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2014年4月17日木曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代の始まりと院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
第3項 鎌倉幕府五段階の政治体制変遷の第一段階・・源家3代将軍政治体制の断絶


1:はじめに

福島金治氏の説では鎌倉時代の支配体制については“権門体制論”と“東国国家論”があるが、どちらの説に立とうとも源家将軍と御家人との主従関係をベースにしてスタートし、源家将軍が断絶した後は執権・連署・評定衆・引付衆などに拠る“合議体制”の支配体制に移り、挙国一致体制が不可欠であった元寇に対しては、北条得宗家に政治権力が集中された“得宗専制体制”の時期という幸運があった。

元寇という未曽有の国難を回避した後に鎌倉幕府の統制力は急速に衰え、北条得宗家の私的機関であった“内管領“が鎌倉幕府の公的組織を破壊して行く。その結果150年程続いた鎌倉幕府は”自壊“して行く結果となる。

第六章全体のテーマは“武士層に拠る闘争の時代の始まり”で、スタートは平清盛であった。それを政治体制として本格的に成したのが鎌倉幕府時代である。

武士層が伝統的な“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)”勢力に伍した“至強(将軍・幕府・武家層)”勢力の立場を得た時代だが、闘う事を“性”とする武士層の出現は止めども無く繰り返される“闘争の時代の始まり”であり、鎌倉時代は5段階の政治体制変遷を経た。

その第一段階が源家3代の将軍政治体制とその断絶である。

源頼朝が存命中の政治は安定していたが、頼朝は後に政争と成る火種も残して急逝した。そして次々と“闘争”が続く。時系列に並べると①比企氏の乱②将軍・頼家の追放と暗殺③牧氏事件そして最後が④将軍・実朝暗殺事件である。

源家3代将軍時代が断絶して、6-3項は終るが、鎌倉幕府の政治状況が安定する事は無く、6-4項以降でも⑤承久の乱⑥伊賀氏事件⑦宝治合戦⑧宗尊親王送還事件と続き、幕府の政治体制は事件の度に変遷を重ねる。

そして⑨元寇という国難期には“得宗専制体制”で幸運にも対処し得たが、元寇で蒙った国力、幕府体制の疲弊は余りにも大きく、鎌倉幕府は内部からの自壊へと進む

内部からの自壊は“得宗専制体制”の弊害という形で現れる。具体的には得宗家の私的機関である御内人(みうちびと)に拠る“内管領”が政治の実権を握り、鎌倉幕府自体が自壊へと進んだのである。

闘う事が本性である武士層が政権を握った鎌倉時代の宿命とも言えるが“御恩と奉公“という大原則が二度の元寇で崩れ去った事で、鎌倉幕府存立の基盤が失われた事が決定打だったと言える。

以上の様な荒筋を頭に置いて、鎌倉幕府五段階の政治体制変遷の第一段階、源家3代将軍に拠る政治体制の時代を以下に記述して行く。


2:鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(生1147年没1199年・将軍職1192年~1199年)
  の時代

源頼朝が幕府を創設する迄のプロセス、その日本史上に果した役割等については既に記した。鎌倉時代は“闘争”に明け暮れる時代だが、闘争の火種を実は頼朝が生前に撒いていた。そして頼朝の急逝後にこれらの闘争が起きるが、結果は全て、北条氏の台頭と権力拡大に結び着くのである。

頼朝の後家・政子が北条氏台頭の立役者であったと言える。

2-(1):嫡男頼家と次男実朝に対する乳母夫政策

この時代の家族制度では家長(ここでは嫡男源頼家を指す)の後見人に就く資格があるのは、生母・養父母・或は乳母夫の何れかであった。

頼朝は自分が14歳からの伊豆流人時代に尽して呉れた乳母の“比企の尼の縁者”に“嫡男・頼家”の養育を任せた。“比企の尼”には3人の娘が居り、この中の次女と3女を源頼家の乳母とした。この事から次期将軍(源頼家)の周囲は“比企氏”一族で固められる結果となった。

一方、次男・源実朝の乳母には政子の妹“阿波局”を就けた。この結果、彼女の夫・阿野全成(あのぜんじょう)が実朝の乳母夫(めのと)という立場になった。阿野全成は源頼朝の異母弟である。つまり政子の一族で固められたのである。

更に源頼朝は政子の弟・北条義時の庶子で長男の北条泰時の元服の席で三浦半島・房総半島に勢力を伸ばしていた相模国の在庁官人三浦義澄(みうらよしずみ)の嫡子・三浦義村の娘と北条泰時との結婚を決定している。この事で北条氏と三浦氏との連携が成った。この結果、次期将軍・源頼家を支持する比企一族グループと次男・源実朝を支持する“北条氏一族+三浦氏一族”グループという対立構図が早くから出来上がっていたのである。

頼朝の存命中は何事も起らなかったが、頼朝の急逝後にこの対立構造が早速、武力闘争へと展開する。鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の追放、暗殺という展開は既に頼朝時代に準備されていたと言える。

2-(2):源頼朝が比企尼の一族を信頼して嫡男頼家の養育を任せた理由

比企尼は京で頼朝の乳母であった。伊豆国で流人生活を送る14歳の頼朝を武蔵国・比企郡の代官となった夫の比企掃部允(ひきかもんのじょう)と京から領地へ下った時から仕送りを続け、以後1180年迄の20年間に亘って頼朝を支援し続けた事が“吾妻鏡”に記されている。

頼朝は政子の実家である北条時政との確執があり、比企一族との関係を強めて行った。比企尼の次女・三女が共に源頼家の乳母に就いたが、更に彼女の孫娘は頼朝の異母弟で源平合戦で大活躍する源範頼・源義経の夫々に嫁いでいる。如何に頼朝が比企尼の一族を信頼していたかが分かる。

2-(3):頼朝と北条時政との間に確執があり、信頼関係が無かった理由

2-(3)-①:頼朝と政子の結婚に反対した北条時政

政子は北条時政の長女であった。反対を押し切っての二人の婚姻は1177年頃とされる。政子20歳、頼朝30歳であった。平治の乱で敗れ、伊豆に流されていた頼朝の監視役であった父親・北条時政が京都大番役(京の警護の為に3年間勤務を命ぜられる)で留守中に政子と頼朝が恋仲になった結果である。

平氏政権下で伊豆の在庁官人だった北条時政は政子の許に頼朝が通って来る事を歓迎しなかった。当時の平氏の威光を恐れての事である。 二人の結婚に時政は当然大反対をした。伊豆目代の山木兼隆と政子との結婚を強制したが、政子は山木の邸を抜け出し、山越えをして頼朝の元へと走ったのである。

二人が夫婦となった事で、北条時政(生1138年没1215年77歳)は頼朝の舅となったが、身分としては遥かに高い頼朝としてはこの時の時政からの屈辱感を忘れなかったと伝えられる。

又、頼朝(生1147年没1199年52歳)と時政(生1138年没1215年77歳)とは僅か9歳の年齢差であり、頼朝が彼を舅として重んじる程の年齢差では無かった事も影響していよう。

2-(3)-②:亀の前事件(1182年11月)

そして“亀前事件”が起きる。

政子は頼朝との間に長女・大姫を出産し、1182年8月には嫡男・頼家を生んだ。この間に頼朝は北条時政と継妻牧の方夫妻が紹介した“亀の前“を寵愛する様になり、逗子の”伏見広綱邸“に囲っていた。

頼家を出産した後に継母”牧の方“からこの話を聞いた政子は激怒し、11月10日に”牧の方“の父親である牧宗親に命じて伏見広嗣邸を破壊し、恥辱を与えたのである。”亀の前“は命からがら葉山に逃げた。政子の怒りは尚も収まらず“亀の前”を匿った伏見広嗣を流刑に処したという事件である。

当時の貴族や有力武家は本妻の他に多くの妾を持ち、子を増やす事で一族を繁栄させる事が社会的には当然の事とされていた。しかし政子は頼朝が大ぴらに妾を囲う事を許さなかった。

伊豆の小豪族に過ぎない、低い出自の政子にとって貴族階級である頼朝の正室としての地位は決して安定したものでは無かった。そうした背景に政子の生来の気性の激しさと、頼朝を愛する感情が加わり、当時としては異例の“嫉妬行動”を起した事件だったのである。

1182年11月12日、頼朝は牧宗親を葉山に呼び出し叱責し、自ら牧宗親の髻(もとどり)を切って彼を辱めた。これを聞いた北条時政が頼朝に対して怒り、一族を率いて伊豆国へ立ち退いてしまった。この時、妻の政子は勿論、弟北条義時も父・北条時政に従わなかった。この事件以後、頼朝と北条時政の間には大きな確執が生まれたのである。

この時期は頼朝が関東平定を果たし、木曽義仲が源行家と共に後白河法皇を保護して入京を果したものの(1183年7月28日)、その直後から後白河法皇に疎まれ、源頼朝に出番が回って来た時期である。1184年1月に木曽義仲を滅ぼし、2月には一の谷の合戦で平氏一門を破り、1185年3月の壇ノ浦の戦いで勝利して源平合戦を終息させた時期であった。

頼朝は政子やその弟である北条義時に厚い信頼を寄せた事は疑い無いが、幕府成立過程に於ける源頼朝と北条時政との関係は、二人の間に信頼関係が無かった事で、北条時政が表舞台に登場する事は無かった。

2-(3)-③:“文治の勅許”の交渉で出番を得た北条時政・・1185年11月

1184年1月に頼朝は異母弟の範頼・義経を使って木曽義仲軍を近江の粟津で滅ぼし入京した。頼朝はここでも比企一族の比企朝宗を“北陸道勧農使”に任じて義仲が支配していた北陸道の治安維持と収税に当たらせている。

この年の10月に公文所と問注所を加え、公文所の別当に大江広元を任じ、問注所の執事には三善康信を任じている。こうして来るべき鎌倉幕府の組織造りを進める中で舅の北条時政の起用は一切無かった。上記した様に源頼朝と北条時政との間には確執があり、信頼関係が全く築かれていなかったからである。

しかし、6-1項(説3-⑤)で記述した様に、1185年11月に後白河法皇は頼朝に守護・地頭の設置権を与えた。これを“文治の勅許”と呼ぶが、この交渉の為に1000騎の兵を伴って京入りをしたのが北条時政である。何故頼朝がこの場面で北条時政を用いたのであろうか。

それは後白河法皇や公卿を相手とする交渉を行う為には身分が必要だったからである。大江広元や三善康信は賢者の誉は高かったが公卿と同席する身分を持たなかった。そこで頼朝は伊豆守であった公卿の吉田経房と交流があった北条時政を仕方なく起用したのである。

結果として“文治の勅許”は成功裏に下され、1186年3月に北条時政は鎌倉に戻っている。この機会が源頼朝が存命中に北条時政を起用した唯一の機会であった。

頼朝の舅として時政には幕府内での高い席次は与えられたが、実権のない飾り物的扱いだったのである。

2-(4):源頼朝が行った富士の巻き狩り(1193年5月16日~5月28日)で曾我兄弟
      の仇討が起きる。

2-(4)-①:日本三大仇討事件の第一番目とされる“曽我兄弟の仇討事件”

1193年5月16日は“富士の巻き狩り”(狩場を四方から取り囲んで狩猟を行う事)の初日であった。頼朝が軍事演習の目的、並びに征夷大将軍としての権威を誇示する為に御家人を集め、大々的に行なったのである。

この巻き狩りに絡む話題は色々残されている。その一つに12歳だった嫡男・源頼家が初めて鹿を射止める。後継者として頼家を御家人達に認めさせる絶好の機会と考えた頼朝が大喜びをし、この報を母親政子に伝える為の使者を送ったが、政子は“武将の嫡子なら当たり前の事、報告に及ばず”と使者を追い返した。

又、同様の逸話で頼朝が頼家に弓の師として下河辺行平(しもこうべゆきひら)を付け“藤原秀郷流故実の弓馬術”を習わせていた。頼家はこの巻き狩りの日に晴れてその磨いた技を皆の前で披露した。これを喜んだ頼朝がこの様子を政子に伝えるべく使者を送るが、政子の反応は同じく“報告に及ばず”の態度であった。

母親・政子が嫡男・頼家に対して醒めた反応が多かった事を伝える逸話であるが、その理由として、既述した頼朝・嫡男頼家・比企氏一族という結び付きに対して政子・次男実朝・北条氏一族という対立の構図に結び付ける説もある。

この“富士の巻き狩り”の最終日に“曾我兄弟の仇討”が起こる。この史実は後世にも伝えられた有名な話なので簡単に紹介して置こう。

大々的な軍事演習でもある“富士の巻き狩り”は1193年5月16日を初日とし、5月28日を最終日として行われた。

曾我兄弟が艱難辛苦の末に父の仇“工藤祐経”を討った話は“日本三大仇討事件”の第一番目の事件である。二番目の仇討事件が440年後の1634年11月7日に起きた荒木又右エ門の仇討事件である。この年は、江戸時代の第三代徳川将軍・家光の時代であり、鎖国政策で長崎の町人に出島を築かせた年(完成は1636年)でもあるが、荒木又右エ門が義弟の岡山藩士・渡辺数馬の助太刀をして数馬の弟・源太夫の仇を討った“伊賀上野の仇討(鍵屋の辻の仇討)”事件が起きた年である。

そして三番目が“赤穂事件(1701年~1703年)”である。主君・浅野内匠頭朝が江戸城で刃傷事件を起こし(1701年)、切腹を命ぜられ、赤穂藩が断絶となった。浪人と成った赤穂藩の四十七士が1年9ケ月後に仇敵の吉良上野介宅へ討ち入り、主君の仇を討ち、状況報告の為に放った寺坂吉右衛門を除く四十六士が名誉の切腹で果てたという事件である。

いずれも武士道・忠義心・正義心を賞賛した史実である。

曾我兄弟の仇討は“武士社会”に於いて永く“仇討の模範”とされた。一方、赤穂事件は丁度、江戸期の元禄文化の興隆期に当たり“仮名手本忠臣蔵”がタイミング良く書かれた事もあって、浄瑠璃・歌舞伎・芝居・講談などの媒体に乗って庶民の間で爆発的人気を得た。

赤穂事件の話の詳細は第七章で記述するが、今日のグローバル世界の中で日本人の国民性の特異性とされる“忠誠心”を醸成する事に大いに影響した“仇討事件”とされる。

私がほゞ10年間に亘って、米国を中心に“もの作り”の現場を経験した事を“第一章”で述べたが、今日のグローバル経済下に於いても、日本の企業運営の在り方は特異なものとされる。長所・短所の両面を持つが“もの作り”の面では強味として賞賛される事が多い。

日本企業の誠実・清廉な精神を第一とする姿勢は“日本三大仇討”という実際に起きた話の影響を受けていると言う事だが“仇討事件“と日本の”企業経営の姿勢“が結び付いたのは偶然、日本で経済活動が萌芽期を迎えた18世紀に石田梅岩が現われ“商人道”にも“忠義・正義”の精神が基本だと教えた事が大きく影響したものと考えられる。

庶民に大人気となった“忠臣蔵”の話と石田梅岩の“石田心学”の大流行とが丁度時期を同じくし、両方ともに幕末、そして明治以降も広く伝えられ浸透した。倒幕運動にも参加し幕臣に転身、後に日本の資本主義の発展に貢献する事になった渋沢栄一の事業哲学もベースは“武士道精神”であった。

話を曽我兄弟の仇討事件に戻そう。

2-(4)-②:曾我兄弟の最大の後援者が北条時政であり、仇敵の工藤祐経は
        源頼朝の寵臣だったという因縁
 
鎌倉幕府のベースは“所領安堵と御奉公”である。従って御家人にとって所領が命であり、其れだけに所領を巡っての争いも絶えなかった。曾我兄弟の仇討事件の発端も所領争いが元で工藤祐経が叔父・伊藤祐親に恨みを持ち、1176年10月に刺客を放って討とうとした。

刺客が放った矢が伊藤祐親に当たらず、曾我兄弟の父親・河津祐泰に当たり死亡する。その後兄弟の母親は曾我祐信と再婚をし、兄は元服すると曾我の家督を継ぎ“曾我十郎祐成”を名乗る。

弟は父の菩提を弔うべく箱根権現社の稚児として預けられるが出家を嫌い、縁者であった北条時政を頼って箱根を逃げ出す。その後北条時政に烏帽子親になって貰い元服をし“曾我五郎時致”を名乗ったのである。

政子の父親である北条時政は曾我兄弟の最大の後援者となった。そして曾我兄弟は父の仇・工藤祐経を一時として忘れる事はなかった。その工藤祐経は早くから頼朝の御家人となって居り1193年5月の“巻き狩り”には頼朝の寵臣として参加していた。

そして“富士の裾野の巻き狩り”の最終日の夜が来る。1193年5月28日である。

酒に酔って遊女と寝ていた工藤祐経を曾我兄弟は襲い見事に仇討を果たした。しかし、騒ぎを聞きつけた武士達が駆けつけ、兄・曾我十郎祐成は仁田忠常に斬り殺された。

弟の曾我五郎時致は捕えられ、翌5月29日に源頼朝の前で仇討に到った17年間の思いを告げたという。話に感銘を受けた頼朝は助命を考えたと伝わるが、仇を討たれた寵臣・工藤祐経の遺児が懇願し、弟・曾我五郎時致も斬首されたという結末である。

この曾我兄弟の仇討話を源頼朝と北条時政の間の不仲、頼朝が時政を信頼しなかったという関係に結び付けて、曾我兄弟の後援者・北条時政が工藤祐経の仇討を終えた曾我兄弟に指示して頼朝を暗殺させようと企んだが未遂に終わったとする逸話までが出来ている。勿論この話には後世からの史実の裏付けも全く無く、説得力の無い話だが、こうした話が出来る程“亀前事件”以来の頼朝と北条時政の確執、謀略家・北条時政への頼朝の不信感が強かったのであろう。

幕府創設者の源頼朝はこの様な事情で“比企氏一族と北条氏一族の政争”の火種を撒いて急逝する。そして歴史は“将軍頼家の追放と暗殺”へと展開するのである。

更に頼朝は鎌倉幕府の大原則にもヒビを入れてこの世を去る事になる。晩年に見せた、娘を入内させようと奔走した動きは後鳥羽天皇(当時)をはじめ周囲の目からは至尊(天皇・朝廷・貴族層)への接近、妥協の姿勢と受け取られたのである。

2-(5):源頼朝が晩年見せた至尊(後鳥羽天皇・朝廷)勢力への歩み寄り

源頼朝は当初、平清盛の失敗を反面教師として“官位、官職授与”策に拠って武士層を懐柔し、至尊(天皇・院・朝廷)側に同化させるという後白河法皇の策には乗らず、徹底して距離を置いた。しかし後白河法皇が崩御(1192年3月)し、第82代後鳥羽天皇の治世になった1192年7月には“征夷大将軍”の官職を受諾した。

尚、この件について“日本史資料”の記述では頼朝がこの職への就任を強く望んでいたが、後白河法皇が拒否をしたとしている。この様にこの件については諸説があるが、頼朝没後の政子の朝廷に対する姿勢、その他の史実を総合すると頼朝は“征夷大将軍の職には拘らなかった”とする説の方が整合性が取れ、正しいものと考えられる。

源頼朝の晩年には自ら至尊(後鳥羽天皇・朝廷・貴族層)に歩み寄る姿勢が見え、鎌倉幕府を成立させた以前との変化が見える。しかしそれは決して天皇家の風下に幕府を置くという考えでは無く、嘗て摂関家がそうであった様に“天皇家との共存体制”の形で武士層による独自の東国政権の安定を図るという考えに基づくものであったものと考えられる。

しかし頼朝が示したこの姿勢の変化を後鳥羽天皇(当時)自身がどの様に理解したかは別物である。又、後継者の源頼家、源実朝が両親、頼朝・政子の考えを正しく理解したとは思えない。

そして結果、頼朝の死後、摂家将軍(後に親王将軍)を選択し、源家将軍の断絶へと繋がるのである。

2-(5)-①:長女大姫(生1178年没1197年19歳)入内の動き
        ・・1195年~1197年

頼朝は遡る事1183年3月に木曽義仲の嫡子・源義高(生1173年没1184年11歳)を和議の人質として大姫の婿として鎌倉に受け入れていた。しかし乍ら状況は悪化し、翌1184年1月に木曽義仲を“粟津の戦い”で討ち、人質の源義高も殺されるという不幸な結果となった。

この動きを知った大姫が源義高を逃がしたが捕えられ、入間河原で1184年5月1日、藤内光澄に討たれた。義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。こうした始末に母・政子は怒り、6月27日に義高を討った藤内光澄を晒し首にしたと伝わる。

11年後の1195年3月12日に源頼朝は東大寺再建供養に出席する為、政子・頼家・大姫等、家族を伴って上洛している。この時、大姫を後鳥羽天皇に入内させる話を朝廷の実力者、土御門(源)通親(生1149年没1202年)と高階栄子(たかしなえいし・後白河法皇の寵姫で後の丹後の局:生1151年没1216年)に相談している。

土御門通親という人物はなかなかの政略家であった。九条家の祖となった人物で“玉葉”の著者として知られる九条兼実の政敵である。高階栄子と組んで1196年の“建久7年の政変”で九条兼実を追い落した人物である。

頼朝はこの“至尊(朝廷・貴族)”側の有力者二人に大量の贈り物や莫大な荘園の安堵を行うなど“朝廷工作”を行い、入内問題に取り組んだ。如何に頼朝が真剣であったかの証である。

しかし乍ら肝心な大姫の健康は回復せず、1197年7月にこの世を去る。大姫が没した事で頼朝の懸命な入内工作は頓挫したのである。

2-(5)-②:次女三幡(さんまん)姫の入内問題・・1197年

頼朝は大姫の死去で入内工作が頓挫するとその直後から今度は次女の三幡(乙姫・生1186年没1199年7月24日13歳)を後鳥羽天皇へ入内させる工作を始める。この時、後鳥羽天皇17歳、三幡(乙姫)は11歳であった。

頼朝・政子の懸命な朝廷工作が功を奏して三幡には“女御”の称号が与えられた。天皇の妻妾の序列は皇后―中宮―女御―更衣であり、皇后の資格を与えられた事を意味する。頼朝は三幡(乙姫)を伴い上洛する予定を立てていたが、その最中の1199年1月13日に頼朝自身が急逝するという結末になったのである。三幡(乙姫)自身も3月から高熱を出し、同年6月30日に14年の短い生涯を終えたのである。

こうして頼朝の二人の娘の入内工作は頼朝の急逝と共に不幸な結果で終息した。

2-(6):後鳥羽天皇が譲位して院政を始める(1198年1月11日)
      ・・倒幕の準備に入り、機会をじっくりと窺う

第82代後鳥羽天皇(践祚1183年9月8日・即位1184年7月28日・譲位1198年1月11日)の即位については第5章-9項で詳細に記述した。後鳥羽天皇は“三種の神器の無い天皇”として生涯を通じて劣等感に苛まれたと伝えられる。この事が彼を強烈に“天皇の権威”に拘わる天皇としたのである。

頼朝が徹底して朝廷(院)との距離をとった時期には“武士層に対する懐柔策・同化策”を打つ事は出来なかった。しかし頼朝が晩年には大姫や三幡姫の入内問題で積極的に動き、歩み寄りの姿勢を見せた事は、倒幕の機会を常に窺っていた後鳥羽天皇にとっては好機到来の兆しと映った事であろう。そしてより自由な上皇と言う立場で倒幕の準備を始めるのである。

1198年1月11日、18歳の時に第一皇子を第83代土御門天皇(即位1198年譲位1210年)として即位させ、上皇となって院政を開始した。12年後の1210年に後鳥羽上皇は倒幕に消極的な土御門天皇を無理矢理、第三皇子に譲位をさせ、倒幕に向けての準備を加速させる。この第三皇子は後鳥羽上皇に劣らぬ程気性が激しく倒幕への強い考えを持っていた。第84代順徳天皇(即位1210年譲位1221年)である。

上皇としてより自由な立場で鎌倉幕府側と接し、スキを探り、徐々に倒幕の準備を進めて行く後鳥羽上皇は、譲位後23年後の1221年5月に“承久の乱”を起こすのである。

2-(7):頼朝の急逝・・1199年1月13日

頼朝の急逝については諸説がある。史実として確実な事は1198年12月27日に稲毛重成が亡き妻の為に掛けた相模川橋の落成供養に出席し、その帰路に体調を崩した事、そして年が明けた1199年の1月11日に“臨終出家”をした事、更に2日後の1月13日に没した事である。

死因についても落馬説・糖尿病説・溺死説・暗殺説等があるが、何れも定説と成る程の確かさが無い。いずれにしても頼朝が病に倒れ、重体になってから17日間の時間はあった様だ。一般的には脳卒中を起こして落馬し、その後他の病を併発して急逝したという事になっている。

源頼朝は至強(将軍・幕府・御家人)勢力が政治の実権を握る先駆者として、至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力から独立した“武士層”の東国国家・鎌倉幕府”を創設した。

しかし頼朝は後継将軍の嫡男・源頼家の周囲を比企一族で固め、次男・実朝の周囲は北条氏一族で固め、最有力御家人・三浦氏と連携させた事で、政治的勢力バランスを欠いた不安定な状況をまだ萌芽期にあった鎌倉幕府に残して急逝し、将軍源頼朝時代は幕を閉じたのである。

以下に鎌倉幕府第二代将軍・源頼家の時代について記述するが、上述した様に頼朝が残した不安定な構図は忽ちの中に抗争を引き起こすのである。

3:鎌倉第2代将軍・源頼家(生1182年没1204年22歳・将軍職1202年~1203年)時代

源頼家は幼い頃から次期将軍としての教育を受け、武家の棟梁として相応しい技量を身に着けるべく下河辺行平を師範として射芸を身に着け、狩猟にも習熟した武人となっていた。1199年1月20日付けで左中将には就いたが、朝廷から征夷大将軍に任じられるのは3年以上後の1202年7月22日の事である。

この時まだ頼家の官位は正五位下だった事は遅れの理由にはならない。なぜならば後に弟の実朝は僅か12歳、官位も頼家よりも2段階も低い従五位下であった。それでも即日征夷大将軍に任じられているのである。

この差について推測すると、鎌倉幕府側の朝廷に対する働きかけの強さ、取り分け、政子からの働きかけの度合いが違っていた事が考えられる。又、倒幕を頭に置いていた後鳥羽上皇の思惑があった事も考えられる。更に穿った見方をすれば、頼家の将軍としての資質を政子が危惧していた事も考えられるし、政子と実家の北条氏の意向が働いて、比企氏に対する圧力であったのか等々の可能性が考えられる。

いずれにしても、頼家は乳母夫・比企氏一族を中心とした周囲に擁立されて、父・頼朝急逝後の“鎌倉殿”として家督を継いだのである。1199年1月26日、満17歳の時であった。

父・頼朝が頼家の周囲を比企氏一族で固め、一方、弟の実朝の周囲を政子の実家、北条一族、北条家と同盟を結んだ三浦氏で固めていた事が新・鎌倉殿に就いた頼家にとって波乱含みのスタート舞台であった事は述べた。しかし頼家という人物の資質に大きな問題があった事が状況を一層悪化させる。

17歳という若さもあったのであろう、又、嫡男として大いに甘やかされて育った事も影響したのであろうか、頼家は“鎌倉幕府は御家人達が鎌倉殿を棟梁として擁立して成り立っている政権”と言う最重要事項を理解していなかった。加えて頼家の資質でもあろうが、頼朝時代の慣習、先例を無視し、性急に自分の流儀で裁定を下し、周囲の御家人達からの反発をいきなり買った。

中でも頼家を擁する比企一族の後塵を拝する格好で政治の中心から外された、母・政子の実家、北条氏をはじめ有力御家人達の反発は強く、源頼家の政権は早々から不穏な状況を作り出したのである。

以下に源頼朝急逝直後の京での混乱状況、頼家が次々と起こす御家人達とのトラブル、闘争を時系列的に記述する。こうした状況下で北条氏が着々と勢力を伸ばして行くのである。

3-(1):三左衛門事件:(1199年1月22日~2月26日)

頼朝の急逝という大事件に対して至尊(朝廷・貴族層)側、すなわち京の都がどういう騒ぎになったかを紹介する為にこの事件を取り上げた。

既述の様に頼朝は鎌倉幕府の将来の安定の為には創設迄にとっていた徹底した至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力から距離を置くという姿勢から至尊勢力の持つ伝統的な権威を利用する姿勢に変わる。

有力公卿達も鎌倉幕府の創設者・頼朝との関係を深め、その事に拠って朝廷内での権力拡大に利用するという動きもあった。

当時、朝廷の有力者は、日記“玉葉”で有名な九条兼実(生1149年没1207年)と、その政敵・土御門通親(生1149年没1202年)の二人であった。

この二人は同年生まれである。九条兼実は“保元の乱”の記述で何度も登場した藤原忠通(大河ドラマで俳優・堀部圭亮が演じた)の六男として生まれた九条家の祖となった人物だが、余りにも生真面目で門閥重視、しかも故実先例に厳格な性格の人物であった為、仕えた後白河法皇にも後鳥羽天皇にも嫌われたとの記録が残る。

頼朝との接点は1190年11月に奥州藤原氏を滅ぼした頼朝が上洛した時に対面した事が“玉葉”に記されているがその後の記録は一度もない。官位・官職は従一位にまで昇り、太政大臣・関白を歴任する大物であったが1196年11月の政変で土御門通親に関白の座を追われ、1202年に出家している。

一方の土御門通親(つちみかどみちちか)は源通親とも呼ばれる。又、彼の六男が曹洞宗の開祖・道元である事から久我通親(こがみちちか)と呼ばれる事もある。実に7人(後白河・二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽・土御門)の天皇に仕えた公卿である。高倉天皇が安徳天皇に譲位して院政(平清盛政権下の傀儡の院政であったが)を開始した時に、政務に未熟な平氏一門の政治を助け、院庁別当として時の高倉上皇を補佐した人物である。

清盛の“福原遷都”にも同行したが1183年の平氏一門の都落ちの際に平氏と決別し、以後、後白河法皇に仕え“三種の神器”の無い状況での“後鳥羽天皇践祚”に悩む後白河法皇に対して“後漢の光武帝も同様の状況であった”と助言し、後鳥羽天皇実現に貢献した。まさに源平の内乱期の“ど真ん中”で生きた人物である。

土御門通親と源頼朝との関係は上記した九条兼実と同じ、1190年に頼朝が上洛した時である。この時彼は頼朝の右近衛大将への任官を薦めた。以後も関東の歓心を買う事にも抜け目のない人物であった。頼朝と面談しただけで終わった九条兼実とは目の付け所が違っていたという事であろうか。

又、人間性も謹厳実直型の九条兼実とは対照的である。土御門通親は後白河院に進物献上などで近づき、院の末娘・宣陽門院の執事別当職に就く事になる。後白河法皇が1192年に崩御するが、宣陽門院は院領荘園群の最大規模の“長講堂領”を伝領し、別当として実質的に管理をする立場にあった彼はこの立場を利用して政治的足場を築いたのである。

1195年に彼の養女・在子が為仁皇子(後の第83代土御門天皇:在位1198年譲位1210年)を産んだ事で天皇家の外祖父という立場になるや、政敵・九条兼実の娘・中宮任子を内裏から退出させ、同時に九条兼実をも1196年11月の政変で失脚させたのである。

頼朝は当初は九条兼実と近く、土御門通親とは対立関係にあったとされるが、次第に朝廷の実権を握った土御門通親に近寄る。源頼朝との利害得失を巡って土御門通親も頼朝に近寄った。既述した丹後局(後白河法皇が寵愛した高階栄子)を通して大姫の入内問題に奔走した頼朝と政子に協力した例もそうであるし、頼朝の甥に当たる一条高能の昇進を早める努力を惜しまなかった。直接、間接的に勢力を伸ばす頼朝との融和を図る策を講じたのである。

前例に捉われない土御門通親が1191年4月に頼朝の腹心、大江広元を推挙して“明法博士・左衛門大尉”に任じた事は既述した通りである。

鎌倉幕府と朝廷との間の関係も朝廷内での権力争いもあって複雑な状態であっただけに、源頼朝の急逝は京の都でも大変な事態として伝わったのである。三左衛門事件はそうした状況下、様々な憶測が飛び交う中で起こった事件である。

頼朝急逝の噂はすでに1月18日には京に伝わり、世情は俄かに不穏な空気を漂わせていた。これに対して朝廷側の最大の権力者となっていた土御門通親(生1149年没1202年)は頼朝急逝の報が公表される前の1月20日に自らを右近衛大将に任じ、頼朝の後継者と決まった源頼家を左中將に昇進させる手続きを急遽取った。1月20日以前に頼朝急逝の情報を得ていた事を活かしたのである。公表された後では頼家の昇進等の手続きに邪魔が入る危険もあった為、未然にトラブルを避ける為の素早い動きであった。

しかし1月22日には“土御門通親襲撃”そして“京中騒動”の巷説が広まる。

2月14日に一条家の家人、後藤基清・中原政経・小野義成の3人が“土御門通親襲撃”を企てた犯人として捕えられ、処分されるという展開になった。3人の役職がいずれも“左衛門尉”であった事から三左衛門事件と呼ばれたのである。

何故、頼朝の親戚筋に当たる一条能保(いちじょうよしやす)高能(たかよし)父子の没後に、その家人の3人がこの様な事件を起こしたのであろうか。

一条能保(生1147年没1197年)は頼朝の生き残った同母妹(姉説もあり)の夫という関係があり、頼朝から全幅の信頼を得て目覚ましい出世を遂げた。北条時政の後任として“京都守護”として源平の内乱期には頼朝と対立した義経を捜索する指揮を執っている。息子の高能も同じく京都守護に任じられている。

一条能保・高能の父子はこうした経歴を背景に朝廷と幕府の双方に広い人脈を持ち、活躍の機会を与えられ、その急激な出世に対して周囲の有力公家達の反感も強かった。

源頼朝が急逝した事で一時は頼朝と対抗した関係にあった朝廷の権力者、土御門通親が頼朝の強い庇護の下にあった一条家を冷遇するのではないかとの危機感を抱き、三人の家人が土御門通親の襲撃を謀ったという事件であった。

土御門通親は身の危険を避ける為、院御所に立て籠もった。2月に入り、12日には鎌倉幕府側から大江広元が中心と成って事態鎮静化の動きをし、土御門通親を支持するとの方針が伝えられた。上述した永年の土御門通親の大江広元の“明法博士”への推挙をはじめ“幕府対策”が実を結んだのである。

土御門通親はこの事件が収拾した後にも鎌倉幕府と協力し、頼朝急逝後の不穏な情勢下で不満分子の一掃等、安定化に積極的に動いたとの記録が“愚管抄“に残されている。

創設されたばかりの鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の急逝は上記の様に鎌倉、京に不穏な状況を作り出した。当時の日本にとって極めて大きな出来事だったのである。

3-(2):将軍独裁体制を志向した源頼家はスタート時点から宿老達と
      軋轢を起こす

源頼家が鎌倉殿に就任して初めての文書作成の儀式、政所吉書始(まんどころきっしょはじめ)が1199年2月6日に行われた。吾妻鏡に記された参加者を序列順に記すと、北条時政・大江広元・三浦義澄・源光行・三善康信・八田知家・和田義盛・比企能員・梶原景時・二階堂行光・平守時・中原仲業・三善宣衡であった。

源頼家が朝廷から征夷大将軍の宣下を受けるのは1202年であるから、当事は17歳の“第2代鎌倉殿”という事である。

頼家はかなり“独善的”な人物であった様だ。父を真似た将軍独裁体制を目指し、鎌倉殿就任早々に、父・頼朝時代の前例、慣習を無視した独裁的裁定を下したとされる。これには御家人達も反発し、就任直後の1199年4月12日には母・政子の実家の北条氏を中心とした“13人の宿老に拠る合議制”体制が幕府内に成立したのである。

13人の宿老に選ばれたのは①北条時政②北条義時③大江広元④三善康信⑤中原親能⑥三浦義澄⑦八田知家⑧和田義盛⑨比企能員⑩安達盛長⑪足立遠元⑫梶原景時⑬二階堂行政・・であった。

頼家が自ら直訴を取り上げて決裁する事が禁止され、先ず13人の宿老が合議し、その結果、纏められた意見を将軍に奏上し、決断を仰ぐという仕組みに変えられたのである。このシステムは構成人員が宿老達である事から分かる様に、頼朝時代の体制を継承する事を意味した。

17歳の頼家は意気盛んではあったが、如何せん、鎌倉幕府の棟梁は“御家人達の総意によって擁立された存在である”という基本を就任早々から踏み外していたのである。

未熟さだけで無く、頼家には頼朝の持つカリスマ性も、幕府を率いるだけの資質にも欠けていた。幼少の頃から、頼朝の後継者として教育はされていたが、乳母夫に就いた比企能員及び一族は余り有能な周囲ではなかった様だ。只ひたすらに偉大だった父・頼朝の将軍独裁政治を指向する頼家にとって、上記“13人の宿老に拠る合議制”でタガをはめられた事は屈辱であった。

そしてわずか8日後の4月20日に“13人の宿老による合議制”に反発する行動に出たのである。

梶原景時・中原仲業(なかはらなかなり)に奉行を命じて“13人の合議制”の抜け穴となる指示を政所に出す。内容は“比企能員の子供である比企宗員(ひきむねかず)・比企時員(ときかず)それに頼家の子供時代からの側近である小笠原長経・中野良成の4人が鎌倉の中で狼藉に及んでも訴えてはならない”という通達であった。4人は頼朝が頼家に付けた側近である。

この通達は源頼家が“側近政治”を行おうとする政治姿勢を明らかにしたものであるが、彼の独善的な人間性を表すものであり、宿老達との間の軋轢、亀裂は益々大きくなって行った。

3-(3):源頼家は宿老安達盛長の嫡男・安達景盛が留守中に彼の愛妾を
      奪うという破廉恥事件を起こす・・1199年7月

頼家は安達景盛が三河国に出張中に彼の妾を見染め、奪うという破廉恥事件を起こす。鎌倉に戻った安達景盛が頼家に対して激怒すると頼家はこれを“謀反”だとして一触即発の状態に至った。母親・政子が安達景盛の味方をし、頼家が安達景盛を“討伐”するという決定を覆させた。以後、政子と頼家の対立が深まったとされる事件であると共に、政子が幕府のトップ“鎌倉殿”の決定を覆す力を持つ事を示した事件でもあった。

更にこの事件は、源頼家陣営にとっては、頼朝の流人時代からの側近でもあり、有力な支持者の安達一族を実朝の側、つまり政子を頂点とする北条一族グループ側へと追いやる結果となったのである。

3-(4):梶原景時事件・・1199年10月27日~1200年1月20日

頼朝急逝後に梶原景時は後継者・源頼家に仕え、権勢を振るっていた。頼家の独裁を牽制する為の13人の宿老による合議制のメンバーに加わってはいるが、一方で上記した頼家がこの合議制を骨抜きにする為に“側近4人に対する治外法権を認める”1199年4月20日の通達の発令を担った本人でもあった。こうした姿勢から後世、梶原景時は“源頼家の番犬”と酷評されたのである。

更に梶原景時は1199年10月27日には新たな“讒言事件”を起こす。

今度は鎌倉幕府創設の功労者であり、1185年5月に頼朝に戦勝報告の為に面会を求めた義経に対して“鎌倉入りは罷りならない”と伝えた“結城朝光”を讒訴し、窮地に陥れたのである。

結城朝光がふと先代の源頼朝を懐かしむ言葉発した事を梶原景時が聞きつけ“頼家様に対して不忠者だ”と讒言した。

窮地に立たされた結城朝光は政子の妹の阿波の局、三浦義村等、反・頼家派の御家人達を巻き込んで梶原景時に抵抗したのである。翌日の1199年10月28日に和田義盛と三浦義村が御家人66人の連署を集め“梶原景時弾劾文”を大江広元に手渡した。11月11日に弾劾状は将軍頼家に奏上された。

11月13日に頼家は弾劾状を梶原景時に示し、弁明を求めたが最早、頼家に見限られたと判断した梶原景時は弁明を一切せず、1200年1月20日、一族を率いて京に移る途中の駿河国狐ケ崎で実朝派の御家人に討ち取られた。尚、比企一族でさえもが梶原景時を見捨てたと言う事で余程人望の無い人物だったのであろう。将軍源頼家はここで又、有力な支持勢力であった梶原景時を失ったのである。

3-(5):それでも宿老達を敵に回す政治を続けた源頼家・・1200年5月~8月

頼家は余程独善的な人物だったのであろう。宿老達を敵に回す政治は止まらなかった。

有力御家人の所領を調査する為に大田文(おおたぶみ)を集めて自分が納得する様に査定をし直したのだ。大田文とは鎌倉時代に国ごとに作成された国衙領(こくがりょう)、荘園等の田数を調査し、各所領ごとの名称・田数・領有関係を記載した帳簿である。

永井晋(すすむ)氏の著書“鎌倉幕府の転換点”にも“頼家は父・頼朝が宿老達に与えた御恩を査定し直し、過大なものは召上げようとする等、宿老達の神経を逆撫でする施策を強引に押し進めた”事を紹介している。

頼家の乳母夫で、頼家に諫言し、教育するという立場にあった比企能員はそれだけの有能な政治家では無かった。頼家の拙い政治に多くの御家人達が批判的であり、軋轢が拡大して行き、比企能員一族と北条一族との対決姿勢は益々激しくなる一方であった。

3-(6):頼家・比企氏グループが阿野全成を滅ぼす
      (阿野全成事件・1203年5月19日)    
      ・・北条時政が源実朝の乳母父と成り、台頭する

梶原景時を討たれて2年が経った1202年7月に頼家は漸く征夷大将軍の宣下を受け、名実共に鎌倉第2代将軍となった。

1203年5月19日に政子の妹・阿波の局の夫であり、父・頼朝の異母弟・阿野全成(あのぜんじょう)を謀反の疑いで捕え、翌5月20日には“阿波の局(阿野全政の妻・実朝の乳母)”も引き渡す様、求めた。

之まで何度も頼家の愚かな政治に批判的であった政子が妹・阿波の局を渡す筈も無く、拒否をする。阿野全政は5月25日に常陸の国(茨城県)に配流、その後6月23日に誅殺されるという展開となった。更に頼家・比企グループは翌7月16日に息子の阿野頼全をも殺害した。

阿野全成(生1153年没1203年)の名前は余り知られて居ない。源義経の同母兄に当たる人物である。頼朝が1180年8月に平氏討伐の挙兵をし、8月23日の石橋山の戦いで敗れた直後の10月1日に兄弟の中で一番先に兄・頼朝軍に合流した人物である。従って頼朝の信任は厚く、頼朝の妻・政子の妹の阿波の局と結婚する。

“阿波の局“が実朝の乳母であった関係から、阿野全成は乳母夫という立場でもあった。この様な背景から頼朝が急逝した後は舅の北条時政・北条義時と共に源実朝を擁するグループの中心として、源頼家・比企一派と対立していたのである。

この事件の結果、頼家・比企一族グループと政子を含めた実朝・北条一族グループの対立は最早、修復の効かない段階にまで達した。

阿野全成が誅殺された事で、代わって政子の父・北条時政が乳母父となった。頼朝生存中には政治の中心から全く外されていた北条時政が、源実朝の乳母父という立場を得た事で愈々政治権力を掴む動きを開始するのである。

3-(7):源頼家危篤(1203年7月20日)と家督継承評定(1203年8月27日)
      の結果

将軍頼家・比企一族グループと弟実朝・政子・北条一族グループが阿野全成事件で決定的な抗争状態に入った直後の7月20日に将軍・源頼家が病に倒れ、危篤状態となった。

この為、8月27日に将軍家の家督継承をめぐる評定が開かれ、比企能員は頼家の嫡子で当時5歳の“一幡(いちまん)”を次期将軍とする事で議事を進行した。

“吾妻鏡“の記述に拠れば、未だ11歳だった源実朝(千幡と名乗っていた)の乳母父としてこの評定の主役を務めた北条時政は千幡(実朝)に譲与されるべき所領の増加を強く主張した為、比企能員が渋々承諾したとある。

結果は”鎌倉殿“の地位を象徴する”日本国惣守護職と関東28国の地頭職“が一幡に譲与される事が決まる一方で”関西38国の地頭職“は千幡(実朝)に譲与される事が決められた。

この評定の結果は比企能員にとっては、危篤状態にあった源頼家の嫡子“一幡”を次期将軍職に就ける事を認めさせた事で満足の行くものであった。又、北条時政にとって、将軍職は“一幡”に譲った形だが、北条一派が擁する“千幡(実朝)”の幕府における地位は強化された事であり、この場は引き下がったのであろう。

3-(8):北条時政の謀略と“比企能員の乱”・・1203年9月2日

千幡(実朝)の乳母父に就いた北条時政の生来の野心に火が付き、政敵、比企能員一族が擁する将軍・頼家の危篤状態というチャンスを見逃さなかった。比企一族を滅ぼす行動に出たのである。

吾妻鏡と愚管抄の記述内容には差があり、当然、後に北条・得宗家の手によって書かれた“吾妻鏡”は政子・義時の政治については好意的である。一方、天台座主の慈円が直接関係者に聞いた話に基づいて書いた“愚管抄”の記述内容は別の視点から書かれている。どちらの記述がより信憑性があるのか、の判断はその後の歴史展開との整合性からなされる事になる。

“比企氏の乱”についての両著の記述の違いを紹介して置こう。

*吾妻鏡に拠る“比企氏の乱”

頼家は危篤状態から回復し、病床にあった寝所で比企能員と北条時政を滅ぼす密談をしていた。それを隣の局に居た政子が盗み聞きをし、北条時政に書状で知らせた。時政は比企能員暗殺を決意し“薬師如来供養”と称して自邸に招き、殺害する。

この報を得た政子は“病の頼家は将軍としての判断能力を失った”として、彼女が鎌倉幕府の主導権を掌握したとする。そして“比企氏の謀反”を宣言し、直ちに比企氏一族討伐の軍勢を派遣する。比企氏一族は将軍源頼家の嫡男“一幡”の居た小御所に立て籠もり決死の抵抗を続けたが力尽き“一幡“の前で自決した。僅か5歳の”一幡“も焼け死ぬ。

こうして唯一、将軍・源頼家の支持者であった比企氏一族は滅亡したと記している。

*愚管抄に拠る“比企氏の乱”

天台座主慈円が書いた“愚管抄”の記事は比企能員の婿でこの戦いで死んだ“糟屋有季”の動きを中心に“比企氏の乱”を書いたとされる。

吾妻鏡が記す様な“比企氏の謀反説“では無く”北条時政のクーデター“説をとっている。北条時政が先ず比企能員を暗殺し、その後、時政の手勢で小御所を襲い一幡、並びに比企氏一族を滅ぼしたとの説である。一幡の死も小御所で焼死したのでは無く、北条義時によって殺害されたと書いている。

永井晋氏(金沢文庫主任学芸員)は“吾妻鏡”の記事には矛盾があると指摘し、“愚管抄“の北条時政のクーデター説を以下の理由から妥当としている。

“病で正常の判断能力が無い”と書かれた頼家が一方で“陰謀を企む”事は出来ない筈だとして“吾妻鏡”の記述の矛盾を挙げている。

そして北条時政のクーデター説の裏付けとして“政子と弟の北条義時グループとしては、比企氏が勝てば頼家の嫡男・一幡が将軍に成り、政子の将軍・実朝の生母としての親権が実現しない事になる。又、北条時政が勝った場合でも、全く信頼関係の無い北条時政が実朝の乳母父としての影響力を発揮する。どちらが勝っても政子と義時グループにとっては問題は残るが、選択肢として先ずは父・北条時政に比企氏一族を滅ぼさせ、その上でじっくりと次の手を待ったのであろう”としている。

比企氏一族を滅ぼし、北条時政は乳母父の権限を早速発揮して幼い将軍・実朝を補佐する名目で政権の中心で権勢を振るう事になる。一方で比企氏一族の滅亡後に危篤状態であった頼家は病から回復する。しかし乍ら、既に頼家の居場所は北条時政、政子・義時に拠って無くなっていた。弟実朝が鎌倉幕府・第3代将軍に就任し、頼家は将軍職を追放されるのである。

しかし、こうした政治のプロセスを今日、振り返って時系列の記録で改めて見てみると、実に不可思議な事となっている。政子・北条氏は朝廷に虚偽の申請をし、歴史は展開して行くのである。

3-(9):朝廷へ虚偽の申請をして実朝が第3代将軍に就任する
      ・・時系列に見る記録、そして頼家の将軍追放から暗殺に至る史実

1203年7月20日:頼家急病で倒れる

8月27日:家督継承の評定・・頼家の嫡男“一幡”の次期将軍、日本国惣守護職継承が内諾される

(9月1日):朝廷に届けられた虚偽の将軍源頼家の死亡日・・明月記(藤原定家)

  9月2日:比企能員の変(比企氏の乱)で比企一族が滅び、頼家の嫡男“一幡”も焼死する

  9月5日:危篤を脱した頼家が嫡子“一幡”の焼死、比企一族の滅亡を知り、激昂して北条時政討伐を和田義盛以下に命ずるが誰も動かず

  9月7日:政子が頼家に出家を命ずる・・“明月記“には鎌倉からの使者が京に到着し、9月1日に頼家が死去した事を伝え、同時に次男実朝に家督を継がせる事、第3代将軍就任の許可を朝廷に申し出た事が記されている

9月15日:千幡(実朝)の征夷大将軍任命の宣下が鎌倉に到着する

9月21日:北条時政と大江広元の評議で将軍頼家の鎌倉追放が決まる

9月27日:頼家、伊豆修禅寺に幽閉される

1204年7月18日:源頼家、伊豆国修禅寺で暗殺される

修禅寺で頼家を殺害したのは北条義時だと“愚管抄”も“増鏡”も書いているが、この時期の政治行動は北条時政と義時が一体で書かれている事が多く、実態は父の北条時政の命で義時の手の者が頼家を殺害したという事であろう。

3-(10):次男千幡(実朝)の第3代将軍就任を要請。一方で頼家の
       将軍追放・伊豆国修禅寺へ幽閉する

これに関しては“明月記”の記述に拠っている。“明月記”は2000年に国宝に指定された“小倉百人一首”の撰者、並びに勅撰集“新古今和歌集”を撰進した事で有名な藤原定家(生1162年没1241年)が18歳から74歳までを克明に記した日記である。

その1203年9月7日の条には“鎌倉からの使者が9月1日に将軍頼家が死亡したと伝えた”と記している。上記の様に史実では頼家は危篤状態を脱して、9月2日には嫡男一幡並びに比企能員、比企一族が北条時政一派によって滅ぼされた事を知り、激昂して北条時政の討伐を命ずるが、最早頼家を支持する勢力は壊滅しており、裸の王様状態で、誰も従わなかった。

吾妻鏡の記述、並びにその後の史実展開から分かる事は、政子が1203年9月2日の“比企氏の乱”で、頼朝の後家としての権威と将軍源頼家の生母としての親権を発揮して、実質的に幕府の主導権を握ったものと考えられる。彼女は危篤状態の頼家の死を覚悟し、結果的には拙速の虚偽の報告となったが、弟の義時と連携して朝廷に対する迅速な対応をしたのである。

政子はこうした状況を幕府存亡の危機と判断したと思われる。従って、同時に後継者としての実朝の将軍就任も早急に要請したのであろう。

9月7日には政子は頼家に出家を命じている。9月21日に北条時政と大江広元との評議で頼家の“鎌倉追放”が決まり、9月27日には頼家を伊豆国・修善寺に幽閉しているが、言うまでも無くこれらの事も全て政子が承諾の上の事であろう。

尚、近衛基通の子息で後鳥羽天皇以後6代の天皇に仕え、関白太政大臣にまで登った近衛家実(このえいえざね・生1179年没1243年)の日記”猪隈関白記”に拠ると、1203年9月7日に“千幡(実朝)”に対して朝廷は鎌倉幕府の要請を当日に受け入れて、従五位下・征夷大将軍補任の叙目が行われた。この時、後鳥羽上皇が千幡に“実朝”の名を与えたとある。

この時点で実朝は未だ11歳の少年であった。そして第2代将軍源頼家は21歳、将軍職を追放されてはいたが、鎌倉で生存していたのが史実である。

3-(11):源頼家暗殺・・1204年7月18日22歳

将軍職を剥奪され、出家させられた源頼家は1203年9月27日に伊豆修善寺に幽閉された。幽閉を命じたのは政子であろう。頼家は翌年の1204年7月18日、入浴中を襲撃され、激しく抵抗したが、討手に首に紐を掛けられ、陰嚢を押さえつけられて刺殺されたと“愚管抄”に記されている。

“吾妻鏡”の1204年7月19日条には、飛脚が頼家死去の報を伝えた事だけが書かれていてる。肝心な討手が誰かについては書かれていない。当然北条氏から遣わされた者である。

岡本綺堂(生1872年没1939年)は戯曲作家として名作を数多く残しているが、1909年に書き上げた“修禅寺物語”は綺堂が密接な関係だった二代目市川左団次の為に書いた左団次当たり芸シリーズの戯曲とされる。1911年(明治44年)明治座で初演。修禅寺に幽閉され、死を覚悟した源頼家(市村羽左衛門)と面作師・夜叉王(二代目市川左団次)そして夜叉王の娘で、頼家に仕え、頼家と共に襲われて命を落とす事になる“かつら”(寿美蔵)の“面”を巡っての意味深いやりとりが見事な作品である。

伊豆の修禅寺(室町時代から地名は修善寺、寺の名は修禅寺と区別されていたと言われる)を訪れた事がある。母・政子はこの修禅寺に頼家に対する哀惜の情と哀悼の意を表する為に“指月殿”を建立している。伊豆最古の木造建築とされる。そこに頼家の墓がある。尋ねた方はご存知だと思うが鎌倉時代の墓は頼朝の墓も、政子の墓も質素で驚くが、頼家の墓は第2代鎌倉将軍の墓としては極めて粗末なものであった。

近くに源平の戦で義経と共に活躍した頼朝の異母弟の源範頼(生1150年没1193年)の墓もある。彼も頼朝への謀反の疑いで1193年8月に同じく修禅寺に幽閉され、誅殺された。“保暦間記”並びに“北条九代記”に記されている史実である。

この様に鎌倉幕府の時代“修善寺”は暗い歴史の地だったのである。

1204年7月18日に修禅寺に幽閉中の頼家に暗殺の者を向かわせ、入浴中に惨殺させたのは北条時政の指令だと考えるのが妥当であろう。刺客を放ったのは母親政子であるとか、北条義時であるとの説もあるが、上記の様な頼家に対する供養の様子や、後の政子の頼家の遺児に対する対応等からは彼女が刺客を放ったとは考え難い。又、弟の北条義時は父・時政の命で仕方なく動いた事は考えられるが、頼家暗殺に躊躇なく動いたのは北条時政であろう。

新将軍・実朝の乳母父の地位を得、比企一族の残党も皆無では無いという状況下で、危篤状態から癒えた源頼家が存命だという事は策謀家の北条時政・牧の方夫妻にとっては不安であり、排除したい存在であったと考えられるからである。

北条時政・牧の方夫妻は共に数々の謀略を企てた人物として伝えられる。そして最後は“牧氏事件”を起こし、失敗し、政子と義時に拠って執権職を追放されるという展開となる。こうした背景からも時政が頼家暗殺に動いたと考えるのが妥当である。

北条時政は北条家の中でも余り評価されていない。歴史上は初代執権とされ、北条家の嫡流・得宗家の始祖とされてはいるが、頼朝並びに政子、そして義時との間の信頼関係も無く、謀略一方の彼の政治姿勢は北条家の中でも嫌われ、始祖として扱う事を得宗家自体が問題視したという。鎌倉末期の“平政勝諫草(たいらのまさつらかんそう)”でははっきりと北条氏の先祖を“北条義時”と記している。

政子は直接手を下さなかったにせよ、頼家のこうした最後を見る事は非常に辛く、複雑な心境であったと思われる。事実、政子は頼家の遺児達の面倒をみている。頼家の次男の公暁を実朝の猶子とし、三男の千寿丸(後の栄実)を後に“喫茶養生記“で有名な臨済宗の開祖・明菴栄西(みょうあんえいさい)に弟子入りさせている。又、頼家の娘の鞠子(後の竹御所)は政子の元で預かって育てた。

彼女は政子(生1157年没1225年68歳)の死後の1230年に28歳で鎌倉幕府第4代摂家将軍として迎えられた当時13歳の九条頼経に御台所として嫁いでいる。実質的に政子の後継者として、源氏3代の将軍家が断絶した状況下で唯一人残った頼朝の血筋を継ぐ人物として鎌倉幕府の御家人達の精神的支えとなり、鎌倉幕府の権威の象徴となったとされる人物である。

4:鎌倉幕府第3代将軍・源実朝(生1192年没1219年将軍職1203年9月7日)時代

4-(1):北条時政が初代執権として政権を掌握する・・1203年~1205年

1203年9月2日北条時政は比企能員を謀略で自邸、名越邸に誘き寄せた上で暗殺した。同日、比企一族を頼家の嫡男“一幡”と共に滅ぼした。(比企能員の変)

9月7日に鎌倉幕府第3代将軍の宣下を受けた源実朝の乳母父という立場から、自邸・名越邸に実朝を住まわせて養育する形とした。当然11歳の実朝が政治を見るのは不可能であり、北条時政が政治を補佐する形であるが、ここで北条時政は大江広元と並んで“政所別当”を兼ねる事になり、ここに“初代執権職”という鎌倉幕府の公式な立場が成立したのである。

政治の実態は北条時政が少年将軍・源実朝の仰せを受けるという形を執ったが、実態は時政が単独署名の公文書を次々と発給した事が残っており“時政の専制政治”の形であった。

しかしこの政治体制は北条時政自身の策謀家としての姿勢に加え、継妻“牧の方”も非常に権勢欲の強い人物で、この夫妻と政子・義時グループとの信頼関係が築かれる事は無かった。一方で頼朝の後家、実朝の生母としての政子の権威は強く、結果、北条時政が“執権職”として政権を自由に出来た時期は長続きしなかったのである。

4-(2):北条時政・牧の方夫妻が謀略で有力御家人畠山重忠を滅ぼす
      ・・畠山重忠の乱(1205年6月22日)

1182年11月に源頼朝の愛妾“亀の前“の事を政子にわざわざバラし、怒った政子が”亀の前”を匿っていた屋敷を打壊すという騒動が起こった事を既述したが“牧の方”の謀略好きを表す事件である。“牧の方“は権勢欲も非常に強い女性で、頼朝死後に北条時政が急激に台頭するが、その謀略は全て“牧の方”の知恵だと伝わる程の女性であった様だ。

“牧の方の讒言”が火元となって1205年6月に畠山重忠が乱を起こす展開と成り、北条時政によって滅ぼされる結果となった。

畠山重忠(生1164年没1205年6月22日41歳)は最初は平家方の武将であったが、後に頼朝に従う事になり、将軍家の知行国の一つである武蔵国の武士団を統率する指揮権を持つ“惣検校”の職に就いていた。武勇と人望とを兼ね備えた最有力御家人であった。彼は、北条時政の先妻の娘婿であり、従って政子並びに北条義時とも義理の兄弟という関係にあった人物である。

1203年9月に比企氏が滅びた後の武蔵国の国司には“牧の方“の娘婿・平賀朝雅(ひらがともまさ)が任じられた。鎌倉幕府の最重要国・武蔵国で時政の先妻の娘婿・畠山重忠と継妻の娘婿・平賀朝雅との接点があったと言う事である。

平賀朝雅が京都守護として上洛し、武蔵国を去り、北条時政が“将軍実朝の命”という形で武蔵国の行政権を握る事となった。この時、将軍実朝は未だ11歳の少年であるからこの人事も北条時政のお手盛り人事であった。

以後、最有力御家人・畠山重忠と北条時政は武蔵国の行政権を巡って何かと対立する様になり、謀略家・時政は畠山重忠の排除に動いたのである。その切っ掛けを“牧の方”が作った。

以下は“吾妻鏡”が伝える“畠山重忠の乱”の内容である。

“畠山重忠の乱”に到る発端は1204年11月、京での“牧の方”の娘婿・平賀朝雅と重忠の子息・畠山重保との口論であった。平賀朝雅は第3代将軍となった源実朝の御台所を京から迎える為の交渉役として上洛していた。同じく御台所を鎌倉に迎える役目として上洛していた畠山重忠の嫡男・畠山重保が京で持たれた“御家人歓迎の酒宴の席”で同席し、その席で激しい口論となったのである。

この事を平賀朝雅が妻の母“牧の方”に話したからたまらない。大事に発展したのである。策謀家でもあると伝わる“牧の方“は早速これを夫・北条時政に”畠山父子には謀反の疑いあり“と讒言したのである。

これを聞いた北条時政は直ちに息子の北条義時、時房に“畠山父子討伐“を命じたのである。義時・時房は畠山重忠父子の潔白を主張して反対したと伝わる。しかし当時の北条時政は政子・義時との信頼関係は無いとは雖も、初代執権職として”専制政治“を行なう実権を持っていた。

息子の北条義時・時房は父・時政に押し切られ、大軍を率いて頼朝時代からの忠臣・畠山重忠、重保父子の討伐に向かい、6月22日に重忠を神奈川県の“二俣川の戦い“で、そして息子の重保を”由比ヶ浜“で殺害し、滅ぼしたのである。

“吾妻鏡”には畠山重忠に関する美談が多い。北条義時は父・北条時政の命で仕方なく重忠・重保父子を滅ぼす結果となった。この討伐に対して北条義時が“畠山重忠討伐は讒訴に拠るもの”だとして討伐後に父・北条時政を糾弾した事が言い訳がましく書かれている。

鎌倉幕府創設時の功労者でもあり、人望のあった畠山重忠を滅ぼす命令を下した北条時政・牧の方夫妻は御家人達の憎しみを受ける事になり、直後の牧氏事件(1205年閏7月)で政子・北条義時の姉弟連携によって追放される展開となる。

4-(3):北条時政の失脚・・牧氏事件(1205年閏7月)

畠山氏を滅ぼした北条時政・牧の方夫妻が自邸・名越邸に居る第3代将軍・源実朝を殺害して北条時政・牧の方夫妻の女婿・平賀朝雅を将軍に就けようと画策しているとの噂が流れた。

“吾妻鏡”の7月19日条にはこの噂を知った政子が弟・義時の協力を得て、結城朝光・三浦義村・等、主要御家人を時政の名越邸に派遣し、実朝を強引に北条義時の邸に移した事が記されている。

何故、政子が時の専制政治を行ない、執権で、父でもある北条時政に対してこの様な強権を発動出来たのであろうか。

それは既述した様に、政子の持つ幕府創設者・源頼朝の後家という権威が強かった事と、その上に将軍・実朝の生母という親権が彼女を時政に勝る圧倒的に強い立場を与えていたからだとされる。

北条時政は第3代将軍・実朝の乳母父という立場、更には執権職として政治の実権を持ってはいたが、その政治権力は飽くまでも若い将軍・実朝が育つ迄を後見するという立場であり、実朝の生母・政子から一時的に政権を代行委託された立場との位置付けであった。

北条時政の政権は政子との間の絶対的な信頼関係の上にのみ成り立っという事だったのである。にも拘わらず、北条時政・牧の方夫妻と政子・北条義時グループとの信頼関係は数々の事件に拠って完全に崩壊していた。その上に上記“牧氏事件”が起こったという事である。

北条時政の元に集まっていた御家人達は皆、北条義時邸に移り、将軍実朝を守護すると宣言し、時政・牧の方夫妻は政治の舞台から追放され、更に強制的に出家をさせられたのである。その後、義時の手によって伊豆国に幽閉された。時政・牧の方の娘婿・平賀朝雅は1205年閏7月26日に幕命に拠って京都で殺害された。

以後、鎌倉幕府は政子と弟の北条義時が主導する寡頭専制政治によって安定期を迎えるのである。北条義時は時政を排除した後の1205年閏7月に第2代執権に就いた。

4-(4):政子・北条義時の寡頭専制政治(1205年閏7月~1224年閏6月)の始まり

政子は頼朝の後家としての権威と将軍実朝の生母としての親権を持ち、そして姉と連携して鎌倉幕府の執権職という立場を確立して行く北条義時との二人の寡頭政治体制が始まり、漸く頼朝没後の鎌倉幕府に政治的安定期が訪れる。

しかし乍ら安定期とは言うものの、この時期は今日から振り返って見ると“武士層の出現に拠って始まった混乱と闘争の500年の歴史”の初期段階であり“至尊勢力(天皇・院・朝廷)”対“至強勢力(将軍・幕府・武士層)”という闘争の火種、並びに“至強勢力内での争い”の火種も多く存在しており、何時でも火の手が上がるという不安定な状況に変わりは無かった。

鎌倉幕府に於いて、飽くまでも一介の御家人に過ぎなかった“北条氏”は初代将軍・源頼朝の後家、将軍実朝の生母としての政子の権威を最大限に利用して、徐々に他の有力御家人を滅しながら、将軍の政務を補佐する“執権職“という権力を強化し、確立して行ったのである。

執権職の権限を更に拡大・強化する事になったのが“和田合戦”であった。

4-(4)-①:和田合戦の前哨戦となった泉親衡の乱(1213年2月)

北条義時が執権職に就いて8年目となった1213年2月に、和田合戦の前哨戦と位置付けられる“泉親衡(いずみちかひら)の乱”が起こる。

信濃源氏の“泉親衡”は現在の長野県上田市を本拠として栄えた源満仲を祖とする名門御家人であり、伊豆の小豪族に過ぎない出自(うまれ)の北条氏が執権職として勢力を伸ばし自分がその風下に立たされている事を不満としていたとされる。

“泉親衡”は第2代将軍・源頼家の遺児で祖母の政子の命で栄西禅師(生1141年没1215年)の弟子となっていた千寿丸(泉親衡の乱後に出家して栄実と名乗る)を将軍に擁立して北条義時を滅ぼす陰謀を抱いたが、1213年2月にそれが発覚した。

この事件に関係したとして鎌倉幕府成立時からの功臣で初代侍所別当・和田義盛の子息の和田義直、和田義重そして甥の胤長が逮捕された。この時、父親の和田義盛は上総国伊北荘に下る最中で鎌倉には居なかった。

話は逸れるが、臨済宗の開祖として知られ、又“興禅護国論”や茶の効用を説いた“喫茶養生記”の著書でも知られる明菴栄西(みょうあんえいさい:生141年没1215年)は1200年に政子が建立した寿福寺の住職に招聘された事に始まり、1202年には第2代鎌倉幕府将軍・源頼家の庇護によって京に建仁寺を建立する等、鎌倉幕府とは深い関係にあった。

政子は将軍頼家が殺害された後、遺児の千寿丸(公暁の異母弟に当たる)も匿い、尾張で養育させていた。その12歳の千寿丸を北条義時討伐の旗頭として担ぎ出し、実朝に代わる将軍にしようと企てた事件である。(泉親衡の乱)

この“泉親衡の乱”は発覚し、千寿丸は祖母政子の命によって僧・栄西の弟子となり、出家し“栄実”を名乗る事になる。この後の彼の消息についても諸説があるが、吾妻鏡に”源頼家の若君“と記され、和田氏の残党に再び擁立されて”六波羅”を襲撃しようとした企てが幕府に露見し、追われ、14歳で自害した記事が出て来る。この人物が“栄実”だと思われる。頼家の残党によって旗頭として利用され続けた気の毒な人生であった。

この“泉親衡の乱”が“和田合戦”へと直結する。

鎌倉に戻った和田義盛は“泉親衡”の事件を知り、1213年3月9日、将軍・実朝に子息を含む一族3人の赦免を嘆願した。その甲斐あって二人の子息は赦免されたが甥の胤長だけは大江広元が事件の張本人だと主張した事で許されず、3月17日に陸奥国へ配流の上、屋敷が没収された。

詳細は省略するが和田一族への北条義時による屈辱的扱い、仕打ちが続いた。これは北条義時が和田義盛を挑発して滅ぼす狙いがあったとされる。

面目を潰された和田義盛(生1147年没1213年)は北条義時打倒の挙兵を決断し、本家筋に当たる有力御家人三浦義村からの協力を取り付け、起請文までを得たとされる。

史実に拠ると、和田義盛は無骨一辺倒の人物であった様だ。北条義時への挙兵の噂は事前に漏れていた様だ。1213年4月27日の記録として、事態を憂慮した将軍実朝(当時21歳)が和田義盛邸に使いを送り、彼の真意を問いただしたと言う。これに対して和田義盛は“将軍実朝様には恨みは無いが北条義時の傍若無人の振る舞いを正す”と応えたと言う。

4-(4)-②:和田合戦(1213年5月)に勝利し、北条義時の執権体制が
        強化される

本家筋に当たる有力御家人の三浦義村から共闘するとの起請文までを貰い、和田義盛は1213年5月2日終に挙兵した。

しかしこの時、既に三浦義村は弟の三浦胤義と相談の上幕府側に寝返ったばかりか、和田義盛挙兵の報を敵側の北条義時に入れたのである。後世“三浦の犬は友を食らう”と批判された有名な裏切りであった。

和田義盛は1213年5月2日の夕方(午後4時頃)、150騎を三手に分けて、大倉御所の南門、北条義時邸、大江広元邸の襲撃を開始した。

和田義盛軍が集結したとの報に対して北条義時は落ち着き払って将軍の御所へ参上し、政子と御台(実朝夫人)を鶴岡八幡宮に避難させ、和田義盛軍のターゲットである義時の居る大倉御所を攻めさせた。

将軍の御所を和田軍が攻めた事で和田義盛勢は“反乱軍”となった。これは北条義時の作戦勝ちであった。和田軍の攻撃が始まり、御所が炎上する前に北条義時は将軍実朝を擁して大江広元と共に“頼朝法華堂”に逃れていた。戦の形勢を傍観していた一般の御家人達も続々と北条義時方に馳せ参じた。

翌5月3日になると由比ケ浜に引いていた和田勢に3000騎の横山党が加わった事で、和田勢は劣勢を挽回し、午前10時頃には再び鎌倉に押し寄せ、激戦が展開された。

和田軍の善戦で、戦闘は5月3日の夜まで続くが、次々と新手を繰り出す幕府軍に対し、多勢に無勢の和田一族軍は善戦空しく、午後6時頃に和田義盛が討たれて勝敗が決したのである。

この合戦の勝利によって北条義時は和田義盛が就いていた“侍所別当”も兼ねる事になり、其れまで兼務していた“政所別当”と併せた“執権職の権限”を更に拡大した。

第2代執権・北条義時を“初代執権”とする説があるのは、鎌倉幕府に於ける公的な“執権職”の権限を“和田合戦”の勝利の後に強化し、以後確立させた事に拠る。

政子はこうした状況を見て、幕府の安定には“将軍職はお飾りでも良い”と考え始めたのであろう。

この時、第3代鎌倉幕府将軍・源実朝は21歳になっていた。

4-(5):お飾り状態が続いた将軍・源実朝

源実朝(生1192年暗殺1219年1月27日27歳)は兄の頼家が追放された直後の1203年9月7日に従五位下・征夷大将軍に任ぜられた。まだ元服前の11歳であった。実朝の元服は1ケ月後の1203年10月8日であり、この時に“千幡”から変えて“実朝”と名乗る様になる。

この時、北条時政が乳母父として自邸・名越邸に実朝を住まわせ、自らは執権として実朝の補佐をするという形で政治を執ったが、実態は北条時政が専制政治を行った事は述べた。

1204年12月、満12歳で京の坊門信清の娘を正室に迎えた。幕府側は足利義兼の娘をと考えていたが、実朝自身が京の娘を希望したと伝わる。後に命取りとなる実朝の“至尊(天皇・朝廷・貴族)”勢力への憧れはこの時期から根強いものだったのであろうか。

北条時政・牧の方夫妻による謀略政権は僅か3年で倒れ、政子・北条義時による寡頭政治体制が上記の様に1205年閏7月に始まった。13歳になっていた将軍・実朝は相変わらずの“お飾り将軍”であった。

しかし、朝廷からは1205年1月に正五位下、右近衛・権中将に任じられる等、昇進は早く、後鳥羽上皇の“将軍・実朝懐柔策”が進んで行った。政治の実権から外された実朝はこの年の9月に京から“新古今和歌集”を取り寄せ、和歌に熱中する状態であった。

13歳の少年将軍・源実朝は京の都の文化と“至尊(天皇・朝廷・貴族)”勢力への憧憬を強めて行ったのである。

4-(6):至尊(天皇家・朝廷・貴族)勢力に積極的に近寄って行った将軍
      ・源実朝

1206年10月20日は実朝にとっては運命の日でもある。母・政子の命で、亡き頼家の次男善哉(ぜんざい)を猶子(自分の子、養子)としたのである。この時、将軍実朝は14歳、猶子となった善哉(ぜんざい)はまだ6歳の子供であった。この子供が13年後の正月に実朝を暗殺する事になる、後の公暁(くぎょう・こうきょう)である。

1211年に実朝は正三位に登り、翌1212年には19歳で従二位に登るというスピード昇進は続いた。この頃、猶子の善哉は11歳、鶴岡八幡宮別当の“定暁“の下で出家し“公暁”の法名を受けている。

実朝は19歳に成っていたが、相変わらず政治の実権は無いに等しく、政子と執権職としての権限を強化し、幕府内の実権を拡大する北条義時の二人による安定した“寡頭専制政治”が行われていた。

実朝に与えられた政治的役割はわずかに戦闘で勲功のあった御家人を表彰する程度のものであり“お飾り将軍”である事には依然として変りが無く、京の文化、取り分け和歌に没頭して行ったのである。

1213年11月23日に“新古今和歌集”並びに“小倉百人一首”の撰者として知られる藤原定家(生1162年没1241年79歳)から相伝の“万葉集”が届いた事に“これに過ぎる重宝があるだろうか”と実朝が大喜びをした記事が残っている。又、有名な実朝の歌集“金槐和歌集”が成った(1213年12月18日)のはこの頃であろうとされる。

その中に“山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも”という有名な歌が収められている。

この歌からも、後鳥羽上皇に対する源実朝の畏敬の念と忠誠心が読み取れる。

若い時から政治の実権を奪われ、“至尊(天皇・院・朝廷)”勢力側からの懐柔策に乗せられた形の実朝が“至尊”側に憧憬の念を抱き、同化し、調教された“武家の棟梁”として成長して行った事はある意味で自然の流れであったとも言えよう。

天皇に即位し、成人した後鳥羽天皇(上皇)は倒幕の考えを常に抱いていた人物であるから、源実朝は後鳥羽上皇にとっては至強(将軍・幕府・武士層)勢力を捉える為に有効な糸口となる人物であった。実朝の朝廷に対する忠誠心を繋ぎ留める策は後鳥羽上皇にとっては非常に重要な鎌倉幕府政策だったと思われる。

一方、有力御家人の間の激しい政争に勝利して“執権政治体制”を確立しつつあった北条氏を代表とする幕府側にとっては、そのトップである将軍の至尊(天皇・院・朝廷)勢力への接近が加速し、懐柔されて行く姿を見る事は、将来、再び武家政権の独立性が失われる危険が生ずるのではないかと、警戒感を強めて行ったのである。

4-(7):“お飾り将軍”実朝が幕府の“厄介将軍”となる・・1216年~1218年

11歳で将軍職に就いた実朝も13年後の1216年になると24歳の成人将軍となっていた。この頃、将軍実朝と執権北条義時並びに大江広元等、幕府側との亀裂とも言える記事が残されている。

その第一が将軍・実朝24歳の時、1216年9月の吾妻鏡の記事である。

上記した様に実朝の官位昇進は早かった。1216年6月に権中納言、そして7月には左近衛中将に任じられている。

こうした朝廷からの将軍実朝に対する“官位・官職授与攻め”を北条義時と大江広元は憂慮し、執権義時は大江広元を将軍実朝の御所に遣わして諌めている。この諫言に対して実朝は“源氏にとって今こそ家名を上げる時であり子孫の名誉と成ろう“として聞き入れなかった。

後鳥羽上皇からの“官職・官位授与策”に拠って御家人達が“棟梁”として擁立した将軍源実朝が懐柔され、服従し兼ねない姿を見る事は北条義時はじめ“至強(幕府・武士層)”側の御家人達にとって、この侭では幕府の独自性の維持に支障となる、との危機感を抱いたに違いない。

将軍と言う立場は御家人達から擁立された存在であるという基本を顧みようとしない将軍実朝と幕府・御家人の間に亀裂が生じていた事を表す記事である。

第二の記事は1216年11月24日~1217年4月17日に亘って実朝が計画した“渡宋”に関して生じた亀裂の記事である。将軍実朝25歳の時の事であった。

東大寺大仏再建を行った宋人の僧・陳和卿(ちんなけい)から将軍・実朝の前世は宋の医王山の長老であったと聞かされ、実朝はそれを信じる。そして、渡宋して医王山を拝したいと言い出し、僧・陳和卿に唐船の建造を命じた。

北条義時と大江広元はそれを諌めるが実朝は聞き入れず、翌年4月17日に完成した唐船を由比ヶ浜から海に曳かせた。しかし、唐船は浮かばず、実朝は渡宋を漸く諦めたという記事である。

こうした深刻な亀裂が幕府・御家人達との間に生じていたにも拘わらず、1218年に入っても後鳥羽上皇からは将軍・実朝への“官位・官職授与策”は寧ろエスカレートして行った。将軍実朝はそれを是とし、甘受し続けたのである。

1218年1月には権大納言に、3月には左近衛大将に、10月には内大臣に任じられ、そして運命の12月に、武士層として前例の無い“右大臣”に叙せられたのである。

5:鎌倉幕府第3代将軍源実朝が暗殺され、源家将軍が三代で断絶する

5-(1):後鳥羽天皇(上皇)と源実朝との関係

既述した事の繰り返しとなるが“三種の神器の無い天皇”として1184年7月28日に僅か4歳で即位した第82代後鳥羽天皇はその生涯を通じて劣等感を抱いていたとされる。それだけに至尊(天皇・院)としての権威・権力の復活には並々ならぬ執念を持った天皇と言われる。

関幸彦氏は“東国に出現した武家政権は後鳥羽上皇から見れば簒奪政権であった。先ず簒奪があって、そして委任があったのが鎌倉幕府の成立過程だ”と解説している。

後鳥羽上皇の目指すところは天皇家の権威の回復であった。その為には源頼朝が祖父・後白河法皇時代に朝廷(院)政治と完全に距離を置き、独自の統治権を得て“鎌倉幕府”という“東国の独立した武家政権”を創設したが、これを滅ぼし、天皇家の権力と日本国の頂点としての権威を回復する事であった。

晩年に頼朝・政子が長女・大姫や次女・三幡姫の入内に奔走し、朝廷への接近の姿勢を示した事を後鳥羽天皇(上皇)は倒幕の糸口と考えたのであろう。そして幕府創設者の源頼朝が急逝した事は更なる機会到来と見たに違いない。

父・頼朝を継いだ第2代将軍源頼家が性急に“将軍独裁政治体制”を目指し、鎌倉幕府存立の基盤とも言える御家人達との信頼関係を失い、幕府を混乱させた事はいよいよ倒幕のチャンスが拡大して行くものと理解したに違いない。

この様に、事態は後鳥羽上皇の望む方向へと更に展開して行った。源頼朝がこうした混乱の火種として残した比企一族と北条一族の対立構造は現実の政争となり、2代目の将軍は追放されそして暗殺された。そして第3代の将軍として登場したのが至尊(天皇家・朝廷)勢力に忠誠心を示す人物、源実朝だったのである。

彼は幕府と軋轢・亀裂を生み乍らも、尚も後鳥羽上皇に従順であった。しかし、こうした状況下で後鳥羽上皇が見逃していた重要な事があった。政子の存在である。

政子は北条義時と連携して有力御家人間の政争で北条氏を勝利に導き、執権政治体制を確立し、強化した。その結果、将軍職を形骸化させて鎌倉幕府の安定化を図る方策を考え、そちらを選びつつあったものと考えられる。

京の文化に憧憬の念を抱き、至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力に畏敬の念を持って接して来る将軍・実朝の存在は後鳥羽上皇の倒幕計画にとって好都合と考えた筈であるが、その思惑は外れる。倒幕を謀る後鳥羽上皇にとって政子の存在が最大の障害となるのである。

政子はこの時期、どの様に考えていたのであろうか。

1218年に政子が上洛し、後鳥羽上皇に会って交わした言葉の中に“辺鄙の老尼”と自分を称した事が残っている。この謙遜の言葉の裏からは政子が決して伝統的な京の政治・文化に憧憬せず、あくまでも夫・源頼朝が創設した“武家による独自の鎌倉幕府”に誇りを持ち、死守すると言わんばかりの毅然とした姿勢が読み取れるのである。

政子が心中では、後鳥羽上皇からの“官職・官位授与策”に載せられ、懐柔され、調教されている息子の将軍・実朝の姿を決して是としていなかった事は明白である。

5-(2):“公武協調路線派”と“関東武家政権自立派”の対立

“公武協調路線”を行くのは将軍・源実朝を代表として、これを支援した源仲章(みなもとなかあきら)、源頼茂(みなもとよりもち)、源惟信(みなもちこれのぶ)などが挙げられる。

一方、“関東武家政権自立派”は、北条義時をトップとする北条一族に加えて、三浦氏等、在地の御家人達であった。

北条氏・三浦氏・在地御家人、有力御家人達にとっては源頼朝を旗頭に立てて、10年間もの源平合戦という多大な犠牲を払って打ち立てた“朝廷政治から独立した武家政権”の鎌倉幕府であり、この鎌倉幕府を維持・強化して行く事こそが全てであって、実朝が進める“公武協調”路線には反対する立場であった。

幕府最大の実力者の立場にあった政子が、夫・頼朝が創設した“鎌倉幕府体制“を命懸けで守る考えであった事は後の史実展開からも明白である。

5-(3):実朝暗殺・・1219年1月27日(27歳)

1218年12月2日に後鳥羽上皇は26歳の源実朝を右大臣に任じた。武士層から右大臣に任じられたのは実朝が初めてである。昇任を祝う鶴岡八幡宮拝賀の式典も決まり、後鳥羽上皇からは祝いの装束や牛車までが実朝に贈られた。

将軍実朝が完全に後鳥羽上皇の“官位・官職授与策”に乗せられ、朝廷(院)側から懐柔され、調教されていたという事を示す事態である。そしてこの拝賀の日に実朝は政子の命で猶子にしていた“公暁”に拠って暗殺されるのである。

5-(3)-①:排除されるに十分な理由を持っていた将軍・源実朝

以上の様に将軍・実朝は不幸にして長ずるに従って“至強(幕府・執権・有力御家人)”勢力”にとっては、排除すべき存在に成って行った。

執権・北条義時と姉・政子の二人に拠る寡頭専制政治体制下にあって、将軍実朝は鎌倉幕府のお飾り将軍、形式上のトップに過ぎなかった。しかし、その存在意義はあった。つまり、政子が頼朝の後家という権威を持つと同様に、実朝には創設者・源頼朝の血筋を受け継いだ将軍という“権威”があったからである。

創設後間もない鎌倉幕府にとって、執権職として政治権力を強めつつあった北条家ではあったが、地方豪族に過ぎなかったその出自の低さからも到底“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)”勢力に伍して東国の武家政権を率いるだけの“権威“を得る事は出来なかった。

伝統を重んじる日本という国の社会風潮が新興の北条氏の権威を認めなかった。又、その事は政治の実権を握っていた当の北条氏が一番分かっていたのである。

しかし乍ら上記した1216年~1218年に掛けての将軍・源実朝の動きに拠って至尊(天皇家・朝廷・貴族層)側に対して唯一人対抗出来る権威を備えた至強(将軍・幕府・武家層)側のトップが後鳥羽上皇に服従し兼ねない状況となり、鎌倉幕府存立の基盤を壊し兼ねない存在になったとして北条氏を初め、幕府要人達は大いに危惧したのである。

諫言を聞き入れようとしない将軍・実朝は北条義時はじめ幕府側にとって“厄介な存在”となっていた。

5-(3)-②:公暁(生1200年没1219年)という人物

公暁は鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の次男として1200年に生まれている。幼名は善哉(ぜんざい)。1204年7月、善哉(公暁)4歳の時に父・頼家は北条氏(時政)の手の者に拠って殺害された。1206年10月、6歳の時に政子の命によって、叔父で第3代鎌倉幕府将軍の実朝(当時14歳)の猶子となった。

1211年9月に11歳で鶴岡八幡宮別当・定暁の下で出家し“公暁”という法名を受けた。その後は園城寺(三井寺)で修業し、1217年6月、17歳で政子の意向で鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮の別当に就任している。この様な状況下でも公暁は一向に髪を下ろす事が無かった事に周囲の人々は怪しんだという。

公暁が義理の父でもあり、当時まだ11歳だった実朝が父・頼家殺害に直接手を下す訳は無い事は承知していたであろう。しかし、公暁は“親の敵はかく討つぞ”と叫んで実朝を襲い首をはねた。

彼は父・頼家が暗殺された事に就いて幼少の頃から聞かされていたと思われる。少年の事であるから、公暁の頭の中には父親が将軍職を追われ、幽閉され、そして殺された原因は亡父の後継将軍となった“源実朝”にあり、政権争いの中で結果的に父親・頼家殺害に手を下したと信ずる“北条一族”にある、従ってこの両者が“親の仇”だとの強い思いが焼き付いていたものと考えられる。

公暁は僧籍に入らされてはいたが、こうした背景から単独で実朝並びに北条義時を“親の仇”として狙っていたとする説が最も無理が無い様に思われる。

この公暁単独行動説の他には、幕府の有力御家人であり、妻が公暁の乳母であった関係から三浦義村と公暁との共同謀議であったとの説もある。又、執権・北条義時と三浦義村が仕組んで19歳の“公暁”を唆して実朝を暗殺させたという説もある。

上記した様に、幕府側には将軍・実朝を排除するに充分な事情があった。従って上記“共同謀議”説の両方共に可能性はあるが、当日将軍実朝が暗殺された状況、その日の中に公暁が殺害された状況に関する“吾妻鏡”の記述等から共謀説も決定的な説得力を持たない。

5-(3)-②:実朝暗殺の状況・・1219年1月27日

“吾妻鏡“の承久元年(=建保7年1219年)正月27日条には”実朝、右大臣拝賀の礼を鶴岡にて行う。別当阿闍梨(あじゃり)“公暁”之を弑す。文章博士・源仲章(なかあきら)、同じく殺さる。北条義時、三浦義村をして公暁を殺さしむ“・・と実朝暗殺の場面を淡々と記述している。当日の記事の全容は後述するが、吾妻鏡は鎌倉幕府サイドに立った人々、具体的には北条義時の子孫達によって書かれた“歴史書”であるから先祖・北条義時を汚す様な表現は無い。

前にも述べたが“歴史は推理の学問”であり、1級資料だからと言って史実の全てが得られる訳では無い。従って、客観的な史料に拠って、その後の歴史展開との整合性を取る事に拠って“通史”を仕上げて行く事が現代の我々に求められている事であろう。

先ずは、実朝が公暁に暗殺される迄の“荒筋”を“吾妻鏡”並びに“愚管抄”の記事を参考にして総括して置こう。

ア:前年1218年12月、実朝は26歳の時に武士層としては前例の無い“右大臣”に叙せられた。この為の拝賀の式典が鶴岡八幡宮で行なわれる事が決まった。

6章―1項で紹介した様に、鶴岡八幡宮は頼朝が最も尊敬していた河内源氏第2代・源頼義が東国支配の拠点として鎌倉大倉に屋敷を建て、河内源氏の氏神である“石清水八幡宮”の分霊として建てた3ケ所の八幡宮(鶴岡八幡宮・杉並区大宮八幡宮・壺井八幡宮)の一つである。

12月21日には後鳥羽上皇から式典に先立って、装束・車が贈られて来た。

イ:式典は年明けの1219年1月27日と決まり、式次第、参列者の役割までが細かく決められた。執権・北条義時の役割は将軍実朝の太刀持ち(御剣役)であった。

ウ:当日は雪が60センチも積もった。束帯姿の実朝が北条義時を太刀持ちに従え、5人の公卿一行を従えておごそかに歩いたとある。

ここで不思議な事が起こる。“愚管抄“の記述に拠ると、ここで神事(当時は本格的な本地垂迹説が流行していて神仏が結び付いていた)に随行すべく北条義時が実朝に続いて桜門をくぐろうとした時 ”中門に留まっておれ“ と実朝が義時に命じたとある。従って義時は2時間程寒中で待機していた事に成る。他の公卿達は社殿迄供奉したのであろう。

エ:雪はその後、更に強まった。そして社殿に入った実朝、公卿達の一行が雅楽の音が鳴り響く儀式を終えた時は夜になっていた。

オ:鶴岡八幡宮内での神事(仏事)を終え、将軍実朝が退出して来た時には、実に不可思議な事が起きていた。太刀持ち役だった北条義時が突如腹痛に見舞われ、太刀持ちの役を元、後白河法皇、後鳥羽上皇の近臣であり、後に将軍実朝の侍読役として仕えた文章博士・源仲章に交代していた事だ。義時本人はその場から自邸に戻っていたのである。

カ:実朝と5人の公卿一行は雪を踏みしめて鶴岡八幡宮の石段を降りて行く。この時、頭巾を被った公暁が飛び出し、源実朝の衣の裾を踏んで倒し“親の敵はかく討つぞ”と叫んで実朝の首をはね、傍で狼狽状態の太刀持ちの源仲章の腹を刺し抜いて殺害し、実朝の首を抱えて逃げ去ったと“承久記”にある。公暁は19歳、実朝は27歳であった。

キ:吾妻鏡には“公暁が石の階段の端から剣を持って現れ、丞相(実朝)を殺害した”と記述されているだけだ。一般的に伝えられる“銀杏の木に隠れていた”との記事は無い。

5-(3)-④:即日公暁は討たれる・・吾妻鏡の記事からの詳細

上記した様に北条義時が拝賀の式典の途中で腹痛(体調不良)を起こし、自邸に戻った事は、後に“実朝暗殺の黒幕説”の根拠とされている。当然義時の子孫が書いた“吾妻鏡”にはその様な記事は無い。

既述した様に、当時の幕府にとって、後鳥羽上皇の術中に嵌って“官位・官職策”を甘受し、至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力に忠誠心を示す将軍・実朝は危険と見做される存在になっていた。排除する理由も在ったと言える。

しかし、当時の鎌倉幕府の状況は、政子・執権北条義時二人の寡頭政治体制であり、2代将軍頼家を北条時政が排除した時の状況、つまり、比企氏と北条氏が共に頼家と実朝の“乳母夫”として主導権争いをしていた状況とは異なる。

政子と北条義時が将軍実朝を政治の実権から遠ざけ、執権職の機能を強化した事で政治は安定していた。こうした二人の寡頭政治体制は1205年から既に14年間の実績を重ね“将軍職は権威だけが必要であり、お飾りで良い”との結論が政子にも北条義時にも出ていたものと考えられる。

従って政子・義時にとって将軍・実朝は後鳥羽上皇への忠誠心を示す点では困った存在ではあったが、拝賀の式典の日に敢えて暗殺する理由はなかったのでは無かろうか。

暗殺当日の状況の話に戻るが、暗殺は公暁と仲間の僧侶3~4人で実行された。

暗殺事件があった時、1000人を超す護衛の兵士は全て鳥居の外だった。公暁は実朝の首を持って逃げ去り、備中阿闍梨宅に戻る。そこで食事をしたが、一時も実朝の首を離さなかったという。

以下に一部重複するが“吾妻鏡“の建保7年(改元して承久元年1219年)1月27日の記事を抜粋する形で、実朝暗殺に到る状況を詳細に紹介する。当時の大事件をどう表現したのか、更には実朝を暗殺した後に、公暁がどの様にして討たれたかが書かれている。

ア:霽(晴れ)夜に入って雪積る。積る事二尺(60センチ)余り。今日将軍家、右大臣拝賀(喜び、祝いを神に申し上げる)の為、鶴岡八幡宮にお参り。酉(とり)の刻(午後6時頃)御出で。

一般に知られる通り、実朝が暗殺された1月27日は昼間は晴れていたが午後から雪になり、夜には60センチも積もる大雪になった様だ。拝賀の式典は夕刻6時頃から始まった様である。

イ:参列者を順に記述・・殿上人10人程が記述され、俄かに北条義時の代役を務めた文章博士・源仲章の名も見える。公卿5人、続いて隠岐の守、壱岐の守その他30名程の御家人の名前が記述されている。最後に“路次(ろじ=沿道に待機の意味か)の髄兵一千騎なり,と書かれている。護衛の為に沿道に待機した髄兵を除いて、この式典に参加した人数は記述されている人数を足しただけでも160人程となる。

ウ:但し、神拝(仏事)が行われた鶴岡八幡宮の桜門から先に入った人数は将軍・実朝並びに5人の公卿を含めて7~8人程だったと考えられる。

エ:宮寺(鶴岡八幡宮)の桜門に入らせ給うの時、右京兆(北条義時の事。1217年に右京権大夫に就任)俄かに“心神(精神)御違例(病気)の事有り。御劔を仲章朝臣に譲り退出給う。小町の御亭に帰らしめ給う。夜陰(夜)に及び神拝の事終わる。

北条義時が突然、祝賀の一行から離れた時のニュアンスは先記した“愚管抄“の記述とはやや異なるが、いずれにしても北条義時が桜門よりも中に入る前に急な体調不良で太刀持ちの役を”源仲章“に代わって貰った事、そして自邸に戻っていた事が確認出来る。

オ:(実朝が)漸く退出せしめ給うの処、当宮(鶴岡八幡宮)の別当阿闍梨“公暁”、石階の際に窺い来たり、劔を取り、丞相(将軍実朝の事)を侵し奉る。(省略)爰に(此処に)阿闍梨(公暁)彼の御首を持ち、後見(こうけん)備中阿闍梨の雪の下、北谷の宅に向かわる。膳を羞むるの間、猶、手を御首より放さずと。

将軍実朝が神拝(仏事)を夜になって終え、鶴岡八幡宮の社殿から退出して来た。公暁は石段の処から様子を窺っていたが抜刀して将軍・実朝を襲った。公暁は実朝の首を持って逃げ、後見人である備中(岡山県西部)阿闍梨(修行僧)の邸に入った。そこで食事をとったが、(実朝の)首から食事中も手を放す事はなかった。

カ:公暁、使者を(三浦)義村に遣わさる。今将軍の闕(ケツ=欠ける事)有り。吾専ら東関の長に当たるなり。(省略)義村、使者を発し、件の趣を右京兆(北条義時)に告ぐ。右京兆(義時)阿闍梨(公暁)を誅し奉るべきの由下知し給うの間、一族等を招き聚め(集め)評定を凝らす。(省略)長尾の新六定景を討手に差す。

公暁は実朝暗殺後、三浦義村の妻が乳母であったという関係から、彼を頼るべく、応援依頼の使いを出した。公暁には、将軍・実朝を討ち、北条義時を討つ事で、自分が後継者に就くとの考えが有ったのであろう。ところが三浦義村は一貫して北条義時支持の人物であったから、公暁から討手を迎撃する応援を要請されたのだが、時間稼ぎの嘘をつき、一方で事の次第を北条義時に告げたのである。

義時は一族を集め評定(会議)を行い、公暁を討つ事を決し、腕の立つ長尾の新六定景に5人程の兵士を付け、武装させて追討に向かわせた。

キ:阿闍梨(公暁)は(三浦)義村の遣い、遅引するの間、義村の邸に至らんと擬す。仍って(よって)新六定景と途中に相逢う。(省略)新六定景太刀を取り阿闍梨(公暁)の首を梟(きょう)す。(省略)新六定景彼の首を持ち帰りをはんぬ。(以下略)

公暁は三浦義村に送った使いの返事が余りにも遅いので、自ら義村の邸に向った。途中で公暁討伐に向った長尾の新六定景の一行と出会い、戦闘と成った。奮戦空しく公暁は新六定景に討ち取られ、首を取られた。

新六定景は公暁の首を三浦義村・北条義時の邸に持って行き、検死を受けた。

尚、同夜の中に公暁の残党を糾弾すべきとの命が政子からも出され、残党二人が捕縛され、北条義時邸に連れて来られた事が書かれている。

6:北条義時が難を逃れた史実について

吾妻鏡にも愚管抄にも書かれている事から、式典の途中で北条義時が体調を崩して自邸に戻っていた事は史実である。

愚管抄の記述通りに実朝の命で寒空の下で2時間も中門に留まって居たとすれば、或は本当に体調を崩したのかも知れない。吾妻鏡では“心神違例”と表現している。

問題は、実朝と北条義時を“親の仇”として狙った公暁が式典の途中で北条義時が文章博士の源仲章に太刀持ちの役を交代して貰っていた事を知った上で“源仲章”をも殺害したのか如何かである。

結論は公暁は知らず、松明だけの闇夜の中での必死の行動であるから義時と間違って殺害したと考えるのが妥当である。源仲章は将軍実朝のブレーンとして京から来た人物であり、公暁が“親の仇”として狙う理由は無い。

義時は公暁の陰謀を事前に知り、仮病を使ったとの説がある。若しそうだとすれば、何故彼はそれを将軍実朝に告げなかったのであろうか。ここに北条義時と公暁が結託して暗殺したという説が成立するのだが、政子も義時も直ぐに公暁討伐に動いている事等、その後の史実展開との整合性が取れず、この“義時・公暁結託説“にも無理がある。

7:源家将軍の継続か親王将軍の東下要請か・・親王将軍東下を決断した政子・北条義時の考え

源実朝は1219年(建保7年=承久元年)1月27日に公暁に拠って暗殺された。実朝には男子が居なかった。源氏の“嫡流”としては“断絶”だが“傍流”の源家には将軍の継承権を主張出来る立場の男子は多く残っていたのである。

しかし、政子・義時姉弟は“源家将軍”の断絶を決断し実行する。しかもそれは実朝が暗殺された事が直接の理由では必ずしも無いと考えられる史実がある。

実朝が暗殺される丁度1年前の建保6年(1218年)2月に政子は病勝ちな実朝の平癒を祈願する事を目的に熊野詣をし、それを口実に上洛をし、後鳥羽上皇の乳母卿二位高倉兼子を通じて“頼仁親王(生1201年薨去1264年)”乃至は“雅成親王(生1200年薨去1255年)”を次期将軍候補として鎌倉に迎えたいとの希望を伝えていた事が“愚管抄”に記されている。かなり信頼出来る情報と考えて良かろう

政子・執権北条義時二人に拠る寡頭専制政治の時期に、政子が鎌倉幕府第3代源実朝の後の将軍として源家将軍の継続では無く、親王将軍の降下を考えていたという事は、日本という国にはいかなる時代にあっても“天皇家”という権威が政治権力者にとって必要であった事を証明する史実として非常に貴重である。

何度も述べた様に鎌倉幕府の出現は伝統的な至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力に伍して、初めて至強(将軍・幕府・武家層)勢力が位置付けられ、政治体制、社会体制にも大きな変化を起こした重大な出来事であった。その中心である政子・北条義時までもが鎌倉幕府の維持・発展の為には源家将軍を続けるよりも親王将軍を迎える方が良いと決断したのである。

この重大な決定に至った背景は下記とされる。

1218年と言うと政子・義時の寡頭政治体制も14年目を迎え、政子は61歳、義時も55歳に達していた。二人共、鎌倉幕府の将来像を真剣に考えた時期であったと思われる。

政子の考えは最愛の夫・源頼朝が築き上げた、朝廷政治から自立した鎌倉幕府という武士政権を将来に亘って維持、発展させる事こそが大切であり、その為の方策としては源頼朝も固執しなかった“征夷大将軍”の地位は幕府の“権威”として存在すれば良いとの結論に到ったという事だと思われる。

政子と頼朝夫妻が長女の大姫・次女の三幡を後鳥羽天皇に入内させる事に奔走した事はこうした考えの端緒であったのであろう。政子は“至尊(天皇家)”の存在が伝統的日本社会では確固たる“権威”の岩盤として既に数百年以上に亘って築かれて来ていた事の重要性を軽視しなかったのである。

頼朝が打ち立てた“至強(幕府・武士層)”勢力の独立を将来に亘って維持し強化して行く事こそが重要であり“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)“勢力の権威を借りる、という”和して同ぜず“の姿勢が政子・北条義時の結論だったのであろう。

結果として第3代鎌倉幕府将軍・源実朝が暗殺された後の将軍は次項以降に記述する様に“摂家将軍”そして“親王将軍”に継承されて行き、源家将軍に戻ることは無かった。

かくして、源家将軍は僅か3代で断絶したのである。

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