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2014年4月17日木曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代の始まりと院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
第2項 鎌倉幕府が日本史上に果した役割と五段階に分けて考える政治体制変遷の
    概要


1:鎌倉幕府が日本史上に果した四つの役割

6-1項で鎌倉幕府成立についてその経緯を詳細に記述した。歴史を理解する為には“物事の本質はその成立過程にある”の格言の通り、源頼朝がどの様なプロセスを経て東国に武家政権を樹立したかを理解して置く事が重要だからである。

諸外国の王朝変遷の歴史と異なり、他民族・外国からの征服を経験した事が無い日本の歴史には時代間に“連続性”がある。第五章で記述した事と第六章以降で記述する事とは必ず何らかの因果関係、繋がりを持っている。日本の歴史を理解する為には、前の時代に起こった事が次の時代に如何関係しているかを探りながら学んで行く事が大切だという事である。歴史が“推理の学問”と言われる所以である。

第一章から第四章迄の“上巻”では“天皇家の出現とそれを支えた藤原氏との共存の500年の歴史”が共通のテーマであった。そして第五章と第六章から成る“中巻”では“武士層の出現によって始まった混乱と闘争の500年の歴史”が共通のテーマである。

既に書き終えた第五章は“院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け”と題したが、第72代白河天皇(即位1072年譲位1086年)が上皇・法皇に就いて“院政”という新たな政治体制を機能させる為に武士層を活用し、台頭させた事が切っ掛けとなり、結果、日本は以後500年に及ぶ混乱と闘争の時代に入って行くのである。平清盛という時代の寵児が現われ、一気に政治の表舞台に駆け上がり、短い期間ではあったが“武家政権”を実現した事が天皇家・院に拠る朝廷政治に対抗する勢力出現の突破口となった。

こうした新しい流れは“守旧勢力”即ち、天皇・院・朝廷・貴族層にとっては“異物”が混入して来たという捉え方であった。第77代後白河天皇(即位1155年譲位1158年)が上皇・法皇に就き院政を引き継ぐが、この人物は既述した通り非常に個性の強い、至尊(天皇・院・朝廷)権力を絶対視する“権化”の様な人物であった。源平の内乱という未曽有の大混乱の同じ時期を後白河法皇が生きたという事が、平清盛・平氏一門という“異物”が結果的に排除され、滅亡するという結果となった。此処までが第五章の記述であった。

第六章のテーマは“武士に拠る闘争の時代の始まりと院政の終了・・織豊で成った日本の再統一”である。

平氏一門を滅ぼし、奥州藤原氏を滅ぼし、後白河法皇から東国に鎌倉幕府という朝廷政治から独立した武士層の政権を獲得した事は至強(将軍・武家)勢力の台頭を“異物”として捉える至尊(天皇・院・朝廷)勢力との闘争を必然的に生む事になった。

鎌倉幕府が日本史の上に果たした第一番目にあげられる役割が“至尊”勢力に比肩し得る立場を獲得した事である。

1199年に源頼朝が急逝し、その直後から後鳥羽上皇による討幕の準備は始まっており、1221年に“承久の乱”が勃発した。承久の乱で第2代執権北条義時と姉の北条政子の強いリーダーシップに拠って幕府側が勝利を収めた事が以後“至強(尼将軍・幕府執権)”勢力が“至尊(天皇・院)”勢力を凌駕する事に繋がって行く。これが鎌倉幕府が日本の歴史上に果たした第二番目にあげられる役割である。

“承久の乱”での敗北という決定的なダメージを蒙った“至尊(天皇・院・朝廷)”勢力だが、勝った至強(幕府執権・御家人)勢力側にも北条氏の出自が低い為、政治権力の基盤は盤石とは程遠い状況であったという事情が北条執権体制が一気に“至尊”勢力を圧倒するまでに至らなかった大きな理由である。

有力御家人の集合体という色合いの強い鎌倉幕府の中で、先ずは北条執権家としては、自らの確固たる地位を確立する事で精一杯だったというのが実情であろう。

第2代執権・北条義時、尼将軍・鎌倉殿代行として鎌倉幕府の窮地を守り切った北条政子の二人が続けて世を去り、弱体化を隠し得なかった状況で登場したのが第3代執権、北条泰時(生1183年没1242年在職1224年~1242年)であった。彼は鎌倉幕府が有力御家人に拠る集合体である状況を充分に理解していた。

そこで泰時は幕府運営を集団指導体制・合議制に切り替える。具体的には執権・連署・評定衆の計13人による評定会議を幕府の最高決定機関とする改革である。更に御成敗式目(貞永式目)を制定して統治経験の無かった武士政権が法治国家としての体裁を整える基礎を作ったのである。こうした後の武家政権にも引き継がれる政治体制の骨格を整えた事が鎌倉幕府が日本の歴史の上に果たした第三番目の役割である。

そして鎌倉幕府が日本の歴史の上で果たした第四番目の役割が“元寇“という国難に挙国一致体制の必要性を”得宗専制“という形で乗り切り実証した事である。

2度に亘る“元”の来襲に挙国一致体制を執る事が出来た事で辛うじて防御する事が出来た。鎌倉幕府140年間の政治体制変遷の歴史の中で政治力を最強状態に保つ事が出来た“得宗専制体制”の時期に“元”の来襲があった事は日本の歴史にとっても幸運であったと言えよう。“得宗専制体制”は第5代執権・北条時頼の時期に始まり第8代執権・北条時宗の時期にピークを迎えるのである。

元寇を2度に亘って防御した鎌倉幕府ではあったが尚、3度目の元寇に備える必要があった上に、御家人達の疲弊、恩賞に預かれなかった不満は全国の御家人達に鬱積していた。こうした状況に鎌倉幕府はあれこれ手を打つが、御家人達と幕府との信頼関係は弱まり、北条時宗が世を去った後に北条得宗家のリーダーシップは急速に弱体化したのである。

こうした“至強(幕府・執権・武士層)”勢力の弱体化を“至尊(天皇・院)”勢力が見逃す筈は無く、1318年に即位した第96代後醍醐天皇が倒幕の動きを起こす。後醍醐天皇の動きがトリガー(引き金)となって討幕運動が広がって行くのであるが、実態は足利(高)尊氏・新田義貞を始めとする鎌倉幕府の有力御家人達でさえもが幕府から離反して行った事に拠る“幕府の自壊”と言った方が正確である。

鎌倉幕府は自壊し、歴史は後醍醐天皇による“建武の親政”へと展開する。後醍醐天皇の独断的な“親政”は武士層の反発を招き、1333年から1336年迄の僅か3年足らずで崩壊する。再び室町幕府という形で至強(将軍・幕府)勢力が日本の政治をリードする形に戻り、以後明治維新を迎える迄、“至強”勢力は“至尊”勢力に政権を返上する事は無かった。

“至尊”から“至強”への政治権力の“大転換”が鎌倉幕府が日本の歴史上に果たした四つの役割の中の第一番目と述べたが、平清盛がその前に天皇家・貴族層と比肩し得る地位を切り拓いた事がその端緒であった事を忘れてはならない。

関幸彦氏は“平清盛の失敗は至尊(天皇・院・朝廷)権力の掌の上で武家政権を成そうとした事にあった。源頼朝は平清盛の失敗に学び、徹底して至尊(天皇・院・朝廷)権力から距離を置く策をとった。至尊側が繰り出す”官職授与“等の懐柔策、同化策を拒む事に拠って東国に独自の政権を成立させる事が出来たのである”と結論付けている。

鎌倉幕府の成立は日本にこの時点で伝統的な至尊(天皇・院・朝廷)勢力が統治する国と、新興の至強(将軍・幕府)勢力が統治する東国の鎌倉幕府政権という二つの国が出現した事を意味した。

建国以来、日本の政治権力を握り、国をリードして来た至尊(天皇・院・貴族層)側にとって、至強勢力の台頭は“異物”として“排除”する対象以外の何物でも無かった。その結果起きたのが1221年の“承久の乱”である。しかし、後鳥羽上皇側の敗北で“至尊”側は建国以来築いて来た“至尊”側の権威・政治権力並びに財政基盤(院領荘園群)の多くを失ったのである。

関幸彦氏は“鎌倉幕府という形で至強勢力が至尊勢力に比肩し得る条件を獲得し、凌駕するという実績を作った事が重要である。鎌倉幕府自体は後に自壊するが、”至強“勢力はその後も室町幕府~江戸幕府へと続く日本の政治をリードする役割を以後700年に亘って担う突破口となった“と、鎌倉幕府の果たした役割を解説している。

福沢諭吉は鎌倉時代に至尊(天皇・院・朝廷)勢力と至強(将軍・武家層)勢力が併存し、互いに覇権を争った政治状況が日本に存在した事を評して“中国はじめ東アジア社会では至尊と至強はイコールの図式が常態である。つまり皇帝という専制支配者が至尊と至強とを兼ねて統治するのが当たり前の姿であったが、日本の鎌倉時代は”至尊“権力と”至強“権力の夫々が別立で権威と権力を分掌するという形になった。この両者が併存するという政治形態の継続は時代ごとに両者の力関係に変化はあったが、鎌倉時代から明治維新迄続く日本にだけ見られる政治権力の在り方の特色である”と説いている。

次項(6-3項)以降で“至強”という新興勢力が“至尊”勢力とどの様に闘い、そして勝利した結果、全く統治経験の無い“武家層”が鎌倉幕府という政治組織をどの様に運営して行ったかを詳細に記述して行く。

その中心となったのが平氏と並び、その出自を天皇家に遡り、武家の棟梁と仰がれた源氏では無く、伊豆国の在地豪族に過ぎなかった出自の低い“北条氏”であった事がこの時代を殊更、武力間の闘争に明け暮れる時代にした事は否めない。

結果として鎌倉幕府は成立から滅亡までの140年間に五段階に亘る政治体制の変遷を経て自壊するが、鎌倉幕府が日本の歴史の上に果した上述の“四つの役割”は重要で、室町幕府~徳川幕府へと続く“至強(将軍・幕府)”権力が引き続いて日本を統治して行くというベースを確りと残したのである。

2:鎌倉幕府の五段階の政治体制の変遷の概要

2―(1):

鎌倉幕府の政治体制の第一段階は源頼朝・頼家・実朝の源氏3代将軍による政治体制の時期である。源頼朝の急逝によって源氏将軍に拠る政治体制は僅か3代で断絶する。この事は、鎌倉幕府という東国に出来た日本初の本格的武家政権が有力御家人達の利益代表として源頼朝が擁立されて出来た政権だったという事を如実に物語っている。

朝廷政治から独立した“御家人達”の為の政権として“御恩と奉公“をベースとした主従関係を維持する為には御家人達の利益を担保すべく源頼朝が貫いた“天皇家・院・朝廷(至尊勢力)”が繰り出す“官職授与策”などの武士層懐柔策、同化策に“将軍・幕府”が踊らされる事無く、鎌倉殿(将軍)は常に“御家人達の方を向いている“という姿勢を御家人達に見せ続ける事が重要であった。

しかし乍ら頼朝・政子夫妻でさえもが晩年には娘達を後鳥羽天皇に入内させる事を画策する等、“至尊”勢力に接近する姿を見せた。頼朝急逝後に将軍職を継いだ源頼家は幕府成立に功績のあった有力御家人を無視した“将軍専制政治”を目指す等、鎌倉殿に就任直後から有力御家人達との間に衝突を起こす始末であった。鎌倉幕府は創始者の頼朝が急逝した直後から不安定な状況となったのである。

こうした状況に機敏に動いたのが頼朝存命中は政治の中枢から遠ざけられていた北条時政(生1138年没1215年)である。政子の父親としての立場を利用し、第2代将軍・頼家に不満を持つ有力御家人達の不満を解消する動きを開始する。

頼家側の梶原景時一族の討滅を皮切りに、頼家の乳母夫で政治権力を強めていた比企氏を滅ぼし、頼家の将軍職を廃し、伊豆国の修禅寺に幽閉し、殺害するなど政治的暗躍も含めて北条氏の政治的立場を強化したのである。

北条時政は政子の妹・阿波局が乳母を務めていた、未だ12歳の頼朝と政子の次男・源実朝を政子の力を借りて第3代将軍にする。

執権職として実朝の政治を補佐する立場を確立し乍ら、対立する有力御家人を次々と倒し“北条執権政治体制”の土台を築いて行った時代である。この間、政治権力を奪われた源実朝は和歌・朝廷文化にのめり込み、後鳥羽上皇の“官職授与政策”にまんまと嵌る状態となる。そして政子の命令によって猶子としていた源頼家の遺児・公暁によって1219年の1月に鶴岡八幡宮で暗殺され、ここに源家3代の将軍時代が断絶したのである。

2-(2):

第二段階での政治体制の変遷は源家将軍3代が断絶し、政子と北条義時が傀儡の摂家将軍として九条頼経を1219年に迎える処から始まる。当初幕府側は親王将軍下向を後鳥羽上皇に何度も要請した。しかし“討幕”の意志を固めていた後鳥羽上皇は拒絶し、両者の確執が露呈したのである。

“承久の乱”が1221年に勃発し、後鳥羽上皇を筆頭とする“至尊(天皇・院・朝廷)”勢力を打ち破る事に成功した事に拠って第2代執権・北条義時は鎌倉幕府の最高権力者としての地位を確定した。1219年に3代将軍実朝が暗殺されてから将軍職は不在で、摂家将軍として迎えた2歳の三寅(後の九条頼経)を政子が後見する形が続いていた時期であり、政子は尼将軍・鎌倉殿代行という立場にあった。この立場は結局政子が死去する1225年迄続いた事が“吾妻鏡”に記されている。

鎌倉幕府は承久の乱の勝利によって京方の貴族、武士達の所領、3,000ケ所を没収し、新たに東国武士達に恩賞として与え、地頭に就けた。この結果、鎌倉幕府の統治範囲も東国から全国規模に広がり、執権政治体制も全国規模に強化されたのである。京の南北に六波羅探題を置き、京の警備、朝廷の監視を行わせた。こうして至強(執権・尼将軍)勢力が至尊勢力を凌駕するという状況を作った事が鎌倉幕府が果たした日本の歴史上の4つの役割の中で第2番目に数えられる事である。この役割を担ったのは北条義時(生1163年没1224年)と北条政子の姉弟であり、鎌倉幕府を守り、北条執権体制を確立した時期である。

北条義時(得宗:生1163年没1224年在職1205年~1224年)、北条政子(生1157年没1225年)という鎌倉幕府を守り、支えた巨星が相次いでこの世を去り、一挙に政治基盤が弱体化した状況下で第3代執権に就いた北条泰時(生1183年没1242年在職1224年~1242年)は執権・連署・評定衆から成る“評定会議”を幕府の最高決定機関とする“合議制”の政治体制、つまり集団指導体制の政治を行った。

更には聖徳太子の17条憲法の精神に倣った51条(17x3)から成る“御成敗式目”を制定(1232年)した。日本最初の武家法であり、鎌倉幕府の基本法となった。守護地頭等の職務権限を明文化するなど、この制定に拠って御家人達の支持を得る事に成功したのである。この様に北条泰時の政治は北条執権体制の強化に繋がり、自らの執権としての地位を強化した。

第2代執権北条義時(法名得宗)、第3代執権北条泰時の二人の政治に拠って“北条執権政治体制”が確立されたばかりか、鎌倉幕府としての政治の安定化が成った時期である。

特に御成敗式目(貞永式目)の制定は後の“至強(将軍・幕府)”権力に武家法の基本とし受け継がれ、法治国家としての第一歩を築いたと言えよう。先の“合議制に拠る政治体制”も含め北条泰時の広い視野での政治は国家統治に未経験だった“至強(幕府・武家層)”勢力に国家統治の基本を整備して示した事が後に続いた“至強(将軍・幕府)”勢力もこれを参考とする基準となったのである。

鎌倉幕府が日本の歴史の上で果たした四つの役割の中、この時期の政治が第三番目の役割とされるものであった。

2-(3):

鎌倉幕府の政治体制変遷の第三段階は第3代執権・北条泰時の嫡子北条時氏が1230年に27歳で急死した為、泰時からすると嫡孫が第4代執権・北条経時(生1224年没1246年在職1242年~1246年)として就いた時期に始まる。彼は在職期間も僅か4年であり、前後を偉大な祖父第3代執権北条泰時と第5代執権北条時頼に挟まれる事になる不運な執権であった。歴代北条執権の中でも存在感が薄く“空気執権”と悪口を叩かれる存在であった。

連署も置かず、更に病気がちであった為、北条経時が執権に就くとその政治体制は忽ちの中に弱体化し、北条義時の次男・名越(北条)朝時(生1193年没1245年)を祖とする名越流北条家が公然と反・得宗家一派としての動きを目立たせる事になる。

“名越“とは初代執権・北条時政の名越邸に由来する。この屋敷を朝時が継承した事と朝時の母が正室の”姫の前“であった事に対して異母兄に当たる北条泰時の母は義時の側室であったという事から、北条家の嫡子は自分だとの強い思いがあったのである。

反・得宗勢力は第4代摂家将軍・九条(藤原)頼経(生1218年没1256年在位1226年~1244年)の取り巻きとして力を伸ばす。これに、朝廷で第87代四条天皇(即位1232年退位1242年)の外祖父として勢力を振るった九条道家(生1193年没1252年)が将軍九条頼経の父親としての立場を利用して幕政に口を挟むという状況になる。

要するに“空気執権北条経時”が就任した僅か4年の間に摂家将軍家を頂点とする“反・得宗勢力”が跋扈したのである。

源頼朝が御家人達に擁立される形で鎌倉幕府を成立させてから、まだ半世紀しか経たない時期であり北条氏の嫡流(得宗家)の政治基盤も確立されては居らず、不安定なものであった。まさに“中巻”のテーマ通りの“武士層の出現によって始まった混乱と闘争の500年の歴史”の真っ只中の状況だったのである。

第4代執権北条経時が在職中の1244年4月に第4代摂家将軍“九条頼経”は将軍職を嫡男に譲っている。第5代鎌倉将軍・九条頼嗣(生1239年没1256年就任1244年廃位1252年)の誕生である。フリー百科事典並びに秋山哲雄氏はこの将軍交代の理由を将軍九条頼経と第4代執権・北条経時との関係悪化で譲位は幕府に強いられたものだとしているが、吾妻鏡には戦争やクーデターに拠って国王が退けられる事を象徴する天変“白虹貫日”が直前に現れた事で不徳の将軍として九条頼経自らが職を退いたとしている。

又、九条頼経は将軍職を退く事に拠って反・得宗勢力と連携して得宗家を倒し、新たな政治勢力の“核”と成ろうとしたのであろう、との説もある。

こういう情勢下、1246年に入ると執権北条経時の病状は更に悪化し、4月1日に22歳で没した。第5代執権には弟の北条時頼(生1227年没1263年:在職1246年~1256年)が就く。

北条時頼は執権就任早々に前将軍九条頼経と共謀して時頼排斥の謀反を企んだ名越(北条)朝時の嫡男名越(北条)光時ら反・得宗一派が起こした1246年閏4月の“宮騒動”に勝利する。この勝利で北条時頼は九条頼経を京に還し、名越光時を出家させ、所領没収の上、伊豆国へ配流した。北条泰時の死去以後大きく揺らいでいた“北条執権体制”を立て直し、徐々に“得宗専制体制”を築いて行った時代である。

北条時頼が得宗権力を行使して行った特筆すべき政治が第4代摂家将軍(九条頼経)第5代摂家将軍(九条頼嗣)を廃して、1251年に第88代後嵯峨天皇の(即位1242年譲位1246年)第一皇子・宗尊親王を鎌倉幕府第6代将軍(生1242年没1274年在任1252年~1266年)に迎えた事である。幕府政治に介入し、反・得宗の動きをした九条家の排除が目的であった。

源氏3代が断絶した直後に当時の後鳥羽上皇から拒否された親王将軍がここに実現した訳である。親王将軍の下向と雖も傀儡将軍である事には変わりが無かった事は得宗専制の権力が確立されていた事の実証である。親王将軍は以後幕府が滅亡する迄の第9代守邦親王迄、4代続く事になる。

ここで“得宗”並びに“得宗専制体制”について紹介して置こう。

*得宗とは:

北条氏の惣領を得宗と呼ぶ。それは第2代執権・北条義時の法名(別称・戒名・追号とする説もある)に由来するものであり、初代執権時政・2代執権義時・3代執権泰時・時氏(六波羅探題北方を務めていたが1230年に27歳で死没)・4代執権経時・5代執権時頼・8代執権時宗・9代執権貞時・14代執権高時・・の9代が得宗に数えられる。

執権職は鎌倉幕府の公的な地位であるのに対して“得宗”は北条一門の惣領であって私的な地位に過ぎない。

北条氏が敵対する御家人達を次々に滅ぼし、第3代執権北条泰時が整備した執権・連署・評定衆等、幕府の要職を次第に北条氏一族が独占する様になると、鎌倉幕府=北条氏、という構図となり、必然的に政治権力の頂点が北条一門の中でも惣領家、すなわち“得宗家”という事になり、権力と共に財力も得宗家に集中する様に成った。

こうして鎌倉幕府の公的な地位である“執権”を超えて“得宗”という北条一門の私的地位が幕府内の地位に変化して行ったのである。これは丁度“至尊”権力側で“天皇と治天の君”との関係に類似している。

又、得宗家には専属の被官である御内人(みうちびと)が得宗家の執事として家政に当たっていた。そのトップが内管領(ないかんれい)であった。(御内総管頭領を略したもの)第3代執権北条泰時が尾藤景綱を家令に任じたのが前身とされ、後述する平頼綱の専制政治・恐怖政治の例が有名である。内管領は得宗家の”家政の長”であって幕府の役職名では無い。

又、第5代執権北条時頼の時代には“評定衆”の得宗家版とも言える“寄合衆”が得宗体制が強まるにつれて幕府に於ける政治的な意味を重くして行った。

以上の様に“得宗”権限が強まるに連れて得宗家の私的な“内管領”の地位が幕府の“御家人”よりも高くなり、“寄合衆”が幕府の公式な“評定衆”よりも権威を持つ様になる等、鎌倉幕府の政治体制は変遷を続けて行ったのである。

*得宗専制体制はどの時点からを指すのか?

これに就いても諸説があるが初代執権・北条時政から第4代執権北条経時(在職1242年~1246年)迄は得宗=執権と考えて良いから得宗専制体制の下での状況とは合致しない。。

得宗専制政治体制が取られ始めた時期、或は得宗専制政治の典型の時期とする説にも下記3説がある。時系列で並べると下記になる。

①    1246年説:名越(北条)光時が評定衆の反・得宗派と共謀して前第4代鎌倉将軍、九条頼経を抱き込んで新執権・北条時頼打倒を謀って敗れた“宮騒動”以降を北条時頼に拠る“得宗専制政治”が始まったとする説。

②    1256年説:北条時頼は11月に赤痢にかかり病は癒えるが出家をし、執権職、侍所別当職を得宗家では無い義兄弟の赤橋(北条)長時に譲る。これは時頼の嫡男・北条時宗が成人する迄の処置であり、幕政の実権は引き続いて北条時頼が握り続けた。この例の様に得宗と執権が分離した状 態が生じた時点を“得宗専制政治”への先駆けとする説。

③    1285年説:1285年の12月に鎌倉幕府創設以来の有力御家人である安達氏の一族・得宗家の外戚でもあった安達泰盛と得宗家の執事で内管領、かつ、北条時宗の嫡男・北条貞時の乳母父という立場の平頼綱が争い、平頼綱が勝利して安達一族が滅びるという幕府を二分した騒乱、霜月騒動が起こる。これ以降を得宗専制政治時代とする説。得宗家の権力と威光を借りて、内管領が専制政治を行なう時代が続き、この時代を“得宗専制時代”とする説である。

以上の3説であるが、北条時頼が第5代執権就任の直後から次々と政敵を討ち、政治の実績を重ね、摂家将軍を廃し、1251年には親王将軍を迎える等、着々と得宗専制体制の基盤を整え、鎌倉幕府としての政治権力が強化された時期という観点からは、上記の中、①説が最も“得宗専制体制”の開始時期として妥当だと思われる。


上記②説で記した様に1256年に第5代執権北条時頼は病の為に執権職を義兄弟の赤橋(北条)長時(生1230年没1264年在職1256年~1264年)に譲る。第6代執権の誕生である。上述した様にこの人事は時頼の嫡男で後に第8代執権と成る北条時宗が成人する迄の中継ぎの執権であった。

1263年には時頼が没し、赤橋(北条)長時も翌1264年に34歳で没する。こうした状況下で第7代執権に59歳の老齢で就いたのが同じく北条時宗への中継ぎ役を果たした宿老・北条政村(生1205年没1273年在職1264年~1268年)であった。

1268年1月には元の皇帝フビライ・カーンから服属を求める国書が届くという状況となる。

最大の国難を目の前にした北条政村は権力の一元化を図る為、17歳ではあったが得宗家のエース、北条時宗を第8代執権(生1251年没1284年在職1268年~1284年)に就け、北条時頼との約束を果たしたのである。

二度に及ぶ元寇(1274年、1281年)という未曽有の国難に“得宗専制体制“という強いリーダーシップを北条時宗が発揮し、元寇を防御出来た事は我が国にとっても幸運であった。この時期、三度目の元の来襲も現実味を帯びていたのである。時宗は鎌倉幕府下の兵力だけでは無く、至尊(天皇・院・朝廷)側からも防御の為、非御家人を動員した。

至強(幕府・執権)勢力が挙国一致体制で至尊(天皇・朝廷)勢力の範囲にまで動員を命じるという強力な“得宗専制政治体制”が機能したのがこの時期の“得宗”政治体制であった。

鎌倉幕府時代140年の歴史を通じて最も北条氏の政治権力が強かったまさに“得宗専制”の時代だったと言えよう。

2-(4):

第四段階は“元寇”対応の為に生まれて来た様な第8代得宗、執権北条時宗が33歳の若さでこの世を去り、得宗家嫡男の北条貞時(生1272年没1311年在職1284年~1301年)が僅か12歳で第9代執権職に就いた時期に始まる。

元寇による国の疲弊・御家人達の窮状など幕府には難問が山積しており、到底12歳の貞時の手に負える政治状況では無かった。結果、得宗家の御内人(みうちびと)が内管領職として台頭し、得宗家の権威・権力を笠に着て専制政治を行うという時代に移る。

こうした時期、つまり“内管領”が政治を専横した時期を“得宗専制時代”とするのが上記した中の③説である。御内人の内管領の専横に拠って、北条得宗家の政治権力は凋落して行き、存在感自体も失われて行ったのである。

得宗家の第8代執権・北条時宗と第9代執権・北条貞時の執事を務めた“平頼綱”(生1241年没1293年)が最初の人物であった。彼は幼少の北条貞時の時期に内管領として政治の実権を握り、専制政治、日蓮に対する逮捕・流罪で有名な恐怖政治を敷いた。有力御家人が居揃う中で得宗家の家人に過ぎない御内人(みうちびと)が“内管領”としてこれ程の力を持ったという事は逆に第5代執権・北条時頼時代に確立した得宗権力を第8代執権北条時宗が“元寇対応“で示した様に、この時期迄に如何に強力な”得宗権力“に成っていたかを証明するものである。

そうした“得宗“権力を乱用した平信頼は第9代執権北条貞時が21歳の成人となり、幕府内の御家人達の不満も最高潮に達した事で、北条貞時自身の手によって1293年に自宅を急襲され、一族と共に成敗され滅びた。(平禅門の乱)

以後、北条貞時は得宗専制時代の様な得宗家の復権に努めるが、元寇以後の御家人達の疲弊と鎌倉幕府の退潮には歯止めがかからず、一度失った得宗家の権威の回復は叶わなかった。晩年の北条貞時の政治は2人の子息に先立たれるという不幸が続いた事もあり、幕府の抱える山積の問題に押し潰された格好で大いに乱れ、1311年にこの世を去った。

第10代執権(北条師時:在職1301年~1311年)第11代執権(北条宗宣:在職1311年~1312年)には得宗家でない北条貞時の従兄達が就いた。しかし、幕政の実権は相変わらず滅びた平頼綱の一族である内管領の長崎高綱(円喜)に握られていた。

2-(5):

第五段階目は上記した得宗・第9代執権北条貞時の三男・北条高時(生1304年没1333年:在職1316年~1326年)が第14代執権に就いた時期から最後の第16代執権職に就いた赤橋(北条)守時(生1295年没1333年在職1326年~1333年)迄の期間である。

2度に亘る元寇対応で鎌倉幕府は疲弊し、畿内近国はじめ全国に幕府・朝廷等の既成の支配体制に反抗する“悪党”と呼ばれる集団が現われ、政情は益々不安定に成って行った時期である。

鎌倉幕府の執権政治体制は崩壊状態に在り、政治権力は引き続き得宗家の御内人の内管領に握られていた。第14代執権・北条高時の体制下でも第9代執権・北条貞時時代の執事として高時の後見を託されていた内管領の長崎高綱(円喜)並びにその嫡男・長崎高資(ながさきたかすけ)が実権を握っていた。

北条高時が僅か12歳で執権職に就いた時点の1316年に長崎高綱(円喜)は内管領の職を嫡子の長崎高資(ながさきたかすけ)に譲っている。

一方、承久の乱以降、皇位継承には鎌倉幕府の承認が慣例と成っていたが、第88代後嵯峨天皇(即位1242年譲位1246年崩御1272年)が第二皇子を第89代後深草天皇(即位1246年譲位1259年)として即位させた後に、溺愛する僅か10歳の第七皇子に無理矢理に譲位させ、第90代亀山天皇(即位1259年譲位1274年)を誕生させた。

この事が至尊(天皇・院)側を揺るがす大きな争いに発展して行った。

亀山天皇の皇子を皇太子(後の第91代後宇多天皇:即位1274年譲位1287年)とした事や“治天の君”を決めずに後嵯峨上皇が1272年に崩御した事で、皇位継承問題で無視された格好の後深草上皇と亀山上皇の兄弟が二派に分裂して“治天の君”の継承と“院領荘園群”の相続問題で激しく争う状況となっていた。日本が二度に亘る“元寇”で大揺れに揺れていた時期の“至尊”側の状況である。

第六章のテーマは“武士層に拠る闘争の時代と院政の終了”とした。中世史の岡野友彦教授が“院政の本質は院領荘園群の管理・統括の為のものである”と定義した様に膨大な院領荘園群が“至尊”側の経済力・武力の基盤であった。“承久の乱”の際に後鳥羽上皇の財力・兵力の元となったのは鳥羽院と後白河院が二代で築き上げた“院領荘園群”のほぼ全てを後鳥羽上皇が管轄下に納めていたからであった。

紆余曲折は省略するが、この時期、兄の後深草院が“長講堂領”を、弟の亀山院が“八条院領”を伝領していたという具合で、院領荘園群の伝領も二分されていた事が、以後皇位継承問題で後深草院系統が“持明院統”、弟の亀山院系統が“大覚寺統“として皇統が二つに分かれて争う土台となったのである。

この様に第五段階目の政治体制変遷期の政情は至強(幕府・得宗家)勢力側も至尊(天皇・院・朝廷)勢力側も夫々が内部の弱体化、争い、そして混乱状態に揺れていた時期であった。

北条高時が第14代の執権職に就いた翌年の1317年に“持明院統”から出た第92代伏見天皇(即位1287年譲位1298年崩御1317年)が崩御した。次期皇太子を巡って持明院統・大覚寺統の争いが激しくなり、仲裁役を期待された鎌倉幕府が和解策を提示した。これが“文保の和談”(ぶんぽうのわだん)と呼ばれるもので、以後“両党迭立”(持明院統と大覚寺統から交互に皇位継承者を出す)のルールが決められのである。

この時の天皇は持明院統から出た第95代花園天皇(即位1308年譲位1318年)であり、決められたルールで次に即位したのが第96代後醍醐天皇(即位1318年)だった。この時第14代執権・北条高時は若干13歳の少年であり、この“文保の和談”の黒幕は内管領の長崎光綱(円喜)であった。

この様に北条執権体制も崩れ、1326年に最後の第16代執権赤橋(北条)守時(生1295年没1333年在職1326年~1333年)が就任する。この頃の政情は騒動・政変が続き、北条得宗家からは執権の成り手が居ないという状態だった。赤橋守時は北条氏の庶流である赤橋家の出身である。評定衆の下に設けられた“引付衆”の頭人だった人物だが得宗家からの執権職就任が途絶え、得宗家の待遇を得た一門という事で31歳の守時が最後の執権職に就いたのである。

赤橋(北条)守時の妹の婿が足利高(尊)氏であり、討幕の戦いに尊氏が加わると赤橋守時は一門から“裏切り者”扱いをされ、それを払拭する為に勇猛果敢に戦い、鎌倉幕府滅亡の1333年5月、鎌倉市の深沢地区で自刃した。

赤橋守時が執権に就く二年前の1324年には大覚寺統から既に即位していた第96代後醍醐天皇(即位1318年)が幕府転覆を謀る“正中の変”が起こっている。六波羅探題が事前に察知した為に未遂に終わる。後醍醐天皇の側近が処分されたが幕府からは後醍醐天皇に対する咎めは一切無かった。

後醍醐天皇という人物も“至尊”権力意識の権化の様な人物であった。幕府を倒し、天皇に拠る“親政“を信じ、再び7年後の1331年8月に今度は”三種の神器“を持って討幕の挙兵をしたのである(元弘の変)。

後醍醐天皇の皇子で天台座主から還俗した護良親王、幕府からは“河内の悪党”と呼ばれていた楠木正成も討幕の挙兵をする。足利高氏(後に尊氏)・新田義貞はこの時点ではまだ幕府側の人間で逆に討伐側として戦っていた。当初は大軍を擁した幕府側が優勢であり、後醍醐天皇は捕えられ、1332年に隠岐の島に配流された。

この劣勢状況の1332年に河内金剛山の山城、千早城に籠城してゲリラ戦法、糞尿攻撃を用いて幕府の大軍を相手に90日間も持ち応えていた楠木正成の奮戦ぶりが各地での討幕運動に火をつける。

1333年に入ると後醍醐天皇の隠岐の島脱出、赤松円心の挙兵、そして幕府の有力御家人であった“足利(高)尊氏”までもが叛旗を翻す動きと成り、西では5月7日に六波羅探題が攻め落とされ、翌5月8日には幕府の御家人・新田義貞も討幕の挙兵をし、5月22日には幕府の本拠地、鎌倉を攻め落とした。

第14代執権の北条高時、第16代執権赤橋(北条)守時、その他北条一門の武士の多くが自刃した。ここに鎌倉幕府は滅亡したのである。

以上が鎌倉幕府140年の政治体制変遷の概要である。次項以降で第一段階から第五段階への政治体制の変遷を詳述して行く。

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