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2014年4月17日木曜日

第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第4項 二条天皇を助け、後白河院と連携した時期の平清盛


―はじめにー

これから記述する5-4項から5-9項までは初めての武士政権を成立させたとされる平清盛がどの様な経緯で政権を握ったのかを時系列的に記し、その直後から始まった源平の内乱の原因、そして平清盛の死に拠って終わった平氏政権、更には平氏一門が壇ノ浦の戦いで何故滅亡せねばならなかったか迄を取り上げる。。

これらの項の主役は平清盛並びに平氏一門であり、もう一方の主役は二条天皇並びに後白河院つまり“天皇家”の人々である。記述したかった事は日本の歴史の特異性はいかなる時代でも“天皇家”との関わり無しには語れ無いという事である。

5-4項では時代の寵児、平清盛が“王家の番犬”と蔑まれていた武士層を天皇家との共存体制を300年に亘って築き上げて来た藤原摂関家に取って代わる大変革を成し遂げるプロセスを詳細に記述する。結果として平清盛が挑んだ社会の大変革は必ずしも成功したとは言えない。平清盛を急死に追い込み、平氏一門を滅亡させるに至った天皇家並びに旧摂関家、所謂“守旧派”勢力の猛烈な抵抗について記述する。

しかし乍ら清盛が開けた風穴は同じ武士層の源頼朝に引き継がれ、以後、明治維新に到る迄の700年に亘って武士層が天皇家と何らかの共存体制を組む事によって日本を率いるスタート点となった事は確かである。

第5-4項から第5-9項のもう一方の主役が天皇家の存在であると言う意味は、天皇家の存在がどの時代であれ、誰が政治権力を握っていたにせよ、必ず影響を及ぼして来たと言う事である。天皇家の権力の大きさはその時代時代に拠って大きく変遷するが、その“権威”を完全に失うという事は今日迄、無かったのである。

平清盛はそうした日本の国の持つ“特異性”を熟知した人物であったと思う。それ故に第5-4項で記す様に、後白河院と二条天皇との父子の主導権争いの真ん中に立つという難しい立場の折に、双方に尽くすという態度を取り続け、双方からの信頼を勝ち得て行ったのである。

又、これも日本の歴史の特異性と言える事であろうが、島国であるが故に、逆に古代から為政者は常に隣国の中国、朝鮮半島の情勢に関心を払い、侵略に備え、優れた制度、文物等を取り入れる努力を怠らなかった。平清盛が日宋貿易に熱意を示したのは父親、平忠盛の影響を受けていたからであるが、彼自身、並外れたグローバル志向の人物であった事も記して行く。

日本という国は隣国の中国や朝鮮半島の様に民族の異なる王朝が征服によって交代するという“断絶”を経験をしていないという史実も日本の歴史の特異性であるが、その事が日本の歴史に変化が無かったという事では全く無い。

平清盛が生き抜いた時代は日本にとって大変革の時代であった。そしてその大変革を起こした張本人が清盛本人だったのである。岩盤の様に固い天皇家と藤原家、貴族層が率いて来た日本の政治、社会の仕組みに風穴を開けるという大作業を清盛が成し得たのは清盛自身が持つ優れた政治的バランス感覚に加えて清盛を助けた周囲の人々に恵まれたという点にある。

それらの人々の紹介、並びに平氏政権を成立させる経緯を詳細に記すが、後白河法皇という特異な性質、考え方を持つ“治天の君”との政争に堪忍袋の緒を切った形で院政を武力で停止させた清盛には、以後アゲインストの風が吹きまくる。そして清盛の急死に拠って“最初の武士政権”はあっさりと消滅し、更には清盛の後継者、平宗盛の愚策に拠って終には安徳天皇の入水と平氏一門の滅亡に到るという悲劇までを記述して行く。

850年近くも昔の事であり資料的にも不確実な時代である為、日本史の授業でも余り詳細には取り上げられなかった時代である。以下に時系列に記して行くので参照願いたい。


1:平治の乱終了から二条天皇崩御まで・・(1160年~1165年)

1-(1)二条天皇派の復活 

前項第5-3項の最後の部分で二条天皇が大皇太后多子を入内させるという二代后問題を起し後援者であった美福門院得子を激怒させ、二条天皇離れを起こした事、更には二条天皇派の近臣二人が後白河上皇の趣味であった一般民衆との対話の場所の桟敷へ嫌がらせの為に板を打ち付け遮蔽してしまった事が争いとなり、結局は二条天皇側の近臣二人が島流しという刑に処せられ、二条天皇側の汚点となる等、父・後白河上皇との主導権争いは攻防を繰り返していた。

上記二件の事件が連続した事で平治の乱の時点では完全に沈んでいた父親、後白河上皇の政治的立場が一時的にではあったが回復するのである。後白河上皇と二条天皇の父子関係は極めて冷淡なものであった。幼少の時から父親、後白河上皇からは仁和寺に修行僧として出され、父子の愛情は殆ど無かった。しかも二条天皇からすれば父親の後白河上皇は自分が天皇に即位する迄の繋ぎの天皇ではないか、という優越感があった。こうした背景があった為、二条天皇が成人するに従って父子の主導権争いは激しくなって行ったのである。

二条天皇側が立て続けに上記二件の事件を起した事で後白河上皇にとっては有利な状況が一時的には出て來たが、皇統を重んじる皇位継承の段階で“繋ぎの天皇”との烙印を押された劣勢に加えて、後白河上皇の人柄から来る人望の無さは如何ともし難く、二条天皇が存命中、主導権争いで後白河上皇は終始不利だったのである。

こうした状況下の1160年8月に平治の乱第二幕のクーデターを成功させた伝統的貴族層の代表格、藤原公教が57歳で没した。又、二条天皇を仁和寺から還俗させた鳥羽院の中宮・美福門院得子もその3カ月後の1160年11月23日に44歳でこの世を去った。この二人は鳥羽法皇の遺志を継ぐ象徴的存在であったからこの二人の死に拠って、鳥羽法皇の政治路線の継承という立場にあった二条天皇優位の状況が薄れて行ったのである。

この様な状況の変化から、劣勢だった後白河上皇派の立場が改善され、二条天皇派との勢力バランスは略、拮抗した状況となる。父子双方の勢力バランスを知る上では藤原忠親の日記、山槐記が参考になる。その記述に拠ると両者の勢力が拮抗した状況であった為、国政の案件について役人は院と天皇の双方へ奏聞を行い、且つ、前関白の藤原忠通の内覧を経ていたと記されている。この様にこの時期は二頭政治の状態であり、それを平清盛が武力の面でバランス良く支える形で国政が執行されていた、と五味文彦氏も解説している。

1-(2)後白河上皇が平滋子(しげこ)を寵愛した事で状況は一変する。

平滋子(建春門院:生1142年没1176年34歳)は2012年のNHK大河ドラマ平清盛で女優、成海璃子が演じた平氏一門にとっては極めて重要な役割を担った女性である。清盛の継妻、平時子(女優深田恭子)の異母妹であった事が後の歴史展開に大きな影響を与える事になる。

平滋子は美貌と聡明さが後白河院の目に留まって寵愛を受けるようになったと伝わる。1159年、滋子17歳、後白河院32歳の時であったというから、平治の乱の直後の頃である。後白河院も頭脳的には明晰な人物だったと思われるが、極めて偏執的な性格だった様だ。従って滋子に対する寵愛ぶりも極端であった様で、九条兼実(生1149年没1207年)が平安末期から鎌倉初期(1164年~1200年)迄の期間、公私に亘って記録をした日記、玉葉には、皇后の忻子も女御の琮子も全く無視された存在であったと記している。

以下に第5-4項から第5-10項を記述するに当って参考とした主な資料について簡単に紹介して置こう。

(ア):玉葉

この玉葉を書いた九条兼実は平安末期から鎌倉初期の公卿(従一位・摂政・関白・太政大臣)であり、保元の乱で後白河天皇側に付き政治上の実権は殆ど失うという結果を招いたが、辛うじて摂関家の名を遺す事には成功した藤原忠通(俳優堀部圭亮)の六男である。父親である関白藤原忠通が摂関家を分けた(後の五摂家)際に九条家の祖となった人物である。

九条兼実は後白河上皇、後鳥羽上皇の時代に摂政、関白、並びに太政大臣に就き、当時の朝廷側のトップにいた。丁度、源平の合戦の時期とも重なって居り、内乱に関連する記事も多い。この時代は院政時代ではあったが、それまでの摂関家に代わって平氏一門、更には鎌倉幕府と、天皇家が共存する相手や形、つまり政治体制が大きく変化した時期に朝廷側から見た当時の情勢を伝える日記である他、公私に亘る事柄も記した日記として貴重な一級資料とされる。

但し九条兼実は平家嫌いであった事、又、後白河上皇とも対立していた事、一方で源頼朝はそうした九条兼実を評価して内覧職への推薦を行ったという史実がある事を知った上で参照せねばならない。

(イ):吾妻鏡

玉葉とほゞ同じ時期について記した歴史書である。吾妻鏡には鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝から第6代将軍となった初めての親王将軍、崇尊親王迄、つまり1180年~1266年迄の鎌倉幕府の事績が書かれている。この書物の成立時期が鎌倉幕府末期の1300年頃だと言う事、鎌倉幕府の中枢に居た北条得宗家の人々、つまり執権職サイドの複数の人々によって全52巻が書かれた歴史書だという事を理解して参照すべき資料だとされる。

吾妻鏡に書かれた内容と史実との整合性の精査については専門家の研究も今日では盛んに行われており、大正時代の八代国治氏の研究、最近では五味文彦氏の研究が有名であり、両氏の意見も参照した。北条得宗家の人々の手に拠る歴史書という事から当然、吾妻鏡の記述には北条得宗家(執権)の業績を殊更に顕彰する記事が多い。特に第三代執権、北条泰時の記事にその傾向が強いとされている。

逆に源氏三代(源頼朝、頼家、実朝)に対しては手厳しい記述内容だとされる。例えば、鎌倉幕府第2代将軍源頼家の最期についての記事は史実を覆い隠そうとする意図が見える。

具体的に言うと、吾妻鏡では源頼家は1203年9月7日に将軍の座を降りたと書かれ、翌年1204年7月19日の条に飛脚から頼家が死去したという報があった事だけが簡単に記されている。ところが愚管抄の記述内容はもっと詳細だ。つまり、将軍頼家の後ろ盾であった比企氏と弟、源実朝を担ぐ北条氏との政争によって頼家は将軍職を剥奪され、伊豆の修禅寺に幽閉された上に入浴中を襲撃された事までが記されているという具合だ。

更に愚管抄には、頼家は激しく抵抗したが首に紐を巻き付けられて取り押さえられ、刺し殺された、と詳細にその最期を記している。頼家は22歳の若さであった。ところが吾妻鏡の記述には源頼家が幽閉され、北条氏の手に拠って暗殺された事を匂わす記述は無い。ただ簡単に源頼家が1203年9月7日に出家し9月10日には源実朝が鎌倉幕府第3代の将軍に就いた事が記されている。そして上記の様に頼家の死を1204年7月19日の条に書いて
いるだけである。

その後の資料研究から上記、鎌倉2代将軍、源頼家の件は史実としては下記の通りだと考えられている。

源頼家は1203年の9月1日には既に暗殺されており、その死を受けて9月7日には鎌倉幕府側から源実朝を第3代将軍に任命する事を朝廷宛に要請している。この裏付けは近衛家実の猪隅関白記、藤原定家の明月記、更には白川伯王家の業資王記、の記述から証明されている。頼家の死から約100年後に北条得宗家に拠って吾妻鏡が書かれたが、北条得宗家としては史実を糊塗する必要があったのであろう。吾妻鏡は一級資料とされているが、内容によっては単純に信じてはいけないという事例である。

800年以上も前の事であるから記述した側にも相当のデータ不足があった事を認めねばならない。逆に800年後の我々だからこそ、史実の検証作業が出来るのである。この第5―4項から第5-10項を記述するに当っても、誰もが1級資料と認める吾妻鏡を参照したが、執筆した北条得宗家にとって都合の良い、史実とは異なった記述内容も中にはあるという事に十分留意しなければならないという事である。

(ウ)山槐記(さんかいき)

平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿、中山忠親の日記である。中山忠親は後白河院や源頼朝に重用され、内大臣にまで登った人物である。現存する部分は1151年から1194年迄であるから平氏の台頭から鎌倉幕府の成立期迄を書いた日記としてこの第5-4項から第10項までの記述でも多く参照した資料である。保元の乱と平治の乱の部分が欠落している点が惜しいとされる。

安徳天皇の即位、後鳥羽天皇の即位の様子などは詳細に書かれており、大混乱の状況下での即位だけに有職故実に詳しい中山忠親の日記は貴重である。源平合戦に関する記事は他の軍記物語の記述内容とは大きく異なっている点もあり、史実を探る上でも貴重な史料である。

(エ)吉記(きっき)

平安末期の公家、吉田経房(生1142年没1200年)の日記である。1173年から1188年の部分が残っている。有能な実務官僚であった吉田経房は後白河院政期に源頼朝に信任され、朝廷と鎌倉幕府との間の取次役を任された人物である。記録には源平の内乱の様子、当時の朝廷の内情などが記してあり、九条兼実の玉葉の記述よりも詳しく書かれている部分がある等、貴重な資料である。


1-(3):後白河上皇と平滋子の皇子誕生で調子に乗り過ぎ、結果、二条天皇派が主導権争いに勝利する

1161年9月に後白河上皇(俳優松田翔太)と平滋子(女優成海璃子)との間に皇子が誕生した。後の第80代高倉天皇である。しかしこの吉事が後白河上皇近臣の舌禍問題によって、後白河上皇の近臣が罰せられる結果となり、主導権争いに決着がつき、二条天皇派が勝利し親政が開始される事になるのである。

舌禍問題を起こしたのは平滋子の異母兄(平時子の同母弟)の平時忠(俳優森田剛)であった。清盛の弟である平教盛(俳優鈴之助)も巻き込まれ、大きな騒ぎに発展した。二人の舌禍問題については、愚管抄と百練抄の両方に書かれているから史実であろう。内容は後白河上皇と平滋子の間に皇子が生まれた事で、この皇子こそが皇位継承者であると世間に言いふらした事である。この発言に二条天皇派が激怒し、大きな問題に発展したという事である。この程度の事で何故それ程大きな問題になったのであろうか?

理由は丁度この時期に、二条天皇側が特に神経を尖らせていた状況にあったからである。その第一が二条天皇には当時まだ皇子が生まれていなかった事、そして第二がその時期に二条天皇が天然痘を患って命が危ぶまれる状態であった事である。こうした時期に配慮を欠いた平時忠などの不用意な発言が流れた。天皇家の正統の流れだと自負する二条天皇派にとっては許せない発言だったのである。結果、後白河院の近臣の二人は解官された。厳しすぎると思われる処分ではあったが、状況が状況であっただけに後白河上皇側も二人の近臣の処分に抗議する事は出来なかった。

勢い付いた二条天皇派は1161年11月には藤原信隆、藤原成親(俳優吉沢悠)、藤原範忠等、後白河上皇近臣を一挙に解官する粛清処分を行った上に、続けて翌1162年6月には二条天皇を呪詛したとして、後白河院の院庁の3人の役人を解官する他、ここぞとばかりに後白河上皇近習の解官や流刑を行った。こうして畳みかける様に二条天皇派が後白河上皇の側近潰しに出た事で、如何に二条天皇の健康問題、並びに皇子誕生が無い事に神経を尖らせていたかが分かるが、結果として後白河上皇派は裸同然の状態にされたのである。

二条天皇側にも既述した様な失敗が重なってはいたが、それでも後白河上皇側にこの様な粛清処分をする事が可能であった理由は、貴族社会は元より周囲の人々、そして世間一般にも二条天皇があくまでも正統な天皇であり、後白河上皇はあくまでも繋ぎの天皇であったという考えが払拭されていなかったからである。

その後の歴史でも皇位継承では“正統な血筋”が何よりも重視されるが、伝統的な貴族社会が続いていた当時は尚更重視されたという事である。正統な皇統を受け継いだ天皇だけが“天皇家の権威”を継承する事が出来る、という考えは以後の日本の歴史に連綿と受け継がれ、今日の皇位継承問題でも最重要論点とされているのである。

後白河上皇と平滋子との間に生まれた皇子では無く、二条天皇の皇子が皇位を継ぐ事が正統な皇位継承の既定路線である、と当時の貴族層始め世間が認めていたという事をはっきりと示した粛清事件だったのである。

平清盛はこの様な後白河上皇と二条天皇の主導権争いにあくまでも中立を守った。清盛は風見鶏的態度を取り続けたが、その本心は後白河上皇の治世には人物としての資質からの問題があると見ており、二条天皇に忠勤を励んでいた事が愚管抄に書かれている。

こうして言わば父親、後白河上皇側の敵失によって主導権争いに決着をつけた二条天皇は持ち前の利発さを発揮し、後白河上皇を完全に閉め出し、徐々に周囲の信望を回復し乍ら“親政”を進めて行くのである。

1-(4):二条天皇の親政を支えた二人・・藤原伊通と平清盛

数年に及んだ父親、後白河上皇との主導権争いに勝利し、漸く親政を開始した二条天皇であるが、生まれつき健康には恵まれていなかった。1162年に入ると病に倒れる。1165年8月には未だ2歳に満たない皇子に譲位(第79代六条天皇)しその直後の9月に22歳で崩御する。従って僅か3年間が“二条天皇親政期”と言われる期間であった。

この間の状況を百練抄には“二条天皇は政務については後白河上皇に一切報告もしなかったが、関白近衛基実とは良く連携をとっていた“と記されている。短い二条天皇の親政期間ではあったが、関白近衛基実の他に親政を支えた二人の人物が居た。それが藤原伊通と平清盛だったのである。

:藤原伊通(ふじわらこれみち):生1093年没1165年 72歳

美福門院得子(女優松雪泰子)とは親戚関係であり、彼女の信頼を得て発言力のあった人物とされる。1159年12月25日夜半(12月26日)の平治の乱の第2幕で伝統的貴族層のリーダーシップをとった藤原公教が清盛の六波羅亭・臨時御所に貴族層の招集をかけた時には藤原伊通も従兄弟の藤原宗輔(当時83歳:太政大臣)と共に参加していた。

当時彼は67歳で左大臣であった。藤原道長の血統を継ぐ由緒正しき家系であり、典型的な伝統的貴族層を代表する一人であった。1160年、67歳で正二位、太政大臣にまで昇進し、1165年に72歳で没する迄その地位にあった。二条天皇も彼が没した半年後の1165年9月に崩御する事になるから、まさに二条天皇の教育係として後半生を送った人物である。

1162年、当時19歳であった二条天皇に大槐秘抄(たいかいひしょう)という書を提出している。まさにこの書は天皇として心得るべき、政治、日常生活に至る迄の事柄を二十数条に亘って説いたものである。第59代宇多天皇(即位887年退位897年)が同じ様な主旨で書いた、寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)や、聖徳太子の十七条の憲法を参考として仮名文で具体的に書かれたとされる。

いつの世にも帝王の周辺にはこうした人物が現れるものであるが、当時67歳と高齢であった藤原伊通としては、院政が開始されて半世紀以上が経ち、鳥羽院が崩御した後の保元の乱(1156年)以降の政治的に不安定な状況を目の当たりにし、孫に接する様な気持ちで“天皇を中心とした政治に戻す事こそがあるべき姿だ”と信じ、天皇親政を進めていた二条天皇に対して“天皇としての要諦”を伝えるべく遺した書物だったのであろう。

:平清盛

二条天皇が親政を行う為の地歩固めに貢献したもう一人の人物が平清盛である。清盛が二条天皇の支持に回った理由には、継妻の時子(女優深田恭子)が二条天皇の乳母であったと言う関係がある。政治的バランス感覚の優れた清盛は一方では後白河上皇の為に蓮華王院(現在の三十三間堂)を造営するなど気遣う行動はとりながらも基本的には後白河上皇の治世では問題ありと見ていた理由から二条天皇の親政の拠点であった押小路東桐院の内裏の警護を引き受ける等、政治面では積極的に支持に回っていたのである。

1-(5)二条天皇が行った“二代后騒動関係者”への配慮と二大“院領荘園群”の起源

第78代二条天皇(即位1158年15歳退位1165年22歳)が16歳の若気の至りとは言え、1160年初頭に起こした“二代后騒動“は近臣達を離反させる大問題であった。その後二条天皇は親政体制を確立して行くが、その過程で迷惑をかけた関係者への配慮をしている。二人の内親王への配慮であった。

配慮の第一は“二代后騒動”の直接の被害者であった中宮・妹子内親王に対するものであった。妹子内親王は騒動の後に内裏を離れ、二条天皇との夫婦関係が破局となった心労に加えてその後も二条天皇と義父である後白河上皇との主導権争いの板挟みになる等の心労も重なり重病となる。1160年8月には危篤状態に陥り、8月19日の中山忠親の日記、山槐記にはこの日に妹子内親王が僅か20歳の若さで出家(臨終出家)した事が書かれている。しかし幸いにも一命は取り留めるのである。

二条天皇はこの中宮・妹子内親王に対して1162年2月に“高松院”の院号を贈り、さらに1164年7月に第一皇子が生まれると彼女の猶子(養子)にするという配慮をした。後に皇位に就いたのはこの皇子では無く第二皇子(六条天皇)の方である。こうした二条天皇の配慮はあったが妹子内親王の生涯は閑静で、ひたすら仏道に浸る決して幸福とは言えない人生であった様だ。1176年7月20日に36歳で没している。

吉記や玉葉には妹子内親王が内裏を離れ、二条天皇との夫婦関係が破局した後は夫と主導権争いをしていた義父の後白河上皇に経済的に従属する関係にあったと記されている。そして彼女には“高松院領”と呼ばれる荘園が伝領されていたが、その荘園が彼女の没後に後白河院が寵愛した建春門院慈子(平慈子)に伝領されるという展開になる。

慈子は妹子内親王の没後、僅か1カ月後の1176年8月14日に没しているから彼女の死の直前の伝領であり、この伝領には後白河院の意図、関与があったものと考えられる。妹子内親王の“高松院領”やそれを吸収した建春門院滋子伝領の荘園群を含めて後白河院の周辺の皇女達に伝領された荘園群は後に“長講堂領”と呼ばれる屈指の大規模“院領荘園群”(院に属する荘園群)を形成する事になる。

第5-1項で、院政は第102代後花園天皇(即位1428年退位1464年崩御1471年52歳)の崩御まで続いたと記したが、院政を行う基盤は正統な皇位継承者である事と武力並びに経済力の源泉としての荘園群にあった。従ってこの“長講堂領”は歴史的に大きな役割を担う事になるのである。

二条天皇が行ったもう一人の皇女への配慮が1164年12月28日に第二皇子・順仁親王(後の第79代六条天皇)が誕生した時に鳥羽法皇と寵妃美福門院得子(女優松雪泰子)の皇女・暲子内親王に“八条院”の院号を与え、順仁親王の准母とした事である。これは妹子内親王の母親でもあり、二条天皇自身にとっても養母であった美福門院得子を二代后騒動で激怒させた事への配慮であろう。

暲子内親王は鳥羽法皇と美福門院得子が熱愛した皇女であり、上記、中宮・妹子内親王の姉でもある。1155年に第76代近衛天皇が突如崩御した際には当時の鳥羽法皇は暲子内親王を次期天皇にと真剣に考えていた事が愚管抄に書かれている。こうした両親の熱愛もあって伝領した荘園も膨大なものであり、二条天皇から与えられた八条院の院号をとって“八条院領”と呼ばれる全国に二百数十ケ所を擁する屈指の“大院領荘園群”を形成するのである。因みに、後に平氏追討に立ち上がる“以仁王”は八条院暲子の猶子であったからこそこうした行動が可能だったのである。

以上、二大“院領荘園群”は姉妹が伝領した荘園群が起源となっていたという事である。

第六章の第1項で詳述するが、鎌倉幕府は常に院政を行う朝廷勢力との関係、“朝幕関係”に腐心する事になる。源氏三代、源頼朝・頼家・実朝が絶えた1219年直後の1221年に後鳥羽上皇が起した“承久の乱”の再発を恐れたのである。後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対抗し得る財力、兵力を持つ基盤となったのが後鳥羽上皇に集中した“院領荘園群”であり、鎌倉幕府は以後、天皇家にそうした“大院領荘園群”が集中しない様、分断を謀る事になる。

具体的には二大“院領荘園群”である上記“長講堂領”と“八条院領”対策であり、鎌倉幕府は後に長講堂領を基盤とした皇統を“持明院統”、八条院領を基盤とした皇統を“大覚寺統”としてこの二大院領荘園群が合体する事の無い様、策を考えたのである。その策が両統から天皇を交互に出す様、皇位継承のルールに鎌倉幕府が介入する事であった。これを“両統分立”と呼ぶがこの事が後に南北朝分立の時代へと繋がって行くのである。

1-(6):二条天皇親政の内容

後白河上皇派を排して二条天皇の親政が1162年から始まったが、基本的には荘園整理令や悪僧の統制令など、信西入道がかって掲げた政策の踏襲であった。藤原伊通と平清盛が後ろ盾となっていた事は述べたが、その他にも二条天皇は保元の乱で凋落した旧摂関家を自分の政治勢力下に取り込む事に注力し成功した。

保元の乱で勝利側には付いたものの旧摂関家としての権威は完全に失墜し、元関白の藤原忠通も1162年時点で既に65歳になっていた。二条天皇はこの藤原忠通が養女にしていた藤原育子(ふじわらむねこ)を中宮とした上に、関白だった藤原忠通の四男、近衛基実(このえもとざね)とは良く連携をとる等、旧摂関家との連携強化策を講じた事が百練抄にも書かれている。

二条天皇親政派の人物として藤原経宗(ふじわらつねむね=生1119年没1189年)が挙げられる。1160年初頭に後白河上皇が藤原顕長邸の桟敷で庶民との歓談を楽しむという趣味にクレームを付け、周囲を板で囲い遮断するという事件を起こして阿波国に配流され、1162年3月に戻って来た人物である。太政大臣だった既述の藤原伊通は1162年時点では69歳と高齢であったし、左大臣の松殿基房、内大臣の九条兼実はまだ若かったという事でこの時期は藤原経宗が太政官を取り仕切っていたのである。

既述の様に健康に恵まれず、二条天皇の親政は僅か3年間と短く、従って大きな治積を残す迄には至らなかった。1165年に入ると病床に着き、6月25日に僅か生後6カ月の順仁(のぶひと)親王に譲位し7月28日に23歳の若さで崩御したのである。順仁親王が第79代六条天皇としての即位したのは生後7カ月であり、歴代最年少の即位であったが、2年8カ月後の1168年4月に祖父、後白河法皇の意向で高倉天皇に譲位して上皇となる。この時は3歳と4カ月であり歴代最年少の上皇であった。

生涯、操り人形の様な扱いをされた天皇である。六条上皇は1176年8月に満11歳と8カ月で崩御し、従って生涯、元服もせず、后妃も持たない天皇(上皇)であった。


2:後白河上皇と平清盛の連携、並びに蜜月時代・・(1163年~1176年)

2-(1):アナタコナタで対応した平清盛の政治的バランス感覚

愚管抄にはこの時期の平清盛の二条天皇と後白河上皇の双方に対する態度を“アナタコナタシケル・・”と表現している。つまり、後白河上皇と二条天皇が主導権争いをしていた時期に平清盛はどちらにも付かずに両者の間を巧みに遊泳したと言う事である。“アッチにもコッチにも”良い顔をした、つまり“風見鶏的対応”をしたという事である。

1162年に二条天皇派が後白河上皇との主導権争いに勝利し、二条天皇の里内裏押小路東桐院邸が新しく建てられると、清盛は一門にその警護体制をとらせた。周囲からはあくまでも正統な皇位継承者と見做されていた二条天皇に清盛は従属の態度で臨んだのである。

一方では院政を二条天皇によって停止させられ、失意の中で仏教にのめり込んで行った後白河上皇に対しても1164年に蓮華王院(三十三間堂)を造営し、さらには荘園・所領を寄進する等、経済的奉仕を惜しまなかったのである。

平清盛は一貫して後白河上皇の政治には批判的であったし、冷淡な関係であった。ただ、この不遇な時期の後白河上皇に対する経済面での奉仕をした清盛流“アナタコナタ”は後に第80代高倉天皇の後継問題の際には役立ち、平清盛と後白河上皇が提携関係を結ぶベースとなるのである。この様に一時的ではあったが、基本的には対立するこの個性の強い両者が蜜月時代を持つと言う事に繋がって行くのである。


2-(2):第79代六条天皇の即位(即位1165年退位1168年満3歳4ケ月)

親政を進めていた二条天皇であったが1165年に入ると病状が悪化し急遽生後7ケ月の赤児を天皇に即位させる事になる。何せ生後7カ月の赤児である、即位式の途中で泣き出した為、授乳の為に即位式を中断したとの記録が残っている。これまで125代の天皇が即位しているがこの様な例は六条天皇の他には無い。この赤児の天皇の摂政に近衛基実が就いた。

近衛基実については既述したが、二条天皇が15歳で即位した時に、同じ年に生まれた彼が15歳で関白に就いている。そして彼は又、同時に旧藤原摂関家の氏の長者(家長)にも就いた。保元の乱で藤原忠通は勝利者側には付いたものの、後白河天皇の治政下で摂関家の地位、権威は壊滅状態になっていた事は5-3項で記述した通りである。そして藤原忠通は旧摂関家の生き残り策として有職故実を守る家柄として生き残る道を選ぶ。具体的には後の五摂家に分ける事によって摂関家が消滅する危機を回避したのである。其の中の一つである近衛家の祖となったのがこの近衛基実である。

1164年4月には平清盛の娘、盛子が僅か8歳でこの近衛基実(当時21歳)に嫁ぎ、正室となっている。そして僅か2年後に近衛基実は没する。彼の死後に摂関家の厖大な財産が残されるが、この時点では後白河上皇と清盛の関係が良好であった為、盛子の後見人として平清盛が財産を管理する事が認められ、この事に拠って平清盛は、武力、政治権力に加えて経済面でも強大な力を持つ事になったのである。

1179年にその盛子が没し、膨大な摂関家の財産を巡って、後白河上皇と平清盛との間に大きなトラブルが生じ、後白河院と清盛との関係は蜜月関係どころか直接対決という事態に急展開して行くが、それは暫く後の事である。

2-(3):後白河院が六条天皇を譲位させる動きに出る

二条天皇と後白河上皇との父子の確執、主導権争いは平治の乱が終了した1160年から始まり、既述した様な紆余曲折を経て1162年に二条天皇が勝利して親政を始める事になる。ところが漸く落ち着くかに見えた政治状況も、二条天皇がわずか23歳で崩御し、世間からは暗君と評されていた後白河上皇が政治の舞台に戻って来る事になり、再び世の中が騒々しくなるのである。

二条天皇は崩御の直前に父親、後白河上皇の院政復活を阻止すべく、まだ赤児だった六条天皇を即位させたのだが、その努力も崩御後には水泡に帰す事になる。後白河上皇は早速、六条天皇の後継天皇問題に向けて動き出すのである。後白河上皇はその理由として下記二つを掲げた。

六条天皇の母親の身分は下級貴族出身であり、二条天皇の後継者としての資格が不十分である
その六条天皇を擁護し、政務を行う立場の摂政近衛基実がこの世を去った

こうした事を理由とはしたが、後白河上皇の本意は二条天皇の系統での皇位継承を絶ち、自分と寵愛する平滋子との皇子を一日も早く皇位に就ける事であった。従って即位したばかりの赤児の六条天皇を退位させ、憲仁親王(のりひと)を即位させる行動を開始したのである。

2-(4):後白河上皇と平清盛との連携

六条天皇の祖父でもあったという立場を利用して、後白河上皇は寵愛する滋子との間に生まれた憲仁親王を後継天皇とすべく、早々と動いたが、それを阻む勢力は無かった。二条天皇の早すぎた崩御によって政治権力を奪還した後白河上皇は、公然と即位したばかりの赤児の六条天皇を譲位させ、憲仁親王を後継天皇として即位させるという動きに出る。そして平清盛はそうした後白河上皇と連携したのである。

後白河上皇の院政開始時期については諸説があるが、この様に二条天皇が崩御した直後から赤児だった六条天皇を殆ど無視する形で憲仁親王を次期天皇として擁立活動を始める1165年からであるという説が有力である。鳥羽法皇からは“天皇の器に非ず”とされ、愚管抄などにも“暗君”と評され、繋ぎに過ぎなかった後白河院であったが、二条天皇の崩御という思わぬ事態が生じた為にいつの間にか政治権力の頂点に立つていたのである。

政治的背景も、財政的背景も、武力背景も無い上に、上記の様に資質としても偏執的変人として周囲からの人望も無く、頼りになる近臣も育っていなかった後白河上皇にとって平清盛の義理の妹、平滋子との巡り合いは極めて幸運な事であった。何故ならば平滋子の献身的な仲立ちを得て平清盛を後援者とする事となり、後白河上皇は結果として政治的、財政的、そして武力的背景を一挙に整える事が出来たからである。

更に後白河上皇と平清盛との政治的連携の架け橋になったのが後白河上皇と平滋子との間に1161年9月に第七皇子として誕生した憲仁親王(後の高倉天皇)である。院政を行う事が出来る条件については第5-1項で何度も記述したが、上記の様に清盛との連携も成り、政治、経済、軍事面でも条件が整った後白河上皇にとって、ベストの姿は二条天皇の血を引く孫の六条天皇を支配下に置く院政の形よりも、自らの皇子である憲仁親王を次期天皇として支配下に置く形であり、その環境が二条天皇の崩御によって整ったのである。先ずはその第一歩として1166年10月には満5歳の憲仁親王を皇太子としたのである。

平清盛にとっても継妻・時子の甥に当る憲仁親王の天皇即位実現は望ましい事であり、協力を惜しまなかった。一貫して後白河上皇という人物の政治姿勢に冷淡であった“アナタコナタ=風見鶏”の平清盛と後白河院との提携関係が成立したのである。こうした後白河院との協力関係の賜物であろう、1166年の11月には平清盛は武士層からは例外中の例外であった内大臣に昇進、更に翌年1167年2月には最高官職である従一位太政大臣にまで登り詰めたのである。平清盛48歳、後白河上皇39歳であった。

2-(5):平清盛の危篤と臨終出家

人生、全てが巧く行く事は無い。時代の寵児平清盛にもここで大きな試練が訪れる。

1168年2月10日に平清盛は激しい腹痛と下痢に襲われ、親族が枕元に集まる危篤状態になった。玉葉には“寸白(すばく)”が原因と書かれている。今日で言うところの、サナダムシなどの条虫に因って清盛は生死を彷徨う危険な状態に陥った。そして翌11日には“臨終出家“をするという事態にまで悪化するのである。当時は高貴な人が危篤に陥ると出家して極楽往生を願うという事が行われた。清盛の場合も“臨終出家“と称される出家が行われた程、病状は深刻だった。妻の時子もこの時出家をしている。清盛51歳、時子は42歳であった。この時の臨終出家の導師を務めたのが天台座主の明雲である。

後述する事件の中には寺社勢力が絡むものが多くあるが、平氏一門は清盛の出家の例で分る様に比叡山延暦寺に帰依しており、両者の関係は友好的であった。2月15日には熊野参詣をしていた後白河上皇も急遽、清盛を見舞う為に六波羅邸に行幸している。この時点では清盛はまだ運を残していたのであろう、2月17日の危篤状態を最後に病状は奇跡的に回復したのである。

2-(6):清盛の危篤で早められた第80代高倉天皇(即位1168年退位1180年)の即位

頼りにしようとした清盛の危篤で後白河上皇は六条天皇周辺の勢力が増す事を危惧した。その為には清盛亡き後も平氏一門と連携する事で政権を安定させようと焦ったのである。その結果、まだ平清盛が危篤状態から抜け出せない1168年2月19日に、まだ満6歳半だ
った憲仁親王を第80代高倉天皇として即位させたのである。

この結果、孫の六条天皇は譲位し、満3歳と4カ月の史上最年少の赤児の上皇が誕生するという珍事となり、甥から叔父への皇位継承という不自然な形となったのである。この高倉天皇即位の時点、1168年を以て後白河院政の開始とする説もある。この年の3月20日には実母である滋子は皇太后となった。

2-(7):清盛奇跡の危篤脱出と後白河上皇の出家

後白河院と平清盛の蜜月時代は清盛が“寸白(すばく)=サナダムシ“に拠る危篤状態から奇跡の復活を果たし上述した様に臨終の危険に際して法名を“静蓮”とする臨終出家をした以後暫くの期間続くのである。

一命を取り留めた清盛は京の都の政治を嫡子、重盛以下に任せて自分は福原に別荘“雪見御所“を造営して、兼ねてからの念願であった厳島神社の整備に没頭する。又、大輪田泊(おおわだのとまり=現在の神戸港の一部)を整備して日宋貿易の拡大に没頭し、莫大な財貨を得るのである。

更に清盛は“宋銭”を大量に輸入する事に拠って日本の貨幣経済の発展に多大な貢献をする事になる。清盛のこれらの業績については第5-10項で記述する。これらの動きに清盛が没頭したのは1169年頃からの事である。清盛51歳の頃の事であった。清盛と同じく進取の精神の旺盛な後白河上皇はこの時期、何度も福原に行幸し、自ら宋人と面会する等、日宋関係の深まりに大いに貢献したのである。この様に清盛と後白河院との関係は良好でまさしく蜜月時代であったと言えよう。

この時期、後白河上皇にも変化があった。既に高倉天皇即位を1年前に実現させ、1169年4月には寵愛する滋子に建春門院の院号宣下を授けている。建春門院滋子はこの時27歳、後白河上皇は42歳であった。そして1169年6月に出家をし“後白河法皇”となるのである。この時期はまだ後白河法皇は平氏一門の力を必要としていた事は述べたが、建春門院滋子の存在は大きく、平氏一門も多くの者が滋子のお蔭で出世をした。天皇の秘書官長である蔵人頭には清盛の異母弟の平教盛(のりもり=俳優鈴之助)と滋子の叔父、平信範が就き、高倉新天皇の周囲は平氏一門で固められたのである。

こうして隆盛を極めた平氏一門の荘園はこの時期全国に500余りを数えた。舌禍問題をしばしば起した清盛の継妻時子の弟、平時忠が有名な“平氏に非ずんば人にあらず“と言ったとされる平氏一門の全盛期はこの時期であろう。

2-(8):厚遇された平清盛の子息達

政治、経済、軍事の全てにおいて基盤の弱かった”後白河院”としては上述の様に平清盛並びに平氏一門との連携は不可欠であった。従って後白河法皇も清盛並びに平氏一門を厚遇した。総帥の清盛は1167年には従一位太政大臣にまで登り詰め、清盛の嫡子、重盛(俳優窪田正孝)は清盛の後継者として平氏一門の棟梁になっている。1166年10月に憲仁親王が満5歳で皇太子になると乳父(めのと)に任じられ、後白河上皇(当時)の近臣扱いとなったのである。

平重盛は更に1167年5月10日に参議となり、東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊の追討の宣旨を得ている。この権限は源平の内乱が終結した後に源頼朝が朝廷から与えられた権限とほぼ同じ内容である。つまり平重盛は国家的軍事、警察権を朝廷から正式に委任されたのであり、この宣旨が下された事を以て“平氏武家政権の成立”とする学説が多く、歴史上極めて重要な出来事であった。この宣旨が下された時の天皇は赤児の六条天皇であるが実質的には後白河院が下した宣旨である。この史実を以て後白河院政の始まりを1167年5月とする説の論拠となっている。

いずれにしても後白河院と平清盛の関係が蜜月状態であった期間に嫡子・重盛は後白河院に仕え、近臣としてその地位を上げて行った。同様に平清盛の三男(継妻時子の子息としては長男)の宗盛も兄の重盛同様、厚遇され、地位を上げて行ったのである。異母兄弟という事で兄・重盛に対抗する意識が強かった為か、宗盛は重盛との仲は良くなかったと伝わる。兄重盛とほゞ同じ時期の1167年に20歳の若さで参議にまで登って居りこの時期、如何に平氏一門が厚遇されたかが分かる。

しかしこの宗盛という人物は異母兄、平重盛(俳優窪田正孝)が病死した後に平氏一門の棟梁となるが、兄重盛や弟で勇者として名を残した平知盛(とももり)と比べて、武将としても政治家としてもかなり能力的に劣る人物であった様だ。

後述するが平清盛急死の直後にあっさりと後白河法皇に謝罪し、政権を返上してしまう等、清盛の後継者とは思えない無策ぶりで最後には平氏一門を滅亡させる事になる人物である。政治面、財政面、軍事面いずれにも強力なバックとなった平氏一門をこの時期、後白河院は必要とし、厚遇し、そして協調する事に務めた。後白河法皇と平清盛、並びに平氏一門との短い期間の提携の時期であり、蜜月期間だったのである。

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