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2014年4月17日木曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代の始まりと院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
第8項 鎌倉幕府五段階の政治体制変遷の第五段階・鎌倉幕府滅亡
―幕府体制の矛盾に気付いた外様御家人と悪党を利用した後醍醐天皇―



1:文保の和談(1317年)で中継ぎとして後醍醐天皇が誕生する・・両統迭立ルール下で混乱した皇位継承の状況

1-(1):皇位継承問題に幕府が最初に干渉したのは北条泰時の時代・・1242年1月

6-5項―9を参照願いたいが“承久の乱”に勝利した後の1242年1月の第88代後嵯峨天皇(即位1242年1月譲位1246年1月)誕生に際して、第3代執権・北条泰時が時の朝廷権力者“九条道家”が推した“岩倉宮忠成王”を拒否した事が皇位継承に鎌倉幕府が干渉した最初のケースであった。

拒否理由は“承久の乱”の首謀者の一人であった“第84代順徳天皇(後鳥羽上皇の第3皇子)”の皇子だったからである。

“中国の聖人君子の様だ”と評された北条泰時であったから、こうした政治介入をした事が大きなストレスと成り、健康を害し“後嵯峨天皇”を誕生させた半年も経たない1242年6月に59歳で没した。

1-(2):第88代後嵯峨天皇は皇位継承問題を鎌倉幕府に丸投げした格好で崩御、この事が、後の天皇家が分裂(持明院統・大覚寺統)して争う始まりと成る・・1272年2月

自身の即位が鎌倉幕府の意向で決まった事で“後嵯峨天皇”は皇位継承に対して“幕府の意向に任せる“態度をとった。

この事が皇統が“持明院統”と“大覚寺統”に分かれて争う原因と成り、紆余曲折を経て“南北朝時代“へと繋がる起点となるのである。

以下に“後嵯峨天皇”が残した問題点とその展開を記述して行く。

1-(2)-①:溺愛した弟皇子を即位させ、兄皇子を無理矢理に譲位させる・・1246年

後嵯峨天皇は兄皇子を第89代後深草天皇(即位1246年譲位1260年)として即位させた。ここまでは何ら問題の無い順当な皇位継承であったが、後に、寵愛する弟皇子を第90代亀山天皇(即位1260年譲位1274年)に就けるという行動に出た。

無理矢理退位させられた後深草天皇は当然大きな不満を持ち、この事が兄の後深草天皇系が持明院統、弟の亀山天皇系が大覚寺統として対立する事に成り、その後、両統が皇位継承を巡る争いを重ねる事になり、終には南北朝時代へと展開して行く発火点となったのである。

以前の項で“院領荘園群”について詳述したが、この時、経済基盤として“院領荘園群”の伝領も二分された。兄の“後深草院”が“長講堂領”を継承し、弟の亀山院が“八条院領”を伝領したのである。この事は皇統が二つに分かれて争う経済力の面で、双方の重要な基盤となったのである。

更に事態を悪化させたのは、後嵯峨上皇が亀山天皇(大覚寺統)の皇子、つまり、孫皇子を“第91代後宇多天皇(即位1274年譲位1287年・大覚寺統)”として継承させる道筋までつけて1272年に崩御した事であった。

兄の後深草上皇の系統を無視して、弟の亀山天皇の系統によって皇位が継承されて行く事に兄の“後深草上皇”は黙って居らず、以後“持明院統系”の皇統と亀山天皇の“大覚寺統系”の皇統との間の確執は露骨な皇位継承争いへと発展して行く。

後嵯峨上皇の残した問題は更にあった。それは、本来、天皇家の親権者として、次の“治天の君(天皇家の長)“を自身で指名すべきであったのだが、それもせずに崩御した。

至尊勢力(天皇家・朝廷)での“院政”は当時も続けられており、院政を行う資格者、つまり“治天の君”は誰であるのか、を明確にせずに崩御した事も彼が残した“天皇家の争い“の大きな“火種”であった。

当時の幕府(当時は8代執権北条時宗)は6-6項―7で詳述した様に、1268年のモンゴル帝国のフビライ・ハーンからの国書が到来して以後、その対応でパニック状態であった。

そうした状況下で“至尊(天皇家・朝廷)”勢力側は、1274年(文永11年1月26日)に上記した後嵯峨上皇が道筋をつけた第91代後宇多天皇(大覚寺統)が7歳で即位したのである。

第一次元寇(文永の役)が起こったのが文永11年(1274年)10月5日(対馬佐須浦で開戦)であるから、9カ月前の“後宇多天皇即位”は、国中がパニック状態下で行われた皇位継承だったのである。

因みにこの“後宇多天皇”は1287年に譲位する迄、天皇の地位に在った。従って、1281年の第二次元寇(弘安の役)が起こった時も在位中(14歳)であり、二度の元寇を経験した天皇である。

鎌倉幕府は“第一次元寇“に辛うじて対応し,形の上では”勝利“した事は既述の通りであるが”第二次元寇“がある事は避けられないという未曽有の国難が続いていた。その最中の1275年に“至尊(天皇家・朝廷)”側でトラブルが起きたのである。

それは、父親“後嵯峨上皇”から皇位継承問題で無視された兄の“後深草上皇”が、怒りのあまり“太上天皇の尊号”を辞退し、更に“出家”を申し出ると言う“事件”を起こしたのである。

時の得宗・第8代執権北条時宗と関東申次“西園寺実兼”が間に入って、後深草上皇(持明院統)の皇子をその次の第92代伏見天皇(即位1287年譲位1298年)として即位させる事を約束する事でこの場を治めたのである。

1-(3):両統迭立の始まり・・弟の亀山上皇(大覚寺統)が排除され、兄の後深草上皇(持明院統)が院制を敷き、伏見天皇(持明院)が即位する:1287年

前項6-(2)-①で記述した様に、内管領・平頼綱は持明院統に接近した人物である。そして皇位継承に積極的に介入した。

具体的には第91代“後宇多天皇(亀山天皇第2皇子・即位1274年譲位1287年:大覚寺統)“時の亀山上皇(第90代天皇・大覚寺統)の院政を停止させ、持明院統から28年振りに第92代・伏見天皇(即位1287年譲位1298年)を北条時宗と西園寺実兼間で交わした約束を12年後に実現させ、即位としたのである。

内管領・平頼綱が主導し、実現させた、この“伏見天皇即位(持明院統)“が“両統迭立”の始まりとされるが、決して以後の皇位継承がこの“ルール”に則ってスムーズに行われた訳では無い。

1-(4):“両統迭立ルール”を早速破った伏見天皇・・第一皇子を第93代・後伏見天皇(即位1298年譲位1310年:持明院統)に就ける。亀山上皇(第90代天皇・大覚寺統)が時の内管領・平頼綱の政敵であった“安達泰盛”と連動して“弘安徳政”を進めた事が、平頼綱を“持明院統”に近寄らせた大きな理由であった事は6-7項の“霜月騒動”後の政治体制の処で記したが、亀山上皇が西園寺実兼と不仲だった事も“持明院統の伏見天皇”が誕生した背景でもあった。

両統に拠る皇位継承争いは亀山上皇(法皇)が黒幕として疑われた“伏見天皇暗殺未遂事件“が起きる程、エスカレートしたのである。

1-(4)-①:伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)・・1290年

この未遂事件は“増鏡”にも記述されており、1290年(正応3年)3月9日に起きた“史実”と考えられている。

事件は武装した浅原為頼、息子の浅原光頼、為継の3人が御所の二条富小路殿に乱入したが、女嬬(にょうじゅ=後宮に仕える女官で宮内の掃除、雑事に従事)の機転で伏見天皇は女装をし、三種の神器を持って脱出したとされる。

暗殺に失敗した“浅原為頼並びに二人の子息”は共に自害をしたが、事件の処理に当った六波羅探題が“浅原為頼”が自害に用いた“鯰尾(なまずお)”という太刀から、大覚寺統系の公卿“三条実盛”の関与とその背後に“亀山法皇(1289年に南禅寺で出家)”が関わっているとの疑いに発展した事件である。

亀山法皇が関与を否定する起請文を鎌倉幕府に送った事で、伏見天皇も幕府もそれ以上の追及を行わず、三条実盛も釈放された。

この事件後“亀山法皇(大覚寺統)”の力は急速に衰え、伏見天皇(持明院統)はこの事件を逆手に取って両統迭立のルールを破ったのである。

1298年に譲位すると、皇子の持明院統・第93代後伏見天皇(生1288年崩御1336年・即位1298年譲位1301年)への皇位継承を行い、自らは第1回目となる院政(第2回目は後述)を開始するという展開となった。

1-(5):大覚寺統の巻き返し・・第94代後二条天皇の即位(即位1301年崩御1308年23歳)

亀山法皇の力は衰えたとは言え、1301年時点では52歳、伏見上皇が両統迭立のルールを無視し、持明院統に偏った皇位継承が行われた事に対して、強く幕府に異を唱えたのである。

亀山法皇(大覚寺統)の幕府への強い働きの結果、第93代・後伏見天皇(持明院統)は、即位後僅か3年で大覚寺統の第94代・後二条天皇(即位1301年・生1285年崩御1308年)に譲位するという結果になった。

こうした結果に到ったのは、持明院統を強く推した平頼綱が“平禅門の乱(1293年)”で自害し、又、持明院統派の“西園寺実兼”も1301年時点では既に52歳となり、出家していた事が大きく影響している。

一説にはその“西園寺実兼”自身が、同じく持明院統派だった“京極為兼”との確執から、次第に大覚寺統寄りに変節していたとされる事も大きな理由とされる。

この様な経緯から、1287年に持明院統の第92代伏見天皇が即位して以来、1298年の第93代・後伏見天皇へと持明院統による皇位継承が続いていたが、13年振りに“大覚寺統”の第94代“後二条天皇”が誕生し、父・後宇多上皇(第91代天皇・大覚寺統)の院政が開始される。

彼こそが天皇在位時代に2度の“元寇”を経験した人物であり “後醍醐天皇”の父親である。

1-(6):大覚寺統・亀山法皇の崩御(1305年)で持明院統・伏見上皇が再び息を吹き返す・・第95代花園天皇(持明院統)の即位と伏見上皇の2回目の院政開始

巻き返しに成功した大覚寺統であったが、後二条天皇が即位7年後の1308年に23歳の若さで病没。亀山法皇も3年前の1305年に崩御しており、両統迭立のルールに則って、持明院統から幕府が推す“伏見上皇の第四皇子”が第95代花園天皇として即位した。(即位1308年譲位1318年)。

この時期の鎌倉幕府は、前項で記述した得宗・北条貞時が1305年の“嘉元の乱”以降の“政務放棄”状態にあり、内管領・長崎円喜らが政治を専横、鎌倉幕府は乗っ取られた格好となっていた。

幕府の朝廷に対する統制力も弱まっていた処に、伏見上皇(持明院統)の巧みな幕府への工作もあって、先に第一皇子を第93代・後伏見天皇(持明院統・即位1298年譲位1301年)として即位させた際の第1回目の院政に続いて、今回は、第四皇子を花園天皇として即位させた事で、2度目の院政を開始したのである。

1-(7):伏見上皇(持明院統)の“倒幕の画策”が噂されたが幕府は上皇を罰せず、身代わりとして“京極為兼”が2度に亘って配流された・・1298年&1316年

伏見上皇(第92代天皇・持明院統:即位1287年譲位1298年:生1265年崩御1317年)は天皇に即位した2年後に父の後深草上皇が院政を停止した為、1298年に譲位する迄“天皇親政”を行った。

その際、1289年に自らの皇子を皇太子(第93代後伏見天皇・持明院統)とした為、大覚寺統との確執を強め、既述した“浅原為頼”等による“伏見天皇暗殺未遂事件”が起こる程、両統の皇位継承争いは先鋭化した。

伏見上皇(持明院統)の時代は、1285年の“霜月騒動”以降、1293年迄は内管領・平頼綱が政権を牛耳っていた期間であり、既述した様に“持明院統寄り”の皇位継承策を講じていた。しかし、1293年に平頼綱が滅び、執権・北条貞時の政治へと変化した事で、伏見上皇は鎌倉幕府の皇位継承問題介入に強い不満を抱く様になる。

伏見上皇の“倒幕画策”の噂は2度立てられた。

一度目が1298年で、第一皇子(第93代後伏見天皇)に譲位し、第一回目の院政を開始した頃とされる。この時、側近で、伏見上皇と共に出家する程、関係が近く“玉葉和歌集”の撰集者として有名な“京極為兼(きょうごくためかね)”が身代わりに“配流”されている。

この時の京極為兼の罪は“皇統の迭立に関与した”という事であった。1298年1月に佐渡に流され、この時は1303年に帰京が許されている。

伏見上皇がどの様な形で2度目の“倒幕画策”を行ったのかについての史料は無いが、1303年に漸く“佐渡の流刑”から戻った“京極為兼”が1315年12月に再び捕えられ、六波羅探題に拘禁された後、翌、1316年正月に“土佐”に配流された状況から2度目の画策があったとの説が生れた。

当時の土佐国は守護が得宗家、守護代が得宗・御内人の安東氏であった。幕府と対立し、何かと“朝廷権力の強化”を謀る“伏見上皇”に対して、側近中の側近の“京極為兼”を再び身代わりとして配流する事で、間接的に“天皇の倒幕画策”を罰したとする説である。尚、2度目の配流となった“京極為兼”は帰京を許される事無く、河内国で1332年に78歳で没している。

この事は、伏見上皇(持明院統)の施政期間中(天皇在位期間:1287年~1298年、第一次院政期間:1298年~1301年、第二次院政期間:1308年~1317年)から既に“至尊(天皇家・朝廷・公家)”勢力側では“倒幕の動き”が芽生えていたと言う事である。

1-(8):伏見上皇(持明院統)の崩御(文保元年9月3日1317年)と“文保の和談”・・1317年

伏見上皇の第四皇子が第95代花園天皇(持明院統)として1308年に即位した時に皇太子に立てられたのが、崩御した第94代・後二条天皇(大覚寺統)の異母兄で、第91代後宇多天皇(大覚寺統)の第二皇子“尊治親王(後の第96代後醍醐天皇)”であった。

1308年の時点で花園天皇(持明院統)は11歳、皇太子(後醍醐天皇・大覚寺統)は9歳年上の20歳という“両統迭立のルールを守る為”に年齢が逆転した異例の皇位継承の形となった人事であった。

文保元年(1317年)に、持明院統として勢力を持ち続けた“伏見上皇”が崩御する。

すると、既に29歳になっていた“尊治親王(大覚寺統・後醍醐天皇)”が花園天皇(持明院統)の退位と自分への譲位を求めて幕府へ強く働きかけたのである。

働きかけたのは当時存命中だった父親・後宇多上皇(大覚寺統・第91代天皇:即位1274年譲位1287年:生1267年崩御1324年)との説もある。

この時点で後宇多上皇は50歳、長子の第94代・後二条天皇が1308年に病で23歳で崩御した後は、天皇の父親としての実権と地位を失い、第2皇子の尊治親王(後醍醐天皇)が即位する1318年迄の10年間は政務から離れていた。

後宇多上皇はこの間、真言密教に関心を深め“弘法大師伝“や”御手印遺告“などの著作に没頭していたとされる。

こうした事から、後宇多上皇は政権(=院政)に強い意欲を持つ人物では無かったと考えられ、従って、幕府への強い働きかけは、尊治親王(後醍醐天皇)自らが行ったと見るべきであろう。

この時点の鎌倉幕府は前年の1316年に12歳の“お飾り執権・北条高時”を内管領の長崎円喜と金沢時顕が誕生させている。第9代“守邦親王将軍”は元から“お飾り将軍”であったから、幕府政治は長崎円喜(この頃迄は内管領の職にあり、後に嫡男の長崎高資に譲っている)主導で行われていた。

幕府の皇位継承問題介入に強い不満を持つ“尊治親王(後醍醐天皇)”の強い働きかけに対して“両統迭立”の原則に立つ幕府は、使者“中原摂津親鑒(なかはらせっつちかあき)を通じて以下の3条を提示した。

①:花園天皇(持明院統)は尊治親王(大覚寺統)に譲位する事
②:今後天皇在位年数は10年として両統が交替する事
③:次の皇太子は邦良親王(大覚寺統)とし、その次の皇太子は後伏見天皇(持明院統)の皇子・量仁親王(持明院統・後の北朝初代天皇とされる光厳天皇)とする事

この“両統迭立”をベースとした皇位継承の原則の提示と、皇位継承問題は両統が協議をして決定する事をあらためて取り決めたものが“文保の和談”と呼ばれるものである。

1-(8)-①:“文保の和談“の結果

この協議は難航したと伝わる。

結局、上記和談の中、①の花園天皇(持明院統)が退位し、尊治親王(たかはるしんのう=大覚寺統)が第96代後醍醐天皇(即位:文保2年2月26日=1318年)として即位する事は翌1318年に実現した。

しかし、②と③については決定に到らなかったとする説もある。

“文保の和談”を受けて即位した“後醍醐天皇”は“至尊(天皇家・朝廷)”側が政治権力を、至強(鎌倉幕府・武士層)側から取り戻すべきだ、との強い考えを持つ天皇であった。従って“文保の和談”の②と③を遵守する考えは無かったのである。

父・後宇多上皇(生1267年崩御1324年)が上記“文保の和談”で幕府との間で内諾したとされる“嫡孫・邦良親王”への皇位継承には強く抵抗し、自分の子孫に皇位を継承しようとの強い思いを持っていたとされる。

この思いを実現する為“倒幕”へと進んで行く事になるのである。

2:後醍醐天皇の“倒幕”への具体的ステップ

2-(1):後宇多上皇(大覚寺統)も伏見上皇(持明院統)が行ったと同じく、2度目の院政を開始、しかし、開始3年後に“院政停止”をする・・1321年

第一皇子が第94代後二条天皇(即位1301年崩御1308年)に即位した際に、後宇多上皇(大覚寺統)は1度目の院政を開始している。その間、1307年には仁和寺で落飾(得度=出家)、大覚寺門跡(住持=住職)となり、大覚寺を院政の御所とした。

後二条天皇が在位中に崩御した為“文保の和談”で後宇多上皇の第二皇子が大覚寺統から皇位を引き継ぐ形で強引に“第96代後醍醐天皇”として即位した。そして父親として、後宇多上皇は2度目の院政を開始する。

しかし、3年後の1321年、54歳の時に院政を停止し、隠居したのである。

隠居後は“文保の和談“で内諾した”後二条天皇の第一皇子・邦良親王(くによししんのう)“を即位させ、大覚寺統を傍系で、しかも”中継ぎ天皇“と周囲も理解していた”後醍醐天皇“から”嫡孫系“の天皇に戻す事で、大覚寺統の一本化を強く望んでいたとされる。

2-(2):“中継ぎ天皇”である事を拒否し“天皇親政”を実現させるべく、父・後宇多上皇の院政を停止させた“後醍醐天皇”

その昔、皇太子を経ずに“第78代二条天皇(即位1158年崩御1165年)”へ継ぐ迄“中継ぎの天皇”として即位した第77代後白河天皇(即位1155年譲位1158年)”が激しく抵抗したケースと同じ様に、後醍醐天皇も“中継ぎ天皇”である事を拒否し、自分の子孫への皇位継承を考えていた。

従って、後醍醐天皇は“文保の和談”で、嫡孫系の“邦良親王”への継承が内諾され、1318年に邦良親王が皇太子となっていた事に不満を持ち、そうした路線を敷いた“幕府と父・後宇多法皇”に反感を抱いていた。

後醍醐天皇が即位した時から抱いていた“倒幕”の考えは、愈々具体的ステップに入って行くのである。

その第一ステップは、後宇多法皇の院政を停止させ“天皇親政”によって政治権力を掌握する事であった。その為には後宇多法皇を隠居させる事であった。そして、上述した様に後宇多上皇は1321年、54歳で院政を停止し、隠居している。

こうした経緯は果して後醍醐天皇が強く働きかけて後宇多上皇を隠居に追い込み、院政を停止させたのか、或は、後宇多上皇(法皇)自身が、進んで希望した動きだったのかの2説がある。“弘法大師伝”などの著作をした程に真言密教に帰依し、落飾した”後宇多法皇“であるから、何れにしても政治の世界から引退する事にさ程の抵抗があった人物とは考えられていない。

何れにせよ、結果として“後醍醐天皇の親政”が実現した。

残る障害は両統迭立という原則を押し付ける幕府の存在であり、自分の皇位を安定させ、自らの子孫への皇位継承へと繋げたいと考える後醍醐天皇にとっては“倒幕”こそが現実の課題として明確になったのである。

3:正中の変・・元享4年9月(1324年)

3-(1):父親・後宇多法皇が崩御する・・1324年(元享4年)6月25日(57歳)

院政を停止し、隠居した父・後宇多上皇(法皇)は、大覚寺統の嫡流である後二条天皇の第一皇子“邦良親王”へ譲位する様、崩御の間際まで後醍醐天皇に命じていたとされる。そして1324年6月に57歳で崩御した。

話は逸れるが“枕草子・方丈記”と共に日本の三大随筆とされる“徒然草(成立は諸説があるが、1330年8月~1331年9月説が主流)”を執筆した吉田兼好(本名:卜部兼好=うらべかねよし・生1283年没1352年)は後宇多天皇に下級官吏として仕えた人物である。

後宇多上皇(法皇)が崩御した後の至尊勢力(天皇家・朝廷)内の皇位継承争い、並びに鎌倉幕府との確執などを目の当たりにして、世の無常を感じ、出家して書いたのが“徒然草”だとされる。兼好が推定、47~48歳の時に完成したとされる。

同時期のヨーロッパでは、ルネッサンス文学の開幕を告げたとされるイタリアのダンテ(生:1265年没1321年)が“神曲”を1321年に完成させている。ダンテ56歳の時であり、彼は吉田兼好と同時代の人物だったという事である。

3-(2):後醍醐天皇が譲位をしない事に不満と焦りを募らせた皇太子・邦良親王(生:1300年没:1326年3月)・・“大覚寺統”が内部分裂の状態となる

そもそも第95代花園天皇(持明院統)が父・伏見上皇(第92代天皇・持明院統・崩御1317年)の巧みな幕府工作で1308年に即位した時に、皇太子に立てられるべきは1308年に崩御した第94代・後二条天皇(大覚寺統)の第一皇子・邦良親王であった。

しかし、当時は未だ8歳であった事と鶴膝風(かくしつぷう=足の肉が落ちてツルの様に細く成り、歩けなくなる病気)の不安があった為、叔父に当たる尊治親王(後醍醐天皇)が“中継ぎ”として皇太子に立てられたのである。

そして1318年1月の“文保の和談”の約束に従って“花園天皇(持明院統)”が中継ぎとしての後醍醐天皇(大覚寺統)に譲位し“邦良親王(大覚寺統)”は順序通り“皇太子”に立てられた。

この事は1339年頃に公卿の北畠親房が、後醍醐天皇が崩御し、幼帝・後村上天皇(第97代:生1328年崩御1368年:即位1339年)が即位した頃に、吉野朝廷の正当性を述べた歴史書として献上した“神皇正統記”にも明記されている。

後醍醐天皇は大覚寺統である。では何故、次期天皇を意味する皇太子に同じ大覚寺統からの“邦良親王”が立てられたのかに就いては、前記した“文保の和談”の②で“天皇在位年数は10年として両統交替する事”に順じた為と考えられる。つまり、このルールに対して、第94代・後二条天皇(大覚寺統)が23歳で崩御し、在位期間が7年間と短かった事を幕府が考慮した為とされる。

この事からも、鎌倉幕府も“後醍醐天皇”を“中継ぎ天皇”としか考えていなかった事が明白である。

処が、後醍醐天皇は“譲位の内諾”には大いに不満を抱いていた処に、父親の後宇多上皇(法皇)も、この時点では嫡孫の“邦良親王”の健康問題が万全では無く、こうした状態で“邦良親王(大覚寺統)”の即位を急ぐ事は“持明院統”への皇位委譲を早める危険性があるとの懸念から後醍醐天皇から皇太子“邦良親王”への譲位を急がない方が好都合だと“待ちの姿勢”に変化していたという事情が重なったのである。


しかし“後宇多上皇崩御(1324年6月)”という事態が起き“至尊(天皇家・朝廷)”勢力側で“大覚寺統”自体が内部分裂問題を起こす事になる。

皇太子“邦良親王”は既に20歳を超えていた。そして後醍醐天皇が一向に譲位の意志を示さない事に不満と焦りを募らせていた矢先に、彼が最も頼りとしていた祖父・後宇多法皇が57歳で崩御したのである。

“文保の和談(1317年)“②の内諾で、自分を皇太子に立て、その後も鎌倉幕府との間に立ち、強力な後ろ盾であった祖父・後宇多法皇の崩御によって邦良親王の危機感と不安感は頂点に達していた。

後宇多上皇(法皇)の崩御を境に皇太子・邦良親王は鎌倉幕府に対して、後醍醐天皇の譲位を強硬に迫るという行動に出たのである。

3-(3):後醍醐天皇が倒幕運動を具体化する・・正中の変(1324年9月)

後宇多上皇(法皇)は崩御前の1321年から院政を停止し、後醍醐天皇に拠る“親政”が行われていた。“皇太子・邦良親王”の即位を支持する父親・後宇多上皇(法皇)の崩御は、後醍醐天皇にとっては大きな障害が取り除かれた事を意味した。

残された障害は“鎌倉幕府”の存在だけとなった。“後宇多上皇(法皇)”崩御後の後醍醐天皇の“倒幕”の動きは、更に具体的、且つ先鋭化して行く。

元享4年(1324年)9月、側近の日野資朝(ひのすけとも=生1290年処刑1332年)日野俊基(ひのとしもと=生不詳処刑1332年)並びに“足助重範”等、側近の武士を集めて、六波羅探題南方・大仏維貞(第11代執権大仏宗宣の嫡子・最後の第16代執権赤橋守時の連署となった人物)が引き継ぎの為に鎌倉へ赴いている隙を狙って“北野神社例祭”に乗じて“六波羅探題襲撃”の計画を立てた。

日野俊基らは山伏姿になって各地を廻り、各地の経済力、軍事力等を詳細に調査し、各地域の反幕勢力の情報を後醍醐天皇に提供するという役割を担ったとされる。

後醍醐天皇の倒幕運動は用意周到に進められていた。しかし“花園天皇宸記”の元享4年(1324年)11月1日条の記事に拠ると、後醍醐天皇が“無礼講”の名目で“倒幕計画”の為に集め、謀議を重ねていた仲間の中から裏切り者が出た事が書かれている。“遊(祐)雅法師が倒幕謀議の参加者リストを六波羅探題に投げ込んだのである。

“太平記“には、この“倒幕計画”の破綻を“後醍醐天皇”側の土岐頼員(美濃の武将=舟木頼春)の妻が六波羅探題の奉行(斎藤利幸)の娘であり、夫から情報を得た妻が六波羅探題に伝え、六波羅探題は在京の武士3000人を動員して弾圧に乗り出し、1324年9月19日、四条付近で、六波羅探題側の小串範行・山本時綱軍との戦闘と成り、土岐頼員並びに多治見国長(美濃源氏)が討ち取られた、と記述している。

六波羅探題の追及は朝廷に迄及んだが、日野資朝、日野俊基が罪を被って鎌倉に連行され、“日野資朝”が佐渡島へ流刑、そして“日野俊基”は赦免され、蟄居謹慎となった。

後醍醐天皇は公卿の万里小路宣房(までのこうじのぶふさ:生1258年没1348年90歳)を鎌倉に行かせ、事件の全ては“陰謀の輩の咎”だったと弁明させた。鎌倉幕府は今回の一連の事件と後醍醐天皇は無関係とし、処罰する事は無かった。

以上が“正中の変”と呼ばれる“後醍醐天皇”による“倒幕運動のスタート”とされる1324年9月に起こった事件である。

3-(4):皇太子“邦良親王(大覚寺統)”からの“後醍醐天皇の譲位要求”に“持明院統”も同調し、共に鎌倉幕府に強硬に訴えるという状況となる

“正中の変”の露見で後醍醐天皇の立場が悪化した事を見た“邦良親王”は祖父・後宇多法皇の遺言でもあり、鎌倉幕府との“内諾であった”事を梃子に、後醍醐天皇に“譲位”を要求する動きを一層強くした。

この動きに持明院統も同調した。その前提条件としたのは、量仁親王(持明院統・第93代後伏見天皇の第三皇子=後に北朝の初代光厳天皇として即位する)を“皇太子”に立てる事であった。

こうした動きに“後醍醐天皇”は“譲位繰り延べの要請”の使者を鎌倉に派遣し、あくまでも皇位を譲らない強硬な姿勢で対抗した。

こうして鎌倉幕府に三者が次々と使者を派遣するという状況と成り、こうした状況を持明院統の花園上皇は自身の“花園天皇宸記”の正中2年(1325年)正月13日条で“世に競馬と号す(競べ馬の様であった)”と記している。

3-(5):皇太子“邦良親王”が急死する・・正中3年(1326年)3月20日26歳

鎌倉幕府の“朝廷に対する発言力”も弱まっていた。

こうした状況変化を見抜いていた後醍醐天皇は、譲位を拒み続け、邦良親王の幕府への必死の訴えにも拘わらず、事態は膠着状態となっていた。そうした最中の1326年3月に、何と、皇太子の“邦良親王”が26歳の若さで急死したのである。

幕府は1326年7月、両統迭立のルールに沿って持明院統の“量仁親王(後伏見天皇の第三皇子・後の北朝初代光厳天皇・生:1313年崩御:1364年)を皇太子に指名すると共に、後醍醐天皇の譲位を迫った。

至尊(天皇家・朝廷)勢力が政治権力を“武士政権誕生”以前の状態にまで奪還する事、そして、自らの皇統で皇位を継承する事に全力を注ぐ“後醍醐天皇”にとって残る課題は“倒幕”だけと成ったのである。

“正中の変(1324年9月)”以後、後醍醐天皇に対する監視の目は強く成ったが、後醍醐天皇は尚も1326年から1329年に亘って、中宮・禧子(西園寺禧子)の安産祈願と称して、延暦寺、園城寺、仁和寺、更には禁裏(御所)でも“関東調伏(鎌倉幕府の呪詛)”の祈祷を行ない続けた事が記録されている。

尚、後醍醐天皇は“内裏で祈祷を行う為に“文観”から伝法灌頂(かんじょう=密教の儀式)を受け、自ら護摩を焚くという徹底振りであった。

4:北条高時が執権職を辞す。後任人事を巡って、内管領・長崎高資、父親・長崎円喜の政治専横振りを露呈した“嘉暦の騒動”が起きる(1326年3月16日~4月24日)・・ 混乱が収まらない鎌倉幕府の状況

後述するが、1326年3月時点で幕府は“奥州安東氏の内紛“を拙い政治対応で ”内乱状態“へと悪化させていたが、そうした事態を収拾すべく御内人の”工藤佑貞“を出陣させるという状況下にあった。

そうした最中の正中3年(1326年)3月13日に、病気を理由に、未だ22歳の第14代得宗執権・北条高時が辞任し、出家して“日輪寺崇鑑”と名乗るという事態が重なったのである。

この時、連署だった金沢(北条)貞顕も北条高時に倣って辞任し、出家する事を長崎父子に申し出ていた。

北条高時の後任としては、高時の弟の“北条泰家”と、生後3カ月の高時の嫡男“北条邦時“が挙げられた。

“北条泰家”を強く推したのが“泰家”の母親(高時の母親でもある)で、北条貞時の側室の“覚海円成(かくかいえんじょう=大方殿=安達泰宗の娘)“と外戚の安達氏一族であった。

しかし、長崎円喜と内管領・長崎高資父子は北条高時の赤子の嫡男“北条邦時”を推し、繋ぎとして48歳の金沢貞顕を強引に1326年3月16日、第15代執権に就けたのである。

出家を覚悟したはずの金沢貞顕(生1278年没1333年)であったが“面目極まりなく候”と素直に大喜びしたと伝わる。

彼の日記には“愚老、執権のこと。去んぬる十六日の朝、長崎新左衛門尉(長崎高資)をもって仰せ下され候。面目きわまりなく候“とある。早速、執権就任当日から評定に出席するなど精力的に動いた事も記録に残っている。

この“北条氏庶家”の金沢貞顕が、中継ぎとは言え、執権に就くという動きに猛烈に抵抗したのが、北条高時の弟・北条泰家で、この人事を不満として“出家する”と言い出し、彼の周囲の多くの人々も同調して出家するという大事態に発展した。更に“金沢貞顕を暗殺する”との風聞も立つなど“金沢貞顕”は窮地に立たされ、執権在職僅か10日後に辞任し、出家する結果となった。

金沢貞顕の突如の辞任で、鎌倉幕府は“第16代執権職”として正中3年(1326年)4月24日に、第6代執権・北条長時の曽孫、北条氏庶家出身、31歳の赤橋(北条)守時(生1295年没1333年5月18日・在職1326年~1333年)を就ける事で、一連の混乱を治めた。これが“嘉暦の騒動”であり、赤橋(北条)守時は“最後の執権職”に就いたのである。

この様に鎌倉幕府は、内管領・長崎高資、円喜父子に乗っ取られた体であった。“お飾り”とは言え北条得宗家には“北条高時”の後の執権職候補が居なかったのである。

尚、第16代執権職となった“赤橋(北条)守時”の妹は足利高(尊)氏の正室として嫁いでいた。この事が赤橋(北条)守時の哀れな最期に繋がる。

後醍醐天皇の“倒幕運動”にとって、更にフオローの風が吹く。それが下記の“奥州安東氏の乱”の拡大と鎌倉幕府の失態である。

5:“奥州安東氏の乱”の鎮圧が出来なかった鎌倉幕府・・1328年

5-(1):奥州安東氏の内紛が“乱”へと拡大する・・内管領・長崎高資の賄賂政治と拙い人事政策が事態を悪化させる

5-(1)-①:“蝦夷と悪党“を巻き込んだ”乱“へと拡大させた“内管領・長崎高資”の拙い政治対応

“奥州安東氏の内紛”への対応は、鎌倉幕府の腐敗ぶりと無策ぶりを晒す結果となる。

得宗家は“陸奥国”に多くの“得宗領”を有していた。第2代執権・北条義時の時代から、安東氏が“御内人”として、奥羽両国と渡島(おしま)の蝦夷支配を担当し、幕府の“蝦夷管領職“を世襲して来た。

鎌倉末期になると、嫡系の安東貞季(=季長)は十三湊に福島城を築き“津軽安東氏”と称していた。一方、庶系の安東宗季(=宗久=季久)は出羽国に勢力を持ち“秋田安東氏”と称していた。“安東氏”は二系列に分かれて争うという状態になっていた。

この“二系列の安東氏”の間で、世襲の“蝦夷管領職”並びに“家督”を巡っての対立が生じ、双方が共に“得宗家の公文所”に訴え出るという内紛状態となった。

双方からの“訴訟”処理に当たった内管領・長崎高資は、何と、双方から賄賂を受け取り、夫々に都合の良い裁許を与えた。この事が、両者の対立を益々激化させる事に繋がった。

“保暦間記”には“奥州安東氏の乱”は元亨二年(1322年)春に起こったと書かれているが、既に4年前の1318年頃から内紛状態にあった様だ。ところが、長崎円喜・長崎高資父子が専横する鎌倉幕府は、上記した様に、事態を治めるどころか、悪化させるという失政振りだったのである。

1318年時点では、得宗・執権北条高時は未だ14歳、2年前の1316年に執権職に就いたばかりである上に全くの“お飾り執権”だった。

両・安東氏の対立が激化する状況に乗じて“蝦夷衆”もこの機を捉えて反幕府の叛乱を起こし、事態は悪化の一途であった。こうした状況に乗じて、地域の“悪党“も加わり、内紛は”奥州・安東氏の乱“と呼ばれる程の大規模な騒乱状態に成っていたのである。

こうした状況に、内管領・長崎高資は1325年6月に安東一族の嫡流“安東貞季”の“蝦夷得宗代官“の職を解き、代りに庶系の“安東季久”を就ける人事を行った。この事は真に“火に油を注ぐ”結果となる。

安東一族の“嫡系”を自負する“安東貞季”の不満は爆発し“奥州安東氏の乱”は一段と激化して行ったのである。

5-(1)-②:“奥州安東氏の乱”を鎮圧出来ず、漸く“和談”という形で事態を収拾した鎌倉幕府は“統治能力の弱体化”を世間に露呈した・・1328年10月

幕府自らが悪化させて来た事態ではあったが、前記した様に、事態収拾策として、1326年3月に御内人“工藤禎佑”を派遣した。そして彼は7月に嫡系の安東貞季(=季長)を捕えて鎌倉に戻ったのである。

嫡系の逮捕に反発した“郎党”に加え、この混乱に乗じて“悪党”も蜂起する事態となり“奥州安東氏の乱“は更に混乱の度を増して行った。

翌年、1327年になって幕府は追加対策として“宇都宮高貞(宇都宮貞綱の息子)”と“小田高知(後に後醍醐天皇側に寝返る)“を”蝦夷征討使“として派遣し、反乱鎮圧をはかった。

しかし、こじれにこじれた反乱を容易には鎮圧する事が出来ず、漸く翌年の1328年10月になって“和談”に持ち込む事で、一応の収拾が成ったのである。

“奥州安東氏の乱”で見せた鎌倉幕府の政治対応は“統治能力の衰退”とりわけ“軍事力の弱体化”を天下に晒す結果となったのである。

6:後醍醐天皇の周辺の人々と軍事力について

6-(1):周辺の人々

1321年、父親・後宇多法皇の院政停止によって“天皇親政”を復活した後醍醐天皇は“宋学”を学び、天皇の周辺では“儒学(朱子学)”がもてはやされた。この事は“日野俊基”が活躍し、需家出身の“日野資朝”を1320年に蔵人頭に任命し、更に1323年には彼を“検非違使庁別当“に任命している事から裏付けられる。

天皇は“後醍醐”と自称していた様に“延喜・天暦の治世”の再現を目指し、第60代醍醐天皇(即位:897年譲位:930年)、第62代村上天皇(即位:946年譲位:967年)の治世を理想とし“律令国家最盛時に匹敵する天皇親政の実現”を目指したとされる。

その為には皇位継承問題への介入をするばかりか、政治権力を至尊(天皇家・朝廷)勢力から奪い、拡大して来た“鎌倉幕府”を打倒する願望が後醍醐天皇の中で日々強まって行ったのである。

“太平記”には、後醍醐天皇を中心とする“大覚寺統”の人達は“無礼講”と称して集まったと書かれている。、又、第95代花園天皇(持明院統・在位1308年譲位1318年)”の“花園天皇宸記”の1324年11月1日条には“破仏講”と称して集まり、いずれも“倒幕計画”を練ったという事が書かれている。

“無礼講”について書かれた記録には、遊宴の参加者は衣冠を付けず、殆ど裸形状態で美妓を侍らせて酒を汲み交わしたとある。参加者の名には花山院師賢・四条隆資・洞院実世・日野俊基・僧遊雅・玄基・足助重成・多治見国長が挙げられている。

一方“破仏講”の参加者記録には、源為守・智暁・日野資朝・日野俊基などの名が挙げられている。

こうして“倒幕計画を練る”一方で、後醍醐天皇は“日野俊基”などを山伏姿に変装させ“国の風俗、人の分限“を調査させる為に地方に派遣し、倒幕戦に必要な兵員や兵糧米を確保するなどの役割を与えている。“日野俊基”らは各地の地侍、野伏、悪党等と接触し、共に倒幕行動を拡大する様、煽動して廻ったのである。

6-(2):諸国の“悪党”の状況を把握し、倒幕運動の主戦力として活用した後醍醐天皇

13世紀末から1320年代にかけて、諸国で“悪党”が蜂起し、鎌倉幕府を悩ますばかりか、幕府の基盤を根底から揺るがす事態になっていた事は前項でも記した。

上記した様に、凡そ10年に亘った“奥州安東氏の乱“を幕府が鎮圧出来なかった背景には”悪党の参加“があった事が大きい。

初期の”悪党“の規模は20~30人の弱小集団であったが、1294年10月(永仁2年)の記録に残る“東大寺領播磨国大部荘”への”悪党“の乱入事件は荘官職を罷免された”垂水繁昌“が数百人を率いて行った大規模なものであった。

この“悪党集団”の中に楠木正成の父親(又は一族)とされる“楠河内入道”が加わっていたという記録が“永仁3年1月(1295年)”の東大寺文書に残っている。“楠木正成”の出自に関する諸説の中の“悪党一族説“を裏付ける史料とされている

1324年(元享4年=正中元年)2月に幕府は本所一円地(皇室・公家・寺社の荘園領地)への“守護”権力の介入を公認する新法を制定した。これに拠って“悪党“が本所一円地の奥深くへ逃げ込む事を阻止し、悪党追捕を徹底させる主旨であった。

処がこの法は“至尊勢力(天皇家・貴族層)”側が“至強勢力(幕府・守護・武士層)側に荘園への侵略を許す危険性を含んでいた。しかし、見方を変えると、激化する“悪党蜂起”に“至尊(天皇家・貴族層)勢力”としては、鎌倉幕府の軍事力に頼らざるを得ない状況であったという事である。

こうした新法の制定に拠る幕府の対応にも拘わらず、全国各地の“悪党蜂起“は一向に収まる気配が無かった。

1329年(嘉暦4年)2月13日付“東大寺満寺一揆評定記録”には“黒田悪党”が伊賀の守護代や有力御家人から成る幕府の“討伐使”に多額の賄賂を贈り、饗応を与え、引き退かせたとある。又“東大寺衆徒等重申状案“にも”惣庄土民等、かの悪党に同心せしむ“とある。この様に”悪党“がどんどん勢力を拡大する一方で、幕府は腐敗し”悪党“を放置状態にしていた状況だったのである。

1320年代の諸国の“悪党”は幕府や六波羅探題からの討伐軍に対して、荘内の要害地に“城郭”を構える程大規模に組織化され、幕府軍を畏怖させる程までに成長していたのである。

後醍醐天皇は後に“黒田悪党”を“倒幕”の軍事力として組織するなど、在地の“反幕府勢力“の活用を積極的に拡大して行った。

既述した様に“安東氏の内紛”が悪党の蜂起を招き、蝦夷の反乱を誘発し“奥州安東氏の乱“と呼ばれる程に大規模化し、それを鎮圧出来ずに、1328年に”和談“という形で漸く収めた鎌倉幕府の弱体振りを見た後醍醐天皇は“倒幕運動”の軍事力の中核に“悪党集団”を活用し、組織化する事を考えたのである。

各地域の“悪党”らの“反幕府勢力”を後醍醐天皇のもとへ結びつける役割を果したのが山伏姿で各地の経済力、軍事力などを詳細に調査し、動員をかけて行った“日野俊基”らであった。“楠木正成”の屋敷にも山伏姿の密使が訪れていたとされる。

後醍醐天皇は“天皇家領荘園”の武士、幕府に不満を持つ“西国・九州地区”の武士、更には“叡山・南都”の僧兵らも“倒幕戦力”に加えて行く。

1330年12月に後醍醐天皇の皇子“護良親王”は天台座主となっている。“太平記”に拠れば“武芸を好み、日頃から鍛錬を積む、極めて前例の無い座主であった”と記している。

鎌倉幕府の基盤であった幕府と御家人の“絆”が“得宗専制政治体制”が進み、内管領が政治の実権を奪い、彼等を含めた“特権的支配層“が形成された事によって崩れて行った事は記したが、そうした“幕府の変貌”振りに気付き、抵抗を開始した“足利氏・新田氏”などの有力御家人達までもが続々と後醍醐天皇側に加わるという展開になって行くのである。

6-(3):“観心寺”の歴史と楠木正成(生1294年没1336年)の出生地について

2016年6月15日に“観心寺”並びに“赤坂城”を歴史を学ぶ友人と共に訪ねた。

“千早赤坂(阪)楠公史跡保存会”の史料には“楠木正成は現在の大阪府南河内郡千早赤坂(阪)村水分の生れ、8歳~15歳まで観心寺の龍覚和尚から仏道修行について学んだ“と書かれている。

楠木正成(生:1294年没1336年)の出自については諸説があるが、河内金剛山の西(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)辺りで生まれ、その一族は商業や流通に深く拘わり、鎌倉幕府からは“悪党”とされていたとする説が有力である。

“観心寺“は近鉄・河内長野線の”河内長野駅“で下車し、南海バスに乗り、バス停“観心寺”で降りると直ぐの処にある。

史跡としてだけで無く、この寺は文化財としても有名で、平安時代の密教美術の最高の仏像とされ、国宝の“本尊如意輪観音菩薩”が安置されている。その他、室町時代初期に建立された“金堂”は大阪府下で(本堂としては)最古の建造物とされ、これも又、国宝である。

この寺の草創期は文武天皇の大宝元年(701年)とされ、最初は“雲心寺”と呼ばれていた。この年は藤原不比等らによって“大宝律令”が制定された年である。開基は修験道(しゅげんどう=山岳信仰と仏教や道教などが合わさって出来た日本独特の混淆宗教。その実践者が修験者、山伏と呼ばれる)の“役小角(えんのおずぬ)“とされる。

その後、空海(弘法大師)が大同三年(808年)にこの寺を訪れ、境内に北斗七星を勧請し、更に弘仁六年(815年)衆生の除厄の為に上記した国宝の“本尊・如意輪観音菩薩“を安置した際に寺号を”観心寺“に改称したとある。

寺の僧の説明によると“空海が高野山を開く”際の拠点として位置付けられたのが“観心寺”であり、国宝の“金堂”は南北朝時代に後醍醐天皇が楠木正成を奉行に命じて造営をさせたとの事であった。

境内の一角には後に“湊川の戦い(建武3年=1336年)”で敗れた楠木正成の首が足利尊氏の命によって送り届けられ、葬られた“首塚”がある。後醍醐天皇の寵妃で後村上天皇・恒良親王・成良親王の母の阿野廉子(あのやすこ=新待賢門院・生1301年没1359年)の墓所はこの“首塚”の五輪塔の辺りだとされる。

“観心寺”の境内から少し離れた処に後醍醐天皇の第七皇子で父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝時代に京都に戻る事を図った“第97代・後村上天皇(南朝の第2代天皇:在位1339年~1368年:生1328年崩御1368年)の御陵(桧尾陵)もある。

赤坂(阪の字を使っている書物もある)城へも“観心寺”訪問と同じ日に行った。“観心寺”から一度、河内長野駅に戻り、近鉄長野線の富田林駅で下車、そこから“金剛バス”で森屋バス停(又は千早赤阪村役場前)で降りた。

こうした史跡訪問は効率を考えると“車”を利用する方が格段に便利であろう。

バス停から徒歩で“村立郷土資料館”を皮切りに“楠木正成産湯の井戸”並びに楠木正成の最初の倒幕の戦場となった“赤坂城跡”を訪ねたが、今日では役場や中学校などの敷地となって居り、史跡の“説明版”が在るだけの史跡であった。

楠木正成の名を有名にしたのが“千早城の戦い”であるが“千早城跡”も地域としては同じ“千早赤阪村”にある。

“千早城址”も2015年5月17日に訪ねたが、近鉄の富田林駅からバスに乗り、金剛登山口で降り、あとはかなり険しい山道を50分程歩くと城址に到着する。

楠木正成が後醍醐天皇を助け、倒幕の為の戦闘を繰り広げた拠点は、出生地とされる現在の“大阪府南河内郡千早赤阪村周辺“つまり、金剛山(1125m)を中心とした”山岳地帯“であった事が、これ等の史跡を訪問した事で実感出来た。

其々の史跡で“倒幕の戦闘”が繰り広げられた訳であるが、それらについては後述する。

7:北条高時による“長崎円喜・長崎高資父子の誅殺計画”の失敗・・得宗家の無力を露呈:1331年8月

上記して来た様に“倒幕運動”を進める後醍醐天皇にとって益々好都合となる“鎌倉幕府の統治能力の弱体化、その中核であった得宗家自体の無力化“を示す事件が起きた。

その事件の5年前の正中3年(1326年)に、病気を理由に22歳で執権職を辞し、出家(法名:崇鑑)していた“北条高時”が、鎌倉幕府の政治を専横する内管領・長崎高資とその父・長崎円喜を排除する企てをしたが、事前に露見した事件である。

1331年8月(元弘元年)、北条高時が御内人の長崎高資の叔父の長崎高瀬、工藤七郎、前宮内少輔忠時、典薬頭の丹波長朝等を密かに集め、長崎円喜、高資父子の暗殺を命じた。

しかし、忽ち露見して、命を受けた側近達は捕えられ、配流されたという事件である。

40年程前に、全く同じ様に亡父・北条貞時が内管領・平頼綱を滅ぼした事件(平禅門の乱:1293年)があったが、北条高時の企ては失敗に終わったという事である。

この未遂事件は“内管領・長崎父子”の勢力が強大であった事を裏付ける一方で“得宗家”が政治権力的には最早“無力”状態であった事を露呈した事件とされる。

“保暦間記”には“北条高時”自身も長崎円喜・高資父子に厳しく糾弾されたが“我知らず”を通す事で、辛うじて助かったと伝えている。“得宗家”の“権威”だけはその得宗家の御内人である“内管領・長崎父子”も流石に奪う事が出来なかったという事であろう。

この未遂事件後の北条高時は、田楽・闘犬・酒・女に溺れた日々を過ごした。こうした北条高時の状態を“金沢貞顕”は、嘉暦4年1月(1329年)の記録に“(北条高時は)田楽のほか、他事なく候”と批判している。

8:後醍醐天皇が“倒幕”を実行に移す・・“元弘の乱”の開始

後醍醐天皇を中心とした鎌倉幕府滅亡までの一連の“倒幕の戦闘”は総称して“元弘の乱”と呼ばれる。下記の“謀議発覚事件”を皮切りに“元弘の乱”は“元弘年間に戦われた“11の倒幕の戦闘”を中心とした“倒幕行動”を総称したものである。

元弘3年(1333年)5月22日に“新田義貞軍”が鎌倉を陥落させ、北条氏が滅び、鎌倉幕府が倒れる迄の凡そ2年間に及ぶ“倒幕の戦闘”の発端となったのが“正中の変”の二の舞となった“謀議発覚事件”であった。

厳密に言えばこの発覚事件が起こった1331年8月時点の“元号”は“元徳3年(北朝元号)”であったが“南朝の元号”ではこの事件以降を“元弘”としている事からこう呼ばれる。歴史上、以後1392年10月に足利義満によって“南北朝合一”が成るまでの61年間、日本には二つの“元号”が存在する事になるのである。

以下にこの事件について記述して行く。

8-(1):“正中の変”の二の舞となった倒幕計画の発覚(1332年6月)・・側近吉田定房が幕府へ密告し、日野俊基・日野資明が再び捕えられ処刑される

“増鏡”には吉田定房(よしださだふさ・生1274年没1338年)は尊治親王(後醍醐天皇)時代に“乳父”であった事が記録されている。“後醍醐天皇”として即位した後は、北畠親房・万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)と共に“後の三房”と呼ばれた側近中の側近であった。

後醍醐天皇の吉田定房に対する信頼の厚さは皇子・尊良親王(生1310年没1337年)の乳父を任せた事、更には後宇多法皇が院政を停止し、後醍醐天皇が親政を開始した時に、鎌倉幕府へその旨を申し入れる使者であった事などからも伺える。

又、吉田定房は1324年9月の“正中の変”の際にも、鎌倉幕府に赴き、後醍醐天皇がこの倒幕計画に拘わっていない旨を弁明するという重責を担っている。

“万里小路宣房”が弁明したとする説もあるが、吉田定房も万里小路宣房も共に後醍醐天皇への忠勤に励んだ人物として知られる事から、二人が共に鎌倉幕府への後醍醐天皇の弁明に当たったという解釈も出来る。

“正中の変(1324年)“の失敗にも全く懲りる事も無く、後醍醐天皇は”元徳2年(1330年)“6月21日に諸卿を集め、倒幕に関する意見を求めたとの記録が残っている。

この様に懲りずに倒幕の謀議を重ねる後醍醐天皇に対して吉田定房は徳政を勧め、倒幕を諫める意見を述べた醍醐寺三宝院所蔵の“吉田定房奏状“を提出している。

1331年の時点で吉田定房は57歳、倒幕運動に逸る後醍醐天皇は43歳であった。言わば師弟の関係にあった二人であるから、後醍醐天皇の無謀な行動に日々危機感を募らせていたのである。

そして遂に、1331(元弘元年)年8月(歴史学研究会偏の日本史年表では5月とし、秋山哲雄氏の“鎌倉幕府滅亡と北条氏一族”では4月としている)に、後醍醐天皇が尚も諫言を無視して倒幕計画を練る状況に、吉田定房は“この侭、誤った方向に進めば皇統が断絶する”との強い危機感から、命を賭して“六波羅探題へ密告”に及んだ事件が起きたのである。

後醍醐天皇の“倒幕計画”は、又もや“正中の変(1324年)“同様、2度目の事前発覚となり、未遂に終った。

しかし、鎌倉幕府は未遂とは言えこの事件を”本格的な倒幕運動開始の狼煙“と捉え、以後、後醍醐天皇、並びに周辺に対する倒幕運動への監視体制を強め、厳しい捕縛行動に出たのである。

六波羅探題は先ず“日野俊基”らを捕え鎌倉に送った。“正中事件”では処罰を逃れた日野俊基だったが、今回は得宗被官の諏訪左衛門尉に預けられ、翌年1332年6月3日に鎌倉の葛原岡で処刑された。

この場所を私も2016年8月26日に訪ねたが、明治維新後“南朝”が正統と位置づけられ、“日野俊基”は忠臣として“葛原岡神社”が創建され、その主祭神として祀られる事になる。

“正中の変“で佐渡島に配流された”日野資朝“も今回の謀議の首謀者として1332年6月25日に佐渡で処刑されている。彼も佐渡大膳神社・真野宮に祀られている。

鎌倉幕府はこの二人を後醍醐天皇の身代わりとして捕縛し、処刑したのである。

8-(2):同じく、倒幕計画に拘わったとされ、逮捕された二人の僧侶・・“文観”と“円観”

後醍醐天皇の側近で倒幕運動に深く拘わった二人の僧が居た。文観(もんかん)と円観(えんかん)である。

“文観”(生1278年没1357年)”の僧名は、文殊菩薩と観音菩薩に因んだものとされる。“日野俊基”を抜擢し“河内の悪党”として知られた“楠木正成”を後醍醐天皇に仲介した人物だと考えられている。邪教とされた真言宗立川流の僧としても知られ“円観”と共に遁世僧として貧民救済なども行っている。後醍醐天皇に重用され、醍醐寺座主、天王寺別当となった僧である。

“文観”は、嘉暦元年(1326年)から後醍醐天皇の中宮・藤原禧子の御産祈願と称して鎌倉幕府の“調伏”を行なった罪で逮捕された。逮捕後、硫黄島に流罪となったが、鎌倉幕府滅亡後に京都に戻り、後醍醐天皇の“建武の新政”で栄華を極め、南北朝時代には吉野に随行した僧である。

彼は、1339年に後醍醐天皇が崩御した後も南朝方に属し、大僧正になり、1357年に79歳で河内国天野山金剛寺(大阪府河内長野市)で没している。

“円観(慧鎮:えちん生1281年没1356年)”は1295年14歳の時に比叡山延暦寺に入寺し、後醍醐天皇の帰依を受けて京都法勝寺の住持となった人物である。“文観”らと共に後醍醐天皇の倒幕運動に参画し、延暦寺、東大寺、興福寺等、後醍醐天皇が兵力として頼んだ大寺の僧兵を募り、又“北条氏調伏祈祷”も行っている。

側近の吉田定房の密告で倒幕計画が再び露見すると“円観”も六波羅探題によって逮捕され、陸奥国へ流罪となった。“文観”と同様、彼も1334年に始まる“建武の新政”で法勝寺に戻り、東大寺大勧進職に任じられている。しかし、南北朝時代には“文観”とは異なり“北朝側”に付いて活躍した僧である。

8-(3):“太平記”の成立と“円観”他、多くの人物の関わりについて

“円観”が“原太平記(全30巻)”の編集責任者だと“難太平記”(守護大名・今川貞世が1402年完成させた書物で、今川家を軽んじている太平記を批判し、今川氏の歴史と宗家の足利将軍家に対する忠誠の歴史を論じている)に書かれている。

その根拠として、法勝寺の“円観”が足利直義(あしかがただよし・生1306年没1352年・足利尊氏の同母弟で副将軍と称された)に30巻を見せたとの記事が“難太平記”にある事を挙げている。

後醍醐天皇の崩御(1339年)迄の21巻を“円観”や“玄慧(げんえ=後醍醐天皇の持読となって天皇や側近の公卿達に古典を講じた。その講義の席が後醍醐天皇を中心とする幕府転覆計画の場であったという話が太平記にある)”が書き“小島法師(生:不詳没:1374年)”が1370年頃までに現在の40巻からなる”太平記“を成立させたと伝わっている。

このように“太平記”の成立迄には10人を超える作者が列挙されて居り、室町幕府第3代将軍の足利義満や管領細川頼之も修訂に拘わっていた可能性も指摘されている。

“太平記”の歴史資料としての信憑性については諸説がある。

内容は3部構成で①後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡まで②“建武の新政“の失敗と南北朝分裂、並びに後醍醐天皇の崩御まで③南朝方の怨霊の跋扈による足利幕府内部の混乱・・である。

一貫して“南朝寄りの記述内容”だと言う点、平家物語の影響を受けた後醍醐天皇の崩御の記述、引用した故事には不正確な記述が多い事、通俗読み物が素材として用いられている点、等が指摘され、評価が分かれる“史料”である。

9:後醍醐天皇の御所脱出と“笠置山での挙兵”・・1331年8月25日~9月28日

9-(1):御所を脱出し、東大寺へ向かう(1331年8月25日)・・笠置寺前住職小林慶範氏からのヒヤリング結果を加えた記述

2016年7月10日に“笠置山”の史跡を訪問した。その折、前笠置寺住職で現在も史跡に関わる“文化財保護”“史跡保護”“景観保護”等に尽力されている小林慶範氏から貴重な史実についてのヒヤリングの機会を得た。その内容を含めて以下を記述する。

9-(1)-①:御所を脱出して笠置山へ

鎌倉幕府は後醍醐天皇の再三の倒幕の動きに対して、監視体制を強化する一方、側近の首謀者を次々と捕え、更には六波羅探題の軍勢を御所の中まで送ったのである。

1331年8月24日、後醍醐天皇は女装し、皇室のしるしである三種の神器(八咫鏡・草薙の剣・八尺瓊勾玉=やたのかがみ・くさなぎのつるぎ・やさかにのまがたま)を持ち、“四条隆資(公卿:生1292年:後村上天皇を護って男山の戦いで戦死・1352年)”らと共に御所を脱出し、比叡山に向うと見せかけた。

後醍醐天皇の勅命で天皇に変装し、腰輿に乗って比叡山に入ったのは“花山院師賢(かざんいんもろかた・公卿:生1301年没1332年)であった。

天皇が来たと思った延暦寺衆徒の士気が上がり、幕府軍と善戦した事で後醍醐天皇は幕府の追っ手を逃れ、8月25日に東大寺に入る事が出来た。

こうして東大寺の東南院に入った後醍醐天皇一行であったが“奈良地域”も決して安全では無かった。又、東大寺としては“後醍醐天皇側と鎌倉幕府”に拠る戦火に見舞われる事も避けたかったとされる。

そこで“文観”の相弟子であった“聖尋僧正(しょうじんそうじょう)”が統卒する“笠置寺”がある“笠置山”に後醍醐天皇をお連れする事に決まったという。

笠置寺の前住職の小林慶範氏の史実話と、頂いた資料に拠ると、後醍醐天皇一行が笠置山に入ったのは1331年8月28日である。花山院師賢も後に、笠置山で後醍醐天皇と合流している。

笠置山の所在地は“京都府相楽郡笠置町”である。2016年7月10日の訪問も電車とバスを利用したので時間は掛かった。大阪駅からJR関西本線に乗り、無人駅の“笠置”で下車。そこから徒歩で獣道の様な山道を7月の暑さの中、1時間程かけ、標高289mの笠置山頂にある笠置寺に着いた。

資料館、本尊の“弥勒磨崖仏”等は笠置寺周辺にあったが、更にその奥には、一周800m程の“修行場”と呼ばれる地域が開けている。この修行場地域には後醍醐天皇の“行在所跡”はじめ、ゆるぎ石、太鼓石など、巨石から成る史跡がある。

笠置山は至る所に花崗岩の巨石が露出し、古くから山岳信仰、巨石信仰の霊地であったとされるが、とりわけ、高さ16メートル、幅15メートルの巨石に刻まれた“弥勒磨崖仏”が有名である。これは、二月堂の“お水取り”を始めた僧として知られる東大寺の“実忠和尚(生726年没不詳)”と、その師であり華厳宗の僧・東大寺開山の“良弁僧正(生689年没773年)”によって彫刻されたものと伝わるが、伝説としては大友皇子(第38代弘文天皇:生648年崩御672年)が大岩に“弥勒菩薩像”を刻む事を誓願したところ、天神が現われて刻んだという話がある。

以来“天人彫刻像”笠置寺の本尊“弥勒磨巌仏”として多くの人々の信仰を集めたとされる。

この“弥勒磨巌仏”を987年に円融院(第64代天皇:生959年崩御991年)、そして1007年には藤原道長が礼拝したとの記録が残っている。

“笠置寺略記”には、開基は大友皇子(又は天武天皇だとの説もある)とし、源頼朝も礼堂再興費を寄進したとある。

笠置山は攻守に適した要害の地であった上に、周辺の山城・伊賀・大和の“悪党”を兵力として頼るには格好の地であった。

ほゞ時期を同じくして、1331年9月には、河内の赤坂城で楠木正成が、後醍醐天皇の皇子“護良親王(もりよししんのう・生:1308年没:1335年鎌倉宮に祀られ大塔宮と呼ばれる)”と共に挙兵する。

9-(2):武力戦闘段階に入った“元弘の乱”・・笠置山で遂に挙兵(元弘元年=1331年9月2日~9月28日

鎌倉幕府は笠置山に入った後醍醐天皇を追った。後醍醐天皇は遂に挙兵し“元弘の乱”は武力戦闘段階に突入したのである。

9-(2)-①:“元弘の乱”と呼ばれる一連の“倒幕の戦闘”の総括

遂に武力戦闘段階に入った“後醍醐天皇の倒幕運動”は“笠置山の戦い”を皮切りに、主だった“11の倒幕の戦闘”が展開される。

以下にそれらの“倒幕の戦闘”について記述して行くが、時系列的には①笠置山の戦い(1331年9月2日~28日)②赤坂城の戦い(同9月11日~10月21日)③千早城の戦い(元弘3年=1333年2月22日~閏2月29日)と続く。

ここ迄の戦闘は“幕府軍”の兵力が“後醍醐天皇軍”を圧倒し、以下に述べる“笠置山の戦い”“赤坂城の戦い”では幕府軍が勝利する。

既述した様に“後醍醐天皇軍”の当初の主力部隊は“悪党”であり、彼らが用いた“ゲリラ戦法”に幕府軍は圧倒的兵力にも拘わらず翻弄され、決して諦めない倒幕軍のゲリラ戦法に、次第に苦戦を強いられたのが実態であった。

③千早城の戦いは、兵力的には劣勢に展開された他の“倒幕軍”を勢いづける事になった“戦闘”であった。

“笠置山の戦い”で敗れた後醍醐天皇は隠岐に配流されるが、1年も経たずに“脱出に成功”した事で“倒幕の戦闘”は益々勢いを増す事に成る。

④船上山の戦い⑤六波羅の戦いと“倒幕の戦闘”は続く。この時点で“足利尊氏が後醍醐天皇方に寝返った事で”後醍醐天皇方“の軍勢は雪崩現象を起こして急増し、幕府軍を逆転する事になる。

こうした雪崩現象は“関東”にも飛び火する。

止めを刺す流れが“新田義貞”の寝返りであった。新田軍による⑥小手指原の戦い⑦久米川の戦い⑧分倍河原の戦い⑨関戸の戦い⑩鎌倉の戦い⑪東勝寺合戦へと続く“倒幕の戦闘”は“鎌倉攻め”と呼ばれ、この過程で更に“倒幕側”に加わる軍勢は増え、圧勝に次ぐ圧勝を重ねるのである。

“新田義貞軍の挙兵”から僅か15日間で鎌倉幕府は脆くも滅び去る。

以上が“倒幕の戦闘“の総括であるが、以下に夫々の戦闘について記述して行く。

9-(2)-②:“笠置山の戦い”について

先ず“元弘の乱”の武力戦闘の初戦である“笠置山の戦い”の兵力比較を記す。上記した様に圧倒的に幕府軍が勝っていた。

後醍醐天皇方:
指揮官:千種忠顕・・武芸を好んだ公卿。後醍醐天皇の隠岐配流に随行した人物

四条隆資・・笠置山の戦いで逃げ延び、護良親王・楠木正成軍に合流する。公卿であったが、武士に対して公平な扱いをした為、武士達から慕われた。後に足利軍との“男山の戦い”で戦死する(生1292年没1352年)

戦力 :3,000人

鎌倉幕府方:    
指揮官:足利高氏・・①この時点では幕府軍に属していた②六波羅探題攻めから後醍醐天皇方に寝返る③鎌倉幕府を滅亡させた勲功第一と賞された④後醍醐天皇の建武の新政から離脱、後醍醐天皇を裏切り、室町幕府初代征夷大将軍となった人物(生1305年没1358年)

大仏貞直・・足利高氏と共に大将軍として参戦(生不詳没1333年)

戦力・・75,000人

笠置山の後醍醐天皇側の抵抗に備えて、幕府側は、1331年9月1日迄に、兵力を増強。75,000人の兵を集めたとされる。尚“太平記”では20万人の大軍だったと記述しているがこの数字は誇張だとされる。翌9月2日から幕府軍は笠置山を包囲し、攻撃を始めた。

笠置寺に後醍醐天皇軍は御在所を設け、兵力では圧倒的に幕府軍に劣っていたが、大将を任された“足助次郎重範(あすけしろうしげのり:三河足助荘から起った足助氏の七代目)”の奮戦に代表される様に一カ月近くも持ち堪えた。

笠置山の登山道には“足助重範”が奮戦した“一の木戸跡”の記念標識が立っている。

笠置寺前住職の小林慶範氏が“笠置山”が陥落した1331年9月28日の戦闘の模様を以下の様に詳細に語って呉れた。

この夜は台風による暴風雨であった。幕府軍は、なかなか陥落しない“後醍醐天皇軍”を攻略する為“陶山義高(すやまよしたか=備中の武士団)”を初めとする50人の決死隊を組み、暴風雨の中を奇襲した。この奇襲作戦に、さしもの“後醍醐天皇軍”は総崩れとなり、笠置山の“本陣”が遂に陥落したのである。

幕府軍の放火によって笠置山の全山が焼亡し“聖尋僧正”が危惧した通り、笠置寺の本尊の“弥勒磨崖仏”も石の表面が剥離してしまう。

私達も訪れた時に“弥勒磨崖仏”を見たが、像の姿は全く失われていた。“笠置曼荼羅図(大和文華館所蔵)”に描かれている“弥勒磨崖仏と木造十三重塔”の絵図を見れば、焼失する前の“弥勒磨崖仏”を想像する事が出来る、という事で、その絵図が傍らの小屋に訪問者の為に掲げてあった。

総崩れとなった後醍醐天皇・尊良(たかよし・たかなが)親王、並びに側近達は辛くも笠置山を脱出した。しかし、後醍醐天皇は、数日後に“三種の神器”と共に捕えられ、後に隠岐に配流の身となる。後醍醐天皇軍の大将として奮戦した“足助重範”は捕えられ、京の六条河原で斬首された。

足助一族は三代足助重成の時期の1221年に、後鳥羽上皇が起した“承久の乱”にも天皇方として馳せ参じ、北条泰時の軍に敗れ、討ち死している。“笠置山の戦い“でも“七代足助次郎重範”が天皇方として戦って討たれると言う不思議な運命を辿った“勤王思想”の家系である。今日、足助重範は足助神社(愛知県豊田市足助町宮ノ後)に祀られている。

10:鎌倉幕府は量仁親王(かずひとしんのう=後の北朝初代光厳天皇・即位1331年9月20日廃位1333年5月25日:生1313年没1364年)を“三種の神器”の無い侭、践祚させる・・1331年9月20日

鎌倉幕府は後醍醐天皇が笠置山で挙兵し、幕府軍との戦いが始まると、笠置山の陥落に先立つ9月20日、後醍醐天皇を“廃位”とし、1326年7月に皇太子に立てられていた持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)を三種の神器の無い侭、践祚(せんそ=天皇の位を継ぐ事。桓武天皇以降、即位式とは別に日を隔てて行う様になった)させた。

後に北朝の初代天皇とされた“光厳天皇”である。しかし、この天皇は後に復権した後醍醐天皇によって即位を否定され、無効とされた為、今日では歴代125代の天皇の中には含まれていない。

“笠置山”が陥落し“赤坂城”に向かう途中で幕府軍に捕えられた後醍醐天皇は、幕府が“践祚”させた“光厳天皇”に“三種の神器”と共に“皇位”を渡すという事になった。

この状況を“花園天皇宸記”には“王家の恥、何事かこれに如かんや。天下静謐(てんかせいひつ=世の中が治まっていること)もっとも悦ぶべしといえども、一朝の恥辱また歎かざるべからず”と記している。

後醍醐天皇が隠岐の島に流されるのは“笠置山陥落”から半年後の元弘2年(1332年)3月の事となる。

11:赤坂城の戦い・・1331年9月11日~10月21日

上記“笠置山”は言わば“倒幕の戦闘”の“本陣”であった。その“笠置山“は1331年9月28日に陥落するが”本陣“での戦いに呼応する形で”赤坂城の戦い“も1331年9月11日に”悪党“楠木正成の挙兵によって開始されていた。“楠木正成”が大将であるが、後醍醐天皇の皇子“護良親王”を戴く形で“赤坂城の戦い”が開始された。

尚、赤坂城は、幕府軍によって陥落した後に、楠木正成が金剛山中に逃げ込み“上赤坂城(別名楠木本城・切山城・小根田城)”を築き“倒幕の戦闘”を継続するが、この城と峻別する為“(下)赤坂城”と呼ぶ事もあるそうだ。(以下の記述は“赤坂城”で表記する)

“赤坂城の戦い”での戦力比較は、得られる記録からは下記となる。幕府軍の兵力は20万以上とされているが、実態はこの半分程であろう。いずれにせよ、この段階でも幕府軍が楠木正成の“悪党ゲリラ部隊”を圧倒していた事は間違いない。

後醍醐天皇方:
指揮官:護良親王・・後醍醐天皇の皇子で、妃は北畠親房の娘。後醍醐天皇が“元弘の乱(1331年)を起こすと、天台座主から還俗した。(生1308年没1335年)

:楠木正成・・出身地は駿河国など諸説があるが、大阪府南河内郡千早赤坂村説が定説である。出自については河内の楠木一族で、鎌倉幕府からは“悪党”と呼ばれた“荘官武士”説が定説とされる。

鎌倉幕府の“御家人”だとの説もあるが、河内長野市寺元の“観心寺”のパンフレットには“8歳~15歳迄、楠木正成がこの寺で学んだ”と書いてある。(生1294年没1336年)

戦力:500人

鎌倉幕府方:
指揮官:北条貞尚・・大仏流北条氏。“笠置山の戦い”並びに“赤坂城の戦い”の戦功に対して遠江・佐渡等の守護職を与えられた人物。後の“鎌倉の戦い”で戦死する。

戦力:20万以上・・記録ではこう残っているが実態は10万程であろう。

兵力の数字の記録は疑わしいが、この戦い迄は“幕府軍”が圧倒していた事は事実である。僅か500人程の“護良親王(大塔宮)”を戴いた“楠木正成軍”は“悪党軍団”が常套手段とした“ゲリラ戦法”を展開した為、劣勢下でも持ち堪えた。

“赤坂城の戦い”は“笠置山の戦い”を“後醍醐天皇による倒幕の戦闘が開始された”狼煙として9日後の1331年9月11日同時並行的に始まったとされる。

記録では、幕府軍は1000人を優に超す死傷者を出し、楠木正成軍は善戦し、比較にならない程の少ない兵数ではあったが、1331年10月21日に陥落する迄“1か月以上持ち堪えた“と書かれたものが多い。しかし、2016年6月15日にこの地を訪ね、郷土資料館で入手した“千早赤阪楠公史跡保存会”編集の史料に拠ると“赤坂城は俄か作りの城であり、楠木正成軍は陽動作戦で持ち堪えたが、10日間程で陥落した。楠木正成は金剛山中に落ち隠れた“と記している。

以後の史実展開との整合性からも“史跡保存会“の史料の記述内容の方に信憑性があるものと思われる。“1カ月以上持ち堪えた”とした記事には、後の“(上)赤坂城の戦い”や“千早城の戦い“との混同があるものと思われる。

“赤坂城の戦”いで敗れた楠木正成は、自害を装い、この危機を切り抜け、金剛山中に隠れた。そして翌年、1332年からの“(上)赤阪城(=楠木本城・切山城・小根田城とも呼ばれる)“での戦い、そして“ゲリラ戦”の展開で有名となった“千早城”での“長期籠城戦“を展開したのである。

尚“護良親王”は、奈良の“般若寺”に潜み、その後は“吉野”へ遷り“倒幕の戦闘”を続ける事になる。

護良親王と父親・後醍醐天皇は後に反目し合う関係となる。その際の楠木正成の行動から推して、彼は“護良親王の有力な与力(助力・加勢者)であったとする説が有力であるが、これ等に就いては後述する。

13:後醍醐天皇の“隠岐国への配流”と脱出

鎌倉幕府は持明院統・第93代後伏見天皇(即位1298年譲位1301年・生:1288年崩御1336年)の第三皇子で皇太子の量仁(かずひと)親王を1331年8月に践祚させ(北朝初代光厳天皇となる)、それに伴って廃位とした後醍醐天皇(先帝)を“承久の乱“の後鳥羽上皇の先例に倣って謀叛人の扱いで、翌、元弘2年(=正慶元年・1332年)3月に“隠岐国”に配流する事を決めた。

同じく“笠置山の戦い”に参戦し、捕えられた後醍醐天皇の皇子“尊良親王(生:1310年金ケ崎の戦いで戦死・1337年)”は土佐国に流された。

13-(1):後醍醐天皇の“隠岐国配流“と行在所に関わる2説について

配流された後醍醐天皇は1332年3月7日に京を出発し4月2日に隠岐国に到着している。

13-(1)-①:隠岐国“国分寺”が後醍醐天皇の行在所だったとする説

後醍醐天皇の“隠岐の御在所”については“島後”の国分寺とする説と“島前の西島”の黒木御所とする2説がある。

文部省は1934年に“国分寺”を“後醍醐天皇御在所”として史跡に指定したが、第6-4項でも記述したが、元々島に伝えられて来た“黒木御所説”にも説得力がある。

私達が2014年9月12日に隠岐島を訪ねた時の“黒木御所碧風館”の史料とスタッフの説明に拠れば“全島民は黒木御所が後醍醐天皇の隠岐の御在所との伝えを信じて疑う者は無かった“との事であった。

明治の末になって、吉田東吾博士ら中央の史学者が“島後の国分寺が行在所であった”との説を唱えた事から、以後“隠岐の行在所”については2カ所の説が生れた。

“国分寺行在所説“の根拠は”出雲の鰐淵寺文書(=出雲市の古刹が所蔵する約400点の古文書を集成した史料集。源実朝家政所下文を含め毛利氏領国時代までの文書を採録した中世史を研究する為に必備の史料集とされる)“の中の”頼源文書”と呼ばれる史料に基づくものである。

“頼源”は 鰐淵寺の長吏で後醍醐天皇の隠岐島配流以来、島に渡って親しく後醍醐天皇に謁(お目見え)を賜った人物で、後に後醍醐天皇の隠岐脱出を成功させた代表的人物とされる“勤王僧”である。

彼が残した文書に“隠岐国国分寺に於いてこれを下さる”と明記されていた事が“国分寺行在所”説の一つの根拠と成っている。

“国分寺”が行在所であったとする説の今一つの根拠は“増鏡(作者未詳。四鏡=大鏡・今鏡・水鏡・増鏡の最後に成立。1183年の後鳥羽天皇の即位から1333年の後醍醐天皇の隠岐島配流、京都帰還迄の15代150年の天皇の事跡が編年体で記述されたもの。現存は20巻である)の中に”(前略)海づらよりはすこし入りたる国分寺といふ寺をよろしきさまにとり払ひておはします所に定む(以下略)“という文書がある事に基づいている。

これらの一級史料の記述を根拠として“後醍醐天皇建武中興六百年”に当たる昭和九年(1934年)に政府が”国分寺行在所“を国の史跡に指定した事から“隠岐国分寺”説が生れたのである。以後“黒木御所説”と共に“後醍醐天皇の隠岐行在所”説の2説が今日では存在している。

13-(1)-②:“黒木御所説”

私達が2014年9月に尋ねた“黒木御所碧風館”スタッフの説明、並びに史料に拠る“黒木御所説”の論点は下記である。

①:配流地に於ける監視責任はその地の守護職であり、当時の守護職は出雲と隠岐二国の兼務であった為、当時の後醍醐天皇の監視には“守護代”が当たっていた。

②:“梅松論”(南北朝時代の歴史書・軍記物語。太平記と双璧をなす。1349年頃成立。作者不詳。足利尊氏が政権を掌握する迄の過程を書き、足利氏が室町幕府創設の正当性を主張する視点から書かれたとされる。書名は足利将軍家の栄華を梅花に、子々繁栄を松の緑に喩えた)にも、又“太平記”にも後醍醐天皇の御所が“黒木御所”だった事を臭わせる記事がある。

例えば“太平記“には“佐々木隠岐判官貞清(出雲の守護)府ノ島ト言フ所ニ黒木御所ヲ作リテ皇居トス”と書かれている。

当時の守護職は出雲と隠岐の2国を兼務していたが、守護自らが出雲(島根県)から海を渡って後醍醐天皇の黒木御所を作ったという記事である。

“承久の乱”で隠岐に配流された後鳥羽上皇の監視の為に守護代(隠岐担当)が島後から島前・宇賀郷(現在の西ノ島)に移った事を記す寛元4年(1246年)9月1日の“隠岐国郡万院四至注記”には“去貞永元年(1232年)八月之比、当守護宇賀郷入部”とあり、この記事も“黒木御所説”の信憑性を裏付けるものとされている。

この記録に残る1232年(後鳥羽上皇は2年後の1234年に崩御)から後醍醐天皇が配流される1333年迄の約100年の間に“隠岐守護代”が再び“島後”に移ったという記録も伝承も無い。

これ等の史実から“出雲・隠岐”の領国を兼務する守護職にとっても、交通の便から、“島前”地区の宇賀郷(現在の西ノ島)に“黒木御所”が在ったという説には説得力があるとされるのである。

13-(2):後醍醐天皇の隠岐島脱出・・元弘3年(1333年)閏2月24日

13-(2)-①:隠岐島へ配流時の随行者

後醍醐天皇(この時点では廃帝となっている。従って“後醍醐先帝”と表現している記述もある)の倒幕への執念は配流されても尚、衰える事も無く、再挙の機会を狙っていたと伝わる。

“一条行房(公家)”並びに“千種忠顕(建武新政で結城親光、名和長年、楠木正成と共に三木一草と称された公家)“そして既述した第97代後村上天皇の生母“阿野廉子(あのやすこ、れんし=後醍醐天皇の寵姫・新待賢門院)らが随行した。

13-(2)-②:隠岐島到着から丸1年未満で脱出に成功する

2014年9月11日に隠岐島の島後の“隠岐西郷”にある“国分寺”を友人と訪ねた時に“後醍醐天皇と隠岐国分寺とのかかわり“という小冊子を入手した。

それに拠ると“再挙の機会を狙って後醍醐天皇は①名和長年(出自については、伯耆国名和の大海運業者説と悪党と呼ばれた武士説がある)②児島孝徳(こじまたかのり=備前国児島郡出身の武将説と山伏説がある)③新田義貞(生:1301年没:1338年・上野国新田荘を本拠地とした御家人、足利氏の同族だが身分は低かった。当初は幕府軍として楠木正成の千早城攻めを行う。護良親王の令旨を受け、後醍醐天皇に寝返った等諸説がある。後述)並びに④楠木正成⑤護良親王らと連絡を取り、中央の情報収集に努めていた“と書かれている。

一方で後醍醐天皇は、仏道の勤行(ごんぎょう)に励み、自ら“護摩秘法”を修得して“関東調伏”の祈祷を行っていたとされる。

後醍醐天皇の隠岐島脱出を助けたのは、伯耆国名和(現在の鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主“名和長年(生:不詳没:1336年、建武新政下で伯耆守に就いた為、楠木正成・結城親光・千種忠顕と共に三木一草と称された)”であった。

私共が2014年9月の“隠岐島訪問”時に“同じ様に配流された後鳥羽上皇は隠岐島脱出という兆しも無く、19年間の配流生活を送り、配流先で崩御したが、何故、後醍醐天皇は僅か1年未満で脱出に成功したのか?“と質問した。

”後鳥羽上皇が配流された時の鎌倉幕府は北条義時・泰時が執権政治体制を真に固めて行く上り坂の時期であったから、隠岐島の監視体制も厳重であった。しかし、後醍醐天皇が配流された時の鎌倉幕府は“瓦解寸前”であり、監視体制も比較にならない程不十分であった。“との回答であった。史実の前後の流れとの整合性からも、明快な回答であった。

14:千早城の戦い・・元弘3年(1333年)2月22日~閏2月29日

後醍醐天皇が隠岐島脱出を成功させる約一月前から、河内では楠木正成が圧倒的な兵力の幕府軍を相手にゲリラ戦を展開し、籠城戦を戦い抜いた事で、全国の“倒幕勢力”を勇気付ける事に繋がったのが“千早城の戦い”とされる。

そうした観点から“千早城の戦い”は、鎌倉幕府滅亡に繋がる転換点となった非常に重要な戦いだったと言えよう。

“千早赤阪楠公史跡保存会”の史料には“1331年10月(下)赤坂城を落とされた楠(木の字を抜いている)正成は金剛山中に隠れ、翌年の1332年に(上)赤坂城と千早城で、籠城戦を展開して圧倒的多数の幕府軍に抵抗した。しかし(上)赤坂城も1333年2月に落城し、幕府軍に包囲され“千早城”だけが耐え、守り続けたのである“と書いている。

“千早城の戦い”の兵力比較は下記である。

14-(1):兵力比較

楠木正成軍:
指揮官:楠木正成
楠木正季(くすのきまさすえ)・・正成の弟・生1305年没1336年
平野将監(=重吉)・・東大寺宝珠院文書に“悪党”としての記録がある武士。
戦力:1000人

幕府軍:
指揮官:名越(北条)宗教・・尾張守護“千早城の戦い”で戦死
安東円光・・軍奉行
阿蘇(北条)治時・・北条高時の猶子となる(生:1318年没1333年7月)京都・阿弥陀寺で処刑される。
長崎高貞・・内管領・長崎高資の弟・軍奉行、1333年6月に出家、降伏したが翌1334年に京都阿弥陀寺で処刑された
大仏家持・・大将軍
工藤高景・・北条得宗家・御内人・軍奉行

戦力:10万人(太平記には100万人と荒唐無稽な数字が書かれている)

14-(2):“千早城の戦い“の歴史上の役割

金剛山の一支脈の西端に属する標高674m、半独峰の山上に築かれたのが“千早城“であった。“源平の合戦”以来、馬上で弓矢で戦うスタイルから、山岳戦が中心と成り、戦闘に馬が有効に使えないケースが出て来たとされるが“千早城の戦い“はそうした“山城攻防戦”の初期のものとされる。

楠木正成の作戦は”籠城戦“であった。上から弓を射かけ、石・木・熱湯・糞尿までも投げ落とし、抗戦するという戦法で、幕府軍を悩ましたと、記録にある。

圧倒的兵力を持つ幕府軍は城を目指してひたすら攻め、又、水や兵糧を絶つ戦略を用いた。しかし、楠木軍は山伏が使う金剛山の秘水や雨水を蓄える等、水源対策は万全だったとされる。

又“兵糧攻め”に対しても、金剛山を越え、間道伝いに奈良や、和歌山から農民、兵士、山の民から兵糧が運び込まれたとの記録がある。

こうした戦い振りから千早城は“落城”する事無く持ち堪えた。この噂が全国に伝わった事で、各地の“倒幕の戦闘”を勢い付ける事に繋がったとされる。

尚、歴史家の黒田俊雄氏は当時の“水資源確保方法”は現在、常に渇水対策に頭を悩ます東京都も参考にすべき点がある、と述べている。

私達の“千早城址”訪問は2015年5月17日であった。日本百名城(55番)に選ばれている城である。南海電鉄の河内長野駅で降り、バスで金剛登山口まで行き、登山口を行くと、約560段の石段の道になる。案内書には20分程で着くと書いてあったが、かなり急な階段であり、我々は倍程の時間を掛けてゆっくりと登った。

千早城址には櫓も柵も残っていないが、山頂から見下ろすと、当時、幕府軍が攻めあぐねたであろう険しい山腹が難攻不落の城であった事を想像させる。

“千早城の戦い”の歴史上の役割は“赤坂城の戦い”で幕府の大軍に敗れ、金剛山中に逃れた楠木正成が、(上)赤坂城や“千早城”という堅固な要塞を築き、金剛山一帯を“山岳要塞”化した事で、兵力面では圧倒的に勝っていた“幕府軍”を結果的に退ける事に繋がり“元弘の乱”を勝利する“端緒”となった戦いだったという事である。

15:“船上山の戦い”・・元弘3年(1333年)閏2月28日

後醍醐天皇はこの地の有力者“名和長年”を頼って伯耆国(鳥取県)名和の湊に辿り着く。

“名和長年”は楠木正成同様、商業活動(海運業)によって蓄財し、地域に根付いた裕福な土豪であり“悪党”の類とされた武士一族“名和氏”の当主であった。

“太平記”は“度量の広い人物”であったと記している。

名和長年は“赤坂城の戦い”には嫡男“義高”と弟“高則”を“幕府軍”として参加させているが、後醍醐天皇に味方”する決断をする。

以下に記す“船上山の戦い”の兵力比較でもこの段階では“幕府軍”が圧倒的に優勢だった事が分る。

後醍醐天皇軍:
指揮官:名和長年
:名和行氏・・名和長年の弟。3月3日に佐々木清高の小波城を攻略した

戦力:150余名

幕府軍:
指揮官:佐々木清高・・代々隠岐守護(太平記では隠岐判官)を世襲する家柄。船上山の戦いで敗退し、隠岐を追われ、六波羅探題の北条仲時の軍に合流するが、番場の“蓮華寺”で皆と共に自害した(生1295年没1333年)

:佐々木昌綱・・船上山の麓で指揮するも流れ矢が右目に当たり戦死する

:佐々木定宗・・800騎を率いて戦うも突如“名和軍に降伏”したとされる。

:小鴨氏基(おかもうじもと)・・伯耆国在庁官人・後醍醐軍に降伏し、天皇方に寝返った人物

:糟屋重行・・伯耆守護代。京に敗走し、六波羅探題が滅びた5月9日に蓮華寺で佐々木清高等と共に自害(生:1270年没:1333年)

戦力:3000余人

上記の様に“名和長年軍”の兵力は圧倒的に少なかったが、同じく兵力的に圧倒的に劣勢だった“楠木正成軍”が“千早城”で善戦する情報に大いに奮い立ったとされる。

船上山で“籠城戦”を展開した名和軍は、近隣の武士の“家紋”を白布500反を使って旗を作り隙間無く立てた。幕府軍はこれを見て“大軍”が籠っていると恐れたとされる。

この事は鎌倉時代の末期には名和氏の様な武士の家が“標”としての“紋(=家紋)”を用いていた事を裏付けるものとされる。

名和長年の“帆掛船”の家紋は後醍醐天皇から“船上山の戦い“の功績で下賜されたとの説もあるが、海運業に関わる”名和氏の標”として、それ以前から用いていたものだと考えられる。

船上山には近国の武士が“名和長年”の下に集まった。一方、幕府軍は兵力的には圧倒的に勝っていたが、指揮官の佐々木昌綱が流れ矢で戦死した事で、彼の部下500人が怖気付き、戦意を失った。これが切っ掛けとなって、佐々木氏の同族の出雲国守護の“塩冶高貞”は天皇方に寝返るという事態が生じ、更に800騎を率いた“佐々木定宗軍”も突如“名和軍に降伏”するという連鎖が起こるなど、みるみる中に幕府軍は崩れて行った。

“名和長年”軍は激しい暴風雨の中を幕府軍の“佐々木清高軍”を急襲、大慌てとなった1000騎が谷底に落ちるなど、ここでも幕府軍は多くの死傷者を出し、敗退を重ねた。

余勢をかって名和軍は尚も“佐々木清高”の舘、並びに伯耆国守護代の“糟屋重行”の舘を攻め、敗走させた。“小鴨氏基”軍も降伏の上、天皇側に寝返るという有様であった。

大軍勢だった幕府軍は敗退し、伯耆一国を後醍醐天皇軍が平定するという結末になったのである。

16:足利高氏の後醍醐天皇側への寝返り・・足利“尊氏”へ改名(別の説もあり)

北条得宗家と足利氏との関係については既述したが、足利氏の当主は代々北条氏一門の女性を正室に迎える等、密接な関係を築いて来た。

足利高氏が後醍醐天皇方に寝返った理由を“得宗家に遺恨を抱いていた”という説があり、それを足利高氏の祖父・足利家時(生1260年没1284年又は1285年)が自害した事に求める説がある。

それは、足利家時が1285年11月の安達泰盛の“霜月騒動”に連座して“自害”した事に関連付けて“得宗家に対する恨み”を抱いたとする説であるが、足利家時の自害は“勘仲記”などの記録からその時で無い事が分かっており、この説は否定されている。

又、足利家時が得宗執権・北条時宗の死(1284年4月)に“殉死”をする事で得宗家への忠節を示す為に自害したとの説もある。この説だと足利家が”得宗家に恨みを抱く“理由にはならない。

“得宗家の権力が強大化し、それに伴って内管領が台頭した事によって、足利氏との伝統的関係が希薄になって行った“という事が寝返りの理由としては説得力がある。

既述して来た様に“元寇”への未曽有の危機への対応で“得宗家”に権力が集中されるという“歴史展開”となった。そして、得宗家の代行者としての“内管領”が政治権力を握る様になった。こうした流れの結果、有力御家人の“足利氏”の立場は次第に圧迫された。 “鎌倉幕府の岩盤である幕府と御家人との絆の崩壊“が鎌倉末期に進んで行った”という史実を代表したのが“足利氏”のケースだと言える。

内管領・長崎円喜、高資父子が鎌倉幕府を乗っ取った事に拠り、最有力御家人の“足利氏”と鎌倉幕府との“絆”が崩壊したという事である。

“船上山の戦い“に援軍として参戦する様、幕府は執拗に足利高氏に催促した。この時足利高氏の妻子を人質として鎌倉に残す様、幕府は要求し、足利高氏はこれに応じている。

足利高氏の妻は第16代執権赤橋(北条)守時の妹の“登子”である。幕府は更に足利高氏に“幕府を裏切らない旨の起請文”を書かせたとされる。これ等の全ては鎌倉幕府と足利氏の“絆”が崩壊していた事を裏付けている。

1333年3月27日、足利高氏は上杉・細川・今川から成る3000騎を率いて六波羅探題の援軍として鎌倉を出発、上洛の途に着いた。同じく北条一族からは“名越高家“が7600騎を率いて上洛の途に着いた。

この時点で既に足利高氏は後醍醐天皇軍に寝返る意思を固めていたと伝わる。

密かに“船上山“へ天皇方に帰順する旨を伝える使者を遣わし、後醍醐天皇からは足利高氏に”倒幕を命ずる綸旨“が下されたとされる。

重臣以外には全てを秘した足利高氏が京の六波羅探題に到着したのは1333年4月下旬であった。

足利高氏が後醍醐天皇から諱(いみな=身分の高い人の実名)の“尊治(たかはる)の偏諱(へんき=貴人の二字の一方の字)を受け“足利尊氏”に改めたのはこの頃だとする説がある。

別の説としては鎌倉幕府崩壊後の1333年6月5日に京に還幸した後醍醐天皇が倒幕の功労者への“除目(じもく=平安時代以降、大臣以外の官を任ずる儀式)を行った8月に“倒幕第一の功労者”として“足利尊氏”に改名させたとの説もある。(後述)

16-(1):“名越高家”が討ち死”したとの報にも加勢に向わず、自らの所領(丹波国篠村)を目指して軍を進めた“足利尊氏”・・幕府への叛意を明らかにした行動

名越高家と足利尊氏が率いる援軍を得た事で、各地で展開される“後醍醐天皇軍”のゲリラ戦に苦戦していた“六波羅探題”の意気は上がった。

“船上山攻撃”の軍議で“足利尊氏”は丹波・丹後(山陰側から)から伯耆国(鳥取県西部)へ向い“名越高家”は播磨・備前(山陽側から)伯耆国へ向かって出陣する事が決まった。

“太平記“によると、元弘3年(1333年)4月27日、久我畷(こがなわて=京都市伏見区)の合戦で、名越(北条)高家軍(7600人)は、後醍醐天皇軍の千種忠顕(公卿・後醍醐天皇の隠岐島配流に随従し、建武新政の政権で“三木一草=さんぼくいっそうと称された後醍醐天皇に寵遇を受けた4人の寵臣:楠木正成、結城親光、名和長年の中の一人)、結城親光(赤坂城の戦いでは幕府方だったが寝返り、足利尊氏軍に属した。三木一草の一人)、赤松則村(=円心:生1277年没1350年:播磨国守護だったが護良親王の令旨を受けて後醍醐天皇方に寝返った人物)らの軍勢と激突した。

勢いに任せて“倒幕軍”を圧倒していた“名越高家軍”だったが、休憩していた処を“佐用範家”の放った矢に、大将自身が眉間を射抜かれ、討ち取られてしまうという事態が生じた。休んでいる敵を物陰から狙撃するという戦い方は“悪党”が用いる“ゲリラ戦法”であり、大将を失った“名越軍”は更に多くの犠牲者を出して総崩れになった。

こうした状況を知った“足利尊氏”であったが、援護部隊を出す事もせず、後方で戦況を静観し、名越軍の敗退を確認すると領国の丹波篠村へ向けて軍を進めた。この時点で足利尊氏は鎌倉幕府に対する叛意、後醍醐天皇軍への寝返りを明らかにしたのである。

足利尊氏は同日(1333年4月27日)付で近国の武士に宛てて“軍事催促状”を発している。

“伯耆国におわします天皇より、討幕の勅命を受けた。一族を連れて参陣する様、お願いする“という内容であった。

足利尊氏は、その2日後(4月29日)にも大友氏、島津氏など、遠国の武士にも同様の書状を送っている。

六波羅探題にとって“名越高家”が“久我畷(こがなわて)”の戦いで討ち死するという大打撃に加えて、足利尊氏が後醍醐天皇方に寝返った事は驚愕であった。

更に、足利家の別家的存在であった“斯波高経(生1305年没1367年)も足利尊氏に従って“挙兵”する。こうして“倒幕側”への寝返りは“雪崩”の様に広がり、幕府軍にとって事態は全く収拾がつかない状態に陥ったのである。

17:六波羅探題の滅亡・・1333年5月9日

17-(1):足利尊氏の寝返りで倒幕勢力が急増する。“北条高時”を名指しした後醍醐天皇からの“追討の綸旨”が発せられる・・1333年5月2日

北条得宗家と特別な近い関係で結ばれて来た最有力御家人“足利家=足利尊氏”が後醍醐天皇方へ寝返った事は、将軍職並びに執権職を“お飾り化”し“鎌倉幕府”を乗っ取り“内管領専横政治”で絶大な権力を振るっていた“長崎高資”並びに“長崎円喜”父子に不満を抱く“御家人達”の目を完全に覚まさせた。

後醍醐天皇の“倒幕戦闘”の狼煙に続いて北条得宗家に次ぐ“鎌倉幕府のNO.2”の“家格”の“足利家=足利尊氏”が後醍醐天皇方に寝返った事は、楠木正成・名和長年らの“悪党”が“倒幕の戦闘”に参加した意味合いとは全く異なる、より大規模な倒幕への“雪崩現象”を起こす事に繋がった。

足利尊氏が発した遠近の武士に対する“軍勢催促状”に応じて集まった軍勢で、足利尊氏軍は鎌倉を出た時の3000騎から忽ちの中に15,000余騎に膨れ上がったとされる。

1333年に5月2日付で足利尊氏に下された後醍醐天皇の綸旨の内容は下記である。

“前相模守平高時法師はみだりに君臣の礼節に背き、国家の規範を顧みず、諸国から搾取し、万民を労苦させるなど、その驕りは目に余るものである。高時は明らかに朝敵であり、もはや天罰を逃れることは出来ない。汝には速やかに軍兵を率いて兇徒を追討するよう命じる。勲功の褒賞については、汝の希望に添うことを約束する“

既述した様に、鎌倉幕府の最高位に居たのは、名目上であるにせよ、1308年から将軍職に就き、32歳になっていた第9代守邦親王将軍(生1301年没1333年8月)である。そして、北条庶家から第16代執権に就いていたのは38歳の赤橋(北条)守時(生:1295年没1333年5月18日)であった。

“後醍醐天皇”が“追討綸旨”の中で追討の対象として名指ししたのは守邦親王将軍でも執権赤橋守時でも無く、既に7年前の1326年に出家し、政治権力を持たなかった得宗家の“平高時=北条高時”であった事は注目すべきである。

天皇家の一員である“守邦親王将軍”を外し、政治の実権を握ってはいたが、得宗家の“御内人”に過ぎない“家格”の低い“長崎父子”も追討綸旨の中で“討伐対象”としていない。“家格“を重んじる事が鎌倉時代の日本に確りと根付いていた事は既述したが、追討綸旨で対象とされた“家格”は“北条得宗家”であり、その当主の“北条高時”以外にはあり得なかったという事である。

17-(2):“六波羅探題”が陥落し、北条仲時以下432名が“蓮華寺”で自刃する・・1333年5月8日~5月9日

17-(2)-①:六波羅館の陥落・・1333年5月8日

足利尊氏の寝返りに驚愕した“鎌倉幕府=六波羅探題”であったが、戦闘準備を急遽進めた。持明院統の後伏見(第93代天皇:在位1298年譲位1301年・生1288年崩御1336年)・花園(第95代天皇:在位1308年譲位1318年・生1297年崩御1348年)の二人の上皇と光厳天皇(持明院統・北朝初代天皇・在位1331年10月譲位1333年7月・生1313年崩御1364年)を六波羅探題北方に迎えて、警護する体制を整え、堀を深くし、逆茂木(サカモギ=敵の侵入を防ぐ為に先端を尖らせた木の枝を外に向けて並べ、結び合わせた柵)を設けて六波羅探題を要塞化した。

後醍醐天皇(笠置山の戦い以後は上記光厳天皇が在位していたので“先帝”と記述しているケースもある)は六波羅探題軍の北陸方面への退路を絶ち、東国への退路も比叡山の衆徒に拠って絶った。

こうした情報を得た六波羅探題北方の“北条仲時”、六波羅探題南方の“北条時益”は鴨川を背に真に“背水の陣”を敷いた。

1333年5月7日に足利尊氏は所領の丹波国・篠村を出陣した。足利軍はこの時点で5万に膨れ上がり、瞬く間に京の西側を埋め尽くしたのである。更に足利尊氏の動きに呼応して“寝返り組”の“赤松円心”軍3千は“東寺”方面から、後醍醐天皇の近臣“千種忠顕”軍2万7千も都の南側(伏見・竹田方面)から加わり、後醍醐先帝(天皇)軍は総戦力8万の大軍となって六波羅探題を囲ったのである。

これに対する六波羅探題軍の総戦力は6万、三手に分かれて布陣したとされる。

幕府軍は“名越(北条)高邦”(1333年4月27日の久我畷の戦いで赤松円心軍の佐用範家に射抜かれ戦死した名越高家の子)が足利勢に向い、同じく幕府軍の“淡河通時”は赤松勢に向った。

幕府軍の北条斎時(通称伊具入道:生1262年没1329年)には“千種忠顕”軍が対したと書く書物があるが、北条斎時(=伊具入道)は既に1329年に67歳で没しているとの記録もあり確かでは無い。

“六波羅探題”との決戦が開始されたのは1333年5月8日午前8時頃だとされる。

この時点では既に兵力面で逆転現象が起きて居り“後醍醐先帝軍=倒幕軍”の方が勝るという状況に大きく変化していたのである。

足利尊氏軍を主とする“倒幕軍”に逃げ道を塞がれた“六波羅探題軍”は“突敢攻撃”を繰り返し、六時間に亘る激戦が続いた。

“倒幕軍”は大宮大路の防衛の為に設けられた各木戸を打ち破って攻め入り、二条大路(二条城のある東西の通り)から八条大路(京都駅辺りの東西の通り)は“足利勢”によって埋め尽くされ、六波羅密寺(鴨川の五条大橋近辺)を目がけて押し寄せた。

又、赤松円心・千種忠顕の軍勢も竹田(京都駅南方・地下鉄烏丸線竹田駅近辺)東寺(九条通り大宮通り交差点)方面の“六波羅勢”を打ち破り、南から六波羅密寺を目指した。

最初に“六波羅館”に攻撃を仕掛けたのは“赤松円心”の軍勢3千だった。一方、六波羅館で守備する幕府軍は1万、戦況は、当初は幕府軍が優勢であったが、次第に“千種忠顕”の軍も加わるなどで“倒幕軍”が優勢になって行った。

市街戦も行われ、徐々に追い詰められた“六波羅勢”には逃亡者、脱落者が相次いだ。六波羅館は完全に“倒幕軍勢”に拠って包囲され、幕府軍(=六波羅勢)は千騎(2千騎説もあり)にも満たない軍勢に激減したとされる。

17-(2)-②:“北条時益”の討ち死と“北条仲時”をはじめとする総勢432人の最期(1333年5月9日)・・蓮華寺訪問記から

当時の“六波羅探題北方”は北条仲時(普恩寺流:生1306年没1333年5月9日)であり“六波羅探題南方”は北条時益(政村流:生不詳没1333年5月8日)であった。後醍醐天皇を“笠置山の戦い”で破り、隠岐島に配流し“赤坂城の戦い”でも共に戦い“倒幕の戦闘”に勝利して来た二人である。

上記した様に、足利尊氏の“後醍醐天皇側への寝返り”により形勢は雪崩現象を起こして逆転し、六波羅探題は呆気なく陥落したのである。

北条仲時、北条時益軍が抱えていた大きな問題は“六波羅館”に光厳天皇、並びに後伏見上皇・花園上皇の二人の上皇を伴っていた事である。

北条仲時・北条時益には“六波羅館で斬り死”するか“鎌倉へ脱出して体制を立て直す”かの決断が迫られていた。

糟屋宗秋(御家人・六波羅探題検断方)が“僅か千騎(2千騎?)では敵を防げない。光厳天皇並びに二人の上皇をお連れして関東に下り、再起を期しましょう。瀬田を守備する”佐々木時信“に合流すれば、近江国を安全に通れましょう”と献策し、これを受け入れ、鎌倉を目指して敗走を始めたのである。

完全に包囲された六波羅からの脱出は、1333年5月8日の深夜の“強硬突破”となった。先陣を務めたのは“北条時益”である。六波羅館の北門を密かに脱した一行だったが直ぐに見つかり、四条河原での戦闘となった。

“北条時益”はこの戦闘の最中に馬上で流れ矢に射られて落命した説、敗走道中の途中、京都・東山で野伏に襲われ討ち死にした説の2説があるが、何れにしても早い段階で討ち取られたのである。

天皇並びに二人の上皇を伴った“北条仲時”の一行は、近江国番場峠(現在の滋賀県米原市・長谷川伸の“瞼の母”の番場忠太郎で有名)迄達するが、倒幕軍の五辻宮(=守良親王・第90代亀山天皇の第五皇子とされる)を擁した伊吹山近辺の寺社兵や野伏からなる軍勢(3千に上ったとされる)に行く手を阻まれた。

“北条仲時”は伊吹に居る佐々木道誉(=佐々木尊氏:生1296年没1373年・足利尊氏の生涯を通じての盟友として共に後醍醐天皇に帰順する・京極高氏とも称される)を頼ったが、その佐々木道誉も“倒幕側”に寝返っていた。

一行が漸く近江に辿りついた時には兵力は半分以下に減っていたのである。

17-(2)-③:命運尽きたと判断した“北条仲時”は蓮華寺に入り、本堂前で一族郎党432名と共に自刃する・・1333年5月9日

私共も2013年8月7日に“蓮華寺”を訪ねた。米原市番場511にある“蓮華寺”には大阪駅から“新快速”に乗って90分程で米原駅に着く。ところが“蓮華寺”に行く適当な路線バスが無い。酷暑の最中、歩くのも大変なので駅から10~15分程で着くタクシーを利用した。

蓮華寺のパンフレットに拠ると約1400年前に聖徳太子に拠って創建され、当初は“法隆寺“と称していたとある。

又、建治2年(1276年)であるから、第一回目の蒙古襲来があった2年後、北条時宗の時代に落雷で焼失、弘安7年(1284年)第2回目の蒙古襲来があった3年後に“一向上人(生1239年没1287年)“を開山として再建されたと書かれている。

現在は訪れる人も少ないのであろう、寺は古刹(古い由緒のある寺)にも拘わらず荒れていた。第95代花園天皇(持明院統・在位1308年譲位1318年:生1297年崩御1348年)から勅願寺院(天皇の発願に拠って建てられた寺)としての勅許が下りた寺であるから“寺紋”として“菊の紋”が下賜された寺であり、今日でも立派な“勅使門”が健在である。

南北朝時代の“梅松論(作者不詳)”には“北条仲時”の最期の状況が以下の様に記されている。

最早逃れられぬ事を悟った一同は“光厳天皇を弑し奉り、我らは自害・討ち死しよう”と逸った。しかし北条仲時は“我々が生き乍らにして天皇を奪われた場合は、恥というものであろう。しかし我々が死んでしまった後であれば何という事もあるまい“と語り、光厳天皇並びに二人の上皇の扱いを“後醍醐天皇軍”に任せて自刃した。

蓮華寺のパンフレットには“北条仲時は蓮華寺に光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇の玉輦(ぎょくれん=天皇または貴人の乗る車)を移した後に、本堂前庭で430余名と共に自刃した“と書かれている。

時の第三代住職“同阿上人”が430余名の姓名と年齢、並びに法名を一巻の“過去帳”に認め、供養の墓碑を建立して冥福を弔ったとある。これは“陸波羅南北過去帳”と呼ばれ、今日“重要文化財”として蓮華寺に所蔵されている。

私達も境内の430余名の“主従の墓”をお参りした。近代に成って整備されたとされる“一石五輪塔”と呼ばれ、鎌倉時代の墓碑に共通する高さ50cm程の小さな石の墓塔がズラリと3段に並んでいる墓地であった。

尚、本堂裏の樹齢700年とされる巨木“一向杉”の横に“戯曲・瞼の母”で知られる長谷川伸が“親を尋ねる子には親を、子を尋ねる親には子を巡り合わせ給え”との悲願を込めて建立した“番場忠太郎地蔵尊”がある。

18:新田義貞の挙兵に関する諸説

18-(1):足利氏と新田氏の関係について

足利尊氏と新田義貞は最終的に敵味方になるが、その理解の助として両家の歴史的関係を記述して置く。

両家共“祖先”は源義家の三男の“源義国(生1091年没1155年)”である。

“源義国”は乱暴狼藉を働くなど素行が悪く、父の義家(八幡太郎)から“源氏の棟梁”の候補者から外された人物である。しかし下野国(現在の栃木県)に“足利荘”を成立させ,勢力を築いた。

その”源義国”に”義康・義重”の兄弟息子が居た。

“源義康”が“足利荘”を継ぎ“足利氏の祖”と成った。“源義重”は“新田郡”の開墾を行い“新田荘”を開き“新田氏の祖”となった。尚、後に徳川家康は新田(源)義重の子孫だと称している。

ところが両家の“家格”には、この二人の兄弟の対応の違いから大きな差が生じる事になる。

“源頼朝”が挙兵した時、源(足利)義康の子“足利義兼(第2代当主。生1154年没1199年)“は、逸早く頼朝の下に馳せ参じ、正室として北条時政の娘(時子)を娶るなど、頼朝の信任を得て、以後、鎌倉幕府政権で高い地位を築いて行った。

一方の“源(新田)義重”は独自の勢力を興そうと頼朝の配下に直ぐには入らなかった。又、北関東での主導的地位に在った事から源頼朝を格下に見て、頼朝の挙兵時に日和見的態度を取った。

後に“源頼朝”の威勢興隆を見て、慌てて鎌倉に馳せ参じたが、源頼朝の不信感を容易に拭う事は出来ず、遠ざけられる存在となった。

こうして“足利氏”が興隆する一方で“新田氏”は鎌倉幕府からは冷遇され、官途名すら持たなかったという大きな差が生じたのである。

楠木正成が“赤坂城”で挙兵した時に“足利高氏”は幕府軍の大将として一軍を率いてこれに対した。一方の“新田義貞”は、1333年2月の“千早城攻め”に一武将として参戦するという立場に過ぎなかった事が記録に残っている。

18-(2):新田義貞(生:不詳1300年頃・没:1338年)・・という人物について

新田義貞は河内源氏“源義国流”の“新田氏本宗家の8代目棟梁”という由緒正しい出自である。

上記した様な経緯から“新田家”は“足利家に対して従属関係”に在り、後の1336年に足利尊氏が後醍醐天皇の“建武政権”に反旗を翻す“延元の乱”迄は、新田義貞は足利尊氏の一武将に過ぎなかったとする説が有力である。

“足利家”とは比べ物にならない“日の目を見ない”家格“だった事で、新田義貞自身が生まれた年などの記録もはっきりしていない。

僅かに残る“筑後佐田系図”等の史料から、正和13年(1314年)に13歳で元服したとの記述があるが、残念ながら信頼性に乏しい史料だとされる。

新田氏本宗家の家督を継いだのが、文保2年(1318年)だという事は伝わっている。

“新田義貞”の“義”の字は、足利尊氏の異母兄であり、家督を継ぐが早世した“足利高義(生:1297年没:1317年)”からの偏諱(へんき=貴人の二字の名の一方)を受けたとする説がある。この事からも“新田家”が“足利家”の“麾下(きか=部下)”にあった事が裏付けられる。

凋落していた“新田氏本宗家”の勢力回復に“新田義貞”は動いている。

険悪な関係に在った“北条得宗家”との関係を少しでも改善する為に、得宗被官の“安東氏”から妻を迎え、得宗勢力へ積極的に接近したとされる。

又、新田義貞は“世良田宿”を掌握する事で“経済力”の強化も図った。

18-(3):新田義貞の“挙兵理由”に関する諸説の紹介・・①綸旨説②足利尊氏からの要請説③有徳銭(税)徴収への抵抗説

以下に3つの説を記述する。史実としての信憑性は①~③の順に高いものと考えられるが、いずれも何らかの史実を語る説ではあり、荒唐無稽とは言えまい。

18-(3)-①:綸旨説

1331年に“後醍醐天皇(先帝)”による一連の“元弘の乱”が始まった時期に、新田義貞は幕府から“大番役”を命ぜられ、上洛している。

既述した様に“千早城の戦い(1333年2月~)”に新田義貞は一武将として参戦している。

ところが、1333年3月に、病気を理由に無断で新田荘に帰っている。その理由は“護良親王と接触し、倒幕の綸旨を受け取った“とする説、又は”後醍醐天皇からの綸旨を受け取ったとする説“更には”双方から綸旨を得た“とする説がある。

当時、東国武士に対して“倒幕を促す綸旨”が両者から飛ばされていた事“は史実であり、新田義貞がどちらかからの“綸旨”を受け取った可能性は高い。

尚“挙兵の地“である”生品神社“の史跡訪問をした際、境内の説明版には”後醍醐天皇の綸旨を受けて・・“と書かれていた。

18-(3)-②:足利尊氏からの要請があったとする説

この説は後述するが、新田義貞の“鎌倉攻め”の途中で“足利尊氏の嫡男千寿王”が合流した史実から敷衍された説と考えられる。しかし、この説は新田義貞を足利尊氏の風下に置く説となる為、定説とはなっていない。後述する“旗挙げ”時に参加した“岩松経家”は“足利尊氏”の命があったという記録もある。

明治維新で明治新政府は“南朝”を“正規の皇統”として認めた。そして新田義貞を忠臣、英雄として明治15年(1882年)に正一位を贈っている。

一方で足利尊氏は皇統の正統性を重視した水戸学では“逆賊”とされ、江戸時代から“逆賊足利尊氏観”を引き継いだまゝであった。

こうした背景から“新田義貞”の“鎌倉攻め”の記述も一方的に彼を英雄視して書かれた傾向がある。

“史実“を求める態度からすれば、歴史の整合性、流れという観点からは、新田義貞の挙兵に”足利尊氏“から、直接であったか否かは別にしても、何らかの要請、関与があったと考える事は、裏付け史料は少ないが、むしろ自然ではなかろうか。

18-(3)-③:法外な戦費調達の為の徴税”有徳銭“への抵抗説

小説家“新田次郎(本名:藤原寛人・生1912年没1980年)が書いた”新田義貞“は“有徳銭”徴収に抵抗して“挙兵”した説に基づいて書かれている。

この説は“史実としての裏付け”に最も乏しく、信憑性に欠ける説であるが“有徳銭”を鎌倉幕府が戦費調達の為に徴収した事は“史実”であり、又、新田義貞の領地の“世良田”地区が繁栄していた事も事実である。

新田次郎自身は中央気象台の気象職員として入庁し、富士山気象レーダー建設に関わるなど“高山気象研究の専門家”として有名であった。そうした背景を持った彼の小説は現地取材を欠かさず、緻密な事で知られる。

彼の小説“新田義貞”がどの程度、客観的史実に基づいたものかは分からない。ここではストーリーを紹介するだけに留めて置きたいが、荒唐無稽な説ではなかろう。

鎌倉幕府は“笠置山の戦い”に始まり“護良親王・楠木正成”の“赤坂城の戦い”へと拡大する“倒幕の戦闘”の戦費を賄う為、富裕税の一種である“有徳銭(うとくせん=貨幣経済が発達し、有徳人が形成される様になった鎌倉時代後期から見られる“税”である。当初は臨時の借米であったが、次第に租税化し、納付も銭で行われる様になった)を課す状況になっていた。そして“新田荘”にもその“有徳銭”が課せられたのである。

上野国“新田荘”の世良田は“長楽寺”の門前町として栄え、富裕な商人が多かった為、得宗家の一族で、幕府引付奉行の“金沢出雲守親連(かねざわいずものかみちかつら)”と“御内人”の“黒沼彦四郎伴清”が赴き、僅か5日間で6万貫文を納税する様に迫った。

徴税に来た両者の態度は“譴責(けんせき=不正・過失・失敗などを咎め、叱る)“とも言える高圧的なものであった。

得宗被官(御内人)の権威を笠に着て、居丈高に振る舞い、強引に“有徳銭徴収“を迫る黒沼彦四郎に新田義貞は憤激し、斬り殺し、更に彼の首を世良田の宿に晒した。そして幕府高官の“金沢出雲守親連”を幽閉したのである。

1333年時点の鎌倉幕府は、執権は第16代赤橋(北条)守時であったが、政治の実権は内管領・長崎高資と父親の長崎円喜が握っていた。しかし“家格”を重視する時代であったから、政治の実権こそ無かったが、長崎父子が権威付として用いたのは既に出家し、政治から離れていた“得宗・北条高時”の名であった。

“北条高時“の名で幕府は“新田義貞”に対し“新田荘の平塚郷”を長楽寺に寄進する事を命ずる文書を発行した。“報復措置”として“所領没収”の措置に出たという事である。

更に幕府が“追討の軍勢”を差し向けるという情報を得宗被官“安東聖秀”の姪であった新田義貞の妻がもたらした。

こうした事態に新田義貞の一族郎党が集まり、対応についての評定を行った。防戦方針が中心だったが、新田義貞の5歳下の弟“脇屋義助(生:1305年没:1342年)”が、積極策で行くべきと主張した。

この意見に一同が奮励され“倒幕”の戦闘作戦が立てられ、一気に“鎌倉攻め”が行われたというストーリーである。

19:新田義貞の挙兵から東勝寺合戦迄・・北条氏並びに鎌倉幕府の滅亡

新田義貞は僅か15日間で挙兵から北条氏を滅亡(=鎌倉幕府滅亡)させる迄の快進撃を続ける。

新田義貞の当時の快進撃を書くに当たって、2016年8月31日に新田義貞が挙兵した“生品神社”から“小手指ケ原~関戸の戦い”の各戦場を訪れた。

又、2016年8月26日と9月18日には“鎌倉の戦い”が行われた“化粧坂切通し~巨福呂坂切通し~極楽寺坂切通し~稲村ケ崎~東勝寺”の戦場を“鎌倉検定試験一級”の資格を持つ友人の案内で記述内容に間違いが無いかの確認の為、再度訪れた。

以下に記す“戦闘”を行いながら、僅か15日間で“鎌倉攻め”に勝利したのである。

19-(1):挙兵時の主たるメンバー・・1333年5月8日(他に5日説あり)

新田義貞は産土神(うぶすながみ=新田義貞の生地の守護神)である“生品神社(いくしなじんじゃ)=群馬県太田市新田市野井町)で旗揚げをした。

この時点で、集まったメンバーは新田義貞、弟の脇屋義助、大舘宗氏(おおだちむねうじ・生1288年没1333年=新田義貞の義兄弟)、堀口貞満(ほりぐちさだみつ・生1297年没1338年=上野国・群馬県に土着した新田氏の支族)そして、足利尊氏の命で新田義貞の挙兵に加わったとされる“岩松経家(父方が足利氏、母方は新田氏を祖とする一族)等であった。

挙兵時点では、僅か150騎とされ、雑兵を加えても数倍程度の小さな部隊での挙兵であった。

私達は2016年8月31日に“生品神社”を訪ねた。現在の“群馬県太田市新田市野井町“にある。

生品神社のパンフレット、境内の説明版には“後醍醐天皇からの倒幕の綸旨が発せられ”と書いてある。挙兵理由として3つの説を記述したが“足利尊氏からの要請”や“有徳銭徴収”説については触れていない。

“1333年5月8日に新田義貞が境内のクヌギの大木の前で旗揚げをした”と書かれ“軍旗”を掛けたとするクヌギの大きな切株が“町指定重要文化財”として境内に大切に置かれていた。

以下に新田義貞軍が“鎌倉”を目指して進軍した状況を時系列に記して行く。

19-(2):八幡荘まで進軍する間に兵力は7000人に膨れ上がる

新田軍の進軍経路は群馬県の太田市で旗揚げをし、高崎市から東京の東村山市、国分寺市、そして府中市、多摩市を経由して南下を続け、藤沢市経由で鎌倉に突入したという事である。

“古道“での道則を研究した史料もあると思うが、地図の上で計ると少なくとも120~130㎞程は行軍したのであろう事が推測出来る。

1333年5月8日に旗揚げをし、5月22日に“東勝寺”で鎌倉幕府を滅亡させる迄の期間は僅か15日間である。一日に凡そ10kmを越す進軍を、武装した大軍が、しかも激しい戦闘を繰り返しながら行軍したという事になる。驚くべきスピードである。

新田軍は先ず、笠懸野(群馬県東部)に布陣し、幕府方の上野守護所(長崎泰光=通称・孫四郎、内管領を輩出した長崎氏の一族)を襲い、壊滅させた。

そして八幡荘(はちまんのしょう=現在の群馬県高崎市八幡町・信濃国と結ぶ交通の要所にあり、新田荘と共に新田氏の根拠地)で体勢を整えたと記録にある。

利根川を越えて越後国や信濃国そして甲斐国から、先ず新田一族が合流し、次第に里見・鳥山・田中・大井田・羽川等の氏族2000騎が合流したとされる。彼等は山伏から“新田義貞が挙兵した”との情報を得、馳せ参じたと伝わる。

こうして新田義貞軍は7000人の大軍に膨れ上がり“鎌倉を目指して”一気呵成に進撃を続けたのである。


19-(3):小手指ケ原・久米川・分倍河原・関戸の戦い・・1333年5月11日~5月16日

19-(3)-①:小手指ケ原(こてさしがはら)の戦い・・1333年(元弘3年)5月11日

“小手指ケ原”の名は20年後の1352年閏2月28日に足利尊氏と新田義宗(新田義貞の三男:生1331年没1368年)の間で“武蔵野合戦”が戦われた事で知られるが、新田義貞の一連の“鎌倉攻め”の戦闘の“緒戦”とも言える合戦が行われた戦場である。

旗揚げをした時点では僅か150騎程だった新田義貞軍であるが、既述した様に、兵を進めるに従って、一族並びに周辺豪族が加わり、軍勢は膨れて行った。

新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、入間川を渡る。一方の幕府軍は桜田貞国(=北条貞国:生1287年没1333年5月9日説5月22日説)を総大将とし、長崎泰光(内管領の一族)、加治二郎左衛門家貞(武蔵七党の中の丹氏に属した武士)を副将として鎌倉を発っていた。

両軍の最初の合戦の火蓋が切って落とされた“小手指ケ原”は、新田軍が旗揚げをした“生品神社”から車で18㎞程の距離であった。史跡には小さな石碑が建って居り“一路南下した新田軍は利根川を渡り、11日にここ小手指の地に到った”と書かれていた。

軍勢が膨れて行った事もあり“小手指ケ原“には旗揚げから3日程かけて進軍した事になる。30回を超える激戦の末、新田軍は幕府軍を打ち破った。幕府軍は久米川の南岸(現在の東京都東村山市諏訪町)へと移り、軍勢の立て直しを図った。

19-(3)-②:足利尊氏の嫡男・千寿王(後の室町幕府第二代将軍:足利義詮=よしあきら・生1330年没1367年)が鎌倉を脱出し、久米川付近で合流。各地から一気に兵士が集まり“新田軍”は20万に膨れ上がる・・1333年5月12日

足利尊氏は後醍醐天皇(先帝)が隠岐島を脱出し、1333年閏2月に“名和長年”と共に“船上山”で倒幕の戦いを開始したが、その鎮圧の為に“幕府軍”として上洛する様、命を受けた。その際、妻(赤橋登子)と嫡子“千寿王”が人質として鎌倉に残された事は既述した。

しかし妻と“千寿王“ は足利尊氏が”六波羅探題“を陥落させると足利家の家臣に拠って鎌倉から脱出する事に成功していたのである。

その“千寿王”一行が久米川付近で“新田義貞”軍に合流する。

“千寿王”の手勢は僅か200騎程であったとされるが、足利尊氏の嫡男が合流した事で、新田義貞軍に加わろうとする武士は更に増えた。この時点から、軍勢は“足利&新田”軍の様相を呈した“大軍勢”になって行く。

次項で記述するが“建武新政”樹立後に新田義貞と足利尊氏は敵対する事に成る。

“梅松論”には“新田義貞には人望、徳が無いが、足利尊氏は多くの諸将からの人望が高かった”と記されている。

足利尊氏の側近か夢窓疎石(生1275年没1351年)に近い僧侶が筆者とされ、室町幕府創立の正統性を主張する視点から書かれたとされる“梅松論(1349年成立)“の記述であるから、割引いて読まなければならないが、ここに到る迄の両者の立場の差、後の歴史展開との整合性から解釈すれば“足利尊氏”が武士の間で“人望”が厚かったとする説は真実ではなかろうか。

従って、軍勢が堰を切った様に急増した理由に“足利尊氏の嫡子・千寿王”の合流が及ぼした影響が極めて大きかった事は考えられる。

それにしても、新田軍の兵力が“梅松論”では最終的に20余万に達したと記し”太平記”では“20万7000騎”に達したとあるが、誇張された数字であろう。

豊臣秀吉が1590年に“小田原攻め“を行った時の豊臣方の戦力が21万とされ、1600年9月の“天下分け目の戦い=関ケ原の合戦”でも徳川軍9万、石田三成軍8万、両軍合わせても20万弱の兵力であった事を考えると“新田義貞軍”だけで凡そ21万の兵力は誇張された数字の様に思える。

足利尊氏の嫡子とは言え“千寿王”は当時未だ3歳の幼児であったが、鎌倉攻めの“もう一人の大将”と目される程“千寿王”の合流の影響は大きかったであろう事は想像出来る。以後の“新田軍”は“二人の大将”が居た様な状態だとされ“足利&新田軍”と呼ぶのが実態であったとの説もある。

当時の足利尊氏と新田義貞の“家格”の差は事実であり“新田義貞の挙兵は足利尊氏の要請に応じたものである“とする説を裏付けるもう一つの話である。

19-(3)-③:久米川の戦い・・1333年(元弘3年)5月12日

新田義貞軍は“武蔵の国”に入る。この時点で上記した足利尊氏の嫡男“千寿王”が合流した事で、武蔵七党(同族的武士団で、横山党・猪俣党・野与党・村山党・西党・児玉党・丹党)や、河越氏ら周辺の豪族も加わった。

新田軍は、八国山(埼玉県と東京都の境の丘陵・東京都東村山市)に陣を張り、麓に居た幕府軍との戦闘が起きる。“久米川の戦い“である。

“八国山の陣“の跡地は今日では”将軍塚“と呼ばれている。小高い丘は”都立八国山緑地”となっており“小手指ケ原“からは車で8km程の距離であった。

“小手指ケ原”の戦いで敗れた幕府軍に最早勢いは無く“久米川の戦い”でも幕府軍は後退を続け、多摩川の“分倍河原(現在の東京都府中市)”に迄、新田軍は前進する。

19-(3)-④:分倍河原(ぶばいがはら)の戦い・・1333年(元弘3年)5月15日~16日

小手指ケ原、久米川の戦いに敗れた鎌倉幕府軍は北条高時の弟で金沢貞顕が10日で執権職を辞した”嘉暦の騒動(1326年)“の元凶となった“北条泰家”が大将となり、10万の幕府軍を率いて新田義貞軍との戦闘を展開した。これが“分倍河原”の戦いである。

“分倍河原“は”八国山の陣“から車だと25㎞以上離れていた。当時の”古道“でも進軍距離的には結構あったのではなかろうか。

“太平記”には“北条泰家の軍は此処で桜田(北条)”貞国の軍と合流した“と書いているが”彼は“六波羅探題”が滅亡した後に“北条仲時”と行動を共にし“近江国・番場宿の蓮華寺”で自刃した432名の一人として“陸波羅南北過去帳(国の重要文化財)”に名前が載っている。

“太平記”の記述内容には史料としての信憑性に欠ける点が多い事は何度も指摘したが“分倍河原の戦い”で“桜田(北条)貞国”軍が合流したとの記事も正しくないものと思われる。

戦況は当初は10万以上の兵力を整えた幕府軍が優勢で、新田軍は堀金(狭山市堀兼)まで後退したが“足利尊氏軍”が“六波羅探題”を陥落させた(5月8日)との情報が入った事で、幕府軍から新田軍へ寝返るという事態が生じ、形勢は一気に逆転する。

更に、三浦一族の大和田氏、武蔵の熊谷直春(熊谷直経の子)等の軍勢も新田軍に加わり、結果的には“分倍河原の戦い”でも新田軍は決定的な勝利を収めたのである。

“太平記”には次々と援軍が加わった新田軍は“60万の大軍勢に成った”と、此処でもかなり誇張と思われる兵数を記しているが、それ程までに日本中が“倒幕運動一色”になったという事である。

19-(3)-⑤:関戸の戦い・・1333年(元弘3年)5月16日

“分倍河原の戦い“で一時、堀金(狭山市堀兼)まで新田軍が退却した際に武蔵国分寺(東京都国分寺市)が焼失したとされる。しかし、上記した様な展開で幕府軍はこの戦いでも敗退、以後は完全に守勢に転じ、新田義貞軍は南下を続けた。

関戸(現在の東京都多摩市関戸)の戦いの戦場は“分倍河原”からは車の距離で僅か3km程である。記録では“関戸の戦い”が“分倍河原”の戦いの翌日に行われたとあるが、古道で進軍した距離を推定しても無理の無い“戦闘“だったのではなかろうか。

幕府軍の大将“北条泰家”は家臣の“横溝八郎・安保入道父子”の奮戦で、命からがら鎌倉に敗走したと書かれている。

19-(3)-⑥:新田義貞は藤沢の遊行寺で全部隊を三方面に分け、難攻不落とされる“鎌倉攻め”を行う事を決断する

新田義貞軍は圧倒的な勝利を重ね乍ら進軍し、藤沢の“遊行寺”に到る。この時点の新田軍の軍勢を太平記では“70万”に膨れたと記している。

鎌倉突入を実行する前に新田義貞は“遊行寺”で部隊を三方面に分ける作戦を立てる。

鎌倉は“鎌倉城”と称される程の堅固な城塞都市である事を幕府方の人間であった新田義貞は充分に承知していたであろう。具体的には“鎌倉七切通し”と呼ばれる“要塞”をどう突破するかが“鎌倉攻め”のポイントであり“七切通し”の中の3切通しを突破口と決め、軍勢を三方面部隊に編成したのである。

“鎌倉七切通し”とは①朝比奈切通し②名越切通し③大仏切通し④化粧坂切通し⑤巨福呂坂切通し⑥亀ケ谷切通し⑦極楽坂切通し・・である。

尚、この中⑤の化粧坂切通しは第3代執権・北条泰時(生1183年没1242年)が、そして⑦の極楽坂切通しは“極楽寺”の開山“忍性(生1217年没1303年)が造ったとされている。

新田義貞の作戦に従い、大部隊は“遊行寺”から三方面に別れて進軍し、配置に着いたのである。時宗の総本山として有名な“遊行寺”は私の母方の菩提寺である関係から、法事などで度々訪れる寺である。此処から最後の戦場となる“東勝寺跡”までは7~8km程の距離である。

以下が“太平記”に書かれた三方面に配置された部隊の状況であるが、兵員数には誇張があると思われるが参考までに記述して置く。

①巨福呂坂切通し方面部隊
新田義貞軍
幕府軍

上将軍:堀田貞満
大将:赤橋守時(執権)
副将軍:大嶋守之
兵力 :10万人
兵力:6万人

②極楽寺坂切通し方面部隊 

主将:大館宗氏
大将:大仏貞直
副将:江田行義
兵力:10万人
兵力:5万人

③化粧坂切通し方面部隊

大将:新田義貞
大将:金沢貞将
副将:脇屋義助(弟)
:金沢忠時(子息)
兵力:50万人
兵力:3万人

鎌倉市街防備部隊:10万人

合計兵力:70万人
合計兵力:24万人


19-(4):鎌倉総攻撃(鎌倉の戦い)・・1333年(元弘3年)5月18日~5月22日

難攻不落の“要塞都市”鎌倉攻めの戦いがいよいよ始まる。この“戦場史跡”を私も2016年5月21日、8月26日そして9月18日と確認の為に訪れた。

鎌倉検定1級の資格を持つ友人に新田義貞軍が実際に進軍した一連の“戦場史跡”を時系列に添った形で案内して貰い、貴重な情報を得る事が出来た。

以下に主たる戦闘について知り得た情報も加えて記述して行く。

19-(4)-①:巨福呂坂・極楽寺坂・化粧坂(けわいざか)、三方面からの攻撃を行う・・1333年5月18日~

I:巨福呂坂切通しの攻防

“巨福呂坂切通し(こぶくろ)“を歩いてみた。今日では民家が建ち並ぶ住宅地となっており、アスフアルトの坂道と成っているが、往時の険しい“切通し”の面影は残されている。民家があり“巨福呂坂”は途中で通り抜けが出来なくなっている。この切通しは“鶴岡八幡宮”の北西に位置し、徒歩でも簡単に訪ねる事が出来る。

巨福呂坂(こぶくろざか)切通しからの突入をはかるべく、新田義貞軍の“堀口貞満(新田氏の支族・生1297年没1338年)・大島守之”の軍が布陣した。幕府軍は“執権・赤橋(北条)守時”自らが部隊を率いて新田軍を迎え撃った。

何故、鎌倉幕府軍の総大将であるべき“第16代執権・赤橋(北条)守時”自らが先兵部隊を務める役割を担ったのであろうか。

彼の妹“赤橋登子”が足利尊氏の正妻として嫁ぎ、嫡子“千寿王(後の室町幕府第2代将軍・足利義詮)”をもうけていたが、既述した様に、この二人が人質として鎌倉に置かれ、足利尊氏が“六波羅探題”を陥落させた後に、鎌倉を脱出していたという事態が重なっていた事がその理由とされる。

赤橋(北条)守時としては彼が足利尊氏と連携して“北条得宗家の打倒”に動いている“との噂に対して“得宗・北条高時”に身の潔白を証明する為に、自ら進んで死を覚悟して戦場に臨んだと“太平記”は記している。

他方、得宗・北条高時が“赤橋(北条)守時”を疑い、戦場へ差し向けた、との説もある。

執権・赤橋守時軍は一日に65回もの突撃を繰り返し、新田軍の“堀口貞満・大島守之”軍を相手に勇猛果敢に激戦を繰り広げ、新田義貞と弟・脇屋義助の主力が陣取る敵陣背後の“洲崎(鎌倉市深沢地域周辺)”にまで迫ったとされる。

しかし、赤橋守時軍は次第に大多数の兵力を失ない、力尽き“洲崎の戦場”で侍大将の“南条高直”ら90余名と共に守時は自刃した。この“洲崎古戦場”は湘南モノレールの深沢駅の近くにあり、石碑が建っている。

新田軍は攻撃を続け、山ノ内(鎌倉市山ノ内付近)迄攻め込む。しかし堅固な“巨福呂坂切通し“の突破はこの段階では出来なかったとされる。

Ⅱ:極楽寺坂切通しの攻防・・1333年(元弘3年)5月18日(十一人塚の碑には5月19日と刻まれている)

由比ヶ浜、材木座海岸の砂浜に立ち、鎌倉鶴岡八幡宮方面を向いて全景を見上げると“鎌倉“が三方を山に囲まれた”城塞都市“だという事が実感出来る。

西には稲村ケ崎、極楽寺坂切通しの断崖を臨み、滑川の河口を挟んで西側が由比ヶ浜の海岸、東側が材木座海岸が広がっている。当時、新田義貞が“鎌倉攻略”は海岸側からしか攻め込む方法が無いと判断した理由が分かる。

“極楽寺坂切通し”方面からの突入隊は“大館宗氏(おおだちむねうじ:生1288年没1333年5月18日又は19日)”が主将で、新田一族の江田行義が副将であった。

現在の“極楽寺坂切通し“はコンクリート舗装された車が往き来する坂道である。その上り坂を歩いたが、当時の険しい“切通し”の面影は失われていたが、山肌は残って居り“要塞”であった事を想像する事は出来た。

“極楽寺切通し“を登った先には北条重時(北条泰時の弟・初代連署:生1198年没1261年)を開基とし、真言律宗の“忍性(生1217年没1303年)”を開山とする“極楽寺”がある。

寺の最盛期には現在の寺から西北方向に200m離れた稲村ケ崎小学校までの広大な敷地を有する広大な寺であった。尚“忍性”の遺骨は額安寺(奈良)、竹林寺(奈良)そしてこの極楽寺(鎌倉)の三か所に分骨されているとの事である。

この寺は江ノ電の“極楽寺駅”から歩いて数分の距離にある。“茅葺”の立派な寺門をくぐると両側に桜の木が植わった道となる。今日ではコンパクトになった境内であるが、本堂、宝物館、大師堂、茶屋などが並び、四季の草花や大きな“百日紅(サルスベリ)”の木が花を咲かせる美しい寺である。

“極楽寺切通し”は新田義貞が3方面に分けて鎌倉市街への突入を計った切通しの中で、最も海岸線に近い。稲村ケ崎迄は南に1km程の距離である。

1333年5月18日、新田軍の“大舘宗氏“が稲村ケ崎の海岸線から鎌倉市街への突入を敢行した。

彼を迎え撃ったのは幕府軍の大仏(北条)貞直(祖父の大仏宣時は第9代執権・北条貞時の連署)であった。大仏貞直は足利高氏(この時点では、まだ尊氏ではなかった)らと共に1331年に後醍醐天皇が挙兵した際、大将軍の一人として上洛し“笠置山の戦い“に勝利し、続いて楠木正成との”赤坂城の戦い“にも勝利、その功績から遠江・佐渡国の守護職に任じられた“強者武将”であった。

太平記には“極楽寺坂(切通し)の戦い”で、新田義貞軍の“大舘宗氏”は幕府軍・大仏貞直配下の“本間山城左衛門“に討ち取られたと書いてある。

”梅松論“の記述では”大館宗氏“は5月18日未明、稲村ケ崎から少人数で前浜(由比ケ浜)に進入したが、幕府軍の諏訪氏、長崎氏等との戦闘で“稲瀬川付近で戦死”し、その為、新田軍は一端退却を余儀なくされたとある。

この戦闘で討ち死した“大舘宗氏“はじめ11人の慰霊塔が江ノ電の“稲村ケ崎駅”からそう遠くない処にある。“十一人塚碑”と書かれた石碑には“元弘三年五月十九日新田勢大館又二郎宗氏ヲ将トシテ極楽寺口ヨリ鎌倉ニ攻入ラントスルニ敵中本間山城左衛門手兵ヲ率ヰテ大舘ノ本陣ニ斫込ミ為メニ宗氏主従十一人戦死セリ・・(省略)“と刻まれていた。

主将・大館宗氏の死の記録が5月18日と5月19日と2説に分かれているが、新田軍が彼の死で一度退却を余儀なくされた事は上記した全ての記録からも一致している。

Ⅲ:化粧坂(けわいざか)の攻防・・1333年5月20日

2016年8月26日の歴史探訪でこの地を訪れた。鎌倉駅から西北の方向に“源氏山公園”が広がり、その北側に“葛原岡神社”がある。“祭神”として祀られているのは“日野俊基(ひのとしもと)”である。

彼は後醍醐天皇の側近として“正中の変(1324年)”で身代わりに捕えられ、配流されたが京に戻る事が許されている。1331年の一連の“元弘の乱”の発端となった“倒幕計画露見事件”で再び捕えられ、この“葛原岡“で1331年6月3日に処刑されたのである。

葛原神社から徒歩で源氏山公園に入ると大きな“源頼朝公像”がある。“化粧坂切通し”はそのすぐ裏手にある。

この切通しは当時のままの険しい道の姿がそのまま残っており、私も急坂を降りて見たが、足を滑らすと谷底に落ちる今日でも危険な“切通し”である。真に“要塞”であった事が実感出来た。

“化粧坂切通し方面”は“新田義貞”と弟の“脇屋義助”が主力部隊として布陣した。

この“自然を利用した堅固な要塞”を幕府軍の金沢(北条)貞将(かなざわさだゆき:生1302年没1333年5月22日)と子息の金沢(北条)忠時が守った。

その守りの堅固さに新田義貞軍は先に進む事が出来なかったと伝わる。

新田義貞はこの陣を弟・脇屋義助に任せ、自らは“大館宗氏”が討たれた“極楽寺坂切通し方面”へと移る。

19-(5):“稲村ケ崎“からの突入に作戦を切り替えた新田義貞・・1333年5月21日

新田義貞は“極楽寺坂切通し方面”の援軍として加わる為“稲村ケ崎“方面に軍を移動した。“稲村ケ崎”は”極楽寺坂切通し“から南に1.5㎞程の距離で、西に七里ガ浜、東に由比ガ浜を眼下に見渡す場所である。

しかし、鎌倉幕府は“海岸線側”の防備体制も整えていた。稲村ケ崎の断崖下の狭い道には”逆茂木(さかもぎ=敵の侵入を防ぐ為先端を鋭く尖らせた木の枝を外に向けて並べ、結び合わせた柵)を備え、海上には幕府軍の軍船を配置し、侵攻する新田義貞軍を射抜く体制をとっていた。

“大館宗氏“は討たれたが、新田義貞はその戦闘情報から”稲村ケ崎側からの突入は可能”と判断したとされる。

1333年5月20日に“新田義貞”は本陣を“稲村ケ崎”の北方の“聖福寺”に移した事が“円覚寺文書”に記録されている。この事は新田義貞が鎌倉突入を“稲村ケ崎側”から行なう決断をした事を裏付けるものである。

“月岡芳年(つきおかよしとし:幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師。生:1839年・没1892年)”が画いたとされる“太刀を海に投じる新田義貞”の絵は有名だが“太平記”には新田義貞が黄金作りの太刀を海に投じたところ、龍神が潮を引かせるという“奇跡”が起き、稲村ケ崎からの鎌倉市街突入に成功したと書かれている。

“太平記”には作り話や誇張が多いが、太平記よりは信憑性が高いとされる“梅松論“にも上述の“太刀を海に投じた”という脚色話は書かれていないが”干潟になった奇跡“があった事を肯定する下記の様な文章がある。

“爰(ここ)にふしぎなりしは、稲村崎の浪打際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄(にわか)に塩干して合戦の間干潟にて有し事、かたがた仏神の加護とぞ人申ける“

天文学者・小川清彦氏が“天文月報第八巻・太平記稲村ケ崎長干のこと”の中で、1333年5月21日の未明に稲村ケ崎で干潮が生じていた事を証明している。新田義貞軍の鎌倉侵攻路については“稲村カ崎の奇跡”の話の他にも10を超える諸説があるが、何れにせよ“新田義貞軍”が“稲村ケ崎“を突破して鎌倉市街に侵攻した事は史実である。

この突破が起点となり、堅固だった上述した三方面(巨福呂坂・化粧坂・極楽寺坂)の切通しからも“新田軍”が鎌倉市街に乱入したとされる。

新田勢は由比ヶ浜の家屋に火を放ち、鎌倉市内が火災の煙で覆われた。この戦いで“大舘宗氏”を討ち取り“新田軍”と勇猛果敢に戦って来た“大仏(北条)貞直”が、残された僅か300騎の兵力で“脇屋義助(新田義貞の弟)“軍と戦い、弟の宜正(のぶまさ)、子の顕秀(顕秀)と共に5月22日に戦死している。

又“太平記”の巻10“大仏(北条)貞直・金沢(北条)貞将討死事”には“金沢(北条)貞将(十日執権・金沢貞顕の嫡男・生:1302年・没:1333年5月22日”が、僅か800人に減った兵力で“最期の戦闘”に臨む前に北条一門が籠る“東勝寺”を訪れ、北条高時に最後の挨拶をした際の話が書かれている。

北条高時は金沢貞将の忠義を賞して、その場で六波羅南方探題・並びに北方探題に任ずる旨の御教書を書いた。ところが彼は既に1324年に六波羅探題南方に任じられていた。その事すら知らぬ程に、得宗・北条高時は政治の実権を奪われていた事に“金沢貞将”が悲しんだという話である。

この場で北条高時が金沢貞将に与える恩賞としての地位は父親・金沢貞顕(既述した第15代10日執権)が就いていた“連署又は執権職”であった筈である。

この事から、金沢(北条)貞将を“幻の第17代執権“とする説が生れている。

金沢(北条)貞将は子息の金沢(北条)忠時と共に5月22日、東勝寺で自刃した。

19-(6):鎌倉幕府最期の戦い(東勝寺合戦)・・1333年5月22日

19-(6)-①:東勝寺について

“元弘の乱“の最後の戦闘が”東勝寺合戦“である。

東勝寺は第3代執権・北条泰時(生1183年没1242年在職1224年~1242年)が“退耕行勇(たいこうぎょうゆう=生1163年没1241年政子が出家剃髪した際に戒師を務めた僧侶)を開山として葛西ケ谷(鎌倉市小町)に創建した北条氏の菩提寺であった。

“東勝寺合戦”に到る直前の新田軍の進軍状況は下記の通りであった。

19-(6)-②:稲村ケ崎海岸から材木座海岸を進軍した“新田義貞”

新田義貞が“稲村ケ崎”からの突破を決断し、進軍した事で、海岸線の鎌倉防衛線の一角が崩れた。新田勢は稲村ケ崎から前浜(由比ガ浜)の海岸を東に突っ走り、現在の“九品寺”の近く“材木座海岸”の辺りまで一気に東進した。

2016年8月26日に訪ねた時に、私達も実際に“稲村ケ崎“から”九品寺“までの海岸線を歩いて見た。

海辺から” 稲村ケ崎~由比ヶ浜海岸~材木座海岸“が一望出来、遠くに富士山を望める実に美しい景色が広がる海岸線である。目測でも2500m程と思われたが、この海岸線を武装した新田義貞軍が進軍した事を想像しながら歩いてみた。

話は逸れるが途中で、由比ヶ浜海岸と材木座海岸とを分ける“滑川”の河口がある。鎌倉検定試験には“滑川の河口部分の川の名は何と呼ぶか”という設問があったそうだ。答えは“閻魔(えんま)川”である。

由比ヶ浜並びに一帯は、鎌倉時代から江戸時代にかけては処刑場、集団墓地であったと伝えられる。

その言い伝えに加えて由比ヶ浜の地下駐車場の工事が行われた際に4000~5000もの人骨が出て来た事から、滑川の河口部分が“閻魔川”と呼ばれていた歴史的背景が分かるという事である。

滑川の“東勝寺”辺りの川幅は10m程と思われたが、河口は30m程の川幅となっている。当時、新田義貞の大軍はどの様にして渡ったのであろうか。幕府軍の海側からの攻撃もあったであろう。圧倒的に新田軍が優勢であったとは言え、決して楽な進軍では無かった事が想像出来る。

19-(6)-③:新田義貞軍は現在の“九品寺”に仮本陣を置き、北条一門は“東勝寺”に立て籠もった。

目前に迄迫った“新田軍”に対し、北条高時をはじめとする北条一門、主だった“御内人”らは“北条高時の舘”を出て、側を流れる“滑川“を渡り(この辺の川幅は狭く10m程であろうか)東勝寺に入った。

こうした状況に“新田義貞”は“材木座海岸”から鶴岡八幡宮の方向に少し上がった小丘に仮の本陣を置いた。この場所が現在“九品寺(くほんじ)”のある場所である。

尚“九品寺”の前に立てられた説明書きには“鎌倉攻めの総大将であった新田義貞が鎌倉幕府滅亡後に、敵方であった北条氏の戦死者を供養する為に材木座に建立した“とある。

この“仮本陣”から“東勝寺”までは2km程であろうか。新田義貞軍は、東勝寺に立て籠もった“幕府軍”の目前にまで迫って来ていたのである。

得宗・北条高時はじめ、北条氏一族、並びに内管領一族など、幕府の主だった人々が東勝寺に立て籠もったとの情報を得て“新田軍”は東勝寺橋東詰“滑川東岸”に迄迫った。眼前で、盾を掻き並べて東勝寺内で防御態勢を敷いた北条軍を取り囲んだのである。

巨福呂坂切通し方面、亀ヶ谷坂切通し方面、並びに化粧坂切通し方面からも“新田軍勢“が乱入する状況となり“北条軍(幕府軍)”は遂に“最期を覚悟”したのである。

19-(6)-④:“宝戒寺”と“腹切り櫓(やぐら)”史跡について

鎌倉が“世界遺産”に登録されない大きな理由は“本格的な初の武士政権の都”としての“鎌倉幕府”時代の建築物、遺構が余り残されていないという事であろう。

ここで記述している“北条高時の舘”も“東勝寺”も残っていない。

“北条高時の舘”はそれでも“宝戒寺”として今日残されている。後醍醐天皇が、滅びた“北条得宗家九代“を慰霊する為“北条得宗家邸跡”に足利尊氏に命じて建立させたものである。鎌倉市小町3丁目5の22にある史跡である。

“東勝寺”は建物は勿論、遺構も何も残っていない。北条高時の舘すなわち“北条得宗家邸”は上記した“宝戒寺”であるが、そこから少し歩くと“滑川”にかかる橋があり、それを渡った処が“東勝寺跡”として1998年に“国の史跡”指定を受けている。

大正七年(1918年)三月建立とある石碑には“新田義貞ノ鎌倉ニ乱入スルヤ高時小町ノ邸ヲ後ニ父祖累世ノ墓東勝寺ニ籠リ百五十年来(略)・・一族門葉八百七十餘人ト共ニ自刃ス(略)“と刻まれている。

この“東勝寺“は紆余曲折の結果、戦国時代に廃寺となり、現在は石碑だけが建っているのである。

東勝寺で“北条高時”以下の北条一族、並びに“内管領・長崎一族”らが自刃し、鎌倉幕府が滅亡した。この史跡は“腹切りやぐら”と呼ばれている。

東勝寺史跡の発掘調査が1975年、1976年、1996年、1997年と数度に及んで行われたがその結果、この寺は北条一族の菩提寺であると同時に、周辺の地形と一体となった防御の為の“城塞”の機能を持った寺院であった事が判明した。

19-(6)-⑤:東勝寺に於いて北条氏一門・御内人が自刃し、追って由比ヶ浜等でも兵士が自刃し鎌倉幕府は滅亡する。・・1333年5月22日

上記した様な状況から幕府軍は“東勝寺”に立て籠もり、直ぐに自刃を覚悟した。

先ず最初に自刃したのは内管領・長崎円喜の嫡孫・長崎高重だったと“太平記”は伝えている。長崎高重は入間川、小手指原、久米川、分倍河原の戦いで奮戦したが、新田軍の勢いを止める事が出来ず、鎌倉に敗走した。

終始死を覚悟し、勇猛果敢に戦った孫の“長崎高重”の活躍に祖父の長崎円喜は涙して賞賛したと伝わる。

常に新田義貞軍との戦いの先頭に立って戦って来た“長崎高重”軍の兵力は150騎に激減し、遂には僅か“8騎”にまで減っていた。こうした状況に、愈々最期の時を迎えた事を覚悟した彼の郎党から“最期は得宗・北条高時の御供をすべし”と促され“東勝寺“へ戻ったと伝えられる。

そこで長崎高重は北条高時はじめ、一族郎党を前に、皆に“潔い自刃”を促すべく、自ら率先して自刃の手本を見せたとされる。

その様子を“太平記”は“早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ候はん、と言いながら鎧を投げ打ち捨てると腹を真一文字に切り裂いて果てた“と書いている。

刑部太夫道準、諏訪入道が長崎高重に続き、長崎円喜も自刃した。そして得宗・北条高時も自刃して果てた。29歳であった。尚、長崎高重の父親、内管領・長崎高資もこの場で自刃している。

この場で、得宗・北条高時に殉じて自刃した主な人々は、“十日執権”第15代執権・金沢(北条)貞顕、並びに子息の金沢忠時、金沢一門の人々、佐介・名越・常盤・大仏・伊具・桜田・刈飽・普恩寺・甘縄・江間・阿曾・塩田・赤橋氏の北条一門、内管領の長崎円喜・長崎高資父子を初めとする長崎氏、諏訪・南条・塩飽・安東・隅田の御内人であった。

“鎌倉北条氏の興亡(著者:奥高敬之氏)”には“東勝寺に火の手が上がった事で、得宗・北条高時が自刃した事を悟った滑川東岸で時間稼ぎの防備に当っていた幕府軍兵士は遅れじと追い掛ける様に次々に自刃したと書かれている。

東勝寺跡に建つ石碑には“一族門葉八百七十餘人ト共ニ自刃ス”と刻まれているが“腹切り郭”で自刃した人数は“283人”だとする記録もある。

この差異は、東勝寺の境内では、得宗北条高時はじめ、金沢氏ら北条氏の一族郎党、内管領・長崎氏一族など、幕府幹部の主だった283名が自刃し、東勝寺の周辺では防御に当たっていた多くの幕府方兵士600名程が自刃し、合計870余人が東勝寺境内並びに周辺で自刃した為“東勝寺跡”の石碑には“一族門葉八百七十餘人ト共ニ自刃ス”と刻まれたのであろう。

元弘3年=正慶2年(1333年)5月22日“東勝寺合戦”と称される最後の戦闘で、上記した、総勢870余人が自刃した事を以て“北条氏”が滅亡し、鎌倉幕府の終焉となったのである。

19-(6)-⑥:第9代将軍・守邦親王について

名目上とは言え、幕府のトップであった第9代将軍・守邦親王が幕府滅亡の1333年5月22日当日にどの様な行動をしていたのかの記録は全く無い。

将軍職を辞し、出家したという事は分かっており、鎌倉幕府滅亡3カ月後の1333年8月16日に没した事が伝えられるが、その詳細についても全く伝えられていない。

20:北条氏が滅亡し、鎌倉幕府が滅亡した後の状況について

新田義貞は挙兵から僅か15日間で北条氏を滅ぼし、鎌倉幕府を倒したヒーローとなった。

しかし、“倒幕運動”は“後醍醐先帝(天皇)”が1312年に即位した直後から始まり、1324年の“正中の変”を経て、1331年8月の“御所脱出”そして“笠置山の挙兵”から1333年5月の“鎌倉の戦い”まで、実に21年間に及ぶ長い時間を要したというのが実態である。

6-7項で“鎌倉幕府”が創建当時の“将軍と御家人”の間の“御恩と奉公”という岩盤システムを崩壊させ、御家人層自体も“特権階級化した御家人層”と“彼等に搾取される御家人層“とに分化した事を記述した。

内管領・長崎円喜が得宗家・執権職を“お飾り化”し“鎌倉幕府を乗っ取った”状態にした時点で、鎌倉幕府は既に崩壊寸前だったのである。

6-8項では、こうした状況を後醍醐天皇が“天皇家=至尊勢力”復権の又と無いチャンスと捉え、幕府体制に抵抗を続けていた“悪党”の力を利用し、自らが先頭に立って“武力による倒幕”へと展開し、遂に倒幕に成功する迄の経緯を記して来た。

“倒幕“の成功の背景に”6-7項“で縷々述べた”鎌倉幕府自壊“のベースがあったからこそ、記述した経緯を経て北条氏は滅亡し、鎌倉幕府は一気に瓦解したのである。

“源頼朝”が創設した“至強勢力(将軍・幕府・御家人)”による、初めての本格的な“日本統治”の仕組み“150年間に及ぶ鎌倉幕府”を滅ぼし、後醍醐天皇は“至尊(天皇・朝廷・貴族層〝が再び主導する“新しい政治体制=建武の新政”を開始するのである。

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