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2014年4月17日木曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代の始まりと院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
第5項 第三段階その①・・第3代執権北条泰時の“合議制政治”から第5代北条時頼の“得宗専制政治”が始まる迄


政治経験の無い武士層が初めて朝廷政治から独立した鎌倉幕府という本格的武家政権を打ち立てた。戦闘を言わば“生業”とする武士層による政権であった為に闘争と混乱に終始した時代であった。その“武士層による東国政権”が“全国規模の政権”へと進化する過程が鎌倉時代であるからこの政権は“朝幕関係”に於いても、又、武士層間に於いても“闘争と混乱”が絶えなかったのである。

こうした状態は織田信長や豊臣秀吉によって日本列島が再び統一される迄、更に拡がって行く。

闘争と混乱の鎌倉時代には“5段階の政治体制の変遷“があった。源氏3代の将軍が途絶え、政子の存在のお蔭で地方の一豪族に過ぎなかった北条氏が執権職として幕府内での地位を固め、鎌倉時代を通して政治体制の軸となり、変遷をリードした。

その北条氏の出自が低かった事が原因で鎌倉時代の政情は常に不安定であった。前の為政者が死亡すると政争が繰り返されるという混乱が繰り返されたのである。

鎌倉~室町~江戸時代へと、武士層による新しい統治の仕組みが整えられて行くスタートの時代ではあったが、天皇家は厳然たる“権威”として存在し続ける。その結果日本には朝廷政治と幕府政治が併存した世界でも稀有な二重構造を持つ国の形が出現した時代でもあった。

こうした点でも、鎌倉時代は非常に複雑で理解が難しい時代だったとも言えよう。

そうした“鎌倉時代政治体制変遷“の5段階の中の第3段階目が執権政治を”合議制“の形を執る事に拠って”定着“させて行く事に成功した”第3代執権・北条泰時“の政治と、その執権政治を更に強化した結果”得宗専制政治“と呼ばれる政治体制を築く第5代執権北条時頼の政治の時代である。

先ずは北条泰時の政治から記述を始める。

1:北条義時の急逝とその死因に見る不安定な政情

1224年6月13日、第2代執権北条義時が急逝した。“吾妻鏡”には死因を“日頃の脚気と霍乱(かくらん=急性腸炎・赤痢・コレラ)”とし、順次の往生“と記している。前項で義時の急逝は妻・伊賀の方による毒殺説があると記したが、諸説がある事は確かである。

150年余り続く鎌倉時代だが、全体を通して政争の連続であった。北条義時の“毒殺説”も“地方の小豪族に過ぎなかった北条氏”が政権を握った事による“権威の無さ”が背景に在る為で、有力御家人を初めとする“反・北条氏“の政争が常に起こる状態だったと言える。

以下に北条義時“暗殺説”を紹介する事で当時の北条氏の置かれた不安定な立場を記述する。

1-(1):保暦間記(ほうりゃくかんき)の記事

作者は不詳だが、保元の乱(1156年)以降、暦応年間(1338年~1342年)迄を書いた歴史書であり、室町時代、南北朝時代の戦乱に加わった武将が書いたと伝わる。この書には義時の急逝に就いて“思ノ外ニ近習ニ召仕ケル小侍ニツキ害サレケリ”とあり、近習に拠って殺害されたと記している。

1-(2):明月記の記事

藤原定家が書いた1180年から1235年迄の日記であるが、その1227年6月11日条に“伊賀の方”の娘婿・二位法印尊長が“承久の乱”の後に捕縛され、拷問に会った時に苦痛のあまりに“早、頭をきれ。然らずんば義時が妻が義時に呉れ遣わしたる薬取り寄せて喰わせて殺せ”と叫んだ事を義時“毒殺説”に結び付けている。

二位法印尊長が発した言葉だけで“伊賀の方”が毒殺したとする事には問題ありとされるが、“伊賀の方”は後述する政争にも絡んでいる事からそれらと関連付けて彼女が北条義時を毒殺したとする説の根拠となっている。

2:北条泰時が第3代執権に就く

2-(1):義時急逝の報と北条泰時の対応・・1224年6月16日

義時の嫡子・北条泰時は当時は六波羅探題北方を務めていた。父の訃報を3日後の6月16日に受けた泰時は即日京を出立し、6月26日に自分の館から近い由比ヶ浜に到着した。しかし彼はこの地でわざわざ一泊している。そして同じく京から、六波羅探題南方の叔父・北条時房、そして下野足利荘から、泰時の女婿・足利義氏が到着するのを待った。

更に泰時は腹心の関実忠、尾藤景綱、平盛綱、安藤光成等、郎党を召し出し、翌6月27日に軍勢を整えた上で鎌倉の自館に入ったのである。

この慎重な鎌倉入りの様子から、北条泰時は義時の後妻・伊賀ノ方の陰謀を察知していたとされる。

2-(2):政子が北条泰時を後継者に指名する・・1124年6月28日

泰時が鎌倉入りをした翌日の6月28日に政子が“家督を継ぎ執権たるべし”と泰時に命じた。泰時は時期尚早として躊躇(ためら)った。そして大江広元に相談を持ち掛けたとの記録が残っている。この話からも分かる様に北条泰時という人物は終始慎重で、周囲に非常に気を配る人物であった。結果として“和と調整役“に徹して”執権職を軌道に乗せた人物“となるのである。

政治上の業績は後述するが、偉大な父であった第2代執権・北条義時が急逝した直後の鎌倉幕府の背景には、政治的に“反・北条氏”の動きが起こる事を彼は予想し、後継者として飽くまでも慎重、且つ謙虚な行動を心掛けたのである。

2-(3):政子が“伊賀氏の変”を終息させ、北条泰時の執権職就任を宿老達に認めさせる・・1224年6月末~閏7月

2-(3)-①:政子は最有力御家人・三浦義村に談判し“伊賀氏の乱“への不介入を約束させる・・1224年7月17日

執権・北条義時の急死に伴って義時の後妻“伊賀の方“が兄で幕府の政所執事を務めていた伊賀光宗(生1178年没1257年79歳)と謀って第4代摂家将軍・九条(藤原)頼経並びに北条泰時を廃して、代りに一条実雅を将軍に、そして伊賀の方が生んだ北条政村(生1205年没1273年)を執権に据えようと謀っているという事を政子が知る処となった。

政子は幕府の最有力御家人の三浦義村が北条政村の“烏帽子親”という関係から“伊賀の方・伊賀光宗”と組む事を危惧していた。“吾妻鏡”の7月17日条には深夜に政子が三浦義村邸を訪ねて以下の談判を行った事が記されている。

“義時急逝後、泰時が鎌倉に戻ったが世情は穏やかで無い。北条政村と伊賀光宗がしきりに貴方(三浦義村)の許に出入りして密談をしているとの噂が流れている。泰時に策を巡らしているのでは無いのか。承久の乱で功績を挙げたのは泰時ではないか。義時の跡を継いで関東の棟梁となるのは北条泰時である。貴方(三浦義村)と北条政村が親子の様に親しく付き合っている事は聞いている。だから二人が談合しているとの疑いが起きている。確りとこの場で潔白だという事を私に聞かせなさい”

この政子からの詰問に対して三浦義村は“北条政村には全く逆心は無い。伊賀光宗には考えがある様だが私の判断で彼をおとなしくさせます”と誓約した。それを聞いて政子は御所に還ったとされる。

この1224年7月17日の会談で双方で確認された事は以下の3点とされる。

・三浦義村は北条泰時の家督継承並びに執権職就任を承認する事
・政子は北条政村を処罰しない事
・三浦義村は伊賀光宗の策謀を押さえる責任を負う事

上記3点の合意点を三浦義村は翌7月18日に北条泰時を訪ねて報告し、承認を得たとされる。

2-(3)-②:1224年7月30日夜“伊賀氏の変”の騒動が起きる。政子の采配で決着する

政子が7月17日の深夜の会談で三浦義村に誓約させたにも拘わらず1224年7月30日夜に鎌倉に騒動が発生した。吾妻鏡には下記の様に記されている。

“夜になって騒動があった。御家人は皆旗をあげ、甲冑を着て鎌倉の市街を走り回った。しかし飛び交った風聞が根拠の無いものと分り、明け方には静かになった”

翌1224年閏7月1日に政子は次期将軍でまだ6歳だった“三寅”を守って北条泰時の館に乗り込み、三浦義村を呼び出し、この騒動に対する責任を詰問すると同時に軟禁した。吾妻鏡の元仁元年(1224年)閏7月3日条には下記の様に記されている。

“三日、二品(政子)の御前で世上の事について沙汰が行われた。北条時房(政子・義時の異母弟)が参上した。又、大江広元も老病を押して参上した。伊賀光宗が一条実雅を将軍に就けようとした陰謀が露顕した。北条義時後家・伊賀氏、並びに伊賀光宗の流刑が決定した(略)”

更に政子は結城朝光、中条家長、小山朝政等の幕府宿老諸将を集め、次期将軍の三寅(九条頼経)を抱いて現われ、北条泰時を同席させた上で、彼らの眼前で次期将軍とその後見人の政子、そして執権北条泰時の三人による“新体制”への忠誠を誓わせたと記述されている。

以上の様に主として政子の動きで噂の段階から80日間に及んだ“伊賀氏の変”は終息したのである。

伊賀光宗は政所執事(次官)を更迭された上、所領も没収され、8月29日には信濃国に配流となった。“伊賀の方”は伊豆の北条家に幽閉され、4カ月後の1224年12月24日に危篤となった事が記録に残っている。記録には無いが直後に没したものと考えられる。

将軍候補として担がれた一条実雅(生1196年没1228年)は“伊賀の方”の娘を妻としていた為、処分は厳しかった。妻と離別させられた上に越前国に流刑となり4年後に変死(河死)した事が“尊卑分脈(1336年に成立した源氏・平氏・藤原氏・橘氏など主要な諸氏の系図)”に記されている。

2-(3)-③:北条泰時は“伊賀氏謀反”の風説を信じていなかったとする史実・・吾妻鏡

“伊賀氏の変“は事件の構図が19年前の1205年に起こった北条時政と継妻“牧の方”が第3代将軍・源実朝を廃そうと策謀した“牧氏事件”に似ている為、政子が伊賀氏並びにその息子の北条政村を潰そうとの思いから”一人相撲“を演じた事件だとの説がある。

慎重且つ常に周囲との人間関係に気を配っていた北条泰時は鎌倉入りをする前からこの事についても調査をさせ“謀反の噂は事実では無い、騒ぎ立てるな”としていた事が“吾妻鏡”に書かれている。

吾妻鏡の記事に伊賀氏の謀反の内容そのものについて記したものは見当たらない。政子が上記の様に伊賀氏などの処分を行ったという記事があるだけである。更にこの事件が事実無根だったのでは無いかと思わせる北条泰時のこの事件に対する対応が下記の通り残されている。

7月17日の深夜の会談で、三浦義村が政子に約束させた事が守られ、北条政村は何の罪にも問われなかった。政村の異母兄・北条泰時が風説を信じていなかった為の計らいであった事が分る。

北条政村は後に評定衆、連署という幕府の要職を経て、40年後の1264年には59歳の高齢乍ら元寇による国の難局が近づく状況下で、北条時宗が成長するまでの繋ぎの第7代執権職を務めた人物である。

慎重な北条泰時の判断は正しかった。更に彼は最有力御家人の三浦義村に対しても事件への荷担を不問に付している。

3:政子の死と北条泰時が行った“伊賀氏の変“に対する寛大な措置・・1225年7月

“伊賀氏の変“は政子の最晩年の”鈍った判断力“に拠って生じた事件”一人相撲”に拠る事件であった可能性が高い。

その“政子”はこの事件から1年後の1225年7月に68歳で病没する。

後世の“政子”に対する評価は頼朝急逝後の鎌倉幕府を主導した政治力が大いに評価される一方で、彼女は嫁いだ源氏将軍家を絶やし、実家の北条氏が政治の実権を握る事を主導した人物という面で批判される事も多い。

“政子”が鎌倉幕府を守り、摂家将軍(後に親王将軍)を迎え、地方の一豪族に過ぎなかった北条氏を執権職という幕政の中枢に据える事に最大限の貢献をした事は間違い無い。

その“政子”が没した事で“政子・北条義時”の“寡頭専制政治体制”から政情は大きく変わる。こうした変化を飽くまでも慎重で、且つ聡明な北条泰時は充分に承知していた。泰時は地方の一豪族に過ぎない出自の北条氏の政治基盤は決して強いものでは無いという事を充分に理解した上で政治、諸施策を行って行ったのである。

先ずは伊賀氏事件への寛大な措置を行う。政子の死後に信濃国に配流された伊賀光宗の罪を許し、所領も回復させた。彼は20年後の1244年には評定衆として幕府の要人と成り、1257年に80歳で没している。

4:北条家“惣領“としての足元を着実に固める北条泰時

伊賀氏事件が一段落すると北条泰時は弟妹達を集めて遺領配分を行った。その多くが弟妹達に与えられ、惣領の泰時の分が少なかった事に対して政子は“嫡子分、すこぶる不足、如何様の事ぞ”と尋ね、これに対して“執権を奉わるの身、領所などの事においてはいかでか競望あらんや。ただ舎弟等を顧みるのみ”と泰時が答えて、政子を感涙させたとの記録が残っている。

こうして家督を継いだ直後に北条泰時は惣領家としての“家政体制”を整える事に着手したのである。

4-(1):家令職を設置し、家法を制定する・・元仁元年(1224年)閏7月29日

この時期の北条一族は時政~義時~泰時と既に3代を重ね、一族の数も30人を超す大家族になっていた。その結果、名越・極楽寺・亀谷・伊具・江間・金沢・佐介・大仏・阿蘇・赤橋・淡河・尾張・常葉・塩田・桜田・普恩寺・瓜連・東漸寺等、多岐に一族が分流する状態になっていた。

この状態を北条一族として纏め上げ、結束させ、三浦、安達、足利等の大豪族と拮抗する勢力にする事が第3代“惣領”としての北条泰時に与えられた重要な責務であった。

新興勢力としての地位を政子と共に創り上げ、承久の乱に勝っという不朽の実績に守られ、ていた父・北条義時に比べて、若き惣領・北条泰時の立つ基盤は極めて弱かったと言えるのである。

そこで泰時は一族の結束を固め、一族内での自分の立場の強化を図る目的で“家令職”の創設を行った。未だこの時は政子は存命中であった。“伊賀氏の変“の結果は”政子“が目的とした”伊賀氏の排除“(政子の死後、伊賀光宗を泰時が復権させた事は上述した)に成功した形とはなったが、泰時は”政子“がこの後も北条氏一族に対する発言力を行使する事を予防する手段として、この”家令職制度“を設けたともされる。

泰時は和田合戦(1213年5月)の頃から近侍して来た尾藤景綱を1224年閏7月29日付けで初代の“家令”に任じている。この尾藤景綱は泰時邸の敷地内に住居を構え、泰時の後見人として朝廷との折衝、御家人の統制、条例の制定を担った。更には父・北条義時追福の伽藍建立の責任者を務める等、まさに北条泰時の懐刀として縦横に活躍したという記録が残っている。

この制度は後に複数人制となり“執事”と呼ばれる様になる。執事の筆頭は“内管領”と呼ばれ、鎌倉末期には幕府政治の権力を握る存在に成って行く。

4-(2):家法“家務ノ条々”の制定・・1224年8月28日

泰時は武将としての資質にも優れていたが、実務政治家としての卓越した資質を持っていた。足元の北条氏本家の“家政運営”が内外の情勢変化によって揺らぐ事が無い様に上述した家令職という責任幹部を決めると共に“家政の基準”を定める事にも着手した。

残念ながらこの北条家の家法”家務ノ条々“は現存していないがその後も随時付け加えられて”御内法令“と呼ばれた事が伝わっている。

これら泰時が足元の北条一族を結束させる為に考え、実施した制度の考え方が、鎌倉幕府の執権として彼が行なった“評定衆の創設”や“御成敗式目の制定”に繋がって行ったのである。

4-(3):北条一族の惣領家としての権威を強化する・・“得宗家“と呼ぶ事で庶子家と区別する

北条一族の結束力を確保し、惣領家としての権威付けをする為に“家令の創設”並びに“家法の制定”を行った北条泰時は更に“北条氏の惣領家に宗教的・精神的権威付け”を行った。

その為に、北条泰時は亡父・北条義時の法名“得宗”を用いて惣領を“得宗”、その系統を“得宗家”その所領を“得宗領”と呼ぶ事で他の北条一門庶子家と区別し、権威付けの確立を図った。

この説に対して最近の学説では第5代執権・北条時頼が赤斑疹(今日の麻疹=はしか)で危篤になり、臨終出家をし、執権職を赤橋(北条)長時に譲った後に奇跡の生還を果たし、再び幕府No1の地位に戻るが、この際に“得宗”の起源があるとの説が有力になって来ている。この事態の詳細は後述する。

この2つの説に関しては泰時にせよ、時頼にせよ、共に北条惣領家として“絶対的な権威”が必要と考え、その為に頼ったのが“第2代執権北条義時”の名声であり、彼にまつわる法名等であった事は共通している。

既述したが一般には鎌倉幕府の初代執権職は“北条時政”とされるが、“牧ノ方事件“で政子・義時に追放される等、策謀家としての悪名・汚点が残る北条時政を北条泰時も”初代“として仰ぐ事は無かった。又、鎌倉末期の“平政連諌草(たいらのまさつらかんそう)”でもはっきりと北条氏の初代を北条義時とし、北条時政とはしていない。それに対して”承久の乱“に勝利した北条義時には輝かしいイメージがあり、それは北条一門だけでは無く、一般御家人にも行き渡って居り、従ってこの偉大な”第2代執権北条義時“を顕彰する”得宗“の呼称には誰もが納得する”権威“が備わっていたという事である。

因みに北条家の“惣領”の領有地を“得宗領”と呼ぶ事は、天皇家に於ける最高権力者“治天の君”の所領である“八条院領・長講堂領”などの呼称に倣ったものであり、藤原摂関家の場合の最高権力者を“氏の長者”と呼び、その所領を“殿下渡領(でんかのわたりりょう)”と呼ぶ事に倣ったものである。

5:政子と大江広元の死・・1225年6月~7月

北条泰時に更なる打撃が襲い掛かった。彼をバックアップして呉れていた二入が相次いで死去したのである。

先ず執権に就任して1年後の1225年6月10日に大江広元(生1148年没1225年)が77歳で病没した。大江広元は、初めは朝廷に仕える下級貴族(官人)であったが源頼朝の側近として仕え、1185年に公文所を改めた“政所”の初代別当に就いた人物であり、幕府創設に多大な貢献をした人物である。

頼朝急逝後も後家の政子、執権北条義時と協調して幕政を支え、承久の乱では嫡男の大江親広が京方に付き、父子が相克するという状況になったが、広元は飽くまでも幕府側に立ち、政子と共に主戦論を唱えて朝敵となる事に逡巡する御家人達を鼓舞し、勝利に導いた功労者の一人であった。

大江広元の存在は鎌倉幕府に於ける京吏の筆頭であり、官位も最高実権者である北条義時の“従四位下”に対してそれを上回る“正四位”を得ていた。名目的には将軍に次ぐ存在として遇されていた人物であった。

北条泰時は何かと大江広元に相談を持ちかけ、頼りにしていた。従って彼の死は基盤が脆弱であった泰時には大きな痛手だったのである。

更にその僅か1カ月後の1125年7月11日に政子が病没する。“伊賀氏の変”で晩節を汚した観がある政子ではあったが、北条泰時に家督を継がせ、第3代執権職に就けた強力な支持者であった事は確かである。彼女は翌7月⒓日、勝長寿院の御堂御所で火葬にされた。墓は鎌倉市の寿福寺にある。

訪ねた方はご存知だと思うが、政子の墓は第3代将軍・源実朝の隣にあり、鎌倉時代・室町時代の墓の特徴である窟(やぐら=山腹に横穴を掘って墓所としたもの)墓形式である。私も2013年2月に訪ねたが“これが尼将軍として政治の実権を握っていた政子の墓なのか、鎌倉第3代将軍源実朝の墓なのか”と驚く程の質素さであった。

6:幕府運営を寡頭政治から集団指導体制・合議制に切り替えた北条泰時

第2代執権・北条義時、尼将軍・鎌倉殿代行として鎌倉幕府の窮地を守り続けて来た政子、更には幕府創設以来の宿老中の宿老であった大江広元の3人を立て続けに失った泰時は第3代執権に就任した直後からその基盤は脆弱なものである事、又、鎌倉幕府という組織は有力御家人に拠る集合体として成り立っているという事を充分に理解し、そうした状況を踏まえた政治を行った。この事が不安定な鎌倉幕府を安定に導いたのである。

北条泰時は政子・義時時代の寡頭専制政治体制から、集団指導体制・合議制へと幕府政治を転換する事を基本政策とした。

6-(1):執権複数制・・連署の設置(1224年7月23日)

1224年7月23日の時点は第2代執権北条義時が急逝した直後で、泰時は家督相続、並びに後継者として多忙且つ、混乱の渦中に在った。

上述した“伊賀氏の変”も未だ終息していなかった(終息は1224年閏7月3日)。心細さもあったのであろう、泰時は叔父であり、六波羅探題南方の職にあった北条時房(生1175年没1240年)を京から呼び戻し、自分を補佐する役目として“執権職”に就く事を要請したのである。

この“執権複数制”は後に“連署”と呼ばれる様になるが、執権と連署との間に明確な職務上の違いは無かったとされる。“連署”とは文字通り執権と共に文書に連名で署名する立場であった事からこう呼ばれた。こうして“執権”と言わば“副執権”という体制下で第3代執権・北条泰時政権はスタートしたのである。

6―(2):将軍御所の移転、九条頼経の元服と将軍宣下を行う
      ・・1225年12月~1226年1月

政子がこの世を去って半年も経たない1225年12月20日に北条泰時は将軍御所を大蔵御所から宇津宮御所に遷した。そして12月29日には“三寅”を元服させた。以後、藤原(九条)頼経と名乗る。

更に年が明けた1226年1月27日に九条頼経は正五位下に叙され、右近衛権少將に任官、そして将軍宣下を受けたのである。ほゞ満9歳に成っていた。

ここに鎌倉幕府として、第3代将軍の源実朝が暗殺(1219年1月28日)されて以来、ほゞ丸7年近くに及んだ征夷大将軍不在という状態を解消したのである。

6―(3):評定衆の設置と評定衆会議の開催・・1225年12月21日

新御所は“宇津宮辻子幕府“とも呼ばれた。ここに移った翌日に北条泰時は幕閣の重臣11人を”評定衆“に指名した。幕府の公文所(後の政所)、問注所の職員は京下りの官人が中心で”文士“と呼ばれていたが、スタート時の11人の評定衆のメンバーの内訳は武士が3人、そして文士が8人であった。

中原師員(文)・三浦義村(武)・二階堂行村(文)・中条家長(武)・矢野倫重(文)・町野康俊(文)・二階堂行盛(文)・後藤基綱(武)・太田康連(文)・佐藤業時(文)・斎藤長定(文)の11人である。

これに執権の北条泰時と連署の北条時房が加わった計13人による“評定会議”を新設し、幕府の最高機関としたのである。評定会議のメンバーに政所の執事(次官)でもある二階堂行盛と問注所の執事でもある町野康俊を入れた事は“評定会議”が既存機関の機能を吸収した幕府の最高議決機関と成り、訴訟機関としての機能と政務を議する公的な機関でもある事を意味した。

こうして政策・人事・訴訟採決・法令の立法を組織的に処理する体制が整い、スタートしたのである。

7:関東御成敗式目(貞永式目)を制定する・・1232年8月

7-(1):制定の背景

“承久の乱”以後、幕府の支配領域は西国にまで広がり、新たに地頭として派遣された御家人と荘園領主、現地住民との揉め事が急増した。これ迄は頼朝以来の慣習・先例に基づいて土地紛争は裁かれて来ていた。

鎌倉幕府は成立から半世紀近くが経っており、政所・問注所の実務は京都の中級貴族出身で明法道や公家法に通じた者達に拠って運営されていた。律令法や公家法も取り入れ乍ら、武家政権独自の先例、法習慣の蓄積に拠って対処して来ていた。しかしそれも膨大、且つ煩雑化していたのである。

鎌倉幕府にとって“土地”こそが鎌倉殿と御家人達を結びつける主たる“絆”であり、急増する“土地に関するトラブル”を公平に裁断する事が幕政にとっての最重要事項と位置付けられていた。

更に当時の社会情勢として天候不順による“寛喜の飢饉(かんきのききん)”と呼ばれる大飢饉が1230年から1231年に発生し、各地で餓死者が続出した。その為に生じた社会的混乱に対応する事も幕政の喫緊の課題であった。

藤原定家の“明月記”にこの飢饉の状況が詳しく書かれており、鎌倉幕府が備蓄米を放出して対応した事、又、鎌倉仏教の親鸞(生1173年没1262年)や道元(生1200年没1253年)が活躍した事も書かれている。親鸞の思想には“寛喜の飢饉”の惨憺たる光景に遭遇した事が大きく関係しているとされる。

北条泰時は1224年6月28日に執権に就任して以来、古代からの律令を日々研究していた。そして上記の状況に対応すべく、1232年5月14日から11名の評定衆、中でも法律に詳しかった太田康連(39歳)と斎藤長定(34歳)を用いて、武士の為の法令“御成敗式目“の編纂に着手したのである。

7-(2):御成敗式目制定と第3代執権・北条泰時に対する後世の評価

鎌倉幕府は基本的に“軍事政権”であり、執権職も北条家が源氏将軍家と親戚関係にあった事から“後見職”としての性格が強かった。3代将軍源実朝が暗殺され、源家将軍を断絶し、摂家将軍を迎える形となったが、これに拠って政治の形態は政子・北条義時二人に拠る“寡頭専制政治“の時代と成り、それが1219年から1225年迄続いた。

この間、第4代(摂家)将軍・九条(藤原)頼経は満1歳~7歳の幼児であり、将軍職は実態としては不在であった。政子が“尼将軍”と称された時期である。

こうした政治体制の下で“承久の乱“に勝った実績は極めて大きかった。第2代執権としてこの間の政治の采配を振るった“北条義時“が以後の鎌倉幕府の政治実権を握り、執権体制が固まる大きな基盤となったのである。

政子・北条義時の寡頭専制政治体制の後を受けて第3代執権に就いた北条泰時は父・北条義時が政子という大きな存在をバックアップとして確立した“執権職”を二人の没後の政情の変化に合わせると共に、他の組織も整備する事で執権体制を鎌倉幕府の“中枢機能“として確立し、定着させた功績は大きい。北条泰時のこれらの功績によって鎌倉幕府の政治体制は5段階の変遷の中の“第三段階に入った”とする所以である。

1232年8月(貞永元年8月10日)に制定された“御成敗式目”はその集大成と言えよう。

7-(3):御成敗式目の特色

7-(3)-①:当時の日本の法体制と御成敗式目の位置づけ

至尊勢力(天皇・院・朝廷・貴族層)に拠る統治は律令法・公家法に基づいて行われていたが至強勢力(将軍・幕府・執権・武家層)が鎌倉幕府という独自の東国政権を成立させた当初は政所・問注所に京下りの官人を配置して“律令”を取り入れ乍らも武家政権としての過去からの慣習、判例を中心とした統治が行なわれていた。

“承久の乱”の勝利によって統治範囲は畿内・西国にまで広がり、新たに“地頭”として派遣された御家人達と在来の荘園領主や現地住民との間の領地を巡っての“揉め事”が急増した。こうした状況下で北条泰時は頼朝以来の御家人達が用いて来た“慣習や取決め”をベースに、新たな状況に応じた改定を加え、それを明文化し、新しく武士政権の為の法令として整備する作業を行ったのである。

鎌倉幕府を成立させた当初は成文法と言えるものが存在していなかった。しかし、政所や問注所が明法道(律令制の下での律令法=法学)や公家法を全く無視して運営されて来た訳では無い。是までの武士の実践道徳を“道理”として、道理・先例に基づいた裁判をして来たのである。

泰時は古代からの律令を日々研究し、政所や問注所には京下りの官人を配置し、武士の道理、先例も重視するという総合的な視点から、周到な準備の上整えたのが“武家法”としての“御成敗式目”であった。

上述した背景もあって土地などの財産権に関する条項が主となっているが、守護・地頭の職務権限を明文化する事も“御成敗式目”制定の大きな目的であった。こうしてこれ迄の公家法とは独立した日本最初の武家法が制定されたのである。

7-(3)-②:現代の民法にまで影響を与えたとされる“御成敗式目”が持つ公正性

“御成敗式目”は訴訟当事者が誰であっても“公正”に機能する事に留意した法律だと言われる。従って決して御家人にとって有利となる法律では無かった。

その公正さ故に非御家人である荘園主の公家や寺社にも“御成敗式目”に拠る訴訟結果は受け入れられた。御成敗式目の一部は“公家法”にも取り入れられる程支持された内容だとされる。それ故に現代の民法にまで影響を与えたとされる程、長く、有効性を維持し続けたのである。

更に、“公家法”が漢文で記され難解であったのに対して“御成敗式目”は武士達にも分かり易い文体で書かれていた点も支持された要因であった。

鎌倉幕府滅亡後に室町幕府を開いた足利尊氏は御成敗式目の規定遵守を命じたと伝えられる。又、戦国時代に戦国大名達が制定した“分国法”にも引き継がれた。

御成敗式目では女性が“御家人”と成る事を認めている。この条項は戦国時代へと引き継がれ“女性の城主”が生まれている。淀城主となった“淀殿”の例、並びに立花城主となった“立花誾千代”の例も“御成敗式目”の定めに則ったケースである。

江戸時代になって“武家諸法度”が施行されるが、法令として“御成敗式目”はその有効性を持ち続けたとされ、明治時代以降に“近代法”が成立するまでその有効性は続いたとされる。現代の民法に迄、影響を与えたとする説もある。

7-(3)-③:公家法からの独立を意味した御成敗式目(貞永式目)

御成敗式目は鎌倉幕府の基本法であると同時に上記した様に日本初の“武家法”である。室町時代・江戸時代の幕府法もこの御成敗式目を基にしている。

それ以前の律令や明治以降の法令が中国法や欧米法の法学を基礎として制定された“継承法”であるのに対して御成敗式目は源頼朝以来の先例、慣行、武家社会の“道理・倫理”に則り、基準とし、御家人の権利・義務、並びに所領相続に関する規定等を独自に創設した法令という点で日本の法律の歴史上、画期的なものとされる。

至尊(天皇・院・朝廷・貴族層)勢力下では“公家法“が効力を持ち、荘園領主が荘園を支配する為には“本所法”が荘園内の生産秩序、治安維持、年貢、公事(雑税・夫役)を安定的に確保する為に制定され、効力を持っていた。

鎌倉幕府の成立によって“至強(将軍・幕府・武家層)”勢力が“至尊(天皇・院・朝廷・貴族層)“勢力に比肩し得る地位を得”承久の乱“の勝利に拠って統治範囲を飛躍的に拡大させた事に拠って新しい状況に対応した“御成敗式目”が制定された。

幕府が支配する地域では当然の事乍ら“公家法”や“本所法”は適用されず“御成敗式目“が適用された。“適用された法”という視点からも“鎌倉幕府(=東国武家政権)”が朝廷政治から独立した存在である事を鮮明にしたのである。

こうした観点からも“御成敗式目の制定”は日本史上、極めて重要な出来事と位置づけられるのである。

7-(4):“御成敗式目”の要旨

御成敗式目は聖徳太子の“17条憲法”にあやかり、その3倍に当たる全51条から成る武家社会だけに適用された法律である。その為、平易な文章で編纂されている。泰時が当時六波羅探題北方に就いていた弟の北条重時に宛てた手紙からもその趣旨がより明瞭に分かる。

“かねて御成敗の躰を定めて、人の高下を不論、偏頗なく裁定せられ候はん為に~(略)この式目は只かなを知れる者の世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人へのはからひのためばかりに候“

要旨:あらかじめ裁判の基準を定めて、当事者の身分の高い低いに関わりなく、えこひいき無く裁判が行われる様に~(略)この式目は平仮名だけを知っている者が世間に多い様に、ひろく人々に納得させやすいように、武家の人々の便宜のためだけに作ったのである。

以下に“御成敗式目”の要点を記す。

7-(4)-①:守護の職務権限について明文化

第3条で守護の職務権限を明確に規定している。

第3条:諸国守護人奉行の事

“右、右大将家(頼朝公)の御時定め置かるる所は、大番催促(朝廷警護)・謀叛・殺害人(付たり、夜討ち・強盗・山賊・海賊)等の事なり。しかるに近年、代官を郡郷に分ち補し、公事を庄保に充て課し、国司に非ずして国務を妨げ、地頭に非ずして地利を貪る。所行の企て甚だ以て無道なり。(略)早く右大将家御時の例に任せて、大番役並びに謀叛・殺害の外、守護の沙汰を停止せしむべし。“

要約:

頼朝公が決められて以来、守護の仕事は大番催促と謀叛人と殺人犯の取り締まりである。更に夜討ち、強盗、山賊、海賊の取り締まりもある。守護の中には代官を村々に送り、勝手に村人を思うが儘に使ったり、税を集める者も居る。又、国司でもないのに地方を支配し、地頭でも無いのに税をとったりする者がいる。それらは全て違法の行いであり禁止する。(略)頼朝公が決めた時の様に守護の仕事は大番役を決める事、謀叛人や殺人事件の調査や犯罪者の逮捕であり、それ以外の事をしてはならない。この取り決めに背く守護は辞めさせる。

7-(4)-②:地頭の職務権限について明文化

第5条では地頭の職務権限についても明確に規定している。

第5条:諸国の地頭、年貢所当を抑留せしむる事

“右、年貢を抑留するの由、本所の訴訟あらば、即ち結解を遂げ勘定を請くべし。犯用の条、若し遁るる所無くば、員数に任せてこれを弁償すべし。(略)なほ、この旨に背き難渋せしめば、所職を改易せらるべきなり。”

要約:
年貢を本所(荘園内で法的支配権を有する者。領家・本家)に渡さない地頭は本所の要求があれば直ぐそれに従う事。不足分は直ぐに補う事。もし不足分が多く、返しきれない場合は(3年)の中に弁償する事。これに従わない場合は地頭を解任する。

7-(4)-③:その他“御成敗式目”の代表的な条項

第7条:頼朝公・源氏三代、並びに政子様から与えられた所領の扱いについて

頼朝公をはじめ源家三代の将軍の時、及び二位殿(政子)の時に御家人に与えられた領地は本所等からの訴えがあっても権利を奪われる事は無い。但しその御家人が罪を犯した場合は領主の訴えを認める。

第8条:御下文(みくだしぶみ=将軍が発行した領地を保証する証明書)を持っていても実際にその土地を支配していない場合

頼朝公が取り決めた様に、御家人が20年間支配した土地は貴族や寺社など元の領主に返す必要は無い。しかし、実際に支配していないのに支配していたと偽った者は証明書を持っていても無効とする。

第9条:謀反を起こした者の扱い

謀反の刑罰を細かく決めて置く事は難しい。詳しく調べて過去の例を参考にしながら裁判を行う。

第10条:殺害や刃傷などの罪科の事

言い争いや酔った勢いでの喧嘩であっても相手を殺してしまったら殺人罪であり、犯罪者は死刑か流罪とし、財産を没収する。罪人の父子が事件に無関係ならばその者達は無罪とする。但し“子や孫、あるいは先祖の仇“と称して人を殺害した場合は犯人の父や祖父が例えその事件を知らなくても同罪とする。結果として父祖の憤りをなだめる為に宿意を遂げる事に成るからである。

第12条:悪口の罪について

争いの元である悪口はこれを禁止する。重大な悪口は流罪とし、軽い場合でも牢に入れる。又、裁判中に相手の悪口を言った者は直ちにその者の負けとする。又、裁判の理由も無いのに訴えた場合はその者の領地を没収し、領地が無い場合は流罪とする。

第13条:他人に暴力を振るう事の罪について

人に暴力を振るう事は恨みを買う事であるからその罪は重い。御家人が相手に暴力を振るった場合は領地を没収する。領地が無い場合は流罪とする。御家人以外の場合は牢に入れる。

第21条:妻や妾に相続した土地の離別後の扱いについて

離別した妻や妾に大きな落ち度があった場合、契約書があっても前夫から譲り受けた所領を知行する事は出来ない。夫が新しい妻や妾を大切にする余り、何の落ち度もない前妻や前妾に与えた土地を取り返す事は出来ない

第24条:再婚後の後家の所領について

夫の死後、妻はその菩提を弔い、式目の定めの通りに働かなくてはならない。にも拘わらず死別後直ぐに再婚するというのは良くない行いである。後家が再婚する時には亡き夫から遺産相続された領地を亡夫の子供に与えなければならない。子供がいない時には別の方法を考えて対処する。

第34条:人妻と密懐(びっかい)する事の禁止

人妻と密通をした御家人は所領の半分を没収する。所領が無い場合は遠流にする。相手方の人妻も同じく所領の半分を没収し、無い場合は遠流とする。又、道路上で女性を拉致する事を禁ずる。それを行った場合、御家人の場合は100日間の停職とし、郎従以下の一般武士は頼朝公からの先例に従い片側の髪を剃る。僧侶の場合はその時々の状況に応じて罰を決める。

第37条:朝廷の領地を奪う事の禁止

頼朝公の時に禁止されていたにも拘わらず、いまだに上皇や法皇又はその女御の荘園を侵略する者がいる。この事を行った御家人はその所領の一部を没収する。

第42条:逃亡した農民の財産について

領内の農民が逃亡したからと言って、その妻子を捕まえて家財を奪ってはならない。未納の年貢がある時はその不足分のみを払わせる事。又、残った家族が何処に住むかは彼らの自由に任せる事。

第48条:将軍から与えられた所領を売買する事の禁止

御家人が先祖代々支配していた所領を売る事は問題ないが、恩賞として将軍から与えられた土地を売買する事は禁止する。これを破った者は売った者も買った者も共に罰する。

第50条:暴力事件の現場に行く事について

暴力事件が起きた時、その委細を調べに行く事は許されるが、一方に加勢する為に行く事は罰せられる。

8:家庭内では不幸続きだった北条泰時

北条泰時は源頼朝が生前に命じていた最有力御家人・三浦義村の娘と1202年(満19歳)に結婚し、1203年に長男の北条時氏が生まれたがこの女性とは10年以内で離縁している。後妻として安保実員(あぼさねかず)の娘と結婚し、1212年に次男北条時実が生まれている。

この次男“北条時実”は1227年6月18日に若者達の斬り合い事件に巻き込まれ、家臣に斬られて15歳で死亡している。又、六波羅探題北方に就いていた嫡男の北条時氏も1230年6月18日に27歳で病没した。その2カ月後の1230年8月4日には三浦泰村に嫁いだ娘までが死産の上に本人も産後の肥立ちが悪く、24歳で死亡している。

この様に家庭的には次々と不幸に見舞われた人生であった。

9:北条泰時が皇位継承問題等の心労で病死する・・1242年6月15日(59歳)

1232年末に第86代後堀河天皇(即位1221年譲位1232年)が譲位して2歳未満の第87代四条天皇(即位1232年崩御1242年1月9日)が誕生したがこの天皇は不慮の事故で僅か11歳で崩御した。

当時の朝廷政治の実権は九条道家が握っていた。鎌倉幕府・第4代将軍九条頼経の父親である。道家は長女の藻壁門院を第86代後堀河天皇の女御として入内させ、生まれた皇子が上記第87代四条天皇であったから、天皇家の外戚、並びに鎌倉幕府第4代将軍の父親として、朝廷の最大権力者として君臨していた。

九条道家は四条天皇の崩御に際して、次期天皇候補として第84代順徳天皇(上皇)の皇子・岩倉宮忠成王を推薦した。順徳天皇の妃も九条道家の姉という繋がりがあったからである。

しかし北条泰時は“承久の乱”の首謀者の順徳上皇の皇子だという事で拒否をし、貴族達も含め京都側の不満と反対を押し切る形で第83代土御門天皇(即位1198年譲位1210年)の第二皇子を第88代後嵯峨天皇(即位1242年1月・譲位1246年1月)として即位させた。北条泰時の皇位継承問題への強い介入は朝廷サイドでの西園寺公経・土御門定通の台頭を招き、九条道家が没落するという京に於ける勢力地図に大きな変化を招いた。

既述した様に北条泰時という人物は“古代中国の聖人君主の様だ”とされる程の優等生的な人柄で知られる。そうした彼の人柄を伝える逸話も多い。

父・義時の遺領配分で弟・妹達に多くを配分し、政子が感涙にむせんだ話は紹介したが、その他にも、ある地頭と領家が争論した際に、領家の言い分を聞いたその地頭が直ちに“負けました”と言った。その見事な負けっぷりと態度に感嘆して“明らかな敗訴でも言い訳をするのが普通なのに、自分から敗訴を認めた貴殿は立派で正直な人だ。執権として長い間裁判をして来たが、こんなに嬉しい事は初めてだ”と言って涙ぐんだとの逸話もある。

北条泰時のそうした気配りの18年間の執権体制下では、政争も陰謀事件も影を潜め、政情は安定していた。偉大な先人“政子“そして父・北条義時の後を受け継いだというハンデイにも拘わらず、合議制に拠る政治体制の整備、更には御成敗式目の制定を行い、鎌倉幕府の安定期を作り、後世“名執権”と称えられる第3代執権・北条泰時ではあったが、上述した第88代後嵯峨天皇の擁立問題で九条道家はじめ京側と激しく対立し、朝廷側の勢力地図を大幅に変える程介入した事は、ナイーブな性格の北条泰時にとっては過度のストレスであったのであろう、病に倒れる事になる。

1241年6月に体調を崩し、翌1242年5月には出家をし、1か月後の1242年6月15日に没したのである。満59歳であった。

10:第4代執権・北条経時(生1224年没1246年22歳)の登場と政治・・1242年6月~1246年3月

北条泰時の嫡子・北条時氏が1230年に27歳で急死した為、第4代執権にはその時氏の長男・北条経時が18歳で就任した。

彼の前の執権が偉大な祖父・第3代執権北条泰時であり、彼の後の第5代執権が卓越した政治能力を発揮し、“得宗専制政治体制“を開始したとされる北条時頼であった。この二人の偉大な執権に挟まれた事に加えて、僅か4年で没し、在職期間も短かった為、歴代の北条執権職の中でも存在感が極めて薄く、後世“空気執権”と悪口を叩かれる事になった不運な人物である。

祖父の北条泰時は北条経時を育てようとの配慮から1241年に17歳の彼を評定衆に列している。一方で、祖父として、泰時は北条経時の資質に頼り無い物を感じていたのであろう、甥で経時とは同年齢、後に“金沢文庫”を創設した事で知られる北条実時(生1224年・没1276年)に何事も相談し、協力を得る様、経時に言い遺したと伝えられる。

北条泰時の時代に連署だった北条時房が1240年に没した後に北条泰時は代りの連署を置いていない。第4代執権に就いた北条経時の時期にもそのまま連署が置かれていなかった事も政治家としての資質にも欠け、若い北条経時にとっては大きなハンデイであった。

連署は5年後の1247年に北条泰時の異母弟の北条重時(生1198年・没1261年)を第5代執権・北条時頼が宝治合戦後に迎える迄、空席だったのである。

更に北条経時は就任当初から病気がちであった。こうした悪条件が重なった為、周囲には一気に対抗勢力が跋扈する状況に変化した。泰時が確立した安定した“北条執権政治体制”は忽ちの中に不安定な状況に陥ったのである。

10-(1):対抗勢力跋扈の状況

先ず第2代執権・北条義時の次男、名越(北条)朝時(生1193年没1245年)を祖とする名越流北条家が公然と反・惣領家(=得宗家)の動きを目立たせる。

*注*
惣領家を“得宗家”と称する様になった時期については4-(3)の処で述べた様に第3代執権北条泰時の時期とする説と経時を継いだ第5代執権時頼が出家した後の時期とする2説があるが、共に第2代執権・北条義時を顕彰し、“得宗”の名称を使う事に拠って北条惣領家の権威付けを行なおうとした趣旨は同じであった。以上を前提に以後の記述では“得宗”乃至“得宗家”という表現を用いる事にする。

庶家の“名越“は初代執権・北条時政の名越邸に由来する。この屋敷を北条朝時が継承した事に加えて、朝時の母が第2代執権・北条義時の正室”姫の前“であった事に対して第3代執権職に就いた北条泰時の母が義時の側室であった事が、そもそも、庶家の名越が”反・得宗運動”を展開する原因であった。

北条泰時と名越朝時の二人は父・北条義時を同じくする異母兄弟ではあったが、名越(北条)側としては”北条家の嫡子は自分だ“との強い思いを引きずっていたのである。

北条泰時の死去で元来不満を抱いていた名越朝時の嫡男・光時をはじめとする反・得宗派が形成され、第4代摂家将軍・九条(藤原)頼経(生1218年没1256年在位1226年~1244年)を担いで反発する動きを強めたのである。

こうした動きに頼経の父・九条道家(生1193年没1252年)も乗じ、弱体化を見せた北条経時の執権体制下の幕政に口を挟む展開と成り、政情は混乱の度を増して行った。

以下に第4代執権・北条経時の政治と政情について記述する。

10-(2):評定衆を3番(班)に分けて訴訟の迅速処理を図る・・1243年2月26日

執権北条経時はそれまで11人の評定衆が一堂に会して評議していたものを3番(班)に分け、能率を3倍にした。しかし訴訟処理は迅速化したものの、裁許状の清書等の後工程が詰まるという新たな問題が発生し、結果的に効果が上がらなかった為、事務処理の合理化に拠ってそれを解決した事が記されている。

又、再審要求のある者を庭中に呼び出し、自ら訴訟の旨を聞き、再審の要否を下して3番制の不満を解消した。この再審越訴制は“訴論沙汰日結番制”と呼ばれ、次の第5代執権・北条時頼によって“引付衆”が設置されるベースに成った。

10-(3):第4代将軍九条頼経を解任し、第5代将軍九条頼嗣(生1239年・没1256年)に代える・・1244年4月

存在感が無かったとされる第4代執権・北条経時の最大の政治実績は第4代将軍九条頼経を解任し、第5代将軍・九条頼嗣に交代させた事であろう。

朝廷と幕府との間に立って、北条氏との関係に配慮して来た朝廷側の西園寺公経(生1171年・没1244年8月・西園寺家の祖)が最晩年を迎え力が弱まると、北条得宗家に反感を抱く九条道家は“関東申次(朝廷に設けられた朝廷・院と幕府の間の連絡・意見調整を行う役職で幕府側の六波羅探題に当たる)”の立場と第4代将軍九条頼経の父親という立場を利用して幕政に介入する様になる。

こうした九条道家の存在を嫌った執権・北条経時は将軍・九条頼経との関係も自然と悪化させ、終に1244年4月に九条頼経に将軍職を嫡子の頼嗣に譲る様、強硬に迫り、解任した。そして僅か5歳の第5代九条頼嗣将軍と交代させたのである。

尚、永井晋氏の“鎌倉幕府の転換点”では九条頼経は“天変を理由に譲位した”と書いている。しかし、後の史実との整合性からすれば、“無理矢理の譲位=解任”が実態なのではなかろうか。

解任に前将軍・九条頼経が心から承服する筈は無かった。幕府側からは京へ帰還する様、要請されたがこれを“幼い頼嗣を遺して京へ帰れるか”と無視して鎌倉に居座り続けたのである。

この政争が端緒と成り、以後、北条得宗家とこれに反発する九条家を格好の旗頭として“将軍派”が結束を固め、①名越光時の乱(宮騒動・寛元の政変)②三浦氏ノ乱(宝治合戦)③了行法師事件(建長の政変)の3件の政争を第5代執権・北条時頼の時期(1246年~1251年)の5年間に亘って展開する事になる。

結果的には北条得宗家側が将軍派(九条道家・九条頼経を担ぐ一派)を打ち破る事に成るが、こうした反・得宗派(=将軍派)との政争の種を撒いたのが第4代執権北条経時であり、彼の弱体な政権の登場にあったのである。

11:北条経時の死・・1246年閏4月1日

11-(1):将軍家との関係修復を焦り、“檜皮姫(ひわだひめ)”の婚姻で事態を更に悪化させた北条経時・・1245年7月26日

上記10-(3)で述べた様に北条経時は第4代将軍九条頼経を解任し、まだ満5歳の九条頼嗣を第5代将軍に就けた。この処置に承服しない前将軍・九条頼経は抵抗を続け“大殿”と称して再三の幕府側からの勧告にも拘わらず鎌倉を離れる事が無かった。

こうした九条頼経に対して執権経時が弱腰であった理由の一つには九条頼経が烏帽子親だった事が挙げられる。又、北条経時は幕府最大の御家人・三浦一族に対しても親密な関係から極めて弱腰であったとされる。

こうした状況下で北条氏庶家の名越(北条)朝時の嫡男・名越光時、三浦氏庶家の三浦光村等は九条頼経の側近集団として“反・得宗派”としての結束を強め、将軍権力の奪還を目指したのである。

こうした情勢にも拘わらず、愚直な北条経時は九条頼経の将軍職解任によって生じた将軍家との関係を修復する事に注力した。そして当時未だ満6歳だった新将軍・九条頼嗣と16歳だった自分の妹“檜皮姫”との婚姻を強行した。

確かに得宗家としては11年前の1234年7月に政子の孫娘で第4代摂家将軍・九条頼経に嫁いでいた“竹ノ御所”が没して以来、将軍家との親戚関係は途絶えていた。それを北条経時は復活させようと考えたのである。しかし、状況は“竹ノ御所”が嫁いだ時とはまるで異なっていた。

状況の悪化とは、上述の前将軍・九条頼経を解任した事で九条家と北条得宗家の関係が悪化した事よりも、北条得宗家に不満を持つ“反・得宗派”が跋扈する状況へと変化していた事であり、彼等が前将軍九条頼経を担いで政争を起こそうと団結していた状況になっていたと言う事である。

こうした情況は世間も知る処であり、そうした中で周囲の誰もが訝かる檜皮姫の結婚を強行した北条経時を“鬼畜”と世間は非難したのである。この婚姻は一時的には緊張した状況を鎮静化させたが、再び反・得宗家派との政争状態は激しくなって行った。

こうした厳しい状況に耐えられる北条経時では無かった。病弱な身体に心労が重なり、病状は悪化し、自ら“深秘の御沙汰(重大秘密会議)”を翌1246年3月23日に召集し、弟の“北条時頼”に執権職を譲る事を決め、その直後の1246年閏4月1日に満22歳の若さで没したのである。

こうした存在感の薄かった第4代執権・北条経時の死に対して、通常は多くの御家人が喪に服し、行事や政務が停滞するのであるが、彼の場合は喪に服する人達も極めて少なかったとの記録が残っている。

第5代新将軍・九条頼嗣に嫁いだ妹の檜皮姫も北条得宗家とこれに対抗する将軍派との対立が激化する中で病床に伏し、宝治合戦が始まる1カ月前の1247年5月に17歳の不幸な人生を閉じている。

11-(2):北条経時が招集した“深秘の御沙汰“が後の”寄合衆“の起源と成る

北条経時の容体が急変した1246年3月23日に執権館で“深秘ノ御沙汰”が開かれた。北条一門の主だった人々だけによって持たれた“重大秘密会議”であった。吾妻鏡にはこの会議で北条得宗家の家督と第5代執権職を北条経時の3歳年下の弟、当時19歳の“北条時頼”に嗣がせる事が決められた事が記されている。

北条経時には二人の息子が居たが、まだ若かった事もあるが、祖父・北条泰時が幼少の頃から“時頼”の聡明さと才能を見抜き、高く評価していた事は周知の事であり、この人事を決定付けたと言える。

尚、“秘密の御沙汰“は後述する宮騒動・宝治合戦・元寇と続く幕府の最重要問題が生じた毎に召集されている。後に”寄合衆“と呼ばれ、得宗家を中心とした極く少数の幕府重臣によって構成される“寄合”という“合議体”を意味する様に変化して行く。

“寄合衆”は得宗家の私的機関であり、言わば“得宗家内の評定衆”だと言える。“評定衆”は幕府の公式な役職であったが、後にこの身内の組織である“寄合衆”が“評定衆”よりも権威を持つ様に成り“評定会議”を空洞化させて行く事になる。

第5代執権・北条時頼が後に病から奇跡の生還を果たした以降の政治体制を“得宗専制政治体制”と称するが、鎌倉幕府の政治権力が“得宗家”に集中する状態へと変遷して行く入口の状況だったと言えよう。

12:第5代執権・北条時頼が就任し、将軍派が3件の政争、①宮騒動(名越光時の乱1246年)②三浦氏ノ乱(宝治合戦1247年)③了行法師事件(1251年)の末に一掃される

12-(1):宮騒動(名越光時の乱・寛元政変)・・1246(寛元4年)年5月24日

北条時頼が第5代執権に就任した事に不満を持ち、対抗する勢力は名越(北条)光時、弟の時幸を筆頭に、評定衆の中にも多く居た。弱体化が著しかった第4代執権・北条経時の登場は評定衆の中で最大の御家人・三浦泰村をはじめ、毛利季光、後藤基綱、狩野為佐、千葉秀胤、町野康持の6人の反・得宗派を生じさせた。実に半数を占めたのである。

彼等が前将軍・九条頼経を担いで将軍派(=反・得宗派)としての結束を強めていた状況を新執権・北条時頼は看過しなかった。

北条時頼側は外戚の安達氏、そして諏訪・尾藤・渋谷氏等の“得宗家御内人(みうちびと=得宗家に仕える従者・武士)”達が中心をなしていた。

前執権・北条経時が閏4月1日に没して僅か1カ月後の1246年5月24日の夕刻、名越光時が前将軍九条頼経の館に入った事を見届けた北条時頼は渋谷一族等の“得宗被官軍”に館を包囲させた。

前将軍の館を軍隊で包囲するという行動は“謀反”と取られ兼ねない。そこで北条時頼は謀反行動と取られぬ様“我が庶族の名越光時、我に逆心を抱く事すでに露顕せり。我れ北条一門の惣領として、光時の野心を抑えんとす”と理由を明確にし、更に“決してこの軍事行動は前将軍に対する謀叛では無い”と宣言した上で行動をとったのである。若干19歳の北条時頼の能力の高さを示す史実である。

翌、5月25日には反・得宗派の策謀は未遂に終わった。名越光時と弟の時幸は捕えられ出家した。名越光時は伊豆の江間郡に配流となり、策謀に加わった6人の評定衆の全員が罷免され、千葉秀胤は6月13日に鎌倉を追放された。

7月に北条時頼は解任後も鎌倉を離れようとしなかった前将軍・九条頼経を京都に強制的に送還した。兄の北条経時が手を焼いた事を執権就任後僅か100余日の時頼が見事に果たしたのである。

この事件は宮騒動、寛元政変、あるいは名越氏事件と呼ばれる。

この様に将軍派を一掃した事で北条庶家一門に対する得宗家の支配権が確立された。この時点をもって“得宗専制政治体制”の始まりとする説がある。又、この騒動で去就をはっきりさせなかった最大勢力の三浦泰村を北条時頼は得宗家の重大会議(後の寄合)のメンバーとして参加させ、味方側に引き入れている。時頼の巧妙な勢力分断戦略である。(吾妻鏡1246年6月10日条)

しかし、“将軍派”が根絶される迄には更に2件の政争を経ねばならなかったのである。

12-(2):宝治合戦(三浦氏ノ乱)で三浦氏を滅ぼす・・1247年6月5日

宮騒動から1年後の1247年6月5日、北条得宗家が前将軍・九条頼経と第5代将軍九条頼嗣側に立った最大の御家人勢力・三浦氏と戦う事になる。

1年前の“宮騒動”を治めただけでは“将軍派”の根絶が出来る程、北条得宗家の権力、権威そして統治力は確立されていなかった。前将軍・九条頼経を京に強制送還する際に同行した三浦泰村の弟、三浦光村(生1205年・没1247年)が新たに反・得宗派としての叛旗を掲げたのである。

三浦光村も正五位下の官位を持ち、幕府では評定衆に任じられた幕府幹部であった。鎌倉を追放され、京に向かう前将軍・九条頼経の同行を終えて京を去る時に面前で涙を流し“相構えて今一度鎌倉中に入れ奉らんと欲す”と、頼経を復帰させる事を誓ったのである。

これを“北条時定”が耳にし、北条時頼に伝えたのが宝治合戦のスタートとなった。

北条時定は北条時氏の3男であり、第4代執権北条経時、第5代執権北条時頼の同母弟に当たる。因みにこの三人に共通した母は徒然草184段にある“障子の切り貼りを自らして見せて、北条時頼に倹約の心を教えた”という逸話で知られ、昭和期の教科書にも載せられ“賢母”として有名な安達景盛の娘“松下禅尼”である。

将軍派と北条時頼側との政争は“御家人の主人である将軍が政務を執るべきか”あるいは時政、義時以来、鎌倉幕府・将軍の”後見役“として設けられ、確立されて来た”執権“が政務を執るべきか”を問う鎌倉幕府政治の根幹に関わる争いであった。

宝治合戦時の“将軍派”の背後には前将軍の実父、九条道家が居た。彼は前年1246年に後深草天皇と後嵯峨院を廃し、配流中の後鳥羽上皇の皇子、雅成親王を皇位に就けようとした嫌疑が掛けられ”関東申次”の職を罷免されていた(以後この職は西園寺家の世襲となる)。

更に息子の一条実経も満3歳の第89代後深草天皇(即位1246年1月譲位1260年)の摂政であったが、父に連座して罷免されると言う状況で、九条道家の朝廷内での力は衰退していた。しかし“将軍派”に対する影響力は持っており“宮騒動“の後も将軍権力の奪還を目指す最有力御家人・三浦泰村の弟、三浦光村を急先鋒とした反・得宗派に担がれる存在だったのである。

12-(2)-①:宝治合戦の前哨戦~合戦開始まで

以下に“北条得宗家”と最有力御家人の三浦氏が死闘を演じる“宝治合戦”に突入して行く経緯を時系列に記述する。

1246年7月・・宮騒動で北条時頼は前将軍九条頼経を京に強制送還する

1246年9月・・北条時頼は祖父・北条泰時の弟で六波羅探題北方を長く務めた北条重時(当時48歳)を空席だった連署として迎える事を評定の場で打診した。しかし三浦泰村だけが頑なに拒んだ。自分の政治的地位が低下する事を嫌った為であろうが、この事で北条時頼並びに北条一門との亀裂を深めたとされる。

1246年10月・・前将軍・九条頼経の父親、九条道家は関東申次職を解任され、西園寺実氏に交代させられる。

1247年4月・・北条時頼は母・松下禅尼の父であり三浦氏打倒の急先鋒である安達景盛を高野山から呼び戻す。北条時頼との関係改善を計ろうとしていた三浦泰村にとっては拙い状況となった。安達景盛は三浦氏打倒に向けて動き始める

1247年5月~6月4日・・武力行使を基本的には回避しようとする考えは北条時頼・三浦泰村の双方にあったとされる。しかし事態は抗戦的な安達景盛と三浦光村(泰村の弟)がリードする方向へと展開して行った。

・・北条時頼は使者を三浦館に遣わし、三浦泰村の次男“駒石丸”を養子にしたいと申し入れた。穏健派の三浦泰村は戦争を回避出来ると安堵し、快諾した。

1247年5月13日・・既述した北条経時の妹で当時6歳の第5代将軍九条頼嗣に15歳で嫁いだ“檜皮姫(ひわだひめ)”が18歳で病没した。(吾妻鏡)この結果、北条得宗家と将軍家との親戚関係が途絶えた。

・・三浦泰村の館に一泊し、三浦氏を討つ意志のない事を示した時頼が、その夜、三浦泰村の館に戦闘用の武器が用意されている事に気付き、密かに脱出する。抗戦を主張する弟の三浦光村一派の動きであった。

1247年6月2日・・北条時頼は将軍御所と時頼館の防備を行う。三浦泰村館でも軍備が整えられた。


1247年6月5日・・宝治合戦が始まり終に三浦一族が滅びる

12-(2)-②:戦いの状況

北条義時・泰時・経時・そして時頼にも仕えた”平盛綱”は得宗家の家司“御内人(みうちびと)”であり、鎌倉末期に権力を握る“内管領“長崎氏の祖とされる人物である。

彼は北条泰時時代に“北条氏の家法”を作成したとされる程、信頼の厚かった人物である。1247年6月5日未明、平盛綱は三浦氏との和議を纏め、時頼の使者として北条側と三浦側が睨み合う“筋替橋”を三浦泰村館に向った。“貴殿を誅伐すべきの気、我に無し。日頃の如く異心あるべからず”という和睦の文には北条時頼自筆の起請文も付けられていた。

同じく和平を望む三浦泰村はこれを読んで安堵し、手勢を解こうとしたと伝わる。長期間の緊張を強いられていた三浦泰村はこの和議の提案が余程嬉しかったのであろう、この後に湯漬を食べ過ぎて吐いたとの記録が残っている。

そうした喜びも束の間、高野山から降りてまで、強硬に三浦一族の打倒に燃える安達景盛は嫡男の安達義景(生1210年没1253年)、孫の安達泰盛(生1231年没1285年)に先陣を切らせて三浦泰村館を襲ったのである。これに対して三浦勢も応戦し一気に激しい戦闘に突入した。

三浦泰村、三浦光村兄弟の側には妹婿の毛利季光、関政泰、春日部実景、宇都宮時綱、小鹿島公業、その子、小鹿公苗等、将軍派の御家人達が集まった。

北条時頼方は将軍御所の守護に北条実時(生1224年・没1276年=前年に金沢文庫を創設)を命じ、三浦泰村討伐の大将には時頼の同母弟の北条時定(生不詳・没1290年)が命じられた。

北条時定の軍は明け方から昼になっても三浦泰村軍を攻めあぐねていたが、周辺の館に火を放っという策で三浦泰村軍を燻り出した。泰村軍は源頼朝の墓所である法華堂に逃げ込む。

永福寺に80騎を率いて立て籠もって応戦していた弟の三浦光村軍は、戦意を失った兄三浦泰村の命令で一族、並びに将軍派の御家人達、総勢500人と共に法華堂に結集した。

北条得宗家打倒に燃え、尚も抗戦を主張する三浦光村を押さえ、兄・三浦泰村は三浦一族と与党500名に自刃を命じた。ここに鎌倉幕府創設以来の大豪族三浦氏一族は佐原流三浦氏だけを残して滅亡したのである。

毛利季光(もうりすえみつ・生1202年・没1247年6月5日)の一族もこの宝治合戦で大半が滅亡した。毛利季光は大江広元の四男であった。父・大江広元の所領の中の相模国毛利荘(現在の厚木市)を相続した事で毛利季光と名乗ったのである。彼の毛利家は“宝治合戦”で滅亡したが、越後に居た四男の毛利経光(もうりつねみつ)だけは生き残り、安芸国吉田荘の領有を許された。

この毛利経光の四男・毛利時親が安芸国吉田荘を継ぎ、その子孫から後の中国地方の戦国大名“毛利元就”が誕生するという繋がりである。

この様に“毛利氏”にしても“上杉氏”にしても、後の戦国大名の多くの起源を鎌倉時代に見る事が出来る。

因みに戦国時代の雄、武田信玄(晴信:生1521年没1573年)は甲斐武田家第19代の当主である。信玄の祖先は河内源氏の“新羅三郎義光”を初代とする、由緒正しい家系だが、鎌倉時代のこの時期は第7代当主・武田信時(生1220年没1289年)の時代であり、鎌倉幕府の第4代将軍・九条頼経が鶴岡八幡宮に参詣した折の随行員の一人として記録が残っている。

この様に数百年を遡って祖先を辿る事が出来、当時の身分等、細部に亘って歴史の継続性を辿る事が比較的に容易な事は日本の歴史ならではの特異性と言えよう。

話を“宝治合戦”に戻そう。

“宮騒動”後に上総国に逼塞していた千葉介秀胤は“宝治合戦”の直後に弟の千葉時常と共に北条氏の討手に拠って1247年6月7日、一宮・大柳の館(長生郡睦沢町大谷木)で討伐され、ここに反・得宗派の御家人は排除された。そして、以後“北条得宗家”による独裁政治色が強まる事に成る。時に北条時頼は未だ20歳、執権職に就いて僅か1年余りの間に執拗に繰り返される反・得宗派による政争をほゞ治めたのである。

しかし、まだ将軍派は根絶された訳では無い。将軍派の根絶は3件目となる政争、5年後の“了行法師事件(1251年)”迄待つ事になる。

13:第5代執権・北条時頼が政治権力掌握の過程で行った諸施策

時頼は反・得宗派による度重なる幕府転覆の政争に勝利し乍ら、下記に述べる諸施策を行い、執権職の権限を強化して行った。又、院(朝廷)の政治にも影響力を強めて行ったのである。

13-(1):“院評定制”の設置、並びに第一回“院評定”の開催・・寛元4年(1246年)11月3日

第88代後嵯峨天皇は第3代執権・北条泰時が公家社会の反対を押し切って即位させた天皇だが、在位4年後の1246年1月に第89代後深草天皇に譲位して院政を開始した。この院政も鎌倉幕府のコントロール下にあった。この時期、鎌倉幕府の朝廷に対する発言力は強化されていたのである。

朝廷政治の実権を握っていた九条道家は“宮騒動”で息子の九条頼経が京に送還されたばかりか、彼も1246年8月には“関東申次職”を免職とされ、朝廷での力を失っていた。

この時を逃さず、北条時頼は“宮廷刷新”に乗り出した。

寛元4年(1246年)10月に西園寺実氏(生1194年没1269年)を“関東申次職”に任じた他、朝政の刷新、叙位除目の公正、人材の適用にまで及ぶ要請を文書の形で行っている。

翌年(1247年)正月には後深草天皇の摂政だった九条道家の四男一条実経(さねつね)も罷免し、九条家の勢力は大幅に弱まった。更に時頼は朝廷政治の刷新の為、院中に“評定衆”を置き、院政の“最高議決機関”としたのである。

同様の事は且て、源頼朝が後白河院制下で行った事がある。しかしこの時は頼朝が“院評定”に制圧を加えた事で却って後白河法皇の下に公家勢力が結集すると言う失敗に終わっていた。

この先例に学んだ北条時頼は評定衆を幕府側から指名するという露骨な制圧方法は取らず、飽くまでも公家側が自主的に朝政刷新の道を講ずる形としたのである。北条時頼に拠る寛元設置の“院評定衆”の制度が長い生命を保った理由はこうした巧妙な施策に拠る処が大だと言われている。

執権就任後、僅か8ケ月の北条時頼は朝廷政治に関わる大改革迄をも成し遂げたのである。

13-(2):北条重時を連署に迎える・・1247年7月

宝治合戦の勝利で反・得宗派を排除した北条時頼は次に、幕府の制度改革に着手した。

先ず最初に行った事が、1246年9月の評定会議で三浦泰村に反対され、実現しなかった北条重時(生1198年・没1261年)の連署就任である。

ここに1240年に北条時房が没して以来空席だった“複数執権制”が7年半振りに復活し、以後定着する事に成る。重時はこの時49歳であった。北条時頼と重時との関係は既述した様に大叔父という関係に加えて、重時の娘(葛西殿)が時頼の正室であり、舅という関係でもあった。尚、この正室・葛西殿(生1233年没1317年)が第8代執権の北条時宗を1251年に生んでいる。

13-(3):御家人の窮乏対策

宝治合戦の頃は度重なる戦い、不安定な政情の影響もあって中小御家人の生活は窮乏していた。その様子は寛元3年(1245年)6月の若狭国御家人の記録に“当国の御家人、元30余人。今、僅かに残るところ14人也”とある所からも窺える。

こうした状況を改善する為に北条時頼は御家人達に対する救済策を講じた。それらの施策は下記である。

①:毎年8月1日に相互に贈り物をやりとりし、御家人から将軍に贈り物をする“八朔(はっさく)を禁止する・・・1247年8月1日付(宝治合戦の直後)

②:京都大番役の期間の半減化によって個々の御家人の勤番負担を大幅に軽減する・・・1247年12月29日

③:将軍御所の移転新築計画を中止し、御家人達の負担を無くす

④:評定衆等、一定以上の御家人以外は騎馬の供を従える事を禁止する

又、こうした御家人達の経済的負担の軽減を講ずる一方で、1246年9月の記録には“故無き不参が三度に及ばば罪科たるべし”として御家人の職務怠慢を戒める事も忘れていない。

職務怠慢を戒めた記録としては、1248年11月23日に問注所奉行人の太田康連と二階堂行盛を呼び付けた例や、1250年(建長2年)2月5日に六波羅探題の召文に応じない者が多かった事に関して西国の御家人達を叱責し、“召文に応ぜざる事三度に及ばば将軍直々の御使を差遣すべし。それでも難渋せしめば罪科に処せらるべし”と戒めた例もある。

更に1250年12月27日付けで将軍近侍の御家人に対して“故無く欠勤すれば削名字(名字の剥奪)を命じた事も記録に残っている。幕政の隅々にまで気を配った北条時頼の政治姿勢が見える。

13-(4):農民保護政策=撫民政策

13-(4)-①:農民に対して粗暴だった武士

源頼朝が鎌倉に日本史上初めての本格的武家政権を立ち上げる前迄は公家の土地を管理していただけだった東国の武士達は、御家人となり、自らの土地を領有し、年貢を自らのものとする様になった。

ところが、こうした武士達の中にはそれ迄の朝廷の支配から解放され、年貢収入だけでは満足せず、農民の家に乱入して物品を略奪する等の不法行為を働く者も多かった。

こうした行為を武士達が働く事でも分かる様に当時の武士達のレベルは貴族層に比べて極めて低かったのである。14歳で漢字を使う事が出来た貴族層に対して、農民と直接関わった武士層には読み書きが出来る者が少なかったとされる。

こうした低い教育水準の武士層であったから、農民を統治する能力水準に達して居らず、粗暴な振る舞いが多かった。この為、武士が支配した東国では耕作を放棄する農民が続出し、極端なケースでは村の半分以上の人口が逃亡するという事態に到った。

幕府の要職にある御家人が子孫に“家訓”を残しているがその中に“どんなに腹が立っても人を殺してはいけない”と書かれたものがある。それ程迄に当時の武士層は粗暴であり、統治者としての“レベル”では無かった事がこの家訓からも分かる。

こうした状態を作り出している大きな原因が有力武士の間に繰り返される“権力闘争”に在ると憂慮した北条時頼は、先ず御家人達に“撫民政策”を理解させ、それを実行させる事に拠って“幕府政治の安定”を図る事に着手したのである。

13-(4)-②:北条時頼が行った武士層への“撫民政策”の徹底

時頼は撫民政策に従わない武士達に厳しい処罰を課した。具体的には民を必要以上に痛めつける武士達に対しては私財を取り上げ、地位を剥奪するなどの処罰法を追加している。それらの骨子は

・民が大金を盗むという重罪を犯しても本人一人の罪であり、親類、妻子まで罪に問うてはいけない

・民と掴み合いをしても武士に怪我が無い場合は罪に問う事は出来ない

この事例に見る様に弱い立場の農民を保護する事に重点を置いたのである。以下に代表的な“令”を紹介して置こう。

ア:宝治元年(1247年)11月1日の“評定衆会議”で“地頭一円地たりと言えども、名主が子細を申さば、事の体によって沙汰すべし“との”令“が決められている。つまり地頭が全権力を握っている地であっても、名主の主張に理があればその訴訟を受理せよとの“令”である。

イ:同年、11月27日付けでより具体的な指令を六波羅探題にも送っている。“諸国の守護・地頭ら、過分の年貢を責め取る事ありという。これ土民百姓の痛苦の基なり、宜しく停止すべし“との令である。

ウ:更に宝治2年(1248年)閏12月23日付けで“百姓らを安堵せしむる事こそ地頭御家人の進止(土地や人間を支配する事)たるべし”と百姓を大切にする事を命じている

エ:又、建長3年(1251年)9月5日付けの令には“窮民を救済して、安堵せしむべし”とある。

13-(5):引付方(衆)の創設・・建長元年(1249年)12月9日

御家人の領地訴訟問題の解決は鎌倉幕府にとって最重要事項であった。北条時頼はその公正さと迅速性を確保する為に評定衆の下に“引付方(ひきつけかた)”を設けた。

厳密には組織名を“引付方”、そこに就く役職名を“引付衆”と呼ぶが一般的には分けずに“引付衆”と表現する事が多い。

組織としては頭人・引付衆・引付奉行から成り、訴訟の予備審査を行う様にした。15人の評定衆の中から北条一門の3人を3番(班)編成の引付方(衆)の夫々の頭人に任じた。泰時の四男北条政村、時房の四男大仏朝直(おさらぎともなお)、時房の三男北条資時(すけとき)である。

引付衆は3番(班)夫々が5名編成で、全員が文士(事務役人)であった。上記頭人の下で会議を開き、その訴訟プロセスは先ず原告が訴状を問注所に出し、適法か否かの審査後に引付奉行人が被告と原告の間の陳状と訴状やり取りに介入し、その後に、引付衆が原告と被告を出頭させて口頭弁論で対決させ、その結果を見て引付方(衆)が判決原案を作り、頭人が評定会議に提出し、最後に評定会議で判決を下す・・と言う事である。

この1249年の“引付衆”の設置は、北条時頼に拠る政治体制の独裁色が強まる事で御家人達からの不満が出る事に配慮した時頼のきめ細かな政治対応でもあった。時頼は権力を強めて行く中にもこうした融和策も忘れない極めて優秀な政治家であった事が分る。

尚、この引付衆は後に評定衆に昇進する為の基本コースと成って行く。

この様に鎌倉幕府の機構は合議体制を整えた第3代執権北条泰時から第5代執権北条時頼の時期の間に引付衆の設置に見られる様に訴訟機関の改革も含め、様々な面で統治機構として格段の発展を遂げたのである。

13-(6):“撫民政策”浸透の為の武士層への教育・・建長寺の建立・・1253年

時頼は日本に伝わって間もない禅宗を取り入れ、幕府の宗教と定め、建長3年(1251年)11月に建長寺を着工し、建長5年(1253年)に落成した。正式な名称は“巨福山建長興国禅寺(こふくざんけんちょうこうこくぜんじ)”である。

この地は“地獄ケ谷”と呼ばれた処刑場で、地蔵菩薩を本尊とした“心平寺”が建っていた。そこに建立した為にこの寺の本尊は一般的な“釈迦如来”では無く、地蔵菩薩となったという因縁がある。

開基は北条時頼、そして開山は時頼に招かれた中国南宋の禅僧・蘭渓道隆(生1213年・没1278年)である。旧“心平寺”の本尊だった地蔵菩薩像は現在も建長寺に伝来している。

建長寺は純粋禅の道場として建立され、幕府の宗教が“専修臨済禅”と決まった。創建当時の建長寺の僧は殆どが中国からの人達であり、中国語が飛び交う“異国の様な空間”だったと伝わる。

又、建長寺という名は元号を寺名とする数少ない例である。元号をつけた他の寺としては最澄が延暦4年(785年)に建てた延暦寺、藤原良房が貞観4年(862年)に命名した貞観寺、鎌倉第2代将軍源頼家が建仁2年(1202年)に栄西禅師を開山として建立した建仁寺の例がある程度である。

14:了行法師事件(建長の政変)で反・得宗派(将軍派)の根絶を果たし、第5代執権北条時頼体制を固める・・1251年12月26日

14-(1):“宝治合戦”の丸4年後に起きた幕府転覆事件

時頼が上記した種々の“幕政改革”を進めていた最中にも“了行法師事件”と呼ばれる広範囲に亘る反・得宗派の団結が存在しており、“幕府転覆計画”が潜行していた。それが発覚した事件である。

この事件は“鎌倉年代記”に“処分”だけが書かれており、事件の全容、その詳細については書かれておらず、余り分かっていない。

“鎌倉年代記”は鎌倉幕府の吏員によって書かれた年表風の年代記で、寿永2年(1183年)から元弘元年(1331年)迄の年賦である。幕府の要人が過去の出来事を参照する為に携帯用ハンドブックとして利用していたとされる年代記である。1331年頃に成立したものと考えられ、そこに書かれている内容については信憑性が高いものとされる。

事件の全容や詳細までの情報は無いものの、この事件に関わったとされる対象者が広範囲である事、この事件の結果として、執権北条時頼が摂家将軍・九条家を廃して、政子と第2代執権北条義時の念願だった“親王将軍”に交替する事に繋がったという重大な事件であった事は確かである。

摂家将軍の九条家は周囲の反・得宗派に担がれ、利用される存在であり、時頼にとっても最早、排除したい存在になっていたという事を考え合わせると、この事件には鎌倉幕府の意図も感じられる。

14-(1)-①:了行法師という人物について

了行法師の素性については“宝治合戦”で滅んだ千葉氏庶流の僧だと言う説、三浦氏一門だとの諸説がある。彼が“如意寺”の復興の為の“勧進”を行う名目で同志を募り、鎌倉幕府の転覆を謀ったとされ、その同志の中には宝治合戦で滅ぼされた下総国矢作郷(千葉市矢作町)の小領主であった千葉氏一門の矢作左衛門尉、そして三浦氏の残党とされる能登国大屋荘(輪島市)の領主長谷部久連などが加わっていたとされる。以上から、この事件は滅ぼされた三浦一族、千葉氏等、宝治合戦の残党の復讐事件だとも言われる。

矢作、長谷部の両人は捕えられ、翌日処刑された。了行法師は捕えられたが殺されてはいない事から、冤罪だったとする説もあり、三浦氏一族という事で了行法師も処刑されたとする説もあるという具合で、この事件には不明な点が多い。

只、上述した様に、結果として九条家が排除される事に繋がったという点は動かし難い史実である。この論拠に就いては後述する。

14-(1)-②:この幕府転覆事件に“足利泰氏”(足利氏4代当主:生1216年没1270年)も関わったとする説がある。


既述した様に足利氏の歴代当主は、いずれも北条得宗家の娘を正室として迎えるという関係にあった。足利泰氏は第3代執権・北条泰時を外祖父に持ち“泰”の字は北条泰時から偏諱(へんき=貴人などの名の1字を貰う事)を賜ったものである。

父・足利義氏は幕府宿老として重責を担った人物である。その足利氏の4代目当主・足利泰氏が了行法師事件と時期を同じくした1251年12月に幕府の許可無しに突如、出家をしたのである。この事から、足利泰氏も幕府転覆事件に絡み、それが北条時頼の知る処となった為に、出家をし、即座に自首をしたとされる。

史実として彼は出家行動に対する処分を受け、自領の中、下総国埴生荘(栄町)を没収されている。処分としては軽かったがこの事件後、足利氏の当主は5代目の足利頼氏(生1240年没1262年)に交代する。しかしこの5代目当主には慣習であった得宗家、北条時頼の娘が嫁ぐ事は無かった。

明記されてはいないがこの事件から、足利泰氏も“了行法師事件”に関係した疑いがあるものとされ、この事件の関係者の裾野の広さを裏付けるものとされている。

以上の様に了行法師事件は今日でも充分な史料による裏付けの無い事件ではあるが、結果としてこの幕府転覆事件の背後に、反・得宗派の旗頭として九条道家、九条頼経父子が関与したとされ、上述した広範囲に及ぶ人々が共謀して第6代将軍・九条頼嗣を担いで幕府転覆計画を謀った事件とされる。

14-(1)-③:九条道家・頼経父子が旗頭であった事の決め手となった史実・・1251年12月の“勅勘”

この事件後に九条道家の一門が勅勘(天皇による閉門籠居や出仕禁止などの処分を受ける事・・当時は後深草天皇・御嵯峨上皇)を蒙っている。この事は了行法師事件に“九条摂関家が絡んでいた”と幕府並びに朝廷が結論付けた決定的な証左とされる。

結果として北条時頼は多くの人間が関わった大規模な反・得宗派に拠る幕府転覆計画を未遂で終わらせる事に成功した。

第5代執権に就任後、丸5年の北条時頼は1251年12月の時点で鎌倉幕府全体を完全に掌握する権力を握っていた事を示す事件だったと言える。

15:九条摂家将軍を廃し、念願の“親王将軍”を迎える・・1252年4月

15-(1):第5代摂家将軍・九条頼嗣を罷免する

了行法師事件が解決した直後の建長4年(1252年)2月20日に時頼は密使を京に送った。後嵯峨上皇の第一皇子宗尊親王か第三皇子恒仁親王の何れかを鎌倉幕府の第6代将軍に迎えたい旨を朝廷に申請したのである。

“関東申次職”を罷免される等、朝廷内での勢力は衰退していたものの、前将軍九条頼経の実父であり、現将軍九条頼嗣の祖父でもある九条道家(生1193年・没1252年2月21日)からは大反対される事が予想されていた。

処がここで歴史の偶然が起こる。その九条道家が時頼の使者が京に到着する直前の2月21日に没したのである。余りのタイミングの良さに“北条九代記(1333年頃に成立した歴史書。1183年~1332年迄の幕府関係の歴史を年代記風に漢文で記したもの。作者不詳)”には下記の様に暗殺の疑念が書かれている。

“道家公、薨じ給ふ。年六十一歳なり。(略)今薨じ給ひけること、疑心なきにあらず。武家より計らひ奉りけるにやと、心ある人は怪しみけり”

しかし上記の様に既に九条道家の朝廷内での勢力は堕ち、自身も死を覚悟して、1250年11月には所領の処分を行っている事からも暗殺説はあり得ないと結論付けられている。

15-(2):第6代将軍宗尊親王の誕生・・1252年4月1日

後嵯峨上皇の院制時期は鎌倉幕府のほゞ統制下にあった。従って10歳の宗尊親王(生1242年将軍在位1252年~1266年・没1274年32歳)を第6代将軍として下向させるという幕府からの要請を朝廷は快諾したのである。

建長4年(1252年)4月1日、初の親王将軍、第6代将軍・宗尊親王が鎌倉に到着した。こうして北条時頼は“政子”と曽祖父・第2代執権北条義時の時代に後鳥羽上皇が拒絶した為に実現出来なかった“親王将軍”を実現させたのである。

吾妻鏡にその時の宣旨が下記の様に載っている。

“三品 宗尊親王 右被左大臣(鷹司兼平)偁(いはく)件(くだんの)親王宣征夷大将軍 建長四年四月一日 大外記中原朝臣師兼(押小路師兼)奉”

第88代後嵯峨天皇の第一皇子の宗尊親王が天皇に就かず、第二皇子が第89代後深草天皇(即位1246年譲位1259年)に即位した理由は宗尊親王の母親・平棟子の身分が低かった為である。平棟子の父・平棟基(たいらのむねもと)は実務官僚ではあったが官位は正五位程度の低い身分であった。棟子は四条天皇の内侍(女官)として出仕していたが、その後、後嵯峨天皇に仕えて宗尊親王を生んだのである。

第6代将軍・宗尊親王の鎌倉到着と入れ替えに、廃位された第5代将軍・九条頼嗣は京都に追放された。北条時頼としては九条道家・頼経父子との関係は対立関係だったが、九条頼嗣に対しては期待をしていたと伝わる。

吾妻鏡には北条時頼が九条頼嗣に学問、並びに、将軍としての教育を熱心に与えていた事が書かれている。しかし乍ら上記の様に九条家との政争が度重なり、しかも激しく成った事で、1252年3月に九条頼嗣を止む無く14歳で解任するという展開になったのである。

九条頼嗣は母大宮殿と共に京へ追放となり、その後の人生は哀れであった。祖父の九条道家が1252年2月に没し、父で第4代将軍だった九条(藤原)頼経も4年後の1256年8月に38歳で没した。そして頼嗣自身も父を追うかの様に翌月の9月に僅か17歳で没したのである。

こうして親王将軍の下向となったが、鎌倉幕府下での親王将軍の立場は“傀儡”将軍であった。親王将軍は以後、鎌倉幕府が滅亡する迄、第9代将軍・守邦親王迄の4代続く事になる。

第5代執権・北条時頼の時代は一般的には“得宗専制政治体制”と称され、強い政治権力を発揮した時期として一括されるが、北条時頼には第5代執権職に就いていた時期と1256年11月の執権職を辞して“得宗“という立場にあった時期がある。この経緯については4-(3)の処でも簡単に述べたが、以下の(18)並びに(19)の処でも記述する。尚、上記の第6代将軍・宗尊親王の下向を実現した1252年4月は北条時頼が第5代執権職に就任後丸5年を経た時点であり、時頼25歳の時であった。

16:幕府の強い影響下にあった第6代将軍・宗尊親王の父・第88代後嵯峨天皇と当時の朝廷(院)の状況について

第88代後嵯峨天皇(即位1242年譲位1246年)は後鳥羽上皇が起こした“承久の乱”に消極的だった為に後鳥羽上皇から無理矢理に譲位をさせられた土御門上皇(第83代天皇即位1198年譲位1210年)の第二皇子であった。

“承久の乱”で京方が敗北した為、乱に関わった第82代(後鳥羽)第83代(土御門)第84代(順徳)第85代(仲恭)の4代に亘る後鳥羽上皇の皇統が皇位継承者から排除されていた。

その結果、第80代高倉天皇(即位1168年崩御1180年)の第二皇子で平氏一門並びに安徳天皇の西海逃避行に同行し、辛くも壇ノ浦の戦いで生き残った“守貞親王”の第三皇子が第86代後堀河天皇(即位1221年譲位1232年)として10歳で即位するという稀有のケースとなった事は既述した。

この第86代後堀河天皇は1232年、20歳の時に未だ2歳だった第87代四条天皇(践祚1232年即位1233年崩御1242年11歳)に譲位して院政を行ったが、僅か2年後の1234年に22歳の若さで崩御した。未だ3歳の赤子であった四条天皇期の朝廷政治の実権は九条道家(生1193年没1252年2月)と彼の舅である西園寺公経(生1171年没1244年8月)が握るという状況であった。

更にその四条天皇が1242年1月9日に不慮の事故で僅か満11歳で崩御と成った。皇位継承問題が起こり、当時政治の実権を握っていた九条道家はじめ有力公卿達は“承久の乱”で佐渡に配流中で存命中の順徳上皇(第84代天皇:生1197年・崩御1242年9月)の皇子・岩倉宮忠成王を擁立しようとしたのである。

これに対して朝廷政治への発言力を強めていた鎌倉幕府はこの皇位継承問題に介入、既述した様に第3代執権北条泰時、並びに六波羅探題北方だった北条重時が強く反対してこの案を潰した。

この結果即位したのが“承久の乱”で中立的立場をとった土御門上皇の第二皇子の邦仁王であり、第88代後嵯峨天皇(即位1242年2月譲位1246年)が誕生した。鎌倉幕府が朝廷の政治に強力に関与し、ほゞ統制下に置いたのである。

この後嵯峨天皇は優柔不断な人柄であったとされる。鎌倉幕府にとっては万事好都合な朝廷の状況であった。そして“後嵯峨天皇”は僅か3歳の第二皇子を第89代後深草天皇として即位(第一皇子は鎌倉幕府将軍として下向した宗尊親王)させ、自らは上皇となり1246年から院政を開始する。

ここ迄は問題が無かったが、後嵯峨上皇が第7皇子を寵愛する余りに、後深草天皇を17歳で無理矢理に譲位させ、未だ11歳だった第7皇子を第90代亀山天皇(即位1260年譲位1274年)として即位させた事から天皇家は皇位継承問題等で分裂状態を来す混乱状態に向かって行く。

この1260年の亀山天皇即位迄が北条時頼存命中の(1263年に没)天皇家の状態であった。

時頼の死後の事となるが、この皇位継承に不満を抱いた後深草上皇が亀山天皇と対立する様になり、更に両者の父・後嵯峨上皇(法皇)が後深草上皇の皇子では無く、寵愛した亀山天皇の皇子を皇太子に立て、更に次の“治天の君”を定めないまま文永9年(1272年)に52歳で崩御して了った事で“後継者問題”を含め天皇家の混乱状態に拍車がかかるのである。

時は第8代執権の北条時宗の時代となっていたが、後嵯峨上皇(法皇)に拠って撒かれたゴタゴタの種は、後深草天皇の系統(持明院統)と亀山天皇の系統(大覚寺統)とが天皇家内の後継者問題、皇統を争う“両統分立時代”へと展開して行き、後の南北朝時代~後南朝へと続く200年に及ぶ天皇家の混乱状況を招く結果となるのである。

17:生まれの違いから北条時宗と北条時輔の間に歴然とした差別扱いをした父親としての北条時頼

北条時頼は延応元年(1239年)11月2日、彼が満12歳の時に毛利季光の娘を正室として迎えている。不幸にして宝治元年(1247年)の宝治合戦で毛利季光は敵方の三浦側として戦い戦死した為にこの正室を離縁すると言う結果になった。

翌、宝治2年に北条時頼の側室の讃岐局(さぬきのつぼね)との間に長男が生まれた。北条時輔(生1248年没1272年)である。2001年のNHK大河ドラマ“北条時宗”で俳優の“渡部篤郎”が演じた人物である。

又、北条時頼は新たに継室として連署の北条重時の娘を迎えている。葛西殿(生1233年没1317年)である。彼女は時頼との間に北条時宗(生1251年没1284年)と北条宗政(生1253年・没1281年)をもうけた。

北条時頼はこの二人の息子を特に大切にし、庶長子の時輔との間に歴然とした差別扱いをした事が記されている。

18:赤斑疹が大流行し、北条時頼が危篤と成る・・1256年11月22日

今日の麻疹(はしか)と思われる“赤斑疹(あかもがき)”と当時呼ばれた病が先ず畿内近国で1255年に蔓延し、翌1256年には鎌倉でも蔓延した。この病も含めてこの年は多くの重要人物がこの世を去っている。そして11月3日には北条時頼も赤斑疹に掛かり、危篤となったのである。

4月10日:矢部禅尼(70歳)・・北条泰時の前妻・北条時頼の祖母、病死
8月11日:第4代将軍九条頼経(38歳)・・痢病
9月24日:第5代将軍九条頼嗣(17歳)・・赤斑疹
10月以降~:北条時頼の長女、後嵯峨上皇の妹宮・・赤斑疹
11月3日:時頼が赤斑疹に加えて赤痢を併発して危篤状態に陥る

11月22日に危篤状態だった北条時頼が一時的に回復をし、意識のある中にと臨終出家をする。法名は“覚了房道崇(かくりょうぼうどうそう)”である。

死を覚悟した29歳の北条時頼は執権職・侍所別当など、全てを北条重時の嫡男で父の後を継いで六波羅探題北方職に就いていた26歳の北条(赤橋)長時(生1230年没1264年)に譲り、第6代執権職に就けたのである。この第6代執権職就任を要請するに当たっては、当時未だ満5歳だった北条時宗が成長するまでの中継ぎという事を条件とした。

19:北条時頼の奇跡の生還と執権職の上位に位置する“得宗”という立場の出現・・1256年11月~1263年11月 

ここで奇跡が起こる。時頼が病から全快したのである。

年が明けた康元2年(1257年)の元旦、第6代将軍・宗尊親王の“御行始(おなりはじめ=初外出)”があった。この時、通常は執権館へ行くのが恒例であったが、将軍・宗尊親王は“覚了房道崇”即ち時頼の住む“最明寺”に行ったのである。

この時の北条時頼の立場は“執権職“では無い。北条氏惣領家の当主“得宗“でしかなかった。この瞬間に“執権職より上位の立場”つまり“得宗”の立場が鎌倉幕府の序列として出じたのである。

之までの北条時頼の目覚ましい政治実績が将軍・宗尊親王はじめ周囲の皆が“得宗・北条時宗“を幕政のNo1の地位に戻す事に何の抵抗も無く受け入れさせたのである。

北条時頼は以後7年間存命する。そしてこの間、第6代執権職に就いていた北条(赤橋)長時や連署の北条政村よりも得宗・北条時頼が上位に位置すると言う形で幕政は行われる。この間、北条長時と北条政村は“代理執権、代理連署”の様な存在であった。

尚、“得宗”の名称の由来については4-(3)でも記述した様に、第3代執権の北条泰時が第2代執権北条泰時の法名を北条惣領家の権威付けに使ったとする説、と、上記した様に臨終出家をした時頼が道崇(どうすう)と名乗り、その法名から一文字を取って曽祖父の北条義時に“徳崇”の追号を贈った事が後に“得宗”になったという2説がある訳であるが、ポイントは両者共に第2代執権北条義時の名声に頼り、北条惣領家の権威付を図ったと言う事にある。

こうした出自の低かった北条氏の例に見る様に、為政者にとってその家柄、出自に拠る“権威“が極めて大切だったという事が”日本の歴史に見る特異性“の一つであり、後の豊臣秀吉の例にも同様の事が見られる。

20:“得宗専制政治“の始まりについて

これについては第6-2項の(3)の処で記述したが、①宮騒動以降②1256年の奇跡の生還後、③1285年の霜月騒動後の3説がある。そして第6-2項の記述では①説を最も妥当だとした。

確かに現われた状況としては“北条時頼が病から、奇跡の生還を果たした以降”の状態とする②説が最も正確な説だとも言えるが、政治体制の変遷を論じる場合には“第5代執権職時代の北条時頼が宮騒動(1246年5月)で第4代将軍・九条頼経を追放し、執権としての足固めが成った時以降“とするのが一般的であり、妥当だと思われる。

時頼は以後、宝治合戦、了行法師事件を治める事に拠って、“反・得宗派”を一掃し、親王将軍を迎える事に成功する。そして強大な政治権力を掌握する事になる。

こうした政治権力の実態から北条時頼の政権期全体を“得宗専制政治体制”とするのが妥当だと言う事である。

21:鎌倉時代の執権職の中から“得宗家出身”として挙げられるのは9人である。

“得宗”の呼称は“北条・惣領家”を権威付け、庶家と区別する為に使われた。“得宗家9代”と呼ぶ場合があるが、それは以下の9人を対象者としている。

初代執権時政・2代執権義時・3代執権泰時・時氏(六波羅探題北方を務めていたが1230年に27歳で死没)・4代執権経時・5代執権時頼・8代執権時宗・9代執権貞時・14代執権高時・・以上9人である。

上記9人の中、病没した北条時氏を除く8人が執権職に就いている。、鎌倉幕府の執権職に就いたのは全員で16人であるから、その中で“得宗家”出身の執権は丁度、半分と言う事であり、庶家出身の執権と区別し“得宗家出身の執権”として権威付けていると言う事である。

22:“得宗・北条時頼”という立場が生じた事が鎌倉幕府の組織に与えたその後の影響について

北条時頼が奇跡の生還を果たした事で“得宗”という“私的地位”が鎌倉幕府内の政治組織上の“最高権力者”を意味する概念として出現し“得宗~執権~連署~評定衆~引付”という新たな“序列”が生まれた事は、その後の鎌倉幕府に大きな影響を与える。

得宗が執権職を超える地位として現れた事は丁度“至尊(上皇・天皇・院・朝廷)”側の組織で院政が開始された事に拠って、天皇家の中で“治天の君VS天皇”という序列関係が生まれ“治天の君”となった上皇が朝廷組織(院)に於いても最高権力者となったケースと類似している。

幕府の要職を次第に北条一門の“惣領家”すなわち“得宗家”が占める様になり、その私的組織である“御内人(みうちびと)”から“内管領”が幕政の中で台頭して行く事に繋がるのである。

23:“得宗専制政治体制”から生じた“幕府内の体制変化”が、結果として“霜月騒動”へと繋がり、鎌倉幕府の自壊へと進む

“得宗”という幕府の正式な地位では無い“概念”が生じ、事実上の最高権力を“得宗・北条時頼”が握った時期に“得宗家の御内人(みうちびと)”も台頭し始める。そして幕府政治の中で次第に勢力を伸ばして行く。

得宗専制政治体制が時頼から時宗へと引き継がれて行く中でこの流れが鎌倉幕府組織の崩壊へと徐々に繋がって行くのである。

鎌倉幕府の政治全体が“得宗家”の“私的組織”を中心に行われる状態に変化して行く事で、幕府組織の諸機関は形骸化し、実権を失なって行く。評定衆・引付衆なども名誉だけの地位に成り、政務上の実権を持たない存在に変化して行くのである。

こうして鎌倉幕府が組織崩壊を起こし、幕府が自壊して行く過程については次項以降に記述するがそうした芽は“得宗専制政治体制“が始まった時から生じていたという事である。

日本史の上では北条時頼の時代とその嫡子、第8代執権・北条時宗の時代の二代が“得宗専制政治体制”が行われた代表的期間だとされる。

この期が北条執権政治体制として政治権力も最強であり、強いリーダーシップが発揮され、“蒙古襲来”という国難を乗り切る事が出来たとしている。

一方で得宗専制政治の“落とし子“とも言える幕府自壊の芽、即ち”御内人(内管領)“の台頭は平頼綱と従来からの幕府御家人・安達泰盛が幕府を二分して闘う”霜月騒動(1285年)の内乱状態へと展開して行く。これらについては次項以降で記述する。

24:奇跡の生還を果たした後の“得宗・北条時頼”の7年間の政治と政治環境・・1257年~1263年

“奇跡の生還”を果たした後に“得宗・北条時頼”として幕政に復帰し、没する迄の7年間の幕政の全権を再び時頼に委ねる“得宗・専制政治”の期間がスタートした。

この7年間の時頼の政治は、既に出家をし、死の淵を彷徨った事の影響もあったのであろう、“覚了房道崇”としての色合いが強かったものと思われる。政治面では特筆すべきものが殆ど見当たら無い。

極論すればこの期間の北条時頼の政治は、後継者として溺愛した北条時宗(この間満5歳~満12歳)の将来に備えた環境整備に全力を傾注した7年間であったと言える。

そしてこの期間は嫡子・北条時宗と3歳年上の庶長子(母は側室の讃岐局であった)北条時輔との確執を育て、周囲の取り巻きも絡んだ政争、二月騒動として15年後の文永9年(1272年)に繋がる事になる。

24-(1):時宗を元服させ、自らの後継者として公言する・・康元2年(1257年)12月26日

1257年、北条時宗(満6歳)は将軍御所に於て第6代将軍・宗尊親王の加冠により元服をした。“宗”の字は宗尊親王からの偏諱(へんき=貴人から一字を下される事)であった。庶長子・時輔は三郎とされ、嫡男・時宗は太郎とされた。太郎と三郎の命名は次代の北条家の惣領(=得宗)は“時宗”だという事を世間に公表した事である。

この時の有名な話として、元服式の引出物の馬の口輪をとって立つ役目を庶長子の“時輔”にさせた事が残っている。父・北条時頼が正室の子(時宗・当時6歳)と側室の子(時輔・当時9歳)との立場の違いをこの様な形で世間に対して明らかにしたという事である。

24-(2):第6代将軍・宗尊親王が得宗・北条時頼に反発を見せる・・1260年~1261年

24-(2)-①:1260年8月15日“放生会”での供奉人名簿を巡っての反発

将軍が鶴岡八幡宮に詣て、鯉などを放生池(源平池)に放す行事は源頼朝以来の重大な儀式であった。この折、事前に幕府側から提出された供奉人名簿に関して将軍・宗尊親王は得宗北条時頼の意図に反発する内容の修正を要求した。第6代将軍宗尊親王はこの時点で在位8年を超え年齢も18歳となっていた。名目だけの将軍職に飽き足らなく成り、実際の権威・権力が欲しくなり、得宗北条時頼に反発して見せたのであろう。

主な内容は下記であった。

・時宗と時輔を同格で、しかも将軍にでは無く、御息所(みやすんどころ)、つまり、将軍の奥方の行列に供奉させる様、修正を要求したのである。これは“得宗家”を貶める狙いであった。

・大仏流(北条時房の四男の系統)北条朝直は供奉人を止め、一段上級の役である“回廊役“を相勤むべしと修正を要求した。これも北条庶流 の大仏(おさらぎ)流を得宗家の上に置こうとする将軍・宗尊親王の反発からのものであった。

・佐々木泰綱(時頼と親密な関係)を諸役から省き、代りに小山時長(時輔室の実兄)を召し加うべし・・ここでも北条時頼の意に反して、庶長子の北条時輔の側の人物を遇そうとする将軍宗尊親王の意図であった。

こうした宗尊親王からの修正要求を得宗・北条時頼は完全に無視をした。そればかりか、事前に将軍・宗尊親王に了解を得る事もせずに、西明寺で開いた“寄合衆の会”の決定事項を一方的に“布告”したのである。1260年6月22日付で出された得宗・北条時頼の布告内容は下記である。

・小侍所(将軍並びに御所の警備を統括。1219年に源実朝暗殺事件の反省から設置された)の別当・北条実時、所司の北条時宗が当日の全てを統括する・・従って御息所方に供奉せよとの将軍・宗尊親王の要請は無視された。

・時輔も将軍方行列に供奉するが、時宗よりは一段低い随兵役とする・・二人を同格扱いにせよとした宗尊親王の要請を完全に無視したのである

・時宗の弟、北条宗政も将軍方行列に追加する・・大仏流北条朝直を回廊役として重用せよとする宗尊親王の修正要請を拒否し、逆に得宗家から一人を追加する事で得宗家の重みを増して見せたのである。

24-(2)-②:更に深まる北条時頼の第6代将軍・宗尊親王への軽視

こうして徹底的に得宗・北条時頼に無視された将軍・宗尊親王は1260年8月15日の放生会を所労を理由に欠席する事であくまでも時頼への反発の姿勢を貫いたのである。

ところが半年も経たない1261年正月7日の宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣に際して、今度はその供奉人名簿の順序について、北条時頼が激怒する事態が発生した。

詳細は省略するが得宗・北条時頼が“我が息男の順序、相模太郎(時宗)、同四郎(宗政)、同三郎(時輔)、同七郎(宗頼)とすでに我れ定めおきたり。しかるに散状(儀式の列席者の全ての人の名前を列記した文書。交名(きょうみょう)の事)では順序が相違したるなり“と激怒した事が記録として残されている。この序列の間違いも将軍が北条時頼への反発として故意に行ったのである。

結果は北条時頼の言い分通りに修正されたが、将軍と得宗家とが反発し合う状況は以後も続く。

24-(3):関東新制ノ事書(かんとうしんせいのことがき)の発布・・弘長元年(1261年)2月

24-(3)-①:法令発令の背景

この法令を“弘長新制“と書く書物もあるが”関東新制条々“と一般的には呼ぶ。

当時の為政者は“辛酉”の年には革命が起こるとの説を信じ、改元をして、より一層“徳政”を敷かねばならないと考えた。1261年も辛酉の年に当たっていた為、元号も文応から“弘長”に変えられた。“弘長の新制”と呼ばれる法令には“公家新制”と上記の“武家新制”の両方があった。これを区分する為に“関東新制条々“と呼ぶ事が多いのである。

フリー百科事典(ウイキペデイア)ではこの武家新制は第6代将軍宗尊親王の主導で出されたと書いているが、奥高敬之氏の“鎌倉北条氏の興亡”では“ここでも第6代将軍・宗尊親王の存在を無視した幕令を執権北条(赤橋)長時、連署・北条政村の名で発令されてはいるが、実際の発令者は得宗・北条時頼である“としている。

法令の内容、並びに上記した当時の第6代将軍・宗尊親王と得宗・北条時頼との力関係を考えると奥高敬之氏の説に説得力があろう。

幕政改革を本格化する61条に及ぶ“関東新制ノ事書“であるが“幕令”が発令される場合は通常はその発令者を“将軍”とし、その旨が明記されるケースが殆どであるのだが、この“関東新制ノ事書”には第6代将軍・宗尊親王の存在を示す辞句は一切無い。この事も奥高敬之氏の説を正しいとする論拠である。

得宗・北条時頼はここでも第6代将軍・宗尊親王を完全に無視した幕令を発布したと言う事である。

こうして最晩年に北条時頼が撒いた第6代将軍・宗尊親王との確執、そして時宗と時輔との間に撒いた確執の種は後述する政争へと繋がって行くのである。

24-(3)-②:“関東新制ノ事書(関東新制条々・弘長新制)”の内容

この“関東新制条々”は鎌倉時代に幕府が出した“新制”の中でも最大の規模のものとされるが、内容的には他の新制と比べてさ程、特徴のあるものとは言えない。朝廷に対する幕府の一層の優位性と朝幕関係が新しい段階を迎えた事を得宗・北条時頼が天下に告げようとする意図があったとされる。

関東新制の事書(関東新制条々・弘長新制)の内容は省略するが、北条泰時の貞永式目(1232年8月)が51ケ条だったのに対して61ケ条となっている。対象は幕閣の諸奉行人、一般御家人そして御所の女房の3種であった。

夫々の職務の精励、特に質素倹約を強調し、奢侈を禁じている。北条時頼が一貫して行った“撫民政策”を軸とした法令内容と言える。この法令が禁止した事柄の具体例を紹介して置こう。

・杉材で無く檜材を用いる事
・障子の縁を紫にする事
・刀剣や甲冑に金銀を用いる事
・馬具に虎・豹の皮を用いる事
・狩衣に紋を付ける事
・衣裳に裏地を付ける事
・御家人以外が鎌倉中で乗馬する事
・押し買い、迎え買いの事(強引な買い取等)

25:後継者北条時宗の為の環境作り

25-(1):嫡男・北条時宗の結婚

“関東新制ノ事書”を発令した直後の弘長元年(1261年)4月23日、時宗に重臣・安達泰盛の21歳年下の妹・堀内殿(後の覚山尼:生1252年没1306年)を娶らせている。時に時宗10歳、堀内殿は満9歳であった。この結婚に拠って得宗家と安達氏との結び付きはより強いものとなった。

25-(2):10歳の時宗は難技とされる“小笠懸”を第6代将軍・宗尊親王夫妻の眼前で成功させ、北条時頼は鼻高々で後継者宣言をする・・1261年4月25日

弘長元年(1261年)4月25日と言うから、北条時宗が結婚した僅か2日後の事である。第6代将軍・宗尊親王・夫妻の前で御家人達に拠る“遠笠懸”が披露された。“笠懸(かさがけ)”とは疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)で射る伝統的な“騎射”である。平安時代から盛んと成り、鎌倉時代には最盛期を迎えたとされる実践的な騎射競技であった。

今日でも神社などの儀式として見られる“流鏑馬(やぶさめ)”そして“犬追物(いぬおうもの)”と共に“騎射三物”と称され、盛んであった。

“犬追物“は40間(72メートル)四方の馬場を用意し、そこで1組12名の騎手が3組合計36人の騎手が馬場に放たれた150匹の犬を所定の時間内に何匹鏑矢で射る事が出来るかを競う競技である。

江戸時代の“生類憐みの令”による中断期間もあったが島津氏、小笠原氏、そして細川氏などでは明治維新後も受け継がれたと伝わる。広大なスペース、大勢の競技者が必要な事、等で費用が嵩む事に加えて、昨今では“動物愛護”の面からも作法の伝承だけはされているが、実演は極めて難しい状況となっている伝統競技である。

当時僅か10歳の北条時宗が将軍・宗尊親王夫妻の前で披露した“小笠懸”は上記した“笠懸”の的の大きさが直径1尺8寸(55センチ)の円形の的であったのに対して僅か4寸(13センチ)四方の板が的という、極めて騎射としては難度の高いものであった。

この機会を捉えて北条時頼が将軍・宗尊親王に対して“小笠懸の名手、今、鎌倉に無しと聞く。されど我が嫡男・太郎時宗、もっとも得意なり。されば今、呼び出して披露せしめん“とブチ上げたのである。呼び出された10歳の時宗は、いとも無造作に“小笠懸”の的板に鏑矢を命中させ、何事も無かったかのように将軍に挨拶もせずにそのまま鎌倉に馳せ去ったと記録に書かれている。

後継者・時宗が武芸の面でも得宗家の家督に相応しい資質を備えている事を将軍・宗尊親王はじめ、衆人の前で示そうとしたのであろうが、北条時頼の親馬鹿振りが際立ったとする評もある。吾妻鏡には“諸人歓声、動揺しばし止まず、将軍(宗尊親王)御感再三に及ぶ“と書かれ、更に大喜びの時頼の言葉として、”禅室(時頼)、吾が家を受け継ぐべきの器量に相当す・・“と得意満面で語った事が記されている。

25-(3):北条時宗を既に後継者として扱っていた事を示す“文書”の流れ

この前後の記録を見ると嫡子・北条時宗は執権でも連署でも無い小侍所別当(1260年2月に満9歳で金沢実時と共に就任した)の立場に過ぎなかったが、既に将軍への上申書に金沢実時と連名で署名している。

又、弘長3年(1263年)9月の文書からは、執権職(当時は北条長時)並びに連署(当時は北条政村)の両名が政所の“上首別当”の立場であった12歳の北条時宗宛に出した文書だという事も分かる。これらの文書からも、既に次期幕府リーダーとして得宗・北条時頼は北条時宗に“帝王教育”を与え、周囲もそれに準じた扱いをしていた事が分る。

別の見方をすると、得宗・北条時頼が死去する2カ月前のこうした文書の状況からも、幕府の公的な序列であった執権~連署を頂点とする体制が崩れ始め、得宗家の家督(北条時宗の立場)が権力の頂点となりつつあった事が分る。

次期幕府リーダーに決まっていた得宗家・家督の北条時宗を北条政村・金沢実時、そして安達泰盛等が支える体制を北条時頼は最晩年の仕事として整えていたのである。

26:北条時頼の死・・弘長3年(1263年)11月22日・36歳

弘長3年(1263年)8月、時頼は病床に伏した。今回は病状が回復する事は無く、9月そして10月と病状は悪化して行った。回復の為の祈祷等が行われたが11月19日には危篤状態に陥った。20日に最明寺北亭に移り、11月22日に36年の人生を閉じたのである。

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