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2014年4月16日水曜日

第一章 日本の特異性の認識と歴史が必ず持つ因果関係
第2項 アメリカ生活で実感した白人と有色人の歴史と日本の特異性


第1項では歴史の連続性について述べてきた。この項では抽象論では無く、私が今日でも続いている海外の人々との付き合い、そして10年間に亘ったアメリカでの駐在生活から体験し、実感した所謂、白人対有色人種関係に関わる事、そして日本の特異性発見について述べて行きたい。

前項では太平洋戦争終了から今日までの日本の歩みはポツダム宣言の全13項目がどの様な内容であったのかを知る事から始める事が大切だと述べた。
ポツダム宣言書の受諾はその内容からして、そして当時の日本が置かれた状況からしてラッキーであったと考えるべきであろう。

日本の戦後の歴史はその項目を一つ一つ遵守し、実施して行く事からスタートし、そして今日がある。こうした歴史を顧みずに今日の日本と米国との関係を日本は一方的に米国に隷属させられている、米国の傀儡国家になってしまった、けしからんと単純に批判出来る程、歴史は皮相的では無い。

日本がアメリカとの太平洋戦争に至った経緯も、当時の複雑な世界情勢を理解しなければならない。単純に、かつ一方的に、日本帝国が理不尽な中国大陸への侵略を行った為だ、とか先手必勝を狙った宣戦布告無しの真珠湾攻撃は却って米国に参戦の大義を与えてしまった等の猛烈な批判論だけになってしまう。

アメリカとの開戦にしても、中国との戦争にしても日本の歴史にとって確かに不幸な史実である。歴史には必ず長い期間をかけた因果関係があるのだから、それらを含めて云々すべきである。当時は米国、イギリス、ドイツ、フランス、ソ連、などの欧米列強が帝国主義国としてアジア、東南アジア、諸国に利権を確保しそれを拡大していた時代であったのだから、そこに目線を置いて当時の日本帝国の行動も云々するという冷静さ、公平さを持たねばならないだろう。

当時の中国の状況は清帝国(1644年~1912年)が辛亥革命を期に270年の歴史を閉じ、その後は孫文、袁世凱を大総統とする中華民国への歴史が始まり、その後は革命の嵐の中へと入って行く時代へと入る。

孫文の後継者となった蒋介石が1928年には国民政府の主席となっている。この国民政府をアメリカはその直前に承認しているし、日本、ドイツ、イタリアは翌年に承認するという状況であった。一方で中国国内は1921年には中国共産党が結成されその後国民党との戦い、そして国共合作と言う内戦状況が続いたが、対日抗戦の為に再び国共合作をして、国民政府主席の蒋介石の下で団結したのである。この状態は1946年まで続くがこの7月には再び国民党と共産党は内戦状態に入るのである。 

戦時中の話に戻るが、蒋介石の国民党を米国が武器供与などでバックアップしていた。そして米国は1941年8月には日本への石油輸出全面停止を行った。
言わば米国は相当露骨に対日制裁行動に出ていた処に、決定的な1941年(昭和16年)11月26日の有名な国務長官ハルノートの提示が出されたのである。

ハルノートの内容は日本が日清、日露戦争で拡大した、全ての中国大陸での利権を放棄せよという内容であった。そもそも日清戦争で獲得した遼東半島の権利を三国干渉で放棄させられて以来、臥薪嘗胆を合言葉に国運をかけた日露戦争を戦い、奪還したと言う歴史日本側にはある。
だから、それを反故にせよと言うこのハルノートの内容は、当時の軍部のみならず、日本民族全体が持つ”武士道精神”つまり、日本人の誇り、恥の精神に決定的な火をつけた事は歴史を紐解いて行けば容易に想像出来るのでは無いだろうか。

終戦から70年近くが経ったからであろうか、最近では関連史実が随分公開されるようになったがその中に当時の大新聞が日本の世論を戦争に向けて煽った面も大いにあったとする”マスコミ責任論”もある。
大新聞社のトップで後に政治家になった人物を実名入りで書き、彼の太平洋戦争への煽動責任を指摘している。

日本人の特異性でもある”和の精神”は得てしてこうしたマスコミ報道に影響され易い付和雷同的傾向を持っている事は否めない。だから、あながちそうした”マスコミによる煽動責任論指摘”も全面否定は出来ないと思う。

ただそのマスコミ煽動論にしても、当時の日本は行くも地獄、返すも地獄と言う”世界戦争の罠”の中に自ら入り込んでしまっていた状況であるのだから、これも又、一因であるに過ぎない。
    
兎に角、歴史とは多くの年月を重ね、多くの人々が関わり、些細な事柄、その時の世界情勢、国内の政治情勢、そして経済情勢など色々な事柄が重なり合った結果なのであるから、時代のある時期だけが主要因であると論じたり、いわんやある特定の事件だけを切り取って論ずる事は正しく無いと言う事であろう。
歴史については兎に角出来るだけロングスパンで考える必要がある。
関連する史実は芋ずる式に増えて来るがなるべくそれらを総ざらいした上で理解した方が正確なものとなるし、理解もし易いものだ。
   
海外の人々が抱く日本国、並びに日本民族の特異性について説明する場合には、2000年近い歴史を持つ我国であるだけに相当量の史実を用意し、しかも具体的な史実を代表させてまず自分が理解し、消化し、その上で世界の友人に説明しないと相手にしても日本の歴史を正しく理解する事は難しい事であろう。

まだ70年程前でしかない太平洋戦争に何故日本が突入したかについてでさえ、既に述べた当時の帝国主義的世界列強の状況を理解し、その上で列強と中国との関係、日華事変(日中戦争)に至った日本の置かれた立場、そこに至る歴史にまで遡り、複雑な因果関係を探らなければ正しい答えは出て来ない。

既述した様に、この日華事変はその前の関東軍による満州国建設の史実に因果関係が及ぶし、そこまで行くと、日露戦争、日清戦争へと史実を探って行く必要に迫られる。
こうした当時の日本の太平洋戦争へ突入して行く不幸な歴史の因果関係の理解には専門家が多くの著書を出しているのでそちらにお任せしたい。

そうした詳細な史実は別にしても、日本と言う小さな島国が日清、日露戦争で何故勝つ事が出来たのだろうか、とか、あの太平洋戦争に敗れた後のごく短期間に何故復興が出来たのだろうかという素朴な疑問が世界中から発せられて来た。

この疑問の回答については世界も注目していたし、我々日本人も改めて自己分析しておく必要がある。

今回の東日本大震災、福島原発事故でも世界は日本は必ず早期に復興するだろうとの期待を寄せている。一言で言えば日本国、日本民族の団結力の強さによる戦後の復興を世界は見て来たし、明治維新という大改革を成し遂げてきた事を知っている。

こうした之までの日本、日本民族の歴史から、今回の大震災後、原発惨事からの復興に関しても必ず日本人は団結力を発揮してこの危機を克服するだろうと期待しているのだ。

こうした日本国、日本民族の持っているエネルギーの源泉は何であろうか。

それは日本国、日本民族が他民族の征服によって文化や思想が分断された事が無い為に連綿と積み重ねて来られた、一般庶民にまで浸透し、岩盤のようになった、武士道精神、耐える精神、又、別の観点から言えば”辱められれば死す”という恥の精神、窮状から脱出しようとする頑張りの精神であろう。

もう一つの特異点として外国人の印象として強烈に残った事が、国としての纏まりが良いという事だった。今回の大震災、原発事故という窮状に対して、国が一つに纏まり、その過程で天皇陛下が震災直後から全国民に対して励ましの行動を起こされたという様子をメデイアを通じて目の当たりにして感心した様だ。改めて日本という国には、中心となる天皇家の存在が大きいのではなかろうかと世界中の人々に印象付けた様だ。

この二つの要素は何しろ武士道精神でも優に300年以上、天皇家の存在に至っては2000年に亘る非常に長い歴史の積み上げを経ている。世界のどの国にも無い時間の積み上げと、他民族の征服などによる中断を経験した事のない日本固有の“文化“が世界中に発信されたのである。

確かに日本のこうした“文化”は、例え今日の様にマスコミの発達、情報機器の発達で世界中のさまざまな情報が国境を超えて日々飛び込んで来る時代になってもその影響を受けて根底から変わるものでは無かろう。
世界がメデイア、交通機関の発達に拠ってあたかも一つの状態になり、日本人の価値観   も表面的にはそうした影響を受けて揺れ動いて行くかに見えようが、日本の場合は決して根底から変わる事は容易には起こりえ無いと思われる。

良い面もあろうし、悪い面もあろうが、こうした日本の国、日本民族の特異性は同質化が進むグローバル世界における一種の“ブランド”の様なものであろう。

先の東日本大震災の様子は世界中に発信された。そしてテレビ画面に映し出された光景がその事を証明したのである。大地震、大津波、そして原発事故に襲われた惨状下で多くの人々が身を賭して弱者を最後まで安全な場所へと誘導し続け、そして自らは犠牲となった事などが世界中に報道された。

避難地区では諸外国だったら必ず起こる暴動や強盗、略奪は一切無く、人々は配給される食料、物資を我慢強く整然と列を作って順番を待ち、ここでも自分より困窮した人々、地域を優先させよと被災者達がお互いに譲り合う光景が世界中に報道された。

震災直後には日本各地から若者達がボランテイア活動を積極的に開始し、足を踏み入れるのも困難だった被災地区のガレキの除去、食料、不足物資の配給に当たった事も世界は目の当たりにしたのである。
日頃無口で天下国家を論ずるタイプではない私の次男も震災直後の週末には東京からボランテイア用のバスに揺られて被災地に入り、被災者が求める位牌の収拾とかヘドロの掃除などの作業に参加したのだと言う。ゆとり教育世代と日頃大人達の批判の対象であった若者達は率先して困難な被災地に赴いた。

諸外国でも勿論こうした”公の為”を優先して被災者はじめ弱者を助ける行動をとる勇者は居る。しかし日本の場合は老若男女を問わず、北は北海道、南は沖縄迄の多くの人達が誰に命令された訳でも無く、止むに止まれぬ気持ちから自発的に ボランテイア活動に動くのだ。

自らが被災者であっても,辛い状況であっても、自分よりも弱い人、自分よりも状況の悪い人がいれば助け、その人達のために食料、物資を譲ったのである。

これが世界が東日本大震災の時に実際に目の当りにし、驚き、感心した日本人の団結力であった。世界から見ると日本と言う国、日本人という民族には賞賛すべき団結力を生む、特異な和の精神、公の精神が文化として染み付いているのだと思わせたのである。

こうした日本のブランドとも言える特異性が醸成されて来たルーツ、そしてその経緯を辿る事が日本という国、日本人という民族を知るという事である。

先ずは、縄文時代から、まだ国家と呼べるものが存在していなかった頃から、日本民族は自然との調和を重んじ、自然を大切にする考え方を育てて来た民族であったと言う事から日本の歴史は始まる。

日本民族がルーツとして持つ自然と和する考え方が古事記の上つ巻(神代の話)を通して書かれている神々の話となっているものと考えられる。欧米人の考え方は全く違う。自然は管理し、征服するものだという考え方である。

又、日本では古来、人民を支配するという考え方ではなく大王、乃至天皇は人民の幸せを祈るという”君民一体”という考え方が築かれていた。 欧米では真逆である。君主は人民を支配し、対立する立場であって、多くの専制君主が現れ人民と戦った。

古事記に第16代仁徳天皇の事が記されている。下つ巻(天皇の世の物語)の冒頭に書かれている天皇である。堺市にある世界最大の仁徳稜でお馴染みの天皇であるが、和名は大雀命(オオサザキノミコト)である。聖帝と言われる程、民の為に善政を施した仁徳天皇の記述には現在の枚方市から大阪市までの28キロメートルにわたる堤防を築いて民を守ったとある。

又、天皇が高い山に登って民の家から炊事の為の煙が立ち昇って居ない事に気付き、民の貧しさを察して3年間の課役を免除し、その間、宮殿が破れ壊れても一切修理もせずにひたすら人民が豊かになるのを待ったという。

こうした君民一体の史実は天皇が百姓や人民を大御宝(おおみたから)と呼ぶ事からも裏付けされている。日本では民主主義の政治が2000年以上も前に行われていたという事であろうか。

幸運も多々あろうが、日本は歴史上一度も他国、他民族による征服や統治を受けなかった事が日本の文化、特異性を時代を重ねる毎にますます磨きをかける事になったと言えよう。

国内の政治構造という視点から見ると、その時々の権力者は藤原氏、平氏、源氏、足利氏、織田、豊臣、徳川氏などへと変遷したが、どの時代の権力者も天皇家を滅ぼすという行動には出なかった。従って権力者の交代はあったが天皇家だけは125代、万世一系の家系を保ちながら今日まで継承されて来た。

君民一体”という考えをベースとした天皇家の存在は後の章で詳しく記述するが、紆余曲折を経て自らが政治権力の中心に居るという立場から離れ行く。世界史に見る多くの国の歴史ではこうした場合、殆どが抹殺されるのであるが日本の場合は違った。天皇家は日本の国、並びに民族の拠って立つ日本という国の岩盤とも言える”日本国、並びに日本民族の権威”と言う立場で存続して来たのである。

ところで次の第3項で横綱朝青龍問題を取り上げるが、趣旨は相撲と天皇との関係の紹介と相撲という日本特有の世界が日本の特異性を紹介するのには格好の対象だからである。

2020年の東京オリンピック招致が決まった。招致委員初め、オリンピック選手の活躍、最後に盛り上がった日本国民の熱意等、その勝因は様々であり、まさに全員で勝ち取った招致であったが、皇室代表として“スポーツの宮様“の高円宮妃殿下の存在が極めて大きかったとヨーロッパ諸国の関係者が伝えていた。

ヨーロッパ諸国は今日も数多くの王国が存在するし、アジア諸国にも王国が存在する。
今般の高円宮妃殿下のスピーチにしても、ロビー活動にしても、妃殿下が発したオーラがIOC関係者を惹き付けたと言うのだ。
まさに日本の天皇家、皇室がその良し悪しとは別次元でグローバル世界における日本のブランドである事を証明した事例として素直に認めざるを得ないのでは無いだろうか。
そして日本国として又、日本人として大切にして行く事が国益にかなう事なのだと誰しもが考えた一瞬であったのではなかろうかと思う。

天皇家、皇室が古代日本の創建時からどの様な天皇がこの国を作り上げてきたか、又周囲の国々とどのような関係を築いてきたのか等については次章で既述する。

天皇家と比肩される大豪族がどの様なスタンスで天皇家と交わったのか等を紹介する事によって、今日の日本社会の有り様が連続的に理解できるような気がする。
東北大震災で被災した各地の被災者を親身になって心配し、慰労と励ましの言葉を掛けられる天皇皇后の姿、皇太子、皇太子妃の姿が報道されたが、その度に伝えられる被災者の方々の感嘆ぶりも上述の日本に岩盤として根付いた“天皇家、皇室の権威”の証明ではなかろうか。

先に古事記で書かれた仁徳天皇の記述について紹介したが、“国民の為に祈る存在“こそが天皇であり、従って天皇の主たる行為は古来から”祭祀“だったと言う事が、被災地に於ける今回の天皇皇后両陛下と一般庶民の映像からはっきりと日本中は勿論、世界の隅々にまで伝えられたのである。

10年間に亘る米国での駐在経験、又、グローバル化が急激に進んだ時期に中国、韓国、インド、ヨーロッパ諸国の人々とBusinessを通じて交流する機会が非常に多かったが、世界の人々の多くが皇居を見学する事を望み、京都御所の一般見学に参加する事を喜んだ。

京都御所の蛤御門に残る弾痕や、京都御所には城が敵からの防御の為に必ず備える堀が無い事、軍事的設備が一切無い事に驚きの質問をして来る。
西洋の王城には必ず防衛の為の高い城壁や深い堀があり、場内には堅固な軍事設備や兵隊の居住地がある。

日本の場合、天皇家と人民とは対立する関係には古代から現代に至るまで一切無かったのだと説明をする。それだからこそ、天皇家は125代に亘って継承されて来る事が出来たのだと説明をする。海外の人達は自分達の王家の歴史とは随分違う事をこうした設備を見て納得するのである。

確かに海外からの人達にとって、天皇家が古代から今日まで続いている事は、地球の果てにある小国ならいざ知らずGDPベースでは、世界で3位を占めるトップクラスの国としては非常に珍しいし、世界が知りたがる処である。

   
もし、天皇家が西欧の専制君主国の国王の様に人民と対立する存在であったなら、日本の場合もとっくに天皇家は滅亡していたであろう。

学者は、日本特有の天皇と一般庶民の在り方、時代時代における天皇と権力者との力関係の歴史を経て、天皇家は権威を、そして時の権力者は治世をという特異な並存状態という政治形態が出来た事が天皇家が今日まで続いて来た主たる理由であると言う。

日常日本の中で生活をしていると我々は全く気が付かないが、海外の人々から見ると日本人の生活、日本人の考え方、所作の多くに特異性、違いを感ずると言う。

今日の日本ではややその程度は薄れて来ているとは言うものの、今回の大震災で世界中に証明して見せた様に、依然として日本の団結力、和の精神、自分より先に困った人を優先すると言う公に奉仕すると言う精神は健在であった。

さらに、まだまだ優位性を維持している物作りの力、そして日本特有の精緻、細やかな文化などは世界の人々から見ればまだまだ神秘的で、特異な存在なのである。

この項では、アメリカ合衆国の底辺にある、白人と有色人種との問題に触れてみたい。
そして実際の生活体験や、仕事の場面で日本の特異性を、海外の人達はどこまで理解したのかを紹介してみたい。

私としてはごく当たり前の事として発言した事、行動した事が相手のアメリカ人には全く理解されず、受け入れられなかったケースが多々あった。
そうした状況を体験して初めて、日本人は外国人からすると特異なのだなと言う現実を突き付けられたのである。

以下にそうした事例を紹介して行く。

私の海外での駐在開始は1974年(昭和49年)であるから今から40年近くも前の事になる。

いくらでも海外での体験が語られ、又書かれて来ている。もし私の体験談が参考に成るものだとすればそれは私の経験がバラエテイーに富んだものだからであろうか。

会社からの留学体験という学生の立場があり、ニューヨークという大都会での家族帯同の経験があり、そして最もアメリカらしいと言われるオハイオ州の片田舎のそれも鉄鋼会社の工場勤務の経験と言う事で、地理的にも、広いアメリカでの非常に広範な地域に亘った体験であったと言う事、又、それぞれの駐在経験等を同一の人間が、夫々全く異なった立場でしたと言う事で、表面的なものに過ぎなかったかも知れないが、日本人としては、割と総合的なアメリカ駐在を体験したと言う事であろうか。

留学体験であれ、家族帯同の生活体験であれ、そして中西部の全く日本になど関心の無い地域でのアメリカ人との体験であれ、正しくコミュニケーションを取ろうとする為にはまずは自分と言う人間、個性、そして言わんとする事を相手のアメリカ人に出来る限り正確に伝える事に相当な苦労をしたのである。
日本語の場合でも難しいのであるが、アメリカ駐在経験、学生生活、家族との生活のどのケースに於いても、言葉で伝えようとする事に加えて、願わくば言外の意までを文化の異なる米国人に理解して貰わねばならないのが本当の意味で“コミュニケーションが出来ている”という事であるから大変苦労したのである。

日本人の私達が苦労するのが”日本の常識は世界の非常識”という言葉に代表される様に日本人、日本文化そして日本の考え方、行動様式には特異性があると言う事であろう。

相手とのコミュニケーションが上手く行っていないなと感じられる時には、丁寧にそのギャップを話し合い、説明する忍耐力と努力が必要だと感じた。
其の努力を怠って、日本的に”俺の背中を見ていれば分かる筈だ”という事ではとんでもない誤解とすれ違いのまま無益な時間を過ごす事になり、場合によっては会社に、家族に大きなダメージを与えてしまう事になる。

私の経験からすると日本の特異性を折に触れて相手に紹介する機会を労を惜しまず作る事だ。それをする方法の一つとして、海外の人に分かり易い“日本の題材選び”とそれを伝えるテクニックに一工夫する事が必要だと思う。
        
相手のアメリカ人にしてもその他の海外の人達の場合もそれなりに我々日本人を理解しようと努力はして呉れる。大切な事は我々自身から日本という国はどういう国で、我々日本人はどの様に考える民族なのかを“分かり易い”出来れば有名な史実など、具体例を挙げて丁寧に説明する努力が効果的だと考えた。

言うまでも無い事だが、伝えようとする側の我々日本人自らが世界と比べて何が特異かを理解しその具体例はどんな事柄、史実にあるかを勉強しておかないとこの作業をする事は不可能だ。
  
私の場合はこちらから伝える題材として有効なのは日本の歴史から選んで伝える事だと考えたのである。

日本の文化、日本社会の特異な仕組みを説明するのにも史実で具体的に説明する事に勝る方法は無い。しかし、戦争直後の占領軍の日本の歴史教育への介入もあって、我々の世代も含めて、今日に至るまで日本では充分且正確な日本歴史、並びに文化、思想の変遷に関する教育が成されて来たものとは思われない。余りにも歴史が永い日本では正確な資料が無いなどの理由もあろう。

例えばどの国にも建国の歴史があり、そして建国の精神が明記されている場合が多いが、日本の場合は困ってしまう。神話の世界なのだ。従って我々も学校で、日本の建国の歴史、精神などは習っていない。神話の世界の話、古事記、日本書紀で書かれている事から学び建国当事を推論するしか。

古事記を編纂した太安万侶や稗田阿礼の努力と能力には敬服するが、何しろ日本にまだ文字文化が殆ど無かった時代の口伝等によって記したであろう古事記の内容は、天皇家に都合の良い神話や根拠の無い作り話だとか言う理由から、学校では生徒に教科として使える程の史実的中身には乏しいという一言でその内容を学ぶ機会は無かったのである。

確かに日本最古の歴史書である古事記は712年に完成した。2012年は丁度1300周年になる。太安万侶と稗田阿礼に指示した天武天皇自身が第40代の天皇だから1300年以上も前の天皇だ。古事記(ふることふみ)は神代の話が中心の上巻(かみつまき)、天照大御神から鏡、勾玉、剣の三種の神器を賜って葦原中国(あしはらのなかつくに=日本)を治める為に高天原(たかまがはら)から下った邇邇芸命(ににぎのみこと)の孫に当たる神武天皇から第15代応神天皇の事を記した部分が中つ巻(なかつまき)とされている。

この中巻になると“神と人の世“の話になって来る。後述するが、中国等の記録と合わせて比定される天皇の名前が出てくる記述と成って来る。

そして第16代仁徳天皇から第33代推古天皇までの記述の下巻(しもつまき)の記述になるとまさに“天皇の世“についての記事であり、歴史書である。

当然、古事記を書かせた第40代天武天皇の時代の日本は、唐大帝国並びに朝鮮半島の諸国との狭間に在って、国内の体制も幾多の内乱をへて漸く古代国家としての基礎も整いつつあるという状況であった。具体的には天武天皇自身が勝利した壬申の乱(672年)という皇位継承の戦いが終わり、後述する古代国家としての諸改革を進める中での一作業としての古事記編纂だったのである。
“唐”という強大な隣国の出現を目の当たりにして、日本としても国としての体制を整え、国力を上げ、備えねば、何時攻め込まれるか分らない、という危機感の中で、内乱を抑え大豪族達の協力を確固たる物にする為にも、天武天皇としては“天皇家”の統治者としての揺ぎ無き正当性を“形”として置く事が重要だと考えたのであろう。

古事記には天皇家は“神”が降臨して日本古来の山、海、自然を治めて来た八百万の神々と合体(海彦と山彦の話)して、神武天皇以降の“現人神”となり以後その血筋を継承して来ている事が記述されている。

故に“天皇家”は日本国を恒久に統治する者として最も正当であると言う事を、大豪族、はじめ人々に知らしめておくという事がこの古事記編纂の意図であろう。

私の祖父母は“天照大御神の子孫が地上に降り立ちその後、童話でも有名な海彦、山彦の神を経て、其の孫の神武天皇としてこの国を治め始めた”と言う古事記の内容に近い話を学校で教わったのであろう。

しかし、大日本帝国の軍隊こそが諸悪の根源であったとされた戦後の教育では天皇を神聖化する古事記の話しは教室で教材にされる事はあり得なかった。

戦後も70年近くが経ち、歴史教育もそうした“国益の為になる思想教育としての歴史”という偏った教科から純粋に“史実は如何であったのか?”を追求する姿勢が見られる様になって来ている。

こうした観点から、古事記にこそ“日本の建国の精神と趣旨”が語られているのだとする歴史学者は多い。

古事記には神武天皇が神では無いことを記している。何故なら寿命があるからだと記す。
そして神武天皇は海、山という地上の神々の血を引いていると記している。
天照大御神から地上を収める事を命ぜられた神が地上に降臨し、海、山、などの地上に関わる神と混ざって生まれたのが神武天皇であり、寿命を持った現人神であると記した訳である。何故寿命というものが無いはずの天孫が命に限りのある事になったかについても古事記の上巻に書いてある。面白い話なので紹介しておこう。

降臨した天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)が美しい木花佐久夜毘売(このはなさくやひめ)を見初め求婚。父親の“山の神”は姉も加えて二人の娘を嫁として遣わしたが、非常に醜かった姉の岩長比売(いわながひめ)の方を邇邇芸命は即親元に返してしまった。
岩長比命の“岩“こそが不滅の命を意味しておりそれを親元に返してしまった事から山の神が怒り、以後、天皇家の子孫の命には限りがある事になったと言う話である。
   
この様に古事記には人間界にもあるようなハレンチな出来事、天岩屋戸の話、大国主神の国作りの話など興味のある話も多い。

果して、古事記で記述している初代の神武天皇が実在したかどうかはある意味ではどうでも良い事では無かろうか。古事記、日本書紀に記述されている歴代天皇のうち初代神武天皇から第27代安閑天皇までの時期は日本にはまだ文字文化が普及していない時代であり、存在を裏付ける資料に極めて乏しい時代なのである。

しかし、“無から有は生じない“のであるから、ヤマト王権が存在していた事は事実であり、それが次第に勢力を伸ばし、大和朝廷が日本列島を統治し始めた事も事実である。

古事記編纂を命じた天武天皇は第40代の天皇と言う事になるが、彼の前にすでに数十人の天皇家の先祖がいた事は確かであろう。

古事記に言うところの初代神武天皇(BC.660~BC585)から27代安閑天皇AD531~AD535)までは日本にはまだ文字も無い時代の事であり何の記録も無い事は既に述べたが、   幸いな事にお隣の中国に日本に関する記録が残っている。

一番古い記録がAD57年に倭の奴国王が後漢の光武帝から金印を送られたの記事である。
古事記で言えば第11代の垂仁天皇に当る時代である。 次に古い記録は 2世紀後半から3世紀の魏志倭人伝の記事であり、三番目の中国の記録は、488年完成した宋書の記録である。

そうした中国の記録が全て正しいという事はあり得ないが、一方で当時を語り記録する文字も日本には無いのだから、中国の当時の日本に関する記録は貴重な資料であり、この資料によって裏付けを取るしか方法は無い。

ただ大切な事は日本に記録が無いからと言って日本側に何ら歴史の痕跡が無かった訳ではない。古事記はその点からも貴重な手係りであり、埼玉古墳群はじめ日本各地から新たな発掘もされている。日本国内の資料からも徐々に古事記に書かれた事が証明されるケースも出て来ているのだ。

女王卑弥呼がAD239年に魏に朝貢をして“親魏倭王”の称号を得、金印紫綬を賜ったとの記事が魏志倭人伝にあるが、この時代には日本には百を超える国があり、統一国家では無かった様だ。日本国内での力を鼓舞する方法として、各王はこうして強大な国中国に朝貢して、王の称号を得たり、統治者としての証としての金印を授けられていた事が分かる。

例えば、宋書(南朝宋の正史、AD488年完成)に書いてある倭の五王とは一体誰を指すのかについては諸説があるが、重要な事は5世紀には日本はすでに、王朝なり少なくとも王権が確立していた事が裏付けられるのである。

ちなみに、宋書に言う”讃”は仁徳天皇(AD313~AD399)の子供である第17代履中天皇(AD400~AD405)と言われているし、5人目の”武”とは第21代雄略天皇(AD456~AD479)を指すのでは無いかと言われている。古事記では天武天皇の血筋が統治者として正統な血を継承して来ていると言う事を神代の時代、天孫降臨、そして現人神になった神武天皇以降からの婚姻関係などを書く事によって有力豪族を従わしめると言う事が大きな目的である。

古事記は第33代の推古天皇(AD592~AD628)までの記述で終わっている。文字通り第34代の舒明天皇(AD629~AD641) 以降はもはや“古事”では無く、古事記で云うところの“現代に当る”からだと言われている。

こうした統治者としての天皇家の正当性を豪族はじめ当時の人々に知らしめる目的の他に古事記のもう一方の意義は“建国の精神”を書き記した事であろう。

古事記からは天孫が降臨して地上に於いて、海、山に加えて食物、風、その他ありとあらゆる八百万の神と交わる事によって現人神(アラヒトガミ)としての初代神武天皇に至った事が記されている。

日本の国、日本民族の基本的精神は欧米人の精神が自然を征服し、管理するのとは根本的に異なり、自然をはじめ、万物には神が宿っており、従って我々民族はそれらの神を敬い、尊敬し、和する事を大切にするという事である。

現人神たる天皇が人間と八百万(ヤオヨロズ)の神との間にあって民への恵みを祈り、災いからの忌避を祈るという事が古代日本国家建国の精神である事が古事記からは読み取れる。
とりわけ上つ巻(かみつまき)に書かれている神代の時代の神話からは自然は尊ぶべきもの、敬うものであるという精神と共に、私達が古代から自然と深く関わって生活をして来ており、自然との和を大切に思って来た国だと言う事が読み取れるのである。

人間その物が自然の一部であり、従って人間同志も“和の精神”が大切だと言う事になる。
こうした考え方が後述するまだ百余国に分かれていた古代日本列島からの日本民族の精神であったし、この“和の精神“をベースに日本と言う国が”天皇家“を中核として一つの国として纏まって来たという歴史なのである。

日本民族は太古の昔から自然を敬い、崇め、そして自然との共存をベースとして集落を作り、それを発展させた小さな国造りからスタートした国であるが故に今日でも自然との調和、人と人との和を大切にする国民である事がこの古事記から読み取れるのでは無いだろうか。

 かく言う私も学生時代に古事記を詳細に読んだ事も無かった。従ってこうした日本の太古からの建国の過程、“和”をベースとした建国の精神などについて勉強した記憶も無いし、関心も無かった様に思う。
   
日本の古代史は考古学的アプローチ、観点からしか生徒達に教えられる事は無かった、と指摘する学者がいるがその通りなのであろう。
   
旧石器時代の生活はどうだったとか縄文時代はどの様な集落に人々は住んでいただとか、  土器の縄目の文様が如何のこうだのとか言った事が日本史の授業で習った日本の創世記の歴史そのものであったと思う。

因みに、古事記に記す神武天皇から第5代の孝昭天皇(BC475年~BC393年)までが丁度縄文時代に当たる。勿論我々は学校の歴史で第5代の天皇などについて学んだ事も無い。古事記によればこの天皇は今の奈良県の御所市東北部に宮を構えていたとか、93歳まで生きられたとか言う事が書いてあるが残念ながら日本は文字も無い時代であるし、中国にも該当する記録は見つかっていないので何の傍証もない話だ。

従って裏付けが一切無い古事記が記述するこの時代の天皇については学校では教える事は一切無い訳だ。

弥生時代については大陸や朝鮮半島から稲作も入って、農耕用金属ももたらされて、農耕が本格的に定着したことを習った。期間としては紀元前5世紀頃から紀元3世紀迄の800年間程だという事であるが、史実等は一切無い、全て考古学からのアプローチによる”古代日本史“である。

古事記では第6代の孝安天皇(BC392年~BC291年)から第15代の応神天皇(AD270年 ~AD310年)の時代に当たる訳だが、小中学校の生徒の頭の中には考古学としての“弥生時代の日本”としてしか残っていない。

しかし、第15代応神天皇位の時代になると、考古学的アプローチだけではなく史跡として私達の目に飛び込んで来るものがある。具体的には大阪の羽曳野には“応神天皇稜”として古墳を訪ねる事が出来るし、私の家から歩いて5~6分の処にある(杉並区)“大宮八幡宮”の祭神は“応神天皇”である。従って古代の天皇ではあるが現実の天皇としての実感がある。 因みに応神天皇の子が聖君と讃えられた第16代仁徳天皇(AD319年~AD399年)であり、世界最大の容積を誇る墓として有名な仁徳稜古墳も同じく大阪府の堺市にある。
これらの古墳に埋葬されて居たのが果たして本当に応神天皇であるのか、仁徳天皇であるのかの絶対的な証拠は無いのだが、極端な言い方をすればそれは大して重要な事では無い。

重要な事はあれだけの規模の墓を作らせ、埴輪に囲まれ、埋葬された強大な権力者、統治者たる存在があったという史実なのである。

こうした古代に、日本には少なくとも”王”と呼ばれる人が治める国というものが存在していた事は中国の記録からも裏付けられる訳であるが、どの位の数の国が存在していたのかとか、古事記に記されたヤマト王権あるいは大和朝廷が一体どの程度の範囲の日本を統治していたのかについては明確な記述も、裏付けも無いので分からない。
   
中国の記録から読み取れるように少なくとも1世紀以降3世紀頃の日本の状況は、国らしい集落単位が成立し、統治する王と呼ばれる立場の人物が存在した事は確かであるから、この頃からは日本の歴史も考古学では無く、歴史として研究する事が出来る時代だと言う事である。兎に角、日本の歴史はこのように膨大な長さを持っている。

私も米国に留学していた時期には古事記をじっくりと読んだ事すら無かったし、建国の精神について自然との調和だの自然を崇める精神が建国のベースになっているなどと周囲の米国人の友人、諸外国からの留学生仲間に説明する知識はまるで無かった。

ところがアメリカ人の留学時代の仲間もニューヨーク駐在時代の従業員も、そして日本と言う国の存在に殆ど知識も興味も無い中西部のアメリカ人の工場従業員からも日本の建国の話、日本の萌芽期の統治の状況は如何であったのか、等について聞かれると、言葉に詰まったものである。

アメリカ人にとっても中華人民共和国の中国人にとってもトルコからの留学生にしても、彼らの建国の歴史、建国の精神こそが、彼ら共通の誇りであり、徹底的に教育されて来た事なのである。 彼らの国の歴史は日本と比較してずっと新しいし、アメリカも中華人民共和国も、トルコ人にしても共通している事がある。それは民族が血を流して勝ち取った民意による   建国だと言う点である。従って彼らの国の建国の精神、スローガンなどは憲法などの形で明記されており、小中学校の時から学校で叩き込まれて来た最重要の事柄なのである。だから、彼らにとっては、誰に対してでも、それが例え海外の人であっても、説明する事はそう難かしい事では無いのだ。

ところが日本の歴史の場合はそうは行かない。詳細は第二章以降に述べて行くが日本と言う国は125代に亘る天皇家を軸として2000年以上の連続した歴史を持つ世界最古の国であるし、まず天皇制と摂関政治とか、幕府との関係、議会との関係をその変遷も含めて話さないと正確な説明にはならない。

日本民族の文化も日本人の宗教、思想、考え方も同じように正確に話そうとすると、長い歴史での変遷をある程度理解していない事には話す事は出来ない。

世界的に知られている日本を代表するというか、ブランド化になっている一般庶民にまで染み込んだ武士道精神を説明する事も容易ではない。

武士道精神も300有余年の時を経て一般庶民にまで浸透して行ったのであって、これにも何故、国の指導者層だけにでは無く、庶民層にまで浸透したか、そこに至る江戸中期の歴史を語らないと理解は得られない。

武士道精神が庶民層にまで浸透した歴史的事象については別の章で説明するが、海外では勿論、実は日本人の間でも余り丁寧に語られて来なかった。
社会の指導層である武士階級に武士道が浸透するのは当たり前の事であるが、なぜ一般庶民の隅々にまで武士道精神思想が根付いたのであろうか。

残念ながら今日の日本社会では大分薄まって来ていると言われるが、それでも、“武士道精神”、別の言葉で言えば”恥の精神”が日本民族のベースにあって”会社、地域社会、公を優先するという精神”が日本社会、日本民族の特異性として根付いて来たと言われる。

こうした精神、社会倫理観は日本並びに日本民族の持つ“文化”であって、2000年近くの歴史の積み上げによって作り出されたものであるとしか言い様が無いのが実態ではある。

説明のし様が無いと言ってしまえば其れまでだが、グローバル世界ではそれでは日本人は孤児になってしまう。諸外国から見るとそうした日本という国、日本民族、日本文化の特異性について具体的な例を挙げ、史実で説明する努力が必要であると思う。

武士道と言うと“忠臣蔵”の話が代表のように言われる。この話は割と諸外国でも知られている。第三章で詳細に述べるが、赤穂の浪人達47人による、自分達の命を捧げたというたった一つの美談だけで庶民階層を含む日本人全体に忠義の精神、滅私奉公の社会倫理の精神が根付くはずは無い。世界中に国の為、兄弟の為、信義の為に自己犠牲を払った感動的献身の話だけなら、山ほどあるのだ。

種明かしをしてしまおう。日本の場合は赤穂事件の後、現代社会に向かう過程において勃興しつつあった経済面でのニーズ、そして幕藩体制の維持という面においても滅私奉公、忠義の心、誇りの精神という武士道精神の一般化は時宜を得た考え方であり、必要な考え方であった。当時の社会として忠臣蔵の美談は格好の教科書であったのである。

この様な時代背景を反映して一般庶民層にまで武士道精神は日本の社会倫理として育って行くのであるが、こうした思想の普及にとって格好と言える二つのツールが当時あった。
その一つが、空前の大ヒット演劇とも言われる“仮名手本忠臣蔵”の出現であり、もう一つの強力なツールが石田梅岩による“石田心学の大流行”であった。
共に息の長いツールがタイムリーに存在したという偶然が当時の庶民階級に日本人特有と言われる義理と忠義という社会理念を醸成させたのである。

当時日本が鎖国政策下にあり、日本独自の文化を醸成し易かったと言う環境も、又、外敵の侵入による社会、文化の転覆という不幸が無かったラッキー等の全てが日本民族の特異性、ブランドとも言える”武士道”的社会倫理を300年に亘って日本人に醸成して行く事に貢献したのである。

こうした特異な国、日本から来た私は留学時代の学生仲間から見ても、現地法人設立作業のために駐在した時期の米国人部下から見ても、又最も純朴で日本などを良く知らない、興味も無いオハイオ州の片田舎の鉄鋼会社の工場の従業員にとっても、非常に理解しずらい、特異な存在であったと思う。

それ故に私自身が留学時代の米国学生との共同作業の場面でも、会社の仕事でアメリカ人部下に私の指示を理解させる場面に於いても、自分の意図を相手に理解してもらう事の為に言葉のハンデイキャップ以上に、手を焼き、非常に苦労をしたのである。

観光旅行とか短期間の出張でアメリカ人等海外の人々とのコミュニケーションが上手く行ったからと言ってアメリカ人は皆親切だとか皆ニコニコ愛想が良くて大好きだなどと言うのはまだ早い。
私も何度も経験したのだが、同じアメリカ人でも短期間の私の出張の時は私はまだお客さんであり、Visitorに過ぎない。しかし私が駐在員として赴任し、そのアメリカ人と上下関係になり、二人の間に利害関係が絡むとまるで別人に変貌するのである。

アメリカ人の場合は写真をとる場合兎に角、笑顔を見事なぐらいに作るのをご存知の方は多かろう。又彼らはすれ違う時に見知らぬ人にも笑顔を心がける。勘違いした男性がその笑顔をくれたアメリカ人を食事に誘ったという笑い話がある程だ。
   
すれ違った直後のアメリカ人の顔を見た事がある人は知っているであろうが直ぐに普通の厳しい顔に戻るのだ。
   
アメリカの授業の中に論文発表などのプリゼンテイションのテクニックに関するものがあったのには最初は日本の授業では全く経験が無かった事と、こんな事が学問と関係があるのかと驚いた。

その授業では発表する論文の中身についてでは無く、テレビを使って発表者がどの様なジェスチュアーを使えば良いとか、声の抑揚はどの様にすると聞き手により効果的に伝える事が出来るか等について一人一人に実際にやらせてTV画面で見せて悪い点を指摘し、直して行くと言う授業であった。

更にはテレビのモニターを見ながら自分はどちら側の顔がより相手に好印象を与えるかなども大真面目で学ぶのである。

日本では男はニヤニヤした顔をするものでは無い、例え口調は訥々としていても内容が大切だと言う教育を受けた我々にとってはアメリカに到着した途端のカルチャーショックであった。

今回の2020年東京オリンピック招致に成功した招致チームが専門家を雇って努力に努力を重ねたのがIOC委員に最高にアピール出来るプリゼンテイション技術であった事は記憶に新しい。

1974年の留学を皮切りにトータル4回に亘る駐在員生活を含めて丸10年間のアメリカでの生活を経験した。その間にも何度も日本から出張もして米国人との関係は20年間に及んだ。
そして今日でも米国の友人とはお互いの国を行き来するなど交流は続けている。

話は戻るが、それまで出張ベースで何度も訪問していたニューヨークの事務所に上司として私が駐在赴任する事になった。私と部下という立場のアメリカ人との関係は、成果、責任、そして評価という面での利害が絡む関係となり、それまでの単なる日本からの訪問者としての立場とは程遠い緊張関係となった。
日本人の文化には基本的に和の精神があり公の為、組織の為に努力するという心構えが我々の身体の中に刷り込まれているものだ。

海外の人々、アメリカ人の場合は何でもかんでも自己主張を通そうとする程、極端では無いが、日本人の様に和の精神、公(会社、組織)の精神の前に先ずは自分の身を守る事が彼らの行動の基本である。

従って上司として指示をする場合も、ガミガミと一方的に指示をして、あとは”しっかりやっておけ”とだけ言って置けば仕事が進んでゆくほど楽な物では無かった。

仕事の手順としてマニュアルが無ければ動かないし、仕事と仕事の間の隙間を関係する相手とお互いに埋め合わせて一つの仕事を完成させるのだと言う日本人的考えは無い。
仕事が高度になる程、会社の長期的視点も理解しながら足元の仕事をやって貰いたいとか、現在は短期的な視点からこのお客とお付き合いをしてはいるが最終のターゲットは別のAと言う客なんだよ、だから今のうちからサンプルを提供し続けるとか、今は商売はゼロでもしょっちゅう顔を出すように心がける様に・・という類の気遣いを教育するのには苦労する。

この様に仕事と言うものは日頃から裏を読んだり、色々なケースも考えて複眼的に進める必要があるのだが日本人スタッフには容易に理解して貰える事が、アメリカ人にはそう簡単な事ではない。要するに文化の違いと言ってしまえば其れ迄なのだが。

上司である日本人、私と言う個人を先ず理解させなければ、複眼的なお客様への対応とか、社内でも仕事と仕事の隙間を埋めて貰う様な日本人的な仕事の指示、仕組みをアメリカで構築する事は難しい。留学生と言う上下関係の伴わない経験もしたが、この時でもアメリカ人学生とのコミュニケーションを取る事の難しさは何度も味わった。

学生同志のチムワーク作業を経験した訳であるが、こういう場を経験すると、世界の中で日本人の考え方、行動様式がこうも違うのかと言う事を嫌と言うほど思い知らされた。ニューヨークの郊外で家族と共に生活をした訳だがその時にはもっと色々な面で、日本、日本人の特異性を認識させられたのである。

ニューヨークでの会社設立という作業の中で、アメリカ人従業員、外部のアメリカ人取引関係者からの協力を得る上でも私自身もアメリカと言う国、そしてアメリカ人の本質というものを理解するように努力した。上司としてアメリカ人の部下などに自分がして欲しい仕事を完遂させる過程ではかなりの苦労があった。米国では日本のペースで仕事が進むという考えを捨てないと、ストレスが溜まりまくる。
その理由は例えラッキーで自分の部下の仕事振りが改善出来たとしても、会社の外の米国の社会インフラが日本とは異なっている訳であるから、仕事全体としては結局は日本の様には進ま無いのだと考え方を変えるまでには時間がかかったのである。

20年近く勤めていた現地の女性従業員が勤務能力、勤務態度に問題があり、私が解雇した。
周囲の反対を押し切って解雇した訳だが果たせるかな訴えられ、そして2001年9月11日のアルカイダの攻撃で倒壊したマンハッタンのワールドトレードセンタービルにあった裁判所に行く羽目になった。中西部の鉄鋼会社では日本の労働組合とは全く異なる、信じられないほど破壊的なアメリカの鉄鋼労働組合と何年も戦い、結果的にはオハイオ州にあった鉄鋼会社は工場並びに会社を全て売却した。その結果、アメリカの労働組合からは数年間に亘って訴えられると言う苦労もさせられたのである。

こうした事は私の会社だけが経験した事ではなく当時アメリカに進出した殆どの日本の鉄鋼会社、自動車部品メーカーその他の会社の多くが経験した事である。

多くの会社が日本とは異質の労働組合問題で撤退を余儀なくされ、こうした事をアメリカで学んだ日本の企業の多くはその後、労働組合を持つ事を州法で強制しない南部の州で会社を設立するケースが多くなるのである。
   
後述する私の具体的な経験談は、どれもこれもアメリカという国の仕組み、アメリカ人の考え方と日本の社会の仕組みとの違い、日本人の考え方との違いを充分認識せず、スレ違ったままのコミュニケーションを続けた結果、至った失敗談、苦労話である。

グローバル世界に突入した今日、お互いの国の特性、文化を事前に勉強せずに、コミュニケーションがすれ違ったままで結果的に大きな失敗をした過去の失敗を繰り返す事は避けたい。

日本人の特異性である武士道精神は”恥の精神”に繋がり、”潔さ”に繋がる。そして縄文時代から古代日本に芽生えた和の精神は自己犠牲そして誠実さという日本人の特性へと繋がる。しかし、これら日本人としては美点と考えている自己犠牲や誠実さが時として米国人から見ると奇異な行動に映り、誤解される事もある。米国では正にTPOを考えて言動に心配りをしないとならないところが海外で生活する難しさなのであろう。

その為には何が日本人の特異性で、そうした特異性は何処から来たものかについて知っておく必要がある。一度も他国、他民族によって征服された事が無かったと言う世界史上稀な状況は大きな要因である。

民族の文化や伝統は他民族の征服によって途切れるものであるが日本の場合はそれが無かった。従って日本の文化、伝統等は非常に永い期間に亘って連続性を保ちながら継承されて来たのである。勿論、その過程で海外からの文物を輸入し、既存の日本文化との融合を繰り返して来た訳だが、それらも長い連続した日本の歴史の中で次第に“日本の文化、伝統”と化して来たのである。

兎に角、このようにして日本、日本民族に染み付いた文化、伝統的考え方であるから何が
欧米人には理解されない事だとか、嫌がられる事なのかとかは分らないものだ。
一般的には“日本の常識は世界の非常識”と言われる事を指している訳であるが、私も米国留学や駐在生活で色々と経験した事を紹介する事で理解して頂ければと思う。

以下に全く異なるケース毎に私の米国駐在10年間の体験談を紹介し、そこで発見したアメリカ人の意外な考え方、改めて私が自覚させられ、時には反省もした日本人、日本の国の特異性について記述して思う。

*第一回目の駐在から自覚した日本の特異性(1974年~1975年)

場所:アメリカロサンゼルス
立場:MBA留学生
相手:MBAクラスメート(米国人)

背景:米国はベトナム戦争末期 ニクソン大統領がウオーターゲート事件で辞任(8月)フオードが大統領に昇任した
   日本は田中首相の金脈問題で三木内閣成立(12月)長島茂雄引退、佐藤前首相ノーベル平和賞受賞(10月)北の湖横綱昇進
   
 私の生まれて初めてのアメリカ生活が西海岸のロサンゼルスであった事は幸いであったと思う。
それは日系移民も多く、比較的我々日本人に対して受け入れる素地が東部アメリカに比べてある地域だったからである。

この後、第二回、三回そして四回目のアメリカ駐在を経験したが、全て中西部並びに東海岸であった。これはあとの経験で分かった事だがニューヨークをはじめとする東海岸のアメリカ人にとってはヨーロッパの諸国が地理的にも日本よりもずっと近いし、彼らの祖先も多くはヨーロッパからの移民であった事等から、米国東部の人々は当然興味も関心もヨーロッパに向いているのである。

日本に来ている欧米人の中には日本の能、歌舞伎、浮世絵、禅、書道その他日本独自の文化などに興味を抱いて来日している人達がいる。彼らが日本について発言するのを聞いて、日本は物凄く世界の人々に知られ、興味を持たれている国なのだと思ったら間違いである。彼らは極一部に過ぎない“日本フアン”の人達であって欧米を代表する意見では無いと思わないといけない。
東部の人達の中には“東京は中国の何処にあるのか?”と私に真顔で聞く程、日本には無関心だと言う人々が多いのである。

私の生まれて初めての長期アメリカ駐在はMBA(Master OF Business Administration)コースへの会社からの派遣留学であった。MBAとは経営大学院である。大学卒業直後にそのままMBAに来ている学生もいたが半分位は私の様に会社からの留学派遣生であったり、米国の軍隊からの派遣であったり、一度社会生活を経験して志を抱いて再びMBAに入って次のキャリアを目指して自前で高い授業料を払って勉強しようという学生も居た。

1974年当時の日本では学校を卒業して一度社会人の経験を積み、そこから再びMBAで学び直して、より高いキャリア育成を目指すと言う考えの人は余り多くなかった。又当時の日本はまだ今日程豊かでは無かったので自費留学でアメリカのMBAに来る人も多くは無かった。
会社又は官庁からの派遣留学が殆んどでは無かったのではないだろうか。何しろ為替レートが300円近かった当時であるから、個人的にアメリカに旅行したり出来たのは極く限られた富裕層か勇気のあるヒッチハイカー位だった時代である。

社会構造が卒業年次、年齢で序列式に積み上げられていた当時の日本と違って、仕事の地位や社会構造が“果たす機能“によって決まっていた米国、又、給料もそうした機能、資格要件で決められていた米国の仕組みには大いに驚いたものだ。

このMBAで学んだ学問自体の内容は大したことは無かった。何故なら私は会社からの派遣であったし、既に8年近い会社生活を送ってからの留学であったので、MBAで教える財務会計学や管理会計学、統計学の理論、並びに人間行動学を応用するケーススタデイーは、すでに会社の実務で理論を実践していたし、工場などで経験済みの内容が多かったからである。

アメリカ人学生で四年生大学を卒業した直後にMBAコースに来た学生達は、従業員のモラルをどうやって上げるか等の“ケーススタデイー”を人間行動学のクラスで取り上げられた時には実際の経験が無いだけに苦労していたが、私の場合は実務で“工場の生産性向上策”とか古い工場の閉鎖問題などで会社の組合員と共に真剣に対応策を何年もかけて取り組んだ経験がそのまま生かせたのである。 別の言葉で言えば、日本の社会の仕組みは企業なり組織が夫々のニーズ、会社の特性に応じて、長い時間をかけて社員なり役所の人間、組織の人間を教育して行く非常に優れた組織内のシステムを整えているのである。
2013年の秋にOECD各国における“成人力”なるテスト結果が発表され、見事“日本の大人“は一位となった。 1974年時点でも日本企業はアメリカ式のMBAコースなど学校の教育システムに頼らず、各会社、役所、銀行、組織の夫々が、組織内の実務を教材になるように工夫し、実務を通して、独自の教育システムを整えていたのである。米国のMBAに来て始めて分った日本企業の素晴らしさの実感であった。

こうした組織、企業内教育システムは日本の雇用の特徴でもある、永年勤続をベースとした日本の企業文化の特異性であり、強みであると今日でも思っている。私の場合このMBAコースで学んだ事はクラスの授業からよりも、授業時間後のアメリカ人クラス仲間との雑談の機会からであったり、グループ単位で行った“ケーススタデイー”で仲間のアメリカ人が私が日本では経験したことの無い物事の進め方をする、異なった考え方等から学ぶ事の方がずっと多かった。

学生宿舎で交わした米国人学生との歓談、トルコ、エジプト、台湾、メキシコなど米国人以外の海外からの留学生同志との懇親会の場などから得た知識も貴重なものであって、今だに記憶に残っている。

当時、9月から始まる正規のMBAコースの前に諸外国から来た留学生だけの為の集中授業期間が6月から8月一杯設けられていた。英語、基礎的なコンピューターの授業、基礎統計学、アメリカで重要視されるプリゼンテーションの仕方の講義などが主な内容であった。
海外からの留学生だけが集められた訳だがそこには上述した国々の他にも、中華人民共和国、返還前の香港、シンガポール、タイ、インドネシア、韓国、そしてイランからの留学生も居た。

この留学生に対する集中講義期間は皆、学生寮に住む事が強制されていたから、時折全員が集まって懇親会を行ったが、さながら学生の国連のようだと皆で言ったものだ。
そして当時の南ベトナムからの留学生と北ベトナムからの留学生も夫々一人一人来ていた。南ベトナムからの学生は当時のグエンバンチュウ大統領の秘書をしていたという人間であった。略1年後の1975年4月(昭和50年)にアメリカ軍並びにアメリカ民間人のヴエトナムからの全面撤収へと状況が急展開して行った事は覚えている人々も多い事と思う。

北ベトナムからの留学生も、南ベトナムからの留学生も同じ留学生仲間であるのだから、政治問題の話は彼らが同時に参加する懇親会の席では避けた。
  
夏季学級が始まった頃とは時間が経つれて状況に大きな変化が現れた。グエンバンチュー大統領の国外逃亡等、南ヴエトナム情勢がどんどん悪化したのである。南ヴエトナムからの留学生は憔悴して行ったのが私達、誰の目から見ても明らかであったのをはっきりと覚えている。
私も勿論、どのクラスメートも南ベトナムからの留学生、グエンバンチューの秘書に挨拶程度はしたが、その憔悴した様子が気の毒で、積極的に話かける事はしなくなっていた。誰もがアメリカの全面撤収と言う事態とベトナム戦争での“北の優位”を知っていたからである。北ベトナムからの留学生とは最初から私はあまり話をする事は無かったが、1975年の春に彼の姿を見た時には心なしか表情が以前よりも明るかった事を覚えている。

台湾からの留学生が酒の席であったが”私の祖父が日本の軍人に殺された”と言い出した時はその座が静まり返り、私はじめ他の日本からの留学生の誰にとっても楽しい話題では無かった。正直言ってその頃の私は国民党と中国共産党との戦いの歴史など、戦争当時の複雑な中国の政治状況を詳しく知らなかったし、不覚にも勉強もしていなかった。

だから一般的には日本と台湾とは日清戦争以来の日本の支配下という関係にはあったが良好な関係にあるものと理解していたので、日本軍と台湾人が殺し合う場面が一体何時起きたのだろうかといぶかりながらその台湾からの留学生の話を聞いていたのである。
その台湾からの留学生のお爺さんが日本軍との戦闘で殺されたと言うのは日支事変での事であったのだ。

当時日本は満州国を中国本体から切り取った形で建設し、日本の関東軍が前面に立って中国への発言権を強めて行き、終には盧溝橋事件を皮切りに中国との戦闘を拡大して行ったのである。その時の戦闘でその留学生の祖父は国民党の中国兵として日本軍と戦い殺されたという話であるらしかった。

蒋介石が率いる国民党の中華民国はその後、毛沢東率いる中国共産党軍との戦いで成都を追われ台湾に逃げた。台湾の留学生はそうした歴史を持つ家族の事を言っていたのだと、やっと辻褄が合ったという歴史を知らない故のお粗末な経験談である。

妙に気が合って秋学期が始まってからはソウル大学からの韓国人留学生とメキシコからの留学生と3人でキャンパスを離れてアパートで共同生活をしたが此処でもお互いの国の歴史を知らないと本当の友人としての理解が進まないと言う経験をした。

とりわけ韓国との歴史を充分に理解していないと逆にとんでもない誤解を生む事になる。

2013年現在の日韓関係は竹島領土問題はじめ戦時中の強制慰安婦問題などで冷え切っているが、10数年前までは“ヨン様”ブームなどの“韓国ブーム“に沸いた時期もあった。
兎に角、韓国は経済的にも発展し、サムスン社はじめ、ヒュンダイ自動車など、多くの世界企業が活躍する時代となっているが、当時は日本が世界の不思議と言われる様な急成長の時代の
真っ只中であって、1974年当時の韓国は全くの発展途上国であった。
1974年にアメリカの西海岸のワシントン州のSpokaneという処で万博が開かれ、私も見学したが、当時の韓国から出展していた自動車などは車体の塗りも極めてお粗末で光沢もあまり無く、近くに展示されていた日本車とは雲泥の差があった。車のスタイルも何か一世代古い形の様で日本車との品質の差は歴然としていたのを記憶している。韓国はまだまだ日本には追い着けない国だなと思ったものだ。

それから30年、今日の韓国車はその機能性、デザイン、塗装技術その他でも今や日本車にひけを取らないばかりか、コスト競争力では追い抜こうとしている程である。

私のルームメイトの韓国人はソウル大学卒業後、2年間の兵役を済ませ、MBAコースで学ぶ為にアメリカに来た私より7歳年下の実業家の父親の長男であった。
極めて頭脳明晰な男であったが、私とはクラスは違ったが余り真面目に授業クラスに出ている様子は無かった。アメリカははっきりした国だから試験に落ちたら秋からの正規MBAコースには入れない。その点で同室の私としては果たして彼は秋からのMBAコースに入れるのかが気になっていた程である。

秋からのMBAコースへの進学の可否を決める試験日を翌日に控えたある朝、同室の彼が私に統計学の応用問題について教えて欲しいと言って来た。彼は真面目に授業に出ていなかったか理解できないと言うのである。その問題は私にとっては会社での実務からの経験もあり、何とか理解出来ていた問題であった。統計学の理論を使って投資の是非を判定する問題であったから、統計学としては難解に属する問題だった。

彼に教えながらも私の本心は、まるで授業に出ていないとすると果して理解してくれるかなとの心配はあった。私が会社の実務で応用した一寸した具体例を挙げて、その問題を解くヒントを彼に与えると、暫く黙って考えた末に”解りました、有難う”と片言の日本語で礼を言うと自室に消え、翌日の試験問題では最優秀の成績をとったのである。

彼と色々日本と韓国の歴史の話をしたが、韓国では明国を攻める為に朝鮮を蹂躙した豊臣秀吉と韓国併合後の初代統監であった伊藤博文が二大悪人だと言うのである。
韓国では従って秀吉軍を文禄の役(1592年)で撃退した将軍、委舜臣(イ。スンシン)と伊藤博文をハルピンの駅で狙撃し暗殺した安重根は英雄となっている事を彼から聞かされるまで全く知らなかった。韓国人を同室の仲間とする私としては全くの失態である。

韓国人と良好なコミュニケーションを取る為にはこの位の史実は知らないといけないなと深く反省した次第である。

2013年の今日現在の韓国との関係は冷え切っているが、つい最近まではヨン様ブームとか韓流ブームとかで隣国の韓国への関心が高まり良好な関係が深まった時期もあった。韓国と日本との外交関係は古代からこうした微妙な関係にあった。いずれにしても、韓国とは古代から歴史上、最も関係の深い国であるのだから、その歴史については特に関心を持つべきであり勉強をしておく必要があろう。
  
有名な神功皇后(第14代仲哀天皇の后)が朝鮮半島の新羅に遠征した事が古事記にも書かれている事、第29代の欽明天皇の時代に仏教を日本に公式に紹介したのは百済の聖明王である事(538年)、更には大化の改新で有名な第38代天智天皇は百済の再興に力を貸すべく唐と新羅の連合軍と百済の為に戦って大敗した白村江の戦い(663年)という史実については知って置くべきである。

この様に、古代から日本という国は朝鮮半島と相当密接な交流を持っていたという史実は誰でも知っている事であるから、明治以降の韓国併合という韓国人にとって忌まわしい歴史の前に、こうした朝鮮半島諸国との良好な時代の話題を適切に選ぶ事によって、韓国の人々とのスムーズなコミュニケーションがとれる事も可能なのである。

江戸時代になって徳川家康は豊臣秀吉が行った朝鮮半島への出兵によって最悪状態になった朝鮮半島との関係回復をはかり1607年に復交する。

そして以後朝鮮使節使という形で徳川の将軍が代わる度に数百人の朝鮮からの使節団が隊を組んで長崎から江戸までを行列して将軍就任の祝賀を行う行事を200年以上に亘って送られて来たのである。

岡山県の牛窓にあるその歴史館を訪ねた事があるが、鎖国時代の日本にとってこの朝鮮使節使が果した役割は、政治的な意味に加えて貴重な文化交流としての意義も大きかったと言われている。

古代から日本と朝鮮半島の諸国とは文化の面でも切っても切れない深い関係があった。古くは有名な百済観音があり、陶磁器はじめ金属製品の技術をもたらしたのも朝鮮半島からの人達であった。この様に政治面なども含めて、兎に角、日本と朝鮮半島諸国との関係は古代、中世、近世、そして現代に至るまで切っても切れない関係である事なども我々は勉強しておく事が韓国の人々とのコミュニケーションを保つ上には必要不可欠な事である事を肝に銘ずるべきであろう。

日本人、日本文化の歴史は古代から海外の文物に興味を抱き、それらを素直に受け入れ、そして其れらを非常に永い時間をかけて日本流に作り変えるという事を繰り返して来た。その事も勉強しておく事だ。

韓国の友人との共同生活を通して、韓国人は日本人と違って儒教が社会倫理の柱として浸み込んでいて、彼の場合も父母を尊敬し、家族第一主義が日本よりも相当に強いという事が良く分った。まだ電話代などが相当に高かった当時、彼は定期的に私達の部屋から韓国の両親に電話をしていた。又、良くたった一人の妹さんの話や、両親の話を聞かせてくれた。日本にも御両親は来た事もあるとその友人が話していたし、親日的な韓国人両親と思った私が何気なく“日本の和服を着たら貴方のお母さんは似合うだろうね”と軽口をきいた途端彼の顔がこわばって“そんな事をしたら父親が許さない”と言い返えして来た瞬間は会話が硬直したのを覚えている。

韓国人にとっては2013年現在でも歴史問題で従軍慰安婦問題を取り上げたり、竹島問題を取り上げて日本の謝罪が済んでいないとしているほど日韓関係には感情問題が残っている訳だが、1974年の私の友人との会話からも思い知らされたのである。

30年後の2007年に会社のソウル事務所長がソウル大学の卒業名簿から留学時代のその韓国人の友人の所在を探し出して呉れた。彼は米国留学を終えて、韓国に戻り、韓国の大手の自動車部品メーカーの専務をしていたのである。そして彼をソウル郊外の会社に訪ね、夕食を共にして更には翌日Golfまでを一緒にした。

30年振りの再会であったが、彼は留学時代のやんちゃな若者からすっかり変身しており、礼儀正しい立派な紳士となっていた。彼の会社の自動車部品工場も見学する事が出来たが通常は競争国であり、ましてや自動車部品の素材である特殊鋼の会社の私に工場を見学させる事は滅多に無いのだそうだが気持ち良く全てを見学させて呉れたのである。
これも儒教の教育ヲベースとする韓国人が年長の私に対して長幼の序を重んじ、礼儀を尽くしてくれたという事なのであろうか。
   
話は再び米国のMBAのクラスでの経験談を紹介しよう。

私達のクラスは32名であった。生徒が授業ごとにクラスを求めて散らばるのでは無く、各科目の教授が私たちのクラスに来てくれるという特別のコースであったので、年間を通して常に一緒に居る我々32名の生徒同志は当然親しくなった。

海外からの留学生は私を入れて香港と台湾からの留学生の3人だけであと29人は全てアメリカ人学生であった。
日本の教室風景とは全く異なり、一方的に教授が講義するのでは無く、生徒が活発に質問をし、自分の意見を教授にぶつけてやり合うという具合で、デイベイトの様な形式の授業が多かった様に記憶している。そんな活発な討議には私のお粗末な英語力ではとても積極的に参加する事は出来なかったが、それでも当時は日本が急激な経済成長で世界の注目を浴びていた時期であった為に、自動車関連の特殊鋼の会社からの派遣留学生だと言う事で日本式の生産方式とか、年功序列制度だとか、終身雇用のシステムだとかについては、全てが“成功事例”であった当時の事であるから、クラスの中で発言させられる場面も結構あり、日本についてやや関心が薄れている現在から比べると留学生としては居心地の良い時期であった。

アメリカ人の学生にとっては如何に多くの給料を得るかが人生の究極の目的である事を堂々と語る様子には“滅私奉公、社会の為、会社の為に働く”事を標榜していた我々日本人には軽々しい人生目標の様に聞こえたし、両手を挙げて同意する気も無かったのを覚えている。
 
ある討議の時間に、私が、会社の為にとか、仕事の社会に於ける意味が大切、社会における貢献度が重要であって給料は二の次だ、などと日本人のビジネスマンの考えを伝えた時には、皆は半ば呆れ、“お前は本心を言っているのか?”と米国人には理解出来ない様子であった。
アメリカ合衆国でも今日になって余りにも生産、物造りの現場に関わる事を軽んじ、実物経済からかけ離れた“マネー最優先”の考え方を変えようとしているが、永年積み重なった、言わばアメリカの文化の様になってしまった価値観を転換する事は相当に難しいだろうと私は思っている。

MBAのコースでは、テストが終わる度にその成績をコースの全学生に1番からどん尻まで教室に張り出すのには参った。この辺が競争社会が徹底している処であるが、アメリカ人学生にとっては当り前のことであって、毎回上位者を素直に讃え合ったり、受け止める学生側にわだかまりも無くこうした競争結果を素直に受け止める明るさがアメリカ人の良い点だと思ったのである。日本では全国学力テストの学校毎の結果発表もまかりならんと日教組が言い、生徒を“競争から守る”と言う様な訳の分らない事で長い期間来ているが却って問題なのでは無かろうか。

グローバル世界に突入し、以前にも増して厳しい競争社会が現実である。例えば日本国内では18歳以下の人口が激減していて有る意味では過激な受験戦争は回避される等と極めて狭隘な間違った考えを持っている人々が居る。

世の中はグローバル社会化したのである。日本の人口は減少して行くにせよ、2050年に向かって世界の人口が100億人に向かって増加する事は確実である。しかも今日の企業は日本の学生が英語、中国語、フランス語などの外国語を習得するのを待つのよりも、優秀で且日本語の堪能な海外留学生を雇う方が有利だと考え始めている。
世界視野で全てを評価し、考えなければならないのが“グローバル世界”だと言う事を夢忘れてはいけない。
小学校の時から“徒競走で順位をつけるのは生徒を萎縮させる”とか“学芸会で主役、脇役の差をつけることは差別で良くない”と言う事なかれ主義の教育も同じ意味で、実際の社会は猛烈な競争社会だと言う事から目を背けている。

学業が苦手な生徒はスポーツで、音楽で、絵画で、文芸麺で・・いくらでも育てる芽はあるはずで、それを見出し、育む機会が小学校、中学校と言う期間での教育者の仕事だと思うのだが。妙な事なかれ主義が蔓延してしまった日本だけの保護された学校からいきなり子供達を世の中に放り出す事こそが問題であり、社会、家庭も大いに協力してこうした教育現場を是正せねばならないであろう。

米国のMBAコースを担当した教授に対して受講した生徒が評価をするというシステムもアメリカで初めて経験した事であった。もっと競争社会の実態としてビックリした事は、4~5人がグループを組んで、与えられた“プロジェクト”を協力して仕上げるという科目があるがその終了後に銘々が各人の貢献度を採点ししかもそれを公表するというシステムである。

“和の精神”を尊ぶ日本人にはとてつもなく嫌なシステムであったが、これがアメリカ人と言うものかを思い知らされたのである。非公開ならば日本でもこうした評価システムは可能かも知れないが、目の前でその人の成績にも影響する“貢献度評価”をお互いに突きつけるというこのシステムは無理であろう。日本の“文化”とは全くそぐわないからである。

アメリカ社会では年齢が一回りも年少の上司が着任してもその人間が能力面で明らかに勝っている事を直ちに部下に示せば問題なく人々はこの上司に従う、そこには何のわだかまりも無い。

日本でも2013年の今日では、年齢、卒業年次にこだわる当時の日本の組織とは違って、年齢、卒業年次に拘らない人事政策が採られて来ているのは良い事であろう。
ただ“長幼の序”が余りにも踏みにじられて、“無礼”、“無作法”な日本民族になっても構わないというのとは違う。
年齢の如何に拘わらず“礼儀、優しさ、敬い”等、日本民族が育んで来た良い社会マナーはグローバル社会だからこそ大切にすべき“日本の特異性”として守って行きたいものである。

以上の他に、これがアメリカ人の考え方なのかとびっくりさせられた事を2例紹介する。


一例目はまだ全部の海外からの留学生が学生寮に集合していた時の話である。アメリカの軍隊から学校生活に戻って勉強していた30歳過ぎの学生と留学生が集まって懇談していた。
酒も少し入っていたがそのアメリカ人が日本人の私に向かって、日本の軍事力について韓国より劣る兵力で日本国民は一体如何考えているのか、などと切り出した。安保ただ乗り論を批判しているのかなと思いながら彼の言葉を待つと、当時急成長していた日本の経済力は軍事負担が少ないからだろうと切り込んで来た。更に彼はここに中国人留学生、エジプト人留学生、トルコ人留学生、もいるが世界人類史の中で中国人は火薬や紙の発明、エジプト人は古代文明、欧米人は産業革命以降の近代科学文明などの貢献をして来た事は知っている、と切り出した。

世界史上における人類全体への貢献と言う大きなテーマで自分の国名が挙げられた学生達は嬉しそうな表情であった。そしてそのアメリカ人学生は私の方を向いた。そして”一体日本人は人類にどの様な貢献をして来たのだろうか?”と質問をぶつけて来たのである。至近時こそ、経済大国の一つとして存在感を見せて来ているが、大上段に世界人類史上での貢献と言われると、島国の資源小国であり続けた日本が貢献したメジャー級の発明、貢献は無い。

江戸時代には世界の銀の三分の一を産出したと言われる石見銀山の製法は世界遺産に   登録されるだけの誇れるものであったのだろうが、ギリシャ哲学や中国文明、エジプト文明、18世紀の産業革命や近代思想等と比較されたら話にならない。結果コロンブスを大航海に狩り出したマルコポーロによって伝えられていた日本の金の生産の話なども“人類史への貢献”と言う切り口からは説得力に乏しかった。

こうした会話で私が学んだ事は、欧米人、大陸の人間は歴史の上でも常に世界を相手にして来た訳であり、何事もこうした地球規模での評価、比較、考え方をするのだなと言う事であった。

確かに海外に出張をして、テレビをつけると、ニュース番組で取り上げているテーマは世界中の事柄に及んでいる事に気が付く。一方日本のニュースは如何であろうか。国内のニュースばかりで、その種が尽きると如何でも良い芸能人のゴシップが相当な時間を費やして流されている。
今日現在最もグローバル化になっていないのが日本のメデイアなのではないかと首をかしげる人も多かろう。グローバルな国際的ニュースは余程大きなテーマでないと日常的にはTVでは取り上げない。メデイアの持つ重要な機能を発揮していないのだから日本人全体が情報的にも世界から孤立してしまうのであろう。
この傾向は特に民放に顕著なのかも知れない。視聴率の問題からなのだろうが、グローバル世界に既になっている今日なのであるから、メデイアも我々も、日々世界では一体何が今日起こったのかに興味を抱く事からニュース番組にも注文を付けて、日本全体の視野をグローバルにするところからして行かないと日本と言う国はいつまでも“人類のガラバゴス諸島(変種の集まる島)”と揶揄される状態から脱出できない事になってしまう。

私の経験でもいきなり世界規模での日本人、日本の国に対する質問をされると一瞬面食らってしまう。
日本人が相変わらず国内の事にしか関心が及ばない状態だと、外交も国民の理解を超えた政策はとりにくい訳であるから、従ってお粗末なレベルの低い外交交渉に終始する事となる。外交こそがグローバル世界下での政治の要諦である。
国民が世界情勢に疎いと政治も行政も当然の事ながらレベルは上がらない。結果、領土問題、防衛問題、海域問題、その他国際条約締結の処し方等で甚だ危険な状態に日本が晒される事になってしまう危険が大きいと言う事である。

二例目はこのMBAで学んでから現在まで家族ぐるみでお付き合いをしているアメリカ人のクラスメートを広島の原爆ドームと資料館に案内した時の話である。

この友人はMBA卒業後アメリカの会社と日本の製粉会社との合弁会社の社長を務め、その関係から私も日本企業の意思決定の仕方、日本企業に好印象を与える書類の作り方などを手ほどきもした。ある時、合弁会社の製造元であるアメリカの工場が食物に金属片が混ざるという大クレーム問題を起こした。クレームの相手は日本側の合弁相手会社である大手の製粉会社である。日本式の厳しい品質管理に不慣れでましてやこうした大クレームの処理などの経験も無い友人のアメリカ人が困って私に助けを請うて来た。

特殊鋼会社の主たる客先は自動車会社であり、こうした経験は私は豊富であった。従ってこの時は日本的クレーム対処の方法、精密な書類の作り方、更には日本に出掛けて行って対応までを説明するその友人に日本人が如何したら納得するか、そのPresentationのやり方までを事細かに教えたのである。

品質問題に対する日本企業の細かい追及箇所なども準備させたのだが、アメリカ企業では絶対にそこまでの精緻な対応策は講じない、と驚き、辟易していたが資料を整え、説明練習も何度も行い日本に出発した。結果は大成功であったと大喜びでアメリカに帰って来た。

このように我々は日米の異文化企業での処し方をお互いに教え合い、救い合った間柄である。さらに、後述するシカゴの日米協会で私が忠臣蔵の史実を事細かに講演した事があった。日本人の心情、武士道、忠義心を代表する300年も前の話が今日も日本人の多くが愛している話だとしてアメリカの協会員向けに紹介した事がある。
何ヶ月もかけて準備をした訳だが、この手伝いをしてくれたのが上記クレーム問題で私が手助けしたアメリカの友人である。この様にこの米人クラスメートとはMBA卒業後もお互いの仕事上の関係もあった事も含めて、上記のように30年以上に亘ってお互いに助け合う事になる。
従ってこの米国人は日本の企業文化のみならず、日本人、日本文化をも通常のアメリカ人としては良く理解している数少ない人間である。

前置きが長くなったが、この米国人と私がある時、広島の原爆ドームを見、そして原爆の全ての悲惨な記録が展示してある資料館に入った。ご存知の方は多いと思うがこの資料館は一つ一つの写真、展示物、資料に英文の説明も付けてあるので私の説明は特に必要は無かった。米国友人はその広大な原爆資料館の展示物を丁寧に見ていた。 私は以前にも見ているのでさっさと見学を済ませ、資料館の出口で待っていたのだがなかなか米国人友人は出て来ない。 随分時間をかけて見ているな、きっとアメリカが投下した非人道的な原子爆弾の悲惨さを思い知ったのであろう、アメリカ人はよくよく反省してこうした記録を見るがいいと思いながらアメリカ人友人の見学後の反省談話を楽しみにして、なかなか出て来ないのを忍耐強く待っていたのである。

実に小一時間も待ったであろうか。友人は満足気な顔をして出て来た。早速感想を聞いた時の私の驚き、憤懣、そして失望の混じった感情は今でも忘れられない。
その米国友人の口から出たのは期待した反省の言葉では無かった。そして”日本人は広島、長崎の原爆投下のお陰で戦争を終結する事が出来たんだよね”の一言である。

戦争も末期でほぼ戦力的に無抵抗状態の日本、それも何も罪の無い一般市民を30万人以上も殺傷した原爆投下の無残行為を非難した私に対しては”最初に米国に、しかも宣戦布告も無しに真珠湾を攻撃した日本の報いだろう、この戦争はこの原爆投下が無かったら、もっと長引き犠牲者はずっと多かったのだから”と屈託の無い笑顔で話して来たのであった。 そして”アメリカ人は日本人が悪いとは誰も思っていない。ヒトラーと同じようにアジア制覇を画策し、国民を騙して無益な戦争に駆り立てた当時の軍隊が悪いのだ”とさらりと言ってそれ以上のコメントはしなかった。

私は猛烈に腹が立っていたが、政治と宗教の話は外国人との場合には避けたほうが良いと昔から言われている事を守る事にし、私もそれ以上の議論に持ち込まなかった。
日本の歴史、日本人の正義感、滅私奉公の精神、自己犠牲などを良く知っている米国人にしてこうした広島、長崎原爆投下に対する意見なのだという事が明確になった瞬間であった。

この事と話は全く異なるが、ハロウイーン、つまり日本で言えば“お盆”の様な祭りが10月の末にある。起源といわれを聞いた事は無いが、子供達は死者を模した“ドラキュラの扮装”だとか“妖怪の扮装”をして各家をまわり、ドアをノックして出て来た家人に“Trick Or Treat”と告げる。つまり”お菓子をくれないと悪戯するぞ!“と言うわけだ。尋ねられた家は子供達にお菓子や子供の喜びそうな物を用意して振舞ってあげる・・・という具合である。

子供にとっては1年中で最も楽しいお祭りなのだが、世の中が悪くなって来たのであろう子供にあげる菓子の中に毒物や危険なものが混じっていたり、事件が起きる事も少なくない。自己防衛意識の極めて強い米国社会では珍しくこの日ばかりは誰でもが他人の家の玄関に立ってノックが出来る唯一の日なのである。

私がニューヨークの郊外で家族と共に駐在していた時期に、このハロウイーンに関連して日本人の少年が誤って射殺されると言う不幸な事故が起きた。
日本人少年がハロウイーン当日では無く、1週間ほど前に仲間で“ハロウイーンパーテイー“をしたのであろう、ホロウイーン用の変装であるから明らかに妙な格好でアメリカ人の家の土地入り込み、玄関に近付いたのである。その少年は道が分らなくなって、その家人に道を聞く為であった。

ずかずかとその家の土地に入り、最初は台所に近付いた日本の少年(服部君)に先ずは主婦が驚き悲鳴を挙げ、その主人が銃を構えて”止まれ、Freez"と言った。
新聞記事であるから正確なところは分からないが、その日本人少年は“Freez”の意味を解せず、”Please”と言われたものと誤解して、なおも歩を進め玄関に回り込み、その家の主人に射殺されるという何とも悲惨な事故となってしまったのである。

この事件は殺された少年側の日本ではマスコミが“アメリカの銃保持こそが諸悪の根源”だと声を強め、当時米国のごく一部で起こっていた“銃規制法案成立”に協力するという形で署名を集め、射殺に及んだこの家の主人の有罪を期待してこの裁判の行方を見守っていたのである。

当時私はアメリカに居てこの裁判の様子をテレビで観ていたが、結果は日本人の期待と想像とはかけ離れたものとなった。つまり、発砲に及んだ家の主人に対しては陪審員の全員が無罪の判決を投じたのである。

この裁判の結果は私にとっては予想通りであった。又、駐在生活をマンションで無く、家族と共に一軒家で経験した事のある日本人ならば誰もがこの裁判の結果に驚く事は無かった様に思う。当時私は家族を連れてニューヨークの郊外に一軒家を借りて住んでいた。東部の住宅は隣の家との境に塀が無い家が多い。自然との調和を美しく保っ為だと聞いている。従って自分の家の土地に見知らぬ人間が無断で入る事などは殆んど無いし、いわんやハロウイーン用の海賊やドラキュラの扮装姿で、しかもハロウイーンの当日でもない普通の日にずかずかと敷地内に現れたら誰しもが悲鳴をあげるであろう。そうした格好で服部君は恐れる主婦の悲鳴と家の主人のFreez(そこで止まれ!)の叫びを理解せず、尚も玄関側に近付いたと言うのであれば、米国人の防衛意識からして当然発砲するであろう。こうした“外国の習慣”に無知であったが故の悲劇であったとしか言い様が無いのである。

日本のメデイアはアメリカでは銃の氾濫に悩んでおり、この服部君事件を皮切りに米国でも銃保持を法的に規制する運動が盛んになって来たと日本側の協力を誇示する論調が多かったが、政治目的からごく一部の地域ではそうした動きを扇動した議員も居たが、アメリカ全体の実態はまるで違っていた。 私もアメリカ人の友人達の意見を聞いてみたが彼らは”警察に自分の身、自分の家族の安全を任そうなどとは思っていない。銃を持ち、自らを守る事は憲法で保障されている事だ。アメリカで銃を社会の安全の為という理由で我々から取り上げる事は出来ない”と極めて明快であった。要するに自分の事はまず自分で守るという社会体制がアメリカ合州国の建国からのシステムなのである。

このように日本とアメリカは国はそもそも国の出来方から大いに異なっているのである。
日本の社会では豊臣秀吉が“刀狩”という極めて巧妙な政治手法によって、すでに一般庶民は武器を取り上げられていた。もう400年以上も前に安全な社会が作られていた日本と、戦いをベースとし、自然をも征服しようと言う考えの欧米人との“違い”をこの服部君事件で実感したのである。

原爆投下の事も、唯一の被爆国として日本は今後も原爆反対運動は人類の為にも続けて行くべきではあるが、その目的は世界からの今後の原爆根絶を目的とする運動であって、投下したアメリカ合衆国に謝罪を求める事では無い。上述の様に米国人の大多数は日本への原爆投下は“悪しき帝国軍隊に蹂躙されていた日本国民を解放し、不幸な戦争を終結させる為に不可欠な手段であった”と繰り返すだけである。

 繰り返すが、欧米人の考え方のベースは“先ず自分を守る事”にある。それが出来てから初めて日本人と同じ様に“和の精神、自己犠牲の精神”を発揮する場合もある国民だと理解すべきなのである。どちらが良いとか悪いとかの問題では無い。“文化”の違い“国民性”の違い”価値観“の違いなのである。

こうした日本人の“和の精神、自己犠牲の精神“が先ず出る為に日本人は損得をむき出しにした椅子取りゲーム型の交渉は下手だと言われる。武士道的な誇りの精神、”公“優先の精神が邪魔をしてガムシャラに我利を主張してくる交渉相手だと、譲ってしまうか、180度態度を翻してその交渉から離脱してしまうという結果になってしまう。
譲ってしまった場合には交渉相手から、又関係者の全てから潔しとして万来の拍手は貰えるが結果は敗北である。 交渉から離脱してしまう場合には、下手をすると今後交渉相手は勿論、その場に関係した人々との対立関係を覚悟しなければならない。1933年2月に
前年に建国した満州からの撤退勧告決議に一人反対して国際連盟を3月に脱退した当時の日本政府の行動は“和の精神、自己犠牲の精神”の一方で日本民族が持っている“武士道精神としての誇りの精神”を守らんが為に180度態度を翻した事例であろう。

こうした日本民族としての“特異性”を認識して国際会議なり、会社の仕事としての海外との交渉に臨まないと、日本国なり、組織なり、会社の将来を危うくする危険があると言う事である。

*第二回目の駐在から自覚した日本の特異性(1983年~1986年)

場所:ニューヨークマンハッタン & 郊外(ラーチモント)
立場:現地法人立ち上げ作業
相手:アメリカ人従業員&仕事関係のアメリカ人
背景:米国・・レーガン大統領(1981年~1989年)時代、スペースシャトルチャレンジャー爆発(1986年1月)
   日本・・中曽根内閣(1982年11月~1987年11月)日航ジャンボ機墜落事故(1985年8月)衆参同日選挙で自民党圧勝(1986年7月)

留学から帰って再び工場勤務に戻りドップリと日本の生活、文化に浸った生活を家族と共に送っていた。3人の子供達も夫々が名古屋の幼稚園に通い、小学校へと進んで行った時期である。 米国留学から日本に戻って8年後に今度は家族を帯同して再び米国駐在を会社から命ぜられた。

1983年の事である。当時の日本のBusiness環境は世界的に競争力のある自動車産業、家電産業、それに関係する部品産業などが先兵としてグローバル化に対応すべく米国などに自らの工場進出をし始めた時期であった。

そうした組み立て産業とは異なり、同じメーカーでも投資規模も大きくなり、且つ海外に直接自らの生産基地を持つという行動に対してはどうしても消極的にならざるを得なかった日本の鉄鋼会社も少しずつそれまでの外国企業との“技術援助”から歩を進めて対応するようになって来た時期であった。

そうしたBusiness環境を背景に、私が勤めた会社も手始めに20年近く置いてあるニューヨークマンハッタンの米国事務所と関係会社が西海岸で商社活動を営んでいた現地法人を合併し、特殊鋼業界としては初めての“米国現地法人”を設立すべく、その任の責任者として家族共々ニューヨークに駐在する事になったのである。

日本は中曽根内閣の下であり、米国大統領はレーガンであった。幸いにも日米関係は”ロンヤス関係”を日米のトップが築いており、自動車会社のアメリカ現地法人の本格的拡大が進むなど、日本のメーカー各社もそれまでの輸出一辺倒という姿勢から、消費地である米国で生産の現地化を行う姿勢に大転換をして真のグローバル化企業として踏み出すという一大転換期の時代であった。3万点を越すと言われた自動車部品関係の企業も続々とアメリカでの現地生産化に進出して行ったのである。

この約4年間のニューヨーク駐在から体験した事はカリフオルニアでの留学時代のものとは立場も地域特性もかなり異なるのであるから自ずと異なる経験となった。そういう観点からすると全く異なる米国を体験した訳であるが、その主なものとして以下の三つの話を紹介する。

一つ目の話は白人が持つ黒人をはじめアジア人を含む“有色人種への優越感”を私も実際に私が実際に体験した話、そして二番目がアメリカ人の労働に対する考え方の日本人との違いの話、最後、三番目の話がアメリカの病巣と言われる訴訟に私が巻き込まれ裁判所に行ったその時の体験談での紹介である。

一つ目の話題は私が駐在生活を送る為の家探しの話から始まる。
日本を出発する時に経験者から事前に色々な話を仕入れて米国入りした訳だが要点は黒人が居ない場所を選べという事と、私の様に3人の学童が居る場合は帰国後の事も考えて日本人学校を選択すべしという事であった。

当時は黒人イコール貧民、犯罪の危険が大と言う事であった。日本と異なって米国では例えば日本のように住環境が良いと言われる街は半永久的に良い街であり続け、ブランド化するが米国では必ずしも現在高級住宅地とされる場所が、未来永劫高級住宅地としてブランド化はしないと言う事である。

移民政策を積極的に進めている米国の全人口は2013年時点で3億人に近いが、私が関わっていた1980年代から1990年代後半までは2億3千万人程であったと思う。
確かにあの広大な土地を見るにつけ、米国にはまだ1億人が住める余地はあるなとは思ったものだが、20年の間にヒスパニック系の移民、アジア系の移民を主体として増え、3億人程の人口を擁する国になっている。

これら移民の人々はまずは社会の低所得層を構成する場合が多いから、そうした人々がいわゆる白人層の居住区に住みだすと、町の雰囲気も変わり、それまでの富裕層が移転を開始してしまうという事が起こるのである。

私がニューヨークの郊外に家を捜した時にも隣の町にまで黒人が進出して来ているからその町はやめなさいと不動産屋が言うのである。あとから分った事ではあるが、富裕層の白人にとっては日本人もあまり移り住んで来て欲しくは無い有色人種であったと思う。
只、当時は経済学者のエズラボーゲルが奇跡的な速度で経済成長を遂げていた日本を讃える本を出版。“JapanAsNo.1”が全米で話題になっていた時であるからその不動産屋も“有色人と言っても日本人はHounarable(名誉ある)有色人あるから別だ”と私に言って高い家賃の家を薦めたのである。

兎に角そうした黒人やヒスパニック、そしてアジア人などの“有色人種”が“住人”として街に入り込むと、ある割合を越した段階で街ごと捨てて白人達は他の地域に逃げてしまうのが当時の米国の街というものであった。
   
米国人は“資産価値”に拘る。従って嘗ては住環境が良い高級住宅地だと言われた街が黒人、メキシコ人などのヒスパニック系の人々、その他アジア系の人々が多く住む街に変貌し、不動産の価値が下がる事に神経質である。不動産の価値は一軒一軒の価値も当然であるが、その前に地域、その街全体の住環境に価値がつけられる。従って白人だけの住宅地が保たれるならそうしたいのである。

私が住むことに決めた場所はLarchmontという処だが当時でも一つ駅が違うNewRoshelと言う街には多くの黒人が移り住んでいた。私の借りた家は大家さんが直前まで住んでいた家だったがマンハッタンの会社で会計士をしていたインテリのインド人家族の家であった。夫人もインドでは上位の階級に属する家庭出身の人であった。米国ではインド人は肌の色は濃い褐色だから黒人と間違えられるがアフリカから奴隷として連れて来られた黒人と、インド人とは社会では区別されていたのである。

こうした米国における人種差別は奴隷貿易を数百年も行い、アメリカ合衆国はじめアメリカ大陸を植民地化して発展させて来たヨーロッパ諸国共通の罪であるが、当のアメリカ合衆国ですらつい最近までキング牧師の暗殺事件があり、市民権を巡っての人種差別問題がくすぶっていた事を考えると対岸にいる彼我日本人が単純に“人種差別はけしからん“と言って解決するほど単純で無い社会問題なのであろう。

そうした移民国家であるが故に抱える社会情勢の下で、2008年にObama大統領をアメリカ国民が選び、2013年現在二期目に入っている事は大きい。アメリカ合衆国も237年の歴史を重ねて、新しい価値観の元に動き出したのではなかろうか。

そうした米国の状況を知らず、深い考えもせずに私が家族との生活の場所として選んだ街はLarchmontと言う白人が主体の街であったから、隣の白人家族はやれやれインド人が引っ越してくれたと思ったら今度は日本人家族かよ、と必ずしも歓迎と言う事ではなかったであろう。日本では玄関先の緑の芝生にタンポポの花を見つけると人々は春の訪れを知り、和むがこの住宅地ではそうは行かなかった。門前の芝生にタンポポが沢山生えている事で隣人からクレームが直ちに付くのである。理由は簡単である。庭や家の前の芝生の手入れをせずタンポポ等の雑草を放置する事は、“美しい町並みを壊し不動産価値を下落させる“という考えからの重大なクレームなのである。

前にも記述した様に日本人にとって自然は愛でる対象であるが、西洋人にとって自然は征服し、管理すべき対象だという事がこの一件でも分るであろう。それでもニューヨークの郊外には木々が生い茂った軽井沢の様な景観が多いし町並みは美しい。基本的には自然を大切にする国民だと言う事は分る。

一方でアメリカ大陸の自然はとても厳しい。広大なネバダ州の砂漠があり、広大な地域ではとてつもなく巨大な竜巻に悩まされる、フロリダ半島や南部の海岸に近い地域はハリケーンの襲来があり、西部地域では西海岸の地震、カリフオルニアの乾燥地帯で突如として起こる自然発火による山火事災害と闘わねばならない。

こうした広大な土地にヨーロッパから白人が移り住み、土着の先住民を征服しながら、厳しい自然とも闘って作り上げて来た今日の合衆国であり、アメリカ大陸の諸国であるから自然は管理する対象であると言う考え方になるのであろう。
   
ニューヨーク郊外での一軒家を借りての生活で初めて知った事の一つに“洗濯物を人目に晒さない”と言うルールがある事だ。窓際の陽の当る場所に、日本人は布団、シーツ、毛布の類を干したり、洗濯物を干すがこれも大クレームの対象となる。自分の敷地だからと言って、庭先にロープを渡して洗濯物でも干そうものなら之も又近隣から大クレームをつけられる。
理由は又ぞろ“街の景観を損なう”であり、だから米国生活では洗濯機ととてつもなく大きな乾燥機は必需品なのである。

自然の景観を大切にする高級住宅地ともなると一杯の木々が秋になると美しい紅葉を見せて呉れるのは有難いのだが落ち葉始末が大変である。その量はただ事ではない。落ち葉掃除は家人全員総出の大仕事であり、人手が足りない場合は学生などのアルバイト代稼ぎの格好の仕事である。日本人の古代からの自然観は大自然は我々に恵みを与えて呉れる存在であり、人間は自然の中で生かされている。万物に神が宿るのだから自然には兎に角まず感謝し、例え被害甚大な自然災害に会っても、災害の前に我々に自然が与えてくれた“恵み”の方に感謝し、”今後もその恵みを壊さない災害対策をとる”という考えである。

欧米の考え方は違う。自然は人間が管理する対象であり、まず人間の安全を確保する方策を採った上で、”自然を保護する”という人間上位の考え方である。

落ち葉を自然に眺めて、美しいと感じる我々とは異なり、落ち葉はすぐに掃除をしておかないと景観の問題もあるし、雨でも降ろうものなら滑って家の前の道路で事故でも起こそうものなら直ぐに訴訟問題となるから、大至急各住人は自己責任で片付けろという考えである。冬の雪も同じ意味で一軒家の住人の重要な管理対象である。

ニューヨークの寒さは東京の比では無いから雪が降ると家の前の道路などは直ぐに凍る。車道は雪が降ると途端に役所が大きな車で塩を撒き、交通に支障が無いようにする。アメリカから帰国して、直ぐに大阪で10センチ程の積雪があった事がある。当時の私はこの程度の雪で大阪の街の交通に影響などあるはずが無いと考え行動したが交通機関は大混乱で一日中麻痺状態で殆どその日は仕事にならなかったのを思い出すが、この点ではアメリカ式、自然は管理対象だという考えかたが功を奏しているのかもしれない。

ニューヨークの郊外の冬は雪も多い。自分の家の前の歩道は其の家の管理責任であるから、住人は凍てついた雪の為に歩行者が滑って大怪我をしようものなら責任を問われ、当然訴えられる。一軒家に住む人々はそれを恐れて直ぐに凍らさない為の塩を撒いたりして対応する。
雪質も違うのだろうし、東京の郊外とは気温も違う。雪が降ると“風情だな~”と窓の外をロマンチックな気分で眺める東京人とはまるで違ってニューヨークの郊外の人々は早速腕まくりをして雪と闘うのである。

又、ニューヨーク郊外の住宅地の樹木は樹齢を重ねたものが多い。理由として滅多に台風(ハリケーン)が来ない地方だからと説明して呉れた隣人が居たが、それでも自分の家の古木が倒れて通行人に怪我をさせるという事故があった。当然訴訟問題である。
私の隣の家の大木が強風で倒れた事もあったがその時は幸い怪我人は無かった。何しろ軽井沢の様な木々の多い住宅地であったから車を運転しながらも倒木には気を付けたものだ。

万事がこの様なのでテレビなどの画面でアメリカの人々が大きな芝刈り機に乗って優雅に庭の手入れをして居る様子を見て、一度はあんな素晴らしい環境の中で暮らして見たいものだと言う人がいるが、実情はそんな優雅な物でも何でもない訳だ。
ニューヨークの郊外は軽井沢の様なのだが、夏は結構、温度も上がるし、湿度も高くなる。私の家を選択する上での失敗が発覚したのは最初の年の夏であった。この家にクーラーが無かったのだ。不動産屋とその話まではしなかった。床暖房だという事は聞いていたし、借りるちょっと前まで人が住んでいた家なのだから夏も問題なく大丈夫だろう位に思って選択した訳だ。

よく考えてみればそのちょっと前まで住んでいたのがインド人家族であった事までは気が回らなかった。インド人家族にとってはニューヨーク郊外の自宅の暑さと湿気は平気の平左であった訳だ。それに気付いた時には後の祭りであった。
“そんなに暑いのなら自前でクーラーを付ける事は許可するよ“と、インド人の大家からは許可を貰ったが、金もかかる事だし工夫をして大型の扇風機を窓にくくり付ける方法で4年間の駐在期間の夏の暑さと湿気を凌いだのである。

この家のまん前が公立の小学校であったのがこの家を選んだ最大の理由であった。英語の全く分からない家族が4年間も生活する訳である。少しでも女房そして3人の小学生の精神的負担は軽い方が良かろうと考えたからである。

日本に居る間に多くの駐在経験者からどっちみち4年間程で帰ってくる訳だから子供の教育を考えるならばニューヨーク市内にある全日制の日本人学校に通わせる事を薦められた。
私の場合、男児二人、女児一人の小学生を帯同する訳であるから全日制の日本人学校に行かせる積もりでいた。念のためその日本人学校を下調べの積りで訪ねたのである。
ところが、当の日本人学校の校長先生から”折角アメリカ生活の機会を与えられたのだから私だったら苦労はあってもアメリカの現地校で学ばせますね”と予想もしなかった事を言われたのである。

其の言葉に加えてさらに二つの事柄を聞かされ、結局三人とも現地の小学校に行かせる事にしたのである。一つ目の理由はニューヨーク市にある全日制の日本人学校は小学5年生以上で無いと行けないと言う事であった。その事は日本を出る時には知らなかったのである。
長男は丁度5年生になるので全日制の日本人学校に行けるが、後の二人は4年生と3年生になる処であったから現地校に通うしか選択肢は無い事が分かったのである。

どうせアメリカで苦労させるなら3人共一緒の方が良いだろうと考えたのである。二つ目の理由がニューヨークの全日制の日本人学校は私立学校という形だったので、授業料がとても高かった事である。
これ等私が家族に先行して現地に入り、初めて知りえた情報を元に、日本を出発する前には考えもしなかった子供3人のニューヨーク郊外の現地の小学校に行く事が決まった。
それを先ず決めてから上述の家探しを始めて、道路を隔てた家の前に公立の現地小学校があるインド人大家の家に決めたのである。子供の対応力は物凄いもので、1年後には3人共アメリカ人の友達が出来、英語で生活する様になっていた。

*仕事は”罰”であると言う米国の考え方と日本との違いを子供の学校での出来事から知る。

ある日、当時小学校4年生だった次男のクラスの担任の先生から女房に電話があった。
”お宅の子供が教室の椅子を壊した。学校としては貴方の子供に対して罰として1週間の食堂の当番を課すが了解願いたい”との通達であった。 悪いのは私の次男であるから保護者としては了解するしか無い。むしろ、自分の責任をはっきりした形で償わさせるアメリカ型の教育には感心したものだ。ただこの事からアメリカと日本の労働に対する考え方の違いをはっきりと知った。米国という国だけでは無くキリスト教の国の考え方なのであろうか、労働は“罰”という考え方があって、小学校4年生の次男が教室の椅子を壊した事を反省文の提出とかで償うのでは無く1週間の食堂で“労働”する事で償えと言う訳であった。

“食堂で一週間労働して償う“と言う内容は具体的には生徒全部が食べ終わった後の椅子を整理整頓すると言う事であった。日本でも我々の時代にも学校で悪い事をして罰を課せられた経験があるが、大抵の場合はそうした”労働“では無く、水を入れた重いバケツを両腕に持たされて立っているとか、校庭を何周か走らされるという類の罰であった。

便所掃除にしても給食の手伝いにしても、教室の掃除にしても、それらは“当番制”で皆が行う事であり、何となく嬉しかった様な記憶がある程で、次男が罰として課された食堂の整理整頓の場合とはニュアンスが微妙に異なる。

アメリカ人のみならず、欧米の人々にとってはリタイアして悠々自適の生活は人生の目的であり、憧れでもある。日本人はそうは考えない。働かない自分は居場所が無く、何だか用無し人間になってしまったと寂しく考える人が多いのではないか。経済的な理由もあるが大方の人は一日でも長く会社人間であり続けたい、働く人間でありたいと思っているのが日本の現状ではなかろうか。日本人にとって労働は美徳であり、生き甲斐であり、働いている事こそが社会に貢献している事である・・と誇りに思っている。 退職を間近かにした多くの人達は、退職後は自分は如何いう生活をすれば良いのかを真剣に悩み、実際に退職後にションボリとしてしまい、精気を失い、現役時代とはまるで別人のようになってしまう人の話を私自身も多く聞いている。

私が44年間の勤めを終えていよいよ退職するぞと仲間に告げた時の反応も米国の友人と日本の友人の反応とでは違っていた。米国の友人やニューヨークの家の大家であったインド人は大いに私の退職を祝福する態度であった。そして早速旅行や趣味への誘いの話となり、結果として彼らとの接触は私が現役で働いていた時よりも増えるのである。
今日では彼らも日本に来るケースも多いし、Skypeという極めて廉価な電話システムもComputerを使って利用出来るなど、グローバル化に即したツールも多くなっている訳だ。

一方日本人の周囲の人達の多くは”会社に行く事が無くて淋しく無いか?何やって過ごすの?”“ブラブラしていても勿体無いから何か仕事を始めたら良いではないか”等と祝福どころか大いに心配をして呉れるのである。

アメリカ人の友人達ならびに私が接した多くの人達の考え方は“退職は辛い仕事、思い責任からの解放であり退職後に如何にのんびりと楽しく暮らすか”であって、退職後の優雅な生活を得る事を人生の大きなテーマとして現役時代を過ごしている。

少なくとも極く最近まで、日本人にとっては仕事こそが人生の生き甲斐であり、意義だとすら言う人々も多かった。又、会社という組織での生活がアメリカ人の場合と比較して個人の生活に占めるウエイトが格段に多かった。最近では非正規社員のウエイトも多くなり所謂“会社人間”と言われる日本に特異な状況は随分減って来ているが、それでも欧米の生活パターンと比較するとまだまだ“会社を離れた生活環境”が主体だとする日本人は少ないのでは無いだろうか。

専業主婦と言われる人達は子供を通してのお付き合いの世界が出来ていたり、日常の御近所付き合いもある事などから夫々の世界を築いているが、多忙極まりない会社勤めをして来た多くの人々の場合には御近所はじめ会社以外の世界を築いていない場合が多く、一度会社を離れると退職後の自分の世界、居場所が無い。従って退社後、そうした自分の居場所を殆ど無から新たに作らなければならないと言うケースが多い。
こうした事から社会での孤立感を恐れて、いつまでも会社生活を続けたい希望を持ち、退職を恐れるケースが見られる訳だ。

二つ目の話題は白人の黒人はじめ有色人種に対する優越感に関わる話である。

何故アメリカと言う国が、自由平等とか人権とかウーマンリブ運動などと言うのだろうか。この問いに対する答えも歴史を紐解けば直ぐに出てくる。“自由と平等が人々に与えられていなかった国”だったからである。
 西欧諸国ならびにアメリカ合衆国は大航海時代に始まる奴隷貿易を行って来た。その数は1000万人とも1500万人にも上ると言われるが、1807年の英国を皮切りに、1808年米国、1815年にフランスが禁止するまで3世紀に亘って続けられて来た訳だ。
米国内での奴隷解放はリンカーン大統領の解放宣言で有名な様に19世紀の後半まで続き、既述の様に黒人等マイノリテイーに対するあからさまな差別はキング牧師などの差別反対運動の展開の結果漸く1964年に“公民権法”が成立し、撤廃されたのであるが、米国と言う国はそう言う歴史を経て成り立って来た国なのである。
  
こういう歴史を知らないと”今日の欧米諸国にはそんな前近代的な人種偏見などがあるものか”と考えてしまう。今日、多くの人々が“自由と平等の国アメリカ合衆国”、“理想の国アメリカ合衆国”と盲目的に讃え、憧れる人達が多いが、現実は歴史に見る様に法的には差別が禁止されてはいるがその根っ子には白人の黒人、有色人種と言われる人達に対する若干の偏見が今日でも残っているものと覚悟しておいた方が良いと思う。

日本民族の歴史の積み上げで醸成された特異性がちょっとやそっとでは変わらないのと同じ様に、数世紀に亘って続けられた白人によるアフリカの黒人の奴隷貿易、、それを漸く廃止した後も尚、奴隷制度自体はリンカーンの登場まで続けられていたと言う事実、さらにその奴隷制度が漸く廃止された後でも尚、永い期間に亘って上記の様に“人種差別政策が法律上も合法化”されていたという史実が“自由の国アメリカ合衆国”の現実であったと言う事は忘れてはならないのである。

歴史上異民族による征服という過去を持たない日本国。、民族として朝鮮半島初め中国大陸そして長い歴史の間には西アジアの人々、そして多少の西欧諸国の人々との混血もあったであろう。しかし混血は兎も角、大勢に於いて、日本という国に住む人々は“日本民族”と称されるに相応しい“文化面”“DNA”面からの古代からの継承が為されて来ている民族だと言う事が出来よう。

人は千差万別であるから決して米国人はこうだ、と決め付ける訳には行かない。その人物に拠るのは当然の事だし、幸いにして私の米国友人には差別意識を持った人は居ないのだが、仕事上接した多くの米国人の中には、有色色人種に対する優越感を感じさせる人達、頭の片隅にある差別意識のDNAを交渉をしている過程で吐露してしまう人達が居た事は確かである。 理想論は別にして、今日でも白人の人達の中には残念ながら黒人、ヒスパニックの人達、アジア人等の有色人に対する優越感を抱いている人々が残っていると考えるべきであり、そういう前提でお付き合いする方が仕事をする上では安全であろう。

参考の為に奴隷貿易について少し記述して。置こう。
そもそもアフリカ黒人を奴隷として売買すると言う事はイスラム国家が起源だそうだが、新大陸発見など大航海時代と言われる15世紀から17世紀前半にかけてスペイン、ポルトガル等、ヨーロッパ諸国による探検が盛んになるに伴って、アフリカ大陸は”無主の土地”とされ、ヨーロッパ諸国によって実効支配され、“先占の原理“によってリベリアとエチオピアを除いてついには、略、アフリカ全土が植民地化されて行ったという事である。

歴史上、奴隷貿易と言われるた時代には、西アフリカの黒人はスペインとイギリスを主に西インド諸島やアメリカ大陸に労働力として売買された。
アフリカから荷物のように積まれ、数十日のアメリカ大陸への航海の間には死亡する黒人も数多く、死体は海に投げ捨てられたという記録が残っている。こうした船の後を追ってサメの集団が群れを成していたという事である。 奴隷貿易は16世紀から19世紀の永きに亘って続いた。こうした非人道的行為は18世紀に入ってフランスのボルテール等の啓蒙思想家によって漸く批判され、1803年にデンマークがこの奴隷貿易を廃止した。既述した様に、アメリカ合衆国では1808年に、そしてフランスでも1818年に奴隷貿易を廃止されるのだが、上記では1000万人から1500万人としたが、この奴隷貿易で売買されたアフリカ黒人奴隷の数を4000万人に上ったとする説もあるのである。

こうした非人道的な奴隷貿易によってアフリカの黒人達の家族は当然の事ながら引き裂かれ、崩壊し、従ってアフリカ自体の労働力は不足し、歴史的にもアフリカ大陸の多くの地帯が地球上のどの地域に比べても経済的にも停滞した地域となっって仕舞ったのである。

1884年11月にイギリス、フランス、ドイツ、米国、イタリア、ロシア、ベルギーなど“欧米の帝国主義列強”14カ国の参加による“全アフリカの植民地化、分割化”に関する会議が開かれた。
この会議の結果、これ等の国々によってリベリアとエチオピアを除くアフリカの略全土が植民地として一方的に分割され、支配され、1912年の第一次世界大戦まで続いたのと言うのが歴然たる史実なのである。

アメリカ合衆国の奴隷貿易は廃止されたが、奴隷制度の廃止までにはまだまだリンカーン大統領の出現まで尚数十年の時間が掛かかった事は既述の通りである。

単一民族と言っても良い我々日本人の歴史にはこうした奴隷化の為に海外から人間を連れて来て物品と交換したり、社会制度として人間を奴隷として売買する事が罷り通っていた時代は見出せない。武士が権力の座に着いたばかりの鎌倉時代の初期、未だ“為政者”としての自覚も、ノウハウも実績も無く、民衆への粗暴な対応が抜けなかった時期には下級武士達は農民を奴隷の様な扱いをした時期があったと言われる。こうした状況に対して5代目の執権であった北条時頼が御成敗式目でこうした武士の対応を厳しく監視し、背いた武士を即座に罰したと言う記録が残っている。遥か昔の13世紀の事である。

この様に日本は古代の朝廷支配の時代から、支配者と庶民との関係は敵対関係には無く、
“君民一体”をベースとした国家だったのである。確かに日本でも百姓一揆、徳政一揆など数々の民衆が蜂起した事例があるが、欧米諸国の民衆蜂起の様にそれが結果として国王を処刑したり、民衆中心の革命に至るというケースは経験していない。

日本の場合は領民に慕われる多くの領主が居た事でも明らかなように、支配者と支配される側である領民との関係は対立関係では無かった。この様に“平和な日本民族”には基本的に”白人対黒人”と言う対立関係が歴史上も殆ど無かった事が今日の社会現象にも欧米との違いとして生じている。

ごく最近の事例で言えば米国で巨大企業であったGM(ジェネラルモーターズ)社が倒産した事だ。この倒産の原因は“労働組合と経営者の対立”の図式にあり、長い期間に亘って労働組合に妥協を重ねて来た経営者側にも大きな責任はあるが、その対立の根深さを多少なりとも米国で経験した私からするとこうした倒産に追い込まれる事は不可避であると大分以前から予測出来た事なのである。米国の有識者の間では充分に予測されていたGMの倒産は“平和な労使関係“を目の当たりにしている日本社会からするとなかなか理解する事が出来ないと言うのが本当のところであろう。

人類史上4000万人と言う規模でアフリカの黒人を家族から引き剥がし、人間が人間を家畜のように扱い、300年間近くの間、商品として貿易したという欧米人の歴史は残念ながら消せない事実なのである。この奴隷貿易という行為に対してどんなにその合理性を訴えても、奇麗事で繕い残忍性を否定し得たとしても、こうした史実が今日でも根深く残る白人の黒人や有色人種に対する“優越感、差別意識、偏見”のベースとなっているのでは無いかと考えてしまうのであろう。
   
私の古くからのアメリカの友人も、彼の祖先はアイルランド人(白人)であり、友人も殆んどが白人である。“州にも拠るし、勿論その人物にも拠るがそうした差別的感情が全く残っていないかと言うと嘘になる“と率直に私に語ってくれた。

既述した日本民族が持つ欧米人と異なる諸点に加えて、欧米人は多かれ少なかれ日本人に対してもこうした人種的感覚(差別意識、優越感とまでは言わないが)を残念ながら抱いている可能性があると思った方が、我々日本人は自分の言動により慎重になるし、交渉などに臨む際の基本的な心構えとしては安全であろう。但し、決して誤解してはいけない事だが、そうだからと言って我々日本人が欧米白人との交渉において決して卑屈になってはならないと言う事である。

自由と平等を独立宣言書に謳う当のアメリカ合衆国でも黒人と白人との歴然とした差別は最近まで合法であった。黒人のキング牧師が命を賭けてこうした法的な差別の撤廃運動に動き彼は暗殺された。こうした尊い犠牲を重ねて、黒人も白人も平等だという公民権に関する諸法がアメリカ合衆国で成立したのは1964年~1965年の事である。歴史と言う尺度で見ればつい最近の事である。欧米人とのコミュニケーションでは少なくともこうした人種問題に関わる歴史は頭の片隅に置いておかねばならない。日本の様に2000年以上の永きに亘ってほぼ単一の民族が言語、文化を共有しながら、和の精神で歴史を刻んで来た民族と原住民を力で征服し、荒野を力ずくで開拓して作り上げたアメリカ合衆国という国の人達との考え方が大きく異なると言う事はこうした国の出来方、その後の歴史を知れば自ずと分るのである。

征服者と非征服者という構図が原点であるアメリカ合衆国には従って今日現在でも極端な格差社会が生ずるDNAが残っているし、今日でも姿を変えて存在している。日本は民主主義国家というよりもあくまでも突出した成功者、富裕階層を出させない工夫、制度を凝らした
最も成功した“社会主義国家”の様なものだと評価する学者も居る。

アメリカ合衆国では今日でも競争の結果生じる納得の行く、フエアな格差はむしろ好ましいし、当然あるべきだと万人が認めている。2011年の暮にニューヨークのウオール街で起こった大規模なデモは僅か1%の人達がアンフエアな金融取引で法外な富を得ている。こうした格差は許せないと言う事で起きたデモである。アメリカ合衆国という国は最低レベルの賃金で働く多くの黒人、ヒスパニックなどがその経済を支えて来たという歴史があるし、今日でもそうした状況をベースに成り立っている国なのである。

日本の場合は”一億総中流意識”という大分前の調査結果があった様に、極端な富裕層も少ないし、アメリカ経済を支えている、圧倒的な数の最低賃金層の黒人やヒスパニック層に該当する労働階層が存在した時期は極めて少ない。2013年時点で問題となっている“非正規従業員”はある意味で比較的平等であった日本社会が始めて経験する“欧米型格差社会構造“なのかもしれないが。

日本の宗教も特異なものだと理解すべきである。自然崇拝を基本とし、八百万の神を崇拝する神道が主であった。唯一神を崇拝し、排他的な西欧のような宗教は歴史上経験していない。だから11世紀末から13世紀にかけてイスラムとの間の大虐殺を数回にわたって繰り返したキリスト教の十字軍の遠征の様な経験は日本には無い。宗教に対しても日本の国というか日本民族は柔軟であり、その面でも特異な民族である。

日本民族は6世紀に新しい宗教である仏教を当時の新興勢力であった蘇我氏のバックアップもあって受け入れた。イスラム経とキリスト教の間の今日まで続く争いとは異なり、古代日本国は其れまでの“神道”との関係を、神仏習合信仰として作り変え、日本特有、特異な宗教にしてしまうのである。勿論その過程で日本古来の神道のみを擁護しようとする物部氏と蘇我氏との間に激しい政争は繰り広げられ、蘇我氏が勝利したが、“神道”を廃す動きにはならなかったのである。

奈良時代には、寺院に神が祀られるようになった。だから節分の豆まき行事を寺でもやるし、神社でも同じ行事が行われる訳だ。こうした柔軟な考え方は平安時代には本地垂迹説(ほんじすいじゃく)として定着して行く。

つまり、仏、菩薩を本地と考えて、神道のもろもろの神様をそれぞれの人々を救う垂迹(すいじゃく)つまり、人々を助ける為に仏や菩薩が仮の姿となって現れるるのだと考えた。
自然崇拝を基にした日本古来の神道と6世紀になって百済から伝えられた外国製の仏教を一緒にして神仏習合信仰という日本特異の宗教に育て上げてしまう。これが古来からの日本民族なのである。

こうした考えは鎌倉時代には整備され、以後日本の特異の宗教として育って行く訳だが、それが庶民に定着する為には物凄い長い時間が必要だった。こうした事が可能であったのも、日本と言う国が一度も他民族に支配された事が無く、民衆の宗教も、文化もこの様に非常に永い時間をかけて庶民の間に自然と浸み込んで行く事が可能であったからであり、正に日本の特異性なのである。

一方の米国は1607年にイギリスの植民地支配が起源となった国である。1776年の独立戦争で勝利し、独立宣言をし、それを1783年に母国イギリスがパリ条約で認めたという僅か230年程の歴史の国である。 私が最後に駐在していた1997年頃の人口は2億3千万人程であったがこの15年間で日本の現在の総人口にも匹敵する程の大量の移民による人口増加で、現在の人口は3億3千万人程である。
この様にアメリカ合衆国という国はベースの白人を主体とした13州から始まり、以降はメキシコとの戦争による領地の拡大、その他の拡大はそれまで植民地として所有していたフランス等からの買収、アメリカインデイアンからの獲得、奴隷貿易による受け入れ、そして移民で今日の姿となっている訳である。
真に、人種の坩堝であるが、そのベースはあくまでも”ワスプ”支配の文化(WASP=WhiteAnglo-SaxonProtestant)であり、征服者の白人と被征服者のアメリカインデイアンそしてメキシカンと奴隷貿易で獲得したアフリカの黒人、という構図で成り立つ国家である。
その痕跡は今日でも色濃く残っていると言う事は既に紹介したが、ここ10数年間という短い期間でヒスパニックを中心とする1億人を超える移民を受け入れた事はアメリカ合衆国にも今後は大きな変化をもたらす素地が出来たと言う事かも知れない。
何故なら日本と異なって若い国である。変化も起きやすい土壌に多民族の移民受け入れである。ベースとなって来た200年間のWASP支配文化も急速に変化して来ているとの米国友人の話もそれを暗示しているし、すでに2期目を迎えているオバマ大統領政権という事実が最も分りやすい“Change”の姿なのであろう。

日本でもこの10数年間“変化が必要、変化しないと世界で生き残れない“と合唱して来た。  
私自身、仕事上でもグローバル化が当り前になり、女子の更なる戦力化、情報ツールの変化への対応など世の中の変化に精一杯対応して来た積もりである。
それを外国の友人に話すと“日本人は変化をしていると言うがアメリカ等の変化はそれ以上に早い。だから相対的に日本は変わっていない”のだと言う。

当のアメリカ合衆国もオバマ大統領が先頭に立って”We can Change"(我々は変える事が出来る)と叫んだが4年以上が経った今日、基本的に白人が優越する国家、実態経済から遊離した金融商品で暴利を許す体質、訴訟社会等を”Change"するには程遠い状況にある。
オバマ氏が初の黒人の血を持つ大統領になった時、アメリカのマスコミの中には盛んに彼の母親が白人アメリカ人である事を強調していた。米国民としてはオバマ氏はかって奴隷貿易の商品であったアフリカの黒人では無いのだ、半分は白人なのだと言う事を伝えたいのだと言う事が却って人種問題が拘りとして相当に強くあるのだなと言う事を浮き彫りにさせた感があった。
さらに彼の父親はケニアの人で外交官あったと言う事、その父の仕事の関係で少年時代のオバマ氏はインドネシアでの生活も体験しているグローバル時代にふさわしい体験の持ち主だと言う紹介もあった。

こうして誇り高い有色人種の血を持つ事を殊更に報道した事が却ってWASP(WhiteAnglo-SaxonProtestant)が過去の大統領の条件だと言われて続けて来たアメリカ合衆国の大統領の時代が終わり、初めて黒人の血を引く有色人種の大統領が誕生したと言う事に実は当の米国人が戸惑っているかのような印象を与えたのである。

もう一つ、アメリカ合衆国における白人優越的な社会構造が根強いという事を私自身が体験した事例を紹介しよう。

それはアメリカの銀行、CityBankの店長と仕事上でお付き合いしていた時の話である。我が社のニューヨーク事務所は仕事は単なる情報収集の為の出先機関であったが、私が赴任した時点で既に過去20年近くもの歴史があった。私の仕事はその連絡事務所を現地法人化する事であり、銀行との付き合いはより重要になる。

法人として設立する前にも米国の銀行業務情報を得る為に、定期的にそのCityBankの店長を訪問した。其の時は必ず一人で訪問をした。その店長は私が行くと常ににこやかで、リラックスしながら情報をあれこれ親切に与えてくれたものだった。いよいよ我々のニューヨーク事務所が現地法人としてスタートし、新しく雇った経理、資金担当の白人女性をCity銀行との業務窓口として紹介すべく帯同して訪問した時の事である。

驚いた事に私が単独で訪問した時の彼とは全く別人の横柄且つ“上から目線での物言い、態度で私と私が帯同した白人の担当者に接して来たのである。米国では仕事上での上下関係は日本よりも厳しい。西部よりもニューヨークなどの東部ではこの点がはっきりしている。私が帯同した経理担当の白人女性は彼から見ればCity銀行の店長が会う相手では無い。預貯金を窓越しで処理するTellerと呼ばれる人が会う程度の相手だという態度で露骨に接して来たのである。その白人支店長の人間性の問題も大いにあろうが、 それにしても露骨に自分の偉さを誇示しているかのような態度と自分のありったけの高邁な業界知識を話題にしてまくし立てていた尊大さには”これが白人同士の間における差別意識なのかと大いに驚いたものである。私とその支店長二人だけでの場合と異なり、白人の帯同者が居た事で出た“白人の間での地位上の優位感、人種的優越感”という白人文化を目の当たりにした瞬間であった。

この話よりももっと分かり易い話を紹介しよう。話は留学時代に戻るロサンゼルスでの事だ。
暑いロスアンゼルスの事であるから、私の住んだアパートにも大きなプールがあり、夏の間は時折利用した。あまり気にはしなかったがそのアパートに住んでいた黒人も殆ど居なかったと記憶している。とりわけプールで黒人を見る事は無かった。そう言えばオリンピックでも黒人の競泳者は見ないし、冷たい水は苦手なのだろう位に考えていた。

ところが、近くに別の日本人の友人が引っ越して来てそのアパートのプールを利用して驚いた。
黒人だけが泳いでいたのである。黒人は水が嫌いなのだろうと言う私の憶測は間違っていた。こうした光景を目の当たりにすれば白人と黒人の関係が見えてくる。ゴルフで黒人選手が少ないと言うのは経済的理由だと言う事で明白だが、同じプールで白人と黒人が一緒に利用するという光景を見る事が無いのには別の理由がある様だ。要するに白人の黒人に対する生理的差別意識から来る現象だと言えよう。白人は黒人と一緒のプールにどちらが嫌ってなのか、遠慮からなのかは分らないが、入りたがらないのだ。

次の話は永住に近い覚悟を決めて数十年間もニューヨークに住んでいる日本人達からの話である。

殆ど日本を捨てる覚悟で30年も40年も前からアメリカに移住し、日々頑張っている数家族の日本人が私がインド人大家から借りて住んでいた町に居た。その町には黒人家族は全く居らず、有色人家族もまばらに日本人家族が住んいるという町であった。

Larchmontと呼ばれるそのニューヨーク郊外の町は歴史を辿ればドイツ系の白人が多く住んだ町だそうだ。その日本人家族の長老の呼びかけで町に住む日本人家族の集まりがあった。さぞかしアメリカ礼賛の、日本人批判の人達ではないのかとやや身構えてその懇親会に臨んだ。
酒の勢いも手伝って本音を吐露し始めたその日本人家族皆さんの言葉を聞いて私は意外な事に驚いた。
殆どの人達が今は築いてきたアメリカでの生活基盤を守り、頑張り、働ける間はアメリカで働き、生活するが、歳を取り、働けなくなったら、老後の人生は絶対に日本で送りたいと略全員の方が話すのである。この頃、つまり1984年頃はエズラボーゲルという人が日本こそ経済面をはじめ全てのあらゆる面で優れた国であると称え上げ、”Japan As No.1"という本が出された程で、日本が有頂天になっていた頃である。

確かに政治的にも中曽根首相がドナルドレーガン米国大統領と親密な関係を結び”ロン、ヤス”とフアーストネイムでお互いを呼び合う間柄だとマスコミも囃し立てた。調子に乗りすぎたある政治家が”黒人はレベルが低い”と言うような発言をし、それがアメリカでも大問題となり、反日運動も起きた。プラザ合意の後、1985年からは急激な円高に日本は見舞われたが、自動車産業はじめ日本の有力企業は現地生産を推進するなどの対応を始め、又円高を逆に利用して積極的な米国の資産購入なども進め始め、まさに”JapanAsNo.1"を実践する一時期ではあったと思う。

こうした時期であったから、米国に数十年暮らす日本人の共通の言葉は”日本が今日の様に世界で頑張って呉れているのが一番嬉しい、我々の立場も向上して来ている”という事であった。永年滞在している日本人にとって裏を返せば、これまで白人優位の社会にあって、如何に苦労して来たかという事であり、本国が頑張る事によって彼らのStatus(ステータス)も上がると言うのだ。こうした人達の白人優位社会での苦労は僅か10年間程の駐在経験の私でも身にしみて分かる位であるから彼らが通過し、乗り越えてきた苦労、辛酸の程が相当なものであり、だから、老後は絶対に日本で暮らしたいという言葉になったのだと思っている。

私自身も、良き米国人の友人にも恵まれているし、住環境も、レジャー環境も日本よりもずっと過ごしやすい米国だとは分かっているが、老後をアメリカで暮らそうなどとは全く思わない。

その理由は、上述した日本国、日本民族と言う特異なDNAを持つ自分が全く異なる歴史、価値観、文化、そしてDNAを持つ米国という地を終の棲家として選ぶ事は不可能だと確信するからである。

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