亀4年)初頭の段階では“武田信玄”を“織田信長包囲網”の核に取り込む事が出来たと考えた“将軍・足利義昭”にとって“武田信玄”が”織田信長“と”清州同盟“(1562年1月以来)で固く結ばれた”徳川家康“への攻撃を開始した事は”織田信長“と”武田信玄“との関係に亀裂が生じた事を意味したから”将軍・足利義昭“にとって”織田信長包囲網“策が益々順調に進む期待を確実にさせた事は間違い無い。

20:“武田信玄”の快進撃の間、得意満面の“将軍・足利義昭”に対し、ひたすら仲直りの“講和交渉”の努力を続けた“織田信長”

“徳川家康領国”への進撃を開始し(1572年/元亀3年/10月3日)①二俣城を攻略し(1572年10月16日~12月19日)②三方原の戦いで“徳川家康”を浜松城に追い(1572年/元亀3年/12月22日)更には③“三河国・野田城”を攻め落とす(1573年1月~2月16日)という快進撃を続けた“武田信玄”に“将軍・足利義昭”は最早“織田信長”などは物の数に非ず、と勝ち誇っていた。

“武田信玄“が彼の人生で最期の戦いとなった”野田城の戦い“に勝利したのは1573年(元亀4年)2月16日の事であり、未だ存命中であった。こうした状況下“織田信長”は畿内の守護工作にとどまらず“将軍・足利義昭”との仲直りの為の“講和”策に八方手を尽くし,懐柔の為に譲歩を重ねていた事が伝わる。

しかし“織田信長包囲網”の核として“武田信玄”を得た事を確信する“将軍・足利義昭”は“武田信玄”の快進撃に 彼の上洛を期待し、益々強気の姿勢を崩さなかった。

20-(1):“将軍・足利義昭”は“織田信長包囲網”を強化すべく、武将達に“上京命令”を下し続けた

1573年(元亀4年)2月14日:

”武田信玄“の上洛を期待する“将軍・足利義昭“は”畿内・近国”の武将達に上京の命令を下し、更なる“織田信長包囲網”強化を進めた。

“将軍・足利義昭“の上京命令に応じた大名として“摂津国”からは“池田重成”(池田知正・池田勝重とも称す・荒木村重に領主の座を奪われる・生年不詳・没:1604年)並びに“塩河長満”(しおかわながみつ・この頃は織田信長に敵対したが後に織田信長に降る・生:1538年・没:1586年)が、そして“丹波国”からは“内藤如安”(松永久秀の弟の松永長頼の息子・徳川家康のキリシタン追放令で1614年9月に高山右近と共にマニラに追放される・生:1550年?・マニラで没:1626年)並びに“宇津頼重”(=宇津長成・生没年不詳)の名が挙がる。(年代記抄節)

“徳富猪一郎氏所蔵文書”には①本願寺②朝倉義景③安芸国・小早川氏④備前国・浦上氏にも出馬を求めた記事が伝わる。この時点は“武田信玄”が病死する2ケ月前であり“将軍・足利義昭”が自信満々、積極果敢に“織田信長包囲網”作りに取り組んでいた様子が伝わる。

20-(2):勝利を確信した“将軍・足利義昭”は勝ち誇り“織田信長”が如何に下手(したて)に出ても”和解“に応じる気配も無かった

“将軍・足利義昭”は畿内の守護を中心に“反織田信長勢力”を結集する事が可能と確信し、“織田信長”こそが“天下静謐を脅かす存在”と決めつけた。従って“和解”に応ずるどころか、討伐する以外の事は眼中に無かったのである。

この時点の“将軍・足利義昭”と“織田信長”の対立、抗争の状況を“足利義昭と織田信長”の中で著者“久野雅司”氏は“埋めようも無い両氏の認識のギャップ”だとして以下の様に記述している。

“将軍・足利義昭”は敵対する勢力(=織田信長)を放伐する事によって“天下”に“静謐”(せいひつ・静かで安らかな事、世の中が穏やかに治まる事、太平)を齎す事が“将軍・足利義昭の権限“であると信じていた。又、一方の”織田信長“は”天下静謐の維持は将軍から自分に委任された権限である“と信じて行動して来たとの強い思いがあった。要は”天下静謐権“が何方にあるのか、を巡っての抗争であった

20-(2)-①:“武田信玄”が同盟を破棄して“織田信長”の同盟者“徳川家康”を攻め、勝利を重ねている(二俣城攻略~三方ヶ原の戦いの勝利~三河国・野田城攻略/1573年2月16日)事に対応すべく“織田信長”が動く

1573年(元亀4年)2月29日:

この時点では“織田信長”は“三河国・野田城”を陥落させた“武田信玄”軍がこの後“信濃国”に退却してしまうとは思っていなかった。“武田信玄”が1573年4月12日に没する程に体調が悪化していた事など知る由も無かったのである。

従って世間からの悪評を忌み嫌う“織田信長”は尚も“主君・将軍足利義昭”との仲直りの為の“講和交渉”を辛抱強く続けた。しかしその一方で“柴田勝家・明智光秀“等の武将達を”滋賀郡“の敵の拠点に派遣して攻撃させ、全てを鎮圧するという軍事面での実効を挙げ続けていた。

こうした“織田信長”の動きに対して“将軍・足利義昭”は“朝倉義景・浅井長政”軍が“織田信長包囲網“の支援に駆け付ける事を期待した。しかし既述の様に2月26日に出陣表明をした“朝倉義景”も、そして“浅井長政”も動く気配を見せていない。

1573年(元亀4年)3月7日:

この時点で“武田信玄”は未だ存命中であった。この日付けの記録に、飽くまでも強気の姿勢を崩さない“将軍・足利義昭”との仲直りの為の“講和交渉”を担当していた“織田信長”の奉行“島田秀満”(生没年不詳)が憤然として“織田信長”の許に戻ったとの記録が残る。
(兼見卿記)

例え、仲直りの為の”講和“が成ったとしても”織田信長“の考えが”傀儡将軍“としての”足利義昭“の存在しか認めない事に変わりは無く、一方で“将軍・足利義昭”の考えは“室町幕府将軍権威の復活”であったから“傀儡”に甘んじる積りなどは毛頭無かった。そもそも両者が並び立つ事は最早、あり得ないのである。

“武田信玄”の病状は深刻であった訳だが(1ケ月後の1573年4月12日に軍を甲斐国に引き返す途中の信濃国・駒場で病死した)“織田信長“方もこの時点でそうした情報は得ていない。今回の仲直りの為の“講和交渉“は、実質的な”主君・将軍足利義昭“との最後の折衝であったが、上記の様に担当の“島田秀満”が憤然として戻る結果となった事で“織田信長”としては、飽くまでも世間の悪評を忌み嫌う立場からポーズとしての“講和交渉”を続ける姿勢は保っ事としたものの、以後の“講和交渉”の姿勢は可成り強硬な手段を用いての交渉へと変化して行った。

20-(3):“織田信長”は“将軍・足利義昭”との関係が悪化したのは“内衆”の仕業だとし、その旨を“主君・将軍足利義昭”に直訴させるべく家臣を派遣した。しかし“将軍・足利義昭”はこれも受け入れなかった

1573年(元亀4年)3月8日:

“織田信長”が低姿勢で仲直りの為の“講和交渉”に何度も臨んだのにも拘わらず既に“織田信長”との軍事対決を決断した“将軍・足利義昭”は“挙兵”すべく、更なる軍勢増強の動きを続けた。

事態がここ迄に至っても今回の”主君・将軍足利義昭“との対決が”織田信長“側から仕掛けたと、世間の悪評が立つ事を忌み嫌う“織田信長”は“主君・将軍足利義昭”の方から“御逆心”に及んだとする状況作りに腐心した。

そこで”織田信長“は此処に至った元凶は“将軍・足利義昭”の近臣(内衆)達が“謀叛”を ”進言“した為だとして、彼等(近臣・内衆)の排斥を”将軍・足利義昭“に要求する行動に出たのである。今回の事態は決して”主君・将軍足利義昭“の”上意“では無く”内衆“の所為(仕業)だとする事で”織田信長“としての世間からの”悪評回避策“を講じる姿勢を貫いたのである。

具体的には”奉公衆“の”上野秀政“(生年不詳・没:1582年?)をその中心的人物だと名指しして”将軍・足利義昭“に伝えるべく“嶋田秀満”(生没年不詳)を派遣している。しかしこれをも“将軍・足利義昭”は拒絶した。

20-(4):”織田信長“が”御所巻き“に訴える決意を固め“岐阜城”から出陣する

1573年(元亀4年)3月25日:

”織田信長”は“武田信玄”軍が“野田城”を陥落させた後、西へ進軍すると予想していた。処が“武田信玄”軍は予想を裏切り、何故か北へ動き“長篠城”を過ぎて“鳳来寺”に着陣したとの情報を掴んだ。

“武田信玄“軍が”信濃“方面に退陣するという情報を掴んだ”織田信長“は飽くまでも”武田信玄“軍の動きに注意を払いながらも“美濃国・岐阜城”から出陣する決断をし、ゆっくりと“京”への進軍を開始した。

20-(5):“京”に入り“東山・知恩院”に着陣した“織田信長”軍

1573年(元亀4年)3月29日:

“兼見卿記”には“織田信長”軍が“逢坂“(おうさか:滋賀県大津市逢坂)に着くと”将軍奉公衆“で”織田信長“方に与する”細川藤孝“並びに”摂津国“の実力者”荒木村重“(茨木城城主~伊丹城主・生:1535年・没:1586年)が出迎え、忠誠を誓った事が記録されている。“織田信長”軍は正午頃に“京都”に入り“東山・知恩院”に本陣を構え、他の“織田信長”方の軍勢も“京”市内のあちこちに着陣した。

“織田信長”の低姿勢に徹した仲直りの為の“講和交渉”を拒否し続けたばかりか、遂に“挙兵”に及んだ“将軍・足利義昭“であったが“織田信長”軍の“入京“の勢いに恐れをなし“将軍・足利義昭”方の兵は“御所”から一兵も姿を見せなかったと記録されている。“織田信長”の今回の“岐阜”からの出陣の目的は“戦闘”の為では無く“主君・将軍足利義昭“に対して“御所巻”に訴える為であった。

20-(6):“主君・将軍足利義昭”への“御所巻”

1573年(元亀4年)4月2日~4月3日:“京”の郊外を放火する

“織田信長”は“将軍・足利義昭”との仲直りの為の“講和”を成すべく次なる手段として“御所巻”に訴える事を決断した。“御所巻”は“室町幕府”に於いて諸大名の軍勢が“将軍御所”を包囲して幕政に対して要求、並びに異議申し立てを行なう行為で、室町時代、下表に示す様な実例があった事はこれ迄の項でも紹介した。

“天下の褒貶”(てんかのほうへん=褒める事と貶す事)並びに“世論”を気にする事では他の戦国の為政者と比較して郡を抜いたとされる“織田信長”は、飽くまでも“将軍・足利義昭”が“御逆心”に至った元凶は“内衆”の所為だとして“内衆”の“成敗”を求める姿勢を取る事で“世間”に“織田信長と主君・将軍足利義昭”の争いだと“悪評”が立つ事を忌み嫌った事は何度も述べた。“主君・将軍足利義昭“に“恭順”の意志を表し続ける事が世間の手前、何よりも大切との判断からである。

=御所巻の実例=
①1349年:高師直等が足利直義一派の追放を求めて将軍・足利尊氏邸を包囲
②1379年:斯波義将等が細川頼之一派の追放を求めて将軍・足利義満邸を包囲
③1466年:細川勝元、山名宗全等が伊勢貞親一派の追放を求めて将軍・足利義政の邸宅を包囲した
④1467年:応仁の乱の発端となった細川勝元・畠山政長等が畠山義就の追放を求めて将軍・足利義政邸を包囲しようとしたところを山名宗全、畠山義就等が畠山政長の追放を求めて将軍・足利義政邸を包囲~御霊合戦に発展する

20-(6)-①:“御所巻”を敢行すると同時に“上京”を“放火”する事で“将軍・足利義昭”に圧力をかけ、尚も仲直りの為の“講和交渉成立”を迫った“織田信長”

1573年(元亀4年)4月4日:“上京”に放火する

“御所巻”を実行し、更に“将軍・足利義昭”に圧力を加えるべく“織田信長”軍は兼ねてから反抗的だった勢力が集まる”将軍御所“に近い”上京“への放火をした。

“織田信長”は“将軍御所”に“講和交渉”の使者を遣わした。しかし、尚も“将軍・足利義昭“はこれを拒否した事が“原本信長記”に書かれている。尚、この放火で蜜月時代の“将軍・足利義昭”が“織田信長”の為に建設途上であった京都の邸宅が延焼してしまった事が伝わる。

此処まで迫る“織田信長”に対して“将軍・足利義昭”が頑迷に“講和”を拒否し続けた理由は、言うまでも無く“将軍・足利義昭“の頭に、辛抱すれば“武田信玄”が“朝倉義景”及び“浅井長政”と共に支援に駆け付けてくれる筈だとの固い確信があったからである。

20-(6)-②:“御所巻”は失敗

“織田信長“の”御所巻“敢行に拠って”将軍・足利義昭”側近の“上野秀政“並びに”一色藤長゛(幕府御供衆・生年不詳・没:1596年?)等の側近(内衆)から“織田信長に対し逆心存ずべからざる”との起請文を出させ、降伏させる事は出来た。

しかし肝心の“主君・将軍足利義昭”から“講和承諾”を引き出す事は出来なかった。要するに“御所巻”は失敗に終わったのである。(和簡礼経:足利義昭側近、その後豊臣秀吉、徳川秀忠に仕えた曽我尚祐の著作/そがなおすけ・生:1558年・没:1626年/に拠る幕府右筆の基本となった)

21:何としても“主君・将軍足利義昭”との仲直りの為の“講和”に持ち込みたい“織田信長”は“事態打開策”として“最後の手段=“勅命講和”に訴えた

“御所巻“に訴えても”主君・将軍足利義昭“からの”講和“を勝ち得る事が出来なかった”織田信長“は最後の手段として頼ったのが“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”の“権威であった。

“至強(将軍・幕府・武士層)勢力”は“鎌倉幕府”が成立して以後、日本の政治権力を握って来たが、その権力執行に行き詰まると打開策として頼ったのが“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”が古代から日本社会に岩盤の様に維持し続けて来た“権威”の力であった。

“織田信長”も“日本の特異性”とされる“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”の権威に頼ったのである。300年後に“徳川幕府”の権力が“財政破綻”並びに“外圧の脅威”等で大いに陰り、立て直しの為に頼ったのも“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)”勢力の“権威”の力であった。そして日本は“王政復古・明治維新”に至ったのである。

日本の政治史はこうした“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)“勢力の”権威“と”至強(将軍・幕府・武士層)“勢力の”権力“とが併存した形で政治形態を継承して来た。こうした歴史は“日本の特異性”である。

21-(1):誰よりも世間からの悪評を忌み嫌う“織田信長”は,余りにも頑なな“将軍・足利義昭”の“講和拒否”に対して最後の切り札“正親町天皇”を動かした

“将軍・足利義昭”が“織田信長包囲網“の核として期待する“武田信玄”が快進撃を続ける状況に“織田信長何するものぞ!!“との確信を持ち“織田信長”との“講和”を拒否し続ける余りにも頑なな態度を打開する為“織田信長”は最後の手段に訴えた。それが“勅命講和“である。

尚、この“勅命講和”の動きを“将軍・足利義昭“からの要請だったとする説があるが、終始一貫して“織田信長”からの動きであった事は確認されている。

22:“将軍・足利義昭”は不承不承“勅命講和”の動きに応じ承諾する・・1573年4月5日~4月7日

22-(1):“勅命講和“に至る動きが始まる

1573年(元亀4年)4月5日:

“織田信長”が“御所巻き”を敢行する決断をし、岐阜から軍隊を率いて“上京”(かみぎょう)地域を放火したのが1日前の1573年4月4日であった。それでも“講和”を承諾しない“将軍・足利義昭”に対し“織田信長”は動いた。

その翌日に①“二条晴良”(にじょうはれよし・関白・藤氏長者・二条家14代当主・2020年のNHK大河ドラマ/麒麟が来る/では、お笑いタレント小藪千豊が演じた・生:1526年・没:1579年)②“三条西実澄“(正二位内大臣・NHK大河/麒麟が来る/では俳優石橋蓮司が演じた・生:1511年・没:1579年)③”庭田重保“(にわたしげやす・公卿・正二位権大納言・今上天皇の直系の祖先とされる・生:1525年・没:1595年) 等3人の公家が”織田信長”の陣所に出向き“勅命講和”の打ち合わせを行った記録が残る。

“織田信長”が硬軟両方の手段を用いて、何としても“将軍・足利義昭”との仲直りの為の“講和”を成立させようとの執念が見える。

1573年(元亀4年)4月7日:“勅命講和”が成る

上記の2日後、つまり4月7日に“勅使”3人の外に“織田信長”の名代として④“織田信広”(織田信秀の庶長子、織田信長の異母兄と伝わる・津田信弘とも称される・翌年9月29日の第三次伊勢長島一向一揆殲滅戦で戦死・生年不詳・没:1574年)⑤“佐久間信盛”(1580年8月25日に主君織田信長から19ケ条に亘る折檻状を突き付けられ織田家を離れる迄の約30年間は織田家臣団の筆頭家老として家中を率いた・生:1528年?・没:1582年1月)⑥“細川藤孝”(細川幽斎・仕えた主君は足利義輝、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康である・生:1534年・没:1610年)等の計6人で“二条御所”に行き、遂に“勅命講和”が成立した。

この事は“和簡礼経”の記録に拠って裏付けられるが、1573年(元亀4年)4月下旬に“将軍・足利義昭”の側近と“織田信長”の重臣の名で正式に誓紙が交わされたのである。

22-(1)-①:“勅命講和”は形だけものであった

この時点(1573年4月7日)は“武田信玄”病没の5日前であり、当然その状況を知らない“将軍・足利義昭”は“武田信玄”の快進撃状況から“織田信長包囲網”に拠る“織田信長打破”を確信していた。従って不承不承“勅命講和”を受諾したものの、本音としては”日本の特異性“である”至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力“の権威“に抗う事は得策では無いとの判断で行った”形だけの講和“に過ぎなかった。

“正親町天皇”に拠る“勅命講和”を不承不承受諾した“将軍・足利義昭”の本音を“原本信長記”は“公儀右の御憤を休まれず”との表現で伝えている。

23:ここまで強気だった“将軍・足利義昭”が何時“武田信玄”の病死を知ったか

“武田信玄”が1573年(元亀4年)4月12日に病死した。“武田信玄”の死は遺言により隠された事は既述の通りである。従って“勅命講和”が成った4月7日は“武田信玄”の病死の5日前であり、この時点で“将軍・足利義昭“は勿論”織田信長“も”武田信玄“が病死に至る状態であった事は想像だにせずに”勅命講和“を結んだという事である。

1573年(元亀4年)5月13日:

“将軍・足利義昭”が何時“武田信玄”の病死を知ったのかが重要であるが、少なくとも1ケ月間は知らなかったと思われる。5月の段階で“本願寺”に対して“武田信玄・朝倉義景・浅井長政“と共に”天下静謐“を実行すると伝えている事、何よりも既述の様に1573年5月13日に“将軍・足利義昭”から“武田信玄”に“織田信長包囲網“の核として期待し“織田信長”に代わって“天下静謐”の為の軍事行動を指示する“御内書”が出されている史実が揺るがぬ証拠である。

この5月13日の“御内書”には”武田信玄”が“将軍・足利義昭”に対する忠節を誓って来たことを褒め、更に“きっと行(てだて)に及び天下静謐の馳走油断あるべからずの事専一に候”と書かれている。(大槻文書)

つまり“武田信玄”に“織田信長”打倒の軍事行動を起こす様、指示したのである。更に1573年5月22日付けの“将軍足利義昭”が“武田信玄”に“天下静謐の為に御下知を下した“という記録もこの史実を裏付けている。こうした史実から“将軍・足利義昭”は“武田信玄”の病死を5月の時点で知らなかった事は明らかであろう。

6月に成って中国地方の”毛利輝元“(彼の父・毛利隆元は1563年8月に急死しており、祖父の毛利元就は1571年7月6日に没していた)に対しても支援協力を求めている事から1573年6月迄、知らなかったのでは、との説もある。

24:“勅命講和“受諾(1573年4月7日)後,僅か2ケ月後に”講和“を破棄し、再び”反・織田信長“の挙兵に及んだ”将軍・足利義昭“・・室町幕府が実質的に崩壊したとされる”槙島城の戦い“へ

1573年(元亀4年)6月13日:

実兄“第13代将軍・足利義輝”が殺害され、後任の将軍として擁立された時から“足利義昭”の“室町幕府再興”と“征夷大将軍”としての権威復活に対する意欲は相当に強かった。

又、性格的にも極めて誇り高い人物である事はこれ迄も述べて来た。彼にとって“勅命講和”受諾は上記した様に不承不承のものであり、本音は全く受け入れられないものであった。従って“将軍・足利義昭”は“勅命講和”受諾から僅か2ケ月後の6月13日に“講和”を破棄し“織田信長”に対して再度“蜂起”する事を決断した。

24-(1):今回の“将軍・足利義昭”の挙兵は“武田信玄”の病死情報を掴んだ上でのものか否か?

“信長の天下布武への道”の中で著者“谷口克広”氏は“武田信玄の病死はもう此の1573年6月13日付の記事の頃には、将軍・足利義昭も掴んでいた筈だとしている。

又“谷口克広”氏は“将軍・足利義昭”は“畿内”の大多数が自分の味方と成るであろうと読み、更に“朝倉義景、浅井長政”も支援を決断したのであるから、必ず駆け付けてくれると見込んだ上での再度の挙兵であった。しかし彼は“織田信長包囲網の脆弱性”を見通せなかった甘さがあった、と指摘している。

24-(2):“二条御所”に“三淵藤英”等を置いて守らせ、自らは“南山城”の“槙島城”に立て籠もった“将軍・足利義昭”

1573年(元亀4年)7月3日:

畿内の大多数の守護達が味方するものと考え、更に“朝倉義景、浅井長政”軍も支援に駆け付けるとの確信を持った“将軍・足利義昭”は“武田信玄”が病死していたとしても“織田信長包囲網”は“織田信長”軍に勝利する事が出来るであろうと確信していた。そして3ケ月前の1573年4月7日に不承不承結んだ“勅命講和”を破棄して、僅か3700の兵力で再度の挙兵に及んだのである。

“二条御所”を“三淵藤英”(幕府奉公衆・細川藤孝の異母兄・2020年のNHK大河ドラマ/麒麟が来る/では俳優谷原章介氏が演じた・生年不詳・没:1574年)と“武家昵近公家衆”に守らせ、自分は側近“真木島昭光”(槙島昭光とも・生涯、足利義昭の側近として尽くした武将・生年不詳・没:1646年1月)の進言を入れ“宇治五ケ庄”に移動し“南山城”の要害とされた“真木島昭光”の居城“槙島城”に立て籠もった。

25:“勅命講和”を“将軍・足利義昭”の側から最初に破棄した事で“織田信長”から“主君との抗争”を仕掛ける事は“世間の悪評”を受ける事であり、何としても避けたいと考えていた“織田信長”にとって、幸いであり“出陣”に踏み切った

25-(1):“勅命講和”は所詮“一時凌ぎ”に過ぎないと読んでいた“織田信長”は来るであろう戦いの準備を怠らなかった

1573年(元亀4年)4月14日(4月11日説もあり):

1573年4月7日に形だけの“勅命講和”が成った事は“織田信長”にとっては“畿内方面”に於ける自軍にとっての危機的状況を回避出来、休戦期間を得た様なものであった。“織田信長“の同年4月14日時点での関心事は“三河国”から想定外の行動で軍を引き揚げた“武田信玄”の動向の確認にあったとされる。

その為に、急いで“美濃国“へ帰国した”織田信長“は、必ず起こると予測した”将軍・足利義昭“方との戦闘に対する準備行動を直ちに開始した。

帰国の途上“六角義賢”(=六角承禎・六角氏15代当主・生:1521年・没:1598年)が立て籠もる“鯰江城”(なまずえじょう・六角氏に属した鯰江氏の城)を“柴田勝家”並びに“佐久間盛政”に攻撃させ、又、敵方に味方したという情報をもとに“百済寺“(ひゃくさいじ・滋賀県東近江市百済寺町にある天台宗の寺院)を焼き討ちにしたのも”将軍・足利義昭“方との戦闘に対する準備としての行動であった。

如何に“情報戦”が勝敗を決する“戦国時代”とは言え“武田信玄”の病死後,未だ2日しか経っていない1573年4月14日の時点では、流石の“織田信長”方も“武田信玄”の病死情報を掴んでいたとは思えない。

しかし,不承不承“勅命講和”に応じた“将軍・足利義昭”が“傀儡将軍”しか認めない“織田信長”に”勅命講和“を破棄して挙兵に及ぶ事を”織田信長“は読み切っていた。もし”将軍・足利義昭”の方から先に攻撃をして来れば、それは“織田信長”にとってみれば“思う壺”だったのである。

25-(2):“将軍・足利義昭”の挙兵を読み切り、これまでに類のない“大船”の建造を命じていた“織田信長”

1573年(元亀4年)5月15日~7月5日:

“将軍・足利義昭“が”勅命講和“を破棄して、再度の挙兵に及んだのは1573年7月3日であった。

“将軍・足利義昭”の再度の挙兵を読み切っていた”織田信長“は”佐和山城“を訪れて”大船“の建造を命じた事が同年5月15日の記録にある。この時の大工の棟梁は”岡部又右衛門“(尾張国・熱田神宮の宮大工の棟梁、彼は安土城築城の際にも棟梁であった・生没年不詳)であった。

大船建造の目的は”京“で”将軍・足利義昭“挙兵の動きが起これば“岐阜”から“佐和山“に駆け付け”大船“で一気に”琵琶湖“を渡るという作戦の為であった。これによって1日分の行程が短縮出来るという計算である。“将軍・足利義昭”が瀬田辺りの道を塞ぐ危険がある、と予想して湖上輸送の為に大船を建造させたとの説もある。

大船は2ケ月後の7月5日に出来上がった。大船の大きさは長さ54m(30間)幅13m(7間)であり、日本史上、過去に例を見ない程の巨船であったと伝わる。艪(船を進める為の櫂/かい/)が100挺、船首と船尾に櫓(やぐら=矢や鉄砲を発射する為の建造物)100挺を備えた頑丈な船であった。

“織田政権の登場と戦国社会”の中で“著者・平井上総”氏は“織田信長が大船を建造した事は、明らかに将軍・足利義昭が再度挙兵するであろうと見通していた証であり、将軍・足利義昭の目論見は織田信長に筒抜けであった“と述べている。又”将軍・足利義昭“は1573年(元亀4年)6月13日に”安芸国・毛利輝元“に兵糧料を要求したとの記録がある。しかし“織田信長”との関係を考慮した“毛利輝元”はこの要求に応じなかった。

26:“将軍・足利義昭”挙兵の報に“織田信長”方は素早く“京・妙覚寺”に着陣した

1573年(元亀4年)7月6日~7月9日:

“将軍・足利義昭”が“挙兵”したとの“情報”を得た“織田信長”は、先ず先陣を出陣させ、(7月6日)自分は手勢と共に“大船”に乗って一気に“坂本“に着き(7月7日)“京都・妙覚寺”を本陣とした。(7月9日)

“織田信長”は生涯に20数回来京し、宿泊しているが、その中の18回は“妙覚寺”が宿所であった。1582年(天正10年)6月2日に起こった“本能寺の変”の時には“織田信長”は“本能寺”を珍しく宿所とし、嫡男“織田信忠”が“妙覚寺”に宿泊している。

=妙覚寺の写真=2020年7月17日(金)訪問

27:“織田信長”は先ず敵方の“二条御所”を攻撃し、守っていた“幕府奉公衆”は忽ちの中に降伏した

1573年(元亀4年)7月3日~7月9日:

“勅命講和”を僅か3ケ月後に破棄した“将軍・足利義昭”は、7月3日(7月2日説もある) “二条御所”を幕府奉公衆の“三淵藤英”(細川藤孝の異母兄・2020年のNHK大河ドラマ/麒麟が来る/では俳優谷原章介が演じた・生年不詳・没:1574年7月)の他“武家昵近公家衆”(ぶけじっきんくげしゅう=室町時代から江戸時代にかけて、将軍やその関係者の接待、並びに将軍の外出に供奉したり武家伝奏の補佐をした。烏丸家・日野家・広橋家・飛鳥井家・勧修寺家・上冷泉家・高倉家・正親町三条家の8家が該当した)の“日野輝資”(ひのてるすけ・公家・正二位権大納言・生:1555年・没:1623年)並びに“高倉永相”(たかくらながすけ・公卿・正二位権大納言・生:1531年・没:1586年)等に守らせ、挙兵に及んだ。(7月3日)

この陣容では“織田信長”軍の攻撃に対しては無力に等しく,忽ち城を出て降伏した。(7月9日)

1573年(元亀4年)7月9日~7月12日:

この守備隊の中で“奉公衆・三淵藤英”の軍勢だけは“二条御所”に籠り続け降伏を拒んだ。しかし“柴田勝家”の説得を受け入れて降伏し“二条御所”を明け渡した。これに拠って“織田信長”は“京都”を占領したのである。

NHK大河ドラマ“麒麟が来る”の場面でも描かれていたが、その後“三淵藤英”は一時的に“織田信長“に仕える形となる。しかし翌年(1574年7月6日)”織田信長“によって突如所領を没収され“明智光秀”の許に預けられ“坂本城”で自害を命ぜられたのである。

27-(1):“世論”で悪評が立つ事を忌み嫌う“織田信長”は、時を逃さず“毛利輝元”への書状で“将軍・足利義昭が先に勅命講和を破棄して挙兵に及んだのだ”と伝えている

1573年(元亀4年)7月13日:

”織田信長“は1569年(永禄12年)、未だ”毛利元就“が存命中(毛利元就は1571年6月に没する)の時代から通交関係にあった”毛利輝元“(毛利元就の孫・安芸国毛利氏14代当主・生:1553年・没:1625年)に今回の戦いは”将軍・足利義昭“の方から”勅命講和“を破棄し、挙兵に及んだ為だと通知している。

その中で“織田信長”は“将軍・足利義昭”が“天下”を放棄したので自分が“上洛”して鎮める旨、そして“将軍家”をこの後どう扱うか等は相談の上取り計らいたい“と、飽くまでも自分側に”正義“がある事を伝え”天下の批判”並びに“外聞の悪さ“が立たぬ様、手立てを講じている。”織田信長“の終始一貫した世間の悪評を回避する姿勢、そして“天下布武”(全国統一)に目を向けた首尾一貫した動きである。

28:“槙島城の戦い“・・”将軍・足利義昭“は敗れ”京都“から追放された事で”室町幕府“は事実上滅亡したとされる

“将軍・足利義昭”は奉公衆の“槙島昭光”(=真木島・まきしまあきみつ・生年不詳・没:1646年)の進言に応じて“宇治五ケ庄“の居城“槙島城“(真木島城とも書く・京都府宇治市槙島町)に立て籠って“織田軍”を迎えた。

28-(1):“槙島城“攻撃開始

1573年(元亀4年)7月16日~7月18日:

“将軍・足利義昭”が挙兵したとの報に“織田信長“は”近江国“から早船で入京し”妙覚寺”を本陣として“将軍・足利義昭“が拠る”宇治・槙島城“を目指し進軍した。

”槙島城“は宇治川の流れが形成した”巨椋池”の中に築かれた“水城”である。一見攻めずらい城ではあったが”織田信長“は7月17日に”五ケ庄“に本陣を構え、主だった武将達に総動員をかけた。その兵数は7万の大軍と伝わる。一方の”将軍・足利義昭“方の兵力は僅か3700兵であった。

“織田信長”軍は別掲図に示す通り、二手に分かれて川を渡り“槙島城”に向かう作戦をとった。眼前の“宇治川”の水量はかなり多かったが、躊躇する兵達に“織田信長”は“自分が先陣を切る”と言って鼓舞し、午前10時頃に“二手に分かれた”織田信長“軍は川を渡り切った。

“織田信長”軍は“槙島城”を取り囲んだ。“将軍・足利義昭”が難攻不落と信じた“槙島城”は“織田信長”の大軍の前には全く無力だった。“織田信長”軍は“槙島城”を攻撃し、同時に一帯を焼き払った。“槙島城”の外構を乗り破った兵達は火を放ち“将軍・足利義昭”に迫ったのである。

28-(1)-①:“将軍・足利義昭”の誤算

別掲図“槙島城の想像図”に見る様に“槙島城”は宇治川の流れが形成した“巨椋池”内に出来た島に築かれた“水城”であった。“将軍・足利義昭”の誤算はこの城を“難攻不落”と信じた事にもあったが”槙島城“に立て籠った時点で”武田信玄“の死を知っていた可能性はあるが“畿内”の大多数の大名達が自分の味方と成り、支援に駆けつけるであろうと考えていた誤算、更には“朝倉義景”並びに“浅井長政”も支援に駆け付けるに違いないとの誤算の上で“槙島城の戦い”を決断したという誤算だらけの行動であった、と“信長の天下布武への道”の著者“谷口克広”氏は評している。

28-(2):忽ちのうちに陥落した“槙島城”

7万と言われる“織田信長”軍は“別掲図”で示した様に二手に分かれて“槙島城”を前後から攻め立てた。期待した全ての援軍が駆け付けて来る事も無く”織田信長”軍の猛攻に恐怖した“将軍・足利義昭”軍は全く抵抗出来ず、この日の中に開城したのである。“将軍・足利義昭”は敗軍の将として“織田信長”の眼前に引き据えられた。

28-(3):“勅命講和”を破棄して“挙兵”に踏み切った“将軍・足利義昭”が失敗した理由を総括する

箇条書きに纏めると下記の様に成る。

ア:将軍・足利義昭の蜂起は突然の動きであった為“織田信長包囲網“を形成する同士としての協調関係はあったにせよ”幕府勢力“として結集するには無理があった

イ:一方“織田信長”には“細川藤孝”から送られてくる状況報告があった。“織田信長”はこれを基に“調略活動”を重ねて来ており“織田信長”方へ味方する者も増えて来ていた。又、既述の様に大船を事前に建造するなど“織田信長”方は十分に準備が出来ていた

ウ:“将軍・足利義昭”は“上洛戦”並びに“二条御所造営”等の際に、将軍への忠誠を示す為に、諸国からの数万に及ぶ武士達が上洛し、将軍の為に尽力したが、彼等に対して充分な恩賞を与えていなかった。そうした事に対する不満の蓄積もあり“将軍・足利義昭”には求心力が無かったと言える


28-(3)-①:“封建君主”としての一番大切な事を無視して敗れた“将軍・足利義昭”

“織田信長包囲網”には“脆弱性”があったと何度も紹介して来たが、その最大のものは“将軍・足利義昭“の”IQ+EQ+人間力“というリーダーに求められる資質の欠如であったと言えよう。

“織田信長包囲網“の核として期待した“武田信玄”の病死を“勅命講和”を破棄して“挙兵“を決断した1573年7月3日の時点で”将軍・足利義昭“は知っていたと思われる。そうした大きな戦力の変化にも拘わらず“将軍・足利義昭”は“畿内”の諸大名、そして“朝倉義景・浅井長政”が支援に駆け付けるに違い無いとの“期待”に賭けて“勅命講和”を自分から破棄してまで“挙兵”に及んだのである。

その根拠の薄い期待が誤算だった事に加えて、今回の“挙兵”は余りにも突発的なものであった事も失敗した要因であった。しかし、それ等の要因にも増して“将軍・足利義昭”のリーダーとしての資質の欠如、取り分け“人間力”(あの人の為なら力を貸そう、付いて行こうと思わせる力)に欠けていた事が大きかったとされるのである。“封建君主”として、そのベースとなる武士達が日頃から恩賞、土地政策に不満を募らせていた事に無頓着であり、従って彼等からの支援を得られなかったのである。

“足利義昭と織田信長”の著者“久野雅司゛氏はそれを下記の様に解説している。

足利義昭の幕府には新恩給与として宛てがう(あてがう=分配する)領知(知行所として支配する土地)が無く、将軍・足利義昭はそれに対応する為に家臣が他領を横領、違乱(秩序を乱す事)を黙認する措置で対処した。しかし、それは土地を媒介とした“御恩”と“奉公”に拠る封建制の原理、原則に基づいた政策では無い。従って武士達は”将軍・足利義昭“に不満を募らせ、新たな”封建主君“として”織田信長“に期待を寄せた事が根底にあったと考えられる。

28-(4):“室町幕府”が実質的に滅亡する・・但し“足利義昭”の“将軍職”タイトルは1588年1月迄返納されなかった

“織田信長”は“将軍・足利義昭”の一命は助け“追放”に止めた。“敗戦”に際して“将軍・足利義昭”は当時満1歳の幼子(足利義尋・生:1572年・没:1605年)を人質として差し出す事によって降伏したとある。これを以て“室町幕府”は実質的に滅亡したとされる。

しかし“将軍・足利義昭”は追放はされたものの“将軍職”を朝廷に返納していない。そして“足利義昭”が将軍職を返納するのは15年後の1588年(天正16年)1月13日に“豊臣秀吉”に従って参内し“後陽成天皇”(第107代天皇・在位1586年譲位1611年・生:1571年・崩御:1617年)に返納した時である事は前項で紹介した通りである。しかし日本史の上で“室町幕府”は“将軍・足利義昭”が“京”から追放されたことを以て、実質的に滅亡したとされる事は言うまでも無い。


28-(5):“槙島城の戦い”の纏め

年月日:1573年(元亀4年)7月16日~7月18日
場所:槙島城
結果:“織田軍”が“将軍・足利義昭軍”を敗り、追放処置とした。この事をもって“室町幕府”は実質的に滅亡したとされる

【交戦戦力】
織田信長軍

【指導者・指揮官】
織田信長
細川藤孝
荒木村重
佐久間信盛
蜂屋頼隆 

戦力:70,000兵

【交戦戦力】
室町幕府軍

【指導者・指揮官】
将軍・足利義昭
幕府奉公衆
真木島昭光
三淵藤英
伊勢貞興

戦力:3700兵


28-(5):槙島城訪問記・・2022年7月10日(日曜日)

住所:京都府宇治市槙島町大畑
交通:
JR大阪駅から新快速に乗って京都駅に着き、奈良線(みやこ路快速)に乗り換えてほゞ10分程で“宇治駅”に着いた。駅の案内所で”槙島城祉“の行き方を聞くと”分かり難いし,行って何もありませんよ“との話であった。構内のタクシーの運転手さんに聞くと宇治駅から近いし、平等院にもすぐ行けますよ、との事であったので“槙島城祉”へ向かって貰った。
訪問記:
添付した“槙島城”周辺の地図の写真が示す様に“宇治駅“からタクシーで15分程で着いた。城址は写真の様に子供が遊ぶ住宅地域の小さな公園の中に”槙島城跡“と刻まれた石碑とその横に当時の歴史を伝える“宇治教育委員会”が2004年(平成16年)に掲げた“槙島城跡”と書かれた説明版が立つだけであった。“槙島城”の戦いの状況が書かれているが現場に当時の面影は全く残っていない。平等院へは待たせておいたタクシーでそのまま向かい10~15分程で着いた。


29:何故ここまで鋭く対立した“将軍・足利義昭”を“織田信長”は“追放”に止めたのか

“槙島城の戦い”に至る前の“織田信長”は挙兵に及んだ“主君・将軍足利義昭”に対してこれが1年程前の1572年(元亀3年)9月(12月説もある)に”十七ケ条の意見書“を突き付けた同一人物かと思われる程の、八方手を尽くした低姿勢に徹した。そして、全面降伏の体で恭順の意思を表して仲直りの為の”講和“を求めたのである。

形だけの“勅命講和”が成ったが”主君・将軍足利義昭“の方からそれを破棄する形で挙兵に及んだ。自分から先に”主君・将軍足利義昭“に反抗したという”天下の批判・外聞の悪さ“を回避出来た事で”織田信長“は安心して”槙島城の戦い“に臨み、勝利し、そして”主君・将軍足利義昭”を追放したのである。

何故ここまで鋭く対立した“将軍・足利義昭”を“織田信長”は殺す事をしなかったのか?については“主君殺し、将軍殺し”という“外聞の悪さ”を忌み嫌ったという事である。今一つの理由を挙げれば“織田信長包囲網”に参加した“将軍・足利義昭与党”を討伐する事はさほど難しい事では無いと踏んだからだと思われる。従って、追放後の“将軍・足利義昭”には、さしたる影響力は残る事は無いと考え“追放”で良い、との結論を出したのであろう。

30:“織田信長”には“室町幕府”を滅ぼす意図は無かったとの説について

30-(1):“将軍・足利義昭”の嫡子(足利義尋)を人質とした目的は“織田信長”は“政権簒奪”目的や“将軍・足利義昭憎し”で追放したのでは無く、彼の横暴が原因であった事を“世間”にアピールする為であった

“織田信長”は“将軍・足利義昭”を追放した際に人質として満1歳の嫡男(織田信長は直ちに出家をさせた為、義尋を名乗っている)を京都に残した事を“上杉謙信・毛利輝元・伊達輝宗(伊達政宗の父親・生:1544年・没:1585年)”等の諸大名に伝えている。

又、後述するが、追放直後に“毛利輝元”からの相談に応じて“将軍・足利義昭”を京都に戻す事に同意していたとされる。(平井上総氏著:織田政権の登場と戦国社会)そして“織田信長”は“将軍・足利義昭”を“京”に戻した際には、彼の代わりに“満1歳の嫡男”(義尋)を将軍にする考えを持っていた可能性もあるとの説もある。

“織田信長”程、世間の思惑を気にした為政者はいない事は何度も記した。従って“将軍・足利義昭”が“織田信長”の傀儡政権に甘んじる体制を承諾すれば“織田信長”は上記を考えた可能性がある。

31:“槙島城”から追放された“将軍・足利義昭”の動き

“槙島城“から追放された”将軍・足利義昭“は先ず”山城国・枇杷庄“(びわのしょう・現在の城陽市)に退去しその後”河内国・津田“を経て”本願寺第11代宗主・顕如“(本願寺が最盛期を迎えた時の宗主、織田信長とは1570年の野田・福島城の戦いで戦って以降、1580年に和睦するまで10年間に亘って戦い続けた・ 生:1543年・没:1592年)の斡旋に拠って“三好義継”の庇護を受ける為“若江城“に入った。

この時の様子を“原本信長記”(筆者:太田牛一)は下記の様に伝えている。

誠に日頃は輿車にて御成り候歴々の御上臈達、歩立赤足にて,取物も取り敢えず御退座

この様な哀れな状況に加え、その途路では“一揆”に遭い“御物”を奪われる有様であった事、又、京都の町衆が“御鎧の袖をぬかせられ、貧報公方と上下指をさし嘲哢(ちょうろう=あざけって馬鹿にすること)をなした”と伝えている。更に“御自滅と申しながら、哀れなる有様目も当てられず”とも書いている。

再三登場した“筆者・太田牛一”(おおたぎゅういち・生:1527年・没:1613年)は“本能寺の変”で主君“織田信長”が自害した後は“丹羽長秀”に2000石で仕え、その後は豊臣秀吉、豊臣秀頼に仕えた人物である。今日、大阪府池田市の“佛日禅寺”に彼の嫡男の一門の墓があり、其処に“太田牛一”の墓碑がある。訪問し、その写真を載せたので参照されたい。


32:“将軍・足利義昭”は存命、且つ“征夷大将軍職”を返上していない状態でも“室町幕府“が実質的に滅亡したとされる根拠の一つとして・・“天正改元”に“将軍・足利義昭”では無く“織田信長”が代わって動いたという史実

1573年(元亀4年)7月21日~7月22日頃:

“織田信長”は“将軍・足利義昭”を“槙島城の戦い”で敗り、追放した僅か3日後に突如朝廷に“改元”の実行を申請している。

この背景には、前年(1572年)初頭から“朝廷”の方から改元意向を“将軍・足利義昭”と“織田信長”に申し入れており、同時に朝廷側では新元号の調査等も行っていた。ところが“幕府”つまり“将軍・足利義昭”は1572年4月になっても改元の為の費用を調えず(ととのえず)結局、朝廷が要請した改元を行う事が出来なかった。

此の事についても“織田信長“は”十七ケ条の意見書“の第十条で”世間一般の意見に基づき“元亀”の年号は不吉だから改元した方が良い“と指摘し、更に“宮中からも催促があったそうだが、その為の僅かな費用を献上しようとしない。これは天下の為なのだから怠るのは良くない事だ”と“将軍・足利義昭”を責めていた。

こうした背景があった事から“織田信長”は“将軍・足利義昭”追放後、直ちに“将軍・足利義昭”が怠っていた“改元”を代わって実行すべく動いたのである。

32-(1):“天正改元”が成る

1573年7月28日:

“織田信長”が動いた事で”元亀“から”天正“への改元は1573年7月28日に実行された。朝廷が事前に調査した”元号候補リスト“(勘文・かんもん=朝廷から諮問を依頼された学者等が由来、先例など、必要な情報を調査して報告を行った文章)を”織田信長“に見せたところ”織田信長“は”天正“を選んだのである。

”天正“への改元が僅か一週間という速さで実行された理由は、上記した経緯があったからである。”十七ケ条の意見書“で”織田信長“は“将軍・足利義昭”が参内もしていなかった事に対しても苦言を呈している。“将軍・足利義昭”には“朝廷”を支える意識が乏しかったと言える。従って当然の事乍ら“朝廷”は“織田信長”を頼るようになっていた事が分かる。

”将軍・足利義昭“の同母兄である”第13代将軍・足利義輝”の時期には既述の通り“将軍”が“京”を離れている期間が長かった。従ってこの時期“朝廷”は“三好政権”を頼った。

“戦国時代“と称される時期の中、取り分け”応仁の乱“以降、弱体化が著しかった”室町幕府“下で”朝廷“は”支援“をしてくれるのであれば”幕府“でなくとも、その時点の覇権者(=政権)を受け入れ、頼る姿勢に変化して行ったのである。”織田信長“もこうした”朝廷“側の姿勢に応えて行動した。

こうした状況を考えると“天正改元“の歴史的意味は、単に”元号“が変わっただけで無く”至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力“が”至強(将軍・幕府・武士層)勢力“の中で起こった”覇権者“の交代、つまり”将軍・足利義昭“が”織田信長“に拠って追放された事を受け入れた事を示す大きな出来事であると”織田政権の登場と戦国社会“の著者”平井上総氏“は指摘している。

33:“織田信長”は“織田信長包囲網”を形成した敵対勢力の言わば中心的存在であり、未だに滅ぼす事が出来ていない“朝倉義景・浅井長政”討伐を決行する

上記して来た様に“室町幕府将軍・足利義昭”が“織田信長”に対抗しようとして形成した“織田信長包囲網”は①1573年(天正元年)4月に中心的役割を期待した“武田信玄”が病没し②同年7月には盟主たる“将軍・足利義昭”が“槙島城の戦い”で敗れ、追放された事を以て瓦解したとされる。しかしまだまだその残党は存在していた。

1573年(天正元年)8月8日:

“槙島城の戦い”( 1573年/元亀4年/7月16日~7月18日)で“将軍・足利義昭”を追放した“織田信長”は8月4日に“岐阜城”に帰陣した。しかし、休む間もなく敵対勢力の中心的存在であった“朝倉義景“討伐へと出陣したのである。

1573年(天正元年)8月10日:

主だった武将達を総動員した“織田信長“軍は50,000~60,000兵の大軍であった。一方の”朝倉義景“軍は”信長公記“には”20,000兵“と書かれているが”朝倉記“には”同族の“朝倉景鑑”(あさくらかげあきら・後に織田信長の家臣と成り土橋信鑑と改名・生:1525年?・没:1574年)並びに老臣の“魚住景固”(うおずみかげかた・生:1528年・没:1574年)が“織田信長“方に寝返ったとの記述もあり、実際には精々5000~6000兵程度だったのではないか、と考えられている。(谷口克広氏著・信長の天下布武への道)

33-(1):“朝倉義景”の決断力欠如という性質を見抜いて“追撃戦”を成功させた“織田信長”

1573年(天正元年)8月12日:

この日の夜は大雨だったと伝わる。“織田信長”は“小谷山”と峰続きの“大嶽”(おおづく)の砦に残る少勢の“朝倉兵”を大雨の不意を突く形で、且つ、馬廻役の兵だけを率いて夜討ちを掛けた。不意を突かれた少勢の“朝倉兵”は抵抗が出来ず降伏した。

”織田信長“は降伏した敵兵の命を助け”朝倉義景“軍の本陣に逃げ込ませるべく解き放った。敵将“朝倉義景”のこれまでの戦い振りから“決断力が無く、決して一か八かの戦いが出来ない武将であり、これら解き放たれた兵達の情報から我が身を守る安全な場所が無いと判断して、必ず自国領の“越前国”に退却するに違いないと読んでいたのである。

1573年(天正元年)8月13日:

”織田信長“は”小谷城“を見下ろす”山田山“に着陣していた武将達に”朝倉義景軍は今夜、陣払いをして越前国に退去するに違いない。すぐに追撃せよ”と指令を出した。追撃こそ敵兵を大勢討ち取って戦いの帰趨を決定づけるチャンスだとの判断からである。

“織田信長”の予測は見事に的中した。“山田山”から“朝倉義景”軍の本陣までの距離は凡そ5kmであった。従って直ぐに追撃を始めなければ追いつく事は出来ず、敵は“越前国”に逃げ込んでしまう。

半信半疑だった自軍の武将達の緩慢な動きにしびれを切らした“織田信長”は自ら“馬廻り役“の兵達だけを連れて“朝倉義景”軍を追った。“織田信長“の勢いにようやく追撃を始めた武将達は“木ノ本”近くの“地蔵山”を越した辺りで“織田信長”に追いついた。“織田信長”は武将達を並べて烈火のごとく叱りつけた事は言うまでも無い。

“織田信長”の判断の正しさ、行動の迅速さによって“織田信長”軍は“刀禰坂”の辺りで“朝倉軍”に追い着いた。ここで繰り広げられたのが“刀禰坂の戦い”である。“一乗谷の戦い”の名で知られるが“一乗谷城”での攻防は極めて限定的であった為、激戦地の名を冠して“刀禰坂の戦い”とも呼ばれる。

33-(2):“一乗谷の戦い”(刀禰坂の戦い)

“織田信長”に拠る“朝倉義景”討伐戦の全体を見て、最も激戦だったのが“刀禰坂”辺りで行われた“追撃戦“である。追撃戦であるだけに”攻撃“は終始”織田信長“軍が一方的に攻める形と成った。朝倉一族、並びに大勢の武将達が戦死した。特筆されるのが“元・稲葉山城主・斎藤龍興“もこの戦いで戦死した事である。以下にこの追撃戦で戦死、又は自刃した主たる”朝倉義景”方の武将達の名を記す。

1:朝倉一族
*朝倉景行・・あさくらかげゆき・北庄城主・生年不詳・没:1573年8月14日・・羽柴秀吉の手勢に討たれた
*朝倉道景・・あさくらみちかげ、生:1558年・没:1573年8月13日・・若干満15歳

2:主たる朝倉家武将
*山崎吉家・・退却する朝倉義景軍の殿(しんがり)を務め奮戦したが力尽きる・生年不詳・没:1573年8月14日
*鳥居景近・・主君・朝倉義景が自刃する際に介錯をした後に自害・生年不詳・没:1573年8月20日
*託美越後守
*青木隼人佑
*印牧能信(弥六左衛門)・・かねまきよしのぶ・朝倉家譜代の家臣・捕虜にされ、織田信長の前に連行された。織田信長が惜しんで許そうとするが武士の意地を通して織田信長の面前で自刃した・生年不詳・没:1573年8月
 

3:斎藤龍興
1567年8月15日に“織田信長”に“稲葉山城“を落とされ”長島“に逃れ、以後大坂~越前へと流れていた。越前国で保護されたのは“朝倉義景”との縁戚関係にあった為である。この間“織田信長”に抵抗を続けた事は既述の通りである。そして6年が経った今回の“刀禰坂”での追撃戦で戦死した。生:1547年3月1日(1548年説もあり)・没:1573年8月10日・行年満26歳

33-(3):“一乗谷の戦い”(刀禰坂の戦い)の戦況

1573年(天正元年)8月17日~8月18日:

3年前の“越前攻め”の際に義弟“浅井長政”の裏切りに拠って,越そうとして越す事が出来なかった“木の芽峠”を“織田信長”軍は越え,翌8月18日に“府中(現在の武生市)”に進軍し“竜門寺”に着陣した。この状況に“朝倉義景”は“朝倉氏代々の地”一乗谷“を捨て“大野郡山田荘”まで逃れた。

33-(3)-①:“越前守護職・朝倉氏5代”が滅亡する

1573年(天正元年)8月20日:“朝倉義景“自刃

”朝倉氏“が越前国・守護職に就いたのは”応仁の乱”終息の重大要因を作った“朝倉氏7代目当主・朝倉孝景”(朝倉氏10代目当主朝倉孝景を宗淳孝景と称し、彼と区別する為に英林孝景と呼んでいる・生:1428年・没:1481年)の東軍への寝返りであった事は以前の項で記述した。

“英林孝景”から5代目がこの“朝倉義景”(朝倉氏11代目当主・義の字は将軍足利義輝からの偏諱・上記10代目宗淳孝景の嫡子である・正室は細川晴元の娘・生:1533年・没:1573年8月20日)であり、2度にわたって“将軍・足利義昭”の“上洛命令”を拒否している。その理由は①織田信長に従う事を嫌った②上洛すれば長期に亘って越前国を留守にする事を嫌った為とされる。

いずれにしても“朝倉義景”は“織田信長”に抵抗を続け“将軍・足利義昭”の命令にも服さなかった。その為“幕府に叛意あり”として既述の様に“将軍・足利義昭”が”織田信長“に命じた形での1570年4月の(表向き)”若狭国・武藤友益”討伐を掲げた“越前出兵“が行われた。この時は”浅井長政“の裏切り、つまり“金ヶ崎の退き口”で知られる“織田軍“の必死の撤退となり“将軍・足利義昭・織田信長”方の敗北“朝倉義景”の勝利となったのである。

今回の戦闘状況に就いては上記した通り“朝倉義景“方にとって戦況不利の中、最後の頼みの綱は家臣筆頭格で、従弟でもある“朝倉景鏡“(あさくらかげあきら・後に織田信長に仕え土橋信鏡に改名する・生:1525年?没:1574年)であった。しかし“朝倉景鏡”は、軍事行動が連続した為、兵が疲弊している事を理由に“朝倉義景”からの出陣要請を拒否した。そればかりか“朝倉景鏡”は何と“朝倉義景”を裏切り、味方の“朝倉義景”軍を包囲し“自害”に追い込んだのである。

”朝倉景鏡“は主君”朝倉義景“の首と共に”朝倉義景“の母親、妻子、更には幼い嫡男、並びに近習を捕縛し”織田信長“に差し出した。”朝倉景鏡“は降伏を許され、本領も安堵されたという。”朝倉始末記“には主君を裏切り、実質的に“朝倉家”を滅亡に導いた“朝倉景鏡”を可成り陰湿な人物として描いている。

“織田信長”は“朝倉義景”の旧臣で奉行衆“前波吉継”(まえばよしつぐ・彼も朝倉義景を裏切り織田軍の越前案内役を務めた・織田信長に功を賞され越前国の守護代に任じられ、同時に桂田長俊と改名した・彼を恨む富田長繁が指揮する一揆に拠って殺害された・生:1524年・没:1574年)を守護代に任じて“一乗谷”に置き“越前国”の始末を任せた。そして“織田信長”は休む間も無く“近江国”に軍を向け“浅井長政”の討伐に進軍したのである。“越前国”のその後、そして“前波吉継”(=桂田長俊に改名)に就いては後述する。

33-(3)-②:“一乗谷の戦い”(刀禰坂の戦い)の纏め

年月日:1573年(天正元年)8月17日~8月20日
場所:越前国・一乗谷
結果:“織田信長”軍の勝利“朝倉義景”が自刃し“斎藤龍興”も戦死した

【交戦戦力】
織田信長軍

【指導者・指揮官】
柴田勝家


戦力:30,000兵

損害:不明

【交戦戦力】
朝倉義景軍

【指導者・指揮官】
朝倉義景
朝倉景鏡

戦力:20,000兵

損害:3,000兵以上


33-(4):義弟“浅井長政”を遂に滅ぼした“織田信長”・・“小谷城の戦い“

“浅井長政”討伐戦で目覚ましい活躍をしたのが1ケ月前の1573年7月20日に“木下秀吉”から改名したばかりの“羽柴秀吉”(生:1537年2月6日・没:1598年8月18日)である。既述の様に、彼は“織田家幹部”2名から名を貰った訳だが、その理由は“丹羽長秀”(生:1535年・没:1585年)並びに“柴田勝家”(生:1522年、1526年、1527年説もあり不詳・没:1583年4月24日)を敵に回したくないとの思惑からだと伝わる。(尚改名は1572年8月頃との説もある)

上述した“朝倉義景”との“一乗谷の戦い”が展開する最中の1573年(天正元年)8月8日に“浅井家重臣・山本山城主・阿閉貞征”(あつじさだゆき・生年不詳・没:1582年6月16日)が“織田”方に寝返るという事態が発生した。これを好機と捉え“織田信長”は3万の軍勢を率いて“北近江”に進軍“虎御前山”の砦に本陣を構えた。(後のページに載せた小谷城訪問記の地図写真の⑤で示す)

33-(4)-①:“小谷城の戦い“・・1573年(天正元年)8月27日~9月1日

1573年(天正元年)8月27日:

“羽柴秀吉“が夜攻めを敢行して”小谷城“中の”京極丸“を占領”浅井長政“のいる本丸と父“浅井久政”が居る小丸との間を断ち切り“小丸”を攻撃して父親の“浅井久政”(生:1526年・没:1573年)を切腹させた。

1573年(天正元年)9月1日:“浅井長政”自刃

“小谷城・本丸“に追い詰められ乍らも”浅井長政“は2日間持ち堪えた。この間、家臣達が皆逃げ出すという事態が発生している。しかしその中で”片桐孫右衛門尉“(=片桐直貞・生:1521年・没:1591年・豊臣家直参家臣となった片桐且元の父親)は忠節を通し、逃げなかった。そうした彼に対して”浅井長政“が8月29日付けで心の底から感謝した事を伝える感状を与えた事が“成簀堂古文書”に伝わる。

“浅井長政”は1573年9月1日に自決し“浅井氏”は滅びた。

1574年(天正2年)正月朔日:

“織田氏”では恒例行事として元旦に“織田信長”の居城“岐阜城”に集まって儀式をしていた。“槙島城の戦い“で”将軍・足利義昭“に勝利し、追放した後も”織田信長“は”岐阜城“を拠点とする居住形態を変えなかった事を裏付けている。”朝倉義景“並びに“浅井久政・浅井長政父子”の頭蓋骨を飾って酒の肴にしたという有名な話はこの年の正月朔日の出来事である。

尚“織田信長“はこの5年後の1579年(天正7年)5月に完成した“安土城”に移り住む。そして“織田家の元旦儀式”は以後は“安土城”に引き継がれて行なわれた。

33-(4)-②:“浅井長政”の3人の姫達と嫡男に就いて

“浅井長政”は自決する際に3人の娘を妻“お市の方”と共に“織田信長”の陣に逃がしている。3人の娘達はその後、劇的な人生を送る事になるが夫々については後述する事に成る。又“小谷城”陥落の際の3人の娘達の実年齢に就いては6-21項で詳述したので参照願いたい。

“浅井長政”の嫡男“万福丸”(輝政・母親はお市の方では無いとされ、当代記には幼少時は朝倉義景の元に人質として過したと書かれている・生:1564年・没:1573年)は“越前国“に逃れていたが”織田信長“に拠って探し出され関ケ原で磔(はりつけ)に処せられたと“浅井三代記”は伝えている。

尚“浅井三代記”の著者は“伊香郡木之本浄信寺”の僧“遊山“とされる。寛文末年(1672年頃?)に加賀藩主に献上されたと伝わるが史料的価値は低いものとされる。

“織田信長”は功績のあった“羽柴秀吉”を“小谷城”に入れ置き“浅井氏”の北近江の旧領“坂田・浅井・伊香“の三郡を彼の支配に任せた。”羽柴秀吉”は”今浜“と呼ばれていた地区を”長浜“と改称し、彼(羽柴秀吉~豊臣秀吉)として初めての築城を行い、凡そ2年後の1575年~1576年(天正3年~天正5年)に完成した“長浜城”に入城した。築城に際して“小谷城“で使われていた資材も使われ”小谷城“は1575年に廃城と成った。

33-(4)-③:“小谷城の戦い“の纏め

年月日:1573年(天正元年)8月8日(戦闘開始は8月27日)~9月1日
場所:近江国小谷城
結果:“織田信長”軍の勝利“浅井氏”滅亡

【交戦戦力】
織田信長軍

【指導者・指揮官】
羽柴秀吉


戦力:30,000兵

損害:不明


【交戦戦力】
浅井長政軍

【指導者・指揮官】
浅井長政
浅井久政

戦力:5,000兵

損害:壊滅
浅井長政・浅井久政自刃


33-(4)-④:“小谷城”訪問記・・2022年10月17日(月曜日)

住所:滋賀県長浜市

交通機関等:
東京駅発の新幹線“ひかり”でAM8:45に米原駅に着いた。同好の友人と落ち合い、先ずは米原駅内の案内所に寄り、下記写真に示す史跡訪問先を決め、スケジューリングをした上で予め予約をしておいた駅近くの”トヨタレンタカー゛営業所でプリウスを借り、出発した。最初に“浅井長政“の姉の出家先であり“浅井3姉妹”が匿われたと伝わる“実宰院”(長浜市平塚町149)を訪問し、そこから40分程山道を走り“熊出没注意!”の看板が立てられた“小谷城跡”に到着した。

訪問記:
周辺の地図写真を再度掲げたが“小谷城跡”は琵琶湖の東岸に位置する典型的な山城であった。城の歴史等については現地の説明板の写真を載せたので参照願いたい。
“浅井3代”が根拠とした城であり、築城(浅井亮政・1524年)から“羽柴秀吉”に拠って3代目“浅井長政”が滅ぼされ“羽柴秀吉“に拠って“長浜城”が築城された際に廃城(1575年)となる迄、50年の歴史の城であった。

“織田信長”の妹“お市の方”が3人の姫達と住んだ城、そして落城の折に“織田信長”軍に迎えられた史実は映画、TVドラマの名場面として扱われ、余りにも有名である。

今日の城祉は金吾丸、番所、本丸跡等を示す掲示板があるだけで当時の建造物は“長浜城”に移築される等で解体され“小谷城”の当時の様子は残された絵図面で偲ぶしか無く甚だ残念であった。“小谷城跡”の近くに“小谷城戦国歴史資料館”があり“浅井氏3代の年表”等はじめ当時の“小谷城”の“総縄張り図”等も展示されており、当時、家臣達の屋敷がどの様な状態であったのか、又、城下町が形成されていた形跡に就いての史料もあり“小谷城”の当時の様子を偲ぶ事が出来た。

=写真=

1:先ずは上記③の実宰院(浅井3姉妹が匿われたとされる)を訪問
2:次に上記①の小谷城址を訪問、山の麓には2011年NHK大河ドラマ“江姫たちの戦国~”の記念碑がある
3:小谷城跡を示す看板には“クマ出没注意”と書かれており、下の写真の様な山道を車で走った

34:“朝倉義景・浅井長政”を討伐した“織田信長”は、続けて“将軍・足利義昭”に味方をした“畿内”の残党の討伐に掛かった

“将軍・足利義昭”追放後の“畿内“周辺には”将軍・足利義昭“方として”織田信長“に逆らい続ける武将達がまだまだ残っていた。”織田信長“が討伐対象とした武将は以下である。

近江国
① 滋賀郡山中 磯貝久次(生年不詳・没:1578年)
山城国
② 勝龍寺城  石成友通(三好三人衆の一人・生年不詳・没:1573年8月2日)
③ 静原山城  山本対馬守(父親が山本佐渡守実尚・室町幕府幕臣・生年不詳・没:1573年10月)
④ 一乗寺城  渡辺昌(一乗寺一帯に勢力を張った土豪・宮内少輔・生没年不詳)
大和国
⑤ 多聞山城  松永久秀・松永久通父子
河内国
⑥ 若江城   三好義継
摂津国
⑦ 池田城   池田重成(知正)
⑧ 伊丹城   伊丹忠親
⑨ 川辺郡多田 塩河長満
丹波国
⑩ 桑田郡宇津 宇津頼重(宇津長成):国人・幕府御供衆・(生没年不詳)
⑪ 八木城(*写真参照)
内藤如安(*写真参照):松永久秀の弟“松永長頼”の息子。紆余曲折を経て1613年の徳川家康のキリシタン追放令で1614年、高山右近等と共にマニラに追放され此の地で没した(生:1550年・没:1626年) 
           

34-(1):“織田信長”が“畿内”の“将軍・足利義昭”方であった“残党”の“討伐”を行っていった順序、並びにその状況

34-(1)-①:“明智光秀”が支配する地域の在地領主であった上記①、④は”将軍・足利義昭“が追放されたと聞くや否や、退散してしまった。

34-(1)-②:“三好三人衆”の一人“石成友通”(上記②)も“細川藤孝”等の軍によって攻撃、討伐された

1573年(天正元年)8月2日:

“三好三人衆“の一人で”将軍・足利義昭“を”本圀寺の変“で襲う等”将軍・足利義昭“からは積年の恨みを抱かれていた“敵”であった”石成友通“(いわなりともみち・生年不詳・没:1573年8月2日)は”将軍・足利義昭“が”織田信長“と敵対すると“将軍・足利義昭゛方として“織田信長包囲網”の一角を成した。

しかし”将軍・足利義昭“が”槙島城の戦い“で敗れ、追放された直後の”織田信長“による畿内の“将軍・足利義昭方残党”の討伐で“石成友通”は“細川藤孝”軍に“山城国・淀城“を攻められ(第二次淀古城の戦い・1573年8月2日)戦死した。

=淀古城の写真=

34-(1)-③:“静原山城”の“山本対馬守”(上記③)も討伐される

1573年(天正元年)10月:

“山本対馬守”は室町幕府の幕臣で“山城国・愛宕郡“の豪族で”足利義昭“に仕えた武将である。”明智光秀“下に属していた1573年(元亀4年)2月に“織田信長”と“将軍・足利義昭”との対立が決定的と成ると(既述の通り武田信玄が三方ヶ原の戦いで勝利した事で将軍・足利義昭は織田信長などは物の数に非ずと織田信長との対決を決断をし、ひたすら武田信玄の上洛を期待して1573年/元亀4年/2月14日に諸将に上京命令を下していた)“明智光秀“は”織田信長“に従ったが“山本対馬守”は“将軍・足利義昭”に従ったのである。

結果“織田信長“軍に付いた”明智光秀“の攻撃に”静原山城籠城“で抵抗したが及ばず、遂に討伐された。

34-(1)-④:“荒木村重”に拠って討伐された“摂津国“の3武将(上記⑦⑧⑨)

“織田信長”は“三好氏”方から降って来た“荒木村重”(池田氏を掌握し1571年8月8日の白井河原の戦いで勝利した・生:1535年・没:1586年)に“摂津国”の支配権を委ねようと考え、上記⑦の“池田重成”(知正)⑧“伊丹忠親”⑨“塩河長満”の討伐を任せた。

⑦“池田重成”(=池田知正・荒木久左衛門・織田信長方に寝返った荒木村重が池田氏を乗っ取り掌握する・生年不詳・没:1604年)と⑨“塩河長満”(しおかわながみつ・織田信長上洛時に三好方から織田方に従属した・織田信長と将軍・足利義昭が対立すると足利義昭に味方した武将・生:1538年・没:1586年)は戦いには敗れたが赦され“荒木村重”の傘下に従属した。

1574年(天正2年)11月15日:

残る⑧の“伊丹忠親”(いたみただちか・摂津国国人・足利義昭に降って知行3万石を安堵された・父伊丹親興は摂津三守護の中の一人・生:1552年・没:1600年)も“織田信長”と“将軍・足利義昭”が対立すると“足利義昭”に味方した武将であり“荒木村重”に攻められ、敗れ“伊丹城”を開城した。父親“伊丹親興”はこの時自害しているが“伊丹忠親”は消息不明となり、後に“羽柴秀吉”に仕え、更に“黒田長政”に仕えるという経緯を経て“1600年9月15日”の“関ケ原の合戦”で戦死している。

34-(1)-⑤:“畿内”に於ける“反・織田信長”方のエース格“三好義継”と“松永久秀”に対する“織田信長”の討伐
・・その1“河内国・三好義継”を討つ

“畿内”に於ける“反織田信長“の元凶は言うまでも無く”将軍・足利義昭“と”本願寺“であったが、それに応じた”大名“並びに”国衆“の中で頭目格だったのが”河内国“の”三好義継“と”大和国“の”松永久秀“であり、その存在は特に大きかった。

しかし“織田信長”はこの両名の討伐に就いては慎重であった。その理由は、追放された”将軍・足利義昭“が”若江城“に留まり”三好義継“と”松永久秀“の保護を受けていたからである。何度も述べるが“織田信長”程“世間の思惑・外聞を気にした為政者はいない。“将軍・足利義昭“を殺す事はせず”追放“に止めた理由も、飽くまでも”自分の正義“を広く世間に認めさせる事に注意を払い、世間の悪評を忌み嫌ったからである。従って”将軍・足利義昭“を匿う”三好義継“並びに”松永久秀“の討伐には極めて慎重だったのである。

1573年(天正元年)11月5日:

史料に拠っては“将軍・足利義昭”が“若江城”を出て“堺”に入ったタイミングを見計らって“織田信長“は”佐久間信盛“に”若江城“を攻撃させたと書いているものもある。(谷口克広著:信長の天下布武への道)

別の史料には“織田信長”に派遣された“佐久間信盛”軍が“若江城”を攻撃し“三好義継”は籠城してこれを迎え撃つ中“将軍・足利義昭”は近臣だけを連れて“堺”に逃亡したと書くものがある。将軍が逃げ出した為に“若江城”に於ける“三好義継”軍の士気が上がらなかったと伝えている。

若江城の戦い ・・1573年(天正元年)11月5日~11月16日

“織田信長”の実力を恐れた家老“多羅尾右近・池田教正・野間佐吉“等”若江3人衆“が”織田信長“に誼(よしみ=親交)を通じ、主君”三好義継“に”織田信長“への従属を勧めた。しかし”三好義継“は聞き入れず”若江3人衆“を遠ざけ、代わりに寵臣の”金山駿河守武春“を家老にして飽くまでも”織田信長“に対抗しようとした。

飽くまでも”主家“を守ろうと”若江3人衆“は”家老・金山駿河守武春“を殺害し”織田信長“方の”佐久間信盛”軍と内通し、城門内に引き入れたのである。

1573年(天正元年)11月16日:

こうして“若江3人衆“に裏切られた”三好義継“(父・十河一存・生:1549年・没:1573年)は妻子、並びに一族を自ら殺害して10日以上も奮戦した末に近臣の“那須久右衛門家富”に介錯させて自害した。波乱万丈の24年の短い人生であった。

“三好義継”の死で“三好本家”が滅亡した。“天下人”として覇を成した“三好長慶”の死から僅か9年後の事である。

若江城訪問:2021年(令和3年)9月22日(水曜日)
住所:東大阪市若江北町3丁目3
交通機関:
JR桜ノ宮駅から“鶴橋駅”で乗り換え、近鉄奈良線鶴橋駅から“若江岩田駅”で下車して徒歩で史跡に向かった。

歴史:
南北朝時代の1382年(後小松天皇・室町幕府3代将軍足利義満期)から1583年(天正11年)の約200年に亘って存在した平城。畠山氏の“河内国”経営の拠点であった。築城主は“畠山基国”(第6代管領・足利義満時代・生:1352年・没:1406年)である。

=写真説明=
城の面影は全くない。城址は東大阪市若江公民分館の向かいの場所にある。当時は菱江川が北方の天然の外堀であったとある。説明書には“京を追放された将軍・足利義昭が三好義継の若江城に入城する。その時警固に当たったのが羽柴秀吉であった等が記されていた。


写真:若江城跡

34-(1)-⑥:“畿内”に於ける“反・織田信長”方のエース格“三好義継”と“松永久秀”に対する“織田信長”の討伐
・・その2大和国・松永久秀は助命する

1573年(天正元年)12月26日:

“若江城”を陥落させ“三好義継”を自害に追い込んだ“織田信長”の宿老“佐久間信盛”(織田信長の父・織田信秀に仕え、幼少期の織田信長に重臣として付けられた。織田信長が朝倉義景を討った一乗谷城の戦いの直前、追撃を怠った事を叱責され、それに反論した事で主君織田信長の激しい怒りを買った。それ迄は数々の軍功に拠って家臣団の筆頭として扱われていたが以後織田信長との関係を修復できず1580年/天正8年/8月25日付けで19ケ条から成る折檻状を突き付けられ、追放された・佐久間信盛解任後の畿内方面軍軍団長に就任したのが明智光秀であった。皮肉にも旧佐久間信盛の軍団は明智光秀傘下で本能寺の変の実質的実行部隊と成ったのである・生:1528年?・没:1582年1月16日)が指揮をし“松永久秀”の“多聞山城”を包囲した。

しかし“織田信長”は“松永久秀”の命を奪わずに助けたのである。“朝倉義景・浅井長政・三好義継”が滅ぼされた一方“松永久秀”だけが許された理由として“信長の天下布武への道”の中で“谷口克広”氏と“松永久秀と下克上”の著者“天野忠幸”氏の両氏が挙げる4点が共通しているので下記に紹介する。

1:“松永久秀”は“三好義継”滅亡後“織田信長”に降伏を願い出ており“織田信長”は“佐久間信盛”に1573年11月29日付けの朱印状で①多聞城を直接引き渡す事②息子の 松永久通は信貴山城に移る事③松永久通の子を人質に出す事、を条件に赦免すると伝えている(堺市博物館寄託文書)

2:“松永久秀“の方から”多聞山城“の無血開城を申し出た事“多聞山城“は西日本随一とされる程の豪華な城郭であり、天下の至宝と評判の絵画、並びに茶道具等が多く保管されている事に鑑み、攻撃で多聞山城と共にこれらの財宝が失なわれる事を“織田信長”が惜しんだ事。

3:そもそも“松永久秀”は“将軍・足利義昭”が“松永久秀”が敵とする“筒井順慶“に養女を嫁がし、自派に引き込もうとした動きに遺恨を抱き離反した。この事は、当時”将軍・足利義昭“と協力関係にあった“織田信長”とも敵対関係に成ったという経緯である。従って“織田信長”と“松永久秀“との間では、両者が戦闘に至るという事が殆ど無かった事

4:“阿波三好家”との和睦交渉を纏め“織田信長”の危機を救った交渉能力等、長年に亘って“松永久秀”が畿内で培った影響力を未だ利用出来ると“織田信長”自身が考えていた事


34-(1)-⑦:“多聞山城”訪問記と写真・・訪問日・2020年4月6日(月曜日)

住所:奈良市法蓮町(現在の奈良市立若草中学校敷地内)

交通機関:
大阪駅から近鉄奈良駅で下車、徒歩で奈良県庁前を左折し奈良県文化会館を通り過ぎて北に向かって歩き続け“奈良市立若草中学校”に突き当たる。此処がかつての“多聞山城”の城址である。

写真で示す様に“多聞山城”から徒歩で西に数分歩くと“聖武天皇陵・光明皇后陵”がある。又、城址から東を見下ろすと“東大寺”がそう遠くない距離に見える。眞に“大和国”の急所に“松永久秀”が拠点を築いた事が実感出来る“多聞山城”城址訪問であった。

多聞山城の歴史:

“松永久秀”が標高115mの眉間寺山に“多聞天”を祀り先進的な“平山城”とされる“多聞山城”を築城したのは1560年(永禄3年)とあるから“織田信長”が“今川義元”を“桶狭間の戦い“で討ち取った年である。
西日本随一の豪華な城郭との記録で知られるが、今日の姿は“奈良市立若草中学校”が建っており、裏手に回ると当時の土塁の史跡が僅かに残されているだけで、殆ど名城の面影は無い。
尚“織田信長”は1576年に”安土城“の築城を開始し、3年後の1579年(天正7年)に移り住む。そして”多聞山城“は”織田信長“の命令によって“松永久秀”の敵である“筒井順慶”によって破城工事が1576年(天正4年)から始められ1577年6月頃には廃城と成った。建物や内装は京都の“旧二条城”(二条新御所)に移築された。

訪問記:
我々が訪問した時期は“コロナウイルス”に拠る感染防止策が始まり“安倍首相”の指揮下、日本中が外出制限、学校も休校、職場も自宅勤務を強制するという大騒ぎの真っ最中であった。史跡訪問も躊躇される状況であったが、史跡訪問先は山中の寺、城が主であり、コロナウイルス感染の危険は東京に居るより寧ろ少ないであろうとの判断で訪問を敢行した。

当時の奈良県は全国でもコロナウイルス感染者数が極めて少ない状態であったが、流石に近鉄奈良駅から“多聞山城“への道の人影は少なかった。途中、奈良公園の鹿達が観光客が少ない為か餌を求めて我々に近寄って来たが、餌と成る煎餅を売る人々も居らず、腹を空かしていたのであろう、一頭の鹿が私が持っていた観光用の地図に食らいつき、地図が引き千切られてしまうと言うハプニングがあった。

休校中とは言え“若草中学”には数人の生徒と教師が登校していた。校舎に至るには写真に示す様に可成りの石段を登らねばならず“多聞山城”の城址に校舎が建てられている事を実感させる。更に、校舎の入り口には、写真に示すような“多聞山城縄張り推定図”や“多聞山城略年表゛等が掲げられて居り”若草中学“が”多聞山城址“という歴史遺産の地に建っている事を十分に伝えていた。

“若草中学”の石段を下り、西に少し歩くと“第45代聖武天皇”(生:701年・崩御:756年)陵、並びに隣り合って“光明皇后”(聖武天皇の皇后・生:701年・崩御:760年)陵がある。両方の御陵をお参りをして我々は帰途に着いた。

34-(1)-⑧:“丹波国”の残党討伐(上記⑩並びに⑪)は“越前一向一揆殲滅戦”(1575年8月)と重なった為、最終的には1579年6月に“八木城”を、そして同年7月に“宇津城”を落城させた

1575年(天正3年)6月:

“織田信長”は1575年(天正3年)6月に1573年(元亀4年)に“将軍・足利義昭”が追放された後も敵対姿勢を続ける“丹波国・内藤如安”(父は松永長頼・八木城主?・生:1550年・没:1626年)と“丹波国・宇津頼重(=宇津長成・室町幕府御供衆・宇津城城主・生没年不詳)の討伐を決断し“明智光秀”を派遣した。

ところがこの時期に後述する“越前一向一揆殲滅戦”(1575年8月13日~8月15日)と重なった為“明智光秀”も“越前一向一揆殲滅戦”に参陣を余儀なくされ、結果として“丹波国“の残党討伐は4年後と成ったのである。

“丹波国・八木城“の落城

1579年(天正7年)6月27日:

“八木城”に就いては訪問記で詳細に紹介するが“キリシタン城主・内藤如安”(ジョアン)の居城であり、後に“徳川家康”によって1613年(慶長18年)に発布された“キリシタン禁令”と“宣教師の国外追放令”が出されると後難(こうなん=後に成って降りかかってきそうな災い)を避ける為、史料の多くが故意に書き換えられたり、記録が抹殺されたりした。その為“八木城”に関する歴史過程等もなかなか掴めないのが実態である。

“八木城”は1579年(天正7年)6月27日に“織田信長”方の“明智光秀”を総大将とする約2000兵が“内藤有勝”以下1000兵が守る“八木城”を攻撃し落城に至ったとの記録が残っている。

“内藤有勝”が当時の城主だったとの説もある。“内藤有勝”は戦死したとも伝わり“内藤如安”はこの戦いの際“八木城”に居なかったとの説もある。又一説には“内藤有勝”は架空の人物で“内藤如安”の名を消し去る為に設けた人物だとされる等、この人物がどの様な人物かも良く分かっていない。

いずれにせよ“内藤如安”のその後に就いては紆余曲折を経て1613年の“徳川家康”による“キリシタン禁令・宣教師の国外追放令”に拠って翌1614年ルソンに逃れ1626年(寛永3年)にルソンで没するのである。

“丹波国・宇津城”の落城

1579年(天正7年)7月19日:

“宇津城城主・宇津頼重”(=宇津長成・生没年不詳)は“丹波国・桑田郡宇津荘”(現在の京都市右京区)を本拠とした国人であるが1573年2月に“将軍・足利義昭”の御供衆に加えられている。

“将軍・足利義昭”が追放された後も“宇津頼重”(長成)は“織田信長”への敵対姿勢を変えなかった。そして1579年(天正7年)7月19日の“明智光秀”軍の攻撃で落城“宇津頼重”(長成)は若狭方面に逃れ、滅亡した。彼がその後、捕縛されたかどうかは不明である。

34-(2):“八木城”訪問記・・訪問日・2021年(令和3年)7月17日(土)

住所:京都府南丹市八木町八木

交通機関等:
東京から新幹線で京都駅で降り,同好の仲間と集合、JR西日本嵯峨野線に乗り換え、八木駅で下車。八木駅から“春日神社”迄は徒歩で約15分、そこから山頂の“本丸跡”迄には写真に示す様な山道を凡そ40分程とある。夏の盛りでもあり山道はやぶ蚊なども多く決して快適な城址探訪コースでは無かった。

訪問記:
標高344mの城山に築かれた山城であり山頂には本丸、天守台の遺構が残る。山頂に至る山道の傍には写真に示す様な墓石、石垣といった遺構が僅かに当時“黒井城,八上城と共に“丹波国三大城郭”の一つに数えられた“八木城”を偲ばせてくれる。不明な点の多い城であり、史料上は“太閤記・明智軍記・丹波風土記・内藤盛衰記・籾井家日記“に記載されているが、その史料価値についても疑義が多い。
歴史等:
築城の始まりは“足利尊氏”の挙兵(1333年)に“内藤顕勝(定房とも)“が協力し、その戦功に拠って船井郡を与えられ“八木”に入った時からとされる。1392年(北朝:明徳3年・南朝:元中9年)時の第4代管領”細川頼元“が丹波守護に任命された時に“内藤“氏が”八木城“を守護所として機能させた、との記録が残る。1431年(永享年)の記録には“内藤信承”が“丹波国守護代”に成った頃から、城は本格的に拡張され、山頂部に本丸、そして尾根筋の多くの曲輪には防御施設が築かれていたとある。その後、この地の支配は代替わりを経た。又”八木城“は何度も戦場になっている。

その後”松永久秀“の弟で”三好長慶“からの信頼が厚かった“松永長頼”(生年不詳・没:1565年)が“八木城”を奪還、出家後に”内藤宗勝“を名乗り”丹波国“のほゞ全域を席捲するに至った。その子息の”内藤貞弘”(忠俊とも称す・生:1544年/1550年説も・没:1626年)が内藤家の家督を継ぎ“八木城“の城主となった。彼が”ルイスフロイス“から洗礼を受け”キリシタン武将“として有名な”内藤如安“(内藤ジョアン)である。文中記述した様に、彼はその後、紆余曲折を経て1613年の徳川家康のキリシタン追放令で翌1614年“高山右近”や妹のジュリアと共にルソンに逃れ1626年(寛永3年)にこの地で没した。

こうした歴史を持つ事から、今日“八木城“のあった船井郡旧八木町とマニラは姉妹都市になっている。

=写真=

34-(3):天下第一の名香“蘭奢待”を切り取った際にも、自己の“正統性”を世間にアピールする事を忘れなかった“織田信長”

1574年(天正2年)3月27日~3月28日:

“多聞山城”を陥落させ、無血開城させた“織田信長”は“正親町天皇”から勅許を得て、3000兵の軍勢を率いて“多聞山城”に入城、検分し(3月27日)、同年3月28日に正倉院に伝わる名香“蘭奢待”を運ばせ“多聞山城”の舞台で六尺の中の一寸八分(5.5cm)を切り取った。

嘗て“室町幕府第3代将軍・足利義満”そして“同第6代将軍・足利義教”並びに“同第8代将軍・足利義政”が切り取ったとの史実がある。“織田信長”は切り取った“蘭奢待”を“正親町天皇”に献上している。この事を“松永久秀と下克上”の著者“天野忠幸”氏は“歴代の足利将軍を上回る正統性を天皇から得た事を世間に示す為の行動であった“と解説している。

“信長公記”には“大仏師トンシキ”が持参した鋸で1寸/約3.03cm/角2片を切り取り、一つは“正親町天皇”に献上し、もう一片は“我等が拝領”と述べ“織田信長”が配下にも鑑賞させた事を伝えている。

35:京都から追放した“将軍・足利義昭”を京に召喚して“室町幕府”を再興する意図があった“織田信長”

35-(1):追放後も“征夷大将軍”の地位であり続け、逃亡先に“幕臣”を集め、尚も大名達に命じて“織田信長”との戦いを継続しようとしていた“足利義昭”

35-(1)-①:“足利義昭”の“安芸国”への入国要請を拒否した“毛利輝元”

“足利義昭”は1573年7月16日~7月18日の“槙島城の戦い”で敗れ追放され、1573年(天正元年)の秋前には“若江城”に入ったものと思われる。此処を“御座所”として“安芸国・毛利輝元”を頼って尚も再起を期して動いた事が伝わる。

そして“毛利輝元”に“安芸国に逃れたい”旨を伝えるが“織田信長”との全面対決を避けたい“毛利輝元”は入国要請を拒否した。

35-(1)-②:“由良“興国寺”に滞在する事と成った“将軍・足利義昭”

1573年(天正元年)11月9日:

”毛利輝元“に入国を拒否された”将軍・足利義昭“は”若江城“に戻る訳にも行かず(既述の通り若江城はこの直後の1573年/天正元年/11月16日には織田信長方に拠って開城させられている)“堺”を発って海路”紀伊国“に向かい“由良・興国寺”(和歌山県日高郡由良町)に滞在する事と成った。

この時“将軍・足利義昭”に供奉した従者は僅か20人程であり、その様子を“吉川家文書”が下記の様に伝えている。

公方様は上下廿人の内にて,小船に召され候て、紀州宮崎の浦と申す所へ御忍候

1574年(天正2年)3月20日:

“将軍・足利義昭”は此の地から“上杉謙信”宛ての手紙で“武田勝頼・北条氏政・加賀一向一揆“と講和して上洛する事を求めている。この他”足利義昭“は”薩摩国・島津“氏にも“帰洛”出来る様、協力して欲しいと要請した事が“島津家文書・歴代古案・別本士林証文”等に記録されている。

35-(1)-③:再度の“京帰還”を現実的な政策と考えていた“足利義昭”

“応仁の乱”以後の乱れた“室町幕府体制”下では既述の様に“第10代将軍・足利義材“(改名義尹~義稙・生:1466年・没:1523年)以降の室町幕府将軍は”流浪将軍“化して”京“を落ち延び、諸国の大名に上洛支援を要請し、結果として”京帰還“を果たすケースもあった。”足利義昭“のケースは”将軍家再興“を掲げて”織田信長“の支援で上洛を果たし、尚且つ”征夷大将軍“の地位に就いたケースであり、上記将軍達のケースとは異なる。

将軍に就いたこれ迄の経緯を成功体験と考えたであろう“足利義昭”は、今回は“織田信長”に拠って“京”を追放されたが、再び強力な勢力と結びついて“京帰還”を政策に掲げ、動こうとしたのである。

過去の“流浪将軍化”した将軍達の歴史を知る“足利義昭”自身が再び無駄なあがき、空虚な政策を掲げて動いたと捉えるのは正しく無い。彼にとって”京帰還“は全くの絵空事では無く、現実的な政策と考えていたと思われ、それだけに執拗(粘り強く自分の態度、姿勢を曲げない)だったのである。

35-(2):“毛利輝元”の要請を受け入れて“足利義昭”の“京帰還”に積極的に動いた“織田信長”

1573年(天正元年)9月:

“足利義昭”が“紀伊国由良・興国寺”から “上杉謙信”並びに“武田勝頼・北条氏政“更には”薩摩国・島津“氏にも”京帰還”を支援する様、要請した事が史実として確認されている。

この事からも”足利義昭“は追放後も尚も本気で”京帰還“の道を探っていた事が裏付けられる。しかし“足利義昭”の期待にも拘わらず“京帰還要請”に応じる諸国の大名は現れなかった。

“毛利“氏と”織田信長“が通交関係を始めたのは”足利義昭“を上洛させ、将軍に就けた後の1569年(永禄12年)頃からと考えられる。”織田信長“は彼の外交の常套手段である”婚姻“に拠る”同盟関係“を”毛利“氏とも行っている。

”毛利元就“が存命だった(毛利元就は1571年6月に没する)1569年(永禄12年)8月に”織田信長“は”毛利元就“の要請に応えて”木下秀吉“等の軍勢を”但馬国・播磨国“に派遣して”山中鹿之助幸盛“(尼子三傑の一人・三次に亘る尼子再興運動に動き活躍したが最後は上月城を毛利軍に囲まれ捕えられ、毛利氏家臣の福間元明によって謀殺された・生:1545年?・没:1578年?)等”尼子氏旧臣“達による”尼子氏再興“を目指した決起行動に対して”毛利氏支援“の為に動いたのである。

こうした“織田信長”とは言わば“同盟関係”にある“毛利輝元”に対して“足利義昭”は執拗に“京帰還”の支援要請をして来た。しかし“毛利輝元”は“足利義昭”に協力する事に拠って“織田信長”との関係悪化になる事を恐れ、既述の様に“足利義昭”からの“安芸国”への入国要請を拒否して来た経緯もあった。

しかし乍ら、尚も執拗な要請に“毛利輝元”は“織田信長”が“主君・足利義昭“との関係を改善しない一方で、それが世間への悪評となる事を極度に嫌っている事に着目し“織田信長” に“足利義昭”の“京帰還要請”を受け入れてはどうか、と提案したのである。

“毛利家文書”には“織田信長”は“毛利輝元”の“足利義昭”の京都への帰還を“同心”(同意)したと書かれている。

35-(3):“足利義昭”の京都帰還に関して“織田信長・毛利輝元”が同心した。しかし“足利義昭”が高飛車な態度で応じた事に対して、この件を任された“羽柴秀吉”が“京都帰還”を決裂させる

1573年(天正元年)10月28日:

“毛利輝元”から“一色藤長”(幕府御供衆・生年不詳・没:1596年)に宛てた書状がある。
この書状は上記した“足利義昭”の京帰還について“織田信長”と“毛利輝元”との間で同心(共に事にあたること、協力すること)した事を伝えている。”一色藤長“は”足利義昭“に従って”紀伊国”に下っていた人物である。

仍って御入洛の御儀に就いて、信長に対し申し遣わし候の条、御許容成されるにおいては、都鄙安泰の基たるべく候哉、御故実肝要候
=解説=
毛利輝元から織田信長に足利義昭を京都に帰還させる事を要請した事がこの文書から確認出来る。そして毛利輝元としては足利義昭が京都に帰還(御入洛)する事は“将軍家”として最も必要な事であり(御故実肝要候)天下と分国の安泰の基(都鄙安泰の基たるべく候)であり“肝要”(最も重要、必要な事)な事として“足利義昭”に京都に帰還する事を勧めている

1573年(天正元年)11月5日:

“足利義昭”はこうした動きに対して、内心は“しめた!”と思ったのであろう“京都への帰還”を受け入れる意向を示したと言う。そして“毛利”側からは外交僧“安国寺恵瓊”(あんこくじえけい・生:1539年?・没:1600年)が使者となり“織田信長”側からは“羽柴秀吉”(生:1537年・没:1598年)が担当と成って具体的な交渉が“堺”で行われた。尚、両者の仲介役として“日乗上人”(にちじょうしょうにん=朝山日乗・生年不詳・没:1577年?)が加わっている。

1573年(天正元年)12月12日:

この日付けの“安国寺恵瓊”が“井上春忠”(いのうえはるただ・生没年不詳・小早川隆景の側近と伝わる)等に宛てた自筆の書状が伝わる。(吉川家文書)

それによると”足利義昭“側は”京帰還の条件“として”下記“の様に”織田信長“の方から人質を差し出す事を条件としたのである。

上意の御事、人質を能よく御取かため候はではと仰せられ候

35-(3)―①:この“足利義昭”側からの要求を拒否し、突き放し、交渉を決裂させた“羽柴秀吉“の判断力

“足利義昭”側から“織田信長”に“人質”を出すよう要求が出されたが“羽柴秀吉”はこの要求を拒否した。それに止まらず、下記史料に示す様に“足利義昭”側に“何処へでもお忍びで落ち延びる様にと、突き放す回答をしたのである。これに拠って“足利義昭”の“京帰還交渉”は決裂した。

=羽柴秀吉が足利義昭を突き放し、交渉を決裂させた事を伝える史料=

ただ行方知らずに見え申さずの由(足利義昭の行方はわからないと)信長へは申すべくの候の条、(信長には報告するので)早々何方へも御忍然るべきの由申し候(早々に何処へでもお忍びで落ち延びられる様に)

35-(3)―②:“織田信長”はその後も尚も“足利義昭”を“京”へ召喚する意図を残していた事が伝わる。この事は“織田信長”が既述の“室町幕府を滅ぼす意図が無かった”との説の更なる裏付けと成る

”織田信長“は上記”足利義昭“の”京帰還交渉”が決裂した後も積極的に“足利義昭”を京都へ召還(呼び戻す事)しようとした事が確認できる。“織田信長”にとって“傀儡状態”でさえあれば“室町幕府将軍・足利義昭”の存在は“至強(将軍・幕府・武士層)勢力”の権威を活かせるメリットがあったからであろう。

1574年(天正2年)正月16日:

この日付けで“足利義昭”が“六角承禎”宛ての御内書で“今度信長頻りに帰洛参るべき由、使いを差し越し申といえども“と”織田信長“が帰洛する事を尚も働きかけた事を伝えている。

この時期“織田信長”の許には“若公様”と称されていた“足利義昭”の息子の“義尋”が人質として確保されていた。この事が“織田信長”が“足利義昭”の“京都帰還“に積極的であった背景の一つとされる。

“織田信長”の動かぬ考えは、例え再び“足利義昭”を京都に帰還させたとしても“傀儡政権”として存在させる事であった。繰り返すが“足利義昭”の“京帰還“は世間の”織田信長“に対する悪評阻止に他ならない。“織田信長”は“旧幕臣”の中から“織田信長”に帰参(戻り仕える)した者達には“京都“の本領を安堵(以前の知行地を其のまま与える事)している。この事も“織田信長幕府を崩壊させた”という世間の悪評を回避する為の“織田信長“の配慮であった。

ずっと後の事となるが、1581年(天正9年)2月28日に“織田信長”は“京都”で“正親町天皇“(第106代天皇・在位1557年11月~1586年12月・生:1517年・崩御:1593年)臨席のもとで“馬揃”(軍事行進・尚、この時の馬揃えは1184年に源義経が駿河国浮島原で行った馬揃、1633年に徳川家光が江戸品川宿で行った馬揃え、1863年に松平容保が孝明天皇の勅命を奉じて行った馬揃と共に有名である)を行った記録があるが、この行事に上記“旧幕臣”で“織田信長”に帰参した者達も参加させるという配慮をした事が“原本信長記”で確認出来る。

注目すべきは、彼等“旧幕臣“達が“山城国”を管轄する“明智光秀”の配下と成った事である。又“細川藤孝”並びに”筒井順慶“も”明智光秀“の与力(織田政権に於いて、有力な大名に加勢として付属させられた武将達)と成っていた。更に“室町幕府・政所執事”を務めた“伊勢貞興”(生:1562年・没:1582年6月13日)も“明智光秀”の家臣と成っていた事である。

この事は“明智光秀”は“織田信長政権”に於いて一方で“関東管領”的立場に居た“滝川一益”と並んで“近畿管領”と称される立場に居たに等しい、と“高柳光寿、桑田忠親、津本陽、永井路子“の各氏が共に指摘している。

つまり”織田信長“は“室町幕府体制”の“残滓”(ざんさい・ざんし・残りかす)を“明智光秀”の指揮下に置く人事を行ったのである。この人事から“織田信長”には“室町幕府”を滅ぼす意図が無かった事を裏付けているとされる。しかし乍ら既述の経緯から“足利義昭”の“京都帰還要請”は実現しなかった。この事は“織田信長”の“足利義昭“の権威だけを活用するという策も実現しなかった事を意味した。

更に、注目すべき事は、上記した“織田信長”の人事が“明智光秀”の“近畿管領的立場”を強化する事と成り“織田信長”の命取りになったという事である。具体的には“近畿管領的組織“の中心となった”伊勢貞興“は“本能寺の変”(1582年/天正10年/6月2日)後の“山崎の合戦“(1582年6月13日)でも”明智光秀“側として従軍し戦死した事が裏付ける様に(本能寺の変に就いては次項で記述するが)“近畿管領”と称される程の“京”に於ける強い権力、軍事力を持つ立場に“明智光秀”を置いた事が結果的に“織田信長”の致命傷と成ったのである。

まさしく“織田信長・不器用すぎた天下人”で著者“金子拓”氏が指摘した様に“裏切り”に塗られた“織田信長”の人生の総決算が、彼が最も信頼を置いた、家臣の“明智光秀”に誰からも分かる油断としか言い様の無い“スキ”を晒した為に“織田信長”からすれば、全く予期しない形で裏切られ討たれた“本能寺の変”という事に成ったのである。

“織田信長”の人生は“同盟”相手の“戦国大名”達に悉く裏切られ続けた人生であったとも言える。時代がそうした“生き馬の目を抜く”殺伐とした時代であった。当時“織田信長”の立場に居た武将ならば、誰にでも降りかかる“討たれる”という危険な状況を見事に悉く跳ね返し、勝利し続け“天下人”としての地位を勝ち得た“織田信長”である。しかし最後に最も信頼した“家臣・明智光秀”の裏切りに遭い、討たれ“全国統一”という目的を果たす事が出来なかったのである。

こうした“織田信長”の結末を“信長は独裁者に在りがちな猜疑心は持っていたが、優遇している相手ならば裏切るまいという尊大な感情があった。それが本能寺に無防備な状態で入った何よりの証拠である“とされる。

既述した“織田信長”の“主君・将軍足利義昭”に対する対応、そして旧幕臣に対する気配り等は、西洋の歴史では余り例を見ない“日本の特異性”下での覇権争いの姿であったと言えよう。

“織田信長”は“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”そして“至強(将軍・幕府・武士層)勢力“が併存するという”統治形態“が日本社会に岩盤の様に根付き”権威“として生き続けた中で彼として不合理と思う点には果敢に挑戦した。寺社の“権威”に対する前例のない対応,挑戦、破壊、も然りである。しかし、一方でそれを最大限利用する事で“全国統一”という大事業に最大限、活かそうともした。“織田信長”の行動は“日本の特異性”を強く認識し、配慮し“世間の悪評”を忌み嫌う“織田信長”流の“IQ+EQ+人間力”を働かせた“大義”の下でのものであったと言えよう。

36:“織田信長政権”の発足

“槙島城の戦い”( 1573年/元亀4年/7月16日~7月18日)で“将軍・足利義昭”を追放した事を以て“室町幕府が崩壊・終焉した”と解釈するのが定説である。

しかし既述の様に”足利義昭“が追放された後も”大名“と”将軍・足利義昭“との主従関係は形式上は存在した。”足利義昭“が”将軍職“を正式に返上するのは15年も後の1588年(天正16年)1月13日である。この間“足利義昭”は“将軍職”が行う“禅宗官寺の五山・十刹”(じっさつ=五山に次ぐ寺格)並びに諸山の住持を任命する幕府の辞令(公帖・こうじょう)を発行し続けていた。

これ等の史実を以て“足利幕府は存続していた”との説を展開する歴史家もいる。しかし“室町幕府”は“京都・畿内”すなわち“天下を統治してこその中央政権”という重要な要件が“将軍・足利義昭”追放後には欠落しており、この状態を以て“室町幕府”が継続していると見做す事には無理があるとされる。

戦国時代に突入し“第10代足利義材”以降の“将軍達”は既述の様に流浪将軍化し、京都を離れているケースが多かった。そうした状況下ではあったが“室町幕府”は継続していたと見做されて来た。

今回“室町幕府”が崩壊、終焉を迎えたと解釈されるのは上記した理由、つまり“天下を統治してこその中央政権”という要件が欠落していた事に拠るものである。繰り返すが、過去に“三好長慶”が“畿内の覇者”として権力を握ったが、この政権を“室町幕府”を滅亡させた“政権”だとは見做さなかった。

今回“将軍・足利義昭”が“織田信長”に拠って追放された後を“室町幕府”と言うならば、その政治体制はこれ迄の“流浪将軍”が続いた時期の状態と比較しても、はるかに“中央政権”としての要件を失い,殆ど政権としての体を為していなかった。

“朝廷”や大部分の寺社が最早“将軍・足利義昭”が“京都・畿内”すなわち“天下”を統治する“中央政権”としての“権力‣機能”奪還を果たす事は不可能であると判断した状態であった事、又“旧室町幕府体制を支えた武士達が織田信長の傘下に続々と帰属する”という状態にあった事、従って世間は“織田信長政権”を“室町幕府に代わる中央政権”と見做していたという史実が“織田政権”が発足し“室町幕府”は崩壊、終焉したと結論付け、それが“定説”とされるのである。

36-(1):備後国“鞆”で尚もしぶとく“亡命政権”を構えた“足利義昭”

“足利義昭”はしぶとく“備後国”(現在の広島県福山市)の“鞆”に“細川輝経・上野秀政・畠山昭賢・真木島昭光“等を伴い動座(貴人が居所を移す事)した。

”鞆“は”初代将軍・足利尊氏“が“光厳上皇”(北朝初代天皇・在位1331年~1333年・生:1313年・崩御:1364年)から“新田義貞“追討の院宣を1336年2月15日にこの地で受けたという歴史があり”足利将軍家“にとって由緒ある地であった事が”足利義昭“が選んだ理由とされる。

“鞆幕府”等に就いては次項でも触れるが“将軍・足利義昭”の追放をもって“室町幕府は崩壊・終焉した”とするのが“定説”である事から“鞆幕府”の命名、並びに日本史の上での位置付けは、歴史学者の“藤田達生”氏が提唱した“亡命政権”と解釈するのが一般的である。

36-(2):“鞆幕府“史跡、並びに”常國寺“訪問・2022年(令和4年)7月8日(金)

36-(2)-①:“安倍晋三“元首相が凶弾に倒れる数時間前の訪問であった

朝6時25分新大阪駅発の新幹線“さくら”に乗り“福山駅”には7時32分に着き下車、トヨタレンタカーでプリウスを借り、直ぐに福山市鞆町に向かった。“鞆の浦民族資料館”が“鞆城”跡に建てられている。1時間ほど見学をして“足利義昭”が“備後国“流寓の12年間の中の3年間を“将軍御座所”とした“常國寺”に向かった。写真に今日の“常國寺”を載せたので参照されたい。

“ 常國寺”見学は午前11時~11時半で済ませ“しまなみ海道”を走り“因島大浜PA”で昼食の為立ち寄った時に東京の自宅から“安倍晋三”元首相が参議院選挙応援の為奈良県に入り、演説中に凶弾に倒れたとのメールが入ったのである。

安倍晋三“元首相を凶弾が襲ったのが同日午前11時31分頃とされる。私共が因島大浜PAに着いた時間が正午前であった。東京からのメールにはマスコミは既に元首相は重態だと報じているとあった。事件後僅かな時間しか経っておらず、通常はもう少し様子見をし、慎重に重態報道を行う。しかし今回は既に“重態”とマスコミが報じている事から、我々も昼食の時点で最悪の事態なのだろうと直感したのである。非常に重苦しい雰囲気下での、パーキングエリアでの昼食であった事を鮮明に覚えている。


37:“石山合戦“及び“一向一揆との戦い

“織田信長”と“本願寺”との戦いは、既述した様に1570年(元亀元年)9月に“摂津国・野田城”並びに“福島城(砦)”の“三好三人衆”軍を攻めていた時に突然“大坂本願寺”が攻撃して来た事で始まった。”織田信長“と”本願寺“との戦いは1580年(天正8年)3月に”本願寺第11世宗主・顕如“(生:1543年・没:1592年)との間で”正親町天皇“の仲介で”和睦“が成立する迄、実に丸10年間に亘って、その間、三度の休戦期間を挟みながら断続的に続いたのである。

37-(1):“織田信長”にとって戦国大名との戦闘と“本願寺”との戦闘では根本的に異なる点がある。それは以下の3点とされる

1:本願寺との大規模な戦闘場面は10年間でたった2度しか無い点
分国を“本願寺“は持たない。従って”織田信長“軍は”本願寺“側の包囲を続けたが1570年(元亀元年)9月の戦いも含めて大規模な戦闘は2度しか無い

2:“織田信長“の”対本願寺“との戦いは”本願寺の指令に拠って蜂起した“一向一揆”を殲滅する事に向けられた。従って戦略、戦術を駆使した戦闘と言うよりもホロコースト(皆殺し)という結果に成った

3:黒幕的な立場に居た“本願寺”は“信長包囲網”では“一向一揆”だけでなく“反・織田信長”の戦国大名や畿内の守護と結び、大坂の地に居座り乍ら戦いを展開  した。1572年~1573年の“信長包囲網”の戦いではフイクサー的役割であり、常に“武田信玄・朝倉義景・浅井長政”と連絡をとっていた。


37-(2):“本願寺・顕如”と“織田信長”との“虚々実々”

“虚々実々”の意味は“嘘と誠を取り混ぜて、相手の腹を読み合うこと”であるが“織田信長“は上記した様に”将軍・足利義昭“を京から追放し”織田信長包囲網“を担った”朝倉義景・浅井長政“を滅亡させ、更に”畿内“を中心に”将軍・足利義昭“方の残党を一掃して行った。

37-(2)-①:“織田信長”と“講和”を結んだ“本願寺”・・1573年(天正元年)11月

こうした“織田信長”の動きの結果“織田信長包囲網”のフイクサー的役割を果たし、黒幕として“織田信長”との対決を続けた“本願寺”は孤立状態と成った。そこで“本願寺第11世宗主・顕如”は“織田信長”との講和を求める動きをとった。

“織田信長”は1573年(天正元年)11月10日に上洛し11月16日に“佐久間信盛”等に命じて“将軍・足利義昭”を匿った“若江城“を攻撃させ”三好義継“を自害に追い込んでいる。“本願寺”との“講和”はこの時点で行われた事が“本願寺文書”の記録から推測できる。この頃の“織田信長”にとって“分国”並びに“軍兵”を持たない“本願寺”は左程警戒して構える状況に無かったと考えられる。(谷口克広氏著/信長の天下布武への道)

これを裏付ける史料として“織田信長”から“本願寺”への1573年(天正元年)11月18日付文書がある。内容は“白天目の茶碗”(古来大名物として珍重された茶碗・武野紹鴎/生:1502年・没:1555年/が所持したものと伝わる・多治見市小名田窯下窯で焼かれたとの説がある)が“顕如”から“織田信長”に贈られた事に対する礼状であった。

37-(3):上記“講和”は、ただの一時しのぎであり半年後に破られ“本願寺“方は“織田信長“方の“中嶋城”(堀城)を攻め落とした

1574年(天正2年)4月2日:

もとより“本願寺第11世宗主・顕如”は“織田信長”を受け入れる気は無かった。上記した“織田信長”との1573年11月の“講和”は半年後の1574年4月2日には破棄され“織田信長”方の”細川昭元“(細川京兆家19代当主・細川晴元の子息・細川昭元が城主となったのは1571年頃で将軍・足利義昭方であった。後に織田信長方と成り、足利将軍家に次ぐ武門の名門であった為、利用された・生:1548年・没:1592年)が守る“摂津国・中嶋城”(堀城とも称す・現在の大阪市淀川区にあった)を攻め落としたのである。

37-(3)-①:“中嶋城(堀城)”訪問記・・2022年10月20日(木)

住所:大阪市淀川区十三本町
交通機関等:
大阪“梅田駅”から“阪急電鉄”に乗り“十三駅”で下車、スマホのナビゲーションで探したが迷い、土地の年配の女性が“武田薬品工業の大阪工場の正門横に説明碑がありますよ”と丁寧に教えて呉れた。早速、教えて頂いた通りに歩き、探し当てた。迷わなければ“十三駅”から徒歩7分程の距離である。

又“武田薬品工業・大阪工場”から10分程歩くと“十三公園”がある。“中嶋城(堀城)”の城郭は此処まで広がっていたとされる。廃城(1575年~?)された後も当時の樹木は残り“堀の森”と呼ばれたという。写真にある巨木はその名残だと伝えられる。大阪の名門校“大阪府立北野高等学校”は“十三公園”の真向にある。

“中嶋城(堀城)”の歴史等:

“中嶋城(堀城)”の名はこの通史ブログでも何度か登場した。大阪市の中心部が史跡である為、今日では遺構や城の場所を示す石碑も無い。上記した“武田薬品・大阪工場”に掲げられた説明版、並びに“十三公園の巨木”に嘗ての城郭を僅かに偲ぶ事が出来た。

1566年(永禄9年)に“細川藤賢”(ほそかわふじかた・13代将軍・足利義輝に仕え、将軍が殺害された後は松永久秀に属した・その後、上洛後の将軍・足利義昭に仕え、織田信長に対抗して挙兵しようとした足利義昭を諫めたとされる。足利義昭が京を追放されると織田信長に許され、近江国・坂本城を任されたという・生:1517年・没:1590年)が築城したとあるが歴史的にはそれ以前に砦の様な状態の“中嶋城(堀城)”が存在していたとされる。

廃城については後述する1574年~1575年の“高屋城の戦い”(第一次:自1574年4月2日至1574年4月28日・第2次:自1575年4月8日至1575年4月21日)終結の後だと伝わる。


=写真=“中嶋城(堀城)”・・訪問日2022年10月20日(木曜日)

37-(3)-②:“本願寺”側の兵力

“本願寺”側の兵力の中心は“雑賀衆”(さいかしゅう:雑賀荘、十ケ郷、中郷、南郷、宮郷の五つの地域の地侍達で構成された高い軍事力を持った数千挺もの鉄砲で武装した鉄砲傭兵集団として活躍した。雑賀惣国とも呼ばれる・海運や貿易も営んでいた)である。
その他に “池田勝正”(池田知正の兄で金ヶ崎の退口では明智光秀、木下秀吉と共に殿を務めた・荒木村重との戦いで和田惟政に味方し敗れ、結果、本願寺側に加勢する事に成った・生年不詳・没:1578年?)並びに“織田信長”に“若江城の戦い”で滅ぼされた“三好義継”の残党達が加わるという複雑、雑多な軍隊が構成され“織田信長”に対抗したのである。

37-(4):“本願寺”方が“中嶋城(堀城)”を陥落させた事で“織田信長”方は反撃攻勢に出た。“反・織田信長”方の拠点であった“高屋城”を”第一次、第二次高屋城の戦い“で攻め滅ぼす

37-(4)-①:“第一次高屋城の戦い“・・1574年(天正2年)4月12日~同年4月28日

残った“畿内“の”反織田信長派“は”本願寺“並びに”高屋城“に集結していた。”高屋城“の”反・織田信長“派も”本願寺“方の動きに呼応して”反・織田信長“の戦いを繰り広げた。そして、追放された“将軍・足利義昭”も“紀伊国・由良”の“興国寺”から諸国の大名達に”御内書“を発して”織田信長“への抵抗を扇動し続けた。

“本願寺”の“反織田信長”の動きに“河内国・高屋城”方が呼応して戦闘を繰り広げた事は確かだが、この動きに“足利義昭”の扇動が影響したのか如何かを裏付ける史料は無い。しかし、この“高屋城の戦い“が始まる直前の1574年(天正2年)3月27日に“織田信長”が既述した“蘭奢待切り取り“を行い、その話を聞いた”足利義昭“が憤慨して”高屋城“の”反・織田信長“方に決起を促したとの話が伝わる。”織田信長憎し“とする“足利義昭”の執念を伝える話である。

”高屋城の戦い“は”高屋城”並びに“新堀城”(石山本願寺の出城)そして“石山本願寺”を含んだ一帯で行われた戦いであった為、別名“第二次石山合戦”並びに“高屋・新堀城の戦い”とも呼ばれる。

37-(4)-②:“第一次高屋城の戦い“と、それを途中で切り上げた”織田信長“方の事情

1574年(天正2年)4月2日~4月28日・・第一次“高屋城の戦い”

”反・織田信長“方は”摂津国“の”池田勝正“に従った”池田城“の城兵“並びに”讃岐国“の”十河一行“そして”雑賀衆“の”鈴木孫一“が加わり”織田信長”方の“中嶋城(堀城)”城主“細川昭元”を攻め、陥落させた。しかし“細川昭元”は生き延びていた。

彼は既述の通り“細川享兆家”の当主であり、当時は“足利家”に次ぐ“武門の名門”であった為“織田信長”に拠って利用される形で“1575年(天正3年)”には“織田信長“の推挙で”右京太夫“に任じられている。“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”に於ける“家格”の高さに“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”の持つ権威(右京太夫への任官)を加えるという“織田信長”流の“日本社会が持つ特異性”を活かした対応である。

こうした“反・織田信長”方の攻勢に“高屋城”の城主“遊佐信教”(ゆさのぶのり・1573年6月25日に畠山秋高を殺害し三好康長と共に入城した事は既述の通り、従ってこの時点の城主は三好康長・遊佐信教の二人が書かれている・織田信長軍の第2次高屋城の戦いで敗れた後、三好康長は降伏し織田信長の家臣となる。遊佐信教は高屋城陥落後も本願寺と共に反・織田信長方として活動する・生:1548年・没年不詳)が“三好康長”を“高屋城”に呼び寄せ“大和国衆”と共に“高屋城”に立て籠もった。こうした“反・織田信長”派の一連の動きに呼応して“石山本願寺”も挙兵をしたのである。

こうした“本願寺”並びに“高屋城”に広がる“反・織田信長”派の攻勢の情報を“京都”で受けた“織田信長”は“柴田勝家・筒井順慶・明智光秀・細川藤孝・荒木村重“から成る討伐軍を編成した。

1574年(天正2年)4月12日~4月28日:

“柴田勝家・筒井順慶・明智光秀・細川藤孝・荒木村重“から成る”織田信長“方の討伐軍は”下八尾・住吉・天王寺“に着陣し”石山本願寺“と”高屋城“の両面の攻撃を開始した。”石山本願寺“との戦いでは“住吉・天王寺”を焼き討ちにし“石山本願寺”から出撃して来た部隊と“玉造”辺りで合戦となった事が伝わる。しかしその他の合戦に就いての詳細は伝わらない。

1574年(天正2年)4月28日に“織田信長”軍は抑えとして“荒木村重”軍と“高山右近”軍を残して“第一次高屋城の戦い”から撤兵した。

37-(4)-③:“織田信長”が“第一次高屋城の戦い”を途中で切り上げた理由

結論から言うと“第一次高屋城の戦い“を途中で切り上げた理由は、この時期“織田信長”軍は“高屋城の戦い”の他にも①“長島一向一揆”の殲滅戦(1574年7月14日~9月29日)②“武田勝頼“の動きへの対応③“越前国・一向一揆”への対応をしなければ成らなかったからである。

”織田信長“は“第一次高屋城の戦い”を上記した状況で切り上げ“長島一向一揆”の殲滅戦を優先する決断をした。“高屋城”に就いては上述した“第一次高屋城の戦い”からほゞ1年後の1575年(天正3年)4月8日~4月19日に“第二次高屋城の戦い”を行い、敵方の“三好康長“を降伏させ、開城させる事に成る。

”織田信長“は更に、その僅か1ケ月後に“武田勝頼”を“長篠の戦い”(1575年5月21日)で敗り、更にその3ケ月後には“越前国・一向一揆”の殲滅戦(自1575年8月15日至同年8月29日?)を戦うのである。実に1年半程の間に5つの大きな戦闘に臨み、しかも勝利するのである。

“織田信長”軍が他の戦国大名達と比較して抜きん出た軍事力を発揮出来たのかの理由に就いては纏めて後述する。

37-(5):“長島一向一揆殲滅戦”・・1574年7月14日~9月29日

兄“織田信長”が既述の“滋賀の陣”で苦戦を重ねていた隙に“本願寺・長島一向一揆”の抑えとして“小木江砦”に置いていた弟“織田信興”(父織田信秀の七男・生年不詳・没:1570年11月21日)は“本願寺・伊勢長島一向一揆”に囲まれ自害して果てた事は既述の通りである。“織田信長”は当時“朝倉義景・浅井長政”と比叡山で対峙中であり、又、近隣の“桑名城”にいた“滝川一益”も“本願寺一揆勢”との戦いで籠城中であり、援軍を送る事が出来なかった。奮戦空しく“織田信興”は80人余りの家臣と共に戦死した。

こうした“本願寺・長島門徒”に対して“織田信長”は激しい恨みを抱く事に成る。これ迄も“織田信長”は“石山合戦”に呼応して対抗を続ける”長島一向一揆“との間に第1次から第3次に及ぶ、3年以上に亘る激しい戦闘を展開して来た。”第一次長島侵攻“から”第三次長島侵攻“までの戦闘は以下の通りである。

37-(5)-①:第一次長島侵攻・・1571年(元亀2年)5月12日~5月16日

“第一次長島侵攻”では“本願寺”勢力が“長島”の防衛に成功した。

【交戦戦力】
本願寺勢力
雑賀衆

【指導者・指揮官】
下間頼旦
斎藤龍興
石橋義忠


戦力:100,000兵以上

損害:不明

【交戦戦力】
織田信長軍


【指導者・指揮官】
織田信長
佐久間信盛
柴田勝家
氏家卜全

戦力:50,000兵余り

損害:柴田勝家が負傷し、代わった“氏家卜全”並びに彼の家臣数名が討ち死した

1571年(元亀2年)5月12日:

“近江国”で“浅井井規”率いる5000の一揆勢を“木下秀吉”が500の寡兵で敗る等、当初は“織田方”が優位に立った。そして“織田信長”軍は50,000の兵を率いて“伊勢国・津島”に着陣した。

1571年(元亀2年)5月16日:

”織田信長“軍は周辺の村々を放火し、ひとまず軍を引こうとした。これを見た”一揆軍“は退路に弓兵、鉄砲兵で待ち伏せた為、殿軍(しんがり)の“柴田勝家”が負傷、代わって“殿軍”を務めた“氏家卜全”並びに彼の家臣数名が討ち死にする等、この戦いの結果は“本願寺・長島一揆”勢力が本拠地の“長島”の防衛に成功した戦闘と成ったのである。

37-(5)-②:第二次長島侵攻・・1573年(天正元年)9月24日~10月26日

“第二次長島侵攻”を行う直前の1573年(天正元年)8月17日~8月18日には“一乗谷の戦い”で“朝倉義景“を滅ぼし、続いて同年8月27日~9月1日の”小谷城の戦い“で”浅井長政“を滅ぼした”織田信長“軍であった。そして、休む間もなく”第二次長島侵攻“を各将に通達したのである。

“第一次長島侵攻“が失敗した原因は”本願寺・長島一向一揆“側が”桑名方面“から海路を使って”雑賀衆”等の人員補給、並びに“兵糧・鉄砲”等の物資補給をした為であった。“織田信長”は“長島一向一揆”攻略には“伊勢湾の制海権”を握る事が不可欠だとして“伊勢大湊の会合衆”に船の調達を要求した。“織田信長”軍は、準備不十分な状態にも拘わらず“第二次長島侵攻”を敢行、結果的に今回の侵攻も不調に終わった。

1573年(天正元年)9月24日~9月26日:

”織田信長”軍は数万の軍勢を整えて“北伊勢”に出陣した。(9月24日)翌9月25日に“太田城”に着陣し9月26日に“一揆勢”が籠る“西別所城”を“佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆”等の軍勢で攻め立て陥落させる事に成功した。

1573年(天正元年)10月6日~10月8日:

“柴田勝家・滝川一益”軍は更に敵の“坂井城”を攻略し降伏させた。(10月6日)両軍は続けて“金堀り衆”(金山発掘を専業としたが金鉱の衰微により工兵隊等の傭兵へと変わり、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの有名武将と関わった事が伝わる)を使って“近藤城”を攻撃し開城させた。そして10月8日には“織田信長”が本陣を“東別所”に移した。

1573年(天正元年)10月25日~10月26日:

“織田信長”方は“萱生城、伊坂城”の“春日部氏“そして”赤堀城“の”赤堀氏“更に”千種城“の”千種氏“と”桑3部南城“の”大儀須“氏“そして”長深城“の”富永氏“等を相次いで降伏させた。彼等は”織田信長“に人質を送って恭順の意を示した。

しかし乍ら“伊勢大湊”での船の調達は依然進捗状況が芳しくなく“織田信長”軍は“長島”への直接攻撃を見送らざるを得なかった。しかし、最後まで抵抗した“中島将監“の”伊勢国・白山城“(三重県桑名市西別所)を”佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆“等に攻めさせ落城させる事が出来た。更に”矢田俊元“が守る”矢田城“(城主・矢田俊元・三重県桑名市矢田・現走井山公園)を落し”矢田俊元“を自刃させ”織田軍“は”滝川一益“を”矢田城“に入れ”美濃国“へと帰陣を開始した。その矢先に事件が起こった。

又もや“長島一揆衆”は“第一次長島侵攻“と同じく”待ち伏せ戦術“で”織田信長“軍を襲い”多芸山“で弓、鉄砲で攻撃して来たのである。この中には”伊賀・甲賀“の兵達も加わっていたという。折悪しく雨となり、火縄銃が使えず白兵戦となり”織田信長”軍の殿を務めた“林通政”(はやしみちまさ=林新次郎・生年不詳・没:1573年)等の奮戦で“織田信長”軍は岐阜へ帰還する事が出来たが“林通政”は討ち死にする等の被害が出た。

以上の様に今回の“第二次長島侵攻”でも本拠地“長島”を落せなかった。その理由は“伊勢大湊”での船の調達に失敗した事に尽きる。“織田信長”は“長島の将・日根野弘就“(ひねのひろなり・斎藤道三~義龍~龍興~今川氏真~浅井長政~織田信長~豊臣秀吉に仕えた武将・1572年冬に浅井家を辞し長島一向一揆に参加した・生:1518年?・没:1602年)に与した船主達を必ず成敗するとして”長島に与す事は死罪に値する重罪である“と伊勢の船主達に知らしめ、長島への人員、物資補充の動きを強く牽制した。

37-(5)-②:“第二次長島侵攻”の纏め・・1573年9月24日~10月26日
                 
結果:“織田信長”軍は上記多くの“本願寺・一向一揆”方の城を陥落させ“北伊勢”を平定したものの“本願寺勢力”の拠点“長島”を今回も陥落させる事が出来なかった。

【交戦戦力】
織田信長軍


【指導者・指揮官】
織田信長
佐久間信盛
柴田勝家
滝川一益
丹羽長秀
羽柴秀吉
蜂屋頼隆
富田長繁
林通政・・退却で殿を務め討ち死に

戦力:80,000兵

損害:帰陣する際、殿軍を引き受けた“林通政” が討ち死した他、損害も出た
【交戦戦力】
本願寺勢力
北勢四十八家(北伊勢の国人・地侍)

【指導者・指揮官】
下間頼旦
下間頼成
日根野弘就







戦力:20,000兵(説)

損害:上記した多くの城が陥落。白山城も開城となった

37-(5)-③:第三次長島侵攻(最終戦=一向一揆衆殲滅戦)・・1574年(天正2年7月14日~同年9月29日

1574年(天正2年)6月23日:

“織田信長”は“美濃国”から“尾張国・津島“に入り”第3次長島侵攻“の大動員令を発し”織田領“の全域から兵を集め、7月には陣容を固めた。”陸と海”からの“長島”への侵攻作戦が開始された。“織田家”の主要な武将の殆どが参陣し“総兵力7~8万”という大軍が“本願寺・長島一向一揆殲滅戦”に向かったのである。尚、この“第三次長島侵攻”の戦いに“畿内”で政務に当たる“明智光秀”並びに“朝倉義景”滅亡後不安定となった“越前”方面の抑えに残された“羽柴秀吉”は参加していない。

=第三次長島侵攻作戦の陣容= 

① 東の市江口:織田信忠部隊
織田信忠・長野信包・織田秀成・織田長利・織田信成・織田信次・斎藤利治・簗田広正・森長可・坂井越中守・池田恒興・長谷川与次・山田勝盛・梶原景久・和田定利・中嶋豊後守・関成政・佐藤秀方・市橋伝左衛門・塚本小大膳 等

②西の賀鳥口:柴田勝家部隊
柴田勝家・佐久間信盛・稲葉良通・稲葉貞通・蜂屋頼隆 等

③中央の早尾口:織田信長本隊
織田信長・羽柴秀長・浅井政貞・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・飯沼長継・不破光治・不破勝光・丸毛長照・丸毛兼利・佐々成政・市橋長利・前田利家・中条家忠・河尻秀隆・織田信広・飯尾尚清 等

④水軍:九鬼嘉隆隊
九鬼嘉隆・滝川一益・伊藤実信・水野守隆・島田秀満・林秀貞・北畠具豊(=織田信雄)・佐治信方 等

1574年(天正2年)7月14日:

“織田信長”軍は上記①②③部隊が陸から攻めるべく進軍した。その中の②“柴田勝家”隊が“松之木”の対岸の守備を固めていた“長島一向一揆勢”を一蹴した。

同日中に早尾口の③“織田信長”本隊も“小木江村”を固めていた“長島一向一揆勢”を敗った。既述した様に、1570年11月21日には“小木江砦”で“本願寺・伊勢長島一向一揆”に囲まれ“織田信長”の弟“織田信興”が奮戦空しく80人余りの家臣が討死にし、自らも自害して果てたが、今回の戦いでその仇をとったのである。

又“秀吉”の弟の“羽柴秀長”そして“浅井政貞”軍が“篠橋砦”を攻撃する等“織田信長”軍は数か所の“一揆拠点”を焼き払った。そして“五明“(現在の愛知県弥富市五明)に移動しここに野営した。

1574年(天正2年)7月15日:

上記④の水軍は“九鬼嘉隆隊”の“安宅船“を先頭とした”織田軍“の大船団が”蟹江・荒子・熱田・大高・木多・寺本・大野・常滑・野間・内海・桑名・白子・平尾・高松・阿濃津・楠・細頸“等、尾張国から集められた兵を載せて到着し“長島一向一揆勢”を攻め立てた。

更に”北畠具豊“(=織田信雄)が率いる船団も”垂水・鳥屋尾・大東・小作・田丸・坂奈井等、伊勢から集められた兵を大船に乗せて到着した。“長島“を囲む大河は”織田信長“軍の軍船で埋め尽くされたと記録されている。

1574年(天正2年)8月3日:“長島一向一揆”方の“大鳥居城”が陥落

海陸、それも、東西南北四方からの“織田信長”軍の猛攻撃を受けた“一揆”方の諸砦は上述した様に次々に落され“長島一向一揆衆”は“①長島②屋長島③中江④篠橋⑤大鳥居”の5つの城に逃げ込んだ。

上記④⑤の城は“織田信雄”(おだのぶかつ=北畠具豊・織田信長の次男・織田信孝が先に誕生していたとの説もある=1569年に伊勢北畠家の第10代当主を継ぎ、元服して北畠具豊を称した・1582年、父織田信長が本能寺の変で討たれた後、織田姓に復帰している・生:1558年・没:1630年)並びに“織田信孝”(おだのぶたか・織田信長の3男とされる・伊勢国北部を支配していた国衆“神戸氏”との政略で養子と成り、神戸信孝を名乗った・最期は羽柴秀吉と戦い野間大坊で自害させられている・生:1558年・没:1583年4月29日、5月2日説)等が大鉄砲で“篠橋・大鳥居“両城を攻撃した。

″両城“を攻撃された”長島一向一揆“方は降伏を申し出たが”織田信長“は今回の”長島一向一揆攻め“に際しては既に1574年7月の段階で”根切=皆殺し“を宣言しており受け入れなかった。そして“大鳥居城”を抜け出して来た男女1000人程を討ち取り“大鳥居城”を陥落させたのである。

1574年(天正2年)8月12日:

上記④の“篠橋城”からは“篠橋城から長島城へ逃してくれれば長島城は全て織田信長方に寝返る”との約束をして来た。

“織田信長“方はこの提案を“兵糧攻め”をする願っても無い好都合の申し出と考え受け入れた。つまり”兵糧“が尽きた”篠橋城”から“長島城“に兵達が逃げ込む事で”長島城“が人口過密と成り、今度は敵の本丸である”長島城“の兵糧を枯渇させる事が容易と成ると策したのである。

”織田“方は”篠橋城”の要求を入れ“長島城”へ“篠橋城”から出た“一向衆徒”達を追い込んだ。その後”織田信長“軍は力攻めを止めた。多くの”一向衆徒“を受け入れた”長島城“では兵糧不足がより厳しくなり、餓死者が急増した。”織田方“の策通りの結果と成ったのである。

1574年(天正2年)9月29日:2万人の敵を焼き殺した長島の殲滅戦

上記作戦から1ケ月半が経った。兵糧が尽きた“長島”は遂に降伏を申し出た。その条件として“本願寺・長島一向衆”側は“籠城している者の助命、無事立ち退き”を条件とした。長い籠城の疲れと飢えに拠って痩せ衰えた“一向衆徒”達は城を出て夫々舟に乗って退散しようとした。繰り返すが1574年7月の段階で”根切=皆殺し“を宣言していた”織田信長“である。”織田信長“軍は”長島一向衆徒達“に一斉射撃を浴びせ、更に斬りかかったのである。

こうした殲滅戦の結果”顕忍”(願証寺3世証恵嫡男・生:1561年?)並びに“下間頼旦”(しもつまらいたん・本願寺の武将、僧侶・生年不詳)等、を始めとした“本願寺門徒衆”の多数が射殺、あるいは斬り捨てられた。

この“織田信長”軍の騙し討ちに怒った700~800の”長島一向衆徒達“は着物を脱ぎ、裸になって最後の力を振り絞って”織田信長“の本陣に突入した。この反撃は思いも寄らなかった事であり”織田信長本陣“は一転、戦場と化した。この反撃で”織田信長“の多くの親族並びに”馬廻役“も討ち死したと記録にある。

=長島一向一揆、最期の反撃で討ち死した織田信長軍の人達=
① 織田信次・・織田信長の叔父(津田とも称した)生年不詳・没:1574年9月29日
② 織田信広・・織田信秀の庶長子(織田信長の異母兄・津田信広とも・生年不詳)
③ 織田秀成・・織田信長弟(津田信成とも・生年不詳・没:1574年9月29日)
④ 織田信成・・織田信長従弟(妻が織田信秀娘・生年不詳・スケート選手と同姓同名)
⑤ 佐治信方・・織田信長の妹婿・知多半島の大半を領した豪族・生:1553年?
⑥ その他大勢の馬廻達

“織田信長”の騙し討ちに“長島一向一揆衆徒”が怒り、反撃して来た事で“織田信長”の親族、並びに腹心達が討たれた。そしてこの惨状が次の惨状を生んだのである。“織田信長”は“修羅”(鬼神)と化し、残された“中江城”と“屋長島城”の周囲に逃亡防止の柵を築き放火を命じた。両城の中には2万人の“一向衆門徒”が居たという。四方から放たれた火は忽ちのうちに両城を包み、全ての“一向衆門徒”が焼き殺された。

“信長公記”には“織田信長”はその日の中に“岐阜城”に戻ったと書かれている。この戦いで“織田信長”は積年の恨みを晴らす事は出来た。しかし既述の通り、騙し討ちの失敗で多くの“身内・腹心”を死なせた。そして自身が修羅と化して“2万人の一向衆徒を生きたまま焼き殺す行動に出た。”その断末魔の姿を見ての“岐阜城”への帰還であった。

“織田信長”は“姉川の戦い・長篠の戦い・越前一揆殲滅戦”その他の戦いの後、周囲の大名達に盛んに戦勝を誇示した事が伝わる。しかしこの“本願寺・長島一向一揆殲滅戦”に就いてはそうした文書が一通も見られない。“織田信長“としてこの戦いに関しては”快哉を叫ぶ“(心が晴れやかになて思わず声が出る)気になれなかった事が明白なのである。 それ程の惨状を極めた殲滅戦であった。

37-(5)-④:“第三次長島侵攻”(最終戦=一向一揆衆殲滅戦)の纏め

年月日:1574年(天正2年)7月14日~9月29日
戦闘場所:伊勢国長島
結果:織田信長軍の圧勝“長島”の“本願寺一向一揆勢力”が壊滅する

【交戦戦力】
織田信長軍

【指導者・指揮官】
陸軍
織田信忠
滝川一益
佐久間信盛 
羽柴秀長
水軍
九鬼嘉隆

戦力:120,000兵
               
損害:700~1,000人
          
【交戦戦力】
本願寺勢力

【指導者・指揮官】
顕忍
空明
下間頼旦
日根野弘就
大島親崇
大木兼能


戦力:100,000兵以上

損害:30,000人以上(説)

37-(6):“第二次高屋城の戦い”で当時66歳“三好一族”の中で,最後まで畿内で“織田信長”に抵抗した“三好長慶”の叔父で、城主の“三好康長”を降伏させ、開城させる

1575年(天正3年)3月22日:

“織田信長”が1574年(天正2年)4月12日~4月28日の“第一次高屋城の戦い”を途中で切り上げたのは目の前にある“長島一向一揆”を殲滅(1574年7月14日~9月29日)する事を優先させた為であった事は既述の通りである。

“長島一向一揆”を殲滅させた“織田信長”は“第二次高屋城の戦い”に向かった。
“細川藤孝”に宛てた“織田信長”からの下記朱印状が“細川家文書”に伝わる。

来たる秋、大坂合戦を申し付け候。然らば丹州の舟井・桑名郡の諸侍、その方へ相付くる上は、人数など別して相催し、粉骨を抜きんぜられべく候。この旨を申し触れ、おのおのその意をなすべき事肝要の状、件の如し

=要旨=
秋には石山本願寺を攻撃するので丹波の国人衆を与力として兵力を増強し、準備する事を命ずる

又“織田信長”は戦場と成るであろう“摂津国・住吉郡”に下記“禁制”を出し、もし違反した者達は成敗すると明言する事で同地域の安全を確保している。

陣取り、放火、濫妨、狼藉、ならびに竹木を伐ち取るの事、停止せしめ畢。もし違反の輩においては、成敗を加うるべきの状、件の如し

1575年(天正3年)3月:

“本願寺”の一揆勢が“大和田砦”(現在の大阪市西淀川区大和田町4丁目~5丁目付近にあった平城)を作り進軍した。しかし“織田信長゛方の”荒木村重“(あらきむらしげ・池田知正に池田勝正を追放させ、混乱に乗じて池田氏の実験を握った・生:1535年・没:1586年)が、敵方の”大和田砦“並びに”天満砦“を攻略し、奪取に成功している。

1575年(天正3年)4月6日:

”荒木村重“が敵方の”大和田砦“と”天満砦“を奪取した事を知った“織田信長”は秋を待たず、4月6日に“京”を出発。“辰刻、信長南方へ出陣す。一万余。室町通り五条へなり”と“織田信長”が1万程の軍勢を率いて進軍した事が“明智光秀”の盟友とされる“吉田神社”の神主“吉田兼見”(よしだかねみ・生:1535年・没:1610年10月6日)が残した日記“兼見卿記”に記されている。

1575年(天正3年)4月8日:

“織田信長”軍は1573年の戦いで“三好義継”を自害させ開城させた“若江城”に入り、1575年4月8日に“駒ケ谷山”に布陣し“高屋城”への攻撃を開始した。“反・織田信長”方の城主“三好康長”(当時66歳?・生:1509年?・没年不詳)は“高屋城”の不動坂口から出撃し、双方、激しい合戦となった。“織田信長”軍は“高屋城”周辺を焼き討ちしたと記録されている。

1575年(天正3年)4月12日~4月13日:

更に”織田信長“軍は”住吉“(大阪市住吉区)へ移動。翌13日には”摂津国・大和国・山城国・若狭国・美濃国・尾張国・伊勢国・丹後国・丹波国・播磨国“からの援軍に加えて”根来衆“も加わり”織田信長“軍は総勢10万余の大軍となった。“織田信長”は“天王寺”へ移動し、ここを本陣として“石山本願寺”とも対峙している。

1575年(天正3年)4月14日~4月19日:”高屋城の戦い“が終結する

”織田信長”軍は“石山本願寺”周辺の農作物を薙ぎ払い、そのあと“高屋城”と“石山本願寺”との中間点に位置する“石山本願寺・出城“の”新堀城“を包囲した。この城は敵方の”十河一行“並びに”香西長信“等が守っていたが“織田信長”軍は4月17日にこの”新堀城“を取り囲み堀を埋め19日には大手門、搦手門の両方から突撃した。

敵方も防戦したが、多勢に無勢“織田信長“方は170の首級を挙げ”十河一行“は討ち死し”香西長信“は捕らえられ、斬首された。

“新堀城“が落城すると”三好康長“は”織田信長“の側近”松井友閑“(まついゆうかん・元々は12代、13代将軍に仕えた幕臣であったが足利義輝が殺害された後は織田信長に仕え、吏僚の中でも最高の地位に居た。外交交渉にも奔走した・織田信長没後は豊臣秀吉に接近し,堺の代官として活躍・生没年不詳)を仲介にして降伏を申し出た。”織田信長“は”三好康長“を赦免し”高屋城の戦い“は終結したのである。

1575年(天正3年)4月21日:

“織田信長”軍は“高屋城の戦い”後の抑えとして“荒木村重”軍と“高山右近”軍を残して撤兵した。“織田信長“軍としては未だ次に”武田勝頼“の動きへの対応(長篠の戦い)そして“越前国・一向一揆”への対応が残っていたのである。

37-(6)-①:第二次“高屋城の戦い”の纏め

年月日:1575年(天正3年)4月8日~4月19日
場所:“高屋城”を主に“新堀城”(石山本願寺の出城であった城郭/推定地は大阪市住吉区
長居東1)並びに“石山本願寺”周辺
結果:“織田信長”軍の勝利

【交戦戦力】
織田信長軍


【指導者・指揮官】
織田信長
佐久間信盛
柴田勝家
丹羽長秀
塙直政
荒木村重

戦力:100,000兵余

損害:不明

【交戦戦力】
三好康長軍
石山本願寺軍

【指導者・指揮官】
三好康長
顕如
遊佐信教
十河一行
香西長信


戦力:3,000兵(諸説あり)

損害:約170兵余り
“十河一行”討死(新堀城で討ち死)
“香西長信”は生け捕りにされ斬首
“遊佐信教”が 1574年4月12日に討死説があるが、彼は”高屋城“落城後も”本願寺“と共に”反・織田信長“方として戦い続けた。

37-(6)-②:“高屋城”訪問記・・2020年8月22日訪問

住所:大阪府羽曳野市古市

交通機関:
大阪駅からJR環状線で天王寺駅まで行き、近鉄“南大阪線”に乗り換え古市駅で下車。 そこからは“安閑天皇陵”を目指して歩き、約10分程で写真に示す“古墳”が現れる。
築城主は“室町幕府第4代将軍・足利義持”時代(在任1395年1月8日~1423年4月28日)に“室町幕府第6代管領”に就いた“畠山基国”(生:1352年・没:1406年)説がある。“高屋城”の本丸は“安閑天皇陵”を流用して築かせたものと記録されており”宮内庁“管理の立ち入り禁止地区と成っている。

以前の項でこうした“高屋城”訪問記は紹介済であるので重複は避けるが、築城主に“応仁の乱”の発端と成った“上御霊合戦”を起こした“畠山義就”(生:1437年・没:1491年)説もある。既述の様に“二の丸・三の丸“と広がる”高屋城址“だが、写真の様に今日では住宅地に成っており当時の姿を残す遺跡は無い事も繰り返し紹介して置く。

=(写真)説明=

38:長篠の戦い・・1575年(天正3年)5月21日

“織田信長”は戦国時代の“覇者”である。彼が闘った戦闘は“桶狭間の戦い”(1560年/永禄3年/5月19日) 以降だけでも30を超す。夫々の戦いに於ける“織田信長”の苦闘、そして戦略、戦術に就いても記述して来たが、結果として歴史に残る大きな戦闘の数々を戦い抜けて来た武将である。そうした“織田信長”にとって、1575年(天正3年)という年は“天下布武”つまり“全国統一戦”が飛躍的に進んだ年であった。

以下に記す“長篠の戦い”は“織田信長”にとっては東方の脅威を払拭した戦いとして特筆すべき“戦い”であった。

38-(1):“武田勝頼”が侵攻を続ける

“武田氏”では“武田信玄”病死後“武田勝頼”(武田信玄の庶子として生まれる・諏訪勝頼・武田氏第17代当主・甲斐武田家第20代当主・生:1546年・没:1582年3月11日)が家督を継承した。“武田信玄”の病死を隠しての継承であったが,噂は広まり“織田信長”も“将軍・足利義昭”を追放した“槙島城の戦い”(1573年7月、つまり武田信玄病死した1573年4月から3ケ月後には)時点では情報を得ていたと思われる。

”武田勝頼“は父”武田信玄“の遺志を継いで頻りに南下西進の行動を繰り返しており、1573年7月に”織田信長“に”京“から追放された”足利義昭“は新たに”武田勝頼“に支援の期待を寄せていたのである。

38-(1)-①:“武田勝頼“の西方侵略とそれに対する”織田信長・徳川家康“軍

1574年(天正2年)2月:

“武田勝頼”は“西美濃“に入り父”武田信玄“の遺志を継いで”美濃・尾張・三河・遠江・駿河”攻略の拠点と成る“明知城“(あけちじょう=別名白鷹城・岐阜県恵那市明智町にあった。同じ岐阜県の可児郡明智荘にも”知と智“の字が異なる明智城が存在していた。混同に注意)を15,000の兵で陥落させている。(2月)この時城主”遠山一行(与助)“は”織田信長“に急を報じ支援を求めた。”織田信長“は”明知城“を失う重大さを考え”多聞山城“からは嫡男”織田信忠“そして”明智光秀“と共に支援に向った。しかし結果的に”明知城“は敵”武田勝頼“方の手に渡った。

1574年(天正2年)5月:

“武田勝頼”は2万の兵で“遠江国・高天神城”(別名鶴舞城・静岡県掛川市)を包囲した。(第一次高天神城の戦い)”高天神城城主・小笠原氏助“(1568年から徳川家康に属し対武田  氏の最前線を務める・信興に改名・生没年不詳)は”織田・徳川“の援軍を期待したが”徳川家康”軍は単独で援軍を出す力は無く“織田信長”軍も各地の“一向一揆”等への対応で援軍を送れなかった。

結果“城主・小笠原氏助“は”高天神城“を開城し”武田方“に臣従を誓ったという。”父・武田信玄“でも陥落させられなかった”高天神城“を落城させた事で”武田勝頼“の武名は大きく上がったのである。

38-(1)-②:“武田勝頼”軍の快進撃に対して“上杉謙信”から“何故、武田への攻撃をしないのか?”と問われた“織田信長”

上記の様に“武田勝頼”の攻勢に後手に回った“織田信長”に対して“上杉謙信”(織田信長と上杉謙信はこの時点では1564年以前からの通交関係が続いていた)からは“何故、武田への攻撃をしないのか?”との問いが寄せられた。

”織田信長“が“将軍・足利義昭”を追放した後も“上杉謙信”と“織田信長”の友好関係は維持されていたが、両者の通交関係を解消させようとする外部からの動きもあり関係は揺らぎつつあった時期でもあった。“上杉謙信“からの問に”織田信長“は以下の様な言い訳をした事が”上越市史“に記録されている。

畿内や江北・越前(浅井・朝倉や一向一揆討伐を指す)への対応で忙しかった。大坂本願寺は畿内の(織田信長方の)軍勢に任せ、自身は近江・美濃・尾張・伊勢・三河・遠江の軍勢を率いて1574年(天正2年)9月上旬に“武田勝頼”を攻撃する

“織田信長”はこう伝える事で“上杉謙信”の“武田勝頼”に対する“織田信長”の対応への不満に応えた事が分かっている。

しかし、史実展開は“織田信長”は1574年(天正2年)7月14日~9月29日の“第3次長島一向一揆殲滅戦”を戦っており、又“上杉謙信”も1571年(元亀2年)に“越相同盟“が破棄され、関東で勢力を拡大する“北条氏政”(生:1538年/1539年?・没:1590年)と“利根川”で対陣する等、双方共に余裕が無く、上記“織田信長”が“上杉謙信”に約束した1574年(天正2年)9月上旬の“武田勝頼攻撃”は実行されなかった。

38-(1)-③:“武田勝頼”が“長篠城”を包囲する

1575年(天正3年)4月中旬:

1575年(天正3年)3月に“織田信長”は“大坂本願寺”攻撃の為に出兵し“本願寺包囲網”を完成させたが“織田信長”10万の軍勢は“本願寺”と戦闘を交える事無く、近辺の作物を刈り取っただけで引き揚げている。“信長の天下布武への道”の著者“谷口克広”氏は”野を埋め尽くすような大軍を本願寺に見せて、その度肝を抜くのが主眼、雑賀衆等本願寺の兵に対する無言の威嚇であった“と解説している。

こうした“織田信長”軍の動きに乗じて“武田勝頼”は4月中旬“徳川家康領”の“三河国”に出兵した。

1575年(天正3年)5月1日:

“織田信長”は“第二次高屋城の戦い”(1575年4月8日~4月19日)に勝利し“三好康長”を降伏、開城させ、抑えとして“荒木村重”と“高山右近”を残し4月28日に“岐阜“に帰国していた。帰国は“武田勝頼“との”長篠の戦い“の準備の為もあったとされるが”武田勝頼“軍は早くも5月1日に”長篠城“を包囲し”徳川家康“との決戦に挑んでいたのである。

38-(1)-④:“長篠城”を守るのは“奥平信昌”以下僅か500兵であった

“奥平信昌”(初名奥平貞昌・NHK大河ドラマ/どうする家康/では俳優・タレントの白洲迅が演じている・生:1555年・没:1615年)は“武田”氏に仕える武将であった。しかし調略によって“徳川”方と成った。彼は1573年(元亀4年)4月12日に病死した“武田信玄”の情報を“徳川家康”に知らせた人物とされる。この“奥平信昌”の寝返りに対して“武田勝頼”は人質として預かっていた“奥平信昌”の当時16歳だったと伝わる“前妻・おふう“並びに”奥平信昌“の弟で当時13歳の”奥平仙丸“(仙千代)“他1人,計3人を1573年9月21日に処刑している。

尚、上記で“おふう”が“奥平信昌”の前妻と書かれるのは“徳川家康”の長女“亀姫”と“奥平信昌”は“長篠の戦い”の後“政略結婚”をしている。この為“奥平信昌”は妻“おふう“を離縁したとの話が伝わる為である。

こうした背景がある事から”奥平信昌“にとって”武田勝頼“は憎んでも余りある存在だった。“徳川家康”は“武田勝頼”に恨み骨髄の感情を抱く“奥平信昌”を対“武田勝頼”の最前線である“長篠城”に配置したと伝わる。“徳川家康”の思惑は当たり“武田勝頼”としては忽ちの中に攻略し、次なる“三河国“への侵攻の拠点にしようと考えていた僅か500の城兵が守る“長篠城”ではあったが“奥平信昌”軍は圧倒的な”武田勝頼“軍の攻撃を耐え抜き“徳川家康軍”5000~6000兵、更には主力の“織田信長軍”を合わせて35,000兵の支援の大軍が到着する迄“武田勝頼”軍との戦に耐え抜いたのである。

別掲図に示す様に周囲を“大野川”と“寒狭川”に囲まれるという“長篠城”の立地条件もこうした防衛戦を可能とさせた。

38-(1)-⑤:“長篠の戦い”に“鉄砲”を重視した“織田信長”

1575年(天正3年)5月13日:“織田信長”が岐阜を出発

自軍の5000~6000の兵力では“長篠城救援”は難しいと判断した“徳川家康”は5月初めに“岐阜城”にいる“織田信長”に援軍の派遣を依頼している。

“同盟”する“徳川家康”方を“武田勝頼”との“長篠の戦い”で見捨てる事は“織田領〝自体の危機に繋がると考え、又”高天神城“を落城させた事で武名を挙げた敵将”武田勝頼“を強敵と考えた”織田信長“は3万の兵力を整え、支援に臨む決断をした。(徳川家康軍5000~6000兵と合わせて総兵力35,000兵となる)

“織田信長”が“長篠の戦い”で鉄砲を重視した事は“細川藤孝”に鉄砲の射手や玉薬の準備を命じた“織田信長文書の研究”からも確認出来る。ただ鉄砲の数に就いては“信長公記”の諸本で異同があり1000挺説、3000挺説もあり、はっきりしない。しかし“織田信長”が“鉄砲”を今回の戦闘で重視した事は、出陣する前に“大和国・筒井順慶”そして“山城国・細川藤孝“等、従軍しない武将達にも鉄砲を供出させた事が”多聞院日記・細川家文書“の記録にあり、裏付けされている。

1575年5月14日:

“織田信長”軍が岡崎に着陣した時“奥平家”の家臣で足軽の“鳥居強右衛門”(とりいすねえもん・生:1540年・没:1575年5月16日/5月17日説も)が“長篠城”からの“伝令”として遣わされて来た。そして一刻も早く“織田救援軍”の進軍を危機に瀕している“長篠城”の城兵達に伝えたいと彼は挨拶もそこそこに再び“長篠城”に戻って行ったのである。

しかし乍ら不運にも“鳥居強右衛門”は“長篠城”に戻る直前に“武田”軍に捕らえられてしまった。“武田”軍は”長篠城“の戦意を失わせるべく“鳥居強右衛門”に“織田軍は来ない、早く城を開け渡した方が良い“と言わせようとした。しかし“鳥居強右衛門”は
信長公は岡崎まで御出馬あるぞ。城堅固に持ちたまえ!!と叫んだ。城内に喜びの声が上る中“鳥居強右衛門”はその場で“武田”勢の槍に刺し貫かれて死んだのである。後にこの話を聞いた“織田信長”は感銘を受け“鳥居強右衛門”の忠義心に報いる為、立派な墓を建立させたと伝えられる。子孫は栄え、織田家中で厚遇され家老になったと伝わる。“日本一有名な足軽“として知られる人物である。

38-(1)-⑥:“織田信長連合軍“の戦略・戦術を読み切れなかった”武田勝頼“

1575年(天正3年)5月18日~20日:

“織田信長”は5月13日に“長篠城救援”に“岐阜城”から出陣、5月14日に岡崎に着陣し、5月18日に“長篠城”から6km西方の“設楽郡・極楽寺山”に陣を張った。別掲図“長篠・設楽原の戦い図“を参照願いたい。③が”織田信長“の“設楽郡・極楽寺山”の陣であり④が“徳川家康・滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀が“連子川“の前に陣を構えた地点を示している。陣の前には“土塁”が築かれ、更にその前には図に示す様に“馬防柵”が立てられた。

この構えは明らかに積極的に“武田勝頼”軍に攻撃を仕掛けるものでは無く、ひたすら相手の攻撃を防ごうとする態勢である。これに対して“武田勝頼”が家臣に宛てて1575年(天正3年)5月20日付、つまり戦闘開始の前日に書いた文書が残っている。

信長と家康は、長篠城の“後巻”(うしろまき=うしろづめ・味方を攻撃しようとする敵に対して、更にその背後から取り巻く事)として出張(戦陣用語=戦いの為に陣地を他の場所に向ける事)して来た。何事も無く退陣しているところだ。敵は何をする術も無く、苦しんでいる様子だからひたすらその陣を攻撃して打ち破る事は目に見えている。

“武田勝頼”軍は15000程の兵力“織田信長”連合軍は35,000程の兵力である。上記“武田勝頼“の言葉は劣勢な状況下で不安に駆られている味方を鼓舞する意図があったかも知れないが、兵力に勝る“織田信長連合軍”が何故ひたすら守勢体制を保っているのか、この戦略、戦術を読むことが出来なかった事を証明している。

38-(1)-⑦:“設楽原“で始まった戦闘

1575年(天正3年)5月20日:

上記“文書”を送ったと同じ5月20日に“武田勝頼”は本陣とした“医王寺”(別掲図・長篠・設楽原の戦い図の①)を動き、6km程西方の“連子川”を挟んで“織田信長連合軍”と向き合う陣形をとった。別掲図で見る両軍の距離は500mあるか無いかであり、まさに一触即発の状態と成った。

一方“織田信長”軍は“長篠城“の南”鳶ケ巣山砦“への奇襲作戦を”徳川家康“の家臣“酒井忠次”(徳川四天王の一人・2023年NHK大河ドラマ“どうする家康”では俳優・大森南朋氏が演じている・生:1527年・没:1596年)に命じている。(同上図⑤)“酒井忠次”軍は“織田信長”の馬廻りと鉄砲500挺を具備し、夜陰の中“鳶ケ巣山砦”に迫った。この作戦は大きな効果を生む事に成り、この作戦を提案した“酒井忠次”は後に“徳川家康・第一の功臣“とされ”徳川四天王“の一人と成るのである。

尚、この”鳶ケ巣山砦奇襲作戦“に関しては以下の様な逸話が”常山紀談“(江戸時代中期に成立した逸話集:著者は荻生徂徠学派の儒者・湯浅常山・生:1708年・没:1781年)に載っている。”織田信長“のリーダーとしての優れた一面を伝える話である。

酒井忠次が“鳶ケ巣山砦”奇襲作戦を提案すると“織田信長”は“その様な小細工は用いるにあらず”と頭ごなしに罵倒し、問答無用で却下した。しかし“軍議”終了後“織田信長”は“酒井忠次”を密かに呼びつけ“そなたの発案は理にかなった最善の作戦だ”と褒めたたえ直ちに作戦を実行する様、命じたという。作戦情報が“武田軍”に漏れる可能性を恐れて、軍議の場でわざと彼の発案を却下した理由を“酒井忠次”に伝えたのである。

1575年(天正3年)5月21日:

日の出と共に“武田勝頼”軍の第一陣が攻撃に出た。(信長公記・松平記・大須賀記)“武田信玄”の時代から武勇で鳴らした“山県昌景”(やまがたまさかげ・譜代家老衆・武田勝頼との折り合いは悪く疎まれたとされる・生:1515年/1529年説・没:1575年5月21日)軍である。

“織田信長連合軍”は直ぐには対抗する軍兵を出さず柵(馬防柵)“と土塁に籠ったまゝだった。ところが“山県昌景”隊が近づいたところで“柵内”から鉄砲が一斉射撃を行ったのである。大勢の敵兵が弾を受けて野に転がった。“山県昌景”隊は“柵(馬防柵)“へも辿り着く事も出来ずに這う這うの体で引き返した。

“織田信長”はこの戦いの為に1,000挺を越す鉄砲(3000挺との説がある。設楽原の戦場碑には3000挺の鉄砲轟く天正三年五月二十一日・・と刻まれている)を用意していた。鉄砲を持った足軽が馬防柵内に並び、鉄砲奉行の合図を待つ。“武田勝頼”軍が射程距離内まで来たところで“佐々成政・前田利家”等、臨時に任命された“鉄砲奉行”の合図で“鉄砲”が一斉に火を吹いたのである。

鉄砲の為、なすところなく退いた“山県昌景”隊に代わって、二番手として突進したのが“武田信廉”(たけだのぶかど・武田信玄の弟・生:1532年/1528年説もあり・没:1582年3月)隊であった。しかし“武田信廉”隊も鉄砲にさんざん撃たれて退いた。三番手は“西上野”の“小幡党”四番手は“武田信玄”の甥“武田信豊”(生:1549年・没:1582年3月)五番手は“馬場信春”(武田四天王の一人・生:1515年・没:1575年5月21日)であった。

この様に“武田”軍は何度も入れ替わりながら“織田信長・連合軍”に押し寄せたが次第に兵数は減って行った。上記武将の中、一番手で攻撃した“山県昌景”並びに五番手で攻撃した“馬場信春”は討ち死にした。

その他“内藤昌豊”(武田四天王の一人・生:1522年・没:1575年5月21日)“土屋昌次/続”(生:1545年?・没:1575年5月21日)も戦死した。“真田幸村”の伯父の“真田信綱”(生:1537年・没:1575年5月21日)は“武田信玄・勝頼”の2代に仕えた武将だが “織田信長”軍の三重柵の二重柵までをなぎ倒して“織田信長”軍に迫った。しかし“一斉射撃”を受けて戦死した。この様に“武田勝頼”軍は諸国に聞こえた猛将の多くをこの戦いで失ったのである。

戦いは午前6時(卯刻)に始まり、午後2時(未刻)に“武田勝頼”の逃亡によって終わったとされる。“武田勝頼”軍の数度に亘る突撃を“織田信長連合軍”の鉄砲乱射で大勢を決した“長篠・設楽原の戦い”として知られる戦闘であった。

多くの将兵が“鉄砲の餌食”に成る中、なぜ“武田勝頼”は何度も突撃を繰り返したのか?それは別掲図の⑤地点を“酒井忠次”が奇襲で占領した事によるとされる。“武田勝頼”軍としては背後の“鳶ケ巣山”が午前8時(辰刻)に奇襲に拠って、しかも500挺もの鉄砲で撃ち立てられ、あっけなく砦を占領されたのである。その事を知った“武田勝頼”は腹背に敵を抱える戦況に“突撃”によって“織田信長連合軍”を蹴散らすしか選択肢が無かったという状況だったと伝わる。

完敗を悟った“武田勝頼”が這う這うの体で戦場を脱した時には味方は僅か数人の騎馬武者が従うという惨憺たる状態だった。


以下は“信長公記”が伝える戦闘の要約である。

①:“織田信長”軍は損害を避ける為“長篠の戦い”には、弓、鉄砲隊を多く編成した。 織田軍・徳川軍、合わせて4000人の別動隊を“鳶の巣山”(とびのすやま・愛知県新城市乗本神出)の“武田勝頼”軍に向けさせ“長篠城”の自軍と合流させて“武田軍”を前後から挟み撃ちにする戦法をとった

②:“武田勝頼“軍は”織田軍”の後詰への攻撃を行った。これに対し“織田信長”軍は “馬防柵”に籠って鉄砲で応戦する戦法をとった。次々と押し寄せた“武田勢”であったが“織田軍”の戦法を攻めあぐね、撤退を強いられたのである

③:数時間後、撤退する“武田勝頼”を“織田・徳川”軍は追撃した。“武田勝頼”軍は 大損害を被り“織田・徳川”軍の勝利が決した


38-(2):“長篠・設楽ケ原の戦い“の纏め

年月日:1575年(天正3年)5月21日
場所:“三河国・長篠城“並びに”設楽ケ原“
結果:織田信長・徳川家康連合軍の圧勝

【交戦戦力】
織田信長・徳川家康連合軍

【指導者・指揮官】
織田信長
徳川家康

戦力:38,000兵~72,000兵(諸説あり)

損害:6000兵程度(逃亡兵含む)

【交戦戦力】
武田勝頼軍

【指導者・指揮官】
武田勝頼


戦力:15,000兵~25,000兵(諸説あり)

損害:10,000兵~12,000兵(諸説あり)


38-(3):“長篠・設楽ケ原の戦い“に関する史跡訪問記

訪問日:2023年(令和5年)4月19日(水)
住所:関連史跡訪問の中心となる“長篠城址史跡保存館”の住所愛知県新城市長篠市場22番地―1

交通:
名古屋駅で友人と合流し新幹線の“太閤口”から出て新幹線の線路を右に見ながら6~7分程歩き“トヨタレンタカー太閤口営業所”に向かった。そこでプリウスを借り“長篠城址史跡保存館”にナビをSETして出発した。

東名高速道を通って豊川ICで降り、国道151号線を新城方面に向かって走った。トヨタレンタカーの営業所を朝8時半頃に出発し、途中旅程打合せと朝食を兼ねて40分程PAで休憩をした。新城市の長篠にある史跡地に到着したのは午前10時半頃であった。

=訪問記=

長篠城の歴史:
1508年に今川氏の家臣で奥三河の土豪の“菅沼元成”が築城、今川氏の支配下にあった城だが1560年に“桶狭間の合戦”で今川義元が討たれて以降、1564年に徳川家康が支配下に置いた。しかし1572年(元亀3年)に“武田信玄”が支配下とし、徳川領侵攻の拠点としている。1573年4月に“武田信玄”が病死すると“徳川家康”は同年8月に“長篠城”を奪還している。この時“奥平貞昌“は武田方から”徳川方“に寝返っている。“長篠設楽原合戦“の攻防に就いては文中詳細に紹介したので参照されたい。この“長篠の戦い”の後“長篠城城主”であった“奥平貞昌”(NHK大河ドラマ/どうする家康/では俳優の白洲迅が演じている・生:1555年・没:1615年)は功績を認められ”織田信長“から偏諱を与えられ”奥平信昌“に改名したと伝わる。”長篠設楽ケ原合戦“に勝利した後”奥平信昌“は翌1576年に”新城城“を築城した。この事を以て”長篠城“は廃城とされた。
関連史跡訪問記:
周囲には関連史跡が多く、我々は“長篠城祉“訪問から史跡探訪を開始、長篠城址史跡保存館をゆっくりと見学、終えて豊川(上流部は寒狭川と呼ぶ)を挟んで対岸にある”鳥居強右衛門〝(とりいすねえもん・奥平家の足軽・NHK大河ドラマ/どうする家康/では俳優でシンガーソングライターの岡崎体育氏が演じている・生:1540年・没:1575年5月16日/17日)が磔死した史蹟を訪問し、その後、車で3km程西方にある”設楽ケ原”地区の“馬防柵”が立ち並ぶ史跡を訪ねた。

その様子は写真を載せたので参照願いたい。最後に“馬防柵”の近くにある“設楽ケ原歴史資料館”を訪ねた。ここに“徳川家康”が“奥平信昌”に“長篠・設楽原の戦い”(1575年5月)の翌年、1576年に嫁がせた長女“亀姫”(生:1560年・没:1625年)に宛てた書状が陳列されていた。“亀姫”は現在NHK大河ドラマ“どうする家康”で女優“有村架純”が演じる“徳川家康”の正室“瀬名姫”(=築山殿・生:1542年・没:1579年)の長女である。同番組では“亀姫”役を“當真あみ”が演じている。同書状には父親としての“徳川家康”の娘への想いが溢れた内容だとの解説が付けられている。
(写真参照)

以上の史跡見学に2時間以上掛かった。当日我々は“三河一向一揆”の舞台“本證寺”(愛知県安城市)そして“桶狭間古戦場跡”(愛知県名古屋市)更には“清州城”(愛知県清州市)最後に“小牧・長久手の戦い”で“徳川家康”が本陣を置いたという“小牧城”(愛知県小牧市)史跡訪問までを予定していたので昼食をとる時間も無い強硬スケジュールであった。レンタカーを返した時点で1日の走行距離は260kmを超えていた。


39:“織田信長”は1574年~1575年の1年半の間に5連戦を戦った。その最後の戦闘が“越前一向一揆殲滅戦”であった

“加賀国“が1474年(文明6年)~1580年(天正8年)の100年以上に亘って”一揆持ちの国“になった経緯等に就いては既述の通りである。(6-18項参照方)西隣の”越前国“では1573年(天正元年)8月に”朝倉義景“が”織田信長“に滅ぼされた後は”織田信長“の勢力下に成っていた。

39-(1):朝倉旧家臣同士の争いが起き“富田長繁”が“桂田長俊”(=前波吉継)を滅ぼし“越前国”を一時的に実効支配した

1573年8月に“朝倉義景”が“織田信長”に滅ぼされると“越前国”は“織田信長”の勢力下に置かれたが“越前国”侵攻への功績に拠って“前波吉継”(まえばよしつぐ・朝倉義景から織田信長に寝返り朝倉攻めでは越前案内役を務め、朝倉氏滅亡に一役買った・後に桂田長俊に改名・生:1524年・没:1574年1月19日)が“越前国”の“守護代”に任命された。そして、彼は“織田信長”から一字“長”を貰い“桂田長俊”に改名し“越前国”の行政・軍事を任されるという大出世を遂げたのである。

“朝倉家”の中で特に重臣でもなかった“桂田長俊”が大出世をした事に他の“旧朝倉家臣”達の中には快く思わない者達が多く居た。“村田長俊”は“朝倉家臣”時代に同格であった者達に対し“無礼・尊大”な態度で接した。その為多くの敵を作った。取り分け“朝倉家臣”の時から“犬猿の仲“であった“富田長繁”(とだながしげ・生:1551年・没:1574年2月18日)との対立は激しさを増して行き“村田長俊”のラッキーだった期間は崩れて行く。

“富田長繁”も当初は“朝倉義景”に仕えた旧朝倉家臣だった。彼も“織田信長”と“朝倉義景”との戦闘が開始されると1572年8月に早々と“織田信長”軍に寝返り、1年後に“越前国”の“府中領主”に任じられた。

しかしこの地位は同じ旧朝倉家臣の“桂田長俊”が“越前国”の“守護代”に任命された事と比べると大不満であり、自分より厚遇を受けている“村田長俊”を妬み、激しい対立姿勢を露わにし、遂には敵視する様になったのである。

記録には“桂田長俊”の政治は“暴政”で国人、並びに民衆の不満は頂点に達していたとある。

1573年(天正元年)12月14日:

“富田長繁”は“桂田長俊”に反感、不満を持つ人達を募り、密かに会合を持ち“越前国守護代・桂田長俊”を貶めるべく“越前国内”で一揆扇動の策を廻らし“軍事行動”を起こすに至った。

1574年(天正2年)1月18日~1月20日:

遂に“富田長繁”は“越前国守護代・桂田長俊”の悪政に不満を持つ民衆を扇動し、大規模な“土一揆”を引き起こした。(1月18日)この一揆は総勢33,000人にまで膨らむ大規模なものと成り“富田長繁”は自らを大将としてこの“土一揆勢”を率いた。そして南北から“一乗谷城”に侵攻した。

この時“城主・桂田長俊“は失明していたと伝わる。その為”土一揆“に対して指揮を執る事が出来ず、さしたる抵抗も出来ないまま討ち取られた。(1月19日)”富田長繁“は“越前国守護代・桂田長俊”を殺害した後、更に、翌1月20日には“三万谷“に逃げていた” 桂田長俊”の家族も捕縛し、悉く殺害したと伝わる。

1574年(天正2年)1月24日~1月25日:

“富田長繁“はそれだけにとどまらず “旧朝倉家臣”であった“魚住景固”(うおずみかげかた・生:1528年・没:1574年1月24日)を警戒し“魚住景固”そして、次男の“魚住彦四郎”を“ 桂田長俊成敗の宴を開く”と騙して“龍門寺城”に招き、その席で二人を謀殺した。(24日)そして翌25日には“魚住氏”の居城“鳥羽野城”に攻め込み“魚住一族”を滅ぼしたのである。

こうした策謀の結果“越前国”は一時的にではあるが“富田長繁”が実効支配し“織田家”の支配力が及ばない状態と成った。しかし“仁者”として領民に慕われていた“魚住景固”を討った事で“富田長繁”は“土一揆衆”の不信感を招くと共に“旧朝倉家臣”の武将達からも、徐々に孤立して行った。更に“富田長繁”は“織田信長”に自らの“越前国・守護職”への任命を要求し、それとの引き換えに実弟を人質に出すという行動に出た。流石にこうした度重なる策謀に“土一揆衆”が“富田長繁”と手を切る決断に至った。(越州軍記)

39-(2):“富田長繁”が“本願寺門徒”によって滅ぼされ“越前国”も“一揆持の国”と成る

“富田長繁”と手を切る決断を下した“土一揆衆”は代わる大将に“加賀国”から“一向衆”の“七里頼周”を呼び、担ぎ上げた。こうして“越前国”は“富田長繁”率いる“土一揆”から“顕如”の坊官で“加州大将”と呼ばれていた“七里頼周”(しちりよりちか・生:1517年・没:1576年?)が率いる“一向一揆衆”へと変わった。

この人事に拠って“越前国”は“土一揆”から、相当数の“浄土真宗本願寺教団門徒”から成る“一向一揆”に変貌する。以下にその経緯を詳述する。

1574年(天正2年)2月13日~2月17日:

“七里頼周”が率いる“一向一揆”勢は“富田長繁”の家臣“増井甚内助・毛屋猪助”を攻撃し滅ぼした。(2月13日)しかし“富田長繁”は反撃に出て“一向一揆勢”30,000兵を敗走させた。(2月16日)

その後も“富田長繁”軍の反抗は続き、府中の町衆や“一向衆”と対立する“真宗高田派”(専修寺派)並びに“真宗山門徒派“等と結び”北ノ庄城“の奪取を狙って北上した。そして“七里頼周・杉浦玄任”率いる“一向一揆勢”50,000兵と“浅水”の辺りで激戦と成ったのである。

“富田長繁”勢は“七里頼周・杉浦玄任”率いる“一向一揆勢”より兵力では圧倒的に劣勢であったが“越州軍記”には“浅水の合戦”で“富田長繁”勢が奮戦し“一向一揆勢”を散々に打ち破ったと書かれている。

1574年(天正2年)2月18日:

”七里頼周“を大将とする”一向一揆勢“との合戦が重なった“富田長繁”軍は疲弊していた。しかし尚も“富田長繁”は“総攻撃”の下知を出し続けた。この様に、無謀とも言える戦闘継続を強要した“富田長繁”に対する配下の不満と不信が高まっていた。

2月18日の早朝からの合戦の最中“富田長繁”は配下の“小林吉隆”(朝倉氏家臣・生没年不詳)に裏切られ、背後から鉄砲で撃たれて討ち死した。これに拠って呆気なく“富田長繁”軍は瓦解し、この結果“越前国”は“顕如”の坊官“七里頼周”率いる“一向一揆の国”と成ったのである。

39-(2)―①:“七里頼周”率いる“一向一揆”は尚も“織田方”を攻め落し“越前国”を支配する

1574年(天正2年)4月14日:

4月に入ると“一向一揆勢”の攻撃は勢いを増し“織田信長”方の“土橋信鏡”(つちはしのぶあきら・朝倉義景の従弟説がある・朝倉義景を自害に追い込んだ陰湿な人物として朝倉始末記では描かれている事は既述の通りである。又、彼は、織田信長の家臣となり朝倉景鏡から“土橋信鏡”に改名した事も既述の通りである/あさくらかげあきら/・生:1525年・没:1574年4月14日)を標的とする様に成った。“土橋信鏡”は“平泉寺”に籠って戦ったものの、劣勢と成り、最期は僅か3騎で敵中に突入し戦死した。

1574年(天正2年)5月:

“七里頼周”率いる“越前一向一揆”は更に勢いを増し“旧朝倉家臣”で“織田城”城主の“織田景綱”(朝倉景綱から改名・生没年不詳)を攻めた。“織田景綱”は“織田城”の兵を見捨てて妻子のみを引き連れ海路“敦賀郡”へ落ち延びた。その後の消息は不明とされる。

かくして“旧朝倉家臣団”は“一向一揆”側に付いた“安居景健”(=朝倉景健・あさくらかげたけ・1573年8月に主君朝倉義景が討たれると織田信長に降伏、安居景健に改名し所領を安堵された・生年不詳・没:1575年8月21日)“朝倉景胤“(あさくらかげたね・生年不詳・没:1575年8月)等、一部を除き悉く滅ぼされた。

この様にして“越前国”一国は“七里頼周”率いる“一向一揆勢力“が”旧朝倉家臣団“を滅ぼす結果と成った。“本願寺・顕如”は更に“越前国・守護”として“下間頼照”(しもつまらいしょう・生:1516年・没:1575年)を派遣した。この結果“一向一揆”が支配する“越前国”の“守護”は“下間頼照”そして“府中郡司”に“七里頼周”加えて“大野郡司”には同じく“本願寺坊官”の“杉浦玄任”(すぎうらげんにん・生年不詳・没:1575年)が任じられるという支配体制と成った。

尚“下間氏”は“親鸞”(生:1173年4月1日・没:1263年11月28日)の時代から“本願寺“に仕えた一族で“顕如”(生:1543年1月7日・没:1592年11月24日)の時期には“一向一揆”の総大将として派遣された事が記録されている。かくして“越前国”も“北東隣国の”加賀国“に続いて”百姓の持ちたる国“(一揆持の国)として支配体制を整えたのである。

39-(3):“長島一向一揆殲滅”そして“長篠・設楽原の戦い”に大勝し東方の脅威を減じた“織田信長”は愈々“越前一向一揆討伐”に乗り出す

“織田信長”は既述の様に“長島一向一揆”を1574年(天正2年)9月に制圧し、翌1575年(天正3年)5月の“長篠・設楽原の戦い”で最も大敵と目していた“武田勝頼”軍に大勝し“東方”の脅威を減じた。そして“一揆持の国”としての支配体制を整えた“越前国”の討伐に取り掛かったのである。

39-(3)―①:“下間頼照・七里頼周”の悪政の為、内部から崩壊し始めた“一揆持の国”(=百姓の持ちたる国)・・越前国

“石山本願寺”から派遣された“下間頼照”並びに“七里頼周”等“坊官”の政治は“越前国“の豪族や寺社勢力、更には領民の期待に沿うような善政ではなかった。私利私欲を満たす為“織田信長”軍との臨戦体制下であるとの大義名分を掲げたその政治は“悪政”を理由に“富田長繁”に討たれた“越前国守護代・桂田長俊”時代の政治より、更に重税や賦役を課す政治だったのである。

“下間頼照”並びに“七里頼周”等の統治に不満を抱いた人達が“一揆内一揆”を起こし“越前国一向一揆”体制は内部から崩壊し始めた。こうした“越前国”の状況に“東方の脅威”(=長島一向一揆、並びに武田勝頼)を減じた“織田信長”が動き出した。

39-(3)―②:両軍の開戦時の兵力

1575年(天正3年)8月12日:

“織田信長”は領国の全域で今後の戦闘に備えて道路や橋を整備していた。そして上記した“越前国”の“一向一揆体制”が内部分裂を起こした事をチャンス到来と捉え“越前侵攻”を決断し“岐阜城”を出陣した。

1575年(天正3年)8月13日~8月14日:

“織田信長”は“羽柴秀吉“が守る”小谷城“に宿泊し”小谷城“から全軍に兵糧を配り、(8月13日)そして翌8月14日“敦賀城”に入った。

この“越前国侵攻”には“織田信長”軍の殆どの武将が動員された。“信長公記”には武将達の軍が30,000兵余り、その他に“織田信長”の本陣が10,000兵余りとある。その他“美濃国・郡上郡“からは別動隊が、そして海上からは”若狭国・丹後国“の水軍100艘が進んだとある。“織田信長”軍の総兵力は50,000兵を越す大軍と成った。

対する“越前一向一揆“側の兵力は不明とされるが、この戦いでの戦死者が12,300程とあるから“越前一向一揆“側も相当な数の兵力であったと思われる。”木ノ芽城・鉢伏城“に2000~3000の兵を入れ、又、その周囲の“虎杖城(いたどりじょう=板取城)・杉津砦(すいずとりで)河野丸砦・大良城・今庄城・河野城“を固めたとの記録がある。

39-(4):“織田信長”の“越前一向一揆殲滅戦”が開始される

1575年(天正3年)8月15日:

上記した“織田信長”軍の武将達から成る30,000余りの軍勢は、柴田勝家、佐久間信盛、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀等の言わば“オールスター”軍勢が“敦賀”を出発した。各軍勢は下記の様に“一向一揆”側の砦、城を攻撃して進軍した事が伝わる。

柴田・佐久間軍:北陸道を進んで“木ノ芽城“以下の要塞をあっさり落した

羽柴・明智軍:海岸沿に進み“杉津砦”(すいずとりで)と“河野丸砦”を攻め、これもあっさりと落した。更に進軍し“大良城・河野城”も落し“府中”の町に突入“府中龍門寺城”を落し“府中”を占領した

若狭・丹後の水軍:“河野城”を攻撃

“一向一揆勢“は“杉津砦”並びに“河野丸砦”を瞬時に落され戦意を喪失し“府中”を目指して逃げ出したが“府中”は“羽柴秀吉・明智光秀”軍に既に占領されていた。“泉文書”に“織田信長”が京都留守居役の“村井貞勝”(織田政権下の京都所司代・京都に関する行政の全てを任された・二条新御所普請の責任者・本能寺の変の時は本能寺の向かいの自邸に居り、織田信忠の宿所の妙覚寺に駆け込み織田信忠と共に二条新御所へ移動し討ち死にしている・生年不詳・没:1582年6月2日)に伝えた戦果に拠れば以下の様に“越前国・一向一揆”が殲滅された状況が分かる。

案のごとく五百・三百づつ逃げかかり候を、府中町にて千五百ほど、くびをきり、そのほか近辺にて都合二千余きりそうろう

更に“織田信長”は“府中”に自ら入り、その凄惨たる光景を同じく“村井貞勝”に伝えている。

府中の町は死骸ばかりにて一円あき所なく候。見せたく候

“織田信長”軍の殲滅戦はまだまだ続いた。四手に分かれて山々そして谷々を捜索し“一向一揆”の者達を見付け次第首を刎ねた(はねる=刀で首を切り落とす)という。

1575年8月17日:2000余の首が本陣に到着
    8月18日:方々から500~600の首が持ち込まれた
   15日~19日:捕らえられ首を斬られた一揆衆・・12,250人
    8月29日:未だ一揆衆の捜索が続けられた

これ等を総括して“越前一向一揆衆殲滅”作戦で殺害された数は“信長公記”の表現にある“生捕と誅させられたる分、合わせて三、四万にも及ぶべく候か”が、あながち大袈裟な表現だとは思われない程の殺戮が為されたのである。

言うまでも無く“下間頼照”等“越前一向一揆”の首魁(しゅかい=首謀者)達は悉く殺された。しかし“七里頼周”(生:1517年?・没:1576年?)と“若林長門”(小松城の築城主とされる・1576年築城?・生没年不詳)は“加賀国“に逃れ執拗に”織田信長“への反抗を続けた。

39-(5):“越前一向一揆殲滅戦”の纏め

年月日:1575年(天正3年)8月15日~8月末
場所:越前国(福井県の一部)
結果:織田信長軍の勝利

【交戦戦力】
織田信長軍

【指導者・指揮官】
織田信長



戦力:
① 織田信長本陣・・10,000兵
② 武将達の兵・・・30,000余兵
③ 水軍、その他・・約10,000兵
総兵力     ・・50,000余

損害:不明

【交戦戦力】
越前一向一揆衆

【指導者・指揮官】
下間頼照
七里頼周
朝倉景健等

戦力: 不明





損害:12,250以上


1575年(天正3年)9月23日:

“織田信長”は同年8月末に“越前一向一揆”を殲滅し、その後も凡そ1ケ月間“越前国”に留まった。その理由を“京都留守居役・村井貞勝”への1575年(天正3年)8月22日付けの文書で“越前国の成敗そのほかの儀、確かに申し付くべきため逗留候”と伝えている。

“織田信長”は“朝倉義景”討伐後、既述の経緯で一度は“一揆持の国”(百姓の持ちたる国)と成ってしまった“越前国”を自分の分国として作り替える事に着手した。そして、譜代の武将達を“越前国”に分封(封地を分け与える)し、以下の様な新しい支配体制を整えたのである。

越前国八郡:柴田勝家
府中近辺二郡(今南西・南条郡?):佐々成政・前田利家・不破光治
大野郡:金森長近(三分の二)原政茂(三分の一)
敦賀郡:武藤舜秀

40:何故“織田信長”軍は他の戦国大名と比較して抜きん出た軍事力を発揮出来たのか

“織田信長”軍は、この1年半程の間を見ただけでも、休む事無く、実に5連戦を戦い抜き、しかも勝利するという、他の戦国大名と比較して、抜きん出た軍事力を発揮した。この理由に就いては、下記の様に分析されている。

40-(1):“鉄砲“の導入で”兵農分離“(プロのサラリーマン武士)に拠る軍隊を編成し、“経済力こそが軍事の原動力“と考え、実践した事

1575年(天正3年)5月21日の“長篠・設楽原の戦い”で“織田・徳川”連合軍は鉄砲を三段構えにする戦法を用いて、当時最強と言われた“武田軍”の鉄砲隊、騎馬隊を敗った。

戦国時代が終焉を迎えた最大の要因は“鉄砲の伝来という外圧”であったとされる。この外圧に如何対応したかが終焉を迎える“戦国時代”の勝者か敗者かを決めたのである。“織田信長“は完全では無かったが”兵農分離“という考えを持ち”プロのサラリーマン武士“から成る軍勢を持っていた事が他の戦国大名の軍勢に比べて抜きん出た軍事力を発揮した理由の一つとされる。

”織田信長“はその”兵農分離“した”プロのサラリーマン武士“から成る軍勢に”鉄砲“を持たせた。その“鉄砲・火器武器”等を得る為に“堺”を窓口に“南蛮”との付き合いを重要視した。その結果が、日本であまり産出しない“鉄砲”の“弾”に不可欠な”鉛“を大量に輸入する事に繋がったのである。

これに対して”武田勝頼“軍は”鉛“を得る事が難しく”銅銭”を溶かし、しかも加工が難しい“銅製の鉄砲の弾”を作らねばならなかった。“長篠・設楽ケ原の戦い”の際の“武田軍”の鉄砲隊と“織田・徳川”連合軍の鉄砲隊を比較すると、鉄砲の数も“織田・徳川連合軍”の3000挺に比べて“武田勝頼”軍は1000挺と3分の1だった事が知られる。更に“鉄砲の弾数”に就いては“武田勝頼”軍のそれは“織田・徳川”連合軍の10分の1しか無かったとされ、戦闘中に“武田軍”の鉄砲隊は“弾切れ”状態だったと伝わる。

こうした“新しい変化”に積極的であったか否かが“戦国時代終焉期”の勝者か敗者かを分けた。

軍事力強化には“経済力”が必須と考えた“織田信長”は”将軍・足利義昭“が”副将軍“として待遇しようとした事を拒否し、代わりに”堺“を要求した事は既述の通りである。”織田信長“は”“鉄砲”が何故、圧倒的に有利な武器であるかを、単に“火力”としての優位性だけでなく、兵に与える精神面の優位さも理解し、見抜いていたのである。

“農民”が戦う場合、武器としての“刀”よりは“槍”の方が活かされた。兵士にとって“槍”の方が恐怖心が薄らぐからである。更に“弓”は“槍”よりも恐怖心を減ずるという利点があった。しかし、いかんせん“弓”は扱いが難しかった。そうした状況下で鉄砲が現れたのである。

鉄砲は“刀”や“槍”に比べて安易に、且つ、大量に人を殺傷する事が可能な武器であった。しかも刀、槍、弓と比べて扱い方に於いても左程難しく無く、且つ、殺傷に対する罪の意識も恐怖心、つまり、精神的負担が“刀・槍・弓”と比べて圧倒的に少ないという利点を持った武器だったのである。これ等の利点を見抜いた“織田信長”にとって“鉄砲”は軍事に大きな変革を与える武器だと確信し、他の大名達と比べて、より積極的に導入したのである。

”織田信長“は大量の鉄砲の導入を行い戦国時代の戦闘方法に以下2点の大きな変革を齎したとされる。

1:“兵種別編成の軍隊”・・これに伴って“兵農分離”へと至る端緒となった
2:“経済力こそが軍事の原動力“である事を”戦国終焉期“の日本に知らしめた

40-(1)―①:上記“兵農別編成の部隊”を作っていた事に就いて

“織田信長”は特定の武将に鉄砲隊の隊長的役割を与えた。バラバラに配置するのではなく鉄砲隊という纏りで戦いをしたのである。

この時点で“織田信長”は、強い軍隊を作る為には“兵種別編成”に加えて“兵農分離”をしてプロの武士を作る(土地から武士を切り離す=兵農分離)という考えを実施した可能性があると考えられている。“サラリーマン武士”の誕生である。

“織田信長”が“桶狭間の戦い”(1560年/永禄3年/5月19日)で勝てた理由として、この時点で既に“プロの武士部隊”を編成出来ていた事が大きいとの説もある。

40-(1)―②:“経済力こそが軍事の原動力“である事を”戦国終焉期“の日本に知らしめた“織田信長”

“長篠・設楽原の戦い”で“織田信長“軍が持っていた鉄砲の数は1000挺と”信長公記“に書かれた。しかしこの数字は上から消され3000挺と書き直されている。まさに戦国時代の勝者となるには”軍事経済“つまり”経済力“と結び付いた”軍事の展開力“が覇者への条件だという事を示唆している。

既述の“鉛”の外にも“黒色火薬”の原料“硝石”も輸入に頼っていた。“織田信長”は“経済力”を増す為の“貿易”の重要性に早くから目を付け“堺”という良好な“港”を手に入れた。港の無い“武田信玄”は良質な馬を生産した事で優秀な騎馬軍団を編成する事は出来たが“鉄砲の伝来という外圧”に“織田信長”程には有効に対応出来なかった。これらの事が両者の大きな軍事力の差となったのである。

40-(1)―③:“戦国武将”への戦功の褒美を“領地”という従来の価値観から“美術品”に変えた“織田信長”

”第3代将軍・足利義満“や”第8代将軍・足利義政“は貴族的世界を生き抜く教養と知恵の為に“文化・美術品”を追求した。”織田信長“も自ら、軍事的実力支配者として“茶の湯“という”文化“に目を付けた点では同じであるが、その価値観を”戦国武将“達に浸透させた上で“戦功”を上げた武将達に、褒美として“茶の湯の道具”を与えるという新しい価値観を創造したという点でも非凡さを発揮した。”第3代将軍・足利義満“や”第8代将軍・足利義政“時代に確立された”文化・美術品“の価値観を”領地“に匹敵する価値に代えたという点でも”革命児“だと言える。

史実として,後に“武田勝頼”を滅ぼした“滝川一益“に”上野国・信濃国“の二郡が与えられた。60万石に匹敵する領地を褒美として得た“滝川一益“ではあったが、彼は領地よりも”村田珠光好みの小茄子の茶入れが欲しかった“との手紙を残している。

”領地“こそが武士達にとって一番大切だった”伝統的・封建社会“に於いて”美術品により多くの価値観を抱く“という”時代の変化“を”織田信長“が先頭に立って起こした事を裏付ける話である。

41:次項へのプロローグ

“織田信長”は記録されているだけでも実に36もの戦闘を戦った戦国武将である。“織田信長”を全国区に押し上げた“桶狭間の戦い”以前に6回、そして“桶狭間の戦い”以後にも実に30回の戦闘を戦ったのである。

上記した様に“織田信長”は他の戦国武将とは異なる視点、考え方を持った“革命児”であった事には誰も異論を挟むことはあるまい。しかし神でない以上“織田信長”にも弱点があった。その代表的な弱点が何度も紹介した“人間関係の不器用さ”であったと言えよう。それを“織田信長・不器用すぎた天下人”の著者“金子拓”氏は“織田信長”が当時、各戦国武将達と“同盟関係”を結んでは裏切られ続けた史実を挙げて彼を“不器用過ぎた天下人”と断じている。

次項6-23項では“上杉謙信”との“同盟関係”そしてその“決裂”並びに“毛利輝元”との“同盟関係”そして“決裂”更には“家臣”であった“松永久秀・荒木村重”にも裏切られた史実にも触れる。

こうした“人間関係の不器用さ”を晒した“織田信長”ではあったが“天下布武”(全国統一)に一歩一歩近づいて行った史実は“織田信長”が既述した他の戦国大名と異なる視点を持ち、抜きん出た行動力、取り分け“軍事力”を発揮し“全国統一”という大事業をほゞ完成しかけた戦国大名であった事であり、誰もその史実を否定出来ない。

“織田信長”という人物の“IQ+EQ+人間力”の総合点は如何であったのかを考える時、彼には“人間関係の不器用さ”という弱点があり、それが最も身近な”家臣の裏切り“を見抜けずに”本能寺の変“で討たれ”全国統一“を果たせずにその生涯を閉じるという結果を招来してしまった、という採点結果と成る。

”戦国時代“を実質的に終息させた”主君・織田信長“が道半ばで成し得なかった”全国統一“という大事業は、家臣の”羽柴秀吉“が継承した。それを集大成し”江戸幕府“に拠る260年に亘る”太平の世”を作り上げたのは“織田信長”との”清州(清須)同盟“を終生守り切った”徳川家康“だったのである。

6-23項以降は更なる歴史展開を記述して行くが、要は“織田信長”の真近で終始共に戦い“織田信長”の“IQ+EQ+人間力”から学んだ二人が“全国統一”という遺志を繋いで行くのである。