menu,css

2014年4月17日木曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代の始まりと院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
第12項:南北朝混乱の収束・・南北朝合一と足利義満


=はじめに=

この項の主題である“南北朝合一”は
A:足利尊氏・足利義詮が幕府創設後の混乱期を漸く収め、安定期を迎える
B:南朝が自壊し室町幕府第3代将軍・足利義満の幕府勢力拡大策が進み、南朝方として唯一残った九州勢力(懐良親王の征西府勢力)も討伐される
C:強大な明国が出現し、通交を望んだ足利義満だったが“日本国王”とは認められず、“冊封の資格を満たしていない”と拒絶された
D:南朝の存在価値が武将並びに南朝の公家達の間で消失して行く中で、北朝に対して徹底抗戦派の“長慶天皇”が和議派の“後亀山天皇”に譲位するという大変化が南朝で起きる
E:南朝を支えた人物が殆ど没していた
F:足利義満が土岐氏、山名氏という両有力守護の勢力削減に成功し、将軍権力・権威拡大を天下に示す
G:室町幕府が日本の統治者としての“正当性”を認められる為には天皇家が南北二つに分裂している状況は不都合事と考え“南北朝合一”に向けた本格的動きを開始する

以上7つの事柄が先ず、初代将軍・足利尊氏、2代将軍・足利義詮時代に順次解決されて行き、幕府としての土台が固まった。そして第3代将軍・足利義満が“明王朝”との通交開始の為には“南北朝合一”を成すべき課題として掲げ、成し遂げるのである。

以下にAGの事柄を順次記述して行く事で“南北朝合一”が成るまでの経緯を詳細に記述して行く。

A:足利尊氏・足利義詮が幕府創設後の混乱期を漸く収め、安定期を迎える

1:“北朝”再興直後の苦しい状況

1352年(南朝:正平7年・北朝:文和元年)・・9月27日

光厳天皇の第二皇子で14歳だった“弥仁親王”(いやひと・生:1338年・崩御:1374年)を足利幕府が強引な践祚手続きに拠って、北朝第4代“後光厳天皇(持明院統系)”として践祚させた。彼は南朝に拉致され“賀名生”に幽閉されていた北朝第3代崇光天皇(生:1334年・崩御:1398年)とは同母で4歳年下の弟であった。

1-①:後光厳天皇の実母の喪を僅か三日間の“天下諒闇”(てんかりょうあん)で済ませた史実から明らかな“北朝”並びに“足利幕府”の厳しかった台所事情

1352年(南朝:正平7年・北朝:文和元年)11月28日:

この日“後光厳天皇”の生母“陽祿門院”(正親町三条秀子・生:1311年・没:1352年)が41歳で没した。北朝方は天皇の母の死を悼む“天下諒闇”(喪に服す期間)を行う事を決定したが、戦乱が続く中、装束等を整える費用も無く、幕府側も“一塵の沙汰もしない”台所状態だった事が、阿野康子の父親で公卿の“洞院公賢(洞院公方・生:1291年没:1360年)の日記“園大暦“に書かれている。

“広義門院”の決断で最低限の三日間、朝廷が政務を停止する“廃朝”を決めているが、南朝勢力の攻撃に常に備えていた時期でもあり、幕府並びに北朝方、双方が財政困窮状態であり、政情も極めて不安定であった事を物語っている。

2.九州地区で“懐良親王”の征西府が存在感を増す

2-(1):養父・足利直義を失った“足利直冬”は九州から中国地方“岩見”に拠点を移す


1352年(南朝:正平7年・北朝:文和元年)11月:

養父・足利直義が存命中の1351年3月に“足利直冬”は“九州探題”に任命されている。
この時点で彼の勢力は他に抜きん出ていた事が“園大暦“の”観応2年(1351年)3月3日条の記事から裏付けされる。

しかし、足利直義が足利尊氏に討伐され、1352年2月26日に急死した事で“足利直冬”を頼りにしていた“少弐頼尚”は早々と彼を見限った。九州地区で孤立状態になった“足利直冬”は彼の勢力が残る中国地方“岩見”に移り、長門国の“豊田城”に拠っている。以後、足利直義派だった武将や“南朝”に近かった“斯波高経・桃井直常・山名時氏・大内弘世”等の支持を得て京を目指す事になる。

2-(2):“針摺原の戦い”で南朝方が勝利する

1353年(南朝:正平8年・北朝:文和2年)正月:

“足利直冬”が中国地方に移った為、九州地区の勢力図は1346年から幕府の九州探題に就いていた“一色直氏”勢力と“南朝”の“懐良親王+菊池武光”の“征西府軍”の二大勢力となった。一色氏と少弐氏は過去から“大宰府支配”を巡って宿敵であり、九州探題“一色範氏・直氏”父子は兵力20,000騎を以て、僅か3,000騎の“少弐頼尚”軍を殲滅する動きを見せていた。

不利な状況にあった“少弐頼尚”は(1352年に)足利直冬を見限った直後でもあり、単独で“一色範氏・直氏“父子の軍に対抗する事は不可能と判断し、これ又宿敵であった“菊池武光”に支援を求めるという苦渋の決断をして“懐良親王+菊池武光”の征西府軍(=南朝軍)と共闘して“針摺原の戦い”に臨んだのである。

2-(2)-①:“針摺原(はりすばる・福岡県筑紫野市針摺原)”の戦い

1353年(南朝:正平8年・北朝:文和2年)2月1日:

この大合戦は“南朝方対幕府”の戦いと位置付けられるが“南朝”方と手を組んだ“少弐頼尚”と九州探題“一色範氏・直氏父子”との戦でもあった。

“少弐頼尚+懐良親王+菊池武光”連合軍の構成は①懐良親王・五条親子を中心とした公家1000騎②菊池武光、並びに兄弟、城武顕、赤星武貫、大城藤次、片保田五郎等5000騎③少弐頼尚軍3000騎④その他外様豪族が“征西府軍”に続々と参加した1000騎と合わせ、総勢10,000騎であった。

一方の幕府軍は、一色範氏・直氏父子軍に大友氏時、島津氏久軍が加わり、総勢20,000騎の兵力であった。

両軍合わせて3万を超す大軍勢が古浦南方の“針摺原”で対峙、数の上では勝った“幕府軍”であったが、主戦力と頼む“大友氏時・島津氏久”軍は相次ぐ戦闘で疲労していた為、士気は高く無かった。又、戦術の上でも“少弐頼尚”軍と“征西府(懐良親王+菊池武光)軍”の連合軍が勝り、南朝方が大勝した。畿内並びに関東では勢力に陰りが出ていた“南朝”方だったが、九州地区ではむしろ勢力を拡大する勢いだったのである。

2-(3):懐良親王の征西府軍が“一色範氏・直氏”軍を長門に追い払う

1355年(南朝:正平10年・北朝:文和4年)8月~10月

8月に肥前(長崎県)国府に入った“懐良親王”は10月に博多に攻め入り、九州探題の“一色直氏”と父の“一色範氏”の軍を長門(山口県北部)に追い払っている。以後、室町幕府の出先機関が九州地区に定着出来ない状態が、後述する今川了俊が大宰府を奪還する1372年迄の17年間に亘って続く事になる。

3:強引に再興された“北朝”の“正当性欠如”に付け込み、2度目の“京占拠”を果した
  “南朝方”

足利幕府が異例の手続きを使って強引に再興した“北朝”の天皇家の権威には疑問符が付いていた。その弱点を突いて“北朝”を倒そうとする勢力が“京”奪還を試みる動きが加速した。“京都”奪還の宿願を果たせずに崩御した“後醍醐天皇”の遺志を継ぐという“大義名分”と“正当性”を掲げて“京奪還”を果そうとする勢力が“後村上天皇”を擁して足利幕府に挑んだのである。

3-(1):山名時氏・楠木正儀軍(=南朝方)が2度目の“京占拠”をする

1353年(南朝:正平8年・北朝:文和2年)6月:

1352年閏2月に“正平一統”の和談を破り“南朝方”が“京”を17年振りに占拠したが、翌3月には“足利”軍に取り戻された事は前項で記述した。所詮武力に劣る“南朝”方の“京占拠”は1カ月程で幕府軍に奪還された。

今回も南朝方は“山名時氏”と“楠木正儀”が京都に突入し、足利義詮軍を京から追い出し京を占領した。足利義詮は“北朝・第4代後光厳天皇”が南朝方に連れ去られる危険を避ける為、美濃国小島に逃れた。この地で土岐頼康(美濃守護氏・生:1318年・没:1388年)の保護下で再起を図ったのである。

この時“細川清氏”が当時15歳だった“後光厳天皇”を背負い、必死に山越えをした話が伝わっている。足利幕府にとって“正当性”と“大義名分”を確保する為の“天皇家の権威”が如何に大切であったかを象徴する話である。

“南朝方”として2度目となる“京占領”に加わった山名時氏(生:1303年・没:1371年)は足利幕府方の中心武将であった。彼が従った足利直義が没した為、その後は養子の“足利直冬”に従う事に成る。伯耆・出雲・隠岐・因幡・若狭・丹波・丹後の守護を務めた足利幕府の最有力武将の一人であった彼が“反足利幕府=南朝方”に与した理由は“出雲の守護職”を巡って佐々木道誉と対立があった為と伝わる。

この時代の武将は南朝方であれ北朝方であれ、どちらに与した方が有利かで簡単に己の主君を替えた。山名時氏も主君を足利尊氏~足利直義~足利直冬~足利義詮~足利義満と目まぐるしく代えている。後述する“大内義弘”等、有力武将の多くが同様の動きをしている。

3-(2):足利義詮が京を奪還する

1353年(南朝:正平8年・北朝:文和2年)7月:

足利義詮(足利幕府方=北朝)は“山名時氏”を追い、京を奪還、敗れた山名時氏は領国の若狭(福井県西部)に後退した。

この頃、鎌倉に居た足利尊氏は“畠山清氏”を“関東執事”に任じ、四男で13歳と未だ若かった初代“鎌倉公方”(在職1348年~1367年:生1340年没1367年)の“足利基氏”を補佐させる体制を整え、後に鎌倉を離れ、9月には“北朝第4代・後光厳天皇”を奉じて“京”に戻っている。

4:“南朝”を主導して来た“北畠親房”が没する

1354年(南朝:正平9年・北朝:文和3年)4月17日

“正平一統”が成った後、北畠親房は“足利幕府は近々尊氏と直義の内部抗争で瓦解するであろう”と判断し、軍事行使に出た。そして鎌倉、並びに京を一時的に占拠したが、足利幕府が直ちに猛反撃に出て“北朝”を再興した為“南北両朝”時代へと再び分裂状態に戻って了った。こうした状況下、北畠親房は“賀名生”で61年の生涯を閉じたのである。

この時“後村上天皇”は26歳となっていたが、北畠親房の死後“南朝”は、指導者を欠く状態となる。しかし、幕府に抵抗する武将達が“正当性”を確保し、己の大義名分を得る為に“天皇家の権威”を必要とした為“南朝”としての存在価値を持ち続け、存続して行くのである。

5:南朝に降った“足利直冬”“山名時氏”並びに“桃井直常”“斯波高経”が協力し、3度目の入京を果たす

1354年(南朝:正平9年・北朝:文和3年)12月:

九州を去り、岩見で足固めをした“足利直冬”は1354年5月には反足利尊氏派で“南朝”にも接近していた“斯波高経”(新田義貞を討った事で有名・生:1305年・没:1367年)、桃井直常(足利直義の有力武将・生:不詳・没:1376年)“山名時氏”“大内弘世”等の支援を得て、京を目指して進発し、足利尊氏軍を“京”から追い、洛中を占拠している。追われた足利尊氏は“後光厳天皇”を守って近江の武佐寺(近江八幡市武佐町)に逃れている(太平記)。南朝方として3度目の入京である。

1355年(南朝:正平10年・北朝:文和4年)1月:

“足利直冬”軍の勢力のピークは此処までで、以後、1カ月に亘って幕府方の足利義詮軍、赤松軍、京極軍との間に激戦が繰り返された。

6:足利軍の直ちの反撃で“足利直冬”軍は散々に敗れる。今回も南朝方の“京占拠”は僅か1カ月で終わる・・しかし足利尊氏はこの戦いで後の死に繋がる矢傷を負った。

1355年(南朝:正平10年・北朝:文和4年)2月~3月13日:

京を占拠された足利幕府は、足利義詮が赤松則佑(生:1314年・没:1372年)と佐々木道誉(=京極高氏・生:1296年・没1373年)の補佐を受けて“足利直冬+山名時氏”軍との激戦を1か月に亘って繰り広げた。

離反と帰参を繰り返した越前・若狭・越中の守護大名“斯波高経”(生:1305年・没:1367年)は三度も足利幕府に反旗を翻した武将だが、今回も“足利直冬”方に組して幕府と戦っている。又、桃井直常(生不詳・没:1376年)も足利直義派の有力武将だった關係から、その養子の“足利直冬”に組して共に戦っている。

この戦いで“足利直冬”は東寺の衆徒を味方に付け“東寺”を本陣とした。一方、幕府軍は“比叡山”と結んだ“足利尊氏”自らが突撃し“足利直冬”軍を敗った。しかし“足利直冬“を討ち漏らした上に、この戦いで背中に後の死に繋がる矢傷を負った。

大敗北を喫した足利直冬軍は“石清水八幡宮”へ敗走し、その他の“南朝方”は天王寺(大阪)に退いた。足利直冬を支えた“山名時氏”軍は崩壊し“南朝方”に拠る3度目の“京占拠”は今回も僅か1カ月余りで終ったのである。この記録が“足利直冬”の戦闘に関する最期のものである。

7:拉致されていた旧北朝の光厳・崇光両上皇並びに廃太子・直仁親王が京に帰還する

1357年(南朝:正平12年・北朝:延文2年)2月

南朝方の軍事行使に拠って1352年(南朝:正平7年・北朝:観応3年)6月に拉致され、その後5年間(光明上皇だけは1355年京に帰還し落髪し仏道に入っている。1380年58歳で崩御)の幽閉生活を強いられた“旧北朝の3上皇”と“直仁親王”全員が“天野山金剛寺”から京に帰還した。

この“幽閉解除”に関する決定には“足利尊氏”の動きもあったと考えられるが“南朝方の融和策の動き”だと“太平記の時代”の新田一郎氏は指摘している。幕府に対して強硬姿勢を崩さなかった“後村上天皇”の南朝方は、幕府側からの攻撃が続き“3上皇(光厳・光明・崇光)”と“直仁親王”は北朝方の攻撃の度に行宮を移す流転の生活を余儀なくされた。

“幽閉解除”に関する詳細な資料的裏付けは無いが、旧天皇家の人達に対する配慮が時間経過と共に働いたのであろう。

しかし、光厳院と崇光院が帰京した事で京で在位中の“後光厳天皇”の“正統性”に大きな動揺が走った。無理矢理に再興した“北朝”から日本の“統治者”としての“正当性”を得ている形の“足利幕府“にとっては“北朝”の正当性が保たれる事が最重要事項であった。その為、幕府にとっても朝廷政治の状況に無関心では居られず、介入を強めて行く事に成る。この事が後に第3代将軍・足利義満が“朝廷権力を吸収して行く動き”に繋がって行く。

“太平記の時代”の著者新田一郎氏は“武士達にとって南朝が次第に幕府へ対抗する勢力結集の拠点としての魅力を失って行った事、そして公家・官人達の間にも南朝方が一時的に京を占拠する毎に公事が混乱、停滞する事への不安、歎きが囁かれる様になり、加えて解官や所領没収などの厳しい処分への不満も鬱積し、南朝存在の価値が減じて行った”と指摘している。そして次第に“南朝”は自壊作用を起こして行くのである。

こうした状況下、南朝の後村上天皇の周辺では、北朝との“和睦合体”の道を求める動きがあった事が史実として認められている。頽勢を示す南朝方が北朝方との融和の道を模索する状況が生れていた時に南朝を支えて来た“北畠親房”が既にこの世に居ない(1354年4月没)事は南朝方にとっては大いなる打撃であり、結果として“北朝”との“和睦・合体”は遠い先の事に成る。

7-(1):拉致された旧北朝の3人の上皇と廃太子直仁親王について:

南朝方は幕府から攻撃される度に行宮を移している。南朝方の天皇は“流転”の生活を余儀なくされたのであるが、拉致された旧北朝の3人の上皇、並びに廃太子直仁親王も“京”に帰還する迄“流転”の時間を共にした。

旧北朝の3人の上皇と廃太子直仁親王の流転の状況は①1352年6月に先ず南朝方によって“賀名生”(奈良県五條市西吉野町賀名生)に連れ去られ幽閉された。此の地には1354年3月迄の1年半程留まり、その後②1354年3月(南朝:正平9年・北朝:文和3年)から1357年(南朝:正平12年・北朝:延文2年)2月迄のほゞ3年間を“河内天野山・金剛寺”(大阪府河内長野市天野町)の天野行宮に移され、この地での幽閉生活を送ったのである。

“南朝”方が拉致した四人を“賀名生”から“天野山・金剛寺”に移した理由について“天野山金剛寺”発行の冊子に以下の様に書かれている。

“1354年3月と言えば、まだ南朝方も“京占拠”の攻防を足利幕府側と繰り返す戦闘能力を残していた時期である。“後村上天皇”は山深い賀名生を出て、拉致した北朝の三上皇をより交通至便で京に近い天野山・金剛寺に移し、次いで自らも此の地に進出している。嘗て、兄・護良親王や父・後醍醐天皇が“建武中興”を行う際に此の地で再起を期した事に拠ったのである”

7-(2):賀名生行宮・北畠親房墓所・天野山金剛寺行宮 訪問記

拉致された三上皇と直仁親王が生活した“行宮(天皇の一時的な宮殿)”はどんな状況だったのかを知る為、訪問した。

7-(2)-①:“賀名生行宮”訪問・・2017年2月18日

大阪のJR天王寺駅で奈良行に乗り、王子駅で乗り換え、吉野口駅で下車、此処から奈良交通のバスに乗り“賀名生(あのう)バス停”で下車した。バス停から有名な“賀名生の里梅林”には遊歩道でつながっている。訪問当日は梅の開花には少し早く“梅林”は開場していなかった。

賀名生の里“歴史民俗資料館”

バス停の直ぐ前が“賀名生の里歴史民俗資料館”である。余り広く無い資料館には“後醍醐天皇南環以来57年の歴史“と題し、賀名生の行宮に関わる事柄を全て時系列に一覧表にしたボードが展示されていた。

その横に“映像シアター“と書かれた3畳程の仕切られた空間があり“賀名生の里” の行宮を初め、幕府との戦いに追われ、各地の行宮を転々とした南朝第2代(歴代第97代)後村上天皇、南朝第3代(歴代第98代)長慶天皇、そして南朝最後の第4代天皇(歴代第99代)後亀山天皇に至る南朝の歴史を約20分程のDVD映像で分かり易く紹介していた。

大農家の“堀家住宅”を南朝の行宮とした事で、展示物コーナーには堀家が天皇から拝領した品物はじめ、堀家に伝わる南朝に関わる宝物が展示されていた。

“賀名生行宮跡”・・奈良県五條市西吉野

歴史民俗資料館の直ぐ隣の“茅葺屋根”の大きな屋敷が“堀家住宅”である。遺構とされる建物の広さは外から見ただけなので分からないが、山を背にした200坪程の屋敷である。建物は工事中という事で中を見物する事は出来なかったが、屋敷の前に“賀名生皇居跡”と題した説明板が立つており、以下の様に書かれていた。

“延元元年(1336年)十二月二十一日、後醍醐天皇は京都花山院を脱出二十三日阿那宇にお着き、ここを皇居とされた。二十八日には吉野山に潜幸になっている。かくて正平三年(1348年)高師直吉野山を犯したので、後村上天皇はのがれて、九月頃賀名生の皇居にいられ、時に住吉・観心寺・天野山金剛寺に、一時は京都に還幸された。殊に正平六年(1351年の正平一統で)足利氏が帰順したので北朝の天皇の廃立を宣し、南朝の年号に統一し、神器も皇居の内侍所におさめられた。現在の堀家は、皇居の跡で普通の民家とは異例の特色ある稀有の遺構を有している(以下略)”



(賀名生行宮跡・旧堀家)
(同左:説明板)


上記にもある様に1348年9月に後村上天皇が“賀名生(あのう)”に入ったのが“賀名生行宮”の始まりであり、1354年に河内天野山金剛寺に移るまで使われていた史跡である。

7-(2)―②:北畠親房墓所訪問記・・2017年2月18日

上記した“賀名生行宮跡”や“賀名生の里歴史民俗資料館”の背後の小高い山を徒歩で15分程登ると“贈正一位北畠親房公之墳墓”と刻まれた3m程の高さの石柱が建っている。墓の前には石の鳥居があり、その奥の小山に立つ高さ1m程の小さな五輪塔が“北畠親房の墓”であった。今日では訪ねる人も少ないのであろう“墓地”の横には“廃校跡”と分る広い敷地があり、雑草が生える侭に放置されていた。誇り高い“准后”北畠親房の墓所としては淋しい限りの景観であった。

 
(裏山の北畠親房墓所)
(同左奥の小山にある墓石)


北畠親房が賀名生の地で62歳で没したのは1354年(南朝:正平9年・北朝:文和3年)4月である。彼の死後“南朝”方には指導者が居なくなった。

7-(2)―③:“天野山金剛寺行宮”訪問記・・2017年3月12日

大阪駅から天王寺に出て、近鉄南大阪線に乗り換え、河内長野駅で下車、そこからバスで“天野山バス停”で降りると直ぐ側に“天野山金剛寺”がある。大阪の市内からは1時間半程である。寺の説明板には以下の様に書かれていた。

奈良時代に行基が開創し、弘法大師が密教の修行をした地と伝えられ、女人高野・天野行宮の名で知られる寺である。南北朝時代には、後村上天皇の行在所となり、以後南朝三代にわたる行宮であったことから、歴史上天野行宮と呼ばれている。又、建築物や寺宝の中に国宝・重要文化財も多い。室町時代に造られたとされる庭園は一見の価値がある。


 
(重文:天野金剛寺樓門)
(三上皇が拉致され幽閉された御座所)


説明板に、金剛寺が北朝3上皇の拉致・幽閉の場所であったとの表現は見当ら無い。又“金剛寺小史”と題する小冊子にも“正平9年(1354年)後村上天皇は、山深い賀名生より先ず人質の北朝の三院を金剛寺に移し、次いで、みずからもこの交通至便な地に進出した“と書かれているが”幽閉“とか”拉致“という表現を用いていない。

又“正平9年(1354年)南北両朝を金剛寺に迎え(以下略)”と表現し“南朝方”が行った北朝3上皇と廃太子・直仁親王の“拉致・幽閉”の表現も用いていない。

我々の学生時代の日本史の授業でも“北朝の三上皇が南朝方に拉致され、幽閉されていた史実に就いて、教師の口から詳しく教わった記憶が無い。この史実を教師の口から生徒達に伝える事は授業として憚られた為か、或は必要無しと考えられたのであろう。

“金剛寺”全体の敷地は南北に220m東西80m程であり、南朝の政庁区画と北朝の3上皇等が幽閉された区画との二つに分かれていた。

重要文化財の桜門を入ると右側が“食堂”と呼ばれる重要文化財の建物である。ここが当時の“南朝の政務所”だったとの説明があった。西側に“後村上天皇お手植え桜”があり、鐘楼・金堂・多宝塔・経蔵・薬師堂等、通常の寺に見られる建物が並んでいる。いずれの建物も重要文化財である。

御影堂(観月亭)と呼ばれる重文の建物には“観月亭は南北両朝の天皇上皇が観月されたところで吉野朝時代に付け足された“と書いてある。拉致された旧北朝方の”三上皇“と南朝の“後村上天皇”が立場は異なるが、同じ”天皇家“として優雅な時を過した事もあったのであろうかと想像を廻らせた。

この区画の隣が“南朝の行在所”であった“摩尼院”である。残念ながら当日は工事中の為、中に入る事は出来なかった。その東側が旧北朝から拉致され、幽閉された“三上皇ならびに廃太子”の“北朝御座所(奥殿)“である。此処は中を見物する事が出来た。写真を載せたが立派な御簾が掛けられた御座所であった。全体として決して広く無い屋敷に“光厳上皇・光明上皇・崇光上皇“が幽閉されていたのかと考えると、南北朝の混乱期に身を置いた当時の“天皇家”の人々故の厳しい状況が偲ばれた。

室町時代に造られたとされる小じんまりとした庭園も一見の価値のある美しい庭であった。庭園の前の建物が“宝物館”であり、国宝の剣、並びに“延喜式・巻十四”その他、平安・鎌倉・室町時代の重要文化財が多く展示されている。

8:足利尊氏が没し足利義満が生まれる・・1358年(南朝:正平13年・北朝:延文3年)4月30日、8月22日


足利尊氏は1352年2月に幽閉中の弟“足利直義”が没した頃から病気がちと成り、1358年(南朝:正平13年・北朝:延文3年)㋃30日に没した。53歳であった。

彼の死因は既述した“足利直冬”軍を京の東寺から追い出した1355年2月~3月13日の戦いの際に負った背中の矢傷が元で、傷口から細菌に感染し、癰(よう=腫物)になった為だと伝わる。足利尊氏は自ら突撃し、勝利はしたものの肝心の足利直冬を討ち漏らした上に背中に矢を受け負傷した。その傷はなかなか治癒せず病気がちの足利尊氏を弱めて行ったのである。

8-(1):傷口の悪化、体調不良にも拘わらず、九州遠征を要請された足利尊氏・・足利義詮が諌止する

1358年(南朝:正平13年・北朝:延文:3年)3月:

死の2カ月前であるから、足利尊氏の体調は相当に弱っていたものと思われるが、九州地区の薩摩守護職・島津師久(もろひさ・生:1325年・没:1376年)からの要請に応じて自ら遠征する決断をしている。しかし、嫡子・足利義詮が諌止している。

8-(2):足利尊氏が死を賭してまで遠征を決断する程に混沌としていた九州地区の状況

8-(2)-①:無力を晒した九州探題“一色氏”

九州地区で“懐良親王”の与党として“菊池武光”が征西府の勢力拡大に奮戦していた一方で、幕府方で九州探題の任にあった“一色直氏”そして父の“一色範氏”は為す術も無い状態であった。

8-(2)-②:九州南部地区では“畠山直顕”が幕府方を分断状態に陥れていた。

九州南部も混乱状態であった。南九州に於ける“南朝勢力討伐”の為に1338年前後から畠山直顕(ただあき・生没年不詳)が“国大将”として足利尊氏から派遣され、1345年には“日向守護“に任じられその勢力を大隅(鹿児島県東部)に迄拡大していた。その畠山直顕と“薩摩、大隅、日向3国の守護職は源頼朝から与えられたものだ”と主張する“島津貞久”(生:1269年・没:1363年)との間には争いが絶えなかった。

1350年頃に、足利尊氏との対立が明確と成った足利直義派として“畠山直顕”は動き、足利直義没後は、養子の“足利直冬”に組して、幕府の意向を無視して“領国化”を推し進める様に成った。しかし1357年に“志布志城の合戦”で、対立した島津貞久の四男“島津氏久”(生:1328年・没:1387年)との戦いとなり、敗れ、又、同年、南朝方の“菊池武光”軍にも敗れて1358年には豊後(大分県中部、南部)へ遁走した。この記録を最後にその後消息は全く伝わっていない。

8-(2)-③:足利尊氏・義詮父子にも掴めなかった“九州南部”の状況

以上の様に九州南部も混沌とした状況にはあったが、九州地区の主たる動静としては“懐良親王”とその与党の“菊池武光”が勢力を拡大していた。南朝勢力を抑えるべき役割の幕府の九州探題“一色直氏“が九州から追われた事は既述したが、1355年には父親・一色範氏と共に“長門国”に逃亡、更に1358年には“京”に逃げ帰るという体たらくだった。

幕府が一色直氏に代えて九州探題として斯波氏経(斯波高経次男・生没年不詳)を派遣するのは足利尊氏没後の1361年迄待つ事になる。

こうした九州の混乱状態を裏付ける史料として、足利尊氏・義詮父子が“一色範氏”(生:1300年・没:1369年)と“大友氏時”(豊後・豊前・肥後・築後国守護・生:不詳・没:1368年)に“一体、畠山と島津は何方が幕府方なのか?“と、詰問状を送ったものが残っている。

これに対して一色範氏は“島津貞久は味方、畠山直顕は敵”と答え、大友氏時は“観応の擾乱終了(1352年9月以降は南北両朝の武力攻防が繰り返された)以降は何方が敵か味方かは計りかねる“と回答している。一色氏の回答並びに大内氏の回答から見える事は、当時の足利幕府が九州地区を“統治下”に治めていなかったという事である。

8-(2)-④:死を直前にした足利尊氏に九州出陣を要請した島津師久について

島津師久(生:1325年・没:1376年)の父親・島津貞久(生:1269年・没:1363年)は既述した様に薩摩・大隅・日向三国の守護職は“源頼朝”から与えられたものだと幕府に主張し続けて譲らなかった人物である。足利尊氏を助けて南九州で南朝方と戦い、苦戦の末一時的に南朝の軍門に降らざるを得なかったが“観応の擾乱”が終結すると幕府方に復帰した。

1363年に94歳に達していた島津貞久は“薩摩守護職”を三男の“島津師久”に譲り、前記した1357年の“志布志城の合戦”で“畠山直顕”を打ち負かした四男の“島津氏久(生:1328年・没:1387年)“に”大隅国守護職“を譲っていた。

“島津師久”は死の直前の足利尊氏に九州遠征を要請したとされるが、既に“畠山直顕”討伐も“志布志城の戦い(1357年)”で済んで居り、先述した“詰問状”を発した様に、南九州の混沌とした状況に疑念を抱く足利尊氏を気遣っての“親征要請”であったのであろう。

8-(3):足利尊氏没す

1358年(南朝:正平13年・北朝:延文3年)4月30日

3月に九州遠征を諌止された足利尊氏は京都・二条万里小路邸で死去。53歳であった。墓所は京都の“等持院”と鎌倉の“長寿寺”にある。

8-(4):足利義満誕生

1358年(南朝:正平13年・北朝:延文3年)8月22日

尊氏の死後ほゞ100日目に孫で足利幕府第3代将軍と成る足利義満が生れた。父親・足利義詮の正室・渋川幸子との間に生まれた“千寿王”が夭折し、その後、渋川幸子との間に子が出来なかった為、側室の“紀良子(きのよしこ・生:1336年・没:1413年)との間に生まれた義満が嫡男として扱われた。

等持院訪問記・・2012年1月8日(日)&2016年7月6日(水)

等持院は京都駅から市バスに乗って立命館大学正面で降り、南へ徒歩10分程の処にある。幕府を開いた3年後の暦応4年(1341年)に足利尊氏が天龍寺の“夢窓国師”を開山に迎えて創建した足利将軍家歴代の菩提所である。

今日の等持院は余り広大では無いが、夢窓国師作とされる庭園があり、心字池の対岸の小高い処に清漣亭(茶室)がある。この茶室で後に足利義政(室町幕府八代将軍・生:1436年・没:1490年)が村田珠光(わび茶創始者・生:1422年・没:1502年)や相阿弥(そうあみ・絵師、連歌師、茶道家・生:不詳・没:1525年)と茶を楽しんだとされる。

心字池の中央部に足利尊氏の墓とされる石造りの宝筐印塔(ほうきょういんとう=墓塔、供養塔などに使われる仏塔)があり、石造りの台座には“延文三年(1358年)四月“の文字が刻まれている。尊氏の命日を示すものと考えられる。この時代の墓はどれも質素であるが、尊氏の墓も高さ1m程の質素なものである。

本堂には足利尊氏が日頃、念持仏として信仰した“利運地蔵尊”が本尊として祀られている。本堂と渡り廊下でつながる“霊光殿”の“足利歴代の将軍像(木造)”が有名だが、この歴代将軍像(木造)に就いては歴史的な話題があり、以下に簡単に紹介して置きたい。

(1)13人分の将軍木像しか無い理由

一般的には足利幕府(室町)の歴代将軍は初代足利尊氏から第15代足利義昭までとされている。しかし“等持院”の木像は“第5代足利義量(よしかず・生:1407年・没:1425年)”と“第14代足利義栄(よしひで・生:1538年・没:1568年)“の二代が歴代将軍に数えられていない為、木像は13人分だけである。

足利義量は病弱で僅か17歳で早世した為、引退していた父・4代将軍足利義持が“将軍代行“として戻った為、歴代将軍として扱われていない。又、足利義栄は実権を持たされず、且つ、一度も上洛出来なかった上に、将軍職にも僅か半年間就いただけで“織田信長”が奉じた“足利義昭”に奪われたという最も影の薄い将軍であった為との説明があった。

(2)足利三代木像梟首(きょうしゅ)事件

文久3年2月22日(1863年)に尊王攘夷派で平田派国学(平田篤胤・生:1776年・没:1843年)の門人と言われる15~20人程が足利尊氏、義詮、義満の3代の木像の首を斬り、目をくり抜いて位牌と共に三条河原に晒し、その横に斬奸状(悪人を斬る)が掲げられた事件が起こった。

朝廷を悩まし、政権を簒奪した対象として源頼朝、それを継いだ北条氏、並びに足利三代(尊氏・義詮・義満)を逆賊だとして“木像梟首“の行動に出たのである。

斬奸状の末尾には“鎌倉以来の悪弊を掃除し、朝廷を補佐し奉りて、古昔を償ふ処置なくんば、満天下の有志、追い追い大挙して罪科を糾すべき者なり“と訴え“徳川幕府”をあからさまに非難し、倒幕の意思を示す文書であった。

当時の京都守護職にあった松平容保(会津藩主・生:1835年・没:1893年)はこの行動に激怒し、4月に犯人は捕縛され、6月に処罰された。以後松平容保は壬生浪士(後の新選組)を使って幕府を守るという強行姿勢に転じるが、その切っ掛けと成った事件とされる。

(3)足利義満像の座る台座だけが“天皇の台座”と同じとされる理由

足利義満が“公武”双方、即ち“幕府権力”と“朝廷(北朝)権力”を握った史実、その経緯については後述するが“等持院”の木像台座を見ると足利義満像が座る台座だけが他の12人と異なり“天皇の台座”と同じ格式のものとされる。

“南北朝合一”を果たした足利義満は重要課題であった“明国”との通交開始を成し遂げるが“対明貿易”開始に際しては、自身を“日本国王”と表現している。足利義満は内裏に於て法皇並みの待遇を求め、又、其れだけの“実権”を持つた。“等持院”の木像台座はそうした“史実”を裏付けるものである。

9:“足利義詮”が第二代足利幕府将軍に就き“斯波高経”の働きで“安定化”が進む

1358年(南朝:正平13年・北朝:延文3年)12月18日

足利義詮が征夷大将軍の宣下を受け、28歳で足利幕府第2代将軍に就いた。

足利幕府の長老格であった“斯波高経”は自身も“足利義詮”に叛旗を翻し1353年6月には楠木正儀らと共に一時的に入京を果し、翌1354年12月にも亡き“足利直義”の養子“足利直冬”を奉じて“桃井直常”と組んで再び京を占有した人物である。しかし、既述した様に1356年には“足利直冬“から離反し、再び足利幕府に帰参した。

その“斯波高経”は有力守護大名の山名時氏(伯耆・出雲・隠岐・因幡・若狭・丹波・丹後国守護・生:1303年・没:1371年)や、西日本の有力守護大名で、1353年に鷲頭一派から“周防”の守護大名を勝ち取り、1358年には厚東氏を追い“長門国”を平定した“大内弘世(生:1325年・没:1380年)”など“足利直冬”方として幕府に抵抗していた武将を1363年迄に次々と説得し、幕府方に帰順させるという功績を上げている。

“大内弘世”に対しては“防長両国の守護職を認める”事を条件に1363年9月に、そしてその直後に“山名時氏”も“領国安堵”を条件に幕府へ帰順させた。この結果、両者共に“足利直冬”から離脱し“反幕府勢力”にも陰りが見え、足利義詮が将軍職に就いて5年後には幕府は“安定化”に向かい始める。

10:九州地区で健闘する南朝方・・“筑後川の戦い”で幕府方に勝利し、以後13年間に亘って九州を支配する

10-(1):九州地区で“足利幕府”方を次第に凌駕する“南朝方”勢力

10-(1)-①:“南朝方”勢力

1352年5月までに足利幕府内の内乱である“観応の擾乱”を終息させ、次いで“男山八幡(石清水八幡宮)の戦い“でも南朝方に勝利した足利幕府にとって、更に1354年4月に“北畠親房”が没した事は、幕府に対抗し得る勢力が九州地区の懐良親王と与党の“菊池一族”が組する“征西府”だけになった事を意味した。

“征西府”勢力は、先の“針摺原(はりすばる・福岡県筑紫野市針摺原)の戦い=1353年2月)の勝利に続いて、1358年(南朝:正平13年・北朝:延文3年)11月にも南九州で敵対していた“日向国”の畠山直顕を敗った事で、幕府方を凌駕する勢力と成っていた。

南朝方は、高良山(福岡県久留米市)の主峰・毘沙門岳(標高312m)の毘沙門城(別所城)に“征西府”を置き、懐良親王・菊池武光・赤星武貫・宇都宮貞久・草野永幸・大野水隆・西牟田讃岐守など、凡そ4万の兵力を擁し、更に拡大する勢いであった。

10-(1)-②:“幕府方”勢力

一方幕府方は“針摺原の戦い(1353年2月)”で“一色氏”を討つ為、戦略として一時的に南朝方(菊池武光)と組んだ“少弐氏”が“一色範氏・一色直氏”父子が長門国に去る(1355年)と“今後子孫七代に至るまで、決して菊池氏に弓を引く事はありません”との起請文をを破棄して“北朝”方に寝返った。

結果、九州地区の“北朝”方は “少弐頼尚”(大宰府本拠・筑前・豊前・肥後・対馬国守護職・生:1294年・没:1372年)少弐直資(ただすけ・頼尚の長男・生年不詳・没:1359年)、大友氏時(生年不詳・没:1368年)、城井冬綱(=宇都宮冬・生没年不詳)等の凡そ6万の兵力と成り、数の上では“南朝”に対して遜色は無かった。

10-(2):“筑後川の戦い”(大保原の戦い・大原合戦)でも”南朝方”が勝利する

1359年(南朝:正平14年・北朝:延文4年)8月6日

“南朝方”4万“幕府方”6万、両軍合わせて10万の兵が筑後川の両岸に対峙し、九州史上最大の合戦となった。この戦いは、関ケ原の戦い(1600年9月)、川中島の戦い(1553年~1564年の間に計5回)と並んで“日本三大合戦”とされ、頼山陽(歴史家・漢詩人・生:1781年・没:1832年)はこの戦いの苛烈さを詩に歌っている。南朝方では懐良親王、菊池武光が負傷し、足利(北朝)方では少弐頼尚の長男・少弐直資が戦死し、両軍合わせて4,800余人が討ち死した。戦闘は“南朝“方が勝利し“幕府”方は“大宰府”に逃れた。

尚、福岡県三井郡には“筑後川の戦い”で勝利した南朝方の“菊池武光”が刀の血糊を洗った事に由来す“太刀洗町”の地名が残っている。

11:“足利義詮政権”時に“執事”間の“主導権争い”が続いた事が“南朝”を延命させる

11-(1):“仁木義長”が排斥され“細川清氏”が足利義詮の執事に就く。“仁木義長”は抵抗する為、南朝に降る

11-(1)-①:足利尊氏の“執事職”を務めた“仁木頼章”が没する

足利家の“執事職”は“高師直”が1351年2月に滅びた後、1351年10月に“仁木頼章(にきよりあき・生:1299年没:1359年)”が就いた。仁木氏は、細川・高・上杉氏と共に足利氏“家臣団”の主要メンバーであり“仁木頼章”は丹波・丹後・武蔵・下野の守護大名に任じられていた。しかし1358年4月に足利尊氏が没すると執事職を退き出家して翌1359年に京都で没した。

11-(1)-②:兄の栄達に浴していた弟の“仁木義長”が排斥され、南朝に降る

“仁木頼章”の弟の” 仁木義長“(生年不詳・没:1376年)は兄の栄達に浴して伊勢・伊賀・志摩・三河・遠江の守護職を兼帯し、兄と合わせて“仁木兄弟”で九カ国の守護職を占め、足利幕府最有力の幕閣と成っていた。しかし“仁木義長”は驕慢で奢侈を好み、諸将との軋轢の多い人物であった。

1360年7月~1361年10月(南朝:正平15年~16年:北朝:延文5年~延文6年):

“足利義詮”が第2代足利幕府将軍に就く(1358年12月)2カ月前に執事職を辞し、出家した“仁木頼章“の後任には1353年に北畠親房・楠木正儀が京都を襲撃した際に足利義詮を守って殿(しんがり)を務め、直後の“京奪還”の戦いでも活躍した“細川清氏”(生年不詳・没:1362年)が就いていた。

就任後、細川清氏は“鎌倉府”の“初代・鎌倉公方・足利基氏(足利尊氏四男・生:1340年・没1367年)”の下で関東執事職にあった“畠山国清”(生:不詳・没:1362年)と結託して、以前から確執のあった“仁木義長”排斥に動いた。排斥の動きを察知した“仁木義長”は対抗して将軍“足利義詮(当時30歳)”の身柄確保を図ったが失敗し、本国の“伊勢”に逃れ、1361年10月“南朝方”に降った。

“主導権争いに敗れた武将達が“南朝”に降って“己の正当性と大義名分を得る’行動が南朝を延命させた事は既述した通りであるが、足利幕府最有力の幕閣にもこうした動きが起り“仁木義長”がその第一号とされる。安定化に向っていた幕府内で主導権争いが起こったのである。

12:“南朝”方が“大宰府”を抑える。

1361年(南朝:正平16年・北朝:康安元年)8月:

一方、九州地区では“南朝方”が更に勢いを伸ばす。南朝方の“菊池武光”が宿敵“少弐頼尚”の隠居でその後を継いだ次男“少弐冬資”(しょうにふゆすけ・生:1337年・没:1375年)“軍と戦い、筑前で敗った。

“懐良親王”は大宰府に迎えられた。九州地区に於ける“南朝方”は絶頂期を迎えて居り、この状況は幕府が“今川了俊”(生:1326年・没:1420年)を派遣し、大宰府を奪還する1372年迄の11年間の長きに亘って続く。

13:止まらぬ足利義詮政権内の主導権争い・・“康安の政変”で幕府の執事“細川清氏”が追放され、彼も又、南朝に降る

13-(1):執事“細川清氏”の追放

1361年(南朝:正平16年・北朝:康安元年)9月:康安の政変

1358年10月に執事に就いた“細川清氏”は1360年5月に南朝方“楠木正儀”を“河内赤坂城の戦い“で破り、又“仁木義長”を追い落し、幕政の実権を握った。しかし政治手法の強引さから政敵も多かった上に“将軍の裁判権”に干渉する動きをする等 “将軍・足利義詮”の意に逆らう事も多く、両者の関係も悪化した。

“将軍足利義詮”が北朝第4代“後光厳天皇”に“細川清氏追討“を仰ぐ事態となり、それを知った細川清氏が弟の細川頼和と共に分国の若狭(福井県西部)に逃げ延びた。これが“康安の政変”である。裏でこの政変を主導したのは“細川清氏”の最大の政敵で、当時65歳になっていた“佐々木道誉”(生:1296年没:1373年)だったと“太平記”では記している。又、今川貞世(=了俊)が著した“難太平記”にも“細川清氏は無実で佐々木道誉らに陥れられた”と記している。

13-(2):“細川清氏”追放後に政治の実権を握った“斯波高経”

執事“細川清氏”が追放された後、執事職は1362年迄空席であった。こうした状況下で実権を握ったのは“尾張足利家”と号して他の足利一門とは一線を画す高い家格を誇った“斯波高経”(しばたかつね・生:1305年・没1367年)であった。“斯波高経”は“足利尾張守高経”と表記される場合もある。

尚、尾張足利家は斯波高経の4男の斯波義将(しばよしゆき・生:1350年・没1410年)“以降、正式に“斯波氏”と称する事になる。“佐々木道誉”が“斯波氏”に加担した理由は彼の娘が“斯波高経”の3男“斯波氏頼”に嫁いでいたからとされる。

13-(3):“斯波高経”軍に敗れた“細川清氏”も南朝に降る

1361年(南朝:正平16年・北朝:康安元年)10月:

足利義詮が“後光厳天皇”に要請した“追討令”を無実だと主張した“細川清氏”だったが、斯波高経(尾張足利氏)軍との戦いと成り、敗れ、その後“南朝”に降る結果となった。“仁木義長”は細川清氏に追放され“南朝方”に降ったが、今度は全く逆の立場に“細川清氏”が立たされ、幕府から追われ、南朝に降る結果と成ったのである。

“幕府から追われた武将達が幕府と戦う側に立ち、己の”正当性“と”大義名分“を獲得する為に”南朝“を手段として利用するのが、当時頻繁に見られた行動だと何度も述べたが”細川清氏“のケースもその行動形態となった。最早、国として体を成さない状態の”南朝“はそうした武士達に利用され存続して行ったのである。

13-(3)-①:“細川清氏”等の“南朝方”が京を占拠する・・南朝方最後の“京占拠”

1361年(南朝:正平16年・北朝:康安元年)12月末:

南朝に降った“細川清氏”が“楠木正儀”並びに“石塔頼房(生:1321年没1413年)”と共に京を攻め、僅か20日余りではあったが“京”を占拠した。

楠木正儀は“正平一統”後の1352年(南朝:正平7年・北朝:観応3年)に北畠顕能、千種顕経等と共に入京を17年振りに果たした経験、更に、1354年にも足利直冬と共に入京を果した(2度目)経験を持つ。従って今回の“細川清氏”との“入京”は、楠木正儀にとっては実に3度目であった。

共闘仲間の武将“石塔頼房”も1353年に“足利直義”に従って入京を果たし“足利義詮”を美濃に追い、又、翌1354年12月には“足利尊氏”を近江に追うなど、足利幕府側を大いに悩ませた南朝方の有力武将である。今回、細川清氏・楠木正儀・石塔頼房の連合軍に京を追われた足利義詮は“後光厳天皇“を守って近江へ逃れている。この時、後の室町幕府・第3代将軍となる“足利義満(生:1358年・没1408年)”は未だ3歳の幼児で“赤松則祐(あかまつのりすけ・生:1314年・没1372年)“が播磨の“白旗城”に避難させている。

13-(3)―②:足利義詮軍が反撃に移り、直ぐに京を奪還する。

1362年(南朝:正平7年・北朝:康安2年)正月:

幕府軍(=足利義詮軍)は近江に逃れたが、体制を整えると直ぐに反撃に移った。“細川清氏”等の“南朝軍”は今回も僅か20日余りで京を追われた。この4度目の入京が“南朝”方に拠る最後の京占拠であった。

13-(4):細川清氏の最期

1362年(南朝:正平17年 北朝:康安2年)3月~7月24日:

京から追われた“細川清氏”は阿波に逃れ、その後“讃岐”に移って抵抗を続けた。将軍足利義詮は細川清氏の従弟の阿波国守護“細川頼之”(後の1366年・貞治の変で斯波高経・義将父子が追討され、その後、第2代・幕府管領になる人物・生:1329年・没:1392年)に“細川清氏討伐”を命じた。

1362年7月24日に四国讃岐の白峰城で両軍の合戦と成り“細川頼之”軍の陽動作戦に乗せられた“細川清氏”は兵を分断され、僅か36人となり全滅したとの説が残る。

史蹟訪問記・・2017年9月10日

四国香川県坂出市林田町にある史跡を訪ねた。①三十六古戦場②細川将軍戦石碑③乃木将軍遺愛地碑の碑が建つ史跡である。全くの田園風景の一角にこれらの記念碑が建つ。交通の便が少ない為、我々は時間の都合もあり、坂出駅からタクシーを利用した。凡そ15分程の距離であった。
 

(三十六古戦場記念石碑と筆者)
(同左説明板)


昭和35年(1960年)9月建立と刻まれた立派な石碑“三十六古戦場記念碑”には

(前文省略)足利氏の武将細川清氏至誠義勇の士夙に二代将軍義詮を補佐し武功ありて重用せらる然るに故ありて南朝に降り後村上天皇の勅命を奉し四国に勤王の義軍を起し一族と共に讃岐に入る阿讃の兵忽ち数千其麾下に屈し(略)北朝方の武将細川頼之の宇多津城に対峙す頼之智謀の将一挙に四国制覇の雌雄を決せん以て高屋城を急襲す清氏陣頭に指揮すれとも寡兵及ばず遂に敵将伊賀高光に刺殺せられ多くの将兵里人戦死す(略)時貞治元年七月二十四日と太平記に録す(略)文久二年(1862年)正月北庄司富家惣次郎の発起により五百年祭執行せられ以後毎年(略)”

と長文で刻まれていた。

“三十六”の地名は戦場で細川清氏軍が分断され、僅か36人の従士だけと成り、力尽きて主従共に自刃したとの伝承に基づくとの説があるが、上記石碑には全くその記述は無い。三十六の語源は古代の条里制又は民間信仰にその由来があるとの説があるとされる。

この史蹟地に日露戦争時の大砲の砲弾3個が台石の上に置かれた碑がある。大正二年九月に建立された“乃木大将遺愛地碑”である。細川清氏と細川頼之との合戦で乃木大将(希典・生:1849年・没:1912年・日露戦争で旅順包囲戦を指揮)の遠祖に当たる“乃木備前次郎”が細川頼之の家臣として戦い、戦死した。乃木希典大将が善通寺第十一師団長として赴任していた時に、夫人と共に此の地を訪れ、先祖を偲んだ事に因んで建立された石碑との事である。

14:初期足利幕府に安定をもたらした“斯波高経”の政治

14-(1):“斯波高経(生:1305年・没1367年)”という人物

斯波高経が当時の多くの武将に見られた様に、目まぐるしく南朝方と幕府方の間を往復する行動を繰り返した武将であった事は既述の通りである。結果的に初期足利幕府が軍事政権から脱し、政治的安定期を迎えるに際して多大な貢献をした人物である。

14-(1)-①:“細川清氏”失脚の後に“執事職”に就かなかった誇り高き武将

1362年(貞治元年):

“斯波高経”は“足利尊氏”が没する(1358年㋃)と剃髪し“道朝”の法名で第2代将軍“足利義詮”の補佐役に就いた(1358年12月)。1361年9月の“康安の政変“で”細川清氏“が失脚するが、未だ26歳と若かったものの、既に剃髪した身であり、自ら“執事”に就く事はしなかった。代わりに偏愛した僅か12歳の四男“斯波義将(しばよしゆき=生:1350年・没1410年)“を“執事職”に就け、自分は後見人として実質的に幕政の実権を握ったのである。

斯波高経が“執事職”に就かなかった理由として“斯波家は足利一門の中で最高の家格であり“執事(後の管領職)は家人の”高氏“や外戚の”上杉氏“が就く職格であり、斯波家の当主が就くには相応しく無い職格だと考えたからだとの説もある。斯波家は室町時代を通して“三管領の筆頭”と成るが、それは上記“斯波義将(斯波氏5代目当主)以降の事である。

斯波高経は更に五男の斯波義種(しばよしたね=生:1352年・没1408年)を“小侍所頭人”に就け、孫の“斯波義高”を“引付衆”に就けた。かくして“斯波高経”の時代は足利幕府の中枢が“斯波一族”で占められたのである。

14-(1)―②:“斯波高経”が積み上げた功績と対立

 功績 

“斯波高経”は将軍、並びに幕府権威の向上に腐心し、幕府の安定化に多大な貢献をした人物であった。中でも足利義詮が将軍に就いた後、西国の有力守護大名“大内弘世”と“山名時氏”を“幕府方”に引き入れる事に成功した事は大きな功績とされる。

大内弘世(おおうちひろよ=生:1325年・没1380年)は一時“足利直冬”を盟主として“南朝方”に与し、1358年頃には周防(山口県南部・東部)と長門(山口県北部・西部)両国の守護となった有力武将である。

山名時氏(生:1303年・没:1371年)は当初は“足利尊氏”に従い、後には“足利直義”に従ったが“足利直義”が“観応の擾乱”で滅びた後に再び幕府側に転じたものの、佐々木道誉と対立し幕府を離れている。

1353年6月には“楠木正儀”等と共に“足利幕府”に対して挙兵し“足利義詮”を追い、南朝方として2度目となる“京占領”を果している。1355年1月には“大内弘世”と同様、足利直冬を奉じて“斯波高経”や“桃井直常”等と共に南朝方3度目の“京占拠”を果した(既述の様に直ぐに幕府側に奪還されてはいるが)敵に廻すと手ごわい武将であった。

まだまだ脆弱だった足利幕府にとって、山陰地方屈指の有力守護の両名を足利幕府方に帰順させた“斯波高経”の手腕は足利幕府を安定化に向かわせる事に大いに貢献したのである。

“斯波高経”の功績は財政面でも大きい。例えば、諸侯に賦課する武家役(税金)を従来の50分の1から20分の1に引き上げ、幕府経済の充実を図った事が挙げられる。他にも、将軍邸の造営費を諸侯に負担させる事で“足利幕府第2代将軍足利義詮”の権威の向上を図り、幕府の安定化を進めた事も彼の大きな功績とされる。

“佐々木道誉”との対立

1362年(南朝:正平17年・北朝:康安2年)7月23日:

“斯波高経“は非常にプライドの高い人物であったと同時に、強引な政治手法を用いた為に周囲から恨みを買った。その切っ掛けが“佐々木道誉”との対立であった。

足利尊氏と常に行動を共にして戦い、足利幕府創設の立役者である佐々木道誉(=京極高氏)も既に66歳に達していた。彼は足利尊氏が没した後も2代将軍に就いた足利義詮の絶大な支持を得て“執事の任免権”を握り、事実上の幕府の最高権力者とも言える立場であった。

佐々木道誉の娘が斯波高経の3男・斯波氏頼(生没不詳)に嫁いでいた為、彼は“斯波氏頼”を執事職に推したのである。しかし“斯波高経”には溺愛する4男で未だ12歳だった“斯波義将“が居り、結果的に”斯波義将“が執事職に就く事になった。しかも“斯波高経”は自らが後見人に就く事で、事実上の政治の実権を握ったのである。この事が以後“佐々木道誉”との対立を本格化させる。

“斯波高経”の強引な政治手法は、佐々木道誉はじめ、諸侯、並びに周囲からも多くの恨みを積み上げて行った。具体例として“佐々木道誉”が“南朝軍”の摂津侵入を阻止出来なかったとして彼の“摂津守護職“を解任した。日頃”斯波高経“の政治に不満を抱く武将達がこの解任に反対し“斯波高経討伐”を掲げて洛中に集結する騒動に発展した。この史実は“三条公忠(生:1324年・没1384年)”の日記“後愚昧記”によって裏付けされている。

1364年(南朝:正平19年・北朝:貞治3年):

“斯波高経”の“佐々木道誉”との対立はエスカレートして行く。足利幕府第2代将軍・足利義詮の権威向上の為、三条坊門に“幕府の御所”の造営を諸侯に命じていた“斯波高経”が、佐々木道誉の婿の“赤松則佑(あかまつのりすけ・生:1314年・没:1372年)“の工期が遅れた事を理由に、彼の所領を没収している。

同年 12月:

更に“佐々木道誉”が関係した“五条大橋造営奉行”の仕事が遅いとして“斯波高経”自らが工事を勝手に終わらせてしまった。この事で佐々木道誉に恥をかかせたという事件も記録されている。両者の対立が決定的になった事件は、諸侯が負担すべき“20分の1税”を佐々木道誉が滞納したと“斯波高経”がクレームを付け“摂津多田荘”を没収し、これが“貞治の変”へと発展した。

“貞治の変”

当時の武将にとって“領地没収”は命を取られるに等しい事である。流石の“佐々木道誉(当時70歳)”も堪忍袋の緒を切り“斯波高経”の政治に不満を抱く守護層を結集し“斯波高経“並びに、管領職にあった“斯波義将”(当時16歳)を失脚させる政変を起こした。

1366年(南朝:・正平21年 北朝:貞治5年)8月8日:

足利幕府の執事”仁木義長“も”細川清氏“も失脚し“南朝”に降ったが“将軍・足利義詮”の信任が厚かった“斯波高経”までもが余りにも強引な政治手法の為に多くの対立を招き、事もあろうに、幕府創設の立役者“佐々木道誉”を敵に回したのである。

佐々木道誉は“斯波高経の陰謀が露見した”と讒言に及んだ。将軍足利義詮は軍勢を三条坊門の幕府に集結させ、斯波高経に“守護国越前へ下向する様”命じた。斯波高経は息子で当時16歳の管領・斯波義将(生:1350年・没:1410年)、その弟・斯波義種(生:1352年・没:1408年)はじめ一族並びに被官を伴って“守護国越前”へ落ち延びた。これが“貞治の変”である。

“斯波高経”罷免の理由については“興福寺との抗争”説もあるが、真相は“斯波高経”に散々苦汁を舐めさせられた“佐々木道誉”並びに娘婿の“赤松則祐”が敵意を抱き、将軍・足利義詮に讒言に及んだという事である。“太平記”には必死で弁明する斯波高経に対して足利義詮が“今の世は将軍でも思い通りには成らない。越前へ下国してくれ”と涙乍らに頼んだと書いている。

将軍・足利義詮の権威向上と幕府の安定化に尽した“斯波高経”を失脚させる事に足利義詮が苦悩した事を伝える記事である。尚、罷免された管領・斯波義将の後任には妻が足利義満の乳母という關係の“細川頼之”が就いた。

15:南朝に降る事無く、失意の中に没した“斯波高経”

前項の“観応の擾乱第4幕”で足利直義が“高師直・師泰兄弟追討”の大義名分と正当性を得る為に“南朝”へ帰順(1350年12月)した事を記述した。又“正平一統”を行った足利尊氏も“足利直義”追討の目的で一時的に南朝に降った形をとった(1351年10月)。その後も足利義詮の執事・仁木義長、そして細川清氏も政争に敗れて失脚し、追われた足利幕府に対抗する為に、申し合わせた様に“南朝”を担いでいる(1361年10月)。

いずれも当時の武将達が幕府と戦う為の“大義名分・正当性”を得る為、そして“天皇家の権威利用”という魅力があった為“南朝”には利用する価値があった事を裏付けている。しかし“斯波高経”のケースは違った。彼は“南朝”に降る事は無かったのである。

1367年(南朝:正平22年・北朝:貞治6年)7月

失脚した斯波高経一族を翌年、佐々木(京極)高秀(佐々木道誉の三男・生:1328年・没:1391年)、赤松光範(摂津守護、赤松円心の孫・生:1320年・没:1381年)、山名氏冬(山名時氏3男、1363年に父が幕府に帰順すると彼も1364年に帰順)、土岐頼康(生:1318年・没:1388年)、畠山義深(生:1331年・没:1379年)等、有力武将達に拠る大軍が、斯波高経が籠った杣山城(そまやまじょう:福井県南越前町)並びに管領・斯波義将(1367年当時17歳)が拠った栗屋城(福井県丹生郡越前町厨)を包囲している。佐々木道誉、赤松則佑の“斯波高経”に対する恨みが如何に深かったかを物語る史実である。

斯波高経は翌1367年7月13日、失意の中に62歳で病死した。

16:足利義詮が残した“幕府安定化策”・・斯波氏領国の“幕府領化“並びに有力守護大名の取り込み

こうして斯波高経は没落した。ここで足利義詮(当時37歳)は斯波氏の領国であった若狭・越前・越中・摂津などを幕府領にするという策を用いている。この政策は有力守護勢力の抑制策として第3代将軍・足利義満へと引き継がれ、室町幕府安定化への重要政策の第一歩だったと評価される。

又“貞治の変”で父と共に“越前国”に追われた“斯波義将”を足利義詮は“斯波高経”没後に赦免し“越中守護職”に補任している。この様に有能な人材を“排除策”では無く“取り込み策”で活かし、更に“細川清氏討伐“を終えた”細川頼之“を京に戻し”管領職“に就ける等、功績に報いる巧みな人事策を用いた事も“幕府安定化策”として評価されるものである。

既に1363年に“大内氏・山名氏”を幕府に帰参させた“取り込み策”も含めて、第2代将軍・足利義詮の度量の広い政策に拠って、足利幕府は大幅に“安定化”が進んだのである。

17: 足利義詮の急死

1367年(南朝:正平23年・北朝:応安元年)12月7日

足利義詮は上述した幕府の安定化を大幅に進めた他に、訴訟制度を整備し“観応の擾乱”後、幕府官僚の分裂・離反に拠って崩壊した評定衆・引付衆を縮小する一方で、将軍自らが主宰,又は臨席して評定を開くという改革を行った。これは“御前沙汰(ごぜんさた)“と称され、将軍の親裁権の拡大を図る策であり、後に”足利義満“が”親政“を行うベースとなった。

以上、足利義詮は父・足利尊氏と共に創設直後から大混乱期の“足利幕府”を守り切り、安定期を迎えた矢先に風邪をこじらせ急死する。37年間の波乱の生涯であった。

足利義詮の墓は“宝筐院(ほうきょういん・京都市左京区嵯峨)”にある。彼の墓は“楠木正行“の首塚の隣に造られている。大楠公正成に始まる楠木氏の武勇はこの時代、既に有名で、将軍・足利義詮も楠木氏を憧憬した事が“小楠公正行”の首塚の隣に自分の墓を作らせた理由だと伝わる。

生き残った楠木正行の弟“楠木正儀”が南朝方として活躍するが“長慶天皇”と路線が合わず、1369年に幕府方に投降し厚遇される。この史実は当時から如何に“楠木氏”が“ブランド”であったかを裏付けている。

18:足利義満が“室町幕府第3代将軍”と成る

1368年(南朝:正平23年・北朝:応安元年)12月:

足利義詮の喪が明け、10歳の足利義満が室町幕府第3代将軍に補任される。

18-(1):一般的には“室町幕府”と称するが“足利義満”以後が“室町幕府“だとする根拠

足利尊氏、足利義詮の時期の幕府の呼称を“足利幕府”とし、足利義満以降を“室町幕府”と呼ぶとする説がある。

その理由は、初代征夷大将軍の足利尊氏と第2代足利義詮までの将軍御所は“三条坊門”に在り、これに対して1381年(南朝:弘和元年・北朝:永徳元年)3月11日に足利義満が京都の“室町”に新邸を完成させ、北朝第5代後円融天皇(在位:1371年~1382年譲位)が行幸する程に将軍権力を拡大し、以後、此の地の名前を冠して“室町幕府”と呼称される様になったとする説である。

この説を支持する訳では無いが、私も足利尊氏・足利義詮期までの記述には“足利幕府”という表現を用い、第3代将軍・足利義満の登場以降の記述には“室町幕府”を用いる事で“時系列”的に峻別した。一般的には“室町幕府”の呼称で通し、厳密に分けるべきだとの学説は無い。

19:足利義満が第3代室町幕府将軍となった年に“元”を滅ぼし“明”が建国された・・1368年

この年、中国では貧農の8番目(6番目説もあり)の子として生まれた朱元璋(生:1321年・没:1398年)が1351年~1366年に起こった白蓮教徒(念仏結社)等による“紅巾の乱”に加わり、頭角を現し、1364年に独立して“呉王”を称して1367年には“元”を討つ“北伐”を開始した。そして1368年には“元”を蒙古高原に追い“南京”で帝位に就き、国号を明、元号を洪武と定めている。尚、逃げた“元”はモンゴルのカラコルムに首都を定め“北元”を成立させたが1388年に“明”に拠って滅ぼされた。

B:南朝の自壊が進み、足利義満が室町幕府の統治強化を進める一方で、唯一、南朝方の九州勢力として残っていた“征西府”が討伐される

1:南朝の“後村上天皇”が崩御し、幕府に対して強硬派の“長慶天皇”が践祚する

1368年(南朝:正平23年・北朝:応安元年)3月11日:

“南朝”第2代(歴代第97代)後村上天皇が“住吉行宮(=住之江行宮)”で40歳で崩御、第一皇子が南朝第3代(歴代第98代)長慶天皇(生:1343年・崩御:1394年)として践祚した。

2:後村上天皇の“行宮流転”の生涯について

“南北朝時代(1336年~1392年)”の両朝では“北朝方“の天皇は全員が“三種の神器”無しの践祚であり“院宣”すら無い“践祚”等“権威を欠く皇位継承”であった。一方の“南朝方”の天皇は“三種の神器”は後醍醐天皇が持ち帰り、代々継承されたとされるが、幕府方の武力行使に拠って追われ続け“行宮”を転々とした。

その間にも、南朝初代・後醍醐天皇と共に戦った主な武将達の殆どが戦死し、公家層も北畠親房が1354年に没し、南朝は“国の体を成さない状態“と成った。

それでも“南朝”が60年近くも存続した理由は“室町幕府”方も“観応の擾乱”をはじめとする内部抗争の後も“執事職”が次々と主導権争いを繰り返し、敗れた武将が幕府と戦う“大義名分”と“正当性”を得る為に“天皇家の権威”を必要とし“南朝”に降るという行動が繰り返された結果である。

こうした大混乱の時期を生きた“後村上天皇”は“行宮流転”の生涯であった。以下に“南朝行宮流転の歴史”を時系列に記述する。

2-(1):“南朝”を主宰した後醍醐天皇の“吉野行宮”期

1336年(南朝:延元元年・北朝:建武3年)12月23日:

京の花山院を脱出した後醍醐天皇は先ず“穴生=後の賀名生”に入り“堀家”に逗留した。

同年12月28日~1339年(南朝:延元4年・北朝:暦王2年)8月:吉野行宮期(#1)

“吉水院宗信”の援護のもとに後醍醐天皇は“吉水院=現在の吉水神社”を行在所とし、次いで近くの金峰山寺の塔頭・実城寺を“金輪王寺(きんりんのうじ)”と改名し“皇居”と定めた。この寺は明治維新の“廃仏毀釈”によって“廃寺”となり、今日では金峰山寺の“妙法殿”となっている。(吉水神社の佐藤一彦宮司の話では、金輪王寺が実際に行宮として使われた期間は短く、実質的には吉水院が使われたとの事である)


(吉水神社)
(後醍醐天皇玉座)


1339年(南朝:延元4年・北朝:暦王2年)8月15日:

後醍醐天皇が“金輪王寺又は吉水院=南朝皇居”で崩御。

2-(2):南朝第2代(歴代第97代)後村上天皇期の“南朝行宮流転”の状況

後村上天皇は1339年8月に践祚してから1368年3月に崩御する迄の29年間に8度も行宮を移っている。以下に夫々の”行宮“へ移った事情とその時期を記す。

2-(2)-①:吉野行宮を焼かれる

1339年8月15日~:
後醍醐天皇の譲位を受けて“吉野行宮”で践祚する(南朝第2代、歴代第97代後村上天皇)

1348年(南朝:正平3年・北朝:貞和4年)1月:

楠木正行が“四条畷の戦い”で足利軍の高師直に敗れ、高師直軍はその勢いのまゝ南朝の拠点“吉野山全山”を焼き払った。

2-(2)-②:穴生行宮(=賀名生行宮)期(#1)

1348年(南朝:正平3年・北朝:貞和4年)9月:

高師直が吉野山を灰燼にした為,後村上天皇は“穴生(奈良県五條市西吉野町)”に移り此処を行宮とする。

1351年(南朝:正平6年)11月:

“正平一統“が成り”北朝“が廃された為、京の公卿達は叙任を受ける為に”穴生“の行宮に参侯した。”穴生=賀名生“は一時的に名実共に“帝都”の状態となった。


(旧堀家が賀名生行宮となった)
(同左史跡前の説明版)


1352年(南朝:正平6年)2月5日:

“正平一統”で北朝が廃され“南朝”方は政権移行を急ぐと共に、一気に武力攻勢に打って出た。“後村上天皇”はこの時点で京の“足利義詮”に帰京する旨を通告している。後村上天皇が京を目指して“賀名生”を出立したのは2月26日である。京への帰還が“叶う”喜びを“穴生”を“賀名生(かなう)”に改名する事で表わし、読み方を“あのう”としたと伝わる。

2-(2)-③:住吉行宮期(#1)


(住吉行宮史蹟)
(同左説明板と石碑)


1352年(南朝:正平6年)2月28日~閏2月15日迄:

後村上天皇は住吉神社の“津守國夏”の舘を御座所と定めこの期間滞在している。この御座所は“住吉行宮正印殿”(大阪市住吉区墨江)と称され、今日僅かにその史跡が残されている。

摂津“住吉行宮”訪問記・・2017年4月6日

住吉行宮には大阪天王寺駅から“阪堺線”に乗り替え“住吉大社前”から一駅先の“細井川駅“で下車。そこから地図を頼りに住宅地を15分程歩くと100~150坪程の史跡が残されている。国定史跡であり、二本の石柱には夫々“史跡住吉行宮跡”と“津守邸址”と刻まれていた。説明板には下記の様に書かれていた。

“住吉神社 祠官津守氏居館内正印殿の一部なり 後村上天皇正平七年二月二十八日賀名生の行宮より着御津守国夏の舘を御座所と定め給ひ 閏二月十五日迄御駐輦あらせられ 其の後正平十五年観心寺行宮より再び行幸あり 同二十三年三月十一日遂に此の行宮に於いて崩御あそばされたり 而して明治元年四月二十日 明治天皇住吉神社行幸の砌 正印殿に御小休遊ばされたり 昭和十六年三月十一日 文部省“


2-(4):八幡行宮期(男山八幡=石清水八幡宮)


(男山八幡=石清水八幡宮)
(1580年に織田信長が寄進した土塀)


1352年(南朝:正平6年)閏2月19日:

後村上天皇は“八幡行宮(山城男山)=石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊30)”に入り、此の地を“行宮”としている。一気に京に入る事が出来ず、此の地で念願の“京”奪還の武力行使の結果を待つ事に成る。

南朝方の総大将は“楠木正儀”で、足利幕府側は武蔵野合戦の為に関東に出陣していた父・足利尊氏に代わって“足利義詮”であった。

同年 閏2月20日:

戦に不慣れな事に加え“正平一統”で北朝が廃された為、南朝方の“楠木正儀”軍が唯一の“官軍”となった。“賊軍”の立場となった“足利義詮”軍は士気が上がらず、総崩れとなった。結果として京を放棄して近江に逃れたのである。“正平一統”の和議を破って軍事行使に出た南朝軍はこの際に“旧北朝”の崇光天皇並びに光厳上皇、光明上皇、更には廃太子“直仁親王”の四人を拉致し“男山八幡(石清水八幡宮)”に幽閉した。

同年 閏2月23日:

こうした“南朝方”の“増長”とも言える強引な政権移行と武力行使による鎌倉並びに京の占拠に、近江に一端逃げていた“足利義詮”軍はすぐさま軍勢を立て直して反撃に移った。

同年 3月9日:

元々軍事力で劣る南朝方は足利軍の反撃に早々と京から撤退した。足利義詮軍は“無血開城”同然に“京”を奪還したのである。又、同月、鎌倉奪還の為、関東に出陣していた足利尊氏も“武蔵野合戦”に勝利し“鎌倉”を奪還した。

2-(5):入京を果せず、後村上天皇は無念の中に“賀名生行宮(#2)”に戻る

1352年(南朝:正平7年)6月:

南朝方は“京”から追われ“男山八幡の戦い”にも敗れた(1352年5月)。そして“八幡行宮(男山八幡)”から再び“賀名生行宮”まで退く事を余儀なくされたのである。拉致した旧北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と直仁親王も一緒に“賀名生”に連れ去っている。

2-(6):“天野山金剛寺行宮“期

1354年3月~1359年12月(南朝:正平9年~14年・北朝:文和3年~延文4年)

1353年6月に“南朝”方の“山名時氏・楠木正儀”が2度目の京占拠を果たした。この展開に“京”への帰還”の期待を抱いた“後村上天皇”は”行宮(天皇の臨時の在所)“を山深い”賀名生“から交通至便の”天野山金剛寺(大阪府河内長野市天野町)“に移した。

今回の移転は先ず、旧北朝から拉致した“三上皇”を1354年3月に移し、後村上天皇自身は7カ月後の同年10月28日に移っている。以後5年間(1354年~1359年)“南朝”の行宮は“天野山金剛寺”に置かれる事になる。尚この間、1355年8月に拉致した旧北朝の光明上皇を、そして1357年2月に光厳、崇光両上皇を京に帰還させている。

2-(7):観心寺行宮期

1359年(南朝:正平14年・北朝:延文4年)12月23日

“天野山金剛寺“の記録には1359年12月23日に後村上天皇が”観心寺“(大阪府河内長野市)に遷るとある。その僅か3カ月後の1360年3月に足利義詮が関東管領・畠山国清(生:不詳・没:1362年)に命じて“河内金剛寺”を攻めさせ、焼いたとの記録があるから“後村上天皇”は、この情報を事前に知り“観心寺”へ行宮を移したと考えられる。

“観心寺行宮”については2016年6月の“訪問記”で紹介したので詳細は省略するが、奈良時代初めに(701年)役行者によって開創され、平安時代の密教美術最高の仏像とされる国宝“如意輪観音菩薩像”を有する事で知られる名刹である。楠木正成が幼少時に“学問所”として励んだ寺として知られ、後に後醍醐天皇に命ぜられて建造した金堂が今日、国宝として残っている。

2-(8):住吉行宮期(#2)・・後村上天皇最後の行宮

1360年(南朝:正平15年・北朝:延文5年)9月~1368年(南朝:正平23年・北朝:応安元年)3月11日:

この時期、南朝方は九州地区で懐良親王・菊池武光の征西府が勢力を拡大し、1361年には大宰府に“懐良親王”を迎え、絶頂期にあった。一方の幕府方は、1360年7月には足利幕府内では政争に敗れた“仁木義長”が南朝に降り、又、翌年1361年10月にも執事“細川清氏”が同じく足利幕府内の政争に敗れて南朝に降るという、混乱が治まらない状況であった。

幕府方の混乱に助けられた形で、対幕府強硬派の後村上天皇は“京”奪還を諦めず、行宮を摂津の“住吉行宮(大阪市住吉区墨江=津守國夏邸)“に移し、以後7年半この地に留まり、京への帰還を願い続け乍ら崩御となったのである。

後村上天皇期にも行われた幕府側との和睦交渉・・1367年4月

後村上天皇が“住吉行宮”に在った1367年4月に足利幕府側と南朝間で“和睦交渉“が行われた記録が残っている。

南朝方は“楠木正儀”(くすのきまさのり=楠木正成三男・生:1330年?・没:1389年?)が中心と成り、勅使を”葉室氏“が務めたとある。しかし、後村上天皇が武家側の降伏を条件にするという強硬姿勢を貫いた為、将軍足利義詮の怒りを買い、交渉は決裂した。この年末(1367年12月)に足利義詮が没し、後村上天皇も直後の1368年3月11日に崩御した為、この話はそれ以上進展しなかった。

3:足利義詮の遺言を受けて第3代将軍足利義満の初期政治体制を管領細川頼之が主導する

3-(1):室町幕府の安定化に資した“応安の半済令”発布

1368年(南朝:正平23年・北朝:応安元年)6月17日:

“寺社本所領事”(じしゃほんじょりょうのこと)又は“応安大法”とも呼ばれる法令が管領・細川頼之主導の下に出された。

内容は長い間続いた“南北朝”期の内乱の中で、足利幕府が兵糧確保の為に半済令(荘園並びに公領の年貢の半分の徴収権を守護に認めた法令)が出された為、事実上“武家”が各地の荘園を押領する状態であった。新しい法令の意図は、京などで、本所(荘園支配体系の中で実質的に支配権を持っていた荘園領主)が年貢収入を得る事が出来なくなっていた状況を改善する事であった。

室町幕府としては“北朝方”の“摂関家や寺社”との連携を強化する策として、武士に押領されて来た本所や寺社の所領の返還を命令する“寺社本領保護”の法令発布を行ったのである。

管領“細川頼之”がこのタイミングで発令したのは、足利義詮が没し、将軍・足利義満が誕生し家督を相続した“代始め徳政”の意図、並びに“南朝側”と対峙する状況下で“北朝方(朝廷・公家)“との連携強化を進める意図があったとされる。

3-(1)―①:“応安の半済令”は後に足利義満が“公武両面”で政治権力を握り、拡大する上で土台となった法令とされる

細川頼之が発令したこの法令の効果に就いては諸説があるが、少なくとも足利義満が独り立ちし、親政を開始する迄の“土地政策”の“基本方針”として室町幕府の安定化に役立った事は確かとされる。

後に足利義満が“公武両面”で政治権力を掌握し、室町時代を通じて最も将軍権力を拡大し、発揮した将軍と評価されるのも“応安の半済令”がその基盤になったとされる。この法令の発布に拠って、長い間、武家に所領を押領されて来た本所や寺社からの不満は解消された。又、この法令は天皇家、院、摂関家の所領に関する“半済”を撤廃するという配慮の結果、室町幕府と天皇家(北朝)並びに摂関家(北朝)との関係はより協力的と成り、且つ、強化されたとされる。

武家に対しては、例えば守護が幕府法に違反して各地の荘園の“押領・占拠”を続けた場合には守護職を解任し、それでも従わない場合には軍事力に拠って討伐するという強硬措置に出た。

この様に至尊(北朝天皇家・朝廷・公家)勢力並びに至強(守護大名)勢力、双方に配慮したこの法令は後に“足利義満”が武士層だけで無く、朝廷・院をも支配する上でベースとなったのである。

更に、幕府側から見れば、この法令に拠って“守護統制”を確立する土台が整い、又、守護側から見ると、本所に対する半分の支配権を永続的、且つ、公的に認められた事を意味した事から“守護領国制”が事実上公認された事を意味する法令であった。

3-(2):“応安の半済令”発布の半年後に10歳の足利義満が室町幕府第3代将軍に就く

1368年(南朝:正平23年・北朝:応安元年)12月:

足利義詮の喪が明け、まだ10歳の足利義満が征夷大将軍の宣下を受け、室町幕府第3代将軍に補任された。政治は足利義詮の遺言を受けた管領・細川頼之(生:1329年・没:1392年)が主導した。この状態は細川頼之が“康暦の政変(1379年閏4月)”で失脚するまで丸10年間続く。

足利義詮時代に兆しが見えた幕府政治の安定化は更に進み、動乱に対応する“軍事政権”から次第に脱却して“平時の統治機構”へと変質して行った。父・足利義詮からの遺言“細川頼之の教えに違うなかれ”を守り、足利義満は細川頼之が主導する政治をじっくりと10年間学ぶのである。

4:武将達にとって存在価値が薄れて行った“南朝”では“対幕府強硬派”の“長慶天皇”が践祚する

4-(1):武将達にとって魅力が薄れて行った“南朝”の存在

当時、武将達にとって幕府に対する“対抗勢力結集”の拠点としての存在価値があった“南朝”であったが、数度に亘る“京都占領”を繰り返したにも拘わらず、幕府軍の圧倒的な軍事力の前には太刀打ち出来ず、細川清氏の場合に限らず、全てのケース共、忽ちの中に奪還された。

“京都”は武将達にとって“攻めるに易く守るに難い”戦略上の地であった事がその最大の理由である。兵糧などの物資は殆んど周辺諸地域からの搬入に頼らざるを得ず“近江“を押さえられると忽ち困窮する状況であった。“南朝方”は一点突破で京都を占拠する事は出来ても、周辺地域までを占拠する軍事力が無かった為、直ぐに物資、兵糧不足に陥り、長期に亘って京都を占拠し続ける事が難しかったのである。

南朝方として最後の“京占拠”となった“細川清氏”の場合も、南朝方が周辺の守備を突破して京に迫ると、幕府方は“後光厳天皇”を守って近江に逃れ、そして南朝方の補給路を断ち、幕府方の反撃態勢を整えた上で攻撃に移り、容易に京を奪回した。

南朝方は“京占拠”を数度成し遂げたものの、その度に勢力を疲弊させる結果となった。そうした事を繰り返す中に“南朝方”の武将達に“京占拠は無意味”だと悟らせる事になったのである。かくして“幕府への対抗勢力結集の拠点”としての“南朝”の“利用価値”が下落し、武将達は“南朝”を見限る事に繋がって行ったのである。

4-(2):南朝第3代(歴代第98代)長慶天皇が践祚する

1368年(南朝:正平23年・北朝:応安元年)3月:

後村上天皇の崩御に伴い、第一皇子が南朝第3代(歴代第98代)長慶天皇(即位:1368年・譲位:1383年10月?)として、住吉行宮(大阪市住吉区墨江=津守國夏邸)で践祚した。間もなく弟の熈成(ひろなり)親王を東宮(皇太弟)としたと伝えられる。後の後亀山天皇(南朝第4代・歴代第99代天皇:在位1383年冬~1392年閏10月5日)である。

南朝4代の天皇の中で“長慶天皇”程、人物像の輪郭が捕えにくい天皇はいないとされる。長慶天皇に関しては史料が決定的に少なく、従ってその在位の事実も大正15年(1926年)の“詔書発布“によって漸く公認された程である。

長慶天皇も父・後村上天皇の遺志を継ぎ、室町幕府に対して徹底抗戦派であった。しかし乍ら世の流れは“北朝”の与党の室町幕府が天下をほゞ制圧し、安定化に向かう情勢であった。後村上天皇時代に持ち上がった事もある、幕府との“和睦交渉”は長慶天皇の強行態度の為、完全に途絶し“南朝方”の自壊だけが進んで行った。

4-(3):長慶天皇期の“南朝”の軍事力

室町幕府は軍事政権から脱しつつあり、平時の統治機構へと変質して行く一方で“南朝方の軍事勢力“は、摂津(大阪府西部と兵庫県南東部)、河内(大阪府南東部)、和泉(大阪府南部)、大和(奈良県)、伊勢(三重県北部)等に限られた軍事力だけと成っていた。

4-(4):行宮移転を繰り返した“長慶天皇期”

長慶天皇期(1368年3月~1383年冬)も行宮の移転を4回行っている。“住吉行宮”で践祚した後、対幕府強硬姿勢を貫いた“長慶天皇”も“行宮”を転々とする事を余儀なくされたのである。

4-(4)-①:南朝方で中心となって幕府との和睦交渉を行っていた“楠木正儀”が立場を失い“幕府方”に寝返る

1369年(南朝:正平24年・北朝:応安2年)1月:

後村上天皇の末期に幕府側と和睦交渉が持たれた事は記したが、跡を継いだ長慶天皇が徹底抗戦論者であった為、和平推進派の“楠木正儀”は南朝での居場所を失ない、孤立した。そこで、彼の知己でもあった幕府管領“細川頼之”を介して足利義満に帰服し“幕府方”に寝返ったのである。

同年 3月:

寝返った“楠木正儀”に対して“楠木一族”を含む“南朝軍”は討伐の為の軍を送ったが、細川頼之が幕府側から援軍を送った為“楠木正儀”はこの場を凌ぎ、幕府から和泉・河内の守護を安堵され、足利義満にも謁見する等、厚遇で迎えられた。“楠木氏”のブランドの力である。しかし、一方で幕府方の一般の武士達からはこうした厚遇に反発も出たと伝わる。

4-(4)―②:“楠木正儀”の追討に失敗した“長慶天皇”は、行宮を“住吉”から“吉野”そして“天野山金剛寺”へと移す

1369年(南朝:正平24年・北朝:応安2年)1月~・・“吉野行宮”へ

“長慶天皇”は行宮を“吉野(奈良県吉野町)”に後退させ、わずか3ケ月後の1369年4月には更に“河内天野”の金剛寺(大阪府河内長野市)に移している。天野山金剛寺の記録には1373年7月頃迄、凡そ4年強の期間、この行宮に留まったと書かれている。

4-(4)-③:寝返った“楠木正儀”が河内の“天野山金剛寺行宮”を総攻撃する

1373年(南朝:文中2年・北朝:応安6年)8月:

南朝にいた頃の“長慶天皇”と“楠木正儀”の確執は余程のものだったと思われる。“楠木正儀”が先導した“幕府軍”が、淡路守護の細川氏春(生年不詳・没1387年)並びに赤松光範(摂津守護・赤松円心の孫・生:1320年・没:1381年)と共に、南朝・長慶天皇の行宮“河内・天野山金剛寺行宮”を総攻撃し、勝利している。

南朝方はこの戦いで“四条隆俊(生年不詳・没:1373年8月10日)等70余人が戦死し、“長慶天皇”は“天野山金剛寺行宮”から再度“吉野”に後退を余儀無くされている。

4-(5):“長慶天皇”が“吉野行宮”に在った期間に“足利義満”が帝王学を身に付ける

1373年(南朝:文中2年・北朝:応安6年)8月~1379年(南朝:天授5年・北朝:康暦元年)8月10日

“長慶天皇”が“吉野行宮“に後退を余儀なくされていた6年間は“和睦”の動きを見せる事も無く、南朝方の自壊が進む一方であった。一方、室町幕府ではこの間、管領・細川頼之主導下で、九州地区征圧の動きも加速し軍事政権的性格を更に脱して、統治能力を高めて行った。“明国”を初めとする日本の周辺状況にも変化が起こっていた。足利義満も15歳の少年将軍から21歳の青年将軍へと大きく成長した期間でもあった。

この六年間に起こった主な出来事を挙げると以下の通りである。

1373年8月  :室町幕府として、聞渓・円宜らを同行させ、倭寇の俘虜150人を“明国”に返している
1374年12月:北朝第5代“後円融天皇”践祚後、4年を経て漸く幕府の支援で即位式を行なう事が出来た
1375年8月  :今川了俊が“少弐冬資”を肥後“水島の陣”に誘い出して暗殺する。島津氏久が卑怯な振る舞いに怒って南朝方に寝返る。以後、幕府の九州制圧が大幅に遅れる
:高麗使“羅興儒”が来て“倭寇禁圧”を求める
1378年3月  :足利義満が室町台(花の御所)に移り、幕府権力が北朝権力を凌駕した事を天下に示す象徴となる。北朝方が足利義満を権大納言に任ずる
:今川了俊の兵、高麗へ渡り倭寇を討つ



4-(6):長慶天皇最後の行宮へ移る・・大和栄山寺行宮期

1379年(南朝:天授5年・北朝:康暦元年)9月~1383年10月末(南朝:弘和3年・北朝:永徳3年)

長慶天皇は行宮を吉野から大和栄山寺(奈良県五條市)に移した。この行宮が“長慶天皇”として最後の行宮と成り、南朝最後の第4代(歴代第99代)後亀山天皇(践祚:1383年冬・譲位:1392年10月5日・生:1350年?・崩御:1424年)に譲位したと考えられる。

この間の“長慶天皇”は1381年に伊井谷・龍潭寺訪問記で紹介した伯父の“宗良親王(生:1311年・没:1385年)の私撰和歌集を准勅撰集とした“新葉和歌集”を著したり、源氏物語の注釈書“仙源抄”を著すなど、優雅な時を過ごしていた様である。幕府に対抗し、長慶天皇を奉じて戦おうとする武将も最早居なかったという状況だった。

一方、室町幕府内では1379年閏4月に“康暦の政変”が起き、政治を主導して来た管領“細川頼之”が更迭され、足利義満が愈々“親政”を開始するという大きな転換点を迎えていた。

4-(7):“長慶天皇”の譲位

1383年(南朝:弘和3年・北朝:永徳3年)末:

長慶天皇は幕府に対して飽くまでも対立姿勢を崩さなかったが“大和栄山寺行宮“での逼塞(ひっそく)に近い状態もほゞ4年間に及んでいた。この間”南朝”方の自壊は進み“幕府”に対抗する力は最早無かった。

逆に室町幕府の求心力は拡大し、更に“明国“を中心とした周辺諸国を取り巻く諸情勢の変化が一気に押し寄せ”南朝“にとっては室町幕府との和平に拠る”南北朝合一“が必至の状況に成って来たのである。

長慶天皇が“大和栄山寺行宮”で弟の“後亀山天皇”に譲位した事は史実として確認出来るが、その時期については明確で無い。1383年10月27日付の綸旨が“長慶天皇”としての最期の確認出来る史料である事から、譲位も程なく行なわれたと考えられている。

栄山寺行宮訪問記・・2017年7月10日

栄山寺の住所は奈良県五條市小島町であり、JR五条駅からバスも利用出来る。バス停も“栄山寺前”にあるとの事であったが、我々は時間の関係もあり、往きはタクシーを使った。10分程で到着した。尚、バスの運行は平日のみで便数も少ない。


(栄山寺が行宮であった事を記す石碑)
(国宝栄山寺行宮八角円堂)

  
“栄山寺は古く栄山寺又は前(さき)山寺と呼ばれ、藤原鎌足の孫・武智麻呂(不比等の長男・生:680年・没:737年)が養老三年(719年)に建立したと伝えられている。境内には国宝八角円堂・梵鐘・及び重要文化財の石灯篭・石塔婆がある。国宝八角円堂は藤原南家の祖となった藤原麻呂の次男・藤原仲麻呂(恵美押勝・生:706年・没:764年)が父母の追善供養の為に天平宝字年間(757年~764年)に建立した日本建築史上重要な位置を占めるものとされる。

又、本堂の前に“史蹟栄山寺行宮趾”と刻まれた高さ2m幅30cm程の石柱があり、南朝の後村上・長慶・後亀山三帝の行在所であった事を伝えている。

お会いした管理人の話では、今日では栄山寺を訪れる人は余り多く無いとの事であったが、南朝歴代の天皇が室町幕府からの攻撃に合い、転々と行宮を移したという史実を実感出来る名刹でもあり、是非訪れる事をお勧めしたい。

交通の便の悪い“栄山寺行宮”訪問は車の利用をお勧めするが、JR五条駅まで徒歩でも行ける距離だと寺の管理人が教えてくれたので、帰りは“吉野川”沿いの道を景観を楽しみ乍らゆっくりと歩き30分程で駅に着いた。

5:“康暦の政変”で“細川頼之”が失脚し、足利義満が独り立ちする

5-(1):反・細川頼之勢力の中心と成った“斯波義将”

足利義満が成人するまで実質的に政権を主導した“細川頼之”であったが、次第に武将の間に“反細川頼之”勢力が拡大して行った。その中心が“管領”という官職名に変わってからは“初代”の“室町幕府管領”に就き、その後、父・斯波高経が足利義詮から追討された“貞治の変“(1366年8月)で連座して越前に追われていた斯波高経の4男“斯波義将(生:1350年・没:1410年)であった。

彼は父・斯波高経が没した後、許されて京に戻り、後に3代・5代・7代の室町幕府管領を務め、越前・越中・信濃の守護職に就き、第3代将軍足利義満(在職1368年~1394年)並びに第4代足利義持(在職1394年~1423年)に仕え、30年間に亘って室町幕府重鎮として“斯波氏”の最盛期を築く事に成る人物である。

5-(2):楠木正儀の部下の“橋本正徳”が南朝方に寝返り、蜂起する・・諸大名は細川頼之が発した討伐令に動かず

斯波氏と細川氏は足利義詮時代から対立し、抗争を繰り返す関係であった。管領・細川頼之の権勢に陰りが見え始め、南朝方から寝返った“楠木正儀”並びにその部下の“橋本正徳(はしもとまさたか・生年不詳・没:1380年)”の幕府方に於ける立場も微妙に成っていた。

1378年11月2日“橋本正徳”は早々と“南朝方”に再度鞍替えし、紀伊で蜂起したのである。細川頼之は“橋本正徳討伐”の命を諸大名に出したが、諸大名は細川頼之に反発して応じなかった。細川頼之の権威が地に堕ちた事が誰の目にも明らかとなったのである。

5-(3):“康暦の政変”へと繋がり“足利義満”は細川頼之を庇い切れず失脚させる

1379年(南朝:天授5年・北朝:康暦元年)閏4月:

1379年正月に入り、反細川頼之派の諸大名の挙兵が続き、遂に閏4月に諸大名の軍勢は、将軍足利義満の“花の御所”を包囲して“細川頼之罷免”を強要する事態へと発展した。これまで細川頼之を支持して来た足利義満であったが、遂に諸大名の要求を呑まざるを得ず、細川頼之を失脚させた。これが“康暦の政変”である。

この結果細川頼之は出家をし、一族と共に四国に下った。後任の“管領”には“斯波義将”がカムバックした。足利義満は21歳の青年将軍に成長しており、これ迄“細川頼之”が尽力して来た将軍権威・権力強化を目指した親政を行う事になる。一方でこれ以降“管領”の地位が相対的に低下して行く事と成った。

6:“全国統治”力強化に注力した足利義満・・遠国対策

6-(1):“小山氏の乱”に見る室町幕府将軍“足利義満”と“鎌倉公方・足利氏満”との一枚岩で無い関係

6-(1)-①:“鎌倉公方・足利氏満”について

康暦の政変と関東管領・上杉憲春諌死事件

1379年(南朝:天授5年・北朝:康歴元年)3月7日:

鎌倉府は関東八カ国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)並びに甲斐と伊豆を統治していた。室町幕府は兎角不穏な動きをする鎌倉府に対して融和政策をとり、更に“陸奥・出羽”の二国を割譲している。

足利氏満(生:1359年・没:1398年)が“第2代鎌倉公方”に就いたのは、1367年に父で初代鎌倉公方の足利基氏(生:1340年・没:1367年)が没した為で、彼は未だ8歳であった。“足利氏満”の名は1369年に元服した時に、従兄の足利義満から偏諱を受けたものである。

その足利氏満が20歳に達した1379年は幕府第2代管領”細川頼之に多くの大名が反旗を翻す状況にあった。そうした状況下“鎌倉公方・足利氏満”は何と“将軍・足利義満”に対して叛旗を翻す動きを見せたのである。

主君“足利氏満”が将軍・足利義満に対して挙兵するという事態を止める為に、関東管領の職に在った“上杉憲春(生年不詳・没:1379年3月7日)”が諌死するという事件へと繋がった。“足利氏満”は彼の諫言を無視して既に“三島” 迄、軍を進めていたが、上杉憲春の諌死を知り、進軍を断念し、将軍・足利義満に謝罪の使者を送るという事件であった。

この事件を機に将軍・足利義満の鎌倉公方・足利氏満に対する警戒感は強まったとされる。

6-(1)-②:17年間に及ぶ“小山氏の乱(1380年~1397年)”に見て取れる遠国が完全統治下に無かった室町幕府の状況

その1:小山義政の乱・・1380年~1382年

1380年(南朝:天授6年・北朝:康暦2年)5月16日・・裳原の合戦:

“宇都宮氏綱(生:1326年・没:1370年)”は“観応の擾乱“では足利尊氏側に付き、1352年に上野・越後両国の守護職を与えられ、その後、鎌倉公方・足利基氏の家臣となった。詳細は省略するが、その後、その守護職を巡って“足利基氏”から討伐を受けるという展開となり、1362年には守護職を剥奪された。

足利基氏の没後(1367年)に鎌倉公方を継いだ“足利氏満”(生:1359年・没:1398年)に対しても“宇都宮氏綱”は反乱を起こし、追討を受け、1368年に降伏した。“宇都宮氏綱”の没後に、その子息の“宇都宮基綱”(生:1350年・没:1380年)が第11代当主として跡を継ぎ、足利氏満に臣従した。宇都宮氏は代々朝廷から“国司”の職を預かる家柄であり、新興の小山義政が下野の守護職に補任され、勢力拡大の動きを強めると“国司の家柄”の立場からこれを牽制し、宇都宮基綱と小山義政との間にしばしば“私戦”を起こしていた。

関東の静穏を司る立場の鎌倉公方・足利氏満は両者に“私戦制止”を命じていたが、状況はエスカレートする一方で“裳原合戦”に到ったのである。合戦は、宇都宮基綱が“小山義政が宮方と通じて謀叛を起こした”と鎌倉公方に訴え、これに対して鎌倉公方・足利氏満は宇都宮基綱に“小山義政討伐”を命じた事で始まった。

ところが、合戦の結果は、宇都宮基綱が小山義政軍に返り討ちとなり、80名余りが戦死した。この戦いに勝利した小山義政軍も一族30名余りと家臣200名が戦死するという大きな戦いであった。

鎌倉公方自らが出陣し小山義政が降伏を表明する

1380年(南朝:天授6年・北朝:康暦2年)6月1日~9月21日

“宇都宮基綱”が返り討ちに会ったとの報を得た鎌倉公方・足利氏満は“小山義政”を討つ好機と捉え、関東8カ国の諸将に討伐を命じた。先の“康暦の政変”の混乱の際に諌死した“上杉憲春”の弟で関東管領を継いだ“上杉憲方(うえすぎのりかた・生:1335年・没:1394年)”並びに足利氏満の側近“木戸法季(生没年不詳)”等を大将とし“足利氏満”自身も出陣した。この軍勢に圧され“小山義政”は9月21日に一端、降伏の意思を表明した。

降伏条件を拒否した小山義政に対して将軍・足利義満からの“討伐令”を仰いだ足利氏満

1381年(南朝:弘和元年・北朝:永徳元年)1月18日~12月8日:

ところが“小山義政”は降伏の意は表明したものの、足利氏満の求める謝罪内容を拒否したのである。その為、足利氏満は“将軍・足利義満”から“小山義政”討伐を命じる“御教書”を得て(1月18日)、2月15日に上杉朝宗(生:1337年・没:1414年・1395年に関東管領に就いた人物)と木戸法季を再び“小山義政討伐”に向かわせた。

鷲城を拠点とした小山義政と嫡子小山若犬丸(生年不詳・没:1397年)軍は情勢不利と判断し、開城、降伏し、小山義政は出家“小山若犬丸”等は足利氏満の陣に出頭して“降参の儀”が執り行われた。

“降参の儀”にも服さず尚も抵抗を続けた小山義政は終に自害に追い込まれる

1382年(南朝:弘和2年・北朝:永徳2年)3月22日~4月13日・・小山義政自害

出家し“降参の儀”を行ったにも拘わらず“小山義政”と“若犬丸”は“粕尾”に新たに城塞を築いて再び抵抗を開始した。これ程までに小山義政が鎌倉公方・足利氏満に抵抗した理由は足利氏満が下した赦免条件が“太田荘・下河辺荘を含めた小山氏所領の大部分の没収”だったからである。“所領は命”の武将達にとっては耐え難い処分だった。

2度の裏切りに足利氏満は3度目の討伐軍を起こし、小山義政・若犬丸父子を攻撃、遂に4月13日に“小山義政”は粕尾山中で自害した。

小山義政の誤算は“康暦の政変”の際、鎌倉公方・足利氏満は足利義満に対して謀叛の動きをした。従って鎌倉公方は“室町幕府から睨まれている”から“宇都宮基綱”を討った自分を討伐する事はあるまい、と甘く読んだ事であった。

読みを誤った小山義政は自害に追い込まれた。鎌倉公方・足利氏満は“小山義政”への軍事行動で自分が中央(室町幕府)から罰せられる事は無いと読んでいた。その理由の一つが、室町幕府の中央も“康暦の政変”の混乱が収拾されておらず“南朝方”からの反撃を警戒する状態にあった事と、二つ目の理由は“小山義政”の行動は室町幕府が禁ずる“古戦防戦(訴訟によらず問題を武力で解決しようとする事)”の罪を犯しており、それを罰したところで自分が罪に問われる事は無いと読んでいた事にある。

将軍足利義満にとっても好都合だった小山義政討伐

“親政”の緒に着いたばかりの“足利義満”にとって“小山義政”が“鎌倉府”の討伐に拠って自害した事は好都合と考えた事が鎌倉公方の行動を罰さなかった主な理由であった。遠国対策に乗り出し“全国統治”体制の強化を“親政”の主要テーマとして掲げた“足利義満政権”にとって、有力守護大名“小山義政”が遠国の地で過度に力を付ける事は望ましい事では無かったのである。

その2:小山氏嫡流の滅亡

1397年正月:

小山義政は1382年4月に自害したが、嫡子“小山若犬丸”は逃げ延びていた。南奥羽の田村荘司則義に匿われ、その後も下野や常陸、南奥羽で“鎌倉府”への抵抗を続けていたのである。

しかし鎌倉公方・足利氏満の徹底した捜索に拠って追い詰められ、遂に会津で父と同じく自害した。“小山若犬丸“の遺児達も捕えられ、海中に沈められたと伝わる。源頼朝の重臣であった”小山朝政(生:1158年・没:1238年)以来続いた関東の名門の嫡流が途絶えたのである。

小山氏の反乱が17年間にも及んだ理由は、北関東や南奥羽には“反鎌倉府勢力”が蠢(うごめ)いていた事と“北関東”が鎌倉府の管轄で“奥羽”は室町幕府の管轄と分かれていた事が原因であった。関東・奥羽の状況は“観応の擾乱”後に“奥州管領体制”は解体状態であり、室町幕府として“鎌倉府”を一体化した統治体制下に置く事が出来ていなかった事を象徴する事件であった。

6-(2):九州統治を積極化した足利義満

北陸・東海・関東・奥羽などで次々と勢力を失い、畿内でも山間部に拠点を構え、ゲリラ的に幕府攻撃を繰り返していた南朝方であったが、退勢を挽回する程の勢いは最早無かった。しかし九州地区だけは“南朝方”が大きな勢力を維持していた。足利義満は全国統治体制強化の一貫として九州地区の“遠国対策”を本格化させた。

6-(2)-①:“今川了俊”による九州平定の動き

1371年末:今川了俊が九州探題に派遣される

足利義満(当時13歳)が将軍に就いて未だ3年の時点であり、政治の実権は管領・細川頼之が握っていた。九州地区は南朝方の“菊池武光”が征西大将軍“懐良親王”を奉じ、既述した通り“少弐冬資”を筑前で敗り、1361年8月には“大宰府”に懐良親王を迎え、以後“征西府”をここに移し、九州支配の体制を確立していた。

細川頼之は九州平定の進まない“斯波氏経”に代えて、後任として1365年に“渋川義行(生:1348年・没:1375年)“を九州探題に任じた。しかし南朝方の抵抗は強く、彼は九州に一歩も足を踏み入れる事も出来ず6年間も山陽地方に留まざるを得ない状況であった。

細川頼之は渋川義行も更迭し“今川貞世”(=了俊・生:1326年・没:1420年)を九州探題に派遣したのである。

大宰府を11年振りに奪還

1372年(南朝:文中元年・北朝:応安5年)6月:

今川貞世(了俊)は前任者達とは異なり、周防・長門の大内弘世,義弘親子、阿蘇惟村等の協力も得た上に、弟の“今川仲秋”に松浦党の協力を得させ、更に子息の“今川貞臣(生没年不詳)”を“田原氏能”と共に豊後の高崎山城に入らせるという周到な準備の上で“南朝方“の攻撃を開始した。今川了俊自身も豊前(福岡県東部・大分県北部)方面から大宰府攻めを行った。

こうした攻撃の結果、懐良親王・菊池武光の軍は筑後高良山(福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後“隈部城”まで追われ“幕府(北朝)方“は”大宰府“を11年振りに奪回したのである。幕府方は“大宰府”を拠点として“九州制圧”を一気に進めるかに思われた。

今川貞世(了俊)の大失態で九州制圧が大幅に遅れる・・水島の変

1375年(南朝:天授元年・北朝:永和元年)8月:

大宰府も奪還し、ほゞ九州制圧にも先が見えた時点で今川貞世(了俊)が大失態を犯す。

菊池氏の本拠である“肥後国”を制圧する為“水島の陣”に進軍した際に“九州三人衆”と称された①豊後国守護・大友親世(生年不詳・没:1418年)②大隅国守護・島津氏久(生:1328年・没:1387年)③筑前・少弐冬資(生:1337年・没:1375年)”を招いて宴会を開く事とした。

今川貞世(了俊)は当時“少弐冬資”の筑前国を九州探題の直轄にする動きをしており、両者は対立關係にあった事から、少弐冬資は着陣を拒んだ。今川貞世(了俊)から命を受けた“島津氏久”が説得し、少弐冬資は渋々参陣したのである。この歓迎の宴で、今川了俊は弟の“今川仲秋”に命じて“少弐冬資”を刺殺させたのである。これが“水島の変”である。

この卑怯な振る舞いに“島津氏久”は激昂し、離反して帰国、以後今川了俊の九州平定に抵抗する側に回った。又、大友親世も今川了俊への支援を止めてしまう。この事件(水島の変)の結果、今川了俊の九州制圧は大幅に遅れ、7年後の1382年まで延びる事になったのである。

7:唯一残った懐良親王・良成親王の“征西府”勢力の終焉・・幕府方による九州南朝勢力の駆逐が成る

7-(1):懐良親王が征西将軍職を“良成親王”に譲る

1374年(南朝:文中3年・北朝:応安7年)冬:

1372年6月に今川了俊に大宰府を追われた“懐良親王”は1374年冬に征西府を“隈部城(くまべ=熊本県山鹿市)“に移した。この時点で“征西将軍職”を甥の“良成親王”に譲ったものと考えられる。良成親王(生年不詳・没:1395年?)は、後村上天皇の第七皇子とされるが“南朝”関係の史料の少なさから、親王の実在そのものを疑う説も多い。しかし“後征西将軍宮”が“懐良親王“の後任として1370年頃に南朝から九州に派遣された記録は存在する為、この人物が”良成親王“とされる。しかし、この時点では既に“征西府”の退勢が見えていた。

7-(2):征西府の退勢が確実となった“肥前蜷打の戦”での大敗

1377年(南朝:天授3年・北朝:永和3年)1月~2月:

上記した“水島の変”で九州の有力大名からの離反にあった“今川了俊”が、同盟関係にあった“大内義弘”に協力を要請し、大内氏と婚姻関係にあった“大友親世”を説得して“北朝方“に帰順させる事に成功、更に弟の“今川仲秋”軍も加えて、幕府軍は一万騎の兵力を整えた。一方、征西大将軍“良成親王“を奉じた“菊池武朝(菊池氏17代当主・生:1363年・没:1407年)”並びに“阿蘇惟武(生年不詳・没:1377年)”の南朝軍は、合わせて5千騎の兵力であった。この両軍が肥前“蜷打(になだ=佐賀市金立町千布字筑州)”で戦い、数に勝る“今川軍”の勝利となった。

菊池武朝は“良成親王”と共に筑後を経て隈部城に逃げ延び“阿蘇惟武”はこの戦いで戦死した。南朝方として唯一幕府方を凌駕していた“征西府”の退勢が確実と成った戦いであった。

7-(3):“たけ”に征西府を移す・・1381年6月

7-(3)-①:“詫麻原”の合戦

1378年(南朝:天授4年・北朝:永和4年)6月10日:

“肥前蜷打の戦い(1377年1月~2月)”で今川了俊軍に大敗を喫した“南朝方”であったが、翌1378年6月10日の“詫麻原(たくまばら=熊本市水前町)の合戦”では“征西府“軍は僅か3500騎乍ら”良成親王“が陣頭に立って、当時18歳の若武者“菊池武朝(=武興)”軍を鼓舞する等、善戦し、2万とも4万とも言われる今川軍を相手にこの戦いに勝利した。敗れた今川軍は抗戦を断念し、一先ず博多に退却している。

7-(3)-②:3年後に逆襲を開始した今川軍は“征西府”軍を“たけ”に追い遣る

今川了俊の弟“今川仲秋(生没年不詳)”は再び南朝方へ攻撃を開始、1381年6月の夜襲によって菊池武朝の本拠地で、征西府が置かれた“隈部城”そして“良成親王”が在所としていた“染土城(=鷹取城・熊本県菊池市龍門染土)”を陥落させた。良成親王、菊池武朝は追われて、金峰山中の“たけ”(熊本市河内町岳)に征西府を移した。

7-(4):“懐良親王”没す

1383年(南朝:弘和3年・北朝:永徳3年)3月

僅か7歳(1336年)で後醍醐天皇から“征西大将軍”に任じられ、九州地区に於ける南朝方の勢力維持、拡大に貢献した懐良親王は“良成親王”に“征西将軍職”を譲った(1374年冬)ものの、その後の退勢状態もあって、二人の間には何かと内輪もめがあった事が伝えられている。しかも菊池氏内も一枚岩で無く成る等、征西府が末期的様相を帯びる中、54歳に達した“懐良親王”が病没した。病没した場所に就いては八代説、築後矢部説がある。熊本県八代市妙見町にある“懐良親王御墓”が八代市の指定文化財になっている。

7-(5):南朝“征西府”の退勢に一時的歯止めが掛かり“宇土”に拠点を移す

1383年(南朝:弘和3年・北朝:永徳3年)4月: 

南朝方(征西府)の退勢を憂いた“幕府方”の武将が意を決して“南朝方”に寝返った。相良氏の第7代当主・相良前頼(さがらさきより・生年不詳・没:1394年)である。彼は幕府方として九州全域で南朝方が優勢であった頃から南朝方と内通し、離反の動きをしていた武将であった為、今川了俊は“相良一族”を幕府方に繋ぎ留める事に腐心していたとされる。

その“相良前頼”が一気に衰退して行く“南朝方・征西府”の状況を憂いて寝返った事で“島津氏”が再び“反・今川了俊”に成る等、肥後に於ける南朝方が息を吹き返した。懐良親王を迎えて以来、一貫して南朝方に与した“宇土氏”並びに肥後の“河尻氏”も加勢し“征西府”は宇土(熊本県宇土市)にその拠点を移し、幕府に対抗する体制を整えた。九州の情勢は又もや混沌とするかに見えた。

7-(6):宇土城・河尻城を攻め続けた今川了俊

1386年(南朝:元中3年・北朝:至徳3年)夏

懐良親王が没し“征西府もこれまでか”という状況下“相良前頼”が“南朝”方に寝返った事で、南朝方は宇土氏・河尻氏に加えて“阿蘇氏”や“名和氏”との連携を強め“幕府方”に強力に抵抗する迄に勢いを盛り返した。

しかし、今川了俊も宇土城、河尻城を攻撃し続け、両軍の一進一退の攻防は4年間に亘って続いたのである。しかし、中央(京)では大きな変化が起きていた。

7-(7):宇土城・河尻城、そして八代城の“南朝拠点”が次々と堕ち、再び”征西府“軍の終焉が迫る間に“京”では“南北朝合一”を迎えていた

7-(7)-①:宇土城・河尻城の陥落

1390年(南朝:元中7年・北朝:明徳元年)9月:

征西府軍と幕府軍との一進一退の状況も、幕府軍に戦略・軍略に長け、名将の評価が高い今川了俊の嫡男“今川貞臣(生没年不詳=義範)”が父の命で“南朝方攻略”に加わった時点から事態が急展開する。肥前・深堀氏等の援軍を率いた“今川貞臣”軍は遂に南朝方の“宇土城・河尻城”を陥落させたのである。

宇土城、河尻城から追われた良成親王、菊池武朝は肥後国・八代に土着し“飯盛城・丸山城・鞍掛城・勝尾城・八丁嶽城”を築いて拠点とする名和氏14代当主“名和顕興”(なわあきおき・生没年不詳・名和長年の孫)を頼り、高田に“征西府”を移した。

7-(7)―②:“八代城”も陥落し“征西府軍”最期の拠点“筑後矢部”に退く

1391年(南朝:元中8年・北朝:明徳2年) 9月:

今川貞臣は高田に拠点を移した“征西府軍”を追撃、南進し、八代の諸城を転戦し、遂に八代城(古麓の五城)を陥落させた。南朝方の名和顕興は降伏し“良成親王”は残された最後の拠点“筑後矢部(福岡県八女市矢部村)”に退いた。

7-(7)-③:京で“南北朝合一(明徳の和約)”が成る。しかし“良成親王”は“筑後矢部”で戦い続ける

1392年(南朝:元中9年・北朝:明徳3年)閏10月5日

京では南朝第4代、最後の天皇と成った“後亀山天皇”(歴代第99代天皇・在位:1383年~1392年・生:1350年・崩御:1424年)が吉野から京に帰還。北朝・第6代の後小松天皇(歴代第100代天皇・歴代としての在位:1392年~1412年・生:1377年・崩御:1433年)に三種の神器を譲って後小松天皇が即位し、1336年以来56年間に亘った“南北朝分裂状態”が終了した。しかしこの事は九州の南朝方・征西府将軍“良成親王”の知る処では無かった。

1393年(明徳4年)2月:

“良成親王”が京で成った“南北朝合一”を知らなかったとする理由は“阿蘇惟政(1377年の肥前蜷打の戦いで討ち死にした阿蘇惟武の子息・生没年不詳)に挙兵を促した令旨が1393年2月付で出されている事に因る。この令旨には、既に消滅した“南朝”方の元号である“元中”を継続使用してる事からも“南北朝合一”が京で成った事を知らず“良成親王”は尚も九州地区で南朝方として“征西府”の再興を期していた可能性がある。

1395年(応永2年)10月20日:

筑後矢部(福岡県八女市矢部村)に後退した征西府を大友氏一族が攻撃した。これを南朝方武将の五条頼治(生没年不詳)・良量(ごじょうよしかず・生没年不詳)父子と菊池氏が撃退した記録が残る。京での“南北朝合一”が成ってからほゞ丸3年が経っていただけに、九州で“征西府”が京の状況とは独立した動きをしていた可能性があった事を裏付ける史実とも考えられる。或は“良成親王”が率いる“征西府”は京に於ける“南北朝合一”を無視して、幕府への抵抗活動を続けていたとも考えられる。

上記、五条頼治・五条良量・そして菊池氏の軍功に対して“良成親王”は“感状”を出している。そして、これが良成親王と征西府の消息を知り得る最後の史料である。良成親王はこの後、間もなくして、30歳代半ばで没したものと伝えられ、1395年10月20日が“征西府”終焉の時期と考えられている。

C:強大な“明国“が出現し、通交を望んだ足利義満だったが”日本国王“とは認められず、又“冊封の資格を満たしていない“と拒絶された

1:“明国”成立と日本を取り巻く当時の周辺状況
  
1-(1):倭寇が“明国”の沿岸を襲い、洪武帝が楊載を大宰府に遣わし“懐良親王”に鎮圧を求める

1369年(南朝:正平24年・北朝:応安2年)7月:

中国・明王朝の初代皇帝(太祖・洪武帝)朱元璋(しゅげんしよう・生:1328年・没:1398年)が“応天府(現在の南京)”で即位したのは1368年1月の事である。その1年半後に洪武帝は猛威を振るう“倭寇”の取り締まりを求める“国書”を“日本国王”宛に出している。

1-(1)-①:南北朝内乱の長期化と高麗及び明国の貿易禁止策が“倭寇”を誕生させた

前項〈6-11項〉の17で記述したが“倭寇”が“南朝鮮”の港湾へ侵入した事は高麗・中定王2年(1350年)の“倭寇之侵之始”の記事で確認出来る史実である。

その背景には日本の“南北朝”期の内乱が熊野、村上、松浦党の水軍の戦闘能力を飛躍的に増大させた一方で、モンゴル帝国への対応で疲弊した“高麗王朝”は日本との通交を拒否し、又“元王朝”を滅して興った“明国”も当初は貿易を禁止する政策を執っていた為、行き場の無くなった熊野・村上・松浦党の“水軍”は強引にそれらの国へ侵入する行為を激化したという事情があった。

1-(1)-②:何故、日本国王への“明国”の国書が“懐良親王”に渡り、彼が“日本国王”とされたのか?

日本の外交権は古代から“天皇”にあり、大陸との外交の窓口は“大宰府”である事は“明国”側も知っていた。従って洪武帝の遣使“楊載(ようさい・生没年不詳)”が当時、大宰府を支配していた南朝方“征西府”の長“懐良親王”に国書を渡した経緯に不自然さは無い。

“懐良親王”の征西府が室町幕府の攻撃に敗れ、大宰府を追われるのは1372年8月の事であるから、その3年前の1369年7月に“大宰府”を訪れた“明国”の遣使が懐良親王を“日本国王”として接した事にも不自然さは無い。

2:明の洪武帝が“懐良親王”を“日本国王”に“冊封”するに到った経緯

2-(1):冊封を促す為の使者を4回に亘って大宰府に派遣した“洪武帝”

大明帝国を創始した太祖洪武帝(朱元璋)は周辺諸国と冊封(=中国の皇帝が朝貢をして来た周辺諸国の君主に官号、爵位を与え、君臣関係を結び、彼等にその統括を認める一方で宗主国対藩属国という従属関係に置く事)関係を結ぶ為にそれを促す使者を周辺諸国に遣わしていた。歴代の中国王朝が周辺諸国に対して行って来た“王朝の正統性を伝える外交政策”であった。そして日本に対しても4回に亘って“明使”を派遣して来たのである。

2-(1)-①:第1回目の“明使”

1368年(南朝:正平23年・北朝:応安2年)5月:

日本への第一回目の明国からの使節は1368年5月に行われたが、この記録は中国側にしか無い。詳細は伝わらないが、第一回目の使者は、日本に向かう途中で五島列島(長崎県西部)周辺で賊に襲われ、殺され、詔書と共に海に遺棄された。

この時期、日本の国内では1368年3月に“南朝第3代(歴代第98代天皇)長慶天皇”が住吉行宮で25歳で践祚しており、同12月に満10歳の足利義満が室町幕府の第3代将軍に就いている。“北朝”は30歳の第4代・後光厳天皇の在位期であった。

2-(1)-②:第2回目の明使として“楊載”以下7名が大宰府に着く

1369年(南朝:正平24年・北朝:応安2年):

“大明帝国”からの第2回目となる“楊載(ようさい・生没年不詳)”以下7名の使者が、洪武帝の国書を携えて大宰府“懐良親王”に謁見を求めた。国書の内容は①新王朝(明)樹立の宣言②朝貢の要請③倭寇の禁圧要請であった。

ところが“懐良親王“は”元寇の先例“に倣って洪武帝からの要求を拒否したのである。その理由は“洪武帝”からの国書の内容が“倭寇鎮圧を命ずる。もし、日本国王が海賊(倭寇)を放置するならば、明軍に拠って海賊を滅ぼし、日本国王を捕える“と、極めて高圧的だったからとされる。

“懐良親王”は明国の使者7名の中5名を処刑し“楊載(ようさい)”等2名を3カ月拘束したとの説がある。しかしその後“懐良親王”は冊封に応じている史実展開との整合性を考えると、この時点でその様な乱暴な対応をしたとの説は疑わしい。“懐良新王”の征西府側も幕府との戦いで次第に追い詰められていた状況下にあった。従って“明国”と良好な関係を結ぶ事で“征西府“の立場を立て直す事を”懐良親王“が考えていた可能性があるとする説に説得力がある。

2-(1)-③:第3回目の“明使”の正使“趙秩”の説得で“懐良親王”が冊封に応じる

1370年(南朝:正平24年・北朝:応安3年)3月:

三度目の使者として“大明帝国”は“趙秩(ちょうちつ)”を遣日正使“楊載”を案内役とした使節団を大宰府に送り込んだ。

大明帝国の強大さを誇示する意図であろう“他の諸国は既に朝貢に応じている”と書き加えられた以外は前回とほゞ同じ強圧的な内容の国書であった。つまり①日本を冊封体制へ組み入れる事②倭寇禁絶を日本に求める・・を目的とした国書内容であった。

今回は“趙秩”の熱心な説得が奏功し、懐良親王は冊封に応じたのである。

2-(2):“趙秩”という人物と“懐良親王”が冊封に応じた経緯

洪武帝が“明国正使”として派遣した“趙秩”の生没年は不詳である。1年前に同様の国書を携えて大宰府に来た使節を拒絶した懐良親王は“趙秩”に対しても“何度来ても同じだ”と態度を変えなかったばかりか、彼も“処刑”する様、部下に命じたと伝わる。

その理由として懐良親王は“趙秩”の名前から、百年前の1271年、1272年にフビライ・ハーンの国書を携え“元使“として大宰府に訪れた”趙良弼(ちょうりょうひつ)“の親族だと誤解した為としている。懐良親王は“再び蒙古(元国)の使者が来訪し三度目の元寇か”と身構え”趙秩“の処刑を命じたという事である。

“明太祖実録”によれば“趙秩”は“私は蒙古の使者では無い。我が明王朝は蒙古と違い礼を最も重んじる国であるから貴国も礼を以て対応して頂きたい“と訴え、懐良親王の誤解を解く事に努めたとある。一方で“我が明王朝は蒙古を蹴散らした天兵であり、一たび遠征軍を(日本に)送れば、勝敗の行方は自ずと明らかであろう“と強硬な態度を表明する事も忘れていない。明帝国の太祖・洪武帝の威勢と東アジアの情勢を丁寧に説明する事で“懐良親王”の説得に努めたと書かれている。

1371年(南朝:建徳2年・北朝:応安4年)10月~12月:

1年半程の時を経て“懐良親王”が“趙秩”の説得を理解したばかりか、深く感動し、其れまでの拒絶一点張りの強硬な態度を一変させ、彼の手を取り、礼を尽くして応対した事が“明太祖実録”に記されている。懐良親王が大明国への“朝貢”を決意したのである。

更に懐良親王は“趙秩”の言に従って“僧・租来(そらい)”を明国に遣わし、明都“南京”で臣従を誓い①献上物の馬や宝物②留学僧9人③倭寇の捕虜になった男女70余人を返したと記されている。

1372年5月:

この日付けの“太祖実録”に“日本国王良懐”の名で“冊封“したと書かれている。明国からの親王宛ての国書の名前が“懐良”では無く“良懐”と表記されている事が論議を呼んだが“懐良親王”を指す事が疑いない事は証明されている。以後、大明帝国としては“日本国王良懐”が既成事実と成り、後日、足利義満が日本国を代表して“明国”との外交を開始する上で大きな障害となり“南北朝合一“の必要性を感じ、動き出す大きな要因となったのである。

2-(3):“懐良親王”が一転して冊封を受け入れた背後に考えられる理由の考察

“中世日本の内と外”の著作の中で村井章介氏は”懐良親王は明の冊封を受ける事によって宗主国“明”の一員と成り“明”から“幕府”への軍事介入の可能性を期待した可能性がある“との説を展開している。それに拠って”征西府が九州地区を統治し、室町幕府の政治体制から離脱する可能性を探った“のではないかとしている。

当時の周辺諸国の状況は、ユーラシア大陸の大部分を覆った“モンゴル帝国”が“明”に追われ、朝鮮半島では“高麗王朝”が衰え、更に日本列島も南北朝の対立によって国が分断された状態であった。そうした状況下で興った“明国”は“冊封体制の構築”に拠って“東アジア地域”の諸国に“秩序”を与える政策を掲げた。その中で“懐良親王”には九州領域を支配する“日本国王”として冊封に応ずるよう求めたとする“村井氏”の説であり、こうした“明国”側と“懐良親王”の期待が合致して“日本国王良懐”の名での“冊封体制入り“が成ったとしている。

3:“明国”の“冊封相手”として認められた征西府の“懐良親王”が大宰府を追われる

3-(1):“明国“からの”冊封使“が博多に到着

日本国王良懐”の冊封を認める明国の”冊封使“が博多に到着した時に、懐良親王は大宰府を追われた後であった。

1372年(南朝:文中元年・北朝:応安6年)6月:

明の洪武帝は第4回目の明使として“仲猷祖闡”並びに“無逸克己勤”一行を“冊封使”として派遣、先導役を“趙秩”が勤め、博多に着いた。しかしこの月、今川了俊軍が、懐良親王・菊池武光軍と戦い、敗れた“懐良親王”軍は大宰府から筑後(福岡県南西部)に去った後だった。

博多も“今川了俊”軍の制圧下にあり“趙秩”をはじめ“仲猷祖闡・無逸克己勤”等の明使一行は此の地で抑留され、冊封の詔書は“懐良親王(=日本国王良懐)”に届けられる事は無かった。明使一行には“今川了俊”が対応した。この時“明使”一行が携えたものの中に“明国の大統暦”(明の暦で朝貢国からの国書に記させる為に使わせる暦)があった。明国が之を与えたという事は“懐良親王”を“正当な独立国家の国王”として認めた事を裏付けている。

3-(2):冊封使の先導役“趙秩”は大内弘世の山口に招かれる・・1372年~1373年

今川了俊軍と共に“大宰府攻略”を戦った“大内弘世(生:1325年・没:1380年)”は領国の山口に“趙秩”を伴なった。その目的は文化的なものだとされる。

“山口十境詩“はその時“趙秩”が詠み込んだ十カ処の景観の詩である。その他、優れた文化人でもあった“趙秩”は、中国文化、歴史を伝えた。“大内文化”の華は彼に拠って開花したとされる。“趙秩”は翌1373年11月に博多に移り、翌1374年に明国に帰った。

4:“大明帝国”から通交の交渉相手として“資格無し”とされた“足利義満”

4-(1):足利義満の名で“明国“に通交を要求する書を出すが①若輩者である事②国臣に過ぎない立場の者として”資格無し“と拒絶される

1373年(南朝:文中2年・北朝:応安6年)8月末:

明国が冊封した“日本国王良懐”が最早“九州地区の支配者で無い”事を知った“明使”は京に上り、室町幕府と接した記録がある。明使は日本の実情に関する情報を収集して、1373年8月末に帰国した。その際、室町幕府側から、帰国する“明使”に、僧侶“聞渓円宣(宣聞渓)”を 同行させ“明国との国交開始を求める書面“を持たせている。この時点で”足利義満“は未だ15歳であり、これ等を主導したのは管領・細川頼之であった。

1375年(南朝:天授元年・北朝:永和元年):

僧侶“聞渓円宣(宣聞渓)”等が明国に渡って2年後に帰国した。幕府が期待した国交開始に関しては“日本国王良懐”の表文が無い上に、国臣に過ぎない“足利義満”の書は受け取れない、と、交渉も出来ずに追い返された旨を告げた。“明太祖実録”には“天皇は若く、臣(義満)が国権を欲しいままにしており、傲慢無礼である”と記されている。

“明太祖実録”に書かれた“天皇“とは、幕府側からの使者であった事、並びに”明使“が京で室町幕府と接したとの記録からも北朝の”後円融天皇“である。”後円融天皇“は1375年時点で16歳であり、南朝”長慶天皇“(南朝第3代・歴代98代・生:1343年・崩御1394年)は32歳であった事からも“天皇は若く”との表現には当たらない事からも裏付けられる。

5:“公武双方”の権力掌握を急カーブで進めた足利義満

5-(1):“康暦の政変”で政治の実権を握り、足利義満が親政を開始する

5-(1)-①:“花の御所(室町第)“に移る

1378年(南朝:天授4年・北朝:永和4年)3月:

足利義満の邸宅を三条坊門から北小路室町に移し、幕府政庁とする。これが後に“花の御所”と呼ばれ、この所在地から“室町幕府”と呼称する様に成った。

5-(1)-②:“康暦の政変“

1379年閏4月

“康暦の政変”が起こり、諸大名の要求を受け入れる形で“細川頼之”の管領職を罷免し、足利義満自身に拠る政治“親政”を開始する。

5-(2):“北朝”のプロデューサーとして“足利幕府”の“北朝”に対する発言力は幕府創設時から強かったが、北朝第5代“後円融天皇”誕生の経緯に加えて、足利義満との血縁関係からも加速する

1380年(南朝:天授6年・北朝:康暦2年)1月:

室町幕府と“北朝”との力関係は、そもそも足利尊氏が光厳天皇・光明天皇をプロデユースした時から幕府が圧倒していた。“正平一統”後に、足利尊氏、足利義詮が強引に“後光厳天皇”を誕生させた事で、北朝方の天皇家の正統性と権威が著しく傷ついていた事も幕府が北朝方を圧倒する力関係を拡大する事に繋がった。

こうした流れは北朝の“後光厳天皇”から“後円融天皇“への皇位継承に絡んで加速する。”崇光上皇“側が自分の皇統に戻すべきとクレームを付けたが“室町幕府”の強い支持があった事で“後円融天皇”が誕生した。

こうした事から、北朝の朝廷政治全般に対する室町幕府の発言力も益々強くなって行った。尚、足利義満と“後円融天皇”とが母系の従弟という血縁関係、並びに年齢も足利義満が1歳年上と近かった事も影響したとされる。

5-(3):北朝の実力公卿“二条良基”が足利義満を“北朝・朝廷政治”により積極的に参画する様、誘導する・・足利義満の“武門の摂関家”化を企てる

不安定で上述した様に”権威”という面でも問題を抱え、且つ、経済的にも苦しかった北朝方としては、室町幕府の将軍を“北朝・朝廷政治”の一員として積極的に参画させる事で“北朝”を安定させる事が考えられた。その構図を描き、積極的に推進したのが1346年に光明天皇の関白職に就いて以来、北朝4代の天皇に亘って摂政・関白等の要職を務めて来た実力公卿“二条良基”(生:1320年・没:1388年)”である。

具体的には足利義満の“武門の摂関家化”を徐々に進めて行ったのである。

5-(3)-①:目を見張るスピードで公家社会に於ける“足利義満”の位階昇進を進める

足利義満の位階昇進は僅か9歳で正五位下、17歳(1375年)で従三位に昇り、公卿の仲間入りを果している。満20歳の3月(1378年)には、祖父足利尊氏と父足利義詮を越える“権大納言”に任じられるというスピード昇進であった。

更に、20歳の8月(1378年)には“右大将”に任じられた。この昇進が足利義満が“公武両面“の権力を掌握して行く出発点になったとされる。この官職は鎌倉幕府創始者の“源頼朝“は任じられたが、祖父・足利尊氏も父・足利義詮も補任されなかった官職であった。”武家の聖代“と見做された”源頼朝“の官職と肩を並べる地位に若き足利義満が到達した事で、以後、彼の“公卿化”が始まる重要なターニングポイントと成った。

5-(3)-②:破格の“位階昇進”を与えただけで無く“武門の摂関家”としての作法を足利義満に伝授する

源頼朝に並ぶ官職を僅か20歳で得た足利義満の喜びと高揚感は大変なものであった。その事は1378年11月28日に行われた盛大な参内の様子、並びに、翌1379年7月25日に行われた“拝賀奏慶”(新しい官職に任じられた公卿が天皇に対する謝礼の儀式)に於ける足利義満の様子に伝えられている。以後、足利義満の参内は“摂関家”の儀礼に準じて行われ二条良基は“武門の摂関家”としての行動、摂関家に準じた“礼法”を足利義満に伝授したのである。

二条良基”の狙いは足利義満を公家社会で異例に処遇し、朝廷政治に取り込む事で“北朝の安定・浮揚”を図る事であったが、足利義満自身も次第に政治の軸足を“武家から公家へ”と移す様になって行ったのである。

こうした努力を重ねる“二条良基”に対して後円融天皇は、1376年正月、彼を“准三后”に叙している。南朝の“北畠親房”が1351年に“准三后”に叙任された事は既述の通りだが、それを除けば鎌倉幕府・第4代親王将軍“藤原頼経”の父親・九条道家(生:1193年・没:1252年)が1238年に叙せられて以来の事であった。

絶頂期の“二条良基”に更にフオローの風が吹いた。1379年閏4月の“康暦の政変”で反りが合わなかった室町幕府管領の“細川頼之”(生:1329年・没:1392年)が失脚した事である。この政変で“二条良基”の足利義満に対する立場が一層強まり“足利義満”を公家社会・朝廷政治へ取り込む事が加速され“摂関に准ずる公卿”へと育成して行ったのである。1380年正月に、未だ22歳の足利義満は従一位“権大納言右近衛大将如元”に任じられた。

6:幕府からの2度目の“明国”への使節も拒絶される

上記の様に国内では室町幕府並びに北朝に於ける“公武”の政治の実権を掌握して行った“足利義満”ではあったが、重要視していた“明国”との通交開始の兆しは見えて来なかった。幕府としては2度目の明国へ派遣した使節に対しても“日本国王良懐が冊封の相手”との考えに固執する“明国”は今回も受け入れを拒絶して来たのである。

1380年(南朝:天授6年・北朝:康暦2年)9月:

1373年に管領・細川頼之政権下で“明国“に室町幕府としての使節を派遣したが拒絶された事は記したが、その時の理由の一つが、足利義満は“若輩者(当時15歳)”であるという事があった。その後7年が経過し、明国との通交が外交上極めて重要と判断した“足利義満”は二度目の使者を“明国”に派遣したのである。

しかし“明国”は日本国王に封じた“良懐”の正式な表文が無い事、足利氏は日本の国王では無く“持明(持明院統の天皇)の臣にすぎない”事を理由に今回も通交を拒絶した。ここに至って足利義満は明国と通交を開始する為には“日本国王良懐”に代わる“正君”だという事を明国に認めさせない限り不可能だという事を認識したのである。

7:“明国”との通交開始の為に“南北朝合一”が必要との考えに到った“足利義満”

7-(1):隣国(中国の強大王朝)からの脅威に晒される度に対応策を講じて来た日本の歴史

懐良親王が“日本国王”に冊封されたという既成事実を解消する事が室町幕府が明国との通交関係を開く前提条件だと理解した足利義満はその対応に動く。

中国の強大な“明王朝”と通交を開かない事は“明国”が我が国へ“軍事介入”をして来る懸念がある事と足利義満は考えた。

日本の歴史は常に周辺諸国、取り分け、隣国中国の動きに対応し、政治体制を整えて来た歴史である。古くは589年中国に“随王朝”という強大な統一王朝が出現し“厩戸皇子(聖徳太子・生:574年・没:622年)が日本最初の女性天皇・推古天皇(第33代天皇・即位:582年・崩御628年)を補佐して随王朝と通交を結ぶべく、600年に第1回目の遣隋使を送った。しかし“国家としての体を成していない”と随王朝の文帝(楊堅)から拒絶された。

そこで、先ずは国際的に通用する国家体制作りに着手し、冠位十二階(603年)の制度を整え“十七条憲法(604年)”を制定した。その上で、607年に第2回目の遣隋使を行い、以後、618年に随王朝が唐王朝に滅ぼされる迄の18年間に5回以上、遣隋使を派遣した歴史がある。

より強固な“唐王朝”が出現した事で、その対応の為に日本は“大化の改新”と呼ばれる当時としての“近代国家造り”つまり“中央集権国家造り”に邁進している。その後の日本の歴史も、平清盛が日宋貿易で巨大な富と力を得、それをベースに武士層が政権を担うという日本の歴史上、根本的構造改革の扉が開かれている。鎌倉幕府の命運も、隣国、中国の影響受けた。北条時宗時代に2度の“元寇”に見舞われた事が鎌倉幕府の崩壊へと繋がった。

この様に日本の政治体制・経済・宗教・文化等、全ての歴史は周辺諸国、取り分け中国の王朝との関係、変遷と深く係って来たのである。そして“室町幕府”の政治も“明王朝”への対応が“最重要課題”であると“足利義満”は認識した事で大きく動き出す。

7-(2):“明国“との通交開始の為に足利義満が掲げた解決すべき3つの課題

足利義満は明国との通交を開く為に解決すべき課題として①懐良親王と明国との関係を絶ち切る②その為に幕府が九州地区のコントロールを早急に確保する事を掲げた。それを解決した上で③“二つの朝廷が存在する”という異常事態の解消、つまり“南北朝合一”を果たす事を課題として掲げた。これ等の課題解決によって日本が統一された国である事を“明国”に示す事となり、通交が可能と成ると考えたのである。

足利義満がこれ等3つの課題を解決し晴れて “日本国王”の称号を“明王朝”から得るのは1401年の事である。足利義満が第二回目の明国への使者を送り、拒絶された年から実に20年後の事と成る。

D:南朝の存在価値が消失して行く中で、南朝では北朝に対して徹底抗戦派の“長慶天皇”から和議派の“後亀山天皇”への譲位が成る

既述した様に、幕府に対抗する武士達にとっても、又、南朝方の公家層にとっても南朝の存在意義が消失して行き、当時の南朝方の行宮であった“大和栄山寺”では、徹底抗戦派の“長慶天皇“から和議派の”後亀山天皇への譲位の動きが起こっていた。南朝の“自壊”作用が進んでいたのである。

一方、室町幕府では足利義満の“公武両面”での政治権力の掌握が進み“京”は落ち着きを取り戻していた。

1:南朝で和平派“後亀山天皇”誕生への大きな原動力と成った“楠木正儀(くすのきまさのり)の存在

1-(1):“楠木正儀”が南朝に帰参する

1382年(南朝:弘和2年・北朝:永徳2年)閏1月:

楠木正儀(生:1330年・没:1389年)は楠木正成の三男で“四条畷の戦い(1348年)”で二人の兄・楠木正行・楠木正時が討ち死した為、楠木家の家督を継ぎ、南朝方の先鋒武将として働いた。彼は南朝第2代(歴代第97代)後村上天皇(生:1328年・崩御:1368年)からの強い信頼を得て“南北朝合一”に向けての活動も行った人物である。

1367年には佐々木道誉、並びに、当時の幕府管領職にあった細川頼之の仲介を得て、北朝との和睦交渉に臨んだが、足利幕府第2代将軍・足利義詮の強硬な態度に拠って失敗に終わっている。その直後に足利義詮が歿し(1367年12月)又、翌年(1368年)には後村上天皇も崩御し、北朝に対して強硬派の“長慶天皇”へ継承された事で、楠木正儀の“南朝”に於ける立場は無くなり、1369年1月、知己でもあった細川頼之を頼って第3代将軍に就いたばかりの“足利義満(当時11歳)”に投降した。

その後、室町幕府内で和泉・河内の守護職として処遇された楠木正儀であったが、頼りとした幕府管領・細川頼之の権力に陰りが見えた1378年には成人した足利義満(20歳)に、河内国守護職を罷免され、続く1379年閏4月の“康暦の政変”で細川頼之が失脚すると北朝内で孤立し、13年間属した“幕府方”から再び“南朝”に帰参したのである。

1-(2):長慶天皇と弟・後亀山天皇の路線対立、そして譲位成立へ

両者に路線対立はあったが、流れは“和平派”に来て居り、後亀山天皇への譲位へと進んで行った。長慶天皇については既述したが、徹底した“対幕府抗戦論者”であり、和平派の弟(後の南朝第4代・歴代第99代・後亀山天皇・生:1350年・没:1424年)に譲位した背景には深刻な路線対立があったとされるが、裏付けと成る史料は残されていない。

譲位した明確な時期についての史料も無いが、長慶天皇が発した最後の“綸旨”から推測される時期は、1383年10月頃であろうと考えられている。

両天皇の間に路線対立があった事は推察される。しかし、足利義満が室町幕府第3代将軍に就いた1367年末頃から世の中の流れは“和平派”に来て居り、既に“南朝”の存在意義は幕府に対抗しようとする武士層にとっても、公家層にとっても、失なわれて来ていた。従って、この様な状況下で、いかに強硬派の“長慶天皇”が旗を振ろうにも日々その立場は苦しく成って行ったのである。

北朝内で孤立していた“楠木正儀”の出番が再び訪れた事を裏付ける史実として彼は、後亀山天皇への譲位が実現する前年の1382年閏1月には “南朝”に帰参し、参議に任じられている。南朝内の和平派台頭の象徴的存在となっていたと思われる。

1-(3):幕府軍に追われた“楠木正儀”は敗走の末、1389年~1392年に没する

1385年(南朝:元中2年・北朝:至徳2年)8月:

南朝に帰参した楠木正儀を室町幕府方の山名氏清(山名時氏四男・丹波、和泉、山城、但馬の守護・生:1344年・没:1392年)が一気に潰しに掛かり、父・楠木正成が築城した“河内平尾城“(河内長野二王山)での戦いとなった。この戦いで大敗した”楠木正儀“は逃げ延びたが、一族郎党の多くを失なった。この時期、南朝側には楠木正儀を支援する軍事力は既に無かったのである。

その後、1385年8月に山名義理(やまなよしただ・美作、紀伊国守護・生:1337年・没年不詳・山名氏清の兄・生:1337年・没年不詳)と戦い敗れたとの記録がある。以後の彼に関する情報は、子息の“楠木正勝”と混同した記録が残るが、正確なものは無い。没年についても1389年説、1391年説がある。

1-(4):和平派“後亀山天皇”の誕生

1383年(南朝:弘和3年・北朝:永徳3年)10月:

南朝では楠木正儀がその実現に貢献した和平派の“後亀山天皇”が南朝・第4代(歴代第99代)天皇に就いた。譲位された場所は“栄山寺行宮(大和五條市)“とされる。

1-(5):楠木正儀の子息“楠木正勝(生没年不詳)“について

楠木正勝も、室町幕府に徹底抗戦した記録が残っている。1382年に土丸城(大阪府泉佐野市)に籠城して山名義理と戦い、大内義弘(大内弘世の嫡子・周防、豊前、和泉、紀伊国守護・大内家第25代当主)の援軍に敗れて、楠木氏の象徴とされる根拠地“千早城”に追い込まれたとされる。

又、1388年8月には紀伊国・和歌浦から帰京中の“足利義満”に奇襲を企てるが“山名氏清“の攻撃を受けて敗走したとされる。1392年に後に室町幕府の第6代管領に就く“畠山基国(生:1352年・没:1406年)”軍に“千早城”を落とされ、吉野十津川に逃げ、此の地で病没したとして墓地が伝承されているが、史実としての裏付けは無い。

E:南朝を支えた主たる人物が没し、足利義満による“南北朝合一”への動きが加速する

1383年10月27日以降と考えられる“長慶天皇”から“後亀山天皇”への譲位が“南北朝合一”への大きな転換点であったが、この頃までに南朝を主導し、支えて来た主な人物の殆んどが世を去っていた事も“南北朝合一“を加速させた。

以下にその人物達の没年、並びに没した場所について記述して行く。

1:懐良親王(生:1329年・没:1383年)

今川了俊軍に1372年8月に“大宰府”を奪還された懐良親王は1374年に甥の“良成親王”に征西府将軍職を譲っている。その後の懐良親王の消息については明らかで無く、没した場所、墓所、そして時期についても以下の3説がある。

1-(1):1383年(南朝:弘和3年・北朝:永徳3年)3月27日説:

大宰府を追われた懐良親王が“高良山(福岡県久留米市)”に退き、更に八女郡矢部で隠退し、この地で没したとの説であり、有力説とされる。この説に基づく墓陵は“大円寺”(福岡県八女市星野村)とされる。

1-(2):1383年 8月18日説:

上記“大円寺”から4km離れた山中にある“千光寺(福岡県久留米市)”にある墓地を終焉の地とする説である。懐良親王の600回忌に当たる1982年(昭和57年)にこの寺を改築した際に立てられた説明書には“合戦で傷ついた懐良親王は近くの谷山城に引き揚げるも手当の甲斐なくお亡くなりになった。谷山馬之介は味方の士気を慮(おもんばかる)って密かに火葬した。この場所を御火化所という“とある。

しかし“懐良親王が良成親王に征西将軍職を譲った後も戦場に出た”とする説には疑問符が付けられている。

1-(3):1383年(月日不詳)“悟真寺”説:

“大宰府が陥落し、懐良親王らは筑後高良山、菊池へと敗退を余儀なくされた“との説に基づいて、熊本県八代市妙見町の“悟真寺”を墓陵とする説である。宮内庁はこの場所を公式の懐良親王墓陵とし“宮内庁管理”としている。

2:北畠顕能の死

北畠顕能(きたばたけあきよし・生:1326年・没:1383年)は、北畠親房の三男、北畠顕家、顕信の弟で、伊賀国司に任じられた記録がある。

“正平一統”後の1352年に3000騎の兵を率い、南軍の先鋒として足利義詮を近江へ追って“入京”を果した人物である。旧北朝の光厳・光明・崇光3上皇と直仁親王を京から拉致し、男山八幡(石清水八幡宮)に移し、更に“賀名生”迄連行したのは彼である。

以後の消息について詳細は残されていないが、1361年に伊勢守護の仁木義長が南朝に降った事で“伊勢国”は、仁木義長、土岐頼康、そして北畠顕能の三者が鼎立(ていりつ=三者が互いに対立する事)する状態となっていた事が“桜雲記・七巻冊子・伊勢之巻・古和文書・南狩遺文・南方紀伝”等、多くの記録から確認出来る。

1369年の“古和文書”の記録には“内大臣”とあり、又、文中元年(1372年)には右大臣に任じられ、南朝方の中心人物であった事は確かである。その“北畠顕能”が没した記録は“桜雲記”と“南方紀伝”に残るが、その詳細については明らかでない。

彼の死(1383年7月?)の直後に、南朝では北朝に対して強硬派の長慶天皇から和平派の後亀山天皇への譲位が行われている(1383年10月~?)。終焉の地は多気(三重県伊勢)とされる。二人の兄と同様“南朝護持“の為に戦闘に明け暮れた彼の死は”南北朝合一”が成る9年前の事であった。

3:“良成親王”(よしなり・生年不詳・没:1395年?)の没落と最期

“良成親王”の最期については既述したので省略する。いずれにしても“良成親王”は中央(京)で成った“南北朝合一”を知らず(無視したとの説もある)1395年迄戦い続け、その後間もなく没したと考えられている。

4:宗良親王(むねよし・むねながしんのう・生:1311年・没:1385年)の没落と最期

6-11項の井伊谷“龍潭寺”訪問記で“宗良親王墓”がこの地にある事を記述したが、足利尊氏が“正平一統(1351年11月)”策で北朝を閉じ、南朝に降った直後の1352年に“南朝”方が足利尊氏を廃して“征夷大将軍に任じたのが、後醍醐天皇皇子の“宗良親王”であった。

一時的に“新田義興”(新田義貞次男・生:1331年・没:1358年)と共に鎌倉を占拠した宗良親王であったが、足利方の反撃が開始されると、忽ちの中に鎌倉から追われ、更に、幕府方の信濃守護“小笠原長基(生:1347年・没:1407年)”に“桔梗ケ原の戦い(1355年)”で敗れ(この時家督を継いだばかりで8歳であり、実権は父・小笠原政長が握っていた)等、敗戦を重ね、1374年には“吉野”に戻っている。

以後の“宗良親王”の軍事面での活躍の記録は見られず、歌人として優れていた彼が1381年に長慶天皇に命じられ“新葉和歌集”を完成させ、天皇に奉覧した記録が彼に関する最後の消息である。

没した時期に就いては1385年9月14日との記録が残る。墓所は①井伊谷“龍潭寺”②長野県大鹿村大河原釜沢(宝篋印塔:ほうきょういんとう=墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種)③美濃国恵那郡高山(岐阜県中津川市)の3カ所にある。

(宗良親王の歌が紹介されている)
(龍潭寺の井伊家墓所の至近にある宗良親王陵墓)


F:足利義満が土岐氏、並びに山名氏、両有力守護の勢力削減に成功し、将軍権力、権威拡大を天下に示す

1:将軍権力の拡大策として、鎌倉時代の“御所内番衆”制度を継承した“武官官僚”の“奉公衆”制度を強化する

室町幕府は守護大名の連合の上に成り立って居り、将軍権力と言っても弱体であった。第3代将軍に就いた足利義満が管領・細川頼之を失脚させ、自らの親政を開始した際に、先ず取り組んだのが“将軍権力”の強化・拡大の為に3000人程の“奉公衆”と呼ばれた直轄軍を順次強化して行く事であった。

2:有力守護の勢力を削ぎ、時間を掛けて除去して行く策を実行

足利義満が政策として力点を置いたのが“有力守護”の勢力削減、並びに、除去であった。それを“慎重且つ、用意周到”に時間を掛けて行なったのである。“将軍権威・権力”を見せつける“示威”行為もその一貫であった。

一例を挙げると、1388年9月に富士山を見ると告げ、駿河に赴く事で”鎌倉府“に幕府の軍事力を見せつけるという示威行為をしている。又、翌1389年3月には安芸の厳島を参詣した際に、周防に立寄る事で“幕府権力を見せつける”示威行為も行っている。こうした“地ならし“を行った上で、具体的に土岐氏、並びに、山名氏、両有力守護大名にターゲットを絞り、勢力削減、弱体化を実行して行った。

2-(1):有力守護大名勢力削減第一弾・・“土岐康行”の没落を策した足利義満

1389年4月~1390年閏3月(南朝:元中6~7年・北朝:康応元年~明徳元年):

東海地方で大きな勢力を持っていたのは足利尊氏を常に支持し、武功を重ね、土岐頼康(生:1318年・没:1388年)の時期に、美濃、尾張、伊勢3国の守護職に任じられた“土岐氏”であった。

1379年閏4月の“康暦の政変”で斯波義将、佐々木高秀らと共謀して、政敵・細川頼之を失脚させたのも“土岐頼康”であった。土岐氏の最盛期を築き、又“新千載和歌集“並びに”新拾遺和歌集・新御拾遺和歌集“に多くの和歌を残した文人でもあった彼が1388年に没し、甥で養子の“土岐康行”(生年不詳・没:1404年)が惣領を継いだ事が発端となった。

土岐康行は弟の“土岐満貞”を京都代官として足利義満に近持させ、更に従弟の“土岐詮直”を尾張守護代に就けた。足利義満に近侍した弟“土岐満貞”は“土岐家惣領”への野心を抱いて居り、側近と言う立場を利用して足利義満に兄“土岐康行”に対する讒言をしたとされる。有力守護大名の勢力削除を策していた足利義満はこれを好機と捉え1389年に突如“土岐康行”の“尾張国守護職”を取り上げ、讒言に及んだ弟の土岐満貞(生没年不詳)に与える事で“兄弟対立の構図”をわざと作り出したとされる。

2-(1)-①:土岐康行の乱(美濃の乱)勃発

1390年(南朝:元中7年・北朝:明徳元年)閏3月:

“土岐康行”の“尾張国守護職”が取り上げられた事に激怒したのは、尾張の守護代に就いていた土岐詮直(あきなお・生年不詳・没:ら1399年)であった。任地に赴くべく下向して来た“土岐満貞”の軍と尾張黒田宿で戦い、打ち負かした。

敗れて京に逃げ帰った“土岐満貞”は足利義満に“土岐康行・土岐詮直が謀叛”と訴えた為、事はまんまと足利義満の思惑通りに展開して行く。

1389年4月に“土岐康行・土岐詮直”討伐が命じられ、土岐康行は幕府から更に美濃国、並びに伊勢国守護を解任された。土岐康行は1390年閏3月に美濃国池田郡(岐阜県揖斐川町)小島城で挙兵するが敗れる。“土岐康行の乱”又は“美濃の乱”と呼ばれる。

この結果、土岐氏が領国としていた3国は分割され、美濃国は“土岐頼益”(土岐康行の従弟・生:1351年・没:1414年)に、尾張国は“土岐満貞”に、そして伊勢国は一族外で足利尊氏の時代に幕閣最有力者で後に没落した仁木義長(生年不詳・没:1376年)の子“仁木満長(生没年不詳)“に与えられた。足利義満の“有力守護大名の勢力削減策の第一弾”がまんまと成功したのである。

2-(2):有力守護大名の勢力削減策・第二弾・・山名氏の勢力削減を2段階に分けて行なう

2-(2)-①:第1段階      “山名時煕”と“山名氏幸(氏之)”を追討させる

山名氏一族は全国66カ国の中の11カ国(丹波・丹後・因幡・伯耆・美作・但馬・和泉・紀伊・出雲・隠岐・備後国)の守護大名を占め“六分の一殿”と呼ばれる程の大勢力であった。室町幕府第3代将軍・足利義満にとって、将軍権力を凌駕し兼ねない山名氏の勢力を削減する事は土岐氏の場合と同様に重要課題であった。

1390年(南朝:元中7年・北朝:明徳元年)3月:

山名時氏(生:1303年・没:1371年)の没後、一族の惣領に五男の“山名時義”(生:1346年・没:1389年)が就いた事で、嫡男の山名師義(生年不詳・没:1376年)並びに四男の山名氏清(生:1344年・没:1392年)双方の不満が惣領相続争いとして燻っていた。

その“山名時義”が没し、時義の長男“山名時煕”(やまなときひろ・山名宗全の父親・生:1367年・没:1435年)が惣領を継いだが、山名氏嫡流を自認する山名師義の四男の“山名満幸“(生年不詳・没:1395年)がこの惣領相続に不満を爆発させた。

こうした山名氏一族の相続争いをチャンスと見た足利義満は早速策を労し、亡き“山名時義”の些細な瑕疵を理由に挙げて、山名氏清(丹波、和泉、但馬国守護)と、甥で娘婿でもあり、惣領相続に不満を爆発させていた山名満幸(丹後、出雲、隠岐、伯耆国守護)の二人に命じて“山名時煕”と彼の義兄弟“山名氏幸(=氏之・生没年不詳)“の二人を但馬で追討させたのである。

追討に成功した“山名氏清”には恩賞として“山名時煕”の領国“但馬”を与え“山名満幸(満之)“には”山名氏幸(氏之)“の領国だった“伯耆国”を与えた。

2-(2)-②:第2段階      恩賞を与えた筈の“山名氏清”並びに“山名満幸(満之)”を滅ぼす・・明徳の乱(内野合戦)

“明徳の乱”の時系列経緯

1391年(南朝:元中元年・北朝:明徳2年)10月:

足利義満は山名氏清と山名満幸に追討させた“山名時煕”並びに“山名氏幸”を赦免した。足利義満という人物は相当な策略家だったのであろうか、山名氏勢力を削減する第一段階で、惣領相続に不満を持つ山名氏清と山名満幸を使って山名時煕(ときひろ)と山名氏幸(氏之)を追討させたが、1年半程後にこの二人を赦免し、そして今度はこの二人を使って“山名氏清”と“山名満幸(満之)”両者を討たせるという策に出たのである。

同年 11月:

山名時煕と山名氏幸(氏之)を追討した恩賞として“山名満幸(満之)”には、4ケ国の守護職が与えられ、山名氏の中で最大勢力と成った。山名満幸は自他共に認める念願の“山名氏惣領“の立場に成ったが、足利義満は今度はその”山名満幸(満之)“潰しに動いたのである。彼が“後円融上皇”(1382年に御小松天皇に譲位)の御料である“仙洞領横田荘”を横領したとの罪を被せ“山名満幸(満之)”の“出雲国守護職”を剥奪し、京から追放したのである。

山名満幸(満之)が実際に“仙洞領横田荘”を横領したかどうかの真偽は不明である。しかし、仙洞領(上皇の所領)を奪う事は、幕府として“仏神領”並びに“天皇や院領”の保護を決めた室町幕府の土地政策の基本法“応安大法”(既述した1368年制定の応安半済令)を破り、御教書に従わない大罪であり、その罪に足利義満は“山名満幸”を巧みに追い込んだ。

同年 12月19日:

一方、山名満幸(満之)は、足利義満が先に追討した“山名時煕”並びに“山名氏幸”を既に赦免し、今度は自分に対して“仙洞領横田荘の横領の罪”を課した事は明らかに意図的に“山名一族を順次滅ぼして行く策だ”と見抜き、叔父で舅の“山名氏清”と共に“京”に攻め込む決意を固めたのである。

室町幕府側にも山名氏清・山名満幸が謀叛の挙兵をするとの報が丹後と河内の代官から入り、更に山名氏一族から因幡国守護で山名氏清の甥の“山名氏家”(生没年不詳)が一族と共に挙兵するとの報も入り、京は大騒ぎになった。

同年 12月25日:

山名一族は強大な勢力を持つ有力守護であり、山名時氏(生:1303年・没:1371年)の時代の1353年6月には南朝の楠木正儀らと組んで足利義詮を京から追い、1カ月間占拠し、翌1354年12月にも斯波高経・桃井直常等と組んで2度目の京占拠(同じく1か月足らずであったが)を果した武勇に優れた一族である事を足利義満も充分承知していた。

そこで、戦いの前に軍評定を開き、重臣の意見を聞いたが“(足利義満が)挑発した結果、山名一族との戦いとなったのであるから和解すべしとの意見も出た。足利義満は“足利家の運と山名家の運とを天の照覧に任すべし“との覚悟を伝え、山名氏との決戦に臨んだと伝わる。

同年 12月26日:明徳の乱(内野合戦)に突入

山名氏清は室町幕府と戦う大義名分を得る為に“南朝”に降り“錦の御旗”を下賜されたとの説がある。この合戦後、1年も経たない1392年閏10月に南朝は北朝との合一交渉に合意する。更に、この時点では既に“南朝”の天皇は和平派の“後亀山天皇”に代わって居り、果して“山名氏清”の“南朝”への投降を受け入れ“錦の御旗”を下賜したかは疑わしい。もし史実だとしても“南朝の権威”を利用した最後のケースではあったが“錦の御旗”の効果も無く“山名氏清”は全盛期を迎えていた室町幕府の力の前に粉砕される。

戦いの状況

幕府軍は“京”へ侵攻する山名軍を迎え撃つべく旧平安京の大内裏である“内野”に主力の5000騎を置いた。そして足利義満の“奉公衆”5000騎は堀川の“一色邸”で待機した。若狭国(福井県西部)の守護”一色氏“は山名氏と領国経営を巡って敵対関係にあったのである。

山名満幸(満之)軍2000騎は12月26日には“内野”から12㎞程の“峯の堂”に布陣した。ところが和泉国守護の“山名氏清軍”は堺から京へ進軍中、河内守護代の“遊佐国長”に阻まれ到着が遅れたのである。いきなりの劣勢状況に“山名満幸”軍からは、脱落し、幕府方に降参する者も出る始末と成った。

1391年(南朝:元中元年・北朝:明徳2年)12月29日:

到着が遅れた“山名氏清”軍は夜、淀の中島に到着し、そこから3隊に分かれて京に進撃、一方の山名満幸軍は2手に分かれて京に進撃した。闇夜の進撃だった為、各隊の連携は乱れ、統制がとれていなかったとされる。

同年 12月30日:

早朝、山名氏清の弟・山名義数と小林上野守義繁の700騎が二条大宮で幕府方の大内義弘の300騎と激突、合戦が始まった。“山名義数”と“小林上野守”軍は劣勢となり、大内義弘と一騎打ちとなった“小林上野守義繁”は討ち取られ、山名義数も討ち死した。

山名満幸軍2000騎が“内野”に突入し、幕府軍の細川頼之・頼元兄弟、畠山基国、京極高詮軍3000騎との間に激戦となったが、足利義満の奉公衆(馬廻)5000騎が加わった事で幕府軍の勝利となった。敗れた“山名満幸”は山名氏清の領国丹波(京都府中部と兵庫県中東部)へと落ち延びて行った。

一方、3隊に分かれて京に突入した“山名氏清”軍は大内義弘軍・赤松義則軍と激戦と成り、当初は優勢であったがr、一色氏、斯波義重軍が幕府軍に加わった事で劣勢に転じた。足利義満自らも奉公衆(馬廻)を率いて参戦した為、山名氏清軍は敗走し、最後は一色詮範・満範父子に囲まれ討ち取られたのである。

“明徳の乱(内野合戦)”は終結し、勝利した幕府軍の戦死者は260人余、敗れた山名軍の戦死者は879人に上った。

2-(2)-③:山名氏の勢力は3カ国に削減され、足利義満の有力守護の勢力削減と将軍権力・権威の拡大策は目的を遂げた

この戦いの後に論功行賞が行われた。丹波国(旧山名氏清)は細川頼元、丹後国(旧山名満幸)は一色光範、美作国(旧山名義理)は赤松義則、和泉国(旧山名氏清)と紀伊国(旧山名義理)は大内義弘、隠岐・出雲国(共に旧山名満幸)は京極高詮に与えられた。

“明徳の乱”に加わったが、降伏して許された“山名時煕”には但馬国(旧山名氏清)が与えられ、同じく許された“山名氏家”には元通りの因幡国が安堵された。弟の山名満幸によって没落させられていた“山名氏之(氏幸)”には足利義満の計らいで伯耆国(旧山名満幸)が戻された。

尚、山名氏清の7歳年上の兄で紀伊国と美作国守護であった“山名義理”(やまなよしただ・生:1337年・没年不詳)は“明徳の乱”への参加を山名氏清に説得されたが、結局、紀伊国から兵を出さなかった。しかし、足利義満は彼の領国も召し上げ、大内義弘に紀伊国、赤松義則に美作国を与えたのである。

以上の戦後処理の結果、全国66カ国の中の11カ国の守護大名を占め“六分の一殿”と呼ばれる程の大勢力を誇った“山名氏一族”は僅か三カ国の分国のみに削減された。ここに“有力守護大名の弱体化”を策した足利義満の課題が解決されたのである。

G:“明国”から室町幕府が日本統治者としての“正当性”を認められる為には、天皇家が南北二つに分裂している状況は不都合と考え“南北朝合一”に向けた本格的動きを開始した“足利義満”

1:足利義満の“南北朝合一”に向けたスタンス

明国との通交開始の為には“南北朝合一”が必要と“足利義満”が考えるに到った原点は1380年に“明国”へ第2回目の通交を求める使者を出したものの、拒絶された事にあった。

足利義満は“二つの朝廷の存在がある限り、日本は統一された国とは認められない”という事に思い到った。室町幕府が日本統治者としての“正当性”を確保する為には一方の朝廷(北朝)のみから“正当性”を与えられている現状は“正当性”に瑕疵がある事であり、幕府の価値、権威を損なうと考えたのである。

2:“南北朝合一”を成す前に処理すべき“課題”に取り組み、解決した“足利義満”

既述した様に、足利義満は“南北朝合一”の前に処理すべき課題の第一は、懐良親王の“征西府”の討伐であり、この課題は今川了俊の派遣によって解決し、九州地区の幕府の統治体制を整えた。第二の課題は有力守護大名の勢力削減策であり、土岐氏、山名氏を討伐する事で解決した。この課題解決によって室町幕府の“将軍権力”並びに“権威”拡大は達成され、愈々“南北朝合一”に取り組んだのである。

3:南朝・北朝双方が“合一”に向けた客観情勢が整う

南朝方は南朝を支えて来た重要人物の多くが世を去り、あるいは活動の跡を絶った事を含め“自壊”が進み、先細る一方だった。南朝方にとって室町幕府・足利義満政権の安定化が進み、将軍権力並びに権威を拡大させた事で“南北朝合一”は事実上、不可避の選択と成っていたのである。

こうした状況下、北朝に対して強硬派の“長慶天皇”から和平派の“後亀山天皇”への譲位も成り“南朝方“の”南北朝合一“への環境は整っていたと言えよう。

一方、既述した様に“足利義満”は“公武”双方の権力掌握を1380年迄に終えており“南北朝合一“の作業に関しては思い通りに事を進める事が出来る状態であったと言える。

4:大内義弘が“南北朝合一”交渉の“折衝役”を担う

大内義弘(生:1356年・没:1400年・大内弘世嫡子・大内家第25代当主)は名将として多くの武功を重ね、守護領国6カ国(周防・長門・岩見・豊前・和泉・紀伊)を与えられた“大内家第一期目”の全盛期を築いた人物である。彼は“南朝方との合一”に向けた折衝役を担うが、それには理由があった。

先ず第一に“明徳の乱“後に山名氏清の“和泉国”と、山名義理の“紀伊国”を得た事である。この領国は南朝方の根拠地と接している事から“大内義弘”が南朝方との折衝の場を設定する役割を担った。第二の理由は、大内義弘の父“大内弘世”(周防・長門・岩見守護・生:1325年・没:1380年)が1350年~1363年の間は“南朝方”に属していたという事情が折衝役として適任とされたのである。

5:“南北朝合一”の交渉は“足利義満”と“南朝”方で行われ“北朝”方は事実上、局外に置かれた

5―(1):交渉に関わったメンバー

1391年(南朝:元中8年・北朝:明徳2年):

落合莞爾氏の“南北朝こそ日本の機密”には交渉開始時に幕府に対して強硬派の南朝第3代(歴代第98代)“長慶天皇”が崩御していたとの記述があるが“大乗院日記目録”には“長慶天皇は後亀山天皇に譲位後、2年程院政を敷き、応永元年(1394年)8月に52歳で崩御”とあり、これが定説である。従って“南北朝合一”交渉の際には存命であったと考えられるが、長慶天皇が何らかの役割を果したとの記事は無い。

“南朝方”の交渉役は①後亀山天皇側近の“阿野実為(あのさねため・代々続く南朝方公卿・生年不詳・没1399年)②吉田宗房(生没年不詳・吉田定房の長男)とされる。

一方、当事者であるはずの“北朝方”は事実上局外に置かれ、交渉は足利義満と南朝の間で行われたとされる。只、神祇官の家である吉田(卜部)兼熈(うらべかねひろ・吉田神社社務・卜部氏17代・生:1348年・没:1402年)が北朝方の媒介役を担ったとされる。

6:交渉条件がほゞ合意に達し“南北朝合一”が成る

1392年(南朝:元中9年・北朝:明徳3年)閏10月5日

“南北朝合一”は①明徳の和約②元中一統とも称される。形としては南朝の“後亀山天皇”が吉野から京都に帰還して、京都の“大覚寺”で北朝の“御小松天皇”に三種の神器を譲り、退位した事を以て“南北朝合一”が成り、建武3年(1336年)以来の朝廷の分裂状態が終了したのである。

大覚寺訪問記:2015年8月26日

JR嵯峨嵐山駅で降り、バス停“大覚寺”で降りた処に“大覚寺”がある。大覚寺は第52代嵯峨天皇(在位:809年~823年)の離宮として建立され、876年に“大覚寺“と成った。生け花発祥の”花の寺“としても知られ、我々訪問時にも多くの”生け花“関係者が訪れていた。

天皇や皇族が住職を務めた最も格式の高い“門跡寺院”で、回廊で結ばれた御影堂、宸殿などの建物の近くに“正寝殿”があり、此処で南北朝講和会議が行われたとの説明を受けた。嵯峨天皇が唐の洞庭湖を模して造らせたという“大沢池”などの景観は、京に在る多くの寺の中でも最も美しい寺の一つではなかろうか。

6-(1):合意条件内容

以下の三点に要約される。

①:南朝方に伝わった“三種神器”は南朝の後亀山天皇より北朝の御小松天皇への“護国の儀“をもって引き渡す。
②:以後は“両朝御流相代”りに皇位に就く
③:天皇家領のうち、諸国“国衙領”は大覚寺統(南朝皇統)が相伝し“長講堂領”などの院領荘園は持明院統(北朝皇統)が相伝する

①で“護国の儀“を執り行う事は南朝”後亀山天皇“を正統と認め、後亀山天皇からの”譲国“つまり譲位に拠って北朝の”後小松天皇“に正統性が付与されるとの解釈に結びつく。

②の条件は鎌倉末期に議論された“両統迭立”の再現を意味し、南朝方としては御小松天皇(北朝)の次は南朝大覚寺統から天皇を出す事、つまり“後亀山天皇”の弟の“泰成親王”乃至は、後亀山天皇の皇子の“小倉宮恒敦”を皇太子とする事を条件としたのである。

①②は共に“南朝側”が“南朝”を皇統の正統な存在として認める事が“南北朝合一交渉”合意の基本条件とした事を意味している。

③については“院政とは何だったのか”の著者・岡本友彦氏の以下の解説がその実態を説明している。

白河上皇によって院政が始められ、鳥羽院によって膨大な“院領荘園群”が形成されて以降、院宮家は常に最大の荘園領主として中世社会に重きを成して来た。そもそも持明院統と大覚寺統の対立も長講堂領、八条院領といった“院領荘園群”の伝領を巡って惹起されたものであった。

ところが“南北朝の合一”に当たり、院領荘園群の全ては北朝皇統(持明院統)のものと定められた。この背景には大覚寺統(南朝皇統)が伝領した“八条院領”が南北朝内乱の過程でその実態を失い、今更“南朝皇統”の財源と成り得なかったという事情が関係している。

一定の収入が期待される“長講堂領”を保証された北朝皇統と、有名無実な“国衙領”を与えられた南朝皇統とではその経済基盤の差は明らかであった。


6-(2):“足利義満”が“南北朝合一”を専断する事が出来た事がスムーズに合意が成立した最大の要因であった

“南北朝合一”が成り“南朝”は北朝に吸収された形で終焉した。次項(6-13項)では“至尊(天皇家・朝廷・貴族)“勢力を完全に凌駕した”至強(将軍・足利義満・室町幕府・武家)“勢力が更に“王権への挑戦”を進めて行く史実展開について記す。

そもそも“南北朝合一”が合意に達する事が出来た大きな要因が、北朝に於て二条良基が“足利義満“を武門の摂関家に仕立て上げた事で、足利義満が“公・武”の実質上の“最高権力者”として動く事が出来た事にある。従って、足利義満は当事者であるはずの”北朝方“を事実上局外に置いて“南朝方”と交渉をする事が出来た事で合意がスムーズに運んだのである。

7:何故、足利義満は“南北朝合一”交渉の局外に置く程“北朝”での立場を強める事が出来たのか

7-(1):足利義満が北朝方を交渉の局外に置いた事が史実である事を裏付ける史料

足利義満が独断で“後亀山(天皇)”に“太上天皇”の尊号を贈る

1394年(明徳5年)2月23日:

南北朝合一が成った2年後の1394年2月6日に足利義満は天竜寺で後亀山(旧南朝天皇)と面会し、後亀山に“太上天皇の尊号”を贈っている。北朝の廷臣にとっては寝耳に水の話であった事が関白・二条良基の三男で1394年に関白・左大臣に任じられた“一条経嗣”(つねつぐ・生:1358年・没:1418年)の日記に書かれている。

“此ノ如キ大義、勅問ニ及バズ群議ニ決セズ、左右ナク治定スト云々”つまり後亀山への尊号宣下は、北朝の廷臣の預かり知らぬところで事実上決定されたと記している。

後亀山(南朝天皇)は“太上天皇尊号”の件が持ち上がる前日に旧南朝の皇太子であった弟の“惟成親王(これなりしんのう・後村上天皇第三皇子・生年不詳・没:1423年)”を伴って足利義満に会見している。目的は南北朝合一時の合意条件の②“両統迭立”の再現の履行を足利義満に迫る為であった。

履行を迫られた足利義満がその場を一先ず収める策として後亀山に“太上天皇尊号”を与える事を廷臣に諮る事無しに独断で決定したのである。北朝方の廷臣としては“後亀山(天皇)”を天皇として認める認識も“南朝”を皇統として認める認識も無かった事は“帝位ニアラザル人ノ尊号ノ例”と書いている事からも裏付けられる。当時の南朝方と北朝方が互いに譲らない複雑な事情がこの事からもうかがえる。

上記の史料は、足利義満が“南北朝合一”交渉に北朝方を一切、参加させなかった事を裏付けるものであるが、以下に足利尊氏・足利義詮、そして足利義満の三代の将軍が、北朝方の天皇を含め、如何なる経緯で“北朝方”を凌駕する強い立場を獲得して行ったかを改めて記述して置きたい。

7-(2):第二代将軍・足利義詮の時代から幕府は安定期に入る

7-(2)-①:将軍権力を強めた“足利義詮”とそれを裏付ける“京”での建造ラッシュ

1362年~1365年(南朝:正平17年~正平20年・北朝:康安2年~貞治4年):

既述の様に、武将達にとって幕府に対抗して戦う“大義名分”を得る為に利用した“南朝”の存在も、南朝の主たる人物がこの世を去り、又、南朝方による数度に及ぶ“京占拠”が徒労に終り、幕府への抵抗活動に“価値”を見い出せなくなった事で“南朝”そのものの存在価値が減じて行った。

“南朝方”の有力守護の山名時氏(生:1303年・没1371年)、更には大内弘世(生:1325年・没:1380年)が共に1363年9月(南朝:正平18年・北朝:貞治2年)に足利直冬、並びに、南朝を見限り、足利幕府に帰順した事で足利幕府方の優勢が確定した。その為、京都には太平の機運が満ち、多くの守護が在京する様になり、屋形の建造ラッシュが起きたのである。

そうした状況下で、1365年(南朝:正平20年・北朝:貞治4年)2月~6月には足利幕府第二代将軍足利義詮の御所“三条坊門邸”の新築が行なわれている。

7-(2):足利義満が第3代将軍に就いた頃から幕府は次々と朝廷側の権力を奪って行った

上記した様に足利義満が生れて(1358年)間もない1363年9月には最有力守護の山名時氏や大内弘世も足利幕府に帰順し、幕府政治は安定化した。守護大名達も京に集まり、幕府は次々と朝廷(北朝)側の権限を奪って行った。

1370年(南朝:建徳元年・北朝:応安3年)12月:京市中の“警察権”を握った室町幕府

室町幕府第3代将軍に就いて丸3年経った足利義満は未だ12歳であり、幕府運営は管領職の細川頼之が主導していた。幕府は延暦寺の公人(くにん=延暦寺の僧侶でありながら妻帯と名字帯刀を許され、年貢・諸役を収納する等の寺務を行った。注:比叡山の麓の“坂本”を訪ねると江戸時代後期に建てられ、今日でも旧状を留めた公人屋敷(旧岡本邸)を見学する事が出来る。主屋、米蔵、馬屋等も残されて居り、公人とは如何いう立場の僧であったかを知る事が出来る。)の悪行を取り締る法を発布している。

この事は室町幕府が京都市中の警察権を握った事を意味し、逆に朝廷(北朝)の権限が縮小の一途を辿っていた事を意味する。

7-(3):元々北朝・天皇家を誕生させたプロデユーサーである上に、その後の北朝・皇位継承に実質的決定力を発揮して来た足利幕府

7-(3)―①:自ら“正平一統”策で閉じた“北朝”を再興させる為に、足利尊氏が“後光厳天皇”を強引に誕生させた事で、北朝の“天皇家”そして朝廷(北朝)の権威に著しく傷がついた

そもそも、光厳・光明・両天皇の誕生も、足利尊氏が強引に行った事は既述したが、その両者と崇光を加えた3上皇が南朝方に拉致され、連れ去られ(1352年6月)た為、足利尊氏・義詮は窮余の一策として、仏門に入って居た“弥仁”(いやひと)を践祚させ、北朝第4代“後光厳天皇”(在位:1352年~1371年)を誕生させた。

一度潰した(1351年正平一統)北朝をこうして強引に再興したが、この事は足利将軍家と北朝・天皇家の力関係が逆転した事を意味し“朝廷(北朝)”の権威に大きな傷が付いたのである。

更に南朝方に拉致されていた3上皇全員が (1355年に光明上皇、1357年に光厳・崇光両上皇)“天野山金剛寺”から京に帰還した事で“北朝”の“後光厳天皇“の正統性が改めて問題となる事態へと繋がった。

7-(3)-②:後光厳天皇の譲位に絡んで天皇家が割れ、室町幕府が介入する

1370年(南朝:建徳元年・北朝:応安3年)8月:

後光厳天皇(33歳)が第一皇子・緒仁親王(おひと・当時12歳)に譲位の意向を示した事で、燻っていた“正統性”の問題に火がついた。拉致から帰還した崇光上皇(36歳)は“後光厳天皇(33歳)“の兄であり”正平一統“(1351年11月)で廃位された天皇である。もし、南朝方に拉致される事態が起こらなければ天皇の地位に座り続けていた筈であった。

従って帰還した“崇光上皇”は自分の皇子“栄仁親王(よしひと・生:1351年・没:1416年)”こそが嫡流であり、譲位は19歳の“栄仁親王”に成されるべきだと主張し、一歩も譲らなかった。北朝・朝廷内部で決着させる事が出来ず、室町幕府への“伺い”となったのである。

この話を裏付けるのが“椿葉記(ちんようき:栄仁親王の皇子貞成親王が著した伏見宮家の家譜)“の記事である。”椿葉記“に書かれた要旨を下記に記すが 、後光厳天皇譲位に関して、幕府が介入した事が明記されている。

この頃(1371年4月)将軍・足利義満はまだ幼少(13歳)であり、細川頼之が天下の政務を執っていた。後光厳天皇が譲位しようとしていることを知った崇光上皇は“こちらの方が嫡流であるから、自分の子・栄仁親王を践祚させるべきだ“と幕府に申し入れた。これに対して細川頼之は”後光厳天皇の決断に委ねる”との返事をした。

幕府がこうした回答をした背景には、崇光上皇の申し入れは正当なものであるとしながらも、後光厳天皇と細川頼之とは近い関係にあった事から、幕府(細川頼之)としては践祚の問題には介入しない態度を示し、上記表現となった。しかし実態として、幕府は天皇側をバックアップした形となり、後光厳天皇の皇子“緒仁親王“への譲位となった。

同様の趣旨の事が“後光厳天皇”自身の日記にも見られる。日記からも、室町幕府は建前では“皇位継承への介入を避け、中立の立場をとる“とし乍らも後光厳天皇に加担している。その結果12歳の”緒仁親王“が、北朝第5代後円融天皇(在位:1371年4月・譲位:1382年4月・生:1359年・崩御:1393年)として践祚したのである。

7-(3)-③:“後円融天皇”実現に足利幕府が決定的役割を果たした事が原点と成って“足利義満”の“公武”両面での権力拡大が加速する

足利尊氏が“光明天皇”を誕生させた時点で“足利将軍家”と“北朝・天皇家”との力関係は逆転していたと言える。“後円融天皇”の誕生に“足利幕府”が決定的役割を果たした事、更に、北朝方公卿のトップ“二条良基”が、将軍・足利義満に公家としての政治権力を掌握させる事で不安定な北朝・朝廷政治の安定を図るという策に出た事が相まって、足利義満が、公(北朝・朝廷政治)武(室町幕府政治)両面で強い政治権力を握る事が加速したのである。

7-(4):足利義満が北朝・朝廷政治に対する権力を掌握する事に尽力した“細川頼之”と“二条良基”

7-(4)―①:管領・細川頼之の妻が足利義満の乳母であった関係から“細川頼之”が養育に努める一方、義満の位階昇進を加速させる

1367年11月25日に父・足利義詮が死去した事で足利義満は9歳で家督を継いだ。“貞治の政変(1366年)“で、佐々木道誉や赤松氏等によって”斯波高経“が失脚させられ、四男で17歳だった初代管領の”斯波義将“が連座させられ、代わって幕府第2代管領に就いたのが、佐々木道誉・赤松氏に加えて鎌倉公方・足利基氏の推挙を得た“細川頼之”であった。彼は乳母夫という立場でもあり“足利義満の教育”だけでなく“位階昇進”にも並々ならぬ力を注いだ。

急カーブで足利義満を昇任させた細川頼之

細川頼之は足利義満の第3代将軍としての権威を高める為、北朝方に位階昇進を早める様、積極的に働きかけた。“細川頼之”を頼りにしていたと伝わる“後光厳天皇(北朝)”は彼の要請に応え、足利義満の昇任を急カーブで実現した。下記にそのスピード振りを記す。

1367年:12月3日・・満9歳で正5位下・左馬頭
1368年:12月30日・・満10歳で征夷大将軍
1373年:11月・・満15歳で従四位下・参議左中将
1375年:11月・・満17歳で従三位(公卿となる)
1378年: 3月・・満20歳で権大納言
      8月・・源頼朝以来の“右大将”に任じられる(注)
    12月・・従二位に昇叙

7-(4)―②:将軍足利義満を“武門の摂関家”に仕立て上げる画策をした“二条良基”

“康暦の政変”で“細川頼之”は解任されたが、その後も足利義満の昇任は下記に示す様に変わらず急カーブであった。それには“二条良基”の存在が大きく影響している。

足利義満は上記(注)が示す様に既述した1378年8月、源頼朝以来となる“右大将”に任じられている。著書“足利義満”の中で“伊藤喜良”氏はこの事が足利義満が“武(室町幕府)”だけでなく“公(北朝)”に於ける政治権力を掌握して行くターニングポイントと成った、と指摘している。

1380年:正月・・満22歳で従一位
1381年:6月・・満23歳で内大臣
1382年:正月・・満24歳で左大臣
:3月4日・・蔵人別当(天皇直属の機関で機密文書等の保管を行う蔵人の長官)
1383年:6月・・満25歳で准三后宣下を受ける(武家出身者で先例無し)

上表に在る様に1383年には武家出身者としては前例の無い“准三后”にまで昇進している。此処まで足利義満を祭りあげる“二条良基”の姿勢に対して公家社会からは批判もあったが、疲弊していた公家社会にとっても、室町幕府の将軍を“朝廷政治”に取り込む事で政治的・経済的に安定が得られる事は確かであり、従って公家側も足利義満を次第に受け入れる様に成ったのである。

こうして足利義満の“准摂関”としての地位は公家社会(北朝朝廷政治)の中で確立して行った。

7-(5):後円融天皇に大きな“貸し”を作った室町幕府と“従兄弟同志”の後円融天皇と足利義満の関係が齎した両者の力関係

7-(5)―①:足利将軍家のバックアップがあってこそ実現した“後円融天皇”の践祚ならびに即位式

北朝第3代“崇光天皇”が廃帝となり、拉致された為、弟が北朝第4代“後光厳天皇“に就いた。”崇光上皇“は既述した様に1357年に京に帰還した。1370年8月に後光厳天皇が譲位の意向を表明した事で次の皇位継承問題を巡っての争いが起きた。この時、幕府側が実質的に“後光厳“側に加担した事で1371年3月に“後円融天皇”が実現したのである。

この事だけでも北朝の天皇家としては幕府に大きな“借り”が出来た訳だが、其れだけでは済まなかった。1371年12月から1374年11月迄、南都(興福寺)の強訴問題が繰り返された事に加えて、院政を敷いていた“後光厳上皇”が1374年1月29日に崩御した事が重なり“後円融天皇”の“即位式(天皇が位に就いた事を内外に明らかにする為の式典)”は行なわれていなかったのである。

ここでも北朝・天皇家は管領・細川頼之主導下の室町幕府の支援を受けて践祚からほゞ4年を経て漸く“後円融天皇”の“即位式”を行なったのである。

7-(5)-②:従弟で、足利義満が1歳年上という後円融天皇との血縁上の関係

足利義満の母親・紀良子(きのよしこ・足利義詮の側室・生:1336年・没:1413年)と後円融天皇の母親・紀仲子(きのなかこ・後光厳天皇の典持=宮中最高位の女官・生:1339年・没:1427年)は姉妹であった。従って足利義満と後円融天皇とは従弟で、足利義満が1歳年上という関係であった。

7-(5)-③:足利義満将軍の新邸“室町第=花の御所”の造営が成り、後円融天皇を筆頭に主たる公卿を6日間も逗留させる

1381年(南朝:弘和元年・北朝:永徳元年)3月11日~3月16日:

崇光上皇の御所趾と菊亭(今出川公直)の焼失跡を併せた敷地に1378年から足利家の邸宅の造営を始めていた。

東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通(かみだちうりとおり)に囲まれた東西1町=110m、南北2町=220mで約7300坪の広大なものであった。私も史跡訪問で友人と訪ねたが“足利将軍室町第址碑”と刻まれた高さ1m程の石碑が建つのみで当時を忍ぶ事の出来る建造物は一切見られずがっかりしたのを覚えている。

邸宅の“正門”が室町通りに面していた事から“室町殿”と、この居所が呼ばれ“将軍の居所を幕府と呼んだ“事と併せて“江戸中期頃”から足利氏の政権を“室町幕府”と呼称する様になったとされる。

足利義満は後円融天皇を完成した新邸に迎えている。関白以下の公卿も御供して16日迄逗留したとの記録が残る。この前例の無い長逗留も“二条良基”の策であったと伝わる。舞・和歌会・蹴鞠・詩歌・管弦などが盛大に行われ、この機会を選んで叙位も行われた。義満の母・紀良子と妻・日野業子(ひのなりこ・生:1351年・没:1405年)に従二位が贈られた。

こうした北朝・後円融天皇と足利義満との“近すぎる”関係、既述した足利幕府開設以来、足利氏が北朝・天皇家の言わば“プロデユーサー”であったという史実、そして幕府としては、大義名分並びに正当性確保の為から、天皇家を支援し、維持する必要があったという相互依存の関係であった。准后“二条良基”の北朝々臣としての立場からは、既述した“将軍足利義満”を取り込む事で“北朝を浮揚させる”というニーズもあったのである。

そうした室町幕府側と北朝側双方の“依存関係”にはあったが、力関係から言えば、圧倒的に幕府側が北朝側を凌駕していた。従って足利義満の昇叙、昇官が破格のものであった事は当然の結果であったとも言えよう。

7-(6):北朝・朝廷政治の実権を掌握して行った“足利義満”

7-(6)-①:後円融天皇が譲位し5歳の幼帝“後小松天皇”が誕生する。この譲位も、足利義満の加担無しには実現不可能であった

1382年(南朝:弘和2年・北朝:永徳2年)4月11日:

24歳に成った足利義満はこの年の正月に内大臣から左大臣に昇任している。未だ23歳の“後円融天皇“だが、践祚後11年が経ち、院政を敷くべく、未だ5歳の第一皇子(幹仁親王・もちひと・生:1377年・崩御:1433年)への譲位を望んだ。しかしこの皇位継承に対して48歳で存命中の元“崇光天皇”側からは再び前回諦めた第一皇子・栄仁親王(生:1351年・没:1416年)への継承を強く主張して来る事が危惧された。

ここでも足利義満は“後円融天皇支持”を表明したのである。結果“幹仁親王”への譲位が実現し、北朝最後の第6代後小松天皇(歴代第100代天皇・践祚:1382年・譲位:1412年)が誕生したのである。

7-(6)-②:北朝・朝廷政治の実権を完全に握った足利義満・二条良基体制

後小松天皇を誕生させた事で、足利義満は北朝・天皇家に更なる大きな“貸し”を作った。後円融上皇となり“後円融院政”を開始したが、実権は足利義満が握って居た。又、幼帝“御小松天皇”の摂政には“二条良基”が就き、結果、北朝・朝廷政治は完全に両名が支配する体制となったのである。

1382年(南朝:弘和2年・北朝:永徳2年)5月11日:

内大臣(1381年)を経て1382年2月に足利義満は“左大臣”に昇り、5月11日に“蔵人別当“に任じられ“牛車”使用が許されている。

同年 5月24日:

足利義満は後円融上皇が始めた“院政”に於ける“院別当(院の長官)”も兼務する事になる。形の上では内裏(宮中)は摂政・太政大臣の“二条良基”が、そして仙洞(院)の実権は“足利義満”が握った形となったが“北朝の全朝廷政治”は足利義満が全権を握ったというのが実態であった。

7-(7):傀儡状態となった“後円融上皇”の憤懣が爆発“足利義満”に対する“嫉妬事件”を起こし“墓穴”を掘る

7-(7)-①:後小松天皇の“即位の大礼“の式日を”後円融上皇“の了承無しに決めた足利義満

足利義満が北朝の廷臣に対しても高圧的な態度で接する様に成った事が公卿・近衛道嗣(生:1333年・没:1387年)が残した日記“愚菅記(1352年~1383年の期間)”の1383年正月の記事に“近日左相(足利義満)の礼、諸家の崇敬(あがめうやまうこと)、君臣(主君と臣下)のごとし“と残されている。

こうした公卿に対する”足利義満“の高圧的な態度・行動は、1382年中半頃までの円滑だった“治天の君・後円融上皇”との関係に亀裂を生み、それが益々拡大して行った。

その象徴的事件が“後小松天皇”の即位の大礼に関して起こる。大礼日を二条良基と足利義満が二人だけで相談し“後円融上皇”の了承を得ない侭、決めてしまったのである。後円融上皇は激怒したが、如何ともし難たかった。

7-(7)-②:後円融上皇(24歳)が嫉妬狂いから“自害”騒ぎを起こし“天皇家”の権威を地に堕とす

同年齢で、従弟という近しい関係の二人ではあったが“足利義満”は室町幕府第3代将軍として“武”の実権を握ると共に、実力“公卿”として北朝の朝廷政治の実権をも握った。こうした状況に“後円融上皇”は強い対抗心を抱く様になったとされる。

更に、北朝方では“二条良基”のみならず“三条公忠”(後円融上皇の上臈女房で後小松天皇の生母となった三条厳子の父親・生:1324年・没:1383年12月)“までもが足利義満に追従する有様に後円融上皇の足利義満に対する対抗心は、強い憤懣と成って燃え上がった。そしてそれが2件の“嫉妬事件”へと繋がる。

嫉妬事件その1

1383年(南朝:弘和3年・北朝:永徳3年)2月1日:

“後円融上皇”は出産の為に里に下がっていた三条厳子(さんじょうたかこ・いずこ・生:1351年・没:1407年)が宮中に戻ったが、夜伽に応じなかった事に逆上し、刀の峰で打ちすえ、傷を負わせるという事件を起こした。(別の説として後円融上皇は足利義満と三条厳子との密通を疑って打ちすえた)この為“三条厳子”は実家の三条家に逃げ帰ったという事件である。

嫉妬事件その2

同年 2月11日:

上記事件の僅か10日後に“後円融上皇”は愛妾“按察局(あぜちのつぼね)”と足利義満の密通に激怒し、彼女を内裏から追放、按察局は出家するという事件が起こった。


更に自害騒動に発展

同年 2月15日:

上記2件の“嫉妬狂い事件”は、洛中の話題として広がり“天皇家”の面目が丸潰れとなった。事の重大さに、生母の崇賢門院(後光厳天皇の典侍の紀仲子・彼女は足利義満の生母・紀良子の妹・生:1336年・没:1427年)が間に入った。甥に当たる足利義満を説得して武家伝奏“日野資康”と彼女の弟“広橋仲光(生:1342年・没:1406年)”を御所に派遣、足利義満が潔白である事を“後円融上皇”に弁明させたのである。

しかし嫉妬に狂い、怒り心頭の“後円融上皇”は二人の使者との対面を拒絶した。その後“日野資康”が上皇の側近に“左大臣殿(足利義満)は上皇の配流を考えて居られる様だ”と漏らした為、仰天した側近がその旨を“後円融上皇”に伝えた。上皇は震撼したばかりか、やにわに宮中の“持仏堂”に駆け込み、生母・崇賢門院に“自害する”と喚き立てたのである。

崇賢門院が宥め、この場を納めた為“後円融天皇”は漸く使者“日野資康”並びに“広橋仲光”と対面し“後円融上皇”と“足利義満”は和解し、一件落着となった。

足利義満が上皇を“配流する”という事は、根も葉も無い嘘であった。そうした“嘘”を上皇に吹き込み、精神衰弱に追い込んだ側近達も足利義満の権力の前に如何に“阿諛追従(あゆついしょう=大いに媚へつらう事)“していたかを裏付ける事件であった。天皇家の恥辱を天下に晒したこの事件は、後円融天皇と足利義満の権力の圧倒的な較差を目立たせる結果となった。

7-(8):後円融上皇は足利義満と和解し“准三后”に叙す

1383年(南朝:弘和3年・北朝:永徳3年)3月3日:

この日の記録に拠ると後円融上皇と足利義満が一緒に事件の調停役を担った“崇賢門院(後円融上皇の生母、足利義満の叔母)の御所を訪ね、帰りに牛車に同乗したとある。北朝・天皇家としては、二人の関係が修復された姿を京の人々に見せたかったのであろう。

同年 6月26日:

足利義満が准三后の宣下を受ける。皇后、皇太后、太皇太后に准ずる地位に叙せられた事であり、摂関家や帝の外租が叙せられた前例はあるが、武家出身者の左大臣が准号に叙せらたのは全く前例が無い事であった。参賀の為に足利義満邸に公卿達が群参したが彼等の内心は“不快”な事であったと思われる。

以上の記述で“南北朝合一”という歴史的交渉にも拘わらず“足利義満”が“後円融上皇”はじめ“北朝方”の廷臣を局外に置いた理由が明白になったのではなかろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿