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2021年6月3日木曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代と院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
6-19項:室町幕府の統治範囲が“京・畿内周辺”地域に狭まり、将軍を流浪化し、覇権を握った“細川京兆家(管領家)”が4半世紀に亘る内紛に陥る


1:この期の室町幕府状況

1-(1):“細川京兆家(管領家)”と養子縁組をした3人の養子が“細川京兆家・当主”の座を巡って覇権を争った時代背景、並びにその舞台となった“京”並びに“畿内”周辺の社会情勢

“戦国時代”の著者“永原慶二゛氏は戦国期の特色を”それ以前の時期と異なり、列島各地域が夫々に歴史の主要舞台と成り、同時進行で大名、国人、民衆達が夫々にその存在を主張し出した時期である“と書いている。

室町幕府が“統治機能”を失い、遠心力が働き、日本の社会は多極化し、拡散した。前項で記述した様に、関東地域が室町幕府の統治から離れ、一足早く“戦国時代”に突入した事がその裏付けである。

日本の歴史の2つの回転軸の1つである“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”は、政治権力からは排除されたものの、日本の特異性である“血統信仰”に守られ、伝統的な“権威・文化”の伝承者として尊重された事から消滅させられる事は無かった。

2つ目の回転軸“至強(室町幕府・将軍家・武士層)勢力”の中で、幕府の“家格秩序順位”NO.2で”幕府3管領家“の中で勝ち残った”細川京兆家“が、当主の座を巡って4半世紀に亘って争いを繰り返す史実をこの項では記す。

室町幕府将軍を流浪の将軍に追い遣り、覇権争いをした“細川京兆家”下の室町幕府の統治範囲は“京都・畿内周辺”に狭められていた。“京都・畿内周辺”地域は公家・寺社等、旧勢力の最後の砦であり、政治的には最も守旧的な地帯だったのである。

血統信仰が岩盤の様に根付く日本社会にとっては“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力“が居り、その下で政権を担う立場の”至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”が居る京・畿内周辺地域は、幕府としての統治範囲が縮少したとは言え“天下人”としての覇権の地であった事に変わりは無かったのである。

この京・畿内周辺地域で、室町幕府体制最末期の覇権争いが展開され続けた結果、守旧的なこの地でも“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”の中で、厳然たる“血統信仰”の下で日本社会を規定していた“家格秩序”が次第に崩れて行った。京・畿内地域では新たに有力な戦国大名が登場する事が難しかった為に、この地で起こった“家格秩序”の崩壊は将軍家に次ぐ“家格秩序”NO.2の“三管領家”の中で勝ち残った“細川京兆家”が将軍家を追い遣るという形で現われ、更に、同族内で当主の座を争う戦いを長期に亘って繰り返したのである。

こうした時代背景下“京・畿内周辺”地域にも変化が現われる。経済的に“最先進地”であり、群小の国人領主が簇生(そうせい=草木等が群がって生える事)し、民衆が各地で“惣”や“一揆”によって実力行動を取る等、政治的には最も守旧的な地域ではあったが、一方で社会変動が最も根深く進行した地域でもあった。

燃え落ちる寸前の“室町幕府”の遺産にしがみついて“細川京兆家”を中心に、旧幕府首脳や被官達が泥沼の様な闘争を繰り返したこの時代に、日本の歴史展開の回転軸として、第3の軸が登場する。それは“町衆”や百姓の“惣”等に代表される民衆の共同体組織の発展、広がりと共に飛躍的に“京・畿内周辺地域”で力を拡大した“一向宗徒”である。詳細は後述するが、彼等は“一向一揆”を組織し、強大化する軍閥組織として、武士層支配に対抗する大勢力に成って行くのである。

“山科言継”(やましなときつぐ・後奈良天皇~正親町両天皇に仕えた公卿・生:1507年・没:1579年)がそのような社会状況を目のあたりにして、その日記の中で“天下は皆一揆のままなり”と言い、又“中納言鷲尾隆康”(公卿・歌人・二水記の著者・生:1485年・没:1533年)も“風聞に言う、天下は一揆の世なるべしと云々。漸く然るが如きか、末世の躰たり、嘆くべし”と、その勢力拡大振りを書き残している。

この項の主役の一人“細川高国”が1527年(大永7年)の戦い(両細川の乱、第8戦・桂川原の戦い・1527年2月)に敗れ、京都を追われた後の享禄年間(1528年~1531年)並びに“天文”(1532年7月29日~)年間になると、京都は極言すれば統治不在の状態に置かれ“町衆”が自治をする都市と成る等、社会変動も進行して行った時代でもあった。

(参考)
“町衆”は都市が発達する中に生まれ、京都では“月行事”(がちぎょうじ)と呼ばれる役職が存在し、京の自治に貢献した。自治組織の責任者を“月行事”で決めた事がこの名の由来だが、裕福な商工業者の中から選ばれ、共同体の幹事役を担った。京都の“月行事“が果たした代表的な自治の事例として”応仁の乱“で1467年から中絶していた”祇園祭“を町衆の手に拠る運営に変える事で、1500年に復活した事が知られる。

又“堺”の36人の“会合衆”(えごうしゅう)の例も良く知られるが、彼等の中から能登屋、臙脂屋(べにや)等の納屋(なや=倉庫)貸しの貿易商人、有力商人がその任に当たった。

“博多”の事例では”年行事”が知られ、12人の豪商が任じられ、その多くは町の年寄で、月毎の輪番として、博多の自治運営に当たった事が伝わる。”島井宗室”(生:1539年・没:1615年)“神屋宗湛”(生:1551年・没:1635年)が著名である。


2:室町幕府3管領家の中で勝ち残った“細川京兆家”

2-(1):“細川京兆家”の盛衰・・はじめに

3管領家の中で前項までに記述して来た様に、争乱を勝ち抜いて来たのは“細川京兆家”であった。取り分け“畠山政長”を滅ぼし“明応の政変”(1493年4月)で第10代将軍“足利義材”を追放し“第28代幕府管領“として政治権力を握った”細川政元“以降、1549年7月9日に”細川晴元“(第34代幕府管領職に就いたとの説もあるが、幕府管領職は第31代の細川高国を以て最後だとする説もある)が“三好長慶”との戦いに敗れ、入京を許す迄の56年間は、京・畿内周辺に於いて“室町幕府”の覇権者と成った“細川京兆家”の時代であったと言えよう。

この時期には“足利将軍家”の権力、権威は失墜し“幕府管領家”である“細川京兆家”の当主が“室町幕府”の実権を握った。“足利将軍家“は日本の特異性である”血統信仰“に守られる形で抹殺を逃れ”覇権争い“の中で、大義名分の為に盟主として擁立される存在に堕した。

この時代は”細川京兆家“に拠る“専制”政権期間であった事から“京兆専制期”と呼ばれる事もあるが、それは1493年~1507年迄の期間であり“第28代幕府管領・細川政元”が暗殺された(永正の錯乱、細川殿の変とも呼ばれる)1507年6月以後は“細川京兆家”も分裂し“両細川の乱”と呼ばれる、1509年~1531年迄の22年間に亘る覇権争いを繰り広げるのである。

この結果、幕府NO.2の立場にあった“細川京兆家”も衰退し、阿波国“細川家”の家宰(重臣筆頭)家であった“三好家”が台頭し、次項(6-20項)“で登場する”三好長慶“が“京・畿内周辺地域”に於ける覇者となる。この様に“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”内でも”伝統的家格秩序”の中で、下位層へ主役が移って行くという動きが展開されて行く。

そうした“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”内に生じた下位層への主役交代劇の舞台と成る“両細川の乱”は、攻防を繰り返す事、実に11合戦に及び、真に“武士層の出現によって始ま  った混乱と闘争の500年の歴史”と題したこの通史ブログ“中巻”の標題を地で行く戦いの連鎖であった。“両細川の乱”の最終戦は“大物崩れ”と呼ばれ、最後の“室町幕府管領”とされる“第31代幕府管領・細川高国”が自害に追い込まれ(1531年6月)この時点で22年間に及んだ“両細川の乱”が終わるのである。

2-(2):“細川京兆政権“の統治力が及んだ範囲

関東で起きた“北条氏の出現”に代表される下剋上に拠る”戦国大名化“の動き、その他、地方に於ける下剋上の動きは活発化し、室町幕府の統治に”遠心力“が働き、日本列島は多極化、拡散して行った。”細川京兆家“が室町幕府の政治実権を握ったとは言え、その統治が及んだ地域は以下の地図に示す、京、畿内周辺を中心とした”六カ国“であった。


2-(3):将軍家から政治の実権を奪い、流浪化させた、家格秩序NO。2の“細川京兆家当主・第26代~28代幕府管領・細川政元”と”室町幕府“の政治

2-(3)-①:奇行の多かった幕府管領“細川政元“

“足利季世記”(あしかがきせいき・1487年~1571年、長享元年~元亀2年の畿内の合戦記。応仁の乱後の全国的動乱を畿内を中心に描いた軍記物である。足利義尚や畠山政長の死から始まり、1493年、細川政元が将軍を廃立した事件、明応の政変、や、細川政元の死後、細川管領家が分裂、衰退して行く過程を記し、代わって三好氏や松永氏が実権を掌握し京都を支配、1568年、永禄11年に織田信長が足利義昭を奉じて入京する経緯を所々に文書を織り込んで説明している著 。作者、成立年代共に不明。全八巻)に、修験道と山伏信仰に凝る“細川政元“が普段から武家の習わしであった“烏帽子”を嫌って被らなかったり、突然諸国放浪の旅に出てしまう等の奇行があった事を伝えている。

以下がその様子を記す“足利季世記”の記事である。

“京管領細川右京太夫政元ハ四十際ノ比マデ女人禁制ニテ魔法飯綱ノ法アタコ(愛宕)ノ法ヲ行ヒサナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ或時ハ経ヲヨミ陀羅尼ヲヘンシケレハ見ル人身ノ毛モヨタチケル

2-(3)-②:“後柏原天皇”の即位式開催を認めなかった“細川政元”の考え方

1502年(文亀2年)6月16日条:”大乗院寺社雑事記“並びに”尋尊大僧正記“

朝廷や幕府の儀式に就いても、実際の威信が伴わなければ無意味と考え“後柏原天皇”(ごかしわばらてんのう・第104代天皇・在位:1500年~崩御1526年・生:1464年)の即位式の開催を無益であるとして認めなかった。その時の“細川政元”の言い分は“即位礼をあげたところで実質が伴っていなければ王と認められない。儀式を挙げなくとも私は後柏原天皇を王と認める。末代の今、大掛かりな即位礼など無駄な事だ“であった。これに群臣も同意した為、即位式用の献金は沙汰止みと成った。(大乗院寺社雑事記・尋尊大僧正記)

尚“後柏原天皇”の即位式は践祚(せんそ=天子の位を先帝の崩御、譲位に拠って受け継ぐ事。これを外部に明らかにする事が即位である)後22年目の1521年(大永元年)㋂22日迄お預けと成った。“後柏原天皇”は、よくよく運の悪い天皇で、この即位式実施直前にも波乱が起きる。即位式直前に成って返り咲いた“第10代将軍・足利義稙”(その後、足利義材~義尹~義稙と改名する)が“幕府管領・細川高国”と対立して京を出奔した為、即位式の開催が危ぶまれたのである。

流石にこの事態に激怒した“後柏原天皇”は即位の礼を強行した。この事件が原因と成って“細川高国”は“足利義稙”の将軍職を廃し、代わって(第10代将軍・足利義稙がカムバックした為に将軍職を廃され、1511年8月に水茎岡山城で病死した)“第11代将軍・足利義澄”の嫡子を“第12代将軍・足利義晴”として擁立(1521年12月)したのである。

1501年(文亀元年):

“細川政元”は幕政を“内衆“(=細川本家・京兆家の重臣達・守護代等が該当)に拠る合議に任せる仕組みとして①内衆合議の規定、並びに②内衆を統制する式条を制定し、自身は突然、諸国放浪の旅に出たり、出奔して幕政を混乱させた。こうした政治姿勢を改める様“第11代将軍・足利義高“(1502年7月義澄に改名)が説得に当たった事も伝わる。”細川政元“は自分がクーデターで挿げ替えた将軍とも衝突していたのである。

1502年(文亀2年)8月4日:

第11代将軍“足利義澄”が“前10代将軍・足利義材”の異母弟“実相院義忠”(ぎちゅう・生:1479年・没:1502年8月5日)を処刑しなければ御所に戻らない“として“金龍寺”に引き籠った事件が起きた。第11代将軍“足利義澄”としては“実相院義忠”の存在がある限り自分が“細川政元”に拠って解任、追放される危険があるとしてその心配を絶って置きたいとの考えからの行動であった。“細川政元“は翌日8月5日に“実相院義忠”を捕えて殺害している。

“実相院義忠”を殺害した事で“細川政元”は“前10代将軍・足利義材”一派から完全に敵視される事になった。又、21歳に成った“第11代将軍・足利義澄”との政治面での衝突機会も増えた。

“実相院義忠”を殺害した事は“細川政元”としては“第11代将軍・足利義澄”を廃して新たな将軍を立てる、政治的選択肢を自ら潰した事を意味した。今更、自らが追放した“前10代将軍・足利義材”と和解する事も考えられず、この点で“細川政元”の政治の先行きは暗澹(暗澹=暗くて物凄い様)たるものであったとされる。

3:24年間(1507年~1531年)に亘って“細川京兆家”の内紛が起こる原因と成った“細川政元”が迎えた3人の養子と、その縁組の背景、並びに時期、順番に就いての検証

3-(1):第1番目の養子”九条政基“の子息”澄之“を僅か2歳で迎える

1491年(延徳3年)2月13日:

この年は“細川政元”が“明応の政変”(クーデター・1493年4月)を起こす2年前である。”細川政元“(第24,26,27,28代幕府管領・摂津、丹波、土佐、讃岐国守護・生:1466年・没:1507年)は修験道と山伏信仰に凝り、女性を近づける事無く、生涯独身を通した(衆道/男性の男色の中で武士同士のものを指す/ は嗜んだと伝わる)事から、自身の子供は居らず、前摂政太政大臣”九条政基“の子息”澄之“(生:1489年・没:1507年)を僅か2歳で養子にした。

別掲図“細川政元が行った三人の養子受け入れと両細川の乱に於ける関係図“で”養子1“と示したのが、最初に養子にしたとされる”細川澄之“である。この2歳の幼児には、幕府管領職を継ぐ”細川京兆家“の世子である事を意味する幼名”聡明丸“が付けられた。

1502年(文亀2年)9月:”聡明丸“を正式に嫡子とし“細川澄之”に改名する

養子として受け入れてから11年後“養父・細川政元”は、彼が13歳に成った時点で“細川澄之”に改名した。正式に嫡子(家督継承者)として指名し“丹波国”(兵庫県、京都府の一部)の守護職に就けた。

此処までは何事も無く“細川京兆家”の後継者としての手続きが進んでいた。しかし乍らその裏では“京兆家の後継ぎが細川家血筋で無い”九条家“血筋の”細川澄之“に奪い取られる事に抵抗する一派の動きが次第に大きく成り、内紛の様相を呈するまでに広がっていたのである。日本の特異性である”血統信仰“が招いた”細川京兆家“の内紛が開始される。

3-(2):“細川澄之”を廃嫡し、2番目の養子として“細川家の血筋”から“細川澄元”を迎える。

1503年(文亀3年)5月:

上述した養子“細川澄之”に対する内部の不満、対立を見た養父“細川政元”は、嫡子指名後、僅か8カ月後に“細川澄之”の廃嫡を決めた。この事が“永正の錯乱”の端緒“細川殿の変”への発火点と成った。


3-(2)-①:“細川澄之”を廃嫡した理由

“細川澄之”は前従一位関白”九条政基“(生:1445年・没:1516年)の子息、つまり貴族の血統であった事から、細川京兆家家臣は”細川家“の血統で無い者が当主に成る事に抵抗した。

加えて養父“細川政元”自身も、資質的にも才気に乏しく、又、年齢的にも(15歳)幕府管領職を継がす事は困難と判断し廃嫡したと伝わる。一説には、両者の折り合いも悪かった為とされる。

諸説はあるが、何と言っても”血統信仰“が強かった当時の社会慣習から”細川一族“の血統を引き継がない”細川澄之“が”宗家“(そうけ=一門において嫡流の家系)の当主後継者に成る事に”細川一族“を挙げて反対が起きた事が廃嫡を余儀なくさせたのである。

そして“細川政元”は直後に“阿波国細川家”から“六郎”を2番目の養子として縁組をしたのである。(後の細川澄元)

3-(3):第3番目の養子として“細川高国”が“野洲細川家”から迎えられたとの通説に対する時期と順番に関する疑問

1504年~1506年?:

別掲図“細川政元が行った三人の養子受け入れと両細川の乱における関係図”では“細川政元”は“野州細川家・4代当主・細川政春”(備中国守護・生:1456年・没:1518年)の子“細川高国”(生:1484年・没:1531年)を3人目の養子として迎えたとの説に基づき“養子3?”と記してある。

しかし“?マーク”を付けたのは“細川高国“が養子に受け入れられた時期、及びその順番等に就いて疑問がある事、又、この事が以後の歴史展開の整合性にとって極めて重要ポイントである為①細川澄之(1491年2月)②細川澄元(1503年5月)③細川高国(不明1504年~1506年?)の順に養子受け入れが行われたとする通説に対する疑問、異説に対する検証を以下に行って行きたい。


3-(3)-①:3人の養子の“元服”の時期が、養子に迎えられた順序と逆である事から導かれる“細川高国”の養子受け入れ時期に対する異説

3人の養子が“元服”した順番はその名前から明確に判断出来る。3人共“養父・細川政元”がクーデターを起こし、将軍に就けた“第11代将軍”からの偏諱(主君の名の一文字を授ける事)を授かっているからである。

第11代将軍は1495年12月27日に将軍職に就いた当初は“足利義高”と名乗っていた。従ってこの名の時期に3番目の養子とされる“細川高国”が元服をし“足利義高”から“高”の偏諱を授かった事が分かる。1番目の養子“細川澄之”と2番目の養子“細川澄元”は第11代将軍がその後改名し“細川義澄”と名乗った以降に偏諱を授かり、元服した事が明白である。従ってその時期は1502年7月以降という事に成る。

“細川高国“が養子に迎えられた時期を通説では”1504年~1506年?“とするが、この期間では、偏諱を受けた時期との整合性を欠く事に成る。この事から”細川高国“はもっと早い時期、つまり”1495年~1502年“の間に養子に迎えられていたのではないかとする”異説“の信憑性が増す。

3-(3)-②:“細川高国”が1495年~1502年(高国は6歳~13歳の頃)に養子に迎えられた可能性を裏付ける史実

“細川京兆家”と“主要分家”との間では分担して“連歌“を詠む”細川千句“という儀式が伝わる。”細川高国”の出身の“野州細川家”に関しては1497年以降“細川高国“が野州細川家を代表して行われていた事が記録から知られている。

この事から1497年前後に実父“細川政春”(備中国守護・細川野州家4代当主・生:1456年・没:1518年)が家督を“細川六郎”(細川高国の仮名)に譲っていたと考えられ、従ってそれ以前に成されていた“細川政元”との養子縁組をこの時期に解消していた形跡があるとする説に説得力がある。

つまり“細川政元”と“細川高国(生:1484年・没:1531年)”の養子縁組は“細川高国”が6歳~13歳までの頃に成されたが、1497年前後に解消されたと考えられるのである。この説の方が後述する史実展開と整合すると、著書“細川高国の家督相続と奉行人”の中で“馬部隆弘゛氏も述べている。

後述する様に、1507年8月に“細川高国”は“永正の錯乱(細川殿の変/1507年6月)”で養父“細川政元”を暗殺した“細川澄之”一派を討つ。しかし、その後、自分が“細川京兆家”の家督を継ぐ主張はしていない。そして、2番目に養子に迎えられていた“細川澄元”(生:1489年・没:1520年)”が家督に就く事をすんなりと認めている。

この史実は、この時点で“細川高国”が“細川京兆家”との養子縁組を解消していた事を裏付けるものであろう。これに就いては1507年8月に起った“遊初軒の戦い”の記述の際にその後の歴史展開と共に述べる。“戦国期細川権力の研究”の著者“馬部隆弘”氏の主張は“細川高国”は13歳~14歳(1497年・明応6年)で元服し、この前後に”細川政元“との養子契約は解消されており”野州家当主“に就いていたとし、通説を否定している。

4:“細川京兆家”内紛の端緒と成った1番目の養子“細川澄之”一派が起こした“細川政元・暗殺事件”・・1507年6月“細川殿の変”

この事件勃発を含め、24年間(細川殿の変/1507年6月23日~大物崩れ/1531年6月4日) に及ぶ“細川京兆家”の内紛時代が始まり“両細川の乱”へと繋がる。この室町幕府NO.2の“細川京兆家”の内紛の期間中、第10代~第12代の足利将軍は京を追われ、流浪将軍と成り、覇権争いをする”両細川家”に拠って”大義名分”を立てる為の盟主として擁立、利用される立場に成るのである。

4-(1):“細川殿の変”・・廃嫡された“細川澄之”一派が養父“細川政元”を暗殺する

1番目の養子として“細川澄之”と縁組した事に対し、細川家一族を挙げての反対に遭い、後悔した“細川政元”は、廃嫡を決断し(1503年・文亀3年・5月)直後に一族の“阿波細川家“から“細川澄元”を2人目の養子として迎えた。

こうした養父としての“細川政元”の行動は、兼ねてからの気侭な性情によるものとされるが、その結果は自身が暗殺されるだけで無く、その後の“室町幕府管領家・細川京兆家”の長期に亘る内訌(内紛)に繋がり、すでに崩壊しつつあった“室町幕府”に決定的な打撃を与える事に成る。

その端緒と成った“細川政元”が廃嫡した“細川澄之”一派に拠って暗殺された“細川殿の変”に就いて以下に詳述する。

4-(1)-①:2番目の養子と成った“細川澄元”が入京する先陣として“阿波・細川家“の家宰”三好之長“が入洛、この事が事件の火種と成る

1506年(永正3年)2月19日:

養父“細川政元”は第1番目の養子“細川澄之”を廃嫡し、直後の1503年に“細川澄元”と養子縁組をした。“細川澄元”(丹波、摂津、讃岐、土佐国守護、第30代幕府管領・細川京兆家14代当主・生:1489年・没:1520年)が入洛したのは、養子縁組から3年が経ち、彼が17歳になった1506年である。

“細川澄元”の露払いとして、当時48歳の家宰“三好之長”(みよしゆきなが・生:1458年・没:1520年)が先に入洛した。彼は“細川成之”(阿波細川家5代当主・生:1434年・没:1511年)並びに“細川政之”(阿波細川家6代当主・生:1455年・没:1488年)父子に仕え、同家の貴重な人材と目されていた人物である。しかし彼の存在が事件の火種と成った。

“三好之長”(三好長慶の曽祖父/別掲図三好氏略系図参照方)は以前は“細川成之”並びに“細川政之”父子の武将として入洛した経験を持っていたが、今回の入洛は将来の“幕府管領職”を約束される“細川澄元”の補佐役であり、又“細川京兆家”の家臣となる事を意味していた事から、之までとは異なる重要な機会と捉え“三好家”の勢力を京都に立てるチャンスとして、極めて強い意気込みで臨んだ。しかし、その余りにも強い意気込みが災いしたのである。

4-(1)-②:主君“細川澄元”が上洛する

1506年(永正3年)4月21日:

”細川澄元“は7000余人の兵を率いて上洛した。この事は”多聞院日記“(興福寺の塔頭多聞院において1478年~1618年に及ぶ140年もの間、僧英俊初め3代に亘って書き継がれた日記。激動の時代の奈良を中心とした情勢を知る事が出来る一級史料)並びに”宣胤卿記“(のぶたねきょうき・戦国時代の公卿・中御門宣胤の1480年~1522年の日記。永正の錯乱を巡る畿内の政局をつぶさに見る事が出来る史料)に明記されている。

室町幕府への出頭は5日後の4月26日であり”騎乗の士5人と千余人の供”であった。(拾芥記・しゅうがいき=戦国時代初期の公家・五条為学の1484年6月~1521年12月迄を書いた日記。改元や叙位等公武関係を初め、政治、社会情勢について詳しく記されている)

4-(1)-③:政権を握る“幕府管領・細川政元”の下で“三好之長”が重用された事が“細川政元”の内衆“香西元長”を初め、近習達との勢力争いに繋がる

幕府管領“細川政元”が2番目の養子として迎えた“細川澄元”そして家臣“三好之長”主従が“阿波国”から大軍を率いて入洛した事は“室町幕府管領・細川京兆家”の古くからの被官であり“細川京兆家“の発展に貢献して来たと自負する“内衆”を刺激した。

それにも増して、彼等の主君である“幕府管領・細川政元”が“阿波国・細川讃州家”でも重用されていた“三好之長“(みよしゆきなが・三好長慶の曽祖父・生:1458年・没:1520年)を重用し、多くの戦いに用い、その“三好之長”が期待に応えて広範囲の活躍をした事が殊更”内衆“の”三好之長“に対する風当りを強くさせたのである。

取り分け“三好之長“が“讃岐”に政治介入した事は、讃岐出身で”山城半国守護代“の“香西元長”(こうざいもとなが・山城半国守護代・嵐山城主・生年不詳・没:1507年8月1日)との関係悪化を決定的にした。

4-(1)-④:上記に加え、主君“幕府管領・細川政元“の奇怪な行動に不安を抱く”内衆・香西元長”一派はここで主君“細川政元”の排除を企てるに至る

“香西元長”は“細川政元の後継者”として、最初に養子に迎えられた“細川澄之”を支持していた。しかし、1503年5月にその“細川澄之”が廃嫡され、直後に2番目の養子として細川一族の阿波国“細川澄元”(当時14歳)が代わりに迎えられた事で“細川澄之”の“細川京兆家次期家督”に就く可能性が消えた。この事は自己の将来に対する不安を掻き立てた。主君“細川政元”が“三好之長”を重用した事も不安を増幅させた。“三好之長”が我が物顔で“細川京兆家家臣”として勢力を伸ばす姿は“香西元長”の増幅する不安を強い憎しみに変えて行ったのである。

加えて、頼みとする主君“細川政元”が修験道に没頭する余り、その奇怪な行動が益々深まり、天狗の扮装をしたり、高所から飛び降り,大怪我をする等の状況は“香西元長”並びに彼の一派に主君“細川政元”の排除を考えるに至らせたのである。

内衆“香西元長”一派の結論は主君”細川政元“並びに”細川澄元・三好之長“主従を排除し、代わりに彼に拠って廃嫡された”細川澄之“を”細川京兆家当主“に就ける事に至った。

4-(1)-⑤:主君”細川政之”並びに”細川澄之・三好之長”主従暗殺のタイミングを待つ“香西元長”一派

1507年(永正4年)4月~5月29日:

“幕府管領・細川政元”は廃嫡した“細川澄之”そしてその代わりに養子に迎えた“細川澄元・三好之長”主従、並びに、この3人全員の排除を企てる“香西元長”を率いて若狭国(福井県)守護“武田元信”(若狭武田氏5代当主・生:1461年・没:1521年)支援の為“丹後国(京都府)”に出陣し“一色義有”(いっしきよしあり・丹後国守護・生:1487年・没:1512年7月)との戦闘に参戦した。しかし、戦闘が膠着状態と成った為、1507年(永正4年)4月に京に戻っていた。

“細川澄之”とその補佐役“香西元長”はその後、合戦相手の丹後の国人“石川直経”と和睦し、同年5月29日に京都に戻った。そして“細川政元”並びに“細川澄元・三好之長”主従3人を排除すべく、その機会を狙っていたのである。

4-(1)-⑥:暗殺実行

1507年(永正4年)6月23日:“細川政元”を湯殿で暗殺する

“細川政元”はこの日、修験道に関わる修行の為、湯屋に入っていた。そこを”内衆“の”香西元長“並びに”薬師寺長忠”(摂津国守護代・生年不詳・没:1507年8月1日)更には警護役の“竹田孫七”(生没年不詳)等が湯殿で行水中の主君”細川政元”を襲い殺害した。これが“細川殿の変“である。

1507年(永正4年)6月24日:

翌日“香西元長・薬師寺長忠”一派は“細川澄元”並びに“三好之長”(みよしゆきなが・三次長慶の曽祖父で三好氏が畿内に進出する切っ掛けを作った名将とされる・生:1458年・没:1520年)主従を襲った。

“宣胤卿記”に拠れば“三好之長“は”仏陀寺“(応仁の乱で焼失後に後土御門天皇が再興したと伝わるが、香西元長、薬師寺長忠一派のこの時の襲撃で放火された・京都市上京区)を宿所として居り、襲撃から逃れ、主君“細川澄元”を伴って近江国の“青地城”(草津市青地町)に逃れた。此処で甲賀郡の“山中新左衛門為俊“を頼り、兵力を整え”細川澄之“一派を逆襲する事になる。

“細川政元”の暗殺、そして“細川澄元・三好之長”主従襲撃を合わせて“細川殿の変”と呼ぶが、この事件を発端に以後24年の長きに亘って“細川京兆家=幕府管領家“が当主の座を巡って争う内訌(内紛)の時代に入るのである。

“細川京兆家=幕府管領家“の内訌(内紛)は”遊初軒の戦い“を皮切りに、緒戦から第11戦迄に及ぶ“両細川の乱”と呼ばれる戦いが延々と繰り返される。これら“細川京兆家“の当主争いは”京・畿内周辺地域“に縮少された室町幕府内のNO.2の立場の”細川京兆家“の内紛であったが“足利将軍家“は覇権争いの“大義名分”の為に盟主として擁立され、戦いの状況に拠っては京を離れ、近江国等に逃れる等、流浪を余儀なくされる事に成るのである。

5:僅か2カ月後の“遊初軒の戦い”で敗れ、呆気なく滅びた“細川澄之”と”香西元長・薬師寺長忠”一派

1507年(永正4年)7月8日:

“細川政元”暗殺に成功した“香西元長・薬師寺長忠”は計画通りに“細川澄之”を丹波国(京都府の一部、兵庫県の一部)から迎え、暗殺した“細川政元”の葬儀を催している。この際“第11代将軍・足利義澄“から“細川京兆家・13代当主”として認められたと書く史料もあるが、裏付ける史料は無い。

又“細川京兆家”当主に認められ“細川澄之”が歴代第29代幕府管領職に就いたとする史料もあるが、2カ月後には滅ぼされており、この間、幕府の儀式等、幕府管領職として、公式にその職を担った事を記す記録も無い。従って、歴史学研究会編の“日本史年表・幕府管領職”の欄には彼の名は記載されていない。主君“細川政元”の暗殺には成功したが“細川澄之”に政権を握らせるという“香西元長・薬師寺長忠”の企てが叶った事を裏付ける史料は無いのである。

5-(1):“遊初軒“の戦いで討たれ“細川澄之・香西元長・薬師寺長忠”が滅びる

別掲図“細川殿の変~両細川の乱に見る、永正の錯乱の総括図”を理解の助に参照願いたい。

“細川殿の変”で盟主に担がれた“細川澄之”が“細川京兆家当主“に就く事は、細川家の血統で無いという大きなハンデイがあるだけに、養子縁組を解消した経緯がある”細川一族”の“細川高国“も大反対であった事は明白である。“細川高国”(当時23歳)は一族の“摂津分郡守護・細川政賢”並びに“淡路守護・細川尚春“さらに”河内守護・畠山義英“等と議し、暗殺された”細川京兆家当主・細川政元“の後継者を”細川澄元“とするとの一族の合意を形成した上で”細川澄之”並びに”香西元長・薬師寺長忠”一派の討伐を決断した。

1507年(永正4年)7月28日:

討伐は先ず“薬師寺長忠”を敵とする“薬師寺万徳丸”が居城“茨木城”を攻め落とす事から始まった。

1507年(永正4年)7月29日:

続いて“細川高国”軍は“香西元長”の居城“嵐山城”を攻め落とし“近江国・甲賀郡”の国人達を味方に付け“細川澄之”方が最後の砦とした“遊初軒”へ向かった。

1507年(永正4年)8月1日:

“遊初軒の戦い”は“細川京兆家=幕府管領家“当主の座を”細川家血統では無い“九条政基”の子の“細川澄之”に渡す事に抵抗した“細川家一族”としての“血統信仰”に基づく戦いである。既述の通り“細川澄元・三好之長”主従は“細川殿の変”の際“近江国”に避難していた。(宣胤卿記)

戦いは “細川高国”軍が主となって“細川澄之・香西元長、薬師寺長忠”一派を討伐した形となった。“細川高国”軍は、1507年8月1日に彼の舅“細川政賢”(ほそかわまさかた・娘が細川高国の妻・後の船岡山合戦で戦死)並びに“細川尚春”(淡路国守護・生年不詳・没:1519年)と共に“細川澄之、香西元長、薬師寺長忠”を討ち果たしたのである。

“細川澄元(当時18歳)・三好之長”主従は、逃げ延びていた“近江国・甲賀郡“から、翌8月2日に京に攻め上ったとされる。

6:“遊初軒の戦い”時点では協力関係にあった“細川澄元”と“細川高国”

6-(1):“細川京兆家・14代当主”に、2番目の養子“阿波細川家”出身の“細川澄元”が就く事をすんなりと認めた“細川高国”

”遊初軒“の戦いで“細川京兆家・13代当主”に就いたとされる“細川澄之”一派を討伐し、“細川京兆家・14代当主”に、2番目の養子“細川澄元”(当時18歳)が就く事を“細川高国”(当時23歳)がすんなりと承諾した事が史実として確認されている。この事からも、この時点では暗殺された養父“細川政元“が”細川高国“の実父”細川政春“と結んだ養子縁組が解消されていたとする“異説”が説得力を増すのである。

上記した様に1507年8月の“遊初軒の戦い”で“細川澄之一派”討伐に最大の軍功を挙げたのは明らかに“細川高国”であった。“細川殿の変”で襲われ“近江国”に辛うじて逃れていた“細川澄元”は、養父“細川政元”の仇討ちの戦い“遊初軒の戦い”に、家臣“三好之長(当時49歳)”を伴って“近江国・甲賀郡”から戻り京に攻め上ったが、討伐に参加し、活躍したか否かについては裏付ける史料は無く不明とされる。“細川澄元”は討伐に参加していないとする説が多い。

“細川澄之一派討伐”に軍功を挙げ、しかも5歳年上の“細川高国”が、若し当時、細川京兆家の3番目の養子であったなら、当時の状況からして“細川京兆家当主”の座をすんなりと、仇討ちに働きの無かった、5歳年下の2番目の養子“細川澄元”(当時18歳)に譲ったとは考え難い。“細川京兆家当主”の座は“幕府管領職”の座であり、当時の“天下人“の座に就く事を約束される事である。如何に当時の幕府が弱体化の極みにあり、統治範囲も“畿内六ケ国”に狭められていた状態だったとしても簡単に譲るとは考えられないのである。

従って“遊初軒の戦い”時点では“細川高国”と細川京兆家との間の養子縁組は解消されていたとする“異説”に軍配が上がり、家格秩序を重視する当時として”細川京兆家“を継ぐ権利 を有する”2番目の養子・細川澄元“が後継者に決まったのである。

7:脆弱な“細川澄元“政権の結束力を見た、将軍復帰、京帰還の執念を燃やす”前第10代将軍足利義尹“は”大内義興“の軍事力を背景に上洛の動きに出る。この動きに乗る形で”細川高国“が”細川澄元“との袂を分かつ決断をする

7-(1):“細川澄元“という人物に就いて

“細川澄元”(ほそかわすみもと・細川京兆家14代当主・第30代幕府管領・丹波、摂津、讃岐、土佐国守護・生:1489年・没:1520年)は細川氏の支族、相伴衆の家格である阿波細川家“細川義春”の子として生れた。

上記した様に“細川政元”が1503年5月に“聡明丸(細川澄之)”を廃嫡した為、同年2番目の養子縁組契約が結ばれ、元服も行い、幼名“六郎”から第11代将軍“足利義澄”からの偏諱と“細川京兆家“の家督継承者に付けられる”元“の字を受けて“細川澄元”と名乗った。そして、既述の通り3年後の1506年4月に入洛し、養父“細川政元”から“摂津国守護職”を譲られたのである。

1507年(永正4年)8月2日:

1507年8月1日に起きた“遊初軒“の戦いで“細川澄之・香西元長・薬師寺長忠”が討たれた翌日の8月2日には“第11代将軍・足利義澄”から“細川京兆家14代当主”として家督を継承する事が承認されたと記録されている。

この事は“細川澄元”(当時18歳)が“京・畿内周辺地域”の覇権者と成った事を意味するが、実権は“阿波細川家・家宰家”からの“三好之長”(当時49歳)が握った。(後法成寺関白記)

7-(2):必ずしも良く無かった“細川澄元”と“三好之長”の主従関係

1507年(永正4年)8月13日~27日:

“細川澄元”と“三好之長”主従の関係は円満では無かった。“宣胤卿記”には“任稚意京中狼籍”と書かれている。“三好之長”が我が物顔で政権を専横している“と伝える記事である。こうした”三好之長“の態度に、若い“細川澄元”が8月13日には本国“阿波国”に帰国すると言い出し、又、16日には遁世(仏門に入る事)すると言い出したとの記録がある。

(別掲図)“細川殿の変~両細川の乱に見る永正の錯乱の総括図“の”澄元②“の個所に示す様に”細川澄元政権“(実態は三好之長政権)では、第11代将軍”足利義澄“(生:1481年・崩御:1511年8月14日)を盟主に擁立していた。従って、若い“細川澄元”(当時18歳)と、家宰時代からの“三好之長”(当時49歳)との関係の悪さに一番気を揉んだのは“第11代将軍・足利義澄“(当時26歳)であった。

その背景には同別掲図に示す様に“前・第10代将軍・足利義尹”(義材から改名)が、周防国“大内義興”(生:1477年・没:1529年)の軍事力を頼み“京”への帰還を虎視眈々と狙っていた状況を看過出来なかった事があったのである。京で“細川澄元”と“三好之長”主従の確執が続き“細川澄元”が“阿波国”へ帰る等の分裂の事態と成れば“前・第10代将軍足利義尹”並びに“大内義興“が再上洛の動きを起こし”第11代将軍・足利義澄“が将軍職を追われる危険が現実のものと成るからである。

従って盟主に擁立された”第11代将軍・足利義澄“としては”阿波国“への帰国、或は、遁世すると言い出した“細川澄元”を必死に慰留しなければならない状況に置かれたのである。

詳細は伝わらないが、慰留の条件として“三好之長“の被官”梶原某“を処刑する事が出され、実行された。この結果、漸く両者の和解が成ったと伝わる。”三好之長”は騒動の責任を取って剃髪し、嫡男“三好長秀” に職を譲っている。(別掲図・三好氏略系図と細川晴元政権の成立・・1527年2月16日を参照方・この図で分かる様に三好之長は次項で記述する細川京兆家を倒して政権の座に就く三好長慶の曽祖父である)

当時の”三好之長“の勢力が如何に強かったかを下記2首の歌が伝えている。いずれの歌も当時の“三好之長”の政治を嫉む歌、憎む歌である。
・はげしかり嵐の風の音耐えて今をさかりのみよしのの花(瓦林政頼)
・花さかりいまはみよしと思ふともはては嵐の風やちらさん(細川大心院記)



7-(3):“細川澄元・三好之長”主従の関係が良く無い状態に“細川高国”は、盟主“第11代将軍・足利義澄”を切捨て“前・第10代将軍・足利義尹”方に乗り換える

“周防国・大内義興”の軍事力を背景に“将軍職”を奪還し、15年振りの“京帰還”に執念を燃やす“前・10代将軍・足利義尹“(1498年9月に義材から改名)“の動きは“第11代将軍・足利義澄”並びに“細川澄元”にとって極めて大きな不安要素であったが、その不安は的中し、軋轢を深めた“細川澄元・三好之長”主従の覇権は1年と持たずに崩壊するのである。

8:“第10代将軍・足利義尹“を復権させ、盟主に擁立した“細川高国・大内義興“連立政権が成立する

1508年(永正5年)3月17日:

“前・第10代将軍・足利義尹”を盟主として擁立する動きを始めた周防国“大内義興”の動きに不安を感じた“細川澄元”は“細川高国”に和睦交渉に当たる様命じた。しかし上記した様に既に“細川澄元・三好之長“主従間の軋轢の深さを目の当たりにして来た”細川高国“は、之まで協力関係にあった“細川澄元・三好之長”政権と袂を分かっ決断をして居り、伊勢参宮と称して京を脱出し“伊賀国守護・仁木高長“のもとに逃れ、戦闘の為の軍事を整え始めたのである。

1508年(永正5年)4月9日:

“細川澄元“の領国、摂津国、丹波国の主たる国人達は若い主君”細川澄元“(当時19歳)を差し置いて主導権を握った”三好之長“に対して日頃から不満を募らせており”細川高国“方に付いた。

“細川高国”が挙兵し、そして周防国の“大内義興”軍が“前・第10代将軍・足利義尹”を盟主に擁立して京に迫りつつあるという情報に接した“細川澄元・三好之長“主従は、止む無く、自らの屋敷に火をつけ“第11代将軍・足利義澄“と共に京都を退去し”近江国“に逃れた。

”第11代将軍・足利義澄“は”六角高頼“を頼って”朽木谷“に入り、そこから”六角氏“の被官である”九里信隆“の居城”水茎岡山城“(みずくきおかやまじょう・滋賀県近江八幡市牧町・1525年廃城)に入り“細川高国・大内義興”連合軍の追討に耐える事に成った。そして  京への帰還を果す事無く、此の地で3年後の1511年8月に30歳で病没したのである。(別掲図:この項で現われた史跡と位置関係を参照方)

“細川高国“軍は翌4月10日に入京した。(後法成寺関白記)

8-(1):“細川京兆家当主”の座の承認を早々と“第10代将軍・足利義尹”から得た“細川高国”

1508年(永正5年)4月26日:

“細川京兆家“の主だった内衆が”細川高国“に靡(なびいた)いた理由は”細川澄元“に仕える“三好之長”はじめ“阿波国出身者”が欲しい侭に振る舞う事に愛想を尽かした事が大きかったと“戦国期細川権力の研究”の著者“馬部隆弘”氏は指摘している。

京に於ける“細川澄元・三好之長”主従の関係悪化は”前・第10代将軍・足利義尹“にとっては非常にラッキーであり、念願の京への帰還、将軍職への復帰を果たす又とないチャンス到来であった。そこに“細川高国”が加わった事は”鬼に金棒”という事であり、周防国“大内義興“の軍事力を背景に”前・第10代将軍 足利義尹“は”和泉国・堺に上陸した。

1508年(永正5年)5月5日:

前もって4月10日に入京を果たしていた“細川高国”は堺に上陸した“前・第10代将軍・足利義尹“のもとに、側近の“石田四郎兵衛尉国実“を遣わし”細川京兆家当主“に認定する様要求した。”足利義尹“はこれを受け入れ”細川高国“を“細川京兆家当主”に認定する御内書を与えた。

1508年(永正5年)6月8日:

“細川高国”を自分の陣営に取り込んだ“前・第10代将軍足利義尹”と“大内義興“は堺を出発し上洛へと動いた。

8-(2):前10代将軍“足利義尹”の京帰還が実現、前代未聞の15年振りの将軍復帰が成る

1508年(永正5年)7月1日:

“大内義興”(おおうちよしおき・大内氏15代当主・周防、長門、筑前、安芸、豊前、山城国守護・生:1477年・没:1529年)は“前・第10代将軍・足利義尹”(5年後の1513年にも足利義稙に改名する)を盟主に擁立して上洛し”細川高国”と協力し、晴れて将軍に復帰させる事に成功した。“前・第10代将軍・足利義尹“は1493年4月の“明応の政変“で将軍職を追われ、京を去り、流浪の状況から前代未聞の15年振りの将軍復帰、京への帰還を果したのである。尚”大内義興“の”山城国守護職“はこの時与えられたものである。

“細川高国”は希望通り、1508年7月18日に右京太夫・幕府管領に任じられ、実質的に政権を握った。“第10代将軍・足利義尹”を盟主に擁立し、軍事力をもって政権成立に多大な貢献をした周防国“大内義興”を“幕府管領代“という新たな役職を設けて遇している。

以後、紆余曲折の歴史展開を記述して行くが”細川高国“は1527年2月の”桂川原の戦い”で”細川澄元”没後の後継者となった子息“細川晴元”に敗れる迄の凡そ20年間に亘って、京・畿内周辺の覇者の座に就くのである。

8-(3):周防国“大内義興”の軍事力に頼った“細川高国”政権の脆弱さ

“足利義尹”が第10代将軍に復帰し、京帰還を果せたのは”大内義興“(大内氏15代当主・周防、長門、石見、筑前、安芸、豊前、山城国守護・生:1477年・没:1529年)の軍事力が支えであった事は言うまでも無い。しかし”大内義興“に率いられて上洛した安芸、石見の国人達の間には長期に亘る在京を倦厭(けんえん=飽きて嫌に成る)する雰囲気が漂っていた。

9:“両細川の乱”に突入する

1509年6月の“如意ケ嶽”の戦いを緒戦に、以後1531年6月の最終戦(第11戦)“大物崩れ”迄の実に22年間、11度に亘る“細川京兆家(管領家)”の当主の座を巡っての内紛が展開される。

この一連の戦いは“両細川の乱”と呼ばれるが“至強(将軍家・室町幕府・武士層)勢力”の中に厳然と存在した“家格秩序”を形式上守り、幕府NO.2の立場の“細川管領家”としては“第10代将軍・足利義尹”並びに“第11代将軍・足利義澄“更には”第12代将軍・足利義晴“つまり”将軍家“を盟主に擁立する事で“血統信仰、家格秩序”を守り“大義名分”を立てて覇権争いをした処に“日本の特異性”が現われていたと言えよう。

この覇権争いで両細川京兆家が夫々に盟主に擁立した“足利将軍家”は以下の通りである。

 
細川高国方:第10代将軍・足利義稙(1508年7月~1521年3月迄)~第12代将軍・足利義晴(1521年12月25日~)・・1531年6月細川高国没

細川澄元・晴元方:第11代将軍・足利義澄(1511年8月病死)~盟主無し~第10代将軍・足利義稙(1521年3月に鞍替えして)~1523年4月病死~細川晴元・三好元長主従が堺公方・足利義維を盟主に擁立(1527年2月)



9-(1):”両細川の乱”勃発時の対立構造

細川高国派

盟主:第10代将軍・足利義尹

細川高国軍
大内義興軍

細川澄元派

盟主:第11代将軍・足利義澄

細川澄元、三好之長主従軍



10:“両細川の乱”緒戦・・“如意ケ嶽の戦い”(1509年6月17日)

10-(1):背景

”細川高国・大内義興“が上洛するとの話を聞いた”細川澄元・三好之長“主従は、甲賀の”山中為俊“を頼って落ち延びた。同時に”前・第10代将軍・足利義尹“が上洛するとの報に恐れた”第11代将軍・足利義澄“も“近江国”の“六角高頼”を頼って“朽木谷”そして“水茎岡山城”に逃れた事は既述の通りである。その後“細川澄元”は反撃の第1次~第3次に亘る上洛戦に挑む。“如意ケ嶽の戦い”はその第1次上洛戦である。

第1次上洛戦に挑む“細川澄元”は“三好之長”に募兵をさせ、京を臨む“如意ケ嶽”に布陣した。しかしこの戦いには“阿波国”からの兵を出陣させる事が出来ていない。

その理由は“三好之長”上洛後“細川京兆家の家臣”として動いた際に、讃岐支配に介入し、その事が“細川政元”の内衆“香西元長”等“讃岐勢”との対立を生んだ。この後、事態は“細川政元”が暗殺された“細川殿の変”へと繋がり、以後、阿波国と讃岐国との間は合戦状態に陥った。その為“細川澄元・三好之長”主従軍は“如意ケ嶽の戦い”に“阿波国”から派兵支援を得る余裕が無かったと言う事である。

一方の“細川高国・大内義興”連合軍は20,000~30,000の大軍で“如意ケ嶽”を取り囲んだ。 “阿波国”からの徴兵が出来なく、3000余騎と、圧倒的に劣る”細川澄元・三好之長“主従軍は ”細川高国・大内義興“連合軍への強襲策を試みたものの失敗し、敗れ、両人共に”阿波国“に逃れる結果と成った。

10-(2):戦いの状況

1509年(永正6年)6月17日:

“両細川の乱”の緒戦“如意ケ嶽の戦い”は、1509年(永正6年)6月17日の夜半に京都市左京区“如意ケ嶽”周辺で戦われた。

第10代将軍“足利義尹”を盟主に擁立する“細川高国・大内義興“連合軍は圧倒的軍勢でその日の中の攻撃で”細川澄元・三好之長“主従軍を撃退した。敗れた”細川澄元・三好之長”主従軍は、一端“甲賀”に退いたが同年(1509年)閏8月には“淡路国”を経て”阿波国“に逃れた。しかし、将軍職を廃され”近江国・水茎岡山城“に退避していた”前・第11代将軍・足利義澄“は既述した様に、1511年8月に病没する迄、此の地を離れる事が出来なかったのである。

尚、この間の1511年3月10日、後に第12代将軍と成る”足利義晴“がこの地で生まれている。(別掲図・この項で現われた史跡と位置関係・を参照方)

この戦いで“三好之長”の息子“三好長秀(生:1479年・没:1509年)”と“三次頼澄”が戦死している。

10-(3):両細川の乱・緒戦・・“如意ケ嶽の戦い”のまとめ

年月日:1509年(永正6年)6月17日
場所:京都市左京区粟田口如意ケ嶽町周辺
結果:細川高国、大内義興連合軍の勝利

細川高国軍

盟主:1508年7月に返り咲いた第10代将軍・足利義尹


細川高国
大内義興

戦力:20,000∼30,000兵
         
損害:不明
細川澄元軍

盟主:将軍職を廃され(1508年7月)近江国・水茎岡山城に逃がれていた前・第11代将軍足利義澄

細川澄元 
三好之長・・大将

戦力:3,000兵

損害:60名前後


10-(4):室町幕府第28代幕府管領職“細川政元”の後の幕府管領職に就いた人物の検証・・歴代幕府管領職に就いたとの記録が残るのは第31代“細川高国゛迄と考えられる

“室町幕府管領職”に就いては“細川京兆家の家督”に就いた者を自動的に“歴代幕府管領職”として数え、記載している史料がある。室町幕府末期の混乱期であった事から“幕府管領職”そのものの機能も曖昧な時期であった。下記の様に考えるのが妥当と思われるので参考にされたい。

“如意ケ嶽の戦い”に勝利した”細川高国“は、政権の基盤を固め、以後、畿内最大の大名として勢力を誇る事になる。”細川高国“が幕府管領職に就いた期間は第10代将軍に“足利義尹”をカムバックさせた1508年7月から1525年4月迄の17年間と”歴史学研究会編日本史年表“には記されている。

1525年4月以降に”細川高国“の子息”細川稙国“が幕府管領職に就いたとの記録が残る。これは“細川高国”が厄年と成った為、出家をし、子息の”細川稙国“に幕府管領職を譲ったという事情があった為である。しかし、子息”細川稙国“は僅か7カ月後の同年12月に病没した。

”歴史学研究会編日本史年表“の幕府管領職欄に”細川稙国“以降に誰が幕府管領職に就いたかの記載は無い。”細川高国“が幕府管領職に復帰したと考えるのがその後の史実展開との整合性からも妥当性があるとされ、1527年2月に“両細川の乱・第8戦・桂川原の戦い”で敗れる迄は“幕府管領職“に就いていたとする説が有力とされる。

上述した様に“細川京兆家当主”に就いた全ての人物を歴代幕府管領職に就いたとする説もある。下表はその説に基づいて、全ての“細川京兆家当主”に就いた人物を歴代幕府管領として記載したものである。

参考までに掲げたが、史実として、室町幕府管領職として機能したのは”細川高国“が最後と考えるのが妥当であろう。幕府機能の崩壊過程と共に“細川高国”以後に“細川京兆家当主”に就いた者が“幕府管領職”に就いた事を裏付ける史料は無い。



*注・・O印は幕府管領職に就いたとの記録があるもの、X印は無いもの

 
第29代幕府管領:細川澄之(X)細川殿の変で細川政元を暗殺、在職は1507年6月~同年8月”遊初軒の戦い”で討たれる迄の僅か2カ月であり、記録には無い

第30代幕府管領:細川澄元(X)1507年8月に政権を握ってから1508年7月、細川高国、大内義興が第10代将軍・足利義尹を擁立して上洛する迄の1年に満たない期間であり、彼も記録が無い

第31代幕府管領:細川高国(O)1508年7月に第10代将軍・足利義尹をカムバックさせてから、1525年4月に子息”細川稙国“に譲る迄(子息は同年12月に病死)として記載されている。史実としては既述の様に1527年2月の”桂川原の戦い”で敗れる迄は幕府管領職にあったと考えられる。事実上最後の室町幕府管領とする説が主流である

第32代幕府管領:細川稙国(O)1525年5月~同年12月に病死する迄の7カ月、幕府管領職に就いたと記録されている

第33代幕府管領:畠山義尭(X)1526年7月に細川高国が家臣の香西元盛を上意討ちにした事から起きた波多野・柳本兄弟の叛旗で細川高国が失脚した事で幕府管領職に就いたとされる。しかし、公式の記録には無い

第34代幕府管領:細川晴元(X)次項6-20項で記述するが、1536年に法華衆を壊滅させ細川高国の弟細川晴国も討伐し畿内を安定させ幕府管領職に就いたとされる。1549年に三好長慶に江口の戦いで敗れ近江国坂本に逃れる迄在職したとされるが、幕府管領職に就いたとの記録は無い

第35代幕府管領:細川氏綱(X)細川高国の従弟・細川尹賢の子息だが細川高国の養子 と成る。1552年に三好長慶と共に上洛、細川京兆家の当主と成り、室町幕府最後の管領職に就いたとする説もあるが彼の公式の記録も無い。三好長慶の傀儡で実権は無かったとの説もある。馬場隆弘氏は三好長慶政権の積極的協力者であったとしている。1563年末(永禄6年12月20日)山城国淀城で死去。


11:“両細川の乱“第2戦、第3戦”・・“深井の合戦“並びに”芦屋河原の合戦“に“細川澄元”方が勝利し“摂津国・中嶋城”に入城、京奪還を果たす

この両合戦、そして第4戦となる“船岡山城”合戦迄“細川澄元“方の切り札”三好之長“は参戦していない。その理由として緒戦の“如意ケ嶽の戦い”で子息の“三好長秀・三好頼澄”兄弟を失った事を指摘する説もあるが、基本的に主君“細川澄元”との関係が悪かった事が主な理由であろう。

11-(1):緒戦“如意ケ嶽の戦い”で敗れ“阿波国”に逃れた“細川澄元”が、第2次上洛戦を行う為、四国兵の出兵を求めるが、祖父“細川成之”が拒否

緒戦“如意ケ嶽の戦い”で敗れ、第2次上洛戦を早く実行したい“細川澄元”(当時20歳)は、祖父で阿波国守護の“細川成之”(ほそかわしげゆき・阿波細川家5代当主・幕府相伴衆・阿波国、三河国、讃岐国守護・三好之長は彼の重臣・生:1434年・没:1511年9月12日)に度々出兵を承諾して呉れるよう懇願した。しかし祖父“細川成之”は時期尚早として“細川澄元”を嗜め(たしなめ)たのである。

11-(2):“細川高国”方が見せた綻びに“細川澄元”方が動く

11-(2)-①:“鷹屋城”築城に地侍が抵抗する“細川高国”方が綻びを見せる

1511年(永正8年)5月1日:

“細川高国“は”細川澄元”軍の進路を塞ぐ目的で被官の摂津国・武庫郡附近の国人“瓦林正頼”(かわらばやしまさより・瓦林城城主・生年不詳・没:1520年)に“鷹尾城”築城を命じていた。灘五郷の“惣(村落の自治組織)“の地侍(3000~4000人も居たとされる)達は守護の命令にも抵抗する集団であり”鷲尾城“方と対立した。

この動きに“瓦林正頼”は“鷹尾城“から20人程の討手を出し、灘五郷の“惣”の中心人物を討ち取った。討ち取られた人物が敵方である“細川澄元”方の地侍であった事が問題を大きくした。

1511年(永正8年) 5月6日:

“細川高国”方の“瓦林正頼”の強硬な処置に反発した“灘五郷衆”2000人の兵が“鷹尾城”に攻め寄せた。しかし敢え無く20名余りが討ち取られ、他は逃亡するという事件に発展した。

11-(2)-②:四国の兵を集め“第2次上洛戦”を決断した“細川澄元”

敵側は攻勢に出たものの、この状況を“細川高国”方の綻びと見た“細川澄元”は、逼塞中の阿波国から“第2次上洛戦”を実行するチャンスと捉え、挙兵を決断した。

兵動員の権限を握っていた祖父“守護・細川成之”はこの6ケ月後に77歳で病死する。病床にあった為か、今回の“細川澄元”の四国兵動員に対し制止はせず“細川澄元”は四国兵を集める事が出来たのである。

1511年(永正8年)7月7日:

“細川澄元”軍は総大将に一族の“細川政賢”(ほそかわまさかた・細川典厩家/ほそかわてんきゅうけ/3代当主・娘が細川高国に嫁ぐ・生年不詳・没:1511年8月24日)と和泉国上半国守護“細川元常”(生:1482年・没:1554年)を任じ、第2次上洛戦の準備を整えた。(別掲図・細川政元が行った三人の養子受け入れと両細川の乱における関係図参照方)


11-(3):“両細川の乱“第2戦・・”深井の合戦“

1511年(永正8年)7月13日:

“堺”に上陸した“細川澄元”方は、先ず“天王寺城”を攻めるべく“深井城”(大阪府堺市・築城主:細川政賢?築城年1511年・遺構は存在しない)に陣を張った。これに“近江国”甲賀の“山中為俊”並びに“畠山高国・遊佐順盛”が合流し“深井城”に陣を敷いた。兵力は合わせて7000~8000兵であったと伝わる。(瓦林正頼記)

こうした“細川澄元“方の動きを知った”細川高国“は直ちに”摂津国衆“に追討を命じ、“細川高国”軍と合わせ20,000の大軍が西村砦と東村砦に布陣した。

11-(3)-①:合戦の状況

1511年(永正8年)7月13日:

合戦は“細川高国”軍が先陣を切った。“細川高国”軍が敵方が陣を張る“深井城”に突入したが“城中”は空であり“細川高国”方は出口を塞がれ包囲されてしまった。そこに“細川澄元”方の大将“細川政賢”軍が現われ“細川高国”方の大将クラスを討ち取った。“細川高国”方は雑兵も300名以上が討ち取られ敗れたのである。

この敗戦に就いて“細川高国”方の“瓦林正頼”は“細川高国軍は余りにも大勢であった為、連携が巧く行っておらず、その為、大方が討ち死にした“と記している。(瓦林正頼記)

又“陰徳太平記”(1717年出版の軍記物語。将軍足利義稙の時代から慶長の役まで、1507年~1598年に亘って記述されている)には“多数に取り囲まれた細川澄元方の大将”細川政賢“(細川典厩家3代当主・生年不詳・没:1511年8月)軍は、各々が十死一生と覚悟を決め、一文字に切り出て出撃した”と記し、兵力的には少数であったが“細川澄元”軍は、兵の闘志の違いで勝利したと伝えている。

11-(3)-②:両細川の乱・第2戦”深井の合戦“まとめ

年月日:1511年(永正8年)7月13日
場所:深井城
結果:細川澄元軍の勝利

細川高国軍

細川高国
摂津国人衆(池田氏、伊丹氏、三宅氏、茨木氏、安威氏、福井氏、太田氏、入江氏、高槻氏)



戦力:20,000兵

損害:大将方は皆討死、雑兵300兵以上戦死

細川澄元軍

細川澄元
細川政賢・・総大将
細川元常・・総大将
山中為俊
畠山高国
遊佐順盛

戦力:7000~8000兵

損害:不明

11-(4):“両細川の乱“第3戦・芦屋河原の合戦”・・“細川澄元”方の連勝(1511年7月26日~8月10日)

11-(4)-①:背景と戦闘状況

1511年(永正8年)7月26日:

”細川澄元“軍は”淡路国守護・細川尚春“(ほそかわひさはる・生年不詳・没:1519年)を総大将として兵庫に上陸”灘五郷“の地侍を味方に加えた。

こうした情報を”瓦林正頼“(かわらばやしまさより・細川高国に仕えた摂津国武庫郡付近の国人・1508年に摂津守護職に就いている・生年不詳・没:1520年)から注進された“細川高国“は下記の表にある様に①柳本宗雄②波多野稙通③能勢頼豊④荒木大輔を”馬廻り衆“(大将の馬の周囲に付き添って護衛、伝令、決戦兵力を担う騎馬の武士)とし、30余名と援軍3,000兵を”芦屋浜“に布陣させ”瓦林正頼“には彼が築城した”鷹尾城”を中心に山方を固めさせた。

戦闘はかなりの激戦と成った事が”瓦林正頼記“に書かれている。”細川高国”方の”鷹尾城“は外城が落城したが”瓦林正頼“軍が守り抜き”細川澄元“方の総大将”細川尚春“軍の200余人を討ち取り、その後の追撃戦で”細川尚春“軍を”有馬郡湯原村”まで追い立てる等、この段階では“細川高国”方が優勢に戦いを進めていた。

1511年(永正8年)8月8日~10日:

“細川澄元“方は軍勢を二分して進軍させ、一隊を”阿波国“から堺に上陸させ”深井城の合戦での勝利に繋げた。そしてもう一隊は兵庫に上陸させ“芦屋河原の合戦(又は鷹尾城の戦い)”を戦い、この戦いにも勝利している。この戦いには“細川澄元“軍として”赤松義村“(播磨、備前、美作国守護・第10代当主・生年不詳・没:1521年)が“細川澄元”と縁が深かった為、味方に付いた。

”赤松義村“は将軍に返り咲いた”第10代将軍・足利義尹“と和睦する一方で将軍を廃された“前・第11代将軍・足利義澄”の子息“亀王丸”(後の第12代将軍・足利義晴)を引き取り、養育する等、巧みに中央への影響力を持ち続けた武将である。

“細川澄元”方の総大将“細川尚春“軍と”灘五郷地侍軍”の連合軍は、兵庫浦“で”赤松義村“軍と合流し、これに拠って総兵力は凡そ20,000の兵力に増強された。“細川高国”方との戦いは長引いたが“細川澄元・赤松義村“連合軍は敵方の”鷹尾城”を囲み、更に城を火攻めにするとの噂を流し“細川高国方”の“瓦林正頼“に開城を決意させ、10日夜には”伊丹城“に退却した敵を追撃した。

11-(4)-②:“京”奪還を果たした“細川澄元”方

“深井の合戦”に勝利し、続けて“芦屋河原の合戦”を“細川澄元・赤松義村”連合軍として戦いを優勢に進めた“細川澄元”方は、摂津国“中嶋城“に入城した部隊もあったが“遊佐印叟・細川政賢・細川元常”軍は其のまゝ京都に進軍した。

”前・第11代将軍・足利義澄“の奉公衆も”近江国“から合流し”細川澄元“の”第2次上洛戦“は成功し“京奪還”が成ったのである。

11-(4)-③:京に入る事が出来ずに“水茎岡山城”で病没した“細川澄元”方の盟主“前・第11代将軍・足利義澄”

敗れた“第10代将軍・足利義尹”は“細川高国・大内義興”連合軍と共に“丹波国”(兵庫県の一部並びに京都府の一部)に一旦逃れた。その為“細川澄元”方の入京は難なく行われた。(馬部隆弘著・戦国期細川権力の研究)

しかし、伊丹城の戦いで“細川高国”方の抵抗に遭った“赤松義村”は入京していない。又、盟主として擁立された“前・第11代将軍・足利義澄”の姿も京には無かった。彼は”細川澄元“軍が入京を果たした4日後の1511年8月14日に“水茎岡山城”で病死(34歳)したので ある。

しかし“細川澄元”方の入京は、喜びも束の間”細川高国”勢に拠る京奪還の戦い“船岡山城合戦”で敗れ、20日も経たぬ中に京から追われるのである。

11-(4)-④:“両細川の乱・第3戦・芦屋河原の合戦”(細川澄元の第2次上洛戦)のまとめ

年月日:1511年(永正8年)7月26日~8月10日(別名・鷹尾城の戦い)
場所:鷹尾城とその周辺
結果:細川澄元軍の勝利

細川高国軍
盟主:第10代将軍・足利義尹

細川高国
瓦林正頼
柳本宗雄(長治)・・馬廻り衆
波多野稙通・・馬廻り衆
能勢頼豊・・馬廻り衆
荒木大輔・・馬廻り衆





戦力:不明

損害:鷹尾城開城、死傷者3000兵

細川澄元軍
盟主:廃された第11代将軍・足利義澄

細川澄元
赤松義村(細川澄元の縁から応援に加わる)
細川尚春・・総大将・淡路国守護
細川政賢・・大将・細川典廐家3代当主
細川元常・・大将・和泉上半国守護家
山中為俊・・脇大将
遊佐印叟(遊佐就盛)
第11代将軍足利義澄(1511年8月没)の奉公衆近江国から合流
灘五郷衆・・3000~4000兵

戦力:約20,000兵

損害:200兵以上

12:“両細川の乱・第4戦・船岡山城合戦”で“細川高国”方が勝利し、20日も経たぬ中に京を奪還する(1511年8月23日)

12-(1):“前・第11代将軍・足利義澄”が失意の中に病死し“盟主”を失った“細川澄元“方

1511年8月14日:

“船岡山合戦”の直前“前第11代将軍・足利義澄”の擁護者であった“近江国・六角氏”で内紛が起こり当主“六角高頼”(6代当主・近江国守護・生年不詳・没:1520年)が“第10代将軍足利義尹”方に寝返るという大変化が起こった。それを“水茎岡山城”で聞いた“細川澄元”方の盟主”足利義澄”は失意の中に病死したのである。

盟主を戦いの直前で失った“細川澄元”方は“細川政賢”(ほそかわまさかた・娘が細川高国の妻であることから舅という関係である・生年不詳・没:1511年8月24日)を主将として“丹波国”(兵庫県の一部、京都府の一部)と“山城国”(京都府)との要衝である“船岡山”に陣取り“細川高国“方の攻撃に備えた。

12-(2):“船岡山合戦”で“細川高国”方が勝利し、入京、以後8年間に亘る安定した政権を樹立する

1511年(永正8年)8月23日~24日:

“深井の合戦”並びに“芦屋河原の合戦”に連敗し、京を追われた“細川高国・大内義興” 連合軍は“第10代将軍・足利義尹”を盟主として兵力増強につとめ、20,000人を越える兵力を整え、京奪還の戦闘に臨んで来た。

一方“細川澄元”方の援軍として“芦屋河原の合戦”で活躍した“赤松義村”(中興の租赤松政則の婿養子・播磨、備前、美作国守護・生年不詳・没:1521年9月)軍は既述の通り“伊丹城”で“細川高国”方の抵抗に遭って京に入れなかった。

”細川澄元”方の軍事の切り札である“三好之長”軍は“両細川の乱第2戦・深井の合戦”そして“第3戦・芦屋河原の合戦”に続いて、この“船岡山合戦”にも参戦していない事は既述の通りである。この事は、主君“細川澄元”と“三好之長”の確執が根っこでは解消されていなかった事を裏付けているが、この間”三好之長“は”讃州家(阿波細川家)“の知行があった”備前国“(香川県の一部、岡山県の一部)に進軍する等”讃州家内衆“の立場で行動していたのである。

”三好之長“が主君”細川澄元“の2次上洛戦に参戦しなかった事はマイナス面ばかりでは無く、彼と1505年頃から対立関係にあった”淡路国守護・細川尚春“(生年不詳・没:1519年)が代りに”細川澄元“方を支援するというプラス面もあった。

いずれにしても、敵方の兵力20,000に対し、迎え撃つ“細川澄元”方は①細川政賢軍の兵力2000兵②細川元常軍の兵力1,000兵、そして③山中為俊軍の兵力3,000兵の計6000兵程度の兵力しか集まらなかったのである。

“細川高国・大内義興“連合軍は“大内義興”軍を主とした夜襲を含む攻撃を行った。”細川澄元”方の主将”細川政賢“が戦死し、忽ちの中に”細川澄元“軍は戦闘能力を失なった。結果は“細川高国”方の圧勝に終わった。

京は再び“第10代将軍・足利義尹”を盟主に擁立した“幕府管領・細川高国”そして“管領代・大内義興”連立政権の手に帰したのである。この勝利で”細川高国“政権は地盤を固め、”京・畿内周辺地域“に、以後8年間の戦闘の無い、安定した時期が齎されたのである。

12-(3):両細川の乱・第4戦・・“船岡山城合戦”まとめ

年月日:1511年(永正8年)8月24日
場所:山城国船岡山(京都市北区紫野北舟岡町)
結果:細川高国、大内義興連合軍が勝利し、以後8年間に亘る安定した政権が続く

細川高国軍

盟主:第10代”足利義尹“(1513年11月に足利義稙に改名する)


細川高国
大内義興(西国の国人領主の大半を動員)
畠山義元
尼子経久
六角高頼(守護代伊庭氏を抑えて寝返る)




戦力:20,000以上

細川澄元軍

盟主:廃された第11代将軍・足利義澄が戦闘直前の8月14日に没した為、盟主は無しであった

細川澄元
細川政賢・・主将(兵力2000)~戦死
細川元常・・兵力1,000
赤松義村
細川尚春・・淡路国守護・三好之長とは対立関係
山中為俊・・脇大将・兵力3,000~戦死
遊佐印叟(遊佐就盛)~戦死

戦力:凡そ6,000


13:8年間“京・畿内周辺”地域に平和と安定を齎した“細川高国・大内義興”連立政権が抱えた内部対立・・必ずしも巧く行っていなかった3者の関係

13-(1):“大内義興”に対する朝廷からの厚遇に反対した盟主“第10代将軍・足利義尹“

1512年(永正9年)3月:

“船岡山合戦”(1511年永正8年8月23日~8月24日)の直前に、敵方の盟主“前第11代将軍・足利義澄”が病死した事で、相手方は混乱していた。そうした好条件にも助けられ“細川澄元”軍を“細川高国”との連合軍で敗り、京奪還を成功させた“大内義興”の活躍、武功に対し、朝廷は従三位に叙し公卿に列した。

盟主の“第10代将軍・足利義尹”(翌年1513年11月に義植に改名)”がこれに反対したのである。しかし当時の第104代“後柏原天皇”(ごかしわばらてんのう・在位1500年~1526年・生:1464年・崩御:1526年4月7日)は自らの判断で強引に決定した。(実隆公記・1512年3月26日条)

この事件から、間接的にではあるが、盟主“第10代将軍・足利義尹”そして“細川高国・大内義興”3者の政権内での関係は必ずしも巧く行って居らず、寧ろ対立関係が生れていたと思われる。

盟主“第10代将軍・足利義尹”が何故、朝廷が“大内義興”を従三位に叙し公卿に列した事に反対したかに就いての背景は明確では無い。しかし“第10代将軍・足利義尹”と“第104代・後柏原天皇”の間に確執があったであろう事は推測出来る。

“後柏原天皇”は既述の通り“即位礼などは無駄だ”とする“第26~28代幕府管領・細川政元”の政策から、即位式を行なう事が出来ず、践祚から21年後の1521年に漸く即位礼を行なった天皇である。その即位式にもケチがつく。その原因を作ったのが“第10代将軍・足利義稙”(1513年に義尹から改名)である。彼が“細川高国”と対立し、即位式の直前に出奔し、即位式の開催が危ぶまれたのである。後述するが、この事件が“第12代将軍・足利義晴”を誕生させる切っ掛けと成る。この様に“後柏原天皇”と“第10代将軍・足利義稙”との間には、上記1512年の時点でも既に確執があった事が推察出来る。

13-(2):“大内義興”に日明貿易権限が与えられた事で“細川高国”との利害が真っ向から対立する

1516年(永正13年):

“大内義興”は”日明貿易“に対する恒久的管掌権限を与えられた。彼は娘を“第11代将軍・足利義澄”の次男“足利義維”に嫁がせ、将軍家の親族に成り“日明貿易”に対する管掌権限の獲得に政治的布石を打っていた。彼の狙い通りに事が進み“大内義興”は“日明貿易”の恒久的な管掌権限を特権として得“御内書”並びに“奉行人奉書”を手にした。

しかし、この事は“日明貿易”権を争う“細川高国”との利害が真っ向から対立する事から“細川高国”は強硬に反対した。連立政権を組む両者の間に、時間の経過と共に亀裂が広がって行ったのである。尚、この貿易権益を巡る両者の争いは1519年に“大内義興”が領国に戻った後に顕在化し、両者が明国を巻き込んで争った“寧波の乱”(1523年)へと結び付く。

14:“細川高国・大内義興”連立政権の決定的脆弱性が曝露された“大内義興”の帰国

14-(1):“細川高国”と“大内義興”の関係悪化に加え、長引く領国を離れての在京に苛立つ国人達が、勝手に帰国を始める

”第10代将軍・足利義植“を盟主に擁立した”細川高国・大内義興“連立政権も時間の経過と共に上記した様な対立、取り分け“細川高国”と“大内義興”との政治的利害が衝突する場面が目立つ様になって来ていた。加えて”大内義興“側には、領国の”石見国“や”安芸国“の国人の中から、長引く在京に耐え切れず、勝手に帰国する者が続出するという事態が起こった。

更に“出雲国”では”尼子経久“(1521年以降石見国、安芸国にも手を伸ばし安芸国人毛利氏に大内氏の拠点・鏡山城を落城させた・生:1458年・没:1541年11月)が侵攻を開始する等、領国に不安定さが増した為”大内義興“は在京を切り上げ、帰国する事を決断したのである。

1518年(永正15年)8月2日~10月5日:

“大内義興”は“幕府管領・細川高国”との連立政権の象徴でもあった“幕府管領職代”の職を辞し(8月2日)、堺港から領国“周防国”(山口県)に帰国した。(10月5日)

15:“両細川の乱”が再開される

“大内義興“が領国に帰国した事で”細川高国“政権の軍事力が弱体化したと見た”細川澄元”方は反撃を開始する。“両細川の乱“が再開されるのである。

15-(1):“両細川の乱第5戦・“田中城の合戦”(細川澄元の第3次上洛戦)開始

“船岡山合戦”で敗れ、本拠地”阿波国“に逃れ、逼塞していた“細川澄元“は”細川高国“方の軍事力の要である“大内義興”が領国“周防国”(山口県)に帰国(10月5日)したとの報を得ると、俄かに“第3次上洛戦”の準備を開始した。

この間、四国でも変化があった。1511年に“阿波国守護”で“細川澄元”の祖父“細川成之”が没し(1511年10月)更に1519年5月11日には“淡路国守護”で1505年以来“三好之長”と敵対関係にあり“芦屋河原の合戦”(1511年7月26日~8月10日)では“細川澄元”側に付いたものの、その後は敵方“細川高国”方に付いた“細川尚春”を“三好之長”が討伐したのである。

尚“細川尚春”が討伐された後の“淡路国守護家”に於いて、別掲図“細川政元が行った三人の養子受け入れと両細川の乱における関係図“では”細川彦四郎“に引き継がれたと書かれているが”細川尚春“の死で”名実共に断絶した“とする説もある。

この様に“阿波国”並びに周辺が不安定な状態に陥っていた為、その“鎮圧”並びに安定化を“細川澄元・三好之長”主従が優先させた事が、8年間に亘って“細川高国”方との戦いを後回しにした背景であると“戦国期細川権力の研究”の著者“馬場隆弘”氏は述べている。

15-(2):“両細川の乱・第5戦・田中城の合戦”から復帰した“三好之長”

今回の戦闘には“三好之長”並びに“阿波国勢”も主君“細川澄元”の軍として加わり“細川高国”の地盤である摂津国人衆に調略を仕掛けるなど、早い段階から“第3次上洛戦”は開始された。

戦いの先陣を切ったのは、第1次上洛戦の前哨戦で戦死した“池田貞正”の子“池田信正”(久宗・三郎五郎とも・摂津国池田城主・後に細川晴元に仕え、その武将の三好長慶に従った人物・生年不詳・没:1548年)であった。

1519年(永正16年)10月:

父の“池田貞正”が1508年に“細川高国”方の“細川尹賢”(ほそかわただかた・細川典厩家4代当主・摂津分郡守護・生年不詳・没:1531年9月)に攻められ、自害に追い込まれた“池田信正”は“細川高国・細川尹賢”軍に恨みを抱いていた。“細川澄元”方はその“池田信正”(下田中城主)を巧みに味方に引き入れたのである。(別掲図:細川政元が行った三人の養子受け入れと両細川の乱における関係図参照方)

戦いの詳細は伝わらないが、父の弔い合戦に“池田信正”は西摂の“田中城の合戦”で“細川高国”方の“摂津国人”軍を敗った。“細川澄元・三好之長”主従軍は、この先陣の勝利に乗じて勢いを増して行った。

16:“両細川の乱・第6戦・越水城の戦い“にも勝利し”細川澄元“方の”第3次上洛戦“が成功する

16-(1):“細川澄元”軍が西域に侵攻を開始する

1519年(永正16年)11月6日~1520年2月:

“田中城の合戦”での敗戦を知った“細川高国“は”池田信正“討伐の為”瓦林政頼“(かわらばやしまさより・細川高国家臣・鷹尾城を1511年に築城、芦屋河原の合戦で細川澄元軍に攻められ、伊丹城へ退却・自らの拠点、越水城を1516年に築城した・生年不詳・没:1520年)を向かわせた。

”細川澄元・三好之長“主従軍は”阿波国“を出帆した。阿波国・有力国人の“海部、久米、河村”軍も相次いで兵庫に上陸し”摂津国“西域から侵攻を開始した。

16-(2):両軍が睨み合いのまゝ年を越す(1519年)

“細川高国”軍も11月に京都を発ち、12月上旬には“池田城“に着陣した。“細川澄元・三好之長”主従軍は10,000の軍勢を二手に分け、兵庫と尼崎から上陸し“細川高国”方の”越水城“(別名小清水城・築城主:瓦林正頼、築城年:1516年、廃城:1558年~1570年以降)を包囲する作戦を採った。両軍は睨み合い状態のまゝ年(1519年/永正16年)を越した。

16-(3):“越水城”に駐留して“瓦林正頼”を支援した“細川高国”

“瓦林正頼”の居城“越水城”は“阿波国”と“畿内”とを結ぶ重要拠点に位置する城であった。(別掲図:この項で現れた史跡と位置関係参照方・同図で神呪寺の海寄りにある)従って後に“三好長慶、松永久秀、篠原長房”等も居城とした重要拠点の城であった。(織田信長が摂津国に進攻した後の1558年~1570年以降に廃城に成ったと伝わる)

16-(3)-①:越水城訪問記・・訪問日2021年1月26日(火曜日)

住所:兵庫県西宮市桜谷町9-7(西宮市立大社小学校)

交通機関:大阪駅から阪急電車(神戸線)に乗り”夙川駅”で下車、上記”大社小学校”を目指して歩く。凡そ15分程の距離である。

訪問記:道を尋ねた人が”大社小学校”と”大社中学校”とを間違えて教えて呉れたのであろう、可成りの回り道をした為、30分以上掛かって”大社小学校”を探し当てた。”宮市立大社小学校”には校門の前に立派な警備員室があり、そこで聞くと、すぐ脇、50m程の処に”越水城”跡を示す石碑と史跡の案内板があった。史跡とは言っても、小学校の前に、写真に示す碑がひっそりと立つだけである。当時の重要拠点の城としての面影は全く残っていない。

“瓦林正頼”が1516年(永正13年)に築城した事、当時は南北200m、東西約100mの規模の城であったと記されている。この城は水に恵まれた事が築城に適していたとされ、別名”小清水城”とも呼ばれたとある。昔から良質の水が湧き出る事で知られ、平安時代から西国街道を旅する人の喉を潤して来た。なかなか探すのが難しい”越水井戸”の史跡を、幸いにも犬の散歩の途中だと言う女性が親切に我々を2ケ所の井戸に連れて行って呉れた。

その中の一つの井戸を写真に示すが、宅地開発が進む町の中ではあるが、今日でも2カ所の”越水井戸(西所・東所)”が大切に保存されている。1995年1月の阪神大震災の時には貴重な水資源と成り、周囲の苦しむ人々を助けたのだ、と、説明して呉れた。(本来、3ケ所に越水井戸が保存されていたが、1カ所はマンション建設の為に埋められてしまったとの事であった)


16-(3)-②:写真
写真左上と右上:
西宮市立大社小学校の校門から50m程の道路沿いに立つ説明版

写真左下:
越水城跡の史跡碑。築城主の瓦林正頼は文化的関心の強かった武士である事から越水城には天守閣があがっていたのではないか、と指摘されている

写真右中央:
文中紹介した“越水井戸”の前で。阪神大震災時に周辺の住民にとって重要な水資源にもなったと言う

16-(4):“細川高国“が”越水城“に駐軍し、京を留守にしていた隙を突いて”山城国“(京都)で“徳政令”を求める“土一揆”が起こる

1520年(永正17年)1月12日~1月28日:

“細川高国“不在の”山城国(京都)“で“徳政令”を求める“土一揆”が下京から起り、洛中、洛外に広がり、1月28日には“将軍第”の木屋が放火される事態と成った。この事態に対応すべく“細川高国”は“越水城”から軍を引かざるを得ない事態となった。

16-(5):敵方に攻撃され“越水城”を開け渡した“城主・瓦林正頼”

1520年(永正17年)2月3日:

支援に来た“細川高国”軍が引く事態となった事で”越水城城主・瓦林正頼“は”細川澄元・三好之長“主従軍の攻撃に敗れ、城は陥落し、開城した。

越水城を開城した責任を取らされ“瓦林正頼”は、之まで”細川澄元“方との戦いに”細川高国”方の武将として数々の武功を立てて来たにも拘わらず“主君・細川高国”から“細川澄元”方に内通したとの疑いを掛けられ、切腹させられている。

(メモ)
“越水城“は”織田信長“が天下を取る前に”天下人“と成った”阿波国・三好長慶“が”畿内“攻略の重要拠点とした(1539年・天文8年・8月)名城である。しかし”織田信長“が進出すると、拠点城としての重要性が薄れると共に”越水城“の様な大きな城がある事で合戦が頻発し、土地が荒廃するとして”西宮衆”が“織田信長”に何度も金品を献上し廃城を願った。“越水城”は1570年(元亀元年)“織田信長“の命により廃城と成った。以後”西宮“は商業都市として発展をして行く。

16-(6):“細川澄元”が念願の2度目の“京奪還”を果たす・・第3次上洛戦の成功

1520年(永正17年)3月27日:

”越水城城主・瓦林正頼“の敗北、そして京での“土一揆”への対応等で“細川高国“方の陣は崩れ“両細川の乱”の“第5戦・田中城の合戦”並びに“第6戦・越水城の戦い”は勢いに乗った“細川澄元・三好之長“主従軍が連勝した。主君”細川澄元“を”伊丹城“に残し、先ず”三好之長“が上洛を果たした。

今回“細川澄元・三好之長”主従軍が上洛に漕ぎつける事が出来た要因は、既述した“三好之長”が“細川澄元”軍に復帰した事が挙げられる。その背景には、祖父の“阿波国守護・細川成之”の死、並びに“三好之長”の“淡路国守護・細川尚春”討伐(1519年5月)に拠り“淡路国”を手にした事で“細川澄元”の“第1次上洛戦、第2次上洛戦”時には出来なかった“四国兵”の募兵、上陸が可能だった点が大きかった。

こうした“細川澄元”方の状況を見た“第10代将軍・足利義稙”は“細川高国”を切捨て“細川澄元”方に乗り換える動きをする。京都の人達の目にも“細川澄元”方の“第3次上洛戦”成功は力強いものに見えたのである。

16-(7):“第11代将軍・足利義澄”が病没(1511年8月)して以来、擁立する盟主が居ない“細川澄元”方としても“第10代将軍・足利義稙“が敵方から乗り換える動きを歓迎した

1520年(永正17年)5月1日:

上洛を果たし覇権を奪い返した“細川澄元”方ではあったが“天下人”と認められる為の重要な要件が欠けていた。それは彼等が擁立していた”前第11代将軍・足利義澄“が、9年前の1511年8月に病没し現状、擁立する“盟主“が居なかった事である。

そこで“細川澄元”は上洛に先だって“赤松義村”(赤松家10代当主・赤松家中興の租、赤松政則の養子と成る・播磨国守護大名・生年不詳・没:1521年)を用いて“第10代将軍・足利義稙”と接触をした事が伝わる。

この史実を裏付ける史料として“第10代将軍・足利義稙”の側近“畠山順光”に宛てて送った書状が残っている。それに拠れば“細川澄元”方は元々“第11代将軍・足利義澄”そして“細川澄元“派の大名であった“赤松義村”に仲介役をさせ“第10代将軍・足利義稙”(あしかがよしたね・1513年11月に義尹よしただ・から改名)と気脈を通じる事で”細川高国“と反目していた”第10代将軍・足利義稙“を当方に乗り換えさせる事に成功した事が分かる。

先代”赤松政則“が”親・阿波細川家“派であった縁から婿養子の“赤松義村”も当初は”細川澄元”派として動いた。しかし、1511年8月23日(永正8年)の“両細川の乱第4戦・船岡山合戦”で“細川澄元”方が敗退すると“細川高国”が擁立する“第10代将軍・足利義尹”と和睦し、その証として偏諱を与えられ“赤松二郎”から“赤松兵部少輔義村”と改名している。

しかし、完全に“細川高国”方に与した訳でも無く、一方では、1511年8月14日に病没した“第11代将軍・足利義澄”の子息“亀王丸”(1511年㋃生れ・後の第12代将軍・足利義晴)を引き取り、その後養育をして居り、結果として将軍家との関係保持を巧みに務めた武将だったのである。

”第10代将軍・足利義稙“(当時54歳)が”細川澄元“方に乗り換えた背景には、彼が親政志向の強い将軍であり、政治的に軋轢が増した”細川高国“(当時36歳)と組むより若い“細川澄元”(当時31歳)と組む方が政治の実権を握れると考えた事も伝わる。

結果として“細川澄元”は“第10代将軍・足利義稙”を盟主として擁立する事に成功し、同時に“細川京兆家第14代当主”就任を”第10代将軍・足利義稙“に認めさせたのである。

16-(8):“細川澄元短期政権”の成立

“第3次上洛戦”に成功した“細川澄元”方は上洛を果たすが“細川澄元”本人は”伊丹城“に残った。その理由は①この時、既に”細川澄元“の体調が悪かったとの説②”三好之長“が先行して京での足場を固め、安全に”細川澄元“が上洛出来る様、先に上洛した、との説があるが定説は無い。 

先に上洛した“三好之長”は主君“細川澄元”の代理として寺社への禁制発給や“細川高国”方の“追討命令”を発している。又新たに盟主として擁立した“第10代将軍・足利義植”に対し“細川澄元”に対する“京兆家第14代家督”承認に対する御礼を述べる等、の処理を“三好之長”が行った事が史実として残されている。

ここに“細川澄元”短期政権が成立したと解釈し“細川澄元”を第30代室町幕府管領に数える史料もある。しかし以下に記述する様にこの政権は僅か“2カ月未満”で消え去る事になる。従って前記した様に“細川澄元”を“歴代幕府管領職”に数えないとする説が有力である。

16-(8)-①:国衆が“三好之長”から離反するという問題を抱えた“細川澄元”政権

”細川澄元(当時31歳)・三好之長(当時52歳)“主従に拠る政権は、実質的トップである“三好之長”の強引な政治手法に“阿波、讃岐”の国衆が愛想を尽かすという問題を抱えていた。

17:“両細川の乱第7戦・・等持院の戦い”

17-(1):“近江国“坂本に逃れた”細川高国“が再起を図り、逆襲の準備をする

“両細川の乱第6戦:越水城の戦い”で敗れた“細川高国”は“近江国”で着々と逆襲の準備に入った。その結果“細川澄元”政権は僅か2カ月にも満たない短期間で崩壊し、覇権は再び“細川高国”の手に戻る。

“越水城の戦い”の最中に、京で“徳政一揆”が起き、戦いに敗れた“細川高国”は単独で“近江国・坂本”に逃れた。盟主に擁立した“第10代将軍・足利義植”が同行を拒んだ為である。“第10代将軍・足利義植”(あしかがよしたね・1513年11月に義尹を改名)は“細川高国”を見限り、敵方の“細川澄元”方に乗り換えようと決断していたのである。

17-(2):近江国守護“六角定頼”等の協力を得て逆襲に成功した“細川高国”方

1520年(永正17年)5月3日:

“近江国・坂本”に単独で逃れた“細川高国”は“六角定頼“(生:1495年・没:1552年)の支援を取り付けた。その他,下記に示す様に多くの武将からの支援を得る事に成功している。一方で、敵方は”阿波、讃岐“の国衆が次々と離反するという状態であった。

“細川高国”方は京の東郊外”如意ケ嶽“に進軍し”六角定頼”軍が京東の“吉田“(知恩院付近)を固め、京の北は”内藤貞正“軍が”船岡山“に布陣した。合計兵力は4万~5万に上った。

一方、迎え撃つ”三好之長“軍は僅か4000~5000兵と圧倒的に劣勢な戦力であった。これに加えて、主君”細川澄元”は病身の為”伊丹城”に留まった侭であり、トップ不在の”三好之長“軍の士気は上がらず、勝敗は目に見えていた。”細川高国“方は劣勢の”三好之長“軍を北と東から挟み撃ちにし、圧勝したのである。

尚、主君“細川澄元”は“等持院の戦い”で”三好之長”軍が敗れると“阿波国”にほうほうの体で辿りついたが、1カ月後の1520年6月10日に“勝瑞城”で病没する。

17-(2)-①:戦いに敗れ“三好之長”が処刑される

1520年(永正17年)5月5日:

合戦は正午に開始された。戦場は京都の西端“等持寺”の東南であったとされる。“応仁以来如此事無之”との記録が残る程の激戦であった事を伝えている。

劣勢ではあったが“三好之長”軍は奮戦した。(二水記)しかし“三好之長”への反発から、午後6時頃になると”阿波国・讃岐国“の国人衆の“海部、久米、河村、東条”等、各氏が次々と”細川高国“軍に寝返った。(盲聾記=京の医者半井保房の日記・元長卿記・拾芥記・厳助大僧正記・細川両家記)結果、午後8時頃には“細川高国連合軍”に北と東から挟み撃ちにされた“三好之長”軍は散々の敗戦となった。

17-(2)-②:逃げたものの“細川高国”方に探し出され、処刑された“三好之長”

1520年(永正17年)5月11日:

敗れた“三好之長”は京都から脱出できなかった。子息の“芥川長光・三好長則”並びに甥の“三好新五郎”と共に“曇華院殿”を頼って隠れていた事が“拾芥記”(しゅうがいき・戦国時代初期の公家五条為学・生:1472年・没:1543年・の日記・1484年~1521年迄の公武関係、政治、社会情勢に就いて詳しく書かれている)等に記されている。

京を脱出しなかった理由に就いて、前出の京の医者“半井保房”の日記“盲聾記”には“三好之長は肥満の身体の為10町(約1㎞=1町は360尺、108m、約1080m)も歩く事が出来ず、仕方なく近所に隠れた”と記している。4日後の5月9日に“細川高国“方は”三好之長“の居場所を突き止め、引き渡しを要求した。しかし、時の”方丈“(=住職・住持の居所が転じて住職を意味する)が”第10代将軍・足利義稙“の姉であった為、引き渡しを拒んだと記している。

”細川高国“は”三好之長“初め、逃げ込んだ皆の生命を保証すると“曇華院殿”方丈に約束した為、全員が“百万遍知恩寺”に送られて来た。しかし約束は破られ”三好之長“は斬首刑に処された。(63歳)又、子息の“芥川長光・長則”並びに甥の“三好新五郎”も処刑された。(二水記等)

17-(3):“両細川の乱・第7戦・等持院の戦い”のまとめ

年月日:1520年(永正17年)5月5日
場所:京都市北区近郊
結果:細川高国、六角定頼連合軍の勝利

細川高国軍

細川高国

六角定頼・・知恩院近くに布陣
内藤貞正・・7000人、船岡山に布陣
朽木稙綱・・以下4氏の兵2万は如意嶽西麓
蒲生定秀・・同上
朝倉(越前)・・同上
土岐(美濃)・・同上

兵力計:40,000∼50,000人

損害:不明

細川澄元軍

細川澄元・・病気の為“伊丹城”に留まる

三好之長・・西端の等持院に布陣
阿波、讃岐国人衆・・三好之長に反発し、多くが離反したと伝わる




兵力計:4,000~5,000(2000兵との説もあり)
損害:不明


18:敵方の“細川澄元”も病死し、全ての敵がいなくなった“細川高国”

18-(1):“阿波国・勝瑞城”まで逃げ延びた“細川澄元”

1520年(永正17年)6月10日:

“等持院の戦い”で敗れた“三好之長”が1520年(永正17年)5月11日に“細川高国“によって処刑された事で“細川澄元”の覇権は、僅か2カ月も持たずに崩壊した。

体調を崩し“伊丹城”に居た“細川澄元”は、失意の中に“伊丹城”から“阿波国”に病身をおして逃げ帰り“勝瑞城”に入った。“足利季世記“並びに”続応仁後記“は、この状況下でも“細川澄元”は”故・第11代将軍・足利義澄“の次男“足利義維”を擁立して“細川高国” に挑もうとしていたとしている。しかし、再起構想の実現を見る事無く、1520年(永正17年)6月に“勝瑞城”で病死した。(享年31歳)

18-(2):“細川澄元”が死の直前に擁立を考えたとされる亡き“第11代将軍・足利義澄”の遺児“足利義維”について

18-(2)-①:“足利義維”の出生

“足利義維“(あしかがよしつな・生:1509年・没:1573年)は、父親の”第11代将軍・足利義澄“が1508年7月に将軍職を廃され“播磨国“(兵庫県の一部)の”赤松義村“に支援を求めて下向していた時期に生まれたとされる。

京都の公卿“鷲尾隆康”(生:1485年・没:1533年)の日記”二水記“に”法住院殿(足利義澄)御息武衛腹、江州(近江国)武家義晴御舎弟也“と書かれている。母親は”武衛腹“即ち”斯波氏“の女性である事、そして”義晴御舎弟也“とある事から“第12代将軍・足利義晴”の弟だと言う事が分かる。

1511年3月に後の第12代将軍“足利義晴”が生まれ、父親“足利義澄”が“近江国“蒲生郡・水茎岡山城で病死する同年8月14日迄の間に“足利義維”が生まれたという事である。従って“足利義維”は後の第12代将軍“足利義晴”の同年生まれの異母弟となる。“足利義維”は生後“細川澄元”の兄に当たる“阿波国守護・細川之持“(ほそかわゆきもち・生:1486年・没:1512年)の庇護の下で育てられた。
こうした経緯から“細川澄元”は“第10代将軍・足利義稙”が養子にした“足利義維“を”細川高国“との覇権争いの”大義名分“を立てる為、盟主に擁立する事を死の直前まで考えていたのであろう。

18-(3):“阿波国”では没した“細川澄元”並びに処刑された“三好之長”の後継者が決まる・・“細川晴元”と“三好元長”

“阿波国・細川家当主・細川澄元“の後継者には子息の”細川晴元“(生:1514年・没:1563年)が就き“細川高国”に拠って刑死された家宰”三好之長“の後継者には孫の”三好元長“(生:1501年・没:1532年)が就いた。

”三好之長”の長子“三好長秀“(生:1479年・没:1509年)は1509年6月17日の“両細川の乱”の緒戦“如意ケ嶽”の戦いの際、自害に追い込まれ、既に故人だった為、その子息の“三好元長”が後継者と成ったのである。(別掲図:三好氏略図と細川晴元政権の成立・・1527年2月16日を参照願いたい)

18-(4):“第10代将軍・足利義稙”の誤算

”細川澄元“が”阿波国”で病死した事は“細川高国”を見限って“細川澄元”に乗り換えようと動いた“第10代将軍・足利義稙”にとっては全くの誤算であり、彼は立場を失った。

19:“細川高国”の天下に“第10代将軍・足利義稙”の誤算が重なり両者の確執が深まる

両細川の乱“第7戦・等持院の戦い”( 1520年/永正17年/5月5日)に圧勝した“細川高国”にとって、敵方の盟主“前・第11代将軍・足利義澄”は既に9年前に病死(1511年8月)して居り、今回は実質的トップの“三好之長”を刑死(1520年5月)させ、更に、その主君“細川澄元”も“阿波国”で病死(1520年6月)した事で、敵方は全滅状態であり、独り勝ちの“天下”が到来したのである。

この事は“細川高国”を益々専恣(せんし=欲しい侭に行動する事、勝手気まま)にして行ったとされる。一方、この状態は“細川澄元”に乗り換えようと動いた“第10代将軍・足利義稙”にとっては全くの誤算と成り、両者の関係は一層悪化した。

19-(1):以前から限界に達していた“細川高国”と“第10代将軍・足利義稙”との確執

“第10代将軍・足利義稙“は幕政を専横する“細川高国“との確執を長い間抱えて来ていたが、一層専恣(せんし=わがまま、ほしいまま)になった“細川高国”との関係は、益々疎隔(そかく=疎んで隔てる事)を拡大させた。

両者の関係悪化は1519年(永正16年)11月6日~1520年(永正17年)2月“両細川の乱第6戦・越水城の戦い”で敗れた“細川高国”が“細川澄元・三好之長”主従軍の入京を許し、京を離れ“近江国”へ逃げる際、盟主“第10代将軍・足利義稙“に同行を求めたが、拒否されたという一件が示す様に、既にこの時、限界に達していたのである。

“第10代将軍・足利義稙“はこの時点で既に敵方の”細川澄元“と通じて居り”細川澄元“からは恭順を誓う書状が送られていたとされる。年齢もこの時点で54歳に達し、親裁志向の強かった“第10代将軍・足利義稙“としては”細川澄元“方に乗り換え、彼を利用して政治の 実権を握ろうと考えての動きだった。しかしその思惑は見事に外れた。

19-(2):“第10代将軍・足利義稙“が京を出奔する

1521年(永正18年)3月7日:

思惑が外れ、立場、並びに面目を失った“第10代将軍・足利義稙”にとって“細川高国”の専横は彼の忍耐を超えた。不満を爆発させた“足利義稙”は京都から“和泉国(大阪府の一部)・堺”に出奔したのである。

20:“後柏原天皇”の即位式直前に京から出奔した“第10代将軍・足利義稙“を廃し“細川高国”は”第12代将軍・足利義晴”を誕生させる

1521年(大永元年)3月22日:

既述の様に“後柏原天皇”の即位式は、当時、権勢を誇った“第28代幕府管領・細川政元“が”大がかりな即位礼などは無駄な事だ“とした為、行なわれ無いまゝ21年間を経ていた。(大乗院寺社雑事記・尋尊大僧正記)

“細川政元”が暗殺された後、朝廷側は“後柏原天皇”の即位式を挙行すべく儀式を中止するなど、経費節減に務め、室町幕府や本願寺9世“実如”(じつにょ・父は蓮如・本願寺派第9世宗主・生:1458年・没:1525年)からの献金等を合わせる事で、漸く1521年(永正18年)3月22日に “即位の礼”を執り行う運びに漕ぎつけていた。ところが、その直前の1521年(永正18年)3月7日に“第10代将軍・足利義稙”が京を出奔するという事件を起こした為“即位式”の開催が危ぶまれる事態となったのである。

この事態に“後柏原天皇”は激怒した。しかし“幕府管領・細川高国”が第10代将軍・足利義稙“に代わって即位式の準備、並びに警固の責任を果たし、予定通り即位式は挙行された。この事で“細川高国”は“後柏原天皇”からの信頼を獲得し、発言力を増す事になった。この時点で“細川高国”は幕府の実権掌握を揺るぎないものとし、事実上の”天下人“になったとされる。

20-(1):“第12代将軍・足利義晴”を誕生させた“天下人・細川高国”

1521年(大永元年)7月6日:

“細川高国”は“播磨国守護代・浦上村宗”と謀って、出奔した“第10代将軍・足利義稙“を廃し“播磨国守護・赤松義村”のもとで養育されていた当時10歳の“亀王丸”(第11代将軍・足利義澄の長男・元服して第12代将軍・足利義晴と成る・生:1511年・没:1550年)を将軍として擁立した。

“亀王丸”は1521年7月6日“播磨国“(兵庫県の一部)から30、000人の供勢を引き連れて上洛し、上京の“岩栖院”に入った。

1521年(大永元年)12月25日:

実質的に“後柏原天皇”から次期将軍の承諾を得た“亀王丸”は上洛後、朝廷から“足利義晴”の名を与えられ、12月24日に“三条御所”に移り“細川高国”が加冠役を務め元服した。 (満10歳)

既に正五位下、左馬頭には任じられており、同年12月25日に朝廷から“征夷大将軍”に補任され“室町幕府第12代将軍職”が誕生した。“細川高国”はこれで第10代将軍、第12代将軍の二人の将軍を誕生させた事に成る。

20-(2):第12代将軍“足利義晴”という人物に就いて

第12代将軍・足利義晴(生:1511年・没:1550年5月)の父は“第11代将軍・足利義澄”である。(生:1481年・没:1511年8月14日)

“前・第10代将軍・足利義材”(義尹~義稙に改名)が“周防国・大内義興“の支援を得て上洛する動きに”父・第11代将軍・足利義澄”は近江国“六角高頼“を頼って朽木谷に逃れ、更に蒲生郡”水茎岡山城“に逃れ、退避していた1511年3月5日に”第12代将軍・足利義晴(幼名亀王丸)は生まれた。

1508年7月に将軍職を解任された父親“第11代将軍・足利義澄”は”足利義晴“が生れて僅か5ケ月後の1511年8月に念願の京への帰還を果たせず病死した。(享年30歳)赤子だった“足利義晴(幼名亀王丸)”はその後“播磨国守護・赤松義村”のもとに送られ、その庇護下で養育された。“高代寺日記”にそれを裏付ける記述が残る。

尚“足利義晴”が満2歳を迎えた1513年2月に”第10代将軍・足利義尹“との間に和解が成立した事が記録されている。(歴史学研究会編・日本史年表)この事は”第10代将軍・足利義尹“としては、将軍職を廃し”近江国”に追い遣り、病没した“第11代将軍・足利義澄“に対してせめてもの償いの気持から、子息”足利義晴“との和解という形を整えたのであろうと解釈されている。

21:飽くまでも“細川高国”に一矢を報いる策を考え、病没した”第10代将軍・足利義稙“

21-(1):堺に赴き“足利義維”を養子にして“細川高国”への対抗策とした”第10代将軍・足利義稙“

堺に着いた“第10代将軍・足利義稙“は“細川晴元”のもとで保護されていた“第11代将軍・足利義澄”の遺児“足利義維(幼名亀王)”を養子にした。“足利義維”は“細川高国”が“第12代将軍”として擁立する“足利義晴”の弟である事から、明らかに“細川高国”への対抗措置である。

既述の様に、将軍を盟主に擁立していれば“官軍”としての扱いを世間的に得る事が出来るが、そうでない場合には“賊軍の扱い“を受ける事になる。これが当時の”血統信仰“に基づく”至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”内の家格秩序が重んじられるという社会慣習だったのである。

21-(2):支援者を募り歩いた“第10代将軍・足利義稙”の執念は実らず、病状は悪化する

“第10代将軍・足利義稙”は”淡路国“(兵庫県の一部)に渡り“細川澄元”の姉妹を母に持ち、四国で“反・細川高国”活動を継続していた“典厩家当主・細川澄賢”(生年不詳・没:1521年)並びに“河内国守護・畠山義英”(はたけやまよしひで・生:1487年/1488年説・没:1522年)に支援を依頼している。両者からの支援は得られたが、既に“第10代将軍・足利義稙”として以前の様な影響力は無く“細川高国”軍に対抗し得る充分な募兵は出来なかった。

1521年(永正18年)10月:

“第10代将軍・足利義稙”は“堺“に戻った。目的は”細川高国“の政敵、亡き”細川澄元“の嫡子”細川晴元“更には”細川高国“に殺された”三好之長“の後継者で、孫の”三好元長“を伴って再度の上洛を果たす事であった。しかし彼は病に侵されており、且つ病状は悪化して行った。

21-(3):再度の上洛が叶わず、病没した“第10代将軍・足利義稙“

1523年(大永3年)4月7日(4月9日説もあり):

失意の中に“足利義稙”は“阿波国・撫養(=むや・現在の鳴門市)“で57年の数奇な生涯を閉じた。

22:“細川高国”が“天下人”に該当するか否かについて

この時期の”室町幕府“の統治能力は精々“京・畿内周辺地域”最大の大名と呼ぶべき統治範囲のものであった。果たしてこの時期の”細川高国”が”天下人”と呼べるか否かを考察してみた。“室町幕府”の実権を掌握したとは言え“細川高国”を果たして“天下人”と呼べるか否かについての議論は“天下”の内容が時代に拠って一様では無く賛否が分かれるからである。

22-(1):天下人の定義、要件

“源頼朝”は自らの事業を“天下の草創(新しく物事を始める事)“と称したとされる。しかし”源頼朝“が直接支配下に置いた地域は後の”豊臣秀吉・徳川家康“が日本六十余州を直接支配下に置いたのと比べると遥かに小規模である。

しかし、源頼朝は”御家人制“と呼ばれる個々の武士達との間の主従的結合(御恩と奉公)を通じて”全国“に影響を及ぼした。その為”天下人“と呼ばれるのに該当するとされる。“足利尊氏”に就いても同様である。

“室町幕府”の統治能力が衰退した“室町時代後期”になると、前項(6-18項)で記述した様に、幕府は“関東地域の統治権“を実質的に放棄した状態に成っていた。その背景には、全国各地で守護大名が守護代に取って代わられる下剋上が常態化し、戦国大名(定義については前項参照方)化が拡がって行ったという史実があった。その様な状況下”室町幕府”は京都を中心とした“京・畿内周辺地域”だけがその統治下にあったというのが実態だった。

“細川高国”が“天下人“に該当するか否かについては①室町時代後期には、天下の意味が”京都を中心とした周辺地域“の意味で使われていた事、加えて”天下人“の要件は統治地域よりも②権威としての天皇王権を擁している事③朝廷の臣下として政治の実権を託され、武力を背景とした武家政権の実質的なトップである事が重要であった。

以上3要件を満たしていた者が”天下人“と言える存在だった。

ここで敢えて“征夷大将軍“のタイトルを持つ事を条件とはせず”武力を背景とした武家政権の実質的なトップ“としたのには理由がある。

”源頼朝・足利尊氏“並びに後に記述する”徳川家康“は”征夷大将軍“に就き”朝廷“の臣下として定められた”武官コース“を取ったケースであるが”豊臣秀吉“は”関白“となる道を選び”文官コース“を取ったケースであった。又、このいずれのコースも選ばなかった”織田信長“のケースもあるからである。

“織田信長”は1575年に右近衛大将と成り、内大臣、右大臣へと進む事で”朝廷の定めるコース“を最初は取った。しかし1578年4月にそれら全てを辞し、以後”無官“と成って居る。

いずれにせよ、日本の歴史に於いて“天下人”に該当するかしないかに就いては、覇権を握ったその武将が,どの様に“朝廷”と関わったかが不可欠の条件だと言えよう。この事こそが“天皇家”が日本の統治組織が必要とした“権威”(注:実際の権力の有無に拘わらず、絶対的権威であり続けているという点で)の動かざる中心であり続けたという“日本の特異性”を表している。これは今日の日本の政治組織にも言える。つまり、総理大臣の任命も、国会召集も形式上ではあるにせよ、天皇のそれらの行為無しには成り立たないのである。

22-(2):”天下人“と言える“細川高国“

“細川高国”は朝廷から民部少輔、右京太夫等の官位に任じられてはいるが“足利将軍家”が存在するという“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”内での“血統信仰・家格秩序”の下で“征夷大将軍“には就いていない。

朝廷は財政逼迫、室町幕府は権威失墜、そのトップの“将軍家”は、家格秩序の上で、幕府NO.2の序列の“細川京兆家(=幕府管領家)”に実質的権力を奪われていた。

“細川京兆家”が“両細川の乱”という形で覇権争いを4半世紀に亘って続けるが“大義名分を立てる為、盟主、即ち”旗印“として”足利将軍家“を擁立する必要があり之を守った。ここにはっきりと”血統信仰“が岩盤の様に根付き”家格秩序“が伝統的に重んじられて来た日本の覇権争いの姿が見て取れる。これが”日本の特異性“と言えよう。

22-(2)-①:“細川高国”が“天下人”であった期間

“細川高国”が “天下人・覇者”と呼ばれるに等しい権力を獲得した経緯は、1511年8月23日、24日の“船岡山合戦”に勝利し、京に帰還、以後9年間に亘って実質的に“京・畿内周辺地域”を統治した事に始まる。

しかし“連立政権”を組んだ“大内義興”が領国に帰還した後に、一度は“細川澄元”方の短期上洛を許すが、近江国“六角定頼”等の協力を得て、僅か2ケ月程で“等持院”の戦い(1520年・永正17年5月5日)で勝利し、再び京に戻り“覇権”を取り返した。“細川京兆家・15代当主”に就き、実質的には最後の幕府管領職に就いた。この間、既述した様に敵方“阿波国・細川方”のトップが全て没し“京・畿内周辺地域”では無敵状態だったのである。

”第104代・後柏原天皇”(生:1464年・在位1500年10月~崩御1526年)の信を得た“細川高国”は1521年12月には“第10代将軍・足利義稙“の将軍職を廃し、当時僅か10歳の“足利義晴”( 生:1511年・没:1550年)に将軍宣下を得、傀儡の第12代将軍(在職1521年~1546年)を誕生させた。この段階で“細川高国”は天下人に成ったとされる。

こうした“細川高国”の政治は専横を極めたが、後述する1527年(大永7年)2月12日に“細川晴元”(細川澄元の嫡子・最後の第34代幕府管領に就いたとする説もある・彼は武田信玄の義兄に当たる人物でもある・家臣の三好長慶の反乱で没落・生:1514年・没:1563年)方に“両細川の乱・第8戦/桂川原の戦い”で敗れ“近江国“へ追われる。ここに至る16年間は紆余曲折はあるが”細川高国“の覇権時代であった。

日本史上での“細川高国政権”の知名度は低い。しかし、以上の史実から彼を“天下人”に該当すると言えよう。

22-(2)-②:”細川高国”は幕府管領職を嫡子”細川稙国“に譲り出家したが、政治活動からは身を引かなかった

1525年(大永5年)4月21日:

“足利義晴”を第12代将軍として擁立、盟主とした幕政に於いて、幕府管領職の立場の“細川高国”は独り勝ちの状態にあった。その彼が剃髪して“道永(どうえい・当時41歳)”と号し、家督と幕府管領職を嫡子“細川稙国゛(ほそかわたねくに・生:1508年?・没:1525年10月23日)に譲り、隠居をした。

”歴史学研究会編・日本史年表“にも1525年4月に嫡子“細川稙国゛に幕府管領職を譲ったとの記載が為されている。しかし、史実として“細川高国”がこれを境に政治から身を引こうとした形跡は無い。従ってこの動きは”細川高国“が厄年であった為に行ったものであり、本人には政治活動から身を引く考えは毛頭なかったとされる。しかも、僅か6ケ月後の同年10月に嫡子“細川稙国゛は病没した為”細川高国“は”細川京兆家当主“に復帰し、幕府管領職にも戻った。そして1527年2月に“両細川の乱第8戦・桂川原の戦い“で敗れる迄、政治の実権を握って居たものと考えられる。

”幕府管領職在職“期間に就いて”細川高国“が実際に何時まで”幕府管領職“としての機能を果たしていたかに就いての記録も乏しい。彼自身が誕生させた“第12代将軍・足利義晴”の1521年12月に行われた将軍就任の儀式を最後に、辞任したとの説もあるが明確ではない。

室町幕府自体の統治機能の弱体化、将軍職自体も形骸化していた時期であり、況やその補佐役としての幕府管領職自体が如何であったかに就いての実態は伝わらない。そうした背景から“細川高国”が室町幕府最後の”幕府管領職“であったという説が生れ、今日有力説とされている。

23:天下人“細川高国”凋落の始まり

23-(1):“細川高国“が讒訴を信じて“香西元盛“を自害させた事が内部分裂を招く

1526年(大永6年)7月13日:

“香西元盛“(生年不詳・没:1526年7月13日)は”柳本賢治“(やなぎもとかたはる・生年不詳・没:1530年6月)の兄に当たり、又“波多野稙通”(はたのたねみち・将軍足利義稙から偏諱を受け、波多野元清から改名・幕府評定衆・生:1496年・没:1530年)の弟に当たる人物である。

1507年8月の“細川澄之・薬師寺長忠・香西元長”一派を“細川高国”方が討った“遊初軒の戦い”で討たれた“香西元長”家の当主が不在と成った為“細川高国”が“香西家”の名跡を継がすべく“波多野”から“香西元盛”を名乗らせたという経緯があった。

“細川高国”に仕えた“香西元盛“は1524年10月に弟“柳本賢治”と共に“細川高国”と対立する“細川澄元”残党と“和泉国”で戦い、これを打ち破る武功を挙げている。武将としての力量はあったが、彼は文盲だった。

”細川高国”に仕え“香西元盛”のライバルであった”細川尹賢“(ほそかわただかた・摂津分郡守護・生年不詳・没:1531年)が“香西元盛は敵方の細川晴元・三好元長と内通している“との偽造文書で“細川高国”に讒訴した。従兄弟同士という近しい関係にあった事もあり、“細川高国”はこの讒訴を信じ“香西元盛“を自害に追い込んだのである。

23-(2):兄弟を自害に追い込まれた事で、兄“波多野稙通”と弟“柳本賢治”が“細川高国”に反旗を翻す大事件へと発展する

兄“波多野稙通”は自らが1508年に築城した丹波国“八上城”(やかみじょう・兵庫県丹波篠山市)で、そして弟“柳本賢治”も自らが1526年築城した同国“神尾山城”(かんのおさんじょう・京都府亀岡市宮前町宮川)で挙兵した。この挙兵に“摂津国”に居た“故・細川澄元”の浪人達も加わったと伝わる。

23-(3):“波多野稙通”並びに“柳本賢治”兄弟への迎撃体制を整えた“細川高国”

1526年(大永6年)10月23日:

“波多野稙通(=元清)”と弟の“柳本賢治”が反旗を翻した事に驚いた“細川高国”は“香西元盛”を讒訴した当人で、従弟でもある”細川尹賢”(ほそかわただかた・細川典厩家4代当主・生年不詳・没:1531年)を総大将として討伐に向かわせた。

“神尾山城”には総大将の“細川尹賢”が“八上城”には”瓦林修理亮“並びに”池田弾正”等を差し向け、夫々の城を包囲させた。

1526年(大永6年)10月28日:

“細川高国”は傀儡状態であった当時15歳の“第12代将軍・足利義晴”(あしかがよしはる・第11代将軍足利義澄の長男・幼名亀王丸・13代将軍足利義輝、並びに、15代将軍・足利義昭の父親・生まれた年に父親が没した為、播磨守護の赤松義村の庇護下で養育された・在職1521年~1546年・生:1511年・没:1550年)の名で若狭国(福井県の一部)守護“武田元光”(生:1494年・没:1551年)にも救援要請を行った事が“実隆公記”(さねたかこうき・公家、三条西実隆の日記1474年~1536年迄を記した一級資料、重要文化財)に記されている。

23-(4):綻びを広げた“細川高国”・・波多野稙通(元清)に同情して“細川高国”陣営から離反者が続出し、軍は崩壊状態と成る

1526年(大永6年)11月5日~11月30日:

“波多野稙通(=元清)“に同情する動きが広まり、先ず”細川高国“方の”丹波国守護代・内藤国貞“(生年不詳・没:1553年9月)が“波多野稙通(=元清)“の弟“柳本賢治”が守る”神尾山城包囲軍“から離脱した。(1526年11月5日)

続いて11月30日には”黒井城主・赤井五郎“も“波多野稙通(=元清)“に加勢し、3000の兵を率いて、逆に”神尾山城“を包囲する”細川高国“軍を攻撃したのである。

1526年(大永6年)12月1日:

こうした“細川高国゛陣営からの離脱の報は”八上城“を包囲していた”細川高国“方にも伝播し、此処でも包囲軍から退却する動きが出た。中でも“阿波国守護・細川晴元”と通じていたとされる”池田弾正“は自軍の“瓦林修理亮”に攻撃を加えるに至り“八上城”包囲軍は囲みを解き退却するに至った。

こうした一連の“細川高国”軍の崩壊状態に”細川高国“軍の総大将で、従弟の“細川尹賢”は、京に逃走した。(二水記、実隆公記、足利季世記、細川両家記他)

24:“両細川の乱”再開の導火線と成った“波多野稙通、柳本賢治“に拠る”阿波国“を巻き込んだ“細川高国“軍への反撃

24-(1):“阿波国”が支援した事で“波多野稙通”軍は勢いを増す

24-(1)-①:“阿波国守護・細川晴元”の命で“波多野稙通(=元清)”への支援軍として“三好勝時”及び、彼の二人の子息“三好勝長・三好政長”が参戦

1526年(大永6年)12月13日~15日:

“阿波国”に退去中の“細川晴元”が実際に指揮を執ったかどうかは不明だが“細川高国”方の内紛で“波多野稙通(=元清)”軍が優勢との情報に“細川高国”を宿敵とする“細川晴元”方が動きを活発化させた。

具体的には“三好勝時”並びに子息の“三好勝長”と“三好政長”(みよしまさなが・三好勝時の三男・桂川原の戦いで細川高国を追い落として上洛した人物。三好元長が足利義維と細川晴元を擁立して堺公方府を誕生させるとその中枢に入った人物・後に細川晴元の側近として台頭し権勢を振るう・生:1508年・没:1549年・生:1508年・没:1549年)兄弟、更には“河村淡路守”等が進軍を開始“阿波国”から堺に上陸した。

これに就いては理解の助にもう一度(別掲図)“三好氏略系図と細川晴元政権の成立・・1527年2月16日”を参照願いたい。

24-(2):一方、協力が得られず苦戦が続いた“細川高国”軍

1526年(大永6年)12月29日:

“細川晴元”方が“波多野稙通(=元清)”軍への支援に加わり、攻勢を強めた。それに対して“細川高国”方は協力武将を募ったが“若狭国守護・武田元光”(若狭国=福井県の一部・生:1494年・没:1551年)が救援要請に応じて京に入った程度で(二水記)“六角定頼・赤松政村・斯波義統”等の諸大名は応じず、他の武将達も支援の為に入京する事が無かった。

“香西元盛”を自害に追い込んだ“細川高国”に対する批判が如何に強かったかを裏付けている。

24-(3):多くの支援を得た“波多野稙通(=元清)・柳本賢治”兄弟軍が快進撃を続け、“摂津国”の諸城を陥落させて行く

1527年(大永7年)1月:

以下の記述の理解の助に(別掲図)“この項で現われた史跡と位置関係”を参照願いたい。

“柳本賢治”(細川高国に殺された香西元盛の弟)軍は“丹波国“(兵庫県の一部、京都府の一部)から“山城国”(京都府の一部)に入り、西岡、下桂、西院(何れも現在の京都市右京区、西京区)を焼き払い乍ら進軍した。

1527年(大永7年)1月28日:

“波多野稙通(=元清)”軍も、それを追う形で“丹波国”(京都府の一部、兵庫県の一部)を出発し“野田城”(大阪市福島区玉川付近にあった1531年細川高国と同盟関係にあった浦上村宗が築城。当初は砦の様な状態であった。その後、三好三人衆が改修したと伝わる、1615年廃城)を7日間で陥落させ、更に進軍した。

1527年(大永7年)2月4日:

“波多野稙通(=元清)”軍は“山崎城”(山城と摂津の国境にある270mの天王山にあった城)も陥落させ、同城に立て籠もった“摂津国守護代・薬師寺国長”(細川京兆家の重臣・細川殿の変の後に細川高国の家臣となる・遊初軒の戦いでは叔父の薬師寺長忠を討ち1508年に摂津国守護代に任じられた人物・生年不詳・没:1533年)は“高槻城”に逃走した。

その後も“波多野稙通(=元清)”軍は“芥川城(大阪府高槻市)、太田城(大阪府茨木市)、茨木城(大阪府茨木市)、安威城(大阪府茨木市)、三宅城(大阪府茨木市)を次々と攻め落とし、快進撃を続けた。

24-(4):“三好勝長・政長”兄弟軍が“波多野稙通(=元清)”並びに“柳本賢治”兄弟軍と合流し共闘“両細川の乱”再開の導火線に火が付く

1527年(大永7年)2月11日~13日:

“堺”に上陸していた(1526年12月15日)“三好勝長(三好政長の兄)・三好政長(父・三好勝時・生:1508年・没:1549年)”兄弟軍は“大山崎”(京都府南部の乙訓郡に属する)に着陣し“柳本賢治”軍と合流した。(1527年2月11日)

両軍の兵力は3000兵と成り、13日に“桂川”を越えた。(三好氏略系図と細川晴元政権の成立・・1527年2月16日を参照方)そして、1520年5月5日の“両細川の乱第7戦・等持院の戦い”以来、7年振りに“両細川の乱・第8戦:桂川原の戦い”が開始される。

25:“両細川の乱第8戦・桂川原の戦い”・・“細川晴元”方が“細川高国”軍に圧勝、入京を果たし、この戦いが“堺府(堺公方・堺幕府)”誕生の切っ掛けとなる

25-(1):戦況

1527年(大永7年)2月13日:

“桂川”を越えた“三好勝長・三好政長・柳本賢治”連合軍は“細川高国”軍の先陣2400兵と戦った。“三好勝長”はこの戦いで負傷し、後に戦死するが“細川高国”軍方の“日野権大納言内光”を討ち取る等の大損害を与えた。激戦の末に“三好勝長・三好政長・柳本賢治”連合軍が大勝利をおさめたのである。

尚“波多野稙通(元清)”の名が無いが、この頃、病を患って居り“桂川原の戦い”に不参加だった可能性がある。

1527年(大永7年)2月14日:

大敗を喫した“細川高国”軍は本陣の“東寺”を捨て、盟主の“第12代将軍・足利義晴”を伴い“近江国・坂本“から琵琶湖を渡って守山へ逃れた。 

1527年(大永7年)2月16日:

“細川高国”軍に代わり“三好勝長・三好政長“軍が入京した事を”二水記、言継卿記、足利季世記“他が史実として伝えており”柳本賢治“並びに彼の子息の”柳本秀忠“も入京したとある。

25-(2):“桂川原の戦い“で“細川高国”軍に圧勝した“細川晴元”方は盟主に“足利義維“を擁立した・・”堺府(堺公方・堺幕府)“の誕生

25-(2)-①:”細川晴元“方は“桂川原の戦い“前夜には”京都包囲網“を作り上げ、圧勝する

“桂川原の戦い“で”細川晴元“方が短期間に圧勝した理由は”細川高国”方の四方を周到に押さえ、孤立させた戦術に拠る処が大きい。この敗戦で”第12代将軍・足利義晴“を盟主に擁立する”細川高国”方は京都から駆逐され、1511年8月の“船岡山城合戦“以来16年間に亘って守り続けた覇権者の座を降りる事に成った。

1527年(大永7年)3月22日:

入れ替わって“細川晴元”方が四国(阿波国)から堺に上陸した。今回“細川晴元”方は賊軍の扱いを受ける事の無い様“10代将軍・足利義稙“ が生前に養子にした”第11代将軍・足利義澄“の次男(長男説もある。同年に生まれた兄だとの説もある。何れにしても母親の身分の問題から足利義晴が嫡男扱いをされた)でもあり、現”第12代将軍・足利義晴“(当時16歳)の兄弟でもある”足利義維“(当時18歳)を盟主に擁立、形を整えての入京であった。

ここに“細川晴元(当時13歳)”が覇権を握った事に成るが、同時に“堺府(堺幕府)”並びに“堺公方・足利義維”誕生の切っ掛けでもある。

25-(2)-②:天下人であった“細川高国”の敗戦は“香西元盛”を自害させた影響が余りにも大きく、離反が続き、結束力が弱まった為である

上記を裏付ける史実として以下が伝わる。

①:京都に迫る“細川晴元”方の丹波勢の後背を突く為“細川高国”方は但馬国(兵庫県の一部)守護“山名誠豊”(やまなのぶとよ・但馬、備後/広島県の一部国守護・生:1493年・没:1528年)を丹波奥郡に乱入させるという一計を案じた。しかし守護代の“垣屋氏”はじめ、但馬勢の中から“波多野氏”並びに丹波勢と組み“細川高国”方から離反する者が出た。

この為“但馬国守護・山名誠豊”を乱入させる策は失敗し、その隙を突いて“細川晴元”方は“山名誠豊”と敵対関係にあった因幡守護(鳥取県の一部)“山名豊治”(生年不詳・没:1527年?)を但馬国に雪崩れ込ませる策を成功させた。
②:“細川高国”方は“宇野氏“等を援軍として”丹波国“(兵庫県の一部、京都府の一部)に送るが、1527年(大永7年)1月26日に”細川晴元”方の“柳本賢治”(細川高国に殺された香西元盛の弟)に拠って攻め落とされている。

③:“細川高国”は娘を嫁がせた“伊勢国司・北畠晴具”(きたばたけはるとも・生:1503年・没:1563年)に要請して伊勢衆の協力を得ようとしたが、国衆達が“細川高国不支持”の立場を申し合わせて居り、その事を“細川晴元”方は掴んでいた。

④:更に“細川高国”を支える有力者“近江国・六角定頼”(織田信長に先駆けて楽市楽座を創始し観音寺を一大商業都市に育てる等、六角氏の全盛期を築き上げた人物・生:1495年・没:1552年)も裏では“細川晴元”に娘を継室として送り込む縁談を進めていた事が史実として確認されている。(二条寺主家記、並びに 天文日記)

“二水記”(にすいき・室町時代の公家鷲尾隆康の日記。1504年~1533年迄の記録。朝廷の行事、皇族の日常、室町幕府の動向、朝幕間の交渉、加えて巷の風聞等にも言及している。没落して行く公家の悲哀を知る史料として重宝される)の1527年(大永7年)2月12日条に“六角定頼”が“桂川原の戦い”の際“細川高国”方に非協力的であった事を記している。上記した背景からも“六角定頼”は“細川高国”と“細川晴元”を両天秤に懸けていた事が分かる。

25-(2)-③:両細川の乱・第8戦・・“桂川原の戦い”のまとめ

年月日:1527年(大永7年)2月12日~13日
場所:桂川原一帯
結果:“三好勝長・三好政長”兄弟軍と“柳沢賢治”(波多野元清は病気)軍が連合し“細川高国”軍を敗り京都から駆逐する

細川高国軍


盟主:第12代将軍・足利義晴



細川高国
細川尹賢・・総大将





武田元光
瓦林修理亮

池田弾正・・細川晴元と通じて寝返る


兵力:不明

損害:約400兵

細川澄元軍
(三好軍・波多野元清・柳本賢治連合軍)

盟主:足利義維(堺公方、第11代将軍足利義澄次男、第10代将軍足利義稙の養子、第14代将軍足利義栄の父親)

細川晴元
波多野元清(殺された香西元盛の兄)
(注)但し彼はこの時期、病を患っていたとされ、この戦いに参戦していなかった可能性がある(生年不詳・没:1530年)

柳本賢治(同上弟)
三好勝時・・細川高国に殺された之長の弟
三好勝長
三好政長
河村淡路守

兵力:不明

損害:約80兵


26:阿波国で“桂川原の戦い”の状況を見極めていた“細川澄元”の遺児“細川晴元”と“三好元長”

1520年6月に“細川澄元”が“阿波国・勝瑞城”で病死した後の家督は、遺児で当時6歳だった”細川晴元”(生:1514年・没:1563年)が継いだ。又、家宰の“三好家”はその1カ月前の1520年(永正17年)5月に“三好之長”が“等持院の戦い”で敗れ“細川高国“に拠っ て処刑された後の家督を、孫の”三好元長“(山城国守護代・三好長慶の父親・生:1501年・没:1532年)が継いだ。新しい主従は“三好元長”が13歳も年長と言う関係であった。そして”細川高国“の天下が続く中”細川澄元“の遺児”細川晴元”と“三好元長“は共に“阿波 国”で逼塞期間を過ごしていたのである。(先に示した別掲・三好氏略系図と細川晴元政権の成立・・1527年2月16日を参照願いたい)

“細川晴元”にとっては、父“細川澄元”が果たせなかった“打倒・細川高国”構想を実現すべく、時期到来を待つ逼塞の期間であり、又“細川高国”に祖父“三好之長”を討たれた“三好元長”にとっては、祖父の仇討ちの時期到来を待つ逼塞期間であった。

27:両細川の乱・第8戦“桂川原の戦い”で“三好勝長・三好政長”兄弟軍が勝利し“細川高国”軍を京から追った事で、先ず“三好元長”が堺に上陸する

1527年(大永7年)2月16日:

“長江正一氏”はその著作“三好長慶”の中で“三好勝時(三好勝長・政長の父親・生:1461年・没年不詳)“と柳本賢治(やなぎもとかたはる・波多野秀長の息子・足利義維を三好元長と共に堺公方として擁立した人物・1528年以降、三好元長と対立し、細川晴元に讒言して三好元長を阿波国に追い遣る。生年不詳・没:1530年6月)が入京し、これを以て“細川高国政権“は倒れ、以後”細川晴元“方が畿内を席巻する“と書いている。

そこに至る過程を以下に記すが“細川高国”の覇権が“第12代将軍・足利義晴”を盟主に擁立している事に対抗して“細川晴元”側は“足利義維”を盟主に擁立し“堺”に“堺府”(堺公方府・堺幕府)と称される政権の本拠を置くのである。

1527年(大永7年)3月22日:

敵の“細川高国”方は京の“桂川原の戦い”で大敗し、京の“東寺”の本陣を捨て、盟主“第12代将軍・足利義晴”と共に1527年(大永7年)2月14日に近江国“坂本”を経て、琵琶湖を渡り“守山”(滋賀県守山市)に逃れた。

代わって“三好勝長(生没年不詳)・政長(生:1508年・没:1549年)”兄弟軍が入京したとの報を得た“三好元長”(当時26歳)は、亡き主君“細川澄元”の構想実現の機会到来と捉え”足利義維“(当時18歳・生:1509年・没:1573年)を盟主に擁立し、当時13歳の主君“細川晴元”(生:1514年・没:1563年)と共に“阿波国”(徳島県)から兵8000を率いて“堺”に上陸した。(二水記、厳助大僧正記)

“三好元長”にとっては“細川高国”に対し、亡き祖父“三好之長”の仇を討つ事が大きな目的であった事は言うまでも無い。

27-(1):主家から、堺の“政所”号を与えられていた“三好元長”は、上陸直後に禁制(権力者が禁止事項を公示した文書)を発布

“阿波国・細川家”の家宰“三好元長”には主家から堺の“政所号”(まんどころ)が与えられていた。上陸するや①兵士の民家宿泊②喧嘩③押し買④盗み⑤乱暴狼藉並びに博奕、を禁ずる五ケ条を発布している。その他、堺の商業を保護する施策も行い、これ等に拠って町人に安堵を与えたとの記録が残って居る。

28:”大義名分の旗印“として、盟主に擁立された”足利義維”

”細川澄元“が“足利義維”を盟主として擁立する案を持っていた事は“続応仁後記・足利季世記”にも書かれた史実だが、当の“細川澄元”は病没し、この構想は“細川晴元・三好元長”主従に引き継がれた。“細川澄元”の構想は“細川高国”を倒すと共に、敵方が擁立する“第12代将軍・足利義晴”を廃して“足利義維”を将軍に就けるという事であったと考えられる。

28-(1):“堺公方”と呼ばれるようになった“足利義維”

“桂川原の戦い(1527年2月)”で敗れた”細川高国“は”第12代将軍・足利義晴”と共に“近江国・六角氏”を頼って“坂本”に行き、更に琵琶湖を渡って“守山“に落ち延びた。この折に、奉公衆・奉行人等の幕臣も大挙して将軍の後を追った為、京都は空白地帯になった。 空いた京には“細川晴元”方として“三好勝時・政長兄弟軍“並びに”柳本賢治”軍が代官として駐屯し“足利義維・細川晴元”は“堺”に拠点を置いた。

28-(2):“足利義維”に天下人としての要件を整えるべく動いた“三好元長”

1527年(大永7年)6月17日:

“足利義維”(当時18歳)を盟主に擁立し、主君“細川晴元”(当時13歳)と共に“堺”に上陸した“三好元長”(当時26歳)が政治の実権を握った。そして彼が先ず取り掛かったのが、世間から正当な政権として認められる為の要件として必要な盟主“足利義維”に将軍並みの官位等を整える事であった。その為、彼が主導して“朝廷工作”を行った。

“足利義維”は“第11代将軍・足利義澄”の子息であり“第10代将軍・足利義稙”の養子にも成って居た。更に、現将軍(第12代将軍・足利義晴)とは兄弟(弟では無く,兄との説もある事は既述の通りであり、彼には兄としての自負があったと伝わる)という事で“血統信仰” に基づけば“次期将軍”としての“血統”は申し分なかった。

しかも“現将軍・第12代将軍・足利義晴”は“近江国“へ逃避している状況であり“三好元長”は“次期将軍”にふさわしい“叙位、任官”を朝廷に対して請願したのである。この時“足利義維”からは朝廷に対し、太刀・馬等を献上している。

1527年(大永7年)7月13日:

“朝廷”は“足利義維”に対する請願を希望通りに受け入れ、従五位下、左馬頭に叙任している。この事は当時の慣例からすれば、近い将来“将軍”に補任される事を意味していた。そしてこの時朝臣“東坊城和長”(ひがしぼうじょうかずなが・正二位大納言・生:1460年・没:1530年)の撰進で“足利義賢”から“足利義維”に改名したのである。(二水記他)

28-(3):“京都”に入らず盟主“足利義維”と共に“堺”に拠点を置いた“細川晴元・三好元長“主従・・“堺公方”(堺幕府)の始まり

“足利義維”を盟主に擁して覇権を握った“細川晴元・三好元長”主従は京都に入ること無く“堺“に政治拠点を構えた。朝廷から希望通りの叙任が得られた”足利義維“は以後”堺公方“又は”堺大樹(当時の将軍の別称)“と呼ばれるようになった。尚“足利義維”の堺に於ける 住居は“四条道場”(現在の堺市北庄の金蓮寺?)にあった事が記録されている。(写真参照方)

28-(4):無政府状態に置かれた“京都”

“第12代将軍・足利義晴”並びに“細川高国”が“近江国”に去った後の京には“細川晴元・三好元長”主従政権の代官として“柳本賢治”等の外部勢力が駐在するという、前例の無い体制と成った。(馬部隆弘著・戦国期細川権力の研究)

京都は一定の軍事力はあるが“柳本賢治”等の外部勢力に拠る、幕府官制上の権限を殆ど有さない“代官の権限”が横行するだけの言わば無政府状態に置かれたのである。(今谷明氏:堺公方体制の分析)

29:堺幕府跡(顕本寺)と“堺公方・足利義維”の住居跡(金蓮寺)訪問記

29-(1):堺幕府跡訪問記(顕本寺訪問記・その1)・・訪問日2020年10月24日

住所:大阪府堺市堺区宿院町東4丁1-30

創建年:1451年(宝徳3年)・・開山“日浄上人” 開基”日隆聖人”

交通機関:大阪駅から地下鉄谷町線で“天王寺”駅に行き、其処から”阪堺電気軌道堺線”(一両の所謂チンチン電車)に乗り換え、ノンビリ30分以上掛かって“宿院停留場で降りた。“フエニックス通り”という名の大通りを東方向に5分程歩き、右折した道沿左側に“写真”に示す掲示板が現われる。これが”堺幕府跡(顕本寺)“である。

旧堺港からは1200m程の距離であろうか。当時”阿波国”から”足利義維・細川晴元・三好元長“の一行が上陸し、此の地を”堺府”の拠点とした歴史を実感する事が出来た。(別掲図:この項で現われる史跡と位置関係、も参照方)

訪問記:文中に記した様に、歴史的には1527年(大永7年)に“細川晴元・三好元長”主従が”足利義維”を盟主に擁立して、第12代将軍・足利義晴を盟主とした”細川高国“方と”桂川原の戦い“(1527年2月12日~2月13日)に勝利し”堺公方府(堺幕府)”を樹立したのが此の地である。

又この“顕本寺”には”三好元長”の墓がある。此の地で後に”三好元長”が自刃した事に因んで“三好家”の菩提寺と成る。この件に就いては後述する。


(写真左)顕本寺に”堺公方府=堺幕府”が置かれた事を記した説明版(写真右上)三好元長の殉難地という事で三好一族と顕本寺の関係はその後も続いた。息子、三好長慶の軍勢の宿所にも成った。秀吉時代には27石の御朱印地を許された。現在の地は大阪夏の陣で焼失後に移ったもの。
29-(2):“堺公方・足利義維”の住居跡(金蓮寺)・・訪問日2020年10月24日

住所:大阪府堺市堺区新在家町東4-1-25

交通機関:“顕本寺”を訪問後、徒歩で地図を頼りに阪神高速15号“堺線”を目印として漸く探し当てた。“顕本寺”とは1kmも離れていない。”阪堺電気軌道堺線”(一両の所謂チンチン電車)を使う場合は“大小路”停留所で降り、東南方向に熊野小学校を目指して歩くと良い。“大小路”停留所からは500m程の距離である。

訪問記:苦労して探し当てた”金蓮寺”ではあったが、写真の通り、すっかり建て直された現代風の寺と成って居り、史跡としての面影は全く残っていない。堺幕府との距離感、旧堺港から同じく1km程しか離れていないという事が確認され、当時の”足利義維“が居所としたという実感は得られた。”金蓮寺”の門前には当時の歴史を紹介する説明版も無く残念であった。


=写真説明=

金蓮寺・・堺公方“足利義維”の住居があった場所だと伝わる。堺幕府(1527年~1532年)が置かれた“顕本寺”から、北東方向に1㎞に満たない至近距離にある。

30:“細川高国”軍が再び攻撃を開始する・・“両細川の乱・第9戦・川勝寺口の戦い”へ

30-(1):“近江国“に逃げていた”細川高国“が”三好元長”の“四国本拠地”擾乱戦術に出る

“両細川の乱・第8戦・桂川原の戦い”(1527年・大永7年・2月12日~13日)で敗れ“第12代将軍・足利義晴”と共に“近江国・守山”へ逃れていた“細川高国”は京都回復を決して諦めず、諸方に出兵支援を要請する動きを続けていた。

敗れた1か月後の1527年(大永7年)3月26日付の書類に“豊後国(大分県)・大友義鑑”(おおともよしあき・後の大友宗麟の父親・豊後,肥後、筑後国守護・生:1502年・没:1550年)又、同年5月19日付の書類に“土佐国国司・一条房家”(生:1477年・没:1539年)に対して“阿波国”へ幕府軍として侵攻を命じた御内書が残っている。京都、堺に上陸して手薄になっている“三好元長”の四国本拠地を擾乱(乱し騒がす事)する戦術に出たのである。

30-(2):”細川高国”方の“京奪還”作戦開始

“足利義維”を盟主に擁した“細川晴元(当時16歳)・三好元長(当時26歳)”主従政権が、本拠地を”堺”に置き、京を代官の“柳本賢治”等の外部勢力に任せた体制を“細川高国”(当時43歳)は“京”の守備状態の不備と判断し京奪還作戦に出た。これが“川勝寺口(泉乗寺口)”の戦いである。

30-(3):“両細川の乱・第9戦・川勝寺口(泉乗寺口)の戦い”・・1527年10月19日~1528年5月

30-(3)-①:2万の兵を集めた“細川高国”軍

1527年(大永7年)10月:

“細川高国”は従弟の“細川尹賢”軍を先陣として、京を攻めるべく“勝軍地蔵山”(北白川の瓜生山)に出陣させた。

更に盟主の“第12代将軍・足利義晴”(当時16歳)の名で軍勢催促を発し、それに応じて“越前国・朝倉孝景”(第10代当主・7代の曽祖父にあやかって同じ朝倉孝景と名乗った。区別する為、宗淳孝景と呼ぶ・生:1493年・没:1548年)は“朝倉教景”(=宗滴・あさくらのりかげ・生:1477年・没1555年)並びに“朝倉教景”(宗滴)の養子“朝倉景紀”(あさくらかげのり・生:1505年・没:1572年)等に兵1万を率いさせて参戦させた。又“近江国・六角定頼”もこの軍勢催促に応じた。

結果“細川高国”連合軍は2万兵の規模に膨れ上がり、盟主“第12代将軍・足利義晴”を擁した“幕府軍”として東山“若王子”から祇園、建仁寺、東福寺に掛けて布陣した。

30-(3)ー②:幕府軍(細川高国方)が圧倒し、京を回復した状況を確認し“第12代将軍・足利義晴”が避難先の“近江国”から京に戻る

1527年(大永7年)10月13日:

“朝倉教景(宗滴)”並びに“朝倉景紀”更には“六角定頼”軍の加勢を得た2万を超える“細川高国”方は“柳本賢治”等、外部勢力の代官軍だけに“京”の守備を任せた“堺公方”方の手薄な京守備隊を忽ちの中に駆逐した。

幕府軍の圧勝を確認した盟主“第12代将軍・足利義晴”は逃避先の“近江国”から上洛した。
(言継卿記)

30-(3)ー③:劣勢だった“堺府(堺公方府・堺幕府)”側に味方の劣勢な戦闘状況を聞き主力の“三好元長”軍が参戦した事によって戦況を挽回し、膠着状態に戻す

1527年(大永7年)10月24日:

2万の大軍の“細川高国”方は京都の西南、吉祥寺,東寺、下鳥羽に進軍、更には桂川を西に渡って桂(西京区)そして、向日市の井西岡、鶏冠井(かいで)で放火をする等、手薄な“堺公方”方を圧倒して行った。

1527年(大永7年)11月18日:

“三好元長”は1527年9月から“伊丹城”を攻囲しており、京には居なかった。京での味方軍の劣勢を知り“丹波国”で“柳本賢治”と打ち合わせた上で、戦況巻き返し策に打って出た。

“柳本賢治”軍は5条、6条へと軍を進め“三好元長”軍は4条の西“西院”に陣取り、夫々の方向から“細川高国“方の盟主”第12代将軍・足利義晴”が陣を敷いた“東寺”を包囲した。当時の記録には“三好・柳本連合軍”の兵力は6,000、これに対し“細川高国”方は少なくとも24,000の兵力があったと記されている。(興福寺略略年代記)

“三好元長”のこの作戦は成功した。それを裏付けるものとして、自軍が敵に囲まれた“将軍・足利義晴”が東寺に命じて”堺公方・足利義維退治”を祈らせた記録が残っている。

30-(4):何故“阿波国三好軍”は強かったのか・・工夫を凝らし敵を恐れさせた伝統的戦法
 
“三好”軍には嘗て“三好元長”の祖父“三好之長”軍が僅か3000の兵と少勢乍ら、圧倒的に多勢だった“朝倉軍”と戦い、敵方10,000余りを討ち取ったとの記録が伝えられている。(平島殿先祖並びに細川家三好家覚書、細川家記、阿州平島足利伝来記、他)

その戦法として“朝倉軍”が少数の“三好軍”を侮り、1間半(約2.7m)の槍で襲撃して来たのに対し“三好軍”は柄が竹製で軽く、2間半~3間(4.5m~5.4m)もある長槍で、槍先を揃えて逆襲した事が伝わる。軽くしかも長い槍を用いて、前後の者が互いに助け合う事が出来た“三好軍”の戦法は誰もが臆病風に襲われている状況下で兵達に勇気を起こさせる工夫がされたものであった。

今回の“川勝寺口(泉乗寺口)の戦い”で、兵力的には圧倒的に劣勢の”堺公方軍”を“三好元長”が、どの様な工夫、戦法を駆使したかに就いての詳細は記録されていない。しかし“細川高国”方の“朝倉教景(宗滴)”軍を敗っており、その記録に“三好方の太刀に恐れ合戦無し”と記されている事から、敵を恐れさせる“三好軍”伝統の工夫がされた事は明らかである。

圧倒的に優位だった“細川高国”方であったが“三好元長”軍が参加した事により、戦況は”堺府゛側が大きく挽回した。(細川両家記)

30-(5):”堺公方足利義維・細川晴元・三好元長“による覇権体制が、軍事、政治体制の両面で統制を欠く状態である事を露呈した“川勝寺口(泉乗寺口)の戦い“

1527年(大永7年)12月10日~26日:

“三好元長“軍の兵が1527年12月10日に”浄土寺“(京都市左京区)に乱入し、又、翌11日には同じく”堺公方”方の“柳本賢治”軍の兵が“曇華院”(どんげいん・京都市右京区)に入って乱暴を働いたとの“堺府”方の兵士の不祥事が記録されている。

更に同年12月14日には、下京で“堺公方”方の“三好軍”と“柳本軍”の味方同士が衝突事件を起こし、同月26日にも同様に、味方同士の“畠山軍”の兵士と“波多野軍”の兵が衝突するという具合で、内輪の争いが頻発した。

“堺公方・足利義維”を盟主として“堺”に拠点を置き、京を“柳本賢治”等を代官として守備する体制を敷いたものの、上記した様に軍事面、並びに”堺府”としての政治体制、両面での統制力の欠如が露呈した。

“両細川の乱・第9戦・川勝寺口(泉乗寺口)の戦い“は“三好元長”が参戦以後の巻き返しがあった為、明らかな勝敗は付かず“幕府軍”(細川高国方)と“堺府”方の小競り合いが続く膠着状態に陥ったとされる。

30-(6):両細川の乱・第9戦“川勝寺口(泉乗寺口)の戦い”のまとめ

年月日:1527年10月~1528年5月
場所:京都川勝寺付近
結果:細川高国(幕府軍)の勝利とする説もあるが、実態は“膠着状態”に陥った

細川高国軍(幕府軍・盟主:将軍足利義晴)

細川高国
細川尹賢
朝倉宗滴
朝倉景紀
武田元光


戦力:20,000兵

損害:朝倉勢200兵

堺公方軍(盟主:足利義維)

柳本賢治
三好元長
畠山義堯
三好勝長
波多野元清(病気を患い戦闘に不参加だったとの説がある。1530年病没

戦力:不明(6000兵との説もある)

損害:畠山勢1000兵


31:“幕府軍”と“堺公方軍”の戦況が膠着状態となる中“和睦交渉”を“堺公方・足利義維”並びに“主君・細川晴元”の了解無しに独断専行した“三好元長”

“堺公方”方の戦況は“三好元長”が戦線に加わった事で劣勢を一気に挽回した。上記した様に“堺府”は全体として脆弱さを抱えて居り、内輪もめの戦闘が頻発するに及んで“三好元長”の先行きに対する不安はぬぐい切れず、以後も“幕府方(細川高国方)”との戦闘を優位に続ける見込みに乏しかった。

更に“細川高国”方からの援軍要請に応えて“越前国・前波氏“が3000の兵をもって参戦して来るとの情報が”三好元長“に入った。

31-(1):敵方の盟主“第12代将軍・足利義晴”との“和睦交渉”を“三好元長”が独断専行した。しかし“堺府”内で意見が異なる“柳本賢治”等からの反対、そして主君“細川晴元”からも反対され不成立と成る

1528年(大永8年)1月17日:

“堺公方・足利義維・細川晴元・三好元長”政権の実質的トップであり、それを自認する“三好元長”は、京に於いて自陣営内で内輪もめが絶えない状況、京が無政府状態に成って居る状況に加え“堺府”全体の組織としての脆弱さに危機感を募らせ、京での戦闘を膠着状態に持ち込めた今こそ敵方と和睦をすべきと考えた。

そこで“堺公方・足利義維“並びに、主君”細川晴元“に許可を得ず”三好元長“は独断専行の形で“近江国守護・六角定頼”に仲介を頼み“将軍・足利義晴”との和談に及んだのである。(二水記・厳助大僧正記・続応仁後記)

ところが、この動きに“堺府”の内部から猛烈な反対が出た。先ずは“柳本賢治”である。彼と“三好元長”との結束は元々弱かったが、そもそも“柳本賢治”が連合して戦って来た目的は、ひとえに弟の敵“細川高国”を討つ事であったから、和睦などは考えられない事だったのである。和睦を阻止すべく“柳本賢治”は“三好元長”と対立する“三好政長“を仲間に引き入れ、主君“細川晴元”に“三好元長”の讒言に及んだ。

この讒言に効果があったのか“細川晴元”も頑として和睦に反対した。“細川両家記・足利季世記”には“細川晴元”が和睦に反対した理由に、細川京兆家の当主に就き“幕府管領職”を得る為には、現在その地位にある“細川高国”を退ける必要があり、その為には戦闘を続ける必要がある事から“和睦”に反対したと書かれている。

“三好元長”の独断専行に拠る“和睦交渉”が不成立と成り、そうでなくとも脆弱だった“堺府”体制に“政権内の不一致”が加わり、結束力の無さは一層拡大した。これを境に“堺公方足利義維・細川晴元・三好元長”体制は瓦解して行く。

31-(1)-①:“柳本賢治”並びに“三好政長”が和睦交渉から離脱する

1528年(大永8年)1月28日:

之まで”三好元長“の”第12代将軍・足利義晴“との和睦交渉の席に同席していた在京勢力の“柳本賢治”と“三好政長”が和談から脱退した。これが“堺公方足利義維・細川晴元・三好元長“体制の亀裂を深めた。

和睦交渉不成立で梯子を外された形と成った敵方”幕府軍“には新たな不信感が広がった。結果、戦闘モードが再び高まったのである。敵方の“細川高国”が和談交渉の不成立に大いに困惑したと伝わる一方、当の“三好元長”はこの時点ではまだ両者の“和睦”に前向き、楽観的であったと記されている。(二水記)

1528年(大永8年)2月9日:

”三好元長“は和談交渉相手の”第12代将軍・足利義晴“(当時17歳)に対して”先ず堺に戻り、主君細川晴元(当時14歳)が和睦の為に上洛する時期について相談をして来る、其れ迄は、和談交渉を延引したい“と申し入れたとの記録が残っている。

主君“細川晴元”を筆頭に”堺府”側が反対している事に全く気付かず”三好元長“が尚も”和談“成立に前向き、楽観的であった事自体が如何に”堺府”体制が全体としての意思疎通、統制を欠いていたかを裏付けている。

31-(2):“堺公方・足利義維”を盟主に擁立した“細川晴元”が敵方の“第12代将軍・足利義晴”を盟主にする様に“変節・方針転換”をしたタイミングについて

“京”攻めを行う“細川高国”軍の戦況有利の状況を確認した“第12代将軍・足利義晴”が“近江国“から“京”に戻ったとの情報を得た“堺府”方の“細川晴元”(当時13歳)は“堺公方”を擁立して戦い続けるよりも敵方の“第12代将軍・足利義晴”を盟主にし“細川京兆家当主”の座を得て“幕府管領職”に就く途の方がベターな選択であるとの考え方に“変節・方針転換”をし、この段階で“第12代将軍・足利義晴”との和睦の途を模索し始めたとする説がある。しかしそのタイミングはこの時期では無く、もっと後の事である。

“細川両家記・足利季世記”に書かれた様に“細川晴元”にとっては何よりも“細川高国”の立場に取って代わる為には、彼を滅ぼす事が先決事項だったのである。

32:和談不成立後に両軍に起きた変化・・幕府方では主力部隊の朝倉勢が帰国し“堺公方”側では“三好元長”と“柳本賢治”の内部対立が激化する

32-(1):朝倉勢が帰国する

1528年(大永8年)3月6日:

“和談交渉”に拠って休戦状態が続いた為“幕府方”では“将軍・足利義晴”の名の下の軍勢催促に応じて10,000の兵を率いて参戦していた“朝倉宗滴・朝倉景紀”軍が突如帰国すると言い出し帰国した。この裏には“細川高国”との不和があったと“壬生本朝倉家譜”は記している。

“幕府方”も内部でのまとまりが完璧では無かった事を露呈した事態であり“細川高国“にとって、軍の主力部隊の帰国は戦力の大きな低下と成ったのである。

32-(2):“第12代将軍・足利義晴”は“近江国・朽木”に退き“細川高国”は“近江国・坂本“に退く

1528年(大永8年)5月14日:

10,000の兵を率いた“朝倉宗滴・朝倉景紀”が引き挙げ、主力の軍事力を失った事で、戦闘能力に不安を抱いた“細川高国”は先ずは“細川尹賢”と共に“近江国・坂本”に退いた。

1528年(大永8年)5月28日~9月8日:

“二水記”には”第12代将軍・足利義晴“(当時17歳)は、敵方の”細川晴元“(当時14歳)が和談に反対しているとは思っていなかった様だと書かれている。又、兄弟でもある”堺公方足利義維“(当時19歳)が和談に対してどの様に考えているのかも分からなかった様だと伝えている。

何れにせよ“細川高国”が京から去った為“第12代将軍・足利義晴”も“六角定頼”の坂本に一旦退き(1528年5月28日)その後、将軍の料所であり、且つ“三好方”の勢力が及ばず、更に京都に最も近い要害な地である“近江国・朽木”(現高島郡朽木村)に“朽木稙綱”を頼って、落ち延びた。(1528年9月8日)この地は後に“朽木氏”の菩提寺“興聖寺”となる。

32-(3):“興聖寺”訪問記・・訪問日2021年4月1日(木曜日)

住所:滋賀県高島市朽木岩瀬374

交通機関等:我々は新幹線”米原“駅で集合し、駅前でレンタカーを予約、後述する”桑実寺”を先に訪れ、そこから琵琶湖大橋を渡り“興聖寺”を訪れた。“興聖寺”訪問の後、新幹線の米原駅まで戻るが、琵琶湖の北端を廻るルートを通ったので、結果的に琵琶湖を時計回りに一周する史跡訪問ドライブと成った。全走行距離は176㎞程であった。興聖寺の位置等については添付した写真地図を参照されたい。

興聖寺の歴史:

・創建1237年(嘉禎3年)・・第87代四条天皇、鎌倉幕府第4代将軍・九条頼経、第3代執権・北条泰時の時代

・開基・・近江国守護・佐々木信綱(生:1181年?・没:1242年)が“承久の乱”(1221年)で戦死した一族の供養の為、道元を招いて建立が始まり1240年(仁治元年)に遷仏式が挙行されたと由緒書きにある。佐々木信綱の子孫は後に六角氏、京極氏、高島氏、大原氏に分かれている。

訪問記:桑実寺を出発し、琵琶湖の一番幅の狭い場所に架けられた”琵琶湖大橋”(全長1400m・工期1962年12月~1964年9月28日開通)を渡り湖西側を走った。琵琶湖大橋からは凡そ35分で興聖寺に着いた。住職は不在であったが、奥様から懇切丁寧な案内を頂いた。

上記した様に、室町幕府第12代将軍”足利義晴“は和談不成立後”細川晴元”方からの追撃を避ける為“朽木稙綱”を頼って此の地に落ち延び、以後3年程滞在する事に成る。尚“興聖寺”は“朽木氏”の菩提寺であり、江戸時代に此の地に移され、現在に至っているとの事である。

写真に示す“旧秀隣寺庭園(足利庭園)”は”興聖寺”に隣接した国の名勝指定の庭園である。“第12代将軍・足利義晴“を慰める為に、佐々木一族、朝倉孝景等が協力し“細川高国”に依頼して京都の銀閣寺の庭園を模して作庭、献上したとの事である。

尚、次項で記述する、嫡男“第13代将軍・足利義輝”(生:1536年・没:1565年)も、家臣”細川藤孝(幽斎)”を従え、此の地に6年半程滞在する事に成る。当時10,000人もが幕府行政を行なう為に此の地に居住したと伝わる。

本尊の”木造釈迦如来坐像”は伝教大師の遺作とされる、平安時代の名作であり国の重要文化財に指定されているとの事であった。




写真上:米原駅~琵琶湖大橋~興聖寺地図
写真中左:興聖寺と隣接する旧“旧秀隣寺庭園(足利庭園)
写真中・中央:興聖寺本堂を写す
写真中右:本尊”木造釈迦如来坐像”(重文)がある本堂にて
写真下左:千利休が賞賛したと伝わる樹齢500年近い老椿と鶴羽の蓬莱石を配した“旧秀隣寺庭園”

33:和談不成立後の“堺府”(堺公方足利義維・細川晴元・三好元長)体制が益々不安定さを増す中、実質的トップの“三好元長”には功績に対し“山城国守護代“が与えられる

1528年(大永8年)4月:

和談不成立に不満の“三好元長”が“四国に帰って了った”との風評が世間に立ったとの記事が“二水記”に見られる。

実は“三好元長”は“淡路国・炬口城”(たけのくちじょう・洲本市)で彼に対して謀反に及んだ“安宅次郎三郎”を忠臣“蟇浦藤次常利”(ひきうらふじつぐつねとし)を率いて討伐した。(阿波国徴古雑抄所収島田氏文書)この軍事行動の為に“淡路国”に出陣した事を世間が“三好元長”が“和談不成立”を不満として帰郷してしまったと噂したものであろう。

これ等の史料からも“三好元長”が実質的トップの“堺府”の内実は極めて不安定であった事を世間も見ていた事が伝わって来る。

1528年(大永8年)7月:

”三好元長“が“山城国守護代”に任じられた。この事は“三好元長”が“堺府”覇権体制に於いて実質的な権力者であった事を裏付けるものとされる。

敵方の“第12代将軍・足利義晴“並びに”幕府管領・細川高国“が“近江国“に去った京で“三好元長”が“堺府”実質NO.1の権力者として采配を振るった事を裏付ける史料としては1528年(大永8年)6月18日~12月(8月20日に享徳元年に改元・第105代後奈良天皇期)のものが認められるが、極めて短い期間であった。

具体的な政治実績として“上賀茂神社領”を安堵した“賀茂別雷神社文書”に残る記録(6月18日付)と、京都の“地子銭(宅地税)”を徴収した記録(二水記・言継卿記・同年7月14日付)、そして“三好元長”が被官“塩田胤光”を“山城国郡代”に任命した人事に関するものが残る。極めて短い期間のものではあるが、彼が確かに実質的な“堺公方足利義維・細川晴元・三好元長”体制下の政権掌握者であった事を裏付けるものである。(二水記)

34:“柳本賢治”との政争に敗れ“三好元長”が政権の座を降りる

34-(1):“三好元長”と“柳本賢治”との対立激化

1528年(享禄元年)9月:

“柳本賢治“(生年不詳・没:1530年6月)は大和国に入り”細川高国“方の”越智・筒井氏“を討ち、閏9月には河内国に転じて“細川高国“方の”畠山稙長“(はたけやまたねなが・河内国、紀伊国、越中国守護・生:1504年・没:1545年)を誉田城(羽曳野市)に攻める等、目覚ましい活躍をした。

1528年(享禄元年)12月30日:

1528年1月の“三好元長”の独断専行に拠り結果的に不成立と成った“将軍・足利義晴”との和睦交渉に関しての対立以来“三好元長”と“柳本賢治”の対立は深まって行った。“柳本賢治“は“三好元長”の与党の“赤沢幸純”や“伊丹弥三郎”を“大和国”並びに“摂津 国”に出陣し攻撃した。そして“山城国・山崎“で”伊丹弥三郎“を討ち取った事で両者は武力抗争に突入するのである。

1529年(享徳2年)1月1日:

”伊丹弥三郎“を討たれた”三好元長“は被官の“三好勝宗(一秀)”(生年不詳・没:1532年6月15日)と“塩田胤光”に命じて“柳本賢治”に反撃を加えた。この為“柳本賢治”は“河内国・枚方“に追い遣られ、両者に拠る内部の武力対決は拡大の一途を辿った。

34-(1)-①:独断専行で“将軍足利義晴”との和睦交渉を進めた“三好元長”と袂を分かった主君“細川晴元”は“三好元長”と“柳本賢治”の武力抗争を黙認 する

“柳本賢治”が“三好元長”の与党である武将達を攻撃し“伊丹弥三郎”を討った事に主君“細川晴元(当時15歳)“の指示があったのかどうかは不明である。しかし、主君として”細川晴元“が両者の抗争を黙認していた可能性はある。

1528年1月に“三好元長”が敵方“将軍・足利義晴”との和睦交渉をした際に“細川晴元、柳本賢治、三好政長”の3人が結束して反対した事は事実であり、以後“三好元長”と他3人との対立は露骨になっていた。同じ“堺府(堺幕府)”の中で、実質的政権トップの“三好元長”とその主君“細川晴元”が完全に袂を分かった事を裏付けている。

34-(2):“三好元長”の与党“赤沢幸純”も自害に追い込まれる

1529年(享徳2年)2月26日:

”三好元長“の与党”大和国“の“赤沢幸純”が、敵方“細川高国”と通じ、謀反を企てたとして主君“細川晴元”が討伐を命じるという事件が起こった。討伐軍の大将には“柳本賢治”が任じられ、3000の兵を率いた“柳本賢治”は“大和国”に侵攻し、半月足らずで“赤沢幸純”を自害させた。

この事態は主君“細川晴元”が“柳本賢治”との結束を強め“三好元長”の与党の武将を次々と攻め滅ぼす行為であり、遂に“三好元長”の我慢にも限界が来たのである。

34-(3):“阿波国”に退いた“三好元長”

1529年(享禄2年)8月10日:

”細川高国“を京から追う等、最大の功労者である”三好元長“は、上記した様に主君”細川晴元“と対立し“柳本賢治”との政争に敗れた形で“阿波国”に退去した。

34-(4):“三好元長”が去った“堺府”内で、代わって権力を握った“柳本賢治・三好政長”が絶頂期を迎える

1529年(享禄2年)8月16日:

“三好元長”を“阿波国”に追いやった“柳本賢治”は“三好政長”と謀って“三好元長“派の摂津国・伊丹城主”伊丹元扶“(いたみもとすけ・生年不詳・没:1529年11月21日)を攻撃し(8月16日)11月21日に戦死させた。こうして“三好元長”派の一掃を行ったのである。(厳助大僧正記、足利季世記、細川両家記)

34-(5):“柳本賢治”も“第12代将軍・足利義晴”との和睦に動き“三好元長”のケースと同様、主君“細川晴元”の反対に遭い、彼もあえなく失脚する

1530年(享禄3年)5月10日:

“三好元長”が独断専行して失脚した事と同じ轍を“柳本賢治”も踏んだ。“近江国・朽木”に逃避した“第12代将軍・足利義晴”を上洛させ“堺府公方・足利義維“並びに”細川晴元“と和解させようと動いたのである。

先の和睦交渉不成立から2年が経ち“堺府”内で権力を握り、絶頂期にあった“柳本賢治”は“幕府奉行・伊勢貞忠”(生:1483年・没:1535年)等と協議し“三好元長”が失敗した“和睦交渉”というテーマに挑んだのである。しかし“和睦交渉”の話を主君“細川晴元”に持ち込む事は“先ずは細川高国を滅ぼさねばならない”との考えに変節、方針変更をした“細川晴元”にとってはタブーであった。

“細川晴元”の方針変更の中には盟主“堺公方・足利義維”を切捨てる事も含まれるという大きな“変節・方針転換“であったから“柳本賢治”がそれに思い至らなかった事も無理は無かった。“柳本賢治”にとって更なる想定外の事は、仲間だと思っていた“三好政長”も和睦交渉に反対した事であった。

結果、今回も敵方“第12代将軍・足利義晴”との和睦交渉は不成立と成り“柳本賢治”は失脚した。彼は剃髪し、短い絶頂期は終わったのである。(二水記)

35:“近江国・坂本”に退き、再度の京奪還の為に流寓し、最終的に支援者“浦上村宗”を得た“細川高国“

“両細川の乱・第9戦・川勝寺口の戦い”で戦況が膠着し、両軍が“和睦交渉”を始めた動きに“越前国”から“細川高国”方の支援に加わっていた“朝倉宗滴・朝倉景紀”軍が突如帰国し、主力戦力を失った“細川高国”は”第12代将軍・足利義晴“と共に”近江国“へ退去した事は既述の通りである。

この間、京・畿内周辺は“堺公方足利義維・細川晴元”体制下にあったが“堺府”の内情は”三好元長“が去り、そして今度は”柳本賢治“も失脚するという状況で、不安定さに拍車が掛かり脆弱さは増す一方であった。

こうした敵方の状況を知る“細川高国”は、飽くまでも“京への再帰還”を目指し“伊賀国”(三重県の一部)そして“備中国“(岡山県の一部)更には“出雲国”(島根県の一部)を放浪し、支援者を募る活動を続けた。“細川高国”に協力の援軍を差し向ける武将は容易には現れなかった。しかし“備前国守護代”で後に播磨国、備前国、美作国で戦国大名化を果たす“三石城主・浦上村宗”(うらがみむらむね・赤松義村から偏諱を受けている・生:1498年?・没:1531年)が支援者として手を挙げたのである。

35-(1):双方のニーズが一致した“細川高国・浦上村宗”連合軍の成立

35-(1)-①:失脚し、剃髪した“柳本賢治”は“播磨国・三木”の“別所就治”から支援を頼まれ“播磨国”に出陣した事で不運にも暗殺される

1530年(享禄3年)5月15日:

和睦交渉を提案し主君“細川晴元”の反対にあい、失敗に終り面目を失なって失脚した“柳本賢治”は剃髪した。その後“播磨国”(兵庫県の一部)三木城主(三木市)“別所就治”(べっしょなりはる・主家赤松氏から戦国大名として独立し全盛期を築く、1580年、孫の別所長治の時期に羽柴秀吉に敗れ滅亡する・生:1502年・没:1563年)から支援要請を受け、京から播磨国へ出陣した。

35-(1)-②:”浦上村宗“が”細川高国“の支援要請に応えた目的は、幕府管領職の力を借りて”播磨国“の統一を為す事であった。そこに敵方の支援に出陣した“柳本賢治”は運悪く暗殺された

1530年(享禄3年)6月29日:

“浦上村宗”(うらがみむらむね・生:1498年?・没:1531年6月4日)という人物は“赤松義村”(既述の通り1511年7月の芦屋河原の合戦、同年8月の船岡山城合戦で細川澄元を支援している。播磨国、備前国、美作国の守護・生年不詳・没:1521年)の重臣であった。

しかし、主君“赤松義村”を幽閉し、1521年9月には刺客を放って暗殺し、その子“赤松政村(政祐~晴政に改名)”(播磨国、備前国、美作国守護・生:1513年・没:1565年)を半ば傀儡にして、実態は“播磨国・備前国・美作国”の支配権を奪い“戦国大名化”した武将である。

“播磨国”(兵庫県の一部)の統一を“細川高国”の力を借りて成し遂げる事が悲願であった“浦上村宗”にとって、同じく“赤松家”から独立した“別所就治”は敵であり、その支援の為に出陣して来た“柳本賢治“は抹殺すべき対象であった事は“柳本賢治”にとっての不運であった。

“播磨国・小沢城(=依藤城)”に進軍していた“柳本賢治”を“浦上村宗”は刺客“中村助三郎”を放ち、就寝中を襲わせ、暗殺したのである。この事件は“中村文書”並びに“厳助大僧正記”に明記されている。

35-(1)-③:“細川高国・浦上村宗”連合軍は“細川晴元”方の“別所就治、薬師寺国盛、高畠甚九郎、池田久宗”の諸城を攻略し“摂津国”の西半分を抑え、勢力を拡大する

既述の通り“堺府”の内情は自壊状態であった。“三好元長”は1529年8月に“阿波国”に去り、そして“柳本賢治”も上述した様に暗殺された。京への復帰を虎視眈々と狙う“細川高国”にとっては、願ってもない京復帰へのお膳立てが整い”細川高国・浦上村宗連合軍“は次々と“細川晴元”方の城を攻略し、着々と京に迫ったのである。

36:“細川高国・浦上村宗”連合軍が念願の京奪還を果たす

36-(1):京入り前の拠点として“神呪寺”に着陣

1530年(享禄3年)7月27日:

“細川高国・浦上村宗”連合軍は上記した“別所就治”(べっしょなりはる・生:1502年・没:1563年)の“小寺城(=庄山城)”並びに“三木城”の両城を陥落させた。これに拠って“浦上村宗”の“細川高国“と連合した最大の目的“播磨国統一”が達成されたのである。

1530年(享禄3年)8月27日:

足場を固めた“細川高国・浦上村宗”連合軍の次のターゲットは“細川晴元”が盟主に擁立する“堺公方・足利義維”への攻撃であった。“摂津国・神呪寺城”(かんのうじじょう・兵庫県西宮市甲山町25-1)を拠点として“細川晴元”方の拠点“富松城、伊丹城、池田城、尼崎城”攻略に向けて進軍した。

これ等の城の位置関係に就いては“別掲図:この項で現われた史跡と位置関係“に示している ので理解の助に参照願いたい。

36-(2):神呪寺(城)訪問記・・訪問日2020年11月23日(月曜日)

住所:兵庫県西宮市甲山町25-1
交通機関:大阪駅から阪神電車で西宮駅下車~阪神バス”甲山大師前”下車(目の前)

歴史:寺の由緒書には”190年頃、神功皇后が平和を祈願して金の兜を埋めたとの伝承があり、更に”神呪“の名の由来は、甲山を神の山とする信仰に基づき”神の様な不思議な強い力のある寺”との意味“甲山神呪寺”(かぶとやまかんのうじ)と名付けられたとある。

創建:827年~828年とあり、由緒書には“831年に弘法大師を導師に迎えて本堂が落成した”と書かれている。開基は歴代天皇の中で只一人、散骨された記録が残る”淳和天皇”(第53代天皇・在位823年譲位833年)の皇后”正子内親王”である。

訪問記:室町期の寺は要害の地に建てられるケースが多く、合戦の際には、城として使われる場合が多い。”神呪寺”も、甲山の中腹、標高200mに建てられている。

”神呪寺”は兵火に遭い、荒廃し、現在の本堂は江戸時代に再建されたものだそうだ。“淳和天皇”が寄進した寺領も含め、創建当時の寺領は約75万坪だったと言うから悠に2つのGolfコースを合わせた広さの寺であったが、現在は約6万坪との事である。当時の12分の1程に縮小してしまったという事である。

(写真左上)阪神バス甲山大師停留場の前が神呪寺である
(写真右上)831年に弘法大師を導師に迎え落成した本堂は兵火で焼かれ、現在のものは江戸時代に再建された
(写真下2枚)
阪神電車の西宮駅から阪神バスに乗り山道を登り、20分程で“甲山大師”バス停に着いた。“細川高国・浦上村宗“連合軍が、京への帰還を目指して着陣した”甲山“の中腹に建つ“神呪寺城”である。

36-(3):“神呪寺城“を拠点に”富松城“並びに”尼崎城(大物城)“も陥落させ、着々と“京“に近付いた”細川高国・浦上村宗“連合軍

1530年(享禄3年)9月21日~10月19日:

着々と“京“奪還へと進軍する”細川高国連合軍“の進攻に対し“細川晴元”(当時16歳)方も“伊丹城・富松城”に増援を派遣している。しかし、勢いづく“細川高国・浦上村宗”連合軍は“細川晴元”方の“薬師寺国盛”が守る“富松城”(場所:兵庫県尼﨑市・築城主:薬師寺氏・築城年:1487年/文献初見)を1530年(享禄3年)9月21日の朝駆けで攻撃し、10月19日迄に陥落させ自軍の本陣にした。

1530年(享禄3年)11月6日:

“富松城”を陥落された“細川晴元”方の“薬師寺国盛”(やくしじくにもり・摂津国守護代・生年不詳・没:1531年6月4日)は“尼崎城”(大物城)に逃げ込んだ。その後“細川高国”方の攻勢を見た“薬師寺国盛”は“細川高国”方に寝返った。この為“尼崎城”(大物城)も敵方に降った。

この寝返りの結果“薬師寺国盛”は“堺公方・細川晴元”方に人質として差し出していた7歳の子息を裏切りの代償として、翌年(1531年)3月に処刑されている。(細川両家記、足利季世記、赤松記)

36-(4):”細川高国“は“近江国“から京入りをする為の”前線基地“として”将軍山城“を改修する

1520年(永正17年)2月3日の“両細川の乱第6戦・越水城の戦い”で敗れ、結果的に”細川澄元“(政治の実権は三好之長が握ったが)の入京を許した時期に”細川高国“は”瓜生山“の山頂を本丸として“将軍山城”を築城した事が“二水記”1520年5月30日条に書かれている。尚“将軍山城”には瓜生山城、北白川城、勝軍地蔵山城等多くの呼称がある。

その際、戦勝を祈念して“将軍地蔵”を勧請した事がこの城の名の由来と成ったと伝わる。尚この城は“織田信長”の京都支配が確立すると(1570年頃か?)軍事的意義を失い、廃城と成っている。

1530(享禄3年)年 11月:

”細川高国“方の”内藤彦七“等が京都の”将軍地蔵山“並びに”南禅寺山、今熊野、東福寺周辺に出没した記録があり、明らかに“細川高国”が京奪還を目指し、着実に手を打っていた事を裏付けている。

“細川高国”方の攻勢に対し“三好元長”そして“柳本賢治”両武将を欠く“堺府”方の武力の中心は“細川晴元”の被官と成り、京都防衛を任されていた“河内国守護代・木沢長政”であった。彼は“畠山義堯”(はたけやまよしたか・畠山総州家5代当主・河内・山城守護・正室は細川澄元の娘・生年不詳:没:1532年6月15日)に仕えていたが、次第に独自行動をする様に成り“細川高国”の被官から“細川晴元”に乗り換えた人物である。(生:1493年?・没:1542年)

“細川高国“軍と”木沢長政”軍との間には小競り合い程度の武力衝突が1531年1月~2月迄繰り返された記録が残る。

36-(4)-①:“将軍地蔵山城”の改修に戦々恐々とした京の人々

次々と“摂津国”の南西方面で“細川晴元”方の城を落とし進軍する“細川高国”軍は、京入りを目前として“内藤彦七”に命じて“勝(将)軍地蔵山城”(しょうぐんじぞうやまじょう・標高301mの瓜生山に築かれた城・京都市左京区北白川清沢口町)を改修させた。こうした“細川高国”方の動きに、京の人々が戦々恐々としていた事が伝えられている。

36-(5):将軍地蔵山城訪問記

訪問日:2021年(令和3年)1月27日(水曜日)

交通手段等:京阪電車“天満橋”駅から乗り、終点の”出町柳駅”で”叡山電鉄”に乗り換えた。3駅目が”一乗寺駅”でありここで下車をし、あとは徒歩での訪問であった。

訪問記:叡山本線の“一乗駅”で降りてからは標高301mの”瓜生山”の頂上の史跡を目指して“狸谷山不動院”までの長い石段と、その先は山頂を目指して山道を歩いた。朝10時頃から歩きはじめ、山頂には11時過ぎに到着した。

一乗寺駅を出て“狸谷山不動院”に至る途中に”宮本武蔵”と吉岡道場との3度目の決闘の地、吉岡一門を挙げて宮本武蔵との決闘が行なわれた”一乗寺下り松の決闘地“を記念する史跡があった。この史蹟を見学した後には、目的地に通ずる“狸谷山不動院“(たぬきだにさんふどういん)への石階段が続いた。その登り口に近い処に”西園寺公望“が江戸幕末の動乱中に新選組に追われ、隠棲した史跡もあり、歴史の路である。

石階段を登る途中には、中村錦之助、中村賀津雄兄弟、そして父親・五代目中村時蔵が寄贈した“狸谷山不動院”の開山300年記念と刻まれた奉納碑が並んでいた。他にも花菱アチャコが寄贈した石柱、更には現在NHKの朝ドラ“おちょやん“の主人公“浪花千栄子”寄贈の石柱も並んでいた。(写真に示す)それ等を見乍ら”狸谷山不動院“の伽藍に着いたのは10時30分頃である。

ここで石階段は終わり、残り“瓜生山山頂”までは写真に示す様な山道を登った。この地点から山頂までは20分程であったと思う。

城の本丸があったとされる山頂はあまり広く無い。細川高国がこの山頂に陣を構え、その際に戦勝を祈念して”将軍地蔵”を勧請した事に因んで”将軍地蔵山城”の名が付けられたとある。

細川高国の他、足利将軍家、細川管領家、三好長慶、松永久秀(弾正)等の錚々たる武将達が攻防を繰り返した歴史上重要な城であり、一度は訪れて見たい史跡である。明智光秀も1570年9月∼12月迄、延暦寺牽制の為にこの城に入ったとの記録もある。織田信長が京都支配を確立すると、軍事的意義を失い廃城となった。

*一乗寺下り松の決闘地 *狸谷山不動院伽藍へ行く途中の石階段にて *不動院伽藍前にて
写真左:
狸谷山不動院伽藍までは石階段が整備されているが、そこから先、山頂までは山道を歩く
写真右:
将軍地蔵山城の本丸があった山頂。眼下には平地が広がる。
写真上:山頂にある説明版
写真右:山頂の本丸跡に残る将軍地蔵の石室
36-(6):“細川高国”方が京奪還を果たす

36-(6)-①:“細川高国”方の盟主“第12代将軍・足利義晴”が“京”への帰還が近付いた事を確認し“坂本”まで戻る 

1531年(享禄4年)2月17日:

“桂川原”の戦い(1527年2月13日~14日)で大敗し、以来4年間に亘って“近江国・朽木”の地(現在の興聖寺)に逃れていた“第12代将軍・足利義晴”は、京への帰還が近い事を確認しながら、先ずは京に近い“坂本”まで戻った。

“細川高国”方の“内藤彦七”等の軍勢も“禁裏(朝廷)”の東にまで姿を見せるという具合で“細川高国”方の再入京は真近と成った。

1531年(享禄4年)3月6日:

“細川高国・浦上村宗”連合軍は“摂津国”の南、並びに西方面で進軍を続け“伊丹城”を陥落させ(1531年2月末)続いて摂津国の要所“池田久宗(信正)”が守る“池田城”も落城させた。(3月6日)これで“摂津国”の西半分を”細川高国“方が抑えた事に成った。

1531年(享禄4年)3月7日:京奪還を果たす

“細川晴元”方に鞍替えし、京都の防衛を任されていた“木沢長政”(畠山氏の被官から細川高国の被官となり、更に細川晴元の被官に鞍替えした武将・河内、山城南部守護代・飯盛山城主、信貴山城城主・生:1493年?・没:1542年)は“池田城”で味方軍が敗れた事に驚き、更に“細川高国“方の”内藤彦七“等が”将軍地蔵山城“から攻撃して来た事で、京を捨て、逃走した事が伝わる。(二水記・宣秀卿記・厳助大僧正記)

“細川高国”の京奪還が成ったのである。

36-(6)-②:“摂津池田城”訪問記・・訪問日2021年4月3日(土曜日)

交通手段等:大阪梅田駅から阪急電鉄“宝塚線”で池田駅下車、徒歩で凡そ15分程で“池田城址公園“に着く

歴史:築城年に就いての詳しい史料は無い。池田市史に拠れば、池田城の名が最初に登場するのは1336年(建武3年)とあり(史料に拠っては1334年に池田教依が築城したとするものがある)池田氏は南北朝時代に存在していたとされる。その後、次第に力をつけ、1400年代前半には現在の池田市域、並びに周辺一帯を支配する国人に成長し、応仁の乱(1467年)の時には摂津国守護・細川氏の有力な家来として1469年頃に此処を居城としたと考えられている。

その後、1568年の織田信長の摂津入国の際に降伏し、織田信長の家臣に組み込まれた。池田氏に内紛が生じ、それに乗じて“池田21人衆”の一人であった“荒木村重”が頭角を現し、池田を支配した。1574年に伊丹城を攻め落とした“荒木村重”が伊丹城を“有岡城”と名を改め、居城とした為、池田城は廃城に成ったと書かれている。

訪問記:1989年から4年を掛けて発掘調査が行われ、今日枯山水、井戸、虎口等の遺構が復元され、当時の礎石等を見る事が出来た。(写真参照)

閑静な住宅地に整備された“池田城跡公園”には、写真に示す立派な櫓状の建物があるが、これは市民憩いの”展望休憩館”であって当時の櫓を再現したものでは無い。


写真最上段:池田城跡の歴史、並びに公園整備についての説明版
写真中左:池田城大手門 写真中右:展望休憩館(当時の池田城の櫓の再現では無い)
写真下左:展望休憩館の最上階から池田城跡、庭風景を望む
写真下右:礎石、この他土塁跡、等も見学する事が出来た

37:連戦連敗の結果、京を“細川高国”方に奪還された“堺府”方の“細川晴元”が“阿波国”に逼塞していた“三好元長”に帰還を要請する

37-(1):“細川晴元”が“三顧の礼”をもって“三好元長”に帰還を要請する

三好筑前守の元長へ御書共々の度々の御使にて、望共悉く相叶へらるべきなり、早く罷り上れ

上記文面が“細川両家記”に記録されたものである。要は、望みは何でも叶えるから一刻も早く“細川晴元”軍の指揮下に戻って欲しいと“三顧の礼”(目上の者が格下の者の許に三度も出向いてお願いをする事)を尽くした文面である。

37-(1)-①:主君“細川晴元”に疎外され“柳本賢治”との政争に敗れ“阿波国“で逼塞していた”三好元長“が帰還を決断する

1531年(享禄4年)2月21日:

既述の様に“三好元長“は“柳本賢治”(やなぎもとかたはる・生年不詳・没:1530年6月29日)との折り合いが悪く、主君“細川晴元”も“柳本賢治”に肩入れをした経緯があり、政争に敗れた形で、1529年8月10日に“阿波国”に去り、以後逼塞していた。

“三好元長“の政敵”柳本賢治”のその後に就いては既述の通り“依藤氏”攻撃の為に“播磨国”に出陣し“細川高国”と連合軍を組んだ“浦上村宗”が放った刺客“中村助三郎”に拠って暗殺された。

“三好元長”にとって政敵“柳本賢治”が最早、主君“細川晴元”の傍に居らず、この世を去っている事が帰還要請を受け入れた大きな要因であった。又、敵方の“細川高国”は“等持院の戦い”で祖父“三好之長“を処刑した仇であり、その仇を討つ事も帰還要請を受け入れた理由だとも言えよう。

一度袂を分かった主君”細川晴元“ではあるが”堺公方足利義維“を盟主に擁立し、共に“堺府”として覇権を握ったが既述した様な不安定な状況が続き“細川高国”方の逆襲に遭い、連戦連敗と成り、京を奪還された状況を見て“三好元長”は武将として見過ごす事が出来なかったのである。帰還要請を受け入れ“細川高国・浦上村宗”連合軍との決戦を決意した“三好元長”は“阿波国”を出発し“堺”に上陸した。

38:両細川の乱“第10戦”・・“中嶋の戦い=天王寺の戦い”

1531年(享禄4年)3月10日:

“三好元長“軍は堺の北”住吉“の”勝間“(現在の大阪市西成区の南端、玉出付近とされる)迄押し寄せて来た“細川高国・浦上村宗”連合軍の先鋒の陣地を攻撃しこれを敗った。敗れた“細川高国”方の先鋒隊は“天王寺”に退いた。この戦いが“両細川の乱・第10戦・中嶋の戦い”(天王寺の戦いとも呼ぶ)の開始となった。

1531年(享禄4年)3月25日:

“三好元長“は主君”細川晴元“の従弟で”阿波国守護・細川持隆“(生:1516年/1497年説もある・没:1553年)に応援要請をし、彼の援軍8000兵が“和泉国・堺”に上陸した。この援軍は主君“細川晴元”並びに盟主“堺公方・足利義維”を防備する為の援軍であり“中嶋の戦い=天王寺の戦い”の戦力としての援軍では無い。

下表に“細川両家記”に書かれた双方の兵力を示す。“細川高国・浦上村宗”連合軍は20,000兵、一方の“三好元長”軍は23,000兵とあるが、上記した様に中8000兵は“堺公方”と主君“細川晴元”の防備の為の兵力であるから、戦闘の為の兵力は約15,000兵であった。

38-(1):“阿部野の森”を挟んでの戦闘

1531年(享禄4年)5月13日:

“沢ノ口”(大阪市住吉区沢の町付近)並びに“遠里小野”(大阪市住吉区遠里小野周辺)に“三好元長”軍は進出し、彼の武将“三好一秀“(みよしかずひで・生年不詳・没:1532年6月15日)が”阿波国“の精鋭を率いて安孫子、刈田、堀(大阪市住吉区東南部周辺)に砦を築いた。両軍が“阿部野の森”を挟んでの戦闘が3月後半から5月末迄繰り返され、決着は付かず膠着状態と成った。

この戦闘が“両細川の乱・第10戦・中嶋の戦い”(天王寺の戦い)である。

38-(2):両細川の乱・第10戦・“中嶋の戦い=天王寺の戦い”まとめ

年月日:1531年(享禄4年)3月10日~5月後半
場所:天王寺一帯
結果:戦況は両軍膠着状態と成る

細川高国・浦上村宗連合軍

細川高国
浦上村宗
内藤彦七

赤松政村(政祐~晴政に改名)・・播磨、備前美作守護(生:1513年/1495年説・没:1565年)三好元長に内通していたとされる

細川元有・・和泉国守護

合計兵力:20,000兵




損害:討ち死に8000(大部分が溺死)

細川晴元軍(堺府方)

三好元長・・総大将
三好一秀
薬師寺国盛・・摂津国守護代、後(1530年11月)に細川高国方に寝返る
細川持隆・・細川晴元の従兄、三好元長の要請で細川晴元、並びに、足利義維の防備軍として阿波国から堺に上陸し布陣する(8000兵)



合計兵力:三好軍15,000+8000=23,000

注:23,000兵から堺の防備用の8000兵を除いた戦闘力は約15,000兵であった

損害:不明


39:“赤松政祐”(=赤松政村)の寝返りで“細川高国”が自害に追い込まれた“両細川の乱・第11戦(最終戦)”・・“大物崩れ”(だいもつくずれ・1531年・享禄4年・6月4日)

1509年6月の“如意ケ嶽の戦い”に始まり、第11戦の“大物崩れ”(1531年6月)迄、実に22年間に亘って繰り広げられた“細川京兆家”の家督争いが終結した戦いが“大物崩れ”である。この戦いは戦場になった地名から“天王寺の戦い・天王寺崩れ・野里川の合戦”等の呼び名がある。

“第12代将軍・足利義晴”を盟主に擁し、京への帰還を望んだ“幕府管領・細川高国”は“備前守護代・浦上村宗”を援軍として得る事が出来た事で、既述した様な快進撃を続け、結果、再入京を果した。“細川高国”方が目指した、敵方の盟主“堺公方・足利義維”の討伐は、軍事に優れる“三好元長”が復帰した事で戦況が一気に変わり、膠着状態と成った。

39-(1):“赤松政祐“が”細川高国”方から寝返った事で“細川高国・浦上村宗”連合軍が瓦解する

1531年(享禄4年)6月2日:

膠着状態の“両細川の乱”“第10戦・中嶋の戦い”の“細川高国・浦上村宗”連合軍の後詰めとして“赤松政祐”(あかまつまさすけ・初名政村∼政祐∼晴政・播磨、備前、美作守護・生:1513年/1495年説あり・没:1565年1月16日)が、西宮の“六湛寺”(ろくたんじ・兵庫県西宮市・虎関師錬/生:1278年・没:1346年を開基として暦応年間/1338年8月~1342年3月に建立された臨済宗の寺・荒木村重の謀叛で西宮が焼かれ、六湛寺も焼けた。江戸時代に衰微)に着陣し、その後、摂津国“神呪寺城”に入った。(6月2日)当日の晩は“細川高国”並びに“浦上村宗“と着陣の挨拶を交した記録が残る。

ところが“赤松政祐”は敵方“堺公方・足利義維”との間に、秘かに人質を送り“細川高国・浦上村宗”連合軍からの寝返りを確約していたのである。その理由は”赤松政祐”の父で守護だった”赤松義村“が1521年に守護代だった“浦上村宗“に殺され、以後没落させられたという恨みがあった為とされる。

1531年(享禄4年)6月4日:

“三好元長”軍は“天王寺”に退いていた“細川高国・浦上村宗”連合軍への攻撃を仕掛けた。この時“細川高国・浦上村宗”連合軍の後陣を任されていた”赤松政祐”(政村)が”三好元長“軍への寝返りを明らかにし”神呪寺“から出陣”細川高国・浦上村宗“連合軍を背後から攻撃したのである。

この為“細川高国・浦上村宗”連合軍は”三好元長・赤松政祐(政村)“軍に挟撃される格好と成り、この戦いの勝敗が決した。

”赤松政祐“の寝返りは” 細川高国・浦上村宗”連合軍に大きな動揺を与えたばかりか、連鎖反応を起こしたのである。“備前軍記”(江戸時代後期に岡山藩士-土肥経平が編纂した軍記物・備前を核に播磨、備中、美作国で繰り広げられた武家の興亡を叙述した書。赤松満佑が嘉吉の乱で滅んだあとから山名氏、尼子氏、浦上氏、宇喜多氏、小早川秀秋の没落までを扱っている)には“赤松旧好の侍、吾も吾もと神呪寺(摂津国・神呪寺城=兵庫県西宮市甲山町)の陣へ加わり・・”と、寝返りの連鎖を伝えている。

39-(2):“浦上村宗”の戦死等“細川高国”軍の惨状を伝える“細川両家記”

“赤松政祐”が寝返り、中嶋に居た“細川高国”方の陣を奇襲し、それに呼応して“三好元長”軍も攻撃を仕掛けた為“細川高国”と連合軍を組んだ“浦上村宗”が戦死した。そして、その宿老“島村貴則”はじめ“松田元陸、伊丹国扶、薬師寺国盛、波々伯部兵庫助、瓦林日向守”等、主だった武将達も相次いで戦死した。以下が“細川両家記”が伝えた惨状である。

中嶋の“野里川(中津川とも呼ばれる)”は死人で埋まり“誠に川を死人にて埋めて、あたかも塚の如く見ゆる。昔も今も末代も、かかるためしはよもあらじと”人々申也

“細川両家記”は1504年~1569年までを年代記的に時代を追って記述した戦記である。

前半部分は1550年(天文19年)に成立し“生島宗竹”の記述に依るものだと伝わる。彼は“摂津国生島荘”を本拠地とし、戦国期には三好氏の家臣となった一族である。“生島宗竹”の生年に就いては“1482年”(文明14年・8代将軍足利義政が東山山荘/銀閣寺の造営を始めた年)説があり、この説に拠れば、戦記は68歳の時のものと成る。彼の手に拠る“細川京兆家”の内紛を中心に記述した“細川両家記”は信憑性が高く史料的価値が高いとされている。

39-(3):自害に追い込まれた“細川高国”の最期

1531年(享禄4年)6月5日~6月8日:

”三好元長”軍と“赤松政祐(政村)”軍に挟撃され“浦上村宗”は戦死した。“細川高国・浦上村宗”連合軍は壊滅状態と成り“細川高国”は“大物城”(当時は尼崎城と呼ばれていたとする説があり、江戸時代に築城された尼崎城と区別する為、尼崎古城とも呼ぶ)へ退避の途中で、尼崎の町内にあった“京屋”という藍染屋に逃げ込んだ。

藍瓶をうつぶせにしてその中に身を隠したが“三好元長”配下の“三好一秀”に捕縛され(6月5日)主君“細川晴元”の命に拠って尼崎の“広徳寺”で自害させられたのである。享年47歳、尚、介錯したのは“三好一秀”であった。(6月8日)

39-(4):“両細川の乱・第11戦(最終戦)・大物崩れ”のまとめ

年月日:1531年(享禄4年)6月4日
場所:阿部野の森、中津川一帯、摂津大物(尼崎市大物町)
結果:“三好元長軍・赤松政祐”連合軍の勝利“細川高国”が処刑される

細川高国軍

細川高国
浦上村宗


合計兵力:20,000兵

被害:ほゞ全滅

三好元長軍

三好元長
赤松政祐(細川高国方から寝返る)


兵力:約10,000兵

損害:不明


39-(5):“大物崩れの戦い“史跡写真・・訪問日 2020年12月19日(土曜日)

(写真説明):

尼崎駅の近くにある“尼崎城”から歩いて10分程の処、兵庫県尼崎市東大物町の小さな公園の中にひっそりと“大物崩れ”の史跡がある。戦跡碑には戦闘の状況等が書かれている。

=戦跡碑=
2015年に安保詮氏が私財を投じ て再建した尼崎城
阪神電車の尼崎駅から尼崎城の外堀であった“庄下川”沿いに15分程歩くと城址公園内に再建された尼崎城に着く。徳川幕府譜代大名の戸田氏鉄が1617年に築城を命ぜられたとある。その後、青山氏4代、桜井松平氏7代と続き、1873年(明治6年)に廃城された。2015年に安保詮氏が私財12億円を投じて再建し尼崎市に寄付をし今日に至っている。

城内には城の歴史をはじめ、鉄砲、剣術体験コーナーもある。細川高国が逃げ込んだ“尼崎城“は”大物城“の事であり、江戸時代に建設された写真の”尼崎城“と区別して”尼崎古城“と呼ばれる。 
 
写真下:100坪程の原っぱに立つ“大物崩れ”の戦跡碑 
39-(6):廣徳寺訪問写真・・訪問日 2020年12月19日(土曜日)

住所:兵庫県尼崎市寺町八番地
交通機関:阪神電車尼﨑駅~南西徒歩10分程
住職から頂いた寺の由緒本の写真で示す右から五行目に“細川高国”がが1531年6月8日、この寺で切腹させられた事が書かれている。
40:“細川政元(第24,26、27、28代幕府管領・生:1466年・没:1507年)”が迎えた3人の養子の全員が歿した事で“両細川の乱”が終息する

40-(1):“細川高国”の従兄弟の“細川尹賢“も入水自殺で果てる

1531年(享禄4年)7月24日:

“細川高国”没後(6月8日)40日余りの後に共同戦線を張った“細川典厩家4代当主・細川尹賢“(ほそかわただかた・摂津国分郡守護・生年不詳・没:1531年7月24日)が入水自殺で果てたとの記録が残る。

“細川尹賢“は1528年3月に10,000の兵を率いて“細川高国”方の主戦力であった“朝倉宗滴・朝倉景紀”軍が突如帰国する事態と成り、戦況が“細川高国”方に不利となると“細川高国”を見限って“細川晴元”方に寝返っていた。上記“大物崩れ”では“三好元長”方として戦い、従兄弟で主君でもあった“細川高国”を自害に追い込んだ。

詳しい事情は伝わらないが“大物崩れ”で勝利した直後から主君“細川晴元”と不和に成り“細川晴元”の命を受けた“木沢長政”(河内、山城南部の守護代・飯盛山城城主、信貴山城城主・生:1493年?・没:1542年)に追われ、富田から淀川を渡って逃亡しようとしたが失敗、進退窮まって入水自殺をしたとも、摂津の渡で殺されたとも伝わり、哀れな最期と成った。(馬部隆弘著:戦国細川権力の研究)

40-(2):三人の養子の全員が歿し“両細川の乱”が終息する

以上記述して来た様に”細川政元”が“細川京兆家”に迎えた三人の養子に拠る、当主の座を巡っての争いは、1507年の”遊初軒の戦い“で先ず”細川澄之“が滅び、1508年(永正5年)3月17日に”第11代将軍・足利義澄”を盟主に擁した“細川澄元“政権の不安定さに見切りをつけた“細川高国”が“細川澄元”と袂を分かち、以後、この両家に拠る“細川京兆家当主の座”を争う“両細川の乱”が22年間に亘って繰り広げられたのである。(注:途中の1520年6月に細川澄元は病死し、戦いは子息の細川晴元に引き継がれた)

“両細川の乱”と称される戦闘は1509年の“如意ケ嶽の戦い”を緒戦として、以後11度に亘って戦闘が繰り返された。そして1531年(享禄4年)6月8日の“大物崩れ”(天王寺の戦い・天王寺崩れ・野里川の合戦とも呼ばれる)が最終戦と成り、3人の中で唯一人生き残っていた“細川高国”が自害に追い込まれた事を以て、22年間に及んだ“両細川の乱”が終息したのである。

41:京に於て実質的覇者と成った“三好元長”

1531年(享禄4年)7月10日~10月5日:

“大物崩れ”(天王寺の戦い、天王寺崩れ、野里川の合戦等とも呼ばれる)で勝利し、京での実質的覇者と成った“三好元長(当時30歳)”は再び盟主“堺公方足利義維”(当時22歳)そして主君“細川晴元”(当時17歳)の3人体制に依る“堺府(堺幕府)”に戻った。前回との違いは“三好元長”の政敵“柳本賢治”が暗殺され、京にいない事であった。

“三好元長”が政治の実権を握った事を裏付ける史料としては“三好元長”から出された政権トップとしての命令書、その他“室町幕府奉行“斎藤基速・平光郷”の文書が認められる他“石清水八幡宮文書”及び“北野神社文書・大徳寺文書“からも確認出来る。

41-(1):“木沢長政”が主君“細川晴元”に取り入り“三好元長”と対立し“京”並びに “摂津国”を再び戦乱に巻き込む

41-(1)-①:“木沢長政”という人物

“木沢長政”(河内国守護代・山城国南部守護代・飯盛山城城主・信貴山城城主・生:1493年?・没:1542年)は、最初は“畠山義堯(=義宣)”(はたけやまよしたか・生年不詳・没:1532年6月15日・畠山総州家5代当主・河内国、山城国守護・両細川の乱では細川澄元の娘を妻に迎えている関係もあり細川高国に対抗した・1526年に第12代将軍・足利義晴の第33代幕府管領に就いたとする説もあるが既述した様にその裏付け資料は無い)に仕えていた。

“木沢長政”は権謀術数を駆使して京・畿内周辺地域で一大勢力を築いた武将として知られ、後の“三好長慶”並びに“松永久秀”よりも早い時期に“下剋上”を為した武将である。

総州家(上総国、下総国、又は両国を合わせた呼び方)と尾州家(尾張の国)に分かれて相克を続ける畠山家を見限り、次第に独自の行動をする様になり“堺公方・足利義維”を擁立し“両細川の乱”で優位に戦っていた“細川晴元”に接近し、取り入る事で1530年11月から“細川晴元”の命令で“京都防衛”に就くまでに信頼を得た。

“京都東山”の“将軍地蔵山城”から“細川高国”方の“内藤彦七”が攻めて来た1531年(享禄4年)3月7日の記録(二水記、宣秀卿記、厳助大僧正記)には、戦いで“細川高国”方が優勢だと見るや、京を捨てて逃走した事が書かれている。

又、1531年6月4日の“大物崩れ(天王寺の戦い)”で“三好元長”軍が“細川高国”方に圧勝し“細川高国”を自害に追い込み勝利が確定すると再び姿を現している。そして“細川高国”を裏切り“細川晴元”方に寝返った“細川尹賢”(ほそかわただかた・生年不詳・没:1531年7月24日)が、やがて“細川晴元”と不和に成り、淀川を渡って逃亡しようとした処を追い詰め、入水自害に追い込むという武功を挙げた狡猾さも上述した。

後述するが、彼は政敵の排除に”一向宗“と”法華宗“の宗教対立を巧みに利用する知恵者ぶりも発揮する。この“木沢長政”と“三好元長”が同じ主君“細川晴元”の陣営内で争う事態と成り“堺公方足利義維・細川晴元・三好元長”体制は再び内紛状態に陥る。この為“京・畿内周辺”地域が戦乱に巻き込まれるのである。

41-(2):“木沢長政”を危険視し、対立した“畠山義堯(=義宣)”と“三好元長”が連合する

”両細川の乱“の勝馬である”細川晴元”に益々露骨に接近して行く“木沢長政”の姿勢を “三好元長”は快く思わず、寧ろ危険視した。同じく“木沢長政”の主君であった“畠山義堯(=義宣)”も以前から“木沢長政”を危険視し対立して行った。こうした背景を持つ二人が連合し“木沢長政”と戦う体制を整えて行ったのである。

41-(3):“三好元長・畠山義堯(=義宣)”連合に対抗して主君“細川晴元”を取り込み抗戦体制を整えた“木沢長政”

1531年(享禄4年)8月22日:

“木沢長政”と主従関係にあった“畠山義堯(=義宣)”が“三好元長”と結び、対決する体制を整えた事を、権謀術数家の“木沢長政”は当然、気付いていた。

そして、自身が誅滅される事を恐れ、若い“細川晴元”(当時17歳)を取り込むと共に“三好氏一門”の中で“三好元長”と敵対関係にあり、3年前、柳本賢治と三好元長の和睦交渉に関する政争で“柳本賢治”側に付いた“三好政長”(三好元長の従叔父に当たる人物・生:1508年・没:1549年)を抱き込んだ。そして二人は共謀して主君“細川晴元”に“三好元長”の讒言を重ね“細川晴元・三好元長”主従を離間させる事に成功するのである。

41-(4):再び離間して行った“細川晴元・三好元長“主従

41-(4)-①:両者が離間するベースにあったのは主君“細川晴元”の変節による方針転換であった

既述の様に一度袂を分かった“三好元長”に“三顧の礼”を尽くして帰還を要請し“大物崩れ”の合戦で実質的室町幕府の権力者“細川高国”を滅ぼすという念願を果たす事が出来た“細川晴元”にとって“三好元長”は最大の功労者であった筈である。

しかし“細川高国”を滅ぼし“細川京兆家当主”の座を勝ち得た“細川晴元”にとっては最早 “堺公方・足利義維”を盟主に擁立し続け、彼を将軍職に就け、その“幕府管領職”に就くと言う回り道をするよりも、現将軍“足利義晴”と和睦し、その“幕府管領職”に就く事の方が良いとの方針転換を固めていたのである。つまり、之まで徹底して反対して来た“和睦策”こそが最良の策だと“細川晴元”は変節した。

この主君“細川晴元”の方針転換、変節は、実質的な堺府政権のトップの座に居り、当初から“堺公方・足利義維”を盟主に擁立し、将軍に就けるという構想の下で“堺公方足利義維・細川晴元・三好元長”が共闘して来たその根幹の全面否定に他ならなかった。

主君“細川晴元”と“三好元長”の関係は“離間”(仲違いをさせる事、仲を引き裂く事)状態どころでは無く、完全に袂を分かち、武力対決に至るのである。二人の離間拡大に就いては“二水記、実隆公記、言継卿記、細川両家記、足利季世記等に事例を挙げて書かれている。その一例を下記に紹介する。

41-(4)-②:“三好元長”が“柳本甚次郎”を討伐した事が“細川晴元”を激怒させ“三好元長”を折檻する事態と成る。この事件が、両者が武力対決へと進む切っ掛けと成った

“柳本甚次郎”(=神二郎・生年不詳・没:1532年1月22日)は主君“細川晴元”が重用した”柳本賢治“の子息である。父・柳本賢治は三好元長との政争の結果、三好元長を阿波国に逼塞させたが、既述の通り後日、浦上村宗が放った刺客に拠って暗殺された為“柳本甚次郎”が父の跡目を継いでいた。

1532年(享禄5年)1月:

“三好元長“が“柳本甚次郎”を討った背景、その状況に就いての 詳細は伝わらないが“三好元長” が“柳本甚次郎”が京都三条で乱暴に及んだとして、彼の居城“京都三条城”を阿波軍を率いて攻撃し、落城させ“柳本甚次郎”を討ち死にさせたと“二水記”は伝えている。(注:細川両家記には三好元長では無く、三好勝宗=三好一秀が武力行使に及んだと書かれている)

ところが主君”細川晴元“は“三好元長”が討伐に及んだ理由は3年前の1528年12月30日に、当時対立していた“柳本甚次郎”の父“柳本賢治”が“三好元長“派の”伊丹弥三郎“を討った事への復讐を行なったとして激怒し”三好元長“を折檻(厳しく𠮟る事)し、結果”三好元長“はじめ、彼の被官80名が髻(もとどり=髪の毛を束ねたたぶさの事)を切って主君”細川晴元“に詫びるという大事と成った。この事件後“三好元長”は出家し“海雲”と号した。

この事件を境に主君“細川晴元”は“三好元長”を切捨てた様に映るが、そうでは無く、既に”堺府“運営に対する”変節・方針転換“をして居り、従って”三好元長“は最早”邪魔“な存在と成っていたのである。

42:“細川晴元・木沢長政”主従は、武力支援に“一向一揆”の軍事力を借りる事で“三好元長”を滅ぼす動きに出る

42-(1):“柳本甚次郎”討伐事件以降、悪化の一途を辿った“細川晴元・三好元長”主従関係の修復に動いた“細川持隆”

1532年(享禄5年)3月3日:

悪化する主君“細川晴元”と“三好元長”との関係修復に“細川晴元”の実弟で“阿波国守護”の“細川持隆”(当時16歳・阿波守護家9代当主・生:1516年・没:1553年)が“三好元長”(当時31歳)の為に陳述を行った記録が残る。

“細川持隆”は兄“細川晴元”(当時18歳)を終始、補佐した弟であり、その彼が主従関係修復の為の陳述を行った。しかし兄“細川晴元”は受け容れなかった。その為“細川持隆”は阿波国へ帰ってしまった事が記録されている。(二水記)

42-(2):悪く成る一方の“三好元長”の立場

主君“細川晴元”の変節、方針転換は“細川晴元・三好元長”主従の間に“堺公方足利義維“の処遇を巡っての対立を先鋭化させた。“細川高国”を滅ぼした後“京”に於いて事実上の覇者となった“三好元長”を邪魔者と見る“畿内国人衆”もこの主従の対立に乗じて“細川晴元”方に結集する動きをした。“三好元長”の立場は悪く成る一方だったのである。

42-(3):“畠山義堯(=義宣)・木沢長政”主従の対立“細川晴元・三好元長”主従間の対立激化の結果“三好元長・畠山義堯(=義宣)”連合と主君“細川晴元・木沢長政”連合による大規模な武力闘争に突入する

42-(3)-①:当初、戦いを優勢に進めた“三好元長・畠山義堯(=義宣)”連合軍

1532年(享禄5年):

“畠山義堯(=義宣)”の“木沢長政”に対する敵意は、部下でありながら独立を謀り、守護職  を奪い獲る企てが発覚した事で生じたのである。“三好元長・畠山義堯”連合軍は“三好元長”の一族

“三好勝宗(三好一秀)“の加勢も得て“木沢長政”の居城“飯盛山城“(大阪府大東市、四条畷市にまたがる)を攻撃した。当初の戦局は“三好元長・畠山義堯”連合軍が優勢に進めていた。

42-(3)-②:“木沢長政”が“細川晴元”に援軍を要請する

1532年(享禄5年)5月:

居城“飯盛山城”を“畠山義堯(=義宣)軍、並びに”三好勝宗”軍に攻撃され、包囲されるという劣勢に陥った“木沢長政“は“細川晴元・三好元長”主従が決裂、対立している状態につけ込み、讒言を労して“細川晴元”からの援軍を要請した。

既に“三好元長”を切捨てた“細川晴元”は彼の支援要請を受け入れた。しかし自軍だけでは“三好元長・三好勝宗(=三好一秀)・畠山義堯(=義宣)“連合軍に拠る“飯盛山城“攻囲に対応する事は不可能と考え“木沢長政”の知恵を入れて“一向一揆”の武力を頼む事にしたのである。

42-(4):”山科本願寺法主・証如“に”一向一揆“軍の蜂起に拠る支援を要請した”細川晴元“

1532年(享禄5年)6月5日:

“細川晴元“は”三好元長“が“大檀那”であり、肩入れをする”法華宗“に対するライバル意識を活用すべく”山科本願寺法主・証如“に“一向一揆”軍を蜂起させる事に拠る軍事支援を要請した。

42-(4)-①:宗教勢力 “一向宗”と“法華宗”の対立を“三好元長・畠山義堯(=義宣)”連合軍の排除に利用した“細川晴元”

当時、勢力のあった宗派は“蓮如”(浄土真宗本願寺派第8世宗主・生:1415年・没:1499年)に拠って再興された“一向宗”と“日親”(6代将軍足利義教への説法で怒りを買い拷問で灼熱の鍋を被せられながらも説法を説いた事から、鍋かぶり上人、と呼ばれた。何度も破却された本法寺を1463年に再々建した・生:1407年・没:1488年)が復興した“法華宗”であった。

“三好元長”は“法華宗”の“大檀那”(旦那=勢力のある檀家、布施をたくさん出す檀家の事、布施を意味するダーナが語源)である事を知る“木沢長政“は策謀を巡らし主君“細川晴元”から親交のある“本願寺・証如”に頼み込み“一向宗の武力”に拠って“三好元長・畠山義堯(=義宣)”連合軍の排除に協力する様、要請させた。

42-(4)-②:至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力、至強(将軍家・幕府・武士層)勢力という、之まで、日本の歴史を動かして来た“2大回転軸”に加えて“第3の歴史の回転軸“と成った“一向一揆”

“細川晴元・三好元長”主従が“細川高国”を滅ぼし、24年間に及んだ“両細川の乱”を終息させた事で“堺公方府”政権の下“京・畿内周辺地域”には漸く平和が訪れるかに思われたが“堺公方府”体制は当初から統制力を欠き、そして早くも分裂抗争を展開する状態と成った。

事態は更に悪化し、主君“細川晴元“は部下”三好元長“を排除する為に”一向一揆“の武力を利用するという事態に至った。この事は”京・畿内周辺地域“で展開されたこれ迄の”至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“内の武力闘争に止まらず“宗教勢力”の軍事力が加わる事でこれ迄の“京・畿内周辺地域”に於ける“天下人”の覇権争いとは異なる新しい戦闘状況を出現させたのである。

42-(5):地に堕ちた“室町幕府”の統治能力と将軍家、そしてこの時期の日本の状況について

この通史ブログ“中巻”のタイトル(共通テーマ)は“武士層の出現によって始まった混乱と闘争の500年の歴史”である。

既述の様に、室町末期を迎えた日本の状況は、タイトル通りの、武士層に拠る止まるところを知らない覇権争いの連続であり、それは主として“至強(将軍家・幕府・貴族層)勢力“の中での戦いの連続であった。

繰り返しと成るが、室町幕府の統治体制はほゞ崩壊しており、真に“戦国時代”と称される状況が浸透して行った時期であり唯一、室町幕府の統治が及んだのは“京・畿内周辺地域”であった。“血統信仰”に依る“家格秩序”下でNO.1の順位にあった“足利将軍家”はNo.2の順位の“細川京兆家“に実権を奪われていた。その”細川京兆家“も当主の座を巡って覇権を争う状況にあり“足利将軍家”は“大義名分”を得る為の盟主として擁立される存在に堕していたのである。

関東地域では“室町幕府”は既に統治力を放棄した状態であり“関東統治機関”であった“鎌倉公方・古河公方”が担うはずの統治機能は、その補佐機関である“関東管領家”と共に分解し、実質的には“北条早雲”に代表される、群雄割拠を勝ち抜いた武将達が、領国を統治する“戦国時代”に入っていたのである。

こうした“遠心力”が働いた当時の日本であったが“至尊(天皇家・朝廷・貴族層=文化、伝統)勢力が“京都”に居り、又“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力”の中心“室町幕府”が”京・畿内周辺地域“を抑えている限り”京・畿内周辺地域“が”天下人“の覇権争いの地であり続けたのである。

この時期“天下人”たる地位に居たのは“細川京兆家”と言えよう。しかしその“天下“は①山城国②摂津国③丹波国④土佐国⑤讃岐国⑥阿波国だけに縮小し、他の日本の地域は室町幕府崩壊過程の中で並み居る“戦国大名”達が自国領土を守り、拡大する争いを繰り返すという、国としては遠心力、分散化が続く方向性の無い100年余りの“戦国時代”と呼ばれる時代が続いていたのである。

こうした日本に只一人、明確な国家統一のイデオロギーを持った戦国大名が現われた。それが“織田信長”であると“信長・歴史的人間とは何か”の著書の中で“本郷和人”氏が指摘している。その織田信長が生れたのが“1534年”まさしく以下に述べる“細川晴元”に拠る“山科本願寺焼き討ち”を行なった頃の事である。

42-(6):“細川晴元・木沢長政”連合と“三好元長・畠山義堯”連合の政争に巻き込まれる形で戦わされた“法華一揆”と“一向一揆”

主君“細川晴元”は“三好元長”排除の為に“一向一揆”が支配層の武士層からの独立を求め、団結し、その結果備えた強大な軍事力を自軍の支援に活用する事を考え“本願寺第10代宗主・証如”に要請した。

“戦国時代”の著者“永原慶二”氏は“細川元長”が法華宗の大檀那である事は周知の事実であり“一向一揆”が戦闘に加わった事で“法華宗”の持つ排他性に火が付き、結果“一向宗”と“法華宗”同士の武力闘争に結び付いたと解説している。

“武士同士の泥沼の様な覇権争い”に巻き込まれる形で引きずり込まれた“法華一揆“と”一向一揆“の激しい戦闘が展開した史実を”悲劇“と称し同氏は以下の様に記述している。


“法華一揆“は山科国、摂津国、和泉国等の各地で”一向宗門徒“を圧倒する勢いを持っていた。1534年(天文3年)頃には洛中の地子銭(じしせん=田地・畠地・山林・塩田・屋敷地等に賦課した地代)を納めず、宇治氏11郷、山科7郷、東山10郷等を独自に支配しようとする等、すさまじい勢いを示した。(永原慶二著:戦国時代)

“法華一揆”の主力は京都の都市民衆であり、元来“一向一揆”の主力であった門徒民衆とは解決し得ない程に異質な関係には無かったが“日蓮宗”の持つ他宗派に対する激しい排他性と信徒仲間の固い団結を誇っていた事から“一向一揆”と対抗する段になると“宗教戦争”としての苛烈さを持っていた。

“法華一揆”は1536年(天文5年)7月、その強大化に恐れをなした山門(比叡山)が“近  江国守護・六角定頼”等を味方に引き入れ、これを急襲、法華宗寺院を焼き“上京”を全焼する戦い(天文法華の乱)の末、一挙に圧殺されて終った。聖俗支配層の泥沼のような政争に巻き込まれる形で相互に戦わされた“一向一揆”と“法華一揆”は戦国の民衆が味わわねばならなかった悲劇だったのである。


42-(7):“細川晴元”の支援要請に、本願寺トップの“証如”が応じた理由

別掲図“本願寺歴代系図”を参照願いたい。系図に示す様に“一向宗“のトップ”本願寺第10世宗主・証如”(しょうにょ・證如・生:1516年11月20日・没:1554年8月13日)は父方の祖父“実如”の死去により、10歳で本願寺第10世宗主と成った。

若い“証如”の後見者は“実如”の同母弟の“蓮淳“(れんじゅん・本願寺第8世法主・蓮如の6男・生:1464年・没:1550年)であった。“蓮淳“は他の兄弟と異なり、畿内を拠点としていた事、多くの有力寺院の住持を兼任する事、に加えて、若い法主“証如”の後見人と成った事から、本願寺内部で大きな発言力を持ち、指導的な役割を果たしていた。

“証如(證如)”の“蓮淳”に対する信頼は絶対的であったとされ“証如”が没する4年前まで“蓮淳”が長寿を保った事から“証如(證如)”の法主時代の“本願寺”は事実上“蓮淳”に拠って統治されていたと言われる。

16歳の“本願寺第10世宗主・証如“は祖父・本願寺第9世宗主”実如“からの遺言として”諸国の武士を敵とせず“の禁を伝えられていた。

その理由は、祖父”本願寺第9世宗主・実如“(生:1458年・没:1525年)は”第9代将軍・足利義尚“時代に”加賀一向一揆“が守護・富樫政親を攻め滅ぼし(1488年6月)た事に対し、本願寺に討伐令が出されるところを、当時第28代幕府管領職にあった”細川政元“が撤回させたという経緯があり”実如“は幕府(細川京兆家)に大きな恩義を抱く様に成った為である。

その禁を破って、今回“細川晴元“からの蜂起要請に“本願寺第10世宗主・証如“は応えた。この意思決定の裏には“証如(證如)”が絶対的信頼を置く“蓮淳”の意向があったとされる。

42-(7)-①:“証如”に“細川晴元”からの“一向一揆”の軍事力に依る支援要請を承諾させた“蓮淳”の意図と策

畿内に於ける“本願寺宗門”の実質的責任者の立場にあった“蓮淳”(当時68歳)“は、ライバル関係にある”法華宗“の熱心な宗徒であった”三好元長“から和泉国、山城国で弾圧を加えられた過去があり、深い恨みを抱いていた。従って今回の“細川晴元”からの支援要請に対しては、その仕返しの意味から受ける様”本願寺第10世宗主・証如“を動かしたのである。

“蓮淳”は”証如“の名で、摂津国、河内国、和泉国の本願寺門徒に“一向一揆”を起こす様、動員を掛けさせた。衆徒の結集を促す為に16歳の“第10世本願寺法主・証如“自身も出陣させ、宗徒 に対しては“浄土真宗と法華宗の最終決戦”と位置付ける事で全員を鼓舞したと伝わる。

このトップの動きに、門徒は大きく盛り上がり、総勢3万(別説では10万とも)の門徒が応じ、大軍と成ったのである。

42-(8):“一向一揆“勢が加わった事で形勢を大逆転させた”飯盛山城の戦い“

42-(8)-①:“三好勝宗(一秀)”並びに“畠山義堯”が討ち死する

1532年(享禄5年)6月15日:

“細川晴元”の援軍要請に応えて参集した3万(10万とも伝わる)の“一向宗門徒”の軍勢に“摂津国衆“も加わった。大軍は“飯盛山城”に籠城して戦う“木沢長政”軍を主とする“細川晴元”方の劣勢を一挙に逆転した。

両軍の交戦戦力等については下記に纏めたが“摂津国、河内国、和泉国”から動員された“本 願寺門徒”の大軍は“飯盛山城”を攻撃していた“畠山義堯/=義宣” (はたけやまよしたか/よしのぶ・畠山総州家5代当主・室町幕府第33代管領・生年不詳・没:1532年6月15日)と、それを支援していた“三好勝宗(一秀)”連合軍を背後から襲った。

“三好勝宗(一秀)”は討ち死にし“畠山義堯”も“飯盛山城”から退却、南河内まで逃げたが“一向一揆軍”に追撃され“石川道場”(門徒の集会所)で自害に追い込まれた。

42-(9):“飯盛山城の戦い”のまとめ

年月日:1532年(享禄5年)6月15日
場所:飯盛山城周辺
結果:“籠城方=木沢長政”方の勝利

細川晴元・木沢長政軍
(飯盛山城籠城軍)

木沢長政軍
細川晴元援軍
山科本願寺“証如”援軍

戦力:30,000兵(100,000兵以上とも)

被害:不明

三好元長・畠山義堯連合軍
(攻城軍)

畠山義堯(=義宣)軍
三好勝宗(三好一秀)援軍
三好元長援軍

戦力:不明

損害:300兵以上

写真説明:2020年2月29日(土)訪問
写真上:木沢長政が居城としたのは1531年頃と記している(1576年廃城)
写真右下:標高314mの山城は所々に当時の城の石垣の痕跡が残る
42-(10):“一向一揆”軍の攻撃は“堺”に及び“三好元長”が自害に追い込まれ“堺公方・足利義維”は捕縛され“堺府“が消滅する

1532年(享禄5年)6月20日:

“細川晴元”からの支援要請を受けた“山科本願寺・第10世法主・証如“は要請に応じ“一向一揆”に対して“飯盛山城”を包囲する”畠山義堯“軍の討伐を指示した。

ところが、過去に”三好元長“が大檀那の”法華衆徒“が“本願寺一向宗徒”に弾圧を行った事に深い恨みを抱く“蓮淳”がその“仕返し”の意味を含めた意図をもって戦いを鼓舞した事から、戦闘は一層苛烈なものに成って行った。

“飯盛山城の戦い“で”三好勝宗(一秀)“並びに”畠山義堯“を討ち、勢いづいた”一向宗徒“は”三好元長”の拠点“堺南庄”に迄、攻め寄せたのである。包囲された“三好元長”は“顕本寺“で自害に追い込まれた。満31歳であった。

”三好元長“と行動を共にしていた“堺公方・足利義維”は“細川晴元”に捕縛され“阿波国”に移された。ここに、1527年2月の“桂川原の戦い”で勝利し、堺に上陸し“足利義維”を盟主に誕生した“堺府(堺幕府)“は5年間の歴史を以て消滅したのである。

42-(10)-①:“三好元長”の最期を伝える史料

“三好元長”の最期を伝える史料がある。死を覚悟した“三好元長”は妻と“千熊丸”(後に細川晴元政権を事実上崩壊させ、覇権を握る三好長慶である・生:1522年・没:1564年)を“阿波国”に逃がして最期の時を迎えた。

主君“細川晴元”と袂を分かち、武力闘争と成った“飯盛山城の戦い”で“細川晴元”が支援要請をした“一向一揆”勢の武力に拠って負け戦に貶められた事は、武将“三好元長゛にとっては屈辱であった。“三好元長“の“堺・顕本寺”に於ける自害の様子は、自身の腹を掻っ捌いただけでなく、腹から臓物を取り出し、それを天井に投げると言う壮絶さであったと伝わる。

42-(10)-②:顕本寺訪問記・・その2“三好元長墓所”

“堺公方府“が置かれた”顕本寺“には”三好元長“の墓がある。場所、交通機関に就いては既述(顕本寺訪問記・その1)の通りである。

=顕本寺・三好元長の墓訪問:訪問日・・2020年10月24日(土曜日)=

訪問記:三好元長の戦歴と墓石について

”両細川の乱・第11戦(最終戦)・大物崩れ“(1531年・享禄4年6月4日)で遂に宿敵”細川高国”を滅ぼすと“細川晴元”(当時17歳)は“堺公方”を将軍に就けるよりも“第12代将軍・足利義晴”と和睦する事で“細川京兆家の家督=幕府管領職”の座を手に入れる方がベターな選択だと変節し、これまで“三好元長“と共闘して来た”方針“そのものを大転換した。この変節は、飽くまでも“堺公方・足利義維”を盟主に擁立して“細川高国”との戦いを進める事を目的とする“三好元長”と袂を分かつ事と成り、共闘して来た主従は武力に拠って雌雄を決する事に成った。主君“細川晴元”は”三好元長”を排除すべく”本願寺第10世法主・証如“に”一向一揆“に拠る軍事支援を要請し”三好元長”を“顕本寺”で自害に追い込んだ。

こうした史実の舞台と成った“顕本寺”は“堺府(堺幕府)”が樹立された地であると同時に“三好元長”の“殉難地”とも成ったのである。

“三好元長”という後ろ盾を失ない“細川晴元”の変節、方針転換に拠り、無用の存在と成った”堺公方・足利義維”は”阿波国“に自ら逃れたとも”細川晴元“に拠って追われたとも伝わるが、いずれにせよ”堺幕府”は滅んだ。

顕本寺に“三好元長”の墓石がある。写真に示す様に、書物(長江正一著:三好長慶)に書かれた通りの戒名“帰本海雲善室大居士”を確認した。只、命日が刻まれた裏面には“天文二癸巳年六月廿日“とある。実際の命日は1年前の”享禄5年6月20日“であるから誤って刻まれたものだ。尚、次項6-20項で“三好長慶”に就いて記述するが、彼は、父“三好元長”の死から20余年後に、三好家の拠点地とも言える堺に“南宗寺”を建立し菩提を弔っている。そこにある“三好元長”の“宝篋印塔”(ほうきょういんとう=墓塔、供養塔等に使われる仏塔の一種)には、命日が“天文元年”と正しく刻まれている。(厳密に言えば、天文元年に元号が変わるのは7月29日以降であるから、これも享禄五年と刻むのが正しい)

“顕本寺”で無念の最期を遂げた“三好元長”(31歳)ではあったが、上記した様にその子息“三好長慶”は天下人と成り“三好実休、安宅冬康、十河一存”等“三好元長”の子孫は、何れも名将揃いで“三好氏”は大きく飛躍し、京・畿内周辺の覇権を握り最盛期を築く事に成る。


(写真説明)
写真左上:三好元長の戒名

“帰本海雲善室大居士”の字がはっきりと読み取れる。
写真右上:三好元長の墓石に刻まれた命日
“天文二癸巳年六月廿日“とあるが実際の命日は1年前の“享禄5年6月20日”であり間違って刻まれている

写真左下:
顕本寺境内にある”三好元長“の墓地 三好元長の殉難地という事で三好一族と顕本寺の関係はその後も続いた。息子の三好長慶の軍勢の宿所にも成った。
秀吉時代には27石の御朱印地を許された。現在の地は大阪夏の陣で焼失後に移ったもの。
尚、当寺で三好元長の25回忌法要が営まれたとの記録が残っている。
43:“三好元長”を葬り去り“堺公方府”を消滅させた“細川晴元”だが、暴走に歯止めが効かなくなった“一向一揆”はその“細川晴元”を襲う

43-(1):止まらぬ“一向一揆”の暴走に危険を感じた“第12代将軍・足利義晴”は幕府拠点を“近江国・桑実寺“境内に移す

1532年:注(7月29日以降享禄5年は改元され天文元年と成る、天皇は第105代後奈良天皇在位1526年~崩御1557年)

“三好元長“を”一向一揆“の武力支援に拠って葬り去った”細川晴元“であったが”一向一揆“はその後も暴走をし続けた。

この状況を危険と見た”室町幕府第12代将軍・足利義晴“は京を去り”近江国・観音寺城山麓の“桑実寺”(くわのみでら・滋賀県近江八幡市安土町桑実寺675・677年創建の藤原鎌足の長男・定恵を開基とする天台宗の寺)の境内に幕府を移している。この仮幕府は以後3年に亘って存在した。朽木に逃げた時とは異なり、奉公衆、奉行衆も引き連れた本格的な“室町幕府移転”とされる。

別掲図“この項で現われた史跡と位置関係”を理解の助に参照方。

43-(2):桑実寺訪問記・・訪問日2021年4月1日(木)

住所:滋賀県近江八幡市安土町桑実寺292
交通機関等:
米原駅でレンタカーをし、ナビに導かれ、ほゞ1時間程で桑実寺に着いた。寺の由緒書きには“JR安土駅より1.8km、タクシー5分で山裾、山裾より石段400m、約15分”と書いてある。我々は既述の“興聖寺”訪問と重ねたので時間節約の為にレンタカーをしたが、JRを利用する等、他の方法も可能である。別掲した周囲の地図でも分かる様に、直ぐ側に安土城跡、安土城天守信長の館、並びに安土城郭資料館などもあり、史跡訪問の旅先として恵まれている。

開山:677年(天武6年=白鳳6年)11月8日
開基:定恵和尚(じょうえ/じょうけい・父は藤原鎌足、藤原不比等は弟である・生:643年・没:666年)

歴史等:
寺の由緒書きに拠れば、天智天皇の勅願寺院として創建されたとある。琵琶湖から生身の薬師如来が現われ、その光明で病の天皇の第四皇女“阿閇姫”が回復、この薬師如来を本尊としたとある。

寺名の由来は“定恵和尚”が中国から桑の木を持ち帰り此の地で日本最初の養蚕が広められた事にあると書かれている。1340年以上昔から、薬師如来信仰の祈願道場として栄え、戦国時代にも全く戦火に遭っていないとの事である。写真に示す“桑実寺本堂”は南北朝時代に建立されたまゝの姿であり、国の重要文化財である。

上記した様に1532年に第12代将軍・足利義晴が“一向一揆”の暴走に危険を感じ、幕府拠点を“近江国・桑実寺“境内に移し3年程仮幕府としての機能を果たした事が伝わる。その様子は三条西実隆や土佐光茂に制作させて奉納した“桑実寺縁起絵巻”に伝わる。

訪問記:
往時には2院16坊の僧坊があったとされるが、今日の桑実寺は写真に示す様に本堂(室町時代初期に再建)そして織田信長が安土城を築き移った1576年(天正4年)に建立したとされる経堂(1913年に再建)更には鐘楼(1644年2月建立)そして地蔵堂(1769年再建)がある。桑実寺も室町幕府の歴史を辿る上で重要な名刹の一つであるが、中央に於ける戦闘と混乱を避けて将軍家が流浪状態であった時期の史跡であり、室町期の史跡に共通する荒廃した状態であり、訪れる人も少ない事は残念な事である。

(写真説明)
写真右:山門からこうした石段を400m登る
写真中央左:本堂内にあった桑実寺の説明記事
写真中央右:桑実寺山門
写真下左:南北朝時代に建立された重文の本堂
写真下中、右:織田信長建立の経堂・大日如来像(佐々木高頼=六角高頼建立の三重塔に安置されていた)
43-(3):法華宗を保護し“法華宗の象徴”とも言うべき“三好元長”を仏敵と見做して滅ぼし、その後も仏教他宗への攻撃、暴走を拡大させた“一向一揆”

“一向一揆”は禁断の武器であった。そもそもが”三好元長“排除の目的で“細川晴元”が“一向宗徒”に拠る武力支援を要請をしたのであるが“一向一揆”は“大和国”並びに“堺”でも蜂起の大連鎖を起こし“本願寺第10世宗主・証如“並びに“蓮淳“でさえもが制御する事が不可能な程に荒れ狂い、歯止めが効かない状態となった。

1532年(享禄5年)7月10日:

暴徒化した“一向一揆”は“大和国”で“興福寺”を襲い、更に、同国内で戦国大名化しつつあった“筒井順興”(つついじゅんこう・筒井順慶の祖父・生:1484年・没:1535年)並びに“越智利基“にも攻撃を加えた。

1532年(天文元年)7月17日:

更に“大和一向宗徒”は“本願寺派第8世宗主・蓮如”が幼少時に修行した“大乗院”にも攻め寄せた。“興福寺衆徒”は“大和一向宗徒”を押し戻したが、この攻撃で“興福寺”の主要伽藍、一乗院、大乗院、院家17坊を残して、数百に上る僧坊、子院、院家、更には、美麗第一と称された“東北院”が炎上した。

一揆は“春日大社”をも襲い、宝蔵と五箇屋を打ち破った他、略奪も働き、猿沢池の鯉や、春日大社の鹿が悉く食い尽くされたとの記録が残る。(興福寺略式年代記・厳助大僧正記)

43-(4):戦国時代が最盛期だったとされる“一揆”、その中でも大規模化、組織化された一揆の代表とされる“一向一揆”に就いて

43-(4)-①:戦国動乱のもう一つの主役であった“一揆”

高橋典幸・五味文彦氏編集の著書“中世史講義”の中で“戦国時代は一揆の最盛期であり、戦国動乱のもう一つの主役と言えよう“とある。

中世の一揆は近世の“起こす一揆”に対して“結ぶ一揆”であり、武装蜂起などの具体的な抵抗運動を伴っていなくても団結そのものを“一揆”と呼ぶ事があった。“久留島典子”氏はその著“領主の一揆と中世後期社会“の中で”一揆“を”ある目的達成の為に、構成員の平等を原則に結ばれた集団とその共同行動“と定義している。

中世の“一揆”としては①“莊家の一揆”(荘園領主に対して年貢の減額や代官の更迭などを請願した)②“土一揆”(酒屋や土倉などの金融業者を襲撃して幕府に徳政令を出させる事を目指すケースが主たるもの)③“国人一揆”(基本的には武士層に拠る一揆で、守護などの外部勢力の侵入に反対する在地領主層の統一戦線として形成される事が多かった。領域内の農民支配を貫徹する為に一揆を組織したケースもあった)等が知られる。

戦国時代に入ると一揆が大規模化、組織化が進んだ時代であり、その代表が“一向一揆”であった。

43-(4)-②:“天文法華の乱”で一時京で“禁教”とされた“法華宗”について

京都の“法華宗信徒”が結成した“法華一揆”は中世都市“京都”の自治を担ったが、1536年(天文5年)の“天文法華の乱”で壊滅し1542年までの6年間“日蓮宗”は京都に於いては禁教とされた。その概要を以下に紹介する。

=天文法華の乱=1536年7月23日~7月27日

当時の日蓮宗や延暦寺等の仏教勢力は平和的な集団では無く、武装した僧兵を抱えた武装集団であり軍閥であった。日蓮宗は他宗の僧侶に因縁を付けるなど騒ぎを起こすケースも度々あった。延暦寺等も武力行使をちらつかせ、周囲の他宗派の中小寺院を元の宗派での存続を許す代わりに上納金を納めさせ、末寺化する事で事実上支配下に置くと言うような横暴を繰り返していた。

京都では“本圀寺”などの“日蓮宗寺院”を中心に日蓮宗の信仰が多くの町衆に浸透し、強い勢力を誇る様に成って来ていた。後述するが“山科本願寺の戦い“で”細川晴元“側に付き“山科本願寺(一向一揆)”を焼き討ちした”法華宗(日蓮宗)”は以後、凡そ5年間に亘って京都に於ける勢力拡大を続けた。

1536年(天文5年)2月に”法華宗“は”比叡山延暦寺“に宗教問答を挑み、法華宗側が延暦寺側を論破(松本問答)した。論破された延暦寺側は京都法華宗の撃滅を決議、同年7月23日に園城寺、東寺、祇園社、興福寺などの援助、加えて”近江国・六角定頼”の援軍を含め合計6万に膨れ上がった“延暦寺”勢力が2万の法華宗との交戦を京都市中で展開した。7月27日までに“延暦寺”側は“日蓮宗21本山”を悉く焼き払い、法華宗徒3000人(10,000人との説もある)を殺害し、戦いは“比叡山側”の勝利で終わった。

隆盛を誇った京都の“法華宗”は壊滅し“法華宗徒”は洛外に追放され、1536年から6年間、洛中で禁教状態であった。1542年“六角定頼”の仲介で”法華宗”と“延暦寺”との間に和議が成立し、勅許も下り“日蓮宗21本山”の中の15寺が再建されたという歴史がある。


43-(4)-③:何故“一向一揆”が他の一揆と比べて抜きん出た強大な“一揆”に成り得たのか

中世史講義・・高橋典幸・五味文彦氏編集より

“加賀一向一揆”は90年間に亘って加賀国を支配し“百姓の持ちたる国”との記述がある。(実悟記拾遺:じつごきしゅうい・蓮如の第23子/10男との説もある/実悟・生1492年・没:1584年が蓮如以降の2・3代後の法主の間の行事、故事に関する172条を著したもの)

“一向一揆”が圧倒的な存在感を持ち得た理由は“本願寺”の指導と“真宗の教義”を抜きに解明する事は出来ないとされるが、具体的にどの様に本願寺が”一向一揆“を動かしたか、両者の関係について”高橋典幸・五味文彦“氏編集の著書“中世史講義”の中で触れている。

蓮如”は往生を約束して呉れた阿弥陀仏への感謝、報恩として念仏を唱える事を推奨した。やがて本願寺は“報謝行“(ほうしゃぎょう:恩に報いて感謝の意を表すこと・神仏から受けた恩に報いる為に慈善を施す事)の概念を拡張して、門徒に軍事的な奉仕を求める様に成る。仏敵との戦いに参加する事は、命がけの“報謝行“であるという理屈である。

こうして”本願寺“は”絶対他力“(修行や作善等、自力に拠る往生を否定し、ひたすら阿弥陀如来にすがる事で往生するとする教義)の教えを守りつつ、門徒を軍事動員する事が可能となった。(金龍静:一向一揆論)

“本願寺一向一揆“は門徒の増大に比例して強大な軍事力を有する様に成り、好むと好まざるとに拘わらず、大名達の争乱に巻き込まれて行く。本願寺の一向一揆に対する影響力は万能では無く一定の限界があった。しかし“一向一揆”の中核に“本願寺門徒”が存在した事も事実であり“一向一揆と本願寺は一体では無いが、別物でも無い(神田千里氏)”

両者の関係の究明は今後待たれる。

本郷和人氏著・・“信長・歴史的人間とは何か”の中で書かれた一向宗拡大の要因

“一向宗”は“親鸞“(生:1173年・没:1263年)が開いた”浄土真宗“の別名であるが、この名の由来は”一向“つまり、ただひたすら一途に阿弥陀仏の名を唱える事から、他の宗派がそう呼んだものとされる。“浄土真宗”側はこの呼称を快く思って居らず、正式に使う事は無い。“信心を得る事によって救われる“と言う”門徒“等の素朴な確信が現世の“武士層”への服従を“本願寺”への忠誠心に置き換えて“死”を恐れぬ行動へと彼等を直進させた。

”一向宗“の他の宗教との違いとして”妻帯が認められていた”事がある。その為“親鸞“のの子孫が歴代のトップの座に就く事に成り”本願寺組織“に日本伝統の”血統信仰“が持ち込まれ、組織の継承に強さを齎した。その中から“本願寺中興の租“とされる”本願寺第8代門主・蓮如”(生:1415年・没:1499年)が現われ、彼の時代に門徒数が激増し、非常に大きな勢力になった。

更に“姻戚関係”を利用する事が出来た事も、他の宗教に比べて抜きん出て強大化した要因である。“本願寺トップ”は“第11代門主・顕如“(生:1543年・没:1592年)の時代には、貴族“三条家”から妻を娶っており、戦国大名“武田信玄”と妻同士が姉妹と言う関係を築くに至って居る。こうした事から“本願寺門主“は”戦国大名“と同列に考えられる程の勢力に至った。

“一向衆”は以後の日本史展開の中で“武士層の覇権争い”に対抗しうる軍事力を持った。その結果、日本の歴史展開の回転軸であった“至尊(天皇家を・朝廷・貴族層)勢力“と“至強(将軍・幕府・武士層)勢力”という2軸の回転軸に、第3の回転軸として大きな影響力を持つ様に成る。”武士層の出現によって始まった混乱と闘争の500年の歴史“と題したこの通史ブログの中巻の新たな主役としての時期を迎えるのである。

43-(4)-④:別掲図・・本願寺歴代系図

43-(4)-⑤:“一向衆”が他宗教との違いとされる“仏の下での平等”を宗徒に信仰させ、浸透させて行った組織作りが広がりを持ち得た一要因である

“一向宗“は、他の宗教と違って”仏の下での平等“を意識していた。(”信長・歴史的人間とは何か・著者本郷和人)“一向宗”の門徒の多くは農民であった。“親鸞”から“蓮如”へ継承され、強調された“同朋・同行(どうぼう・どうぎょう)思想“は”信心一致ノウエハ四海ミナ兄弟“とする思想である。

この“同朋思想”は“村落共同体”のメンバーである農民は勿論、日頃差別されがちな渡り職人や下層商人にも受け容れ易い思想であった。門徒の百姓達は在俗のまゝその住居を道場として“講”の中心と成った。“一向宗”では“村落共同体”のメンバーである村人自身が伝道者となる事から、人々は安心してこれに従う事が出来た。これが“一向宗”が圧倒的な浸透力をもって村々に根付いて行った理由の一つであり、他の宗教との違いとされる。

肥後国(熊本県)人吉の“相良氏法度”に“男女によらずしらふと(素人)のきねん(祈念)くすし(医師)取いたし、みな一かう宗(一向宗)と心得べき事“とある。この法度からは、門徒は困窮者、病人などに対して祈祷・医療などの活動を行いながら支持を広げて行った事が窺われる。“一向宗“は言わば、遍歴者の行う呪術的な要素によって、下層民の信仰を強めて行ったのである。

“神田千里”氏は“一向一揆”の精神的紐帯(ちゅうたい=二つのものを結び付けて、繋がりを持たせる大切なもの)たる“一向宗”は、現世利益(無病息災や長寿等、この世で神仏から与えられる恵み)を追求する呪術的、土俗的な信仰だったと指摘している。

“蓮如”は優れた“組織者”であり、炯眼(けいがん=物事をはっきりと見抜く力)を持って民衆の状況、求める事柄を見定め、地域的社会組織を巧みに門徒組織に再編成して行ったと“戦国時代“の著者”永原慶二“氏は書いている。

43-(4)-⑥:惣村~惣郷~惣国について

“一揆を起こす時には農民が個別に参加するのでは無く”惣村“と呼ばれる村落共同体の構造を其のままに参加したと”本郷和人“氏は指摘している。尚“一向宗“では”仏の下での平等“とするが“村落共同体(惣村)”の構成員の全てが平等という訳では無く、ザックリとした階層は存在した。最上位に位置するのが半分侍で半分農民の“地主”達であり、彼等が共同体のリーダー役であった。

その下に居たのが“本百姓”で本百姓より耕作規模が小さい“脇百姓”は“自立小農”あるいは“作人”と呼ばれた人達である。彼等迄が実際に土地を耕し、作物を栽培し、耕作で得た収入の中から税を払う“自立した農民層”であった。

これ等の農民の下に“下人”と呼ばれる、自立しておらず、地主や本百姓、脇百姓から種籾を借りて耕作を行う農民階層の人達がいた。この人達は人格的にも地主、本百姓、脇百姓に隷属せざるを得なかった階層である。

以上の様に“惣村”は①リーダー層②自立農民③下人層の三つの階層から成って居た。こうした階層は細分化する事無く、隣村との間で横に繋がり、地主は地主と、本百姓は本百姓と手を結んだ。そして“惣村”(村落共同体)が集まって”惣郷“と呼ばれる、より大規模な“自治共同体”を形成した。

その“惣郷”が集まって“惣国”が形成されるケースもあった。一国規模(又はそれに準ずる規模の地域)で支配者が結合して確立した“統治共同体”を為し、こうしたケースでは“守護”や“単一の国主“を置かずに、国内の統治を自ら行う一種の”共和制的経営“が行われたのである。

“惣国”の事例としては“伊賀国”で国人や小領主が自らの在地領主権を守る為に一国規模で団結したケースが伝わる。

史料としては“山中文書”に含まれる“惣国一揆掟之事”が唯一の史料とされ①他国勢の侵入には惣国一味同心して防戦すべき事②侵入の注進があれば里々の鐘を鳴らし直ちに出陣する事(50歳~17歳の男子には出陣義務があった)③在々所々で武者大将を指定し“ 惣”はその下知に従う事④忠節の百姓は侍に取り立てる事⑤他国勢を引き入れたり内通する者は討伐し、その所領を没収する事、等が定められていた。

44:“第12代将軍・足利義晴“が暴徒化し制御不能となった”一向一揆“に対し、討伐を命じた事で“逆賊”に貶められた”本願寺“

1532年(天文元年)7月23日:

暴徒化した“一向一揆“は尚も南下して”越智家頼“が籠る”高取山城“(築城:1332年・築城主:越智邦澄・廃城:1873年)を襲った。(7月23日)

しかし“筒井順興”並びに“十市遠治”(とおちとおはる・生年不詳・没:1534年)が援軍に出て“一向宗”を吉野に撤退させた。しかし“一向一揆”が京に乱入して“法華宗”を攻撃するとの風説も流れ、京の市民も脅威を抱き始めた。危機感を募らせた“第12代将軍・足利義晴”は、京の“町衆“並びに”法華宗門徒“に対して本願寺との戦いを命じた記録が残って居る。

44-(1):“近江国守護・六角定頼“が ”法華宗門徒”を 率いて“一向一揆”と戦う

1532年(天文元年)7月28日:

“京都・山城国”から編成された“法華宗徒”は“柳本賢治”の家臣であった“山村正次”に率いられて蜂起した。“摂津国人”で“細川晴元”派の“茨木長隆”(生没年不詳)が“法華宗”の蜂起を促す檄文を発した事、並びに、熱心な“法華信者”として知られる“三好元長”の仇討ちという側面があった事が今回“法華宗”が素早く蜂起した背景だとされる。

44-(2):そもそもが共闘仲間であった“細川晴元”を攻撃する程に“一向衆門徒”が暴徒化し制御不能と成った。この流れの中で“本願寺第10世宗主・証如”は、仕方なく“一向宗門徒”に対し“細川晴元”攻撃の指示を与える事を余儀なくされた

“一向一揆“の猛威は1532年(天文元年)8月5日には”摂津国・池田城“を包囲する等、隣国にまで広がった。既述の通り、祖父”実如“からの遺言として”諸国の武士を敵とせず“の禁を伝えられていた“本願寺第10世宗主・証如“ではあったが、暴徒化し制御不能と成った”一向宗徒“に対し遂にその指揮を執らざるを得ない状況に追い込まれ、共闘仲間であった“細川晴元”本人への攻撃を決断したのである。

44-(3):“堺”の“細川晴元”を攻撃した“一向一揆”

1532年(天文元年)8月2日~8月5日:

”一向一揆“は堺北庄に居た”細川晴元“を攻撃した。(8月4日)“摂津国堺北荘“とは”堺“の領域内が”摂津国”と“和泉国”双方に位置した為“境目”を意味する“堺”の名が付き、北側を呼んだもので、境目の南側は”和泉国堺南荘“と呼ばれた。

“木沢長政“軍が堺の東の”浅香“でこれを撃退した事が“祇園執行日記”(京都祇園社/八坂神社の事務や法会を管掌する役職の日記・中世の政治、社会、経済、文化、特に京都の都市生活を見る上で重要な史料とされる)の記録にある。

荒れ狂った“一向一揆”は“摂津国・池田“並びに”山城国・山崎”でも攻撃を続けた。こうした状況を京都の“鷲尾隆康゛(わしのおたかやす・二水記の著者・公卿、歌人・生:1485年・没:1533年)が”加風聞者、天下可為一揆之世“(天下は一向一揆の世と成る様だ)と嘆いている。(二水記)

45:“第12代将軍・足利義晴“が命じた”本願寺との戦い“に、率先して応じた”近江国守護・六角定頼“と彼が“一向宗“を憎んだ理由

本願寺第8代門主“蓮如”の最初の布教地が“近江国”であった事、この宗派が持つ闘争思想、宗徒動員力の強大さが“守護・六角定頼”にとって脅威であった事が“一向宗”を憎んだ理由であった。

“一向宗門徒”はその信仰の帰結として上記した様に、必然的な集団化の下で“反権力”行動に走った。現世の領主に年貢を差し出す事を止め“土地”を“仏法領”と考え、その収穫の一部を“本願寺”に“懇志(こんし=親切に行き届いた志)”として納める事が“往生”(現世を去って浄土に生まれる事)の救いを得る為の最も大切な行動だと考えたのである。

そう確信した農民にとって“講”を結んだ門徒農民達が村ぐるみで年貢を拒否する闘争に立ち上がる事は不思議な事では無かった。こうした考えを持つ“一向宗”のトップ“本願寺第8世宗主・蓮如“が最初の布教地に選んだのが”近江国“だったのである。

南近江の戦国大名“六角氏”の法度に“年貢所当無沙汰せしめ、下地上ぐべきの由申す百姓前作職の事、一庄一郷申し合わせ、田畠荒すべきの造意、悪行の至り“とある。

一庄一郷あげての耕作放棄という農民闘争は領主にとっては手の付けられない“一向宗”の戦術であり、故に”近江国“に“一向宗“が広がった事に対して”近江国守護・六角氏“は警戒すると共に“法度”を出したのである。“一向宗”信仰と門徒組織が、当時の民衆の心を確実に捕え、現実の社会組織に密着した形で、力強く各地に浸透させて行った事は“守護六角氏”にとって脅威であり憎むべき存在だったのである。

“蓮如”の布教活動は“近江国”を皮切りに“越前国・吉崎”に進んだ。(1471年)北陸門徒が先鋭化(1474年11月、加賀国で守護の富樫幸千代を本願寺と結んだ富樫正親と共闘して追放した)すると“蓮如”は、其処から脱出する形で1475年(文明7年)に吉崎を去り、1478年(文明10年) 以後は先に破却された大谷に代えて“山科”に“本願寺”を再建して(1483年8月)再び“畿内”を布教の対象地域に選んだのである。

“蓮如”のあとを継いだ“実如”(じつにょ・本願寺第9世宗主・生:1458年・没:1525年)そ してそれに続く“証如”(しょうにょ・本願寺第10世宗主・生:1516年・没:1554年)の時代になると本願寺法主は“道場”~“末寺”~“有力寺院(一家衆・大坊主)”と、見事に組織された寺院序列の頂点“本願寺法主”として“貴族化”乃至は“封建領主化”した。

しかし、飽くまでも“一向宗徒”を動員する力は、下から積み上げられた“共和的組織”が“本願寺の意思”を下達する“統制組織”として極めて大きく機能するようになっていた事から 齎されたものであった。

46:“逆賊”と成った“山科本願寺”が“焼き討ち”される

46-(1):“逆賊”扱いとなった“山科本願寺”への攻撃体制を整えた“細川晴元”

”細川晴元“は荒れ狂う“一向一揆”に“堺北荘”を攻撃された。しかし“木沢長政”軍が“浅香”(大阪市住吉区)で“一向一揆”を撃退した為、事なきを得た。“第12代将軍・足利義晴”も既述の様に“法華宗門徒”に“本願寺宗徒”との戦いを命じ“一向一揆”は逆賊扱いと成った。“細川晴元”は家臣の国人領主・京都代官の“茨木長隆”(摂津国茨木城主・生没年不詳)に“法華宗門徒”を蜂起させ、それを率いる事を命じた。

“細川晴元”は“山科本願寺”攻撃を“木沢長政”にも命じている。”一向宗門徒“を危険視し、憎む“近江国守護・六角定頼”(生:1495年・没:1552年)は嘗て“細川高国”が“足利義晴”を“第12代将軍”に擁立した時に、それに協力した関係もあり“第12代将軍・足利義晴”の忠実な臣下と成って居り“山科本願寺攻撃”に率先して参加したのである。

かくして“暴走”し制御不能状態となった“一向一揆”に対し、各方面からの攻撃部隊が集結し“細川晴元”軍を中心とした大軍が逆賊の拠点“山科本願寺”への攻撃態勢を整えた。

47:“法華一揆“を率いて先ずは”本願寺寺院“を次々と攻撃して進軍した”細川晴元”連合軍

1532年(天文元年)8月7日~8月8日~8月10日:

”細川晴元”連合軍は“一向一揆“への対抗勢力として、京都の”本圀寺・本能寺・妙願寺“等21カ寺の”法華宗衆徒“の武力を借りている。”柳本信堯“(やなぎもとのぶたか)並びに“柳本賢治”の家臣であった“山村正次”等が“法華一揆”を率いて京都の“本圀寺”に集結し、京都の“本願寺教団”の寺院を次々と攻撃して行った。(8月7日)

又“堺”からは“細川晴元”軍が出撃し、本願寺派の“大坂御坊”(後の石山本願寺)を攻撃し、迎え撃った“一向一揆“方を撃破した事が記録されている。(8月8日)

1532年(天文元年)の“京都・法華宗21カ寺”を理解の助に参照願いたい。下記にその代表の寺を紹介する

本圀寺(創建1253年・開山日蓮):日蓮宗六条流の租山・法華総本寺・山科区御陵大岩NHK大河ドラマ“麒麟が来る”で織田信長の支援を得た第15代将軍・足利義昭の仮御所/六条御所となった

本能寺(創建1415年・開山日隆):法華宗本門流大本山・1582年6月織田信長が討たれた本能寺の変で知られる。織田信長が此処を宿所としたのは3回だけで、稀な事であり、主に妙覚寺を宿所としていた。当時の所在地は中京区元本能寺南町にあった。現在の場所(中京区本能寺前町)へは、豊臣秀吉の命で、1591年に移転した。

妙覚寺(創建1378年・開山日実):斎藤道三の父親・松波庄五郎が得度した寺とされる。織田信長は京滞在の折に18回宿所としている。本能寺の変の際に嫡男“織田信忠”が宿所とし、討たれている。

妙顕寺(創建1321年・開山日像):後醍醐天皇より寺領を賜り建立された。洛中に於ける日蓮宗(法華宗)最初の寺である。四条門流とも呼ばれる



48:“法華宗徒”を率いて”山科本願寺第10世法主・証如“の後見役“蓮淳”の拠点“大津顕証寺“を焼き討ちし“山科本願寺”に迫った“細川晴元”連合軍

1532年(天文元年)8月10日~19日:

“法華宗徒”を率いる“六角定頼”軍と連合した“細川晴元”連合軍は、東山大谷の”一向堂“を焼き(8月10日)そして“本願寺(一向宗)”方の実質的リーダーである”蓮淳“の拠点“大津顕証寺”を焼き討ちした。

“大津顕証寺”を焼き討ちされた”蓮淳“は”山科本願寺“の”証如“にはかまわず自分の次男”実恵“(じつえ・生:1496年・没:1536年)が居る”伊勢長島“の“願証寺”に逃げ去り“証如”の補佐役を放棄したとして非難された。

“細川晴元”連合軍はその後も1532年(天文元年)8月16日~8月17日に東山山麓で“法華一揆衆”10,000を率いて“一向一揆”数千との合戦に及び、勝利している。続いて同年8月19日にも“摂津国一向一揆”衆2000人が山崎まで攻め寄せ、西岡周辺で激戦となったが、これも“法華一揆衆”の軍事力に拠って“細川晴元”連合軍が勝利している。

以上の様に各地で“一向一揆”を敗り、京・西岡(にしのおか・山城国西部、現在の京都市西京区、向日市、長岡京市の一部)を抑えた“法華一揆衆”を率いた“細川晴元”連合軍はいよいよ”山科本願寺“総攻撃体制を整えた。

49:“細川晴元”連合軍が“一向一揆”の本拠地を焼き討ちし“山科本願寺”は灰燼に帰す・・山科本願寺合戦

49-(1):“山科本願寺攻め”の布陣が整う

1532年(天文元年)8月23日:

総兵力3万~4万とされる“細川晴元”率いる連合軍は“一向宗門徒”をライバル視し、憎む“法華一揆衆”を主力部隊として“山科本願寺”の東側(粟田口)に陣取り”山科本願寺“の南側(汁谷口)には“山村正次”勢が陣取った。西側は”近江国守護・六角定頼”軍が陣取り“山科本願寺”の北側、東岩倉山には、付近の50余郷の“土民一揆軍”が着陣した。これによって“山科本願寺”は四方を完全に包囲されたのである。

49-(2):“山科本願寺”焼き討ち

1532年(天文元年)8月24日:

戦闘は8月24日早朝から開始された。“山科本願寺”の“水落”と呼ばれる場所から“細川晴元“方の軍勢が侵入し、家屋に火を掛けた。午前10時頃に諸口から”細川晴元”方が乱入し、総攻撃を掛け、寺町周辺までも放火して回った。

これに拠って“本願寺中興の租・8代門主・蓮如”が1479年4月(文明11年)に建てた“御影堂“並びに“親鸞”の“生身御影”を祀った“寝殿・阿弥陀堂”等を含め“寺中広大無辺、荘厳只仏国の如し、在家また洛中に異ならず、居住の者各富貴、よって家々随分の美麗を嗜む”と書かれ、宿坊、商家が六町に及ぶと伝わる程に繁栄を極めた“山科本願寺”並びにその“寺内町”の全ての建物が2時間足らずの間に一軒も残さず灰燼に帰したのである。(祇園執行日記、二水記、経厚法印日記)

49-(3):大坂御坊へ退却した ”山科本願寺第10世法主・証如“

”山科本願寺第10世法主・証如“は”蓮如“の末子とされる”実従“(生:1498年・没:1564年)が連れだし“親鸞聖人御影”や“寺宝”と共に“大坂御坊(石山道場・石山本願寺)”へ退却した。新たに此の地を“大坂本願寺”と改め、本拠地にして行くのである。


49-(4):“山科本願寺の戦い“・・まとめ

年月日:1532年(天文元年)8月23日~8月24日
場所:山科本願寺
結果:“細川晴元”連合軍が“山科本願寺”を灰燼に帰す

“細川晴元”方

柳本軍
六角定頼軍
法華一揆勢
土民一揆勢

指揮官:六角定頼
山村正次(故柳本賢治家臣)

戦力:30,000∼40,000兵

被害:不明

“山科本願寺”方

山科本願寺軍




指揮官:山科本願寺第10世法主・証如


戦力:不明

損害:寺内町含め“山科本願寺”全焼


49-(5):“山科本願寺焼き討ち”(山科本願寺の戦い)関係、史跡訪問記

49-(5)-①:“山科本願寺”史跡訪問

訪問日:2021年(令和3年)1月23日(土曜日)
住所:京都市山科区西野離宮町(並びに周辺)・・山科本願寺推定復元図写真参照方
交通機関等:京都駅から市営地下鉄(東西線)に乗り換え“東野駅“で下車、山科中央公園を目指し徒歩で凡そ15分程で”山科本願寺土塁跡“に到着した

訪問記:

生憎の雨の中、東野駅で下車し、グーグルマップを頼りに”山科中央公園”を目指して歩く。1478年(文明10年)に”本願寺8代法主・蓮如”に拠って建設が開始され、1483年(文明15年)に完成したとある。当初から”山科本願寺の城”と呼ばれていたと記録にある。

当時の”城”が”山城“であった時代に”山科本願寺城”は今日、市街地として住宅が立ち並んでいる事から分かる様に”平城”であった。その点で特筆すべき”城郭跡”だとされる。

添付した写真(山科本願寺推定復元図)にある様に寝殿、御影堂、阿弥陀堂から成る”中心部(御本寺=本丸)”と“二の丸”に相当する“内寺内”(うちじない)と称される区域には蓮如、実如、証如の家族等が住んでいたと考えられている。そして“三の丸”に相当する”外寺内”(そとじない)には”在家信者“の町屋があったとされ、此処には絵師、飴屋、塩屋、酒屋、魚屋等の商衆が住んでいたとの記載がある。

この様に三つの郭で構成された“山科本願寺城”の寺域は南北に約1km、東西に約800m(800,000㎡=24万坪)に及び、この広大さを”仏の国”と表現した記載が知られる。(1532年8月24日二木水条)

山科の地は交通の要所ではあったが城郭の立地としては要害の地では無い。従って今日でも残る当時の主要部を防御していた土塁からは、写真に示す様に“蓮如”が此の地を選んだ目的が”防衛”の為で無かった事が明らかである。

文中記述した様に”一向宗徒”の増加に伴い次第に軍事的に強大化し、好むと好まざるとに拘わらず周囲との軋轢を増し、日本の歴史の第3の回転軸として無視出来ない軍事勢力に成った。この結果、後の石山本願寺は“防衛能力”を増した宗教施設(城)へと変化して行くのである。しかし”山科本願寺焼き討ち”にあった時点での防御能力は脆かった為、諸口から敵方の侵入を許し、焼き討ちされ、灰燼に帰したのである。

尚“山科本願寺史跡”周辺は今日では宅地化され、更に、国道1号線と東海道新幹線が横切る環境に変わった為、当時の”山科本願寺城”を偲ぶ事が出来る建物は殆ど残されていないのが残念であった。しかし写真に示す土塁跡、そして”南殿光照寺“から僅か乍ら当時を偲ぶ事が出来た。


(写真説明)
写真上:山科本願寺の全貌を紹介した説明板 写真下左・右:国の史跡に指定される遺構の土塁 

49-(5)-②:山科本願寺史跡・・“南殿光照寺”訪問記

訪問日:山科本願寺史跡に同じ(2021年1月23日)
場所:京都市山科区音羽伊勢宿町34
交通機関等:山科本願寺史跡に同じ(地下鉄東西線東野駅下車)

訪問記:

山科本願寺の御本寺(本丸)の土塁史跡を見学した後に”蓮如上人”が退隠後(1489年75歳)の隠居地として過ごし、1499年(明応8年)3月に85歳で没する迄、居住したと伝わる”南殿光照寺”に歩いて向かった。直線距離では1kmにも満たないが、雨中をグーグルマップを頼りに探し当てた時には30分近くを要していた。

南殿も”山科本願寺焼き討ち”(1532年8月)の際に焼かれたが、1536年に”光照寺”が建立され今日に至るとある。写真に示す様に、今日では小じんまりとした寺である。隣接して”南殿幼稚園”があり、その庭を通り抜けると、当時”南殿”を防御した“土塁”が残っており、此処が”山科本願寺(城)”の一部であった事を偲ぶ事が出来る。

今日でも“南殿光照寺”の南側、音羽伊勢宿町一帯に残されている遺構と共にこの土塁も国の史跡に指定されている。


(写真説明)
  写真上:南殿光照寺の説明版。寺の周囲は住居が密接した住宅地に成って居る 写真左下:今日では小じんまりとした寺だがこの左手に“南殿幼稚園”がある 写真右下:幼稚園の庭を突っ切ると南殿を防御した土塁、堀もあり単なる隠居施設では無かったとの説もある。
50:“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“の中での主役交代の変遷は”家格秩序“が次第に崩れ、下位層化が進んで行くものであった

“山科本願寺焼き討ち” は結果としては”一向宗徒“を屈服させるどころか、新たに”大坂石山道場(後の石山本願寺)“を本拠地に変えて、更なる”武士層”に対する戦闘意識を燃え立たせるものと成った。“一向宗徒”は門徒間の結束を強め“武士層”に対抗すべく、その宗教施設も防御能力を高めた“城郭化”が進んで行った。

強大な軍事組織と成った“一向宗徒”は日本史に於ける、新たな“第3の歴史の回転軸”と成り“京・畿内周辺地域”で展開された覇権争いに”一向宗徒“の存在が大きく影響を与える事に成る。

日本史に於ける主役交代の変遷は“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”と“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“との間の2軸に拠る覇権争いの期間を経て”至強勢力“内での抗争が続いた。しかしこの6-19項で記述して来た様に“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“内での覇権争いの結果起った主役交代は次第に”家格秩序”の崩壊へと向かった。

具体的には順次”下位層化“が進んで行ったのである。その典型は後の”豊臣秀吉”の事例であるが、この項でも将軍家から管領家、そして、その家宰家である”三好家”へと権力者の下位層化が進みつつある事を記述して来た。“至尊勢力”から政治権力を握った“至強(将軍家・幕府・武士層)”勢力が“混乱と闘争”を繰り返す中に、確実に伝統的“家格秩序”を崩壊させ下位層への主役交代が進んだのである。

“室町幕府・第10代将軍、第11代将軍、そして第12代将軍の全てが流浪の将軍と成り、そうした将軍家の弱体化に代わって主役を担ったのが幕府NO.2の幕府管領職にあった3管領家(斯波・畠山・細川)であった。その3管領家の中で“覇権争い”を勝ち抜いた“細川京兆家”自体が”覇権争いの内訌を繰り返す”という4半世紀をこの項では記述して来た。

”細川晴元”が覇権者の座を勝ち得たかに思われるが、史実は“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“の中での“家格秩序”の崩れは下位層への主役交代という形で更に進んで行くのである。

次項6-20項では、家格秩序でNO2の幕府管領家の”細川京兆家・細川晴元“が追放され、同家の家宰(筆頭重臣)である”三好家“に覇権が移り“三好長慶”が主役の座を握る。しかし尚も“至強(将軍家・幕府・武士層)勢力“が守り抜いて来た”伝統的家格秩序“の崩壊は進む。下位層への主役交代は進み“三好長慶”に見出され“伝統的家格秩序”からはほど遠い出自(その人の生れ、部族や血縁関係)の“松永久秀(弾正)”が“覇権争い”の主役の一人として現われるのである。

最後にこうした覇権争いに終始符が打たれ、日本を統一国家へと導いた”織田信長~豊臣秀吉~徳川家康“へとバトンリレーが為された事は、結果として日本にとって幸運であったと言えよう。

次項では“日本再統一”の立役者であり、戦国大名の中で只一人明確に日本統一というイデオロギー(天下布武)を持って動いた(信長:本郷和人氏)“織田信長”が登場するが、その前に立ちはだかったのは、その強大な軍事力と結束力をもって日本の歴史展開の第3の回転軸と称される程の存在となった“本願寺”(一向宗徒)であった。







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