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2014年4月17日木曜日

第一章 日本の特異性の認識と歴史が必ず持つ因果関係
第3項 特異性の坩堝の相撲界を理解出来なかった朝青竜


明治維新の大改革の中に、明治4年公布の散髪脱刀令と言うものがある。
文明開化を急務とした明治政府の命令で武士階級も、命であり、魂であった髷を落としたのである。しかし、この際でも、大相撲の力士はそれを免れた。

明治6年(1873年)には、暦までも其れまでの太陰暦から太陽暦に変えた程の大改革の中でも明治政府は相撲という日本の伝統には並々ならぬ重きを置いた事が分る。相撲という格闘技に似た競技はモンゴルにもあるし、韓国にも、ヨーロッパにもある。歴史を辿ってみれば相撲に似た格闘技が古代バビロニア、エジプト、そして古代中国にもあったと言う事が分る。

その中で何故、日本の相撲だけが今日のように、専門職業集団として発展し、世界各国の相撲とは違った、土俵、呼び出し、行司が持つ様式、形式美を備えた日本文化としての側面を維持しながら発展して来たのであろうか。
その答えも前二項で述べてきた事と全く同じ理由である。

繰り返すまでも無く、統治の形は時代によって変化はしたものの125代に亘って続いている天皇家の存在と、日本という国が歴史上一度も諸外国、他民族によって侵略、占領された事が無かったと言う事である。征服者は必ずと言って良いほど、被征服民族の政治、社会の制度は勿論、言語、思想、そして文化を破壊するものである。

日本は歴史上数度の国体維持の危機に面して来たが、1945年のアジア・太平洋戦争後の連合国による占領は最大の危機の一つであったであろう。

しかし、既述のように当時の世界情勢における“防共拠点としての日本国の役割”を米国が考えたと言う時代背景も幸いしたであろうし、アメリカ合衆国と言う民主主義を標榜する国を主とする占領政策がわが国にとって幸いした事は事実であろう。兎に角、占領軍は“相撲”と言う伝統ある日本文化の破壊を行わなかったのである。

相撲の起源、その後の発展の歴史の詳細については新田一郎氏が書いた相撲の歴史(講談社学術文庫)などがあるので、其方を参照される事をお勧めする。
多くの相撲フアンならばご存知の事ばかりかも知れないが以下に、日本の相撲の歴史、並びに相撲とは何ぞやについて簡単に記して置く。

古代日本を統合して行く過程の中で為政者が相撲を利用して来た事が、古事記、日本書紀の神話にも書かれている。有名な日本の相撲の起源と言われる野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)の格闘試合が第11代の垂仁天皇の要請によって垂仁天皇7年7月7日の七夕の日に行われたと日本書紀に記されている。古事記、日本書紀で記されている初代神武天皇から第27代安閑天皇(531年~535年)までは日本にはまだ文字というものが無かった。この二人の相撲試合が行われた垂仁天皇任天皇の時代について記す文字の記録は無いし一体何をした天皇なのかについても古事記にも詳しく書かれていない。

ただ歌舞伎でも演じられて有名なヤマトタケル命の父親である第12代景行天皇の父親、つまり祖父であるという事位を頭において置くとその古さが掴めよう。

古事記には后の兄と垂仁天皇との戦い、その間に挟まれて自害した后の悲劇などが書かれているが、具体的に垂仁天皇が残した書類などは当然存在しないし、一体その頃の日本と言う国家がどの様な状態であったのかを具体的に証明するものも殆んど無い時代の事であるが、伊勢神宮を創建した天皇だと伝わっている。

又、わずかに隣の中国の後漢書に”倭の国の奴国王が朝貢して来たので金印を与えた”という学校の歴史で習った有名な記事がある。垂任天皇の時代はこの頃であろうと言われているし、具体的な年代はこの記事によって推定するしか方法は無い。後漢書の記事は西暦57年頃の日本に関する記事である。古事記には垂仁天皇は153歳で亡くなったと記されている。推定するとBC29年からAD70年頃まで天皇の地位にあった事になる。こうした古事記、日本書紀の記事と後漢書の記録を摺り合わせると、金印の史実は垂仁天皇の時代だろうかと推測する訳であるが史実としてこの日本という国が何時創建されたのかについての考察は後述する。
    
ここでは天皇(天武天皇までは大王と称したものと言われている)と言う当時の国家権力の頂点の人が相撲に関わったのだと言う事だけを知っておくだけで充分だと思う。

この相撲に勝った野見宿禰は後に天皇に仕え、土師臣(はじのおみ)の祖となり、後の菅原道真の先祖となる人物だとされている。古代日本を統合して行く過程で、天皇家は7月7日を相撲節として七夕の神事と絡めて定例行事化して行った様である。全国から相撲人を招集し、天皇の前で相撲節を行う事を定例化し同時にこうした行事によって天皇家は諸国に対する統治力を拡大して行った事が窺える。

記録としては奈良時代に入った第44代女帝の元正天皇の時代の養老3年(719年)に朝廷内に相撲司が初めて設置されたとある。前年の718年には日本古代律令国家時代の基本法典である“大宝律令”を修正して藤原不比等らが“養老律令”として編集している。

公地公民をベースとして班田収授の法によって人々には一定の耕地が与えられ、租庸調の税が課され、中国の隋、唐を模した律令国家体制が日本にも漸く整って来た時代に相撲は既に朝廷の行事としてその地位を確立していたのである。

ちなみにこの律令体制は、貴族や寺社が全国に領地を私的に拡大した荘園制の発展によって10世紀には“公地公民制”の崩壊と共に破綻して行くのであるが、相撲は朝廷の勢力拡大と共に守られて行くのである。 

相撲は朝廷の行う神事、行事にも深く関わる存在であった。朝廷で上述の7月7日の相撲節が、定例行事として行われていた事を正式な記録として確認出来るのは“続日本紀”の天平6年(734年)7月7日の記事が最初である。奈良の大仏で有名な第45代聖武天皇が相撲戯を観たと明記してある。この相撲節が朝廷の定例行事として行われていたと言う記事は承安4年(1174年)が最後となっている。440年間も途切れる事無く“朝廷の行事”として続いた事をまず頭に入れておいて頂きたい。
    
律令制が始まり、天武天皇の時代に宮門の警備に当たった隼人司の隼人族が宮中で相撲を演じたと言う記事(682年)も併せると、明らかに聖武天皇以前から相撲節が定例化していたのであろう。相撲がいかに朝廷行事と深く関わっていた事かはその極みと言える次の史実によって分るのである。相撲は単なる娯楽としての格闘技として古代から存在したのでは無い重要な神事だったのである。

第55代文徳天皇の後継天皇を巡って人臣からの摂政として歴史上有名な藤原良房が絡んだ逸話が残っているので紹介しておこう。
文徳天皇は別の章で記述するが藤原良房が画策した承和の変(842年)と称される皇位継承政争によって皇太子に就いたという経緯があった。その後天皇の位に就いた訳だが生涯、藤原良房には遠慮したと言う。その典型が次の皇太子を誰にするかを巡っての話である。

本来ならば第一皇子の推喬親王が皇太子に就く訳であるが、良房の娘が生んだわずか生後8カ月の推仁親王が皇太子となり、病弱だった文徳天皇が崩御したあとに第56代清和天皇となったのである。

逸話は本来皇太子となり、天皇に就くべきであった推喬親王を哀れんで作られたものであろうが、皇位継承決定の為の相撲節会が天安2年(858年)に開かれ、惟仁親王の代表力士には大伴義雄がなり、惟喬親王の代表力士には親王を生んだ娘の父親であった紀ノ名虎がなり、次期皇位継承者を決める相撲が行われたと伝えるのである。
そしてこの相撲の結果は大伴義雄が勝ち、藤原良房が推す“惟仁親王”が第56代清和天皇となったと伝えるのである。
この逸話は勿論史実では無いが、こうした場面に引き合いに出される程、相撲は古代から単なる格闘技であっただけで無く、神事の総元締めである天皇家、並びに朝廷の諸行事と極めて深い関係を持っていたという事、神社仏閣などの建立、造営の際の神事の際に力士が四股を踏む行事を行うなど、重要な役割を担う存在であったと言う事を知る上で参考になる話ではある。

ちなみにこの第56代清和天皇の親王の系統から武力集団としての源氏が興り、50~60年程遡った第50代桓武天皇の親王の系統から平氏が興るのである。武力集団としての平氏が白河上皇時代から院の側近としての地位を築き、経済力、武力共に次第にその勢力を伸ばし、終には平清盛の時代に到って、それまでの摂関政治はおろか院政をも無力にして、武士が太政大臣に上りつめると言う展開になる。その栄華を極めた平家による政権は俗に言う源平合戦(治承寿永の内乱1180年~1185年)の末に源頼朝等によって滅ぼされ、紆余曲折はあるが、結果的には、以後700年近く武家が日本の政治の実権を握って行く時代となるのである。

上記した様に大相撲の土俵上で力士が四股を踏むのは古代から相撲人(古代はこう称された様である)が行ってきた“神事”に絡む所作である。古代から日本では、鬼、邪鬼、など全ての悪は地獄、つまり地下から地上に這い上がって来る物と考えられていた。
四股を”醜”と書く場合がある。要するに力強い相撲取りが地下から這い上がる全ての邪悪なものを踏み潰し地上に上がって来るのを阻止するという神事から地鎮祭などの時にも、相撲人(取り)が四股を踏んで清めたと言うのである。

先程相撲節が平安末期の1174年を最後に宮中で行われ無くなったと記したが、何故なのかも興味のある事である。時の天皇は平清盛の娘徳子が入内した高倉天皇であり、院政、藤原摂関政治が往時の権力を失い、実質的には終焉を迎えようとしていた時代である。

保元の乱(1156年)そして平治の乱(1159年)によって、白河上皇(法皇)鳥羽上皇へと繋がれた院政も権力を失い、既に名ばかりとなっていた藤原摂関家の政治的存在感は終焉を迎えていた。そして上述した武家時代が始まったのである。

従って、朝廷の没落と共に、天皇家そして朝廷行事と密接な繋がりを持っていた“相撲節”が終わったと言う事なのである。

しかし、相撲自体はその後も決して衰退しなかった。そして今日も継承されて来ている。
鎌倉時代を書いた“吾妻鏡”には源頼朝も相撲を好み、鶴岡八幡宮などでは祭礼の流鏑馬行事などとセットの行事として“奉納相撲”が行われた事が書かれている。
こうして鎌倉時代にも“上覧相撲”が多く行われたし、室町時代には第6代足利義教将軍が政権固めの為に管令畠山はじめ、細川、赤松、山名等の有力大名の邸を偵察の為に訪問しているが、その口実として”相撲御覧”を行った事が記されている。

このチャンスをとらえて全国の諸国から相撲人が集められ、その中で優秀な成績を収めた相撲人は高額の禄を得たり、又領地を与えられたりしたとの事である。相撲人は東国の武士が多かったとされるが相撲節で多くの相撲人を輩出して来た”相撲の家一族”があったと事など、すでに中世には職人としての相撲人達が存在していたと見るべきであろう。

過去の伝統などを嫌った織田信長も大変な相撲好きであった事が”信長公記”に多く書かれている。天正6年(1578年)に二度、天正8年(1580年)にも信長が安土に相撲人を集めて上覧相撲を催した事が書いてあるが、そこに書かれている相撲人の名がかなり重複している事からも専門的な相撲人が存在し、その人達が中核となってこうした上覧相撲等を構成していた事が分る。そして技量優れた相撲人の中には“知行”を得て信長に召し抱えられたりする者も居たのである。

信長の次に天下を取った豊臣秀吉も相撲人を召抱えたという記事が見られるし、多くの武将が相撲人を召し抱えたと言う記録が残っている。こうして専門化して行った“相撲人”の生活であるが、勧進相撲などが京都の寺の修復や、新しく寺を建立する際に催されたのだが、それだけでは安定した収入源とはならなかった。従って有力な武将に召抱えられる事が一番であったし、こうした武家抱えの一流の相撲取りとそうでない相撲取りとの階層分化が生まれた様である。

江戸時代に入り、元禄期になると勧進相撲が盛んに行われる様になり、江戸、京都、大阪の三都で幕府公認の勧進相撲が成立し、しかも定期的になる。

江戸では勧進相撲が幕府によって一時禁止されるなど紆余曲折を経た相撲興行ではあったが、18世紀になると、それまでの幕府公認の寺社増築、修理、新築の為の勧進相撲という事では無く、専門の相撲取りが生活の為に行い、見物する側からすると一種の娯楽として楽しむ、興行目的としての“勧進相撲”が江戸、京都、大阪の三都で許可されるようになるのである。
その発端となったのが第11代将軍徳川家斉の上覧相撲であり、この時、古来からの“相撲界”に大きな変化をもたらしたのである。
この上覧相撲は、江戸城吹上苑で寛政3年(1791年)6月11日に行われた。
開催に先立って、将軍家斉が“上覧命令”を出すのだが、こうした場合、通常は相撲開催命令を相撲取りを抱える諸藩に対して出すのが慣例であった。しかし、この時の命令は、当時の勧進興行の統括組織であった“相撲年寄り”達に対して出されたのである。

この事の意味は非常に大きい。何故ならば、これまで過去には朝廷が、そして武士の政権時代となってからは幕府が握っていた“相撲と言う技芸に対する全ての権限”を相撲の専門集団、相撲の統括組織を時の将軍が認知し、そこに初めて与えたと言う事に他ならないのである。
之によってこれまで武士の楽しみとして限定されていた相撲は以後、一般庶民にも開かれるものと成り、谷風梶之助、小野川喜三郎両人の横綱推挙もこの上覧相撲に併せて行われるなど、以後の相撲人気の礎がまさにこの機会に作られたのである。

さて横綱朝青龍問題に話を戻そう。

現在の大相撲の位の上での最高位は”横綱”だ。
相撲が以上簡単に紹介して来た様に、古代から日本の“神事”に深く関わっていたと言う理由からも、古代から天皇家、朝廷貴族はじめ、日本の最高権力者と深く結び付いた存在であった。 記録にはっきりと残るだけでも聖武天皇の時代から、平安時代末期まで相撲節が朝廷で400年間も行われて来たという史実からも相撲が天皇家の最重要機能である“祭祀行事”と強い関係があった事も理解出来たであろう。

ただ、当の横綱朝青龍がこれらの史実を理解していたかは疑問が残るのである。

アマチュアの相撲とは異なり、専門家集団としての大相撲は上述した”故実“そして”行司、呼出の装束”、“神殿造りの土俵”など周辺の”装置”を含め“歴史と文化をまとった格闘競技”なのである。大相撲の力士の土俵上の全ての所作に至るまで永い歴史と伝統が受け継がれて来ているのである。

上述した様に土俵の屋根は神殿造りであるし、四隅の青房、白房、赤房、そして黒房は東西南北全四方の神を意味するものなのである。
古代から天皇家、朝廷の神事に関わる役割を担って来た“相撲“であるから、同じくまだ科学が発達していなかった古代から朝廷における易学、方位学、暦学を担当して来た“陰陽師という役所”との関係は深かったものと言えよう。    

土俵の四方の神について説明しておこう。東を守るのが青龍であり、従って今日では青房となっている。西を守るのが白虎であり、従って白房である。南を守るのが朱雀であり、従って赤房となっている。最後が四番目の神、北を守る玄武と称される神は水の神で、黒い亀に黒い蛇が巻きついた形の神である。これが黒房となっている。
こうした四神に守られて土俵があり、各相撲一番毎に、力士が何も武器は手にしていないと”塵”(チリ)を切る所作から始まり、四股、つまり地獄からの邪鬼を踏みつける為の”醜”(シコ)を踏むという動作、土俵を清める為の塩を撒くという動作等全て神事に関する所作が繰り返されるのが大相撲なのである。

その他行司の衣装、脇差、軍配などの 持ち物にも歴史と伝統、そして意味がある。
呼び出しの所作、役割にも古くからの伝統と意味が受け継がれて来ている。これら有職故実の上に日本の大相撲は成り立っており、その象徴的存在であり、最高位としてあるのが横綱である。

朝青龍が事実上の解雇である強制的引退に追い込まれたのは横綱という大相撲の象徴であり、力士の最高位にある者がその地位に相応しくない行動を何度も繰り返し、一度は出場停止の処分を受けながらも尚、問題行動を繰り返し、終には暴力事件を起こすに至ったという結末であった。
    
類似の横綱の解雇問題をあとで紹介するが、まずは大相撲において横綱という称号、地位の歴史から触れておこう。横綱の称号、地位の歴史には諸説がある。相撲人が神前又は神事の場に不浄のものの進入を禁ずる印として張る注連縄(しめなわ)を腰に巻いて、地鎮の神事を行ったと言う記事は1624年(寛永元年)の東叡山寛永寺(上野の寛永寺)創建の時にも、又1698年(元禄11年)に比叡山の根本中堂創建の時の記事にも出て来る。
    
もっと昔には第15代応神天皇を身篭った神宮皇后が丁度、新羅遠征の兵を起こした時であり、安産と戦勝を祈願する為に、住吉大社の相撲会で相撲人に清祓いをさせた記事もあり、これを横綱の起源とする説もある。この時の綱は後に谷風、小野川がつけた白色のものとは異なっていたが、いずれにせよ相撲人の中で選りすぐりの者が綱を腰に巻いて神事を行った事が起源である事は間違いない。相撲が幕府の許可を得て寺社などの建立、修復費用調達などの為の勧進興行から、第11代将軍、徳川家斉の頃から江戸相撲協会所(現在の相撲協会)が主催する興行へと大衆化して来た事は既に述べた。

横綱という称号が誕生したのは1624年(寛永元年)の明石志賀之助だとされ、彼を現在でも初代横綱としているが、彼については実在さえ確認されて居ない。ただ、江戸勧進相撲の開祖とされる無敵の相撲人であったとされる事、三代将軍徳川家光から日下開山の称号を賜ったと言う事が伝えられている事から、故実を尊ぶこの世界らしく彼を初代横綱と称したのであろう。二代目の綾川五郎次は実在した茨城出身の強豪力士であった様だが、正式な横綱の免許が与えられたという記録は残っていない。三代目とされる丸山権太左衛門についても相撲の実績については明確な記録が残っているが、横綱の免許を得たという記録は無い。しかし、1749年(寛延2年)に熊本の吉田司家から”故実門人”の免許を受けているのでこれをもって横綱免許が追認されたのであろう。

四代目と五代目の横綱が将軍家斉の上覧相撲の前に吉田司家から横綱免許を授与された谷風梶之助と小野川喜三郎である事は既に述べた。
1789年(寛政元年)の事であるから、日本では老中松平定信による寛政の改革が行われている真っ最中の時期であり、世界に目を転ずればアメリカ合衆国では初代大統領にワシントンが就任した年であり、フランスではバスチーユの襲撃が行われ、フランス革命が起きた年である。

従って横綱免許授与という史実からするとこの谷風が初代で小野川を二代目の横綱とする説もあるが、幕末の第12代横綱であった陣幕久五郎が東京の富岡八幡宮に9年もかけて建てた横綱力士碑が1900年(明治33年)に完成したが、彼はそこに初代明石、二代綾川、三代丸山と記したのである。

角界を退いても政界、財界、陸海軍に多くの知遇を得ていた彼の意見は尊重され、彼の発案によるこうした横綱力士は称号から階級化し、制度として確立するに至るのである。史実としての横綱誕生から200年以上の歴史が経過したが、伝承、伝説上の横綱を含めても公認されている横綱は白鵬で69人目、そして日馬富士(はるまふじ)で70人目と言う狭き門である。

従って横綱の存在が如何に大相撲にとっても、相撲フアンにとっても大切なものであるかを、当の横綱本人は勿論、相撲協会、そして大相撲に関わる人々が肝に銘じていなくてはなら無いはずであるが、興行成績が優先して仕舞うのであろう。横綱への推挙を間違ってしまう例が朝青龍のケースばかりで無く、過去にも起こっているのである。

横綱に推挙する条件として”力量、人格共に優れ”と言う点が上げられる。格闘技としての力量は磨かれ、伸ばす事は可能であるが、人格と言う要素はその力士の生来の気質、素地という要素もあって、横綱に推挙する時点で問題行動の多い力士を、横綱になってから気質に基づく問題行動を矯正すると言う事は余程本人の自覚が伴わない限りほぼ不可能と考えるべきであろう。

横綱朝青龍が横綱に推挙されたのが貴乃花が引退した2003年(平成15年)の初場所の後であった。日頃から土俵上の所作については問題視され非難を浴びていたが、相撲の勝負については優れ、史上最速の25場所で横綱に登り詰めた。勝負強さ、つまり、“格闘技”と言う面からだけでは立派な成績を上げた力士なのである。

有職故実の上に成り立って来た日本の大相撲の最高位である横綱になった彼の土俵上の所作について、例えば懸賞金を不浄の手とされる左手で受け取る事を非難されたり、勝負が決ったあとに相手力士を土俵の外からさらに強く突き飛ばすなどが横綱としての品格に欠けるものと非難された。こうした、土俵上の所作への各方面からの非難に対して、朝青龍の場合は優勝を重ね、一人横綱として無敵振りを発揮していた事を理由に本人も、相撲協会も何とか周囲の批判をねじ伏せる事が出来ていたのである。 

何と言っても相撲協会としても2003年(平成15年)に人気の貴乃花と武蔵丸が引退し、それに代わる看板の力士も不在であったし、一人横綱となった朝青龍に興行の目玉としての大きな役割を託すしか無かったのであろう。指導する立場の高砂親方、相撲協会の北の湖理事長も朝青龍に対して再三の改善指導、忠告をした様だが、彼の生来の気質、素地は大相撲の故実、その中での横綱の意味を理解する方向に向かう事は無かったのである。

傍若無人とも言える土俵外での行動も横綱として期待される行動、品格とは程遠いものであったが、親方そして相撲協会も、それを看過せざるを得ないという興行上の事情には勝てなかったのであろう。当時、横綱朝青龍への非難に対し、”格闘技、スポーツなのだから25回も優勝している朝青龍を引退させるのはおかしいではないか”との意見も多かった。

そうした相撲フアンは大相撲がアマチュア相撲と決定的に異なる”故実”つまり、儀式、作法、などの古くからのしきたり、規定、慣習の上に成り立っている事、そして何よりも上述した”文化装置”を纏った格闘技だと言う事を理解していない人々であったか、そんな事は無視しても良いと考える“相撲フアン”達だったのであろう。

大相撲がアマチュア相撲と同じように、行司の代わりに蝶ネクタイをしたレフエリーが力士の中央に立ち、呼び出しも無く、力士は大銀杏の髷も結っておらず、ただ勝てば良いのだと言って力士が跳んだり跳ねたり、奇襲技ばかりであったり、おまけに勝負に勝った力士が土俵上で両手を挙げてガッツポーズをする様になったら果して国技と称する相撲興行が多くの人々から将来とも支持を得られるであろうか。 そうとは到底思え無い。

新田一郎氏は大相撲は4つの要素の上に成り立っていると記している。①力比べ、そして格闘そのもの②土俵、相撲ルールで特定される格闘技である、具体的には裸体にマワシを締めて、土俵外に体が付くか土俵内で足裏以外の体が土に付くかなどのルール、並びに禁じ手の禁止など③相撲らしい競技形態、つまり、”四つ相撲の型””押し相撲の型”という相撲の競技形態である。従ってルールに明記はしていないが跳んだり跳ねたり、叩いたりするのは良い相撲では無い④土俵の四隅の青、白、赤、黒房、力士、行司、呼び出しの装束、さらには太鼓、拍子木などの文化装置 これら四要素の上に相撲は成り立っているのだ、と明解である。

新田氏が指摘するまでも無く、故実と文化装置をまとった格闘競技が“相撲“であり、この二点を理解しないと大相撲の本当の魅力は理解は出来ないし、こうした大相撲という世界を朝青龍が充分に理解しないまま、終には大相撲の象徴的存在であり、且つ、最高位である横綱にまでなってしまった事が問題の根っこにあった。それを指導出来なかった元大関朝潮の高砂親方に批判が集中したし、当時の相撲協会理事長であった北の湖にもその指導力に対する批判も大きかったが、相撲の古代からの儀式、作法、規定、習慣、つまり故実を学び、そして身に着ける事は日本に育った人間でも生来の気質が反映する面    もあるだけに難しい面がある。ましてや、モンゴルの格闘一家に育ち、やんちゃな性格だった朝青龍は日本の明徳義塾高校に相撲留学としてスカウトされ、以後、格闘技の面だけで抜群の素質と身体能力で勝ち進み、18歳で大相撲の道に入った朝青龍には入門初期の段階で相撲の故実、精神等を充分に教え込めなかった事にこそ問題があった訳である。

朝青龍は天性の“格闘技のずば抜けた能力”を発揮して史上最速、入門後わずか25場所で最高位の横綱に登り詰めたのであり、この間に大きな壁に突き当たって悩む事も、日本の相撲の歴史、故実、その象徴的存在である横綱という最高位の意味する処を理解をする間もなく上り詰めたのである。

相撲協会としても“金の卵”にあれこれと苦言を呈する暇も勇気も無かったのであろうし、直接指導する立場の元大関朝潮の高砂親方にしてみれば自分が果たせなかった“横綱“と言う金看板を部屋にもたらしてくれた”とてつもなく強いモンゴルからの弟子“に忠告、叱咤する時期はとうに過ぎていたのである。

しかしながら相撲フアン、世間の好角家、マスコミは朝青龍が横綱という最高位に上り詰めた途端から“格闘技としての能力”よりもその土俵態度、相撲ぶり、そして土俵を離れた“横綱”の生活態度にまで轟々たる非難を浴びせるようになった。

格闘競技としての勝敗のみに集中し、相撲の故実、しきたりなどをそれまで云々されてこなかった“自由人”朝青龍にとってはこうして非難の嵐に晒される状況になった事は気の毒な面もあったと思う。

極めて似たケースで横綱が廃業に追い込まれた例が、そう遠くない1987年(昭和62年)にもあった。第60代横綱、双羽黒の事件である。彼はれっきとした日本生まれ、日本育ちの力士であり朝青龍のような外国人力士では無い。横綱への推挙時に双羽黒は丸7年間、42場所以上の大相撲という故実と形式美という世界を経験しているはずの力士であった。
    
朝青龍の場合とは異なり、双羽黒には大相撲の持つ故実、横綱という地位の持つ意味を理解するに十二分な時間があったと言える。しかし彼は横綱になりながら、相撲界を追われる状態で去ったのである。

そもそも彼は横綱に昇進する前に一度も優勝した事が無いと言う点からも横綱への推挙自体が異例中の異例の事であり、当時の横綱審議会メンバーからは猛烈な反対があった。
加えて、双羽黒は、若い時から素行にも多くの問題があったのである。

それでは何故そうした彼が横綱に推挙されたのであろうか。当時の相撲協会の事情があったのである。
当時千代の富士が一人横綱と言う状況であり、相撲協会は興行の面から1986年(昭和61年)名古屋場所の後に14勝1敗で横綱千代の富士との優勝決定戦で敗れ、準優勝であった彼を優勝経験の無いまま横綱推挙という事で押し切ったのである。

こうした状況も朝青龍が横綱に推挙されたケースと良く似ている。横綱になってからも横綱双羽黒の土俵外での行動は改善されず、むしろ23歳で大相撲の最高位に登りつめた思い上がりからか同じ部屋の若い衆に対する異常ないじめによって部屋の若い衆が集団脱走すると言う事件を起こしたりしていたのである。

此処までは相撲協会も双羽黒の親方である立浪親方も何とか事を収拾して来たが、1987年(昭和62年)の年末についに双羽黒は立浪親方と大喧嘩をし、仲裁に入った後援会会長、そして親方夫人にまで怪我を負わせてそのまま失踪するという事件を起こしたのである。

当日この暴行事件がテレビなどで大きく報道され、年末休暇に入った直後でもあり、私も野次馬根性丸出しで事件の起きた両国の立浪部屋に出掛けて行ったのを覚えている。事、此処に至っては、相撲協会も双羽黒を庇う事が出来ず、緊急理事会を大晦日の午後1時から開き、横綱双羽黒は廃業に追い込まれたという実例の話である。

この2件のケースは非常に共通点が多い。まずはやんちゃな性格と傍若無人な態度と言う面で、双羽黒と朝青龍は良く似ている。ただこうした性格の持ち主の全ての人が横綱としての資質として絶対に不適格と言う事にはなるまい。本人が大相撲の横綱とは何ぞやを自覚し、自分に至らない点があれば努力して矯正をした横綱も過去には居たはずである。
2013年の時点で頑張っている同じモンゴル出身の第69代横綱白鵬を見ていると、彼が相撲の故実、しきたり、形式美を充分に学び、相撲界における横綱としての権威、栄誉を必死で保とうと努力している姿が伝わって来る。

過去の横綱双羽黒と同じ様に横綱朝青龍も結果として横綱と言う大相撲の看板に泥を塗る行動をとり、強制的に引退をさせられる結果となった。

そして、朝青龍の場合も双羽黒の場合も、土俵を去らざるを得なかった事件が”暴力”であり、ここに至っては誰も彼らを擁護する事が出来なかったと言う点で共通している。

もう一つの共通点は、相撲協会の興行上の事情によって、もともと人品骨柄に相当に問題があっても、格闘技の面で強いと言う事で横綱に推挙されたという背景である。

上述した様に、双羽黒のケースに至っては、人品の問題のみならず、千代の富士全盛時代だとは言え、相撲協会は反対意見を押し切って一度も優勝経験の無い彼を横綱にしてしまったのである。千代の富士が一人横綱であった為の興行上の措置であった。

朝青龍の場合も同じく相撲協会の興行上の事情が最優先された横綱推挙であった。
貴乃花が引退した2003年(平成15年)1月場所後に横綱が居なくなると言う状況で、相撲協会としては朝青龍がタイミング良く、大関で連続優勝をしてくれた為、彼の人柄、品格上の問題点は多く指摘されては居たが、横綱に推挙し、彼は史上最速での横綱昇進となったのである。

相撲はあくまでも興行である以上、こうした相撲協会の措置は止むを得なかったのであろうが結果として“横綱”と言う大相撲興行上の“大看板”、そして“権威”に大きな傷をつけて仕舞った事は確かであり、残念な事である。

上述した様に現在、第69代横綱白鵬が力士としての実力、横綱としての力量、品格と言う面でも、立派に大横綱としての道を驀進している姿を見ていると、横綱朝青龍の強制引退問題は“外国人相撲取りの問題”では全く無い事は明白である。

ひとえに、力士一人一人が、横綱という名誉ある角界の最高位の意味、日本の大相撲という世界の持つ歴史、その特異性を、日本人であれ、外国出身力士であれ、如何に深く理解し、納得し、尊重し、そして行動出来るかの問題であると思う。

従って横綱という象徴的存在である本人は勿論、親方、そして相撲協会、並びに相撲に関係する全ての人々が一丸となって日本に特異な存在として今日まで継承されて来た”大相撲”を守ると言う使命感と気概、そして何よりも愛情が無ければならないのである。

最後になるが、所詮、格闘技を興行内容とする大相撲が何故その最高位の横綱にそこまで強く”品格”を求めるのかについて補足して置きたい。

谷風、小野川に史実として初めて横綱免許状を発行したのは熊本の細川藩の家来であった吉田司家の第19世追風であった。横綱の免許状を出す家としては他にも京都の五条家もあった。
日本の相撲が古代から、朝廷の相撲節を起源として京都を中心に行われていた行事であった事から”我が五条家こそが相撲の家である”と主張し、江戸、京都、大阪の三都勧進相撲興行が許可されていた1823年(文政6年)に京都で玉垣、柏戸と言う両力士に五条家からの横綱免許が出された事があった。

しかし、この時は両力士とも五条家からの横綱免許を受け取らず、結局は宙に浮いた”横綱”となったのである。要するに五条家のこうした動きは、大衆化され勧進興行として成功しつつあった相撲興行に便乗しようとする動きであったと考えられる。

このような歴史的経緯もあって、横綱免許授与に関しては、暫くの間、京都の五条家と吉田司家との両方から出されるという両家の“権威争い”が続いたが、最終的には“吉田司家”に軍配が上がったのである。

なを、アジア太平洋戦争の戦後になって、吉田司家の第25世が一身上の都合で隠居を申し出た事を機に1950年(昭和25年)11月以降、横綱免許授与は“相撲協会”が行う様になって今日に至っている。

“横綱”という称号を作った事が横綱の土俵入りと共に大変な人気を博し、相撲興行上、非常に効果があったが、当初、横綱は番付け上の地位では無かった。
”横綱”免許状は、谷風、小野川以降、暫く出されなかった。上述の京都で五条家が横綱免許を出す動きがあった事に刺激されて1828年(文政11年)に長州藩お抱え力士であった阿武松緑之助に第6代横綱の免許状が出され、翌1829年(文政12年)には好敵手であった雲州(出雲)松平藩のお抱え力士であった稲妻雷五郎に第7代の横綱免許状が出されたのは、約40年も後の事である。

この稲妻と言う横綱は生涯の勝率は9割1分であり、双葉山の8割2厘を凌ぐ強豪横綱である。朝青龍の7割9分6厘をはるかに上回る。しかもこの横綱は相撲道の奥義を”相撲訓”として彼の人生哲学を書き添えて残している。又、俳諧にもすぐれ後人の育成も良くしたとの記録も残る横綱である。”力量、品格にも優れた力士のみに横綱の免許状”が許されたとされる“横綱のそもそもの趣旨”に添う、誰しもが認め、納得の出来る横綱の好例であろう。

当初、“横綱”は称号であり、地位では無かったと述べた。事実、谷風、小野川、阿武松、稲妻、以下第15代横綱梅ケ谷藤太郎までの番付けには全員、横綱免許が許された力士であるにも関わらず、”大関”と書かれているのである。

当時、大相撲の最高位はあくまでも”大関”であったのだ。称号であった”横綱”が”地位”へと変化する事件が起きた。第16代横綱西ノ海嘉治郎は薩摩(鹿児島)出身の力士で1890年(明治23年)の明治天皇による天覧相撲に際して横綱免許が決ったのである。

余り強い力士でなかった彼が横綱免許を受けた事に対して当時の世相を反映して”藩閥横綱”と悪口を叩かれたとの記録が残っている。
いずれにしても当時”横綱免許”は地位を意味しなかった。全場所優勝した当時の小錦(後に第17代横綱になる)の方が東の大関として番付けに載り、第16代の横綱免許を授与された西ノ海嘉次郎の名は“張出し大関”として番付けに載っていたのである。

この番付に当の横綱西ノ海は大いに憤慨し、自分は横綱免許を受けた大関だ、張り出し大関と番付に書くのなら場所の出場をしないと言って相撲協会を手こずらせた。

薩長藩閥政治がまだ大いに幅を利かせていた時代である。相撲協会も終には折れて、張出大関という番付欄の上に“横綱”と言う文字を冠することで漸く西ノ海も納得したと言う。

これが番付け上で横綱の文字が初めて登場した例であり、この処遇が後に横綱を地位化するきっかけとなったのである。

以上横綱朝青龍の実質的な解雇という事件が起こった事に関して、それは彼がモンゴル人だから起こった事件では無く、彼が相撲の歴史、故実、文化の理解が不十分なまま日本の相撲界で育ちしかも幸か不幸かその抜群の格闘技能力を生かして、日本の特異な伝統、形式、文化を古代から担って来た、相撲界という特異な世界の象徴的、かつ全体を代表する“横綱”という最高位に登り詰めてしまった事が今回の解雇事件に繋がってしまった諸理由を説明して来た。

外国人だからでは無い、と言う理由は横綱双羽黒の廃業の例で説明したし、立派に横綱の地位と伝統を守っている横綱白鵬の例でも説明した。

相撲協会が興行面の理由から、”力量、品格”の両方が伴わ無い力士であるのにも拘わらず、無理やりに“横綱”にしたケ―スもあった。そして過去の横綱双羽黒、今回の横綱朝青龍のケースに見られた様に、残念ながら横綱の名を辱める結果に終わっている事も紹介した。

大相撲の力士は格闘技の選手ではない。古くは”相撲人””相撲取り”と言われた人々が”力士”と呼ばれる様になったのには社会的立場の上昇があったからである。

古代日本の時代から相撲という存在が時の最高権力者に保護されながら存続して来た事も詳しく述べて来た。横綱とはその象徴的存在であり、古代からの神事、故実、文化を継承して来た相撲を代表する地位なのである。

横綱朝青龍の強制的引退と言う事件は非常に残念であるが、日本の国技、大相撲としては最高位の横綱の彼に“横綱の品格”を求めたのは相撲と言う世界が日本の特異性の坩堝である以上、当然の事なのである。

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