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2014年4月17日木曜日

第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第2項 保元の乱・・藤原摂関家分裂と源平の台頭


はじめに:

保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)をわざわざ5-2項と5-3項に分けて書いたのには理由がある。第五章のタイトルを“院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け”としたが、まさに“保元の乱”は平氏、源氏に代表される“武士層”が中央政治に大きく影響を与え得る地位にまで台頭するチャンスを得た特別の戦い、まさに“晴れ舞台”だったのである。

保元の乱は崇徳上皇が1156年の7月9日に動きを開始し、僅か3日間で後白河天皇側の勝利が決まったという戦い、しかも戦闘自体は4時間という短期のものであった。しかし武士層にとってはこの戦いは武士間の私闘では無く、皇位継承の戦いに関わったという事で、日本の歴史上、武士層の社会的役割が極めて重要である事を天下に示したという非常に大きな意味があった戦いだったのである。

この乱の主役の一人である関白藤原忠通の子であり、後に天台宗の大僧正になった“慈円”が書いた歴史書“愚管抄”にこの乱の事が書かれているが、功を急ぐ源義朝が藤原忠通から漸く出陣の指示が出た時には狂喜乱舞して戦いに臨んだ様子が書かれている。平清盛にしても同じ気持であったであろう。

何故ならばこの戦いは“武士層”にとっては彼らが初めて“天皇(後白河天皇)の命を受けて元天皇(崇徳上皇)を討つ”戦いをする機会であった。これまで“北面の武士”など“天皇家の護衛役”に過ぎなかった立場から初めて“皇位継承問題”に直接係った戦いであり、平清盛、源義朝にとっては“武士としての誇り”を自覚した戦いであった。

一方でこの乱で決定的な凋落となるのが藤原摂関家である。5-1項で記述した様に元々白河院時代に冷遇を受けた、名ばかりの関白藤原忠実(俳優國村隼)は父親でありながら嫡子藤原忠通(俳優堀部圭亮)との確執があり弟藤原頼長(俳優山本耕史)を偏愛する。結果は兄弟の争いはエスカレートする一方で、終には摂関家は分裂状態になっていた事も保元の乱の大きな要因であった。この乱の結果、摂関家は独立性までをも失い、信西入道はじめ多くの新興貴族の台頭を決定づけた。そして摂関家として貴族層をリードして来た地位を完全に失うのである。

こうしてこれまでの貴族社会中心の社会構造に大きな変化をもたらしたのがこの“保元の乱”の歴史的位置付けである。

天皇家の皇位継承問題が保元の乱の元凶である。鳥羽院による再三の屈辱的扱いに恨みを重ねて来た崇徳上皇が鳥羽院崩御後の初七日の日にこの戦いへの動きを開始したのだからその鬱積した恨みが如何に根深いものであったかが分かる。

保元の乱の事実上の盟主は“美福門院得子”だと指摘する歴史学者もいる。その意味もこの項を読み進めて行く中に納得出来るかと思う。

鳥羽院と崇徳上皇の間には不幸な関係があった。そしてその不幸な関係を助長した人物として鳥羽院が寵愛する事になる“美福門院得子”の存在があったのである。

天皇家はこの保元の乱の結果、摂関家と400年以上続いて来た“共存体制”に終止符を打つ事になり、新興貴族層そして武士層との新たな“共存体制”の時代へと入って行くのである。

1:信頼出来る資料はどれか

歴史の史実を学ぶには総合的な視点が欠かせない。そもそも私がこの著作に取り掛かる事になったのも、“日本人の特異性と言われる武士道精神が根付いたその歴史的経緯を書くに当って、誰でもが納得が行く様に具体的な史実で説明する事が大切だと考え、日本人の忠義心を代表すると言われる史実である赤穂事件、所謂、忠臣蔵の話を記述しようと考えたのがきっかけだったのである。

“赤穂事件”については私も中央義士会に属して勉強をしたり、この著の私の“講演記録”にも掲げた様に、日米協会(シカゴ)での米国人向けの講演経験も含めて何度も視点を変えた講演をして来た。そうした経験から、史実を正確に語る一級資料を探し出す事が何よりも重要である事を痛感したのである。

“赤穂事件“とは如何いう事件であったのか、から始まって、この”忠臣蔵“の話がその後の日本人の生活、並びに社会倫理観に如何影響して来たのか等、赤穂事件以降の日本人への影響も研究しないと余り意味が無いと考える様になったのである。

家族を捨て、己の命を捨ててまで主君浅野内匠頭の仇を討たなければ“武士の本分”が立たないと考えた赤穂浪士47名であるがそうした“忠義”を貫く考えは何時、どの様な歴史を経て日本の“武士層“に根付いたのかを探し出す必要に迫られたのである。

日本人のそうした“忠義心”は時代と共に薄れて来ていると言われるが、それでも海外の友人達と話す度に諸外国の人々と比べると日本人の美徳として強く残っていると指摘される。こうした具体例については2011年3月の東日本大震災の時の日本人の行動に諸外国の人々が驚嘆した事など、すでに記して来たので省略する。

諸外国の人々から見ると“日本人の美点”だと言われる“忠義心”が何故、赤穂事件から数えても300年以上経った今日迄、日本人の倫理観、文化として根付いて来たのかについて説明する事が必要だと考える様になったのである。

こうして赤穂事件(忠臣蔵)という一つのテーマを追求し、何故、何故を繰り返して行った結果が日本の国の創建時代からの“日本の通史”について説明をしないと諸外国から見て明らかに異なる日本人、日本の社会構造、政治構造、文化が持つ“特異性”を説明する事は難しいとの結論に到ったのである。

この著作は従って、日本の特異性が拠って来たる処の歴史的根拠に焦点を当てた日本通史である。

今日の日本、日本人が今日まで継承して来ている“特異性”は長い歴史の中にその根拠がある。日本の特異性の代表的なものは“天皇家”の存在が先ずあげられる。そして天皇家が今日まで125代に亘って継承されて来たという“特異性”の“歴史的根拠”を正しく説明する為には結局“日本の創建からの歴史”を紐解かねばならないという事になったのである。

“日本の通史”は膨大である。それを客観的に、そして正しく、しかも“日本の特異性”に焦点を当てて記述する為には“正しい一級資料”を探し出す事、そしてそれを学ぶ事、更には自分自身で記述対象の史跡を訪ね、歴史の連続性と整合性に矛盾がないかを納得する事がベースとなろう。

その上で初めて記述が始まるのである。

“保元の乱”について書かれた資料は多くあるが、何と言っても“兵範記”が第一級資料とされる。それは保元の乱が起きた時点で書かれた“日記”であり、しかも日記の著者自身が事件現場にいた人物だからである。

平信範(たいらののぶのり)という人物であるが、彼は蔵人や検非違使などを務め、官位も“正五位下”であるから高官の部類に入る。そして何よりも彼の日記が高い信憑性を持ち、説得力を持つ理由は、彼が仕えた人物が“保元の乱の当事者”で、しかも主役の一人でもあった“関白藤原忠通”だった事である。著者が保元の乱の当日も現場に居た人物だと言う事には何にも勝る説得力がある。

その他の一級資料としては“愚管抄”がある。作者“慈円”も又、保元の乱の当事者であった上記、“関白藤原頼通”の子である.しかし保元の乱が起きた1156年時点で“慈円”はまだ満1歳の赤児であり、“愚管抄“が成ったのが”保元の乱”から64年も後の1220年だから如何に慈円が後日父親(藤原頼通)の周囲の人々から情報を得る事が出来たとしても”兵範記“と比べればその信憑性は落ちると評価されるのは仕方あるまい。

“保元物語”は一級資料とは言い難い。“愚管抄”よりも更に後に書かれた事、その題名が示す通りあくまでも“物語”であるという事から“創作性”が混ざった書き物であるという観点からも歴史資料としては客観性、信憑性の点から“兵範記“や”愚管抄“と比べて“史実”を得る資料としては欠点があるものとして扱わねばならない。

この5-2項の記述も前項同様、2012年のNHK大河ドラマ“平清盛”を視聴された方には放映された場面を思い出し、保元の乱の複雑な人間関係、乱の展開等を理解する為の一助となればと願ってドラマのシーンや演じた俳優などを紹介する事にしたい。

2:保元の乱の原因は皇位継承問題と摂関家の内紛

2-1 崇徳上皇の恨み

保元の乱は鳥羽法皇(俳優三上博史)が1156年5月に突如病に倒れ、僅か2カ月後の7月2日に崩御となる。この僅かの間に“崩御後”に備えた動きが始まっていたのである。

具体的には、鳥羽法皇の病気の回復の望みが無いとの説が飛び交った6月1日以降から両陣営での戦闘の準備が始まった。その事は“兵範記”から読み取れる。鳥羽法皇の病状から回復が不可能な事が分かってから崩御まで、凡そ1ケ月あった訳だが、早くも崩御前から戦闘準備が行われたという史実からは、鳥羽法皇存命中から如何に周囲には不穏な根深い対立状況が存在していたかが容易に推測出来るのである。

その第一の要因は鳥羽院と寵愛した美福門院得子(女優松雪泰子)との間に出来た皇子を僅か3歳未満ではあったが第76代近衛天皇(即位1141年崩御1155年)として即位させる為、第75代崇徳天皇(即位1123年退位1141年)を鳥羽院が無理やり譲位させた事から始まる。

鳥羽院は崇徳天皇を忌み嫌う様になったと伝えられる。それは崇徳は祖父の白河院(俳優伊東四朗)と自分の中宮である待賢門院璋子(女優檀れい)との間の子なのではないかと鳥羽院が疑いを持った時からだと言われる。そして崇徳を“叔父子”と呼んで忌み嫌った事が“古事談”の逸話に書いてある事は既に述べた通りである。

この“古事談”の逸話はあながち出鱈目ではあるまいと思われるのは、次々と鳥羽院が崇徳に対して行った“憎しみ”に溢れた行為を繰り返した事に因るのである。

崇徳天皇が近衛天皇に譲位をした時に鳥羽院が“譲位の宣命”を与えたのであるがこの宣命に“体仁親王(近衛天皇)は崇徳天皇の皇太弟”であると明記してあった。

崇徳天皇は譲位した時点で上皇になる訳だが、何度も述べた様に、鳥羽院が崩御した後に崇徳上皇として“院政”を行う為には直系の子である天皇とのセットでなければならない。従って譲位の宣命に近衛天皇が“皇太子”では無く“皇太弟”と明記された事で、崇徳上皇は“院政”を行う資格が無いという事を意味した。

これは鳥羽院、美福門院得子によって崇徳上皇が騙され、陥れられた事を意味する“譲位宣命“であり、この時点から崇徳上皇は深い恨みを抱いていたのである。

しかし、崇徳上皇は鳥羽院存命中は表立った対立行動をとっていない。後述するが鳥羽院の狡猾な崇徳上皇慰撫の行動もあったからである。記録によると周囲の人々には二人の関係は何事も無い様に見えたと言う。

崇徳上皇にとって失地回復のチャンスが訪れる。それが1155年8月の近衛天皇の16歳での崩御である。ここで一度諦めていた崇徳上皇の“院政”のチャンスが訪れる訳であるが、結果的にはそのチャンスも再び鳥羽院と美福門院得子との結託によって潰されるのである。その結果崇徳上皇の恨みは頂点に達するのである。

以下にその事件について記述する。

崇徳上皇には1140年に待望の皇子、重仁親王が生まれていた。近衛天皇の崩御時点では15歳になっていた。しかもこの重仁親王を鳥羽院が寵愛する美福門院得子の養子としていたのである。今や形の上では有力な天皇後継候補である。こうした事から崇徳上皇は近衛天皇の崩御で重仁親王こそが最有力の次期天皇候補だと確信したのだと思われる。

しかし将来の“崇徳院政“だけは阻もうとする鳥羽院、美福門院得子は別の後継者を探し出す。それが美福門院得子がもう一人の養子として目を掛けていた”仁和寺の利発な美少年(孫王)、後の二条天皇“であった。

しかしこの少年は1155年の時点ではまだ12歳であり、しかも雅仁親王(俳優松田翔太)という父親が居た。鳥羽院と美福門院得子が出した結論は”繋ぎ“としてその雅仁親王を天皇として即位させるという事であった。第77代後白河天皇(即位1155年退位1158年)である。

この即位は異例尽くしであり通常、即位のプロセスとして行う立太子も行わず、いきなり天皇に即位するという状況であった。

ここで崇徳上皇の皇子、重仁親王は天皇即位候補者から除外されたのである。そして後白河天皇誕生と同時に本命の“仁和寺の美少年“は”皇太子守仁“となる。ここに”重仁親王“が将来天皇として即位するという崇徳上皇の僅かな希望は打ち砕かれた。同時にこの事は崇徳上皇から将来”院政”を行う資格を完全に剥奪した事を意味したのである。

崇徳上皇が”院政を行う事が出来ないただの上皇“である事がここで再び確定し、崇徳上皇の恨みは更に高まり、崇徳上皇と後白河天皇が戦う保元の乱へと展開するのである。

2-2 藤原摂関家の父と嫡男との確執が兄弟争いへと発展し、そして摂関家分裂へ

保元の乱に至ったもう一方の背景が藤原摂関家内部争い、父子間の根深い確執に始まり、それが兄弟の争いへと発展した事である。

この父親とはNHK大河ドラマ”平清盛“で俳優國村隼が演じた藤原忠実であり、嫡男とは関白藤原忠通(俳優堀部圭亮)である。

そしてこの確執が忠通の弟頼長(俳優山本耕史)に飛び火する形で兄弟間の激しい争いとなり、保元の乱に発展し、天皇家が兄(崇徳上皇)と弟(後白河天皇)が争い、そして同じく摂関家も兄(天皇側)と弟(崇徳上皇側)が敵味方に分かれて戦うと言う展開になったのである。

父と息子の確執は摂関家内部の“家長”相続争いでもあった。それが崇徳上皇が根深い恨みを抱く結果となった天皇家の後継天皇争いと連動した形で摂関家を二分する“保元の乱”となったのである。

父親、藤原忠実は亡き白河院に徹底的に冷遇され、宇治での隠遁生活を余儀なくされていた事は既述した通りであるが、保元の乱で兄、忠通と戦う事になる次男、藤原頼長(俳優山本耕史)がこの隠遁生活中の1120年に生まれた。

この時、父親、藤原忠実は42歳であった。それ以前から何かと嫡子忠通と確執のあった父親忠実はこの次男を偏愛する事になる。そしてその事が後に摂関家内部の“家長相続の争い”となり、“兄弟分裂”を生み、そして保元の乱で兄弟が崇徳上皇側(弟藤原頼長)と後白河天皇側(兄関白藤原忠通)とに分かれて戦うという結末になって行くのである。

父親、藤原忠実は政治的には亡き白河院に干され続けていたが、摂関家の家長である事に変わりは無く、莫大な荘園群をバックに経済的な実権を保持し続けていた。1129年に白河院が崩御し、鳥羽上皇の院政が始まると忠実も漸く政界に復帰する事になる。しかし、任じられたのは“内覧(天皇関係の書類に目を通す役職)”であり、一方嫡子藤原忠通は名ばかりで実権は無いとは言うものの“関白職”に任じられた。父子の地位の逆転である。この辺りから父と嫡子との関係が悪化して行く。

保元の乱は摂関家内部の“兄弟による家長争い、並びに積み重なった確執“であると述べたが、その兄弟間の確執の種も全てこの父親、藤原忠実が撒いたものと言える。兄弟の確執の事例をあげて置こう。

嫡子藤原忠通には男子が生まれなかった為、父親忠実は溺愛する弟の頼長(俳優山本耕史)が5歳の1125年に兄忠通の養子とした。ところが18年後の1143年に兄忠通に実子基実が生まれる。後に平清盛の娘、盛子の夫となる人物“近衛基実”である。

ここで兄忠通は弟頼長との養子縁組を破棄するという行動に出た。1143年の事であるから兄忠通は46歳、弟頼長は23歳であった。これが兄弟確執の最初の事件である。以後も摂関家内部の兄弟抗争は激化して行く。保元の乱の6年前となる1150年には当時まだ11歳だった近衛天皇へ双方共が相前後して養女を入内させるという具合で激しく対抗したのである。

そして摂関家内部の抗争が最高潮に達したのは同じ1150年の事であった。弟頼長を溺愛する父親、忠実は兄弟二人の争いでは常に弟の味方に付いていたが、兄の忠通に“摂政”の職を弟頼長に譲るよう強く要請したのである。忠通はこれを拒否、激怒した父親忠実は当時の貴族社会では考えられない強い制裁措置に訴える事になる。

貴族社会のリーダーであった摂関家がこうした見苦しい内部争いを世間に晒し続けた事で400年近くに及んだ貴族社会に於けるリーダーとしての権威をも失う結果になるのである。

父親、藤原忠実がとった“強い制裁措置”とは、まず第一に藤原摂関家の家長(氏の長者)の地位を嫡子藤原忠通から剥奪し、それを弟の藤原頼長に与えると共に、嫡子忠通を義絶(親子の関係を絶つ事)したのである。そして第二に、鳥羽法皇に要請して弟頼長に“内覧”の宣旨を受けさせたのである。この結果、忠通の関白職と弟の頼長の内覧職とが並立するという異常事態が生じた。

こうした人事には鳥羽法皇の狡猾さ、優柔不断な人柄が現れており、鳥羽法皇崩御の直後に起きる事になる“保元の乱の人的対立構造”が既に芽生えていたのである。

鳥羽法皇という人物は、寵愛する美福門院得子の影響を強く受けた政治を行った事は明白である。

しかし、こうした摂関家の内部分裂、抗争に対してはどちらにも肩入れしない態度で通した。その理由は父親の藤原忠実と鳥羽法皇との関係は良好であったし、又、父親と対立する嫡子藤原忠通は美福門院得子からの信任が厚かった。従って鳥羽法皇と美福門院得子のチームとしては藤原忠実と忠通の父子の和解こそが望む事であり、どちらにも肩入れしないという態度を貫いたのである。

又、この時代、貴族社会で藤原摂関家の家長である父親、藤原忠実に嫡子の藤原忠通が何故これ程までに対抗しながら、尚も関白の地位を維持する事が出来たのかも不思議である。その理由を以下に記そう。

鳥羽院は近衛(後の第76代天皇、即位1141年崩御1155年)が誕生すると同時に彼を“崇徳天皇”の中宮であった皇嘉門院聖子の猶子(自分の子供と同様)とした。鳥羽院一流の巧妙な崇徳天皇“慰撫”策である。又、この“皇嘉門院聖子”は藤原忠通の娘であった。

つまり次期天皇となる皇子が自分の娘の“猶子”になった事は藤原忠通にとっては彼の立場を強くするという意味で非常に重要な事だったのである。又、鳥羽院としては之を以て、崇徳天皇の慰撫と凋落していたとは言えあくまでも“摂関家”である藤原家との協調の両天秤策としたのである。

1141年にこの皇子が近衛天皇として3歳未満で即位する。藤原忠通はその摂政に就いた。近衛天皇が娘“皇嘉門院聖子”の“猶子”である事は忠通には近衛天皇の祖父としての格式が与えられた事を意味した。藤原忠通が父藤原忠実と正面から対抗し、義絶され、摂関家の“家長“の座を弟の頼長に奪われながらも、関白の地位を維持し得た理由はこの”近衛天皇の外祖父“という格式があったからである。

当然の事乍ら父親、忠実は良好な関係でもある鳥羽法皇に摂政忠通の解任を要求する事で対抗した。しかし、鳥羽院はその要求には応じなかった。しかし、抜き差しならない“摂関家”の争いに対して父親、忠実の希望を叶える一つの“方便”として1151年に鳥羽法皇は上述した様に藤原頼長を”内覧“としたのである。こうして、あくまでも藤原摂関家の内紛に自らが深く関わる事を避け続けたのである。

1156年3月と言うから鳥羽法皇が病に倒れる2カ月前に摂関家の兄弟抗争の火に油を注ぐ事態が発生する。鳥羽法皇が兄、藤原忠通を関白に再任する一方で弟の頼長の“内覧”再任の辞令を出さなかったのである。左大臣には再任しているから鳥羽院が頼長を失脚させた訳では無い。しかしこれを不服とした弟藤原頼長は以後出仕を拒むという事態に発展した。

一方で兄、藤原忠通は近衛天皇が崩御した際に後継天皇候補として“繋ぎ”としてではあるが“後白河天皇“を推す。この経緯から後白河天皇との連携を成立させていたのである。

2-1で崇徳上皇の恨みが近衛天皇そして後白河天皇の即位、並びに同日の守仁親王(後の二条天皇)の立太子実現・・と、皇位継承問題の各段階で募って行った状況を記したが、この天皇家における抗争の状況と関連しながら摂関家の内紛、分裂の状況が同時並行で進んで行った事が“保元の乱”に繋がって行くのである。

崇徳上皇は積年の恨みを美福門院得子と後白河天皇にぶつけた。そしてこの争いに摂関家内で積年の争い、父子、兄弟の確執が重なり摂関家も“崇徳上皇側”と“後白河天皇側”とに分かれて兄(後白河天皇側)と弟(崇徳上皇側)が戦ったのが保元の乱である。

敗れた崇徳上皇は讃岐に流刑となりこの地で9年間の配流生活を送り1164年8月に46歳で崩御。都への帰還を何度も弟の後白河天皇に嘆願したが受け入れられなかった。又、保元の乱の戦死者供養と反省の証として自らの血で書いたとされる法華経等5つの写本の奉納を願ったが呪詛をする目的では無いかと疑った後白河院に拒否され、そのまま突き返されて来たと言う。激怒した崇徳上皇のその後の配流生活は爪、髪を伸ばし、夜叉の様な姿となり最後は舌を噛み切り憤死に到ったと“保元物語”は伝えている。

崇徳上皇側に付いて敗れた弟の藤原頼長の最後も憐れなものであった。これについては後述する。

結果として“保元の乱”はこの直前までの400年近くに亘って続いて来た“天皇家との共存体制”を組んで来た藤原氏、とりわけ“北家摂関家”が他の公家達が“静観”を決め込むという状況の中で分裂して闘い、結果、貴族社会のリーダーとしての力を完全に失う事になる戦いだった。

この権威失墜は後白河天皇側に付きかろうじて勝利した形になった関白藤原忠通にとっても同じ事であった。この結果、藤原忠通は摂関家を近衛家と九条家に分けるという事になる。その後近衛家からは鷹司家、九条家からは二条家と一条家が分かれ、明治時代迄、名ばかりではあるが摂関職を引き継ぎ有職故実を伝える“五摂家”としてかろうじて“旧摂関家“の家名を繋いだのである。

こうして保元の乱で“旧摂関家”は後退した。代わって閑院流藤原氏、信西入道、そして源平に代表される武士層が一挙に政治の中枢に踊り出たのである。

まさしく“保元の乱”こそがこの著作の“上巻”天皇家の出現とそれを支えた藤原氏との共存の500年の歴史、と、“中巻”武士層の出現によって始まった混乱と闘争の500年の歴史との”分水嶺”となった歴史的に重要な意味を持つ戦いであった。

戦闘自体は小規模なものであったと記したがその持つ意味において日本史上非常に重要だった保元の乱である。

以下にそのプロセス、戦闘の状況等について詳述して行く。

3.保元の乱へのプロローグ

3-1:近衛天皇の崩御(1155年8月22日)で崇徳上皇が抱いた一縷の望み。

保元の乱の原因が天皇家における皇位継承問題と藤原摂関家内部の抗争にあった事は上述した通りである。以下に保元の乱が起きる前提となった事柄を詳述して行くが、要は崇徳上皇が鳥羽院と美福門院得子との結託によって、院政を行う資格の無い立場へと追いやられる事に対しての恨みを募らせて行った事が最大の起爆剤であった。

そしてこうした皇位継承問題に絡んだ“天皇家の争い”に摂関家の父子の不和、確執が連動して“保元の乱”という歴史的に意味の大きい戦いへと拡大したのである。その過程は以下の通りである。

鳥羽院が寵愛した美福門院得子との間に最愛の皇子が誕生した。そして、崇徳天皇を無理やり退位させてまで僅か2歳7カ月で即位させたのが第76代近衛天皇(即位1141年崩御1155年16歳)であったが、生まれつき病気勝ちであった。保元の乱の首謀者とも言われ、崇徳上皇側として戦い、非業の死を遂げた左大臣藤原頼長の日記、“台記”(宇槐記とも呼ばれる)にも近衛天皇は15歳の時には失明状態に陥り退位の意向を漏らしていた程の病状であった様が記されている。

そして鳥羽院、美福門院得子の願いも空しく近衛天皇は1155年8月に僅か16歳の若さで崩御する。この近衛天皇の御陵は京都市伏見区にある。この御陵の形式は“多宝塔”と呼ばれ、通常見る天皇陵とは異なる“二重の塔”の様な形をしている。私が初めて“安楽寿院南陵”と呼ばれるこの場所を訪ねた時には他の天皇陵と異なる御陵の形の違いに強い印象を受けた。余程、当時の鳥羽院と美福門院得子の悲しみが大きかったのであろう、と勝手な想像を巡らした事を覚えている。

一方の崇徳上皇には皇子“重仁親王”が生まれていた。鳥羽院一流の政治面でのバランス感覚であろう、この皇子を鳥羽院が寵愛する美福門院得子の養子として迎え、崇徳上皇に一縷の希望を抱かしてしまった事は既述した通りである。

崇徳上皇と言う人物は余りヒトを疑うと言う事が無い人物だったのであろうか。近衛天皇の崩御に際して、後継天皇候補として我が皇子であり、尚且つ飛ぶ鳥落とす勢いの美福門院得子の養子となっている“重仁親王”に“今度こそは後継天皇に”との大なる期待を抱いたのである。

“今度こそ”の意味は既述した様に、崇徳上皇が近衛天皇にしぶしぶ譲位した時の“譲位宣命”に近衛天皇が崇徳天皇の“皇太弟”と明記された事で院政を行う資格が得られなかった事を指す。この譲位の宣命は明らかに鳥羽院と美福門院得子との結託に拠る騙し討ちであった。

前項でも何度も記したが“院政”成立の資格は“上皇又は法皇となり、且つ直系の天皇を持つ”事であった。従って近衛天皇が“崇徳天皇の皇太弟”と明記された事は実子の天皇で無い事を意味する。従って崇徳上皇は“院政”を開く要件を持たない、将来とも実権の無い“ただの上皇“を意味したのである。

その近衛天皇が崩御した。そして崇徳上皇の皇子、重仁親王は最大の権力者、鳥羽院が寵愛する美福門院得子の養子である。その重仁親王が天皇として即位すれば、崇徳上皇に“今度こそ院政を行うチャンスが到来する”と、崇徳上皇が大なる期待を持った事は疑い無い。

3-2:崇徳上皇の期待外れと第77代後白河天皇(即位1155年退位1158年)の誕生

確かに崇徳上皇の皇子、重仁親王は有力な後継天皇の候補であった。しかし、ここで其れを阻止する3人の人物が現れ、結果は鳥羽院と待賢門院璋子との間の皇子、雅仁親王が“後白河天皇”として即位する。

この1155年7月24日の即位はまさしく“瓢箪から駒“の結果であった。その証拠にこの後白河天皇は”皇太子“という通常とるプロセスを経ずに即位した。従って周囲の誰の目にも”後白河天皇“誕生は彼の皇子である”守仁親王“が後に天皇として即位する迄の繋ぎの天皇として即位した事は明らかであった。

2012年のNHK大河ドラマ”平清盛“で天皇即位前の後白河(雅仁親王)が”今様“と言われる今日の流行歌に熱中している様子が何度も画面に現れた。史実でも”天皇候補“に挙げられていなかった雅仁親王(後白河天皇)の即位に鳥羽院は反対したとされる。当時から風変わりな人物で、天皇の器に非ず、と判断されていた記事が残っている。

この風変わりな雅仁親王(後白河天皇)を本命の二条天皇実現までの繋ぎの天皇として推したのが美福門院得子と関白藤原忠通であった。この二人が崇徳上皇の最後の期待を木端微塵に打ち砕いたのである。

此処で美福門院得子(女優松雪泰子)と言う人物についても触れて置こう。

彼女と待賢門院璋子(女優檀れい)は共に鳥羽院(俳優三上博史)の中宮の立場であった事から何かと張り合う“敵”同士であったと言えよう。

亡き白河院と待賢門院璋子との間に出来た子ではないかと“古事談”に逸話が残る皇子を“崇徳天皇”として誕生させたのは生存中の白河院であった。そしてその白河院が崩御し、上皇となった鳥羽院は祖父白河院から言わば押し付けられて中宮とした“待賢門院璋子”から美貌の誉れが高かった“美福門院得子”へと寵愛の相手を変へるのである。

以後この二人の中宮の間で女の争いが激化するのは宿命の様なものであった。

待賢門院璋子(女優檀れい)が我が子の崇徳天皇(俳優井浦新)に指示をして、美福門院得子(松雪泰子)の親類縁者の昇殿停止や財産没収などの罰を与えた。鳥羽院の寵愛を奪った美福門院得子への仕返し行動だ、との逸話が残されている。

こうした女性の間の争いに基づいた母親、待賢門院璋子の指示に従い自分の親類縁者への仕打ちを行った崇徳天皇に対して美福門院得子は少なからぬ恨みを抱いていた。そしてこの恨みが後に崇徳上皇へのしっぺ返しとして現れるのである。

近衛天皇の崩御後に、形の上では“養子”ではあっても、美福門院得子が崇徳の皇子“重仁親王”を次期天皇候補として推す意図などは全く無かったのであろう。美福門院得子にはもう一人の養子、仁和寺の修行僧として出されていた後白河の皇子(守仁親王)が居り、彼こそが鳥羽院そして美福門院得子の共通の天皇後継者候補だったのである。

後白河(当時は雅仁親王)の皇子、仁和寺の孫王(すなわち守仁親王)は鳥羽院にとっては孫に当る。実父である雅仁親王(後白河天皇)と同様、将来天皇後継者になる事もあるまいという事で仁和寺に出されていたこの少年だが、“利発な美少年”として早くから評判が高かったのである。

美福門院得子が近衛天皇崩御という事態に際して天皇後継者として考えたのが当時12歳のこの仁和寺の利発な美少年だった。

上述の理由から崇徳上皇の復権を嫌う美福門院得子、“叔父子”ではないかとの疑いから崇徳を忌み嫌った鳥羽院、結託するこの二人が崇徳上皇の皇子、“重仁親王“の即位を考える事はあり得なかったのである。

関白藤原忠通(俳優堀部圭亮)も美福門院得子と同じ考えであった。

こうして皆の一致した意見は“守仁親王”の即時、即位であった。しかし、実父後白河(当時は雅仁親王)を差し置いての即位は憚られるという事で“瓢箪から駒”の第77代後白河天皇(即位1155年退位1158年)が“皇太子“と言う通常のプロセスを経ずに急遽誕生したのである。

“仁和寺の利発な美少年”は寺から戻り“守仁親王”として1155年に皇太子となり、予定通り3年後に第78代二条天皇(即位1158年崩御1165年22歳)として即位する。

かくして、1155年8月に後白河天皇の即位が、そして同9月には守仁親王(後の第79代二条天皇)の立太子が行なわれた。崇徳上皇が抱いた一縷の甘い希望は跡形も無く粉砕されたのである。そして崇徳上皇の“院政を行う事の出来ないただの上皇”として生涯を終える事が確定した。

崇徳上皇の院政開始の最後の望みを打ち砕いた人物が3人居たと記述した。上述して来た様に美福門院得子と藤原忠通がその中の二人であった。そして3人目が内部分裂状態にあった摂関家を尻目に鳥羽院の信任を得、急速に台頭していた“信西入道”(俳優阿部サダヲ)だったのである。

以下に信西入道が崇徳上皇に立ちはだかった3人目の人物としてどの様に関与したかについて記述して置こう。

*    信西入道(生1106年没1160年1月23日54歳)

信西入道は藤原南家の学者の家系に生まれ、受領として台頭した高階家の養子に入った事等は5-1項で簡単に紹介した。NHK大河ドラマ”平清盛”では俳優の阿部サダヲが演じた役である。彼が中央政治で大活躍するきっかけは信西の妻が雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母であった事からであった。信西自身は祖父、藤原季綱が大学頭であった様に、代々学者の家系の出身であった。

名門の出ではなかったが受領の高階家に養子に入り、高階通憲(たかしなみちのり)と名乗った時代がある。其の才、博識を武器に鳥羽院にも重用され、鳥羽法皇の政治顧問の地位を得る迄に至るのである。NHK大河ドラマ“平清盛”の場面で丁度一回り(12歳)下の若い平清盛(俳優松山ケンイチ)に政治を説いて聞かせる場面があったが、史実でも、鳥羽法皇の第一の寵臣と言われた新興貴族層の藤原家成(俳優佐藤二郎)と信西が親しかった関係から藤原家成を通じて平忠盛や清盛との交流もあった様である。

信西入道は妻と共に雅仁親王(後の後白河天皇、俳優松田翔太)の乳父母を務め、上述した様な経緯から近衛天皇崩御後の後継天皇選びには“後白河天皇”を推す。

“天皇の器に非ず”と躊躇する鳥羽院に対して、“瓢箪から駒”の雅仁親王(後の後白河天皇)の乳父母として信西入道は鳥羽院からの日頃の信任を梃にした一世一代の論陣を張って、後白河天皇実現に貢献したのである。

以上の様に、崇徳上皇の院政開始の実現性は始めから無かった。崇徳上皇という人物は根は極めて素直な性質であったのであろう。ヒトを信じ易い人物であったのであろう。結果として彼は天皇後継者問題の度に鳥羽院、美福門院得子が結託した懐柔策とそれとは全く相反する二人の敵対的行動に翻弄され続けたのである。

鳥羽法皇の死に際しても子としての見舞いを拒否される。そして臨終に際しても子としてその場に立ち会う事も拒否された。こうした最後の“仕打ち”に終に耐えられず、崇徳上皇は保元の乱を起し、敗れ、そして配流先で非業の最期を遂げるのである。

こうした史実を、崇徳上皇の生誕時点から持って生まれた不運と言うべきか、それとも鳥羽院と崇徳上皇との間に生じた確執に対して、崇徳上皇が余りにも鈍感であったのか、更には崇徳上皇が事態がここに至る迄、余りにも鷹揚に対応して来た結果が非業の最期となったのだ、等、崇徳上皇の人生の評価については議論が分かれる処である。

現代風に評するならば、極めてナイーブな崇徳上皇の性分が“保元の乱”に至らしめ、讃岐での非業の最期と言う結果に至ったのであろうと私は思うのだが。

四国第八十一番霊場として“別格本山、綾松山白峯寺“がある。そこに崇徳上皇が配流され崩御後の”崇徳天皇御廟所“がある。2014年の3月に四国の坂出から車でこの”白峯御陵“とも称する場所を訪ねた。訪ねる人も今は余り居ないようで、私達が白峯寺に隣接した”白峯御陵“を訪ねた時には人影は全んど無かった。

御存知の方も居られようが崇徳上皇は”怨霊になった天皇“として後世恐れられた。怨霊が信じられ、人々から最も恐れられ、呪詛する事が死罪など、重い罪になった平安時代である。

崇徳上皇を憤死に至らしめた後白河院は後に自ら発案して保元の乱の戦場跡でもあり、崇徳院の御所があった京都春日河原に崇徳院の霊魂を慰める為の”崇徳院廟“を建てた。崇徳院の崩御から20年経った1184年の事である。

その後も崇徳院の怨霊は代々天皇家で恐れられ、鎮魂の儀式が続けられて来た。そして明治天皇の父親である孝明天皇はその鎮魂の為に崇徳上皇があれ程帰る事を懇願した京の都に上皇の魂を讃岐から京都に移す“奉迎の神霊式”を発案し、それを受け継いだ明治天皇に拠って、1868年8月26日に700年振りに崇徳院の魂は京都に戻る。現在京都市上京区にある“白峯神宮”の建立である。

ここに天皇家と崇徳上皇との和解が成ったとしたのである。崇徳上皇の魂は“京の都に戻った”という事で今日では上述の讃岐の”崇徳天皇御廟所”を訪ねる人は少ないと“白峯寺”側からの説明があった。

参考文献のリストの中に“小学館 竹田恒泰氏著 怨霊になった天皇”を掲げた。興味のある方はこの本を読まれたい。崇徳上皇の他、後鳥羽上皇、後醍醐天皇等の事例も書かれており参考になると思う。

4:保元の乱のトリガー(引き金)

4-1 鳥羽法皇の発病から急死

保元の乱が始まる前の状況は、先ず崇徳上皇が天皇の皇位継承問題の度に、鳥羽院、美福門院得子の結託に拠るトリックに騙され続け、その恨みを蓄積させて来ていた。この状況に加えて摂関家の前代未聞の激しい内部抗争が皇位継承問題と絡んで益々エスカレートして行ったという状況であった。これ等が“保元の乱”の“火薬庫”であった。

そこに“火”が投げ入れられれば、瞬時に爆発する状況だったのである。そのトリガー(引き金)は鬱積する崇徳上皇の不満を手練手管で懐柔し、何とか宥めて来た鳥羽法皇が確りと握っていた。又、激化する摂関家内部の抗争と分裂に、努めて深入りする事無く、対立する両者のバランスを取る事に意を尽くしていたのも鳥羽法皇であった。

その鳥羽法皇がにわかに体調を崩し、回復が不可能という急展開となり、そのわずか一ケ月後には崩御となったのである。

信頼出来る資料“兵範記”によると鳥羽法皇は1156年7月2日に鳥羽殿の中の“安楽寿院御所”で崩御している。この場所には美福門院得子との間に出来た最愛の息子、近衛天皇の御陵がある。天皇陵としては稀有とされる多宝塔形式なので非常に印象深かったと前に記した御陵(墓)だが、近鉄京都線の竹田駅からすぐ近くの処にあるので、是非一度訪れる事をお勧めする。

鳥羽法皇の病状が急速に悪化したのは5月22日だと“兵範記”に記してある。そして6月1日には病気回復のための祈祷は止められた。鳥羽法皇は現世への思いの全てを捨て去り、この日以降はひたすら“浄土往生”のみを祈る行業に専念して死を迎える日々を送るのである。

6月12日に寵愛した美福門院得子も鳥羽法皇の崩御に合わせて出家する。そして鳥羽法皇は6月21日に危篤状態となり、7月2日の午後4時頃に崩御となったのである。この時点で保元の乱のトリガーが引かれ、事態は急速に“戦い”の様相を呈して行くのである。

4-2 鳥羽法皇の死に目に会えなかった崇徳上皇

崇徳上皇は重病の鳥羽法皇を6月3日に見舞うべく鳥羽殿に御幸した。しかし、面会を拒否された事が“兵範記”に記されている。これは上記した様に鳥羽法皇はすでに病気平癒を諦め、現世を捨て、浄土往生に専念する覚悟を決めた直後の事であるから後世伝えられる様に“鳥羽法皇は兎に角、徹底して崇徳上皇を忌み嫌ったのだから見舞いに来た崇徳上皇をここで拒否したのは不思議では無い”とする説は当たらないのではないだろうか。

鳥羽院はこの時点では全ての現世との接触を断ち、ひたすら“浄土往生“に向かっていたからだとも言えよう。

しかし、7月2日の臨終に際して事態は悪化する。鳥羽法皇の遺言に”崇徳上皇に死顔を見せるな“とあったのである。”兵範記“にも臨終の日、崇徳上皇は御所には入れたのだが寝所にまでは入る事を許されず帰還したと記してある。

鎌倉初期に刑部卿源顕兼(生1160年没1215年)によって書かれた説話集“古事談”については既に述べたがこの人物は高官であると共に藤原定家や僧栄西とも親交があった教養人であるからこの“古事談”に書かれた逸話にはある程度の“信憑性”があるものとされている。鳥羽法皇の臨終に関する話も鳥羽法皇の側近“藤原惟方の話“であるから作り話とは思われない。

この“古事談“に拠ると鳥羽法皇が側近の藤原惟方に”崇徳上皇には死顔を見せるな“と命じた理由として、崇徳上皇の生誕の秘密を書いている。鳥羽院の祖父、白河院が鳥羽院に中宮として下げ渡した格好となる待賢門院璋子と密通して出来たのが崇徳上皇だというのである。これを知った鳥羽院は以後、崇徳上皇を”叔父子“つまり世間体の上から自分の子とするが実際は祖父、白河法皇の子であるから”叔父ではないか“と考え、忌み嫌い、疎んじたと言うのである。

“院政”がまだまだ政治的権力を持っていた鎌倉初期にこうした事を、しかも高官の地位にあった者が書く事は珍しい。しかもこの話は“古事談”だけが伝える秘話であり、信憑性についての評価には諸論があるが、保元の乱に至る経緯との整合性を考えるとあながち嘘でもあるまいと思える話である。

4-3 激昂した崇徳上皇は通夜、葬儀出席を自らボイコットする

昔も今も大きな争いは人間同士の些細な感情の縺れが原因となって起るものである。事実はどうあれ、世間的には自分の父親である鳥羽法皇の臨終に際して面会を拒否された崇徳上皇としてはこうした事態を全く予想していなかっただけに、上皇としての誇りと面子が丸潰れとなったのである。それに加えて“院政を行う資格の無い上皇”に陥れられた積年の恨みがある。鳥羽院存命中には既述の懐柔策で抑えられていた崇徳上皇の怒りが鳥羽院の死に際してまでも屈辱的な扱いを受けた為、遂に爆発したのである。

激昂状態の崇徳上皇は7月2日の通夜をボイコット、翌3日の葬儀も出席しなかった。更に7月8日の“初七日法要“にも出席しなかった事が”兵範記“に明記されている。

この間崇徳上皇は鳥羽田中殿に引き籠っていたのである。

5 保元の乱と武士層の昂揚感

保元の乱の原因は以上記述して来た様に、度重なる皇位継承問題で弄ばれ、冷遇された崇徳上皇の累積した恨み、そして摂関家内部の父親と嫡子との長い間の確執、それに拠る兄弟間の摂関家“氏の長者(家長)”の座をめぐる争いにあった。

そしてこの“保元の乱“はまさに、第五章、六章を通じて”中巻“のテーマとした”武士層の出現に拠って始まった混乱と闘争の500年の歴史“の幕開けとなった戦いとなった。皇位継承に絡んだ武力行使という意味でこの乱が日本史上に残した意味は極めて大きかった。

NHK大河ドラマ”平清盛”の中で良く使われた言葉に“王家の犬”というセリフがあったのをあの番組を視聴された方は覚えておられよう。平正盛の項でも書いた様に武士の官位は“最下品”であった。まさに貴族社会からすれば“番犬”の様な身分だったのである。

そうした武士層の社会における立場を徐々に変えて来たのが白河上皇が始めた“院政“という新しい政治の仕組みであった。北面の武士などの制度を設けたり、政治に”武士層“を積極的に用いる様になって、平忠盛など中央の政治に関与する機会も与えられる様になって来た事はすでに記述して来た通りである。

この保元の乱は武士層にとっての意味合いが之までの“戦い”とはまるで異なる次元のものだった。武士層が日本の最高権力者、最高権威者である天皇家の皇位継承問題に絡んだ武力闘争に参加したのだ。そして双方共に目指す敵が之まで畏れ多い存在の“天皇家”だった事である。

この事態に武士層は之までのあらゆる戦闘とは異なった意気昂揚感と大なる役割意識の中で戦ったのである。

6:崩御後4日目の7月5日に京中警備を発令した後白河天皇

激昂した崇徳上皇が鳥羽法皇の通夜、葬儀にも出席せず、鳥羽田中殿に引き籠った事を後白河天皇側は戦いの始まりと感じていた。

“兵範記”によると後白河天皇は7月5日に早々と“京中警備”の令を出している。そして取締り対象の“京中武士”とは崇徳上皇と藤原頼長側の武士であった。更に重要な点はこの時点で既に後白河天皇側は主要な武士の大半を味方に引き入れていたという事である。

平基盛(俳優渡部豪太)の名がこの“京中警備”の執行役人の中に見られる。そして早々と7月6日に藤原頼長(俳優山本耕史)側の武士、源親治を逮捕している。この記事で重要な事は平基盛は清盛の先妻で、病死した明子(女優加藤あい)との間に生まれた清盛の次男だという事だ。この記事から“平清盛”も後白河天皇側に付いていた事が解る。

7月8日は鳥羽法皇の初七日であるが、この日の“兵範記”によれば、後白河天皇側はこの時点で既に藤原忠実(俳優國村隼)頼長(俳優山本耕史)父子が軍兵を動員し、謀反を起こしたと決めつけている事である。その判断に基いて後白河天皇は同日藤原頼長が所有する摂関家の“東三条殿”を“没官”つまり天皇の名で財産没収という沙汰を行ったのである。

この様に鳥羽法皇の初七日時点で、摂関家の元関白で父親である藤原忠実と、摂関家の“氏の長者”を引き継いでいた“藤原頼長”を謀反人とし、財産までを没収するという前代未聞の事態が生じていた。本格的な武力闘争はまだ始まっていなかったが、“保元の乱”はすでに“開戦状態”だったのである。

7: 7月9日の夜中に先ず、崇徳上皇が権威の象徴、“白河北殿”を占拠する

7月2日に鳥羽法皇の臨終に駆けつけて以降、鳥羽殿の中に在る田中殿に引き籠っていた崇徳上皇は夜中に意表を突く形で白河北殿に入った。戦力を考えれば藤原忠実、頼長側としては宇治を拠点とした方が有利なのである。

何故、崇徳上皇が白河北殿を占拠し、拠点としたのかは良く分からない。亡き鳥羽法皇によって“何も出来ないただの上皇”とされた崇徳上皇がせめてもの抵抗の証として亡き鳥羽法皇の権威の象徴であった“白河北殿”を占拠したのであろうと考えられる。

崇徳上皇並びに藤原頼長方に集まった武士の数は少なかった。明らかに準備不足であった。主な人達を挙げると、源義朝の父親である源為義(俳優小日向文世)、義朝の弟で強弓の使い手として知られた源為朝(俳優橋本さとし)、 そして清盛の叔父にあたる平忠正(俳優豊原功補)であった。

同じ源氏、平氏が何故こうして敵と味方に分かれたかについては後述するが、要は彼等の雇用主が誰であったかによって分かれたのである。

8: 7月11日戦闘開始

8-1 後白河天皇側の様子:

7月9日の夜中に突然崇徳上皇が白河北殿を占拠した行動に後白河天皇側は慌てた様だ。味方側の関白藤原忠通家の家司(けいし=摂関家の家政の事務職)だった平信範(のぶのり)が几帳面に書いた日記“兵範記“を一級資料として再三引用しているがこの夜の様子も詳しく書かれている。

後白河天皇側は大急ぎで武士を招集、翌日10日の夕刻には大方の軍勢が揃った様である。崇徳上皇側と比べると錚々たる武士達が内裏高松殿に集まった様子が書かれている。禁中(内裏高松殿)と崇徳上皇側が集まった白河北殿との距離は凡そ2キロである。

後白河天皇側の錚々たる武士というのは、既に6月1日に鳥羽法皇の容体が悪くなった時点から内裏を警備していた源義朝(俳優玉木宏)、参集に応じた平清盛(俳優松山ケンイチ)、平頼盛(俳優西島隆弘)などである。

ここでNHK大河ドラマ“平清盛”の印象的な場面が思い浮かぶ。平頼盛は清盛の腹違いの弟であり母親は池禅尼宗子(女優和久井映美)である。池禅尼(平宗子)が崇徳上皇の皇子、あの天皇後継者争いで敗れた重仁親王の乳母であった事から、彼は本来は崇徳上皇側に付くべき武士であった。

しかし母親池禅尼(平宗子)の説得で清盛と共に後白河天皇側に付くのである。女優和久井映美が扮する池禅尼が逡巡する平頼盛を後白河天皇陣営に送り出す場面が印象的であった。この事は史実であり、崇徳上皇側にとってこの平頼盛の離反は打撃であったであろう。

8-2:7月⒒日の出動開始

“兵範記“には平清盛が兵300騎、源義朝が兵200騎、源義康が兵100騎、合計
600騎が主力の第一陣として内裏の各方面から別々に白河北殿を目指して7月11日午前2時頃、漸く出動したと記されている。そしてその後第二陣が出発しているから攻撃隊は合計1000騎程となったのであろう。

上記で“源義康”という余り馴染みの無い武士の名を挙げたが、彼こそが“足利義康”つまり後の“足利尊氏”の祖先となる人物であり、鳥羽法皇が生前、非常に信頼した武士であった事が記されている。

8-3:出動命令を出す事に逡巡した関白藤原忠通

上記で“漸く出動”と書いたのには意味がある。後白河天皇側に参集した武士達は出動まで実に5時間も待たされたのである。この間の様子は“兵範記”には書かれていない。その理由は簡単である、日記を書いた本人が関白忠通家の家司として、戦闘に備えて後白河天皇の皇居を一時的に東三条殿に移す事になった為、その準備で忙殺されていたからである。従ってこの間の様子は慈円の書いた歴史書“愚管抄”に拠る事になる。

それに拠ると、兵の出動に逡巡する関白藤原忠通(俳優堀部圭亮)に対して信西入道(俳優阿部サダヲ)と源義朝(俳優玉木宏)は早く出動命令を出すよう激しく迫った。しかし藤原忠通はそうした圧力にも耐え、5時間も兵の出動の命令を出さなかったのである。

ここに貴族層の政治に対する考え方と戦闘を生業とする武士層との明らかな違いを見る事が出来る。

関白藤原忠通にとっては事情はどうあれ、弓矢を向ける事になる相手が畏れ多くも崇徳太上天皇なのである。こうした考えは崇徳上皇側に付いた弟の藤原頼長にとっても同じであったと思われる。故にどうしても戦闘の開始を自らが告げる事に躊躇したのである。
つまり、この時点までは“保元の乱”が武力衝突に発展するか否かは分からなかったのである。その采配の主導権を摂関家の藤原忠通と敵側では同じ摂関家の貴族、藤原頼長の両者が握っていたからである。

武士達の集合人数から見て、後白河天皇側が圧倒的に優位である事を兄、藤原忠通は確信していたであろうし、又、其の事は崇徳上皇側の弟、藤原頼長にも分かっていたはずである。従って後白河天皇側の関白藤原忠通としては崇徳上皇側からの“降伏”を期待していたと思われる。そうなれば天皇家同士が刀、弓矢を交えるという武力衝突に到るという最悪の事態を回避する事が出来る。その可能性を藤原忠通は捨て切れなかったのである。

8-4 主導権の交代(藤原忠通から信西入道へ)によって、戦闘の火蓋が切って落とされる

武力闘争回避の一縷の望みを持って“戦闘開始”の号令を発する事を逡巡した藤原忠通は、戦闘開始を迫る“源義朝”と“信西入道”の間にあって次第に現場で孤立して行く。そして終に藤原忠通に代わって“信西入道”が戦闘指揮の主導権を握るのである。

何故、官位の低い信西入道がこの場で関白藤原忠通を押し除けて主導権を握ったのかについてはいくつかの理由がある。

先ずは後白河天皇の意思としては武力を行使するという事が固まっていた事を“信西入道”は持ち前の鋭さで掴んでいた。既述した様に彼は後白河天皇が雅仁親王時代から“乳父母”という立場で彼に接して来ており、後白河天皇という風変わりな、難しい人柄を理解していた事が挙げられる。

さらに、既述した様に“瓢箪から駒”の展開から後白河天皇が誕生した訳だが、その際にも貢献をした経緯もあって、信西入道に対する後白河天皇の信任があった事、これらの状況から両者の間には日頃の意思疎通も十分になされていた事が逡巡する藤原忠通に代わって信西入道がこの場の指揮権を奪えた理由であろう。

かくして保元の乱の武力衝突が開始されたのである。

8-5 戦死者が少なかった4時間の戦闘、そして終結は白河北殿への火懸け

実際の武力衝突が何時始まったのかは“兵範記”には書かれていない、しかし、“愚管抄”の記述から類推すると明け方4時頃であろうとされる。そして4時間ほどの戦闘が白河北殿で繰り広げられ、最後は後白河天皇側が白河北殿に火を掛けて勝利したと言う展開である。

戦闘時間としての4時間は長い。従って、さぞや双方に多くの死傷者が出たであろうと思われるが違う。やや信憑性を疑う“保元物語”の記事ではあるが後白河天皇側にも、崇徳上皇側にも首領クラスの武士の死傷者はゼロだった様だ。

理由は簡単である。崇徳上皇側の武士は戦場から逃亡したのである。一説には白河北殿を囲んだ後白河天皇側が、わざと一角を囲わず、そこから逃亡させたという事である。

それでも白河北殿から退却しない敵方に対して、終に最後の手段として後白河天皇側は白河北殿に放火した。この戦いの目的は崇徳上皇の身に死や負傷を負わせずに、兎に角“権威の象徴”であった“白河北殿”から追い払う事だったからである。そして合戦は後白河天皇側の勝利で終わった。

この戦いで良く分かる事はこの“保元の乱”でも後の“承久の変”そして“南北朝の争い”の場合でも共通している事は、天皇家と武士層との武力闘争で、天皇、上皇が戦闘で死傷する事は無かったという事である。

この“保元の乱“でも崇徳上皇は勿論、関係した貴族層を”死傷“させる事は良しとせず、包囲網の一部をわざと解き、逃げる道を残すという戦い方が天皇家、並びに貴族層が絡んだ争いの”戦い方“であった。

この点が後の武士同士が戦った戦国時代の”殲滅戦“と大いに異なる点である。

しかし、藤原頼長だけは例外であった。彼は瀕死の負傷を負い3日後に死亡する。流れ矢が頸部に当ったと言う全くの不運な“戦死”であった。

この様に保元の乱は天皇家が二手に分かれて“治天の君”の座を争った戦いであり、摂関家の関白である兄とその弟が敵味方に分かれて戦った事、そして戦闘要員である“武士層”も、京の都で半ば貴族化した平家、朝廷警護の職にあった源氏など様々な状況にあった訳であるが、夫々の雇主が誰かに拠って、敵と味方に分かれて戦ったのである。

その点で後に夫々の“領国”をベースにして“国盗り合戦”として敵方を殲滅するまで戦い、相手の領土を略奪する事が目的であった戦国時代の“武士層同士の戦闘”とは様相がかなり異なる戦いだったのである。

保元の乱に於ける後白河天皇側の“戦闘目的”が崇徳上皇軍を“権威の館、白河北殿”から追い出す事、それが“勝利“の意味であったから上記の様な一見、鷹揚に見える戦闘だったのである。

しかし、こうした保元の乱の中でも武士らしい“武力闘争”の場面が保元物語に記録されている。

“保元物語”の事実上の主人公は源為朝(生1139年切腹死1170年)であると言われる程彼の事は多く記述されている。兄、源義朝とは敵となる崇徳上皇側に付いた為朝は父、源為義(俳優小日向文世)並びに5人の兄弟と共に参戦した。身の丈七尺と言うから身長2メートル10センチの大男だったという事だ。先頃引退した大相撲の元大関、“琴欧州”よりも4センチも高い事になる。少年の頃から勇猛だが、傍若無人な性格で父、為義も手を焼いた人物だった様だが強弓の使い手としてその名を馳せていた。

NHK大河ドラマ“平清盛”の場面でも戦闘経験豊富な源為朝(俳優橋本さとし)が崇徳上皇(俳優井浦新)側の軍議で“夜襲”を主張する場面があった。しかし“貴族の闘い”を主張する藤原頼長(俳優山本耕史)は“夜討ちは武士同士の私戦で用いる事。上皇と天皇による国を巡るこの戦いでは罷りならぬ”と退けた。一方、敵方の後白河天皇側では兄源義朝が主張した夜襲が受け入れられて戦闘が開始されたのである。

後白河天皇側の夜襲で崇徳上皇側は多くの武士が逃げた為、大した戦闘は無かったと記したが、例外は坂東武者である兄源義朝軍と弟源為朝軍との白河北殿の北門での戦いだった。。ここでは流石に“武士と武士”との激しい戦闘が繰り広げられ、兄源義朝軍は200騎の中53騎が討たれ、弟、源為朝軍に至っては28騎の中23騎が討ち死にしたと書かれている。

上記した様に、後白河天皇側の“勝利”とは“権威の館、白河北殿の地を奪還”する事である。ここでも源義朝の提案に対して後白河天皇からの勅許が下り、白河北殿を火攻めにした。結果、崇徳上皇、藤原頼長は脱出し、為義、為朝ら崇徳上皇側の武士達も夫々に落ち延び、保元の乱は後白河天皇側の勝利に終わったのである。

源義朝の父親為義と5人の兄弟は後に捉えられた。

信西入道が仕切った戦後の処分は天皇に刀、弓矢を向けたという事で“死罪”を“薬子の乱(809年)“以来実に350年振りに復活させるという”武士層“に対しては非常に厳しいものであった。

平清盛は叔父の平忠正そしてその息子達、源義朝は父親、源為義並びにその子供達を自らの手で斬首させるという厳しい処罰であった。

こうした中で強弓の源為朝は京から逃げ、8月26日に捕えられた。しかしすでに戦後の処分は済んだ後でもあり、類まれな武勇を持つ人物という事で助命され伊豆大島に流刑となる。そして為朝はその後も持ち前の武力を発揮して伊豆七島を支配する迄になったと伝えられている。

しかし後になって為朝は中央を無視した乱暴狼藉を咎められ、為朝討伐の院宣が後白河院から下されるという展開になる。終に観念した為朝は捉えられる前に腹を切って自害した。没年は1170年(31歳)とも1177年(38歳)とも言われている。そしてこの時、源為朝が腹を切って自害した事が日本で最初の“武士の切腹”だと言われているのである。


9 保元の乱の勝者達

9-1 勝者達:その1 美福門院得子と藤原忠通

亡き鳥羽院の勢力を引き継いだ美福門院得子(女優松雪泰子)並びにその一派は明らかに保元の乱の勝者であった。そして敗者は待賢門院璋子(女優檀れい)の一派である。当時の政界は共に今は亡き鳥羽院の中宮であったこの二派に分かれていたと言っても過言では無い。この二人の中宮の闘いの結末については別項で述べた通り、美福門院得子が勝利を収めた。保元の乱の実質的盟主は“美福門院得子”と言われる程に、美福門院得子の影響力が大きかった事は“保元の乱“における後白河天皇側の武士の集まり具合からでも明白であった。

関白藤原忠通(俳優堀部圭亮)は美福門院得子と組み“仁和寺の利発少年”守仁親王(美福門院得子の養子で後白河の皇子、後の二条天皇)を近衛天皇崩御(1155年)に際して後継天皇候補として考え、“繋ぎの天皇”として後白河天皇を実現させた事は述べた通りである。

藤原忠通と美福門院得子とは崇徳上皇の皇子重仁親王が天皇と成る事を阻止する事で利害が一致していたのである。藤原忠通としては入内させた娘聖子とは別の女房が崇徳上皇との間に“重仁親王”をもうけた事に恨みを抱いていたし、美福門院得子にとっては崇徳が天皇時代に自分の身内を冷遇した事で恨みを持つていた。

従って、万一にも“重仁親王”が天皇になれば崇徳上皇が“院政”を行う資格のある上皇になる。それは何としてでも阻止せねばならなかったのである。

勝者側に付いた藤原忠通に対して7月⒒日の午後になって彼が父親忠実から剥奪され、弟の藤原頼長に与えられていた“摂関家の氏の長者=家長“に再び任命する旨の宣下が後白河天皇から出された。

しかし誇りある“摂関家”の“氏の長者”を天皇が任命するという事態は、如何に凋落した“藤原摂関家”ではあっても、かっての藤原道長時代の栄華を思えば屈辱この上無い事であった。

従って関白忠通はこの宣下を即座には受領しなかった。そうして漸く八日後になって受領したのである。忠通としてはあくまでも“氏の長者”の譲渡は実父、藤原忠実から受領したかったのである。

9-1勝者達:その2 信西入道

信西入道の台頭については既に記したので省略するが、後述する“敗者”に対する厳しい処分は殆ど“乳父母”であった信西入道の発案を後白河天皇が聞き入れたものである。奈良時代の淳仁天皇(廃帝)以来となる崇徳上皇に対する“島流し”という厳しい処分も、薬子の変(809年)以来、公的には行われていなかった“死刑”を復活させ、源為義、平忠正等、敗者側の武士に課した“斬首の刑”も全てが信西入道の発案であった。

勝者側として事実上の実権を得た“筆頭格”は信西入道であった。彼は保元の乱に勝利した直後から摂関家の徹底した弱体化をはかる一方で“天皇親政”という彼が理想とする国家づくりを目指して絶大な権力を振るうのである。

信西入道は朝廷の権威高揚の一環として伝統的朝廷行事の復活に力を尽くしたとされる。NHK大河ドラマ“平清盛”のシーンに朝廷の伝統的行事であった“相撲節会”を信西入道が清盛の財政面での協力を得て指揮をしていた場面があったが、史実にも記録されている。

信西入道については更に5-3項の“平治の乱”の処で触れるのでここでは省略する。


10:保元の乱における敗者達、並びに“武士層”の社会的地位の変化

保元の乱の勝者として平清盛、源義朝など“武士層”の勝者については敢えて記述しなかった。その理由は、この戦いは“武士層全体が勝者”だったとも言えるからである。確かに後述する様に、源氏も平氏も親子、兄弟、親族が敵と味方に分かれて保元の乱を戦った。従って敗者側に付いた武士達は斬首されたのである。

しかし、こうして武士達が勝者、敗者とに分かれた理由は、平氏の場合も源氏の場合も、保元の乱の前に後白河天皇側に雇われていたのか、崇徳上皇、藤原頼長側に雇われていたかに拠って運命が分かれただけなのである。敗者側の武士達に歴史的に特別な意味は無いのである。

保元の乱は“天皇と元天皇”の戦いであった。初めて武士層が皇位継承問題に直接の係りを持っ戦いに参加したその“名誉感”に源義朝は昂揚していた事が“愚管抄”の記述にある。まさに“武士層”が日本の歴史を左右する存在にまで台頭するきっかっけとなった“歴史的に極めて意味の大きな戦い”だったのである。

河内祥輔氏は“武士のアイデンテイテイー(独自性)を確立した事件”と称している。又“愚管抄“には戦闘開始の命令が漸く出た時の源義朝の言葉が書かれている。要約すれば”これまで幾度も戦闘に臨んだが、何時、この戦闘が私闘として朝廷から罰せられるか、を恐れながらの戦いであった。しかし、今度の戦いは全く違う。崇徳という天皇(元)を敵にする皇位継承問題に係る戦いなのである“という内容である。

まさに勝った方も負けた方も武士としての誇りの中での戦いだったのだ。

確かに保元の乱に於ける源義朝の奮闘ぶりは平清盛に比べても際立っていた。夜襲を信西入道に提案し、これが後白河天皇に受け入れられ、決行となった。これに対して半ば貴族化していた清盛はじめ伊勢平氏側の目立った戦功は記されていない。敵方の強弓の源為朝の力に押されて退散する記事が見られる程である。

いずれにしても“保元の乱”は私がこの著作の“中巻”の第五章、第六章の共通テーマとした“武士層の出現によって始まった混乱と闘争の500年の歴史”の端緒となった戦いであった事は間違い無い。その意味から“武士層”全体としてそれまで天皇家と貴族だけが日本の政治を動かしていたという状況に“武士層”がそこに加わった、という大きな一石を投じたという意味で“武士層の皆が勝者”であった言えるのではなかろうか。

現実的には敗れた崇徳上皇、藤原頼長側に付いた武士達は厳しく処罰された。単純に藤原頼長に雇われていたという関係から“勝者”になれなかった武士達である。しかも“後白河天皇に直接、刀、弓矢を向けた”という理由で、敗れた側の武士達には斬首という極めて重い“刑”が課されたのである。

以下に、改めて“敗者”となった人達について武士達も含めて記述して置こう。

10-1:敗者達 その1 崇徳上皇

敗者の筆頭は崇徳上皇である。燃え盛る中、白河北殿から脱出し、待賢門院璋子を同じく母とする弟の入道親王覚性(かくしょう)の居る仁和寺に辿りつき出家をしたという。ここで後白河天皇への取り成しを依頼したが拒否され、しかも後白河天皇側に引き渡された。そしてこの仁和寺から直接讃岐国への配流という厳しい処分となったのである。7月23日の夜、崇徳上皇は近習僅か数名と女房3人だけを従えて牛車で仁和寺をあとにした。

天皇経験者が島流しにあった例は、第四章で記述した奈良時代の764年に孝謙上皇と僧道鏡との寵愛関係を批判し、その後の政争の結果敗れ、廃帝とされ、淡路島に配流された淳仁天皇以来の事である。崇徳上皇は尊号剥奪という処分までにはなっていない。従って“島流し”という刑は元天皇であった者に対する処置として異例の厳しい処分だと言える。

2014年3月に淡路島の淳仁天皇御陵を訪ねた。何しろ“廃帝”とされ、1300年近くも経っているので、その“御陵“として伝えられる地は数か所あるが、公式なものとしては、南淡路市賀集にある”淡路陵(あわじみささぎ)と伝えられている。明治天皇が“淳仁天皇”の諡号を賜れた。御陵の形も他の天皇の御陵と同じく“山形”の御陵であった。

こうした極めて厳しい処置となったのも、奇異で且つ難しい気性の人物と伝わる後白河天皇とそのブレーンであった新興の信西入道という共に異色の人柄の政治チームだったからこそ行えた処置であり、伝統に基づく摂関家の関白藤原忠通には到底下せない厳しく且つ異例の処置であった。

そして悲運の崇徳上皇は讃岐の地で8年後に憤死という結末を迎えるのである。


10-1:敗者達 その2 藤原忠実

保元の乱の武力衝突が開始された1156年7月11日に父親、藤原忠実はこの時点で既に79歳の当時としては超高齢者であった。崇徳上皇側に付いた弟藤原頼長を溺愛していた藤原忠実は武力衝突が開始されたという報を得た後に宇治から奈良に逃れたのである。この事が彼の立場を決定的に悪くした。

奈良は藤原北家の氏寺であり、僧兵等の強大な軍勢を動かす事が出来る“興福寺”のある場所である。従って忠実は奈良の僧兵等の軍勢を求めて逃げたと見做され、弟頼長と共に後白河天皇側からは“謀反人”と見做される結果となった。

7月11日の午後には既述した様に摂関家“氏の長者”が天皇の宣下という形で頼長から剥奪され、後白河天皇側に付いた藤原忠通に受領された。さらに父藤原忠実と弟の左大臣藤原頼長の所領、荘園は全て没官(没収)されるという厳しい処置となった。要するに伝統と名誉を誇る摂関家が丸裸にされたのである。

しかしこの没官された所領、荘園は改めて摂関家の“氏の長者”となった長男藤原忠通に移行されたので、かろうじて摂関家としての財産は守られたのである。

1027年12月に道長が62歳で没してから130年、栄華を誇った藤原摂関家はこの時点で完全に天皇家の風下に置かれる立場に凋落した処置であった。これらの処分も新興勢力の代表である“信西入道”が中心となり、後白河天皇のブレーンとして発案したものである。

滅亡してもおかしくなかった摂関家はかろうじて藤原忠通のお蔭で丸裸にされる処を逃れた。そして後に藤原忠通が藤原摂関家を分けたお蔭で以後は名ばかりの摂政関白職に順番に就き、又、有職故実を伝える家柄として生き延びる事が出来たのである。明治時代まで“五摂家”として残った近衛、鷹司、九条、二条、そして一条家の五家である。

7月15日に父親、忠実も頼長同様、“謀反人”と正式に決定された。かっては関白を務めた事もある藤原忠実はこうして謀反人として“知足院”に幽閉され6年後に85歳の人生を閉じたのである。

10-1敗者達:その3―藤原頼長

保元の乱の4時間に及ぶ武力衝突で首領級の死傷者は無かったが、左大臣藤原頼長は燃え盛る白河北殿からの脱出には成功したが、逃げる途中、後白河天皇側の武士の放った矢が頚(くび)を射た。頼長家の家司(家政を司る職員)が矢を抜くなど手当てをしたが血が吹き出し、頼長は瀕死の状態に陥る。“保元物語”によればここで死を悟った頼長は溺愛してくれた老父(この時点で79歳)忠実に一目会いたいと従者に伝える。牛車、小船を乗り継ぎ、瀕死状態の頼長は漸く奈良に居た父忠実の館に着いた。ところが父忠実はその藤原頼長に会う事を拒絶したのである。

この場面も2012年のNHK大河ドラマ”平清盛”で放映された。保元の乱の主犯とされた頼長にここで会えば自分も巻き添えになる事を回避しようとした父、藤原忠実が保身をはかっての苦渋の会見拒否の場面であった。“会う事は出来ない“との無慈悲な父忠実(俳優國村隼)の答えを聞かされた頼長(俳優山本耕史)はその場で舌を噛み切るという場面でドラマは終わった。“保元物語”では頼長はその後、藤原北家の氏寺である興福寺に救いを求めたが同じく“巻き添え”を嫌う寺側から拒絶される。そして保元の乱の7月11日から3日後の7月14日に37歳の人生を終えたと記している。

この保元の乱は“武士層“全体のアイデンテイテイーを挙げる事になった戦いであった。従って武士層全体が”勝者”と言えると記した。しかし個々の武士としては不運にも仕えた側が敗者だった為、厳しい“斬首刑”に処せられた者もいた。

以下にそれらの人々についても記して置こう。


10-1敗者達:その4 源為義

NHK大河ドラマ”平清盛”で俳優小日向文世が源為義の役を演じていたが、嫡男で意気軒昂な源義朝(俳優玉木宏)に常に尻を叩かれ勝ちの冴えない感じの父親役を好演していた。源為義が置かれた状況は“八幡太郎義家”として前九年の役(1051年~1062年)を鎮定し、全国にその名を馳せた祖父の時代とは大いに異なっていた。源為義の父、源義親は既述した様に乱暴狼藉の末に白河院時代に朝敵とされ追討されている。その追討使に任じられたのが平忠盛(清盛の父親、俳優中井貴一)であり、それが忠盛の出世を加速させた訳であるから為義の時代は上り坂の平氏と凋落の源氏という真逆の両家の状況だったのである。

しかも、問題多き父、源義親の四男であった源為義も何かと問題の多い人物であった様だ。度々失敗や不祥事を起こした為、最初は白河法皇、鳥羽上皇に仕えたものの、終に“院“の信任を失い解任されるという始末であった。以後、摂関家の藤原忠実、頼通父子に拾われ、忠実、頼長父子の警護に始まり、摂関家の荘園の管理など、主として摂関家の家政や警察権を行使する役割を担う様になる。

一方、ライバルの平忠盛(俳優中井貴一)はこの時点で、白河院、鳥羽上皇に重用されて出世階段を駆け上って行った時期であり、既に”受領“を歴任していた。こうして清盛の父、平忠盛と義朝の父、源為義との間には歴然たる差がついていたのである。

この源為義が摂関家の藤原頼長に仕えた時期は1143年からだと記録にある。保元の乱まで凡そ13年間の主従関係にあったのである。こうした関係から、嫡子源義朝(俳優玉木宏)を除く、源為義の一族は保元の乱で崇徳上皇、藤原頼長側に付いて戦ったのである。

NHK大河ドラマ”平清盛”の場面でも義朝(俳優玉木宏)が何かと不甲斐ない父親、源為義(俳優小日向文世)に厳しく接する様子が描かれていた。保元の乱で、何故、長男の義朝は父親、源為義並びに弟達と分かれて後白河天皇側として戦う事になったのであろうか。

後に鎌倉幕府を開く事になる源頼朝はこの義朝の三男である。頼朝が鎌倉幕府を開く事が出来たのはこの父親、源義朝が築いた種々のベースがあったからである。

源氏は陸奥の国で起った前九年の役(1051年~1062年)で河内源氏の源頼義、義家父子が安倍氏を討伐した事で有名を馳せた。取り分け、義家は八幡太郎義家として英雄視されたがその子源義親の代になると既述した様に朝敵となり平忠盛によって討伐されるという有様で源氏の中央に於ける地位は凋落した。義朝の父親、為義も記した様に河内源氏のそうした立場を再び浮揚させる様な有能な人物では無かった。

この為義の長男が源義朝である。NHK大河ドラマ”平清盛”では若き平清盛が随分この義朝に触発される様子を描いていた。二人の年齢は平清盛が1118年生まれ、源義朝が1123年生まれであるから清盛の方が5歳年上である。京の都では冴えなかった父親、為義とは行動を共にせず、義朝は東国で源氏の地盤作りを行い、成果を上げ、再び京の都に戻って来たのである。

義朝によって“河内源氏”としての基盤が東国に築かれた。後に源頼朝が源平の合戦で伊豆から旗揚げし、その後進撃する事が出来たのも父親、源義朝が相模の国一帯をはじめ、南関東の武士団を統率する強固な基盤を確立していたからなのである。

東国での源義朝の活躍は京の都でも知られる程のものであった。こうして祖父以来地に落ちていた源氏の地位回復の足掛かりを築いたのがこの源義朝(俳優玉木宏)なのである。熱田大宮司の娘、由良御前(女優田中麗奈)と結婚、1147年、24歳の時に頼朝(俳優岡田将生)が生まれた。この正室由良御前の実家が鳥羽院の近臣だった事が幸いして鳥羽院(俳優三上博史)、藤原忠通(俳優堀部圭亮)にも接近、中央でも義朝は目覚ましい出世をして行くのである。
1153年には30歳で官位も従五位下に到達、祖父源義親が失って以来50年振りの“受領”に就任、下野守に任じられるという順調な出世振りであった。

父親為義と嫡男義朝の紹介の記述が長くなったが、以上の話から“保元の乱で何故源義朝は父親源為義、並びに兄弟達と袂を分かって後白河天皇側に付いたかが理解出来たと思う。

中央における地位の上でも義朝は検非違使に過ぎなかった父親、源為義を超えた。こうした義朝の急激な出世の背景には、当時勢力を増しつつあった寺社勢力の鎮圧をする為にも、そして前項5-1項で記述した“院政”のベースである“院領荘園群”を管理する為にも、鳥羽院にとっては源義朝や平清盛のような頼りに出来る“武士層の武力”が重要だったという事情があった。

こうした点からも院から解雇され、藤原忠実、頼長に窮地を救われた立場の父親、源為義と、河内源氏の再興と更なる興隆を目指す義朝との間には次第に対立が深まって行ったと伝えられる。父、為義は保元の乱で敗れた後、義朝のもとに降伏し出家する。義朝はこの父親、並びに弟達の助命を嘆願するが聞き入れられず、源為義並びに為義と行動を共にした弟達は1156年7月30日に源義朝の手によって斬首の刑に処されたのである。

10-1敗者達:その5 平忠正

平忠正についてもNHK大河ドラマ”平清盛”を1年間視聴された方には印象が残っていると思う。歴史の教科書には余り登場しない人物であるが、俳優豊原功補が清盛の叔父役で保元の乱では自分の四人の子供と共に崇徳上皇側に付き、敗れ、7月28日に甥の平清盛によって斬首の刑にされた“平忠正”を好演していた。

平忠正は平清盛の父親、平忠盛(俳優中井貴一)の弟である。源為義の経歴と似ていて、最初は白河法皇に仕え、後の1133年には鳥羽上皇に仕えたが解雇された事が権中納言源師時の日記である“長秋記”に載っている。この日記の著者である源師時(生1077年没1136年)という人物は白河法皇の皇女、令子内親王に30年も仕えた人物である。

又、この人物は“古事談“に書かれた逸話にある白河法皇が寵愛したとされ、その後孫の鳥羽院に中宮として祖父白河法皇から下げ渡されたとされる”待賢門院璋子“の別当であった人物であるから彼ほど“後宮”の事情に詳しい人物は居ないと言えよう。

“長秋”という言葉は“皇后宮”の“唐名”である。“平忠正”についての史料は余り無い中で“長秋記”に書かれた内容は信用出来ると考えられるのである。

平忠正は源為義のケースと良く似た経緯で、院の近習としては評価されず解雇された。その平忠正を雇ったのが摂関家の藤原頼長であった。NHK大河ドラマ”平清盛”では平忠正(俳優豊原功補)が、兄、平忠盛(俳優中井貴一)が平家の血統で無い(ドラマでは既述した様に白河法皇と白拍子舞子の子と設定されていた)清盛を嫡子として扱う事に何かと批判的な立場の役柄を演じていた。

平忠正は藤原頼長(俳優山本耕史)に拾われ、仕えた。そしてこの関係から忠正の長子長盛は崇徳上皇の蔵人を務め、次男正綱は藤原頼長の侍所に務める結果となった。平忠正はじめ4人の子供全員が保元の乱で崇徳上皇、藤原頼長側に付いたのは自然の成り行きだったのである。

この様に保元の乱で、源氏も平氏も後白河天皇側と崇徳上皇側に分かれて戦った事を“源氏、平氏共に二手に分かれる事で”お家“を絶やさない様にしたのだと論ずる人が居るが、上記の経緯からも、そうでは無く、単純に仕える人の側に付いた訳で、自然の流れであった事が分るであろう。

戦いに敗れた後、平忠正並びに4人の子供達全員も一端は伊勢に逃れたが、一族の棟梁である平清盛を頼って7月27日に投降した。しかし、翌7月28日、平清盛自身の手で斬首の刑に処されたと“兵範記”に記されている。

ここで、源為義父子が斬首された日付よりも平忠正父子の処刑の日付が2日早いのは何故であろうかの疑問が湧いて来る。NHK大河ドラマ”平清盛”では勝者側である平清盛も源義朝も共に父親、叔父、兄弟、従兄弟などの身内が斬首刑となり、しかもその執行を自分達の手に任された苦悩の様子を描いていた。

この非情な刑を命じた“信西入道”に対する恨みと刑の執行の葛藤に苦しむ大河ドラマの場面は視聴者を感動させた訳だが、史実とは少し異なる状況だった可能性がある。

源義朝には上述した不甲斐ない父親、源為義との葛藤が以前からあったし、“保元物語”に拠れば、平清盛は父親と弟達の斬首刑の執行を逡巡する源義朝に対して、信西入道と諮って義朝が身内の斬首刑の執行をせざるを得なくする為、まず自らが率先して叔父、平忠正はじめ従弟達の斬首刑を行ったと記している。

平清盛は神経の細やかな、政治的バランス感覚の優れた親族思いの強い人物であったろうと考えられる。その根拠は次項で詳述する保元の乱以降の清盛の行動、並びにその他多くの史実からも裏付けられている。従ってこの斬首刑の場面での清盛の心情を分析すれば凡そ以下の通りであろう。

刑を決めたのは何しろ350年振りの死罪を復活させた、理想を追う独裁者、信西入道である。叔父、平忠正、並びにその子供達を斬首刑に処す事から逃れる事は最早出来ない、それならば寧ろ“率先する形で執行しよう”と清盛は割り切ったのであろう。

しかし、性根が優しい清盛であったが故にその胸中は相当に忸怩たるものがあったと思う。25年後の1181年の2月に清盛は突如原因不明の高熱を出して死ぬ。私は、清盛の高熱の原因は1180年の福原遷都以降次々と起こった身内の不幸に加えて、政敵となった後白河院との政治的確執、唯一の切り札であった高倉天皇の病気、そして崩御、そしてわずか半年後の苦渋の福原からの京への還都・・・が一挙に押し寄せた極度のストレスからだと考えている。

一体これだけの難局、重圧に耐えられる人物が他に居るであろうか。これ等についても次項で詳述するが、流石の清盛も終にそれらのストレスを背負い切れない身体状態となったのであろう。高熱の原因をマラリア感染とする説もあるが、明らかに極度のストレスから高熱が発生した事が清盛の急死の発端であったであろうと考えるのである。

11:平治の乱への前哨戦:その1 信西入道の独裁政治

保元の乱はかくして後白河天皇側の勝利となった。この結果藤原摂関家は既述の様にかろうじて財産の官没は形の上では免れた。しかし“氏の長者”までをも後白河天皇によって任命されるという権威失墜の状態となった。これに拠って形の上では“勝者側”として残ったものの、伝統的な貴族社会における藤原忠通のリーダーシップの力は消え失せたのである。

保元の乱によって旧摂関家の力を徹底的に削ぎ落とす事に注力したのは、後白河天皇の乳父母という立場から後白河天皇の信任を得、一気に政治の頂点に躍り出た信西入道であった。理想家でもある信西入道は“あるべき政治の姿”を追ってどんどん政治改革を進めて行った。“新政7カ条”は“保元新政”とも言われ、保元の乱終結後の1157年3月~10月までに亘って出された、主として“荘園整理令”に力点を置いた政策であった。

日本の国土は天皇の命によって決められるものである、という“王土思想”を殊更に強調し、後白河天皇の権力を支えようとしたのである。しかし、実態は信西入道の独裁政治であったから、反信西入道の動きも起こっていた。“平治の乱”への動きは既に始まっていたのである。

保元の乱の勝利に貢献した平清盛は播磨守に任じられ後に太宰大弐(1158年41歳)に出世した。この頃の清盛の官位については記録がないので推測となるが1146年には既に正四位下(28歳)だから上級貴族である、保元の乱(38歳)の4年後の1160年には正三位(42歳)、つまり全部で30序列のある官位で上から5番目という高位、公卿にまで登っていたという記録が残っている。保元の乱の時点での清盛は正四位上、乃至は従三位(公卿)に手の届く地位であったものと推察する。

一方、NHK大河ドラマ“平清盛”でライバルの様に描かれていた源義朝の地位はどの位だったのであろうか。

源義朝は保元の乱の直前でも従五位下、下野守に任官したばかりであった。そして保元の乱の功績で“左馬守”に任じられた。保元の乱の後に平清盛に対する評価、恩賞に比べて源義朝に対する評価、恩賞が低かった、この二人の評価、恩賞の差に対する義朝の不満が後の平治の乱の遠因だとする説があるがそうでは無い。

具体的には源義朝が“左馬守”に任じられた事に不満を持ったと言う説であるが日本全国の“武士の棟梁”を意味する“左馬守”の地位に任じられた事は源義朝にとっても“部門の誉れ”であったとする説が近年では主流であり、正しいと思う。

上述した様にそもそも保元の乱勃発時の平清盛と源義朝との二人の官位、地位には雲泥の差があったのである。5歳清盛が年上ではあるが、上記の推論でも清盛が正四位上だったと仮定しても義朝の従五位下とでは7段階もの差があったのである。

順調に祖父、平正盛や父平忠盛が“院”をバックにして平家の地位を上げて行き、その跡を継いだ平清盛と、祖父、源義親が朝敵となって追討され、さらに父親、源為義(俳優小日向文世)までもが“院”から解雇され、漸く藤原忠実(俳優國村隼)、藤原頼長(俳優山本耕史)父子に救われ、凋落途上の摂関家の家司を務めているという状況との比較をするだけでも、源義朝は平清盛と比べて、明らかに大き過ぎる程のハンデイキャップを抱えていたのである。従って平清盛と源義朝との立場の差、官位の差はとてつもなく大きかったのである。

いずれにしても保元の乱後の政治は後白河天皇の“乳父母(めのと)”であった信西入道、並びにその一統が独裁する政治に変貌して行く。理想家“信西入道”が“保元新制”と称して荘園整理令を発し、記録所を設置する等、厳しい独裁政治を行う一方で“打倒信西入道”の動きは日々強くなって行ったのである。

彼は1159年に起きる反信西入道が起こしたクーデターで抹殺されて仕舞う。従って信西入道が目指した“理想の親政”(事実上は信西入道の独裁政治)の期間は極めて短いものではあったが、大混乱期の日本の一時期の政治を動かした人物であった事は確かである。保元の乱という社会構造の大変革期とも言える混乱の中で台頭し、一時とは言え日本をリードした“院近臣”を代表する一人であろう。

信西入道は理想に燃えた、遠大な国家観を持った利発な人物であった。日宋貿易にも深い関心を寄せ、その点で同じ遠大な国家観を持つ平清盛を厚遇した。同時に信西の息子と清盛の娘が結婚し、平清盛と信西入道は姻戚関係にもなっている。

時代の先を読む信西入道は当時最大の兵力を持つ平清盛の武力に頼ろうとしていた事は明らかである。


12:平治の乱への前哨戦:その2 後白河天皇の退位と二条天皇誕生(即位1158年崩御1165年22歳)

保元の乱(1156年)直後の日本の政治体制は“院政”が中断した状態となった。鳥羽院が崩御した時には、前年に“瓢箪から駒”の後白河天皇が誕生してはいたが、まだ即位後わずか1年しか経っていなかった。美福門院得子が本命の天皇候補として推し、亡き鳥羽院も了承し、更には信西入道も納得していた“仁和寺の利発な少年=後白河天皇の実子守仁親王”はまだ13歳であった。

美福門院得子と信西入道との間の“仏と仏の評定”で二条天皇が誕生するのは1158年8月の事である。それ迄の2年間は皇太子の経験も無く政治的背景を持たずに即位した後白河天皇は事実上のお飾り的存在であった。従って信西入道の“独裁政治”の期間であったのである。保元の乱後の新体制作りは信西入道が中心となって彼の”理想の政治“を行い、後白河天皇はそれを追認するという形であった。

翌1157年には新造の内裏に後白河天皇が移り、保元の乱後の“新制35ケ条”を出して、新しい政治が行われるのだという事を天下に示したのである。こうした政治の過程で、信西入道一族の台頭は目覚ましく、この点でも“反信西運動”のマグマは溜って行った。

そして、後白河天皇が即位して3年後の1158年8月に美福門院得子と信西入道による“仏と仏との評定”(両者共が出家した立場である為、こう呼ばれる)に拠って、予定通り、仁和寺の利発な美少年、守仁親王が第78代二条天皇として即位、”中継ぎ“だった後白河天皇は予定通り、退位して上皇となったのである。

これで“院政”を行う“資格”を整えた後白河上皇は“院政”を開始しようとするのだが事はそう簡単には行かなかった。信西入道が理想の政治像として、天皇による“親政”を目指していた事、そして後白河上皇には白河上皇、鳥羽上皇の持っていた様な強い政治的背景が無かったからである。さらに後白河上皇の立場が弱かった背景には“院政“を行う“要件”の一つである、伝領されて来た莫大な“院領荘園群”を後白河上皇は持っていなかった事、更には有力、且つ、強固で確固たる“武士団”の後ろ盾も整っていなかったのである。

一方で後白河上皇の息子で新帝に就いた二条天皇には“美福門院得子”と言う養母で且つ最大の“院領荘園群”の伝領者が後ろ盾として控えていた。二条天皇は即位時点ではまだ15歳であったので直接父親の後白河上皇と政治的に対立する事は無かった。しかし政治基盤、経済基盤の弱い後白河上皇の“院政”の動きは“二条親政派”とされた人達によって強く牽制されていたのである。

この様に二条天皇の誕生によってこれまで“院政”という形で引き継がれて来ていた政治が天皇派(二条天皇派)と上皇派(後白河上皇派)とに分かれて争うという不安定な状況に陥るのである。

“二条天皇派“とは美福門院得子を後ろ盾とした二条天皇の叔父、藤原経宗であり、乳兄弟であった藤原惟方である。藤原経宗(生1119年没1189年)は後白河上皇の従兄弟で、従一位、左大臣にまで上った人物であるが私達には全く馴染みの無い名前である。

ただ、彼は後に源平合戦で平氏が滅亡し、源義経が京の都に居て、鎌倉の兄、源頼朝の逆鱗に触れ、鎌倉に入る事を許されない等、両者の関係が修復不可能な程に悪化し、終に義経が後白河院に対して兄、源頼朝追討の宣旨を出す事を求めた際に、逡巡する後白河院を説得して頼朝追討の宣旨を出させた人物なのである。勿論この頼朝追討の宣旨は直ぐに逆の展開となり、義経は奥州平泉の藤原秀衡のもとに逃げ、滅亡する事になるという御存知の展開となるのだが、これらについては第六章で記述する。

こうした状況下で、政治基盤の弱い後白河上皇が急いだのが自らの“近臣”作りであった。

NHK大河ドラマ“平清盛”では、お笑いの“ドランクドラゴン”の塚地武雄が演じた新興貴族、藤原信頼はその代表である。この藤原信頼は武蔵、陸奥を知行国としていた“受領”であった。当時から陸奥の国は良質の馬を生産する事で知られており、藤原信頼はこの知行国との関係から東国に拠点を築いていた源義朝との強い関係を築いていた。

こうした二条天皇派、後白河上皇派に分かれた状況が“平治の乱“へと展開して行く。
この時期も政治的には非常に不安定な時期だったのである。

鎌倉前期に成立したと言われる軍記物語である“平治物語“に拠れば、この藤原信頼が近衛大将の地位を信西入道に要求したが断られ、その恨みが先ず1159年12月9日に”信西入道抹殺クーデター“として勃発したと記している。

そのクーデターの首謀者であった藤原信頼と源義朝を今度は同じ月の12月25日~26日の戦いで平清盛が滅ぼすという展開の”平治の乱“が起き”平氏政権“の成立へと繋がって行くのである。

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