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2021年12月23日木曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代と院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
6-20項:“織田信長”登場への先導役と成った“三好長慶”


1:空間的には主として“京・畿内周辺地域”を意味した“天下”

“天下”の文字が“日本全土”の意味で使われた初めてのものは“江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠“に関する記事に“天下諸大名御供”という表現であった。この記事は“徳川家康”が江戸幕府を開き“豊臣氏”を“大坂夏の陣”で完全に葬り去った1615年(慶長20年)のものである。それ以前に使われた“天下“の意味は日本全土を表す例は極めて少なく、京都を中心とし、畿内を意味するものであった。(高木健太郎・神田千里・池上裕子氏)

2:“織田信長”登場に先鞭を付け“京・畿内”地域での“下剋上”を為し“覇者”と成ったのは“三好長慶”であった。

”天下“が日本全土を意味するのでは無く”京都・畿内周辺地域“を意味していた事は、当時の日本にキリスト教布教の為に31年間在住し”日本史“を執筆した”ルイス・フロイス”の文面にも滲み出ている。

”ルイス・フロイス”は”天下“を日本全体とは区別して”都に隣接する諸国から成る君主国“と表現し、それ以外の諸国は”多数の国“と表現して”天下”とは別の存在と認識していた事が分かる。

本能寺の変の後“秀吉”が“山崎の戦い“直後に出した書状に”蔵助(斎藤利三)ハ生捕ニ仕、なわをかけ来候条、天下において車ニ乗せわたして首を切りかけ申候“と書いている。この文面からも“天下”とは“京都”を意味する事が確認出来る、と“藤井譲治”氏は著書“戦国乱世から太平の世へ“の中で述べている。

“室町幕府”は次第に求心力を失い、遠心力が働き、分裂状態に成った。“日本再統一”に向って動いたのは“織田信長”である。しかし彼の偉業が可能だったのは“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力“が“血統信仰”の下で岩盤の様に根を張る日本の中心、しかも最も守旧的な“京・畿内地域”に於いて“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力が重視する“家格秩序”を崩す形で“覇権”を握った“細川京兆家”の家宰(筆頭重臣)の家格に過ぎなかった“三好長慶”の存在抜きには語れない。

“足利将軍家”は“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”内でNo.2の立場の“細川京兆家”に政治の実権を奪われた。“細川晴元”が家宰の“三好元長”と共闘し“堺府”に拠る覇権掌握を目指した。しかし、前項で記した様に“堺府”内で分裂し“細川晴元”は変節し、共闘した“三好元長”を滅ぼす展開と成った。

この6-20項の主題はその”三好元長”の嫡子”三好長慶”が四国の3人の弟達と協力して、父”三好元長“を滅ぼした仇敵を順次討伐し、遂には主君であった“細川晴元”との覇権争いに到った史実を記述して行く。これ等の戦いは緒戦から、第9戦に及び(1542年3月∼1562年4月)この20年間は、真に”三好長慶天下取りの戦い”の期間であった。

優れた弟達の支援を得て”三好長慶”は阿波・讃岐・淡路・播磨・摂津・丹波・大和国までその勢力を広げ“細川晴元”を支援した”第12代将軍・足利義晴”その嫡子で”第13代将軍・足利義藤(義輝)”をも敵に回して戦う事に成る。結果的に“京・畿内地域”を征圧し”天下人”に成る”三好長慶政権”の最強の家臣が”松永久秀”であり、彼の貢献振りは“将軍・足利義輝”が主家”三好長慶“と同等の処遇を与える程のものであった。

“三好長慶”の絶頂期は弟達を次々と失なう事で衰退に向かう。最初に三弟(末弟)”十河一存”を病で失い(1561年、3月18日)、翌年には次弟”三好実休”が戦死する。(1562年3月5日)そして翌年、後継者として期待した嫡子”三好義興”が病死するのである。(1563年8月25日)

それ以前から病に侵されていた”三好長慶”の病状は、これ等の心労が重なり、決定的に悪化する。鬱状態に陥ったとされる”三好長慶“は、只一人生き残った次弟”安宅冬康”を自害に追い込むという行動に出る。(1564年5月9日)そして、この事件の僅か2カ月後の1564年(永禄7年)7月4日に自身も病没するのである。

此処までが、この項で記述する内容である。

“三好長慶”没後の1565年(永禄8年)5月19日、歴史的大事件が起こる。“松永久秀”の子息“松永久通”が“三好長慶”が後継ぎに決めた“三好義継”と共に10,000の軍勢を率いて将軍御所を取り巻き、多くの奉公衆を討ち取り、そして“第13代将軍・足利義輝”を自刃に追い込んだのである。(永禄の変)

その後の展開に就いては、次項(6-21項)で詳述して行くが、第一の家臣として隆盛を誇った”松永久秀”も“織田信長”に拠って滅ぼされ(1577年10月)”三好家”は衰退して行く。こうした“三好長慶”並びに“三好一族”に就いて“三好一族と織田信長”の著者“天野忠幸”氏は以下の様に述べている。

織田信長以前の最も大きな存在として従来、将軍足利義昭、武田信玄・勝頼父子、一向一揆を率いる本願寺顕如等が考えられて来た。しかし、最も大きな存在として考えるべきは、織田信長以前に20年余りに亘って京・畿内を支配し、足利将軍家と戦って来た”三好長慶”そしてその一族では無いだろうか。織田信長が初めて上洛した際に見たのは近畿と四国に勢力を伸ばし、将軍足利義輝を近江朽木に追放しただけでなく、足利将軍家を擁立せず、自らの力だけで首都京都を支配した経験を持つ”三好長慶”であった。そして織田信長に2度目の上洛を決意させる契機になったのは”三好長慶”の後継者”三好義継”が第13代将軍”足利義輝”を討った事件である。

以下に“三好長慶”の“天下取りの戦い”を詳述して行く。

3:“一向一揆”に攻撃された“細川晴元”が“淡路国”に避難する

1532年(天文元年)8月4日:

前項で記述した様に、暴徒化した“一向一揆”は1532年6月2日に“三好元長”を“堺南庄“で自害に追い込み、ここで”細川晴元“の目的は遂げられた。しかし”本願寺第10世宗主・証如“並びに”蓮淳“でさえも制御する事が不可能な程に荒れ狂った”一向一揆“は1532年8月4日“堺北庄”に“細川晴元”を襲った。しかし、前項で記した様に“木沢長政”軍が”堺“の東の”浅香“でこれを撃退したのである。(祇園執行日記)

1533年(天文2年)2月10日:

“山科本願寺”を焼き討ちされ(1532年8月24日)た恨みも加わった“一向一揆”は決して諦める事無く、再度“細川晴元”を“堺”に攻撃した。この為“細川晴元”は“淡路国”に避難を余儀なくされた。

4:“細川晴元”方は“法華宗衆徒”を巻き込み“一向一揆”を大坂へ追い返し、和談に持ち込む・・“三好長慶”の登場

4-(1):“木沢長政“が再び”一向一揆“を敗る

1533年(天文2年)3月29日:

“一向一揆”は“細川晴元“方の武将”伊丹親興“(いたみちかおき・生年不詳・没:1574年)を“伊丹城”に包囲したが“木沢長政”が京の“法華宗徒”の軍事力を応援に頼み“一向一揆”を散々に敗った。

1533年(天文2年)4月26日:

この状況を見て主君“細川晴元”は“淡路国”から戻り“木沢長政”が支援を要請した“法華宗徒“軍と連合して”本願寺第10世宗主・証如“が占拠している”堺“を攻撃した。結果“一向一揆”は新しい本拠地“大坂・石山本願寺”に追い返されたのである。

1533年(天文2年)5月2日:

“細川晴元・木沢長政・法華宗徒“連合軍の”石山本願寺“攻めが始まった。此の地は現在の”大阪城“の南方で北は淀川、西は白楽淵で海に続き、東は大和川、及び深野池で、平地続きは南側だけという要害である上に、信仰心に燃える“一向宗徒”が籠城した為“細川”方の大軍をもってしても容易に陥れる事が出来なかった。

理解の助に“別添図・大坂本願寺/石山本願寺/寺内町全体図“を参照願いたい。

4-(2):“別添図“大坂本願寺(石山本願寺)・寺内町全体図

文中紹介した様に、当時の“大坂本願寺(石山本願寺)”を示す地図である。現在の”大阪城“の南方とされ、西側は海に続き、平地つづきは南側だけという要害であったと記録されている。当時の“大坂本願寺(石山本願寺)”の断面図が書かれており“大坂本願寺“時代の地層と“豊臣時代”の本丸の地盤“徳川時代”の本丸の地盤との比較“豊臣時代”の天守閣と“徳川時代“の天守閣の比較が出来、興味深い。


出典:北御堂ミュージアム編“本願寺津村別院(北御堂)のあゆみ

4-(2)-①:“北御堂(本願寺津村別院)ミュージアム”訪問記・・2020年11月21日

住所:大阪市中央区本町4-1-3

交通機関等:大阪駅から地下鉄御堂筋線に乗り“本町駅”で下車、駅から直接に“北御堂(本願寺津村別院)“に入る事が出来る

歴史等:
我々が訪ねたのは”北御堂”であるが“南御堂”と称される”真宗大谷派難波別院”が    あり、同じ御堂筋線の”本町駅”から行く事が出来る。両御堂を繋ぐ道として”御堂筋”と名付けられたとある。その歴史は“北御堂ミュージアム”から頂いた冊子に詳しい。“織田信長”との長い戦いにより”本願寺”は生み育てた大坂を離れなければならなくなり”大坂の門徒”は此の地での”御念仏”の灯りを守る為、天満に近い”桜の岸”に新しい坊舎を建立し、その後”円江、津村郷”と呼ばれていた現在の地に移り、その“津村御坊”が”北御堂”と称されるように成ったとの説明である。

訪問記:
御堂筋に立って”北御堂”の建物を見たが、全容は見えない程の巨大な建物である。旧御堂は大阪大空襲で1945年に全焼したとある。その後建てられた仮本堂も1951年に焼失し、今日の”北御堂”は1964年4月に竣工したとある。設計者は東大の安田講堂の設計者としても知られる”岸田日出刀“博士と知り、学生時代にクラブ活動で一緒だった博士の子息の顔が懐かしく浮かんだ。

1931年に建てられた”大阪城”の高さは54.8mだった事から”昔、その場所に大坂本願寺があった事を忘れぬ様に”との思いから”北御堂”の高さを10cmだけ高くして54.9mにしたとの事である。大阪人の気概を感じさせる話である。

“北御堂ミュージアム”には写真に示す様に1173年の親鸞聖人の誕生から1415年の蓮如上人の誕生、1532年の証如上人期に山科本願寺を焼かれた歴史、1560年代~1570年代に至る織田信長との戦いの歴史等々が広いミュージアムに展示されている。質問に就いてもミュージアムのスタッフが丁寧に応じてくれた。尚、入館料は無料である。


(写真):”北御堂”の建物と“北御堂ミュージアム”内の展示物紹介
写真上左:大坂の地名が歴史上初めて現われるのは1498年の蓮如上人の御文章とある

4-(3):戦闘は和談に持ち込まれ、講和の斡旋者として“三好長慶”が登場する

1533年(天文2年)6月20日・・和談成る

“細川晴元・木沢長政・法華宗徒“連合軍と”石山本願寺“に籠城する“一向宗徒”との戦いは決着が付かず和談に持ち込まれた事が“祇園執行日記、実降公記、細川両家記、続応仁後記、他多くの書物に記録されている。

4-(3)-①:“細川晴元・木沢長政・法華宗徒“連合軍の攻撃失敗

“本願寺”側の記録には“大坂本願寺”(石山本願寺)の城壁の一部が“細川晴元”連合軍に拠って破壊された事が記されている。しかし1533年(天文2年)6月20日“三好仙熊”(三好長慶の幼名)に扱いを任せて敵方(細川晴元軍)悉く敗軍す“とある。“一向一揆”側は和談によって”細川晴元連合軍“側が退陣した事を曲筆(きょくひつ=事実を曲げて書く事)している事が分かる。

この記録で注目すべき事は“三好仙熊に扱いを任せ・・”とある様に当時僅か11歳の“三好長慶“の名が挙げられている事である。

4-(3)-②:“三好元長”自害から丁度1年後に主君“細川晴元“と”本願寺“との和  談仲介者の役を任される程の勢力に回復していた”三好宗家“

“三好仙熊“(幼名千熊丸とも、通称は孫次郎・利長~範長~長慶と改名する・生:1522年・没:1564年)は和談成立の時点では満11歳であったから彼の名前で代理の者が実際の周旋作業を行ったのであろう。いずれにしても主君“細川晴元“と”本願寺“との和談は表面上は成ったのである。

若干11歳の”三好仙熊(長慶)“を後継とした”三好宗家“の勢力が”父“三好元長“自害(1532年6月20日)から僅か1年で和談仲介者に成る程に回復していた事を裏付ける史実である。”三好仙熊“はこの頃元服し”三好孫次郎“と称し”三好利長“と名乗った。(成就院文書)

”本願寺“側と“細川晴元・木沢長政・法華宗徒“から成る”連合軍“側との和談は表面上は成った。歴史学研究会編の“日本史年表”には“細川晴元、本願寺第10代宗主・証如と和睦する”と書いている。しかし“王法為本”(現在の王=統治者に従い政治と秩序を助ける事)が仏法の道だと考える“本願寺”側と“権力からの自治、独立”を求める“一向一揆“側、つまり”信者“側は和談に応じていなかったとされ”本願寺”内部の分断があったと言うのが実態であった。

5:河内料所17カ所の”代官職返還“を主君“細川晴元”に要求した”三好長慶”

“三好長慶”の父“三好元長”が1532年6月20日に“一向一揆”の攻撃に拠って“法華宗・顕本寺”で自害に追い込まれた。この戦いは主君“細川晴元”が“木沢長政”並びに“三好政長”と結び“一向一揆”を動かし“三好元長”を死に至らしめたのである。この時“三好政長“は元来”三好長慶“の父”三好元長“が任命されていた”河内料所17カ所代官職“を”三好元長“の戦死に乗じて奪い取っていた。

6:“第12代将軍・足利義晴・細川晴元“体制が成立

第12代将軍“足利義晴”と堺公方“足利義維”を奉じて対立関係にあった“細川晴元”が何時“和解”に至ったのかははっきりしない。そして諸説がある。

6-(1):“第12代将軍・足利義晴”と“細川晴元”の和解が成った事を伝える記事

6-(1)-①:”六角定頼・六角義賢”の仲介に拠って和睦が成ったと伝える記事

1534年(天文3年)9月以前に和解が成ったとする説:

日本史年表(歴史学研究会編)の1534年(天文3年)9月の記述に“第12代将軍・足利義晴、近江国より入京“と書かれている。1534年中には”六角定頼・六角義賢”の仲介で“足利義晴”と“細川晴元(六郎)”との和解が成り“足利義晴”の9月の帰京が可能と成ったとする説である。

6-(1)-②:第12代将軍“足利義晴”の偏諱を受け“細川六郎”から“細川晴元”を名乗った事を以て和睦が成り“第12代将軍足利義晴・細川晴元“体制が成立したとする説

1535年(天文4年)説:

第12代将軍“足利義晴”の偏諱を受け“細川六郎”が“細川晴元”を名乗った。この事を以て、両者の和解が正式に成り、ここに“足利義晴・細川晴元“体制が成立したとする説である。

”細川六郎(晴元)“が前項で記述した”変節・方針転換“をし”堺幕府“を設立して、共闘して来た“三好元長”を切り捨て、自害に追い込み(1532年6月)盟主に擁立した“堺公方・足利義維”をも“阿波国”に追いやり、希望した“第12代将軍・足利義晴”政権のNO2としての地位に就き、実質的に“覇権”を握ったとされる。

“第12代将軍・足利義晴”は以後1541年に“細川晴元”が“木沢長政”と対立した際には“細川晴元”と共に“近江国・坂本“に逃れて居り、又、翌1542年の“太平寺の戦い”で“木沢長政”が討ち取られ、その首が“足利義晴”の許に送られている。更に1543年には、今度は“細川氏綱”が“細川晴元”打倒の兵を挙げる展開に成るが、この時も“将軍・足利義晴”はあくまでも“細川晴元”支持の姿勢を変えておらず“第12代将軍・足利義晴”と“細川晴元”が強い結びつきであった事は、史実として裏付けられている。

7:徐々に“三好長慶”と主君“細川晴元”との対立が深まる

1539年(天文8年)1月14日~1月25日:

“三好孫次郎上洛之人数二千五百許”との記録が残る。(1月14日)17歳に成った“三好長慶”(通称孫次郎・当時は三好範長を名乗っていた)が、2,500程の兵を率いて上洛した事を伝える記事である。

翌日の1月15日の記録に主君“細川晴元”の供をした“三好長慶”に”細川晴元“から鷹が与えられた事が書かれている。この鷹は前年に“尾張国・織田信秀”(織田信長の父親・生:1511年・没:1552年)から“細川晴元”に贈られたものであった。

又、10日後の1月25日に当時17歳の“三好長慶”が主君“細川晴元“(当時25歳)を招宴している。”細川殿へ三好孫次郎一献申之其付而観世能在之(中略)観世小次郎能仕候由候“(親俊日記)と”主君・細川晴元“を能楽師を呼び、歓待している。”三好長慶“の目的は父”三好元長”自刃後、不当に大叔父“三好政長”に拠って奪われた”河内料所17カ所代官職“の返還要求をする事であり、酒宴中に”細川晴元“にそれを要求した事が伝わる。

7-(1):要求を聞き入れなかった主君“細川晴元”に対し“三好長慶”は直接“幕府”に訴えるという行動に出た

しかし主君“細川晴元”は“三好長慶”の訴えを聞き入れなかった。“三好政長”に”河内料所17カ所代官職“を与えたのが”細川晴元“自身だったからである。

そこで“三好長慶”は直接幕府に訴えるという行動に出た。以後両者は公然と対立する関係と成る。この事が史実としてあった事を幕府の内談衆(公事を行う為に将軍・足利義晴が任命した8人の側近集団である)“大館尚氏”が以下の様に伝えている。

1539年(天文8年)6月2日:
河州(河内国)十七ケ所御代官職事、以三好孫次郎(長慶)懇望被仰付候て可然存候

この文面は“大館常興日記”(=大館尚氏)に残る“第12代将軍“足利義晴”への答申である。“三好元長“が自害に追い込まれた後に”三好政長“(生:1508年・没:1549年)が暗躍して“主君・細川晴元”から”河内料所17カ所代官職“に任命された事に対し”大館尚氏“は“三好長慶”の訴えを正当と認め、第12代将軍“足利義晴”に答申したのである。

“三好長慶“と大叔父”三好政長“との関係を以下の家系図(別掲図)に示す。祖父“三好長秀”の従兄弟が“三好政長”という関係であり、年齢的には”三好政長“は“三好長慶”より14歳年長者であった。


8:主君“細川晴元”が近習としての“三好政長”を支援する姿勢であった事から“三好長慶”は主君“細川晴元”と次第に敵対する様になる

8-(1):第12代将軍“足利義晴”も関わった“細川晴元”と“三好長慶”との対立

1539年(天文8年)閏6月1日:

“飯盛山城の戦い”(1532年6月15日)で主君“細川晴元”が支援に駆り出した“一向一揆”に拠って結果的に父“三好元長”が自害に追い込まれた(1532年6月20日行年満31歳)“三好長慶”(当時満10歳)にとって、その支援依頼を決定した主君“細川晴元”は父の仇という事に成る。

仇討ちの機会到来と考えた“三好長慶”は阿波国“細川持国”と示し合わせ、主君“細川晴元”打倒の軍を挙げたのである。

これに驚いた“細川晴元”の岳父(継室が六角定頼の娘)でもある“近江国守護・六角定頼”は幕府に対策を要請した。その件で幕府の“内談衆”が評議した事が“大館常興(尚氏)日記”に書かれている。“第12代将軍・足利義晴“は“近江国守護・六角定頼”並びに“木沢長政”に調停を命じる一方で、自らも“細川晴元・三好長慶”主従に自重を求める御内書を送ったのである。しかし“三好長慶”はこれを無視する形で進軍した。

8-(2):引かない“三好長慶”に“第12代将軍・足利義晴”並びに“細川晴元”が周章狼狽(しゅうしょうろうばい=思いがけない事に出会って慌てふためく)する

1539年(天文8年)閏6月13日:

あくまでも正当な要求と信じ、一歩も譲る気配の無い18歳の“三好長慶”に対し、第12代将軍“足利義晴”は“池田信正、木沢長政、芥川豊後守、伊丹親興”等、摂津国・河内国の諸将に対し“三好長慶”に意見をし、抑える様命じている。

しかし“三好長慶“はこれらの説得に耳を貸さず進軍を止める気配もなかった。この状況に主君”細川晴元“は”三好政長“に出陣を命じ、同時に自らも”山崎城“に向けて出陣した。両軍は“摂津国・山城国”の国境で対峙し、あわや合戦という様相に成った。

9:“六角定頼”と室町幕府政所代“蜷川親俊”の仲介で両軍が撤退に合意。結果“三好長慶”は父“三好元長”が持っていた“摂津国・半国守護代”に任じられ、目的を達成した

1539年(天文8年)7月25日:

“三好長慶”に攻められた主君“細川晴元”は7月17日に高雄(京都市右京区)に退いた。この状況に“第12代将軍・足利義晴”は越前守護職の“朝倉孝景”(幕府相伴衆・朝倉家10代当主・同名の7代目と区別する為、宗淳孝景と呼ばれる・生:1493年・没:1548年)並びに“若狭国守護”の“武田元光”(若狭武田氏6代当主・生:1494年・没:1551年)更に“能登国守護・畠山義総”(はたけやまよしふさ・能登葉畠山氏全盛期を築いた7代当主・名城七尾城を築城した・生:1491年・没:1545年)等に出兵を命じている。

又“将軍・足利義晴”は“三好長慶”並びに“細川晴元”方として争う”三好政長”双方に和談の使者を送っている。一方で“第12代将軍・足利義晴”(当時28歳)は夫人並びに子息(後の第13代将軍・足利義輝:当時満3歳)の“菊幢丸”を“八瀬(やせ:京都市左京区)”へ避難させる等、自らが狼狽する動きをした為“京中”の驚きは一層増したと伝わる。

1539年(天文8年)7月28日:

“第12代将軍・足利義晴”並びに“六角定頼”が調停に乗り出した事で“三好長慶”は漸く和談を承諾し、山崎から撤退した。

講和条件として“三好長慶“が要求した“河内料所17カ所代官職返還”の正当性が認められ“三好長慶”は”摂津半国守護代“に任じられた。更に、曽祖父“三好之長”以来の“摂津国・越水城“が与えられ、8月14日に入城した。(親俊日記他)

調停に尽力した”六角定頼”には“三好長慶”が属城としていた”芥川城“が明け渡された。又、仲介の労をとった“木沢長政”には“河内北半国守護代職”が与えられ、畿内最重要地とされる“信貴山城“が与えられた事が記録されている。

かくして主君“細川晴元”を震え上がらせ“第12代将軍・足利義晴”をして“三好長慶”を宥める為に“摂津国・河内国”の諸武将を遣して説得に努めさせ、更には近江国、北陸の武将を上洛させてまで事態収拾に当たるという、世間を揺るがせた“三好長慶”に拠る主君“細川晴元”並びに一族の“三好政長”への徹底抗戦劇は終息した。この時“三好長慶”は未だ17歳だった。

“三好長慶”が和談に応じた背景には“六角定頼”の兵が入京するという状況変化があった事に加えて、越前国の“朝倉”若狭国の“武田”兵も上洛して来る事が予想されたからだ、とされる。これ等“将軍・足利義晴“が招集した諸将に敵対する事は得策では無いと、若い”三好長慶“は判断した。僅か17歳の“三好長慶”が主君“細川晴元”並びに一族の“三好政長”を相手に、決して筋論を曲げずに戦い、そして和談に応じるという冷静な状況判断に、彼の器量と軍事的才幹を見た周囲は、彼に対する多大な評価を与えた事が伝えられている。

9-(1):“三好長慶”の婚姻

1540年(天文9年)11月22日:

”三好家譜“のこの日付けの記録に、当時18歳の”三好長慶“が”丹波国“の”波多野秀忠“の娘と結婚したとある。”三好長慶“の正室は”波多野秀忠の娘“と史料からも確認出来る。尚、彼は後にこの正妻と離別し、当時の風潮でもあった、講和条件に含まれた“政略結婚”をする。”継室“として”遊佐長教の娘“を迎えるのである。

10:“三好長慶“は”天下取り“の戦いへと進んで行く

10-(1):“三好長慶・天下取りの戦い”#1“太平寺の戦い”

10-(1)-①:己の野心拡大の為に“父・三好元長”を自害に追い遣った仇“木沢長政”を主君“細川晴元”に叛いて滅ぼす


1541年(天文10年)10月11日~10月30日:

前の主君“河内国・畠山義堯”から“細川晴元”に乗り換え、その“畠山義堯”を“飯盛山城の戦い“で討ち死にさせた“木沢長政”が、今度は“第12代将軍・足利義晴”の直属仕官と成る野心を抱き“将軍警固”を願い出て上洛した。(10月11日)

しかし“木沢長政”の野心的な動きを警戒する幕府側は先ず“細川晴元”が北岩倉へ逃れ(10月29日)翌30日には“将軍・足利義晴“も慈照寺(銀閣寺)に退き、更に”近江国・坂本“に逃れるという事態に成った。

1541年(天文10年)12月8日:“太平寺の戦い”で10年間畿内で権勢を振るった“木沢長政”が討たれる

”細川晴元“は”木沢長政“討伐の為、自身も兵を挙げ”北岩倉“を出軍し、継室の父親”六角定頼“が拠る”芥川山城“に入城し、此処に“三好衆”を集結させた。敵方のこうした動きに対し“木沢長政”軍は居城“笠置城”(京都府相楽郡笠置町)を出陣、木津川を下って“山城井出”辺りに布陣した。両軍は木津川、淀川を挟んで対峙し越年した。

1542年(天文11年)3月8日:

南河内守護代”遊佐長教“(ゆさながのり・戦いの後、細川晴元と講和し、その際、三好長慶に娘を継室とし、舅という関係と成る・生:1491年・没:1551年)が“木沢政長”方の”畠山政国“(生没年不詳・畠山政長の孫)の被官”斎藤山城守“父子を暗殺し”細川晴元“と連合して戦っていた”畠山稙長“(はたけやまたねなが・畠山尾州家当主・高屋畠山氏・生:1504年・没:1545年)へ寝返ったのである。

これに驚いた“畠山政国”は身に危険が及ぶ事を恐れ“高屋城“を抜け出し”信貴山城“に逃亡した。空いた”高屋城“には”畠山稙長“が約10,000の兵を率いて8年振りに帰城した。

10-(1)ー②:戦闘の結果“木沢長政”を討ち取る。“三好長慶”にとってこの戦は“父・三好元長”を自害に追い込んだ仇敵3人(木沢長政、並びに三好政長、そして細川晴元)の中の一人目の仇を討った事を意味した

1542年(天文11年)3月17日:

この戦闘の段階では“細川晴元・三好政長・三好長慶”と連合を組んだ”畠山稙長“が約10,000の兵を率いて敵方の”畠山政国“が去った”高屋城“に入った。これに驚いた”木沢長政“は”信貴山城“を引き払い、より堅固で”高屋城“の南東に位置する”二上山城“に移った。

戦いは“太平寺”(現在の石神社・大阪府柏原市太平寺2)周辺で始まった。“万里小路惟房“(までのこうじこれふさ・公卿、内大臣・従兄弟の正親町天皇の勅使として織田信長との接渉等、難しい時代の朝廷運営を支えた人物・生:1513年・没:1573年)がこの戦いの様子を下記の様に記録している。

申刻(午後4時頃)於河内国太平寺辺一戦、木沢左京亮(木沢長政)信貴城ニ上、飯盛等城郭之人数五千余人相引(率)出之、高屋城人数、遊佐新次郎、此外泉(和泉)人数並三好神五郎(三好政長の通称)等八千余人隔落合川及合戦、木沢左京亮首遊佐(遊佐新次郎) 被官小島捕(取)之、此外百余人討死、木沢一陣須臾(しゆゆ=わずか)之間敗北

要旨:
午後4時頃河内国太平寺の辺りで戦闘となり、木沢長政は居城の信貴山城、並びに飯盛山城等からの兵5000余人を率いていた。一方の“細川晴元”方は“高屋城”から”遊佐長教“(通称遊佐新次郎)が和泉国からの兵、並びに“三好政長”(通称三好神五郎)の兵、合計8、000人を超す部隊が“落合川”を隔てての合戦と成った。遊佐長教(通称遊佐新次郎)の被官の小島という武士が“木沢長政”を討ち、首級を挙げた。この他にも”木沢軍”は百人余りが討ち取られ、僅かの間に敗北した。


討ち取られた“木沢長政“の首は”近江国・坂本“に逃れていた“第12代将軍・足利義晴”の許に届けられたと記録されている。“木沢長政”の権勢は僅か10年で終わったのである。

尚“第12代将軍・足利義晴”と“細川晴元”の和解時期に就いての諸説の中、1534年

9月以前説と1535年説を紹介したが、この“太平寺の戦い”の時点(1542年3月)では、明らかに両者は共闘していた事が裏付けられ、両者が和解していたという事である。

又“細川晴元”と“木沢長政”の対立に際し、双方の陣営から“第12代将軍・足利義晴”に対して支援要請があったが、史実は“第12代将軍・足利義晴”は、最終的には“細川晴元”を支援している。“木沢長政”の首級が“近江国・坂本“の”将軍・足利義晴“の許に届けられた史実からも”将軍・足利義晴“と”細川晴元“との和解がこの時点では成立していた事を裏付けている。

10-(1)-③:“三好長慶・天下取りの戦い”#1“太平寺の戦い”纏め

戦闘月日:1542年(天文11年)3月17日
場所:太平寺周辺(現在の石神社)
結果:“細川晴元”(三好長慶・三好政長・遊佐長教が従う)並びに“畠山稙長”連合軍が勝利し“木沢長政”が討ち死にする

=交戦戦力=

細川晴元軍(芥川山城)
畠山稙長軍(畠山尾州家当主・高屋畠山氏)
三好政長(通称三好神五郎)
三好長慶
遊佐長教(通称遊佐新次郎)

戦力:8000兵以上

損害:不明


=交戦戦力=

木沢長政軍(信貴山城から二上山城へ)
畠山政国軍(尾州畠山家)・・信貴山城




戦力:約7000兵

損害:約300兵そして木沢長政が討ち死にする


10-(2):“太平寺の戦い”関係城跡訪問記

10-(2)ー①:高屋城訪問記・・訪問日2020年(令和2年)8月22日

住所:大阪府羽曳野市

交通機関等:
JR桜ノ宮駅から天王寺駅に出て、近鉄線に乗り換え、古市駅で下車。そこから宮内庁の“安閑天皇陵”( 継体天皇の長子、第27代天皇・在位531年~536年に治定されている古墳=高屋築山古墳)をグーグルマップを頼りに探しながら歩き、訪問地に辿り着いた。

歴史等:
“高屋城”の築城主は第6代室町幕府管領”畠山基国”(生:1352年・没:1406年)が“安閑天皇”の古市高屋丘陵(高屋築山古墳)を流用して築城させたとの説があるが、別説に”応仁の乱“を引き起こした曾孫の“畠山義就”(河内、紀伊、山城、  越中国守護・生:1437年?・没:1490年)が1479年に築城したとの説もある。

以後”畠山基家、畠山義豊、畠山義英、畠山尚順・・と、畠山氏の居城であったが、1559年には”安見宗房“が城主と成り、1562年には”三好長慶“の長弟の”三好実休”が城主と成る等、諸勢力間の争奪戦が繰り広げられ、城主が頻繁に入れ替わっている。1575年(天正3年)に“織田信長”の猛攻に遭い落城、廃城と成った。

訪問記:
古市駅から徒歩で約10分と案内書にはあるが、グーグルマップで探しながら結局20分以上掛かって、写真に示す“安閑天皇陵古墳”に着いた。

宮内庁管轄のこの史跡内は、立ち入り禁止であった。当時の城の規模は南北800m、 東西450mと書いてある。凡そ10万坪の規模という事である。土塁と堀は今日でも確認出来る。本丸が置かれたとされる“安閑天皇陵古墳”から南に少し歩くと”高屋城・二の丸跡“がある。(写真参照)説明版には東西350m、南北200mの規模であったと書かれている。(約21000坪)

本丸は“安閑天皇の御陵”だと言う事で、後に入城した”畠山稙長“は“畏れ多い”という事で居住しなかったと伝わる。(足利季世紀)城主”畠山稙長“をはじめ、上層階級の武士は”二の丸”を住居としたとされる。海抜わずか39m、交通の要所に築城された城であったが、防御能力の点では問題があったとされる。

発掘調査の結果、茶室、庭園の他、中国から輸入された陶磁器、貨幣、日本製の高級陶器なども出土し、守護家“畠山氏”の居城としての文化性の高い遺構である。

“二の丸”の南東に写真に示す”安閑天皇皇后・春日山田皇女陵”がある。更に南側には”下級武士“が居住していたとされる”三の丸”があったが、今日では市街地に成って居り、城の面影は残って居ない。その規模も30,000坪程あったと書かれている。


(写真説明)


10-(2)-②:“信貴山城”訪問記・・訪問日2020年4月1日

住所:奈良県生駒郡平群町信貴山2280-1(麓の信貴山観光センター)
交通機関等:
新幹線京都駅で友人と合流し近鉄生駒線に乗り換え“王寺駅”で下車。北口から出発する“信貴山門行き”のバスで“信貴大橋バス停留場”で降りた。”信貴山観光センター“に立ち寄り、そこのスタッフに”信貴山城”への道順を伺うと“信貴山マップ”を用意して丁寧に教えて呉れた。
生憎の強い雨の中、信貴山城址がある山頂(標高433m)へは”信貴山朝護孫子寺”を経由する石階段の道を経て、約1時間で山頂の”信貴山城址”に到着した。

歴史等:
築城者は楠木正成説があるが、本格的に築城したのは“河内畠山氏”の重臣であった”木沢長政”で1536年頃の築城とされる。文中記述した様に1542年3月の戦いで“木沢長政”は“細川・三好氏”との戦いに敗れ、討たれ、城は炎上した。

その後1559年に三好氏の重臣であった“松永久秀”が南都に築いた“多聞城”と共に“信貴山城”を再築城して大和支配の拠点とした。最高所の雄嶽山頂には小規模ながら天守(高櫓:たかやぐら)が建てられたと考えられ、後に“織田信長”が安土城の天守の参考にしたと伝わる。

1577年、織田信長に叛いた“松永久秀”はこの城に籠城し、名物茶器”平蜘蛛茶釜”を粉々に砕き、天守に火を放ち自害したと伝わる。以後”信貴山城“は再建される事無く廃城と成った。

訪問記:
“松永久秀”の時期の”信貴山城”は東西600m、南北880m(約16万坪)に及び、曲輪の数は110以上あったと伝わる。私の当日のメモに信貴山観光センターを出発したのが午前11時45分”信貴山朝護孫子寺”への石段を登り“三福神堂・多宝塔”等を横に見乍ら山頂の“信貴山城趾碑”には12時30分に雨中到着したと書かれている。

山頂の城址の様子は写真に示す様に説明版があるだけで何も残されていない。帰り道は今日では鬱蒼とした林と成っている、当時の”松永久秀”の屋敷跡とされる“松永屋敷曲輪”や”階段曲輪”を見学しながらゆっくりと山道を下った。


(写真説明)

写真上:
本格的な築城が1536年に木沢長政によってなされたと説明版に書かれている
写真下中:
同上、説明版の前で。生駒山地の南部“信貴山・雄嶽”を中心とする東西550m、南北700m(約117,000坪)で、奈良県では最大規模の城郭であったと書かれている。
写真下右:
“松永久秀の屋敷曲輪”今日の“信貴山城跡”は鬱蒼とした林になっており、城郭の面影は殆ど残っていない。木沢長政が1542年(天文11年)3月に細川・三好氏との戦いで討たれ、その際“信貴山城”も炎上したとある。1559年に”松永久秀”が大和の有力国人”筒井氏”を追い“信貴山城”に入っている。その後”松永久秀”は1576年に“織田信長”に攻められ“平蜘蛛茶釜”を叩き割って城に火を付け自刃した話は有名である。この様に”信貴山城”は戦国時代の畿内に於ける中心的な城であった。

10-(2)ー③:“太平寺“訪問記・・訪問日2021年(令和3年)6月15日(火)

住所:大阪府柏原市太平寺二丁目(石神社)周辺

交通機関等:
大阪駅から環状線で“鶴橋”駅に出て近鉄大阪線に乗り換え“安堂駅”で下車。そこから徒歩で“石神社”を目指した。周囲には“智識寺”と呼ばれた古代寺院の史跡がある。“太平寺“は柏原市教育委員会の調査で出土物から、飛鳥時代(592年~701年)末期に創建され、室町時代の何処かの時点で廃絶していたとの見解が出されている。従って遺構は無く“太平寺の戦い”が起こった1542年(天文11年)時点でも“地名”のみが残っていたとされる。

歴史等:
“太平寺の戦い”は“三好長慶・天下取りの戦い”の緒戦と位置付けられる。文中にある様に1542年(天文11年)3月17日の戦いであるから“三好長慶”満21歳の時であった。

“河内国・太平寺”周辺で戦闘が起り“細川晴元”方が合計8,000兵超の戦力で“信貴山城”並びに“飯盛山城”から7,000余兵を率いた敵方“木沢政長”軍を討ち取った戦いである。この戦いは“三好長慶”にとっては父“三好元長”の仇を討った戦いであり“木沢長政“の10年間の権勢が閉ざされた戦いであった。

この戦いを端緒に“三好長慶”は以下に記述して行く戦闘を勝ち抜き、紆余曲折を経て“京・畿内”を征圧し“三好政権”を打ち立てる事に成る。

訪問記:
我々は“太平寺”周辺とされる”石神社”(いわじんじゃ)を目指して歩いた。神社は柏原市太平寺地区の生駒山地南端に近い小高い丘陵の山腹にある。長い石階段を登って社殿に着いた。
“石神社”への道の途中に”智識寺”がある。“聖武天皇”(第45代天皇・生:701年・崩御:756年)そしてその娘である”孝謙天皇“(第46代天皇・史上6人目の女性天皇・生:718年・崩御:770年)が”智識寺”を訪れ、その際礼拝した大きな”廬舎那仏”から”東大寺大仏”の造営を発願されたと言う由緒が伝わる。
”智識寺”も室町時代には廃れ、今日では“智識寺”の由緒を記した説明版と”石神社”境内に”智識寺東塔の礎石“(大阪府指定文化財)が残る程度である。
(写真)


11:第12代将軍“足利義晴”が近江国・坂本から帰京する

1542年(天文11年)3月:

“太平寺の戦い“で”細川晴元”方が“木沢長政”を討った事により“近江国・坂本”に避難していた“第12代将軍・足利義晴”は京に帰還し、新しい将軍御所の造営に着手した。

12:“細川晴元“に新たな対抗勢力として”細川氏綱“が現われる

12-(1):“細川氏綱”軍が裕福な地“堺”を狙って攻め込んだが“細川晴元”方が撃退する

1542年(天文11年)12月13日:

“細川典厩家・細川尹賢”(ほそかわただかた・生年不詳・没:1531年7月24日)の嫡子“細川氏綱”(細川高国の従甥という関係に成る・生:1514年・没:1564年)は“細川高国”の跡目(相続者)と称して現われ“細川高国”の旧被官を集め”堺“の南口で”和泉半国守護・細川元常“の被官”日野根景盛“を攻撃した。しかしこの攻撃は”細川晴元“方の武将“松浦興信”(まつらおきのぶ・平戸松浦氏一門・生没年不詳)が防衛した事で”細川氏綱“側の失敗に終わった。

余談と成るが、この時“細川晴元”方に与した“細川元常”の系統が元首相“細川護熙”氏の先祖である。別掲図“細川家家系図”で赤字で示した部分が上記の関係図である。


“細川氏綱”方は富裕な“堺”を占領し、その財力を利用すべく攻撃をしたと記録にはある。“第12代将軍・足利義晴“と”細川晴元“体制は”太平寺の戦い“で“木沢長政”を滅ぼしたが、新たな対抗勢力“細川氏綱”(細川高国の養子と成る・摂津国守護・細川京兆家18代当主・室町幕府の最後の第35代幕府管領職に就いたとする説もあるが前6-19項で記述した様に、正式の記録は無い・後に三好長慶と共闘、三好長慶政権の積極的協力者に成ったとの説もある・生:1513年・没:1564年)が現われたのである。

1543年(天文12年)8月16日:

この時点では主君“細川晴元”に従っていた“三好長慶”は“細川晴元”の命で“細川氏綱”と“和泉国“で戦った事が記録に残っている。

13:日本の歴史展開の第3の回転軸と成った“本願寺第10世宗主・証如“の“細川晴元・細川氏綱・三好長慶”三者夫々への対応姿勢に就いて

この頃の“本願寺第10世宗主・証如“は、祖父の第9世宗主”実如“の遺言を守って、諸方の武将達と協和的姿勢に努めていたと伝わる。しかし、京・畿内地域で覇権争いを展開する3者との関係に就いては、自ずと違いはあった。先ず“細川晴元”と“細川氏綱”との関係では“細川晴元”に対しての姿勢の方が“細川氏綱”に対してよりも“親和的”であったとされ“三好長慶”に対しての姿勢は3者の中で、最も好意的対応をしたと伝わる。

以下にそれを裏付ける史実を紹介する。

1543年(天文12年)8月3日:

“細川晴元“方の”堺占領策“に失敗した”細川氏綱“が“本願寺第10世宗主・証如“に兵糧、並びに借財を依頼した記録がある。しかし“第10世宗主証如”(=光教)は迷惑だとして、これを拒否した事を“天文日記”(本願寺第10世宗主証如自身が1536年から亡くなる10日前まで書いた日記。本願寺を通して当時の世相が窺われ、室町時代後期の根本史料として貴重である)が伝えている。

1544年(天文13年)6月18日:

“本願寺第10世宗主・証如“が”三好長慶“の存在を高く評価し、認め、彼との親善を求めていた事が”三好長慶“の父親”三好元長“の13回忌(命日1532年6月20日)法会の為の費用を”三好長慶“に贈っている。(天文日記)
1544年(天文13年)7月30日:

“細川晴元”も強大な軍閥である“一向宗”との緊密な関係を築く事が重要な事と認識し、その為の努力をしている。“本願寺第10世宗主・証如“に嗣子”顕如“(諱は光佐・生:1543年2月20日・没:1592年12月)が生れると“10世宗主・証如“の妻(三条公頼の三女如春尼)の妹を養女に迎え、彼女と、生れたばかりの嗣子”顕如“との婚約を仕組んだ。見え見えの政略結婚である。しかし“10世宗主・証如“としては甚だ迷惑な話だと思いながらも承諾した事を、これ又”天文日記“に書き残している。

14:“第12代将軍・足利義晴“と”細川氏綱“が連合し”細川晴元“と対立する

14-(1):“細川氏綱”の攻勢に対して“三好長慶”の力を頼りとした主君“細川晴元”

1544年(天文13年)10月19日:

既述した様に1542年(天文11年)12月13日には“細川氏綱”方の兵が“堺”の南口で”日野根景盛“を攻撃し、又、1543年7月にも“細川氏綱”方の“堺攻撃”があったが“松浦興信”がこれを撃退した事で“細川晴元”方は“堺”を守った。

敗れた“細川氏綱”方は”摂津国・喜連杭全”(くれまた・大阪市東住吉区)迄進出していた軍を引き”和泉国“へ逃れた。この様に“細川氏綱”方との戦闘が加速する状況に“摂津 国・芥川城”を居城とする主君“細川晴元”は“三好長慶”を“堺”に出陣させた。

1545年(天文14年)5月24日~7月27日:

“細川晴元”は”三好長慶“を従え”山城国・寺田“並びに”宇治田原“で“細川氏綱”軍と戦い、勝利した。(5月24日)又“丹波国”の戦国大名“波多野秀忠“(1540年に娘を三好長慶に嫁がせる事に拠って不仲だった三好氏と友好関係を結んだ事は既述の通り・生没年不詳)を助け”関城“を開城させている。(7月27日)

14-(2):“河内国守護代・遊佐長教“を中心に“第12代将軍・足利義晴”並びに”河内国守護・畠山政国“との間で”細川晴元“を幕府NO.2のポジションから外して”細川氏綱“に替えようとの動きが起こる

14-(2)ー①:“第12代将軍・足利義晴“が”三好長慶“の主君“細川晴元”を外そうとする動きに対抗する為の軍事行動に遅れをとった“三好長慶”

1546年(天文15年)8月19日:“細川氏綱・遊佐長教“の連合軍に包囲され”会合衆“に仲裁を依頼してこの場を凌いだ“三好長慶”


“河内国守護代・遊佐長教“(当時55歳)が中心と成り“第12代将軍・足利義晴”(当時35歳)と”河内国守護・畠山政国“との間に、幕府NO2のポジションから”細川晴元“を外し”細川氏綱“に替えようとする動きが持ち上がった。その事を知った“細川晴元”は“三好長慶”に抗戦体制を整える様命じた。尚“幕府NO.2のポジション“という表現を用いている理由は、既述の様に正式、公式の書類として”細川晴元“並びに“細川氏綱”が“幕府管領職”に就いたという記録が無い為である。

“三好長慶”は曽祖父“三好之長”以来、関係の深い”堺“に入り、軍兵を整えるべく動いた。(細川両家記、足利季世記、続応仁後記)

しかし,時、既に遅く”細川氏綱“方は大和国”筒井氏“等に加え”遊佐長教“(通称・遊佐新次郎)等と素早く連合軍を構成し”堺”を包囲して了ったのである。(興福寺略年代記)

この時点で軍備は整っておらず、包囲された事態に“三好長慶”は”会合衆“に仲裁を依頼した事が記録されている。“会合衆”にとって、瀬戸内海東部に海上権を持つ”三好氏“を助け、支援して置く事は“堺”の貿易という観点から得策であった。そこで“遊佐長教“方と交渉して包囲を解かせ“三好長慶”側を助けたのである。(細川両家記、足利季世記)

“堺”で貿易を営み“富裕“な”納屋36人“が組織し、自治権を持ち、地域の繁栄に力を尽くしていた”会合衆”が政治に絡む具体的な活躍をした貴重な史実である。

14-(2)-②:その後も続いた“第12代将軍・足利義晴”そして“畠山政国”並びに“遊佐長教“連合に拠る主君”細川晴元“外しの戦闘に連戦連敗を続けた“三好長慶”

1546年(天文15年)9月4日:

“細川氏綱・遊佐長教“連合軍は”堺“の包囲を解いた。しかし、北上して”細川晴元“方の摂津天王寺の“大塚城”を包囲し、9月4日に陥落させた。更に”三宅城”(大阪府茨木市)の“三宅国村”や“池田城”(大阪府池田市)の“池田信正”に書状を送り“細川氏綱”方への寝返り工作を行った。その結果“池田信正”(生年不詳・没:1548年5月6日)は“細川晴元”方から“細川氏綱”方に寝返っている。(池田信正は翌年三好長慶に攻められ、降伏し、再び三好長慶方に帰参しようとしたが、細川晴元が許さず、切腹させられている)

1546年(天文15年)9月14日~9月18日:

こうした状況に“細川晴元”は京都を離れ“丹波国・神尾山城“(京都府亀岡市)に逃れた。(9月14日)勢いづく”細川氏綱・遊佐長教“連合軍は”芥川山城“(大阪府高槻市)を攻撃した。“城主・芥川孫十郎”は敢え無く和睦、開城している。(9月18日)

この様に戦闘開始当初“細川晴元・三好長慶”主従軍は連戦連敗を重ねた。“三好長慶“は満24歳、主君”細川晴元“満32歳であった。

15:四国から3人の弟達を集結、支援させた事で戦況を一変させた“三好長慶”

“細川氏綱・遊佐長教“連合軍に対する戦闘準備に立ち遅れた“三好長慶”は①“阿波国守護・細川持隆”に仕えていた“三好元長”の次男で長弟“三好実休”(みよしじっきゅう・書籍によっては俗名を義賢、之康としている・生:1527年?・没:1562年)そして②“淡路国”で“淡路水軍”500船を率いていた次弟“安宅冬康”(あたぎふゆやす・三好元長3男・生:1528年・没:1564年)並びに③三弟(末弟)“十河一存”(そごうかずまさ・三好元長4男・十河景滋の養子に入る・病没後、彼の子息が三好長慶の養子と成り、三好本家の家督を継ぐ事に成る三好義継である・生:1532年・没:1561年)3人の弟達の支援を求め、結集したのである。

1546年(天文15年)11月13日:

“三好実休・安宅冬康・十河一存“の3人の弟軍は軍船500船、兵20,000を率いて援軍に加わった。“三好長慶“の3人の弟軍が続々と支援に加わる状況を見た主君”細川晴元“は、逃れていた“丹波国・神尾山城”から“神呪寺”に入り、そこから“三好長慶”の居城“越水城”へと移った。以後 ”三好長慶”方は戦況を一気に逆転して行く。

16:第12代将軍“足利義晴”が嫡子に将軍職を譲る・・第13代将軍“足利義藤”(後の足利義輝)誕生

1546年(天文15年)12月20日:

“三好長慶”軍の兵力増強ぶりを見た“第12代将軍・足利義晴”は“将軍(勝軍)地蔵山城”に人夫を狩り出し、城に手を加えた事が記録されている。そして同年12月18日に近江国・坂本の日吉神社洞官“樹下成保“の邸に行き、翌日12月19日に当時満10歳の嫡子”菊幢丸“を元服させ”足利義藤“と改名させ、同年12月20日に将軍職を譲った。

”将軍・足利義晴”は1521年12月“細川高国”に擁立され、僅か10歳で“第12代将軍”に就いて以来、25年間座った将軍職の座から降りたのである。この時“足利義晴”は満35歳であった。

16-(1):次期将軍“菊幢丸”の元服式の“烏帽子親”を”六角定頼”が務めた事は“第12代将軍・足利義晴”が”細川晴元“を幕府NO2の座から追い出した事を裏付ける史実である

”菊幢丸“は”第12代将軍・足利義晴“と摂関家出身の御台所の間に生まれた将軍家としては初めての男子であった。その”菊幢丸“の元服式の“烏帽子親“は“幕府管領家”が務めるのが慣例であった。

しかし“第12代将軍・足利義晴”と“細川晴元” が対立した為“第12代将軍・足利義晴”は”近江国・坂本”の日吉神社(現在の日吉大社)洞官“樹下成保”邸で、しかも”近江国守護・六角定頼“を”幕府管領代“に任じ、烏帽子親とし、元服式を行った。

裏で“遊佐長教”が動き“細川晴元”と敵対する、同じ“細川京兆家(幕府管領家)”の“細川氏綱”を烏帽子親にする様求めたとされる。しかし、流石にこの要求は“細川晴元”の舅でもある“六角定頼”(当時51歳・生:1495年・没:1552年)が阻止した。

この史実は“将軍・足利義晴”が明確に“細川晴元”を切捨て“細川氏綱”に乗り換えた事の裏付けである。“第13代将軍・足利義藤”(義輝への改名は1554年2月)に対する将軍宣下は朝廷からの勅使が京から“近江国・坂本”まで赴いて行なわれた。

以上の史実は1534年(天文3年)9月以前に成立していた(説)“第12代将軍・足利義晴”と“細川晴元”との和解、そして、その後保たれた両者の協力関係がこの時点で破綻した事を意味するものである。

(参考):この頃、将軍家の財政状態も困窮していた事を示す史実
第13代将軍“足利義藤”(一般的に知られる足利義輝に改名するのは8年後の1554年である)が誕生した際に、将軍宣下の御礼として朝廷に対して砂金代3万疋(一疋は通常25文とされる。時代に拠って現代価値への換算は変わるが一文25円とすると、25文x30,000x25円=1875万円程となる)、200疋(現代価値で13万円程)、千疋(同左63万円程?)を献上した事が記録されている。
しかし3万疋の中、2万疋(1250万円程)は献納しなかった事が“御湯殿上日記”(おゆどののうえにっき=御所に仕える女官・内侍司の典侍、内侍などに拠って書き継がれた当番制の日記)に書かれている。将軍家の財政状態も逼迫していた事を示す記事である。

(参考)江戸時代の貨幣制度・・大阪造幣局“造幣博物館”資料より(2021年10月24日訪問)

17:長弟“三好実休”と連合し“細川氏綱”方の摂津国の城を攻略し、進軍した“三好長慶“

1547年(天文16年)2月20日:

“三好長慶”は長弟の“三好実休”(1558年6月~8月の間に実休の法号を用いる様になったとされる・生:1527年・没:1562年)と共に“細川晴元軍“として、30,000の兵を率いて“摂津国・原田城“(居館的役割の南城と戦闘用の北城大阪府豊中市曽根西町&原田元町付近)を攻撃し、陥落、開城させた。

1547年(天文16年)2月25日~3月22日:

続けて“三好長慶”は、同じく長弟“三好実休”と共に“摂津国・三宅城”(推定地:大阪府茨木市蔵垣内2&3丁目)を攻め“細川氏綱”方の“三宅国村”を30,000の兵で取り囲み(2月25日)数度の合戦の末3月22日に開城させている。(三宅国村は細川晴元方に 鞍替えする)

17-(1):摂津国“原田城・三宅城“訪問記・・訪問日2021年6月13日(日)

住所:
当時は大阪府豊中市曽根西町(北城)並びに同原田元町(南城)との“二ヶ所一城”(主城の北城と砦の南城)から成る、特色を持った城であった。
交通機関等:
大阪駅(阪急梅田駅)から阪急宝塚本線に乗り”曽根駅”で下車、そこからグーグルナビの助けを借りて閑静な住宅地を15分程歩いて“原田城”の北城に着いた。南城は北城から僅か、南東に300m程と書かれているが、宅地化されておりグーグルナビの案内でも巧く探せず、散歩中の方に”それなら原田会館の処ですよ“と教えて頂き、漸く探し当てる事が出来た。

歴史、並びに訪問記:
原田城は土豪“原田氏”の居城と伝わる。北城の築城は14世紀頃からであろうとされ、南城は16世紀後半と推測されている。初見は”応仁の乱”で西軍の“大内政弘”が”池田城”を攻めた際の記述に“原田城”の記載がある。上記した様に1547年(天文16年)2月20日の戦いの時点では“三好長慶”軍は”細川晴元”家臣として働いていた。そして”細川氏綱”方の“原田城”を攻め落とし、開城させている。この戦いで”北城”は廃城となり、以後、荒廃して行ったとされる。

写真に示す”原田城跡“と書かれた門は”コロナ禍“という事から閉まっており、内部の見学は不可であった。資料に拠れば当時の城の規模は“北城”は、南北140m、東西120mとある。今日では土塁、並びに堀跡だけが残る。(写真)

写真の“誓願寺”(浄土真宗の寺院で1501年に地元衆に拠って創建されたと伝わる)は、前項で記述した”細川晴元”軍と”本願寺“(一向一揆)軍との争いの際”原田城”は”本願寺軍”方として戦っており“原田城”との関係が、深いものであったと考えられる”誓願寺”も共闘したのであろう。

16世紀後半に築城されたとする“南城”は現在“原田会館”がある場所に建っていたとの事である。写真の様に当時の面影は全く無い。北城が廃城状態になって以降は”原田氏”は”南城”を中心とした活動となり、後の“有岡城の戦い”(=伊丹城の戦い・1578年7月~1579年10月に起った荒木村重の織田信長に対する突然の謀叛)で“織田信長”軍の“有岡城=伊丹城”攻城戦では“砦”として活用されたとの記述がある。“慶長年間”(1596年10月~1615年6月)に廃城と成ったと伝えられる。

17-(2):“三宅城跡“訪問記・・2021年(令和3年)6月11日(金)

住所:大阪府茨木市蔵垣内3丁目~丑寅2丁目(有力推定地)

交通機関等:
東京駅から新幹線で新大阪駅迄行き、友人と合流、JR京都線に乗り換え“千里丘駅”で下車、そこからはグーグルナビを頼りに迷いながら“三宅城跡”を探す。“三宅城”の地上の遺構は存在しないとあり、農地化、宅地化が進んだ現状“三宅城跡”は“蔵垣内公園”が“推定城敷地内”とされている。ここに到着する迄“千里丘駅”からは凡そ20分程、掛かった。

築城の歴史:
あくまでも推定とされるが、敷地は10万坪、東西凡そ600m南北540mとある。その中に東西180m、南北270mの本丸(約15,000坪)があったとされ、可成り大きな城であった様だ。築城の時期も定かでは無いが①説として1352年の幕府御教書に“三宅左衛門”の名が見られる事から、代々“三宅氏“の居城であった事②説として”細川高国“に命じられて“三宅国政”が1504年に築城した事が伝わる。

その後の三宅城:
資料によると“三宅城”が戦闘に巻き込まれた最初の記録が、上述した”細川氏綱”方と“細川晴元”方との戦いである。既述の様に“第12代将軍・足利義晴”は“細川氏綱”を支援し、当初は戦いを有利に進めていた。しかし“細川晴元”家臣”三好長慶”が、四国から3兄弟を集結、支援を得た事で戦況は一挙に逆転した。

こうした状況下の1546年12月20日に“第12代将軍・足利義晴”は、満10歳の嫡子を元服させ“足利義藤“と改名させ将軍職を譲っている。この後”三好長慶”は“前将軍・足利義晴”並びに“第13代将軍”に就いたばかりの“足利義藤(義輝)”を敵に回して戦う事に成るのである。

“三好長慶”の長弟“三好実休”が“細川氏綱”方の“三宅国村”を降伏させ、開城させるという展開となる。“三宅国村”は逃亡し“細川晴元”と“三好長慶”が1548年に対立すると、彼は”三好長慶“に属し、三宅城を回復した事が伝わる。“三宅城”の其の後については諸説があるが、いずれにしても”三宅国村”(生没年不詳)が歴史から姿を消すと共に、廃城になったと伝えられている。


18:”前・第12代将軍足利義晴“が“細川氏綱“支持を明確にする

1547年(天文16年)3月29日:

慈照寺(銀閣寺)に居た”前・第12代将軍足利義晴“は”勝軍地蔵山城“に入った。子息の“第13代将軍・足利義藤”(8年後に足利義輝に改名)更には“前関白・近衛稙家“(第13代将軍・足利義藤の正室が娘である・生:1502年/1503年説・没:1566年)等も従ったとある。

”前将軍・足利義晴“が”細川氏綱”支援を明確にし、京都から“勝軍地蔵山城”に入った事で、之までも荒廃した京都に“将軍不在”という状態が加わった。“足利季世記”並びに“続応仁後記”は“前将軍・足利義晴”が“細川氏綱・畠山・遊佐長教”連合軍方支援を決断し“細川晴元・三好長慶”主従方と戦う選択を下記の様に表現している。

義晴公今度三好方・晴元方と河内方畠山・遊佐方の取合に付て、(中略)河内衆遊佐方へ御合体あり(足利季世記)公方家俄に河内方へ御一味にて(続応仁後記)

19:“細川晴元・三好長慶”方に与した武将達

“前・第12代将軍・足利義晴”が“細川氏綱”支持を明確にした事で、言わば非主流派の立場に成った“細川晴元・三好長慶”方に与した武将は“六角定頼”と“芥川孫十朗”であった。“近江国・六角定頼”は“細川晴元”の舅であるという関係がある事、そして“三好長慶”の説得が奏功して“前将軍・足利義晴”方から寝返ったとされる。

又“芥川孫十郎”(生没年不詳)は“三好一族”であり“三好長慶”方の武将であった。1546年に“細川氏綱”と“遊佐長教”が“細川晴元”方に反乱を起こした際に、居城“芥川山城”を“薬師寺元房”に奪われたが、翌1547年に“細川晴元・三好長慶”軍が奪い返して呉れたという経緯もあり“細川晴元・三好長慶”方に与したのである。(続応仁後記・長享年後畿内兵乱記)

20:“細川晴元”方“三好長慶”が東山に陣を置き“前将軍・足利義晴”との戦闘を開始する

20-(1):“前将軍・足利義晴”方の誤算

1547年(天文16年)4月:

“細川晴元”方の“三好長慶”は東山に陣を敷いた。”細川氏綱“支持を表明し”将軍地蔵山城“(=勝軍地蔵山城=瓜生山城)に入った“前・第12代将軍・足利義晴“だったが、味方と思っていた“池田長正・薬師寺元房”が相次いで“細川晴元”方に降伏したばかりか、頼みの”六角定頼“までもが離反し、娘婿の“細川晴元”方に寝返った事は誤算であった。

21:“前第12代将軍・足利義晴”並びに子息の“第13代将軍・足利義藤”(後に義輝に改名)父子は“細川晴元・六角定頼”連合軍に”勝軍地蔵山城“を攻められ”近江国・坂本“に逃れる

1547年(天文16年)7月12日~7月19日:

”勝軍地蔵山城“に入っていた“前第12代将軍・足利義晴”並びに“第13代将軍・足利義藤”父子は、入京した“細川晴元・六角定頼”連合軍に攻撃され、城を焼いて“近江国・坂本”へ逃れた。

22:“三好長慶天下人への戦い”第2戦“舎利寺の戦い”

“摂津国・東成郡の”舎利寺“(大阪市生野区)周辺に於いて”細川晴元“方”三好長慶“軍と“細川氏綱・遊佐長教”連合軍が激突した戦いは“舎利寺の戦い”と呼ばれ“畿内”に於ける“応仁の乱”以降、最大規模の合戦とされる。“三好長慶”の実力が“畿内”に知れ渡る戦闘となった。

22-(1):“舎利寺の戦い”の経過

1547年(天文16年)7月21日:

“細川晴元・六角定頼”連合軍が“勝軍地蔵山城”の戦いで“前第12代将軍・足利義晴” 並びに”第13代将軍・足利義藤(義輝)“を敗り”近江国・坂本“に遁走させた頃“河内国十七箇所”(現在の守口市)に集結した“三好長慶・三好政長・香西与四郎”軍の先陣を務めた長弟“三好実休”並びに、次弟“安宅冬康”そして“松浦興信・畠山上総介”軍は南進し”細川氏綱”方の“畠山政国”(畠山尾州家出身・紀伊、河内、越中国守護・生没年不詳)そして“遊佐長教”軍と天王寺東の”舎利寺“(大阪市生野区)で合戦と成った。

“応仁の乱”以降、鉄砲が伝来する迄の間の“畿内最大の戦い”と称されたこの戦いの結果は“細川晴元・三好長慶”方の大勝であった。

“足利季世記“は”両方の鑓(やり)数九百本のせり合有、近代無双の大せり合いなり・松浦衆と畠山総州(上総)の惣勝也“と記し”二条家主家記“には”両方二千人許討死“と記している。他にも“細川両家記・続応仁後記・大日本伝皇代記”の記述がある。

戦闘は矢戦から始まり、総懸かりに移り“畠山尚誠”(はたけやまひさまさ/なおまさ・生:1531年・没年不詳)と“松浦興信”の手勢が一番に進み、数時間の槍合わせの大合戦となった。遊佐軍は400人が討ち死にして敗走“三好長慶”方の四国勢も50名以上が討ち取られたとある。

この戦いで“三好長慶”(当時満25歳)の軍事力と才覚が畿内に知れ渡り、一方、敗戦の報を聞いた“前第12代将軍・足利義晴“は落胆し、閏7月1日に敵方の”細川晴元“並びに”六角定頼“に和睦の使者を送る。将軍家の体面を保つ事を重要視した”六角定頼“の尽力が実り“前第12代将軍・足利義晴“の京帰還が成った。

22-(2):“三好長慶・天下人への戦い”#2:”舎利寺の戦い“のまとめ

戦闘年月日:1547年(天文16年)2月20日~7月21日
場所:舎利寺(大阪市生野区)
結果:“細川晴元・三好長慶”軍の大勝利“細川晴元”方が1年振りに京都を奪還する

=交戦戦力=(細川晴元・三好長慶)軍

細川晴元軍
三好長慶(範長)軍
六角定頼軍
 
=指揮官=
三好政長
三好政勝
三好長慶
三好実休(三好義賢)三好長慶長弟
香西元成
安宅冬康 三好長慶次弟
松浦興信
畠山尚

=総戦力= 不明
=損害=侍衆37兵 雑兵75兵
 
=同左=(前将軍足利義晴・細川氏綱)軍

細川氏綱軍
遊佐長教軍


=指揮官=
遊佐長教
細川頼貞
畠山政国






=総戦力= 不明
=損害=侍兵301兵 雑兵800兵
*注記・・両軍合わせて2,000人討ち死と“二条寺主家記”には書かれている

22-(3):“舎利寺”訪問記・・訪問日2021年(令和3年)9月25日

住所:大阪府大阪市生野区舎利寺1丁目2番地

交通機関等:
大阪駅からJR環状線に乗り天王寺駅の一つ前の“寺田町駅”で下車。そこからはグーグルマップを使って歩き、余り苦労する事もなく“舎利尊勝寺”に着いた。

訪問記:
“応仁の乱”以降、鉄砲伝来迄の畿内最大の戦いが別記した様に”細川晴元”方と“将軍・足利義晴“が支援する”細川氏綱”方との間で戦闘が行われた地域である。
文中記した様に”三好長慶”の実力が“畿内”に知れ渡る機会と成った歴史的に重要な戦いであったが、史跡として”南岳山舎利尊勝寺”は残るが、大都市大阪市内の史跡の殆どがそうである様に”舎利寺の戦い“の史跡も、当時の戦場としての面影等は全く残されていない。

それでも1400年近い歴史を持つ“舎利寺”が現存する事で、1547年(天文16年)という昔に、この界隈で”舎利寺の戦い”があった史実を想い起こす事が出来た。住職の奥様からは、寺の由緒、並びに、寺宝の聖徳太子御影、春日明神画像等について熱心なお話があったが“舎利寺の戦い”に関しては、文中紹介した以上の話を伺う事は出来なかった。

多くの室町時代の古刹を訪問して共通する事だが、住職はじめ関係者は、訪問客も減り、檀家も殆ど増えない状況下、寺の施設管理、維持には大変ご苦労されている様である。
23:“舎利寺の戦い”で敗れ”近江国・坂本“に逃れた“前第12代将軍・足利義晴“並びに”第13代将軍・足利義藤”父子に対し“将軍家”の体面を繕ろう為に“六角定頼“が仲介し”細川晴元“方との”和睦“が成る

1547年(天文16年)閏7月1日:

”舎利寺の戦い“で敗れ”近江国・坂本“に逃れた“第12代将軍・足利義晴”並びに“第13代将軍・足利義藤(義輝)”父子は、直ぐに“細川晴元”方と和睦して京に戻った。この背景は以下である。

“足利季世記・続応仁後記・源助大僧正記“によると“第12代将軍足利義晴”並びに“第13代将軍・足利義藤”父子が逃れた“近江国・坂本”は、敵方として戦った“近江国守護・六角定頼”の領国である事、又“六角定頼”の立場は既述の通り”菊幢丸“(第13代将軍・足利義藤=足利義輝)が元服した際の”烏帽子親“であったという事情が大きく関わっていた。

”六角定頼“は”勝軍地蔵山城“を攻撃中の1547年(天文16年)7月15日に、秘かに”前第12代将軍足利義晴“に”細川晴元“と和睦交渉の為の使者を送って居た事が伝わる。

そもそも”前第12代将軍・足利義晴“が”細川晴元“を切捨て”細川氏綱“を幕府NO2の立場に就けようとの策を”細川晴元“の舅という関係でもある”六角定頼“としては容認出来なかった事が、彼を“将軍側”から離反させた理由であった。

更に、当時の“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”が重んじた“伝統的家格秩序”の維持、という考えからも、共に“幕府管領家”である両細川家が争う状況を止めたいとの考えがあった。

これ等を総合的に考え“舎利寺の戦い”の勝利で京入りを果した“細川晴元”方は“前将軍・足利義晴”並びに“第13代将軍・足利義藤(義輝)”父子の京帰還を正当化する必要から“将軍家・父子”が“細川晴元・六角定頼”を赦免するという形での“和睦”と成ったのである。

この事は“足利季世記・巌助大僧正記・続応仁後記”にも伝えられており、この史実からも、当時の日本の社会慣習として、岩盤の様に根付いた“血統信仰”の下に“伝統的家格秩序”を遵守する事が、社会を安定させる最善の方策だと守旧的な人々は考えていた事が明確に現われている。

24:“堺府”の消滅、そして堺を追われた“堺公方・足利義維”のその後

24-(1):“堺公方・足利義維“は”堺“を出奔し”淡路国“に逃れた事で、5年間に亘った”堺府(堺幕府)“は終焉を迎えた

24-(1)ー①:“将軍就任”の望みが失せた“元堺公方・足利義維”

“三好長慶”の父“三好元長“が顕本寺で自決に追い込まれ(1532年6月20日)た時”堺公方・足利義維“(あしかがよしつな・第11代将軍足利義澄の次男/長男説もあり・第12代将軍足利義晴の弟・後に第14代将軍・足利義栄の父親と成る・生:1509年・没:1573年10月8日)は“三好元長”と共に“顕本寺”に居た。

後見人の“三好元長”が自決に追い込まれた事で、自身も自決をしようとしたが“細川晴元”に制止され“四条道場“に居住した事が”細川両家記・足利季世記、続応仁後記“に記されている。しかし、その後の“足利義維”を巡る周囲の情勢は不安定なものであった為“淡路国”に出奔したとある。“二水記”はその状況を下記の様に伝えている。

1532年(天文元年)9月20日:
“風聞云、堺武家(将軍)近日御出奔、御落所不慥聞”
(要約)
出奔先は定かには分からないが、噂話として、堺公方が最近どこぞにか出奔した・・との話がある。

24-(2):阿波国に退避した“足利義維”

“足利義維”は“淡路国“で1534年(天文3年)に”足利義冬“と改名している。その後”細川晴元“の実弟の”阿波国守護・9代当主・細川持隆“(生:1516年・没:1553年)に迎えられ、彼の庇護の下に”阿波国“の天龍寺の荘園“平島荘”(那賀郡那賀川町)に住んだ。3000貫(一貫=1000文。1文を現代価値で25円で計算すると7500万円となる)の所領を得て”平島公方・阿波公方“と呼ばれていた。

24-(3):“細川晴元・三好長慶”主従が“前第12代将軍・足利義晴”並びに“第13代将軍・足利義藤(義輝)“軍を敗り、京から”近江国・坂本“に追い出した事で”堺公方・足利義維“が将軍の座を目指して動き出す

“堺府”を崩壊させ“第12代将軍・足利義晴”との協力関係へと“細川晴元”は変節した。しかし、当の“前第12代将軍・足利義晴”が“細川氏綱”を支援した事で、両者は袂を分かち、対立関係と成った。

“舎利寺の戦い”で“細川晴元・三好長慶”主従軍が“前第12代将軍・足利義晴”並びに“第13代将軍・足利義藤(義輝)“軍を敗り、両者を京から”近江国・坂本“に追い出した事で”堺府“を追われ”阿波国“に退避していた”元堺公方・足利義維“が将軍の座を目指して動き出したのである。

1547年(天文16年)2月25日:

兄であり(弟との説もある)12代将軍の“足利義晴”が嫡子“足利義藤(義輝)”に将軍職を譲った(1546年12月20日)2カ月後の1547年(天文16年)2月25日に“足利義維”は“細川晴元”の実弟の“細川持隆”並びに“三好長慶”に上洛の斡旋を依頼した。しかし“細川晴元”と“細川氏綱”の抗争が深まる中で“足利義維”が上洛する動きをする事は、新たに“前第12代将軍・足利義晴”とのトラブルを起こし兼ねなく、混乱を増す事が危惧された。従って“足利義維”の要請は聞き入れられ無かったのである。

上洛を諦めない“足利義維”は“本願寺第10世宗主・証如(光教)“にも上洛の斡旋を依頼した。既述の様に”三好長慶“に最も協力的であった”本願寺証如(光教)“は”足利義維“を宥めるべく、銭千疋(25文x1000x25円=約63万円)を贈り、それ以上の協力はしなかったとされる。

1547年(天文16年)7月21日:

”舎利寺の戦い“で”細川晴元・三好長慶“主従方が大勝し、更に長弟“三好実休”は”細川氏綱“方の”畠山政国“を”高屋城“に攻め、勝利した。”前第12代将軍・足利義晴”が“細川晴元”を退け“細川氏綱・畠山政国”を起用しようとした策が完全に失敗したのである。

こうした展開に軍功大であった“三好長慶”(当時満25歳)の名声は更に“畿内”に知れ渡った。

こうした状況を見た“足利義維”は“三好長慶”そして“阿波国”の力を借りて“第13代将軍・足利義藤(義輝)”に代わって自分が将軍に就くという期待を尚も膨らませたのである。

24-(4):“元堺公方・足利義維”の将軍就任への期待を打ち砕いた“前第12代将軍・足利義晴“並びに”第13代将軍・足利義藤(義輝)”父子の帰京

1547年(天文16年)閏7月1日:

しかし”足利義維“の期待は閏7月1日に“第12代将軍・足利義晴・第13代将軍・足利義藤(義輝)”父子が既述の通り“六角定頼”の仲介で“細川晴元”方との和睦という形で帰京した事で、忽ちの中に打ち砕かれた。

1547年(天文16年)11月3日~12月1日:

万策尽き、失望した“足利義維”(あしかがよしつな・生:1509年・没:1573年)は上洛を断念し(11月3日)“堺”から“淡路国”に戻った。本人はこの旨を”本願寺証如(光教)“に報告して居り”証如“の日記”天文日記(光教日記)“で確認出来る。

飽くまでも将軍職に就く事に執着したその後の“足利義維”の生涯は“阿波国守護・細川之持“に庇護され、1565年”三好三人衆“等に拠って第13代将軍”足利義輝“が謀殺された事で、彼の嫡子が“第14代将軍・足利義栄”に就く巡り合わせと成るのである。

25:“舎利寺の戦い”後に“前第12代将軍・足利義晴”と“細川晴元”との和睦を仲介した“六角定頼”は“河内国”で戦った“三好長慶”軍と“細川氏綱”方の“遊佐長教+畠山政国”軍との和睦も仲介した

1548年(天文17年)4月21日:

“舎利寺の戦い”後も“遊佐長教”(ゆさながのり・河内国守護代・生:1491年・没:1551年)そして“畠山政国”方と“三好長慶”並びに長弟“三好実休”軍との間での戦闘は続き”三好“方は“高屋城”攻めを行っていた。この状況に“三好長慶”方の“六角定頼”(近江国守護・当時53歳)が、両者の仲介役を担い、ここでも和睦が成立した事が“言継卿記”に書かれている。(4月21日)

和談条件等に就いては下記に記す“三好長慶”の再婚以外の詳細は伝わらない。

25-(1):和談条件の一つとして“三好長慶”が敵方“遊佐長教”の娘と再婚する

1548年(天文17年)5月:

和談条件の一つとして“三好長慶”は“遊佐長教”の娘を娶っている。“続応仁後記”には“三好長慶”は前妻と離別しており、その後、内室は居なかったと伝わっており、再婚した事になる。この結婚は当時の風潮であった”講和条件“の一つとして用いられた政略結婚であった。和睦が成った事、そして自分の娘が“三好長慶”と政略結婚をした事で“遊佐長教”は以後も勢力を保った。

この戦いの功労者“三好長慶(範長)”は満26歳であった。この時点、つまり1548年8月12日以前に“三好孫次郎範長”から“三好筑前守長慶”に改名した事を“後鑑所収古文書”は伝えているが、それ以前だとする説もある。(東福寺文書)

26:“三好長慶”が次なる父“三好元長”の仇“三好政長(宗三)”を討つ決断をする

26-(1):“三好政長”の“榎並城“(別名十七箇所城)を三弟(末弟)“十河一存”に命じて攻撃させた“三好長慶”

1548年(天文17年)8月11日~12日:

“三好長慶”は三弟(末弟)“十河一存”に命じて“三好政長”の“榎並城“(別名十七箇所城・じゅうななかしょじょう・築城主:三好政長・城主:三好政勝・廃城1549年)を攻めさせる事を決断し(8月11日)翌日8月12日に主君“細川晴元”に“三好政長”並びに、その子息“三好政勝”(榎並城城主・後に三好三人衆の一人・政生に改名∼出家後は釣竿斎宗渭を名乗る・生:1528年・没:1569年)誅伐の許可を願い出た。

”三好政長(宗三)“は”三好長慶“の父“三好元長”を“顕本寺”で自害に追い込んだ後に“三好一族中”の有力者に伸し上がると共に、主君“細川晴元“からは深く信頼される立場に成っていた。しかし”三好長慶“にとっては父”三好元長“の仇であり”一族の統制を乱す者“として排除すべきと考え、討伐を決断したのである。

27:父“三好元長”の仇の二人目“三好政長(宗三)”を討つ・・“三好長慶天下人への戦い・第3戦“江口の戦い”(1549年6月12日~24日)

27-(1):主君“細川晴元”からの信頼が厚かった“三好政長(宗三)”の人物像

“三好政長”(室町幕府河内十七箇所代官・生:1508年・没:1549年)は“別掲図”に示す様に“三好長慶”の祖父“三好長秀”の従兄弟である。従って年齢的には“三好長慶”より、14歳、年長者であった。前6-19項で記述した様に“飯盛山城の戦い”で“木沢長政”(1542年3月太平寺の戦いで討つ)と与して“父・三好元長“を自害に追い込んだ“三好長慶”にとっては“父の仇”の一人であった。

彼は主君“細川晴元”からの信頼が厚く“太平寺の戦い”そして“舎利寺の戦い”での戦功もあり“三好氏”の総帥としての地位を固めつつあった。しかし“三好長慶”は一族の連携にとって、彼は障害となりつつあると考え“三好政長(宗三)”排除を決断していたのである。

27-(2):“三好長慶”が“三好政長(宗三)”を討つ決断をするまでの経緯と、主君“細川晴元”との対立の決断に至る経緯

”細川両家記“に決断までの経緯が書き残されているので紹介する。説明文と共に参照されたい。

(細川両家記=その1)
此三ヶ年河内と取合(戦争)の儀付て、筑前守(三好長慶)へ対し候て、宗三父子(三好政長父子)曲事の働共有
(説明)
曲事とは合戦の最中に“三好政長(宗三)”の息子“三好正勝”(政康~政生~宗渭)が戦場を放棄・放火した事、並びに“三好政長(宗三)”が主君”細川晴元“に”三好長慶“の事を讒言した事も含んでいると思われるが、もっと根本的な事は“三好長慶”が岳父(長慶の継室が遊佐長教の娘)の“遊佐長教”から父親”三好元長”が自害に追い込まれた戦闘の際、裏で画策したのが“三好政長(宗三)”であると聞かされた事である。(続応仁後記)
(細川両家記=その2)・・三好長慶が居城の”越水城”で議論した時の内容
もし又晴元(細川晴元が細川政長を)御見はなちなく、なにかと候はば、御屋形様(細川晴元)をも、御沙汰次第との内儀の由風聞なり
(説明)
若し主君”細川晴元”があくまでも”三好政長(宗三)”を保護するならば“細川晴元”をも敵とすると決議したもので、以後の”三好長慶”の動きを知る上で重要な決議があった事を記している。

27-(2)-①:“三好長慶“からの“三好政長(宗三)”並びに“三好政勝”(政生~宗渭)父子の誅殺許可願いを主君“細川晴元”が拒絶する

1548年(天文17年)8月12日:“三好長慶”が主君“細川晴元”に叛く事を決断

“三好長慶“は主君”細川晴元“近習の”田井源介“並びに”平井丹後守“等5人に一族の統率を乱す不届き者を除くと言う表向きの理由を掲げて“三好政長(宗三)”並びに“三好政勝”(政生~宗渭)父子の誅殺を願い出ている。漢文で書かれた訴状の内容が“長江正一”氏の著作“三好長慶”の98頁~100頁に紹介されている。興味のある方は参照されたい。

尚、前日8月11日には、亡き“池田信正”の居城“池田城”で内紛が起こり、家臣団は“三好政長(宗三)”派を城から追放し”三好長慶“に合力する事を誓っている。しかし乍ら主君“細川晴元”は“三好長慶”の“三好政長(宗三)・三好政勝(政生~宗渭)”父子誅殺の願いを聞き入れなかった。この結果、事態は一触即発の状態と成って行った。

27-(3):主君“細川晴元“に見切りを付け、敵方の”細川氏綱”方に乗り換えた“三好長慶”・・“主君・細川晴元”からの独立の決断

飽くまでも“三好政長”を支持する主君“細川晴元”に見切りを付け“三好長慶”は“細川氏綱”方に乗り換え、主君“細川晴元”と敵対する決断をした。“主君・細川晴元”からの独立の決断でもある。

“三好長慶“並びに3人の弟達が“細川氏綱”陣営に身を投じた形に転じた事に対して“三好一族と織田信長”の著者“天野忠幸”氏は“畿内近国の守護代、国人層がこぞって三好長慶に味方した。その要因は三好長慶が細川晴元や三好政長(宗三)を敵に回すに当たって、その理由を、単なる政争や内輪もめでは無く、主家の横暴から国人を守り、その存続を保障するという領主共通の問題を前面に押し出し、自らを彼等の利益代表者に位置付けた事が大きかった”と解説している。

27-(3)-①:“細川晴元・三好政長(宗三)”を敵に回して戦う、新しい“三好長慶”陣営に加わった顔ぶれ

“細川氏綱”方に身を投じ、主家“細川晴元”と戦う陣営の顔ぶれは“三好長慶”が再婚した事に拠って岳父と成った①“河内国守護代・遊佐長教”を中心に②“和泉国・松浦興信③丹波国守護代・内藤国貞(八木城城主・生年不詳・没:1553年)④大和国・筒井順昭(筒井順慶の父親・彼の死を隠す為影武者木阿弥を立てた史実から元の木阿弥という古事成句が生れた事が知られる・生:1523年・没:1550年)その他⑤ 池田長正(生年不詳・没:1563年)をはじめとした”摂津国人“の多くが”三好長慶“陣営に加わった。彼等が参加した理由は上記“天野忠幸”氏が解説した背景(大義名分)に拠るものである。

27-(3)-②:一方“細川晴元・三好政長”陣営に与した武将達

“細川晴元・三好政長”方として参加した武将は“一向一揆”に攻撃された“細川晴元”が一時“淡路国”に逃れた時にも同行した“摂津国茨木城主・茨木長隆”(生没年不詳)並びに“摂津国伊丹城主・伊丹親興“(生年不詳・没:1574年)等、少数の”摂津国人”そして娘が“細川晴元”の継室(後妻)であり、舅という立場の“六角定頼”(近江国守護・生:1495年・没:1552年)等であった。

27-(4):“三好長慶天下人への戦い”#3“江口の戦い”で“三好政長(宗三)”を討つ・・1549年(天文18年)6月12日~6月24日

この戦いで“三好長慶”は“三好政長(宗三)”を敵としただけで無く、彼を支持する前主君“細川晴元”更には“前第12代将軍・足利義晴”をも相手にして戦う事になった。

歴史上“江口の戦い”は“三好長慶”にとって、これ迄の主人からの“独立期”となった戦いとされる。

27-(4)-①:両軍の攻防が続き、戦闘が長期化する

1548年(天文17年)10月28日:

“三好長慶“は居城”摂津・越水城“から出陣し”三好政長(宗三)“の拠点”河内十七箇所“(鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部/現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区の中、東部/に存在した17箇所の荘園群の事)へ進軍した。此処で“三好政長(宗三)”の息子“三好政勝(政生~宗渭)”が籠城する“榎並城”(別名十七箇所城:築城主・三好政長・城主三好政勝・廃城1549年)を包囲した。

1548年(天文17年)12月:

“三好長慶”は岳父“河内国守護代・遊佐長教”(ゆさながのり・出羽の名族・生:1491年・没:1551年)並びに“和泉国守護代・松浦興信”(和泉国国人・岸和田城城主・生年不詳・没:1555年~1557年?)に支援を要請した。

こうした“三好長慶”方の動きに対して“細川晴元”は岳父“六角定頼”が、和泉国“細川元常“並びに”紀伊国の”根来寺衆徒“にも出兵を求めた。この際の書状には”三好筑前守(三好長慶)謀反“と書かれている。(足利季世記)“三好長慶”と“三好政長(宗三)”の同族間の争いで“三好政長(宗三)”を支援する“細川晴元“の舅であり支援者である”六角定頼“からすれば”三好長慶“方は主君”細川晴元“に対する”謀反“以外の何物でも無かったのであろう。戦いは決着が付かず、其の侭越年と成った。

1549年(天文18年)1月24日:

“三好政長(宗三)”は息子が籠城する“榎並城”を支援すべく、南の“池田城“を攻撃し”伊丹親興“の支援を受けて”十七箇所“に迫った。以後”三好長慶”方と“三好政長(宗三)”方の攻防が繰り返された。

1549年(天文18年)2月18日~3月1日:

“三好長慶”は“堺”に一端行き(2月18日)“河内国守護代・遊佐長教”と会談後に“越水城”に戻っている。その後“尼崎”から出陣し直した“三好長慶”は“摂津国・南中島”に向い、ここで“三好政長(宗三)”方“細川晴賢”(細川典厩家当主・生:1512年?・没年不詳)の“柴島城”(くにしまじょう:大阪市東淀川区)を攻め、開城させている。来援していた“三好政長(宗三)”は陥落した“柴島城”から“榎並城”(大阪府守口市)に入った。

堅牢で兵糧も豊富にある“榎並城”は4月に入っても落城する気配は無かった。

27-(4)-②:前主君“細川晴元”と直接に戦う事態へと発展、この事は”前第12代将軍・足利義晴“を敵に回して戦う事を意味した

1549年(天文18年)4月26日~28日:

“細川晴元”は“近江国・六角定頼“と対応を協議し”三好長慶”方の“芥川孫十郎”(三好長慶の曽祖父・三好之長の子の芥川長光の子・生没年不詳)の居城地域を迂回して“摂津国‣多田“の”塩川城“(一庫城:兵庫県川西市・別掲図参照方)に入った。(4月26日)

そして4月28日には武庫郡へ出陣し、西宮一帯を放火する等の後方攪乱戦術に出た。(細川両家記)前主君”細川晴元“と被官の”三好長慶“が直接に敵として戦う事態に突入した。“幕府管領家・細川晴元”の“家宰”という立場の“三好長慶”が“伝統的家格秩序”からすれば”至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“に於けるNO1の”将軍家“そしてNo2の”幕府管領家“を敵に回しての戦である。

”三好長慶”が”至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“に於ける”伝統的家格秩序“を崩壊させた”覇権争い・下剋上の戦闘“を”京・畿内”という守旧の地で挑んだという点で歴史的行為とされるのである。

(別掲図)“三好長慶天下取りの戦い#1~#3に関する城”を、理解の助に参照願いたい。摂津国の城址、寺を示す地図である。この図で示す“三宅城、伊丹城、池田城、芥川山城、一庫城(塩川城)”更には“江口城”等、主要な城の位置関係、並びに、四国“阿波国”を本拠地とした“三好長慶”が四国からの上陸地点である“堺”地区、或は“兵庫、尼崎”地区から徐々に“京都”を目指し制覇して行った事も良く分かる。


1549年(天文18年)5月2日~5月28日:

“細川晴元”は“三宅城”(図の池田城の右下に位置する)の“香西元成”(生:1518年・没:1560年)に命じて“山城国”と“摂津国”の国境付近という重要拠点にある“芥川山城”(別掲図三宅城の右上に位置する)の“芥川孫十郎”(三好長慶の武将として活躍、しかし後に背く・生没年不詳)を攻撃させた。“芥川山城“がある為”細川 晴元・三好政長(宗三)“軍は、迂回行軍を強いられたからである。

しかし“細川晴元”方の“香西元成”の軍勢は“三好長慶”方“三好長逸”(みよしながやす・三好長慶にとっては従叔父、一族の年長者として信頼された。三好三人衆の筆頭格・生没年不詳・別掲三好氏略系図参照方)軍に阻止された。“伊丹城”から“三宅城“へ入城した(5月5日)“三好政長(宗三)”を支援する為“細川晴元“自身も”塩川城”(=一庫城)から“三宅城”へ入った。(5月28日)

1549年(天文18年)6月11日:

“三好政長(宗三)“軍はその後”三宅城“を出て”江口城“迄、進軍した。”江口城“は”榎並城“の北”三宅城“の南に位置する重要拠点で、淀川と神崎川によって三方を囲まれた要害の地の城だった。(別掲図で三宅城の真下に位置し淀川、神崎川が交差する位置にある事を参照方)“三好政長(宗三)”の目的はここで“近江国・六角定頼”の援軍を待ち、連合して“三好長慶”方と戦う事であった。

しかし“江口城”の強みは逆に弱点でもあった。“三好長慶”はそこを見逃さず“水路”を封鎖し、その糧道を断ち、次弟の“安宅冬康“と三弟(末弟)の”十河一存“を遣って”三宅城”と“江口城”の連絡と退路を遮断し“江口城”を孤立させたのである。

27-(4)-③:“三好政長(宗三)”の最期

1549年(天文18年)6月12日:

合戦が始まった。“近江国”から来た“三好政長(宗三)”方の“新庄直昌”(近江国・朝妻城主・生:1513年・没:1549年)が討たれた。しかし“細川晴元・三好政長(宗三)”主従は“六角定頼”の援軍を今か今かと待ち、必死で劣勢に耐え、以後12日間も籠城戦を続けたのである。

1549年(天文18年)6月24日:遂に“三好政長(宗三)”が討ち死する

川舟を留て近江の勢もこず問んともせぬ人を待つか

この和歌は“近江国・六角定頼”の援軍到来を待ち乍らも危惧する“三好政長(宗三)”の心境を彼自身が和歌に詠んだものである。“足利季世記”(1487年~1571年の畿内の合戦記。作者、成立年代共に不明。第9代将軍・足利義尚や畠山政長の死に筆を起こし、1568年、織田信長が足利義昭を奉じて入京する経緯を記述している)が伝えている。

何故”六角定頼”が“江口の戦い”で支援に間に合わなかったのかに就いては“三好政長(宗三)”支援の為の増兵を行い、嫡子”六角義賢”(近江国守護・六角氏15代当主・観音寺城主・生:1521年・没:1598年)に10,000の兵を率いらせて6月24日には山城国と摂津国の国境付近”山崎”を目指して行軍し“江口城”まではあと半日で到着する処まで迫っていた事が史料から分かっている。(尚、六角義賢にとって細川晴元は姉婿という関係である)

“三好長慶”はこうした状況を見逃さず ”六角支援軍”が“江口城”に到着する前に三弟(末弟)の”十河一存”軍と共に東西から“江口城”の”三好政長(宗三)”を急襲したのである。

既に長陣で疲弊していた”三好政長(宗三)“軍は退路も断たれ、食料も底を尽いた(江口城に籠城したのは6月12日~23日の11日間だった。しかし携帯していた食料は3日間程度だった)為、最早“江口城“を支える事が出来なく成って居た。上記した”足利季世記“に紹介された”三好政長(宗三)”の和歌は、こうした状況下のものである。”三好政長(宗三)“軍は”江口城”から”榎並城“を目指して南岸へ渡った処を、この方面に陣していた“遊佐長教”の足軽に拠って討たれた。(足利季世記・続応仁後記)

”三好政長(宗三)”(当時41歳)をはじめ”高畠長直・平井新座衛門・田井源介“等800人程が討ち死にした事も記録されている。(三好政長/宗三/は榎並城へ逃避する為、淀川を南に下る際に水死したとの説がある)

メモ:
“三好政長(宗三)”は“阿波国の茶道の祖”と言われ“武野紹鴎“(生:1502年・没:1555年)に学び、名器“作物茄子(=つくもなす・九十九髪茄子=つくもかみなすの名もある)を秘蔵した。この名器は後に”松永久秀“の手に渡り“織田信長”に献上する事に拠って彼が命を繋ぎ止める事が出来たと伝わる。

27-(4)-④:榎並城趾訪問記・・訪問日2021年(令和3年)6月13日(日曜日)

住所:大阪市城東区野江
交通機関等:大阪駅から地下鉄“谷町線”で“野江内代駅”(のえうちんだいえき)まで行き下車。駅からほゞ5分程歩くと“榎並小学校”がある。此の地が“榎並城”の城郭の一部であったと推定されている

歴史等:
榎並城は“三好政長(宗三)”が築城主で上記した様に”江口の戦い”で籠城に耐えた堅城と伝わる。平安時代には摂津国・東生郡榎並荘という荘園だった。東側にあった室町幕府料所(幕府が直接支配した土地)”河内十七箇所”に因んで”十七箇所城”(じゅうななかしょじょう)とも呼ばれたとある。地域の南側は旧大和川と旧淀川の合流地点で低湿地帯である事から度々大水害に見舞われ“三好政長”は城内に”守護神”を祀った。これが“野江水神社”の始まりとある。(写真)豊臣秀吉も大坂城築城の際にこの神社に参拝したと書かれている。(1583年)

文中記述した様に1548年(天文17年)10月28日に”三好長慶”方は“三好政長(宗三)”の息子“三好政勝(政康~政生~宗渭)”が籠城する“榎並城”を包囲した。戦いの決着は付かず、戦いは長期化するが、この時が”榎並城”の名が文献上確認される最初だとされる。

父の仇”三好政長(宗三)”を討ち、更には“三好政長”支援に回った”前主君・細川晴元“並びにその背後に居た”前第12代将軍・足利義晴“をも、敵として戦う事に成った”江口の戦い”は”三好長慶独立期”と称される戦いであるが、その端緒が上述した“榎並城の包囲合戦”であった。

訪問記:
“三好長慶”の天下取りに関する史跡として”榎並城”は重要な意味を持つ史跡であるが、大阪市内の史跡という事で殆ど痕跡も残っておらず“榎並城跡伝承地”の石碑が城郭の一部だと推定される”榎並小学校“の脇に建てられているだけであった。しかし”野江内代駅”から直ぐの処に現在も“野江水神社”があり、写真に示した様に、この神社が”榎並城”築城の際に水害に見舞われ、築城主の”三好政長“(宗三)が苦労した当時の状況を伝えている。又、同神社は史実として”大坂城”築城の際の”豊臣秀吉”との関係を伝えている。
27-(4)-⑤:“三宅城”に入った“前主君・細川晴元”への攻撃を逡巡した“三好長慶”の人間性

“三好長慶”の三弟(末弟)“十河一存”(そごうかずまさ)は、敵方の“六角定頼“軍が支援に駆け付ける前の5月28日から”細川晴元“が入った”三宅城“も攻撃すべきと主張した。しかし兄”三好長慶“は”前主君・細川晴元“を攻撃する事を逡巡し、軍勢を動かそうとしなかったと伝わる。(三宅城に就いては既述の訪問記を参照願いたい)

敵となったとは言え、前主君への攻撃は流石に逡巡した律儀な“三好長慶”の人間性が窺える史実として伝えられている。

27-(5):“細川晴元”は“前第12代将軍・足利義晴・第13代将軍・足利義藤”父子を伴って“近江国・坂本”に避難する

1549年(天文18年)6月25日:

”江口(城)の戦い”で”三好政長(宗三)”が討たれた事で、彼を支援する為に”三宅城”に入って居た“細川晴元”(当時35歳)は、翌日の1549年6月25日に、戦わずして帰京した。“細川両家記・続応仁後記”には“帰京する主君・細川晴元”を“三好長慶”が次弟“安宅冬康”(あたぎふゆやす)に命じて警固させた事が書かれている。この記事も”三好長慶“の律儀な人間性を示している。

こうした“三好長慶”の気遣いを知ってか知らずか“細川晴元”は“三好長慶”(当時27歳)方の追撃を恐れ“前将軍・足利義晴”(当時38歳)並びに”第13代将軍・足利義藤(当時13歳・1554年2月12日に義輝に改名)父子を伴って“近江国・坂本”へ避難した。同行したのは“三好長慶”との“江口の戦い”で“柴島城“を明け渡した”細川晴賢“(ほそかわはるかた・細川典厩家当主・生:1512年?・没:不明)“細川元常”(細川藤隆の父親)であった。戦の結果、彼等の領国”和泉国”は“三好長慶”の手中に落ちたのである。

(別掲図:細川家家系図参照)・・細川元常は“和泉細川家“そして細川晴賢は”典厩家“の末尾にその名が書かれている


27-(6):“長慶天下人への戦い”第3戦“江口の戦い”まとめ

年月日:1549年(天文18年)6月12日~6月24日
場所:摂津国“江口城”(大阪市東淀川区)
結果:“三好長慶“軍が勝利し、父”三好元長“の仇”三好政長(宗三)“を討ち”前主君・細川晴元“は”前第12代将軍・足利義晴“並びに”第13代将軍・足利義藤(義輝)と共に“近江国・坂本”へ避難する

=細川氏綱方=
指導者・指揮官:三好長慶

遊佐長教
松浦興信
内藤国貞
筒井順昭
芥川孫十郎

戦力:3000兵

損害:不明

=細川晴元方=
指導者・指揮官:三好政長

茨木長隆
伊丹親興
六角定頼
香西元成


戦力:3000兵

損害:880兵


28:“江口の戦い”で勝利し“三好政長(宗三)”を討つた“三好長慶”は“細川氏綱”と共に上洛する・・“三好長慶政権”の始まり

1549年(天文18年)7月9日:

“三好長慶”は“前第12代将軍・足利義晴(満38歳)”並びに“第13代将軍・足利義藤(義輝・満13歳)”そして“細川晴元”達が“近江国・坂本“へ退避した後の京都に”細川氏綱“と共に入京した。“三好長慶“満27歳、そして”細川氏綱”は満36歳であった。

1549年(天文18年)7月15日:

“摂津国“には未だ”江口の戦い“で”伊丹城“を囲まれながらも城を守り通した”細川晴元“方の”伊丹城城主・伊丹親興“(いたみちかおき・生年不詳・没:1574年)が残っていた。

28-(1):“伊丹城”を開城させ“三好長慶”は“摂津の国”も征圧する

1550年(天文19年)正月~3月28日:

“三好長慶”は伊丹周辺に向城(むかいじょう・こうじょう=敵の城を攻める時にそれと相対して築く城。付け城とも言う)を築き“伊丹城”を囲んだ。そして“三好長慶”が“富松城”(兵庫県尼崎市)に入り、1550年正月から本格的攻撃を開始した。しかし乍ら“城主・伊丹親興”は城を守り通し、結果的に“遊佐長教”が仲介する形で和睦を結ぶという形で開城した。(両細川記・巌助大僧正記・足利季世記)

この結果“三好長慶”の“京・摂津国”の制圧が完了したのである。

28-(2):“三好長慶”政権がスタートしたが“政権発足当初”は横領事件等が発生する等のトラブルが頻発した

京都で“三好長慶”政権がスタートした事は“地子銭(宅地税)”の徴取が為された史実が裏付けている。一方で“三好長慶”政権の被官による横領事件が多発した事も記録されている。

重臣“松永久秀”の弟“松永甚介”(=松永長頼・内藤宗勝・誠実で武勇に優れ、三好長慶から信頼され、兄松永久秀よりも出世が早かったとされる・生年不詳・没:1565年)が主君“細川氏綱”から許可を得たとして“将軍領の山科七郷の収入”を横領したと“源助大僧正記”に記されている。

その他にも“三好長慶“の被官(近年の研究で細川氏綱の被官説が有力)”今村慶満“(いまむらみつよし・生没年不詳)に至っては、各地で横領を行った事が伝わる。又“三好長慶”の三弟(末弟)”十河一存“も、時の”第105代後奈良天皇”(財政窮乏で10年後に即位式を行った・在位1526年~1557年)”の再従弟に当たる“伏見宮邦輔親王”(生:1513年・没:1563年)の”山城国・上三栖“(現京都市伏見区)の秩序を乱した事が”言継卿記”に書かれている。

28-(2)-①:横領事件の修正に当たった“三好長慶”政権

1550年(天文19年)8月18日~11月:

こうした相次いで報告された横領事件に関して“三好長慶”政権は修正をし、問題解決に当たった事も記録されている。
“松永甚介(長頼)”が起こした“山科七郷の収入横領問題”は“醍醐寺”門主が交渉して間もなく解決したとの記録が残る。又“三好長慶”の三弟(末弟)”十河一存“が起こした“山城国・上三栖“の秩序を乱した問題も”三好長慶”自らが解決に当たったとの記録が残る。

メモ:
この頃、ゴア(インド)を発ち日本に向った“耶蘇会宣教師・フランシスコ・ザビエル“(スペイン、ナバラ王国生れ、生:1506年・没:1552年)が、1549年(天文18年)8月15日に、鹿児島に上陸し、日本の歴史に多大な影響を与える事と成る”キリスト教”の布教を開始した。”三好長慶“は居城”飯盛山城”はじめ、領国内での布教を寛大に認めた為、多くの信者を生む事に成る。この件に就いては後述する。

29:“三好長慶政権”を不満とする“第13代将軍・足利義輝”は、対決姿勢を鮮明にして行く

29-(1):“近江国・坂本”に追い遣られた“前第12代将軍・足利義晴“が、京での覇権を握った”三好長慶政権“に危機感を募らせ、京奪還の拠点として”中尾城”を築城する

1549年(天文18年)10月18日~1550年(天文19年)2月15日:

“近江国・坂本“に避難した”前第12代将軍・足利義晴“は京都奪還を考え”慈照寺“(=銀閣寺)の大嶽の”中尾“に築城を開始(1549年10月18日)した事が“足利季世記・続応仁後記”に書かれている。”南方如意ケ嶽に相連なる“とあるので下の写真に示した”如意ケ嶽”の前山、今の“大文字“(標高300m)の辺りだとされる。築城は一端中止されたが、翌1550年2月15日に再開されている。(巌助大僧正記)


29-(1)-①:“中尾城”の位置図

上記は“戦国期の京都周辺図”である。又、別掲の“この項に登場した城を表示する”図を理解の助に参照されたい。


29-(2):中尾城に入る事無く病死した“前第12代将軍・足利義晴”

1550年(天文19年)3月7日:

“前第12代将軍・足利義晴”は半年前に築城を始めた“中尾城”に入城すべく“坂本”から“穴太“(あのお=滋賀県大津市)迄辿りついた。しかしそこから先は病には勝てず、動く事すら出来なくなった。同行した”細川晴元・六角定頼・三好政勝“等の軍兵が”西院“(京都市右京区)や”大原“(京都市右京区)に出没した事で”三好長慶”方の武将“小泉秀清”並びに“今村慶満”(いまむらよしみつ・細川氏綱の被官・生没年不詳)等と小規模の戦闘があった事が伝えられている。

1550年(天文19年)5月4日:“穴太“で”前第12代将軍・足利義晴“が病没する

”前第12代将軍・足利義晴”が“穴太”で病没した。満39歳であった。“言継卿記“には”従旧冬水腫張満“(旧冬から患っていた水腫が酷く成り)と、病状に就いて書かれている。“悪性の水腫”だったと考えられている。

“墓地”の“義晴地蔵尊”を訪ねた折に得た資料には“近江国穴太(滋賀県大津市)で自害した。歴代の将軍で唯一の自害であった“と明記してある。別の資料として奉公衆の”進土晴舎“から”横瀬成繁“への書状に”自害した“と書かれたものがあり、これ等の情報を総合すれば“病気の悪化に拠って進退窮まった第12代将軍・足利義晴が自害した”とする説が史実を伝えているのではなかろうか。

29-(3):“細川京兆家”そして“畠山家・三好家”間の覇権争いの中で、利用され、京脱出を余儀なくされ“流浪将軍”と称された生涯を送った“第12代将軍・足利義晴”

“第12代将軍・足利義晴“の将軍在職期間は1522年~1547年の25年間に及んだ。(言継卿記・巌助大僧正記・長享年後畿内兵乱記)

彼の人生は“第11代将軍・足利義澄“の長男として”近江国蒲生郡・水茎岡山城”で生れ(1511年)播磨守護“赤松義村”の庇護下で養育され、その後も既述の様に“細川京兆家”の覇権争い“両細川の乱”が展開された状況下で“両細川”が大義名分を立てる為の言わば道具として、盟主に擁立された“実権無き将軍”という立場の生涯であった。

将軍職に就いた経緯も既述の通り“第10代将軍・足利義稙”が時の“幕府管領・細川高国”と対立し、京を出奔した事から(1521年12月25日)未だ10歳の少年の時に、急遽擁立されたのである。爾来、将軍在職25年、その間、後ろ盾であった“細川高国”が”両細川の乱・最終戦・第11戦・大物崩れ“(1531年6月4日)で自害に追い込まれ、その後は”堺公方・足利義維・細川晴元(細川六郎)・三好元長“が覇権を奪還する展開と成り、京都を追われている。

1532年(享禄5年、7月29日から天文元年に改元)には”近江国・観音寺城山麓・桑実寺“の境内に仮の幕府を設置し、以後凡そ3年に亘って”堺府“勢力と対立する期間を過ごした。この幕府機能移転は“朽木”への逃避の時とは異なり“奉公衆、奉行衆”を引き連れた本格的な幕府機能の移転とされ、京を離れたとは言え“第12代将軍・足利義晴”として“京都”即ち“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”との強い繋がりを維持した。その事を裏付けるものとして“三条西実隆”と“土佐光茂”に命じて作成させ、奉納した“桑実寺縁起絵巻”(重要文化財)が今日に伝わっている。

又“第12代将軍・足利義晴”は死の前日に上記絵師“土佐光茂”を呼び寄せ、自らの肖像画を描かせた事も伝わる。(万松院殿穴太記)こうした最晩年の行動からは彼の“切歯扼腕”たる生涯への思いが伝わると共に、上記“歴代将軍の中で、唯一人、自害をした将軍”とする説の信憑性が増してくるのである。

1546年末に当時10歳の嫡男“菊幢丸”(きくどうまる・東山南禅寺で生まれる・生:1536年・没:1565年5月19日)に将軍職を譲り(第13代将軍・足利義藤、1554年2月に義輝に改名)彼を後見しながら、晩年の3年半を送ったのである。

29-(4):簡素だったと伝わる“第12代将軍・足利義晴”の葬儀

“公卿補任、御湯殿上日記、万松院殿穴太記、尊卑分脉“に”第12代将軍・足利義晴“の葬儀が簡素であった事が記録されている。2021年1月25日(月曜日)に“第12代将軍・足利義晴”の墓を訪ねた。後述する訪問記にある様に、記録を裏付ける簡素な墓であった。

29-(5):“第12代将軍・足利義晴”墓地(義晴地蔵寺)訪問記

訪問日:2021年1月25日(月曜日)
住所:大阪府交野市星田9丁目60番地
交通機関等:
大阪駅からJR学研都市線(京橋駅までは東西線と呼ぶ)に乗り、星田駅で下車。大阪駅からは各駅停車(快速もあるが星田駅は停車しない)で40分程であろう。我々は時間の都合もあり、又、余り一般に知られた史跡ではない為、土地に詳しいタクシー運転手さんに案内して貰うと共に、帰りの交通の便も無い場所であった為、史跡見学の間はそのまま待って貰い、墓参、並びに写真撮影を済ませ、再び星田駅まで同じタクシーを使った。(タクシー代3000円也)

歴史並びに訪問記:
写真に示す様に、説明版には、此の地に200体に及ぶ地蔵が土に埋もれていたのを掘り起こし、ひな壇に整列し、風雨に晒される事の無い様、屋根を建設する等、協賛者(120名を超える)を募り、地域の人々に拠ってこの史蹟を大切に守って来たとの、この史蹟の由緒が書かれている。

この地蔵について調査した結果、此処が室町時代“第12代将軍・足利義晴”の墓である事が判明したとあり“第12代将軍・足利義晴“の奥方が”足利義晴“の墓と共に200体の地蔵を敵味方の区別無く、菩提を弔い、篤く祀ったと書かれている。 こうした由緒からこの史蹟を“義晴地蔵寺”と名付けたとの事である。
30:第13代将軍“足利義藤(義輝)”を奉じて“三好長慶”との戦闘準備を整えた“細川晴元“

30-(1):父“第12代将軍・足利義晴”の中陰(四十九日法要)が済むと“細川晴元”に奉じられて“中尾城”に入った“第13代将軍・足利義藤(義輝)”

1550年(天文19年)6月9日~7月8日

父“第12代将軍・足利義晴”の中陰(四十九日法要)を済ませた“第13代将軍・足利義藤(義輝)”は“細川晴元”に奉じられ“中尾城”に入った。(6月9日)ここで“細川晴元”は“紀伊国・粉河寺“(和歌山県那賀郡粉河町)等の兵を集めている。

集まった武将としては①“香西元成“(三好政長の子息の三好宗渭、三好為三兄弟と行動を共にして三好長慶に抵抗し続けた武将・生:1518年・没:1560年)②“三次政勝”(出家して三好宗渭と名乗る・三好3人衆の一人・真田十勇士の三好清海入道のモデルと伝わる人物・生:1528年・没:1569年)③“塀和通祐”の名が“後鑑所収古文書”(のちかがみ=江戸幕府に拠って編纂された室町幕府15代の歴史書。編年体で記録、戦記、古文書が掲載されている)に見える。

彼等は麓の吉田、浄土寺、北白川へ進軍した(7月8日)と“言継卿記”が伝えている。

31:“細川晴元”並びに“第13代将軍・足利義藤(義輝)“軍と“三好長慶”軍とが合戦と成る・・“三好長慶天下人への戦い”#第4戦・中尾城の戦い“(1550年11月21日)

31-(1):“中尾城の戦い”・・その#1“東山の戦い”

1550年(天文19年)7月15日:

“三好長逸”(みよしながやす・三好長慶の従叔父に当たる・三好三人衆の筆頭格・松永久秀と共に三好政権の双璧と称された・生没年不詳)その子息の“三好長虎”(弓介、久介、久助、生長とも伝わる・生没年不詳)“三好長慶”の三弟(末弟)“十河一存“等18,000人の”三好軍“が上洛し、一条の辺りまで進んだ。

”第13代将軍・足利義藤(義輝)“方も応戦して市街戦となったと伝わるが、この戦いで、主力の”細川晴元“軍は“中尾城”を動かず、足軽百余兵が出撃しただけであり、又“細川晴元”軍の援軍”六角軍“も北白川に留まった侭で動いていない。(中尾城,北白川の位置については別掲図・この項に登場する城を表示する・を参照方)左程に、戦闘は小規模であり“三好軍”は山崎へ引き挙げたとある。(東山の戦い)しかし、この小さな戦闘で歴史上注目すべき事が起きた。

31-(1)ー①:日本初の鉄砲が使用された戦いとされる

“三好長慶”方の“三好長虎(弓介)”軍の与力の一人がこの戦いで、敵の“細川晴元”方が放った鉄砲に当たり戦死した事が”山科言継“の日記”言継日記“に伝えられている。これが日本で初めて合戦で鉄砲が使われた事が記録された事例である。

この戦いの前年1549年(天文18年)4月18日に“細川晴元”が鉄砲を“本能寺”に送った事が“徴古文書甲集“に記されている事と合わせ”細川晴元“軍はこの記事から1年余りで鉄砲を実践で使用した事を裏付けている。

鉄砲が伝来したのはこの戦いの7年前の1543年(天文12年)で、その製法は九州から根来(和歌山県岩出市)に伝わり、次いで“堺”(逆に堺から根来に渡ったとの説もある)そして“近江国・国友”に広がり、使用が急に拡大したとされる。この“中尾城の戦い”から5年後の“1555年7月”に“長尾景虎(上杉謙信)”と“武田晴信(信玄)“が戦った”川中島の戦い”に“武田”方が300丁の鉄砲を所有していたとされる。

“三好軍”も1558年(永禄元年)の記録、並びに1561年(永禄4年)7月~8月の記録から、相当数の鉄砲を所持していた事が伝わり、戦国期の戦闘で鉄砲が相当の早さで主力の武器に成って行った事を裏付けている。

31-(1)ー②:京都で徐々に評判を上げて行った“三好長慶政権”の一方で、京都市民は敵対する“細川晴元”軍の兵に悪口を放つ等の様子を伝える記事が残る

“言継卿記”は1527年(大永7年)~1576年(天正4年)に至る50年に亘って書かれた日記であり、戦国期の政治情勢を知る上で貴重な史料であるだけで無く、有職故実、芸能、更には著者の“山科言継”(やましなときつぐ・正二位権大納言・後奈良天皇、正親町天皇に仕えた・生:1507年・没:1579年)は、医療にも精通して居り、彼自身が治療に携わった医療行為の記録も残している。現存する日本で最古の“診療記録”とも言われる。

この日記を残した“山科言継”は財政窮乏の朝廷に在って、財政の建て直しを図るべく収入の最大の財源である諸大名からの献金獲得の為に各地を奔走した。献金獲得の為には“人脈形成”が重要であり、彼は蹴鞠、和歌、双六等にも優れていた事から、諸大名に伝授する事で幅広い人脈を形成したと伝わる。“織田信長”の父“織田信秀”(生:1511年?・没:1552年?)を訪問し、人脈作りをした事で“天皇”の即位式の献金獲得の基礎造りを行った事も知られている。

尚“織田信秀”は1543年に朝廷に4000貫文(1貫=1000文、又は960文 1文を25円とすると25円x1000文x4000文=約1億円)を献上し、朝廷を重視した事が伝わる。この姿勢は息子の“織田信長”にも受け継がれた。その“言継卿記”に下記記述がある。

京中之地子、東衆不及競望如去年云々、寺社本所領如先規可出之由三好下知云々、自東方寺社本領以下雖押之、地下不能承引く云々

この記事は“江口の戦い”(1549年6月12日〰6月24日)で勝利し“三好政長”を討った“三好長慶”が“細川氏綱”と共に上洛し、京都の行政を取り仕切る様になり、事実上の“三好長慶政権”が開始された。

当初は“三好長慶”が“地子銭(宅地税)”を徴取した事に対して、その横暴を伝えていたが、時間の経過と共に京都の人々が”競望“(けいぼう=我勝ちに争い望む事)する事も無く、その後、上記した様に”三好方“が政治を改めた事で、京都市民は“地子銭(宅地税)”等を“三好長慶政権”の下知に従って出す様に成り、次第に”三好長慶政権”の評判が良く成った事を伝えている。

この様な京都市民の変化もあり“三好長慶”方と“細川晴元”方との市街戦が始まると、公卿達は宮廷の築地(ついじ=泥で塗り固め瓦で屋根をふいた塀)の上で“細川晴元”軍に対して悪口を放ち乍ら“九(ここのつ=正午)“迄、戦闘の様子を見物した事が記されている。下記の文面がそれである。

細川右京兆(晴元)人数、見物之諸人悪口

31-(2):“第13代将軍・足利義藤(義輝)”並びに“前主君・細川晴元”との戦闘回避に動いた“三好長慶”

1550年(天文19年)8月3日:

“三好軍”は再度東山の“第13代将軍・足利義藤(義輝)”並びに、将軍と共闘する”細川晴元”軍、すなわち“幕府軍”と交戦したが、戦いは小規模なものであった。その理由は“三好長慶”が“第13代将軍・足利義藤(義輝)“そして前主君”細川晴元“との戦を躊躇し、回避しようとしていたからだとされる。

“三好長慶”が父の仇として戦った“三好政長”を討伐し、既に滅ぼした。ところが“第13代将軍・足利義藤(義輝)“並びに”細川晴元”は“三好政長”を滅ぼし“細川氏綱”と組んだ形で京を征圧し、実質的に“三好長慶政権”を樹立させた事態を許す訳には行かず、飽くまでも、戦いを挑んで来たのである。

こうした状態は決して“三好長慶”が望むものでは無く、彼自身は極力、戦闘回避に動いたとされる。しかし乍ら“三好長慶”の主家という面目から“細川晴元”は徹底して抗戦的態度を崩さなかった。それを裏付けるのが“細川晴元”が越前国“朝倉氏”に出兵依頼の為に下向したという史実である。“言継卿記”には細川右京兆越前へ下向と明記されている。

1550年(天文19年)10月16日:

しかし乍ら、飽くまでも”将軍”並びに”前主君“との戦闘回避を望む“三好長慶”は“六角義賢”(ろっかくよしかた・六角定頼の嫡男・父六角定頼は1552年に没するが、父の晩年であるこの時点では、共同統治を行い、姉婿に当たる細川晴元を支援した・生:1521年・没:1598年)を通じて“和睦”を申し込んでいる。

これを裏付ける史料が“後鑑所収古文書”に残る“第13代将軍・足利義藤(義輝)“及び側近”大館晴光“(おおだちはるみつ・姉妹が足利義晴の側室・将軍足利義輝時代に越後の長尾景虎との交渉役を担う・生年不詳・没:1565年)の書状である。そこには“三好長慶懇望(筑前守懇望)で談合最中“と記されている。

31-(3):“三好長慶”の懇望は達せられず戦闘に入る・・三好長慶天下人への戦い第4戦“中尾城”の戦いその#2“中尾城の戦い(本戦)”

31-(3)-①:戦いを仕掛けて来たのは“細川晴元”からであった

1550年(天文19年)10月20日:

“三好長慶”の懇望は達せられず“細川晴元”方の兵が“中尾城”から鴨川畔へ出撃して来た。“三好長慶”方の“十河一存・芥川孫十郎・三好長逸”等がこれを防いだ。

31-(3)-②:“中尾城”の戦いが“本格的戦い”へと拡大する・・本戦(1550年11月21日)

1550年(天文19年)11月19日:

“細川晴元”方の執拗な攻撃に対し、遂に“三好長慶”も積極的攻勢に踏み切らざるを得なくなった。”中尾城”麓の“聖護院・北白川・鹿谷・田中”等を放火し、威圧したのである。

1550年(天文19年)11月21日:

更に“三好長慶”は近江国への派兵を企て“松永長頼”(=内藤宗勝・松永久秀の弟・丹波国・八木城城主・後のキリシタン追放令でルソンへ追放された内藤如安/ジョアン/の父親である・生年不詳・没:1565年)等を“近江国”に入らせた。大津、松本等に放火した為、この進撃に驚いた”第13代将軍・足利義藤(義輝)”は“中尾城”を焼き”近江国・坂本“に逃れ、更に北の“近江国・堅田”に退いた。(厳助大僧正記・言継卿記)尚、別の説として11月23日に“三好軍”が“中尾城”を破却したとする記述もある。

”第13代将軍・足利義藤(義輝)”方が退いた為“三好長慶”は当面京都の安全が確保されたとして“摂津国”に帰った。

将軍不在、幕府不在の京都に於いて、治安を守り、統治を行う事に就いて“三好長慶”は独自の政治体制を執ったとされる。この事は“三好長慶”の京・畿内に於ける覇権掌握、つまり“天下取り”の形が“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”が、之まで拘って来た“将軍家”を大義名分の上から擁立するという“伝統的血統信仰”から脱したという点で、特筆すべき行動とされる。

“織田信長“を”戦国時代を終わらせた“天下人・覇者“とするならば”三好長慶“がその先導役と位置付けられる所以であろう。

31-(4):三好長慶天下人への戦い第4戦“中尾城の戦い”(本戦)の纏め

年月日:1550年(天文19年)11月21日
場所:山城国中尾城(京都市左京区浄土寺)
結果:“幕府方”(第13代将軍・足利義藤並びに細川晴元方)の“中尾城”が落城する

交戦戦力
三好長慶軍

指揮官:三好長慶


戦力:不明
損害:不明
交戦戦力
室町幕府軍・・将軍足利義藤(義輝)

指揮官:足利義藤(義輝)
:細川晴元

戦力:不明
損害:不明

1551年(天文20年)1月30日:

“中尾城の戦い”(本戦)で中尾城を焼き、敗れた“第13代将軍・足利義藤(義輝)”方は“近江国・堅田”に退いた。その後の“京”には平穏が戻ったとされる。この間、将軍側近の“伊勢貞孝・一色七郎・進士賢光・春阿弥・祐阿弥“等が”第13代将軍・足利義藤(義輝)“を京に帰還させようと”三好長慶“との和睦を企てたが失敗し、京に逃げ帰った事が”言継卿記・巌助大僧正記“に書かれている。

1551年(天文20年)2月7日:

“三好長慶”はこうした動きに対して“松永久秀”の弟の“松永長頼”等を再び“近江国“に進入させた為”第13代将軍・足利義藤(義輝)“は”細川晴元“が姉婿という関係の”六角義賢“のアドバイスを受け入れ、更に西北の”朽木“(滋賀県高島郡朽木村)へ逃れている。(同年2月10日)

”第13代将軍・足利義藤(義輝)“が”近江国・朽木“に退いた事に、将軍側近の“伊勢貞孝”(いせさだたか・室町幕府政所執事・第12代将軍足利義晴臨終の際に枕元に侍り、子息第13代将軍・足利義藤/義輝の補佐を遺言された事が伝わる・生年不詳・没:1562年)は反発し、奉公衆の“進士賢光”等と共に“三好長慶”方に鞍替えする、という事態と成った。以後“伊勢貞孝”は“三好長慶”に与して”細川晴元“方と武力闘争を展開する事に成る。

32:“三好長慶“の暗殺を謀ったとされる”暗殺未遂事件“が2度も起こる・・1551年3月7日、3月14日

32-(1):1件目の“三好長慶”を狙ったとされる放火未遂事件

1551年(天文20年)3月4日~3月7日:

“三好長慶”は兵1000人余を連れて与党として加わった“伊勢貞賢”邸で催された酒宴に参加した。その3日後の3月7日に、返礼として“三好長慶”が“伊勢貞賢”を吉祥院の宿所で招宴した。この史実からは、京都の政治に関して“将軍・足利義藤(義輝)”の側近であった“伊勢貞賢”が“三好長慶政権”の協力者と成った事が分かる。

この時“吉祥院焼き討ち”の企てがあった。それを“言継卿記”が以下の様に伝えている。

小童忍入,可焼討之造意云々。彼小童召取(捕拷)強問、今朝(八日)近所之物取(者捕)之、但他行云々。於下京両人召取、晩天(夕方)三人生害云々。六十人許同類有之云々

32-(2):“三好長慶”を狙った2件目の暗殺未遂事件

1551年(天文20年)3月14日:

3月14日に“三好長慶”は再び“伊勢貞孝”の宿所に出掛けている。そこで“三好長慶暗殺未遂事件“が起こった。“言継卿記”には2日に分けてその様子を記している。

十四日、伊勢守(貞孝)宿所へ三好筑前守(三好長慶)罷向、将棊有之云々。次乱舞有之。及黄昏(たそがれ)於彼亭奉公衆進士九郎(賢光)自害。酔狂云々。仍則三好帰了。伊勢守送之云々。無殊事但近辺揺動了。

(要旨)
3月14日に“三好長慶”は再び“伊勢貞孝”の宿所に出掛けた。棋や乱舞(猿楽法師の演じる舞、仕舞)等の饗応があり、夕方になった頃、奉公衆の“進士賢光”が自害したとの話が入った。酒に拠った上での事だとの噂であったが、周囲には動揺が広がった。“伊勢貞孝“が“三好長慶”を送り届ける形でその場から引き揚げた。”三好長慶”には何事も無く、無事であった。

1551年(天文20年)3月15日:

14日の記事は“山科言継”が他人からの又聞きで書いた事であった。それが正確では無かった事を知った彼は、翌日の日記で以下の様に修正している。

十五日、今朝風聞、進士九郎(進士賢光)、三好筑前守(三好長慶)を三刀築(突)之云々。
生死取々沙汰未定也。直に山崎へ各罷越云々。伊勢守(伊勢貞孝)以下奉公衆・奉行衆各罷向。三好於死者、伊勢守以下可生害云々

(要旨)
3月15日、今朝、昨日の事件に就いて聞いた処“進士九郎”(進士賢光)は“三好長慶”に3度切り突けたとの事である。“三好長慶“の生死に就いては分からないが、用心の為”山崎“に退いたとも伝わる。”伊勢貞孝“以下、奉公衆、奉行衆も”三好長慶“を守って、同行したと伝えられる。

32-(2)-①:負傷したが命を取り止めた“三好長慶”

”三好長慶“の負傷に就いては”二刀有通“と書かれ、又”手数ケ所之負“と書かれている。襲った“進士九郎(進士賢光)”は“自害・即座自殺”と記している。(厳助大僧正記・長享年後畿内兵乱記)何故襲撃に及んだかの理由については“三好述懐”と書き“三好長慶“への遺恨であった。更に”細川両家記“には
所様(将軍足利義藤/義輝)より被仰付たる共申候、又本地(本領)依不渡と申候
“第13代将軍・足利義藤(義輝)”の指示があったかの様な記述が見える。

“足利季世記”では“三好長慶”が“進士九郎(進士賢光)”の刀を防いだ様子を伝えている。同伴していた同朋(茶坊主)が“進士九郎”(進士賢光)を抱きとめたとあり“心はやき三好長慶”が、床にあった枕で刀を受け止めたのである。

“言継卿記”の3月16日~23日条に、その後“三好長慶”が見舞いの使者や客に対応している様子が書かれている。軽傷であった事を裏付けている。

32-(3):“三好長慶“を巡って起きた放火、暗殺未遂事件の混乱に乗じた動きが起こり“三好方”が対応する

1551年(天文20年)3月15日:

“京”で起きた上記の“放火”並びに“暗殺未遂事件”に呼応するかの様に下記事件が起きている。“三好長慶”暗殺の動きの根が深かった事を裏付ている。

“丹波国・宇津”(京都府北桑田群京北町宇津)から“細川晴元”の忠実な家臣“香西元成”(こうざいもとなり・讃岐国勝賀城城主・生:1518年・没:1560年)が、彼が後見する“三好政長”の遺児“三好宗渭”(みよしそうい・三好三人衆の一人・生年:1528年・没:1569年)並びに“三好為三”(みよしいさん・三好宗渭の弟・摂津榎並城主・96歳まで生きた長寿で、真田十勇士の三好伊三入道のモデルとされる・生:1536年・没:1632年)兄弟、並びに“柳本・宇津”等と共に、東洞院の二条から五条へ進軍、声門師村・東山等に放火するという“反・三好長慶”事件が起きたのである。

32-(3)-①:迎え撃った“三好長慶”方

1551年(天文20年)3月16日:

こうした”細川晴元”方の攻撃に対し“三好弓介”(三好長虎・生没年不詳)等が20,000の兵力で迎撃した。千本から北野、西賀茂を掃討し、東山も打廻している。結果“香西元成”等の“三好長慶”暗殺未遂事件によって生じた混乱に乗じた“反三好長慶政権”攻撃は成功しなかった。

33:京に於ける“三好長慶”の絶大な勢力を見て“阿波国・平島”で病身だった“足利義維”は“将軍不在”の京は、自分の代わりに嫡子を将軍候補に立て、入京するチャンス到来と考え“本願寺第10世宗主・証如“を頼るが、拒否される

1551年(天文20年)4月7日:

ほゞ4年前の1547年7月~11月“舎利寺の戦い”の後”元堺公方・足利義維“は、自身の将軍就任チャンス到来と考えたが、その夢は忽ちの中に打ち砕かれた事は既述の通りである。その後“阿波国・平島“でひっそりと暮らしていた彼は”京“を中心に起きている状況を知り、今度こそはと“京都”を事実上“掌握”した“三好長慶”の力を頼って“将軍不在の京都”で再び将軍就任の夢を実現させようと考えたのである。

しかし乍ら、自身(当時42歳)は中風を患って居る事から、代りに”平島“で生れた、当時13歳の嫡子“足利義親”(後に足利義栄に改名、第14代将軍と成る・生:1538年/1540年説・没:1568年)を先ずは元服させる事を急ぐべく“本願寺第10世宗主・証如(光教)“に、子息の元服の費用を無心したのである。

この懇請に対して“本願寺証如”はこうした“元服”に関する要請は“知行”を有する人に頼むべきで、当方に頼まれては迷惑だとはっきりと断り、応じなかった。それを裏付ける下記文書が残されている。

如此之題目、知行所持之輩へ可被仰付之処、此方へ承り候事迷惑至候、難相調

この状況に“本願寺第10世宗主・証如(光教)“の母親”慶寿院鎮永尼“(けいじゅいんちんえいに・生:1493年・没:1571年)が気の毒にと思い、元服の費用という形では無く、2000疋(注記:1疋は25文、1文を現在価値25円で換算する/諸説があるが/2,000疋は50,000文、50,000文x25円=125万円程)を太刀、馬代として“久しく申し入れざるの間(ご無沙汰しているから)”という手紙をつけて贈った事が“証如”自身の日記“天文日記”に書かれている。

“元堺公方・足利義維”は嫡子の元服費用も無い、苦しい財政状態だった事が分かると共に“阿波国主・細川持隆“又、その被官であり”三好長慶“の長弟”三好実休“にも頼む事が出来ない状況だった事は“阿波国”に於いても無力であった事が分かる。

この後“足利義維”は更に22年間生き、1573年に病没する。自身は将軍職に就く事は出来なかったが、執念が実ったとでも言うべきか、嫡子“足利義親(後に義栄に改名)”が“三好三人衆”に擁立され、1568年2月に“第14代将軍・足利義栄”(あしかがよしひで・在職1568年2月~9月・生:1538年/1540年説・没:1568年9月/1568年10月説)に就くという展開と成るのである。

しかし乍ら、子息“第14代将軍・足利義栄”は“三好三人衆”と“松永久秀”との抗争の渦中に在って“実権の無い将軍”であったばかりか、背中に悪性腫物を患い、京に一度も入る事も出来ないまゝ病床にあった。この間、政情は更に悪化し“第14代将軍・足利義栄”を擁立した“三好三人衆”は“足利義昭”を擁立した“織田信長”軍が上洛する際の戦いに敗れ(1568年9月)、忽ちの中に“畿内”に於ける勢力を失い“阿波国”に逃れる展開と成るのである。

後ろ盾を失った病床の“第14代将軍・足利義栄”の病状は悪化の一途を辿り、病没する。病没した場所に就いては①阿波国②淡路国③摂津国・普門寺の諸説があり、又、没した日に就いても㋐9月13日㋑9月30日㋒10月1,8,20,22日の諸説がある。

子息“第14代将軍・足利義栄”の後見をしていた“足利義維”は、子息が病没した事で、再度“阿波国”に引き揚げ、その5年後の1573年に満64歳で覇権争いの道具として利用されただけの不満な人生を終えるのである。

34:“三好長慶天下人への戦い”第5戦“相国寺”の戦い

1551年(天文20年)7月14日~7月15日:

“中尾城の戦い“に敗れ”中尾城”を自焼して“近江国・堅田”に逃れた“第13代将軍・足利義藤(義輝)“並びに”細川晴元“そして随伴する家臣達は、決して”京奪還“の為の戦いを止めなかった。

”細川晴元“方の武将で、既出の”三好政長”の子息“三好為三”(みよしいさん・三好宗渭の弟・摂津榎並城主・96歳まで生きた長寿で、真田十勇士の三好伊三入道のモデルとされる人物・生:1536年・没:1632年)並びに“香西元成”等は、兵3000余りを率いて再度入京し“船岡山”から“等持院”を経て“相国寺”に陣取ったのである。

こうした敵方の動きに対し“三好長慶”方は迎撃体制を取り“松永久秀”そして弟の“松永長頼”が摂津国、丹波国、阿波国、和泉国から40,000の兵を集め“相国寺”を包囲し、攻撃、放火したのである。戦いは明け方まで続き“相国寺”は炎上し“三好為三”並びに“香西元成”等は7月15日の朝“丹波国“へ敗走した。(厳助大僧正記・長享年後畿内兵乱記)

34-(1):“三好長慶天下人への戦い”第5戦“相国寺の戦い”の纏め

年月日:1551年(天文20年)7月14日~15日
場所:山城国西陣“相国寺”・・京都市上京区
結果:“三好長慶”軍の勝利

三好長慶軍
指揮官:松永久秀
松永長頼(松永久秀の弟)

戦力:40,000兵
損害:不明
細川晴元軍
指揮官:三好政勝(為三?)
香西元成

戦力:3,000兵
損害:不明

35:“京奪還”が不可能だと悟った“第13代将軍・足利義藤(義輝)“方は”近江国・六角定頼”の仲介で“三好長慶”方と和睦する

1552年(天文21年)1月:

“相国寺の戦い”で敗れた“第13代将軍・足利義藤(義輝)“の支援をバックにした”細川晴元“は”三好長慶“方による京支配を武力で排除する事は不可能だと悟り、再び“近江国守護・六角定頼”の斡旋で“三好長慶”方との和睦に動いた。

35-(1):“六角定頼”が病死し“六角義賢”が斡旋役を引き継ぐ

1552年(天文21年)1月2日:

“第12代将軍・足利義晴”の擁立に“細川高国”と共に協力するという貢献を果して以来“足利将軍家”の信頼を得て、中央政治にも介入する等“近江国守護・六角家”の全盛時代を築き上げた“六角定頼”が1552年1月2日、満56歳で病没した。

父の晩年から“共同統治”という形で跡を継いでいた嫡男“六角義賢”(ろっかくよしかた・六角氏15代当主・近江国守護・観音寺城城主・生:1521年・没:1598年)が斡旋役を引き継いだ。“六角義賢”の使いは“進藤某”であり“三好長慶”側の使いが“楢崎某“と”日良上人”であった事を“続応仁後記・足利季世記”が伝えている。

今回の和睦で成立した条件は下記4条件であった。“細川晴元”を完全に失脚させ、その代わり“将軍・足利義藤/義輝“を帰京させる内容である。

1:細川晴元家督の御望みなく御出家為し奉りぬ・・(細川晴元は出家、引退する)
2:細川晴元の若子をば後に三好取立申さるべし・・(当時4歳の細川晴元の嫡子聡明丸が元服したら家督に取り立てる事)
3:先ず細川氏綱を家督になをし申され・・(細川氏綱を京兆家の家督とする)
4:公方様(第13代将軍・足利義藤/義輝)御上洛あるべし・・(将軍の京帰還)

36:“相国寺の戦い“後の上記和睦条件に拠って”第13代将軍・足利義藤(義輝)“が京に帰還する

1552年(天文21年)1月23日~1月28日:

上記した“和睦”条件の第4項に拠って”第13代将軍・足利義藤(義輝)“は、朽木谷に随行していた”近衛稙家“(このえたねいえ・近衛家16代当主・関白太政大臣・生:1502年・没:1566年)を筆頭に3,000の兵を率いて“近江国・朽木“を出発し、比良、坂本を経て1月28日に逢坂で“三好長逸・松永久秀”等の出迎えを受け、同日、未下刻(ひつじげこく=午後3時)摂津・丹波・大和・和泉国の兵が町筋を警備する中、上洛した。

この折、当時4歳の“細川晴元”の嫡子“聡明丸”(細川京兆家19代当主・後に昭元~信元~信良に改名し最終的に昭元に戻している・生:1548年・没:1592年/1615年説あり)は“三好長慶”の嫡男“千熊丸”(後の三好義興・当時10歳)に迎えられ“東寺“に入った。(言継卿記・巌助大僧正記)これは上記“和睦”条件の第2項に準じた行動である。

“細川晴元”は和睦条件の第1項に準じて出家、引退の上、実質的に“京”を追われた。“細川京兆家”はここで事実上、滅亡したのである。“和睦条件”の“第2項”が意味する処は“細川晴元”の嫡子“聡明丸”を言わば“三好長慶”監視下の“人質”とする事であった。

37:出家を強要され“心月一清”と号した“細川晴元”であったが、心中では尚も“三好長慶“に屈しなかった

37-(1):細川京兆家の家督を“細川氏綱”に奪われた上に“出家”をさせられた“細川晴元“の屈辱

”細川晴元“は”相国寺の戦い“で敗れた後の“和睦条項の第1項”によって剃髪をし、出家を余儀なくされた。しかし“三好長慶”が“第13代将軍・足利義藤“(義輝)を擁した形で政治の実権を握るという”新体制“をスンナリと認め、沈黙する彼では無かった。彼は以後も執拗に抵抗を続けるのである。

37-(1)-①:“細川氏綱”が彼の養父“細川高国”並びに、実父“細川尹賢”の“仇”を取ったに等しい人事上の処遇を得た事も“細川晴元”にとって、耐え難い屈辱であった

1552年(天文21年)1月26日:

“和睦条件の”第1項と第3項”に関する人事が行われ“故・細川高国”の養子でもある“細川氏綱”が“細川京兆家18代当主”に就いた。“細川氏綱”の実父“細川尹賢”は前項6-19項(40-1参照方)で記述した様に“細川晴元”に拠って入水自殺に追い込まれた人物である。従ってこの人事は”細川氏綱”にとっては“実父・細川尹賢”並びに”養父・細川高国”両人の仇を討ったに等しいものであった。

37-(1)-②:“幕府管領職”に就く為の前提条件とされる“従五位下・右京太夫”に叙任された“細川氏綱“

1552年(天文21年)3月11日:

“歴名士代”には“細川氏綱”が“幕府管領職就任”の前段階とされる従五位下、右京太夫に叙任された記録が残る。この事と上記“細川高国”の跡目相続をした事とを併せて“細川氏綱“が”第35代幕府管領“に就いたとする説がある。これに就いては前項(6-19項10-4参照方)で検証した様に、史実としてそれを裏付ける公的な記録は無い。

37-(2):出家後“若狭国守護・武田信豊”を頼って若狭国に出奔した”細川晴元”(心月一清)

1552年(天文21年)1月28日~3月12日:

出家して“心月一清”と号した”細川晴元”ではあったが“堅田“から出奔した。行った先は”葛川“(滋賀県大津市)であった。更に其処から”細川氏綱“が従五位下、右京太夫に叙任された翌日の3月12日に“若狭国(福井県)守護”で、共に妻が近江国“六角定頼”の娘で“細川晴元”は義理の兄に当たるという関係の“武田信豊”(父親は武田元光・若狭武田氏7代当主・生:1514年・没:1580年?)を頼った。

”細川晴元“としては飽くまでも”京都奪回“を諦めなかったのである。

38:この時点での室町幕府の3役体制(1552年2~3月)

1552年(天文21年)2月26日:

“三好長慶”は“御供衆”(おともしゅう・記録にはっきりと現われるのは8代将軍・足利義政/在職1449年~1474年/の時期とされる。時代と共に変遷するがこの時期は将軍の旗本、馬廻りとも言うべき奉公衆/親衛隊の番頭の事で、その待遇は管領家・侍所頭人・守護家に次ぐものであった)に任じられた。

実権力の上では時の“第13代将軍・足利義藤(義輝)”並びに“管領家・細川氏綱”を凌駕していた“三好長慶”であったが“血統信仰”に基づく“家格秩序”がまだまだ存在したこの時点では、形式的にではあるが室町幕府体制に於ける三者の序列関係は以下であった。 

①位:第13代将軍・足利義藤(義輝)②位:管領家細川氏綱(既述の様に公式に管領職に任じられたとの記録の裏付けは無いが)③位:御供衆・三好長慶

1552年(天文21年)10月27日:“霊山城”の築城を開始

京に戻った“第13代将軍・足利義藤”(1554年2月に義輝に改名する)は“霊山城”の築城を開始した。(別掲図:この項に登場する城を表示する O印参照方)


表面上は“将軍・足利義藤”(1554年2月に義輝と改名する)と“三好長慶”が手を結んだ体制が出来た訳ではあったが、上述した様に“細川晴元(心月一清)”一派は尚も京奪還を画策して居り、この築城は触れ込みの上では“将軍・足利義藤(義輝)”と“三好長慶”が連携して洛中に出没する“細川晴元(心月一清)“方に拠るゲリラ軍からの防衛の為、となっていたが、実態は違っていた。

“細川晴元”に擁立されたという経緯を持つ“第13代将軍・足利義藤(足利義輝)”にとって、決して良好とは言えない“三好長慶”方との関係はいずれは袂を分かつ事に成るだろうと想定しており、今回の“霊山城築城”はその時の準備というのが実情であった。

1552年(天文21年)11月27日:

築城開始から僅か1カ月後の“言継卿記”に“第13代将軍・足利義藤”(当時16歳)が“霊山城“に入城した事が書かれている。そして”細川晴元(心月一清)“一派の進攻に対処する為と、表面上、糊塗していた築城の実態が次第に“細川晴元(心月一清)”方に味方する為のものである事が明らかに成る。

39:開始された“細川晴元(心月一清)”方に拠る“京奪還”の軍事行動

39-(1):“清水坂”の戦い・・“細川晴元(心月一清)”が京奪還の戦いを”三好長慶”に挑む

1552年(天文21年)11月27日:

“第13代将軍・足利義藤”(足利義輝)が上記“霊山城”の築城を開始し、僅か1カ月後に入城(11月27日)そしてほゞ時を同じくして“細川晴元”(心月一清)方の兵3000が“西岡”(山城国西部:西山丘陵から桂川右岸の地域)に現われ、周辺を放火した後、嵯峨(天龍寺/京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町、並びに大覚寺/京都市右京区嵯峨大沢町がある地域)に着陣した。

これに対して“三好長慶”方の“小泉秀清”並びに“中路修理”等は“西院小泉城”(阪急西院駅の西側、佐井通りの西の一角が城域・洛中唯一の中世城郭とされる・京都市中京区)を自焼し“東山霊山城“に合流した。(言継卿記・源助大僧正記)

1552年(天文21年)11月28日:

翌日(11月28日)“細川晴元(心月一清)”方は“三好長慶”方が合流した“東山・霊山城”に向けて進撃した。“言継卿記”にこの様子が以下の様に記されている。
牢人衆西邊方々放火、辰刻計靈山ヘ取懸、五篠坂悉放火、建仁寺之大龍十如二塔頭悉炎上了、乗拂無之、清水之坂にて軍有之、但討死無之、手負左右方六七人宛有之、云々、午時引之

(解説)
“細川晴元(心月一清)”方は“五条坂”へ押し寄せ、放火し“建仁寺塔頭”の“大龍十如両院”を悉く炎上させ乍ら進軍し“霊山城”から出撃した“将軍・足利義藤(義輝)”方の兵と“清水坂“で合戦となったが、双方に戦死者は出ていない。負傷者は6~7人出た様だ。

この戦いは“清水坂の戦い”と呼ばれ“細川晴元(心月一清)”方が“三好長慶”が京の“覇権”を握った事に飽くまでも抵抗する姿勢を示した戦いであった。この時点では未だ“相国寺の戦い”以降“三好長慶”と和睦し、擁立された形の“将軍・足利義藤(義輝)”(当時満16歳)は、表面的に“三好長慶”並びに“細川氏綱”と連携する形を装っていたのである。

しかし“細川晴元(心月一清)”と“三好長慶”の戦いの端緒と成ったこの“清水坂の戦い”以降“将軍・足利義藤(義輝)”は“三好長慶”並びに”細川氏綱”の連携から“細川晴元(心月一清)”支持を鮮明にして行く。

39-(2):“三好長慶”方が”細川晴元(心月一清)”との戦いを本格化させる

1552年(天文21年)11月30日~12月1日:“三好長慶”方の反撃

この戦の急を聞いた“三好長慶”方の“畠山高政”(紀伊、河内国守護・畠山政長流尾州家当主・舎利寺の戦いで細川氏綱を奉じて細川晴元・三好長慶方に対抗したが、今回の戦いでは三好長慶方に付いた・生:1527年・没:1576年)の武将“安見直正”(=安見宗房=遊 佐宗房/やすみむねふさ・室町幕府奉公衆・主君は木沢長政~畠山政国~畠山高正・生没年不詳)が入京,翌日12月1日には“三好長慶”自身も反撃の為入京している。

しかし、敵方の“細川晴元(心月一清)”の姿は無かった。(言継卿記)

39-(2)ー①:“三好長慶”は嫡子“千熊丸”を元服させ“三好孫次郎慶興”と名乗らせる

1552年(天文21年)12月25日:

“三好長慶”は戦闘が小康状態であったこの時期に、嫡男で幼名“千熊丸”を満10歳で元服させ“三好孫次郎慶興”と名乗らせた。(生:1542年・没:1563年)この元服を祝して“本願寺第10世宗主証如“(諱は光教・当時36歳・生:1516年・没:1554年)は、物品を贈り、祝賀した事が自身の日記”天文日記“に記されている。

“三好孫次郎慶興(以後三好慶興)”に就いては後述するが、父に劣らず智勇に秀でた人物との評判で、将来を嘱望された。しかし、父“三好長慶”より先に若干21歳で早世するのである。

39-(2)ー②:“第13代将軍・足利義藤(義輝)“の奉公衆が“細川晴元”(心月一清)に内通し“三好長慶”排除の動きをする

“第13代将軍・足利義藤(義輝)“の奉公衆”上野民部大輔”並びに“細川刑部少輔”さらに“彦部祐阿“等6人が”細川晴元(心月一清)“に内通し”三好長慶”排除の動きをした。

1553年(天文22年)閏1月8日~閏1月15日:

この動きに“三好長慶”は“淀”に退き“第13代将軍・足利義藤(義輝)“と争う事無く奉公衆の動きに対応した。同閏1月15日に500の兵で上洛し”幕府付近“の警備に当たるという動きをしている。

39-(2)-③:“細川晴元(心月一清)”の兵が“高雄”に集結し、進軍し“三好長慶”軍と“鳴滝”で合戦と成り“三好長慶”軍が勝利する

1553年(天文22年)2月12日~2月26日:

“細川晴元(心月一清)”の兵が“高雄”(京都市右京区梅ケ畑高雄町)に集結(2月12日)した事に対し“三好長慶”は兵を率いて“東寺”に入った。その後、京都西北に進む“細川晴元(心月一清)”軍と“鳴滝“(京都市仁和寺の西方)で合戦となり”三好長慶“軍が勝利した。(2月26日)
この様に“三好長慶”と“細川晴元”(心月一清)の抗争は開始されていたが“将軍足利義藤“(足利義輝)側との直接衝突には、この時点では至っていない。

39-(2)-④:朝廷から“従四位下”に叙せられた“三好長慶”

1553年(天文22年)3月:

“京”を実効支配する“三好長慶”に対して時の“第105代後奈良天皇”(生:1495年・崩御:1557年)の朝廷は“三好長慶”を“従四位下”に叙している。位階に就いては後で詳述するが“正一位”から一番下の“小初位下”迄30段階ある中の上から10番目で、貴族に列せられる位階に叙せられたのである。

39-(2)-⑤:“将軍・足利義藤(義輝)”側近からの人質を取った“三好長慶”

“第13代将軍・足利義藤(義輝)“の側近である“奉公衆”6人が“和睦条件”に反して“細川晴元(心月一清)“方に内通、敵対し、戦闘に及んだ事に対して”三好長慶”はその6人の将軍側近を“人質”として取る事にした。この時点で“三好長慶”は”将軍・足利義藤“(義輝)”とも袂を分かち、戦う局面に突入して行くのである。

1553年(天文22年)2月26日~2月27日:
 
下記文書がこの事を裏付けている。
三好筑前守(三好長慶)武家(将軍足利義藤)へ之申事相調、今日(2月26日)於清水寺願所御対面云々、奉公衆六人別心之輩各人質被出之云々

(解説):
“三好長慶”は今回の“細川晴元(心月一清)“方が戦闘に及んだ原因は、六人の(将軍)側近(奉公衆)が裏切った事に因るものである事から、彼等を”人質“として差し出して欲しいと“第13代将軍・足利義藤(義輝)”に要求し、この問題を解決した。

40:“将軍・足利義藤(義輝)”との戦闘に拡大

40-(1):“三好長慶”との“和睦“を破り”霊山城”に立て籠もった当時17歳の”第13代将軍・足利義藤(義輝)“

メモ:東山霊山城とは
東山霊山城(ひがしやまりょうぜんじょう)は第13代将軍“足利義藤”(1554年2月に義輝に改名する)が1552年、東山36峰の一つの“霊山”に築城を開始した城である。
後述する“三好長慶“との戦いで翌1553年に陥落、廃城になった。

1553年(天文22年)3月8日:

”第13代将軍・足利義藤(義輝)“の流寓する”細川晴元(心月一清)“に対する支援の姿勢は変わらず、上述した6人の奉公衆を人質に取る“三好長慶”の要求に反対し“三好長慶”との“和睦“条件を破り”霊山城“に立て籠もったのである。この史実を“言継卿記”は以下の様に伝えている。

武家(将軍足利義藤)与(と)三好筑前守(三好長慶)との間之事(和睦)、今日相破(破棄)武家(将軍足利義藤)霊山(東山霊山城)へ御入城

ここに“三好長慶”は“第13代将軍・足利義藤(義輝)”とも戦う事に成った。又、これを機に“反三好長慶“派勢力が動きを活発化させたのである。

”第13代将軍・足利義藤(義輝)“は”細川晴元(心月一清)“を赦免する御内書を発行し、更に”三好長慶討伐“の檄を飛ばした。尚、繰り返しと成るが”第13代将軍・足利義藤(義輝)”が、ここまで強く“細川晴元”を支援し続ける理由は、将軍就任に当たっての強い擁立協力者であったからである。

40-(2):“芥川孫十郎“が”将軍・足利義藤(義輝)“方に寝返る

1553年(天文22年)7月3日:

三好一族で“摂津国・芥川山城“の城主”芥川孫十郎“(1549年の江口の戦いで三好長慶方に与し、細川晴元と三好政長方に勝利した・生没年不詳)は1552年4月には“細川晴元”方の“波多野元秀”と内通して“三好長慶”に背いた経緯がある。その後、同1552年(天文21年)12月に“三好長慶”方に帰参し、又“将軍・足利義藤(義輝)”と“細川晴元(心月一清)”が連合して“三好長慶”方と対立すると“将軍・足利義藤(義輝)”並びに“細川晴元(心月一清)”方に寝返った。
今回の対立構図は下記と成った。

細川氏綱+三好長慶
VS
将軍足利義藤(義輝)+細川晴元(心月一清)+芥川孫十郎

“芥川孫十郎“が”三好長慶“に敵対する途を選び”第13代将軍・足利義藤(義輝)“方に寝返った事で“三好長慶”は、東西から敵方に挟まれる形となった。

41:“三好長慶”天下人への戦い“第6戦・東山霊山城の戦い”・・1553年(天文22年)8月1日

1553年(天文22年)7月30日:

敵方に寝返った(7月3日)“芥川孫十郎“に対し”三好長慶“は、即座に”芥川(山)城“の包囲に向った。

この間隙 を突いて“細川晴元(心月一清)”方は“香西元成”(細川晴元家臣・江口の戦いで摂津国三宅城を守り三好政長を救援、三好政長の戦死後は遺児の宗渭、為三兄弟と行動を共にし、丹波国を拠点に三好長慶に抵抗を続けた・生:1518年・没:1560年)並びに“丹波国衆”を率いて京都に侵攻し“西院・小泉城゛(洛中唯一の中世城郭で上杉洛中洛外図屏風に=さいのしろ=と表現されている。城址は市街地に成り、現在は遺構は無い・三好長慶が細川晴元に対抗する拠点として修築を行ったとの説がある)の攻略を企てた。(此処でも理解の助に、別掲図:この項に登場する城を表示する O印参照方、を参照願いたい。尚図中の“西院城”は“小泉秀清”の居城である)

41-(1):“霊山城の戦い”が始まる

1553年(天文22年)8月1日:

“細川晴元(心月一清)”を支援する当時満17歳の“第13代将軍・足利義藤(義輝)”は“東山・霊山城”を出て“北野”に布陣し、督戦(後方に居て,前線の軍を監視する事)をしたと伝わる。しかし、3000程の攻城軍は“三好長慶”方の後詰を警戒して士気が上がらなかったとされる。

敵方の“細川晴元(心月一清)”並びに“香西元成”軍の動きに対して“三好長慶”方は“畠山高政”(紀伊・河内国守護、畠山政長流尾州家当主・1551年に実権を握られていた守護代の遊佐長教が暗殺された事を契機に、1553年、父“畠山政国”から家督を継いだ・生:1527年/1531年説・没:1576年)等に拠る25,000の軍勢を率いて京都に入った。

この報に“三好長慶”方の拠点“西院・小泉城“を包囲していた“細川晴元(心月一清)”軍、並びに“香西元成”軍、更に“丹波国衆軍”は包囲を解き、自軍の“東山・霊山城”防衛の体制をとった。しかし“三好長慶”方の25,000の大軍に攻め立てられ“霊山城”の防衛軍も耐えられず、城に火を放ち陥落したのである。

“霊山城”の攻防を”第13代将軍・足利義藤(義輝)“は北方の“船岡山“に退いて”観望“(戦いの形勢、様子を窺っていて自分から進んで行動しない事)したと伝わる。味方軍が敗れた事を知ると”三好長慶“軍の追撃を恐れて再び“近江国・朽木谷(滋賀県高島市朽木地区)”に落ち延びた。

“将軍・足利義藤(義輝)”にとっては2度目の地であり、以後1558年(永禄元年・1558年2月27日までは弘治4年)5月3日迄のほゞ、丸5年間という永い年月を此の地で過ごす事に成る。(長江正一氏の著書/三好長慶/には,将軍・足利義藤は8月1日に出奔、8月30日に近江国・朽木に着いたと記している)

尚“細川晴元(心月一清)”は、宇津(京都市左京区京北)へ退いた事が記録されている

メモ:
戦国史上有名な“長尾景虎”(上杉謙信)と“武田晴信”(信玄)が1553年(天文22年)~1564年(永禄7年)迄、5度に亘って戦われた“川中島の合戦”の最初の戦い(布施の戦い)が起こったのが、畿内での“霊山城の戦い”とほゞ同時期の1553年(天文22年)8月の事である。

41-(2):軍事上の理由からだけで無く”近江国・朽木“に退避した“第13代将軍・足利義藤“(足利義輝)を5年間に亘って一切、攻撃しなかった“三好長慶”のマイルド(律義者)な性格

1553年(天文22年)8月13日:

“三好長慶”は京から“近江国・朽木”に避難した”将軍・足利義藤(義輝)“に供をした者に就いては、知行を没収する、と通達している。この通達に驚き“権大納言高倉永家“並びに”奉公衆‣松田対馬守父子“そして”中沢備前守“等、多くの者が帰京したと“言継卿記・厳助大僧正記”が伝えている。

結果“近江国・朽木“に同行したのは奉公衆40人程であった。゛三好長慶“が”近江国・朽木“に避難した”将軍・足利義藤(義輝)“を5年間も京都から左程遠く無いにも拘わらず、一切、攻撃をしなかった事に就いては下記2つの理由が挙げられている。

①:細川晴元(心月一清)の継室が近江国・守護”六角義賢”の姉という関係があった事
②:若狭国(福井県の一部)には将軍・足利義藤(義輝)の妹婿”武田義統“(たけだよしむね・若狭武田氏8代当主・若狭国守護・生:1526年・没:1567年)が居た事

こうした軍事上の理由の他に“三好長慶”の心中には“将軍家”並びに主家であった“細川晴元”を徹底的に追わないという“日本の特異性”つまり“血統信仰”に基いた“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”の中に厳然として存在した“家格秩序”を遵守する考えが彼の性格として根付いていた事が一つの理由と考えられる。

“続応仁後記”も同様に“血統信仰に基づく家格秩序”を遵守する“三好長慶”の性格が反反映された行動だと記している。しかし彼の行動はそれ丈では説明出来ない。

60年前には“細川政元”が、そして30年前には“細川高国”の夫々が当時の“将軍”を廃立するという行動をとった事は既述の通りである。その理由、状況と、今回の“三好長慶”の対応の差は、彼等は共に“幕府管領職”にあったが“三好長慶”は彼等より身分が低かったからだとする説がある。しかし、当時“三好長慶”が掌握していた政治の実権が“幕府管領職”に劣らず、寧ろ、凌ぐものであった事から、この分析も当たらない。

又、当時の“三好長慶”には“元堺公方・足利義維”という、将軍に擁立出来得る人物も“阿波国”に存在していた。彼がその気になれば“第13代将軍・足利義藤(義輝)”を廃立して“足利義維”を将軍に就けるという“細川政元”や“細川高国”が行った“クーデター“の様な事も出来たはずである。

しかし、彼はそれもしていない。当時日本で最も守旧的であった“京・畿内地域”で“天下人“と成った“三好長慶”のこうした行動姿勢はマイルドなものであった。それ丈に彼のこうした行動は、後に“将軍”を擁立し“朝廷”の対応も疎かにしない姿勢で臨んだ”織田信長“の天下取りの先導役と成ったと言えるのである。”三好一族と織田信長”の著者”天野忠幸”氏は以下の様な史実を示し乍ら“織田信長”が見た“京都”に於ける“三好長慶政権”に就いてのコメントを書いている。

織田信長が初めて上洛した際に見たのは、近畿と四国に勢力を伸ばし、将軍足利義輝を近江国・朽木に追放しただけでなく、足利将軍家を擁立せず、自らの力だけで首都京都を支配した三好長慶であった。

当時の(戦国)大名は、足利一族を頂点とする武家の身分秩序を利用しながら戦争を行っていた。しかしそうした常識を打ち破り、足利一族を擁立しない戦争に”三好長慶”は勝ち抜き、戦国時代で初めて足利一族を擁立する事無く、首都京都の支配権を握ったのである。

永禄改元(1558年2月28日)により“三好長慶”は”正親町天皇”より”足利氏”に代わり得る武家であると認定され、その事は全国に示された。この事は逆に、現職の征夷大将軍(足利義輝)が朝敵となる状況を作り出したと言える。

永禄2年(1559年)になって競う様に諸(戦国)大名が上洛して来た(織田信長2月、斎藤義龍㋃、長尾景虎=上杉謙信㋃)のは永禄改元によって、諸大名が拠って立つ、足利将軍家を頂点とする秩序が崩壊するのではないかという危機感が共有され、その変化を自らの目で確かめる為であろう。(中略)織田信長は京都の状況を見て、将軍・足利義輝の復権では無く、三好長慶の時代の到来を予期したのではなかろうか。

41-(2)-①:“伝統的権威に囚われた人物”では無かった“三好長慶”

“三好長慶”が”近江国・朽木“に退避した“第13代将軍・足利義藤(義輝)“を5年間に亘って攻撃しなかったという史実から、彼を“優柔不断”な人間“保守的”な人間“伝統的権威に囚われた人物”だと評価する説もある。しかし、之まで記述して来た彼の行動全般から評価しても、その説は正しく無い。

“織田信長“でさえ”守護・斯波義銀“(しばよしかね・斯波義統嫡男・尾張国守護・武衛家15代当主・織田信長に服属後は、憚って津川義近を名乗る・生:1540年・没:1600年)や”第15代将軍・足利義昭“を殺害する事は”天道・天命“(戦国時代に大名を含めた武士層、並びに広範な庶民に伝わった考えで、個人の内面と行動が超自然的な天道に観られ、運命が左右され、その行いが酷ければ滅びるという発想)に叛く事として恐れ、行なわなかった。実際にとった行動は”追放“に留めているのである。

”三好長慶“の判断は当時の”血統信仰に基づく家格秩序・身分秩序“が未だ完全には崩壊していなかった、という状況下を考慮すれば、彼として、最大限出来る処置であった、と考えるべきであろう。従って“三好長慶”の人間性を分析する時、世に伝わる”下剋上の標本“の様な人物像は正しく無い。史実から導き出される彼の人物像は、自己の権益を主張する以外は“将軍”並びに“主家”に対して伝統を尊重する“律義者”であったと評価するのが正しい。

42:“天下人“と成った“三好長慶”

42-(1):本拠地を“京都“とせず”芥川山城“に置いた”三好長慶“

1553年(天文22年)8月22日~8月25日:

“三好長慶”方の25,000の大軍に攻め立てられ“霊山城”攻防戦に敗れた“将軍・足利義藤(義輝)”並びに“細川晴元(心月一清)”方が城に火を放ち“霊山城”は陥落した。“将軍・足利義藤(義輝)”並びに“細川晴元(心月一清)”が京都から逃れ、再び“近江国” に落ち延びた為、孤立した“芥川孫十郎”は“芥川山城”を“三好長慶”に明け渡し、降伏した。以後“三好長慶”は本拠地を“越水城”から“芥川山城”に移すのである。(8月25日)

42-(2):日本の特異性“血統信仰に基づく家格秩序“への尊重を背景とした“三好長慶”は、在京を拒否する

“三好長慶”は在京を志向しなかった。本拠地を“越水城”から“芥川山城”に移した理由は“京都”を“三好長慶”の支配下に置いたという権威を世に示す為にも“芥川山城”が相応しい城だと考えた事による。

“芥川山城”は“第31代室町幕府管領・細川高国”が築いた城であり、その後“細川晴元“(心月一清)も、在国する際に居城とした城である。”天下人“と成った”三好長慶“が、その“政治的地位”を世に示す為に“芥川山城”が相応しいと考えた他の理由として、この時期の“三好長慶”の軍事行動の中心が“京都”並びに“丹波国”であり、双方への進出に“芥川山城”が適しているという地理的条件からの選択があった事も挙げられる。

42-(2)-①:“京都在住”を志向しなかった理由

今や“天下人”と成った“三好長慶”が何故、在京を志向しなかったかに就いては“日本の特異性”が背景にあった。

“血統信仰”に基づく“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”内でも重要視された、伝統的“家格秩序”の考えは“守旧性”が色濃く残る“京都”という土地では、覇者として1553年(天文22年)3月には“将軍足利義藤(義輝)”並びに”細川晴元(心月一清)“更には”細川氏綱“と同じ”従四位下“の官位に登った”三好長慶“に遜色は無かったものの、10年程前までは”守護代“以下の”家格“でしかなかった事に、この守旧の地は拘る事を“三好長慶“は知って居た。従って”在京”する事は得策では無いと考え、在京を選ばなかったのである。(松永久秀と下剋上/著者・天野忠幸)

42-(3):“三好長慶”が新たに拠点とした“芥川山城”に主たる武将達も居住する

42-(3)-①:“芥川山城”に居住した主たる武将達

①:三好長慶 ②:三好義興(嫡男・生:1542年・没:1563年)③:松永久秀 (生:1508年/1510年・没:1577年)④石成友通(いわなりともみち・三好長慶の奉行人・三好3人衆の一人・勝竜寺城の最初の城主とされる・生年不詳・没:1573年)⑤:藤岡直綱 ⑥:細川昭元(細川晴元の子・1552年父が一時的に三好長慶と和睦した際に人質と成る・幼名聡明丸・信元~信良・生:1548年・没:1592年/1615年説もある)⑦:三好長逸(みよしながやす・三好3人衆の筆頭格・三好長慶の父・三好元長の従弟に当たる・生没年不詳)⑧::鳥養貞長(とりかいさだなが・三好長慶の右筆/書記を担当・生没年不詳)⑨:狩野宣政

42-(4):“芥川山城”訪問記・・訪問日2019年7月22日(月曜日)

交通機関等:
東京から新幹線で京都に着き、其処からJR東海道本線に乗り換え、高槻駅で同好の友人と合流。高槻駅からは高槻市の市営バスに乗り”塚脇バス停“で下車。ここからは標高約183mとされる”三好山”を頂上まで登る。凡そ50分程を掛け、ゆっくりと山頂に辿りついた。

歴史、並びに訪問記:
2017年(平成29年)に”続日本100名城”に選定された戦国時代の典型的な山城である。1515年(永正12年)に“細川高国”が築城したとされ、高槻市北部に位置し、北・西・南の3方を芥川で囲まれ、急崖の地形を利用した天然の要害であった“芥川山城”には1533年4月に”細川晴元”が入城、この期に増設、増強されたとある。その”細川晴元”は1539年に”三好長慶”に拠って京を追われ、上記した様に”芥川孫十郎”に開城させた”三好長慶”が1553年8月25日に入城した。

この城の歴史を書いた説明版を写真に示すので参照されたい。京都に隣接した地にある“芥川山城”は戦国武将にとって非常に重要な城であった。後述するが”三好長慶”は摂津国に於ける拠点とした“芥川山城”から、1560年に“河内国・飯盛山城”に移り、家督を譲った嫡子”三好義興”が城主となるが、彼は早世し”三好長逸”が城主を継ぐ。しかし、1568年(永禄11年)9月28日の“織田信長”の摂津侵攻で落城し、一時は“織田信長“が城主と成るという変遷を辿り、この名城も1571年(元亀2年)に廃城と成る運命となった。

添付した写真に示す様に、今日の遺構は石垣の一部だけであり、当時の城郭は残っていない。眺望が利く山頂からの景色が、中世の山城にとって共通する築城上の重要な点であった事を実感させて呉れる。

=写真説明=
43:足利将軍家(一族)を擁立せずに“京”を支配した“三好長慶政権”の成立は“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”内に於ける“伝統的家格秩序”を崩壊させた下剋上であり、何としてでもこれを覆そうとする動きが出る

1549年の“江口の戦い”から1553年の“東山霊山城の戦い”で“前主君・細川晴元”(心月一清)方、並びに彼を支援をした“第13代将軍・足利義輝(1554年2月に義藤から改名)“と戦い、勝利し“京都”並びに“畿内地域”を制した“三好長慶”は“天下人”と成った。

戦いに敗れた“将軍・足利義藤”(足利義輝)並びに“前主君・細川晴元”は京を離れた。之までも“将軍”並びに“前主君・細川晴元(心月一清)”がこうした状態になったが“三好長慶”は“和睦”という措置に拠って“将軍・足利義輝”の京帰還を実現させて来た。しかし、今回も“将軍・足利義藤”(足利義輝)はその和睦を破り、彼が支援する“細川晴元”と共に“三好長慶”方に戦を仕掛け、そして敗れ“近江国”への退避を繰り返したのである。

こうした結果“第13代将軍・足利義藤”(足利義輝)は在京出来ない期間が長期化した将軍と成った。京都を支配する”三好長慶“並びに、同盟者“畠山高政”は、こうした状態を好ましく無いと考え“将軍・足利義藤”(足利義輝)方の“六角義賢”(ろっかくよしかた・六角定頼の嫡子・15代当主・近江国守護・観音寺城城主・剃髪後に六角承禎/ろっかくじょうてい/を名乗った・生:1521年・没:1598年)との間で事態解決の為の外交交渉を行なっている。

44:大名間外交を担った“松永久秀”

1555年(天文24年/10月23日から弘治元年)7月30日:

“松永久秀“が”第13代将軍・足利義輝(1554年2月に改名)”を支援する“六角義賢”の重臣“永原重興”(ながはらしげおき・越前守・生年不詳・没:1562年)と行った交渉は彼の功績として伝えられる。以下がその内容である。

将軍・足利義輝は度々“三好長慶”方に悪事を企て“細川晴元(心月一清)に一味して来た。何度も(足利義輝は)“細川晴元(心月一清)”を許容しないと自筆の懐紙(手紙)や御内書を”三好長慶“に下されたが、それを自ら破ったので(戦闘で敗れ)朽木に在国している有様である。恐れながら“将軍・足利義輝”に”御天罰”が下る時節と成ったと考える。この上は京都の“御静謐”は”三好長慶“が担うので”六角氏“に同意してもらいたい。この事は”三好長慶“も書状で伝えている事なので” 六角承禎”(六角義賢)に取りなしを頼みたいと“三好長慶”は仰っている。そちらの様子も教えて欲しい。(阿波国徴古雑抄所収三好松永文書)

(解説):
“松永久秀”は非常に激しく“将軍・足利義輝“の不誠実をなじり、天罰が下ったのだと理路整然と非難した。そして京都の平和は“三好”氏が担うと主張し、六角氏にも“将軍・足利義輝”を見捨てて“三好長慶“に賛同する事を求めた。”三好氏“の立場を正統化し(将軍・足利義輝を支援する)”六角氏“を切り崩そうとする大名間外交を担った“松永久秀”の面目躍如振りを伝える史料である

尚“三好長慶”は以後も勢力を拡大し、絶頂期を迎える。”三好長慶政権”下で、最大の功労者として、主家に並ぶ程の勢力拡大を果たすのが、上記の様な”大名間外交“を担い、成果を挙げた“松永久秀”であった。彼の出自、以後の活躍等に就いては後述する。

45:“第13代将軍・足利義輝“に代えて、阿波国で”三好氏“に庇護されている”元堺公方・足利義維“を将軍に擁立する考えを”三好長慶“が持たなかった事を裏付ける“永原重興”(六角義賢の重臣)と”安見宗房”(畠山高政の重臣)の交渉記録

1555年(天文24年/10月23日から弘治元年)8月20日:

”第13代将軍・足利義輝(1554年2月に改名)”を支援する“近江国守護・六角義賢”の重臣“永原重興”と“三好長慶”の同盟者“畠山高政”(紀伊、河内国守護・1551年守護代の遊佐長教が暗殺され、畠山政長流尾州家当主に就いた・生:1527年/1531年説・没:1576年)の重臣“安見宗房”(やすみむねふさ・遊佐長教を暗殺した萱振賢継を1552年2月21日に暗殺し滅亡させ、畠山高政を守護に擁立した人物・飯盛山城主・生没年不詳)の間で行われた、外交交渉の内容が伝わる。

この内容は”三好長慶”が“阿波国”で庇護している”元堺公方・足利義維“を将軍に擁立する考えを持っているのか否かに就いての意見交換であり、下記史料が残されている。(根岸家旧蔵胄山文庫文書)

意見交換書状の要旨:
三好氏が阿波で庇護している“元堺公方・足利義維”について、現在、擁立しようとする動きは無いが、もしそうした動きがあれば、六角氏と相談して“将軍足利義輝”に奉公するとする一方で“三好長慶”の意向も気に掛かる。(永原重興からの懸念)
(畠山氏側としては)同盟する“三好氏”が、どの様にこの事態を収めるのか、即ち“三好長慶”が“細川政元”が“将軍・足利義材(義稙)”を更迭した“明応の政変”(1493年㋃)の様に“足利義輝”に代えて“足利義維”を新たに将軍にしようとしているのか、それとも“足利義維”を将軍に就ける気は無く、いずれは“足利義輝”と和睦しようとしているのかを見定められない。(安見宗房の意見)

45-(1):“元・堺公方・足利義維”を擁立しない旨を回答した“三好長慶”

1555年(弘治元年)11月7日:

上記懸念を抱く“六角義賢”の重臣“永原重興”に対して“三好長慶”は“足利義維を新たな将軍に擁立する事はしない“と回答している。尚、この時点で”足利義維“は満46歳であった。

既述の通り、1547年7月の“舎利寺の戦い”で敗れ、京から退避した“前第12代将軍・足利義晴”並びに“第13代将軍・足利義藤”父子が和睦の形で直後に帰京した事で“元堺公方・足利義維”は、将軍に就任する夢を打ち砕かれた事があったが、今回“三好長慶”が上記回答をした事で彼の夢は完全に潰えた(ついえた)のである。

46:“相国寺の戦い”(1551年7月)後の和睦条件(第2項)を律儀に守り、人質に取って居た“前主君・細川晴元”(心月一清)の嫡男“聡明丸”を元服させた“三好長慶”

1558年(弘治4年)2月3日:

“相国寺の戦い”(1551年7月14日~15日)で“細川晴元”方が敗れ“三好長慶”方と交わした4項目の和睦条件の第2項“細川晴元の若子をば後に三好取立申さるべし”つまり“細川晴元の嫡子・聡明丸/当時満3歳/が元服したら家督に取り立てる事“の約束を守って”三好長慶“は、満10歳を迎えた“聡明丸”の”元服式“を行った事が記録に残っている。“聡明丸”は“細川昭元”と名を改めた。

“細川昭元”(母は六角定頼の娘。後に正室として織田信長の妹/お犬の方を迎える/生:1548年・没:1592年/1615年説もある)に就いては後述する。

47:“三好長慶天下人への戦い”第7戦・・北白川の戦い(1558年/永禄元年6月9日)

47-(1):“京”を支配した“三好長慶”を“近江国・朽木”で傍観していた“第13代将軍・足利義輝“

1553年(天文22年)8月1日の“霊山城の戦い”で25,000の“三好長慶”方の軍勢に押し寄せられ、敗れた”細川晴元(心月一清)”軍、並びに、その状況を観望していた支援者”第13代将軍・足利義藤(義輝)“は”三好長慶“軍の追撃を恐れて再び“近江国・朽木谷”に退避し“細川晴元(心月一清)”は“宇津”(京都市左京区京北)へ逃れていた。

以後“細川晴元(心月一清)”は、元家臣“三好長慶”が“京都支配”をするという、甚だ不満な状況下に置かれた。“三好長慶”は更に近国(丹波、播磨国)への遠征に拠って勢力の拡大を続け、幕府に代わって“書状発給”を行う等、実質的な“京の覇権者”として振る舞ったのである。真に“三好長慶政権”下の“京・畿内地域”であった。

比肩し得る軍事力を持たない“第13代将軍・足利義輝”は、こうした状況を、退避先の“近江国・朽木“で傍観するしか無く、宇津に逃れた”細川晴元”にとっても同様であった。

47-(2):“三好長慶”が勢力圏拡大をした主たる戦闘の記録

①:1553年(天文22年)9月3日:
”松永久秀、松永長頼“兄弟に”丹波国(兵庫県、並びに京都府の一部)・八上城”を攻略させる
②:1554年(天文23年)4月12日:
“丹波国桑田郡”へ出陣、小城を攻め落とす
③:1554年(天文23年)8月29日:
“摂津国・三田城主”の”有馬重徳 “の依頼で”三好長逸”を出陣させ”別所城”の“三木次郎”と戦い、七つの城を陥落させ”播磨国”(兵庫県の一部)への進出を果たす
④:1557年(弘治3年)10月16日:
“丹波国”屋上へ出陣し“竜蔵寺”を陥落させる

こうした結果、1558年(2月28日に弘治4年から永禄元年に改元)時点での“三好長慶“の勢力圏は”摂津国“を中心に山城国、丹波国、和泉国、阿波国、淡路国、讃岐国、そして、上記した“播磨国(一部)”に及んだ。

当時の日本に於いて肩を並べる勢力は関東の戦国大名“北条氏康”(後北条氏第3代当主・生:1515年・没:1571年)位のものであった。

47-(3):5年に及ぶ“近江国・朽木”での逼塞期間に“正親町天皇”から“武家の統領=将軍”としての地位を無視され、焦燥に駆られて、動き出した“第13代将軍・足利義輝”

47-(3)-①:“永禄改元”事件・・“弘治”から“永禄”への“改元”に関して朝廷(正親町天皇)から無視された“第13代将軍・足利義輝”の焦燥


1557年(弘治3年)の9月5日に第105代“後奈良天皇”(生:1497年・崩御:1557年)が崩御、同年10月27日に第106代“正親町天皇”が践祚した。既述の通り,当時の天皇家、公家達は貧窮しており、践祚はしたものの、天皇の即位の礼を挙げるのは2年後の1560年(永禄3年)1月27日である。

メモ:
正親町天皇の即位式は1560年(永禄3年)1月27日に“安芸国人・毛利元就”(生:1497年・没:1571年)が即位料、御服費用、2059貫400文(1貫は1000文、1文を25円で換算すると現代の金額で約5150万円)を献納した事で、何とか挙式する事が出来た。“毛利元就”には褒美として従四位下・陸奥守の官位が授けられた他、皇室の紋章である菊と桐の模様を“毛利家家紋”に付け足す事が許されたと記録されている。
即位式の為には“本願寺法主・顕如”も莫大な献金を行い、天皇から“門跡”の称号を与えられたとの記録が残り、以降“本願寺”の権勢が増し、1565年(永禄8年)のキリスト教“宣教師”の京都追放に結び付いたとされる。

1558年(永禄元年)2月28日:

“第106代正親町天皇”の践祚から半年後に“弘治“から”永禄“への改元が1558年(弘治4年)2月28日に行われた。

室町時代の改元は、公家を代表する“天皇”と武家を代表する“将軍”の合意に拠って行われる慣習があった。戦国時代に入ると“将軍”が在京出来ず(将軍の流浪化)相談出来ない状況もあったが、そうした状況下でも“天皇”から“将軍”に連絡という形で、少なくとも双方が情報を共有したのである。

例えば“大永(1521年8月23日)”並びに“天文(1532年7月29日)”の改元の報は当時“近江国”に居た“第12代将軍・足利義晴“に伝えられたという過去の事例がある。

しかし、今回の”改元“については”近江国・朽木“に避難している”第13代将軍・足利義輝“の許にその報は届かなかった。”正親町天皇“は相談どころか”近江国・朽木“の”将軍・足利義輝“に知らせる事もしなかったのである。

この史実が語る事は“正親町天皇”は“将軍・足利義輝”を武家の代表とは認めない,という政治判断を下したという事になる。そして“将軍・足利義輝”に代わる“武家の代表”と認めたのが“三好長慶”であった、と“三好一族と織田信長”の著者“天野忠幸”氏は記している。

改元を他人から聞かされた“将軍・足利義輝”は激怒し、これに抗議して改元を拒絶し”弘治“の年号を半年の間、其の侭、使い続けたと伝わる。その国の”皇帝(天皇)“が定めた年号を否定する事は世界史的に見ても反逆か独立の宣言に他ならない。

“永禄改元事件”の日本史上の意味は“三好長慶”が“正親町天皇”から“足利将軍家”に代わり得る武家であると認定され、全国に示された一方で“足利義輝”という現職の征夷大将軍が“朝敵”と成る状況が生れたと“天野忠幸”氏は述べている。

こうした説がある一方で“改元”を無視したのは“将軍・足利義輝”の方だとする以下の説も紹介して置きたい。

47-(3)-②:“第3代将軍・足利義満”以来“公武一体”の象徴であった“改元”という“天皇大権”を否定し“将軍”としての慣習をも無視した”第13代将軍・足利義輝“

室町時代に“将軍”への敵対を明確にすべく、旧年号(元号)を使い続ける勢力が登場した事はあった。しかし,将軍自らが旧年号(元号)を使い続け、天皇大権(天皇の権限)に復さないという異常な事態を生じさせた事例は無かった。

天皇から“征夷大将軍宣下”に拠って任じられた“第13代将軍・足利義輝”が“天皇の大権”である“改元”を無視し、新しい“年号(元号)”を使用しないという事の意味は大きい。“足利将軍家”は“足利義満”の時代に公武一体を図るべく、太政大臣に上る事で“公家社会“にも君臨し”改元“にも公武一体で当たって来た。それに反して“第13代将軍・足利義輝”は慣習を無視し“弘治改元”の“執奏”(しっそう:意見、書き物などをとりついで天皇等、貴人に奏上する事)も“費用負担”も行わなかったのである。

こうした“朝廷”に対する姿勢の“将軍・足利義輝”を“正親町天皇”は見放したのである。これに対し“将軍・足利義輝”は自らの怠慢を棚に上げ、天皇大権を否定し、永禄改元に従わないという行動に出た。この行動に拠って“公武一体”という“天皇家”と“足利将軍家”の伝統的関係が失われたのである。

47-(3)-③:焦燥の中で、帰洛の動きを始めた”第13代将軍・足利義輝“

1558年(永禄元年)3月13日~5月3日:

‟御湯殿上日記“等に”将軍・足利義輝“が京都まで1日行程の”下竜華“(大津市)に3月13日に移り、5月3日には坂本の“本誓寺”(滋賀県蒲生郡竜王町)に入った事が記されている。この時、腹心の“細川晴元(心月一清)”率いる3000の兵を従えていたという。

この状況を伝え聞いた京都では、避難を始める人々が出、その様子を“惟房公記、言継卿記、細川両家記”が伝えている。朝臣“高倉永相”(たかくらながすけ・公卿・生:1531年・没:1586年)が“三好長慶”方の“梅津城”に投ずる為、禁裏へ暇乞いをする騒ぎがあった事も“御湯殿上日記”に書かれている。“将軍・足利義輝”が帰洛すべく、軍事行動に打って出た事で“三好長慶”は“将軍方”の兵と戦う事に成る。

ここでの“三好長慶”軍は言わば“朝廷”方であり”将軍・足利義輝“そして”細川晴元“軍は“朝敵”であった。

47-(4):“三好長慶“方と”将軍方“との戦いの前哨戦が始まる

47-(4)-①:“京“で示威の為の”打ち回し”を行い、その後“将軍山“を先だって占領した”三好長慶“方

1558年(永禄元年)5月9日:

“将軍・足利義輝“並びに”細川晴元(心月一清)“方が3000兵を従えて”坂本“に迄迫って来た事を伝え聞いた“三好長慶”方は“松永久秀・三好長逸”が、京都西南の“吉祥寺・梅小路・七条千乗寺・六条中堂寺“に陣している。(長享年後畿内戦乱記)

1558年(永禄元年)5月12日~5月19日:

“松永久秀”は“中納言・勧修寺晴秀”(かじゅうじはるひで・公卿・生:1523年・没:1577年)を通じて“京都の警固は別儀ない(問題ない)事を奏聞(そうもん=天子に申し上げる事)して戴きたい“と申請している。(5月12日)

そして5月19日に降雨の中、弟の”松永長頼“並びに“三好長逸”加えて、代々幕府政所を取り仕切って来た名門“伊勢貞孝”(生年不詳・没:1562年)父子(伊勢貞良)、更には“粟津修理亮”(高倉永相家臣)等が15,000の兵を率いて、九条から大宮通りを北上、御霊神社を東へ進み、富小路を南へ下って七条方面へ帰ると言う、京の“打廻し”(多数の武士が巡回して威勢を示す事)を行い、この軍勢の中から“松山安芸守・寺町左近・岩成友通”の軍勢が市中に残った事等が“御湯殿上日記“に記されている。

1558年(永禄元年)6月2日:

“三好長慶”方で、上記した京市中に留まった“松山安芸守、寺町左近、岩成友通”軍に“伊勢貞孝”軍が加わり“将軍・足利義輝”並びに“細川晴元(心月一清)”軍に先んじて“将軍山(勝軍山=現瓜生山)”を占領した。(惟房公記/万里小路惟房・までのこうじこれふさ=公卿・生:1513年・没:1573年/の日記・巌助大僧正記)

47-(4)-②:“将軍・足利義輝”並びに“細川晴元(心月一清)“連合軍が”将軍山(勝軍山)を奪い返す

1558年(永禄元年)6月4日~6月7日:

“将軍・足利義輝”並びに“細川晴元(心月一清)“方の”三好政勝“そして”香西元成“は、近江国の兵達と”如意嶽“に進出、麓の鹿谷、浄土寺の周りに放火をした。この攻撃に押され”将軍山(勝軍地蔵山)“に居た“松山安芸守・寺町左近・岩成友通・伊勢貞孝”等の“三好長慶”方は出撃し、鹿谷で戦ったものの、6月7日には降雨の中、京都の三条、四条の辺りに退いたのである。(戦場の位置関係等に就いては既出の”別掲図:この項に登場する城を表示する”を理解の助に参照されたい)

この結果“将軍・足利義輝”並びに”細川晴元(心月一清)“連合軍は”将軍山(勝軍地蔵山)“を奪還した。

47-(5):“三好長慶天下人への戦い”第7戦・“北白川の戦い(白川口の戦い)“へ突入し”三好長慶”方が勝利する

1558年(永禄元年)6月8日:

”将軍山(勝軍地蔵山)“を“将軍足利義輝・細川晴元“方に奪われた”三好長逸“並びに“松永久秀”軍が、南側に位置する“如意嶽”(別掲図:この項に登場する城を表示する、を参照方)に上り“将軍・足利義輝”方の兵を追い払った。又“摂津国”の“伊丹、池田”の兵は“神楽岡”(吉田山)に陣を敷いた。(長享年後畿内兵乱記、惟房公記)

1558年(永禄元年)6月9日:

“北白川の戦い”(白川口の戦い)に突入。“第13代将軍・足利義輝(当時満22歳)”並びに“細川晴元(心月一清)”(当時満44歳)連合軍が”勝軍地蔵山城“に籠城して戦った様子を”長享年後畿内兵乱記“(長享元年/1487年~永禄6年/1563年の畿内に起った兵乱、政変等を中心に年代記風に記した書)は下記の様に記している。結果は“三好長慶“方の勝利であった。

公方様・晴元御出陣、勝軍籠城、則松弾(松永弾正)・法雲(松永久秀の弟蓬雲)者(は)如意峯打下、白河西方取退、神楽岡(吉田山)衆帰陣、上京打入処、勝軍衆田中村(京都大学の北方)焼、神楽岡居取(占領する)処、松永弾正其外摂丹一同取帰(引き帰し)白河村内外乱戦

47-(5)-①:この戦いの損害の記録

“厳助大僧正記“には”三好長慶“方は勝利はしたが、討ち死した者も多かった事が下記の様に記されている。

頸(首)三十九取之云々、其外公方衆五人、甲賀衆亀井巳下(以下)数輩打死、三好方亦死人手負巨多也

47-(5)-②:“三好長慶“方が勝利した事は、戦後“松永久秀”が京中の“地子銭”を徴収した記録が裏付けている

1558年(永禄元年)閏6月5日~7月:

鴨川の東で“三好長慶”方と“幕府”方との衝突があったが、閏6月7日に“三好軍”が“白川口“に進出しても“幕府”方からの応戦は無かった。7月に入ると“勝軍山(将軍山)” から脱走する幕府方の兵が多数あった事が伝わる。

1558年(永禄元年)7月14日:

“松永久秀“が奉行と成り、京中の”地子銭“(じしせん=地代として納入した銭)を徴収したが、この行為を“将軍・足利義輝”の検断人(徴税官)が制止をしなかった事が“惟房公記・長享年後畿内兵乱記・言継卿記“に書かれている。

この事は”三好長慶“方が”京・畿内“の統治権を握っていた事を裏付ける重要な史実である。

47-(6):“三好長慶天下人への戦い”第7戦・・“北白川の戦い”の纏め

年月日:1558年(永禄元年)6月9日
場所:山城国愛宕郡白川(京都府京都市左京区北白川周辺)
結果:“三好長慶”軍の勝利

三好長慶軍

指揮官:三好長逸
:松永久秀
:松永長頼(内藤宗勝に改名)・・
松永久秀の弟
:安宅冬康(三好長慶の次弟)

戦力・・15,000兵

室町幕府軍

指揮官:第13代将軍・足利義輝
:細川晴元(心月一清)




戦力・・3,000兵

*両軍の損害については文中“厳助大僧正記“の記録を参照方。同記録では三好方の損害も多かったとだけ記しているものの、詳細は不明である。幕府軍の損害は70名前後だと考えられている。


48:“三好長慶”方が“第13代将軍・足利義輝”方との再度の和談交渉を行う

48-(1):四国から弟達全員を集め和談交渉の合意形成を行った“三好長慶”

1558年(永禄元年)7月25日~9月3日:

“北白川の戦い(白川口の戦い)“で”将軍・足利義輝“と”細川晴元(心月一清)“連合軍が敗北した。これ以上支援する事は不可能と悟った“細川晴元”の義弟でもある“近江国守護・六角義賢”は和談に動いた。しかし前年(1557年)の講和の時も、直後に“将軍・足利義輝”は“細川晴元(心月一清)”を支援する為、講和を破っている。従って、当然の事乍ら“三好長慶”側は、今回の和談承諾には慎重であった。

“三好長慶”は四国の兵を“摂津国”に集め、その威容(他を圧する姿)を誇示して見せた。先ず“三次康長“(長弟・三好実休の家臣、阿波岩倉城主・生没年不詳)軍が先陣として兵庫に入り(7月25日)、其の後、尼崎に進み、長弟”三好実休“軍も尼崎に入った。(8月18日)

更に、同年8月30日には淡路国から,次弟”安宅冬康”軍も尼崎に到着し、続いて三弟(末弟)の“三好(十河)一存”軍、並びに“三好長慶“の嫡子”三好義興“(1552年に元服し、当時は三好慶興と名乗っていた・当時満16歳)軍も同年9月3日に“堺”に到着し、四国の“三好家“を含め、全員を集合させたのである。
メモ:
この頃(永禄元年/1558年9月)“木下藤吉郎”(後の豊臣秀吉・当時21歳)が“織田信長”に仕えたとの記録がある。(1554年頃から小物として仕えたとの説もあるが不詳)

48-(2):“六角義賢”側と“三好長慶”一族側との間で“将軍・足利義輝”との和睦についての交渉が続けられる

1558年(永禄元年)9月18日:

“六角義賢”との和睦交渉が始まる前に“三好長慶”は“三好四兄弟”を初め“三好一族”全員が揃ったところで“堺”での“一族内会合”を行なっている。“和談交渉”に対する一族としての合意形成を図る為であった。

1558年(永禄元年)11月6日:

“近江国守護・六角義賢”を仲介役とした“和談交渉”が重ねられ、そして“三好長慶”が使者を“将軍・足利義輝”に遣わし“和談”が成立した。その詳しい内容は伝わらない。

49:和談が成立し“第13代将軍・足利義輝”再度入京する

1558年(永禄元年)11月27日:

“第13代将軍・足利義輝”は“北白川の戦い”で籠城戦に及んだ“勝軍山(将軍山)”から帰京し“相国寺・徳芳院”に入った。京帰還は“霊山城の戦い”(1553年/天文22年/8月1日)で支援し、共闘した“細川晴元”軍が敗れ”三好長慶“軍の追撃を恐れて“近江国・朽木谷”に落ち延びて以来、ほゞ5年4カ月振りの事であった。

この折に“三好長慶”に与し“細川京兆家”を継ぎ“第18代当主”に就いた“細川氏綱”並びに彼の弟の“細川藤賢”(ほそかわふじかた・生:1517年・没:1590年)が将軍に謁している。(次頁の別掲図:細川政元が行った三人の養子受け入れと両細川の乱に於ける関係図、を理解の助に参照願いたい。細川氏綱の左/弟/側に細川藤賢の名がある)


1558年(永禄元年)11月28日~12月3日:

一旦”勝軍山(将軍山)“へ戻った(11月28日)”将軍・足利義輝“を、12月3日に”細川氏綱・三好長慶・伊勢貞孝“等が”白川“まで出迎えた。”第13代将軍“として彼等を従えるという格式を整えて再度の入京を行ったのである。

この様子は“伊勢貞助記、長享年後畿内兵乱記、細川両家記、足利季世記”が伝えている。

この史実からも“三好長慶”が“将軍家、幕府管領家”という“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“としての”伝統的家格秩序”を崩壊させようとした武将では無かった事が分かる。

既述の様に、彼の“天下取り“には”足利将軍一族“を擁立しようとの姿勢は一切無かった。これは如何に“足利将軍家”の権威が低下していた戦国時代とは言え、極めて稀な“天下取り”の姿勢であり“三好長慶”の“天下取り”のユニークさと言える。“三好長慶”のこうした姿勢、そして実績が、その後の織田信長~豊臣秀吉~徳川家康へと繋がる“覇権者”にとって、先導役と成った事は既述の通りである。

49-(1):“第13代将軍・足利義輝”の帰京に対して、地方から有力武将達が次々と入洛した当時の状況

1559年(永禄2年)2月2日:

“第13代将軍・足利義輝“と”三好長慶“との間に”和談“が成り”三好長慶“は当時、満17歳の嫡子“三好義興”(生:1542年・没:1563年)を伴って入洛、相国寺に宿した後の、3月3日に“三好義興”を将軍に謁させている。“伊勢貞助記”がその様子を伝えている。

三築(三好長慶の事)・同孫次郎(三好義興の通称)出仕,一三築より五種五荷進上之、御太刀は持にて御礼被申之。一三孫御盃頂戴あり、御盃は三ツ参る。御酒已後、御頂戴之御礼、御太刀進上之(中略)一慶寿院殿(足利義輝母親)様へ五種五荷、三築、三孫より被進之
(要旨)
三好長慶と嫡子三好義興が将軍・足利義輝に謁し三好長慶から将軍に進物を進呈。将軍からは、嫡子三好義興に盃を戴き、又、太刀も戴いた。(中略)将軍母親の慶寿院にも三好長慶、義興から進物を進呈した。

49-(1)-①:“織田信長”が“将軍・足利義輝“の帰京祝に入洛する

“織田信長”が“三好長慶”が、嫡子“三好義興”を伴って入洛した全く同じ日(1559年/永禄2年2月2日)に入洛している。この注目すべき記事が“巌助大僧正記・言継卿記・信長公記・総見記・常山紀談”に見られる事から史実である事は間違い無い。

長江正一氏著作“三好長慶“には下記の様に”織田信長“の入洛に就いて書かれている。

平和になった京都へ尾張国の”織田信長“(満25歳)が将軍”足利義輝”の帰京祝という名目で、百余人を連れて永禄2年(1559年)2月2日入洛した。この日は“三好長慶”が、芥川(城)から入洛した日でもある。織田信長は将軍に謁し、堺・奈良を見物した後、3月に清洲へ帰った。

“織田信長“はこの頃には”尾張国“(愛知県の一部)の大部分を勢力下に置いていた。”織田信長“を一躍有名にした“桶狭間の戦い”で“今川義元”を討ち取るのはこの入洛から1年3ケ月後の翌1560年(永禄3年)5月19日の事である。

49-(1)-②:“長尾景虎“(後の上杉謙信)も“将軍・足利義輝“の帰京祝に入洛した

1559年(永禄2年)4月20日:

“織田信長”が入洛を済ませ、帰国したタイミングと入れ替わる様に、当時29歳の越後国“長尾景虎”(生:1530年・没:1578年)が6年振り、2回目の入洛をしている。

“長尾景虎”はこの時“都を平和にし、天皇、将軍が尊敬される様に成る迄滞京する”と揚言(公然と言う事)したと伝わる。

1559年(永禄2年)4月27日~10月26日:

この期間“長尾景虎”は“近江国・坂本“に滞在し、ここから京都へ往復する形での入洛であったと伝わる。しかし、京都の政情に対処する事が出来ず、又“将軍・足利義輝“からは形式的な待遇しか受けられなかった事に加えて、甲斐国(山梨県)の“武田信玄”(155年2月、第3次川中島の戦、の後に出家、従ってこの時点では既に武田晴信から改名した事に成る・生:1521年・没:1573年)が信濃進攻を再開する状況であった為“京”に長期滞在すると公言した事とは裏腹に10月26日には帰国した。

尚、記録には、この間“長尾景虎“は”将軍・足利義輝“に①同年㋃27日②同年5月1日に謁した事が伝わる。5月1日の記録には“御苑”を拝観中、御遊歩中の“正親町天皇”に拝謁したとの記録も残っている。

50:“三好長慶”の権勢伸長に貢献大であった“松永久秀”

50-(1):歪められた“戦国の梟雄・松永久秀”の実像

“松永久秀“は”三好長慶“と”織田信長“という二人の”京・畿内周辺地域=天下“の覇権を握った“天下人”に仕えた武将だが、直ぐに謀反を起こす“梟雄”(きょうゆう=残忍で勇猛な事)で、義理人情のかけらも無い人物だったと伝えられている。

当時“松永久秀”の人物評を書いたものとして“宣教師・ルイスフロイス”(1563年6月肥前・大村領に到着、1597年6月長崎にて病没・生:1532年リスボン・没:1597年)が書いた“日本史”が有名である。その中で彼は“松永久秀”を下記の様に紹介している。
(天野忠幸編集:松永久秀)

当時天下の最高統治権を掌握し、専制的に支配していたのは松永霜台であった。(注:霜台/そうたい/とは弾正台の唐名)すなわち、彼はその点、偉大にして稀有の天禀(てんぴん=生まれつきの性質、才能)の才能の持ち主であった。(略)

さして高い身分では無いのですが、その知力と手腕によって、自らは家臣であるにも拘わらず、公方様(足利義輝)と三好殿(三好長慶)を言わば掌握していました。すなわち彼は、はなはだ巧妙、裕福、老獪でもありますので、公方様や三好殿は彼が欲すること以外に何もなし得ない。

“松永久秀“と同じ時代に生きた”ルイス・フロイス“の上記、人物評以上に良く知られているのが“松永久秀”没後、150年近く経った江戸時代の中期に“岡山藩”の儒学者“湯浅常山”(ゆあさじょうざん・生:1708年・没:1781年)が、戦国武将の言行を纏めた“常山紀談“の”松永久秀“に関する逸話である。これが後世の”松永久秀の人物像“として定着する事になった。

東照宮(徳川家康)、信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり、信長、この老翁は世の人のなしがたき事三ツなしたるもの成り、将軍を弑して奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる松永と申す者なり、と申されしに、松永汗をながして赤面せり、

(解説)
“徳川家康”が“織田信長”に対面した際“信長”は傍らに居た“松永久秀”に就いて“将軍・足利義輝を殺し、主君の三好長慶の嫡子・三好義興を殺害し、東大寺大仏殿を焼くという、世人が成す事が難しい事三つを成し遂げた老翁である“と紹介した。これに“松永久秀”は汗を流し、赤面した。

“織田信長”が“松永久秀”が将軍(足利義輝)を殺し、又“三好義興”(三好長慶の嫡子)を殺したと言ったとしているが、それが史実では無い事は後述する。これを“湯浅常山”が書いたのは“江戸時代中期”の事であり、その時点では“松永久秀”は“織田信長”が伝えた様な悪事を働いた人物として伝わっていたと思われる。

しかし、それが史実なのかどうかも、当時は証明されていない。“湯浅常山”は“松永久秀“没後、150年近くも後の人物であり、今日の様に、古文書や裏付け資料を確認する術も乏しかった時代であった。そして今日では“湯浅常山”の記述内容が多分に正確を欠くものであった事が解明されている。

何れにしても“松永久秀(弾正)”に就いては、三つの悪事を為した“戦国の梟雄”のイメージが定着してしまった事は否めない。真実の“松永久秀”像は①当時の史料②現地の史料③極力直接の関係者、又は本人の史料、から整合性が取れる形で検証され、その結果は、彼の人物像は、可成り異なったものである事が分かって来ている。

以下に“松永久秀”の真の人物像に迫るべく、検証する。

50-(1)-①:“松永久秀”の出自等について

“松永久秀“の出自については①京都西岡説②阿波説③五百住説(よすみ=大阪府高槻市)があるが、近年の研究では③の五百住説が有力である。生まれは1508年(永正5年)とされ、主君“三好長慶”(生:1522年)より14歳、年長となる。

主君“三好長慶”は当時“越水城”を拠点に“摂津国”の中小領主を積極的に家臣として登用していた。その中に“松永久秀”も居たという事である。“三好長慶”の側近と成り“松永久秀”は以下の様に地位を固めて行った。

50-(1)-②:“松永久秀”は“三好長慶”の信頼を得、1551年(天文20年)には弟“松永長頼”と共に4万の兵の指揮を任され“三好長慶”天下人への戦いの第5戦”相国寺の戦い“で軍功をあげている

1551年(天文20年)7月14日:

“松永久秀“の存在が公家や寺社から”三好長慶“の重臣として認められる様に成ったのは“三好長慶”が“父・三好元長”の仇である“三好政長(宗三)”と戦い“江口の戦い”で討ち死にさせた1549年(天文18年)以降の事となる。

この折“三好長慶”は前主君の“細川晴元”並びに“前第12代将軍・足利義晴”そして“第13代将軍に就いたばかりの“足利義藤”(当時満15歳・後に義輝に改名する)父子を敵にまわした。戦いに敗れた“足利将軍父子”並びに“細川晴元”は共に“近江国・朽木”に避難した。

“細川晴元“に味方する”将軍・足利義藤(義輝)“との対立が激化して行く中、前年(1550年)11月21日の“中尾城の戦い(本戦)”(三好長慶天下人への戦い第4戦)“に敗れ“近江国・堅田”に逃れたが“京都回復”を諦めない“将軍・足利義輝“並びに”細川晴元“そして、その武将”三好政勝・香西元成”等は“船岡山”から“等持院”を経て“相国寺”に陣取り“中尾城の戦い”から僅か1年後に“三好長慶天下人への戦い・第5戦・相国寺の戦い”(1551年7月14日~15日)が始まった。

この戦いで迎撃体制を整え“三好方”の主戦として戦ったのが“松永久秀”そして弟の“松永長頼”軍だった。“摂津国・丹波国・阿波国・和泉国”から40,000の兵を集め“相国寺”を包囲し、攻撃し、放火し、戦いは明け方まで続いたが“相国寺”は炎上“細川晴元”方の“三好政勝“(三好為三・みよしいぞう・生:1536年・没:1632年・細川晴元の後には三好義継~織田信長~豊臣秀吉~徳川家康~徳川秀忠~徳川家光に仕えたとされる・96歳で没した)並びに“香西元成”等を7月15日の朝“丹波国“へ敗走させるという軍功を上げたのである。

1552年(天文21年)1月:

翌1552年(天文21年)に“三好長慶”方と“将軍・足利義藤”(1554年2月に義輝に改名)との和睦が成り“足利義藤(義輝)”を京に出迎える事なるが、その時“三好一族”の長老“三好長逸“(後の三好三人衆の筆頭格となった人物)と共に”将軍の出迎え役“を務めたのが”松永久秀“であった。この事からもこの時点で”松永久秀“は既に”三好氏“の代表的立場に成っていた事が分かる。

この後“三好長慶”は絶頂期に向って勢力拡大を続ける。その勢力は実態として“将軍家”並びに“細川京兆家”を凌ぐものであった。その中で、功績を積み上げた“松永久秀”は主家に伍して彼の勢力を伸長して行ったのである。

51:“三好長慶”の嫡子“三好孫次郎慶興(よしおき)”にも“将軍・足利義輝“から偏諱が与えられ”三好義長“に改名する(その後更に三好義興に改名)

1559年(永禄2年)12月18日:

“三好長慶天下人への戦い・第7戦:北白川の戦い”(1558年6月9日)で敗北後“近江国守護・六角義賢”の和睦仲介で、再度の“京都”帰還となった”将軍・足利義輝“は、以後”三好長慶“に依存する立場と成った。そうした背景もあって“将軍・足利義輝”は“三好長慶”はじめ、その周囲に連なる武将達の処遇を著しく向上させる動きをしている。

期日ははっきりとしないが、この頃“三好長慶”は“御相伴衆”(室町幕府に於ける役職的身分。将軍が殿中に於いて宴席や他家訪問の際に髄従、相伴する者で管領家の一族、有力守護大名に限定されていた。幕府内で管領に次ぐ席次を与えられた・山名氏,一色氏、畠山氏、細川讃州家、赤松氏、京極氏、大内氏7家の当主を指していた)に取り立てられている。

公卿では“日野、広橋、烏丸、三条、飛鳥井、高倉が”御相伴衆“の待遇を受けて居り、其の後“冷泉、勧修寺”が加えられ“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”では8家に与えられていたその待遇を得たのである。

“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“の中で、上記の7家の公卿に与えられた“御相伴衆”に取り立てられる事は、殆ど統治権力を失った“室町幕府”組織とは言え”三好長慶“にとっては誇らしい事であった。“血統信仰”が依然として岩盤の様に残る状況下、実態の権力とは別に“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”の中には厳然として”伝統的家格秩序“に対する価値観は残っていたのである。

一方“将軍・足利義輝”に与し、敗れた“細川晴元(心月一清)”は、元家臣であった“三好長慶”が、この様に厚遇されて行く姿を見る事は、伝統的“血統信仰、家格秩序”の下に生れ育って来た当人からすれば、我慢の出来ない事態であった。しかし、現実問題としては“三好長慶”の力を畏れざるを得ず“京”に戻る事は全く不可能な事であった。

一方“三好長慶“の力で”細川晴元“との争いに勝利を得たライバルの”細川氏綱“も”三好長慶政権“の中では”三好長慶“の威勢の下で、その存在の影は薄かったと伝わる。“三好長慶”の京・畿内周辺地域に於ける権勢は真に絶大なものであった。

その“三好長慶”の嫡男“三好孫次郎慶興”に”将軍・足利義輝“は”偏諱“を与え(1559年12月18日)”三好義長“と改名した。”伊勢貞助記“には”三好長慶“は“御相伴衆“に列せられた御礼として”太刀“並びに”二万疋“(1疋=25文・江戸時代の1文を現在価値で凡そ25円とすると、25円x25文x2万疋=凡そ1250万円?)を“将軍・足利義輝”に献じ、又、嫡子の“三好義長(義興)”は偏諱の御礼として“太刀”と“一万疋”(現代価値で、25文x10,000疋x25円=625万円?)を献上した事が記されている。

52:“三好長慶”が、第106代“正親町天皇”の即位式で警固役を奉仕する

第106代“正親町天皇”(生:1517年・崩御:1593年)は1557年(弘治3年)9月5日の“第105代・後奈良天皇”の崩御(満60歳)に伴って践祚したが(1557年10月)既述の様に貧窮から“即位の礼”は挙げていなかった。戦国大名“毛利元就”並びに“本願寺法主・顕如”等からの献金によって“即位の礼“を挙げる事が出来たのである。後述する様に”三好長慶“も即位式に関わる費用を納めている。

”永禄改元“(1558年2月28日)の際に“正親町天皇”は”三好長慶“を”足利氏“に代わり得る武家であると認定、全国に示し、現職の征夷大将軍”足利義輝“を無視した事は既述の通りである。

“朝廷”のみならず、諸大名からも無視され兼ねない状態に、焦燥した“将軍・足利義輝”は、挙兵する事に拠って存在感を示すしかない状態に追い込まれた。“三好長慶”に対する面従腹背の姿勢をとりつつ、彼の本心は次なる戦闘へと燻り(くすぶり)続けるのである。

52-(1):自身は“修理大夫”に昇任し、嫡子“三好義長(義興)”も“筑前守“に任官した“三好長慶”

1560年(永禄3年)正月15日~正月21日:

“三好長慶“は、嫡子”三好義長“を伴って”淀(古)城”(江戸時代の1623年~1625年、松平定綱に拠って築城された淀城と区別する為に淀古城と称される。尚、豊臣秀吉が側室の茶々に与え、産所とした城として知られ、これにより、茶々は淀殿と呼ばれた。江戸時代に築城された新淀城は現在、淀城跡公園と成っている)の城主であり、形式上の主君である“細川氏綱”に年賀を述べている。(正月15日)其の後入京し“正親町天皇”の即位式の警固奉仕に備えた。

“御相伴衆”に加えられて以来、初めての幕府出仕をし“北白川の戦い”(三好長慶天下人への戦い・第7戦1558年6月9日)後の和睦が成り(1558年11月27日)同年12月3日に京帰還を果していた“第13代将軍・足利義輝”にも年賀を述べた記録が残されている。(正月17日)

更に、正月21日に“三好長慶”は“修理大夫”(しゅうりのだいぶ・宮中等の修理、造営を司る職)に昇任し、又、同日付で、嫡子“三好義長(義興)”も“筑前守”に任官した。(御湯殿上日記・歴名土代)

52-(2):即位式当日の状況を伝える記事

52-(2)-①:即位式の用御(費用)を納めた“三好長慶”

1560年(永禄3年)正月25日:

“三好長慶”はこの日、幕府に即位式の費用の一部を納めている。“朝廷”にでは無く“幕府”に納めたのは手続上の理由からだとされる。当日、嫡子“三好義長(義興)”も、式場警固の準備の為に“禁中(皇居)”に行っている。この折に、西の御庭で御酒を頂いた、との記録が残る。

52-(2)-②:式当日の“三好長慶”

1560年(永禄3年)正月27日:

天気は好天で、前夜から拝観者が数万詰めかけた、と記録にある。“三好長慶”は百余人の警固の供を連れ、烏帽子姿で任に当たった事等が伝えられる他”伊勢貞助記“には、即位式当日の状況が下記の様に記されている。

長慶朝臣(三好長慶)は北御門より祗候(しこう=謹んで御傍に仕える)、義長・伊勢貞良(いせさだよし=伊勢貞孝の子息・生年不詳・没:1562年)同道、其外は大和宮内少輔・貞助ばかりなり。此外は長慶の人数百余人計、烏帽子、辰刻(午前8時)参上。一、出御は未刻(ひつじ=午後2時、其様体不及置、出御以後、以通清御案内あり、其時長慶父子・貞良ばかり御前の御通、香台のきはまで罷出、拝被申之、先例如此此旨以貞助被仰出但御礼非被申上罷出見物あれとの儀也云々。御警固祗候在所日花(華)門の少南也、是又先例と云々。一、当日御門役御警固は長慶勤役之北之御門狩信・利壹勤之

52-(3):“淀古城”訪問記・・訪問日2019年(令和元年)5月20日(月曜日)

“三好長慶”が即位式の警固奉仕の為に入京した折に、形式上の主君であった“細川氏綱”を1560年(永禄3年)正月15日に年賀に訪れたのがこの“淀(古)城”である。”淀(古)城“は、当時は”淀城“別名”藤岡城“と呼ばれていたと伝わる。

住所:京都府京都市伏見区納所北城堀
交通機関等:
新幹線の京都駅で友人と合流し、近鉄京都駅から丹波橋駅で京阪電車に乗り換え“淀競馬場”が側に見える”淀駅”で下車。駅から4~5分の処にある後述する江戸時代に築城された”(新)淀城”を先に訪問した。“細川氏綱”が城主だった“淀古城”は”新淀城”から徒歩で5~6分の距離と書かれていたが、我々は道を間違えて“桂川”の長い橋を渡り“淀(古)城“史跡とされる“妙教寺”とは全く関係の無い寺に向ってしまった。その為、目的地の“妙教寺”に到着した時には”(新)淀城”出発後、40分以上も経っていた。

歴史並びに訪問記:
“淀古城”の築城主は1467年1月18日に”上御霊神社”で挙兵し“応仁の乱”を引き起した“畠山政長”(第25代幕府管領・生:1442年・没:1493年)とある。この城の文献上の初見は1478年(文明10年)8月1日付”東院年中行事”にあり“守護畠山政長”が“応仁の乱”で西軍の”畠山義就”に備える為”勝竜寺城“から”淀古城”に本拠を移すべく築城したと考えられている。

城主は細川氏の重臣“薬師寺元一“を初め、その後も”細川氏被官“が代々務めて来た。”細川政権“から”三好政権“に移った事で“淀古城”の城主には、上述した”三好長慶”が名目上の“旗頭”とした”細川氏綱”が成って居る。

“細川氏綱“没後(1564年)に”三好長慶”が嗣子とした三弟(末弟)”十河一存”の遺児“三好義存”(三好義重に改名し、1565年5月19日に第13代将軍・足利義輝を殺害した/永禄の変/を指揮した一人である・生:1549年・没:1573年)が継いでいる。木津川、宇治川、桂川の三川が合流するポイントの地、天然の要害とされ、古くから商業が盛んな中核都市として知られた”納所”(のうそ)の地名が”妙教寺”の近くに今日でも残っている。

その北岸に築城された“淀古城”は今日では“妙教寺”の境内に歴史を伝える石碑が建つだけである。石碑には①この付近に淀(古)城があった事②豊臣秀吉の側室・茶々の産所としてこの城が与えられ、以後、茶々は淀殿と呼ばれるようになった事等が刻まれている。

“茶々”がこの城で生んだ”鶴松”(生:1589年5月27日・没:1591年8月5日)は2歳半で死去した。豊臣秀吉は甥の秀次を養子とするが、その後に“秀頼”(生:1593年8月3日・没:1615年5月8日)が生れた事で“養子・秀次”との軋轢が生じ、1594年に切腹を命じるという世に知られた展開となるのである。

その時の家老で“淀古城”の最後の城主であった“木村重滋”(きむらしげこれ・生年不詳・没1595年7月15日)が“秀次”を弁護した事から連座の罪で自害させられている。こうした歴史を持つ“淀古城”は1595年に廃城となる。

“妙教寺“の本堂には”戊辰戦争”(1868年/慶応4年/1月3日~1869年/明治2年/5月18日)の際に砲弾が貫いた穴を生々しく残す柱がある。又“鳥羽伏見の戦い”(1868年1月3日~1月6日)で戦死した幕府兵士の墓もこの寺にある。

(参考)“(新)淀城”(江戸時代に築城された)訪問記

住所:京都府京都市伏見区淀本町

交通機関:
既述の”淀古城”を訪ねる前に近鉄京都駅から丹波橋駅で京阪電車に乗り換え”淀駅”で下車。駅から徒歩で4~5分の処に“淀城跡公園”の名で城址がある。
歴史並びに訪問記:
(新)淀城の築城年は1623年、築城主は”松平定綱”(徳川家康の甥、久松松平家初代当主・最後は伊勢国桑名藩主11万石の大名と成る・生:1592年・没:1652年)1625年に城郭の殆どが完成し1626年6月に徳川秀忠が、同年8月には徳川家光が来城した記録がある。(城の縄張りの調査目的だと伝わる)

1723年(享保8年)に“稲葉正知”(いなばまさとも・山城淀藩初代藩主・生:1685年・没:1729年)が10万石で城主と成り、以後“稲葉”氏が幕末まで城 主を務めている。

幕末“鳥羽・伏見の戦い”に敗北した旧幕府軍が”(新)淀城”に籠ろうとしたが”淀藩”が拒絶し、官軍の勝利に皮肉にも一役買う事に成った話は有名である。木津川、宇治川、桂川の三川合流の中州を干拓して城下町を形成し”河中の城”であったと書かれている。特徴として”(新)淀城”の西と北側に直径9間(約16m)の大型水車が2基設けられ、二の丸の居間や西の丸の園池に水を取り入れていたとされる。当時の貿易国であったオランダ人からヨーロッパの築城技術を採り入れた近世城郭であった。

今日の城址の様子は写真に示す様に、遺構として、石垣、堀、天守台、本丸跡、二の丸跡、が残るものの、城郭は無く”淀城跡公園”と称される施設となっている。
(写真)
最上段:(新)淀城の歴史、由来等を紹介した説明版
中段:“河中の城”と称された三川に囲まれた当時の”(新)淀城”の図、並びに廃藩を迎える迄、約150年に亘って城主を務めた”稲葉家”に関しての説明版
下段左:淀藩主稲葉家の祖”稲葉正成”(春日局の夫)を祀った稲葉神社 
下段中・右:遺構として残る堀、天守台等の石垣

53:“天皇家“(正親町天皇)“将軍家”(足利義輝)に礼を尽くした“三好長慶”に与えられた厚遇は周囲にも及んだ

53-(1):嫡子“三好義長(義興)“と”松永久秀“に対する厚遇

1560年(永禄3年)2月1日:

“三好長慶“が嫡子”三好義長(義興)”と“松永久秀“を伴って”将軍・足利義輝“の許へ出仕した。この時、嫡子”三好義長(義興)”並びに“松永久秀“が、共に”御供衆“(おともしゅう=将軍の出行に供奉する役職。御相伴衆、国持衆、準国主・外様衆に次ぐ格式で、将軍に最も親近で名誉的な職であった)に加えられた。“第13代将軍・足利義輝“からの厚遇である。

1560年(永禄3年)2月4日:

この日“松永久秀“(満52歳)が”弾正少弼“(だんじょうしょうひつ=律令制で弾正台の次官、正五位下に相当する)に任じられた。(主君三好長慶は、従四位下、つまり、松永久秀より2階級上である)

54:“天下人”として絶頂期を迎えた“三好長慶”に対して、背信行為に及んだ“畠山高政”

54-(1):“三好長慶”と“畠山高政”との関係史

54-(1)-①:“舎利寺の戦い“後の和睦以降”三好長慶“の舅として勢力を伸ばした“遊佐長教”

“河内国守護“の”畠山高政“(生:1527年/1531年説・没:1576年)は、実権を守護代の”遊佐長教”に握られる等、内部にトラブルを抱えていた。既述の様に“舎利寺の戦い”(1547年7月21日)で“前第12代将軍・足利義晴”が支持した”細川氏綱”方に”畠山高政”は与して戦い“三好長慶“軍に敗れた。

しかし翌年1548年に“三好長慶”と“遊佐長教”(ゆさながのり・畠山基国時代から代々河内国守護代を務めた家柄・生:1491年・没:1551年)の間で、両軍の和睦が行われ、既述の通り“三好長慶”が敵方“遊佐長教”の娘と再婚をするという展開と成った。(1548年5月頃とされ、この時、三好長慶は満26歳であった)”三好長慶“の舅という関係に成った“守護代・遊佐長教”は“河内国”における勢力を一層拡大させる事に成った。“遊佐長教”が娘婿と成った“三好長慶”に彼の父“三好元長”を自害に追い込んだのは“三好政長”だと吹き込んだ。これを知った事で“江口の戦い”(1549年6月12日~6月24日)へと展開し“三好長慶”は父の仇“三好政長”を討つ事となった。

その後“三好長慶”は“細川氏綱”を名目の“旗頭”として“前主君・細川晴元”と戦う事に成る。“三好長慶”陣営に入った“遊佐長教”は陣営の一翼として台頭した。

54-(1)-②:“遊佐長教”が暗殺される

1551年(天文20年)5月5日:

こうした“遊佐長教”の台頭は、反面、敵も多く生んだ。1551年3月7日と14日に”三好長慶”に対する“暗殺未遂事件”が起こった事は既述の通りである。こうした暗殺行為が頻発した時期に、暗殺の手が”遊佐長教”に及び、1551年5月5日、彼は暗殺されたのである。

“長享年後畿内兵乱記”に拠れば”遊佐長教”は、帰依し、尚且つ昵懇(じっこん)の間柄であった“時宗僧侶・珠阿弥”と酒を片手に歓談し、酩酊して横になった処を彼に拠って滅多刺しにされ、殺害されたと書かれている。刺客となった“僧・珠阿弥”は敵方に買収され”遊佐長教”暗殺に及んだが、その場で始末されたと伝わる。

暗殺の黒幕は当初は”三好長慶“と敵対関係にあった”13代将軍・足利義輝“が動いたとの噂もあったが”河内国・萱振賢継“(かやふりかたつぐ・畠山政長流家家臣・生年不詳・没:1552年2月10日)の野心の為の謀叛という事が判明した。“萱振氏”並びに彼に同心した者達は1552年(天文21年)2月に“安見宗房”(=安見直政・生没年不詳)に拠って粛清された。

54-(1)-③:“畠山高政”が家督を継ぐ

1553年(天文22年):

実権を握っていた“遊佐長教”が暗殺された事で“遊佐長教”と対立し、出家し“紀伊国”に遁世していた父“畠山政国”(畠山尾州家出身、当主としてでは無く、当主名代と認識されていたと伝わる・紀伊、河内、越中国守護・生没年不詳)から嫡子“畠山高政”は1553年(天文22年)に家督を継いだ。

この頃の“畠山高政”と“三好長慶”は同盟関係にあり、1553年に“三好長慶”が“前主君・細川晴元“を支援する“将軍・足利義輝“と戦う事になった局面で”畠山高政“は家臣“丹下盛知”や“安見宗房”(=安見直政)を“三好長慶”方の援軍として送っている。

54-(1)-④:“三好長慶”と”畠山高政”との良好な関係を義絶する程に一変させる切っ掛けとなった“安見宗房”(=安見直政)による、主君”畠山高政”への謀叛事件

“畠山高政”が家督を継いだのは“遊佐長教“が暗殺された2年後の1553年(天文22年)であり、彼が22歳~26歳“三好長慶”が満31歳の頃である。“三好長慶”との関係は、この時点では同盟関係にあった。1558年に“安見宗房”(=安見直政)が、主君“畠山高政”への謀叛に及び“紀伊国”に追放するという事件が起った。

“紀伊国”に追放された“畠山高政”は“三好長慶”に支援を頼み、結果、1559年(永禄2年)8月に“安見宗房”(=安見直政)を“大和国”に没落させ“畠山高政”は“高屋城”に復帰する事が出来た。しかし、この事は、以後“三好長慶”が“河内国”に強く介入するチャンスを与えた事でもあった。“畠山高政”が“三好長慶”に従属するという関係に成ったのである。

54-(1)-⑤:“畠山高政”が了解無しに行った“河内国”守護代人事が“三好長慶”を激怒させ、義絶に到る

“畠山高政”治世下の”河内国”には問題が生じていた。暗殺された“遊佐長教“の後任として”守護代“に就いた“紀伊国”出身の“湯川直光(生年不詳・没:1562年)に、国人が服さないという事態が生じていたのである。

こうした事態を知った“大和国”に“追放”されていた“安見宗房”(=安見直政)“が“守護・畠山高政”に自分を”守護代“へ登用する様、アピールをしたのである。”畠山高政”は“安見宗房” (=安見直政)のアピールを受け入れ、彼を”三好長慶”の了解も得ずに”守護代職”に就けた。

これを背信行為とし、激怒した”三好長慶”は”畠山高政”を義絶した。尚”畠山高政”と“安見宗房”が和解した事は史実と認められるが”畠山高政“が”安見宗房“(=安見直政)を”守護代職“という公職に登用したとする“細川両家記・足利季世記”の記事は史実として裏付ける史料も無く、疑わしいとされる。

“天文日記”(てんぶんにっき・本願寺第10世証如が1536年~1554年迄19年間に亘る日記)の記事には“畠山氏”家中に於ける家格、序列が書かれているが“遊佐氏・丹下氏・走井氏”等が重臣とされ、これら重臣達の家格と比べて“安見宗房” (=安見直政)の家格は可成り格下として扱われている。従って、如何に“安見宗房” (=安見直政)に実力があったとしても“畠山高政”が彼を”守護代職“に就けたとは考え難く”細川両家記“並びに”足利季世記“のこの件に関する記述は誤りと考えられている。

“安見宗房” (=安見直政)が”守護代職“に就いたか否かは別にして、彼が復帰後“畠山氏”家中で勢力を拡大し、有力国人を味方に付け、実力者と成っていた事は疑いない。

“三好長慶”としては、その“安見宗房” (=安見直政)に排斥され、追放された“畠山高政”を助け“高屋城”に復帰させたにも拘わらず、自分の了解も得ずに、その“安見宗房”(安見直政)と“和解”し、その上、重要な人事を行った事を“背信行為”とし、激怒し、彼を“義絶”したのである。

54-(1)-⑥:“三好長慶“と”畠山高政“そして“安見宗房”(安見直政)が複雑に絡んだ3者の離合集散の経緯について

離合集散は戦国の世の常であった。“畠山高政”の動きを“背信行為”と断じ、義絶した事から始まった“三好長慶”と“畠山高政”の抗争、戦闘への突入は、順風満帆であった“天下人・三好長慶”の絶頂期に影を落とす出来事となった。(細川両家記・足利季世記)

理解の助に3者が協力関係にあった期間、そして対立し、戦闘へと至った経緯と時期を、次ページに別掲したので参照願いたい。文中で述べた様に“三好長慶”は“河内国は三好が治める”と呼号した長弟“三好実休”の働きにより、1560年(永禄3年)10月24日~10月27日の戦いで、先ず“安見宗房”(安見直政)が守る“飯盛城”を開城させ、続いて“畠山高政“が居城とする”高屋城“を陥落させた。

両城を開城させた事によって“河内国“は”三好氏“の領国と成ったのである。

別掲図:”三好長慶・畠山高政・安見宗房(安見直政)”3者の入り組んだ離合集散関係表

注:O印は“三好長慶”と同盟、主従、協力関係にあった事を示す
X印は“三好長慶”と敵対関係にあった事を示す

=三好長慶との関係⁼             メモ

畠山高政  安見宗房
1553年8月:          O                    O           三好長慶と将軍足利義輝の対立が決定的と成り“霊山城の戦い”では“畠山高政”軍と共に“三好長慶”軍は“将軍・足利義輝”と戦い、勝利し、近江国に追う

1558年11月30日:     O                    X          “安見宗房”が主君“畠山高政”に対して謀反に及び、高屋城から追放する

1559年8月2日:        O                    X          “三好長慶”が支援し“安見宗房”を“大和国”に没落させる

1560年(永禄3年): X                    X         “畠山高政”が無断で“安見宗房”と和解した事で“三好長慶”が義絶に及び、対立が始まる

1560年11月:          X                    X           三好長慶が河内統治に意欲を燃やす長弟”三好実休”と共に攻撃し、飯盛城の安見宗房、高屋城の畠山高政を敗り、開城させる
                
1561年7月∼11月:    X                    -         “畠山高政”が紀伊国の軍勢を率いて“六角義賢”並びに“細川晴之”と共に“三好長慶”方を一時的に京から追い出す

1562年3月5日:          X                    X      ”畠山高政”軍が“久米田の戦い”で”三好実休”を戦死させ“高屋城”を奪還する

1562年5月20日:       X                    X         “畠山高政”は“教興寺の戦い”で敗れ、再び”河内国” の支配権を失い“紀伊国”に後退する

1564年7月4日 :“三好長慶”が飯盛山城で死去(満42歳)

54-(2):“阿波国・三好康長“と堺で”河内国“への出兵を打ち合わせた”三好長慶“

1560年(永禄3年)2月10日~21日:

“蜷川家記・足利季世記”に“三好長慶”が“堺”で“阿波国”から着いた“三好康長”(三好長慶の父・三好元長の弟で、叔父に当たる・生没年不詳)と“河内国”への出兵の件を話し合った。会談を終えた“三好康長”は2月21日に阿波国に帰っている。

54-(3):“三好長慶“の長弟”三好実休“が”河内国は三好が治める“と呼号し、実現させる

1560年(永禄3年)4月8日:

この戦闘で“三好長慶”は“芥川山城“を出発し”淡路国・洲本“で”阿波国“から来た長弟”三好実休“と会談。尚この時、長弟”三好実休“は既に入道しており“物外軒実休”と称していたとされる。入道の時期に就いては諸説があるが1558年(永禄元年)6月~8月の間とする説が有力である。

“三好長慶“の”畠山高政“に対する怒りと不信は強く、彼を義絶した。兄”三好長慶“の意を受けて長弟“三好実休”は“河内国は三好が治める”と呼号(大いに言い立てる事)した。これは“三好長慶”方として“河内国制圧”を公言したものだと“続応仁後記”は記している。

=メモ=
この頃“織田信長”が“桶狭間の戦い“に勝利している。(1560年/永禄3年/5月19日)尾張国知多郡”桶狭間”で25,000兵の大軍を率いて侵攻した“駿河国”の”今川義元”に対し”織田信長”が僅か2,000兵で”今川義元“の本陣(本陣の今川兵約5000~6000人)を奇襲し,織田軍の”毛利義勝“が”今川義元”の首を挙げた。一般的には”織田信長”は弱小国で、軍事力も劣っていたとされるが、近年の研究では実質56万石程の経済力があり、又、軍事的にも“近江国・六角義賢”並びに“越前国の”朝倉氏“との間に三角同盟を結んでおり、決して軍事的に弱小国という状態では無かったとされる。

54-(4):“三好長慶”軍と長弟“三好実休”軍が“畠山高政”の居城“高屋城”を攻撃し“畠山高政”軍を“前主君・細川晴元”が支援した事で、両軍に拠る攻防戦が続いた

1560年(永禄3年)6月29日:

“三好長慶”軍と長弟“三好実休”軍は “十七箇所”(河内十七箇所とも称す。鎌倉時代から江戸時代初期まで存在した17カ所の荘園群/後の惣村・・現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区中、東部)で合流した。

1560年(永禄3年)7月3日~7月19日:

合流した“三好”軍は“玉櫛“(現在の東大阪市)で”畠山高政“軍との合戦と成り、これを敗り(7月3日)太田(八尾市)~若林(松原市)を経て“藤井寺”まで進軍した。“高屋城”までは僅か3kmに迫ったのである。(7月19日)

1560年(永禄3年)7月22日~10月15日:

“高屋城”からの“出撃兵”との戦闘となり“三好”軍は、その都度、敵兵を追い返した。“飯盛城”の“畠山軍”に与する“安見宗房(安見直政)”軍が“高屋城”方を救おうと、参戦したが“三好軍”との“大窪(現在の八尾市)”での合戦に敗れている。(7月22日)

“安見宗房(安見直政)”軍は尚も、8月14日に“堀溝”(現在の四条畷)で“三好方”の“池田長正“(摂津国人・三好長慶と戦い、敗れた後に三好氏方に属した・生年不詳・没:1563年)と戦っている。この戦いにも”安見宗房(安見直政)”軍は敗れている。(細川両家記・足利季世記・続応仁後記)

“細川晴元”方の“香西道印”(元成?細川氏の忠実な家臣・生:1518年・没:1560年10月12日)“波多野右衛門”(細川晴元を支援して三好長慶と戦って来た武将・生年不詳・没:1579年)“木沢新太郎”等の軍は“飯盛城”を支援すべく10月8日~10日に“宇治五ケ庄”(現在の宇治市)に現われ“鳥羽、三栖”(いずれも現在の京都市伏見区)に放火をする等“三好軍”を攻め立てた。

54-(5):“松永久秀”の弟“松永長頼“が高屋城で”畠山高政“の援軍を討つ

1560年(永禄3年)10月10日:

“丹波国”(兵庫県の一部、京都府の一部)の“松永長頼”(松永久秀の弟で、1556年頃に内藤氏を掌握し、内藤宗勝、と改名している・生年不詳・没:1565年8月2日)が前線に加わり、敵方の“香西道印”(元成?)等を討伐した。その後も彼は“炭山“(醍醐寺の東)に放火、更に“紀伊国・根来寺“から来襲した衆徒を“高屋城”外で撃退した。(10月15日・細川両家記・足利季世記・続応仁後記)この軍功に対して“第13代将軍・足利義輝”から“三好長慶”に対して褒賞がなされている。(伊勢貞助記)

54-(6):“細川晴元”方の“飯盛城”と“高屋城”が陥落、開城し“河内国“が“三好長慶”方の領国と成る

1560年(永禄3年)10月24日:

“三好”方の包囲を破る事が出来ず、外からの支援軍も絶たれた“安見直政”軍は“飯盛山城“の開城を申し出た。

1560年(永禄3年)10月27日:

“畠山高政”の居城“高屋城”も遂に陥落し“飯盛城“を開城した”安見直政“と共に両名は”堺”に逃れた。(細川両家記・足利季世記)“三好長慶”は“河内国は三好が治める”と呼号(大いに言い立てる事)し、軍功を挙げた、長弟“三好実休”に“高屋城”を与えている。

55:“三好長慶”が居城を“飯盛(山)城”に替える

1560年(永禄3年)11月13日:

7年前の“霊山城の戦い”(1553年/天文22年/8月1日)に勝利し“第13代将軍・足利義藤(足利義輝)”を“近江国・朽木”に追い“細川晴元”を“宇津”(京都市左京区京北)に退かせ、実質的な“天下人”と成った“三好長慶”は、本拠地を“京都“では無く”芥川山城“とした事は既述の通りである。そして今回”三好長慶“は、本拠地を”飯盛(山)城”に替える。

この事に対して“第13代将軍・足利義輝”は11月24日に“竹内季治“(たけのうちすえはる・生:1518年・没:1571年・死因は織田信長を称して、熟したイチジクの如く木より地上に落ちるだろう、と評した事で斬首された)を通して“上野信孝”(うえののぶたか・生年不詳・没:1563年)“進士晴舎”(しんじはるいえ・奉公衆・生没年不詳)を“飯盛山城”に遣わし“飯盛に到り入城候由、いよいよ静謐(せいひつ=世の中が穏やかに治まる事)に属すべく珍重に候”と、ここでも“三好長慶”を褒賞(ほうしょう=誉める事)した事が“伊勢貞助記・細川両家記・足利季世記・続応仁後記“に記録されている。

”三好長慶“はこの時点で、家督を嫡子“三好義長(義興)”に譲り、これまで居城としていた“芥川山城”に満18歳の嫡子“三好義長(義興)”を配した。そして“三好長慶”自身(この時満38歳)は“飯盛(山)城”に移り、以後、死に至る1564年(永禄7年)7月4日迄の3年8ケ月間を居城とするのである。

“飯盛(山)城“に就いては前項(6-19項)42-(9)で”細川晴元・木沢長政“連合軍と”三好元長・畠山義堯“連合軍が戦った”飯盛山城の戦い“(1532年6月15日)を記述した場面で、訪問記を紹介したが,再度、別の視点から、訪問録を記した。

55-(1):“飯盛山城”訪問記・・訪問日2020年2月29日(月)

住所:大阪府大東市北条
交通機関等:
訪問前に同好の友人から“以前、ハイキング目的で訪れた事があるが、結構キツイ”山城“だった”と聞いていたので、事前に現地に電話で問い合わせた。
案内書には四条畷側から山城に至る方法と、野崎駅側からの二通りの方法があると書いてあったからである。時間は掛かっても、私共、年配者にとって安全、且つ、楽な方法を選択した。回答は”野崎駅”からの方が楽でしょうという事であった。
JR東西線に乗り“野崎駅”下車、そこからは標高314m、生駒山地北部の飯盛山に築かれた”飯盛(山)城”城址を目指しての我々にとっては結構ハードな山登りであった。
歴史、訪問記:
JR東西線で“野崎駅”に着いたのが午前8時10分である。直ぐに歩き始めて10分程の処に”野崎観音”がある。江戸時代から信仰と行楽を兼ねた”野崎参り”で知られ、その直ぐ後ろに”野崎城址”があった。室町幕府が決定的勝利を収め”南朝“方が没落した“四条畷合戦”(1348年1月5日)で“北朝”方の旗頭であった“縣下野守(あがたしもつけのかみ)”が”南朝“方の”楠木正行“と対峙した場所である。”野崎城”は“飯盛城”が築かれると、その出城としての機能を果たしたとされる。
山頂の”飯盛山城”の説明版には、河内平野、並びに、京都までを一望出来る事から軍事的に重要な場所とされ“南北朝時代”から城が築かれていたと考えられ、本格的に整備されたのは畠山の家臣”木沢長政”が居城とした1531年(享禄4年)頃と書かれている。その後、文中で記した様に“木沢長政”の配下にあった”安見宗房(直政)“が城主だった事もある。
”三好長慶”は”実質的な“天下人”として京・畿内地域平定し、既述した経緯から、1560年11月に拠点を“芥川(山)城”から”飯盛(山)城”に移した。以後、此の地が政治、文化の中心地となった。写真に示す様に山頂への途中に”飯盛城”の石垣が僅かではあるが残っている。ゆっくりと歩いた為、山頂に到着したのは午前9時40分であり、片道1時間30分程掛かった事になる。山頂からは梅田付近のビル群や“阿部野ハルカス”等、大阪の街が一望出来る。
頂上には“飯盛城址”と刻まれた石碑、並びに“楠木正行”(楠木正成嫡男・生:1326年・没:1348年)の像が建てられている。(写真)
此処から“四条畷”側に山を下りたが、急勾配の山道で、こちら側から山頂に向かう逆コースの行程を選んでいたら、我々には相当にキツイ史跡訪問になったであろう。事前に現地に訪問ルートを問い合わせた事が役に立った。四条畷神社に立ち寄った後、四条畷駅に着いたが、この山頂からの行程は、ほゞ、1時間程であった。

56:“三好長慶”の家臣“松永久秀”が“大和国”に侵攻する

56-(1):“三好氏”と“大和国”との関係

”大和国“は”興福寺“の守護国であって”興福寺“の衆徒である①筒井②箸尾③片岡④越智等は“興福寺”と密接な関係にあった。”三好氏“と”大和国“との歴史は”三好長慶“の曽祖父”三好之長“が1506年に幕府管領”細川政元“の命令で”細川政元“の家臣”赤沢朝経“(あかざわともつね・生:1451年・没:1507年)を助け”大和国侵攻“を進める為に”多武峯“(とうのみね)で戦ったのが初めだったとされる。

これを皮切りに、翌1507年(永正4年、この年6月に細川政元が養子に迎えた細川澄之に暗殺された細川殿の変が起きている)には“三好之長“の弟“三好勝時”(三好政長の父親・越後守・生:1461年?・没年不詳)が“細川澄元”の命で“大和国”の“筒井氏・箸尾氏・十市氏”を敗り、更には“河内国“の”畠山“の兵を敗り”河内国“に去らせた事が”聾盲日記・多聞日記“に記録されている。

56-(2):“松永久秀”が“大和国”の北半分を征圧する

1543年(天文12年)5月:

”三好長慶“は、寵臣”松永久秀“を使って“北小路城”を攻撃させたとの記録が“筒井家記”に残る。これが“松永久秀”が“大和国制圧”に関して起こした初期の軍事行動である。

1560年(永禄3年)10月24日:

既述の通り“三好軍”は“安見宗房(安見直政)”軍が守る“飯盛(山)城”を開城させ、続いて“畠山高政”の守る“高屋城”を 3日後の1560年(永禄3年)10月27日に陥落させた。“三好長慶・三好実休・松永長頼(内藤宗勝)”が“畠山高政”討伐に“飯盛(山)城“並びに”高屋城“攻撃を仕掛けていた最中“松永久秀”は“大和国”の征服に向った。その状況は下記である。

1560年(永禄3年)7月24日~11月24日:

“松永久秀”は“井土城”(いどじょう:現大和郡山市井土)の“井上若狭守”を攻め“大和筒井城主・筒井順慶“(生:1549年・没:1584年)軍が背後から取り囲むのをかわして開城させた。(8月28日)

又、主君“三好長慶”が“飯盛(山)城”を居城にする為入城した1560年(永禄3年)11月13日に“松永久秀“は”大和国万歳城”の“万歳大和守”を降伏させている。

更に“松永久秀“の”大和国”侵攻は続き“泊瀬”(はつせ・はせ:奈良県桜井市、長谷寺のある地域)の“桜坊城”を同年11月18日に開城させ、6日後の11月24日には“牧城”(宇陀郡)を開城させている。これに拠って“大和国“の北半分を征服したのである。

56-(2)-①:”松永久秀“は“大和国“に対する政治的アピールから、軍事拠点として”信貴(山)城“に入る

1560年(永禄3年) 11月:

“大和国”の北半分を征圧した“松永久秀”は“木沢長政”の後継者として“大和国“を支配するという政治的アピールから軍事拠点としての”信貴(山)城“へ入った。尚、同時期1560年に“松永久秀”は “多聞山城”の築城を開始し、1561年に入城(通説として、前年1559年に入城した、との説もあるが、中川貴皓氏はこの説は誤りとしている)している。城が完成するのは1564年と伝わる。

“松永久秀”は“大和国”に於ける、この2つの城を“多聞城”を主に政治目的に使い“信貴山城”を軍事目的に使ったとされる。尚“信貴山城”の訪問記は“太平寺の戦い”の記述の処に載せてあるので参照されたい。

57:“三好長慶”を守旧の地“京・畿内地域”で“天下人”にさせた諸要因

“長江正一”氏はその著書“三好長慶”の中で“河内・大和を領国に加えた1560年/永禄3年/からの約1年間が三好長慶の勢力の極盛期であった“と記している。

この頃の“三好長慶“の力は五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)の外に”丹波国“の主要部”播磨国“の一部に及び、加えて、長弟”三好実休“の領国”阿波国・伊予国“の一部、更には、次弟“安宅冬康”の領国“淡路国”そして三弟(末弟)“十河一存”の領国の“讃岐国”にも及んでいた。

こうした“勢力拡大”は“三好長慶”個人の軍事的才能に拠る事は勿論である。しかし“阿波国”を支配する長弟“三好実休”淡路国“を掌握する次弟“安宅冬康”そして“讃岐国”に勢力を持つ三弟(末弟)“十河一存”達が助力を惜しまなかった兄弟間の結束の強さに拠る処が大であった。

三人の弟夫々が、強大な水軍等、軍事力を整え、何時でも兄”三好長慶“の”摂津国“へ出動出来た事は軍事面に於いて“三好長慶”の大きな支えと成ったのである。加えて、父祖の代から貿易面で利益を上げる事の出来る“堺”を抑え、根拠地とし、財力を蓄えて来た事が、既述した“鉄砲の早期からの入手”をはじめ“軍需品”の入手を容易にした事も“三好長慶”を“天下人”に押し上げる大きな要素であったと言えよう。

その他“三好長慶”にとって有利だった事は曽祖父“三好之長”以来“細川氏”の領国“摂津国・和泉国”で国侍達との協力関係を培(つち)かって来た事がある。加えて“大山崎の油座“(おおやまざきあぶらざ・中世日本最大規模の油座であった。鎌倉時代前期頃から戦国時代末期にかけて京都の南西にある大山崎郷一帯を本拠に荏胡麻/エゴマ・食用又は油を採る為に栽培される。日本ではインド原産のゴマよりも古くから利用されている。縄文時代早期から確認されているとの説もある)を保護し、河内国の“十七箇所”等の利権を獲得した事等、経済面に於ける卓越した先見性、政治力も大いに貢献したと言える。

“阿波国“に於ける”三好一族“は他氏族を圧倒した存在であった事から、他の氏族は雌伏しなければならない状況にあった。従って”阿波国”内では抗争らしきものは無かったと言っても良い状態だったと伝わる。結果“三好長慶”そして長弟“三好実休”の下に兵力を集める事が可能であり、一団と成って“阿波国”から離れた地域での覇権争いの為の戦闘に力を集中出来たのである。

これ等、多くの点が“天下人・三好長慶”を誕生させた要因だった。

58:“三好長慶”本人のみならず、嫡子、更には“松永久秀”にも“桐の紋”の使用許可を与えた“将軍・足利義輝”の面従腹背の姿勢

1561年(永禄4年)2月1日~2月3日:

“桐御紋”はもともと“天皇家”の“紋“の一つであったが”後醍醐天皇“が”鎌倉幕府“を倒す際に、抜群の功績があった“足利尊氏”に下賜し、以後“足利将軍家”の“紋”となっていた。

当時は①北条氏康(北条早雲の孫・生:1515年・没:1571年)②一色義龍(=斎藤義龍・斎藤道三の庶子として生れる・1556年に父・斎藤道三を討つ・生:1527年・没:1561年)③朝倉孝景(10代目当主・生:1493年・没:1548年)④尼子晴久(出雲、隠岐、備前、備中、備後、美作、因幡、伯耆の八カ国守護と称された・生:1514年・没:1561年)⑤毛利元就(安芸国人から大大名と成る・生:1497年・没:1571年)⑥大友宗麟(大友義鎮・おおともよししげ・生:1530年・没:1587年)等、新興の有力戦国大名達が“相伴衆”に任命され”至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”内で“伝統的家格秩序”の中の上位者と目されていた。

しかし、この日、それらを上回る“格式”の証明である“桐御紋”の使用が“将軍・足利義輝”から“三好長慶・義興父子“更には”松永久秀“に対して許されたのである。

“天皇家“に由緒を持つ“桐紋”の使用を許された事で“相伴衆”の地位を上回り“三好氏”が“足利将軍家”に准ずる家格に上り詰めた事を世に証明する事となった。(三好一族と織田信長/天野忠幸氏)

更に特筆すべきは、軍功著しい家臣の“松永久秀”が主家並みの待遇を得たという事である。尚、以後“桐御紋”の使用が許された事例は“織田信長”そして“豊臣秀吉”が“天下人”の証として与えられたケースである。

この結果“三好長慶”は“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”が重んじた伝統的”家格秩序“下に於いては”細川管領家(細川晴元)“の家臣という位置付であり乍らも”三好家“の曽祖父、祖父、父親が積み上げて来た力を糧にして、そこに彼自身の優れた才覚に拠って“細川・畠山”という両幕府管領家“を凌ぐ勢力を築き”京・畿内地域“の覇権を握る”天下人“と成ったのである。

この史実を、江戸時代初期に成立したとされる”甲陽軍鑑“(甲斐国の武田信玄・勝頼期の武田氏の戦略、戦術を記した軍学書。全60巻)や“当代記”(信長公記を中心に他の記録資料を再編した二次史料。1624年~1644年頃に成立。編纂者は不詳・全九巻)は“三好長慶”を称して“天下を知る”との表現を用いて、彼が“天下人”であったと見做されていた事を裏付けている。

58-(1):“三好長慶・三好義興”父子に与え続けられた厚遇

1561年(永禄4年)1月28日:

1年前の1560年(永禄3年)1月21日に“三好長慶”は(満38歳)修理大夫、従四位下に任じられた。そして、その僅か1年後に彼の嫡子“三好義興”は、父と同じ“御相伴衆”つまり“管領家”に次ぐ格式を得ている。更に“三好義興”に対する官位も、其れまでの“正五位下”から父と同じ”従四位下”へと、2階級昇叙という優遇振りであった事を“伊勢貞助記・御湯殿上日記”が記している。

以下に律令制に於ける30段階に及ぶ“位階”と歴史上の人物が生前に得た“位階”を掲げるので参照願いたい。


(別掲図)律令制に於ける位階

序列 位階  呼称        参考:主たる人名(生前に叙位されたもの)
① 正一位  公卿  ・橘諸兄・藤原仲麻呂・藤原宮子(文武天皇夫人)・藤原永手(藤原房前次男)・源方子・三条実美
② 従一位  公卿  ・藤原道長・平清盛・足利義満・足利義政・豊臣秀吉・徳川家康・秀忠・家光・家斉・家慶・家茂・慶喜
③ 正二位  公卿  ・源頼朝・源実朝・足利尊氏・織田信長・万里小路惟房・徳川家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗・家重・家治・家定
④ 従二位  公卿  ・足利義材(義尹・義植)
⑤ 正三位  公卿  ・竹内季治
⑥ 従三位  公卿  ・足利義澄・足利義晴・足利義昭・伊達政宗・徳川光圀
⑦ 正四位上 貴族
⑧ 正四位下 貴族  ・北条泰時・大友宗麟
⑨ 従四位上 貴族  ・毛利元就・吉良義央(忠臣蔵の吉良上野介)
⑩ 従四位下 貴族  ・北条義時・足利義輝・細川晴元・細川氏綱・三好長慶・三好長逸・松永久秀・武田信玄・三好義興
⑪ 正五位上 貴族
⑫ 正五位下 貴族  ・北条時宗
⑬ 従五位上 貴族  ・北条時頼・楠木正成・北条氏康
⑭ 従五位下 貴族  ・源義経・足利義栄・上杉謙信・明智光秀・石田三成・真田幸村・浅野長矩(内匠頭・赤穂藩主)
⑮ 正六位上 地下人
⑯ 正六位下 地下人
⑰ 従六位上 地下人
⑱ 従六位下 地下人
⑲ 正七位上 地下人
⑳ 正七位下 地下人
㉑ 従七位上 地下人
㉒ 従七位下 地下人
㉓ 正八位上 地下人
㉔ 正八位下 地下人
㉕ 従八位上 地下人
㉖ 従八位下 地下人
㉗ 大初位上 地下人
㉘ 大初位下 地下人
㉙ 小初位上 地下人
㉚ 小初位下 地下人

58-(2):嫡子“三好義興”並びに“松永久秀”に次々と与えられた厚遇

1561年(永禄4年)2月3日:

”三好義興“に”浅葱色“(あさぎいろ・ごく薄い藍色・新選組が羽織で使用した事で有名・武士の死に装束の色が本義とされる)の”御肩衣・御袴“(おんかたぎぬ=室町末期から素襖/すおう/室町時代に出来た単仕立ての直垂・おんばかま)が下賜され”松永久秀“に”茶色“の”御肩衣・御袴“が下賜された記録が残る。

1561年(永禄4年)2月10日:

上記下賜から僅か1週間後に“松永久秀“に”塗輿“(ぬりごし=輿の箱の表面を漆塗りにした様式で身分の高い人物が使用する輿である。輿自体、天皇、貴族、大名等が使用する乗り物であり、江戸時代には儀式、儀礼の場での乗り物として利用されるのが輿で、日常の移動手段としては駕籠を使う様になったとされる)の使用が免許された事を“雑々聞検書”が伝えている。

当然“松永久秀”の主人である“三好長慶”並びにその嫡子“三好義興”にも、同様の免許が為されていたと思われる。尚、1559年(永禄2年)に“上杉謙信”にも免許されている事が確認されており、又“上杉謙信”が“幕府管領職・相伴衆”に准ずる“格式”を得ていた事も判明している。

58-(3):家督を譲られた嫡男“三好義興”邸へ“将軍・足利義輝”が“御成”をする

”三好長慶“は嫡男”三好義興“(みよしよしおき・生:1542年・没:1563年)に家督、並びに本拠地“摂津国”の“芥川山城”を譲り、1560年(永禄3年)11月13日に“飯盛山城”に移った事は既述の通りである。

1561年(永禄4年)3月30日:

“三好義興”は2月23日に“鹿苑寺”で“将軍・足利義輝”から酒を振る舞われた事、並びに1559年(永禄2年)から、度重なる栄典付与に対する返礼の意味から、自邸への“御成”を要請した。

“将軍御成り”の為に“三好義興“は立売(たちうり=京都市上京区)に急遽、屋敷を構えている。著書“松永久秀と下剋上”の中で“天野忠幸゛氏は”御成“の背景、意図等に就いて下記の様に記述している。

そもそも御成とは、主君が家臣の邸宅に赴き、接待を受ける事で、主従関係の結束の固さを示すものである。将軍が、本来は陪臣(家臣の家臣という関係であり、直臣と陪臣の差は封建制下に於いては非常に重要であった)に過ぎない”三好義興”邸に御成する事は極めて異例な出来事であった。

しかし“将軍・足利義輝”が応じた背景には“細川・畠山”両管領家を超える、畿内に於ける覇者に上りつめた“三好長慶”並びにその後継者である嫡男”三好義興”との君臣関係を改めて世間に示す事を目的としていたと考えられる。

一方の“三好”氏も、盛大な饗宴を執り行う事で、勢力を誇示するだけに止まらず、公家や諸大名から猛反発を受けている状況下で“将軍・足利義輝”との親密な関係を示す事は意味があったのである。

“三好”氏の最高権力者で大御所的な立場にあった”三好長慶”も“細川氏綱”や相伴衆の公家衆と共に参加をしている。しかし”御成り“の主催者では無かった。”三好長慶”としては”将軍・足利義輝”と直接的な関係をつくることを嫌ったからではないか、と考えられている。

そして“御成”当日の様子に就いて“三好筑前守義長朝臣亭江御成之記”並びに“三好亭御成記“更に”続応仁後記“は以下の様に伝えている。

“将軍・足利義輝”(当時満25歳)は立烏帽子・檜皮色袷・同色しじら香直垂袴(ひたたれはかま)という服装で、塗輿に乗り、剣持の細川藤賢(氏綱の弟)等を従え、伊丹・三宅・池田等の諸氏が警備する通路を経て、午後二時”立売町”の新館に到着した。

”三好義興“は裏打大口という服装で、三好長逸・三好政康(=三好宗渭・三好政長の子・三好三人衆の一人)を従えて、冠木門(かぶきもん=二本の柱の上部に笠木を渡した屋根の無い門)外の北側で南を向いて出迎えた。冠木門の左には”篠原左近丞”が、右には“加地久勝”(堺奉行・生没年不詳)が御門役を務めた。(中略)

式三献の後”三好義興・細川氏綱・三好長慶・松永久秀・三好長逸・三好政康”その他から太刀を主とした献上品があった。三好義興は銘刀を七腰も贈っている。(略)

前面の庭に設けられた舞台で”式三番”に続いて十四番の能があり、その祝儀は一万疋(25文x10,000=250,000文。一文を現在価値、25円とすると凡そ625万円)に及んだ。(略)

歓待は至れり尽くせりで、主従・主客は歓談を共にし,まことに平和で賑やかであった。この4年後の1565年(永禄8年)5月19日に“三好義継”(次項で記述するが、三好氏本家の事実上最後の当主・生:1549年・没:1573年)そして”三好長逸”並びに”松永久通”(まつながひさみち・松永久秀の嫡男・生:1543年・没:1577年)等が大軍をもって”将軍・足利義輝”を討ち取る、という前代未聞の“永禄の変”が起こるが、この時点ではそうした陰惨な様子は全く無かった。

“将軍・足利義輝”はその夜は”立売町”の“三好義興”の新館に宿泊し、翌、閏3月1日に将軍邸に帰った。

嫡子“三好義興”にまで、異例の厚遇が及び、この時点までが“三好長慶”並びに一族が迎えていた“絶頂期”であったと言えよう。

59:“三好長慶”が果した役割は“織田信長・豊臣秀吉・徳川家康”へとバトンタッチ される、後の“日本再統一”の為の“天下取り”への先導役であったと言える

59-(1):守旧の聖地“京・畿内地域”で“下剋上”を成し遂げた“三好長慶”

“三好長慶”は日本の特異性である“血統信仰”が岩盤の様に根付く“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力“の中心地、そして”伝統的家格秩序“を維持しようとする“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力の膝元であり、守旧の地である”京・畿内地域で“下剋上”を成し遂げた。

前項迄に記述して来た“日本各地”で起こった“下剋上”は“伊勢宗瑞”の事例、そして父を継いだ息子の“後北条氏第2代当主・北条氏綱“(勝って兜の緒を締めよの遺言で知られる・生:1487年・没:1541年)の事例は“京・畿内地域”から遠く離れた関東で成し遂げた“下剋上”である。

しかも“北条氏綱”が“伊勢氏”から“鎌倉幕府・執権家”であった“北条姓”に名乗り替えをした史実は“至強勢力”の中で、厳然として“日本の特異性・血統信仰”に縛られた“伝統的家格秩序”に拘った姿勢が明確であった。他にも“斎藤道三”の庶子として生れ、その“斎藤道三”を1556年に“長良川の戦い”で滅ぼした“斎藤義龍”(=斎藤高政・生:1527年・没:1561年)”も、室町幕府の“四職家”(赤松家・京極家・山名家・一色家)の一つである“一色義龍”に改名する許可を“第13代将軍・足利義輝”に求め、許されているのである。(1558年頃か)

“長尾景虎”(後の上杉謙信・生:1530年・没:1578年)も、1561年閏3月16日“上杉憲政”(山内上杉家15代当主・生:1523年・没:1579年)の要請を受けて養子と成り“関東管領職”を相続し、併せて“山内上杉家”を継承“上杉政虎”(うえすぎまさとら)と改名している。この例も“長尾景虎(上杉謙信)”が“伝統的家格秩序”に法り“名家”への改名を“第13代将軍・足利義輝”に要請し、その許可を得たという事である。

59-(2):“伝統的家格秩序“維持に拘り”名家“の名称、格式に拘った地方の戦国大名の事例

“斎藤義龍”や“長尾景虎(上杉謙信)”の事例を前記したが、同時代の戦国大名で“八カ国守護”と称された“尼子晴久“(生:1514年・没:1561年)更には”武田信玄“並びに“毛利隆元”(毛利元就の嫡男・13代当主・生:1523年・没:1563年)等も“伝統的家格秩序”維持の考えに縛られ“守護家”としての格式を整えている。

“陸奥国”でも戦国大名“伊達晴宗”(だてはるむね・伊達氏15代当主・生:1519年・没:1578年)が1555年に“奥州探題”に補任されているが、これは伊達氏が“探題家”としての“家格上昇”を果たした事例である。九州でも“大友宗麟”(大友義鎮・生:1530年・没:1587年)が、1554年(天文23年)に“第13代将軍・足利義輝”に鉄砲並びに火薬調合書を献上する等、将軍家との関係強化に努め、1559年(永禄2年)には“将軍・足利義輝“に多大な献金をした事で、同年6月に”豊前国”(大分県の一部、福岡県の一部)”筑前国”(福岡県)両国の守護職に任じられている。そして同年11月には”九州探題“に任じられ”探題家”の格式を整える事に成功しているのである。

59-(3):織田信長~豊臣秀吉~徳川家康への“天下人リレー”の先導役とも言える“三好長慶“に対する守旧派からの反発は大きかった

以上の様に“家格秩序”が重要視された当時であったから、何れのケースも“高い家格の名跡”を継いだ事例である。この様に“京・畿内地域”から遠く離れた地域で“下剋上”を為し、覇者となった主たる武将達も“日本の特異性”であり、岩盤の様に根付いていた“血統信仰に基づく家格秩序”の呪縛から解放されていた訳では無かった。

“三好長慶”が“織田信長”並びに“豊臣秀吉”そして“徳川家康”が“天下人”と成る為の先導役を果たしたという理由は、地方の覇者が、上記した事例の様に”高い家格”を得る事で”支配の正統性“を整えたり、又、必要としたのに対し”三好長慶“は、一切しなかったという事にある。この姿勢、行動は、後に続いた“織田信長・豊臣秀吉・徳川家康”が”天下人“に成る為のハードルを下げたという事が言えよう。

“織田信長・豊臣秀吉・徳川家康“が登場する前に主君“三好長慶”を常に目の前で見ていた“松永久秀”も“天下人“の座を争う迄には至らなかったが、全く同様の姿勢で行動した一人である。

一方、当然の事乍ら、こうした姿勢は当時の公家や諸大名等“日本の特異性“であり、日本に岩盤の様に根付く”血統信仰“に基づく”家格秩序“を守ろうとする”守旧派“からは激しい反発が起こった。前項(6-19項)で記述した様に”細川京兆家”に拠る”京・畿内周辺地域“での覇権争いでは“大義名分”を立てる為に”両細川家“共に”足利将軍家”を盟主に掲げた。

一方”三好長慶”の”天下取り“の戦いのそもそもがそうした“細川京兆家・細川晴元”との戦いであった事、そして彼を支援した“将軍・足利義輝”との戦いであったから“将軍”を盟主に掲げての“覇権闘争”という形にはならなかった。そして繰り返しとなるが”元堺公方・足利義維“を将軍に擁立する考えも無かったのである。

59-(4):自らが“守護職”を持たない国への支配を意図した“領国拡大戦争”も“三好長慶”の“天下取り“の特徴と言える

“山城国”並びに”摂津国“に於いて”細川氏”が、そして”大和国”では”畠山氏”が支配権を巡って争いを展開した。これ等の戦闘は、何れも両氏共に”守護職”を持つ領国内の”家督争い”であり、大名が守護職を持たない国を永続的に支配する意図で戦闘を行う事は“京・畿内地域”では起きていなかった。

しかし”京・畿内地域周辺“は“応仁の乱“(1467年1月∼1477年11月)並びに”明応の政変“(1493年4月)を経て、戦乱状態が常態化し、そうした状況下、日本の中央“京・畿内地域”で、しかも“伝統的秩序”を覆して“下剋上・天下取り”の戦いを制したのが“三好長慶”だったのである。

”三好長慶”は“支配の由緒の無い国々への領国拡大”の戦いを拡大して行った。しかも、既述の様に”将軍・足利一族”を擁立せずに“京都”を事実上支配し、更には”畠山一族”を擁立する事無しに”河内国“へ侵攻し、支配するという”領国拡大戦争“を行った。こうした“三好長慶”の天下取りの戦闘は、之までの、伝統を重んじる”京・畿内戦争”とは可成り異質なものであり、こうした姿勢、行動は、後に続く“織田信長・豊臣秀吉・徳川家康”の“天下取り”のハードルを下げる役割を果たしたとされる所以である。

60:“三好長慶”が“松永久秀”に期待した事

”三好長慶“の絶頂期に”朝廷”並びに“将軍・足利義輝”が競う様に破格の待遇を与えた経緯については既述の通りである。中でも”三好長慶“の寵臣”松永久秀“が主家と同等の待遇を得るまでに至った事は特筆すべきだと“松永久秀と下剋上”の著者“天野忠幸”氏は指摘し、以下の様に記している。

松永久秀が御供衆に任じられ,将軍直臣の格を手に入れた。そして“桐御紋”や”塗輿”と言った特権までもが主家と同時に認められた。朝廷、並びに幕府(将軍)双方から、主君と同等の待遇を受けたという“松永久秀”のケースは極めて異例な事である。”松永久秀”を下剋上の代表と称するならば、彼の下剋上の特徴は、主君をないがしろにしたり、傀儡化したりする事という、何時の時代にも起こって来た下剋上の事例とは異なると言える。彼の下剋上で特筆すべきは,将軍を頂点とする家格秩序が存在し、全国の戦国大名がそれに服している中で、出自(しゅつじ=生まれ、出どころ)が殆ど分からない身分から自分一代で主家と同格、さらには“将軍一門に准ずる”地位を、朝廷からも幕府からも公認されたという点にある。それが”松永久秀”という人物が“主君・三好長慶”から学び、行った”下剋上”の方法なのである。

この記述から明らかな様に“松永久秀”は自分の主君“三好長慶”の姿勢、行動様式に倣った事が分かる。

60-(1):主君“三好長慶”の嫡男“三好義興”の後見人としての役割を担った“松永久秀”

”松永久秀゛が満53歳、そして“三好義興”は未だ満19歳だった1561年に“三好義興“と”松永久秀“が揃って禁制(禁止事項を箇条書きにし、違反者への処罰を書き出された文書。木札として出された。禁札、制札とも言う)を発給した史実が確認され、更に”両者の直状“が発給された事も確認出来る。この史実から、当時の諸権門は“松永久秀”を“三好義興“を指導する”後見人“と見做していた事が裏付けられる。

1561年(永禄4年)閏3月:

“越前国守護・朝倉義景“(生:1533年・没:1573年)が”第13代将軍・足利義輝“から”三好長慶・三好義興“父子、並びに”松永久秀“に”諸事相談すべし“との御内書を受けた事も史実として残されている。(竹内文平氏所蔵文書)

又、既述した“織田信長”を批判し、逆鱗に触れ1571年に斬首された公卿”竹内季治“(たけのうちすえはる・生:1518年・没:1571年9月18日)が“洛中酒麹役“を巡る”相論“(そうろん=土地の領有権、山野河海の入会権、漁業権等を巡って当事者が夫々の権利を主張し、朝廷、幕府、藩等に訴訟して争う事)の件で“将軍・足利義輝“から”三好長慶“の嫡子”三好義興“並びに”松永久秀“に申し届ける様命じられた事も史料に残されている。

“将軍・足利義輝”が“松永久秀”を“三好義興”の後見人として認め、御内書を発行していた事、そして“松永久秀”自身も彼の後見人としての立場を理解し、その様に振る舞っていた事も伝わっている。これ等の史実から“松永久秀”が“三好義興”の父“三好長慶”が期待した役割に徹していた事が分かる。

61:絶頂期の“三好長慶“に屈し、遂に”三好長慶“を頼る事を余儀なくされた”前主君・細川晴元“に救いの手を差し延べた”第13代将軍・足利義輝“

61-(1):立売町の“三好義興”邸に”御成り“した席上“細川晴元”との和睦を“三好長慶”に勧めた“第13代将軍・足利義輝”そして、それに応じた“三好長慶“

“足利季世記”には”将軍・足利義輝”が”三好長慶”に前主君”細川晴元“を許し、懇情を結ぶ(真心を尽くした心配り)様に申し出た事が記述されている。“将軍・足利義輝”はこの時点でも変わらずに“細川晴元”を支援していた。

既述の様に“将軍・足利義輝”自身も“三好長慶”の保護に甘んじている様に見せてはいたが、本心は“反三好“で固まって居たのである。”三好長慶“に”細川晴元“を許す様伝え、それに”三好長慶“が律儀に応じた状況を下記の様に伝える史料が残る。

公方様、三好へ被仰て、細川晴元入道と和親の儀あり。同年五月六日細川晴元入道一清を三好より御迎を奉りて、摂州富田庄(現在の高槻市)普門寺へ入被申、則富田庄を御知行有べき由にて、御馳走(世話奔走)ありけり。誠に多年旧交の主従なれば、三好殿旧懐(昔の事を懐かしむ)の涙頻りなり

61-(1)-①:”将軍・足利義輝”からの要請に応じ、対応した“三好長慶”

1561年(永禄4年)5月6日:

“将軍・足利義輝”から“細川晴元”との和睦の話を持ち掛けられた“三好長慶”は、和睦を受け入れ“三好長逸・松永久秀”を遣わし“細川晴元”を迎えている。その際、併せて“三好長慶”が預かり、元服もさせていた“細川晴元“の嫡子”細川昭元“(幼名聡明丸~昭元~信元~信良~昭元・生:1548年・没:1615年)と、父親との10年振りの再会の場も設けた事が記録されている。

更に上記“足利季世記”には“三好長慶”は“前主君・細川晴元”の為に“摂津国・富田庄”の“普門寺”に入る事を用意し,且つ“富田庄”を“細川晴元”の知行地として与えた事が書かれている。“足利季世記”は“三好長慶“が、前主君”細川晴元“との昔を懐かしみ、涙を流したと書き、彼の寛容な人物振りを強調している。(注:足利季世記は作者、成立年代共に不明。9代将軍・足利義尚や畠山政長の死に筆を起こし、1568年に織田信長が足利義昭を奉じて入京するまでの、京都に於ける戦国時代を扱った軍記物である)

61-(2):“細川晴元”の“普門寺”入りは“三好長慶”が“幽閉した”とする説

“足利季世記”の記述とは異なる説がある。この説は”三好長慶“が”将軍・足利義輝“からの”細川晴元“との和睦を勧める様に、との意を受けて“三好長逸・松永久秀”を遣わし“逢坂山”(別掲図/この項に登場する城を表示する/をもう一度参照方.滋賀県大津市の西部に位置する標高325mの山である)に出迎え“将軍・足利義輝”との対面の機会を設定した。此処までは一緒のストーリーだが、以下に続く内容が大きく異なる。

“三好長慶”は両者の対面が終わると“細川晴元”を“摂津国”の“普門寺”に幽閉し、更に“長男・細川昭元”(生:1548年・没:1592年/1615年説もある)も同じく“普門寺(城)“に幽閉し”三好長慶“の監視下に置いた。

と書き、ニュアンスが大いに異なる。

しかし“三好長慶”という人物が“将軍・足利義輝”並びに、前主君“細川晴元”に対して、徹底的には追い詰め様とはしなかった、という之までの一連の行動パターンとの整合性からすると、彼が憎しみの余りに“幽閉”したとは思われない。後述する史実展開からは、当の“細川晴元”並びに、彼を支援する周囲は“三好長慶”が“懲罰的幽閉“を行ったと解釈した可能性が圧倒的に高い。後述する”普門寺“の御住職も実質的には”幽閉“だったとの見解であった。

史実は以下の様に展開して行く。

62:“三好長慶”が“細川晴元・昭元”父子を“普門寺”に幽閉したとして激怒した“近江国守護・六角義賢“が”畠山高政“と連合して挙兵する

“六角義賢”の姉が“細川晴元”の継室という近しい間柄から“親細川晴元”派である“近江国守護・六角義賢”は“細川晴元”が“三好長慶”との和睦会見の後に“普門寺”に嫡子“細川昭元”と共に入った事に対して、幽閉される事を予想していたのであろうか、次男“細川晴之”を“近江国”に留めている。

“三好長慶”が懸念した通り“細川晴元・昭元”父子を“普門寺”に幽閉したと解釈した“近江国守護・六角義賢“は激怒し、2カ月後の1561年7月に“畠山高政”と連合して打倒“三好長慶”の兵を挙げたのである。

63:和睦には応じ乍らも最後まで“三好長慶”に“面従腹背”であった“細川晴元”

63-(1):“次男・細川晴之”を近江国に残した事は和睦は受け入れたものの“細川晴元”は飽くまでも“反・三好長慶”を曲げず“面従腹背”を貫いた事を裏付ける史実

”細川晴之“が”細川晴元”の長男“細川昭元“の弟とする説は定説と成って居るが、彼の生没年等、不明な点が多い。只、確かな事は”父・細川晴元“が上記した“三好長慶”との和睦会見の席に“長男・細川昭元”を同席させ、結果、二人は以後“普門寺”に留まる事(幽閉?)に成り、次男“細川晴之“は”近江国“に残ったという事である。

この結果“細川晴之”は後に”六角義賢“や”畠山高政“に擁立され”第13代将軍・足利義輝“の命で”近江国“で”三好長慶“打倒の兵を挙げる事になる。“次男・細川晴之“を”近江国“に留らせたのは”三好長慶“を警戒する“近江国・六角義賢”が、和睦後の対抗策として彼が担保した反撃カードであった。(三好長慶著者:長江正一氏)

64:順風満帆だった“三好長慶”政権にとって、大きなダメージとなった長弟“三好実休”が戦死した“三好長慶天下人への戦い”第8戦・久米田の戦い”

“将軍・足利義輝の御成”を嫡子”三好義興“邸で迎えたのが”三好長慶権勢の絶頂期“であった。これを境として“三好一族の衰退”が始まって行く。

64-(1):三弟(末弟)“十河一存“の病死

“十河一存“(そごうかずまさ・三好長政を名乗った時期もある・三好長慶の3番目の弟・末弟である。生:1532年・没:1561年3月18日)は兄“三好長慶”に命ぜられて“十河家”の養子と成り、家督を継いだ。

彼は、前主君“細川晴元政権”を崩壊させ、兄”三好長慶“が父の仇”三好政長“を討ち”前第12代将軍・足利義晴”並びに“第13代将軍・足利義藤(義輝)”父子と共に“細川晴元”を“近江国・坂本”に追い“京”並びに“摂津国”の実権を握った“摂津国・江口の戦い“(1549年6月)の勝利に貢献した。

そして“三好長慶”への“背信行為”で始まった、1560年(永禄3年)の“畠山高政”との戦いでも、その大勝に貢献し、兄“三好長慶”から“岸和田城主”に任じられた。他の兄達と同様に優れた武人であった。

しかし乍ら、彼は30歳を前に没する。彼の死因に就いては、1560年(永禄3年)から“瘡”(皮膚に出来る腫物、梅毒の俗称)を病んだとの説がある。一方で“足利季世記”や“続応仁後記”には、落馬して死亡した、と書かれている。しかし、乗馬には十分習熟している筈の武将が落馬で死亡したとの説は、説得力が無いとされる。

64-(1)ー①:“十河一存“の死亡時期について

1561年(永禄4年)4月23日:

“十河一存“の死亡時期に就いては“伊勢貞助記“の1561年(永禄4年)5月1日条に”義長(三好義興)就十民(十河民部大夫一存の事を指す)死去の儀出仕無之“との記録がある事から、1561年(永禄4年)5月1日以前であった事は確かとされる。

“南宗寺”訪問記を後に紹介するが、この寺に祀られている“宝篋印塔”の左端が“十河一存”の墓とされ、其処に“劒翁活公禅定門、永禄四年辛酉、四月二十三日“と刻まれており、この日が彼の命日だと考えられている。

64-(1)ー②:“十河一存”の遺児の扶育を約束した“三好長慶”・・この遺児が“三好本家“最後の当主”三好義継“となる

1561年(永禄4年)5月1日:

三弟(末弟)“十河一存”(当時満29歳)の死は兄“三好長慶”(当時満39歳)にとって大きな悲しみであった。“三好長慶”は一族、老臣等に“十河一存”の当時12歳の遺児“熊王丸”(十河重存~三好重存~三好義重~三好義継・生:1549年・没:1573年)を扶育する事を約束し、その旨を“熊王丸”の乳母に7月20日に伝えている。

彼こそが“三好義興”の死後“三好長慶”の“嗣”(家の後継ぎ)となって“三好義重”を名乗り、1565年5月19日に“三好三人衆“並びに”松永久通“を伴って”二条御所“に”第13代将軍・足利義輝“を襲撃し、殺害した事件”永禄の変“を起こした人物である。殺害事件の後に改名し”三好義継“を名乗る事になる。

64-(2):”三好長慶“に対する敵意を露わにした“近江国・六角義賢“並びに”紀伊国・畠山高政“

義兄に当たる”細川晴元“が、之までも散々に苦しめられ、今回“普門寺”に幽閉された事に激怒した“近江国守護・六角義賢“は、いずれ”三好長慶“は”近江国”へも侵攻して来るであろうと脅えた。

一方“畠山高政“も既述の様に”河内国・高屋城”を1560年(永禄3年)10月27日に落とされ”安見宗房(直政)“と共に”堺”に逃れていた。“高屋城“は“河内国は三好が治める”と呼号した“三好長慶”の長弟“三好実休”に奪われた。更に“和泉国・大和国“も”三好長慶”方の手に帰した為、次は“紀伊国”を攻めるであろうと危惧していたのである。

共に“三好長慶”に脅える両名が共謀し“伝統的家格秩序”を重んじる“六角義賢”が、この日の為に“近江国”に留め置いた“細川晴元”の次男”細川晴之“(細川昭元の弟に当たるとされる・1561年11月24日の将軍地蔵山の戦いでの戦死説がある・生年不詳・没:1561年?)を擁立し、大義名分を立て”三好長慶“に公然と対抗する姿勢を明らかにした。

64-(2)-①:戦闘開始を予想していた“将軍・足利義輝”の本心は“細川晴元”支援に変わりはなかった

1561年(永禄4年)7月23日:

こうした情勢を予想していた“13代将軍・足利義輝”は“畠山宮内大輔”に対して表面上は“去年(1560年)の如く三好長慶・三好義興父子並びに三好実休方 に味方せよ”と要求した事が“伊勢貞助”記に書かれている。しかし、これは彼の政治的ポーズであり“将軍・足利義輝”の本心は“細川晴元支持”の姿勢だった。

64-(3):戦闘準備に入った“畠山高政“と”六角義賢“

1561年(永禄4年)7月28日:

1560年10月に“高屋城”並びに“飯盛(山)城”を夫々落とされ、共に“堺”に逃げた“畠山高政“並びに”安見直政“は”遊佐河内寺・根来寺衆徒“等を率いて”紀伊国“を発ち、先ずは“十河一存”没後、弱体化した“和泉国・岸和田城“攻撃に向った。

又”六角義賢“方の武将“永原重隆”(上永原城主・1561年の将軍地蔵山の戦いで討ち死)は、手勢3000を率いて“慈照寺”北の“勝軍地蔵山城”に入った。

64-(4):21,000の総兵力で応じた“三好長慶”方

”三好軍“は“岸和田戦”“和泉国戦”そして“久米田の戦い”へと拡大して行く一連の戦いに、計21,000の兵で臨んだ。夫々“岸和田戦”に備えて、長弟“三好実休”が7,000の兵を集結“京都梅津”には嫡子“三好義興“が7,000の兵を指揮、更にその東の西院に,後見する”松永久秀“が7,000の兵で布陣した。

総帥“三好長慶”は居城“飯盛(山)城”で両戦線を指揮したと“長享年後畿内兵乱記・細川両家記・足利季世記”は伝えているが、実態はこの頃“三好長慶”は体調を崩しており、余り積極的な軍事行動はしていなかったと考えられている。

64-(4)-①:長弟“三好実休”は“岸和田”に阿波国、淡路国からの一族の兵、7000を集結させる

“河内国は三好が治める”と呼号し“畠山高政”から“高屋城“を奪い取った長弟”三好実休“が、次弟”安宅冬康”(人格者として周囲から慕われた・後述するが、死を直前とした、兄・三好長慶によって殺害される・生:1528年?・没:1564年5月9日)“三好長逸“そして”三好康長“(三好実休の家臣・三好元長の弟で三好長慶の叔父に当たる・生没年不詳)“三好政勝”(=三好宗渭・三好三人衆の一人・生:1528年・没:1569年)“三好盛政”等の一族、及び“吉成勘助”並びに”篠原長房“(しのはらながふさ・三好実休の重臣・三好長慶没後、退勢に向う三好氏を支えた人物・生年不詳・没:1573年7月16日)等の阿波国・淡路国の兵,計7,000兵を“岸和田”に集結させた。

“岸和田”の戦線では、両軍は500∼600mまで接近したと伝わる。この戦いで“三好軍”は、各戦線で押され気味だったと“細川両家記”が伝えている。

64-(4)-②:“三好氏”方の重臣“三好政成”が討ち取られ“三好長慶“方の“三箇城”が陥落する

1561年(永禄4年)11月24日:

“和泉国戦線”で”三好軍“が敗北した事が”長享年後畿内兵乱記“並びに”続応仁後記“に記されている。

1561年(永禄4年)11月25日:

“飯盛(山)城”の西麓の“三箇城”(さんがじょう・1470年前後に築城されたとされる。“飯盛(山)城“築城後はその支城として使われた)を“畠山高政”の武将“宮崎隠岐守”が城兵の油断を突き、奇襲して陥落させた。“三好方”の城将“三好政成”(三好三人衆の一人、三好宗渭の兄に当たる)が討ち死にしている。

この様に各戦線で“畠山軍”が勇敢に戦い、優勢に戦いを進めた事が伝わるが、その主力は”根来寺衆徒“の活躍に負う処が大であったと“続応仁後記”等は記している。

64-(4)-③:“松永久秀”が“三好義興”を後見して戦った“京都戦(勝軍地蔵山戦)”でも“三好方”は“六角義賢”軍に劣勢気味で、両軍の攻防が続いた

1561年(永禄4年)11月24日:

“京都戦”では“三好長慶”の嫡子“三好義興”軍が7,000の兵で“梅津”(京都市右京区)に陣を敷きがその東の“西院”に7,000兵で陣を敷き後見をしたが“将軍地蔵山の戦い”で”六角義賢“軍は”白川口”の“神楽岡”を占拠した。

“松永久秀”の奮戦で“三好長慶”方は“六角義賢”軍の“永原重隆”の一族“永原重澄”を討っている。両軍の攻防は年を越した。

1562年(永禄5年)1月10日:

年を越えた早々“近江国・六角義賢”の兵2,000が“勝軍地蔵山(城)”から出撃して“三好義興”軍との戦闘が繰り広げられた記事が“巌助大僧正記”に見える。(1月10日)

こうした戦闘の最中“三好義興”が“梅津”(京都市右京区)の陣から参府し“将軍・足利義輝“に年賀を述べ、謡を聞いたとの記事がある。“三好義興”と、彼を後見する“松永久秀”も同様に参府しているが”三好長慶”は参府はせず、年賀の礼物を贈った事が”伊勢貞助記”が伝えている。こうした記録から“三好長慶“が体調を崩していた事が考えられるが、又、彼が”将軍・足利義輝“の心裏、つまり本心では”反・三好“であった事を見抜いていた事の結果とも考えられる。何れにしても両者は互いに”面従腹背”の関係だった事は明らかである。

”三好方“の正月の上記した様子からも分かる様に、この期間、京都戦線における両軍の戦闘状況は膠着状態が続いていた。

1562年(永禄5年)2月23日~2月26日:

2月になると“大和国”で“反三好軍”の動きが活発化し(23日)又、“京都”でも“六角義賢(承禎)”軍が出撃、翌日に“三好勢”が反撃するという攻防戦が開始された。(御湯殿上日記)


64-(4)-④:“岸和田城“訪問記・・訪問日2021年(令和3年)7月22日(木)

交通機関等:
大阪駅から地下鉄“堺筋線”に乗り“天下茶屋”駅で南海電車に乗り換え“蛸地蔵駅”で下車をし、其処から徒歩で“岸和田城”に向った。岸和田高校の校舎を過ぎると城の掘の向こうに1954年(昭和29年)に市民の要望で再建された“岸和田城(千亀利城)”の天守が見えて来る。

歴史並びに訪問記:
今日の“岸和田城”は写真に示す様に城跡は大阪府の史跡に指定され、本丸庭園は国の名勝に指定されている。築城年は1394年~1428年頃とされ”三好実休”も主な改修を行った武将として記録されている。2017年(平成29年)に“続日本百名城”に指定されている。
史料上では1408年(応永15年)に“細川頼長”並びに”細川基之”が和泉国(大阪府)の“上下半国守護”と成り”岸和田城城主”となったとある。
1548年以降の”細川晴元”と“三好長慶”の対立で”和泉国・守護代”で岸和田領地の統治を担っていた”松浦守“は”三好長慶”に与し”三好政権”の下で”和泉国”に於ける支配的地位を確保し続けたとされる。文中記述した様に“北白川の戦い”(1558年6月9日)で四国から弟達全員を集め”将軍・足利義輝”そして”細川晴元”軍に大勝した”三好”軍の三人の弟”三好実休・安宅冬康・十河一存”が”岸和田城“に入ったとされる。
当時は海に面していたとされる”岸和田城”は“阿波国・讃岐国・淡路国”から”京“並びに”摂津国”への交通の要となっていたとされる。長弟”三好実休”が1560年(永禄3年)に大規模な改修をしたとされ、海を背負った城郭の基礎がこの時に完成したと推測されている。
後述する”畠山高政”との”久米田の戦い”(1562年3月5日)で長弟“三好実休”が討たれる。その後”三好長慶”政権の衰退が始まり1564年(永禄7年)7月4日の”三好長慶”病死に拠って”天下人”の覇権争いは“織田信長”の時代へと展開して行くのである。
当初”天守閣”は無く1597年(慶長2年)豊臣秀吉の家臣で豊臣秀吉の叔父に当たる”小出秀政“(生:1540年・没:1604年)が天守を竣工したと”岸城古記”に書かれている。1631年以降は6万石の城主と成ったとある。
当初の天守は5層だった様だ。1827年(文政10年)11月20日の落雷で焼失、復興願いを届け出ていたが再建されなかった。そして漸く、1954年(昭和29年)に市民の要望で再建されたという事である。再建された天守は3重である。
“歴代岸和田城主名一覧”には”岡部宣勝”(生:1597年・没:1668年)を初代城主として廃藩置県(1871年7月14日)に拠って廃城と成る第13代城主”岡部長職“(おかべながもと・生:1855年・没:1925年)へと繋がっている。

64-(5):“久米田の戦い“で長弟”三好実休“が戦死する

1562年(永禄5年)3月5日:

“続応仁後記”が“近国無双の大合戦”と、記している様に、この戦いに於ける両軍合わせた総兵力数は、諸説ある中で最小数のケースで17,000人に上る大合戦であった。

この戦いは“三好長慶政権”が衰退に向かう端緒と成った戦闘とされる。“三好長慶”は1年前に三弟(末弟)“十河一存“を病気で失い、そしてこの戦で長弟“三好実休”を戦死させる。そのダメージは大きかったのである。

“三好実休”の“久米田の戦い“での戦死に就いては“畠山高政”軍に与した”根来寺“の荒法師の一人として知られる“往来左京”(おおきさきょう・生:1527年?・没:1575年?)に討たれたと伝わる。戦死の状況に就いては諸説があるが”生島宗竹”(生:1482年・没:1573年)が残した”細川両家記”に書かれたものを以下に紹介する。

永禄五年壬戌三月五日に三好実休の陣所は和泉久米田と云処なり。然るに畠山高政・根来寺衆・安見衆相談し、俄打出る。阿波勢も二手になり、根来寺衆・安見美作守(直政)一所に在ける処に、篠原右京亮(右京進・長房)大将にて切懸り、数刻責戦所に、根来寺切負て引退。しかれ共紀州衆湯川方控へたる所へ崩かかりけるに、三好山城守(三好康長)・同下野守(三好政康)・同備中守其外諸勢是を見て、敵陣へ一同に切りかかりければ、大将(三好)実休の旗本には纔(わずか)壱百騎にも足らず控たり。然共(三好)実休思惟なき大将なりければ、旗を進めて討て出らる。畠山の高政是を見て可然透間(すきま)ぞと思召けるが、相懸(あいがかり=敵味方が双方同時に攻め懸かる事)にかかり,一戦に及びし処に、(三好)実休の運や尽られけん、大事の疵(鉄炮で撃たれた疵)を被けれ共、一歩も不退討死す。是を見て其場に有之親類・若党卅余人、同枕に討死す。大将如此の上は、敵を切崩、既に勝軍仕候諸軍も敗軍す。

64-(6):“三好実休”の死は鉄砲で撃たれ負傷した処を討たれた

”細川両家記”には、上記の様に“大事の疵を被けれ共、一歩も不退討死す”と書かれている。又“蜷川家記“(蜷川氏は室町幕府政所執事を世襲した伊勢氏の家臣・この書は大永末年/1528年~永禄12年/1569年迄を収載したもの)には“根来寺・往来右(左)京首執之“と書かれている。

これ等の史料の記載内容から“長江正一“氏は”三好実休は戦闘中に鉄炮(砲)で撃たれ、そこを根来寺の/往来左(右)京/に捕えられ首級を挙げられた“と結論付けている。同氏は当時の鉄砲の普及状況に就いても、下記の様に検証を行ない“三好実休”の戦死の状況に結びつけている。後に成立した書物が伝える“流れ矢”で戦死した、との説、並びに“自害して果てた”との説もあるが“長江正一“氏は”著作・三好長慶“の中で、当時の鉄砲普及の状況を考え合わせ、長弟“三好実休”の戦死の推測を以下の様に記述している。

周知の通り、鉄砲が伝来したのは、この戦い(1562年)の19年前の1543年(天文12年8月)である。その製法は九州(種子島)から“根来”(紀伊国=和歌山県・三重県の一部)に伝わり、次いで“堺”(先ず堺に伝わり次いで根来へとの説もある)更に”近江国”の”国友”(現在の滋賀県長浜市国友町・・戦国時代から江戸時代末期まで堺、根来と並び称された鉄砲の生産地として栄えた)に広がった。

1550年(天文19年)7月15日に戦われた“三好長慶天下人への戦い第4戦・中尾城の戦い”(東山の戦い)で“三好長虎(弓介)”軍の与力の一人が”第13代将軍・足利義藤(義輝)“軍が放った鉄砲に撃たれて死んだ記録が日本で初めて鉄砲が戦闘に使われた事例だとされる。(既述)

それから5年後の1555年(弘治元年)の“川中島の戦い”には武田方には300丁の鉄砲があったとされる。又、更に3年後の1558年(永禄元年)9月に”三好長慶”が清水寺に与えた“禁制”(寺社・諸人に対しその保護と統制を目的として掟/おきて/や禁止事項等を通知する為に出した文書)の中に”伽藍に向って鉄砲を放つ事”が書かれた事からも、この頃の三好軍には相当数の鉄砲があったと考えられる。この事は鉄砲製造地の”根来”を持つ”畠山“軍も同様であったと考えられる。

従って“蜷川家記“が“根来寺往来右(左)京首執之“つまり”畠山高政“軍に属する”根来寺”の“往来(右)左京”が”三好実休”の首級を挙げた状況は、先ず、鉄砲で撃たれ、負傷した“三好実休”を捕え、首級を挙げたと解釈すべきである。

後に成立した書物に”三好実休”は”流れ矢に当たって死んだ”とか”自害した”と書くものもある。しかし”三好実休”の戦死は、鉄砲が用いられた戦場での事と考える事が出来よう。 
    

64-(7):“三好長慶”の政権を支えた二人の弟が次々と死去した事は”三好長慶政権“の衰退が始まる予兆的出来事であった

”畠山高政・根来寺衆徒“連合軍との“久米田の戦い“に敗れ、1562年(永禄5年)3月5日”三好長慶“の長弟”三好実休“(生:1526~1527年?・没:1562年)が戦死した。この敗北は“三好氏”の南部戦線の崩壊を意味した。

この状況に“飯盛(山)城”に居た“三好長慶”は“将軍・足利義輝”を京都から“石清水八幡宮”へ退去させている。“畠山高政・根来寺衆徒“連合軍は“飯盛(山)城”を包囲し、又“六角義賢(承禎)”方は“三好方”が去った京都を無血占領した。

”三好長慶“を支えて来た3人の弟達の中“十河一存“そして”三好実休“の二人の弟を失い、残されたのは、次弟”安宅冬康“だけと成った事で、絶頂期にあった”三好長慶政権”が衰退して行くのは明らかであった。

1562年(永禄5年)3月6日~3月8日:

洛中まで進軍し(3月6日)“京”そして”山城国“を無血占領した“畠山高政“並びに同盟する”六角義賢(承禎)“軍が、3月8日に“徳政令”を敷いた事が記録され、占領した事が史実である事を裏付けている。

64-(8):“三好長慶天下人への戦い”第8戦・“久米田の戦い”の纏め

年月日:1562年(永禄5年)3月5日
場所:久米田寺周辺
結果:“畠山高政・根来寺”連合軍、並びに”六角義賢“との同盟軍が勝利し”三好実休“が戦死“京”並びに“山城国”を無血占領され“三好政権”没落の兆候が現われた

“三好実休”軍
指揮官:三好実休
:三好長逸
:三好康長
:三好政康
:篠原長房
:安宅冬康

戦力:7000~20,000兵(不明)

損害:不明(両軍合わせて2000兵との説あり)三好実休(三好義賢)が戦死

”畠山高政・六角義賢“連合軍
指揮官:畠山高政
:安見宗房
:遊佐信教
:根来寺衆



戦力:10,000∼30,000兵(不明)

損害:不明



64-(9):三好実休(三好義賢)墓地訪問記・“妙泉寺“並びに”妙国寺“


64-(9)-①:“妙泉寺”訪問記・・2021年(令和3年)7月19日(月)

住所:大阪府和泉市和気町1-5-25

交通機関等:
地下鉄谷町線の南森町駅から天王寺駅まで行き、阪和線に乗り換え“和泉府中駅”で下車、そこからグーグルマップを頼りに歩き、ほゞ20分で“妙泉寺”に着いた。

寺の歴史等:
創建は大覚寺の大僧正”妙実上人”に拠って1341年(暦応4年)、と寺の由緒書にある。“南北朝時代”が始まり“北朝第2代・光明天皇“(在位1336年譲位1348年)そして”初代将軍・足利尊氏”の時期である。因みに南朝方は”後醍醐天皇”が崩御し”後村上天皇“が、1339年8月以降、天皇に就いていた時期である。

訪問記:
“妙泉寺”の境内で“三好実休“の墓所を探したがなかなか見つからなかった。そこに丁度外出の為、住職が出て来られたので墓石の場所をお尋ねした処、わざわざその場所まで案内して頂いた。“三好実休”の名が書かれた卒塔婆があり、その前に建つ大きな“供養塔”が我々が探していた”三好実休“の墓であった。

供養塔(墓石)は砂岩製の五輪塔で、高さは222cmとの事である。写真に示す様に、砂岩製の五輪塔の劣化は激しく、墓石に刻まれている筈の戒名、命日の文字をこの目で直接判別、確認する事は難しかった。しかし、地輪に“経”の下に“實休居士”と刻まれている事を確認、又、その左に”行年卅七討死“の文字、更には、その右側に”永禄五年三月五日”と命日が刻まれている事を確認出来た。

寺から頂いた説明書の記載内容とも合致しており、史実との整合を確認出来た事はその為にこうした史跡訪問を行っている我々としての喜びであった。

この供養塔(墓石)は堺の”妙国寺”の”日珖上人“が建てたもので、そこに刻まれた銘も”日珖上人“の筆に依るものだと書かれているが、真偽に就いては諸説がある様だ。

64-(9)-②:”妙国寺“訪問記・・2021年6月16日(水)

住所:大阪府堺市堺区材木町東4丁1-4
交通機関等:
大阪駅からJRの環状線で天王寺駅まで行き、阪堺電車に乗り換え“妙国寺前”で下車、其処からは徒歩で5分程で到着した。

歴史並びに訪問記:
“妙国寺”は“三好実休(義賢)“が開基である。開山は”三好実休“が帰依した“日珖上人”(堺の豪商、油屋常言の息子で堺の長源寺に入り比叡山で修行した・生:1532年・没:1598年)である。“三好実休”が戦死した時には“妙国寺”は未だ整っていなかったとされ、戦死した“三好実休”は先ず”妙泉寺”に埋葬された、と“妙泉寺”の住職からうかがった。史料にもそう書かれている事から、それが史実である事は間違い無い。
書物によっては“三好実休”が“開基”であるとの事から単純に“妙国寺”にも墓がある、とと書くものもあるが、信頼出来るどの史料にも“三好実休”の墓が”妙国寺”にあると書くものは無い。
”妙国寺“には“徳川家康”に関わる史実が多い。”織田信長”が“明智光秀”に討たれた”本能寺の変”の際に“堺”を訪れていた”徳川家康”が宿泊していたのが、この”妙国寺”であり、此処から命からがら無事、領国の“三河国”に辿りついた話は有名である。又“大坂夏の陣“(1615年)の際に”徳川家康“が”妙国寺”に滞在しているとの話を聞いた豊臣方の”大野治房“が”妙国寺”を焼き討ち(1615年4月28日)した為、全山が灰燼に帰した事も伝わる。
時代はぐっと下がって“明治”に元号が変わる7カ月前の“慶応4年/1868年/2月15日”に、フランスの軍艦から水兵100人が上陸。市内を闊歩し、婦女子を追い廻す等の傍若無人な振舞に“堺警備隊”の土佐藩士が対応した。しかし乍ら言葉が通じない等の結果、両 者が銃撃戦となった。結果、フランス兵11名の死者を出し、国際問題と成り、日本側はフランス側に賠償金を払うと共に“箕浦猪之吉・西村平次”をはじめとする土佐藩士20名に切腹が命じられるという事件”堺事件”でも知られる寺である。
1868年(慶応4年)2月23日“土佐藩士”は当“妙国寺”に於いて日仏立会人の面前で、堂々と順番に切腹自刃して行った。11名が見事な切腹を遂げ、12人目の切腹が行われようとした時、フランスの立会検視人からその壮絶な切腹の様子を見るに忍び難く、 以後の切腹は急遽中止とされ、残りの9名は土佐に流刑となった。
“妙国寺”境内には切腹して果てた“土佐藩十一烈士之英霊碑”そして“堺警備隊”に拠って殺された11名のフランス兵の“佛國遭難將兵慰霊碑”がある。
尚“土佐藩十一烈士”の墓は道路を隔てた向かい側の“宝珠院”にあり、同寺に葬られ、手厚く弔われたと書かれている。
今一つ“妙国寺”で有名なのが境内の樹齢1100年余と伝わる大蘇鉄である。国の天然記念物に指定され、これにまつわる”安産祈願“の御利益を求めて今日でも折れた針、鉄屑を大蘇鉄の根元に埋める信者の姿が絶えないとされる。
写真上段左:大阪駅からJR天王寺駅まで行き、阪堺電車(路面電車)に乗り換える
写真上段右:天王寺駅から20番目の駅だと言う事を示す車内表示板。運賃は¥230
写真中段左:1945年(昭和20年)の空襲で焼失し現在の妙国寺山門には当時の面影は無い
写真中段右:寺の由緒等を記した案内板
写真下段左:堺事件の11人のフランス兵、並びに切腹した“土佐藩士”の慰霊碑が建つ
写真下段中:“妙国寺”の前の”宝珠院”に“土佐藩十一烈士”は葬られている
写真下段右:1973年に再建された“妙国寺本堂”

65:“久米田の戦い”で敗れた“三好長慶”方が“河内国守護”で“室町幕府三管領”の一角の“旧勢力・畠山高政”との対立に於ける最終決戦とも言える戦いで勝利し、復活を果たし、畿内の覇権を握った“三好長慶天下人への戦い”第9戦“教興寺の戦い”は同時に長弟“三好実休”の弔い合戦でもあった

65-(1):“教興寺の戦い”の戦闘状況

65-(1)-①:戦況の推移

1562年(永禄5年)3月10日~4月5日:

永年対立して来た“室町幕府三管領家”の一角であった“守旧勢力・畠山高政”軍との最終決戦が近付いて来た。

“三好長慶”の嫡子“三好義興“と、その後見人である”松永久秀“は”畠山高政・根来寺衆徒“の連合軍が”飯盛(山)城“に押し寄せた為”鳥養“(大阪府摂津市)柱本(大阪府高槻市)へ移っている。(後鑑所収古文書集)

“畠山高政”軍は“河内国”高安の“教興寺”に進み、1562年4月5日から“飯盛(山)城”への攻撃を始めた。(足利季世記・続応仁後記)この時点では“畠山高政・根来寺衆徒”連合軍が“三好方”を圧倒していたと言える。

1562年(永禄5年)5月14日:

こうした戦況に“三好方”は”三好義興“軍が”摂津の国人、丹波の国人“を集結し、松永久秀・安宅冬康・三好長逸・三好政康(宗渭)・三好康長・三好盛政・三好弓介(三好長虎・三好長逸の子)・松山新介(=松山重治・三好家没落後は織田信長に仕えた・生没年不詳)池田長正(母親が三好政長の娘・三好長慶と戦い、敗れて三好氏に属した・生年不詳・没:1563年)等の軍勢を合わせた総兵力20,000が結集し、淀川を渡り“河内国”に攻め入ったのである。

1562年(永禄5年)5月19日~5月20日:

当日の天候は前日夜半から驟雨(しゅうう=にわか雨)であったとの史料がある。2カ月前の“久米田の戦い”(1562年/永禄5年/3月5日)で、雑賀衆や根来衆の鉄砲で“三好実休”を撃たれ戦死させた“三好軍”はその経験に学び、今回は“火縄銃”が使えなくなる、雨が降るのを待っていたと伝わる。

又“三好長慶”方は“畠山高政・根来寺衆徒”連合軍との戦いに狙いを絞り“京都戦線”との両面作戦を放棄した。“三好方”が“河内国”に入る動きに“畠山高政”軍は“三好実休”から奪い返した“高屋城”に退いている。(5月19日)

更に“飯盛(山)城”で籠城戦をしていた“三好長慶”も城から打って出た為“畠山高政
・根来寺衆徒”の連合軍は“三好軍”に拠って挟み撃ちに会う形と成った。

5月20日には“畠山高政”方の主力であった“湯川直光”が“教興寺・葉引野“の戦いで討ち死している。(写真)

この敗北を知った”畠山高政“は”烏帽子形城“(河内長野市)へ逃れたが、又、それも危ない状況と成り”紀伊国“まで退避している。(大和に逃げたとの説もある)”安見宗房”等は“大坂本願寺”を頼っている。更に“信貴山”へ逃げ込んだ“根来寺衆徒”も、多くが討たれた事が“後鑑所収目良家証文・長享年後畿内兵乱記・暦仁以来年代記・永禄以来年代記“等に記録されている。

又“三好長慶“を裏切り”畠山高政・根来寺衆徒“連合軍、並びに”六角義賢“との同盟軍側に与した“三宅国村”(みやけくにむら・摂津の有力国人で三宅城を本拠とした・生没年不詳)も“三宅城”を捨て“堺”に退避した。(長享年後畿内兵乱記・細川両家記・足利季世記)

ここに“三好長慶”は畿内に於いて守旧勢力として永年に亘り抵抗して来た“河内国・紀伊国守護・畠山高政”を合戦の末、排除する事に成功したのである。

65-(1)-②:京を無血占拠していた“畠山高政”の“同盟者・近江国守護・六角義賢(承禎)”は“教興寺の戦い“で苦戦する“畠山高政・根来寺衆徒”連合軍の支援に向わなかった

“教興寺の戦いの纏め”に記すが“畠山高政”と同盟した“六角義賢”は、苦戦する同盟者の戦闘支援に動いていない。“三好長慶“を挟撃しようと”畠山高政”との同盟を提案したのは“六角義賢(承禎)”の方からであったのにも拘わらず、である。彼等が同盟を結んだ理由は“新興勢力”の“三好長慶”一派が“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”が拠って立つ“伝統的家格秩序”の破壊を進める事への守旧派としての強い抵抗であり、その背後には“室町幕府”の権威回復を謀る“第13代将軍・足利義輝”の思惑があったと考えられている。

何故“六角義賢(承禎)”軍が京都を動こうとしなかったのかは不明とされるが“松永久秀”軍と彼が後見する“三好義興”軍が側に居た事で“六角義賢”軍は動きがとれなかったとする説が有力である。

結果的に“教興寺の戦い”で“久米田の戦い”で“三好実休”を戦死させ、劣勢と成った“三好方”が態勢を整え直し、戦いに挑み“畠山高政”軍に勝利した事で、畿内の覇権を回復したのである。

65-(1)-③:“畠山高政・根来寺衆徒”軍と“六角義賢”軍との同盟軍の敗北が決まる

1562年(永禄5年)5月20日:

“三好方“の総攻撃に拠って”畠山高政“軍は戦闘開始から2カ月後の5月20日を迎える迄に総崩れになった。“三好方”は勢いに任せて“大和国”にも侵入して行った。“畠山高政”軍は瓦解し“畠山高政“は”紀伊国“に後退し“河内国”に於ける支配権を失ったのである。“六角義賢(承禎)”軍が支援の為の軍事行動に出る事も無く、両者の同盟は“三好氏”の軍門に降った。

“教興寺の戦い”の結果“畿内”には“三好氏”に対抗する勢力が無くなったばかりか“三好氏”の勢力は“大和国・河内国・紀伊国北部”に迄、及ぶ“天下人”と成ったのである。

65-(2):“三好長慶”天下人への戦い・第9戦:“教興寺の戦い”の纏め

年月日:1562年(永禄5年)5月19日~20日
場所:“教興寺”(大阪府八尾市教興寺)周辺結果:“三好長慶”軍が勝利し、今回も“六角義賢(承禎)”に拠る“和睦”へと進む。“三好長慶”が“石清水八幡宮(男山)”に避難させていた“将軍・足利義輝”は再び京に帰還する

三好長慶軍

指揮官:三好長慶(総大将・飯盛山)
:伊沢大和守(作戦を伝達)
:三好義興(前線総大将)
:松永久秀(三好義興補佐)
:三好政康(摂津国人衆を指揮)
:三好長逸(三好政長補佐)
以下省略


戦力:摂津国人衆 25,000余兵
:丹波国人衆 7,000余兵
:山城国人衆 300余兵
:播磨国人衆 500余兵
:淡路国人衆 200余兵
:讃岐国人衆 200余兵
:阿波国人衆 5,000余兵
:譜代・旗本 5,000余兵
:一門衆 10,000余兵



合計 60,000余兵

損害:不明

畠山高政軍

指揮官:畠山高政(総大将)
:湯川直光(河内守護代?)
:遊佐高清(河内守護代)
:安見宗房(河内国人衆の旗頭)
:土橋種興(雑賀、根来衆、和泉国
人)
:筒井順政(大和国人衆旗頭)
以下省略

戦力:湯川衆 6,000余兵
:雑賀衆 3,000余兵
:根来衆 1,000余兵
:湯浅衆 1,000余兵
:紀伊国人衆 8,000余兵
:河内国人衆 7,000余兵
:大和国人衆 8,000余兵
:宇陀三将 3,000余兵
:和泉国人衆 500余兵
:その他 500余兵
:譜代・旗本 2,000余兵

合計 40,000余兵

損害:不明



65-(3):“教興寺”訪問記・・訪問日2021年(令和3年)7月19日(月)

住所:大阪府八尾市教興寺7丁目21
交通機関等:
我々の“教興寺”訪問は“妙泉寺”訪問に引き続いて行った為“大阪駅”から直接訪問するルートとは異なった。“大阪駅“から向かう場合は、JR環状線の”鶴橋駅“で下車して、近鉄に乗り換え”高安駅“で下車というルートとなる。高安駅からは東へほゞ直線に15分程歩くと小高い場所に“教興寺”が現われる。

歴史並びに訪問記:
“教興寺縁起”には”聖徳太子“(後世の尊称、乃至は諡号であるとして、今日の学校では/厩戸皇子/うまやどのおうじ/で教えているそうだが・・)が”物部守屋”討伐を祈願する為“秦河勝”に命じて588年(第32代崇峻天皇・崇峻元年)に建立したとある。
鎌倉時代には寺が荒れていた事が“玉葉和歌集”(鎌倉時代後期の勅撰和歌集・京極為兼が撰者)に載せられた和歌”立田山あらしの音も高安の里は荒れにし寺と答えよ”が当時の状況を歌い上げているとされる。
其の後”叡尊”(えいそん・真言律宗を興し西大寺を再興した・生:1201年・没:1290年)に拠って復興され“蒙古襲来”の際に、各地で”敵国調伏”の祈祷命令が出されたが”教興寺”でも”祈祷”が行われた記録が残っている。
上記した“1562年(永禄5年)5月19日~20日”の”三好長慶天下人への戦い、第9戦・教興寺の戦い”に就いて”住職”は”畠山高政軍と、三好義興・松永久秀軍との大合戦となった教興寺の戦いは、室町時代を完全に終わらせた合戦だと言われています”と語っていた。
確かに“久米田の戦い”に敗れ“三好実休”を失い、劣勢に陥った”三好義興・松永久秀”軍が軍勢を立て直すべく、四国からの兵を集め、総力60,000兵を以て”畠山軍”40,000兵と戦った大合戦であった。文中、記した様に、劣勢だった”畠山高政”方の 同盟者”六角義賢(承禎)“が、もし”畠山高政”軍の支援に動いていたら、戦局は如何なっていたのであろうか。
この戦いで”教興寺”は全焼状態と成り”伽藍”並びに多くの施設を焼失した、とある。“貞享年間”(1684年2月~1688年8月)に“浄厳覚彦和尚”に拠って再興されたが、現在残る建物は“客殿(仮本堂)、山門、鐘楼のみである。“浄厳覚彦和尚”と親交のあった”近松門左衛門”(本名・杉森信盛・生:1653年・没:1725年)が”教興寺”に暫く寄宿していたという話も伝わっている。
65-(4):総崩れと成り、敗北した“畠山高政・根来寺”連合軍を見て、今回も“和睦”交渉に動いた“六角義賢”(承禎)

65-(4)ー①:”三好長慶“との講和に動いた“六角義賢(承禎)“

“教興寺の戦い”の局面で、何故か“畠山高政”軍への支援に動かなかった同盟者“六角義賢“(承禎)は“畠山軍”の敗北を確認すると“近江国“へ退却し、その後、和睦に動いた。

65-(4)-②:“室町幕府”以来の“伝統的家格秩序”を重んじ、守旧に徹した武将“六角義賢“という人物

“六角義賢”(ろっかくよしかた・近江国守護・剃髪後は承禎・生:1521年・没:1598年)は“美濃国”を簒奪した“美濃国・斎藤氏”との同盟の話が出た時、彼は、出自が怪しい人物だとして反対した書状が残って居る。この事は、彼が当時“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”の中に根強く存在した“血統信仰”に基づく“伝統的家格秩序”を重んじる“守旧派”の武将であった事を裏付ける話とされる。

そうした価値観を持つ“六角義賢”からすれば“伝統的家格秩序”の下に於いて、遥かに格下で且つ新興の“三好長慶”一派の台頭を苦々しく思っていた事は明らかである。

こうした価値観に縛られている“近江国守護・六角義賢”にとって、既述の“三好長慶”が1561年(永禄4年)5月6日に、彼にとっては姉婿である“細川晴元”を“普門寺”に幽閉した事は、耐え難い屈辱であり“三好長慶”一派に対する敵意は強まり、今回の一連の戦いに到ったのだが、結果は敗北に終わった。

65-(4)ー③:“三好長慶”の敵方としての“六角義賢”は、終始“三好長慶”を利する動きを重ねたと言える

“三好長慶天下人への戦い”に就いて、緒戦から第9戦“教興寺の戦い”までを記述して来たが、敵方としての“近江国守護・六角義賢”は、結果として“三好長慶“を利する行動を重ねた事が分かる。

具体的には”三好長慶“が父“三好元長”の仇の二人目“三好政長”を討つた“江口の戦い”(1549年6月12日~24日)では(この時期の六角義賢は父親・六角定頼と共同統治の時期であった。父・六角定頼は1552年に没する)京都の“東寺“迄”三好政長“を支援すべく出陣していたが、1日の遅れで間に合わず、この遅れに乗じた”三好長慶“軍の攻撃を受け、支援を待ちわびる“三好政長”を戦死させた。

“三好長慶天下人への戦い”第8戦“久米田の戦い”(1562年/永禄5年/3月5日)では“畠山高政“の同盟軍として“三好実休”を戦死に追い込み“三好”方に大打撃を与えたが、徹底して追撃する事をせず、その後の70日間を無為に過ごし“三好”方に態勢立て直しの時間を与えた。そして“教興寺の戦い”では、既述の通り“畠山高政”軍が劣勢な戦況にも拘わらず、自軍は京に留まった侭、具体的な支援の為の軍事行動を起こさず、結果として“同盟軍”としての敗北を喫したのである。

65-(5):和睦が成る

“畠山高政“軍の敗戦を知った”六角義賢“は”近江国”へ退却し、講和に動いた。

1562年(永禄5年)6月2日:

和睦の内容・詳細については伝わらないが“御湯殿上日記”の1562年6月2日条、並びに他の史料にも“六角義賢、三好長慶と和睦する“との記録は残されている。”三好長慶“との和睦が成立すると”六角義賢“は”近江国・坂本“に退いている。

65-(6):“石清水八幡宮(男山)“に”三好長慶“が避難させていた“第13代将軍・足利義輝”が再度の“京帰還”を果たす

1562年(永禄5年)6月22日:

“将軍・足利義輝”は男山(石清水八幡宮)に退いていた(1562年3月6日)が、和睦が成立すると、6月22日に帰京している。

65-(6)-①:“教興寺の戦い“で判明した”三好長慶“にとって何の役にも立たないばかりか”領国拡大“の障害と成っていた”将軍・足利義輝“の存在

“三好一族と織田信長”の著者“天野忠幸”氏は“三好長慶”は、和睦した“将軍・足利義輝”を利用して、奉公衆の”湯川直光”や“近江国守護・六角義賢(承禎)”に“三好長慶”方の味方をする様“将軍・足利義輝”からの“御内書”を発行させていた事を明らかにしている。(内閣文庫所蔵雑々書札)

処が“湯川直光”も“六角義賢”も“御内書”には従わず“畠山高政”に味方している。他にも“将軍・足利義輝”の伯父“大覚寺義俊”や“内談衆・大舘晴光”までもが“三好長慶“に敵対し、敗北し“近江国・坂本”に逃れているのである。

こうした“教興寺の戦い”の構図からは“将軍・足利義輝”は寧ろ“三好長慶”の敵対者を許容し、そればかりか、自らの親族、並びに側近を“三好長慶”に敵対させる等“三好長慶”の領国拡大の動きにとって、障害と成った存在であった。

1562年(永禄5年)6月26日:

一方、朝廷(当時は第106代正親町天皇・在位1557年10月・譲位1586年11月・生:1517年・崩御:1593年)は“教興寺の戦い”に於ける“三好長慶”方の勝利を喜び
“万里小路惟房“(までのこうじこれふさ・織田信長との接渉等、難しい時代の朝廷運営を支えた公卿・生:1513年・没:1573年)を遣わし“三好義興”並びに“松永久秀”に下賜品があった事が伝わる。(御湯殿上日記・長享年後畿内兵乱記)

“三好長慶“並びに”松永久秀“が朝廷から”太刀“を賜ったと記す書物もある。何れにしても“久米田の戦い”の敗戦で一時、衰退に向かった“三好方”の勢力は“教興寺の戦い”の勝利で直ぐに回復した。尚“教興寺の戦い”の戦勝後“高屋城”は“三好康長”に与えられ“和泉国”は次弟の“安宅冬康”に与えられた。

66:“教興寺の戦い“の勝利で軍功を挙げた”松永久秀“が、更に勢力を伸ばす

“松永久秀”は“教興寺の戦い”の勝利から3カ月も経たない1562年(永禄5年)8月12日に“大和国・多聞山城”の棟上を行っている。“教興寺の戦い“で勝利した後の”三好長慶“政権は”久米田の戦い“の敗戦の恥をそそぎ、表面上は盤石の様に思われた。

しかし、既述の様に1561年4月の”十河一存”の病死、そして続く1562年3月の“三好実休”の戦死、と続いた2人の弟の死に拠って“三好長慶政権”の衰退が忍び寄って来ていたのである。こうした状況下で、大きく力を伸ばしたのが”三好長慶“政権下の一武将であるにも拘わらず、既述の様に、主家と同等の待遇を勝ち得て来た”松永久秀”である。世間も“三好政権”で次第に大きな部分を占めて来た“松永久秀”を認めざるを得ない状況と成って来ていた。

“三好長慶天下人への戦い第6戦・東山霊山城の戦い”(1553年・天文22年8月1日)に勝利した“三好長慶”は拠点を“越水城”から“芥川山城”に移した事は記したが“三好長慶”と“松永久秀“が”相住“(同居)した、と”巌助大僧正記“に記されている。又、1556年(弘治2年)2月に“三好長慶”が“七箇条の掟”を選定すると、その奉行を務めたのが“松永久秀”である。(高代寺日記)

これらの史実からは“三好長慶”が“天下人への戦い”の中で“松永久秀”を側から離す事が出来なかった程、重要視した事が分かる。以下に“松永久秀”の昇進の状況、並びに活躍振りを紹介する。主家“三好長慶”と同等の扱いを受けた事は既述の通りだが、彼の順調すぎる昇進ぶりには驚かされる。

1556年(弘治2年)7月以前:満48歳  滝山城主
1559年(永禄2年)8月8日:満51歳  信貴(山)城を修理し居城とする
1560年(永禄3年)2月4日:満52歳  “弾正少弼“(だんじょうしょうひつ)
1560年(永禄3年)11月 :満52歳  信貴(山)城に天守閣として四階櫓を設ける(摂津伊丹城に次いで我が国2番目とされる)
1561年(永禄4年)1月28日:満53歳 “三好義興”と共に従四位下に昇叙。この時”藤原久秀”を名乗る
1561年(永禄4年)2月1日:満53歳 将軍・足利義輝から“三好義興”と共に桐の紋の使用を許される
1562年(永禄5年)5月以前:満54歳 多聞城を築く。1565年に宣教師アルメイダが訪れ、金を使った堅固・豪華な城である旨の報告書を残している
1563年(永禄6年)7月2日:満55歳 供御(くご=天皇の飲食物)の事で命を受け献上
1563年(永禄6年)閏12月:同上  “松永久秀”の嫡男”松永久通”が従五位下に叙任される(三好義興死去の直後)
1564年(永禄7年)3月16日:満56歳 改元を執奏しない”将軍・足利義輝”に代わって大納言広橋国光・同万里小路惟房を通じて“改元”を申請するも正親町天皇から却下(将軍権威失墜)

1564年(永禄7年)5月9日:同上  “三好長慶”が次弟”安宅冬康”を”飯盛山城“に呼び寄せ殺害する。(松永久秀が讒言した、との説もある)
1564年(永禄7年)7月4日:満56歳 ”三好長慶”が”飯盛山城”で病死

1565年(永禄8年)5月19日:嫡男”松永久通”が”三好義重(義継)“や”三好長逸”等と共に”将軍・足利義輝”を殺害する(永禄の変)

以後”織田信長”に仕え、そして反逆し、1577年10月10日、信貴山城を攻められ、自害する。(満69歳)“松永久秀”の後半生に就いては次項(6-21項)で記述する。

奈良の“春日神社”の神事に下行銭(げぎょうせん)1500疋(1疋を25文、1文を25円とすると、25文x1500x25円=約95万円)を朝廷に献じたとの記事がある。この献金は当時”多聞(山)城“に居た”少納言清原枝賢“から”中納言内蔵頭・山科言継“の手を経て、朝廷に献上されている。

こうした献金は1564年(永禄7年)3月7日にも記録されており、3年続けての献金であった。春日神社付近に居城する“大和の国主・松永久秀”とすれば、当然の献金と言えようが“春日神社“は”藤原氏一門”の氏神として神威を誇る神社である。その祭礼費用を“源氏姓“を名乗った(1561年1月28日に藤原久秀を名乗り、従四位下に叙任されている)“松永久秀”が支出した事は“藤原氏全体”が“松永久秀”の富力に屈していたた事を象徴している。

66-(1)-②:莫大だった“松永久秀”の富・・“作物茄子と平蜘蛛“

“松永久秀”は当時流行していた“茶の湯”を好んだ。“堺“の豪商と交流し、名器を多数秘蔵した事が伝わる。中でも“第8代将軍・足利義政”が愛用した茶入れ“作物茄子”(つくもなす・別名九十九髪とも呼ばれる)は1568年(永禄11年)9月に“織田信長”が入洛した時に、敵する事が出来ないと見た“松永久秀”が“茶の湯”の好きな“織田信長”に、これを提供して己の首を繋いだ、と伝わる逸品であった。

尚“織田信長”は“松永久秀”が所有する“平蜘蛛の茶釜”にも垂涎(すいえん、すいぜん=ある物を手に入れたいと熱望する事)したが“松永久秀”もこの茶釜を愛惜(あいせき=手放したり傷つけたりすることを惜しむ事)し、1577年(天正5年)10月“織田信長”に叛いて“信貴(山)城”で滅亡する時、死の道連れにしたと伝わる逸品であった。

如何に“松永久秀”の富が莫大であったかを伝える話を紹介したが“衰退”を迎えた“三好氏”勢力の中から“松永久秀”が抜きん出た力を伸ばしたのである。

67:漸次伸長して来た“反三好勢力”

”三好政権“内部で”松永久秀“が勢力を伸ばして行く一方で、外部では”反三好勢力“が次第に力を蓄えて来ていた。

1562年(永禄5年)8月25日:

之まで“三好長慶”と親密な関係を結び、幕府の庶政に就いて常に協議を重ねていた“伊勢貞孝“並びに息子の”伊勢貞良“(生年不詳・没:1562年9月11日)が“柳本・薬師寺”等の“奉公衆”(将軍の近衛隊)並びに牢人達と共に、京都の北山に拠った事が伝わる。

“伊勢貞孝“は”第13代将軍・足利義輝“の内意を受け”近江国・六角義賢“そして“紀伊国”に退避していた“畠山高政”とも通謀し“杉坂口”(高雄の北)を出て“京都”に進攻した。(長享年後畿内兵乱記・続応仁後記)

1562年(永禄5年)8月26日~8月29日:

こうした“反三好勢力”の動きに対抗して“今村慶満”(いまむらよしみつ・生没年不詳)並びに“三好長逸”子息“三好久助”(=三好長虎の名もある・三好三人衆と行動を共にした・生没年不詳)等は警備の為、御所に入り“三好助兵衛“も”西院小泉城“に入っている。(8月26日)

こうした不穏な状況に、2カ月前に“京”に帰還したばかりの“将軍・足利義輝“に対し“朝廷”が心痛の旨を伝えた記録が残る。(同年8月29日)

67-(1):”反三好“方に転じた“伊勢貞孝・貞良”父子を”三好義興“と”松永久秀“軍が討つ

1562年(永禄5年)9月11日:

“松永久秀”が“多聞(山)城”から出撃し“三好義興”と共に8,000の兵をもって“伊勢貞孝“軍を”丹波国・杉坂“に攻め”伊勢貞孝父子“並びに”有馬重則“(生没年不詳)等を討ち取っている。

“有馬重則“は元来”三好長慶”方の武将であった。しかし、1562年3月6日”三好長慶“が”将軍・足利義輝“を”石清水八幡宮(男山)“に避難させた折に“有馬重則“を、護衛に付けた事から”将軍・足利義輝“の側近と成り”将軍・足利義輝“から”伊勢貞孝父子に味方せよ“との内命があった為、敵方として今回の戦闘で戦い、討たれたのである。

67-(2):”細川晴元“と同様”天下人・三好長慶“に、面従腹背の姿勢を続けた“第13代将軍・足利義輝”

“第13代将軍・足利義輝“は既述の様に”三好長慶“が戦功を挙げる度に褒賞を与えている。又“三好長慶”の保護に甘んじている様に表面上は振る舞ったが、本心は“反三好”である事は決して揺るがなかった。

“久米田の戦い”で“三好方”は“三好実休”を戦死させ、結果的にはこの戦いが“三好政 権衰退”の切っ掛けとなるが“三好長慶”はこの戦いは“将軍・足利義輝”の内意に拠るものである事を知って居たと“三好長慶”の著者“長江正一”氏は記述している。

その理由を、敗北の翌日(1562年3月6日)“三好”方が“将軍・足利義輝”を“石清水八幡宮(男山)“に移した事を挙げ、これは”将軍・足利義輝“が、敵方の”畠山高政“並びに”六角義賢“の手に渡るのを防ぐ為の予防措置だったとしている。

”三好長慶“が”将軍・足利義輝“の本心(面従腹背)を見抜いていたもう一つの証拠に”将軍・足利義輝“の、当時8歳の姫(総持寺殿)を人質として“松永久秀”の許に下向させた事が挙げられる。この事は下向する姫に謁見した“公家・山科言継“が”言継卿記“に記している事から、史実として裏付けられている。

又“将軍・足利義輝“が姫を人質として差し出した事は”三好氏“が”将軍家“にも優越する権力を握っていた事を世間に示すものであった。そして、こうした状況は、表面上の和睦という状態は続いてはいたが“将軍・足利義輝”と“三好長慶”の偽りの協調体制はすでに破綻していた事を晒(さらす)していた。

1562年(永禄5年)9月11日に“伊勢貞孝・貞良”父子を“三好”方が討った戦いもその裏に“将軍・足利義輝”の意があった事を“長享年後畿内兵乱記”は“於上意取懸”との表現で伝えている。

67-(2):朝臣の中にも居た“反・三好長慶”勢力

日本の特異性“血統信仰”の巣窟とも言える“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”の中心地“京・畿内地域”であるから、伝統的“家格秩序”を破壊して“天下人”として振る舞う“三好長慶”一派に反感を抱く者は多く居た。

公卿“万里小路惟房”の妹”房子“は“正親町天皇”の典侍(てんじ=ないしのすけ・内侍/後宮の次官=女官)であった。彼女を利用して、禁裏御蔵職を預かる商人で、官人の“立入家3代目当主・立入宗継“(たていりむねつぐ・1568年9月の織田信長の上洛の際には正親町天皇の命を受け、粟田口にて織田信長を出迎えた人物・生:1528年・没:1622年)と“万里小路惟房”両名が“三好長慶、並びに松永久秀外し”を画策したという以下の史実が伝わる。

67-(2)-①:“立入宗継“と”公卿・万里小路惟房”が“三好長慶”並びに“松永久秀”を外して“織田信長“に”正親町天皇“からの”女房奉書”を届けたという史実

1562年(永禄5年)11月28日:

“立入宗継“が”三好・松永等、欲しいままの有様“と”公卿・万里小路惟房”に進言した。この進言に“公卿・万里小路惟房”は下記の様に同意した。

“両人(三好長慶・松永久秀)の者、少の事をさへ、大事に騒ぎ候ゆえ、三好・松永など、聞候はば、君(正親町天皇)の御為、それがし、なんじもうきめにあはん事按のうちなり

そこで両名は、薄氷を踏む思いで“正親町天皇”に“三好長慶”と“松永久秀”には内密に1562年(永禄5年)11月9日付の“女房奉書”(正親町天皇の意向を典侍・房子が仮名書の文書にして発給した奉書=典侍房子が天皇の意を受けて伝達の対象者・織田信長・に対して発給したもの)の形で➀皇太子元服の事②禁裏修理の事③御料所回復の事を“立入宗継”を介して”清洲城“の”織田信長“に伝えたとの事である。
(1562年11月28日)

この事は”道家祖看記“(織田信長に仕えた道家尾張守/道家三十郎/の末子で京都清浄華院の住持が記したもの)に記録されている。史実としての重要な点は①朝臣の間でも“三好長慶”並びに“松永久秀”が羽振りを効かせている事に反発する勢力があった事を裏付けている。②この6年後の1568年(永禄11年)9月に“織田信長”は上洛するが、この”女房奉書“に応える、という大義名分の下での上洛であったと著書”三好長慶“の著者”長江正一“氏は述べている。

67-(3):”反三好”勢力“根来寺衆徒”に就いて

67-(3)-①:“根来寺”(一乗山大伝法院根来寺)について

1130年(大治5年・鳥羽上皇の院政期で天皇は崇徳天皇・関白藤原忠通の時期)に空海以来の学僧と言われ、鳥羽上皇が帰依した“覚鑁”(かくばん・興教大師・生:1095年・没:1143年)が開山。和歌山県岩出市にある“新義真言宗の総本山”である。室町時代末期が最盛期であり、寺領は72万石、1万の僧兵軍団(根来衆)を擁したとある。根来寺僧が種子島から伝来したばかりの火縄銃を持ち帰った事から、僧兵に拠る鉄砲隊が作られ、傭兵集団として活躍し戦乱に関わった。

“織田信長”狙撃した事で有名な“杉谷善住坊”(1978年/昭和53年/のNHK大河ドラマ/黄金の日々/で,俳優・川谷拓三が演じた)が門徒であったとの説もあるが、総じて“根来衆”は“織田信長”には好意的であった事は“紀州征伐”にも加勢し、又“京都御馬揃え“にも参加した事が裏付けている。

しかし“豊臣秀吉”の時代に成ると、1585年(天正13年)の“紀州征伐”(雑賀攻め)を招き、焼き討ちされる事になる。“徳川家康”の時代には“徳川家康”に従い“関ケ原の戦い“では活躍し、幕末まで命脈を保っている。

67-(3)-②:”三好軍“と”根来寺衆徒“との合戦、そして和睦

1563年(永禄6年)1月24日:

”根来寺衆徒”は“畠山高政”と連合して“三好”方と戦闘を繰り返した事は既述の通りである。”根来寺衆徒” の“三好”方に対する反感は根強く“和泉国”(大阪府)でも両者の間の戦いが記録されている。(1563年1月24日)

この戦いは、同年10月16日に“根来寺衆徒”の首領“杉坊照算・岩室坊勢誉・泉職坊快厳”の3坊が“堺”に来て“三好康長、三好政康、岩成友通“と会談し、和睦に至った事が“細川両家記・足利季世記・続応仁後記”に記述されている。

67-(3)-③:“根来寺“訪問記・・2021年10月26日(火曜日)

住所:和歌山県岩出市根来2286
交通機関等:
大阪駅からJR環状線と相乗りしている(天王寺駅経由)“紀州路快速”で“和泉砂川駅”で下車、そこからは“和歌山バス”を利用した。バスの停留場には学生が並んでいた。同じ“岩出駅前行き”が2系統あり“近畿大学経由”と、別のコースが通学時間帯に合わせてスケジューリングされている。我々は朝9時台に“和泉砂川駅”に着いたので、近畿大学経由のバスに乗った。結構長い時間掛かって(20分位か)主要境内に近い“根来寺バス停”で降りた。

受付で各自500円を払い“もみじ谷公園”の参道を通ると、添付した写真にある、国宝の大塔、その他、中世の佇まいを残す境内が広がった。尚“近畿大学”を経由しないコースは、重要文化財”大門”に近いバス停”岩出図書館”で降りる事になる。其処から東へ凡そ1.2km程歩くと我々今回降車した“根来寺バス停”に着く。平日のバス運行は時間帯に拠るが、30分に1本、乃至は1時間に1本と少ない。たまたま我々は帰りのバスの時間が合わず、バス停“岩出図書館”迄歩く事になった。お蔭でその途中に位置する“大門”も見学する事が出来た。

訪問記:
歴史等については文中紹介済みなので省略する。室町時代末期の最盛期には坊社450(2700説もある)寺領72万石を数えた一大宗教都市を形成した。現在の境内の広さは36万坪とあるから36ホールのGolf場程の広さである。
“根来寺衆徒”が1万の鉄砲隊の僧兵軍団を組織した事は文中も記した。又“根来寺衆徒“と”織田信長“並びに”豊臣秀吉”との関係に就いては次項以降で触れる事に成るので、此処では省略する。
既述の”三好長慶政権”衰退の大きな転換点と成った”久米田の戦い”(1562年・永禄5年・3月5日)で、長弟”三好実休”が彼の本陣に撃ちかけた“根来寺衆徒”の鉄砲隊に拠って討ちとられた史実を頭に思い浮かべ乍らの史跡訪問であった。写真を添付したが“根来寺”のあるJR和泉砂川駅は”久米田駅”(大阪府岸和田市)から10駅という地理関係にある。
根来寺の中で最も古い建物で、重要文化財の”大師堂”(真言宗を開いた弘法大師を祀る)は1391年に建てられたものであり、国宝の”大塔”(1547年)そして“新義真言宗・宗祖・覚鑁上人(かくばん)”の御廟所(墓所)である“奥の院”も訪ねたが”佇めば中世”と案内書に書かれている様に一気に室町時代にタイムスリップした様な雰囲気を残す史跡である。
春には桜、初夏には青葉、そして秋には紅葉が美しいと案内書に書かれている。我々の訪問は秋の紅葉の季節には一足早く”もみじ谷公園”の紅葉を楽しむ事は出来なかったが、是非、季節の趣を楽しまれる事をお勧めする。
生憎、当日は大法要が営まれていた為“大伝法堂”に入る事が出来ず、1585年の“豊臣秀吉”による焼き討ちを免れた“大日如来坐像・金剛薩埵坐像・尊勝仏頂坐像“三尊を見学出来なかったのは残念であった。
交通機関等の記述で触れたが、我々は“和歌山バス”を利用した。受付の方にお聞きすると、バス停”岩出図書館”まで歩いて次のバスを待った方が良いとの事であった。根来寺の前のバス通りを歩いていると右手に“根来寺大門”が見えて来た。1852年(嘉永5年)に建設された根来寺の表門である。大規模な二重門に成って居り、両脇に仁王像、上層には釈迦如来を中心に十六羅漢像が安置されている。

大門からそう遠くない処に立派な”岩出図書館”があり、ここでJR“和泉砂川駅”行きのバスを待った。

67-(4):“大和国“では”多武峯衆徒“が”松永久秀“に抵抗する

“大和国”では“松永久秀”の“大和国侵攻”に拠って1559年頃から“十市氏の戦い”等“多武峰合戦”と称される抵抗戦が激しくなって来ていた。

“多武峰”(とうのみね)の山中に“大化の改新”の立役者の一人“藤原鎌足”を御祭神とする“談山神社”がある。“藤原鎌足”の長男“定慧”(=定恵・藤原不比等の兄・生:643年・没:666年)が唐から帰国して、父の墓を“大織冠神社”(たいしょくかんじんじゃ・大阪府茨木市)から、父の由縁深い多武峰に改葬し“十三重塔”を建立し、開山と成った。

詳細は“談山神社訪問記”に記すが“本殿“の裏山で”蘇我入鹿暗殺“等を当時の”中大兄皇子(後の天智天皇)“と”中臣鎌足(後の藤原鎌足)“が談合した事に由来して”談山神社“と呼ばれる様になった。この衆徒が“松永久秀”に対して反乱を起こす事件が勃発している。

1563年(永禄6年)1月27日:

”松永久秀“に対する”多武峰衆徒“の抵抗の戦闘が記録される。”松永久秀“は”多武峯“(現在の桜井市南部)へ出向き”多武峯衆徒“と戦ったが敗北した。“壷坂”(現在の高市郡明日香村)に退いた“松永久秀”は”幕府”を通じて“朝廷”から和談の勅使派遣を要請している。

幕府、並びに朝廷を動かすこうした対応からは”松永久秀”の勢力が強大であった事を示すと共に、当時満55歳の“松永久秀”の”老獪“な政治手腕が伝わる。

1563年(永禄6年)4月14日:

“松永久秀”の要請が通じて“蔵人頭右大弁・柳原淳光”(やなぎはらあつみつ・生:1541年・没:1597年)が勅使として下向した。しかし”多武峯衆徒“は和談に応じず、聞き入れなかった為”柳原淳光”は空しく帰京した事が”巌助大僧正記、永禄以来年代記、東寺過去帳、御湯殿上日記、言継卿記“に書かれている。

藤原氏の始祖“藤原鎌足”を祀り,護り続けて来た寺院の衆徒としての誇りが伝わる史実である。

67-(4)ー①:“談山神社“訪問記・・2021年(令和3年)9月20日(月)

住所:奈良県桜井市多武峰319

交通機関等:
東京駅から新幹線で京都駅に着き下車。同好の友人と合流し京都駅からJR“まほろば線”に乗り換え、奈良駅を通過し“桜井駅”で下車した。そこからは、車を使って訪問する場合は容易だが、我々の様に公共の交通機関を利用しての“談山神社”訪問は、桜井駅からの交通の便が良く無い。桜井駅から“奈良交通バス”だと終点“談山神社”迄、凡そ25分とあった。駅に停まっていたタクシーにバスの運行状況等を尋ねると“私が行きましょうか?”との事。値段を交渉すると片道3000円との事なので乗り込んだ。車中で運転手さんが“談山神社”の事等、色々説明をして呉れた。“談山神社“からの帰のバス停の場所等を聞くと“見学が30分位だったらお待ちしますよ、帰りも駅まで如何ですか?”と誘われた。見学が30分で終わるかは分からない“と言うと”私が案内しましょう“と来た。史跡の案内をして貰って、往復6,000円のタクシー料金なら良かろう、と決断し、話はまとまった。私達の史跡訪問は30分では終わらず1時間を超えたが、運転手さんは嫌がらずに懇切丁寧に案内をして呉れた。見学を終え、約束通り“桜井駅”までの往復料金、6,000円を支払って“談山神社”訪問を終えた。

歴史等:
飛鳥・法興寺の“蹴鞠会”で中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が“蘇我入鹿“討伐の極秘の談合をした場所が”多武峰山中・談山神社裏山“だと伝わる。“藤原鎌足“は、没(669年・天智天皇7年10月満55歳)後”摂津国阿威山“(現在の大阪府高槻市)に葬られたが、678年(白鳳7年)、唐から帰国した長男“定慧和尚”が遺骨の一部を“多武峰山頂“に改葬し、十三重塔と講堂を建立して“妙楽寺”と称した。その後701年(大宝元年)に方三丈(10mx10m)の神殿を建て“鎌足公”の御神像を安置したのが“談山神社”(たんざんじんじゃ)の始まりと書かれている。

“談山神社”のその後の歴史は“比叡山延暦寺”の末寺と成った事(956年)から藤原氏の繁栄と共に発展を遂げた一方で、興福寺、春日大社とは抗争関係にあった。取り分け“藤原氏の氏寺“である“興福寺”との関係は悪く、数度の焼き討ちに遭っている。又、各衆徒との抗争も絶えず、鎌倉時代の1208年、金峰山寺の衆徒に拠る焼き討ちに遭った記録も残る。1435年(永享7年)には“南朝方”の遺臣に占領され、その後“室町幕府”に対する抵抗戦(大和永享の乱)に巻き込まれ1438年(永享10年)には全山を焼失している。
その後も戦乱に巻き込まれ、1559年(永禄2年)からの“松永久秀“と”十市氏“の戦いを含む”多武峰合戦“と称される3つの抵抗戦の舞台と成る等、戦乱は絶えなかったのである。“談山神社“が平穏を迎えるのは世の中が漸く落ち着いた”江戸幕府“の登場を待つ事になる。“徳川家康“は3000石の朱印領を”談山神社“に与えている。

訪問記:
上記した通り、桜井駅で談山神社までをお願いしたタクシーの運転手さんが、たまたま土地の林業に関わった方で、地元の”談山神社“の歴史などにも詳しく、車中、話をして行く中に案内役をお願いする事になった。

“談山神社”境内の様子に就いては、写真を添付したので参照願いたい。“神社”と言い乍ら、長男“定慧”と次男”不比等”が父の追福の為に建立した(678年)世界で唯一とされる木造“十三重塔”がシンボルとして聳え立つ”神仏習合時代”の名残を残す史跡である。

神社全体の景観の美しさ“日光東照宮”造営の際の手本となったと伝わる様に、社殿の極彩色の模様、彫刻等、史跡訪問としての価値は勿論であるが、コンパクトな観光地としても是非推奨したい“談山神社”である。
写真上左:京都駅から”まほろば線”で桜井駅下車 写真上右:談山神社全景案内図
写真中左右:中央に”藤原鎌足公御神像”向って右に“鎌足公”化身とされる”勝軍地蔵”の木像、向かって左に“藤原不比等公像”が安置されている
写真下左:鎌足の次男”不比等公木像 写真下右:狩野孝信(?)作“秋冬花鳥図”

68:“細川晴元“が普門寺で没す

1563年(永禄6年)3月1日:

“将軍・足利義輝”から和睦を勧める話があり“三好長慶”は2年前の1561年(永禄4年)5月6日に“細川晴元“並びに”嫡男・細川昭元”を“普門寺“に迎え、知行も与えた。

これを結果的に”幽閉“とする説が伝わるが、いずれにしても“細川晴元”は以後、1563年(永禄6年)3月1日に満49歳で没する迄“三好長慶”の庇護の下“普門寺”で悶々としたであろう余生を過ごしたのである。

”細川晴元“の被官で”三好長慶“方との戦いに敗れ、没落していた”丹波国“の”宇津氏、柳本氏、薬師氏、長塩氏“等が“細川晴元”の病没直前の1563年(永禄6年)2月3日に”反三好“の動きを起こし”長坂“を超えて”二条堀川“迄進軍し、西京に放火する等の抵抗に及んだ記録がある。

しかし“柳本氏”等の抵抗目的は、最早“細川晴元“を担いで抵抗行動を起こそうとしたのでは無く”三好勢“を駆逐して、彼等の失地を回復する為の戦闘行為であった。

兵力は僅か200程であったと言う事からも、彼等が失地回復という目的を達成する事は無かった。こうした動きは“反三好”の考えを抱く勢力が、各地、各層で根強く存在し、しかもそうした勢力が徐々に増えて来ていた事を裏付ける史実として捉えて置くべきであろう。

”普門寺“で満49歳で病没した”細川晴元“の戦いの生涯は、この時代の武将の多くの人生がそうであった様に、少年の頃から続いた波乱の連続であった。”戦国期“の代名詞とも言える“下剋上”具体的には、日本の特異性”血統信仰“の下で行なわれた”伝統的家格秩序の崩壊“が“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“の中で進むという歴史過程の中で“細川晴元”も“家臣・三好長慶”に拠る“下剋上”に遭い、それに屈した人生だったと言える。

室町幕府の公式資料からは“細川晴元”が“幕府管領職”に就いた記録は無い。しかし“三好長慶”の父親“三好元長”の活躍に拠って、公式に記録が残る最後の“幕府管領”とされる“第31代幕府管領職・細川高国“を倒して“京・畿内周辺地域”に於ける“覇権”を事実上握った事は確かである。

しかし“第12代将軍・足利義晴”の下で“幕府管領職”に就くという考えに変節した事から、飽くまでも“堺府公方・足利義維”を擁立しての“覇権掌握”を構想し、行動しただった“三好長慶”の父親“三好元長”と袂を分かち“三好元長”を滅ぼした事で、結果としてその嫡子“三好長慶”を敵とする抗争を続け、敗北するという晩年を送った。

“細川晴元”の変節、そしてその後の“三好長慶”との抗争に到らせたものは、彼の心の根っ子にあった日本の特異性”血統信仰”であった。“細川京兆家”という名家に生れ育った彼は“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”の中に、岩盤の様に根付いた“伝統的家格秩序”の呪縛から逃れられなかった、という事であろう。

69:“普門寺”訪問記:2020年10月27日(火曜日)

住所:大阪府高槻市富田町4-10-10
交通機関等:大阪市南森町駅から“阪急堺筋線”に乗り“富田駅”で下車、そこからは南方向に約15分程歩く(駅からは1km程であろうか)南森町駅からは全行程1時間程であった。

69-(1):歴史等:

創建は1390年(明徳元年)建長寺派“蘭渓道隆”の流れをくむ“設巌”を開山とする名刹である。既述の様に1561年(永禄4年)5月6日に“細川晴元”は“三好長慶”との和睦を名目に、知行を与えられ、嫡男“細川昭元”と共に“普門寺”に入った。

“細川晴元”は、出家、隠居し、以後の生活は“三好長慶”の庇護の下という形と成ったのである。この状態を、実質的な“幽閉”と捉え、憤慨した“近江国守護・六角義賢”等との戦闘へと展開して行く。

不明な点は多いが、この前後に“普門寺”は城郭化され“普門寺城”と呼ばれる様に成ったと伝わる。城郭化の目的は“三好長慶”の居城“芥川山城”の支城として、との説があり、規模は、現在の“三輪神社・本照寺・富田小学校”も城郭の一部とした、最盛期には3万平米(9000坪~10,000坪)程であったと伝わる。其の後“三輪神社”の独立、太平洋戦争後の農地解放等が行われた為、今日の”普門寺”の規模は、当時の5分の1、凡そ、2000坪程に縮小した、と御住職の説明であった。

昭和中期頃迄は当時の城郭を偲ばせる大規模な堀、並びに土塁も残されていたが、今日では、境内の北側に土塁跡が僅かに残されている状態である。

“細川晴元”は幽閉2年後の1563年(永禄6年)3月1日にこの“普門寺(城)”で没している(満49歳)。境内には“細川晴元”の墓と伝わる“宝篋印塔”が建っている。(写真)“細川晴元”が没して3年9ケ月後の1566年(永禄9年)12月7日に”足利義栄“(生:1538年/1540年説・没:1568年9月/10月説)が”三好三人衆“に拠って将軍候補に擁立され、この”普門寺城“に入っている。

”足利義栄“は、従弟の”第13代将軍・足利義輝”が、1565年(永禄8年)5月19日の“永禄の変”で殺害された後に”第14代将軍”に就く人物であり”足利義栄“の父親は既述した”堺公方・足利義維“(あしかがよしつな・第11代将軍・足利義澄の次男/実際には長男との説もある・後に足利義冬と改名・生:1509年・没:1573年)である。

1568年(永禄11年)2月8日“普門寺城”に朝廷から、勅使“山科言継“が”足利義栄”に対する“第14代征夷大将軍の宣旨“を持参した事が、本人の日記”言継卿記“に書かれている。又”室町幕府第14代将軍・足利義栄”の征夷大将軍宣下式が“普門寺城”で1568年(永禄11年)2月13日に行われた事も記されている。

“将軍宣下”が確かに為されたのか如何かに就いては、1568年(永禄11年)2月2日付の”頭中将・庭田重通“(にわだしげみち・正二位権大納言・生:1547年・没:1598年)から”山科言継“へ手紙で伝えられた事が確認されている事を以て、史実としての裏付けが為されているとされる。

尚“第14代将軍・足利義栄”に就いては彼を擁立した“三好三人衆”と“織田信長”が擁立した“足利義昭”との間での複雑な歴史展開と成るが、これ等に就いては次項6-21項で記述する。

69-(2):=普門寺訪問記=

69-(2)-①:訪問記その1:普門寺(普門寺城)方丈での住職のお話と“細川晴元公の位牌”

インターネットで事前に調べ、拝観時間の午後1時30分~午後4時に合わせて訪問した。しかし“普門寺“に着くと山門が閉まっており、その下に”事前に予約が必要“との表示があった。それを知らず、我々は事前予約をしていなかったのである。

念の為、門のインターホーンで訪問目的を告げると御住職の夫人の応答があり、御住職と相談の結果、訪問を許可して頂けた。法事が済んだ処というタイミングの良さもあり、予約無しの不躾な訪問であったが、御住職も居られるという非常にラッキーな訪問と成った。

重要文化財である“方丈”に上げて頂き、御住職から、普門寺の歴史に就いて懇切丁寧な説明があった。特に“室町幕府管領家”である”細川京兆家・細川晴元”が、家臣の“三好長慶”と既述した様な抗争と成り、結果的に敗れ”三好長慶”の庇護を受ける形で晩年を“普門寺(城)”で終えた史実を、御住職は”まあ、幽閉ですね”とコメントされた。更に”細川晴元公”の位牌を直接手に取る機会を与えて頂き、命日、戒名等、史料との確認を行えた事は、史跡探訪を行う身としては、非常に有難い事であった。

上記した様に”普門寺”は”室町時代末期“の混乱が続く中で”第14代将軍・足利義栄”が“三好三人衆”に擁立され”征夷大将軍宣下”を受けた歴史的場所でもある。それを勅使として伝えたのが“山科言継“であり、彼自身が書き残した”言継卿記“にその史実を伝えている。文中記した”将軍宣下”がこの地で行われた事は”普門寺“の御住職本人からも伺う事が出来、史実を確認出来たと言う点で、非常に意味のある史跡訪問となった。

混乱に陥った室町幕府最末期に起った歴史的諸事件に深く関わった”普門寺(城)”を、もっと広く世に伝えたい、と御住職が熱を込めて話されていたのが印象的であった。
写真上左:普門寺の御住職と方丈(重要文化財)をバックに。御本尊の釈迦如来は唐時代のものである。
同右:細川晴元公位牌、後ろの襖絵は“狩野安信”の水墨画(重要文化財)である
写真上左:(位牌正面)戒名・龍昇院殿前右京兆心月清公大禅定門
写真上右:(位牌裏面)命日・永禄6年(1563年)3月1日とあり、史料との合致を確認出来た

69-(2)-②:“普門寺“訪問記・その2:”細川晴元公”の墓、普門寺(普門寺城)と明国の高僧“隠元隆琦”との関係、並びに“観音補陀落山の庭”


①:”細川晴元”の墓(宝篋印塔)

御住職に案内して頂き、境内奥にある”細川晴元”公の墓とされる“宝篋印塔”(墓塔、供養塔などに使われる仏塔の一種)を御参りした。住職は“細川晴元公”の戒名、並びに命日などが刻まれていた筈であるが過去の管理が悪く残念乍らこれらの文字は確認出来ない状態である事をしきりに残念がって居られた。更に御住職からは、2018年6月18日に高槻市地域を襲った地震(大阪府北部地震)に拠ってこの”宝篋印塔”も倒壊し、国の重要文化財である為、修理に関しては厳しい規制もあり、諸制約下での修復作業には大変苦労があった、との話であった。

②:普門寺(普門寺城)と明国の高僧“隠元隆琦”との関係

1655年(㋃から明暦元年に改元)に明国から招かれた高僧“隠元隆琦”が7年半程の期間を”普門寺“の住持として滞在している。それを裏付けるものが普門寺に残る”扁額“であり、この額は“普門寺”の仏殿に掲げられていたものだとの御住職からの説明があった。(写真)

③:観音補陀落山の庭
京都“桂離宮”の造園の際に“普門寺”の石組みを取り入れたとされる見事な”池泉式枯山水庭園“が境内に広がる。(写真)江戸時代初期の日蓮宗の僧でもあった”玉淵坊”(ぎょくえんぼう・生没年不詳)の作と伝わる。(国の重要文化財に指定)


70:“三好長慶”を次々に不幸が襲う・・

①嫡子の急死
②盾として利用した“細川晴元”の死
③“細川氏綱“の死
④己の死の直前に“次弟・安宅冬康“を自害させる

70-(1):嫡子“三好義興”の急死

1563年(永禄6年)8月25日

“三好長慶”の嫡子“三好義興”(みよしよしおき・生:1542年・没:1563年8月25日)は、将来を嘱望された武将だったが、居城の“芥川(山)城”で突然病死した。彼は“飯盛山城“に在城する父”三好長慶“に代わって在京し”将軍・足利義輝“等との交渉役を担い”三好氏“と”足利将軍家“との協調の要であった。彼の急死は”三好氏“と”将軍家“の亀裂を拡大する事に成る。暗殺が頻繁に起こった時代でもあった事から“松永久秀”が暗殺したとの噂も流れた。

70-(1)ー①:”足利季世記“には”松永久秀“が“三好義興”を毒殺したとの噂があると書かれている

筑前守義興於芥川城御早世あり。黄疸と云病起りて忽かくれ給ひけり。(中略)如何なる故ありしにや、近く召仕ふ輩の中より食物に毒を入れて奉り、かく逝去ありと後に聞えけり。又松永のわざとも申しける。

解説:
三好義興が芥川城で若くして死去。黄疸(おうだん)という病気で、あっと言う間に亡く成った。近くに召し抱える者達の中から、誰かが、毒を入れた為の急逝だと後から聞いた。又“松永久秀”の仕業だとの噂もある。

70-(1)-②:“松永久秀”の仕業とする説の否定と検証

“天野忠幸”氏はその著作“松永久秀”の中で以下の様な史実から“松永久秀は、三好長慶に忠節を尽くして居り、又、嫡男・三好義興の後見役を言い渡されて居り、立派にその役割を果たして来た。従って、その彼が”三好義興“を毒殺したとは考えられ無い、としている。

70-(1)-③:“松永久秀“の”三好長慶“に対する忠節事例

㋐:“松永久秀”は1560年(永禄3年)に”大和国“侵攻を果たしたが、単独では成し得ず、主君”三好長慶“から”松山重治“並びに”今村慶応“等を応援部隊として送られ、戦っている

㋑:1562年~1563年(永禄5年~永禄6年)に掛けての“大和国”での戦いの際“松永久秀”は“石成友通”並びに“牟岐因幡守”等を通じて戦況を常に主君“三好長慶”に報告している。又“三好長慶”からは“次弟・安宅冬康”や”松山重治“並びに”半竹軒“等を援軍として派遣した事が記録されている。

㋒:1563年(永禄6年)末の記録に京都・貴布祢山”をめぐる“相論“(そうろん=特に土地の領有権・利用権・山野河海の入会権等をめぐって当事者が各々の権利を主張して上級権門/朝廷、本所、幕府、藩等/に訴訟して争う事)があり、それを”松永久秀“が担当した。ここで”松永久秀“は、最終的な裁許(許可を与える事)は”飯盛山城“の主君“三好長慶“が行う旨を当事者達に律儀に伝えた史料が残る。

この事は”松永久秀“はあくまでも”三好長慶“の被官であり主君“三好長慶”を最高主権者と位置付けて動いた事を裏付けている。“松永久秀”が政治を独断専行していたと書いた“ルイス・フロイス”の記事や、既述した“松永久秀、梟雄説”を江戸時代に“常山紀談”の中で著した“湯浅常山”の記述が創作であり、史実では無い事を裏付けている。

㋓:第13代将軍“足利義輝”は“松永久秀”を非常に厚遇した。その結果“松永久秀“が、主家と同等の待遇を受けた事は既述の通りである。しかし上記した相論のケースと同じく、1563年(永禄6年)に室町幕府に持ち込まれた“本国寺”と“清水寺”との間に起った“山争い“のケースも“将軍・足利義輝”が“清水寺“を勝訴としようとした事に対して”松永久秀“はこれに反対し、主君”三好長慶“が意図した裁許を求めている。”将軍・足利義輝“は怒り乍らも”本国寺“に山の所有権を認める裁許をした。

この史実も”松永久秀“は、如何に”将軍・足利義輝“から厚遇されようとも“主君・三好長慶”の家臣であるという立場を逸脱する事が無かった事を裏付けている。“松永久秀”は確かに主家と並ぶ権勢を持った。しかしその権勢は、飽くまでも“主君・三好長慶”あってこそのものだという事を逸脱する事は無かったのである。

㋔:“松永久秀”は“石成友通”から“三好義興”の病状が重篤な事を告げられると嘆き悲しみ“敵が出て来たら真っ先に戦って死んでしまいたい”と返信した事が“柳生文書・松永久秀書状”に残されている。

“三好長慶”は“松永久秀”に嫡子“三好義興”の後見を託した。それを受けて“松永久秀”は、忠実に“三好義興”を後見しながら“京都地域”を中心に“対幕府外交”を行い、そして“六角氏”等との戦闘を展開した事は既述の通りである。

以上の史実から“松永久秀”が“三好義興”を毒殺したとする説は荒唐無稽な説であると考えるべきであろう。

70-(2):嫡子“三好義興“急死後”三好長慶“は三弟(末弟)”十河一存“の遺児”熊王丸“(後の三好義継)を後継者として家督に据える

70-(2)-①:“三好熊王丸”に就いて

結束の強い“三好長慶”の兄弟の中で三弟(末弟)“十河一存”(生:1532年・没:1561年)は1560年(永禄3年)の“畠山高政”との戦の大勝に貢献し、兄“三好長慶”から“岸和田城”の城主に任じられている。

しかし翌、1561年3月~4月(南宗寺の宝篋印塔には永禄四年/1561年/辛酉、四月二十三日と命日が刻まれている事は既述の通り)に“瘡”(皮膚に出来る腫物、梅毒の俗称)を患い“和泉国”で29歳の若さで急死した。

“十河一存”には当時満12歳の遺児、嫡男“熊王丸”が居た。伯父に当たる“三好長慶”は“十河重存(そごうしげまさ)“と改名していた”熊王丸”を養子として受け入れ、扶育していたとされる。(この時点で三好重存に改名したとされる)

70-(2)-②:“三好重存”に家督を譲ると同時に“松永久秀”に対しても、子息の“松永久通”に家督を譲らせた“三好長慶”の深慮遠謀

1563年(永禄6年)8月25日に“三好長慶”の嫡子“三好義興”(室町幕府御供衆、相伴衆・生:1542年・没:1563年)が僅か21歳で急死した。“三好義興”には妻は居たが、子が無かった。そこで跡継ぎを失った”三好長慶“は未だ満14歳の“三好重存”(義重~義継・生:1549年・没:1573年)を家督に据えたのである。

ここで“三好重存”に家督を正式に継がせる事に合わせて、養父“三好長慶”は同年(1563年)12月14日付で“松永久秀”にも当時20歳の、彼の嫡子“松永久通”(まつながひさみち・生:1543年・没:1577年)に家督を譲らせている。“三好長慶”の考えは、世代交代を図り、若い“三好重存”と“松永久通”との間に“三好長慶”と“松永久秀”と同じ様な主従関係を作り、新しい世代に拠る体制作りをスタートさせる事であった。(著者:天野忠幸氏)

70-(2)-③:何故“三好長慶“が”十河重存“を養子に迎えたのか

当時“三好長慶”の後継者候補には長弟“三好実休”にも3人の息子が居たし、次弟”安宅冬康“にも息子が居た。何故”三好長慶“は長弟の3人の息子等から後継者を選ばなかったのか、何故、末弟の子息を選んだのか、に就いて“三好一族と織田信長”の著者“天野忠幸”氏の記述、並びに他の説から下記の事由が考えられる。それを以下に纏めた。

”天皇家“に由緒を持つ“桐御紋“の使用を許された”三好長慶“としては、三弟(末弟)“十河一存”の息子が”三好家“の家督を継ぐには、一番相応しいと考えたと思われる。

その理由は”十河重存(三好重存)“の母親が朝廷で”近衛家”と勢力を二分して、関白職を争う“九条家”という日本屈指の貴種、先の関白”九条稙通“(くじょうたねみち・従一位関白・生:1507年・没:1594年)の養女だった事が大きかったとされる。“将軍・足利義輝”の母方も”近衛家”の出身であり、双方の母親の出身家に遜色が無く、この点でも充分に対抗し得ると考えたのではなかろうか。
       
三好家の養子としての“三好重存”は、父方”三好長慶”は、今や”足利将軍家”並みの家格であり、母方も”九条家”出身、という事で”血統信仰“の呪縛下にある“守旧の地・京都”でも世間から後継者として全く問題無く受け容れられる、という点で、一番相応しい後継者と考えたのであろう。

“三好重存”は生涯(生:1549年・没:1573年)に改名を4度行なう。”幼名は熊王丸だった、そして①十河重存~②三好重存~③三好義存(義重説もある)~④三好義継“と改名した。

3度目の“三好義存(天野忠幸著・松永久秀では義重としている)”への改名は“将軍・足利義輝”からの偏諱を得ての改名である。彼の生涯に就いては次項で詳述するが、最終的に行った改名は“養父・三好長慶”の没後(1564年7月)1年も経たない、1565年(永禄8年)5月に“二条御所”に”第13代将軍・足利義輝”を襲撃し、殺害した後に行なったものである。

この改名は”足利将軍家“の通字である”義”を”継ぐ”という意味からの改名とされ”足利氏の跡を継いで、三好家が将軍に成る”との決意の表れだ、と“著作・松永久秀”の中で“天野忠幸“氏は述べている。

70-(2)-④:“三好義興”の急死が“三好長慶”を“恍惚の人”にした

“三好長慶”の嫡子“三好義興“の急死に関して”続応仁後記”が“此人父祖に不劣器量勝れて一度は天下の乱をも可相鎮人なりしに、角死去せられたりと云て其比人惜合けり“と書いている。

“三好義興”は父や祖父達に劣らず優れ、天下の騒乱を鎮める事の出来る人物だと評価されており、その“三好義興”が急死した事を“三好長慶”は勿論の事、人々が惜しんだと伝えている。

1563年(永禄6年)11月15日:

”三好義興“の葬儀が茶人でもあり”大徳寺90世“そして”三好氏菩提寺・南宗寺開山“の”大林宗套“(だいりんそうとう・京都の臨済宗の僧侶・三好一門を初め千利休、津田宗及等、堺衆の多数を教化した・生:1480年・没:1568年)はじめ、大徳寺の紫衣衆、並びに“京都五山の僧”によって大々的に行われた事が“長享年後畿内兵乱記”に記されている。墓所は“霊松寺”である。

“三好長慶”の周囲に不幸が続いたが、中でも、嫡子“三好義興”の死は“三好長慶”を心身共に打ちのめし、彼の病状は悪化し“恍惚の人”状態に成って行った、と、中世日本史の研究で知られる“今谷明”氏は述べている。そして“三好長慶”は、翌年“1564年(永禄7年)7月”に”三好義興“の後を追う様に病没するのである。

70-(2)-⑤:“霊松寺”訪問記・・2020年(令和2年)3月5日訪問

住所:大阪府高槻市天神町2-4-2
交通機関:我々はJR大阪駅からJR京都線新快速に乗り“高槻駅”で下車、そこからはグーグルナビを使い、凡そ15分程歩いて“霊松寺”に着いた。
歴史:
寺伝に拠れば創建は朝廷からの弾圧に屈せず畿内を中心に民衆や豪族など、階層を問わず広く仏教を説き、民衆の圧倒的な支持を勝ち得て日本最初の大僧正に就き、遂に聖武天皇から奈良東大寺の大仏造立の実質的責任者となった日本の仏教僧”行基”(生:668年・没:749年)とされる。1558年(永禄元年) には“第106代正親町天皇“(在位1557年10月・譲位1586年)の勅願寺と成っている。
”三好長慶”はじめ“三好一族”の信仰が厚い寺として隆盛を極めた。しかし、天正年間(15 73年~1593年)に“高山右近”(生:1552年・没:1615年)の兵火により、諸堂宇を焼失し、江戸期に再建されている。現在の堂宇(本堂等)は1991年に再建されたものである。

訪問記:
大阪府高槻市には“京都”に近い事から“京・畿内地域”に於ける覇権を握った”三好氏”に関する“室町末期”の史跡が多い。之までも”芥川(山)城・本山寺・普門寺”の訪問記を紹介したが、いずれもこの地域の史跡である。
他にも”高槻城趾”そしてキリシタン大名として知られる“高山右近天主教会堂跡”等も此の地の史跡であり、更には”本願寺八世・蓮如上人“が1476年に創建し、晩年(1495年以降)の大半を過ごしたと伝わる”教行寺”も富田町にある。

“霊松寺”は“本堂”等が建つ区画と“三好義興”の墓地がある区画とが、道路を隔てて居り、墓地の清掃に来ていた人達に墓石の場所を聞いてもなかなか分からなかった。友人と手分けをして探し回ったが、史跡標識がある訳でも無く、諦めかけた時に、友人がスマホから“三好のカンカン石“と呼ばれる安山岩で作られたユニークな形の墓石が”三好義興”の墓だと探し出して呉れた。

スマホの写真を頼りに、ユニークな形をした墓石を墓地の一番奥に遂に見付けた時の喜びは格別であった。“三好義興”の墓石の傍に父親”三好長慶”を中心とした”三好氏に関する説明版”が掲げられていた。(写真参照)

70-(3):前主君“細川晴元”と袂を分かった後に、旗頭として掲げた“細川氏綱“も没す

1563年年(永禄6年)12月20日:

”細川晴元政権“から”三好長慶政権“に移った時点で“淀(古)城”(既述した様に後に豊臣秀吉が茶々の出産の為に与えた城として知られる)”の城主に付いたのが”細川氏綱”であった。

父の仇“三好政長・三好政勝”父子を討つ事を願い出た事を拒絶された事で“三好長慶”は1548年(天文17年)8月12日に主君“細川晴元”に叛く事を決断し“細川氏綱”に乗り換え、旗頭として掲げ、前主君”細川晴元“が支援する“父の仇・三好政長“との戦闘へと進んだ。

1548年(天文17年)12月から始まった戦闘が決着するのは、翌1549年6月の“江口の戦い“であった。この戦闘の結果”三好長慶“は“三好政長”を討ち、彼の支援に廻った、前主君”細川晴元“並びに“前第12代将軍・足利義晴“彼の子息”第13代将軍・足利義藤“(後に義輝に改名)父子と戦い、彼等を”近江国・坂本“に退避させた。

主君“細川晴元”ばかりか、時の将軍家をも敵に回し、勝利したこの戦い、そして、時期は“三好長慶の独立期“と称される。

70-(3)ー①:“三好長慶”にとっての“細川晴元”並びに“細川氏綱”とは

1563年(永禄6年)3月1日に、前主君“細川晴元“が、幽閉状態だったとされる“普門寺”で没し、その9カ月後に、傀儡状態ではあったが“三好長慶”が旗頭として担いだ“細川氏綱”も病没した。

“馬場隆弘“氏は”細川氏綱“を一貫して支持した”八木城主・丹波国守護代・内藤国貞“(生年不詳・没:1553年)が戦死する前迄は“細川氏綱”と“三好長慶”は共同統治体制を執って居り、両者は積極的な協力者という関係であった。従って“細川氏綱”が完全に“三好長慶”の傀儡状態にあった訳では無い、との説を展開している。

話は反れるが“内藤国貞”の死後は彼の娘を娶っていた“松永久秀”の弟“松永長頼”が内藤家の名跡を継ぎ“内藤宗勝”を名乗り“八木城主”と成って居る。キリシタン大名として有名な“内藤ジョアン(如安)”はその息子である。

“三好長慶”にとっては前主君で“幕府管領家・細川京兆家17代当主”の“細川晴元”を“普門寺”で扶持(ふち=普門寺での生活に扶持米を与え援助した)した行為も、同じく“幕府管領家・細川京兆家18代当主の“細川氏綱”を旗頭に掲げる形を執った行為も、自分が“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力“並びに”至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“から“家格秩序”を崩壊させる存在と見られない様にする為の大義名分を立てる策であったと言える。

従って、その二人を失った事は“血統信仰・伝統的家格秩序の維持”を重要視する当時の日本社会に於いて彼の正統性(正当性)が著しく毀損される事態であった。

別の歴史的視点からすれば“細川晴元”並びに“細川氏綱”の二人の死は“細川晴元”の父親“細川澄元”と“細川氏綱”の養父“細川高国”の間で始まった“細川京兆家(=幕府管領家)”の家督争い(=覇権争い)に完全に終止符が打たれた事を意味した。室町幕府を支える役割を担って来た“細川管領家”が歴史の表舞台から消えたのである。

(参考):“細川晴元”と“細川氏綱”の“細川京兆家(管領家)”に於ける関係図

出典:長江正一著“三好長慶”

70-(4):“三好長慶”の最後の不幸・・最晩年を迎えた“三好長慶”が、自らの手で、彼を支え、最後に唯一人残った次弟“安宅冬康”を“飯盛(山)城”に呼び寄せ、自害させる

70-(4)-①:“三好長慶天下人への戦い”を通して、唯一人生き残った弟“安宅冬康”

“安宅冬康“(あたぎふゆやす・三好元長の三男・生:1528年?・没:1564年5月9日)は長兄”三好長慶“が覇権を握る戦いを続ける為に四国から支援を求めた3人の弟達の中、年齢的に長弟“三好実休”に次ぐ2番目の弟であった。

三好4兄弟は、長兄”三好長慶”が“摂津、河内、和泉国”の兵を率い、長弟“三好実休”が“阿波国衆“を率い、次弟”安宅冬康“が”淡路国衆“を率い、そして三弟(末弟)”十河一存“が”讃岐国衆“を率いるという体制で“三好長慶天下人への戦い”を勝ち抜いて来たのである。戦いは、既述の様に“第9戦の教興寺の戦い”迄を数えたが、第9戦迄生き残った弟は、次弟“安宅冬康”唯一人であった。

70-(4)-②:“安宅冬康”の戦功

彼は“淡路国水軍衆”を率いて大阪湾を征圧し“三好長慶天下人への戦い”の第7戦“北白川の戦い”(1558年/永禄元年6月9日)で、兄“三好長慶”軍の勝利に貢献した記録が残る他、随所で戦功を挙げた。

そして“三好政権衰退の端緒”となったとされる“三好長慶天下人への戦い・第8戦・久米田の戦い”(1562年/永禄5年/3月5日)で“三好軍”が敗れ、長弟“三好実休”が戦死した事を知った次弟“安宅冬康”は、一度“阿波国”に撤退し、軍勢の建て直しを図り、唯一人生き残った弟として、兄“三好実休”の弔い合戦とも言うべき“三好長慶天下人への戦い・第9戦・教興寺の戦い”(1562年/永禄5年/5月19日~20日)で“阿波国“から軍勢を整えて、敵方“畠山高政”軍を敗り“紀伊国”に後退させ、一度失墜した“三好長慶政権”の勢力回復に貢献したのである。

70-(4)-③:人望を集めていたとされる“安宅冬康”

“安宅冬康”は“能書の歌人、隠れなき歌人、陣中でも歌書を離さない”事が知られ“武将”としてよりも“文人“として伝えられる程であった。又”仁慈“(じんじ=恵み、いつくしみ)の性格の人と伝わる。

兄“三好長慶”が勢威に奢って人を軽視する様な場面があると、慨き(うれたき=なげく)兄“三好長慶”に鈴虫を贈って“夏虫でも良く飼えば冬まで生きる。ましてや人間は猶更である”と、諷(ふうする=遠回しにそれと無く批判する)した事を“三好別記・平島家旧記・阿州将裔記・野史“が伝えている。

この様に、温和,仁慈な人柄をもって“安宅冬康”が人望を集める傾向は、三弟“十河一存”並びに“長弟・三好実休”の死、そして“三好長慶”の“嫡子・三好義興”が相次いで死んだ事に拠って一層高まったのである。

こうした人物像の次弟“安宅冬康”を、何故“三好長慶”が殺害した理由として諸説がある。

既述の様に、周囲に不幸が重なった事、とりわけ、嫡子“三好義興”の死によって心身共に異常を来し“恍惚の人”状態に陥っていたと伝わる“三好長慶”であったから、後継者に決めた“三好義存(義継)”の地位を次弟“安宅冬康”が脅かし兼ねないとの念を募らせ、殺害を決断したとする説がその一つであり、又“細川両家記”は“人の讒言”(松永久秀)に動かされた“三好長慶”が次弟“安宅冬康”殺害に及んだとする説を展開している。

70-(5):“三好長慶”が、次弟“安宅冬康“を自害に追い込んだ背景に関する3説の紹介

70-(5)-①:諸説(#1)・・”三好長慶“が後継に決めた“三好義存(義重・後の三好義継)”の地位保全の為に次弟“安宅冬康”を排除したとする説

“三好一族と織田信長”の中で“著者・天野忠幸”氏は下記の様に述べている。

“三好長慶”は“次弟・安宅冬康”を飯盛山城で殺した。その理由は逆心悪行(言継卿記)と言う。人の讒言(細川両家記)などでは無く“三好実休”や“十河一存”がすでに死去している中、次弟・安宅冬康は唯一(後継の)“三好義存(義継)”の地位を脅かし兼ねない存在として三好長慶に排除されたのであろう。

“三好長慶”は、嫡子“三好義興”が1563年(永禄6年)8月25日に満21歳で急死し、その後継に末弟”十河一存“の遺児“十河重存(そごうしげまさ)“を養子とし”三好重存“と改名させ、家督に据えた。“三好重存”は1564年(永禄7年)正月に上洛し(この時養父・三好長慶が同行したか否かは不明である)“第13代将軍・足利義輝“に謁見し、偏諱を得て、3度目の改名をし“三好義存”(天野忠幸著・松永久秀では義重としている事は既述)を名乗った。此処に“三好長慶”の後継者が正式に誕生したのである。

この時“三好義存”(=三好義重、後に三好義継に改名、尚、三好義継への改名は翌年1565年・永禄8年・5月に第13代将軍・足利義輝を殺害した後に行った事は次項で詳述する)は満15歳であった。”長江正一”氏もその著書“三好長慶”の中で下記の様に記し“天野忠幸”氏と同様の“後継者・三好義存の地位保全”の為に次弟“安宅冬康”を除去した、としている。

後継者を若干15歳の“三好義存”(=三好義重、後に三好義継)に決めた“養父・三好長慶”にとって、次弟“安宅冬康”の存在は、丁度“源頼朝”政権に於ける弟“源範頼”との関係、並びに“足利尊氏”政権に於ける”弟・足利直義”との関係、そして、後の“豊臣秀吉”政権に於ける“養子(嗣)・豊臣秀次”との関係に似ており、排除すべき対象と成って居た。
後継者に決めた“三好義存”(=三好義重、後に三好義継に改名)の地位を盤石にして置く為に殺害した。

歴史学者で中世日本史を専門とする“今谷明”氏もほゞ“地位保全説”に近い解釈をしている。

死を直前にした“三好長慶”は心身憔悴状態であった事から、妄想に駆られて、次弟“安宅冬康”殺害を決断したと下記の様に記述している。

“三好長慶”の体調は1561年(永禄4年)頃から病に侵されていたと考えられる。その根拠として、1561年(永禄4年)7月以降始まった”六角義賢“並びに“畠山高政”との戦いで“三好”方が押され気味であったが“三好長慶”が劣勢の戦線視察に現われた形跡が無い。
更に、長弟“三好実休”を戦闘で失った“久米田の戦い”の戦場にも、又、その復仇戦であった“教興寺の戦い”にも、彼が出陣した様子が無い。若年の頃から戦場を馳駆(ちく=馬を駆って走り回る事)した苦痛が重なって“三好長慶”の体調は急激に衰え、そこに“嫡子・三好義興”を失った心労が重なり”三好長慶“を一挙に“恍惚の人”状態に陥らせた事が充分に考えられる。

“足利季世記“並びに”続応仁後記“にも、この頃の”三好長慶“の判断力は充分で無かったとの記述がある。こうした諸情報も併せ、死を直前にした”三好長慶”が、心身憔悴状態から、妄想に駆られた判断をし、次弟“安宅冬康”殺害に至ったとする“今谷明”氏の説には説得力がある。

70-(5)-②:諸説(#2)・・次弟“安宅冬康”殺害の決断には“松永久秀”の讒言が“三好長慶”に影響を与えたとする説

この説は、江戸時代中期の“儒学者・湯浅常山”が“常山紀談”に残した“松永久秀梟雄説”という、史実とは異なる彼を土台としている。

“細川両家記”と“足利季世記”には“他人の讒言”があった、とだけ書いて居り“松永久秀”の名を直接には記していない。しかし、両書共、暗に“松永久秀”の仕業だとしている事は明らかである。又“言継卿記”は次弟“安宅冬康”に、兄“三好長慶”に対する“逆心悪行”があった事が“三好長慶”が次弟“安宅冬康”殺害に至った理由だとしている。

“松永久秀梟雄説”論者は“松永久秀は”三好長慶“の“末弟・十河一存”並びに長弟“三好実休”との仲が悪かった事から、次弟の“安宅冬康”に就いても“三好長慶”への讒言に及んだとしている。更に“松永久秀”が奸悪(かんあく=心がねじ曲がって邪悪な事)な人物である事を見抜いた“嫡子・三好義興”を除去すべく“松永久秀”が“三好義興の毒殺”に及んだとの話も付け加えている。

こうした“松永久秀奸悪人物”説は、検証した様に、結論として“史実との整合性”の点からも信憑性に乏しく、説得力が無い。従って”松永久秀“が“三好長慶”に、次弟”安宅冬康“には“逆臣の聞えあり、謀反の野心有”と讒言したとする“細川両家記”並びに“足利季世記”の記事には史実としての信憑性が無い。

70-(5)-③:諸説(#3)・・“三好長慶”が家督を“三好義存”に譲った事に合わせ“松永久秀”も家督を子息の“松永久通”に譲った。新しい主従関係構築を望む両名にとって、次弟“安宅冬康”は除去すべき存在と成っていた

“松永久秀”は“三好本宗家”の家督が“三好長慶”から15歳の“三好義存”(=三好義重、後に三好義継)に継承された事に合わせて、自らの家督も嫡男“松永久通”(生:1543年・没:1577年)に譲っている。

“松永久秀”は“三好長慶”に近侍し、側近として取り立てられた人物であり、両者の関係は、間に何者も入り込む事の出来ない、強い人格的な“主従関係”が形成されていた事は史実が証明するところである。

ここで注目すべき事は、主家の”三好長慶“が、世代交代をした事に合わせて”譜代宿老家”の立場である“松永久秀”も子息“松永久通”に交代した事である。“松永久秀”は、新しい主従関係も“家と家との関係”では無く“三好長慶と松永久秀”の関係と同様に人格的な関係を醸成(徐々に作り出す事)させる目的があったと考えられる。

こう考えた時“松永久秀”にとって“三好長慶”の次弟“安宅冬康”の存在は、確かに邪魔な存在であったと考えられ、ここに”松永久秀”が関与したとする説の余地が出て来よう。又“三好長慶“側にも”松永久秀“の関与を受け入れる素地があったと言えよう。

70-(5)-④:“言継卿記“が伝える”三好長慶“に拠る”安宅冬康“殺害事件

次弟“安宅冬康”が自害に追い込まれた事件の様子を“言継卿記“の1564年(永禄7年)5月9日条は下記の様に伝えている。

三好修理大夫(三好長慶)は舎弟安宅(弟安宅冬康)を飯盛之城へ呼寄せ、令生害(自害)云々、以上十八人云々
(解説)
三好長慶は弟の”安宅冬康”を飯盛(山)城に呼び出し自害させた。安宅冬康と共に座敷に入った従者18人も殺害された

“安宅冬康”の生まれた年は不詳だが自害に追い込まれた時の年齢は36歳~39歳と伝わる。

70-(6):次弟“安宅冬康”を自害させた事を“三好長慶”が悔やんだ事を伝える記事

70-(6)-①:“細川両家゛記

“細川両家記”は“三好長慶”が、次弟“安宅冬康”を自害させた事を悔やむ様子を下記の様に伝えている。そして“三好長慶”は後嗣に決めた“養子・三好義存”(=三好義重、後に三好義継)が“将軍・足利義輝”に謁見した僅か10日後に病没するのである。

五月九日(1564年/永禄7年/5月9日)に安宅摂津守(安宅冬康)方を於飯盛城被誅。人(松永久秀也)の讒言にて如此由に候。雖然長慶(三好長慶)此御愁嘆(泣き悲しむ事)以の外(思っても見ない事)にて御歓楽(病気を指す忌詞=不吉として使う事を避けてその代わりに使った言葉)成、七月四日に御死去候なり
(解説)
松永久秀(?)の讒言を信じて次弟”安宅冬康”を飯盛(山)城で自害させたが(自害させた)後に“三好長慶”は泣き悲しんだ事は思っても見ない事であった。(鬱病とも伝わる)御病気であった”三好長慶“は(2カ月も経たない)7月4日に(後を追う様に)死去した。

70-(6)-②:“足利季世記”

“足利季世記”は以下の様に伝えている。

摂津守(安宅冬康)少も無罪て讒死に逢ひ玉ふとたしかに聞玉ひければ,長慶聞開き(聞き直し)、後悔丹腑を悩ましけれども、可返ならねば無力、左れども其事を深く悔て煩ひ重く・・
(解説)
次弟”安宅冬康”に罪は無かったが、讒言を信じて”三好長慶”が死に至らしめた事を後から知り、取り返しがつかない事であり、深く後悔した“三好長慶”の病状は更に重くなった・・・

71:“三好長慶”歿す・・1564年(永禄7年)7月4日(満42歳)

1564年(永禄7年)6月22日:

上記した様に、養父“三好長慶”から家督を譲られた“三好孫六郎重存“(みよしまごろくろうしげまさ・三好義重に改名し、更に三好義継に改名する)が“将軍・足利義輝”に家督相続に対する御礼を述べる為に上洛した。

この時”三好重存“一行は”三好長逸“並びに”松永久通“等の武将、更には”広橋大納言国光“そして”竹内三位季治“並びに”清原宮内卿枝賢“等の公卿を加えた4,000人の供を連れて上洛したとある。

表面上は“三好本宗家”と“第13代将軍・足利義輝”の間の関係は儀礼を尽くす形をとってはいた(面従腹背)が、実情は“教興寺の戦い”(1562年5月19日~5月20日)以後、両者の関係はますます悪化していた。

1564年(永禄7年)6月23日:

当日“将軍・足利義輝”に対面し、挨拶を終えた“三好義重”(=三好重存が将軍の偏諱を得て改名)一行は直ちに“山崎“(京都府長岡京市付近)“まで下った事が”言継卿記“に書かれている。“三好義重”(三好義継)がこの様に早々と京を離れた理由は“養父・三好長慶”の容体が余程重篤であったと考えられる。因みに“山崎”は京都と“養父・三好長慶”が居る“飯盛(山)城“とのほゞ中間に位置し”飯盛(山)城゛までは20㎞程の距離である。

1564年(永禄7年)7月4日:

後嗣“三好義重”(三好義継)が“飯盛(山)城”に到着直後の7月4日“将軍家・幕府管領家”を琉寓(りゅうぐう=放浪して他国に住む)させ“京・畿内地域”を雄視(ゆうし=他よりもひと際優れて見える事)した一世の英傑“三好長慶”が、未だ15歳だった後嗣“三好義重”(三好義継)そして、擡頭(台頭)する“松永久秀”を残してこの世を去ったのである。

71-(1):“三好長慶”の死は2年間秘される

”三好長慶“の死後、戦死した長弟”三好実休“の遺児、で当時満11歳の”三好長治“(みよしながはる・暴政の為、阿波国内の混乱を招き、土佐国の長曾我部元親に拠る阿波国侵攻を誘発した・生:1553年・没:1577年)の重臣、補佐役で“阿波、讃岐、淡路国”を押さえ”三好家中”のまとめ役を担った“篠原長房”(しのはらながふさ・1566年に足利義栄を擁立・生年不詳・没:1573年)が“飯盛(山)城”に参着し“三好三人衆”(三好長逸・三好政勝・岩成友通)並びに“松永久秀”等と”三好長慶“病没後の体制等に就いて協議している。

先ずは、後嗣“三好義重”(三好義継)”が未だ満15歳と若かった事から、喪を秘して、世間へは病中と伝える事と決めた事が“細川両家記・足利季世記・続応仁後記”に記録されている。尚、この席に居た“三好三人衆”に就いては次項で詳述する事に成るが、以下に簡単に紹介して置く。

①:三好長逸(みよしながやす)・生没年不詳
三好長慶に仕えた三好一族で下図に示す様に従叔父に当たる。三好長慶からは頼れる一族の年長者として信頼された。三好長慶が芥川山城を嫡子”三好義興”に譲り、飯盛山城に移った為、嫡子”三好義興”が幕府出仕の為”京゛常駐となると、不在の”芥川山城”を任された。“三好長慶”没後は“三好義重(三好義継)”を”三好三人衆”並びに”松永久秀”と共に補佐をする。1565年5月19日”将軍・足利義輝”を殺害した”永禄の変”の際に、彼も襲撃に参加している。

②:三好政勝(後に三好政生:生:1528年・没:1569年)
1次資料で確認される俗名は”政勝,政生であり、出家して“釣竿斎宗渭”(ちょうかんさいそうい)と名乗っている。“三好政康”とする書もあるがそれは“細川両家記”の誤りとされる。彼も”永禄の変“の襲撃に参加している。

③:石(岩)成友通(いわなりともみち・生年不詳・没:1573年)
“阿波国”出身では無く”松永久秀”と同じく”畿内”で登用された人物である。“三好長慶”の奉行人として頭角を現し”三好政権”の中枢を占める様に成った、出世頭である。“三好長慶”没後には後嗣“三好義重”(三好義継)”を”三好三人衆”の一人として後見し“松永久秀”並びに”畠山高政”としばしば戦う事に成る。

“勝竜寺城”を西岡地区支配の為に整備、強化し”最初の勝竜寺城城主”と言われている。1569年に織田信長の庇護下にあった“足利義昭”を”本圀寺“に襲撃したが、撃退されている。後に織田信長に臣従したが、再び対立し”第2次淀古城の戦い”(1573年/天正元年/8月2日)で“細川藤孝”の家来に討たれた。この戦いで”三好三人衆”は完全に崩壊する。

(別掲図):“三好氏略系図と”細川晴元“政権の成立・・1527年2月16日の中の”三好三人衆“


71-(2):2年後に行われた“三好長慶”の葬儀を伝える記事

1566年(永禄9年)6月24日:

“三好長慶”の病死からほゞ2年後の1566年(永禄9年)6月24日に葬儀が営まれた。葬儀場所は河内国“真観寺”である。

“相国寺・鹿苑院”の僧侶“西笑承兌”(さいしょうじょうたい・豊臣秀吉、徳川家康の外交僧的役割を担った・関ヶ原の戦いの切っ掛けとなった会津征伐を徳川家康に決意させたとされる/直江状/の宛先が/西笑承兌/であった)は葬儀の様子を下記の様に記している。

於河州(河内国=大阪府の一部)有三好修理大夫(三好長慶)葬礼、未刻(午後1時~3時)也。(中略)奠茶(てんちゃ)奠湯(てんとう=死者の霊前に湯を供える事)外之諸仏事、皆紫野長老也。念誦胤英座元也。葬礼之時、修理太夫子息左京太夫(三好義継)・日向(三好長逸)出葬場、左京太夫(三好義継)感涙、其外之諸士各涙沾裳(涙で礼服を濡らした)云々。修理太夫(三好長慶)死去者永禄七年也(三好長慶の死は2年前の永禄7年であった)。其後一日以不太平延在此年期間三年(満2年)、雖歴年月諸士悉涙悲泣、尋常恩光の厚き可知。

(解説)
三好長慶の葬儀は死去後丸2年経ってから河内国“真観寺”で行われた。“三好義重”(三好義継)”はじめ参列した皆が涙を流した。この事は”三好長慶”の恩が厚かったを示して居り、彼が尋常の人物では無かった事を知る事が出来る。

尚“足利季世記”には”3年(あしかけ3年の意味か)の間なれば死骸殊の外損じけると聞こえし”と、遺体の損傷が激しかった事を伝えている。

72:”三好長慶”の墓史跡訪問に就いて

“三好長慶”の墓は➀真観寺(大阪府八尾市)②南宗寺(大阪府堺市)③京都大徳寺の聚光院④飯盛山山中“御体塚丸”⑤故郷である徳島県三町街“滝寺”⑥千葉県銚子市“飯沼観音”にあると伝えられている。

この中①の真観寺と②の南宗寺を訪問したので紹介する。尚③の大徳寺聚光院に就いては一般公開はしていないとの事であった。

72-(1):“真観寺”(しんかんじ)訪問記・・訪問日2018年6月14日

住所:大阪府八尾市北亀井町2丁目7-26

交通機関等:
大阪駅からJR大和路線に乗り“久宝寺”駅で下車。資料には徒歩20分、直線距離で凡そ830mと書いてあるが、使い慣れないグーグルマップを頼りに歩いた為、なかなか“真観寺”に到着出来ず、朝10時20分に駅から歩き始め、漸く探し当てたのは10時50分。駅から30分程掛かってしまった。

訪問記:
“真観寺”の歴史は寺伝に拠れば室町幕府第3代将軍”足利義満”による”南北朝合一”が成って2年後の1394年(応永元年)に第10代幕府管領職に就く”畠山満家”(河内、紀伊、越中、伊勢、山城国守護・生:1372年・没:1433年)の発願で、叔父の南禅寺の僧侶“大業徳基”を開基として創建されたとある。 “大坂夏の陣“で焼失したが”徳川家康“の下で江戸幕府の法律の立案、外交、宗教統制等を一手に引き請け”江戸時代の礎を作った“とされる”以心崇伝”(いしんすうでん=南禅寺金地院に住した為、金地院崇伝とも呼ばれた・生:1569年・没:1633年)が再興したとある。しかし1671年(寛文11年)に再び全焼した。今日の姿は写真に示す様に当時の面影は無い。しかし文中紹介した様に境内には”三好長慶”の墓と後嗣”三好義継”の墓が祀られるなど”史跡”としての重要性は高い。
墓に刻まれた銘は風化が進んでおり、読むのに苦労するが”三好長慶”の墓石には”永禄七甲子聚光院殿大禅定門 七月初四日”と読める。正式に伝わる戒名は文中示した様に”聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門”である。命日は合致している。“三好義継”の生涯に就いては次項で記述するが“織田信長”軍に“若江城”を攻められ、自害して果て、首は”織田信長“のもとへ届けられた。(若江城の戦い・1573年/天正元年/11月)墓石に刻まれた文字は”天正元載癸酉 般若院殿大禅定? 十一月十六日“と読める。命日に就いては”若江城”で近臣の“那須久右衛門“に介錯させ、自害したと史料にあり、墓石に刻まれた11月16日と合致している。”三好長慶”が“飯盛山城”で病死し、その死が丸2年間(あしかけ3年との表現を用いている史料もある)秘密にされた後“真観寺”で葬儀が営まれ、境内に葬られたと多くの史料に書かれているが“真観寺”境内の説明碑も同様の記述であった。(写真参照)
室町幕府崩壊期の史料は乏しい為“応仁の乱”から幕府崩壊に到る過程に就いては殆ど伝えられておらず、一挙に“織田信長”そして”豊臣秀吉”政権へと歴史展開が移り、そして”徳川家康”の江戸幕府へと進む。しかし、日本の歴史は、そこに至る間に”細川管領家”に拠る”覇権争い”の時期、そして”細川管領家”から覇権を奪い“京・畿内地域の覇権”を下剋上の形で奪い、握った“三好長慶”の政権の登場があった。
既述の様に彼の存在が”織田信長”が”京・畿内地域”に於いて覇権を掌握する事を可能にした、言わば“先導役”を果たしたと言えよう。“真観寺”並びに以下に紹介する”南宗寺”は”血統信仰、伝統的家格秩序”の守旧の地“京・畿内地域”で、真の下剋上を果たした“三好長慶”の墓所であり、彼に関する重要な史跡として是非訪ねて頂きたい。
72-(2):“南宗寺”訪問記・・訪問日2019年7月28日&2020年10月24日

住所:大阪府堺市南旅籠町東3-1-2

交通機関:大阪駅から地下鉄谷町線で天王寺駅で下車、阪堺電気軌道(路面電車)の“阪堺線”に乗り換え、のんびりとした30分程の各駅停車の電車は“御陵前停留場”に着いた。
停留場から歩いて5~6分程で“南宗寺“に着く

歴史等:
寺の始まりは1526年(大永6年)に第104代“後柏原天皇”(在位:1500年10月・崩御1526年4月)、並びに、第105代“後奈良天皇”(在位:1526年4月・崩御:1557年9月)の帰依を受けた“京都・大徳寺住寺・古嶽宗亘”(こがくそうこう・生:1465年・没:1548年)が“堺”の一小院を”南宗庵”とした事と書かれている。

其の後“古嶽宗亘”を師と仰ぐ”大林宗套“(だいりんそうとう・大徳寺90世・茶人・生:1480年・没:1568年)が師の遺命により”南宗庵“に入り、その”大林宗套“和尚に深く帰依した“三好長慶”が父“三好元長”の菩提を弔う為に1557年(弘治3年)に“南宗庵”を移転し”大林宗套“を開山として創建したのが”南宗寺“である。

当時の“三好長慶”は畿内随一の実力者に上り詰めて居り“河内国・飯盛山城”を居城としていた。父“三好元長”が1532年6月、32歳で“細川晴元・木沢長政・一向衆徒”の攻撃に拠って“顕本寺”で自害に追い込まれてから25年の時が経っていた。

当時の南宗寺は、東西800m、南北3kmの規模を有していたとある。当時の記録に“三好長慶”はじめ四人の兄弟、並びに“三好一族”が一同に会して”大林宗套“を導師として落慶法要と”父・三好元長“の法要を営んだ事が記録されている。この法事、会合の盛大さは京都まで喧伝されたと伝わる。

“訪問記:その1”徳川家康討ち死説”に関する史跡を伝える”南宗寺”

“南宗寺“訪問は2019年7月22日にも行っている。今回はボランテイアのガイドさんから懇切丁寧な説明があり、より有益な訪問となった。境内の撮影は禁止との事であったが、ガイドさんに訪問趣旨をお伝えすると、特別に撮影の許可を頂けた。(”南宗寺案内図”を参照方)

案内は先ず”坐雲亭”から始まった。(写真)“坐雲亭”の前に掲げられた説明版には”山内最古の建物。下層は茶室、元和九年(1623年)七月、徳川秀忠、同八月、徳川家光の両将軍の御成りがあった“と伝える板額が掛かっている。又、この両将軍の御成りの理由が、大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた徳川家康が駕籠で逃げる途中で、後藤又兵衛(黒田長政・豊臣秀頼に仕え大阪城五人衆の一人に数えられた武将・生:1560年・没:1615年)の槍に突かれて死亡、南宗寺開山堂下に埋葬され、その墓参だったとの伝説が残った事が書かれている。

境内には“徳川家康の墓”と伝わるものがある。(写真)
徳川家康の墓所として有名な“日光東照宮”には“南宗寺”から改葬された、との伝説がある、と、ボランテイアガイドさんからの興味深い話が続いた。更にこの“徳川家康討ち死”伝説に関する史跡として幕末に”第15代将軍・徳川慶喜“の命で単身、官軍が駐留していた駿府に乗り込み“西郷隆盛”と面会して江戸城の無血開城を実現させた立役者の一人“山岡鉄舟”(生:1836年・没:1888年)が“この無名塔を家康の墓と認める”と書いた碑文があり”徳川家康討ち死ミステリー”に信憑性を加えている。

更に“南宗寺”には嘗て”東照宮”が祀られていた。戦災で焼失したが、今日では其の跡に”水戸徳川家・家老“の子孫である”三木啓次郎“氏が1967年に再建した”東照宮・徳川家康墓”の碑石が建っている。(写真)

”東照宮”に通じる唐門は、幸いにして今日でも残されており、国の重要文化財に指定されている(写真)。江戸時代には”堺奉行“に就任した役人は必ず”南宗寺”に参詣していたと説明板に書かれており、この事も”南宗寺”と”徳川家康”との関係に繋がり”徳川家康討ち死説”が消えない理由の一つに成っている。

そうした”徳川家康討ち死説”に関する史跡の多くを境内に残す”南宗寺”である。

“訪問記:その2”三好一族の墓、並びに三千家一門の供養塔“

“南宗寺”には”大林宗套“に参禅(師について禅を修学する事)した茶人”武野紹鴎”(たけのじょうおう・生:1502年・没:1555年)の墓がある。(写真)
そして”武野紹鴎”の弟子である”千利休”並びに“三千家一門”の供養塔が並んでいる。(写真)更に境内には“千利休”が好んだと伝わる”茶室・実相庵”その他“千利休”ゆかりの史跡が残されている。

“三好一族の墓“は戒名等が墓石からは判別が難しく、ガイドさんのメモを見せて頂いた。(写真)メモには父”三好元長”そして“三好長慶”長弟“三好実休(義賢)”そして末弟”十河一存”の墓石の位置が示されていた。しかし”三好長慶”が病死する直前に自らの手で自害に追い込んだ次弟“安宅冬康”の墓石に就いては不明とされ、その事を確かめる為に“南宗寺”に直接問い合わせたが、残念ながら明確な回答は得られなかった。

”三好長慶”自身は次弟“安宅冬康”を自害に追い込んだ事を泣いて悔やんだとの記事も伝わるが”三好家”一族にとって“安宅冬康”は飽くまでも”反逆者”扱いであったと言う事なのであろうか。

(写真説明)
坐雲亭説明版が建物の前にある。写真では読み取れないが、書かれている内容は下記。

山内最古の建物。下層は茶席。元和九年(1623年)七月徳川秀忠、同八月家光の両将軍の御成の旨を記した板額がかかっている。この両将軍の御成や東照宮が祀られていることなどによって、家康が後藤又兵衛の槍に刺され南宗寺開山堂下に埋葬されていたという伝説が残った。徳川家康のものとされる墓は今も開山堂下に安置されている。

73:文化人、教養人として伝わる“三好長慶”

73-(1):キリシタン(キリスト教)の布教を認めた“三好長慶”

我国にキリスト教を伝えた“スペイン・ナバラ王国”生まれの“フランシスコ・ザビエル“(生:1506年?・没:1552年)が、1549年(天文18年)8月15日に鹿児島に着き布教を始め、全国での布教の許可を“日本国王”から得る為“堺”を経て、念願の京都に着いたのは、1551年(天文20年)1月であった。

しかし当時の日本の状況は、天皇(第105代後奈良天皇)には政治権力が無く、又“前・第12代将軍足利義晴”没後の若き“第13代将軍・足利義藤”(当時、満14歳、1554年2月に義輝に改名)は“三好長慶 天下人への戦い・第4戦中尾城の戦い”(1550年11月21日)で敗れ“近江国・堅田”へ退避をしていた。

布教の許可を得られる状況では無いと理解した“フランシスコ・ザビエル“は、僅か11日間の滞在で京を去り、山口を経て1551年3月“平戸”に戻り、同年11月にインドに向けて日本を後にしたのである。

8年後の1559年(永禄2年)12月14日に宣教師“ガスパル・ビレラ“(ポルトガル人イエズス会員で、カトリック教会司祭・日本に於けるキリスト教史の上で最初期の宣教師の一人であった・生:1525年?・没:1572年)が入洛し”第13代将軍・足利義輝“に布教の許可を願い出ている。引見の後”将軍・足利義輝“は、1560年(永禄3年)に”制札“(せいさつ・禁止事項や布告などを書いて路傍や辻に立てた掲示)を与えた事が伝わる。

当時、事実上“京都”は“三好長慶”の支配下にあった。従ってこの様な案件に就いては“三好長慶“の承認無しには”将軍・足利義輝“といえども”制札“を与える事は出来ない筈である。史実として、同様の禁制が、翌1561年(永禄4年)“三好長慶”からも“ガスパル・ビレラ“に与えられて居り、この事からも“将軍・足利輝”と“三好長慶”との関係が、スムーズなもので無かった事が裏付けられる。

“ガスパル・ビレラ“は、やがて”四条坊門・姥柳町“に土地と屋敷を購入して布教に従事し、”大和国“の奈良・十市(現在の橿原市)、沢(宇陀郡)更には“摂津国・余野“並びに“和泉国・堺”等、徐々に信者を得て行った。

そして“三好長慶”の居城“飯盛山城”でも“ガスパル・ビレラ“は73名の武士団に洗礼を与えたと伝わる。

その中に“三好軍”の優秀な武将として知られる“三木半太夫”(三好長慶没後は織田信長に仕え、其の後は豊臣秀吉に仕えた。1586年、豊臣秀吉の九州平定の戦いに参陣し、豊後で戦死した)が居たが、その息子も父同様、熱心なクリスチャンと成った。洗礼名“三木パウロ”として知られ、豊臣秀吉に拠るキリスト教弾圧で京都で捕えられ、長崎西坂で処刑され、殉教した二十六聖人の日本人の代表となった人物である。

又“三好長慶”の重臣の中には“三箇(さんが)城主”の“オーキ”(三箇伯耆守頼盛)並びに“砂ノ寺内”(現在の四条畷市字砂)の城主“アンタン”(結城左衛門尉)の様に自ら教会を建てる程、熱心な信者が居た事を”ルイス・フロイス“が、彼の著書”日本史“に記している。

この様に“三好長慶”は“ガスパル・ビレラ“に、自らの居城“飯盛山城”はじめ、勢力範囲である“京・畿内五国”でも、有力被官達が”洗礼“を受ける事を許している。この様にキリスト教布教を自領内で承認し、更に保護を与えたという史実から“三好長慶“という人物が”新文化“を受け入れ、理解しようとする、度量の広い人物であったとの評価に繋がっている。

但し“三好長慶”自身はキリスト教信者にはならなかった。







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