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2013年4月4日木曜日

第一章 日本の特異性の認識と歴史が必ず持つ因果関係
第1項 日清、日露から太平洋戦争へ -天皇制と武士道が特異な団結力を生んだー


グローバル世界と言われるようになってから久しい。
ITはじめ情報ツールの発達で世界の情報が瞬時に国境を超えて飛び込んで来る時代である。
地理的な国境が無くなった今日、私達に必要なのは民族としての文化、考え方をはっきりと伝える能力である。
それが日本人としてアイデンティティを確りと持った国際人となる条件であろう。
その為には正しい日本の歴史認識を各人が持たねばならない時代、グローバル時代になったのである。

私の生まれ育った時代の人間は祖父母を通じて戦前の人々の考え方、今となっては遠い歴史になりつつある戦前の話、大正時代、明治時代に実際に起こった史実を直接に聞いている世代である。

そして、テレビはじめ情報機器があまり無かった時代に育った世代だからこそ、日本の文化、考え方を旧来の方法、ツールによって受け継いで来た言わば最後の世代として、又終戦後の60有余年の歴史を直接見聞きし、自ら体験してきた人間として、私達が後に続く人達にその史実を出来るだけ体験を通して伝える責任もあるのではないかと考えこの書に着手したのである。


私が生まれたのは昭和19年(1944年)1月であるから日本は太平洋戦争の最中であった。
残念ながら終戦の時でも1歳半だから家の庭に防空壕が掘ってあった事とか、家から2キロメートルしかない場所に対空用の高射砲陣地があった事くらいが父母から聞いた戦争の話である。

当時住んでいた我が家は東京と言っても江戸川を挟んですぐ隣は千葉県であるし、田んぼや畑だらけで地方の田舎と余り変わらない雰囲気の町であった。

幸いに昭和20年3月10日の東京大空襲にも小岩という町は遭わず、私は空襲を受けた事も無く無事に生き延びた訳だが、B29の爆音も記憶に無いし、戦争の恐怖も、更には8月15日の終戦の玉音放送の事も全く記憶に無い。
私の記憶の多分一番古い事部分は幼い弟の葬式であったような気がしている。
母もあまり丈夫でなかったし食料不足の終戦直後の東京であったから栄養失調の状態で幼児が多く死んだのだと母親に聞かされた。

私には弟が二人いて上の弟の命日が昭和20年12月26日とあり、下の弟の命日が昭和22年の7月24日と位牌に書いてある。

この時私は3歳半になっているからその葬式の事を覚えていても不思議ではなかろう。戦後間もない頃であり、小さな棺が小さな祭壇に置かれていた事だけを覚えている。

私が小学校に入ったのが昭和25年、1950年の4月である。今の子供たちのように保育園や幼稚園に通ったり、テレビなどの子供番組を毎日何時間も観て、入学前にかなりな知識を既に持って入るのとは全く異なっていたし、親達も子供にそれ程手をかける時間的、経済的余裕の無い時代であったので兎に角、入学前の勉強など一切した記憶が無い。

その代わり、ありとあらゆる自作の遊びで過ごした入学前の6年間であった。

ポツダム宣言にのっとり連合国が日本を占領、その下で新憲法が昭和22年(1947年)5月3日に施行され、昭和23年(1948年)12月23日には極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯の東条英機以下7名の絞首刑が執行された。

ポツダム宣言に明記された13項のうち主目的であった日本軍の解体、と戦争責任者の処罰を終えたのである。
この時私は略、5歳になっていたがテレビもまだ無い時代であり、世の中の大人たちは新憲法の施行だとか、新しい民主主義国家を目指しての国の仕組み、平和産業への再構築という状況に対応する事で精一杯で、今から考えれば子供たちにこまごまと、世の中の変化を教えている暇など無かったのであろう、私自身七五三の記念写真の事は良く覚えているがそうした世の中がまさに大変革の最中にあるのだと言う事を祖父母が話してくれたという記憶も無い。

尤も、少しは話してくれたのかも知れないが今日の様に子供たちにも情報過多の時代では無かったし、従って私が今の子供達程情報に敏感でなかったから全く関心も無かったのだと思う。

そんな時期であったが今でも妙に記憶しているのが床屋でラジオから流れて来た”今日は広島に原子爆弾が投下されて丸8年になります”という言葉が強烈に印象深かった事である。


昭和28年(1953年)8月6日の正午近くに私が床屋に居た事だけは事実である。
昭和26年(1951年)9月8日にサンフランシスコで対日講和条約(平和条約)が連合国48との間に結ばれ、ポツダム宣言にあるように占領軍の日本からの撤兵へと進んで行く訳だがこれら日本の非常に難しい局面で内閣総理大臣として任にあたったのは吉田茂であった。

この吉田内閣は昭和22年5月〔1947年)に第一次組閣をし、昭和29年12月(1954年)迄、第五次内閣までを担った(一時期短命の片山、芦田内閣となったが)長期内閣であったが、昭和28年2月の衆議院予算委員会でその吉田首相が“バカヤロー”と吐いた事が原因で解散総選挙になった。

この状況を私は自宅の風呂に入りながらラジオで聞いたのをはっきりと覚えているが小学校の3年生の2月だった。
この年の8月には民間のテレビの本放送が始まり、街頭で力道山のプロレス実況放送に黒山の人だかりが出来た頃である。

私が小学校の頃は学校では日本の建国に関する歴史とか天皇制に関わる歴史については余り学習した記憶が無い。
石器時代の道具の話、縄文式文化の器の文様の話だとか、弥生式文化時代に農耕社会が発展して来た状況だとか、古墳時代になって強力な豪族が現れてある程度の規模の国家的運営が始まったとか、最初は豪族の墓に生きた人間が埋められていたものが埴輪だ銅鐸だのを代わりに埋葬するようになったのだとか・・兎に角、考古学のアプローチによる日本の古代史の話が主体であった。

占領下にあって連合国としては戦争を起こした、旧大日本帝国という体制に関わる事に関しては一切の肯定的な教育の復活は排除したのである。

従って、天皇家がどの様にして古代日本に覇を唱えて行ったのかなど、古代日本の建国についての歴史は殊更に教科書から除外されていた時代だったのである。

その代わり“新しい戦後の日本は如何あるべきか“についての教育が主で社会科の教材のタイトルが”開け行く東京都”のようなものであったと記憶している。

日本の建国に関わる歴史は今日でも実は充分にされていないと言われている。
アメリカ合衆国でも、中華人民共和国でも何処の国でも自分の国の建国に関わる歴史は極めて大切な教育テーマであり、これは”NationalHistory”という科目名で徹底的に教えている。

私も第二章でこの事に触れてゆくが自分の国がどういう過程で建国され、今日まで諸外国との関係も含めて推移して来たのかを、史実を押さえながら確りと理解しておく事はグローバル世界の中の日本人として、自分の国、自分のアイデンテイテイーを伝える為にも必要な事であろう。

話は戻るが東京裁判でA級戦犯28名が起訴されたのが昭和21年(1946年)4月29日である。昭和生まれの多くの人はこの日が昭和天皇の誕生日であることを覚えておられよう。

又、東条英機以下7人の死刑が確定し、執行された日が12月23日であった。

何故この日を7人の死刑執行日に選んだのであろう。その理由を研究者から聞いたときには愕然とした。連合国は戦犯の起訴の日を4月29日の昭和天皇の天皇誕生日を選び、そして死刑執行の日として日本の将来の天皇の誕生日、つまり12月23日を選んだのである。

連合軍は当時の明仁親王、現在の天皇誕生日をA級戦犯7人の死刑執行日として選んだ。     これによって、日本国並びに日本民族に対して戦争の深い反省と心の傷跡を国民の祝日に永く留めようと考えたものと思われる。

一方でポツダム宣言を無条件で受諾した日本に対し、連合国占領軍のうち、とりわけ米国は日本を共産主義の下にあるソ連、中国に対する防共の最前線という位置付けで考えていた事は明らかである。

ポツダム宣言の10項に(連合国)吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも・・・一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし・・・とある。

日本ならびに日本国民を軍国主義に導いた軍隊並びに軍国主義の壊滅をまずは徹底的に目指し、A級戦犯7名の死刑執行によって一応の目処をつけた。
その後は新憲法の施行と、民主的国家作りの諸施策を軌道に乗せ日本を早く復興させ防共の最前線として再興させる事に注力したのである。

ポツダム宣言の12項には”日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立せらるるに於いては連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収せらるべし・・・”と明記してあり、着々とそれらを日本政府を指導し実行して行ったのである。

ポツダム宣言を受諾するか否かの最大の懸念事項であった、軍国主義下での日本民族の特異な団結力の要であった昭和天皇には直接の戦争責任を連合国の占領軍は問わなかった。
それは日本国民の民意に任せたのである。その方が戦後の復興に向けてこの特異な国の民意はまとまり、何よりも団結の力を発揮するであろうと判断した訳である。
     
何故米国はこうした特異な歴史と民族、文化を持つ日本という国を当時最重要であった対防共の最前線の共同国として選んだのであろうか。強大な米国がアライアンスを組みうる可能性のある優秀な国と、かつての敵国日本を考えたのであろうか。その答えは既にポツダム宣言の全ての条項に盛り込まれていた。

それでは何故ポツダム宣言の各項目は当時の日本国が一言の修正も無く無条件で受諾出来るような内容を整えていたのであろうか?

天皇制が維持出来うるのかなどを明記していない不安はあったものの、ポツダム宣言書の全体の流れは日本が“軍国主義”を完全に解体し、民主国家の成立を果たせば、日本民族と日本民族の意思によって言わば天皇制は残す事も認め、且、平和産業復興と、将来は国際社会への復帰も可能だと明記してあったのである。

連合国側(主体は米国)は邪悪な侵略戦争を犯した日本国に対し何故これほどまでに気を遣ったポツダム宣言となったのであろうか?

連合国のうち、とりわけ米国は日本という国、民族の特異性に対するインパクトを太平洋戦争を戦う各局面から得ていた事は明白である。

宣戦布告無しに行った国際法上の違法戦争だと今日でも言われる日本軍の真珠湾攻撃(1941年12月8日)に始まった、まさかの米国との会戦は翌年(1942年)6月のミッドウエー海戦で日本軍は太平洋戦線での致命的な打撃を受け、早くも米国側に主導権が移ったのである。こうした劣勢に陥ったにも関わらず日本はその後1945年8月の終戦にいたる迄、3年間以上も物資豊富な連合国を相手にして正に国民をあげての総力戦を展開した事は、他の民族との戦いとは全く異質の戦争であったとの印象を連合国、特に米国に与えた事に違いなかった。

そしてサイパンはじめ南洋諸島を失い、日本本土空襲が始まり、東京大空襲で首都が焦土となっても一向に日本軍は戦いを止める気配を示さなかったのである。

そして、戦争末期の昭和20年(1945年)4月には米軍55万人はグアム島を発進し、学徒動員と沖縄住人による召集兵を加えた武器も殆ど無い状態の日本軍、合計10万人を掃討すべく沖縄上陸戦を展開したのである。

圧倒的な戦力差があったこうした状況下で日本人は何と3ケ月間も戦い続けたのである。

沖縄上陸戦で見せた一般民間人をも含めたこの日本と言う民族の団結力と玉砕精神には世界で多くの戦闘を経験して来た米軍も驚嘆したと言われている。

加えて、“特攻隊”による攻撃も米国並びに連合国が日本との戦争で知ったこの国の特異な民族性と天皇を要とするこの国の“軍人から一般庶民に至るまでの強烈な団結力”であった。

多くの特攻隊員が命を散らせたがその中の誰もが特攻によって相手の戦艦を撃沈出来るとは思っていなかったと言われている。

それでも特攻隊の志願者は極めて多かったと言う。何故であろうか。

日本民族が持つ”公の為に尽くす”という武士道で言うところの”義”の精神が数百年の時を経て、軍人のみならず一般庶民にまで浸透していたからである。いわば日本民族の持つ“文化”が、こうした多くの若者達が喜んで特攻隊を志願するという事態を生んだのである。

神風特攻隊の基地であった鹿児島県の知覧や靖国神社には特攻隊隊員の手紙が多く残されている。私などの凡人は”世の中の人々は勇気ある青年達などと賞賛しているが、きっと本音の泣き言が書かれているに違いない”との好奇心で一枚一枚読んでみたが、驚く事に殆どの手紙が簡略でしかも国(公)の為に死に、役に立てる事への誇りと喜びに充ちていていたのである。
     
特攻の一撃で相手の戦艦を撃沈出来るとは思ってはいなかったが、こうした攻撃をする事によって相手に少しでも恐怖心と日本軍、日本国に対する畏怖の念を与えられれば自分が散った後の日本軍の戦況にとって、そして日本国にとって役に立つ筈であるとの信念を持って散って行ったのだと言う事が特攻隊員たちの手紙から読み取れたのである。

作戦として特攻は合理性の観点から評価すれば全く不合理、且、無謀な作戦であったと言えるが、物事はそう単純な理屈からだけでは展開しないものである。

事の善悪は別にして、日本全体がこうして一致団結して最後の最後まで戦った事を見せた事が連合国、取り分け米国をして戦後の防共の最前線の国として手を組める国だ、との判断の下で、日本の国、日本民族の再興を積極的に展開しようとする意図で、あのポツダム宣言書に繋がって行ったのである。

その意味で、戦争で散った一人一人の命は立派に今日の日本に受け継がれて居ると言う事である。

もう一つ伝えて置かねばならない史実がある。それは、日本軍は本当に最後の一人まで戦う覚悟であったと思わせる設備が長野県松代の山の中に残っている事である。

私も実際に松代に行ってその史跡を見た。旧陸軍が戦争末期に掘っており、その略8割は完成していたと伝わる巨大な防空壕都市が建設されていたのである。

その巨大防空壕都市には、天皇、皇后はじめ皇室を移し、主要官庁、もちろん軍部の主要指令機能も移し戦争を継続する計画で工事が進められていたのである。

近隣の山にも巨大な防空壕が掘られていてここは物資、食料などを収納する為のものだとの説明を案内の人がしてくれた。

今日では一般に公開されている巨大防空壕跡であるがこれを見ると当時の軍部は例え3発目の原爆が日本の何処かに投下されても、尚、最後の一兵まで戦うという事を本気で考えていたのではないかと思わせる巨大な岩に囲まれた本格的防空壕都市であった。

こうした情報を当時の米軍は当然、掴んでいたであろうし、こうした日本軍隊並びに日本民族の”辱められれば死す”という武士道精神にもとずく”誇りの精神が極めて強い民族”であるという事も知っていたものと思われる。

だから、あのような一種寛大な“ポツダム宣言”になったのであろうし、逆に、もし其処まで譲歩したポツダム宣言を当時の日本政府が受け入れなかった場合には13項の最後の一行に”右以外の日本国の選択は迅速且完全なる壊滅あるのみ”と明記してあるように日本殲滅作戦が実行され、広島、長崎に次ぐ各地への原爆投下へと繋がって行った事であろう。


ポツダム宣言を受諾するか否かを決める政府の閣議では意見は3対3で真っ二つに分かれた。
議長の鈴木貫太郎は余りにも国家にとって重大な事であり天皇陛下の決定を仰ぐと言う事になり御前会議へと持ち込まれたのである。

ポツダム宣言受諾に反対した阿南大臣等の理由は戦争責任者としての天皇自身の処罰回避の問題、以後の天皇制の維持、つまり日本の国体が守れるかどうかの一点にあったという。
     
確かにポツダム宣言の13項の何処にも天皇制を維持する事を確約する旨の明記はなかった。
政府から当時のアメリカのバーンズ国務長官に日本からの要求事項に対する返事確認の為の電報を打っても回答は無かったと言う。

ポツダム宣言の受諾は昭和天皇の”私の考えは東郷大臣と同じ。受諾しても良いと考える”の一言で決定したと伝えられる。

その時の昭和天皇の覚悟は、例え自分の身がどうなろうとも、日本民族の種子が残る事が重要。あとは国民の考えと決意の問題であり、必ずや日本国は復興が出来るであろうという事であったと記されている。

ここに日本はポツダム宣言を無条件で受諾する事を決めたのである。 ポツダム宣言の13項にあるように”日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し・・”を受け入れたのである。

良く誤解している人がいるが、“日本国軍隊が無条件で連合国に降伏せよ”と要求しているのであって“日本の国体、日本民族が無条件で連合国に降伏せよ”と要求したのでは無いという事をしっかりと伝えて置きたい。

だから天皇制も維持されたわけであるし、日本の伝統や文化が廃止されなかった訳であり、11項に明記されていた様に”・・日本国は将来世界貿易関係への参加を許さるべし”という事から平和産業の復興へと進んで行ったのである。
        
今一つ、米国が日本民族の特異性、優秀性を認め、防共の最前線として共同出来る国になり得ると判断したからである。上述の戦争を戦って知った日本国、並びに日本民族固有の優秀さ、歴史的にもほぼ100年前に開国を迫ったペリー提督以来、明治維新という世界でも稀な急激な近代化、社会変革を成し遂げた日本という国の実行力は中国とソ連と言う共産国家との防衛ラインとして地政学的にも重要性を増していた時期だったのである。
世界を知り、制覇を目指す当時の米国にとっても日本という国、日本民族が世界の諸国と比べて、特異な存在であった。そうした特異性は日本の持つ非常に長い歴史に拠るものであるが、とりわけ明治維新から始まり、その後の大変革を経て、短期間に欧米列強に追いつき追い越せと進めた富国強兵策、その結果としての日清戦争、日露戦争の勝利という成功ストーリーが証明して見せたのである。

以下にその時期の日本の歴史について記述する。

18世紀半ばにイギリスで起こった産業革命は欧米諸国を近代化し、近代化の進んでいなかったアジア諸国は次々に植民地化されて行った。その中で島国という日本の地政学上の有利さ、同時期に列強諸国が自国の内政上の問題を抱えていた事、そして列強間には争いが多く、そうした状況の狭間に日本が置かれていたという幸運も有ったものの、日本と言う島国の小国が兎に角、明治維新と言う大業を成し遂げ、それから僅か30年も経たない中に清国との戦争に勝ち、近代化と一般庶民を兵力とする富国強兵策を推し進めたのである。

日清戦争の結果、台湾の割譲、朝鮮半島への発言権の強化、更には遼東半島割譲という中国大陸への足がかりを得るに至る。資源も無く、近代兵力も十分でない日本という島国の小国がこれ程までに発展し得たのは国全体の団結力と民族の持つ優秀性、特異性にある事は明白であった。

具体的には富国強兵策で組織された軍隊を構成したのは日本で伝統的に専門の兵士として存在した旧武士団によるものでは無く、一般の庶民から構成された軍隊だったのである。

日本が遼東半島割譲を得た下関条約の直後にロシア、独逸、そしてフランスが露骨に自国の利害との関係から干渉をし(三国干渉)、日本は止む無く之を返還したがこの事が日本の軍隊、日本民族の持つ特異性、誇りの精神に火を付けた。

この後日本国は”臥薪嘗胆”を合言葉にこの悔しさを国家の団結力に結び付けて行くのである。

歴史には必ず因果関係で動いて行くものだが日本の場合はそれが世界のどの国と比較しても長いものであるから、大変である。

日本国、日本民族の特異性についての理解には日本と言う国が2000年以上にわたって万世一系と言われる125代に亘る天皇家を維持し、且、日本民族が一度も他民族国家による支配、侵略によってその文化、伝統、思想などが断絶された事が無いと言う事が極めて大きな要素となっている事を学ぶ必要がある。世界中のどの国家にも無い日本の歴史のこうした連続性が日本民族の特異性を永い期間をかけて醸成し、そしてそれを次世代に継承して来たのである。

だから、ちょっとや、そっとの時代の変化や環境の変化があってもその特異性が根本から揺らぐ事が無いのであろう。
又、日本の歴史、日本の民族性を語る上でも日本は過去との連続性が保たれているという理由から、史実と史実の間の因果関係をかなり明確に説明出来るし、世界から見ると特異と言われる民族性がどの様に一般庶民にまで醸成されて来たかも具体的な史実を挙げて説明出来る、等、その点では甚だ分かりやすい歴史を持った国であると思う。

日本民族の持つ気質面での特異性とは”誇り”の精神が強い事、それも欧米人の持つ”誇り”とは少し異なった、“公共性を重んじた誇り”の精神である事を別章で史実を挙げて説明してゆくが、欧米諸国も世界的に翻訳された新渡戸稲造の書物、それ以前にヨーロッパで有名になった忠臣蔵の史実紹介などに拠って彼らも”武士道精神”としてある程度は知っていたのである。

三国干渉はこの日本民族の持つ”誇りの精神”を傷つけ、日本国挙げての日露戦争への団結力となり、結果的に日本はこの戦いにも勝利した。

この日本の勝利に喜んだ人々がいる。それは米国の黒人達とフィンランドの人達だと私は直接彼らから聞いた。米国の黒人達は南北戦争で奴隷解放を得たものの、白人との間の差別問題は極めて大きな社会問題であったから日露戦争で有色人種である日本人が世界史で初めて白人国家を破ったと言う事は非常な喜びであったと言う。

そしてロシア帝国の支配下にあったフインランドの人達にとって日本がそのロシア帝国に勝利した事は嬉しいニュースであった。フインランドはその後1917年にロシア革命で帝政ロシアが倒れると独立するが今日でもフインランドと日本の関係は良好でヘルシンキとの間には直行便が開設されている。

この日露戦争後の講和会議の斡旋役を買って出たのが米国の27代大統領のセオドールーズベルトであった。これにもきちんとした因果関係がある。後に大日本帝国憲法起草に当たった金子堅太郎とセオドールーズベルトとは金子がハーバード大学留学時代のクラスメートであり、金子が忠臣蔵の紹介をしたりして親しかった事がルーズベルトを親日派にしたと言う。

その後、第27代大統領になったルーズベルトが明治天皇に書いた手紙の中に忠臣蔵の話を読んで、その忠義心に感激した旨も書いてある。私はハーバード大学のルーズベルト研究会に頼んでその実物の手紙のコピーを入手した事があるが、ルーズベルトに明治天皇から日本刀が贈られ、それを非常に大切にしている旨なども書いてあった。
このように親日派になった米国大統領ルーズベルトも、急拡大する大日本帝国、その軍隊、この国の団結力の強さには他の列強諸国ともども、警戒心を持ち始めた様である。
日本はこの戦争に莫大な戦費を投下した。
だから米国ルーズベルト大統領が買って出たポーツマスでの日露講和会議には相当な賠償金を期待した。
しかし結果は何と賠償金については放棄をさせられると言う甚だ不満な結果となった。
怒った民衆による日比谷公園焼き討ち事件へと発展し、戒厳令がしかれ軍隊が出動するという大暴動へと繋がる結果となった。

一方で日露戦争の勝利で日本は遼東半島の租借権を奪還した。そして後に満州鉄道へと発展する鉄道の敷設権も得るがこうした事が次々と日華事変(日中戦争)そして、太平洋戦争への因果関係となって行くのである。

この間、日本は第一次世界大戦でも勝利した。ヨーロッパを主戦場としたこの第一次世界大戦は1914年6月のオーストリア皇太子夫妻がサラエボで暗殺された事を発端とし、8月までにはヨーロッパ全土を巻き込んだ英仏露陣営とドイツ、オーストリア陣営、それにトルコが加わるという形での戦争となった。

この戦争では爆撃機、戦車、毒ガス、そしてドイツ軍の潜水艦Uボートなどの近代兵器が投入され、一般市民をも巻き込んだ最初の世界大戦となった。米国も1917年にドイツに宣戦布告し、戦線は拡大した。ドイツ側の敗戦で終戦となり1919年にパリのヴエルサイユで講和会議が開かれ国際連盟が創立され平和を希求する体制を目指した世界だが、結果はドイツでのナチスの台頭、革命運動の激化など世界は不安定な状況に傾斜して行くのである。

第一次世界大戦の戦死者は1000万人に上るという人類未曾有の悲惨な戦争であった。
日本は当時、日英同盟(1902年)、日仏協約、日露協約(1907年)を結んでいた関係から大戦が始まると直ぐにドイツに宣戦布告し、中国の青島(チンタオ)並びにドイツ領であった南洋群島を占領する事になる。

日清、日露に次ぐ第一次大戦の勝利によって日本の中国に対する発言権はますます強化された。後で中国侵略戦争の元凶と言われる関東軍が日本陸軍から独立したのはまさにこの時期(1919年)であって、この関東軍が中心となって満州国建国等、大東亜戦争の戦線拡大を推し進める事になる。

日本は列強に互して軍国主義の強化を進めて行くのである。

ところで当時、帝国陸軍は日華事変と満州事変を含めてこの戦争全体を大東亜戦争と称した。一方帝国海軍は太平洋戦争と称していた。ちなみにアメリカ合衆国は第二次世界大戦アジア戦線と称している。

日露戦争で得た鉄道権益が満鉄となり、その満鉄の線路で起こった柳条湖爆破事件を契機に日本は関東軍が主体となって昭和7年3月(1932年)清国最後の皇帝溥儀を擁して傀儡の満州国を中国から分離した形で設立したのであるがこの中国大陸への橋頭堡の確保はますます中国との関係悪化と緊張関係を強めて行き、5年後の盧溝橋事件(昭和12年1937年)を経て中国との戦闘が拡大されて行くのである。

歴史、史実は史跡を訪ねたり、直筆の文書を見たり、出来る限り多くの関連事項を探すと自分にとって身近なものになって来るものだが、私にとっては 日華事変(日中戦争)の発端となったこの盧溝橋事件(昭和12年7月、1937年)は、勿論まだ私が生まれる前の大事件ではあるが、身近な話としての印象がある。

この大事件は、日本兵が軍事演習中に中国軍とトラブルとなり発砲した事で戦闘が切られたのだが、この発砲を命じたのが佐倉歩兵第7連隊の一木清直少佐(後に大佐)であった。
佐倉出身の私の父は当時の佐倉中学(旧制)生で代数や幾何学を毎晩のように近所に住んでいたこの“一木おじちゃん“に教えてもらったと言う話を私達家族に話してくれた。心の優しい立派な軍人さんだったと言っていた。

この心優しい“一木少佐”の“撃て”の一言で日本と中国は泥沼の日支事変から日中戦争へと不幸な展開へと進むのである。そしてこの一木中佐(当時)の隊は昭和17年の8月にガダルカナル島の近くの戦闘で全滅してしまう。

私の学生時代には日華事変(日中戦争)については殆ど学校の歴史の時間では触れられなかった。色色な配慮が働いた時期であったからだろう。しかし父の話から、この盧溝橋事件については、私の中では生きた史実として鮮明に記憶されているのである。

占領軍(GHQ)の指導も有った事であろうが、私が学生の頃の日本史の授業では明治時代までが主であってこうした日本の中国への侵攻から米国を敵国とする太平洋戦争突入への経緯などはあまり深く取り上げなかったと思う。

当時の日本が連合国(実態は米国)による占領下での新しい国作りの為の教育で精一杯であった事、制約なども勿論考えられるが、何よりも当時からすれば、まだそうした史実が全て至近の事であり、関係する人間も数多く生存していた事、学校で歴史教科として教えるほど史実の整理もされていない時期であった事が大きな理由であったのではと思う。

中国との戦闘の場合、支那事変とか日華事変という表現が用いられた。日本の帝国陸軍が戦った時期の中国は蒋介石による国民党が中国共産党と戦いながら南京に国民政府を樹立、1928年に米国が、そして1929年には日、独、伊の3国もこの政府を承認したばかりであり、中国も大混乱の時期であった。

ちなみに国民党の蒋介石は若い頃(1907年)に日本の陸軍士官学校に留学した経歴を持つという。その人間が国民党政府のトップとして日本の陸軍と戦う事になるのだから、皮肉なものである。日華事変(日中戦争)又は支那事変(日中戦争)と私が記すのには意味がある。

戦争という表現は国際法的に両国が宣戦を布告した時に成り立つ言葉だからだ。当時の国民党政府も日本も相手に対して宣戦を布告していない。だから日中戦争ではなく日華事変であり支那事変と呼ぶのが正しい事になる。

何故、両国共に相手に対して宣戦布告をしなかったのであろうか?日本も蒋介石の国民党政府も共に戦闘のための武器の調達が必要であるが、国際法上、戦争をしている国に対してある国から武器を供与する事は出来なかったから武器の必要な、日本、中国両国共に相手に対して宣戦を布告しなかったのだという事だ。

いずれにしても日本と中国との戦闘は拡大して行く中、中国国内でも国民党と中国共産党との政争は紆余曲折の結果、第二次世界大戦終結後の1949年10月の毛沢東主席による中華人民共和国の成立へと繋がるのである。

一方の蒋介石率いる国民党は1949年に共産党(毛沢東)に成都を追われ、台湾の台北に中華民国の首都を移し今日に至っているというのが至近時の中国関連の大まかな歴史である。

従って厳密に言えば、当時日本の帝国陸軍が戦ったのは現在の中華人民共和国では無い。
現在の台湾に移った“中華民国”と戦ったのである。

米国がポツダム宣言と言う日本にとって生き残りの方策を与え、日本復興をさせた意図には歴史的な日本とソ連との関係がある。

日露戦争後、旧ロシアは1917年にレーニンによる革命を経、ソヴイエト政府を経て、1922年にはソヴイエト社会主義共和国となった。そして明治以降、日本との政治的関係はアジア地区における国境線をめぐって常に微妙なものであった。

そして終に関東軍が絡んだ満州国とモンゴル人民共和国の国境をめぐるソ連軍との紛争事件が勃発した。1939年(昭和14年)5月のノモンハン事件である。
スターリン憲法の制定(1936年12月)などスターリンの独裁下のソ連軍は空軍、機械化部隊を動員して関東軍に壊滅的打撃を与えた。(1939年8月)

ソ連軍の更なる進軍もあり得たが、幸いにも日本はドイツとの間に1936年に日独防共協定を結んでいた。そして、ソ連とドイツとの間でも不可侵条約(1938年)が結ばれたという3すくみの関係から関東軍は大本営からの作戦停止命令を受けて停戦に持ち込む事となったのである。関東軍にとっては冷や汗ものの幸運な作戦停止命令だったのではなかろうか。

この戦いのあと日本の軍部は対ソ開戦論を後退させ、翌1940年(昭和15年)の日ソ中立条約締結へと進むのである。太平洋戦争の戦況が決定的に日本に不利となった昭和20年 (1945年)4月にソ連のモロトフ外相はこの条約の有効期限がまだ1年あったにも関わらず、条約廃棄を日本に一歩的に通告、更に既に8月6日に広島に原爆を投下された日本に対して8月8日に宣戦を布告、満州、朝鮮への侵入を開始したのである。

こうしたソ連と中国という共産国と日本との確執の歴史、日本人の感情、民族性を充分に勉強した米国は、ポツダム宣言を無条件で日本が受け入れるならば、日本復興に協力し、米国としては、対防共の最前線として日本の持つ団結力、優秀性を活用し、米国にとってふさわしい協力関係を築ける友好国となり得ると判断したのであろう。

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