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2014年4月17日木曜日
第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第10項 平清盛が遺した日本の貨幣経済発展への功績
これまで記述して来た様に平清盛が、天皇家と藤原氏(摂関家)を頂点とした貴族層との“共存体制”という500年に亘った日本の伝統的政治体制を、天皇家と武士層(平氏一門)による“共存体制“という新しい政治構造に変えるという革命的事業を実現した事は、日本の政治史上、社会構造の歴史の観点からも極めて大きな足跡であった。
そうした“政治家”としての功績の他にも清盛には以下に記す“経済人”としての卓越した貢献も挙げられる。
1:大輪田泊(おおわだのとまり)整備と日宋貿易拡大
平清盛は私費を投じて大輪田泊(おおわだのとまり)の拡張、整備を行い、日本の対外貿易の重要拠点として育て上げた。大輪田泊とは、現在の神戸港西側の一部である。
2013年1月に私もこの史跡を訪ねた事があるが、古代から瀬戸内海の海上交通の要所であり、平安時代の漢学者、三善清行が914年に第60代醍醐天皇(即位897年退位930年)に提出されたとされる“意見封事(意見12箇条)”の中にも奈良時代に大僧正・行基が開いた五泊(港)の中の一つが大輪田泊であった事を記している。摂播五泊とも称された古くからの重要港であった。
平清盛は1174年にこの大輪田泊に人工島(経ヶ島)を築く等、私費を投じて整備を進めたとされる。尚“経ケ島”と呼ばれるのは安全な碇泊地としてこの人工島を築いたのであるが、難工事の為“人柱”を沈めてから工事に掛かろうという意見があったが、清盛がそれを退け、代わりに一切経の経文を書かせた石を沈めて基礎とした事に由来している。
近くの福原に“福原雪見御所”と呼ばれる私邸を建て、これを1180年6月から11月迄の短い期間ではあったが“福原遷都の皇居“として安徳天皇に提供している。こうした史跡として重要なこれらの建造物は“福原雪見御所”の史跡も今日ではその場所を示す碑が建っているだけであり“大輪田泊”も神戸港の一部としての岸壁があるだけで、当時を偲ぶ景観としては周囲に広がる瀬戸内海と背後に聳える六甲の山並み位である。
平清盛が力を入れた“日宋貿易”を開始し莫大な富を蓄え、財力と武力を清盛に引き継いだのは鳥羽院の信任が厚かった清盛の父、平忠盛(俳優中井貴一)であった。日宋貿易と繋がる海上交通ルートとして瀬戸内海が重要な役割を果していたが、沿岸の住民などが海賊活動をし、略奪活動が盛んになった時期もあった。これらの対策として朝廷は平忠盛を西海の海賊追討使に任じた。
平忠盛は追討使として海賊を退治し、降伏した海賊達を家人として組織するという知恵を用いた。こうして組織化された海賊達は後に平清盛の家人として活躍し、強力な貿易拡大の力となったのである。父・忠盛を引き継いだ平清盛は伊勢の銀を輸出する事で貿易を更に伸ばし、大宰府が持っていた対外交渉権を掌握する事でより積極的に貿易を拡大して行った。
既述した様に、1168年2月に清盛は寸白(すびゃく=サナダ虫)に因ると思われる病に倒れ、臨終出家を余儀なくされたが、奇跡的に危篤状態を脱し、その後は京の政治を平重盛はじめ一門の者達に任せ、自らは福原に定住して大輪田泊を利用した日宋貿易に専念した。
1170年には初めて宋船が大輪田泊に停泊した。後白河法皇も福原にしばしば行幸し、1170年㋈20日には宋人と接見した事が百練抄や玉葉に書かれている。天皇家が直接外国人と接見する事は第59代宇多天皇(即位887年退位897年)時代に寛平御遺戒で禁止とされた行為であった。後白河法皇も進取性の強い、型破りな人物であったから、積極的に清盛の船に商船通航許可を与える他、宋の使者にも答物を与える等、宋との正式な国交を開く事に貢献した。この様に日宋貿易は大いに拡大して行ったのである。
進取の精神を持った平清盛は武士層が政治面で主導権を握るという突破口を開き、天皇家と貴族層に拠っていた旧来の政治体制の閉塞感を打ち破るという大変革を行ったばかりか、上記の様に後白河法皇も巻き込む形で、日宋貿易を飛躍的に拡大するという大きな貢献をしたのである。
この日宋貿易に拠る特筆に値する成果が“宋銭の大量輸入”である。これに拠って日本に“本格的貨幣経済”が導入され、経済発展を大いに促す役割を果たしたのである。
2:清盛に拠る宋銭大量輸入による“日本の貨幣経済”発展への貢献
日本の貨幣経済の歴史を辿ると、米や布等の“現物貨幣”に代わって銭貨が誕生したのは第43代元明女帝(即位707年退位715年)の708年に鋳造された“和同開珎”だと一般的には言われている。
第40代天武天皇時代(即位673年退位686年)に鋳造されたとされる“富本銭(ふほんせん)”が出土した事で、こちらの方が日本最初の貨幣ではないかと話題になったが、今日現在はまだ、富本銭の用途が明らかになっていない。
中国王朝に習って貨幣鋳造権は日本の朝廷でも“国家の大権”として天皇家が専有して来たが、貨幣の原料となる銅の供給がままならない等の理由で充分な貨幣量が確保出来ず、結果として経済活動に於ける“支払方法”としての貨幣経済が発達せず“現物貨幣(米・布等)”への逆戻りという状態になっていた。
日本で鋳造された“皇朝十二銭”による貨幣経済の普及には失敗したが、清盛が宋銭を大量に輸入した事によって、次第にその利便性から、米、布の現物貨幣を凌駕する様になり、以後、徐々に日本の商業活動の発展に不可欠な血脈として“貨幣経済”が発展するという重大な切っ掛けとなったのである。
清盛が輸入した宋銭は鎌倉時代になると全国に行き渡り、商業活動の発展に著しい貢献をしたと考えられている。物品貨幣(米・布等の一般的等価物)を凌駕して貨幣としての機能を果たしていた事は事実だとされているが、室町時代になって商業活動がさらに盛んに成るにつれて“大陸からの輸入銭“という不安定さがネックとなって、宋銭の流通は次第に終焉に向かうという歴史を辿ったのである。
3:銭の病
“銭の病”という言葉がある。平清盛の時代に大量の宋銭の輸入を行った事によって、貨幣経済が一気に加速し、その結果、物価騰貴等、様々な社会現象が起きた。清盛の晩年に清盛の周囲には既述した様な不幸な出来事が重なって起きた。人々はこれらを“銭の病”だとして“宋銭大量輸入の災い”だと噂した。
又、平盛子が9歳で近衛基実に嫁ぎ(1164年)わずか2年後に未亡人となり、彼女は突如膨大な摂関家の財産を手にする。しかしその平盛子が1179年の6月に24歳の若さで没した。百練抄の記述には“盛子の死亡原因は宋からの銭に流行病の病原菌が付いていた為だと世間では噂している”と書いている。其の他、当時の経済に色々な影響を及ぼしていた宋銭の大量輸入への対応を巡って朝廷の意見が割れ、混乱した事も“銭の災い”だとしている。
更に、平清盛の嫡男重盛が1179年9月に急死し、その2ケ月後の11月には平清盛が軍事クーデターを起こして後白河法皇を幽閉するが、この事件を含めると1179年には自然災害を含めた大きな事件が重なった。当時の人々はこれら全てを“宋銭大量輸入に因る銭の病”だと噂したと言うのである。
それ程に平清盛が行った宋銭の大量輸入は当時の社会に大きなインパクトを与えたという事である。
第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第9項 平氏一門滅亡に到る最後の一年間と戦後の平氏の人々
―はじめにー
平氏一門にとって敵側であった後白河法皇にも源平の内乱(治承・寿永の内乱)を早く終息させたいと言う“治天の君”としての希望があった。又、源頼朝側にも徒らに源平合戦を続行して戦力を消耗する事には何のメリットも無かった。この様な状態であったから5-8項で記述した様に、若し平氏側に歩み寄る姿勢があったならばこの戦いを終息するチャンスは何度もあった。
平氏一門の棟梁・平宗盛の大局観を欠いたとしか思えない誤った判断で後白河法皇としても源頼朝にしても、只々“三種の神器と安徳天皇奪還”の為の戦いが続いた最後の1年間となったのである。
一方、ほゞ戦況は源頼朝軍の勝利が確定した状況になると、後白河法皇の今回の“治天の君”としての“超越的権威”発揮の行動は源氏勢力の分断に向かうのである。この5-9項では標題の様に“平氏一門滅亡に到る源平合戦最後の1年”の状況を記述するが、寿永4年3月24日(グレゴリオ暦1185年4月25日)に壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡して行く過程の記述が主題ではあるが、こうした過程でこの状況下で後白河法皇が源義経を取り込み、そして源氏という新たな“共存体制”の相手の分断にとり掛かる状況も重要である。
平治の乱の信西入道、藤原信頼、そして平清盛、木曽義仲に続いて又しても後白河法皇の“天から与えられた超越的権威”の前に振り回される人々の姿がこの5-9項でも記述される訳である。この5-9項の平氏一門の滅亡の記述の過程で次に後白河法皇に利用され、その後切捨てられる対象は“源義経”である。後白河法皇の信念とも言える“治天の君である自分には天から超越的権威が与えられている“という考えに基づく”臣下の者は国の為に利用して捨て去る“という行動もこの項のもう一方の主題である。
後白河法皇が“超越的権威”の信念に基づいて源頼朝軍の分断を謀り、源義経を囲い込む処までを記述するが、その分断行動の舞台が“平氏一門滅亡に到る”一の谷の戦い、屋島の戦い、そして壇ノ浦の戦いだったのである。
1:源平合戦(治承寿永の内乱)の雌雄を決した“一の谷の戦い”
1-(1):源義経、源範頼が頼朝の代官として入京する
木曽義仲討伐の為に源義経と源範頼が頼朝の代官として1184年1月に入京し、前項で記した様に、1月20日の宇治川の合戦、1月21日の近江国粟津の戦いで木曽義仲を討ち取った。
こうして木曽義仲が入京し、平氏一門が都落ちをし、木曽義仲が後白河法皇の信任を得ていた期間もあったが次第に後白河法皇に排除され、法住寺合戦の後に木曽義仲が60日間の政権略奪を成し、その政権を源頼朝が源義経・範頼軍によって滅ぼす等、目まぐるしい混乱の期間が続いていた。
この期間は後白河院政としても平氏一門討伐に源頼朝の軍事力を割く余裕がなかった。従ってこの期間は本格的な源平合戦が戦われた事は無く、戦闘休止状態にあったと言える。
平氏軍はこの間、既述した寿永2年閏10月1日(グレゴリオ暦1183年11月24日)の金環日食の日の“水島の戦い”で木曽義仲軍に大勝する等、都落ち以後失って来た勢力を大いに回復したのである。一時は九州の大宰府まで落ち延び、在地の武士達の抵抗にあい、ここも追われて船で流浪していた状態から、阿波国の田口良成に迎えられて讃岐の国屋島に本拠地を置き、徐々に勢力回復を計って来た。そして京の都への再入京を企てる程までに勢力を回復、福原に戻り、一の谷に城を築き、兵力も数万騎を擁する迄になっていたのである。平氏一門の支配権は瀬戸内海、中国地方、四国地方、そして九州地区に及ぶ迄に回復していた。
1-(2):実質的に雌雄を決する“一の谷の戦い”で平氏一門は大敗する・・1184年3月20日
木曽義仲の60日天下は、後白河法皇が頼みとする源頼朝軍によって追討された。義仲による幽閉から解放された後白河法皇は“三種の神器”を何としても奪還する為、それを主目的とした平氏追討の戦いを本格化するのである。“一の谷の戦い”は源平両軍が総力を結集した戦いであり、この戦いが実質的な雌雄を決する戦いとなった。以下にこの戦いの経過状況を時系列に記述する。
① 1184年1月26日:木曽義仲が近江国粟津で討死した僅か5日後に後白河法皇は源頼朝に平氏追討と“三種の神器奪還”の院宣を下した。前項で記述した様に1183年8月20日に第82代後鳥羽天皇の践祚(天皇の位を受け継ぐ事)は行ったものの、三種の神器の無い天皇家という異例の状態を一刻も早く解消した上で新帝の“即位式”をあげさせたいとの後白河法皇の執念が伝わって来る。
② 1184年2月4日:源範頼が56,000人の兵力、源義経が10,000人の兵力を率いて摂津(大阪府西部と兵庫南東部)へ向かう。これに対して平氏軍は福原の外周に防御陣を築いて待ち構えた。
③ 1184年2月7日:源氏、平氏の両軍が総力戦で臨んだ“一の谷の戦い”は4ケ所で開戦となった。東の生田口、山の手の夢野口、一の谷、そして最も西の塩谷口の4ケ所である。一番早く戦闘が始まったのは、払暁に義経部隊から抜け出した熊谷直実、熊谷直家父子が平忠度と戦った塩谷口であった。
一の谷の合戦と言うと源義経の“鵯越(ひよどりごえ)”が有名であるが、義経が本当に馬で鵯越えをしたのかどうかは疑わしい。平家物語には義経が一の谷の裏手の断崖絶壁から選りすぐった精鋭70騎を選んでその急坂を馬で駆け下った事が書かれている。“義経の鵯越の逆落し”として今日でも多くの読者から喝采を浴びる余りにも有名な場面である。吾妻鏡には“源九郎(義経)が勇士70余騎を率いて一の谷の後山(鵯越)に到着”とある。しかし実際に逆落しをしたかどうかは書いていないので史実とは断定出来ない。只、源義経が得意とした奇襲戦法によって味方をこの雌雄を決する重要な戦いで勝利に導いた事は確かな様である。
九条兼実の日記、玉葉にも源義経が一の谷を攻め落とした事が明記されている。しか
し此処でも義経が断崖を馬で逆落としをした事は書かれていない。又、実際の“鵯越”という場所は一の谷の東方8キロも離れた場所であり、義経が馬で逆落としを行ったとすれば“鵯越”では無く一の谷の背後の“鉄拐山の崖”からであろうとされる。
吾妻鏡、平家物語など文献によって平氏軍が“一の谷の戦い“で蒙ったダメージの記述には温度差があるが、平氏軍が壊滅的な大敗を喫した事は事実であり、この戦いで源平合戦(治承寿永・の内乱)の雌雄が決したと言えよう。
安徳天皇、建礼門院徳子、二位の尼(平時子)と共に戦況を沖合の船で見ていた総大将の平宗盛は敗北を悟り再び福原を放棄して四国の屋島へと向かった。源氏軍にとってこの戦いの主要目的は後白河法皇からの至上命令であった“三種の神器”の奪還であったが、今回もそれに失敗した事で、源平合戦としての雌雄は決したものの“三種の神器”の奪還が成るまでは更なる追撃をせざるを得なかったのである。その結果平氏一門の滅亡に繋がる屋島の戦い、そして安徳天皇の入水をはじめ平氏一門の滅亡へと繋がる壇ノ浦の戦いへと尚も戦いは続き、悲惨な結末が展開される事になるのである。
この戦いに関して注目すべき事として、平氏軍の副将で平家の棟梁・平宗盛の弟の平重衡が東の生田口の戦いで梶原景時・畠山重忠の大軍との戦いに敗れ、捕虜となった事が挙げられる。後白河法皇は平宗盛に対して捕虜にした平重衡と“三種の神器”との交換をする交渉をしたが、平宗盛は拒絶した。
拒絶の理由は、後白河法皇が一の谷の戦いの開戦前に平氏軍を騙したという事にあった。一の谷の戦いの前日、1184年2月6日に平氏一門は3年前の1181年2月4日に急死した平清盛の法要を営んでいた。そこに後白河法皇の使者が現れ“源平の戦いの停戦命令”を伝えた。これを信じた平氏軍は大幅に武装解除をした。ところが一方で後白河法皇は源氏軍に対して“三種の神器”の奪還を至上命令とする平氏討伐を命じていたのである。
こうした二枚舌は後白河法皇が過去の争いで何度も用いた“我には天から超越的権威が与えられている”との確信に基づいた“治天の君に臣下の者は従うべし”とする行動である。この言葉を信じて平氏側は武装を解き、和解策を講じていた処に源義経、範頼軍の奇襲、急襲があった為、平氏軍は壊滅的大敗を喫したという事である。
流石のお人好しの平宗盛も立腹し、以後一切、後白河法皇の言葉を信じないという事になったという。数度にわたる“三種の神器の返還交渉”に応じないばかりか、ますます抗戦の姿勢を強めて行った理由はこうした後白河法皇に対する徹底した不信感を抱いた為であろう。
こうした“後白河法皇の騙し戦法”が一の谷の戦いに於ける平氏軍の惨敗の原因だとする研究者は“鵯越”の真偽も含めて、一の谷の戦いに於ける源義経軍の大勝は、必ずしも義経の武将としての卓越した能力だけに拠るものでは無いと主張している。
④ 熊谷直実と平敦盛の逸話について
“一の谷の戦い”での別の有名な逸話として16歳の美少年、平敦盛と熊谷直実の話が源平盛衰記、平家物語の双方に書かれている。塩谷口で開戦の一番乗りを果たした熊谷直実(生1141年没1208年)が敵を探していると、馬に乗って沖の船に逃れようとする一人の武者を発見する。その武者に熊谷直実が“返せ!返せ!”と叫ぶとその武者は陸に引き返し熊谷直実と組み合いになった。
猛者として名高い熊谷直実にとってこの平氏の武者は到底敵では無く、忽ちの中に直実によって組み伏せられた。そしてまだ16歳の少年、平敦盛だと分かるのである。熊谷直実は自分の息子、直家と同じ年齢の平敦盛を討ち取る事を憐れみ、その場から逃がそうとするが、他の源氏の武者の手前もあり、泣く泣くこの年若き美少年、平敦盛を討ち取るという話である。熊谷直実は武士の世の無常観から後に出家をして高野山に入り、平敦盛を生涯供養したという有名な話である。
史実として熊谷直実は確かに出家をし“蓮生”と称して浄土宗の開祖、法然(生1133年没1212年)に仕えている。しかし、熊谷直実の出家の本当の理由は平敦盛を討ち取った事では無く、1192年に伯父の久下直光と所領の境界を巡っての訴訟となり、口下手の熊谷直実は源頼朝の前で行われた訴訟弁論の席上、腹を立ててその場で髷を切り、そのまま逐電したというのが真相である。その場の熊谷直実の言動に源頼朝も呆気にとられた事が吾妻鏡にも書かれている程、熊谷直実という人物は剛直で純朴な人柄であったのであろう。
能の演目“敦盛”で有名なこの美談も残念ながら史実とは異なる様である。しかし高野山には現実に熊谷直実の墓と平敦盛の墓が並んで建っている。又、生涯を通して全国に10以上の寺院を開基した程、仏教に帰依した人物であるから、熊谷直実(法力房蓮生)が生涯、平敦盛の供養をし続けた事は事実であろう。尚“埼玉県熊谷市“の名は彼が本拠地とした”武蔵国熊谷郷“から来ている。
2:屋島の戦い・・寿永4年2月19日(グレゴリオ暦1185年3月22日)
2-(1):屋島の戦いが開戦される迄に1年間の休戦期間があった理由
一の谷の戦いが寿永3年2月7日(グレゴリオ暦1184年3月20日)であるから、源氏軍として雌雄を決した戦いに勝った勢いに乗じて何故、一気呵成に平氏一門を追い、後白河法皇からの“三種の神器奪還命令”を果たさなかったのであろうか。
それは“一の谷の戦い”で大敗し、壊滅的なダメージを蒙った平氏軍ではあったが、伝統的に強力な水軍を擁し、瀬戸内海の制海権はまだ握っていた。そして敗戦後に讃岐国・屋島(現在の高松市)に逃れ、ここに安徳天皇の内裏を置き拠点とした他にも、長門国彦島(山口県下関市)に拠点を持つ等、兵力的にもまだまだ蓄えがあったのである。
一方の源頼朝軍は十分な水軍を保有しておらず、屋島、彦島の平氏一門の拠点を陥落させるだけの戦闘能力がまだ整っていないとの判断の結果、1年間もの長い間の休戦状態となったという事である。
2014年の3月に私もこの地を訪れたが“屋島ドライブウエイ”の側道の150号線を北に走ると安徳天皇社と書いた100坪程と思われる小さな神社がある。そこに掲げられた案内板には、“平宗盛が後ろに険しい屋島の峰があり東に八栗の山が控え要塞として地の利を得た場所として寿永2年(1183年)この地に安徳天皇の行宮を建て、陣営とした”と記されていた。
小さな安徳天皇社をお参りしながら、一の谷の戦いで大敗し、再び漂浪の旅となった未だ5歳だった安徳天皇や29歳の母親・建礼門院徳子、58歳になっていた清盛の継妻・平時子(二位の尼)達はさぞ心細い思いでこの地に居たのであろうと思わせる史跡であった。眼前には瀬戸内海の入江が広がり、切り立つ八栗の山が望める。湾内は埋め立て地や防波堤などが出来ていて、830年前の様子とは相当に変わっているのであろうが、それでも屋島の戦いが展開された場所だという景観は僅かに残っている。
屋島ドライブウエイをJR屋島駅方面から北に少し走ると、奈良時代に中国から招かれた名僧・鑑真が、伽藍建立の霊地を開創した事を起源とする四国84番札所の屋島寺がある。隣接して立派な宝物館があり、那須与一の子孫が寄進したとされる源氏の白旗や、土佐光起筆の屋島合戦屏風などが多数展示されている。
2-(2):休戦状態の1184年に後白河法皇が決断した重大事項・・第82代後鳥羽天皇
の即位
流浪状態の平氏一門にとって休戦状態であった寿永3年(=元暦元年)7月28日(グレゴリオ暦1184年㋈4日)源氏による“三種の神器奪還”を待ち切れなくなった後白河法皇が三種の神器の無いままで、後鳥羽天皇の“即位式”を敢行した。この事は平氏一門にとっても重大事であった。1年前の1183年8月20日に後白河法皇は後鳥羽天皇の践祚は敢行している。何故今回の“即位式”が“三種の神器無しに”行われた事が平氏一門にとってそれ程に重大事なのであろうか。
天皇家に於ける皇位継承に係る式事の中で、践祚(せんそ)の践とは“ふむ”事を意味し、祚とは“東側の階段”の事を意味する事から“東宮(皇太子)が正式の天皇になる”という事を意味するとある。桓武天皇以前は践祚の式と即位の式は同じ日に行われていたが、後に別の日に行うのが常例となったという。一方の“即位”は践祚した後に位に即(つ)く事を意味する。つまり、践祚は天皇家の内で天皇家の始祖に対して自分が皇位を継承する事を報告する式事であり、即位式は天皇に即(つ)いた事を世間(百官)に伝える儀式である。言わば践祚は天皇家一族の“内向き”の儀式であり、即位は世間・公に対する“外向き”の儀式だという事である。
従って第82代後鳥羽天皇の即位式が1184年9月4日に行われた事を以て平氏一門が“三種の神器”と共に奉じて西海に逃れている第81代安徳天皇は廃されたにも等しい事を意味した。平氏一門にとって正当性の拠り処であった“天皇家との共存体制”という形が崩れた事を意味し、平氏一門と天皇家(=朝廷)との関係が決裂した事を意味する重大な事柄だったのである。後白河法皇は安徳天皇の“廃帝”は行っていない。従ってこの時期に日本には二人の天皇が同時に在位していたという異常な事態となったのである。
2-(3):1184年に生じたもう一つの重大事・・後白河法皇が仕組んだ(?)源頼朝と源
義経の間の亀裂のはじまり
源平合戦がほゞ1年間、休戦状態だった1184年に源氏側にとっても後に重大な事態に発展する状況が生じた。トラブルは1184年8月に後白河法皇が京の都の治安維持の為に源義経を必要と判断し、彼を左衛門少尉・検非違使に任じ、これを義経が鎌倉の源頼朝の許可を得ずに任官した事に始まる。この事が後に源頼朝と義経との修復不可能な亀裂となって広がり、5年後の1189年閏4月に義経が滅亡する事に繋がるのである。
何故、源義経が京の治安維持の為の検非違使に任じられたのかについて説明して置こう。
1183年7月に木曽義仲軍との戦いに敗れ、都落ちをして西国に逃れた平氏一門だが、元々の本拠地である伊勢・伊賀の両国には気骨のある、昔から平氏一門に恩顧を感じている平氏の家人達が多く残っていた。
彼等は京の平氏一門の都落ちの後も長期間に亘って京の周囲に潜伏し、蜂起し、京の都を中心に反乱を繰り返したのである。この乱は“3日平氏の乱(みっかへいしのらん)”と呼ばれるが、これら一連の平氏残党による乱は3日間で終わる様な短期間の乱では無く、長期間に亘って治まらなかったのが実態であった。話は少し横道に外れるが、では何故“3日平氏の乱”と呼ばれるかについての原因は平家物語にあるとされる。
平家物語の著者が1184年7月以降に起る一連の平氏残党による反乱を“3日平氏の乱“と誤って書いてしまった為に長期に亘った平氏の残党による一連の反乱も、以後その様に呼ばれる様になったという事である。では何故こうした誤りが生じたのであろうか。それは鎌倉時代に入った1204年に伊勢・伊賀の平氏一門の残党“若菜盛高”が鎌倉幕府に対して蜂起した、本当の3日間の反乱があった。この乱こそが正真正銘の“3日平氏の乱(鎌倉時代)”であったのだが、この事件と一緒くたにされたのである。
歴史辞典を引くと今日でも“3日平氏の乱”として“平安時代”“鎌倉時代”の二つが出て来る。
治承・寿永の乱(源平の内乱)の戦いの一つとされる“平安時代の3日平氏の乱”は1184年7月7日以降に起こる長期に亘る平氏一門の残党による抵抗戦であるが、教科書でも余り取り上げられておらず一般的には知られていない。従って我々は平氏一門は源平の戦いに敗れ、あっさりと滅亡したと考え勝ちである。しかし、平正盛、平忠盛、そして平清盛と三代に亘って繁栄を積み重ね、全国規模にまで及んだ平氏一門、更には短期間とは言え、初めての武士政権を成立させた平氏一門という大勢力がそう簡単に消滅する筈が無いのである。
平氏一門の本隊は既述した経過を辿って源氏に拠る討伐に会って敗れ、京の都を落ち延び、九州、西国に流浪する事態に陥ったが、平氏発祥の地である伊勢・伊賀では残党がその後も永い期間に亘って激しく京周辺で抵抗を繰り返していたのである。
1184年7月7日の反乱(3日平氏の乱)では“平家継”を大将軍として源氏方の伊賀の守護の大内惟義を襲い多数を殺害した。又、平信兼の一派が伊勢に派遣されていた源氏方の御家人・大井実春を鈴鹿山に襲うという事件が連続していたのである。こうした状況に後白河法皇は恐れと動揺の日々であった事が玉葉に記されている。
1184年7月19日に上記“平家継”が近江国(滋賀県)大原荘の合戦で終に討ち取られ、梟首されたという記録が残っているがこの戦いで討ち取られた数人の侍大将の中に“家清入道”という人物が含まれている。この人物が平頼盛(俳優西島隆弘)の家人・平宗清(俳優梶原善)の子息であった事も判明している。要するに名門伊勢、伊賀の平氏一門の抵抗はそれ程に根強いものだったのである。
1184年8月3日、平氏一門の残党に拠る京周辺での反乱の事態を重く見た源頼朝はその中心人物である“平信兼”の捜索を源義経に命じた。義経は先ず平信兼の3人の子息を斬殺し、8月12日には平信兼本人の追討に出撃した事が山槐記に記されている。伊勢国の滝野城に立て篭もった平信兼はじめ100騎以上が激戦の末、源義経軍に討ち取られたという事が源平盛衰記に記されている。
この様に平氏一門の残党に悩まされた後白河法皇は、反乱が続く最中の1184年8月6日、京の都の治安維持の為に源義経を左衛門少尉・検非違使に任じたという流れの話である。この任官の僅か三日前の8月3日に鎌倉の源頼朝は義経に対して“平信兼追討”を命じていたのである。その3日後の8月6日に、義経が後白河法皇からの検非違使への任命を源頼朝の承諾無しに受けてしまった事になる。
こうした源義経の組織人としての“鈍感さ”が彼の命取りになって行くのである。後白河法皇という人物が“超越的権威”の信念の下に、平清盛、木曽義仲を利用し、次々と切捨てた事を知っていた源頼朝はこの二人が陥った失敗を繰り返すまいと後白河法皇との距離を置く事を最重要視していた。ところが京の都に頼朝の代官として残した弟の源義経はそうした頼朝の意を解せず、後白河法皇の術中に嵌り、近臣的立場として取り込まれ、鎌倉の源頼朝の意に逆らう結果となって来ていたのである。
吾妻鏡によると、1184年9月9日に源頼朝は討伐した平信兼はじめ平氏の家人に属していた所有地を義経が支配する事を許す書状を出している。この時点で源頼朝は京の代官・義経が頼朝に無断で後白河法皇から官位を受けてしまうという“鈍感さ”には目をつむり、ギリギリの忍耐で義経を許していたという事である。
ところが当の義経は同じ9月に、又しても後白河法皇から従五位下の官位を得たばかりか、10月には昇殿を許され、後白河法皇の側近的立場として更に取り込まれて行く事を平然と行うという始末だったのである。
この辺が後白河法皇という人物の凄さなのであろうか。“天から超越的権威を与えられている治天の君”であるから、余りにも源氏勢力が強大に成ることは望ましくなく、ここでお人好しで政治的には鈍感な義経を掌中に納め、手ごわい源頼朝と分断する事を画策したのかも知れない。
これ迄に京に代官として残る源義経を最大限利用して、平氏一門の残党、平家継と平信兼を滅ぼした後白河法皇であったが、まだもう一人強力な平氏の家人が残っていた。“NHK大河ドラマ・平清盛“では俳優、藤本隆弘が演じた”伊藤(藤原)忠清“である。彼は平維盛の乳父(めのと)であった事からも平氏軍の中心的な侍大将であった。この伊藤忠清は1183年7月の平氏一門の都落ちの際には出家し、同行しなかった。そして1年後の1184年7月19日の”平安時代の三日平氏の乱”で梟首された平家継と共に戦い、そのまま逃亡を続けていたのである。
後白河法皇は伊藤忠清の存在を非常に恐れていた。そして翌、1185年3月の屋島の戦いに出撃しようとする義経を引き止めようと必死で動いた事が伝わっている。理由は言うまでも無く義経の留守中に伊藤忠清が京を攻撃する事を恐れたからである。伊藤(藤原)忠清は平氏一門が壇ノ浦の戦いで滅亡した後も生き延びた。しかし1185年の5月に捕えられ、5月16日に六条河原で処刑された事が吾妻鏡に記されている。
2-(4):屋島の戦いの準備として水軍を整える等、海上戦の準備を完了させた源義経
“一の谷の戦い”で主力部隊を任され、東の戦場生田口で平知盛、平重衡軍と戦い勝利した源範頼はその後鎌倉に帰還していた。一方源義経はその後も頼朝の在京代官として京都に残った。義経は上記平氏の残党の討伐に任たる他、在京代官としての実務を通して広範な人脈を作り上げ、主目的の水軍整備の準備にとり掛かっていたのである。
こうした日頃の活動からも、京の都での源義経の存在感は大きく、頼朝の主力部隊を率いて戦った後に鎌倉に戻った源範頼と比較して、義経の認知度は格段に高かった。その為、一の谷の戦いに於ける“鵯越(ひよどりごえ)”などの逸話が出来る程に義経の戦功の話は史実よりも遥かに大きく、且つ誇張されて伝わったとされる面があるが、確かに在京の代官として、畿内の軍事と治安維持を任され、源頼朝からも平氏討伐の総大将とする事を後白河法皇に奏請している様に、義経の武将としての能力は卓越していたのであろう。
この様な状況であった1184年の春から秋頃迄は源頼朝と源義経との間にはある程度の信頼関係が保たれていたものと考えられる。
義経は1185年に入ると源氏の弱点であった水軍の整備に奔走する。摂津国(大阪府西部と兵庫県南東部の地域)の水軍であった渡辺党、熊野水軍、伊予水軍を味方に付ける事に成功し、平氏一門追討の最終段階の準備を完了させたのである。政治的には極めて鈍感な源義経だが武将としての戦略、戦術にかけては極めて優れた面をここでも発揮したのである。
新たに整備され、組織された源氏の水軍兵力は、摂津国の渡辺津(わたなべのつ)に集められた。現在の大阪市の淀川の河口にあった古くから瀬戸内海の交通の要衝として重要視され栄えた港である。いよいよ屋島の戦いの準備完了である。源氏軍は源範頼が3万の兵を率いて九州に渡り、平氏軍の彦島拠点(現在の山口県北西部)を攻撃し、義経軍が安徳天皇の行宮が置かれていた屋島の本拠地を攻撃する事によって平氏軍を挟み撃ちにするという作戦であった。しかし強力な水軍を持つ平氏軍の抵抗も激しく、九州の源範頼軍はなかなか進軍出来ない状況であった。従って義経軍による平氏の屋島拠点の攻略の成否は極めて重要だったのである。
2-(5):義経の屋島攻撃出陣を引き留めた後白河法皇、義経と梶原景時の確執の始まり
義経の水軍の準備が整い、いよいよ屋島に向けて出撃という直前に、上述した伊藤(藤原)忠清ら平氏残党の襲撃を恐れる後白河法皇始め公家達は義経の出撃に猛然と反対した。そして後白河法皇の使者(高階泰経)が渡辺の津を訪れ、引き止めるという事態になった事が記されている。後白河法皇の近臣同様に扱われ始めていた源義経も流石に鎌倉の頼朝の配下の武将として後白河法皇の要求を振り切り、更に後白河法皇からは平氏追討の為の出撃許可を得るという手順で屋島に出撃したのである。
この様に、義経は鎌倉の源頼朝と後白河法皇の両方に仕えるという状態にまで後白河法皇に取り込まれていたという事である。
源義経については多くの逸話が残されている。屋島の戦いの場面での逸話も平家物語に書かれている。その中で屋島攻めの軍議で源義経と梶原景時が大激論となりこれが原因で梶原景時は義経に対して深い遺恨を持っ事になったという逸話を紹介して置こう。
この激論は“逆櫓論争”と呼ばれ、内容は梶原景時が船を自在に前後に漕げる様、双方向に櫓をつけるべきだと主張した事に対して源義経は、その様な逃げる手段を用意する事は兵の士気が下がる事だと反論し二人の間で大激論の末、義経が景時の意見を退けた。これを恨んで以後、梶原景時は鎌倉の源頼朝へのあらゆる報告に源義経の誹謗中傷を書き、義経の没落へと繋がったという話である。
以上の逸話も後世の史実研究によると当時、梶原景時は源義経の配下には居らず、源範頼と行動を共にしていたという説が有力となっている。従ってこの源義経と梶原景時との大激論の場面も創作であろうと元木泰雄氏は結論付けている。
2-(6):屋島の戦い・・寿永4年2月19日(グレゴリオ暦1185年3月22日)
1185年2月18日の午前2時、暴風雨を逆に利用して、源義経は僅か5艘150騎で阿波国(徳島県)東部の勝浦に上陸したとされる。通常は3日間掛かった航路を僅か4時間で航行した事になる。先頃まで実際に航行していたエンジンの着いたフエリー船の場合でも3時間半掛かったとされる航路である。暴風雨の風を利用したとは言え、当時の船で4時間で航行したとは考えられず、今日の見解では、吾妻鏡の記述に日付けの間違いがあって“1日と4時間”の誤りであろうと結論付けている。
夜襲、奇襲戦法を得意とする源義経軍は屋島の平氏軍の布陣が手薄だった事を情報として得ていた。徹夜の行軍をして翌2月19日には屋島の対岸に至った。海上からの攻撃だけを予想していた平氏軍は干潮時を利用して騎馬で襲撃して来た僅かな兵力の義経軍の攻撃に大混乱し、屋島の内裏を捨てて庵治半島まで逃げたのである。
平家物語ではここで、那須与一の扇の的の話が登場する。余りにも有名な話であるが、平氏軍の小船の竿の先に付けた扇の的を見事に射た義経軍の那須与一の美技に浮かれた平氏軍の老兵がその場で舞い始めた。義経はこの老兵を射る事を那須与一に命じ射倒した。これに怒った平氏軍との戦闘が再開された。1185年2月21日に平氏軍は志度浦(香川県東部)からの上陸を試みるが、義経は僅か80騎でこれを撃退した。義経と大激論をした梶原景時の大規模な水軍が渡辺津から遅れて漸く到着するが、その時には既に殆んどの平氏軍は退いた後であったという。
屋島の安徳天皇の行宮も、平氏一門の本拠地も失った平氏軍は1185年3月16日に安芸国厳島に退く。九州地区もこの時期迄には源範頼の大軍が押さえており、行き場が無くなった平氏軍は長門国(山口県北西部)の彦島の拠点で孤立し、いよいよ追い詰められた状態になっていたのである。
3:壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水、平氏一門が滅亡する・・寿永4年3月24日(グレゴリオ暦1185年4月25日)
1159年末の平治の乱以降を平氏一門の栄華期のスタートだとすれば、その平氏一門は僅か四半世紀後にここで記述する壇ノ浦の戦いで栄華の象徴とも言える哀れな安徳天皇を道連れにして滅亡するという悲惨な結果になる。
繰り返しとなるが、そもそも寿永3年2月7日(1184年3月20日)の“一の谷の戦い”の敗戦で源氏側の勝利が既に決していたのにも拘わらず源平の戦い(治承・寿永の内乱)が屋島の戦い、そして壇ノ浦の戦い迄続行された理由は既述した様に、ひとえに“三種の神器”の奪還を後白河法皇が至上命令とした事、後白河法皇の言動を一切信用出来ないとする平氏一門の総帥・平宗盛が戦闘終息の術を失っていた事による帰結であった。
源平合戦の最終戦となった壇ノ浦の戦いは寿永4年3月24日(1185年4月25日)に以下の様に戦われた。
3-(1):壇ノ浦の戦いの戦況
この戦いの戦力について、吾妻鏡では平氏軍500艘、源氏軍840艘と記している。平氏軍の500艘の内訳は、松浦党100艘、山鹿秀遠300艘、平氏一門100艘である。源氏軍の840艘の内訳は、渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍から成る840艘である。源義経が短期間に整備、組織させた強力な水軍となっていたのである。
開戦の時間については、吾妻鏡では午前中に開戦し午の刻(12時頃)に終ったと記述しているが、玉葉には午の刻(12時頃)に開戦して申の刻(午後4時頃)に終ったと記されている。
戦況については潮流説が有名で、潮の流れの変化が午前中は平氏軍に有利に働き、午後に潮流が変わって源氏軍が断然有利になったとする“黒板勝美東京帝国大学教授の説”が長い間定説となっていた。最近になって海事史の専門家である金指正三博士や船舶史の専門家の石井謙治氏、東京商船大学名誉教授の飯島幸人氏の研究によって“壇ノ浦の戦い時点で潮流は合戦の勝敗には大きく影響していない”との説が優勢となって来ている。
1181年2月、平清盛の急死直後に平宗盛が後白河法皇に政権を返上した事で平氏政権は既に消滅していたが、その後4年間に亘る源平の内乱(治承・寿永の内乱)の最終戦となった壇ノ浦の戦いの敗戦を以て、安徳天皇の入水という悲惨な結果と共に平氏一門そのものが滅亡するという結末を迎えたのである。
3-(2):平氏一門の人々の戦後
寿永4年3月24日(グレゴリオ暦1185年4月25日)の壇ノ浦の戦いで入水、又は戦死した主な人々、入水後に海中から源氏方の兵士によって引き揚げられた人々、自ら生き延びた人々など、平氏一門の人々の戦後について記述する。
① :入水死した人々
・第81代安徳天皇:満6歳4カ月 在位期間 治承4年4月22日(1180年5月18日)~寿永4年3月24日(1185年4月25日)
未婚の男性天皇としては第22代清寧天皇(即位480年退位484年)と第79代六条天皇(即位1165年退位1168年)に次いで3人目であり、その後は例がない。二位の尼(平時子)に抱かれて入水、壇ノ浦の戦いの翌日に漁師達の網に遺体がかかり引き上げられたとされる。“極楽浄土という結構な処にお連れ申すのです”と言い聞かされて小さな手を合わせて念仏を唱えて入水したと平家物語に記されている。
・二位の尼(平時子):満59歳・・平清盛の継妻。愚管抄には安徳天皇を抱き、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と神璽(八尺瓊勾玉・・やさかにのまがたま)を身に着けて入水したと記されている。源氏軍は必死で八尺瓊勾玉を回収したが、宝剣は遂に回収出来なかった。鎌倉の頼朝は義経の責任としてこの大失態を強く責める事になる。
・平教盛:満57歳・・清盛の異母弟。NHK大河ドラマ・平清盛では俳優鈴之助が演じた役柄である。兄の平経盛(同俳優駿河太郎)と共に手を取り合って海に沈んだとされる。
・平知盛:満33歳・・清盛と継妻時子(女優深田恭子)の次男。勇猛で知られ“見るべき程の事は見つ”の有名な言葉を残して入水。水面に浮かび上がらぬ様、鎧を二領着て入水したと伝わる。
② :入水したが源氏軍の兵士に海中から引き揚げられる等で捕虜となった人々
・建礼門院徳子・・清盛の娘であり、安徳天皇の生母である。海中から源氏の兵士・渡辺昵に髪の毛を絡め取られて引き揚げられ京に護送された。その後の人生については5-5項で記した通りである。1214年1月25日に59歳の人生を閉じている。
・平盛国・・NHK大河ドラマ・平清盛で俳優の上川隆也が演じた清盛の側近、5歳年上の兄貴分的役割を果たした人物である。1113年生まれであるから壇ノ浦の戦い時では既に72歳という老齢であった。捕虜となって鎌倉に連行され、源頼朝は盛国の人柄からその一命を助けたという。岡崎義実の元に預けられた平盛国は一切を語らず、法華経三昧の日々を過ごした後に一切の食を断ち1186年7月25日に餓死をした。73歳であった。源頼朝は盛国のこうした武士としての一貫した態度を称賛したという。
・守貞親王(もりさだしんのう):生1179年崩御1223年44歳・・高倉天皇の第二皇子であり、安徳天皇の異母弟、後鳥羽天皇の同母兄に当る人物である。平氏一門の元で育てられ、平氏の都落ちの際に安徳天皇の皇太子という立場で西国流転を経験し、壇ノ浦の戦いで救出された。その後、承久の変(1121年)で後鳥羽天皇系の皇統が全て排除された事に拠って、守貞親王の子が第86代後堀河天皇(即位1221年退位1232年)として即位するという巡り合わせとなった為、守貞親王に大変化が起きる。
そもそも守貞親王は1221年3月に出家をし“行助入道”と称していた。院政時代の政治体制は何度も記して来た様に上皇又は法皇が天皇家の最高権力者“治天の君”となり、院政を行う。皇子が後堀河天皇に即位したという巡り合わせから皇位に就いた事も無く、しかも出家していた守貞親王が“承久の変の勃発”という歴史の巡り合わせで一挙に太上天皇号と法皇の位を得る事になり“後高倉院”として院政を敷く事になるのである。
・その他、僧侶、多くの女房達が海中から救出されたり、捕虜となったとの記録が残っている。
③ :命乞いをした人々
・平時忠(生1130年没1189年3月12日59歳)・・清盛(俳優松山ケンイチ)の継妻・平時子(女優深田恭子)の同母弟である。又、後白河法皇に寵愛された建春門院滋子(女優成海璃子)の異母兄という人物である。
2012年のNHK大河ドラマ・平清盛では俳優の森田剛が演じたが、史実でも義妹の建春門院滋子の側近として動き、後に滋子が皇子(後の高倉天皇)を出産すると、軽率な皇位継承に関わる舌禍問題を起して二条天皇派の反感を買い、配流される等、平氏一門の人間であり乍ら時として平清盛の意向とは異なる動きをした人物である。
壇ノ浦の戦いで平時忠は捕虜となった。彼の場合は進んで捕虜になったと思われる。何故ならば彼は三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)を守っており、それを減刑要請の交渉条件としたからである。平時忠は源義経に自分の娘を差し出すなど、自分の減刑工作の為にありとあらゆる手段を尽くしたと伝わる。
その後、死罪を免れて1185年㋈23日に能登国に配流となり、4年後の1189年3月12日に59歳で没する。平家物語には時忠が配流先に赴く途中、京都大原の寂光院に建礼門院徳子を訪ね、別れの挨拶をした事が書かれている。
・平宗盛(生1147年処刑1185年7月19日38歳)・・清盛の継妻平時子の長男である。清盛の嫡男平重盛が1179年に病死してから平氏一門の棟梁となった人物だが、何度も記述して来た様に武将、平氏一門の棟梁として一門を率いるだけの資質に欠けた人物であった。平重盛と比べて人物としてもかなり劣った様だ。
源平の内乱(治承・寿永の内乱)中で、何度も平家一門が生き残るチャンスがあったと思われるが、棟梁である平宗盛の判断でこれら和平に持ち込むチャンスの全てを潰してしまった事は既述の通りである。平清盛が急死した翌日に後白河法皇に詫びを入れると共に政権返上を申し出た事に始まり、ある時は後白河法皇から、又、ある時は源頼朝から和平の手を差し伸べられたが、こうした生き残りのチャンスの全てを結果的に逸がすという判断を何度も下した人物である。
更に壇ノ浦の戦いの際にもその生き恥を晒し、源頼朝を呆れさせ、鎌倉での尋問が終わった後に処刑されるという武人としてあるまじき姿を最後まで晒した人物だった。河合敦氏は“平清盛と平家四代”の著で平氏一門にとって平宗盛を棟梁に持った事が不幸であったと断じている。
愚管抄によると寿永4年3月24日(1185年4月25日)の壇ノ浦の戦いで弟の平知盛、経盛、教盛らが次々と入水する中で平宗盛と息子の平清宗は死に切れずに泳ぎ回っていたという。これを源氏側が引き上げ捕虜とした。4月26日、平宗盛は他の捕虜と共に京へ連行される。その後5月7日に宗盛と息子の清宗は源義経に連行されて鎌倉に向い、5月16日に鎌倉に入った。
この時有名な“義経の腰越状”の話がある。実は義経は鎌倉に入れず、山内壮・腰越の(現在の鎌倉市)の満福寺に留め置かれている。義経に不信を抱く頼朝が義経の鎌倉入りを許さず、宗盛・清宗父子だけを入れたのである。この時、義経が頼朝に対して叛意が無い事を切々と訴え、大江広元に託した書状が“腰越状”である。
2013年2月にこの“満福寺”を訪ねたが、腰越状の版木がショーウインドウに展示されている。満福寺の場所は江の島電鉄の腰越駅から3~4分程の処にある。
平宗盛の話に戻ろう。平宗盛は輿に乗って鎌倉入りをしたとの記録がある。源頼朝としても平氏軍の総帥であった平宗盛に武士としての最後の礼を尽くしたのであろう。ところが簾越に宗盛を観察し、比企能員を通じて会話を交わした源頼朝は平清盛の後継者として後事を託された人物とは思えない平宗盛の卑屈な言動と、ひたすら出家と命乞いを求める態度に呆れ、且つ腹を立てたと言う。この様子に接した鎌倉の武士達も平宗盛を非難し、嘲笑したとの記録が残っている。
其の他一級資料としては信憑性には問題があるが、源平盛衰記や平家物語の夫々に書かれた平宗盛評も散々である。壇ノ浦の戦いで逃げ回った宗盛を平氏の諸将が無理やりに海に突き落としたという記述もあれば、醜態をさらす息子の姿に二位の尼(時子)が“宗盛は私と清盛の息子では無い。京の傘売りの男の子と清盛との間に出来た女子を取り替えたのだ”と言い放ったという逸話が残されている。
鎌倉で源頼朝の尋問を終えた平宗盛は1185年6月9日に満福寺に留め置かれた源義経に連れられ、再び京都に送還される。そして6月21日に源義経の命を受けた橘公長によって近江国篠原宿で斬首されたのである。38歳であった。宗盛の嫡男、平清宗はじめ、全ての男子も処刑され平氏の正統はここに全てが絶えたのである。
第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第8項 清盛の死後平氏一門滅亡のプロセスが始まる
・・木曽義仲の登場と平氏一門都落ち
―はじめにー
平清盛が後白河法皇と松殿基房の結託による露骨な平氏一門排除の挑発的な行動に対して終に堪忍袋の緒を切り、軍事クーデターを行い、後白河法皇の院政を停止させ、1167年5月に平重盛に国家的軍事・警察権が与えられて以来、営々と築いて来た初の武士政権を自ら武力を用いて1179年11月に“完了”させる事になったという事を前項で記述した。
“完了”という言葉を使うのには意味があった。クーデター以降、清盛並びに平氏一門に対する反発は全国的規模で広がった。とりわけ高倉上皇・安徳天皇を誕生させた清盛の治天の君・後白河法皇を差し置いての強引な差配は決定的な反・平氏運動を惹起したのである。
その先鋒となったのが大院領荘園群の領主である“八条院暲子内親王”の猶子であり、彼女をバックとした“以仁王”であった事が反・平氏運動に正当性をより一層強く与え、全国的に広がる事になったのである。
平清盛という巨星が堕ちた後、平氏一門という巨大なグループを引き継いだのが平宗盛という凡庸な棟梁だった事が平氏一門の不幸であった。清盛時代の政治権力の回復を彼の力量に期待する事は無理にしても、全国の半分の領地を占めた程の平氏一門が、追われ追われての漂流の4年間の果てに壇ノ浦の戦いで一挙に滅亡するという悲劇に到る事は避けられた筈である。
治天の君・後白河法皇は一度ならず二度までも平氏一門に生き残りの和平提案をするが、平宗盛はそれを拒絶し、ひたすら“平氏一門滅亡の道”を選ぶ結果となった。清盛が意を注いだ“天皇家との共存体制”の維持を宗盛は2回の後白河法皇側からの和平提案を拒絶する事で終息させ、木曽義仲に共存相手を乗り換えた後白河法皇によって“追討対象”となり、終に“都落ち”に到るのである。
5-8項では政権の返上から、木曽義仲の入京によって平氏一門が都落ちをする事、そして木曽義仲を利用した後白河法皇が、清盛に対したと全く同じ様に木曽義仲を直ぐに排除対象とし、次に源頼朝を使って義仲を滅ぼす過程を記述する。
5-8項は以下の3テーマが主題であり、この3テーマを時系列に記述して行く事とする。
① 平宗盛による平氏政権の返上と後白河法皇からの和平案の拒絶
② 後白河法皇が新しい共存相手として選んだ木曽義仲の入京と平氏一門の都落ち
③ 後白河法皇に切捨てられた木曽義仲の反撃による60日天下と滅亡
1:平宗盛による平氏政権の返上と後白河法皇からの和平案の拒絶
1-(1):平氏政権の返上
平清盛が死の直前まで日本初の武士政権の維持と平氏一門の存続、繁栄の為にあらゆる策を講じた事は前項で記述したが、途半ばにしてこの世を去った。治承5年閏2月4日、グレゴリオ暦では1181年3月20日の事である。
後事を託された平宗盛はその翌日にあっさりと後白河法皇に是までの父・平清盛はじめ、平氏一門の所業を謝罪し、恭順の姿勢を示すというオマケを付けて“政権返上”を申し出た。これによって平清盛が命を懸けて守ろうとした平氏政権はあっさりと消滅したのである。治承5年閏2月5日(グレゴリオ暦1181年3月21日)の事である。
この結果1179年11月14日の清盛の軍事クーデター以来停止されていた、後白河法皇の院政が復活し、同時に八条に移っていた安徳天皇も閑院御所に戻る事になった。一方、清盛が整備していた首都機能再整備事業も全て解体される結果となり、清盛が死の直前迄命を賭して行った政策の殆どが中止されたのである。
平清盛が平氏一門の為にと努力した諸施策を政権共々かくもあっさりと放棄した平氏一門の棟梁・平宗盛の動きによって、平氏一門の後退は誰の目にも明らかとなったが、宗盛はこれに止どまらず、更に“平氏一門の滅亡”へと繋がる愚策を重ねて行くのである。
1-(2):清盛が考案した“畿内惣官職”に固執し、源氏追討の続行を奏上する
平宗盛からの政権返上を受けて、後白河法皇は早速、公卿議定を開き“源氏追討の中止”を決定、それを平宗盛に伝えた。しかし宗盛は“源頼朝の首を墓前に供えるのが父・清盛の遺言である”と主張し、後白河法皇からの“戦闘中止”の提案を拒否したばかりか逆に平重衡を源氏追討使として遣わす為に院からの書状発給を要求したのである。
平宗盛は父・清盛が抑えていた後白河院政の再開を認める一方で、軍事的な権限を平氏一門が掌握し続ける事に拘った。つまり、あくまでも父・清盛の遺言を愚直に遂行する為、源氏追討の戦いを続行する事に固執したのである。
こうした宗盛の主張には1181年3月10日の墨俣川の戦い(岐阜県安八郡)で平重衡軍が源行家軍を破ったという背景があったからである。この勝利が凡庸な政治家・武将であった平宗盛に誤った自信を持たせた為に、後白河法皇の停戦勧告を拒絶し、源氏との戦い継続に固執させる事になったのである。この結果が平氏一門が滅亡へと繋がる事になる事を読み切る能力が平宗盛には無かったという事である。
1-(3):1181年8月、源頼朝も平氏との和平案を後白河法皇に提示するが平宗盛はこの
提案をも拒絶する
平氏軍は墨俣川の戦いにこそ勝利したものの、実態の戦況は兵糧が尽き始める等、先行きには苦戦の兆候が現れていた。そして1181年6月の横田河原の戦で敗北し、北陸道では反乱が起きる等、日々戦況は悪化していた。しかし、平宗盛が総帥としてこうした戦況並びに先の展開までを分析していたかどうかは疑わしい。
この時期、源頼朝軍の状況も苦しかった。関東地方の平定は終えていたが1181年~1182年にかけての“養和の大飢饉”が日本全国を襲っていた事に加えて、上洛をする為にはまだまだ政治的、並びに軍事的にも不十分な状態であり、平氏一門との戦いを続けて行くには苦しい時期であった。そこで源頼朝は後白河法皇を通じて平氏との和平の働きかけをしたのである。
玉葉の8月1日の条に書かれているが、頼朝の提案内容は、“源氏としては天皇家に対して謀反の意思は全くない。天皇家の意向に沿わない平氏一門を討とうとしているだけである。又、平氏を滅亡させる事を目的として戦っているのでも無い。天皇家は昔の様に源氏と平氏の双方共にお使いになったらどうか”という趣旨の和平提案であった。
平宗盛が冷静に自軍の戦力分析、今後の展開を含めた戦況分析を行っていればこの時点で源頼朝からの和平提案を受け入れるべき絶好のタイミングだったのかも知れない。しかし平宗盛は“亡き父・清盛の遺志は頼朝の首を墓前に供える事である”事に愚直に拘泥し、頼朝の和平提案を受けた後白河法皇からの斡旋をも拒絶したのである。この様に平宗盛が二度にわたる後白河法皇からの停戦提案を拒絶した事によって、以後、後白河法皇は平氏一門との共存体制を完全に打ち切り、以後の源平の戦いは源氏と平氏との私闘と位置付けられる事になる。平氏一門は滅亡へと向かって行くのである。
2:後白河法皇が新たな共存相手として選んだ木曽義仲の台頭と平氏一門の都落ち
1182年は“養和の大飢饉”があった為、源平の内乱(治承寿永の乱)に大きな動きは無かった。2月に清盛の異母弟の平教盛(俳優鈴之助)が勢力を増して来た木曽義仲追討の為、北陸道に向かった事が記されている程度である。
平氏軍は遠征の為の兵糧に苦労すると言う状況に陥っていた。院宣に拠って諸国の荘園から兵糧米の徴収を行っていた状況にも暗雲が立ち込めたのである。上述した様に後白河法皇からの和平提案を二度も拒絶した事で、源平の戦いは“私闘”と位置付けられる様になり、中央の貴族層からは“私闘であるのだから平氏一門が院宣を要求して戦費を調達をしている事はおかしい”との批判が出始めたのである。
1183年になると戦況に大きな変化が現れる。その先鋒となったのが木曽義仲軍の進攻であった。木曽義仲軍の進攻によって平氏一門は都落ちを余儀なくされる事になる。以下に木曽義仲が平氏一門を“都落ち”に追い込むまでの経緯を記述する。
2-(1):倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲軍に致命的敗北を喫した平維盛軍・・1183年5月11日
以仁王の平氏追討の令旨に呼応して、木曽(源)義仲は信濃国で挙兵し、平氏方の“城助職”軍を横田河原の戦いで破り、北陸道方面での勢力を拡大した。これに対して平氏軍は平維盛・平行盛・平忠度などを中心とした10万の大軍を北陸道へ送った。5月9日、平氏軍の先鋒であった平盛俊が“般若野”の戦いで敵の奇襲に敗れ、退却を余儀なくされた事でいきなり苦しい状況に追い込まれた。
5月11日、源平盛衰記に“木曽義仲軍が数百頭の牛の角に松明を括り付け平氏軍に向けて放った”と書かれた事で有名となった“倶利伽羅峠の戦い”が始まった。木曽義仲が本当に数百頭の牛を利用したかどうかについては史実としては疑問がある様だ。いずれにせよ木曽義仲軍は5万、一方の平維盛が率いる平氏軍は総勢10万の大決戦であった。
木曽(源)義仲(生1154年没1184年)は源頼朝・義経とは従兄弟で、源頼朝の7歳年下、義経よりは5歳年上である。1183年3月に木曽義仲の叔父が源頼朝に対抗して挙兵し、この叔父を義仲が保護した事から源頼朝とは対立関係にあったが、西では平氏一門との戦いが始まり、東では源頼朝との対立という状況を打開する為、自分の弟を源頼朝の人質として差出し和睦していた。
戦闘巧者と伝わる木曽義仲は、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が寝静まった夜間に大きな音を立て乍ら夜襲を仕掛けた。之に驚いた平氏軍は大混乱に陥り、唯一敵軍が囲って居ない方向へと逃げ出した。これが倶利伽羅峠の断崖であった。倶利伽羅峠は富山県と石川県との境にある砺波山(となみやま)の峠である。パニック状態の平氏軍の多くがこの谷に追い込まれ、追い落とされ、結果として平氏の10万の軍勢の中8万が壊滅したとされる。又もや平維盛が指揮した戦いでの大敗北であり、維盛は既述した1180年の“富士川の戦い”と全く同様の大敗北を喫したのである。
何故、平維盛軍は同じ過ちを繰り返したのであろうか。玉葉の1183年6月5日条には、大将軍(維盛)と三人の侍大将(盛俊・景家・忠経)が互いに主導権争いをし、指揮系統の混乱が倶利伽羅峠の戦いでも繰り返された為だと記している。具体的には、盛俊と景家は平氏一門の棟梁・平宗盛の家人であり、忠経は平維盛の家人であった。つまり平氏一門の中での主流(平宗盛)と非主流(平維盛)との間の主導権争いで指揮系統に混乱が起きたという事である。
源平合戦中の重要な戦闘現場で味方同士がその様な状態であったとは、全く何をか言わんやである。平氏軍の大敗も当然の帰結であったと言わざるを得ない。更に、翌1183年6月には木曽義仲・源行家軍は加賀の篠原の戦いでも平氏軍に勝利している。
2-(2):連戦連敗の平氏一門が都落ちを決断し、木曽義仲が後白河法皇を奉じて入京
① 戦況悪化に加えて延暦寺も木曽義仲軍への加勢を決定する
この頃の日本の状況は鴨長明(生1155年没1216年)が書いた日本三大随筆の一つとして有名な“方丈記(成立1212年)”に詳しく書かれている。史実としても1181年~1182年と続いた全国的な大飢饉“養和の飢饉”で京中の道端には餓死者が溢れており、諸国の餓死者は数万人に及んだとの記録がある。方丈記に拠れば大飢饉・大火・大地震・旋風などの天災に加えて、福原遷都の事を人災として当時の“五大災忌”という表現を用いて記述している。こうした自然災害が重なる中で、“私闘”と位置付けられた源平の内乱が続けられている事が、平氏一門に対する世間の悪評を増幅したのであろう。
“倶利伽羅峠の戦い”そして“篠原の戦い”でも既述した様な大敗北を喫した平氏一門は頼りにした延暦寺にも見放されると言う展開になる。延暦寺は木曽義仲軍に味方する事を決めたのである。
木曽義仲軍の追撃に加えて、延暦寺を含めた興福寺、園城寺(三井寺)の寺社勢力の全てを敵に廻すという状況に平氏一門の棟梁・平宗盛も終に観念し、安徳天皇の生母である建礼門院徳子を訪ね“都落ち”を告げる事になった。建礼門院徳子は泣く泣く承諾したのである。
② :後白河法皇の雲隠れと平氏一門の都落ち開始…1183年7月24日
平宗盛は安徳天皇だけで無く、後白河法皇にも都落ちを共にする様願い、あくまでも天皇家を奉じた“官軍”の立場を保持しようとした。ところが事態を事前に察知した後白河法皇は1183年7月24日、秘かに法住寺殿の御所を抜け出し、比叡山(鞍馬とする説もある)に逃れたのである。仕方なく平氏一門は後白河法皇の同行無しに1183年7月25日の早朝、6歳の安徳天皇と三種の神器と共に西国を目指して都落ちを開始したのである。
その際、栄華を誇った六波羅や西八條の邸宅は勿論、平氏一門が居住していた邸宅、関係施設の全てを焼き払った為、京の都は一瞬にして焦土と化したのである。尚、安徳天皇に付添って都落ちした公卿が僅かに3人であったという事からも、後白河法皇を初め、殆んどの公家達はこの時点で既に平氏一門に見切りを付けていた事が分かる。
平氏一門は福原にも立ち寄り、一時的とは言え内裏であった施設をはじめ、福原の平氏一門の邸宅、関連施設をも全て焼き払い、船で西海を経て九州の大宰府まで落ちて行った。
③ :木曽義仲が後白河法皇を奉じて入京。“治天の君“としての超越的権威で木曽義仲を 利用する後白河法皇
1183年7月28日に木曽義仲が源行家と共に後白河法皇を比叡山から保護し、奉じて入京した。この時点では“傲慢だった平氏一門を追放して呉れた英雄“として木曽義仲を都の人々は大歓迎した。東(木曽)から日の出の勢いで後白河法皇を保護して入京した木曽義仲を”朝日将軍“と呼び讃えたのである。
吉記には後白河法皇が京に戻った直後の議定で、“平氏追討か或はひとまず和平をして安徳天皇と三種の神器の奪還を優先させるか”が議論されたが、後白河法皇は木曽義仲と源行家に平氏一門追討の院宣を下す事を決めたと記述されている。
平宗盛から政権を返上された時点から後白河法皇は再び“天から超越的権威を与えられ、何人にも制約される事の無い治天の君”に戻っていた。しかも唯一人自分に制約を課していた平清盛は存在しない。源平の内乱(治承・寿永の内乱)が続く混乱した状態の中で後白河法皇は“治天の君”としての既述した様な確固たる“信念”を持って臣下の武士層に対して行動して行くのである。
木曽義仲の保護によって無事に京に戻った後白河法皇であったが、木曽義仲であれ、源頼朝であれ、どの陣営からも一切の制約を受けずに、天皇家(=国家)にとって最も役に立つ相手を選ぶという”超越的権威に基づいた局外中立的立場“に立って行動したのである。
その具体例が上記した議定の結果、木曽義仲と源行家に平氏一門追討の院宣を下す一方で、近臣の院庁長官・中原康定を鎌倉の源頼朝の元に遣わし、上洛を促すという二股を掛けた動きを平然と行うという具合であった。
前項で記述した様に、後白河法皇が信念として持つ“治天の君としての自分には天から超越的権威が与えられているという”考え方は、臣下の武士層は利用するだけ利用する一方で、用済みとなった途端に掌を返すように切捨てるという事であった。
武士層がこうした後白河法皇の過去からの行動パターンを全く知らなかったとは思われない。1159年末の平治の乱では近臣の信西入道を切捨て、藤原信頼を見殺しにした。1169年末に起きた嘉応の強訴事件では延暦寺側との約束を反故にして世間を仰天させ、逆に報復人事で対抗した。そして1177年の鹿ケ谷の陰謀事件から平清盛・平氏一門排除の動きを露骨に展開し、清盛にクーデターを起こさせる状況に追い込み、その結果は前項で記述した様に平氏政権を返上させたのである。
こうした史実から言える事は、天皇家が建国以来積み上げて来た権力、取り分け“権威”は後白河法皇が信念として抱いた様に歴史の積み重ねを経て“超越的権威”として天皇家に付随しこの国の岩盤として根付いていたという事である。
武士層としても天皇家の権威を借りる事は重要な事であった。“治天の君”後白河法皇から平氏追討の院宣を下された諸国の源氏からすれば彼らは平氏追討に対する正当性を与えられた事になり、それ故に次々と蜂起したのである。木曽義仲もその一人であった。義仲は平氏一門の都落ちの際の同行を拒否し、比叡山に身を隠していた後白河法皇を保護する形で奉じて1183年7月27日に京の都に入ったのである。
④ :公卿議定で後白河法皇の入京に貢献した源氏の勲功順位が決る・・1183年7月30日
平氏一門の人々が溢れていた京の都に平治の乱で源義朝が敗退して以来20数年振りに木曽義仲軍の源氏の白旗が靡き人々は大いに歓迎したと言う。源氏は完全に天皇家(後白河法皇)を奉じる正当な”官軍“としての立場を得たのである。
後白河法皇が京に戻って早速開かれた公卿議定で勲功評価が決められた。勲功の第一は源頼朝、第二が木曽義仲、第三が源行家という順であった。更にこの議定の場で京中に横行していた狼藉の取り締まりが木曽義仲に委ねられた。
3:後白河法皇が早くも木曽義仲を見限り、“排除”の行動に出る経緯
3-(1):木曽義仲入京時の京の都の悲惨な状況と木曽義仲の不運な悪評
平氏一門が既に都落ちをし、その際に邸宅等全てを焼き払った為に焦土化した事に加えて京の都は“養和の大飢饉”による惨状があった。方丈記によると大飢饉で15万人の人口の中4万人が餓死したとある。こういう状況下で軍勢を伴って入京せざるを得なかった木曽義仲も不運という他は無い。兵糧も満足に確保出来ず、腹を空かせた兵士達が民家に押し入って略奪をしたり、収穫前の青田を軍馬のエサにする等の悪行を重ねる結果となった。この為、一時の歓迎ムードは忽ちの中に消え失せ、木曽義仲軍に対する評判は入京早々悪評に変わって行ったのである。
3-(2):木曽義仲の生い立ちと後白河法皇の不興を買う事になる素地
木曽(源)義仲は長野県の木曽で育った人物であり、京の都の貴族社会などの常識に対する知識も無く、ましてや天皇家(後白河法皇)との接し方、礼儀作法などについては知る由もなかった。ところが生来、豪放磊落な性格だった義仲は礼儀作法、物の言い様など、京の都では重要とされる事を気にする事も無く自由闊達に振舞っていた為、何かと京の人達とのすれ違い、誤解を生じていたのである。結果として粗野な人物として京の人々の評判を落として行った事が逸話として残されている。
前項でも記述した様に、後白河法皇は勿論の事、守旧派の貴族層は元々急激に台頭して来た武士層を歓迎していない。“自分には天から超越的権威が与えられている“との強い信念を持つ後白河法皇にとって、平氏一門を都から追い出し、自分を保護して入京させた木曽義仲の当面の役目は終わった。入京後も利用価値があるかどうかは今後の様子を見てからだと言う事であった。もし、利用価値が無ければ、掌を返す様に切捨てるだけの事だとするのが治天の君・後白河法皇の考え方である。そうした後白河法皇の心情を知らない木曽義仲は忽ちの中に後白河法皇の”虎の尾“を踏む事になる。
3-(3):後鳥羽天皇の即位問題に介入する行動をとった義仲に激怒した後白河法皇
木曽義仲の保護を得て京の都に戻った後白河法皇にとって最大の問題は安徳天皇と三種の神器が平氏一門の手に在る事であった。その返還の交渉を行ったが平宗盛は容易に応じなかった。後白河法皇は“治天の君”としての権限・権威を用いて都に留まっていた高倉上皇の二人の皇子の中から尊成親王を選び、第82代後鳥羽天皇(践祚1183年㋈8日、即位1184年7月28日、退位1198年)として先ずは践祚(せんそ=天皇の位を受け継ぐこと)する事を決断した。この時、後鳥羽天皇は満3歳の幼児であった。
皇位の象徴である“三種の神器”が無い状態で天皇の践祚を行う事は、流石の後白河法皇としても望ましい事では無かったが、政務の停滞を解消し、平氏討伐を更に進める為にも天皇が京の都に居ないという異常事態は後白河院政にとっても早く解消したい事態であった。しかし平氏一門との交渉で安徳天皇と三種の神器の奪還は実現されなかった。そこで後白河法皇は安徳天皇が在位中にも拘わらず、第82代後鳥羽天皇に皇位を継承させる事と三種の神器の無い侭、天皇践祚を強行する事に踏み切ったのである。
こうした異例の形で皇位継承を行う事に後白河法皇は悩み、占いや、博士達の意見などを募るなど手を尽くしたとされる。その結果、寿永2年8月20日(グレゴリオ暦1183年㋈8日)に三種の神器の無いまま、後白河法皇が院宣を与える形で後鳥羽天皇の践祚が行われたのである。
ここで注目したいのは後鳥羽天皇の“即位式”は一年後の1184年7月28日に行われたという史実である。後白河法皇はこの間1年間、あらゆる手を尽くして安徳天皇と三種の神器を平氏一門から奪還すべく平宗盛と交渉を重ねた事が分かる。しかし平宗盛は依然として拒絶を続けたのである。宗盛の真意は測り兼ねるが、こうした宗盛の頑なな態度が結果として三種の神器奪還の為にだけ源平合戦が壇ノ浦の戦い迄続行される事になり、安徳天皇の入水を含めた平氏一門の滅亡という悲惨な結末となったのである。
結果として三種の神器の中、八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は奪還する事が出来たが、残る、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)だけは海中から回収されなかった。三種の神器が揃うのは第84代順徳天皇(即位1210年退位1221年)即位の際に伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を“宝剣と見做す”という苦渋の決断を後鳥羽上皇がする迄続くのである。
1年間待ったが平宗盛が三種の神器返還交渉に応じなかった為に、後白河法皇は三種の神器無しに後鳥羽天皇の“即位式”を行う事を決断した。この様な事情から後鳥羽天皇(上皇)のはその治世を通じて三種の神器が揃わなかった天皇、及び上皇であった。この事に後鳥羽天皇は生涯、強いコンプレックスを抱いていたと伝わる。又そうしたコンプレックスが殊更に後鳥羽天皇の天皇権力、権威に対する拘りに繋がったと考えられる。後鳥羽天皇が鎌倉幕府成立後に源氏三代が相次いで死亡した後の混乱に乗じて“承久の変”を起こし、天皇権力の復権に挑んだのも三種の神器に由来するコンプレックスが根っこにあったという事である。
話を後鳥羽天皇の即位時点に戻そう。皇位継承問題はこの様に天皇家にとって最重要事項であった。継承者の血統の正統性と伝統的形式が重要視されるのである。天皇家の中の最高権威者である“治天の君”であった後白河法皇にとって皇位継承者を決める事は何人も犯す事の出来ない“専権事項”である。
先に平清盛が高倉天皇を譲位させ、安徳天皇の即位に関与した事が命取りになった事を記述したが、何と木曽義仲は亡き以仁王の遺児で第一皇子の“北陸宮”こそが皇位継承者として相応しい、義仲が北陸宮を担いで戦ったからこそ平氏追討、平氏一門の都落ちという大功が可能であったのだと比叡山の俊堯を介して後白河法皇に強硬に主張したのである。
一介の武将に過ぎない木曽義仲が皇位継承問題に口を挟む事は許されない事である。この事は後白河法皇はもとより、伝統、格式、そして形式を重んじる公卿達の怒りを買ったばかりか粗野な人物として疎まれ、以後、後白河法皇は掌を返すように“木曽義仲の切捨て”の行動に出るのである。
3-(4):京から追い出す為に後白河法皇は木曽義仲に西国への出陣命令を出す
・・義仲は平氏との水島の戦いで惨敗する(寿永2年閏10月1日)
平宗盛が後白河法皇からの和平提案と頼朝からの和平提案の両方を拒絶した事で、朝廷にとって源平合戦は両者間の“私闘”と位置付けられる様になった事は既述の通りだが、治天の君・後白河法皇はこうした”内乱状態“を早く終息させる事を望んでいた。従って源平の内乱を終息させる事が出来る人物であれば誰にでも“追討の宣旨”を下す用意があった。既述した様に後白河法皇は“局外中立”の立場をベースとしていたから、誰とも共存体制を組む事はしなかったが、この時点で最も評価していたのは源頼朝であった。
嘗ては“英雄”として京に迎えられ、後白河法皇も木曽義仲に越後国を与える等、高く評価した時期もあったが、既述した様な入京時の兵士の略奪に始まり、後鳥羽天皇の皇位継承問題に介入した事などで、今や“混乱の元凶、排除の対象”と見做されていたのである。
そこで後白河法皇は木曽義仲に平氏追討の為に西国に向け出陣する事を命じた。これは体良く木曽義仲を都から追い出す意図だったのである。寿永2年10月1日(グレゴリオ暦1183年11月24日)に木曽義仲軍は備中水島(倉敷市玉島)で平氏軍と戦う。この水島の戦いは“金環日食が起る日”に当った珍しい合戦として記録されている。
2014年からすると831年前の寿永2年閏10月1日(グレゴリオ暦1183年11月24日))は95%太陽が欠ける金環食が起った日であった。朝廷の機能として、暦の作成に携わっていた平氏一門は当日の正午頃から皆既日食に近い現象が起きる事を事前に知っていた。ところが、一方の木曽義仲軍は当然こうした自然現象を全く知らなかった。100艘余り5000人の木曽義仲軍の兵士は金環食に因る突然の暗闇に大いに動揺し、大混乱に陥り、200艘7000人の兵士を繰り出していた平氏軍との海上戦に惨敗したのである。
平氏一門はこの時期、拠点を讃岐の屋島に置いていたが、この海上戦の大勝利によって勢力を回復し、再び京の都に戻る事も視野に、再度福原の拠点を挽回する事になった戦いであった。
木曽義仲軍のこの敗戦は、後白河法皇にとっては“木曽義仲は最早、役に立たない存在”と見限る戦いとなった。平清盛・平氏一門に対する排除行動を露骨に開始した時と同様に後白河法皇による“木曽義仲排除”の動きも次第に露骨になって行くのである。
4:法住寺合戦で木曽義仲が60日天下を取るまでの経緯
4-(1):前哨戦としての“鼓判官事件”
平家物語に“鼓判官(つづみほうがん)事件“という話が載っている。後白河法皇が木曽義仲に対して掌を返した様な一連の”排除の動き“が既に始まっていた時期に起きた些細な事件ではあった。後白河法皇側も木曽義仲側も互いに強硬な態度を崩さなかった事で”法住寺合戦“と呼ばれる後白河法皇自身も戦いの当事者として関与するという戦闘に発展する切っ掛けを作った事件である。
木曽(源)義仲は、1183年7月末の入京後に後鳥羽天皇の皇位継承問題に介入した事で後白河法皇はじめ、その近臣、並びに公家達から顰蹙(ひんしゅく)を買った事は記したが、その後も伝統と格式を重んじる京の都での木曽義仲の立居振舞いが改まる事は無かった。こうした状況の延長線上でこの事件は起った。
事件の要旨は、鼓判官(つづみほうがん)と呼ばれ、天下に鼓の名手として聞こえた北面の武士・壱岐判官の平知康を木曽義仲が愚弄した事が端緒となって争いとなり、後白河法皇の院の御所を木曽義仲が襲うという“法住寺合戦”と呼ばれる戦闘に繋がった事件である。
荒れ果てた京の都で木曽義仲軍の兵士は食糧、衣料を求めて略奪を重ねた。こうした事態に対して後白河法皇は近臣の平知康(鼓判官)を木曽義仲の元に遣わし“狼藉を鎮めよ”との下知を伝えた。木曽義仲はこの下知に対して承諾の返答をしなかったばかりか、使者の平知康に向かって“貴殿を鼓判官と言うのは多くの人から叩かれたからなのかそれとも張られたからなのか”とからかった。侮辱された平知康は激怒し、後白河法皇に“木曽義仲は馬鹿者であり将来必ず朝敵と成る危険が大の人物であるから追討すべきである”と進言したのである。
既に木曽義仲を見限り、排除を決めていた後白河法皇である。平知康の話を聞いて、延暦寺の明雲、園城寺の円慶法親王はじめ、伯耆守・源光長等武士達に木曽義仲追討を命じるという展開になった。こうした状況を見て木曽義仲陣営の源基国は木曽義仲を見限って後白河法皇側に鞍替えする等、義仲離れが続いた。こうした逆風の動きに対して義仲の腹心の今井兼平は後白河法皇への恭順を薦めたが木曽義仲は聞き入れず“こうした事態に陥ったのは全て鼓判官・平知康の中傷によるものだ”と怒りを募らせ反撃の体制をとったのである。
こうした木曽義仲軍の姿勢を知った平知康も後白河法皇の院御所がある法住寺殿に兵を集めるという事態に発展した。
4-(2):法住寺合戦で木曽義仲が後白河法皇を幽閉する(1183年11月19日)
後白河法皇は先に木曽義仲を平氏追討を名目に西国に出陣させ京の都から追い出した。既述した“水島の戦い“で義仲は大敗を喫していたのである。この時後白河法皇は同時に使者、中原康定を遣わし、1183年10月14日付けで源頼朝に宣旨を下して東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与えた院宣を下している事が百錬抄に書かれている。
既述した様に後白河法皇としては既に木曽義仲を排除の対象と決めた処に、平氏との水島の戦いで義仲が大惨敗した事を知り、その武力には京の都の治安を任せる程の力が無い、と見限ったのである。木曽義仲は明確に切捨ての対象となったのである。
水島の戦いに惨敗し、僅かな軍勢で京に引き揚げて来た義仲は留守中に後白河法皇が源頼朝の上洛を促すと共に、上記の院宣を源頼朝に下した事を知り、激怒した。そして後白河法皇に対して源頼朝を追討する院宣を出す様迫ったのである。後白河法皇に見捨てられ、手負い状態となった木曽義仲にとって眼前の敵は平氏一門から源頼朝に代わっていたのである。勿論、後白河法皇が源頼朝追討の院宣を出す要求に応じる事は無かった。
1183年11月4日には、源義経が指揮する頼朝軍が不破の関にまで迫っていた。この報に力を得た後白河法皇は11月16日には法住寺殿の武装化を進め、戦闘の体制に入ったのである。法住寺合戦が行われた法住寺は、当時後白河法皇の院庁が置かれていた場所であり、現在の三十三間堂の西側一帯にあった。現在は法住寺と共に養源院という寺が建っており、当時の様子とは大きく異なっている。
法住寺は前章で後白河法皇が好んだ、当時“今様”と呼ばれた唄を現在の住職が伝えている事、山科に居た大石内蔵助が吉良邸討ち入りの成功を祈願した寺である事、そしてサザエさんの作者、長谷川町子さんがその佇まいを好んだ寺であった事などを紹介した寺である。2014年4月に訪ねた時には法住寺の横に建つ養源院の辺りに後白河院政時代の院庁があったと寺の方が説明して呉れた。養源院は豊臣秀吉の側室、淀殿が亡父・浅井長政の21回忌の法要時に建立し、寺の名前は浅井長政の院号から来ているとの事であった。
法住寺合戦の話に戻るが、源頼朝軍の入京が間近いという報と周囲の源氏が競って後白河法皇側の味方に加わると言う状況に後白河法皇は益々強気になる。木曽義仲に対して直ちに西下して平氏討伐に向かえとの事実上の洛外退去を命じ“院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば謀反と見做し、木曽義仲追討の院宣を下す”との最後通牒を出した事が玉葉、吉記、そして百錬抄の何れにも記されている。
こうした後白河法皇の威嚇に追い詰められ、逃げ場の無くなった木曽義仲は武士層が院御所(=天皇家)に対して武力行使に及ぶ、という前代未聞の行動に出たのである。
11月19日、まさに“窮鼠猫を噛む”の状態に陥った木曽義仲軍は兵力こそは7000人程に減ってはいたが、法住寺殿を武力攻撃し、後白河法皇側として戦った延暦寺の明雲、園城寺(三井寺)の長史・円慶法親王、源基国、源光長などが戦死し、木曽義仲軍の勝利に終わった。後白河法皇は捕えられ、五条、藤原邦綱の館に幽閉された。又、3カ月前に(1183年8月20日)後鳥羽天皇として践祚(この時点ではまだ即位式は行っていない)したばかりの3歳の天皇も二条通りの閑院殿に幽閉されたのである。
前項第5-3項の平治の乱の記述で、1159年12月に藤原信頼・源義朝軍によるクーデターで後白河上皇が幽閉状態に置かれたと述べた。その後1179年11月の平清盛による軍事クーデターでも後白河法皇は幽閉されている。そして今回、1183年11月の法住寺合戦でも幽閉されたのである。生涯に3回も幽閉された後白河法皇の人生が象徴する様にこの時期の日本の状況はまさに、この著作の中巻のタイトルとした”武士層の出現に拠って始まった混乱と闘争の500年の歴史“そのものだったのである。
院御所(天皇家)を襲撃をした前例としては、平治の乱の第一幕のクーデターで、信西入道(俳優阿部サダオ)一派を捕縛する事を目的として、藤原信頼(俳優塚地武雄)が源義朝軍(俳優玉木宏)を使って行った例がある。この時は史実としての裏付け資料は無いが、明らかに後白河上皇(当時)が裏で糸を引いていたと考えられ、今回の法住寺合戦での院御所襲撃とは状況が異なる。2回目の平清盛による軍事クーデターの時も、後白河法皇は清盛に謝り、許しを願ったと伝わる。つまり、過去の院御所の襲撃での結果は、いずれの場合も後白河院は幽閉されているが、後白河法皇側に戦闘を仕掛ける態勢があった訳では無い。
しかし今回のケースは状況が異なる。今回の法住寺合戦は後白河法皇側にも木曽義仲軍と戦闘をする意志があり、実際に戦闘が行われ、敗れ、そして幽閉されたのである。
この戦いの大将軍には“鼓判官・平知康”が就き、比叡山、園城寺等の寺院勢力、それに源光長・光経父子等の武将を合わせて総勢2万人が法住寺殿に立て籠もり官軍を形成した。一方の木曽義仲軍は7千程と劣勢であったが、義仲軍が法住寺殿に火を放つと大将軍の“鼓判官・平知康”の部隊が真っ先に逃げ出し、その後は我先にと官軍の部隊が逃げ去ったとされる。
戦闘に慣れていない寄せ集めの“官軍”は敗れ、この戦闘で後白河法皇側として戦った戦死者の中に15年前の1168年2月に清盛が臨終出家をした時の導師を務めた天台宗の座主、僧明雲、園城寺(三井寺)の長史、円慶法親王が含まれている。明雲は紆余曲折の後に後白河法皇の近臣と成りこの戦闘に参加したのであるが、同じ天台宗の座主という立場であった慈円は後に愚管抄に“僧として戦闘に参加するなどあるまじき行為だ”として明雲を厳しく批判した事は既述の通りである。
木曽義仲軍はこの法住寺合戦で後白河法皇の官軍と真っ向から戦いそして勝利した。武士層が武力闘争で天皇家と真っ向から戦い勝利したというケースは、約40年後の1221年に鎌倉幕府軍が“承久の乱”で後鳥羽上皇軍に勝利するケースの先例となった訳だが、当時としては前代未聞の大事件だったのである。
5:木曽義仲が政権を略奪し60日政権を成立させた直後に滅びる
5-(1):木曽義仲の60日政権の成立
平清盛のクーデターを記述した際には“略奪”という表現は当たらない・・と記述したが、法住寺合戦の後に木曽義仲が後白河法皇を幽閉し、60日に及ぶ彼の政権を成した状況はまさしく“略奪”という表現が当てはまる。
1183年11月20日に木曽義仲は戦死した天台宗首座の僧、明雲の首を川に投げ捨て、源光長始め100人以上の首を晒した事が玉葉に書かれている。この木曽義仲に協力したのが、松殿基房であった。4年前に後白河法皇と結託して平清盛並びに平氏一門の排除を画策し、清盛の軍事クーデターの結果捕えられ、配流されたあの人物である。11月22日に松殿基房の子息、松殿師家を内大臣・摂政とする“木曽義仲政権”が成立した。
11月28日に中納言・藤原朝方はじめ43名(49名とする説もある)の官職を解いた事が玉葉、吉記、そして百錬抄の全てに記されている。こうした強引な手段での政権の成立であった事、加えて、既述した様に、木曽義仲は入京時から評判が良くなかったという事から益々京の人々は木曽義仲から離反して行ったのである。12月1日付けで木曽義仲は、左馬頭に任官し、軍事の全権を掌握し、政権としての形式を整えて行った。
そして12月10日には“源頼朝追討の院庁下文”を出させ、ここでも形だけは“官軍”の立場を整えたのである。これらの状況については、公家で内乱期に蔵人頭・院別当の職にあった吉田経房の日記・吉記に書かれている。ここまでが木曽義仲にとって、束の間のピークの期間であった。
5-(2):木曽義仲が源義経・範頼軍に滅ぼされて滅亡する・・1184年1月21日
1184年に入ると得意絶頂だった木曽義仲政権に早くも暗雲が立ち込める。1184年1月6日に木曽義仲に“鎌倉から源頼朝の大軍6万が出陣し、既に美濃国に達している”との報が入る。後白河法皇を直接戦闘相手として院庁への襲撃、そして幽閉を行った事は、平清盛がクーデターを行った直後から世間の非難を浴び、世間を敵に回した為に一気に後退を余儀なくされた状況と全く同じであった。天皇家を敵に回す事は武士層にとってのタブーであり、義仲の周辺にも反・木曽義仲の動きが強くなって来るのである。
如何に武力を備えた武士層であっても、天皇家との共存体制を構築する事に拠ってのみ、政権は存続し得るという大原則を破った木曽義仲軍に対して、公家衆は勿論、付き従う兵士も激減して行った。逆に攻める源頼朝軍にとっては“謀反人を討伐する”という大義が与えられ、兵士達は益々意気軒昂となって行くのである。
狼狽した木曽義仲は、ここで平宗盛に平氏一門との連携を打診したと言う。凡庸な人物と評されていた平宗盛はこの案に乗ろうとしたと伝わるが、武闘派で知られる弟の平知盛が“木曽義仲が先ず平氏一門に降伏する事が条件だ”として譲らなかった為、義仲との反・鎌倉大連合構想は実現しなかった。
この時期の日本は西に平氏一門、京の都には木曽義仲、そして東には源頼朝が居て、互いに覇権を争うという状態であり、中国の三国志時代の状態であったと言える。
玉葉の1184年1月15日の記事には、木曽義仲はこうした八方塞がりの状況を打開する為、朝廷を動かし、自らを“征東大将軍”に任命させたとある。吾妻鏡には”征夷大将軍“と記述してあり、長い間、どちらが正しいのかについて学説が定まらなかったが、山槐記に、1192年に行われた源頼朝に対する”征夷大将軍”への任官までの経緯が記述されてあり、その分析から木曽義仲は“征夷大将軍”では無く“征東将軍”に任官したという史実が明らかになった事は既述の通りである。
1184年1月20日、源義経・源範頼が率いる6万の頼朝軍と宇治川の合戦となる。木曽義仲軍は7000の兵力で交戦した。多勢に無勢で、勝敗は明らかであった。瀬田の戦いでも敗走し、この戦いで生き残った木曽義仲軍の兵士は僅か13騎であったとされる。
史実としての信憑性は疑わしいが、鎌倉時代に成った源平盛衰記には木曽義仲と常に行動を共にした巴御前の逸話がある。当時27歳であった巴御前は木曽義仲と共に戦い、最後迄生き残った僅か5名の中の一人とされる。物語では木曽義仲に諭されて泣く泣く戦列を離れ東国に落ち延びたと記しているが、他の一級資料には何処にも巴御前に関する記述は無い。
1184年1月21日、木曽義仲は近江国粟津(現在の滋賀県大津市)の戦いで討死する。享年31歳であった。木曽義仲の嫡子、志水義高は源頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉に居た。父親、木曽義仲の状況を知り逃亡を図ったが1184年4月、頼朝の命で討たれた。ここに木曽義仲の60日間の天下は終わり、又、木曽義仲の家系も絶えたのである。
5-(3):義仲寺(ぎちゅうじ)
義仲寺は木曽義仲が討たれた粟津ケ原、現在の大津市馬場1丁目にあり、旧東海道に面したこの寺に義仲の墓所がある。京阪電車の膳所駅からは徒歩で5分程の処である。2014年の10月末に訪ねたがこの寺は何度も荒廃を重ねたが、1967年11月に国の史跡に指定された事が寺のパンフレットに書かれている。
凡そ100~150坪の余り広くない境内には“巴御前”の巴塚がある他、“芭蕉翁墓“がある事に驚いた。俳句を趣味とされる方には周知の墓所なのであろうが元禄7年(1694年)10月に大阪で亡くなった芭蕉翁が不運な生涯に終わった木曽義仲に同情し、生前から”骸は木曽塚に送るべし“との遺言をしていた事に拠ったとの事である。
その他、芭蕉翁が度々滞在して句会を催したと伝わる“無名庵”などがあり、多くの芭蕉翁フアンにとっては聖地なのであろう。
第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第7項 平氏政権滅亡のプロセス・・平清盛の死 迄
前項5-6項で“平清盛が起こした1179年11月14日の軍事クーデターは1167年に成立し始めた平氏政権を”完了“させる結果とはなったが同時にその直後から消滅するプロセスに向かうトリガー(引き金)にもなったと述べた。以下にその理由と政権が消滅して行くプロセスを記述して行く。極めて端的に言えば平氏政権の消滅は平清盛の急死と共に起こるのである。
1:平清盛・平氏一門のクーデターによる政権運営がその直後から消滅に向かった理由
理由-1・・人材が居ない状態でスタートした“俄作りの軍事政権”であった事
1179年11月14日の軍事クーデターで39名の公卿並びに院近臣を解任し、後任には平氏一門はじめ、親・平氏派の公家等が任官した。例えば配流された松殿基房の代わりには清盛の女婿で亡き盛子の養子であったまだ19歳の近衛基通が関白に就いた。近衛基通は更に内大臣そして内覧という重職にも就いた。政務に全く未熟な彼がこうした役割を与えられた事は、如何に平氏一門の軍事政権に人材が居なかったかを現している。
この近衛基通(生1160年没1233年73歳)の名前は5-5項で“3人の平氏一門の女性“について記述した時に登場している。盛子が8歳で近衛基実に嫁いだ2年後に夫の基実が24歳で急死し、その時に別の夫人との間に遺した男子がこの近衛基通(当時9歳)である。10歳で後家となった盛子がその後養母として23歳で死ぬまで後見した人物である。
この近衛基通という人物は73歳まで生きるが、生涯を通じて話題の多い人物であった。九条兼実の玉葉には後白河法皇との男色関係があった事、後白河法皇第一の近臣となった事などが記述されており、又、慈円の愚管抄では無能の人物だと酷評されている。若い時期に摂関家の氏の長者に就く等、平清盛・平氏一門に拾われた人物だが、最後は後白河法皇の寵臣となっているのである。
更に次章で記述する事になるが、平氏一門が滅亡し、鎌倉幕府が成立する最終局面で源義経と兄・源頼朝との関係が悪化し、義経が頼朝を滅ぼそうと“頼朝追討”の院宣を後白河法皇に要求したが、その際にこの近衛基通が後白河法皇への仲介の労を取ったその責任を後に問われ、全ての任を解かれ篭居させられるという節操の無い人物であった様だ。この様な人物であったが“俄作り”の平清盛・平氏一門軍事政権としては、摂関家を支配下に置くという形式上の目的もあって彼を利用したのである。
その他の目立った人事としては平宗盛の弟で後に南都(興福寺)を焼き払う役目を負う事になった平重衡が高倉天皇と親しかった関係で安徳天皇の乳母夫に任命され、且つ安徳天皇の蔵人頭になっている程度である。
肝心な平清盛自身はクーデター終了後に再び福原に引き揚げ、京都の政治には参加せず実権だけは持ち続けるという変則的な政権運営となった。又、平氏一門の棟梁であった平宗盛も政権には直接参加していない。こうした点からも5-6項でも記述した様に、後の鎌倉幕府と比べると最初の武士政権としての完成度はかなり低いと言わざるを得ない体制であった。
理由-2・・宮廷・貴族社会からは高倉院政の正当性が問題視されていた事
清盛の軍事クーデターから5カ月後の1180年4月に高倉天皇が1歳半の安徳天皇に譲位しまだ18歳と7カ月という若い高倉上皇の誕生となった。これに拠って“上皇+直系の天皇”という院政を行う条件は整えたが、幽閉されていた後白河法皇は勿論、宮廷並びに貴族社会がこの院政を承認した訳では無く、平清盛が軍事力を以て強引に作った“高倉上皇+安徳天皇”の院政であると言われた事が平清盛・平氏一門政権の大きな弱点であったと言えよう。治天の君である後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した状況下で行った高倉天皇から安徳天皇への譲位にも正当性が無く、宮廷・貴族社会は清盛の武力の前に黙ってはいたが、決して承服したものでは無かったという事が弱点として最後まで残るのである。
理由-3・・慣例を破って高倉上皇を厳島神社に行幸させ、延暦寺までをも敵に回した事
更に平清盛は間違いを重ねた。それは上皇となったばかりの高倉上皇を慣例を破って平氏一門が保護する厳島神社へ真っ先に行幸させた事である。この事で園城寺(三井寺)、興福寺だけでなく、両寺と常に反目し合っていた平氏一門が帰依する比叡山延暦寺までをも怒らせる結果となった。そしてこの3寺がこれを機会に団結して反平氏色を鮮明にするという最悪の状態を招いてしまったのである。
これまで平清盛は政治的にバランス感覚に優れていると何度も評して来たが、1179年の武力クーデター以降の清盛の一連の行動を見る限りでは強引さが目立つばかりで、周囲を敢えて敵に廻す様な行動が多く、政治的バランス感覚を欠いた政治判断が目立つ様になるのである。
理由-4・・全国の所領没収が大混乱を生んだ上に“以仁王”が師と仰ぐ天台座主最雲か
ら以仁王に譲られた所領を没収した事
1179年のクーデターで平氏一門は後白河法皇並びに院近臣達から、多くの知行国を奪い、平氏一門や親・平氏の貴族達に分配した。平家物語に拠れば、日本全国66ケ国の中、平氏一門の知行国はその半分に及んだと言う。この事に拠って従来の院政下の目代に代わって新たに平氏一門や家人がその職に就く事になり、既存の支配秩序の大混乱と反発を全国的に広める事になったのである。
こうした一連の領地没収の中で、清盛から軍事クーデター後の采配を一門の棟梁として任された平宗盛が“以仁王”から城興寺領を没収した事が大問題を引き起こす事になる。この所領は“以仁王”が師と仰いだ天台座主・最雲から譲られたものだったからである。以仁王は激怒し、全国的に起こる“反・平氏運動”の挙兵の最初のトリガー(引き金)に繋がるのである。
前項でも記述した様に、平清盛は後白河法皇の“清盛・平氏一門排除”の行動に追い詰められ、止むに止まれぬ状況から強引に軍事クーデターに訴え、その結果成立した“俄か造りの政権”であった為、既述した様に高倉院政の基本的正当性の疑問も含めて、全国の所領の半分を平氏一門で占めると言うバランスを欠いた政策など、そのスタート直後から周囲、並びに全国的な反発を招く施策が多かった。その結果、一気に消滅に向かう多くの要素を抱えていたのである。
2:以仁王と源頼政の連携
全国的な反・平氏の動きの先鋒となったのが幽閉された後白河法皇の第三皇子の以仁王と、清盛の信頼が厚かった源頼政の二人であった。二人が共同して平氏打倒の狼煙を挙げる訳であるが、その展開について記述して行く前に、先ずは二人の人物像を簡単に紹介して置こう。
2-(1):以仁王(もちひとおう)・・(生1151年没1180年6月20日29歳)
後白河法皇の第三皇子である。同母姉に歌人として有名な式子内親王(生1149年没1201年)が居る。以仁王自身も英才の誉れが高く、詩歌、書、特に笛に秀でていたとの記録がある。8歳年上の第一皇子、守仁親王が二条天皇になった経緯は既述の通りであるが、二条天皇の思わぬ早い崩御の後に二条天皇の遺志で、まだ赤児だった六条天皇が即位するが、後白河法皇はその六条天皇を無理やり退位させ、寵愛する建春門院滋子との間に出来た第7皇子の憲仁親王を高倉天皇として即位させる展開となった。
この間、以仁王も常に皇位継承の有力候補という立場であった。しかし彼は第三皇子であるにも拘わらず親王宣下を受けていない。これには平氏出身の建春門院滋子(平滋子)の妨害があって阻止され続けて来たのが理由だとされ、以仁王は従って平氏一門に対する強い恨みを持っていたと“平家物語”には記されている。しかし、院政期に親王宣下を受けるのは原則として正妃(皇后・中宮・女御)の皇子、又は仏門に入った皇子(法親王)だけだとされる。その点から以仁王の母親・成子は女御にも成っていない身分の低い女性であった事、又、以仁王は幼少時には仏門に入ったが12歳の時には還俗しており、この点からも親王宣下を受ける根拠は無かったのである。この様な状況から、建春門院慈子が阻んだという平家物語に書かれた事は当たらないと言える。
清盛の1179年11月の軍事クーデターの結果、平宗盛が以仁王が所有していた城興寺領を没収した。更に1180年4月には高倉天皇が譲位し、安徳天皇が即位するという展開となり、ここで以仁王が皇位を継承する道は完全に断たれた。治天の君である父の後白河法皇を差し置いて平清盛が強引に行った皇位継承問題に対しても“正当性が無い”として以仁王は激しく反発したのである。
この様に以仁王からすると彼の人生の全てが平清盛・平氏一門に拠って邪魔され、奪い取られて来たとの強い思いがあったとの説があるが、以仁王としてはこの様に正当性の無い、しかも脆弱な組織の平氏一門の政権を葬り去るべきだと考え、自らが先頭に立って“平氏一門打倒”の戦いの旗揚げをする事を決意したのである。彼の決起は結果に於いては失敗し、討死するが日本全国に放った以仁王の令旨はその後の平氏一門打倒の源平合戦の狼煙となって平氏一門が滅亡し、鎌倉幕府が成立するという歴史の大きな転換点を作る動きとなるのである。
2-(2):源頼政・・(生1104年没1180年6月20日76歳)
源頼政は以仁王と連携して76歳の老体にも拘わらず平氏打倒の戦いの先鋒を担い、彼も又討死する。以仁王同様、彼の行動が結果として源平合戦(治承・寿永の内乱)で源氏が勝利する事へ繋がり、鎌倉幕府成立へと展開する起点となったのであるから源氏にとっての大功労者の一人である。
NHK大河ドラマ・平清盛では俳優、宇梶剛士が演じた役柄である。彼は1104年生まれであるから1118年生まれの平清盛よりも14歳も年上である。保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)両方の戦いで平清盛と共に勝利側にいた武将である。とりわけ、平治の乱の第二幕で源義朝、頼朝、義平等、源氏の主だった人々が敗北し、池禅尼(平宗子=女優和久井映美)の嘆願で命拾いをした頼朝以外の主だった者が討ち死、又は処刑された戦いであったが、源頼政は平清盛側に付き、勝利者となった。こうした経緯から平清盛の信頼を得て、晩年は清和源氏出身者としては突出した従三位公卿にまで出世した人物である。
その源頼政が平氏一門の専横に不満を募らせ、以仁王と組んで最後には平清盛を裏切る形で平氏打倒の挙兵の先頭に立つたのである。諸国の源氏に以仁王の令旨が伝えられるという流れの中で以仁王との平氏打倒の計画が露見し、準備不足のままで挙兵を余儀なくされ、平氏軍との宇治平等院の戦いで敗れ自害する。76歳であった。
3:何故親王でもない“以仁王”が大きな影響力を持ったのか・・八条院暲子内親王の猶子(親族又は他人の子を自分の子としたもの。養子)だった以仁王の力
2-(1)の記述で以仁王が平氏一門に対して恨みや不満を強く持っていた事は紹介したが、彼が発した“平氏一門打倒の令旨”並びに彼の“挙兵”が何故大きな影響力を持ったかについてその背景、理由を説明して置きたい。
彼が平氏一門打倒の旗挙げを決心した理由には既述した様に過去からの様々な恨みや不満を平氏一門に対して抱いていた事は事実と思われるが、清盛のクーデター後の処理を任された平宗盛が以仁王の“城興寺領”を没収した事が彼の積年の恨み、不満に火をつけたのである。更に翌1180年4月に平清盛が主導した、正当とは思われない安徳天皇の即位も以仁王として許せない、我慢のならない出来事であった。しかし如何に以仁王が平氏一門に怒りを覚えていたとしても、日本全土に勢力を持つ強大な相手に打倒の為の挙兵を行うという大事を決心させ、全国に自分の名前で平氏打倒の令旨までを発する事が出来た背景は何処にあったのであろうか。
答えは以仁王という人物自身が既述した様に優秀な資質を備えた人物であった事がベースにあった事は勿論だが、何と言っても彼が“二大院領荘園群”の一方の伝領者である“八条院暲子内親王”という天皇家の強力な応援者がバックに居り、その猶子だった事である。
後白河法皇の第三皇子であった以仁王は第一皇子、第二皇子と同じ様に仏門に入れられた。第一皇子が仁和寺から還俗して二条天皇となった事は既に記した。以仁王は仏門の師であった天台座主、最雲が死去した為に還俗していたのである。
八条院暲子内親王(生1137年没1211年8月)は亡き鳥羽法皇に最も可愛がられた皇女であり、母親は鳥羽法皇が寵愛した美福門院得子(女優松雪泰子)である。こうした強大な権力、並びに財力を持った父母から八条院暲子内親王が引き継いだ荘園は全国に二百数十ケ所に及ぶ大・院領荘園群だったのである。
こうした強いバックを持つていた事で、以仁王は親王では無かったが周囲からは“正統な皇位継承の権利を持つ天皇家の皇子”として受け止められていたのである。
4:以仁王と源頼政が挙兵に至るプロセスと討死に至る結末
1179年11月14日の平清盛の軍事クーデターは後白河法皇と松殿基房並びに院近臣達の所謂“守旧派”が畳みかける様に行った挑発的な平氏一門排除の動きが原因であった。それに平清盛が堪忍袋の緒を切り、平氏一門の生き残りを賭けて軍事手段に訴える事に踏み切らざるを得なかった状況を5-6項で記述した。
平清盛が後に源頼朝が幕府を開いた時の様に、武士政権としての確立の為に新たな組織構想や人事構想を時間を掛けて準備した上で軍事クーデターに踏み切ったものでは無かった。
後白河法皇を幽閉し院政を停止させた行動から始まり、関白松殿基房・師家父子の配流、藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使等31名)を解官させた人事、全国の所領の没収方法の全てがクーデターであるから当然とは言うものの、その後の機能を全く考えていない懲罰一辺倒の計画性のないものであった。
この事自体もこの項の冒頭に述べた様に、この“軍事政権”が早期に消滅する要因となったが、何と言っても、5カ月後の1180年4月に治天の君・後白河法皇が幽閉され、院政が停止されたという異常事態下で清盛が強行した高倉天皇の譲位と安徳天皇の即位(践祚は1180年2月)であった。この皇位継承には正当性が無いという不満と風評が全国に広がる事になり、反・平氏勢力に決定的な打倒運動への口実を与え、全国的な平氏打倒運動へと火をつけたのである。
更に平清盛は敵を増やす行動を重ねる。それは上皇となった高倉上皇を厳島神社へ真っ先に行幸させた事である。この事は親・平氏一門であった比叡山延暦寺を怒らせ、園城寺(三井寺)、興福寺と連携して平氏一門に抵抗するという、更なる事態の悪化を招くのである。
次々と反・平氏勢力を増やし、彼等に多くの抵抗の口実を与え、その結果先頭を切る形で以仁王の挙兵並びに平氏追討の令旨が全国へ伝達されるという状況になったのである。以仁王のこの二つの行動はそれまで分散していた反・平氏勢力を糾合する大きな力となったのである。
以仁王と連携して武力部隊を担ったのが源頼政である。源頼政の挙兵のトリガー(引き金)については諸説があるが紹介して置こう。
平家物語には源頼政の嫡男・源仲綱の愛馬を平宗盛が気に入り強引に献上させた。嫌々乍ら愛馬を献上した源仲綱の態度に腹を立てた平宗盛がその馬に“仲綱”という名前を付け“仲綱!!”と呼びながら鞭を当て乗り回していた。子息に対する侮辱的仕打ちと受け止めた源頼政が怒り、同じく平氏一門に不満を持つ以仁王に挙兵の話を持ち掛けたというトリガー説である。平家物語らしい他愛のない話であり史実とは信じ難いが軍事クーデター以後は兎に角、平清盛・平氏一門の行動、施策には周囲を敵に廻す多くの失政と言われるものが続いた事は否定出来ない。この話も平氏一門の専横ぶりと源氏への軽侮が源頼政に拠る反・平氏の挙兵に結びついた事を言わんが為の逸話であろう。
もう一つ、源頼政が挙兵するに至ったトリガー(引き金)に関する話がある。それは園城寺(三井寺)攻撃の責任者として源頼政が平氏一門から指名された事が挙兵の引き金になったという説である。源頼政は1179年11月、清盛による軍事クーデターが起こった頃に出家しており、出家した身で園城寺攻撃を指揮する事は出来ないとしてこの命令を拒んだ。この平氏一門に反抗した行動で罰せられる前に以仁王側に寝返り、共闘を決断したとする説である。源頼政の篤い仏教信仰を背景としたトリガー(引き金)話である。
こちらの説の方が真実味はあるが、何れにせよ、以仁王と源頼政の共闘の動きとなった共通の切っ掛けが安徳天皇が治承4年4月22日(グレゴリオ暦1180年5月18日)に即位した時点にあった様だ。皇位継承という“治天の君(天皇家)”の専権事項とされた行為までに平清盛・平氏一門の手が伸びた事に対する怒りであり、これ以降、二人の反・平氏運動は加速し具体化して行くのである。
4-(1):1180年3月、園城寺による後白河法皇と高倉上皇の誘拐計画
清盛は強引に高倉天皇を譲位させて上皇とし、安徳天皇を1181年4月22日に即位させ、(践祚は1181年2月21日)高倉院政の形を整えた。しかし乍らこの事は各方面に反感を沸騰させる事になる。その中で園城寺が先頭に立って、延暦寺、興福寺に呼びかけて後白河法皇と高倉上皇を誘拐して寺内に囲い込み、後白河法皇を幽閉状態から解放し、前関白松殿基房の解放も行った上で“平氏討伐命令”を得ようとする動きを計画した。
決行日として選んだのは高倉天皇(直後に上皇)が“厳島神社”に行幸する3月17日である。ところが興福寺からの使者が鳥羽殿に幽閉されていた後白河法皇にこの計画を伝え、驚いた後白河法皇は平宗盛に事の全容を暴露するという展開となった。その為、園城寺による誘拐計画は失敗に終わったのである。何故、後白河法皇が平宗盛にこの誘拐計画を明らかにしたのかについては、後白河法皇自身がこの様な計画に巻き込まれる事による身の危険を感じたからだと考えられる。
4-(2):1180年4月9日、以仁王が平氏追討の令旨を下す
以仁王は源頼政と謀って“最勝親王”と称して諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を下した。彼は親王宣下も受けていないから“令旨”を出す資格は本来無い。令旨とは皇太子、皇后、親王、諸王などの命令を伝える文書の事とされるから、以仁王の場合は“御教書”と呼ぶべき文書であったが、既述の様に彼は八条院暲子の猶子であった事から、世間に対しては親王並みの影響力を持つ人物であった。従って“令旨”でまかり通ったのであろう。因みに天皇の命令文書は“宣旨”、上皇の命令文書は“院宣”である。
令旨の内容は、吾妻鏡や平家物語に拠るとその形式や文言に差異はあるものの、要旨は壬申の乱の時の天武天皇になぞらえて“皇位を騙し取る平氏一門を討って皇位に就くべき事を宣言する”というものであったと伝わる。参考に以仁王の令旨を下記に紹介して置く。
“清盛法師並びに宗盛等は威勢をもって狂暴に振る舞い、国を傾け、百官万民を混乱させ、五畿七道を掠(かすめ)め取り、後白河法皇を幽閉し、関白基房ら法皇の近臣を流罪にしたりして皇室をあざむき叛(そむき)き、仏法を破滅させている。もしこの挙兵に応じない場合は、清盛法師の従類と見做し、死罪その他の罪過を科すであろう。もし味方して戦功があれば、私が即位した後、必ず願い通りの恩賞を与える。”
以上の令旨の文面で分かる様に、以仁王は皇位に就く事に触れている事から、都では皇位簒奪を謀った謀反人として扱われたとする説がある。
4-(3):源行家が以仁王の令旨を携えて全国に走る
1180年4月9日に以仁王の令旨を携えて京を発ち、全国に走ったのが源行家である。諸国の源氏に決起を促し、山伏の姿で4月27日には源頼朝に令旨を伝えたとされる。
この源行家(生1142年頃没1186年6月1日)という人物は保元の乱で敗れ、息子の源義朝に斬首された河内源氏の源為義(俳優小日向文世)の十男である。従って源義朝(俳優玉木宏)や源為朝(俳優橋本さとし)の弟に当る。兄義朝に味方して平治の乱では敗れたが熊野に逃れ、約20年間雌伏した後の1180年に摂津源氏の源頼政に召し出されて以仁王の令旨を伝達する役割を与えられたのである。
行家はその後、甥の源頼朝の配下には入らず、同じく甥に当る木曽(源)義仲の配下に入った。独立心の強い人物であった様で、木曽義仲が討たれ、自分も源頼朝から討伐される危険が迫ると今度は頼朝と不和となっていた源義経と結び 後白河法皇に源頼朝追討の院宣を出させ、四国地頭となった時期もあった。この源義経・行家に賛同する武士達は少なく、結局は和泉国、畠中城に潜伏中に捕えられ、1186年6月に斬首されるという最期であった。年齢は44歳位であったと伝えられる。
4-(4):平氏は鳥羽殿に幽閉していた後白河法皇を八条坊門烏丸邸に移す
後白河法皇誘拐の企てを知った平氏側は後白河法皇の身の安全を考え、1180年5月14日に幽閉先をより安全な京市中に遷した事が百錬抄並びに玉葉に書かれている。又、翌5月15日には以仁王の臣籍降下を行い“源以光”と称して土佐への配流を決めた。しかし以仁王は女装して園城寺(三井寺)に脱出したのである。
4-(5):平氏一門に拠る報復、園城寺攻撃が行われる・・1180年5月21日
後白河法皇の誘拐計画を謀り、又、以仁王の脱出先になる等、園城寺(三井寺)の反・平氏行動に対して平清盛は園城寺攻撃を決意する。いよいよ仏門に対する平氏一門の武力行使が開始されるのである。軍勢は清盛の弟、平頼盛(俳優西島隆弘)、経盛(俳優駿河太郎)、教盛(俳優鈴之助)、清盛の子息の平知盛、重衡、そして亡き重盛の子息で清盛の孫に当る平維盛、資盛、清経という具合で、まさしく平氏一門を挙げての攻撃体制であった。
この園城寺攻撃の大将に上述した“源頼政”が命じられた事から最早、平清盛はじめ平氏一門を欺き通す事は不可能と判断し、源頼政はこの夜自邸を焼き、子息の仲綱、兼綱等一族を率いて園城寺に入り以仁王と合流したのである。
この事は九条兼実の玉葉の5月21条に書かれているのだが、ここ迄平清盛を欺き通した源頼政という人物は大した度胸の据わった老武将である。
4-(6):“橋合戦”で以仁王・源頼政軍は敗れ、両者共に討死する
1180年5月23日に以仁王と源頼政軍は園城寺(三井寺)で対応を協議した。この間に“明雲”の仲立ちで比叡山・延暦寺は源平のどちらにも加担せず、中立の立場とさせる交渉に成功した事は平氏側にとっては大きかった。5月25日に以仁王・頼政軍は1000騎を率いて園城寺を脱出し、南都・興福寺へ向かった。平家物語には、平氏一門は2万8000騎で追ったとあるがこの数は誇張であろう。玉葉には平氏軍の先発隊として、藤原忠勝が300騎を率いて平等院で以仁王・源頼政軍に追いついたとの記述がある程度だが、精々数千騎程の軍勢だったのではなかろうか。翌5月26日の様子が公卿、中山忠親の日記・山槐記の5月26日条に記されている。頼政の軍は僅か50騎に減っており、夜間の行軍に疲れた以仁王は何度も落馬するという体であった。頼政軍は仕方なく宇治橋の橋板を外して平氏軍を防ぎ、平等院で休息したとある。
宇治川を挟んで両軍は暫く対峙した。平家物語にはこの様子を“橋合戦”として詳しく記している。源頼政は宇治川を渡った平氏軍と平等院で戦い、以仁王を逃がそうと奮戦したが及ばず、渡辺唱の介錯で腹を切ったとある。76歳の肝の据わった老兵の最期であった。
以仁王は30騎程に守られて辛うじて平等院から脱出したが、平氏軍の藤原景高の軍勢に追いつかれ、山城国・相楽郡光明山鳥居の前で矢で射られ、討ち取られたと吾妻鏡に記されている。29歳であった。
以上の様に以仁王と源頼政による反・平氏一門の挙兵は両者共に討死という結果となったが、彼等の行動と以仁王の令旨が全国の反平氏勢力に与えた影響は大きかった。源頼朝はじめ木曽(源)義仲等、諸国の源氏、並びに大寺院が各地で蜂起し、平氏一門の滅亡へと繋がる源平の内乱(治承・寿永の内乱)が拡大して行ったのである。
5:平清盛、最晩年の行動と源平合戦の戦況・・福原遷都断行と総大将平維盛軍の敗戦
政治的バランス感覚に優れ、無用な敵を作る事を避けて徐々に中央政治に進出し、重要な地位を獲得して来た清盛であったが、1179年11月の軍事クーデターで後白河法皇を幽閉し、院政を停止させた頃からの行動は徒に敵を作る結果となる行動が多く、それまでの平清盛の慎重な行動とは異なる面が目立つ様になる。その為、平清盛の最晩年は、丁度最晩年の豊臣秀吉が明国への進出を謀って無謀な朝鮮出兵をした事と全く同じ様に、慢心と独善と焦りからの行動が多かったのではないかと批判される事が多い。
ところが、最近、研究が進むにつれて、福原遷都をはじめ後述する貨幣経済の導入等、平清盛が果たそうとして果たせなかった施策の中には、時代の寵児と評価されるに値する大局観を持った平清盛ならではの深慮遠謀が見られるものが多かったと再評価されている。上述した様な後白河法皇という“稀代の暗君”と評された“治天の君”の統治時期と重なった事で、クーデターという禁じ手を使った結果、以後、平清盛は周囲を敵に回すというアゲインストの状態に自らを追い込んでしまったのである。
後白河法皇が開始した“平清盛並びに平氏一門排除”の動きに以仁王の挙兵、追討令旨の伝播、反・平氏挙兵の全国的広がりへと状況は清盛・平氏一門にとって改善される事は無かった。清盛・平氏一門の対応には多くの瑕疵(かし)があった事がこれ程の反・平氏運動を呼んだ訳であるが、清盛が生きた時代が早過ぎ、彼の遠大な新時代への構想の実現を許さなかったという事であろう。
以下に平清盛が急死する迄の最晩年の諸施策と、以仁王挙兵以降の全国的に広がる源平の戦い(治承・寿永の内乱)の状況、平氏一門にとって戦況が悪化して行く状況について時系列に記述して行く。
5-(1):福原遷都を断行・・1180年6月2日
以仁王と源頼政による平氏追討の戦いが終結した直後の1180年5月末に清盛は後白河法皇、高倉上皇そして安徳天皇を伴って”福原遷行”を発表した。遷都とは発表せずに、6月2日に福原への行幸が行われ、行宮(あんぐう=仮宮)が置かれた。6月11日に内裏となった清盛の弟、平頼盛(俳優西島隆弘)の邸で遷都についての議定が開かれ、皆が初めてこの遷行が遷都であった事を知ったのである。
平清盛が何故、福原の地に遷都を考えたかの理由は下記2つだとされる。
理由①:寺院勢力に囲まれた京の都は危険
以仁王・源頼政の平氏追討の挙兵に園城寺(三井寺)、興福寺が加担した事、延暦寺に関しては“明雲”の仲立ちで今回は加わらなかったが、何時、平氏打倒の反旗を翻すか分からない状態であった。
既述した様に当時の人達の考えでは寺院勢力に対して武力を用いる事は憚られたのである。一方で寺院勢力は朝廷への強訴など、政治的干渉行動が頻繁となって来て居り、時には狼藉に及ぶなど、強訴による被害は罪の無い都の人々に及ぶ状況にあった。こうした状況は平氏一門にとっても危険であり、平清盛はこうした有力寺院勢力に囲まれた京都から福原への遷都を考えたのである。この考えは奈良時代末期に第50代桓武天皇が平城京から長岡京そして平安京に遷都した時の考えと共通している。
理由②:真の武士政権を確立する為には貴族層の古い習慣や考え方からの解放が必要
桓武天皇が平安京に遷都してから既に380年を超えていた。京の都では後白河法皇をはじめ、伝統的貴族層と寺社勢力が団結していて、強引な軍事クーデターによって第72代白河天皇(即位1072年退位1086年)以来の“院政”体制を停止させた平清盛・平氏一門に対しては、クーデターの直後から反発する勢力が現れていた。
平清盛は当時の日本社会にとっては新参者である武士層が主導権を持った政治を行う為には、天皇家と貴族層との共存体制に拠る政治が400年近くに亘って醸成されて来た“京の都”から脱出する必要性を強く感じていたのである。
後に鎌倉幕府を成立させる事になる源頼朝が“平清盛無くしては武士政権の登場は在り得なかった”と叫ぶNHK大河ドラマ・平清盛の冒頭の部分を紹介したが、結果的には清盛の趣旨を果たす事が出来なかった福原遷都ではあったが、源頼朝が清盛に学ぶ処が多かった事は確かである。源頼朝は京の都の朝廷政治・貴族社会の影響を排除する為、物理的にも離れた鎌倉の地に幕府を開いたのである。平清盛が福原に遷都を考え、僅かな期間ではあったが実行した目的と頼朝が鎌倉に幕府を開いた目的は共通していたという事である。
5-(2):源頼朝、木曽義仲の挙兵
1180年4月27日に源頼朝は以仁王の令旨を叔父の源行家から受け取った。頼朝が挙兵に踏み切ったのは、3-(2)で令旨の趣旨を紹介した様に、以仁王の令旨を受け取った以上、挙兵しなければ“以仁王”からの罪科を受ける事になる。又、平氏一門からも令旨を受け取った諸国の源氏に対しては追討が掛かる事は必至であり“それならば機先を制して挙兵する”という流れであったと思われる。
この様な背景であったから、頼朝の挙兵は先ず縁故のある坂東の豪族達に声を掛け、小さな規模から始まったのである。最初の血祭に上げられたのが1180年8月17日の伊豆国の目代・山本兼隆であった。これによって頼朝は先ず伊豆を制圧したのである。
1180年8月23日に頼朝軍300騎は石橋山の戦いで敗れた。この時、源頼朝軍を破った平氏方は大庭景親、熊谷直実等3000騎であった。能の演目“敦盛”で有名な熊谷直実はこの戦いの後、平氏方から寝返って源頼朝の御家人となるのである。この敗戦で頼朝は命からがら真鶴岬から船で現在の千葉県の先端、安房国に脱出する。頼朝が関東を平定するのは1183年2月であるから未だ2年半程先の事である。1180年11月には木曽(源)義仲も信濃国小県郡依田城で挙兵した。
5-(3):総大将平維盛が富士川の戦いで大敗北。祖父清盛は激怒する一方で劣勢な戦況から判断して福原から京へ再び戻る(還都)という痛恨の決断に追い込まれる
平維盛(生1158年没1184年5月10日27歳)は清盛の嫡男,重盛の嫡男だから清盛にとっては直系の孫、つまり嫡孫であった。15歳の1173年に鹿ケ谷の陰謀事件の首謀者、藤原成親の次女を正室に迎えていた。1179年に父重盛が病死し、嫡男の維盛に遺領されていた越前国が後白河法皇、松殿基房に没収された事が清盛の軍事クーデターの大きな要因であった事は既に述べた通りである。
藤原成親が首謀者となった鹿ケ谷の陰謀事件を期に病死に追い込まれた平重盛の遺児である平維盛を東国追討軍の総大将に任ずる等、清盛は心配りをしていた。それには理由があった。藤原成親(俳優吉沢悠)の妹を娶っていたという事で、平氏一門の中で立場を失った父、重盛の病死後、同じく藤原成親の娘を娶っていた平維盛も平氏一門の中で孤立気味の状態になっていたのである。こうした事情から重盛の一族が離反する事を懸念した清盛は嫡孫の平維盛を盛り立てる事に拠って平氏一門の結束を固めようとしたのである。従って、以仁王の挙兵の際にも維盛は平氏軍の大将軍として宇治の戦いに臨んでいる。又、東国追討の総大将にも任じられたのである。
平維盛を有名にしたのはその美貌であった。建礼門院右京太夫集には、光源氏の再来と称され、平家嫌いの九条兼実でさえもが、玉葉に“容顔美麗、尤も歎美するに足る”と評した程の美貌だった様だ。しかし、この様に美貌の誉れ高い平維盛ではあったが、残念ながら肝心の武将としての資質には問題があった。後に記す東国追討軍の総大将として出陣した時の戦歴は惨憺たるものであった。富士川の合戦、倶利伽羅峠の合戦共に大敗を喫したのである。玉葉の記事には1184年2月の一の谷の合戦の前後に密かに陣中から逃亡し、高野山に入って出家した事が記されている。又、1184年3月に熊野参詣の後、入水自殺した説(平家物語)4月頃に病死(源平盛衰記)した説等があるが、いずれにしても武運つたなく27歳でこの世を去っている。
こうした身内の人事に寛容過ぎた処が平清盛の大きな弱点であった。凡庸な平宗盛を後継者に選び、上記した様な温情から平維盛を重要な戦いの大将に任ずる等、結果に於いて平氏一門が次第に窮して行く事になったのである。
以下に源平の合戦(治承・寿永の内乱)で平氏軍が惨敗を続け、終に清盛が福原遷都からわずか半年後に京に還都する迄の戦況を順に記述する。
① いきなり鉢田の敗戦の惨状を見せつけられ怯えた平維盛軍
華々しく福原を出発した総大将平維盛軍であったが、平家物語に書かれている3万騎に及ぶ大軍では無く、5000騎程の軍勢というのが後世の研究者達の結論である。行軍中、比叡山延暦寺の衆徒達の妨害を受け、又、近江源氏の挙兵が相次ぐ等、意気が上がる坂東武者の勢いの一方で、京の都での安寧な生活が染みついた平維盛軍には、東海・東山道の武士達が勇んで参加、集結するという気配は殆ど無かった。
1180年10月16日に平維盛軍は駿河国・高橋宿に着いたが、そこでいきなり目にしたのが鉢田の戦いの惨状であった。甲斐源氏の武田信義・安田義定軍に敗れた遠江国(とうとうみ)の目代・橘遠茂はじめ、80名の打ち首が晒されていたのである。橘遠茂らの軍勢を戦力として当てにしていた平維盛軍はこの惨状を見て、源頼朝軍の本隊と交戦する前から自軍が圧倒的に不利である事を悟ったのである。
② :戦う前から負けていた富士川の戦い・・1180年10月20日
玉葉には上記の様に鉢田の敗戦の惨状を見ただけで怯えてしまい、富士川に着陣したものの、川を隔てて武田軍と向き合うやいなや平氏軍の中から数百騎が恥も外聞も無く総大将・維盛を見捨てて敵方の源氏方へ走った事が記されている。
平家物語には、平氏軍の兵力を7万の大軍と記しているが、最初からその様な大勢の武士を集める事が出来なかった上に、上記の様に早々と敵方に寝返った兵士も多く、実態としては玉葉の記述が正しく、1~2千騎程に激減していたものと考えられる。
そもそも平氏軍には戦闘に慣れていない兵士が多かった。上記、橘遠茂軍の惨状を見てショックを受け、敵軍への寝返りも続くという有様であったから軍全体が疑心暗鬼という状態に陥っていたのである。更に若い総大将・平維盛は逸る一方で、参謀役の平氏譜代の家人・伊藤忠清(俳優藤本隆弘)とは軍議で常に意見を異にしていたと伝わる。こうした不利な戦況から、参謀・伊藤忠清は撤退を主張したが、勇猛果敢に逸る平維盛は真っ向から反対した。こうした軍上層部の対立はますます平氏軍を混乱させた。そもそも士気の高くない兵士達は伊藤忠清の撤退案を支持するという具合で、平維盛軍は纏まりを欠く状態だったのである。
有名な、数万羽の水鳥が一斉に飛び立つ音を敵の夜襲と勘違いして、平氏の軍勢が慌てふためいて総崩れとなったという話の真偽についても諸説がある。山槐記には1180年10月20日の夜半、平氏軍は戦う前から武器さえも放置して一目散に逃げ出したとある。実態は一戦も交える事無く、平維盛を総大将とする遠征軍は瓦解していたと記されている。
③ 平清盛は僅か10騎で京に逃げ帰った平維盛に激怒する一方で、都を再び福原から京に戻す(還都)という痛恨の決断をする
富士川合戦で一戦も交える事も無く、わずか10騎で逃げ帰った平維盛に対して清盛は“何故敵に骸を晒してでも戦わなかったのか、おめおめと逃げ帰ったのは家の恥である”と激怒し、平維盛が京に入る事を禁じたと、山槐記・玉葉の双方に記されている。平家物語には清盛が激怒し、維盛の島流しを命じ、侍大将伊藤忠清には死罪を命じたと書かれているが、激怒した事は事実であろうが島流し、死罪の話は史実とは異なる。
富士川合戦における平氏軍の大敗は反・平氏側を勢い付かせ、源平の内乱が全国へ広がる事を決定付けた。京に近い近江や若狭でも反・平氏勢力がより激しく蜂起する状況へと繋がったのである。
こうして1180年11月末に、清盛が真の武士政権を作るという遠大な理想を抱いて実施した福原遷都を僅か5カ月で断念し、再び京に戻るという痛恨の決断を下さざるを得ない状況に追い込まれたのである。
この通史を書くに当って第四章から第六章までの“中巻”のタイトルを“武士層の出現に拠って始まった混乱と闘争の500年の歴史”としたが、一国の都が福原に遷都によって移され、そして僅か半年後に再び京に戻るという大混乱に加えて、源平の内乱が次第にその規模と激しさを増す状況にあり、当時の世情はまさしく“中巻”のタイトルそのものの騒然たる状況だったのである。
④ :何故東国では反・平氏の動きに同調する勢力が多かったのか
東国で反・平氏の動きが大規模に起こった背景には元々、河内源氏と東国武士との主従関係がベースにあった処に、平氏一門が乗り込んで来た事でその永年の関係が壊された事に対する反発が大きかった事が理由であると元木泰雄・五味文彦氏等多くの専門家が指摘している。
1179年11月14日の平清盛の軍事クーデター後に、平氏一門が院並びに院近臣達から多くの知行国を奪った事で、それ迄の地方の支配秩序が大混乱する事になった。東国でも河内源氏と東国武士の主従関係で守られて来た秩序が新たな平氏一門や家人が乗り込んで来た事に拠って従来の秩序が乱された東国武士が大いに反発し、迷う事無く反・平氏運動に加担したという事である。
6:死の3カ月前迄、決して諦めずに状況改善に挑み続けた平清盛の諸施策
平清盛の1179年11月14日の軍事クーデターは何度も記した様に、度重なる後白河法皇並びに松殿基房を代表とする伝統を重んずる守旧勢力が新しく台頭した武士層を排除しようとした動きに対して、平清盛が止むに止まれず、軍事クーデターという最後の手段に訴えた、日本の歴史上初めての“武士層”による旧体制の打破、“時代変革行動”だったと捉える事が出来よう。
それだけに既述した様な様々な前例破りの施策が執られる結果となり、クーデター後の平清盛、並びに平氏一門は周囲の多くを敵に廻す事になった。中でも1180年2月の安徳天皇の践祚、4月の即位、並びに高倉上皇を誕生させた動きは、“治天の君(天皇家)”の専権事項である皇位継承問題に武士層(平清盛)が、しかも後白河法皇を幽閉している異常事態の下で主導したという事で、反・平氏の動きを決定付けたと何度も記述した。
この様にして1180年4月以降、以仁王の挙兵を合図の狼煙として、強引過ぎた平清盛・平氏一門の動きは全国的な平氏討伐の動きに格好の口実を与え、治承・寿永の内乱は拡大して行ったのである。
日本の歴史の最大の特異性は今日迄125代に亘って“日本国の元首”として“天皇家”が継承されているという事実である。建国以来、日本の歴史が育んで来た“天皇家の超越的権威”は時代の寵児“平清盛”と雖も尊重せざるを得なかったという事を思い知らされる結果が待っていた。それ程に天皇家(後白河法皇)を幽閉した行為、皇位継承問題を差配した清盛の行為がクーデター以降の厳しい反発となって返って来たのである。
初の本格的武士政権を根付かせる為に清盛が英断した福原遷都もこの様な平氏一門にとってアゲインストの風が吹き荒れる情勢となった為、僅か半年足らずの1180年11月末に再び京に戻る(還都)という事になった。福原から再び京に戻った理由を平清盛が貴族や寺社に妥協し、譲歩せざるを得なかった結果であるとする説があるがそれは当たらない。富士川合戦の敗北に見られる様に反・平氏の内乱は全国化しており、京に近い近江や若狭でも反・平氏の勢力が蜂起する有様であった。こうした思わしくない状況に対処するという明確な目的があった為、平清盛は福原遷都を諦め、再び400年の都、京に戻ったのである。
平清盛はこの時点で平氏政権の維持、平氏一門の繁栄を決して諦めていたのでは無い。それどころか清盛は京の都に戻ると直ぐに、次々と以下に列記する巻き返しに打って出たのである。
6-(1):近江に於ける源氏の追討
1180年12月に清盛は継妻時子との次男で、勇猛果敢で知られる平知盛を大将とした追討軍を送り、近江の源氏を破り12月中旬には、ほゞ近江地方の平定に成功した。これには延暦寺の荘園が平氏側に協力をして兵糧の提供や謀反人の追捕にも力を貸した事が大きい。この時点ではまだまだ平氏一門に巻き返すだけの力が十分にあったのである。
6-(2):高倉上皇の病状悪化で後白河法皇の幽閉を解除する
1179年11月14日の軍事クーデターで平清盛は後白河法皇を幽閉し、院政を停止させたが、幽閉と言っても後白河法皇を監禁していた訳では無い。1180年3月に園城寺(三井寺)が後白河法皇を誘拐し、解放しようとした計画が露見し、幽閉先を鳥羽殿から京市内の八条坊門烏丸邸に移した事は既述したが、この措置もあくまでも後白河法皇の身の安全を第一に考慮した結果である。
平清盛が行った幽閉にしても、又、先の平治の乱の第一幕で藤原信頼と源義朝軍がクーデターを起こして後白河上皇(当時)と二条天皇を幽閉した場合もクーデターに拠る幽閉で天皇家の人々を乱暴に扱った訳では無い。上皇なり天皇の機能を発揮出来ない様な状態にしたという事である。
1180年4月以降、高倉院政体制に形式上は成っていたが、この時にも既に高倉上皇の体調は思わしくなかった。福原遷都、以仁王の挙兵等、高倉上皇の身の回りでは混乱と闘争が常態化して行った。こうした状況が高倉上皇の病状を更に悪化させて行ったのである。1180年11月末の福原から京への還都も高倉上皇の病状に大いに障ったに違いない。
こうした高倉上皇の体調悪化に対して清盛は、万一の事態に備えて後白河法皇の幽閉解除を京に再び還都した直後に行ったのである。しかしこの措置は決して平清盛が後白河法皇に屈辱的譲歩をしたという事では無い。あくまでも高倉上皇の健康の万一の場合に備えた処置であって、後白河法皇の政務も清盛が死去するまでは一切再開させていない。
6-(3):園城寺の焼き討ちと興福寺焼き討ち
① 園城寺(三井寺)焼き討ち
1180年12月11日に清盛は以仁王の挙兵を擁護し、後白河法皇と密接な関係にあった園城寺の焼き討ちを決断する。この追討軍の指揮官は清盛の八男、時子との息子、平清房であった。平清房は後に一の谷の戦いで23~24歳で討ち死する人物である。この焼き討ちで園城寺は金堂だけを残して全てが灰燼に帰した。福原からの還都を決断した平清盛にとっては強烈な反・平氏運動が吹き荒れる状態を巻き返す策として不退転の決意でこの園城寺焼き討ちを決行したのである。
2014年の10月末に私も園城寺を訪ねたが、JR琵琶湖線の大津駅から徒歩でも行ける。何故、園城寺の通称が三井寺なのかについては、天智天皇・天武天皇・持統天皇の3人の天皇が産湯として使われた霊泉(井戸)があるからだと寺のパンフレットに書いてある。実際にこの井戸は現在も重要文化財として残されている。天武天皇が壬申の乱(672年)で滅ぼした大友皇子の皇子、大友与太王が建立した由緒ある天台宗の寺だけに、国宝の金堂、左甚五郎作と伝わる龍の彫刻、重要文化財の本尊、如意輪観音像等、広大な境内には見るべきものが多くこの寺も一度は訪ねる事をお勧めする。
② 興福寺攻撃で南都は灰燼に帰す
園城寺の焼き討ちから僅か2週間後の1180年12月25日に清盛は継妻時子との息子で五男(時子の息子としては三男)の平重衡を大将として興福寺を攻めさせる。重衡は4万の兵を率いて南都へ向かい、興福寺側が築いた城塞を打ち破って進攻した。
山槐記に拠ると火を放ったのは興福寺の僧なのか平氏軍なのかは分からないと記している。高橋昌明氏は、平清盛が福原から京に再び戻らねばならないという痛恨の決断をする条件として平氏一門には“園城寺や興福寺へ断固たる討伐を行う事が京に都を戻す前提条件である”事を承知させていたという史実からも火を放ったのは平氏軍に違いないと結論付けている。興福寺に放たれた火は、仏像、経典の全てを焼き尽くし、東大寺に飛び火。大仏殿、南大門も猛火に包まれ、盧舎那大仏もドロドロに溶けてしまった。戦死した僧は1000人に上り、犠牲になった人数は3500人に上ると平家物語に記されている。
清盛からの厳命に忠実に動いた平重衡は、本陣とした般若寺の門に僧兵の首を掛け、更に30人の僧の首を京に持ち帰って晒し首にした。こうした平清盛、並びに平氏一門による寺院への容赦無い攻撃と焼き討ちという前代未聞の所業を目の当たりにした都の人々は、改めて平氏一門・軍事政権の恐ろしさを知り、平氏一門離れが一層加速したとされる。
この興福寺攻撃の史実から、平重衡という人物は無慈悲な極悪人と伝わるのだが、その実像は勇猛果敢、且つ、常に他人への心配りを忘れない人物だったとの逸話が多く残っている。平重衡は1184年2月の一の谷の戦いで源範頼・源義経軍に大敗し捕虜となる。梶原景時に拠って鎌倉に送られるが、重衡の人物としての器量に感心した北条政子は彼を厚遇したと伝わる。源頼朝も重衡を慰める為の宴を設けたとの記録も残っている程の人物だった様だ。
重衡に関わるその他の逸話も多く残っており、室町時代以降には能“重衡”が成立している。しかし、1185年3月に壇ノ浦で平氏一門が滅亡し、戦後処理の一環として重衡によって南都(興福寺)を焼き払われ、多くの僧侶が殺された報復として、南都(興福寺)の衆徒から強く身柄の引き渡し要求があり、平重衡は6月23日に木津川畔で斬首され、般若寺門前に梟首されたのである。29歳であった。
6-(4):平氏一門の棟梁、平宗盛を畿内惣官職に就ける・・1181年正月8日
上述の様に、平清盛は福原から京に都を戻した(還都)後に矢継ぎ早に近江、伊賀、伊勢の源氏勢力を制圧し、又、園城寺、興福寺の焼き討ちを決行した。しかし、駿河以東は既に源頼朝の支配下に入って居り、北陸道では木曽義仲が急速に勢力を拡大するという状況であった。
この状況に対処する為に清盛は1181年正月8日、平宗盛を“畿内惣官職”に任じた。これは限られた範囲の知行国主の権限を越えて、より広範囲、横断的に畿内・伊賀・伊勢・丹波を軍事支配出来るという権眼を持つ新たな役職であった。
平清盛が最晩年に考案したこの役職は、征夷大将軍に匹敵する画期的、先進的な職掌であると元木泰雄氏は評している。従来の小規模な私郎従(武士団の郎党・家の子)を中心とした軍制から脱却して、畿内、近国に渡る広範囲な軍事的直轄支配をする事を目的としたこの軍制を考案した事は、武士政権としての平氏政権の性格を如実に表したものだとされる。源頼朝が鎌倉幕府を開くに当たって、守護・地頭を設置した事も平清盛の畿内総官職に倣ったものとされる。源頼朝は多くの事を平清盛から学びとっていたという事である。
6-(5):高倉上皇の崩御(1181年1月14日19歳5カ月)と後白河院政再開時の対策
を講じる
高倉天皇は後白河法皇と寵愛された平滋子の皇子として1161年に生まれ、後白河法皇と二条天皇との父子の主導権争いの谷間に居たが、二条天皇の崩御で6歳と7カ月で皇位に就く事になった。
父、後白河法皇が院政を敷く下で天皇時代を過ごし、1179年11月14日に舅(しゅうと)に当たる平清盛が起こした軍事クーデターの後に、今度は清盛の主導で18歳半という若さで皇子の安徳天皇に皇位を譲り、上皇となったのである。実質的には平清盛の政権下で、形だけの傀儡の院政であった。後白河法皇・二条天皇・平清盛の三人の政争に翻弄され続けた20年に満たない短い人生であった。
高倉天皇(上皇)が父・後白河法皇と平清盛の関係が常に一触即発という状態にあり、終には破綻する状況下で何故、平清盛との関係を強化したのかについては、清盛の娘、中宮徳子との仲睦ましい関係も影響したであろうし、二人の間に1178年に言仁親王(後の安徳天皇)が誕生したという事情もあろうが、そもそも高倉天皇が後白河院政からの独立を志向していた事がベースにあった。1178年には清盛と連携して“新制17条”を発布している程の信頼関係が両者にはあったのである。
高倉上皇の体調は福原に遷都した頃には既にかなり悪化しており、その後も病状の回復は思わしく無かった。そこで清盛としては高倉上皇の万一の崩御に備える覚悟を決め、上記した様に後白河法皇の幽閉を解除したのである。平清盛、並びに平氏一門の政権にとっては高倉上皇が崩御となれば、それは後白河法皇の院政が再開される事を意味した。天皇家との共存体制を組む事によってのみ、平氏政権を継続する事が出来るという事を熟知していた平清盛は高倉上皇を欠いた僅か2歳の安徳天皇との共存体制で政権を維持する事は現実的で無いとしてその対策に腐心するのである。
清盛は決して後白河法皇の政務への復帰は許さなかったが、一方では後白河法皇による院政が再開される事にも備え、後白河法皇の力が余りにも強大にならない様に、後白河法皇の近臣とされる人物の職を予め解いて置くなど、清盛生来の政治的バランス感覚は最晩年でも衰えなかった。そして更に清盛は娘の御子姫君(みこのひめぎみ)を後白河法皇の後宮に入内させている。
7:平清盛の急死・・治承5年閏2月4日(グレゴリオ暦1181年3月20日)64歳
清盛は京の都の改造を始めていた。院御所や内裏を六波羅や西八条の平氏の拠点に近い場所に移すなどの整備に着手した。しかし、以仁王・源頼政の反乱を狼煙として全国各地に既に広がっていた反・平氏の挙兵の動き、寺院の反抗は収まらなかった。更に平氏一門の東国遠征軍は大敗を喫し、そして1181年に入った正月早々に高倉上皇は崩御となり、平氏一門に対する難事は雪崩の様に続いていたのである。
こうした状況下での平清盛の心労、ストレスは想像を絶するものであったと思われる。そして終に清盛は治承5年2月27日、突然の頭痛と高熱に見舞われ“源頼朝の首を墓前に供えよ”と遺言して閏(太陰暦の当時、閏年には1カ月が加えられ、閏月と称した)2月4日に息を引き取ったのである。64歳であった。グレゴリオ暦でこの日は1181年3月20日に当る。因みにグレゴリオ暦は1582年にグレゴリウス13世がユリウス暦を改正して制定した太陽暦であるが、日本でも1872年(明治5年)12月3日を1873年(明治6年)1月1日として以降、今日もグレゴリオ暦を採用している。
清盛の急死については後世、マラリアを発したとの説が有力であるが、清盛の健康を蝕んだのは過度のストレスであったと思う。平清盛でなくとも上記の様に極めて重大なトラブルが連続するという事態に身を置けば、如何に頑健な人間であっても、その殆どは過度のストレスで清盛と同様の病状に陥るのは必至では無かろうか。為政者のトップが現職中に急死した事例として、1980年6月に70歳で亡くなった大平正芳首相の例と2000年5月に62歳で亡くなった小渕恵三首相の例を思い出す。この二人の場合も当時の複雑な政局状況からの過度なストレスがその急死の引き金となったのである。
死を覚悟した平清盛は“死後は全て宗盛に任せてある。是非、宗盛に協力して欲しい”と側近の僧侶“円実法眼”を後白河法皇の元に遣わし奏上させたが、後白河法皇からは何の返事も無かったと伝わる。そうした後白河法皇に対する憤怒の中に清盛の病状は更に悪化し、死去したのである。
この様に時代の寵児・平清盛は500年に亘って続いた、天皇家と貴族層(藤原氏)によって統治されていた日本という国の政治体制に新しい風穴を開け、武士層の出現によって始まった混乱と闘争の500年の歴史の第一走者としての役割を果してこの世を去り、次の走者、源頼朝へと歴史のバトンを渡したのである。平清盛の遺体は荼毘に付され、円実法眼が首に掛け、清盛が日宋貿易の為に築いた大輪田泊(おおわだのとまり)の経が島に納められたのである。
第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第6項 平清盛が強引に政権を成立させたプロセス
―はじめにー
第5-5項では後白河法皇と平清盛の提携関係が何故成ったか、しかしその提携関係も常に一触即発の危険があった事を“嘉応の強訴事件”を具体例として紹介した。又、建春門院慈子を筆頭に、徳子、盛子の3人の平氏一門の女性が後白河法皇(=天皇家)並びに旧摂関家と平清盛(=平氏一門)との間に立って平氏一門の立場を強化する事に貢献し、平清盛(平氏一門)を一挙に天皇家(=後白河法皇)と連携関係を結び、共存体制を組む相手としての立場にまで引き上げた事を記して来た。
この両者の提携関係は当初は明らかに後白河法皇の側にニーズが強いという状況下にあった。そして“治天の君”としての立場を強固なものにする為、後白河法皇は徹底的に平清盛はじめ平氏一門を活用した。双方にとってWin―Winの関係が成立していた期間は平氏一門にとっても栄華の絶頂を極める期間となったのである。
しかし、後白河院の基本的考えは次第に“日本の国を治めるのは治天の君である自分であり、武士層では無い”という事に徹する様に変化する。この信念は近臣を初めとして周囲の政治環境が整うに連れて日増しに強くなって行った。1169年末から1170年初頭にかけて起こった“嘉応の強訴事件”は後白河法皇と平清盛が決裂する前哨戦となった大きな衝突であった。
1171年末から1172年にかけての平徳子の入内は建春門院慈子の努力によって両者が決裂する時期を後送りする事には役立つたが、1178年に高倉天皇と徳子との間に皇子(後の安徳天皇)が誕生し、平清盛が天皇家の外戚となった事で、逆に後白河院との衝突・対決の危険性を倍加し、不可避なものとしたのである。こうした両者の衝突をギリギリの処で緩衝役となって防いでいた建春門院慈子が1176年にこの世を去った事で導火線に火が付いた状態となったのである。
第5-6項では建春門院慈子がこの世を去ってから露骨になる後白河法皇の平清盛排除の動きを記述し、追い詰められた平清盛が軍事クーデターを起こして後白河法皇を幽閉し、院政を停止させ、事実上“平氏政権”を成立させる迄のプロセスを記述する。
又、重要な検証としてこの“平氏政権”は日本初の武士政権と言えるのであろうかという古くからの議論についても記述する。更には軍事クーデターという手段に訴えた平清盛の意図は初めからこの様な手段で政権を簒奪する事、略奪する事では無かったという点についても記述して置きたい。
1:後白河法皇と平清盛が共存体制を維持出来た期間
後白河法皇は繋ぎの天皇として即位した人物であるから即位時点で持っていた経済基盤も人的基盤を含めた政治基盤もそして軍事基盤も無かった。従って即位直後に起きた保元の乱の後は信西入道に頼り、その信西を平治の乱の第一幕で近臣として重用した藤原信頼を用いて排除し、その藤原信頼が平治の乱の第二幕で二条天皇を担いだ守旧派貴族と軍事面でバックとなって貢献した平清盛によって滅ぼされると、二条天皇の親政の陰で政治の表舞台から追いやられたのである。
その二条天皇が1165年7月28日に崩御した事に拠って二条天皇が今際の際に即位させた六条天皇を後白河院はほゞ無視する形で再び政治の舞台に返り咲くのである。この返り咲きの時に用いたのが平清盛並びに平氏一門の経済力、軍事力であったが“平慈子”という後白河院が寵愛した平氏一門の女性の登場がその後の状況を一変させるのである。
後白河院と平慈子との間に皇子が生まれこの皇子を六条天皇を排除して皇位に就けるという共通の目的が後白河院と平清盛との間に生まれ、二人の連携関係がより強くなる期間が生じる。以上の様な経緯から、後白河院と平清盛・平氏一門との連携関係、そして共存体制が始まった時期は“後白河院政“が事実上開始された二条天皇崩御直後の1165年夏以降と考えるのが妥当であろう。
では、両者の提携関係は何時終わったのかについては最終的には1179年11月14日に平清盛が軍事クーデターを起こして後白河法皇を幽閉し、院政を停止した時だという事になるが、その間の経緯が重要であり、それについて記述する事がこの項の主題でもある。
後白河院は何度も記述して来た様に鳥羽法皇からも“天皇の器に非ず”と評され、近臣の信西入道からも、愚管抄にも“暗君”と評され、平清盛も政治的には全く評価出来ない人物として避けて来た“奇人”に類する人物である。その“暗君”が再び政治の頂点に立つ事になり、清盛としては“連携と共存体制”の道を常に模索し、それを“維持”する事に努力するというのが基本的姿勢であった。
上記した“平慈子(建春門院慈子)”の登場が状況を一変させたとは具体的にどういう事を指すのであろうか。
第一に、後白河院は平慈子を寵愛する事と並行して、平清盛並びに平氏一門に破格の厚遇を与えた事である。その結果平氏一門は“平氏に非ずんば人に非ず”の栄華を得るのである。
第二に後白河院と慈子の間に皇子(後の高倉天皇)が生まれた事で、六条天皇を排除してこの皇子を天皇に就けるという後白河院と平清盛の目的が一致し、双方の連携は“蜜月期間”と言われる程に深まった事である。そして清盛は“太政大臣”にまで栄達するのである。
こうした変化は上記の様な良い事ばかりでは無い。後白河院と平清盛の関係には次第に暗雲が立ち込めて来るのである。
そして第三の変化は後白河院自身の内部から起こって来た変化である。何せ“奇人”と称される人物だけに“治天の君”としての意識と自信が日々強まるにつれて“国家の政治権力は我が掌中にあるべき”という思いが強くなり“平清盛並びに平氏一門の排除“という動きが次第に強くなった事である。こうした動きは高倉天皇に平徳子が入内した事、そして6年後に皇子(後の安徳天皇)が誕生した事に拠ってますます平清盛が天皇家の外戚としてより身近な存在に成る程、強まって行くのである。
第四の変化、これが最大のものであるが、1176年7月に建春門院慈子(=平慈子)がこの世を去った事である。彼女の死を境に後白河法皇に芽生え、そして確信となっていた平清盛並びに平氏一門排除の動きはより露骨なものになって行く。
以下に後白河院と平清盛の連携関係に亀裂が入った初期段階の事件から、次第にエスカレートする平清盛並びに平氏一門排除の動きを記述し、結果として清盛が堪忍袋の緒を切り1179年11月14日の軍事クーデターを起こすに至る迄の史実を記述して行く。
2:鹿ケ谷の陰謀事件・・1177年6月
建春門院滋子の死からまだ1年も経たない1177年6月に首謀者三人が僧俊寛の山荘(京都鹿ケ谷)に集まり、平氏打倒を謀議したとされる事件が起きる。後白河法皇の側近の藤原師光(俳優加藤虎ノ介=出家して西光)と藤原成親(ふじわらのなりちか=俳優吉沢悠)そして村上源氏出身の真言宗の僧俊寛の3人である。
後世の歴史研究家の中にはこの謀議の為の集まりが実際にあったのかどうかの信憑性にも問題があるとする説もあるが、この陰謀の実行自体は多田(源)行綱が平氏一門に密告した事に拠って発覚し、未遂に終わった。謀議をしたとして藤原師光は捕えられて処刑され、僧俊寛は薩摩の国・鬼界島に配流されこの地で没した。問題は残る藤原成親である。後白河院の近臣中の近臣であった彼は清盛の嫡子、重盛の妻・経子(女優高橋愛)の兄であったという事から平重盛(俳優窪田正孝)が父、清盛に必死に取り成し、死刑を免れ備前の国に配流という形になったが3カ月後に清盛の手の者によって結局は殺害された。
朧谷壽氏は“平重盛論”で、この事件は後白河法皇の近臣の藤原成親が平氏一門の分断を謀る為、義弟で且つ平氏一門の棟梁であった平重盛を抱き込み、後白河法皇の近臣として重用される立場にした上で“鹿ケ谷陰謀事件”を起こしたという説を展開している。NHK大河ドラマ・平清盛でも平重盛がどんどん後白河法皇と藤原成親に近づいて行く場面を描いていた。そしてこの陰謀事件の結末は上記3人の院近親者の死であったが、陰謀事件に重盛が関わっていなかったのは当然であるがこの事件で一番の被害者だったのが内大臣まで昇進していた平重盛であったとも言えよう。
平治の乱の第1幕同様この“鹿ケ谷陰謀事件”に後白河法皇が関わった事は明らかだとされている。史実の上での証拠としては一切残されていないが、平清盛はこの事件の背後に後白河法皇の存在があった事を察知していたものと思われる。玉葉には後白河法皇がこの事件に関して“されば何事ぞ”とシラを切った事が記されている。この事件の後にも以下に記す様に“平清盛・平氏一門排除”の挑発的な動きは連続して行われる。こうした状況を考えると鹿ケ谷の陰謀事件が起こった1177年の時点になると“治天の君”後白河法皇は“平氏一門を排除する事に誰に憚る必要があろう”との確固たる信念を持って平清盛、平氏一門に対していたものと考えられる。
こうした後白河法皇並びに松殿基房を初めとする近臣によって繰り出される挑発的な平清盛並びに平氏一門排除の動きに対して、生来の政治的バランス感覚に優れた平清盛はこの“鹿ケ谷陰謀事件”に対する対応でも軽々に後白河法皇と直接対決する事は一切避けて、上述した藤原師光(西光)藤原成親、そして僧俊寛を処分する事に留めたのである。
この時点では平清盛は天皇家の家臣である平氏一門が“治天の君“後白河法皇に直接刃向う事は愚の骨頂であり、あくまでも天皇家(後白河法皇)との共存体制を維持する事を最優先して踏み止まったという事である。
3:平盛子の死と摂関家財産管理権の没収問題・・(1179年6月)
10歳で摂政・近衛基実の後家となった盛子が摂関家の厖大な財産を引き継ぎ、平清盛がその管理権を得た事は既述したが、その盛子が13年後に23歳で死亡した事が後白河法皇と平清盛が直接衝突する起点となる。上記した様に“治天の君”の意識という点に於いて3年前の建春門院慈子の死が決定打となって、後白河法皇は13年前に近衛基実が早死した際には膨大な財産管理権を平清盛に与えたが今回の態度は全く異なっていた。この時点(1179年6月)の後白河法皇は“平清盛並びに平氏一門を排除する事に何の遠慮があろうか”の信念が固まっていたのである。
盛子の没後、平氏側は素早く動き、平清盛の管理下にあった膨大な摂関家の荘園並びにその他の財産を高倉天皇に伝領するという動きに出た。盛子の死後も実質的に平氏管理下の財産として囲い込もうとしたのである。盛子の死の前年、1178年には徳子に平清盛も待望していた言仁親王(後の安徳天皇)が生まれていた。この親王を天皇として即位させ、高倉上皇を誕生させれば摂関家の厖大な財産を引き継いだ“高倉院政”を開始する要件が整うという事である。この時代は“院政”時代である。平清盛にこの時点でその意図があったかどうかは分からないが、こうしたプロセスを平和裏に行い、後白河法皇の院政を停止させる事が出来れば、高倉院政を傀儡とした実質的な“平清盛政権”が実現し得たという状況にあった。
当然、そうした平氏独り勝ちという状況を阻もうという動きは徐々に育って来ていた。“治天の君”後白河法皇には平和裏に高倉院政を成立させる意図などは全く無く、上述した様に平清盛・平氏一門排除に強い執念を燃やしていた。そこに13年前、兄、近衛基実の死の際に摂関家の膨大な財産が盛子に引き継がれ、その財産管理権を平清盛が得た事にクレームを付けた弟、松殿基房の存在が加わった。彼は摂関家の氏の長者を引き継ぎ、関白として後白河法皇と共に“平氏一門排除”の動きの先頭を切っていたのである。
松殿基房は盛子の死に伴う摂関家・遺領相続の権利は氏の長者である自分にあると強く主張し後白河法皇に訴えたのである。この訴えに後白河法皇が強く介入し“在位中の天皇(高倉天皇)の所領管理は院が行うのが原則であり、天皇家の治天の君(後白河法皇)がその管理を行う”との裁定を下し、平清盛に無断で盛子の遺領を没収するという展開になった。この事は愚管抄にも明記されている。田中文英氏は後白河法皇が松殿基房の子息でわずか8歳の松殿師家を摂関家の氏の長者に変更する形で盛子の財産を継がせたとの説明を加えている。
この様な経緯で平氏一門から摂関家の厖大な財産が没収されたのである。
4:清盛が期待した嫡子・平重盛の死と遺領没収問題・・(1179年9月)
後白河法皇が上記裁定を下してから僅か3カ月後に今度は平清盛の嫡子・平重盛の所領が没収されるという事態が起きた。
建春門院滋子と共に後白河法皇と平清盛との間の緩衝材となっていたのは嫡男、平重盛であった。1166年10月に憲仁皇太子(後の高倉天皇)の乳父母に妻の経子と共に任じられた事は平重盛が後白河法皇の近臣となった事を意味した。翌1167年5月には後に“平氏政権成立説の論拠”とされる東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討の宣旨が下され、軍事権、警察権が平重盛に与えられた。更に1171年には異母妹、平徳子が高倉天皇へ入内するという慶事の結果、重盛の出世は更に加速し1174年には右近衛大将に任じられるという具合で後白河法皇の近臣として重盛の信任は厚かったのである。
1176年7月に建春門院滋子が急死した後も1177年正月に重盛は左近衛大将に上り、異母弟の平宗盛も右近衛大将に就いた。平氏一門で両近衛大将を独占するという平氏全盛期の状態であり、重盛の出世は尚も続き1177年3月には内大臣に任じられるのである。こうした嫡子重盛に対する厚遇は上述した様に平氏一門の分断を謀る後白河法皇、藤原成親等の取り込み策だとする説もあるが、いずれにせよ平重盛の順風満帆の状態はここ迄であった。内大臣に昇進した僅か3カ月後の1177年6月に上述した平氏一門打倒の陰謀事件、鹿ケ谷の陰謀事件が起り、重盛はこの事件に直接係った訳ではないが生真面目な性格も災いしたのであろう、妻が首謀者藤原成親の妹と言う事でこの事件を境に平氏一門に於ける立場を失ない、政治に対する意欲を失ったばかりか健康をも著しく損なって行ったのである。
平重盛に代わって異母弟の平宗盛(時子の長男)が平氏一門の中で台頭するが、凡庸な人物でリーダーとしての資質、政治家としての能力で重盛に比べてかなり劣っていたとされる。その点で重盛に後事を託し期待していた平清盛にとっては大きな痛手となった鹿ケ谷陰謀事件であった。1178年11月には重盛の異母妹の徳子が皇子(後の安徳天皇)を出産し12月には皇太子となるが、重盛は薦められる官職を全て辞退する程の病身となり翌1179年7月に42歳で没したのである。
彼の死後、平清盛並びに平氏一門排除の動きは更に加速し、しかも露骨且つ挑発的に行われる。重盛の死後、遺児、平維盛の遺領となっていた知行国・越前国を後白河法皇と松殿基房が謀って没収し、それを後白河法皇の院近臣に与えたのである。更に、親・平氏派を排斥する人事を行い、親・後白河法皇派の人物を優遇し昇進させた。こうした挑発的で露骨な平氏一門排除の行動を後白河法皇と松殿基房が矢継ぎ早に行った訳であるが、こうした守旧派達は武士層(平清盛並びに平氏一門)が持つ武力攻撃を全く意に介していなかったのであろうか?
確かに天皇家の“治天の君”という立場が持つ権威と権力は大きく、誰もが認めるものであった。しかし、ここまで挑発的、且つ露骨な平清盛・平氏一門排除の動きに出た後白河法皇の心理はなかなか理解出来ない。敢えて推測するとすれば以下の様な事であろう。
平清盛は元来温厚な人物であり、伝統を重んじ、天皇家を重んじる人物である。この事は過去の“アナタコナタ”の行動から充分に分かっている。天皇家の権威に対して臣下の武士が武力攻撃をした例は過去にも無い、ましてや公卿の地位にある清盛がそうした蛮行に訴える事はあるまい、“治天の君”である後白河法皇に武力攻撃に出る事はあるまいと確信していたのであろう。
後白河法皇と共闘した松殿基房という人物も後白河法皇と似た考えを持った人物ではなかったかと思われる。両者は天皇家と摂関家という関係が出来る以前から“天皇家と藤原氏”という関係で共存体制を組み、古代からこの国を率いて来た存在である。その事に強い誇りと正統性を抱いていた典型的な守旧派の人物であったと思われる。従って松殿基房も後白河法皇と同様に新興の武士層の平氏一門の急激な台頭を許せず、我慢がならない状態であった。こうした考えを共有する両者が極く自然に排除の為の連携を組むという事になったのである。
ここで改めて後白河法皇という特異な人物の考え方を理解して置く必要があると思う。結論的に言えば、天皇家の“治天の君”に就いて以来、日本国の政治権力は全て後白河法皇の手中にあるべきだという考えが次第に強くなり、その為に役立つ臣下の者は徹底的に活用し、役立たなくなった臣下の者は憚る事無く捨て去るという姿勢に徹した人物である。
こうした姿勢は後白河院が関わった過去の事件からも説明出来る、又、5-7項以降に記述する木曽義仲に対する姿勢でも、又、源平の内乱で源頼朝と源義経を交互に使い分けた姿勢にも鮮明に現われるのである。
平重盛の遺領を没収した後白河法皇と松殿基房の行為は“治天の君”後白河法皇こそが日本の政治権力者の頂点に立つ者であり、何人と雖も逆らうことが許されない“超越的権威”を天から与えられているのだと確信して行った行為としか思えない程、大胆なものであった。“超越的な権威“を天から与えられている以上、臣下の者は誰であれ役に立つ者は使い切り、役立たなくなった者は捨て去るという姿勢である。そして”治天の君“である自分(=後白河法皇)は臣下の誰からの制約も一切受けないし、許さないという立場だと確信していたと思われるのである。
“暗君“と称された後白河法皇は、なかなか我々には理解する事が難しい人物ではあるが、こうした”治天の君“としての信念に基づいたと思われる彼の姿勢を具体的に現した事例が過去にある。これらの事例は後白河法皇という人物の理解の助けになると思うのでもう一度紹介して置こう。
第一の事例が1159年末に起きた平治の乱で後白河上皇(当時)がとった行動である。平治の乱の詳細については第5-3項を参照されたい。この平治の乱の第一幕では、後白河上皇(当時)は“治天の君“として政治権力を自分の手中に収める為に、近臣であった信西入道を自らが寵愛し台頭させた近臣、藤原信頼を使って排除させたのである。そして直後に伝統的貴族であった藤原公教が平清盛と手を結び、二条天皇を担いで平治の乱の第二幕が始まり、藤原信頼が討たれるという状況に変化すると今度は徹底して自分は一切関与していないという態度を取り、シラを切るのである。そして助けを求める寵臣、藤原信頼に救いの手を差し延べる事も無く、捨て去ったのである。
第二の事例は第5-5項で記した平治の乱から10年後の1169年末から1170年正月にかけて起った“嘉応の強訴事件”である。ここでも後白河法皇は延暦寺側と交わした約束を舌の根が乾かぬ中に反故にしたばかりか逆に強訴側に報復する為の近臣、藤原成親復活の人事を行った。後述する源平の内乱に際してもその時々の状況に合わせて、追討令を下す相手を自分に利する人物にコロコロと変えるが、治天の君として“超越的権威”が天から与えられているという信念を持つ後白河法皇の行動に一貫して見られる姿勢なのである。
後白河法皇は生涯を通じて見事な迄に相手を翻弄する行動を平気でとった。その根底には上述した考えに基づく後白河院流の確固たる“治天の君”としての信念があったからであろう。国を治めるのは“治天の君”たる自分であり、天皇家である。その為に役に立つ臣下の者は徹底して活用し、その上で共存体制を組む事があるという考えである。自分には天から“超越的権威”が与えられている事を信念として持ち、行動した特異な人物であったと言えよう。
玉葉の記事に拠れば、一連の平氏一門排除の挑発行為で後白河法皇と共闘した松殿基房も後白河法皇と似通ったタイプの人物であった様だ。10歳で後家になった平盛子との再婚話が纏まらなかった話を紹介したが、その理由としてこの松殿基房が盛子との再婚話と並行して他の政略的な婚姻話を二重、三重に進めていた事に清盛が反発した為だと言う事である。道長時代の摂関家の権威、権力は比べ様も無い程、地に墜ちてはいたが、再び天皇家(=後白河法皇)と共存して政治権力を握る意欲は失っていなかったのである。
第5-8項で木曽(源)義仲について記述するが、清盛の死後、源平の内乱が拡大し、平氏一門が没落して行く過程で木曽(源)義仲が都を制圧する。松殿基房は早速自分の娘を木曽義仲の正室として差出し、清盛時代に失った権勢の挽回に務めた話が平家物語に書かれている。保元の乱で没落した摂関家を形だけでも存続させようと藤原忠通(俳優堀部圭亮)が近衛、鷹司、九条、二条そして松殿に分家した際に松殿家の祖となった松殿基房であったが、以上の様に権謀術策で生き延びようとする血筋が子孫にも伝わったのであろうか、平清盛に挑発を繰り返した松殿基房の子孫も同様の策に溺れた動きを重ね、他の家は五摂家として明治時代迄生き残ったが松殿家だけは戦国時代に滅びるという運命を辿ったのである。
5:遂に平清盛が治承3年(1179年)の軍事クーデターで後白河法皇を幽閉し、院政を停止させる
後白河法皇を先頭に関白松殿基房ら守旧派貴族の挑発的且つ度重なる平氏一門排除の動きに平清盛は終に堪忍袋の緒を切る。そして福原から数千の軍勢を率いて治承3年(1179年)11月14日に上洛、直ちに松殿基房・松殿師家父子を捕えて解任した。関白松殿基房側には清盛の軍事行動に抵抗する手段も無い侭、大宰府権師に流されたのである。清盛は太政大臣の藤原師長(もろなが)、権大納言・源資賢(すけたか)をはじめ反・平氏派の公卿、並びに院近臣の計39名を解任した。この結果2年前の鹿ケ谷陰謀事件後の追放と合わせて後白河法皇の近臣勢力は事実上壊滅状態となった。
覚悟を決めて起こした平清盛の軍事クーデターである。攻撃は“治天の君”後白河法皇に及ぶ。上述した様にこの様な軍事クーデターに平清盛が及ぶとは予想していなかったのであろう、後白河法皇は清盛に許しを願ったと伝わるが、清盛は受け入れず11月20日に後白河法皇を法住寺殿から鳥羽殿に移し幽閉した。ここに後白河院政は停止されたのである。
過去の日本の歴史で、天皇家と臣下の立場の者が直接争った例としては764年の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱がある。第四章の第4-1項に記述したので参照願いたい。しかしこの例でも恵美押勝は第47代淳仁天皇(即位758年廃帝764年)を自軍サイドに擁する形で孝謙上皇軍と戦った。つまり形の上では天皇家と天皇家との争いとしたのである。
今回の平清盛の軍事クーデターは臣下の清盛が単独で“治天の君(=天皇家)後白河法皇を攻撃し幽閉したケースであるから前例の無いケースである。“天皇家との共存体制の無い政権は存続し得ない“という鉄則を破った平清盛の軍事クーデターであった。
平清盛による軍事クーデターの結果、短期間の“臨時軍事政権”的な平氏政権の成立となったが、直ぐに消滅する運命にあった。清盛の急死直後に平宗盛が後白河法皇に政権を返上した事であっさりと“平氏政権”が消滅する。そればかりか、その後の対応を誤った事で安徳天皇はじめ平氏一門が滅亡するという最悪のプロセスを辿るのである。
元木泰雄氏と上横手雅敬氏は、結果的には悲劇へと結びつく軍事クーデターではあったが、それにしても平清盛が後白河法皇の院政を停止させるという、臣下の行動として当時不可能と考えられる強引な行動に出る事が何故可能だったのか、その背景、理由を下記3点としている。
① 平清盛は亡き白河法皇の子であると当時から噂され“皇胤”としての権威が備わっていた人物だったとされる。その点で単なる“武士層”出身者とは見做されてはいなかった事。
② それに対して即位時点から“繋ぎの天皇”に過ぎないとされ、その不安定さを払拭出来ない後白河院政は脆弱さを常に抱えていた事。
③ 清盛は安徳天皇の外祖父となり、天皇家の姻戚という立場を得ていた。又、徳子の夫でもある高倉天皇からの支持を得ていた為、通常も宣命や詔書など、天皇の公式の命や叙目を得ながらの行動が多く、信用されていた事。
しかし乍ら如何に清盛が上記のような立場、実績を持った“公卿武士”であったとしても現役の“治天の君”後白河法皇を武力クーデターで幽閉するという行動は余りにも強引であり、無理があったと言わざるを得ない。そして後の平氏一門の滅亡へと繋がるのである。
軍事クーデターを起こした直後の翌1180年の2月に1歳半の言仁親王を践祚(せんそ=三種の神器を先帝から受け継ぎ、天皇の位を継ぐ事)させ、4月には第81代安徳天皇(即位1180年入水1185年満6歳4か月)として即位させた。高倉天皇は上皇となり、ここに鳥羽殿に幽閉された父、後白河法皇に代わって高倉院政が形の上では整ったかに見えるのである。しかし天皇家の“治天の君”の権威というものは武士層の平清盛が左右出来る程、簡単なものでは無かったのである。
露骨な平氏一門排除の動きに堪忍袋の緒を切った清盛が起こした軍事クーデターによって平氏一門は政権を後白河法皇の院庁から奪った形とはなったが、それは同時に、平氏一門の滅亡のスタートとなる。最大の理由は上記、高倉天皇が譲位して上皇となった事、並びに安徳天皇の即位の全てが“治天の君”である後白河法皇の承認を得ていない不当な皇位継承だとするのが世間の理解であり、この事が最後まで尾を引く事になったからである。
“安徳天皇は平清盛の為の天皇ではないのか”という反発が強かった。しかし流れとしては後白河法皇一派の平氏一門排除の露骨な挑発行為に追い込まれた平清盛が止むに止まれず踏み切らされ、世間のこうした反発にまで考えが及ばない中に実行した軍事クーデターであったと理解すべきである。自身も公卿の立場であり、朝廷政治とは何たるかを知っている平清盛は軍事クーデターなどに訴える事無しに後白河法皇から高倉天皇に平和裏に“治天の君”の立場が譲られる形が“あるべき姿”という事は百も承知していた筈である。
しかし後白河法皇が当時の状況下で高倉天皇に上皇、そして“治天の君”の立場を譲る事などは全くあり得ない事であった。そして徹底した“平氏一門排除“の行動に打って出られた以上、清盛としては軍事クーデター以外に対抗措置は無かったと理解すべきなのであろう。
清盛のクーデターに拠って、是非もなく後白河法皇の院政は停止された為、政治の実権は平清盛、並びに平氏一門に握られる格好となった。この状態を平清盛による政権の“簒奪”と呼ぶ場合があるが“簒奪”という言葉は帝王の位を奪い取る事であるから清盛によるクーデターの結果生じた状況を考えると違和感がある。又“略奪“と表現する場合もあるが、この言葉は力ずくで奪い取る事、暴力で自分のものとする事の意味である。
平清盛は後白河法皇に追い込まれ、平氏一門の危機を突破する為に止むに止まれずに対抗措置として起こしたクーデターであり、清盛の本来の意図とは異なった行動であった。従ってこの言葉も相応しくない様に思えるのである。
二条天皇の親政に協力し、天皇家と武士層との共存体制という日本で初めての組み合わせによる政治体制を成立させたという意味で平清盛の功績は大きい。二条天皇の早すぎた崩御が無ければこの体制は長期間に亘って磨き上げられ、継続された可能性は大きい。崩御によって“天皇の器に非ず”と鳥羽法皇に言わしめ、愚管抄にも“稀代の暗君”と書かれた奇人、後白河法皇が“治天の君”として君臨した時期と重なったタイミングの悪さが平清盛という時代の寵児をして軍事クーデターという手段に拠って後白河法皇の幽閉、院政停止という必ずしも平清盛が望まなかった展開になったと考えるのが妥当であろう。
平清盛の軍事クーデターの結果は武士層が初めて築き上げた治天の君(=天皇家)との共存体制を自ら断ち切る事になった。平清盛の脳裏には順序は逆になって仕舞ったが“天皇家との共存体制”を再び組む可能性がまだ残されている、それを実現する事が次善の策だという考えがあった。高倉天皇が譲位して上皇となり、まだ6歳の安徳天皇を誕生させるという策である。“高倉院政”下で平氏一門との新たな“共存体制”を組むという道である。そして清盛はクーデターから半年後の1180年4月に高倉上皇(18歳)、安徳天皇(6歳)を誕生させ、現実的には傀儡の高倉院政の下で平氏政権を形の上で実現させたのである。
6:平家政権は何時の時点を以て成立したと考えるのか?
2012年のNHK大河ドラマ・平清盛の冒頭に流れた場面は印象的であった。鎌倉幕府を開いた源頼朝(俳優岡田将生)が源平の内乱(合戦)の勝利に酔い、平氏一門が滅亡した事を笑い飛ばす源氏の郎党に対して大声で叱責する場面である。NHK出版の“平清盛”の前篇“あらすじ”にその解説文が載っていたのでそれを紹介する。
父、源義朝の菩提を弔う寺の立柱儀式の席であった。源氏一門に平清盛を罵倒する声が沸き起こると頼朝は思わず叫んだ。“止めい!”源氏の人々は驚いて頼朝を見た。“平清盛無くして武士の世は来なかった!“ 海に生き、海に栄え、海に沈んだ平氏という巨大な一門。その平氏一門を築き上げた男、平清盛こそが誰よりも逞しく乱世を生き抜いた真の武士であった事を頼朝は知っていたのだ・・という一文であった。
この文面の通りの思いを源頼朝は平清盛に対して抱いていたのでは無かろうか。次章で鎌倉幕府について記述するが、源頼朝の施策には平清盛が先鞭をつけた政策を取り入れ、又、陥った失敗に学んだものが多い。例えば鎌倉という幕府の立地条件を選んだ事、後白河法皇をはじめ、朝廷政治と距離をとる事を徹底した事は、平清盛政権が福原遷都を実現こそさせたが“時既に遅し”で、その目的を果たす事無く、僅か半年で再び京に戻るという失敗から学んだ事が大きかったと思われる。
以下に“平氏政権”と称される状態は一体どの時期からを言うのか、その成立時期は何時かについて2説があるので紹介して置きたい。それは①1167年説と②1179年説である。
① :1167年説の論拠となった史実と状況
二条天皇は崩御直前に生後僅か8カ月の皇子を急遽即位させ、第79代六条天皇(即位1165年生後8カ月退位1168年生後3歳5ケ月)とした。1167年5月にこの六条天皇の名前で平重盛に東山・東海・山陽・南海道の山賊、海賊追討の宣旨が下された。この時点を以て平氏政権が成立したとする説である。国家的軍事・警察権を正式に委任された事を以て平氏政権が成立したとする説である。
この論拠は凡そ18年後の1185年11月28日に源平の内乱に勝利した源頼朝が源義経と行家を捜索、追討する為に朝廷に対して守護・地頭の設置権を認めさせた(文治の勅許)事とほゞ同様の権限を平重盛が得たという事に基づいている。
この説への反論もある。それは1167年時点では平清盛、並びに平氏一門が当時の朝廷政治全体の中で、彼らが掌握していた度合が小さいとするものである。藤原摂関家の影響力は破綻していたが、平氏政権はあくまでも既存の朝廷政治機構の下で行われていたという限界があり、源頼朝が鎌倉幕府を、院政との併存状態は残ってはいたが、朝廷政治とは全く別に武士層の支配圏に於いて成立させ、政治権力を掌握していた状態と比較すると、その独自性という観点からも非常に曖昧な状態であった点を指摘し、結論として平氏政権が成立し確立されていたとは言い難いとの反論である。
しかし、当時の平清盛、並びに平氏一門の政治、財政、軍事面での勢力は非常に大きく、ピーク期であった事、院政を主導していた後白河上皇の政治・財政・軍事面での背景は弱く、まさに平氏一門との協力関係無しには政治権力の執行は不可能な状態にあった事などを勘案すれば1167年に平清盛、並びに平氏一門の政権掌握度は実質的にはかなり大きかった筈であり、平氏政権と呼べる状態であったとする説である。
② :1179年説の論拠と状況
平氏政権の成立を1179年11月14日の治承3年のクーデター以降とする説である。後白河法皇との提携、協調関係も既述した1170年正月の嘉応の強訴事件で、両者の間には大きな亀裂が入り1176年7月の建春門院滋子の死を境に崩壊に向かった。彼女の死後、露骨に繰り返された平清盛並びに平氏一門排除の挑発的動きに終に堪忍袋の緒を切り、平清盛が軍事クーデターを起して後白河法皇を幽閉し強引に院政を停止させた。清盛はこの際に松殿基房を筆頭に39名に及ぶ反平氏の公卿、並びに後白河法皇の近臣達を配流又は追放し、平氏一門並びに親・平氏勢力と入れ替えた。
この軍事クーデターによって平清盛並びに平氏一門は当時の政治機能の主要な部分を掌握した、従ってこの時点を以て平氏政権が成立したとする説である。
1167年時点と比較して、軍事クーデター以降を平氏政権の成立とする1179年説の方が政治権力掌握度は大きく、説得力はある。しかし1181年2月の清盛の急死後に平宗盛が政権を後白河法皇に返上する迄の僅か2年未満の政権となり、しかも1180年4月以降に強引に高倉院政としての形だけを整え、“院政“としての体裁は成ったものの、平氏政権としての際立った新たな組織作りも見えず、平清盛個人の存在のみが突出した臨時の軍事政権が登場したという感が強くこの説も説得力を欠く。
③ :平氏政権成立時期の結論
これらの議論から、1167年、或は1179年という二者択一の説では無く、平氏政権は1167年、平重盛に対して宣旨が下された頃から時間を掛けて段階的に成立し、1179年11月の軍事クーデターで完了したとするのが一般的な結論となっている。
7:平氏政権は最初の武家政権と言えるのか?
下記2つの論点から平氏政権を“最初の武士政権”と認める説が最近の主流となっている。
7-(1):平重盛が1167年に得た権限と1185年に源頼朝が得た“文治の勅許”の権限が同じである事
過去の議論の大勢は、平氏の政権は武士が貴族化した貴族政権であるという事であった。しかし1970年以降はこの説が否定され、平氏政権が最初の武士政権であるという説が主流となって来ている。
その論拠は平氏政権の成立時期の処で記述した内容と同じである。つまり、後白河法皇が源頼朝に1185年12月21日に“文治の勅許”で与えた全国への守護・地頭職の設置・任免の許可と1167年に平重盛に与えた権限は略、同じものであり、従って源氏政権の成立を守護・地頭の設置権を得た時点とするならば平氏政権も同様の権限を獲得した時点で成立したものと考えるべきだと言う説である。
従って平清盛は源頼朝に先駆けて武家政権を成立させ、日本の特異性である朝廷政治と武家政治が併存するという“政治の二重構造”をもたらした最初の人物だという事になるのである。
7-(2):征夷大将軍に任じられたか否かは武家政権成立の絶対条件では無い事
源頼朝は征夷大将軍に任ぜられて鎌倉に幕府を開いたが、平清盛は征夷大将軍に任じられていない、従って武士政権とは言えないとする説は以下の論拠から否定されている。又、源頼朝は朝廷からの影響を避ける為、朝廷がある京都から遠く離れた鎌倉を選んで幕府を開いたが平氏政権は京の都から離れなかった。従って平氏一門の政権は武士層が貴族化した政権であり、真の武士政権とは言えない。これらの諸点から、源頼朝の鎌倉幕府こそが最初の武家政権であるとする説が長い間主流であった。
しかし今日では立地問題についても平清盛が福原遷都をした事と頼朝の鎌倉立地との考え方は共通するという説が唱えられている。そして確かに平清盛は征夷大将軍に任じられていないが、征夷大将軍に任じられる事が武家政権成立の絶対条件では無いという説が主流となりつつある。平安末期における征夷大将軍のタイトルの意味、源頼朝自身が征夷大将軍という官職に対して示した態度等を総合して考えると、平清盛が征夷大将軍に任じられていない事が平氏政権が最初の武家政権だったか否かの決定要因では無いとする説が1970年以降の定説になりつつある。
源頼朝が“征夷大将軍”という官職に対して示した考え、当時の“征夷大将軍”というタイトルが持った歴史的意味については以下の通りである。
そもそも、征夷大将軍という官職は令外官(りょうげのかん)であって律令制時代の令には規定されていない新設された官職であった。その他の内大臣、中納言、関白、蔵人、検非違使なども全て令外官であった。征夷大将軍は且つて東北地方の制圧に手を焼いた朝廷が蝦夷征討の為に臨時の将軍として任じた例がある。奈良時代以降しばしば任じられているが、その中でも桓武天皇がその生涯を通じて尽力した蝦夷征伐の中、802年に征夷大将軍に任じた坂上田村麻呂が有名である。彼は胆沢城(岩手県水沢市)を築いて蝦夷と戦い、終に支配下に置くなど多大な功績を挙げた。蝦夷征伐という大規模な国家事業が終了して以降は長い間、征夷大将軍に任じられたという例は無く形骸化した官職となっていたのである。
詳細は平氏滅亡のプロセスの記述の処で述べるが、後白河法皇が崩御(1192年3月)した直後の1192年7月12日に後鳥羽天皇から源頼朝は征夷大将軍に任じられている。又、それ以前の1184年1月、平氏一門が都落ちした後に上洛した木曽義仲(源義仲)が自らを権威付ける為に当時の後鳥羽天皇から半ば強制的に約370年振りとなる征夷大将軍に任命させたとの記録がある。当時、四面楚歌状態になりつつあった木曽義仲が起死回生の手段としたのである。これらの例を挙げて、武家政権として公認される為には征夷大将軍のタイトルが必要条件の様な説が広がった。しかしその後の研究で、木曽義仲は征夷大将軍では無く“征東大将軍”に任じられた事が玉葉の記事から判明した。更に山槐記の記述でもこの事が裏付けられている。
それに拠ると、源頼朝を朝廷が任官する時に、坂上田村麻呂に与えた征夷大将軍は“吉例”であったが、木曽義仲に与えた“征東大将軍”への任官は“凶例”であったから、源頼朝には征夷大将軍を与えようと協議した事が記されている。この記録から木曽義仲が任官したのは“征東大将軍“であった事が判明したのである。
更に、源頼朝は朝廷から与えられた征夷大将軍のタイトルには全く拘泥していなかった事も判明している。頼朝は与えられた征夷大将軍の官職を2年後の1194年には辞任している。その理由は、1190年に既に頼朝は常設武官の最高位であった“右近衛大将”に任じられており、その上に令外官に過ぎない“征夷大将軍”の官職に就く事などには拘泥しなかったという事である。平氏政権の失敗に学んでいた頼朝は、京都に在住する事を要求され且つ朝廷から何かと武士政権にとって不都合な政治的制約が付随していた“征夷大将軍”に就く事を嫌ったからだとされる。源頼朝はあくまでも朝廷との距離を置く事を重視し、後に“右近衛大将”の官職でさえも辞退しているのである。
頼朝は後の奥州合戦で1189年4月に源義経を自害に追いやり、恭順の姿勢を示した藤原泰衡をも同年9月に滅ぼしている。東北地方に藤原清衡以来、強大な覇権を築いていた奥州藤原氏を滅ぼす為の口実、権威としてこの時だけは、征夷大将軍の官職は頼朝にとって役に立ったかも知れないという程度のタイトルであった様だ。繰り返しとなるが東北地方を既に制圧していた源頼朝にとって征夷大将軍の官職は朝廷から余計な制約だけが加わる無用のタイトルに過ぎない位置付けだったのである。
これ等の事から、征夷大将軍職に任じられたか否かに拠って源頼朝の鎌倉幕府は武士政権だと定義し、征夷大将軍職に任じられなかった平氏政権は武士政権の要件を満たさないとする説は当たらないという結論である。
第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第5項 後白河法皇と平清盛の提携関係に入った亀裂と3人の平氏一門の女性
1.後白河法皇と平清盛の提携関係の亀裂の起点となった摂政・近衛基実の急死
平清盛は父祖が築き上げた財力もあり、恵まれた環境で育ったという事は記したが、清盛自身も自力で更に財力を積み上げる努力を惜しまなかった。取り分け出家後の1169年以降は京の都の政治を重盛以下、平氏一門の者達に任せ、自分は福原に定住して日宋貿易に没頭し、貿易に拠る財貨を大いに積み上げて行ったのである。
更に1164年に旧摂関家の氏の長者であり、赤児の六条天皇の摂政に就いていた近衛基実に娘の盛子を正室として嫁がせたが、僅か2年後の1166年に夫の近衛基実が急逝した事によって膨大な摂関家の荘園の管理権を平清盛が掌握する事態となった。この事が平氏一門の財力を更に強化する事になった。
この様に拡大する一方の平清盛、並びに平氏一門の財力に対して後白河法皇が無関心では無かったと思われるが、この時点では平清盛並びに平氏一門との提携関係を重視していた事もあり大目に見たと思われる。
当然、近衛基実の弟である松殿基房からは強い不満が洩らされたが、近衛基実の子息、近衛基通(当時7歳)が成人する迄の一時的措置だと言う事で排除された。こうして表面上は収まったかに見えた平氏一門に拠る摂関家財産管理問題は、この後、後白河法皇はじめ後白河院の近臣、並びに松殿基房が平氏一門と激しく争う火種となるのである。
平氏一門との協調関係を必要としたという事情があったにせよ、上記の様な妥協をしてまで後白河院が平清盛、平氏一門との間に“蜜月”とも言われる程の関係を保つ事が出来たのは平滋子の存在があったからである。提携関係にあった期間でも、後白河院と平清盛、並びに平氏一門との関係は決して無風状態では無かった。年々“治天の君”としての意識を強めた後白河法皇は次第に政治面での発言力を大きくして来た清盛に対して警戒する様になっていた。両者の間には政治路線での食い違いは勿論、日常の些細な事からも一触即発の危険があり、不安定な状態になって来ていたのである。
そして現実に、両者の衝突が高倉天皇が即位した翌年の1169年12月23日に起きる。世に言う“嘉応の強訴事件”である。
2:嘉応の強訴事件の背景にあった後白河法皇の偏った寺社統制策
院政期には院領荘園群(天皇家に関係する荘園)、摂関家の荘園、中央の有力貴族、有力寺社の荘園が急速に拡大して行った事は前章で述べた通りである。有力寺社の中でも、とりわけ南都北嶺と称された興福寺(南都)と比叡山延暦寺(北嶺)は荘園領主としての勢力拡大が目覚ましく独自の武力(僧兵)を保有して各地で国司と紛争を引き起こす存在となっていた。
さらに、宗教的権威を背景に、集団で示威行動を起して朝廷等、権力者に要求を入れさせる為に強訴と呼ばれる行動に訴える様になっていた。そのやり方は比叡山延暦寺の場合は、日吉神社の神輿を奉じて強訴を行い、興福寺の場合は春日神社の神木を担いで強訴を行ったのである。両寺の場合も神輿や神木という、宗教的権威を奉じて(担いで)京の都に押し寄せ、朝廷に対して国司の解任や配流を迫ったのである。
第5-2項で保元の乱後に政治の実権を握った信西入道が“保元新政”と称する政治改革に取り組んだ事を記述したが、彼が改革を目指した事が寺院がこうした特権を乱用する事を防止する事にあったのである。具体的には宣旨7ケ条として下記の様な内容を発布したのである。
第一条と第二条は所謂、荘園整理令で、宣旨を持たない新たな荘園は認めず、又、国司の影響力を巧みに排除して荘民が荘園の拡大をする事を禁止するものであった。
第三条から第五条は神社、寺院ならびに神人、僧侶が荘園に関して行う濫行を規制し、国司に対してその措置を講ずる事を命じたものであった。
そして最後の第六条と第七条は寺社が宗教活動を理由とした荘園の拡大や新たな開発を防ぐという意図のものであった。
この保元新制に於ける宣旨7ケ条は信西入道が発案し当時の後白河天皇の名の下に施行されたものであったが、荘園整理令の性格を持ち、寺社勢力を国家体制に従属させる事を目的とするものであった為、寺社勢力からの反発が強く、発布以来、各地の寺社・荘園内では国司との争いが頻発していたのである。
又、寺院同士の抗争もあった。天台宗の中では“山門”と称された比叡山延暦寺と“寺門“と称された園城寺(三井寺)との対立は10世紀頃から激しかった。既述した様に平清盛が危篤となり臨終出家をした時の導師は延暦寺の明雲であり、平氏一門は延暦寺に帰依していた。ところが後白河法皇は園城寺に帰依していたのである。この事も後白河法皇と平清盛、並びに平氏一門との対立の種となった。
又、宣旨7カ条の寺社統制策で後白河法皇は園城寺(三井寺)に肩入れした政治姿勢であった為、院近臣の国司達も各地で一方的に延暦寺系の荘園整理に力を入れた。その為当然の事乍ら延暦寺側では大いに不満を募らせ、朝廷に対して一触即発の状態であったと言える。又、後白河法皇の偏った政治姿勢は園城寺(三井寺)と延暦寺との対立をも激化させたのである。
3:嘉応の強訴事件の勃発
兵範記の記述に拠って嘉応の強訴事件の状況を紹介すると下記の通りである。
事件の発端は延暦寺の荘園、美濃国安八郡(現在の揖斐川沿いの村で安八郡神戸町北部と揖斐郡池田町の南東部に該当する)にあった平野荘の住人に対して荘園の役人(目代)が乱暴を働いた事であった。
国司が後白河院の近臣、藤原成親(俳優吉沢悠)の弟の藤原家教(ふじわらいえのり)であった事が事件を大きくした。つまり、延暦寺の僧と大衆が乱暴を働いた目代(政友)の入牢監禁を要求したばかりか後白河法皇の近臣中の近臣、藤原成親の配流を要求して強訴に及んだのである。
ところで、配流を要求された藤原成親(俳優吉沢悠)は2012年のNHK大河ドラマ・平清盛に頻繁に登場した人物である。清盛と関係が悪化していた後白河法皇の寵臣であった事に加えて平清盛の嫡男、平重盛(俳優窪田正孝)の妻(女優高橋愛)の兄に当る人物であった事で重盛は後に苦境に立たされる事になる。
強訴事件の話に戻るが、1169年12月17日に訴えが出されたが、保元新制の宣旨7ケ条を出したのが当時の後白河天皇本人である事からも頑強に延暦寺側からの要求を拒否し延暦寺からの使者を追い返したのである。これに対して延暦寺側は12月22日には態度を硬化させ、強訴の態勢に入った。
しかしここでも頑迷な後白河法皇は一歩も引き下がらず、却ってより強硬な手段に出た。当時の警察組織である検非違使はじめ武士達に動員令を出して法皇の御所を警備させ、平重盛、宗盛、頼盛に拠る総勢500騎による大々的な警護体制で待ち構えたのである。
ところが強訴側の僧兵、大衆は後白河法皇の御所には向かわず高倉天皇(当時満8歳)が居た内裏に8基の神輿を担いで向い“天皇に訴えるのが先例である”として乱入し、騒ぎ立てるという事態となった。
寵愛する滋子との子息、8歳の幼帝・高倉天皇が居る内裏が襲われた為、後白河法皇は大いに慌て、平重盛以下、上記の武士達に出動命令を3度に亘って出すのだが誰も動こうとしなかったのである。内裏での戦闘行為、しかも神輿を担いだ僧、並びに大衆に対しての武力行為は公卿もその殆どが反対した。当時の人々の神仏に対する畏れの気持ちは現代の我々の感覚では推し量る事がなかなか難しい程強かったのである。
動こうとしない平氏一門に対して後白河法皇は3度に亘って出動命令を出した。それでも平重盛以下の平氏一門はあれこれ理由を付けて後白河法皇の出動命令に従わなかった。その理由は明白である。既述した様に平氏一門は清盛が延暦寺の明雲を導師として臨終出家した例に見る様に、延暦寺との関係が近かった事に加えて福原に居た平清盛からも延暦寺に対する武力行使を控える様、一門の兵士達に指示があったものと考えられる。
この様に公卿はじめ平氏一門も指示に従わなかった事で“治天の君”としての権威と誇りを踏みにじられ、偏執的で且つ感情起伏の激しい後白河法皇にとっては到底許す事の出来ない屈辱であった事は想像に難くない。しかも内裏に強訴が及んでいるという目の前の事態に対処せねばならず、強訴側の要求を吞む形で12月24日には藤原成親の解官と配流を約束したのである。
この対応状況からも、この時点での後白河法皇の政治権力の掌握は彼の周囲からの人望の無さも含めて、まだまだ弱かった事が分かる。
4:強訴側との約束を僅か4日後に破棄したばかりか報復人事で対抗した後白河法皇
後白河法皇としては公卿はじめ平氏一門が非協力的であった為に強訴側の要求を吞まされた屈辱感は大きかった。余程腹の虫が治まらなかったのであろう。3日後の12月27日には高倉天皇の護持僧となっていた延暦寺の明雲をクビにした上、翌12月28日には強訴側に約束した要求事項の全てを反故にするという、周囲を驚愕させる行動に出たのである。
其れだけでは腹の虫が治まらなかったのであろう、解官並びに配流を約束した藤原成親を権中納言に復帰させたばかりか、年が明けた1170年正月5日には相手を挑発する様に、強訴を取締まる役職(現在の警察庁長官)である検非違使別当に就けるという露骨な報復目的の人事を行ったのである。九条兼実は日記、玉葉の1170年正月6日の条に“世以て耳目を驚かす。未曽有なり“と書いている。
後にも後白河法皇の政治手法については何度も記述するが、一貫して“治天の君”である自分に逆らう者は誰であろうと許さないという考えであり、その目的を完遂する為には臣下としての武士層はじめ、利用できる力は全て己の意向に沿う様、如何様にも使うという態度、行動に徹するという人物になっていたのである。武士層の台頭はじめ世の中は大きく変化し、混乱と闘争の時代に遭遇した“治天の君”として天皇家の“権威“を懸命に守ろうと闘った勇気ある人物だったという評価も出来るのであろう。
しかし、周囲との関係と言う点では、かつて鳥羽法皇が“天皇の器に非ず”とその人柄を評し、近臣だった信西入道も“古今類なき暗君”と評した事に納得がいく程、この“嘉応の強訴事件“での後白河法皇の対応は為政者としては異例で、彼の本性が世間に晒されたものであった。
強訴の要求がこの様な形で報復された事に延暦寺の僧、大衆が黙っている筈が無い。再び、より大規模な強訴が今度は後白河院の院庁を目指して行われるとの噂が流れ、1170年正月早々京の都は騒然となったのである。
5:平清盛が動いて強訴の要求を後白河法皇に吞ませる
ますますエスカレートする後白河法皇と延暦寺との事態悪化の様子を福原で窺っていた平清盛が1170年正月中旬に弟の平頼盛(俳優西島隆弘)と嫡子・平重盛(俳優窪田正孝)を呼び付け、事態を掌握した上で正月の17日に上洛した。
清盛は後白河法皇との蜜月関係も終わりになる事をこの事件を境に覚悟したのであろう。強硬な態度で後白河法皇に対して、藤原成親を強訴側の要求通りに解官させる事と、備中国(岡山県西部)へ配流する事を約束させたのである。平清盛の出馬に拠って、漸く揉めに揉めた“嘉応の強訴事件”は1170年2月6日に一応の終結という形となったのである。
6:清盛との約束までも守らなかった後白河法皇、そして両者の連携関係の亀裂が深まる
“嘉応の強訴事件”は延暦寺に帰依する平清盛の仲裁で一件落着した格好となった。しかし、後白河法皇という人物は、例えそれが平清盛であろうと、臣下に過ぎない武士層の意見などは“治天の君”たる自分が意思を曲げてまで聞き入れる事など在り得ない、と信じていたのであろう。又しても平清盛の仲裁、そして約束したにも拘わらず、藤原成親の配流の実施をいつの間にかうやむやにし、解官の処置も形ばかりのものとした。そればかりか1170年4月21日には藤原成親を権中納言・検非違使別当に返り咲かせたのである。
後白河法皇がこれ迄、平清盛並びに平家一門との連携関係を続け、ある時期は蜜月関係に近い状態にまで妥協的対応や協力を見せて来たのは、まず第一に自分に政治的、経済的そして武力面での背景が一切無かったからであり、平清盛を最大限利用せねばならなかったからであった。そして第二に平清盛も“アナタコナタ”の態度で後白河法皇に接し、多大な支援を行う等、尽くして来た事があり、第三には建春門院滋子(平慈子)が後白河法皇と平清盛の間に立って、仲立ちの努力を惜しみなく続けて来た事である。
結果として“嘉応の強訴事件”は後白河法皇、延暦寺、そして平清盛の何れにとっても不信と不満だけが残るという顛末であった。取り分け“治天の君”を自認し、誇り高く、且つ執念深い後白河法皇にとっては、上述した自分の出動命令に平氏一門が従わなかったという大きな不満が残り、信頼感が崩れたばかりか平氏一門に対する警戒感が強まり、更には敵愾心へと変わって行く事になるのである。
一方の平清盛、並びに平氏一門はこの事件以降、後白河法皇という強烈な個性を持つ“治天の君”とは協調、提携して行く事の限界をはっきりと見極めた事件であった。2年前の1168年2月の高倉天皇即位時点の前後をピークとした後白河院と平清盛、並びに平氏一門との連携、協調、そして蜜月期間が終焉を迎え、何時衝突しても不思議ではない状態となった事件であった。
7:平徳子の入内の実現に拠って起死回生の関係修復を果たした建春門院滋子
上記の様に後白河法皇と平清盛との関係は一触即発の状態になったが、決定的な衝突は避けられて来た。それは仲立ち役を果していた清盛の義妹、建春門院滋子の存在があったからである。その滋子が再び起死回生とも言える両者の関係改善の大仕事を遣って退けるのである。1171年に後白河法皇と滋子の皇子、高倉天皇が10歳で元服すると、建春門院滋子が清盛の娘、徳子(生1155年没1214年59歳)入内の話を持ち出したのである。
愚管抄には“清盛が天皇の外祖父になって政治を思う侭にしたいという思いからこの話に非常に積極的であった”と書いているが、史実からも清盛にそうした意図が強かった事は見られず、愚管抄のコメントは割り引いて置く必要があろう。そもそも愚管抄を書いた慈円が朝廷側の一員である事に加えて、後に源頼朝の政治を“道理に叶っている”と評価し、平氏嫌いであった事からも分かる様に平清盛に対しては辛口な評価をした人物であった。
摂関家、皇族、公卿からの入内が慣行であり、武士層である平氏からの入内は極めて難しい話であったが、後白河法皇に認めさせ、実現させようと建春門院滋子が動いたのである。滋子の意図は何よりも後白河法皇と平清盛の対立を回避し、最愛の子息、高倉天皇の治世の安定を願ったのである。
約2年前の“嘉応の強訴事件”で平清盛、並びに平氏一門との信頼関係、協調関係に大きな亀裂が入っただけに、滋子としては何とか関係を修復したいと考えていた事であろうし、後白河法皇としてもまだ平清盛並びに平氏一門との協力関係は捨て難いという状況もあったのであろう。1171年10月に建春門院滋子は後白河法皇を福原に行幸させる事に成功し、清盛は二人を大歓迎した。こうして徳子入内の話は纏まったのである。
修復不可能と思われた後白河法皇と平清盛との大きな亀裂を、徳子の入内という大きな吉事を作り出す事によって滋子は再度修復して見せたのである。
8:平氏一門の繁栄に尽し、その陰で苦労した3人の女性・・平滋子、平徳子、平盛子
建春門院滋子が平清盛、並びに平氏一門が天皇家(=後白河法皇)と武士層という新しい組み合わせによる政治体制を実現する過程で重要な役割を果たした事は上述した通りである。その他にも二人の平氏一門の女性が結果として大きな役割を果している。
この3人の平氏一門の女性を紹介する事で平清盛、並びに平氏一門がどの様なプロセスを経て、武士層として初めての政権を成立させる事になったかを具体的に記述したい。その3人とは後白河院に寵愛された時子(女優深田恭子)の異母妹、建春門院滋子(女優成海璃子)であり、高倉天皇の中宮と成り安徳天皇を生み、国母となった清盛の娘、平徳子であり、そして摂関家に嫁ぎ膨大な財産家の家長となった娘の平盛子である。
以下に時系列にこの3人の女性の人生を紹介する。この3人の女性各々が平氏政権成立に至るプロセスの重要な場面で登場し、結果として大きな役割を果たしたのである。
8-(1):平滋子(たいらのしげこ)=建春門院滋子(生1142年没1176年34歳)
何度も紹介して来た様に、2012年のNHK大河ドラマ平清盛では女優、成海璃子(なるみりこ)が演じた人物である。清盛の継妻、時子(生1126年入水1185年59歳)の16歳下の異母妹である。
彼女は相当な美貌の持ち主で、且つ、聡明な女性だったと書かれている。17歳の時、1159年に後白河院に見染められ、1161年に後白河院の院御所、法住寺殿が完成すると“東の御方“として御所入りした事が九条兼実の日記、玉葉に書かれている。後白河院の寵愛は他の妃とは比較にならぬ程強く、又周囲からの評判も良く、人間的にも出来た女性であった様だ。1161年滋子19歳、後白河院34歳の年に二人の間に憲仁皇子が生まれる。後の第80代高倉天皇(即位1168年退位1180年)である。この最愛の皇子も後白河院と清盛との連携関係を強める事に貢献する。
この様に慈子との結び付きが出来た事で後白河院にとっても大きな力となった。平滋子の義兄であり、最強の武士勢力として台頭していた平清盛並びに平氏一門との連携を強める事によって政治的基盤が弱かった自らの政治権力を強めて行く事に繋がったからである。
この頃は後白河院の子息である第78代二条天皇(即位1158年退位1165年)が在位していた時期である。二条天皇は美福門院得子(女優松雪泰子)の親族である太政大臣の藤原伊通はじめ、その系列の近臣に囲まれ、二条親政派を形成して父親、後白河上皇と激しく対立していた事は既述した通りである。この二条天皇が頼りとしていたのも同じく平清盛であった。
こうした状況下で清盛は“アナタコナタ”と称されたバランス感覚で二条天皇、後白河院の双方に接した。清盛の継妻、時子(女優深田恭子)は二条天皇の乳母であった事から平清盛も二条天皇の乳父母(めのと)の立場であり、政治スタンスとしては、二条天皇側の立場をとった。この二条天皇が若くして崩御してからは“アナタコナタ=風見鶏”で中立的立場をとっていた平清盛も滋子と後白河上皇との皇子、憲仁親王の即位に向けて後白河院と連携し、協力関係を結び、蜜月期間に入るのである。
後白河院との連携後に、平清盛は1166年の11月、48歳の時に武士層出身としては異例の内大臣に登り、僅か3カ月後の1167年2月には最高官職である太政大臣(名誉職になっていたが)に昇進する。
憲仁皇太子の母である滋子は元々の身分は低かったが、従三位に叙せられ、平家一門の多くの人々も彼女に関連する官職に就く等、出世を果たした。更に既述した様に危篤に陥った清盛の病状に慌てた後白河上皇が清盛亡き後の政権安定策として憲仁皇太子の即位を早め、第80代高倉天皇(即位1168年退位1180年)を誕生させた事に拠って平滋子は国母へと上り詰めるのである。
翌1169年には、滋子に建春門院の院号が与えられた。後白河上皇という極めて“治天の君”意識の強い、個性的で、気難しい気性の人物と平清盛との間の仲立ち役を見事に果たした彼女の貢献は極めて大きかったのである。
後白河法皇は1171年には清盛と時子の次女、徳子を高倉天皇へ入内させる話を滋子の説得で了解する。そして翌1172年2月に徳子は中宮として入内するのである。
徳子の入内から5年後、1176年の3月に後白河法皇の50歳の賀が法住寺殿で行われた。後白河法皇はじめ、建春門院滋子、高倉天皇、中宮徳子、清盛はじめ平氏一門、そして公卿が勢揃いした盛大なものであった。
この機会が滋子にとっても、平清盛、並びに平氏一門、そして後白河法皇にとってもお互いの良好な関係が維持出来ていた最後の時となった。盛大な儀式の3カ月後の1176年7月8日に建春門院滋子は突然の病に倒れ、後白河院の懸命な看病の甲斐も無く34歳でこの世を去ったのである。
滋子の死の直後から後白河法皇と平清盛並びに平氏一門との対立関係が再び露呈する事になる。平清盛は高倉天皇の擁立と言う共通の目的の為には連携したが、基本的には後白河法皇の政治姿勢に批判的であった。6年前の“嘉応の強訴事件”で両者の間には大きな亀裂が入っていた。又、後白河法皇の院近臣と平家一門との間でも平氏一門に偏った官位昇進問題はじめ、知行国、荘園の所領問題などで不協和音が常態化し、不満が累積していたのである。
両者が決裂に到る経緯については後述するが、滋子が存命中はこうした後白河法皇と清盛並びに平氏一門との一触即発の状態は何とか大事に至らずに済んでいた。その滋子がこの世を去った。後白河法皇派と平清盛、並びに平氏一門との間に溜っていた確執は堰を切る様に一気に表面化して行くのである。
8-(2):平徳子(たいらのとくこ、とくし、のりこ):生1155年没1213年58歳
徳子は平清盛と継妻時子との間に生まれた娘としては唯一人とも言われるし又、後述する盛子の同母姉だとの諸説がある。彼女程人生の栄華と地獄との両方を経験し、世の無常観の中で58年の波瀾万丈の人生を終えた女性も居ないであろう。上述した後白河院が寵愛した建春門院滋子は叔母である。この叔母が後白河法皇との間に出来た高倉天皇が元服すると徳子との入内の話を進めた。1171年12月の事であるから徳子16歳、高倉天皇はまだ10歳であった。6歳年上の女房である。
政治的に強固な基盤の無かった後白河院としては“嘉応の強訴事件”などで信頼関係に大きな亀裂が入っていたとは言え、平清盛並びに平氏一門の力はまだまだ必要であった時期である。平清盛にとっても平氏一門の繁栄そして行く末は気掛かりであったから天皇家との安定した共存体制をどの様な形で作り上げるかは最重要事項であった。
そうした双方のニーズに叶う徳子の入内の話は、後白河法皇にとっても平清盛にとっても歓迎すべき話であった。滋子は後白河法皇の福原行幸を誘いこの機会に清盛も後白河法皇を大歓迎し、双方、上機嫌の中に入内の話が纏まり1171年12月に徳子が入内するという運びとなったのである。
叔母であると同時に姑となる建春門院滋子は“着裳の儀”と称される入内前の徳子の儀式を自らの手で行う程の献身振りであったとの記録が平信範の日記、兵範記にある。皇族や公家以外からという前例の無い平徳子の入内であったが、後白河院も祝福した様子が記録されている。後白河法皇が如何に滋子を寵愛し、信頼していたかを立証する徳子の入内であった。
この様に周囲の皆から祝福されて入内した徳子は、翌1172年2月に高倉天皇の中宮となり、7年後の1178年に漸く二人の間に皇子が生まれる。徳子22歳、高倉天皇16歳であった。この皇子が後の第81代安徳天皇(即位1180年入水1185年満7歳)である。
此処までが徳子の人生にとって、順風満帆の時代であったと言えよう。徳子は58歳まで生きるから、彼女の人生は22年間は上記の様に順風満帆であったが、後の36年間は地獄の苦しみを味わい、安徳天皇を始め源平の戦いで入水した母親時子、並びに平氏一門の人々、急死した父清盛、そして若くしてこの世を去った夫の高倉上皇の菩提を弔うだけの無常観の中での寂しい人生だった。
徳子の後半の不幸な36年間の人生は平氏一門の滅亡の歴史と同期して始まる。平氏一門の滅亡の過程については順を追って詳細に後述する。従ってここでは要点のみを記すが、後白河院と父親、平清盛との間を仲立ちしていた人々が相次いでこの世を去る事で平氏一門の滅亡が一気に訪れる。それは徳子にとっても幸せを失って行くプロセスとなったのである。
その最初が1176年7月の建春門院滋子の死であった。後白河院と平清盛との仲立ち役を見事に果たした滋子は、徳子にとっても頼りになる叔母であると同時に姑でもあった。彼女の死は想像を超える程の痛手であったと思われる。
徳子にとって二番目の大きな喪失は、1179年7月の異母兄、平重盛の死である。後白河院の近臣として父清盛と後白河院側との調整役を果たして来た彼の死も忽ちにして後白河院と清盛との衝突に繋がり、結果として源平の内乱へと繋がって行ったのである。
そして三番目、四番目の喪失が続く。治承5年1月14日(グレゴリオ暦1181年2月6日)には夫、高倉上皇の崩御があり、治承5年閏2月4日(グレゴリオ暦1181年3月20日)に父親、平清盛が急死したのである。徳子の周辺からこれらの人々が一挙にこの世を去った事に拠って徳子にとっても、又、平氏一門にとっても万事休すの状況となった。
清盛の死以降、平氏の棟梁である平宗盛の政治的無策によって平氏一門の衰退は一気に進む。政権を後白河法皇にあっさりと返上し、一方で源氏の追討続行を清盛の遺言だという理由で後白河法皇の和平提案を拒否する形で頑なに主張したのである。この宗盛の判断が源平の内乱を拡大する事になり、終には平氏一門を滅亡させる事になるのである。
建礼門院徳子の人生については中宮時代の徳子に仕えた女房が“建礼門院右京太夫集”として記録したものがあり、ある程度伺い知る事が出来る。高倉天皇と徳子との仲睦まじい様子や、徳子が余生を送る事になる大原の寂光院を著者である女房“右京太夫”が訪ね、そのやつれた姿に涙した事等が書かれている。
1185年の壇ノ浦の戦いで徳子は安徳天皇を抱いて海中に飛び込んだ母の平時子と共に入水する。ところが徳子だけが源氏の兵によって熊手で髪の毛を絡め取られて船上に引き上げられてしまう。そして源義経の船へと連行される。この時、三種の神器の中、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を抱いて母、平時子は入水したと伝わる。八尺瓊勾玉は海底から回収されたが草薙の剣は回収されなかった。後に源頼朝はこの不始末について大将であった義経の責任を厳しく追及する事になる。
残る三種の神器の一つの八咫鏡(やたのかがみ)は建春門院滋子の兄の平時忠が守っていたので無事であった。平時忠(俳優森田剛)も壇ノ浦の戦いで捕虜になったが、八咫鏡を守った功績と、義経に娘を嫁がせる等の工作をして自分の減刑を願ったと伝わる。その結果、死罪を免れ能登国(石川県北部)に配流となった。1185年の9月に彼が配流先に赴く際に大原の寂光院に建礼門院徳子を訪ね別れの挨拶をした。平時忠はその後、能登国で4年間生き、1189年2月に59歳で没したと鎌倉時代に書かれた平家物語にある。
建礼門院徳子は後白河院の計らいで罪に問われる事は無かった。1185年5月1日に出家をするが、その場所が京都の長楽寺である。2013年3月に私も八坂神社の西側にある長楽寺を訪ねた。寺のパンフレットには“1185年5月1日、建礼門院、長楽寺の阿証房印西(あしょうぼういんぜい)に帰依し落飾出家する。その時建礼門院、わが子安徳天皇が今際の際まで召された形見の御衣を御本尊前にまつる幡(ばん)に縫ってお布施として奉納”と書かれてある。
今日でもその幡を見る事が出来る。建礼門院徳子の唯一の遺宝とされる物である。4カ月後の1185年9月に徳子は京都大原の天台宗の尼寺寂光院に入り、源平の戦いに敗れ滅亡した平氏一門の人々と安徳天皇の菩提を弔い、終生をこの寺で過ごしたのである。
寂光院にも2013年6月に歴史仲間と共に訪ねたが、この寺は残念ながら2000年の放火によって御本尊までが焼損すると言う災難に会っている。1186年の春に後白河院がお忍びで寂光院を訪ね、裏の翠黛山から花を摘み帰った建礼門院徳子と対面した話が平家物語に書かれている。その場所には現在も汀の池(みぎわのいけ)と千年の姫小松が残っており、当時を僅かに偲ぶ事が出来る。
建礼門院徳子の死亡時期については諸説があるが皇代暦、女院小伝、女院記などの記述から1213年説が最も支持されている様だ。
8-(3):平盛子(たいらのもりこ、せいし):生1156年没1179年23歳
平清盛には八人の娘がいたとの説がある。平盛子の母親は不詳とされる場合が多い。上述した様に平時子(女優深田恭子)の娘だという説が有力である。だとすると建礼門院徳子とは同母の1歳下の妹という事になる。1164年、僅か8歳で当時赤児だった第79代六条天皇(即位1165年退位1168年)の摂政であった22歳の近衛基実に嫁いだ。
彼女は1156年生まれであるから保元の乱が起きた年の生まれである。第5-2項で記述した様に摂関家は内部分裂を露呈し、保元の乱の要因ともなった事から戦後は徹底的に粛清された。勝者の側に付いた藤原忠通も摂関家としての責任を問われて、荘園等の管理の為の武力組織までもが解体させられるという壊滅的な打撃を蒙る結果となっていた。
その後藤原忠通(俳優堀部圭亮)が摂関家を有職故実を守る家として近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家の五つの家に分ける。これは状況は全く異なるがその昔、藤原不比等が藤原家を南家、北家、式家、京家に分けた智慧に倣ったのであろう。これが功を奏して摂関職の家(五摂家)として明治時代まで継承され、明治以降は公爵に列せられる事になる。結果として藤原忠通の判断は正しかったのであろう。
前置きが長くなったが、8歳の平盛子が1164年に嫁いだのが上記五摂家の中の一つ近衛家の初代、近衛基実だった。近衛基実の父である藤原忠通(俳優堀部圭亮)は地に墜ちた摂関家の権威を再興すべくあらゆる努力をしたが、大した成果を挙げる事無く1164年に67歳で没した。
摂関家に嫁いだ平盛子であったが、その2年後、1166年7月に夫の摂政、近衛基実が24歳の若さで急死してしまう。盛子は10歳にして後家となった。近衛基実には別の夫人との間に基通という7歳の男子が居た。問題は膨大な摂関家の財産相続であるが、10歳の盛子が主として伝領する事になり、その後見人として父親の平清盛が膨大な摂関家領荘園等の財産の実質的管理権を持つ事になった。
これは当時“平氏に拠る摂関家領の横領事件”と批判され、近衛基実の弟の松殿基房が財産継承権を主張してクレームを付けたのである。しかしこの時期はまだ後白河上皇も平清盛、並びに平氏一門との連携を大切にしていた時期であり、大きな問題にはならず平清盛が押さえ込む形になったが、13年後の1179年にはこの問題が清盛のクーデターの大きな要因となるのである。
10歳で未亡人となった盛子には近衛基実の弟の松殿基房との再婚の話も持ち上がった。彼は急死した兄が就いていた赤児の六条天皇の摂政役も引き継いでおり、摂関家の家長の立場も継いでいた。しかしこの再婚話は成立しなかった事が玉葉(九条兼実の1164年~1203年の日記)に書かれている。松殿基房という人物の背景に良からぬ噂があった事、その他政治的思惑からも平清盛も反対したと思われる。
盛子は近衛基実の遺した息子、基通の養母として、又、藤原家の氏族内部の行事などにその余生を送り1179年6月に23歳の若さで没するのである。
彼女の死後、彼女が伝領していた摂関家の厖大な財産が後白河院と松殿基房によって平清盛に何の相談も無く没収されるという事態となる。こうした事態となる3年前の1176年8月に後白河法皇と平清盛の間に立ってトラブル回避に尽力していた建春門院滋子がこの世を去っていた事が大きかった。彼女の死後は松殿基房はじめ院近臣が平氏一門排除の動きを強めており、僅かに清盛の嫡男、重盛が後白河法皇と平清盛との緩衝材となっていたのである。
しかし、盛子の死に続いて1カ月後の1179年7月にその重盛も没する。彼の死で、後白河法皇と平清盛、平氏一門との間のトラブル回避の緩衝材となっていた全ての人々が居なくなった。そして後白河法皇は平清盛を挑発するかの様に、重盛の領地をも没収してしまうのである。平清盛、並びに平氏一門に対する露骨な挑発とも思える後白河法皇と松殿基房ら院近臣の動きに平清盛が激怒し、1179年11月のクーデター事件に繋がる事になる。この経緯等については後述する。
以上、平氏一門の繁栄に尽くしその陰で苦労した3人の女性について紹介したが、いずれも後白河法皇という極めて“治天の君”意識が強い上に、個性と気性の激しい人物と、時代の寵児、平清盛との間で尽力し、又、多くの苦労を強いられた平氏一門の女性達であった。以下の項で平清盛、並びに平氏一門が武士層による初めての政権を成立させる過程を記述して行くが、その多くが上記3人の女性が絡みながらの展開となっているのである。
要約すれば、後白河法皇という特異な気質の“治天の君”との共存関係の維持に破綻が生じ、軍事クーデターという形で平清盛が強引に後白河法皇の院政を停止させるという展開となるのであるが、天皇家と何らかの“共存体制”を組む事に拠ってのみ存続する事が出来るという日本の“伝統的政治体制の鉄則”に反した形で成った平清盛並びに平氏一門の政権は、平清盛の急死に拠って忽ちの中に消滅するという結果になるのである。
平清盛の存在、行動力に拠って、武士層が一挙に中央の政治舞台にまで駆け上がり、短期間であったとは言え、初めての武士層による政権を成立させたという大変化を起こした意味は大きい。日本という国が以後、天皇家と武士層による共存体制という新しい組み合わせに変化する出発点になったと共に、江戸時代を迎える迄の500年に亘る混乱と闘争の時代に突入するスタートとなったのである。日本が大きく変わる切っ掛けを作ったという意味で清盛が日本の歴史上に果たした役割は極めて大きいのである。
清盛が風穴を開け、武士層が政治舞台へ登場して以降、日本は第六章で記述する鎌倉、室町時代を経て、戦国時代という日本が分裂した状態の時代に入る。その日本を織田信長、豊臣秀吉が再統一し、徳川家康が戦乱の無い、統一された安定した近代国家としての基礎作りを成し遂げる江戸時代を迎える。
平清盛は武士層が天皇家と何らかの形で共存体制を組んで日本をリードするという時代の先駆者となった。そして武士層と天皇家という組み合わせで日本という国を率いる体制は明治維新を迎え、凡そ700年の歴史を閉じる迄続くのである。