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2020年9月29日火曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代と院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
6-18項:日本の特異性“血統信仰”に支えられ辛うじて存続した“足利将軍家”と“室町幕府”いち早く関東地区では“古河公方”“関東管領”家が共に分裂抗争に陥り“伊勢宗瑞”が“戦国大名化”する


1:“応仁の乱”後の室町幕府第8代将軍“足利義政”

1-(1):遣明船を派遣する

1476年(文明8年)4月:遣明船堺港を出発

将軍家の財源として遣明船が重要であった事は既述の通りであるが“応仁の乱”が多少鎮まりかけた1475年(文明7年)8月に足利義政は遣明船の準備を始めている。

実際は貿易船であったが表面上は将軍が“日本国王”を称し“大明皇帝陛下”に朝貢する形式をとり、海賊船と区別する為、明国から贈られた“勘合符”を持参するという第3代将軍“足利義満“時代からの習わしを踏襲するものであった。正使・副使も決め“足利将軍家“から明帝(憲宗・成化帝・在位1464年~1487年)への正式書状も用意された。書状には“日本国王源義政”と署名し、明国から贈られた“日本国王印”の金印が捺された。

“足利義政”は将軍職を嫡子“足利義尚”に譲ってはいたが(1473年12月)政治の実権はこの時点では手放しておらず、取り分け外交貿易の権限は強く握っていた。将軍”足利義政“から明帝に馬、太刀、硫黄、瑪瑙(メノウ)、屏風、鎧、扇などを贈り、その見返りとして“銅銭・書籍”を求めた記録が残る。

“銅銭”を求めるに際し“そもそも銅銭は乱を経て散失し、公庫索然たり、土瘠せ民貧し、なんぞもって賑施せざらんや“と強要に近い言葉を連ねて要求している。”書籍“に就いては兵火ですっかり焼けてしまった事を述べ、特に贈って欲しい書目を上げた事が“補庵京華前集“の記録に残っている。

1478年(文明10年)11月:上記遣明船が帰国する

明帝(憲宗・成化帝)から“足利義政“に贈られた銅銭5万貫文〈10万石=75,000円x10万=75億円)を積んだ遣明船3艘が帰った。うち幕府船は1艘であったが、これに乗り込んだ五山禅僧や土倉商人等からその収益の一部が幕府に納められるルールであった。”足利義政”の懐は相当に潤ったのである。

1483年(文明15年)3月(4月説):

足利義政は日本国王を称し“子璞周瑋”を正使として遣明船を出している。この時の贈答品の見返りとして10万貫文(20万石=75,000円x20万=150億円)を要求した記録が残る。

1486年(文明18年)7月:

上記遣明船が堺港に帰着した。“明帝”(憲宗・成化帝)が書状に書かれた要求通りの銅銭を贈って来たかは不明であるが、この時の遣明船3艘の中2艘が“幕府船”であった。幕府はそれを一艘4千貫文、つまり8千貫文(16,000石x75,000円=12億円)で請け負わせている。この度の遣明船から幕府が得た収入も相当額に上った事は明らかである。

1-(1)-①:東山山荘の造営費に使われた遣明船収入

足利義政は1483年(文明15年)6月頃に“東山山荘”に移り住んだが、まだ造営は続いていた。造営の為の経費の捻出に苦慮していたとされ“遣明船”による収入は重要な部分を占めていた。

1-(2):足利義政の“宝庫”

遣明船で足利義政が期待したのは“銅銭”だけでは無い。重用した禅僧の“瑞渓周鳳”(ずいけいしゅうほう・6代将軍・足利義教にもその文筆を高く評価され重用されている・相国寺の住持を3度務めている・生:1392年・没:1473年)と相談し、明国に要請した書目の内容が“蔭凉軒日録”に記録されている。

中国から輸入された“唐物”を尊重する気風は禅僧、土倉商人、そして武家社会にも浸透し地方の国人層武士にまで及んでいた。その中でも“宗元の水墨画”が最も重宝がられ、座敷に掛けて観賞されたり、贈答用としても価値の高いものであった。

1-(2)-①:水墨画を最も多く蒐集した“足利義政”の宝庫

“足利義政”の宝庫には祖父3代将軍“足利義満”が遣明船で輸入した物、並びに諸大名から贈られた物も含め、多くの書画骨董が所蔵されていた。“足利義政”自身もその鑑識眼は当代随一だとされたが、管理に当たったのは、能阿弥、芸阿弥、千阿弥、調阿弥等の“同朋衆”であった。

“能阿弥”が残した“足利義政”所蔵の絵画名品の目録“御物御画目録”に拠ると“279幅”が数えられる。作者は“牧渓”(もっけい・南宋末元初の僧、水墨画家として最も高く評価される。生年不詳・没:1269年?)“梁楷”(りょうかい・南宋の画家・生年不詳・没:1210年?)“馬遠”(ばえん・南宋の画家・生没年不詳)“徽宗皇帝”(きそうこうてい・北宋第8代皇帝であったが政治的には無能で彼の治世には人民は悪政に苦しみ地方反乱が頻発した・生:1082年・没:1135年)“李竜眠”(りりゅうみん・北宋派の画家)“君沢“(くんたく・生没年不詳)等、宋元の名画家30名を含んでいた。

1-(2)-②:“君台観左右帳記”に載る“織田信長”に伝わった“曜(窯)変天目茶碗”

“能阿弥”や“相阿弥”が記録した“足利義政”の宝庫“東山御物”に関する伝書は“君台観左右帳記“(くんだいかんそうちょうき)として知られる。唐絵鑑定、茶陶を中心とした美術工芸史、茶華香道の基礎史料として3部から成る伝書である。その中に”曜(窯)変天目茶碗“が含まれる。”曜変“は建窯で作られた天目茶碗でもこの上ないものである。世間にはまず無い“との記述が残る。

”建窯”は現在の福建省南平市の“建陽”で、12~13世紀の南宋時代に此の地で焼き上げられた曜(窯)変天目茶碗、油滴茶碗、禾目茶碗が大名物となっており、20世紀に大規模な窯跡が発掘され、現在も調査が進められている。

美術蒐集家としても超一流とされる“足利義政”が“曜(窯)変天目茶碗”を所持していた事が“君台観左右帳記”の記録から裏付けされるが“本能寺の変”(1582年)で“明智光秀”に討たれた“織田信長”が前日に開いた“茶会”で客披達に披露した茶碗の中に“曜(窯)変天目茶碗”があったと伝わる。“織田信長”が“足利義政”の宝物をどの様にして手に入れたかについては諸説があるが“本能寺の変“の焼け跡からは今日現在一片の破片も探し出されていない。

“曜(窯)変天目茶碗”は今日現在、世界に僅か3碗しか伝わっていないとされる。しかもその全てが日本にあり①京都大徳寺龍光院②東京静嘉堂文庫美術館③大阪藤田美術館が夫々1碗所蔵している。

2:第9代将軍“足利義尚”の代始め

2-(1):第9代将軍“足利義尚”という人物に就いて

“足利義尚“(1488年に義熈・よしひろに改名・在職1473年12月~1489年・生:1465年・没:1489年)は早熟で才能も秀でた人物だった。歌道での活躍が伝わるが公家達に王朝時代の和歌集の書写を依頼し、精進し自らが中心となって1480年、15歳の頃から盛んに歌会を催している。1483年には暫く途絶えていた勅撰和歌集の編集を中心となって進めた事も伝わる。

1480年(文明12年)7月:

政道の要旨を書き進める様“一条兼良“(生:1402年・没:1481年)に再三催促し1480年(文明12年)7月に“樵談治要”が書かれている。内容は“守護大名”の専恣(せんし=勝手気まま)を抑え奉行人、近習者を統御して“将軍”の威勢を高める事こそが重要だと説くものであった。又“足利義尚“の後見者”日野富子“の存在を意識してか、女人の政治への関与を認める記述もある。

“一条兼良“は更に”文明一統記“を表し”足利義尚“に贈っている。余談になるが母親“日 野富子”が所謂“金儲け”に走ったという事が伝わるがその使い途は既述した“応仁の乱” 終息の為の政治的使い途の他にも“一条兼良”を家庭教師として我が子“足利義尚”に薫陶 を与えた事に資金を投じたばかりか、自らの教養を磨く為にも資金を投じた事が伝わる。

=日野富子の資金用途=

①:朝廷への贈り物
②:庶民の祭りへの出費・・吉田神社
③:子息“足利義尚”への家庭教育費・・一条兼良
④:自身が学問に熱心で“関白・一条兼良”から“源氏物語”の講義を受けた家庭教師代(将軍家御台所とは言え、関白が女性に講義をするのは異例であり、日野富子は自己研鑽の為にも莫大な献金を行ったとされる)


2-(2):父“足利義政”と“足利義尚”の関係

1480年(文明12年)4月:

第9代将軍“足利義尚”(15歳)は4年前に没した“日野勝光”の娘を正室に迎えている。
(伯父の娘であるから従妹に当たる)

1480年~1481年:父子の不和

上記した様に聡明で将軍としての自覚を高めて行った“足利義尚”だったが、父“足利義政”は“外交・貿易”の権限、並びに“社寺”統制、保護の権限を放そうとしなかった。その他の政務に就いても奉行衆は父“足利義政”の意向を忖度する状況が続いた。その為1480年~1481年頃(足利義尚15歳〰16歳)父子が不和となった事が記録に残されて居る。

室町幕府第9代将軍の新政権確立を急ぐ“奉公衆”達に擁せられ“足利義尚”も独り立ちを急いだが、父“足利義政”は上記した様に一向に“政治権力”を放そうとしなかった。そうした父親に対する不満から“足利義尚”は1480年5月に、自ら髻(もとどり=髪の毛を頭の上に束ねたところ、たぶさ)を切り、出奔しようとして“伊勢貞宗”に止められるという事態が起こっている。

1481年(文明13年)正月:父“足利義政”と母“日野富子”の不和

父“足利義政”が夫人“日野富子”と仲違いをし“小川御所”から出た事が記録されている。この父母のトラブルに絡めて“将軍・足利義尚”は父“足利義政”に対する不満表明として再度“髻”を切り、恒例の参賀を受けなかったとの記録が残る。

父子の争いは更に“将軍・足利義尚”と父“足利義政”が“徳大寺公有”(とくだいじきみあり・従一位、右大臣・生:1422年・没:1486年)の娘を巡って争ったという事件も“大乗院社雑事記”に記録されている。

こうした政治絡み、女性の取り合いなど父“足利義政”と嫡子“足利義尚”との関係は遂に絶縁状態に至る程悪化した時期もあったが、後には修復された。

2-(3):“足利義尚”が第9代将軍として独り立ちした時期について

1480年(文明12年)~1481年(文明13年):

将軍“足利義尚“は将軍に就いた1473年12月に元服を済ませ、1479年(文明11年)に、判始め、評定始め、沙汰始めを行い、将軍としての一通りの儀式を済ませている。

居所も父“足利義政”と離れ、養育係の政所執事“伊勢貞宗”(伊勢貞親の嫡子・北条早雲とは従弟同士の関係である・生:1444年・没:1509年)の屋敷に移っている。この折“満14歳”の“将軍足利義尚”側近として奉公衆の大部分が“足利義政”から離れた事が“長興宿禰記”(ながおきすくねき:大宮長興・大宮官務家当主の日記・生:1412年・没:1499年)に記されている。

1485年6月~8月:

第9代将軍“足利義尚”が独り立ちをして、政治を主導し始めた時期は父“足利義政”が1483年6月から東山山荘に移り、1485年(文明17年)6月に出家(法号・喜山道慶)をし、同年8月28日に“足利義尚”が“右近衛大将”に任じられた辺りと考えられている。しかし父“足利義政”が出家をする頃に、父子の権限移譲に伴なって“奉公衆”と“奉行衆”の間で激しい争いが起きている。

2-(3)-①:奉公衆と奉行衆の衝突

新将軍“足利義尚”の下に移り、幕政に対する発言力を強めた“奉公衆”が、これまで通り“足利義政“の命令を受けて自らの権勢を保持しようとする”奉行衆“と対立し、抗争に至った。

“足利義政”を後ろ盾とする“奉行衆”が“布施英基”(ふせひでもと)と“飯尾元連”(いのおもとつら・飯尾貞連の長男・生:1431年・没:1492年)を筆頭に“奉公衆”との衝突事件を起こした事が“蔭凉軒日録”(おんりょうけんにちろく・相国寺鹿苑院内の蔭凉軒主の日記、3代に亘る公用日記、61冊)並びに“実隆公記”(三条西実隆の1474年~1536年迄の日記・1995年に重要文化財に指定される)に書かれている。

“奉公衆”数百騎が“将軍・足利義尚”の制止を聞き入れずに出撃しようとし“足利義政“を後ろ盾とする“奉行衆”も防戦準備体制を敷くという緊迫した事態に成った。“足利義政”が奉行衆を諭し、退散させた為、大事に至らなかった。“奉行衆“の先頭に立った“布施英基”は一族と共に丹波国(京都府の一部、兵庫県の一部)に退去したが“飯尾元連”以下60余人の“奉行衆“は一斉に剃髪して尚も抵抗の姿勢を示したと伝わる。しかし、結果として“足利義政”を後ろ盾とする“奉行衆”が敗北した。

その後、抗争に敗れ“丹波国(兵庫県の一部、京都府の一部)”に退去していた”布施英基”が1485年12月“足利義政”に召されて上洛し、将軍“足利義尚”の御所に出仕したところを“奉公衆”の手で殿中で殺害されるという事件が勃発した。両者の抗争がいかに激しく、長く尾を引いていたかを伝える史実である。

3:“将軍“並びに”幕府権威“の復活という夢を抱き行動した第9代将軍“足利義尚”

3-(1):“応仁の乱”のドサクサで奉公衆の領地が横領された事に対して、それを奪回する為“六角高頼”追討軍の先頭に立った第9代将軍“足利義尚”・・“長享・延徳の乱”(第一次六角征伐=鈎の陣)

3-(1)-①:“応仁・文明の乱“の際に有力国人、地侍層が室町幕府の近習・奉公衆・公家・寺社の荘園を横領した

1467年から10年間続いた“応仁・文明の乱“の最中、諸国では有力国人や地侍層が室町幕府の近習・奉公衆・公家・寺社の荘園を横領するという蛮行が罷り通っていた。“六角高頼”はそうした近江国内の“国人・地侍”に荘園を横領させる事に拠って“六角家臣団”として取り込み、勢力を拡大して行ったのである。近江国に領地を持つ“奉公衆”(幕府直轄軍)は46人居たが“六角家臣団”に拠って領地を奪われ、困窮する者が多くいたと伝わる。

3-(1)-②:“六角高頼”という人物

“六角高頼”(ろっかくたかより・六角久頼の子、六角氏12代当主・初名行高・生:1456年?・没:1520年)は“応仁の乱”では西軍に属し、東軍の“京極持清”と京都で戦った。“京極持清”は1470年に病死するがその後1472年~1475年に“京極政経”(京極持清の3男・生:1453年・没:1502年)“多賀高忠”(たがたかただ・京極高数の子、室町幕府侍所所司代・応仁の乱では主君であり従兄でもある京極持清と共に東軍に属した・生:1425年・没:1486年)と戦い、西軍の斎藤妙椿、斯波義廉、土岐成頼等の支援を得て勝利し“応仁の乱”終結後の1478年に“近江国守護”に補任されている。

3-(1)-③:“第9代将軍・足利義尚”の出陣

“応仁の乱“の騒乱、並びに、室町幕府の統治能力の衰退に乗じて幕府に従わず、こうした横領行動に走り“戦国大名化”した守護大名は、何も“六角高頼”だけでは無かった。彼を討伐対象とした理由は、京に近く“将軍、幕府権威復活“の夢を抱く新将軍”足利義尚“としては最も攻撃し易い相手だったからである。領地を略奪された公家社会からは“将軍・足利義尚”の出兵決断を歓迎する空気があった事を“長興宿禰記”が伝えている。

3-(1)-④:出陣の様子を伝える記事

1487年(長享元年・・7月から文明19年から改元された)9月12日:

“蔭凉軒日録”等が伝える記事には“9月12日に軍勢は京都から一旦、琵琶湖西岸の”近江国・坂本”に入り、諸大名の軍勢の合流を待った。兵力は8000人。赤地金襴に桐唐草模様の直垂、重藤の弓、吉光の太刀、と美しく着飾った将軍・足利義尚を一目見ようと見物人が群れ集まった。“天下の壮観、これに過ぎるものはなし”と称賛し、又、その美しい顔立ちから“緑髪将軍”と称した記事が残る。“一条兼良”を家庭教師として和歌を学び、1478年頃から盛んに歌会を主催した“将軍・足利義尚”は、1483年10月に“新百人一首”を撰定している程の歌人でもあった。

この頃には“足利義尚”と父“足利義政”の仲違いは解消され、父“足利義政”は“東山殿”と呼ばれ“将軍・足利義尚“も晴れて”室町殿“と呼ばれ、独り立ちの将軍としての扱いを受けるようになっていた。出陣した当初は心の余裕もあったのであろう“鈎の陣”から父“足利義政”と和歌を交わしている。

足利義尚:坂本の浜路を出て浪安く養ふ寺にありと答へよ
足利義政の返歌:やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん

“蔭凉軒日録”が伝える将軍“足利義尚”出陣の様子を下記に紹介して置きたい。

奉公衆、奉行人等の他、日野、高倉、飛鳥井(あすかい)等の公家までが武装して従いその数は数千に及んだ。又、分国の尾張に下っていた斯波義寛も数千の兵を引き連れて坂本にやって来た。馬上の将軍足利義尚は赤地金襴の鎧直垂を着するという足利義満の南朝攻撃での出陣さながらの姿であった。

=“九代将軍・足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地“訪問記=2020年6月17日

此の地は後述する9代将軍“足利義尚”の鈎の陣(安養寺並びに永正寺の2ケ所)訪問の際、土地の人が教えて呉れたお蔭で訪れる事が出来た史跡である。紹介無しには見落とす史跡であった。

安養寺と永正寺の2カ所の“鈎の陣”史跡訪問が主であった。この2カ所の史跡は共にJR大阪駅から東海道本線(琵琶湖線)に乗り、草津駅でJR草津伊賀線に乗り換えて一つ目の駅“JR手原駅”で下車する。“永正寺”に移った”鈎の陣”を訪問する目的で、駅構内の“栗東観光案内所”に立ち寄ったところ、女性スタッフから“その途中に鈎の陣所ゆかりの地という史跡がある“と教えて頂いた。

地元のタクシーの運転手さんに“鈎の陣所ゆかりの地”に案内して貰った。写真に示す大きな石碑が現われ、其処に、文中紹介した“父・足利義政”と鈎の陣から交わした和歌、当時の第103代“後土御門天皇”(生:1442年・崩御:1500年9月・この和歌を詠んだ時は45歳と伝わる)と交わした1487年(長享元年)12月2日付の歌碑などが並んでいた。

(写真)“九代将軍・足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地“に置かれた歌碑

3-(1)-⑤:足利義尚の陣は“鈎の陣”(まがりのじん)と呼ばれ、当初は“安養寺”に置かれた。その後“真宝館”(現在の永正寺)に移っている

参陣した大名は、細川、斯波、畠山、山名、一色、富樫、京極、武田といった有力武将達であり、最終的に兵数は23000人に達したとある。

諸大名の軍勢の記述では先ず“細川”勢が琵琶湖を渡って山田・志那(草津市西部)に上陸し、他の軍は琵琶湖の南“瀬田”を経由して“六角高頼”軍の本拠地の湖東を目指し、現在の栗東、草津、守山その他の地域に分散して陣を構えたとある。尚、迎え撃つ“六角高頼”軍は9月11日には南近江各地に布陣を終え、待ち構えていた。

=(別掲)“東方山安養寺“並びに後に陣を移した”真宝館(現在の永正寺)“の地理的関係図
=東方山安養寺周辺地図の説明=
①:安養寺は手原駅下方に位置する。図中の⑤で示す。後に移る“永正寺”は図中の⑦で示す
②:草津(左上)守山(左上)、野洲(右上)は安養寺の上方に位置する
③:甲賀郡は地図右下に位置する

3-(1)-⑥:将軍権威が凋落していた事を裏付ける“六角高頼討伐軍”の実態

“親長卿記・蔭凉軒日録”更には“常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到(常徳院とは将軍足利義尚の法名)”の記録に“諸大名の多くが自身は参陣せず子息や家臣を代理として派遣した“とある。その理由は”寺社本所領や奉公衆の所領を横領しているのは“六角高頼”だけでなく“将軍・足利義尚”方として参陣する諸大名の中にも居たのが実態であった。従って(討伐されるのは)明日は我が身か、と恐れ“六角高頼討伐”に尻込みしたとされる。

幕府管領“細川政元”でさえも、立場上、仕方なく将軍・足利義尚に同行したというのが実態であり、討伐軍の真の主力は“奉公衆”であった。近江国に所領を持つ彼等の要望に応えて“将軍・足利義尚“が“六角高頼”討伐の為に近江に進軍した実態からすると、頷ける事ではあるが、将軍の親征とは言え、軍隊の質としては“ハリボテ(見かけは立派だが、実質の伴わない)”軍隊だったのである。

3-(1)-⑦:将軍“足利義尚”がハリボテの“六角高頼討伐軍”の総大将に任じた“斯波義寛”には屈辱的立場を参陣する事で是正を勝ち取りたい、との目的があった

意気の上がらぬ参陣大名の中で“斯波義寛”(尾張、越前、遠江国守護、斯波家12代当主・生:1457年・没:1513年)は意欲満々だったと伝わる。

斯波家は将軍“足利義政”の政治期に5度も家督介入をされた歴史がある。それらは①1458年~1459年、長禄合戦で斯波義敏から子の斯波松王丸(斯波義寛)への当主変更②1461年に堀越公方・足利政知の要請があって斯波義廉への当主変更③1466年8月に伊勢貞親等の画策で斯波義廉から斯波義敏へ当主が戻されるという変更④直後の1466年9月6日の“文正の政変”で斯波義敏が失脚し、斯波義廉へ当主が戻されるという変更⑤西軍に付いた“斯波義廉”が1468年7月に幕府(東軍)から家督のみならず幕府管領職、3ケ国の守護職を剥奪されたという変更である。

以上、10年も経たない中に5度も家督交代に介入された事に加えて、6-17項で記述した様に“応仁の乱”の最中の1471年5月に“将軍・足利義政”並びに幕府管領“細川勝元”が、西軍“朝倉孝景(7代目・生:1428年・没:1481年)”を調略する際に、その見返りとして“越前国守護職への任命”を約束するという密約が交わされたという屈辱的事態が重なった。

これが史実であった事は“朝倉孝景”へその旨の確約を認める1471年5月21日付けの書状の存在で裏付けられる。そして、東軍に寝返った“朝倉孝景”は“斯波義寛”(東軍)を形の上では主君と仰ぎ“甲斐敏光”と戦う大義名分を得た事を活用して“越前国”を平定して行ったのである。

しかし“越前国”の支配が安定すると“朝倉孝景”は次第に“斯波義寛”に反抗する様になり、越前国支配を巡って武力衝突をする迄に至った。その“朝倉孝景”は1481年に没し、嫡男“朝倉氏景“(8代当主・越前国守護職・生:1449年・没:1486年)に引き継がれ、その後も3人の叔父“朝倉経景、朝倉光玖、朝倉景冬”と共に越前国平定に尽力し“朝倉氏景”は、同年(1481年)9月15日の合戦で“斯波義寛”を敗り“加賀国”に追い出した。この時点で”斯波義寛”の”越前復旧”は失敗した。

1483年(文明15年):

分国“尾張国”で、父“斯波義敏”の家臣で、尾張国下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡)の守護代“織田敏定”(おだとしさだ・清州織田氏当主・織田信長の曽祖父との系図もあるが不明・生:1452年?・没:1495年)が”斯波義廉“派を駆逐していた為“斯波義寛“は本拠地を”尾張国“と決め”清洲城“に入っている。

尾張国守護代”織田敏定“並びに”遠江国守護代“として”甲斐敏光“(越前国、遠江国守護代・生没年不詳)を配置し、今川氏への対抗体制を固めた。しかし“越前国”奪還を心底では諦めた訳では無かった。

一方“越前国・守護職”の座を奪取し、下剋上の典型事例とされ、国盗りをした恰好の“朝倉氏”であるが”日本の特異性“である“血統信仰”に基づく“大義名分”が必要だったのであろう、足利一門の中で家格の高い“鞍谷(くらたに)氏“を出自とする”足利義俊“を傀儡の国主として名目上据えたとの説がある。しかしこの説には裏付けが無く、反論も多い。

3-(1)-⑦:陣中で“越前守護職”返還の訴えを“将軍・足利義尚”に起した“斯波義寛”

“尾張国”に本拠地を移した後も“斯波義寛”は“越前国“奪還を諦めた訳では無く、諸大名の多くが意気の上がらない“六角高頼討伐軍”の陣中で“斯波義寛”だけは意欲満々だった。ここで軍功を挙げる事で“第9代将軍・足利義尚”に“越前国奪還“を認めて貰う事、それが参陣の目的だったからである。

1487年9月30日:

“斯波義寛“は第9代将軍“足利義尚”の“六角高頼討伐軍”に8000人の大軍を率いて参陣した。その彼を“将軍・足利義尚”は総大将に任じている。この“鈎の陣”には、父“朝倉氏景”が1486年に37歳で没し、同年7月に家督と“越前守護職”を相続した、未だ14歳の“朝倉貞景”(9代当主・8代朝倉氏景の嫡男・生:1473年・没:1512年)が参陣していた。

“血統信仰”が社会規範と成っていた当時であるから“家格”上位の“斯波義寛”としては“斯波家”の嘗ての家臣で、しかも“越前の国”を略奪した“朝倉貞景”が同陣する事が屈辱だと訴え、更に、朝倉氏が“越前国”を略奪した事を訴え、その回復を“将軍・足利義尚”に願い出たのである。(長享の訴訟)

しかし、討伐軍の陣地でのこうした内輪揉を嫌った“将軍・足利義尚”は“斯波義寛”の申し立てを取り上げず、立ち消えになった。

=別掲図=三管領家トップの家格にありながら最初に力を失った斯波氏略系図=

3-(1)-⑧:“鈎の陣”戦闘の様子

1487年(長享元年)9月24日:

幕府軍が八幡山、金剛寺を攻めると“六角”方は退却し、野洲河原での合戦となった。“六角高頼“は本拠地”観音寺城“を出て甲賀郡に退却した。“六角高頼”本人は”将軍・足利義尚”を先頭にした大掛かりな幕府方の攻勢に対して赦免の道を探ったと伝わる。しかし横領した土地を手放す事に抵抗する“国人・地侍”等、家臣団は交戦の構えを崩さなかった。

同年 10月4日:

本隊の“将軍・足利義尚”軍は少し遅れて、坂本から琵琶湖を東へ渡り、甲賀郡の入り口“鈎”(まがり・滋賀県栗東市)の“安養寺”に陣を構えた。

3-(2):敵のゲリラ戦に手こずり、思う様に討伐が進まない“足利義尚”軍

1487年(長享元年)10月27日:

足利義尚軍の“浦上則宗”(うらがみのりむね・赤松政則家臣で応仁の乱で赤松氏が山名氏から領国を回復した際の功労者・1481年に主君赤松政則が山城国守護に任じられ、浦上則宗は山城国守護代に補任された・生:1429年・没:1502年)軍が甲賀郡に侵入すると“六角高頼”軍は本拠とした“観音寺城”を棄てて甲賀山中に逃れ、以後、ゲリラ戦に転じた為“足利義尚”軍はその掃討戦に時を費やし、戦闘は膠着状態に陥った。

=鈎の陣訪問記:その1“安養寺”・・2020年1月23日

滋賀県栗東市にある安養寺へは上述した“鈎の陣ゆかりの地”と同じJR草津線”手原駅”で下車、徒歩で約25分程で着いた。寺の由緒書を読むと740年(天平12年)に第45代聖武天皇(在位701年・譲位754年・崩御756年55歳)の勅願で良弁僧正(生:689年・没:774年)が開設したとある。

第9代将軍“足利義尚”が安養寺十二坊の中之坊に”鈎の陣“を敷いた事でこの名刹も兵火に遭い焼失した。今日の姿は写真で示す様に当時の極く一部だけを残す寺院となっている。


=写真説明=
(写真左上):足利義尚が“鈎の陣“を構えた安養寺の境内の案内板。1487年~1489年に”六角高頼“と戦った事等が書かれている。


(写真右上):当初“鈎の陣”は“安養寺”に構えられていたが、戦闘が膠着状態に陥り、長引き、手狭と成った為、北西(上鈎)の“真宝坊”の居館“真宝館”(現在の栄正寺の地=栗東市上鈎270)に移った。“9代将軍・足利義尚”は此の地で病没する。

                         
3-(3):在陣が長引く程に“将軍・足利義尚”と参陣した諸勢力との軋轢が増して行く


在陣が長引くと“将軍・足利義尚”は手狭な“安養寺”から北西(上鈎)に位置する山徒“真宝坊”の居館“真宝館”(現在の永正寺の地=栗東市上鈎270)に移動した。3-(1)-⑤で別掲した“東方山安養寺、並びに後に陣を移した真宝館(現在の永正寺)の地理的関係”図を参照願いたい。

1487年(長享元年)11月:

早くもこの時期に幕府管領“細川政元”が在陣反対を表明した事が記録に残されている。

1487年(長享元年)12月2日:

“六角高頼”に加担する“甲賀衆”が“足利義尚”の陣所に夜襲をかけた。“甲賀忍者”が有名になるのはこの戦いからだとされる。定かではないが“鈎の陣”に参加した“甲賀武士”は53家あり、その中、特に活躍したのは21家だと伝わる。

彼等“甲賀忍者”は大名陣地に火を放ち、火事を起こし、史実として“伊勢貞誠”(将軍の御供衆=将軍の出行に供奉した人物で足利義政の頃から定められた家柄で、太刀を持つ役を担った)の陣で火事が起った事が記録されている。こうして”六角高頼”の行方を掴めない状況に幕府軍は持久戦の態勢に入った。

3-(4):“鈎の陣“に参加した”加賀国守護・富樫政親“の意図、並びに”一向衆“が支配する国への道を辿る事に成る”加賀国“

3-(4)-①:家督争いに“一向衆”の手を借りた”富樫政親“

“鈎の陣“に参加した”富樫政親“の加賀国守護“富樫家”に就いては6-16項:足利義政政治期の前半・12-(2)で記述したので参照願いたい。“富樫家”の家督争いも当時“畠山持国”と“細川勝元”の代理戦争と化した。

“禁闕の変”で奪われた“神璽”を奪還した功績で“赤松政則”が“加賀北半国”の守護に任じられるという事態と成った事で“富樫成春”(富樫氏20代当主・加賀国守護・生年不詳・没:1462年)が1458年に追放され、失意の中に1462年に病没した。その遺児が当時7歳だった“富樫政親”(富樫氏21代当主・加賀国守護・生:1455年?・没:1488年)である。

中央で“応仁の乱”(1467年~1478年)が勃発した混乱に乗じて“加賀北半国守護職”奪還を目指す家臣団は12歳の“富樫政親”を擁立して“細川勝元”の東軍に与した。ところが、弟“富樫幸千代”(生:1460年・没年不詳)が“山名宗全”の西軍に与した為“富樫家”も分断された。(6-16項で記述済み)。

兄弟の争いは1473年に“真宗高田派門徒”並びに、越前国、遠江国守護代の“甲斐敏光”と結んだ弟“富樫幸千代”が兄の“富樫政親”を敗り“加賀国”から追放するという事態と成った。しかし翌1474年“浄土真宗本願寺派”の“蓮如”並びに門徒、更には“加賀国”の武士団と結んだ兄“富樫政親“が弟“富樫幸千代”を加賀国から追放し、家督を奪還したのである。

しかし、この家督奪還劇で“本願寺派門徒”とそれに繋がる国人の力を知った兄“富樫政親”は彼等を危険と感じ、次第に統制を強める事を企てる様に成る。しかし、この事は逆に“本願寺派門徒”とそれに繋がる“国人”達の結束を強める結果を招いたのである。

3-(4)-②:一向衆(蓮如が率いる本願寺門徒)の弾圧を“越中国”砺波郡の城主“石黒光義”と組んで進めた“富樫政親”

1475年(文明7年)~:

北陸の浄土系諸門を次々と統合し、武力闘争で大きな力を発揮した“蓮如”(浄土真宗本願寺派第8世宗主・生:1415年・没:1499年)が率いる本願寺門徒の力を家督奪回の戦いで利用した“富樫政親”であったが、上述した様に、1475年(文明7年)から門徒、並びにそれに繋がる国人への弾圧を開始した。

1481年(文明13年)6月:

“加賀国守護・富樫政親”の弾圧に晒された本願寺門徒等は“越中国・瑞泉寺”(真宗大谷派寺院)“に逃げ込んだ。こうした“本願寺門徒衆”の動きは“越中国・砺波郡”(となみ=富山南西部)の“福光城主・石黒光義”にも恐怖感を与え、彼も“富樫政親”と結び、門徒の弾圧を始める結果と成った。

3-(4)-③:砺波一向一揆で“福光城主・石黒光義”が討たれる

1481年(文明13年):

“石黒光義”は衆徒が逃げ込んだ“越中瑞泉寺”(真宗大谷派寺院)の襲撃を計ったが、逆に“越中一向一揆衆”に”田屋川原”の合戦で討たれる結果となった。(砺波郡一向一揆)以後、越中砺波郡には“瑞泉寺”の勢力が浸透して行ったのである。

3-(4)-④:“富樫政親”が“鈎の陣”に参陣、そしてその理由

1488年(長享2年)6月5日~9日:

“越中国”だけで無く“加賀国”でも“本願寺門徒衆”の勢力は強大なものに成って来ていた。既述の通り幕府が政争の道具として介入した事もあり“富樫家の家督争い”は収まらず“加賀国”は分断状態にあった。1474年に弟“富樫幸千代”を追い出し、家督を奪還した“富樫政親”は“加賀国”の一国支配を“室町幕府第9代将軍・足利義尚”(在職1473年~1489年・生:1465年・没:1489年)に認知させる為“鈎の陣”へ参陣した。

“将軍・足利義尚”に訴え事があった為の参陣という点では既述した“斯波義寛”と同じである。しかし“富樫政親”は、この参陣費用を賄う為に重税を課した事が悲劇と成る。

3-(4)-⑤:“富樫政親“が”一向衆“に討たれる

1488年(長享2年)6月5日~6月9日・・“長享の一揆”

“富樫政親”の課した重税に一向宗門徒、並びに国人層が反発し、嘗て“加賀南半国”の守護で“富樫政親”の叔父“富樫泰高”(当時70歳・生:1418年・没:1500年?)を守護に擁立して“富樫政親”を“高尾城(金沢市)”に攻めた為、彼は自害に追い込まれるという悲劇となった。(長享の一揆)

3-(4)-⑥:その後の“加賀国”

1488年(長享2年)~1580年(天正8年):

“富樫政親”の死後“加賀国”の守護職には一揆側が擁立した“富樫泰高”が就いた。“富樫泰高”の没年は明らかでないが1504年以前であると考えられている。その後も“富樫泰高“の子孫が守護職に就いたが“一向一揆側”の力が強く、政治の実権は第8世法主“蓮如”(生:1415年・没:1499年)の3人の息子(松岡寺住持蓮綱・光教寺住持蓮誓・本泉寺住持蓮悟)が握る“傀儡守護”状態の国となった。

この為“加賀国は百姓の持ちたる国”と呼ばれる状態が1580年(天正8年)11月に“織田信長(柴田勝家)“に拠って“加賀一向一揆”が平定される迄、続くのである。

3-(4)-⑦:“砺波一向一揆”(1481年)並びに“長享の一揆”(1488年)関連史跡訪問記

A : 越中“瑞泉寺”(浄土真宗大谷派寺院)・・訪問日2020年7月23日(木曜日)

住所:富山県南砺市井波3050
創建年:1390年(明徳元年)・・開基“綽如上人”(しゃくにょ・本願寺派第5世宗主・大谷派第5代門首・生:1350年・没:1393年)
訪問記:
文中、記した様に、福光城主”石黒光義”が“越中一向一揆“衆に討たれ、以後、一向宗の拠点として勢力を増した寺院である。雨中、金沢のホテルをレンタカーで出発、1時間程で“瑞泉寺”に到着した。コロナウイルス禍が全国に拡大し、最も感染が拡大し続けていた東京からの訪問は憚られたが、レンタカーのプレートナンバーが“福井”であった事に救われた。“瑞泉寺”の近くの町並みは”門前町”の雰囲気漂う古都の歴史を感じさせるものであった。

四連休の初日という事もあり、朝10時ではあったが、既に境内には多くの参詣者が見られた。寺内の略年表に拠ると3度(1580年、1762年、1872年)の火災に遭い、主要伽藍等が焼失したが、その都度再建され、現在の本堂は1885年(明治18年)に、そして“太子堂”は1918年(大正7年)に再建されたとある。尚、添付した写真は山門で、1809年(文化6年)に再建され1872年(明治5年)の火災を免れた富山県の指定重要文化財である。

寺内の略年表に1460年(長禄4年)に“蓮如上人“の次男”蓮乗“(れんじょう・生:1446年・没:1504年)が”瑞泉寺“の第3代住持と成ったとある。父・蓮如が“加賀一向一揆”の切っ掛けと成った“富樫家”の内紛(1474年)に巻き込まれ、追われた時に次男の”蓮乗“が”越中国・瑞泉寺“に逃れて来たとの事である。

宗祖“親鸞聖人”700回遠忌記念事業として1966年(昭和41年)に完成した宝物殿には約50点の法宝物が展示されている。宝物殿内の略年表には“福光城主・石黒光義”が”富樫政親“と結び門徒の弾圧を強め、1481年(文明13年)に“瑞泉寺”の襲撃を計ったが逆に”門徒衆”との”田屋川原”合戦で討たれる結果になった事を裏付ける記述が見られた。

又、案内を頂いた方からは、当時“瑞泉寺”内には200人程の宗徒が立て籠もったというお話もあった。“瑞泉寺”の周囲はまるで城壁の様に石垣で囲まれて居り、当寺が“越中一向一揆”の拠点であった事を裏付けていた。

=瑞泉寺写真説明=
(写真左上):1809年(文化6年)に再建され、1872年(明治5年)の火災を免れた富山県・指定重要文化財の山門
(写真右上):山門の前に立つ“瑞泉寺”案内版
(写真左下):1390年(明徳元年)本願寺第5代“綽如(やくにょ)上人”によって創建された事を記す石碑。寺の周囲はこの台座石の様な大きな石垣で囲まれていた
(写真右下):蓮如は“瑞泉寺”の住持にはなっていない。しかし此の地に於ける蓮如の影響力は大きく宝物殿には蓮如に関するコーナーが設けられていた
B:“福光城趾”訪問記・・2020年7月23日(木)

住所:富山県南砺市福光

福光城の歴史:
1183年(寿永2年)とあるから平清盛没(1181年閏2月)後2年経った頃の築城である。築城者は”石黒光弘”である。彼は源平期に木曽義仲(生:1154年・没:1184年)に従って倶利伽羅峠の戦い(1183年5月11日、富山県小矢部市ー石川県河北郡津幡町)で活躍し“越中国”を代表する国人であった。

“福光城”はその後も300年に亘って“石黒氏”の居城であり、城下町も栄えたとある。しかし“一向一揆“が勢力を持つ様に成ると”石黒氏“の一向宗徒との戦いが始まり、1481年加賀国守護の”富樫政親”の弾圧から逃れた一向宗徒の拠点と成った”瑞泉寺”を焼き払う様、要請された福光城主”石黒光義”が“瑞泉寺”討伐に向かい”田屋川原”合戦(山田川の戦い)で敗れ、自害するという展開と成り”福光城”は1481年を境に廃城に向った。

訪問記:
“瑞泉寺”訪問を終え、雨が強く降る中をレンタカーで”福光城”に向った。写真で示す様に540年も前に廃城になった城址には訪れる人も殆どいないのであろう、途中に史跡への道を示す標識も無く、探すのに苦労した。土地の女性にお聞きして、まるで反対方向に走った事を知ったが、瑞泉寺とは同じ“南砺市”に在る史跡であり、間違えなければ“瑞泉寺”からは車で、20分も掛からない距離であろう。

添付した写真の様に今日の”福光城趾“は、僅かな石垣と城址の説明版だけで、当時栄えたとされる、城の様子、並びに”城下町”を想起させる遺跡は殆ど残されて居らず、残念であった。

=写真説明=

左:“福光城趾”は南砺市指定文化財とあるが、石垣が僅かに残るだけであった
右、下:“福光城趾”正門前に残る石垣。郭を囲んだであろう石垣が周囲に残されている
C:“高尾城”訪問記・・2020年7月22日(水)

住所:石川県金沢市高尾町

高尾城の歴史等:

加賀国守護の“富樫政親”が一向宗門徒、並びに国人層に攻められ自害した“長享の一揆”(1488年長享2年6月5日~6月9日)の舞台となったのが”高尾城”である。読み方は”たこじょう、たこうじょう”である。現在県教育センターがある”ジョウヤマ”と呼ばれる標高190m程の丘陵を中心に南北1500m、東西も1500mに及ぶ半円形の広大な地域に土塁、石積、堀切が発掘、確認されている。この高尾城は単体の城郭では無く、小規模の城砦の集合体から成る巨大な中世城郭だった事が判明している。

訪問記:

福井県の坂井市からレンタカーで石川県教育センターを目指した。北陸自動車道の白山ICから30分程で到着し、教育センター内の駐車場が使用可能との事で教育センターの方への挨拶と共に高尾城址見学についての情報、そしてパンフレットを頂いた。高尾城址に登る入り口は教育センターから直ぐの場所にあり、其処から山頂の見晴らし台まで20分も掛からずに到着。記述した様に1488年(長享2年)に“一向一揆”(長享一揆)に敗れ、自害に追い込まれた加賀国守護”富樫政親”の城跡である事が山頂の案内版にも明記されていた。

天気に恵まれたお蔭で添付の写真に見る様に金沢平野を一望出来た。“長享の一揆”以降は、1580年11月に“織田信長(柴田勝家)”に拠って“加賀一向一揆”が平定される迄の凡そ100年近くに亘って”加賀国”は”百姓の持ちたる国”と呼ばれ、実質的に一向宗徒等に拠って統治される訳だが、その切っ掛けと成った歴史上重要な戦いが起きた場所がこの”高尾城址“であった。


=写真説明=
写真左上:標高190mとされる高尾城址見晴らし台
写真右上:見晴らし台から望む金沢平野
写真左中:高尾城址見晴らし台から県教育センターに山道を下る
写真下:見晴らし台にある高尾城址説明版
D:富樫家御廟谷訪問記・・2020年7月22日(水)

加賀国守護”富樫家”累代墓所:1939年(昭和14年)5月10日付で石川県の指定遺跡になっている
住所:石川県金沢市額谷町

訪問記:

県教育センターで頂いたパンフレットに“御廟谷”が周辺施設として載せられていた。石川県の指定史跡とある。 “高尾城址”見学後に金沢市農林部森林再生課に電話を掛け、行き方を訪ねると、ベテラン職員でないと分からないので調べた上で折り返し電話を頂けるとの丁寧な対応があり、10分程後に車での詳細な道順を教えて頂いた。

距離的には大した事が無いのだが、車1台が漸く通れる林道、しかも“御廟谷”を示す標識が一切出て来ない道を凡そ2km走った。果たして史跡に辿りつけるのか、と半ば諦めた処で添付の写真に示す石碑が出て来た時はホッとした。

林道に少し広く成った個所があり、そこに車を止めた。そこからは、農林部森林再生課の方が”熊が出る危険がありますので充分気を付けて下さい”とアドバイスのあった遊歩道を歩く事になる。電話の指示では200m程との事であったが、梅雨が続く気候であり、草木が生い茂る遊歩道は連日の雨で糠っており、しかも何の標識も無い行程は長く感じた。

幸いに雨は降って居らず、漸く”御廟谷”と書かれた古びた木の標識を見付け、その側の小高い場所に3基の”富樫家”の墓を見付ける事が出来た時は”史跡探訪”の喜びを同行の友人と大いに分かち合った。
 

=写真説明=
(写真左上)狭い林道を車で走り漸く石碑を見付け駐車する
(写真右上)1488年6月7日、高尾城が落ち(長享の一揆)討死した遺骸を葬った2基の石碑であると書かれた説明版
(写真中左)
一向宗徒に討たれた富樫政親等の墓
(写真中右)
1939年5月に石川県の指定史跡になった同上墓碑。今日では訪れる人も殆ど居ない様だ
“熊がこの近くに出没しています。危険ですから十分注意して下さい“の標識のある遊歩道を歩いた。
3-(5):将軍“足利義尚”の夢と現実とのギャップが彼を腐敗させて行く

3-(5)-①:寵愛する側近“結城尚豊(尚隆)”を“近江国守護”に補任し、政治を任せた事から破綻を招く

1488年(長享2年)1月:

将軍並びに幕府権威の復活を夢見て“六角高頼”追討に華々しく出陣した処までは良かったが、長引く滞陣中に“将軍・足利義尚”は“結城尚豊(尚隆)”初め“二階堂政行”等、側近を重用し政治を任せた。“将軍・足利義尚”と愛人関係にあったとされる若い奉公衆で側近の“結城尚豊(尚隆)”を“六角高頼”に代えて“近江国守護”に補任した(1488年1月)露骨な“近習優遇人事”に対して、時の第26代幕府管領“細川政元”(この時点で彼として2回の幕府管領職にあった・在職1487年~1490年・当時22歳)をはじめ、他の守護大名からも批判の声が上がったと伝わる。

こうした人事、政治姿勢が幕府軍全体の士気を弛緩させる事になった。重用された側近達は“将軍・足利義尚”を遊興に耽らせる事に拠って、更に政治の実権を握って行った。彼等は“将軍・足利義尚”を巧く取り込み、政治を専横し、寺社本所領を兵粮所にする名目で事実上横領するという侵略行為を行った。こうした事態は”将軍・幕府権威の復活“を夢見て徳政、武威の顕示の為に“六角高頼”追討の出兵をした“将軍・足利義尚”の目的とは真逆の状況となった。
 
この事態に“荘園領主“達は父”足利義政“に関与を求め、結果として“足利義政”の政治的発言力を復活させた。独り立ちを希求して来た“将軍・足利義尚”にとっては最悪の事態を招いたのである。
 
士気の弛緩、不満から、滞陣していた武将の中から“六角高頼”方に内通する者が現われ、“六角高頼”は、こうした“鈎の陣”の乱れた状況に付け入り“甲賀郡”や隣国の“伊賀”の国人達にまで“将軍・足利義尚”軍への抵抗を呼び掛けた。この事も在陣を更に長引かせる事になった。

史実としての裏付けは取れていないが、こうした状況に当初から討伐軍派遣に消極的であった幕府第一の実力者、幕府管領職の“細川政元”は“将軍・足利義尚“の権勢が拡大しない様、秘かに“六角高頼”と結んでいたとの噂も伝わった。それ程“鈎の陣”の内情は腐敗していたのである。

3-(6):“足利義熈“(あしかがよしひろ)に改名する

1488年(長享2年)5月:

この頃“将軍・足利義尚”は“足利義熈“(あしかがよしひろ)と改名している。心機一転をはかる為であったのであろうか。そして身辺の僧や女房達が訴訟当事者からの依頼を受けて訴訟に介入する事を禁ずる命令を出している。

有力者の威を借りて裁判に介入する事は鎌倉時代の“建武式目”(1336年11月、室町幕府の施政方針を示した式目。全17条)の中でも禁じられて来た事であり“第9代将軍・足利義尚”として独り立ちした“代始め”を意識しての“禁令”発布であったが“鈎の陣”で直面していた現実は上記の様であり“将軍権威回復の実現”という彼の夢とはかけ離れたものだった。

“六角高頼”討伐が思う様に進まない現実、討伐に及び腰の大名達、という状況下で側近重用人事に堕した政治は側近達の“寺社本所領侵略”が進むという悪循環を生んだ。こうした“鈎の陣”に於ける現実と描いた構想との大きなギャップに“第9代将軍・足利義尚”は次第に精神のバランスを欠いて行った。

4:“足利義尚(義熈)”が後継を残さず陣没する

1489年(長享3年)3月26日:

“将軍・足利義尚(義熈)”の在陣が1年5カ月と長引くにつれて“鈎の陣所”は、建物も次第に立派に成って行った。陣所は“大樹御所”と呼ばれ“将軍御所”と化した。京都から公家や武家等の訪問もあり、華やかな儀礼も行われ、和歌や連歌、更には蹴鞠も行われた。“将軍・足利義尚(義熈)”はこの陣所で学問に耽る生活を送る様になった。

しかし、出陣の理想と現実とのギャップに精神のバランスを崩した彼の日々の生活は過度の“酒色(飲酒と女遊び)“に塗られ、健康を害した。死の直前には酒と水ばかりを飲んでいたとされる。彼の死因は”脳溢血“とする説”荒淫“(こういん=過度に情欲に耽ること)によるものとの説があるが、1489年3月に24歳の若さ、しかも後継者を残さずに陣没したのである。

=鈎の陣訪問記:その2“真宝館趾”(現在の永正寺辺り)訪問記=2020年6月17日


1月に訪問した“鈎の陣”その1”安養寺“の北西に位置する鈎の陣その2”真宝館趾”は現在の”永正寺”の辺り一帯に在ったとされる。(滋賀県栗東市上鈎)当時の”真宝館趾”は”安養寺”から北西方向のそう離れていない位置にある。

“鈎の陣ゆかりの地”を訪問した時と同日の訪問であり“栗東観光案内所”のスタッフが懇切丁寧に“永正寺”へ歩く道のりも教えて呉れた。我々は時間の都合もあり“鈎の陣ゆかりの地”への立ち寄りも兼ね、地元のタクシーを利用した。(待ち時間を含め1200円)
 
  ”安養寺“周辺と異なり、JR手原駅、旧東海道からも近い為か“真宝館趾”(現在の永正寺辺り)の周辺は宅地開発も進み、当時の土塁や堀の痕跡が僅かに残されているものの、写真に示す様に当時の”陣趾”の面影は殆ど残されていない。訪問後は“永正寺”からJR手原駅まで歩いたが20分程であった。
 

  =写真説明=
左上:永正寺門前にある由緒書

右上:由緒ある寺としては質素な寺門であった

右下:永正寺境内。この本堂以外に他の主たる建物は無い
4-(1):最愛の息子“将軍・足利義尚(義熈)”の陣没を嘆く母“日野富子”の様子を伝える記事

1489年(長享3年)3月30日:

将軍“足利義尚(義熈)”の遺骸は1年7カ月前に華々しく出陣した時と同様の大行列で帰京した。母“日野富子”の輿も随伴したと伝わる。一行が京都一条に到着し“等持院”に向かう“足利義尚(義熈)”との別れの際には母親“日野富子”の輿から“声も惜しまぬ”泣き声が漏れ聞こえ、群がった人々も涙を流さぬ者は無かったと“親長卿記・宣胤卿記・山科家礼記“が伝えている。

=等持院の写真説明=
訪問日:2012年1月、2018年10月
住所:京都市北区等持院北町
交通機関:京福北野線“等持院”駅下車~徒歩凡そ10分

等持院・霊光殿にある足利歴代将軍の木像に就いて

通常“室町幕府将軍は15代”とするが“等持院・霊光殿”に並ぶ“足利歴代将軍”の木像は13体である。6-14項で4代将軍“足利義持”の嫡子“足利義量“は父・足利義持から大酒を窘められる等、素行に問題が多かった事、第5代将軍職には就いたものの、在職2年に満たない間に没した為、再び父“足利義持”が将軍職に復帰した事を記した。

又、後の項で詳述する事になるが、室町幕府末期に、第13代将軍“足利義輝”が三好義継、松永久秀(松永弾正)の長男“松永久通”並びに“三好三人衆”等の約1万の軍勢に“二条御所“を襲われ、殺害されるという大事件が起きる。(永禄の変・1565年5月19日)

その後、第14代将軍職に就いた“足利義栄”(あしかがよしひで・生:1538年/1540年説・没:1568年)は入京する事も出来ない中に腫物が悪化して将軍在職僅か7カ月で没した。

この第5代と第14代の二人の将軍は等持院では歴代将軍として数えておらず、この二人の木像が置かれていないのである。

5:“享徳の乱”終息後、僅か5年後に18年間に亘る“上杉両家”の内紛“長享の乱”が勃発する

長享の乱前半

5-(1):しばしの間平穏を取り戻していた関東地区

28年間に亘って続いた“享徳の乱“が1482年11月に”足利義政“と”古河公方・足利成氏“との間で和睦が成立し終息した。関東地方では”下総国“(茨城県の一部、千葉県の一部)の”千葉孝胤“(ちばのりたね・生:1459年?・没:1521年?)が”太田道灌“との戦いで”臼井城“を1483年に奪還した戦闘もあり、全ての戦闘が収まった訳では無かったが、一応の平穏が戻った期間である。

“享徳の乱“終結の最大の功労者であった扇谷上杉家・家宰”太田道灌“も江戸城に戻り、周辺の人々が一時の平和を楽しんでいた事が”太田道灌“に招かれ1485年10月に江戸城に滞在した歌人“万里集九”(ばんりしゅうく・近江国速水氏が出自・東福寺で僧になったと伝わる。その後還俗し斎藤妙椿とも交友があった・生:1428年・没年1507年?)の残した葉書が裏付けている。

5-(2):この頃“京”では“足利義政”が待ち望んでいた“東山荘”(銀閣寺)に入る

1483年(文明15年)6月:

京都では“足利義政”が、永らく待ち望んでいた東山山荘(銀閣寺)に入り、文化の道を極める生活に入った。そうした資金を得る為の“遣明船”を1483年3月に発する等の政治活動に就いては既述の通りである。

5-(3):“太田道灌“最後の戦いと成った”千葉孝胤“との戦闘

1483年(文明15年)10月~1484年(文明16年)5月:

“臼井城“を奪還した”千葉孝胤“討伐の為“太田道灌”は江戸城を出陣し”千葉孝胤“に味方した“上総武田家”の拠点“長南城”を先ず陥落させ(1483年10月)、1484年に“下総国”東葛飾に“馬橋城”を築き千葉家攻略の拠点とした。これに対抗して“千葉孝胤”は“本佐倉城”を築き、下総国支配の拠点として徹底抗戦し“太田道灌”を“江戸城”に退却させている。この戦闘以降、関東地区は戦闘の無い状況が続いた。
 
 
5-(4):“太田道灌”が主君に暗殺される。この大事件がその後18年間に亘って“両上杉家”が戦う“長享の乱”の切っ掛けとなった

1486年7月26日:

扇谷上杉家の家宰“太田道灌”が主君“上杉定正”の招きで扇谷上杉家の居館“相模国糟屋館”を訪ねここで主君“上杉定正”の手の者に殺害されるという大事件が起きた。太田道灌は54歳であった。

=何故扇谷上杉家当主“上杉定正”が家宰“太田道灌”暗殺に至ったのか=


①:享徳の乱の活躍で”豊島家”を滅ぼした事で所領を大きく拡大させ、江戸から武蔵野地方あたりまでを勢力下に置いた
②:長尾景春の乱で本家山内上杉家の”家宰“長尾家が衰退し、相対的に”太田道灌”が台頭した
③:太田道灌の勢力伸長に扇谷上杉家当主”上杉定正”が将来に対する危機感を覚えた。(第二の長尾景春になるのではとの恐れを抱いた可能性)


(注記):“上杉定正状”と呼ばれる史料がある。信憑性に欠けるとされるが、そこには“太田道灌”が本家“山内・上杉家”当主の“上杉顕定”に謀反を企てていた為“上杉定正”が誅殺したとある。

しかし乍ら“太田道灌”が誅殺された後、嫡男“太田資康”(おおたすけやす・生:1476年・没:1513年)は“山内上杉家”に庇護され、又、両上杉家による“長享の乱”が勃発すると“山内上杉顕定”方に与している。こうした史実からも“太田道灌“が“山内上杉顕定”に逆心を抱いていたとする“上杉定正状”の記述は信憑性に欠ける。

5-(5):先ず“扇谷上杉家”の内紛が起きる・・扇谷上杉家“上杉定正”軍が“江戸城”に迫る

“太田道灌”を暗殺した“扇谷上杉家”の当主“上杉定正”は後継の家宰に“太田六郎右衛門”(太田道灌の養嗣子説等、諸説があるが不明・生没年不詳)を命じた。未だ10歳ではあったが嫡男“太田資康”を擁する太田家一族は猛反発した。それに対し“扇谷・上杉定正”は江戸城に軍勢を派遣するという強行手段に出た。

これに対して“太田家主従”は“太田資康”を擁して江戸城を出“山内上杉家”の庇護を求めるべく“山内上杉家”の居城“鉢形城“に入った。”太田道灌“が暗殺された事を切っ掛けとして平穏だった関東地方に“扇谷上杉家”の家宰後継者を巡って内紛が勃発し、それが“山内上杉家”を巻き込む“両上杉家の内紛“18年間に亘る”長享の乱“という戦乱状態を再び齎(もたら)すのである。

5-(6):室町幕府は中央(京都)並びに関東(古河公方・関東管領両家)の統治機能が共に破綻しつつあり、そうした状況下で“両上杉家”が武力衝突へと進む

京では、第9代室町幕府将軍“足利義尚”が1487年9月に華々しく“六角高頼”討伐の為“鈎の陣”に進発していたが、その成果は上がらなかった。又、関東では“古河公方・足利成氏”は、27年間も続いた“享徳の乱”終息(1482年11月)後“古河”に留まっており、関東管領“山内・上杉憲定“家と“扇谷・上杉家”とが、一触即発の状態であった。

関東統治の要であった“古河公方家”もう一方の要の“両上杉家”がこうした状態であった事は室町幕府が既に関東の統治を放棄していた状態であったと言える。事実“将軍・足利義尚”並びに室町幕府の力は関東には及んでいなかったのである。

室町幕府からの統制を受ける訳でも無く、又、古河公方の支配下に置かれている状態でも無い関東管領家”山内・上杉顕定”は“扇谷・上杉家“の勢力拡大を危惧し、その対策を最重要課題とする状況下にあった。“扇谷・上杉定正”の“河越城”を拠点にした自家の領国拡大に精を出す動きは益々活発化しており、そうした状況下で“太田道灌暗殺”事件となり、それが発火点となって“太田家主従”の山内・上杉家拠点“鉢形城”への亡命という展開と成った。こうした状況から、関東地域は、今度は“山内・扇谷”の両上杉家による武力衝突が展開されるのである。

5-(6)-①:“長享の乱”に於ける“両上杉家の拠点城”訪問記

:山内上杉家拠点”鉢形城”訪問記=2020年7月1日

住所:埼玉県大里郡寄居町大字鉢形
築城主:
長尾景春(1476年~1480年の長尾景春の乱を起こす・生:1443年・没:1514年)
交通手段:
東京杉並の自宅から車で訪問。ナビには74㎞と出た。関越道練馬インターに乗り、花園インターで降りた後は、国道140号線を走り“鉢形城公園”に到着。
訪問記:
先ずは公園内にある”鉢形城歴史館“(開館AM9:30~PM16:30、休館は月曜日)に入った。館内には(後)北条氏時代の“上野国征圧”の拠点となったこの難攻不落の名城の歴史をパネル並びに映像史料で紹介していた。

1590年、豊臣秀吉の小田原征伐が始まり、前田利家、上杉景勝、真田昌幸、浅野長政、本田忠勝、鳥居元忠等の連合軍35,000人に包囲され,(後)北条方は約1カ月の籠城戦を耐えたが、遂に開城したとある。此の名城も(後)北条氏の滅亡と共に廃城になったが、城址は今日、日本100名城に選定されている。


=(写真説明)=
写真左上:鉢形城は関東管領“山内・上杉氏”の拠点であり、後北条氏時代になり、北条氏邦(後北条氏第3代当主北条氏康の四男・豊臣秀吉の小田原攻めに際し鉢形城で籠城・生:1541年・没:1597年)が整備し上野国支配の拠点とした。地図の鉢形城の右下に扇谷上杉家の本拠地“河越城”の位置が示されている。
写真右上:戦国時代の城郭の土塁、空堀などが残る城趾を巡る事が出来る。
写真右下:鉢形城歴史館の前で。2週間前までに申し込めばボランテイア案内人に拠る鉢形城ガイドツアーがあるが我々はスケジュールの都合で出来なかったのが残念であった。

:=扇谷上杉家の拠点”河越城”訪問記=2020年7月1日訪問

住所:埼玉県川越郭町2-13-1

築城:1457年に扇谷上杉持朝が太田道真、道灌父子に命じて築く

訪問記:
扇谷上杉氏の事実上最後の当主”上杉朝定“が1537年に北条氏綱に河越城を奪われその奪還を試みたが1546年の戦い”日本三大奇襲”と伝わる”河越城の戦い”で北条氏康に敗れ、以後は(後)北条氏の北武蔵支配の拠点城となったとの説明を受けた。

徳川幕府になってからの城主は、酒井忠勝(大老)、堀田正盛(老中)、松平信綱(老中)、柳沢吉保(大老)の名が連なる様に幕府の有力大名で占められた。“知恵伊豆”と称された”松平信綱“(生:1596年・没:1662年)の時期に拡張、整備され、本丸、二の丸、三の丸、各曲輪、3つの櫓、13の門から成る約32万6千平米(10万坪)の城郭となった。

今日見学した”本丸御殿“を写真に示すが、1846年(弘化3年)に”二の丸御殿“が焼失した跡に1848年(嘉永元年)に再建されたものである。“長享の乱”時代の”河越城”の史跡が残されていないのが残念であった。

交通手段:JR川越線の”川越駅”、西武新宿線”本川越駅”、東武東上線を利用し、そこか らバスが利用出来ると書かれている。コロナウイルス問題で公共交通機関の利用自粛という状況下でもあり、私達は上記した”鉢形城”~”岩付城(岩槻城)”~“河越城”の3ケ所を1日で巡る車での訪問であった。


=(写真説明)=
写真左:扇谷上杉氏の拠点城が太田道真、道灌父子によって築かれた事を最上段に記している
写真右:1848年に再建された本丸御殿が今日でも残る。入館して各部屋を見る事が出来る
5-(7):同時期“伊勢宗瑞”(=伊勢盛時=北条早雲)が“小鹿範満”を討ち果たし “今川氏親”を家督に付ける戦いをしている・・“伊勢宗瑞”出世の糸口となった戦闘である

1487年(長享元年)11月:

前項6-17項35-(2)で記述したが“今川義忠”戦死(1476年)後の家督を巡っての争いが起り“伊勢新九郎(北条早雲)”が調停に入り、甥で当時未だ幼児だった(当時3歳説、5歳説あり)“龍王丸”(後の今川氏親)が成長するまでの繋ぎとして“小鹿範満”を“家督代行”に就けるという折衷案を出し、取りあえず問題を解決した。

ところが“小鹿範満”は“龍王丸”(後の今川氏親)が15歳に成り、室町幕府も正式に家督を認めた後も一向に譲ろうとしなかった。この為“今川家”では再び家督問題を巡っての内紛と成り、叔父の“伊勢宗瑞”(後の北条早雲・生:1456年・没:1519年)が幕府の要請もあって、駿河国に下向した。“伊勢宗瑞”は“龍王丸”を補佐し“石脇城”(焼津市)に入り、軍備を整え、1487年11月に“小鹿範満”と弟“小鹿孫五郎”を討った。

その後“龍王丸”は“駿河館“に入り1489年に元服して“今川氏親”を名乗り、正式に今川家当主に成った。“伊勢宗瑞”は以後、京都には戻らずに今川家の客将として残り“興国寺城”(沼津市)に所領を与えられた事を皮切りに、ここを拠点として“伊豆国征圧”を成し遂げ、続いて“相模国征圧”へと乗り出すのである。

5-(8):“太田家主従”が“鉢形城“に入った事を“扇谷上杉家”を討つ“大義名分”が立ったとして“山内・上杉顕定”が動いた事で“長享の乱”が勃発する

1487年(7月20日から長享元年)閏11月:

“山内上杉顕定”には“関東管領家の自負”があり“太田道灌”の活躍で勢力を伸長した“扇谷上杉家”が関東地方南部をほゞ領土化した事を脅威と考えていた。

扇谷上杉家の“太田資康”以下“太田家主従”が江戸城を出て庇護を求めて“山内上杉家”の居城“鉢形城“に入った事が”両上杉家“が対立する起点となった事は既述の通りである。

この事態を“扇谷上杉家”を討つ大義名分が出来たと考えた“山内上杉顕定”が討伐への動きを開始した事で“享徳の乱“並びに”長尾景春の乱“では共闘した両上杉家が戦う事態に成った。又、この動きに“古河公方・足利成氏”並びに“長尾景春”が“扇谷・上杉方”に与して参戦する事に成った結果、単なる両上杉家の内紛に止まらず、関東全域を巻き込む騒乱状態に再び陥ったのである。

そして、以後1505年(永正2年)3月迄、実に18年間に及ぶ両上杉氏の内紛“長享の乱“が開始された。

“長享の乱”の最初の戦闘は“越後上杉家当主・上杉定昌”(当時34歳・上杉顕定の実兄・生:1453年・没:1488年)が“白井城”(群馬県渋川市白井)から出陣し、扇谷上杉家方の“長尾景長“(この家は主家山内上杉家に背き、足利長尾家として長尾景春に属していた、当時長尾景長は18歳と若かった為、叔父の長尾房清が後見していた・生:1469年・没:1528年)の拠点、下野国足利の“勧農城”(かんのうじょう=岩井山城・栃木県足利市岩井町・1590年豊臣政権によって廃城となる)攻撃であった。

5-(9):“長享の乱“に於ける”両上杉家“の戦力内訳

=山内上杉家方=

①上杉顕定・・うえすぎあきさだ・当時33歳・関東管領・山内上杉家11代当主・上野国、武蔵国、伊豆国守護・生:1454年・没:1510年
②上杉定昌・・当時34歳・越後上杉家当主・上杉顕定の実兄・生:1453年・没:1488年
③上州一揆・・上野国(群馬県)の国人達が守護山内上杉氏の軍事力を構成したもので15∼16世紀に活躍した。旗頭であった長野氏は後に戦国大名に成長する
④太田資康&一族、被官

⑤千葉自胤・・ちばよりたね・当時41歳・武蔵国、武蔵千葉氏第2代当主・生:1446年・没:1494年

=扇谷上杉家方=

①上杉定正・・この時点で44歳・扇谷上杉家当主・相模国守護・生:1443年/1446年説・没:1494年
②古河公方:足利成氏・・この時点で49歳・生:1438年/1434年説・没・1497年

③長尾景春・・この時点で44歳、最終的には嫡男・長尾景英と敵味方に分かれて戦ったとされる・生:1443年・没:1514年
④三浦義同・・みうらよしあつ・扇谷上杉家から新井城主”三浦時高”の養子に入る。当時36歳・幕府相模国守護代・平安時代から続いた相模三浦氏の事実上最後の当主と成った。彼の娘が太田資康の妻という関係であった。(生:1451年/1457年説あり・没:1516年)

⑤長尾房清・・足利長尾家・当初は山内上杉方であったが主家を裏切り扇谷上杉方に付いた・生年不詳・没:1504年?

5-(10):緒戦を優位に戦った“山内・上杉顕定”だったが、先鋒を担った実兄“越後上杉定昌”が敗れ、自害に追い込まれる

1488年(長享2年)2月:

“山内上杉顕定”軍は“上野国”から出陣し敵方として戦う“古河公方・足利成氏”に与した“長尾景春“軍を敗っている。

1488年(長享2年)3月24日:

“山内・上杉顕定”の実兄“上杉定昌”(生:1453年・没:1488年)は、上野国“白井城”に在陣し“長享の乱”の発端と成った“勧農城”攻撃を行い、先鋒としての役割を担った重要な戦力であったが、従者共々自害に追い込まれた。35歳であった。

彼の死については、家督争いをしていたと伝わる弟の“上杉房能”(うえすぎふさよし・生:1474年・没:1507年)を擁立しようとする“長尾能景”(ながおよしかげ・上杉房定、上杉房能の2代に仕える・越後守護代・生:1464年・没:1506年)等の陰謀説、扇谷上杉方に拠る謀殺説、更には白井城の旧城主“長尾景春”一派に拠って襲撃された等の諸説があり、特定されていない。( 下記別掲図参照)

“上杉定昌”は父“上杉房定”と同様、風流人として有名であり、訃報に触れた連歌師“宗祇”(いのおそうぎ・公家や細川政元、周防の大内氏、若狭の武田氏、能登の畠山氏、越後の上杉氏等、各地の有力大名を訪ねている、箱根湯本の旅館で没した・生:1421年・没:1502年)が彼を称して“無双の仁慈博愛の武士”であったと語った事が伝わる。

(別掲図)“越後上杉家当主・上杉定昌”と弟“上杉房能”を示す系図

上記した自害した“上杉定昌”と家督争いをした弟“上杉房能”等の関係を知る助として下記を参照願いたい。(出典:山田邦明著 享徳の乱と太田道灌)

5-(11):“両上杉家”当主同士が戦った総力戦“須賀谷の戦い”

以下に就いては別掲図“長享の乱、前半の戦況”を理解の助に参照されたい。
1488年(長享2年)5月:

“山内・上杉顕定”は支援の為“白井城”に入っていた父(当時57歳)“上杉房定”(享徳の乱終息の決め手と成った古河公方・足利成氏と足利義政の和睦交渉の仲介役を務めた人物・越後国守護・信濃国半守護・生:1431年・没:1494年)と共に扇谷・上杉家の拠点“相模国”(神奈川県)まで進軍した。

5-(11)-①:“相模国”に攻め入った“山内上杉顕定”軍と“扇谷上杉定正”軍の一進一退の攻防が続く

“山内上杉顕定”軍は相模国への侵攻を続け、扇谷上杉氏の居館”糟屋館“に迫った。武蔵国(東京都全部、埼玉県全部、神奈川県の一部)の”河越城“に居た”扇谷上杉定正“は兵力には劣るものの、戦上手であり、すぐさま出陣し、挟撃作戦で”山内・上杉顕定”軍を打ち負かした。

“山内・上杉顕定”軍も1000人を越える兵力で“扇谷上杉家”方の“七沢城主・上杉朝昌”(当主・上杉定正の弟・相模七沢城に拠った事から七沢朝昌と呼ばれる・生没年不詳)を攻め落とした。(=実蒔原の戦い・さねまきばら・神奈川県厚木市七沢の大山の麓)しかし、扇谷・上杉家の家臣“大森藤頼”(おおもりふじより・生年不詳・没:1503年?)の居城“小田原城”は落とす事が出来ず撤退した。小田原城が難攻不落の城である事を伝えている。この様に両軍の攻防は一進一退の状況が続いた。

5-(11)-②:両家の当主が相まみえた“須賀谷原の戦い”・・1488年(長享2年)6月18日

両上杉家の内紛(長享の乱)も2年目に入り、戦況は拡大“両家の当主”が相まみえる総力戦が展開された。尚、この頃“加賀国”では“一向宗門徒“並びに国人層が”鈎の陣“参陣の為に重税を課した”富樫政親“を”高尾城“に攻め、自害に追い込むという大事件が起きている。(1488年6月9日)

1488年(長享2年)6月18日:

“山内・上杉軍”が“扇谷上杉”方の武蔵国拠点“河越城”を攻撃すべく出陣、これを迎撃すべく“扇谷・上杉定正”軍は北上し、両軍は“鉢形城”と“河越城”の間にある武蔵国“須賀谷原”(比企郡嵐山町菅谷)で激突した。この戦いでは、双方の当主自らが出陣したばかりで無く、両上杉家共に夫々の後継者“山内・上杉憲房”(うえすぎのりふさ・上杉顕定の養子・1515年に関東管領職に就く・生:1467年・没:1525年)並びに“扇谷・上杉朝良”(うえすぎともよし・上杉定正の養子・生:1473年・没:1518年)も参戦して居り、真に両上杉家挙げての総力戦となった。

=戦いの様子=(別掲図・長享の乱前半の戦況参照方)

“山内上杉“軍は”平沢城“に陣を敷いた。当初は“山内上杉”軍が優勢であったが“扇谷上杉”軍が押し返す激戦となった。両軍合わせて700人の兵士が戦死し、馬も数百頭が倒れたとの記録が残る。しかし、勝敗の決着はつかず、両軍共に引き挙げた。

5-(12):武蔵国“高見原”の戦いでは“第2代古河公方・足利政氏”並びに“長尾景春”軍が“扇谷・上杉定正”方として参戦した記録が残る

1488年(長享2年)11月:

“第2代古河公方・足利政氏”(あしかがまさうじ・在職1489年~1512年・生:1462年・没:1531年)は1489年に父“足利成氏”(生:1438年・没:1497年)から家督を譲られ第2代古河公方を継承する。(この時期の文書に足利政氏の証判が見られる事がその裏付けである。従って、厳密には上記日付時点では未だ2代目古河公方では無いが、そう表記する)“政氏”の名も“享徳の乱“が終息し、父・足利成氏が朝敵の汚名から解放された事で”足利義政“からの偏諱が与えられたものである。

父“初代古河公方・足利成氏“は鎌倉に戻る事が出来ないまゝ1497年(明応6年)9月に没するが、臨終の際に嫡子”足利政氏“を呼び”再び鎌倉に環住し、関八州を取り戻す事が孝行、何にも勝る弔いになる“と言い残している。(鎌倉公方九代記)

この時点では“扇谷・上杉定正”に与した“第2代古河公方・足利政氏”(後述するが、後に山内・上杉方に乗り換える)は“山内上杉家”の拠点“鉢形城”を攻めるべく“扇谷・上杉定正”軍と共に“長尾景春”軍を伴ない“横田”に布陣した。“山内・上杉顕定”は“扇谷上杉“方のこうした動きに対抗し”鉢形城“を出て南下し、両軍は”武蔵国・高見原“付近で激突する。(別掲図⑤に示す)

合戦は1週間に亘って断続的に行われたが“扇谷・上杉家”方の“第2代古河公方・足利政氏”軍は苦戦をした為、戦闘から抜け出し、帰国する者も現われた。“高見原”の戦いでも最終的な決着は付かず、以後“長享の乱”の戦況は膠着状態となった。

6:京都では第9代将軍“足利義尚”が陣没した事で、将軍後継問題が起り“美濃国”に亡命していた“足利義視”並びに嫡子の“足利義材”が京都に戻る

6-(1):我が子“足利義尚”(義熈)の陣没の報に病状を悪化させた“足利義政”は左半身不随という状態に陥る。一方で、気丈に葬儀等全てを取り仕切った母親“日野富子”

1489年(長享3年、8月から延徳元年)4月10日:

第9代室町幕府将軍“足利義尚”が後継を残さず“鈎の陣所”で没した知らせを父“足利義政“(当時53歳)は隠居所の”東山殿(銀閣寺)“で受けた。自ら政務の場に復帰する事を主張したが、悪化する病状、並びに、妻“日野富子”の反対もあり、断念したと伝わる。

“足利義政”の病状は1486年(文明18年)頃からは中風を発症し、日々それが悪化し、気鬱的な症状も加わっており、諸寺院の訪問時には“小便筒”を持参せねばならない程であった。

近江国に出征し、将軍の権威を上げようと在陣を続けた我が息子“足利義尚”に対する期待、そして喜びも大きかった丈に、その陣没は“足利義政”の病状悪化を加速し、1489年(長享3年)4月10日から行われた“足利義尚”の葬礼の2日目の晩には中風が再発し、左半身不随に陥っている。

“足利義尚”が重病になると近江国の陣に直ちに看病に出向いた“日野富子”は、嫡子の死に茫然自失状態の夫“足利義政”とは対照的に気丈に葬礼等を取り仕切り、私財千貫文(2000石=75,000円x2000=1億50百万円)を葬儀等に提供したと伝わる。

6-(2):“足利義視”の子“足利義材”が将軍後継候補に上がるが、反対も多く、病苦の中“足利義政”の政務が続いた

6-(2)-①:“足利義視”並びに“足利義材”父子の京都帰還

1489年(長享3年)4月13日:

第9代将軍“足利義尚(義熈)”が陣没した事から“足利義視”と“足利義材”父子は美濃国から京都に呼び戻された。

突然訪れた事態に将軍後継者として“足利義政”の異母弟“足利義視“と”日野富子“の妹”日野良子“の嫡子である“足利義材”が候補に上がる事は考えられる事ではあった。“日野富子”が積極的に動いた事で“足利義視・足利義材”父子は1477年11月に美濃国守護”土岐成頼“の元に亡命して以来、丸12年振りに京に呼び戻されたのである。

既述した様に“足利義政”は異母弟“足利義視”を1478年7月に赦免したが“足利義政“との溝が埋まった訳では無く、赦免後、両者が対面した事は一度も無かった。9代将軍”足利義尚“が跡継を残さずに陣没した事に加えて、日々悪化の一途を辿る”足利義政“の病状が”日野富子“を強く動かしたのである。

1489年(長享3年)4月19日:

“足利義視”並びに“足利義材”父子は“日野富子“が住む”小川殿“(足利義政の別荘)に入った。この行動は“足利義視”並びに“足利義材”父子は”日野富子“の支持を受けているという事を世間に知らせる効果を狙ったものである。更に1週間後の4月27日に”日野富子“は“足利義視”を“通玄寺”で出家させ“道存(どうぞん)”と号させた。

6-(2)-②:“足利義政”が行った最後の政治

1489年(長享3年)7月:

7月に成って、東山山荘には俄かに主殿(寝殿)が造立されたとの記録がある。これは次期将軍が決着しない状況下“足利義政”が病苦の中、将軍政務を行う為のものであった。

“足利義政“が行った最後の政治は陣没した”9代将軍足利義尚“の遺志を継ぐもので“六角高頼”を①在京する事、そして②寺社本所領を返還する事を条件に赦免し、近江国の守護職に復帰させたのである。これに依り“近江国豊浦荘“(といらのしょう=近江八幡市安土町上豊浦、下豊浦)が”興福寺大乗院”に返還される事を期待した“尋尊”はこの事を喜ぶ記事を残している

しかし荘園現地を実効支配する“六角高頼”の家臣(国人衆)達が返還命令に抵抗する事態が各地で頻発し、板挟みになった“六角高頼”は隠居に追い込まれたとの噂も流れる程の事態となった。“足利義政”の最後の政治にも拘わらず、寺社本領だけで無く、奉公衆の所領もその後も“六角家臣”に蹂躙されたまゝであった。しかし、死を真近にした“足利義政”に最早、こうした状況を是正する気力は残っていなかったのである。

6-(2)-②:“足利義材”を次期将軍とする動きに強く反対する勢力が“将軍空位期間”を長引かせた

第9代将軍“足利義尚(義熈)”が陣歿したのが1489年3月であったが、第10代将軍“足利義材“が将軍職に就くのは1年と4カ月後の1490年7月である。この間”将軍空位期間“が生じた。”応仁の乱”で東軍から西軍に移り、敵側の将軍に祀り上げられた“足利義視”の嫡男が次期将軍に就く事に強く反対する勢力の存在があった為である。

“日野富子”は当然こうした勢力の存在を知っていたからこそ “足利義材”の上洛を秘かに行ない、更に父親“足利義視”を出家させるという、考えられる対策を講じて、事をスムーズに進めようとしたのである。

“足利義材”を将軍擁立する事に反対した代表格は幕府管領“細川政元”(第24,26,27,28代幕府管領職を務める・生:1466年・没:1507年・丹波、摂津、讃岐、土佐国守護)であった。彼の頭には次期将軍候補には“堀越公方・足利政知”(足利義政の異母兄、弟として扱われた・1490年時点で55歳・生:1335年・没:1491年)の嫡男で天龍寺香厳院を継承していた“清晃”(法名せいこう・後の第11代将軍足利義澄・生:1481年・没:1511年)があり“足利義政”が歿すると“清晃”を次期を将軍に就けようと動いていたのである。

しかし彼の動きも“日野富子”と“足利義材”の母親“日野良子”姉妹の強い連携、支持の前には実らず“足利義視”の嫡子“足利義材”が次期将軍に決まった。

6-(2)-③:“足利義材“を”足利義政”の猶子(自分の子とする)とする事で、周囲の反対を抑え、事実上、将軍後継者が約束された

1489年(延徳元年)8月~10月8日:

病苦の中、将軍政務を行っていた“足利義政”が8月に卒中で倒れ、10月8日にも再度倒れたとの記録が残る。こうした病状からも“足利義政”は既に精根尽き果てた状態であったと言えよう。

1489年(延徳元年)10月22日:

この日の“足利義政”の病状が如何であったかは伝わらないが“足利義視”並びに“足利義材”父子が“応仁の乱“以来、初と成る“足利義政”との対面を果たしている。“足利義材”が次期将軍に成る事が内定したのである。

7:“足利義政“が歿する

1490年(延徳2年)正月5日~正月7日:

“蔭凉軒日録”には僅か3カ月前(1489年10月22日)に“足利義視”と嫡子“足利義材”父子と対面した“足利義政”の病状が正月5日の午後8時に最悪の状態に陥り、昏睡状態が続いたまゝ、7日午後4時に静かに息を引き取ったと記述されている。54歳であった。

彼の臨終の床には天台念仏の清僧として貴賤の尊崇を集めていた“真盛上人”(しんせいしょうにん・天台宗真盛派の祖で“西教寺”を再興した・生:1443年・没:1495年)が禅僧の間に交じって称名念仏を唱えていたと伝わる。(西教寺には明智光秀、並びに妻煕子の墓がある)

東山山荘での“足利義政”の心境が如何であったかを伝える彼の和歌が下記である。

①:くやしくぞ過ぎしうき世を今日ぞ思ふ、心くまなき月をながめて
②:日にそへて過ぎこしかたははるかにも、いやはかなしか夢の世の中
③:我が庵は月待山の麓にて、かたむく空の影おしぞ思ふ

この時期の“足利義政”は政治面でうまく事が進まない時期であった。従って己の運命を憂う様子を上記の和歌から窺い知る事が出来る。取り分け③の和歌は“蔭凉軒主・亀泉”(おんりょうけんしゅきせん)が1487年(長享元年)12月の日記で“東山山荘における足利義政の名歌”として取り上げたものである。

東山の月を詠じ、残月を運命の傾いていく我が身になぞらえている。この和歌と対比される和歌が同じ“足利義政”が応仁の乱以前の1465年(寛正6年)3月4日に詠んだ“サキミチテ花ヨリ外ノ色モナシ”であろう。東山の花頂山での花見の宴で得意に満ちていた様子を伝える当時の発句とはまるで違った“足利義政“の晩年の様子を伝えている。

7-(1):東山山荘生活で“文化の府”としての権威を創造した“足利義政”の功績

足利義政は“応仁の乱”の大混乱を収めるどころか寧ろ拡大し“将軍権威”を失墜し、室町幕府の政治権力を失わせた。

彼が東山山荘に移り住んだのは1483年6月である。足利義政の後半生は“和歌を詠じ、月に酔い、花に座す”を理想としたから“東山山荘”での生活は高度に工夫を凝らした閑雅風流(優々たる上品で趣のある)のもので、訪れる文化人達の全てが驚嘆したと伝わる。地方から訪れた人達は畏敬の目をもってこの地を眺めたと記録されている。すっかり政治権力、権威を失墜させた“足利将軍家”ではあったが“文化の府”としての重みは、失墜した将軍家の権威回復に大いに役立ったとされる。
(写真):
銀閣寺(慈照寺)の今日でも見事な全景:2018年6月16日訪問

7-(2):“足利義政”没後の幕府の新たな布陣

“足利義政”が没後の政治世界は“日野富子”が中心となった新しい布陣で構成された。その布陣は、既に次期将軍の内定を得ていた“足利義材”そして、その父で“足利義政”の異母弟の“足利義視”加えて新将軍の実母で“日野富子”の実妹の“日野良子”である。
将軍就任を確実にした“足利義材”は将軍宣下を待つだけであった。

1490年(延徳2年)正月16日~18日:

“日野富子”以下の新しい布陣の面々に対し、周囲の公家や武将達が続々とお祝いに駆け付けた事が記録されている。“大乗院日記目録”や“尋尊大僧正記”を作成した“尋尊”(一条兼良の子で父の日記=藤河の記=を兵火から守り、奈良興福寺別当を務めた僧侶・生:1430年・没:1508年)も上京して“足利義視・足利義材”父子に対面し、太刀を贈っている。未だこの時点で“後土御門天皇”(第103代・在位1464年7月崩御1500年9月28日・生:1442年)からの将軍宣下は得られていない。

8:第10代将軍“足利義材”誕生に強い不満を抱き続ける”幕府管領・細川政元”

“足利義材”(後に義尹・よしただ、義稙・よしたね、と改名する・生:1466年・没:1523年)は“応仁の乱“終息後、父“足利義視”と共に美濃国に亡命し、1477年~1489年までを過ごした事は既述の通りである。

“第9代将軍・足利義尚(義熈)”の陣没後“日野富子”の強い支持があって、妹“日野良子”の嫡男“足利義材”の第10代将軍就任が確実となった訳であるが“足利義政・日野富子”夫妻にはもう一人の甥子が居た。それが“足利義政”の庶弟(兄)“堀越公方・足利政知”の子息“清晃”(後の第11代将軍・足利義澄)である。

彼の存在が“足利義材政権”の脆弱さのベースと成り“室町幕府”の崩壊を進め“足利義材”以後の全ての将軍が亡命生活を送る“流浪の将軍“とさせるのである。

8-(1):幕府管領“細川政元”の“足利義視”への遺恨が“堀越公方・足利政知”の子息 “清晃”擁立へと駆り立てる

“細川政元”は幕府管領職に4度就くが、3度目の幕府管領職就任は“足利義材”が第10代将軍に就いた日の儀式の為の1490年7月5日の1日だけで、儀式が済むと即日、辞任している。(①度目・第24代幕府管領1486年・将軍足利義尚②度目・第26代幕府管領1487年~・将軍足利義尚③度目・第27代幕府管領・1490年7月5日1日のみ就任④度目・第28代幕府管領・1494年12月~1507年・クーデターで将軍足利義高=義澄を擁立~自身が暗殺される迄)

“細川政元”は後述する様に徹底して第10代将軍“足利義材”誕生に抵抗する。その理由として以下の4点が挙げられる。

先ず第1の理由が“足利義材“が将軍職に就く事で、父親”足利義視“が”足利義材“を後見する形で復権する事への抵抗である。”応仁の乱“で東軍の主力であった”細川勝元~細川政元“としては”西幕府将軍“として推戴された”足利義視“には遺恨があり”将軍足利義材”誕生は我慢がならなかった事が“大乗院寺社雑事記”の記録からも読み取れる。こうした背景から“細川政元”は“堀越公方・足利政知”の子息“清晃”を次期将軍候補に推したのである。

第2の理由としては“細川政元”自身が養子に迎えていた“細川澄之”の母と“清晃”の母親“円満院”が姉妹という繋がりがあった事が“清晃”を擁立しようとした事と関係していよう。

3番目の理由として“清晃擁立”を考える“細川政元”にとって“清晃”の父“堀越公方・足利政知”(当時55歳・生:1435年・没:1491年)は“伊豆国・堀越”に居り、簡単に上洛出来る立場では無かった事から、その点で邪魔な存在に成る事は無く“堀越公方・足利政知”との連携を強める事が出来た。

そして4番目に”年齢“の問題も“細川政元”にとっては好都合であったという理由である。“足利義材”(生:1466年・没:1523年)は、当時“細川政元”(生:1466年・没:1507年)と同年齢の24歳であった。しかし“清晃”は(後の第11代将軍足利義澄・生:1481年・没:1511年)当時、未だ9歳であったから、幕府No.2の立場の“細川政元”としては御し易いという計算もあったという事である。

8-(1)ー①:“細川政元”という人物に就いて

“細川政元”は“修験道・山伏信仰”に凝って、女性を近づける事無く、生涯独身を通したと伝わる。(衆道=男色は嗜んだ)実子が無かった為、3人の養子を迎え、それが結果として後に“細川澄之、澄元、高国”3者間の抗争を生み、自身が“澄之派”に拠って暗殺されるという結果を招いた。

突然、諸国放浪の旅に出て了う等の奇行も伝えられる他、朝廷や幕府の儀式には意味が無い、として“後柏原天皇”(第104代天皇・在位1500年~1526年・生:1464年・崩1526年)の即位式に関する献金を行わなかった為、同天皇は、21年後の1521年に成って、漸く即位の礼を執り行なったとの記録が残る。

8-(1)-②:“足利義材”の血筋に不満を持った“細川政元”の根っ子にあった“血統信仰”

“足利義材”の父“足利義視”は“足利義政”の異母弟に当たり6代将軍“足利義教”の十男ではあったが、母親は6代将軍“足利義教”の正室“正親町三条尹子に仕えた女房”小宰相局“であった事から”将軍・足利義教“の庶子として扱われた。従って、その嫡子”足利義材“は父の”足利義視“近習”種村九郎“の邸で生まれている。(1466年・文正元年・7月30日)

”応仁の乱”で父“足利義視”が“足利義政”の信頼を失う行動をとり続け、結果的に“美濃国”で亡命生活を余儀なくされたという経緯,等々、既述した4つの理由が“細川政元”が“足利義材将軍”誕生に徹底して抵抗した背景にはあったが、加えて、彼の心の奥深くに“足利義材”の血筋に対する不満が大きかったとされる。日本の特異性とされる“血統信仰”を“細川政元”も持ちそれに拠る“拒絶心理”が働いたとの説である。

この様に“細川政元”を筆頭とする周囲の反対を押し切って“足利義材”が第10代将軍の地位をほゞ確実に出来たのは偏(ひとえ)に“日野富子”の支援と主導があってこその事であった。

かくして、幕府管領“細川政元”の“堀越公方・足利政知”の次男“清晃”(後の第11代将軍・足利義澄)を次期将軍に就けようとの画策は実現しなかったが、この人事に対する巻き返しを狙っての抵抗は続くのである。

9:最大の支援者“日野富子”を敵に廻した父“足利義視”の愚行

9-(1):“日野富子”が“小川御所”を“堀越公方・足利政知”の子息“清晃”に譲渡する

1490年(延徳2年)4月27日:

この時点で未だ“足利義材”は将軍宣下を得ていない。処が“第10代将軍・足利義材”実現の最大の支援者である“日野富子”を敵に廻す結果と成る“小川御所”を巡る大事件が起きた。

訪問記に紹介するが“小川御所”は元々“細川家”の邸であったものを“足利義政“が利用して来たものであった。”足利義政“の死去に伴い”日野富子”が“細川政元”に返還すると伝えた。これに対して“細川政元”は“将軍二代がお使いになった邸宅を返して頂くのは恐れ多い”と辞退した。そこで“日野富子”はこの邸宅を“堀越公方・足利政知”の子息“清晃(後の第11代将軍・足利義澄・当時9歳)”に譲ったのである。“日野富子”は“小川御所”の持ち主“細川政元”が今回の将軍後継人事に“清晃”を推した事を知って居り、それが実現しなかった事に対する彼女なりの配慮だったのである。

9-(2):“小川御所“破壊という暴挙に出た”損害回避型の人間・足利義視“の大失態

“小川御所”の“清晃”への譲渡の話は“足利義視・足利義材”父子を刺激した。“小川御所“は世間では”将軍御所“と認識されて居り、それを”日野富子“が“堀越公方・足利政知”の子息“清晃”に譲るという事を世間は“日野富子と堀越公方・足利政知が清晃を将軍に就けようとしているのではないかとの噂に真実味を与え兼ねないと父親”足利義視“が危惧したのである。

“応仁の乱”の時にも右往左往した事を記述したが、こうした“足利義視”の行動を脳科学者“中野信子”氏は“損害回避型の人間”が陥る典型的行動パターンだと分析しているが“足利義視”は“小川御所譲渡”を我が子“足利義材”の“将軍職”就任に当たって”将来への禍根“と考え“清晃”が入居する前に破壊するという行動に出たのである。この事は“後法興院記“並びに”北野社家引付“の記述で史実として裏付けられている。


=小川御所跡、宝鏡寺訪問記=訪問日:2018年6月9日、2019年11月19日

住所:京都市上京区寺之内通堀河東入百々町547(京都御所の北西に位置する)
交通機関:京都駅から市営バス9号系統・・堀川寺ノ内バス停下車

訪問記:
小川御所(こかわごしょ)は“応仁の乱”最中の1471年(文明3年)頃から将軍“足利義政“が”日野富子“と仲違いをして別居し“細川勝元”の邸を借り受け、利用した事に始まる。

1473年12月に将軍職を“足利義尚”に譲った“足利義政”は(細川勝元は同年5月に没し、小川御所は嫡男・細川政元の所有と成っていた)その後もこの“細川邸・小川御所”を改造し、自身の隠居所として利用し続けたのである。その後、夫“足利義政”との仲違いが直った“日野富子”も“小川御所”に入り、更に嫡男で第9代将軍“足利義尚”もこの“小川御所”に移り、3人が一緒に暮らす“御所”時代もあった。

しかし、再び“足利義政”と“日野富子”が不仲と成り、1483年(文明15年)6月以降“足利義政”が“東山山荘(銀閣寺)”に移り住んだ事で“小川御所”は“日野富子“の邸宅として使われた。

挿入した写真に“宝鏡寺”があるのは“小川御所”は第3代将軍“足利義満”の時代には“宝鏡寺”の隣地にあったが、後述する“明応の政変“(1493年4月)で焼失し、その跡地が”宝鏡寺“に吸収されたという経緯の為である。

“宝鏡寺”は“光厳天皇“(北朝初代天皇・在位1331年9月~譲位1333年5月・生:1313年・崩御:1364年)の皇女“華林宮恵厳禅尼”(かりんのみやえごんぜんに)が1368年~1375年に開山した尼寺であり、後光厳天皇(北朝第4代天皇・在位1352年~1371年)より“百々御所”の御所号を賜り、その後も多くの皇女等が尼禅師を務める宮門跡と成った。第十五世“渓山尼禅師”は“足利義政”と“日野富子”の息女という繋がりがある。尼寺らしく”人形寺“と呼ばれ、寺内には京人形、御所人形、雛人形が数多く展示され、毎年春と秋に人形展が開かれているとの事であった。

“小川御所”の名の由来でもあろうが、近くに流れる小川は“応仁の乱”の際に東西陣営を分ける境となった清流であったと伝わる。写真に“小川と百々橋の礎石”の説明標識を示したが、竹林公園に移築された百々橋を見てもこれが“応仁の乱”という日本史上最も有名な戦乱に於いて“東西の陣営”を分けた川だろうかと驚く程の小さな川であった事が分かる。

=写真説明=
写真上左:足利義政夫妻並びに9代将軍“足利義尚”も一緒に住んだとされる小川御所跡
写真上右:宝鏡寺、足利義政夫妻の息女が第十五世“渓山尼禅師”として入ったとされる
写真下:“応仁の乱“で東軍と西軍の境と成った”小川“に関する説明版”小川と百々橋の礎石”

9-(4):“足利義視・足利義材”父子に敵意を抱く様に成った“日野富子”

この暴挙に“日野富子”は怒り、将軍就任を支援して来た“足利義視・足利義材”父子に対して敵意を抱くように変わった。両者が不和になった事も影響したのであろう“足利義材”の将軍宣下も先延ばしに成り、結果、1490年(延徳2年)7月5日に何とか朝廷からの将軍宣下を得、第10代室町幕府将軍“足利義材”が誕生したのである。

10:将軍就任直後から次々と苦難が降りかかった“第10代将軍・足利義材”政権

1490年(延徳2年)7月5日:将軍宣下を得る

“足利義材“の母は別掲図に示した様に”日野富子“の妹の”日野良子“であり”日野富子”は伯母に当たる。父親“足利義視”の“応仁の乱”に於ける敵対行為に続いて今回の“小川御所“破壊という暴挙は最大の支援者であった筈の“日野富子”を敵にまわした。

元々“足利義材“の将軍就任に抵抗した幕府管領職“細川政元”だけでなく、他にも反対意見が根強くあり、死を直前にした“足利義政”と伯母“日野富子”の支持があったお蔭で漸く第103代“後土御門天皇”(当時48歳)から征夷大将軍宣下を得る運びとなった“第10代将軍・足利義材”(当時24歳)であった。

父親“足利義視”も将軍の父として“大御所”の立場で政務に関わる様になった上に“准后”の待遇も得た事が記録されている。表面的には順風満帆のスタートを切った様に見えるが“足利義材政権”の実情は、当初から極めて不安定なスタートであった。

10-(1):将軍宣下の儀式が済むと、直ちに辞任した“幕府管領・細川政元”

1490年(延徳2年)7月5日:

“延徳2年(1490年)将軍宣下記”の記録に、将軍宣下後に“将軍判始”等の儀式があり、この儀式の為にだけ幕府管領職(3度目)を務めた“細川政元”は、それ等の儀式を終えると僅か在職1日で辞任した事が記されている。その後も“細川政元”の将軍“足利義材”への抵抗は続き、後述するクーデター(明応の政変・1493年4月)へと繋がる。

後述するが“細川政元”は自分が擁立した“第11代将軍・足利義高(後に義澄に改名)”の下で4度目の幕府管領職に就く(在職1494年12月~1507年6月)が、上記1日だけの幕府管領職辞任後に他の人物が幕府管領職に就いたとの記録は無い。従って1494年12月迄の4年間は幕府管領職空席という状態だったのである。

“細川政元”が今回の“足利義視・足利義材”父子の人事に大いなる不満を抱いていた事は既述の通りであり“10代将軍・足利義材政権”には協力しないとの意思を幕府管領職辞任で明確に表した。“細川政元”にとって“10代将軍・足利義材”の最大の支援者であった“日野富子”が“小川御所譲渡・破壊”事件で“足利義視・足利義材”父子との関係を悪化させた事は真に好都合であったのであろう。

更に“日野富子“の信任が厚かった“伊勢貞宗”(伊勢貞親の子で父と異なり穏和な人物と伝わる。足利義尚の教育係を務め、義尚が将軍時代は執事職として幕政全般を統括した。諸説があるが北条早雲とは従兄弟同士とされる。生:1444年・没:1509年)も父“伊勢貞親”(1473年没)と犬猿の仲であった“足利義視”が復権した形の“将軍・足利義材”政権には非協力の立場であり、家督を嫡男“伊勢貞陸”(いせさだみち・山城国守護、政所執事・生:1463年・没:1521年)に譲り、隠居する事で、その態度を表した事が“大乗院寺社雑事記”に記されている。

10-(2):将軍就任僅か3カ月後に母で“日野富子”の妹“日野良子”が歿した痛手が加わる

1490年(延徳2年)10月7日:

第10代将軍“足利義材”の母親で“日野富子”の妹(足利義視の正室)“日野良子“が歿した。彼女の死は上記した“小川御所譲渡・破壊事件“で壊れた”日野富子”との関係修復に不可欠、極めて重要な人物であっただけに、将軍“足利義材”にとっては大きな痛手が加わったのである。

10-(3):父“足利義視”も死没

1491年(延徳3年)正月7日:

母を失ってから僅か3月後の1491年正月7日に父“足利義視”が11月に患った腫物が原因で没した。この日は彼の異母兄“足利義政”が歿して丁度丸1年後であった。真に母の後を追う様な父親“足利義視”の死であり“将軍・足利義材”は、ここでも支援者の相次ぐ死に見舞われた。彼の孤立はますます深まって行ったのである。

11:幕府内に支持基盤の無い“第10代将軍・足利義材”は、前将軍“足利義尚”同様“側近政治”に走る

呉座勇一著“応仁の乱”に第10代将軍“足利義材”の側近は①葉室光忠②種村視久③一色視房等いずれも“応仁の乱”以前から父“足利義視”との関係が深かった者達であったと記している。又、奉行衆も①飯尾為脩②矢野貞倫の名が上がるが、彼等は何れも“応仁の乱”の最中に“西幕府”に属した者達であった。

この様に、第10代将軍“足利義材”政権の重要人事は父“足利義視”色が余りにも強く、旧来の幕臣達の反感を増大させるものであった。この事も第10代将軍“足利義材”の孤立状態を更に深めて行った。

12:”清晃“の将軍就任を諦めなかった”堀越公方・足利政知“と”細川政元“の連携

1491年(延徳3年)3月:

“享徳の乱“の終息(1482年11月)の結果”伊豆一国“の領主に過ぎない立場になった”堀越公方・足利政知“に対する幕府からの支援は無く、軍事力も脆弱であった。従って山内上杉家と扇谷上杉家の内紛”長享の乱“(1487年閏11月~1505年4月)が続く中”堀越公方“に両上杉方から支援要請等が出される事は無く”古河公方“が置かれた状況とは全く異なり、両上杉家の内紛(長享の乱)とは無関係の立場であった。

逆に、この事が“堀越公方・足利政知“に、京都の天龍寺に入れていた次男”清晃“を将軍位に就けるべく”細川政元“との連携を強める事に集中する充分な機会を与えたのである。

既述の様に”細川政元“が迎えた養子”細川澄之“(父・関白九条政基・生:1489年・没:1507年)の母(武者小路隆光の娘)が” 足利政知“の三男”足利潤童子“(あしかがじゅんどうじ・生年不詳・没:1491年7月1日)の母(武者小路隆光の娘・円満院)と姉妹という関係であったという繋がりも”細川政元“とのパイプを太くした。将来への布石であったのか”堀越公方・足利政知“は1487年6月には“足利義政”と”清晃“との対面を実現させている。

結果として”第10代将軍・足利義材(義稙)“が誕生した事で”細川政元“と”堀越公方・足利政知“の連携に拠る”清晃“を将軍に就ける動きは実を結ばなかったが”堀越公方・足利政知“も”細川政元“も次のチャンスを狙い、決して諦めなかったのである。

13:堀越公方“足利政知”が歿す

1491年4月3日:

1458年(長禄2年)5月に“堀越公方・足利政知”は将軍“足利義政”からの命令で、幕府に抵抗を続ける第5代“鎌倉公方・足利成氏”を討伐し、新たな鎌倉公方として関東の統治の責任者と成るべく下向した。しかし、既述の通り幕府権力の衰退等もあり、鎌倉にも入れなかったばかりか、其の後は軍事指揮権も与えられず、次第に実権の無い“堀越公方“として伊豆堀越に留まる事を余儀なくされた。その上“足利義政”と古河公方“足利成氏”との和睦が成立した事で(都鄙合体1482年)“堀越公方・足利政知”は“伊豆一国”のみの支配者の立場に置かれた。

この交渉に彼の補佐役であった“犬懸上杉家当主・上杉政憲“(うえすぎまさのり・生年不詳・没:1487年?)が関わっていた為、こうした結果に至らしめた彼を”堀越公方・足利政知“は深く恨んでいた。

その彼が“堀越公方・足利政知”が素行不良等、問題の多い嫡子“茶々丸”(生:1470年代?・没:1498年)の廃嫡を考え、土牢に軟禁した事に対して、強く諫めた事に激怒し“上杉政憲”を自害に追い込むという事件が起きている。(1487年)

“堀越公方・足利政知”には子息3人が居たが、その3人に対する考えは①京都の天龍寺に入れていた次男”清晃“(法名清晃~義遐~義高~義澄・第11代将軍足利義澄・将軍在任1495年~1508年・母は日野富子の姪の日野阿子・生:1481年・没:1511年)を将軍位に就けるべく幕府管領”細川政元“との連携を図る②嫡子“茶々丸”は廃嫡する③三男”潤童子“(あしかがじゅんどうじ・生年不詳・没:1491年7月1日)を後継の”堀越公方“に就けると決めて居り、揺るがなかったのである。

取り分け“清晃”を将軍職に就ける事に注力し、1487年6月には“足利義政”との対面を実現させた事は既述の通りである。こうした動きをした3カ月後の1487年9月に第9代将軍”足利義尚“が”六角高頼討伐軍“を率いて” 鈎の陣“に出陣し、1489年3月に陣没した事は”堀越公方・足利政知“にとって”清晃“を将軍にするチャンス到来であったが、既述の経緯から、第10代将軍には”足利義材(義稙)“が就いたのである。(1490年7月)

“堀越公方・足利政知”と“細川政元”の連携は今回は実を結ばなかったが、決して諦めず次の機会を狙い続けた。しかしその“堀越公方・足利政知”が1491年(延徳3年)1月に病に倒れ4月に歿したのである。満56歳であった。

14:“堀越公方・足利政知“の死後、廃嫡された“足利茶々丸”が力ずくで堀越公方の座を奪い取る

1491年(延徳3年)7月:

“足利茶々丸”(生:1470年代?・没:1498年8月)は堀越公方・足利政知の嫡男であったが、素行が悪く土牢に軟禁され、異母弟で三男の“足利潤童子”(母は武者小路隆光の娘、円満院・同母兄が第11代将軍となる足利義澄である。生年不詳・没:1491年7月1日)を後継の堀越公方に就ける事を命じて父“足利政知”はこの世を去った。

一説には “足利潤童子”の実母“円満院”が、実子“足利潤童子”を後嗣にする為に、堀越公方“足利政知”に“足利茶々丸”の讒言をしたとある。

父“足利政知”の没後3カ月に“足利茶々丸”は好機到来として決起(牢番を殺し脱獄したとの説もある)し、異母弟“足利潤童子”並びに母親“円満院”を殺害し“堀越公方”の座を奪い取った。

この事件が、2年後の“伊勢宗瑞”による“仇討ち”(堀越御所討ち入り)事件へと繋がりこの戦いで“伊豆国”進出の足掛かりを掴んだ“伊勢宗瑞”が後に“戦国大名の雄“として関東地域の勢力図を一変させる大飛躍を遂げる事に成るのである。

15:京では“第10代将軍・足利義材”が“第2次・六角高頼討伐”軍を編成し“近江国”に出陣する

“足利義材”(あしかがよしき・生:1466年・没:1523年)は初名で、後に将軍職を追われ、亡命生活を余儀なくされる1498年(明応7年)には“足利義尹”(あしかがよしただ)に改名し、そして再び将軍に復帰後の1513年(永正10年)11月に3番目の名“足利義稙(あしかがよしたね)を名乗る。

室町幕府の将軍が、統治力を発揮し、幕府も機能を保ったのは“第8代将軍・足利義政゛迄だったと言えよう。第10代将軍“足利義材”は”応仁の乱“終息後の1477年11月に美濃国の”土岐成頼“並びに”斎藤妙椿“を頼って父・足利義視と共に亡命した事は既述の通りであり、将軍職に就いた後も後述する様に亡命生活を余儀なくされる将軍である。

戦国時代に突入したとも言えるこの時期の室町幕府将軍は、日本の特異性と言うべき”足利将軍家“の血筋だけが将軍に擁立する為に必要という“血統信仰”に拠って支えられたものであった。有力大名、武将達は“足利将軍家のブランド力”を己が“覇権”を握る“大義名分”を得る為に必要としたのである。その為の利用価値としての存在に堕した“足利将軍家”であった。

15-(1):“第二次六角高頼征伐軍”の背景

第10代将軍に就き、其の後、立て続けに母と父を失った“足利義材”は“近江国”への“親征”に拠って権威回復を図ろうとした。“六角高頼”を“足利義政”は死の半年前の1489年7月に、寺社本所領の返還をする事を条件に赦免していた。しかし、荘園現地を実効支配する彼の家臣(国人衆)達が返還に応じず、状況は変わらなかった。

そこで“将軍・足利義材”は“六角高頼”を再び罷免し、代わりに、彼の将軍就任に不満を表し幕府管領職を辞していた“細川政元”を“近江国守護”職に任じたのである。この人事には、自分との距離を取る“細川政元”を少しでも懐柔しようとする意図があった。

支援者を失い、孤立状態の“将軍・足利義材“としては“第2次・六角高頼征伐軍”を編成し、親征する事で“寺社、並びに奉公衆”の所領回復を実現し、支持者を獲得して自らの権力基盤の強化を計ろうとの思いであった。

15-(2):“第1次六角高頼討伐“と遜色なかった“第2次六角高頼征伐軍”への諸大名の参加状況

1491年(延徳3年)8月:

諸大名の参加状況もまずまずで“第2次六角高頼征伐軍”の規模は“第1次”征伐軍と遜色ないものであった。第10代将軍“足利義材”自らが出陣する事で“大乗院豊浦荘”支配が盤石に成るとの期待から“尋尊”は今回も上洛し“将軍・足利義材”を見送り“常徳院(第9代将軍・足利義尚)御出陣ニ百倍なり”と記している。

15-(3):足利義視の嫡子“第10代将軍・足利義材”に好感を持つ“旧西軍諸将”の参加と活躍で“第2次六角高頼征伐”(長享-延徳の乱)は成功し、凱旋する

1492年(明応元年)12月:

“第10代将軍・足利義材”の“第2次六角高頼征伐”軍に、幕府管領“細川政元”は出陣しなかったが“近江国守護”に任じられた関係から、代わりに守護代として近江国に赴いていた”安富元家“(やすとみもといえ・細川政元の家宰・讃岐東方守護代・生年不詳・没:1504年)を参陣させている。他には“浦上則宗”(うらがみのりむね・赤松政則の家臣・生:1429年・没:1502年)並びに“織田敏定”(おだとしさだ・清州織田氏当主・生:1452年・没:1495年)の参陣があり、彼等の活躍で“第2次六角高頼討伐軍”は勝利を重ね“近江国”を沈静化させ、奉公衆からの支持固めも果たしたのである。

第10代将軍“足利義材”は堂々の京凱旋を果たした。しかし敗れた“六角高頼”は甲賀に逃走した為、彼の首級を挙げずの凱旋であった為“尋尊”は“目的を果たせないまゝ帰陣なさるのか?“と批判記事を残している。

16:“第10代将軍・足利義材”は休む間も無く次なる“大義名分の無い河内国討伐”親征を決行し、これが命取りと成る

近江国に於ける“第2次六角高頼討伐軍”で、連戦連勝を飾り“奉公衆”達が蹂躙されていた領地問題を一段落させ、意気軒昂な第10代将軍“足利義材”は余勢をかって次なる目標を“河内国討伐”とした。この背景には驍勇無双(ぎょうゆうむそう=天下に並ぶ者が居ない程、強く勇ましいこと)の“畠山義就”(生:1437年?・没:1490年12月12日)が1年前の1490年12月に病没していた事があった。

亡き“畠山義就”は“応仁の乱“の発端と成った”上御霊神社“の合戦で”畠山政長”を敗り、西軍きっての戦上手として河内国、大和国、摂津国、山城国を転戦し、武勇を馳せた武将である。“山名宗全”と“細川勝元”没後に東西両軍の和睦が進められる中、講和に反対し1477年9月21日に“畠山政長”と戦うべく“河内国“に下り、同年10月9日には”若江城“の戦いで”畠山政長“派の河内国守護代”遊佐長直“(ゆさながなお・生年不詳・没:1493年閏㋃25日)を追い出す程の猛者であった。

しかし乍ら、畠山家の当主、並びに“河内国守護”は東軍に属した事で“応仁の乱”の終結で勝ち組となった“畠山政長”に与えられた。しかし、名目上はともあれ“河内国”を実行支配し続けたのは“畠山義就”であり、又“大和国”も彼の実効支配下にあったのである。

こうした状況に幕府は何度も“畠山義就”討伐を試みたが一向に成果を上げないまゝ時が過ぎ、1490年(延徳2年)12月12日に“畠山義就”は54歳で病没したのである。彼の後継者には嫡男“畠山基家=義豊”(生:1469年・没:1499年)”が就いていた。“将軍・足利義材”は彼ならば、父親“畠山義就”とは違って、御し易く、討伐のチャンスと判断し、早々と“河内国”への出兵を宣言したのである。

16-(1):“河内国”討伐に出陣する

1493年(明応2年)2月15日:

“近江国”からの凱旋直後に“将軍・足利義材”は諸将に対して、2カ月後の2月15日に“河内国”討伐の為、出陣する旨を早々と伝え、その準備を命じた。“山城国”(京都府)の諸荘園に、人夫の供出を命じた記録が“蔭凉軒日録”に残されている。“南山城”にある“菅井荘”(すがいのしょう=京都府相良郡精華町菅井)が命令に応じて人夫を出した記録が残されており“将軍・足利義材”の早々の討伐公言が史実であった事を裏付けている。

この様に“将軍・足利義材”に拠って予め出陣日時までが決められていた為、出陣の準備はスムーズに整えられ“河内国討伐軍”は予定通り京を出発、河内国に向った。

16-(2):“河内国討伐軍”に大義名分が無かったとされる背景

16-(2)-①:1000貫文を“将軍・足利義材“に贈った”畠山政長“

従軍した主な武将は“畠山政長・畠山尚順、斯波義寛、赤松政則”等であった。その中で“畠山政長“は“将軍・足利義材”に1000貫文(=2000石75000円x2000=150百万円)を贈った事が記録されている。(歴史学研究会・日本史年表)“畠山政長“にとっては”将軍・足利義材“が親征する今回の“河内国討伐”は、40年に及ぶ“畠山家の内紛”解決に将軍自らが出陣して呉れるという有難い話であり、その為の“資金提供”であったと考えられる。

16-(2)ー②:利するのは“将軍・足利義材”と“畠山政長”だけだとされた“河内国討伐”親征

結果として凱旋となった“近江国”への“第2次・六角高頼討伐軍”には“寺社本所領回復”並びに“奉公衆”の領地回復という大義名分があった。しかし今回の“河内国討伐”には“応仁の乱”の原因を作った上にその後も“河内国”を実効支配し、幕府に敵対的な行動を取り続けた“故・畠山義就”を討伐目的とする“河内国討伐”の親征であれば、大義名分も立った。しかし“畠山義就”は既に歿しており、後継の“畠山基家”は幕府に敵対的な行動は一切とっておらず、幕府が命ずれば、平和的に帰参させる手段もあるという状況であった。従って今回の“河内国討伐”親征には“大義名分”が無かったのである。

更に“将軍・足利義材”が権力の基盤とする“奉公衆”にとっても、今回の“河内国”は彼等の所領が集中する“近江国”への討伐軍のケースと異なり、領土問題も絡まなかった。従って“奉公衆”にとっても利益を齎さない迷惑な出兵だったのである。

“河内国討伐”親征軍は、以上の様に“畠山政長”にとっては“畠山基家”討伐によって自らの地盤を固める事が出来るという利があり“将軍・足利義材”にとっては“畠山政長”に恩を売る事に拠って脆弱な政権を強化する事に繋がるという利点があったが“幕府としての大義名分”とするには無理があったのである。

16-(3):参陣した諸将の団結が弱かった“河内国討伐親征軍”とその背景

16-(3)-①:今回の“河内国討伐軍”にも参陣しなかった“細川政元”

幕府管領職を辞し“将軍・足利義材”政権に非協力の姿勢を貫いていた“細川政元”は、今回の“河内国討伐軍”にも参陣せず京都に残った。しかし“将軍・足利義材”の出陣の為の祝宴を張って饗応している。後述するがこの時“細川政元”は“将軍・足利義材”の河内国親征の留守中にクーデター(明応の政変・1493年4月)を起こす事を決断していた。出陣前に祝宴を張って“将軍・足利義材”を饗応した事は、その野心を隠す行動だったのである。

16-(3)-②:将軍・足利義材の“河内国討伐軍”親征は“細川政元”にとっては“畠山政長“との利害が対立するものであった

“細川政元”にとっては“河内国討伐軍”が成功すると言う事は、二分されていた“畠山家”が再び“畠山政長”の下に再統一される事を意味した。“畠山氏”は強大化し“細川氏“を脅かす存在と成る危険があった。加えて、両者は同じ畿内に勢力を持つ関係もあり”細川政元“からすれば畠山氏の内紛に将軍自らが何故力を貸すのか、今回の“河内国討伐”は全く許せない行動だったのである。

16-(3)-③:“応仁の乱“で西幕府に属した”将軍・足利義材“の過去が”河内国討伐軍“内の団結を阻んだ

“河内国討伐軍”の団結力は弱かった。その理由の第1に“応仁の乱”の間は“西幕府”に属し、乱後も“美濃国”で亡命生活を送っていた“将軍・足利義材”と“足利義政・足利義尚”に仕えて来た“奉公衆”との関係は上記した経緯から当然、希薄であった事が挙げられる。

第2の理由として“将軍・足利義材”が“葉室光忠”(はむろみつただ・公家生活を脱し、武家側にも足利義材を通して権勢を握った特異な人物とされる・生:1451年・没:1493年閏4月)等、側近を重用した為“奉公衆”の間に不満を抱く者が多かった事が挙げられる。

こうした事が加わり、元々周囲に協力者の基盤を持たなかった“将軍・足利義材”の“河内国討伐軍“は、数こそ多かったものの、参陣した諸将の団結は弱いものであった。

16-(4):“正覚寺”に陣を構え、ほゞ勝利を目前にしていた“将軍・足利義材”軍だったが・・・

1493年(明応2年)2月24日:

“将軍・足利義材”が目指す“畠山基家”(後に畠山義豊に改名・畠山義就の次男・生:1469年・没:1499年1月30日)の本拠地は“高屋城”(=誉田城・三管領の畠山氏の本拠地・本丸は伝第27代安閑天皇陵となっている・大阪府羽曳野市古市)であり“正覚寺”とは10Km程の距離であった。参陣した大名等は攻撃の為“高屋城(誉田城)”周辺に陣を敷いた。

数に勝る“将軍・足利義材”軍は優位に戦局を進め、次第に包囲網を狭め乍ら“畠山基家“方の小城を次々と陥落させた。”高屋城“に籠城する”畠山基家“は孤立状態に成り“将軍・足利義材”と“畠山政長”軍の勝利は目前であった。(大乗院寺社雑事記・蔭凉軒日録)しかし“京”での大事件勃発が戦況を大逆転させるのである。

17:“第10代将軍・足利義材“が京都を留守にしていた隙に”細川政元“は”清晃“(後の第11代将軍・足利義高・後に義澄に改名)を将軍に擁立して、クーデター“明応の政変”を起こす

”細川政元“が主導したこの政変は下剋上の極致と称された。”戦国時代の幕開け“は”応仁の乱“の勃発では無く”明応の政変“だとされる程の大事件であった。

17-(1):クーデター謀議に全く気付かず“河内国”に親征を行った“第10代将軍・足利義材”の迂闊

1493年(明応2年)4月22日:

“細川政元”率いるクーデター軍は4月22日の晩に“伊勢貞宗”と示し合わせて挙兵。“細川政元“が兼ねてから将軍擁立を画策していた“堀越公方・足利政知”の次男で京の“天龍寺”に入っていた”清晃“(せいこう・初名は足利義遐=よしとお、第11代将軍就任時の名は足利義高、其の後、足利義澄と改名・母は日野富子の姪の日野阿子・将軍在任1495年1月~1508年5月・生:1481年・没:1511年)を擁立し、彼を“遊初軒”に迎え入れて保護し、留守中の“将軍・足利義材”の関係邸宅に兵を向け京都を征圧したのである。

17-(2):“日野富子”並びに、室町幕府の賢臣とうたわれた“伊勢貞宗”の参加がクーデターを成功に導いた

“戦国時代の足利将軍”の著者“山田康弘”氏は“明応の政変は細川政元の単独クーデターでは無く、日野富子・伊勢貞宗との提携に基づいて実行された”との説を展開している。

”足利義政“没後の”日野富子“は実質的に”足利将軍家の家長“の立場にあった。“小川御所譲渡・破壊事件“以降”日野富子“は”足利義視・足利義材“父子を敵視する様になった事は既述の通りであり、同じく甥に当たる”清晃“を積極的に支持する立場に変わり、この事が幕臣達の去就にも大きな影響を与えたと伝わる。

“日野富子“が提携したとされる”伊勢貞宗“(伊勢貞親の子、北条早雲の従弟・室町幕府政所執事・生:1444年・没:1509年)は、父“伊勢貞親”と異なり、温和な性格の人物で“応仁の乱”以降、ますます権威、並びに統治能力を失い、何時滅んでもおかしく無い状態にあった“室町幕府”を守った賢臣と伝わる。上級幕臣であり”8代将軍・足利義政“並びに”9代将軍・足利義尚”に仕え、支えて来た人物である。父親“伊勢貞親”が“将軍・足利義材”の父親“足利義視”の暗殺計画に失敗(文正の政変=1466年9月)したという経緯からも、彼も“将軍・足利義材”に非協力的立場であった。

“第9代将軍・足利義尚”が父“足利義政”と対立し、更に、母“日野富子”とも対立した時期に“将軍・足利義尚”は一時“伊勢貞宗”の屋敷に移り住んだという史実が物語る様に“足利義政一家”から全幅の信頼を置かれた人物だったのである。

亡き“第8代将軍・足利義政”の正室、加えて、亡き“第9代将軍・足利義尚”の生母である“日野富子”更には室町幕府の賢臣“伊勢貞宗”も協力した“細川政元”が起こした“清晃擁立“興クーデターに、多くの賛同者が集まる結果と成ったのである。

18:“高屋城”に籠城し“第10代将軍・足利義材”軍に囲まれたにも拘わらず“畠山基家“が逃げもせず、降参しようともしなかった理由

京で起こったクーデターは“第10代将軍・足利義材”の“河内国討伐軍”の戦況を一挙に逆転させた。“反足利義材派“によるクーデター成功に拠って京都が征圧された事は、京からそう遠くない陣にも伝わった。それを知った諸大名、奉公衆は次々と”将軍・足利義材“を見捨てて京都に帰還した事が”蔭凉軒日録、親長卿記、後法興院記、言国卿記“等、多くの記述からも裏付けられている。

“第10代将軍・足利義材”の“河内国討伐軍”に参陣した諸大名、奉公衆達の“将軍・足利義材”との絆、結びつきが極めて弱かった事は既述の通りであり、最後まで“将軍足利義材”のもとに留まった幕臣は僅かであった。

“将軍・足利義材“が”河内国討伐親征“を行う事を事前に告げていた事は述べたが、この事が”畠山政長“と対立する”細川政元“から、秘かに”畠山基家“並びに”越智家栄“(おちいえひで・畠山義就派で義就没後に子の畠山基家に仕えた武将・生:1432年?・没:1500年)等の敵方に漏れていた事は、第3者である筈の”尋尊“が書き残した記録からも分かる。此処にも”将軍・足利義材“の迂闊さが見て取れる。

”畠山基家“が討伐対象に成る事を事前に知った“細川政元“は”将軍・足利義材“が河内国に出撃した隙を突いてクーデターを起こし、京を征圧した。一方で”河内国“の”畠山基家“等に対して、事前にクーデターを行なう事、並びに”将軍・足利義材・畠山政長“軍を前後から挟撃するという協力作戦を行なう事を伝えていた可能性がある。だからこそ“畠山基家”方は絶対的に不利な戦況だったにも拘わらず“高屋城籠城“から逃亡も降参もしなかったという事である。

こうした“細川政元”側の細心なクーデターに対する作戦、並びに準備に対し“将軍・足利義材”並びに彼の周囲は“第2次六角高頼討伐”の成功に酔い、慢心し、周囲の政情把握を怠り、極めて迂闊な行動に終始した為、敵方の術中に陥ったと言えよう。

19:本陣“正覚寺”が陥落し“畠山政長”は自害“第10代将軍・足利義材”は捕えられ京で幽閉の身となる

1493年(明応2年)閏4月25日:正覚寺合戦

”細川政元”方と“畠山基家”方に挟撃され、味方軍の多くが京に帰還した為“第10代将軍・足利義材”と“畠山政長”並びに“畠山尚慶”(はたけやまひさのぶ・後に畠山尚順に改名・紀伊、河内、越中守護・生:1475年・没:1522年)”父子の軍は“正覚寺”に孤立した。閏4月25日に本陣は陥落、壮大を誇った“正覚寺”の伽藍が兵火で焼失する中で“畠山政長”は自害に追い込まれた。息子の“畠山尚慶”(尚順)は紀伊に逃れたが、畠山家の家督はこの戦いに勝利した総州家の“畠山基家”(畠山義就次男・後に畠山義豊に改名・河内守護・生:1469年・没:1499年)に移された。

捕縛された“将軍・足利義材”は、京都に護送され“細川政元”の部下“上原元秀”(うえはらもとひで・丹波国守護代・生年不詳・没:1493年)の屋敷に幽閉されたのである。

19-(1):“明応の政変”の日本史上の位置付けと、財政的に逼迫していた当時の朝廷

“細川政元”による“明応の政変”を“戦国時代”への突入を本格化させた事件とし、彼を“下剋上の先駆者”と歴史上位置付ける説がある。
     
“将軍・足利義材(後に義稙に改名)“を廃立し”清晃“(後の第11代将軍・足利義澄・還俗して足利義遐よしとお~将軍に就いて足利義高~後に足利義澄に改名する)を擁立した”明応の政変“(1493年4月22日)を境に”足利義材“を含め6人の”室町幕府将軍“全員が京を離れ”流浪の将軍“を経験する事に成る。

“室町幕府”の機能不全状態からすると“明応の政変”を境に、日本は”戦国時代“に突入したとする学説に説得力はある。”戦国時代“を象徴する言葉に”下剋上“があり、既に越前国、加賀国、越後国、そして関東地域で守護代が守護を追放した事例も記述して来た。

“細川政元”のクーデターは武家政権のトップである“将軍”を追放したという事例である事から、彼の行動こそが“下剋上”の極致であり、彼こそが下剋上の“先駆者”であるとする説も多い。

尚”後土御門天皇“は、自分が任命した”第10代将軍・足利義材(義稙)“を廃して“清晃“を擁立する動きを怒り、抗議の意思表明から、退位を表明して抵抗したと伝わる。しかし、譲位の儀式の為の費用が無く、老臣“権大納言甘露寺親長”(かんろじちかなが・1443年南朝の遺臣が内裏を襲った禁闕の変で、自ら太刀を振るって後花園天皇を守護した逸話が伝わる人物・自身の日記、親長卿記を残した公卿・生:1424年・没:1500年)の諫奏によって取り止めた事が1493年(明応2年)4月23日条に書かれている。この記事も、朝廷の財政が極度に逼迫していた事を裏付けるものである。


=正覚寺城跡・畠山政長墓地訪問記=訪問日:2019年11月24日

住所:大阪市平野区加美正覚寺2-9-26
交通手段:JR関西本線平野駅下車~徒歩約10分〰15分

(1):正覚寺訪問記

第10代将軍“足利義材”と”畠山政長“が本陣を置いた“正覚寺”(現:朝日神社) はJR平野駅から歩いて10分程の処に在る。今日では住宅開発が進み、往時の面影はごく一部に残されているだけであった。

同寺の由来を記す石碑には開創は第53代淳和天皇(歴代天皇の中で唯一散骨された天皇である・在位823年譲位833年)時代の825年に弘法大師に拠って、と書かれている。楠木正成もしばしば参詣したと伝わる名刹であったが上記”正覚寺合戦”(1493年4月25日)で伽藍等が灰燼に帰し、以後、衰退したとある。

(2):“畠山政長”墓地

正覚寺から徒歩で5分程の住宅地の間にこれが室町幕府No2の地位の幕府管領職を4度も務め(8代将軍足利義政、9代将軍足利義尚・1464年~1487年の間)足利一門でもあった、最有力大名の墓地かと驚く程の狭さであった。(10坪も無い様に見えた)余り訪れる人もいない様子であり、室町時代の“応仁の乱”後の畿内の荒れ果てた光景、栄枯盛衰の姿をまざまざと見せつけられる思いであった。

正覚寺を出て直ぐの処に小さな“畠山政長の墓”と記した道案内板があったが、注意しないと見落とす。(我々はこの案内板を見落とした。近所の親切な方に道順を教えて頂きやっとの事で探し当てた)

写真に示す様に、墓地の由来に就いては上記と同様の内容が平野区役所の説明版に書かれていた。


=写真説明=

(1):正覚寺
825年創設、楠木正成もしばしば参詣したと書かれた“正覚寺”も合戦で灰燼に帰したとある

(2):“畠山政長”墓地
第8代将軍・足利義政期と第9代将軍・足利由尚期に亘って(1464年~1487年の間)4度も室町幕府NO.2の地位である管領職を務めた人物の墓としては寂しいものであった。
=高屋城趾訪問記=2020年8月22日(土曜日)
住所:大阪府羽曳野市古市
交通機関:大阪駅からJR環状線・天王寺駅で近鉄に乗り換え、南大阪線の古市駅で下車そこから“安閑天皇”(あんかんてんのう・第27代天皇・在位531年~535年・生:466年・崩御:535年)陵とされる“高屋築山古墳”を目指して凡そ10分程歩くと高屋城の本丸跡とされる史跡に着く

城の歴史:諸説があるが一番古い築城時代としては畠山家の中興の祖と称され室町幕府第4代将軍”足利義持”時代(在任1394年~1423年)に第6代幕府管領職を務めた”畠山基国”(在職1398年~1405年・生:1352年・没:1406年)が安閑天皇の陵を流用して築かせたとの説がある。ところがこの時期の文献には高屋城の記載が一切見られず、古市城”又は”誉田城”の名称との混乱がある為、羽曳野市教育委員会は出土遺物の検討から”畠山義就”(生:1437年?・没:1490年)が“応仁の乱”後の1479年頃に築城した可能性を挙げている。守護職の畠山氏の居城であったが、畠山氏、安見氏、三好氏の三勢力に拠る争奪戦が繰り広げられた為、城主は頻繁に入れ替わった。南北に800m、東西に450mに亘って広がる、土塁と堀で仕切られた巨大な城であった。1575年(天正3年)に織田信長の猛攻を受け落城、其の後廃城となっている。

訪問記:古市駅から”安閑天皇陵”を目指して探し歩いた。今日では駅周辺は賑やかな商店街と成って居り“高屋築山古墳”の雰囲気は無かったが、10分程地図に添って歩くと、こんもりとした”古墳”が現われた。これが写真に示す”高屋築山古墳”を流用した“高屋城本丸跡”である。”本丸“の規模は7ヘクタール(70,000平米・約21、000坪)とある。畿内にはこうした古墳を取り入れた城郭はいくつか見受けられるとの事であり、墳丘部分だけを利用し、防御施設として利用した城郭が多く、最後の砦、籠城目的の城郭として優れている事から利用されたとの事である。

高屋城は”古墳を取り巻く周辺部分“に広がる大規模な城郭であった事が判明しており“二の丸”は7ヘクタール(70,000平米・約21,000坪)“三の丸“の規模は10ヘクタール(100,000平米・約30,000坪)だった。”二の丸“は上層階級の武士が生活し”三の丸“には下級武士が生活していた事が発掘調査の結果明らかにされている。

1955年(昭和30年)頃から新興住宅地として開発され、又道路敷設も行われた為、当時の高屋城の面影は古墳以外には全く残されていないのが残念であった。


=写真説明=
(写真上)近鉄南大阪線・古市駅から徒歩10分位の処にある“安閑天皇陵”が高屋城の本丸であった
(写真中左)
高屋築山古墳と称される今日の“安閑天皇陵”は高屋城の本丸の一部として利用された
 
(写真中右)
上層階級の武士の屋敷があったとされる“二の丸“跡は今日では住宅地が広がり、小さな公園に成って居り昔の面影は無い

(写真下右)
第10代将軍・足利義材が畠山政長と共に籠城する“畠山基家”を“高屋城”に攻めるが、京で“細川政元”がクーデターを起こした為、敗れる
20:室町幕府第11代将軍“足利義高”(後に足利義澄に改名)が正式に誕生する

1494年(明応3年)12月27日:

“清晃“は還俗して法名から先ず”義遐“(よしとお)を名乗り”将軍宣下“に先立ち元服し“足利義高”と名乗っている。従って第11代将軍としての初名は“足利義高”である。(後に足利義澄に名を変える・生:1481年・没:1511年・在任1494年~1508年)“征夷大将軍宣下”を受けたのが“明応の政変”から1年8カ月も後の1494年12月27日であった事は既述した“後土御門天皇”の抵抗も影響したであろうが、当時、既に、室町幕府の統治能力が衰退していたと同時に将軍の権威も凋落していた事を裏付けている。

本来ならば天皇から“征夷大将軍“に任じられれば、もう一方(この場合は越前国に亡命した前の第10代将軍・足利義材)は最早、将軍では無い訳である。しかし”越中国“に逃れた”足利義材“を周囲は将軍として扱った。この時期の朝廷は衰微の極致であり”将軍宣下“という形式も以前の様な意味を失い“京都の支配者”を機械的に任ずるだけの意味に堕していたと言える。この時期の室町幕府は“京都支配者”程度の権力しか持っていなかったというのが実態であった。

”清晃“に征夷大将軍の宣下を与えざるを得なかった朝廷、並びに”後土御門天皇“には、朝廷衰微下の財政逼迫という現実問題があり、室町幕府に財政的支援を負うという弱い立場であり、背に腹は代えられず、最終的には抵抗し切れずに”室町幕府第11代将軍・足利義高“が誕生したという事である。

21:“細川政元“が4度目の幕府管領に復帰する一方で、二人の将軍が併存するかの様な事態下となった“室町幕府”

将軍“足利義材”誕生に徹底して抵抗した“細川政元”はクーデターに拠って“第10代将軍・足利義材”を追い“第11代将軍・足利義高”(後の足利義澄)を誕生させると、辞していた幕府管領職に復帰した。彼としては4度目の就任である。(在職1494年12月~1507年6月)

一方“前・第10代将軍・足利義材”は、後述する様に、幽閉から脱し “越中国”に逃れ、自分こそが正統な将軍だと宣言する。室町幕府下に二人の将軍が併存するかの様な事態が生じたのである。

“朝廷”の“応仁の乱”後の財政逼迫状態は上述したが、乱で荘園が奪われる等、深刻で、1500年(明応9年)9月に“後土御門天皇”が58歳で崩御するが、葬儀の費用も無く、40日間も御所に遺体が置かれたまゝであった事が伝わる事も既述の通りである。(後法興院記)

13歳で第11代将軍に就いた形の“足利義高(足利義澄)”であったが、政治の実権は幕府管領職に復帰した“細川政元“が握っていた。存命だった”日野富子“(この1年半後の1496年5月に死去)並びに“伊勢貞宗”も関与する“細川政元”政権であったが、世間が“半将軍”と呼ぶ程“細川政元”は強い権力を握っていた。

22:室町幕府が関東支配を諦めた時点は何時か、に関する検証・・1492年説について

28代幕府管領職に在った“細川政元”が“日野富子”と連携して第10代将軍“足利義材”(その後、足利義尹そして足利義稙へと名を変えている)を将軍位から追放し、足利政知の子息“清晃“を将軍に就けた”明応の政変(1493年4月)“は①下剋上の極致②戦国時代へ突入した事件と位置付ける説がある事は既述の通りである。

この1年程前の1492年に室町幕府は関東支配を放棄していたとする説の論拠は、室町幕府から関東に下された書状の発給状況に基づいている。

①:“応仁の乱“勃発前までは室町幕府は”関東管領・山内上杉家“を通じて関東支配に関する多くの書状を発給していた事が認められる

②:“応仁の乱”勃発後も少なくは成っているが、関東地方の戦乱に介入する書状を出していた事も認められる

③:しかし、戦功を挙げた関東の武士に対する幕府からの“感状”発給が1471年(文明3年)を最後に途絶えている。(水野大樹氏:享徳徳の乱・長享の乱)

④:第8代将軍“足利義政”が没した(1490年正月7日)後から幕府の関東地方に関与する書状は極端に少なく成り“山内上杉家当主・上杉顕定”に発給した書状(1492年)を最後に命令は途絶えた。

上記から1492年(延徳4年・7月改元明応元年)を“室町幕府”が“関東支配”を完全に放棄した時期とする根拠としている。

23:“越中国”で自分こそが正統な将軍だと宣言した“前・10代将軍・足利義材”の状況

“応仁の乱”の最中に“足利義視”が“西幕府将軍”に就いた事で、日本に、東西2つの幕府が並立する事態が生じた。そして今度は2人の“将軍”が並立するかの様な混乱の極みの事態が生じたのである。

23-(1):捕縛され“上原元秀”の屋敷に幽閉された“前・10代将軍・足利義材(義稙)”が“越中国”に逃れ、自分こそが正統な将軍であると宣言し、京帰還への機会を狙う

1493年(明応2年)6月29日:

クーデターで“第11代将軍”として擁立された“足利義高”(後に足利義澄に改名)に将軍宣下は未だ下されていなかった。(将軍宣下が下るのは1494年12月27日である)京都の“細川政元”の側近“上原元秀”(生年不詳・没:1493年11月18日)の屋敷に幽閉した“足利義材(義稙)”を“細川政元”は“小豆島”に流そうと考えていたとされる。

こうした状況下“足利義材(義稙)”にも奉公衆、奉行人の一部、そして大名の中にも,支持をする勢力も存在した。その中の“畠山政長”の家臣“神保長誠”の配下に拠って“足利義材(義稙)”は“上原元秀”の屋敷から脱出する事に成功したのである。そして、以後、1508年7月に再び“征夷大将軍”に復帰する迄の実に14年間(自1493年6月29日至1508年7月)に亘る“流浪生活”がスタートした。

日本史年表(歴史学研究会編)には1494年12月からの将軍欄に“第11代将軍・足利義高”の名が入り(1502年に足利義澄と名を変える)1508年7月の将軍欄に“第10代将軍・足利義尹“(足利義材が改名したもの。更に1513年11月に足利義稙に改名する)の名が記されている。”越中国“に逃れた“前・10代将軍・足利義材(義稙)”は次項(6-19項)で詳述する政局激変の中を生き抜き、再び将軍に復帰するという展開となる。

この事例から読み取れる事は、衰退し切った室町幕府の統治力、並びに将軍権威ではあったが、この時点では未だ有力武将達が覇権争いをする中で”大義名分“を得る為の装置として“足利将軍家の血統“を擁立する事が不可欠であるという”血統信仰“が生きていたという事である。

亡命した“前・第10代将軍・足利義材”は1498年、32歳の時に“足利義尹(あしかがよしただ)”と名を変えた。越中国“放生津”(ほうじょうづ=富山県射水市にあった湊町)の“神保長誠“(じんぼうながのぶ・越中放生津城を拠点とする射水・婦負郡守護代、紀伊分郡守護代・生年不詳・没:1501年11月)が“足利義尹(足利義材)”を迎え“正光寺”を改装して御座所としたのである。

“前第10代将軍・足利義尹”(=義材、後の義稙)にも少なからぬ支持者があった事を裏付ける史実だが、亡命先の“越中国”でもそれなりの陣容を整えた政権であったと伝わる。飽くまでも自分が正統な将軍であると宣言し続けたこの状態を“放生津幕府”と呼ぶ事もある。この地に連歌師の“宗祇”等が来遊したとの記録も残る。

この例以降、末期“室町幕府”では、有力武将達の覇権獲得争いの“大義名分”の為に、道具として“足利将軍家”の血統を擁立する事が繰り返されたが、こうした“血統信仰”に基づく旗印として利用された具体的事例は、後に“足利義維”(第11代将軍・足利義澄の次男)のケースがあり“堺幕府”と呼ばれた。又“織田信長”に追放された“足利義昭”(第15代将軍・在職1568年~1588年・生:1537年・没:1597年)が流浪の過程に滞在した御所を“鞆幕府”と呼んだ例は良く知られている。

しかし、次項(6-19項)で詳述するが“将軍・足利義尹”(=義材、後の義稙)の様に、流浪の後に“征夷大将軍”に再度就いた例は他には無い。


24:“室町幕府”が関東支配を放棄した状況下、関東では“伊勢宗瑞”(北条早雲)が“堀越御所”に討ち入り“堀越公方”の座を奪い取った”足利茶々丸“を追放する迄の経緯

京都でのクーデター(明応の政変)の結果、1494年12月に第11代将軍に就く事に成る“清晃“(=足利義高~足利義澄)にとって、3年前の1491年7月に、同母弟の”潤童子“と実母の”円満院“を殺害して”堀越公方“の座を奪い取った”足利茶々丸“は仇であった。”伊勢宗瑞”が“堀越御所討ち入り”を何故敢行したかに就いては後述するが、彼の関東地区の覇者としての本格的始動が始まったのがこの戦いである。

(参考)#1:“伊勢宗瑞”(伊勢新九郎盛時)と北条氏(後北条氏)について

“北条早雲”(伊勢新九郎盛時=伊勢宗瑞)の名で知られる“伊勢宗瑞”は戦国の扉を開いた代表的人物とされている。彼が“北条氏”を名乗った事実は無く嫡男”氏綱”(生:1487年・没:1541年)の代からである。従って、この6-18項では“伊勢宗瑞(伊勢新九郎盛時)”の名で記述している。更に厳密には”伊勢新九郎”の名で文書が残されているのは1491年(延徳3年)5月迄であり、1495年(明応4年)の史料では”早雲庵宗瑞”の法名が使われているから、この間に出家をしたと考えられている。

(参考)#2:“伊勢新九郎盛時”の出自について

“伊勢新九郎盛時”(伊勢宗瑞)の出自に就いては、備中国(岡山県)中荏原荘(井原市)で1456年(康正2年)に生まれたとされ、父親”伊勢盛定“(生没年不詳・子に北条早雲と今川義忠の妻で今川氏親の母親の北川殿が居る)は備中国“荏原荘”(岡山県井原市東部)に所領を持つ足利氏譜代重臣の“伊勢氏”の一族である事が明らかになっている。

又、父親”伊勢盛定”は“第8代将軍・足利義政”の“申次”(もうしつぎ・殿中に伺候して来た諸士の姓名を告げ、謁せしめる役目)衆として重要な役職に就いていた事も判明している。従って“北条早雲(伊勢新九郎盛時)”が身分の低い素浪人から身を起こしたという説は今日では否定されている。母親は“伊勢貞国女”とのみ伝わる。伊勢宗瑞は1519年(永正16年)8月に居城とした“韮山城”で63歳で没する。


24-(1):“今川家”の客将として徐々に重きを為して行った“伊勢新九郎盛時”(=伊勢宗瑞=北条早雲)

1487年(長享元年)11月:

“伊勢新九郎盛時”(出家して伊勢宗瑞を名乗ったのは1495年頃)は“今川氏“の家督争いの功績に拠って駿東“富士下方十二郡”(静岡県沼津市西部一帯)”を与えられ”興国寺城主“になった。その時期は1487年(長享元年)11月頃と伝えられる。

功績に就いては前項(6-17項)で記述した様に“今川義忠“(伊勢盛時の姉妹の夫)が遠江国で戦死した後に起った家督争いを”室町幕府“(将軍家と今川家は一族という関係から)の意向を受けて”伊勢新九郎盛時“(伊勢宗瑞)が”駿河国“に下向して収束させた事である。(1476年10月)

しかし、その後(伊勢宗瑞の甥でもある)“今川氏親”(生:1471年/1473年説・没:1526年)に家督を引き継がせるとの約束の期限が来たにも拘わらず“小鹿範満”(彼も今川一族であった・生年不詳・没:1487年11月)が家督を返そうとしなかった為、母親の“北川殿”(伊勢宗瑞の姉妹)と、子息の“今川氏親”が、当時京で“第9代将軍・足利義尚”に仕えていた“伊勢宗瑞”(奉公衆であったとされる)に解決の為の支援を求めた。

“伊勢宗瑞”は駿河国に再び下向し、1487年(長享元年)11月に“小鹿範満”を討伐、自害に追い込むという功績を挙げた。

“今川氏親”(北条早雲の甥・今川義元の父親・生:1471年/1473年説・没:1526年)は晴れて家督に就き、この件に大きな貢献をした“伊勢新九郎盛時”は初代“興国寺城主”(1603年に廃城と成った城だが113千平米・・約34,000坪の広さの山城であった。静岡県沼津市根古屋)となり、今川家で重きを為すようになった。この“興国寺城”が伊勢宗瑞の“伊豆国”征圧の拠点となる。


=興国寺城跡訪問記=2020年7月2日(木曜日)

①所在地:静岡県沼津市根古屋
②交通:自宅(東京都杉並区)から124km・・東名高速~沼津IC~インターを降りてから、県道22号線を凡そ20分走って到着
③静岡県東部を代表する平山城(標高30m)で面積は113、000平米(約34,000坪)である。1607年に廃城になったとある。2017年に“続日本百名城”に選定されている

④見学記:
戦国大名”北条早雲”(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城、関東征圧の旗揚げの城として知られる。又、興国寺城は駿河、甲斐、伊豆国の境目に位置し ていた為、今川氏、武田氏、そして後北条氏の間の争奪戦の渦中に置かれた城だった。

写真に示す様に土塁(土を盛って築いた土手。敵の侵入を拒む役割)と空堀(水の無い掘で底は通路に使用される事もある)によって仕切られた本丸、二の丸、三の丸の3曲輪(くるわ=人工的に造り出した平坦地)から成る古城の姿を今日でも想像出来る城址である。

大阪城、姫路城、福知山城等の様に壮大な天守閣は無い時代の城址であり、土塁と堀、そして石垣だけが確認出来る。却ってそれが戦闘に明け暮れた当時の城址らしく、遠路訪問した甲斐があった。


=写真説明=
(写真上2枚)東京杉並の自宅から車を運転して興国寺城跡へ124㎞程であった:

(写真左)天守台石垣はいかにも古城らしい石垣であった

(写真下左)敵の侵入を拒んでいたであろう古城の巨大な土塁が当時の古城の姿を想像させた

(写真下右)本丸を囲む土塁
24-(2):“伊勢宗瑞“の”堀越御所討ち入り”事件の背景

“足利茶々丸“に殺された“清晃”(第11代将軍足利義高~足利義澄)の母親、並びに弟“潤童子“の仇討ちを”伊勢宗瑞“が代わって行った戦闘が”堀越御所討ち入り“である。この襲撃で“堀越公方・足利茶々丸”は伊豆国から追い出された。この戦いは“伊勢宗瑞”の伊豆国征圧の緒戦と成った。

1493年(明応2年)10月又は1495年(説):

“伊勢新九郎”(伊勢宗瑞)の“堀越御所討ち入り“が行われた時期に就いては明確に裏付ける史料が無い。従来説は1493年とされて来たが、近年の研究では“清晃”が正式に第11代室町幕府将軍に就いた(1494年12月に将軍宣下を受けた)後の1495年とする説も有力となっている。

既述の通り“清晃“(第11代将軍足利義高~足利義澄)にとって実母と同母弟“潤童子”を殺して“堀越公方”を奪い取った“足利茶々丸”は仇であり討つ理由はある。そうした背景からこの事件は“細川政元”と“日野富子”が京に於いて“清晃”を第11代将軍に擁立し、起こしたクーデター(明応の政変・1493年4月22日)と連動していたとする説がある。

“伊勢新九郎盛時”(伊勢宗瑞=北条早雲)は足利氏譜代重臣の“伊勢氏一族”であり、その上彼は“2代目堀越公方・足利茶々丸“の御所に近い”興国寺城主“であった事から“幕府管領・細川政元(当時27歳)”が“清晃”(後の第11代将軍・足利義高~義澄・当時12歳)の為の”敵討ち“という大義名分、政治的意図をもって、幕府との関係も近い“伊勢新九郎盛時”(伊勢宗瑞=北条早雲)を使って討伐させたとする説である。

24ー(3):“堀越御所討ち入り”を成功させる為に“伊勢宗瑞”が用いた戦略

既述した様に“伊勢新九郎盛時”は1493年~1495年に出家し“早雲庵宗瑞”と名乗ったと伝わる。

“伊勢宗瑞(北条早雲)“が用いた“堀越御所討ち入り”の戦略は“2代目堀越公方・足利茶々丸”が伊豆国守護の“山内・上杉顕定”を頼っていた事から“長享の乱”(1487年閏11月~1505年3月)で敵方であり“相模国”と“武蔵国南部”を抑えていた“扇谷・上杉定正”と連携する事であった。

又、討入るタイミングを“山内・上杉家“が上野国の合戦で伊豆国の多くの兵を駆り出していた時期としたのである。“伊勢宗瑞(北条早雲)“は手勢200人と”今川氏親“に借りた300人の計500人の勢力を以て、火を放つ等の戦術を用いて”堀越御所“を急襲し、忽ちの中に陥落させ“足利茶々丸”を伊豆国から敗走させた。

追放された“足利茶々丸”は以後5年間に亘って“山内・上杉顕定”の支援を受け“堀越奪還“に策動する事に成る。しかし後述する様に1498年(明応7年)8月の戦いで滅び、彼の死に拠って“堀越公方”は僅か2代で消滅したのである。
25:“伊勢宗瑞”の伊豆国征圧が開始される

“伊勢宗瑞“の”伊豆国征圧開始“にいち早く参じたのは、伊豆国の豪族“鈴木繁宗”(堀越公方から真っ先に離反し、後に伊豆水軍=北条水軍を率いる武将・生没年不詳)と“松下三郎右衛門尉”とされる。”関東“の戦国期はここに始まったとする説が多い。

25-(1):“韮山城”を整備し“伊豆国”征圧の本拠地とし、生涯の居城とした“伊勢宗瑞”

“堀越御所”を攻め“2代目堀越公方・足利茶々丸”を“伊豆国”から追放した“伊勢宗瑞”は、本拠地を“韮山城”(築城主は初代堀越公方・足利政知の家臣,外山豊前守と伝わる・築城年は1469年~1486年の間とされる・廃城1601年・静岡県伊豆の国市韮山)に決め、本格的な整備をした。(時期としては足利茶々丸を堀越御所から追い出した1493年~1494年頃とされる)

その後“小田原城”も奪い(時期に就いては1495年説他諸説があるが結論として1495年~1501年の間だとされる)“伊豆国“征圧後に”相模国“征圧に乗り出すが”伊勢宗瑞“が拠点としたのは、飽くまでも“韮山城”であった。そして彼は1519年にこの“韮山城”で没する。

父“伊勢宗瑞”の没後に跡を継いだ“氏綱”が“北条氏”と改姓し“相模国・小田原城”に本拠地を移した事で“韮山城“は”小田原城“の支城として、足柄城、山中城と共に西側を防御する重要な城としての役割を担う事に成る。

長享の乱後半

26:“伊勢宗瑞(北条早雲)”が“堀越御所討ち入り”で“足利茶々丸”を伊豆国から追放した事が発火点と成って、1490年から休戦状態であった“長享の乱”が再開される

以下に再開された戦闘の状況を記述するが、その理解の助に“(別掲図)1494年に再開された長享の乱と扇谷上杉家と同盟した伊勢宗瑞の動き、小田原城の略取“を参照されたい。


1494年(明応3年)8月:“長享の乱”再開

1493年10月に“伊勢宗瑞“が”2代目堀越公方・足利茶々丸“を急襲し、伊豆国から追放した事で”足利茶々丸“は”山内・上杉顕定“を頼った。それに対抗すべく“伊勢宗瑞(北条早雲)”は“扇谷上杉定正”と同盟関係を結んだ。

両者が同盟した事を知った”山内・上杉顕定“は、戦闘準備に入り、1490年(延徳2年)12月に“両上杉家”が結んだ“停戦協定”は白紙に戻され“長享の乱”は5年振りに戦闘再開となる。“長享の乱”は最終局面へと突入して行った。

1494年(明応3年)8月に先ず“扇谷上杉軍”が兵を挙げ“山内上杉”方の武蔵国“関戸城”や相模国“玉縄城”を攻め落とした。(別掲図:1494年に再開された長享の乱~小田原城の略取・・の①に示す)

1494年(明応3年)9月23日(説):平安時代以来の“相模国”の名門“三浦家”で内紛が起こる・・養子“三浦義同(三浦道寸)“が、養父”三浦時高“を追い落として家督を継ぐ
         
“扇谷上杉家”出身で“三浦時高”(新井城主・生:1416年・没:1494年9月23日)の養子と成った“三浦義同”(みうらよしあつ=三浦道寸・相模国守護代~守護・生:1451年・没:1516年)が、養父“三浦時高”を新井城に攻め滅ぼすという事件が起こる。その背景は、男子に恵まれなかった“三浦時高”に実子“三浦高教”(みうらたかのり)が生れ、後継者に決まっていた“三浦義同“を廃して“三浦高教”を後継者にした事であった。

廃嫡された事に反発した“三浦義同(三浦道寸)“は母方の実家である小田原城主”大森藤頼“(生年不詳・没:1503年11月)と結んで、養父“三浦時高”を攻め落とした。平安時代以来の相模国の名門“三浦家”での内訌(内紛)事件(別掲図②に示す)を起こして家督を得た“三浦義同”(三浦道寸)は、以後“伊勢宗瑞”の最大の敵となる。

1494年(明応3年)9月(半ば?)~9月末:

“扇谷・上杉家”と同盟関係を結んだ“伊勢宗瑞(北条早雲)”は“当主・上杉定正”を支援する事で“長享の乱”に関わる事に成った。

“伊豆国”から出陣し、同年9月(半ば?)に“山内上杉”方の“三崎城”(別掲図の新井城の支城として築城された。別名として宝蔵寺城、北条山城、三浦城がある・1590年廃城・神奈川県三浦市城山町)を攻略した。9月末には“扇谷・上杉定正“軍と合流し、10月2日には“塚田“(別掲図 ③)の近くに布陣した。

26-(1):優勢に戦闘を展開していた“扇谷上杉軍”だったが、当主“上杉定正”が急死(落馬説)するという事態が生じ“山内・上杉軍゛に逆転される

1494年(明応3年)10月3日:

“扇谷・上杉定正”が急死する。急死の原因に就いては、大将“扇谷上杉定正”が荒川を渡って“藤田”の“山内・上杉軍”陣地を攻めようとした時に落馬し、命を落としたと言う説も伝わる。大将の急死で“扇谷上杉軍“は退却を余儀なくされた。(別掲図:④に示す)

尚、急死した“扇谷上杉定正”の後継には養子に入って居た“上杉朝良”(うえすぎともよし・生:1473年・没:1518年)が武蔵国“河越城”で就いた。21歳であった。

1494年(明応3年)11月14日:

“伊勢宗瑞“は塚田から高坂に陣を移し”山内上杉軍“との戦いを続けた。11月14日に”成田顕泰“(なりたあきやす・山内上杉家系の総社長尾氏5代当主の三男。成田正等の養子に入った武将・生:1465年・没:1524年)が守る“岩付城”(別称は岩槻城・写真参照方:築城主・太田道真:1457年頃・埼玉県さいたま市岩槻区太田3-4-4)を攻撃したが、攻め切れず、撤退を繰り返し(別掲図⑤に示す)“岩付城”(岩槻城)攻略を諦め、1494年11月下旬に“伊豆国”に戻っている。


=岩付城(岩槻城)址訪問記:2020年7月1日(水)訪問

住所:埼玉県さいたま市岩槻区太田3丁目4番(岩槻城址公園)

築城者、歴史:
太田道灌とする説、父の太田道真とする説、後に忍城主となる成田氏等の諸説がある。上記にもある様に“伊勢宗瑞”が攻めあぐねた名城であり“太田氏資”(おおたうじすけ・生:1542年・没:1567年)を最後に(後)北条氏が支配する城となった。

1590年に豊臣秀吉が(後)北条氏を滅ぼした後は、江戸に転封された徳川家康の家臣“高力清長”(こうりききよなが・生:1530年・没:1608年)が城主となり、江戸北方の守りの要として幕府要職の譜代大名の居城として重要視された。

城址見学:
現在は自然林に囲まれた起伏の多い公園になっている。写真に示す岩槻城城門(黒門)や、明和7年(1770年)に修造されたとする“岩槻城裏門”も現在地に移築されている。公園のパンフレットには“太田道灌”が1457年に築いた岩槻城の城郭を生かして公園は整備されたと書かれている。広さは凡そ18ha( 180,000平米=54,500坪)である。

交通手段:
鉢形城から車で向かったが70分程の距離であった。自宅(東京都杉並区)からのナビは48㎞と示していた。因みに、同日訪問したその他の史跡への自宅からナビが示す距離は鉢形城が74㎞、河(川)越城が51㎞である。


=写真説明=

(写真)上:岩槻城城門、木材部分が黒く塗られているので黒門の名で親しまれている。伊勢宗瑞が1494年に攻め切れなかった”山内上杉“方の”成田顕泰“が守った城の城門である
(写真上左)岩槻城にはこうした土塁、空堀が残されており中世城郭の面影を偲ぶ事出来る

(写真上右)埼玉県の指定史跡“岩槻城”の説明版

 
27:京で“日野富子”が56歳で病死する

1496年(明応5年)5月20日:

“日野富子”は没する3年前の“細川政元“のクーデター(=明応の政変・1493年4月)に協力し、亡き“初代堀越公方・足利政知”の子息で、彼女にとっては甥の“清晃”を12歳で還俗させ、義遐(よしとお)と改名させ、13歳で元服、1494年12月に強引に第11代将軍に就けた。(将軍就任の初名は足利義高、1502年に足利義澄に改名している)このクーデターの成功は彼女の存在が極めて大きかったとされる。

“日野富子”は、兄弟、姉妹等、日野家(裏松家)との結びつきが強かった事は之までも記して来たが、第11代将軍“足利義高(足利義澄)”の正室も姪の“日野阿子”である。前・第10代将軍で“明応の政変“(1493年4月)で追われた”足利義材(=足利義稙)“も妹の”日野良子“の子である事は何度も記述した。

“日野富子”は庶民からの評価が決して高く無く、悪女、守銭奴、天下の悪妻と伝わる。しかし、前項で記述した様に彼女が“応仁の乱”終息に果たした史実としての役割、功績は大きい。息子の“第9代将軍・足利義尚(義熈)”の陣没(1489年3月)、続いて、夫“足利義政”が病死(1490年1月)した事によって、幕府が大きく動揺する中、彼女が歿する迄の6年間“御台”の尊号で呼ばれ、幕府内部に大きな影響力を持ち続け、崩壊寸前の室町幕府に於いて将軍権威を支えたという点で貢献は大きい。

それが史実である事は“実隆公記”(1995年に重要文化財に指定された公家・三条西実隆・さんじょうにしさねたか・生:1455年・没:1537年の日記・自筆本が現存する)並びに“後法興院記”(関白・太政大臣を務めた公卿・近衛政家・生:1444年・没:1505年・の日記)が記している。56年間の波乱の生涯であった。

写真説明:粗末な8代将軍”足利義政”並びに”日野富子”の墓

足利義政墓所:相国寺・・京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701
日野富子墓所:華開院・・京都市上京区神道下売下る行衛町437
(写真左):“相国寺”にある第8代将軍・足利義政の墓・・2016年12月15日訪問
(写真右):華開院にある“日野富子”の墓・・2019年11月19日訪問

28:関東で初代古河公方(1449年~1455年迄は第5代鎌倉公方)“足利成氏”が病歿する

1497年(明応6年)9月30日:

“足利成氏“は1489年(長享3年)頃には家督を嫡男“足利政氏”に譲ったと思われる。鎌倉を追われ“第5代鎌倉公方”から“初代古河公方”と称される様になった訳だが臨終の際に“再び鎌倉に環住し関八州を取り戻す事が孝行である。何にも勝る弔いに成る”と嫡子“足利政氏”に遺言した事を“鎌倉公方九代記”が伝えている。

“山内・上杉憲忠”を謀殺した事から始まった“享徳の乱”(1454年12月~1482年11月)を引き起こし、関東地方を戦乱の渦に巻き込んだ張本人の遺言であったが、嫡子“足利政氏”も鎌倉に戻る事は叶わなかった、又、其の後に続いた歴代古河公方達も鎌倉復帰を果たせなかった。

29:“2代目堀越公方・足利茶々丸“を自害に追い込んだ事で“伊勢宗瑞(北条早雲)”の”伊豆国征圧“が完了する

1493年(明応2年)3月に“伊勢宗瑞”に伊豆国から追い出された“足利茶々丸”はその後、5年以上に亘って“山内・上杉顕定”並びに甲斐国の“武田信縄”等を頼って“堀越奪還”のチャンスを窺っていた。

29-(1):伊豆中央部の“狩野氏”と奥伊豆の“関戸氏”を攻略し“足利茶々丸”を追い込んで行った“伊勢宗瑞”

“伊勢宗瑞”が“足利茶々丸”を滅ぼす過程を、別掲図“伊勢宗瑞が堀越御所討ち入りを皮切りに伊豆国征圧を開始する”を理解の助に参照されたい。


1497年(明応6年)12月:

伊豆中央部では“狩野道一”が“狩野城”の城主であった。遠く“保元の乱“(1156年・保元元年7月)で敗れ、伊豆大島に流された”源為朝“(生:1139年・没:1170年)を自害に追い込んだ“狩野茂光”(工藤茂光)の子孫で、伊豆国では盟主的存在であり、平安時代末期以来の名家であった。”伊勢宗瑞“はその彼と戦い、勝利し、従わせたのである。

1498年(明応7年)8月中半:

別掲図の“伊豆半島”の下部に示す、下田堀ノ内”深根城“の二代目城主“関戸吉信”は堀越公方“足利茶々丸“の家臣であった。父の播磨守”関戸宗尚“は山内上杉家の”上杉憲実“が1419年に関東管領(在職1419年~1437年)に就任すると、奥伊豆鎮護の為に派遣され“深根城”を築いた人物である。“伊勢宗瑞(北条早雲)”の侵攻に奥伊豆の土豪達の殆んどが降伏したが“関戸吉信”は降伏せず“深根城”で戦った。城は囲まれ、遂には長男と共に自刃に追い込まれた。

29-(2):“堀越公方・足利茶々丸“の最期・・南伊豆”深根城“

1498年(明応7年)8月?:

“伊勢宗瑞”に1493年10月の“堀越御所討ち入り”で伊豆国を追われた”2代目堀越公方・足利茶々丸“は、最初は”山内上杉顕定“を頼った。その後は甲斐国守護“武田信縄”(たけだのぶつな・武田信玄の祖父・生:1471年・没:1507年)を頼り“伊豆奪回”を図っていた。

上記した様に、与した武将達が次々と“伊勢宗瑞”に拠って討たれ“足利茶々丸”は最期を迎える。彼の最期に就いては諸説があるが、南伊豆の“深根城”の関戸家の元に身を寄せていた処を急襲され“関戸吉信”が自刃した時に自害したとの説が有力である。

“足利茶々丸”を討った事で“伊勢宗瑞”の“伊豆国征圧”が完了した。尚“足利茶々丸”は元服式を挙げる前に没した為、彼の幼名は伝わるが、成人としての実名(諱=いみな)は伝わらない。


=伊勢宗瑞が拠点とした“韮山城”訪問記=2020年7月2日訪問

住所:静岡県伊豆の国市韮山、韮山229(韮山高校内)

築城者:
北条五代記に拠ると初代堀越公方・足利政知の家臣”外山豊前守”が文明年間(1469年~1486年)に築城したものを“伊勢宗瑞”(北条早雲)が関東経略の拠点として1500年頃までに、本格的に整備を完了したと伝わる。後に相模に侵攻した“伊勢宗瑞”は略取した”小田原城”に移らず“韮山城”を生涯の居城とし、この城で没した。

城址見学:
県立韮山高校が城址のある場所だ、との情報を基に、学校を目指してドライブし、到着した。職員に訪問の目的を告げると、親切に城址への行き方を教えて頂けた。校舎の一部を通り、指示された方向に進むと現在は”城池親水公園”になっている池の前に小さな駐車スペースがあり、そこに駐車。この池は当時の掘跡との事である。車を降り、友人と共に当時の本丸があった山頂まで豪雨の後で糠った山道を15分程かけて登り、韮山城の本丸跡に着いた。

標高は42m程とあるが湿地帯が拡がっていたとされる周囲は低地部であり、比高差としては73mとの事である。写真に示す様に、本丸跡からは、遥か遠くに富士山が見え、景観は素晴らしい。戦闘に次ぐ戦闘の当時、戦国武将”伊勢宗瑞“(北条早雲)が此の絶景を好んで生涯の居城とした訳では無い事は当然だが、そう思わせる程の景観の良い山城である。周辺地図を示す案内板には韮山城主郭、天ケ岳(山頂部標高128m)に配置された4つの砦等が当時は築かれていた事を示している。韮山城が堅固な城であった事が解る。

交通手段:
伊豆箱根鉄道駿豆線の韮山駅からバスで5分とあり、公共交通機関も利用出来るが、私達は7月2日に東京から運転をして①興国寺を皮切りに、後述する②足利茶々丸墓所(願成就院)③堀越公方御所趾④韮山城趾の順に訪問した。②と③は徒歩で訪問できる範囲にあり、願成就院から韮山城迄も20分程のドライブであった。
尚ナビは杉並の自宅から“韮山城“迄の距離を129㎞と示していた。


=写真説明=2020年7月2日訪問
(写真上)韮山城は周囲の天ケ岳(山頂部標高128m)に4つの砦が築かれ堅固な構えであった事が説明板に記されている。

(写真)左:
本丸のあった頂上 標高は42mとあるが、周囲が低地の為、比高差としては73mある。
  
(写真)右:
本丸跡とされる場所からは県立韮山高校の後方の雲間に富士山の頂上の姿がはっきりと見えた

=堀越御所跡訪問記=2020年7月2日訪問

住所:静岡県伊豆の国市四日町字御所ノ内932

訪問記:
“伝堀越御所跡”の案内板には鎌倉時代の北条氏の屋敷跡に堀越御所が造られたと書かれている。(北条時政の館跡に初代堀越公方・足利政知が御所を建てたとされる)周囲には北条時政が建立した“願成就院”がある他、1998年(平成10年)からの発掘調査の結果、鎌倉時代の執権、北条氏の館跡が発見されている。

“北条政子”産湯の井戸“北条時政”の墓等、執権北条氏ゆかりの史跡が多く残り、現在も発掘が続けられている。2代目堀越公方”足利茶々丸”が没した時期、場所に就いては諸説があるが”伊勢宗瑞“に堀越御所を急襲され(1493年10月)伊豆国を追われ、復帰を図ったが南伊豆で自害に追い込まれた(1498年8月)時点だとの説が有力とされる。その”足利茶々丸”の墓は、北条時政が建立した”願成就院”の境内にある。

交通機関:
伊豆箱根鉄道駿豆線の韮山駅から徒歩15分と書かれている。従ってこの史蹟も公共交通機関が利用出来る。我々は既述の通り、車で“興国寺城”から1時間弱のドライブで“願成就寺“に向い、境内にある”足利茶々丸の墓”を訪ねた後に、徒歩で”伝堀越御所跡”その他“北条時政墓地”など、北条氏に関連する史跡を1時間程かけて見学した。


=写真説明=

(写真上)

願成就院に駐車して“頼朝・政子語らいの路(鎌倉古道)”と名付けられた小路を10分程歩いて“伝堀越御所跡”に着いた。フエンスに囲まれた緑地が広がるだけの史蹟であった。上記案内板が掲げられ、堀越御所は鎌倉時代の北条氏の屋敷跡に建てられたと書かれている。初代鎌倉幕府執権とされる(6-3項で記述した様に様々な策謀を巡らした北条時政を初代執権としない説もある)北条時政の墓、娘の北条政子の産湯の井戸等、執権北条氏に関する遺跡の発掘作業が今日も行なわれている
(写真左上)北条氏邸跡 (写真左下)2022年のNHK大河ドラマは“北条義時”に決まっており、今からPRの旗が掲げられていた

(写真右上)周囲一帯は鎌倉北条氏にまつわる史跡が固まっている。この一帯は守山を背にしており“守山中世史跡群”と称される。


=2代堀越公方・足利茶々丸墓所、並びに“願成就院”訪問記=訪問日・2020年7月2日

住所:静岡県伊豆国市寺家83-1

足利茶々丸墓地:
“願成就院”の大御堂のすぐ横に“2代目堀越公方・足利茶々丸”の墓地がある。室町幕府“第11代将軍・足利義高(義澄)”の仇とされ、伊勢宗瑞に拠って討たれたという史実からか、写真に示す様な粗末な墓であり、同じ敷地内の北条時政の墓とは対照的であった。
願成就院:
吾妻鏡の1189年(文治5年)6月6日条に“源頼朝”の奥州平泉攻め(同年閏4月30日に義経を討った藤原泰衡を許さず、1189年7月~9月追討し、追われた藤原泰衡は館を焼いて北方に逃げるが、家臣の裏切りで同年9月3日に殺され、奥州藤原氏が滅亡した)の成功を祈願して建立したと書かれている。以後、2代執権“北条義時”3代執権“北条泰時”の3代に亘って堂塔が建立され、繁栄を極めた。

その後、2代堀越公方“足利茶々丸”が伊勢宗瑞に奇襲された戦いで多くの堂塔が灰燼に帰し、以後寺運が衰退した。現在の本堂は“願成就院創建600年”に当たる1789年に建立されたとある。大御堂には“運慶”作の国宝の五軀の仏像(阿弥陀如来坐像、不動明王像、矜羯羅童子像、制吁迦童子立像、毘沙門天立像)が祀られている。

仏像からは北条時政と仏師“運慶”の名が書かれた”胎内銘札“が見付かっており、願成就院開基である北条時政の発願に拠って”運慶”が謹作した仏像である事が明らかになった。運慶(生:1150年・没:1223年)35歳頃の作、若き運慶の傑作とされる。

訪問録:
女性が案内役を務めてくれた。一通りの説明の後イギリス人のご主人が更なる説明を加えて呉れた。女性は“願成就院”の副住職で、コンサルタントの仕事で英国駐在時にご主人と巡り合ったとの事であった。イギリスもコロナウイルス禍への対応が現状(2020年7月2日現在)うまく行って居らず、英国人の御主人が現在のボリス・ジョンソン首相をこき下ろしていた。(ジョンソン首相はコロナウイルス禍の極く初期に“全員が掛かってしまえば抗体が出来る”と楽観論を述べ、後に自分が感染してしまった愚を批判された事などをこき下ろしていた)


=写真説明=

(写真上左):
足利茶々丸ノ之墓と刻まれ、更に延徳四年二月十日(1492年)の日付が墓石に刻まれている。この日付は彼が自害したとされる1498年8月(明応7年)でも無く、又“堀越御所討ち入り”まで遡った1493年10月(明応2年)の日付よりも前の日付である。弟の潤童子と継母を殺し事実上の堀越公方と成ったのは1491年7月であるから、その半年後の日付(1492年2月10日)が何故墓石に刻まれているのかは不明である。

(写真上右):
下に示す初代執権“北条時政”の墓とは扱いがまるで異なる粗末な“足利茶々丸”の墓の全貌
(写真上左):願成就院の門前。“運慶”作五軀の国宝の仏像がある事で有名である。自宅(東京都杉並区)からのナビが示す距離は“韮山城”と同じ129㎞であった。
(写真上右):願成就院開基の“北条時政”の墓所。

(写真下):国宝の仏像が安置された大御堂とはドアで仕切られた別室には“北条時政公座像”と並んで“北条政子追福地蔵菩薩坐像”が祀られている。北条政子の七回忌追福菩提の為に三代執権“北条泰時”が奉納したとある

30:京都への帰還を目指して“越前国・朝倉貞景”のもとに移った“前・第10代将軍・足利義尹(よしただ=足利義材から改名)

1498年(明応7年)9月:

関東で“伊勢宗瑞”が伊豆国征圧を完了させた頃、クーデター(明応の政変・1493年4月)で捕えられ“越中国”に亡命した“前・第10代将軍・足利義材”は“足利義尹”と改名し“越中国”を出て、父親“朝倉氏景”から家督を継いだ(1486年・13歳の時)“越前国守護・朝倉貞景“(生:1473年・没:1512年)のもとに移った。

“越中国”を出た時“足利義尹(=足利義材・当時32歳)の供は僅か13人だったと伝わる。
“越前国”に移った目的は①細川政元(当時第28代幕府管領)との和睦をして上洛する②第11代将軍に就いた“足利義澄”追討の協力を“越前国守護・朝倉貞景“に求める、の2つの説がある。”越前国“に移って以降の“足利義尹(足利義材)”の行動は下記である。

1499年(明応8年)7月:

“畠山尚順”(はたけやまひさのぶ・紀伊、河内、越中守護・生:1475年・没:1522年)の父親“畠山政長”は、河内国”畠山基家”討伐の際“正覚寺”で自刃したが(1493年閏4月25日)戦いに同行した“畠山尚順”は紀伊国に落ち延びた。逼塞を余儀なくされたが、流浪の“前第10代将軍・足利義尹(足利義材)”の有力な与党として生涯尽くし“細川政元“に抵抗し続けたのである。

家督は“正覚寺”の戦いに勝利した“畠山義豊”(=畠山基家が改名)に奪われたが“畠山尚順”はその後、1499年1月30日に“河内十七箇所”(現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区中、東部に存在した17箇所の荘園群)の戦いで“畠山義豊”を討死させ、父の仇を討っている。

彼を含め、流浪の“前第10代将軍・足利義尹(足利義材)”を支援する連中は、上洛を図って“細川政元”軍と戦い活躍する。延暦寺、根来寺、高野山の僧兵も味方に付き、延暦寺の根本中堂を焼く程の激戦を展開し“足利義尹(足利義材)”方が“近江国”に迫る迄に攻め入った事も伝わる。こうした戦闘に“越前国守護・朝倉貞景”が従軍したとの記録は無いが“越中国”からは放浪中の“足利義尹(足利義材)”に御座所を用意し、保護した“神保”陣営が従軍した記録が残る。

1499年(明応8年)11月22日:

“越前国”から“近江国”に迫った“足利義尹(足利義材)”軍が“細川政元”軍を追い詰めるチャンスもあったが“細川政元”方の“六角高頼”との攻防で敗れた事を機に“周防国”(山口県)に逃れている。

“周防国”で“大内義興”(おおうちよしおき・大内氏15代当主・後に幕府管領代となって将軍の後見人と成る。周防、長門、石見、安芸、筑前、山城の7カ国の守護職を兼ねる・生:1477年・没:1529年)を頼った事で結果的に“足利義尹(足利義材)”は将軍復帰を果たすと言う幸運を掴むのである。

詳細は次項(6-19項)で記述するが、1507年(永正4年)6月23日に幕府管領“細川政元”が暗殺されるという事件(細川殿の変)を境に“細川氏”も家督継承を巡って内紛に陥る。紆余曲折を経て“足利義尹(足利義材)”は京に帰還、晴れて将軍への復帰を果たすのである。

この6-18項では第11代将軍“足利義高(足利義澄)”までの記述であるが、次項(6-19項)では、第12代以降の将軍、そして戦国時代下で室町幕府が崩壊して行く経緯を詳述する。その予備知識として予め用意した次頁の別掲図“応仁の乱後の足利将軍“を参照願いたい。


31:関東では“伊豆国”を征圧した“伊勢宗瑞(北条早雲)”が“扇谷・上杉朝良”からの“長享の乱”への支援要請があった事に乗じて“相模国”侵攻へのチャンスを掴む・・“長享の乱”の終息

“足利茶々丸“を自決に追い込んだ戦い(1498年・明応7年・8月?)を以て“伊勢宗瑞”の“伊豆国(静岡県)”征圧は完了した。“伊勢宗瑞”42歳の時であった。“伊豆国”は元々“山内・上杉顕定”の領国であったが、1482年11月の“都鄙合体”で“堀越公方・足利政知”に割譲したものであり、それを奪った“伊勢宗瑞”の存在は、関東管領“山内・上杉顕定”にとって、愈々侮れないものと成ったのである。

その“伊勢宗瑞“が次に侵攻対象としたのは隣の国”相模国“(神奈川県)であった。相模国は“長享の乱“(両上杉家の内紛1487年~1505年)で“伊勢宗瑞“が同盟して戦った“扇谷・上杉氏”の領国である。しかし既述の様に“長享の乱” の最中の1494年10月(“武蔵国”高見原の戦いの最中)に“扇谷・上杉定正”が急死し(落馬説もある)後継者に甥で養子の“上杉朝良”(生:1473年・没:1518年)に代替わりした事で状況が大きく変わっていた。

当主が代わった隙を突いて“山内・上杉顕定“が“相模国”を狙ったのである。当主に就いたばかりの“扇谷・上杉朝良”は“山内・上杉顕定”の動きに対し“駿河国守護・今川氏親”に支援を求め、その“今川氏親”が叔父の“伊勢宗瑞”に加勢を求めたのである。(直接に伊勢宗瑞に支援を求めたとの説もある)この展開は“伊勢宗瑞”にとっては願っても無い“相模国侵攻”のチャンスと成った。

31-(1):当時の“相模国”の勢力図

“西相模”の勢力は“小田原城”を本拠地とする“大森氏”が握り、三浦半島を中心に“東相模“の勢力は”三浦氏“が握っていた。両勢力の主君が”守護・扇谷・上杉朝良“という構図である。

=伊勢宗瑞の小田原城略取に関する検証・・その1=

“伊勢宗瑞”が“扇谷上杉”方の“大森藤頼“が城主であった”小田原城“を略取したとされる事件の時期と経緯に対する検証
 
以下に就いては見出し#26の処で用いた(別掲図)”1494年に再開された長享の乱と扇谷上杉家と同盟した伊勢宗瑞の動き、小田原城略取”を今一度理解の助に参照願いたい。


北条記”等の軍記物には1494年乃至は1495年に“伊勢宗瑞”が鹿狩りに事よせて“大森藤頼”(生年不詳・没:1498年?1503年説あり)を騙し“小田原城”を奪取したと書かれて居り、この説が永い間主流であった。

しかし、其の後”上杉家文書”に拠って1496年(明応5年)7月24日に“山内上杉顕定”の軍勢が”扇谷上杉方”の“大森式部少輔、刑部大輔(上杉朝昌=上杉定昌の弟・生没年不詳)、三浦道寸(義同)、伊勢新九郎入道(宗瑞の弟、弥次郎)の守る“小田原城”の要害(砦)を急襲して、自落(戦わずして城から撤退する事)させたと書かれている事が判明した。

この事から、少なくとも1496年7月24日迄は“大森氏”が扇谷上杉方として“小田原城”に居た事は間違い無い。従って“伊勢宗瑞“が1494年乃至は1495年に“小田原城”を略取したという説は整合性に矛盾があり、否定される。


31-(2):劣勢だった“扇谷上杉朝良”軍は“伊勢宗瑞”に支援を要請し、優勢と成る

以下に戦況展開を記述して行くが、理解の助に下記(別掲図)“関東の両上杉家の内紛・長享の乱・は山内上杉家が勝利したが、両上杉氏は衰退し伊勢宗瑞の関東進出を許す結果となる“を参照願いたい。


31-(2)-①:“山内・上杉顕定”が“第2代古河公方・足利政氏”と連合して一気に“扇谷上杉朝良”を攻める

1503年(文亀3年):

“長享の乱”に於ける最後の戦いを仕掛けたのは“山内上杉顕定”であった。扇谷上杉家の拠点の“河越城”を攻めるべく“鉢形城”を出陣“第2代古河公方・足利政氏”も“山内・上杉顕定“方に与して出陣した。従来は”扇谷上杉家“と連携していた”古河公方“であったが、1494年10月5日の戦闘の最中に“扇谷・上杉定正”が急死した事で“扇谷・上杉氏”が弱体化したと判断し、以後“山内・上杉方”に鞍替えしていたのである。

両軍は“河越城”の南西“上戸”に着陣した。(別掲図①に示す)

1504年(永正元年)8月~9月6日:

8月に“山内上杉顕定”軍は“扇谷上杉”軍の拠点“河越城”を攻撃したが、攻めあぐね、9月6日に“江戸城”攻略に切り替えている。(別掲図②)

31-(2)-②:”山内上杉顕定”の攻勢に対すべく、父“扇谷上杉定正”が“伊勢宗瑞”と連携した様に“扇谷上杉家”を継いだ”上杉朝良“も”伊勢宗瑞“に支援要請をした

“扇谷上杉家”は“扇谷・上杉定正“が家宰”太田道灌“を誅殺(1486年7月)した事が災いし、家臣の離反が相次ぎ、家勢は衰退の一途を辿っていた。それでも“扇谷・上杉定正”は戦上手との評判通り、何とか“長享の乱”を持ちこたえて来ていたのである。しかし、彼が急死(1494年10月5日)した後に家督を継いだ“扇谷・上杉朝良”にその力は無く“伊勢宗瑞”を頼るしか無かった。


=伊勢宗瑞の小田原城略取に関する検証・・その2=

扇谷・上杉朝良”は“伊勢宗瑞”に支援要請をした。しかし一方で”伊勢宗瑞”は“扇谷・上杉家”の家臣“大森藤頼”の居城“小田原城”を略取している。この事が両者の協力関係に問題と成らなかったのか、に就いての検証

“扇谷・上杉朝良“が“山内・上杉顕定”との戦いの支援要請を先ず“今川氏親”に要請し、その“今川氏親”が叔父であり、又、客将でもある“伊勢宗瑞”に出陣要請をした。(既述の様に直接伊勢宗瑞に協力要請したとの説もある)いずれにせよ“伊勢宗瑞”が”扇谷・上杉朝良”支援を承諾した事に変わりは無い。しかし、この時期“伊勢宗瑞”は同家の家臣“大森藤頼”の居城“小田原城”を略取して居り“扇谷・上杉朝良”はこの件に就いて如何対処したのか、つまり、両者の協力関係が破綻しなかったのか?に就いては諸説があり検証して置きたい。

既述の様に”扇谷・上杉朝良“が当主に就いた時には、家勢が弱体化して居り”山内・上杉顕定”との戦闘に勝てる状況では無かった。従って、背に腹は代えられぬと考え“小田原城略取”を容認せざるを得なかったとの説がある。つまり、苦境に立っていた“扇谷・上杉朝良”としては、何としてでも“山内・上杉顕定”との戦いに勝利せねばならない、との思いから“家臣・大森藤頼”の城で、しかも“相模国”西部の中心の“小田原城”ではあったが、支援を受ける見返りとして譲ったとの説もある。

しかし、譲ったという説に就いては、城主“大森藤頼”がすんなりと承諾するとは考えられず“伊勢宗瑞”が“小田原城”略取した事を“扇谷・上杉朝良”としては容認せざるを得なかったとする前者の説の方が説得力がある。

尚“小田原城”から放逐された“大森藤頼”は“三浦義同(道寸)”が“相模国・岡崎城”に迎え入れ、保護をした。“三浦義同(道寸)”(みうらよしあつ・出家して道寸・生:1451年・没:1516年)の父親は扇谷“上杉(三浦)高救“であり、母は大森氏頼の娘という関係にあった。“三浦義同(道寸)”が“新井城主・三浦時高”に養子に入った後に“三浦時高“に実子”三浦高教“が生れた為、後継者争いと成り、1494年9月に三浦家の本拠地“三崎城・新井城”を攻撃し“三浦時高”並びに“三浦高教”父子を自刃に追い込み“三浦家”を掌握したが、この時、母方の実家である”小田原城主・大森藤頼“と結んだ事は既述の通りである。

こうした”小田原城主・大森藤頼“との繋がりもあり“三浦義同(道寸)”は“相模国”への侵攻を進める“伊勢宗瑞”の最大の敵と成ったのである。


31-(2)-③:“伊勢宗瑞+今川氏親”連合軍が“立河原の戦い”で“扇谷・上杉朝良”軍を大勝利に導く

以下の戦況も31-(2)で用いた(別携図)“関東の両上杉家の内紛は山内上杉家が勝利したが両上杉家が衰退し伊勢宗瑞の関東進出を許す結果と成る“を理解の助に参照願いたい。

1504年(永正元年)8月21日〰22日:

“山内・上杉顕定”は“扇谷・上杉軍”の拠点を攻めるべく鉢形城を出陣し、同盟した“2代目古河公方・足利政氏”と共に“河越城”近くの“上戸”に着陣し(別掲図①に示す)暫く上戸に留まり、1504年8月に”河越城“を攻撃した。
“扇谷・上杉朝良“は”伊勢宗瑞”並びに“今川氏親”に援軍を要請し、援軍到着まで“河越城”を堅く守り続けた。(別掲図③に示す)

1504年(永正元年)9月6日:

”扇谷・上杉朝良“軍の拠点”河越城“を攻めあぐねた“山内・上杉顕定”と“2代目古河公方・足利政氏”の連合軍は、一転して軍を武蔵国“白子”(埼玉県和光市白子)に移して“江戸城”攻撃に切り替えた。南北から”河越城“を挟撃する作戦に変えたのである。(別掲図②に示す)

1504年(永正元年)9月20日:

”扇谷・上杉朝良“の支援要請を受けた”伊勢宗瑞(北条早雲)“が武蔵国”桝形山“(神奈川県川崎市多摩区枡形6丁目生田緑地内にある。標高84m)に到着、翌日に“今川氏親”軍も合流した。(別掲図③に示す)

1504年(永正元年)9月27日:立河原の戦いで“扇谷上杉朝良“方を勝利に導いた“伊勢宗瑞”

“扇谷・上杉朝良“並びに”伊勢宗瑞“と”今川氏親“の連合軍は多摩川を渡り”立河原“に上陸した。これを知った“2代古河公方・足利政氏”並びに“越後守護・上杉房能”軍を加えた“山内・上杉顕定”連合軍は、立河原(東京都立川市)”に駆け付け、両軍の戦闘が始まった。

戦闘は正午頃から夕方まで続き、多摩川渡河を許した“山内・上杉顕定”方の苦戦となり、2000人もの戦死者を出して敗れた。山内・上杉家当主“上杉顕定”は命からがら本拠地の“鉢形城”(築城主・長尾景春?築城1476年・廃城1590年・埼玉県大里郡寄居町大字鉢形)に逃げ込んだ。(別掲図⑤に示す)

31-(3):“長享の乱”の終結と“伊勢宗瑞”

“立河原”の戦いで“扇谷・上杉朝良“を大勝利に導いた”伊勢宗瑞“軍と”今川氏親“連合軍は夫々自国に引き揚げて了う。その隙を狙って“山内・上杉顕定”が反撃に出たのである。

1504年(永正元年)11月:

“鉢形城”に逃げ帰った“山内・上杉顕定“は”伊勢宗瑞・今川氏親“連合軍が帰国し、手薄に成った”扇谷・上杉朝良“方に反撃すべく、2ケ月も経たぬ中に、再び、実弟の”越後国守護・上杉房能“(うえすぎふさよし・生年不詳・没:1507年)並びに”越後国守護代・長尾能景“(ながおよしかげ・上杉謙信の祖父・生:1464年・没:1506年)の支援を得て出陣した。

1504年(永正元年)12月26日:

“山内・上杉顕定“と”長尾能景“連合軍は、武蔵国南部まで進軍し、扇谷・上杉方の“長井広直“が守る“椚田城”(くぬぎだじょう=高乗寺城=初沢城・東京都八王子市初沢町・廃城1590年)を攻め落とし、相模国の“上田正忠“が守る”実田城“(さねたじょう=真田城・築城者は佐奈田義忠・築城年は平安時代末期・現在は天徳寺・神奈川県平塚市真田)も陥落させた。

こうして次々と“扇谷・上杉朝良“方の拠点を攻略して行った”山内・上杉顕定“軍は北上を続け”上戸”に着陣“扇谷上杉朝良”の“河越城”を大軍で囲んだのである。(別掲図⑤~⑥に示す)

1505年(永正2年)3月:長享の乱 終息

“越後上杉”軍を含めた“山内・上杉顕定”の大軍に“扇谷上杉朝良” (うえすぎともよし・生:1473年?・没:1518年)は敗北を認め、降伏勧告を受け入れ、当主の座を17歳の甥で養子の“上杉朝興”(うえすぎともおき・生:1488年・没:1537年)に譲り、隠居した。(その場所は“江戸城”とも“須賀谷“とも伝わる)

ここに“山内上杉”家と“扇谷上杉”家との和睦が成立し、18年間に及んだ両上杉家の内紛“長享の乱”が終息したのである。

32:永正の乱
  
“長享の乱“終結後の関東は今度は“古河公方家”と“関東管領・山内上杉家”の双方が共に内部分裂した上で、しかも夫々の相手方と連合し、戦うという事態に陥った。嘗ての室町幕府の関東統治の要であった両家がこうした状況に陥った事は“伊勢宗瑞”にとっては“相模国侵食“をして下さいと言わんばかりの絶好の機会を得た事でもあった。この”古河公方家“を中心とした“山内・上杉家”を巻き込んだ“内訌(内紛)”は“永正の乱”と称される。

日本史の上で“永正の乱“と称される戦乱は下記4次に亘る戦いを総称している。この抗争に、関東諸士も巻き込まれ、関東地区は一足先に“戦国時代”に入ったとされ“戦国大名“へと変貌を遂げた勢力が生まれた。

32-(1):戦国大名の定義

永原慶二氏はその著“戦国時代”で“戦国大名を①室町幕府“守護体制”からの離脱②独自に多数の旧荘園、公領を含む広いまとまりのある地域の支配権を主張③その中の国人、地侍等、中小領主層の多くを家臣化④検地や段銭(たんせん・鎌倉幕府が課したのが初出といわれ国家的行事、寺社の造営等の臨時に地域限定で課された税)棟別銭(むなべつせん・家屋の棟数別に課された税。当初は寺社や朝廷の修造の為に臨時に課されたが室町中期以降は次第に定期的なものになった)夫役(ぶやく・強制的に課す労役)等の賦課を通じて土地、人民に対する公権力(統治を物理的な力に拠って執行するもの、服従しない場合は刑罰を科す権力)として上級領主権の掌握をめざしたもの、と規定している。

室町幕府の衰退、関東に於ける古河公方、関東管領家の衰退に拠って愈々日本は“戦国大名”化の動きが拡がって行った。

32-(2):4次に亘る戦いを繰り広げた“永正の乱”を詳述する

4次に亘り、分裂し、連合した抗争が展開された結果“古河公方家”並びに“関東管領・山内・上杉家”は凋落し“伊勢宗瑞”の関東地区に於ける覇権獲得を為さしめた。

“伊勢宗瑞”の他にも“永正の乱”の結果①岩城②佐竹③小山家(①~③は古河公方・足利政氏方として戦った)④宇都宮成綱⑤結城⑥上那須⑦小田家(④~⑦は嫡子・足利高基方として戦った)等、関東地区の勢力の中から“戦国大名”へと変貌する機会を与える結果と成った。

更に“古河公方家”の次男“足利義明”までもが、下総“小弓城”で独立し“小弓公方”と呼ばれる、新たな房総を中心とした地域統合の核として擁立されるという分裂状態の拡散が止まらない状態に成った。

32-(2)-①:“永正の乱”の引き金と成った“越後国”で起こった“上杉房能”の戦死

1506年(永正3年)9月18日:”長尾為景“の登場

“越後国守護代・長尾能景”(ながおよしかげ・生:1464年・没:1506年9月19日)が”越中一向一揆“との“般若野の戦い”(はんにゃの・富山県砺波市)で戦死した為、子息の”長尾為景“(ながおためかげ・生:1486年・没:1543年)が守護代を継いだ。後の戦国大名の雄”上杉謙信“の父親である。

1507年(永正4年)8月:

”長尾為景“は”上杉定実“(うえすぎさだざね・生年不詳・没:1550年)を擁立し、傀儡化して守護”上杉房能“(うえすぎふさよし・越後上杉氏7代当主・生:1474年・没:1507年)を急襲した。”上杉房能”は、関東管領“山内・上杉顕定”の実弟であり、兄の救援を求め、関東を目指して逃げる途中、自害に追い込まれた。

この事件が後の“山内・上杉家”の家督争いに繋がり“古河公方家”の“永正の乱”と連動する事に成る。

32-(2)-②:“山内・上杉顕定“の没後、関東管領家“山内・上杉家”の2人の養子の間で内紛が起る。それに“古河公方家”の父子抗争が絡み、分裂した両家が夫々に連合して戦うという形の4次に亘る古河公方家の永正の乱が展開される

以下の記述の理解の助として①(別掲図)“長享の乱終結後の古河公方家と関東管領山内上杉家夫々で起きた内部分裂を機会に相模国侵食を進めた伊勢宗瑞“②別掲図“関東管領山内上杉顕定が守護代・長尾為景に敗れる迄の関係図”更には31-(2)で用いた③別掲図“関東の両上杉家の内紛(長享の乱)は山内上杉家が勝利するが両上杉氏は衰退し伊勢宗瑞の関東進出を許す結果となる“を参照されたい。


①参照(別掲図)


②参照(別掲図)

古河公方家の“永正の乱”第1次~第4次

:2代目古河公方“足利政氏”は当初は“扇谷上杉”方を支援していた。しかし1494年10月に“扇谷上杉定正”が急死(落馬死説もある)した事で家勢が弱体化すると考え“山内上杉顕定”支援に変わった。“扇谷・上杉定正”を継いだ“扇谷・上杉朝良”は攻勢を強める“山内・上杉顕定”への対応として“今川氏親”並びに、その叔父で後見人的立場にある(客将)新興の“伊勢宗瑞”に支援を依頼した。

:既述の様に“長享の乱“は”山内・上杉顕定“が勝利を掴み”扇谷・上杉朝良“を降伏させ、18年間に亘った両上杉家の内紛は1505年(永正2年)3月に終息し、上杉家の統一を実現させた。ところが、今度はその”山内・上杉家“が分裂する。

“山内・上杉顕定”は“長享の乱“で同盟した“古河公方”との連携を更に強化すべく“2代目古河公方・足利政氏”の弟“足利義綱”(子息だとの説もある)を養子に迎え、“上杉顕実”(うえすぎあきざね・初名・関東管領・在職1510年~1515年・1512年の永正の乱で敗北、実権を喪失する・生年不詳・没:1515年?)を名乗らせた。・・上記別掲図の①②参照方

:しかしこの養子縁組は“山内・上杉顕定家”を分断する火種と成る。それは“上杉顕実”を養子に迎える以前にも、上杉一族から“上杉憲房”(うえすぎのりふさ・父は僧籍に入っていた顕定の伯父の周清・関東管領・在職1515年~1525年・生:1467年・没:1525年)を養子に迎えていた事であった。・・同上別掲図①②参照方

第一次“永正の乱”の勃発・・“古河公方家“で父”足利政氏“と嫡子”足利高基“が争い、父”足利政氏”方の勝利に終わる

1506年4月∼1507年:

“2代古河公方・足利政氏”は“伊勢宗瑞”の勢力拡大に対抗すべく“山内上杉顕定”並びに養子に送り込んだ“山内・上杉顕実”と同盟して、関東の支配を再構築し“古河公方家”の権威と勢力回復を図ろうと動いた。

これに対して、嫡子“足利高基”(あしかがたかもと・後述する様に第3代古河公方と成る・在職1512年~1535年・生:1485年・没:1535年)は父“足利政氏”のこの政策に真っ向から反対し、対立し、妻の実家“宇都宮成綱”(うつのみやしげつな・生:1468年・没:1516年)の元に走ったのである。嫡子“足利高基”の策は急速に勢力を拡大しつつある“伊勢宗瑞(北条早雲)”の力を利用する事で活路を見出そうとするものであった。

舅の“宇都宮成綱”は“下野国”の宇都宮氏の最盛期を築き上げ、北関東の覇権を制した人物であり、この“古河公方家”の争いに婿の“足利高基”を庇護するスタンスをとった。その意図は、この争いに乗じて更なる勢力拡大を図る狙いがあったのである。こうした背景から、第1次“古河公方家”の内紛“永正の乱”が始まったが、この争いの結果は、嫡子“足利高基”が“岩城”氏や関東諸士の支持を得る事が出来ず、1年余りで古河に帰還、不完全燃焼のまゝ一旦、争いを終息した。(喜連川家文書)


この頃の室町幕府
         
“細川殿の変”(1507年・永正4年6月23日)で“細川政元”が暗殺されるという大事件が起こり、以後“細川家”でも家督継承を巡る政争“永正の錯乱”へと繋がる端緒と成った。(別掲図)“細川氏略系図と細川政元が3人の養子を迎えた事に拠る幕府の混乱“を参照方


(別掲図)細川氏略系図と細川政元が3人の養子を迎えた事に拠る幕府の混乱


出典:呉座勇一著・応仁の乱

この頃、1507年(永正4年)6月23日に京では“半将軍”の異名をとった第28代幕府管領“細川政元”が養子“細川澄之”派の香西元長、薬師寺長忠、竹田孫七に湯殿で暗殺されるという大事件(細川殿の変)が起った。

この事件の背景は“細川政元”が養子に迎えた“細川澄之”(13代当主・第29代幕府管領・生:1489年・没:1507年)を1502年(文亀2年)に一度は家督継承者に指名し”丹後国守護職“にも就けていたが、其の後”細川政元“と折り合いが悪くなり、1503年(文亀3年)5月に廃嫡したのである。

”細川澄元“(14代当主・丹波、摂津、讃岐、土佐国守護・第30代幕府管領・生:1489年・没:1520年)が新たに養子に迎えられ、後継者に指名された事を”細川澄之“一派が恨んでの殺害であった。

この事件が発端となって“細川管領家”の家督継承を巡る内訌(内紛)が拡大して行く。この内紛は第11代将軍“足利義澄”に対抗して京帰還を目指す“前第10代将軍・足利義稙”の動きと絡んだ複雑な情勢を生む事になる。

これが“永正の錯乱”と呼ばれる政争であり、詳細は次項(6-19項)で詳述する。“永正の錯乱”に拠って室町幕府の混乱は極まる。結果、翌1508年(永正5年)7月に“前第10代将軍・足利義尹(義材~義尹~義稙)”が京への帰還を果し、将軍に復帰するという大政変へと繋がるのである。

“細川殿の変”(細川政元暗殺事件1507年6月)以降の“細川管領家”の混乱の結果、当主の座を手にする事に成る“細川高国”(第31代幕府管領・15代当主・丹波、摂津、山城、讃岐、土佐国守護・生:1484年・没:1531年)と“前10代将軍(足利義材~義尹~義稙に改名)”が“周防国”の戦国大名“大内義興”(おおうちよしおき・室町幕府管領代となり将軍の後見人となる・周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城7ケ国守護・生:1477年・没:1529年)の軍事力をバックとした3者の連携に拠って“足利義尹”(あしかがよしただ=足利義材)を再び将軍職に復活させるという大政変が起きるのである。

室町幕府がこうした大混迷の中、当時の第104代“後柏原天皇”(ごかしわばらてんのう・在位1500年~1526年・生:1464年・崩御:1526年)も、父親の“後土御門天皇”の崩御後40日間も葬儀が出来なかったという朝廷財政ひっ迫下にあり、彼自身も、即位の礼をあげる迄、21年間も待たなければなかった。天皇家、並びに朝廷も、権力は勿論の事、その権威も衰退の極みにあったのである。

第2次“永正の乱”・・・“古河公方家の内紛”が再燃するが“2代目古河公方・足利政氏“の同盟者“山内・上杉顕定”が調停役に入り、収まる
  
1508年(永正5年)?~1509年(永正6 年)6月

一旦終息した“古河公方家”の内紛であったが間もなく再燃した。今回の抗争は、関東から南奥を動揺の渦に巻き込む事態にまで拡大したが、嫡子“足利高基”方に有利な条件は無く“長享の乱”終結後の1505年頃に古河公方“足利政氏”が弟(子息説もある)“足利義綱(改名して上杉顕実)”を“山内・上杉顕定”の養子に入れて関係強化を計った事が奏功し“山内・上杉顕定”の調停役で、再び“古河公方の嫡男・足利高基”の父親に対する抗争は失敗に終り、彼は“古河”に帰還と成った。

:“山内・上杉顕定”が“越後国”で自刃に追い込まれた実弟“越後国守護・上杉房能”の仇討合戦に出陣し“長尾為景”並びに“上杉定実”を“越中国”に追い出す

1509年(永正6年)7月~:

“古河公方家”2度目の父子の内紛を収めた直後“山内・上杉顕定”は先に養子に入れていた“上杉憲房”(うえすぎのりふさ・父は上杉憲実の子で僧籍にあった周清である・生:1467年・没:1525年)を伴い“越後国”に出兵した。この軍には武蔵国、上野国の兵も加わった。

理由は2年前の1507年(永正4年)8月に実弟・越後国守護“上杉房能”(うえすぎふさよし・生:1474年・没:1507年)が守護代“長尾為景”に拠って居館を襲われ、兄“上杉顕定”を頼って関東に向かう途上の“天水越”(あまみずこし=新潟県十日町市松之山天水越)で自刃に追い込まれた事への敵討ちであった。

敵は”長尾為景”(上杉謙信の実父・越後国守護代・生:1486年・没:1543年)並びに”長尾為景”の傀儡状態にあった“越後国守護・上杉定実“(上杉房能の養子であったが1508年11月に幕府に拠り越後国守護に補任される・生年不詳・没:1550年)である。

“山内・上杉顕定”軍は“越後国府中”を落とし、中越、上越を抑え“長尾為景“そして
”上杉定実“を越中国(富山県)に追い出し、勝利した。しかし、両名を討ち取っていなかった事が災いした。

:“上杉顕定”が“長尾為景”軍の逆襲に会い戦死する・・“長尾為景”の下剋上完成の戦いとされる

1510年(永正7年)6月20日:

”上杉顕定”が勝利した後の“越後国”統治方法が非常に強硬だった為、国人の反発を受け、上手く行かなかった。そうした状況に乗じて“長尾為景”方が反攻に転じ、1510年(永正7年)6月20日“長森原の戦い”(新潟県南魚沼市)で40年以上に亘って関東管領を務めた“山内・上杉顕定”を敗死させたのである。

“山内・上杉顕定”の死は大きな影響を与え、以後”山内・上杉家“では残された2人の養子に拠る家督争いへと繋がり、それが”古河公方家“の分裂抗争(永正の乱)と連動して行くのである。

尚“越後国守護・上杉定実”は“長尾為景”の傀儡である事は既述の通りであり、この戦いで実質的に“越後国”は“長尾為景”(上杉謙信の実父)が主導権を持つ事に成った。“長尾為景”が下剋上を完成させたのである。

第3次古河公方家”永正の乱”・・“上杉顕定”の死で関東管領家でも家督争いが始まり“山内・上杉憲房“が勝利する。又”古河公方家”の父子抗争は嫡子“足利高基”が勝利する

1510年(永正7年)7月:

“山内・上杉顕定“の仲裁で1509年6月に2度目となる父親”足利政氏“との抗争に失敗し”古河“に帰っていた”足利高基”が“上杉顕定”の死で動き出し、側近で、下総国関宿城主の“簗田高助”(やなだたかすけ・生:1493年・没:1550年)を頼り“関宿城”(千葉県野田市)に移り、父“足利政氏”と三度目の対峙となる。

①参照(別掲図)“長享の乱終結後の古河公方家と関東管領・山内上杉家夫々で起きた内部分裂を機会に相模国侵食を進めた伊勢宗瑞”として添付した図には“足利高基”と“山内・上杉憲房”が結んだ事を示している。“山内・上杉顕定”が敗死(1510年6月20日)した1ケ月後に、之までは“足利政氏・足利高基”父子間だけの抗争であったものが“山内・上杉家”の養子二人(その中の一人”上杉顕実”は古河公方・足利政氏の弟である)に拠る家督争いが絡んだ“第3次・永正の乱”へと拡大した事をこの図は示している。

1512年(永正9年)6月:

=関東管領“山内上杉家”の家督争いで勝利したのは“山内・上杉憲房”であった=

”山内・上杉顕定゛の没後に“古河公方家”の嫡子“足利高基”と結んだ“山内・上杉憲房”は”山内・上杉顕実“(足利政氏の弟)と戦い勝利した。”山内・上杉家“の家督と関東管領職は“山内・上杉憲房“が手中にし“古河公方家”では“第2代古河公方・足利政氏”が追われ、戦いに勝利した“嫡子・足利高基”が事実上の“第3代古河公方”の座に就いたのである。32-(2)-②で用いた②参照(別掲図)“関東管領山内上杉顕定が守護代長尾為景に敗れる迄の関係図”の右下段に、この状況を示してあるので参照願いたい。

尚、同図中の“関東管領家・山内上杉家系図”に連なる名前の傍に付けられた数字は“関東管領職”に就いた順番である。

14の数字の付いた “上杉顕実”(古河公方・足利政氏の弟)と15の数字が就いた“上杉憲房”(彼は1510年6月20日に上杉顕定が長尾為景との戦いに敗れ没した際に共に従軍していたが生き延びた)が上記1512年6月に戦い、勝利した“上杉憲房”が“上杉顕実”に代わって15番目の関東管領職に就いた事を示している。

1512年(永正9年)7月7日:

上記戦闘に敗れた“第2代古河公方・足利政氏”は“古河城”を追われ“小山成長“(おやましげなが・生没年不詳)を頼り”下野小山“(栃木県小山市)の”祇園城“に迎えられた。

勝利した“嫡子・足利高基“は関宿から”古河城”に入城し、実質的に“第3代古河公方”に就いた。しかし、両軍の間の断続的な戦闘は収まらず、1513年中は続いていた事が“秋葉孫兵衛旧蔵模写文書・若菜文書”に記されている。この時に“足利政氏”が父親として嫡子“足利高基”に対し“高基不孝の処、関東諸士同心に不義を企て”と書き残している。(白土文書・家蔵文書)

第4次古河公方家の”永正の乱“・・嫡子“足利高基”が“下野国”(栃木県)小山に退いた父“足利政氏”と交戦、勝利し、名実共に世間から“第3代古河公方”として認知される

1514年(永正11年)2月~10月下旬:

“第3代古河公方”の地位を実質的に勝ち取った“足利高基”であったが“下野国小山”(栃木県小山市)に退いていた父“足利政氏”が尚も2月頃から岩城、佐竹氏に参陣を命じ、7月に同盟者“小山氏”が嫡子“足利高基”を“古河城”に攻撃するという動きに出た。これに対し“足利高基”は舅の“宇都宮忠綱”そして“伊達稙宗”(伊達氏14代当主・陸奥国戦国大名・生:1488年・没:1565年)等が“小山包囲網”を形成した戦いが繰り広げられた。

“阿保文書”に伝わる戦況では“足利高基”方が優勢に戦い、父“足利政氏”方は又もや敗戦と成った。更に、1514年(永正11年)8月16日の“竹林の合戦”で父“足利政氏”方の“佐竹義舜・岩城由降”連合軍も“嫡子・足利高基”方の“宇都宮成綱・結城政朝”連合軍に敗れ、大勢は決したとしている。

1516年(永正13年)12月:

上記敗戦で“2代古河公方・足利政氏”の凋落は決定的と成った。嘗て中心勢力を担い戦いに敗れた“足利政氏”を“祇園城”に迎えた“小山成長”(おやましげなが)までもが、嫡子“足利高基”方に寝返った事が“円福寺多賀谷記”に書かれている。しかし、この寝返りの実態は“小山氏家内”でも父親の“小山成長“から子息の”小山政長”(生没年不詳)への世代交代が成され、実権委譲があった為であろうとされる。

“祇園城”からも追放された“2代古河公方・足利政氏”は、隠居を余儀なくされ、世間は嫡子の“足利高基”を初めて“第3代古河公方”として認知したと伝わる。

:“古河公方家”の父と嫡男の分裂抗争が“足利高基”の弟”足利義明”にも波及し“小弓公方”として擁立され“下総国”に新たな地域統合の核が生れる結果と成る

32-(2)ー②で用いた①参照(別掲図)“長享の乱終結後の~相模国侵食を進めた伊勢宗瑞”の図の左下段に書かれた“足利高基”の左横に書かれたのが弟の“足利義明”(生年不詳・没:1538年)である。

彼は父と兄が分裂抗争を繰り返し、混乱状態が広がる中“上総国”(千葉県)の“真里谷城”(千葉県木更津市真里谷)城主“真里谷信清”(=真里谷恕鑑・まりやつじょかん・真里谷武田氏当主・生年不詳・没:1534年)に擁立され“下総国”(千葉県・茨城県)の“小弓城“(千葉市)に入り”小弓公方”として独立した。

古河城の“第3代古河公方・足利高基”に加えて、房総を中心としたもう一つの地域統合の核が“古河公方家”から分派するという関東の分断、混乱ぶりを象徴する出来事である。

参考:永正の乱に関与した関東諸士の内訳 ・・“古河公方家”並びに“関東管領・山内上杉家”の分裂抗争に与した関東諸士の内訳

(その1):2代目古河公方“足利政氏”並びに関東管領“上杉顕実”方に与した関東諸士

①岩城常隆:岩城氏11代当主・岩城氏の全盛時代を築き上げた。陸奥国大館城主・生年不詳・没:1510年/1542年説もあり

②岩城由隆:岩城常隆の次男・岩城氏13代当主・大館城主・生年不詳・没:1542年?

③佐竹義舜:さたけよしきよ・佐竹氏15代当主・常陸太田城主・100年近く続いた”佐竹の乱”に終止符を打った中興の祖・生:1470年・没:1517年

④小山成長:おやましげなが“足利政氏方の中心勢力”であったが、世代交代した子息の”小山政長”が1516年に”足利高基“支援に寝返る・生没年不詳

⑤簗田政助:やなだまさすけ・嫡男の簗田高助が足利高基に与した事で廃嫡、義絶するが、兄の簗田成助の怒りを買い、当主の座を追われた。1518年に関宿城を嫡男”簗田高助”に譲る・生没年不詳

⑥那須資房:なすすけふさ・生年不詳・没:1552年


(その2):3代目古河公方と成った嫡子“足利高基”並びに“山内・上杉憲房”方に与した関東諸士

①宇都宮成綱:
生:1468年・没:1516年“足利高基”の舅・下野(栃木県)宇都宮氏17代当主・北関東最大の勢力に成長させた。古河公方“足利政氏”と息子“足利高基”の内紛(永正の乱)では婿の“足利高基”を庇護、古河公方家の内紛に介入した。家中の実権を握る筆頭家老の“芳賀高勝”(生年不詳・没:1512年㋃)が古河公方“足利政氏”方に与した為、家中が分裂した。
“芳賀高勝”に拠って1512年に強引に隠居させられるが、同年㋃に直ちに彼を討った事で”芳賀氏”が反乱を起こす。(宇都宮錯乱1512年~1514年)しかし、婿の”足利高基”の支援を得て1514年7月に鎮圧している

②宇都宮忠綱:
生:1497年・没:1527年・父・成綱の嫡男で宇都宮氏18代当主。尊大不遜な人物と伝わり、小山氏、結城氏との戦いで”宇都宮城”を奪われている。

③簗田高助(やなだたかすけ):
生:1493年・没:1550年・“足利高基”の側近、父“簗田政助”は古河公方“足利政氏”方に付き、父に対抗して”足利高基“に付いた。1518年に父から関宿城を譲られている。

④小田政治(おだまさはる):
生:1492年・没:1548年・小田家第14代当主・常陸の戦国大名。初代堀越公方“足利政知”の子として生れ、室町幕府第11代将軍“足利義澄”の弟に当たるとの説がある。

⑤結城政朝(ゆうきまさとも):
生:1479年・没:1547年・下総結城氏15代当主・父“結城氏弘”が2歳の時に没した為、家督は継いだものの実権は“多賀谷和泉守”に握られ専横を許していた。1514年の“永正の乱”(第4次古河公方家永正の乱)では岳父“宇都宮成綱”と共に“足利高基”方に付いた。

“竹林の戦い”(たけばやしの戦い・1514年8月16日に、下野国宇都宮竹林で行われた宇都宮成綱、結城政朝連合軍と佐竹義舜、岩城由降、那須資房連合軍の戦い。1510年の第3次古河公方家”永正の乱”で古河城を追われ、小山氏の元に逃れ、出家した”足利政氏”であったが、世間は未だ3代目古河公方として”足利高基”を認めていなかった。

2代古河公方”足利政氏”は常陸国“佐竹義舜”南陸奥国“岩城由隆”そして“那須資房”等に命じて、2万の大連合軍で下野国に侵攻した事に対し“下野国”の“宇都宮成綱”と“下総国・結城政朝”軍が連合して撃退した戦い)で“第3代古河公方・足利高基”方が勝利した。この戦い以後、東国の大半が“第3代古河公方・足利高基”方に付いたのである。


33:伊勢宗瑞(北条早雲)が“相模国”征圧を完了させる

上記した様に、室町幕府体制下で“関東統治”の象徴的立場であった“古河公方家”並びに“関東管領家”の双方が4次に亘る分裂抗争“永正の乱”を演じた。この事は既に“伊豆国”を征圧し、更に“相模国”征圧を狙う“伊勢宗瑞”にとっては絶好のチャンスを与えた事に成り“相模国征圧”を完了させる。その時期は1516年(永正13年)と考えられる。

丁度“伊勢宗瑞”に対抗して“古河公方家“の勢力回復を図ろうとした父親“足利政氏”の方針に真っ向から反対し、逆に“伊勢宗瑞”の力を利用して活路を見出そうと主張した嫡子“足利高基”が4次に亘る父親との抗争の結果、勝利し、世間から”3代目古河公方“として認知された時期と重なる。しかし“古河公方家の内紛=永正の乱”の結果、古河公方家も衰退する事になる。山内・上杉家(関東管領家)も衰退に向かい、利を得たのは“伊勢宗瑞”であった。

33-(1):伊勢宗瑞(北条早雲)の関東侵攻図

“伊勢宗瑞”がこうしたチャンスを生かして関東地区を征圧して行った経緯を以下に記す。


上記(別掲図)“北条早雲の関東侵攻”に示す様に“伊勢宗瑞”は図の伊豆半島の付け根にある“興国寺城”の城主に就いた(1490年頃)事を皮切りに、1493年に堀越御所仇討ち(急襲)で“2代目堀越公方・足利茶々丸”を追放し、其の後、生涯の拠点とした“韮山城”に入った。

“北条五代記”(後北条氏5代、早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直、の逸話を集めた全10巻の書物。小田原合戦の籠城戦を体験した三浦茂正の著書、慶長見聞集、から彼の友人が抄録したもの。成立は元和年間、1615年7月~1624年1月、とされる)に拠れば“伊勢宗瑞”は、三津(沼津市)の“松下氏”江梨(沼津市)の“鈴木氏”伊東の“伊東氏”雲見(松崎町)の“高橋氏”妻良(=めら・南伊豆町)の“村田氏”等、海岸部に本拠を持つ海の領主達を次々と従えて行ったと書かれている。

33-(2):“岡崎城“(神奈川県平塚市、伊勢原市)の”三浦義同(道寸)“を敗る

1512年(永正9年)6月:

室町幕府の“関東統治の要”であった“古河公方家”と“関東管領家”の内部抗争、更には、その結果としての“扇谷・上杉家”の弱体化は“伊勢宗瑞“に”相模国“中部へと進出する機会を与え、そうした状況に乗じて、次のターゲットとして”扇谷・上杉家“の一大拠点であり“三浦義同(道寸)”(みうらよしあつ・生:1451年・没:1516年7月11日)が拠る“岡崎城“(別携図参照・神奈川県平塚市、伊勢原市)を選んだ。

“伊勢宗瑞”はこの戦いでも勝利し“三浦義同(道寸)”並びに彼の嫡男で、当時16歳の
“三浦義意”(みうらよしおき・生:1496年・没:1516年7月11日)父子を鎌倉南方の
“住吉要害(城)”(神奈川県逗子市)まで後退させた。(伊東文書)

33-(3):住吉要害(城)も攻略した“伊勢宗瑞”は“三浦義同(道寸)”父子を“新井城”籠城にまで追い込む

1513年(永正10年)1月:

“住吉要害(城)“も攻略された“三浦義同(道寸)”父子は、三浦半島南端の“新井城“で籠城の構えに入った。

1513年(永正10年)4月:

”伊勢宗瑞”は“玉縄城”(別掲図参照・神奈川県鎌倉市)を三浦氏攻略の為に構築している。その理由は“三浦義同(道寸)”が婿の扇谷上杉家家臣“太田資康”(おおたすけやす・太田道灌の嫡男、1505年に江戸城主として帰還・生:1476年・没:1513年9月29日)に支援要請をしており、又“扇谷・上杉朝興”も”三浦義同(道寸)”の援軍として加わる事が考えられ、挟撃される事への備えであった。こうした周到な準備を終えた上で“新井城”攻撃を開始したのである。

33-(4):“新井城”を陥落させ“三浦義同(道寸)・三浦義意”父子を滅ぼし“相模国”征圧を完了させた“伊勢宗瑞”

1516年(永正13年)7月11日

“三浦義同(道寸)“並びに”三浦義意“父子が籠城した”新井城“は、三方が海に面する天然の要害であった。加えて三浦水軍を擁する新井城の守りは堅固で、3年間に亘る”伊勢宗瑞“軍の攻撃に持ちこたえた。

しかし“韮山城”を拠点として以後“伊勢宗瑞”は長年に亘って“松下氏、鈴木氏、伊東氏、村田氏”という海の領主達を次々と従えるという戦略を重ねて来ていた。それが奏功し、さしもの“新井城”も1516年(永正13年)7月11日に陥落、かくして“伊勢宗瑞”は最大の敵とされた“三浦義同”(=三浦道寸・父は扇谷上杉高救で三浦高時の養子に入る・相模国守護代~守護・生:1451年/1457年説・没:1516年 )を滅ぼし、これによって“相模国征圧”が完了したのである。

尚、現在、三浦半島の先端に“油壷”と呼ばれる地名があるが、マリンパーク等、観光地としても知られるこの“油壷”という名の由来は“新井城”攻略の際の激しい攻防戦で、討ち死した三浦家主従の遺体に拠って港一面が血に染まり、油を流した様に成った事から名付けられたと伝わる。

平安時代以来の豪族“三浦家”は鎌倉時代の“宝治合戦(1247年6月5日)”で、第5代執権“北条時頼”(在職1246年~1256年・生:1227年・没:1263年)に滅ぼされ、南北朝期に復活したが、再び“伊勢宗瑞”に拠って滅ぼされるという運命を辿った。


=新井城・三浦義同(道寸)墓地訪問記=訪問日2020年9月2日(水曜日)

住所:神奈川県三浦市三崎町小網代1024
交通:自宅(東京都杉並区)から車で”マリーンパーク”を目指す。ナビでは105㎞と出た。凡そ2時間程で到着。史跡はマリーンパークの駐車場に隣接しており、容易に探す事が出来た。
築城者並びに歴史:
築城者は三浦氏と書かれてはいるが、具体的な名前は不明。又、築城年も不明である。廃城年は豊臣秀吉の小田原征伐(1590年2月~7月)後の1590年頃と記されている。相模三浦氏の本拠地の城であり、三浦半島の西岸、小網代(こあじろ)湾と油壺湾の間に突出する標高26mの岬状の高台に新井城の本曲輪(ほんぐるわ=本丸)があったとされる。現在の“東京大学臨海実験所”の敷地付近である。三浦市の遺跡地図では油壷の岬部分から三崎町小網代地区の内陸部迄の極めて広大な範囲が”新井城跡”だとしている。

訪問記:
マリーンパーク前の駐車場に車を止め、居合わせたスタッフに“新井城趾”と”三浦義同(道寸)“の墓地について尋ねると”この駐車場の向こうに見えるこんもりと木が茂った場所に新井城跡の石碑がありますよ。三浦道寸の墓地もその前の道を少し下りた処にありますよ“と教えて頂いた。

駐車場に隣接する木が茂った小さな公園状の処に、写真に示す様に”新井城碑”と刻まれた3m程の高さの石碑が立つだけで、城郭の形跡を残すものは一切無かった。しかし、文中記した様に、三方が海に面する天然の要害(城)であった事は容易に想像する事が出来た。戦闘能力に長けた“伊勢宗瑞”をもってしても、この城に籠城する”三浦道寸・三浦義意”父子を陥落させるのに実に3年を要したという史実が納得出来る史跡の立地条件であった。

三浦義同(道寸)墓地訪問:
新井城碑の前の小路を湾に向って少し降りた処に“三浦道寸の墓”と書いた案内板があり、1516年(永正13年)7月11日に“日本籠城戦史”でも稀な凄惨な戦闘が行われ、三浦義同(道寸)以下、城兵、悉く決戦に臨み、敗れ、鎌倉時代以来の坂東の名族である三浦一族最後の当主がその歴史を閉じた”と書かれている。

”討つものも討たれるものもかわらけ(素焼きの土器)よ、砕けて後はもとの土くれ(土の塊)”これが三浦義同(道寸)の辞世だと書かれている。三崎町では“三浦道寸”父子の慰霊祭が毎年行なわれる、と、スタッフの方が話して呉れた。


=写真説明=

(左上):新井城の本曲輪(本丸)があったとされるれる地に立つ碑
(右上):三浦道寸の墓に関する案内板
(左中):三浦道寸の墓
(右中):訪れる人も少ないのか、毎年、三崎町で、慰霊祭が行われるとの事であるが墓地の様子は寂しい
(左下):墓石には“陸奥守道寸義同公之墓“と刻まれている。この墓石の裏面には“永正十三年七月十一日討死”と刻まれていた。
参考資料ー1


参考資料ー2


参考資料ー3


参考資料ー4

=別携図=上杉氏系図(出典・山田邦明著 享徳の乱と太田道灌)


参考資料ー5

=別掲図=足利将軍家と日野(裏松)家系図


出典:榎原雅治著 室町幕府と地方の社会
 
 

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