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2014年4月17日木曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代の始まりと院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
第9項 “建武の新政”の失敗と“武士政権再興”に動いた足利尊氏との主導権争いに明け暮れた3年半

1:後醍醐天皇が京に帰還した直後から着手した“建武の新政”

1-(1):後醍醐天皇の帰還・・元弘3年(1333年)6月5日

後醍醐天皇は1333年5月の“六波羅探題”滅亡の報を“船上山(現在の鳥取県赤碕町)”の陣営で知った。そして京都へ急ぐ途上で“鎌倉幕府崩壊”の報を聞いた。

後醍醐天皇が真っ先に行った事は“笠置山の戦い”の間に践祚した“光厳天皇(北朝初代天皇とされ歴代125代天皇に含まれ無い:在位1331年9月20日廃位1333年5月25日)”の在位を否定し“正慶”の元号も廃止して“元弘”に戻した事である。

尚、後醍醐天皇は光厳天皇の即位そのものは否定したが“特に上皇の待遇を与える”と宣している。

鷹司冬教(たかつかさふゆのり)の“関白職”も解き、光厳天皇の下で叙任された人達の官位の無効を宣言し、光厳天皇への譲位を強要された以前の状態に戻す事を宣言した。鷹司冬教に代わる関白は置かず、院や摂関が分担していた官の機構全てを天皇の下に一元化する事から“建武の新政”を始めたのである。

1-(2):後醍醐天皇の皇子達

“本朝皇胤紹運録”に拠れば、後醍醐天皇には親王・法親王・皇子・内親王・皇女が32名も居る。その中から皇太子に1334年の正月、寵妃・阿野廉子が生んだ①恒良(生1324年)②成良(生1326年)③義良(生1328年)の3人の皇子の中から最年長の“恒良親王”を指名している。後醍醐天皇の多くの皇子の中で、彼女が生んだ上記3人の皇子の生涯が他の皇子と比べて優遇されたとされる。

例えば②の“成良親王(なりよし:生:1326年没:1344年)”は足利尊氏の弟・足利直義に奉じられ、1333年12月に“鎌倉府将軍”として鎌倉幕府崩壊後の関東統治に当っている。③の“義良(のりよし)親王(生:1328年崩御:1368年)”は、北条氏の残党の討伐と東国武士を帰属させる事を目的に北畠親房・顕家父子に奉じられて奥州の多賀城に赴き、1339年には吉野で後醍醐天皇が主宰した“南朝”の皇太子と成り、後に譲位を受けて南朝・第2代天皇に即位し、明治44年(1911年)に“南朝”が正統とされた為、歴代第97代後村上天皇として認定されている。

一方“権大納言・二条為世の娘・為女”を母とする尊良(たかよし)親王(生:1310年没:1337年)は恒良親王より年長であるが、1337年3月6日に越前国・金ヶ崎城の足利軍との戦いで新田義貞の子、新田義顕と共に兵糧攻めに会い、自刃するという不幸な生涯であった。

又“源師親の娘・親子”を母とする護良(もりよし)親王(生:1308年没:1335年)は、後醍醐天皇の政治の枠に収まる事が出来ぬ侭、決定的決裂に到り、1334年11月に後醍醐天皇の意を受けた名和長年、結城親光等に捕えられ、鎌倉将軍府で足利直義の監視下に置かれる事になる。

1335年7月、北条時行一派が起こした“中先代の乱”の展開の中で足利直義の命を受けた淵辺義弘に拠って殺害されるという哀れな運命を辿った。

1-(3):“朕ノ新儀ハ未来ノ先例タルヘシ(梅松論)”を政治理念とし“延喜・天暦
      の治”への回帰をスローガンとした“建武の新政”

後醍醐天皇は自らを“後醍醐”と名乗った様に“醍醐・村上の治世”すなわち延喜(901年~923年)・天暦(947年~957年)の政治への回帰を目指した。摂政・関白を置かず、天皇親政が行われ、公家政治の黄金時代と称された時期である。後醍醐天皇は150年に及んだ鎌倉時代の武家政権が齎した社会・政治システムが既に日本社会に根付いていたという“現実”があったにも拘わらず、律令国家時代を理想とした政治への回帰を、しかも性急に開始したのである。そして“摂関時代”以前の“天皇独裁政治”への回帰を急ぎ、貴族社会や武士社会に根付いていた“先例”も反故にする政治姿勢を鮮明にした。

将軍・執権職は勿論の事、摂政・関白・院等、天皇の独裁を制限する全ての機関を否定する事が究極の目的であり、その手始めとして早々と“関白鷹司冬教の解任人事”を船上山で行なったのである。

こうした後醍醐天皇の“政治理念”を端的に表したのが“朕ノ新儀ハ、未来ノ先例タルヘシ”の言葉で、何事も“先例”を拠り所として評価し、規律したこの時代に“旧来の慣習を破って打ち立てた新儀こそが未来に亘って用いられるべき先例を形づくるものである“と宣言したのである。“専制的な政治思想”の下に後醍醐天皇は、中世の“先例主義”と対決する姿勢で臨んだ。

“建武政権”の機構改編、組織変更等については後述するが、一貫している事は後醍醐天皇が天皇の“絶対的権威”を獲得する事に焦点を合わせ、その為に障害となる“先例”を根底から覆す政策が多かった事である。

しかし後醍醐天皇の意図とは裏腹に“建武政権成立”後1年も経たない中に“公家と武家、水火の陣にて元弘三年(1333年)も暮れにけり”と“梅松論”が記述した様に、先例を根底から覆す政策による混乱は大きかった。

こうした状況を伝える“建武の新政”を批判した“二条河原落書”が有名である。この落書は1334年8月に政庁が在った“二条富小路近くの二条河原”に掲げられたものである。

“此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨 召人(めしうど=宮中の歌会始で歌を特に召された人) 早馬 虚騒動(そらさわぎ)”で始まり“天下一統メズラシヤ 御代ニ生テサマザマノ 事ヲミキクゾ不思議ナル京童ノ口ズサミ 十分ノ一ヲモラスナリ”で終わる88節に渡る七五調の落書であった。

この様に成立後1年を経ずして日本中を混乱状態に陥れる結果となった“建武の新政”であった。具体的に一体、どの様な“諸施策”であったのかを時系列に紹介して行くが、鎌倉幕府の滅亡後、京に戻った後醍醐天皇は1318年に即位した時から抱いていた“天皇とはこうあるべき”との強い信念に基づいた政治改革を進めたのである。

後醍醐天皇の“理念の政治”と“現実”との間には大きなギャップが生じ、早々と外部の混乱、そして“建武政権”内部でも軋轢を生み、しかもそれが日増しに拡大して行ったのである。そうしたギャップを埋める事が出来ない侭に“建武政権”は“足利尊氏”を旗頭とする至強(幕府・武士層)勢力との武力闘争に発展し、敗れ、瓦解して行った。

そうした“建武政権”3年半の状況を記述して行く。

2:1年目(1333年=元弘3年)

1333年(元弘3年)5月25日:

後醍醐天皇は“正慶”の元号を“元弘”に戻し、光厳天皇を廃し、関白・鷹司冬教以下の官を解く等、天皇直結の政治機構を作るべく“改革人事”に着手する

同年 5月28日:

新田義貞は鎌倉の地で戦後処理に奔走する。新田義貞の執事・船田義昌は北条高時の8歳の嫡男・北条邦時(生1325年没1333年)を捕え、斬首する。

同年 6月5日:

後醍醐天皇が京都に還幸し“公家一統政治”を宣言する。その狙いは征夷大将軍はじめ、摂政関白の設置も否定し“天皇独裁”政治を行う事であった。

後伏見上皇(第93代天皇・持明院統・光厳天皇の父親:生1288年崩御1336年)並びにその弟の花園上皇(第95代天皇・持明院統:生1297年崩御1348年)の所領を安堵し、公家、寺社の所領を安堵した他、武士の“討幕功労者”への除目を行なう。

足利高氏(尊氏)を鎮守府将軍に任命し、偏諱を与え、足利尊氏に改名した。尊氏が後醍醐天皇の偏諱を受けた時期については既述した様に諸説がある。倒幕側に寝返り、六波羅探題を滅ぼした時とする説が最も早い時期、次が6月5日説、そして最遅が後述する8月5日説である。定説は8月5日とされ、この時尊氏は従三位に昇叙し、公卿となっている。内昇殿が許され、武蔵守を兼任したと記録されている。

弟の“足利直義”にも左馬頭の地位を与え、両人の功績を評価している。同日“新田義貞”も昇叙しているが、従四位上とあり、足利尊氏とは3階級下の官位である。官職は左馬守・上野介・越後守護に任じられている。“新田義貞”は無位無官から一足飛びの出世をしたのである。

“楠木正成”は元々の出自が低い事、鎌倉幕府滅亡の直接の戦闘に加わっていない事、そして、護良親王に近かった事が影響していたとされ、従五位下の官位であった。新田義貞の5階級下(従五位上~正五位下~正五位上~従四位下~従四位上)足利尊氏とは実に8階級も下の官位である。官職は河内守護・和泉守護を与えられるに止まった。

“赤松円心(則村:生1277年没1350年)”も“護良親王”の配下であった為、厚遇されなかった。後醍醐天皇の大内裏造営の木材を供給したとされるが、播磨守護に任ぜられた程度であった。しかも彼は、直後の1333年10月に“新田義貞”が同じ播磨国の“国司”に任じられた為、後に争いと成り“建武政権”から離脱、足利尊氏側に付く事に成る。

同年 6月:

新田義貞・楠木正成・名和長年らの“倒幕の功労武士”達は後に設置される“雑訴決断所・記録所”などの“訴訟機関の要職”に就いたが、足利尊氏は足利家の執事の“高師直”その弟“高師泰”をはじめ、家臣の多くを“建武政権”に送り込み、自らは要職に就かなかった。世人はこうした“建武政権”の状態を“尊氏無し”と呼んだ。

同年 6月13日:

“建武政権”から距離を置く足利高(尊)氏を護良親王は疑い、追討する事を後醍醐天皇に言い募り、その為の“征夷大将軍”の地位を要求した。余りにも攻撃的な姿勢に後醍醐天皇は護良親王に再び“僧籍”に戻る事を命じたが従わず、信貴山に籠り、武装解除もせずに、足利尊氏を討つ姿勢を崩さなかった。

後醍醐天皇は護良親王を慰留する為に仕方無く“征夷大将軍”に任じ、護良親王はこの日漸く京に戻ったとされる。(6月23日説もある)

同年 6月15日:

“個別安堵法(=旧領回復令)”が発布される。土地の所領は全て後醍醐天皇の綸旨に拠ってのみ安堵され、綸旨に拠らない土地の安堵は認められない、と定めたのである。“綸旨”を帯びずに実力行使に及ぶ事を禁ずる宣旨の発令であり“護良親王”が独自に発した令旨をもって実力行使をする事を防ぐ狙いがあったとされる。

前代からの慣習を根底から覆すこの令に、諸国の武士から猛烈な反発を呼び“諸国の輩、遠近を論ぜず悉く以て京上”と記述される状況となった。爆発的に訴訟が増加し、天皇だけが決定権を持つ事とした新ルールではとても対応出来ず、遅延や“偽綸旨”が生じたのである。

同年 7月:記録所の再設置

天皇の事務方、シンクタンクとしての機能を持たせた組織である。天皇の決裁を仰ぐ答申機能を持ち、其れに基づいて天皇が決裁をし、綸旨の形に整えられ、発給されるという仕組みを司る役所であった。

構成員として名和長年、楠木正成も名を連ねた他、滅ぼされた鎌倉幕府・六波羅探題の引付頭人兼評定衆だった“伊賀兼光”も加わっている。彼は後醍醐天皇に内通していた人物とされるが、そうした人物も拾い上げ、建武政権の実務官僚として要職を担わせる人事を行ったのである。

既述の様に、足利尊氏はこうした“建武政権”組織の中に、足利家被官の“上杉氏”や“高氏”などを送り込む事で、彼自身が政権組織内に入らなかった理由を“より高い立場から建武政権を判断しようとしていた”とする説が多い。当初から後醍醐天皇の政治理念とは相容れない事を感じ取り“武家政権の再興”が念頭にあった為ではないか、とされる。

同年 7月25日:

後醍醐天皇は上記“個別安堵法”の発令で諸国から天皇の綸旨による所領安堵を求めて上京する人々の急増、それによる混乱状態を見て“非現実性”を認め、撤回する。そして、北条氏に与した者の所領に関しては別として、当知行地(=現に知行している領地)は個別の綸旨に拠らず“一括して認知する”旨の宣旨に切り替えた。“現状維持”を原則とし、現状を変更する場合は“勅断”を得た場合のみに限定する“諸国平均知行安堵法(一同の法)”を新たに発令し直したのである。

後醍醐天皇が一番重要視した所領政策で、この様に“朝令暮改”であった事は“建武の新政”に対する信頼性を大いに損なうものであった。

同年 7月:

後醍醐天皇に拠る論功行賞が行われる事を知った武士達は、次々と上洛、この為、其れまで新田義貞に提出していた軍忠状・着到状は途絶えた。この背景には武士達が“新田義貞”に従うよりも新体制下での位階も遥かに上位の“足利尊氏”に接近する方が得策だと判断した為である。

足利尊氏は嫡子“千寿王”支援の為、細川和氏、頼春、師氏3兄弟を鎌倉に派遣した。この為“鎌倉は新田と足利が互いに手柄を争い、角遂(かくちく=互いに競り合う事)している”と世間は評した。

同年 8月5日:

足利高(尊)氏は鎌倉幕府滅亡直後に勲功第一とされ、6月5日~12日の間に従四位下に叙され、鎮守府将軍・左兵衛督に任じられていた。既に30箇所の所領を与えられていたが、この日、官位は更に従三位に昇叙の上、武蔵守の官職も追加された事が記録されている。

この日、後醍醐天皇の偏諱を受け“足利尊氏”と改名したとの記録がある。“偏諱”のタイミングについては、既述した様に、後醍醐天皇に寝返った時、6月5日説、もあるが、この8月5日説が定説となっている。

足利尊氏(生1305年没1358年・幼名又太郎)は足利氏の慣例に従って得宗・北条高時の偏諱を受けて足利高氏と名乗っていた。その後、後醍醐天皇の偏諱を受けて“尊氏”と改名した訳であるが、鎌倉幕府を倒し、その後“建武政権”も崩壊させる事に成り、生涯に2人の上司から偏諱を受け、その両方の上司と戦う結果と成り、勝利したという事である。

同年 9月10日:“雑訴決断所”を設置

“建武政権”が設置したこの機構は、鎌倉幕府の“所領知行”に関わる案件の処理に当った“引付”の後継機関として設けられた役所である。“雑訴”とは個々の“官司(=役所・役人)”の業務以外の雑事に関わる訴願を意味し、従来の職務分掌・公家社会の規則に限定されない、幅広い領域に渡って判断の助となる実践的知識を供給する機関であった。

所領相論(土地について訴訟で争う事)の議決権を持つ機構であり、公家・武家の双方から人員はリクルートされたが、太田道大・貞連父子や二階堂道蘊(どううん)等、旧幕府の武家奉行人の系譜の者も多く任用されている。

この事は、当初“天皇独裁・綸旨万能”を宣言した後醍醐天皇が早くも現実とのギャップから旗を降ろした措置と考えられており、後醍醐天皇の“理念政治”に対して“現実対応政治”を重視する足利尊氏の大きな影響力が働いた人事だとされる。

同年 9月:

後醍醐天皇は僅か3カ月後(任命には6月13日、23日の2説があるが)の9月に護良親王の“征夷大将軍”職を解任。同時に護良親王の名で発給されていた令旨の無効化を布告した。護良親王は倒幕の戦闘中から令旨を全国に大量に発給し、配下に加わった武士に恩賞として所領を与え、彼の軍事力の強化を図って来た。後醍醐天皇が京に帰還直後、所領は“天皇の綸旨を帯びずに実力行使に及ぶ事を禁ずる”宣旨が発せられた事で、護良親王の令旨発給は抑えられたのである。“建武政権”の内部抗争、それも後醍醐天皇と護良親王との争いが天下に晒されたのである。

同年 10月20日:陸奥将軍府の設置

後醍醐天皇は地方統治機構を改編した。その第一弾が“陸奥将軍府の設置”であった。
 
関東・奥州の足利尊氏勢力を牽制する事を目的としたものであるが、北畠氏と連携して“護良親王”が後醍醐天皇に強く主張して設置されたとの説、又、北畠顕家の父“北畠親房”が著した有名な歴史書“神皇正統記”に拠れば、後醍醐天皇が積極的に主導して設置し“北畠顕家”を直接召して自ら旗の銘を書き、多数の武器を与えて奥羽統治機関への下向を強く命じたとの2説がある。

阿野廉子・3皇子の3番目の義良親王(=のりよし・当時5歳:1339年に第97代後村上天皇として即位)を将軍として奉じ、陸奥守に任じられていた北畠親房の嫡子“北畠顕家”が下向しており、著者の北畠親房自身も同日に赴いている事から“神皇正統記”の記述内容が真実であろうと考えられている。

724年に多賀城が築かれ、鎮守府がそこに置かれた。“鎮守府の長官”を“鎮守府将軍(令外官)”と称した。初代の鎮守府将軍は“大野東人”である。その後、征夷大将軍・坂上田村麻呂が802年に胆沢城を築いた折に移り、以後、1083年の“後三年の役”の頃まで、鎮守府は胆沢城に置かれていた。その後、奥州藤原氏に蝦夷経営を主とする行政実権が移ると、鎮守府将軍の名は“部門の誉”、“権威”として残されたが、実態は形骸化して行った。

1333年6月5日に足利尊氏も鎮守府将軍に任じられたとの記録がある。奥州地区に於ける足利氏の勢力は、旧北条氏領の“地頭職”に任じられている事や有力一門の“斯波氏”も支配地を多く有している事もあって、大きかった。

“建武政権”に拠る“陸奥将軍府”設置の目的は“地方統治機関”として、陸奥、出羽の2国と北関東3国を管轄し、奥羽の秩序を安定させ、朝廷の支配下に武士達を取り込む事であった。翌年、1335年に北畠顕家が“鎮守府将軍”を兼任する事になる。彼が就任した後からは軍政府的性格を強め、彼の功績もあって“建武政権”の地方支配制度の中では最も成功した機構として機能する事になる。

後述する“建武の乱=延元の乱”と呼ばれる“建武政権”と“足利氏”との武力闘争では一時的にではあったが“北畠顕家軍”は“鎌倉”を制圧し、足利尊氏を窮地に追い込むという場面もあった。

同年 12月:“鎌倉将軍府”が設置される

この組織は“建武政権”が二分状態であった事を象徴する組織であったと言えよう。足利尊氏の弟・足利直義(ただよし:足利尊氏の同母弟で後の室町幕府では副将軍と称された人物・生1306年没1352年)が、後醍醐天皇の寵妃・阿野廉子・三人の皇子の2番目の“成良親王(生:1326年没:1344年)”を将軍に奉じて鎌倉将軍府が設立された。

後日、成良親王は、足利尊氏が擁立した“光明天皇(北朝)”の皇太子となるが、後日この皇太子は停止され、最期は毒殺されたとの説がある。

“陸奥将軍府”では北畠顕家が国司・陸奥守として国宣を発給し、政治体制も後醍醐天皇の政治理念に沿ったものであったが“鎌倉将軍府”では、足利直義が自身を鎌倉時代の“執権”と呼ばせ、同じく鎌倉時代の文書形式の“御教書”を用いる等“鎌倉幕府の後継者・武家政権の再興”を自認する姿勢を貫いたとされる。

鎌倉は武家社会の象徴的都市である事から“鎌倉将軍府”は、足利尊氏が“武家政治の拠点=鎌倉”を飽くまでも踏襲する意図で、関東十カ国の武士を管轄する事を主たる目的として設置したとされる。鎌倉将軍府の設置は“建武政権”が後醍醐天皇の“理念先行”の急激な改革で世の中を混乱させる状況下で、足利氏が独自路線を突っ走った象徴的な組織と言えよう。

同年 12月:足利尊氏の独自行動と世評

足利尊氏は“建武政権”のどの役所にも出仕せず、六波羅探題を陥落させた直後から、奉行所を設け、上洛する全国の武将達を彼のもとに吸引する動きを続けたと伝わる。この状況を“梅松論”は“公家と武家水火の争いにて、元弘三年(1333年)も暮れにけり”と書いている。

足利尊氏のこうした行動、並びに存在感は当時の至尊(天皇家・朝廷・貴族層)側に“畏怖”の念を与えるという状態であった。

3:2年目・・1334年(建武元年)

3-(1):後醍醐天皇と足利尊氏との政治姿勢の違いが“政争”へと発展して行く

後醍醐天皇の“理念政治”は、現実とのギャップに因る失政の連続であった。こうした状況下で“現実に沿った政治”を行う勢力として現れ、建武政権の“理念政治”に因る混乱を収拾する役割を偶々(たまたま)担ったのが“足利尊氏”だった。

彼は後醍醐天皇に対抗する“新たな原理を提示”した訳では無く、自らの新しい構想を示し、それに沿った秩序を構築した訳でも無い。現実の状況と“建武政権”への不満、それに伴って次々と変化する人々のニーズに対応する事に拠って“現実的な秩序”を作り出し、時代に対応したのである。

“原理派”の後醍醐天皇と“状況派”の足利尊氏の間に、はっきりとした対立軸が生れ、双方が“主導権争い”を展開する流れと成り、足利尊氏が勝利するのである。対立軸が明確と成り“建武政権”は成立直後から社会に混乱を与え、外部からの不満は増大し、政権内部の不協和音も周囲の知る処となった。

こうした状況が“北条氏残党”が各地で“叛乱”を起こす事に繋がって行ったのである。

その最大のものが“中先代の乱”であり、それを鎮圧する功績を挙げた“足利尊氏”が、その後“建武政権”から離脱する。その後、後醍醐天皇が“新田義貞”を“建武政権”の旗頭とした事で“武門間の主導権争い”という形になり、終には“建武政権”を崩壊させる結果となるのである。

この様に、後醍醐天皇が始めた“建武の新政”の1年目は“革新的政治”を行ったが、理念が先行し、現実のニーズ・状況とかけ離れた政治となった為、内外共に混乱が拡大する状況となった。“現実の状況”に合わせ“武家政権再興”を目指し、その先頭に立った足利尊氏との“主導権争い”は愈々本格的に成って行くのである。

“建武政権”の2年目を時系列に記述して行く。

1334年 正月:

北条一族の規矩(きく=北条)高政、弟の糸田貞義(共に北条政顕の子息)が北条氏再興を目指して筑後で挙兵する(規矩・糸田の乱)。大友、少弐、菊池の鎮圧軍と7カ月に及ぶ戦を繰り返した。両名は討ち取られるが、この兄弟の蜂起を切っ掛けに、各地で北条残党の抵抗が展開される契機となったのである。

同年 1月:

足利直義は関東10ケ国の管轄と“鎌倉近辺の反乱鎮定”を目的として“関東廂番(かんとうひさしばん)”を鎌倉将軍府に整えた。

この組織は“鎌倉府将軍”の“成良親王”と“足利直義”を補佐する名目で整備されたが、実態は建武政権の“奥州将軍府”へ吸収されつつあった東国武将を鎌倉府へ集める為の“巻き返し策”としての軍事機構であった。

足利直義が整えたこの組織のメンバーは、渋川義季・仁木義長・河越高重・岩松経家・上杉憲顕・上杉重能・石堂範家等に加えて、吉良貞家・一色頼行・高師秋等の足利一門、被官39名が配置されており、実態は“足利氏の軍事機構”と言うべきものであった。

ここに記された“吉良貞家”はこの後、畠山国氏と共に建武政権の陸奥将軍府に対抗する目的で設置された“奥州管領”の初代管領に1345年に就く人物である。

彼は三河国幡豆郡吉良荘(愛知県幡豆郡吉良町)の前期東条吉良氏第3代・吉良経家の子である。忠臣蔵の悪役で有名な吉良上野介(吉良義央:生1641年没1703年)は、足利氏から“吉良氏”へ改名した初代吉良(足利)義氏(生1189年没1255年)から数えて17代目の子孫に当たる。吉良上野介は確かに“名家”の出身である事がこの史実から裏付けられる。

同年 1月:恩賞方の設置

当初は上卿(しょうけい=朝廷で太政官の行う諸公事を指揮する公卿、記録所の長官)の下で、審査を行ない、その結果を天皇に上呈し、綸旨発給という手順で“恩賞”が与えられていた。しかし、恩賞請求が殺到した為、担当地域を4カ所に分けて“恩賞方”として編成、設置された。しかし最終的にこの機能は“決断所”に吸収された。

同年 1月:武者所の設置

新田氏一族を中心に64人の武士で構成された後醍醐天皇の居所警護の為の組織である。

同年 1月:窪所(くぼどころ)の設置

武者所と並んで“内裏警衛”に当たったが、他に“諜報機関”としての役割を担ったとされる。

以上で1333年7月から1334年1月にかけて①記録所②雑訴決断所③恩賞方④武者所⑤窪所の5つの太政官から独立した組織の整備が完了した。

3-(2):“建武政権”が“改元”と共に打ち出した財政諸施策

1334年 1月29日:後醍醐天皇が“元弘”から“建武”に元号を改め、大内裏の造営を発表
         する。

3-(2)-①:“改元”と“大内裏造営”

後醍醐天皇は1334年1月29日に改元し、同時に承久元年(1219年=源実朝が暗殺された年)に焼亡して以来、再建されていなかった大内裏を115年振りに造営する事を発表した。これは“後醍醐天皇の絶対性”を誇示する目的があった。

その為に、安芸国と周防国を料国(内裏・寺社の造営など特定の必要資金に充てる為の租税を課する国)とし、諸国の荘園郷保(郷は郡の下で市に当り、保は村に当る)に、所領の得分の“二十分の一”を税として“御倉(みくら)”と称される、新たに財の収取・配分のセンターとして京都に設置された機関”に収める事を命じている。

この“財政措置”については“太平記・巻第十二”に“日本国ノ地頭御家人ノ所領ノ得分二十分ノ一ヲ懸召サル”と書かれている。

しかし、費用を賦課された諸国の武士、地方農民の反対によって挫折した事も“太平記”は伝えている。

3-(2)-②:貨幣の発行

1334年 3月18日:“銅楮並用(どうちょへいよう)”を命じ、銅銭と紙幣発行を宣言。

後醍醐天皇は銅銭(乾坤通宝)を新鋳し、紙幣を発行する事を宣言した。そして貨幣として銅銭と紙幣(楮=こうぞ=紙幣を意味)の併用を命じたのが“銅楮並用令”である。

以前の項で“皇朝十二銭”について記述したが、708年(和銅元年=第43代元明天皇・天智天皇の皇女・草壁皇子の妃・文武天皇の母親)から963年(応和3年=第60代醍醐天皇)までに和同開珎・万年通宝・神功開宝・隆平永宝・富寿神宝・承和昌宝・長年大宝・饒益神宝・貞観永宝・寛平大宝・延喜通宝・乾元大宝の本朝十二銭・皇朝十二文銭と呼ばれる“銅銭”が鋳造されている。

当時の日本では米や布の“物品貨幣”が一般的であり、貨幣は畿内とその周辺の国以外には余り普及しなかった。秩父黒谷で自然銅が発見された事を機に元号を“和銅”と改めるほど貴重な“銅”であったから、実物貨幣に代わって流通させるのは困難だったのである。銅銭の製造も困難であり、時代が下がるにつれて銅銭の品質は急速に悪化し、大きさも縮小した。

和同開珎が発行された直後には銭一文で米2kgが買えたとされるが、848年に発行された“長年大宝”では、買える米の量は100分の一から200分の一まで激減してしまったとされる。延喜通宝や最後の乾元大宝に到っては“銅銭では無く鉛銭だ”と言われる程、鉛の含有量が高いものとなっていた。

価値の低下した“銭”は流通と交易の現場から忌避されるようになり、5-10項で記述した平清盛(生:1118年没:1181年)が日宋貿易を拡大させ“宋銭”を大量に輸入し、日本に“本格的貨幣経済を導入”する事になる12世紀後半迄は、日本国内での銭の流通は限定されたものだった。宋銭を中心とした中国銭が流入した事で、鎌倉時代を通じて、貨幣の流通規模もかなり拡大していたとされる。

そうした状況下での“銅楮並用令”であった。 “銅楮並用令”は“元国”で用いられた紙幣(鈔銭=しょうせん)からヒントを得たものと考えられており“昔ヨリ今ニ至マデ我朝ニハイマダ用ザル紙銭ヲ作”と書かれている。

しかし、この“政策”も上手く運ばなかった事が“鋳銭司(=じゅせんし)”と呼ばれる官司を設置した記録は残っているものの、乾坤通宝(銅銭)そして“紙幣”のいずれもが、実際に流通した形跡が無い事から裏付けられている。

3-(3):所領政策の大変更・・後醍醐天皇の理念政治の崩壊

1334年 5月30日:地方官制の改革を行い、国毎に“国司と守護職”を併置し、且つ、所
         領知行を諸国の国衙・守護の役割に変更する

土地所有問題は“天皇綸旨”によってのみ安堵されるとし、後醍醐天皇が独断的に裁断する事が不可能な事が明らかとなる。具体的には、北条氏方に属し、朝敵と成った者が知行していた所領問題への裁断に関してであった。

この問題は北条氏に没収される前の領有者からの“知行回復要求”をどう処理するか、個別のケース夫々に対してどう判断するか、各所領問題に関する背景、由緒問題等に精通している事が必要であった。更に、実際に関係者間の対立も多い案件が多かったのである。

現実問題として後醍醐天皇が個別案件の特殊な事情や、様々な先例に通じている事は不可能であり、その下作業を行なう“記録所”にとっても、充分な調査を行なう事も容易では無く、結果、訴訟の場にはそれらが整序されない侭持ち込まれたのである。

こうした処理能力を遥かに超える事態に対して“雑訴決断所”が“署判”を据え“牒(ちょう=律令制下の公文書の一様式)”に拠って通達するという処理に変える等、改善が為されたが、それでも処理し切れず、結局、所領知行問題は諸国の国衙、守護の役割に移す事となった。後醍醐天皇の関与の度合いは薄くなり、ここでも“理念政治”の限界が露見したのである。

守護機能は上記した役割に加えて更なる権限拡大が図られた。

鎌倉時代までは荘園と同じ様に上級貴族は地方行政の単位であった“国”に自分の子弟や側近を“名目上の国司”として置き、所領からの貢納物を収取していた。後醍醐天皇は従来の“官位相当原則”を無視する人事を行い、自らの側近や中央の有力者を国司に任ずる事で在地勢力に委ねられていた“国衙機構”を中央から統制し“国司機能の実質化・強化”を図る改革を試みたのである。

しかし、この“天皇権限を頂点とした中央による統制策”も現実面では無理で、所領秩序は結局、諸国の国衙、又は守護の役割に移り“国毎に分担”させる様に変更された。

後醍醐天皇は国司と守護の併置を実施している。中央政府の指令の施行、並びに領地侵害の実力行使を阻止する事が目的であった。これに拠って国衙機能は次第に“守護所”に吸収される様になり、守護権力は拡大した。そして世襲化され“管国”は“領国化”されて行く。

この様に守護職は“所領秩序”に関する機能に加えて軍事指揮権を有する“守護大名”へと変化して行く萌芽がこの時期に見られるのである。

3-(4):後醍醐天皇と護良親王との確執が拡大、護良親王は逮捕の上、鎌倉に幽
      閉される

建武政権の内部抗争は先ず、1333年9月に“後醍醐天皇”が“護良親王”の征夷大将軍職を解任した事から表面化した。これによって“護良親王”は建武政権から失脚し、そして1334年10月には“逮捕”の上、鎌倉に“幽閉”という展開となる。

1334年 5月~9月:護良親王は“足利尊氏襲撃”を計画するが、発覚する(梅松論)

護良親王は当初、後醍醐天皇側の武力面での中心人物であり、倒幕の“旗頭”として活躍した。そうした彼が排除されて行った経緯について整理して置きたい。

“護良親王”は後醍醐天皇の第二皇子であり、父・後醍醐天皇の倒幕運動を助けるべく、比叡山を降りた。その後1332年に吉野に城郭を築き“倒幕”の旗挙げをし、先頭に立って鎌倉幕府と激しい戦闘を繰り広げた功労者であった。

“建武の新政”が始まると、後醍醐天皇は“綸旨万能主義”の“天皇独裁”を理念とした政治を断行する。ところが“護良親王”は父・後醍醐天皇のそうした“政治理念”を無視する行動を重ねた。そうした父親譲りとも言える独断的な性格が命取りとなるのである。

護良親王は後醍醐天皇の“政治理念”に反して“令旨”を大量に発給し、倒幕運動の第一の功労者とされた“足利尊氏”を排除する事を強く主張し、信貴山に武装解除せずに立て籠もり、露骨な足利尊氏への対抗姿勢を崩そうとしなかった。こうした“護良親王”は後醍醐天皇にとって“厄介・邪魔”な存在となって行った。

後醍醐天皇は彼が求めた“征夷大将軍”に任じる事で一度は慰撫したが、僅か3カ月後に解任している。こうした史実から、兎に角“枠に納まらない”タイプの人物であった事が分る。一方“建武政権”は後醍醐天皇の打ち出す政策が巧く行かず、社会の混乱を招いていた。そうした状況下での護良親王と後醍醐天皇との不協和音は“建武政権”を益々不安定にして行った。

具体的には、建武政権の失政に不満を募らせる武士層は、足利尊氏に拠る武士政権の再興への期待を膨らませた。“現実への対応”を重視する足利尊氏は益々“建武政権”の方針から乖離した独自の動きを加速させて行くのである。

こうした中、後醍醐天皇の護良親王排除の動きは益々強まる。“征夷大将軍”の職を解いたばかりか、護良親王が独自に発した令旨を所持し、これを根拠に所領拡大を意図する者を“侵略者・犯罪者”扱いとするという対応に出たのである。こうした二人の衝突から護良親王の軍事力はみるみる衰え、結果として足利尊氏の立場は益々強化された。

 “梅松論”では、尚も足利尊氏に不信感を抱き続ける護良親王が、凋落した自分の立場の起死回生策として“足利尊氏”を討つ事を考え、1334年(建武元年)5月~9月にかけて“襲撃”を画策するが、全てが発覚し失敗に終った事を記している。

同年 6月:

洛中に“護良親王の尊氏打倒”の噂が流れ、元凶が後醍醐天皇とみた足利尊氏は天皇に詰め寄ったが“全く叡慮(天子の考え)にあらず、護良親王の張行(容赦なく事を行う事)の趣なり”と否定したとの記録が残っている。この動きについては、足利尊氏が後醍醐天皇の寵妃・阿野廉子と積極的に連携し、護良親王の陰謀を彼女を通じて後醍醐天皇に通報したとの説もあるが、史実としての裏付けは無い。

同年 10月22日:護良親王が逮捕され、鎌倉に幽閉される

1334年(建武元年)10月22日、参内した護良親王は後醍醐天皇の側近の結城親光と名和長年によって突然逮捕され、武者所に拘束される。逮捕の理由について“太平記”では“護良親王が帝位を奪う陰謀を企んだ証拠を足利尊氏が手に入れ、後醍醐天皇の寵姫・阿野廉子を通じて天皇に通報した”としている。又“保暦間記”では護良親王が2歳になる皇子を天皇位に就けようとした事としている。

両著は共に“護良親王”の“帝位を狙った陰謀事件”という点で共通している。“梅松論“では護良親王が足利尊氏を襲撃しようとしたが未遂に終わり、それを足利尊氏が後醍醐天皇に抗議した事で護良親王が逮捕となったとの異説を論じている。

どの説が真実かの定説は無いが“護良親王”が失脚し、捕えられ、鎌倉に幽閉され、鎌倉幕府の足利直義の監視下に置かれた事は史実である。この事件で護良親王配下の南部・工藤(いずれも武士)、更には日野資朝(1324年の正中の変で後醍醐天皇側の首謀者として佐渡島に配流され、元弘の乱の動きが起こると1332年に佐渡島で鎌倉幕府によって処刑された人物)の弟の“浄俊律師”が処刑されている。

同年 10月末:

上記した状況に、後醍醐天皇の側近中の側近で忠臣の誉高い中納言・万里小路藤房が“後醍醐天皇離れ”を起こして突如出家の上、失踪するという事件が起きている。

“万里小路藤房(までのこうじふじふさ=生1296年没不詳)”は後醍醐天皇に仕え、笠置山で後醍醐天皇が“楠木正成”を召し出した際に勅使を務めた人物とされる。北畠親房・吉田定房と共に“後の三房”と称された後醍醐天皇の側近“万里小路宣房(生1258年没1348年)”の一男である。

彼は建武政権下で1334年5月に行われた“恩賞方改編”で、三番局(畿内・山陽道・山陰道の担当)の頭人に任じられる等、要職を担ったばかりで無く、江戸時代の儒学者“安東省菴”が平重盛・楠木正成と共に“日本三忠臣”の一人に数えた程、後醍醐天皇に忠義を尽くした人物とされる。ズバズバ思った事を言う硬骨漢の彼は“建武の新政の問題点”を後醍醐天皇に直接指摘したが、受け入れられなかった事が出家、失踪の原因とされる。

“万里小路藤房”が建武政権を指弾した要点を以下に紹介する。後醍醐天皇の“理念政治”の諸問題点を史実として知る事が出来る貴重な史料である。

①:為政者は愁訴(苦しみを訴える事)を聞き、諫言を奉るべきであるのに、それを
  怠っている
②:恩賞目当てに官軍(後醍醐軍)に属した武士が未だ恩賞に与かっていない
③:大内裏造営の為に、諸国の地頭にニ十分の一税を課した
④:諸国で守護の権威が失墜し、国司・在庁官人らが勢力を振るっている
⑤:源頼朝以来の伝統がある御家人の称号を廃止した
⑥:倒幕に軍功があった諸将のうち、赤松円心のみ、不当に恩賞が少ない

“万里小路藤房”が抱いた危惧は“後醍醐天皇の建武の新政政策ではいずれ武家が反発し、足利尊氏を新たな“武家の棟梁”として結束する事になろう”という事であった。

再三の諫言を後醍醐天皇は一向に聞き入れなかった為に、彼は見限って、出家の上、失踪したと考えられている。後醍醐天皇は慌てて父の“万里小路宣房”に召喚させたが、再会は叶わなかった。

後醍醐天皇の独裁政治は“護良親王”そして側近をも遠ざけ、次第に足利尊氏を利する方向へと向かって行ったのである。

同年 12月:中央官司(役所)機構改革

後醍醐天皇は上級貴族で構成されていた“議定官会議”を天皇の権限を制約するものとして廃した。そして下位に置かれていた八省の長官(=卿)に公卿の上位者を配属し、八省の機能を格上げする改革を行った。天皇直属の執政官として位置付ける事に拠って“天皇独裁制”のベースとした。

従来、八省卿には“正四位下”の人物が充てられ、大臣(一位乃至二位相当)・大納言(正三位相当)などの議政官(立法機関)よりも格下に位置付けられていた。大臣級の官人は天皇の判断を輔弼(ほひつ=助ける事)、掣肘(せいちゅう=間違いを正す事)する役割とされていた為であるが、八省のトップとして実務に当らせる事で天皇直属の執政官に位置付けたのである。

同年 12月末:

家格秩序と“官司(役所・役人)請負”を否定した人事を断行した。公家社会の家格は、公卿(三位ないし参議以上)に昇進出来る“上級貴族”とそれ以下の“中下級”の官人とに区分されていた。

その上級貴族も、摂関家を頂点として、大臣に成れる清華家(せいがけ)と大臣家とに区分され、更に大納言(太政官の次官に当たる役職)迄が昇進の上限である“羽林家(うりんけ)・名家(めいか)”等に家格が序列化されていた。これらの“家格”に応じて昇進のコースがパターン化されていたのである。

後醍醐天皇は“名家”の家格だった側近の“吉田定房”を”内大臣に任じるなど、公家社会の規則を無視した人事を行った。上述した八省卿に大臣クラスの公卿を据えた人事も“家格秩序否定・解体”をする事によって、自らの権限を最大化する事であった。

後醍醐天皇が行った官司(役所)の人事で特筆すべき代表2例を紹介して置こう。

第一番目が代々“中原氏”が世襲して来た“東市正(ひがしのいちのかみ)”職を倒幕の功労者“名和長年”に与えた事例である。これは、旧来の慣習を破る“官司請負の解体策”であり、後醍醐天皇流の“新儀”であった。

京の都の東西には“市”が置かれていた。その市での不正・犯罪の防止や交易上の度量衡の管理、物価の監視に当たる他、公用に必要な物資の調達という全ての機能を担ったのが“市司(いちのつかさ)”であり、そのトップが“市正(いちのかみ)”であった。

この職には良くも悪くも“財力や経済感覚に富んだ人物”が起用される事が必要であり“旧来の慣習”では、代々“中原氏”が世襲して来た。京都の商業、工業を後醍醐天皇が直接掌握しようと考え、自分の手足となって働いてくれる“名和長年”を東市司(ひがしのいちのつかさ)に充てる人事を行ったのである。これも“未来ノ先例タルヘシ”の政治理念に沿った人事改革であった。

二番目の事例は、丹波・賀茂・和気氏が代々任じられて来た図書頭(ずしょのかみ=中務省に属し国史、宮中仏事、図書の保管、書写などが任務の役所の長官)に、元・鎌倉幕府の御家人であった “伊賀兼光”を充てた人事である。

この様に“建武新政”の人事改革は公家社会の外部から官人を任用し、請負氏族による独占の体制を解体する事で旧来の慣習に縛られて来た官司機構を“統御”する機能を“天皇の権限”として掌握しようとするものであった。

後醍醐天皇はこの様に官司機構の大改革を行なったが、こうした人事改革は各官司で蓄積され、継承されて来たシステムを解体する結果となった。実践的積み重ねの無い人物を無謀に任用したこの策には無理があり、結果、行政は混乱に陥ったのである。

4: 3年目1335年(建武2年):

1333年の暮から生じていた“北条氏の残党”による“叛乱”は地方から拡大して行った。3年目を迎えた“建武政権”を最大の“中先代の乱”が襲う。この乱の鎮圧に当たった主役は足利尊氏であった。

処が、この乱鎮圧を境に、足利尊氏は“建武政権”から離脱する展開と成る。そうした動きを抑え込もうとする後醍醐天皇側と足利尊氏側との溝は拡大する一方で、終に、武力に拠る“主導権争い”へと展開して行く。その結果“建武政権”は一気に崩壊へと向かうのである。

1335年 正月:北条時直(鎌倉幕府長門探題:没1333年)の遺児が“長門国府”で蜂起
        する。

同年 2月:北条氏与党が“伊予”で叛乱の動きを見せる

4-(1):“中先代の乱”

4-(1)-①:“中先代の乱”の前兆・・西園寺公宗の企てが暴露される

“建武政権”として新たに整えた機能も、実質的には機能不全に早々と陥っていた。そうした不安定な状況に武士層は“反・建武政権”の武力蜂起・武力闘争が起これば、容易にそちらを支持する状況だった。北条氏の残党もそうした不満を抱える集団であった。

そこに付け込んだ“反後醍醐天皇”の企てが暴露される事件が起きたのである。

1335年 6月:“西園寺公宗”の反乱の企てが露見する

西園寺家は朝廷と鎌倉幕府との間を繋ぐ“関東申次”の役に就いていた。ところが鎌倉幕府の滅亡と共に役職は停止された。鎌倉幕府最期の“関東申次”であった西園寺公宗(生:1310年没:1335年)は地位回復を図るべく、1335年6月に北条高時の弟の北条泰家を匿い、2人で共謀して後醍醐天皇を西園寺家の山荘(これが後に金閣寺の通称で知られる鹿苑寺である)に招いて暗殺し、持明院統の“後伏見法皇(第93代天皇:即位1298年譲位1301年:生1288年崩御1336年)”を擁立して新帝を即位させ“建武政権打倒”の大規模な“反後醍醐天皇運動”を画策した。

しかし、この暗殺計画は異母弟の“西園寺公重(さいおんじきんしげ=生:1317年没:1367年)”が後醍醐天皇に密告し、未然に発覚した。事件の首謀者として西園寺公宗は“出雲国”へ配流される途上で“名和長年”によって処刑される。

尚、5-3項で記述した通り、現職の公卿が処刑されるというケースは“平治の乱の第2幕(1159年12月26日)”で、藤原信頼が謀叛人として処刑されて以来の事であり、実に176年振りの事であった。藤原信頼が処刑されたケースもその前は“薬子の乱(810年)”で藤原仲成が処刑されて以来、実に“350年振り”の事であった。“公卿の処刑”は日本史上、極めて稀な事なのである。

北条泰家は逃れ、各地の北条氏残党に挙兵を呼び掛けたとされる。北条泰家のその後の消息は翌1336年2月に“南朝方”として信濃国で挙兵したとの情報(市河文書)を最後に途絶えた。

4-(1)-②:“中先代の乱”が勃発し“北条時行”軍が“鎌倉将軍府”を占領する

“建武の新政”に対する不満の動き、抵抗は先ず地方で“北条氏”を旗頭とした“叛乱”という形で起こっていた。その規模は“建武政権”の失政が混乱を広げ、政権内部の分裂状態が世間に明らかになるにつれて大規模なものになって行った。

“北条高時の遺児・北条時行(生:不詳没:1353年)”を担いだ乱がそのピークとなる。後世“中先代の乱”と呼ばれるこの乱は“鎌倉将軍府”を一時“北条時行軍”が制圧する事態にまで到る大規模な“乱”と成るのである。

“中先代”とは“先代(=北条氏)”と後代(=足利氏)との間にあって一時的に鎌倉を支配した事から付けられた名である。“北条時行軍”の鎌倉支配は僅か20日間程で終った事から“廿日先代”の異名がある。

以下に“中先代の乱”の経緯を時系列に記す。

1335年 7月20日:この頃に“中先代の乱”は勃発したとされる

北条高時の子息“北条時行”を御内人であった“諏訪頼重・滋野氏”等が擁立して“鎌倉幕府再興”を目指して信濃で蜂起した。信濃国衙を焼き討ちし、公家の国司“清原真人”を自害に追い込んでいる。(太平記)

勢いに乗る北条時行軍は、武蔵国に入り女影原(おなかげがはら=埼玉県日高市)で“鎌倉将軍府”の渋川義季・岩松経家等が率いる軍を破り、両名共を戦死させた。戦死した岩松経家は新田義貞が1333年5月8日に“鎌倉攻め”の旗揚げをした際に足利高氏(尊氏)の命で加わった新田氏の一族である。しかし、上記の戦闘で彼の戦死後、岩松家の後継者に所領を与えたのは足利尊氏であった為、以後、岩松家は足利尊氏の傘下に入った。

この事は、足利家に新田家が従属していた事の裏付けとされ、又、こうした経緯は新田氏惣領としての新田義貞の面子を損なわせるものであり、新田義貞と足利尊氏の対立の一因となったとされる。

北条時行軍は今川範満(駿府今川氏の祖となった今川範国の兄)軍を小手指ケ原(埼玉県所沢市)で破り、武蔵府中でも下野国の守護“小山秀朝(新田義貞配下で建武政権下で下野守となる)を破っている。破竹の勢いで鎌倉に向う北条時行軍に対して、鎌倉将軍府の足利直義自らが出陣し、武蔵国町田村“井出の沢(東京都町田市本町田)”で迎え撃つが敗北し、鎌倉に戻った。

同年 7月23日:足利直義が“護良親王”殺害を命じて鎌倉将軍府を去る

足利直義は未だ9歳だった阿野廉子3皇子の二番目の成良親王(生:1326年没1344年)と5歳だった足利尊氏の嫡男・義詮(よしあきら=幼名千寿王・室町幕府第2代将軍・生:1330年没:1367年)を連れて鎌倉を落ちる事を決断する。その際、配下の“淵辺義博”に命じて“東光寺の土牢“に幽閉されていた“護良親王”を殺害させた。その理由は北条時行軍が鎌倉に入り、護良親王を擁して将軍とし、北条時行を執権とする“鎌倉幕府再興”の可能性を絶つ為であったとされる。

三河国矢作(現在の愛知県岡崎市)に達した足利直義は鎌倉将軍府の将軍として擁した“成良親王”を“大江時古”に託して京に返還している。又、北条時行の“乱”の状況を足利尊氏に注進している。

同年 7月25日:“鎌倉将軍府”が瓦解する

北条時行軍は“鎌倉将軍府”の佐竹義直らを破り、遂に“鎌倉”を占拠した。1333年12月に設置された“鎌倉将軍府”はここに瓦解した。しかし、北条時行軍の占拠は8月19日迄の20日間余りであった。この為“中先代の乱”は“廿日先代(はつかせんだい)”の異名を持つ。

この“鎌倉将軍府”は1336年5月に始まる足利尊氏の“九州からの大返し”の結果、11月に室町幕府が成立すると“鎌倉府”として再興される。

同 7月末:

弟・足利直義から状況報告を受けた足利尊氏は北条時行軍を討伐する為、後醍醐天皇に“征夷大将軍・総追捕使”の官職を願い出る。しかし、後醍醐天皇の考えは“成良親王”を征夷大将軍に任じて“至尊(天皇家・朝廷・建武政権)”側の旗頭として統制力を確保する考えであったとする説、あるいは“将軍を置かずに自ら武士を統率する”事であったとする説があるが、どちらにせよ、足利尊氏の“征夷大将軍”の官職も“総追捕使”の官職も許可する考えは無く、申し出を拒否したばかりか、東下も許さなかったのである。

足利尊氏は単純に“建武政権”に弓を引く“北条時行”を討伐する為“征夷大将軍”の“官職”を願い出たのだが、後醍醐天皇に理解されなかった。足利尊氏が、後醍醐天皇との“政治に於ける基本的な乖離”が大きい事を認識した瞬間であったとされる。

4-(1)―③:足利尊氏が“中先代の乱”を鎮圧する

足利尊氏は後醍醐天皇の勅命に違反し“東下”を強行する。

弟・足利直義の報告で“鎌倉将軍府”が占拠された事を知った足利尊氏は東下を強行した。この時点で足利尊氏は“建武政権”から離脱をしたのである。

1335年 8月2日:

足利尊氏は勅状を得ない侭、出陣する。“梅松論”には、京都を出陣する際に、足利尊氏は“私にあらず、天下の御為”と後醍醐天皇の許可なしに出陣する事の正当性を語った事を伝えている。

三河国矢作(愛知県岡崎市)に逃れていた足利直義と合流し、直ちに北条時行軍との交戦に入った。在京の武士の多くが、足利尊氏に従ったという。

同年 8月9日、12日:

足利軍の“今川範国(今川基氏の嫡男で駿府今川氏の祖)”軍が遠江国橋本(静岡県湖西市)で北条時行軍と戦い、勝利した。この状況を見た後醍醐天皇は足利尊氏に“征夷大将軍”ならぬ“征東将軍”の号を事後的に与えた。

しかし、この称号は足利尊氏の意に沿うものでは無く“鎌倉大日記(作者不詳:南北朝末期に成立した年代記)に拠れば、北条時行を追って、1335年8月19日に足利尊氏は鎌倉に入るが、その時には自らを“征夷大将軍”と称していたと記述されている。

足利軍は更に12日には北条時行軍の“名越邦時”を小夜中山合戦(さよなかやまかっせん)で討ち取っている。

同年 8月14日~18日:

足利軍の“今川範国”は駿河国の清見関(きよみがせき)並びに国衙での戦いの後、相模国の相模川合戦で北条時行軍の矢を20本も受け、壮絶な死を遂げる。この戦いで弟の今川範周も討死している。足利軍は8月17日に箱根の戦いに勝利し、翌18日に相模国での戦いにも勝利した。

同年 8月19日:

次第に劣勢となった北条時行軍は、後退を続け、相模国辻堂の合戦で“諏訪頼重”が鎌倉の勝長寿院で自害。壊滅的打撃を蒙った北条時行は逃亡し“鎌倉”は20日間余りで奪還されたのである。

4-(2):“中先代の乱“鎮圧後の”足利尊氏“

“中先代の乱”の過程で、鎌倉将軍府が落とされる前に尊氏の弟の足利直義が、幽閉されていた“護良親王”を北条軍に拠って利用される危険を避ける為に殺害している。

“鎌倉大日記”に拠れば“足利尊氏は寺社に所領を寄進して祭礼興行の沙汰を行い、鎌倉の主、武家の棟梁として諸士に恩賞の給付を行ない、北条時行の残党を討たせる等、独自の判断で関東の秩序の構築に当たった”と記している。

足利尊氏の“勅”を無視した強硬出陣があった事で“中先代の乱”は終結した事がこれらの記録からも裏付けられ、足利尊氏はこの様にこの時期の“建武政権”から完全に独立した行動を取っていたのである。

逃亡した北条時行は、後に吉野に移った後醍醐天皇から南朝への帰属を許され、足利尊氏を驚かせたという話がある。彼の死については謎で、約18年後の1353年迄生き延び、足利尊氏の四男で初代鎌倉公方(鎌倉府長官)となった“足利基氏(生:1340年没:1367年)”の手勢に捕えられ、最期は鎌倉龍ノ口で処刑された事が“鶴岡社務録”に載っている。

同年 8月30日:

後醍醐天皇は“中先代の乱”に於ける足利尊氏の勲功を賞し“従二位”の官位を与えた。

“建武政権”にとって足利尊氏は最早“獅子身中の虫”ではあるが“中先代の乱”鎮圧は“政権”への貢献であった事には違いなく、賞せざるを得なかったという事であろう。

しかし、足利尊氏は配下の斯波家長を“奥州管領(後の奥州探題)”に任じ“陸奥将軍府”の義良親王(のりよし)と北畠顕家に対抗する人事を行っている。しかも“中先代の乱”収束後も“鎌倉”に留まり、次々と“建武政権”とは別個の“独自”の動きを続けた。
   
4-(2)―①:“建武政権“に対する独自行動を加速させる“足利尊氏”は“新田義貞”に
        対する挑発的行為を繰り返す

後醍醐天皇の“理念先行政治”に弟の“足利直義”は兄の政治参謀という立場から徹底して抵抗をした。“中先代の乱“を鎮圧した足利尊氏の“建武政権”からの離脱行動、対抗姿勢が顕著になる。これらの策は全て“足利直義”の献策によるものであった。

1335年 9月27日:

足利尊氏は後醍醐天皇が京都で“北条時行討伐”の功労者に対する“恩賞の綸旨”を行うとの命令を無視して、鎌倉で自ら勝手に恩賞の“袖判下文”を発給した。

又、新田義貞一族並びにその与党が東国に拝領した所領を没収し“北条時行撃退”に功績のあった自分の与党に配分するという露骨な“新田義貞攻撃”を行った。具体的には、新田義貞が国司を担当した上野国の守護職を足利尊氏の伯父・上杉憲房(うえすぎのりふさ=後の京・四条河原の戦いで尊氏を逃がす為戦死した武将)に与えた他、新田氏の本領である上野新田荘を三浦高継(北条時行側に付き処刑された父・三浦時継と袂を分かって足利尊氏の下で武功を立てた)に与えている。

同年 10月:

足利尊氏はこうして“中先代の乱”収束後も鎌倉に留まり、独自の政治行動をとった。後醍醐天皇は尊氏に上洛命令を下した。足利尊氏は応じる姿勢を示したが、弟の足利直義が制止した。鎌倉に留まる口実として“信濃で北条の残党が蠢動(しゅんどう=こそこそとうごめく事)している”とした。更に、足利尊氏は鎌倉幕府時代の将軍邸跡に邸宅を新築し、そこに居を移したのである。

それに止まらず“侍所”を設置して“恩賞沙汰“等の政務を執らせるなど“建武政権”に対して、公然たる反逆行為“武家政権再興・鎌倉幕府の復活”を目指した行動を加速させたのである。

4-(3):朝議が“足利尊氏・足利直義追討”を決定する。この動きに足利尊氏は“遁
      世・降参”の態度に出るが、弟の足利直義は一人“建武政権”と戦う姿勢で
      臨んだ

1335年11月2日:

弟・足利直義は自らの名で諸国に“新田義貞追討”の檄文を発し、兵を募った。後醍醐天皇と袂を分かち“鎌倉幕府の後を継ぐ武家政権の再興”を目指す足利直義の姿勢に揺らぎは全く無かったのである。

同年 11月8日:

“護良親王”の殺害が足利直義によって行われた事、又、足利直義が上記檄文を赤松則村(円心)、那須資宿、広峯貞長、長田教泰、田代顕綱ら諸国の武士達に送っていた事、が後醍醐天皇側の知る処となる。

これを受けて、朝議は一気に“足利尊氏誅伐”の流れとなり、後醍醐天皇は“足利尊氏・足利直義追討”の宣旨を新田義貞に与え、尊良親王(生:1310年没:1337年:母は二条為子)を“上将軍”“新田義貞”を大大将に任じて東下を命じた。

“太平記”には後醍醐天皇は新田義貞に“錦旗”を与えたと記している。この新田義貞への“討伐軍大将任命”を以て“源義国(生:1082年没:1155年父は源義家)”を共通の祖先とし乍らも、その後の経緯で新田家は足利家に支配され、従属して来たという関係から、初めて“自立”した瞬間だとされる。

以後、足利尊氏と新田義貞とは“武門間の主導権”を巡って、雌雄を決する武力闘争を繰り広げる事になる。

同年 11月12日:後醍醐天皇は北畠顕家(北畠親房の長男:生1318年没1338年)を、僅か17歳ではあったが“鎮守府将軍”に任じている。

同年 11月18日:

後醍醐天皇の“討伐宣旨”に足利尊氏は “私は天皇のお側近くに仕えて勅命を受け叡慮に預かった。天皇のご芳志を忘れるものではない。今度の事は本意ではない”として赦免を求め、後醍醐天皇との訣別にはなお、躊躇する態度であったとされる。そして逆に新田義貞追討の命を請う“奏状”を呈した。新田義貞もこれに対抗する“奏状”を呈した。
 
この“奏状”の真偽の程は疑問とされているが、以下に“奏状”合戦と伝わる足利尊氏と新田義貞の“奏状内容”を紹介する。

=足利尊氏の“新田義貞誅伐の奏状”

・新田義貞の鎌倉幕府倒幕の蜂起は、天皇への忠勤からでは無く、鎌倉幕府の使者を斬った罪(第6-8項の18-3-③で述べた有徳銭への抵抗で新田義貞が挙兵したとの説を裏付ける事件)を逃れる為に止むを得ず蜂起し、尊氏の六波羅制圧を知って朝敵追討を掲げたものである。

・新田軍に拠る鎌倉幕府打倒は息子千寿王(足利義詮=あしかがよしあきら・室町幕府第2代将軍・生1330年没1367年)の功績が大きく、その加勢を得る迄、新田義貞は3度にわたり勝利を収める事も出来ず、帝の勝利に貢献しなかった。

・尊氏が北条残党の追討に当たっている間、新田義貞は都において公家達と結託して私を讒訴(ざんそ=人を陥れるために悪く告げ口をする事)している

=新田義貞の後醍醐天皇への奏状=

・鎌倉幕府倒幕の戦いで、足利尊氏は名越高家の討死(1333年4月27日)を契機に天皇方に寝返ったに過ぎない

・新田義貞(自分)が綸旨を報じて蜂起したのは(1333年)5月8日であり、足利尊氏が六波羅を制圧したのは5月7日である。六波羅における勝利を翌日に知る事は出来ない。又、千寿王の参陣は取るに足らない。

・六波羅占拠後、専断により、護良親王の部下を殺害している

・鎌倉将軍府の成良親王をないがしろにし、無礼を働いている

・中先代の乱の際、東国8カ国の管領を賜った後、天皇の裁決を用いていない

・その際、護良親王を混乱に便乗して殺害した

以上、二通の奏状の評価については“新田義貞の奏状の方が護良親王の殺害に言及している点等、より具体的で後醍醐天皇に対して説得力がある“と評価する説が多い。

この“奏状”に拠る足利尊氏と新田義貞の非難合戦は“太平記に書かれた創り話で史実では無い”とする説もある。史実だとした場合、この奏状が書かれた時には既に後醍醐天皇は新田義貞を“建武政権”軍の旗頭とする事を決断していたと思われ、従って“新田義貞の奏状”の方に加担したという事であろう。

同年 11月19日:

新田義貞が大軍を率いて京都を出発する。後醍醐天皇との訣別になお躊躇する足利尊氏は、追討の動きに恐れ入り、政務を弟の足利直義に譲り、自らはこの日、細川頼春はじめ近習2~3人を連れて密かに鎌倉の“浄光明寺”に籠った。

こうした足利尊氏の一連の行動は、現代の我々からすると“理解に苦しむ”ものであるが、、追討の理由とされた政策が、殆んど弟の足利直義に拠るものであった為“何故、追討されるのかを足利尊氏自身が理解していなかった可能性がある”とする説もある。

一方、東進した新田義貞軍は“三河の矢作”で高師泰(高師直の舎弟)軍を破り、又、足利直義の本隊を駿河国“手越河原(現在の静岡市)”で敗っている。新田義貞軍は勢いを増して伊豆へと進んだ。

同年 11月26日:足利尊氏の“征東将軍”の官職が解かれる。

4-(4):後醍醐天皇が“新田義貞”を“旗頭”とした経緯

“護良親王”が失脚し、鎌倉に幽閉され“中先代の乱“の流れの中で、足利直義の指示で殺害された後に、後醍醐天皇は“至尊(後醍醐天皇・建武政権・貴族層)”側に“至強(足利尊氏を筆頭とする武士層)”勢力に対抗し得る新たな“武士層”からの“旗頭”が必要と考えたと思われる。

その“旗頭”としては“血筋と実績”が必要であり、祖先を足利尊氏と同じ“源義国”とし、立派な源氏の血筋であり、討幕の際に“鎌倉攻め”という立派な実績を持つ“新田義貞”を迷う事無く選んだのである。

同時に、後醍醐天皇は“足利尊氏の牽制”という意図から“新田義貞並びに一族”を昇進させており、この時期に義貞が“左兵衛督に昇進”他に、新田一族の昇進が記録からも顕著になっている。

4-(5):後醍醐天皇が新田義貞を“建武政権”軍の旗頭とした人事が足利尊氏の対決
      姿勢を決定的にする

後醍醐天皇が新田義貞を“建武政権”の“旗頭”とする人事を行った事で新田義貞は実質的な“官軍総大将”となった。

この人事が足利尊氏に火を付ける事になる。足利尊氏にとっては祖先を同じくする新田義貞との確執はこれ迄もあったが、今回の新田義貞に対する人事は、足利尊氏にとっては“武門間の主導権争い”という新しい対立構図となり、後に引けない戦いを突きつけられたという意味を持ったのである。 

“新たな武家の棟梁に拠る武士政権の再興”を待ち望む流れは“中先代の乱”を鎮圧した足利尊氏を求めていた。後醍醐天皇の“理念”の政治に対する不満と足利尊氏の“現実対応への政治”への当時の期待は“太平記”の下記記述が端的に伝えている。

“今ノ如クニテ、公家一統ノ天下ナラバ、諸国ノ地頭御家人ハ、皆奴婢雑人ノ如クニテアルヘシ、哀イカナル不思議モ出来テ、武家四海ノ権ヲ執ル世ノ中ニマタ成カシト思フ人ノミ多カリケリ“

後醍醐天皇が醍醐・村上天皇による“延喜・天暦の世”を理想とし、自ら“後醍醐”と名乗り“朕ノ新儀ハ未来ノ先例タルヘシ”と自負した“建武新政”の政権も、発足後2年も経過すると“理念”通りに進まない事が明白となって来ていた。

こうした状況に、後醍醐天皇自身は次第に政治に倦怠感を抱き、歌舞、蹴鞠、競馬に生活の大部分を割く様になったと伝わる。

4-(6):後醍醐天皇が“遁世降参の尊氏も誅殺せよ”との綸旨を発する。この事で足
      利尊氏が戦場に復帰する事を決断する・・“延元の乱=建武の乱”の始まり

1335年 11月末:

“新田義貞”は事実上の“官軍総大将”に任じられ、尊良親王(生:1310年没1337年母は二条為子で護良親王に次ぐ年長者)を上将軍として奉じ、脇坂義助(新田義貞の弟)、千葉貞胤、宇都宮公綱を率いた10万の軍勢で“足利尊氏・直義討伐“に向う。

同年 12月8日:

後醍醐天皇は鎌倉の“浄光明寺”に籠っていた足利尊氏も討伐対象とする“討伐綸旨”を新田義貞に与えた。孤軍奮闘する弟・足利直義は次第に戦況の悪化で窮地に追い込まれて行った。これを知った足利尊氏は“足利一門の浮沈に関わる”として後醍醐天皇に対して終に翻意(決心を変える)し、鎌倉を発つ決心をしたのである。

この時の足利尊氏の心境について“梅松論”には“弟の直義が死んでは自分が生きていても無益である。従って自分(尊氏)は戦うが、(後醍醐天皇に対する)違勅の気持ちは全く無い。これは天の知るところである。八幡大菩薩も御加護あるべし”と言って出陣したと書いている。

飽くまでも弟・足利直義の安全を最優先に考えたこの場の足利尊氏の行動から、彼の人間性を“情に厚い直情型の人物”だとしており、別の記録からも足利尊氏は“武士間に人望のある人物”だったとする記事が多い。

歴史上“建武政権打倒”の為の政治闘争と扱われている“延元の乱”又は“建武の乱”は、新田義貞が討伐軍の“旗頭”とされた事で足利尊氏にとっての“武門間の主導権争い”に変質し、弟・足利直義の窮地を看過出来ずに立ち上がった戦いであった。

同年 12月11日:

足利尊氏軍は駿河国“竹ノ下(静岡県小山町)”の戦闘で“新田義貞軍”を破る。弟の足利直義軍も箱根で新田義貞軍を破る。この戦いを境に足利軍に大友(立花)貞載・佐々木道誉が新田軍から寝返り、この為、挟み撃ちに会う格好となった新田軍は西走を始める。

足利尊氏・足利直義の両軍は駿河国府中(静岡市)で合流し、新田軍を追って京を目指したのである。

4-(7):兄・足利尊氏と弟・足利直義との役割分担について

足利尊氏は1305年(嘉元3年)の生まれであり、弟の足利直義は1306年(徳治元年)生れである。共に父親は足利貞氏、母親は側室の上杉清子であった。
 
この二人には大きな政治面での違いがあった。鎌倉幕府が倒れ“建武政権“が成立したが、兄の足利尊氏は“後醍醐天皇”と対抗する意識は無く、寧ろ根底には“恭順”の気持を持ち続けていたとされる。一方、弟の足利直義は後醍醐天皇の“延喜・天暦の政治への回帰”政策には大いなる抵抗感を抱いていたのである。

しかし“建武の新政”の下に“理念”先行の後醍醐天皇の政策は、人事政策を始めとする諸政策が“現実面での問題解決”を重視する足利尊氏、取り分け足利直義にとっては受け容れ難いものであった。政治姿勢という観点から“建武政権”と足利兄弟との間には大きな乖離があった。

そして、既述した様に“建武の新政”が進むにつれて、周囲は足利尊氏・直義に拠る“武家政権の再興”を期待する方向へと動いていたのである。

こうした状況下でも、基本的には後醍醐天皇に“恭順”姿勢であった足利尊氏は、後醍醐天皇との間の軋轢が強まる事に尻込みをし、遠慮をし、そして結果は政務を弟の“足利直義”に任せ、自分は“浄光明寺”に遁世する、という人間であった。

この様な兄の背中を常に押し続けたのが1歳年下の弟・足利直義であった。そして尊氏はこの同母弟の直義を絶対的に信頼し、結果的に政策のかなりの部分を彼に任せ乍らも、先頭に立って動いたのである。

4-(8):足利尊氏の戦場復帰で新田義貞軍との戦況は逆転する。こうした最中、
      後醍醐天皇と袂を分った足利尊氏は“光厳上皇”に接触する

1335年 12月13日:新田義貞軍が総崩れとなり、追撃する足利尊氏軍は京へ迫る勢い
          であった。

同年 12月17日:

北畠顕家が津軽地方の“北条氏残党”を平定した事に対し、後醍醐天皇は従二位に昇叙している。17歳の若さで足利尊氏と同じ官位に達するという早さであった。

同年 12月22日:

後醍醐天皇から足利尊氏・直義討伐に加わる様に命令を受けた“北畠顕家”は、義良親王(のりよししんのう=後の第97代後村上天皇・生:1328年崩御:1368年)を奉じて奥州の兵5万を率いて足利軍を追って京への進軍を開始した。

同年 12月末:

この頃、足利尊氏は後醍醐天皇に退位させられていた持明院統の“光厳上皇”に接触したとされる。上皇を味方に引き入れる事で自らが後醍醐天皇に弓を引く“朝敵”になる事を避け“光厳上皇”対“後醍醐天皇”の争いという構図にすり替える事で自らの“正当性”を確保する事が大きな理由であった。

4-(9):“建武政権”軍に於ける新田義貞と北畠顕家の関係について

上記の様に、12月22日に北畠顕家(生:1318年没1338年)軍も足利尊氏・直義討伐の為に南下を開始した。しかし“建武政権軍”は総力を発揮するという面での弱点を抱えていた。北畠親房(生:1293年没:1354年)の嫡男の北畠顕家は1334年、16歳にして従二位の官位を持つ公卿であり“鎮守府大将軍”という最高位に匹敵する官職にもあった。

従四位上の新田義貞(生1300年没1338年)との官位比較では5階級も上位であり、年齢こそ新田義貞の35歳に対して北畠顕家は若干17歳と若輩ではあったが、身分は圧倒的に高く、新田義貞が北畠顕家に“指図”をする事は立場上出来なかった。

理念を優先した後醍醐天皇の“軍隊人事”は組織上、新田義貞を“官軍総大将”としたが、新田義貞が戦闘局面で、全軍の編成、配置を指揮し、戦場でベストの総力を発揮すべく差配する事は不可能であった。こうした“建武政権軍”の構図は致命的な弱点として足利軍を利する事になる。

1335年 年末:

北畠顕家軍が南下を開始した事で“建武政権”軍は新田軍・楠木軍・北畠軍を合わせた軍勢となり、以後、戦況は回復し、足利軍を巻き返しつつあった。しかし“政治運営面”では、政権機能の綻びが顕著で、建武政権の中心的機能であった“雑訴決断所”の機能は、ほゞ停止状態に陥っていた。

同年 12月30日:足利軍に追われていた“官軍・総大将”の新田義貞が帰京する。

5: 4年目1336年(南朝=延元元年、北朝=建武3年)

“建武政権”が崩壊する最後の1年間である。“建武政権”の政治機能が崩壊状態にあった事を裏付ける史実として、後醍醐天皇の側近として重きをなしていた“万里小路宣房”と“千種忠顕”が1336年正月に相次いで出家した記録が残っている。

建武政権に対する世間の批判が噴出した為、二人が詰め腹を切らされたとされる。軍事的危機は乗り切りつつあったが“建武政権”が末期的な状態に成っていた事を裏付ける事件である。

“光厳上皇”との接触を始め、武士政権再興の動きを愈々鮮明にする足利尊氏が、後醍醐天皇の“建武政権”との主導権争いに決着をつける1年が始まった。

5-(1):一度は入京を果した足利尊氏であったが“北畠顕家軍”が加わった“建武政
      権”軍が次第に優勢になる

1336年 1月:足利尊氏軍が入京した為、後醍醐天皇は“比叡山”に難を逃れる。

同年 1月2日:

南下を続ける“北畠顕家軍”は鎌倉を攻め、足利義詮(足利尊氏嫡男・室町幕府第2代将軍:生1330年没1367年)、桃井直常(もものいただつね=下野の足利氏の支族)軍を破り、鎌倉を占領する。

同年 1月3日:

足利軍の佐竹貞義(佐竹氏8代当主:生1287年没1352年:足利高氏の調略を受けて鎌倉幕府側から寝返り、1335年に常陸守護に任じられた武将))も北畠顕家軍の追撃を受け後退をする。

同年 1月4日~12日:

北畠顕家軍は鎌倉を1月4日に出て、6日には遠江、そして12日には近江愛知川に到着している。奥州を出て、京へと進軍したこの時の北畠顕家軍は1日に平均40㎞弱のペースで移動し、600㎞に及ぶ長距離を僅か半月で駆けたとされる。これは後の羽柴秀吉の“中国大返し“を遥かに超える日本屈指の強行軍であった。

5-(2):後醍醐天皇側近で初めての“結城親光”の戦死で“建武政権”軍の勢いに陰り
      が出る

1336年(建武3年)1月11日:

“京の戦い”で南朝の忠臣・結城親光が大友(立花)貞載(おおともさだとし=鎌倉幕府の鎮西探題を滅亡させた武将。当初は新田義貞の尊氏追討軍にいたが、箱根・竹ノ下の戦いで足利尊氏軍に寝返った武将)と刺し違え戦死する。

=勇気ある忠臣“結城親光”の戦死を伝える逸話=

京を包囲した足利尊氏軍の一部が京都に乱入。内裏も炎上し、後醍醐天皇は東坂本へと移動を開始した。ここで結城親光は“裏切り者の足利尊氏と大友(立花)貞載の二人と刺し違えて参る”と後醍醐天皇に伝え、戦場に戻った。

東寺の南大門に陣を敷いていた“大友(立花)貞載”を訪れ“降伏する”と嘘を伝える。これを大友貞載は桶口東洞院の本陣に居た足利尊氏に伝えるが“結城親光が後醍醐天皇を裏切る筈が無い。屹度”罠”に違いない”と見破った。足利尊氏は“降伏を承諾”したと見せかけて、結城親光を本陣に案内する途中で討ち取る様に命じた。

東寺に戻った大友貞載が結城親光に“尊氏の許へ案内する”と伝え、本陣へ向かう途中で“規則なので刀を預かりたい”と結城親光に要求する。素直に刀を差し出すと見せかけた結城親光は、抜刀して大友貞載に切り付けたが、同行していた家来達によって討ち取られた。

後醍醐天皇の側近“三木一草”と称された四人の中で、初めての戦死者が出た事は“建武政権軍”の以後の士気に少なからぬ影響を与えて行く。

5-(3):新田義貞・楠木正成・北畠顕家の3軍が合流し、足利軍が京から追われ
      る

1336年 1月13日:

“建武政権”軍は、後醍醐天皇が逃れていた琵琶湖・坂本で新田義貞、楠木正成、そして琵琶湖を一日かけて渡った“北畠顕家軍”が600㎞に及ぶ強行軍を終え、3軍合流が成った。以後、戦況は“建武政権”軍の優勢が続く。

同年 1月16日:

新田義貞・北畠顕家軍は園城寺を攻め、足利尊氏方の細川定禅(ほそかわじょうぜん=奧州細川氏の氏族で兄・細川和氏と共に足利尊氏に仕えた武将)軍を敗る。

同年 1月27日:新田義貞・楠木正成・北畠顕家の連合軍が京で足利尊氏・直義軍に勝利する。

同年 1月30日:足利軍は“京からの撤退”を決める

5-(4):北畠顕家の活躍で戦況を一気に逆転し、勝利した後醍醐天皇は、新田義
      貞と北畠顕家軍に、足利軍の更なる追討を命じる

1336年 2月4日:後醍醐天皇は北畠顕家の奮闘を賞し“右衛門督検非違使別当”に任じる。

同年 2月5日:

北畠顕家は“鎮守府大将軍”の号を賜り、同日、新田義貞と共に足利尊氏・直義を更に追討する為、京を出撃する。既述した様に、当時の北畠顕家は18歳であったが従二位の公卿であり、官軍の実質上の総大将であった従四位上の新田義貞とは官位の上では5階級と雲泥の差であった(正四位下~正四位上~従三位~正三位~従二位)。

この日賜った“鎮守府大将軍”の称号は“征夷大将軍”にも匹敵する官職とされ、両者の間には埋め様の無い差が生じたという事になる。

後醍醐天皇は“新田義貞”を事実上“官軍総大将”とする人事を行ったが、官位も官職も遥かに上位の北畠顕家に新田義貞が軍事上の指示を与える訳に行かず“軍隊”という組織作りでも後醍醐天皇は“理念”と“現実”とのギャップを理解しない極めて拙い人事を行ったという事である。

5-(5):赤松円心の進言を容れて足利軍は“九州落ち”を決断する

1336年 2月11日:

足利尊氏軍は“摂津豊島河原の戦い”でも新田義貞軍に大敗を喫した。摂津兵庫から摂津室津に退いた足利尊氏はこの時点で“赤松円心”の進言を容れ、京都を奪還する事を諦め、九州へ下る決断をする。

この時点までは、新田義貞、楠木正成、北畠顕家3軍の連携も良く、順調に足利軍追討を進めた“建武政権軍”であった。

5-(6):西下の途上“光厳上皇”から“新田義貞追討”の院宣を得る事に成功した足利
      尊氏・・後醍醐天皇との争いを“君と君との御争”にすり替える事に成功し
      た

1336年(建武3年)2月12日:

足利尊氏は備後鞆津に到着。この時点で持明院統の光厳上皇から“新田義貞追討”の院宣を受けたとされる。これに拠って足利軍は“朝敵”の汚名を逃れる事に成功したのである。

後醍醐天皇に敵対する事は足利尊氏の本意では無かった。“朝敵”となる不安に苛(さいなまれ)れ、戦う事に迷いを抱いていたとされる。しかし光厳上皇からの院宣を得た事で“君ト君トノ御争”すなわち“後醍醐天皇と光厳上皇”の争いにすり替える事が出来たのである。これも全て、弟・足利直義の策によるものであった。

“光厳上皇”からの院宣を足利尊氏に齎(もたら)したのは、醍醐寺三宝院の僧“賢俊”であった。その経緯については①赤松円心の勧め②尊氏在京の間に既に約諾があったとの二説がある。いずれにしても“賢俊”の周旋が大きな意味を持ったとされる。

“賢俊”は、柳原家の祖とされる日野資明(=柳原資明・やなぎわらすけあきら:生1297年没1353年)の弟である。後醍醐天皇が京に戻り“建武の新政“を開始した際に、その間に行われた昇進人事を無効としたが、日野資明もその中の一人であり、後醍醐天皇の政権に激しく反発していた。後に足利尊氏が光明天皇(在位1336年譲位1348年)を擁立し、光厳上皇が院政を開始すると、改めて権中納言に任じられた人物である。

弟の賢俊(けんしゅん:生1299年没1357年)は終生、足利尊氏に従い、寺社社会で大きな影響力を持っ事になる僧侶である。こうした重要な場面での日野家兄弟の貢献が、後に室町幕府と日野家との間に親密な関係が結ばれる端緒となった。

5-(7):光厳上皇と足利尊氏、そして“南北朝並立”について

“光厳上皇”は歴史上“北朝の初代天皇”と呼ばれ、明治44年(1911年)に南朝が正統とされた為に“歴代天皇125代”の中には含まれていない。後醍醐天皇が1333年5月に、船上山から京に戻る際に、光厳天皇を廃位とはするが“上皇の待遇を与える”とした事で“光厳上皇”として残る事が出来た。

足利尊氏が“光厳上皇”を擁し、後の室町幕府を開く動きは、大覚寺統(後醍醐天皇)と持明院統(光厳上皇~光明天皇)という王統の分裂を決定付けた。

1336年8月に足利尊氏が奏請(天皇に申し上げてその決定を求める事)し“光厳上皇”の弟の豊仁親王(ゆたひと)が“三種の神器”の無い状態で“光厳上皇の綸旨”の形で、北朝第2代“光明天皇”(在位1336年~1348年)”が誕生した。“北朝”の誕生である。

4カ月後の1336年12月に“後醍醐天皇”が京の花山院から脱出し、吉野山に逃れ、自ら主宰する朝廷を開いた。“南朝”の誕生である。

こうして日本は“南朝と北朝”という二つの王統が1392年10月迄の56年間の長きに亘って並立するという“特異”な時代を経験するのである。

光厳上皇は弟の北朝第2代光明天皇、そして光厳上皇の第一皇子で北朝・第3代崇光天皇(すこうてんのう:在位1348年~1351年)期を合わせた15年間に亘って北朝の“治天の君”として“院政”を行なう事になる。

5-(8):九州へ落ち延びる際に足利尊氏は後の“武家政権”の再興を見据えた三つの
      重要な布石を打つ

“負け戦”の筈の足利尊氏が、九州へ落ち延びる途上、以下3点の“建武政権崩壊後”を見据えた極めて重要な施策を打っている。これ等の施策が足利尊氏の九州制圧を可能にさせ、その後の京への“大返し”を可能とさせたとされる。

=足利尊氏が打った3つの施策=

その①:“元弘没収地返付令”を出す・・1336年2月

この令は、1333年に後醍醐天皇の“建武の新政”によって没収された所領を元の領有者に返す令であり、北条与党だった武士達を味方にする政策であった。“建武の新政”の目玉であった“土地政策”を真っ向から否定したこの令は“建武の新政”に不満を持つ諸国の武士達の心を捉えた。“現実のニーズ、状況を重視した政治”で足利尊氏は“建武政権”に対抗したのである。

“建武政権”側で冷静に足利尊氏の施策を見ていたのが“楠木正成”だった。彼は“敗軍の武家には、在京の輩、扈従(こじゅう=貴人につき従う事)して遠行(=遠征)せしめ、君の勝軍をば捨奉”と嘆いた事が“梅松論”に書かれている。

“理想を追い、現実を見ずに独りよがりの政治を展開する後醍醐天皇に対して、敗戦を重ねてはいるが、足利尊氏は人心を掌握している。そうした足利尊氏の側に人々は従っている”と、楠木正成は冷静に見抜き、武士達から支持されない後醍醐天皇の“理念の政治の限界”を嘆いたのである。

その②:“新田義貞追討の院宣”を持明院統の“光厳上皇”から得た(既述)

その③:西下途中の室泊(むろどまり=兵庫県たつの市御津町)で軍議を開き、中
    国・四国の諸国に足利一門の大将を配置し、守護との組み合わせで地方の
    守備体制、つまり軍事体制を固めた。これが室町幕府の“守護体制の原型”
    となった。

5-(9):楠木正成を追討軍から外した“後醍醐天皇”の狭隘な人柄

5-(9)-①:“新田義貞を切り、足利尊氏と和睦し、結ぶべし”と奏聞した楠木正成

1336年 2月21日:

楠木正成という人物は先の見える人物だったと伝わる。社会の混乱の全てが“後醍醐天皇の失政に因る”事を見抜いていた楠木正成は、足利勢が京から去り、九州に落ち延びた事で喜び、沸き立つ朝廷に在って、冷静に先行きを分析していた。

ア:社会の混乱の全ては後醍醐天皇の政治にある
イ:力を持った武士階級を統制して社会を鎮めるには、公家政治では無理である
ウ:武士層を統制し“武家政治”の中心と成れるのは足利尊氏以外にはいない。武士達の
  心は新田義貞では無く,足利尊氏へと集まっている。新田義貞には人望、徳が無い
エ:足利尊氏は後醍醐天皇と対立する構想を持つ訳では無く、本心は、なお、和睦を
  望んでいる。戦況が後醍醐天皇側に有利な今の中に新田義貞を切捨てて足利尊氏
  と和睦すべし

こうした事を腹に、楠木正成は、勇気を以て後醍醐天皇に下記“奏聞(そうもん=天皇に申し上げる事)”を呈している。

“(新田)義貞を誅伐せられて(足利)尊氏卿をめしかへせられて、君臣和睦候へかし、御使におひては正成仕らん”

=解説=“足利尊氏と和睦をし、召し抱え、新田義貞を討つべきである。その交渉は私
     が行なう”

楠木正成は“足利尊氏の真意は後醍醐天皇と対立する事では無く、なお、和睦を求める事である”と見抜き、武門間の主導権争いの相手である新田義貞を切る事によって和睦は成ると進言したのである。

5-(9)-②:“奏聞”は後醍醐天皇の“勘気”に触れ、楠木正成は“謹慎”と成る

自らの“理念・構想”に妥協を許さない後醍醐天皇は己に向けられた批判に怒り、楠木正成の進言を拒絶したばかりか、謹慎を命じた上に、追討軍からも外した。以後、楠木正成を遠ざけたのである。

こうした展開に到った理由として、先ずは楠木正成の出自の低さが否めない。楠木正成は明治維新後の明治13年(1880年)に“正一位”という最高の官位を追贈されているが、生存中は従五位下(従五位上との説もあるが)の官位であり、これは既述した様に足利尊氏(1335年8月時点で従二位)、新田義貞(1333年8月で従四位上)と比べても格段に低い官位だった。それ以上に影響したのは、楠木正成が“護良親王の配下”であった事とされる。

これを裏付ける史実として“護良親王”が逮捕され、鎌倉に幽閉された直後に、楠木正成が“建武政権”の多くの役職を辞任した事が挙げられている。

こうして、後醍醐天皇によって進言を退けられ、追討軍からも外され、遠ざけられた楠木正成は、この時点で“建武政権”の先行きを絶望視したと“梅松論”に書かれている

5-(10):“改元”をした後醍醐天皇

1336年 2月29日:“建武”から“延元”に改元

後醍醐天皇は1333年に六波羅探題が陥落し、船上山から京に帰還する際に光厳天皇を廃すると共に、それまでの“正慶”を“建武”に改元したが、その折に公家達が猛反対したという経緯がある。

“武”という物騒な文字が含まれる事、更には“建武”の元号は中国の“後漢(AD25年~220年)”の初代皇帝で“漢倭奴国王印(金印)”を“倭国”の使者に与えた事で知られる“光武帝(生:BC6年没:AD57年)”が“王莽”を滅ぼして漢王国を再興(=後漢)した、1300年も前の元号“建武(けんぶ・・と読む)”を其のまま用いるという“先例”の無い改元であった為、猛反対したのである。

公家達が危惧した通り“改元”後の“建武政権”は“戦乱に継ぐ戦乱という状況が続いた。そうした背景があった為、後醍醐天皇は足利尊氏軍に勝利し、京から追い出した時点で“延元”に改元したのである。

しかし足利尊氏はこの改元を受け入れず“建武”の元号を使い続けた。

5-(10)-①:天皇と“改元”について

“改元”はその理由を基準にして、主として下記4ケースに分類される。
 
①:君主の交代に拠る“代始改元”
②:吉事を理由とする“祥瑞(しょうずい=吉兆)改元”
③:凶事に際してその影響を断ち切るための“災異(さいい=天災地変)改元“
④:三革(革令=甲子の年、革運=戊辰の年、革命=辛酉の年)を区切りと見做して
  行われる“革年改元”

②の代表例としては国産の銅の鉱脈が武蔵国で発見された“吉事”で708年、第43代元明天皇(女性天皇)の時にそれまでの“慶雲”から“和銅”に改元した例がある。

天災や大地震などが続いた③の事例も多い。一番多いのが④のケースで、王朝が交代すると伝えられる“辛酉の年”に先んじて改元する事で、革命が起こらない様に改元する慣習があった。又、反乱が起こるとされた“甲子の年”にも改元する事が多かった。

幕末の混乱期の天皇であった第121代孝明天皇(生:1831年・即位1846年崩御1866年)から明治天皇(第122代:生1852年崩御1912年:即位1867年)迄の21年間に元号は①弘化②嘉永③安政④万延⑤文久⑥元治⑦慶応と7回も変えられている。3年に一度、改元が行われたのである。

又、改元の際の新元号のスタートを何処に置くかについても下記4ケースがある。

(I):立年改元・・改元が布告された時点で布告された年の元旦に遡って新元号の元
          年と見做すケース

(Ⅱ):即日改元・・改元が布告された日から後を新元号の元年とするケース

(Ⅲ):翌日改元・・布告の翌日から後を新元号の元年とするケース

(Ⅳ):越年改元・・布告の年の末までは旧元号とし翌年の元旦から新元号を用いる
          ケース 

明治の元号の改元スタートは(I)で、大正・昭和への改元スタートは(Ⅱ)であった。そして平成への改元スタートは(Ⅲ)であった事を覚えておられよう。

2016年8月に今上天皇が高齢による生前退位を希望される事を公にされた。この原稿執筆中の現在も(2017年2月)政府が有識者会議を招集してその検討結果をベースに、国会で議論を重ねるという段階にある。現行の憲法、皇室典範等が絡み、様々な制限がある中で今上天皇一代に限った措置とするのか、恒久的な措置を考えるべきなのかの議論が始まったばかりである。

今上天皇に対する新たな呼称(上皇案が出ている)、新たな元号そして上記した改元スタートの時期(2019年1月1日案など)、皇太子問題(現行下では皇太弟の規定が無い問題)、皇居問題等々、国民統合の象徴である“今上天皇”からの“退位希望表明”に対する答えは、各方面への影響も考え合わせると、簡単に答えが出る問題では無い。

何れにしても、この原稿執筆中の2017年2月の時点では、今上天皇に限って適用される“特例法”で対処する案が時間が限られる中では現実的であろうとメデイアは報じているが、天皇制に関する問題は、日本の国家形態の中軸をなす問題でもあり、充分な議論が為される事が必要であろう。

憲法上、国民統合の象徴という表現で規定されている“天皇”は、実態面で“君臨すれども統治せず”という位置付けである。海外から“日本の国家元首にお会いしたい”と要請があった場合の対象は“天皇”である。

このブログの主要テーマ“日本の特異性とその歴史的根拠”で軸となるのは“天皇家の歴史”である。同一の皇統で125代も継承されて来た“世界最古”の国である事が“日本の特異性“そのものなのである。その“天皇家”の皇位継承の在り方に関わる問題であり、日本の“文化”にも関わるという、極めて重要、且つ、デリケートな問題の議論が始まったと言う事である。

今上天皇の年齢を考慮すれば、議論に途方もない時間を掛ける事は許されない。従って“特例法”での対処案が出ている訳であるが、上記した観点から、今上天皇への対応案が決定された後も議論を重ねて行くべき問題である。

今上天皇が1989年1月7日に即位して以来、1995年1月の阪神淡路大震災、同3月に起きた地下鉄サリン事件、2011年3月11日に起きた未曽有の東日本大震災、そして2016年4月の熊本地震・・と、歴史に残る規模の凶事、天災地変が連続して起こっている。

“天皇は国民の幸福の為に祈る存在である“とされるが、歴史を辿れば、過去の天皇には“改元”や“退位”という手段に拠って“凶事の連鎖を断つ”という事が為されたという史実がある。しかし現行の“皇室典範”等の下では“一世一元制”などの制限があり、歴史上の天皇の様には行かない。

5-(10)-②:“一世一元制”と皇室典範について

“一世一元制”は1868年(明治元年)の明治維新に際して当時、新政府の議政官の立場にあった従三位・公家の岩倉具視(生:1825年没1883年)が主張し、9月8日に詔が発せられ、“行政官布告第一号”として導入された。これに拠って天皇一代の元号は一つだけとし、元号はこの時から天皇の統治年を示すものとなった。

1889年(明治22年)2月11日に“大日本帝国憲法”が制定された。“皇室自立主義”を建前としており“皇室典範”の制定、改正には国民や帝国議会が一切関与する事が出来ない“天皇による勅定”の法典であった。当時は“大日本帝国憲法”と並んで“皇室典範”は日本の根幹をなす法典だったのである。

第二次世界大戦後に日本を占領統治下に置いたGHQの強い意向によって“旧皇室典範”は廃止された。1947年5月3日に施行された“日本国憲法”と同時に新しい“皇室典範”が施行された。名前は同じだが、旧皇室典範と根本的に異なるのは一般の法律と同じ位置付けとなり、その改正は国会が行い、皇室の制度そのものに国民が国会を通じて関与する事に成った点である。

現在の皇室典範は下記構成となっている

・第一章 皇位継承
・第二章 皇族
・第三章 摂政
・第四章 成年・敬称・即位の礼・大喪の礼・皇統譜及び陵墓
・第五章 皇室会議

ここでは詳細は触れないが、実質的な日本の“国家元首”に関わる法律であり、一読して置く必要があろう。

5-(11):九州に渡った足利尊氏はその人柄故に多くの支援者に迎えられた

1336年2月20日:

足利尊氏は長門国赤間関(山口県下関市:壇ノ浦の合戦で入水した6歳の幼帝第81代安徳天皇を祀る赤間神社がある)で少弐頼尚(しょうによりひさ=生1294年没1372年)に迎えられ、更に筑前宗像大社の宗像氏範も支援に加わる。 

足利尊氏は九州に落ち延るが、ここでも“武家政権の再興”を尊氏に託す多くの武将、支援者に迎えられている。後醍醐天皇の“追討令”によって九州でも“建武政権”軍との戦闘が展開されるが、圧倒的勝利を収める。結果的に足利尊氏の九州退去は“京への大返し”の足固めとなったのである。

九州での足固めの経緯を記述する前に、こうして多くの支持者を集め、武家政権の再興を成し遂げる“足利尊氏”とは一体どの様な人物であったのか、について記述して置きたい。

5-(11)―①:夢窓礎石が残した足利尊氏の人物評

(工):夢窓礎石という人物について

ア:夢窓礎石は至尊(天皇家・貴族)至強(足利幕府・武家層)双方から帰依を受
  け、幅広い人脈を持った偉大な僧と伝わる。彼は1275年(建治元年)佐々木朝
  綱の子として伊勢に誕生し、1351年(観応二年)に76歳で没する。その教導力
  は政治面にも及び、聖俗両界に絶大な影響力を持った禅僧であった。

イ:宋朝風禅院の修行を積んだ後、1299年、建長寺に住していた来朝僧の“一山一寧
  (いっさんいちねい)”に師事したが、官寺の虚飾に懐疑を抱いて“一寧”のも
  とを去り、鎌倉万寿寺に住していた後嵯峨天皇(第88代:即位1242年譲位1246
  年)の皇子・高峰顕日(こうほうけんにち:生1241年没1316年)に師事する。

ウ:高峰顕日の法を嗣いだ後の1308年に甲斐国の浄居寺(じょうごじ=山梨市)を再
  興した二階堂貞藤(生:1267年没:1335年・鎌倉幕府の御家人で北条高時の時期
  に政所執事を勤め、幕府軍として千早城攻めにも参加。鎌倉幕府滅亡後に建武政
  権に赦されて雑訴決断所で北海道を管轄した人物)の招きで浄居寺の開祖とな
  る。

エ:こうした経歴から公家社会、そして鎌倉の武家社会の双方に有力な人間関係を築
  いている。初めに後醍醐天皇の帰依を受け、後には細川顕氏の仲介で足利尊氏・
  足利直義からも信任を得た。

オ:室町幕府(1338年~1573年)が開かれた直後の1339年に、崩御した後醍醐天皇の
  菩提を弔う為、大覚寺統の離宮であった亀山殿を寺として造営する事を足利尊氏
  に強く勧めた。その為の資金を調達する為“天龍寺船”を元(蒙古帝国・1271年
  ~1368年)に派遣している。“天龍寺”の落慶供養が行われたのは後醍醐天皇の
  七回忌の1345年8月(康永4年)であった。

カ:この落慶供養の式に“光厳上皇”は出席を望んだが、延暦寺衆徒が反対し、強訴に及
  んだ為、断念したという記録がある。当時の“北朝と南朝”の関係を物語る史実であ
  る。天龍寺は開基を足利尊氏とし、開山(最初の住職)を夢窓礎石としている。

(Ⅱ):夢窓礎石の残した足利尊氏人物評(梅松論)

ア:心が強く合戦で命の危険に会う事も度々だったが、その顔には常に笑みを含んで
  全く死を怖れる様子が無い

イ:生まれつき慈悲深く、他人を恨むという事を知らず、多くの仇敵すらを許し、し
  かも彼らに我が子の様に接した

ウ:心が広く物惜しみする様子が無い。金銀すら、まるで土か石かの様に考え、武具
  や馬等を人々に下げ渡す時も特に確認するまでも無く、手に触れるに任せて与え
  てしまう

(Ⅲ):上記を裏付ける史実

ア:矢が雨の様に足利尊氏の頭上に降り注ぐ戦場で近臣が“危険だから”と自重を促し
  た。尊氏は笑って取り合わなかった。同様の事が“源威集”にも書かれている。こ
  の書物は南北朝後期の14世紀後半に書かれた軍記物で“河内源氏による武家政権”
  である鎌倉時代と室町幕府の正統性、並びにそれを支えた東国武士の活躍を描い
  ている。著者は足利尊氏に臣従し、その後も足利義詮、足利義満の室町幕府3代の
  将軍から信任を得た結城直光(生1330年没1395年)説が有力である。

イ:足利尊氏が敵に対して寛容だった事については畠山国清や斯波高経の例の様に一
  度敵方に走った者でも許容し、幕閣に迎えている

ウ:又、尊氏の部下への気前の良さについての逸話は多い。旧暦8月1日は“八朔(はっ
  さく=八月朔日を略してこう呼ぶ)”の日である。農家で新穀の贈答や、豊作祈
  願、与祝(前もって祝う行事)が行われ、足利尊氏のもとには山の様に贈り物が
  届けられたが、尊氏はこれを届いた傍から次々と人に与えてしまい、その日の夕
  方には贈り物が何一つ残らなかった事が記されている。(梅松論)

エ:戦場で武功を立てた武将に即座に恩賞を約束する“軍陣の下文”を尊氏は直接与えた
  と言う。恩賞を約束された武将達の感激はひとしおで、他の武将達も競い合う様
  に軍忠に励むようになったとされる。

5-(11)-②:足利尊氏の政治家としての短所とそれを見事にカバーした弟・足
         利直義

“梅松論”や“源威集”は足利氏に拠る室町幕府の正当性を記述した“史料”であるから、書かれた事の全てを鵜呑みにする訳には行かない。他の史料、並びにその後の史実展開との整合性を取りながら、時には割り引いて読み、又、否定し乍ら読む心掛けが必要である事は言うまでも無い。

“延喜・天暦の政治への回帰”を目指し、天皇親政を基本理念とした後醍醐天皇の“建武新政”の政治は、余りにも現実との乖離が大きく、自分達が報われない政治である事に武士層を中心に多くの人達が気付く。

鎌倉幕府末期の“御内人”など“特権階級化した御家人達”によって搾取された“一般御家人達”は足利尊氏を先頭に立てて、新しい“武家政権の再興”に期待した。しかも足利尊氏と言う人物は上述した様に“鷹揚で無頓着”な人柄であり、そうした人間的魅力に、家臣のみならず多くの武士達が集まった。

“梅松論”によれば、武士達は足利尊氏の指揮下で命を賭し、勇んで戦場に赴いたとされる。

しかし、こうした人間性は同時に政治家としての短所ともなった。上述した“死を恐れない性格”は戦闘で事態が深刻になると、あっさりと“自害”しようとして周囲を何度も慌てさせた。又、後醍醐天皇に背いて“朝敵”の汚名を被りそうな事態に悩み、悔んで1335年11月18日には、鎌倉の浄光明寺に籠ってしまった事は既述の通りである。

足利尊氏を“勇気のある武将というよりも生死に対する執着が無い武将”だとの説もある。そうした人間性から、親族はじめ、上司や腹心の部下に対しても、あっさりと切捨てる事が出来る武将、又“八方美人だが、状況が悪く成ると簡単に投げ出してしまう人物だった”とする説もある。

以上の様に足利尊氏に関する人物評は“群盲、像を撫でる”状態だが、共通している事は器量の大きな好人物だが、掴みどころの無い人物であったという事であろう。

鎌倉幕府御家人トップの立場であり乍ら、北条得宗家に弓を引き、倒幕運動の主力となった行動、後醍醐天皇に寝返った後に今度はその“建武政権”では反旗を翻した動き、更には、次項で記述する“室町幕府”を共同で成立させ、最も信頼していたはずの弟・足利直義を滅ぼした動きなど、がこうした人間性を裏付ける行動として挙げられている。

しかし乍らこうした行動は、この“中巻”の共通テーマである“武士層の出現によって始まった混乱と闘争500年の歴史”に登場する多くの“覇者”にも共通して見られる行動とも言えるのである。

武将としては並外れた能力を持っていたが、政治家としては多くの弱点を持つ兄の足利尊氏を見事に補い、室町幕府創設という覇業を補佐し、可能としたのは弟の足利直義(あしかがただよし:生1306年没1352年)の存在であった事は間違い無い。

5-(12):九州で足場固めに成功した足利尊氏・・“多々良浜の戦い“に勝利する

1336年 3月1日:足利尊氏軍・筑前国に入る。

同年 3月2日:“多々良浜の戦い”

足利尊氏・直義軍は福岡“多々良浜”で後醍醐天皇方の“菊池武敏(九州熊本菊池氏第12代当主菊池武時の子息)”や“大友貞順軍”に圧勝する。“建武政権“軍は兵力では桁違いの大軍勢であったが、日和見の武将や、容易に足利尊氏の調略に乗って寝返りする武将が多かった。

“武士達の現実のニーズ、期待に対応する“足利尊氏の政治手法に、次々と寝返る武将が増え、足利軍は勝利を積み重ねた。結果、ほゞ九州全域が足利尊氏側に付く状況となったのである。

=戦力比較=

“多々良浜の戦い”に於ける“建武政権軍”は“菊池武敏軍”が中心で、他に確かな後醍醐天皇方と言える部隊は“阿蘇惟直軍”位であった。肥前国の松浦氏の離反等、混乱が続発し、足利尊氏軍には多くの九州の武士達が味方に付いた。当初、兵力的にも圧倒的に不利とされた足利軍はこの重要な戦いに圧勝する。

      菊池軍(南朝軍)            足利軍(北朝軍)

  指揮官:菊池武敏・・当主菊池武時の九男     :足利尊氏
      阿蘇惟直・・肥後国の武将。九代当主    少弐頼尚・・生1294年
            敗れて自害する              没1372年

              
  兵員戦力(諸説あり)20,000人            同左 2,000人   
                
5-(12)-①:明治維新後に九州地区の“南朝功臣”として祀られた“菊池氏”

上記した筑前国(福岡県)“多々良浜の戦い”で足利尊氏軍と戦った“菊池武敏”は菊池氏12代当主の菊池武時(生:1292年没:1333年3月13日)の九男である。

菊池武敏はこの戦いで敗れたが、本国(肥後=熊本)まで逃れ、1341年頃まで存命だったとの記録がある。

父の菊池武時は1333年3月に鎌倉幕府の鎮西探題を襲撃した合戦で敗れ、子の菊池頼隆を含め一族200余名と共にその首が犬射馬場に晒されたが、2ケ月後の1333年5月22日に鎌倉幕府が滅亡すると、その3日後には、それまで倒幕軍に加わらなかった少弐貞経・大友貞宗等、九州の武士達が一斉に倒幕側に転じる結果となり、菊池武時の仇を討つ格好で鎮西探題を滅ぼす結果へと繋がった。

倒幕が成った後に、楠木正成は“菊池武時”を“倒幕運動の端緒を開いた英雄、忠臣第一”と褒め称え“建武政権”は菊池武時の子息・菊池武重(菊池氏13代当主)に恩賞として“肥後一国”を与えている。

5-(12)-②:菊池神社訪問記・・2016年8月11日

菊池神社は熊本県菊池市隈府1257にあり、創建は1870年(明治3年)である。1878年に旧社格の“国家に功労のあった人を祀る”神社に位置付ける“別格官幣社”となっている。

暑い最中の2016年8月11日に熊本出身の同好の友人と“菊池神社”を訪ねた。この神社は菊池氏が本拠地とした守山城(菊池本城)のあった場所に建てられ、上記した勇猛果敢な武将、菊池氏の12代当主、菊池武時(生:1292年没:1333年3月)、その嫡男で13代当主の菊池武重(生:1307年没:1338年)その弟・15代当主・菊池武光(生:1319年没:1373年)の3名を主祭神として祀る他、菊池氏一族の26名も配祀された“建武中興十五社”の中の一社とされた神社である。

尚、14代当主“菊池武士(きくちたけひと:生1321年没1401年=菊池武時の12男)”は柔弱で当主としての才覚にも乏しく、兄の菊池武光に拠って廃され、追放された当主であった為、祀られていない。

明治維新後、明治新政府は“南朝”を正統な皇統と決め、その際、当時の後醍醐天皇方に尽くした多くの人々を顕彰しているが、九州地区の“南朝功臣”として、明治35年(1902年)に、菊池武時に従一位が贈られ、そして、子の菊池武重と菊池武光には従三位が贈られている。更に明治政府は、菊池氏の子孫に“男爵位”を与えるという顕彰ぶりであった。

境内にある“菊池歴史館”に入ると、菊池千本槍・菊池神社文書など、重要文化財が展示されており、菊池氏500年の歴史を紹介している。

尚、菊池神社は2016年4月14日に起きた最大震度7の“熊本地震”で大被害を蒙った“益城町”から僅か26㎞しか離れていない。我々の訪問は大地震から4カ月も経っていたが、益城町は倒壊した無残な家並が依然として手つかずの侭の状態であった。幸いにも“菊池神社”は大地震による被害を殆ど蒙っていない状態であった。

5-(13):九州を制圧した足利尊氏は京への“大返し”を開始する。この間“新田義
       貞軍”は播磨国で“赤松円心”軍の“白旗城”を攻めあぐみ、時間を浪費して
       いた。

5-(13)-①:九州地区の基盤固め(後の九州探題)を行い、海路と陸路の双方
         から京への進軍を開始した“足利軍”

1336年4月3日:

九州に一門の“一色道猶(=範氏:生1300年没1369年・多々良浜の戦いで菊池武敏らを撃破した)“二木義長、小俣氏連らを残し、足利尊氏・直義軍は博多を発つた。

“一色道猶”は鎌倉幕府時代の“鎮西探題”の流れを汲む“鎮西管領”と呼ばれる職に就く。これは、室町幕府の於ける九州管轄の出先機関としての嚆矢(こうし=最初)となった。

足利尊氏は“高師直”らと共に海路をとり、瀬戸内海を東へ向かった。途中、四国で細川氏、土岐氏、河野氏らが率いる船隊と合流している。弟の足利直義軍は陸路で京を目指して進軍した。

5-(13)-②:“赤松円心”軍に2ケ月以上も足止めを喰った新田義貞軍

1336年 3月~5月:

一方、“勝ち戦”だった“建武政権”軍は後醍醐天皇の“理念先行”の政治のあちこちに破綻が見え、早くも“機能不全”の状況に陥っていた。そうした綻びは軍事面にも現われ始めていた。

足利軍が九州に落ち延びていた1336年3月~5月の間に、足利尊氏討伐の為、京都を6万の兵で出た新田義貞軍は“播磨赤松の白旗城”で僅か2000人の“赤松円心(当初は護良親王の令旨を受け、逸早く鎌倉幕府討伐の挙兵をし“建武政権”成立に貢献し、播磨守護職に補任された。しかし、護良親王の失脚で連座し、播磨を没収された事から新政権から離脱した。“中先代の乱”以降、足利尊氏方に寝返った人物:生1277年没1350年)”の軍を攻めあぐみ、この戦いに釘付けと成り、2カ月という貴重な時間を空費する結果となったのである。

5-(13)-③:何故“北畠顕家”軍は“湊川合戦”に参戦しなかったのか。

九州から足利尊氏、直義軍が京へ“大返し”を開始した1336年4月には“建武政権”軍の主力とも言える“北畠顕家”軍は奥州に帰還したばかりであった。

3月20日乃至24日には奥州の足利方を掃討する為に陸奥へ向かい、その途上、相模で足利軍の“斯波家長”と戦い、4月にこれを破っている。更に“相馬氏”との合戦に勝利して奥州へ帰還したのが1336年5月という状態であった。

従って九州から京へ大返しをして来た“足利軍”との“湊川合戦”には参加出来なかったのである。

5-(14):湊川の戦い(湊川合戦)・・1336年5月25日

5-(14)-①:足利軍が九州からの“大返し”途上だとの報に赤松則村(円心)軍は
         力を得て、新田義貞軍の追撃に移る

新田義貞軍は赤松則村(円心)軍の籠城作戦を攻めあぐみ、時間を空費していた。九州で力を蓄えた足利軍が“京への大返し”の進軍を開始したとの情報が赤松則村(円心)軍にも入り、これに力を得た赤松軍は新田軍追撃に出た。新田義貞軍は、戦況が悪化する状況に、足利軍への寝返り、投降が大量に出る事態となり、一気に弱体化し、兵庫まで退却する事態となった。

5-(14)-②:“官軍総大将・新田義貞”が苦戦する事態に、後醍醐天皇は謹慎させ
         ていた“楠木正成”を新田義貞軍の麾下(きか=大将新田義貞の指揮
         下)の援軍として参戦する事を命ずる。

1336年 5月23日:

既述した様に“新田義貞”は実質的な“官軍総大将”ではあったが、主力とも言える“北畠顕家”軍に対する指揮権を発揮出来る立場では無かった。“建武政権軍”として総力発揮に到らない状況で“足利軍”の“九州からの大返し”を迎え撃たなければならなかったのである。

“謹慎”から急遽、駆り出された形の楠木正成は“建武政権”軍の敗戦を見抜き、諦めの境地から、以下の言葉を残して“湊川合戦”に臨んだとされる。

“天下君を背き奉る事明し、しかる間、正成存命無益なり、最前に命を落べき”

=解説= 世は後醍醐天皇に背を向けている事は明らかであり、私が生きている意味は無い。最前線で戦い潔く命を捧げん

楠木正成は僅か700の兵力で出陣した。“この度は君の戦かならず破るべし”と捨て台詞めいた言葉を残して兵庫の戦場に赴いたのである。

湊川の戦場に赴く途中、桜井駅(大阪府島本町)で子息の楠木正行(くすのきまさつら=生:1326年?没:1348年)と今生の別れを遂げた有名な“桜井の別れ”の場面が太平記に書かれている。楠木正成(大楠公)は“自分は死ぬがその後は父に代わって天皇を助け、最後まで守り尽くす様に”と嫡男・楠木正行(小楠公)に告げ、彼を故郷の河内に帰したとされる場面である。

この史跡は今日、国指定史跡“桜井駅跡”としてJR京都線の“島本駅”のすぐ側にある。承久の乱(1221年)を起した後鳥羽・土御門・順徳天皇が祀られている“水無瀬神宮”の史跡もこの駅の近くにあり、2015年8月29日に訪ねた。大楠公(楠木正成)と小楠公(楠木正行)の別れの場面の像や乃木希典・東郷平八郎の筆による関連石碑等が建立され、公園となっている。

5-(14)-③:会下山(えげやま)に布陣した楠木正成は、僅か700の兵力で、勢
         いを増し乍ら進軍して来た“足利軍”との合戦になる

“新田義貞軍”の援軍として駆り出された“楠木正成軍”は、湊川の西側、新田義貞の本陣の北西にあたる“会下山”に布陣した。会下山は現在、神戸市兵庫区会下山町にある標高80~85mの山で、古くから人が生活していた跡があり“現在の神戸の発祥地”と称され、眺めも良く、軍事上の要衝とされた場所である。

二本松(和田岬と会下山の中間)に置かれた新田軍の本陣は、足利尊氏の水軍の上陸に備え、和田岬に、脇屋義助・大舘氏明を布陣させる陣形を取った。

“湊川の戦い”に於ける“足利軍”と“新田・楠木連合軍”の兵力比較を下記に示すが、勢いを増す“足利軍”に対して“新田・楠木”軍から成る“建武政権軍”は“北畠顕家軍“を欠いていた為、足利軍の半数の兵力だった。

足利軍が勢いを増しながら九州から大返しをして来る情報を“建武政権”軍は掴んでいたと思われるが、その際に官軍総大将の新田義貞が“北畠顕家”部隊を参戦させる事が出来なかった。その理由は上述した“北畠顕家軍”の状況があり、又、新田義貞軍自体が“赤松円心軍”に2カ月間も足止めさせられた上に追撃されていたという事情もあった。

“建武政権軍”がこの様に総力結集が必要な戦局で、纏りを欠いた“軍隊”であった理由は既述した様に“官軍総大将”とは名ばかりで、新田義貞には“建武政権軍・全軍”の指揮権を発揮出来る立場に無かった事である。取り分け、相手が戦略、戦術に於いて天才的と言われる“足利尊氏”であっただけに致命的弱点となったのである。

新田義貞が武将達を纏め上げ、鼓舞し、戦闘力を上げる器量という面でも足利尊氏に比べて劣った事も挙げられる。加えて、足利軍を一度京から放逐した勝利で、後醍醐天皇以下“建武政権軍”の士気が弛緩していた事も挙げられよう。

“建武政権”軍の全ての弱点が露呈した“湊川合戦”だったと言えよう。

=両軍の兵力比較=

   足利軍             新田・楠木軍

陸軍・足利直義           新田軍・新田義貞
   高師泰                脇屋義助
   斯波高経               大舘氏明
   少弐頼尚               額戸為綱
   赤松則村(円心)                 

海軍・足利尊氏           楠木軍・楠木正成
                      石井末忠(安芸国在庁官人・戦死)
   細川頼春
   細川定禅
   高師直

   
 戦力:50000人(諸説あり)       戦力:25000人(諸説あり)


5-(14)-④:主力部隊の新田義貞軍が東走し、孤立した楠木正成軍は壊滅する

1336年5月25日:

足利軍は足利直義を司令官とする陸上軍が西国街道を進軍し、その中の“少弐頼尚“が和田岬の新田軍に側面から攻撃を仕掛けた。同じく陸上軍の“斯波高経(尾張足利氏4代当主:生1305年没1367年・室町時代を通して三管領の筆頭となる名家)が“会下山”に布陣した“楠木正成軍”の背後に回った。

海上部隊の細川定禅も生田の森(神戸市三宮・御影付近)から上陸し、新田義貞軍は退路を絶たれる危険を避ける為、西宮(兵庫県西宮市)まで退き、反撃したが、敗れ、東走を開始した。“会下山”に布陣していた“楠木正成”軍を置き去りにして京都まで退いてしまったのである。

和田岬に陣取っていた“新田軍”を東走させた事は足利軍の見事な“分断作戦”であった。新田軍が退去し、誰も居なくなった和田岬からは、足利尊氏率いる海上部隊が悠々と上陸し、孤立した“楠木正成軍”を完全に包囲した。

僅か700の兵力の“楠木正成軍”は足利尊氏・直義の大軍と16度に及ぶ激しい合戦に及んだとされる。多勢に無勢、善戦空しく楠木正成軍は73騎にまで減り、最期を覚悟した楠木正成・弟の楠木正季等は、現在の湊川神社の西北隅に位置する“殉節地“と呼ばれる場所で刺し違え、自害したのである。楠木正成は満42歳であった。

楠木正成が自害に至るまでの状況を“湊川神社略記”は以下の様に記している。

“大楠公(楠木正成)は御子正行卿(小楠公)に後事を託して桜井の駅(現在大阪府島本町桜井)で別れ、兵庫湊川で迎撃、敵は数万、味方は七百余騎、激戦の末、衆寡(しゅうか=多勢と無勢)敵せず、延元元年(1336年)五月二十五日、遂に“七生滅賊(7度生まれ変わって朝敵を滅ぼそう)”を誓って、御弟正季(まさすえ:生1305年?没1336年)卿以下御一族の人々と共に殉節を遂げられた(以下略)”

5-(14)-⑤:“湊川の戦い“関連史跡訪問記・・2016年10月16日

“湊川の戦い”に関わる史跡訪問を友人と行なった。“湊川合戦”の戦場と“湊川神社”である。その訪問記が以下である。

700年続いた武家政治から王政復古が宣言され、明治維新という“日本社会の大変革期”を主導した明治政府にとって、王統が分断された“南北朝”時代という史実をどの様に評価し、位置付けるかは、重要なテーマであったに違いない。

結果は、後醍醐天皇の皇統、即ち“南朝”を“正統な王朝”と認め“南朝”側として働いた楠木正成を始め、多くの“南朝の功臣”達を顕彰している。その結果“南朝”と敵対する形となった“足利尊氏”並びに彼が擁立した“北朝”は日本の正当な皇統を歪めた存在として歴史上位置付けられた。こうした経緯があった事を知った上で“南北朝期”前後の歴史を理解する事が必要である。

上記した明治政府の方針もあって“南朝側に尽くした寵臣”達を顕彰するブームが非常に盛んであった。“湊川神社”もそうした中で建てられた。後醍醐天皇を鎌倉幕府倒幕運動の初期から支え、後醍醐天皇に尽くした楠木正成は“湊川合戦”で敗れ、自刃した。その終焉の地が“湊川神社”となっており、墓地として、又“忠臣楠木正成”を祀る神社として、明治天皇の“御沙汰”によって維新直後に建てられたのである。

(ア):和田岬

足利尊氏は海路、弟の足利直義は陸路から九州からの“大返し”の進軍を行った。海路を進軍した足利尊氏、細川頼春、細川定禅、高師直、等が上陸したのが“和田岬”である。

その“和田岬”周辺に布陣した主力の“新田義貞軍”と湊川西方の小高い“会下山(えげやま)に陣を張った楠木正成軍が陸と海の双方から攻め寄せた足利の大軍勢と戦闘を展開したのが“湊川合戦”である。

和田岬を目指して私達は大阪駅からJR兵庫駅で降り、そこから支線に乗り換えて“和田岬駅”に行こうとした。しかし、当日は日曜日であり、この支線は日曜、祭日は運休との事であった。

JR兵庫駅からバスの利用も考えたが時間の制約もあったので、結局はタクシーで和田岬を訪ねる事にした。タクシーに“和田岬へ”と伝えたが“和田岬周辺一帯は今日ではすっかり広大な工場地帯として埋め立てられ、高い防波堤で瀬戸内海と隔てられている。足利軍が船で上陸した当時の瀬戸内海の和田岬のイメージは全く残っていない“との話であった。残念であったが兎に角、その場所を目指して走って貰った。タクシー運転手さんの言った通りの光景であり、史跡として、当時の様子を残す風景は全く残されていなかった。

運転手さんの計らいで“遠矢の浜(とうやのはま)”と呼ばれる地区にも案内して貰う。この地域も大きな工場地帯であったが、瀬戸内海から繋がる運河を確認した事で、僅かに“海路”を進軍した足利軍を想像する事が出来たが“湊川合戦戦場“の史跡と言える面影は此処でも全く残っていなかった。只、この“遠矢の浜“の地名は、新田軍の“本間重氏”が沖にいた足利軍に遠矢を放ち、見事命中させ、喝采を浴びたという“史実”に基づいたもので、和田岬小学校にその記念碑が残されていると言う事ぐらいが、当時を語る貴重な“史跡”であった。

尚、後日分った事だが、地下鉄を利用すれば休日でも和田岬駅に行く事が出来る。

(イ):“湊川神社”

“和田岬・遠矢の浜”を周回した後、これらの場所からそう離れていない“湊川神社”迄タクシーで行く。湊川神社の住所は神戸市中央区多聞通3丁目1番1号である。JR神戸駅からも市営地下鉄海岸線の“ハーバーランド駅”から徒歩で3~5分程の至近距離にある。

正面の案内板には“明治元年(1868年)4月に明治天皇が神社創祀の御沙汰書を下された。よって明治五年(1872年)五月二十四日、社名を“湊川神社”初めての別格官幣社に列せられ創建された”と書かれている。

神社の南側に位置する“表神門”から入ると、右側に“嗚呼忠臣楠子之墓”と書かれた墓碑がある。この八字は水戸藩主を辞した後に“大日本史“編纂を手掛けた事で有名な”水戸光圀“が自ら筆を執って書いたものである。

水戸光圀は忠誠と正義を以て生涯を貫いた楠木正成を非常に慕い、元禄5年(1692年)、この地に“墓碑”を建立して顕彰している。そうした関係から、昭和30年(1955年)7月に“徳川光圀公銅像”も建立されている。

徳川光圀を祖とする“水戸学”では、朱子学名分論の影響を強く受けて、皇統の正統性を重視した“尊王思想”を説いている。そして後醍醐天皇に“忠義”を尽くして自刃した楠木正成を“忠臣”として顕彰する一方で“足利尊氏”を後醍醐天皇を放逐した“逆賊”として否定的に扱った。

こうした考えは“尊王攘夷論”が高まった幕末期、そして“王政復古”が成った明治期には“国策”としても強まり“南朝が正統な王朝である”と明治政府が結論付けて以降は“定説化”されたのである。

楠木正成の墓については第6-7項の“観心寺”訪問記の中で“首塚”がある事を記述した。湊川神社の神職に説明を求めると“観心寺”に楠木正成の首塚が造られた事は史実であり、湊川神社には楠木正成の胴体部分が埋葬されたと伝わるが、こちらの話は事実かどうかの確たる裏付けは無いとの事であった。

表神門から入って左に行くと“宝物殿”がある。“大楠公着用”と伝えられる“段威腹巻(だんおどしはらまき=重要文化財=鎧“や大楠公御真筆と書かれた”法華経奥書“更には“非理法権天=ひりほうけんてん”と書かれた“菊水”の楠木家の家紋(流水に菊花が浮かぶ絵柄)を施した“旗印”など、多くの楠木正成に関する宝物が展示されている。

(ウ):湊川神社境内の殉節地・・史蹟“楠木正成戦没地”

湊川神社の西北隅、一番奥に“殉節地”がある。この史跡を見学する為には社務所に申し入れる必要がある。神職が付き添い、錠が掛けられた“殉節地”の門を開けて史跡の中に入った。

“楠木正成”等が自刃したとされるこの場所は、林の中の小高い丘になっている。“当時は農家”であり“湊川の合戦“に敗れた楠木正成は、弟・楠木正季(くすのきまさすえ:生1305年没1336年)と共に、僅か76騎でこの場所まで落ち延びた。

“もはや之まで”と覚悟した楠木正成は、弟・正季と“七たび人間に生まれ変わっても、朝敵を滅ぼす”と誓い、互いに刺し違えて自刃した。この“七生滅賊”の故事は明治維新になって“国に報いる”との意味に置き換えられ“七生報国”の言葉が生まれたとの説明であった。

“殉節地”の前には“楠木正成公戦没地”と書かれた説明版があり、以下の様に書かれている。

“此の地は延元元年〈1336年〉五月二十五日楠木正成公(大楠公)が一族十六騎、郎党六十余人と共に自刃せられた所である。明治元年(1868年)明治天皇は大楠公を千載の一人、臣氏の亀鑑として鎮祭すべき旨仰せ出され此の地を含めたところに湊川神社が創建せられたのである”

(ウ)-I:佐賀藩の尊王思想との深い関係が分る“建碑郡”

“殉節地(自刃地)”の前には“贈正三位正成卿碑前”と刻まれた石碑が多数奉納されている。その中に“元治元年(1864年)九月・播州尼崎城主源朝臣忠興”と刻まれたものがあった。徳川の譜代大名“松平忠興(生:1848年没:1895年)”の建碑である。

この石碑が奉納された日付の2ケ月前の1864年7月には“禁門の変(=蛤御門の変)“が起き、長州藩の久坂玄瑞ら400人が会津、薩摩、大垣、桑名藩に新選組を加えた幕府軍との戦で戦死している。

又、1ケ月前に当たる1864年8月には“仏・英・米・蘭”の四国艦隊が長州藩が行った砲撃に対する報復の砲撃を行い、諸外国の強さを知った長州藩は“尊王攘夷”から“尊王倒幕”へと舵を切っている。

真に幕末の大混乱の時期であった。

松平忠興は後の戊辰戦争(1868年1月)では新政府に恭順し、所領を安堵されている。翌月1868年2月には“徳川氏との訣別の証”として姓を“桜井”に改称した人物である。
この建碑から“譜代大名”の彼が明治維新の3~4年前から尊王の強い志を持ち、この建碑をしていたのだ、という事が実感出来た。

“殉節地”には、こうした幕末の石碑の他に江藤新平、参議大隈重信、参議大木高任等、佐賀藩出身の“明治維新の立役者”達が奉納した石碑が並んでいる。

彼らは“義祭同盟”の同志であり、後に佐賀藩の“尊王倒幕運動”の中心になった人々だと、神職の説明が続いた。

“佐賀藩”が古くから楠木正成を顕彰していた事は、1663年(寛文3年)に“楠公父子桜井の駅決別の像”の制作を京都の仏師・法橋宗而に依頼した事からも判明している事、又、佐賀大和町永明寺で毎年、祭祀を行い、その場に藩主・重臣等200名が参加していたという史実からも裏付けられているとの事である。

その後、佐賀藩士で藩校“弘道館教授・国学者の枝吉神陽(えだよししんよう=生1822年没1862年)”が1850年(嘉永3年)に“日本一君論”を掲げて勤王運動を唱え、結成したのが“義祭同盟”である。

当時の天皇は明治天皇の父親で第121代孝明天皇(即位1846年崩御1866年)であり、将軍は第12代徳川家慶(いえよし=生1793年没1853年)であった。当時の政情はペリー来航(黒船)の3年前で、諸外国から日本への開国要求が強くなった時期である。こうした時代に、日本を天皇を中心とした近代国家に作り変えようという動きが“佐賀藩”でも起こっていた事が、この“建碑郡”から蘇って来る。

この義祭同盟から枝吉神陽の実弟の副島種臣(そえじまたねおみ・第3代外務卿)、大隈重信、江藤新平、大木高任・島義勇(しまよしたけ・北海道開拓の父)、久米邦武(くめくにたけ・生1839年没1931年・国史の編纂に尽力、晩年は大隈重信の招きで東京専門学校で教鞭)等、明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出している。

湊川神社の“殉節地”に“肥前国・佐賀藩士”が奉納した石碑群が多数、建てられている理由は以上の背景からであった。

(ウ)-Ⅱ:大相撲歴代12人目の横綱“陣幕久五郎”の建碑

石碑は“明治四年辛未十月角觝三日”と表面に刻まれ、裏面に“陣幕久五郎”の名が刻まれた高さ3m程、幅30cm~40cm程の角柱であった。

“陣幕久五郎(生:1829年没:1903年)”は相撲フアンなら聞いた事がある名前だと思うが、歴代12人目の横綱である。2017年1月27日現在、1月場所で優勝した“稀勢の里”が第72代横綱となり、今日、明治神宮で奉納土俵入りが行われた。19年振りの日本出身横綱の誕生に日本中が沸いている。

陣幕久五郎が横綱免許を受けた慶応3年(1867年)4月は、半年後の1867年10月14日に将軍徳川慶喜が大政奉還上表を朝廷に提出し、その1カ月後の11月15日には坂本竜馬が中岡慎太郎と共に暗殺されたという、明治維新前夜の大混乱の時期であった。

陣幕は横綱免許を受けた僅か7ケ月後の1867年11月に引退している。彼は1864年以降は薩摩藩の“お抱え力士”となって居り、西郷隆盛や藩主の島津忠義と近い関係だったとされる。“明治維新”の中心となった薩摩藩の“横綱”であるから、彼の引退も当時の政情と無関係とは思われない。

相撲は江戸時代には既に興行として成り立っていたが、流石にこの時期は相撲興行どころでは無かったであろう。そのような状況も陣幕の引退に關係したものと思われる。

陣幕久五郎は引退後の働きも目覚ましかった事で知られる。大阪相撲に戻り、大阪会所の頭取として大阪相撲の発展に寄与し、又“相撲興行”の発展にも尽力した。又“建碑運動”に熱中した事でも知られ“建碑狂”の異名をとった程である。

相撲の起源、その後の朝廷との関わりに就いては第一章3項で詳述したが“神技”としての“相撲”と“神社”との関わりは深い。そうした点からも“元横綱・陣幕久五郎”の建碑が湊川神社で見られた事に全く違和感は無い。

陣幕の建碑の日付は引退4年後の明治4年(1871年)10月である。王政復古を唱える明治政府の中心となった薩摩藩の“お抱え力士”であった“陣幕”が、明治天皇お声掛かりの“湊川神社”を訪れて“顕彰碑“を奉納したという事であるが、その下に“角觝三日”と刻まれている。“角觝(かくてい)”とは“相撲”を意味する言葉であるから、相撲興行の三日目に訪れたという事であろう。

余談だが、陣幕久五郎の建碑で最も有名なものは東京の深川八幡にある“横綱力士碑”である。彼はこの建碑の為の寄付金集めに奔走した。そして、元来“大関”が番付上で最高位であり、横綱は“地位”では無かったものをこの碑を建てた際に、横綱の“一覧碑”に“第何代横綱”と刻んだ。この事が、以後“横綱”が地位としての存在を明確にして行く切っ掛けとなったとして、陣幕久五郎の功績が大とされたのである。

5-(15):後醍醐天皇は再び比叡山に避難し、光厳上皇が“東寺”に御所を構える

1336年5月27日:

京都に迫った足利軍から逃れる為、後醍醐天皇は“三種の神器”と共に山門(比叡山)に避難した。千種忠顕・新田義貞・義顕父子と新田一族、名和長年並びに、吉田定房、万里小路宣房、洞院実世などの公卿、官人等が行動を共にした。

5-(15)-①:“三木一草”の千種忠顕も足利軍に討たれる

1336年6月5日:

“千種忠顕”が山城国西坂本の雲母坂(京都市左京区修学院音羽谷)で足利直義軍に討たれる。彼は権中納言であった父・六条有忠の次男であったが、学問よりは、笠懸や犬追物などの武芸を好み、淫蕩(酒色に溺れる事)、博打にかまけて父から義絶されたという過去を持つが、後醍醐後天皇が元弘2年(1332年)3月に隠岐に配流された折に随行した公卿である。

後醍醐天皇の隠岐脱出や六波羅探題攻め等、功績大として建武新政では重用され、結城親光・名和長年・楠木正成と共に“三木一草”と称され、権勢を振るい、従三位参議、雑訴決断所の寄人(よりうど=朝廷職員)の任に就き、佐渡国など3ケ国の国司職に就いた。

しかし、生来の派手な気質は修まらず、莫大な恩賞を得た後の生活は日夜酒宴に明け暮れ、犬追物や鷹狩に没頭したと伝わる。その際の衣裳は金襴緞子や絞り染めの直垂を着用したと書かれている。1991年のNHK大河ドラマ“太平記”では俳優の“本木雅弘”が千種忠顕役を演じている。

彼の死は“建武政権”軍の退潮を象徴する出来事とされた。

5-(15)-②:光厳上皇は京を離れた後醍醐天皇に代わって、京の“東寺”に御所を構える


1336年6月10日:

5月27日に後醍醐天皇は近臣達と共に比叡山に避難したが、京には多くの公卿・官人達が残っていた。光厳上皇も病気を理由に京に残り、弟の豊仁親王(後の北朝第2代光明天皇:生1322年崩御1380年即位1336年8月1348年譲位)と共に“東寺”に入り、ここに御所を構え“延元”の元号を廃して“建武”に復す事を宣した。

5-(15)―③:“三木一草“最期の一人”名和長年“が戦死する

1336年6月30日:

“名和長年”は、後醍醐天皇が船上山から帰洛の際に護衛を務め“建武政権”では、従四位下の官位が与えられた。“楠木正成”の従五位下(従五位上との説もあるが)とは4ランクも上位で、官職も伯耆守を与えられる等、かなり厚遇され、記録所・武者所・恩賞方・雑訴決断所の役人を務め、後醍醐天皇から非常に重用された人物だった。

彼は山門(=比叡山)から打って出たが、京都大宮(太平記)又は三条猪熊(梅松論)で足利軍と戦い討ち死した。彼の死で後醍醐天皇の“三木一草”と称された全ての側近達が悉く果てた。“歯長寺縁起(はながでらえんぎ=1386年に成立した愛媛県西予市の天台宗寺院の縁起文書)”には、名和長年の死で“三木一草”の4人全員が討死し“聖運傾くべき先兆”と記している。

5-(16):“三種の神器”無しに“光明天皇”が誕生する・・“北朝”の誕生

1336年8月15日:

光厳上皇は9歳年下の同母弟で、当時14歳だった“豊仁親王”を元服させ、続いて“伝国の宣命”の形で“践祚の儀(せんそのぎ=天皇の位を受け継ぐ儀式)”としたと記録されている。ここに“北朝第2代光明天皇(即位1336年譲位1348年:生1322年崩御1380年)”が誕生し、光厳上皇の“院政”が開始された。

この“践祚”は“剣璽渡御(けんじとぎょ)の儀”を伴わない践祚であったと書かれている。“剣璽”とは草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の事であり、渡御(とぎょ)とは神輿(みこし)の事である。光明天皇の践祚が剣・勾玉・鏡の“三種の神器”無しで儀式が行われたという事を伝えている。

“三種の神器”は比叡山に逃れた後醍醐天皇の手の元にあったとされ、従って“光明天皇”は“後鳥羽天皇・光厳天皇”の場合と同様“三種の神器”無しの践祚がなされた先例に準拠を求めたと言う事である。光明天皇が“三種の神器”を受け取るのは、3ケ月後の1336年11月に、後醍醐天皇が比叡山から降りた際である。

光厳上皇は後醍醐天皇が停止した関白の職を復活させ、左大臣だった近衛経忠(生1302年没1352年)を就ける等、公家の政務の在り様を急速に“後醍醐以前”に戻した。この時点での朝廷政治体制(北朝)は“光明天皇の治世・光厳上皇による執政(院政)”という形が整ったのである。

5-(17):“光明天皇”の誕生という大仕事を成し遂げた“足利尊氏”の“願文”から読み取れる“無欲”の人柄

1336年8月17日:“清水寺”に捧げた足利尊氏自筆の“願文”

足利尊氏が上記“光明天皇”誕生という大仕事を成し遂げた直後に“清水寺”に自筆の願文を捧げている。この願文は己の現世の果報に代えて弟・足利直義の安穏を願うもので、巷間伝えられる足利尊氏の“冷酷で狡猾な野心家説”を覆す貴重な史料である。

=清水寺に納められた足利尊氏の願文=

この世ハ夢のことくに候。尊氏にたう心(道心)たハせ(給)給候て、後生たすけをハしまし候へく候。猶なおとくとんせい(遁世)いたしたく候。たう心(道心)たハせ給候へく候。今生のくわほう(果報)にかへて、後生たすけさせ給候へく候。今生のくわほう(果報)をハ直義にたハせ給候て、直義あんおん(安穏)にまもらせ給候へく候

この願文は世を捨て、死後の幸せを祈る気持ちと、己が投げ捨てた“現世”の果報(幸せなさま)に代えて弟・足利直義の安穏を願う内容である。

“光明天皇”を誕生させるという大仕事を成し遂げ、満足感に浸っていても良さそうなこの時期に、足利尊氏は失意の底にでもいるような“願文”を残している。

既述した“夢窓礎石”が書き残した足利尊氏の人物評も、足利尊氏に多くの武将達が従ったという史実からも伺える彼の人柄から“足利尊氏の本心は将軍の地位、他、全てを弟の足利直義に譲る事を願っていた“という説が真実をついていると思われる。しかし、歴史の展開は足利家の正嫡という立場、そして尊氏の性格の寛容さが齎す人望がそれを許さなかったのである。

次項で記述する“室町幕府”はこうした足利尊氏の“本心”を反映し、弟・足利直義との“二頭政治”という形でスタートする。尊氏の本心とは裏腹にこの策が幕府権力を大分裂させる事に成るのである。

5-(18):後醍醐天皇が皇太子“恒良親王”に皇位を譲っていたという史実

5-(18)-①:光明天皇の“践祚”後も足利尊氏は“後醍醐天皇”との融和を求め、
         後醍醐天皇はこれに応じて京に帰還する

1336年10月10日:

足利尊氏は後醍醐天皇に講和の使者を送り、山門(比叡山)からの帰洛を促した。これに応えて後醍醐天皇は下山し、京に帰還する。

この帰還の理由に関しては“太平記・巻17”の記事を中心に下記の様に伝えられている。

足利尊氏の使者は“御興を皇居へお返し下さり、御治世を永久に栄える春にお戻し下さい”と要請した。又、政務を後醍醐天皇に返上するとの起請文が添えられていた事が帰還を決断させたとしている。不利な籠城戦に疲れ果てていた事も後醍醐天皇がこれらの申し入れを簡単に受諾した理由だとの説もある。

何れの理由が史実であるかの定説は無いが、この重大な講和交渉を後醍醐天皇は新田義貞はじめ近臣達に一切伝えず、独断で進め、京への帰還を決めたと“太平記”は伝えている。

後醍醐天皇が帰洛する事を新田義貞ら近臣達は直前に聞かされ、仰天した。新田義貞の猛烈な抗議もあり、こうした近臣達を宥める為、後醍醐天皇はこの日、皇位を当時12歳の寵姫・阿野廉子の3皇子の中で最年長の恒良親王(つねながしんのう:生1324年没1338年)に譲ったとされる。

恒良親王は、1334年に既に皇太子に指名されていたから、譲位としては順当である。真偽の程は分からないが“三種の神器を皇太子・恒良親王に与え、慌ただしく譲位の儀式が行なわれた後に、新田義貞は、恒良親王(天皇?)を奉じて越前国・敦賀へ落ち延びた”と書かれている。名目を“北陸統治”とし、尊良親王(たかながしんのう:生1310年没1337年)も同行し、金ケ崎城(福井県敦賀市)に入ったとある。

このような状況下で後醍醐天皇が“恒良親王(皇太子)”に譲位した理由を、一時的な足利方(北朝)との講和が破綻した場合を想定しての後醍醐天皇の“布石”だとする説もある。
いずれにしても後醍醐天皇と足利尊氏との間の“講和の条件”等について、裏付ける確たる史料は伝わっていない。

同年 11月2日:

比叡山を降りた後醍醐天皇は、光明天皇(北朝第2代天皇・光厳天皇の弟:在位1336年・譲位1348年・生1321年崩御1380年)に“三種神器”を渡し“神器授受の儀”が行われ、譲位の形が整えられた。後醍醐(先帝)には“太上天皇”の号が贈られるが、身は花山院(現在の京都御苑敷地内)に軟禁状態となった。

ここでも後醍醐(太上天皇)は“三種の神器”を渡しているが、後に、この時に渡した“三種の神器は偽物”だったと主張するのである。

この時点で日本の天皇家の状態は“北朝”として①光厳上皇②光明天皇の存在があり、そして花山院に軟禁されている③後醍醐太上天皇の存在があり、加えて、上述した後醍醐天皇から譲位されたとされる越前国の④恒良親王の存在があった。

皇位に絡んで“四人の存在があった”という至尊(天皇家・朝廷)側の状況であり、歴史上、最も混乱した時期であったと言えよう。

5-(18)―②:“三種の神器”は一体どれが本物だったのか、又、恒良親王が“歴代
         天皇”に数えられない理由

後醍醐天皇には多くの皇子、皇女が居り、その数は32名に上った。その中でも寵妃・阿野廉子の産んだ3人の皇子が優遇され、最年長の“恒良親王”は建武元年(1334年)10歳の時に皇太子に指名された。

1336年5月27日に、後醍醐天皇は恒良親王を伴って比叡山に逃れ、同年10月10日に独断で足利方と講和し、下山する直前に恒良親王に譲位し、その際に“三種の神器“も渡されたとの記録がある事を上述した。

一方で、下山した後醍醐天皇が光明天皇(北朝)に“三種の神器“を渡す“神器授受の儀”が1336年11月2日に行われたと“太平記”は記している。

後に吉野山に入り“南朝”を主宰した“後醍醐天皇”が“光明天皇に渡した三種の神器は偽物である”とした話が伝えられるが、いずれも史実としての裏付けに基づいた定説では無い。“三種の神器”についての議論は、この様に混乱した時期の後醍醐天皇の動きに因って“定説”の無い状態と成っている。

1336年11月12日:

天皇家に絡んで“四人の存在”を裏付ける史実として、北陸に在った“恒良親王(天皇?)”の名でこの日付で、各地の武将に綸旨(天皇の命令書)が発給されていた事が認められている。

森茂暁氏は“太平記の群像”の中で“この史実から、恒良親王(天皇?)が、少なくともこの期間に自らを天皇と認識して動いていた“としている。

しかしその後の歴史の展開で、後醍醐天皇が京の花山院から脱出して1336年12月に吉野山に入り“南朝”を自ら主宰した事で、恒良親王の皇位は無意味とされ、歴代天皇には数えられていない。

恒良親王(天皇?)は1338年に没した(14歳)とする説がある一方で、1337年3月6日に落城した越前国“金崎城(福井県敦賀市)”の戦いで捕えられ、花山院第に幽閉された後に毒殺されたとの説もあり、その死については不明である。

6:大混迷の中で“建武式目十七条”が発表され“室町幕府”が成立する・・1336年11月
  7日

平清盛が出現して以来、興った“至強(将軍・幕府・武士層)“勢力が、鎌倉幕府という形で凡そ150年間に亘って覇権を握った。それを倒し、再び至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力による“天皇独裁政治”への回帰を政治理念に掲げた“後醍醐天皇”であったが、至強勢力は除去するには余りにも強大な存在となっていた。

“建武の新政“と称された3年半の期間は”至尊と至強“勢力との”主導権争い“に終始し、結果、この争いを制したのは”至強(将軍・幕府・武士層)“勢力を代表した“足利尊氏”であった。そして“光明天皇”を擁する形で1336年11月7日に“建武式目十七条”を発表し“室町幕府”が成立したのである。

しかし、双方の主導権争いは完全に終息した訳では無く、敗れた“後醍醐天皇”は吉野山に入り“南朝”を主宰する形で尚も抵抗を続ける。

混乱状態は尚も続くのである。


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