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2022年9月28日水曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代と院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
6-21項:織田信長が足利義昭を擁立し畿内統一を果たし彼を将軍に就かせる大事業を為す切っ掛けと成ったのは”永禄の変”であった。そして天下布武をビジョンに掲げ全国統一に突っ走る


1:“永禄の変“・・1565年(永禄8年)5月19日

1-(1):足利将軍家の通字“義”を偏諱として授けられた“三好重存”(後の三好義継)並びに“松永久通”

1565年(永禄8年)5月1日:

“三好重存”(後の三好義継)は“三好長逸”並びに“松永久通”を率いて上洛し“第13代将軍・足利義輝“に出仕した。”将軍・足利義輝”は“三好重存”を”修理大夫“(すりのだいぶ=主に内裏の修理造営をつかさどる職)への任官を約束し”三好氏“を四職家待遇(軍事指揮と京都市中の警察、徴税等を司る侍所の長官で守護大名の赤松・一色・京極・山名の4氏が交代で任じられた)とする事で、幕府を支える役割を期待した。

1-(1)-①:“第13代将軍・足利義輝“が”三好重存(義継)“と”松永久通“二人に与えた偏諱

足利将軍家の“通字”である“義”の偏諱が“三好重存“(当時満16歳)に与えられ”三好義重“と改名、又”松永久通“(当時満22歳)も”松永義久“に改名した。

この事は同じ偏諱授与でも”将軍・足利義輝“の二文字目の”輝“の字を与えられた”伊達氏・上杉氏・毛利氏“を上回る待遇を受けた事を意味した。(雑ゝ聞検書・言継卿記)

1-(2):“永禄の変”の当日の様子・・1565年(永禄8年)5月18日~5月19日

1-(2)-①:偏諱を受けたにも拘わらずその“将軍・足利義輝”を殺害した二人

1565年(永禄8年)5月18日:

“三好義重”(後の三好義継)は“三好長逸”並びに“松永義久”(松永久通)と共に10,000余の大軍を率いて入京“三好義重”(三好義継)は“革堂行願寺“に陣取り”三好長逸”は“知恩寺”そして“松永義久”(松永久通)は“相国寺常徳院”内にあった京都の豪商“大森寿観”の宿所に陣取った。

1-(2)-②:“革堂行願寺”訪問記・・2022年(令和4年)1月23日(日曜日)

住所:京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17
交通機関等:
私は東京駅から新幹線で京都駅下車。同好の友人と合流し、京都市営地下鉄烏丸線に乗り丸太町駅で降り、其処から徒歩で凡そ7~8分程で“革堂行願寺”に着いた。

歴史等:
幾多の戦乱や火災に遭い、1708年(宝永5年・徳川5代将軍綱吉期)に今日の場所に移ったとある。”革堂行願寺”は“行円上人”(生没年不詳)が1004年(寛弘元年・藤原道長、一条天皇の時代)に”一条北辺堂”を復興して”行願寺”と名付けた事に始まる。何故”革堂行願寺”(こうどうぎょうがんじ)と呼ばれるかに就いては、仏門に入る前は狩猟を生業としていた”行円”が身ごもった雌鹿を射たところ腹から小鹿が誕生したのを見て殺生の非を悟って仏門に入り、その雌鹿の革の衣を常に身に付けていた事に由来すると書かれている。その革衣は今日でも保存されているとの事である。
訪問記等:
現在は“西国観音霊場・第19番札所”はじめその他の札所として全国に知られる名刹である事から当日も多くの参詣者が”人の運命を司る北極星の信仰に拠る家の安泰、家族の幸福”を願うお札等を求めて参詣していた。
現在の “革堂行願寺”は写真に示す様に、本堂(1815年建築・徳川幕府第11代将軍・徳川家斉、光格天皇時代・京都市文化財指定)そして、室町時代には上京の町衆の集合のしるしであったと伝わる“鐘楼”(現在のものは1804年建立)さらに”愛染堂”(1816年再建)等は残っているが、極めてコンパクトな寺と成っている。

写真上左:“西国観音霊場・第19番札所”で知られる”革堂行願寺”
同中:棟札で築年が1815年だと確認され、京都市文化財に1984年に指定された本堂
同右:“行願寺“の門札
写真下左:“革堂(行願寺)”の説明板
写真下右:“行願寺“門前にて

写真上左:“西国観音霊場・第19番札所”で知られる”革堂行願寺”
同中:棟札で築年が1815年だと確認され、京都市文化財に1984年に指定された本堂
同右:“行願寺“の門札
写真下左:“革堂(行願寺)”の説明板
写真下右:“行願寺“門前にて

“三好氏”に対抗する“六角氏”並びに“丹波国”の“反三好勢力”の動きも特に活発化していない状況下であった為か“三好方”の大軍進駐にも拘わらず“将軍・足利義輝”周辺は勿論の事“京都”市内にも特に緊迫した雰囲気は無かった。

“三好義重”(後の三好義継)は10,000兵の軍勢を率いる名目を“清水寺参詣”としていた。又、公家の“山科言継”と“勧修寺晴右”(晴秀~晴右~松国へ改名・生:1523年・没:1577年)が“三好方”の陣中見舞いに赴いた事も緊迫した様子を生まなかった理由とされる。“三好義重”(後の三好義継)が、事前に彼等“公家衆”に対する調略を終えていたとの説もある。

“将軍・足利義輝”は従来、城が築かれた事が無かった“洛中”で、大きな堀や石垣を設ける事で自らの御所を城郭化し“三好氏”を警戒していた。しかし、上述した様に“三好義重”(三好義継)並びに“松永義久”(松永久通)に対して厚遇を与えていた事で安心し“京”を去ろうとせず、又、警戒する事が無かった事に繋がったと思われる。“将軍・足利義輝”は剣術に優れていたと伝わる事から、この事も自分が襲われるとは考えなかった一要因だとする説もある。

1-(2)-③:奮戦の末、果てた“第13代将軍・足利義輝”

1565年(永禄8年)5月19日:

“三好義重”(後の三好義継)等による“将軍・足利義輝”に対する“二条御所襲撃”は、陽が昇る“辰の刻”(午前8時頃)過ぎに開始された。

真偽の程は分からないが、兵力10,000の“三好義重”(後の三好義継)軍の突如の襲撃に“将軍・足利義輝”は劣勢を悟り、死を覚悟した。そして近臣等との最後の酒宴を行い、別れの酒を酌み交わしたと伝わる。

1-(3):“三好義重”(三好義継)並びに“松永義久”(松永久通)が“足利義輝”を討った理由に関する諸説

1-(3)-①:太田牛一(信長公記)の説

“三好長慶”の死は既述の様に秘匿されたが“三好一族”内に生じた変化を察知した“足利義輝“は“三好長慶”の死を確信し“三好氏”に対する攻撃を企てた為“三好義重”(三好義継)並びに“松永義久”(松永久通)等が先手を打ったとする説である。

しかし“将軍・足利義輝”を白昼堂々と殺害するという決断は尋常では無いとして“太田牛一”の説の外に以下の3説が伝わる。

1-(3)-②:“三好義重”(三好義継)並びに“松永義久”(松永久通)は最初から将軍殺害を意図としたのでは無く”御所巻“をする意図が不慮の衝突に拡大してしまったとする説

今回の“三好義重”(三好義継)並びに“松永義久”(松永久通)に拠る軍事行動は当初は“御所巻”であったとする説である。

将軍側近・奉公衆の“進士晴舎”(しんじはるいえ・生年不詳・没:1565年)は“三好氏”側との“取り次ぎ役“であった。しかしその仕方が極めて恣意的であったとして”三好方“は日頃から不満を募らせていた。その背景には“進士晴舎”の娘“小侍従局”が“将軍・足利義輝”の正室“近衛氏”を凌ぐ寵愛を受けており、その事が“進士晴舎”の傲慢さを助長させ“三好”方の日頃の不満が重なり、遂に爆発し”御所巻“の行動に訴えたとの説である。

御所巻に就いて

室町時代には“大軍”で将軍御所を包囲して将軍に側近の排除を要求する行為“御所巻”が頻発した。その史実例を下表に示す。

①1349年(貞和5年):高師直等が足利直義一派の追放を求めて将軍・足利尊氏の邸宅を包囲(観応の擾乱)
②1379年(康暦元年):斯波義将等が細川頼之一派の追放を求めて将軍・足利義満の邸宅を包囲(康暦の変)
③1466年(文正元年):細川勝元・山名宗全等が伊勢貞親一派の追放を求めて将軍・足利義政の邸宅を包囲(文正の政変)
④1467年(応仁元年):細川勝元、畠山政長等が畠山義就の追放を求めて将軍・足利義政の邸宅を包囲。これが切っ掛けと成り御霊合戦(1月18日~19日)が起こり”応仁の乱”へと拡大した
⑤1573年(元亀4年):織田信長が信長打倒の挙兵を勧めた上野秀政等(?)反信長派の足利義昭側近集団に対する処分を求めて足利義昭邸宅(二条御所)を包囲

ところが“将軍・足利義輝”はこの“御所巻”に拠る要求を拒否した。その為“将軍殺害”に至る大事件に発展してしまったとする説である。“進士晴舎”はこうした事態(三好氏の御所襲撃を許した事)を招いた事を詫び“将軍・足利義輝”の御前で自害して果てた。

剣術に優れていたと伝わる“将軍・足利義輝“は、近臣と共に”三好勢“に立ち向かい、勇ましく戦った。戦闘は“将軍・足利義輝”の弟”鹿苑寺周暠“そして”母親・慶寿院“更には、権勢を誇った側室”小侍従局”等も討ち取られる大事件へと発展した。近臣達も全て討ち取られる事態と成った。“将軍・足利義輝”も流石に多勢に無勢、午前11頃には力尽き“三好軍”の兵に討たれるという歴史的大事件と成ったのである。

1-(3)-③:過去“御所巻”で将軍が殺害された事例は無い。又、側近衆の排除要求が目的の“御所巻”に対して、将軍が己の命に代えてまで、側近を守る筈はない。従って今回の襲撃は“御所巻”では無く、直接“将軍・足利義輝”を狙ったものである、との説

この説を裏付けるものとしては“将軍・足利義輝”が政所執事に登用した“摂津晴門”(生没年不詳・1568年の足利義昭の元服の奉行を務めている・2020年のNHK大河ドラマ/麒麟が来る/で片岡鶴太郎が演じた人物である)は殺害されていない。この事から“側近衆”の排除を目的とした過去に起った“御所巻”に該当する襲撃ではなく“将軍・足利義輝”をターゲットとしたものであるとの説。

1-(3)-④:義澄系(第11代将軍・足利義澄―第12代将軍・足利義晴ー第13代将軍・足利義輝)と義稙系(第10代将軍・足利義稙-堺公方・足利義維ー第14代将軍・足利義栄)が半世紀に亘って対立して来た”二つの将軍”問題の解消を目的とした襲撃だったとする説

別掲図“足利将軍家系図”に示す様に“血統信仰”に基づく“伝統的家格秩序”から言って“足利義維ー足利義栄”系は“義澄系”に対抗し得る存在では無かった。全国の大名に正統な将軍として認められていたのは“義澄系”(足利義晴ー足利義輝)だったのである。

別掲図“足利将軍家系図

そもそも“永禄の変”の時には“三好義重”(義継)をトップとする“三好”方に“阿波三好家”は未だ与していない。その“阿波三好家”の宿老“篠原長房”が擁立する“足利将軍家”の血筋を引く“足利義栄”の存在があったとしても“足利将軍家”を廃し、それに代わって“三好家”が政権を握る、と考え“第13代将軍・足利義輝”を殺害した”三好義継“(将軍・足利義輝殺害後に義重から義継に改名した)である。“足利将軍家”に繋がる人物は何人と雖も、擁立する考えが無かった事は明かであり、従ってこの説も当たらない。

1-(3)-⑤:“第13代将軍・足利義輝”を討つ事に拠り室町幕府を倒し“三好政権(幕府?)”を樹立する事は”貴種“として育った”三好義継“にとってはさしたる抵抗を感じなかった、とする説

“三好氏”は“三好長慶”の時期に“日本の特異性・血統信仰”からすれば“伝統的家格秩序゛を壊し、大幅な家格の上昇を果した家系である。

”三好長慶“の父”三好元長“が”第12代将軍・足利義晴“と戦い、将軍を”近江国・朽木“に追放した”大永年間“(1521年8月23日~1528年8月20日)そして、最後の公式記録が残る幕府管領”細川高国“を”大物崩れ“(1531年6月・両細川の乱の最終戦〉で滅ぼし”堺府“側(足利義維・細川晴元・三好元長体制)が実質的に覇権を握った“享禄年間”(1528年8月20日~1532年7月29日)、続いて“三好長慶”が“足利義輝”を追放した“天文末年~永禄初年”(1555年~1558年)の期間に“三好家”の“家格”は格段に上昇した。

そして“桐御紋“の使用が許される(1561年/永禄4年/2月)に至り”足利将軍家“一門と同格に列する迄に上昇した。(前6-20項で既述)

又“三好長慶・実休・冬康・一存”4兄弟の全てが没した後も“三好氏”の勢力は当時の“天下”と称された“畿内5ケ国”に加えて“丹波・播磨東部・淡路・阿波・讃岐・伊予東部”国、更には“紀伊・伊勢・伊賀・若狭”国に及んだ。

加えて“三好義継”の外戚には“九条家”が居た。この様に、生れ乍ら栄華を極めた“三好氏“の姿しか知らず”三好長慶“以前の世代の苦労を知らない貴種の”三好義継“は”教興寺の戦い“(1562年5月19日~20日)以来、対立を深める”将軍・足利義輝“を殺害する事に、当時の戦国大名達が根強く抱いていた程には”血統信仰に基づく伝統的家格秩序“の破壊に対する抵抗感を抱いていなかったとする説である。

以上紹介した諸説の中から“永禄の変”に於ける“三好義重(三好義継)”並びに“松永義久”(松永久通)の意図がどれであったかを問われれば、1-(3)-③説、並びに、1-(3)-⑤説が該当するのではなかろうか。

1-(4):白昼堂々と“将軍・足利義輝”を攻撃し、殺害する事を躊躇しなかった“三好義重”(三好義継)


1-(4)-①:“将軍・足利義輝“を討ったのは“三好義重”(三好義継)”だが“松永久秀”だと誤って伝えられて来た背景

過去に“赤松満祐“が”第6代将軍・足利義教”を自邸に招き、宴会中に殺害した“嘉吉の乱“(1441年/嘉吉元年/6月)が起こっている。更には”明智光秀“が”織田信長“を夜明け前に急襲して自害に追い込んだ“本能寺の変”(1582年/天正10年/6月)が謀反事件として伝わる。“永禄の変”がこれ等の事件と大きく異なるのは“三好義重”(三好義継)は何ら疚(やま)しさを感じておらず、白昼堂々と“将軍・足利義輝”を殺害した事件だった、という点にある。

多くの書籍が“第13代将軍・足利義輝”を殺害したのは“松永久秀”だと書いて来た。

既述の様に、170年以上も後に成立した儒学者“湯浅常山”が遺した“常山紀談”(1739年成立、完成1770年)が“松永久秀首班説”を書いた事で“松永久秀梟雄説”が広く世の人々に知れ渡った。史実と異なる、偽りの話が定着したのである。

この事件の折に“松永久秀”は京都にすら居なかった事が史実として確認されており、又、以後記述して行く史実展開からも“松永久秀”が“将軍・足利義輝”殺害に手を下していない事が証明されて行く。

1-(5):“将軍・足利義輝”の殺害、という大事件ではあったが“京都”に基盤が無く“朝廷”への懈怠を続けた将軍であった為“京市民”に与えた驚きも僅か3日程で沈静化した

“公家”は事件には無関心であったと伝わり“将軍・足利義輝”への哀悼や“三好義重”(三好義継)”等に対する批判も殆ど無かったとされる。こうした史実は、前項(6-20項)記述した“永禄改元事件“(1558年2月28日)の際に”正親町天皇“が”第13代将軍・足利義輝“を武家の代表とは認めず”三好長慶“を武家の代表と認めていたから起きた事件だった事を裏付けている。更に”将軍・足利義輝“は”朝敵扱い“だったとさえ伝わる。彼の奉公衆が来襲した“三好方”に対して、さしたる抵抗をしなかった事が、この事を裏付けているとされる。

”山科言継“は“将軍・足利義輝”に将軍御所が危ないと伝えたと書いている。又“足利義輝”の“奉公衆”で、後に105歳まで生きた事で知られる“大和晴完”(生:1499年・没:1604年)から“将軍・足利義輝”はさしたる用心もせず、運が尽きたと嘆いていたと直接聞いた、とも書いている。

1565年(永禄8年)5月20日~5月22日:

事件の翌日(5月20日)には“将軍・足利義輝”の外戚“近衛家”やその縁戚“久我家”の人物も殺害された事が伝わっている。しかし、翌21日には“永禄の変”の首謀者の一人“三好三人衆”の筆頭格の“三好長逸”が参内し“正親町天皇”から小御所の庭で酒を下賜されているのである。この事からも、天皇は“三好氏”を武家の代表と認めていた事を裏付けている。驚く事に5月22日には幕府の“奉公衆・奉行衆”が“三好義継”並びに“松永久通”の許に御礼に赴くという状況までもが伝えられているのである。

”山科言継“が”前代未聞“と書いた”京都市中“で、しかも、白昼堂々と行われた“第13代将軍・足利義輝“の殺害事件は、僅か3日程で沈静化した、と伝わる事態こそが”足利将軍家“の凋落ぶりを晒した事件だったと言えよう。

1-(5)-①:殺害された後でも批判の的とされた“流浪将軍・足利義輝”

事件後1ケ月も経たない中に、世論は“将軍・足利義輝批判”へと転じていた。こうした背景には既述の“永禄改元事件”が象徴する様に“第13代将軍・足利義輝”の将軍職在任期間は21年間に及んだものの、恒常的に在京出来た期間は“三好長慶“と和睦していた6年半に過ぎなく、しかも“将軍・足利義輝”は、その“三好長慶”との和睦を何度も敗り、その結果“流浪の将軍”という状態を続けた事が大いに影響したのである。

“京都”と“第13代将軍・足利義輝”との関わりは、正妻の出身である“近衛一族”並びに、側近であった“幕臣”の一部との間にあるだけであった。

こうした“将軍・足利義輝”の姿勢には、上記した事が象徴する様に、多くの“奉公衆”でさえもが批判的であったと伝わる。従って“殺害事件“に対して、公家・幕臣・寺社夫々が冷淡な態度だったという事であろう。

1-(6):儒学者“清原枝賢”が“永禄の変”で“松永久通”軍に従軍した事も“三好方”にとって“将軍・足利義輝”殺害の大義名分を立てる上で役立った

“三好義重”(三好義継)は“将軍・足利義輝”を討つと“三好義継”に改名した。足利将軍家の“通字”である“義を継ぐ“と言う事、つまり”将軍家を継ぐ“という意思表明だとされる。逆に“松永義久”(久通)は“将軍・足利義輝”から貰った“義”の字を捨て、元の“松永久通”に戻した。この事で自らを主君“三好義継”の下位に位置付けたとされる。別の言い方をすれば“松永久通”は“足利将軍家”からの偏諱などは無価値である事を示したのである。

1-(6)-①:“易姓革命“である事を喧伝した”将軍・足利義輝“殺害

儒学者“清原枝賢”(きよはらのえだかた/しげかた・生:1520年・没:1590年)は儒学者であるから、主君への忠を説くべき立場の人物である。その彼が“将軍・足利義輝”殺害に従軍したのである。

彼は“名儒”として知られ、同時に“幕府法”や“神道”にも通じていた。更に“キリシタン”でもあった。従って軍事力の面で役立つとは考えられ無い。

そうした彼が従軍した役割は“三好氏”が“将軍・足利義輝”を殺害する事が大義名分の無い謀反では無く“徳無き足利将軍家に三好氏が取って代わる”易姓革命“である事を世に喧伝(盛んに言いふらす)する為であったとされる。(三好一族と織田信長・松永久秀と下剋上/天野忠幸氏著)

尚“易姓革命”とは“統治者の姓が変わるのは天命が改まったものだ”との意味で、中国古来の政治思想の“徳のある者が徳の無い君主を倒し、新しい王朝を立てる事”である。“血統”の断絶では無く“徳”の断絶が“易姓革命”の根拠とされる。

2:“永禄の変”後の“三好義継“の行動

”永禄の変“(1565年5月19日)時点で“三好義継”は未だ16歳であった。又“松永久通”も満22歳であった。間違った歴史書、通説の中には“永禄の変は松永久秀や三好三人衆が将軍・足利義輝殺害の軍事行動を起こした“としているものがある。既述の様に当日“松永久秀“は京都に出陣すらしておらず(多聞山城にいた)”三好三人衆“は未だ成立していない。

いずれにせよ白昼堂々と“易姓革命”を成し遂げたと考えた“若き貴種・三好義継“にとって“永禄の変”は”将軍・足利義輝“との関係を清算し、故”養父・三好長慶“並びに、若くして病死した”三好義興“に仕えていた重臣等に己の力を見せ付ける事に成ったのである。

2-(1)-①:“元堺公方・足利義維“の息子”足利義親“(後の足利義栄)を”三好義継“は擁立するであろうと見た“山科言継“の読み違い

“言継卿記“を遺した”山科言継“は”三好義継“が”将軍・足利義輝“を殺害したのは”元・堺公方・足利義維“の息子の”足利義親“(後の足利義栄)を擁立する為であろうと見ていた。”元・堺公方・足利義維“は嘗て次期将軍候補に自分が擁立されるべく動いたが、共闘した”細川晴元“からも、結果的に擁立されず、逆に”細川晴元“は”第12代将軍・足利義晴“と結んだ事は既述の通りである。

その後“畿内”の覇権を握った”三好長慶“も”第13代将軍・足利義輝“と敵対はしたが、”足利義維“を対抗馬として将軍候補に擁立する事はしなかった。運も無かったが、資質にも欠けた人物だったと思われる。

そのような“足利義維”の子息を“三好義継”がわざわざ擁立する価値も無かったのであろうし、又“足利義親”(足利義栄)自身も“将軍・足利義輝”が殺害された1565年(永禄8年)後に積極的に上洛する意欲も見せていなかった。この点で後述する“将軍・足利義輝”の同母弟“一乗院覚慶”(後の足利義昭)の動きとは対照的であった。これ等の事から“三好義継”(当時16歳)が“将軍・足利義輝”殺害後に“足利義栄”(当時27歳)を擁立する考えが無かった事は断言出来るのである。

2-(1)-②:“三好義継”と“松永久通”の“永禄の変”の行動を“若者の暴挙”と見た“松永久秀”

“三好義継”と“三好長逸”そして“松永久通”即ち”永禄の変”の3人の首謀者達の考えは“足利将軍家”を廃する事を志向した“易姓革命”行動であった。

しかし“松永久通”の父親”松永久秀”の考えとは異なっていた。“松永久秀”は、之まで“主君・三好長慶”と共に“細川晴元”そして“第12代将軍・足利義晴”並びに“第13代将軍・足利義輝”と戦い乍らも“六角承禎”更には“畠山高政”等“諸大名”と交渉し乍ら事を進め、若者達が行ったドラステイックな革命的行動では無く、世間が納得する結果を重視した行動をとって来たのである。

そうした“松永久秀”からすれば“三好氏”そして”松永氏”夫々の家督を継いだばかりの若い二人が”将軍・足利義輝“殺害という行動(永禄の変)に出た事は“世間知らずの暴挙“にしか見えなかったのである。

“永禄の変”の決行は“松永久通”が父親“松永久秀”の意を受けての行動では無かった事は“松永久通”が自身の名で“安堵状”(当該の所領、所職等の知行の保証の際に出された文書)を発行している史実が裏付けているとされる。

“松永久秀”はこの若い二人が為した暴挙(?)とは距離を置き、より現実的な行動をとった。具体的には“足利義親”(足利義栄)との比較に於いて諸大名から“擁立するに値する”認知度の高い“故・将軍足利義輝”の同母弟“一乗院門跡・覚慶”(1542年11月満5歳で入室した彼も当時28歳に成って居た)を擁立する側に加わった行動を選択するのである。その結果“織田信長”に与して“一乗院覚慶”(~足利義秋~足利義昭)上洛を支援する側として働く事に成る。

3:同母兄“第13代将軍・足利義輝”が殺害され、自身の身にも危険が迫っていた“一乗院門跡・覚慶”(後の足利義昭)

1565年(永禄8年)5月22日:

“興福寺・一乗院”に入寺していた“一乗院門跡・覚慶”(生:1537年・没:1597年)は“永禄の変”後に自分も殺害されるのではないかと案じていた。タイミング良く、多聞(山)城に居た“松永久秀”は“覚慶”を害する事は無いとの誓紙を提出した。この事に安心した“覚慶”の様子が“円満院文書”(園城寺の門跡寺院)に残っている。

“覚慶”(足利義昭)から“松永久秀”の嫡子“松永久通”へ宛てた文書である。

今度公方様御儀(足利義輝)、題目是非に及ばず候、其れに就き、進退の儀気遣い候処、霜台(松永久秀)誓紙をもって別儀あるべからず由候間、安堵せしめ候、弥疎略なきにおいては、別して祝着(しゅうちゃく=喜ばしいこと)たるべく候、尚委細は竹下(竹内秀勝=松永久秀の重臣)へ申し候、憑み(たのみ=頼む)存ずほか他なく候、恐ゝ謹言、

永禄八年(1565年)五月廿二日(覚慶花押)
松永右衛門(松永久通)佐殿

この史料からは“松永久秀“は”将軍・足利義輝“の同母弟”一乗院門跡・覚慶”を討つどころか、逆に、保護する為に動いていた事が分かる。更に“松永久秀”は、子息の“松永久通”に”一乗院門跡・覚慶”(後の足利義昭)を殺害しない様に取り計らっていたのである。

“松永久秀”の子息“松永久通“は”将軍・足利義輝“殺害と同時に“一乗院門跡・覚慶”の弟”鹿苑寺周暠“(生年不詳・没:1565年5月19日)を殺害し、更に“一乗院門跡・覚慶”も殺害する計画もあったと考えられている。何故“三好義継・松永久通”が“覚慶”を殺害しなかったかの理由に“覚慶“は将来”興福寺“の別当を約束されていた立場に居た事から”覚慶“を殺す事で”興福寺“を敵に回す事を恐れて”幽閉“に止めたのだとする説がある。

何れにせよこの史料からも”将軍・足利義輝“並びに弟の”周暠“を殺害した”三好義継・松永久通“と“一乗院門跡・覚慶”(後の足利義昭)を保護し、命を救った“松永久秀”との考えは異なって居り“松永久秀”が世間に伝えられる“将軍・足利義輝”殺害の首謀者では無い事の裏付けとなっている。

3-(1):“一乗院門跡・覚慶”を“三好方”として保護し、彼を傀儡の“足利将軍家”として擁立する事で“反・三好勢力”に大義名分を与えない“現実路線”で“永禄事件”後の政治を動かそうとした“松永久秀”

1565年(永禄8年)6月:

将軍殺害後の“三好義継”並びに“松永久通”が清水寺の伽藍に鉄砲を放つ事を禁じた事が“成就院文書”に記録されている。“三好義継”の名で、この様な禁制を発給した史実から“三好義継”方が“京都”の治安維持を担っていた事が分かる。

3-(1)-①:“足利幕府”に代わって“三好政権”を認める方針であったと思われる“朝廷”を味方に付ける事が不可欠と考え,その様に動いた“松永久秀”

1565年(永禄8年)7月20日:

“正親町天皇”が“三好義継”と“松永久秀”に対して禁裏の修理に当たる様命じた事が“立入家文書”に残っている。

同様の事は9年前の1556年(弘治2年・将軍足利義輝期)に“後奈良天皇“が“三好長慶”と“松永久秀”に命じた実績がある。この事は“将軍不在”の状態が恒常化した“京都”の状態に“朝廷”(天皇)側も“三好氏”を積極的に活用しようと考えていた事の証である。この点で“三好”氏の中心人物であった“松永久秀”は“朝廷”の期待に応える事で“将軍家”に代わってその役を担う事を正当化しようと動いた。

1565年(永禄8年)10月26日:

”将軍・足利義輝“殺害後”朝廷“に預けられていた”足利将軍家重代の家宝・御小袖の唐櫃“が”松永久秀”と“広橋国光”(武家伝奏・彼の妹、保子が松永久秀の愛妻である・生:1526年・没:1568年)の申請に拠って引き渡された事が“お湯殿の上の日記”に書き留められている。

“御小袖”は源氏の嫡流であると共に“北朝天皇”を護持する“将軍の象徴”として神聖視されて来たものである。それが“一乗院門跡・覚慶”(後の足利義昭)“にでは無く“三好方”(松永久秀)に下賜されたという史実は“朝廷”が“足利幕府”に代わって“三好政権”を認める方針であった事を裏付けている。

4:“将軍・足利義輝”を殺害した“三好義継”を成敗し“天下”再興を目指す大名達の動きが起こった事で、同母弟“一乗院覚慶”の身に大変化が起こる

“第13代将軍・足利義輝“が殺害されるという大事件が起きて1カ月も経つと”足利将軍家“を再興しようとする動きが起こった。この動きを主導したのは“教興寺の戦い”(1562年5月20日)で大敗を喫し居城の”高屋城“を落とされ“紀伊国”で重臣の“安見宗房”並びに“遊佐信教”と共に逼塞していた“畠山高政”(生:1527年・没:1576年)であった。

“畠山高政“は”永禄の変“で”将軍・足利義輝“が殺害されると、家督を弟の”畠山政頼“(後に畠山秋高に改名・生:1545年・没:1573年)に譲り、自らは“将軍・足利義輝”の同母弟“一乗院覚慶”(足利義昭・生:1537年・没:1597年)を擁立すべく奔走を開始したのである。

4-(1):殺害された“第13代将軍・足利義輝”の同母弟“一乗院覚慶”について

1566年(永禄9年)2月17日:

“一乗院覚慶”(足利義秋~足利義昭)は室町幕府“第12代将軍・足利義晴”の次男として京都で生れた。母親は関白“近衛尚通”の娘で出家後“慶寿院”(けいじゅいん・生:1514年・没:1565年5月19日)と号した。同母兄“足利義輝”が“第13代将軍”に就き、末の弟は“近衛家”の猶子と成り“鹿苑寺”に入寺“周暠”(しゅうこう・生年:1548年?・没:1565年5月19日)と名乗り、後に院主と成っている。二人の妹は夫々“若狭国守護・武田義統”そして“三好義継”に嫁いでいた。

“一乗院覚慶”は”足利将軍家“の慣例に依り1542年(天文11年)満5歳で関白”近衛稙家“(このえたねいえ・近衛家16代・生:1502年・没:1566年)の猶子と成り“南都興福寺”の“一乗院”(門跡)に入っていたのである。“永禄の変”が起きた時には既に23年が経っていた。

4-(2):“一乗院覚慶”を幽閉し、命の保障(間違い無く大丈夫と請け合う事)を伝えた“松永久秀”

“一乗院覚慶”は、1562年(永禄5年)、満25歳の時に門跡を嗣いでいた。“永禄の変”(1565年/永禄8年/5月19日)が起きた時には、満28歳であった。そして殺害された“将軍・足利義輝”の同母弟の彼は“一乗院”内で幽閉されたのである。

この時“松永久秀”からは命を“保障“(注:保障=保護、保証=責任、補償=償い)する旨の誓詞が差し出されている。“原本信長記“にも”三好義継“並びに”松永久秀“から“一乗院覚慶”に対して野心の無い事を告げた様子が下記の様に伝えられている。

(一乗院覚慶の)御身に対し聊さか(いささか)もって野心御座なきの旨、三好・松永方より宥め(なだめ)申され候

“続応仁後記”には“一乗院覚慶”の見張りとして番兵が付けられ、出入り可能な者は制限されており”将軍・足利義輝“の近臣だった”細川藤孝“(細川幽斎・肥後細川家の礎と成った人物、NHK大河ドラマ・麒麟が来る・では俳優の眞島秀和が演じた・生:1534年・没:1610年)だけが許されていたと書かれている。

4-(3):“一乗院覚慶”の“南都興福寺”脱出とそれに協力した武将達

1565年(永禄8年)7月28日:

“一乗院覚慶”の“南都興福寺”脱出計画が実行され“一乗院覚慶”は“近江国“の”和田惟政”(わだこれまさ・六角氏被官から幕臣として13代将軍・足利義輝に仕え奉公衆に成った人物・生:1530年?・没:1571年)を頼って逃亡し、甲賀の彼の邸に匿われた。
“一乗院覚慶”の“南都興福寺”脱出計画に協力した主な武将等、は下記の様に“将軍・足利義輝”に仕えた幕臣(下記➀~⑤)が中心だが“幕臣”の外にも挙げられる。(⑥~⑦)これ等の人達がこの計画に協力し”和田惟政”等と連絡を取り合っていたとされる。

①細川藤孝
②三淵藤英(みつぶちふじひで・奉公衆・細川藤孝の異母兄・2020年NHK大河ドラマ/麒麟がくる/で俳優・谷原章介が演じた・生年不詳・没:1574年7月)
③一色藤長(将軍・足利義輝の御供衆・生年不詳・没:1596年)
④仁木義政(にっきよしまさ・六角氏綱の子息・足利義輝御相伴衆・生没年不詳)
⑤米田求政(こめだもとまさ・細川藤孝に仕える・一乗院出入りの医師を装い、番兵に酒を飲ませ”覚慶“を救出した逸話が残る・生:1526年・没:1591年)
⑥:“大覚寺義俊”(だいかくじぎしゅん・一乗院覚慶/後の足利義昭/の伯父で、近衛尚通の子。後に准后と成った・生:1504年・没:1567年)
⑦:“朝倉義景”(越前国守護・第11代当主・大河ドラマ/麒麟がくる/では俳優・ユースケサンタマリアが演じた・生:1533年・没:1573年)

4-(3)-①:“和田家文書“に残る“一乗院覚慶”の脱出劇

“和田惟政“は”13代将軍・足利義輝“の奉公衆として仕えていた時に他者からの讒言によって”将軍・足利義輝“の勘気を蒙り、甲賀郡に蟄居していた。”永禄の変“(永禄の政変とも称す・1565年5月19日)はその期間中に起きた。

”和田惟政”は同僚だった“細川藤孝”と連携して“一乗院覚慶”を“甲賀”に招き入れる事を策した。この策は”和田惟政”から“一乗院覚慶”に隠密裡に告げられており“一乗院覚慶”が自ら書いた書状にも残されている。文面には“ただ今和田申し候儀、他言すべからず候”と書かれており、重大な機密事項を伝えるものであった事を裏付けている。

脱出劇の立役者は伯父の“大覚寺義俊”並びに“朝倉義景”とされるが、実際に動いたのは“将軍・足利義輝”の近臣“細川藤孝”と“一色藤長”であった。“細川藤孝”に仕える“米田求政”(こめだもとまさ・生:1526年・没:1591年)が医術者として“一乗院”に出入りする事で“覚慶”に近付き、番兵に酒を勧めて沈酔させ、脱出を成功させたという逸話が残る。

5:解放された“一乗院覚慶”(足利義昭)を擁立し“将軍・足利義輝の弔い合戦”への参加即ち“上洛支援”を有力武将達へ要請する外交が展開される

以下に記す様に“将軍・足利義輝の弔い合戦”への参加要請が、錚々たる歴史上名だたる武将達に出された事が伝わる。尚、当時の各武将達の対応も参照されたい。

➀:畠山政頼(=畠山秋高・生:1545年・没:1573年)
・・第13代将軍足利義輝が討たれた1カ月後から“足利将軍家”再興の動きを主導した武将。畠山高政の弟
②:安見宗房(やすみむねふさ=遊佐宗房・生没年不詳)
・・“畠山政頼”の家臣で“松永久秀”に与した
③:松永久秀(室町幕府相伴衆・生:1508年・没:1577年)
④:朝倉義景(生:1533年・没1573年) ・・“越前国朝倉氏”最後の当主と成った。“永禄の変”に就いては“武田義統”からの手紙で知ったとされる
⑤:武田義統(たけだよしずみ・若狭武田家8代当主・若狭国守護・妻が第12代将軍・足利義晴の娘で、13代将軍足利義輝は義兄に当たる・生:1526年・没:1567年)
⑥:上杉謙信(越後国守護代・関東管領・生:1530年・没:1578年)
・・一乗院覚慶が1566年7月28日に”興福寺“から脱出した時”大覚寺義俊“からその旨を早々と書状で知らされていた。“一乗院覚慶”が一番支援を期待した武将であったとされる。しかし関東管領として出兵を繰り返す状態であった為“上洛支援”が出来る状況ではなかった
⑦:織田信長(生:1534年・没:1582年)
・・上洛支援の意欲はあったが、当時は“美濃国・斎藤龍興”との抗争が続いており、後述する様に1567年(永禄10年)8月に“稲葉山城”を落すまでは、事実上、支援は不可の状態であった
⑧:遊佐信教(ゆさのぶのり・・生:1548年・没年不詳)
・・畠山政頼(=畠山秋高)に仕えた武将である。1568年の“織田信長”の上洛に従い“高屋城”を安堵され、河内国守護代に就く。“織田信長”と”将軍・足利義昭”が対立すると、1573年“織田信長”派に通じた主君”畠山政頼”(=畠山秋高)を自害に追い込んだ。(1573年6月25日)“足利義昭”追放後”三好康長”と組んで”織田信長”に反抗したが、1575年“高屋城の戦い”で敗れ、その後の消息は不明

5-(1):“一乗院覚慶”擁立に動いた伯父“大覚寺義俊”並びに“畠山高政”

京都では“三好長慶”の死が2年間伏せられた事は既述の通りである。しかし史実として“第13代将軍・足利義輝”が白昼堂々と、しかも京都の真ん中で殺害されるという事件が起きた背景には”三好長慶“の死が隠し通せていなかった事が背景にあったとされる。

“三好長慶”の死去を察知した”第13代将軍・足利義輝“は、それに乗じて“三好氏”への遺恨を晴らすべく種々画策した。“将軍・足利義輝”の不穏な動きを察知した“三好義継・松永久通”は将軍殺害を計画したとされる。

“将軍・足利義輝“に”三好攻撃“の意図があるとした“三好義継(三好義重)”方はそれを”御謀反“と呼び、非は“将軍・足利義輝”にあり、として先手を打ったのが“永禄事件”だとされる。“京都“で”白昼“将軍殺害”という大事件が“起こったが、京都市内では比較的短期間に動揺が収まった事は既述の通りだが、地方の諸大名達には、大きな衝撃をもって受け止められたのである。

“足利幕府”の統治能力が崩壊状態である事に危機感を抱く地方の諸大名は,もともと“室町幕府”下の秩序に不安を覚えていた。そこに“一乗院覚慶”(足利義秋~義昭)が興福寺から脱出したという動きが引き金となって、忽ちの中に“足利将軍家”再興の動きが広がったのである。

5-(1)-①:“畠山高政”が奔走する

こうした動きを先導したのは“教興寺の戦い”(1562年5月19日~20日)で“将軍・足利義輝”を擁して戦ったものの“三好勢”に大敗を喫し“河内国”の支配権を失い“紀伊国”に逼塞していた“畠山氏“であった。

”畠山高政“(生:1527年、1531年説あり・没:1576年)は”将軍・足利義輝“が殺害されると家督を弟の”畠山政頼“(後に畠山秋高に改名・河内半国守護、紀伊国守護・生:1545年・没:1573年)に譲り、自らは“一乗院覚慶”を次の将軍に擁立すべく奔走したのである。

5-(1)-②:第13代将軍・足利義輝の“弔い合戦”に参加を促された“上杉輝虎”(謙信)の場合

1565年(永禄8年)6月4日:

家督を兄から譲り受けた“畠山政頼”(畠山秋高)の重臣“安見(遊佐)宗房”が“上杉謙信”の重臣“河田長親”(かわだながちか・生:1543年・没:1581年)と“直江政綱(景綱)”(生:1509年・没:1577年・彼は男子に恵まれず養子を迎える。それが2009年のNHK大河ドラマ/天地人/で俳優・妻夫木聡が演じた直江兼続である)に宛てた書状で下記主旨の訴えを行った事が伝わる。(天野忠幸・三好一族と織田信長)

天下の諸侍の御主である足利義輝が三好義継と松永久通に討たれたのは無念として弔矢(弔い合戦)を訴えた

5-(1)-③:“大覚寺義俊”も“上杉輝虎”(謙信)の支援を要請する

1565年(永禄8年)7月28日:

”覚慶“が奈良脱出に成功した1565年(永禄8年)7月28日付で、殺害された“将軍・足利義輝”の伯父であり“一乗院覚慶”の伯父でもある”大覚寺義俊“(関白近衛尚通/生:1472年・没:1544年/の子で、足利義輝、覚慶の生母慶寿院の兄・生:1504年・没:1567年)は“教興寺の戦い“で”故・三好長慶“に敵対した人物であるが、彼は”上杉輝虎“(謙信)に”覚慶“が脱出に成功した事を書状で知らせ“天下御再興は名誉である”として“上杉輝虎”(上杉謙信)に挙兵を促し”畠山政頼“(畠山秋高に改名)並びに“遊佐信教”(ゆさのぶのり・生:1548年・没年不詳)が呼応する予定である事を伝えている。

“大覚寺義俊”としては“天皇家”並びに“幕府”という“血統信仰”に基づいた“伝統的家格秩序”を尊重する“上杉輝虎”(上杉謙信)こそが“京”の秩序を回復させるに最もふさわしい武将であると考え、彼に強く上洛支援を要請したのである。

尚、同文書は“永禄事件”が起きた翌日、1565年5月20日には“武田義統“からの書状で“朝倉義景”(越前朝倉氏11代最後の当主・守護職・正室は細川晴元の娘・生:1533年・没:1573年)が”将軍・足利義輝殺害事件“を知って居り“松永久秀”に直談し、調略に拠って奈良“興福寺”で“松永久秀”の監視下に置かれていた“一乗院覚慶”を”近江国・和田城(城主・和田惟政・幕臣、摂津国半国守護・生:1530年?・没:1571年)“の許に脱出させる事に成功した事、並びに”覚慶“を”公儀御家督(足利将軍家当主)“に定めた事等を伝えている。

1565年(永禄8年)8月2日~10月:

丹波国(兵庫県と京都府の一部)では“荻野直正”(おぎのなおまさ・赤井直正とも称す・外叔父・荻野秋清を殺害して居城の黒井城を奪い、以後/悪右衛門/と称した・生:1529年・没:1578年)が拠点とした“黒井城”を“三好一派”の“内藤宗勝”(既述の様に松永久秀の弟・松永長頼が内藤家を継いで名乗ったもの・生年不詳・没:1565年8月2日)が1558年11月頃に奪っていた。その後、勢力回復に努めた“荻野直正”が1565年8月に“内藤宗勝”を討ち取り奪還している。

この戦いで(1566年8月22日)“三好氏”は“丹波国”を失ない、勢いに乗った“荻野直正”は“丹波国”を平定、1565年10月には京都近郊まで勢力を伸ばしている。尚“荻野直正“は”近衛前久“の妹(娘だとの説もある)を継室に迎えており“大覚寺義俊”と“荻野直正”との関係が近い事が分かる。

5-(2):“一乗院覚慶”自身も上洛を目指し、主たる武将達の支援を求めて、活発な外交を展開する

1565年(永禄8年)7月下旬から8月上旬にかけて“朝倉義景”と“松永久秀”が交渉し、その結果“一乗院覚慶”は“和田城”(滋賀県甲賀市)に脱出した事は既述の通りだが“一乗院覚慶”自身も、直ぐに有力武将達に“上洛”への支援を求めて積極的な外交を開始している。脱出直後に下に記す諸将に支援要請をした事が伝わる。

1565年(永禄8年)9月28日:“武田信玄”に上洛の為の支援を求める
同年          10月4日:“上杉謙信”に同上支援を求める
同年          10月28日:“島津貴久・義久”親子、並びに“相良義陽”(肥後国戦国大名)に同上主旨の支援を求める

取り分け“武田信玄・上杉輝虎(謙信)”並びに“相模国”の“北条氏政”に対しては、相互に敵対した三者であった為、彼等に講和を命じ“室町幕府再興”の為に殺害された兄“第13代将軍・足利義輝”の“弔い合戦”の為の上洛支援に協力する様、訴えたとされる。

5-(3):諸将の多くが夫々の事情を抱えていた為“一乗院覚慶”(足利義秋~義昭)の上洛支援要請に応えられなかった

5-(3)-①:“上洛”支援が出来る状況では無かった“上杉輝虎”

“上杉謙信”は初名“長尾景虎”を名乗ってから以下の様に改名している。

①:長尾景虎・1543年(天文12年):満13歳で元服した時に改名している
②:上杉政虎・1561年(永禄4年):閏3月、満31歳の時、山内上杉家の家督を譲られ、関東管領職を引き継いだ時に改名
③:上杉輝虎・1561年(永禄4年):12月、満31歳の時、将軍足利義輝から”輝”の偏諱を受けて改名
④:上杉謙信・1570年(元亀元年):12月、満40歳で法号“不識庵謙信”を称した

以下1570年12月迄の記述には“上杉輝虎”を使う事にする。

“上杉輝虎”(越後守護代~関東管領・生:1530年・没:1578年)は、6年前の1559年(永禄2年)4月に“三好長慶天下人への戦い第7戦・北白川の戦い“(1558年6月9日)で幕府軍(将軍足利義輝・細川晴元)と戦った”三好長慶“が勝利し“六角義賢”の仲介で和睦が成り“将軍・足利義輝“が5年4カ月振りに”朽木谷“から”京“へ帰還した時(1558年11月)に多くの武将達が祝賀の為に”上洛“した。“上杉輝虎“(この時は足利義輝から偏諱を受ける前であるから、上杉政虎を名乗っていた)もこの時6年振りに自身としては2度目の入洛をして祝い、1559年10月26日迄滞在している。

この折に“将軍・足利義輝”に謁見し、将軍の支援をする、との力強い言葉を残している。その後、1561年(永禄4年)閏3月16日に“山内上杉家”の家督と“関東管領職”の相続を“将軍・足利義輝”から許されている。上表②の“長尾景虎”から“上杉政虎”に改名する事が承認されたのがこの時である。

この時“正親町天皇”には“都を平和にし、天皇、将軍が尊敬される様に成る迄滞在する”と揚言(公然と言う事)する一方で“将軍・足利義輝”の義兄“近衛前久”(このえさきひさ・関白太政大臣・生:1536年・没:1612年)と肝胆相照らす間柄と成り、上機嫌の“上杉輝虎“(この時も偏諱を受ける前であるから厳密には上杉政虎である)は彼と“血判起請文”を交わしたと伝わる。この例が示す様に“近衛前久”という人物は、その後も公卿らしからぬ行動を見せるが、其れに就いては後述する。

既述の様に、何故“足利義秋”(義昭)並びに周囲が上洛支援候補の武将の筆頭に“上杉輝虎”の名が上がったのかの理由として、この時彼が“三好氏討伐”の意図がある事を示したとの噂が広がり、世間も“上杉輝虎”の挙兵を強く期待した事が“長岡市立科学博物館所蔵・河田文書“からも確認されるのである。

周囲の期待とは異なり“上杉輝虎”が置かれた状況は1561年(永禄4年)9月の“川中島の戦い”で“武田信玄”に“善光寺平”を奪われ、1562年(永禄5年)には“後北条氏第3代・北条氏康“(生:1515年・没:1571年)に“古河城”を攻められるという苦戦中であった。この時同行した“近衛前久”は“京都”に逃げ帰るという事態も起きている。

“関東管領・上杉輝虎”の苦戦、そして上述した“公卿・近衛前久”の件からは“第13代将軍・足利義輝”の権威が“関東“では全く通じなかった事を示して居り、いわんや“公卿・近衛前久”の権威などは言うまでも無かった事も分かる。こうした状況であったから“上杉輝虎”は“関東管領”として出兵を繰り返す状態であり殺害された“将軍・足利義輝の弔い合戦”の為に“一乗院覚慶”(足利義秋~義昭)を支援して上洛する事など出来る状態では無かったのである。

(メモ):
“上杉輝虎”(上表にある様に厳密にはこの時点では長尾景虎を名乗っていた)が“第13代将軍・足利義輝“の”京帰還“を祝って入洛する2カ月前の1559年2月に“織田信長”も同じく”京帰還祝“に上洛している。そして“織田信長”を一躍有名にした“桶狭間の戦い”に勝利するのは、この上洛から1年後の1560年(永禄3年)5月の事である。


5-(3)-②:“一乗院覚慶”(足利義秋~義昭)が2番目に支援を期待した“越前国・朝倉義景”も支援要請に動かず

“朝倉義景“(第11代当主で最後の越前国・朝倉氏当主である・正室は細川晴元の娘・生:1533年・没:1573年)は“永禄の変”(1565年5月19日)で“将軍・足利義輝“が殺害された事を翌5月20日には“武田義統”の書状で知っていた。“一乗院覚慶”を1565年7月28日に幽閉先の“奈良・興福寺”から脱出させ、翌7月29日には“近江国・甲賀郡”の“和田惟政”の居城“和田城”に入らせるという脱出劇を画策したとの説がある。

“一乗院覚慶”は脱出に成功した後、此の地で“足利将軍家当主”に就く事を宣言し、そして各地の大名に“御内書”を送っている。しかし肝心の“朝倉義景”は“覚慶“の呼び掛けに積極的に動かなかった。

5-(3)-③:“近江国守護・六角氏”も、内紛で“一乗院覚慶”の上洛を支援するどころでは無かった

“近江国守護・六角義賢”(承禎)並びに嫡男“六角義弼”(義治)父子の状況は以下の通りであった。

“近江国守護・六角定頼”(生:1495年・没:1552年)の時代に全盛期を迎えた“六角氏”であったが、彼の没後、子の“六角義賢”(生:1521年・没:1598年)の時期に成ると“三好長慶”との抗争に敗れ、畿内での影響力を弱めていた。1559年(永禄2年)に家督を“六角義弼”(義治・第16代当主・生:1545年・没:1612年)に譲り出家をしたが“六角義賢”(承禎)は子息の“六角義弼”と対立する様に成ったのである。

その為、家中で“観音寺騒動”(1563年/永禄6年/10月)が起き、不安定さを増した。従って“六角氏”も“足利義秋“(義昭)を支援して”上洛“するどころでは無い状態だったのである。

(メモ) =観音寺騒動= 1563年(永禄6年)10月1日~10月21日

家督を継いだ”六角義弼“(義治)が父”六角義賢“(承禎)からの信任が厚かった重臣“後藤賢豊”父子を部下に命じて両名が登城するのを待ち伏せて殺害させるという事件が起こった。この騒動は“六角氏”の家臣団に衝撃を与え“六角義弼“(義治)に対する不信感が増大した。こうした内紛状態に付け込んで”浅井氏“が”六角氏“を攻撃した。”六角氏”の家中からは”浅井氏”方に寝返る者までが現われるという状況と成った。

1563年(永禄6年)10月7日に”六角義賢・六角義弼“父子は、内紛状況を嫌う一部の家臣団に拠って”観音寺城“を追放される事態にまで発展した。しかし、その後”六角”氏の宿老“蒲生定秀”(生:1508年・没:1579年)や、重臣“三雲定持”(生年不詳・没:1570年)等が事態収拾に動き、同年10月21日に”六角義賢・六角義弼“父子は”観音寺城“に復帰した。しかし、この御家騒動で“六角氏“の権力基盤は大きく毀損されたのである。

5-(3)-④:若干17歳の“美濃国領主・斎藤龍興”も“上洛”支援に加わらず

“美濃国戦国大名・斎藤義龍”(高政)が1561年5月に病没した。僅か13歳の嫡男“斎藤龍興”(生:1548年・没:1573年)が家督を継いだ。“永禄の変”が起きた時には未だ満17歳という若さであった。

父親“斎藤義龍”(斎藤道三の長男・1556年に長良川の戦いで斎藤道三を討つ・生:1527年・没:1561年病没)が“故・三好義興”と同盟関係にあった事から、家督を継いだ“斎藤龍興”も病死した“三好義興”の後継者である“三好義継”との戦いを避ける事を選択し“足利義秋”(義昭)からの上洛支援要請には加わらなかったのである。

5-(3)-⑤:“美濃国”との和睦が成立しない限り“上洛”に動く事が出来ないという状況下にあった“織田信長”もこの時点では不参加であった

”足利義秋“(義昭)が“織田信長”に“上洛”支援を期待する程度は“上杉謙信“に比べて低かったと伝わるが、それでも頻繁に”織田信長“に上洛支援を要請したと伝わる。

”織田信長“は”斎藤龍興“の父親”斎藤義龍“の時代から”美濃国“への侵攻を繰り返していた。これに対抗して”斎藤龍興“は“武田信玄”との同盟に動き、1565年(永禄8年)11月に同盟を成立させている。

“織田信長”も対抗策として“上杉謙信”との通交を1564年(永禄7年)頃から深める一方“武田信玄”との同盟も模索するという動きをした。1565年(永禄8年)時点の“織田信長“にとって”斎藤龍興“との和睦が成立しない限り”三好三人衆“方との戦いを意味する“足利義秋”(義昭)の”上洛計画“への参加は時期尚早と考えたのである。

6:“足利義輝弔い合戦”へ有力武将が参加出来ない事で、事態は“三好義継”方の思惑通りに動き始めたかに見えた。しかし“松永久秀“が“一乗院覚慶”の“奈良・興福寺”からの脱出を許した事で“三好”方にも大きな変化が起きる

上述した様に“畠山政頼”が“将軍・足利義輝の弔い合戦”の参加を有力武将達に要請すべく奔走したが、応じる事の出来る有力大名が居なかった。この時点では“三好義継”一派の思い通りに事が進み”足利将軍家“の廃立という”永禄の変“の目的が成就するかに見えた。しかし殺害された“将軍・足利義輝”の同母弟の“一乗院覚慶“が脱出するという事態が起き、状況は急変した。

6-(1):“松永久秀”の行動は、結果的に“一乗院・覚慶”を“将軍・足利義輝の弔い合戦“を目指す敵方に、みすみす渡すという事態と成った。”松永久秀“の行動は”三好一派“にとっては許し難いものであった

”三好義継“や”松永久通“が”永禄の変“で”将軍・足利義輝“を殺害し、その流れで同母弟の“一乗院覚慶”(足利義昭)を殺害する動きとなる事を”松永久秀“は不安視していた。その理由は“毛利元就”も“上杉謙信”も更には“織田信長”も殺害された“将軍・足利義輝“と親しい関係であった事に加えて、他の有力大名の間には”伝統的家格秩序”に法って(のっとって)“足利将軍家“を再興するという動きを支持する者が主流であり”足利将軍家“を廃するという”三好義継“に同調する考えを持つ者は居なかったのである。

そうした危険を察知した“松永久秀”は若い”三好義継・松永久通“の二人が”覚慶“殺害行動を起こす前に”覚慶“の身柄を自らが確保した。その上で”覚慶“からは”松永久通“宛に”貴方の父親・松永久秀は誓紙で私を害する考えは無いと伝えて来た“と、文書で伝えさせる事で、若い二人にも”一乗院覚慶“の身の安全を図らせたのである。

7:“三好一派”が“松永久秀・松永久通父子”を追放するクーデターを起こし、これに拠って“三好本宗家”の“第一次分裂”が起こった

7-(1):“一乗院覚慶”を解放し敵方に利用される事態を作った“松永久秀”は“三好義継”方にとっては大失態であり“松永久秀”追放に動く

“将軍・足利義輝”を殺害し“三好氏”が将軍家の後継者と成る事を目指した“三好義継”派にとって“一乗院覚慶”を敵方の手に渡してしまった“松永久秀”の行動は許せないものであった。

更に“松永久秀”の“三好氏”に於ける重鎮という立場を弱める事態が重なって起こった。それは“松永久秀”が最も頼りにしていた弟“内藤宗勝”(松永長頼・生年不詳・没:1565年8月2日)が丹波国で“荻野直正”に討ち取られた事である。“丹波国”を失ったこの敗戦は、拡大路線を突き進んでいた“三好氏”にとって、初めて領国を失うという事態でもあったのである。

7-(2):“三好義継”に“松永久秀・松永久通”父子を追放する事を迫った“三好三人衆”

“永禄の変”の首謀者を“三好義重(この後義継に改名)と三好三人衆”と書く書物が多いが、事件が起こった時点では未だ“三好三人衆”は成立していない。

“一乗院覚慶”を敵方に奪われる形と成った事態を“松永久秀”の重大な失態として“三好三人衆“は”三好本宗家当主・三好義継“に“松永久秀”そして嫡子“松永久通”を追放する様に迫った。これは“三好本宗家”内のクーデタ-とされ“三好三人衆”という呼称はこの事態が起こった1565年(永禄8年)11月の記録に登場するのが初見である。

以後“三好三人衆”が成立したとされるが“三好本宗家”に於けるクーデターで“松永久秀・松永久通”父子が排除され“三好義継”の後見役である“石成友通”がその地位を継承した体制が“三好三人衆”である。

1565年(永禄8年)11月16日:“三好本宗家”内のクーデター(この事件以降“三好三人衆”が組織化されたとする)

“一乗院覚慶”(足利義昭)“は彼を擁立して”将軍・足利義輝弔い合戦“と称して”上洛“を目指す一派に拠って”興福寺・一乗院“から脱出した。既述の有力武将達に、上洛の為の支援を要請する活発な動きを自らも開始したとされる。この事は“三好義継”政権の下で“松永久秀”と並び、双璧と称された、長老“三好長逸“にとっては、許されない”松永久秀“の大失態であった。

“三好長逸・三好宗渭・石成友通”の三人は“高屋城”の“三好康長”(三好元長の弟・三好長慶の叔父・生没年不詳)と相談した上で“三好義継“(当時満16歳)に”松永久秀・松永久通“父子を追放する様迫ったのである。(多聞日記)

“三好義継”からの了承を得た“三好三人衆”は“松永久秀”を“三好義継”が居城としていた“飯盛山城”に襲った。(この時三好義継本人は高屋城で庇護されていた)こうして“三好本宗家”内の“クーデター”が実行されたのである。

“三好本宗家”から排除された“松永久秀(1508年生まれ当時57歳)”は以後、家督を譲った嫡子“松永久通(1543年生まれ当時22歳)”に代って、再び戦国の表舞台に返り咲く事に成る。

8:“三好本宗家”がクーデター騒動で“第一次分裂”状態に陥っている間に“足利義秋”(義昭)擁立派は“六角義賢”(承禎)を頼って4ケ月(自1565年7月28日至1565年11月21日)近く滞在した“和田城”から“足利義秋”(義昭)を“矢島の武家御所”に拠点替えをし“上洛”の動きを活発化させる

8-(1):“徳川家康”から参陣要請に応ずる旨の回答を得た“一乗院・覚慶“擁立派

1565年(永禄8年)11月20日:

”三好氏“が上記の様に”松永久秀・久通父子“排除のクーデター騒ぎに拠って分裂状態に陥った事は”将軍・足利義輝弔い合戦“の為の”上洛“を目指す”一乗院・覚慶“擁立派にとっては、極めて有利な状況と成った。

“大覚寺義俊”だけで無く“一乗院覚慶”の側近の“和田惟政”や“細川藤孝“等に拠る、各大名に対する調略活動が奏功し、1565年(永禄8年)11月20日には”徳川家康“から”和田惟政“宛に参陣要請に応ずるとの回答も寄せられた。

8-(2):“矢島御所“に移った”一乗院・覚慶“派は上洛の動きを活発化させた。”織田信長“もこの時点で、参陣要請に応じる旨の回答をしている

1565年(永禄8年)11月21日:

“一乗院覚慶(後の足利義昭)”は“近江国・六角義賢”の協力を得て“甲賀郡和田”から京都に近い“野洲郡矢島村(滋賀県守山市矢島町)に移り、此処を在所とした。此処は“矢島の武家御所”と呼ばれた。此処を拠点とし“一乗院覚慶”を擁する一派は上洛の動きを愈々本格化して行く。(注:守山市の矢島御所跡に立つ説明板には/永禄8年/1565年に、甲賀の“和田惟政”の館を経て、この矢島小林寺に入室したと説明している)

1565年(永禄8年)12月5日:

“織田信長“(生:1534年・没:1582年)は、5年前の1560年5月に“桶狭間の戦い”で“今川義元”を討ち取り“今川氏”の支配から独立した“徳川家康”と同盟を結び、背後を固め、1563年には“美濃国”攻略の為に本拠地を“小牧山城”に移し、翌1564年5月には“犬山城”の“織田信清”(別掲図*1で示した人物、織田信長の従兄弟に当たる・犬山鉄斎に改名・生没年不詳)を敗り“尾張国”統一を成し遂げていた。

敗れた“織田信清”は甲斐国へ逃亡し“甲斐武田氏”の許で“犬山鉄斎”と称した事が伝わる。この日付で“織田信長”から“細川藤孝”へ“上洛支援要請”に応ずる旨の回答を送った事が“京都市歴史資料館所蔵・和田文書“に記されている。

1565年(永禄8年)12月21日:

上記を裏付ける史料として“矢島の武家御所”に移った“一乗院覚慶”が家臣の“和田推政”に“上洛支援要請”に応じると回答を寄こした“織田信長”に馳走を命じている。(久野雅司著・足利義昭と織田信長)

=別掲図=織田家系図(*1で表示)に於ける“織田信清”
別掲図=織田家系図(*1で表示)に於ける“織田信清
写真上:織田信長が尾張統一を成し遂げた“犬山城主”で従弟の”織田信清”を敗った戦いの行われた”国宝犬山城“と刻まれた石碑の前にて(訪問日2018年4月)
写真下左:天守は現存する日本最古の様式とされ高さは地上約24mとある。木曽川の畔の小高い山の上に建つ
写真下右:犬山城の石碑の横にある説明版に書かれた犬山城の歴史
写真上:織田信長が尾張統一を成し遂げた“犬山城主”で従弟の”織田信清”を敗った戦いの行われた”国宝犬山城“と刻まれた石碑の前にて(訪問日2018年4月)
写真下左:天守は現存する日本最古の様式とされ高さは地上約24mとある。木曽川の畔の小高い山の上に建つ
写真下右:犬山城の石碑の横にある説明版に書かれた犬山城の歴史

9:“三好氏”から排除された“松永久秀“は”大和国“で”筒井順慶“と戦い、勝利した。しかし”摂津国“では”三好三人衆”との戦いで敗戦を重ねた

9-(1):“大和国・筒井順慶”との攻防戦

1565年(永禄8年)11月18日:

“三好三人衆”に拠るクーデターで“三好氏”から排斥された“松永久秀”は直ぐに“三好三人衆”に与する“筒井順慶”を“筒井城”へ奇襲攻撃を行い勝利している。“松永久秀”が“筒井城”を攻撃した背景、並びに“大和国”の盟主“筒井氏”に就いては以下の通りである。

当時の“大和国”は“興福寺”が勢力を振い“守護職”が存在しない国であり“大和四家”と称された“筒井氏・越智氏・箸尾氏・十市氏“を加えた勢力が統治を行っていた。

筒井氏は元々は”興福寺一乗院”に属する有力宗徒が武士化したもので“筒井順慶”の父親”筒井順昭“(つついじゅんしょう・興福寺官符衆徒・生:1523年・没:1550年)の時期には大和国最大の武士団として”筒井城“を拠点として1546年~1547年(天文15年~16年)頃には“越智氏”の“貝吹山城”並びに”十市氏”の城を開城させ、更には、1547年5月には“箸尾氏”の城をも破却し”戦国大名“として全盛時代を築いた。

その“筒井順昭“が1550年(天文19年)に満27歳の若さで病死した為、僅か2歳に満たない“筒井順慶”(生:1549年・没:1584年)が叔父“筒井順政”(つついじゅんせい・生年不詳・没:1564年)の後見の下で家督を継いだ。尚“筒井順慶”の名は得度してからのもので“順慶”と称する前は“筒井藤勝”(後に筒井藤政に改名)と名乗っていた。

“松永久秀”の“大和国”侵攻の経緯に就いては、前項(6-20項ー56)で“三好長慶”の寵臣であった彼が、1543年(天文12年)に“北小路城”を攻撃した記録が“筒井家記”に残る初期の侵攻であった事を紹介した。

その後も1560年(永禄3年)7月~11月に“松永久秀“は”井土城・万歳城・桜坊城・牧城“を次々と陥落させ、遂に”大和国“の北半分を征圧し、軍事拠点として“信貴山城”を、そして新たに政治目的としての“多聞城”を築城し、拠点とする進出を果たしたのである。

“大和国“の盟主”筒井氏“と”松永久秀“の攻防は何度も繰り返された。又”筒井氏“の内部も”筒井順慶“の後見人”筒井順政“が”河内国守護・畠山高政”との結束を重視した一方で、同じ家中に“春日社の国民”で興福寺の寺門や衆中を重視する”福住宗職“を中心とする一派があり、両者の間に抗争が起こり、分裂状態と成る等、甚だ不安定だった。

“筒井氏”の内紛に就いて、詳しくは触れないが、結果的に“福住宗職”が1559年(永禄2年)6月に出家し、以後”筒井順慶“の後見人”筒井順政“が実質的に”筒井氏“を指揮する立場となった。この時“筒井順慶”は未だ満10歳の少年であった。

その後”筒井順政“率いる”筒井方“と”松永方“との間で一進一退の攻防が繰り返されたが、その最中の1564年(永禄7年)3月19日に“筒井順政”が和泉国“堺”で病死した。翌1565年(永禄8年)11月18日に“松永久秀”は“筒井順政”が病死して、後ろ盾を失い、基盤が揺らぎ、未だ15歳の“若き当主・筒井順慶”が率いる“筒井城奇襲攻撃”を行った。“筒井”方は敗れ“筒井順慶”は“布施城”(大和布施城・築城年は不詳・一乗院方の国民で、平田荘八荘官の一員であった布施氏が築城した・1580年に織田信長の命で廃城)を頼って落ち延びたのである。

“松永久秀”と“筒井順慶”の戦闘は、この後も繰り返される。翌、1566年6月の戦いで、“三好三人衆”との連携を強化した“筒井順慶”軍が勝利し“筒井城奪還”を果たしている。(1566年6月8日)そして、1567年4月18日~10月11日に戦われた、世に知られる“東大寺大仏殿の戦い”へと展開する。この戦いに就いては後述する。

9-(2):“一乗院覚慶”を擁立する“畠山秋高”(政頼)と同盟し、更に“三好義継”の弟で“岸和田城主・松浦孫八郎”(松浦信輝)を味方に付けた“松永久秀”は“三好三人衆”との戦闘を繰り返した

“三好本宗家”のクーデターで排除された“松永久秀”は家督を譲った若年の“松永久通”に代わって再び表舞台に返り咲き“一乗院覚慶”の擁立に奔走する為に家督を譲った“畠山高政”の弟“畠山秋高”(政頼から改名・生:1545年・没:1573年)と同盟して“三好三人衆“に対抗した。1566年(永禄9年)前半は両者の勢力は拮抗したが”足利義秋“(義昭)が上洛を目指して支援を求めた諸大名の中から”松永久秀“方に加わる者も現われた。

又“松永久秀”が、1566年(永禄9年)の段階で、同年2月17日に“矢島御所”で還俗し“義秋”に改名した“足利義秋”(義昭)そして“織田信長”方に与していた事は、1566年7月18日に“伊賀国・仁木長頼”が“足利義秋”(義昭)の側近“和田惟政”に“松永久秀”方の“勝龍寺城”(長岡京市)に加勢する旨を返答した史実がそれを裏付けているとされる。(その時、既に勝龍寺城は陥落していたが・・)又、後述する“東大寺大仏殿の戦い”(1567年4月18日~10月11日)でも“織田信長”方が“松永久秀”方を支援していた事も知られる。

9-(2)-①:“松永久秀”方が“上野芝の戦い”で敗れる

”三好義継“は”三好長慶“の末弟”十河一存“(生:1532年・没:1561年)の子で”あり“三好長慶“の養子に迎えられた事は既述の通りである。その実弟である“松浦孫八郎(松浦信輝・生:1553年?・没:1575年)”は“畠山秋高”(畠山政頼)の兄の”畠山高政“(生:1527年/1531年説・没:1576年)と与して”三好三人衆“方と対抗していた。

その“松浦孫八郎“を“松永久秀”は味方に引き入れていた。この事も、後に“三好義継”が“松永”方に逃げ込んだ事に大いに関係していたと思われる。(尚、松浦孫八郎/松浦信輝/は九条家文書に拠れば和泉国・守護代と記載されている)

1566年(永禄9年)2月17日:

“松永久秀”軍と同盟する“畠山秋高・(政頼)・松浦孫八郎”連合軍、同じく“安見宗男”(畠山政頼=秋高の家臣・生没年不詳)軍は“三好本宗家・当主・三好義継”を盟主とする“三好三人衆”軍と“堺・上野芝”で戦闘に突入した。

結果は“三好”方が勝利し、敗れた“松永久秀”方は“松浦孫八郎”(松浦信輝・松浦光とも称される)が籠城する“岸和田城“に逃れた。”松永久秀“方はこの敗戦で”堺“を奪還されたが、未だ”摂津国・滝山城“(神戸市中央区)並びに”越水城“(西宮市)そして”勝龍寺城“(長岡京市)と”西院城“(京都市右京区)が勢力下にあった。

敵方の“三好義継・三好三人衆”方は“飯盛山城”と“芥川山城”という“三好氏の本城”を確保していた。1566年(永禄9年)前半時点での両軍の勢力はトータル的には拮抗していたと著書“松永久秀”の中で“著者・天野忠幸”氏は記述している。

尚“上野芝の戦い”に敗れた“松永久秀”方ではあったが“京都”つまり“上洛”への通路は確保していたとされ、従ってこの時点では“松永”方と同盟する“足利義秋“(義昭)方が有勢であった。一方の”三好義継・三好三人衆“方が擁立する”足利義栄“の”上洛“への通路は敵方に拠って閉ざされていたという状況であった。

9-(2)-②:“滝山城“の戦いでも”三好”方に敗れた”松永久秀“方

1566年(永禄9年)2月17日~8月17日

“滝山城”の築城主は“赤松則村”(円心・生:1277年・没:1350年)と伝わるが、その後”松永久秀”が“三好長慶”に命ぜられ、改修し“西摂津”の拠点とし“越水城”を支城とする重要な城であった。

“三好三人衆”が“安宅信康”(あたぎのぶやす・生:1549年・没:1578年)に攻撃を命じた際に“滝山城”は何とか持ち堪えたとの記録がある。尚、攻めた“安宅信康”は兄“三好長慶”に拠って1564年5月9日に“飯盛山城”に呼び出されて殺害された“三好長慶”の真ん中の弟“安宅冬康”の長男である。この時は“淡路国”の水軍の総指揮官であった。

その後“三木氏、衣笠氏、明石氏”等“三好”方は援軍を送り込み、水の手を切る等の戦術を用いた為、さしもの“滝山城”も1566年8月17日に陥落したとある。尚“松永久秀”はこの時“滝山城”には居なかった。

9-(2)ー③:“滝山城“訪問記・・2021年(令和3年)5月12日(水)

住所:兵庫県神戸市中央区

交通機関等:
東京駅から新幹線で“新神戸駅”で降り、改札口で友人と合流、駅は裏山の登山口に接して居り、其処から“滝山城址”へ登って行った

歴史等:写真に示す説明版を参照方

訪問記:
写真に示す様に”新神戸駅”から歩いてすぐの処が”城山(滝山城跡)”への登り口であった。城址迄は1.2㎞と書かれている。登り始めたのが朝の10時半、史跡”滝山城址“に着いたのが11時半であるからゆっくりと1時間かけて登った事になる。途中当時を偲ばせる石垣があった。こうした山城をかなり訪ねたが、その度に”昔の武士達は重い甲冑を着て、よくぞこの様な急斜面を動き回ったものだ”と感心するのである。

堅固さが山城の防御にとって一番重要な事である事は分かってはいるが75歳をとうに越えた私にとっては“山城”の”史跡探訪”はなかなか大変な作業である。戦国乱世を経て、戦闘も少なく成り、鉄砲、大砲等、武器も火器が主流に成って来ると”山城”から,平たんな地形に築かれた“平地の要塞”を意味する”平城”(ひらじろ・ひらじょう)に変わる。

史跡訪問も近世の城の訪問になると楽に成るな~と考え乍らの”難攻不落”の名城”滝山城”訪問であった。尚”平城”という呼び方は日本独特の”山城”に対する語として使われる後世に作られた概念であり、海外に見られる要塞や宮殿を”平城”と呼ぶ事は無いとの事である。

写真:滝山城の歴史を記す説明版
写真:滝山城の歴史を記す説明版
写真上左&中:城趾に至る山城の道は防御目的の為、当然ながら厳しい山道が続く写真上右:滝山城趾を示す立派な石碑が建っていた

写真上左&中:城趾に至る山城の道は防御目的の為、当然ながら厳しい山道が続く
写真上右:滝山城趾を示す立派な石碑が建っていた

10:矢島の“武家御所”を拠点として“上洛”への動きを本格化させた“一乗院覚慶”は還俗し“足利義秋”に改名する

既述の様に1565年(永禄8年)11月~12月に“徳川家康”(当時満22歳)そして“織田信長”(当時満31歳)から“足利義輝殺害弔い合戦”への上洛参陣に応ずる旨の回答を得た“一乗院覚慶”側は“上洛“に向けての動きを愈々本格化させて行く。

“一乗院覚慶”方は遠国の有力戦国大名への“上洛要請”の交渉を続ける一方で、1566年(永禄9年)に入ってからは“畠山氏・松永久秀”との同盟、並びに“仁木氏・十市氏”からの支援を得る等“畿内”の諸大名を味方に付けるべく動いた。

11:“上洛”に向けての動きを本格化させるべく“一乗院覚慶”は“和田城”から“矢島御所”へ移り、此の地で還俗し“足利義秋”と名乗り、且つ、将軍就任の前提条件とも言える“従五位下左馬頭”任官に向けて“朝廷工作”にも動く

1566年(永禄9年)2月17日:

支援方の“松永久秀”が“上野芝の戦い”で三好三人衆”に敗れた日と同日の記録に“一乗院覚慶”が“矢島御所”で還俗し“足利義秋”と名乗った事が記されている。

11-(1):“足利義秋”(義昭)方は、非公式ルートで“将軍職”に就く為の前提条件とも言える“従五位下左馬頭”の叙任を手早く得る

1566年(永禄9年)4月21日:

この日の記録に“足利義秋”(義昭)方が“吉田神社”の神主“吉田兼右”(よしだかねみぎ・公卿、侍従・生:1516年・没:1573年)の斡旋という非公式ルートを使って、朝廷(第106代正親町天皇)から,次期将軍が就任する嘉例(かれい=吉例)であった“従五位下左馬頭“の叙位、任官を得た事が書かれている。尚、この時期に関して疑問視する説があるが“言継卿記”の記録から、少なくとも後述する“足利義栄”が1567年末に同じく“従五位下左馬頭“の叙位、任官を得るが”足利義秋“(義昭)への叙位・任官が先行した事は史実とされている。

11-(2):何故、朝廷は非公式ルートで“足利義秋”(義昭)に“従五位下左馬頭“叙任を与えたのか

本来は“武家伝奏”を経て“朝廷”に申請するのが正式な手続であるが、敵方の“三好三人衆”が擁立する“足利義栄”が“摂津国”にまで進出して来ている情況に配慮し“足利義秋”方が“吉田兼右”に内密に働きかけ“隠密裏”にこの任官を強行実現させたと“三好一族と織田信長”の著者“天野忠幸”氏は記述している。

この史実に就いては、守旧の牙城の“朝廷”が“第13代将軍・足利義輝”の同母弟である“足利義秋”(義昭)を正統な将軍後継者だと認識していた事は明らかであるとし“日本の特異性”である“血統信仰”を岩盤とした“伝統的家格秩序”に基づいた判断をこの時点で下したのであろうとの解釈をしている。

当時の情勢では”足利義秋“(義昭)に対抗して”足利義親“(義栄)を擁立する”三好“方が”松永久秀“方との戦いを優勢に進め、勢い付いていた。従って、公式ルートで“足利義親”(義栄)の“従五位下左馬頭“への叙任を要請して来る事は予想された。従って”朝廷“は後で起こるであろう厄介な問題(両者に同じ叙位・任官を与える事)をこの時点で抱え込んだのである。

12:敵方“足利義秋”(義昭)が非公式ルートで“従五位下左馬頭”の叙任を得た事で“三好義継・三好三人衆”方は“劣勢挽回”策として“足利義親”(1567年正月5日に義栄に改名)を擁立する“阿波三好家”の加勢を頼む事に成る

12-(1):“松永久秀”方との戦闘能力を強化する事が当初“三好義継・三好三人衆”方が“足利義親”(義栄)を擁立する“阿波三好家“の加勢を頼んだ目的であった

上記した“一乗院覚慶”(以後足利義秋)が“矢島御所”に本拠を構え、積極的に”上洛”の動きを開始した事に対して“三好義継・三好三人衆”方は“元堺公方・足利義維”の嫡男で“足利義秋”の従兄弟に当たる“足利義親”(義栄)を擁立する“阿波三好家”の加勢を頼み“松永久秀”方との戦闘能力強化を図った。

この動きは“足利将軍家”に代わって“三好氏”が政権を取るとの判断から“第13代将軍・足利義輝”を殺害し、自ら“三好義継”と改名までした彼のこれ迄の行動の全てを否定する事に成る。結果として後に“三好本宗家当主・三好義継”は“三好三人衆”が主導するグループから離脱するという“第二次・三好宗本家分裂”を招く事に成るのである。以後の“三好氏”は“三好三人衆“が中心となって”阿波三好家“と連携して行動するが”三好“方としては、其れ迄の路線とは大きく変わったグループへと変貌して行くのである。

尚“三好三人衆”を構成する三人については前項(6-20項)で紹介したが、以下に再度理解の助に載せて置く。

①:三好長逸(みよしながやす)・生没年不詳
三好長慶に仕えた三好一族で、添付した別掲図に示す様に“三好長慶”の従叔父で“三好三人衆”の筆頭格に当たる人物である。“三好長慶”からは、頼れる一族の年長者として信頼され“三好長慶”が芥川山城を嫡子“三好義興”に譲り、飯盛山城に移った後に“三好義興”が幕府出仕の為に“京”常駐となると、不在の“芥川山城”を任されている。 “三好長慶”没後は“三好義興”急死後に跡を継いでいた“三好義重(三好義継)”を補佐した。1565年5月19日の”将軍・足利義輝”を殺害した”永禄の変”の際には、彼も襲撃に参加している。

②:三好政勝(後に三好政生:生:1528年・没:1569年)
1次資料で確認される俗名は”政勝,政生“であり、出家して“釣竿斎宗渭”(ちょうかんさいそうい)と名乗っている。“三好政康”とする書もあるが、それは“細川両家記”の誤りとされる。彼も”永禄の変“の襲撃に参加している。

③:石(岩)成友通(いわなりともみち・生年不詳・没:1573年)
“阿波国”出身では無く“松永久秀”と同じく“畿内”で登用された人物である。“三好長慶”の奉行人として頭角を現し“三好政権”の中枢を占め、出世頭とされた人物である。
“三好長慶”没後には、後嗣の“三好義重”(三好義継)”を後見した。“松永久秀”を追放した“三好家内クーデター”後に“松永久秀”の地位に座った人物である。

“勝龍(竜)寺城”を西岡地区支配の為に整備、強化し“最初の勝龍(竜)寺城城主”と言われる。1569年に“織田信長”の庇護下にあった“足利義昭”を“本圀寺“に襲撃したが、撃退されている。後に“織田信長”に臣従したが、再び対立し“第2次淀古城の戦い”(1573年/天正元年/8月2日)で“細川藤孝”の家来に討たれた。この敗北で“三好三人衆”は完全に崩壊した。

12-(2):“阿波三好家”の重臣“篠原長房”は“元堺公方・足利義維“の嫡男”足利義親“(義栄)を擁立して”三好三人衆“方に加わる。この事で、グループの目指すものが”足利義秋“(義昭)方に対抗して”将軍職“を争うものと成り、大きく路線が変更となった

12-(2)ー①:“三好”方が“松永久秀”方に勝利する

1566年(永禄9年)5月:

“三好義継・三好三人衆”と“池田勝正”(三好三人衆の三好宗渭の甥)”が連合し、1566年(永禄9年)2月17日の“上野芝の戦い”で“松永久秀”軍と“畠山秋高(政頼)・松浦孫八郎(三好義継の弟)”連合軍を敗った。この戦いで“三好”方は“堺”を奪還し、既述の様に、この敗戦で“松永久秀”の消息が一時途絶えたと伝わる。

敗れたものの“松永久秀”方は“摂津国・滝山城”(神戸市中央区)“越水城”(兵庫県西宮市)“勝龍寺城”(京都府長岡京市)“西院城”(京都市右京区)を配下に治め“松永久秀・畠山秋高(政頼)・松浦孫八郎”連合として、一大勢力は保っていた。

一方の”三好”方は“飯盛山城”と“芥川山城”の“三好方本城”を確保していたが“京都”への上洛通路は“松永久秀”方に遮られるという状況であった。

12-(2)-②:“篠原長房”の活躍で“三好”グループ内での存在感を増した“阿波三好家”

こうした”阿波・三好家“の”篠原長房“に拠る動きは”足利将軍家“を廃して自らが政権を担うという路線を描いて来た”三好本宗家当主・三好義継“とは全く異なる路線を“三好グループ“が走り出した事を意味した。

この時点の”三好義継“には、敵方の“松永久秀”が“畠山秋高”(政頼)並びに自分の弟の“松浦孫八郎”と結んで“足利義秋”(義昭)を擁立して“上洛”を目指す動きをしている事も、更には、味方が“足利義親”(義栄)を擁立する“阿波国・三好家”の“篠原長房”の武力を活かして“畿内征圧”を目指すという動きも全く受容出来ず、彼としては矛盾の中に置かれていたのである。

こうして“松永久秀”父子を追放し、分裂した“三好宗本家”は“阿波三好家”と組んだ事で①当主・三好義継②三好三人衆③阿波三好家が“三者三様”の構想の下にチームを構成するという不安定な状態と成っていた。“三好一族と織田信長”の著者“天野忠幸”氏は、当時日本最大級の大名であった三好氏の内部が、様々な思惑を持つ勢力に分裂し、第13代将軍・足利義輝を殺害した“永禄の変”の後の“三好グループ”は同床異夢(同じ仲間うちでありながら異なった考えを持つ事)の状態だったと表現している。

1566年(永禄9年)6月23日~8月17日:

”阿波三好家“は”元堺府公方・足利義維“の嫡男“足利義親”(義栄)を擁立、その中心と成ったのが“重臣・篠原長房“(生年不詳・没:1573年)である。

彼は”三好長慶“の次弟“三好実休”の重臣だった人物で、彼が率いる軍勢は”淡路国・志知“(南淡路市)に進出“足利義親”(義栄)が四国一円に”軍事催促“を行ない、その先陣として”篠原長房“が25,000の兵を率いて”兵庫津“へ渡海している。

”篠原長房“軍は”松永久秀“方の”摂津国”の“越水城”を1566年(永禄9年)6月23日~7月13日の戦いで陥落させ“滝山城”も1566年8月17日に攻略した。この勢いに、京都の“清水寺”や大和国の“法隆寺”までが”篠原長房“(久米田の戦いで主君・三好実休を戦死させた彼は、剃髪して岫雲斎怒朴と号し、当時8歳だった実休の嫡男・三好長治を補佐し、三好三人衆と協調路線をとり、松永久秀と敵対した・生年不詳・没:1573年)に保護を求めて“禁制”の発給を要請する状況になった事が伝わる。

13:“三好”方は“大和国”を除き全ての“松永久秀“方拠点を壊滅状態にする

“松永久秀”と同盟していた“畠山政頼”並びに“根来寺”は次々と上記“三好”方との戦闘に敗れ、一時は行方知れずに成った“松永久秀”を見限り“三好義継+三好三人衆+阿波三好家”から成る“三好”方との和睦に動いた。

“松永久秀”方は“西院城”(1566年7月13日)“勝龍寺城”(1566年7月18日)そして“旧淀城”(1566年7月18日)を次々と“三好”方に落とされ“大和国”を除いた全ての拠点が壊滅状態と成るという非常に苦しい時期を迎えていた。その状況を以下に記す。

1566年(永禄9年)7月18日~8月17日:

“上野芝の戦い”(1566年2月)そして“滝山城の戦い”(1566年2月~8月17日)で敗れ“堺”も“三好方”に取り返される等“松永久秀”方は敗北を重ね、更に“勝龍寺城”も1566年7月18日に陥落している。

“勝龍寺城”の陥落に関しては城が陥落しそうな状況に“足利義秋”方の“伊賀国・仁木長頼“が”和田惟政“宛てに“勝龍寺城”への救援に向う旨を申し出た記録が“和田家文書”に残って居る事から“松永久秀”がこの時点で“足利義秋”並びに“織田信長”方と協力関係にあった事が裏付けられる事は既述の通りである。しかし、この時点で“足利義秋”(義昭)方、並びに“織田信長”方からの支援は届いていなかったのであろう。

“時既に遅し”で“勝龍寺城”は同日に陥落、同時期に“淀(古城)”も“三好三人衆”方に攻められ、開城と成った事も既述の通りである。“松永久秀”方がこの時期、敗戦を重ね、非常に苦しい時期を迎えていた事が分かる。

1565年11月に“三好氏内部のクーデター”で“三好氏”から追放された“松永久秀”は“畠山秋高”(政頼)並びに“根来寺と同盟したが、1566年(永禄9年)7月の時点では“大和国”を除く全ての拠点が壊滅状態となったのである。

“松永久秀”方のこの様な状態に、同盟関係にあった“畠山秋高”(政頼)と“根来寺”が“松永久秀”を見限り、敵方の“三好義継・三好三人衆“方との和睦に動いた事も既述の通りだが、戦国時代は“離合集散”が常であると言われるが、この例もその典型であろう。

“上洛への通路”を領地とし、敵方“三好”方の上洛への通路を確保し、阻んでいた“松永久秀”方の相次ぐ敗戦は痛恨の極みであり、この事は“足利義秋”(義昭)方の“第一次上洛計画”断念の一因と成った。

14:“足利義栄”を擁立する“阿波三好家”が“畿内上陸”に迫った事も“足利義秋“(義昭)方の“第一次上洛計画”が破綻に追い込まれる要因と成った

既述した様に”三好本宗家“内は分裂状態、そして”路線変更“という危うい状況にあり乍らも”足利義親“(義栄)を擁立し”主君・三好長治“を奉じ”三好三人衆“方に加わった”阿波三好家・篠原長房”の活躍で”畿内上陸“に迫っていた。

”畿内征圧“に迫る“篠原長房”の動きの一方で、敵方“足利義秋”(義昭)は“松永久秀”方が“大和国”を除く拠点を全て失うという敗戦を重ね、又、上洛支援を期待する”織田信長“方が”美濃国・斎藤龍興“との”河野島の戦い“に突入、しかも大敗北した事で”第一次上洛計画“を断念せざるを得なくなるという状況に悪化する。“河野島の戦い”に就いては後述する。

15:“三好義継”が畿内平定宣言を行う

1566年(永禄9年)6月24日:

“同床異夢”の“三好”方ではあったが“阿波三好家”の支援を得て“松永久秀”方との戦闘に勝利を重ねた“三好義継・三好三人衆+阿波三好家”は“三好本宗家当主・三好義継”が、この時点迄、世間に秘匿していた養父“三好長慶”の死を、3回忌を迎える前に公表し“真観寺”(大阪府八尾市)で葬礼を挙行している。

前項、6-20項7-(1)で“三好長慶”の死を隠した事は記した。この葬礼で“三好義継”は、武家社会上層部に於て共通の常識、秩序となっていた“五山”が主導する荘厳化された将軍の葬礼の形を執らずに“三好氏”が帰依する“大徳寺”を頂点にして“五山”と“林下”双方の禅宗寺院を編成するという葬礼の形をとった。

この意図も“三好氏”を“足利氏”の上に位置付け、諸大名の中に残る“足利将軍家頂点”という“伝統的家格秩序”を崩壊させようとの挑戦であった。

15-(1):“畿内”を平定し、又、葬礼を挙行した事で“天下人”だった“養父・三好長慶”の後継者に就いた事を喧伝した“三好義継”

1566年(永禄9年)7月:

2年間、その死を隠していた“養父・三好長慶”の葬礼を済ませた“三好義継”はその10日後、堺の“南宗寺”で“三好長慶“の3回忌も挙行している。

この場で“三好長慶”の画像(大徳寺聚光院所蔵)が掲げられ、先の“真観寺”の葬礼で導師を務めた“大徳寺”の“笑嶺宗訢”(しょうれいそうきん・大徳寺107世・生:1505年?・没:1584年)が画像に下記“賛”(画賛とも言い、作品の画に鑑賞者が観賞文、賛辞を画の上部等に書き加える)を記している。尚“笑嶺宗訢”はこの16年後(1582年)に“織田信長“が”本能寺の変”で討たれ“羽柴秀吉”に拠って葬儀が“大徳寺”で行なわれた時にも導師を務めている。

一剣を按成して天下を定め、今日の威風は掌を歴て来る

この時点で“三好義継”は“松永久秀”を見限り“三好”方に近づいて来た“畠山氏”そして“根来寺”との和睦の目途も立て“天下人・三好長慶”の後継者に就いた事を世間に高らかに喧伝したのである。

16:同床異夢の“三好”方の結束が遂に破れ“三好本宗家当主・三好義継”がグループを離脱するという“三好本宗家・第二次分裂”へと向かう

別掲図とその解説で“三好本宗家当主・三好義継”が“畿内平定宣言”を行いながらも“三好氏”が分裂を起こして行く状況を理解する助とされたい。

三好氏略系図と細川晴元政権の成立
16-(1):上図(三好家)家系図に見る“三好本宗家分裂”の解説

上図の赤色で示した“三好三人衆”側は”三好義継”を当主とし”三好長慶”が築いた権力をベースとした”三好本宗家”と称されるグループである。

”三好本宗家“は1565年11月16日のクーデターで”松永久秀・松永久通”父子を追放した時点で“三好義継・三好三人衆”グループと成り”松永久秀”が組んだ“畠山秋高”(政頼)並びに“根来寺”との連合を敵として戦う。これが”三好本宗家”の”第一次分裂“後の姿である。

この図には書かれていないが”松永久秀・畠山秋高(政頼)”連合は”足利義秋”(義昭)を擁立する”織田信長”等と組み”将軍・足利義輝弔い合戦”と銘打つた”上洛“の動きを展開して行く。

一方、この“三好”グループは、文中で述べた様に”三好本宗家当主・三好義継“は”第13代将軍・足利義輝”を殺害し”足利将軍家“を廃して”三好本宗家”に拠る政権を打ち立てるという明確な路線の下に行動して来た筈であった。しかし、追放した”松永久秀“方との戦闘に勝利すべく、上図青色で示した”三好実休(三好義賢)”の重臣“篠原長房”並びに”三好実休“の長男”三好長治”更には次男“三好存保”等が継承する”阿波三好家”と同盟した事で、新たな”三好本宗家グループ“を構成する事に成った。

この新たなグループの問題は“足利将軍家”の”足利義親“(義栄)を擁立する”阿波三好家“が加わった事で“足利義秋”(義昭)を擁立して“上洛”を目指す敵方と、空席の将軍職を巡って上洛を競い合う事に成った事である。

この動きは“三好本宗家当主・三好義継”にとっては“永禄の変”を起こした意図を無にする事であり、耐えられないものであった。そして”同床異夢“のグループは”三好本宗家当主・三好義継”が離脱し“松永久秀”方に逃げ込むという”三好本宗家・第二次分裂”へと繋がって行くのである。

16-(2):”畿内平定“を達成したものの“三好本宗家当主・三好義継”にとって“阿波三好家“が加わった”三好グループ“は、空席の将軍職を巡って“上洛”を競うという“路線変更”となり、耐えがたい矛盾の中に放り込まれた状況であった

“足利将軍家”は“流浪将軍”が常態化し“天皇家”も“三好氏”を“足利将軍家”に代わる“武家を代表する存在”と見做していた。そうした状態の”京都“に“永禄の変”が起こり“三好義継”一派が“第13代将軍・足利義輝”を殺害した。しかし同母弟の“一乗院覚慶”(足利義秋)”が生き残った事で“日本の特異性”である“血統信仰”に基づく“伝統的家格秩序“を重んじる動きが誘発され”三好義継“一派の路線は大きく変貌せざるを得なくなったのである。

“第13代将軍・足利義輝”の同母弟“足利義秋”(義昭)を擁立する一派は“血統信仰・伝統的家格秩序”という“日本の特異性”を味方に付け“三好”方を“将軍殺害者”と位置付け“三好氏討伐”という“大義名分”を高らかに掲げて、空席の“将軍職”の座を巡って上洛の動きを加速させて行く。その象徴的な動きが1566年(永禄9年)4月21日に非公式ルートで”足利義秋”(義昭)に早々と“従五位下左馬頭”の叙任を得させた動きであった。これは、空席の将軍職を巡って“上洛”を競い合うという路線変更をせざるを得なくなった”三好義継・三好三人衆”にとっては明らかに劣勢に立たされた事を意味した。

16-(3):別掲図“三好義継・三好三人衆がクーデターで追放した松永久秀との戦闘に阿波三好家の活躍で勝利したものの後に禍根を残す“の解説

“三好本宗家”の分裂は“別掲図”の最上段で図示した“三好義継+三好三人衆”方と“松永久秀方“が、先ず”三好本宗家“内のクーデターに拠って分裂した。

その“松永久秀”が“畠山秋高”(政頼)並びに“根来寺”と結んだ事で、分裂直後の両陣営は“勢力拮抗”という状態であった。

この拮抗状態から抜け出すべく“三好”方は“阿波三好家“(当主三好長治+重臣篠原長房)の支援を得た。その結果,同図の1565年(永禄8年)、1566年(永禄9年)で記した様に“三好”方は“松永久秀”方との戦闘で勝利し“松永久秀”方の“大和国”を除く全ての拠点を壊滅状態にさせた。

同図では、その結果“松永久秀”と組んだ“畠山政頼”と“根来寺”が敵方の“三好”方と和睦する動きを1566年(永禄9年)7月にした事を示している。しかし“足利義栄”を擁立する“阿波三好家”の加入は”三好本宗家当主・三好義継“にとっては図に示した様に“3つの禍根”として残り、当主自身が“三好グループ“から離脱するという”第二次三好本宗家“の“分裂“へと繋がったのである。

“三好義継”は離脱後“松永久秀”方に逃げ込む。こうした展開の結果“三好”氏は“三好三人衆“を中心に”足利義親“(義栄)を擁立する”阿波三好氏当主・三好長治“そしてその重臣”篠原長房“から成る、新たな”三好“方として”足利義秋“(義昭)を擁立する一派と“将軍職”を争い、そして“上洛”を競う闘争を展開して行くのである。

三好義継・三好三人衆
17:“上洛”を急ぐ“足利義秋”は“織田信長”と“斎藤龍興”との和睦を成立させ“織田信長”からの“上洛支援”への約諾を取る

17-(1):有力武将達からの“上洛支援”の動きが具体化せず“松永久秀”も“三好”方との戦闘で苦戦を重ねるという状況下でも“上洛”を諦めなかった“足利義昭”の様子

“第一次上洛計画”を断念しなければならない様な状況が重なった“足利義秋”(義昭)ではあったが、下記の武将達に尚も“軍事催促”を出し続けていた事が“多聞院日記”に記録されている。

1566年(永禄9年)4月21日~8月22日:

①:若狭国”武田氏”・・1566年(永禄9年)4月21日付で“足利義秋”からの御内書の形で出されている
②:大和国”十市氏”・・1566年(永禄9年)7月17日付で、将軍・足利義輝の“弔い合戦”への参加呼び掛けが出されている。
③:尾張国”織田信長“・・1565年(永禄8年)12月5日時点で“細川藤孝”からの参陣要請に応ずる旨の回答を既にしていたが一向に具体的行動に移らない為”足利義秋”はその後も再三支援要請を出し続けた。”織田信長”は漸く1566年(永禄9年)8月22日に出陣する旨を約諾した事が伝わる。
④:伊賀国“仁木長頼”・・殺害された”将軍・足利義輝“の御相伴衆であった”仁木氏”に対しても“弔い合戦”に参加する様、要請する書状を送っている。

17-(2):“織田信長”から、上洛支援の約束を得た”足利義秋“(義昭)

“足利義秋”(義昭)は“織田信長”が上洛支援する為に障害であった交戦状態にある”美濃国・斎藤龍興“との和睦成立に動き”和田惟政“並びに”細川藤孝“を説得に当たらせ、和睦を成立させた。

1566年(永禄9年)8月22日:

”美濃国・斎藤龍興“との“和睦”が成った事で“織田信長”は上記した様に、1566年(永禄9年)8月22日付けで“上洛支援”の為の出陣を“足利義秋”(義昭)に約諾している。

18:“足利義秋”(義昭)の仲介で成った和睦を反故にし“織田信長”と“斎藤龍興”が戦闘に突入“足利義秋”(義昭)の“第一次上洛計画”破綻の決定的要因と成る

18-(1):和談が破棄され“織田信長”と“斎藤龍興”が“河野島の戦い”に突入し“織田信長“が大敗する

1566年(永禄9年)閏8月8日

何方が先に“和睦”を破棄したかについては諸説があり、はっきりとはしない。和睦を破棄した“織田信長”と“斎藤龍興”は“河野島の戦い”に突入した。

この戦いで“織田信長”は大敗を喫し“足利義秋”(義昭)と1566年(永禄9年)8月22日付で約諾したと伝わる“上洛支援”の為の挙兵は反故と成った。この戦いの様子を伝える唯一の史料(中島文書)は、この戦いは“織田信長”にとって、屈辱的な敗戦であったとし“天下之嘲弄”と“織田信長”を痛烈に批判している。

“山梨県・中島家”の“中島文書”は“斎藤氏”の家臣の連判状で“安藤定治・日根野弘就・竹越尚光・氏家直元”の連名で書かれており“美濃・尾張・甲斐”三国の関係を伝えると共に“足利義秋”(義昭)が上洛する前の“河野島の戦い”に就いて伝えている。

宛先人が誰であるのかに就いては“斎藤家奉行四人‟説もあれば”武田信玄“の側近である“甲斐国・恵林寺住職”の“快川紹喜”(かいせんじょうき・武田信玄に機山の号を授けた・生:1502年・没:1582年)宛との説もある。

”河野島の戦い“に就いては”織田信長”方の敗戦である為か“信長公記”には記載が無く、“中島文書”が唯一の史料とされ、情報が殆ど無い。従ってこの戦争の実態に就いては良く分かっていない。”信長公記“に記載が無い理由を敗戦であった為“太田牛一”が意図的に隠したとの説もあるが“信長の天下布武への道”の中で著者“谷口克広”氏は“織田信長”の上洛に至る迄の凡そ3年間の記事自体が、そもそも、まばらに成って居り、上記説を否定している。

いずれにしても“中島文書”は“斎藤家”側のものである事から“信長はこの敗戦で天下の笑い者になっている“等、批判的な表現等が多く、内容に就いては割り引く必要があろう。

18-(2):“中島文書”が伝える“足利義秋”(義昭)が仲介した“織田信長”と“斎藤龍興”との和睦を反故にした“織田信長”への批判、並びに“戦闘状況”(谷口克弘著・信長の天下布武への道より)

織田信長が”足利義秋“(義昭と記している)を擁立して上洛する事を引き受けたので”義昭公”は織田と斎藤が停戦する事を仲介した。

こちら(斎藤氏)も”義昭公”の上洛の為を思って“和睦”を承知し、誓書を使者の“細川藤孝”に渡した。こうして近江への通路も整ったので“藤孝”が尾張迄下り,急いで(足利義秋の上洛支援に)参陣する様にと“信長”に催促した。

それにも拘わらず”信長”は約束(注:1566年/永禄9年/8月22日付で足利義秋に上洛支援の挙兵を約諾した事)を違えて動こうとしない。”義昭公”は大変機嫌を損ねておられる。畿内で“三好三人衆”が”義昭公”の上洛を妨げる様に画策しており、その為に”信長“が躊躇している様だ。

このまゝでは”義昭公”は矢島(滋賀県守山市)にも止まる事が出来ず“朽木”(滋賀県高島郡朽木村)か”若狭”(福井県)辺りに移らなくてはならないと言う。”信長”は天下の笑い者に成っている。“龍興”(斎藤)は”義昭公”を軽んずる積りなど無いのに仕方が無い事態である。


“中島文書”が伝える“河野島の戦い”の戦況

1566年(永禄9年)8月29日:

この八月二十九日(1566年)、信長(織田信長)は尾張・美濃の境目まで出張して来た。その頃、木曽川は増水していたが、川を渡って河野島に着陣した。すぐに龍興(斎藤龍興)が軍を率いてそれに向かったが、信長は戦わずに軍を引き、川のふちに移動した。美濃軍も川を隔てて陣を布いた。
その翌日、風雨が激しく、両軍とも戦いを仕掛けられなかった。ようやく水が引いて,美濃軍が攻めかかろうとしたところ、今月(閏八月)の八日の未明になって、にわかに信長軍は川を渡って退却を始めた。ところが川は増水していたので、大勢が溺れてしまった。そのほかの兵も美濃軍に襲われて討ち取られたり、兵具を捨てて逃げていった。そのていたらく,前代未聞の有様である。

1566年(永禄9年)閏8月8日:

それを知った”斎藤龍興”軍は“織田軍”を攻撃“織田軍”の多くの兵士が撤退中、川で溺死し、残った兵も“斎藤龍興”軍に討ち取られた。“織田軍”は武器を捨てて退散したという散々な有様であった。


これが“斎藤龍興”家臣が連判状(中島文書)に書き遺した“河野島の戦い”の状況である。“東・中美濃”から確実に“斎藤龍興”の攻略を進めて来ていた“織田信長”であったが、この“河野島の戦い”で大敗した事を伝えており、これは信憑性が高いものと考えられている。

19:“近江国・六角義賢”(承禎)が“三好”方に鞍替えした事で“三好三人衆”方と戦う事が避けられなくなった事に対して“織田信長“は、自軍の軍事力が十分で無いと判断した事も”上洛支援の為の挙兵“を躊躇した今一つの理由であった

1566年(永禄9年)8月29日:

“織田信長”が“河野島の戦い”で敗北を喫していた同じ時期に“近江国守護・六角義賢”(承禎)が”足利義親“(義栄・後の第14代将軍、父親は元堺公方・足利義維・生:1538年・没:1568年)を擁立する”三好三人衆“方に鞍替えをし(調略されたとも)”足利義秋“の上洛を阻止する側に立った。

この状況は“織田信長”が首尾よく“京都”に入ったとしても”三好三人衆“並びに“近江国・六角氏“との戦いが避けられない事を意味し、この段階では“尾張国“一国だけの兵力しか動員出来ない”織田信長“としては”上洛“支援の挙兵を躊躇した理由とされる。

20:“足利義秋”(義昭)が“第一次上洛計画“を断念する

以上記述して来た様に“足利義秋”(義昭)の強い希望にも拘わらず“第一次上洛計画”を断念せざるを得ない状況が重なった。以下に“第一次上洛計画頓挫”に関わった出来事を纏めて置く。

①:1566年(永禄9年)2月~8月
“松永久秀”方が“上野芝の戦い”(2月)”滝山城の戦い”(2月~8月17日)”勝龍寺城の戦い”(7月18日)と敗れ”大和国”を除く拠点を全て失った事
②:1566年(永禄9年)8月29日
“六角義賢”(承禎)が”三好”方に寝返った事
③:1566年(永禄9年)閏8月8日
”織田信長”が“河野島の戦い”に突入し大敗し”上洛支援”の約諾が反故に成った事


21:“足利義秋”(義昭)方の“第一次上洛計画”が頓挫した事で“足利義秋”(義昭)は“越前国”に退く決断をした。敵側の“三好”方は内部に“当主・三好義継”の離脱目前という爆弾を抱えていたが、擁立する“足利義親”(義栄)に上洛競争に勝利するチャンスが転がり込んで来た事を意味した

1566年(永禄9年)9月23日:

“三好”方が有利に戦闘を進める状況下“足利義親”(義栄)は“父親・足利義維”並びに“弟・足利義助”(足利義維を初代とする平島公方2代目と称された・生:1541年・没:1592年)と共に渡海し“摂津国・越水城”に入った事が記録されている。

22:“足利義秋”(義昭)は“第一次上洛計画”を断念し“越前国”へ退避する

22-(1):“矢島御所”を出て“若狭国・武田義統”を頼った“足利義秋”(義昭)

1565年11月21日に“矢島御所”に移った“足利義秋”(義昭)はこの地から盛んに有力戦国大名達に書状を送り、自分を擁立して上洛する様、催促した。しかし、既述の様に各武将夫々が問題を抱える状況にあった為、何れの武将達からも前向きの回答は得られなかった。

加えて“足利義秋”(義昭)の“第一次上洛計画”を断念せざるを得ない、不利な状況が続けて起こった事を記したが、中でも1566年(永禄9年)8月22日付で“斎藤龍興”との”和睦“を仲介した”足利義秋“(義昭)に対して”上洛支援“の出陣を約諾した“織田信長”が”河野島の戦い“に突入、しかも大敗し、結果として約束を反故にした事は大きかった。

1566年(永禄9年)8月29日:“足利義秋”(義昭)が“若狭国”へ脱出

加えて“三好”方が“矢島御所”を襲撃するとの風聞も広がった。”足利義秋“(義昭)は、難を逃れる為、僅か4~5人の供を従える姿で妹婿の”若狭国守護・武田義統“(たけだよしずみ・妻は第12代将軍・足利義晴の娘・生:1526年・没:1567年)を頼って“若狭国”への退避を決断したのである。

22-(1)ー①:“若狭国”(福井県)では“武田義統”と、息子の“武田元明”が不仲で諍い(争い)があった

”第一次上洛計画“を断念し”若狭国“への退避を決断した”足利義秋“(義昭)を待ち受けていたのは“若狭国・武田義統“が置かれた苦しい状況であった。家臣が未だ満4歳だった子息”武田元明“(たけだもとあき・生:1562年・没:1582年)を立てて、内紛状態にあったのである。

“武田義統”は“足利義秋”(義昭)を支援して“上洛”するという状況には無かった。せめてもの義理を果たす為、実弟の“武田信景”(生年不詳・没:1582年)を“室町将軍家”に出仕させる事を約束したが“足利義秋”(義昭)はここ“若狭国”に留まる事が出来る状態では無かったのである。

22-(2):“若狭国“を出て”越前国・朝倉義景“の招きで”一乗谷“に移った”足利義秋“(義昭)

22-(2)ー①:先ずは“越前国・敦賀”で14ケ月程留まりその後“一乗谷”に移る

1566年(永禄9年)9月8日~1567年(永禄10年)11月21日:

“若狭国”を出た“足利義秋”(義昭)は“越前国・敦賀”へ移動した。この“敦賀”で翌年1567年(永禄10年)11月迄滞在している。この時”足利義秋“を歓待したのは”朝倉義景“の家臣“朝倉景恒”(あさくらかげつね・生年不詳・没:1570年9月28日)であった。感謝した“足利義秋”(義昭)は彼を“中務大輔”(なかつかさのたいふ=中務省の次官で正五位上相当)に任じて報いている。

その後“足利義秋”(義昭)は、1567年(永禄10年)11月21日に“朝倉義景”の招きで“一乗谷”に迎えられるのである。(写真年表参照)

此の地で“足利義秋”(義昭)は抗争を続ける“上杉謙信”並びに“甲斐国・武田信玄”そして“相模国・北条氏康“等の講和仲介等をした事が記録されている。飽くまでも”上洛“を諦めない“足利義秋”(義昭)の執念が伝わる。

2019年6月21日訪問、撮影のもの
写真上:朝倉氏略年表に1567年11月敦賀から一乗谷に移った事が書かれている
写真下:朝倉義景の墓。五代とは越前守護家としてであり、朝倉家としては11代当主である
23:“三好グループ”が抱えて来た“爆弾”が遂に炸裂“三好本宗家・第二の分裂”が起こる

23-(1):“三好本宗家当主・三好義継”がグループを離脱し“松永久秀”方に逃げ込む

“阿波国”から“篠原長房”が“足利義栄”を擁立し、加わった事で、対“松永久秀”の軍事力は強化され“松永久秀”方との戦には勝利する事が出来たが”阿波三好家“が加わった”足利将軍家“の血統を擁立する“新しい構図”は“同床異夢”の”三好グループ“と成り”三好本宗家当主・三好義継“にとっては耐えられない路線を歩む事と成った。

特に、敵方の“足利義秋”(義昭)が“従五位下・左馬頭”の叙任を早々と得た(1566年4月21日)事は“三好グループ“にとっては劣勢に置かれた事を意味し、対抗上“足利義親”(義栄)を将軍に就けるべく、動きを早める必要が出て来たのである。

“三好本宗家当主・三好義継”にとっては“将軍足利義輝”を殺害した“永禄の変”を無にし、彼の政権構想とは真逆とも言える事態が加速する事に我慢が成らず“三好グループ”が抱えて来た“爆弾”が遂に爆発するのである。

23-(2):“三好義継”側近達にも広がった不満

前年から“三好義継・三好三人衆”グループに加わり“松永久秀”との戦いの勝利に決定的な役割を果した“阿波三好家重臣・篠原長房”は発言力を増し“元堺公方・足利義維”の嫡子“足利義親“(義栄)を擁立して”将軍の座“を目指し“上洛”するという路線が“三好グループ”の主流と成った。しかもこの“新たな三好グループ”内の実権は“三好三人衆+阿波三好家”が握り、若輩(当時満18歳)の“三好義継”の立場は蔑ろ(ないがしろ)にされて行った。

当然の事乍ら“三好義継”側近達の間には不満が募った。そして、被官の“金山信貞”が“三好三人衆”並びに“阿波三好家”と手を切り“松永久秀”と結ぶ事を“三好義継”に教唆(そそのかす)した。そして“三好義継”はグループからの離脱を決断したのである。

23-(3):”三好本宗家当主・三好義継“が”三好グループ“を離脱する

1567年(永禄10年)2月16日:

”三好義継“は”三好康長“並びに”安見宗房“と一緒に出陣したと見せかけ、少数の被官を連れて“高屋城”を脱出し“堺”に赴き“松永久秀”の許に逃げ込んだ。

1567年(永禄10年)4月6日~4月12日:

”三好三人衆・阿波三好家“が設定した、異なる路線を走る”同床異夢“の”三好グループ“から離脱した“三好本宗家当主・三好義継“は”信貴山城“の”松永久秀“に保護を求めた。
(三好義継は満18歳)

”松永久秀“方は”三好本宗家当主・三好義継“が逃げ込んで来た事で、後に劣勢挽回を果たす事に成る。先ずは“三好義継”と“松永久秀”は揃って“多聞山城”に入城している。(1567年4月12日)

一方“三好義継”に逃げられた“三好三人衆・阿波三好家”方は混乱に陥り、当時満14歳の“阿波三好家当主・三好長治”(生:1553年・没:1577年)を立て“三好三人衆+篠原長房+三好康長”に拠る“集団指導体制”を執り、混乱状態を鎮める目的もあって“三好義継“が去った翌月の1567年3月には“畿内”に渡海する動きを開始した。

24:“美濃国・斎藤龍興”との戦闘に勝利し、追い出した事で“織田信長”は愈々“足利義秋”(義昭)を支援して“上洛”への動きを本格化する

24-(1):“稲葉山城”攻略を開始した“織田信長”

“稲葉山城”攻略が行われた正確な時期(年月)に就いては既述の“河野島の戦い”との時間的整合性を考慮した議論が長年に亘ってされて来ている。以下“信長公記”が伝える“稲葉山城”攻略の時期(年月)をベースに記述して行く。

1567年(永禄10年)8月1日:

“信長公記”には以下の様に簡単に書かれている。

八月朔日、美濃三人衆、稲葉伊予守・氏家卜全・安東伊賀守申合せ候て、信長公へ御身方(味方)に参るべきの間、人質を御請取り候へと申越し候

上記が伝える事は“美濃国・稲葉良通”(後の一鉄、美濃国曽根城城主・春日局の外祖父、最初は土岐頼芸/ときよりあき/に仕えたが、後に彼を追放した斎藤道三に仕えた・生:1515年・没:1589年)が“西美濃三人衆”の残りの仲間二人(氏家直元・安藤守就)と共に1567年8月1日に”織田信長“方に内通し“斎藤龍興”の配下から離脱した。“織田信長”に降ったこの三人は本領を安堵されている。

三人の離反を受け入れた“織田信長“は直ちに家臣の”村井貞勝“(生年不詳・没:1582年6月2日主君・織田信長と共に本能寺の変で討ち死)と”島田秀順“(秀満とも称す・生没年不詳)を敵方の人質を受け取る為に派遣した。ここでも“織田信長”の特異性である、行動の早さを発揮し、敵の人質が未だ到着する前に出陣の命令を下し“稲葉山城”の峰続きの“瑞龍寺山”に上り“井の口”の町に火を放った。

24-(2):“稲葉山城”が落城し“斎藤龍興”は“長島”に逃れる

1567年(永禄10年)8月15日:

“信長公記”には下記の様に記されている。

八月十五日、色々降参候て、飛騨川のつづきにて候間、舟にて川内長島へ龍興退散

上記した“西美濃三人衆”が連名で“斎藤龍興”の配下から離脱し“斎藤龍興”が籠城する“稲葉山城”の城下町“井の口”が焼き払われ、落城が決定的と成った。“斎藤龍興”は援軍の無い籠城は無意味だと悟り、1567年(永禄10年)8月15日に“長島”(岐阜県桑名市)に逃亡した。(信長公記)

この後“織田信長”は“小牧山城”(1563年~1564年に美濃国攻略の為に築城し、麓一帯に城下町を建設した)から”稲葉山城”に拠点を移す。”稲葉山城“落城の正確な時期(月日)に就いては、1567年(永禄10年)である事は確かであるが、詳しい月日に就いては、8月説、9月説があり、定説に至っていない。(谷口克広氏著・信長の天下布武への道)

24-(2)ー①:“斎藤龍興”の首は取れなかった“織田信長”

“織田信長”は“長島”に逃れた“斎藤龍興”を追撃したと思われるが、結局、討ち果たす事は出来なかった。しかし”美濃国全域“を支配下に置き、この時点で“足利義秋”(義昭)を擁立する“群雄”の中で“上洛レース”の先頭に立ったのである。

“稲葉山城”に入った“織田信長”は“井の口”の地名を“岐阜”と改め、この時以降“天下布武”の印判を使用する様に成った。以後、1579年5月に“安土城”に移る迄の12年間をこの“岐阜”を本拠地として“全国統一”というビジョンを掲げ闘い続ける事に成る。

尚“上杉輝虎”(1561年12月に足利義輝から偏諱を得て/輝虎/と改名している、既述の通り謙信と称するのは1570年12月、満40歳の時の事である・生:1530年・没:1578年)から“織田信長”に対する“稲葉山城攻略”を祝賀する文書が送られている。その日付は1567年(永禄10年)10月13日である。(大阪城天守閣所蔵文書)

“織田信長・不器用すぎた天下人”の中で“著者・金子拓”氏は“織田信長”と“上杉輝虎”(謙信)は既に1564年(永禄7年)時点で通交があった事が当時の手紙で確認されており両氏は互いに書状を取り交わし、周囲の大名との間で生じた軍事行動等を報告しあう関係であった事を記述している。

両者が取り交わした書状からは”織田信長“が”上杉輝虎“に対してかなり下手に出ており、丁寧に接している事が分かる。その理由は“上杉輝虎”は当時、関東管領職に就いており(1561年・永禄4年閏3月16日・この時上杉政虎に改名し、上記した足利義輝の偏諱を受けて更に上杉輝虎と改名した事は既述の通りである)“伝統的家格秩序”の点から“尾張守護家の守護代一族”に過ぎない“織田信長“とは”家格の歴然たる違い“がある事から”上杉輝虎“(上杉謙信)の自尊心に忖度した“織田信長”の巧みな外交術だと指摘している。

24-(3):“織田信長”が掲げた”天下布武”の意味について・・”天野忠幸”氏が示した見解、並びに“安土城”築城後に“下り龍天下布武印”にデザインを変えた事は“織田信長”のビジョンがスケールアップした事だ、と指摘する“本郷和人”氏、この両氏の見解を紹介する

24-(3)-①:”三好一族と織田信長”の中で著者“天野忠幸”氏が示した見解・・“天下布武”(印)は“京都”並びに“畿内支配”を宣言する為の象徴である

“織田信長”が”天下布武印判“を使い始めた事を“信長が武力による全国統一への決意を示すものだとの解釈が一般的であった。

“織田信長”は”天下布武”の印判状を“大友宗麟、毛利元就、伊丹忠親、上杉謙信、佐竹義重、田村清顕、伊達輝宗”等に送った書状に用いている。武力による“全国統一”という意味であれば、彼等に対する“宣戦布告”に他ならない事に成る。更に、もしその意味であったなら、そもそも、そのような印判を使用する“織田信長”に”足利義昭”は“上洛支援”を頼る事をしなかった筈であろう。

更に”三好三人衆”と与して“織田信長”の上洛を妨げて来た“斎藤龍興”を”美濃国”から追放した直後という状況を踏まえると”天下布武”の意味は“畿内を平定し、足利義昭を将軍に就け、幕府を再興する”という意思表明に他ならない。そして後に“槙島城の戦い”(1573年7月)で”将軍・足利義昭”を追放する事に成るが、その後も“天下布武”の印判を使い続けた“織田信長”の意図は、自らが“京都・並びに畿内”を支配しているという宣言にすぎない。


24-(3)-②:”天下布武印“のデザインが”安土城“築城後に変化した事に注目して”本郷和人“氏は“織田信長”のビジョンが“全国統一”というビジョンにスケールアップしたとの見解を示す

“織田信長”が用いた“天下布武印”は“京都”を支配下に置き“安土城築城”(築城開始は1576年1月、天守に織田信長が移り住んだのは1579年5月)をした後に、デザインの変化が見られる。添付した写真に示す様に、変えた後のデザインには“下り龍”が付加されており“下り龍天下布武印”と呼ばれる。

“本郷和人”氏は“織田信長”が“日本列島を均一に纏める“という”全国統一“のビジョンにスケールアップした事を表しているとの見解を示している。

以下に“本郷和人”氏の見解を要約する。

“天下”とは日本列島全体の事では無く“京都”若しくは“畿内”を指した。“京都”を抑える事が当初の“織田信長”の目的であった。そして、その大義名分の旗印に“足利義昭”を奉じて上洛した。

“天皇家”の存在を秩序として重要視した“信長”にとって“京都”は“堺”と同様、商業流通網の中心であり“経済拠点”として抑える目的としての上洛でもあったと考えるべきであろう。それを裏付ける史実として“織田信長”は“足利義昭”から“副将軍になってくれ”と頼まれたが断っている。崩壊しかけている室町幕府の秩序に“織田信長”は興味を持たなかった。

1508年7月に山口の“大内義興”(生:1477年・没:1528年)が第10代将軍”足利義尹“(義材~義尹~義稙と改名)を将軍職に復帰させ、自らも管領代として”細川高国“と共に幕府を執行する立場に成ったケースがあるが“政治都市”としての“京都”も“副将軍職”も”織田信長”にとっては魅力では無かったのである。

“織田信長”のビジョンの主眼は“京都”と“堺”を抑える事で“経済”を抑える事であった。具体的には鉄砲を確保し、軍事的優位に立つ事が目的であり“豊かさこそが国の強さ”であるという発想、それが“織田信長”が掲げた“天下布武”の本質であった。

更に“本郷和人”氏は“畿内”征圧後の“織田信長”がビジョンをスケールアップした意気込みが其れまでの“天下布武印”から“下り龍天下布武印”にデザインを変えた事に表れているとして以下の様に解説を加えている。

”織田信長”の”天下布武”の意味する処が”京の征圧“にあったとすれば”天下布武印”を以後は使い続ける必要は無く成っていた筈である。にも拘わらず”織田信長”は更にスケールアップした形にデザインを変えて”天下布武印判”を使い続けている。この“下り龍天下布武印”からは”織田信長”の天下統一に対するより強い意欲が見て取れる。

”武田信玄”が掲げたビジョンは”風林火山”であり”上杉謙信”が掲げたビジョンは”毘”(毘沙門天)であった。更に”北条氏”のビジョンは”禄寿応穏“(ろくじゅおうおん=財産と生命は守られるべし)そして”織田信長”の影響を受けた”徳川家康”のビジョンは“厭離穢土欣求浄土”(おんりえどごんぐじょうど)つまり“戦いに明け暮れた乱世を否定し、浄土を求める”というものであった。

この様に、他の武将達が掲げたビジョンは”自分が信ずるもの“や”利益”を提示するものであったのに対して”織田信長”のビジョンは”日本は一つに成るべき“(つまり全国統一)を掲げたもので、当時としては画期的なビジョンへとスケールアップしている。

以上の様に“織田信長”のビジョンは、他の名だたる“戦国大名”と比較してスケールが大きい事を指摘し、更に、彼が“革命的な戦国大名”であり“歴史的な人物”であったとして以下の様に締めくくっている。

“織田信長”は他の戦国大名と違って”自分の国”という意識から離れ本拠地も清洲~小牧山~岐阜~安土と変えている。もし“本能寺の変”で討たれていなければ、次は”大坂”に本拠地を移したであろう。
その他“人事”でも有能であればどの様な出自の者でも抜擢した。
これ等を総合して“織田信長”という人物の視野の広さは革命的であり、抜群に優れた”歴史的人物”であった。

24-(4):“岐阜城”訪問記・・2020年(令和2年)9月15日

住所:岐阜県岐阜市天守閣18
交通機関、その他:
東京駅から新幹線で名古屋駅で降り、JR東海道本線に乗り換え“岐阜駅”で友人と合流した。“金華山麓駅“からはロープウエイに乗り換え(大人往復1100円)3分程で”金華山頂駅“に到着。NHK大河ドラマ”麒麟がくる“が放送中のタイミング(2020年1月19日~2021年2月7日)であり、当時の“稲葉山城”を本格的に整備した“斎藤道三”(俳優・本木雅弘が演じた)の生涯絵巻等、展示物も賑やかであった。岐阜県の代表的な観光スポットでもあり、ロープウエイの到着点”金華山頂駅“の近くには家族連れに人気の“リス村”がある。私が名古屋に勤務していた1975年~1980年頃には子供達を連れて“リス村”に遊んだ事を思い出しながら史跡訪問に進んだ。

歴史等訪問記:
岐阜城(旧稲葉山城)は鎌倉時代(1201年・建仁元年)頃に“二階堂行政”(生没年不詳)に拠って築城されたと伝わる。尚“二階堂行政”は2022年1月から始まったNHK大河ドラマ”鎌倉殿の13人”の中で俳優“野仲イサオ”氏が演じている。源頼朝の求めに応じて京から下向した側近で、源頼朝急死後にとられた13人による合議制下で幕政が運営された中の一人で、代々政所執事を務める“二階堂”氏の祖である。この城は“稲葉山城”と呼ばれていた事は既述の通りだが、本格的に整備されたのは“斎藤道三”(生:1494年・没:1556年5月)の時期だと考えられている。

1567年の”稲葉山城の戦い”で、既述の様に”織田信長”が”斎藤龍興”を追い出し、本拠地を”小牧城”から当城に移した時に地名を“井の口”から”岐阜”に変え、縄張りを破却して、新たに大きな複合的な城を造営し、城の名も”岐阜城”に変えたという歴史である。
”織田信長”が”天下布武印”を使い始め”日本全国統一”というビジョンを高らかに掲げ、その第一歩として”上洛”に向けて動き出したのは“岐阜城”に入って以降の事である。
“岐阜城”は山上の”城郭部分”と、山麓の”居館部分”を結ぶ“登城路”更には、山中の要所に配置された“砦”から成っていた。麓の”城主の館跡”は1984年頃から発掘調査が開始され、今日も続けられ、当時の様子が次第に明らかに成って来ている。

居館部分の地形は”斎藤氏三代”の頃に造られ、それを”織田信長”が大規模に改修した事が発掘調査の結果分かって来ている。尚”岐阜城”は“石田三成”の挙兵に呼応”して”西軍“に付いた”織田秀信”(映画の場面で有名な1582年6月27日の清洲会議の席上、秀吉が担いで当主とした三法師である。彼は2年後の1584年に、叔父の織田信雄に家督を譲らされている・生:1580年・没:1605年)が立て籠ったが落城、1601年に”徳川家康”によって廃城と成った。現在“金華山”山頂にある天守閣は1956年(昭和31年)に往年の天守を想像し、鉄筋コンクリートで再建された3層4階建ての“模擬天守”である。

有力者等が当時“岐阜城”に招かれ”ルイスフロイス”も麓の”城主の館”の豪華さを記録に残している。(写真を参照方)”信長時代”の”岐阜城”は想像するしかないが“金華山”そのものが”天然の要害”であった事は、今日でも標高320mの山頂に聳える”岐阜城”の姿からも想像出来、難攻不落の城であった事は間違い無い。

(写真)岐阜城の外観と展示館より
下段のルイスフロイスが訪問した時に織田信長が自らの手で食膳を運んだとの記載が非常に面白い
写真右:金華山麓には織田信長の居館があり現在発掘が続けられている。金箔瓦を葺いた館趾が確認された
写真下右:城主居館の入り口。ルイスフロイスは“劇場の様な家があり石段を登ると宮殿の広間に入る”と記している
写真下左:信長の父・織田信秀の時代の勢力図。この後の歴史展開は既述の通りである。
25:“織田信長”が“足利義秋”(義昭)上洛支援を本格化させる直前の“三好グループ”の動き

25-(1):敵方の“足利義秋”(義昭)方が“第一次上洛計画”を断念し“越前国・朝倉義景“の許に退いた事をチャンスと捉え”当主・三好義継“に逃げられた“三好三人衆・阿波三好家”方は彼等が擁立する“足利義栄”(1567年正月5日に改名)の叙任、将軍宣下獲得を急ぐ、

25-(1)ー①:先ずは“将軍宣下”を得る前提条件としての“従五位下・左馬頭”への叙任獲得を急いだ“三好三人衆+阿波三好家”連合

”大和国“の戦いで”松永久秀”方は、勢力を挽回しつつあったが”三好三人衆+阿波三好家“連合のこの時点での勢力は、この地域の覇権者として抑えるべき重要拠点”摂津国・河内国・山城国“を抑え、優勢を保っていた。

1567年(永禄10年)10月3日~10月11日:

”足利義親“(義栄)の名で”三好”方は朝廷工作として“太刀”並びに“馬”を献上した記録が残る。(1567年10月3日)これに応えて“朝廷”からは“武家伝奏”の“勘修寺尹豊”(かしゅうじただとよ・生:1503年・没:1594年)を“足利義親”(義栄)の許(摂津国・越水城?)に派遣している。(1567年10月11日)

“足利義親”(義栄)方、並びに“朝廷“のこうした対応は先に”足利義秋“(義昭)が非公式ルートで”従五位下・左馬頭“の叙任を得たケースとは異なり”公式の対応“である。”朝廷“側も“足利義親”(義栄)が“畿内”を制圧したとして、事実上の“覇権者”としてその存在を認めざるを得なかった事を裏付けている。

25-(1)ー②:“足利義親”(義栄)に“従五位下・左馬頭”叙任を得させる為の“朝廷“側と”三好”方の公式ルートでの動き

1567年(永禄10年)11月3日~11月17日:

”朝廷“は上記”勧修寺尹豊”の子息“勧修寺晴右“(かしゅうじはれすけ・晴秀から改名・生:1523年・没:1577年)と”山科言継“の両公卿を摂津国・富田”普門寺“に下向させている。これに応えて”足利義親“(義栄)側も側近“畠山安枕斎守肱”を入京させ“従五位下・左馬頭”への叙任、更には“将軍宣下”獲得に向けた交渉が積み重ねられた記録が残る。

尚、この際“朝廷”から“三好”側に献金要求を出したが“三好”方が応じなかったというトラブルを”山科言継“が彼の日記“言継卿記”に書き残している。

“足利義親”(義栄)が“越水城”から“摂津国・富田荘”の“普門寺”に移った日に就いては、1567年(永禄10年)12月7日との記録もあり“言継卿記”の期日と齟齬がある。いずれにせよ“足利義親“(義栄)が出た後の“越水城”には“篠原長房”が入り、その後“畿内”に於ける拠点としている。

1567年(永禄10年)12月11日:

”三好”方の“朝廷工作”は更にエスカレートし”足利義親“(義栄)の妹を”誠仁親王“(さねひとしんのう・正親町天皇第一皇子・現在の皇室は親王の男系子孫に当たる・生:1552年・没:1586年)にすすめる動きが表面化したとの記録もある。

こうした“三好”方の動きは“美濃国・斎藤龍興”との戦闘に勝利した“織田信長”が愈々“足利義秋”(義昭)を擁して上洛する動きを本格化させた動きに対抗した動きでもあった。“畿内”を制している“三好三人衆+阿波三好家”方はこの時点では“天下人”の資格を有して居り“公式”に“朝廷”に対して動ける立場を最大限に活かし、擁立する“足利義親”(義栄)の“従五位下・左馬頭”叙任、並びに“将軍宣下”の獲得を一気に実現すべく動いたという事である。

26:“足利義親”(義栄)の”従五位下・左馬頭“叙任が成る

1567年(永禄10年)12月24日:

この日付で“三好三人衆+阿波三好家”方は、先ずは擁立する”足利義親“(義栄)に対する”従五位下・左馬頭“叙任を朝廷に公式に求めた。

1567年(永禄10年)12月28日:

“朝廷“は1年8ケ月も前の1566年4月21日に非公式ルートで”足利義秋“(義昭)に対して”従五位下・左馬頭“への叙任を与えている。その理由等に就いては既述の通りであるが、この動きが“三好”方を刺激し“三好”方は公式ルートを用いて、正面から堂々と“足利義親”(義栄)に対する”従五位下・左馬頭“叙任を求めたのである。

“足利義秋”(義昭)は既述の様にこの時点では“第一次上洛計画”が頓挫し、1566年(永禄9年)9月8日に“越前国・朝倉義景”の許に退避していた。従って”朝廷“側としては、現実的に“畿内”を制している“三好”方から、公式ルートを使って“足利義親“(義栄)の”従五位下・左馬頭“叙任への要請が為された以上、それを拒否する事は難しかったと考えられる。結果として“足利義親“(義栄)は”将軍宣下“の前提である”従五位下・左馬頭“に任じられた。この結果“足利義親”(義栄)は官位に於ても、敵方“足利義秋”(義昭)と対等と成り、又、名実共に“将軍候補”と成ったのである。

26-(1):“足利義親”から“足利義栄”に改名する

“足利季世記”は“篠原長房”はじめ“阿波国諸将”が”従五位下・左馬頭“への叙任が成った快挙に歓喜した様子を伝えている。

1568年(永禄11年)正月5日:

“足利義親”(義栄)に対して朝廷は“消息宣下”(太政官や院庁が発する公式の命令を手紙形式で行う略式の手続き)の形で”従五位下・左馬頭“への叙任を伝えた事が記録されている。叙任が正式に決まった事で“将軍宣下”を得る資格を得たのである。

“足利義親”はこの時点で“足利義栄”に改名した。

26-(2):将軍宣下を獲得する前に、早々と“足利義栄”政権を見越した人事を行なった記録が残る

“朝廷”が事実上“足利義栄”の“室町幕府第14代将軍”への就任を認めた事で、来るべき政権発足前に”足利義栄“(当時満30歳)並びに”三好“方は”第13代将軍・足利義輝“の時代に”幕府政所執事“であった”伊勢貞孝“(いせさだたか・生年不詳・没:1562年)とその息子“伊勢貞良”(いせさだよし・生年不詳・没:1562年)が討たれ、その折、家臣と共に“若狭国”に逃れ、生き延びていた、当時、満9歳だった“伊勢貞為”(いせさだため・生:1559年・没:1609年)を“足利義栄“内閣の要として“政所執事”に復帰させる人事を行っている。(伊勢貞為の祖父が上記、伊勢貞孝で、そして、父親が伊勢貞良である)

この人事は“越前国・朝倉義景”の許に退避している“足利義秋”(義昭)が“織田信長・松永久秀”の動きに乗じて“上洛”を本格化させる動きに対して先手を打ち“足利義栄”の“将軍宣下獲得”を一日も早く実現させる為の人事であった。

27:“将軍・足利義栄”誕生

1568年(永禄11年)1月19日:

”足利義栄“の年頭の御礼が認められた。この時点で”室町幕府第14代将軍“への就任が決定的と成った。“足利義栄“は朝廷から”消息宣下“(しょうそくせんげ=勅旨を宣旨を用いて簡略に伝達する際の形式である。口宣の伝達を受けた上卿が宣旨発給を命ずる書状。太政官や院庁が発する公式な命令を消息/手紙/形式の文書で行う略式の手続きの事)を受けている。

1568年(永禄11年)2月8日:

この日付をもって“足利義栄”は“朝廷”から“征夷大将軍”に任じられ“第14代将軍”に就いたとされる。その手続きは、1568年(永禄11年)2月23日に“富田・普門寺”で行なわれ“足利義栄”は上洛する事無く“第14代将軍宣下“を受けたのである。満30歳であった。

1568年(永禄11年)2月13日:

”将軍宣下伝達“に就いては1568年2月2日に”公卿・庭田重通“(生:1547年・没:1598年)が“山科言継”に”将軍宣旨“が下りた旨を手紙で知らせ、1568年2月13日にそれを伝える勅使として“山科言継”が“摂津国・富田”の“普門寺”に持参している。この事は本人が日記“言継卿記”に書き残している。

これに拠って“足利義栄”はこの時点では未だ“越前国・朝倉義景“の許に退いて居た”足利義秋“(義昭)に先んじて”将軍職“に就いた事に成り”上洛“はしていないが、公式に“将軍・足利義栄”政権が発足したのである。

28:第14代将軍“足利義栄”政権の陣容

”足利義栄“政権は上記した”伊勢虎福丸“(当時満9歳・後に貞為を名乗る)を、1568年1月に“政所執事”に復帰させた人事の他、下記10名が“御供衆”として名を連ねた事が記録されている。

1568年(永禄11年)2月18日:

“御供衆”(室町幕府将軍の出行に供奉した武士。第8代将軍・足利義政の頃から記録に現われた。格式を示す称号でもあり、御相伴衆・国持衆・準国主・外様衆に次ぐ格式で将軍に最も親近な名誉的な職であった)として参勤せよとの命令が出された10名は下記でありこの手続きは“政所執事”に復帰した”伊勢虎福丸“(後に伊勢貞為に改名)の名で行われている。

①大舘輝光 ②細川駿河入道 ③畠山守肱 ④一色輝清 ⑤畠山伊豆守 ⑥荒川三郎
⑦畠山孫六郎 ⑧伊勢貞運 ⑨三好長逸 ⑩伊勢貞知

28-(1):極めて不安定な状況下でのスタートと成った“第14代将軍・足利義栄”政権

“将軍・足利義栄”は“病気”の為“上洛”も出来ない状態であったが“三好”方が“畿内”を征圧しているという“地の利”があった。“越前国・朝倉義景”の許に退避していた“足利義秋“(義昭)に空席だった”将軍職獲得“争いに勝利した形ではあった。

しかし“足利義栄”政権は、形だけは発足したものの、敵方“織田信長・松永久秀”軍は徐々に戦闘での勝利を重ね“足利義秋”(義昭)を擁立して“入京”を目指す“第二次上洛計画”を愈々本格化させて来ていたのである。

29:“上洛”を果たす直前の“織田信長”の周囲に居た二人の武将・・“浅井長政”と“松永久秀”に就いて

29-(1):“浅井長政”と“織田信長”との同盟関係について

29-(1)ー①:“六角氏“に敗れ臣従していた”浅井久政“の嫡男として生れた”浅井長政“が“北近江”の覇権を握る

1560年(永禄3年)8月中旬:“野良田の戦い“

”浅井長政“(あざいながまさ・生:1545年8月・没:1573年9月)は”織田信長“の丁度一回り年下である。“浅井亮政”(あざいすけまさ・浅井長政の祖父・・生:1491年・没:1542年)の時代に”北近江半国守護・京極家“から下剋上を成し遂げていた。その“浅井家”を継いだ父“浅井久政“(あざいひさまさ・生:1526年・没:1573年)の嫡男として”六角氏“の居城”観音寺城下“で生まれている。

父”浅井久政“が無能との説もあり”南近江半国守護・六角義賢“の圧力に屈し、幼少だった”浅井長政“は”生母・小野殿”と共に人質状態だった。15歳で元服した“猿夜叉丸”(さるやしゃまる・浅井長政の幼名)は、当主“六角義賢”の偏諱をもらい“浅井賢政”と名乗らされた上に“六角氏”の家臣“平井定武”の娘を正妻に娶らされるという状況下にあった。

こうした状態を不満とする“遠藤直径”並びに“赤尾清綱”等、重臣を中心とする家臣達が、1559年(永禄2年)“浅井家”でクーデターを起こし、無能と伝わる“当主・浅井久政“を強制的に隠居させ、琵琶湖の“竹生島”に追放した。

クーデターを起こした家臣達は、当初、未だ14歳だった”浅井賢政“(後の浅井長政)に家督を譲らせ”六角義賢“(承禎)から”偏諱“として受けた”賢“の字も捨てさせ”浅井長政“に改名させている。

更に正妻として娶らされていた”平井定武の娘“も”六角家“に送り返すという徹底した反抗の態度を示したのである。この時期に就いて”織田信長・不器用すぎた天下人“(金子拓著)には1559年(永禄2年)4月頃と記述している。

こうした結果、1560年(永禄3年)8月中旬”主家・六角義賢“(承禎)軍と“浅井家”は戦闘に突入した。この戦いは戦場から“野良田の戦い”と呼ばれるが、別の呼び方として“肥田城主・高野備前守”が“浅井家”に寝返った事が戦いの発端であった為“肥田の戦い・宇曾川の戦い”とも呼ばれる。

兵力は“六角義賢”(承禎)軍が25,000兵“浅井長政”軍は11,000兵と半分以下であったが戦いの結果は“六角軍“が920人”浅井軍“も400人の戦死者を出し“浅井長政”の活躍で見事に勝利を収めたと“江濃記”が伝えている。“浅井家”はこの勝利で“北近江“の覇権を奪還した。

29-(1)ー②:“浅井長政“と”織田信長“の妹”お市の方“の婚姻が両者の同盟成立の道具(政略結婚)であった

“お市の方“(生:1547年・没:1583年4月)には別称”於市・お市姫・お市御料人“更には“小谷の方・小谷殿”がある。又“織田家系譜”には”秀子“という名が記されている。通説で1547年(天文16年)尾張国・那古野城内で生まれたとあるから“織田信長”の13歳年下の妹である。生母は不詳とされる。

“浅井長政”と“お市の方”との婚姻の時期に就いては諸説がある。しかし当時の状況下から“浅井長政”と”織田信長“が同盟を結んだ時とするのが最も妥当な説と考えられ“織田信長・不器用すぎた天下人”の中で著者“金子拓”氏も“お市と浅井長政の婚儀が織田信長との同盟を意味する事は間違い無い“としている。両者が同盟に至った理由、どちらから求めたのか、そしてその時期に就いて以下に記述して行く。

29-(1)ー③:“織田信長”と“浅井長政”が同盟に至った理由

”六角義賢“(承禎)は1560年6月に”美濃国・斎藤義龍“との間に同盟を結んでいた。その”六角氏“と”浅井長政“は上記した1560年(永禄3年)8月中旬“野良田の戦い“と成り、見事”六角氏“を敗り”北近江“の覇権を握ったのである。”南近江”の“浅井長政”と”六角氏“との不安定な状態は続いていた。

一方の“織田信長”は奇しくも3ケ月前の1560年5月19日に一躍彼の名を世間に知らしめた“桶狭間の戦い”で“駿河国・今川義元”の大軍を敗り著しく台頭していた。翌1561年(永禄4年)5月“美濃国”では“斎藤義龍”(生:/1529年説もあり・没:1561年5月)が病死し、僅か13歳の“斎藤龍興”(生:1548年・没:1573年)が当主を継いだが“織田信長”との敵対関係は続いていた。

この事は“六角氏”を敵とする“浅井長政”そして“美濃国・斎藤”氏を敵とする“織田信長”から見れば“織田信長”と“浅井長政”夫々が敵とする者同志が1560年6月に“六角・斎藤同盟”を結んでいた事であり、これが“織田信長”と“浅井長政”を結び付かせる事になり、両者が同盟に至った理由とされる。

29-(1)-④:同盟をどちらから求めたのか

“織田信長”側から同盟を求めたとの説がある一方で“浅井長政”側から同盟を求めて来たとの説もある。

1567年(永禄10年)9月説(後述する宮島敬一氏説の後半の説)では”浅井長政“側から“美濃国・福束城主”の“市橋長利”(生:1513年・没:1585年)を介して“織田信長”に同盟を求め、その際に“浅井長政”と“お市の方”との婚姻話が纏ったとしている。

”織田信長“から求めたとする説は、家臣の“不破光治”(ふわみつはる・生没年不詳)が”近江国・小谷城“に赴き”浅井長政“の家臣”安養寺経世゛(元は近江国守護・京極氏の被官であった・生:1538年・没:1606年)と内談して纏めたとしている。“不破光治“は”織田信長“に仕える前は”斎藤氏“に仕えており”織田信長“に仕えたのは”斎藤龍興“が”稲葉山城“を追われた1567年8月以降と考えられる。従って、この説をとると、後述する両者の“同盟の時期”が”宮島敬一”氏の説の後半の説である、1567年(永禄10年)9月説という事に成る。

29-(1)-⑤:“織田信長”と“浅井長政”が同盟に至った時期、即ち“浅井長政”と“お市の方”との婚姻の時期について

“お市の方”と“浅井長政”の婚姻の時期に就いては多くの説があり、未だに定説が無いとされる。“宮島敬一”氏は1559年(永禄2年)~1568年(永禄11年)の長い期間を可能性がある時期とし、実に7つの可能性を検討し、結論として1559年6月以降~1563年(永禄6年)の間だとの説に至っている。この説だと“浅井長政”の年齢は14歳~18歳“お市の方“は12歳~16歳と成る。

又“太田浩司”氏は“東浅井郡志”が唱える1561年(永禄4年)5月頃という説を支持している。この説だと“浅井長政”は満16歳“お市の方”は満14歳という事になる。

“宮島敬一”氏が検討した説の中から、後半の時期を有力とする説を支持して1567年9月、乃至は1568年の1月~3月が有力と主張する学者もいる。この説だと“浅井長政”は22歳~23歳“お市の方”は20歳~21歳である。

“小谷城”が落城し“浅井氏”が滅亡した時期(1573年9月1日)の三人の姫の年齢から考える“お市の方”と“浅井長政”の婚姻時期、両者が同盟した時期の検証

“織田信長・浅井長政”の何れが先に働き掛けたのかの検証とも関係はあろうが、両者の同盟の時期、つまり“浅井長政”と“お市の方“との婚姻の時期を”小谷城落城“の際に助けられた“三人の姫の年齢“に関する記録がある事から、そこから逆算すると”宮島敬一”氏の説の中の”1567年末~1568年初頭説“が有力とされる。

“小谷城“が落城した(1573年9月1日)時の”三人の姫“の生誕時期等については、異説もあるが①茶々(豊臣秀吉側室・生:1569年/1567年説もある・没:1615年)②初(京極高次正室・常高院・生:1570年・没:1633年)③江(徳川秀忠/継室/正室・生:1573年8月・没:1626年)と伝わっている。

“浅井長政“が”小谷城”を“織田信長“方に攻められ自害した1573年9月1日時点では①茶々は満4歳(満6歳?)②初は満2歳位、そして③末娘“江”は生まれたばかりという事に成る。

”1567年末~1568年初頭説“が有力だとすると二人が結婚した年齢は”浅井長政“が満22歳~23歳、そして”お市の方“が満20歳~21歳という事と成り、当時としては“お市の方”からすると余りにも晩婚過ぎるのではないかという疑問が出る。尚、映画やTVドラマで落城する“小谷城”の門から3人の姫が母親“お市の方”(当時26歳)に手を引かれて出て来るシーンが良く知られるが“映像上”の都合もあろうが、史実に忠実に撮れば、3人の姫の中“茶々”そして“初”が歩いて門から出て来るシーンは納得出来るが、末姫の“江”までが歩いて門から出て来るシーンは史実を無視したものだと言う事になろう。

“織田信長”と“浅井長政”との関係史から探る“同盟の時期”そして”浅井長政”と”お市の方”との婚姻の時期の検証
別掲図:織田信長と浅井長政の同盟

“金子拓”氏は“東浅井郡志”が唱え“太田浩司”氏が支持する“1561年5月”頃に“織田信長“と”浅井長政“の同盟が成ったとの説を有力としている。

“同盟に至った理由”で記述したが、上記の略年表から分かる様に、”浅井長政”が”六角“氏との対決姿勢を鮮明にした1559年(永禄2年)にも時間的に近い事、又”織田信長”が“桶狭間の戦い”(1560年5月)に勝利した直後で”織田信長“としては以前にも増して、政治的緊迫度が強まっていた事、加えて、1560年(永禄3年)秋頃に“織田信長”に敵対する“斎藤龍興“と”浅井長政”が敵とする”六角義賢“(承禎)の間で”斎藤・六角同盟”が結ばれたという史実がある。この同盟は”織田・浅井“両者が敵とする者同士が結んだという事であり“織田・浅井同盟“が成立する事は寧ろ当然の成り行きと考えられるのである。

“両者の同盟成立”イコール”浅井長政”と”お市の方“との婚姻と考えると、1561年5月の同盟成立説に立てば“浅井長政”は未だ満16歳“お市の方”も満14歳の時であった。

しかし、当時の婚姻として、決して年齢的に問題では無く、ましてや政略結婚であるから何の不思議も無い。既述の様に“三人の姫”(茶々、初、江)が生れた年は定説として伝えられる。“三人の姫”の年齢から逆算すると、夫婦が子宝に恵まれたのが、婚姻から6~8年後(茶々は1567年、1569年生誕説がある事から)と言う事と成る。これも又、あり得ない事では無い。

以上の考察から“織田信長”と“浅井長政”の同盟時期は”金子拓”氏も支持する”1561年5月“とする説も確かに有力である。

以上諸説を紹介して来たが、どの説も、裏付ける決定的な史料が無く、今日でも定説は無いが、私見としては1561年(永禄4年)5月説が”浅井長政“と”お市の方“との婚姻の時期、即ち”織田・浅井同盟“の時期として最も有力と考える。

29-(2):“美濃国・斎藤龍興”との戦闘に勝利した“織田信長”の支援を得て、勢力を挽回した“松永久秀”は“三好”方との“東大寺大仏殿の戦い”へと進む

29-(2)-①:“松永久秀”と“織田信長”との結びつき

“三好”氏からクーデターで排除された“松永久秀”が“三好”方と戦い、苦戦を重ね乍らも1565年11月末~1566年(永禄9年)6月の間の記録からは“足利義秋“(義昭)を擁立して”第一次上洛計画“に向う一派の一員として“松永久秀”が”織田信長”との間に協力関係にあった事が確認されている。

この事は“常山紀談”の記事“松永久秀が第13代将軍・足利義輝を殺害した”が史実では無い事を裏付けている。もし“松永久秀”が“足利義秋”(義昭)の同母兄の“将軍・足利義輝”を殺害した人物ならば“足利義秋”(義昭)が“松永久秀”を上洛支援者に加える事はあり得ないからである。

“常山紀談”は江戸時代の“徳川幕府第8代将軍・徳川吉宗”期の1739年(元文4年)に成立し、完成は1770年(明和7年)“徳川幕府第10代将軍・徳川家治”の時代である。戦国武将の逸話470条を記した書物であるが、当時から200年以上も経った後に書かれ、広まった逸話集である。“足利義昭”と“松永久秀”との関係が史実とは異なった形で後世に伝えられた悪しき事例であろう。

既述の様に“永禄の変”(1565年5月19日)で“松永久秀”は“将軍・足利義輝殺害”に直接手を下していないばかりか“将軍・足利義輝”の同母弟“一乗院覚慶”(足利義昭)を助命したのである。その後“足利義秋“(義昭)の上洛支援に”織田信長“に協力している。当初から“松永久秀”は“三好義継”等の”永禄の変”に批判的であったという史実を知れば、彼のその後の行動が納得出来るであろう。

29ー(2)ー②:“三好”方との”東大寺大仏殿の戦い”が始まる・・当初は劣勢だった”松永久秀“軍

1567年(永禄10年)4月18日:

“三好義継”が“三好”グループから離脱した経緯を別掲図“三好義継・三好三人衆がクーデターで追放した松永久秀との戦闘に阿波三好家の活躍で勝利したものの後に禍根を残す“で示したが“三好本宗家当主“に逃げられた”三好三人衆”方は混乱に陥り、これを鎮める為に若干14歳の“阿波三好家当主・三好長治“を立て、彼を後見する形で”三好三人衆+篠原長房+三好康長“に拠る集団指導体制が組まれた。そして1万の軍勢で“松永久秀”軍との戦闘に臨むべく奈良周辺に進出し布陣した。世に知られる”東大寺大仏殿の戦い”が始まったのである。

1567年(永禄10年)4月24日:

更に“三好三人衆+阿波三好家”軍は“筒井順慶”(大和国・筒井城主・生:1549年・没:1584年)と結び、28,000兵に膨れ上がった。そして“天満山”や“大乗院山”に進軍し“興福寺”の塔や“東大寺”の南大門に登り、鉄砲を放った。この様子を“多聞院日記”を受け継ぎ、1534年~1596年迄の記録を執筆した僧“多聞院英俊”(生:1518年・没:1596年)は両陣の巷、昼夜只雷電の如し片時も安堵の思い無しと記している。“三好”方と“松永久秀”方の間で市街戦が繰り返され、優勢の“三好”方は“多聞山城”に迫った。

1567年(永禄10年)5月2日:

“三好三人衆”の“石成友通”と協力する“池田勝正”が“東大寺念仏堂”並びに“二月堂”そして”大仏の回廊“に陣取った。それに対して”松永久秀“方は”戒壇院“に立て籠もった。この様に“東大寺”が戦場と成った事に対して“多聞院英俊”は大天魔の所為と見たりと嘆いている。

1567年(永禄10年)5月18日:

”三好”方は東山から“松永久秀”方の“多聞山城”を攻めた。“松永久秀”方が反撃に出、敵方を陣取らせない為に“般若寺”並びに“文殊堂”更には“戒壇院・授戒堂”そして“松山安芸守”の宿所“西院郷”等を焼き払った。この様子は猛火は天に輝き鯨波大地動と記録されている。

29-(2)-③:“織田信長”方が加勢に入った事で“東大寺大仏殿の戦い”に勝利した“松永久秀”

1567年(永禄10年)8月:

“三好本宗家当主・三好義継”が自軍に逃げ込んで来た(1567年2月16日)事は、僅か半年後の7月の時点では有利に働かなかった。そして“三好三人衆+阿波三好家”との戦力比較に於いて“松永久秀”方は劣勢であり、苦戦が続いた。

しかし、8月に入り“織田信長”が“三好三人衆”方と与していた“斎藤龍興”を“稲葉山城の戦い“で敗り“美濃国”から追い出し“足利義秋”(義昭)の上洛支援を本格化させた。そして“織田信長”は“三好”方と戦う“松永久秀”の支援に向ったのである。この事で“松永久秀”方の戦闘能力は格段に強化された。

1567年(永禄10年)8月25日~9月:

“松永久秀”は“多聞山城”を本拠に、劣勢だった“三好三人衆”方への反撃態勢に移った。1567年8月25日には“飯盛山城”を守る“松山安芸守”を調略で寝返らせる事に成功し、更に、9月には一度は途切れた“畠山氏”並びに“根来寺”との連携を復活させる事に成功した。

1567年(永禄10年)10月10日:

“松永久秀”方は“東大寺”に陣取る“三好”方に夜討を掛けた。この時、兵が放った火が広がり“穀屋”や“法華堂”(三月堂)に延焼し、そこから“大仏”の回廊へと、次第に火が廻り、午前2時頃に“大仏殿”を忽ちの中に焼き尽くしたのである。“多聞院日記”には“猛火が天空に満ち、さながら落雷があった時の様に、一瞬にして燃え落ちてしまった“と記録されている。

“大仏炎上”は“松永久秀梟雄説”の根拠として“松永久秀主犯”説で語られる事が多いが、下記に示す様に、史実は“両軍の戦闘に拠って起こった不慮の事故”であった。

両軍の何方が最初に“火”を放ったのかも不明である。そもそも“織田信長”が“延暦寺”を焼き討ちしたケースとは根本的に異なり“大仏殿”を焼く事自体は目的では無く、又“放火”は当時の一般的な戦闘行為であり、この事故もその一環に過ぎなかったのである。

いずれにせよ、この戦いで“大仏”が焼失した事は史実である。遡る事8年前の、1559年(永禄2年)に“三好軍”が“大和国”に侵攻した時には“東大寺”側は軍勢が乱暴狼藉、並びに寺内への寄宿、いわんや陣を構える事を禁止する“禁制”を“三好長慶”から獲得していた。この事は“東大寺文書”や“今村慶満禁制”で確認出来る。ところが今回(1567年)の戦闘に関して“東大寺“側は”三好“方が寺内に陣取る事を禁ずる禁制を獲得する動きを全くしていなかったのである。

この事から“東大寺”側は中立では無く、敵の“三好”方に陣地を提供したと“松永久秀”方が考えたとしても不思議で無い。“松永久秀と下剋上“の著者”天野忠幸”氏は“大仏焼失”は“東大寺”側が“三好”方に陣地を提供した為に戦場となり、その結果起こったと結論付けている。

30:“東大寺大仏殿の戦い”の纏め

年月日:1567年(永禄10年)4月18日~10月11日
場所:東大寺、並びに多聞山城周辺
結果:“松永久秀”軍が勝利した。しかし“三好三人衆+阿波三好家”軍は“摂津国・河内国”そして“山城国”という中央勢力としての優勢を依然保っていた。

松永久秀軍

指導者・指揮官
松永久秀
三好義継




戦力
不明




損害
不明
三好三人衆+阿波三好家軍

指導者・指揮官
三好長逸
三好政康
岩成友通
篠原長房
池田勝正
別所氏
戦力
三好三人衆+筒井順慶連合軍
20,000兵
篠原長房、池田勝正増援軍
8,000兵

損害
300以上

31:“大仏殿放火“に関する諸説

巷間“松永久秀”が火を付けたとする説が“松永久秀梟雄説”の証拠話として伝えられて来たが、既述の様に史実はそうでは無く、両軍の戦闘によって起こった不慮の火災だったと考えられる。そうした“大仏殿放火“に関しては諸説があるので以下に紹介して置きたい。

=“大仏殿放火”に関する諸説=

説1:“三好”方が火を付けたとする説
江戸時代の“寺辺之記”(じへんのき:東大寺の僧、寅清/いんせい/が書き残した?とされる)に拠ると“三好”方は防戦に努めたが、叶わずに、自ら大仏中門堂へ火をかけて撤退した。その火が“大仏殿”の西の回廊へ燃え移ったと書いている。
説2:キリシタンの兵士が火を付けたとする説
“ルイス・フロイス”の”日本史”には“三好”軍に居たキリシタンの兵士が,信仰の 証として火を放ったと書いている。
説3:篝火(かがりび)から火薬に燃え移ったとする説
“和州諸将軍伝”(松永久秀の宿敵、筒井順慶を主人公として、宝永4年/1707年/に成立した書物)には“三好”方が篝火(かがりび)を捨て置いたところ、鉄砲の火薬に燃え移り“大仏”を焼いたと書いている。そして世間に広まっている“松永久秀”が大仏殿を焼いたとする説は間違いだとして、事実をもっと詳細に調べるべきであると批判している。


32:焼失後に行われた“奈良大仏”復興の歴史について

“焼失”した後の“奈良大仏”を再興する動きは早くも焼失した半年後には始まっている。“奈良大仏復興”の記録は下記の様に、炎上した直後から“江戸時代”そして“明治・大正”時代に及んでいる。

*1568年(永禄11年)4月2日:
”阿弥陀寺・清玉上人”が大仏殿再興の勧進に当たった記録があり、それを“松永久秀”が‟後代に残る名誉”だと讃えた事が“阿弥陀寺文書”に残っている。
又、頭部を失った“奈良の大仏”を“松永久秀”が復興に尽力した事も書かれており、補修、修理は戦国時代から桃山時代の画家 ”山田道安”の手に拠って行われた、との記録がある。

*1568年(永禄11年)4月18日:
“三好三人衆”筆頭格の”三好長逸”が、洛中、洛外の諸寺から志を集める様にと促した記録が残る。自身も”正親町天皇”から”大仏再興”に尽くす様、綸旨を受けている
(阿弥陀寺文書)
戦国の争乱が続く中、資金も充分に集まらず、大仏は頭部を銅板で仮補修した程度であった。又“大仏”を覆う”大仏殿”の修理は目途すら立っていなかったとある。資金問題も含め“大仏復興”の動きは何度かあったが、遅々として進まず、その間“大仏”は風雨に晒されたまゝ100年以上の月日を経る事に成る。

*1684年(貞享元年)5月:
江戸時代“第5代将軍・徳川綱吉“(在職1680年~1709年・生:1646年・没:1709年)の時期に僧“公慶”(生:1648年・没:1705年)に拠って漸く本格的な“大仏復興計画“が立案され”江戸幕府“も”東大寺大仏殿再興“の為の諸国勧進を許可した。1687年から建設用の資材が用意され1692年(元禄5年)に“大仏”の修理が完成し、開眼法要が行われている。大仏殿の修理完成は1709年(宝永6年)で ” 公慶”没後4年が経っていた。

*1705年(棟上げ)~1709年(3月21日):盛大な落成供養が営まれた。

*1877年(明治10年)~1915年(大正4年):その後の大規模な修復が行なわれている。

32-(1):”阿弥陀寺“訪問記”・・2018年(平成30年)11月28日

上記した“焼失”した“大仏殿再興“の勧進に焼失後半年後に早々と立ち上がったのが”清玉上人“である。同僧は”阿弥陀寺“を創建し”本能寺の変“で自刃したと伝わる“織田信長”の遺灰を集め“阿弥陀寺”で供養した事で知られる。

同じく“本能寺の変”の際“二条新御所”(二条御新造・旧二条城とも称される・1576年1月の安土城築城開始に合わせて織田信長が京の本邸として建てたもの・1576年9月に多聞城から移された主殿が完成し1577年/天正5年/閏7月12日に織田信長が初めて入邸している。1579年/天正7年/11月に正親町天皇の皇太子誠仁親王に献上した。本能寺の変で灰燼に帰す)で自刃した“織田信長”の“嫡子・織田信忠”の遺骨も拾い“阿弥陀寺”で供養したとされ、同寺には“織田信長・信忠”父子、二人の墓が祀られている。

“阿弥陀寺”住所:京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14

交通機関等:
”阿弥陀寺“は2018年(平成30年)11月28日に訪問した”十念寺“の隣に位置する。当時はこのブログの6-15項“籤引き将軍(第六代足利義教)の恐怖政治が齎した顛末(暗殺)と幕府権威の失墜”に就いて執筆中であった。“赤松教康”の屋敷で1441年6月に暗殺された“第6代将軍・足利義教”の墓所訪問の為“十念寺”を訪れた。その際,併せて訪問したのが“阿弥陀寺”である。

京都駅から“地下鉄・烏丸線”に乗り、今出川駅で下車、相国寺を横断する形で鴨川方向に歩き、寺町通りを左に折れた処が“十念寺”であり、その隣に位置する寺が“阿弥陀寺”である。

歴史等:
創建は1555年(天文24年)に“玉誉清玉”(せいぎょく)が“近江国・坂本”に創建したのが始まりとされる。その後“清玉”が“織田信長”の帰依を得て“上京今出川大宮”に移転したとある。

写真(訪問メモ):

写真上:寺門の前に掲げられている寺の歴史を書いた案内板。文中、1568年(永禄11年)4月2日付の”阿弥陀寺“の清玉上人が大仏殿再興の勧進に当たった記録がある事を紹介したが、案内板にはその詳細並びに織田信長と深い親交があった事が書かれている。
写真下:清玉上人の墓
写真上左:“阿弥陀寺”の“清玉上人”と織田家との深い親交があった事は上述したが、織田信長が本能寺で自刃すると”清玉上人”は自ら現地に赴いて信長の遺灰を持ち帰って墓を築いたとされる。後に同日“二条新御所”で自刃した嫡子“織田信忠”の遺骨も拾い集めて“信長”の墓の横に墓を建てたと伝わる。その他“本能寺の変”で討ち死にした犠牲者大勢も“阿弥陀寺”に葬り供養している。
写真上右:右側が“織田信長”の墓で戒名の”総見院殿贈大相国一品泰巖大居士”が刻まれている
左側が”織田信忠”の墓で戒名”大雲院殿三品羽林仙巖大居士”と刻まれている。
写真下:阿弥陀寺の門前にて
33:“足利義秋”(義昭)を擁立して“上洛”を本格化させた敵方“織田信長”の一挙手一投足に神経を尖らせる“三好”方

1568年(永禄11年)2月13日:

“三好”方に鞍替えした“近江国・六角義賢”(承禎・当時47歳)は”三好三人衆“の筆頭格”三好長逸“に敵方の“織田信長“が”朝倉義景“の息子との婚姻を模索している事を伝えている。

“近江国・六角義賢”は既述の様に、当初は“一乗院覚慶”(足利義秋)の上洛支援に協力する姿勢だった。しかし、その後“斎藤義龍”と同盟を結んだ(1560年秋以降)結果“織田信長”と“浅井長政“の同盟が成立する事に繋がった。(1561年5月説が有力)そして”六角義賢“(承禎)は“三好三人衆”の調略に拠って”三好“方に与する事に成ったのである。(1566年8月頃)

”六角義賢”(承禎)の領国が敵方“足利義秋”(義昭)方の“上洛”への通路に位置していた事で、彼が“三好”方と同盟関係に至った事は“織田信長”が“斎藤龍興”との“河野島の戦い”(1566年/永禄9年/閏8月8日)に大敗した事と合わせて“足利義秋”(義昭)が“第一次上洛計画“を断念し”越前国・朝倉義景”の許に退避する要因の一つとなった事は既述の通りである。

この時点では“六角義賢”(承禎)と“織田信長”が戦闘を開始するという一触即発状態では無かった。しかし“将軍足利義栄”政権を発足させたとは言え、甚だ不安定な状態である事には変わりなく“三好三人衆”を中心とする“三好”方としては、1567年(永禄10年)8月に“斎藤龍興”を“稲葉山城の戦い”で敗り、追放し、本格的に“足利義秋”(義昭)を擁立し“天下布武”のビジョンを掲げて“上洛”に動き出した“織田信長・松永久秀”等、敵方の一挙一投足に神経を尖らせる日々と成った。

33ー(1):“三好三人衆”のトップ“三好長逸”が“織田信長”との“和睦”を模索した事が伝わる。この史実を裏付ける文書も存在し“三好三人衆+阿波三好家”連合が一枚岩では無かった事が分かる

1568年(永禄11年)4月末:

“足利義秋”(義昭)を擁立する“織田信長“と”三好“方に寝返った”近江国・六角義賢“(承禎)が戦闘に突入するという“一触即発”の状態では無かった事で“三好三人衆・筆頭”の“三好長逸”は出来れば“和睦交渉に入りたい”との思惑から、以下の文書を“織田信長”の家臣“新治伊予守”(=稲葉良通/一鉄)と取り交わしている。

御状拝見せしめ候、仍って上洛に就き、御音信殊に十文字鎌送り賜わり候、毎度御懇志喜悦に存じ候、別して秘蔵申すべく候、遠路たるといえども相当の儀承り、疎意(うとんずるこころ)あるべからず候、将又斎蔵具に示し給い候、其れに就いて存分大方申し入れ候、定めて演説あるべく候、其意を得られ、尾州(織田信長)へ然るべく候様、御取り成し肝要に候、尚後音を期し候、恐々謹言、
(1568年永禄11年)四月晦日   長逸(三好長逸)
新治伊予守殿(稲葉良通:織田信長家臣・後の春日局の外祖父)
御返報

“三好長逸”のこの手紙の宛先は、敵方“織田信長”の家臣“新治伊予守”(=稲葉良通・号は一鉄・生:1515年・没:1588年)で後の“春日局”(徳川幕府第3代将軍・徳川家光の乳母として有名・父は明智光秀の重臣斎藤利三、母親が稲葉良通の娘、安という説がある・生:1579年・没:1643年)の外祖父に当たる人物である。

33ー(1)ー①:“三好長逸”と“新治伊予守”(=稲葉良通・号は一鉄)並びに“斎藤利三“との関係からこの書状を解説する

当時の“三好長逸”と“新治伊予守”(=稲葉良通・号は一鉄)そして文中関係する“斎藤利三“等との関係を含めた上記文意を以下に示す。

お手紙拝見しました。齊蔵(斎藤内蔵助利三)が上洛し、音信として十文字の鎌を贈って頂いた件、いつもの事ながら親しくさせて頂いているお気持ちをとてもうれしく思います。
贈っていただいた鎌は秘蔵として大事に扱わさせて頂きます。遠路はるばる贈って頂いたお気持ちはよくよく分かっており、粗略に思う気持ちなどこちらには御座いません。又、”斎蔵”が詳しく示しなさった事ですが、それについてこちらの考えを申しましたので“斎蔵”から説明がありましょう。よくよく御理解に成り”尾州”(=織田尾張守信長)へ上手く取り成して下さる事が大切です。後の手紙で詳しく述べる事になるでしょう。
恐々謹言。

文中“十文字鎌送り賜わり候、毎度御懇志喜悦に存じ候”と礼を述べているが、これは“三好長逸”が“稲葉良通”の家臣“斎藤利三”(さいとうとしみつ・明智光秀家臣で本能寺の変で随一の活躍をしたと伝わる・彼の末娘が春日局である・生:1534年・没:1582年7月)から“十文字鎌”(穂先の両側に鎌状の枝のついている槍)を贈られた事を喜び、大切に秘蔵すると更なる礼を述べているのである。

又“三好長逸“が”毎度御懇志“と書いている意味は、6年前の1562年(永禄5年)に”桶狭間の戦い”(1560年)で”今川義元”を討ち“尾張国”から”美濃国”への進出を図る”織田信長”に対抗して、1年前(1561年)に父親”斎藤義龍”が病死し、僅か14歳で家督を継いだばかりの”斎藤龍興”が、存命中だった”三好長慶”(生:1522年・没:1564年)との間の同盟を結んだ、その事以来の関係を指しているのである。

”斎藤利三“は嘗て”故・斎藤義龍”の家臣であり。その後“稲葉良通”(=新治伊予守=稲葉一鉄)の部下と成り、既述した1567年(永禄10年)8月1日に“西美濃三人衆”の一人として“稲葉良通”が“斎藤龍興”の配下から離脱した事で“以降”織田信長“の部下という関係に成った。

“織田信長”方との和睦を模索する”三好長逸“からすれば“稲葉良通”(稲葉一鉄)は“西美濃三人衆”の一人として“織田信長”方の有力者と成って居り、その“稲葉良通“の家臣”斎藤利三“(齊蔵と表現)と自分(三好長逸)が近しい関係にあった事を”自分とは何度も通好(=通交・互いに仲良く交わりを結ぶ事)があった間柄である事を文中、殊更に強調し、それを”梃子“に”織田信長“との和睦を図ろうとした意図がはっきりと読み取れる文面である。

“三好”方の内部の実態は”足利義栄“を擁立し”第14代将軍“に就けた中心人物”篠原長房“と”三好三人衆“の筆頭”三好長逸“との関係が必ずしも一枚岩では無かった。”三好長逸“からすれば”松永久秀“方との戦闘に勝つ為に便宜的に“阿波三好家”と結んだだけの関係だと考えていた。”三好本宗家当主・三好義継“が”松永久秀”方に逃げた後の“三好”方に於ける、両者間の政策面に於ける温度差、溝は、決して埋まる事が無かった事を裏付ける史料である。

34:“越前国・朝倉義景”の許での“足利義秋”(義昭)

34-(1):元服式を行い“足利義昭”に改名する

1568年(永禄11年)4月15日:

“朝倉義景”の招きで“敦賀”(自1566年9月8日至1567年11月滞在)を去り”越前国・一乗谷“に移って(1567年11月21日)から半年が過ぎていた。しかし一向に積極的な“上洛支援”の動きを見せない“朝倉義景”であった。

“足利義秋“(義昭)は”越前一乗谷”の“朝倉義景”の館に前関白”二条晴良“(にじょうはるよし・生:1526年・没:1579年)を呼び“朝倉義景“を”管領代“として加冠役を務めさせ”元服式“を行った。

この処置は同母兄”第13代将軍・足利義輝“が当時“六角定頼”を管領代に任じ、加冠役にした前例に倣っての事であった。“足利義秋”(義昭)は既に満31歳に成っていたから、随分遅い元服式である。(久野雅司・足利義昭と織田信長)この時“秋”の字は不吉だとして“足利義昭”に改名した。

2ヶ月前には(1568年2月)ライバルである従兄弟の“足利義栄”が3年近くも空位だった“将軍宣下”を受けている。この事は“越前国・一乗谷”に居た“足利義昭”にとって、大きな焦りと成っていた事は間違いない。

35:“東大寺大仏殿の戦い“(1567年4月~10月)に勝利した“松永久秀”であったが“織田信長“が上洛を果たす迄は未だ、苦しい時期であった


35-(1):“東大寺大仏殿の戦い”に敗れた“三好”方は“足利義昭”方に与する“松永久秀”方への反撃を再び強めた

1568年(永禄11年)5月19日:

“東大寺大仏殿の戦い”(1567年/永禄10年/4月18日~10月11日)で敗れた“三好”方は態勢を立て直し、再び“大和国”への侵攻を開始した。

先ず1568年(永禄11年)5月19日に“松永久秀・三好義継”方の“河内国・津田城”(別名国見城・大阪府枚方市津田・築城主は津田正信、築城1489年~1492年、廃城1575年)を“篠原長房”と“三好宗渭“(=三好政勝・三好政長の子息で三好三人衆の一人・生年不詳・没:1569年)が攻略し“西の京“(平城京の右京を西京と称した事に由来、薬師寺、唐招提寺、西大寺等がある)に陣取っている。(1568年5月22日)

1568年(永禄11年)6月29日:“信貴山城の戦い”

”三好”方は”筒井順慶“との連携を強め”松永久秀“方に属し、以前”第13代将軍・足利義輝”に仕えた”細川藤賢”(ほそかわふじかた・生:1517年・没:1590年)が加勢していた“信貴山城“を”三好”方の“三好康長“(三好三人衆側に同調した三好長慶の叔父・生没年不詳)が”向城“(むかいじろ=敵の城を攻める時に、相対して築く城、付城とも言う〉を築いて包囲した為“松永久秀”方は“信貴山城”を開城させられた。(細川両家記)

“織田信長”の支援が間もなく来るであろうと期待した“松永久秀”であったが、この時点では支援を得る事が出来ず“多聞山城”と並んで重要拠点の“信貴山城”を開城させられた事は、極めて痛手であった。“松永久秀“にとって、苦しい時期が続いたのである。(尚、1568年9月に足利義昭・織田信長が上洛に成功し、援軍を得る事が出来た松永久秀は信貴山城の奪還に成功する)

36:なかなか“上洛支援”の動きを起こさない“朝倉義景”の“一乗谷”を去り“織田信長”の誘いに応じて“岐阜”への旅立ちを決断した“足利義昭”


36-(1):上洛への支援を期待した“朝倉義景”を諦め“織田信長“に“上洛支援”を託すことを決断した”足利義昭“

1568年(永禄11年)7月13日:

“足利義昭”は“近江国~若狭国”と流浪を続けながら、諸国の大名達に盛んに“御内書“を送った。彼としてはどの大名でも良いから、自分を擁立して上洛し、将軍にして呉れれば良かったのである。

既述の様に当初は“上杉謙信”が本命であった。彼は“足利義昭”の同母兄“第13代将軍・足利義輝”に謁見し、その後“関東管領“の地位に就き、幕府への忠誠を誓った経緯がある上に、最も頼り甲斐のある大名に映ったのであろう。しかし”上杉謙信“は“越後国内”が不安定と成り、大軍を率いて上洛するどころでは無くなっていたのである。

第2番目の候補は”足利義昭“が現在身を寄せ、元服の際に”管領代”に任じた”越前国・朝倉義景“であったのであろう。しかし、彼は上洛して“将軍”を補佐すると言う野心に乏しく”越前国“を安定させる事を重視し、なかなか動こうとはしなかったのである。

そこで、第3の候補として浮び上がったのが“織田信長“であった。彼は1567年(永禄10年)8月に”斎藤龍興“を“稲葉山城の戦い”で“美濃国“から追い出す事に成功し、改名した”岐阜“を本拠地とし“天下布武”即ち“全国統一ビジョン”を掲げ、先ずは”上洛支援“を視野に、後述する”伊勢国・北部“並びに”伊勢国・中部“の分国化から着々と進める動きをしていたからである。

3年近くも空位だった“将軍職”の“宣下”を“摂津国富田荘・普門寺“で受け”足利義栄“政権をスタートさせ、先行する従兄弟“足利義栄”に対し”足利義昭“は”織田信長“の支援を得る事で“第二次上洛計画”への動きを再開したのである。

尚“織田信長”は“足利義昭”を岐阜に招聘する決断した事と並行して”上杉謙信”と”武田信玄”の和睦(越甲和与)に乗り出している。この動きを裏付ける史料が存在する。“織田信長”から“上杉謙信”宛の文書(志賀槇太郎氏所蔵文書)がそれである。この文書で“織田信長”は”武田・織田の関係に就いては私が公方様の入洛につき従うことを受け入れたので、隣国の妨げを除くため、和睦しました“と告げている。”織田信長“としては、同盟関係にある”上杉謙信“との関係にひびが入る事を懸念しつつも”武田信玄“と和睦した事を報告したのである。

”織田信長”は”足利義昭”を上洛させ、将軍に就けるという“天下布武”の為の第一ステップを無事に成し遂げる為にも“上杉謙信”と”武田信玄”を和睦させて置く事が必要と捉え“越甲”(越後と甲州)”が和睦して欲しいとの願いを込めた文書であった。

“織田信長”は以後も“甲越同盟”の仲立ち”上杉謙信・武田信玄”の友好関係維持に努力を続けたのである。(尚、越甲和与=甲越同盟は1569年/永禄12年/に織田信長・足利義昭を仲介として武田信玄と上杉謙信との間で成立している)。

36-(2):“上洛“の目途を立てた“織田信長”が“越前国”に退避していた“足利義昭”に迎えの使者を遣わす

“斎藤龍興”の“稲葉山城“を陥落させ(1567年/永禄10年/8月15日)”美濃国“を勢力下に置いた“織田信長”は、翌1568年に入ると、後述する“北伊勢”の分国化に成功し“環伊勢湾地域“を勢力下に置き始めていた。

この事に拠って“上洛”支援の目途を立てた“織田信長”は“足利義昭”と交渉を進め、彼を自国の“美濃国“に迎えるべく、家臣の“不破光治”(ふわみつはる・生没年不詳)・村井貞勝(むらいさだかつ・生年不詳・没:1582年・本能寺の変の際、妙覚寺に駆け付けて討ち死)“嶋田秀満”(生没年不詳)“そして興福寺を脱出した“一乗院覚慶”を甲賀の自邸に匿った“第13代将軍・足利義輝”家臣の”和田惟政“(わだこれまさ・生:1530年・没:1571年)等を“越前国”へ遣わしている。

36-(3):“越前国・朝倉義景”とは喧嘩別れでは無かった事が伝わる“足利義昭”の“岐阜“到着

1568年(永禄11年)7月13日:

“足利義昭”は世話に成った“越前国・一乗谷”を後にし“織田信長”の待つ“岐阜”へと出発する。その折“朝倉義景”には“将来も決して見捨てない”との言葉を残した事が伝わる。

1568年(永禄11年)7月25日:

“岐阜”へ入る前に“足利義昭”は“織田信長”と同盟している“浅井長政”の“小谷城“(滋賀県長浜市・築城1516年?、1523年~1524年説もあり・1575年廃城)にも立ち寄っている。”岐阜“には7月25日に到着した。“足利義昭”の“上洛”への動きは“織田信長”の動きと共に、以後本格化して行く。

36-(4):“足利義昭”と“織田信長”の対面

1568年(永禄11年)8月7日:

“岐阜”に到着した“足利義昭”の仮の御所は“立政寺”(岐阜市・りゅうしょうじ・創建:1354年)とされた。“足利義昭”が“岐阜”に移った事で“足利義昭”を擁立した“織田信長“の”上洛”構想は大きく動き始めた。

両者の対面が実現したのは、1568年(永禄11年)8月7日であった。(久野雅司氏著:足利義昭と織田信長)

36-(5):“上洛”の途上を遮る“近江国・六角義賢”(承禎)との和睦交渉が決裂し、軍事力に訴える他に手段が無く成った“織田信長”

1568年(永禄11年)8月14日:

“足利義昭”を擁立し“上洛”に動く“織田信長”は“足利義昭”の名で使者を遣いに出した他、同盟する“浅井長政”の属城“佐和山城“(近江国坂田郡・現在の彦根市・鎌倉時代の1190年~1198年の文書に同城の名が見える・六角氏が支配していた時期、応仁の乱後に、家臣の小川氏を城主として置いた記録が残る。戦国時代後半には、北近江に於ける六角氏の勢力が衰退し、新興勢力の浅井氏が支配下に治めた。小谷城の支城の一つと成る。豊臣政権下、石田三成が城主だった時期には山頂に五層の天守が高く聳えたと伝わる。徳川時代に成り、井伊直政が城主と成る。彦根城が完成し1606年廃城と成る)に自ら出向き、此の地に7日間も留まって“六角氏”の説得に当たったのである。

交渉の条件として“織田信長”が上洛を果たした後には“天下(京都を指す)所司代を任せる”と“六角義賢(承禎)”を味方に誘った。しかし、その一方で“六角義賢(承禎)”には人質を差し出す事を要求した事がネックと成り“織田信長“の下位に立つ事を嫌った“六角義賢”(承禎)は拒否し、両者の交渉は決裂した。(信長公記)

別の説に拠れば、当時、既に家督を継いでいた“六角義賢(承禎)“の嫡子”六角義治“が”三好三人衆“の軍事力を当てにして”織田信長“に対抗する構えから、病気を理由に”織田信長“が遣わした使者に会う事もせずに追い返したと伝わる。7日間“佐和山城”に留まってまで、続けた交渉を諦め“織田信長”は“六角”氏との“開戦止む無し”と決断し“美濃国”に戻ったとされる。

“織田信長”は“松永久秀”方に加入した“三好本宗家当主・三好義継”にも1568年(永禄11年)8月14日付で参陣を促し“三好義継”には“和泉国“の勢力の糾合を期待した事が”丹波市教育委員会所蔵文書“に残されている。

37:“織田信長包囲網”が上洛を阻もうと結集する

1568年(永禄11年)8月17日:

“三好”方が“近江国”へ赴き“織田信長”の説得を蹴った“六角義賢”(承禎)と“天下の儀”を談合した事が“言継卿記”に書かれている。“三好”方と“六角義賢”(承禎)の同盟を再確認し“足利義昭・織田信長”方の“上洛”の動きを阻もうと結集したのである。この時点での勢力構図は下記の通りである。

足利義昭+織田信長+松永久秀+三好義継+徳川家康+毛利元就+村上武吉+細川通薫+安見宗房+畠山秋高
              VS(対抗)

足利義栄+三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)+阿波三好家(篠原長房+三好康長+三好盛政)+六角義賢(承禎)+筒井順慶

37-(1):“筒井順慶”と組んで“阿波三好家”が“大和国・松永久秀”を攻撃した戦いに“織田信長”自らが先頭に立って加勢する

1568年(永禄11年)9月2日~9月4日:

“阿波三好家”方の“三好康長”(故・三好長慶の叔父)並びに“三好盛政”等が“筒井順慶”と組んで“松永久秀”軍を攻撃、再び“東大寺”に攻め寄せた。“東大寺大仏殿の戦い“(1567年4月18日~1567年10月11日)から僅か1年しか経っていない1568年9月2日~9月4日の事であった。

”天下布武印“を使い始め“日本全国統一”をビジョンとして高らかに掲げ“足利義昭”を擁立して“上洛”の決意を明らかにした“織田信長”にとっては、同盟する“松永久秀”軍へのこの攻撃は“三好”方が“六角”氏、並びに“筒井順慶”等と連携して“織田信長包囲網”を形成しての戦いであり、決して侮れない敵方の動きであった。“上洛“への道を阻む敵方の攻撃に”織田信長“は自らが先頭に立ってこの戦闘に加勢した。

そして“織田信長包囲網”による“上洛阻止”の戦い“観音寺城の戦”が“南近江・六角義賢”(承禎)との間で展開された。

38:“観音寺城の戦い”に勝利し“織田信長包囲網”の打破に成功した“織田信長”

1568年(永禄11年)9月7日:

この戦いは“織田信長”が“観音寺城”の支城の“箕作城”を主戦場とした為“箕作城の戦い”(みつくりじょうのたたかい)とも呼ばれる。“足利義昭”を擁立して“上洛”を本格化させた“織田信長”方の進路に立ち塞がる“近江国南部守護・六角氏”を打ち破った戦いである。

この戦いには“織田信長”自らが出陣、先頭に立って、尾張国、美濃国、北伊勢からの軍勢に加え、同盟する“徳川家康“の”三河国“からの兵も加えた総勢50,000~60,000程の軍勢で”六角氏“との合戦に挑んだ。”天下布武“を掲げて”織田信長“が臨んだ最初の戦闘である。

38-(1):“織田信長”軍の先鋒隊が先ず“観音寺城”の支城“箕作城”を攻め落す

1568年(永禄11年)9月12日:

1559年から形の上では当主に就いていた“六角義弼”(ろっかくよしすけ・六角義賢の嫡男・六角氏16代当主・義治とも称される・生:1545年・没:1612年)ではあったが、実権は父“六角義賢”(承禎)が握っていた。そして、両人共に主城の“観音寺城”(安土町)を居城としていた。“観音寺城”は、周囲四方に国衆達が居住する巨城であり、近くには支城として“近江国・和田山城”並びに“箕作城”(共に現在の五個荘町)があった。

“六角氏”は“織田信長”軍との戦いに備え、前衛の位置に在る“近江国・和田山城”に多数の兵を入れ、守備を固めていた。

夕刻“織田信長”軍は”佐久間信盛“(織田信長の重臣・生:1528年・没:1582年)”木下秀吉“(改名:木下藤吉郎~木下秀吉~羽柴秀吉~藤原秀吉~豊臣秀吉・生:1537年・没:1598年)”丹羽長秀“(にわながひで・安土城普請の総奉行・筆頭格の佐久間信盛失脚後に柴田勝家に次いで二番家老の席次を与えられる・15年後の羽柴秀吉と柴田勝家との、賤ヶ岳の戦いでは秀吉側に付き、戦後123万石の有数の大名と成る・生:1535年・没:1585年)を先鋒隊として“主城・観音寺城”では無く、最も奥に位置する“箕作城”を真っ先に襲うという作戦を立てて臨んだ。

予想外の“織田信長軍”の奇襲に“箕作城”はその夜のうちに陥落した。この予想外の戦術が決め手となり“箕作城”を攻略された“六角氏”方の戦意は忽ちの中に萎え、主城の“観音寺城”を捨てて“甲賀”方面に逃走したのである。

“近江国衆”の中には“六角氏”に従った者も居たが“永原氏・後藤氏・永田氏・蒲生氏・青地氏”等“南近江”で“六角”氏を支えて来た殆どの国人領主達が“織田信長”に降伏するという結果に成った。

1568年(永禄11年)9月22日:

こうして”天下布武(日本全国統一)“のビジョンを高らかに掲げた”織田信長“は、その最初の戦に勝利した。この勝利は以後の“織田信長”の“京都、畿内平定”に影響を与え、事実上の“天下人”として名乗りを上げる契機と成った戰とされる。“織田信長”としては彼のビジョン達成の第一歩である“足利義昭”を擁立しての“上洛”が見えた。

ここで“織田信長”は“岐阜”で待つ“足利義昭”に迎えの使者を立てた。

朗報を待ち望んでいた“足利義昭”は直ぐに“岐阜”を出発し゛桑実寺“(安土町)に入り”織田信長“と合流した。“織田信長”に拠る“足利義昭”を擁立しての“上洛”達成は最早時間の問題と言う緊迫した状況が訪れた。

38-(2):“観音寺城の戦い(箕作城の戦い)”の纏め

年月日:1568年(永禄11年)9月12日
場所:観音寺城、箕作城、近江和田山城一帯
結果:“織田信長”軍が勝利し“六角義賢・義治”父子は“観音寺城“から逃げ出し、城は無血開城された

=交戦戦力=
織田信長軍
徳川家康軍
浅井長政軍

=指導者・指揮官=
織田信長
浅井長政
柴田勝家
滝川一益

森可成(もりよしなり)・・森蘭丸父親
丹羽長秀
木下藤吉郎・・豊臣秀吉,当時31歳?
神戸具盛
松平信一・・徳川家康家臣で本丸一番乗りを果たし、織田信長から賞された


戦力:50,000∼60,000兵

損害:不明
=交戦戦力=
六角軍



=指導者・指揮官=
六角義治(義弼・六角氏16代当主・23歳)
六角義賢(承禎・六角氏15代当主・47歳)
六角義定(義治弟・同上17代当主・21歳)
蒲生賢秀(後に信長に仕え柴田勝家の与力となる・34歳)
吉田重政・・日置流弓術の祖
田中治部大輔






戦力:11,000兵 以上

損害:1,500前後

38-(3):“観音寺城“訪問記・・2022年(令和4年)4月8日

住所:滋賀県近江八幡市安土町石寺

交通機関等:
朝6時21分、東京駅発の新幹線で米原駅で下車、駅で友人と待ち合わせ駅前のトヨタレンタカーで日頃運転しているプリウスを借り、9時半に“観音寺城”を目指して出発した。凡そ1時間程で所定の駐車場に着き、そこからは徒歩で“観音正寺”経由で城跡に向った。写真に周囲の史跡等の道標を示すが、駐車場から“観音正寺”に着くまでの道は、途中の眺望が開けた山道で我々は朝食兼昼食を採り、その後ゆっくりと“観音寺城址”に向って歩いた。

城址迄の山道も余り険しく無く、途中の道標に拠れば“観音正寺”から“観音寺城本丸跡”迄の距離は400m程とあった。資料に拠れば“観音寺城”は規模は日本屈指の城であったが、単純な虎口(出入り口)といい、竪堀が無い等の築城の状況からも、防御施設は貧弱であり難攻不落の防備の為の城と言うよりは“名家・六角氏”の権威付けの為の“政治色”の強い城であったとある。

歴史等:
日本五大山城の一つとされ、城跡は国の史跡に指定されている。標高433mの繖山(きぬがさやま)の山上に築かれた城である。
城の歴史は”太平記”に”観音寺ノ城郭”との記載が見られ、1335年(建武2年)に南朝方の”北畠顕家”軍に備えて、北朝方の”六角氏頼” (足利尊氏の加冠に拠って元服した・南北朝時代の近江国守護大名・六角氏4代、6代当主・生:1326年・没:1370年)が“観音寺”に布陣した事がこの城の起源とされる。この事から、築城主は“六角氏頼”だとされる。
当初は”観音正寺”を臨戦用の砦として活用していたと考えられ、築城の完成には長い年月を経て、1468年(応仁2年)に完成したとされる。“応仁の乱”の時期に”六角高頼”が西軍に属し、同族の”京極持清”と戦う等、計3回に亘る”観音寺城“の攻防戦が展開された事が記録されている。
上記した“織田信長”軍との1568年(永禄11年)の戦いは“織田信長”が”天下布武”のビジョンを掲げて戦った最初の戦いであると共に“京都・畿内平定”を達成し”天下人”と成り日本史上”安土桃山時代”と”室町時代末期=戦国時代”との境目と成った“戦国時代最後の合戦”とされる。この戦いで支城の”箕作城”と”和田山城”が先ず陥落すると”観音寺城”に居た”六角義賢・義治”父子は逃げ、結果”無血開城”と成った。
“観音寺城”は石垣を多用した城としては”安土城”よりも早く、戦国時代の城としては殆ど唯一の城とされる他、箕作城、和田山城、佐生城、長光寺城,その他の支城を合わせて合計13もの支城を持つ、傑出した規模の城でもあった。 天文年間(1532年~1555年)には、城下町、石寺も置かれ、楽市も行われていた記録もある。これらの特徴を持つ城として“日本五大山城”に数えられているが、防備の為の城というよりも、権威付け、政治色の強い城であった。
“織田信長”方の城として暫くは機能していたとされるが”安土城”が1579年に完成すると、その歴史的役割を終えている。
訪問記:
時期的に僅かながら桜が残って居り、ハイキングを楽しむ何組ものグループに出会った。中にはお年寄りグループがガイドさんの歴史説明に耳を傾ける光景もあり、他の戦国期の山城に共通した険しい要害の地に築かれた城とは異なる立地条件に築かれた城である事は歩いてみると容易に実感出来た。
道標に“桑実寺”迄500mと書いてある。そして下記写真に示す様に”観音寺城跡”そして“桑実寺”更には”安土城”の全てが極めて至近距離にある事が分かる。
”織田信長”が”足利義昭”を擁立して”上洛”に向けての戦いに勝利し、開城させ(観音寺城)“足利義昭”を迎え(桑実寺)、そして”天下布武”のビジョン達成の拠点(安土城)に移り住むといった、一連の歴史的史跡がこの周囲に固まっている事が、此の地を訪れると一目瞭然である。

写真左上:① ② ③とある様に観音寺城、桑実寺、安土城が極めて至近距離に位置する
写真中左:繖山に“観音寺城”“箕作山”には支城の”箕作城“があった事を示す地図。
写真中右:総石垣で、安土城以前の中世城郭としては特異な城だと書かれている
写真左下:観音正寺から観音寺城へは凡そ
400m、桑実寺までも観音正寺から凡そ700mである
38-(3)-①:桑実寺訪問記・・訪問日2021年(令和3年)4月1日(木曜日)

住所:滋賀県近江八幡市安土町桑実寺675
交通機関等:
東京駅から新幹線で米原駅で降り、そこで友人と合流し、駅前のトヨタレンタカーで車を借りた。地図を添付したが、日記には朝10時にレンタカー営業所を出発し、11時に“桑実寺“に到着と書いてある。“安土城から”桑実寺“迄の距離は1.8kmと寺の説明書には書かれている。“織田信長“が後に築城する”安土城址“に近い。周囲には”安土城城郭史料館“更には“観音寺城跡”等もあり“織田信長”の“天下統一”の足跡を辿る為には何度も尋ねる事になる地域であろう。

訪問記:
室町幕府第12代将軍“足利義晴”が仮の幕府を設置し、又、上記した様に“第15代将軍”に就く“足利義昭”も滞在し1576年に“安土城”に移った“織田信長”が保護したと伝わる“桑実寺”である。織田信長が本能寺で明智光秀に討たれる1582年(天正10 年)に“安土城”の女中達が信長の留守中に禁足を破って参拝に訪れた事を“織田信長”が咎め、女中達、並びに彼女達を擁護した桑実寺の高僧達を殺害した事件が起こったと史料に記されている。

写真に示す様に“桑実寺”の今日の姿は、国の重要文化財ではあるが、残念乍ら、繁栄した当時の寺の面影は残っていない。入り口に受付小屋があり、一人のスタッフが寺の由緒書を渡して呉れた。それに拠ると“本堂”は国の重要文化財である。“織田信長”が建立したと伝わる“大師堂(経堂)”は“天台伝教大師”(最澄・生:767年・没:822年)の像が安置されていたが、明治末期の風水害で大破したとある。現在の建物は1913年(大正2年)に経堂として再建されたものである。

写真に示す様に、今日では、規模こそ当時の姿を留めないが、寺の風情としては“室町時代”を感じさせるものが十分にある。周囲には“安土城址”をはじめ”観音寺城趾”等”上洛”を目指し“天下布武”のビジョンを掲げて”全国統一”に走り出した”織田信長”ゆかりの史跡が多くあり“織田信長”に関する歴史研究には欠かせない地として是非訪問される事をお勧めする。
写真上3枚:桑実寺門前写真中左:国の重要文化財本堂(南北朝時代建立、入母屋造檜皮葺)写真中右:佐々木高頼(六角高頼)建立の三重塔に安置された大日如来像写真下2枚:経堂とその説明書き
39:“血統信仰”の地、そして“守旧”の地“京都”では、市民も含め“上洛の主体”は“足利義昭”だと見た。“足利義昭”と“織田信長”両人には上洛当初から何方が“上洛後の主体”なのかに就いて“ズレ”が生じていた

39-(1):“上洛”の主体を“足利義昭”だと扱う当時の記録

39-(1)-①:“織田信長”の入京を前に、騒然としていた“京”の様子

以下の様に“言継卿記”には“織田信長・足利義昭”の“上洛”を目前にした“京”市内が戦々恐々となり、それを憂いた記事が残されている。

①:1568年(永禄11年)9月12日条:
昨日”箕作城“が落とされた。”観音寺城”も落ちたという。絵箱、太刀箱を二つ御所の台所に預けた
②:1568年(永禄11年)9月14日条:
尾張の信長軍が夜明けに入京するのは確実らしい。友人を遣わして残った色々な物を御所へ移した。一晩中、京都中で騒動に成っている。仕方のない事である。
③:1568年(永禄11年)9月20日条:
織田軍が出て来た。京都の内も外も騒動に成っている。一両日中に京都に入るとの事、今朝は尚も騒動が起こっている

④:1568年(永禄11年)9月21日条:
今日の出張延引云々、来廿四日必定云々

1568年(永禄11年)9月22日~9月25日:

9月12日の“観音寺城の戦い”(箕作城の戦いとも呼ぶ)で上洛への通路を塞いでいた“六角義賢・義弼“父子軍を排除する事に成功した”織田信長“軍の先陣は“琵琶湖”を船で”勢多“(瀬田)から渡り、9月23日に”山科七郷“に着陣した。

”織田信長“は9月23日に本陣を”守山”から“三井寺極楽院”へ進め、翌9月24日に大津の“馬場・松本”に着陣している。更に9月25日には“禁裏”の警護を命じる一方で、東の田中の在所を放火したとの記録がある。“足利義昭“は”織田信長“の後から、船で湖西の”三井寺光浄院“に御座を移した。

39-(1)ー②:”織田信長“が”足利義昭“の御供として供奉(ぐぶ=御供として加わる)したと”斑鳩旧記類集“は伝えている

”斑鳩旧記類集“(いかるがきゅうきるいしゅう)は近代法隆寺の祖と言われた”千早定朝“(生:1823年・没:1899年)に拠って編集された書写資料である。同書に拠れば“御公方様御入洛に付き,織田上総守(介)御供として上洛”とあり、当時の人々が“上洛”の主体を“足利義昭”と捉えていた事を伝えている。

39-(1)ー③:“原本信長記”も“上洛の主体”が“足利義昭”であった事を伝えている

“原本信長記”とは“信長公記”の著者“太田牛一”の自筆を含む善本(保存が良くて本文の系統の良い本)で、重要文化財に指定されているものである。“信長公記”と“原本信長記”との成立事情は明らかでないが“信長公記”の方が記事が豊富であり、利用度が高いとされる。その中に

今度御動座の御伴衆、末代の高名と諸家これを存じ、士力日々に新にして、戦うこと風を発するごとく攻め、河のごとく決すとは、それ是を謂うか

と書かれている。その文意は“足利義昭”に付き随った“御伴衆”達は末代までの高名、大変名誉な事として、士気を上げて戦ったとある。この記述からは従軍した武士達は“将軍”の為に合戦したのであって“将軍の威光”に拠って瞬く間に畿内が平定されたと、認識していた事が窺われ“上洛”の主体が“足利義昭”であった事を伝えている。

39-(1)-④:”入洛記“も”足利義昭“が主体であったと記録している

”入洛記“には”その外人数、大津・松本・馬場・粟津・志賀・坂本に充満せり“との記述がある。この記事も”入洛“の主体が”足利義昭“であった事を示唆している。この記事を”足利義昭と織田信長“の著者”久野雅司”氏は、以下の様に解説している。

“その外”人数とある事から”織田信長”の軍勢とは区別した軍勢と解釈する事が出来る。大津から坂本一帯まで“充満せり”と書いた軍勢とは何処から来た、又、どの様な軍兵なのであろうか?

”久野雅司”氏も、巷間伝えられて来た“上洛の主体が織田信長であった”とする説に違和感があると伝えている。

39-(2):一方で、巷間伝わる“上洛の主体が織田信長”であったとする説の論拠

“日本全国統一ビジョン”を掲げ“天下布武印”を用いた事は“織田信長“の強い意志の現われであった。そして“観音寺城の戦い”の勝利は“上洛”“を愈々現実のものとする過程であり“織田信長”のビジョンを実現する為の第一歩に過ぎなかったのであろう。この戦いは日本史上の扱いは“戦国時代最後の戦い”とされ、続く“織田信長”の“上洛“に拠って“安土桃山時代”へと移って行く。

メモ:“安土桃山時代”の始期に就いては以下3説がある。

①:織田信長が足利義昭を奉じて上洛した1568年9月26日とする説
②:足利義昭が“槙島城の戦い”に敗れ京都から追放され室町幕府が事実上滅亡に追い込まれた1573年7月19日とする説
③:安土城の建設が開始された1576年(天正4年)1月とする説

“織田信長”が“上洛”以後、擁立した“足利義昭”をどの様に扱い、どう行動したか、であるが、当初は、極めて慎重であった事が分かる。この点で“三好義継”が“第13代将軍・足利義輝”を殺害し“足利将軍家”を廃し“伝統的家格秩序”を破壊して“三好家”が覇権を握るという革命的な行動をとったのとは対照的である。

殺害された“第13代将軍・足利義輝”の“弔い合戦”という“大義名分”の下で上洛に動き、又“第13代将軍・足利義輝”の同母弟“足利義昭”を擁立した”上洛”支援は“足利将軍家”の“嫡流血統”を“奉戴”して“足利幕府再興”を支援したという事に他ならない。

当初は“織田信長”はこれらの事に充分に配慮し、慎重な行動に務めた。そもそも“織田信長”が“足利義昭”を“奉戴”(ほうたい=君主として仕える事)し“上洛”に至った行動は“天下布武のビジョン”を掲げての行動の最終目的では無かった。“室町幕府再興“は先ずは”伝統的家格秩序“を守って”天下人“の地である”畿内“に進出を果たす為の手段に過ぎず、再興した”室町幕府“を傀儡化する事で”織田信長“が実質的な“天下人”として“全国統一”を成し遂げる事が最終ビジョンであった。つまり“上洛”は“天下布武”の通過点であったとする説が“上洛の主体は織田信長”とする説の論拠である。

当時の”織田信長”と“足利義昭”との勢力比較をすれば“織田信長”の方が優位であった事は歴然としていた。この力の差を論拠に、世間並びに“京”の人々が”上洛“の主体が”織田信長“だと見ていたに違いないとの説が通説として伝えられたのである。

39-(3):“織田信長”が“上洛”の主体だったとする説への批判、そして否定

“織田信長”が上洛の主体であったとする、上記した論拠に立つ説は、後の史実展開に影響されたものであるとして否定される事が多い。

“血統信仰”が岩盤の様に根付き“伝統的家格秩序”を最重要視する“日本の特異性”は、日本全国共通のものであったが、取り分け、地方に比べ、守旧の地“京都”ではその傾向は圧倒的に高く①”斑鳩旧記類集“の記事②“原本信長記”の記事、そして③”入洛記“の記事で紹介した様に、当時の“京都”の人達は”上洛“の主体を”足利義昭“だと考えていたのである。

これ等の史料も、大名・諸将・更には京の市民に至るまでが、尋常で無い程の熱狂で“足利義昭”の入京を歓迎した様子を伝えている。こうした反面、既述の様に“第13代将軍・足利義輝”が“永禄の変”(1565年5月19日)で殺害された時には“京都”市内で、左程の混乱は起きなかった。

この矛盾は“室町幕府“の将軍が”第10代将軍・足利義材“以降”流浪の将軍“と成り”京“を追われていたケースが常態化していた事で、将軍の“権力・権威”が大きく損なわれていた事の証左とされる。この矛盾する事態は“足利義昭”並びに“織田信長”が入洛した後の政情にも反映される事に成る。

上洛の主体が“足利義昭”であったとする史料に“重編応仁記”(じゅうへんおうにんき・江戸中期/宝永年間1704年3月~1711年3月/に小林正甫が偏したもの)がある。この史料は“公家方の御威勢はおびただしい(略)今度の儀、御威光に拠って凶徒速やかに没落し、畿内悉く退治され(略)公儀の御威光ゆえに,今度御敵退散して五箇国(近江・山城・摂津・河内・和泉)御手に入る“と書き“上洛”の主体が“足利義昭”と見做している。

その後、実際に起きた史実展開を知って居る我々としては歴史の整合性という観点から“上洛”の主体がどちらであったのか、という視点では無く

足利義昭と織田信長の上洛戦は将軍権威と織田信長が握った権力が一体となって展開されたものであった

と理解するのが正しいのであろう。

40:1568年(永禄11年)9月初旬に“三好”方が京都を離れた事で、以後の“禁中”並びに“京”の警護、治安維持を“正親町天皇”が“織田信長”に命じた

1568年(永禄11年)9月初旬:

“足利義昭”そして“織田信長”が入京を果たした1568年(永禄11年)9月26日の前、即ち、9月初旬には”三好三人衆“並びに”三好一党“は京を離れた。➀山城”勝龍寺城“には”三好三人衆“の”石成友通“が守りとして入城し②摂津国“芥川山城”には“三好三人衆”の“三好長逸”が守りの為に入城した。そして③摂津国”越水城“並びに④”滝山城には“阿波三好家”の“篠原長房”が入った。

“三好方”はこの様に各城に分散して籠るという体制で、敵方“足利義昭・織田信長”方の上洛後の様子を窺ったのである。

政権与党であった“三好”方が“京”を退去した事で“正親町天皇”並びに“公家”等“朝廷”側は“織田信長”という馴染みの無い武将に擁護を期待せざるを得ない立場に成った。

40-(1):“禁中警護”と“京都市内治安維持”の命令が“正親町天皇”から“織田信長”に下る

1568年(永禄11年)9月14日:

”織田信長“の上洛が決定的となった状況に、第106代”正親町天皇“(おおぎまちてんのう・在位1557年~譲位1586年・生:1517年・崩御:1593年)は“織田信長“に対して、禁中の警護と京都市内の治安維持を命じる“御教書”を発給した。(経元卿御教書案)

“織田信長”はこれを“観音寺城”で受け取ったとされる。

当時の“戦”と言えば、物の略奪がつきものだった。品物ばかりでは無い、人間の略奪さえ当り前に行われていた。“山科言継”(やましなときつぐ・死後300年以上経った、1915年/大正4年11月に朝廷の存続に尽くした功績を讃えられ、従一位という破格の贈位が行われた・生:1507年・没:1579年)等、公家にしてみれば、得体の知れない“織田信長”と言う男の配下の田舎武士達が、盗賊もどきの悪行に及ぶ事が最も心配の種であり、従って“京”の人達は戦々恐々だったのである。(谷口克広:信長の天下布武への道)

“別掲図”は“足利義昭”並びに“織田信長”の入京迄を日付順に示したものである。理解の助に参照願いたい。

“足利義昭”並びに“織田信長”の入京迄を日付順に示した別掲図

41:兵達に規律を守らせ、治安維持を徹底させた“織田信長”軍の入京

41-(1):“織田信長”並びに“足利義昭”が入京する

1568年(永禄11年)9月26日:

“足利義昭・織田信長”軍の先陣は“淀・鳥羽・竹田・伏見・塔森にまで進軍した。”織田信長“の本隊は”山科郷・粟田口“や”西院“の方々を放火しながら”北白川“から入京、この日の早朝“東寺”に入った。(東福寺に陣を移したとの説もある。又、織田信長は洛中に入らず、直ちに摂津国に侵攻したとする記述もある)

”足利義昭“も続いて東山の”清水寺“に入った。彼にとって念願の”上洛“を遂げた記念すべき日と成ったのである。(別携図の下部にその経緯を示している)

“織田信長”は右筆(秘書役)の“明印良政”(みょういんりょうせい・11人居たとされる右筆の一人・生没年不詳)と“足利義昭”の近臣“細川藤孝”(細川幽斎・足利義輝に仕え、殺害後は一乗院覚慶の興福寺幽閉からの救出、その後の擁立に奔走する・肥後細川家の礎・生:1534年・没:1610年)の二人を禁裏に遣わし“正親町天皇”の御教書の命令“禁中の警護と京都市内の治安維持”を厳重に勤める覚悟を伝えた。

“公家達“は一斉に胸を撫で下ろしたと伝わる。実際に、京都市内(東寺)に着陣した兵卒達には”織田信長“からの指令が行き渡っており、乱暴、狼藉は起らなかった。

42:“畿内平定”を成し“足利義昭”の上洛を実現させた“織田信長”

42-(1):“村上水軍”並びに“毛利元就”も“足利義昭”の上洛を西国から支援したという史実

前頁に添付した“別掲図”の上部“1568年(永禄11年)足利義昭と織田信長の上洛と戦い”を参照願いたい。この図は“足利義昭”を擁立、支援した“織田信長”方を赤色で示している。この図には描かれていないが“足利義昭”の上洛を支援したとされる“村上水軍”に就いて以下に紹介して置きたい。

“古事記・日本書紀“にも記され、古代から重要な海洋交通路でもあり、日本の重要な部分と認識されて来た”児島”は戦国末期には“安芸・備後の毛利氏”そして“備前・播磨の浦上氏”並びに“讃岐・安芸の三好氏“との間で争奪戦の場と成って居た。

この頃“村上武吉”(むらかみたけよし・能島武吉とも称す・生:1533年・没:1604年)が率いる“村上水軍“や、それを支援する”毛利氏“と”阿波三好家“との間で”児島“を巡って争奪戦が繰り返されていた。“村上水軍”は“松永久秀”と連携していたとされる。

1568年(永禄11年)9月27日:

“村上武吉”は“本太城“(もとふとじょう・岡山県倉敷市児島本荘・山城と海城の複合城郭)の戦いで”阿波三好家“の家臣”香西元載(又五郎)“(十河一存の家臣であった・生没年不詳)の軍勢を敗っている。

この戦いで“村上武吉”が”細川通薫“(ほそかわみちただ・細川野州家第7代当主・生:1535年・没:1587年)等”毛利氏“の援軍を得た事が”松永久秀“に宛てた1568年(永禄11年)9月27日付の書状から分かる。“村上武吉”と“松永久秀”は書状を交わす様な連携関係にあった事が裏付けられる。

更に“本太城の戦い”に於ける“村上武吉”の戦功に対して“感状”が①松永久秀②足利義昭、更には③当時満71歳の毛利元就(生:1497年・没:1571年)毛利輝元(生:1553年・没:1625年)父子から出されている。(屋代島村上文書・下関文書館所蔵細川家文書)この事から“村上武吉”が”足利義昭“の上洛を支援したグループの一員であった事が分かる。”足利義昭“の上洛には、之まで記述して来た”織田信長“方の諸将だけでなく”西国の武将“の支援があった事を裏付けている。

こうした状況にあった事を“三好一族と織田信長”の著者“天野忠幸”氏は以下の様に記述している

足利義昭と織田信長は近江国側から軍勢を率いて攻め上るだけではなく、畿内南部からも松永久秀や三好義継、更には、瀬戸内側から毛利元就や村上武吉といった武将達の支援を得る事で“三好三人衆”並びに”阿波三好家“等”三好”方に対する包囲網を周到に作り上げ、各方面から牽制する事で畿内侵攻を進めて行ったのである.

42-(1)-①:“村上水軍“関連史跡訪問記・・2022年7月8日(金曜日)

住所:(今治市村上海賊ミュージアム)愛媛県今治市宮窪町宮窪1285番地
交通機関等:
新幹線の福山駅で降り、トヨタレンタカーでプリウスを借り、先ずは福山市鞆町の“鞆城”跡に向かった。“織田信長”に追われて逃れた“室町幕府第15代将軍・足利義昭”が“毛利輝元“の庇護下で”鞆幕府“を開いたとされる史跡である。この訪問記は次項(6-22項)で記述する事に成る。

更に“鞆城”跡から1時間程走って、同じく“鞆幕府“の重要な政務機関であったとされる“渡辺民部少輔元”の菩提寺“常国寺”(広島県福山市熊野町)に到着、見学をした。“常国寺”を11時20分頃に出発して“瀬戸内しまなみ海道”(有料)に入り別掲図に示す様に“向島”~“因島”~“生口島“~”大三島“~“大島”のドライブとなった。金曜日という事もあり、車は空いていた。

“因島大橋”を渡り大浜PAで昼食を採る事に成り駐車場に停車した時に東京からメールが入り“奈良を選挙応援の為訪問していた安倍元首相が銃撃され心肺停止状態”との報を受けた。銃撃が11時半過ぎで12時前のメールが既に“心肺停止状態”とのマスコミ報道を伝えて来た位であるから“ほゞ命は助からない”と言う事であろうと理解した。

”失われた30年“とマスコミが報じ続ける程に、退潮著しい“世界に於ける日本”で“安全神話“だけが誇れる日本であっただけに、世界でも極めて稀な“政界実力者”が銃撃されたという事件に驚きを隠せないまゝ“村上水軍”史跡訪問を続ける一日と成って仕舞ったのである。

訪問記:
村上水軍の成り立ち、歴史については“今治市村上海賊ミュージアム”のパネルの写真を掲げたので参照願いたい。因島,能島、来島に本拠を置いた三家から成り”別掲図・戦国期以降の能島村上氏”略系図”にある“村上武吉”の”能島”の周囲の海流は最大10ノット(時速約18km)にも達する潮流が渦巻く天然の要塞だったとされる。

尚、史料の上で“村上海賊”の名が初めて認められるのは1349年(貞和5年・足利尊氏政権下、嫡男足利義詮に代えて次男足利基氏を初代鎌倉公方に就けた年)という。戦国時代の”海賊”は無作為に船を襲い略奪を行ったり財宝を求めて大航海を行う集団では無く、寧ろ海の安全を守り、海上交通の秩序を保つために必要な人々であった事が近年の研究で分かって来ている。

又、各島には”能島城跡”そして“来島”には“甘﨑城跡・来島城跡”そして”因島”にも”青木城跡・青陰城跡”等多くの城跡がある。

“大三島”の”大山祗神社”(おおやまづみじんじゃ・愛媛県今治市)を最後に訪ねた時には時計は15時を回っていた。この神社は、全国の”山祗神社“の総本社であり”伊予国一宮”である。創建に就いては諸説があるが”推古天皇2年=594年“とある。

源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈った為”大山祗神社”の宝物館には、国宝・重要文化財の指定を受けた日本の甲冑の約4割が集まっているとの事である。実際に源義経が奉納した薙刀、並びに太刀、そして源頼朝が奉納した鎧を見学する事が出来た。

更に驚いたのは“天智天皇”(第38代天皇・生:626年・崩御:672年)奉納の神宝”長命冨貴銅鏡”そして“孝謙天皇”(第46代天皇・女性天皇で重祚して第48代称徳天皇と成る・生:718年・崩御:770年・重病に陥った孝謙天皇を看病した弓削道鏡を寵愛した話は知られる)奉納の”瑞花蝶鳥八燎鏡”も展示されていた。

境内にある国の天然記念物”大山祗神社のクスノキ”は”能因法師 雨乞の楠“とあり、その説明板には”日本最古の楠・樹齢3000年”とあった。

写真上:村上海賊ミュージアムの村上海賊関連年表の1570年の欄に毛利氏と盟約を結ぶとある写真下左:能島村上に就いて書かれたパネル、因島村上、来島村上パネルもこの横に掲示されていた。写真下右:能島村上氏略系図の村上武吉の次男”村上景親”の像の前で 
43:“三好”方が兵力を分散していた事で“織田信長”軍の“畿内征圧”は容易であった

“三好”方は“京都防衛戦”に兵力を集中させる事をせず“別掲図・足利義昭を擁立した織田信長と与した松永久秀、三好義継方の動き“に示す様に、兵力を➀勝龍寺城(石成友通)②芥川山城(三好長逸)③越水城(篠原長房)④滝山城(篠原長房)に分散し“足利義昭・織田信長”軍の攻撃に対した事で忽ちの中に敗れた。

加えて、彼等が擁立し、旗印と成るべき“将軍・足利義栄”は病床に伏せたまゝ、1568年(永禄11年)9月30日(死亡した日に就いては諸説あり)には病没していた。こうした状況も“三好”方の士気が全くあがらず、敗戦を重ねる要因と成った。

43-(1):“織田信長”軍は“山城国”並びに“摂津国”で抵抗を続けた“三好”方を征圧する

1568年(永禄11年)9月27日:

“足利義昭”が入京した翌日に“山城国・久我荘”(京都市伏見区久我一帯)で“三好”方は抵抗し、戦闘と成ったが“織田信長”軍に打ち負かされた。

更に“三好方“が”五畿内”の勢力、並びに“淡路・阿波・讃岐”の四国勢を合流させ”山城国”と“摂津国”の境に位置する“山崎”に陣取っているとの風聞を得た“織田信長”が、先陣隊(柴田勝家・坂井政尚・森可成・蜂屋頼隆)を遣わしたところ“三好”方は既に退散していた。この地区も“織田信長”軍が征圧したのである。

43-(2):“三好”方の主城“芥川山城”並びに“越水城・滝山城”も陥落“織田信長”軍は“摂津国“も征圧した

1568年(永禄11年)9月28日:

“織田信長”は更に先陣隊を、嘗て“三好長慶”が畿内支配の為の政治的拠点とした“摂津国・芥川山城“に向かわせた。此処には”三好三人衆“の筆頭格”三好長逸“並びに”細川晴元“の嫡男で”細川京兆家・19代当主・細川信良“(昭元~信元と改名・生:1548年・没:1592年/1615年?)が立て籠もっていた。“織田”軍は“芥川山城”の麓を焼く等、攻撃した為“三好長逸・細川信良”両名は行方知れずに落ち延びた。

さらに“阿波三好家”の“篠原長房”が守っていた“摂津国・越水城”そして“滝山城”(兵庫県神戸市中央区城山)も抵抗を続けたが、勢力分散の弱点はカバーし切れず、遂に開城と成った。続けて“摂津国”では“飯盛山城”も“織田信長”軍の前に降伏、更には“高槻城・入江城・茨木城“も次々と降伏した。”織田信長”軍は瞬く間に“摂津国”を征圧したのである。

43-(3):“河内国・高屋城“も陥落させた”織田信長”軍

1568年9月28日頃:

“河内国・高屋城”には“三好康長”(三好長慶の叔父・生没年不詳)が居り、抵抗したが、 かなわず、開城し“篠原長房”と共に“阿波国”に落ち延びている。

43-(4):“山城国・勝龍寺城“も陥落する

1568年(永禄11年)9月29日:

“三好三人衆”の一人で、嘗ては甥の“三好本宗家当主・三好義継”の後見役を担い、実質的な“勝龍寺城”の初代城主であった“石成友通”が守る“山城国・勝龍寺城“も”織田信長“軍の攻撃で陥落した。城の陥落の様子を“入洛記”は“山城一国はつる”と記している。

ここに“山城国”(京都府の一部、残るは丹後国と丹波国の一部)も“織田信長”軍に拠って完全に征圧されたのである。

尚、陥落後の“勝龍寺城”の城主には”幕臣・細川藤孝”が入った。この城は彼の嫡子“細川忠興”(生:1563年・没:1646年)が“明智玉子”(明智光秀の三女で1578年15歳で細川忠興の正室となる・1587年に洗礼を受け、洗礼名細川ガラシャで知られている。尚NHK大河ドラマ/麒麟が来る/では“芦田愛菜”が演じた。生:1563年・没:1600年)と共に新婚時代を過ごした城であり、又“明智光秀”が14年後の“山崎の戦い”(1582年6月13日)に敗れ、逃げる途中、最後に立ち寄った城でもある。

43-(5):“勝龍寺城”訪問記・・訪問日2021年(令和3年)3月6日(土)

住所:京都府長岡京市勝竜寺13-①

交通機関等:
東京駅発の新幹線で京都駅で下車。同好の友人と合流しJR西日本京都線に乗り換え“長岡京”駅で降りる。駅から城跡には徒歩10分程だが、その途中に写真で示す堀・土塁そして土橋の史跡がある。後に城主となった“細川藤孝”が“織田信長”の許可を得て改修(1571年頃)した時のものだと説明板に書かれている。1992年(平成4年)に“本丸”並びに“沼田丸跡”が“勝龍寺城公園”として整備されている。

歴史等:
築城主は”細川頼春”(細川京兆家の祖・生:1304年・没:1352年)とされるが、明確な裏付けは無い。又“応仁の乱”を引き起こした”山城国守護・畠山義就”(生:1437年?・没:1491年)の名も築城主として挙げられる。戦国時代末期には”淀古城”と共に”松永久秀“や”三好三人衆”の属城と成って居り、文中記した様に”岩成友通”が実質的な初代城主と言われている。その後“細川藤孝”が改修し、堅固な城として”槇島城”と共に”織田信長”の“山城国”に於ける二大前線拠点としての役割を担った。

”羽柴秀吉“の代に成ると余り重要視されず、荒廃し、1649年(慶安2年)城主”永井直清”が”摂津国・高槻藩”に転封されると同時に完全に廃城と成った。

訪問記:
先ずは城の北東に位置する“神足神社(こうたりじんじゃ)神足公園”の堀・土橋史跡(写真)を訪ねた。堀は空堀であったと説明板にある。土橋は幅1m程の狭いもので、大勢の敵が一気に城内に入るのを防ぐ為の工夫であったと書かれている。これらは上記した様に“三好三人衆”の一人で、城主であった“石成友通”を”織田信長”方が攻め落とし、後に城主として入った“細川藤孝”が1571年頃に改修した時のものだとされる。

写真の“模擬櫓・虎口跡”は1992年(平成4年)に”勝竜寺公園”として整備された際に建造されたものである。何といっても”明智光秀”の三女”玉(子)“が”細川忠興“に輿入れし、新婚時代を過ごした地として史跡内には両人の仲睦ましい像が建つ。毎年11月の第2日曜日には“長岡京ガラシャ祭”が盛大に催されるとの説明があった。

  折しもNHK大河ドラマ”麒麟が来る”(放映2020年1月19日~2021年2月7日)が終了した直後の訪問であった為“管理棟”2階の”歴史ミュージアム”には多くの展示物があった。“明智光秀(俳優:長谷川博己)”が“山崎の戦い”(1582年6月13日)に敗れ、逃げる途中、最後にこの“勝龍寺城”に立ち寄り、休息をとり、城の北門から立ち去った事を伝える“北門跡”も史跡内にはある。

こうした数々の歴史に絡んだ“勝龍(竜)寺城”は“安土城”よりも早く”瓦・石垣・天守”を備え“近世城郭の原点”とされる城であった。”細川ガラシャ”の夫”細川忠興”は”肥後細川家“の初代であり、この城はその出発の城であった。こうした歴史に繋がる“勝龍(竜)寺城”の訪問を是非お薦めしたい。
写真最上段:城の北東に残る”堀と土橋”の史跡写真中段左:勝龍寺城説明版 写真中段右:虎口跡 写真最下段左:“明智光秀”が去った”北門跡”同右:仲睦ましい“玉”と”細川忠興”像

44:征圧した畿内全てを“足利義昭”に進上した“織田信長”

以上“織田信長”方の攻撃に拠って“三好”方の“畿内”に残された全ての拠点は征圧された。尚、こうして征圧した畿内の全てを“織田信長”は“足利義昭”に進上する形をとったのである。

44-(1):“足利義昭”の上洛の成功は“織田信長”の軍事力だけに拠るものでは無かった

“足利義昭”並びに“織田信長”の上洛は“信長公記”の記事の影響が強かった為、主として“織田信長”軍の猛勢に拠るものと伝えられて来た。しかし史実は既述した様に➀足利義昭を中心に②織田信長③松永久秀④三好義継⑤安見宗房⑥畠山秋高⑦村上武吉⑧毛利元就・毛利輝元父子、等が結集して”足利義栄“を擁立した㋐三好三人衆㋑三好長治㋒篠原長房、等に対する包囲網を周到に作り上げ、戦闘に勝利した事で成し得たのが史実であると“松永久秀と下剋上”の著者“天野忠幸”氏は述べている。

44-(2):“三好”方が擁立し、旗頭となるべき“第14代将軍・足利義栄”が、早々と病没した事が“三好”方の士気を大いに低下させた事も“足利義昭”方が勝利した大きな要因であった


44-(2)ー①:一度も上洛する事無く“将軍宣下”を受けたものの、其のまゝ病没した“足利義栄”

1568年(永禄11年)9月~10月:

既述の様に“三好”方は“京防衛”に兵力を集中させず、近江方面、大和方面、備前方面と、兵力を分散させた為“足利義昭・織田信長”軍との戦闘で敗戦を重ねた。

朝廷工作を尽くし、敵方が“足利義昭”を擁立して“上洛”に迫る中“三好三人衆”を中心とする“三好方”は、擁立した“足利義栄”を、上洛する事無く“摂津国富田・普門寺“に”山科言継“を勅使として迎え、1568年(永禄11年)2月8日に“第14代将軍“の宣旨を獲得させる事に成功した。

しかし乍ら“三好方”の旗頭と成るべき“足利義栄”は”腫物“を患い、病床に就いたまゝの状態に陥り、其のまゝ回復する事無く”足利義昭・織田信長“勢が上洛戦を強める状況下、病死に至ったのである。

”足利義栄“が病没した場所、期日に就いては諸説がある。1568年(永禄11年)9月に“摂津国富田”の“普門寺“で病死したとの説がある一方で、同年10月に”阿波国“で死去したとの説もある。病没の期日に就いては,何と、9月13日、9月30日、10月1日、10月8日、10月20日、10月22日と、史料によって様々で、不明と言うのが実態である。

“阿波国”で病死したとする説には“将軍・足利義栄”を“篠原長房”が“阿波国“での養生を勧めた為だとしている。更に“淡路国”で病死したとの説もある。いずれにしても、擁立した”将軍・足利義栄“がこうした状態であった為”三好”方の軍勢の士気は上がらず、一先ず“足利義昭・織田信長”軍との戦闘を避け“篠原長房”は後の反攻のチャンスを待って、兵力を温存し“京”を離れ“阿波国”に撤兵したとも伝わる。

この事は”大和国”で“三好”方と同盟関係にあった”筒井順慶”並びに”三好新丞”軍にも伝播し、両軍は共に撤兵した事が伝わる。(1568年/永禄11年/9月26日)

44-(2)ー②:“歴代足利将軍“を祀る”等持院・霊光殿”に“第14代室町幕府将軍・足利義栄”の木像が安置されていない理由

“足利将軍家”の菩提寺である“等持院”に就いては以前の項でその訪問記として紹介した。その中で“霊光殿”に安置されている“足利歴代将軍木像”の中に“第5代将軍・足利義量”と“第14代将軍・足利義栄“の木像が無い事を書いたが、もう一度、繰り返して置きたい。

“第5代将軍・足利義量”(在職1423年3月~1425年2月)は父“第4代将軍・足利義持“から大酒を戒められ、起請文を執られるという様な父子関係であった。(花営三代記・1421年6月25日、6月29日条)結果“第5代将軍・足利義量”は幕政の実権を持たされず、且つ、父に先だって満17歳で急死した将軍であった事が木像が無い理由とされている。

“第14代将軍・足利義栄”は、就任時の“室町幕府”の混乱状況、加えて一度も上洛が出来ず、更に将軍宣下も“摂津国富田荘・普門寺”で受けたと言う史実、そして上洛出来ないまゝ病死に至ったという将軍であった事が木像が無い理由とされている。要するに、両人共に“足利将軍家”としては“歴代将軍”としてカウントしなかったと思われる事が、二人の木像が無い理由だと伝えられているのである。

”等持院・霊光殿”の“歴代足利将軍“の木像の写真から上記した事が確認出来よう。
説明:左側の木像が“第13代将軍・足利義輝”右側の木像が“第15代将軍・足利義昭”の木像である。“霊光殿には足利将軍家歴代の木像が安置されている“とあるが“第14代将軍・足利義栄“の木像が無い事が分かる
説明:同様に上記した背景から、右側の木像“第4代将軍・足利義持”に並ぶ木像は“第6代将軍・足利義教“であり”第5代将軍・足利義量“の木像も安置されていない事が分かる。

45:上洛が成り“足利将軍家再興”の昂揚感に包まれた“足利義昭”

1568年(永禄11年)9月30日~10月2日:

”足利義昭“は城主不在となった”三好方“の拠点”芥川山城“に入り”足利将軍家“の御旗を掲げたと伝わる。(9月30日)”足利義昭“が”将軍家再興”にかける意気込みが如何に強かったかは“初代将軍・足利尊氏”が筑紫から上洛した際に奉納した“開運の太刀・甲冑“を“足利義昭”自ら携えて”摂津国“へ出陣した行動(本圀寺志)と共に伝えられている。

“足利義昭”の“将軍家再興”にかけた余りにも強い思い入れは、間もなく“織田信長”の“天下布武”の下に掲げた“全国統一”ビジョンとのズレとして両者間の対立の火種と成り、それが徐々に広がり、遂には激しく燃え上がる事に成るのである。

“織田信長”軍は“大和郡山”の道場、並びに“富田寺”を征圧し、更に“池田勝正”との戦闘では“池田城”側の善戦も伝わるが、結果的には1568年(永禄11年)10月2日に落城させている。“芥川山城”から逃亡していた“三好三人衆筆頭格・三好長逸“も”池田勝正“共々降伏した。

尚この二人の中“池田勝正”は後に“織田信長”方に鞍替えし、仕える事に成るが“三好長逸”は“阿波国“に退き、尚も“三好三人衆”として“足利義昭・織田信長”方への抵抗戦を続けるのである。

46:“畿内一円”を征圧した“足利義昭・織田信長”方に“御礼”の為に訪れる人々で溢れ返り“芥川山城”は“門前市を成す”状態に成る

1568年(永禄11年)10月4日:

“河内国・畠山氏”並びに“松永久秀・三好義継”そして“高槻・入江氏”等が“芥川山城”に“御礼”の為に出仕した記録が伝わる。又、降伏した“池田勝正”もこの時“織田信長”に仕える事に成り、出仕に加わっている。

“松永久秀”が無双の名物と伝わる茶器“つくもかみ(付藻茄子)”並びに天下一振の刀“吉光”を“織田信長”に献上したのはこの時と伝わる。そして“和州(大和国)一国は久秀進退たるべし=大和国は松永久永の切り取り次第”と“大和一国”の支配権を“松永久秀”任されたのも、この時である。

“芥川山城”には武家だけでなく安堵を求めて多数の寺社も“御礼”に赴いている。“足利義昭・織田信長”に降伏するか如何かを協議したと伝わる“興福寺”は、結果、1568年10月4日に使者を派遣して“足利義昭”に“御礼”を申し述べた事が記録されている。

その他では“堺”の商人で茶人の“今井宗久”(生:1520年・没:1593年・今井出羽守宗慶の三男、今井氏高の息子、武野紹鴎の娘婿である。尚、武野紹鴎/生:1502年・没:1555年/は若狭国武田仲清の孫で,父親信久が武田が下野したという意味から武野に改姓したと伝わる)が“松島の壺”を“織田信長“に献上した有名な話が伝わる。

46-(1):大名物・唐物茄子茶入れ“九十九髪茄子”に就いて

この時“武野紹鴎”が大名物・唐物茄子茶入れ“九十九髪茄子”(付藻茄子)を“足利義昭”に献上したと書く文献がある。しかし“武野紹鴎”は13年前の1555年閏10月29日(弘治元年)に没して居り、この記述が誤りである事は明白である。

既述の様に“九十九髪茄子”の献上は“松永久秀”が1558年(永禄元年)10月4日に名刀“吉光”と共に“織田信長”に献上したと伝わるが、この“九十九髪茄子”は1000貫(現在価値に換算して百万文x25円=2500万円)で入手したと伝わる。

何故“九十九髪茄子”(つくもがみなす)の名が付けられたかに就いては諸説があるが①在原業平の歌から来た②妖怪付喪神(長い年月を経た道具等に霊魂が宿るとする)からとする説が知られる。

46-(1)ー①:“松永久秀”が“大名物唐物茄子茶入れ・九十九髪茄子”を入手したルートに就いて

“九十九髪茄子”(茶入れ)を“松永久秀”がどの様なルートから入手したかに就いては”山上宗二記“(やまのうえのそうじき・千利休の高弟の山上宗二が1588年に記した茶道具の秘伝書)の中に書かれている。

“九十九髪茄子”は“天下四茄子”とする中の一つであり“茶の湯の道具、万の中の頂上也”と記される。その名器を“松永久秀”は“法華宗徒“の手に渡っていたものを1558年(弘治4年、2月28日以降永禄元年)にそのネットワークから入手したとされる。

“松永久秀”は、“織田信長”との同盟関係強化に努め、様々な策を労したが“九十九髪茄子”(茶入れ)の“織田信長”への献上は、彼が、既述の様な“苦境”にあった時期に支援してくれた事への最大限の謝意を表す事が主眼で、尚且つ“上洛”を達成した事に対する祝意を表すべく“芥川山城”に自ら赴いて献上したとの記録が残されている。

“松永久秀”が”名物茶道具・九十九髪茄子”(茶入れ)を贈答した行為は以後“武家・大名間“で政治的意味を持つ様になった。“松永久秀”の今回の“織田信長”への贈答が、そうした行為の”嚆矢“(こうし=物事の始め)とされるのである。

尚、この“九十九髪茄子”(付藻茄子)は“本能寺の変”の際に焼失したとされる。その後、焼け跡から掘り出されて“豊臣秀吉”に献上され、その後“大坂夏の陣”で再び焼失したが、再度掘り出されて“徳川家康”の命で“藤重藤元”が修復し、その出来映えを褒めた“徳川家康“が“藤重藤元”に褒美として与えたとされる。

以後“藤重”家に伝来したが、1876年(明治9年)に“岩崎弥之助”(岩崎弥太郎の弟・三菱財閥の2代目総帥・生:1851年・没:1908年)の所有と成り、現在は“静嘉堂文庫美術館所蔵”と成って居る。

しかし、この修復された“九十九髪茄子”(付藻茄子)は“似たり茄子”であると“山下桂恵子”氏が主張する等“九十九髪茄子”(付藻茄子)が現存するのか否かに就いては、はっきりしないというのが現状である。

信憑性は別にして、1568年(永禄11年)10月4日の“芥川山城”に詰めかけた、門前市を成した祝品の中に“源義経”が“一の谷の合戦”で用いたとする鎧を献上した者が居たと“原本信長記”には書かれている。当時の“足利義昭”並びに“織田信長”の“上洛“に対して、世間の騒ぎが如何に大きかったかを伝える記述は多い。

既述の様に、当時の史料からは“上洛の主体”を世間一般は“足利義昭”と見做した事が書かれてはいるが、その一方で、その後の世の流れを賢く読んだ“武将達”そして“堺”の有力商人達の中には“織田信長”を“実質的上洛の主体”と見做し、賢い対応をした者も多く居た事が容易に想像出来る。

47:“阿波国”に退いたが、兵力は温存していた“三好方”

“足利義昭・織田信長”方は大軍で“三好”方を撃破し“畿内”を征圧した。戦闘に敗れた“三好”方は“京”から撤退はしたが、敗因だった“兵力分散”は逆に、兵力をほゞ無傷で温存した状態で“阿波国”に撤退したという事でもあった。

この事が“室町幕府再興”に喜ぶ“将軍・足利義昭”政権が抱えた“不安要素”であった。

48:“将軍就任”が予定されていた“足利義昭”が“畿内“の人事を定めた。実態は“織田信長”に拠る、畿内の大名、国衆に対しての寛大な人事であった

“織田信長”に擁立され“織田信長”の軍事力を主力に“畿内征圧”を為し“上洛”を果たした“足利義昭”は“将軍宣下”を得る事が予定されていた。これに拠って“足利義昭”が夢にまで見た“室町幕府再興“が成るのである。

最大の貢献をした“織田信長”は、武力征圧した“畿内一円”を“足利義昭”に全て進上した形をとり、自身の分国化とはしなかったのである。“足利義昭”の名のもとに成された“畿内”の新しい“支配体制”は以下の様に定められた。

この人事は、表面的には“足利義昭”の意向によるものとされるが、実態は“織田信長”の意向に拠る人事と言えよう。

48-(1):“上洛”に貢献した“武将達”への恩賞人事

➀河内国守護・・二人
*三好義継:三好本宗家当主・当時の若江城主
*畠山高政:河内国、紀伊国守護家・足利義秋(義昭)擁立に奔走した・高屋城主

②摂津国守護・・三人(摂津3守護と称された)
*和田惟政:近江国甲賀二十一家に数えられる土豪・足利義輝幕臣・足利義秋(義昭)擁立に奔走した・高槻城主
*伊丹親興:摂津国人・伊丹城主
*池田勝正:摂津国人・池田城主

③大和国支配
*松永久秀:多聞山城主

④山城の内
*細川藤孝:(後に細川幽斎)勝龍寺城主


48-(1)-①:人事に対する解説

上表の②の“和田惟政”と④の“細川藤孝”は幕臣として“足利義昭”の“一乗院”からの救出に始まり“上洛”に抜群の手柄があった者として“恩賞”という意味合いからの処遇である。

地域的には“摂津国”は“和田惟政“(13代将軍足利義輝の幕臣・一乗院覚慶を救い出した一人・生:1530年?・没:1571年)並びに”池田勝正“そして”伊丹親興“(摂津国国人・伊丹城主・生年不詳・没:1574年)に与えられた。”摂津国“は3人が守護に任じられた為、彼等は“摂津三守護”と称された。

”河内国”の人事は“三好義継”と“畠山高政”に支配を認め“三好義継”には“河内北半国”と“若江城”(大阪府東大阪市・写真参照)の領有が安堵され“畠山高政”には“三好”氏に奪われていた旧領の一部が安堵された。

既述の様に“永禄の変”で”将軍足利義輝”を殺害し、結果的には”織田信長”が”足利義昭”を擁立して”上洛”する切っ掛けを作った”三好本宗家当主・三好義継“のその後の運命は”織田信長”と“将軍・足利義昭”が対立した事で両者が戦闘と成り、敗れた“将軍・足利義昭”を“三好義継”が“若江城”に庇護する形と成り、これに怒った“織田信長”が“佐久間信盛”軍を遣わし“若江城”を攻撃、結果、妻(第12代将軍・足利義晴の娘)と共に自害して果てた。彼の首は“織田信長”の元に届けられたのである。(若江城の戦い・1573年/天正元年/11月)

”三好義継“の死で“三好長慶“が”天下人“と成り、興隆させた”三好本宗家“はここに断絶したのである。”三好義継“は満24歳であった。

48-(1)-②:“若江城”訪問記・・2021年(令和3年)9月22日(水曜日)

住所:大阪府東大坂市若江南町
交通機関等:
大阪駅からJR環状線に乗り、鶴橋駅で近鉄奈良線に乗り換え“若江岩田駅”で下車、グーグルナビを頼りに歩き、10分程で“若江城趾”に着いた。

歴史等:

築城主は第6代室町幕府管領“畠山基国”(生:1352年・没:1406年)で”畠山氏“の河内国支配の拠点であった。当時は南北朝期の混乱の時代であり、数多くの戦乱を経た城である。

”守護代”の“遊佐氏”が歴代城主となったとある。後述するが、1569年(永禄12年)1月4日に”三好三人衆”が”将軍足利義昭”を”本国寺“に襲撃する。その際には、城主の”三好本宗家当主・三好義継”も”織田信長”方として“若江城”から出陣している。

1573年7月20日に”将軍・足利義昭”が“織田信長”と戦闘と成り(山城国・槙島城の戦い)敗れた”足利義昭”は追放され“三好義継“の“若江城”で庇護された。この事で”織田信長”の怒りを買い”佐久間信盛”(織田氏宿老・生:1528年・没:1582年)率いる織田軍に攻撃され、1573年(天正元年)11月“三好義継”(当時満24歳)は妻、並びに子供と共に自害に追い込まれた。1583年(天正11年)“若江城”は廃城と成っている。
畠山氏の拠点城”若江城”は大和川本流、支流の玉串川の大河が天然の外堀だったとある。今日その面影は全く無い。“三好義継”の後の城主“池田教正”が、シメアンの洗礼名を持ち、教会を設置した事から”若江城下“にはキリシタンが多くいた事がルイス・フロイスの“日本史”に書かれている。

48-(2):“大和国は松永久秀の切り取り次第“と、上洛後の人事で、破格の恩賞を与えられた”松永久秀“のその後の動きについて

48-(2)-①:“織田信長”が強く推したこの人事に“足利義昭”は不満だった、とする説に就いて

“信長の天下布武への道”の中で著者“谷口克広”氏は“足利義昭”は“松永久秀”に“大和国を彼の切り取り次第“とした人事に就いて“足利義昭にとって松永久秀は許し難い武将だが、戦国乱世の最中であり、群雄割拠状態が残る大和国を平定する為に織田信長が推した人事であった“と記述している。

しかし、繰り返しと成るが“松永久秀”は1565年5月の“永禄の変”で“足利義昭”の同母兄“第13代将軍・足利義輝”の殺害に直接手を下していないばかりか、加担もしていないのが史実である。だからこそ“松永久秀”はその後の歴史展開で”織田信長”に与して“第13代将軍・足利義輝”の同母弟“足利義昭”の上洛を支援する、言わば”味方“として動いている。

しかし“谷口克広“氏は”松永久秀“を”永禄事件“の首謀者“(同著の略年表にも松永久秀が殺害したと明記している)と考えている事から、上記表現“足利義昭にとって松永久秀は許し難い武将“と表現したのであろうが、この点はその後の”歴史展開”との整合性を欠く。”足利義昭”にとって”松永久秀“は”許し難い存在“では無かった筈であり、従って“松永久秀”に”大和国支配“を委ねた上洛達成後の“畿内人事”は“足利義昭”も納得した人事であった筈であろう。

48-(2)-②:“織田信長”への更なる接近を図った“松永久秀”・・娘を“織田信長”の子息“織田信忠”に遣わした話も伝わる

1568年(永禄11年)9月27日:

“松永久秀“方の”箸尾為綱“(はしおためつな・高春とも称す・大和国の国人・妻は筒井順慶の妹だが、松永久秀にも一時的に従っている・生:1546年・没:1615年)が“三好”方の“十市郷”を焼くなど“松永久秀”方の攻勢が続いた。

1568年(永禄11年)9月28日:

同盟する“織田信長”軍が“山城国”並びに“摂津国”をほゞ征圧したのと同時期に“松永久秀”は“広橋保子”(一条兼冬の妻であったが、夫の死後、松永久秀と再婚する・保子の死後、松永久秀は南宗寺の裏に勝善院を建立し主君と同格の待遇で弔った事が知られる・生年不詳・没:1564年)との間に生まれた娘を“織田信長”の長男“織田信忠”との縁組に遣わした事が“多聞院日記“(1478年~1618年にかけて英俊をはじめ三代の僧に拠って、奈良・興福寺の塔頭多聞院に於いて書き継がれた日記)に記されている。

“僧・英俊”はこれを“人質”と見做した記述をしているが“松永久秀”は主君“三好長慶”没後は既述の様に苦境に陥り、勢力挽回の為に“織田信長”との同盟関係強化に努めた。この政略結婚の話もその一連の動きと考えられる。

尚“織田信忠”(生母は諸説あり、斎藤道三の娘・濃姫は養母と伝わる・生:1557年?・没:1582年)は後の1576年11月に“織田信長”から家督と“美濃国東部“並びに”尾張国“の一部を譲られ”岐阜城主“と成り、真に”織田信長“の後継者と見做され、1582年の“天目山の戦い”(1582年3月11日)では“武田勝頼・信勝”父子を自害に追い込み“武田氏“を滅亡させる戦功を立てた。

こうした戦功に対し、父”織田信長“は一族、家臣達の面前、並びに、内外に対して“織田家継承者”として“織田信忠”を宣言した事が伝わる。これ等の事は”本能寺の変“の僅か3カ月前の事である。その“織田信忠”も1582年6月2日の“本能寺の変”で父“織田信長”と同じく“明智光秀”軍に拠って“二条御所”(二条御新造)で自刃に追い込まれる。こうした歴史展開に就いては次項で詳述する。

49:両者への“下賜”の対応からは“正親町天皇”が“織田信長”よりも“足利義昭”を上位に置いたという史実が伝わる・・血統信仰に基づく“伝統的家格秩序”が優先された典型例

”三好三人衆“の筆頭格“三好長逸”等を追って“足利義昭+織田信長”軍は彼等の拠点“摂津国・芥川山城”を攻め、そして1568年(永禄11年)10月2日に城を陥落させ入城した。これに対して“正親町天皇”は“めてたきとの”勅使を遣わし“足利義昭”には太刀を、そして“織田信長”には十合十荷(酒肴)を下賜している。

この“正親町天皇”から両名に対する“下賜”の扱いは“足利義昭”へは朝廷を守護する者としての扱いをしたという解釈がなされ、明らかに“足利義昭”を“織田信長”の上位として扱った事が分かる。守旧の総本山とも言うべき“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”が“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“内で重視されて来た“伝統的家格秩序”に準拠した形で“下賜”した事は当然と言えよう。

50:”征夷大将軍”に任じられた事で”足利義昭“は天下に“室町幕府”が再興された事を正式に示した・・1568年(永禄11年)10月18日

1568年(永禄11年)10月14日:

“織田信長”は、予想外な程スムーズに“畿内征圧”を完了させた。しかし“摂津国”には未だ“三好三人衆”の与党が残って居り“大和国”にも“筒井”等の“松永久秀”に対抗する勢力が蟠踞(ばんきょ=頑張って動かない事)していた。

“摂津国”に進軍していた“足利義昭”と“織田信長”は10月14日、京都に凱旋した。“足利義昭”は“六条本圀寺”に入り“織田信長”は“清水寺“に本陣を置き、この時も”京都“内の自軍の雑兵達が不法な行動をしない様、厳重に統制させる等、公家衆ばかりにでは無く、京都町衆にも非常に気を遣った。

1568年(永禄11年)10月18日:

“足利義昭”が“征夷大将軍”に任じられた。同母兄”第13代将軍・足利義輝”が殺害された後に流浪の生活を余儀なくされて以来3年余り、大変な労苦を経て勝ち取った“将軍位”であり“足利義昭”のはしゃぎ様は、ひとかたで無かった事が伝わる。

“足利義昭“は”織田信長“に対する恩賞として”副将軍“でも”幕府“の”最重要職“である”幕府管領職”でも、望み次第だと持ち掛けた。しかし“織田信長“は、そうした形式的な役職には関心が無く、それを固辞し、代わりに”堺・草津・大津稙“に代官を置く事を求めたのである。

51:将軍就任直後の“足利義昭”は“織田信長”に最大の敬意を払っていた

1568年(永禄11年)10月24日:

”将軍・足利義昭“から二通の”織田信長“宛て御内書がある。その内容は

一通目:今度の“京都”並びに“畿内”平定に対する感状
二通目:足利氏の桐の紋章と旗、並びに幕に付ける二引両(足利二引両)の使用許可

であった。“織田信長“は辞退する事無く”紋章・二引両“を受け取っている。特筆すべき事はこの二通の御内書の宛名が“御父・織田弾正忠殿”と書かれていた事である。この頃の“足利義昭”の“織田信長”に対する敬意が如何に大きかったかが分かる史実である。

1568年(永禄11年)10月26日:

“織田信長”は“京都”を出発し“岐阜”へ“凱旋”の途についた。そして後述する様に、以後“信長自身の版図拡大“つまり”天下布武“のビジョンの下での”全国統一“への行動課題を一つ一つ段階的に進めて行くのである。

51-(1):室町末期の各将軍は擁立者の支援無しには成り立たない存在であった

“征夷大将軍”に任じられ“室町幕府再興”に意欲満々の“足利義昭”であったが“織田信長”との関係は“室町幕府末期”の各将軍が“擁立者”の支援無しには“幕府=将軍職”を機能させる事が出来なかったと同様に“足利義昭”も同じ状況下に置かれていたのである。

“室町幕府末期”の各将軍とその時点における“擁立者”を下記に示す。之まで記述して来た様に、どのケースも“擁立者”の支援無しには成り立たない政権であった。“将軍・足利義昭”のケースも“足利義昭”は“足利幕府”の再興、将軍権威、将軍権力の回復を目指し、意気込んだが、一方“天下布武”というビジョンを掲げ“全国統一”に邁進する“擁立者・織田信長”との考えのズレは益々広がって行ったのである。

=表:“室町幕府最末期”に於ける各将軍と“擁立者”

=時の将軍=     =擁立者=
第12代将軍・足利義晴・・六角定頼
第13代将軍・足利義輝・・三好長慶
第14代将軍・足利義栄・・三好三人衆
第15代将軍・足利義昭・・織田信長
=将軍在職期間=
自1522年至1546年12月20日
自1546年至1565年
自1568年2月至同年9月∼10月
自1568年10月至1573年7月(填島城が落ちた事で室町幕府は実質的に滅亡した)

*足利義昭の将軍職在任期間(注:室町幕府が続いた期間では無い)は、公式には1588年(天正16年)1月13日迄続いていた

51-(1)-①:室町幕府・第15代将軍・足利義昭は公式には1588年(天正16年)1月13日迄”将軍職“に在った事に就いて

“公式記録“の上からは“足利義昭”の将軍職は”朝廷“に正式に将軍職を返上する1588年(天正16年)1月13日“迄続いていた。ここに至る経緯は次項(6-22項)で詳しく記述する事に成るが、下記メモで概略説明して置きたい。

詳細は次項(6-22項)で記述するが”将軍・足利義昭”は“填島城”を“織田信長”に落とされ“三好義継”の居城”若江城“に逃げる。(1573年/元亀4年/7月)この時を以て“室町幕府消滅”とされる。
しかし”足利義昭”はその後も“将軍職”にあり続け“解官”はしていないのである。”足利義昭”はその後も”毛利輝元”を頼り”織田信長”に服従する態度を示さなかった。そして、1576年(天正4年)2月に“足利将軍家”にとって由緒の地“備後国”の“鞆”に移り“織田信長”と“毛利輝元”(生:1553年・没:1625年)との同盟破綻(1576年/天正4年) に乗じて、総勢100名以上から成る”鞆幕府“を構成しているのである。この時”足利義昭”は”毛利輝元”を副将軍に任じた事で”毛利輝元”は西国諸大名の上位に君臨する正統性を確保したとされる。“鞆”から全国の大名に”京都への帰還、並びに織田信長追討”を目指し”御内書”を下している。しかし”上杉謙信”が死去(1578年3月)した事が”織田信長包囲網”を図った”足利義昭”にとっては大きな打撃であった。
その後”織田信長”方に対する調略が奏功した面もあったが、1580年(天正8年)閏3月 に、1570年(元亀元年)から続いた“石山合戦”の結果“顕如”が”織田信長”との勅命講和に応じ”石山合戦”が終結した事も“足利義昭”にとっては悪材料となった。
しかし、1582年(天正10年)6月2日に”織田信長”が“本能寺”で討たれた大事件は”足利義昭”にとっては千載一遇のチャンス到来であり、同年6月9日に”毛利輝元”に出兵を命じている。しかし“羽柴秀吉”との講和を遵守する“毛利輝元”は動かなかった。1582年6月13日に“山崎の戦い”で“羽柴秀吉”が”明智光秀”を討つと”毛利輝元”は戦勝を祝う為に”安国寺恵瓊”を使者として派遣した。この時点で“毛利輝元”は“足利義昭”を見限ったのである。
その後“羽柴秀吉”は“足利義昭”が支援する“柴田勝家”を”賤ヶ岳の戦い”(1583年/天正11年/4月)で敗った。この事で“足利義昭”は“羽柴秀吉”を敵に回す事になったが、両者は争う事無く“関白豊臣秀吉・15代将軍足利義昭”として1585年(天正13年)から1588年(天正16年)の2年半の間、寧ろ、両者は連携した事が記録されている。尚、この間に”豊臣秀吉”は、天下統一を進めて行った。
この間の記録として1587年(天正15年)3月には“鞆”の“足利義昭”の御所で両名が対面し、親しく酒を酌み交わした記録が残っている。この時”豊臣秀吉”は“従一位・関白・太政大臣“であり”足利義昭”は”従三位・権大納言“であったから”豊臣秀吉”の立場は”足利義昭”を数段上回る地位だった事になる。
1588年(天正16年)1月13日“足利義昭”は“山城国・填島”に1万石の領地を”豊臣秀吉”から認められ、そして”豊臣秀吉“と共に参内し、この時”将軍職“を朝廷に返上したのである。
”第15代将軍・足利義昭”は“公式の記録上”将軍職に”自1568年至1588年“の期間あったというのが史実である。(注:室町幕府が続いていたという意味では無い)

52:“三好三人衆“が”将軍・足利義昭“の仮御所”本圀寺“を襲う・・“六条合戦”

52:-(1):“畿内統一”を終え“足利義昭”を将軍職に就けた“織田信長”は“京”を離れ“岐阜”へ凱旋する。又“松永久秀“も人事等の“御礼”の為に領国を離れ“岐阜城”を訪れていた

1568年(永禄11年)12月24日:

”織田信長“は1568年(永禄11年)10月26日に”京“を離れ“美濃国・岐阜“へ凱旋した。その“織田信長”に人事等で処遇して呉れた“御礼”の為に”松永久秀“も領国を離れ“岐阜城”に向った。“将軍・足利義昭”幕府を軍事的に支える“織田信長”そして“松永久秀”の両巨頭が“畿内”を離れたという状況が生じていたのである。

この状況は、軍事力を温存したまゝ”京都“から逃れていた”三好三人衆“方にとっては敵方の”京“の防備態勢が手薄に成った事を意味し”京奪還“の“千載一遇”のチャンス到来だったのである。

52-(2):“六条合戦”(本圀寺の変・本圀寺合戦)の勃発

1568年(永禄11年)12月28日:

“織田信長”並びに“松永久秀”が“京”及び“大和国”を離れた事を知った“三好三人衆”は、この隙を突いて“京“奪還に動いた。“織田信長“に拠って1567年8月に”稲葉山城“を追われた“斎藤龍興”(生:1547年/1548年説もある・没:1573年)も“三好三人衆”と組んで“織田信長”に抵抗活動を続けて来たが“京”が留守状態に成ったこの機会は、巻き返しの千載一遇のチャンス到来と捉え、攻撃の先鋒役を果たしたと伝わる。(三好政康=三好三人衆・三好宗渭との説もある)

先鋒隊は先ず“将軍・足利義昭”方に与する“池田丹後守”が守将を務めていた“和泉国・家原城”(信貴山城主・松永久秀が支城として築いた城・大阪府堺市西区家原寺町)を陥落させた。(細川両家記)

1569年(永禄12年)1月2日:

”三好三人衆“軍は”堺“を発ち”京”を目指した。

1569年(永禄12年)1月4日:

”東福寺”近辺に陣を置いた”三好三人衆“は”京“に於ける将軍の詰城である“将軍地蔵山城”並びに“東山”諸所に放火をし“将軍・足利義昭”の退路を断つと共に“美濃国・岐阜”からの“織田信長”勢の通路を遮断した。

1569年(永禄12年)1月5日:

これ等“三好”方の攻撃に対して”将軍・足利義昭“は”本圀寺“で籠城する構えをとった。”本圀寺“には”将軍・足利義昭“の親衛隊の他“尾張国・美濃国・若狭国”出身の武士達が詰めてはいたが“有力武将”が多数の兵を守備隊として準備して防御に当たるという程の体制では無かったとされる。

一方の“三好三人衆”方は1万余の軍勢で攻め込み、昼頃に”本圀寺“での合戦と成った。

戦力的には“三好三人衆”方が圧倒したが、上記した“将軍・足利義昭”の直臣に加えて“織田信長”が残して置いた家臣、更には“若狭武田氏”の家臣等を合わせた凡そ2000程の兵が必死に防戦し、度重なる“三好三人衆”方の攻撃を耐え抜いたのである。そして、日没となった為“三好三人衆”方の軍勢は一先ず兵を納めた。

1569年(永禄12年)1月6日:

翌1月6日に成ると“摂津国”からは“池田勝正”軍と“伊丹親興“軍が、そして“北河内”からは“三好義継”軍が、更に“山城国”からは“細川藤孝”軍が”将軍・足利義昭”の救援の為に攻め上って来た。こうした援軍の結果“将軍・足利義昭”は窮地を脱する事が出来たのである。

“三好三人衆”軍は救援に駆け付けた軍を含む“将軍・足利義昭”方に三方から攻撃される形となり、戦況不利と判断し、退却を始めた。“将軍・足利義昭”軍はこれを追撃し“桂川河畔”で“小笠原信定”(信濃国の武将、三好方の客将と成る・生:1521年・没:1569年)をはじめ、多数を討ち取る成果をあげた。

52-(3):“六条合戦”(本圀寺の変・本圀寺合戦)で“織田信長”軍の力を借りずに自ら軍勢を指揮して勝利した事が以後“将軍・足利義昭”が、過度な自信を持っ事に成った

“織田信長”も“松永久秀”も急遽“美濃国”から駆け付けた。しかし既に“三好三人衆”方は敗退した後だった。”足利義昭と織田信長“の著者”久野雅司“氏は”織田信長の武力に頼る事無く、将軍・足利義昭が自ら率いた軍勢に拠ってこの合戦に勝利した事が、彼に大きな自信を与えた“と指摘している。

尚”本圀寺“に籠城して戦った”将軍・足利義昭”方の戦い振りを史実として裏付ける記録が多く残されている。“三好”方の襲撃に対し、将軍・足利義昭が奉公衆などの幕府軍を指揮して、敵方を撃退する事に成功した“との記録、そして“上杉文書”には“上意御馬を寄せられ、御自身切懸られ候”と“将軍・足利義昭”の戦闘振りを書いている。更に“吉川家文書”にも“入洛巳後当城に至り逆徒等馳せ上るといえども、一戦に及び、悉く討ち果たし、愈々天下本意に属す“と書き”天下はさらに本意に属した、と“将軍・足利義昭”が自信を深めたに違いないとする類の記事が多く残されている。

52-(4):戦闘の戦死者数に就いて

“六条合戦”(本圀寺の変・本圀寺合戦)の戦死者に就いては下表に示す様に、記録に拠ってまちまちである。

①:信長公記・・歴々の討ち取り6名(首注文=首級の証拠書類のある分のみを記録に上げた数)
②:細川両家記・・両軍合わせて8百余
③:言継卿記・・千余
④:足利季世記・・2千7百余
⑤:永禄記・・数千

“NHK大河ドラマ・麒麟がくる”(2020年1月19日~2021年2月7日放送)で“明智光秀“(俳優・長谷川博己)が”将軍・足利義昭”(俳優・滝藤賢一)方の一員として共に戦った場面があったが、それは史実と考えられる。“明智光秀”が歴史の表舞台に登場するのはこの頃からとされる。

1569年(永禄12年)1月10日:

”織田信長”並びに“松永久秀”も“六条合戦”(本圀寺の変・本圀寺合戦)が勃発してから5日経った1569年(永禄12年)1月10日に“美濃国・岐阜”から駆け付けている。しかし“三好三人衆”は既に四国に敗退しており“織田信長・松永久秀”軍がこの合戦で“三好三人衆“方に打撃を与える事はなかった。

52-(5):“六条合戦”(本圀寺の変・本圀寺合戦)の纏め

年月日:1569年(永禄12年)1月5日~1月6日
場所:本圀寺
結果:“将軍・足利義昭”軍を中心に戦い、後から加わった支援軍に拠って“三好三人衆”軍を退けた

“将軍・足利義昭軍”(将軍家奉公衆
     +支援軍

指導者・指揮官

細川藤賢:13代将軍足利義輝に仕え後に松永久秀の家臣から足利義昭の家臣になっている
明智光秀:この参戦が”信長公記”での初見
三好義継:三好本宗家当主



細川藤孝


池田勝正
伊丹親興
荒木村重:池田勝正の家臣からスタートし有岡城城主、利休十哲の一人生:1535年・没:1586年

戦力
2000兵(籠城軍のみ)

損害
不明
“三好三人衆”軍


指導者・指揮官

三好政康
三好長逸
岩成友通
 
三好康長:三好一族の中で最後まで抵抗し後に織田信長に仕え重用され、その後は羽柴秀吉に仕えた

斎藤龍興:長島に亡命後も信長に抵抗を続けて来ていた(生:1547年・没:1573年)
小笠原信定:“三好”方に客将として参戦“桂川の合戦”で討ち死した




戦力
10,000兵

損害
不明(小笠原信定討ち死

53:“六条合戦”(本圀寺の変・本圀寺合戦)の勃発で“畿内”征圧状態の不十分さに不信感を強めた“織田信長“は、堅固な“将軍御所”の建設を急いだ

”将軍・足利義昭“の”本圀寺“が”三好”方に襲撃されたとの報に”織田信長は一騎駆けで飛び出し大雪の中を岐阜から三日路の所を二日に、つまり二泊三日のところを一泊二日で駆け付けた“と”信長公記“には書かれている。

”言継卿記“並びに“多聞院日記”に拠れば“織田信長”が京都に着いたのは“1569年(永禄12年)1月10日”の夕方、つまり“将軍・足利義昭”が襲撃された事件の5日も後だった。“京都”で雪が降ったのは1月8日と10日だけであったという事も“言継卿記“の記録から分かっている。これ等を総合すると“織田信長”が“岐阜”を出発したのは“1569年(永禄12年)1月9日”だった事は間違い無いと“信長の天下布武への道”の著者“谷口克広”氏は記述している。

いずれにしても、征圧した“畿内”で、未だに“三好党”の影響力が払拭されていない事が“三好軍”の入京を許し、そして“本圀寺襲撃”に繋がったと判断、更に、この襲撃事件の“織田信長”への注進が遅れた事も“三好党”の影響力が残っている為だ、と判断した“織田信長”は、現状への不信感を強めた。

53-(1):“三好党”の影響力が払拭されていなかった事が“三好”軍の入京を許し”本圀寺襲撃“に繋がり、しかも自分への報告が遅れた事に”織田信長“の不信感が募った

“三好三人衆”の軍勢は“和泉国”から進んで“1569年(永禄12年)1月3日”には“京”迄、進軍していた事が“細川両家記”から明らかである。“畿内“の守護達が”六条・本圀寺“の“将軍・足利義昭”の“仮御所”に駆け付けるのも遅かった。其れにも増して“織田信長”への注進の遅れは信じられない程の遅さだったのである。その理由を“信長の天下布武への道”の著者“谷口克広”氏は以下の様に記述している。

畿内の守護・国衆達は“上洛”に関する戦闘で“織田信長”軍のすさまじい進撃を見て、己の保身の為に“足利義昭・織田信長“に従ったに過ぎず、それ迄は、しばしば反目し合っていた間柄であった。“摂津国・入江氏”の様に“三好三人衆”方に通じた者が居たという史実からも明らかな様に、未だ“三好一党”の影響力は払拭されておらず、お互いに情報を伝え合うという事もしなかった。お互いに様子見をしている中に“三好三人衆”方の入京を許してしまったという事であろう。“本圀寺”への注進も“織田信長”への注進も、そうした背景から遅れたと考えられる。

いずれにせよ、1569年(永禄12年)1月10日に“京都”に駆け付けた“織田信長”は“六条合戦”(本圀寺の変・本圀寺合戦)で手柄を挙げた守護、並びに国人に褒美を与えた。しかし”畿内“に”三好党“の影響力が残っているという状況への不信感は拭い切れないまゝであった。

53-(2):“畿内“の不信感を除去する対策として早急に堅固な”将軍御所“建設を実行した“織田信長”

1569年(永禄12年)1月27日:

”織田信長“を、他の数多出現した戦国大名と比較する時、彼が異次元のレベルで優れた武将であった事は間違い無い。別けても(わけても=特に)その素早い行動力は群を抜いている。“堅固な将軍御所の建設”に直ぐに着手するが、その築城方法に於いても発揮される。先ず、家臣夫々に大勢の兵を率いて入京させ、その状態を見せた上で“畿内・近国”の武将達も、こぞって軍勢を集めて来るという動きに繋げたという策である。

“二条勘解由小路”(にじょうかでのこうじ)の地に堀を掘らせ、新しい“将軍御所”の建設が始まった。こうして築城された“旧二条城“(二条新御所、二条御新造、二条殿とも称す)であるが、残念乍ら、今日、当時の姿は全く残っていない。写真を添付したが”平安女学院大学“の京都キャンパスの門前に僅かに”石碑“と”説明碑“だけが立つという状態である。
53-(2)-①:“旧二条城”築城の様子を伝える史料

“信長公記”には1569年(永禄12年)2月27日が“鍬初”(くわはじめ=鍬入れ)と書かれている。しかし“言継卿記”には同年1月27日には、もう工事を始めている事が書かれている。“信長公記”(1600年頃成立)よりは当時の日記である“言継卿記”(1527年~1576年に書かれた公卿・山科言継の日記)の方が信憑性が高いのではなかろうか。

“将軍御所建設奉行”には“織田信長”の吏僚のトップで能吏と伝わる“村井貞勝”(京都に関する行政の全てを任された人物・本能寺の変で、嫡子・織田信忠と共に“二条新御所”で討ち死した・生年不詳・没:1582年6月2日)並びに“島田秀満”(生没年不詳)が当たった。

“織田信長”は、屡々(しばしば)自ら工事現場で陣頭に立ち、突貫工事を続けたと言う。工事関係者には一切、冗漫な動きを許さなかった事が伝わる。

53-(3):“足利義昭”の新しい“将軍御所”を完成させた“織田信長”が“岐阜”に戻る日の様子

1569年(永禄12年)4月14日:

”将軍・足利義昭“は”本圀寺“から新築成った”将軍御所“に移った。”織田信長“と対面した”ルイス・フロイス“は”少なくとも築城に2~3年は掛かると思われたものを、彼は殆ど全ての工事を七十日間で完成した“と、驚嘆した様子を彼の著書”日本史“に書き遺している。

そして“言継卿記”には“将軍御所”を完成させた“織田信長”が“京”を発つ日の様子が記されている。

“将軍・足利義昭“は”織田信長“が”京都“を発つに際して別れを惜しんで涙を流し、遠くに消えるまで、御所の門外に佇んで見送ったと伝わる。これが史実である事は”山科言継“本人がその場に居合わせ、自身の日記“言継卿記”に記したという事から裏付けられよう。

53-(4):ルイス・フロイスが“日本史”に書き残した“織田信長”の人物描写、並びに“織田信長”に関する記事の紹介

①:新将軍御所(旧二条城)の内部見学を指示した“織田信長”
1569年(永禄12年)4月25日に“和田惟政“は”フロイス“を伴って”新将軍御所“(旧二条城)の普請場に居た”織田信長“を訪れた。“フロイス”は進物に“砂時計“一箇と“ダチョウの卵一個”を持参した。“織田信長“は普請場で”フロイス”を迎え”和田惟政“に工事中の”城内“を見せる様、指示した。

②:織田信長の印象について:(1569年6月1日付でフイゲイレド神父に書いた手紙)
・尾張の国主は齢三十七歳程(実際は35歳)長身で痩せており、髭は少なく声が良く通る。過度に軍事的鍛錬に耽り不撓不屈(ふとうふくつ=どんな苦労や困難にもくじけない)の人である。
・正義と慈悲の所業に心を傾け、不遜(思い上がった態度)で、こよなく名誉を愛する。決断事は極秘とし、戦略にかけては甚だ巧緻にして、規律および家臣達の進言には僅か、あるいは殆ど従わない。
・全ての者から極度に畏敬されている。酒は飲まない。その処遇には厳格で、日本の諸侯を悉く軽蔑し、自らの部下に対する様に肩越しに彼等に話している。諸人は異常な事に、絶対君主に対する様に服従している。
・優れた理解力と明晰な判断力を具え、神仏やあらゆる種類の偶像、異教的な占いの全てを軽蔑している。名目上は法華宗であると見せかけているが、宇宙の創造者は無く、霊魂の不滅も無く、死後には何物もないと言明している。
・甚だ清廉にして、協議では入念で、自らの仕事には完璧であり、人と話す際には遷延(長たらしい事)や、くだくだした前置きを憎む。いかなる人物も領主も刀を携えて彼の前に出る事は無い。

③:“ルイス・フロイス”と謁見した時に”織田信長”からの質問と、それに対する回答
・デウスの教えが当地で広まらない時にはインドに戻るのか?・・“ルイス・フロイス” は、一人でも信者が居る限り生涯ここに留まると答えている
・何故都で教えが繁盛(広まる?)しないのか?・・”イルマン・ロウレンソ”が以下の様に答えている“貴人がキリシタンになるのを仏僧たちが嫌って、パードレを追放すべくあらゆる手段に訴えている。そのため、多くの者はキリシタンになる意志を持っているが、こうした妨害を見て(キリシタンに成るのを)延期しているからだ”

④その他“ルイス・フロイス”の著作“日本史”より
“和田惟政“(生:1530年?・没:1571年)は献身的にフロイスを支援したと伝わる。又、彼は、自領内でキリスト教を手厚く保護した武将で“フロイス”が“織田信長” に謁見する時には仲介役を担った。“和田惟政“は洗礼を受ける前に戦死(池田氏家臣の荒木村重に敗れ戦死した)したが、その事を“フロイス”は大変に嘆いた。

54:“天下布武”のステップを進めるべく、自らの領土拡大策として“伊勢国”並びに“堺”を征圧した“織田信長”

54-(1):“畿内”の支配権の全てを形式的に“将軍・足利義昭”に進上した“織田信長”だが、自身の版図拡大として“伊勢国”侵攻を進めていた

“六条合戦”(本圀寺の変・本圀寺合戦)の結果“三好三人衆”方は敗退し四国に退避した。“織田信長”の大号令で“新将軍御所”が建設された1569年(永禄12年)4月の時点で“五畿内”の中“山城国・河内国・和泉国・摂津国“は”将軍・足利義昭・織田信長”方の征圧下にほゞあり、既述の通り“上洛”に貢献した武将達が恩賞人事という形で守護職に任命されていた。

未だ戦乱状態が続いていた“大和国”については“松永久秀”に自由裁量が与えられ“将軍・足利義昭”の直轄領は“山城国”を中心に散在という状態であった。

繰り返しと成るが“織田信長”が征圧した“畿内”ではあったが“将軍・足利義昭”に進上した形をとった為“織田信長“の分国では無い。”織田信長“は、自身の”版図拡大“も当然進めており“上洛”を達成する前から“上洛”への道筋でもあり”天下人としての領地”とも言える、豊かな”伊勢国“(三重県)への侵攻を着々と進めていたのである。

54-(2):“尾張国”に隣接する“伊勢国・北部”並びに“伊勢国・中部”の“分国化”を上洛前に成功させていた“織田信長”

“伊勢国“は”畿内“(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)には属さないが“畿内”に近く、農作に適した土地が広がる非常に大きな地域として日本の歴史の表舞台に何度も登場した。嘗ては“平家”の政権を支えた地域でもあり、その後も”伊勢国司・北畠氏“の勢力圏として知られる。“織田信長”が分国化を図った当時の“伊勢国”は3地域に分けられていた。

①伊勢国北部:神戸氏、関氏が有力国人として、多数の弱小国人を支配していた。しかし戦国大名の存在は無い地域であった
②伊勢国中部:長野(工藤)氏が”有力国人”として弱小国人を支配していた
③伊勢国南部:“南北朝時代”から”伊勢国司・北畠氏”の分国であった

54-(2)-①:“伊勢国・北部“を”上洛“前に支配下に置く

“織田信長”は“天下布武”のビジョンの下“全国統一”の方策として“人事政策”を多用したが“伊勢国支配”の場面でも用いている。その理解の助に“別掲図・織田家系図”を添付したので参照されたい。


1567年(永禄10年)4月18日~以前:

“歴史学研究会編・日本史年表”の1567年(永禄10年)欄の冒頭に“この春、織田信長、滝川一益に命じて“北伊勢”の諸城を攻めさせる”と書かれている。

“斎藤龍興”の“稲葉山城“を陥落させ”岐阜“と改めた1567年8月以前に”織田信長“の重臣の一人”滝川一益“(たきがわかずます・生:1525年・没:1586年)を”北伊勢国“攻略の先鋒として派遣し、この地を支配下に置いたのである。

この事は1567年(永禄10年)4月18日付の”滝川一益“の奉行人二人が出した”禁制“(きんぜい=支配者が寺社や民衆に対して禁止する事柄を広く知らしめる為に作成した文書)の存在から裏付けられている。”伊勢国3地区の状況表“で示した様に、多数の弱小国人が割拠していた”伊勢国北部“の制圧に先ずは”上洛“前に成功したのである。

”織田信長“が”伊勢国・北部“征圧に用いた策は”神戸氏“に対する”人事政策“であった。

1568年(永禄11年)2月:

歴史学研究会編”日本史年表“の2月の欄に”織田信長、北伊勢に侵入し、子息信孝を神戸具盛の養子とする“とある。

”織田信長“は、多数の“弱小国人”が割拠し、戦国大名の存在が無い“伊勢国北部”の支配に関して、三男の“織田信孝”(別掲図*3で表示・生:1558年・没:1583年)を“伊勢国国人領主・神戸具盛“(彼の姉が信長の弟の織田信包の側室・生年不詳・没:1600年)の養嗣子としている。従って彼は一時“神戸信孝”を名乗っている。この時彼は未だ満10歳であった。

この縁組で”織田信長“は”神戸氏“並びに”神戸氏“の一族である”関氏“を仲間に取り込み、彼等の”近江国・六角氏”との繋がりを断ち切る事に成功したのである。

この人事政策は、既述した“観音寺の戦い”の勝利に大いに貢献し“神戸具盛”は”織田家“方の武将として戦い”六角義賢“(承禎)を滅亡させる軍功を立てたのである。

54-(2)-②:“伊勢国中部”の攻略も人事戦略を用いて成功させた“織田信長”

1568年(永禄11年)2月:

“伊勢国中部”は有力国人“長野(工藤)氏”が、弱小国人を支配する地域であった。この攻略に就いても“織田信長”は“伊勢北畠氏”の当主“北畠具教”の次男として生れ“長野藤定”の養子に入った“長野具藤”(ながのともふじ・生:1552年・没:1576年)が無能であった事につけ込み、弟の“織田信包”を“伊勢国中部”を支配する為、人事政策を用いて送り込み“長野具藤”を追い出す事に成功している。

尚“織田信包”(おだのぶかね・生:1543年/1548年説あり・没:1614年)は“長野工藤家”に一時的(1568年2月)に養子に入り“長野信良”と名乗っている。後にこの養子縁組は解消された。兄“織田信長”の死後は“豊臣秀吉”(生:1537年・没:1598年)に従い、お伽衆となっている。“関ケ原の合戦“(1600年/慶長5年/9月15日)では西軍に属したが、戦後“徳川家康”(生:1543年12月・没:1616年4月)から罪を問われず、大坂城にあって“豊臣秀頼”(生:1593年・没:1615年)の補佐役に就いている。“大坂冬の陣”(1614年10月~12月)直前に城内で吐血し、急死した。尚“織田信包”に就いては別掲図*4で表示してある。

54-(3):上洛後の“織田信長”の“版図”拡大(分国化)

54-(3)-①:“堺”を接収

1569年(永禄12年)2月11日

“足利義昭”が“征夷大将軍”に任じられた1568年(永禄11年)10月18日に“足利義昭“は”織田信長“に、恩賞として”副将軍“又は”幕府最重要職・幕府管領”に就く事を持ち掛けた。しかし、そうした“室町幕府”の形式的なものに関心が無い“織田信長”は断り、その代わりに”堺・草津・大津稙“に代官を置く事を求めた事は既述の通りである。

そして1569年(永禄12年)2月11日に“堺”接収を実現させた。歴史学研究会編の“日本史年表“には堺の“会合衆”が“三好三人衆”に拠る“本圀寺襲撃”を支援した事を責め“織田信長”が2万貫/約5億円/を賦課した事が書かれている。自治都市“堺”が“織田信長”に屈服する事を潔しとせず“三好三人衆”が“将軍足利義昭”を“本圀寺”に襲撃する際に“堺上陸”を許した事に”2万貫“の言わば罰金を課し“堺”を結果的に“接収”する大義名分としたのである。

こうして“織田信長”は“堺接収”の使者を送り込み“堺支配”が成った。“上使衆”とあるから、形の上では“将軍・足利義昭”の使者という形をとったが、実態は以下の様に将軍の直臣“和田惟政“一人を除いて、あとの8人は“織田信長”の武将、並びに”三好義継“の武将、更には”松永久秀“の武将で人事は固められていた。

①和田惟政 ②佐久間信盛 ③柴田勝家 ④坂井政尚 ⑤森可成 ⑥蜂屋頼隆 ⑦結城忠正 ⑧竹内秀勝 ⑨野間長前

54-(3)-②:“天下布武”の下“全国統一”ビジョンを達成するステップとして“堺”を最重要拠点の一つとして獲得した“織田信長”であったが、それが“本能寺の変“へ繋がる遠因と言える

次項(6-22項)では“本能寺の変”で“織田信長”が“天下布武”を完遂する前に自刃に追い込まれる事を記述する。“織田信長”は“堺”そして“大坂地区”が“全国統一”へのステップの“西国”並びに“九州”侵攻の拠点として如何に重要であるかを見通していた。

“本能寺の変”に至る原因、要因に就いては諸説があり、今日でも議論が展開されているが次項(6-22項)では“四国”の“長曾我部元親”が“西国・九州侵攻”にとって邪魔な存在となったと言う観点から記述して行く。

歴史の連続性という観点からは“本能寺の変“もその後の歴史展開の一幕に過ぎない。その一幕に至る歴史展開の理解の助に以下に“本能寺の変”に至る歴史展開をダイジェスト的に紹介して置く事にしたい。

“織田信長”は1570年(元亀元年)9月から11年間に亘って“大坂本願寺(浄土真宗総本山石山本願寺)”と戦う。そして1580年(天正8年)4月に“正親町天皇の勅命” でで“和睦”に到り11年間に亘る戦いに終止符が打たれる。この長年に亘る戦いの狙いを“織田信長に拠る宗教弾圧”とする説があるがそれは誤りだとされる。
“織田信長”は“堺”を含めた“大坂”地区が“全国統一”の為の地政学的に最重要地域だと考え、先ずは”堺”を接収した。最重要地だと考えた理由の第一は、海運の要所である事、そして、経済、文化面、更には歴史的にも”天下の最重要地“である事から、此の地域を支配する事は”天下布武” 即ち“日本全国統一“というビジョンを完遂する為には欠かす事が出来ないと考えたとされる。

”石山合戦“の結末は”本願寺法主・顕如”をはじめ“本願寺勢力”は“正親町天皇”の“勅命和睦”で“石山本願寺”から去る事に成り”織田信長“は”天下の境地・大坂“を支配下に置く事に成った。”全国統一”ビジョンを完遂させる最重要地域を、新たな拠点として得た”織田信長”は、四国、瀬戸内海、へと自身の版図拡大を進める構想を拡大、実現に向けて動き出した。この“覇権構想実現”にとって、目の前の“四国の覇者”たらんとする”長曾我部元親“は、行く手を邪魔する存在と成った。一転“長曾我部元親“の排除を考える”織田信長”は、これ迄”長曾我部元親“との間に立って、同盟関係維持に尽力し、調整役を担って来た ”明智光秀“に”長曾我部元親”の排除を命じた。これが彼を窮地に追い込む事に成った。何故なら”主君・織田信長”は決めた事は一気呵成に行なわねば置かない性格である事を“明智光秀”自身が一番熟知していたからである。

こうした状況下”織田信長“は一世一代の迂闊な行動をとる。自分の後継者として世間にも公言した”嫡男・織田信忠”を伴い、ほゞ無防備状態で“京都”入りをしたのである。“織田信長”のこの度の”上洛”の目的は”毛利討伐”に出向いていた“羽柴秀吉”からの要請に応じて“明智光秀”の派遣と共に自らも出向く前に”朝廷”との間で自分の後継者に決めた嫡子”織田信忠”の官位を”右大将“に上げて貰う為の下交渉を行う為の一時的上洛であったとされる。

しかし、主君の命に拠って窮地に立たされていた“明智光秀”にとって“織田信長”が”明智光秀”を信じ切って”入京”した、油断極まりない行動は”討ってくれ“と言わんばかりの“千載一遇のチャンス”を“明智光秀”の目の前に晒した事であった。当時の武将の誰もが“一寸先は死“という日常を戦い抜いていた。窮地に立たされていた”明智光秀”にとって、主君を討つという歴史的大事件を起こすには、余りにも完璧な状況が整ってしまった事が“何故、明智光秀が本能寺の変を起こしたのか?”の問いに対する答えなのではなかろうか。

54-(4):“伊勢国・南部“を制圧し、漸く”伊勢国全体”平定に漕ぎつけた“織田信長”

“織田信長”軍は“伊勢国・南部“を征圧する為”名家・北畠家”との”大河内城の戦い“に突入する。この戦いは大苦戦と成り、漸く“朝廷”並びに“将軍・足利義昭”の権威を借りた調停により、敵方を開城させる事に漕ぎつけたのである。

54-(4)-①:“北畠家“は恭順派と抗戦派に分裂・・”抗戦派“と”大河内城の戦い“に突入する

1569年(永禄12年)5月:

前年1568年(永禄11年)9月に“足利義昭”を擁して上洛し、10月には“将軍・足利義昭”を誕生させた“織田信長”は“六条合戦”の後始末として70日間という驚異的スピードで“新将軍御所”(旧二条城)を築城、完成させた。1569年(永禄12年)4月に岐阜に戻った“織田信長”は休む間も無く“伊勢国完全征圧”を為すべく、残された“伊勢国・南部”の攻略に取り掛かった。

こうした“織田信長”の威勢を見た隣国の“木造城城主・木造具政”(こづくりともまさ・伊勢北畠氏7代当主・北畠晴具/生:1503年・没:1563年/の三男/次男説あり/生:1530年・没年不詳)が恭順の意を表して来た。この背景には“織田信長”方の重臣“滝川一益”に拠る調略があった。

“木造具政”は”織田信長“が討伐の機会を窺っていた”北畠具教“(伊勢北畠家8代当主・伊勢国司/知行国主・公家・北畠家の支配範囲を広げ最盛期を築き上げた人物とされる・生:1528年・没:1576年)の実の弟である。

しかし“北畠”家中は“木造具政”の様な“恭順派”ばかりでは無く“抗戦派”も存在しており分裂していた。そして“織田信長”軍と“当主・北畠具教”をトップとする抗戦派とが“大河内城の戦い“に突入したのである。

54-(4)-②:“大河内城”攻略に大軍を投入した“織田信長”軍

1569年(永禄12年)8月20日~8月23日:

1569年(永禄12年)8月20日に“織田信長”は、70,000~100,000とされる大軍を率いて“岐阜”から出陣し、調略に拠って味方と成った“木造具政”の“伊勢国・木造城“に入った。

”織田信長“軍として戦った武将の名は”信長公記“の交名(名簿)で知る事が出来る。”織田家“の武将の殆どが動員され、更に、同盟を結んだ“浅井氏”の武将の名も見られる。(谷口克弘著・信長の天下布武への道)

“大河内城の戦いの纏め”を下記に示すが、この戦いの敵方“北畠”側の当主は1563年(永禄6年)に“北畠具房”(きたばたけともふさ・伊勢北畠家9代当主・生:1547年・没:1580年)に引き継がれている。しかし、実権は父“北畠具教”(きたばたけとものり・調略で織田信長方に鞍替えした木造具政の兄・伊勢北畠家8代当主・生:1528年・没:1576年)が大御所(当時41歳)として握っていた。そして父子共々“大河内城”に籠って戦った。

1569年(永禄12年)8月26日:

“木造城”を出発した“織田信長”軍は“大河内城”の支城“阿坂城”(あざかじょう・三重県松阪市)を“木下秀吉”(木下藤吉郎~木下秀吉~羽柴秀吉~藤原秀吉~豊臣秀吉の順に改名・生:1537年・没:1598年)が攻撃し、その日の中に陥落させ、他の支城には目もくれずに“主城・大河内城”を目指した。

54-(4)-③:織田軍は夜討を掛ける.しかし,雨の為、鉄砲隊が機能せず、敵の逆襲で多数の戦死者が出た

1569年(永禄12年)8月末~9月8日:

“織田信長“の大軍70,000兵余りに対して”北畠具教・具房”父子軍は僅か8,000兵程であった。“大河内城”は複雑な地形に立つ攻め難い城であったと伝わる。“信長公記”にはこの城を下記武将達が四方から囲んだ事が記録されている。いずれも後の活躍が伝わる武将達である。

① 織田信長本陣:馬廻衆・小姓衆・弓衆・鉄砲衆が固めた
②“大河内城”南の山に着陣:長野信良・滝川一益・丹羽長秀・津田一安・稲葉良通池田恒興・尾張衆、近江衆
③ 同上西に着陣:佐久間信盛・木下秀吉・氏家直元・安藤守就・美濃衆
④ 同上北に着陣:蜂屋頼隆・坂井政尚・斎藤慎五郎・磯野員昌(浅井からの武将)尾張衆
⑤ 同上東に着陣:柴田勝家・森可成・佐々成政・不破光治・尾張衆、美濃衆

包囲戦が長引いた事に苛立った“織田信長”は“南の山”に着陣し“稲葉良通・池田恒興・丹羽長秀”の3将に馬廻役を付け、搦手口から夜討を掛けさせた。しかし折悪しく雨が降って来た為、味方の鉄砲が使用出来なくなった。一方、城内からは弓・鉄砲の一斉射撃が繰り返され“織田軍”は多数が討ち死にし“夜討”は失敗に終わったのである。

54-(4)-④:長期包囲作戦に切り替えた“織田軍”の兵糧攻めに“北畠具教・北畠具房“父子軍は遂に開城する

1569年(永禄12年)10月3日

“織田信長”は長期包囲作戦に切り替えた。籠城に対する常套手段としての“兵糧攻め“をすべく➀周辺を焼き払い稲等の作物をなぎ捨て②住民達を“大河内城”内に追い込む事で城内の人口を過密にした上で③補給を絶つた。

戦闘の結果に就いては諸説がある。“信長公記”は信長の家臣に拠って書かれたものであるから“織田信長”方を贔屓した記述と成り、兵糧攻めの結果“大河内城”は堪らずに開城に追い込まれた(10月3日)と書いている。

一方“北畠氏”方の手に拠る書物“勢州軍記”(伊勢北部豪族・神戸具盛の子孫の神戸良政が書いたもので、成立は寛永12~13年頃/1635年~1636年)に拠れば“北畠”側は予め兵糧攻めを見通して居り、ダメージに到らず、戦闘に於いても常に“織田信長”方が不利であったと書かれている。中立的立場から書かれた“細川両家記・朝倉記”両史料の記事でも、何度か戦闘が行われたが“織田信長”方が圧倒的に勝利した戦いでは無かった事で一致している。“織田信長”軍が総力で臨んだにも拘わらず“大河内城の戦い”は苦杯を喫した場面も多かったというのが公平な見方であろう。

しかし、結果的には“北畠具教・具房”父子が“大河内城”を“織田信長”軍に明け渡し、立ち退いている。戦闘では“北畠”側が善戦した事は確かと思われるが、結局は兵糧攻めの為に籠城に耐えられなくなったと言うのが史実であろう。史実としての裏付けは無いが、この開城に就いて“内裏(朝廷)”並びに“将軍・足利義昭”側からの調停があったとする記録が存在するのである。

54-(4)-⑤:“内裏(朝廷)”並びに“将軍・足利義昭”の調停が入り“北畠父子”軍が開城したと伝える・・“朝倉記”に就いて

“越前国”の住人が書いたとされる“朝倉記”には“大河内城をめぐる攻防戦の末、同年(1569年)中旬に城中より切て出、千ばかり討捕りけり。ゆえに弾正忠(織田信長)も少し手弱く見へける所に、内裏・公方様より和睦の御曖いを成され“と書かれている。

“大河内城”側からの反攻で“織田信長”軍も苦戦を強いられていた処に“内裏”(朝廷)と“将軍・足利義昭”から和睦の仲裁が入り、戦闘が終わったというのである。しかし、講和・開城交渉が“内裏(朝廷)”並びに“将軍・足利義昭”からの調停という形であったという話は“朝倉記”の他には無く、これが史実であるかを裏付ける他の史料は無い。

“信長の天下布武への道”の著者“谷口克広”氏は“北畠具教”は若い頃から、官位昇進に熱心で、朝廷との繋がりが強かった。多勢をもってしても苦戦した“織田信長”軍に対して“朝廷”側、並びに“将軍・足利義昭”が調停に入った事で“和睦”に至ったとする”朝倉記“の記事を”越前国“の住人の記事に過ぎない、として、信憑性が無いとする事に疑問を呈している。

”内裏“(朝廷)並びに”将軍・足利義昭“が調停に入り、和睦が成ったとされる”講和・開城の条件“は下記二つだったと伝わる。

講和・開城の条件
①大河内城を織田信長に渡し、北畠具教・具房父子は他の城に移る事
②織田信長の次男”茶箋丸“(ちゃせんまる=後の織田信雄)を北畠家の養嗣子とする事

“大河内城“開城の後に、いくつかの”北畠方“の城は破却された。戦闘で”織田信長“軍は苦戦したとの記録も多いが、和睦条件は”織田信長“方に一方的に有利な条件での講和内容だった様に見える。

上記の講和・開城条件②にある、当時11歳の”茶箋丸“(後の織田信雄・生:1558年・没:1630年)が”北畠家“の養嗣子に入ったとする(この時北畠具豊と改名)条件は実質的には人質だったとする説がある。しかし”茶箋丸“は”城主・北畠具教・具房“父子が立ち退いた後の”大河内城“に入城して居り、従って、人質では無かったと考えられる。

尚”茶箋丸“(ちゃせんまる・北畠具豊~織田信意~織田信雄と改名する)は、父”織田信長“が”本能寺の変“で自刃した後に、有名な”清須会議“(清洲会議とも、1582年6月27日)で”羽柴秀吉“(当時満45歳)が”織田信忠“(本能寺の変で自刃・満25歳)の嫡男(遺児)”三法師“(後の織田秀信・生:1580年・没:1605年)を”織田家当主“に決めたがその”三法師“の後見役と成っている。

尾張、伊賀、南伊勢国の約100万石を相続し、その際”織田信雄“と改名し”北畠家“から”織田家“に復帰し“三法師”(後の織田秀信)が継いだ“織田家家督”を“清須会議(清洲会議)“から僅か2年後の1584年(天正12年)11月に“織田信雄”(幼名茶箋丸)に移す事を“羽柴秀吉”に認めさせている。

こうした“織田信長”が行った“人事戦略”の理解の助に再び“別掲図・織田家系図“を参照願いたい。図で*6に示した人物が””茶箋丸“(ちゃせんまる~北畠具豊~織田信意~織田信雄)である。

54-(4)-⑥:“大河内城の戦い”纏め

年月日:1569年(永禄12年)8月26日~10月3日
場所:伊勢国(三重県の一部)大河内城(おおかわちじょう)
結果:戦闘で“織田信長”方は苦戦した。しかし“内裏“並びに”将軍・足利義昭“が仲介し”織田信長”方に有利な条件での和睦が成ったとされる

交戦勢力・・織田信長軍

指導者・指揮官
織田信長
丹羽長秀
滝川一益
池田恒興
木下秀吉
稲葉良通
木造具政・・父の命で畠山家から、分家木造家の当主に入る。織田信長の侵攻に対して恭順し兄の北畠具教とは袂を分かち木造城を明け渡していた
滝川雄利
柘植保重
神戸具盛:北畠家の中での恭順派
長野具藤:北畠具教の次男、長野氏に養子として送り込まれる。1569年に信長に降伏

戦力:70,000兵

損害:不明

交戦勢力・・北畠軍

指導者・指揮官
北畠具教
北畠具房
















戦力:8,000兵(説)

損害:不明

55:“織田信長”と“将軍・足利義昭”との衝突が始まる

55-(1):“将軍・足利義昭”が“織田信長”から離れて勝手な行動をする事にブチ切れた“織田信長”が急遽、岐阜に帰国する“喧嘩別れハプニング”が起る

1569年(永禄12年)10月11日:

“織田信長”は“伊勢国・大河内城”を“北畠具教・具房”父子に開城させ(10月3日)た後の10月11日に“京都”に入り“将軍・足利義昭”に“伊勢国”の完全征圧を報告した。

1569年(永禄12年)10月17日:

暫く“京都”に滞在する予定であった“織田信長”が突然“岐阜”に帰る事態と成った。これに驚いた”第106代・正親町天皇“(在位:1557年・譲位1586年・生:1517年・崩御:1593年)が,わざわざ勅使を立てて理由を聞くという程の“ハプニング帰国”であった。(正親町天皇宸筆女房奉書案)

55-(1)-①:“六条合戦”(本圀寺の変・本圀寺合戦/1569年/永禄12年1月5日)が起きた後に“京”に駆け付けた“織田信長”は“九カ条の殿中掟”(後に16カ条に)を定めている。しかしこれは両者の対立の伏線では無かった

1569年(永禄12年)1月14日~1月16日:

“織田信長”は“本圀寺の変”(1569年/永禄12年/1月5日~6日)勃発を遅れて知らされ、急遽“京”に駆け付けた事は既述の通りである。そして、その直後の、1569年1月14日付で“九カ条”の“殿中掟”を定めている。

その内容は①将軍側近に関する事②当番の事③訴訟の方法等、幕府の内部に関する事柄を“織田信長”の名前で定めたものである。1月16日付で追加した項目を加え、全部で16条から成る“掟”であった。(仁和寺文書)

前年(1568年)10月に”将軍・足利義昭”が誕生したが“京都”に“将軍御所”を構える“将軍”の誕生は3年振りの事であった。従って、今回“将軍側近”や“当番”の任務に種々の齟齬が生じた事が“本圀寺の変”の際に、種々の不都合が起きた要因であると理解した“織田信長”は、今回“九ケ条(16条)の殿中掟”を定めたのである。

“殿中掟”の内容は、至極当たり前の事項が多く“将軍・足利義昭”そして“側近”を縛る意図のものでは無い。”将軍・足利義昭“も袖判(そではん=文書の右側空白部/袖/に花押を書く事)を捺して承認して、さしたる抵抗も無かった。

55-(1)-②:“将軍・足利義昭”との対立の伏線と成ったのは“織田信長”が“将軍・足利義昭”の行動に関して規定した“五カ条の条書”である

1570年(永禄13年)1月23日付

上記“九ケ条(16ケ条)の殿中掟”から1年が経った1570年(永禄13年)1月23日付で“織田信長”は“将軍・足利義昭”に宛て“五カ条”から成る“条書”を出し、これを承認させた。上記した1569年10月17日の“ハプニング帰国”から3ケ月後の事である。
“袖判”(そではん=文書の右側空白部に花押を書く事)を捺させた事も伝わるが、これに関しては“強制的”であった。

1年前の“六条合戦”(本圀寺の変・本圀寺合戦)の際“将軍・足利義昭“が”織田信長“の軍事力に頼る事無く、自らが率いた軍勢に拠ってこの合戦に勝利した事は“室町幕府の復興、将軍権威の復活“という強い目的と意識を持ち、又、性格的にも”自己顕示欲“の強い“将軍・足利義昭“に、極めて強い自信を与えた。却ってこの事が”将軍・足利義昭“と”織田信長“との間に軋轢を生じさせ、それが拡大して来たのである。3ケ月前の”ハプニング“帰国も両者間に生じていたズレが原因であった事は明かである。

以後の“将軍・足利義昭”の動きは“織田信長”の目には、勝手で、独自色の強い行動として映った。我慢の限界に達した為“織田信長”は“将軍・足利義昭”の行動に、クギを刺すべく“五カ条の条書”を提出するに至ったのである。

流石に、この“五カ条の条書”の宛先は“織田信長”から“将軍・足利義昭”に直接宛てたものでは無く➀天皇・将軍・そして織田信長の間を立ち回っていた“朝山日乗”(日蓮宗の怪僧・生年不詳・没:1577年)そして②織田信長に仕えながらも幕臣の立場も兼ねていた“明智光秀”(生地は美濃国明智荘?・生年:1516年/1528年等諸説あり・没:1582年6月13日)の二人宛であった。この二人は“将軍・足利義昭”そして“織田信長”の間で中立を保てる立場の人物であった事から“織田信長“が証人として選んだと考えられる。


55-(1)-③:五カ条“条書”の内容(意訳)

1:大名達に御内書(将軍の書状)で命令する事があるなら、先ず”織田信長”にその旨を伝える事。織田信長からも書状を添える・・寺社や公家からの訴訟に対応出来ず、処理遅延、並びに幕臣の横領行為を正常化させる意図

2:これまでの御下知(将軍・足利義昭からの命令)は全て無効とし、改めて考え直してから決める事

3:将軍に忠節の者に恩賞・褒美を与えたくても土地が無い時は、命令して呉れれば織田信長の分国の中からでも提供しよう・・幕臣の荘園横領等の抑止

4:兎も角、天下の事は織田信長に任せたのだから、誰であっても将軍の意思を伺う必要は無い。織田信長の意思通りに行う事・・“足利義昭”が“織田信長”に宛てた1568年10月24日付の2通の御内書の記載内容に基づいて求めたもの

5:天下は鎮まったのだから、朝廷の事を油断なく行う事・・禁裏修理も含め“足利義昭”に朝廷を支える役割を果たすべきとの意見を伝えている


以上である。

この文意から、何故、既述した1569年(永禄12年)10月17日に“織田信長”が突然“岐阜”へ帰国するハプニングが起り、事情を知らない“正親町天皇”が慌てて勅使を立てて理由を聞いたその内情が分かる。”織田信長“としては”室町幕府”再興が成り”将軍権威”を回復せんと意欲満々の”将軍・足利義昭“が”六条合戦”(本圀寺合戦)の勝利に自信を得、その後、勝手な行動が目立つ様に成った事が許せなくなっていたのである。1569年(永禄12年)10月17日にブチ切れ、喧嘩別れをして、突如、岐阜に帰った”織田信長”は”将軍・足利義昭“の行動を規制する趣旨で上記“五カ条条書”を出すに至ったという事である。

上記“五カ条・条書”の中で特に重要なのは4ケ条目である。原文では“天下の儀、何様にも信長に任せ置かるるの上は、誰々に寄らず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事“と書かれている。従来“天下之儀”は“将軍が有する権限”と理解されているが“織田信長”は“天下之儀”は全て“信長に任された”即ち“将軍・足利義昭は天下の政権を全て信長に委任したとの理解であった。

“織田信長”は“将軍・足利義昭”から将軍の権限を委任され”将軍“と同等の権限を獲得し”将軍代行“に成ったという理解をしていたのである。ここに”将軍・足利義昭“と”織田信長“との間に深い認識のギャップが生じていたのである。

56:”将軍・足利義昭“を傀儡化した行動を開始した”織田信長“

“五カ条・条書”は前年の“殿中掟”(1569年1月14日付、並びに1月16日付で追加した計16条から成る)とは全くその主旨が異なり“将軍・足利義昭”の行動に対して、強い締め付けをする内容であった。”将軍・足利義昭“の行動を著しく制約し、傀儡化する意図が明らかな“五カ条・条書”だったと“信長の天下布武への道”の著者“谷口克広”は述べている。

56-(1):同日の日付で出された“触状”で”織田信長“は、諸国の大名、並びに国衆に”上洛”を命じ、自らが“将軍代行の地位“にある事を喧伝した

“織田信長”は“将軍・足利義昭”の権限に制約を加えた“五カ条・条書”を出した同日付で“触状”(ふれじょう=連名の宛名で順番に回覧させる文書)を出している。

“天野忠幸”氏は著書“三好一族と織田信長”の中で“五ケ条条書”と“触状”を合わせて考えると“織田信長”は“将軍・足利義昭”を敵視しているのでは無く“天下布武”に拠る”全国統一“のビジョン達成の為の“五ケ条条書”と“触状”である事が分かる。”触状”で上洛を命じた“織田信長“の趣旨は”敵は越前国・朝倉義景、並びに、三好三人衆+阿波三好家であり、彼等を討伐する為には、将軍・足利義昭政権に拠る畿内支配の安定化が必須条件であるから上洛せよ“であったと記述している。

1570年(永禄13年)1月23日:

“二条宴乗記”(興福寺の坊官=寺院の最高指導者などの家政を担当した機関、そこに属した僧侶である二条宴乗の1569年正月~六月の日記)に“織田信長”が諸国の大名達に書状(触状)を送った事を伝えている。

56-(1)-①:“触状”で“織田信長”は諸大名に、下記2点を意図とし、自分が“将軍代行“の地位にある事を明確に伝えようとした

①:将軍・足利義昭を傀儡化し、自分が将軍から全ての権限を委任された代行者として幕府を動かし、合わせて、朝廷の保護者という立場に立つ

②:天皇という古来の権威を盾とし、正当な”天下静謐(天下を鎮める事)執行権”を持つ幕府の権限の全ての代行者の立場である事を認めさせ”日本全国を統一する事業”へ向かう

“触状”の内容は“上洛”具体的には禁裏修理を命ずるものであったが、その主旨は上記した様に“朝廷”と“幕府”という古来の“伝統的権威”を“織田信長”が“操る事”に拠って、諸国の大名達を支配して行こうとした意図のものであったとされる。文面は下記である。

皇居の修理、幕府への奉仕,そのほか天下を静めるため、来る二月中旬に上京する予定である。あなた方も上洛して天皇・将軍に拝礼し、お役に立つように。遅れてはならない

56-(1)-②:“触状”の宛先と“朝倉義景”にも出されていたか否かに就いて

“天野忠幸”氏はその著書“三好一族と織田信長”の中で下記武将達に“触状”が出されたとしている。


①北畠具教 ②徳川家康 ③姉小路(三木)良頼 ④山名父子 ⑤畠山秋高 ⑥遊佐信教 ⑦三好義継 ⑧松永久秀 ⑨松永久通 ⑩松浦孫五郎 ⑪別所長治 ⑫丹波国衆 ⑬一色義道 ⑭武田元明 ⑮京極高吉 ⑯浅井長政 ⑰高島七党 ⑱木林源五親子 ⑲紀伊国衆 ⑳越中神保名代 ㉑能州名代 ㉒甲州名代 ㉓淡州名代 ㉔因州武田名代 ㉕備前州名代(浦上氏) ㉖池田 ㉗伊丹 ㉘塩川 ㉙有馬氏

畿内、近国の大名、国人宛が多く、このリストに含まれていないが、東方では“武田信玄”“西方では”出雲国・尼子氏“にまで及んだとされる。“信長公記・言継卿記・二条宴乗記”には以上述べた他の名前として“紀伊国・畠山高政”並びに“伊勢国・北畠具房”などが挙げられている。但し“織田政権の登場と戦国社会”の中で著者“平井上総”氏は“武田信玄の名はあるが上杉輝虎(謙信)の名は無い“事などを挙げ、これ等の記録に疑問が残るとしている。

問題の“越前国・朝倉義景”に関しては下記2説に分かれる。

①”触状“は朝倉義景に届いていたとする説

㋐“谷口克広”氏(信長の天下布武への道):届いていたが無視をした
㋑“池上裕子”氏:織田信長は越前朝倉氏討伐の意思があり、この上洛要請(触状を指す)に従わなかった事から、朝倉義景を討伐する為の大義名分に利用した

②”触状“は朝倉義景には出されていなかったとする説

㋒”平井上総”氏(織田政権の登場と戦国社会):能登の畠山氏が入っているにも拘わらずそれより京都に近い朝倉氏が入っていない事からも織田信長は朝倉氏を敵対視していた事を窺う事が出来る

㋓”久野雅司”氏(足利義昭と織田信長):上洛要請に従わなかった事が朝倉義景討伐の名目だったとする説は、後の歴史展開を知る後世の結果論であって妥当では無い。”朝倉義景”は上洛を要請されていなかった

㋔“天野忠幸”氏(三好一族と織田信長):1570年1月23日付”五ケ条の条書”と”触状”から“織田信長”は敵は“越前朝倉義景”と“三好”方であるとしている。従って”天野忠幸”氏も同書で明記はしていないが”朝倉義景”に”触状”を出していなかった、という説となろう

以上諸説があるが“第一次越前侵攻”の戦況展開からも、又“天下布武”の下“全国統一”をビジョンに掲げる“織田信長”にとって“朝廷・幕府”は“伝統的権威”として操り、活用し“織田信長”の行く手を遮る”越前国・朝倉義景”は”滅ぼすべき敵”としていたのであろう。

そうした観点からは“触状は朝倉義景には出されていなかった”とする説が説得力があるのではなかろうか。

56-(2):“天下布武”印の下に“織田信長”が掲げた“全国統一ビジョン“は”他の戦国大名“が”自国の領土拡大“をビジョンとして掲げたケースとは異次元のものであった

”本郷和人”氏はその著“信長・歴史的人間とは何か”の中で“織田信長”と“武田信玄”等、他の戦国大名とのビジョンの違いに就いて、以下の様に記述している事は24-(3)-②で紹介したが、今一度くり返して置きたい。

“武田信玄”等の戦国大名の考え方の古さと対照的に、新しさが目立つのが“織田信長”である。岐阜と命名した(実際には沢彦/たくげん・という僧侶が命名したとされる)が“阜”は丘を意味し、中国の“岐山”と同じ意味で、天下取りの拠点にするという意味が込められている。信長は写真に示す“天下布武”の判子を“稲葉城”を攻め落とし、この地を“岐阜”と改めてから使う事で“日本全国を統一する“というビジョンを高らかに掲げた。

さらに“織田信長”は”安土城”を築き、既に京都を支配下に置いた後に、この印のデザインを“下り龍天下布武印”(同)に変えている。

“京都”を征圧する事が“織田信長”の“天下布武”の意味するところであったならば、この時点で最早“天下布武印”を使う必要も無く成っていたはずである。ところが“信長”は、さらにスケールアップした“下り龍天下布武印”にデザインを変えている。この事からは“織田信長”が“天下統一”に対する意志をより強くした事が見て取れる。

“織田信長”の影響を強く受けた“徳川家康”は“厭離穢土、欣求浄土/おんりえどごんぐじょうど”を旗印に掲げた。“徳川家康”のビジョンは“戦いに明け暮れた乱世を否定し、浄土を求める”である。

又”武田信玄は“風林火山”をビジョンに掲げ“上杉謙信”は“毘(毘沙門天)”をビジョンとして掲げた。更に“北条氏”のビジョンは“禄寿応穏/ろくじゅおうおん”つまり “財産と生命は守られるべし”であった。こうして多くの戦国大名達が自分の信ずるものや利益をビジョンに掲げた訳だが“織田信長”は“日本は一つになるべきだ”を掲げた。明らかに他の戦国大名の“自国をどうするか“に捉われたビジョンとは異次元のものであったと言えよう。

“織田信長”は“自分の国”という意識が薄かった。その結果が他の戦国大名と違って“清洲∼小牧山∼岐阜∼安土~(大坂?)”と“本拠地”を変える事を躊躇しない行動に反映されている。こうした点からも”安芸国”や“甲斐国”という”地縁“に縛られた”毛利元就“や”武田信玄“とも次元の異なる視点を持った人物だったと言えよう。

出典:本郷和人著“信長・歴史的人間とは何か”

57:自らを“天下の主催者”と意識し、演じた“織田信長”

“織田信長”は1570年(永禄13年)1月23日付の各大名への“触状”で“2月中旬遅れず上京されたし”と命じている。幕府権限、将軍権限の全てを委任された“将軍代行者”を任じ、動く事で、自らが掲げた“天下布武“即ち”全国統一事業”というビジョン達成に向けて愈々本格的に踏み出した事が分かる。

彼は“畿内”並びに“近国”の大名達がぼつぼつと上洛する様子を見乍ら、自らは、途中“常楽寺”(滋賀県安土町)に留まって“相撲会”(すもうえ=相撲大会・織田信長は相撲を好み、1578年/天正6年/2月29日に安土城で300人の力士を集め相撲大会を開いた事が知られる。現在の大相撲/大会/は織田信長がルーツだとされる所以である)を催した事が記録されている。

1570年(永禄13年)2月30日:

今日では存在しない“2月30日”という日付で“織田信長”の行動が記録されている。我が国で1872年(明治5年)迄“太陰太陽暦(旧暦)”が使われていた。この暦では、月名に関係無く、1カ月は29日(小の月)又は30日(大の月)であった。従って年に拠って現行のグレゴリオ暦には存在しない2月30日が存在したのである。

“織田信長”自身が“京都”に入ったのは“1570年(永禄13年・元亀への改元は4月23日)2月30日”の夕刻であった。大勢の公家、幕府の奉公衆が”織田信長“の船が到着する”堅田“乃至は”坂本“(共に現在の大津市)迄、迎えに出ていたとある。更に“京都“の郊外”吉田“(現在の京都市左京区)には京都の市民達が何百人と出て、盛大に“織田信長”を迎えたとの記録が残る。

”言継卿記“には”一町当り5人が出迎えるように、とのノルマが与えられていた“とそのカラクリが記されている。“織田信長”の上洛はこれ以後何度も記録されているが、この時の様に大勢の市民に迎えられたケースは無い。“天下の主催者”を自ら企画し、演じた“織田信長”は“出迎える様に!!”との指示を与え、皆を動員させたのである。

57ー(1):“天下の主催者”を企画し、演じた“織田信長”の“意図”と、その“効果”を知る事が出来る“織田信長”上洛翌日(1570年/永禄13年/3月1日)の行動記録

“織田信長”は今回の上洛に際して下記行動をとった。

正午:先ず”将軍・足利義昭”に挨拶の為“幕府”を尋ねる
午後:内裏に参内・・衣冠を着した正装の姿で参内した織田信長に大勢の公家衆が相伴した(連れられた)

57-(1)-①:“織田信長”の内裏(朝廷)参内は“伝統的官位“を無視した形で”将軍“に匹敵する待遇であった

“織田信長”が内裏に参内した当日、彼の官位は“正六位”相当の“弾正忠”(だんじょうのじょう)であった。この官位の者は通常は“昇殿”を許されない“地下人”(じげにん)の位に過ぎなかった。ところが“織田信長”はこの日、禁裏に於いて“征夷大将軍・足利義昭”に匹敵する待遇を受けたのである。

“正親町天皇“がどの様な手続きをとったかは伝わらないが”織田信長“が伝統的な官位を無視して”天下静謐執行権“を獲得した事、同時に”将軍代行の地位“に立った日である事は、まぎれもない史実であり(橋本政宣氏・立花京子氏・歴史学研究会など)歴史関係者は“織田信長“のこの日の参内は、画期的な出来事と評している。

57-(1)-②:”織田信長“が今回“参内“するに至った背景、そして”参内“の結果、勝ち取った効果

“織田信長”が“天下の主催者”である事を、自ら企画し、そして演じて“参内”を果した背景には、既述した“将軍・足利義昭“との衝突の結果”5カ条の条書“を出した事で”将軍・足利義昭“から半ば強引に“天下の政権“の全てが自分に委任されたという自意識があった。

この結果“正親町天皇”も”将軍代行者“として”織田信長“を扱わざるを得なく成ったと思われる。その結果、官位の上では“地下人”に過ぎない“織田信長“が今回“将軍・足利義昭”に匹敵する待遇での参内を果たしたのである。この機会を得た事で“織田信長”は“天皇”への接近を果たすという“成果”を得たと共に、この様子を“触状”に応じて“上洛”した各大名達に見せるという効果を得たのである。これを“足利義昭と織田信長”の著者“久野雅司”氏は“禁裏、幕府という古来の権威を操る事に拠って諸国の大名達を支配して行こうとした“と述べている。

“織田信長”は“天下の主催者・将軍代行者”である事を、自らが”天皇・朝廷“に直接接する姿を見せつける事で“日本に岩盤の様に根付いた血統信仰による天皇家の権威“に近い存在である事を知らしめたと同時に“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力“が依然保ち続ける“権威”を自身の“権威付け“に最大限利用した”内裏(朝廷)参内“としたのである。

58:“天下の主催者”たる自分に従わない“朝倉義景”の討伐を目指し、表面上は”若狭国・武藤友益“討伐軍を率いて進発する

58-(1):“織田信長”の1570年(永禄13年)1月23日付“諸大名への触状に“応じた”大名“無視”した大名

既述の様に“触状”に就いては、果たして“朝倉義景”に出されたのか、出されなかったのかに就いては諸説に分かれる事を述べた。私見としては“平井上総・久野雅司・天野忠幸”各氏の“触状は朝倉義景には出されていなかった”とする説が説得力があると考える。いずれにせよ、実際に“上洛”して来た大名、並びに“代わりに使者を派遣して来た大名”の記録があるので下記に示す。

①:触状に応じた大名
三好義継(河内国)松永久秀(大和国)徳川家康(三河国)畠山高政・秋高兄弟(紀伊国・河内半国)北畠具房(伊勢国)一色義道(丹後国)三木自綱(飛騨国)
②:代わりに使者を派遣して来た大名
太田垣輝延(但馬国)宇喜多直家(備前国)大友義鎮(豊後国)

58-(2):“織田信長”が“朝倉義景”討伐の意を固める・・第一次越前侵攻

“触状”が“朝倉義景”に出されたのか否かは別として“朝倉義景”が“上洛”していなかった事は史実であり、又“織田信長”にとって“越前国・朝倉義景”の存在は自国領の“美濃国“と”京都“との間に突き出した”槍“という位置関係にあった。従って”織田信長“としては“服属”させねばならない対象だったのである。

加えて“朝倉義景”は“織田信長”に従う事を嫌っていた事から“織田信長”としては前年“伊勢国・南部征圧”(北畠具教との大河内城の戦い/1569年8月26日~10月3日)の後に“朝倉義景”を攻撃する予定であったとの説もある。しかし既述の通りこの戦いに手間取った為、未遂に終わったとされる。要するに“織田信長”の“越前・朝倉義景”討伐は“織田信長”にとっては“既定路線”だったのである。

58-(2)ー①:“勅命”と“上意”を帯びて“織田信長”が3万の大軍で出陣・・但し表向きの討伐対象は“朝倉義景”では無く“若狭国・武藤友益”であった

1570年(永禄13年)4月20日:

“織田信長”と“徳川家康”その他、下記の武将達との連合軍は、3万の大軍勢と成り“京”を出陣した。“大和国”を支配する“松永久秀”並びに“摂津国守護・池田勝正”も従軍、更に“飛鳥井雅敦”(あすかいまさあつ)並びに“日野輝資”(ひのてるすけ・生:1555年・没:1623年)と言った“公家”2家も参陣した。尚、両公家は“武家昵近公家衆”(ぶけじっきんくげしゅう)と称され、天皇に仕え乍ら、将軍にも奉公する特殊な家柄の公家であった。

ここで“織田信長”(生:1534年・没:1582年)と“徳川家康”(生:1543年・没:1616年)との関係について述べて置きたい。

両者は1562年(永禄5年)に結ばれた20年間に亘る“清洲同盟”の下での“同盟者”という関係であって“家臣”では無い。年齢は“織田信長”が9歳年上である。“清洲同盟”は“今川家”と敵対する“徳川家康”と”美濃国・斎藤氏“と交戦する”織田信長“が”桶狭間の戦い“から2年後の1562年/永禄3年/5月19日に”徳川家康“が”清州城“に出向いて結ばれた同盟である。

58-(2)-②:“天下の主催者”としての体裁を整え“正親町天皇”の“勅命”と“将軍・足利義昭”の“上意”の両方を帯びた官軍として“京”を出陣した“織田信長“軍

“織田信長”に従った“池田勝正”にしても“松永久秀”にしても、格(地位)としては“織田信長”と同格であった。しかし、実態は“武家昵近公家衆”までをも従えた“天下の主催者”としての体裁を整えた“織田信長連合軍”としての出陣であった。更に、この出陣は”戦国大名“が”私戦“を戦う姿とは全く異なり”天皇・将軍“公認の”官軍“としてのものだったのである。

出陣の前日に”織田信長”は参内して”正親町天皇“並びに”皇太子・誠仁親王“(後の第107代後陽成天皇・生:1571年・崩御:1617年・在位:1586年11月7日・譲位:1611年3月27日)”に暇乞いをし“将軍・足利義昭”にも挨拶をして出陣した。(言継卿記)

58ー(3):“織田信長”軍の出陣目的、並びに軍の主体が“将軍・足利義昭“だったのか、或は”織田信長“だったのかに就いて

表題の疑問に就いては下記2説がある。

説➀:将軍“足利義昭”が主体で“若狭国・武藤友益”成敗を目的として“織田信長”に”将軍・足利義昭”が“軍事指揮権”を委任したとする説

説②:出陣の真の主体は“織田信長”であり、目的も”朝倉義景”討伐にあった。しかし”朝廷“並びに”将軍・足利義昭”が”朝倉義景”と近しい関係にある事に忖度して、表向きは”若狭国・武藤友益”討伐と成った、とする説


58-(4):説①将軍“足利義昭”が主体で“若狭国・武藤友益”成敗を目的として“織田信長”に”将軍・足利義昭”が“軍事指揮権”を委任したとする説

この説は“足利義昭と織田信長”の著者“久野雅司”氏が主張する説である。同氏は下記の様に様々な観点からこの説を展開している。

58-(4)-①:“朝倉義景”は“武藤友益”の後詰め支援を引き受けた為に戦闘に巻き込まれた

“織田信長”が1570年(永禄13年)1月23日付で“諸大名へ上洛を要請する”触状“を出した。しかし“久野雅司”氏は“朝倉義景”には上洛要請を出していないとの見解をとっている。この事は”朝倉義景が将軍・足利義昭政権の構想の枠組みから外された“事を意味した。上洛前に”足利義昭“を2年に亘って庇護し、管領代として元服の加冠役を務めた“朝倉義景”としては大なる不満を抱いていた。

そうした状況下“若狭国・武藤友益”に対して“将軍・足利義昭”は”織田信長“に“軍事指揮権”を与え“幕府”に反抗的“若狭国・武藤友益”に討伐軍を編成した。”武藤友益“は”朝倉義景“に後詰の軍事支援を要請し、上述した不満を持つ“朝倉義景”は“武藤友益”からの要請に応じた。こうした結果“越前国・朝倉義景”も戦闘に巻き込まれたという説である。

58-(4)-②:“織田信長”から“毛利元就”への朱印状に“武藤友益”討伐の上意が出されたと明記されている事を何よりの裏付けとしている

飽くまでもこの討伐軍の主体は“将軍・足利義昭”だとの説に立つ“久野雅司”氏は裏付ける史料として“織田信長”から“毛利元就”に宛てた下記朱印状を提示して、彼の説を展開している。

実際に、この時に朝倉義景は上洛を要請されて居らず、織田信長が毛利元就に宛てた朱印状に“若狭の国端に武藤と申す者、悪逆を企てるの間、成敗致すべきの旨,上意として仰せ出だされるの間、去四月廿日に出馬し候(毛利家文書)

要するに“織田信長”は“将軍・足利義昭”の上意(命令)に基づいて“大和国・松永久秀“並びに”摂津国守護・池田勝正“更には、本来は将軍に供奉する”武家昵近公家衆”を含めた3万の“官軍”を率いて“若狭国・武藤友益”を成敗する為に出陣したと自ら書いている事を何よりの裏付けとして、この討伐軍は“将軍・足利義昭”が主体で“織田信長”に“軍事指揮権”を委任して“若狭国・武藤友益”討伐に向わせた、と主張している。

58-(4)-③:“明智光秀“から”将軍・足利義昭“への戦況報告が出されている事を裏付けに”将軍・足利義昭”が主体の進軍で“若狭国・武藤友益”成敗を目的として“織田信長”に“軍事指揮権”が委任された進軍であった事が裏付けられると主張

近年発見された“三宅家文書”に、この“武藤友益討伐軍”に従軍した“明智光秀”から“将軍・足利義昭”側近の“細川藤孝・飯川信堅・曽我助乗”3名に宛てた書状がある。以下にこの解説を示すが“久野雅司”氏はここでも“織田信長の軍事行動は武田氏の家老、国衆、等と歩調を合わせた出陣であり、目的は“朝倉義景・浅井長政”の動向を警戒し乍らも“武田”氏に抵抗する“武藤友益”討伐だった事は間違い無いとの主張を繰り返している。

そして“織田信長”軍が“越前・朝倉氏”侵攻に転じたのは“武藤友益”はじめ“若狭国衆”が“朝倉義景”と連繋し、それに拠って挟撃される事になった為に、戦略変更をした結果だと主張している。

熊と啓上せしめ候、よって今日午刻、熊川(若狭)に至り着き仕り候、この表相替えの儀、御座なく候、武田家老中当地まで罷り出候、信長越境迎えのため此の如くに候、越州口并びに北郡(近江)いずれも別条の子細これ無く候、珍説これあるにおいては、夜中に寄せず申し上げるべく候、これ等の趣き、宜しく御披露に預かるべく候、恐々謹言、

卯月廿日(永禄十三年)
細川兵部太輔(藤孝)殿
飯川肥後守(信堅)殿
曽我兵庫頭(助乗)殿
 
明智十兵衛尉 光秀(花押)




解説:

“明智光秀”が“若狭国”と“近江国”との境に位置する“熊川”(福井県三方上中郡)まで軍を進め、ここから“若狭国”や“越前・近江北部”の戦況を“将軍・足利義昭”に報告した書状である。(注:格下の明智光秀が上位・貴人の将軍・足利義昭に直接書状を発給する事は無く、側近3人宛てに出し、将軍・足利義昭への披露を求める形である)

書状の趣旨は、未だ“越前・朝倉義景”並びに“近江北部・浅井長政”(越州口并びに北郡)に動きは無く、もし、何かがあった場合には(珍説)夜中でも緊急に報告する、と書いている。又“若狭国守護・武田氏”の家老が“織田信長“を国境まで迎えに来た事も伝えている。

史実展開は後述する様に“織田信長”の行動は“越前国・朝倉義景”討伐に傾いて行く。こうした戦闘展開から”若狭国・武藤友益”を討伐するのに3万もの“官軍”を“織田信長”が率いる必要があったとは考えられ無く、従って“将軍・足利義昭主体説”に対する反論の余地が生れて来るのである。

しかし”朝廷“並びに”将軍・足利義昭”が“朝倉義景”と近しい関係にあった事を考えれば“朝倉義景”を討伐対象にした“勅命・上意”が“織田信長”軍に出される事は考え難く、第一義的に“若狭国・武藤友益”を討伐対象とした軍と成った、と“久野雅司”氏は主張する。当時の史料から得られる情報を客観的に見る限り、討伐対象は“若狭国・武藤友益”であった。

“久野雅司”氏は“武藤友益討伐”は“織田信長“に抵抗し、上洛要請に従わなかった“朝倉義景”討伐の名目に過ぎなかったとする説はその後の歴史展開を知る後世の人達が主張した結果論であるとしている。しかし“朝倉義景”は“武藤友益”から“織田信長軍”を挟撃する為に、後詰めの役割を要請され、それに応えて軍事支援に動いた。その背景には”朝倉義景“が”将軍・足利義昭政権“の枠組みから外された事に対する反発心があったとしている。(久野雅司氏は朝倉義景に織田信長からの上洛要請をする触状が出されていないとの見解をとっており、この事で朝倉義景は枠組みから外されたとの反発心を抱いたとしている)

この反発心から“朝倉義景”が軍事的示威行為として蜂起した事で、結果として“織田信長”軍は、当初の“武藤友益討伐”目的の官軍から“朝倉義景”を討伐対象とした“第一次越前侵攻”と称される討伐軍へと目的が変わったのである。結果的に“織田信長”の思惑にはまった形と成ったと言える。

58-(5):説②出陣の真の目的は“織田信長”としては”朝倉義景”討伐にあった、しかし”朝廷“並びに”将軍・足利義昭”が”朝倉義景”と近しい関係にあった事に忖度して、表向き”若狭国・武藤友益討伐“と成ったとする説

“信長の天下布武への道”で著者の“谷口克広”氏は“触状”は“朝倉義景”に出された。しかし“朝倉義景”はこれを無視した、との説に立って“織田信長が朝倉義景討伐を目的として、勅命・上意を帯びた官軍の体裁を整え、天下の主催者として出陣した事は間違い無い、但し、朝廷・将軍足利義昭と朝倉義景との関係に忖度し、表向きは、若狭国・武藤友益討伐軍とした“との説を裏事情を挙げながら解説している。

”越前国・朝倉義景“が2年間も”足利義昭“の世話をした事、又”朝廷“と”朝倉義景“との関係に就いては8年前に“一乗谷”で行われた“曲水の宴”に公家達が招かれた事等が裏事情として存在した。こうした背景から“朝倉義景”は“朝敵”として追罰すべき戦国大名では無かったという事であり“朝廷・幕府(将軍)”という古来の“伝統的権威”に忖度しこの際は上手く操る事のメリットを“織田信長”は本音を隠し乍ら活用しようとした、という説である。

58-(5)ー①:“天下布武”を掲げ“全国統一”ビジョン達成に邁進する“天下の主催者・織田信長”の本音は、自分に抵抗する“朝倉義景”は“追討せずにはおれない大名”以外の何者でも無かった

既述の様に、過去の関係からして”将軍・足利義昭“にとっても、又”朝廷“にとっても”越前国・朝倉義景“は“朝敵”として追罰されるべき戦国大名では無かった。

“朝廷”並びに“将軍・足利義昭(幕府)”という、古来からの“伝統的権威”を操る事が“天下布武“の下で”全国統一“というビジョン達成の為にプラスと成るならば、最大限利用する、という合理的考えを持っている処が“第13代将軍・足利義輝”を殺害して“政権”の座を得ようとした“三好義継”の行動と“織田信長”との大きな違いである事は既述の通りである。

更に“織田信長”は、本来の目的である“天下布武(全国統一)”に邁進する策として”天下の主催者“を自認し、振る舞い、実を上げる事に集中した。従って”触状”を無視した“越前国・朝倉義景”は、討伐せねばならない大名だった。

“朝廷”と“将軍・足利義昭”が持つ“朝倉義景”との関係に忖度し“討伐軍”の表面上の対象者を“武藤友益”とする事は“天下布武”(全国統一)という“大事を為す前の小事”だったのである。こうした“織田信長”の現実的対応策、並びに真の軍事目的が“朝倉義景討伐“であった事を知る事の出来る史料が存在する。それは“毛利家文書”に残る“織田信長”から“毛利元就”に1570年(元亀元年)7月10日付で出された“九カ条”から成る“覚書“である。

この覚書には“織田信長”が“正親町天皇”からの“勅命”と“将軍・足利義昭”からの“上意”を帯びた“形式・格式”を共に備えた、堂々たる3万兵から成る“官軍”を率いて、1570年4月20日(永禄13年4月23日に元亀に改元)に出陣した事、加えて“武藤友益”が、当初の討伐対象ではあったが“真の討伐対象者”は背後で“武藤友益”を操る“朝倉義景”である事を“織田信長”自身の言葉で明確に記しているのである。

第一条:
“若狭国”(福井県の一部)端に“武藤友益”と申す者、悪逆を企つの間、成敗すべきの旨、上意として仰せいださるの間、去る四月二十日出馬候
第二条:
かの”武藤友益”一向に背かざるの処、越前より筋労(圧力?)を加え候。遺恨繁多に候間、直ちに越前敦賀郡に至て発向候

=解説=
第一条の文面をそのまま見る限り,織田信長の出陣の目的は”若狭国”の”武藤友益”討伐であり、将軍の上意も天皇の勅令もその為のものであったと記している。しかし、第二条では”武藤友益“を背後で操っているのが”越前国・朝倉義景”だという事が分かったので直ぐに越前国・敦賀に馬首を転じたという事を曝露している。

58-(5)-②:“朝倉義景討伐”の“ダシ”に使われた“武藤友益”

“織田信長”軍は“朝廷”並びに“将軍・足利義昭”に忖度をした表向き“武藤友益討伐”の為の3万の”官軍“であった。

”武藤友益”(生没年不詳)は”若狭国守護・武田義統“が1567年(永禄10年)4月に死去した後に,幼少(5歳)で家督を継いだ”武田元明“(たけだもとあき・生:1562年・没:1582年)の時期に、領国統率力の弱体化に“朝倉”氏が突け込み、其れまでの“若狭国”に対する支援する方針を変え“若狭国”を支配、属国化へと方針転換をした。“武藤友益”は“越前国・朝倉義景”に従属し”織田氏”に対抗する”若狭国・武田氏“の家臣という立場だったのである。彼の生没年は不詳である。

そもそも”武藤友益”ごときを討つのに3万という大軍、しかも“天皇からの勅命・将軍からの上意”を帯びた大軍勢が必要である筈もない。”織田信長”は反抗的な“武藤友益”という小者を出汁(ダシ)に使って、言い掛かりを付け、本来の討伐対象である”朝倉義景”攻撃に移る、という筋書きであったとするのが“信長の天下布武の道”の著者”谷口克広“氏の説である。

58-(6):“織田信長”軍は先ず“天筒山城“を攻略する策をとり、続いて主城“金ヶ崎城”を攻略“城主・朝倉景恒”は降参し、開城した

58-(6)ー①:実は“朝倉義景”討伐が真の目的である事を兵達に明かした“織田信長”

1570年(永禄13年)4月23日:

4月20日に“正親町天皇の勅命・将軍足利義昭の上意”を帯び、3万の大軍を率いて京都から出陣した“織田信長”軍は琵琶湖の西岸を北上して“近江国坂本”を経て“和邇”(わに・現在の大津市にあたる)に進軍した。

翌4月21日には高島郡安曇川田中の“海津氏”の居城まで進み、4月22日には熊川に至って“若狭国・武田氏”家臣の“松宮玄蕃”(若狭国守護・武田義統に仕えた・生没年不詳)に迎えられ陣を布いた。この時までに“官軍・織田信長”のもとに参じた武将達は下記である。

①高浜の逸見氏 ②西津の内藤氏 ③鳥羽の香川右衛門大夫 ④藤井の山形下野守 ⑤三方の熊谷大膳 ⑥若狭国衆

そして4月23日には分裂状態の“若狭国”で”武田元明”を擁立して”朝倉”氏の”若狭国”への干渉に抵抗する“若狭国佐柿・粟屋勝久“(あわやかつひさ・生年不詳・没:1585年)の居城“国吉城“(福井県三方郡)に入った。

この城は“若狭国守護大名”の“武田氏”重臣の“粟屋勝久”が1556年(弘治2年)に築いた城である。“越前国”との国境を警備する“境目の城”として10年間に亘って“越前国・朝倉義景“の侵攻を”籠城戦“で払い除け”難攻不落の城“として世に知られた。

“木下藤吉郎・徳川家康”等を伴って“左柿国吉城“に入った”織田信長“は軍議を重ね、この場で真の出陣目的が“武藤友益討伐”では無く“朝倉義景討伐”である事を明かしたとされる。“左柿国吉城”から若狭湾沿いに“西”に向えば“武藤友益”の居る“佐分利郷”だが“織田信長”軍は“東”に向って進軍した。(谷口克広著:信長の天下布武への道)

尚、後述するが、後日“織田信長”から“毛利元就”に近況を知らせた覚書の第2条には“武藤友益”はさして抵抗せず降伏した“とある。これは上記戦況に関する記述と矛盾するが、いずれにしても“織田信長”軍が直ちに“越前国・朝倉義景”の討伐に向った事が史実である事に変わりは無い

58-(6)ー②:当初は“天筒山城”を陥落させ“戦い”を有利に進めていた“織田信長”軍

”織田信長“軍はためらう事なく”東“に向い”朝倉義景“の従兄弟で”敦賀郡司“の”朝倉景恒”(あさくらかげつね・生年不詳・没:1570年9月28日)が守る“天筒山城“(てづつやまじょう・福井県敦賀市金ヶ崎町・金ヶ崎城の支城であった)に狙いを定め攻撃した。兵力差もあり“織田信長”軍の力攻めに“朝倉景恒”方の要害“天筒山城”はその日の中に陥落した。

“信長公記”には1370兵もの首を取ったと書かれており“毛利元就”宛の“織田信長”からの書状にも“数百騎討ち取った”と書いてある。これ等の記録から“天筒山城”の“朝倉景恒“方は殆ど殲滅(せんめつ=皆殺し)状態であったと思われる。一方“言継卿記”には“織田信長”方も千余人討ち死したとあり“織田信長”軍も相当に苦戦した事は間違い無い。

58-(6)ー③:主城“金ヶ崎城”も開城させ、更に“疋壇城”も開城させ、敵方“朝倉景恒“のふがいない戦い振りに”織田信長“軍は勢い付いた

1570年(元亀元年*㋃23日に改元)4月26日:

“天筒山城“を落された”朝倉景恒“は”金ヶ崎城”に陣を布いた。最も奥にある”支城・天筒山城”が“織田信長”方の圧倒的兵力で陥落した事で“主城・金ヶ崎城“の戦意は削がれた。

”織田信長“軍が主城”金ヶ崎城“攻撃に向うと城主“朝倉景恒”(あさくらかげつね・足利義秋が越前国に避難していた1566年9月~1567年11月迄、敦賀で歓待した人物。又、足利義秋が岐阜に向う1568年7月に2000の兵で近江国まで警固に当たっている。生年不詳・没:1570年9月28日)は、あっけなく降参し、南方の“疋壇城”(ひきだじょう・朝倉氏の越前国と近江国との国境守備の役割を担った城・築城は1469年~1487年頃に、朝倉氏家臣の/疋壇対馬守久保/に拠ると伝わる。城主は疋壇氏)も戦わずして開城したのである。(金ヶ崎の戦い)

こうした戦況に“織田信長”の真の討伐対象であった“朝倉義景”は“武藤友益”から”後詰“支援を頼まれていた事から“浅水”(現在の福井市)迄出兵していたが、居城の“一乗谷”で騒動が起ったとして引き返したと伝わる。

上記した様に、次々と、しかも、あっさりと開城をし続けた“朝倉景恒”は、一族から“不甲斐無し”と非難を浴び“永平寺“に遁世し、同年1570年(元亀元年)9月28日に失意の中に死去している。

59:“織田信長”が“第一次越前攻め”の為に出陣中で留守の間に、念願だった“改元”を強行した“将軍・足利義昭”

12年前に行われた“弘治“から”永禄“への改元(1558年2月28日)は、当時”近江国・朽木”に退避していた同母兄“第13代将軍・足利義輝“の存在を無視する形で行われた“無念”の改元であった。

これに激怒した同母兄”第13代将軍・足利義輝“は”改元“に抗議して、半年の間“弘治”の元号を使い続けた事(永禄改元事件)を知る同母弟“足利義昭“としては、兄の無念を晴らす為にも“将軍権威”を復活させる為にも、忌まわしい元号“永禄”を“元亀”へ改元する事が“将軍就任”直後から、彼として為すべき第一のテーマとして抱えて来た事であった。

従って”足利義昭”は将軍に就任した1568年10月に元号を”元亀”とすべく”朝廷”に奏請した。(この事は、翌年1569年/永禄12年4月8日条/の言継卿記に記録されている)しかし、改元は“将軍権威の復活に繋がる”事だと危惧した”織田信長”は”正親町天皇の在位が続いているのに改元は必要無い”とクレームを付け、これを阻止した。

しかし”足利将軍家権威復活”に燃える”将軍・足利義昭”にとって“改元”は上記した様な理由から、念願事項であり、諦めなかったのである。

そして”朝廷”を説得する為、下行費用(朝廷から下位者の公務、儀式、仏事、神事に関する費用支払い、給与、食糧支給などに用いる)の名目で5000疋(100疋=1貫、従って50貫=50,000文、25円x50,000=約125万円)を献金した事が“朝廷”の官務家“中原康雄”に拠る大永8年~天正6年(1528年~1578年)の記録“康雄記”にある。

59-(1):“朝廷”は“足利義昭”の“畿内平定”を認め、それを理由に“永禄”から“元亀”への改元を了承する

1570年(永禄13年・元亀元年)4月23日:

”織田信長“が”天下の主催者“として”将軍権限の全てを委任された“と理解し”正親町天皇“の勅命と”将軍・足利義昭“の上意を帯びて”越前国討伐“に出陣し”佐柿国吉城”に入り“朝倉討伐“が真の目的だと自軍の兵達に明らかにしたその当日”京都“では“将軍・足利義昭”が“朝廷工作”に成功し、畿内征圧の功績を認めさせ“永禄”から“元亀“への改元を了承させるという重大事を為していたのである。

因みに、今回“将軍・足利義昭”の念願を叶えさせ“永禄”から“元亀“への改元を了承した“天皇”も、前回“第13代将軍・足利義輝”の存在を無視して“永禄改元“を行ったのも同じ”第106代正親町天皇“(在位1557年~譲位1586年・生:1517年・崩御:1593年)という因縁の改元であった。

メモ:短命に終わった元号”元亀”・・1570年4月23日~1573年7月27日

“織田信長”が”武藤友益討伐”(実態は朝倉義景討伐)に出陣していた留守の間に“将軍・足利義昭”は”元亀”への改元を強行した。その時”織田信長”は“浅井長政”の裏切りに拠って九死に一生を得た”金ケ﨑退口”という事態の真っ最中だったのである。

“織田信長”はこの改元に大不満であり、従って、2年後の1572年(元亀3年)9月に”将軍・足利義昭”に提出した”17カ条の意見書”で”元亀の年号、不吉に候間、改元然るべしの由、天下の沙汰につきて、申し上げ候” と、直ちに改元する様申し出たのである。

両者の抗争はその後もヒートアップを続け、次項(6-22項)で記述する“槙島城の戦い”(1573年7月)へと発展し、遂には”将軍・足利義昭”は追放され、事実上”室町幕府”が滅亡した。この時点で”織田信長”は不愉快だった”元亀”の元号を”天正”に変えたのである。(1573年7月28日・正親町天皇)

60:“第一次越前侵攻“の失敗・・戦況逆転、同盟した“義弟・浅井長政”が“織田信長”を裏切り、離反する

60-(1):当初、順調に進んでいた“第一次越前国侵攻”

60-(1)-①:“若狭国守護・武田氏”の内情と“越前国・朝倉義景”との関係

戦国時代の“若狭国・武田氏”は一族内の対立が絶えなかった。その結果、隣国の“越前国・朝倉”氏の介入を招き“朝倉義景”時代には従属したのである。家中は①朝倉義景方に付く派②朝倉義景に対抗する武田氏被官人(粟屋勝久等)に分裂していた事は既述の通りである。

今回“将軍・足利義昭”から”織田信長“に軍事指揮権が委任され“武藤友益討伐”の上意が下されたが、既述の様に表面上は”将軍足利義昭“の意に従わない”武藤友益討伐“という形をとったが”織田信長“の真の討伐対象は“朝倉義景”であった。

60-(1)-②:“武藤友益”の抵抗は弱く、忽ちの中に降伏した事で”織田信長“軍は”越前国・朝倉義景“討伐に向う

“織田軍”が“越前国・朝倉義景討伐”に向った事に就いては“織田信長”から“毛利元就”に近況を知らせた覚書の“九カ条”の“第二条”に“武藤友益はさして抵抗せず降伏した。そして武藤友益を背後で操っているのが朝倉義景だと言う事がわかったので直ちに馬首を越前に向けた“と書かれている。

この文書が語る様に“織田信長”が3万もの大軍、しかも“勅命・上意”を受けた“官軍の大軍”を率いて出陣した本当の狙いは、反抗的な“武藤友益”という小者を出汁に使って”天下の主催者・織田信長”に抵抗する”越前国・朝倉義景討伐“が本来の目的であった事を、言わば曝露しているのである。

60-(1)-③:順調に進んでいた戦況

既述の様に“織田信長”軍は“天筒山城“(てづつやまじょう・築城年は不明だが南北朝期に足利氏によって築城されたと伝わる・金ヶ崎城の枝城で標高171mの天筒山に築かれた山城で、金ケ﨑城とは稜線伝いに繋がる。)を先ず陥落させ(4月25日)、これが切っ掛けと成って、敵方はドミノ倒しに“主城・金ヶ崎城”そして“疋壇城”(ひきだじょう・福井県敦賀市疋田にあった山城・別名塩山城・築城年1469年~1487年)を簡単に開城した。

この段階までは“織田信長”方にとって、極めて順調な“第一次越前国侵攻”を進めていたのである。

60-(2):突如“浅井長政“の裏切りの報が齎される

しかし“織田信長”の義弟で同盟者であった筈の“浅井長政”の不可解な離反が起る。”浅井長政“が何故“義兄・織田信長“を裏切ったかについては“織田信長”自身が“虚説たるべき”として取り合わなかったとされる程、不可解な事であった。背景、理由については既述の通り、今日でも諸説が研究されている状態で、定説として固まってはいない。

“織田信長”方の優勢は一挙に逆転“背腹”を敵に囲まれるという絶体絶命の状態に陥ったのである。

”織田信長・不器用すぎた天下人“の著者”金子拓”氏は下記の様にその状況を記述している。理解の助に“別掲資料・織田信長の越前遠征と金ヶ崎の退き口図”を参照願いたい。

”織田信長“軍は1570年4月25日(2日前の㋃23日に元亀元年に改元されている)に”金ケ﨑城“を開城させ”木の芽峠“を越え、敦賀郡から国府が所在する”丹生郡“に侵攻しようとしていた。(信長公記)そこに“浅井長政裏切り”の報が飛び込んで来たのである。

この報を受けた“織田信長”の反応を“信長公記”は以下の様に伝えている。

浅井は歴然の御縁者たるの上、あまつさえ江北一円に仰せ付けらるるのあいだ、不足これあるべからずの条、虚説たるべしと思し召し

“織田信長”は”浅井長政”の裏切りは、嘘であろう、として最初は信じなかったのである。
しかし、周囲の者達が事実であるとの報告を重ねた結果、漸く信じ“是非に及ばず”(兎に角今は考えている余裕など無い、即時に戻ろう)との言葉を発して以下の“金ケ﨑の退き口”と伝わる退却戦が始まるのである。

60-(3):“浅井長政“の裏切りの理由に関する諸説の紹介

上記した様に“織田信長“は”浅井長政“は歴然とした縁者である上に”北近江“の支配を委ねているので彼に不足がある筈は無い、従って“裏切り”の報告は嘘だと思い、耳を疑い、信じようとしなかったのである。しかし“浅井長政”の裏切りは事実であった。

何故“浅井長政”が“織田信長”を裏切ったのかの理由に就いて“金子拓”氏は各氏の説に言及し自らの結論を述べている。

・元々朝倉氏と浅井氏は強い同盟関係にあった訳では無い。従って“浅井長政”が“朝倉”氏を助ける為に“織田信長”を裏切ったとする従来からの説は当たらない
・“織田信長”と“浅井長政”の関係は同盟を結んだ当初(1561年5月頃?)は主従関係の様に”浅井長政”を格下とは考えていなかった。しかし、1567年(永禄10年)8月に稲葉山城の斎藤龍興を追い、その後”天下布武”をビジョンに掲げ“上洛”を目指して戦い、遂にそれを果した“織田信長”に”政治理念”の変化、発展が起きた。“天下の主催者”として己を認識し、位置付け、行動し始めたという変化である。 それに“浅井長政”がついて行けなかったというのが裏切りの理由であろう。この主張は“宮島敬一”氏のものであるが”金子拓“氏も同意している。

・次第に”織田信長”は“浅井長政”に対して”同盟”では無く”主従関係“の様に考え始め、行動した。それを裏付けるものが、上記した“織田信長”が”浅井長政”には”北近江”を与えたのだから不足はあるまい”とした“あまつさえ江北一円に仰せ付けらるるのあいだ、不足これあるべからずの条”の言葉に集約されているとしている。“甚だ浅井長政を軽んじた、傲慢不遜な表現”だと“谷口克広”氏も評している。又”織田信長”が”毛利元就”に出した書状にも”浅井長政は左程所領も多く無いので成敗するのは簡単だ”と書いている事からも”織田信長”の”浅井長政“に対する態度が、同じ同盟関係にあり、且つ、姻戚関係(1563年に1561年に結んだ同盟の証として家康嫡男・武千代/信康/と信長娘五徳との婚約が結ばれている)にもあった”徳川家康”に対する丁寧な姿勢とは違っていた事が分かる。

・更に”織田信長”の”浅井長政”軽視の態度は“織田信長”が諸国の大名、並びに”上洛”を命じた”触状”の出し方に明白に現われているとしている。命令を受けた諸大名の名前が”二条宴乗日記”に書かれているが、筆頭に”伊勢国・北畠”氏が書かれ、その次に”徳川家康”と続き“浅井長政”の名は”浅井氏“の旧主に当たる”京極高吉”の名前の下に割書(本文の間に2行に分けて細字などで注などを入れる事)で”同浅井備前(長政)”と書かれていたのである。これが意味するところは、上洛命令を受けたのは“浅井長政”の旧主”京極高吉”であり“浅井長政”はその配下に過ぎない、という扱いだったのである。”金子拓”氏の説は“天下静謐”(天皇の命を受けて将軍が逆賊を退治し、全国に亘る平穏な社会の状態)を目指す”織田信長”の政権構想について行けず、絶え間ない軍事行動に疲弊し“織田信長”の支配の論理に違和感を持っていた”浅井長政”が離反に及んだという事になる。
又“太田浩司”氏は”このまま織田信長との同盟を続ければ”浅井長政”は家臣団の一部に包摂され、一大名としての独立性を失うと判断”した事が離反の理由だと述べ”金子拓”氏も同様の結論だとしている。


61:”織田信長“が窮地を脱した“金ヶ崎の退き口“

61-(1):即座に退却を決断した“織田信長”

”北近江“の戦国大名で“義弟”且つ“同盟”を結ぶ“浅井長政“が”織田信長“に離反した事で”織田信長“軍は背腹に敵を抱える絶体絶命の状態に陥った。如何に“勅命”と“上意”を帯びた“官軍”であっても、戦局俄かに不利と判断した“織田信長”は、直ちに退却を決断した。退却する“西近江路”は今や敵となった“義弟・浅井長政”に属する国人の拠点だらけという状況であった。こうした状況に追い込まれた“織田信長”は“金ヶ崎の退き口“と後世伝えられる”電光石火“の退却で”九死に一生“を得るのである。

この退却は“朽木越え”とも呼ばれる。

61-(2):少数の“馬廻”と“小姓”だけを連れて馬を走らせた“織田信長”

1570年(元亀元年)4月28日:

1570年(元亀元年)4月28日の夜、つまり“浅井長政”の裏切りが判明した翌日の夜に“織田信長”は少数の“馬廻役”と“小姓役”だけを連れて南へと馬を走らせた。(信長公記)“馬廻役”とは武家の職制の一つで、武芸に秀でた者が、大将に付き添って護衛、伝令、並びに決戦兵力として仕える騎馬の武士である。

又“小姓役“は主に若い武士が就いた職制で、戦時・行軍の時は主君の盾として命を捨てて守る役目であり、武芸も身に付けている事が求められた。更に、平時には秘書役として、幅広い知識と一流の作法を身に付けている事も求められたのである。

”織田信長“の”小姓役“としては”森蘭丸“(森成利・もりなりとし・蘭丸は俗称・生:1565年・没:1582年6月2日)と“前田利家”(豊臣政権の五大老・生:1539年・没:1599年)が有名である。

61-(3):“殿軍“(しんがり)は”木下藤吉郎“の他”明智光秀“そして”池田勝正“が務め、見事、その任を果たした

゛殿“(しんがり)は本隊が撤退行動を執る際に、部隊の最後尾を担当する役割を負う。“敵”の“追撃”を阻止し“本隊”が撤退する事を“掩護“(えんご=敵の攻撃から味方を守る事)するのが役目である。本隊からの支援や援軍を受ける事も出来ず、限られた戦力で敵の追撃を食い止めなければならないという、最も危険な任務であった為、古来より“武芸”だけでなく“人格”的にも優れた武将が務める大役とされて来た。

”信長公記“には”金か﨑の城には木下藤吉郎残しをかされ“と、あたかも彼だけが”殿“の大役を務めた様に書かれている。しかし、1570年5月4日付の当時、幕府奉公衆であった“一色藤永“から丹波国人”波多野秀治“宛に出された書状には“金崎城に木藤(木下藤吉郎)明十(明智十兵衛光秀)池筑(池田筑後勝正)その外残し置かれ“と書かれている。

1570年4月20日に“京都“を出陣した時の”池田勝正“(いけだかつまさ・摂津池田氏当主・筑後守・池田城主・生年不詳・没:1578年?)の軍勢は3,000兵程であったとされるから、この軍が“殿軍”の主力であったと思われる。歴史は主役となった側が、都合の良い様に書き残すのが常であるから、後世に“秀吉”だけの手柄の様に伝えられた“金ヶ崎の退口”だが、史実は、上記“3武将”が大役を担ったという事である。

61-(4):“金ヶ崎の退き口“で”九死に一生”を得た“織田信長”の強運

1570年(元亀元年)4月30日:

”朽木越え“の最大の鍵は”浅井氏“と主従関係を結んでいた”朽木元綱“(生:1549年・没:1632年)が“織田信長”一行を無事に通してくれるかどうかに懸かっていた。

結果”朽木元綱“は”織田信長“一行を歓待し、京都への道を開いてくれたのである。元々“朽木氏”は独立色が強く“浅井氏”に属したと言っても、その従属関係は強く無かったと伝わる。又1553年(天文22年)に“三好長慶“に京都を追われた”第13代将軍・足利義輝“を父”朽木晴綱“(幕府奉公衆・生:1518年・没:1550年)が匿っていた時期があったが、父の死後”朽木元綱“は息子としてこれを引き継いでいる。

この事が示す様に、幕府との関係を重要視した“朽木氏”に対して、上洛直後の“足利義昭”は“朽木谷”の本領を直接“朽木元綱“に安堵している。この事も”朽木元綱“が”将軍代行“を任じ、官軍を率いた“織田信長”に協力した理由とされる。(朽木文書)又、この軍に“松永久秀”並びに“池田勝正”が従軍していた事も“朽木元綱“が“織田信長一行”に味方した事に繋がったとされる。(朽木文書)

“織田信長“が、従う者僅か10人ばかりと共に、窮地を脱して、這う這うの体で京都に戻ったのは1570年(元亀元年)4月30日の深夜であった。
“別掲図”並びに、関係する史跡訪問時の写真を載せたので参照願いたい。

写真下)朽木谷訪問・・2020年10月20日(火曜日)
京都駅で同好の友人と待ち合わせ、JR山科駅でレンタカーを借りて“織田信長”が“金ケ﨑の退き口“で”朽木元綱“に救われたと伝わる”朽木“を訪ねた。(現在高島市朽木)“織田信長”が“朽木元綱“に敵意が無いかを従者に確めさせる迄、身を潜めたと伝わる”信長の隠岩“と呼ばれる大岩があるとの話を聞いた。現在、地元の”町おこしグループ“が、遊歩道等を整備中だとの話もあり、史跡を探したが、地元でも知る人が少ない場所との事で、残念ながら探し当てる事が出来なかった。当時の“朽木”の史跡は殆ど残っておらず、今日では静かな山村が広がるばかりであった。僅かに写真の“朽木陣屋跡”に当時を偲ぶ事が出来た。

62:“将軍・足利義昭”との亀裂を深める“織田信長”

“室町幕府再興”を果たしたとして“将軍・足利義昭”が独自性を発揮しようとする一方で“天下布武“つまり”全国統一ビジョン“の下に”分国化拡大“に動く“織田信長”は“将軍の代行者・天下の主催者“を委任されたとの意識であり、両者の”ズレ“は大きく、しかも日々拡大して行った。

”織田信長”が委任されたと考えていた”将軍代行者”という立場を”将軍・足利義昭”は受け入れず、結果として両者は衝突をする。結果”将軍・足利義昭”は”織田信長”に拠って“京”から追放され”室町幕府”は実質的に崩壊に至る。

その後、実質的に“天下人”となった“織田信長”は、他の戦国武将の誰もが描き切れなかった“全国統一”というビジョンに向って着実に成果を挙げつつあった。しかし、予期しなかった1582年(天正10年))6月2日に、家臣“明智光秀”の謀叛に拠って自刃に追い込まれ“全国統一”のビジョン達成は完遂に至らなかったのである。

こうした“織田信長”の生きざまを“金子拓”氏は著書“織田信長・不器用すぎた天下人”の中で①浅井長政からの裏切り、に始まり②武田信玄、並びに上杉謙信からの裏切り③毛利輝元からの裏切り④松永久秀、並びに荒木村重からの裏切り、そして最後に⑤明智光秀の裏切りによる“本能寺の変”によって自刃に追い込まれる迄をテーマとして描いている。

“織田信長”が何故多くの”戦国大名”と同盟する努力を重ね、しかも”朝廷、並びに幕府“という“古来の権威”を操るという手堅い策を労し乍らも、最後には裏切られ続けたのか、そして遂には”明智光秀”に拠る裏切りに拠って自刃に追い込まれるという人生だったのかに就いて次項(6-22項)で記述して行く。“金子拓”氏は“織田信長の弱点を敢えて挙げれば、人を信じ過ぎた事“と結論付けている。

結果として未完に終わった“全国統一”事業“は”不器用すぎた天下人・織田信長”の行動力、等、多くを学び取った“人間関係に於いて甚だ器用”で“人たらし”との異名を持つ“羽柴秀吉”に引き継がれ、見事に完成を見る。

=参考=“織田信長”入京前夜の戦国大名配置図





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