menu,css

2014年4月17日木曜日

第四章 天皇家が今日まで存続する事に不可欠だった藤原家との500年の“共存体制”の歴史
第6項 藤原摂関政治時代の終焉


6-1:藤原摂関家最後の“栄華”を享受した藤原頼通(生992年没1074年)の壮年期

いよいよ第三項の#5で掲げた10人の藤原氏を代表する人物紹介の最後の“藤原頼通”に辿り着いた。藤原摂関政治時代の終焉の足音は相当に大きく響いて来ている時代に生きた人物ではあるがそれでも藤原摂関政治時代は続いて居り、最後の“栄華”を享受出来たのである。

頼通は道長の長男として1006年僅か14歳で従三位に成り1013年22歳で権大納言に就任と言うスピード出世振りであった。1016年と言う年は、父道長が長年確執のあった三条天皇を漸く譲位させる事に成功し、娘彰子と一条天皇の皇子を僅か8歳で第66代後一条天皇として即位させ、自らは“摂政”に就いた年である。

翌1017年は父道長が太政大臣に昇進、位人臣を極めたのである。この時頼通は26歳であったが、内大臣に昇進、更に道長から”藤原摂関家の氏の長者の席と”摂政職“も譲られたのである。1018年には既述した様に道長の三人の娘の全てが“立后”し“三后立后”と称された。頼通にとっては三人の姉妹である。道長のみ成らず頼通の心境も“この世をばわが世とぞ思う”と詠いたかったところであろう。

三后とは、一条天皇の中宮であった彰子がこの時には太皇太后であり、三条天皇の中宮であった妍子は皇太后、そして威子が後一条天皇の皇后であった事を指す事は述べた通りである。そして翌1019年には頼通は28歳の若さ乍ら、11歳になり元服した後一条天皇の関白に就いている。この様に藤原頼通にとって、順風万帆の数年間であるが、この頃から父親の道長は病気がちになり、この年に“出家”をする。 絶頂期の藤原摂関家にも“陰り”が射し始めたのである。

出家した後、道長は翌1020年に“無量寺院”を建立する。これが後に“法成寺”として広大な寺院となるのだが、その阿弥陀堂で1027年、61歳でこの世を去るのである。
この”法成寺“の遺跡は京都御所の近く、現在の鴨沂高校の校舎の脇の道路に小さな石碑が立っているだけで往時の規模を偲ぶ建物は何一つ残っていない。

6-2:道長死後、平坦では無かった頼通の政治人生

(ア):平忠常の乱と武士台頭の兆し

1028年、頼通が37歳の時に現在千葉県や上総地方の名前の元である“千葉氏”や“上総氏”の先祖とされる“平忠常”が関東で反乱を起こした。頼通は当時関白・左大臣、この乱の鎮圧に3年もかかる。それも当の平忠常は“前上総介”という役人であった人物であり更にこの乱は彼自身が降伏した事で漸く終息したという状況であった。すなわちこの反乱は中央貴族政府の影響力の低下を世に知らしめ、房総地方の荒廃をもたらし、鎮圧に当たった“源頼信”など“武士団の力”が政治の表舞台に登場するきっかけとなる等、時代の変化を告げる大きな意味を持った反乱であった。

(イ):後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇三代の関白に就く

頼通は82歳まで生きた。父道長は61歳の人生であったから当時としては極めて長命であった。又、性格的には父親程アグレッシブな人物では無く温厚な人物であった様だ。
1036年に後一条天皇が28歳の若さで崩御した頃から頼通の“栄華”時代にも暗雲が漂い始める。余りにも“急死”であった為崩御を隠し後に“譲位”という形で新帝に繋いだのである。新帝は弟が即位し、第69代後朱雀天皇(在位1036年~1045年)となった。

道長存命中から皇子に恵まれない後一条天皇には后の世話など“藤原摂関家”としては当然あれこれ手を尽くした。皇女には恵まれたものの終に“皇子”の誕生に恵まれないままの崩御であった。

跡を継いだ後朱雀天皇は即位した時は27歳であり、頼通は44歳、当然の事として“関白職”に引き続き就いた。そしてこの後朱雀天皇も1045年、病弱の為に第70代後冷泉天皇(在位1045年~1068年)に譲位し、その直後にやはり37歳の若さで崩御する。頼通はこの時53歳であった。

藤原頼通が仕えて3人目の後冷泉天皇は即位時20歳であった。その関白職にも就いたのである。結局3天皇、合計50年間の長きに亘って関白職に就く事になるのである。
藤原頼通が関白職にあった期間は“藤原摂関家の過去の遺産”が政治権力の面でも経済力面でも十分に残って居り、既述の地方武士の反乱、中央政府の支配力弱体化という状態が起こってはいたが、“藤原摂関家の凋落”という事態にまでは至らなかったのである。

しかし“天皇家”との“共存体制”によって”律令国家“を主導して来たシステムそのものはこの時期に至ると、ほぼ崩壊状態にあった事は覆い様も無くなって来ていた。天皇家の政治権力喪失は言うまでもないが、藤原頼通の時代に起きた“前九年の役”は“摂関家自体の政治権力”に衰退の兆候がはっきりと現れた時代の変化を告げようとする大事件であった。

(ウ):“藤原摂関家の絶頂期”の遺産となった“宇治平等院鳳凰堂”の建立

頼通の時代も父道長時代同様“藤原摂関家の絶頂期”であると言う事を後世の誰もが思うような“遺産“を彼は残した。それが現在世界遺産に登録されている宇治平等院鳳凰堂である。仏教界では1052年が“末法の世の元年に当たる”と伝えられていた。この年(永承7年)に頼通は道長時代の離宮を仏寺とし“平等院”と号したのである。そして有名な“平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)”は翌1053年に建立された。

この時藤原頼通は後冷泉天皇の関白で年齢は61歳になっていた。上述の様に藤原摂関家の”政治的影響力“はかなり低下してはいたが”財力の存在感“を後世に伝える偉業となったのである。

6-3:前九年の役(1051年~1062年)の勃発と武士時代到来の序曲

23年前に起こった平忠常の乱は“源頼信”ら武士団の存在感を世に示したが、1051年から起きた“前九年の役”はそれを決定的にした極めて重要な意味を持つ事件となる。
陸奥の奥六郡の領主であった“安部頼時”が中央政府への納税を拒否するという事件が発端となった。当然“陸奥守”が成敗に向かうが逆に安部時頼に敗退する。新たに“陸奥守”に任じられた“源頼義”とその息子の“義家”父子が地元の“清原武則”の加勢を得て、1062年に漸く鎮圧したという内乱であった。

この役の勃発から完全鎮圧迄に11年を要しているが、役の状況の取り方で“前九年の役”と呼ばれるのが通例である。この時の天皇は後冷泉天皇、そして関白頼通はすでに70歳の老齢政治家だった。

6-4:藤原系の母親を持たない第71代後三条天皇即位(在位1068年~1072年)と名目だけとなりつつあった関白職

藤原摂関家の政治力が低下した事を露骨に世間に知らしめたのが、平忠平の反乱と前九年の役であったが、もう一つの藤原摂関家にとっての大ピンチは不比等以来、最重要政策として来た天皇家との“後宮政策”に大きな穴を開けてしまった事である。

後一条天皇は皇子に恵まれず崩御、弟の後朱雀に繋ぎ、その皇子が後冷泉天皇として即位した迄は良かったが、藤原頼通の娘“寛子皇后”と後冷泉天皇との間に皇子が生まれないまま後冷泉天皇は43歳で崩御となった。

この状況は後一条天皇崩御のケースと全く同じであったが次の天皇として即位した状況が全く異なった。後一条崩御の時の後朱雀天皇は同じ母親、藤原彰子であったが後冷泉天皇の崩御によって1068年に34歳で即位した後三条天皇は後冷泉天皇とは異母弟でしかも母は三条天皇の第三皇女であるから、藤原一族では無い母親を持った天皇と言う事になった。こうした藤原氏を外戚としない天皇が即位したのは887年の第59代宇多天皇以来であるから実に180年振りの由々しき事態となったのである。

藤原頼通の人柄については“温厚”な人物だったと称したが、政治家としては脇の甘い人物であったのかも知れない。この頃、頼通は75歳と当時としては相当な高齢となっており、この後三条天皇即位の前年の1067年に関白の座を4歳年下の弟、藤原教通に譲っていたのである。この時弟の“新関白教通”も71歳という老人であった。

この交代劇にも50年間も関白職にあった為のマンネリか、それとも温厚だといわれる性格から来る藤原頼通の政治に対する厳しさの欠如が感じられるが、いずれにしても34歳になっていた後三条天皇にとっては、“藤原関白家“による補佐は以前ほど必要では無くなって来ていたのであろう。

ところで、頼通には藤原師実という息子が居たのであるが、彼をなるべく早く関白職に就ける様、関白職を弟の教通に譲る時に約束をしていたのであろうが教通はそうはしなかった。頼通はその事が心残りであったと思われるが、後三条天皇の次の第72代白河天皇の即位後迄生き、1074年に82歳でこの世を去るのである。

しかし藤原教通は兄頼通の死後も一向に甥の藤原師実に関白職を譲らなかった。こうした理由として教通が兄頼通との間にかってお互いの娘の入内を巡っての確執があった事等兄弟間の複雑な感情があって、易々と甥に関白の座を譲る気にはなれなかったと言うのが真相の様だ。

6-5:第72代白河天皇即位(在位1072年~1086年)、院政開始(1086年~1129年)
と藤原摂関家の政治権力の喪失

藤原氏との外戚関係が無い事から、後三条天皇は藤原氏の之までの“専権”を抑える政治を行った。学者でもあった大江匡房(生1041年没1111年)を重用し、即位の翌年、1069年には“記録荘園券契所”を設けて証拠書類の無い不明な荘園の整理(延久の荘園整理令)を行うなど“親政”を行ったが即位後僅か4年の1072年に息子の第72代白河天皇に譲位し、翌1073年に39歳の若さで崩御するのである。

次章で院政を始めた白河天皇、そしてその後の“天皇家“と”権力者“について述べて行くが、政治権力は喪失してはいたが、形としては、摂関家として、後三条天皇の時期にも藤原教通が関白職として就いてはいたのである。しかし上記の様に大江匡房が政治の表舞台に居た。白河天皇即位時点の1072年に、藤原教通は76歳の関白職に就いてはいたものの、政治の実権としてはかつての“藤原摂関家”の力は完全に失っていたのである。そして兄藤原頼通がこの世を去るのを見届け、教通も翌1075年に80歳で没したのである。

第72代白河天皇も藤原摂関家との直接の外戚関係の無い天皇であったから、父親の後三条天皇と同じく“親政”を進めて行く。政治権力的にはかなり弱体化した“関白藤原教通ではあったが、摂関家としての誇りと執念とでも言おうか、白河天皇が即位した1072年の時点でも76歳ながら関白職に居座り続けていた。そして上記の通り1075年に没し、待たされ続けた藤原師実が漸く名ばかりの関白職に就くのである。彼は既に33歳になっていた。

白河天皇が20歳と若かった事、そして関白を継いだ藤原師実が争いを好まない協調型の人物であった事もあって、この時期の二人の関係は比較的に巧く行っていた様ではある。
しかし、状況は1086年に白河天皇が息子の第73代堀河天皇に譲位し、自ら“院政“を始める事によって大きく変化する。

院政以降の状況については天皇家の中で、“治天の君“として上皇、法皇が藤原摂関家から政治権力を奪い返し、“政治体制の大きな変更が起きた”と言う観点から次章で記述する。
この時点での藤原師実等、藤原摂関家の存在は政治的実権は喪失してはいるが、名目的お飾り的な存在として続いては行くのである。その主たる理由は代々藤原摂関家が受け継いで来た“有職故実”の知識もあったが、何よりも之までに築いて来た荘園群等の厖大な経済力なのである。之については次章、“院政”との絡みで記述したい。

いずれにせよ、ここに至って、藤原不比等以降、20人を超す有能な政治家を輩出し、終には天皇家を、“権威“の象徴として残しつつも、政治権力、経済力も共に掌握し、栄華を欲しい侭にして来た“藤原摂関家”がその日本における主導的役割を終える時が来たのである。

次章以降ではまず“院政“という武力を備えた”天皇家“の新しい姿を記述し、そして”平家に始まる武士階級の台頭と政権“、源平の戦いを経て、本格的な武士が政治権力を握る鎌倉幕府の成立へと、世の中が大きく転換して行く中で”天皇家とその時代の権力者“がどの様な位置関係にあり、どういう背景から再び対峙したのか、そして又共存関係に戻っていったのかについて記述して行く。

此処に、政治権力を担った“藤原摂関家“は歴史の舞台から消える事になるが、この章で扱った400年余の“天皇家”と“藤原家”との“共存体制”によって、平安期を通じて日本の国を率いて来たと言う史実が今日迄“天皇家“が継承されて来た主因であり、以後の全ての権力者をもってしても”壊す事の出来ない日本の国の形の岩盤“となった事の意味は非常に大きいのである。“藤原摂関家”が政治の表舞台から消えた後も”天皇家“は日本の政治、社会体制における“権威”として、その“存在“は、その後、日本の歴史の各時代を通して、決して揺るぐ事無く今日迄、各時代の為政者、権力者によって時代時代によってその対応は異なったが、結果的には尊重され、時には重要視され、そして継承されて来たのである。

こうした、少なくとも1700年以上に及ぶ“天皇家継承の歴史”は世界史上の他国には例を見ない日本の“特異性”であり一つの“ブランド”ではなかろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿