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2014年4月17日木曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代の始まりと院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
第7項 鎌倉幕府五段階の政治体制変遷の第四段階:寄合合議制政治体制・・内管領の専横と幕府滅亡の始まり


1:北条時宗急逝後の状況

第8代執権北条時宗は“得宗独裁(専制)政治体制”を築いた“カリスマ”であった。しかも“元寇”という未曽有の国家危機を2度に亘って勝利し、乗り越えた政権トップであったから、彼の急逝は鎌倉幕府体制に大きな影響を与えずには置かなかった。

1-(1):安達泰盛の権勢

北条時宗の死の直後、1284年5月から鎌倉幕府の実権を握ったのは北条時宗の舅であり、鎌倉幕府創設以来の御家人筆頭格の“安達泰盛(生:1231年没1285年)”であった。

村井章介氏は著書“北条時宗と蒙古襲来”の中で“弘安の役後、第3次蒙古襲来が必ずあるとの情報に時宗は死の瞬間まで気が休まら無かったに違いない。この頃から、国内政治では安達泰盛の権勢が増し、北条時宗を追い越しかねない状況であったとの説もある。一方で平頼綱を筆頭とする“得宗被官”も力を伸ばし、安達泰盛との対立が始まっていた“と記述している。

1250年、19歳の時に第6代宗尊親王将軍の近習となり、将軍文書の右筆を務め、又、蹴鞠奉行にも就いている。京風の文化を継承する存在だった。

1253年に父・安達義景が没し、23歳で家督を継いだ。1261年には、北条時宗に異母妹で、猶子としていた堀内殿(=覚山尼:生1252年没1306年)を嫁がせ、北条得宗家との関係を強固にした。

尚、覚山尼は夫・北条時宗が急逝した1年後の1285年に夫の暴力などに苦しむ女性を救済し、鎌倉に“駆込み寺・縁切り寺”として有名な“東慶寺”を建立している。又、同年11月に起きた“霜月騒動”で没落した安達一族の子供達を庇護し、その後の安達氏の勢力回復に大いに貢献した人物として知られる。

1266年、35歳だった安達泰盛は第6代将軍・宗尊親王の追放を決めた“神秘御沙汰=後の寄合”に、当時の執権・北条政村、連署だった北条時宗、金沢実時と共にメンバーとして参加している。将軍・宗尊親王の近習ではあったが、得宗家との関係を優先し、以後、鎌倉幕府の中枢に地位を保つ事になる。

1270年の日本は、蒙古襲来への対応に大わらわであった。挙国一致体制を作る政策の一環として、惟康親王を“臣籍降下”させ“第7代・源惟康将軍”と名を変える作業を行っている。この約50年振りの“源氏将軍”実現が、当時未だ19歳の北条時宗の発想だったとは考えにくく、北条政村、金沢実時そして39歳だった安達泰盛の発想であったとされる。

安達泰盛は20歳年下の北条時宗の舅として、又、寄合衆として支えたのである。

安達泰盛が幕政の中心に居た事は、弘安5年(1282年)7月に“秋田城介”の地位に加えて“陸奥守”を兼任した事で分かる(52歳)。陸奥守は大江広元と足利義氏を例外として、北条氏が独占して来た官途だったからである。又、泰盛は北条時宗が未だ存命中の1282年10月に,秋田城介の地位を嫡子の安達宗景(生1259年没1285年)に譲り、この地位を“安達家世襲”の地位だという事を世にアピールしている。

更に北条時宗急逝直後の弘安7年(1284年)5月には五番引付頭人の地位も安達宗景に譲っている。一方、本人は出家し、政治の表舞台から退く形を取ったが、実態は宿老として強い影響力を行使し続けたのである。

北条時宗急逝後、1284年7月当時の鎌倉幕府の政治体制は、北条時宗の嫡男、当時12歳の北条貞時(生1272年没1311年)が第9代執権職に就き、連署には、北条時頼の連署を務めた北条重時の4男、43歳の北条業時(なりとき:生1241年没1287年)が就いていた。評定衆に拠る“評定”は形としてはあったが、実際の政治は“寄合”に拠る“合議制政治体制“で進められる様に変化していたのである。

当時の“寄合”を構成した“寄合衆”は①北条(普音寺)業時②安達泰盛③太田康(文士)④平頼綱(内管領)⑤諏訪盛経(得宗被官)である。

“寄合”での安達泰盛の発言力は最も大きかった。安達一門が評定衆と引付衆総勢30人の中の2割を占めるという“安達泰盛政権”状態だった。

北条時宗の急逝で“鎌倉幕府五段階の政治体制変遷”の第三段階“得宗専制政治体制“は終り、第四段階の”寄合合議制政治体制“へと変遷していたのである。

1-(2):3ケ月の執権不在期間(1284年4月~7月)と安達宗景

安達泰盛は北条時宗存命中の幕府中枢の3人(北条政村・金沢実時・安達泰盛)の中の一人であり、唯一人の生き残りであった。得宗独裁(専制)政治体制下で“御内人”が政治権力を次第に握って行く流れの中で、幕府創設以来の“御家人”を代表する立場であった。

1282年に嫡子の安達宗景(生1259年没1285年11月)に自分の後継者として“秋田城介”の官途を譲った事、出家した際には宗景に家督も譲り、更に長年勤めた五番引付頭人も譲った事は既述の通りである。

1284年5月16日付け高野山の“検校祐信(けんぎょうゆうしん)”の手紙から、時宗の急逝から北条貞時が執権職に就く1284年7月迄の3カ月間は“執権職空白期”“であり、安達宗景が執権職を代行していた事が分る。

“検校祐信”は幕府からの依頼で祈祷を行い、巻数(かんず=寺などが願主の依頼で祈祷を行った旨、読誦した経典、陀羅尼の目録や度数を記して願主に送る文書)に添えて手紙を送っているが、その宛名が“秋田城介殿=安達宗景”だった。当時、こうした高野山等からの“巻数”に添えられる文書の宛先は“幕府の頂点=執権“と定められていた事から“執権職空白“が裏付けられたのである。

多くの歴史書の中に第9代執権・北条貞時の執権就任時期を北条時宗急逝直後の1284年4月としているものがあるが、正しく無い。この間に北条氏(佐介流)が絡んだ政争があった等の諸説もある。いずれにしても北条貞時の執権就任はスムーズに行われたのでは無く、3ケ月の空白期間があったのである。

1-(3):元寇対応で源氏姓に変えた鎌倉幕府第7代将軍“源惟康(惟康親王:生1264年没1326年・将軍在位1266年~1289年)“について

文永3年(1266年)7月、得宗家に抵抗し続けた第6代・宗尊親王将軍が廃され、京都に送還された。そして僅か2歳の惟康王(この時点では親王宣下がされていなかった)が征夷大将軍に就任し、名ばかりの第7代将軍に就いた。

1268年正月早々のフビライの国書到来を皮切りに、幕府、朝廷、そして日本中が蒙古襲来という未曽有の国難の対処策に揺れた。1268年3月に急遽、第8代の執権職に北条時宗が就き、御家人初め、武士階級の力を結集して“元国撃退”のあらゆる手段が講じられたのである。

鎌倉幕府の初代将軍(=武家の棟梁)源頼朝に肖って(あやかって)惟康王を“臣籍降下”させ“源姓”に変え“第7代源惟康将軍”を1270年に誕生させた事もその一貫であった。

一般には“将軍・惟康親王”と第7代将軍を呼ぶ事が多いが、23年間の将軍在職期間中“惟康王”の名での在職期間は僅か4年5カ月であり“源惟康”の期間が16年9カ月と、四分の三を占めた。尚、後に再び皇籍に戻った為“惟康親王将軍”となるが、その期間は残り2年に満たなかった。

この史実が示す様に、北条時宗の“鎌倉幕府の原点復帰”への思いは強く、自らを“承久の乱“の時の北条義時に擬えた(なずらえた)と伝わる。得宗・執権北条時宗としては、将軍を源氏姓に変える事に拠って”将軍を後見する得宗専制政治“を行う自らの立場の正当性を担保する意図もあったとされる。

2:安達泰盛が“弘安徳政”を主導する

2-(1):“徳政“が行われる一般的ケース

当時は、彗星の出現や地震といった“天変地異”が発生するのは“為政者の不徳”だと考えられていた。為政者はそうした“天変地異”を解消する為に“仁政”を行って“本来あるべき姿に戻す“事が役目だと信じていたのである。

過去、こうした事を担って来たのは”朝廷“であった。仁政(=徳政)の有名な例として、”荘園整理令“がある。本来は国の土地であるべきものが”荘園“となっていた場合には、そこに正当な理由が無ければ国の土地に戻す事を命じる“徳政令”が“荘園整理令”だった。その他“恩赦や改元“が為政者の代替わりの時に行われたのも、それに拠って降りかかった悪い状況を回避、解消しようとする為政者としての”仁政“の一方法だったのである。

“二度の蒙古襲来”という未曽有の国家の危機を体験した鎌倉幕府は北条時宗が急逝した事で、北条貞時へ“代替り”したという事情もあり“徳政”を行なう事が必須とされる背景があったのである。

2-(2):幼い執権・北条貞時の代理として“徳政”を開始した安達泰盛

北条時宗の急逝後、少年の貞時が1284年7月に執権職に就いたが、貞時の舅という立場と“寄合“を主導する強い立場を利用して安達泰盛が“徳政”を推し進めた。

北条時宗急逝直後の弘安7年(1284年)4月から弘安8年(1285年)11月に安達泰盛が“霜月騒動”で滅亡する迄の僅か1年半の間に、百余カ条に及ぶ追加法が発布された。(鎌倉幕府の法令は御成敗式目への追加という形式をとる為、追加法と呼ばれる)これらが“弘安徳政”と呼ばれた安達泰盛主導の幕政改革法令郡である。

2-(3):“弘安徳政令”の時系列発布状況と安達泰盛の幕政改革の狙い

“弘安徳政“と呼ばれる幕政改革の背景には“第3次元寇”の脅威が未だ残るという状況があった。

従って“弘安徳政”の最大の特徴であり、安達泰盛の最大の狙いは“元寇対応”で大きく変化した九州地区の“本所一円地(=院領荘園群・非御家人に属する荘園)“の名主、武士に安堵を与え、新たに御家人に編入する事に拠って、東国に偏在していた鎌倉幕府の統治範囲を日本全国に拡大し、政治権力を全国規模に及ぼす“幕政改革”を実現する事であった。

“弘安徳政”と総称される幕政改革の為に発布された法令郡は“八つの改革骨格“に分類される。それらの分類と、発布された法令の主なものを時系列に記述する。

2-(3)-①:“弘安徳政”八つの改革骨格

Ⅰ:君徳の涵養、奢侈の抑制・・将軍が幕府の主君に相応しい徳を育てる事。将軍のあるべき姿を示す

Ⅱ:関東御領の興行・・将軍の直轄領の確保によって将軍権力の強化を目指す

Ⅲ:主従関係の確立、拡充・・中核を成す法令は“鎮西名主安堵令”であった

Ⅳ:悪党、博徒の禁圧・・治安の維持・強化の為“四方発遣人”と呼ばれる使者が全国に派遣された。賄賂に拠って公平な判断が損なわれない様、進物が禁止された

Ⅴ:在京人の派遣・・六波羅探題強化の為、鎌倉から人材を送り込んだ

Ⅵ:流通経済の統制・・物流を円滑にする事で人々の煩いを除く狙いがあった

Ⅶ:訴訟制度の整備、訴訟担当者の引き締め・・裁判を正確、且つ迅速に進める為、引付責任制の導入に拠って、判断を一つに絞り込んだ上で上程する制度とした

Ⅷ:寺社領、仏神事の興行・・諸国の国分寺や一宮の所領を取り戻させる政策で“神領興行法”と呼ばれる。主に鎮西を対象に発布された

2-(3)-②:“弘安徳政令”で出された主な法令の時系列発布状況と八つの骨格との関連について
①:1284年5月
諸国守護に一宮・国分寺・関東御領の興行(盛んにする事)を命ずる法令・・将軍直轄領の確保を狙った(上記八つの改革骨格のⅡ)。
②:1284年5月20日
新御式目38カ条を発布・・前半の18条は“得宗”のあるべき姿を提示し、得宗被官が公領域へ介入する事を防ぐ意図を明確にした。後半の20条は将軍に関する事項で、当時の将軍・源惟康が政治の実権を殆ど剥奪された状態に対して将軍が遵守すべき事を列挙したもの。将軍権威の回復、強化と得宗権力の伸張の防止を狙ったものとされ、君徳の涵養、奢侈の抑制、将軍のあるべき姿を求めた法令(八つの改革骨格のⅠ)
③:1284年5月
悪党禁圧令8カ条の制定・・悪党・博徒の禁圧、治安の維持強化を狙ったもので“四方発遣人”を全国に派遣して取り締まる法令(八つの改革骨格のⅣ)
④:1284年6月
河手・津料の禁止令・・流通経済の統制を狙ったもので、物流を円滑にして人々の煩いを除く為の法令(八つの改革骨格Ⅵ)
⑤:1284年6月
鎮西の神領興行を命ず・・寺社領、仏神事の興行(盛んにする事)の法令であり、内容は且て寺社の所領だった場合は現在の権利関係は無視して寺社に返却する事を命じた法令(八つの改革骨格Ⅷ)
⑥:1284年9月
新御式目第二十四条“鎮西(九州)名主職安堵令”を発布。主従関係の確立・拡充を狙った法令。非御家人を御家人にする事に拠って新たな御家人の創出をはかる法令(八つの骨格のⅢ)

2-(4):“弘安徳政”の目玉となる2つの幕政改革法令と反対勢力の存在

安達泰盛の“弘安徳政”の名の下での幕政改革で特筆すべきものは“鎮西名主職安堵令”と“神領興行法”である。

この二つの法令は、蒙古襲来対応で、鎌倉幕府が指揮権を新たに及ぼした地域(鎮西)も含めた全国統治の幕府体制に改めようとした意図の下に出されたもので、幕政改革の目玉であった。

2-(4)-①:鎮西名主職安堵令・・1284年9月

鎮西名主職安堵令では名田所有者(名主=本所一円地住人=非御家人)を御家人化する事を意図した。“新たな御家人の創出策”である。蒙古襲来に対応する為の動員で発生した“恩賞要求”を御家人としての身分を安堵する事で解決しようとする意図であった。

2-(4)-②:神領興行法

この法も蒙古襲来に際して寺社が行った“異国降伏祈祷”に対する恩賞要求に対して幕府が出した法令である。鎮西の主要な寺社から第三者に渡った所領に付いては、例えその所領の知行が長年に及んでいても、買得したり質に取ったりした土地である事が証明出来れば、寺社に返却する様、命じる法である。この法も幕府としての苦肉の“恩賞策”と言える。

2-(4)-③:“徳政之御誌使”の派遣

上記法令で見る様に”元寇対応“で鎌倉幕府が負った恩賞要求に対する法令が”弘安徳政“の中心を占めた。“元寇”の戦いでは恩賞として与えるべき戦利品も無かった。そこで、九州の御家人初め、本所一円地住人や寺社に対して恩賞を与える形として幕府が苦肉の策で出した法令であったから、この法を実現させる事が重要であった。

その為、鎌倉幕府引付の奉行人・明石行宗、長田教経、兵庫助政行の3人が“徳政之御誌使(とくせいのおんし)”として鎌倉から鎮西へ1284年9月に派遣されている。

幕府としては素早く動く事で、鎮西地方で高まる不満解消に努めたのである。この“御誌使”の実務は弘安8年(1285年)正月に始まり、9月末迄の9カ月間で集中的に行われたと記録にある。

しかし、鎌倉幕府が性急に行ったこれ等の“恩賞問題”解決策は現実としては幕府の思惑通りに行く程、単純な問題では無かった。

“元寇対応”で鎌倉幕府が統治対象、範囲を鎮西初め、全国規模に拡大した事で生じた諸問題は“恩賞問題”だけに止まらず、幕府存立の基盤に関わる“幕府と御家人間の絆”すなわち“幕府と御家人との信頼関係”の崩壊に繋がる諸問題を含んでいたのである。

2-(4)-④:安達泰盛の考えに影響を与えた安達一族の歴史について

安達泰盛の曽祖父は源頼朝の流人時代からの側近で、政子との間を取り持ったとされる安達盛長(生1135年没1200年)で、その嫡子の安達景盛(生:不詳没:1248年)は第3代将軍・源実朝から1218年に、秋田城介に任官されている。承久の乱(1221年)では、政子の意志を伝える有名な演説を御家人達に伝える重要な役割を果した人物である。

景盛は又、1247年、三浦一族を滅ぼした“宝治合戦”で、老齢の身を押して高野山から降り、戦いの端緒を開き、活躍した事は既述した通りである。

その嫡男、安達義景(生1210年没1253年)が安達泰盛の父親で、宝治合戦では父子が共に主力として働いている。義景はその後“寄合”のメンバーになっている。

安達泰盛の妹が北条時宗の妻と成るが、この妹が生まれて間もなく、父・安達義景が没した為、泰盛は妹を“猶子”とした。従って、北条時宗の義父(舅)にも当たるという事である。

安達泰盛が主導した“弘安徳政”の考え方のベースには、こうした安達一族が辿った鎌倉幕府創設以来の長い関わりが大きく影響している。

弘安徳政による幕政改革は画期的な実験ではあったが余りにも性急であった。幕府創設時の原点に戻るべきだとの意図は得宗家の権限を押さえる事にも繋がる。その為、得宗家の“御内人”の筆頭で、内管領の立場にあった“平頼綱”等、反対勢力に拠って安達泰盛、並びに一族は滅ぼされる事になる。これが“霜月騒動”である。

先ずは“霜月騒動”へと展開する“弘安徳政”に対する反対派とその反対事由を整理して置こう。

2-(4)-⑤:“弘安徳政”に対する反対派と反対事由

Ⅰ:先ずは“御内人の抑制”を打ち出した“弘安徳政”であり、その代表である“平頼綱”が激しく抵抗した。

Ⅱ:“寺社領保護”策は性急であった事に加え、寺社への還付を命じられた一部の御家人や公家の抵抗が強かった。

Ⅲ:“鎮西名主職安堵令”は非御家人を御家人化する事であり、鎌倉幕府の岩盤である御家人制が根本的に影響を受ける事であった。旧来の御家人、取り分け、在地で本所一円地住人と競合する西国御家人にとっては、源頼朝以来の“特権的身分”を奪われる恐れに対する抵抗があった。

Ⅳ:“御家人制”自体を武士層一般にまで拡大しようとする急進性を帯びた改革であり、そこには旧来の御家人が享受して来た“身分的特権”を脅かす要素があった。従って反対派を多く生む事になった。

3:北条貞時の執権就任と安達泰盛と平頼綱

当時の幕政は北条時頼・時宗と二代続いた“得宗専制政治体制”が確立され、北条時宗の時代には“得宗独裁”と称される程に将軍職の機能を奪い、政治権力のほゞ全てが集中される状態であった。

鎌倉幕府体制内の諸機関は形骸化して実権を失っていた。評定衆・引付衆等は栄爵化して、政務の実権を持たなかった。政治は“得宗”の下で寄合衆並びに御内人(得宗被官)という体制外の組織に拠って運営されたのである。

1284年7月に得宗・北条貞時(生1272年没1311年執権在職1284年~1301年)が第9代執権に就任した時点では、安達泰盛が北条貞時の母親(堀内殿)の兄、養父という立場を利用し、その発言力を強め“寄合”を主導していた。

北条貞時の評定への“出仕始め”が正応元年(1288年)2月が初見だと記録されている。従って、16歳に成る迄の4年間は“寄合”にも出席していなかったと思われる。安達泰盛が“弘安徳政”を主導した期間は、未だ12~13歳だった訳で、貞時は幕府の重要事項の決定に一切、関わっていなかったという事である。

上述した様に、幕政改革(弘安徳政)を性急に主導した安達泰盛に反対する勢力が多く居たが、中でも、北条貞時の乳母夫を務め、内管領という立場から強く抵抗したのが“平頼綱”であった。

3-(1):平頼綱(生1241年没1293年4月22日)という人物

平頼綱の出自は、伊豆国の出身で北条家家臣の一族とされる。父・平盛時(平盛綱説もある)から侍所所司職を受け継いだ“平頼綱”は“文永役”の2年前の文永9年(1272年)頃には得宗家の執事に成っていたとされる。他宗攻撃、幕府批判を行った日蓮を逮捕し、佐渡に流し、門徒弾圧を行ったのが平頼綱である。

3-(2):政治権力で拮抗した安達泰盛と内管領・平頼綱、そして対立へ

この二入に共通しているのは、得宗・北条貞時に権力のベースを置いていたという事である。

北条時頼、北条時宗が”得宗独裁(専制)政治体制“を築いた結果、政治権力が得宗家に集中、その事が、御内人が得宗の代理人として、権力を握る事に結び付き、御内人主導に拠る“寄合合議政治体制”に変遷して行く。

1279年時点では安達泰盛と平頼綱の権力は、ほゞ拮抗状態にあったと考えられる。

“第1次元寇(1274年以降)”以降、早い時点から幕府は諸問題を抱えていた。幕府は“第2次元寇対応”として、得宗・北条時宗への政治権力を更に集中させる事で未曽有の危機打開を図った。

この事が“得宗専制政治体制”を強化する一方で“得宗権力”行使の代行者、御内人の筆頭であった平頼綱の権力を強大にして行ったのである。

こうした彼と、一方で“伝統的外様御家人”を代表する立場であり、北条時宗の外戚としての立場、伝統的な鎌倉幕府の重鎮という立場の安達泰盛が政治権力に於いて拮抗するという状況を作り出していた。

“弘安徳政”の名の下に行われた“幕政改革”に置ける上記した二者の対立点は幕府内の主導権争いとなり“霜月騒動”へと発展するのである。

4:霜月騒動・・1285年11月17日

“保暦間記(南北朝時代に成立した歴史書。保元の乱から暦応2年・1339年、後醍醐天皇崩御までを記述した貴重な史料であり、書名の由来でもある)”の記事から当時の北条貞時・安達泰盛・泰盛の嫡子安達宗景、そして平頼綱の4人の政治的立場、関係を紹介して置こう。

4-(1):保暦間記に書かれた“霜月騒動(弘安8年1285年11月17日)”の記事から分かる4人の人間関係

(略)(北条時宗の)嫡子貞時、生年十四歳ニテ、同七月七日彼ノ跡ヲ継テ将軍ノ執権ス。泰盛彼ノ外祖ナレバ、弥驕リケリ。其比貞時ガ内管領平左衛門尉頼綱ト申有リ。貞時ノ乳母夫ナレバ、又権政ノ者ニテ有リケル上ニ、憍ヲ健クスル事泰盛ニモ不劣。

(略)ココニ泰盛・頼綱、仲悪シクシテ、互イニ失ワントス。トモニ種々ノ讒言ヲナス程ニ、泰盛ガ嫡男秋田城介宗景ト申ケルガ、憍ノ極ニヤ、曽祖父景盛入道ハ右大将頼朝ノ子成ケレバ、トテ俄ニ源氏ニ成ケリ。

其時頼綱入道折ヲ得テ、宗景ガ謀反ヲ起シテ将軍ニ成ラント企テ源氏ニ成、由訴フ。(略)終ニ泰盛法師・子息宗景、弘安八年十一月十七日誅セラレケリ。(略)亡ニケリ是ヲ霜月騒動ト申ケリ。
(解説):
1284年7月7日に貞時が将軍の執権職に就いた。安達泰盛は舅の立場から憍(おご)っていた。同じ時期に貞時の内管領“平頼綱”が居た。安達泰盛に劣らず権勢に憍(おご)った人物であった。(略)泰盛と頼綱は仲が悪く、互いに讒言などで相手の失脚を謀った。

泰盛の嫡男、秋田城介の安達宗景が“曽祖父の安達景盛は源頼朝の御落(御落胤)であるから私は源氏なのだ”と言いふらし、俄かに源氏に改姓した。これを平頼綱が北条貞時に“宗景が源氏姓に改めた事は将軍になろうとしての事である。安達泰盛父子の謀反の企ては既に明らかである“と讒言した。。

(略)安達泰盛・嫡子宗景は弘安八年(1285年)11月17日に誅殺された。(略)安達一族は滅んだ。これを霜月騒動と言う。

4-(2):“霜月騒動”が起こる直前の政情

4-(2)-①:安達泰盛が主導する“弘安徳政”に平頼綱が反対した事例と深まる対立

内管領・平頼綱が“保暦間記“の記事にある様に、安達泰盛父子に対する讒言を北条貞時にした事は史実であろう。乳母夫の立場から少年だった貞時を徐々に自分サイドに引き入れて行ったという事である。“保暦間記”の記事に拠れば、北条時宗急逝1年後の1285年4月以降の二人の対立は“寄合”を主導する“平頼綱”と“評定会議”に影響力を持つ“安達泰盛”という形で激しくなって行った。

具体的な対立事例の記録が残されている。1284年5月に発布された“百姓の負債は領主、代官の署判が無い場合は督促出来ない“とする“百姓保護政策”に対して、この法令が発布された1年後の1285年4月に平頼綱が主導して破棄した事例である。

この様に、鎌倉幕府の本来あるべき姿を求めて原点回帰を目指し、公平性を求め、且つ、得宗の権限抑制を図った安達泰盛主導の“弘安改革”は何よりも性急過ぎた為、多方面からの反発を受けた。とりわけ、御内人・平頼綱を代表とする幕府中枢の抵抗が強く、早々に後退局面に入ったのである。

4-(3):“霜月騒動”・・弘安8年(1285年)11月17日

4-(3)-①:安達泰盛の“弘安徳政(幕政改革)”と朝廷側の“弘安徳政”との連動性

北条得宗家の外戚として越訴頭人、御恩奉行等、幕政の中心人物であった安達泰盛は得宗家の執事・内管領として得宗政治を具現化する立場にあった平頼綱と拮抗した政治勢力を競っていた。当初から、立場の違い、立ち位置の違いから、利害関係の衝突を孕(はらん)でいた“弘安徳政(幕政改革)”であったが、両者の緩衝役となっていた得宗・北条時宗が急逝した事で一気に両者のバランスに変化が生じた。

安達泰盛は北条時宗の急逝後、追随して出家し、法名を“覚真”と称した。しかし幕政から手を引いた訳では無く“弘安徳政”(幕政改革)を性急に主導し続けたのである。

将軍権威の発揚を図り、引付衆等の官吏には職務の厳正と清廉を求め、得宗には実務運営上の倫理を求め、御内人の幕政への介入を抑制する事、伊勢神宮・宇佐八幡神宮等の有力寺社領の回復に務める事、更には朝廷の徳政推進の支援などがその骨子であった。これ等によって“伝統的な秩序を回復させる”幕政改革を成し遂げようとしたのである。

既述の様に、本所一円地住人を御家人化する事によって幕府基盤の拡大と安定を図り、幕府の影響力を寺社・朝廷も含め全国規模に拡大する事も幕政改革の大きな主眼であった。

その規模と時期から見て、こうした幕政改革は、北条時宗存命中から時宗も了承した上で着手されていたものと考えられる。そして、ほゞ同時期に亀山上皇に拠る朝廷内の改革“徳政”も行なわれている。こうした事から安達泰盛は亀山上皇とも連動して“弘安徳政”を進めていたと考えられている。

1284年閏4月21日の日付であるから、時宗急逝後1カ月経った記事であるが、亀山院の評定で倹約について論議された事が“勘仲記”に載っている。更に、弘安8年(1285年)7月には在庁・公人・供僧等の国衙の構成員が本来所持していた名田畠を枯却(売り払う事)・寄附・質入れ等で手放していた場合、本来の子孫に取り戻させる“院宣”が出ており、こうした事から“弘安徳政”の下に、安達泰盛の幕政改革と朝廷改革が連動していた事が裏付けされるのである。

4-(3)-②:霜月騒動に於ける対立構図について

霜月騒動は単純に“安達泰盛”と“平頼綱“の個人的対立では無い。又“御家人対御内人”という立場の異なる階層間の対立構図でも無かった。平頼綱側も御家人であり、安達泰盛が御家人を代表して対立したという構図では無い。

鎌倉幕府の基本構図は“将軍と御家人”との主従関係で成り立っていたが、北条氏の様に傑出した御家人が現われ、成長した事に拠って“御家人”である北条氏に被官化(仕える)するケースが出て来た。こうして、時代を経るにつれて、鎌倉幕府の基本構図の中に“複数の主従制”が成長して来たのである。

“得宗家と御内人“という主従関係は”御家人に被官化した御家人“という”複数型主従関係“の代表的なものである。

既述した様に安達泰盛の幕政改革は余りにも急進的であった。その背景に幕府が抱え込んだ“元寇後の恩賞問題”という大きな“負の遺産”処理が幕府の主要課題としてあった為であるが、加えて、当の安達泰盛が将軍の名の下に恩賞を与える“御恩奉行”の職に在った事が、彼を“将軍を本来あるべき姿に戻すべき“との強い考えを持つに到った原点であった。

しかし、皮肉にも安達泰盛の考えは、将軍の権力を奪った”得宗家“と、その執行役である”得宗被官“の代表の平頼綱の存在を揺るがす危険性を持つものであった。

“鎌倉幕府創設時の原点に立ち返って”あるべき姿”を指向した“弘安徳政“の名の下に急進的な”幕政改革“を、しかも性急に安達泰盛が主導した結果、”霜月騒動“に発展したのである。

4-(3)―③:“安達泰盛”討たれる・・霜月騒動・弘安8年(1285年)11月17日

平頼綱が弘安八年(1285年)11月4日と14日に安達泰盛討伐の祈祷を行った記録が残っている。

安達泰盛は不穏な情勢に気付き、11月17日の昼に北条貞時の館に出仕する処を御内人の手勢に襲撃され、将軍御所を焼く合戦となった。午後4時頃には死者30名、負傷者10名を出して決着が付き、安達泰盛、宗景、そして泰盛の弟の安達長景などが討ち取られ、呆気なく終ったのである。

安達泰盛方の500人余りが自害し、上野国や武蔵国での自害者は報告出来ない程の数に上ったとされる。霜月騒動は鎌倉のあちこちで殺戮が続いたばかりで無く、安達泰盛与党の本拠のある全国に討手が差し向けられた。

武蔵(武藤少卿左衛門尉)信濃(伴野氏・小笠原氏)、常陸(安達重景・加志村氏)、三河(足助氏)、播磨、美作、因幡、安芸(小早河氏)近江(佐々木氏)そして九州の筑前、肥後にまで討手が差し向けられた。

博多郊外の岩門(いわと)での合戦では、弘安の役で総大将を務めた“少弐経資”と、その弟“少弐景資”が争い、少弐景資は安達泰盛の子、安達盛宗(嫡子安達宗景の弟)と結んで岩門城に籠って戦い、兄・少弐経資の軍に敗れ、自害している。

平頼綱は安達一族を殲滅したのである。

4-(3)-④:安達泰盛の思いと失敗

安達泰盛が霜月騒動で討たれ、鎌倉幕府は平頼綱をトップとする御内人集団の政治体制へと移行した。“鎌倉北条氏の興亡“の中で奥富敬之氏は、この戦いで“得宗専制政治体制”が“御内人専制政治体制”に移行したと述べている。

安達泰盛の思いは幕府や将軍の“本来あるべき姿”を求める事にあった。泰盛がこうした考えに到ったルーツは泰盛が“御恩奉行”という、本来“源氏将軍がやるべき職務”に就いた事に大きく起因していると既述したが、今少し、具体的に紹介して置こう。

有名な話が“蒙古襲来絵詞”で知られる“竹崎季長”との面会である。“文永の役”の翌年、1275年10月に“御恩奉行”だった泰盛が、蒙古との戦闘で“先駆け”の功に対する恩賞を求めて肥後国から命を懸けてやって来た“竹崎季長”の必死の訴え(詳細省略)を聞き、納得し、馬と具足を与えたという話である。

“蒙古襲来絵詞“は竹崎季長が後に安達泰盛への報恩の為に作成させた絵巻だと伝えられ、今日では国宝となっている。

北条時宗が急逝した時点で、将軍“源惟康(生1264年没1326年)”は20歳と若く、全くのお飾り将軍であった。又、将軍を代行すべき、得宗・執権北条貞時(生:1272年没1311年)も未だ12歳の少年であった。

1270年に臣籍降下をさせ“源惟康将軍”を誕生させた“寄合”メンバーの中、北条時宗(当時19歳)を除く三人の中、北条政村は1273年に68歳で没し、安達泰盛の盟友・金沢実時も1276年に52歳で没していた。そして北条時宗も急逝したという状況下で、幕府を“あるべき姿“に戻す“幕政改革”を行えるのは自分しか居ない、と、安達泰盛が考えたのも安達家が果たして来た歴史を考えると、無理も無い事と言えよう。

安達泰盛が目指した改革は源頼朝の頃の“将軍独裁制”又は、北条泰時の頃の“執権政治”であり、将軍権力の強化と将軍と御家人とが“絆”で結ばれる主従関係の再建であった。

北条時頼、北条時宗と、二代続いた“得宗専制政治体制”が確立していた事で、幕府の体制内の諸機関は形骸化し、実権を失っていた事にも安達泰盛は疑問を持ち、幕政改革を性急に主導したのである。

しかし乍ら彼の“幕政改革”は余りにも急進的であり、周囲の理解を得られなかった。そして反対派を代表する内管領の平頼綱派に拠って討ち取られ、安達泰盛の思いは達成出来なかったのである。

5:霜月騒動後の政治体制の総覧

北条時宗急逝(1284年4月)時点をとるか、霜月騒動(1285年11月)後の時点をとるかに拠って1年半の差があるが、この時点で“得宗独裁(専制)政治体制期”が終り“寄合合議制政治体制期”へと政治体制は変遷したのである。

この“寄合合議制政治体制期”は“鎌倉幕府滅亡”に繋がって行く期間でもある。北条時宗の急逝(1274年)から鎌倉幕府滅亡(1333年)迄の49年間を細川重男氏は下記の様にⅢ期に分けている。

I期:寄合合議制成立期:その1・・1284年4月~1285年11月・・北条時宗急逝~霜月騒動

その2・・1285年11月~1293年4月・・平頼綱専横期

(解説)・・北条時宗急逝から安達泰盛が霜月騒動で滅ぶI期(その1)の1年半(弘安徳政期)と、内管領・平頼綱が平禅門の乱で滅びる迄の7年半の平頼綱専権期(その2)に分かれる9年間である

Ⅱ期:寄合合議制成長期:1293年4月~1305年4月&5月・・北条貞時執政期間

(解説)・・“平禅門の乱”で平頼綱が滅ぼされ、北条貞時が政権を奪還してから1305年4月~5月に起きた“嘉元の乱”迄の12年間の北条貞時の執政期間。

Ⅲ期:寄合合議制完成期:1305年5月~1333年5月・・内管領長崎円喜一族に拠る政権専横期から幕府滅亡迄
(解説)・・“嘉元の乱”から元弘3年(1333年)5月22日に鎌倉幕府が滅亡する迄の28年間で、北条貞時が政務を放棄した事を切っ掛けに、内管領長崎円喜とその一族が鎌倉幕府を乗っ取った状態の執政期間

将軍並びに執権職が“お飾り”状態となり、内管領・長崎一族が政権を専横し、鎌倉幕府は“幕府創設時の基盤”即ち“幕府と御家人との絆(信頼関係)を失ない、抱えた諸問題を解決出来ずにいる中に、後醍醐天皇に拠る倒幕運動で滅亡する。


6:平頼綱専横期:上記I期(その2)期の政治について・・1285年11月~1293年4月

上記の区分で言えば、第I期の寄合合議制成立期の(その1)迄の記述は終えた事になる。

“弘安徳政“を主導した安達泰盛が霜月騒動で討たれ、反対派を主導した内管領・平頼綱が“寄合”に拠る、合議制政治を幕府の最高議決機関として主導して行った期間である。

以下に、上記の区分の第I期(その2)に該当する執政期に就いて記述して行く。

6-(1):内管領“平頼綱”の台頭

“寄合”は北条時宗の執政期には諮問機関に過ぎなかったが、急逝後は幕府の最高決議機関となって行く。安達泰盛を滅ぼし“寄合”を主導する立場となった“内管領・平頼綱”は、飽くまでも得宗家の家人、御内人(みうちびと)のトップという身分であったが、江戸時代の“側用人”と同様、得宗家が築き上げた“得宗専制政治体制”にベースを置いた強大な政治権力を、その代行者として行使して行ったのである。

6-(1)-①:“寄合合議制政治体制”を成立させた“平頼綱”

1285年11月の霜月騒動で弘安徳政を主導した安達泰盛を滅ぼし、政治の主導権を握った平頼綱は、得宗家の御内人の頂点に立つ内管領、そして乳母夫という立場から、未だ13歳の得宗・北条貞時を擁して、政治を主導した。44歳であった。

彼は北条時宗よりも10歳年上であり、御内人の筆頭格として“元寇対応”の戦時体制下から、北条時宗が政治権力を集約化し、拡大して行く事に乗じてその代理人としての“権力”を増して行ったのである。

“元寇”後も幕政は、御家人の所領問題、恩賞問題等、厄介な問題に加え、財政難等、深刻な問題が山積となっていた。こうした幕府運営に苦悩し、忙殺されていた北条時宗を補佐し台頭した人物である。

尚も“第3次元寇“が噂され”国防強化“等、内外共に難問山積みと言う過酷な政治状況下、第8代執権・得宗・北条時宗は1284年4月、33歳で急逝した。

3カ月後の1284年7月に嫡子で、満12歳だった北条貞時が第9代(得宗)執権に就く。

平頼綱はこの時点では43歳であった。そして安達泰盛(当時53歳)が先行する状況下、御内人筆頭、内管領として、徐々に発言力を強めて行ったのである。

平頼綱は安達泰盛の急進的な幕政改革に反対する御家人勢力と共闘し、1285年11月の霜月騒動で彼を滅ぼし、代って政権を主導する立場に成った。

しかし、得宗家の御内人(みうちびと)の立場は御家人より一段低い身分とされた為、御家人が主導する“評定衆・引付衆”のメンバーになる事が出来なかった。彼の政治の舞台は“寄合”の席だったのである。

鎌倉幕府内の政治組織の上で、基盤が弱かった平頼綱は“得宗・北条貞時“を擁し、補佐する立場が権力のベースであった。有能な彼は“得宗家公文所”を意のままに運営し“寄合”を幕府の最高議決機関に変え、それを主導する事で巧みに“政治権力”を伸ばして行った。

政治体制として、北条貞時の執政期も“得宗専制政治体制期”だとする説もあるが、平頼綱が主導する“寄合合議制政治体制の成立期”とする説の方が実態を表している。

6-(2):平頼綱が行った“脆弱な政治基盤”強化策

平頼綱は自らの脆弱な政治基盤を強化する為の施策をあれこれと講じた。以下にそれらに就いて記述するが、彼を取り巻く周囲の状況は“霜月騒動”では同志として“反安達泰盛・反幕政改革派”として共闘をした、大仏宣時(1287年北条貞時の連署)、北条時村(1301年北条師時の連署)などの”北条氏庶家一門“は全て対立関係に変っていた。

安達泰盛が1年半に亘って主導し“弘安徳政“の名の下に行った幕政改革を平頼綱は修正する事から始めたが、己の脆弱な政治基盤の補強策として特に力を入れたのが、皇位継承への介入等、朝廷に対する影響力の行使であった。

朝廷への接近は御内人である一族の“家格”を上げる目的もあった。周囲との対立関係から協力関係を築けなかった“平頼綱一門”としては、自らの陣営に政治権力を集中させる事にも大いに注力したのである。

6-(2)―①:皇位継承への介入

こうした“平頼綱”の動きを時系列に記述する。

Ⅰ:1287年9月26日:将軍“源惟康”の“立親王”を要請する。この結果、源家将軍は再び皇籍に復帰し“親王将軍”に戻る(実現は10月4日)

Ⅱ:1287年10月12日:関東申次の西園寺実兼を通して亀山上皇(第90代天皇・大覚寺統)の院制を廃させ、第91代後宇多天皇(大覚寺統)の皇太子を、第92代伏見天皇(持明院統・即位1287年譲位1298年)として即位させた。

:伏見天皇は持明院統からの即位である。この結果、1259年11月の第90代亀山天皇即位以来、2代28年の長きに亘った大覚寺統の皇統独占に終止符を打たせた。

:これが、第88代御嵯峨天皇(即位1242年譲位1246年生1220年崩御1272年)が起点となった第3皇子第89代後深草天皇(即位1246年譲位1260年生:1243年崩御1304年)の子孫の“持明院統”と第4皇子第90代亀山天皇(即位1260年譲位1274年生:1249年崩御1305年)の子孫の“大覚寺統”との間で皇位継承が交互に行なわれた“両統迭立”の始まりとされる。

:平頼綱は“持明院統”に接近した。

6-(2)-②:朝廷への接近・・持明院統系の第8代久明親王将軍を迎える

Ⅰ:1288年7月・・検非違使任官者(御家人)を在任中は朝廷へ勤仕する事を命じる

Ⅱ:1289年9月・・1287年10月に惟康親王将軍として皇籍復帰させ、年齢も25歳に達した為、長期在任となる事を嫌った鎌倉幕府は平頼綱の主導で排し、後深草上皇(持明院統)の第六皇子,久明親王(ひさあきしんのう)を第8代将軍として迎え入れた。これも持明院統へ接近した平頼綱の朝廷工作の成果だとされる。

6-(2)-③:平頼綱一門への権力集中策

Ⅰ:1291年2月・・訴訟の督励目的で、監察権を付与した御内人2名を鎮西に派遣し、訴訟裁判の迅速化を図った

Ⅱ:1291年8月・・寺社・京下り訴訟の処理促進の為、奉行人及び五方引付に対する督励・目的で監察権を五人の御内人に付与した。

上記、権限を与えられた5人の“御内人”の中、平宗綱(嫡男)・飯沼資宗(次男)・長崎光綱(平頼綱の弟説、甥説、従弟説があり確定せず)の身内3人が入っていた。

この事は平頼綱が信頼して職務を任せる事が出来たのが、自分の子息、並びに長崎氏(頼綱の身内)だけだった事を示している。平頼綱、並びに一門の権力基盤の脆弱さを物語る人事である。

6-(2)-④:一門に朝廷の権威(官位・官職付与)を付けさせ,自家の“家格”を上げる・・次男飯沼資宗を溺愛する

平頼綱は次男の“飯沼資宗(いいぬますけむね:生1267年没1293年)”を溺愛し、とりわけ彼の朝廷官位・官職を上げる事に意を注いだ。

結果、飯沼資宗は五位の位を得、大夫判官となる等、御内人としては嘗て無い栄誉を極めている。又、彼は、22歳の時、第7代惟康親王将軍が廃され、流罪人の様に京に(1289年9月)送還された時に、御内人としては異例の検非違使(京都市中の警察機関)に任じられている。

更に、1289年10月に新将軍・第8代久明親王を迎える為に上洛した時に、4~5百騎の武士を従え、御所、摂関家、検非違使別当邸を訪問した時の勇壮な様子が記録に残されている。更に、1292年5月の“葵祭”の行列に参加した様子は、正親町三条実躬の日記“実躬卿記”に“その美麗さはおよそ言語の及ぶところでは無い”と表現されている。

身分的に低かった平頼綱が、武家社会の中ではなく、公家社会からの権威付けを狙った事を示す史実である。

平頼綱は一門に官位を取得させ“家格”を上げる事に尽力したが、得宗被官が、上司の“得宗”よりも上の官職に就く訳には行かない。従って、北条貞時の官位上昇にも意を注ぎ、結果、北条貞時は1289年6月に弱冠17歳で従四位下に昇叙している。

これは父・北条時宗が1281年の閏7月、30歳で正五位下に昇叙した事と比較しても破格の事である。歴代の得宗の最高の官位は第2代執権・北条義時(従四位下)と第3代執権・北条泰時(正四位下)の例外を除けば、皆、正五位下だったのである。

6-(3):7年半の間に急変した平頼綱(生1241年没1293年)の政治

執権北条貞時が成長する迄の間は、外戚“安達泰盛”が“弘安徳政”を主導し、その後は内管領で乳母夫の“平頼綱”が7年半に亘って政治を主導した。

平頼綱の政治は最初の1年半の執政期と後半の6年間の執政期とでは様相が異なる。

前半の1年半は安達泰盛の“弘安徳政”期の政治の否定であった。そして後半の6年間の政治は“恐怖政治”“専横政治”の悪いイメージで語られる。得宗・北条貞時の権威を借りて、悪政、恐怖政治を行った期間とされる。

以下にそうした平頼綱の執政期を分けて記述する。

6-(3)-①:最初の1年半の政治・・1285年11月~1287年

彼は先ず“弘安徳政”を否定する政策を打ち出し,最初の1年半の政治は、異国警固、訴訟の公正と迅速化、鎮西訴訟、悪党禁圧を骨子とした政策に熱心に取り組んだ。そして“霜月騒動”で反・安達泰盛派として共闘した人々への配慮をした政治を行った。

Ⅰ:鎮西名主職安堵令廃止をし、本所一円地住人(非御家人)への対応を変える

本所一円地住人への軍事動員と恩賞宛行(おんしょうあてがい)は継続するが、本所一円地住人が“御家人”になる事を反故にした。

“弘安徳政”の中でも代表的な幕政改革政策として、1284年9月に鎮西に幕府から使者を派遣してまで下知した“名主職安堵令”を反故にしたのである。

これに拠って、鎮西の名主職保持者(本所一円地住人=非御家人)が御家人になる道は閉ざされた。一方で“第3次元寇”も噂されていた為、それに備える目的で本所一円地住人は、引き続き軍事動員される対象であり続けたのである。

1287年5月25日付で“祖父母が下文を持っている場合に限って、御家人と認める”との令を出している。つまり“源氏三代将軍の時代から御家人であった、本所一円地の住人の子孫だけは御家人として認める”と言う事であった。

非御家人の御家人化に拠って新たな御家人創出を図り、鎌倉幕府の統治範囲を全国規模に拡大しようと試みた安達泰盛の“弘安徳政”の主目的が消えたのである。

Ⅱ:鎮西談議所の設置・・1286年7月

平頼綱は二度に及んだ蒙古襲来に拠って生じた鎮西(九州)を中心とした政治課題に積極的に取り組んだ。博多に鎮西の統治と鎮西の御家人の訴訟を審理し、処理する機関として“鎮西談議所”を設置した。大友頼康・少弐経資・宇都宮通房・渋谷重郷の4人の合議に拠って決裁がされる様にした。この機能は1296年に設置された北条(金沢)実政を初代とする“鎮西探題”に機能ごと吸収される。

政治基盤が脆弱であった平頼綱の“幕政改革”は現実と妥協した政策とならざるを得なかった。その為、蒙古襲来後の鎌倉幕府の政治課題を根本的に解決する事にはならなかった。

上記した“鎮西名主安堵令の廃止”も現状との折衷案、中途半端な対応であった為に、本所一円地住人からは御家人と同等の負担を負わされる一方で、御家人とは認定されない事に不満が残った。又、西国の御家人層からは、本所一円地住人が実質的に西国御家人と同等の待遇を与えられる事に対する不満が残ったのである。

6-(3)-②:平頼綱の後半6年間の政治・・至尊(天皇家・朝廷・公家層)権威の活用と恐怖政治(1287年~1293年4月22日)

平頼綱には“霜月騒動”で安達一族の500名余りを自害に追い込み、全国に徹底した“安達一族討伐”の戦いを展開し、殲滅したという“恐怖政治家”のイメージが残っていた。

しかしこの事は、政治基盤が脆弱だった平頼綱にとっては寧ろ“強硬政治家”のブランドを獲得したプラス面もあったとされる。

平頼綱は至尊勢力(天皇家・朝廷・公家層)を最大限活用して、己の脆弱な政治基盤を補なった。1287年10月に“惟康親王将軍”として皇籍復帰をさせる事に成功した事で“鎌倉幕府の将軍は源氏である必要は無く、寧ろ親王将軍を戴いた方が幕府と朝廷との関係が明確と成り、好ましい“との考えに確信を持つ事に成る。

この成功体験が彼に自信を持たせ、彼のその後の政治姿勢をガラリと変えさせたとされる。以後は、強引な政治手法が目立ち“恐怖政治”と後世称される政治を展開して行くのである。

Ⅰ:平頼綱の“恐怖政治”事例の紹介

Ⅰ-①:得宗被官に監察権を付与する

平頼綱は御内人に監察権を付与する事に拠って“御家人”を“御内人”が指揮監督する仕組みを作った。この事は“御内人への権力集中”という事態を加速させ“恐怖政治”と恐れられる事に成る。

“霜月騒動後”滅ぼされた安達泰盛一派で生き残った御家人達は“宇都宮景綱”を筆頭とする反・平頼綱勢力を形成していた。彼等は平頼綱の“内管領(御内人)専制政権”が徐々に鎌倉幕府本来の組織を骨抜きにして行く事に不満を高めていた。

こうした抵抗勢力を抑える為、平頼綱は一門への政治権力の集中を更に進める一方、得宗被官に“監察権”を与え、御家人を御内人が指揮監督するという“仕組み”を考えたのである。

Ⅰ-②:“監査権”にまつわる“恐怖政治”の事例

平頼綱は九州統轄と鎮西御家人の訴訟審理、処理の為に博多に“鎮西談議所”を置いた。少弐、大友、宇都宮、渋谷氏の4人が頭人であったが、その外様御家人奉行に対して、正応4年(1291年)2月に“依怙の沙汰あり(=えこひいきをした決定が下された)”との密告が鎌倉に入った。

鎌倉からその実情調査の為に監査権を付与された“御内人(みうちびと)”の尾藤内左衛門、小野沢亮次郎の2名が九州に派遣された記録が残っている。どの様な厳しい処置を下したのかについての記録は無いが、得宗被官が御家人の奉行に対して指揮監督権を行使した事を裏付ける事例である。

又、1291年8月の記録には、寺社と京下りの訴訟事務が渋滞したという理由で、引付衆や奉行に対して“急ぎ沙汰する様”命じると共に“果して怠慢が無いか”を調査する為“監督権限”を付与された、飯沼資宗、大瀬惟忠、長崎光綱、工藤果禅、平宗綱の五人の“御内人”が派遣された記録があり“恐怖政治”の史実例とされている。

この様に引付衆や奉行ですら、御内人に拠って指揮・監督されたのであるから、一般の外様御家人に対する“監査権御内人“に拠る統制は相当に厳しかった事が想像出来る。

こうして“得宗・北条貞時”の権威・権限を借りた御内人の権限の拡大が“御内人専制政治体制“とまで言わせ”恐怖政治“と称されたのである。

“保暦間記(ほうりゃくかんき)”の記事には“平左衛門入道杲円(平頼綱は1294年に出家した為、法名は杲円(こうえん)であり、一般には平禅門と称された)驕りの余りに(略)今は更に貞時は代に無きが如くに成りて“ と書かれている。御内人トップの平頼綱が発揮した政治権力は得宗・北条貞時の存在も無きに等しかったと記しているのである。

Ⅰ-③:北条時輔の遺児を斬首刑に処す・・正応3年(1290年)11月

北条時輔については前項で記述したが、北条時宗の異母兄で1272年の“二月騒動”で反北条時宗一派として討ち取られた人物である。2001年のNHK大河ドラマ“北条時宗”で俳優渡部篤郎が演じていた事は6-6項で紹介した。

その時輔の遺児が、御内人になっていた三浦頼盛(1247年の宝治合戦で唯一生き残った佐原流三浦盛連の一族を継いだ宗家)の館を忍んで訪れ“クーデターを起こすので、その後ろ盾に成って欲しい“と申し出た。三浦頼盛は受け容れず、彼を捕縛し、鎌倉幕府に突き出した為、幕府(=平頼綱)は時輔の遺児に拷問を加えた挙句、斬首刑に処した。

この事件は“保暦間記”並びに“北条九代記”に記録されている。

Ⅰ-④:大量虐殺を語る記録

後の室町時代の禅僧で鎌倉公方・足利基氏に招かれ、基氏の没後、幼くして鎌倉公方となった足利光氏の教育係を務めた義堂周信(ぎどうしゅうしん:生1325年没1388年)が、北条氏の所領であった熱海の温泉を訪れた際に地元の僧から聞いた話が彼の日記に書かれている。

“昔、平左衛門頼綱(平頼綱)は、数え切れない程の虐殺を行った。此処には彼の邸があったが、彼が殺されると、邸は地中に沈んで行った。人々は皆、生き乍ら地獄に落ちて行ったのだと語り、それ故に今日では平左衛門地獄と呼んでいる“

別の話として、1271年に“日蓮(生1222年没1282年)”が鎌倉幕府並びに他の宗派を批判した廉(かど)で捕えられ、龍ノ口の刑場であわや処刑されかかったが“太刀取、目くらみ倒れ臥し兵共おぢ怖れる=処刑の太刀を振りかざした武士は空からの突如の閃光に目がくらみ、倒れ、恐れおののいた”と“種種御振舞御書(しゅじゅおふるまいごしょ=1276年、日蓮55歳の時に弟子の光日尼に与えたとされる書簡)に書かれている様に、日蓮は奇跡的に死を免れたという有名な話がある。

この時、日蓮を捕え処刑しようとしたのが“平頼綱”だった。この様に、平頼綱は“恐怖政治”と“悪役”として多くの記録にその名を留めているのである。

6-(4):平頼綱政治のベースにあったもの

彼の政治権力のベースは“得宗・第9代執権北条貞時”であった。その代理人として、得宗権力の強化は即ち平頼綱の権力を強化する事であったから、そうした思惑が彼が出した法令から明確に読み取れる。

又、彼が政治を専横した事を裏付ける“執事書状”が残っている。“霜月騒動”の1年後(1285年11月)に発給されたものだが、通常、重要政務に関わる執事書状には“得宗の花押”が必要であったが“花押”の無いものが発見されているのだ。

“得宗家公文所”を意のままに運営し、得宗家の広大な所領と軍事力を背景として“寄合”を主導した平頼綱の執政期が、こうした史料の裏付けの下に、独裁的権力を握り、政治を専横したと評されたのである。

こうした平頼綱の政治姿勢に対して幕府内部の御家人層の不満は募って行った。

平頼綱の恐怖政治のピークは1291年頃であり、この時点では19歳の北条貞時が動く機運は十分に熟してはいなかった。平頼綱が北条貞時に拠って討伐され、自害に追い込まれるのは2年後の1293年の事である。

7:成人した北条貞時と平頼綱との関係

北条貞時は第9代 執権職に1284年7月12歳で就いた。父・北条時宗の急逝から、1285年11月迄は貞時の外戚、安達泰盛が幕政改革を主導し、政治的対立から貞時の乳母夫の平頼綱に拠って一族諸共滅ぼされた。(霜月騒動)

この時点でも貞時は未だ13歳の少年であり、その後の政治の実権は内管領の平頼綱が北条貞時を擁し、補佐するという形で握った。平頼綱は1287年に第7代将軍を源氏姓から再び皇籍復帰させた事を起点として“独裁&恐怖”政治に変貌したと述べたが、この時点で15歳の北条貞時は政治に一切タッチしていない。

“御内人”という脆弱な政治基盤を平頼綱は貞時を利用する形で、朝廷対策を足掛かりとして実績を積み重ね、政治基盤を徐々に強化し“寄合”を主導して行ったのである。

成長するに従って北条貞時は、幕府の組織としての“評定”や“引付”に一切、政治基盤を持たない平頼綱が“寄合”を主導し、権勢を強めて行く状況に次第に不満と不安を抱いて行った。

そして21歳に成人した北条貞時が“内管領専制政治”を行っていた“平頼綱”を滅ぼす時が来る。

これが1293年4月に起る“平禅門の乱”であるが、その切っ掛けは意外にも平頼綱の嫡男が持ち込んだ彼の父と弟に対する讒言と密告であった。

8:平禅門の乱・・正応6年(1293年)4月22日

“保暦間記“の記述から”平禅門の乱“の切っ掛けが、平頼綱の父子の争いが招いた”讒言と密告”からであった事が分る。

平頼綱は次男の“飯沼資宗”を鍾愛(深く愛する)する一方で、嫡男の“平宗綱”とは不仲だったとされる。鎌倉幕府第7代将軍惟康親王が廃され、京へ送還される時に、平宗綱は父が将軍惟康親王を罪人の様に扱い、将軍権威の消滅を内外に示した事に憤慨したと書かれている。

この頃から平頼綱の政治姿勢が“恐怖政治”に変化して行った事は述べたが、そうした父・平頼綱と弟“飯沼資宗”の専権振りを最も近くで、しかも最も批判的に見ていたのが嫡男“平宗綱”だったのである。

彼は“父杲円(平頼綱)は、次男助宗(飯沼資宗の諱=実名)と共に専権を振い、いずれは助宗を将軍にしようと企んでいる“と讒言・密告に及んだのである。

”保暦間記”には“杲円父子(頼綱父子の事)、天下ノ事ハ安房(飯沼資宗の事)ヲ将軍ニセント議シ“と表現している。

今日でも讒言の内容についてその真偽の程は定かで無いとされるが、この密告を得て北条貞時が直ちに平頼綱討伐に動いたのである。

8-(1):関東大地震が起き、死者2万3千余人の大惨事となる・・正応6年(1293年)4月13日

この記述をしている2016年6月から遡る事723年前に関東大震災(1923年に起きたマグニチード7.9の震災)級の大地震が起きた。鎌倉に居た“親玄僧正日記“からも”鎌倉年代記裏書“からも裏付けられている。

鎌倉を襲った大地震で山崩れがあり、建長寺が炎上し、寿福寺が倒壊、死者が23,024人出たと記されている。その被害は大きく地震後の混乱も大きかったとある。

8-(2):大地震の混乱が続く中、北条貞時が平頼綱を討つ・・1293年4月22日

密告を受けた北条貞時は大地震で混乱が続く中、果断に動き、北条一門の武蔵七郎などの討手を平頼綱・飯沼資宗が住む経師ガ谷(材木町二丁目)に差し向け、平頼綱はじめ彼の一派を襲い、自害に追い込んだのである。

これが正応6年(1293年)4月22日寅の刻(今日で言う4月23日午前4時)に起きた“平禅門の乱”である。

一族郎党93人が炎の中で死に、この襲撃の混乱の中で、北条貞時の娘2人も死亡したと伝えられる。“霜月騒動”は全国の安達一派に追討が及んだが“平禅門の乱”は全国への波及は一切無く、あっさりと終息した。

“保暦間記”には、讒言・密告した平頼綱の嫡男、平宗綱は一端、佐渡国に流されたが、後に召喚され、内管領に就いたが、後に再度、同族の長崎氏に謀られ、罷免の上、配流されたと書かれている。以後は“長崎氏”が御内人トップの“内管領”として絶大な権力を握る事になる。

9:政治の実権を奪還した北条貞時の執政期・・“寄合合議制政治体制成長期”(1293年4月~1305年4月~5月)

9-(1):周囲を近親者で固めざるを得なかった北条貞時政権

上述した様に、内管領で乳母夫の平頼綱が得宗・北条貞時を擁して“寄合合議制政治体制”を主導し、7年半に及ぶ“内管領専制政治“そして“恐怖政治”を行ったが、21歳に成人していた北条貞時に拠って1293年4月、一族と共に滅ぼされた。

北条貞時は1284年7月に執権職に就いてから9年後に漸く政治の実権を奪還したのである。

しかし、この9年間に、安達泰盛一族の大半は弘安8年(1285年)11月の霜月騒動で滅び、その後の政治を担った得宗・御内人の組織も“平禅門の乱”で壊滅した為、幕府中枢の有力な政治の担い手の多くが失なわれていた。

更に北条貞時には自身の兄弟が居なかっ為、父・北条時宗が猶子としていた従弟の北条師時と北条宗方、そして北条兼時の3人の従弟に拠って政権を固める事になった。

得宗・北条貞時の執政期について記述する前に、先ずはこの従弟3人について記述して置こう。

9-(1)-①:北条兼時(生1264年没1295年)

貞時より8歳年上の従兄である。父は北条時宗の異母弟の北条宗頼で、1280年、16歳の時に父の死後、跡を継いで長門国守護、翌1281年に異国警固番役を命じられて播磨国に赴いている。

1284年には六波羅探題南方に任じられ、1293年3月には“第3次元寇”対応の為、北条貞時の命で九州に下向している。これを以て北条兼時を“初代鎮西探題”とする説もあるが、別記した様に、今日では1296年の金沢実政の着任を初代とする説が有力である。

1295年には“第3次元寇”の危機が去った(6-6項で記述したが、元国は1284年5月に日本行省を廃止している)として鎌倉に帰還し、評定衆に任じられた。

しかし、彼はその5カ月後の1295年9月に、31歳の若さで没している。従って、北条貞時が“得宗専制政治体制”に復帰しようと諸改革に挑んだ12年間の執政期の中の僅か2年間しか拘わらなかったのである。

9-(1)-②:北条師時(生1275年没1311年)

父は北条時宗の同母弟の北条宗政である。父・北条宗政が師時が6歳の時(1281年)に没した為、北条時宗が猶子とした。その為、北条貞時にとっては“義理の弟”でもあった。

“平禅門の乱”(1293年4月22日)の直後の5月30日に18歳の若さで引付衆を経ずに評定衆になっている事を見ても、兄弟並びに有力者が周囲に居なかった北条貞時が、周りを血縁者で固めざるを得なかった事を裏付けている。

北条貞時が一時、引付衆を廃止して設置した“執奏”に師時は起用されている。

更に引付が復活した1296年には二番引付頭人に就き、1301年8月に、貞時が出家した後、第10代執権職(在職1301年~1311年)に就き、貞時の四男北条高時(後の第14代執権)が誕生した1303年以後も彼が成人する迄の“中継ぎ”として執権職にあった人物である。

1311年9月、評定中に倒れ、そのまま36歳で没している。

9-(1)-③:北条宗方(生1278年没1305年)

上記した北条兼時の14歳下の同母弟であり、貞時にとっては6歳年下の従弟である。北条師時と同じ様に父・宗頼が宗方がまだ1歳の時に没した為、北条時宗が猶子としている。従って、貞時の義理の弟でもある。

1297年19歳で六波羅探題北方という要職に就き、1300年末に鎌倉に戻り、22歳の若さで評定衆に就いている。1301年には引付頭人を経て越訴頭人に就き、1304年、26歳の時に“平禅門の乱(1293年4月22日)“以来、人事が迷走していた得宗家の執事(内管領)に北条一門としては、初めて就任した人物である。

北条宗方は、幕府侍所所司にも就く等、出世が極めて速かった。この事は、北条兼時、北条師時と同様、北条貞時からは“北条氏庶家”という扱いでは無く“得宗家の一員”として重用されていた事を裏付けている。

10:平頼綱の政策を否定する事から始めた北条貞時

安達泰盛の政治を平頼綱が否定した様に、北条貞時も又、先ず、平頼綱の政治を否定する事から始めている。

具体的には“霜月騒動”以降、平頼綱が行った賞罰を全て無効とすると同時に“霜月騒動”で失脚した人々を復権させている。

安達泰盛の娘を娶っていた為に連座して下総に配流されていた金沢顕時(金沢文庫で有名な金沢実時の子息で、後に第15代、10日間だけの執権職に就く事になる金沢貞顕の父親である:生1248年没1301年)は“平禅門の乱“の5日後には鎌倉に呼び戻され、1293年に新設された“執奏”に任命されている。

又、問注所の執事を罷免されていた太田時連も前職に復職している。

更に平頼綱の執政期に生じた評定衆・引付衆・奉行等に対する収賄を禁じ、綱紀粛正を図る法令を出す等、政権奪還を漸く果たした青年執権らしく、熱意と潔癖さで悪政を匡す姿勢を強く打ち出している。更に、訴訟の迅速化等の幕政改革にも精を出した。

11:抵抗勢力に阻まれた北条貞時の執政期・・“御家人保護”と“得宗専制政治体制への復帰”を掲げ、失敗し“政務放棄“へ

フビライの孫・テルム(成宗)の時代(テルム期1294年~1307年)へと移った“元帝国”は6-6項で詳述した様に“第3次元寇”を実行する経済的、軍事的余力を失い、鎌倉幕府にとって最早“元寇“の危機は去っていた。しかし鎌倉幕府はその情報を持たなかった為、尚も国防強化策を継続し、多大な軍費が幕府を疲弊させ、御家人を苦しめる状態が続いていた。

北条貞時の政治の基本はそうした御家人層の疲弊と“弘安徳政”以降の御家人制度の乱れからの“御家人保護”が政策の第1の柱であった。取り分け、中小御家人を救済する為、1297年(永仁5年)3月6日に“永仁の徳政令(関東御徳政)”を出している。

第2の柱としたのが、父・北条時宗時代の“得宗専制政治体制”への復帰であった。

先ずは北条貞時の執政期全般を時系列に総括する事から始めたい。

11-(1):北条貞時執政期の全貌を時系列に記述する

①1293年5月25日:平頼綱執政期の秕政(ひせい=悪い政治)を匡す狙いで評定衆・引付・奉行等への収賄を禁ずる法令を出す。又、訴訟の迅速化を図り、領家・地頭間の中分(半分に分ける事)を勧めて寺社や公卿との矛盾の減少に務めた。無足(知行地の無い)の御家人でも、三代以前に御家人であれば、御家人として認定した。

②1293年10月20日:引付衆を廃止し、新たに“執奏”を設け、金沢顕時・北条師時・北条宗宣・長井宗秀・宇都宮景綱・北条時村・北条(名越)公時の7名を任命する

(解説):裁判の判決に必要な参考資料を提出し、執権に意見を提示する役割の“執奏”を新設した。目的は、速やかな訴訟判決を行う為に、執権・北条貞時に裁判の権限を集約化する事であった。これに拠ってこれまで裁判の基本的手続きを行っていた“引付”が廃止された。

③1294年10月24日:“執奏”は僅か1年で廃止され、五方引付として復活。但し、貞時の“政務直断制”は維持された。

(解説):“執奏”設置の考えは貞時が第2の柱とした“得宗専制政治体制”への復帰策の一環であった。1年後には廃止されたが、上記の様に“政務直断制”を残す事で一矢を報いた格好である

④1296年:元寇対応、異国船対応の為、鎮西探題を設ける・・初代探題“金沢実政”

⑤1297年3月(永仁5年):永仁徳政令を発令

⑥1298年:永仁徳政令で廃止した“越訴”を復活する

⑦1301年8月:北条貞時が出家。“得宗”として政治の実権は握り続ける。従弟(義理の弟)の北条師時を第10代執権に就ける。

⑧1301年8月23日:1289年から寄合衆だった59歳の北条時村(政村流)を北条師時の連署に就ける。又、同時期に北条宣時(=大仏流・当時63歳)が出家した事で、北条時村が北条氏庶家の最長老となる。

⑨1302年~1303年:貞時の嫡男菊寿丸(1302年10月5日)次男金寿丸(1303年7月16日)を次々と病気で失なう

⑩1303年12月2日:北条貞時の四男として北条高時生まれる(後の第14代執権)

⑪1304年12月:北条宗方が引付頭人を辞して得宗家執事(内管領)に就く。彼は同時に幕府の侍所所司にも就いている。

⑫1305年4月22日~5月4日:“嘉元の乱(北条宗方の乱)“が起こる・・鎌倉幕府滅亡の端緒とされる事件である。

11-(2):北条貞時執政期を4つの局面に分ける

①:政権を奪還し青年執権として幕政改革に取り組んだ時期・・1293年4月~1297年
②:改革は抵抗勢力に阻止され、子息達の不幸が重なった執政期・・1298年~1303年
③:高時誕生で得宗専制政治体制への復帰に再度挑んだ闘争期・・1303年~1305年
④:政務を放棄し内管領に幕府を乗っ取られた終末期・・1305年~1311年

以下に貞時執政期を上記4つの異なった局面ごとに分けて記述して行く事にする。

11-(2)-①:政権を奪還し、青年執権として幕政改革に取り組んだ時期・・1293年4月~1297年
北条貞時は、時系列記述にある様にスタート時には青年執権らしい情熱と潔癖さをもって幕政改革に取り組んだ。改革の柱は第一の柱は御家人保護であり、第二の柱は祖父・父時代の“得宗専制政治体制”への復帰であった。

第一の柱として貞時が打ち出した政策の主たるものが1297年3月に出した“永仁の徳政令”である。この法令に就いて紹介して置こう。

Ⅰ:永仁徳政令を発令・・永仁5年〈1297年〉3月

貞時が“御家人保護”特に中小御家人を救済する為に発令したのが“永仁の徳政令(関東御徳政)”である。正確な条文は残って居らず不明とされるが、貞時25歳の時に出され、東寺に伝わる古文書(東寺百合文書)から、下記3項目がその骨子だった事が分っている。夫々の法令のメリット・デメリットを併記しながら紹介する。

Ⅰ-①:越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止

裁判の再審請求制度“越訴(おっそ)”を廃止する事で訴訟全体の数を減らす事を考えた法令とされる。しかしこの法令には不満・抵抗が多く翌年1298年には“越訴”を復活させている。

Ⅰ-②:御家人所領の売買及び質入れの禁止令

:既に売却・質流れした所領は元の領主が無償で取り返せる法令。但し幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や、領有後20年を経過した土地に就いては返却せずにそのままの領有が認められた。

:非御家人・凡下(武士以外の庶民・農民や商工業者)の買得地は年限に関係無く元の領主が領有せよ

この法令では質流れの所領について、御家人に対しては取り返しを認める事で、貧窮する御家人の救済を図り、幕府の基盤の御家人体制の崩壊を強制的に堰き止めようとしたのである。しかし、御家人の凋落は“元寇”に拠る影響だけで無く“惣領制“つまり分割相続制に拠って中小御家人が更に零細化する等にも原因があった。

永仁徳政令でこうした問題を解決する事は出来なかったのである。

Ⅰ-③:債権債務(利息関係)の争いに関する訴訟は受理しない

この法令は御家人の困窮を一時的には凌げた面もあったが、金融の道が閉ざされるというデメリットもあり、幕府の信用を失う事に繋がり、結果的には失敗であった。

Ⅱ:第二の柱(得宗専制政治体制への復帰)政策も思う様に行かなかった背景

北条貞時が第二の柱として打ち出した政策は“政務直判断”に代表される“北条貞時への権限集約“であった。時系列記述にもある様に、①執奏の設置②越訴の廃止③永仁の徳政令の何れもが、抵抗勢力の強い抵抗に会って失敗に終わったのである。

こうした抵抗勢力の存在は、父・北条時宗の急逝を境に、“得宗専制政治体制”が実態として既に終わっていた事を示している。

11-(2)-②:改革は抵抗勢力に阻止され、子息達の不幸が重なった執政期・・1298年~1303年

Ⅰ:執権を従弟の北条師時に譲り、出家をした北条貞時を尚も襲った家族の不幸

武家年代記(第80代高倉天皇の治承4年、1180年から第103代後土御門天皇の明応8年、1499年迄を年表形式で記した年代記で、原本は鎌倉時代末期から南北朝時代初期に書かれ、戦国時代初期に増補された)に拠れば、北条貞時は“平禅門の乱”の際(正応6年1293年4月)に平頼綱の館で二人の娘を炎の中で死なせている。

又、1301年1月22日には北条時基(名越流北条朝時の子)の室として嫁いでいた長女にも死なれている。

“幕政改革”は抵抗勢力に阻止され、思う様に進まない状況に加えて、こうした家族の不幸が北条貞時に影響を与えた為との説もあるが、1301年8月22日に従弟で女婿でもあった北条師時に執権職を譲っている。

そして貞時は翌1301年8月23日に出家し“崇曉(後に崇演)“と法名したのである。

しかし、この時点で、政治の実権を“得宗・北条貞時”として握り続け、政治権力を保持し続けた事は注目すべきである。これを裏付けるものとして、山内に最勝園寺亭を建て”寄合衆”を集めていた事が記録されている。

こうして北条貞時は以後1305年に“嘉元の乱”が起こる迄は“得宗専制政治体制“への復帰への願望を持ち続け、政治権力の座に留まったのである。

義理の弟で、従弟の第10代執権・北条師時はこうした“得宗・北条貞時政権”の下での傀儡政権であった。従って師時の執権としての見るべき治績は残っていない。

貞時が出家をしたのは、仏の救いを求める為もあったのであろうが、その後も家族の不幸は続いた。出家した翌1302年10月5日、嫡男“菊寿丸”が5歳で死んだ記事が“吉続記“にある。この子は“もとより足も立たず、息災ならず”と記録にあるから、病弱に生まれついた子であった様だ。

更に嘉元3年(1303年)7月16日には次男“金寿丸”も死んだとの記録が残っている。三男“千代寿丸”についての史料は残っていないが、同じく夭折したものと思われる。

11-(2)-③:高時誕生で“得宗専制政治体制復帰”へ再度挑んだ闘争期・・1303年~1305年

Ⅰ:待望の跡継ぎ、北条高時の誕生

出家をし“得宗・北条貞時”として政治の実権は握っていたが、北条氏庶家を初め、貞時の幕政改革への抵抗勢力は強く、実績は上がらなかった。加えて、相次ぐ家庭の不幸は貞時の政治への熱意を奪い兼ねない状況だった。

それを覆したのが1303年12月2日の待望の跡継ぎ、北条高時の誕生である。これを境に、北条貞時の“得宗専制政治体制”への意欲が呼び覚まされる。

1304年12月に義理の弟・北条宗方を北条氏一族からとしては初めての“内管領”に就けた事が貞時の“得宗専制政治体制への復帰”願望を実現させる具体的な動きであり、抵抗勢力への闘争の開始と考えられる。

Ⅱ:北条貞時の政治を阻み続けた“抵抗勢力”・・北条氏庶家と特権的支配層の存在

貞時は第1の柱(御家人保護)第2の柱(得宗専制政治体制への復帰)を実現しようとした幕政改革に失敗する。その理由は元寇後の山積した問題を抱えていたという政治環境の難しさに加えて、父・北条時宗の執政期と決定的に異なる幕府内の不協和音、つまり、様々な抵抗勢力の存在が大きかった。

そもそも、北条貞時の政治改革は、北条氏庶家を含む特権的支配層が拠って立つ家格秩序や先例を無視する改革であった。その為、既得権益を守ろうとする“特権的支配層“の代表的立場であった”北条氏庶家“を筆頭に、北条貞時の政治改革に抵抗したのである。

“幕府最高議決機関“としての役割へと変化していた“寄合”はその構成メンバーからしても貞時の思うが侭の政治を許すメンバーでは無かった。

参考として1304年当時の構成メンバーを記すが、貞時の味方は、義理の弟達、つまり、北条師時、北条宗方であり、反対派は、同数の北条氏庶家のメンバーで構成されていたのである。

尚、御家人達の中にも、北条貞時の幕政改革に強く抵抗する多くの勢力があったとされる。

Ⅱ-①:北条氏庶家の力が勝った“寄合”メンバー・・嘉元2年(1304年)時点

①:得宗一門(3名)

北条貞時・・1301年8月に出家
北条師時・・1301年8月に第10代執権に就任(時宗猶子・貞時の3歳下の従弟)貞時の傀儡政権であった
北条宗方・・1304年12月“平禅門の乱”後、人事面で乱れていた得宗家執事(内管領)に、北条一門として初めて就いた

②:北条氏庶家(3名)

北条時村・・師時の執権就任で1301年に連署に就く。第7代執権北条政村の嫡男で、貞時の曽祖父北条時氏の従弟に当たる30歳年上の人物。北条氏庶家の最長老であった。
大仏宗宣・・越訴頭人(1311年に連署を経て第11代執権に就く。貞時の13歳年上)
赤橋久時・・1302年二番引付頭人(嫡子守時が1326年に最後となった第16代執権に就く)

Ⅲ:鎌倉幕府の特徴とその後の変化・・特権的支配層が形成され、その代表である内管領が得宗家に取って代わる

得宗・北条貞時は、鎌倉幕府創設以来、120年近くが経ち、政治環境も大きく変化している状況下で、尚も“得宗専制政治体制”への復帰を目指した。既述した様に、その間に幕府を取り巻く環境は大きく変化していたのである。

貞時は“鎌倉幕府の特徴、並びに、その変化”を掴んでいなかった為に失敗を重ねたとされる。変化を見通せなかった不幸とも言えるが、執政に失敗した貞時は、後述する“嘉元の乱“の後、政務に厭き、政務を放棄し、内管領に鎌倉幕府を乗っ取られ、そして幕府滅亡の端緒を作った執権としてその名を歴史に残す事になる。

以下に貞時が見通せなかった“鎌倉幕府の特徴”とその後の変化“特権的支配層”が形成されて行った状況を記述する。

要は、鎌倉幕府は徹底した“中央集権制”であり、時間の経過と共にそうした体制の中に”特権的支配層“が形成され、その代表の内管領が”得宗家“に取って代わって行く歴史展開が起きていたという事である。

Ⅲ-①:鎌倉幕府の特徴・・中央集権

鎌倉幕府は地方分権が殆ど行われなく、権限の多くが幕府中枢に集中していた。この代表例として幕府(鎌倉)中枢と西国を統治する為に承久3年(1221年)“承久の乱“の後に成立した”六波羅探題“との関係が分かり易い。

幕府の執権・連署に相当するのが六波羅探題の北方探題・南方探題であったが、鎌倉幕府後期にはこれら探題にも引付頭人―評定衆―引付衆―奉行人という幕府中枢と同様の組織を整え、訴訟機関・統治機関として整備されたが、幕府滅亡まで、探題が独自に訴訟を裁許する権限は与えられず、判決は飽くまでも幕府中枢が行ったのである。

人事面でも北方・南方両探題は北条氏から選出され、鎌倉から派遣され、在任期間を過ぎると交代し、鎌倉に帰還するという中央集権状態であった。

六波羅探題の評定衆をはじめとする“探題府職員”も幕府が任命し、南北両探題には独自の人事権が与えられないという徹底した中央集権振りだったのである。

又、国ごとに置かれた“守護(=管国御家人)”の権限も、鎌倉時代を通じて大番催促(守護が御家人に京都警備を催促、指揮する権限)と謀叛人・殺害人を捕える権限のみに限定されていた。

この様に鎌倉幕府の中枢が所領の安堵・給付、訴訟の採決権を握り、更に朝廷からの官位や官職の叙位・任官の推挙を通じて、御家人支配を直接的に行っていたのである。

鎌倉幕府の次に成立した武家政権の室町幕府では関東は鎌倉府に、九州は九州探題(鎮西管領)に、東北は奥州探題と羽州探題にという具合に地方支配機関に“自治”の権限を与えていた。

鎌倉幕府と異なり、地方分権的・間接統治的体制だったのである。各国の守護には管国に対する広範な支配権が与えられていた。

詳細は室町時代の記述で述べるが、室町時代の守護は幕府から委任された権限を梃子として管国の武士達を従者化し、主従関係に基づいた身分的階層制を形成し“守護大名化”して行ったのである。

Ⅲ―②:鎌倉幕府の特徴・・“特権的支配層”が幕府内で発生、形成されて行った

この通史の“中巻”の大タイトルは“武士層の出現に拠って始まった混乱と闘争の500年の歴史“とした。

本格的な武家政権の始まりである”鎌倉幕府“はタイトルが示す様に、幕府開創以来、権力闘争の連続であった。至尊勢力(天皇家・朝廷・貴族層)に拠る長年の支配体制を、武力に訴えて勝ち取って来た至強勢力(幕府・将軍・執権・武士層)にとっては、戦う事が“本質”であり、当然の歴史展開だったとも言える。

繰り返された政争の勝利者(例:源氏・北条得宗家)は鎌倉幕府の岩盤である“御家人”のニーズに応える為に、政治、訴訟制度の整備等に重点を置いた。

時を経るにつれて、勝利者そしてそれに準ずる御家人達が幕府中枢の役職を占める様になり、鎌倉幕府内での“家格秩序”が出来上がり“特権的支配層”を生み出して行ったのである。

Ⅲ-②-ア:鎌倉殿の前で“平等”だった御家人の間に“格差”が生じる

①執権・連署を含んだ寄合衆~②引付頭人~③評定衆~④引付衆~⑤奉行人という鎌倉幕府の政治上・訴訟制度上の役職の上下関係が生じた。しかしそれは飽くまでも幕府組織の職制上の関係であり、御家人としては“鎌倉殿”の前で平等であった。

しかし、次第に、寄合衆~引付衆に至る、幕府中央の要職を特定の家系が世襲・独占する様になり、御家人間の階層化が生じたのである。幕府中央の要職に就ける家と就けない家とに分かれ、寄合衆に迄昇る事の出来る“寄合衆家“と引付頭人が最高職である“評定衆家”への分化が生じた。

こうした分化は、その下の家格の奉行人層以下でも起こり、それらが又、独自の階層を形成して行く、という具合で、御家人層の中で、明確な支配層間の階層化が形成されて行ったのである。

Ⅲ-②-イ:得宗家内でも形成されて行った“特権的支配層”

鎌倉幕府内で形成されて行った“家格・特権的支配層”と同様の事が“得宗”の家政機関である“得宗家公文所”でも発生して行った。得宗の私的従者という立場の“御内人”は御家人でもあるが“公文所”内でも同様の“家格・特権的支配層”の形成が起こり、要職は特定の家系に拠って“世襲・独占”される様になって行ったのである。

こうした得宗家の御内人の特定家系は、①長崎②諏訪③尾藤の三家であった。この三家は鎌倉幕府の“寄合衆家”も兼ねる様になり“得宗家公文所の長官=執事“を出す高い家格の”執事家“と位置付けられる様になった。その執事を補佐する公文所の高官は“執事補佐家”と称される家系から就く様になった。

“執事補佐家”の家格は、鎌倉幕府の中での“評定衆家”の家格に相当するとされたが、執事家の傍流の家系の中から“工藤家”並びに“安東家”に限定されるといった具合である。

Ⅲ-②-ウ:鎌倉幕府組織全体に広がり、定着して行った“特権的支配層”

幕府と得宗家公文所は本来、全く別個の組織であったが、鎌倉後期になると、得宗家の公文所の上級職員である長崎・諏訪・尾藤氏の三家は、幕府の“寄合衆”に成っている。この事は幕府と得宗家の御内人との人的交流が顕著となり、実態として分かち難く融合していた事を示している。

この様に得宗家公文所と後期鎌倉幕府の組織が融合して行った事で、鎌倉幕府全体が、幕府と得宗家公文所の役職をベースとしたピラミッド型の“家格秩序”に拠って形成される様になって行った。

幕府中枢の役職が特定の家系に独占された事で、鎌倉幕府全体が、特定の家系に拠って支配され、世襲される事に波及した。こうした家系が鎌倉幕府の“特権的支配層”を形成したのである。具体的には①寄合衆家&執事家②評定衆家&執事補佐家であった。

鎌倉時代の後期迄には千人程を数えたと言われる“北条氏”でも、上記の①寄合衆家&執事家②評定衆家&執事補佐家に生まれた者のみが幕府の要職に就任し、特権的支配層の一員になる事が出来たのである。

こうした“特権的支配層”が形成されて行った事で、鎌倉幕府の後期には、御家人・御内人の中が“支配する側と支配される側”とに層別された。

Ⅲ-③:四面楚歌状態に陥った北条貞時の政治と“嘉元の乱”・・1305年4月22日~5月4日

Ⅲ-③-ア:幕政改革の失敗、“得宗専制政治体制への復帰”策を次々と阻まれた北条貞時

元より政治家としての資質、器量は祖父・北条時頼、父・北条時宗との比較に於いて遠く及ばなかったとされる貞時は、上記した“元寇”後の幕府、並びに日本社会に生じていた諸変化、加えて抵抗勢力に囲まれていたという政治環境を直視しなかった事で、執政上の多くの失敗に繋がった。

この様な環境下で“幕政改革”を進め“得宗専制政治体制への復帰”を追い求めた事自体に無理があったのである。しかし、1303年に北条高時が誕生した事で貞時は尚も事態の打開を図り、高時に繋げたいとの願望から打った“窮余の一策”が“嘉元の乱”であった、との説を“鎌倉幕府の滅亡“の著者、細川重男氏は展開している。

Ⅲ-③-イ:“嘉元の乱”の定説と細川重男氏の反論

“嘉元の乱”は1305年4月23日に時の連署・北条時村が襲われ討たれた第一の事件と12日後の5月4日にその首謀者として内管領の北条宗方が貞時の命じた幕府軍に拠って討たれるという第二の事件の結果終息するが、不明な点が多いとされる事件である。

定説としての“嘉元の乱”は“執権職に野望を抱いた内管領の北条宗方が、連署の北条時村を討った。得宗・北条貞時が幕府軍に命じて“首謀者”北条宗方を討伐して、この事件は終息したとされている。

しかし、その後の歴史の展開、とりわけ“北条貞時“が事件後、政治への熱意を失い、政務を放棄し、この機に乗じて政務を専横した内管領の長崎円喜一族が鎌倉幕府を乗っ取る状態へと展開する史実から考えると“嘉元の乱”に“北条貞時”が関与したとする細川重男氏の説には説得力がある。

“定説“の疑問点を検証し乍ら”嘉元の乱“について記述して行きたい。

Ⅲ-③-ウ:“嘉元の乱“に拘わる関連史実・関連人物を時系列に記す

“嘉元の乱”の直後の“関東御教書(幕府の公式文書)”には、はっきりと幕府の見解が書かれている。

この幕府見解を26年後に成立した“鎌倉年代記”も、50年後に書かれた“保暦間期”も疑う事無く踏襲してこの事件について書き残した事が“北条宗方陰謀説”という“定説”を作り上げたと考えられる。

先ずはこの事件に拘わる前後の情報を時系列に記す。

①1305年4月22日:得宗・北条貞時の鎌倉の宿館が焼失した為、貞時は従弟で義理の弟の第10代執権・北条師時の館に移る

②1305年4月23日:得宗被官(御内人)の6人、外様御家人6人の計12人が“上(貞時)の仰せ”として、葛西ケ谷(東勝寺跡の周辺)の連署・北条時村邸を襲う。北条時村はじめ、50余人が殺害される。

③1305年4月27日:正親町三条実躬(おおぎまちさんじょうさねみ=大覚寺統に仕えた公卿:生1264年没不詳)が残した日記“実躬卿記=重要文化財”のこの日の条に”去二十三日午剋、左京太夫時村朝臣(北条時村)、僕被誅了“と記録されている。


④1305年5月2日:得宗・貞時が北条時村討伐の命令を下した事実は無い、との展開となり、北条時村を討った上述の12人の中の11人(和田七郎茂明は逃亡)が北条貞時の命で首を刎ねられる。

⑤1305年5月4日:ところが事態は収束せず、執権・北条師時の邸で評定が開かれ、内管領・北条宗方が首謀者との流れとなる。

:貞時の命を受けた従弟の大仏宗宣(生:1259年没1312年・一番引付頭人兼越訴奉行・後の第11代執権)と宇都宮貞綱が率いる軍勢が、二階堂大路薬師堂谷口の北条宗方邸を襲い、宗方を討つ。又、彼の被官も処々で誅された。(鎌倉年代記)

⑥1305年5月7日:子の刻(午前0時頃)、鎌倉幕府から飛脚が六波羅に“関東御教書”を届ける。“駿河守宗方(北条宗方)、陰謀の企て有るに依り、今日(午刻)誅されおはんぬ、その旨を存ずべし、かつがつこの事につき、在京人ならびに西国の地頭・御家人等、参向すべからざるの由、あひ触れらるべし(略)“

以上が“嘉元の乱“に関する前後の情報である。

中でも、幕府の公式の文書”関東御教書“でこの事件を“内管領・北条宗方の陰謀”と断じている事に注目する必要がある。“鎌倉年代記“も”保暦間記“もこの記事を踏襲して書いているのである。

表面的には北条貞時が“宗方討伐”を指示し、事件を終息させているので“定説”通り、内管領北条宗方首謀説で歴史上は扱われて来た“嘉元の乱”であるが、この事件の前後の関連する史実との“整合性”を検証すると多くの疑問点にぶつかるのである。

事件後に貞時が政務を放棄し、内管領・長崎円喜が“御内人専制政治”を行う契機を作った“嘉元の乱”には、定説とは異なり“北条貞時関与”を主張する細川重男氏の説があるが“史実との整合性”の観点から検証してみたい。

検証Ⅰ:“嘉元の乱”は第一の事件(1305年4月23日)と第二の事件(1305年5月4日)から成る

(1):嘉元の乱・第一の事件・・得宗被官6人、外様御家人6人の計12人が連署・北条時村を討つ(1305年4月23日)

第一の事件直後に書かれた史料としては時系列記述にも載せた正親町三条実躬の“実躬卿記”の1305年4月27日の記事がある。

事件3日後に書かれた記事であるから、連署の北条時村が討たれた第一の事件だけを記している。他に第一の事件だけに関する記録は見当たらない。いずれも、第二の事件が終わり“嘉元の乱”が終息し、幕府の公式見解として、首謀者を“北条宗方”と断じた上で、第一の事件について触れている記事である。

事件の26年後に書かれた鎌倉年代記(1331年頃成立)の”左京権大夫時村朝臣誤りて誅されおわんぬ“と、連署の北条時村が間違って討たれたという表現で書かれている記事や、50年後に書かれた“保暦間記(1356年以前に成立)”の”仰ト号シテ夜討ニシタリケル“と、貞時の命令だと称して12人の討手が北条時村を殺害したという記事が貞時関与の有無を示唆する記事である。

何れにせよ、どの史料も、1305年4月23日、得宗被官6人と外様御家人6人の計12人が連署の北条時村並びに50余人を殺害した第一の事件があったという点では共通している。尚、殺害された北条時村は63歳であった。

(2):嘉元の乱・第二の事件(北条宗方の乱と呼ばれる事もある)について

第一の事件から10日程経った、1305年5月2日に北条貞時は時村を殺害した11人を処刑している。和田七郎茂明が逃亡した為、一人少なくなっている。“保暦間記”には、彼らが貞時の命令を受けて“時村を討った”と自称したとある。

しかし、そうした事実は無いとして貞時は即座に11人を処刑をし、事件の終息を図ったという展開になっている。

ところが、この処刑で事態は治まらなかった。北条氏庶家側が評定の席で“北条宗方首謀説”を主張し、譲らなかった為であろうという事は明白である。その結果5月4日の“第二の事件”へと“嘉元の乱”は進む。

北条貞時は、これまで片腕と頼んだ北条宗方を討伐する幕府軍を送り、宗方、並びに彼の被官を討たせたのである。北条宗方討伐の幕府軍の大将に任じられたのは、北条氏庶家の大仏(北条)宗宣である。彼はこの功で1311年に第11代執権職に就く。

自らが北条時村暗殺に関与したと疑われる事態を避けたい北条貞時は、結果に於いて北条宗方を見捨てる決断をした事に成り、こうして“嘉元の乱”は一切“得宗・北条貞時”の関与が問われる事も無く終息したという推論も充分に成り立つ。

検証Ⅱ:“嘉元の乱”直前の貞時を取り巻く状況と、事件に関わった主たる3人について

細川重男氏は“嘉元の乱“に関係した主たる人物は3人としている。一人目が討たれた連署・北条時村であり、二人目が結果的に首謀者として討伐された内管領・北条宗方、そして三人目が事件に関与した可能性が問われる“得宗・北条貞時”である。

既述した様にこの事件は直後に出された幕府公式文書の“関東御教書”で“内管領北条宗方の陰謀”と断じた為、後に書かれた“鎌倉年代記”や“保暦間記”の全てがそれを踏襲した形でこの事件を記している。第二の事件を“北条宗方の乱”と呼ぶケースもある程に“定説化”したのである。

しかし“嘉元の乱”後、俄かに得宗・北条貞時が政治に対する熱意を失い、政務を放棄するに至ったという史実、その後の歴史展開、更には“嘉元の乱”前後の状況、これら全ての整合性を考えると“北条貞時”関与説を展開する細川重男氏の説にも説得力がある。

 “鎌倉幕府滅亡と北条氏一族“の著者、秋山哲雄氏も”得宗・北条貞時は引付や越訴を廃止する事に拠って、政治権力を得宗に一元化する政策を打ち出した。この事に対して、従来からの引付や評定を重視しようとする“特権的支配層”から成る“抵抗勢力”の反対が強かったとしている。

抵抗勢力の代表格が“北条氏庶家”であり、その勢力の長老が“北条時村”だったから、北条貞時には彼を排除しようとする充分な理由があったと言えよう。

又、待望の北条高時の誕生で、祖父・北条時頼、父・北条時宗時代の“得宗専制政治体制”への復帰を果たした上で、高時に繋げたいとの思いが、貞時にあったであろう事も否定出来ない。

先ずは“嘉元の乱”に関わる3人について記述する。

(1):北条時村(生:1242年没1305年63歳)・・殺害された理由は不明、間違い説が定説

第5代得宗執権・北条時頼が嫡男・北条時宗(貞時の父)が成人する迄の繋ぎとして第7代執権職を北条政村(生1205年没1273年)に託した。北条政村は終生、得宗家に忠節を尽くした。その嫡男が北条時村である。

北条時村は27歳の若さ(1269年)で引付衆に任じられ、1270年には評定衆に就いている。1271年には幕府草創以来の有力者や北条氏の長老格しか就任していない“陸奥守”に僅か29歳で任じられ、その後も35歳の1277年に六波羅探題北方の幕府要職に就いている。

1282年には武蔵守、1289年には寄合衆に任じられるという具合で、北条貞時が1293年に“平禅門の乱“で政治の実権を奪還する前の政権から、幕府の中枢に居た人物である。

得宗・北条貞時が“得宗専制政治体制”への復帰を目指し、既述した様な状況下で自らは出家し、従弟で義理の弟の北条師時(当時26歳)を1301年に第10代執権に就けた時に、その連署に任じたのが59歳と高齢の北条時村だった。

殺害された明確な理由は貞時の“仰せ”があったとする“保暦間記”に記された言葉以外に無く、不明である。その後の展開は、貞時は殺害実行者12人(11人)を捕え直ちに処刑する事に拠って“(殺害を)命じて居ない”事を明確にしている。

(2):北条宗方・・“関東御教書“で首謀者と断じられる

“嘉元の乱”の主要人物の二人目が、内管領の北条宗方(当時27歳)である。彼の紹介は9-(1)-③で記述したので省略する。

“嘉元の乱”は別に“北条宗方の乱“と言われ、彼が首謀者とされている。それは事件が終息して3日後の1305年5月7日の“関東御教書”にそう書かれた事が発端であり、それを受けて後に書かれた“鎌倉年代記“も”保暦間記“の第一級史料が”北条宗方首謀説“で記述され“定説化”された事に拠るものである。

この“定説“への疑問点として“平禅門の乱”以降、人事が迷走した得宗家の執事(内管領)に“嘉元の乱”が起こる僅か4カ月前の1304年12月に、貞時が北条一門として初めて北条宗方を任じた事が挙げられる。この宗方の人事は“嘉元の乱”に貞時が関与したか否かを解く一つの鍵であろう。

北条宗方は北条貞時にとっては従兄弟であると同時に、北条師時同様、父・北条時宗が猶子とした事で、6歳下の義理の弟でもあった。

宗方は内管領に就けた事でも分かる様に、貞時が信頼を置いた人物として重用され、家柄は“庶家”ではあったが、得宗家の一員として優遇されて来た事も既述の通りである。

1305年4月に連署の北条時村が討たれた事に関して“鎌倉年代記(1331年頃成立)”には“左京権大夫時村朝臣、誤りて誅されおわんぬ”と記録されている。ここでは北条宗方の名前を出して居らず、北条時村の殺害は“誤りで討たれた”事を記しているのである。

事件から50年後に書かれた“保暦間記(1356年以前に成立)”には“仰ト号シテ夜討ニシタリケル”と書いている。殺害実行犯が“貞時の命令があった”と自称した事に基づいた貴重な記事であるが、その裏付けは取れていない。

歴史は“北条貞時は北条時村殺害の命令を出していない”という流れで動く。結果として“鎌倉年代記“も”保暦間記“も幕府の”関東御教書“に沿った”北条宗方首謀説“で書かれたのである。

北条貞時は北条時村が討たれた10日後の1305年5月2日に殺害に当った11人の処刑をする事で事態を早く終息したいと考えたと思われる。しかし、事態は貞時の思惑通りには進まず、殺害犯の背後に、指示した首謀者が居る筈との“北条氏庶家”を中心とする“北条宗方首謀説“が評定の結論となる。

こうした流れに貞時は抗し切れず、自らに疑惑が及ぶ事を避けるべく、北条貞時としては、止む無く、自らが幕府軍に命じて北条宗方とその被官を討ち取る事でこの事件を終息させたという推論が成り立つ。

北条貞時は片腕と頼っていた内管領の北条宗方を自らの手で討たざるを得なかった。歴史としては“北条宗方陰謀事件”として片づけられた形となったが、細川重男氏の“貞時関与説“を取れば、貞時にとっては真に歯切れの悪い、しかも痛恨の結末であったと考えられる。事件終息後、貞時は政務への熱意をすっかり失い、政務放棄に繋がったという史実も“貞時関与説”を裏付けているのではなかろうか。

貞時の政務放棄後、幕府は内管領に乗っ取られた政治体制へと変遷する。従って“嘉元の乱”は鎌倉幕府が崩壊過程を辿る端緒となった事件と位置付けられるのである。

(3):“嘉元の乱“の主要人物の三人目は北条貞時(当時33歳)である・・北条貞時が“嘉元の乱”に関与したとする理由

(3)-①:貞時の処断が1305年5月7日付“関東御教書”に書かれた“宗方陰謀説”の記述を裏付けた・・北条宗方に全てを被せた北条貞時

1305年5月7日、子の刻(午前0時頃)、飛脚が届けた鎌倉幕府から六波羅探題への“関東御教書(幕府の公式文書)“の記述が以後の”北条宗方首謀説“が定説となる端緒となった。以下に改めてその文面を紹介して置く。

“駿河守宗方、陰謀の企て有るに依り、今日(午刻)誅されおはんぬ、その旨を存ずべし、かつがつこの事につき、在京人ならびに西国の地頭・御家人等、参向すべからざるの由、あひ触れらるべし(略)“

この“関東御教書“では、北条宗方が連署・北条時村に対する陰謀で殺害し、その罪で貞時に討伐されたと断じ、幕府として“事件の終息”としている。

“評定”の結果を受けて、幕府トップの北条貞時が“宗方討伐”の軍隊を向かわせ、北条宗方と彼の被官を討伐したのであるから、確かに“嘉元の乱”は終息した事に間違いは無い。

繰り返すがこの公式文書を受けて“鎌倉年代記”も“保暦間記“も共に“北条宗方陰謀説”で書かれ、日本史上でも定説となったのである。私が参考文献に掲げた中の“歴史学研究会編・日本史年表”の記述でも“北条宗方(28歳)の陰謀あらわれ、大仏宗宣らに討たれる“と定説を受けた書き方になっている。

しかし、上記した様にその後の北条貞時の変貌振りや“嘉元の乱“前後の史実との整合性を考えると“北条貞時関与説(細川重男氏)”にも説得力があると言う事である。

貞時の抵抗勢力の北条氏庶家が、大きな発言力を持つた当時の鎌倉幕府は、貞時が11人の第一事件の時村殺害犯を処刑して事件を収拾しようとしても治まらず、北条宗方を首謀者とした評定の結論と成り、貞時はそれに従う形で幕府軍を送り、宗方を討ち、事件を終結させた。

北条貞時がこうした処断をした以上“嘉元の乱”は終息したのであり、誰も貞時の関与を疑う理由も無く成ったのである。結果として、歴史は“関東御教書”に書かれた通り、北条宗方陰謀説で第一事件が起こり、第二の事件で宗方が討たれた事で“嘉元の乱“は終息したと記録され、鎌倉幕府として、それ以上の動きは無かったのである。

(3)-②:北条貞時は“短慮型”で“思慮の浅い”人物だとの検証

“鎌倉幕府の滅亡“の中で著者、細川重男氏は、連署・北条時村邸を襲撃した時に討っ手の連中が叫んだ“(貞時の)仰”という言葉は僻事(ひがごと=間違い)だと書いている“鎌倉年代記“の記事に対して疑問を呈し、実際に貞時が時村殺害を命じた可能性があるとしている。

貞時は自分が(時村)殺害を命じた事を否定し、関与を否定する為に殺害実行犯を直ちに捕え、処刑し、事件の終息を図った可能性がある。

しかし、この貞時の第一事件の処置後の“抵抗勢力=北条氏庶家”は“殺害実行犯に指示を出した首謀者を討伐しなければ事件の解決にはならない“という事であり、評定の結果、第二の事件“北条宗方討伐”へと展開し“嘉元の乱”は終息した。

北条時村が抵抗勢力北条氏庶家の長老であった事、彼が貞時よりも30歳も年長で、豊富な政治キャリアを持っていた事、加えて貞時の傀儡ではあったが、執権北条師時の連署という立場にあった事、これ等を総合して、彼が貞時の政治にブレーキを掛けるに充分な存在であった可能性は高い。

更に、北条貞時と言う人物の性格・彼が政治活動の上で信条としていた事も考え合わせる必要がある。

“平禅門の乱”で貞時は大地震の混乱を利用して、乳母夫であった平頼綱を彼の嫡子が持ち込んだ讒言と密告を信じて討伐に動いた。政権を奪還した直後の彼の執政振りは、青年執権らしい熱意と潔癖さで突っ走った感がある。しかし政治経験の浅さ、若さから、現実を無視した“理想論”に偏した政策であった事から、11-(1)で時系列に執政期の全貌を紹介した様に、多くの反発を買い、失敗に終わったものが多かった。

こうした執政上の失敗を重ねた事からも、彼が“思慮深い政治家”であったとは考え難い。そして“嘉元の乱”が起きたのであるが、乱の後の彼の態度は“政務に厭き、熱意を失いそして政務を放棄して酒浸りの遊興の生活を送った“という史実からも“短慮型の人物”だったと考えられる。

こうした北条貞時に待望の後継者、北条高時が誕生した事で、高時に“得宗専制政治体制”への復帰を果たした形で政権を渡したいとの強い思いが生れたと考えられる。そこで、起死回生、一発逆転を狙って“嘉元の乱”を起こさせた可能性は十分にあると言う推論である。

検証Ⅲ:若い内管領・北条宗方(当時27歳)が“執権職を狙って連署・北条時村を殺害した”とする定説にも説得力が無い

既述した“関東御教書”の影響であろうが“鎌倉年代記”そして“保暦間記”の記述も“内管領・北条宗方が執権職を狙っての陰謀で時の連署・北条時村を殺害した“と書き、それが定説となったが、その説には宗方の生い立ちや直前の状況等からも必然性や整合性があるとは考えられない。

宗方は貞時に拠って“嘉元の乱”のわずか4ケ月前に北条氏としては初めての内管領の職に就いたばかりである。得宗・貞時の側近となった訳で、年も27歳と若かった。

彼の生い立ちに就いては既述した様に、得宗貞時も時の執権・北条師時も共に彼の義理の兄であり、貞時に拠って重用され、要職を経て来た彼にとって得宗貞時には恩義があり、執権師時に対しても敵対する理由は見出せない。

一方、当時、四面楚歌の環境に置かれていた北条貞時にとって、内管領・北条宗方も執権・北条師時と同様に、お互いに信頼関係で結ばれた数少ない“味方”であったと考えるのが自然であろう。

若し“定説”の様に“宗方が執権職を狙って陰謀事件を起こした”のだとしたら、何故、執権では無い、63歳の老いた“連署”北条時村を狙う必要があったのかの理解にも苦しむ。

こうした観点からの検証でも“北条宗方陰謀説”は説得力に欠けるのである。

検証Ⅳ:“嘉元の乱“は北条貞時”窮余の一策“の失敗であったか

漸く政権を奪還した北条貞時の執政期は、北条氏庶家を初めとする“特権的支配層”に拠って“幕政改革案”は抵抗に会い、法令は廃止となる等、阻止の連続であった。

思い通りの政治に行き詰まった貞時が、窮余の一策、一発逆転を狙って片腕と頼み、4ケ月前に側近として内管領に就けていた北条宗方に極秘裏に指示して起こしたのが“嘉元の乱“だとするのが細川重男氏の説であるが、之まで検証して来た事項、並びに、貞時の人間性、置かれた状況を考えれば、窮余の一策であった可能性はある。

しかし、窮余の一策だったとしても“嘉元の乱“も結果的には貞時の思惑を外れた”北条氏庶家“の動きに会い、敢え無く失敗に終ったと言う事は厳然とした史実である。

“評定”での“北条宗方”が首謀者であるとの結論に沿って貞時は宗方討伐を命ずるという痛恨の結末となったのである。

11-(2)-④:政務を放棄し内管領に幕府を乗っ取られた終末期・・1305年~1311年

Ⅰ:“嘉元の乱“の終息と共に政務への意欲を失い政務放棄に陥った北条貞時

Ⅰ-(1):事態収拾の為に片腕だった“北条宗方”を切捨てざるを得なかった北条貞時

北条貞時という人物は祖父・北条時頼や父・北条時宗を理想とし、少しでも近づきたいとの思いから“得宗専制政治体制”への復帰を目指した。しかし、既述した様に、政治家としての資質も優れていたとは考えられず、祖父や父親の様なカリスマ性も持たなかった。そして上記した様に、性格的にも“短慮型”であったと思われる。

加えて、政治環境も“北条本家=得宗家”を中心に結束した“元寇”時の父・北条時宗の時とは様相が異なっていた。貞時の執政期には、得宗家の権力・権威を“北条氏庶家”や得宗家の代理人である“御内人”が形骸化しようとしていた状況だったのである。

北条氏庶家の発言力が強い“評定”の結論が貞時が内管領に就けたばかりの北条宗方を“嘉元の乱“の首謀者だと断じる流れに北条貞時は抵抗する事も無く、北条宗方を討伐する命令を下した。

連署・北条時村の殺害事件を全て北条宗方の陰謀という形で終息させ、自らの関与を封殺した北条貞時は“得宗専制政治体制“への復帰実現の為に片腕と頼んだ内管領・北条宗方を自らの手で打つと言う痛恨の状況を自ら作って了ったという事であろう。。

Ⅰ-(2):“嘉元の乱“の歴史的意味と”鎌倉幕府崩壊“の始まり

“嘉元の乱”は“特権的支配層”が得宗との権力闘争に勝利した戦いであり“寄合合議制政治体制“を完成させた事件であったと言える。

以後、嘗て、将軍に対して北条時宗が成したと全く同じ様に“特権的支配層”は将軍権力代行者の“得宗”から政治権力を奪取し“装飾的存在”として棚上げする事に成功した。

しかし、一方でこの事は、鎌倉幕府の崩壊を齎(もたら)したのである。

“嘉元の乱”の終息後、北条貞時は“寄合”にも“評定”にも出席する事が無くなり、連日、酒宴を繰り返す様になる。

その乱れ方、政務放棄の様子が余程であったのであろう、御内人の“平政連”が1308年8月に北条貞時を批判し、諫言目的で時の内管領・長崎宗綱(平宗綱=平頼綱の嫡男で平禅門の乱の切っ掛けを作った父・平頼綱と弟の飯沼資宗を讒言した人物)宛てに書いた“諫草”が残っている。その内容は下記である。

①政術を興行せらるべきのこと
②早々と連日の酒宴を相止め、仮景の勧遊を催さるべきの事
③禅侶の屈請を省略せらるべきのこと(建長・円覚両寺の禅僧を招いていた事を指す)
④固く過差(不相応な贅沢)を止めらるべきの事

この時期、前項でも記述した“悪党”の存在は全国に拡大し、幕府に反抗し、至る処で紛争を起こし、社会は不安定化を増していた時期である。後に後醍醐天皇の倒幕運動を支える勢力に成ったとされる“悪党”の代表格であったのが“楠木正成(生1294年没1336年)”である。天皇家も持明院統・大覚寺統の両統に分立して争うという乱れた状況に陥っていた。

こうした状況下で、鎌倉幕府最高権力者の得宗・北条貞時が政務を放棄するという状態でも政治が動いていたという事は“特権的支配層”を代表する内管領職が将軍権力代行者の得宗・北条貞時から政治の実権を奪取し、得宗を装飾的存在に棚上げする事に成功していた事を裏付けている。

Ⅱ:北条貞時の最晩年の政治と死

上述した様に、北条貞時は1305年の“嘉元の乱”以降は政務を放棄した状態であったが、幼い後継者・四男成寿丸(後の北条高時)の為の布石は打っていた。貞時の最晩年の政治を時系列に記述する。

Ⅱ-(1):最後の将軍、第9代守邦親王将軍を迎える・・1308年8月

1308年8月、北条貞時は将軍就任後、19年が経ち、32歳に成っていた第8代将軍久明親王(ひさあきしんのう:生1276年没1328年)を解任し、満7歳だった久明親王の皇子の守邦親王を第9代将軍として交代させている。

この将軍交代が北条貞時としての目立った政治活動の最後のものである。以後は目立った政治活動を見せていない。

この第9代・守邦親王将軍(在位1308年~1333年5月22日:生1301年没1333年)が鎌倉幕府最後の将軍となった。彼は鎌倉幕府将軍の中の最長在位期間、着任後24年9カ月に亘り、鎌倉幕府が滅亡する迄将軍の地位に在った。政治の実権の全く無い“お飾り将軍”であった。

彼の将軍在職期間に、執権職は10代北条師時、11代大仏(北条)宗宣、12代北条煕時、13代北条基時、14代北条高時、15代北条貞顕、そして最後の第16代赤橋(北条)守時の、実に7人が交代したのである。

Ⅱ-(2):両統迭立に則った皇位継承を主導する・・1308年第95代花園天皇の即位

最後の将軍交代を行ったとほゞ同時期の1308年8月に皇位継承が行われている。

両統迭立政策で弘安9年(1286年)8月に大覚寺統の第91代・後宇多天皇(即位1274年譲位1287年)の第一皇子が、持明院統の第93代後伏見天皇(即位1298年譲位1308年)の皇太子となるという変則事態を経て、1301年に第94代後二条天皇(大覚寺統・即位1301年崩御1308年9月23歳)として即位した。

しかし、7年の在位後の1308年、23歳で崩御と成り、皇位継承が行なわれた。

順序として、持明院統からの即位であり、第92代伏見天皇(持明院統)の第四皇子が第95代花園天皇(持明院統・即位1308年11月譲位1318年3月)として即位した。

この時、院政は花園天皇の父親で持明院統からの“伏見上皇”が開始している。実はこの伏見天皇(第92代即位1287年譲位1298年)は且て自分の皇子を後継天皇・第93代後伏見天皇(即位1298年譲位1301年)として即位させた時に、第1回目の院政を敷いている。

又、伏見上皇(持明院統)は上記した様に自分の第一皇子を皇太子(第93代後伏見天皇)とする人事を行った為“両統迭立“のルールに反したとして、大覚寺統との確執を作った天皇である。

更に彼は紆余曲折の結果、上記の様に、1308年に第4皇子までも天皇に就け(第95代花園天皇)異例の2回目の院政を開始した人物である。

こうした伏見上皇(天皇)の動きが可能となった背景には、彼の鎌倉幕府への工作が成功したとされる。逆に言えば、鎌倉幕府(=得宗・執権)の朝廷に対する統制力が弱まった事を裏付けているのである。

“両統迭立”という原則はあったが、幕府の混迷の始まりと併行して、朝廷も分裂の事態が進行しており、二人の天皇が存在する“南北朝時代”という異常事態への伏線が敷かれて行った時期だったとも言える。

大覚寺統の第91代後宇多天皇の第2皇子が後の南朝の初代天皇(在位1318年3月崩御1339年9月)に就く第96代後醍醐天皇(生1288年崩御1339年)であるが、彼は持明院統から上記、第95代花園天皇が即位した1308年に、大覚寺統でありながら、両統迭立のルールに則って、花園天皇の皇太子に立てられたのである。

Ⅱ-(3):成寿丸(後の北条高時)を元服させ、後継者としての布石を打った北条貞時・・1309年1月

1309年1月21日に得宗・北条貞時は3人の男子が夭折した後に、初めて元気に育った四男の成寿丸を僅か満5歳で元服させ、北条高時(生:1304年没1333年)と名乗らせた。後の第14代執権(在職1316年~1326年)である。

幼い後継者“高時”の為の将来の布石として、乳母夫の御内人・長崎高綱(=盛宗=円喜)を重用し、早くから得宗家執事(内管領)に登用し、彼を幕府の公職・侍所の所司にも任じて、高時の後継者教育を託したのである。

もう一人、北条高時の将来を託した人物が安達時顕(あだちときあき:生1285年没1333年7月)である。1285年の霜月騒動で平頼綱に討たれた安達宗顕(生1265年没1285年)の息子であり、一族の多くが滅ぼされた中で、彼は赤子であった為、乳母に抱かれて難を逃れた。

1293年の“平禅門の乱”以後、安達一族の復帰が認められ、安達氏の家督である“秋田城介”を回復し、継承したのもこの安達時顕である。1311年に得宗・北条貞時が臨終の際に呼ばれ、高時の後見を託された。

彼は後に高時に娘を嫁がせ、北条得宗家の外戚という立場を得る。又、自分の息子の妻に、内管領長崎円喜(盛宗=高綱)の娘を迎え、長崎、安達両家は親戚関係となり、共に権勢を強めて行くのである。

Ⅱ-(4):北条貞時没す・・応長元年(1311年)10月26日

北条貞時が高時が成人する迄の繋ぎとして執権職を託していた、従弟で義理の弟の第10代執権・北条師時は貞時よりも1カ月前の応長元年(1311年)9月に36歳で没した。彼は評定の席で倒れ、そのまま死去したと伝わる。

そしてその1カ月後の1311年10月26日に北条貞時も満39歳で没した。

上述した様に、臨終の際、貞時は長崎円喜と安達時顕を枕元に呼び、高時の後見と幕政を託している。“保暦間記”にこの事を伝える記事がある。長崎円喜と安達時顕が時貞の遺言を忠実に守って政治を主導した事を記している。

“彼内管領長崎入道円喜ト申ハ、正応ニ打レシ平左衛門入道(平頼綱)入道カ甥子光綱(長崎円喜)、又高時カ舅秋田城介時顕(安達時顕)、彼ハ弘安ニ打レシ泰盛入道覚真カ舎弟加賀守顕盛カ孫也、彼等二人ニ、貞時世事置キタリケレバ、申談シテ如形子細ナク年月送ケリ“

(要約):貞時は臨終に際して正応(正応6年4月=永仁元年=1293年の平禅門の乱を指す)に討たれた平左衛門入道(平頼綱の事)の甥である長崎円喜と安達時顕(彼の系統略)の二人に世事(政務)を託し、ゆえに北条高時政権は長崎円喜・安達時顕両人の談合に拠って“形の如く子細なく(先例に従い形式通りに)運営された。

12:長崎円喜(生:不明、没1333年5月)の生い立ちと台頭

長崎円喜〈盛宗=高綱〉の父親は長崎光綱(生:不明没1297年)で、北条時頼、時宗、そして貞時に仕えた得宗被官である。平禅門の乱(1293年)で貞時に討ち取られた平頼綱の甥,又は従弟とする説があるが確かでは無い。

長崎光綱は“平禅門の乱”で、北条貞時の側に付き、勝ち組に残った。その後は平頼綱に代わって一門の惣領となり、内管領に就任する。翌、1294年の記録に、貞時の側室の着帯の儀式に“主席者筆頭”とあるから、貞時には相当に信頼されていた事が分る。

その長崎光綱が1297年8月に没した後は不遇が続き、得宗家執事(内管領)には、工藤杲禅(こうぜん=時光)が就き、侍所所司には、御内人(得宗被官)の尾藤時綱が就くといった具合で、長崎円喜(盛宗=高綱)は父の地位を継ぐ事が出来ていなかった。

1305年の“嘉元の乱”で内管領だった北条宗方が滅んだ後、1307年頃に長崎円喜(盛宗=高綱)は内管領・侍所所司に就いている。彼の台頭はこの頃からだったと思われる。

1309年4月に尾藤時綱と共に“寄合衆”のメンバーになっている。この頃、出家して長崎高綱(盛宗)から“円喜”と号している。又、出家と共に侍所所司の職を次男の長崎高貞に譲る事で、一族繁栄の途を築き始めた事が分る。

尚、既述した様に、内管領の職は1316年頃、嫡男の長崎高資(生:不明没1333年)に譲っている。

こうして、表面的には北条高時政権の一員であったが、侍所所司、内管領、寄合の三職を長崎円喜一家で独占した事で、絶大な政治権力を握ったのである。

鎌倉幕府の要職を一家で独占し、尚且つそれを世襲化させた長崎円喜は“寄合”のメンバーとして強力な政治権力を保持する事に成功したのである。

13:第9代執権北条貞時と第10代執権北条師時没後の執権職の継承状況と内管領長崎円喜一族に乗っ取られた“鎌倉幕府”

北条貞時が没した、1311年10月時点では“北条高時”は未だ満7歳に満たない子供だった。第10代執権・北条師時が没した直後の1311年10月3日に第11代執権職に就いたのは、貞時とは対立していたと伝わる、北条氏庶家の大仏宗宣(生:1259年没:1312年)であった。“嘉元の乱(1305年)”で、北条貞時の命で内管領の北条宗方を討ち、その戦功で、殺された北条時村に代わって、執権・北条師時の連署に就いていた人物である。

大仏宗宣は北条貞時の13歳年上で、貞時の3人の従弟の中での最年長であった。1286年に引付衆、1297年~1302年迄は六波羅探題南方に就いた北条氏庶家・大仏流の惣領だった。ところが、彼は着任後僅か1年未満の1312年6月に53歳で没して了う。

第12代執権職を継いだのは、連署だった北条氏庶家(政村流)の北条熈時(生1279年没1315年)33歳であった。彼も3年在職後の1315年7月に36歳で病死する。

この時点でも北条高時は未だ11歳であり、次の第13代執権には北条氏庶家・普恩寺流の北条基時(生:1286年没1333年)が29歳で就任する。

この様に、貞時が没して、5年の間、北条高時が執権に就く迄に、3人の執権が極く短い期間の“中継ぎ”として交代したのである。

北条貞時が“世事(政務)二人ニ置キタリケレバ”と遺言した様に、この間の政治は内管領の長崎高綱(円喜)とその嫡男・長崎高資(ながさきたかすけ)そして安達時顕が談合する形で主導していた。執権職が短期間で交代しても政治上、何の影響も無かったのである。

北条貞時が“得宗専制政治体制”への復帰を目指し、政治権力を得宗に集中させる諸改革を進めていた事が結果として“内管領・長崎円喜”にとっては、彼への政治権力集中が既に出来上がっていたという状態だったと言える。政治力に長けた彼にとって“政治を専横“し易い状況が整っていたと言える。

鎌倉幕府は後世“御内人専横政治”と言われ、御内人に乗っ取られたとされる“寄合合議制政治体制―内管領の専横期“が以後続くのである。

幕府は内管領・長崎円喜が政治を専横、主導する状態下、元寇後の山積みされた政治課題を解決出来ず、抱えた侭の状態で時間が過ぎ、世情は“悪党”の蠢動(しゅんどう=動き出す事)は激しく成り、社会は不安定さを増して行った。

14:この期の“天皇”と“将軍”について

14-(1):天皇・・第95代花園天皇

1311年10月~1316年7月迄、北条高時が執権職に在った期間の天皇は持明院統の第95代花園天皇(生1298年崩御1348年:在位1308年譲位1318年)であった。

学問、歌道、書道に優れた天皇として名高く、その日記“花園天皇宸記”の原本は今日でも宮内庁書陵部に残されている。“博学”だけを吹聴する者を“学者之弊”として随所で戒める等、なかなかの人物であった事が記録されている。

彼が譲位するのが、鎌倉幕府を滅亡させる事になる、大覚寺統の第96代・後醍醐天皇である。

14-(2):将軍・・最後の将軍・第9代守邦親王将軍

得宗・北条貞時は1308年8月に既に19年間将軍職に在った、第8代久明(ひさあき)親王将軍を年齢も32歳という事で円満に皇子の守邦親王と交代させた。

この第9代守邦親王将軍(生1301年没1333年9月)が鎌倉幕府滅亡迄のほゞ25年間、鎌倉幕府、最後の将軍として在職し、最長期間の将軍となるが、全くの名目的な存在であった。

次項で詳述する後醍醐天皇に拠る倒幕運動(元弘の変=1333年4月)の際に護良親王(もりよししんのう)が発した令旨でも討伐対象は“伊豆国在庁時政子孫高時法師(=北条高時)”とされている。つまり鎌倉幕府第9代守邦親王将軍は名目上の幕府の長としての存在すら無視されていたのである。

1333年5月に新田義貞軍が鎌倉を落とし、北条高時以下一門が“東勝寺”で自害するが、この際の将軍・守邦親王の状況は5月22日に征夷大将軍を辞し、出家し、3カ月後の1333年8月16日に没した事は伝えられているが、その状況を裏付ける史料も無いという状態であった。

15:鎌倉幕府を乗っ取った御内人“長崎円喜一族”に拠る“形式・先例・家格重視”の政治・・形式と先例を重視しただけの“北条高時”の執権就任(1316年7月10日)

15-(1):執権職を“お飾り“にした特権的支配層・・幕府を乗っ取った長崎円喜一族

北条貞時が政務を放棄した時点で“特権的支配層”の代表・長崎円喜一族に鎌倉幕府は乗っ取られた状態となった。

延慶二年(1309年)4月時点の“寄合”の構成メンバーの史料があるが、1309年というと北条貞時が政務を放棄した状態で、跡継ぎの北条高時を5歳で元服させる等、彼の為の布石を打つ事にのみ生き甲斐を見出していた時期である。

長崎円喜に権限を与える事に拠って“高時”の養育・教育を委ねる方法であった事も彼が政権を専横する道筋をつけた事にもなった。

この時期の“寄合”メンバーは下記である。(役職は当時の役職)

I:北条氏・・北条貞時(得宗)・北条師時(執権)・北条熈時(庶家)金沢貞顕(庶家)大仏宗宣(連署)
Ⅱ:貞時政権メンバー・・長井宗秀・太田時連
Ⅲ:外様御家人・安達時顕(遺言で高時の養育を託した人物)
Ⅳ:御内人・・長崎円喜・尾藤演心

以上10人である。

北条氏一族は後に就く人達も含めて、全員が執権職に就いた人達である。“嘉元の乱(1305年)”以後の執権職は“お飾り“的存在であったから、政治は実質的に残りの5人が主導していたものと考えられる。彼等は所謂“特権的支配層”の人々であり“平禅門の乱”以降復権した人達が多い。

この2年半後の1311年9月と10月に北条師時と得宗・北条貞時が相次いで没するが、貞時からの遺言に従い、長崎円喜は以後、北条高時の執権就任も含め“遺言を忠実に守った政治”を主導して行くのである。

15-(2):“形式・先例・家格”を重んじた長崎円喜と金沢時顕の政治・・北条高時の執権就任を先例に沿って決める・・生和五年(1316年)7月10日

北条貞時の遺言を守り“形式・先例・家格”を守る政治を行う事が“得宗家の代理人”としての内管領の姿だとの態度に徹した長崎円喜であった。

11-(2)-④で紹介したが“保暦間記“の長崎円喜と金沢時顕の政治運営に関する記述に“彼等二人ニ、貞時世事置タリケレバ、申談シテ如形子細ナク年月送ケリ“とある。

北条貞時が臨終に際して、長崎円喜と安達時顕の二人に“世事(政務)”を託した事で、北条高時政権(実態は長崎円喜が主導)は二人の談合に拠って“形の如く子細なく=先例に従って形式通りに”運営されたと記述している。

北条貞時の遺言を守り長崎円喜と安達時顕は先ずは“形の如く子細なく(先例に従い形式通りに)”北条高時の執権就任を実現するのである。

得宗としての“家格”に相応しいように、北条高時の官職暦も祖父・北条時宗、父・北条貞時と似たペースで上昇させている。記録を見ると、北条高時も祖父の北条時宗が就任、任官した“小侍所別当”と“但馬権守“にほゞ、同年齢で就いた事が確認出来る。兎に角長崎円喜は、忠実に“先例に従う事”と“形式を整え”る事に注力した。

従って北条高時の執権就任も祖父の北条時宗が文永元年(1264年)14歳で連署(連署は副執権職である)に就任した先例、父の北条貞時が弘安七年(1284年)に、略14歳(満12歳)で就いた“先例”に従い、遅れる事の無い様、14歳に成る迄、待った。

北条時宗の場合は14歳で先ず、連署に就任し、4年間は執権としての実務能力を鍛え上げ、その上で18歳で執権職に就いたのだが、父親・北条貞時は、北条時宗急逝後、3ケ月後の1284年7月にいきなりの執権職就任であった。実務能力を鍛え上げる間も無く、いきなり執権職に就いた訳である。

しかも当時は安達泰盛が“弘安徳政”政治を主導しており、1年半後に“霜月騒動”で彼が滅びると、今度は御内人(内管領)の平頼綱が政治の実権を握り“寄合合議制政治体制”を成立させた政治を主導したという具合で、貞時はこの間政治にタッチしていない。

この様に、貞時以降、既に執権職が“内管領”を中心ととする“特権的支配層”に取って代わられる“過渡期“だった事を裏付ける史実である。

北条貞時の執権就任の場合を、執権職に就く為の実務能力を全く考慮しない“家格(得宗家)人事に拠る執権就任“と政治体制変遷史上称すが、北条高時の場合も全く同様の“家格人事”だったのである。

要は執権職の機能が“寄合合議制政治体制”すなわち内管領が主導する政治体制に“取って代わられた”事を裏付けているのである。

長崎円喜は“形式・先例・家格”を重んじる政治姿勢を北条高時の執権就任に対しても貫き、高時の執権就任のタイミングを“先例”の北条貞時に合わせ、14歳(満12歳頃)に拘わったのである。

これを実現する為、前任の第13代執権・北条基時(普恩寺流)は就任後1年未満、しかも、未だ30歳であったが、強引に降ろされ、1316年7月10日“第14代執権北条高時”が誕生した。

以上の様に“寄合合議制政治体制“の完成期とも称されるこの時期の政治は”お飾り将軍・お飾り執権“を形式的に戴いた。その就任は幕府としての体裁を整える為の“形式・先例・家格”だけを重視したものであった。

“元寇”以来の問題が山積し、社会が不安定化して行く状況下、鎌倉幕府は、得宗家執事の長崎円喜と北条高時の岳父という立場の安達時顕の二人が“寄合”を領導し、ひたすら、“先例偏重主義”に支配された政治を進めたのである。

この6-7項を“鎌倉幕府五段階の政治体制変遷“の第四段階“寄合合議制政治体制・・内管領の専横”の表題を付けたが、政治の実態は、上述した様な状況だったのである。

第14代執権・北条高時の連署には、第13代執権・北条基時の連署だった金沢(北条)貞顕(生:1278年没1333年)がそのまま留任している。

尚、この金沢(北条)貞顕は正中3年(1326年)3月に北条高時が病に倒れ、執権職を辞職し、出家した後に自らも出家・引退を申し出るが、1316年から内管領職を継いでいた長崎円喜の嫡男“長崎高資”の政治的思惑から、無理矢理に擁立されて、第15代執権職に就いた人物である。

彼は直後の“嘉暦の騒動”と呼ばれる政争に巻き込まれ、僅か10日間で執権職を辞し、出家している。

横浜市金沢区に“金沢文庫”に隣接して“称名寺”という真言律宗の寺がある。金沢実時(生1226年没1276年)の持仏堂が起源とされる寺だが、孫に当たる上記、金沢貞顕の時代には三重の塔を含む、七堂伽藍を完備した大寺院として全盛期を迎えたとされる。

2016年5月に訪れたが、朱塗りの仁王門には鎌倉時代に造られた高さ4mの仁王像が立ち、ここを通り抜けると“阿字ケ池”と呼ばれる池を中心にした朱塗りの太鼓橋(反橋)、平橋を配した“浄土庭園”が広がる。金沢三山を背に、金堂・釈迦堂・鐘楼が整った景観の見事な寺である。

知らずに車で訪ねたが、住宅地に囲まれた史跡であり、駐車場は全く無い。京急線“金沢文庫駅“から徒歩12分程だとパンフレットには書いてある。電車で訪ねる史跡だと言う事を注意して是非、春夏秋冬の植物鑑賞も含めて尋ねる事をお勧めする。

16:長崎円喜・安達時顕が主導した“寄合”の機能について

安達時顕の嫡男、安達高景は長崎円喜の娘を妻にした。長崎円喜と安達時顕は共に若夫婦の岳父という近い関係となり、二人は共に“寄合衆”として“寄合”を主導した。

安達氏は霜月騒動(1285年11月)で、そして、長崎氏は平禅門の乱(1293年)で共に一度は滅亡した家系であったが、この様に傍流の家系が見事な再興を成し遂げた事になる。

執権北条高時期の“寄合”は①人事権②闕所(けっしょ=敗戦・謀反・犯罪等に拠って没収された所領)処分権③官途推挙権等の、鎌倉幕府の全権力を集中させ、絶対的な機能を握っていた。

“太平記“や”保暦間記“の記事には北条高時が”飲酒・田楽・闘犬に惑溺(わくでき=夢中になって正常でない程溺れる事)する人物であったと書かれている。

“頗亡気ノ体ニテ、将軍家ノ執権モ難叶カリ・・正体無”(保暦間記)、要は全く愚かで、将軍の執権などとても務められない、正気でない人物であると書いている。

そもそも“嘉元の乱”以降の鎌倉幕府は、貞時の政務放棄を切っ掛けに、得宗家の政治権力は地に堕ちていた。政治の実権は内管領をはじめとする“特権的支配層“に奪われていたのである。

得宗家(執権)は将軍と同様に、形式を保つ為に“存在”すれば良い“装飾的存在”であり“内管領”が政治を容易に専横出来たのである。

こうした政治体制下で“家格”と“伝統”を権力基盤とした“特権的支配層”が権力を握る構図は、鎌倉幕府の中枢機能を主導した長崎・安達の両家だけでは無く、全国の幕府組織に広く伝播していた。

全ての“特権的支配層”にとって重要な事は“現状維持”であったから“先例と形式”が重んじられ、この期の政治は儀式化して行った。

17:後醍醐天皇が動く迄、御家人達が認識しなかった鎌倉幕府の変質と崩壊状態

この通史の“中巻”のタイトルは“武士層の出現に拠って始まった混乱と闘争の500年の歴史“とし、源平の出現から、戦国時代の末期に豊臣秀吉に拠って日本が再統一されるまでの歴史を記述している。

武士層の出現から武家政権が成立した事で、権力闘争(武力闘争)に明け暮れる歴史であるが、その夜明けとも言える150年間の“鎌倉時代”は“覇権争奪戦”の歴史でもあった。

そうした武力闘争の連続の勝利者が“特権的支配層”を徐々に形成して行ったのであるが、その割合は全御家人の僅か2.5~3%に過ぎなかったと言われている。

 “嘉元の乱(1305年)”の歴史的意味は、事件の後に“北条得宗家”という最大の勝利者に代替わりが起き、新たに御内人(みうちびと)”という“特権的支配層”が 鎌倉幕府の支配者に成ったと言う事、そうした新しい“特権的支配層”に対抗する勢力が存在しないという状況が出現した事である。

こうした“特権的支配層”となった御家人と、残る97%を占める大半の一般御家人との関係は、鎌倉幕府の岩盤の“御恩と奉公”とは全く異なる“支配者と非支配者”という関係に変質していたのである。

“御内人”を頂点とする“特権的支配層”にとって一般御家人は“支持基盤”では無く、“収穫する対象”に変質していた。

鎌倉幕府の基盤であった“幕府と御家人との絆”は失われ、幕府を率いた“特権的支配層”は、一般御家人の利益を保護する政治では無く、ひたすら自身の権益を維持、拡大する為の政治を行なうという姿に変貌していたのである。

一握りの“特権的支配層”に独占される状態となった鎌倉幕府に、一般御家人達は利用され、抑圧される対象となっていた。こうした状態の鎌倉幕府を“一般御家人達から彼等の財産を奪う為の機構と化していた“とする説もある。

こうした政情下であったから、全国規模で“悪党”の存在は拡大し、幕府を脅かす存在と成って行った。社会全体は非常に不安定な状態となっていたが、一般御家人達からは自ら“倒幕”の動きを起こす機運は湧き上がらなかった。

一般御家人達が且つての鎌倉幕府との変質を認識し、倒幕の動きに同調して動くのは、後醍醐天皇が先頭に立った、王朝(朝廷)側から齎(もたら)された“倒幕運動”が契機と成ったのである。

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