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2014年4月17日木曜日

第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第1項 ”白河院政”の開始から”鳥羽院政期”迄・・武士層の雌伏期間


はじめに:

天皇家が日本の統治を開始した時期は遅くとも4~5世紀と考えられると第二章で書いた。又第三章では創建直後の日本を、隋、唐の中国統一王朝の脅威から守り、対等な国として伍して行ける国に国造りを急いだ飛鳥の三天皇について記述した。

第四章ではその天皇家が以後、今日迄、短く見積もっても1700年以上の長い間続いた理由は400年以上に亘って藤原氏の子孫が天皇家との“共存体制”を築いて来たからだ、と記した。

この間の天皇家は国家のトップとして自らが先頭に立って国をリードした時期があった。とりわけ、第三章で記した飛鳥時代の3天皇がそれであり、中でも天武天皇はその代表例であった。奈良時代以降は第四章で書いた様に天皇家と藤原氏が“共存体制”を築いて日本をリードして来た歴史である。

藤原不比等の子孫の中から“北家“が平安時代に入ってからは“摂関家”として強力な政治的、財政的基盤を作り上げた。そして実質的な政治権力を天皇家から奪い、荘園制の拡大期に乗じて経済力の点でも勢力を拡大して行ったのである。しかし、さしもの栄華を誇った藤原摂関家も11世紀初頭の藤原道長の時代をピークに勢力の後退期に入る。そして前章の末尾に記した様な展開から“院政”と言う新しい政治体制期を迎えるのである。

この“院政の時代”とは再び天皇家が政治権力を回復し、経済的にも力を持った時代である。

この第5章ではその天皇家による政治権力奪還が“院政”という形で行われる事になる背景をまず詳細に記し、この時代の社会構造の変化の主人公となる新たな層の人々が“院の近臣”として登場する状況を記述したい。具体的には藤原摂関家に代わる新しい貴族層であり、源氏と平家に代表される武士層の台頭、とりわけ平家の急速な台頭について記述する事となる。

この5章の主題は“院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け”である。次章六章の標題“武士に拠る闘争の時代と院政の終了・・織豊で成った日本の再統一”と合わせて中巻とした。第五章と第六章を貫く“中巻”の主題は“院政“が武士層を活用した為にその武士層が台頭し、政権にまで絡む様になり、混乱と闘争の500年の歴史に突入したという事である。

上巻で登場した人々は主として歴代の天皇とそれを支えた藤原氏の人々であった。この五章以降の500年の歴史の登場人物は極めて多岐にわたる。そして歴史の展開も複雑、且、難解であり、日本史の中でも最も学生からは嫌がられる時代であろう。しかし乍ら、国の創建時代の500年間と混乱の後に再統一された徳川幕府から今日に至る日本の歴史とを繋げる重要な500年の歴史であり、この時代を避けて通る訳には行かない。逆に歴史の専門家で無い私だからこそ、細部を省いて大胆に書けると言う面もあろうとの思いで記述して行きたい。

この時代は経済面から言えば“荘園制”が急速に拡大した時代であり、政治の面では上皇、法皇が権力の座を回復した院政時代が始まり、継承されて行った時代である。

天皇家を凌駕した旧藤原摂関家の政治面での影響力は衰え、荘園制の拡大期に乗じた受領層等、新興の貴族勢力が台頭する時代でもある。旧摂関家の言わば分家筋に当たる傍流の“藤原家”がこの時期の歴史舞台で活躍する時代でもあり、天皇家のみならず藤原家自体にも大きな変化が生じた時代である。その面でも歴史を学ぼうとする我々にとっては複雑で、混乱させられる時代なのである。

そして最重要な点は、伊勢平氏を筆頭とした平氏並びに源氏の“武士層”が中央の政治に大きく関わって来た時代だと言う点にある。その結果は短期間とは言え、時代の寵児である平清盛に拠って日本で初めての武士層による政権が登場するという展開となる。

第五章を“院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け”と題した様に、“武士層”の政治面への登場は、必然的に“武力の行使”による政権への干渉という動きになる。標題の様にこの時代以降、500年に亘って日本列島は混乱と闘争の時代に突入するのである。
その皮切りとなったのが、平清盛に拠る最初の武家政権であったが、後述する平清盛による政権奪取の方法は日本の岩盤である“天皇家”に真っ向から挑んだ為に失敗した。

平清盛による平氏政権は“貴族的武士”に拠る初めての政権であって完全な“武家政権”では無いとの説が主流であったが、1980年以降の研究では後の鎌倉幕府と共通する点を持つ“最初の武士政権”であると言う説が主流となっている。いずれにせよ平氏政権は短命であった。時代の寵児“平清盛”であっても、いきなり朝廷政治、すなわち当時の“院政”と言う政治形態を無視した政治を行う事は不可能であった。そこで清盛は娘徳子が入内した高倉天皇とその皇子(後の安徳天皇)をセットとした傀儡の高倉上皇の“院政”体制を作りあげその仕組みの上で政治を行なおうとしたのであったが時既に遅しであった。

高倉上皇の思わぬ崩御によって再び、幽閉した政敵である後白河法皇に院政の復活を要請するという屈辱的事態に陥ったのである。そうした一連のストレスが原因したのであろう、、その直後、平清盛は高熱を発して急死する。(マラリア説もあるが)
たちまちの中に平氏政権は崩壊し、所謂“源平の内乱”で平氏一門が滅亡するという大混乱が展開されたのである。

時代の大変化点となる“院政”を始めたのは“白河院”であり、それを継承し拡大したのが孫の“鳥羽院”である。そしてこの間の重要な変化が平氏と源氏を代表とする“武士層の出現“と中央政治への台頭である。そして以後、天皇家と武士層との闘争の時代の幕が切って降ろされる。こうした”混乱の時代の幕開け“に大きく関わったのが“天皇家”の後白河院である。この後白河院については後述するが、当初は平清盛の協力を得て“院政”を行ったが、後に平清盛と“政敵”となり激しく政争を繰り返した人物である。源頼朝はこの後白河院から平氏追討の“院宣“を得て平氏を滅ぼす事になるが、生涯、決してこの人物を信用しなかった様である。

詳細は後述するがこの後白河院は一筋縄では行かない曲者で、源氏を使って平氏滅亡に成功した後、一時期は源義経を活用して”源頼朝追討“の院宣を出したかと思うと、形勢不利と見るや今度は逆に源頼朝に対して”義経追討“の院宣を出し、義経を滅ぼしたという”奇異“な人物だったのである。後白河院の存在がこの時代をより一層複雑で混乱した時代にした事は間違いなかろう。

この章の主題である“院政”が開始される為の必要条件と時代の特色を挙げると以下の様になろう。

①    天皇家自体が上皇(法皇)と実子の天皇をセットとして成り立つ“院政”という新しい政治形態を出現させた時代

②    荘園制が急拡大したが“院領荘園群“(天皇家が領有する荘園)が政治的には最も重要な政治基盤としてその帰属を巡って政治権力争いが左右された時代

③    平清盛、源頼朝以降、武士層は時には天皇家と争いながら次第に政治実権を握って行く。しかし乍ら、歴史と伝統に裏打ちされた岩盤の様な権威、膨大な院領荘園群の領有権者としての“天皇家”を無視する事は出来なかった時代、つまり上巻で書いた天皇家と藤原摂関家との“共存体制”に代わって天皇家と武士層が“併存”した500年であった。
朝廷政治(院政)と幕府政治が併存せざるを得なかったのである。

以上3点を理解して置く事が、この章を理解する上でのキーポイントとなろう。

新しい日本の姿を目指して政権を強引に奪取した平清盛が何故、急死する僅か2カ月前、1180年の末に再び“後白河院”の幽閉を解き一度停止させた“院政”の復活を要請すると言う屈辱的行動を取らざるを得なかったのか、の理由も上記3点を理解していれば頷ける事柄だと思う。

又、後に記述する鎌倉時代も決して源氏三代の将軍と“北条得宗家”に拠る執権政治一色の時代では無かった。鎌倉時代の約150年間の歴史も“本格的武家政権”とは言うが武家一色の世が日本に出現した訳では無い。

上記3点(院政、院領荘園群、朝廷政治と幕府との併存)が厳然と存在し乍ら鎌倉時代がその枠組みの中で少しづつ変化して行ったのである。これが異民族の征服によって一気に世の中の仕組みが変わってしまう外国の歴史のケースとは根本的に異なる日本の1700年以上に亘る歴史の大きな特徴であり他国に無い特異点なのである。

つまり、鎌倉時代にも“院政”という政治システムは根強く残っていて、鎌倉幕府はその弱体化に努めて行くのである。源氏3代の将軍が没した直後に何故、“後鳥羽上皇”に拠る“承久の変”が起きたのであろうか。源頼朝が開いた鎌倉幕府は成立後まだ日も浅かった。そうした状況で、しかも源氏三代(頼朝、頼家、実朝)が短期間の中に居なくなってしまえば、伝統的な“天皇家”の権威、膨大な院領荘園群を持つ後鳥羽院が鎌倉幕府を転覆させる可能性はまだまだ大きかったのである。

鎌倉幕府は北条政子の有名な“御家人への檄”で“承久の変“の危機は逃れたが、政治に不慣れな”武士政権“にとって、併存する格好の”院政“の存在はある意味では必要であった。出来たばかりの政治経験の未熟な鎌倉幕府に全国を統治する能力が無かった為である。それだけに”承久の変“の再発の可能性は常にあり、厄介な存在であった事は確かである。その為に鎌倉幕府は種々の対策を練って行くのである。この様に、この時代は、統治能力として不十分な鎌倉幕府と、院政を行う朝廷(院庁)が併存して日本を統治するという二重構造が始まった時期であり、日本の歴史を難解にしているのである。

鎌倉幕府が次第にとって行く“天皇家の勢力分断政策”が、後述する大覚寺統と持明院統の二つの皇統のルートから天皇を交互に立てる事になる“両統迭立”策である。
“両統迭立“をさせる事に成功した鎌倉幕府の意図が一体何処にあったのかも、この時代の特色として掲げた上記3点(院政成立の要件、院領荘園群、朝廷と幕府との併存)を思い起こすと解り易いのではないだろうか。鎌倉幕府としては後鳥羽院による承久の変の再発防止策を講じる為の“天皇家分断策”を図った。院政を行う天皇家の“治天の君”が掌握する院領荘園群に象徴される膨大な経済力を分断する事だったのである。

蒙古襲来を大きな要因として次第に鎌倉幕府にほころびが広がって行く。第六章で記述する様々な過程で1333年5月に鎌倉幕府に拠って分断された“天皇家”から第96代後醍醐天皇(即位1318年南朝にて1339年崩御)なる反幕府、反武士政権を強烈に掲げた天皇が現れ、その側近の新田義貞が鎌倉を落とした事によって鎌倉幕府は滅亡する。そしてこの鎌倉幕府滅亡以降、日本の歴史は更なる混乱と闘争の時代に入るのである。

この大混乱の時代を演出する二人の人物の中の一人目が“後醍醐天皇”であり二人目が鎌倉幕府の御家人のトップでありながら鎌倉幕府を裏切り、後醍醐天皇側として倒幕に参加し、後にその後醍醐天皇を裏切り、室町幕府の初代将軍となった“足利尊氏”である。因みに足利尊氏は1352年、二人三脚で室町幕府を支えて来た弟の足利直義をも裏切り毒殺したと伝えられる。実に三度もの大きな裏切りによって日本の政治を左右した“変わり身の天才”“軍事の天才”と言える人物であった。詳細は第六章で述べるが以下に“足利尊氏”について簡単に紹介して置こう。

鎌倉幕府が滅びた直後の1334年から1336年に、後醍醐天皇に拠る“建武の親政”が行われるが、公家、貴族衆を優遇する政策であった為、武士層の大反発を呼び、終には倒幕に協力した足利尊氏を敵に回す形となり、結果、後醍醐天皇に拠る“建武の親政”は僅か3年足らずで失敗する。この時、変わり身早く今度は後醍醐天皇に反旗を翻したのが足利尊氏である。しかし天才肌の“政治家”である尊氏は156年前に同じ様に“天皇家“の後白河院と戦い、結果として平氏滅亡の原因を作った”平清盛“の戦い方とは決定的に異なる戦い方をしたのである。

尊氏は日本の伝統的な歴史観を重んじ、“天皇家の臣下”の立場の武士が”天皇家“に対抗して戦う図式では日本的”義“が成り立たず、”不義の臣“とされ、そうした戦いでは圧倒的に不利となる事を知っていた。1336年5月の湊川の合戦で新田義貞、楠正成に勝利を得た後、足利尊氏は1336年8月に豊仁親王を光明天皇(即位1336年退位1348年)として即位させると言う奇策に出たのである。尚、この光明天皇は歴代天皇として北朝の第2代天皇として表示されている。北朝初代天皇は鎌倉幕府末期の1331年に北条高時によって擁立された光厳天皇(即位1331年退位1333年)である。この時期、後醍醐天皇の動きに伴って天皇即位に関しては最も混乱した時期であり、この辺の事情についての詳細は第六章で記述するのでここでは省略する。

1336年11月に後醍醐天皇は正統な天皇の証である“三種の神器”を尊氏が立てた北朝の光明天皇に渡し、12月には後醍醐天皇自身は吉野に移ると言う展開となる。ここに以後、56年間に亘る“南北朝分立時代”に突入するのであるがこの詳細についても第六章の2項で記述する。

天皇家の出現以来、天皇家を軸にして統治されて来た日本である。神武天皇以降第2代綏靖天皇から第9代開花天皇までの所謂“欠史八代”と呼ばれその治績に関する記事が古事記にも無い天皇の実在を無かったものと大胆に割り切り、実質的に我が国が天皇家によって創建された時期を4世紀と考えた場合でも、この時点で既に1000年の歴史を重ねた“天皇家を軸にした歴史と伝統の国”だと言う認識は当時の足利尊氏はじめ武士層にも共有されていたのである。従って戦う者にとっては“天皇家”を敵に廻す事は“反乱軍、賊軍”を意味していたのである。

北朝第2代光明天皇の擁立によって、“二人の天皇”が存在する事になった足利尊氏の奇策は日本の歴史始まって以来の“混乱の極み”の状態が国の岩盤である“天皇家”にも及んだと言う大変な時代だった。二人の天皇が存在するという奇策は伝統的な公家、貴族層の発想からは出て来ない。平清盛以来日本のリーダー層に加わった“武士層”出身の“足利尊氏”ならではの対応であったと言える。

この様に“武士層“の日本のリーダー層への台頭は以後500年近くに及ぶ混乱と闘争の時代へと日本を突入させる。”武士層”の登場は日本と言う国の運営が其れまでの天皇家と一握りの貴族に拠る運営から、より多くの“層”の参加による“日本社会”が築かれて行く事を意味した。そして、この500年の混乱と闘争の時代の最後に織田信長、豊臣秀吉が登場して“下巻”第七章、第八章で記述する再統一された徳川幕府以降、今日までの日本の歴史へと繋がるのである。

以下に改めてこうした時代を出現させる元となった“白河院政”の開始から詳しく記述して行く事にする。


5-1項:“白河院政”の開始から“鳥羽院政期”迄・・武士層の雌伏期間


第72代白河天皇(即位1072年退位1086年)が退位し、上皇として始めた実質的な“院政”は結局、応仁の乱直前の第102代後花園天皇(即位1428年退位1464年)迄の凡そ400年も続く事になる。その背景や要因についてはこの第五章、並びに第六章を通して説明して行きたい。

第四章で藤原摂関家と天皇家との500年近くの共存体制の歴史を記述したが、この第五章全体のテーマ“白河院政の開始から鳥羽院政期”は摂関家に奪われていた政治権力の回復期でもあり、こうした“天皇家の存在感と力”を再び日本の歴史上で見せた期間があったからこそ今日まで天皇家が継承されて来た大きな要因と言えよう。

古事記、日本書紀の記述を鵜呑みにするならば、2014年時点で天皇家は2674年間も継承されて来た事になる。又、神話時代を除いてその実在が確実視出来る第15代応神天皇からと数えた場合でも1700年以上“天皇家”という“同一の皇統”が継承されて来た事は事実であると何度も述べて来た。天皇家を一つの“王朝”と捉えるならば、“同一の血統の王朝”での継承という観点からは、日本は紛れもなく“世界最古の国”であり、それに異を唱える人は居ないであろうし、今日のグローバル世界に誇れる日本の“ブランド”では無かろうか。現実的に諸外国の元首が日本で一番会いたい人は“天皇陛下”という事である。

1:白河上皇に拠る院政開始、並びにこの新しい統治体制が出現した背景について

白河天皇の父親、後三条天皇の母親は“禎子内親王”であり、藤原摂関家の人では無いという事は当時の関白藤原頼通にとっては180年振りの由々しき事態であった。こうした後三条天皇の即位の流れに、当然、関白藤原頼通としては抵抗したのだが、そもそも後三条の皇太子の立太子の時点からすでに摂関家内部の分裂があった事がこうした事態を招き摂関家の凋落に拍車をかけたのである。

結果としてこれまで共存体制下にあった天皇家との強い外戚関係が絶たれたこの第71代後三条天皇(即位1068年退位1072年)即位と言う藤原摂関家にとっての大問題は次の第72代白河天皇即位(即位1072年退位1086年)へと連鎖するのであった。

藤原摂関家にとって致命的な皇位継承問題への影響力低下は更に続く。この白河天皇が自らの幼い皇子へと皇位継承へ繋げたばかりか、この幼帝に対しても摂政を置かず自らが上皇として“院庁”で政治を行うという、之までに無かった政治体制を開始したのである。更に、白河院による“院政”の開始は、武士層の活用を伴った。その結果、平氏、源氏の台頭を許したのである。そして武士層の政権争いへの参加が、以後実に500年に亘る混乱と闘争の時代へと繋がるのである。

次章、第六章で記述する鎌倉幕府時代も常に“天皇家(朝廷)”と“武士層”との争いが続いた時代だと言える。具体的には“承久の乱”や“建武の親政“に見る“天皇家と武家政権の争い”であり、“南北朝分立“という未曽有の混乱を生みながら足利尊氏に拠る”室町幕府“成立へと繋がる抗争の歴史である。

室町幕府と“朝廷”が併存していたという日本特有の政治体制であった、という点では鎌倉幕府時代も同様であった。しかし室町幕府成立の初期に天皇が同時期に二人(後醍醐天皇の南朝と光明天皇の北朝)存在した状態であった事は“一つの天皇家”を軸として歴史を刻んで来た日本にとってあり得なかった状態が出現した時期であり、こうした事態は“天皇家と武士層の闘争”が生んだ結果なのである。

この“二人の天皇(南朝と北朝)“の時代は56年後に室町幕府三代将軍足利義満によって”合一“される。しかしその後も”武士政権”の持つ本質的な“闘争と混乱”という状況は収まらず、守護大名の勢力拡大闘争が常態化し、天皇家と公家、貴族社会時代には起り得なかった武士層を中心とした“下剋上”という“闘争の社会現象化”が日本全国に拡大して行くのである。

こうした状況下では、さしもの“天皇家”によって伝領されて来た“院領荘園群”を始めとする旧来のルールに基づいた“土地領有制度”も大きく乱れ、まさに奪い合いの状態となって行った。1467年から1477年迄、10年間続く“応仁の乱”がそのきっかけとなった。。応仁の乱によって室町幕府の権威、支配力は失墜し、下剋上という旧来の社会秩序を崩壊させる“乱世”が武士層を中心にもたらされ、在地の武士勢力が跋扈し、台頭する時代となるのである。

応仁の乱に関する詳細も第六章で記述するが、武士層(足利義視と足利義尚の対立&畠山と斯波の対立)の相続争いに端を発した争いは全国に波及し、この後、“戦国時代”と呼ばれるまさしく“乱世”に突入して行くのである。

ここに長い期間続いた “荘園制”は崩壊し“戦国大名”と呼ばれる“武士層”の“領国化”が進展する“戦国乱世”の時代へ突入し“院政時代”は第102代後花園天皇(生1419年崩御1471年52歳)の崩御によっておよそ400年間の幕を閉じるのである。

話を院政開始時点に戻そう。白河上皇が院政を開始出来たのは摂関家からの束縛から逃れる事が出来た事が大きいが、その実情は摂関家の中で “主流と傍流”が争って呉れた結果なのである。

2:第71代後三条天皇(在位1068年~1072年)誕生に貢献した“傍流藤原摂関家”

後三条の立太子から天皇即位に至る迄、強硬に阻止しようとしたのは摂関家の関白藤原頼通だった。しかし同じ藤原道長を父に持つ異母弟、藤原能信(よしのぶ)に阻まれたのである。この人物の存在が無ければ“院政”という日本史上重要な政治体制は生まれなかったかも知れない。別にこの藤原能信という人物が特別優れた人物であった訳では無い。その反骨心が大きく日本の歴史を動かした事になる。

藤原能信という人物は我々に余り馴染みの無い名前だが、関白頼通に真っ向から対抗する形で、皇太子時代から“後三条”を献身的に支えたのである。上述の通り、摂関家出身でない母親を持つ“後三条“は藤原不比等以来の”後宮政策“を家訓とする摂関家にとっては由々しき存在の人物であった。藤原能信も大括りで言えば、藤原北家の人間である、しかし摂関家にとって非常に都合の悪い“後三条”を懸命に支えた人物だったのである。

藤原能信が異母兄“関白藤原頼通”と激しく対立してまでも、“後三条天皇実現”を支えたのは何故であろうか? 理由は上述した様に至極単純、彼の頼通に対する反骨心である。

藤原摂関家の栄華の時代も長い期間続くと内部抗争の種が次第に育って行く。摂関家内部でも過去に何度もこうした内部抗争は起こって来た。しかし最後の処では藤原不比等以来の“天皇家と共に繁栄して行く”という構図、具体的には天皇家の“外戚”としての地位を何としてでも守るという“家訓”だけは代々死守する人物が現れたのである。

しかし今回は違っていた。先ずは当の関白藤原頼通が入内させた娘に皇子が生まれなかった。しかもその状態のまま時を過ごし、結果として“天皇家の外戚”の地位を守るという“家訓”を守れなかったのである。こうした状況下で傍流藤原摂関家の出身で反骨精神旺盛な藤原能信が立ちはだかっていたのである。

藤原能信と藤原頼通との関係は藤原道長を父に持つ異母兄弟であったが、北家藤原摂関家の主流という陽の当たる場所を歩いて来た藤原頼通に対して能信並びに能信の姉妹達は恵まれない日陰の人生を歩まなければならなかった。藤原能信は関白藤原頼通に強い反発心を抱き乍ら育って来たという事である。

その様な境遇を持つ藤原能信にとって、後三条に関する天皇家の後継者問題に自分が関わり、関白頼通と争う状況に巡り合えた事は、之までの鬱憤を晴らす又と無い機会だったのであろう。むしろこうした能信の動きに対して対抗出来なかった関白頼通側の政治力の衰退こそが問題だったと言える。

すでに道長時代の政治への影響力を失っていたこの時期に、藤原摂関家内部の主流と傍流との抗争による後三条天皇誕生という結果は藤原摂関家の政治的影響力の決定的な“衰退”に輪をかける事になった。

以下に藤原能信の出身家である“傍流藤原摂関家”が何故冷遇されたかについて説明しておこう。

関白職を繋いで来たのは藤原道長の正室“倫子”が生んだ藤原頼通であり、同じ母を持つ弟の教通へと繋がれた。これが摂関家の主流である。“倫子”の4人の娘は全員中宮になった事は既に述べた通りである。有名な彰子(一条天皇)、妍子(三条天皇)、威子(後一条天皇)、嬉子(後朱雀天皇)である。

これら摂関家主流の“栄華”の流れに対して同じ父親“藤原道長”のもう一人の正室“明子”が生んだ6人の子供達は男子も女子も倫子の子供達との比較でかなり冷遇されたのである。身分制度が徹底していた当時であるから“倫子”と“明子”の家柄の違いが原因であろうと思われるだろうが、双方の父親は“倫子”は源雅信であり“明子”も左大臣に登り詰めた源高明であるから父親の家柄からすれば身分的には遜色が無い。

ところが大きな差が生じた理由は父親が過去に関わった“政争”での失敗の有無が大きく絡んでいたのである。“明子”の父親“源高明”は前章4-6項で記した政争、つまり藤原氏が以後摂政関白を常設するきっかけになった政変と言われる“安和の変”(969年)で敗れ、追い落とされた人物なのである。この父親の持つ政治的ハンデイが同じ道長の正室でありながらも、生んだ子供達の将来に大きな差を生むという結果になったのである。

異母兄弟の間でこうした差は当然確執となって行った。そして時代を経て、摂関家本流が次第に衰退して行くという流れに、之まで冷遇に甘んじていた“明子”を母親とする子供達、つまり”藤原摂関家傍流“が”藤原摂関家主流“に対して”敵対的行動“を取る、という図式が生まれ、それが表面化したのである。

関白藤原頼通は強行に後三条天皇の実現を阻もうとした。一方の藤原能信は藤原摂関家出身で無い母親を持つ後三条天皇を皇太子時代から“東宮太夫”として支えたのである。そして“藤原摂関家”を遠ざける事になる後三条天皇の誕生に率先して貢献し、目的を果たしたと言う事である。

藤原能信(ふじわらのよしのぶ)は相当に勝気な性格であり、又、信念の人物であったらしい。 995年に生まれ1065年に没しているから自分が生涯を賭した後三条天皇の即位(1068年)の実現を見ずに3年前に70歳で没した事になる。こうした藤原能信の働きに対しては後三条天皇、そしてその実子である白河天皇共に感謝の言葉が記録に残っている。そして藤原能信の死後は彼の子息達を重用したのである。

藤原能信の動きに拠って“天皇家”と“藤原摂関家”との実質的な“共存体制”も終焉を迎える事になる。そして後述する様々な時代の変化要因とも相俟って以後、400年余に亘って展開される新しい政治体制、“院政時代”へと繋がって行く事になる。この“院政時代“を築く主人公がこの藤原能信の養女”茂子“と後三条天皇の間に出来た”白河天皇“である。
この様に我々に馴染みの無い“藤原能信”こそが白河院政の成立に結果として二重にも三重にも関わった人物であり、陰のフイクサー的な役割を果たした人物だったのである。


3:藤原家内部の主役交代、閑院流の躍進と後三条天皇の即位

後三条天皇の后は、藤原公成(きんなり)の娘“茂子”であった。それを上述の藤原能信が養女にして入内させたのである。それ程、後三条天皇と藤原能信の信頼関係は深いものであった。既述の様に後三条天皇即位が実現する1068年にはその藤原能信は既に没している(1065年)のであるが、この茂子が後の第72代白河天皇を生むという展開になり、藤原能信の遺志は繋がった事になる。

“院政”は以上の様な経緯で成立した訳であるが、成立後の“白河院政”を支えたのは摂関家からは更に遠い“藤原北家閑院流”と称される藤原氏の勢力であった。

この時代の歴史が多くの学生や歴史愛好家からも人気が無い理由の一つがこうして“藤原”の名前ばかりが登場する処であろう。“藤原北家閑院流”などと言われても大括りで言えば“藤原氏”に変わりは無いではないかと言う事である。何せ平安時代は”藤原時代“とも言われる程藤原氏が繁栄した時代であるから政治の中心には常に”藤原姓“があった時代である。ここで大切な事は”藤原摂関家では無い藤原家が白河院政を支えた“と言う事なのである。

以下に簡単に白河院政を支えた”閑院流藤原家“について紹介して置こう。

藤原道長時代に内大臣としてその政治を支えた人物である藤原公季(ふじわらきんすえ)が住んでいた邸宅からこの名が付いたのである。公季から三代目の藤原公成の娘茂子が上述した藤原能信の養女となり、後三条天皇の后となって後の白河天皇を生むと言う展開になった事から“閑院流藤原家”の大飛躍が始まるのである。

2012年のNHK大河ドラマ“平清盛”ではこの時代の複雑な人間関係が描かれていた。人間関係のみならず、ストーリーも日本史上でも大変化が起きた時代であったから複雑過ぎて途中で観る事を止めてしまった視聴者も多かった様だ。勿論このNHK大河ドラマを一年間辛抱強く視聴された方も居られたではあろうが。

視聴された方にとっては、当時、このドラマに出演した俳優、女優の名前を併記してこの時代の複雑な人間関係、当時の力関係を記述する事は、この“五章”の記述をより一層理解する事の助けになると思い、極力ドラマの場面を引用する事にしたい。ちなみに、あのドラマに登場した人物の中には“閑院流藤原家出身”の人物が多かったのである。

白河院(俳優伊藤四朗)に寵愛され、鳥羽院(俳優三上博史)の中宮となる待賢門院璋子(女優檀れい)も閑院流藤原家出身であり、その皇子が院政時代の主人公の一人でもある後白河院(俳優松田翔太)である。その後白河院が閑院流出身の后との間に設けた皇子が第78代二条天皇(即位1158年退位1165年)となるのである。後述するがこの親子が天皇であった時に時代の大転換を象徴する保元の乱(後白河天皇期1156年)と平治の乱(二条天皇期1159年)が起きるのである。詳細は5-2項と5-3項で記述する。

この様に“院政時代”に繁栄した閑院流藤原家であるが平安末期に三条家、西園寺家、徳大寺家に分かれる。幕末から明治時代に活躍し、1871年(明治4年)に生まれたばかりの明治政府の最高位の太政大臣になった三条実美(さんじょうさねとみ)もこの家系である。
又、明治、大正、昭和の政治家として活躍し、又、明治大学の前身である明治法律学校を設立した西園寺公望(さいおんじきんもち)もこの流れの家系である。

何れにしても本流であった“藤原摂関家”は事実上天皇家との外戚関係を失い、其れと共に政治的影響力を失って行った。藤原頼通は1017年の後一条天皇の摂政に就いて以来50年に亘って勤めた摂関職を後三条天皇が即位する直前の1067年に辞した。

翌1068年4月に第71代後三条天皇が即位し(即位1068年~退位1072年)早速“アンチ摂関家政策”を実行して行く。既述した摂関家の荘園も対象とした“延久の荘園の整理令”の発布(1069年)、“記録荘園券契所”(同年)の設置を行う等、天皇に拠る政治、”親政“に着手するのである。因みにこの時の関白は頼通から譲られた73歳の弟、藤原教通が就いていたが政治の実権は殆ど無かった。

4:後三条天皇の突然の譲位と第72代白河天皇(在位1072年~退位1086年)即位の背景

意欲的に“親政”を進めていた後三条天皇は在位僅か4年9ケ月で譲位する。(1072年12月)そしてその僅か5ケ月後に崩御する。実子白河天皇に譲位直後、後三条は“院の庁”を設置し、院司の任命、更には院蔵人所を置いた事等から、後三条は本格的な“院政”を始める意思があったのではないのか等、この天皇の譲位を巡っては長い間議論されて来た。

結論的には後三条天皇は当時19歳の白河天皇を中継ぎとして即位させたが、次の天皇後継者の本命として望んでいたのは当時まだ一歳の別の中宮、天皇家系の“基子”との間に生まれた“実仁親王(さねひとしんのう)”であった。後継者として明白にすべく後三条は、1072年、白河天皇即位と同時に僅か2歳の彼を“皇太弟”としたのである。この様に第72代白河天皇は即位の時点から父親の後三条上皇の遺志もあって、周囲からも“中継ぎ”の天皇と見做されていたのである。

後に現れる第77代後白河天皇即位(1158年)の場合も、第96代後醍醐天皇(即位1318年崩御1339年)の即位の場合も全く似たケースである。しかし、日本の歴史ではこうして“中継ぎ”と見做された天皇ないし権力者程、歴史上に名を残し、長期に亘って権力を握るケースが多く見られる。白河天皇の場合も同様のストーリーが展開するのである。

5:“中継ぎ天皇”の流れを変えた白河天皇の譲位と実子堀河天皇の即位(1086年)

父親、後三条上皇の遺勅は白河天皇の後継者は“実仁皇太弟”である事を伝えていた。従って周囲からも中継ぎに過ぎない天皇と思われていただけに、逆に白河天皇としては何とかして自分の皇子を後継者にしたいと考えるのは自然の流れとも言えよう。そしてその事が可能となる出来事が次々と起こったのである。

まず1073年5月に父親であり且つ白河天皇に遺勅として異母弟“実仁親王”を後継天皇とする様伝え、皇太弟にした後三条上皇が崩御する。そして、後三条の即位に反対していた藤原頼通もこの世を去る。更に翌1074年10月には藤原道長の娘であり一条天皇の中宮であった彰子が87歳の高齢で没した。父道長の没後、彰子は実に47年間も存命であった事になる。更に翌1075年9月には関白教通も80歳でこの世を去り“藤原摂関家の栄華”はこれ等の人々の死によって遠い過去のものになって行ったのである。

政治的影響力が著しく低下していた“藤原摂関家”ではあったが人間関係は別物で、関白藤原教通の後を継いだ藤原頼通の嫡子、藤原師実と白河天皇の間の関係は良かった。33歳の関白藤原師実と22歳の白河天皇とは協力関係にあった様だ。政治上の力関係は嘗ての“天皇家”と“藤原摂関家”の“共存体制“の時代とは全く異なり、白河天皇が自ら政治を取り仕切る”親政”状態であったが関白藤原師実は個人的信頼関係で白河天皇を助けた様である。

そこで白河天皇は信頼する藤原師実の養女“賢子”を皇太子時代に娶っていた。この中宮賢子と白河天皇の仲睦まじさは有名で、1084年に最愛の賢子が僅か28歳で亡くなる時には宮中では“不浄”とされる“死“を厭わずに危篤の賢子から離れようとせず、遺体を抱いて離さなかったという話が”扶桑略記“に残されている程である。

藤原師実を信頼しその養女賢子を中宮として寵愛した白河天皇であるから当然の事ながら彼女との間の遺児となった皇子に皇位を譲りたいとの考えが日々強くなったのである。そして1085年に白河天皇にとっては言わば“目の上のたんこぶ”であった“皇太弟実仁親王”が疱瘡で急死するという又しても好都合な事態が発生したのである。

この機を捉えて翌1086年、白河天皇が動いた。当時まだ8歳であった実子を皇太子に立て、尚且つ同日に自らが譲位するという素早い行動に出たのである。ここに僅か8歳の第73代堀河天皇(在位1086年~1107年)が誕生し、自らは上皇になったのである。

こうした皇位継承も白河上皇に拠る父三条上皇との約束破棄であった。何故なら亡き後三条上皇は白河天皇にとってはもう一人の異母弟である、“輔仁親王”も後継天皇とする様遺勅していたからである。

父後三条上皇の遺勅を無視して白河上皇は僅か8歳の幼帝を強引に即位させ、白河上皇の信頼厚い藤原師実が摂政に任命された。時に藤原師実は44歳、白河上皇33歳であった。形の上では藤原師実による“旧摂関政治復活”の様であるが、違う。政治の実権は白河上皇がしっかりと握っていたのである。

こうした状況を称して幼帝、堀河天皇即位の1086年の時点からを白河上皇による“院政”の始まりとする説が多い。しかし異説もある。それは藤原師実の後、息子である藤原師通が関白に就き、彼が過去の藤原摂関家の栄光を再び夢見た強引な政治に失敗し、37歳の若さで死亡した1099年を白河院による本格的院政の開始とする説である。さらには、この後、堀河天皇が1107年に29歳の若さで突如崩御する。この状況に応じて、白河法皇がいわば仕方なくこの年、わずか4歳の孫を第74代鳥羽天皇として即位させる。この時点からを白河院による本格的な“院政”時代とするという説もある、と言う具合で白河院に拠る院政開始時期説には3つの説があるのである。

ところでこの1107年はNHK大河ドラマ“平清盛“で俳優中村敦夫が演じた平清盛の祖父に当たる平正盛が白河院の命で、当時、源義家の子息で白河院の命に従わず横暴の限りを尽くしていたと伝わる”源義親“を追討し、源氏に代わって伊勢平氏が中央で大躍進するきっかけを作った記念すべき年でもある。要は武家の戦闘力が次第に中央の政治の面でも活用される機会が増え、中央に於ける武士層の占める地位も重要視される段階に達していたのである。5-1項を“白河院政の開始から鳥羽院政期迄”とし、副題として“武士層の雌伏期間”とした所以である。

以下に上記“白河院政開始時期”についての3説の中、第2の説とされる藤原師通(もろみち)の死とその時期の政治がどうなっていたかについて記しておこう。

6:古き良き時代の復権を目指し失敗した“関白藤原師通”の政治と堀河天皇の崩御

白河上皇の信任厚く、白河上皇自身が期待した実子、第73代堀河天皇(即位1086年崩御1107年)の摂政に就き、天皇が11歳から17歳に成るまでは関白をも務めた藤原師実は1094年52歳で自分の子である藤原師通(生1062年没1099年)に関白職を譲った。ここからとんでもない政治が始まる。

当時、堀河天皇もまだ17歳、新関白師通も32歳の壮年で二人共やる気満々のチームがスタートした訳である。この師通と言う人物は、豪胆且つ理想を追うタイプの人物だったのであろう。何度も記述して来た様に既に全盛時代の藤原摂関家は衰退していたのだが、この新関白藤原師通は道長時代を超える政治権力の復活を目指したのである。

その為余りにも強引、且つ過激な政治の展開となる。関白としての己の政治力を鼓舞する為であろうか、それとも異常なほどの生真面目な性格であった為であろうか、事もあろうに時の白河上皇並びに父親である藤原師実の意向をも無視した政治姿勢をとったと伝わる。

関白藤原師通の無礼極まる態度、様子、理想を追う極端な政策については“今鏡”“愚管抄”や“吉部秘訓抄”などにも多くが記されている。例えば、白河院の近臣の邸宅を身分不相応であるとの理由から破却したり、この時代から起き始めた“強訴”に対しても一歩も譲らぬ姿勢で自ら動員した武士団に攻撃を命じて負傷者を出すという事態に発展させた事等である。

これに対して叡山大衆が関白師通と堀河天皇を呪詛するという事態に到る。こうして剛直だった関白藤原師通は、寺院社会、特に比叡山延暦寺からは“神仏の敵”とされた。しかし5年後の1099年7月に37歳の若さで急死する。ここに彼が夢見た藤原摂関政治権力の復活という夢はあっけなく幕を閉じたのである。

何故、この様な堀河天皇に拠る政治を院政を一時止めてまで白河院が許したのであろうか。父としての白河院が実子堀河天皇の資質を高く評価していたと伝わるし、事実堀河天皇は政務に精励し、当時の一つの評価基準であった和歌、管弦にも造詣深く、“末代の賢王”と評判が高かったと伝わる。さらに父親の“院政”には批判的であったと伝わる。余程、白河院はこの堀河天皇を寵愛し、期待も大きかったのであろう。実子、堀河天皇が藤原師通と共に政治を行っていた期間はこの二人に政治を任せた様である。

しかし5年間に亘って藤原師通は関白として極端な強権政治を展開し、周囲の顰蹙を買い、多くの敵を作った挙句に1099年に志半ばにして急死すると言う散々の結果となった。こうした結果を受け、この後関白は置かれなかったのである。

以上が1099年を白河院に拠る院政開始時期だとする第二の説の論拠となるストーリーである。

7:院政開始に関する“第三の説”

更に8年後の1107年に白河院の最愛の息子、堀河天皇自身が29歳の若さで崩御する悲劇が起こる。堀河天皇の崩御は白河院としては全くの想定外の事であった。この崩御に拠って白河院の当初の政治構想は修正を余儀なくされたのである。具体的には堀河天皇の皇子でありまだ5歳だった第74代鳥羽天皇(即位1107年退位1123年)を強引に誕生させるのである。この幼帝には上記藤原師通の嫡男の藤原忠実が関白に就く。2012年のNHK大河ドラマ“平清盛”で俳優國村隼が演じた人物である。

ところがこの藤原忠実は娘の入内を巡って白河上皇の怒りを買い罷免される。この事件からもこの時点の天皇家と藤原家の政治的力関係が如何に逆転していたかが分る。こうした関白罷免の人事権を白河上皇が確りと握っていたのである。白河上皇時代の関白には全く実権が無く、鳥羽天皇を即位させ、白河院自らが政治を執ったこの1107年を白河院に拠る本格的院政開始時期だとする第三の説の論拠となる話である。

白河院による院政開始の時期を以上3説中のどれにするかの議論はあるが、いずれにしても白河院が開始した“院政”と言う政治スタイルは以後紆余曲折はあったが、継承され、武家政権が育って行く迄の繋ぎの役割を“武家政権との併存”という形で担い、日本の政治史の上で重要な一時代を占めたのである。

白河天皇が実子堀河天皇を皇位につけ、自らが院庁で政治を執るようになり、“院政”という新たな政治体制を開始した事は以後の日本の歴史を変えて行くという点で極めて大きな歴史的転換点であった。天皇家が“院領荘園群”を中心とした経済力に支えられ強引とも思われる政治を行った白河上皇の政治手腕も見事だが、いずれにせよこうして政治の表舞台に再び登場した事が重要な点の一つである。
 
そして“院政時代”に中央の政治で活用され始めた“武家勢力“が政治勢力として台頭し始め、天皇家と政治権力を巡って、争いを経験する迄に成長した事が第二の重要な点である。この第五章で記述する”平家一門”に拠る最初の武家政権の登場を皮切りに、鎌倉幕府の成立や室町幕府の登場に繋がり、天皇家と公家、貴族層に拠る政治の時代が終わり、武士層によって日本が“治められる時代”が到来するのであるが、決して“治まって”はいなかったのである。実態は後述する様に日本全体はますます闘争と混乱の時代へと向かって行くのである。

“院政開始によって台頭した武士層”が日本のリーダーとして中央の政治に参加して行き、日本の政治を担う地位を占める様になる事がこうした“闘争と混乱の500年間”の元凶となって行くと記述したが、より具体的には“平氏政権”を引き継いだ源頼朝が後白河院から“守護地頭設置”の権限を得た事がその後の“守護大名”の出現を呼び、終には“戦国大名”の出現へと繋がる。日本は“闘争と混乱”が全国に拡大する“乱世、戦国時代”へと展開して行くのである。

一方“武士政権”と併存する形で継承されて行った“院政”にも、上述した“武士層の出現に拠って始まった闘争と混乱の時代の到来”の影響が及ぶ。“院領荘園群”並びに“国衙領”の伝領システムに混乱が及び、第102代後花園天皇(即位1428年退位1464年)が全国に応仁の乱の混乱が拡大する最中の1470年に崩御した時点をもって400年近くの院政はその歴史に幕を閉じる事になるのである。

8:白河天皇による院政が成立した5つの条件並びに時代背景

“院政“が行われた時代は荘園制の拡大期と呼応していた。天皇家の場合、”院領荘園群“が院政の経済基盤でありその伝領が政治権力掌握にとって非常に重要であった。次第に天皇家だけで無く武士層も含めた政治権力にとって、飛躍的に拡大した土地、領地を巡っての争いの時代に入って行くのである。

院政が開始されてから武士層が活用され、その後、戦闘と混乱に明け暮れる500年間の歴史が始まる。その初期に平清盛と言う人物が摂関家の内部分裂、天皇家の皇位継承争いに乗じて、5-2項、5-3項で記述する保元、平治の乱で中央の政治勢力の中に台頭し、後に“政権”を力ずくで勝ち取るという展開となる。この時、何故清盛が後白河院や公家を相手にしてクーデターと称されるまで激しく戦ったのか、詳細は後述するが、要は息子重盛と娘盛子が領有していた領土や荘園群を巡る抗争だったのである。

武力を以て一時的に政治権力の座に就いた平氏一門は同じ様に武力に拠って“力ずく”で源氏に滅ぼされ、鎌倉幕府が成立する。そして源氏三代(頼朝、頼家、実朝)が短期間の中に急死した事に乗じて今度は後鳥羽上皇が“承久の変”を起すが、これも膨大な“院領荘園群”の経済力と武力があったからこその“力ずく”の鎌倉幕府打倒行動であった。“承久の変”に院政側は失敗したが、以降も土地領有を背景とした“天皇家”と“幕府”との“闘争と混乱”は続くのである。

“承久の変“は政治に未熟だった”鎌倉幕府“の御家人を再結集をさせたという意味で、以後の鎌倉幕府の統治力を向上させたと言われるが、その後も”不慣れな武士政権の歩みは不安定で、元々朝廷が担って来た”外交、海外情報収集“という国家機能という面でも鎌倉幕府の未経験と知見の無さが災いする。

蒙古襲来に関する情報源を”元“に追われ、常に”元”からの侵略の脅威に晒されていた “南宋“の情報に頼るという失態を演じるのである。後世の研究では2回目の蒙古襲来の2年前、元のフビライは逆に南宋を日本と連携して挟み撃ちにすべくその交渉の為の使節を派遣したが、時の執権北条時宗はこの使節に会う事も無く切り捨ててしまったのである。

結果として二度(1274年文永の役、1281年弘安の役)に亘る蒙古襲来に会う。奇跡的な台風の襲来によって幸運にも撃退する事にはなったが、この”元寇“は鎌倉幕府を疲弊させ御家人の幕府に対する不満を重ね、結果として”後醍醐天皇“を中心とした倒幕運動へと繋がって行ったのである。こうした展開と鎌倉幕府の滅亡についても第六章で記述する。

この五章ではこうした天皇家と武士層による混乱と闘争の時代の“幕開”けとなった白河院による院政開始について記述しているが、そもそも“武力を用いて戦闘する事を生業”とする武士団を活用して政治を行った事が院政の特徴であり、時代背景であった訳であるから、院政体制自体が次第に“闘争と混乱“に巻き込まれて行く事はこの時点から予期された事であった。

中央政治に於ける武士の活用は当然、武士層の台頭に結びつく。武士層の台頭は当然のことながら“武力による政治的、経済的権力の奪取闘争”に結びつく。結果として平清盛による政権奪取に繋がり、以後は源平の内乱を経て鎌倉幕府の成立という流れになったのである。

鎌倉幕府成立以降も、武士層が政権を担う時代であるから当然の成り行きとして、武力に拠る戦闘と混乱の要素は常に存在した。それが武士層の本質だからである。そうした武士の政権と同時に併存していた天皇家、貴族層に拠る“院政”もこうした状況に自然に巻き込まれて行ったという不安定な社会状態がこの第五章で記述している時代なのである。

“院政“は既述した様に応仁の乱の最中の1470年に終結するが、その後は”守護大名、戦国大名の出現、そして社会は下剋上も含め“何でも有り”の混乱の時代が“武士層”に拠って拡大されて行くのである。こうした状況は織田信長と豊臣秀吉の登場に拠って収まり、分断されていた日本が再統一される事になる。院政の開始に拠って武士層が中央政治に関与する地位に台頭して以来、実に500年近く続いた“闘争と混乱”の時代が漸く終息するのである。

第一章から第四章までの”上巻“を”天皇家と藤原家の共存体制に拠る日本の基礎作り“の500年と位置付けるならば、この第五章で記述する”院政の開始“は日本の歴史を新しい時代へと進め、今日に至る日本を造る為の”産みの苦しみ“の500年の歴史のスタートと位置付ける事が出来よう。日本創建以来、天皇家と貴族層によって運営されて来た社会が、武士層を始めとする新たな層の人々が参加する事によって、激しく変化を始めたのである。

“院領荘園群”が“院政”という新しい政治システムの重要な基盤である以上、天皇家が領有する“院領荘園群”に関する“伝領”の方法に“鎌倉幕府”の関与なり“政策”が及んだ事は当然である。源頼朝が後白河院から獲得した“守護地頭”の設置権は岩盤の様に強固であった天皇家の“院領荘園群”を切り崩して行く。

しかし同時にこの設置権は守護や地頭がこれ迄“岩盤”の様に強固だった天皇家の経済基盤と権威、並びに旧来の土地領有のルールに挑戦する事でもあったから容易な事では無く、結局、その切り崩しには、鎌倉時代、南北朝時代、そして室町時代に亘る非常に長い時間を要したのである。そして、日本の荘園制が完全に終息するのには豊臣秀吉に拠る1588年の“検地”まで待たねばならないのである。

天皇家の院領荘園群の“切り崩し“の過程では”南北朝分立“と言う異常な時代を経験しなければならなかった。そして時を経て守護大名の出現という展開になり、枚挙に暇の無い土地領有に関するトラブルが発生するのである。そして”応仁の乱“への突入という日本史上最大級の混乱期の中で1470年に院政は終焉を迎える。この様に”院領荘園群”も、なし崩しに解体されて行ったと理解する方が正しかろう。

古代日本が目指した律令制が崩壊に向かった端緒が“荘園制”の拡大であった。荘園拡大の流れは幾度もの“荘園整理令”にも関わらず止められなかった。逆に当時の税制とも絡んで様々な形での“寄進地形荘園“が中央の有力貴族、地方の有力武士層、そして主として上皇、法皇、女院、そして皇女を含む天皇家に集中して行ったという実態は当時の流れとしては自然な展開だった事も既に述べた通りである。

こうした時代の流れに乗って政治権力を回復した白河上皇であるが、以下に“白河上皇による院政開始が叶った5条件”を掲げた岡本友彦氏の説があるので紹介して置こう。

①    藤原氏を外戚としない後三条天皇や白河天皇が摂関政治を終わらせて皇親政治を取り戻す為に始めた
②    荘園を経済基盤とする摂関家に対して、国衙領(公有地)をベースとする新興の受領層は、勢力を維持する立場から院政の成立を誘導した
③    妻の両親が婿と同居する“招婿婚(しょうせいこん)”から夫の両親と嫁が同居する“嫁取婚”へと婚姻の形態が変化した事で天皇の母方親族である摂関家から天皇の父方親族である“院“へと権力が移行した
④    後三年の役(1083年~1087年)で力をつけた源義家ら武家勢力の拡大を警戒した公家政権側としては“院”に権力を集中させる専制体制を形成する事によって対抗しようとした
⑤    自らの直系皇統による皇位の独占に白河天皇が固執した

以上である。

白河院が天皇として即位した時点からこれまでの朝廷の政治形態とは異なる“院政“を意識していたとは思えない。既に述べて来た様に白河天皇は“中継ぎ”の天皇として即位した。しかし周囲の人的変化、前九年の役、後三年の役に見られる源義家を代表とする東北地方を中心とした武士層の台頭、その後、伊勢平氏で平清盛の祖父に当たる平正盛が台頭し、更には、衰退する藤原摂関家に代わって勢力を伸ばして来た新興の藤原家など、荘園の開発拡大期に伴って台頭著しかった受領層等、社会の構造にも大きな変化が起きていた時代であった。

天皇家と公家、貴族層が日本の国をリードして来た“上巻”の500年間の静かな時代から、日本の政権に絡むリーダー層の中に“武士層”が参加する様になる事で日本の政治、社会情勢が大きく様変わりをして行く混乱と闘争の500年の歴史が始まるのである。

武士層が“政権”闘争に加わった結果として、“中巻”で記す500年間の日本には、建国以来継承されて来た、長い歴史と伝統に裏付けられた強い権威、権力、そして財力を持ち続ける“朝廷勢力”と幕府という形で次第に日本の統治体制の中に権力を拡大して行く新興の“武家勢力”とが併存するという日本特異の”二重構造の統治体制“が出現し、継承されて行く。

当然の事乍ら、“朝廷政権”と“武家政権”と言う“二重構造の統治体制“には常にパワーバランスを巡っての”闘争“が繰り返され、後述する様な”混乱“の500年間の歴史が展開されるのである。

武士層による最初の政権とされる“平氏政権”は平清盛の急死によって呆気なく滅亡するが“朝廷政治”と併存する形での“平清盛”によって切り拓かれた“武士層“の勢力はそのまま源頼朝の鎌倉幕府へと引き継がれて行く。そして以降、日本には“院政”(その後後醍醐天皇に拠る親政の時期も出現するが)と言う“朝廷政治”と武士政権である“幕府政治”が併存すると言う日本特有の二重構造の政治体制の時代を迎えるのである。

平氏政権の出現から鎌倉幕府の時代、そしてその滅亡と言う混乱の時代は、“南北朝分立“と言う“二人の天皇の時代”という建国以来の“大混乱の時代”へと展開する。そしてその後の日本は尚も、“武士層”が闘争を繰り返し、混乱状態が拡大して行く。室町幕府時代に入って、三代将軍足利義満時代の1392年に“南北朝合一”がなされ、一時的に統治状態に安定した時期が訪れるが、1408年にその義満もこの世を去るとその後は再び室町幕府体制も不安定な状態に陥る事になる。

基本的に萌芽期の武士政権の持つ“闘争と混乱体質”に様々な要素が加わって終には1467年から1477年に至る10年以上の期間に亘って、日本全国を東西に分断し、荒廃させた“応仁の乱”へと繋がるのである。

応仁の乱は1477年に一応終息した格好にはなるものの、この後の日本は群雄割拠と下剋上が常態となる大混乱の時代が続き、“戦国時代”と呼ばれるまさに“武士層”が覇権を争い、“国盗り合戦”に終始する時代へと進むのである。

第38代天智天皇(即位668年崩御671年)以降の歴代の天皇が唐王朝(618年~907年)を模して目ざした“律令国家”のベースたる“公地公民”の制度は奈良時代の“三世一身法”や“墾田永代私財法”などで認められた土地の私有化によってその大元から崩れ始めた。時代が進み、荘園開発が飛躍的に拡大すると天皇家のみならず、中央の有力貴族層や地方の有力武士層に対して保護や出世等、自己の利益を求める人々からの寄進荘園が拡大する時代が訪れる。更に時代が進み、白河上皇、鳥羽上皇、そして後白河上皇の時代となると、国の役人が徴税等の目的で荘園内に入る事から免れる特権(これを不輸不入と言う)が与えられる様になる。こうしたインセンテイブがあった為、特に上記3人が院政を行った時期には荘園開発が飛躍的に拡大したのである。この時期の荘園は“三代御起請地(さんだいごきしょうち)”と特筆される程大規模なものであった。

こうした荘園を許可する権限が“院政”を行う当の上皇又は法皇に属していたのであるから、取り分けこの3上皇が院政を行っていた時期に“院領荘園群”が飛躍的に拡大したのである。

武家層の台頭、そして院領荘園群の拡大にまつわる説明を加えたが、話を元に戻そう。
何と言っても白河院にとっての難問は度重なる天皇後継者問題であった。最愛の実子、堀河天皇崩御後の対応である。

9:白河院に与えられた“選択肢”と孫の鳥羽天皇の即位

実子、第73代堀河天皇(即位1086年崩御1107年29歳)の天皇としての政治能力を評価し、彼に“親政”を委ねた時期もあった白河院であったが、その堀河天皇の思いもしなかった早い崩御と言う事態に白河院がどの様な対応を取り、どの様な経緯で本格的に後世“院政”と称される“新しい政治体制”を築いて行ったのかについて記述する。

“院政”と言うと、第59代宇多天皇(即位887年退位897年)が退位した後に上皇となって院の庁から政治活動をした事をもって、それが院政の開始だとする説もあるが、“院政”が成り立つ岡本友彦氏の5つの要件から言ってもそれを“院政の始まり“とする事には無理がある。白河上皇が始めた院政とは成立要件が異なり従って”院庁の機能“が大きく異なるからである。

白河上皇は院の庁に於いて、主体的に政治を行う仕組み、組織等を具備し、宇多上皇時代の院政と比べて遥かに強い権力を持った。それが可能であった要因は後述するように多々ある。それらについて記述して行くが、こうした体制は白河上皇が初めから意図して整えたものでは無い。白河上皇の周辺に起きた政治状況に対応せざるを得なかった結果に加えて、社会の状況も大いに変化していた時期であり、それに対応した結果の産物であったと言うのが正しかろう。


9-(1):重祚(ちょうそ=一度退位した天皇が再び皇位に就くこと)するか否かで迷った挙句、5歳の孫を鳥羽天皇として即位させる

実子、第73代堀河天皇(即位1086年崩御1107年)は英明の誉れが高かった。従って父親白河上皇としては、既述した藤原摂関家の“過去の栄光”を取り戻す事を夢見た関白藤原師通(就任1094年3月、死去1099年6月38歳)とのペアで堀河天皇の“親政”に委ねた期間があった。白河上皇が1096年に出家をして“白河法皇”となった事はその期待の現れであろう。しかし乍ら関白藤原師通との政治には期待に反して問題が多く、不評の最中、師通は関白就任後わずか5年、1099年6月に39歳で突然他界する事態となる。しかしこの場面で、実父白河法皇は自らの“院政“に戻るのでは無く、尚も引き続き、堀河天皇の”親政“に期待し、政治を任せていた。ところがこの英明な堀河天皇が1107年7月に29歳の若さで突然崩御した。事態が急変するのである。堀河天皇の崩御は白河法皇にとっては漸く落ち着くかに思われた皇位継承問題が再び振り出しに戻ってしまった事を意味した。

藤原不比等が“家訓”として言い遺した天皇家との“後宮政策”に失敗していた藤原摂関家にはこうした事態に備え、後継の天皇候補を準備して置く等の影響力は無かった。従って白河法皇自身が再び、“皇位継承問題”に取り組んだのである。

当時白河法皇にとってまだ厄介な後継問題の“有資格者“が存在していた。白河法皇にとってはもう一人の異母弟”輔仁親王“である。この時彼は年齢も35歳であり、天皇即位候補としては適齢期である上に亡き父親、後三条上皇の遺勅にも後継者として書かれていた人物であった。こうした状況下で白河法皇としては、この輔仁親王の即位の芽を摘む為には自らが再び即位する(重祚)か、又は当時まだ僅か5歳であった実孫を即位させ、これまでの伝統に添って“摂政、関白”を置いて政治の補佐をさせるかという二つの選択肢が考えられた。

重祚という選択肢については、白河法皇は既に54歳になっており、又、既に出家の身である事などから断念する。そして輔仁親王の即位を支持する派も居たが、白河法皇は強引に僅か五歳の孫を第74代鳥羽天皇(在位1107年~1123年)として即位させたのである。上記岡本友彦氏の説の5つの院政成立の要因の中の五番目に記した“白河院が自らの直系皇統による皇位の独占に固執した”という事に当る。

こうした強引な白河法皇の自分の直系皇統への皇位継承に対して、輔仁親王派からの根強い反撃も考えられた。そこで白河法皇は、院御所に源為義などの“武士”を抱えて内裏警護をさせたのである。“院政“と言う新しい政治体制では”武士“を活用した事を一つの特徴点として挙げたが、こうした場面に備えた”院庁警護“がその始まりだと言えよう。

源為義は2012年のNHK大河ドラマ“平清盛”でも多くの場面で登場した。俳優小日向文世が演じた役柄である。彼は5-2項で触れるが、保元の乱(1156年)で敗れた悲運の“崇徳上皇”側につき、息子源義朝(俳優玉木宏)に斬首される人物で、頼朝、義経兄弟の祖父に当たる人物である。

白河法皇の院の御所(院庁)がこの様に武力を備えた御所であったと言う点が先に述べた第59代宇多天皇(即位887年退位897年)が上皇(法皇)となり、院の御所から実子の第60代醍醐天皇(即位897年退位930年)の政治にあれこれと口を出したケースとは機能的に異なる重要な点である。白河院による“本格的な院政”体制下では源平を代表とする“有力武士団”を北面の武士として院庁の警護に当らせ、又、その武力を積極的に活用する政治体制であったのである。

第4章で記した様に、前九年の役(1051年~1062年)並びに後三年の役(1083年~1087年)が起り、結果、東北地方で勢力を拡大した源義家を筆頭に、既にこの時期には“武力闘争”を“業”とする武士層が東国を中心に台頭していたのである。

9-(2)鳥羽天皇即位後の白河院政

果して白河法皇が実際に背後で動いたかどうかは歴史書には一切書かれていないが、幼帝鳥羽天皇にとって将来邪魔な存在となる前述の“輔仁親王”は政争に巻き込まれ追い落とされた。鳥羽天皇即位6年後の1113年に起こった政争であるが、内容は“輔仁親王”側近の護持僧が鳥羽天皇を呪詛し暗殺を企てたという事が発覚しその罪に拠って“輔仁親王“の側近達が流刑に処せられたと言う結末の事件である。

この結果”輔仁親王“側の勢力は完全に取り除かれ、ここに白河法皇は武力に訴えるまでも無く、長年の”政敵“の全てを撃退する事に成功したのである。

上記の様な経緯で白河法皇は幼帝、第74代鳥羽天皇(即位1107年退位1123年)即位後の政情を安定させる事にも成功し後顧の憂いを絶った訳であるがこうした重要な局面にも“藤原摂関家”の主導的動きは一切無かった。それどころか既述した“勇み足の失政”を行った“関白藤原師通”の死後に名ばかりの“摂関家当主”となった藤原忠実(俳優國村隼)に対する白河法皇(俳優伊東四朗)の扱いは無視を超えた“散々”なものであった。

先ずは、若い(当時藤原忠実は21歳)と言う理由で、名ばかりの関白とは言いながらそのポジションへの“就任”を数年見送られるという冷遇を受けたばかりか、漸く得たその関白の座を今度は娘の入内に関して白河法皇の怒りを買い1120年に罷免され、内覧(天皇に奉る文書などを先に見る事、その役職)の職からも外されるのである。以後この藤原忠実(俳優國村隼)は鳥羽院政(俳優三上博史)が始まり、1132年に漸く内覧の職に復帰するが、その間実に12年間も宇治での隠遁生活を余儀なくされるという白河法皇からの冷遇を受けたのである。

視聴者にとって理解する事が非常に難しいこの時代をテーマにしたNHK大河ドラマ“平清盛”を私も一年間、熱心に観た。この章の標題である様に“院政の始まりと武士層の出現に拠る混乱の時代の幕開け”の時代であるから登場人物の人間関係も複雑で、台頭と没落、離合集散、そして変化の大きな平安時代末期に新しい社会階層として登場して来る人物も多く、結果として大河ドラマ全体のストーリーが難解であった。その為、この大河ドラマの評判は、あまり芳しく無かった様であるが、滅多に取り上げられない平安時代の末期が題材なので、この時代の歴史に興味を持つ人々にとっては、貴重な一年間の大河ドラマであったと思う。

あのNHK大河ドラマを御覧にならなかった方には理解の一助とならないのが残念だが、大河ドラマ“平清盛”はまさにこの第五章で記述している時代を取り扱っていたので、極力そのドラマでの場面を引き合いに出し乍ら、史実を記述して行きたいと考えている。

この時代は日本の長い歴史の中でも最も世の中が大きく変化して行った時代の一つである。繰り返すが、第一に天皇家自体も院政の主導者たる上皇と、在位中の上皇直系の天皇の二人がセットで存在した時にのみ“院政”を行う事が出来たのであり、天皇家と言えどもこの“二枚看板”が揃わなければ“院政”を行なう事が出来なかったのである。

第二に、貴族層も旧摂関家が衰退し、荘園の開発と拡大に絡んだ“受領層”を中心とした新興の貴族層が台頭して来た時代である。

そして第三に、以後500年の混乱と闘争の時代の主人公となる“武士層の台頭”の時代である。その中から、平清盛と言う時代の寵児を得た“平氏一門”と“源氏”と言う二枚看板が登場した時代である。

この時代を敢えて一年間の大河ドラマとして取り扱ったNHK側の苦労も相当なものであったと思う。因みに上記、白河院に冷遇された関白藤原忠実を演じたのは俳優國村隼(くにむらじゅん)であったが、何か常に自信の無い、おどおどした態度の人物を好演していた。史実としてもこの藤原忠実を筆頭に、この時代の藤原摂関家には既に昔日の面影は全く無い状況だったのである。

白河院の院政の開始時期をどの時点とするかについて3説ある事については既に述べたが、彼の直系の孫に当る鳥羽天皇(俳優三上博史)を5歳で即位させた1107年の時点からだとする説が分かり易い。

この”幼帝“に代わって政務を執るというかつての藤原氏に拠る摂政、関白は置かれなかった。白河法皇自らが院庁から政治を執るという形であった。こうして白河法皇に拠る
”院政体制“が成立し、その後長い間継続された理由、背景、そしてその後については以下に記述して行く。これまで政治を主導して来た、当著の”上巻“の主役であった藤原摂関家は100年前、栄華の絶頂期にあった藤原道長時代には考えられなかった政治的影響力の凋落という状況になっていた事は何度も述べた通りである。

天皇家が、久方ぶりに政治の実権を回復し、表舞台に復帰したその姿とはどの様なものであったのだろうか。

10:白河院政開始時に現れた新しい権力者・・治天の君、受領層、武士層

白河法皇が“院政”を開始し、新しい政治体制を整えた事によって“院”を取り巻く“近臣“の顔ぶれも”藤原摂関家時代“とは異なる階層の人達で固められた。

荘園制の拡大期に乗じて台頭した”新しい受領層“そして東北地方の戦乱収拾に功績を挙げて台頭した”武士層“が院政時代の近臣者達だったのである。都では、院の警護に当たる為に常設された”北面の武士“が院政の象徴的な存在であり、その中から後に政権を奪う事になる伊勢平氏の棟梁、平清盛が現れるのである。

経済的背景も荘園制の拡大期と重なり、より多くの荘園を領有した有力者が政治的立場を強くする事になる。“天皇家“にも多くの荘園が寄進され、”院領荘園群”を上皇、法皇、女院、皇女等が領有する事になる。こうした“院領荘園群”が“院政”と言う新しい政治システムの根幹として以後400年に亘る“院政”を左右する経済的ベースになるのである。

何度も記した様に、既に律令国家体制は崩れ去って、荘園の全国規模での開発、拡大が進み、当時の日本全国の土地所有の状況は大雑把に言えば、①国衙領(こくがりょう=公地)②荘園(藤原氏等貴族領、寺社、有力武家が所有)③院領荘園群が主なものとなっていたのである。

この中で③の院領荘園群を多く伝領し、実質的に領有する上皇、又は法皇が“天皇家の家長”となり、“治天の君”と呼ばれ、“院政”を強力に進める事が出来たのである。従って天皇家の中で、こうした“治天の君”と呼ばれる地位を獲得出来るかどうかが重要なポイントとなった時代だったのである。

こうした“院領荘園群”の伝領問題に介入し、“天皇家”の力を分断しようと策を巡らしたのが、後の鎌倉幕府であったが、之に関わる詳細は第6-1項で記述する。

在位中の天皇が自ら“荘園”と言う形で土地の領有者とならないのは“公地公民”をベースとし、“天皇中心”の政治を行う“律令制国家”を目指して来た天皇家としては”国家の長”と言う立場である以上当然の事であった。中央政府から派遣された国司が政務をとった“国衙”(こくが)の支配下にある土地(荘園に対して、国衙領、公領、国領と称された)があくまでも、律令国家として国が所有する公の土地なのである。

しかし乍ら、土地の開発が進み、時代を経る中に土地の所有形態にも変化が現れる。

“天皇家“として、天皇の実父であり、家長の立場でもある”上皇又は法皇“に対して荘園が寄進される形態は従前からもあった。律令国家を目指す以上、“天皇家“として大っぴらにそれらの”寄進地“を領有する事は勿論、退位して上皇、法皇の立場になった場合でも自らの名義で”寄進“を受ける事は憚られたのであろう。女院や皇女を荘園領主(女院領等)としたり、天皇家が建立した寺院を荘園領主(御願寺領)として来たケースが多かったのである。

寄進する側の狙いは、其れによって官位を得たり、より有利な地域の“受領”として補任(任官)されたり、税金等の免除などの利益を得る事にあった。

荘園の開発が拡大し、“荘園制時代”と呼ばれる社会に日本が向かったのは11世紀後半である。まさしく第72代白河天皇(即位1072年12月退位1086年)が退位し、上皇として院政を開始した時期と同時期である。

既述した様に、現職の天皇の立場としては荘園を領有する事は憚られる。しかし荘園拡大による経済的基盤の強化は単に租税徴収権の拡大だけで無く、領民の拡大、ひいては当時としては武人の勢力拡大にも繋がった。結果として“天皇家”がこうしたメリットの大きい“荘園群”を領有する為には“天皇”を一刻も早く退き、実質的に“荘園の領有”を拡大して行ける“上皇又は法皇”と言う立場に就く事がより有利な時代が到来したのである。

“院領荘園群“と実子の”天皇”を持ち、更に“武力”をも整えた新しい政治体制は、“院政”と呼ばれ、以後、日本の重要な一時代を築く事になるのである。

第四章で記述した様に藤原良房が応天門の変の政争で勝利して866年に最初の人民摂政となって以来、政治権力の面で“天皇中心の中央集権国家”を理想とする“律令国家”の姿は崩れ去っていたが、藤原摂関家がこうした“律令政治の変質”の時代を取り仕切り、7世紀から11世紀までの日本をリードして来た。この間、何度も“天皇親政への回帰”“公地公民への原則的回帰”を試みた天皇が出現した事も述べた。しかし乍ら、藤原道長、頼通迄の摂関家の力は強く、天皇家の復権の動きは、容易に跳ね返され続けて来たのである。

藤原摂関家の政治権力の衰退が宇治平等院鳳凰堂の建設で有名な藤原頼通(生992年没1074年)を境に始まった訳だが、荘園制時代が到来していたと言う環境の変化が“院政時代到来”を引き寄せた大きな要因となったと言えよう。

日本の歴史では古くから土地の領有権は最終的に国に存すると言う考え方がベースとなっている事から特に院政が始まった初期には、国衙領(公有地)、そしてその変形である“院領荘園群”の拡大が進むと言う形が自然の流れであったと思われる。何度も述べた様に院政時代には院政を行う上皇、法皇が荘園の認可権を持っていた事もこの流れを加速させた事であろう。

白河天皇時代に起きた一連の“時代の変化”は天皇家の中での力関係にも影響を及ぼした。以前は天皇家の中での中心はあくまでも在位中の“天皇”であった。そして譲位した天皇の父親なり祖父が“天皇家の家長”として大きな力を振るう事は無かったのである。しかし白河上皇に始まる院政の時代に入ると状況は一変する。

直系の皇子又は直系の孫である皇子を天皇に即位させ、自らは早々と上皇になると共に、名義はともあれ、実質的な“院領荘園群の領主”として、経済的基盤を拡大して行く一方で院庁において政治権力を行使すると言う、此れまでには無かった新しい政治体制である“院政”の主導者としての立場が出現したのである。藤原摂関家の政治的、経済的影響力はかっての隆盛期と比較すると大きく衰退に向かっており、こうした天皇家の復権を阻止する力はもはや無かったのである。

こうした状況の結果、天皇家の中で“治天の君”と称される、政治力、経済力、軍事力を合わせ持った新しい形の“権力者”が君臨する事になったのである。

2012年のNHK大河ドラマ“平清盛”が始まった直後からこの“治天の君”(ちてんのきみ)という聞き慣れない言葉が何度もドラマの中で使われた。伊東四朗扮する白河上皇が絡む場面で院の近臣達が白河上皇を意味する言葉として用いたのが“治天の君におかれましては~”のセリフであった。意味が分からず辞書を引くと“院政を執り行う上皇を指す”と書いてあった。更には“天皇の父、あるいは祖父である上皇(院)が政治の実権を握り、自らの意志で国政を執り行った事からの称”と書いてあった。

11:白河院、鳥羽院の院政時代に起きた社会構造変化と院の近臣者

院政が始まる白河院時代には“摂関時代”とは異なる“社会構造の変化”が明らかに起きていた。これは“院を取り巻く近臣者”を見れば良く分かる。

まず、“摂関家“は制度としては以降も残ったが、政治的影響力は藤原道長時代とは比べ様も無い程に小さくなっていた。従って白河院政時代に政治の中心に居て、国の政治を牛耳った摂関家の人の名は、例外的に堀河天皇の関白となった“藤原師通”以外には居ない。上皇又は法皇の力はそれ程強かったのである。

白河院政に始まり、鳥羽院そして後白河院と“院政”は継承されて行くがこの間に保元の乱、平治の乱と言う言わば“世の中の仕組み、秩序が大きく変わる”戦いが起き、世の中の変化の速度が加速して行くのである。そして天皇家と藤原摂関家の力関係の逆転に加えて新興の平氏と源氏という“武士層”が新しい時代の仕組みにおける“覇権”を巡って目まぐるしく争い、中央勢力として台頭して行くという日本史上でも最も社会的変化の大きかった時代になって行くのである。

こうした時代を生み出した白河院政の側近と言えば、誰よりも先に挙げられるべき名前は平家台頭の基礎を築いた人物として評価される平清盛の祖父“平正盛”と彼を引き継ぎ、武士として初めて“殿上人”に迄登り詰めた、平清盛の父親、“平忠盛”であろう。

彼らが台頭した状況については後述するが、時代の寵児となった“平清盛”が政治の表舞台に躍り出るのは、保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)に勝利して以降の事である。祖父平正盛や父平忠盛が白河院に全身全霊で仕え、又白河院からも重用された時期は白河院の崩御が1129年であるから、ほぼ30年も前の事である。院政を始めた巨星であり、平清盛の実際の父親ではないのか、と当時から噂された白河院が崩御した時、清盛は(1118年生れ)まだ10歳程の少年であった。

上記平氏の二人は有名であるがその他の白河院政の近臣を代表する人物として、下記二人を紹介して置こう。一般的には有名な人物では無く、我々の日本史の授業でも余り登場する事が無かった馴染みの薄い人物である。

一人目は“源俊明(生1044年没1114年)”である。彼は院庁の別当として院の政務に深く関係する立場にあり、非常に剛直な人物であった様だ。不正を嫌い、度々絶対的な力を持った白河天皇を諌める等、結果的に白河院の片腕となった重要な人物であった。

もう一人は“大江匡房(おおえのまさふさ、生1041年没1111年)”である。彼は後三条天皇、白河天皇そして堀河天皇の3代に学問の師として仕え、又、蔵人、大宰府権師などにも任じている。当時、朝廷の行政文書作成に不可欠であった漢文の能力に優れており、その方面で重用された人物であった。その著書“江家次第”21巻は長く朝廷の儀式典礼の規範となったと伝えられる。こういう人物が居たからこそ古代から今日迄、天皇家に拠って行われて来た“国家祭祀”が継承されて来た訳であって、日本文化の継承者としても大功労者と言えよう。大江匡房は白河院の実子、堀河天皇に仕えると共に、既述した“摂関政治の復権”を目指した極端な政治を行い、周囲から疎まれ、失敗し、早死した“関白藤原師通”にも仕えた人物である。

大江匡房は日記“江記”(ごうき)を書き残したが、彼が死の直前に焼却させた為に実物は残っていない。しかしその逸文が伝えられており、当時を語る貴重な資料として引用される事がある。

こうした役人、そして北面の武士などの他に白河院政時代を特徴付ける“院の近臣”はこの時代に新たに台頭して来た新規の“受領層”の人々である。

受領とは“国司“の別称で、そもそもは前任国司から事務引継ぎの書類を受領する事であったが、平安時代から、現地に赴任した者の中の最高責任者を指す呼称となった様である。荘園の発達期と合致した白河院政期に大いに勢力を伸ばす事になる。

彼らは税を徴収する権利を与えられている立場である事から、地方で巨富を蓄える事は容易であり、任期が終わってもそのまま任地に止まって勢力、経済力の増大を図る者、又は武士団を結成してその地の”武士の棟梁“に成長する者も現れたのである。先に紹介した平清盛の祖父、平正盛も”受領層“の一人であった。

これら“受領”達が院の近臣として“院政”を政治面、経済面で支える事になるのだが、以下にその経緯を解説して置こう。

摂関政治の時代に、中央での出世が望めなくなった貴族達は進んで地方の国司になった。平安期も半ば以降になると、地方に赴いた国司のうち、4等官(守、介、掾、目)の最上級である守、介に権限が集中する様になった。又この時期になると彼らの仕事の中心は徴税を主とする行政官であった。荘園が拡大した時期であったから税も増え、私腹を肥やす為にも格好の地位となっていたのである。この頃から彼らをやや揶揄の意味を含めて“受領”と呼ぶ様になったと伝えられている。

天皇家自体にとっても“荘園群からの利益”は無視出来無いほど重要になって来る。従って天皇家としてもその名義は“女院”“皇女”“寺院”と様々であるがこれら“院領荘園群”は、あらゆる層からの“荘園寄進”に拠って拡大し、院政をバックアップする“財政資源”として重要だったのである。

又、院政が始まった時期には“荘園寄進”という形の他にも“上皇、法皇”等、天皇家はじめ中央の有力貴族等に色々な形で経済的な協力を行い、官位を得たり、自らの財産保全策とする動きが多かった。以下にその事例を記述して置こう。

“院政期”の特徴とも言える事であるが、“受領層”は蓄えた私財を用いて院の“御所”や院の“護願寺”等を造営し、その恩賞として“院”から更に新たな“財”を蓄積出来る様な“別の地の受領”に任じられると言う見返りがあった。こうして任命された“受領”は“成功補任”(じょうごうぶにん)と呼ばれた。こうした“受領補任”が白河院政期から飛躍的に増えたのである。これが白河院政期の経済的特徴であり、こうした受領層が白河院政の経済的基盤を支えたのである。

過去に何度も“荘園整理令”は出されたが実効は殆ど無かった事は既に述べた。却って逆に荘園は増えて行ったのが実態である。そうした“荘園領主”である“受領”達を院の近臣として遇し、上記の様な“共存関係”を築く事によって成り立っていたのが“院政”である。過去に天皇家は藤原氏との“共存関係”を400年以上に亘って保って来た。そして白河院に始まる“院政”という新しい時代には荘園時代に呼応した新たな“受領層との共存関係”に拠る400年が始まったと言う見方も出来よう。これを称して、“院政は受領による受領の為の政権だ“と言う学者も多い。

摂関期にも受領補任はあった。しかしその補任(ぶにん)を受けるプロセスはもっと整備されたルールに基づいていた。蔵人、検非違使、外記等の要職を歴任した後で始めて補任されるのが通常のルールであった。ところが上述した様に院政期の受領補任(ずりょうぶにん)は”院“に経済的に貢献した者が“成功受領補任“され、富を重ねて行くと言う仕組みに変わって行ったのである。こうした新たな”受領層“はこれまでの伝統的貴族の家系とは異なった”新たな貴族層“を形成して行ったのである。この様にして貴族社会の構成内容にも大きな社会変化が見られる時代だったのである。

12:白河院に尽くした平正盛、並びに平忠盛父子の台頭

12-(1)平正盛(1121年没、年齢不詳・・推定60歳、没時清盛3歳)

“平家物語”では位人臣を極め、平家興隆の基礎を作った人物として尊ばれている。後に時代の寵児として初の武士政権を打ち立てた“平清盛”の祖父である。平正盛は伊勢地方の有力武士ではあったが、京の中央政府では力も無く、官位も“隠岐守”程度のものであった。しかし乍らなかなかの政治家であったらしく、時の“白河上皇“の第一皇女に関わる仏堂”六条院“に御料として田畑二十町余りを寄進、白河上皇に近づいたとされる。

以後、白河院の御願寺である尊勝寺に曼荼羅堂を造営する等、寄進を続けたのである。当然の事乍ら、白河院の覚えも目出度く、“京の都”に留まる立場となり、白河院が初めて設置した、院の武力組織の中心となった“北面の武士”として白河院の身辺警護の役割をも得たのである。

白河院の平正盛に対する信頼は厚く、官位も最下品と呼ばれる“侍身分”から飛躍的に上げて行った。これ程までに白河院が平正盛に肩入れした理由には勿論、正盛の白河院に対する献身的な貢献もあったが、一方では前九年の役、後三年の役で既に全国に名を馳せていた八幡太郎源義家の一門に対抗し得る勢力に平氏を育て、牽制したいという白河院の意向も働いていたものと思われる。

平正盛の武勇を世間に知らしめたのは源義家の次男、源義視が対馬守という立場に在り乍ら、略奪、暴虐の限りを尽くし朝敵となり、白河院から平正盛が“追討使”の命を受けそれを見事に果たした事件(1108年)からである。正盛はこの功績によって一等国とされる“但馬守”に任じられた。この事は1087年から1138年に亘って右大臣藤原宗忠が記した日記“中右記”にも世間の驚きとして記されている。

この功績の後も白河院は平正盛を重用し、平正盛も功績を重ね、因幡、讃岐などの国司を務めたのである。平家が西国一帯に勢力を築いたのもこの正盛の功績である。西国一帯に“受領”としての勢力を伸ばす一方で四国、九州地区の武士を始め多くの在地武士との主従関係を築いた。これが平家一門の西国一帯の強力な“軍事基盤”になったのである。

平正盛の最高官位は“従四位上”である。当時の官位について我々にはイメージが余り湧かないので他の例でイメージを描いて頂こう。忠臣蔵で吉良上野介が自分は“高家筆頭”で身分が高いと誇る。一方の赤穂藩主、浅野内匠頭を“田舎大名”と蔑(さげすむ)み、結果は江戸城松の廊下での刃傷事件となり、浅野内匠頭は一方的に切腹となり赤穂藩は取り潰しとなった。この一連の幕府による片手落ちの裁断に抗議して赤穂47士が仇を討つと言うお馴染の史実である。この話の“高家筆頭”職の吉良上野介の官位が“平正盛”が最終的に到達した官位と同じ“従四位上”なのである。ちなみに、蔑まれたとされる五万三千石の大名浅野内匠頭の官位は従五位下であった。尚、この赤穂47士の仇討の話は日本人の特異性とされる“武士道精神”の話の代表的史実として第七章で紹介する。

要するに平正盛は“最下品”という侍身分から“従四位上“まで官位を挙げたのだから物凄い出世である事が実感として分かって頂けるのではないかと思う。なお2012年のNHK大河ドラマ“平清盛”では俳優中村敦夫がこの“平正盛”を演じていた。

12-(2)平忠盛(生1096年没1153年57歳・・没時清盛は35歳)

父である平正盛が築いた財政的、軍事的基盤を受け継ぎ、受領の最高峰と言われた播磨守となり官位も“正四位上”刑部卿に迄登り詰め、昇殿を許された人物である。官位でも父親、平正盛を超えた事になる。NHK大河ドラマの冒頭で白拍子(歌舞を演ずる遊女)舞子(女優吹石一恵)が白河院の子を産みその後殺される場面がある。遺児となった赤子を平忠盛が自分の子として受け入れる。この赤子が後の平清盛という設定である。史実としても平清盛は白河院の御落胤だと言う説が当時から流れていた事が記録されているが、ここではその詳しい話については省略する。

忠盛が昇殿を許された事に関して武士が昇殿する事を快く思わない公卿達が闇討ちを企て、忠盛が機転を利かして御所に於ける殺傷沙汰になる処を未然に防いだ事で鳥羽上皇から褒められたと言う話が“平家物語”に書かれている。和歌にも通じ、舞にも優れていたた人物であった様だ。これらの話からも“平忠盛”と言う人物は教養も高く、決して奢らず、質素を好み、常に冷静沈着で貴公子としての資質も備えた立派な武士であった様だ。

2012年のNHK大河ドラマ“平清盛”では俳優の中井貴一が忠盛役を演じた。史実でも平忠盛は父正盛に劣らず検非違使として京の都の治安維持に当ったり、伯耆守等の国司を歴任する等、父正盛を立派に引き継ぎ、先ずは白河院に尽くし、功績を上げ、結果、重用されたのである。

NHK大河ドラマでも白河院(俳優伊東四朗)が孫娘の様に若かった待賢門院璋子(女優檀れい)を寵愛する場面が登場するが、史実でもこの女性は重要な役割を果たす事になる人物である。白河院の寵愛を受けた待賢門院璋子は後に白河院の孫で、第74代鳥羽天皇(俳優三上博史、即位1107年退位1123年)に入内するという展開になる。平忠盛はこの待賢門院璋子の政所の別当の職に就くと言う巡り合わせから、白河院が1129年に崩御した後も後継者、鳥羽上皇との関係をスムーズに構築出来たという幸運にも恵まれたのである。

父親正盛が行ったと同様に忠盛も鳥羽上皇の勅願の観音堂“得長寿院”造営時に自ら千体観音を寄進する等、経済的貢献も惜しまなかった。

平忠盛の幸運は人間関係にも恵まれた事にもある。鳥羽院の院政時代になって力を持つ女性が待賢門院璋子(女優檀れい)に代わって鳥羽院に寵愛された美福門院得子(女優松雪泰子)となるが、彼女と忠盛の正室宗子(女優和久井映美)が親類筋に当たる事から、忠盛はこの女性権力者とも有効な関係を築く事が出来たのである。

この様に平忠盛は時の権力者との人間関係を上手に、しかも誠実に捌いた有能な“政治家”でもあったのである。更に忠盛は当時、民間では活発に行われていた“日宋貿易”の巨額な利益にも目をつけ、父、平正盛が築いた西国地域一帯に於ける軍事力強化に加えて、経済面での進出も積極的に展開したのである。

忠盛は公卿昇進を目前にしながら58歳で没した。彼の死に関しては保元の乱(1156年)で崇徳上皇側に付いて敗れた摂関家の藤原頼長(俳優山本耕史)の日記である“宇槐記抄”にもその死を悼んだ記事が書かれている。藤原頼長は切れ者で悪左府の異名をとった厳しい人物であった。この人物がその死を悼む程、平忠盛は誰からも一目を置かれた人物であった様だ。

時代の寵児として“平清盛”が歴史上では特筆される場合が多いが、以上記した様に、清盛が次項で記述する保元の乱、平治の乱以降、急速に台頭し、終には“武士政権”を打ち立てる展開となるのだが、その政治的、経済的、軍事的基盤の全てが祖父平正盛と父平忠盛によって築かれていたと言う事なのである。

13:付記・・その他の寄進例と平清盛の造営寄進の紹介

白河院の時代に白河地区(現在の左京区岡崎、平安神宮周辺)に六勝寺(法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺)の造営が行われた。法勝寺(ほっしょうじ)はその六つの中で最初のもので且つ最大規模の仏教寺院であり、1077年に白河天皇の御願によって創建されたものである。この寺はその後荒廃し、応仁の乱の時にも焼失、再建を繰り返したが結局は廃寺となって仕舞った。その他の上記五つの寺も応仁、文明の乱で焼失して現在は地名としてだけ残っている状態である。

当時こうした寺院を造営したのは既に述べた平正盛、忠盛の例を紹介したが、その他には白河院の近臣となった新興の中級貴族達であった。中でも“播磨守高階為家”が有名である。次項で記述する保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)に大きく関わった“信西入道(俳優阿部サダヲ)”は藤原南家からこの裕福な高階家(たかしなけ)に7歳の時に養子に入った為、一時期“高階通憲”を名乗っていたと言う経緯がある。白河院からは例によって褒美として高階家に対して、当時“伊予国”と共に収入が最も大きく、大国とされていた“播磨国”の“受領”が重任されたとの記録がある。

現代の様に“贈収賄罪”で起訴だ不起訴だと騒がれる時代では無かったし、何しろ“荘園開発、領有の許認可権を”上皇、法皇“自身が握っていたのだから、御所の造営はじめ寺社の造営を当時の新興勢力であった、受領層や平氏を始めとする”有力武士層“が競って行ったのである。

平清盛の祖父平正盛、父親平忠盛の寄進、造営の事例を上記で紹介した。二人は5-1項で記述している時代の主人公である白河院、そして鳥羽院に仕えた人物である。平清盛が仕えた“後白河院”の時代は鳥羽院の後、崇徳上皇、近衛天皇を挟んだもう少し後の時期の事ではあるが、平清盛の寄進や造営のケースもここで纏めて記述しておこう。

平清盛の造営で有名な例は世界遺産となっている広島県の厳島神社である。台風などで何度も被害を受けているが、被害を受けたのは“能舞台”や“門客神社”等であり、これらの建物は清盛の時代には無かった建造物で、後に追加されたものばかりだという。建築の専門家でも不思議に思う様であるが、清盛時代に造営され、現在の形に近い形で整備された主要な社殿は過去、幾度も襲った台風にも被害は極く僅かであり、とりわけ本殿の内陣に至っては、清盛の時代以降、850年間、一度も水没した事が無いとの事である。これ等の事から、社殿は元々陸地であった処を掘削して“海”としたのであって、大きな岩盤の上に建てられたのでは無いかと言われている。

更に、清盛が“後白河院”に命ぜられ1164年に建立したのが有名な国宝、京都の蓮華王院三十三間堂である。後白河院は1158年に実子が第78代二条天皇(即位1158年崩御1165年22歳)として即位した為、言わば“押し退けられた形”で上皇となっていた時代であり、5-3項以降で詳述する様にこの時期は“院政”を行えた時期では無かった。後白河院としては不遇の時期であったと言えよう。そうした不遇時代の後白河院にも気配りを忘れず、こうした“造営”に多額の協力を惜しまなかったのが時代の寵児“平清盛”という人物の政治感覚の優れた面だったのであろう。

後白河院の院政については後述するが、上皇になった時点で院御所、並びに法住寺など一連の建物を造営し、“法住寺殿”と称する広大な地域に居住していた。この地域が紆余曲折はあったが、以後30年近くに亘って後白河院が“院政”を行った場所である。

実子、二条天皇が“親政”を行い、不遇だった後白河院は仏教にのめり込んだと言われる。
その為に、上述の蓮華王院と称した観音堂がこの時期に建てられた。現在国宝となっている“三十三間堂”だが、この三十三間堂の前に“養源院”と言う寺がある。この寺は豊臣秀吉の側室の淀殿が亡き父、浅井長政の追善の為に1594年に建立した寺であるが、寺の人の話では後白河院の時代の“院の御所”があった場所だとの事であった。道路を挟んで建つ“京都国立博物館”も後白河院時代の“法住寺殿”の一角であったと言うから当時の広大さが偲ばれる。

これ等の施設には京都駅から東に徒歩で行ける。“三十三間堂”、“法住寺”、そして当時の院の御所があった場所とされる“養源院”、そして“京都国立博物館”、更には豊臣秀吉が眠る“豊国廟”にも私は足を伸ばした。この墓に到達する為には約500段の石段を登らねばならず、かなりタフではあったが、この“中巻”のテーマ“武士層の出現に拠って始まった混乱と闘争の500年の歴史”に終止符を打ち日本を再統一した“日本史上の偉大な人物”の一人である豊臣秀吉が眠る陵墓であり一度は訪ねる価値はあろう。

最後に“法住寺”について紹介して置こう。国宝の蓮華法院三十三間堂の前に“法住寺”は現在も残っている。私も訪ねたがこの寺には3つの特徴がある。

後白河院が当時の歌謡集“梁塵秘抄”を編んだ事は既述したが、この寺の住職が当時“今様”とされた今日で言えば“流行歌”を当時の調子を真似て、歌って聞かせて呉れるのだ。2013年に法住寺を訪ねた時には生憎、当のご住職が不在で、ご住職がテープに吹き込んだものを聞かせて頂いた。NHK大河ドラマで後白河院を演じた俳優松田翔太が当時の“今様歌謡”さながらに何度も歌う場面があったが、このご住職の今様歌謡も当時を偲ぶ良い思い出となっている。これがこの寺の1つ目の特徴である。

2番目の特徴は赤穂47士の小さな寄木細工像がある事だ。大石内蔵助が京都の山科に隠棲して、吉良邸討ち入りの機会と策を練っていた時期に法住寺に立ち寄って討ち入り成功の祈願をした事に因んでいるそうである。

3番目は歴史とは関係無いがサザエさんの作者長谷川町子さんの遺骨が安置されている寺だと言う事である。生前から長谷川町子さんはこの寺の静けさがお気に入りでその関係からの事だと言う事である。

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