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2014年4月17日木曜日

第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第6項 平清盛が強引に政権を成立させたプロセス


―はじめにー

第5-5項では後白河法皇と平清盛の提携関係が何故成ったか、しかしその提携関係も常に一触即発の危険があった事を“嘉応の強訴事件”を具体例として紹介した。又、建春門院慈子を筆頭に、徳子、盛子の3人の平氏一門の女性が後白河法皇(=天皇家)並びに旧摂関家と平清盛(=平氏一門)との間に立って平氏一門の立場を強化する事に貢献し、平清盛(平氏一門)を一挙に天皇家(=後白河法皇)と連携関係を結び、共存体制を組む相手としての立場にまで引き上げた事を記して来た。

この両者の提携関係は当初は明らかに後白河法皇の側にニーズが強いという状況下にあった。そして“治天の君”としての立場を強固なものにする為、後白河法皇は徹底的に平清盛はじめ平氏一門を活用した。双方にとってWin―Winの関係が成立していた期間は平氏一門にとっても栄華の絶頂を極める期間となったのである。

しかし、後白河院の基本的考えは次第に“日本の国を治めるのは治天の君である自分であり、武士層では無い”という事に徹する様に変化する。この信念は近臣を初めとして周囲の政治環境が整うに連れて日増しに強くなって行った。1169年末から1170年初頭にかけて起こった“嘉応の強訴事件”は後白河法皇と平清盛が決裂する前哨戦となった大きな衝突であった。

1171年末から1172年にかけての平徳子の入内は建春門院慈子の努力によって両者が決裂する時期を後送りする事には役立つたが、1178年に高倉天皇と徳子との間に皇子(後の安徳天皇)が誕生し、平清盛が天皇家の外戚となった事で、逆に後白河院との衝突・対決の危険性を倍加し、不可避なものとしたのである。こうした両者の衝突をギリギリの処で緩衝役となって防いでいた建春門院慈子が1176年にこの世を去った事で導火線に火が付いた状態となったのである。

第5-6項では建春門院慈子がこの世を去ってから露骨になる後白河法皇の平清盛排除の動きを記述し、追い詰められた平清盛が軍事クーデターを起こして後白河法皇を幽閉し、院政を停止させ、事実上“平氏政権”を成立させる迄のプロセスを記述する。

又、重要な検証としてこの“平氏政権”は日本初の武士政権と言えるのであろうかという古くからの議論についても記述する。更には軍事クーデターという手段に訴えた平清盛の意図は初めからこの様な手段で政権を簒奪する事、略奪する事では無かったという点についても記述して置きたい。

1:後白河法皇と平清盛が共存体制を維持出来た期間

後白河法皇は繋ぎの天皇として即位した人物であるから即位時点で持っていた経済基盤も人的基盤を含めた政治基盤もそして軍事基盤も無かった。従って即位直後に起きた保元の乱の後は信西入道に頼り、その信西を平治の乱の第一幕で近臣として重用した藤原信頼を用いて排除し、その藤原信頼が平治の乱の第二幕で二条天皇を担いだ守旧派貴族と軍事面でバックとなって貢献した平清盛によって滅ぼされると、二条天皇の親政の陰で政治の表舞台から追いやられたのである。

その二条天皇が1165年7月28日に崩御した事に拠って二条天皇が今際の際に即位させた六条天皇を後白河院はほゞ無視する形で再び政治の舞台に返り咲くのである。この返り咲きの時に用いたのが平清盛並びに平氏一門の経済力、軍事力であったが“平慈子”という後白河院が寵愛した平氏一門の女性の登場がその後の状況を一変させるのである。

後白河院と平慈子との間に皇子が生まれこの皇子を六条天皇を排除して皇位に就けるという共通の目的が後白河院と平清盛との間に生まれ、二人の連携関係がより強くなる期間が生じる。以上の様な経緯から、後白河院と平清盛・平氏一門との連携関係、そして共存体制が始まった時期は“後白河院政“が事実上開始された二条天皇崩御直後の1165年夏以降と考えるのが妥当であろう。

では、両者の提携関係は何時終わったのかについては最終的には1179年11月14日に平清盛が軍事クーデターを起こして後白河法皇を幽閉し、院政を停止した時だという事になるが、その間の経緯が重要であり、それについて記述する事がこの項の主題でもある。

後白河院は何度も記述して来た様に鳥羽法皇からも“天皇の器に非ず”と評され、近臣の信西入道からも、愚管抄にも“暗君”と評され、平清盛も政治的には全く評価出来ない人物として避けて来た“奇人”に類する人物である。その“暗君”が再び政治の頂点に立つ事になり、清盛としては“連携と共存体制”の道を常に模索し、それを“維持”する事に努力するというのが基本的姿勢であった。

上記した“平慈子(建春門院慈子)”の登場が状況を一変させたとは具体的にどういう事を指すのであろうか。

第一に、後白河院は平慈子を寵愛する事と並行して、平清盛並びに平氏一門に破格の厚遇を与えた事である。その結果平氏一門は“平氏に非ずんば人に非ず”の栄華を得るのである。

第二に後白河院と慈子の間に皇子(後の高倉天皇)が生まれた事で、六条天皇を排除してこの皇子を天皇に就けるという後白河院と平清盛の目的が一致し、双方の連携は“蜜月期間”と言われる程に深まった事である。そして清盛は“太政大臣”にまで栄達するのである。

こうした変化は上記の様な良い事ばかりでは無い。後白河院と平清盛の関係には次第に暗雲が立ち込めて来るのである。

そして第三の変化は後白河院自身の内部から起こって来た変化である。何せ“奇人”と称される人物だけに“治天の君”としての意識と自信が日々強まるにつれて“国家の政治権力は我が掌中にあるべき”という思いが強くなり“平清盛並びに平氏一門の排除“という動きが次第に強くなった事である。こうした動きは高倉天皇に平徳子が入内した事、そして6年後に皇子(後の安徳天皇)が誕生した事に拠ってますます平清盛が天皇家の外戚としてより身近な存在に成る程、強まって行くのである。

第四の変化、これが最大のものであるが、1176年7月に建春門院慈子(=平慈子)がこの世を去った事である。彼女の死を境に後白河法皇に芽生え、そして確信となっていた平清盛並びに平氏一門排除の動きはより露骨なものになって行く。

以下に後白河院と平清盛の連携関係に亀裂が入った初期段階の事件から、次第にエスカレートする平清盛並びに平氏一門排除の動きを記述し、結果として清盛が堪忍袋の緒を切り1179年11月14日の軍事クーデターを起こすに至る迄の史実を記述して行く。


2:鹿ケ谷の陰謀事件・・1177年6月

建春門院滋子の死からまだ1年も経たない1177年6月に首謀者三人が僧俊寛の山荘(京都鹿ケ谷)に集まり、平氏打倒を謀議したとされる事件が起きる。後白河法皇の側近の藤原師光(俳優加藤虎ノ介=出家して西光)と藤原成親(ふじわらのなりちか=俳優吉沢悠)そして村上源氏出身の真言宗の僧俊寛の3人である。

後世の歴史研究家の中にはこの謀議の為の集まりが実際にあったのかどうかの信憑性にも問題があるとする説もあるが、この陰謀の実行自体は多田(源)行綱が平氏一門に密告した事に拠って発覚し、未遂に終わった。謀議をしたとして藤原師光は捕えられて処刑され、僧俊寛は薩摩の国・鬼界島に配流されこの地で没した。問題は残る藤原成親である。後白河院の近臣中の近臣であった彼は清盛の嫡子、重盛の妻・経子(女優高橋愛)の兄であったという事から平重盛(俳優窪田正孝)が父、清盛に必死に取り成し、死刑を免れ備前の国に配流という形になったが3カ月後に清盛の手の者によって結局は殺害された。

朧谷壽氏は“平重盛論”で、この事件は後白河法皇の近臣の藤原成親が平氏一門の分断を謀る為、義弟で且つ平氏一門の棟梁であった平重盛を抱き込み、後白河法皇の近臣として重用される立場にした上で“鹿ケ谷陰謀事件”を起こしたという説を展開している。NHK大河ドラマ・平清盛でも平重盛がどんどん後白河法皇と藤原成親に近づいて行く場面を描いていた。そしてこの陰謀事件の結末は上記3人の院近親者の死であったが、陰謀事件に重盛が関わっていなかったのは当然であるがこの事件で一番の被害者だったのが内大臣まで昇進していた平重盛であったとも言えよう。

平治の乱の第1幕同様この“鹿ケ谷陰謀事件”に後白河法皇が関わった事は明らかだとされている。史実の上での証拠としては一切残されていないが、平清盛はこの事件の背後に後白河法皇の存在があった事を察知していたものと思われる。玉葉には後白河法皇がこの事件に関して“されば何事ぞ”とシラを切った事が記されている。この事件の後にも以下に記す様に“平清盛・平氏一門排除”の挑発的な動きは連続して行われる。こうした状況を考えると鹿ケ谷の陰謀事件が起こった1177年の時点になると“治天の君”後白河法皇は“平氏一門を排除する事に誰に憚る必要があろう”との確固たる信念を持って平清盛、平氏一門に対していたものと考えられる。

こうした後白河法皇並びに松殿基房を初めとする近臣によって繰り出される挑発的な平清盛並びに平氏一門排除の動きに対して、生来の政治的バランス感覚に優れた平清盛はこの“鹿ケ谷陰謀事件”に対する対応でも軽々に後白河法皇と直接対決する事は一切避けて、上述した藤原師光(西光)藤原成親、そして僧俊寛を処分する事に留めたのである。

この時点では平清盛は天皇家の家臣である平氏一門が“治天の君“後白河法皇に直接刃向う事は愚の骨頂であり、あくまでも天皇家(後白河法皇)との共存体制を維持する事を最優先して踏み止まったという事である。

3:平盛子の死と摂関家財産管理権の没収問題・・(1179年6月)

10歳で摂政・近衛基実の後家となった盛子が摂関家の厖大な財産を引き継ぎ、平清盛がその管理権を得た事は既述したが、その盛子が13年後に23歳で死亡した事が後白河法皇と平清盛が直接衝突する起点となる。上記した様に“治天の君”の意識という点に於いて3年前の建春門院慈子の死が決定打となって、後白河法皇は13年前に近衛基実が早死した際には膨大な財産管理権を平清盛に与えたが今回の態度は全く異なっていた。この時点(1179年6月)の後白河法皇は“平清盛並びに平氏一門を排除する事に何の遠慮があろうか”の信念が固まっていたのである。

盛子の没後、平氏側は素早く動き、平清盛の管理下にあった膨大な摂関家の荘園並びにその他の財産を高倉天皇に伝領するという動きに出た。盛子の死後も実質的に平氏管理下の財産として囲い込もうとしたのである。盛子の死の前年、1178年には徳子に平清盛も待望していた言仁親王(後の安徳天皇)が生まれていた。この親王を天皇として即位させ、高倉上皇を誕生させれば摂関家の厖大な財産を引き継いだ“高倉院政”を開始する要件が整うという事である。この時代は“院政”時代である。平清盛にこの時点でその意図があったかどうかは分からないが、こうしたプロセスを平和裏に行い、後白河法皇の院政を停止させる事が出来れば、高倉院政を傀儡とした実質的な“平清盛政権”が実現し得たという状況にあった。

当然、そうした平氏独り勝ちという状況を阻もうという動きは徐々に育って来ていた。“治天の君”後白河法皇には平和裏に高倉院政を成立させる意図などは全く無く、上述した様に平清盛・平氏一門排除に強い執念を燃やしていた。そこに13年前、兄、近衛基実の死の際に摂関家の膨大な財産が盛子に引き継がれ、その財産管理権を平清盛が得た事にクレームを付けた弟、松殿基房の存在が加わった。彼は摂関家の氏の長者を引き継ぎ、関白として後白河法皇と共に“平氏一門排除”の動きの先頭を切っていたのである。

松殿基房は盛子の死に伴う摂関家・遺領相続の権利は氏の長者である自分にあると強く主張し後白河法皇に訴えたのである。この訴えに後白河法皇が強く介入し“在位中の天皇(高倉天皇)の所領管理は院が行うのが原則であり、天皇家の治天の君(後白河法皇)がその管理を行う”との裁定を下し、平清盛に無断で盛子の遺領を没収するという展開になった。この事は愚管抄にも明記されている。田中文英氏は後白河法皇が松殿基房の子息でわずか8歳の松殿師家を摂関家の氏の長者に変更する形で盛子の財産を継がせたとの説明を加えている。

この様な経緯で平氏一門から摂関家の厖大な財産が没収されたのである。

4:清盛が期待した嫡子・平重盛の死と遺領没収問題・・(1179年9月)

後白河法皇が上記裁定を下してから僅か3カ月後に今度は平清盛の嫡子・平重盛の所領が没収されるという事態が起きた。

建春門院滋子と共に後白河法皇と平清盛との間の緩衝材となっていたのは嫡男、平重盛であった。1166年10月に憲仁皇太子(後の高倉天皇)の乳父母に妻の経子と共に任じられた事は平重盛が後白河法皇の近臣となった事を意味した。翌1167年5月には後に“平氏政権成立説の論拠”とされる東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討の宣旨が下され、軍事権、警察権が平重盛に与えられた。更に1171年には異母妹、平徳子が高倉天皇へ入内するという慶事の結果、重盛の出世は更に加速し1174年には右近衛大将に任じられるという具合で後白河法皇の近臣として重盛の信任は厚かったのである。

1176年7月に建春門院滋子が急死した後も1177年正月に重盛は左近衛大将に上り、異母弟の平宗盛も右近衛大将に就いた。平氏一門で両近衛大将を独占するという平氏全盛期の状態であり、重盛の出世は尚も続き1177年3月には内大臣に任じられるのである。こうした嫡子重盛に対する厚遇は上述した様に平氏一門の分断を謀る後白河法皇、藤原成親等の取り込み策だとする説もあるが、いずれにせよ平重盛の順風満帆の状態はここ迄であった。内大臣に昇進した僅か3カ月後の1177年6月に上述した平氏一門打倒の陰謀事件、鹿ケ谷の陰謀事件が起り、重盛はこの事件に直接係った訳ではないが生真面目な性格も災いしたのであろう、妻が首謀者藤原成親の妹と言う事でこの事件を境に平氏一門に於ける立場を失ない、政治に対する意欲を失ったばかりか健康をも著しく損なって行ったのである。

平重盛に代わって異母弟の平宗盛(時子の長男)が平氏一門の中で台頭するが、凡庸な人物でリーダーとしての資質、政治家としての能力で重盛に比べてかなり劣っていたとされる。その点で重盛に後事を託し期待していた平清盛にとっては大きな痛手となった鹿ケ谷陰謀事件であった。1178年11月には重盛の異母妹の徳子が皇子(後の安徳天皇)を出産し12月には皇太子となるが、重盛は薦められる官職を全て辞退する程の病身となり翌1179年7月に42歳で没したのである。

彼の死後、平清盛並びに平氏一門排除の動きは更に加速し、しかも露骨且つ挑発的に行われる。重盛の死後、遺児、平維盛の遺領となっていた知行国・越前国を後白河法皇と松殿基房が謀って没収し、それを後白河法皇の院近臣に与えたのである。更に、親・平氏派を排斥する人事を行い、親・後白河法皇派の人物を優遇し昇進させた。こうした挑発的で露骨な平氏一門排除の行動を後白河法皇と松殿基房が矢継ぎ早に行った訳であるが、こうした守旧派達は武士層(平清盛並びに平氏一門)が持つ武力攻撃を全く意に介していなかったのであろうか?

確かに天皇家の“治天の君”という立場が持つ権威と権力は大きく、誰もが認めるものであった。しかし、ここまで挑発的、且つ露骨な平清盛・平氏一門排除の動きに出た後白河法皇の心理はなかなか理解出来ない。敢えて推測するとすれば以下の様な事であろう。

平清盛は元来温厚な人物であり、伝統を重んじ、天皇家を重んじる人物である。この事は過去の“アナタコナタ”の行動から充分に分かっている。天皇家の権威に対して臣下の武士が武力攻撃をした例は過去にも無い、ましてや公卿の地位にある清盛がそうした蛮行に訴える事はあるまい、“治天の君”である後白河法皇に武力攻撃に出る事はあるまいと確信していたのであろう。

後白河法皇と共闘した松殿基房という人物も後白河法皇と似た考えを持った人物ではなかったかと思われる。両者は天皇家と摂関家という関係が出来る以前から“天皇家と藤原氏”という関係で共存体制を組み、古代からこの国を率いて来た存在である。その事に強い誇りと正統性を抱いていた典型的な守旧派の人物であったと思われる。従って松殿基房も後白河法皇と同様に新興の武士層の平氏一門の急激な台頭を許せず、我慢がならない状態であった。こうした考えを共有する両者が極く自然に排除の為の連携を組むという事になったのである。

ここで改めて後白河法皇という特異な人物の考え方を理解して置く必要があると思う。結論的に言えば、天皇家の“治天の君”に就いて以来、日本国の政治権力は全て後白河法皇の手中にあるべきだという考えが次第に強くなり、その為に役立つ臣下の者は徹底的に活用し、役立たなくなった臣下の者は憚る事無く捨て去るという姿勢に徹した人物である。

こうした姿勢は後白河院が関わった過去の事件からも説明出来る、又、5-7項以降に記述する木曽義仲に対する姿勢でも、又、源平の内乱で源頼朝と源義経を交互に使い分けた姿勢にも鮮明に現われるのである。

平重盛の遺領を没収した後白河法皇と松殿基房の行為は“治天の君”後白河法皇こそが日本の政治権力者の頂点に立つ者であり、何人と雖も逆らうことが許されない“超越的権威”を天から与えられているのだと確信して行った行為としか思えない程、大胆なものであった。“超越的な権威“を天から与えられている以上、臣下の者は誰であれ役に立つ者は使い切り、役立たなくなった者は捨て去るという姿勢である。そして”治天の君“である自分(=後白河法皇)は臣下の誰からの制約も一切受けないし、許さないという立場だと確信していたと思われるのである。

“暗君“と称された後白河法皇は、なかなか我々には理解する事が難しい人物ではあるが、こうした”治天の君“としての信念に基づいたと思われる彼の姿勢を具体的に現した事例が過去にある。これらの事例は後白河法皇という人物の理解の助けになると思うのでもう一度紹介して置こう。

第一の事例が1159年末に起きた平治の乱で後白河上皇(当時)がとった行動である。平治の乱の詳細については第5-3項を参照されたい。この平治の乱の第一幕では、後白河上皇(当時)は“治天の君“として政治権力を自分の手中に収める為に、近臣であった信西入道を自らが寵愛し台頭させた近臣、藤原信頼を使って排除させたのである。そして直後に伝統的貴族であった藤原公教が平清盛と手を結び、二条天皇を担いで平治の乱の第二幕が始まり、藤原信頼が討たれるという状況に変化すると今度は徹底して自分は一切関与していないという態度を取り、シラを切るのである。そして助けを求める寵臣、藤原信頼に救いの手を差し延べる事も無く、捨て去ったのである。

第二の事例は第5-5項で記した平治の乱から10年後の1169年末から1170年正月にかけて起った“嘉応の強訴事件”である。ここでも後白河法皇は延暦寺側と交わした約束を舌の根が乾かぬ中に反故にしたばかりか逆に強訴側に報復する為の近臣、藤原成親復活の人事を行った。後述する源平の内乱に際してもその時々の状況に合わせて、追討令を下す相手を自分に利する人物にコロコロと変えるが、治天の君として“超越的権威”が天から与えられているという信念を持つ後白河法皇の行動に一貫して見られる姿勢なのである。

後白河法皇は生涯を通じて見事な迄に相手を翻弄する行動を平気でとった。その根底には上述した考えに基づく後白河院流の確固たる“治天の君”としての信念があったからであろう。国を治めるのは“治天の君”たる自分であり、天皇家である。その為に役に立つ臣下の者は徹底して活用し、その上で共存体制を組む事があるという考えである。自分には天から“超越的権威”が与えられている事を信念として持ち、行動した特異な人物であったと言えよう。

玉葉の記事に拠れば、一連の平氏一門排除の挑発行為で後白河法皇と共闘した松殿基房も後白河法皇と似通ったタイプの人物であった様だ。10歳で後家になった平盛子との再婚話が纏まらなかった話を紹介したが、その理由としてこの松殿基房が盛子との再婚話と並行して他の政略的な婚姻話を二重、三重に進めていた事に清盛が反発した為だと言う事である。道長時代の摂関家の権威、権力は比べ様も無い程、地に墜ちてはいたが、再び天皇家(=後白河法皇)と共存して政治権力を握る意欲は失っていなかったのである。

第5-8項で木曽(源)義仲について記述するが、清盛の死後、源平の内乱が拡大し、平氏一門が没落して行く過程で木曽(源)義仲が都を制圧する。松殿基房は早速自分の娘を木曽義仲の正室として差出し、清盛時代に失った権勢の挽回に務めた話が平家物語に書かれている。保元の乱で没落した摂関家を形だけでも存続させようと藤原忠通(俳優堀部圭亮)が近衛、鷹司、九条、二条そして松殿に分家した際に松殿家の祖となった松殿基房であったが、以上の様に権謀術策で生き延びようとする血筋が子孫にも伝わったのであろうか、平清盛に挑発を繰り返した松殿基房の子孫も同様の策に溺れた動きを重ね、他の家は五摂家として明治時代迄生き残ったが松殿家だけは戦国時代に滅びるという運命を辿ったのである。

5:遂に平清盛が治承3年(1179年)の軍事クーデターで後白河法皇を幽閉し、院政を停止させる

後白河法皇を先頭に関白松殿基房ら守旧派貴族の挑発的且つ度重なる平氏一門排除の動きに平清盛は終に堪忍袋の緒を切る。そして福原から数千の軍勢を率いて治承3年(1179年)11月14日に上洛、直ちに松殿基房・松殿師家父子を捕えて解任した。関白松殿基房側には清盛の軍事行動に抵抗する手段も無い侭、大宰府権師に流されたのである。清盛は太政大臣の藤原師長(もろなが)、権大納言・源資賢(すけたか)をはじめ反・平氏派の公卿、並びに院近臣の計39名を解任した。この結果2年前の鹿ケ谷陰謀事件後の追放と合わせて後白河法皇の近臣勢力は事実上壊滅状態となった。

覚悟を決めて起こした平清盛の軍事クーデターである。攻撃は“治天の君”後白河法皇に及ぶ。上述した様にこの様な軍事クーデターに平清盛が及ぶとは予想していなかったのであろう、後白河法皇は清盛に許しを願ったと伝わるが、清盛は受け入れず11月20日に後白河法皇を法住寺殿から鳥羽殿に移し幽閉した。ここに後白河院政は停止されたのである。

過去の日本の歴史で、天皇家と臣下の立場の者が直接争った例としては764年の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱がある。第四章の第4-1項に記述したので参照願いたい。しかしこの例でも恵美押勝は第47代淳仁天皇(即位758年廃帝764年)を自軍サイドに擁する形で孝謙上皇軍と戦った。つまり形の上では天皇家と天皇家との争いとしたのである。

今回の平清盛の軍事クーデターは臣下の清盛が単独で“治天の君(=天皇家)後白河法皇を攻撃し幽閉したケースであるから前例の無いケースである。“天皇家との共存体制の無い政権は存続し得ない“という鉄則を破った平清盛の軍事クーデターであった。

平清盛による軍事クーデターの結果、短期間の“臨時軍事政権”的な平氏政権の成立となったが、直ぐに消滅する運命にあった。清盛の急死直後に平宗盛が後白河法皇に政権を返上した事であっさりと“平氏政権”が消滅する。そればかりか、その後の対応を誤った事で安徳天皇はじめ平氏一門が滅亡するという最悪のプロセスを辿るのである。

元木泰雄氏と上横手雅敬氏は、結果的には悲劇へと結びつく軍事クーデターではあったが、それにしても平清盛が後白河法皇の院政を停止させるという、臣下の行動として当時不可能と考えられる強引な行動に出る事が何故可能だったのか、その背景、理由を下記3点としている。

平清盛は亡き白河法皇の子であると当時から噂され“皇胤”としての権威が備わっていた人物だったとされる。その点で単なる“武士層”出身者とは見做されてはいなかった事。

それに対して即位時点から“繋ぎの天皇”に過ぎないとされ、その不安定さを払拭出来ない後白河院政は脆弱さを常に抱えていた事。

清盛は安徳天皇の外祖父となり、天皇家の姻戚という立場を得ていた。又、徳子の夫でもある高倉天皇からの支持を得ていた為、通常も宣命や詔書など、天皇の公式の命や叙目を得ながらの行動が多く、信用されていた事。

しかし乍ら如何に清盛が上記のような立場、実績を持った“公卿武士”であったとしても現役の“治天の君”後白河法皇を武力クーデターで幽閉するという行動は余りにも強引であり、無理があったと言わざるを得ない。そして後の平氏一門の滅亡へと繋がるのである。

軍事クーデターを起こした直後の翌1180年の2月に1歳半の言仁親王を践祚(せんそ=三種の神器を先帝から受け継ぎ、天皇の位を継ぐ事)させ、4月には第81代安徳天皇(即位1180年入水1185年満6歳4か月)として即位させた。高倉天皇は上皇となり、ここに鳥羽殿に幽閉された父、後白河法皇に代わって高倉院政が形の上では整ったかに見えるのである。しかし天皇家の“治天の君”の権威というものは武士層の平清盛が左右出来る程、簡単なものでは無かったのである。

露骨な平氏一門排除の動きに堪忍袋の緒を切った清盛が起こした軍事クーデターによって平氏一門は政権を後白河法皇の院庁から奪った形とはなったが、それは同時に、平氏一門の滅亡のスタートとなる。最大の理由は上記、高倉天皇が譲位して上皇となった事、並びに安徳天皇の即位の全てが“治天の君”である後白河法皇の承認を得ていない不当な皇位継承だとするのが世間の理解であり、この事が最後まで尾を引く事になったからである。

“安徳天皇は平清盛の為の天皇ではないのか”という反発が強かった。しかし流れとしては後白河法皇一派の平氏一門排除の露骨な挑発行為に追い込まれた平清盛が止むに止まれず踏み切らされ、世間のこうした反発にまで考えが及ばない中に実行した軍事クーデターであったと理解すべきである。自身も公卿の立場であり、朝廷政治とは何たるかを知っている平清盛は軍事クーデターなどに訴える事無しに後白河法皇から高倉天皇に平和裏に“治天の君”の立場が譲られる形が“あるべき姿”という事は百も承知していた筈である。

しかし後白河法皇が当時の状況下で高倉天皇に上皇、そして“治天の君”の立場を譲る事などは全くあり得ない事であった。そして徹底した“平氏一門排除“の行動に打って出られた以上、清盛としては軍事クーデター以外に対抗措置は無かったと理解すべきなのであろう。

清盛のクーデターに拠って、是非もなく後白河法皇の院政は停止された為、政治の実権は平清盛、並びに平氏一門に握られる格好となった。この状態を平清盛による政権の“簒奪”と呼ぶ場合があるが“簒奪”という言葉は帝王の位を奪い取る事であるから清盛によるクーデターの結果生じた状況を考えると違和感がある。又“略奪“と表現する場合もあるが、この言葉は力ずくで奪い取る事、暴力で自分のものとする事の意味である。

平清盛は後白河法皇に追い込まれ、平氏一門の危機を突破する為に止むに止まれずに対抗措置として起こしたクーデターであり、清盛の本来の意図とは異なった行動であった。従ってこの言葉も相応しくない様に思えるのである。

二条天皇の親政に協力し、天皇家と武士層との共存体制という日本で初めての組み合わせによる政治体制を成立させたという意味で平清盛の功績は大きい。二条天皇の早すぎた崩御が無ければこの体制は長期間に亘って磨き上げられ、継続された可能性は大きい。崩御によって“天皇の器に非ず”と鳥羽法皇に言わしめ、愚管抄にも“稀代の暗君”と書かれた奇人、後白河法皇が“治天の君”として君臨した時期と重なったタイミングの悪さが平清盛という時代の寵児をして軍事クーデターという手段に拠って後白河法皇の幽閉、院政停止という必ずしも平清盛が望まなかった展開になったと考えるのが妥当であろう。

平清盛の軍事クーデターの結果は武士層が初めて築き上げた治天の君(=天皇家)との共存体制を自ら断ち切る事になった。平清盛の脳裏には順序は逆になって仕舞ったが“天皇家との共存体制”を再び組む可能性がまだ残されている、それを実現する事が次善の策だという考えがあった。高倉天皇が譲位して上皇となり、まだ6歳の安徳天皇を誕生させるという策である。“高倉院政”下で平氏一門との新たな“共存体制”を組むという道である。そして清盛はクーデターから半年後の1180年4月に高倉上皇(18歳)、安徳天皇(6歳)を誕生させ、現実的には傀儡の高倉院政の下で平氏政権を形の上で実現させたのである。

6:平家政権は何時の時点を以て成立したと考えるのか?

2012年のNHK大河ドラマ・平清盛の冒頭に流れた場面は印象的であった。鎌倉幕府を開いた源頼朝(俳優岡田将生)が源平の内乱(合戦)の勝利に酔い、平氏一門が滅亡した事を笑い飛ばす源氏の郎党に対して大声で叱責する場面である。NHK出版の“平清盛”の前篇“あらすじ”にその解説文が載っていたのでそれを紹介する。

父、源義朝の菩提を弔う寺の立柱儀式の席であった。源氏一門に平清盛を罵倒する声が沸き起こると頼朝は思わず叫んだ。“止めい!”源氏の人々は驚いて頼朝を見た。“平清盛無くして武士の世は来なかった!“ 海に生き、海に栄え、海に沈んだ平氏という巨大な一門。その平氏一門を築き上げた男、平清盛こそが誰よりも逞しく乱世を生き抜いた真の武士であった事を頼朝は知っていたのだ・・という一文であった。

この文面の通りの思いを源頼朝は平清盛に対して抱いていたのでは無かろうか。次章で鎌倉幕府について記述するが、源頼朝の施策には平清盛が先鞭をつけた政策を取り入れ、又、陥った失敗に学んだものが多い。例えば鎌倉という幕府の立地条件を選んだ事、後白河法皇をはじめ、朝廷政治と距離をとる事を徹底した事は、平清盛政権が福原遷都を実現こそさせたが“時既に遅し”で、その目的を果たす事無く、僅か半年で再び京に戻るという失敗から学んだ事が大きかったと思われる。

以下に“平氏政権”と称される状態は一体どの時期からを言うのか、その成立時期は何時かについて2説があるので紹介して置きたい。それは①1167年説と②1179年説である。

:1167年説の論拠となった史実と状況

二条天皇は崩御直前に生後僅か8カ月の皇子を急遽即位させ、第79代六条天皇(即位1165年生後8カ月退位1168年生後3歳5ケ月)とした。1167年5月にこの六条天皇の名前で平重盛に東山・東海・山陽・南海道の山賊、海賊追討の宣旨が下された。この時点を以て平氏政権が成立したとする説である。国家的軍事・警察権を正式に委任された事を以て平氏政権が成立したとする説である。

この論拠は凡そ18年後の1185年11月28日に源平の内乱に勝利した源頼朝が源義経と行家を捜索、追討する為に朝廷に対して守護・地頭の設置権を認めさせた(文治の勅許)事とほゞ同様の権限を平重盛が得たという事に基づいている。

この説への反論もある。それは1167年時点では平清盛、並びに平氏一門が当時の朝廷政治全体の中で、彼らが掌握していた度合が小さいとするものである。藤原摂関家の影響力は破綻していたが、平氏政権はあくまでも既存の朝廷政治機構の下で行われていたという限界があり、源頼朝が鎌倉幕府を、院政との併存状態は残ってはいたが、朝廷政治とは全く別に武士層の支配圏に於いて成立させ、政治権力を掌握していた状態と比較すると、その独自性という観点からも非常に曖昧な状態であった点を指摘し、結論として平氏政権が成立し確立されていたとは言い難いとの反論である。

しかし、当時の平清盛、並びに平氏一門の政治、財政、軍事面での勢力は非常に大きく、ピーク期であった事、院政を主導していた後白河上皇の政治・財政・軍事面での背景は弱く、まさに平氏一門との協力関係無しには政治権力の執行は不可能な状態にあった事などを勘案すれば1167年に平清盛、並びに平氏一門の政権掌握度は実質的にはかなり大きかった筈であり、平氏政権と呼べる状態であったとする説である。

:1179年説の論拠と状況

平氏政権の成立を1179年11月14日の治承3年のクーデター以降とする説である。後白河法皇との提携、協調関係も既述した1170年正月の嘉応の強訴事件で、両者の間には大きな亀裂が入り1176年7月の建春門院滋子の死を境に崩壊に向かった。彼女の死後、露骨に繰り返された平清盛並びに平氏一門排除の挑発的動きに終に堪忍袋の緒を切り、平清盛が軍事クーデターを起して後白河法皇を幽閉し強引に院政を停止させた。清盛はこの際に松殿基房を筆頭に39名に及ぶ反平氏の公卿、並びに後白河法皇の近臣達を配流又は追放し、平氏一門並びに親・平氏勢力と入れ替えた。

この軍事クーデターによって平清盛並びに平氏一門は当時の政治機能の主要な部分を掌握した、従ってこの時点を以て平氏政権が成立したとする説である。

1167年時点と比較して、軍事クーデター以降を平氏政権の成立とする1179年説の方が政治権力掌握度は大きく、説得力はある。しかし1181年2月の清盛の急死後に平宗盛が政権を後白河法皇に返上する迄の僅か2年未満の政権となり、しかも1180年4月以降に強引に高倉院政としての形だけを整え、“院政“としての体裁は成ったものの、平氏政権としての際立った新たな組織作りも見えず、平清盛個人の存在のみが突出した臨時の軍事政権が登場したという感が強くこの説も説得力を欠く。

:平氏政権成立時期の結論

これらの議論から、1167年、或は1179年という二者択一の説では無く、平氏政権は1167年、平重盛に対して宣旨が下された頃から時間を掛けて段階的に成立し、1179年11月の軍事クーデターで完了したとするのが一般的な結論となっている。


7:平氏政権は最初の武家政権と言えるのか?

下記2つの論点から平氏政権を“最初の武士政権”と認める説が最近の主流となっている。

7-(1):平重盛が1167年に得た権限と1185年に源頼朝が得た“文治の勅許”の権限が同じである事

過去の議論の大勢は、平氏の政権は武士が貴族化した貴族政権であるという事であった。しかし1970年以降はこの説が否定され、平氏政権が最初の武士政権であるという説が主流となって来ている。

その論拠は平氏政権の成立時期の処で記述した内容と同じである。つまり、後白河法皇が源頼朝に1185年12月21日に“文治の勅許”で与えた全国への守護・地頭職の設置・任免の許可と1167年に平重盛に与えた権限は略、同じものであり、従って源氏政権の成立を守護・地頭の設置権を得た時点とするならば平氏政権も同様の権限を獲得した時点で成立したものと考えるべきだと言う説である。

従って平清盛は源頼朝に先駆けて武家政権を成立させ、日本の特異性である朝廷政治と武家政治が併存するという“政治の二重構造”をもたらした最初の人物だという事になるのである。

7-(2):征夷大将軍に任じられたか否かは武家政権成立の絶対条件では無い事

源頼朝は征夷大将軍に任ぜられて鎌倉に幕府を開いたが、平清盛は征夷大将軍に任じられていない、従って武士政権とは言えないとする説は以下の論拠から否定されている。又、源頼朝は朝廷からの影響を避ける為、朝廷がある京都から遠く離れた鎌倉を選んで幕府を開いたが平氏政権は京の都から離れなかった。従って平氏一門の政権は武士層が貴族化した政権であり、真の武士政権とは言えない。これらの諸点から、源頼朝の鎌倉幕府こそが最初の武家政権であるとする説が長い間主流であった。

しかし今日では立地問題についても平清盛が福原遷都をした事と頼朝の鎌倉立地との考え方は共通するという説が唱えられている。そして確かに平清盛は征夷大将軍に任じられていないが、征夷大将軍に任じられる事が武家政権成立の絶対条件では無いという説が主流となりつつある。平安末期における征夷大将軍のタイトルの意味、源頼朝自身が征夷大将軍という官職に対して示した態度等を総合して考えると、平清盛が征夷大将軍に任じられていない事が平氏政権が最初の武家政権だったか否かの決定要因では無いとする説が1970年以降の定説になりつつある。

源頼朝が“征夷大将軍”という官職に対して示した考え、当時の“征夷大将軍”というタイトルが持った歴史的意味については以下の通りである。

そもそも、征夷大将軍という官職は令外官(りょうげのかん)であって律令制時代の令には規定されていない新設された官職であった。その他の内大臣、中納言、関白、蔵人、検非違使なども全て令外官であった。征夷大将軍は且つて東北地方の制圧に手を焼いた朝廷が蝦夷征討の為に臨時の将軍として任じた例がある。奈良時代以降しばしば任じられているが、その中でも桓武天皇がその生涯を通じて尽力した蝦夷征伐の中、802年に征夷大将軍に任じた坂上田村麻呂が有名である。彼は胆沢城(岩手県水沢市)を築いて蝦夷と戦い、終に支配下に置くなど多大な功績を挙げた。蝦夷征伐という大規模な国家事業が終了して以降は長い間、征夷大将軍に任じられたという例は無く形骸化した官職となっていたのである。

詳細は平氏滅亡のプロセスの記述の処で述べるが、後白河法皇が崩御(1192年3月)した直後の1192年7月12日に後鳥羽天皇から源頼朝は征夷大将軍に任じられている。又、それ以前の1184年1月、平氏一門が都落ちした後に上洛した木曽義仲(源義仲)が自らを権威付ける為に当時の後鳥羽天皇から半ば強制的に約370年振りとなる征夷大将軍に任命させたとの記録がある。当時、四面楚歌状態になりつつあった木曽義仲が起死回生の手段としたのである。これらの例を挙げて、武家政権として公認される為には征夷大将軍のタイトルが必要条件の様な説が広がった。しかしその後の研究で、木曽義仲は征夷大将軍では無く“征東大将軍”に任じられた事が玉葉の記事から判明した。更に山槐記の記述でもこの事が裏付けられている。

それに拠ると、源頼朝を朝廷が任官する時に、坂上田村麻呂に与えた征夷大将軍は“吉例”であったが、木曽義仲に与えた“征東大将軍”への任官は“凶例”であったから、源頼朝には征夷大将軍を与えようと協議した事が記されている。この記録から木曽義仲が任官したのは“征東大将軍“であった事が判明したのである。

更に、源頼朝は朝廷から与えられた征夷大将軍のタイトルには全く拘泥していなかった事も判明している。頼朝は与えられた征夷大将軍の官職を2年後の1194年には辞任している。その理由は、1190年に既に頼朝は常設武官の最高位であった“右近衛大将”に任じられており、その上に令外官に過ぎない“征夷大将軍”の官職に就く事などには拘泥しなかったという事である。平氏政権の失敗に学んでいた頼朝は、京都に在住する事を要求され且つ朝廷から何かと武士政権にとって不都合な政治的制約が付随していた“征夷大将軍”に就く事を嫌ったからだとされる。源頼朝はあくまでも朝廷との距離を置く事を重視し、後に“右近衛大将”の官職でさえも辞退しているのである。

頼朝は後の奥州合戦で1189年4月に源義経を自害に追いやり、恭順の姿勢を示した藤原泰衡をも同年9月に滅ぼしている。東北地方に藤原清衡以来、強大な覇権を築いていた奥州藤原氏を滅ぼす為の口実、権威としてこの時だけは、征夷大将軍の官職は頼朝にとって役に立ったかも知れないという程度のタイトルであった様だ。繰り返しとなるが東北地方を既に制圧していた源頼朝にとって征夷大将軍の官職は朝廷から余計な制約だけが加わる無用のタイトルに過ぎない位置付けだったのである。

これ等の事から、征夷大将軍職に任じられたか否かに拠って源頼朝の鎌倉幕府は武士政権だと定義し、征夷大将軍職に任じられなかった平氏政権は武士政権の要件を満たさないとする説は当たらないという結論である。

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