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2014年4月17日木曜日

第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第10項 平清盛が遺した日本の貨幣経済発展への功績


これまで記述して来た様に平清盛が、天皇家と藤原氏(摂関家)を頂点とした貴族層との“共存体制”という500年に亘った日本の伝統的政治体制を、天皇家と武士層(平氏一門)による“共存体制“という新しい政治構造に変えるという革命的事業を実現した事は、日本の政治史上、社会構造の歴史の観点からも極めて大きな足跡であった。

そうした“政治家”としての功績の他にも清盛には以下に記す“経済人”としての卓越した貢献も挙げられる。

1:大輪田泊(おおわだのとまり)整備と日宋貿易拡大

平清盛は私費を投じて大輪田泊(おおわだのとまり)の拡張、整備を行い、日本の対外貿易の重要拠点として育て上げた。大輪田泊とは、現在の神戸港西側の一部である。

2013年1月に私もこの史跡を訪ねた事があるが、古代から瀬戸内海の海上交通の要所であり、平安時代の漢学者、三善清行が914年に第60代醍醐天皇(即位897年退位930年)に提出されたとされる“意見封事(意見12箇条)”の中にも奈良時代に大僧正・行基が開いた五泊(港)の中の一つが大輪田泊であった事を記している。摂播五泊とも称された古くからの重要港であった。

平清盛は1174年にこの大輪田泊に人工島(経ヶ島)を築く等、私費を投じて整備を進めたとされる。尚“経ケ島”と呼ばれるのは安全な碇泊地としてこの人工島を築いたのであるが、難工事の為“人柱”を沈めてから工事に掛かろうという意見があったが、清盛がそれを退け、代わりに一切経の経文を書かせた石を沈めて基礎とした事に由来している。

近くの福原に“福原雪見御所”と呼ばれる私邸を建て、これを1180年6月から11月迄の短い期間ではあったが“福原遷都の皇居“として安徳天皇に提供している。こうした史跡として重要なこれらの建造物は“福原雪見御所”の史跡も今日ではその場所を示す碑が建っているだけであり“大輪田泊”も神戸港の一部としての岸壁があるだけで、当時を偲ぶ景観としては周囲に広がる瀬戸内海と背後に聳える六甲の山並み位である。

平清盛が力を入れた“日宋貿易”を開始し莫大な富を蓄え、財力と武力を清盛に引き継いだのは鳥羽院の信任が厚かった清盛の父、平忠盛(俳優中井貴一)であった。日宋貿易と繋がる海上交通ルートとして瀬戸内海が重要な役割を果していたが、沿岸の住民などが海賊活動をし、略奪活動が盛んになった時期もあった。これらの対策として朝廷は平忠盛を西海の海賊追討使に任じた。

平忠盛は追討使として海賊を退治し、降伏した海賊達を家人として組織するという知恵を用いた。こうして組織化された海賊達は後に平清盛の家人として活躍し、強力な貿易拡大の力となったのである。父・忠盛を引き継いだ平清盛は伊勢の銀を輸出する事で貿易を更に伸ばし、大宰府が持っていた対外交渉権を掌握する事でより積極的に貿易を拡大して行った。

既述した様に、1168年2月に清盛は寸白(すびゃく=サナダ虫)に因ると思われる病に倒れ、臨終出家を余儀なくされたが、奇跡的に危篤状態を脱し、その後は京の政治を平重盛はじめ一門の者達に任せ、自らは福原に定住して大輪田泊を利用した日宋貿易に専念した。

1170年には初めて宋船が大輪田泊に停泊した。後白河法皇も福原にしばしば行幸し、1170年㋈20日には宋人と接見した事が百練抄や玉葉に書かれている。天皇家が直接外国人と接見する事は第59代宇多天皇(即位887年退位897年)時代に寛平御遺戒で禁止とされた行為であった。後白河法皇も進取性の強い、型破りな人物であったから、積極的に清盛の船に商船通航許可を与える他、宋の使者にも答物を与える等、宋との正式な国交を開く事に貢献した。この様に日宋貿易は大いに拡大して行ったのである。

進取の精神を持った平清盛は武士層が政治面で主導権を握るという突破口を開き、天皇家と貴族層に拠っていた旧来の政治体制の閉塞感を打ち破るという大変革を行ったばかりか、上記の様に後白河法皇も巻き込む形で、日宋貿易を飛躍的に拡大するという大きな貢献をしたのである。

この日宋貿易に拠る特筆に値する成果が“宋銭の大量輸入”である。これに拠って日本に“本格的貨幣経済”が導入され、経済発展を大いに促す役割を果たしたのである。

2:清盛に拠る宋銭大量輸入による“日本の貨幣経済”発展への貢献

日本の貨幣経済の歴史を辿ると、米や布等の“現物貨幣”に代わって銭貨が誕生したのは第43代元明女帝(即位707年退位715年)の708年に鋳造された“和同開珎”だと一般的には言われている。

第40代天武天皇時代(即位673年退位686年)に鋳造されたとされる“富本銭(ふほんせん)”が出土した事で、こちらの方が日本最初の貨幣ではないかと話題になったが、今日現在はまだ、富本銭の用途が明らかになっていない。

中国王朝に習って貨幣鋳造権は日本の朝廷でも“国家の大権”として天皇家が専有して来たが、貨幣の原料となる銅の供給がままならない等の理由で充分な貨幣量が確保出来ず、結果として経済活動に於ける“支払方法”としての貨幣経済が発達せず“現物貨幣(米・布等)”への逆戻りという状態になっていた。

日本で鋳造された“皇朝十二銭”による貨幣経済の普及には失敗したが、清盛が宋銭を大量に輸入した事によって、次第にその利便性から、米、布の現物貨幣を凌駕する様になり、以後、徐々に日本の商業活動の発展に不可欠な血脈として“貨幣経済”が発展するという重大な切っ掛けとなったのである。

清盛が輸入した宋銭は鎌倉時代になると全国に行き渡り、商業活動の発展に著しい貢献をしたと考えられている。物品貨幣(米・布等の一般的等価物)を凌駕して貨幣としての機能を果たしていた事は事実だとされているが、室町時代になって商業活動がさらに盛んに成るにつれて“大陸からの輸入銭“という不安定さがネックとなって、宋銭の流通は次第に終焉に向かうという歴史を辿ったのである。

3:銭の病

“銭の病”という言葉がある。平清盛の時代に大量の宋銭の輸入を行った事によって、貨幣経済が一気に加速し、その結果、物価騰貴等、様々な社会現象が起きた。清盛の晩年に清盛の周囲には既述した様な不幸な出来事が重なって起きた。人々はこれらを“銭の病”だとして“宋銭大量輸入の災い”だと噂した。

又、平盛子が9歳で近衛基実に嫁ぎ(1164年)わずか2年後に未亡人となり、彼女は突如膨大な摂関家の財産を手にする。しかしその平盛子が1179年の6月に24歳の若さで没した。百練抄の記述には“盛子の死亡原因は宋からの銭に流行病の病原菌が付いていた為だと世間では噂している”と書いている。其の他、当時の経済に色々な影響を及ぼしていた宋銭の大量輸入への対応を巡って朝廷の意見が割れ、混乱した事も“銭の災い”だとしている。

更に、平清盛の嫡男重盛が1179年9月に急死し、その2ケ月後の11月には平清盛が軍事クーデターを起こして後白河法皇を幽閉するが、この事件を含めると1179年には自然災害を含めた大きな事件が重なった。当時の人々はこれら全てを“宋銭大量輸入に因る銭の病”だと噂したと言うのである。

それ程に平清盛が行った宋銭の大量輸入は当時の社会に大きなインパクトを与えたという事である。

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