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2014年4月17日木曜日

第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第5項 後白河法皇と平清盛の提携関係に入った亀裂と3人の平氏一門の女性


1.後白河法皇と平清盛の提携関係の亀裂の起点となった摂政・近衛基実の急死

平清盛は父祖が築き上げた財力もあり、恵まれた環境で育ったという事は記したが、清盛自身も自力で更に財力を積み上げる努力を惜しまなかった。取り分け出家後の1169年以降は京の都の政治を重盛以下、平氏一門の者達に任せ、自分は福原に定住して日宋貿易に没頭し、貿易に拠る財貨を大いに積み上げて行ったのである。

更に1164年に旧摂関家の氏の長者であり、赤児の六条天皇の摂政に就いていた近衛基実に娘の盛子を正室として嫁がせたが、僅か2年後の1166年に夫の近衛基実が急逝した事によって膨大な摂関家の荘園の管理権を平清盛が掌握する事態となった。この事が平氏一門の財力を更に強化する事になった。

この様に拡大する一方の平清盛、並びに平氏一門の財力に対して後白河法皇が無関心では無かったと思われるが、この時点では平清盛並びに平氏一門との提携関係を重視していた事もあり大目に見たと思われる。

当然、近衛基実の弟である松殿基房からは強い不満が洩らされたが、近衛基実の子息、近衛基通(当時7歳)が成人する迄の一時的措置だと言う事で排除された。こうして表面上は収まったかに見えた平氏一門に拠る摂関家財産管理問題は、この後、後白河法皇はじめ後白河院の近臣、並びに松殿基房が平氏一門と激しく争う火種となるのである。

平氏一門との協調関係を必要としたという事情があったにせよ、上記の様な妥協をしてまで後白河院が平清盛、平氏一門との間に“蜜月”とも言われる程の関係を保つ事が出来たのは平滋子の存在があったからである。提携関係にあった期間でも、後白河院と平清盛、並びに平氏一門との関係は決して無風状態では無かった。年々“治天の君”としての意識を強めた後白河法皇は次第に政治面での発言力を大きくして来た清盛に対して警戒する様になっていた。両者の間には政治路線での食い違いは勿論、日常の些細な事からも一触即発の危険があり、不安定な状態になって来ていたのである。

そして現実に、両者の衝突が高倉天皇が即位した翌年の1169年12月23日に起きる。世に言う“嘉応の強訴事件”である。

2:嘉応の強訴事件の背景にあった後白河法皇の偏った寺社統制策

院政期には院領荘園群(天皇家に関係する荘園)、摂関家の荘園、中央の有力貴族、有力寺社の荘園が急速に拡大して行った事は前章で述べた通りである。有力寺社の中でも、とりわけ南都北嶺と称された興福寺(南都)と比叡山延暦寺(北嶺)は荘園領主としての勢力拡大が目覚ましく独自の武力(僧兵)を保有して各地で国司と紛争を引き起こす存在となっていた。

さらに、宗教的権威を背景に、集団で示威行動を起して朝廷等、権力者に要求を入れさせる為に強訴と呼ばれる行動に訴える様になっていた。そのやり方は比叡山延暦寺の場合は、日吉神社の神輿を奉じて強訴を行い、興福寺の場合は春日神社の神木を担いで強訴を行ったのである。両寺の場合も神輿や神木という、宗教的権威を奉じて(担いで)京の都に押し寄せ、朝廷に対して国司の解任や配流を迫ったのである。

第5-2項で保元の乱後に政治の実権を握った信西入道が“保元新政”と称する政治改革に取り組んだ事を記述したが、彼が改革を目指した事が寺院がこうした特権を乱用する事を防止する事にあったのである。具体的には宣旨7ケ条として下記の様な内容を発布したのである。

第一条と第二条は所謂、荘園整理令で、宣旨を持たない新たな荘園は認めず、又、国司の影響力を巧みに排除して荘民が荘園の拡大をする事を禁止するものであった。

第三条から第五条は神社、寺院ならびに神人、僧侶が荘園に関して行う濫行を規制し、国司に対してその措置を講ずる事を命じたものであった。

そして最後の第六条と第七条は寺社が宗教活動を理由とした荘園の拡大や新たな開発を防ぐという意図のものであった。

この保元新制に於ける宣旨7ケ条は信西入道が発案し当時の後白河天皇の名の下に施行されたものであったが、荘園整理令の性格を持ち、寺社勢力を国家体制に従属させる事を目的とするものであった為、寺社勢力からの反発が強く、発布以来、各地の寺社・荘園内では国司との争いが頻発していたのである。

又、寺院同士の抗争もあった。天台宗の中では“山門”と称された比叡山延暦寺と“寺門“と称された園城寺(三井寺)との対立は10世紀頃から激しかった。既述した様に平清盛が危篤となり臨終出家をした時の導師は延暦寺の明雲であり、平氏一門は延暦寺に帰依していた。ところが後白河法皇は園城寺に帰依していたのである。この事も後白河法皇と平清盛、並びに平氏一門との対立の種となった。

又、宣旨7カ条の寺社統制策で後白河法皇は園城寺(三井寺)に肩入れした政治姿勢であった為、院近臣の国司達も各地で一方的に延暦寺系の荘園整理に力を入れた。その為当然の事乍ら延暦寺側では大いに不満を募らせ、朝廷に対して一触即発の状態であったと言える。又、後白河法皇の偏った政治姿勢は園城寺(三井寺)と延暦寺との対立をも激化させたのである。

3:嘉応の強訴事件の勃発

兵範記の記述に拠って嘉応の強訴事件の状況を紹介すると下記の通りである。

事件の発端は延暦寺の荘園、美濃国安八郡(現在の揖斐川沿いの村で安八郡神戸町北部と揖斐郡池田町の南東部に該当する)にあった平野荘の住人に対して荘園の役人(目代)が乱暴を働いた事であった。

国司が後白河院の近臣、藤原成親(俳優吉沢悠)の弟の藤原家教(ふじわらいえのり)であった事が事件を大きくした。つまり、延暦寺の僧と大衆が乱暴を働いた目代(政友)の入牢監禁を要求したばかりか後白河法皇の近臣中の近臣、藤原成親の配流を要求して強訴に及んだのである。

ところで、配流を要求された藤原成親(俳優吉沢悠)は2012年のNHK大河ドラマ・平清盛に頻繁に登場した人物である。清盛と関係が悪化していた後白河法皇の寵臣であった事に加えて平清盛の嫡男、平重盛(俳優窪田正孝)の妻(女優高橋愛)の兄に当る人物であった事で重盛は後に苦境に立たされる事になる。

強訴事件の話に戻るが、1169年12月17日に訴えが出されたが、保元新制の宣旨7ケ条を出したのが当時の後白河天皇本人である事からも頑強に延暦寺側からの要求を拒否し延暦寺からの使者を追い返したのである。これに対して延暦寺側は12月22日には態度を硬化させ、強訴の態勢に入った。

しかしここでも頑迷な後白河法皇は一歩も引き下がらず、却ってより強硬な手段に出た。当時の警察組織である検非違使はじめ武士達に動員令を出して法皇の御所を警備させ、平重盛、宗盛、頼盛に拠る総勢500騎による大々的な警護体制で待ち構えたのである。

ところが強訴側の僧兵、大衆は後白河法皇の御所には向かわず高倉天皇(当時満8歳)が居た内裏に8基の神輿を担いで向い“天皇に訴えるのが先例である”として乱入し、騒ぎ立てるという事態となった。

寵愛する滋子との子息、8歳の幼帝・高倉天皇が居る内裏が襲われた為、後白河法皇は大いに慌て、平重盛以下、上記の武士達に出動命令を3度に亘って出すのだが誰も動こうとしなかったのである。内裏での戦闘行為、しかも神輿を担いだ僧、並びに大衆に対しての武力行為は公卿もその殆どが反対した。当時の人々の神仏に対する畏れの気持ちは現代の我々の感覚では推し量る事がなかなか難しい程強かったのである。

動こうとしない平氏一門に対して後白河法皇は3度に亘って出動命令を出した。それでも平重盛以下の平氏一門はあれこれ理由を付けて後白河法皇の出動命令に従わなかった。その理由は明白である。既述した様に平氏一門は清盛が延暦寺の明雲を導師として臨終出家した例に見る様に、延暦寺との関係が近かった事に加えて福原に居た平清盛からも延暦寺に対する武力行使を控える様、一門の兵士達に指示があったものと考えられる。

この様に公卿はじめ平氏一門も指示に従わなかった事で“治天の君”としての権威と誇りを踏みにじられ、偏執的で且つ感情起伏の激しい後白河法皇にとっては到底許す事の出来ない屈辱であった事は想像に難くない。しかも内裏に強訴が及んでいるという目の前の事態に対処せねばならず、強訴側の要求を吞む形で12月24日には藤原成親の解官と配流を約束したのである。

この対応状況からも、この時点での後白河法皇の政治権力の掌握は彼の周囲からの人望の無さも含めて、まだまだ弱かった事が分かる。

4:強訴側との約束を僅か4日後に破棄したばかりか報復人事で対抗した後白河法皇

後白河法皇としては公卿はじめ平氏一門が非協力的であった為に強訴側の要求を吞まされた屈辱感は大きかった。余程腹の虫が治まらなかったのであろう。3日後の12月27日には高倉天皇の護持僧となっていた延暦寺の明雲をクビにした上、翌12月28日には強訴側に約束した要求事項の全てを反故にするという、周囲を驚愕させる行動に出たのである。

其れだけでは腹の虫が治まらなかったのであろう、解官並びに配流を約束した藤原成親を権中納言に復帰させたばかりか、年が明けた1170年正月5日には相手を挑発する様に、強訴を取締まる役職(現在の警察庁長官)である検非違使別当に就けるという露骨な報復目的の人事を行ったのである。九条兼実は日記、玉葉の1170年正月6日の条に“世以て耳目を驚かす。未曽有なり“と書いている。

後にも後白河法皇の政治手法については何度も記述するが、一貫して“治天の君”である自分に逆らう者は誰であろうと許さないという考えであり、その目的を完遂する為には臣下としての武士層はじめ、利用できる力は全て己の意向に沿う様、如何様にも使うという態度、行動に徹するという人物になっていたのである。武士層の台頭はじめ世の中は大きく変化し、混乱と闘争の時代に遭遇した“治天の君”として天皇家の“権威“を懸命に守ろうと闘った勇気ある人物だったという評価も出来るのであろう。

しかし、周囲との関係と言う点では、かつて鳥羽法皇が“天皇の器に非ず”とその人柄を評し、近臣だった信西入道も“古今類なき暗君”と評した事に納得がいく程、この“嘉応の強訴事件“での後白河法皇の対応は為政者としては異例で、彼の本性が世間に晒されたものであった。

強訴の要求がこの様な形で報復された事に延暦寺の僧、大衆が黙っている筈が無い。再び、より大規模な強訴が今度は後白河院の院庁を目指して行われるとの噂が流れ、1170年正月早々京の都は騒然となったのである。

5:平清盛が動いて強訴の要求を後白河法皇に吞ませる

ますますエスカレートする後白河法皇と延暦寺との事態悪化の様子を福原で窺っていた平清盛が1170年正月中旬に弟の平頼盛(俳優西島隆弘)と嫡子・平重盛(俳優窪田正孝)を呼び付け、事態を掌握した上で正月の17日に上洛した。

清盛は後白河法皇との蜜月関係も終わりになる事をこの事件を境に覚悟したのであろう。強硬な態度で後白河法皇に対して、藤原成親を強訴側の要求通りに解官させる事と、備中国(岡山県西部)へ配流する事を約束させたのである。平清盛の出馬に拠って、漸く揉めに揉めた“嘉応の強訴事件”は1170年2月6日に一応の終結という形となったのである。

6:清盛との約束までも守らなかった後白河法皇、そして両者の連携関係の亀裂が深まる

“嘉応の強訴事件”は延暦寺に帰依する平清盛の仲裁で一件落着した格好となった。しかし、後白河法皇という人物は、例えそれが平清盛であろうと、臣下に過ぎない武士層の意見などは“治天の君”たる自分が意思を曲げてまで聞き入れる事など在り得ない、と信じていたのであろう。又しても平清盛の仲裁、そして約束したにも拘わらず、藤原成親の配流の実施をいつの間にかうやむやにし、解官の処置も形ばかりのものとした。そればかりか1170年4月21日には藤原成親を権中納言・検非違使別当に返り咲かせたのである。

後白河法皇がこれ迄、平清盛並びに平家一門との連携関係を続け、ある時期は蜜月関係に近い状態にまで妥協的対応や協力を見せて来たのは、まず第一に自分に政治的、経済的そして武力面での背景が一切無かったからであり、平清盛を最大限利用せねばならなかったからであった。そして第二に平清盛も“アナタコナタ”の態度で後白河法皇に接し、多大な支援を行う等、尽くして来た事があり、第三には建春門院滋子(平慈子)が後白河法皇と平清盛の間に立って、仲立ちの努力を惜しみなく続けて来た事である。

結果として“嘉応の強訴事件”は後白河法皇、延暦寺、そして平清盛の何れにとっても不信と不満だけが残るという顛末であった。取り分け“治天の君”を自認し、誇り高く、且つ執念深い後白河法皇にとっては、上述した自分の出動命令に平氏一門が従わなかったという大きな不満が残り、信頼感が崩れたばかりか平氏一門に対する警戒感が強まり、更には敵愾心へと変わって行く事になるのである。

一方の平清盛、並びに平氏一門はこの事件以降、後白河法皇という強烈な個性を持つ“治天の君”とは協調、提携して行く事の限界をはっきりと見極めた事件であった。2年前の1168年2月の高倉天皇即位時点の前後をピークとした後白河院と平清盛、並びに平氏一門との連携、協調、そして蜜月期間が終焉を迎え、何時衝突しても不思議ではない状態となった事件であった。

7:平徳子の入内の実現に拠って起死回生の関係修復を果たした建春門院滋子

上記の様に後白河法皇と平清盛との関係は一触即発の状態になったが、決定的な衝突は避けられて来た。それは仲立ち役を果していた清盛の義妹、建春門院滋子の存在があったからである。その滋子が再び起死回生とも言える両者の関係改善の大仕事を遣って退けるのである。1171年に後白河法皇と滋子の皇子、高倉天皇が10歳で元服すると、建春門院滋子が清盛の娘、徳子(生1155年没1214年59歳)入内の話を持ち出したのである。

愚管抄には“清盛が天皇の外祖父になって政治を思う侭にしたいという思いからこの話に非常に積極的であった”と書いているが、史実からも清盛にそうした意図が強かった事は見られず、愚管抄のコメントは割り引いて置く必要があろう。そもそも愚管抄を書いた慈円が朝廷側の一員である事に加えて、後に源頼朝の政治を“道理に叶っている”と評価し、平氏嫌いであった事からも分かる様に平清盛に対しては辛口な評価をした人物であった。

摂関家、皇族、公卿からの入内が慣行であり、武士層である平氏からの入内は極めて難しい話であったが、後白河法皇に認めさせ、実現させようと建春門院滋子が動いたのである。滋子の意図は何よりも後白河法皇と平清盛の対立を回避し、最愛の子息、高倉天皇の治世の安定を願ったのである。

約2年前の“嘉応の強訴事件”で平清盛、並びに平氏一門との信頼関係、協調関係に大きな亀裂が入っただけに、滋子としては何とか関係を修復したいと考えていた事であろうし、後白河法皇としてもまだ平清盛並びに平氏一門との協力関係は捨て難いという状況もあったのであろう。1171年10月に建春門院滋子は後白河法皇を福原に行幸させる事に成功し、清盛は二人を大歓迎した。こうして徳子入内の話は纏まったのである。

修復不可能と思われた後白河法皇と平清盛との大きな亀裂を、徳子の入内という大きな吉事を作り出す事によって滋子は再度修復して見せたのである。

8:平氏一門の繁栄に尽し、その陰で苦労した3人の女性・・平滋子、平徳子、平盛子

建春門院滋子が平清盛、並びに平氏一門が天皇家(=後白河法皇)と武士層という新しい組み合わせによる政治体制を実現する過程で重要な役割を果たした事は上述した通りである。その他にも二人の平氏一門の女性が結果として大きな役割を果している。

この3人の平氏一門の女性を紹介する事で平清盛、並びに平氏一門がどの様なプロセスを経て、武士層として初めての政権を成立させる事になったかを具体的に記述したい。その3人とは後白河院に寵愛された時子(女優深田恭子)の異母妹、建春門院滋子(女優成海璃子)であり、高倉天皇の中宮と成り安徳天皇を生み、国母となった清盛の娘、平徳子であり、そして摂関家に嫁ぎ膨大な財産家の家長となった娘の平盛子である。

以下に時系列にこの3人の女性の人生を紹介する。この3人の女性各々が平氏政権成立に至るプロセスの重要な場面で登場し、結果として大きな役割を果たしたのである。

8-(1):平滋子(たいらのしげこ)=建春門院滋子(生1142年没1176年34歳)

何度も紹介して来た様に、2012年のNHK大河ドラマ平清盛では女優、成海璃子(なるみりこ)が演じた人物である。清盛の継妻、時子(生1126年入水1185年59歳)の16歳下の異母妹である。

彼女は相当な美貌の持ち主で、且つ、聡明な女性だったと書かれている。17歳の時、1159年に後白河院に見染められ、1161年に後白河院の院御所、法住寺殿が完成すると“東の御方“として御所入りした事が九条兼実の日記、玉葉に書かれている。後白河院の寵愛は他の妃とは比較にならぬ程強く、又周囲からの評判も良く、人間的にも出来た女性であった様だ。1161年滋子19歳、後白河院34歳の年に二人の間に憲仁皇子が生まれる。後の第80代高倉天皇(即位1168年退位1180年)である。この最愛の皇子も後白河院と清盛との連携関係を強める事に貢献する。

この様に慈子との結び付きが出来た事で後白河院にとっても大きな力となった。平滋子の義兄であり、最強の武士勢力として台頭していた平清盛並びに平氏一門との連携を強める事によって政治的基盤が弱かった自らの政治権力を強めて行く事に繋がったからである。

この頃は後白河院の子息である第78代二条天皇(即位1158年退位1165年)が在位していた時期である。二条天皇は美福門院得子(女優松雪泰子)の親族である太政大臣の藤原伊通はじめ、その系列の近臣に囲まれ、二条親政派を形成して父親、後白河上皇と激しく対立していた事は既述した通りである。この二条天皇が頼りとしていたのも同じく平清盛であった。

こうした状況下で清盛は“アナタコナタ”と称されたバランス感覚で二条天皇、後白河院の双方に接した。清盛の継妻、時子(女優深田恭子)は二条天皇の乳母であった事から平清盛も二条天皇の乳父母(めのと)の立場であり、政治スタンスとしては、二条天皇側の立場をとった。この二条天皇が若くして崩御してからは“アナタコナタ=風見鶏”で中立的立場をとっていた平清盛も滋子と後白河上皇との皇子、憲仁親王の即位に向けて後白河院と連携し、協力関係を結び、蜜月期間に入るのである。

後白河院との連携後に、平清盛は1166年の11月、48歳の時に武士層出身としては異例の内大臣に登り、僅か3カ月後の1167年2月には最高官職である太政大臣(名誉職になっていたが)に昇進する。

憲仁皇太子の母である滋子は元々の身分は低かったが、従三位に叙せられ、平家一門の多くの人々も彼女に関連する官職に就く等、出世を果たした。更に既述した様に危篤に陥った清盛の病状に慌てた後白河上皇が清盛亡き後の政権安定策として憲仁皇太子の即位を早め、第80代高倉天皇(即位1168年退位1180年)を誕生させた事に拠って平滋子は国母へと上り詰めるのである。

翌1169年には、滋子に建春門院の院号が与えられた。後白河上皇という極めて“治天の君”意識の強い、個性的で、気難しい気性の人物と平清盛との間の仲立ち役を見事に果たした彼女の貢献は極めて大きかったのである。

後白河法皇は1171年には清盛と時子の次女、徳子を高倉天皇へ入内させる話を滋子の説得で了解する。そして翌1172年2月に徳子は中宮として入内するのである。

徳子の入内から5年後、1176年の3月に後白河法皇の50歳の賀が法住寺殿で行われた。後白河法皇はじめ、建春門院滋子、高倉天皇、中宮徳子、清盛はじめ平氏一門、そして公卿が勢揃いした盛大なものであった。

この機会が滋子にとっても、平清盛、並びに平氏一門、そして後白河法皇にとってもお互いの良好な関係が維持出来ていた最後の時となった。盛大な儀式の3カ月後の1176年7月8日に建春門院滋子は突然の病に倒れ、後白河院の懸命な看病の甲斐も無く34歳でこの世を去ったのである。

滋子の死の直後から後白河法皇と平清盛並びに平氏一門との対立関係が再び露呈する事になる。平清盛は高倉天皇の擁立と言う共通の目的の為には連携したが、基本的には後白河法皇の政治姿勢に批判的であった。6年前の“嘉応の強訴事件”で両者の間には大きな亀裂が入っていた。又、後白河法皇の院近臣と平家一門との間でも平氏一門に偏った官位昇進問題はじめ、知行国、荘園の所領問題などで不協和音が常態化し、不満が累積していたのである。

両者が決裂に到る経緯については後述するが、滋子が存命中はこうした後白河法皇と清盛並びに平氏一門との一触即発の状態は何とか大事に至らずに済んでいた。その滋子がこの世を去った。後白河法皇派と平清盛、並びに平氏一門との間に溜っていた確執は堰を切る様に一気に表面化して行くのである。

8-(2):平徳子(たいらのとくこ、とくし、のりこ):生1155年没1213年58歳

徳子は平清盛と継妻時子との間に生まれた娘としては唯一人とも言われるし又、後述する盛子の同母姉だとの諸説がある。彼女程人生の栄華と地獄との両方を経験し、世の無常観の中で58年の波瀾万丈の人生を終えた女性も居ないであろう。上述した後白河院が寵愛した建春門院滋子は叔母である。この叔母が後白河法皇との間に出来た高倉天皇が元服すると徳子との入内の話を進めた。1171年12月の事であるから徳子16歳、高倉天皇はまだ10歳であった。6歳年上の女房である。

政治的に強固な基盤の無かった後白河院としては“嘉応の強訴事件”などで信頼関係に大きな亀裂が入っていたとは言え、平清盛並びに平氏一門の力はまだまだ必要であった時期である。平清盛にとっても平氏一門の繁栄そして行く末は気掛かりであったから天皇家との安定した共存体制をどの様な形で作り上げるかは最重要事項であった。

そうした双方のニーズに叶う徳子の入内の話は、後白河法皇にとっても平清盛にとっても歓迎すべき話であった。滋子は後白河法皇の福原行幸を誘いこの機会に清盛も後白河法皇を大歓迎し、双方、上機嫌の中に入内の話が纏まり1171年12月に徳子が入内するという運びとなったのである。

叔母であると同時に姑となる建春門院滋子は“着裳の儀”と称される入内前の徳子の儀式を自らの手で行う程の献身振りであったとの記録が平信範の日記、兵範記にある。皇族や公家以外からという前例の無い平徳子の入内であったが、後白河院も祝福した様子が記録されている。後白河法皇が如何に滋子を寵愛し、信頼していたかを立証する徳子の入内であった。

この様に周囲の皆から祝福されて入内した徳子は、翌1172年2月に高倉天皇の中宮となり、7年後の1178年に漸く二人の間に皇子が生まれる。徳子22歳、高倉天皇16歳であった。この皇子が後の第81代安徳天皇(即位1180年入水1185年満7歳)である。

此処までが徳子の人生にとって、順風満帆の時代であったと言えよう。徳子は58歳まで生きるから、彼女の人生は22年間は上記の様に順風満帆であったが、後の36年間は地獄の苦しみを味わい、安徳天皇を始め源平の戦いで入水した母親時子、並びに平氏一門の人々、急死した父清盛、そして若くしてこの世を去った夫の高倉上皇の菩提を弔うだけの無常観の中での寂しい人生だった。

徳子の後半の不幸な36年間の人生は平氏一門の滅亡の歴史と同期して始まる。平氏一門の滅亡の過程については順を追って詳細に後述する。従ってここでは要点のみを記すが、後白河院と父親、平清盛との間を仲立ちしていた人々が相次いでこの世を去る事で平氏一門の滅亡が一気に訪れる。それは徳子にとっても幸せを失って行くプロセスとなったのである。

その最初が1176年7月の建春門院滋子の死であった。後白河院と平清盛との仲立ち役を見事に果たした滋子は、徳子にとっても頼りになる叔母であると同時に姑でもあった。彼女の死は想像を超える程の痛手であったと思われる。

徳子にとって二番目の大きな喪失は、1179年7月の異母兄、平重盛の死である。後白河院の近臣として父清盛と後白河院側との調整役を果たして来た彼の死も忽ちにして後白河院と清盛との衝突に繋がり、結果として源平の内乱へと繋がって行ったのである。

そして三番目、四番目の喪失が続く。治承5年1月14日(グレゴリオ暦1181年2月6日)には夫、高倉上皇の崩御があり、治承5年閏2月4日(グレゴリオ暦1181年3月20日)に父親、平清盛が急死したのである。徳子の周辺からこれらの人々が一挙にこの世を去った事に拠って徳子にとっても、又、平氏一門にとっても万事休すの状況となった。

清盛の死以降、平氏の棟梁である平宗盛の政治的無策によって平氏一門の衰退は一気に進む。政権を後白河法皇にあっさりと返上し、一方で源氏の追討続行を清盛の遺言だという理由で後白河法皇の和平提案を拒否する形で頑なに主張したのである。この宗盛の判断が源平の内乱を拡大する事になり、終には平氏一門を滅亡させる事になるのである。

建礼門院徳子の人生については中宮時代の徳子に仕えた女房が“建礼門院右京太夫集”として記録したものがあり、ある程度伺い知る事が出来る。高倉天皇と徳子との仲睦まじい様子や、徳子が余生を送る事になる大原の寂光院を著者である女房“右京太夫”が訪ね、そのやつれた姿に涙した事等が書かれている。

1185年の壇ノ浦の戦いで徳子は安徳天皇を抱いて海中に飛び込んだ母の平時子と共に入水する。ところが徳子だけが源氏の兵によって熊手で髪の毛を絡め取られて船上に引き上げられてしまう。そして源義経の船へと連行される。この時、三種の神器の中、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を抱いて母、平時子は入水したと伝わる。八尺瓊勾玉は海底から回収されたが草薙の剣は回収されなかった。後に源頼朝はこの不始末について大将であった義経の責任を厳しく追及する事になる。

残る三種の神器の一つの八咫鏡(やたのかがみ)は建春門院滋子の兄の平時忠が守っていたので無事であった。平時忠(俳優森田剛)も壇ノ浦の戦いで捕虜になったが、八咫鏡を守った功績と、義経に娘を嫁がせる等の工作をして自分の減刑を願ったと伝わる。その結果、死罪を免れ能登国(石川県北部)に配流となった。1185年の9月に彼が配流先に赴く際に大原の寂光院に建礼門院徳子を訪ね別れの挨拶をした。平時忠はその後、能登国で4年間生き、1189年2月に59歳で没したと鎌倉時代に書かれた平家物語にある。

建礼門院徳子は後白河院の計らいで罪に問われる事は無かった。1185年5月1日に出家をするが、その場所が京都の長楽寺である。2013年3月に私も八坂神社の西側にある長楽寺を訪ねた。寺のパンフレットには“1185年5月1日、建礼門院、長楽寺の阿証房印西(あしょうぼういんぜい)に帰依し落飾出家する。その時建礼門院、わが子安徳天皇が今際の際まで召された形見の御衣を御本尊前にまつる幡(ばん)に縫ってお布施として奉納”と書かれてある。

今日でもその幡を見る事が出来る。建礼門院徳子の唯一の遺宝とされる物である。4カ月後の1185年9月に徳子は京都大原の天台宗の尼寺寂光院に入り、源平の戦いに敗れ滅亡した平氏一門の人々と安徳天皇の菩提を弔い、終生をこの寺で過ごしたのである。

寂光院にも2013年6月に歴史仲間と共に訪ねたが、この寺は残念ながら2000年の放火によって御本尊までが焼損すると言う災難に会っている。1186年の春に後白河院がお忍びで寂光院を訪ね、裏の翠黛山から花を摘み帰った建礼門院徳子と対面した話が平家物語に書かれている。その場所には現在も汀の池(みぎわのいけ)と千年の姫小松が残っており、当時を僅かに偲ぶ事が出来る。

建礼門院徳子の死亡時期については諸説があるが皇代暦、女院小伝、女院記などの記述から1213年説が最も支持されている様だ。

8-(3):平盛子(たいらのもりこ、せいし):生1156年没1179年23歳

平清盛には八人の娘がいたとの説がある。平盛子の母親は不詳とされる場合が多い。上述した様に平時子(女優深田恭子)の娘だという説が有力である。だとすると建礼門院徳子とは同母の1歳下の妹という事になる。1164年、僅か8歳で当時赤児だった第79代六条天皇(即位1165年退位1168年)の摂政であった22歳の近衛基実に嫁いだ。

彼女は1156年生まれであるから保元の乱が起きた年の生まれである。第5-2項で記述した様に摂関家は内部分裂を露呈し、保元の乱の要因ともなった事から戦後は徹底的に粛清された。勝者の側に付いた藤原忠通も摂関家としての責任を問われて、荘園等の管理の為の武力組織までもが解体させられるという壊滅的な打撃を蒙る結果となっていた。

その後藤原忠通(俳優堀部圭亮)が摂関家を有職故実を守る家として近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家の五つの家に分ける。これは状況は全く異なるがその昔、藤原不比等が藤原家を南家、北家、式家、京家に分けた智慧に倣ったのであろう。これが功を奏して摂関職の家(五摂家)として明治時代まで継承され、明治以降は公爵に列せられる事になる。結果として藤原忠通の判断は正しかったのであろう。

前置きが長くなったが、8歳の平盛子が1164年に嫁いだのが上記五摂家の中の一つ近衛家の初代、近衛基実だった。近衛基実の父である藤原忠通(俳優堀部圭亮)は地に墜ちた摂関家の権威を再興すべくあらゆる努力をしたが、大した成果を挙げる事無く1164年に67歳で没した。

摂関家に嫁いだ平盛子であったが、その2年後、1166年7月に夫の摂政、近衛基実が24歳の若さで急死してしまう。盛子は10歳にして後家となった。近衛基実には別の夫人との間に基通という7歳の男子が居た。問題は膨大な摂関家の財産相続であるが、10歳の盛子が主として伝領する事になり、その後見人として父親の平清盛が膨大な摂関家領荘園等の財産の実質的管理権を持つ事になった。

これは当時“平氏に拠る摂関家領の横領事件”と批判され、近衛基実の弟の松殿基房が財産継承権を主張してクレームを付けたのである。しかしこの時期はまだ後白河上皇も平清盛、並びに平氏一門との連携を大切にしていた時期であり、大きな問題にはならず平清盛が押さえ込む形になったが、13年後の1179年にはこの問題が清盛のクーデターの大きな要因となるのである。

10歳で未亡人となった盛子には近衛基実の弟の松殿基房との再婚の話も持ち上がった。彼は急死した兄が就いていた赤児の六条天皇の摂政役も引き継いでおり、摂関家の家長の立場も継いでいた。しかしこの再婚話は成立しなかった事が玉葉(九条兼実の1164年~1203年の日記)に書かれている。松殿基房という人物の背景に良からぬ噂があった事、その他政治的思惑からも平清盛も反対したと思われる。

盛子は近衛基実の遺した息子、基通の養母として、又、藤原家の氏族内部の行事などにその余生を送り1179年6月に23歳の若さで没するのである。

彼女の死後、彼女が伝領していた摂関家の厖大な財産が後白河院と松殿基房によって平清盛に何の相談も無く没収されるという事態となる。こうした事態となる3年前の1176年8月に後白河法皇と平清盛の間に立ってトラブル回避に尽力していた建春門院滋子がこの世を去っていた事が大きかった。彼女の死後は松殿基房はじめ院近臣が平氏一門排除の動きを強めており、僅かに清盛の嫡男、重盛が後白河法皇と平清盛との緩衝材となっていたのである。

しかし、盛子の死に続いて1カ月後の1179年7月にその重盛も没する。彼の死で、後白河法皇と平清盛、平氏一門との間のトラブル回避の緩衝材となっていた全ての人々が居なくなった。そして後白河法皇は平清盛を挑発するかの様に、重盛の領地をも没収してしまうのである。平清盛、並びに平氏一門に対する露骨な挑発とも思える後白河法皇と松殿基房ら院近臣の動きに平清盛が激怒し、1179年11月のクーデター事件に繋がる事になる。この経緯等については後述する。

以上、平氏一門の繁栄に尽くしその陰で苦労した3人の女性について紹介したが、いずれも後白河法皇という極めて“治天の君”意識が強い上に、個性と気性の激しい人物と、時代の寵児、平清盛との間で尽力し、又、多くの苦労を強いられた平氏一門の女性達であった。以下の項で平清盛、並びに平氏一門が武士層による初めての政権を成立させる過程を記述して行くが、その多くが上記3人の女性が絡みながらの展開となっているのである。

要約すれば、後白河法皇という特異な気質の“治天の君”との共存関係の維持に破綻が生じ、軍事クーデターという形で平清盛が強引に後白河法皇の院政を停止させるという展開となるのであるが、天皇家と何らかの“共存体制”を組む事に拠ってのみ存続する事が出来るという日本の“伝統的政治体制の鉄則”に反した形で成った平清盛並びに平氏一門の政権は、平清盛の急死に拠って忽ちの中に消滅するという結果になるのである。

平清盛の存在、行動力に拠って、武士層が一挙に中央の政治舞台にまで駆け上がり、短期間であったとは言え、初めての武士層による政権を成立させたという大変化を起こした意味は大きい。日本という国が以後、天皇家と武士層による共存体制という新しい組み合わせに変化する出発点になったと共に、江戸時代を迎える迄の500年に亘る混乱と闘争の時代に突入するスタートとなったのである。日本が大きく変わる切っ掛けを作ったという意味で清盛が日本の歴史上に果たした役割は極めて大きいのである。

清盛が風穴を開け、武士層が政治舞台へ登場して以降、日本は第六章で記述する鎌倉、室町時代を経て、戦国時代という日本が分裂した状態の時代に入る。その日本を織田信長、豊臣秀吉が再統一し、徳川家康が戦乱の無い、統一された安定した近代国家としての基礎作りを成し遂げる江戸時代を迎える。

平清盛は武士層が天皇家と何らかの形で共存体制を組んで日本をリードするという時代の先駆者となった。そして武士層と天皇家という組み合わせで日本という国を率いる体制は明治維新を迎え、凡そ700年の歴史を閉じる迄続くのである。

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