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2014年4月17日木曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代の始まりと院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
第10項 足利幕府成立と南北朝の混乱前期・・後醍醐天皇が齎した混乱期

1:南北朝の大混乱期と足利幕府との関係を総括する

前項の末尾で記述した様に、足利幕府の成立は大混乱の状況下であった。日本史上で“南北朝時代”と呼ばれる時期は初代将軍となった足利尊氏と2代将軍の足利義詮の時期がそっくり重なる。南北朝時代は1392年に第3代将軍・足利義満の時期に“南北朝合一”が成り、56年間の大混乱の歴史を閉じる。

足利義満の執政期は将軍職の時期(在職1368年~1394年)並びに将軍職を第4代将軍足利義持に譲り、出家した後も政治の実権を握り続け、1408年5月に病の為51歳で没する迄の実に40年間に及ぶ。従って上記2人に加えて第3代将軍足利義満の執政期の半分を費やして、南北朝の大混乱期は漸く終息するという事である。

2:室町幕府の名称

足利尊氏が1336年(延元元年)8月に光明天皇を擁立し、同年11月7日に建武式目を制定し新たな武家政権の施政方針を示した事を以て“幕府成立”とされる。足利尊氏が征夷大将軍に任じられるのは1338年8月11日であるが上記が定説とされる。

足利尊氏・足利義詮の時代の“幕府”の場所は京都の室町では無かった。第3代将軍として幕府を継いだ足利義満が“邸宅兼政庁”を北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に移し“室町殿”と呼ばれた事から足利幕府を指す呼称と成ったのである。

こうした史実を背景にこのブログでは初代将軍足利尊氏と二代将軍足利義詮までの幕府を“足利幕府”と記述し、三代将軍足利義満からを“室町幕府”と記述する。

3:足利尊氏が“建武式目”を制定し、足利幕府を成立する迄の経緯を時系列に記述する

以下が“足利幕府”が成立した起点とされる、1336年(南朝:延元元年・北朝:建武3年)11月7日に“建武式目”が提出される迄に至る主な出来事である。

3-(1):後醍醐天皇方から“新田義貞派”が切り離される

1336年5月27日・・湊川合戦での敗戦の報を聞き“後醍醐天皇”方は比叡山に逃げる
    
同年  5月29日・・足利尊氏軍が京都に入り“光厳上皇”を奉じて東寺に入る
    
同年 6月~8月・・京都を巡る合戦で後醍醐天皇方の千種忠顕、名和長年が戦死
         
                          ・・足利尊氏が後醍醐天皇と和平工作、後醍醐天皇側は新田一門の江
                                 田行儀、大舘氏明が交渉に当る。“新田義貞”には秘密裏に行なわ
                                 れた。

同年  10月9日・・新田義貞の部下・堀口貞満は後醍醐天皇が和議締結の為に比叡山
                                を降りる事を察知する。新田義貞は3000の兵で後醍醐天皇を包囲
                                する

       ・・後醍醐天皇は“和議は足利方に対する計略であり、従って秘密裡に
         行った”と言い訳をした。新田義貞等を宥める為、その証として恒
         良親王への譲位を急遽行ったとされる。

       ・・新田義貞は恒良親王(譲位され、一時期、天皇として振る舞った
         形跡が残されている)と尊良親王を奉じて敦賀・金ヶ崎城を目指
         して発つ。一行には新田義顕(新田義貞次男・生:1331年・没:
         1358年)脇屋義助等が従った。

       ・・後醍醐天皇には、大舘氏明、江田行儀、宇都宮公綱等が従った。
         この動きに拠って後醍醐天皇派から新田義貞は切り離されたとさ
         れる。

同年 10月10日~13日

       ・・恒良親王、新田義貞等の軍勢は北陸道を近江国堅田から海路を海
         津経由で敦賀へ下った。途中猛吹雪に見舞われ、多くの凍死者を
         出したと“梅松論・太平記”に記述されている。

同年 10月15日・・新田義貞と北畠顕家との連携がなされなかった事、並びに新田軍
          が越前の国府を押さえる事が出来なかった史実から、新田義貞軍
          の地盤は軟弱であったとされる。

3-(2):後醍醐天皇と足利尊氏との“和睦”が成り“光明天皇(北朝)”が誕生

1336年(建武3年=北朝、延元元年)11月2日:

比叡山を降りた後醍醐天皇が光明天皇(北朝)に“三種の神器”を譲り渡して、譲位の形を整えた事、後醍醐天皇に“太上天皇”の号が贈られた事は史実と考えられている。

3-(3):建武式目の制定を以て足利幕府の成立とする

1336年 11月7日:

足利尊氏は、嘗て仕えた後醍醐天皇を追放し、光厳上皇・光明天皇を擁立し“天皇家”の与党という形を整えた上で、武家政権の施政方針を示した“建武式目”を制定した。これを以て“足利幕府”が成立したとの“定説”となっている。

足利尊氏が征夷大将軍に任じられるのは、約2年後の1338年8月11日である。

3-(3)-①:“建武式目” 起草者

一般の幕府法が将軍や評定会議の決定を下達する形式を取るのに対し、建武式目は起草者が足利尊氏の諮問に答えた“上申書”の形である。

構成は(1)幕府の所在地を鎌倉に置くか他所に移すか(2)どの様な法理によって政道を進めて行くのかから成っている。

=起草者8人並びに統括者“足利直義”=

起草の中心的役割を担ったのは①是円(中原章賢・明法官人・生没不詳)と彼の弟の②真恵(生:1281年頃・没:1346年)とされる。是円は公家と武家に通底する理念の上に立って“延喜・天暦”や“北条義時・泰時”を模範とした政道こそが足利氏の政権モデルであるとして建武式目を書き上げた。

③日野藤範は公家で、鎌倉幕府に仕えた儒者である。④玄恵は当時高名な学僧であり⑤太田七郎左衛門尉は鎌倉幕府の問注所執事を務めた一族⑥布施彦三郎入道⑦明石民部大夫(行連)の両名は共に建武政権の雑訴決断所の職員を務めている。⑧最後の太宰少弐についての詳しい情報は無い。

起草に当たった八名は、公家・武家夫々で実務に携わった官暦を持った人物であった事から、建武式目制定以降は、公武の法の“同根論”が唱えられる様に成った。又、政務自体の在り方にも公と武が統合されて行く契機となったとされる。

足利尊氏はこの時期、政務を弟の“足利直義”に任せて居り、建武式目の制定には統括者としての足利直義の意思が大いに働いていたのである。

3-(3)-②:制定時の世情と制定の意図

(工):“ばさら(婆沙羅)大名”の出現に象徴される“天皇家権威利用“の考え=

“太平記”の巻第二十三に、この時期に“旧秩序の権威が如何に失墜していたか”を示す事件が書かれている。建武式目制定から6年後の事であるが、権威の象徴であるべき“天皇家”に及んだ事件が起こった。

1342年9月6日、笠懸の帰りに、光厳上皇の行幸の行列に行き会い、下馬を求められた土岐頼遠(ときよりとお・生:不詳・没:1342年)が、酒に酔った勢いで”院と言うか。犬と言うか。犬ならば射ておけと罵って牛車に矢を射かけた”という狼藉行為をした。これを聞いた足利直義が激怒し、土岐頼遠を逮捕した。

武功のあるに彼に対して多くの助命嘆願が寄せられたが“子孫は許す”という処断となり、土岐頼遠は12月1日に京都六条河原で斬首された。

土岐頼遠は佐々木高氏(=道誉)等と同様“ばさら大名”として知られる。“ばさら(婆沙羅)“とは、語源は梵語で、平安時代に雅楽や舞楽で伝統的な演奏法を打ち破る自由な演奏を指した言葉である。其の後、鎌倉時代以降現われた”悪党“など、体制に反逆したり、奔放で人目を引く振る舞いや派手な姿格好で身分の上下に遠慮せず、好き勝手に振る舞う者達が現われた。彼らを当時“ばさら”と呼んだのである。

“土岐頼遠”の事件が示唆している事は、日常的には交差する事も無かった貴族と武士達が、足利幕府が京都で成立した事で、両者が同じ場を行き交い、接点が出来る環境が新たに生まれた。ところが、貴族と武士の相互が絡み合う場所で“相互の振る舞いを規律する作法”が整っていなかった事も、上述の事件の背景とされる。

こうした事態を予測した足利直義はじめ起草者八人が、如何対処すべきかを規定する事が“建武式目”制定の重要な目的であった。後醍醐天皇に拠る前例のない行動、足利尊氏との主導権争いの中で当時の世情は荒れ“バサラ”的世相を助長し“天皇家の権威”並びに“貴族層”の権威を失墜させていた。

しかし“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)”勢力の“権威”はそれまで充分過ぎる程の長い期間の継承に拠って岩盤の様に確立されて居り、失墜したとは言うものの、根絶される事は無かった。

成立直後の足利幕府に於いて足利尊氏派に属する多くの有力武将達は”ばさら意識(身分秩序を無視して実力主義を重んじる美意識)を持っていた。彼等は“天皇家はその権威を利用するだけの存在”と考え、そうしたスタンスの下で“主導権争い”を展開したのである。

60年近く続く“南北朝時代”は、こうした時代背景の下で繰り広げられた大混乱の時代だった。こうした“武士層”の考え、基本的スタンスが後の戦国時代の“下剋上”の風潮へと引き継がれて行くのである。

(Ⅱ):建武式目制定の意図は北条義時・泰時の政治を理想とし、足利幕府が鎌倉幕府の正統な後継者である事を示す事であった


建武式目は鎌倉幕府の“貞永式目(1232年=貞永4年制定)”と併称されて“貞建之式条”と表現される。政道の良し悪しは為政者の良し悪しに拠るとし、社会的風潮であった“ばさら”を禁じている事からも当時が極めて混乱した時代であった事を裏付けている。

“遠クハ延喜天暦両聖ノ徳化ヲ訪ヒ、近クハ義時泰時父子ノ行状ヲ以テ近代ノ師トシテ、万人帰仰ノ政道ヲ施サレ”

為政者たる者の心得こそが“四海安全ノ基”だと説く建武式目に込められた思想は、統括者“足利直義”と8人の起草者によるものであるが、幕府の内部から建武式目の意図を無視する“足利尊氏派”との厳しい対立が早々と生じるのである。

4:幕府成立直後からあった”足利尊氏派=高師直“と”足利直義派“の対立

4-(1):政治スタンスが全く異なった“高師直(尊氏派)”と“足利直義”の対立

“建武式目“の制定作業を統括した足利直義は、保守的で伝統を重んじる政治スタンスであり”ばさら“を禁じていた。

一方、兄の“足利尊氏”は何事にも鷹揚で、無頓着な人物であり、従って足利尊氏派に属する武将・武士層には出自の低い、武力自慢の屈強の武将が多かった。

その中で、終生、足利尊氏に従い、執事(後の管領)を務めた“高師直”が実質的に“足利尊氏派”を代表するリーダーであった。足利尊氏の周囲の他の武将達も旧来の伝統、身分秩序を無視し、実力主義を重んじる行動姿勢を是とする“ばさら大名”と称される人々が多かったのである。

4-(2):建武式目について

足利尊氏が擁立した“北朝”は “光明天皇の治世、光厳上皇の執政(院政)”という形が整った事で、公家社会の一時の混乱状態もひとまず収束した。足利幕府は“北朝”の与党としての立場に立ったのである。

“足利幕府”という形で覇権を握った足利尊氏から“武家政権の在り方は如何あるべきか”の諮問に対して、儒者・実務官によって議論が重ねられ、それを足利直義が統括して答申書として提出されたのが“建武式目”である。

その概要は下記である。

4-(2)-①:建武式目の構成

全体は2項17条から成っている。

“建武式目條々 鎌倉元の如く柳営(幕府)たる可きか他所たるべきか否かの事”という設問から始まる第一項部分と“政務に関わる基本姿勢並びに当面する問題への対処について当時の“聖徳太子信仰”に基づく17条憲法に影響された“17条の法則”を述べた第二項部分から成っている。

=第一項部分=

第一項部分は“鎌倉を武家政治の本拠とすべきか”についての足利尊氏からの設問“鎌倉如何為柳営歟、可為他所否事”に対する答申の形で書かれている。

(ア):移転する事は何かと手間である上、鎌倉は源頼朝が幕府を開き、北条義時が天下を併呑した武士にとっての“吉土”であり、本拠とするに相応しい地である。

(イ):北条氏が滅びた事を凶例とする者もいるが、それは驕り高ぶった北条氏の悪政の故であり、政権の興廃は政道の善悪に拠る

(ウ):但し諸人が移転を望むのであれば従うべきである

以上である。

(ア)~(イ)で鎌倉を拠点とすべきだ、と結論付ける流れの答申となっているが、最後の(ウ)を述べる事で結論付けていない。

建武式目の統括を行った足利直義の本音は公家社会から距離を置いた鎌倉に独立性の高い政権を樹立する事であったが、兄・足利尊氏が京に親近感を持つている事を知っていた為、最後の結論は出さずに、足利尊氏への配慮の(ウ)が書かれたものとされる。

光厳院政と光明天皇の践祚を実質的に主導し、京都を巡る軍事抗争の当事者として行動して来た足利氏が、混乱した状況下の京から鎌倉に移る事は現実的で無く、京に残り京都の秩序維持に深く関与を続ける必要があったのである。

=第二項部分=

兄の足利尊氏とは異なり、冷静で知的な人物であったと伝わる“足利直義”であるから、統括意見として、政道の良し悪しは居所の良し悪しに因るのでは無く、為政者の良し悪しに因るものであるとし、政治を担う者達は“徳”をもって政治に当たり“民を安んずる事”が要諦だとした。そして、鎌倉幕府の得宗専制政治以前の“北条義時・泰時”の施政を理想だと明記している。

以下に紹介する17条には建武式目制定を統括した“足利直義”の不安感が表われている。その第一が“武士層”が“貴族層”と交差する“京都”という“新しい環境”下での“武士達の振舞いや作法”に対する不安であり、第二の不安は兄・足利尊氏、並びに側近達の政治姿勢にあった。それを如何規律するかを述べ、釘を刺す趣旨が盛り込まれたのが第二項部分である。

足利尊氏という人物は、夢窓礎石が人物評で挙げた様に①戦場での死を恐れず先頭に立つ勇気②敵をも許す慈悲深さ③物を惜しむ事の無い度量の広さ、という3つの徳を持つ人物であった様だ。

しかし反面“八朔の贈り物”をどんどん受け取ってはその日の中に全て部下達に配ってしまうという“鷹揚な人間性”は、将軍であり、政治のトップとしての足利尊氏の周辺に集う人達に無秩序な振る舞いを許し兼ねない危うさにも繋がる大きな短所として足利直義は危惧したのである。

“建武式目”が制定された“建武3年11月(南朝=延元元年・1336年)”時点で、政務の責任者である足利直義が抱えていた懸案事項も多くあった。

足利直義は建武式目の中で諸問題を処理する為の提言、役人の選択基準や規律に対する提言、寺社・諸人の訴訟扱いに対する提言を書き並べる事で、足利尊氏、並びに彼の側近達の政治姿勢にも釘を刺し“政務遂行上の規範としての17カ条の法則”を規定したのである。

4-(2)-②:17条の項目を(ア)道徳(イ)治安維持(ウ)政治倫理、に分け
        て紹介する

①条:倹約を行わるべき事・・(ア)道徳的項目。権力の頂点に立つ将軍(足利尊
               氏)に釘を刺す趣旨

②条:群飲佚遊を制せらるべき事・・(ア)道徳的項目。大勢で酒宴を重ねる事に釘
                  を刺す趣旨

③条:狼藉を慎められるべき事・・(イ)治安維持項目

④条:私宅点定を止めらるべき事・・(イ)治安維持項目。当時の京都は後醍醐方に
                  与した事だけで、その内容の真偽に拘わらず
                  半分以上の人々の私宅が壊されたりした事を
                  制する趣旨

⑤条:京中空地を本主に返さるべき事・・(イ)治安維持項目。後醍醐天皇に従った
                    公家被官の所有地が一律に没収された事
                    に対して、実態を調査し、罪の軽重で処
                    分せよと命じたもの

⑥条:無尽銭土倉(金融業)を興行せらるべき事・・(イ)治安維持項目。後醍醐政
                         権下で、課税増大や動乱によ
                         って廃れた土倉の再建を命じ
                         たもの

⑦条:諸国守護人、殊に政務器用を択ばるべき事・・(イ)治安維持項目。政務に練
                         達した者を守護に登用し、地
                         方支配の安定を図る事を意図
                         したもの

⑧条:権貴并女性禅律僧口入を止められるべき事・・(ウ)政治倫理項目。政治斡旋
                         ・口入を禁止する趣旨

⑨条:公人緩怠を誡めらるべし、ならびに精撰有るべき事・・(ウ)政治倫理項目。
                             官僚や近習への引き
                             締めを意図したもの

⑩条:固く賄貨を止められるべき事・・(ウ)政治倫理項目。
                   進物の禁止を命じたもの

⑪条:殿中内外に付き、諸方進物を返さるべき事・・(ウ)政治倫理項目。
                         同じく進物の禁止

⑫条:近習者を選ばるべき事

⑬条:礼節を専らにすべき事・・(ア)道徳的項目

⑭条:廉義の名誉あらば、殊に優賞せらるべき事

⑮条:貧弱の輩の訴訟を聞こしめさるべき事・・(ウ)政治倫理項目。
                       訴訟の在り方は心して耳を傾ける
                       べしとしている

⑯条:寺社の訴訟は事によって用捨有るべき事・・(ウ)政治倫理項目。訴訟の在り
                        方は審理を尽くさずして容認す
                        る事の無い様命じている

⑰条:御沙汰式日・時刻を定めらるべき事・・(ウ)政治倫理項目

=付記事項=

以上の中、⑬については“君ニ君礼アルベク、臣ニ臣礼アルベシ。凡ソ上下各々分際ヲ守リ、言行必ズ礼儀ヲ専ラニスベシ”と述べて“国ヲ理ム”為に武士達を礼節の世界に参加させる事の必要性を説いている。

先に略6年後の1342年に足利尊氏に仕え“婆裟羅大名”として有名な“土岐頼遠”が光厳上皇の牛車を蹴倒す(弓を射た説もあり)事件を起こした事を記述したが、公家社会の尺度、礼節に倣った規律が武士達には無く、建武式目制定後も足利尊氏方の武士達の粗暴さが改まらなかった事を裏付けている。

一方の“宮方”の側でも“後醍醐天皇”自らが齎(もたら)した“南北朝という二つの天皇家”という異常な事態が“皇統の混乱”を招き“天皇家の権威失墜”を招いていたのである。

足利尊氏自身が“天皇家の混乱”に乗じて“光明天皇”を擁し“北朝”を興した人物である事から、旧秩序や体制に反逆し、身分秩序を無視して実力主義を重んじる美意識を持った多くの“婆裟羅大名”が足利尊氏の下に集まる傾向があった。

一方、兄と違って伝統的秩序を重んじる“足利直義”は、旧秩序が軽視されて行く状況下で“建武式目”の制定によって武士達に対して秩序の重要性と規律を重んじる政治姿勢で足利幕府の一翼を担ったのである。

5:兄・足利尊氏と弟・足利直義の“二頭政治体制”でスタートした足利幕府

初期“足利幕府”の機構は基本的には“鎌倉幕府末期”の先例に倣ったものであり、その時々の必要に応じて改編を加えて行った。

1336年(建武3年):政所・侍所・問注所を設置

“政所”は、足利家の家政機関の中核として、主として家領支配など、財政面を担当した。“侍所”は武士の統制や検断(刑事犯を検察し断罪する)を担当、そして“問注所”は訴訟処理などの政務に關係する資料、データ提供の役割を担った。

後醍醐天皇の“建武政権”の機構との大きな違いは、実務上、枢要の機関に“鎌倉幕府”時代の“史僚集団=役人”を継承した事である。そして機構の中で最も主要な部分には旧鎌倉幕府、並びに六波羅探題の役人及びその一族が就いた点であった。こうした人事に拠って実務運営面で幕府政治の“連続性”が担保された。

佐藤進一氏は“足利尊氏”は恩賞の授与や守護の補任を担当した事で武士達の”主従制的支配権“を握ったとし”足利直義“は、所領裁判を始めとする政務一般を担当した事で”領域的支配権“を握ったとしている。

両者の関係は将軍である足利尊氏が決定的な上位に立つと言う関係では無く、基本的には横並びの関係であった。

この関係を裏付ける史料として“柳営(将軍の唐名=尊氏)武衛(兵衛府の唐名=直義)両将軍”と書かれた“天龍寺造営記録”がある。これが当時の人々の両者に対する認識であった。要は“両将軍”機構であり“二頭政治”だったのである。

しかし、こうした権限分割が足利幕府成立初期の“派閥構造”の温床と成り、後の“混乱と戦闘状態”へと繋がって行く事になる。

以下にもう少し詳しく“足利尊氏”と“足利直義”の分担、並びに、足利尊氏派を構成した人々、足利直義派を構成した人々について記す。

5-(1):足利尊氏が担当した機構と足利尊氏派を構成した人々

幕府機構は基本的には“鎌倉幕府機構”に倣ったものであったが、二頭政治体制とは言え両者の担当が明確に分かれていた訳では無い。定性的には上述した役割分担と成っていたが、実際の運営局面では足利尊氏・直義双方の人的繋がりが分担に大きく影響した。

5-(1)-①:足利尊氏が担当した初期・足利幕府の機構

足利幕府機構には中央と地方機構があった。中央には基本機構として①政所②侍所そして③恩賞方が置かれた。

“太平記の時代”の著者・新田一郎氏は①の政所③の恩賞方が尊氏の管轄下にあり、②の侍所のトップ(頭人)も高師直の弟“高師泰”が就いた。従って、中央機構の全ては足利尊氏の管轄下にあり、尊氏はこうした機構を通して“主従制的支配権“を握っていたとしている。

地方機構でも①守護②鎮西奉行③鎌倉府④奥州管領、等は足利尊氏の影響力の下にあった。

5-(1)-②:足利尊氏派を構成した人々

人的繋がりから“足利尊氏派”として先ず挙げられるのが、鎌倉幕府時代から足利家被官の筆頭として“執事(後の管領)の職”を世襲して来た“高”氏一族である。

一般御家人より一段と身分の低かった“高師直(こうのもろなお:生・不詳没・1351年)”は尊氏が2年後の1338年8月に征夷大将軍となって以降、強大な権力を持つ事になる。将軍の命令は“執事”を経て天下に下され、将軍への申請や請願は執事を介して取り継がれたからである。

高師直は尊氏に強烈な忠誠心を抱いた人物であり、又、伝統や秩序に対する最も勇敢な破壊者であった。具体例として“荘園制の破壊”が挙げられる。特に山城国の土豪達は“荘園制の破壊”に拠って又と無い飛躍の機会を得た。

又、部屋住みの悲哀を舐めていた地方武士の二、三男を将軍の直臣に取り立てた事でも高師直の下に人々が集まった。又、戦の勲功で伸し上がろうとする武将達も彼の下に結集したのである。

“高師直”の弟とされる“高師泰(こうのもろやす:生・不詳:没・1351年)”は、軍事の要を握る“侍所”の職に就いた事でその立場を利用した。こうして“高兄弟”は常に協力し合う事によって、強大な権力を握って行ったのである。

“足利尊氏派”の実態は“高師直派”と言い換えても良い。同じく低い家柄の仁木・細川などが“尊氏派=高師直派”を形成したのである。

5-(2):弟・足利直義が担当した幕府機構と足利直義派を構成した人々

5-(2)-①:足利直義が担当した初期足利幕府の機構

“訴訟処理”を中核とした“評定”機構を弟の足利直義が担当した。具体的には①問注所②引付方③官途奉行④安堵方⑤禅律方、である。

①の問注所執事には太田時連(生1269年没1245年)が就いた。既に1336年時点で67歳の高齢であった彼は鎌倉幕府時代に問注所執事の経歴を持つ人物であり、又“吾妻鏡”の主要な編纂者と目される人物である。

余り馴染みの無い③官途奉行は武士の叙位や任官申請を行う機能である。④は所領安堵を申請する機能であり⑤の禅律方は禅宗・律宗の寺院・僧侶が関係する訴訟を扱う機能であった。儒家の“日野有範”が登用され、伝統的秩序を尊重する政治姿勢をこの機構が担ったのである。

5-(2)-②:足利直義派を構成した人々

足利直義という人物は、論理的な思考を得意とし、自制心に富み、誠実である一方で妥協をしない、筋を通すタイプの人間だった。実務能力も決断力もある有能な政治家であったが、反面、冷徹な人柄で、兄・足利尊氏とは対照的な性格であったと伝わる。

伝統的な同族結合を重んじ、先例や秩序を重視し、鎌倉幕府体制への復帰を基調とした足利直義には関東・奥羽・九州等の遠隔地の武士達、並びに法律家や官僚層の多くが従ったとされる。足利一門の中では、嫡流に準じて格の高い斯波・吉良・畠山らが“足利直義派”を構成したのである。

6:初期足利幕府が二頭政治にならざるを得なかった客観的背景

鎌倉幕府と足利幕府(第3代足利義満から室町幕府と記述するが)との大きな役割の違いは、鎌倉幕府が“武の権門”であったのに対して、足利幕府は“より幅広い政務役割”へと転換”した事である。

例えば、後に“鎌倉公方・古河公方・堀越公方“という呼称が出て来るが、そもそも”公方“と言う言葉は古くは”天皇・朝廷“を指す言葉であった。この様な呼称が用いられた事は足利幕府(室町幕府)が時代を経て“足利家の家政機構”では統治が出来ない程に政務役割が広がったという変化を裏付ける事とされる。

足利幕府が足利尊氏・足利直義兄弟の協力に拠って創設されたばかりの時期は、現にある手持ちの機構を用いて統治し、それで具合が悪い場合に、その時々の必要に応じて対処して行った。足利尊氏と弟・足利直義による二頭政治体制をとった背景には、幕府が機構拡大をして行き、政務範囲が広がる中で言わば自然の成り行きで生じたという事情があった。

7:初期足利幕府と朝廷(北朝)との関係

足利尊氏が強引に擁立した事に拠って光明天皇の治世、光厳上皇の執政(院政)という形が整い“北朝”が成立した。北朝に於ける日常の朝廷政務は伝統的作法に則って運営されていた。院政を行う上皇の下には関白以下の公卿を構成員とする“院評定”が置かれ、この場に“雑訴”以下の事案が提起され、審理された後、上皇に答申され、裁断が仰がれる、という具合であった。

鎌倉幕府時代に朝廷と幕府との連絡を担ったのは“関東申し次”であり、西園寺家が世襲でその役割を担っていた。足利幕府では“武家執奏”と呼ばれる“公卿”が、同様の窓口役を担った。遠隔地であった鎌倉幕府時代との大きな違いは、足利政権が京都に本拠を置いた事で、公家社会と種々の利害を共有する事となり、日常的にも、より密接な連携関係を結ぶ必要に迫られた事であった。

そしてこの事が次第に“至強(将軍・幕府・武士)勢力”が“至尊(朝廷・公家層)勢力”の決定を拘束して行くという重大な変化を齎(もたら)して行くのである。

8:足利直義と高師直の対立が“二頭政治体制の崩壊”へと繋がる

8-(1):“高師直(足利尊氏派)”と政敵関係にあった“足利直義”

足利直義と考え方が対極に位置する“高師直”とは絶対に相容れない“政敵”関係にあった。

この二人が幕府成立直後から対立し、政治が二分された状態だった事が“足利幕府”を不安定にした。この事は幕府(=北朝)と対立する“南朝”の存在にとっては極めて“好都合”であった。

足利尊氏が“清水寺”に奉納した“願文”で、弟の足利直義の安穏を願った事は6-9項で紹介した。しかしその足利直義と足利家の執事“高師直”とが政敵関係と成り、激しく対立した事で、足利尊氏は両者の間に在って“右往左往していた”のが実態であり、その事が一層、成立後間もない足利幕府の不安定さを増したのである。

8-(2):足利直義と高師直の対立点

足利直義は極めて知的、且つ、理性的な人物で禅・儒を思想の基軸に据えて、秩序世界を構想していたとされる。その足利直義に対抗したのが足利家・譜代被官の筆頭“高一族“であった。

“高師直”は足利尊氏の“執事”であり、弟の“高師泰”は侍所頭人を務め、軍事指揮権を握っていた。“太平記”が高師直・師泰兄弟を放埓で、徹底した現実主義者として描いた逸話として“(院や天皇は)どうしても必要なら木か金で造っておいて、生身の院や天皇は流して捨ててしまえば良い“と放言した事を記述している。

高兄弟は強引な政治手法の結果、周囲の武将達から恨まれる存在であったとの記述が多い。“仮名手本忠臣蔵”の芝居の中で、高師直の実名がそのまま用いられ、悪役(吉良上野介)の典型として描かれている事は良く知られている。

足利直義は鎌倉時代末期以降に出現した、体制に反逆し”悪党“と呼ばれた武士達の行動や、伝統的な身分秩序を無視して、実力主義のみを重んじる風潮、更に、天皇家や公家の持つ伝統的権威さえも“名ばかり”と軽んじ、嘲笑し、反発する一方で、自らは奢侈な生活や振る舞いを美化する武士達の出現に危機感を抱いていた。こうした“婆裟羅”的行動が世の中を次々と変容させて行く事態を避けるべく之を厳しく禁じたのである。

ところが“高師直”を初めとする高一族、佐々木道誉、土岐頼遠等“足利尊氏“派を構成する主要メンバーが“婆裟羅大名”の代表格であり“規範に拠って社会を治める法秩序の社会“を構想する“足利直義”と真っ向から対立した。

二頭政治体制の足利幕府は、余りにもかけ離れた政治スタンスから、その成立直後から幕府内部の抗争が絶えず、それが激化して行ったのである。

8-(1)-①:平時の秩序を範型とした“足利直義”の政策と“南朝との戦”という現実
        面を重視した“高師直”との政策の違いによる抗争

足利直義は“北条義時・泰時に象徴される平時の秩序を範型として公家社会との接合を意識しつつ、武士層の規律化を重視した政治スタンスであった。それに対して“高師直・師泰”は“南朝との戦い”に於ける“兵站思想“に基づく現実に直面した政治スタンスであり、両者は対立したのである。

高師直にとって、戦場の軍事指揮官として“兵糧米調達”こそが最重要であった。その為には“戦場付近の荘園・公領から調達するのが一番手っ取り早く、確実な方法“であるとし、旧来の公家社会とのルールを破棄する事を良しとする”政策“を打ち出したのである。

足利幕府が創設された時期は“混乱期”の最中であった。従って軍事指揮官である守護達も、自身の判断で荘園・公領の年貢の兵糧米化を推進していた事例が多かったのが現実であった。

“足利直義”が期待した“行政官吏”としての守護達の役割よりも“至尊(南朝・並びに旧来からの公家社会を守ろうとする勢力)”側と戦う“軍事機能”こそが優先される状況だった。

こうした“政治姿勢”の違いが“二頭政治体制”下にあった足利幕府の“不安定さ”の元凶であり、結果として両派の主導権争いとなり“二頭政治崩壊”へと進むのである。“足利尊氏”は争う両者の間に在って“落としどころを模索し苦悩”したのである。

9:不安定な“足利幕府”の状況に乗じた“南朝方”の動き

9-(1):北畠顕家に期待を寄せた後醍醐天皇

後醍醐天皇と足利尊氏の和睦は長く続かず、後醍醐天皇は1336年(建武3年)12月21日に“神器”を携えて京を抜け出し、河内を経て吉野(奈良県吉野町)に赴いた。そして早速①自分の皇位と延元の元号を復する事と同時に、②足利方の討伐を諸国に宣した。

この瞬間“南朝”が成立し、京都の光明天皇と吉野の後醍醐天皇という二人の天皇、二つの朝廷が対立する“南北朝時代”が始まった。“北朝方の皇太子”に立てられていた後醍醐天皇の皇子“成良親王”は当然の結果として廃された。

こうした後醍醐天皇の動きを主導したのは“北畠親房”であり“楠木一族”が手足と成って動いたとされる。奥州の足利方を掃討する為に北上し、相馬氏などを破り奥州に戻っていた北畠顕家に父・北畠親房からは伊勢に来援する様、指示が寄せられ、後醍醐天皇からも京都奪還の綸旨が下った。

しかしこの時点で北畠顕家は動かず、先ずは周囲の足利勢と戦い、足元を固める動きから始動したのである。

1337年1月8日:

足利方に多賀城を攻められた北畠顕家は国府を多賀国府から霊山城(福島県相馬市・伊達市)に移した。陸奥太守“義良親王”も移っている。

同年 1月25日:

後醍醐天皇からの“京都奪還の綸旨”が届き、上洛を促された北畠顕家だったが“霊山城が敵に囲まれて居り、尚且つ奥州はまだ安定していない。直ぐに上洛は出来ない。脇屋義助(新田義貞の弟)と連絡を取り合っている”との奉答書を送り上洛を慌てず、先ず足元を固める事に注力した。

北畠顕家が上洛の為の南下を開始するのは半年後の8月の事である。

10:後醍醐天皇から切捨てられた形の“新田義貞”は“金崎城陥落”の苦境を乗り越え、
   勢力を挽回して行く

10-(1):“金崎城陥落”・・1337年(南朝:延元2年・北朝:建武4年)3月

独断で後醍醐天皇が足利方との和議に応じた事に激怒した新田義貞を宥める方便として後醍醐天皇が“恒良親王”に譲位し、新田義貞等に“恒良親王・尊良親王”を奉じさせて越前国“金ヶ崎城”に向かわせた事は前項(6-9項)で述べた。

この史実が後醍醐天皇が“新田義貞”並びに一族を切捨てたとする説の根拠となっている。新田義貞一族は以後“金崎城陥落”等の辛酸を舐め乍ら尚も“足利方”との戦いを続け、苦境を乗り越えて“金崎城陥落”以前の状態にまで勢力を回復させる。

しかし湊川の戦い(1336年5月)のケースと同様“京都奪還綸旨”に応じて南下を開始した“北畠顕家軍”と苦境から脱して勢力を回復させた“新田義貞軍”が“南朝方”として連携をとる事は無かった。

そして両者共に上洛を果たせず、滅亡に向かう事に成るのである。

1337年 1月12日:

瓜生保(うりゅうたもつ・生:不詳・没:1337年)は元来、新田義貞の配下の越前出身の武将だが、1336年末頃から一時、足利方に与して(足利尊氏からの偽の書類に騙された離反とされる)斯波高経・高師泰の配下として“金ヶ崎城攻め”に参加したが、直ぐに足利方からの文書は偽だと知り、再び、新田義貞方として帰参し、高師泰・斯波高経軍と戦って勝利し“南朝方”を有利に導いた武将として知られる。

しかし足利軍に包囲された“金ヶ崎城”に兵糧を運び込もうとした際に、足利軍の今川頼貞に待ち伏せされ、弟の“瓜生義鑑”や“里見時成(生:不詳・没1337年1月12日)と共に討ち死にしている。

同年 2月21日:

新田義貞は苦境を脱する為、越後の“南保重貞”へ救援要請を出していた事が、この日付けの注進状に拠って裏付けされている。

同年 3月5日~3月6日:

足利軍の斯波高経(しばたかつね:生1305年没1367年=尾張足利氏・越前守護)・高師泰軍は守りの固い“金ヶ崎城”に対して“兵糧攻め”作戦に切り替えた。

新田義貞軍の苦境は続き、新田義貞の長男“新田義顕(・生:1318年・没:1337年3月6日)”と脇屋義助軍の軍勢は3000騎から僅か16騎にまで減ったとの記録がある。“斯波高経”軍を中心とする足利軍には、仁木頼章・小笠原貞宗・今川頼貞・高師泰・細川頼春軍が加わり、更に水軍も加わった総兵力は6万に達した。

“包囲作戦”に“新田軍”の兵糧は日に日に尽き“梅松論”には“金ヶ崎城中では馬を殺して食糧にした”と書かれ“太平記”には“死人の肉すら食べた”とその凄惨さが書かれている。新田義貞は“恒良親王・尊良親王”と新田義顕等を残し、兵糧が尽きた“金ヶ崎城”を脱し救援を求めたが成功せず、新田義貞が再び“金ヶ崎城”に戻る事は無かった。

足利方が3月5日に最後の攻撃に移り翌6日に金ヶ崎城は陥落したのである。

新田義顕は落ち延びる事を薦めたが“尊良親王”は“同胞たちを見捨てて逃げる事は出来ない”と言って自害したと伝わる。新田義顕も戦死した。

恒良親王(天皇?生1324年)は捕虜となり、京の花山院第に幽閉され、成良親王(生:1326年)と共に毒殺されたと“太平記”は伝えている。成良親王については“師守記=公家中原師守の1339年~1374年迄の日記”には1344年に死去したとする記述もあり“太平記”の毒殺の記事は疑問視されている。

恒良親王が後醍醐天皇から譲位され、一時的に天皇として綸旨を発給したとされる記事がある事は既述したが、彼を奉じた新田義貞は南朝及び北朝と一線を画す“北陸王朝”樹立構想を抱いたとの説がある。“金ヶ崎城の陥落”はそうした“北陸王朝の幻影”が消えた瞬間であった。

新田義貞は弟の脇屋義助と共に“金ヶ崎城陥落”を生き延びた。二人の親王を置き去りにして逃げたとは考えられず、大将として金ヶ崎城と杣山城(そまやまじょう=瓜生保が城主。南朝方の越前国に於ける拠点)を往復して指揮を取っていた為、足利方の総攻撃の時には偶々“杣山城”に居た為に生き延びる結果になったのであろうと考えられている。

10-(2):新田義貞も“討ち死した”と信じた“足利尊氏”

1337年3月7日:

“金ヶ崎城陥落”直後に足利尊氏が“一色範氏”と“島津貞久”に宛てた御教書がある。其処には“義貞以下悉く、新田勢を誅伐した”と書いている。足利尊氏が新田義貞も討ち死にしたと思い込んでいた事が分かる。この為、足利軍は援軍を撤兵させるなどして、兵力を“残党狩り”程度に減らした。

10-(3):生き延び、勢力回復を図った新田義貞と弟・脇屋義助

1337年 3月14日:

金ヶ崎城を失った新田義貞は“杣山城(そまやまじょう・福井県南条郡南越前町)”を拠点とし、四散していた新田軍を糾合して“足利軍”への抵抗を続けた。こうした事は足利軍が大軍勢を引き挙げていたから可能だったのである。

弟・脇屋義助を越前国“三嶺城”に派遣する等、体制を立て直す新田義貞に、平泉寺(へいせんじ=福井県勝山市平泉寺町)を初め多くの勢力が支援に加わった。この為、新田義貞軍は“金ヶ崎城陥落゛時を上回る戦力に回復し”越前“の平定を目前とする程であったと伝わる。更に加賀・越後・能登を加えた北越も新田義貞の手に落ちる寸前だった。

11:満を持した“北畠顕家”が上洛を目指し南下を開始する

後醍醐天皇からの綸旨、並びに父・北畠親房からの上洛要請に対して慎重に対応していた北畠顕家は1337年(南朝:延元2年・北朝:建武4年)6~7月に、先遣隊として“春日顕国(貴族・南朝方の武将・生:不詳・没:1344年)を下野(栃木県)に派遣して、宇都宮一族の統率に当たらせている。

1337年 8月11日:

北畠顕家の本隊が義良親王(阿野廉子の3皇子の3番目:生1328年・後の第97代後村上天皇)を奉じて“霊山城”を出発。従がう武将は南部師行(生:不詳・没:1338年)、弟の南部政長(生:不詳・没:1360年)、結城宗弘(生:1266年・没:1339年)、嫡男・結城親朝(生:不詳・没:1347年)、伊達行朝(生:1291年・没:1348年)、長井貞宗・伊賀貞光等、腹心の武将達をはじめ、奥州54郡から集結し、総兵力10万余の大軍と成った。

11-(1):連戦連勝を重ね、鎌倉を占領した北畠顕家軍

1337年8月19日:

北畠顕家軍は騎馬隊を巧みに用いる戦略で連戦連勝を重ねた。白河関(福島県)を越え、下野(現在の栃木県)に進軍し、暫くこの方面に駐留している。

足利方が桃井直常を旗頭とし、茂木知政軍が北畠顕家の進軍を食い止めようとした為、間々田・乙女等で戦闘(小山城の攻防)が続いたが、北畠顕家軍はこれも撃破し進軍を続けた。

同年 12月13日~16日:

利根川の戦い“で上杉一族を中核とした足利方を破った北畠顕家軍は武蔵国に乱入。16日には”安保原“(埼玉県神川町)でも勝利し、一気に鎌倉を目指した。

同年 12月23日~24日:

北畠顕家軍は鎌倉攻撃を開始。そして“杉本城の戦い”で尊氏の嫡男・足利義詮(後の足利幕府第2代将軍)が首長であった“鎌倉府”の執事で又、足利尊氏が1335年(建武2年)北畠顕家に対抗する為に設けた“奥州管領”職に就いていた“斯波家長(しばいえなが・斯波高経の長男・生:1321年没1337年)”を討ち取っている。斯波家長は僅か16歳であった。

執事・斯波家長が討たれ“足利義詮”は上杉憲顕(うえすぎのりあき・生:1306年没:1368年・尊氏の従弟で関東廂番)桃井直常(ももいただつね:生不詳・没1376年・足利一門)、高重茂(こうのしげもち・高師直、師泰の弟:生没年不詳)と共に鎌倉を捨て、安房に逃れた。上杉憲顕は討たれた斯波家長の後任として“鎌倉府”の執事に任じられている。

“鎌倉”を落された足利方は、関東に於て劣勢という状況であった。

11-(2):軍勢を膨れ上がらせ快進撃を続ける“北畠顕家”

鎌倉を陥落させた“北畠顕家軍”には、新田義貞の次男で、まだ7歳だった新田義興(生1331年没1358年)、それに中先代の乱を生き延び、後醍醐天皇から父・北条高時の朝敵免除・撤回を得た上に南朝に帰参を許された“北条時行”が加わっていた。この事を知った足利尊氏は驚愕したと伝わる。

膨れ上がった“北畠顕家軍”は“太平記”には50万とあるが、流石にこの数は誇張であろう。関東一円から多くの武将達が北畠顕家軍に馳せ参じたという事である。

1338年(南朝:延元3年・北朝:建武5年)1月2日~1月22日:

北畠顕家軍は1338年1月2日に鎌倉を出発して、西上を開始した。12日に遠江国橋本、20日には美濃の国に到り1月21日に尾張の国、1月22日には、黒田宿(現愛知県葉栗郡木曽川町)に入った。こうした北畠顕家軍の進軍は略奪の限りを尽くしたものだと“太平記”に批判的に書かれている。“霊山城包囲“という苦境を乗り越えての進軍であっただけに大軍を支える絶対的物資不足という状況がそうさせたのであろう。

12:北畠顕家軍の素速い進軍(西上)に対応が遅れていた足利軍が漸く反撃体制に
   移る

北畠顕家軍が快進撃を続ける間、京都の足利尊氏は、北陸で勢力を急回復させた“新田義貞”軍への対応にも苦慮していた。その為、北畠顕家軍の素速い西上に対応出来なかったのである。

足利軍の反撃は戦死した斯波家長の後任“上杉憲顕(うえすぎのりあき:足利尊氏の従弟・鎌倉府の執事から初代関東管領と成る・生:1306年・没:1368年)”に拠って開始された。西上を開始した北畠顕家軍が去った後に先ずは鎌倉を奪還した。

足利方は北畠顕家軍を挟み撃ちにすべく西に進軍し、遠江国で今川範国、三河国で吉良満義・高師兼、そして美濃国で高師冬・土岐頼遠等、諸侯が合流した事で総兵力は8万に達していた。

13:勝利はしたものの北畠顕家軍の戦闘能力のピークとなった“青野原の戦い”

1338年1月20日~1月29日:青野原の戦い

美濃国・青野原(岐阜県大垣市・関ケ原に隣接)で足利方の“婆沙羅大名”土岐頼遠(ときよりとお:生不詳・没1342年)率いる僅か1000騎と北畠顕家の大軍が戦った。僅かな兵で鬼神の如く奮戦した土岐頼遠の活躍が有名だが、北畠顕家軍は結果的に勝利はしたものの被害は甚大だった。その為、態勢を立て直す事が優先され、一気に京に攻め上がる事を諦めざるを得なくなったのである。

北畠顕家にとって、この“青野原の戦い”迄が戦力的なピークであった。以後は足利軍に圧倒されて行く。

14:“南朝方”として北畠顕家軍と新田義貞軍が連携して“京攻め”を行う事が出来なか
   った理由

14-(1):劣勢に陥った北畠顕家軍の一方で、快進撃を続けた新田義貞軍

1338年2月4日:

足利尊氏は高師泰・高師冬(高師直の従弟で後に猶子となる)・佐々木高氏(=京極道誉:生1296年没1373年・足利幕府の政所執事、並びに6ケ国の守護大名を兼ねた)等を北畠顕家軍討伐の為、京から出撃させて攻勢に転じた。

同年 2月:

北畠顕家軍は態勢立て直しを優先して足利軍との対決を避け伊勢に後退した。奥州出発以降、数十万の兵力に膨れ上がった北畠顕家軍の兵力は、数万騎にまで激減していた。伊勢の地は元々北畠氏の領地であり“南朝”の中心人物である父・北畠親房からの支援を得て勢力挽回を期待したのである。

1338年2月14日~16日:

北畠顕家軍と足利勢が伊勢国雲出川(くもずがわ)及び櫛田川(くしだがわ)で戦う。この戦いの決着はつかなかった。

同年 2月17日:

劣勢に陥った北畠顕家軍の一方で、新田義貞軍は“杣山城”から出撃し、足利方の越前守護・斯波高経を破り、国府を占領する勢いであった。以後20日間で足利方の諸城、並びに砦を次々と攻略したとされる。足利方の“斯波高経(尾張足利氏4代当主・生:1305年・没:1367年)”は“足羽庄・藤島庄”に追われ“黒丸城”に拠った。

14-(2):“北畠顕家軍が新田義貞軍と連携しなかった理由”に関する諸説

南朝方として“京攻め”を行なう重要な局面で何故、北畠顕家軍が新田義貞軍と連携しなかったのかについては諸説がある。既述した1336年5月の“湊川の合戦”でも“新田義貞軍”と“北畠顕家軍”は連携する事が無かった。そして北畠顕家軍が苦しい状況であったこの戦局でも両軍が連携する事は無かったのである。

14-(2)―①:連携をしなかった理由に関する3説

(ア):“太平記”では北畠顕家が新田義貞に手柄を取られるのを嫌がった為と書いている

(イ):“中先代の乱”で生き延びた“北条時行”が南朝方として加わっており、鎌倉幕府を滅ぼし、父・北条高時を自害に追いやった“新田義貞”を一族の仇と考える“北条時行”からの強い反対があった為

(ウ):“北畠親房”並びに子息の“北畠顕家”が共に“貴族意識”から武士との連携に否定的であった為

以上3説であるが、(ア)の説に就いては、北畠顕家は新田義貞とは官位も官職も比べ物にならない程に高い。その北畠顕家が新田義貞に手柄を取られる事を嫌がる度量の狭い人物だったとは思われない。又、北畠顕家は武将としても極めて優れ(後の武田信玄に先んじて“風林火山“の旗印を用いた人物とされる)ていたばかりで無く、優れた器量・能力の公卿であった。その彼が“新田義貞”に手柄を取られる事を嫌って進軍の段取りを変える事などもあり得ない。以上から(ア)説は否定されている。

(イ)の説に就いては、北畠軍には新田義貞の次男で当時まだ7歳の新田義興(生1331年没1358年)も加わっていた。この史実からも、北条時行が新田一族に対して強烈な敵愾心を持ち、両軍の連携を徹底して妨げたとする説には説得力が無いとされる。

(ウ)の説に就いては、むしろ逆が考えられる。つまり、北畠顕家の側には新田義貞に対する確執の感情は無いが、後醍醐天皇から“官軍総大将”に任じられたものの、北畠顕家に対する“格の違いから来る遠慮”それに伴なった南朝軍全軍の指揮権を握れないもどかしさを含めた“確執感情”が新田義貞の側にはあった可能性は高いとされる。

しかし(ウ)説を裏付ける史料は存在しない。

14-(2)-②:客観的情勢から判断出来る“両軍が連携出来なかった理由”

現実的に、越前への行程が難路であった事、更に当時、新田義貞が置かれていた越前の状況も、完全制圧、平定、という状況にまでには今一歩という段階であった。新田義貞としても目前の足利勢との戦いで精一杯であった。

こうした客観情勢から、両者のコミュニケーションに問題が無かったとしても、上記した双方が置かれた戦況下で北畠・新田両軍が連携し、共同戦線を展開出来る状況には無かったというのが結論となろう。

15:北畠顕家の最期

1338年(南朝:延元3年・北朝:建武5年)2月21日:

北畠顕家軍が辰市(奈良)に戦い、大和を一時占領するが、ここから一気に京への突入は北畠顕家軍の動きを知った高師直が桃井忠常等の軍勢を急遽奈良に向かわせた為、叶わなかった。

同年 2月28日:

 “般若坂(奈良市今在家町から般若寺町を経て奈良坂町までの1.2㎞の坂)の 戦い”で北畠顕家軍は足利方の桃井直常(もものいただつね)軍に敗れた。この時、奉じて来た“義良親王(後の南朝第2代・歴代第97代後村上天皇)”を密かに吉野に送り返している。この時点で北畠顕家は自軍に今後共利あらずと覚悟を決めたのであろう。

同年3月13日~14日:

北畠顕家は天王寺に集結した自軍から“山城の男山”で戦う“南朝方”(弟の北畠顕信軍だと太平記は書いているが、北畠顕家配下の春日顕国の軍だとの説もある)への支援の為に兵力を割いている。弱体化していた北畠顕家軍は更に兵力を減じたという事である。

同年 3月16日:阿倍野の戦い

“阿倍野の戦い”で高師直軍に敗れた“北畠顕家軍”は和泉に退く。この場所は現在“阿倍野神社(大阪市阿倍野区北島3-7-20)”となっている。その一角に“勲の宮”があり、祭神として顕家に従った“南部師行(生:不詳・没1338年5月22日)”とその一族郎党百八名が祀られている。

15-(1):北畠顕家の戦死

1338年(南朝:延元3年・北朝:建武5年)5月6日:

細川顕氏(ほそかわあきうじ:生不詳・没1352年讃岐国・河内国・和泉国守護)・日根野盛治等、現地の北朝勢力と交戦した北畠顕家軍は石津・堺浦を焼き討ちし、最期の戦いに備えた。

15-(1)-①:“討ち死”7日前に北畠顕家は後醍醐天皇に諫奏文を奏す・・“顕家諫奏”

1338年5月15日:

死を覚悟していたのであろう、討ち死する1週間前に北畠顕家は後醍醐天皇に対して“建武の新政“の失敗を諫め”現実への対応“の進言を含めた”諫奏文“を遺している。この7カ条の”諫奏文“の写本は今日“醍醐寺三宝院”に残っている。

その要点を下記に紹介するが、北畠顕家は“若しこの進言を聞き届けて頂けない場合には天皇のもとを辞して山中に籠る”と激しい決意の言葉で結んでいる。

北畠顕家の“覚悟”と後醍醐天皇に対する“怒り”は過去同じ様に諫言し、天皇のもとを1334年10月に去った側近の“万里小路藤房“の例や、1336年2月に同様の諫言をし、”謹慎“を命ぜられた”楠木正成“の例と共通している。

北畠顕家と楠木正成は身分こそ違うが、同じ“後醍醐天皇”に仕える身として考え方で通じるものがあった。北畠親房・北畠顕家を祭る霊山神社(福島県伊達市)の“足立正之宮司”が語った2016年10月20日付・産経新聞の記事を参考までに紹介して置こう。

“北畠顕家は、1336年1月13日に楠木正成軍・新田義貞軍と合流し、足利尊氏軍を京から九州に追い落とした。彼は当時18歳の感受性豊かな年齢であったから、戦いの際に同じ勤王の考えを持つ“楠木正成(当時42歳)”という人物に接し、政道を正す為に一身を挺する同志だと認識したのではなかろうか。楠木正成の“人となり”を知り、北畠顕家は彼と通底(異なった思想ではあるが根底では通じている)しているとの思いに到ったのではなかろうか”

皇學館大學の岡野友彦教授は北畠顕家と楠木正成の“勤王”の違いを“天皇に元々近い北畠親房や顕家等にとっての勤王は神武天皇以来の“あるべき天皇”の為に働く事であり、天皇の判断に誤りがあれば糾弾して憚らなかった。これに対して身分の低い楠木正成の勤王は天皇の判断に誤りがあっても最後まで従う事であった”と両者の違いを述べている。

上記した足立正之宮司は“こうした違いはあったが、両者が通底していた事は武力を持たぬ皇室の権威を利用し、覇権争いをして来た武家政治への怒りであり、それが北畠顕家と楠木正成を突き動かしていたのであろう“と結んでいる。

=北畠顕家から後醍醐天皇への“七カ条の諫奏文“=

①条:速やかに人を選び九州、東北に派遣すべし。更に、山陽、北陸にも同様に人を置いて反乱に備うべし
②条:諸国の租税を3年免じ、倹約する事。土木を止め、奢侈を絶てば反乱は自ずから治まるであろう
③条:官爵の登用を慎重に行う事。功績があり、身分が無い者には土地を与えるべきで、官爵を与えるべきでは無い
④条:恩賞は公平にすべき事。貴族や僧侶には国衙領・荘園を与え、武士には地頭職を与えるべきである
⑤条:臨時の行幸、宴会は止めるべきである
⑥条:法令は厳粛に実行すべし。法の運用は国を治める基本であり、朝令暮改の混乱した状態は許されない
⑦条:政治に有害無益な者を除くべきである。現在、貴族、女官及び僧侶の中に、重要な政務を私利私欲により蝕んでいる者が多く、政治の混乱を招いている

北畠顕家の諫言の中①は“建武政権”が京都のみを重視し、陸奥に自分を派遣した以外は地方に無関心だった為に反乱が頻発した事、又、敗北した足利尊氏が九州で再起し、京へ攻め上った事への批判である。

②は、仁徳天皇の故事を引用したもので後醍醐天皇が計画した大内裏造営計画の為に“二十分の一税”等、度々の臨時の増税で民心が疲弊しそれが又、各地の反乱の要因であるとの批判である。

③は“三木一草”や“足利尊氏・新田義貞”等に高位の官職を乱発した事、官位相当制を無視した人事政策(顕家自身も従二位でありながら従五位相当の鎮守府将軍に任じられた)を批判している。

④は恩賞の不公平が甚だしかった事への批判である。地頭職が寺院に与えられたり、特定氏族による“官職請負制”を破壊して彼らの知行国や所領を没収して武士への恩賞とした事を挙げ、具体的に批判している。

⑤は朝廷が度々の行幸や毎夜の宴会で莫大な費用を使っている事への批判である。

⑥は後醍醐天皇が“綸旨絶対主義”を掲げながら、矛盾した綸旨が出されたり、先の綸旨を取り消し新たな綸旨を出すなど、朝令暮改が混乱を招き、天皇権威の低下を招いた事への批判である。

⑦は寵姫“阿野廉子”や僧“円観・文観“などが国政にまで口出しをした事に対する批判であり、有害無益な貴族、女官、僧侶が重要な政務を私利私欲から蝕んでいる事を諫言している。

15-(1)―②:“石津の戦い(堺浦合戦・堺浜合戦とも言う)”で北畠顕家が戦死する

1338年5月16日~21日:

男山に布陣している顕家の2歳下の弟・北畠顕信との戦に18,000の兵力で臨んでいた足利方“高師直軍”は北畠顕家軍討伐の為に兵を分けて天王寺を出撃“堺浦”に向った。

同年 5月22日:

戦没地とされる“大阪府泉北郡濵寺町”に建つ“源顕家(=北畠)公・南部師行公殉忠遺蹟供養碑文”に“北畠顕家の軍勢は僅か3800人だったのに対して、高師直軍はそれを遥かに上回る軍勢で北畠顕家軍を待ち受けた“とある。

5月22日に堺浦で両軍は激突。兵力で劣る上に、北畠軍は長征と連戦に拠る疲労が応えていた。更に、高師直方に瀬戸内海水軍の支援が加わり、北畠顕家軍は善戦したものの、次第に苦境に立たされ、終には供回りの兵は僅か200騎に減り、最後には20騎に減ったとされる。

足利方に包囲された北畠顕家は吉野を目指して逃げる途中で落馬し、討ち取られた。21歳の若さであった。北畠顕家と共に討死した武将は武石高廣・名和義高・村上義重等であった。

この“石津の戦い(現在の大阪府堺市)”で主君北畠顕家の討ち死を知った根城(ねじょう:青森県八戸市根城)南部氏の当主“南部師行”(生:不詳・没:1338年5月22日)は僅かに残った一族郎党108人と共に敵陣に突入し全員討ち死したのである。

15-(2):“北畠顕家関連史跡”訪問記・・2016年11月19日(土曜日)

以下が“石津の戦い”で北畠顕家が討たれた“戦没地”そして主君を追って同じく討ち死した“南部師行”と一族郎党108名を祀る“阿倍野神社”並びに“北畠顕家の墓”の訪問記である。

15-(2)-①:“石津の戦い“戦没地訪問記

大阪の地下鉄・堺筋線に乗り“天下茶屋駅”で南海電車に乗り換え“堺駅”で降りる。そこから徒歩で10~15分程で紀州街道と石津川が交差する地点に架かる“太陽橋”がある。太陽橋の南詰の“東西二間(4m)南北四間(8m弱)つまり30~40㎡程の極めて小さな敷地が“顕家戦死伝承地”とされる史跡となっている。

全くの幸運であったが、丁度“源顕家公(北畠顕家さんと現地では呼んでいる)保存会”の方が居られて、史跡についての説明をして頂いた。保存会の方のお話と、頂いた史料に拠る戦没地の概要は以下の通りである。

=北畠顕家、ここ石津に死す=“源顕家(北畠顕家さん)保存会・平成27(2015)年3月”付けの説明版と保存会の方の説明資料より

延元3(1338)年、南朝と北朝の両軍は、堺の港を争奪する激戦をここ石津の浜近辺で繰り広げました。この戦いは“堺浦の戦い”と呼ばれていますが、他に堺浦合戦、石津の戦い、石津合戦、石津河原の戦い、等とも呼ばれています。

この時の南朝軍の“総大将陸奥守・鎮守府大将軍北畠顕家”は、南部師行を始めとする奥州兵ら三千人を率い、足利尊氏の執事高師直が率いる一万八千人の北朝軍と激闘を繰り広げました。

北畠顕家・南部師行等、南朝軍は善戦したものの、戦いに利あらず、5月22日、ここ石津で全員が討ち死を遂げました。(以下省略)

=“行家塚”と“此付近北畠顕家奮戦地”との混乱があったとされる史跡=

江戸時代の正徳3(1713)年“行家塚”の石碑が地元の人々に拠って建てられ、祀られて来た歴史を持つ。“行家塚”とされた所以はこの地に高さ90cm幅30~40cmの角石が建ち、その正面に“南無阿弥陀仏”と刻まれ、裏側には“行家”の名が、そして側面には“正徳三年癸巳年四月十七日“と建てられた日付が刻まれている事にある。

この“行家塚”石碑の横に大正8(1919)年に建てられた“此付近北畠顕家奮戦地”と刻まれた小さ目の高さ80cm程、幅20cm程の角石柱が並んで建てられている。

“行家塚”と“此付近北畠顕家奮戦地”と二つの“石碑”が建てられた事情を“保存会”の方が説明してくれたが、大混乱の“南北朝時代”に関する史跡であるから、こうした“混乱”もあるという事例として紹介して置きたい。

“保存会”の方の説明に拠ると、長い間この地は“北畠顕家討ち死の地”とは認識されないまま、言わば放置状態であった。明治天皇が1911年(明治44年)に“南朝を正統とする”と決定して以降、関連する歴史研究が進み、此の地が“北畠顕家”が討ち死した史跡だと改めて定められた経緯があったとの事である。

大阪府が北畠顕家の終焉の地として定め“史跡保存顕彰目的”を明確にした証としてこの地に“此付近北畠顕家奮戦地”と刻んだ角石柱を建てたという事である。

この場所に江戸時代の正徳3(1713)年と刻まれ、尚かつ“行家塚”と名の入った石碑が建てられた事情については”源顕家公(北畠顕家さん)保存会“の史料には“当時の村民が(行家)と(顕家)とを間違えたのであろうと書かれている。

“行家塚”が1180年に以仁王の令旨を各地に伝えた源行家(生:不詳・没:1186年)の塚である可能性も否定出来ない。源行家が源頼朝の命を受けた北条時定によって捕えられ1186年5月に斬首刑になった地も和泉国(大阪府南部)とされるからである。しかし大正8年(1919年)に当時の大阪府並びに関係者が入念な調査を重ねた上で“北畠顕家の終焉の地”と比定したのであろう。

“行家塚”も江戸時代を通じて人々の関心が薄れる侭に放置され、上記した経緯で大正8年に新たに“北畠顕家奮戦地”と定められ“史跡塚碑”が建てられたが、以後もこの史跡塚は余り顧みられる事が無く、一時はゴミ捨て場状態だったが、太平洋戦争後も暫く経ってから保存会の努力に拠って今日の様に再整備されたとの説明であった。

=昭和12(1937)年建立の“源顕家公・南部師行公殉忠遺跡供養塔”とその碑文から読みとれる当時の“皇室崇拝”の時代風潮=


大正8年の石碑に加えてこの狭い鎮守屋敷(=顕家戦死伝承地)の中央には、昭和12(1937)年に建立された“源顕家公・南部師行公殉忠遺跡供養塔”と刻まれた立派な五輪塔がある。北畠顕家・南部師行の没後600年祭が行われた時に子孫の南部日實男爵と旧浜寺町有志とが協力して建立し、祀って来たものだとの説明があった。

五輪塔の前面に、建立の経緯を刻み込んだ高さ1m幅50cm程の石板の“供養碑文”がある。その文面から昭和12年という当時の日本の世相が読み取れる。昭和12(1937)年という年は6月に第一次近衛文麿内閣が発足し、7月には“盧溝橋事件”が起き、日中戦争に突入、10月には4年前に国際連盟脱退を通告した日本に対して国際連盟総会が日本の行動非難を決議し、真に日本が世界の中で孤立を深めて行った時期である。

日本はその後も孤立と戦争拡大の方向に進み、この年の12月には“南京事件”を起こしている。日本は3年後(1940年9月27日)に日独伊三国同盟を結び、1941年12月8日の真珠湾攻撃へと進む。この供養碑文が建てられた年はそうした太平洋戦争に突入して行く入口の時期だったのである。

当時の日本が“軍部”が“皇室の権威”を借りて主導権争いに走り、戦争を拡大して行ったという点では、時代は遡るが、北畠顕家が“武力を持たぬ天皇家を利用し、覇権争いを繰り返す武家層への怒り”を抱いたという状況に酷似していたと言えよう。

南朝の武将“南部師行”の子孫に当たる“男爵・南部日實”が“南朝顕彰運動”の一環として建てた“供養碑”であるから“南朝に逆らう者は逆賊”と言い切り、足利尊氏・高師直を名指しして“逆賊”と言い切っている文面からは、当時の皇国史観を色濃く滲ませた世相が感じられ興味深い。

=昭和十二年六月二十七日付供養碑=

(省略)延元二年顕家公勅命ヲ奉ジ逆賊足利尊氏ヲ討ッテ京都ヲ奪還セント(省略)僅カニ残兵ヲ率イテ和泉ノ国観音寺ニ拠ラレタ、ヤガテ五月十六日賊将高師直ノ軍堺浦ニ陣シタノデ二十二日官軍ハ進撃シテ激戦数刻ニ亙ッタガ利ナク顕家公ヲ始メ武石高廣・名和義高・村上義重公等石津ニ壮烈ナ戦死ヲ遂ゲラレタ(省略)南部師行公亦東奥ノ精兵二千ヲ率ヰテ従軍シタガ顕家公ノ戦死ヲ知ルヤ僅カニ残ル一族郎党百八人ト共ニ敵陣ニ斬リ入ッテ亦悲壮ナ戦死ヲ遂ゲラレタ(以下省略)  師行三十三世 男爵南部日實 書 

15-(2)-②:“阿倍野神社”訪問記

阿倍野神社は大阪府阿倍野区北畠3-7-20にある。阪堺線の“阿倍野神社”で下車して神社迄は徒歩で行った。

“阿倍野神社由来”には“御祭神 北畠親房公・北畠顕家公”とあり、北畠顕家が足利軍と戦った古戦場に明治15(1882)年に、別格官幣社(国家に功績のあった人臣を祀る神社で明治5(1872)年に湊川神社が定められたのを初めとして1946年に廃止されるまでに28社に及んだ)“阿倍野神社”と号して創立されたと書かれている。

阿倍野神社の境内は余り広く無い。神社の境内の中心に“本社”があり、祭神の北畠親房・顕家の父子が祀られている。その左に位置するのが“勲の宮”で北畠顕家と共に“石津の戦い“で戦死した南部師行とその一族郎党百八名が祀られ、北畠顕家の奮戦ぶりと主君の討ち死を知った“南部師行”が決死の覚悟で“一族郎党百八名”を率いて切り込み、討ち死した状況が書かれている。

尚、神社の入り口に1991年のNHK大河ドラマ“太平記”が放映された事を記念して建立された“北畠顕家”の立像がある。除幕式には俳優の近藤正臣、女優・後藤久美子が列席したと宮司の説明があった。

15-(2)-③:北畠顕家の墓(北畠公園・大阪市阿倍野区王子町3-8-3)訪問記

阿倍野神社に北畠顕家の墓所は無い。宮司から墓所とされる“北畠公園”への行き方をお聞きし、地図を頼りに友人と歩き始めた処、後ろから“ここから歩くと分りずらい場所ですから私が送って行きましょう”と声を掛けて頂いた。

宮司が運転する軽自動車でわざわざ送っていただく事に恐縮しながらも、10分足らずで“あべの筋”に面した北畠公園に到着した。

“史跡北畠公園”と書かれた門柱があり、あまり広く無い公園内に入ると、左の奥に1733年(享保18年)に建立された“別当鎮守府大将軍従二位行権中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓”と刻まれた墓石がある。

良く見ると墓石に刻まれた“大将軍”の“大”の字が小さく、しかも明らかに後から付け足しで刻まれた事が分かる。これは、従三位以上の官位を持った者が“鎮守府将軍”に就いた場合には“大将軍”とすべきだと顕家自身が後醍醐天皇に奏上した事を既述したが、この墓碑を提唱した学者“並河誠所(なみかわせいしょ生:1668年・没:1738年・儒学者)がそうした史実、経緯を思い起こして慌てて訂正した事を想像させる“史跡”で興味深かった。

この墓地も長い間“大名塚”と呼ばれていたものを“並河誠所”が北畠顕家の戦没ゆかりの地として比定した事で初めて“北畠顕家墓所”とされたという経緯がある。北畠顕家の墓所かどうか、決定的な裏付け史料が無くこの史跡もその真偽の程については諸説がある。

この通史ブログを記述するに当たって、出来得る限り実際に“史跡”を訪ねる事は勿論、史実か如何かの判断に最重要な前後の史実との“整合性”の確認に留意しているが、今回の史跡訪問記からも分かる通り“南北朝時代“は日本の歴史の中でも”裏付け史料“が極めて乏しい時代なのである。

繰り返しと成るが、この時代をブログ上の区分として“武士層の出現に拠って始まった混乱と闘争の500年の歴史“と標題付けをしたが、この6-10項で記述する時期は真に”混乱と闘争の500年の歴史“のど真ん中に位置する時代“で、史実確認が容易でない時代である事がこうした“史跡巡り”からも実感出来る。

16:新田義貞の最期・・1338年(南朝:延元3年・北朝:建武5年)閏7月

後醍醐天皇から切捨てられた形で足利方と戦い続けた新田義貞が“金ヶ崎城陥落”を生き延び、1337年3月頃には“杣山城“を拠点として“金ヶ崎城陥落゛時を上回るまでに勢力を回復し、越前平定も目前とされる迄に成っていた事は既述の通りである。しかし落し穴が待っていた。

16-(1):“新田義貞“油断の死

1338年(延元3年)閏7月2日、新田義貞は“黒丸城”に拠って抵抗を続ける足利方の“斯波高経”を攻撃する為に3万余騎の軍勢を率いていた。

黒丸城の支城“藤島城(福井県福井市)”は衆徒が籠城し、なかなか陥落しない為、新田義貞は城攻めに当っていた味方軍を激励する為、手勢僅か50騎で藤島城に向かった。その途上“藤島城”の応援に向かっていた足利方の“細川出羽守と鹿草彦太郎”の軍勢300余騎と運悪く遭遇して了ったのである。

戦闘となり、新田義貞は水田に誘導され、身動きが取れない状況下で矢の乱射を受け、眉間に矢を受け無念の死を遂げたのである。38歳であった。

敵将“斯波高経”も“新田義貞”を討ち取ったとの報を最初は信じなかったと伝わる。確認後に漸く“新田義貞”本人だと分かり、遺体を収容し、葬儀を行った後に、首を京都に送った事が記録されている。

墓所は福井県坂井市・称念寺にあり、明治9年(1876年)に新田義貞を主祭神とし、弟の脇屋義助、義貞の3人の子息と共に一族の将兵を祀る“藤島神社”が明治3年(1870年)に創建された。建武中興十五社の一社として、別格官幣社に列せられている。尚、新田義貞は明治15年に正一位を贈位された。

新田義貞の死が意味する事は①足利家・新田家間の武家の棟梁を巡る主導権争いが終了した事②新田義貞が描いていたであろう“北國王国”樹立の夢が潰えた事とされる。

“新田義貞”の思わぬ死でパニック状態に陥った新田軍は壊滅状態となり、再起は新田義貞の弟・脇屋義助に託された。

南朝を支えた主たる武将達がほゞ全滅した状態になり、南朝方は一気に勢力を失って行く“筈“であった。しかし“史実”はこうした状態から“南朝”を尚も54年間存続させるのである。

“南朝”延命の理由の第一が“足利幕府内”で主導権争い(観応の擾乱)が続いた事であり、第二の理由が主導権争いの武力闘争を続ける武士層にとって、大義名分を立て、己の立場を正当化する権威付けの為に“南朝”を利用する事にメリットがあったという事である。

17:足利尊氏が“征夷大将軍”の宣下を受ける

1338年 8月11日:

足利尊氏は正二位に昇叙の上、光明天皇から“征夷大将軍”の宣下を受け、室町幕府は名実共に成立したとされる。北朝が建武から暦応に改元するのは8月28日である。(南朝は延元3年)。

同じ日に弟・足利直義も従四位上に昇叙し、左兵衛督(さひょうえのかみ=長官)に就いているが、官位では兄・足利尊氏が6階級も上であり、足利直義は公卿の位にも達していないと言う点で二人には大きな差があった。

18:後醍醐天皇の戦略練り直し・・唯一成功した“懐良親王”の征西大将軍派遣 

1338年5月22日に北畠顕家、そして同年閏7月2日に新田義貞が戦死し、後醍醐天皇は“南朝方”の戦略の根本的見直しに迫られた。

18-(1):奥羽・関東対策

1338年(南朝:延元3年、北朝:建武5年)閏7月:

後醍醐天皇は、北畠顕家の死に拠って空白と成った奥羽・関東の軍事指揮権を顕家の2歳年下の弟・北畠顕信(生1320年没1380年)を“鎮守府将軍”に任じる事で与えた。“切捨てた”形となった新田義貞が戦死した時期とほゞ同時期の人事である。


同年 9月:

奥羽・関東対策として後醍醐天皇は義良親王(のりながしんのう:母は阿野廉子:生1328年崩御1368年・後の第97代後村上天皇)宗良親王(むねながしんのう;母は二条為子・生1311年没1385年)両親王と北畠親房・北畠顕信一行を伊勢から海路東国を目指して出航させた。

しかし、遠州灘で大風の為、義良親王と北畠顕信は吉野に戻り、宗良親王は遠江(とうとうみ=静岡県西部)に漂着し、伊井谷の豪族、井伊道政(生:1309年没:1404年)の三岳城に迎え入れられた。

北畠親房だけが常陸に着いたが“後醍醐天皇”が抱いた“義良親王・北畠顕信”による“陸奥・関東支配構想”は挫折した。“宗良親王”も遠江から信濃・越後・越前などを転々としたが、結局、彼も“南朝方”の拠点作りに成功しなかった。

18-(2):南近畿以外で“南朝方”が拠点確保に唯一成功した“懐良親王”派遣
 
1338年 9月:

後醍醐天皇は西方対策として未だ9歳の懐良親王(かねながしんのう・後醍醐天皇の11皇子、母は二条為道の娘:生1329年没1383年)を“征西大将軍”に任じ、少納言・五条頼元(生1290年没1367年)等に補佐させて伊予国忽那島(愛媛県松山市忽那諸島)へ渡らせた。

懐良親王が“征西大将軍”に任じられた時期については1336年9月(延元元年)と言う説もある(大日本史料)。上記1338年9月は“元弘日記=光明寺古文書”に拠る説である。

この地で懐良親王を支援したのは、伊予国喜多郡の地頭“宇都宮貞泰”(当初は北朝方であったがこの頃は南朝方に変わっていた)であった。暫く“懐良親王”は彼の舘に滞在し、その後、一緒に九州豊前・宇都宮氏の豊前国(福岡県東部か大分県北部)仲津に移っている。

“懐良親王”の“征西府”がその後の“南朝方”の勢力を拡大させる役割を果たす事になる。九州に渡って4年後の1342年に、薩摩国谷山城に入り、更に10年後の1348年には肥後菊池氏の居城隈府へと北上する。こうして懐良親王の征西府軍が九州地区全域に勢力を拡大する事が出来た大きな要因も“足利幕府内の主導権争い”であり、其の乱れに乗じたものであった。

後に“明国”は日本との関係に於いて“懐良”の名で冊封(明の太祖が朝貢をして来た周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結び、その統治を認める事)関係を結ぶ事に成る。この事が後に室町幕府が“日明貿易”はじめ、明との外交関係の上で交渉相手と認められず苦労する事になる。

室町幕府第3代将軍“足利義満”が“南北朝合一”を急ぐ事に成ったのは“征西府の懐良親王”を日本国の国王と認めていた“明”に対して“日本の王朝は一つであり”足利義満”が国政のトップである事を示す事が必要だったからである。“後醍醐天皇”が“懐良親王”を“征西大将軍”として派遣した事が、巡り巡って60年近くに及んだ日本の“二つの王朝という異常事態”を終息させる事に深く係わる結果となるのである。

征西府と懐良親王の活躍、その後については後述する。

19:後村上天皇への譲位と後醍醐天皇の崩御

19-(1):“義良親王(のりながしんのう:母は阿野廉子:生1328年崩御1368年・後の第97代後村上天皇)”が皇太子と成る迄の紆余曲折

19-(1)-①:北畠顕家に奉ぜられた時代

既述した様に北畠顕家は後醍醐天皇から“上洛命令”を受け“義良親王“を奉じて南下を開始した。1337年12月23日~24日には足利方の鎌倉を攻め落とし、連戦連勝の勢いであったが、翌1338年2月28日の“般若坂の戦い”で足利方・桃井直常軍に敗れた時点で、北畠顕家は、先の劣勢を見越して“義良親王”を密かに後醍醐天皇の待つ“吉野行宮“に送り返している。そして1338年5月に戦死した。

19-(1)-②:後醍醐天皇の“奥羽・関東対策”は派遣船の難破で失敗に終わる

1338年 9月:

全国の“南朝勢力結集策”として、後醍醐天皇は“各地に自らの皇子を派遣”する事を決める。義良親王そして宗良親王(むねながしんのう;母は二条為子・生1311年没1385年)を奉じて、北畠親房・北畠顕信父子一行は伊勢から海路、陸奥国府霊山(福島県伊達市)を目指して出航した。

しかし既述した様に遠州灘で大風に会い、義良親王一行の乗った船は伊勢に漂着し、宗良親王は遠江国(静岡県西部)に漂着した。

19-(1)-③:義良親王が皇太子となる

1339年3月頃に義良親王は吉野に舞い戻ったとされ、間もなく(1339年3月~8月の間)皇太子に立てられた。

19-(2):“後醍醐天皇”崩御

1339年8月16日:

義良親王を皇太子に立てて間もなく、後醍醐天皇は急病を発して1339年(南朝:延元4年・北朝:暦王2年)8月16日に51歳で崩御した。

太平記(巻21・先帝崩御事)に拠れば“玉骨ハ縦(たとい)南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北蕨(皇居)ノ天ヲ望マント思ウ”との綸言を残し、吉野の北方に位置する京への帰還を望みながらの無念の崩御であった。

“左の御手に法華経の五巻を持せ給、右の御手には御剣を按て冥途へ旅立つた”と記され、仏教への深い帰依と武力を象徴する剣を持っ後醍醐天皇の最期の姿を伝える記事は彼の人間像を見事に捉えた形象とされる。

後醍醐天皇の崩御を知った宿敵、足利尊氏と足利直義は後醍醐天皇の霊が“怨霊”と成る事を恐れて、禅僧・夢窓礎石の勧めを容れ、後醍醐天皇の四十九日に禅の一大寺を建立する事を発意する。夢窓礎石が初代住持となる“天龍寺”の建立である。

後醍醐天皇により始まり、齎された“南北朝”という日本の歴史上の大混乱期は、崩御に拠ってその前期が終わるが、足利幕府内の“主導権争い”が尚も“南朝”を延命させ“更なる混乱期”に入って行くのである。

20:“後醍醐天皇御陵”並びに“南朝御所”訪問記・・2016年11月22日

20-(1):如意輪寺

大阪・近鉄阿部野橋駅から吉野線に乗ると1時間半程で吉野駅に着く。其処から5分程ロープウエイに乗り“下千本”地区に入る。ここから南朝の勅願寺“如意輪寺”へはハイキングコースの山道をゆっくり40分程掛けて歩いた。

桜の季節であれば、千本桜を眼下に見下ろす“天下の絶景これに勝ぐるものは無い”とされる景観で有名なコースである。生憎、我々が訪ねた11月22日は桜の季節では無かったが、季節には遅い紅葉を少し楽しめた。

 “如意輪寺”の案内版には “(前略)足利氏との争いの為京都を逃れ、吉野山へ行幸以来四年間、吉野の行宮に過ごされました。身は仮(たと)へ南山の苔に埋まるとも魂魄(たましい)は常に北蕨(ほっけつ=京都)の天を望まん”と都をあこがれ、遂に崩御されました。天皇の遺骸をそのまま北向きに葬ったのが、塔尾です。(略)現在の建物は約三百五十年前の再建で(以下略)“とある。慶安三年(1650年)に再建されたものである。

境内は左程広くは無いが、本堂・不動堂・多宝塔・宝物殿・そして山門の横には鐘楼がある。宝物殿には“楠木正行”が高師直との四条畷の決戦に臨む前に扉に鏃(やじり)で書き残した有名な“辞世の歌”が展示されている。その他“楠木正行公短刀“等が展示されている。

20-(2):後醍醐天皇塔尾陵

本堂の先の石段を登った先が“後醍醐天皇塔尾陵”である。宮内庁の名で掲げられた案内板には“後醍醐天皇塔尾陵”の他に“長慶天皇皇子・世泰親王墓”の名もあった。“後醍醐天皇塔尾陵”から少し離れた処に“後醍醐天皇ひ孫”の案内板と共にあるのが“世泰親王(ときやすしんのう)”の御陵である。第98代長慶天皇(即位1368年譲位1383年:生1343年崩御1394年)の皇子である事は分かっているが、その事績等については一切不明の皇子である。

20-(3):“吉水神社”訪問

“後醍醐天皇塔尾陵”から、山道を避けて舗装された中千本地域の車道をゆっくりと40分程掛けて歩き、世界遺産“吉水神社”に着いた。“南朝皇居吉水神社”と刻まれた石板には下記の様に由緒が紹介されていた。

“元は吉水院といい、天武天皇の白鳳年間に役行者が創建した格式の高い修験宗の僧坊でした。(略)明治時代に神仏分離が行われ、後醍醐天皇の南朝の皇居であった事から明治八年に”吉水神社“と改められました。(略)南朝四代五十七年の歴史はここよりはじめられ、現存する南朝唯一の行宮となっています。(以下略)”

吉水神社の祭神は“第九十六代後醍醐天皇”で“楠木正成”と“吉水院・宗信法印”が合祀されている。

展示物も多くあり、文治元年(1185年)に源頼朝の追手から逃れた源義経と静御前が弁慶等を伴って隠れ住んだとされる“義経・静御前潜居の間”もあり、重要文化財の”義経の鎧“も展示されている。義経は小柄な武将だと伝わるが、鎧もその小ささに驚かされる。後醍醐天皇関連の御物、狩野山雪作の襖絵など百数十点の文化財、宝物が展示されている。

“後醍醐天皇の玉座“のある部屋の説明書きには”延元々年、後醍醐天皇が京の花山院から秘かに吉野に行幸された時、この吉水院の宗信法印が三百名の僧兵を従え、天皇をここに御迎えし、天皇もこの御部屋を南朝の皇居と定められて吉野朝廷史の第一頁が始まりました。(中略)花にねて よしや吉野の吉水の枕のもとに石走る音 という有名な御製はここで御寝の際に歌われたものです“とある。

日本住宅建築史上、最古の“書院建築”として、ユネスコより世界遺産として登録されたこの建物であるだけに、室町時代初期の床棚書院様式を伝える“義経潜居の間”や豊臣秀吉が修理したと伝わる桃山時代の特徴を伝える“玉座の間”など、建築に興味を抱く人々にも貴重な建物である。

我々見学者に対して、佐藤一彦宮司から10分程の講和があった。宮司は“天下無敵”という言葉の意味する事について“いかなる相手をも打ち負かし、誰でも掛かって来い。必ず打ち負かして呉れる、俺は天下無敵だ!”という態度を言うのでは無い。“天下に一切敵を作らない”という事である”と締めくくった。

確かに日本の歴史を辿ると、優れた“為政者”程、無駄な戦いを極力避けている事が分かる。無論、状況に拠っては相手を粉砕する迄、徹底的に戦い、主導権争いを制したリーダー達であったが、基本的なスタンスは“天下に極力敵を作らない”為の巧妙な人間対応、環境作りに多大な努力をし、結果として無駄な戦いを重ねる事無く、主導権を握り続けた優れた人物が日本の歴史上にも登場して来た。

天武天皇、徳川家康などの政治スタンスがそれに近く、逆の事例が最晩年の豊臣秀吉の“朝鮮出兵”の失政はじめ歴史上多くの事例が挙げられる。

佐藤一彦宮司の意味する“天下無敵”の重要性は現代にも通ずる“優れた為政者・リーダー”が基本とすべき“普遍的スタンス”であろう。

“天下無敵“のスタンスは、人間社会の在り方、更には、個々人の処世上の要諦でもある事は“歴史”が教える“真理”であり、共感を覚える講話であった。


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