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2014年4月17日木曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代の始まりと院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
第6項 第三段階その②・・北条時宗の“得宗独裁(専制)政治体制”と“元寇”


1:北条時宗の執権就任直前の政情と第8代執権への就任(文永5年=1268年3月)

1246年~1256年の間に第5代執権を務め、病気から奇跡の生還を果たした後に“得宗・北条時頼”として尚も鎌倉幕府の最高権力の座に在った北条時頼は嫡子・北条時宗を後継者に決め、彼が成人した後の政治環境の事前整備を徹底して行った後、1263年に36歳の若さで没した。

翌1264年8月には得宗・北条時頼の蔭の存在に過ぎなかった第6代執権職・赤橋(北条)長時も34歳で没した。

この時点で北条時宗はまだ13歳であったから執権職に就くには早過ぎた。そこで第7代執権には北条泰時の異母弟に当る大叔父で59歳の北条政村(生1205年没1273年・執権在職1264年~1268年)が繋ぎとして就き、14歳の時宗を連署に就け“執権見習い”の立場に置いた。

世界帝国を目指す隣国“蒙古帝国”のフビライ・ハーン(以下フビライ)は4年前の1260年に第5代皇帝に就いており、着々と周辺国への侵攻を進め、後に“黄金の国ジパング”に服属を迫り、生涯を通じて“日本侵攻”に執念を燃やす事になる。

フビライから服属を迫る国書が高麗の使節団によって大宰府の鎮西奉行・少弐資能(しょうにすけよし)に届けられ、以後、日本中がその対応に追われる事になるのは4年後の文永5年(1268年)1月の事である。

文永3年(1266年)3月に幕府は時頼時代の1249年に御家人の“領地訴訟裁判”の迅速化と公正を諮る為に評定衆の下に設置した“引付衆”を一度廃止している。(1269年、蒙古来襲への体制強化の為、定員3人を5人に増員して再開する)この意図も“評定衆”が直接“諸人訴論”の沙汰を行う事に拠って極力、北条時宗に政治権力を集約させる事にあった。

当時の“関東評定伝”には“重事は直に聴断し、細事は問注所に付せらる”と記されている。誰が“重事を直に聴断”するのか、に付いてこの文書には明確に書かれていないが、4カ月後に解任される第6代将軍・宗尊親王である筈は無い。明らかに当時16歳になっていた“連署・北条時宗”を指したものである。これ等、全ての措置が、次期執権たる“北条時宗”に権力を集約させる為のものであった。

文永3年(1266年)6月20日、北条時宗の館に第7代執権・北条政村、金沢文庫創設で有名な金沢(北条)実時、時宗の妻の兄・安達泰盛が集まって“深秘御沙汰(しんぴのごさた=後の寄合)”が持たれた。結果、7月4日に14年間在位した第6代将軍・宗尊親王が解任され、京に戻った。そして第7代将軍に宗尊親王の皇子で僅か3歳の“惟康親王”が就いたのである。

この電撃的将軍交代は前項で述べた様に、北条時頼時代から将軍・宗尊親王は得宗家に抵抗していた事から、執権・北条政村としては、来るべき北条時宗への権力集中の為にも、将軍・宗尊親王の追放という荒療治が必要と考えていたからである。

1266年7月の将軍・宗尊親王の解任は事実上の将軍権力の消滅の第一段階であった。史実でも宗尊親王将軍以降、鎌倉将軍が政治権力を行使する事は無い。かくして鎌倉幕府の政治権力は北条時宗に集中し“得宗独裁(専制)政治体制”と称される路線が確定して行くのである。

結果的にこの体制は“元寇”という日本の国家的危機対応にとって効を奏する。上記した様に文永5年(1268年)正月早々、フビライの国書を携えた高麗の使者“潘阜(はんぷ)”が大宰府に到来、以後、実に26年間に亘って、日本は隣の大国“元帝国(以下元)”から和戦両様で服属を迫られる事態になるのである。

未曽有の国難を予期した執権・北条政村は北条時宗への権力の一元化を進める一方で、バトンタッチのタイミングだと判断し“国書”到来直後の1268年3月に17歳だった北条時宗(生1251年没1284年)を第8代執権職(在職1268年~1284年)に就け、自らは再び連署として補佐する体制をとったのである。これによって北条政村としては、北条時頼との長年の約束を果たし、肩の荷を下ろすと共に、未曽有の国難に向って若い北条時宗を補佐して行くのである。

2:二月騒動で潜在的敵対勢力を一掃する・・文永9年(1272年)2月11日

先ず“鎌倉”で一番引付け頭人の職にあった“名越時章(生1215年没1272年)”と、弟で、評定衆の職にあった“名越教時(生1235年没1272年)”が武装部隊に襲われ、討死する。この“名越教時”も“宮騒動”で北条時頼に抵抗して配流された兄“名越光時”同様、得宗家に対する反抗心が非常に強い人物だった。

第6代将軍・宗尊親王が解任され、京に帰る時に北条時宗の制止を無視して軍兵数十騎を率いて示威行為に出たという経緯を持つ彼であったが、結局、北条時宗に拠って討たれるという運命を辿ったのである。

この事件で、兄の名越時章も同時に討たれたが、彼は穏健派で得宗家との協調を望んでいた人物であった。討たれた後に無実が判明し、北条時宗は時章を討った5人の得宗被官を斬首に処すという後日談がある。更に4日後の1272年2月15日の早暁、今度は京で事件が起る。六波羅探題北方の赤橋義宗に拠って時宗の異母兄で、六波羅探題南方の北条時輔が襲われ、討死したのである。

この二つの事件を合わせて“二月騒動”と呼ぶ。この結果、22歳の北条時宗は潜在的敵対勢力を一掃し、幕府内での権力を固めたのである。

3:将軍固有の権力を奪い、幕府の政治権力を掌握した北条時宗

御家人の主人は“将軍”である。将軍だけが持ち、他者に譲る事の出来ない“御恩沙汰=将軍が御家人に御恩として所領を給与する権限)”並びに“官徒沙汰=将軍が御家人の官職を朝廷に推薦する権限)”をも北条時宗は掌握する。この結果、人事権を初めとする幕府の全政治権力が北条時宗個人に集中したのである。

将軍を戴き乍ら、実態では北条時宗が“将軍権力代行者”の地位を得、事実上執権職でありながら将軍権力を行使する体制が出来たのである。

4:得宗独裁(専制)政治体制を築いた北条時宗・・1272年2月

以上“二月騒動”から北条時宗が弘安7年(1284年)4月4日に病没する迄の12年間が真の意味での“得宗独裁(専制)政治体制“の時代である。

“北条時宗”個人に政治権力が集中し、決断を早く出来た事は、未曽有の国家危機“元寇”への対応にとって非常に“効率的”であった。

鎌倉時代を通した全政治体制の中で、北条時宗の時期は源頼朝と並ぶ鎌倉幕府の“独裁体制”であったと“鎌倉幕府の滅亡“の著者、細川重男氏は論じている。

しかし源頼朝期の独裁はそれを支える制度や機構は未成熟なものであり、頼朝個人のカリスマ性と力量に拠るものであった。これに対して北条時宗期の独裁は“評定衆や引付衆“という幕府の制度・機構の上に築かれた独裁体制であったという点で”安定性“が加わった、より大きな政治権力であったと言える。

5:北条時宗の“得宗独裁(専制)政治体制下”での“寄合”の機能

既述した様に“寄合”は北条時宗の伯父に当たる第4代執権北条経時が1246年3月に北条氏総領家(得宗家)の私的会議の形で身内の極く限られた人達を集め、後継者として北条時頼を第5代執権に選ぶ等、重要政務を決める際に持たれたのが最初であった。吾妻鏡の1246年3月23日条に“深秘の御沙汰”の名称で初見される。

その後、北条時頼は幕府の重要政務を議論し、決議する機関としてこの“深秘の御沙汰”形式の私的会議を継承した。後に“寄合”という正式機関名で呼ばれる事になるが、この段階では北条氏家督が主催する“私的会議・非制度的機関”だったのである。

北条時宗が執権職に就き、将軍権力を奪い、政治の全権を個人に集中し、“得宗独裁(専制)政治体制”を築くが、この“私的会議機関”はそうした体制を円滑に進める為の“個人的諮問機関”として大いに機能し、彼を支えたのである。

連署に戻った後見役の北条政村、金沢実時等の北条氏一門、時宗の妻の兄の安達泰盛、問注所の執事の太田康有、文士の佐藤業連、得宗家執事で御内人の平頼綱、諏訪盛経等、極く少数の幕府最有力メンバーで構成された。

“元寇”という未曽有の国家危機を迎えた時期に、鎌倉幕府が北条時宗に拠る“得宗独裁(専制)政治体制下”にあった事は,挙国一致体制で対応しなければならなかった局面にあった日本としては非常にタイミングも良く、幸運であったと言えよう。

6:北条時宗の“得宗独裁(専制)政治体制”の総括・・軍事的には奏功したが、内政上発生した矛盾に対応出来ず

鎌倉幕府の統治の仕組みは御家人との間に“御恩と奉公”それに対して“所領安堵”を与えるという“絆”で結ばれる事が基盤であった。

鎌倉時代も時を経て、政治が落ち着き、大規模な戦乱が無くなると、御家人への新たな“所領再配分”の機会が無くなる。この事は鎌倉幕府の基盤である“幕府と御家人間の所領安堵による絆”を維持、発展させる機会が無くなり、幕府と御家人との関係が希薄になる事を意味した。

御家人自身も惣領・庶子への分割相続によって自己増殖を繰り返して来たが、新しく所領を得る機会が少なくなる事で惣領だけに所領を継承させるという“単独相続”が多くなった。その結果、所領を得られない、庶子を中心とする御家人階層の没落が始まって行ったのである。

又、本所(荘園領主)も所領が増えない為、荘園管理を強める様になる。その結果、本所領主と荘園支配の実務を行って来た“荘官”兼“在地領主”との間に所領紛争が持ち上がり、それが先鋭化して行くという変化が起きて来た。

この様に御家人層内部の経済上の状況変化、そして荘園支配の内部に生じた状況変化が所領紛争を生み、結果“悪党”と呼ばれる階層が発生する。こうした状況は北条時頼の時代から少しずつ強まって行ったのである。

日本史上、“悪党”の内容は時代に拠って異なるが、この時期は所領紛争に関わるものを指し、内政問題として、北条時宗も悪党問題には頭を悩ませていた。彼らは荘園に外部から侵入、侵略して所領紛争を起こした。荒らされる側の荘園領主(本所)から見てそうした輩を“悪党”と呼んだ。

武家領地に対して公家領・寺社領に当たる荘園所領を“本所一円地”と呼ぶが、この“本所一円地”を巡って“地頭層”が所領紛争を起こす場合もあった。これは“地頭”が悪党となったケースであり、そうした地頭は地頭職を没収された。こうした“悪党問題は、畿内、近国から、次第に全国に広がって行った。所領問題は鎌倉幕府の根幹に関わる問題であった丈に“鎮圧令”を出して、強く取り締まったのである。

こうした社会背景下で“元寇”が起き、その対応として北条時宗の鎌倉幕府は“本所一円地住人”すなわち“非御家人”に対しても軍事動員を掛ける権限を朝廷から得る。鎌倉幕府の支配の外にあった“非御家人”に支配を及ぼす事になるのである。

この措置は“元寇”という未曽有の国難に対し、防御体制作りを急ぐ為の緊急対応であったが、それ丈に“なし崩し”に決断され、実施された面があり、鎌倉幕府の基盤である領地問題に不安定さを生んだ。其ればかりか、幕府が後に“非御家人層”も含めた“恩賞問題”に苦しむという大きな副作用を齎す事になる。

ともあれ、こうした強権発動が可能であったのは、北条時宗が“得宗独裁(専制)政治体制”を築き、“挙国一致体制”がとれたからである。軍事的には2度に及んだ“元寇”に勝利する事が出来た大きな要因であった事は確かである。

しかし、命を賭して2度に亘る“元寇”を退けた北条時宗が没した後も、尚“元“の日本への武力侵攻の姿勢は続いた。“第3次元寇“の構えに対して鎌倉幕府は尚も苦しい対応継続を余儀なくされたのである。

北条時宗の余りにも強硬な“撃退あるのみ”の政策が“フビライ”の誇りを傷付けた面もあろう。その結果、鎌倉幕府の“異国警固体制”は恒常化し、幕府と御家人とを疲弊させた。その間“御恩と奉公“そして“所領安堵”という鎌倉幕府のベースである“絆”の関係は崩壊へと進み、結果、鎌倉幕府は衰退し、滅亡するのである。

7:当時の朝廷の状況・・後嵯峨上皇が天皇家継承問題の大混乱の切っ掛けを作る
(両統迭立へ)

第8代執権に北条時宗が就いたのは上述した文永5年(1268年)3月で、1月に高麗の使者が大宰府に到着し、モンゴル帝国への服属を迫る国書が鎌倉に送られ、国中がパニック状態に陥入り、以後、緊迫した“元寇対応”の時代へと突入する。

こうした最中、天皇家では第3代執権・北条泰時が強く介入して実現させた第88代後嵯峨天皇(即位1242年譲位1246年崩御1272年2月)が上皇として院政を敷く一方で、皇位継承問題を大混乱させる動きを重ねたのである。

後嵯峨天皇は1246年に第89代後深草天皇(即位1246年譲位1260年)に譲位し、院制を敷いていたが恒仁親王を寵愛し、無理矢理に未だ17歳だった後深草天皇を譲位させ、10歳だった第90代亀山天皇(即位1259年譲位1274年)を誕生させたのである。話が両統迭立問題に迄こじれるのは、後嵯峨上皇が更に亀山天皇の皇子を皇太子に立てた事である。

しかもこの事が後深草上皇の頭越しに行われたのである。この皇太子は後の第91代後宇多天皇(即位1274年譲位1287年)となる。こうした動きに怒った後深草上皇の皇統が以後“持明院統”として亀山上皇の皇統“大覚寺統”と皇位継承問題で激しく対立する事になるが、その切っ掛けを作ったのが後嵯峨上皇であった。

鎌倉幕府が仲介して両方の皇統から交互に天皇を立てるという“両統迭立”の時代に入り、後の南北朝時代、後南朝時代へと続く200年に及ぶ“天皇家の大混乱の時代”へ突入する事になるが、その端緒に北条時宗も関与している。

南北朝時代の中頃に成立したとされ、後鳥羽天皇から後醍醐天皇迄の事跡を書いた“増鏡”には1275年に北条時宗が後深草上皇の皇子・熈仁親王を後宇多天皇の皇太子に指名し、これによって“持明院統”から第92代伏見天皇(即位1287年譲位1298年)が誕生する事になる。両統迭立が実現したのである。両統迭立問題については次項以降で記述する。

8:元帝国と高麗

8-(1):モンゴル帝国の建国

テムジン(生1167年没1227年)がモンゴリアの遊牧民を統一、即位してモンゴル帝国の初代皇帝“ジンギス・ハーン(太祖)”を名乗ったのは1206年である。

この頃の鎌倉幕府は第2代将軍源頼家が1204年に伊豆の修禅寺で暗殺され、第3代源実朝が将軍に就き、政子と北条義時が北条時政を”牧氏の乱“後に失脚させ、北条義時が第2代執権に就くと言う鎌倉幕府創世期の真に不安定な時期であった。

ジンギス・ハーンはその後、西夏(ウイグル族1227年)を滅ぼし、更に東征を続ける途中、六盤山で没した。息子のオゴタイ(太宗:即位1229年~1241年)が後を継ぎ、金(女真族)攻略の為に南進する。その側面作戦が“高麗”への進攻であった。オゴタイは1234年に金を滅ぼし、翌1235年に首都・カラコルムを建設している。

オゴタイの後の第3代皇帝には息子のグユウ(定宗:1246年~1248年)が継いだが、短期で終り、第4代皇帝にはメンゲ(モンケ:憲宗1251年~1259年)が就く。彼の代に高麗の領土の一部の和州以北を領土とし、雙城総管府を置いている。

モンゴル帝国の次のターゲットは“南宋”の攻略であった。この間、メンゲ(モンケ)が1259年に戦死し、1260年、フビライ(世祖)が第5代ハーン(皇帝)に就いたのである。

フビライは首都・上都(開平)で即位した。彼の時代(1260年~1294年)34年間に2回の“元寇”が起こった。後述する様にフビライは没する迄、日本侵攻を諦めなかったのである。

モンゴル語で国を“ウルス”と言う。土地や領域よりは“人間集団”にウエイトを置き、人間集団が移動すると“国”も移動するという事から“モンゴル帝国は可動性に富み、融通無碍(ゆうずうむげ)な国であった”とされる。杉山正明氏はその著“大モンゴルの時代”で機動的で精強な騎馬軍団を持っていた事が、瞬く間にユーラシア大陸を席巻する事に繋がったと述べている。

8-(2):高麗の歴史とモンゴルとの関係

ジンギス・ハーンを継いだ第2代オゴタイ・ハーンの時代(太宗1229年~1241年)に始まった“金(1115年~1234年)”征服の為の側面作戦が“高麗侵攻”であった。“金”を1234年に滅ぼし、第3代皇帝クユク(1246年~1248年)、そして第4代皇帝メンゲ・ハーン(1251年~1259年)の時代になると、次に“南宋”への侵攻を始める。その側面作戦として矢張り“高麗”への侵攻が必要だったのである。

そして1259年、高麗は終にモンゴル帝国に服属する。高麗が1274年の“第一次元寇”の時から“元”と連合して日本を襲撃する事になるのは、南宋攻略の片棒担ぎを高麗が担わされたという歴史的背景があったからである。

しかし高麗にも“モンゴル帝国”の支配に激しく抵抗した歴史があった。以下に高麗の歴史を簡単に記述する。

8-(3):4度の服属の歴史を持つ“高麗”

高麗は918年に“王建”が新羅の“弓裔”を倒して建国し、935年には新羅が完全に滅び、高麗が936年に朝鮮半島を統一した。その後の高麗は王位継承の内紛もあったが960年に首都を開京(開城)に移している。中国で“元”が1368年に興った“明”によって1391年に倒される。その翌年の1392年に武将“李成桂”が高麗国王を廃し“朝鮮(李王朝)”を興す事によって470年の歴史を閉じたのである。

高麗の歴史は服属の歴史でもあった。モンゴル帝国を含めて4度の服属を経験している。1度目は963年に“宋”に服属した。日本では“天暦の治”で有名な第62代村上天皇(即位946年崩御967年)の時代である。2度目は北アジアに興った契丹人の“遼”に敗れ、994年に服属している。3度目は“遼”が1114年に女真人の“金”との戦いに敗れ、1126年に“金(1115年~1234年)”への服属を余儀なくされている。

尚、中国では“宋(北宋)”が1126年に“金”に滅ぼされた翌年、それを復興する形で“南宋(1127年~1279年)”が興っている。そうした状況下で、高麗の4度目の服属が既述した“モンゴル帝国”第4代皇帝、メンゲの時代に起きた。1259年に“雙城総管府”が置かれ“元”に服属したのである。

以上が“高麗”の4度に亘る“服属の歴史”である。

8-(4):モンゴル帝国への高麗の抵抗・・高麗の武臣政権時代と三別抄の乱(1270年~1273年)

高麗でも日本で平清盛に拠る武家政権が登場した時期(治承3年のクーデター:1179年)とほゞ同じ時期の1170年と1173年に“武臣大将軍鄭仲夫”がクーデター(庚寅の乱)を起こし、武臣が実権を掌握した。

幾度かの政変を経て1196年には崔忠献(さいちゅうけん)が“武臣政権(1196年~1258年)”を確立する。しかし、彼の息子・崔瑀(さいう)の時代の1232年には“モンゴル帝国”の侵攻に抵抗して、拠点を開京(開城)から江華島に移すが、結果は抗し切れずに“崔立宜”時代、上述した1259年に4度目の“元”への服属となったのである。

その結果、崔政権は1259年に “金俊”等の手によって倒され、その金氏が1268年に“林衍”によって殺害されるという“武臣政権”に共通した“闘争と混乱”の時代を経たのである。武臣政権期の終りは1270年に“林惟茂(イム・ユム)”がモンゴル帝国の支援を受けた王室・文班の洪文系(ホンムンギエ)、宋松礼(ソン・ソンネ)等によって討たれた事で100年の幕を閉じたのである。

傀儡状態であった高麗王(元宗:1260年~1274年)は政権を奪い返し、同時に“元”に服属する途を選択する。そして武臣政権の根幹であった“三別抄”の解散を命じ、首都も“開京”に戻したのである。こうした動きに“三別抄”の残党が抵抗し、全国的な“抵抗運動“を開始したのが”三別抄の乱“であった。

“三別抄”とは高麗王朝の武臣政権期(自1171年至1270年)に反乱鎮圧の為に臨時に組織された軍であったが、反乱が続発した為に常備軍化した。“左別抄”、“右別抄”にモンゴルの捕虜から脱出した兵から成る“神義軍”を加えて“三別抄”と呼ばれる様になったのである。

モンゴル帝国への服属に甘んじる高麗国王(元宗)に抵抗し、足掛け4年に及ぶ内乱を起こしたのが“三別抄”の乱である。結果“三別抄”は討伐され、以後“高麗”は完全に“モンゴル帝国”の属国となる。この乱は“文永の役”の1年前に鎮圧されるが“文永の役”にも関係する事件であった。

“三別抄”は“裴仲孫(はいちゅうそん)”を棟梁として王族の“承化候温(しょうかこうおん)”を国王に立て、モンゴルに屈服した高麗王(元宗)の旧政府を否認し、自らの官符を立てて“正統な高麗王朝”として江華島を棄て“珍島”を根拠地として蜂起した。“三別抄”は大規模な宮城を造営したが、この宮城は現在“龍蔵山城”遺跡と呼ばれている。

しかし、足掛け4年に及ぶ内乱の間に“三別抄”内部に亀裂を生み、1271年4月をピークに高麗王軍との形勢が逆転する。珍島も陥落し、金通精(キム・トンジョン)率いる残党が済州島に下がって抗戦を続け、1272年3月迄は“反・モンゴル帝国、反・高麗王(元宗)”のゲリラ戦を展開したが1273年4月にモンゴル軍・漢軍(旧金朝の兵士)・高麗軍を合わせた1万余の総攻撃に拠って済州島も陥落した。

“金通精”は自害し、足掛け4年に及んだ“三別抄の反乱“は鎮圧され、ここに高麗国はモンゴル帝国の完全な属国となった。尚、この済州島の城跡は“抗蒙遺蹟地”の名で復元作業が行われている。

8-(5):フビライが国号を“大元”とする・・文永8年(1271年)

フビライは1271年に国号を“大元”に改め、首都を大都(現在の北京)に置いた。中国史に於ける“元王朝”の始まりであり、フビライは“大元の初代皇帝”となり、没する1294年迄、皇帝の地位にあった。

“元”は1368年に“朱元璋”が“明帝”を名乗り“元“を蒙古高原に退かせる迄の約100年間続く事になる。

9:フビライは何故日本に関心を抱いたのか

日本が“平清盛”の時代から“宋”との貿易を盛んに行っていた事をフビライは知っていた。その日宋貿易で日本は“金・真珠・硫黄・木材”を輸出し、宋から“銅銭・香・錦・紙・磁器・書籍”を輸入していた。

イタリアのヴェネツイア共和国の商人で旅行家の“マルコポーロ(生1254年没1324年)の作とされる”東方見聞録“が完成したのは1298年の事である。東方見聞録の内容については後述するが、著者も実はマルコ・ポーロがヴェネツイア共和国とジェネバとの戦いで捕虜となった時に、獄中で知り合った著述家・ルステイケロ・ダ・ピサ(以下ピサ)である。彼にマルコポーロがフビライの命令で中国各地を旅行し、見聞きした事、体験した事を話した事をベースにして”ピサ“が書物にしたのである。

フビライは1265年に初めてとなる日本への使節を派遣している。フビライがマルコポーロに会い、登用したのは1271年以降の事であるから、この日本への使節派遣にマルコポーロの話が影響を与えたという説は誤りである。いわんや1298年に完成した“東方見聞録”を読み“黄金の国ジパング”に興味を抱いた、と言う説は誤りである。フビライは“東方見聞録“が完成する4年前の1294年2月18日に没しているのである。

ただ“南宋”の遺臣・鄭思肖(生1241年没1318年)がフビライは日本の豊かさを聞き、通交の使節を派遣した“と述べた記録が残っている事から、日本の富に関心を持っていた可能性はある。

10:フビライの皇帝在位中(1260年~1294年)10度を超す服属を迫る使節・国書を“黙殺”し通した北条時宗

10-(1):日本への初めての使節派遣を決定したフビライ・・1265年

そもそもフビライに日本に服属を迫る使節の派遣を進言したのは日本の状況に詳しい“高麗人”でモンゴル帝国の官吏であった。彼は“日本は漢・唐の時代から中国と通じていた国だ”と日本との通交を進言し、フビライはこの進言を受け入れ、使節派遣(正使:黒的、副使:殷弘)を決定し、1266年付けの日本国宛の国書“大蒙古國皇帝奉書”を作成した。使節団は高麗を経由して高麗人を案内人として日本に渡る予定であった。

しかし、モンゴル帝国から日本侵攻の軍事費を負担させられる事を避けたい“高麗”は、使節団に航海の危険、日本侵攻の不易を説き、使節団を諦めさせる事に成功したと“高麗史“に書かれている。

使節団が目的を果たさずに戻った事にフビライは激怒し、今度は高麗が責任を持って、日本へ使節を派遣する様命じ、日本側から返答を持ち帰る事を高麗国王(元宗)に約束させた。その結果、高麗国王(元宗)側近の“起居舎人”と“潘阜(ハンプ)”を中心とした使節が日本に派遣されたのである。

日本への使節団としては2度目となるが、一行は文永5年(1268年)正月に“大蒙古國皇帝奉書”を携えて大宰府に到着した。

この使節団に対応したのは大宰府鎮西奉行の少弐資能(生1198年没1281年)である。彼は使節団が差し出した①大蒙古國皇帝奉書②高麗国王書状③使節団代表“潘阜”の添え状の計3通を鎌倉幕府へ送達した。

この時の鎌倉幕府の状況は2年前の1266年に第6代将軍宗尊親王が解任され、第7代将軍に維康王が就き、執権職には時宗への中継ぎ役の北条政村(63歳)、連署に“北条時宗(17歳)”が執権見習いとして就いていた。

朝廷は後嵯峨上皇(第88代天皇:即位1242年譲位1246年)が院制を敷き、1268年には出家して法皇となり、大覚寺に移っていた。寵愛し、強引に即位させた第90代亀山天皇(即位1259年譲位1274年)は18歳になっていた。

持ち込まれた“大蒙古國皇帝奉書”の内容に鎌倉幕府、朝廷は大騒ぎとなった。その結果、執権北条政村はこの事態に鎌倉幕府を挙げて対応すべく2か月後の1268年3月に未だ17歳の“北条時宗”を第8代執権職に就けたのである。

既述した様に当時の外交は朝廷が担当していた。鎌倉幕府には全くノウハウが無かったからである。具体的には関東申次職・西園寺実氏がこの件の窓口として“後嵯峨上皇”に“異国の事”として奏上している。朝廷も服属を強く迫るフビライからの国書の内容に驚愕し、対応を巡って評定が連日続けられた事が“深心院関白記・岡谷関白記・後知足院関白記”などに記録されている。

10-(2):大蒙古國皇帝奉書(蒙古國牒状)の内容

“大蒙古國皇帝は書を日本国王に奉ず。朕(フビライ)が思うに、古より小国の君主は国境が相接していれば、通信し、親睦を修めるよう努めるものである(略)我が威を畏れ徳に懐く者はその数を知らぬ程である。当初、高麗の罪無き民が戦争に疲れたので命を発し、出兵を止めさせ、高麗の領土を還し、老人や子供をその地に帰らせた。高麗の君臣は感謝し敬い来朝した。

(略)日本は高麗にごく近い。又、開国以来、時には中国とも通交している。だが朕の代に至って未だ一度も誼(よしみ)を通じようという使者が無い。思うに王国(日本)はこの事を未だ良く知らないのではないか。故に特使を遣わして国書を持参させ、朕の志を布告させる。

願わくはこれ以降、通交を通して誼を結び、以て互いに親睦を深めたい。聖人(皇帝)は四海(天下)をもって家となすものである。互いに誼を通じないというのは一家の理と言えるだろうか。兵を用いる事は誰が好もうか。王はその点を考慮されよ。不宣。”

10-(3):当時の日本側の解釈と対応の決定・・“黙殺”

この“大蒙古國皇帝奉書(蒙古國牒状)”についての日本側の内容解釈については諸説がある。

例えば末尾の“不宣”は友人に対して用いる語である事から“モンゴル帝国”の皇帝が他国の君主に与えた文書としては例外的に鄭重なものだと解釈する説もある。しかし、その後の史実展開との整合性から、一般的には“強圧的”な内容であるとの解釈が妥当とされる。

文中の“小国”とは明らかに“日本”を指す言葉であり、又、文の形式からして間接的に日本国王に臣下となる事を要求する内容だと解釈したものと思われる。日本が要求を受け入れない場合については最後の文章にある様に“武力を用いる”事を仄めかし、恫喝している。歴代の中国王朝からの国書内容と比較した鎌倉幕府は、フビライの国書は“格段に無礼な内容”だとの結論に到ったものと考えられている。

大宰府の鎮西西方奉行・少弐資能は鎌倉幕府からの返答が来る迄、使節の“潘阜”等を留めて置いた。幕府からの返答は“黙殺”であった。末尾の恫喝にも似た表現に幕府が態度を硬化させた事が“黙殺”を決めた最大の理由とされる。

この国書到着の直後に“北条時宗”は執権に就いた。北条時宗はこうしたモンゴル帝国の姿勢に対して“撃退”の二文字に徹し、臨戦態勢を整えるという対応を早々と決めたのである。約5カ月の間、大宰府で待機させられた使節団は空しく引き揚げて行った。

10-(4):フビライは3度目の使節を派遣する。この使節も目的を果たせず、対馬から島民二人を拉致して帰還する・・文永6年(1269年)2月

フビライは再び“正使・黒的、副使・殷弘”等から成る使節団を派遣した。高麗人“起居舎人”と潘阜を案内人とする総勢75人の使節団が対馬に上陸した事が“高麗史”並びに北条(金沢)氏の菩提寺に伝来する“称名寺文書”にも残っている。

更に“元史”には対馬に上陸した使節団が日本側から拒まれ、そこから先に進めず、争いと成り、対馬の島人“塔二郎”と“弥二郎”二人を捕えて帰還した事が記されている。

“高麗史”にはフビライは使節団が“塔二郎”と“弥二郎”を連れ帰った事を喜び“汝の国は中国に朝貢し、来朝しなくなってから久しい。今、朕は汝の国の来朝を欲している。汝に脅かし迫る積りは無い。ただ名を後世に残さんと欲しているのだ”と二人に伝え、フビライの宮殿を観覧させた上で感激した二人に多くの宝物を下賜したと書かれている。

10-(5):4度目の使節派遣・・文永6年(1269年)9月

捕えた“塔二郎”と“弥二郎”を護送する名目で使者として高麗人の“金有成(キムウソン)”“高柔(コユ)”らの使節が大宰府の守護所に到来した。使者はモンゴル帝国の中央機関・中書省からの国書と高麗国書を携えていた。これはフビライが“皇帝からの国書よりも下部機関・中書省からの国書の方が日本側が返答し易いのではないか”と判断したものと伝えられるが、内容は之までと同様”服属“を迫るものであった。

10-(5)-①:朝廷側は“中書省への返答案”を作るが、幕府は却下、飽くまでも“黙殺”の姿勢を固持する

外交は“朝廷”の役割であったから、先ず“中書省の国書”に対する“院評定”が行われた。結論は“モンゴル帝国”からの服属要求を拒否する事と、今回は返書を出す事が“院評定”としての結論であった。返書の概要は下記である。(鎌倉遺文古文書編)

“事情を案ずるに、蒙古の号は今まで聞いた事が無い(略)そもそも貴国は且つて我が国と人物の往来は無かった。本朝(日本)は貴国に対して、何ら好悪の情は無い。ところが由緒を顧みずに我が国に凶器を用いようとしている。(略)故に天皇の国土を昔から神国と号するのである。知をもって競えるものでなく、力をもって争う事も出来ない唯一無二の存在である。よく考えよ”

又、この際、高麗王(元宗)に対しては“塔二郎”と“弥二郎”の送還に対する慰労と感謝の返書案も用意した事が上記“鎌倉遺文古文書”に記録されている。

しかし、鎌倉幕府は後嵯峨法皇の“院制”をコントロール下に置いていたから“院評定”の結論を取り上げず、幕府側の評定結果である“返牒遣わさるべからずの旨”を優先し“黙殺”したのである。

10-(6):日本に共闘を呼び掛ける“三別抄”からの牒状に困惑した朝廷(東京大学史料編纂所)・・黙殺する鎌倉幕府

10-(6)-①:三別抄”からの牒状と“高麗国王(元宗)の啓”との内容比較

文永8年(1271年)に“三別抄”から日本に“共闘”を求める“牒状(訴えの文書)”が届く。これに対して後嵯峨院が評定を開き、1268年に届けられた最初の蒙古国書と共に添えられた“高麗国王(元宗)の啓”と比較して、疑問点や注目点を列挙したメモが東京大学史料編纂所に残っている。

既述した様に、当時、高麗はモンゴル帝国に服属し、手先と成っていた高麗国王(元宗)側と、そうした国王に徹底して抵抗した”三別抄“側とが分裂し、内乱状態にあった。しかしその事を日本側は全く知らなかったのである。

“高麗はモンゴル帝国の手先”という図式しか頭に無い当時の朝廷、鎌倉幕府にとって、高麗の“三別抄”からの牒状の内容が1268年に届けられた“高麗国王(元宗)の啓”の内容と“真逆”とも言える程に違う事に困惑した様子がこの東京大学史料編纂所に残る比較メモから分かる。

その要旨は下記の通りである。

*高麗牒状不審の条々*

①:以前の状(高麗国王(元宗)の啓)蒙古の徳を挙げ、今度の条(三別抄からの牒状)韋毳(いせい=なめし皮とむく毛)は遠慮無しと云々如何

(解説)1268年に受け取った“高麗国王(元宗)の啓“では蒙古の徳を称揚していたのと反対に三別抄からの牒状では遊牧民族を蔑んだ表現である。

②:以前の状、蒙古の徳に帰し君臣の礼を成すと云々、今の状、宅を江華に遷して四十年に近し、被髪左衽(ひはつさじん=髪を結わず、衣裳が左前の事)は聖賢の悪む(にくむ)所なり、仍て(よりて)又珍嶋に遷都する事

(解説)①と同じく“高麗国王(元宗)の啓”では蒙古の徳を称揚していたのに対し、三別抄からの牒状は蒙古の風俗を蔑んでいる。又、40年近く前に江華島に移り、今は珍島に遷都したと書いてある。“三別抄“の歴史的背景を全く知らなかった日本側には意味不明であったと思われる。

③:今度の状、端には“不従成戦之思也”、奥には“為蒙被使”云々。前後相違如何

(解説)今回届いた“三別抄”の牒状には“従わずに戦う”とあり、1268年の“高麗国王(元宗)の啓”には“蒙古に従う”と書いてあった。以前の文書と今回の文書との相違は何なのか。

④:漂風人護送の事・・平等・互恵関係を結ぶ提案
⑤:胡騎数万の兵を請うる事・・援軍要請
⑥:贄を奉る事・・兵糧要請
⑦:貴朝遣使問訊の事・・平等・互恵関係を結ぶ提案

(解説)モンゴルの強大な圧迫に直面し、抵抗と反撃を共通の課題としていた両民族(高麗と日本)が互いに協力して共闘しようとの提案事項である。

10-(6)-②:日本側の理解と処置

以上の様に、“三別抄”の牒状には自国の高麗国王(元宗)が“元”に服従する姿勢を批判し、抵抗して“蒙古帝国”の脅威に晒されている“両民族”が互いに協力し、共闘する事を提案し、助力を求め、平等で互恵の関係を結ぼうとの内容が書かれていた。

しかし、外交窓口であった朝廷でさえ、海外の情報ソースは限られていた当時である、上記、東京大学史料編纂所に残る比較メモに見る様に真逆とも言える二つの文書に日本側は困惑を深める一方であった。

当時の朝廷側の当事者であった吉田経長(生1239年没1309年)が残した日記“吉続記”がある。元寇に関する記述も見られる日記であるが、彼が残した朝廷の評定内容からは、当時の日本側が高麗側の状況把握も全く不充分で、1268年に受け取った“高麗国王(元宗)の啓”と今回の“三別抄の牒状”が、何故、別々に来たのか、何故、全く正反対とも言える“元帝国評”なのかに困惑した様子が読み取れる。

高麗国の内情、結果として内部分裂を来していた事情を知らない朝廷、鎌倉幕府が“三別抄の牒状”に只々困惑した事は寧ろ当然だったと言えよう。当時の日本側の情報源が“南宋”からの禅僧に偏っていた弊害があったとされる所以であるが、外交が“情報戦”である事は当時も今も変わらないという事であろう。

上述の吉田経長の日記の文永8年(1271年)9月4日条には“件の牒状の趣、蒙古兵日本に来り責むべし、又糶(売り出し米)を乞う、此の外救兵を乞うか、状に就き了見区分”・・とある。つまり“牒状”では“米や兵士の応援”を求めて来ているが、院評定の結果は“解釈が分かれた”としている。つまり“牒状の意味を充分理解する事が出来ず、いたずらに儒者達が漢文読解能力を競う場になった”という事がこの日記に書かれているのである。

こうした朝廷の困惑の報告を北条時宗、鎌倉幕府は受けたのであろうが“三別抄の牒状”を受けて北条時宗はじめ幕閣が之までと違った外交的対応を検討した気配は無い。そして結果的に1268年の“蒙古国書並びに高麗国王(元宗)の啓”への対応と同様、“黙殺”したのである。

以後も何度もモンゴル帝国(=元帝国)からの使節・国書が届く事になる。北条時宗という人物像は今日でもはっきりしないとされるが、兎に角“生真面目”で“一途”な性格であった様だ。彼の脳裏には終始“撃退”の二文字しか浮かばなかったとされる。今回の“三別抄からの牒状”に対する結論も困惑の有無に拘わらず“黙殺”を固持したのである。

“黙殺“の一方で、北条時宗は直ちに九州に所領を持つ御家人に“元”の日本への武力侵攻に備えるべく、九州地区への下向を命じ、防衛策を講ずる命を出している。

10-(7):5度目の使節到来・・最後通牒を含んだ国書を齎す

10-(7)-①:最後通牒を伝える5度目の使節到来にも幕府は“黙殺”を固持・・1271年9月19日

8-(4)と10-(6)で“モンゴル帝国”に従順に服属する高麗王(元宗)に抵抗して“三別抄”が内乱を起した状況、そして、援助・共闘を日本に求める“牒状”を持ち込んだが、日本側がその主旨、背景を充分に理解する事無く、黙殺した事を記述した。

その直後の1271年9月19日に“モンゴル帝国(大元と国号を変えるのはこの直後の12月である)“の使者として女真人の“趙良弼”等が服属を求める国書を携え、100人余りを引き連れて、博多湾の今津に上陸した。彼らは日本に居た“南宋人”や“三別抄”からの妨害を受けながらも“大宰府西守護所“に到着したが、ここで停められ、国書の写しだけを手渡したとある。(五大帝王物語)(元史)(高麗史)

今回の国書に“11月末の回答期限を過ぎた場合は武力行使も辞さない”と書かれていた事つまり最後通牒の意味が込められていた事が“吉続記=吉田経長日記”に記されている。

この最後通牒は単なる脅しでは無かった。フビライは高麗の金州に“忽林赤(クルムチ)・王国昌・洪茶丘”等の軍勢を終結させていた事が“高麗史”の記述から確認出来る。これ迄何度も日本側からの“黙殺”を許容して来た状況とは異なっていた。フビライはこれ迄、日本に対する基本政策“和戦両様”策の“和政策”を諦め“戦政策”つまり日本への“武力侵攻策”へと舵を切ったのである。

この国書の内容が“最後通牒”であり、今回も“黙殺”すれば“開戦必至“と解釈した朝廷は院評定の結果、前回”元“の中書省宛の返書として文書博士の菅原長成が作成した“太政官牒案・草案”に修正を加えた文書を“元”側に渡すべきだと進言した。(吉続記)しかし、鎌倉幕府の結論は尚も“黙殺”であった。

“北条時宗と蒙古襲来”の中で著者“村井章介”氏は“北条時宗を首班とする鎌倉幕府が二度まで朝廷の意向を遮って返牒を握り潰すと言う英断を下した根拠には、国際情勢に対する現実的な理解がどの程度あったのかが疑わしい“と述べている。

又、岡本顕實氏は彼の著“郷土歴史シリーズ・元寇”の中で当時の鎌倉幕府の対応を“国家危機意識の欠落“と指摘し、更に”この時の北条時宗といい、先の太平洋戦争の例といい、どうも軍人政治家というものは局地戦の勝利しか考えず、深慮遠謀に欠けるようだ“と評している。

言わば最後通牒である”5度目のモンゴル使節(実態は4度目)“に対して、鎌倉幕府並びに朝廷が、どの様な議論をした上で“黙殺”という結論を選択したのかについての詳細な史料は無い。

こうした外交態度にどの程度影響したかは分からないが、この時期、北条時宗を取り囲む国内事情は決して無風状態だった訳では無かった。

1272年2月に後嵯峨法皇が53歳で没し又、鎌倉では一番引付頭人だった名越時章と弟で評定衆だった名越教時が討たれ、ほゞ同時期に京で六波羅探題南方だった北条時輔が六波羅探題北方の赤橋(北条)義宗に討たれた“二月騒動“が起きている。

北条時宗が未だ“得宗独裁(専制)政治体制”を確立する直前の状態であり、朝廷は“両統迭立”の混乱期に入る直前の状況だったのである。

又、外交の経験が殆ど無かった北条時宗が当時依存した海外情報源は“元”の敵国“南宋”からの禅僧からのものである。その情報に偏っていた事が頑なと思える時宗の“対元”外交姿勢と無関係では無いとされる。

10-(7):6度目の使節も黙殺されたのにも拘わらず、フビライが武力侵攻を行わなかった背景・・1272年4月&12月

“高麗史”には1272年4月と12月に元使・趙良弼等が再度日本を訪れた事を記している。“元”と“鎌倉幕府“との結託を嫌う”三別抄“の抵抗は1273年4月まで続いた訳であるから、6度目の元使“趙良弼”等は“三別抄”の妨害を受けながらも来日したのである。しかし、彼らの努力の甲斐も無く、大宰府から日本の国都(京都)に入る事が出来ず、翌1273年に“元”に帰還した事が“高麗史”に書かれている。

途中で引き返し、日本に到着出来なかった使節団も含めると、フビライはこれ迄に6度に及ぶ使節を派遣した。それにも拘わらず日本側は一切応じなかった。既述した様に5度目の使節が伝えた“最後通牒”が黙殺された時点で“和”の外交姿勢では日本を服属させる事は出来ない、との結論に達し“武力侵攻”を決断したと考えられるフビライは既存の軍事力に加えて、高麗に戦艦300艘の建造を開始させ、武力侵攻の準備を加速させていたのである。(1274年1月~8月)

こうしたフビライに対し、元使・趙良弼は“日本は山地が多く、田畑の耕作に適さない。又、軍船が海を渡るには海風に定期性が無く、禍害が測定できない“として日本への武力侵攻を止める様進言している。この意見をフビライが受け入れ、1273年に決行予定であった“元寇”は先送りされた事が“元史”に記述されている。

そしてフビライはその軍事力を“南宋攻略”の最終段階の戦闘に用いて“樊城・襄陽“を占領したとある。

フビライが6年間にも及ぶ日本側の“黙殺”の態度にも拘わらず、日本への武力侵攻を先送りにした理由は、優先する課題を抱えていたからである。先ずは政権内の抗争を治める事、高麗の“三別抄”の反乱を鎮圧する事、そして何よりも最重要課題は“南宋”を陥落させる事であった。

11:“元“が政権内の政争を治め、高麗の内乱を鎮圧し、日本侵攻の準備を開始し、完了する

“元”では政権内の政争を終結させ、1270年から起こった高麗の”三別抄の乱”も元軍が耽羅(済州島)を1273年に攻め落とし、漸く鎮圧した。フビライの主目的である“南宋を孤立化させ、陥落させる”側面作戦としての“高麗完全服属化”がここに成り、後は“日本の服属化”を急ぐ事であった。

6年間に亘ってフビライは日本側の“黙殺”を許したが、愈々日本を武力に拠って服属させる事を本格化させる事になる。

11-(1):フビライの日本侵攻準備状況を時系列に記述する

1274年1月:“昭勇大将軍”並びに“洪茶丘”を高麗に派遣し、戦艦300艘の建造を命ずる。

1274年5月:元から日本侵攻の主力軍15,000人が高麗に到着

同  5月:フビライの娘を高麗国王(元宗)の息子、王世子(後の忠列王)に嫁がせ“元”と“高麗”の関係を強固にする

同  6月:高麗の戦艦300艘の建造完了、軍船大小合わせて計900艘を揃えて金州に回漕。使者を立てて“元”に報告(高麗史)

同  7月:高麗国王(元宗)死去

同  8月:王世子が第25代高麗国王(忠烈王)に即位する

同 8月6日:日本侵攻の総司令官・モンゴル人の“都元帥・忽敦(クドウン)”が高麗に着任(高麗史)

以上の様に日本への武力侵攻の準備は完了し“文永の役”は真に始まろうとしていた。

11-(2):日本側の対応状況

11-(2)-①:幕府から御家人への警護指示の状況

1268年1月にフビライからの国書が到着して以来、徹底して“黙殺”を通した鎌倉幕府は“元”から日本への武力進攻を想定していた。1268年3月に急遽、第8代執権に就いた北条時宗は直ちに防衛体制を敷く事を御家人に命じている。その状況を示す文書が残っている。

文永8年(1271年)9月13日付けの九州の御家人“小代右衛門尉子息等”宛に、相模守(北条時宗)と左京権大夫(北条政村)を差出人とした命令文で、下記の通りである。

原文:“蒙古人可襲来之由、有其聞之間、所差遺御家人等於鎮西也、早速自身下向肥後国所領、相伴守護人、且令致異国之防禦、且可鎮領内之悪党者、依仰執達如件“

要旨:蒙古人襲来すべきのよし、その聞こえあるの間、御家人等を鎮西に差し遣わすところなり。早速自身肥後の国の所領に下向し、守護人にあいともない、且つうは異国の防禦を致さしめ、且つうは領内の悪党を鎮むべし、てえり(者)。仰せに依って執達くだんのごとし。

解説:当時御家人は遠隔地に複数の所領を持っている事が多く、九州に所領があっても本人は不在という事が稀では無かった。この書状の小代氏の本領は武蔵国にあった。これでは“元軍”が九州を襲った時、御家人の義務である軍役を果たせない。この文書から幕府が御家人自身に九州の所領へ赴く事を命じた事が分る。

この文の最後の部分に書かれている“悪党”の鎮圧については既述した様に鎌倉幕府の基盤である“御恩と奉公そして所領安堵”という幕府と御家人との“絆”を崩壊させ兼ねない重要問題だった事を示している。

11-(2)-②:“異国警固番役“設置の開始

文永9年(1272年)正月に筑前・肥前両国に要害警護の為の特別態勢を執る事を命じる“関東御教書”を発している。これが“異国警固番役”設置の開始とされる。

先ずは鎮西奉行の“少弐資能”と“大友頼泰”の2名に“元軍”の襲来が予想される筑前と肥後の要害の警護と“博多津”の沿岸警固の番役の総指揮に当たらせている。この“異国警固番役”の制度は“文永の役”後も鎌倉幕府の末期迄、継続される事になる。

当時の御家人は本拠地以外の遠隔地にも所領を持つケースがあり、この“異国警固番役“の制度は東国の御家人達が九州に土着する切っ掛けとなった。

11-(2)-③:北条時宗は①異国警固番役制②大田文調進令の更なる強化➂本所一円地住人の動員令、を発する。挙国一致体制がとれた一方で、御家人達に過大な負担が課され、後に鎌倉幕府の大きな負担となる

一般の御家人が“異国警固番役制“をどの様に受け止めたかに付いては”延時文書“にその記事がある。大国“元”との戦闘を目前にして御家人達は悲愴とも言える心情だった事がこれらの記録から読み取れる。

1272年2月の“二月騒動”を乗り切った北条時宗は“得宗独裁(専制)政治体制“を確立し、強大な政治権力を掌握した。そして未曽有の国難”元“の武力侵攻に対して緊迫する御家人のみならず、非御家人をも動員して“防御体制の強化と整備”を強力に推し進めたのである。

先ずは“軍役賦課”のベースとなる御家人の“土地所有状況”の把握を行っている。文永9年(1272年)10月に、改めて“大田文(鎌倉時代を中心に国毎に作成された一国単位に各所領毎の名称、田数、領有関係を調査、記載した帳簿)“を作成し、提出する様、全国の”守護“に命じている。

“神社・仏寺・庄・公領”にも明確に提出を求め、従来は幕府の権限が及ばなかった“本所一円地(鎌倉将軍の荘園・公家領・寺社領)をも軍役賦課の対象としている事は、北条時宗が“将軍権力代行者”としての権力を掌握していた事を裏付けている。

文永10年(1273年)8月3日付で幕府は御家人に対して上記“大田文調進令“を更に徹底した法令を出している。この命を受け取った地頭・御家人は注進を怠ると所領没収の憂き目に遭いかねなかった。その為、自己の所領をありたけの証拠文書リストを添えて注進した記録が残っている。

1273年11月16日付で大宰府の少弐資能が守護職として、自分の統治域である豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬の御家人達にこの法を施行した記録が残っているが、これ程の徹底した土地調査は前例が無いとされる。

そして1274年11月1日付で、武家政治、始まって以来、画期的な“本所一円地住人の動員令”が発せられる。この意味は非常に大きい。鎌倉幕府は将軍と主従関係を結んでいない武士(これを非御家人と言う)に対しては指揮権は持っていなかった。非御家人は経済的関係としては“荘園領主”の支配下にあり、地頭職が設置されていない“本所一円地”の非御家人に対しては鎌倉幕府の法的権限が及ばないのが幕府創設以来の“朝幕関係”を律する大原則であった。

“本所一円地住人の動員令“はこの大原則を覆す画期的な法令であり、守護の軍事指揮の下に”本所一円住人“が置かれる事を意味したのである。

“文永の役”の詳細な戦況については後述するが、戦いは1274年10月3日~10月20日で終わっている。従って、この法令が出た1274年11月1日には“元軍”は撤退し、“第一次元寇”は終わっていた。従って実際に“本所一円地の住人”が戦闘に加わるという事は無かったのである。

しかし北条時宗は“元”の武力侵攻が再度起る事を想定し、この法令を撤回せず“本所一円地”への“軍役賦課”は以後も継続されたのである。

この事は鎌倉幕府の支配権の大幅な拡張を意味した。しかもこの動員令は北条時宗が朝廷(院)の勅許を得る事無しに発令された。“元軍”の襲来という“緊急事態”であったから“先例無視”も仕方が無かった、と割り引いたとしても、如何に北条時宗の“得宗独裁(専制)政治体制”が強大な政治権力を掌握していたかを裏付ける史実である。

同時にこの事は“元寇後”の鎌倉幕府に大きな負担となったのである。

文永5年(1268年)1月の“フビライの国書”到来で日本中が騒然となった状況は、600年後の1853年にペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航した状況に酷似しているのではなかろうか。

フビライから初めて齎された国書を“黙殺”する事から始まり、北条時宗を急遽執権に就け、以後、鎌倉幕府は北条時宗の没後も続いた期間を含め、30年以上に亘って“元”に対する“撃退あるのみ”の対応に終始する事になる。

その一方で国内では、文永5年(1268年)2月22日付で朝廷が京畿の神社を中心に、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂下上社を初め、22社に“敵国降伏”の祈祷を命じている。

“祈祷”は当時、日本特有の重要な“政治装置”だったのである。寺社にとって今回の祈祷は“元”に対する“戦闘行為”であった。鎌倉幕府の支配権が非御家人にまで拡大され、この事が後に“非御家人への恩賞”負担が幕府に加わった丈で無く、寺社への“恩賞”も鎌倉幕府の大きな負担として加わったのである。

文永8年(1271年)9月19日に“元”の使節“趙良弼”等が齎した文書には“無音たらば兵船を艤すべし“との表現が加わった事は既述した。鎌倉幕府が尚も黙殺を続ければ”兵船を差し向ける”という“最後通牒“の意であり、この国書以降”敵国降伏“の祈祷は益々盛んに行われる様になる。

文永8年(1271年)10月25日には後深草上皇が石清水八幡宮に行幸、更に12月には2度も伊勢大神宮に公卿の勅使を発遣している。鎌倉幕府も少し後の記録ではあるが“敵国降伏祈願”を寺社に命じた事が、正安2年(1300年)12月3日付の鎌倉幕府関東御教書“異国降伏祈願施行状”の形で残っている。

鎌倉幕府の滅亡については次項以降で記述するが、“元寇”という未曽有の国難に対する北条時宗の対応は、軍事的には“勝利”を齎した反面、外交成果としては鎌倉幕府に恩賞問題への負担と、御家人との“絆”の崩壊という大きなマイナスを齎した事になる。

12:“第1次元寇(文永の役)“に至った“元”と“鎌倉幕府”との接触経緯を総括する

フビライは“南宋攻略“の側面作戦として日本の”服属化政策“を“和戦両様“の構えで進めていた。しかし、北条時宗は徹底して”黙殺“という強硬策で応じた。これが“フビライ”に日本への“武力侵攻策”を決断させる事に繋がった事は繰り返し述べた。

以下に“第1次元寇(文永の役)”に至る“元”と“鎌倉幕府“との接触の経緯を時系列に総括して置く。

1261年(弘長元年)

モンゴル帝国が“南宋”に宣戦・・高麗と日本を陣営に入れ、南宋を孤立化させる戦略を固める


1266年11月28日(文永3年)

最初のモンゴル使者“黒的”が高麗の案内で日本に向けて出発。しかし1267年1月に巨済島から引き返し、目的果たせず。


1268年1月(文永5年)

2度目の使者として、高麗の潘阜(はんぷ)が大宰府に到来。フビライの国書を伝える・・幕府“黙殺”


1268年2月27日(文永5年)

鎌倉幕府は“蒙古襲来に備える命”を出す。3月、北条時宗が第8代執権に就任


1269年2月(文永6年)

3度目の使者として、モンゴルの“黒的”と高麗使者が対馬に来る。しかし、不慮のいさかいを起こして帰国。対馬から捨二郎と弥二郎を拉致・・日本側は武力行使の前触れとして緊張


1269年9月17日(文永6年)

4度目の使者として高麗の“金有成”が拉致した2名を日本に戻し、その際、中書省からの国書と高麗王の文書を携えて到来・・朝廷は中書省宛に“太政官議案”草案を作成したが幕府は返書不要とし、黙殺


1270年6月(文永7年)

高麗で“三別抄”の乱起こる


1271年9月(文永8年)

“三別抄”からの牒状が日本に届く・・背景を知らない朝廷は之までの国書との内容差に当惑。幕府はこの牒状に付いても“黙殺”


1271年9月19日(文永8年)

5度目の使者としてモンゴル帝国の“趙良弼(ちょうりょうひつ)”が大宰府に到来。内容に“度々牒状ありと雖も返牒無し。此の上は来る11月を以て期となすべし。尚、無音たらば兵船を艤すべし”・・亀山院は“返牒すべし”としたがこの最後通牒に対しても北条時宗は一貫して“黙殺”


1272年(文永9年)2月

“2月騒動”で政敵を一掃し、北条時宗が“得宗独裁(専制)政治体制”を確立


1272年(文永9年)4月・12月

6度目の使者として元使“趙良弼(ちょうりょうひつ)”が三別抄の妨害をかわして大宰府に到来するも追い返される


1273年(文永10年)4月

“三別抄の乱“が鎮圧され、高麗が完全に”元“に服属する


1274年(文永11年)10月

“第1次元寇”起こる・・10月3日~10月20日



13:“文永の役(第一次元寇)”・・1274年10月3日~10月20日(新暦11月26日)

“元寇”と呼ぶ事が定着したのは江戸時代以降であり、当時は“蒙古合戦”又は“異国合戦”と称した。以下では“元寇”の表現を用いる。“元・高麗連合軍”の総兵員数は30,000人程であり、高麗の合浦(がっぽ)を進発したのは、文永11年(1274年)10月3日であった。

13-(1):“元・高麗連合軍“と日本軍との戦力比較

元・高麗連合軍:総司令官・・忻都(きんと)(=忽敦(クドウン)同人物とされる)

副将・・・・劉復亨(りゅうふくこう)・洪茶丘(こうちゃきゅう)・金方慶(きんほうけい=高麗人)

兵員数・・・①蒙古人②金の女真人③漢人を合わせ 約20,000人
④高麗人              約10,000人
合計30,000人

軍備・・・・大型戦艦(千料舟)300隻、上陸用快速船艇(抜都櫓)・軽疾舟が300隻、そして補給用小舟(汲水小舟)300隻
合計900隻(高麗史)

日本軍    :総大将・・・少弐経資(しょうにつねすけ:49歳・太宰少弐・鎮西奉行)大友頼康(生1222年没1300年)52歳

参戦武将・・ 少弐景資(かげすけ29歳)・少弐資時(すけとき経資の子息12歳)・北条宗政(時宗の同母弟)・竹崎季長(29歳)等

兵員・・ ・・少弐氏、菊池氏、大友氏、九州御家人、幕府援軍
合計約10,000人

13-(2):“元・高麗連合軍”が対馬~壱岐~肥前沿岸に来襲・・10月14日~17日

13-(2)-①:対馬来襲・・10月14日

高麗の合浦(がっぽ=現在の大韓民国・馬山)を進発した30,000人の兵は900隻の船に分乗し、10月5日夕方には対馬の西海岸・佐須浦に姿を現した。その後、対馬の小茂田浜(こもだはま)を襲来した様子が“八幡愚童訓”に書かれている。

八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)は、鎌倉時代中期~後期に成立した石清水八幡宮とその別宮である筥崎宮(福岡市)が八幡神の霊験を“愚童”にも分かる様にと説いた本であり“元寇”の戦闘状況を迫真的に記述している事で有名である。

石清水八幡宮の社僧が書いたとされるが、作者は不明。神功皇后の“三韓征伐”並びに皇后の皇子で、八幡大菩薩とされる第15代応神天皇(即位270年退位310年)の事跡に始まり“文永の役”に於ける元軍の襲来、対馬・壱岐への進攻から九州上陸の様子、そして、九州の御家人達との戦闘の状況、筥崎八幡宮が“文永の役“で焼失した事等が書かれている。

筥崎八幡による神威によって“元軍”が撃退された事、僧・叡尊(えいぞん:生1201年没1290年)が敵国降伏を祈願し“神風”を起こしたとして、祈祷による霊験の成果を強調している点等、この書の成立には“社寺も祈祷で元寇に功績を挙げたとして朝廷からの恩賞問題が関わっていた可能性がある“と群書類従(江戸時代に塙保己一が編集した古代から江戸初期までの未完の文献を編集したもの。1793年~1819年に亘って刊行された一大叢書として有名)は指摘している。

“八幡愚童訓”に書かれた“対馬”への“元軍”襲来の状況は下記である。

当時の対馬の守護は少弐資能の三男の少弐景資(生1246年没1285年)であり、彼は地頭も兼ねて居た。彼の代官が“宗資国(生1207年没1274年)”であり、対馬国の守護代・地頭代という立場であった。10月5日の午後に対馬の海は一面“元軍”の軍船に覆われた。午後4時頃、対馬西海岸の佐須浦(現在の厳原町小茂田浜)に元軍が接岸する。

“宗資国”は僅か80騎を率いて夜道を佐須浦へ駆けつけた。元軍は7~8隻の軍船から1000人程が上陸し“宗資国”の部隊に激しく矢を射かけて来た。“宗資国“率いる僅かな対馬勢も多くの“元兵”並びに元軍の将軍と思しき人物を射倒したと書かれている。しかし、多勢に無勢、忽ちの中に“宗資国”はじめ全員が戦死し、元軍は佐須浦を焼き払った。“宗資国”は67歳であった。彼は元軍の襲来を“小太郎と兵衛次郎“を伝令として博多
に向け、出航させていた。

こうした“宗資国”の勇敢な死に対し、現在、対馬市厳原町小茂田の“小茂田浜神社”では彼を祀り、毎年11月12日(旧暦10月5日)に“鳴弦の儀”が行われ彼を讃えている。明治29年(1896年)対馬島民等の請願があり“宗資国”には従三位が贈位されている。

13-(2)-②:対馬の惨状を伝える“日蓮聖人遺文”・・建治元年(1275年)5月8日付

“文永の役”の惨状の伝聞を“日蓮”が書き留めた文章は下記である。

“去、文永11年(1274年)ニ、蒙古國ヨリ筑紫ニ寄せて有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生捕ニシ、女ヲハ、或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生捕ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(かくのごとし)

女性は集められ、その手の平に穴をあけ、縄を通し、舟に結びつけ、捕虜として連れ帰ったという事である。文中にある様に一人も助からなかった事が書かれている。伝聞が事実であったかどうかを確認する術は無いが、対馬島民の間では今日でも“ムクリ、コクリ(蒙古、高麗の事)“という言葉が伝わっていて、泣く子をあやす時に使うと言う。”泣いていると鬼(蒙古・高麗)が来るぞ!“という意味であり、対馬に今日まで伝承されている事から、史実を伝える話だと思われる。

13-(2)-③:壱岐侵攻・・1174年10月14日

対馬を殲滅した後に“元軍”は10月14日の午後4時頃に壱岐島の西側から上陸した。壱岐の守護代“平景隆”は100余騎で応戦。最後は桶詰城に退いて戦ったが、圧倒的兵力差に敗れ、翌10月15日に自害する。“高麗史”には戦況が下記の様に書かれている。

“元軍が壱岐島に達すると日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。高麗軍の將である“朴之亮”等が敗走する日本兵を追う。壱岐島の日本軍は一度は降伏を願い出たが、逆に、攻撃して来た。これに対して元軍の副将の“洪茶丘”や高麗軍の“朴之亮”等が応戦して日本兵1,000人程を討ち取った“

13-(2)-④:肥前沿岸襲来・・1174年10月16日~17日

壱岐島を攻撃した元軍は次に松浦郡、平戸島、鷹島、能古島の松浦党の領地を来襲している。この戦況も“八幡愚童訓=八幡ノ蒙古記”に記されている。松浦党の肥前の御家人・佐志房はじめ息子三人、石志兼・父子などが応戦したが壊滅している。室町時代の日蓮宗の僧・円朝院日澄(にっちょう)の記録には“松浦党は数百人が討たれ、或は捕虜となり、肥前沿岸の惨状は対馬・壱岐の如し“とある。

14:対馬・壱岐の島で劣勢にあった日本側は“元軍”の上陸に対して迎撃体制を急ぐ

対馬から“宗資国”が遣わしていた“小太郎・兵衛次郎”の伝令に拠って対馬・壱岐の惨状は大宰府に伝えられ、大宰府から京都並びに鎌倉へ急報された。日本軍も九州の御家人が大宰府に集結しつつあった。

“八幡愚童訓“には”鎮西奉行・少弐氏を始めとして大友氏、紀伊一類、臼杵氏、戸澤氏、松浦党、原田氏、大矢野氏、竹崎氏、旵玉氏等、に加えて神社仏閣の司迄が“我も我もと馳せ集まりたれば“と記している。元軍の日本武力侵攻の第一の目標地は西国の府”大宰府“だった。

15:1274年10月19日、元軍の大船団は博多湾に進入、10月20日博多湾から上陸を開始した

元軍の博多湾の上陸場所については諸説がある。海上で一夜を明かした元軍は翌10月20日、博多湾の西部・今津から東進し、百道原(ももちばる=現在のシーサイドももち付近)辺りから続々と上陸し、約3Km東の赤坂を占領して陣を布いたとされる。

これ等の戦いは“赤坂の戦い”“鳥飼潟の戦い”“百道原(ももちばる)の戦い”“姪浜の戦い”と呼ばれ、日本の武将達の奮戦の様子が“蒙古襲来絵詞”をはじめ“朝師書所見聞安国論私抄“等に細かに記されているが、ここでは省略する。

900隻、30,000 人の元軍に対して九州全土から終結した御家人はこの段階では約5000人とされる。博多湾の海岸線30kmに御家人の各將が分担して防衛線を張っていたが、5倍強の戦力差はどうにもならず、先ず左翼陣が崩れ、元軍はそこを起点に続々と本隊を上陸させた。

日本軍の劣勢は当初の元軍30,000人対日本軍5,000人、(日本軍は徐々に増えて最終的に10,000人とされる)の6倍の戦力差だけでは無く、戦法にもあったとされる。元軍は太鼓・銅鑼を激しく叩く他に天地もどよめく大声で鬨の声を上げた。こうした状況に一番驚いたのが馬であった。馬が飛び跳ね廻って騎射戦法の日本の武士達は巧く馬を操れなかったとされる。

更に元軍の弓矢は“短弓”で飛距離も220m飛び、更に先端に毒が塗ってあった為、矢に拠る傷は浅くても、毒によるダメージが大きかった。更に、日本軍の矢は100mの飛距離しかなかった・・・。

これ等の通説を鵜呑みにすると、兵数だけで無く、日本軍の装備、戦法が如何にも劣った様であるが、後の科学的な検証の結果では正しくない様だ。例えば日本の弓の機能は寧ろ元軍の短弓よりも優れていたとされる。検証の詳細は省略するが、弓矢を主な武器とした日本軍の善戦振りからも、和弓が劣っていたとする説に説得力が無い。

更に“戦闘の作法”の差が日本軍に不利であったとする説である。鎌倉時代の武士の戦闘作法は“敵味方双方から名のある武者が出て来て“我こそは~”と名乗り出て、先ずは一騎打ちがベースだとし、元軍の戦法は“集団戦”であり、周りからワッと囲んで長槍などで討ち取る。日本軍が“卑怯だ“と言ってもその間に日本軍は次々に討ち取られて行った・・とする説であるが、この説も史実では無いとの検証結果が出ている。

実態は日本軍も集団戦法で元軍に相応の被害を与えていた事が判明している。この裏付けが肥後の御家人・竹崎季長が描かせた“蒙古襲来絵詞(1293年)”の“絵5”である。

陸戦で武士達が“集団”で戦っている様子が描かれている。又、同じ絵詞の“詞七”に、“日本軍の総大将・少弐景資は赤坂から博多に侵攻して来る元軍を待ち受ける様、全軍に指示し、竹崎季長一同もそれに従い、集団で一斉に騎射攻撃を加えた”と明記されている。

更に、戦闘武器の上でも“元軍”が遥かに勝っていたとする通説にも疑問が投げかけられた。中でも日本人が初めて体験した“てつはう”が日本軍を圧倒したとの通説である。直径14cm、厚みが1.5cmの中空の容器に火薬を詰め、点火し、紐、或は棒と紐を使って敵陣に投げ込み、大音響と共に爆発する“炸裂弾”である。

2001年10月に長崎県鷹島沖で“陶製”の物が発見され、容器には鉄製と陶製があった事が判明した。炸裂弾1個の重さは4kg程であり、手榴弾として使う場合は、屈強な兵士でも精々20~30mしか飛ばせないという弱点も証明されている。より遠く飛ばす手段として“投石機”や“回回砲(トレヴュシェット)”を使ったとされるが、これらの武器を用いるには、指揮官を入れて40名程の人数が必要な事、連続発射が困難な事、等から実戦での威力には疑問がある事も判明している。

ただ“てつはう”に日本軍が人馬共に肝を潰した事は確かであろう。火薬というものを日本人はそれまで知らなかったからである。

以上の論証はされたが、兵員数に於ける劣勢、兵法の違い、軍事装備等の問題から、日本軍がひたすら後退した事は事実である。しかし、こうした状況下で、死を恐れず勇敢に闘い、後世に名を残した武士達も居た。その代表が肥後の若武者“竹崎季長”である。手勢僅か4騎で蒙古軍に突っ込み、活路を開いたとされる。彼がその様子を絵師に描かせて残したのが、今日皇居“三の丸尚古館”に残る上述した“蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)”である。

戦いの大勢は明らかに“元軍“が制し、夕刻には博多、箱崎を席巻して街に火をかけた。この時に筥崎八幡宮も焼かれた。“文永の役”で炎上した社殿は、翌、建治元年(1275年)に再建されている。宇佐八幡宮、石清水八幡宮と共に日本三大八幡宮に数えられる神社である。

私も2015年4月10日に福岡市東区箱崎にある筥崎宮を歴史同好の友人と訪ねた。炎上した社殿を再興した際に“敵国降伏“の四文字を紺紙に金泥で書き、第90代亀山天皇(即位1259年譲位1274年)が奉納したとされる扁額が有名である。

重要文化財の壮大な“桜門”に掲げられたこの四文字は亀山天皇の宸筆(自筆)だとする書物もあるが、正しく無い。小早川隆景(毛利元就の3男:生1533年没1597年)が後に”桜門“を造営した際に謹写拡大したものだ“と筥崎宮のパンフレットに書いてある。

筥崎宮は“元寇”という未曽有の国難に“神風”が吹いて勝った事に因んで、厄除け、勝運の神として後世、足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉等が参詣している。江戸時代に入り福岡藩の初代藩主となった黒田長政が1609年に建立し、今日、重要文化財に指定されている“一之鳥居”にその由緒が刻まれている。

この様な劣勢の結果、日本軍は箱崎の本陣を破られ、大宰府に逃げている。この日一日で市街地の殆どが灰と成り、この時点で、勝利は確実に元軍の手中に在ったのである。

16:元軍の突如の撤収とその背景・・1274年10月20日(旧暦)

上記の様に各戦場で優位に闘った“元軍”であったが、被害も大きかったとされる。中でも副将の“劉副亨”が流れ矢を受け、負傷して船へ退避し、日没と共に帰陣した事が“元軍”全体に与えたダメージは大きかった様だ。一方、高麗人の“金方慶”が率いる高麗軍は少しも退かずに奮戦したと記録されている。

16-(1):“元・高麗連合軍“は軍議を開き“撤収”を決める

上記、旧暦10月20日は新暦では11月26日に当たる。“高麗史“に10月20日の夜に軍議が開かれた記録が残っている。元軍総司令官の“忽敦(クドウン)、元軍副將の“洪茶丘(こうさきゅう)”そして、高麗軍司令官・兼・元軍副将の“金方慶”に拠る軍議であった。

総司令官の“忽敦(こっとん・クドウン)”が“孫子の兵法”を引き合いに出し“小敵の堅は大敵の擒(虜=とりこ)とある。日本軍は日増しに増大して大敵になるであろう。我が軍は緒戦に勝った。これで日本は“元軍”の力を思い知ったであろう。此処で引き揚げる“と、突如、撤収を切り出したとある。(注:尚、岡本顕實氏の“元寇”では総司令官を“忻都(きんと)”としている。歴史研究者の間では両者を同一人物だとする説が有り、現段階では結論に到っていない。)

“元軍”の総司令官、忽敦(こっとん・クドウン)が突如“撤収”を切り出した背景として下記6点が挙げられている。

①勝利はしたが、日本軍は予想以上に勇猛であり、元軍の被害も大きかった。②元軍の副将“劉復亨”が流れ矢を受けて負傷し、船に退避“元軍“を怯ませた③副將の“洪茶丘”と、同じく副将で高麗人の“金方慶”が不和で、元軍の意志統一がとれて居なかった④そもそも“元・高麗連合軍”は混成軍であった為に意思統一がされて居らず、戦意も今一つ盛り上がらなかった⑤海を押し渡って大軍を進めた“文永の役”は“元軍”にとっては経験も不十分で想定以上に厳しい戦いであった⑥日本を良く知る高麗側の本音は“元”に服属して以来、度重なる出兵命令で国力が極度に疲弊していた。そこに今回、900隻の造船を命ぜられ、出兵に止む無く従わされたという事情があった。

上述した軍議で、高麗軍の総司令官の立場であった“金方慶”は“元”の“忽敦”の撤収案に強く反対し、日本侵攻続行を主張した。しかし上記の③及び⑥の事情もあり、最終的には“元軍総司令官・忽敦“の意に従ったのである。

16-(2):“文永の役“は日本が勝利したのでは無く”元軍“が撤収したのである

“文永の役”も“弘安の役”も“神風”が吹いて、最終的に日本軍が勝利した、という通説は当時の日本の情報力の無さ、そして“祈る事”が当時の為政者にとって極めて重要な“政治の装置”だったという“日本の特異性”から生まれたものだと言えよう。

実際には上記した①~⑥の“元軍”の事情に拠る“撤収“であった。そうした軍事行動が“元軍”に許されたのは“文永の役”で、“元”がこの派兵で日本を占領する意図を最初から持っていなかったからだと考えられる。

“元”が他国を征服して来たパターンは“金王朝”の征服のパターンでも、先ず“威力偵察”の為の出兵を行い、その後で大軍に拠る“占領の為の戦争”を展開した。“文永の役”の派兵規模からしても“威力偵察”の為の派兵であったと考えられる。

その裏付けとして“元史”に“元軍の矢が尽きた”という記録がある事“元軍総司令官・忽敦の唐突とも思える撤収案”更には占領する為には余りにも少ない30,000人規模の兵力が挙げられる。

16-(3):撤収は夜間に敢行された。しかし、運悪く“暴風雨”に見舞われ、多くの軍船が遭難した

撤収を敢行した1274年10月20日(新暦11月26日)の夜に玄界灘を暴風雨が吹き荒れた。新暦の12月を目前にした季節であるから“台風”では無い。玄界灘名物の北西の季節風は多くの船舶を難儀させていたが、この時も強烈な季節風が吹き荒れたという事である。

朝鮮の史書“東国通鑑”には“文永の役”に於ける“元軍”の戦死者を13,500人としているが、その多くが“日本からの撤収”途上の暴風雨に因る死者だったのである。

元軍の軍船は海戦向きの堅牢な船では無かったとされる。“元”の命令で高麗が仕方なく造った急造船(一隻当たり30人乗り組みの小型船)が大半であった。この暴風雨で多くの船がバラバラになり、将兵は海中に没したのである。

“高麗史”には生き残った15,000人程が1274年11月27日に朝鮮半島の合浦(がっぽ)に帰還したと書かれている。

16-(4):1274年10月21日の朝、蒙古軍が去った事に唖然とした日本軍

“八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)”には“10月21日の朝、海を見渡すと蒙古の船は皆馳せ戻っており、一艘が志賀島で座礁しているだけだった“と書いている。一方、前日元軍に攻められた日本軍は博多、筥崎を放棄して“水城”へ敗走していた事が記されている。善戦はしたものの、負け戦であったから、日本軍は鉛を飲む思いで朝を迎えたに違いない。ところが湾を埋め尽くしていた敵の軍船が一隻も見当たらない事態に驚き、偵察の結果、志賀島に敵の破船が漂着している事で遭難を知った。日本軍は志賀島で生け捕りにした元軍220人を大宰府に連れて来て首を刎ねたとされる。

2013年5月に志賀島(しかのしま)を友人と訪れた。福岡市東区に所属する島だが、島と言っても陸続きなので私は福岡空港からレンタカーで中道大橋を渡って行った。この島が有名になったのは1784年(天明4年)に“漢倭奴国王印(金印)”が水田を耕していた農民・甚兵衛によって偶然発見された事である。福岡市博物館にその“国宝金印”が展示されている。幅が一辺が2.3cm、つまみの部分を入れた総高は2.2cm、重さ108g程の小さな“国宝“である。尚、この金印には“偽造説”もあったが、現在は真印である可能性が高いとされている。

上記した“文永の役“で撤収途上で遭難した元軍の兵士達、並びに、捕虜となり、大宰府で処刑された220人の蒙古兵、更には後の“弘安の役(1281年)”で戦死した蒙古兵を祀る“元寇供養碑”が昭和2年(1927年)志賀島に建てられている。

16-(4)-①:幸運だった日本と、この戦いを“敗北”とは考えなかったフビライ

上記した様に“文永の役”で“元・高麗連合軍”は早々と撤収を決め、帰途中の暴風雨で大きな被害を蒙った。この結果を日本国中が“神風が吹いて日本軍が勝利した”と大喜びしたのである。後世“神の御加護に拠って台風が元軍を沈め、日本軍が勝利した”という事が通説となったが、戦闘に拠って日本軍が勝利した訳では無い。

上記した様に“元軍“の総兵力や装備状況からして”文永の役“は”威力偵察“と考えるべきであろう。“元”側はその目的は果たしたと考え、早期撤収を敢行した。暴風雨に拠る大被害に遭う前に軍の“撤収”を決めていたのであるから、フビライは“敗戦”とは全く考えなかったのである。

“元軍”に大きな被害を与えた“暴風雨”を“神の御加護”とし、お蔭で戦闘に勝利したと日本側が考えたのも無理も無い。上述した“元軍の撤収事情“を知らなかったからである。

元史の日本伝や“東国通鑑”にも“元軍の撤収は予定の上での行動・作戦であったと明記されている。緒戦で日本を叩き、後日、改めて本格的な軍勢を整え、日本に武力侵攻を行う為の今回は“威力偵察”であり、その目的を果して撤収したと言うのがフビライの理解であった。

当時の北条時宗・鎌倉幕府はタイムリー、且つ正確な“敵の情報把握”が全く出来ていない。戦闘状況、結果を掴めない侭、戦闘が既に終っていた(1274年10月21日から10日以上も経った)11月1日付で、西国諸将に増兵の指令を出している。“元軍が撤収した“という情報が京に伝わったのも、更に5日後の1274年11月6日であった。

“郷土歴史シリーズ・元寇”の著作の岡本顕實氏は“威力偵察”として行なわれた“文永の役”であった為に日本軍は“占領”を免れた。元軍が本気で日本占領を考えていたら例え“神風”が吹いたとしても“文永の役”の時点での日本側の軍事対応では“一部地域の占領”は免れない状況だったとしている。“文永の役“時点では、何よりも、基本的に“国家危機意識”そのものが欠落していた“と解説している。

こうした劣勢は“第2次元寇”迄の7年間で劇的に改善される事になる。

16-(4)-②:京都に“勝報”として伝えた日本軍・・1274年11月6日

編者を“僧永祐”とし、成立は1364年~1380年頃だとされる“帝王編年記“は神代から北朝第4代後光厳天皇(即位1352年譲位1371年・・南北朝時代の混乱期に三種の神器無しに即位した為、偽主、偽朝と呼ばれた)・北朝第5代後円融天皇(即位1371年譲位1382年)迄を書いた年代記である。

この書物に“文永の役”の後に鎮西から“戦勝”の報が1274年11月6日付で齎された事が以下の様に書かれている。

“六日に飛脚が到来。去月(十月)二十日、蒙古と武士が合戦し、賊船一艘を取り、この賊船を留める。志賀島においてこの賊船を押し留めて、その他の船は皆追い返した(略)

更に“蒙古襲来絵詞”の記録には鎌倉幕府が“文永の役”の戦勝の報に基づいて120余人の御家人に“論功行賞”として褒章を与えた事が残されている。

この様に、鎌倉幕府はじめ、鎮西の武士達、神社仏閣を含めた日本中が“文永の役”に勝利したとして歓喜していたのである。

16-(4)-③:局地戦では大いに善戦した日本軍

対馬・壱岐を玉砕した“元軍”は博多・箱崎を灰燼にした。これは3倍強という圧倒的な兵員数の差に因るものである。

局地的には日本軍も劣勢乍らも相当に善戦した事が“高麗史“に記されている。“八幡愚童訓”にも敗走する日本軍を追う元軍の副将“劉復亨”を“少弐景資(29歳)”が弓の名手に命じて射倒した事が書かれている。“劉復亨”の負傷が影響し、その後の軍議で元軍の早期撤収に繋がった事は既述の通りである。又、肥後の御家人“竹崎季長”や天草城主“大矢野種保兄弟”が奮戦した事も記されている。

こうした“武士団”の局地戦での奮戦が“日本側が時間と共に軍勢を増し元軍の被害が拡大するのではないか“と憂慮させた事が早期撤収を決断させた大きな要因である。

17:“文永の役”後、北条時宗は一層好戦的な行動をとる。その事がフビライに“第2次元寇”へと向かわせる事に繋がる・・1275年~1280年

“文永の役”を“神の御加護”に拠る勝利と考えた北条時宗、鎌倉幕府、朝廷、そして日本中に広がった高揚感は、尚も外交交渉をベースに“元”への服属を迫るフビライに対し、一層、好戦的な行動で応じる環境を作り上げて行った。

17-(1):“元”の使節を斬首刑に処するという“暴挙”に出た北条時宗・・建治元年(1275年)9月7日

“文永の役”から僅か半年後の1275年4月に“元”の使者として“杜世忠”を正使とし“何文著”を副使、それに通訳の高麗人の“徐賛”、ウイグル人の“徹都魯丁”と“果”の合計5人の使節団が長門国・室津に到来した。

この使者一行は9月に鎌倉に送られ、執権・北条時宗は9月7日に、龍口で斬首刑に処した。外交の常識からは稀有とされる処断である。外交使節を罪人並に切捨てるという暴挙に出た北条時宗は24歳であった。当時の鎌倉幕府は北条時宗の“得宗独裁(専制)政治体制下”にあり、鎌倉幕府、約150年の全時代を通じて最も政治権力が一個人に集中していた時代であった。北条時宗に“諫言”する家臣もいなかったのである。

“文永の役“の勝利が第8代執権・北条時宗に自信を持たせたのか、日本中が歓喜に沸いた高揚感に煽られたのか、北条時宗、鎌倉幕府は以後、益々好戦的な行動をとる事になる。日本中が“元使”を問答無用で斬首刑に処した“暴挙”を“支持”するという雰囲気だった。“元寇”に怯えていた分だけ、反作用として“元使斬首刑”を当時の各界・各層の人々が支持をし、同時に溜飲を下げたという事であろう。

北条時宗が“元使”を問答無用で斬首するという外交上の暴挙に出た理由について“鎌倉年代記裏書”(第81代安徳天皇の寿永2年・1183年から北朝初代光厳天皇・1332年迄の年代記。吾妻鏡以降の鎌倉時代の事件を書き留めた貴重な書とされる)にも記されている。

其れに拠ると、斬首の目的は“永く窺覦を絶ち攻むべからざるの策”、つまり“元”が“再び日本のスキを狙って攻め込む事が無い様に”としている。更に“元使をスパイ”だと判断して処刑したとする説もある。いずれにしても北条時宗の処置は“問答無用”であった。

こうした好戦的な行動に対して岡本顕實氏はその著“郷土歴史シリーズ・元寇”の中で、“もし北条時宗がそのように考えて“元使の斬首”を行ったのであれば、軍人政治家に有り勝ちな局地戦の勝利しか考え無い“深謀遠慮に欠ける行動”だと評している。

この様に日本中が好戦的ムードに成り“敵国撃退”一色に染まって行ったという状況は、630年後に、明治維新を成し遂げた日本が、日清・日露戦争の勝利の高揚感のまゝ、第一次世界大戦に強引に参戦し“棚ボタの勝利”の後に、満州事変~日支事変~太平洋戦争へと突き進んで行った時の政情、世論の動きと酷似していたと言えよう。

こうした北条時宗の“強硬措置”がフビライに“日本への武力侵攻”の執念を抱かせる結果になる。そして1294年にフビライが没する迄、北条時宗、並びに時宗没後の鎌倉幕府を悩ませ続ける事に成るのである。

“フビライ”は、まさか日本側が“杜世忠”以下5人の使者を問答無用で斬首していたとは考えもしなかった様だ。大帝国である“元国”の外交常識からすれば、あり得ない暴挙だったからである。遡るが1269年に対馬の住人塔二郎と弥二郎をモンゴルに拉致したが、フビライはその二人を鄭重に扱い、宮殿を観覧させ、そして同年(1269年)9月には多くの宝物を下賜して対馬に還している。こうした対応が国際国家“元”の皇帝、フビライの外交術であった。

フビライは未だに帰還しない5人の使節団は“日本に抑留されている”と考え、一行の安否を尋ねるべく4年後の1279年6月に“周福”等を8度目の“元使”として遣わした。

2013年2月に処刑された“杜世忠”以下5人の墓のある“龍口山常立寺(神奈川県藤沢市片瀬)”を友人と訪ねた。“元”への服属を迫るフビライの国書を携えた5人の使者は北条時宗に謁見する事も叶わず、上記した様に、1275年9月7日に斬首された。その5人を祀る“元使塚”は1925年に時の住職“磯野本精”に拠って建立されたと言う。

“元使塚”は広い境内の何処にあるのかと探し廻り、大きな石碑の下に“青い布が撒きつけられた5つの小さな五輪の塔”を見つけた。寺の説明によると、2005年4月7日に当時の大相撲の横綱・朝青龍や白鵬等、モンゴル出身の幕内・十両の力士が参拝して青い布を五輪塔に巻き付け、弔ったとの事であった。モンゴルでは“青”は英雄を意味する色だとの説明があった。尚、2007年にはモンゴル国大統領“エンフバヤル”夫妻も参拝に訪れたとの事である。

17-(2):“元使処刑”後に“異国(高麗)征伐“を掲げ、益々好戦的行動をエスカレートさせた北条時宗

“杜世忠”以下5人の“元使節”を斬首刑に処した北条時宗は“異国(高麗)征伐”策を掲げる。“第一次元寇”の手先となった“高麗国”に攻め込む作戦である。

それにしても、北条時宗を此処まで“元”に対して好戦的にさせた経緯、情報源は何だったのであろうか。それは南宋からの渡来僧と鎌倉幕府との深い関係と、時宗が育てられた背景が大きく影響していたものと考えられる。

17-(2)-①:渡来僧と“得宗政権”の結び付き・・北条時宗と無学祖元との関係

第5代執権・北条時頼時代の1253年に、南宋からの渡来僧・蘭渓道隆(生1213年没1278年)を招いて建長寺を開いた事は前項で記述した。“蘭渓道隆”は当初は“元”からのスパイとの疑いを掛けられ、奥州の松島や伊豆国に移されたり、讒言によって甲斐国に流されたりもしたが、最後は鎌倉に戻り、1278年に建長寺で没した。

以来“禅宗”が鎌倉幕府の“宗教”となり、得宗政権は積極的に中国の高僧を招請し、鎌倉五山の住持に就けたのである。

“蘭渓道隆”の後継として北条時宗が招いたのが“無学祖元(生:1226年没:1286年)である。弘安2年(1279年)6月に大宰府に着いたとの記録が在るから来日した時は、南宋が“崖山の戦い(1279年3月19日)”で完全に“元”に滅ぼされた直後であった。

北条時宗も父・北条時頼が宋の高僧“蘭渓道隆”に深く帰依したのと同じ様に“無学祖元”に深く私淑した。しかし、通説とされる“無学祖元”が“北条時宗の軍師であった”とする説は誤りであろう。

無学祖元も南宋からの禅僧であったから、同じ様に“元“からの脅威に立ち向かう北条時宗に対して、彼の政策や“元”に対する姿勢に何らかの影響を及ぼした可能性は大いにある。又、無学祖元の齎す情報が“アンチ元帝国”の色の着いた情報であった可能性も高い。

北条時宗と無学祖元との関係を知る為の史料として、鎌倉時代後期から南北朝時代の臨済宗の僧であった“虎関師錬(こかんしれん=生:1278年没:1346年)”が日本初の仏教通史として残した“元享釈書:1322年”がある。

この書に北条時宗と無学祖元の教導の様子が書かれている。それに拠れば、無学祖元が“第2次元寇”がある、と予言したばかりか、その時期、並びに軍船が暴風雨で一時に破沈する事迄を予言した、と書かれている。

この記述の全てを信ずる事は出来ないが“無学祖元”が大陸の情勢を伝えた事、又、“煩悩する莫(なか)れ”と、未曽有の危機の中にあった北条時宗に“教導”し、精神的安定を与えたという記述からも、北条時宗にとっては極めて重要な人物であった事は間違い無い。

更に“無学祖元”が北条時宗の没後、三回忌に彼の人物像について残した文章がある。それに拠れば、①母親に孝を尽くし②君に忠を尽くし③民に恵を牧し④禅に参じ宗を悟る⑤喜怒の色あるを見ず⑥一風蛮煙を掃蕩して⑦略ぼ衿誇の状あらず⑧円覚を造りて以て幽魂を救う・・(略)としている。

上記⑤~⑦に拠れば北条時宗と言う人物は喜怒哀楽を顔に出さず、元寇に勝利したあとも決して浮かれる事の無い、常に沈着冷静な人物だった様だ。⑧については弘安5年(1282年)に蒙古合戦の戦死者を敵味方の区別なく追薦する為に円覚寺を建立し、無学祖元を初代住持とした事を指している。

北条時宗は“異国降伏”を祈って仏典を“血書”したと伝わる。この事からも彼が父・北条時頼同様、深く仏道に帰依し、“煩悩する莫れ”を肝に銘じて生きた人物であった事は確かである。

17-(2)-②:北条時宗の育った環境、未曽有の国難の時期に執権職を任され、周囲の期待値の大きさに応えようとした“生真面目さ”が“撃退あるのみ”の行動に徹底させた

父・北条時頼に拠って、幼少の頃から最高権力者の座を約束され、育成され、更に周囲に拠って政治権力が時宗に集約されると言う環境整備が整えられた上で、執権職に就いた北条時宗であった。

更に、第8代執権職に就任するや、将軍権力の奪取を行い“2月騒動”を鎮圧する事で短期間に“得宗独裁(専制)政治体制”を築くという“挫折を知らない北条時宗”であった事が強硬一点張りの“対元・政治姿勢”になった背景であった事は否めない。

加えて、既述した様に、北条時宗が執権に就任した経緯も“元寇”という国家存亡の危機への対応の為であった。この様に、周囲が彼に全面的に任せ、期待する環境にあった。

こうした背景に、時宗生来の“生一本の真面目な性格”が加われば“元”からの強圧的な服属を迫る姿勢が、彼を“撃退あるのみ”の強硬姿勢に徹する方向に向かわせた可能性は高い。

17-(2)-③:1275年9月、元使5人を処刑した後、北条時宗は“異国征伐(高麗)”策を掲げる

仏道に深く帰依する北条時宗であっただけに(当時は本地垂迹信仰)“文永の役”の勝利は“仏神に拠る御加護”があったと堅く信じていたと思われる。そしてこの勝利は北条時宗の“撃退あるのみ“の信念を一掃強固にした。そして次第に“防衛”するだけでは無く、積極的に“異国征伐”つまり“高麗に攻め込む”と言う更なる強硬策に傾いて行った。

元使5人を1275年9月に斬首刑に処した頃の鎌倉幕府の高揚感は“異国征伐の関東御教書(下文、下知状と並んで鎌倉幕府の中心的発給文書)”で確認出来る。“高麗出兵”の意図には御家人初め“恩賞要求”に対する“財源確保”と言う考えがあったものと考えられる。

鎌倉幕府は有能な守護を海辺の国々に発遣するという大幅な守護交代を行い、京都大番役を停止する一方で在京人を増強し、倹約に努めさせ“異国征伐“に注力する措置を講じて行く。

在京人の増強は“首都(京都)”の防備を固める為、総力戦の一貫として執った政策であった。建治元年(1275年)12月に引付衆二階堂行清・三善政康・伊賀光政に上洛を命じた記録が残っている。日本を挙げての”総力戦“への構えを整えて行った事が分る。

“異国征伐”を具体化して行く為には鎌倉幕府としては“地方の支配”迄を含めた更なる強い統制力が必要であった。こうした政策を前面に出せたのも、北条時宗に拠る“得宗独裁(専制)政治体制”が確立されていたからである。

17-(2)-④:“異国(高麗)征伐計画”の断念

ところが“異国征伐(高麗出兵)”は掲げたものの、結果的に断念する事になる。1275年12月8日付けの山陰・山陽・南海道各国の守護宛ての御教書には“明年(1276年)3月、異国(高麗)を征伐すべき也”と明記し、水軍増強の為、梶取・水手(かんどり・かこ)の手当てを命じている。高麗征伐の為に水軍力の増強を急がせていた事は1276年3月の豊後の国(大分県中部・南部)の御家人に船、及び乗員、更には渡海人数・兵備の注進を命じた“大友頼泰”の書下からも裏付けされる。

この“大友頼泰(生1222年没1300年)”は大友氏の3代当主で、“少弐経資”と共に“元寇”の危機が強まる時期の1272年に幕命によって鎮西東方の奉行に任命され、相模国大友郷から豊後の国に下向し、その後土着した人物である。彼の子孫は後の戦国時代の守護大名・戦国大名として北九州に勢力を拡大する事になる。

計画では、幕府は相当大規模な水軍力で“高麗征伐”を行う事を目指したが、実態は個々の武士の手元に在る船を寄せ集めた程度の“水軍”にしか成らなかった様だ。幕府が守護を通じて船を徴発した記録も残っているが、守護達が国中の“津々泊々廻船”つまり、廻船業者の所有する商船、年貢米などの物資を輸送する船を軍事目的に転用した程度の“水軍”であった。

幕府の“高麗遠征軍”の人事構想も、大宰府の長官を総大将とし“挙国一致体制”で未曽有の国難に当たるべく、御家人達に“異国征伐”への参加を命じたが、多くの御家人が尻込をし、高麗遠征軍に積極的に加わる事を渋ったというのが実態であった。

渋々承知した御家人でもその兵力報告の内容を見ると“蒙古襲来絵詞”の主人公である肥後の御家人“竹崎季長”の手勢ですら、僅かな人数であり“高麗出兵計画”に参加を承諾した日本側の兵力の大多数が“極く小規模の武士団の寄せ集め”から成っていたと言うのが実態であった。

こうした状況が肥前深江文書、東寺文書、野上文書、石清水文書に残されている。日付は建治2年(1276年)3月5日、7日、25日、30日に亘る記録だが、幕府が計画した高麗征伐の決行日は“1276年3月中”であったから、こうした文書で分かる事は、期日とした1276年3月末が迫っても未だ、兵員や馬の数、武具数、等が整わなかった状態だったと言う事である。つまり、幕府が計画した異国(高麗)征伐の為の兵船を初め、軍勢の準備、調達が計画通りに行かなかったのである。

そして1276年3月末以降、幕府が意図した“高麗出兵”に関する記述は一切、現われなくなる。御家人の多くが玄界灘を船で渡って“異国(高麗)征伐”に参加する事に尻込みをするという状況に、北条時宗が“高麗国討伐計画“を断念した事が分る。

“得宗独裁(専制)政治体制”という強大な政治権力を掌握し乍ら、しかも国中の“モンゴル撃退”の高揚感にも拘わらず何故、北条時宗、鎌倉幕府が計画を断念したかについての史料は無い。

“文永の役“の勝利後の高揚感はあったものの、玄界灘を渡って“高麗国”の討伐に向う事のメリットとリスクとの比較で、リスクの方が余りにも大きい事、御家人達が元寇防塁の築造等で既に莫大な財政負担を負っていた事を考慮し、北条時宗以下、鎌倉幕府トップが“異国警固番役の強化”と“蒙古防塁の早期築造”という足元の対応を優先し、最終的に“高麗征伐計画”を断念したと言う事であろう。

17-(3):“防塁築造”が“第2次元寇(弘安の役)“勝利の主要要因となった

“異国(高麗)征伐”を断念し、北条時宗は御家人達に博多を中心とした“防衛用の石塁築造“の命令を出す。この命令には多くの御家人達が従い,1276年3月から僅か6ケ月で“防塁”は築かれたとされる。具体的指示として“肥前深江文書”の1276年3月10日付けの“少弐経資“の名で出された資料が残っている。

“肥前深江文書”は鎌倉時代の肥前の国史を知る上での貴重な“武家文書”とされる。そこに“少弐(武藤)経資(しょうにつねすけ:生1229年没1292年)”が肥前守護職として、要害石築地(元寇防塁)の築造を指示した一節が下記である。

“高麗発向の輩の外、奉行の国中に課し、平均に沙汰致し候ところなり“

この一節から、高麗出兵に動員される者は対象外として御家人に等しく負担させて石築地の築造に当らせた事が分る。少弐経資は父と共に北九州の統括に当たり、上述した防塁築造の指示だけで無く“肥前、筑前、豊前、肥後、対馬、の守護職として“元寇”の際の“異国警固体制”を整えた功労者である。

少弐経資の父親は武藤資能(すけよし:生1198年没1281年)である。大宰府の責任者(太宰少弐)の地位にあった事から“少弐”と名乗る様になる。北九州に大きな勢力を持ち、既述した大友頼康と共に鎌倉幕府の鎮西奉行の一人として“元寇”対応に当たった。尚、父の少弐資能は文永5年(1268年)の高麗使者・潘阜(はんぷ)が実質的には初めてとなるフビライの使節(第1回目の使節は既述した様に巨済島から帰国)として国書を伝えた時に対応した人物である。

少弐経資は父から家督、並びに所領を引き継ぎ、父と同様、鎮西奉行の一人として大友頼康と共に“元寇”に先頭に立って対応した。彼の弟、少弐景資(しょうにかげすけ:生1246年没1285年)の部隊が文永の役で元軍の副将“劉復享”を負傷させ、それが“元軍”の早期撤収に繋がったという大功労者であった事も既述の通りである。

この様に“少弐一家”は“元寇”に多大の貢献をした事で名高い。

17-(4):“南宋攻略”が先か、日本侵攻を敢行するかの選択の結果“南宋攻略”を優先したフビライ

既述した様に、フビライにとっては“南宋”を攻略する事が主目的で、高麗を服属させる事(この時点では完了していた)と日本を服属させる事は南宋を孤立化させる為の側面作戦であった。

僅か3万の兵で“文永の役(1274年)”で日本に武力侵攻し、占領しようとフビライが考えていたのでは無い事は既に述べた。フビライは飽くまでも“南宋攻略”が主眼であり、南宋を孤立化させる為の側面作戦である日本の服属化は“和戦”両様の外交方針で進める事を基本姿勢とした為、辛抱強く使節派遣を繰り返していたのである。

フビライは当然の事乍ら、その一方で、日本への武力侵攻の準備も併行させていた。“高麗史”に1275年10月段階で、高麗国に日本侵攻の為の戦艦建造を開始する様命じた記述、並びに、翌11月には矢羽、鏃(やじり)の増産に取り掛からせた記事がそれを裏付けている。

17-(4)―①:重臣“王磐”の意見を取り入れて日本への武力侵攻を後回しにしたフビライ・・1276年1月

日本への武力侵攻準備開始は1275年末の事とされるから“弘安の役(1281年)”の6年前の事である。史料からこの間、フビライが“日本武力侵攻”を後回しにしていた背景を知る事が出来る。

“元史”に拠るとフビライは再度の日本への武力侵攻と、一方で大詰めと成っていた“南宋侵攻”とを同時並行で進める事の是非を重臣の“王磐”に問い掛けている。結果、彼の進言を受け入れ“南宋攻略”一本に絞ったとある。“王磐”の進言は以下であった。

“我らは全力を用いて一挙に南宋を獲るべきである。もし又、東夷(日本)に兵力を分ければ、無駄に月日を費やす恐れがあり、結果、功が成り難くなる。南宋が滅びるのを待ってその後に日本侵攻を考えても遅くないでしょう“

フビライは南宋と日本侵攻との二面作戦を1276年1月時点で中止し、以後は“南宋攻略”に全力を傾注する。この事は“高麗史“の1276年1月10日付の記事に“日本侵攻用の戦艦建造と矢の増産の中止”とある事で裏付けられる。そして“元”は終に主眼であった“南宋”を滅ぼす。

17-(4)-(2):南宋の滅亡・・1279年

“南宋”は、宋(=北宋:960年~1126年)が“金”に滅ぼされ、翌年の1127年にそれを復興させる形で、高宗(趙構)に拠って樹立された。フビライに拠って1279年“厓山の戦い(がいざんのたたかい)”で滅ぼされる迄、約150年続いた王朝である。平清盛が宋との貿易を盛んに行ったが、彼の時代の”宋“とはこの“南宋”の事である。

1276年1月に南宋・第7代皇帝“恭帝”は元将の“バヤン(伯顔)”に捕えられ、降伏し、首都“臨安”を無血開城しているから“南宋“は事実上この時点で滅亡した。しかし、“文天祥・張世傑・陸秀夫“のいわゆる”南宋の三忠臣“が”第8代皇帝端宗、第9代皇帝衛王”を擁して1279年の“厓山の戦い“で敗れる迄、抵抗を続け、3年間持ち堪えたのである。

尚、この“文天祥“は忠臣の鑑として後世称えられた人物で、江戸時代中期に”赤穂四十六士(四十七士では無い点に注意・・別章で述べる)論“で有名な浅見絅斎(生1652年没1711年)に拠って紹介され、幕末の吉田松陰・藤田東湖・日露戦争時の広瀬武夫に影響を与えたとされる。

18:弘安の役・・1281年5月3日~閏7月1日

18-(1):南宋を滅ぼしたフビライは重臣・那律希亮の意見を受け入れ、日本への武力侵攻を再び延期する・・1276年6月

フビライという皇帝は、能々臣下の意見を聞く人物だった様だ。1276年1月の時点で“南宋”を事実上滅亡させ、フビライの主課題は完遂された。“南宋攻略”の側面作戦に過ぎなかった日本への武力侵攻のニーズはさ程重要では無くなっていた筈である。“元史”の1276年6月の記録に、この上、日本への武力侵攻を行うべきか否かを臣下に尋問した事が書かれている。

滅ぼされた“南宋”の旧臣達(范文虎・夏貴・呂文換・陳奕)の意見は皆“日本を伐つべし”であった。しかし、フビライの重臣“那律希亮”の意見は“国は連戦を続けて来ており、兵は肩を休める必要がある。数年を待って日本侵攻の兵を起こしても遅くは無い“であった。フビライはこの意見を採用し、日本への武力侵攻を再び見送ったのである。

尚、この時点で、フビライは1年前、つまり“文永の役”の翌年の1275年に遣わした“杜世忠”以下5人の“元使”が戻っていない事は知っていたが、彼らが“龍ノ口”で斬首刑に処せられた事は知らない。“外交使節を斬首刑に処する“という外交上稀有の鎌倉幕府の”蛮行“は考えられなかったのであろう。

そして戻らぬ5人の安否確認の為、1279年6月には“周福・欒忠”に加えて日本から渡宋していた日本僧“暁房・霊杲“更に通訳の陳光等からなる使節団を日本へ派遣したのである。

18-(2):フビライに本格的武力侵攻(第2次元寇)を決断させた北条時宗の蛮行・・2度に及ぶ“元使斬首”

18-(2)-①:フビライの外交政策を理解しなかった北条時宗は再び“元使”を“斬首刑”に処す・・1279年6月

当時の世界的大国の皇帝として、フビライの外交政策は、周辺小国に“服属”を求める形がベースであった。従って、日本に武力侵攻をして占領する事には元々慎重であったと言える。鎌倉幕府と交流を持っていた南宋の旧臣であった“范文虎”の意見を聴取し“日本侵攻は慎重に構え、先ずは日本が服属要求に従うか否かを使節団からの報告を待ち、見極めてから行うべきである“との進言を受け入れたのである。

1279年6月に派遣した“元使”は、1266年に遣わした、正使・黒的、副使・殷弘から成る最初の(既述の通りこの使節は高麗側の日本侵攻は止めるべきとの諫言を受け入れて日本に渡らず、フビライの元に戻った)使節から数えると実に13年目、8度目となる使節団であった。今回の使節団に持たせた牒状には鎌倉幕府と交流のあった南宋の旧臣“范文虎“の意見を入れ“南宋は既に蒙古に討ち取られ、日本も危うい、よって南宋の立場から日本に(元国に服属する様)告知する“と言う内容だった。

ところが、この牒状に威嚇と取れる文言が入っていた事が“撃退”の二文字しか頭に無い北条時宗には全くの逆効果となった。“周福・欒忠”以下、今回の使節団も鎌倉に送られるまでも無く、1279年6月、直ちに博多で全員が斬首刑に処せられたのである。

18-(2)-②:使節団が“斬首刑”に処せられた事を知ったフビライ:“日本殲滅”を決断・・1279年~

日本に遣わした2組の使節団の動向を未だ知らなかった“フビライ”だが、一方で“日本への出兵準備”も着々と進めていた事は既述の通りである。

1279年2月に揚州、湖南、贛州、泉州の四省で戦艦600隻の造船を命じ、同5月には済州島から3000隻分の軍船建造用木材を供出させ、6月には900隻の造船を高麗国にも命じていた事が“元史”の1279年~1281年の記事にある。又、軍船の建造が思うようには進まなかった事も“元史”に記されている。

1281年の記事には、200隻の建造命令に対して50隻しか完成せず、責任者の“蒲寿庚“がフビライに“民が造船の為に疲弊している”と訴え、これに対してフビライが造船を中止させたとある。

この他、5人の臣下が“民は疲弊し、相次ぐ出兵で軍兵の士気も低い。この上、日本侵攻を行えば上層部に対する反発を生む。今は出兵を止め、民を休ませるべきだ“と諫言している。

老臣の“王磐“も”日本侵攻には険しい海があり、しかも遠い。この戦いに勝っても武功とならず、負ければ威厳を損なう事になるだけであり、日本征伐は止めるべき“と諫言している。これ等の史料からは“元”側も度重なる出兵で財政的に逼迫し、決して一枚岩で日本への武力侵攻に向っていたのでは無かった事が分る。

こうした状況下の1280年8月に5年前に派遣した“杜世忠”以下5人の使節団が龍ノ口で“斬首刑“に処せられていた事をフビライが知る事に成る。この情報を齎したのは、逃げ帰った水夫であった。彼が先ずその事を高麗に伝え、それが高麗からフビライに伝えられたのである。

フビライは外交交渉では考えられない鎌倉幕府の暴挙の報に驚き、そして怒り“日本の徹底的殲滅”を決意した。“元史“には“洪茶丘”が自ら兵を率いて日本へ出兵する旨を願い出、フビライは日本侵攻軍の為の司令部“日本行省”を設置し、諸将を集めて“日本占領”を前提とした“日本武力侵攻”の意を伝えた事が書かれている。

18-(3):フビライが目指した“外交交渉”に至らず“弘安の役”に突入した経緯

以上がフビライに“日本占領”の決意をさせ“弘安の役”に至った経緯である。フビライは鎌倉幕府に対して“外交手順”を踏まえて服属を迫った。しかし、北条時宗は交渉にも一切応ぜず“弘安の役”に突入する。以下に、改めてその間の“元“と“鎌倉幕府”の動きを時系列に纏めて置きたい。

①:建治元年(1275年)2月:モンゴル人“杜世忠”を正使、唐人“何文著”を副使、他3人から成る7度目となる使節団が長門に着く。幕府は一行を龍ノ口で処刑する。

②:弘安2年(1279年)6月:元使“周福・欒忠・日本僧“暁房靈杲”そして通訳の“陳光“一行を8度目の使節団として派遣するが博多で斬首刑に処せられる

③:弘安3年(1280年)8月:逃げ帰った水夫から“杜世忠”等の使節団5人が斬首刑に処せられた事をフビライが知る

④:弘安4年(1281年)2月:日本殲滅を決心したフビライが元の首都・大都に司令官“阿刺罕(アラカン)、范文虎、忻都(ヒンドウ)更に洪茶丘等の諸將を集め、日本を占領する覚悟を伝える

18-(4):“弘安の役”の戦況

18-(4)-①:“弘安の役”の両軍の軍勢

軍勢については諸説がある。とりわけ日本軍については①博多防備の鎮西軍40,000人(北条(金沢)実政:現地総司令官・生1249年没1302年)②中国地方防備25,000人(北条宗盛)③京都・西国防備60,000人(宇都宮貞綱:生1266年没1316年)の計125,000人とする中部大学・武田邦彦教授の説がある。しかし、宇都宮貞綱の軍勢が戦闘に加わる前に“元軍”は台風で壊滅する。従って以下の表では“第2次元寇=弘安の役”で実際に戦った65,000人の数値を用いて比較する。

“元“側の軍勢も約4,400隻の船団を組み、その為の漕ぎ手や非戦闘員が17,000人程含まれていたとされる。そこで“元軍”は“交戦兵力数”を表示した。この数字も“武田邦彦教授”の考えに基づいている。

いずれにしても、巷間伝わっている“元軍の圧倒的な兵力に対して日本軍の兵力は貧弱なものであった“という説は正しく無い。実戦力的にほゞ拮抗していたと考えられる。

=“弘安の役“に於ける”元軍“と”日本軍“の戦力比較=

*元軍*

兵数 東路軍(蒙古・漢人軍32,000人+高麗軍10,000人):

計42,000人


江南軍(南宋軍)

計100,000人


合計142,000人
交戦兵力(水夫等非戦闘員を除いたもの)

東路軍(蒙古・漢人15,000人+高麗軍10,000人)

計25,000人


江南軍(南宋軍)

計60,000人


合計85,000人

軍船 約4,400隻(うち東路軍船・約900隻)

将軍 東路軍 :折都(ヒンドウ=総司令官・東征都元帥)・洪茶丘(高麗出身の元国の軍人=東征都元帥)・金方慶(高麗人=征日本都元帥)
江南軍 :阿塔海・范文虎(南宋人)

*日本軍*

兵数 北条(金沢)実政軍

:40,000人・・博多防備


北条宗盛軍

:25,000人・・中国地方防備


合計 65,000人

総司令官

:北条(金沢)実政・32歳


総大将

:少弐経資(太宰少弐・鎮西奉行)56歳


主たる武将:
少弐景資(経資の弟)36歳
少弐資能(経資の父)84歳
北条宗政(北条時宗の同母弟で執権名代)28歳・・勝利に沸く中で没した人物
大友頼泰(豊後国守護)59歳・・志賀島から金方慶、洪茶丘軍を放逐した武将
安達盛宗(肥後国守護)・・安達泰盛の子息
竹崎季長(肥後国・御家人)36歳・・蒙古襲来絵詞を後日描かせた人物
相良頼俊(肥後・御家人)河野通有(伊予・御家人)秋月種家(筑前・御家人:兵力2,700人)  他

18-(4)-②:東路軍が先陣として進発する・・1281年5月3日

フビライは大都で諸將に“日本を占領して自国領土とする為にも百姓達を殺してはならない”“意思疎通を良くして一致協力する事”“不和の戒め”の訓示を与えて出陣させた。
かくして“第2次元寇“の幕が切って落とされたのである。

後述するが鷹島沖海底から2011年10月と2014年10月の2度に亘って弘安の役で沈没した“元軍船“が発見されたが、調査結果によると、鋤、鍬の農機具初め、種(たね)モミまでを準備した事が分っており、長期戦を覚悟し、更には占領後の移民を考えていたのではないかとされる。この事も”第2次元寇”が日本占領“を意図したものであったとの説の裏付けとなっている。

“元軍”は 142,000人の兵、4,400隻という大規模の部隊が2手に分かれて発進する。うち、東路軍42,000人、900隻の軍船が旧暦1281年の5月3日に高麗国の合浦(現在の大韓民国馬山)を先発した。主戦力の江南軍10万人(交戦兵力60,000人)は後述する理由が重なって、東路軍から遅れる事、1月半後の1281年旧暦6月18日に3,500隻の軍船で順次発進して行く。中部大学の武田邦彦氏に拠れば大船団の主力が平戸の鷹島や五島列島の海域に達していた頃に後続の船団はまだ“東シナ海”を北上中だったとする程の前代未聞の大軍船団であった。

記録で葛刺歹(カラダイ)率いる軍船が6月18日に出発した事は明らかであるが、江南軍の3,500隻の全てが何時迄に出航を完了させたのかの記録は無い。

18-(4)-③:東路軍と江南軍の合流計画

東路軍、42,000人の構成については上記した様に、忻都(ヒンドウ)と洪茶丘が率いる蒙古軍と漢人の部隊が32,000人、“金方慶”が率いる高麗軍が10,000人の計42,000人(交戦兵力25,000人)の部隊であった。高麗国王(忠烈王)の閲兵を受けた後、1281年5月3日に高麗の合浦を軍船900隻で発進したとある。

一方の江南軍は構成としては滅びた“南宋”からの投降兵を中心とした部隊に、水主達を含めた100,000人(交戦兵力60,000人)の部隊とされる。

当初計画では、慶元(今の上海付近)を1281年6月15日頃に出発し“壱岐”で東路軍と合流する事になっていた。しかし3,500隻の軍船に100,000人が分乗して出発する事自体が大変であり、大軍の出発には、かなりの時間を要した。そこに、総司令官の“阿刺罕(アラカン)が急病で“阿塔海(あたはい)”に交代するというアクシデントが重なり、出発予定が大幅に遅れたのである。

混乱は更に重なった。江南軍が自ら得た情報から、大宰府を攻略するには、両軍の集合地点は当初決めた“壱岐”よりも日本側が防衛地域としていない“平戸島”の方が有利だとの結論と成り、土壇場で集合地点の変更を行ったのである。

大船団の江南軍の中から“平戸島”への集結地変更を伝える為の300隻が出航した日付が1281年6月18日だった事は分かっている。しかし、残る3200隻が“慶元”から抜錨し終えた具体的な月日については不詳である。

以上、スタートから計画変更が重なった東路軍900隻、江南軍3,500隻の計4,400隻の出発であった。加えて、モンゴル兵、漢人兵、高麗兵、そして旧南宋兵から成る142,000人の世界史上例を見ない混成部隊の大軍勢が、しかも余り経験の無い“海上軍事大遠征”を決行したのである。これ等の事だけでも、かなりのリスクを抱えた大軍勢であった上に、混成部隊が必然的に抱える“意思疎通の難しさ”という大きな“弱点”を抱えた“元軍”だった。

若し、北条時宗がこうした“元軍”が抱える弱点の全てを見通した上で“撃退の二字あるのみ”に徹して、フビライからの8度に及ぶ“服属要求”を“黙殺”したばかりか、使節を2度も処刑するという挑発的強硬策で意図的に敵を戦闘に引き入れたのだとしたら、政治家として歴史上稀に見る“慧眼”の持ち主であったと言える。

しかし、残念乍ら、北条時宗は2回に及んだ“元寇”の後に鎌倉幕府が崩壊に直結する財政上の負担を負い、幕府と御家人との“絆の崩壊”が起き、それが鎌倉幕府滅亡に繋がって行くという事を見通していなかったのである。

18-(4)-④:東路軍が対馬、壱岐を攻撃、占領し、長門を襲う・・1281年5月21日~28日(高麗史・勘仲記)

東路軍は江南軍の総司令官の急遽交代や集合地変更があった事は全く知らず、当初予定通り壱岐島を目指していた。5月21日に対馬に到着。船団は先ず対馬攻撃から開始する。
以下に戦闘状況を時系列に記述する。

1281年5月21日:東路軍は対馬の世界村大明浦(対馬上県郡佐賀村の大明神浦と推定される)に上陸。日本側の激しい抵抗に遭う。高麗史に拠ると“郎將・康彦、康師子等、多くの武将が戦死したとある。最終的に東路軍は対馬を占領した。

同上 5月26日:壱岐に侵攻。高麗史には東路軍が壱岐の忽魯勿塔(クルモト=現在の壱岐北西部の勝本港沖)に向う途中、暴風雨に遭遇し、兵士113人、水夫36人が行方不明になったと記している。

しかし、勝本から上陸し、壱岐も占領する。この戦いで守護代として在島していた当時19歳の少弐資時(少弐経資の息子:19歳)は“ふなかくし城”に籠城し、防衛戦をしたが毒矢を何本も受け、壮絶な最期を遂げた。彼の部隊は全滅した。

この戦いの惨状は”八幡愚童訓“にも書かれている。“(略)見かくる者を撃ち殺し、くる者をうち殺し、狼藉す。島民ささえかねて妻子を引具して深山に逃げかくれにけり。さるに赤子の泣声をききつけて、さぐりもとめて捕えけり。さりければ片時の命をおしむ世の習ひ、愛する児をさし殺して逃げかくれするあさましき有様なり”

こうした悲惨な歴史を刻み込んだ“壱岐島”を2013年5月13日~5月14日に友人と訪れた事は記したが、博多港からフエリー船に乗り、到着した場所が“芦辺港”であった。港の直ぐ側の少弐公園に“少弐資時”の墓があり、隣接の壱岐神社に祀られている。

今日、観光地として訪れると、実に風光明媚な穏やかな島であり、日本の電力王として知られる”松永安左エ門記念館“や多くの美しい海水浴場があり、実に素晴らしい島だが、730年以上前の“元寇”で壱岐島民は上記“悲惨な殺戮”の歴史を経験しているのである。

同上 5月28日:日本側の記録として、公卿・広橋兼仲の日記である“勘仲記”の6月14状に“今日、大宰府飛脚到来、異賊船三百艘着長門浦(略)”とある。この記事は、東路軍の中の船300隻が、中国地方の長門の浦に来着した事を指していると思われるが、詳細については史料が少なく不明である。

但しこの事は壬生顕衝の日記“弘安4年(1281年)日記抄”にも書かれている事から長門でも戦闘があった事は間違いない。

18-(4)-⑤:当初の作戦であった“東路軍と江南軍が合流して本土総攻撃を行う“事が守られず、東路軍は単独で大宰府西方からの上陸を試みた。しかし”防塁“に阻まれ、失敗する

出陣前のフビライが諸将を集めて訓示をした中に“一致協力をする事、不和の戒め”があった事は記したが、これ等の事が全く守られなかったのである。

江南軍の到来を待たずに東路軍は単独で大宰府西方からの上陸を決定した。この作戦の変更をフビライに伺いを立て、了承を得たとされる。“東路軍”には“文永の役”での経験者も多かった事から、フビライも認めたとされるが“文永の役”の時とは日本側の迎撃体制がまるで違っていた事を掴んでいなかったのである。

弘安4年(1281年)6月6日、東路軍は博多湾に現れた。しかし、博多湾を守る日本軍の備えは7年前とは格段に充実しており、東路軍は進軍を阻まれる事に成る。それが北条時宗が“異国警固番役”制度を定め、博多湾沿岸に築かせた高さ2~3m、幅2mの“石築地”であり“文永の役“の6倍に上る武士団(非御家人も含む)の参陣だったのである。
(注:“元寇防塁“と呼ぶのは昭和に入って考古学者・中山平次郎氏が命名して以降の事であり、正式には石築地(いしつきじ)と呼ぶ)

“文永の役“の際には無かった、高さ2~3mの石築地(=防塁)は西は今津、東は香椎迄、延々20㎞に亘って築かれていた。河口等、石築地が築けない所では“乱杭(らんぐい)”が打たれ“元軍”が進入出来ない様に成っていたのである。

“元寇石築地(防塁)”遺跡は福岡市内だけで7ケ所ある。残念ながらその多くは江戸時代の“福岡城”築城の際に石垣として使われてしまった為、遺構の規模も小さい。私も、友人と“元寇防塁遺蹟”7カ所の中の2カ所を訪れた。その1カ所が2013年5月12日に尋ねた今津海岸の元寇防塁である。福岡県福岡市西区今津が所在地であるから福岡空港からレンタカーで今津海岸を目指せば簡単に行ける。

今津の防塁は建治2年(1276年)鎌倉幕府が日向国と大隅国の御家人に担当させて築いた石築地(いしついじ=防塁)の遺構とされる。我々が見学した“防塁遺構”は長さは僅か100m程度、高さは約2m、幅2m程であった。こうした防塁が“弘安の役”で“元寇”から日本を守ったのである。730年前の北条時宗以下の鎌倉幕府、朝廷、さらには一般庶民を含む日本全体の緊迫した様子が蘇える遺構である。

石築地遺構から少し歩くと“長浜海岸”の砂浜に出る。“文永の役”で“蒙古・高麗・連合軍”に攻められた鎌倉幕府は、その経験に学び“第2次元寇”に備え“石築地”に防備の工夫を加えている。日本軍が守備をする内陸側からは騎馬のまま駆け上がれる様になって居り、一方、攻め入る敵側の浜辺側からは“乱杭や逆茂木”等の障害物で上陸を阻止する仕掛けがあった事が“予章記(伊予国の河野氏の来歴書)“に書かれている。

防御という面では非常に有効な“石築地(防塁)”であった。尚、鎌倉幕府は九州の御家人に所領に応じた分担をさせ、20㎞の防塁を築かせたとある。博多湾からの上陸を試みた東路軍を阻んだ“防塁”だったが、伊予国の御家人・河野通有を代表とする武士団の勇猛果敢な応戦も上陸を断念させた大きな要因であった。

18-(4)-⑥:“志賀島”に上陸した“東路軍”・・1281年6月6日~6月8日

福岡市内にある7ケ所の“元寇防塁”見学の2ケ所目は2015年4月11日福岡市早良区の西南学院大学、並びに修猷館高校の近くにある防塁であった。規模は大きく無いが史跡公園となって居り、当時を語る案内板等もあり、防塁がどの様に構築されていたかを知る事の出来る貴重な史跡である。

博多湾沿岸からの上陸を阻止された東路軍は博多湾の北方の“志賀島”に向い、上陸し、これを占領した。この史実は東路軍の“張成”の墓碑の記録等から知る事が出来る。東路軍が志賀島に上陸して占領し、周辺を軍船の停泊地とした事、並びにこの東路軍に対して、日本軍の河野通有らの武士達が夜襲を行い、夜が明けると引き揚げるという戦法で抵抗戦を展開した事等が分かる。

上記墓碑の他にも“高麗史”や“蒙古襲来絵詞”更には“筑前右田家文書”等の史料からも大友頼康、安達盛宗等、日本の武士達の奮戦ぶりを知る事が出来る。

1281年6月8日:

日本軍の武士達は志賀島を海路と陸路の両面から総攻撃を敢行している。当時も“海の中道”と呼ばれた陸が続いていた為、東側からは船を使わずに大友頼康や安達盛宗等は攻撃したとされる。東路軍の“張成”は日本軍300人程を討ち取るが、日本軍の攻勢に敗走する。東征軍元帥の洪茶丘も危うかった事が“高麗史節要“に書かれている。

又、伊予の御家人“河野通有”は“元”の軍船に乗り込み“元軍将校”を生け捕った手柄が“福田文書”に見られる。肥後の御家人“竹崎季長”も、海上からの攻撃で活躍した事が“筑前右田家文書”並びに“蒙古襲来絵詞”に書かれている。

1281年6月9日:

記録にはこの日も日本軍が大健闘した様子が元側と高麗側の記録に書かれているから、信憑性は高いものと考えて良かろう。この日の戦いで敗れた東路軍は“志賀島”を放棄して“壱岐島”に後退する。“壱岐島”に向った理由は、未だこの時点で“東路軍”は“江南軍“との合流地点が“平戸島”に変更された事を知らなかった為である。

18-(4)-⑦:“東路軍”は“疫病蔓延”という惨状に見舞われる。こうした状況下で主力部隊の“江南軍”は未だ到着せず“撤退案”が飛び出す・・情報連絡の齟齬

100,000人の兵力(交戦兵力85,000人)を擁する主力部隊・江南軍は“壱岐島”では無く“平戸島”での合流が作戦上有利との判断から合流地点を変更していた。又、合流する時期も東路軍は6月15日と理解していたが、合流地点変更を伝える為に先発した江南軍・の300隻の軍船ですら、6月18日の出発であったから、あり得ない話である。両軍間に情報連絡の不備が最初から生じていたのである。

志賀島で敗走した“東路軍”は当初の合流地点と信じていた“壱岐島”で江南軍を待った。しかし“合流期日”と信じた“6月15日”になっても一向に“江南軍”は現れないばかりか、洋上生活が長くなった事に拠って“東路軍”の内部に疫病が蔓延するという事態に見舞われた。この結果3000人余りが死んだとされる。“高麗史”の“金方慶列伝”には“軍中又大疫、死者三千餘“と書かれている。

この様に日本軍の執拗な抵抗による被害に加えて、疫病による甚大な被害が重なり“東路軍”は江南軍との合流を果たす前に“戦闘能力の大幅低下”に追い込まれていたのである。

ここで“東路軍”総司令官・東征都元帥の“忻都(ヒンドウ)”並びにその部下で高麗出身の元軍“洪茶丘(こうさきゅう:生1244年没1291年)”が“撤退の是非”について切り出す。この二入の意見に大反対したのが征日本都元帥の高麗人“金方慶”であった。

彼は“兵糧の準備はまだ1カ月分ある。江南軍と合流し、一斉に日本を攻めれば必ず日本軍を滅ぼせる“と主張したのである。高麗史の”圓鑑国師集“の記述には“忻都(ヒンドウ)”も“洪茶丘”も“金方慶”の意見に従ったとある。

この様に、早い段階から、“東路軍”トップの腰が引けていたという事である。

18-(4)-⑧:全“江南軍”100,000人が“平戸”で“東路軍”との合流を果たしたのは、1281年7月に入ってからであった

合流地点変更を伝える為の菅軍万戸・葛刺歹(カラダイ)が率いる約300隻の部隊が6月18日に出発してから100,000人の軍勢を運ぶ大船団、計3500隻全ての進発が何時完了したかについては史料が無い。

しかし先発の300隻が“壱岐島”で待つていた“東路軍”に“平戸島”への合流点変更を6月末には伝え終わっていたであろうという事は推測出来る。

その根拠としては“勘仲記(広橋兼仲)”に、対馬に宋朝船300艘が現われた事が伝聞として書かれている事“弘安4年日記抄(壬生顕衡)”に“異国又来襲”の記事がある事、そして元軍と日本軍の間で合戦となった事を知らせる“大宰府からの早馬”があったとする記事が残されている事である。

慶元(寧波)・定海等から出航した世界史上例の無い大艦隊が7昼夜かけて、全て平戸に集結するには7月に入る迄掛かったとされる。その中で、都元帥“張禧”が率いる4000人の部隊が日本軍の攻撃に備えて、塁を築いて陣地を構築し、艦船を風浪に備え、お互いにぶつからない様、五十歩の間隔で平戸島周辺に停泊させた事が“元史”に書かれている。

この江南軍“張禧”の慎重な対応が、後に台風によって壊滅的被害に遭った他の部隊との大きな差となった。

18-(4)-⑨:“第二次壱岐島の戦い”・・1281年6月29日

1281年5月3日に出航してから既に2カ月近くに亘って“単独”行動をとり、戦闘を続けていた“東路軍”は、防塁で博多湾からの上陸を阻まれ、志賀島で日本軍の激しい抵抗に遭い、更に“疫病蔓延”によって多数の死者が出るという惨状であった。そして軍のトップに“撤退論”が出る程の“戦力・戦意”の低下を来していたのである。

そして“東路軍”は“志賀島“を捨て、江南軍との合流点と信じていた“壱岐島”に退いた。この“東路軍”に日本軍が攻撃を仕掛けた。戦いの様子は“薩摩比志島文書・山代文書・龍造寺季時伝・肥前龍造寺文書“に記されている。

この合戦に参加したのは“薩摩・肥前・筑前・肥後”の御家人達が主であったが、松浦党、彼杵(そのぎ)、高木、千葉、龍造寺氏等も参加している。この戦いは、5月26日に東路軍に拠って略、全島民が殺戮された戦いに対して“第2次壱岐島合戦“と呼ばれる。凡そ15,000人規模の日本軍勢が“東路軍”の大船団目がけて総攻撃を開始したのである。

1281年6月29日に薩摩の御家人“島津長久”比志島時範、松浦党の肥前の御家人・山代栄や船原三郎等が攻撃を開始し、大宰府からも少弐経資(しょうにつねすけ)を大将とした部隊が参加し、日本軍全体の指揮をとったとの記録がある。

この戦いで少弐資能(しょうにすけよし=経資の父)が5月26日の“壱岐島”の戦いで日本軍が全滅し、その時に戦死した孫の“少弐資時(19歳)”の弔い合戦として84歳で参戦し、勇猛に戦かったものの、重傷を負い、それがもとで8月28日に没した話が伝えられている。

この戦いは7月2日迄続いた。日本軍の善戦に“手負いの東路軍”は壱岐島を放棄し“平戸島”に向けて移動を開始したのである。

京都の官務・壬生顕衝の日記“弘安四年日記抄”に書かれた内容から、当時の日本側は“壱岐島“の戦いで元軍が壱岐島を放棄し、退散、撤退したと受け止め、大勝利したと考えていた事が分る。勝利した事は間違い無いのだが、実態は“東路軍”がこの時点で江南軍の全軍が平戸島に到着し、合流を待っているとの情報を得た為、合流の為に壱岐島を放棄したというのが真の理由であった。日本側は“元軍”の合流情報を掴んでいなかったのである。

“第2次壱岐島合戦”では、日本軍は多くの死者を出し乍らも、既に手負い状態の“東路軍”に更なるダメージを与えたという点で重要な戦いであった。鎌倉幕府は後にこの合戦で活躍した“山代栄”に対して肥前守護の北条時定(得宗家の3男で経時、時頼の同母弟阿蘇家の祖)からその功績に対して書下(かきくだし=守護以下の武士に広く用いられた直状形式の下達文書)が与えられた事が記録に残されている。

18-(4)-⑩:東路軍と江南軍は合流後、主力部隊が鷹島に移動する・・1281年7月中旬~7月27日

壱岐島を放棄して平戸島に移動した“東路軍”が“江南軍”と漸く合流した時期は7月2日以後、7月上旬である。この時点で“東路軍+江南軍=元軍”は東路軍が単独行動で蒙った被害はあったものの、依然として140,000人に近い兵力と4,000隻を超える大軍船団を擁していた。都元帥“張禧”が率いる4000人の部隊だけは平戸島の守備として残った。主力部隊は大宰府を目指して進撃すべく“鷹島”に移動するが、その日が7月27日であった事を“元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘”から知る事が出来る。

“鷹島”は現在、長崎県松浦市に属する九州北西部の伊万里湾の入り口にある、東西5㎞、南北13km、面積17平方kmの島である。2009年4月に“鷹島肥前大橋“が開通し、陸路で行ける様になっている。北は玄界灘の荒波が寄せるが、南は奥深く、風避け、波避けとなる安全域の伊万里湾が広がるという地形条件を勘案し“元軍”はこの域に4,400隻の大軍船団、140,000人近くの兵を集結させたのである。

そしてその後、20日間以上もの間、この大軍船団は平戸から鷹島にかけての海上で停泊していた事になるが、その理由は不明である。

いずれにしても、この様な大軍船団が3kmx5kmの停泊域に20日間以上も留まって居たという光景は当時の日本全体に想像を絶する圧迫感と恐怖感を与えた事であろう。

18-(4)-⑪:鷹島沖海戦・・事実上の“弘安の役”の主戦場、決戦場となった・・1281年7月27日

上記した様に7月上旬に東路軍と江南軍が合流し4,400隻の大軍船団、凡そ140,000人の軍勢が伊万里湾に現れたのである。

7月27日を“鷹島沖海戦”の開戦日とするのは“元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘”の記録や“鄭思肖”の“心史”の記録に拠るものだが、日本軍は7月27日以前から小舟で元軍にゲリラ戦を展開していた。元軍はこれに手を焼いていた事が記録に残っている。

300トンの大型の元軍の軍艦には“回々砲(かいかいほう=石弓)”が装備されており、15cm程の石の玉(重さ800~3,000g)を梃子の原理を使った投石機で飛ばし、日本軍の小舟を散々に破ったと書かれている。この石の砲弾は今日、鷹島沖から数多く発見され“松浦市立鷹島歴史民俗資料館“に展示されている。

“元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑”には“将軍、打可島(鷹島)に至ると賊船(日本軍船)ふたたび集まる。応戦して明け方に至る“と書かれ、鷹島沖に停泊していた“元軍の大艦船部隊”からの“石の砲弾”を浴びながらも、日本軍が海上から執拗に攻撃を続け、夜襲を仕掛け、夜明けと共に引き揚げる戦法を取った事が分る。陸上ではゲリラ戦を展開した。


地理に明るい郷党・松浦党は当時、玄界灘の覇権を握る程の実力集団であったから、複雑な地形を利用して不意に切り込む等の戦法で元軍を悩ませ、元軍はしばしば海上に逃げる等、戦域は広がって行った。

当初の“元軍”の作戦は平戸島から一気に大宰府に侵攻するという計画であった。しかし、モンゴル人の指揮官“忽都哈思(クドウハス)”が戦死する等、日本軍の善戦で、元軍側に思わぬ被害が出た事で、慎重になり、作戦の大幅変更を余儀なくされた。その結果、元軍は“鷹島”に石塁を築いて日本軍の襲来に備え“鷹島”に1か月も留まる事になったのである。

鷹島には“文永の役(1274年)“の際にも元軍が上陸し、住民を虐殺している。こうした過去の歴史から、松浦市には今日でもこの激しい戦闘の状況を伝える地名が残されている。
郷土史家の“古賀稔康氏”の採録からそれらを紹介して置こう。

逃げの浦・・元兵が海に逃げた
追い出し・・元兵を追い出した
血田・・戦闘で血に染まった
大刀洗・・戦勝の太刀を洗った
火焚き場・・日本軍が合図のノロシを上げた
血崎(現在は津崎)・・元兵の血が岬を染めた

日本軍の思わぬ抵抗に手こずった“元軍”ではあったが、この段階での戦力はまだまだ優位にあったと言える。

18-(4)-⑫:更なる大軍を追加進軍させる等、挙国一致体制を強めた鎌倉幕府・・1281年6月28日付“弘安四年日記抄(壬生官務家日記)”の記録

両軍の軍勢比較を記述した時に“京都・西国の防備“を担っていた”宇都宮貞綱“率いる60,000人を日本軍総数から除いた。記録には北条時宗はこの部隊の出撃を命じて居り、当時未だ15歳だった“宇都宮貞綱”を総大将とする60,000人の部隊が、命を受け、山陽・山陰の御家人を率いて九州に向けて出陣している。

更に鎌倉幕府は同日付で、九州並びに中国地方の因幡、伯耆、出雲、石見の四カ国の荘園領の年貢を兵糧米として徴収する事を“朝廷”に申し出、本来幕府の権限の及ばない荘園領にまで権限を及ぼす“戦時動員体制”を敷いている。日本側が“挙国一致体制”で臨み、北条時宗の“得宗独裁(専制)政治体制”が強大な政治権力を日本全国に及ぼしていた事を裏付ける史実である。

上記、宇都宮貞綱(元寇出陣の功績で後に引付衆に任じられる)が率いた60,000人の大軍の先陣が中国地方の長府に到着した頃には既に“元軍”は“台風”の為に壊滅していた。従ってこの大軍が実際の戦闘に加わる事は無かった。この60,000人を加えて“弘安の役”は120,000人の軍勢で臨んだというのが武田邦彦氏の説であり、戦力的にはほゞ拮抗していたとしている。

18-(5):超大型台風が襲い“元軍”の軍船の多くが転覆し、壊滅的被害を与える・・1281年閏7月1日

“鎌倉年代記裏書“に1281年7月30日の夜半から閏7月1日にかけて大風(台風の事)があった事が書かれている。又、広橋兼仲の”勘仲記“の記事には京都でも7月30日の夜半から翌、閏7月1日にかけて暴風大雨に襲われたとある。

18-(5)-①:元軍が台風に遭った事は決して“神の仕業(=偶然)”では無かった

1281年7月30日夜半から翌閏7月1日に元軍が台風に襲われた事は偶然とは言えない。東路軍が日本侵攻に出発してから既に3カ月近くが経っていた。博多湾に侵入し、日本軍との戦闘が始まってからでも2カ月が経っている。そして6月末には“江南軍”も到着し始め、順次両軍が合流した。総勢140,000人に上る“元軍”は更にそこから1か月程の間、北九州地区の海上に停泊していたのである。

統計的に北九州地区に上陸する台風は平均してシーズン中、3.2回とされる。上記、旧暦の1281年7月末は現在の9月中旬過ぎに該当する。台風シーズンの真っ只中である。“元軍”は、2~3カ月もの長期間に亘って台風の通り道である北九州の海上に滞まっていたのだから、かなりの確率で台風に見舞われる事は全く不思議では無い。“元軍”を見舞った“巨大台風”は“予期せぬ神風”だったとは言えないのである。

18-(5)-②:高麗軍が建造した軍船の方が江南船よりも遥かに頑丈であったという史実

元軍の記録で、平戸島に在陣した江南軍の軍船だけは、都元帥“張禧”の配慮で軍船同士の距離を充分に空けて停泊していた為、大被害を受けなかった事は記した。“鷹島”周辺に停泊した殆どの軍船はそうした配慮を怠った為、巨大台風で軍船同士が衝突し、砕け、沈没し、東路軍の左副元帥・阿刺帖木皃(アラチムル)が溺死するという惨状となった。

中でも“江南軍”“の軍船が蒙った被害は大きく、約3,500隻の中、無事だった軍船は上記“張禧”の配慮で難を免れた軍船を主に、僅か200隻程であったとされる。一方、東路軍の軍船、高麗船900隻の被害は軽微であったとされる。

この事から、高麗で造船された軍船は頑丈な作りであったとされる一方、江南船は脆弱な造りであったとされる。その結果、高麗兵並びに“東路軍”の兵士の生還者は7割を超えていたとされる。又、鷹島沖の海底から回収された“元軍”の遺物の殆んどが“江南地方の陶磁器”であった事が判明し、高麗産の遺物は発見されていない事がこの説を裏付けるものだとされている。

18-(6):台風に拠る大被害の後“元軍”は軍議を開き、撤退を決める

1281年閏7月5日に江南軍総司令官で南宋人の“范文虎”と、同じく江南軍・都元帥の“張禧”等の諸将が軍議を開いた。“張禧”は戦闘続行を主張したが、総司令官の立場にあった“范文虎”が主張した為、撤退が決定した。

既述した様に、東路軍の幹部も“志賀島”の戦いで敗走し、疫病が蔓延して多くの死者を出した6月時点で、総司令官の立場にある忻都(ヒンドウ)、その部下で東征都元帥の立場の“洪茶丘”が早々と撤退を口に出し、高麗人の“金方慶”に制せられた事を記述したが、総じて“元軍”の最高幹部連中の戦闘意欲は元々高く無かったとされる。

18-(6)-①:兵卒10万人余を置き去りにして“我先に”と撤退した“范文虎”はじめ諸将

“元史”に、撤退を決定した江南軍総司令官“范文虎“は同じ江南軍の都元帥“張禧”から頑丈な軍船を貰うと、僅かな腹心の部下だけを載せて帰還してしまい、その他の諸將(厲徳彪・王国佐・陸文政)も多くの兵卒を無理矢理、軍船から降ろし、自らが乗り込み、置き去りにして帰還の途に着いたと書かれている。ただ一人“張禧”だけは“平戸島”に残った部下の兵士を軍船に収容した上で帰還したとある。

こうした信じられない話が真実であった事が、後に“范文虎”以下の諸將に見捨てられ、置き去りにされ、生き延びた兵士が1301年に帰還し、訴え、その証言から明らかとなったのである。“元史“にはフビライを継いだテルム(成宗)が激怒し、事実を確かめ、“范文虎”が白状し、彼の一家と共に斬首刑に処せられた事が書かれている。他の諸將も同様に処刑された。ただ“張禧”だけは上記の様に部下の兵士を見捨てなかった事から、罰せられなかったとある。

又、この事は“蒙古襲来絵詞”の1281年閏7月5日付の記事に、肥前の国の御家人の言葉として“鷹島の西の浦より(台風で)破れ残った船に賊徒(元兵)が多数混み乗っているのを払い除けて、然るべき者共(諸將)と思われる者を乗せて、早や逃げ帰った“と書かれている事からも裏付けられる。

18-(7):鷹島に置き去りにされた”元軍“を殲滅した日本軍・・1281年閏7月7日

18-(7)-①:御厨(みくりや)海上合戦

日本軍は1281年閏7月5日の午後6時頃、御厨(みくりや)海上合戦と呼ばれる戦いで肥後の御家人・竹崎季長、筑後の地頭・香西度景等が活躍し、元軍の軍船を伊万里湾からほゞ一掃した事が“蒙古襲来絵詞”はじめ“筑後五條文書”“肥前武雄神社文書”“豊後都甲文書”等かなり多くの書物に記録されている。

台風が去った後の1281年閏7月7日に日本軍は“鷹島”に籠った多くの“元軍”兵の殲滅に動いた。上述した様に元軍は司令長官”范文虎“を初め、諸将が既に撤収した後であり、臨時の指揮官として“張総官”が指揮に当たったとあるが、置き去りにされた“元軍”兵士達の士気が高いはずも無く“撤退”を急ぐ状況であった。戦闘意欲に差があったこの戦いに日本軍は容易に勝利したのである。

18-(7)-②:鷹島掃討戦を以て“弘安の役”は日本軍の大勝利で終った・・1281年閏7月7日

豊後の御家人・都甲惟親(とごうこれちか)・惟遠父子が鷹島の東浜から上陸して掃討戦を行い、又、その他の御家人達も各所で戦意を失った“元軍兵士”を散々に掃討した記録が残っている。“弘安の役”はこの”鷹島掃討戦“を以て日本軍が大勝利し、終決したのである。

18-(8):“元・高麗連合軍”の損害・・“高麗兵”の帰還者率が圧倒的に高かった理由

日本軍に捕らえられた捕虜の数は“元史”には20,000~30,000人と書かれている。そして捕虜は1281年閏7月9日に八角島(博多の事か)に連行された。“元軍“の総兵員、142,000人の中、帰還出来た兵士(含む非交戦員)がどの位いたのかに付いては、1割と言う説と4割と言う説があり、非常に差が大きい。“不詳“と言うのが実態である。

“高麗史”に拠れば、142,000人の中の27,000人が帰還したとしている。その中、約19,400人が“高麗人(東路軍)”だとし“東路軍”の帰還者率は“72%”と圧倒的に高かったとしている。軍船が頑丈だったという記録、帰還率の高さ、これ等の記録は共に高麗の優秀さを伝える意図もあろうが、史実の一端を語るものであろう。

18-(9):“弘安の役”に於ける“元軍”側の被害を具体的に伝える記録は日本側には殆ど無い

日本側には九州からの使者からの情報として、京の官務・壬生顕衡の日記“弘安四年日記抄”の弘安4年(1281年)閏7月12日条に書かれた“台風に拠り元軍が崩壊し、元兵2000人が降伏“という記事、更には、公家・広橋兼仲の日記”勘仲記“の弘安4年(1281年)閏7月14日条に”台風を受けて元の軍船の多くが漂流・沈没して元兵の誅戮、並びに捕虜が数千人に及んだ“との記述がある程度である。

日本側に“高麗史”の様に“元軍”の損害を数字で伝える能力が無い事は仕方が無い。従って“元軍”側に大被害が出た事だけを極めて大雑把に伝えている。捕虜についても“元史“が伝える記事に頼るしか無い。それに拠ると、日本軍はモンゴル人と高麗人、並びに漢人の捕虜は殺害し、幕府と交流のあった“旧南宋人”の捕虜は命を助け、奴隷にしたと記述している。又、高麗史には、工匠や農業に知識のある捕虜は命を助けた、と書いている。日本側に裏付けとなる記録は無いが、その一部は有り得る話だと考えられる。

18-(10):“弘安の役”に日本軍が勝利した要因を総括する

“弘安の役”では日本側が“宇都宮貞綱”率いる60,000人の兵力を投入する迄も無く、台風に拠る被害で“元軍”が壊滅状態になった。この結果“神風に拠る御加護”が勝因の全ての様な通説が罷り通る事に繋がるのだが、既述した様に、日本軍は勝利する多くの要因を持っていた。以下に改めてそれらを纏めて置きたい。

要因①:元軍の総軍勢142,000人の中、江南軍、100,000人は“旧南宋軍”の兵士が中心であった。“文永の役“の時以上に混成部隊であり、軍の統制は軍のトップ間でも取れていなかった。又”日本占領”という使命感も決して高く無かった事

“元”が漸く“南宋”を滅ぼしたのは1279年の事である。その“南宋”では兵士を金銭で集めるという方法をとっていた。その“南宋軍”をフビライは主力部隊“江南軍”としたのである。征服した現地兵を次の戦争に投入するという方法は“モンゴル帝国創建”当時からの策ではあったが“旧南宋軍を解散させれば大量の兵士達が社会不安の元となる”という事情もあったとされる。


要因②:“江南軍”の軍船の作り、兵士の質、が劣った事

2011年10月24日に伊万里湾の鷹島沖の海底に沈んでいる船を調査した結果、江南軍の軍船と判定された。又、2014年10月2日には、その約1.7km東の海底で2隻目の軍船が発見されたが、この船の周辺から回収された遺物品にも江南地方の物品が多かった。この事から、軍船の作りも東路軍の作りに比較して、強度面で、かなり劣るものであったと判断された。

又、鋤・鍬などの農耕器具はじめ、穀物の種子等がその他の生活用品と共に多く発見された事から、江南軍は“軍隊兼移民団”であったとの説が生れた。兵士としての十分な訓練もされて居らず、質も決して高く無い兵士が多く参戦していたのではないかとされている。


要因③:日本側には北条時宗の“得宗独裁(専制)政治体制”の下、強固な“挙国一致体制”の“纏まり”があった。そのベースは鎌倉時代に培われた“封建制”に基づいた組織であった事。


今谷明氏の研究に拠ると、周囲の国々を次々と武力制圧する事に拠って大帝国を築き上げた“元”であったが、エジプトのマムルーク朝、神聖ローマ帝国、そして日本の3地域の武力制圧には失敗している。マムルーク朝には日本の御家人制に似た構造があり、スルターン(君主)との強い忠誠心で結ばれていた事が元国の侵攻を回避出来たとしている。

日本の場合も、北条時宗が将軍権力を奪い、政治権力をほゞ一人の手に掌握していた事が“大きな統制力”を生み、結果として“2度の元寇”に勝利出来た大きな要因とされる。

19:マルコポーロの“東方見聞録”に書かれた“日本”と“弘安の役”

19-(1):“東方見聞録”の紹介と此処で書かれた“日本”

概要については既述したが、ここでは“東方見聞録”の内容を含め、その真偽について記述して置きたい。

①:1298年にメロリアの戦いで捕虜となったイタリア・ヴェネツイアの商人のマルコポーロが同じ牢獄に居たイタリア人“ルステイケロ・ダ・ピサ”に口述し、それを“ピサ”が採録編纂したものが”東方見聞録“である。

②:諸外国では“世界の記述”又は“イル・ミリオーネ”の名でも呼ばれるが、日本では“東方見聞録”と呼ばれる4冊から成る書物である。日本についての記述は3冊目にあり“黄金の国ジパング”として紹介されている。

③:以下は“東方見聞録“に書かれた”日本“に関する記述内容とその簡単なコメントである。

記述:中国の泉州から1500海里(約2500km)に浮かぶ独立した島国である・・

(コメント):この距離は“元軍”が上陸を試みた“九州北部”との距離にほゞ相当する。

記述:ジパングは莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金で出来ている等、財宝に溢れている・・

(コメント):マルコポーロは泉州に滞在した事があるが、その時に収集した情報であろう。彼自身は一度も日本を訪れていない。又“黄金”は中尊寺の金色堂を見た人の話から(金閣寺はまだ出来ていない)という説もあり、又、当時の日中貿易で日本からの赤字代金分の支払方法として“砂金”が使われていた事から“日本黄金伝説”が形成されたとの説もある。

記述:この国の人は敵を取り押さえ、殺して、料理した後で大きな宴会を開いてそれを食べて仕舞う。彼等にとって人肉はこの世で一番の御馳走なのです・・・。

(コメント):この記述は当時、中世の西洋人にとって、“キリスト教会のモラル”と無縁な“東洋”は“野蛮な奇習の土地“と考えられていた事の証である。ジパング(日本)に対してもこの様な出鱈目の話が書かれたという事である。

ポルトガル人が実際に日本を訪れるのは1543年(種子島)の事であり、実に250年も後の事である。又”東方見聞録“には”ピサ”が中国人から聞き知った話も勝手に入れたとされる。従ってこうした事実と異なる作り話も多い。

19-(2):東方見聞録に書かれた“弘安の役”

“弘安の役”に関する記述はマルコポーロ(生:推定1254年・没1324年)が父ニコーロ、叔父マフエオと共に“元”のフビライの政治官に任命され、重用されたという関係から、史実と整合する部分もある。一方で、著者“ピサ”による創作部分も多い。従って史実を探る“一級史料”としては使えない書物である。

以下に“東方見聞録”に記述された“弘安の役”の内容を史実と対比する形で紹介して置く。

記述①:フビライは島国“日本”の豊かさを聞き、これを征服しようと思い、アバタン(阿刺罕=アラカン)とジョンサインチン(范文虎=フアン・ウエン・フー)の二入の将軍に命じ派遣した・・・

(史実):当初の“江南軍”を率いる元軍の総司令官にアバタン(阿刺罕=アラカン)が任命されたとの記述は正しいが、彼は病気の為、阿塔海(アタカイ)と交代している。このアカタイも実際に参戦した記録が無く、ジョンサインチン(范文虎=フアン・ウエン・フー)が実質的な“江南軍の総司令官”であった。そこまでの事情に詳しく無かったマルコポーロが誤って語った事が書かれたという事であろう。

記述②:二人の将軍の部隊は泉州と杭州の港を出発し(略)島に上陸し、平野と村落を占領したが城や町を奪う事は出来なかった。(略)凄まじい北風が吹いてこの島を荒らし廻った。島には殆ど港というものが無く、船団は一溜まりも無かった・・・

(史実):戦況の詳細についての記述は“東方見聞録”には殆ど無い。以上の記述も台風に遭遇して“元軍”が被害を蒙ったという事を聞きかじり、記述したという事であろう。

記述③:タタール人(モンゴル人)達は隙を見て日本軍の船に乗り込み上陸し、首都(京都)を占領した。(略)ジパングの王と軍隊はその後で、本島(日本)に戻り、兵を集めて首都(京都)を囲んだ(略)中に籠ったタタール人(モンゴル人)達は7か月の間、持ち応えたが、命を助ける代わりに生涯ジパングの島から出ないと言う条件で降伏した。これは1268年に起こった事である(略)フビライ・ハーンは逃げ帰った将軍の首を刎ねた。もう一方の将軍に対しても武人にあるまじき振る舞いとして処刑の命令を出した。

(史実):“東方見聞録”が記述している戦いとは“弘安の役(1284年)”を指すものと考えられるが、上記からも年代などに間違いがある上に、元軍が“京都”を陥落させ“元軍”が籠城した、などと全く史実と異なる創作話を書いている。

しかし“逃げ帰った将軍が処刑された”という部分は概ね正しい。“范文虎”はじめ、諸将の事を語ったものであるが、既述した様に彼等は“鷹島“に将兵を置き去りにして逃げ帰り、後に皇帝テルム(成宗)によって家族と共に処刑された。既述の様にこの話は史実である。”元国“内では相当に有名な話だったのであろう。

20:元寇対応に命を懸け、世を去った北条時宗(生1251年没1284年4月20日)と、時宗の死後も10年間に亘って第3次元寇に執念を燃やし続けたフビライ・・1294年2月18日没(79歳)

20-(1):弘安の役に勝利した事で再び高麗征伐を掲げた北条時宗・・1281年8月

“文永の役”の直後に鎌倉幕府が“高麗征伐”を掲げたものの、御家人達の尻込みで立ち消えになった事は記述した。“兼仲卿記”弘安5年(1282年)7月並びに9月巻裏文書に”弘安の役“の大勝利の直後に再度、鎌倉幕府が高麗出兵計画を掲げた事が書かれている。“東大寺文書“にも同じ記録がある。

それ等に拠れば、幕府は”少弐経資・大友頼康“を大将軍として、彼らが支配する九州北部の3カ国の御家人を主力に動員し、更に大和・山城の”悪徒=僧兵“56人にも協力を要請する形で”高麗出兵“を掲げている。

結論的にはこの出兵計画も実現していない。その背景を記述する資料は無いが、今回も御家人達の困窮が主たる理由であったと考えられる。事実、2度に及んだ“元寇“対応で御家人達の負担は大きく、その一方で恩賞に預かる事が出来た御家人は限られるという深刻な状況があった。

幕府としては、今度こそ“高麗出兵”を実現し、敵地に攻め入る事で、御家人達に制圧した高麗国の土地等を恩賞として与え、之までの負担に対する不満を解消したいと考えたのであろう。

フビライ側はこうした鎌倉幕府の“高麗侵攻策”を察知し、高麗国の金州等に“鎮辺万戸府”を設置して防御体制を固めた事が“高麗史”に書かれている。

20-(2):“第3次元寇”に動くフビライと第8代執権・北条時宗の死

20-(2)-①:“弘安の役”の敗戦直後からフビライは“第3次元寇”を計画していた

“第2次元寇=弘安の役”に失敗したフビライは一度、日本侵攻の為の司令部“日本行省”を廃止している。ところが、諦め切れなかったのであろう“第3次元寇”計画を進めた記録が残っている。

彼の強い執念に火をつけたのは“高麗国王(忠烈王)“であった。彼はフビライの女婿でもある。150隻の軍船を提供し、フビライの日本武力侵攻(第3次元寇)に助力する旨を上表したという事が“元史”の1282年7月の記事にある。

更に1282年9月の“元史”には“弘安の役”で失った軍船を平濼、高麗、耽羅、揚州、そして泉州等で新たに3,000隻、建造を開始させた事も書かれている。

こうした軍船の為の木材確保は困難で、軍船の確保がままならず、民間から商船を徴発した事も記述されている。こうした状況下ではあったが、フビライは一度は廃止した日本侵攻の征東行省“日本行省”を復活して“第3次元寇”の準備を本格化した事が1283年1月付の“元史”の記録から分かる。

更に“弘安の役”の際に、実際には参戦しなかった“阿塔海(アカタイ)”を今回も“総司令官”に任命している。フビライが日本侵攻を急いでいた様子が分る。兵員が足りない為、重犯罪者から成る“囚人部隊”も動員したという記述も残っている。この様に“第3次元寇”の準備がされていた。主力部隊は、江南地方からの軍勢を考えていた様だ。そして、決行時期を1283年8月としていた。(元史・高麗史)

20-(2)-②:“第3次元寇”に備え、気の休まる暇の無かった北条時宗が病没する・・弘安7年(1284年)4月4日(33歳)

2度の“元軍”の襲来を撃退した北条時宗・鎌倉幕府だが、戦後処理として、御家人、非御家人、神社等に対する恩賞問題にも頭を悩ませていた。幕府としての財政難も深刻に成って来る中で、猶“第3次元寇”に備えて“異国警固体制”や“防塁”構築等を益々強化する必要もあり、難問山積みという状態であった。

1284年に入ると、既に病床にあったとされる北条時宗は、結核とも、心臓病とも言われる病で4月4日に33歳の若さで急逝し、蒙古襲来の殉死者を敵味方の区別なく弔う為に弘安5年(1282年)に創建し、師と仰ぐ“無学祖元”を開山とした“円覚寺”に葬られたのである。

“北条時宗”の死はフビライが完全に“日本行省”を廃止し、日本への武力侵攻を諦めた1284年5月の1カ月前であった。郷土歴史シリーズ“元寇”の著者岡本顕實氏は北条時宗という人物像について下記の2点を挙げている。

①:それにしても北条時宗なる人物は智謀の將か、豪胆の雄か、それとも・・・古来多くの史家が彼の“人となり”を計りかねている。それは彼を伝える文章や人柄を偲ばせる個人的エピソードが皆無に近いせいにも拠るのであろう

②:未曽有の国難に直面し乍ら“撃退”の二文字しかその脳に浮かばなかったこの青年指導者は、公家衆(朝廷)や武家衆(幕府)そして新興宗教に走る世間一般の全てが“蒙古襲来”に混迷を深めるという世情下にあって、迷う事無く、一本の白線の上を真っ直ぐ進んで行った人物だった

フビライは忍耐強く日本に“服属”を迫った。それは日本を武力で侵攻する事も彼の選択肢の中にはあったが、交渉に拠って日本を属国とする途を選び、その為の使節を何度も、粘り強く送り続ける事を基本姿勢としたからである。

当時の“元”の内外情勢を北条時宗・鎌倉幕府・朝廷が深く調査し、上手に交渉を持ち、両国の協調関係を築く事が出来たならば、時宗の生涯も別のものとなったであろうし、鎌倉幕府の滅亡も先延ばしする事が出来たであろう。

20-(2)-③:諫言を受け入れ、1283年8月に決行予定であった“第3次元寇”を延期したフビライ・・1283年5月

北条時宗の病死を知る由も無いフビライは“日本侵攻の執念”を燃やし続け、準備を続けていた。しかし、軍船の建造を担った江南地方は、その“負担増”から、盗賊の蜂起が起こる等、社会混乱を招いていた。

こうした状況に“雁彧”や“昂吉児(アンキル)”は“民の疲弊”を主たる理由に、2~3年は計画を延期する様、フビライに諫言したのである。フビライはこれを受け入れ“第3次元寇”決行予定日の3カ月前の1283年5月に延期を決めたのである。(元史)

20-(2)-④:江南地方で起きた盗賊蜂起問題への対応と、ベトナム南方のチャンパー王国への対応で“第3次元寇“決行の余力を無くしたフビライ

フビライの日本への“第3次元寇”決行の執念は強かった。延期はしたものの、決して諦めた訳では無かった事が“元史”の記録から分かる。具体的には1283年8月にフビライは民が困窮するとの配慮から、民間船を返還し、代わりに、モンゴル人の大船主の阿八赤(アバチ)が所有する船を徴発して軍船とする等、日本侵攻の戦力を整える事は止めていない。

ところが1284年に入ると状況は大きく変化する。“元”の国内事情の変化がその一つであった。1283年9月に江南地方の“広東”で大規模な盗賊の蜂起があり“元”はこの鎮圧に10,000人の兵を用いている。更に翌10月にも、滅ぼされた“宋王朝復興”を掲げる“黄華”が率いる10万人の群衆の蜂起があった。この鎮圧に当ったのが“劉国傑”率いる22,000人の日本への“第3次元寇”用に準備させていた部隊”だったのである(元史)。

これら“元”の不安定な国内事情がフビライの“執念”とは裏腹に“第3次元寇“を決行する為の戦力の余力をどんどん削いで行ったのである。

更に対外問題も浮上した。ベトナム中部から南部にかけて“チャム人”が建設した“チャンパー王国“との抗争が激化したのである。

チャンパー王国は中国の“後漢”時代の西暦192年に独立し、中国の書物では“林邑”の名で現れる王国である。“魏志の倭人伝”に卑弥呼の名が登場する西暦184年とほゞ同じ時期の建国であるから、チャンパー王国の歴史の古さが分る。

“唐”の時代には“環王国”、9世紀頃からは“占城”の名で現れる。ヒンドウー教の影響を受けた王国であった為、サンスクリット語の”チャンパー王国“と称する様になったとされる。

この王国の細かい歴史に就いては省略するが、このチャム族による王国の滅亡には2説がある。1471年にベトナム人の“大越国”の黎朝・第4代皇帝レタントンに拠って首都ヴィジャヤを陥落された時とする説と、チャンパー王国としては徐々に衰退しつつも、紆余曲折の末、1835年に京(キン)族官僚に拠る直接統治下に置かれた時とする説である。後者の説をとると、チャンパー王国は実に1643年間も存続した事になる。

徳川家康が“伽羅(キャラ=最も珍重された香木)”を求めて朱印船をチャンパー王国に派遣したという記録も残っている。

“元”のフビライは、1281年にこのチャンパー王国(当時はヴィジャヤ王朝)に行省を置き、南方諸国を統括する拠点にしようと考えたが、拒否され、武力侵攻をして首都“ヴィジャヤ”を攻撃した。しかし、激しく抵抗され“元軍”は撃退された。そこで、1284年に再び大軍を送るが、この時も日本への侵攻の場合と全く同じ様に“暴風雨”に遭い、撤退を余儀なくされた。フビライは“日本侵攻”のケースと同様にチャンパー王国への武力侵攻にも失敗したのである。

このチャンパー王国攻略に用いた軍勢も、日本への“第3次元寇“用に準備していた総司令官・阿塔海(アタカイ)傘下の15,000人の兵と軍船200隻だった。(元史)

この様にフビライは内外の情勢変化に対応する為に“第3次元寇“用の軍事力を使い果たし、1284年5月には“日本行省”を廃止する事になる。この時点で、日本への“第3次元寇”を遂行する余力を無くしたのである。

20-(3):日本への“第3次元寇“が不可能となった状況を知らずに、尚も”挙国一致体制“で防御体制増強の為の“消耗戦”を続けた“鎌倉幕府”

“元”が上述した様に国内、並びに対外問題から、徐々に国力、軍事力を消耗していたという情報を北条時宗、鎌倉幕府は殆んど掴んでいなかった。

当時の外交の窓口の朝廷も公卿の西園寺公衡(生1264年没1315年徒然草第83段に書かれている人物)“公衡公記”に“1283年秋以降に元寇がある”と書き、又“薩摩八田家文書”にも“1284年の春には3度目の元寇があるであろう“と書いている有様であった事からも、当時、朝廷をはじめとした日本の情報力の程度が分かる。鎌倉幕府は“第3次元寇”が近い事を確信して、九州の各守護に対して一層の防御体制の強化に当たらせ続けていたのである。

フビライの執念にも拘わらず、上述した“元”の内外の状況変化に拠って“第3次元寇”が実現しなかった事は、日本にとっては幸いであった。

21:日本に“神国思想”を齎した“元寇“での勝利・・2度に及んだ暴風雨・台風を“神風の御加護”と日本中が信じた日本の特異性

21-(1):祈る存在の“天皇家”が行った“異国調伏祈祷”の成果と“神国思想”

権中納言・広橋( 藤原)兼仲(生124が4年没1308年)の日記“勘仲記”は1268年~1300年に起こった蒙古襲来、鎌倉将軍の廃立、大覚寺・持明院両統の対立等、主要事件が書かれており、重要な“一級史料”とされる。

その兼仲は“文永の役”(1274年)を勝利と捉え“元軍”を襲った暴風雨を“神明の御加被”と記している。又“弘安の役”(1281年)の際にも、特大の台風が来て“元軍“を壊滅させた事を捉えて、全く同じ様に“神の御加護だ”と興奮気味に記している。

“大宰府より飛脚到来す。去る朔日大風波を動かし賊戦多く漂没すと云々(略)今度の事、神鑒炳焉(しんかんへいえん)の至りなり。天下の大慶何事かこれに過ぐべけんや。(略)末代と雖も猶止事(やんごと)なきなり。弥弥(いよいよ)神明・仏陀を尊崇すべき者か“と言った具合である。当時、日本側は“元軍”側の弱点等、内部事情を殆ど掴んでいなかったのだから、当然の事なのであろう。

又、北条時宗も真言僧“頼助(北条経時の子)”に祈祷を依頼しており、弘安4年(1281年)6月19日付で下記の様な礼状を書いている。多くの言葉を費やしてはいないが、北条時宗も神仏に祈りその感謝の気持ちを表わしている。

“異賊降伏祈祷の事、昨日満散の由、歓悦極りなく候、猶々御意に懸懸けらるべく候。(略)

“元寇”という未曽有の国難に“予期せぬ暴風雨・巨大台風”が加勢し、結果的に大勝利した流れを“神仏の御加護”に拠る大勝利だと結び付けたのである。“祈る事”が当時の政治の重要な“装置”であったのであるから“神の御加護”との考えに至る事は寧ろ“自然”だったのである。

“元寇“は未曽有の国家危機であった事は事実である。“国家・人民の為に祈る”事が日本創建以来、天から与えられた天皇家の立場だと考えた時代である。従って“天皇家”は神社・仏閣に“異国調伏祈祷”をさせ、天皇自身もその為の“行幸”を重ねたのである。

1271年10月25日に後深草上皇(第89代天皇:即位1246年譲位1259年)自ら、石清水八幡宮へ行幸して“異国調伏”を祈願している。又“文永の役”の際には亀山上皇(第90代天皇:即位1259年譲位1274年)が石清水八幡宮へ行幸し、徹夜をして日本軍の勝利と国土安穏の祈祷を行い、更に翌日にも賀茂神社、北野社の2社に行幸をし、調伏祈願をした事が記されている。

そして結果は2度の“元寇”共に“暴風雨と台風”が“元軍“に壊滅的被害を与え、日本側は勝利した。”天から超越的権威を与えられている“と信じる“天皇家”が祈り、そして“勝利”したのだから“神国思想”が強く根付いた事は“当然の流れ”だったと言えよう。

しかし“北条時宗と蒙古襲来“の中で著者・村井章介氏は、こうして”元寇”がその後の日本人に“神国思想“を与えた事は”負の遺産“を残した事だとして下記の様に論じている。

”蒙古襲来は日本人にとって、モンゴルという世界史の渦に接した稀有の体験だった。しかし、大風という自然的、偶然的な現象のお蔭で、その試練を大きな被害を蒙る事無く切り抜けた幸運は、他者への柔軟な視線を妨げる“独善的自己認識”という負の遺産を残したのである“

21-(2):筥崎宮見学記・・2015年4月10日

“元寇勝利“の恩賞問題は御家人に対するものばかりでは無かった。九州福岡の“筥崎宮(はこざきぐう)”は三大八幡宮(京都・石清水八幡宮、大分・宇佐八幡宮と共に)の一つであるが、独自に“異国調伏祈願”を行い“元寇”の勝利に貢献したとして“恩賞”を幕府に要求した記録が残っている。

戦場で戦った御家人同様、神社も“調伏祈願“に拠って勝利に貢献した事を主張したのである。元寇(文永・弘安の役)を記録した書物として貴重とされる“八幡宮愚童訓”のそもそもの記述目的が朝廷(幕府)からの“恩賞”を得る事にあった可能性が指摘される所以である。

国指定重要文化財である筥崎宮の壮大な“桜門”に、通常の神社の扁額とは異なる“敵国降伏”と書かれた扁額がある。私も2015年4月に仲間と訪れ見学したが、この地がまさに”蒙古襲来”の地であった事を我々に思い起こさせる史跡である。

筥崎宮の絵馬殿の横に高さ6m、重さ1トンの木彫像を奉安する“亀山上皇尊像奉安殿”が明治35年(1902年)に建てられている。亀山上皇は院政を敷いていた時期に“文永・弘安”の2度の“元寇”を経験した。

“元”の襲来に際して“身を以て国難に代える祈願”を伊勢大神宮に奉ったとされ“異国調伏祈願”に全身全霊で臨んだとされる。ただこの祈願が亀山上皇が行ったものなのか、皇子で第91代天皇に即位した後宇多天皇(即位1274年譲位1287年)が行ったものなのかについては、大正年間に学者間で大論争と成り、未だに決着していない。

又、1281年に“弘安の役”が起こると、朝廷から22社への奉幣(進物)と異国調伏の祈祷が命ぜられた事が記録に残っている。“弘安の役“で”元軍“を壊滅させた台風は伊勢神宮を初めとする諸神社が行った“異敵調伏”の祈祷の成果だったと、当時は盛んに喧伝されたのである。

そして一般民衆も当然“神の加護”だと信じ込んだのである。この様に当時から日本を“神国“だと信ずる考えは”国内の各階層の人々“に浸透して行ったのである。

22:“元寇”が及ぼした鎌倉幕府への影響

2度に及んだ“元寇”を阻止する事が出来た鎌倉幕府だが、新たな領地を獲得出来た訳でも無く、戦勝に対する論功行賞に行き詰まる結果と成った。

この事は鎌倉幕府の基盤である”御恩と奉公“そして”所領安堵“を与える事に拠って幕府と御家人間の”絆の拡大”が成される、というサイクルが崩れて行った事を意味した。御家人側からすれば“負担”ばかりが嵩み、不満が嵩じて行くという状態に陥って行ったのである。

更に事態を悪化させたのは“弘安の役”が終わった1281年後もフビライが1294年に没する迄“第3次元寇“の構えを解かなかったばかりか、フビライ没後も孫の“テルム(成宗)”に日本侵攻の“執念”が引き継がれた事である。

その為、鎌倉幕府は“異国警固番役“の体制維持と元寇防塁工事の継続という重荷を背負い続けた。記録に拠れば、防塁工事は鎌倉幕府が滅亡する前年の1332年迄続けられている。

23:“元“の衰退と”第3次元寇“の断念

フビライの孫の“テルム(成宗)即位1294年没1307年)”が“元”を引き継いだが彼の時代は1294年から1307年と短期であった。“元王朝”もフビライの時代を頂点に、皇位継承問題等、権力闘争に終始する不安定な時代に入って行く。そして1368年に朱元璋が明王朝(1368年~1644年)を興し“元朝”は滅亡するのである。

テルムの時代が安定していた最後の時期だったとも言えよう。テルム(成宗)は1299年、祖父の遺志を継ぐ形で13度目となる日本への使節を送っている。元の僧“一山一寧”並びに門人、それに8年間の日本滞在の経験が有り、鎌倉の禅門に多くの知己を持つ“西澗子曇”等を伴わせた。使節団は大宰府に向かい、当時の第9代執権・北条貞時宛の国書を伝えたとの記録が残っている。テルムはフビライとは異なり“武力侵攻一辺倒”のアプローチは執らなかった様だ。

こうした“高僧派遣”が効を奏したのか“一山一寧”の使節団は“斬首刑”に処せられる事を免れ、伊豆修善寺に幽閉された。赦免を願い出る動きが起きた為、執権・北条貞時は幽閉を解いたとされる。後に一山一寧(生1247年没1317年)は、円覚寺、浄智寺の住職を経て1313年には後宇多上皇に懇請され上洛し、南禅寺3世となり、臨済禅の興隆に尽力したのである。

テルム(成宗)は“日本への武力侵行は益無し”との結論に達し、祖父・フビライが執念を燃やした“第3次元寇”を断念する。

当時の鎌倉幕府の情報収集能力不足と情報の偏りからか、こうした“元”側の内情変化を第9代執権・北条貞時(生1272年没1311年)も全く捉えていなかった。そして、ひたすら父・北条時宗の遺志を継ぎ、既にテルム(成宗)が断念した“第3次元寇”に備え、御家人達の疲弊、並びに鎌倉幕府の疲弊を拡大して行ったのである。

次項で記述するが、戦費調達で借金に苦しみ、疲弊する御家人達に対して鎌倉幕府は“徳政令”を出して対応するがこの措置も一時的な効果しか無く、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府への不信感は次第に大きな流れとなって行った。

こうした御家人階層の没落傾向に対して“新興階層”の“悪党”の活動が活発化する状況に陥り、鎌倉幕府を滅亡させる一大勢力と成る。後醍醐天皇による“建武の新制“の立役者とされる楠木正成(生:1294年没:1336年)も鎌倉幕府から”悪党“と目された一人である。

北条時宗の没後から鎌倉幕府の滅亡に到る経緯については次項で記述する。

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