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2014年4月17日木曜日

第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第3項 平治の乱・・平清盛の台頭と後白河上皇、二条天皇父子


1:保元の乱後の政情と主役達

前項で保元の乱での勝者達について記述したが、そのトップは政治的、経済的、さらには軍事的にもまだ強いバックを持たない後白河天皇を盾にして独裁政治を行った信西入道であった。従って保元の乱後の政情は信西入道が目指す“理想の政治“に向かって激しい”旧体制の解体“が行われる一方でそれに抵抗する”反信西入道勢力“も現れるという非常に不安定な状況であった。

保元の乱(1156年7月)から平治の乱(1159年12月)迄の時間は僅か3年間である。従って“平治の乱勃発”迄に何が起きていたのか、それらの事柄に誰がどの様に絡んでいたかを丁寧に見て行けば自ずからこの時期に”天皇家と貴族層“という永く続いた政治構造に代わって平氏を第一走者とする“天皇家と武士層”との共存体制という“政治構造”に移って行く日本の姿の変化が理解出来よう。

先ずは保元の乱の終結から1年後に既定路線であった繋ぎの後白河天皇が本命であった二条天皇に譲位する。“平治の乱“が終結する1159年末迄は二条天皇も未だ若く、即位後の日も浅く、周囲の貴族層もまだまだ混乱の最中にあるという状態であったから二人の間に政治的対立は生まれていない。

二条天皇が成長して行くにつれて、院政を強めて行こうとする父親“後白河上皇派”と二条天皇を担ぐ“天皇親政派”との対立構造が発生するがそれは次項5-4項での背景である。

この項5-3項”平治の乱“の時期での政治的対立構造は”保元の乱“の崇徳上皇と後白河天皇の様な”天皇家の内部の争い“では無く”後白河上皇の近臣達“による政争の期間であったと理解すれば良いと思う。

“平治の乱“は2つのクーデター事件を一緒くたにして扱っている場合が多く、その為、史実に対する誤解が多く、且つ理解し辛くしている。

“平治の乱”の中身である2つのクーデター事件の第1幕は理想の天皇親政を掲げて独裁政治を進めていた“信西入道(藤原通憲)”を追討するクーデターであり、そして第2幕は第1幕で勝利した“藤原信頼”を追討しようと謀議し、実行した伝統的貴族層に拠るクーデターであった。

2回のクーデター共に主役となった“藤原信頼”は2012年のNHK大河ドラマ”平清盛”でお笑いのドランクドラゴンの塚地武雄が演じた役柄である。

政治的に強力なバックの無い後白河上皇にとって“近臣作り”が急務であった事を前項でも記したが、元々風変わりで難しい気性の人物“後白河上皇”が独裁政治を強引に進める信西入道を横目で見ながら、自分の“近臣”として異常に寵愛したのがこの藤原信頼だった。

こうして共に後白河の“近臣”である“信西入道”と“藤原信頼”が主役となった“平治の乱”の実行部隊として武力闘争を引き受けたのが保元の乱で“天皇家の治天の君”争いに参加した“武士層”を代表する源義朝と平清盛であった。とりわけ保元の乱後の政治的に不安定な状況に今や中央の政治に“武闘勢力”として関わるまでに存在感を上げ、虎視眈々と次の出番が来るのを待っていたのが“源義朝”であった。

貴族層をリーダーとして纏め上げていた摂関家の存在が消え、天皇家も“治天の君”として強烈な政治権力、経済力、そして武力の三点を保持していた白河、鳥羽院の時代とは異なり、後白河上皇はそこまでの権力掌握には程遠い状況であった。従って政治は“信西入道”の独裁という形で行われていたのである。

こうした状況に反旗を翻したのが“藤原信頼”であった。信頼を寵愛した後白河上皇が背景に絡んでいたと思われるがその論拠は後述する。そしてクーデターの武力行使部隊として血気に逸る“源義朝”がいたという構図である。

平治の乱の1幕、2幕を通して主役とも言える“藤原信頼”についてはこれ迄に十分な紹介をしていないので先ずは彼について紹介する事から始めたい。

2:後白河上皇に異常に寵愛された“近臣”藤原信頼という人物
(生1133年斬首1159年12月27日26歳)

後白河天皇(上皇)が風変わりで且つ難しい気性の人物であった事は既に述べた通りである。保元の乱で崇徳上皇を排斥する事には成功したが、摂関家の権威を徹底的に落しめた結果、貴族社会を纏めていた伝統的なリーダーを失ってしまったのである。

この事は白河院、鳥羽院の“院政”時代までは天皇家と共存し、支える役割を果たす事によって日本の政治、社会を安定させていた“貴族層”という社会構造の一部を取り払ってしまった事を意味した。この部分を埋める存在が現れる迄、日本の政治、社会構造は非常に不安定な状況に陥るのである。

保元の乱が“日本史上特筆すべき社会変化をもたらした戦闘”だったと前5-2項で述べたが、それに加えて“瓢箪から駒”で天皇に即位した後白河天皇に政治的背景、財政的背景、軍事的背景が無かった事が藤原信頼に代表される“にわか近臣作り”による“側近政治”に頼るしかないという状況を作り出した時期だったのである。

これが後白河上皇の初期の状態であった。おまけに後白河天皇は風変わりで気性も激しい異色の人物であった。亡き鳥羽法皇が後白河を称して“天皇の器に非ず”と、彼の即位に難色を示したが、後白河の資質を見抜いていたのであろう。

後白河天皇時代の藤原信頼への寵愛振りは異常と言える程の激しさであった。煽りを喰った人々は多いが、かろうじて摂関家を完全消滅から救った藤原忠通もその一人であった。1158年4月の加茂祭の桟敷事件という記録が残っている。

内容は加茂祭の日に前関白の藤原忠通の桟敷の前を参議の藤原信頼の車が通過しようとした。忠通の従者がこれを阻止し、信頼の車を破損させた。何と藤原信頼がこの些細な事を後白河天皇に訴えたのである。信頼を寵愛する後白河天皇は藤原忠通に激高し、東三条殿に幽閉、家司平信頼は2カ月間解官(失職)されるという一方的処分となった。因みにこの平信範は“兵範記”を書いた人物として前項で何度も紹介した人物である。

この事件が起こった時点で後白河天皇31歳、藤原信頼25歳であるから、分別を当然持ち合わせた大人なのである。

藤原信頼という人物を紹介する為にこの話を持ち出したのだが、この話からも後白河天皇と言う人物と藤原信頼という人物の資質、器量の程度がお分かり頂けると思う。

慈円の“愚管抄“でも藤原信頼の評は散々である。藤原信頼の昇進も”後白河天皇の常軌を逸した寵愛“の結果だと決めつけている。又、平家物語などの記述でも”文にもあらず、武にもあらず、能も無く、芸も無く、ただ朝恩のみに誇りて・・“と一切彼を褒めた記述は見当たらない。平治の乱で共に戦った源義朝にも大内裏に居たはずの二条天皇が清盛の六波羅亭に脱出した事を翌朝まで信頼が気付かなかった事で”天下の大馬鹿者“と罵倒されている。更には頼みの綱の後白河上皇にも仁和寺に脱出されるという有様で、種々の記録に書かれているように”凡庸“な人物であった様だ。

詳細は後述するが彼は平治の乱の第2幕の闘いで敗れ、捉えられ、公卿としては前例のない六条河原での斬首刑に処せられるのである。

こうした藤原信頼を異常なまでに寵愛した後白河天皇だが、二入の間には“男色関係”があったとの逸話もある。

この藤原信頼と彼の武力部隊として源義朝が“平治の乱”ではチームを組む事になるのだが、それは下記の様な経緯があったからである。

1155年、藤原信頼は22歳の時に従四位下、武蔵守に任じられている。ここで坂東武士との結び付きを強めて行くが、こうした経緯も藤原信頼の父祖の代から東国に関係していたという事がベースとなっていた。更に信頼は良質の軍事用の馬や武器を産出する陸奥の国にも関与する事で“源義朝”との親交を深めて行ったのである。

信西入道が“保元の乱”の後に後白河天皇の“乳父母”であったという関係から政治的背景の無い“後白河天皇”を奉りあげた形で政治の実権を握った事は既述の通りである。しかし後白河天皇としても次第に自前の“近臣”作りが必要だという事に目覚めて来る。

そうした事から図抜けて賢く、周囲が認める政治力もあり且つ“親王”だった頃からの“乳父母”という関係もあって、後白河天皇にとって信西入道(藤原通憲)は徐々に“煙たい”存在になって来たと思われる。後白河天皇が藤原信頼を周囲から異常と指摘される程、寵愛する様になったのにはそうした背景が強く関係していよう。

後白河天皇による藤原信頼への寵愛ぶりを示す以下のデータがある。

1157年の3月、つまり保元の乱終結から僅か8か月後の時点から後白河天皇が二条天皇に譲位する1158年9月4日、つまり前日までの1年半の記録によると、藤原信頼の位階は従四位下から正三位へと5ランク(従四位下~従四位上~正四位下~正四位上~従三位~正三位)も上がっている。つまり中流貴族から一気に従三位以上とされた“公卿”にまで駆け上がっている。

これを具体的な官職で言うと右近衛中将から左近衛中将、蔵人頭を経て権中納言へと、さしたる功績も無く昇進させているのである。こうした処にも後白河天皇という人物の異常さ、偏執的人柄が読み取れよう。亡き鳥羽法皇が後白河を“繋ぎの天皇“とは言え”天皇の器に非ず“とその即位を躊躇した所以である。

藤原信頼にも他の貴族に無い“強み”はあった。既述した様に祖父の藤原基隆、父親藤原忠隆以来築いて来た奥州との深い繋がりである。既述した様に奥州は“武士層”にとって必要な武器、馬の産出地であった。武士層が台頭し、中央の政治に影響力を持つ存在になって来た時点でその重要性に着目した事は信頼の慧眼であった。

更に信頼は軍事面での人脈作りにも注力した。保元の乱で抜群の働きを示した源氏の棟梁、源義朝との関係を深め、ほゞ支配下に置いたのである。更には当時、既に最大の武闘集団となっていた平清盛の娘と自分の息子との婚姻によって平清盛とも言わば軍事同盟的関係を築いた。こうした事から藤原信頼を周囲の目は強大な軍事力を掌握する存在と見做す様になったのである。

後白河天皇の行き過ぎた“藤原信頼寵愛“に周囲の貴族達は”秩序の攪乱“として批判的であった。そして何よりも後白河天皇の“側近No.1”であり指南役を自認する信西入道がいつまでも黙認する筈も無かった。

“今鏡“に信西入道が後白河天皇の寵愛に基づく藤原信頼の昇進を妨害した記事がある。

信西入道による信頼昇進への妨害は1159年以降の事であるから後白河天皇が二条天皇に譲位した後の時期に当る。記録を見ると確かにこの間の信頼の昇進は停滞している。

次に後白河天皇の譲位問題について記述しよう。


3:後白河天皇の譲位と第78代二条天皇(即位1158年退位1165年8月崩御9月22歳)
  の誕生

元々繋ぎで“瓢箪から駒”で天皇に即位した“後白河天皇”であったから鳥羽法皇の遺志に沿って“仏と仏の評定”すなわち亡き鳥羽法皇の中宮であった美福門院得子と信西入道に拠って後白河天皇の二条天皇への譲位は決められた。

この評定には保元の乱で権威を完全に失墜した関白藤原忠通は加えてもらえず、結果だけを蔵人頭“藤原惟方”から伝えられただけだと言うからその凋落ぶりが窺える。この譲位は1158年8月11日に行われた。“後白河上皇”はこの時点で31歳、“二条天皇”は15歳であった。因みに“仏と仏の評定”を行った美福門院得子は42歳になって居り、2年後の1160年に44年の生涯を終え、荼毘に付され、その遺骨は彼女の遺言により高野山に納骨された。

後白河は上皇となり“院政”を開始する資格を得たのである。

この時点で後白河上皇の“院政派”と鳥羽法皇の遺志に沿って即位した二条天皇の“親政派”との対立が始まったとする説があるが正しくない。既述した様に、平治の乱が起る1159年12月時点までは二条天皇はまだ15歳の少年であり、後白河上皇も上述の様に信西入道の独裁政治を許す様な状態であり、両人が政治的に対立する状況には無かった。従って“平治の乱”の背景に後白河上皇と二条天皇の確執があったと言う説は正しくない。

この間の政治の実権は信西入道が握っていた。しかもこの時期の貴族社会の状態は摂関家が没落して貴族社会を纏めるリーダーが不在という状態で、それ以前の日本の社会構造が崩れた不安定な状況であった。そうした状況下で新興貴族勢力の信西入道が後白河上皇の近臣として、“理想の政治“を目指して強引に独裁政治を進めていたのである。

“信西入道”は一族の者を重要ポストに引き揚げ、言わば信西入道一族による独裁政治の形をとった。その為、周囲には不満も多かったのである。そうした中で後白河の異常な寵愛を得て“公卿”にまで台頭して来た“藤原信頼”が中央政治で存在感を増して来た事で信西入道との軋轢も日増しに大きくなって行った。

この様な状況下で伝統的貴族層は鳥羽法皇の遺志を継いだ政治をベースとする信西入道に対しては、問題は多々あったものの、藤原信頼との比較において、より安心感を抱いていたのである。

そして、エスカレートする後白河の異常な“信頼寵愛人事”に信西入道が立ちはだかったのである。

具体的には藤原信頼が“右近衛大将”の地位を欲したのだが、信西入道は断固拒否をした。
信頼がこの事を激しく恨んだとの記述が多い。急速に信西入道と藤原信頼の対立関係が強まって行った事は確かであろう。

又、表面には出ていないが、信頼を寵愛する偏執的な性格の後白河と信西入道との感情的対立も日々増して行ったものと思われる。

後白河天皇の譲位はこうした状況下で行われ、二条天皇が誕生した。1158年8月11日の事である。

以上が“平治の乱”を目前にした政治状況であった。

4:“今鏡”が伝える信西入道の藤原信頼の昇進阻止問題

後白河天皇は譲位する前日まで、藤原信頼を前例のない程の速さで昇進させていた事は述べた通りである。退位して上皇となって以降の藤原信頼の昇進は停滞している。これは明らかに信西入道がブレーキをかけた為だと“今鏡”に記されている。

“今鏡“が書かれたのはその序文によれば1170年であるから第80代高倉天皇(即位1168年退位1180年)の時代である。平治の乱(1159年)からそう経っていない時期に藤原為経(ふじわらためつね=寂超)によって書かれたとされる歴史物語である。

大鏡、水鏡、増鏡と合わせて”四鏡(しきょう)“と呼ばれ、これらは平安時代後期から室町時代前期までに成立した歴史書である。この”四鏡“が成立した順序は大鏡、今鏡、水鏡、増鏡の順である。以下にごく簡単に、残る”三鏡“について紹介して置こう。

“大鏡”は藤原道長を中心とする藤原氏の栄華を書いた歴史書である。作者は不詳。

“水鏡”の作者は建礼門院徳子(清盛の娘で高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生んだ)並びに安徳天皇にも仕え、日記“山槐記”を書いた事で知られる中山忠親(なかやまただちか)とされる。初代神武天皇から第54代仁明天皇(即位833年退位850年)迄を書いた歴史書である。

一番最後に成立した“増鏡”は南北朝時代(1333年の鎌倉幕府滅亡から室町幕府3代将軍足利義満が全国を統一する迄の約60年間)中頃に成立した後鳥羽天皇から後醍醐天皇までの事跡について記した歴史書。作者は五摂家の一つ、二条家の嫡子に生まれ“北朝”側で何度も摂関職に就いたとされる“二条良基”が有力とされるが確かでは無い。

5:平治の乱のトリガー(引き金)は信頼が右近衛大将の職を要請した事を信西入道が断固拒否した事か?

後白河上皇の藤原信頼に対する異常な寵愛振りとその結果としての藤原信頼の前例のない
昇進振りに対して、乳父母としての信西入道の後白河上皇に対する厳しい批判の言葉が“玉葉”という書物に残っている。この“玉葉”とは関白藤原忠通の三男で摂関家が後の“五摂家”に分けられた時の“九条家”の祖となった“九条兼実”の日記である。

内容は“日本の歴史、中国の歴史を見ても後白河院は前代未聞の暗君である。謀反の臣が(藤原信頼)傍にいる事にも気付いていない”という記事であり、信西入道としては無能な藤原信頼を寵愛し、破格の出世をさせている後白河に対して我慢ならない状況であった様だ。そして信西入道は藤原信頼を“朝廷を危うくする存在”だとして後白河上皇に猛省を促す形で自ら信頼の“昇進人事”を全力で阻む動きに出たのである。

具体的には藤原信頼が武力を総括する立場である“右近衛大将”の地位を要求した事に対して信西入道が全力で阻止し、これを知った藤原信頼が信西入道を憎悪し、“反信西”の動きを開始したと“平治物語”等には書かれているが、その背後には同じく信西入道の存在を鬱陶しく感じ始めていた“後白河上皇”の存在があった事は間違いなかろう。

後白河上皇は別の理由からも信西入道の存在を鬱陶しく思っていた。これについては5-3項-9の処で述べる。


6:“平治の乱”で源義朝が決起した理由として“保元の乱”での論功行賞に対する不満があったからだという説は当たらない

既に5-2項の11の処で記述した様に“保元の乱”の後の論功行賞で源義朝が従四位下、左馬頭に任じられた事は義朝にとっては大出世であったはずである。“保元の乱”の直前に源義朝は従五位下、下野守に任官したばかりであったから官位では4段階(従五位上~正五位下~正五位上~従四位下)も上がった事になるし、官職も日本全国の“武士の棟梁を意味する”左馬頭”に昇進したからである。

既述した様に、平清盛の論功行賞と比べて大不満であった、という説は当たらない。平清盛は父祖時代からの功績が積み上がっており“保元の乱”の前に既に武士階級としては異例の公卿に手が届く地位にまで登っていたのである。

7:平治の乱に関する一級資料

“保元の乱”の場合と同様“平治の乱”についてもどの資料に基づいてこの項を記述したかについて説明して置こう。“保元の乱”の記述で一番参照した“兵範記”には残念がらこの時期の記録は殆ど残されていない。

平治の乱に関しては①百練抄②愚管抄③平治物語の順に資料としての信頼性があるとされる。

の“百練抄”は鎌倉時代の末期13世紀末に成立した公家の日記など、諸記録から編集
した歴史書で、第63代冷泉天皇(即位967年退位969年)から第89代後深草天皇(即位1246年退位1259年)が第90代亀山天皇(即位1259年退位1274年)に譲位するところまでを漢文体で記したものとして知られるが、残念な事に全17巻の中1~3巻までが欠けている事、肝心の平治の乱に対する記述が少ないという欠点がある。

客観性のある公家の日記を中心としている処が“信憑性”の面で優れた貴重な資料であり、可能な部分は引用する。尚“百練抄”の編集者は不詳である。

の“平治物語”は“保元物語”同様あくまでも“物語“として書かれており客観性に
問題はあるが史実と整合性がとれる部分は引用した。

以上から②の“愚管抄”が最も多くの情報が得られる、しかも、客観性のある一級資料として引用して行く事になる。

上述の3つの資料を軸にしてこの5-3項のテーマである“平治の乱”が起った状況、戦闘の様子について記述した。


8:平治の乱の第一幕、12月9日クーデター事件直前の状況と当夜の様子

平治の乱は12月9日の事件と12月25日、26日の事件との計2回の戦闘を合わせて“平治の乱”と呼ばれている。2回の事件で主役も全く入れ替わり、又政争としての内容も全く異なる闘いである。

先ず、12月9日の事件で“保元の乱”の後の政治を取り仕切って来た“信西入道”が滅び、12月25,26日の事件ではその信西入道をクーデターで討った藤原信頼が討たれるという目まぐるしい2回の政争を一括りにして“平治の乱”と称している事が我々の理解を混乱させている面がある。

この2幕に亘る政争の結果、摂関家凋落の後の貴族社会を短期間ではあったがリードした“新興貴族勢力”の信西入道と藤原信頼が共に一挙に消え去る。

そして最も重要な事は、前項5-2項の主テーマであった“武士層の中央への進出”が起りその結果躍進した源氏と平氏の二大勢力の中から、一方の“源義朝”が消え去った事で、平清盛が率いる“平氏”が独り勝ちの形で一挙に中央政界の“雄”となったのが“平治の乱”だと言う事である。

何度も繰り返し記述して来た様に日本社会の特異性は“天皇家”の存在にある。

この“平治の乱”という政争でも実質的政治権力者の交代があった訳だが“天皇家”が日本の政治構造の軸である事に変わりが無かった。“天皇家”はこの“平治の乱”の結果、共存する相手を“信西入道”や“藤原信頼”に代表される近臣の新興貴族から今度は“平清盛=平氏一族”と共存する形に変えて依然として日本の政治構造の軸として存続して行くのである。

“平治の乱“は日本の歴史上初めて“天皇家”が“武士層”の代表と単なる“警護”と言う関係から“共存体制”を組んで日本の政治をリードして行く切っ掛けとなったと言う意味で歴史上重要な事件だった。

“平治の乱”の第一幕、12月9日事件から記述して行こう。

平治の乱の第一幕は藤原信頼が信西入道を襲撃したクーデターである。しかもこれは平清盛が熊野詣に出かけた留守を狙って実行された。既述した様に信西入道と清盛とは考え方も近く、過去から協力関係にあった。さらに清盛は信西入道の息子に娘を嫁がせ、親戚関係にもあった。

藤原信頼としては最大の“武闘勢力”である平清盛が信西入道と“近い関係”にある事を知っていたから、清盛が留守の間に密かにクーデターを起こす事の方が成功の確率が高いと考えたのであろう。

実は藤原信頼(俳優塚地武雅)と平清盛(俳優松山ケンイチ)との関係も信頼の男子に清盛の娘が嫁いでいる事から“親戚関係”にあり、清盛が留守中の平家軍が動く事はあるまいとの判断があったものと思われる。信頼側にはその他の“甘い”判断も加わって“清盛は動く事はあるまい”と確信していたと思われるがそれについては後述する。

因みにこの熊野参詣に平清盛は嫡男重盛(俳優窪田正孝)以下僅か15騎しか伴っていなかった。

こうして1159年12月9日に“平治の乱の第一幕”が切って落とされたのである。

“百練抄“の記述には12月9日夜、藤原信頼の軍事実行部隊である源義朝(俳優玉木宏)軍が後白河上皇(俳優松田翔太)の三条烏丸御所に放火し、飛び出して来た北面の武士と切り合い、屋敷内に乱入したとある。そして義朝部隊は後白河上皇と上皇の姉、上西門院統子を燃える館から救い出し“一本御書所”に移したとある。

”愚管抄“にも同様の事が書かれている。つまり藤原信頼は信西入道殺害を図り、源義朝部隊を使って三条烏丸の院御所・三条殿を襲った。そして信西入道並びに信西入道の二人の息子、俊憲、貞憲を殺害すべく火を放った。更に姉小路西洞院にあった信西入道の邸宅も襲撃したが事態を事前に察知した信西入道は逃亡していたという事である。

この記事並びに後日信西入道の長男、俊慶の証言も“愚管抄”に残っているがこれらの記述からはあたかも藤原信頼と源義朝軍が後白河上皇と二条天皇に対して謀反のクーデターを起し、院の御所を襲い、火を放った様に読めるが、それでは後述する史実との整合性が全くとれなくなる。

第一に、それでは之まで後白河上皇に寵愛された藤原信頼が何故その恩ある後白河上皇に謀反をしなければならないのか等の説明が出来ない。

藤原信頼の指揮下にあった源義朝が三条烏丸の院の御所を襲い、火の手が上がった事は史実であるが、それは放火に因るもので無く、信西入道殺害の為のクーデターの軍事行動の過程で火が出てしまったと解釈した方が辻褄が合うのである。

藤原信頼側に後白河上皇に危害を加える意図は無く、三条烏丸御所を襲ったのは信西入道を含め信西入道の男子が出仕する場所だったからであろう。しかし上述した様に信西入道は来襲を事前に察知して京の都から逃亡していたのである。

後述する平治の乱第二幕のクーデター事件への展開という繋がりから考えても藤原信頼・源義朝側には第一幕のクーデターで後白河上皇、並びに二条天皇に危害を加えたり、幽閉する等の意図は全く無かったと言える。この平治の乱の第一幕の場面でのその証拠と言える行動も下記の通り見られる。

藤原信頼、源義朝軍は火の手の上がった三条烏丸御所の中門に牛車を用意して後白河上皇と後白河上皇の同母姉である上西門院(統子内親王)を救い出し、護衛の兵をつけて二条天皇が居る“一本御書所”へ移すという作業をしている。この作業に時間を大いに割いた為、信西入道の男子、俊慶、貞慶にも逃げられてしまう。後白河上皇、二条天皇を幽閉する事が目的であるクーデター事件であったなら、ここまで丁寧な対応はしないであろう。

ところでこの後白河上皇の姉、上西門院統子という人物は後に後白河院を全く信用しなかったと伝わる“源頼朝”と“後白河院”との間に立って源平合戦後の難しい政治局面で活躍した女性である。

850年も前の事である事に加えて“平治の乱”の様に複雑な政治情勢、社会層の入れ替わり時期に起った事件を記述した当時の資料にはどちらの側に立って書いたかによって記述内容が大きく異なるなど、曖昧な記述が多く、前後の史実との整合性を欠く場合が少なくない。

850年経った現時点であるからこそ、その後の史実展開もその後発見された資料等から確認する事も出来、歴史の前後の整合性を検証しながら正しい史実に基づいた“歴史”として今日では整えられて来ているのである。

“平治の乱“に関する当時の極めて限られた資料の中から一級資料とした“百練抄”並びに“愚管抄”でさえも、藤原信頼・源義朝軍が12月9日に三条烏丸の院御所に火を放ったと記述している事も、後の史実展開を検証すると、残念ながら整合性がとれない間違った記述であると河内祥輔氏は指摘している。当時の情況から推測して“火を放った”のでは無く、戦闘の間に“火の手が回った”のであると結論づけている。

又、藤原信頼が自分をこれ程までに寵愛し、昇進させてくれた後白河上皇に謀反を働く理由が無い。後白河上皇に対して信頼が本気で謀反を行なった襲撃であったならば、わざわざ源義朝軍を割いて後白河上皇並びに上西門院統子を移動させる為の牛車を用意した上に源重成、源光基、源季実を護衛につけて“一本御書所“まで丁寧に送り届ける事などする訳が無いとの同氏の説には説得力がある。

信頼が後白河上皇、二条天皇を狙ったとする謀反クーデターであったとする説はその前後の史実との整合性がとれなくなる誤った説だと言わざるを得ない。


9:信西入道の最期、並びに“梟首刑(きょうしゅ)”という最も屈辱的な“極刑”を下したのは“後白河上皇”である

12月9日の夜の襲撃を事前に察知して信西入道は逃亡したが、逃げ果せないと覚悟を決め志加良木山(現在の志加良山=黒山、京都府と滋賀県の県境にある)で自害したと“百練抄の12月17日条”に記されている。

“愚管抄“には藤原師光(西光)が随行し、信西入道の最期を見届けたとある。NHK大河ドラマ”平清盛“でもこの場面が放映された。この藤原師光(俳優加藤虎ノ介)という人物は信西入道の乳母の子であった。従って信西入道の家来として仕えたのである。後に後白河上皇”第一の近臣”となり、平氏打倒の“鹿ケ谷の陰謀”に加わり、それが発覚し、拷問にあうが屈せず、清盛を罵ったとの記録がある。激怒した平清盛によって五条西朱雀で斬首された剛の者だ。

“愚管抄“によると信西入道の最期は早々と死を覚悟した立派なものであったと伝えている。信西入道は敵から逃れられない事を知り、穴を掘り、そこに身を潜めてひたすら念仏を唱えていたという。餓死する事を図り、その死体が誰にも発見される事の無い様、穴の上には蓋をさせて、ひたすら念仏を唱えながら四日間を過ごしていたと言う。その様にして浄土往生を願ったのだ。ところが信西入道の輿を担いだ人夫が隠れ場所を漏らしてしまう。

見張りをしていた藤原師光(西光)が敵が近寄って来た事を告げると“信西入道”は腰の刀で胸元を突き刺して命を絶った。

信西入道の死体は掘り出され、12月17日にその首は京の西獄で日本の中世の合戦では最も恥辱とされた“晒し首(梟首=きょうしゅ)”となったのである。梟首の刑は日本の中世において最も厳しい刑とされ、滅多に行われなかった。梟首の刑の例としては承平・天慶の乱の“平将門”の例(940年)が最初とされる。直前の例としても1108年の義朝の祖父に当たる源義親以来であるから実に50年振りの事であった。

話は逸れるが2014年の8月に私は同じ歴史好きの友人と“信西入道塚”を訪ねた。京阪電車の“宇治駅”で下車、1時間に2本しか来ないバスに乗る事35分で“宇治田原町”にある“維中前バス停”で下車をした。バス停の脇に“交番”を見つけたが生憎見回りであろうか誰も居ない。周囲に案内の看板があるかと探したが全く無く、仕方なく予め調べて置いた大まかな概要地図を頼りに汗だくで舗装された山道に沿って歩き出した。

8月上旬の猛暑の昼過ぎの時間であったから道を尋ねるにも人影も全く無い。山道を走って来たトラックを止めて運転手さんに尋ねるが“もう少し歩けば民家があるからそこで聞いたら良い”との答えであった。

灼熱の太陽が照り付ける時間帯であったから、数件点在する民家に人影は無い。歴史好きの我々にとって“信西入道”は極めて有名な人物なのだが土地の人でもその名を知らない人も多かった。半ば諦めかけた処で、畑作業をしている男性が居たので“大道寺の近くにある信西入道塚を探しています”と尋ねると“この道をあと数百メートル行った処にありますよ”と“天の助け”の答えが返って来た。

友人共々一気に元気を取り戻して言われた通りに山道を進むと“大道寺”の看板を掲げた“書庫の様な3~4坪程の建物”があった。この建物も1953年の山城地区の水害の際、山崩れで残っていた大道寺が壊滅し、僅かに本尊の不動明王初め五体の仏像を安置していた“御堂”を2004年に再建したものだと記されていた。

更なる“大道寺”の由来については以下の通り記述されていた。

奈良時代756年に山岳修験僧の寺としての開山である。756年と言えば、第45代聖武天皇が娘の第46代孝謙天皇に譲位してから7年後に当り、その遺品が東大寺に納められ“正倉院”が始まった年である。

当時の“大道寺”には“大伽藍”も配置されて居り、立派な寺であった様だ。その後前項第5-2項で記した“保元の乱”で藤原摂関家を凋落させた“藤原忠実(俳優國村隼)”が1106年に再興したとある。

この当時の藤原忠実は28歳と若く、第73代堀河天皇の関白としてまだ辛うじて摂関家としての体面を保っていた時期であり、この“大道寺“は摂関家の所領であった。しかし“保元の乱”で崇徳上皇側に付いた藤原忠実、頼長(俳優山本耕史)父子は敗れ、この“大道寺領”は巡り巡って“信西入道”の所領になったと記述してある。

この僅かに残る“大道寺の遺構”の小さな建物と道路を隔てたすぐ傍に我々が目指した“信西入道塚”があった。“大道寺”の説明書きに拠ると平治の乱(第一幕)のクーデターで追われた信西入道は“信楽に逃れようとして”宇治田原“に来たがこの地で自害したと言われている”と記してあった。更に“首は都に晒されていたのを大道寺の領民が貰い受けてこの地に塚を築いた”とある。

次に“信西入道塚”をお参りした。この史跡を示す道標は“信西入道塚”とだけ書かれた小さな表示板が山道の傍らに傾いて建てられているだけのものであった。

“信西入道塚“自体の大きさは70~80センチ程の高さの土盛りの上に1.5メートル位の高さの石塔が建っているだけの簡単なものであった。塚の前には“宇治田原町指定文化財”と記した教育委員会の看板があり、そこには“大正5年(1916年)有志に拠って供養塔として建てられた”と記されていた。この塚に到着するまでに“維中前バス停”から左右に田園が広がる山道を歩いて35分程かかった。途中、幾つもの道標はあったがいずれも周囲に点在する“お寺”の案内道標ばかりで、我々が目指した“信西入道塚”又は“大道寺”の道標は一つも無かったのには非常に困った。もし山道の途中で親切に教えて呉れたあの男性に巡り合わなかったらこの“史跡”に辿りつかなかったであろう。

この忘れ去られつつある“信西入道塚”を訪ねた事に拠って、平安時代末期の“保元の乱”“平治の乱”という複雑で、日本社会の一大構造変化を起した歴史的に重要な“事件”をより一層身近に理解出来た様な気がした。

さて、独裁政治を行っていた公卿“信西入道”に対して“梟首”という極刑を命ずる事が出来たのは一体誰であろうかの話に戻ろう。

確かに既述の経緯から藤原信頼は自らの右近衛大将への昇進を信西入道によって阻止された恨みを持っていた。又、保元の乱後の3年間の信西入道の政治改革は革新的であったし、兄弟、子供、そして親族を重要ポストに登用した“独裁政治”であったから、多くの敵を作った事も事実であった。

しかし既述の様に、それでも貴族社会の人々にとって信西入道の政治には鳥羽法皇路線の継承という安心感があった様である。彼の政治は“貴族社会の秩序をかき乱すものでは無い”と理解されていたのである。更に、何と言っても信西入道には貴族層を始め、周囲の人々を納得させる卓越した能力があった。それは彼の斬新な発想力であり、宋との貿易への意欲に見られるような視野の広さであり、巧みな弁舌と政治課題に対する優れた処理能力であった。

後白河の政治力は“未知”の状況であり、摂関家が凋落した直後の“新たな政治組織”が漸く生まれつつあったという状況下で“信西入道(藤原通憲)俳優阿部サダヲ”の政治力は当時の朝廷政治にとって必要であったし、敵味方の誰しもが認めざるを得ない優れたものがあったのである。

一方、後白河上皇の寵愛のみに頼って異例の台頭をして来た“藤原信頼”の存在は伝統的貴族社会の“秩序を乱す”ものと見做されていた。

この様に“保元の乱”後の日本の状況は“反信西入道”の動きもある一方で“藤原信頼”も周囲から強力な支持が得られるという程の存在では無かった。むしろ無能の烙印を周囲から押されていた藤原信頼だったのだが、既述した様に“軍事力をバックにした新興貴族”としての強い立場を築いていた事から12月9日の“信西入道殺害のクーデター”に同心する貴族達も居たのである。

それらの人々は藤原経宗、藤原惟方、藤原成親(俳優吉沢悠)、藤原光隆、そして源師仲などであった。いずれも後白河上皇の“院近臣”の人々である。そして武力行使を担う襲撃部隊として源義朝が控えていた。

こうして信西入道を認める貴族層、一方で“反信西入道派”として藤原信頼を支持する貴族層、更にはその背後に“後白河上皇”が存在するという状況を背景に“平治の乱の第一幕”12月9日の藤原信頼による信西入道追討のクーデター事件が起こったのである。

藤原信頼・源義朝軍が目指した事は只一つ、信西入道一派をクーデターによって追い落とす事であった。そして上述の様に信西入道はあっさりと自害して果て、梟首されたのである。

ここで何故、強烈な独裁政治を行っていた信西入道がこうもあっさりと“逃げ果せない”と観念してしまったのか、又、後白河院“近臣”の公卿として直前まで政治を牛耳っていた信西入道を自害に追い込み、その死体を掘り出して首を切り、それだけでは飽きたらずに梟首(きょうしゅ)という“極刑”に処すという命令を出す事が出来たのは一体誰であったのかを考えて見たい。

結論から言うと信西入道をそこまで追い詰め、早々と観念させ、公卿という高位の身分の貴族を50年ぶりに晒し首の刑に処すだけの力を発揮出来たのは“後白河上皇”しか在り得ないのである。

推理小説では無いがその論拠を詰めて行こう。

信西入道の子である俊慶らの刑の執行が年が明けて直ぐの1160年の正月に行われという事が重要で、この史実から12月9日の“平治の乱第一幕のクーデター”の背後に“後白河上皇”の存在があったという論拠とするのである。

藤原信頼は後述する平治の乱の第二幕、12月25,26日のクーデター事件で一転“賊軍、謀反人”となり、その直後の12月27日には一言の弁明も許されずに平清盛によって斬首刑となって果てた。藤原信頼は僅か18日間で“裁く立場”から、罪人として“裁かれる立場”になった事が史実として重要なのである。

平治の乱の第一幕の12月9日の事件直後の段階では“藤原信頼”は勝者であったからこの時点では信西入道に対する刑、並びに彼の子息達に対する“流刑”を“言い渡す側“に居た。更に”信西入道“が“梟首”された12月17日にも“藤原信頼”はまだクーデターの勝者として“信西入道”を“裁く側”に居た。

しかし、以下の史実からこの“信西入道”に対する“梟首“という極刑も、信西入道の
”子息達“に対する”流刑“も藤原信頼が決定した”量刑“では無く”後白河上皇“が決定した”量刑“だという理論展開が出来る。

その論拠は1160年の1月に信西入道の子息達に課された“流刑”が現実に“執行”されたという事である。もし、信西入道の子息達に課せられた流刑が1159年12月9日のクーデター事件後に“藤原信頼”によって命ぜられた“刑”であったとしたら、謀反人として既に12月27日に斬首された大罪人が決めた刑をそのまま1160年1月に執行する筈が無い。

少なくともその刑には何らかの変更が加えられるか、或は取り消されるのが通常のケースであろう。繰り返すが信西入道の“子息達”に対する“島流しの刑”は12月9日後に下されたまま翌1月に執行されたのである

そしてこの“流刑”も“信西入道に対する梟首刑”も12月9日のクーデター事件後に同一人物が決定したと考えるのが妥当である。

こうした史実の検証から“信西入道”に対する“梟首”の刑も信西入道の“子息達”に対する“流刑”も藤原信頼以外の人物が下したという事になる。しかも藤原信頼よりも上位の者が下した刑である筈だから“後白河上皇”が決定した刑と考えるのが前後の史実との整合性からも最も説得力がある。

“後白河上皇”が自分を政治権力の座から追い落とす事に拠って政治権力を自らの手に握ろうと考えている事を“信西入道”はこの時点で漸く知った。だから12月9日のクーデター事件が起こった時に最早自分の逃げ場は何処にも無いと早々と覚悟を決めたのであろう。

信西入道は“雅仁親王”の時代から後白河上皇が風変わりで、且つ一度こうだと思い込むと突っ走るタイプの人物である事を熟知していた筈である。そして感情の起伏も激しい人物だという事も熟知していた。

従って自分が捕まれば“梟首”される事も在り得ると覚悟をしていたのではないだろうか。その屈辱だけは避けたいとの思いから地中に穴を掘り、蓋をかぶせ、念仏を唱えながら死ぬことで誰からも発見されない事を望んだのであろう。

河内祥輔氏はその著“保元の乱・平治の乱”でこうした論法から“後白河上皇が下した量刑である”と断じている。私は非常に説得力のある説だと思う。

信西入道が恐れたのは“後白河上皇”であり、成り上がり者の“藤原信頼”では無かった。
そして12月9日の信西入道追討クーデターの背後には“後白河上皇”が居たと考えると以後の史実との整合性がピタリと取れるのである。

当時書かれた書物の中には“二条天皇”が信西入道の“梟首”という極刑を命じた本人であるという説もあるがこの説も荒唐無稽な説である。この時期の後白河上皇と二条天皇の父子の関係は良好で二人の間には一切政争が起こる様な状況は無かった。

二条天皇はこの時点で年齢も16歳と若く、政治経験もまだ無く、天皇に即位して僅か1年であった。従ってまだ“二条天皇親政派”と言える程の“近臣”も存在していない。この時点で二条天皇自らが信西入道に対する梟首の刑という極刑を命じたとは考えられない。

一級史料としては全く使えないとした“平家物語”陽明文庫本に至っては12月9日の信西入道追討クーデター事件で藤原信頼一派が後白河上皇と二条天皇に謀反し、両人を押し込め、信頼は自分が天皇であるかの様に振る舞ったと記述している。言うまでも無く史実とは全く整合しない。藤原信頼も新興とは言え“貴族”である。当時の貴族が事情はどうあれ安易に“天皇家”に直接弓を引く事は考えられ無い。其の上、後白河上皇と二条天皇を軟禁するなどと言う事はあり得ないのである。

後白河上皇の寵愛によって自分の今日があるという事を知っている藤原信頼が何の得があってその後白河上皇に弓を引くのか、史実との整合性を欠く全く説得力の無い荒唐無稽な説である。

この他にもまだまだ後世の人々を惑わせる誤った記述は枚挙に暇がない。

再び“平家物語の陽明文庫本”を引き合いに出すが、ここでは信西入道の梟首刑を命じたのは“二条天皇”だと書いている。藤原信頼側が二条天皇を担ぎ、12月9日に後白河上皇と信西入道チームに対して謀反のクーデターを起こしたというのである。この説も藤原信頼と後白河上皇との寵愛関係という史実を無視し、尚且つ“後白河上皇”と信西入道との確執が深まっていたという事に考えが及んでいない間違った記述である。繰り返すが、後白河上皇と当時まだ16歳の二条天皇とはこの時点では未だ対立する状況では無かったのである。

最後に何故、後白河上皇が“雅仁親王”の時代からの“乳父母”であり“瓢箪から駒”と言われる程、実現性の少なかった“天皇即位”実現に貢献したばかりか、保元の乱の後、まだ後白河天皇の政治的基盤が全く整っていなかった時期に、政治を取り仕切って来た“近臣中の近臣”であるはずの“信西入道”に対して“死体から首を切った上に梟首”という極刑を与えたのかについては、既述した理由の他にも重要な理由があったとする説を紹介して置きたい。

それは後白河上皇が考える様になった二条天皇の後の“後継者問題”だったとする説である。

後白河上皇には三人の皇子が居た。長男が“二条天皇”であり、彼が天皇に即位した事で誰が皇太子になるかの問題が生じる。亡き鳥羽法皇の遺志によって“二条天皇の皇子”が生まれたらその子を皇太子に立てよとの事であった。しかし、1159年の時点では二条天皇はまだ16歳であり、どの后にも皇子は生まれていなかった。

後白河上皇の次男は当時10歳であったが、上記の様に亡き鳥羽法皇の遺志に従って出家する事が決まっていた。しかし後白河上皇は彼を“皇太子候補”にする事を願う様になったとする説である。

この“後白河上皇”の皇太子候補の考えに真っ先に反対するのは“信西入道”であろうと後白河上皇は読んでいた。何故なら信西入道は鳥羽法皇の遺志を継いだ政治を行う事をベースとしており、従って“二条天皇の皇子”こそが後継天皇であると固く信じている。従って後白河上皇の考えに決して妥協する事はないだろうと読んでいたとする説である。

事実こうした“保守路線”であった事で信西入道は伝統的貴族層からの支持を得ており、独裁政治に対する不満を抑える事が出来ていたのである。

これら全ての背景も加わって、二条天皇が即位した1158年9月以降、後白河上皇は信西入道の存在を鬱陶しく且つ邪魔な存在として意識する様になったのであろうと思われる。

こうした後白河上皇のストレスの裏返しが、藤原頼信に対する寵愛を加速させ、前例の無い信頼の出世人事が行われたのであろう。

その後、後白河上皇が皇太子にと希望した次男の皇子は既定路線通り“出家”をする。後の仁和寺の第六代守覚法親王である。そして漸く生まれた“二条天皇の皇子”が第79代“六条天皇”(即位1165年崩御1168年満3歳4カ月)として即位するのである。

後白河上皇の3男が後の1180年に平氏追討の令旨を出し“源平合戦”の火蓋を切って落とし、自らは戦死した“以仁王”(生1151年没1180年)だが、この時点ではまだ9歳の子供であった。


10:熊野詣から急遽引き返した平清盛一行の状況

信西入道(=藤原通憲)と平清盛は日宋貿易の重要性を始め、当時としてのグローバル化を重視する新しい国家観など、共感する間柄であり、又清盛の娘が信西入道の男子、成憲に嫁ぎ親戚関係にある等、近しい関係であった。

信西入道が目指した理想的国家造りの為の国政改革推進の為、信西入道は平清盛を厚遇し、又、平氏一門の勢力拡大を援助した。具体的には当時最も豊かな国であった播磨守に清盛を就け、又、太宰大弐に清盛を任じて日宋貿易に深く関与させたのである。一方の信西入道は平清盛の軍事力並びに経済力を頼るという双方向の関係を築いていた。

平清盛は非常に周囲に気遣いをする人物だという事は何度も記述したが、この平治の乱のもう一人の主役で信西入道を12月9日のクーデターで葬り去った藤原信頼とも、信頼の嫡子に娘を嫁がせる事で親戚関係を結んでいたのである。

平清盛は12月9日の平治の乱第一幕、信頼の信西入道襲撃のクーデターが起きた時点では“中立の立場”に身を置いた。藤原信頼は平清盛が熊野詣で留守中にクーデターを起こした訳であるが、平清盛とは親戚関係にある事から、清盛が敵に回る事は無いと考えていたものと思える。

さらに藤原信頼側がクーデター後に後白河上皇と二条天皇父子を大内裏(皇居と諸官庁を含めた地域)に確保し、彼らが“官軍”の立場に居た事も若輩で経験不足の藤原信頼にとっては安心材料となり、油断をさせる事に繋がったのであろう。信頼の平清盛に対する人物評価は“政治的バランス感覚に優れ、穏やかな、体制派の人物”と見ていたのであろう。従って、もし平清盛が藤原頼信・源義朝軍に対して闘いを挑めば平清盛軍は“逆賊”となるのであり、その道を清盛は選ぶまいと確信していたフシがある。

12月9日の事件の報は清盛が嫡男重盛以下わずか15騎で切部宿(現在の印南町)に滞在中に六波羅からの早馬でもたらされた。この時嫡男“平重盛”が躊躇する清盛を説得して京都に引き返す事となったのである。

優秀な部下を持つ事で上司が難を逃れる事が出来た話は古今東西いくつもの事例が残っているが、この場合も平清盛にとって生涯最大の危機とも言えるこの事態を“部下の機転”で切り抜けたという話が残っている。

熊野詣の旅であった為に清盛一行は戦闘の準備など一切せずに出掛けて来ていた。ここで平正盛、忠盛そして清盛の三代に仕えた平氏第一の家臣で清盛の後見人でもあった“平家貞(俳優中村梅雀)”が“この様な万一の為に”と50人分の鎧と弓を長櫃(ながびつ)から取り出したと言う。それでも少人数の為、京都に戻る事を躊躇し、四国、九州へ、取り敢えず落ち延び、体制を整えてから出直そうと主張した清盛に対して、嫡男重盛が”藤原信頼・源義朝側によって後白河上皇から平家追討の院宣が出されたら同じ事。それならここは潔く京に戻りましょう“と説得したと言う。

京に引き返す清盛一行には途中で応援部隊が参集し、100騎に膨れ上がっていたとの記録がある。


11:12月17日に清盛一行は六波羅に無事帰還、そして藤原信頼に“名簿(みようぶ)の提出”を行う

清盛一行が無事に京の六波羅に帰還出来た大きな理由として上述した様に藤原信頼が平清盛との親戚関係からむしろ清盛は協力者になって貰えると考えていた事、そして“後白河上皇と二条天皇父子を奉じてのクーデターだ“との“官軍意識”が平清盛に対する“鷹揚”な対応をとらせたと思われる。この辺が藤原信頼の若さと無能さ、そして甘さだと言えるのかも知れない。

“平治物語“には源義朝の長男で父同様武勇で名を馳せ”悪源太“の異名を持つ”源義平”が“直ちに清盛一行を大阪の阿部野で迎え討つ”事を主張したが藤原信頼はこれを拒否したとある。しかしこの話は“創作話”であろうとされている。信頼側の“平清盛”に対する警戒意識は殆ど無かった様だ。これがのんびりとした当時の“貴族層”というものなのであろうか。

12月9日の平治の乱第1幕とされるクーデター事件で“信西入道政権”を滅ぼした藤原信頼側は丁度、明智光秀が本能寺に織田信長を滅ぼした直後と同じ状態で、一時的にではあったが“朝廷政権のトップ”の座に就いたのである。

こうした状況にも決して慌てず、じっくりと情況判断をすべく、清盛は時間を置いたのである。“平清盛”という人物の生来の政治的バランス感覚の良さと事態の変化に合わせて決断し行動するという柔軟性がこのあとから発揮される事になる。

平清盛は六波羅に無事帰還した後にまず第一に新たに朝廷の権力を掌握した“藤原信頼”に忠誠を誓う事を意味する“名簿(みょうぶ)”を提出した。


12:平治の乱第二幕“12月25日、26日のクーデター事件”を策謀した“藤原公教”
(きんのり)の勇気

“愚管抄”によると藤原信頼は若輩で政治的才覚も無く、そして未経験であった。従って当時の多くの貴族達は12月9日の平治の乱の第一幕となった“信西入道政権に対する藤原信頼のクーデター事件”の際にも“我関せず”の態度を貫いた様だ。

院政を開始した白河院、それを引き継いだ鳥羽院の時代には天皇家は“治天の君”である上皇又は法皇が直系の天皇を配下に置いて絶大な政治力、経済力、そして軍事力を握っていた。“保元の乱”でそうした絶対権力を持った上皇の姿は“天皇家”から消え失せていた。天皇家における“後白河上皇”と“二条天皇”の関係は決して“治天の君”と言える程の権力迄には“後白河上皇”が到達していなかったのである。

これは“治天の君”不在という時期であった事を意味する。社会構造に関しても伝統的に貴族層の纏め役、リーダーとして機能していた摂関家も“保元の乱”で消え失せていた。

この様に政治的背景も希薄で実権も無い“後白河上皇”そして仁和寺から還俗して即位したばかりの“二条天皇”の二人は独裁政治を行う信西入道の専制政治下では“お飾り的存在”だったのである。

こうした状況を打ち破るべく藤原信頼がクーデターを起こしたと言えば政治史上インパクトも強かったのであるが、実態は無能と評判の彼が一躍朝廷政治のトップを占めた事で12月9日以降の政治情勢はより一層不安定な状況に陥ったのである。

”平治の乱“とは、要するに天皇家の”治天の君不在“という状況に乗じて後白河上皇の近臣である信西入道と藤原信頼の新興貴族、二人が朝廷政治の実権を争った第一幕の政争と勝者、藤原信頼を追討した”伝統的貴族層“に拠る、巻き返しの為の第二の政争が2回のクーデターという形で起った”乱“である。

第1回目のクーデターが12月9日の藤原信頼による“信西入道追討”のクーデターであった。そして直後の12月25日、26日に起きた2回目のクーデターは“伝統的貴族層”を代表した“藤原公教”がその藤原信頼に“ノー”を突き付けたクーデターであった。その結果、後白河上皇の近臣であった“信西入道”、“藤原信頼”の二人が共に消え去る事になったのである。

以下にどの様に12月25日、26日の“平治の乱”第2幕のクーデターを“藤原公教”が成功させたかについて記述して行く。

“平治の乱第一幕時点”までは伝統的貴族層は、只々こうした政治的混乱状態に対して“我関せずの立場”で静観する以外に途は無かった。こうして沈み込んでいた伝統的貴族層の中から“無能の新興貴族政治家”藤原信頼に朝廷政治を任せる訳には行かない、と考え、密かに動き出す人物が現れた。それが内大臣という立場に在った“藤原公教(きんのり)”である。

藤原公教(生1103年没1160年8月)は鳥羽上皇に重用され、院庁の執事を務め、信西入道(藤原通憲)の政策を後援して来た“伝統的貴族”であり、政治のベテランであった。藤原北家閑院流三条家当主という毛並の良い人物である。亡き鳥羽院が寵愛した中宮、美福門院得子はこの時点では存命中であったが彼女の親戚という立場を生かして順調に正2位、内大臣にまで上った人物である。

平治の乱の第一幕、12月9日のクーデター事件が起った時点で彼は56歳であった。言わば数少ない貴族層を纏める事が出来た長老格の貴族だった。

藤原公教としては後白河上皇に異常に寵愛され成り上がった新興貴族に過ぎない26歳の若輩者、しかも政治的に無才覚と評判の藤原信頼に朝廷の政治を任す事は死んでも出来ないとの強い危機感、思いが募ったのであろう。その彼が立ち上がったのである。

状況を今一度整理するならば、12月9日のクーデター事件(平治の乱第一幕)で信西入道(藤原通憲)は自害に追い込まれた。藤原公教はじめ伝統的貴族にとって信西入道の政治は亡き鳥羽法皇の遺志の遵奉者として独裁的政治手法という難点はあったが、信西入道の能力を評価して受け容れて来たのだ。ところがその信西入道がクーデターによって抹殺され、朝廷政治の中央に踊り出たのが藤原信頼一派だったのである。そして後白河上皇と二条天皇は“信頼一派”が内裏に確保しているという状況であった。

従って藤原信頼一派が“官軍”であるという状況を先ず打破しようというのが藤原公教の“謀議”の内容であった。具体的には先ずは二条天皇を藤原信頼の手から奪い去る作戦である。この藤原公教の謀議に参加したのは二条天皇の側近と言われる藤原経宗と藤原惟方である。

ここで重要な事は藤原公教が“二条天皇”を担ごうとした事、敵である藤原信頼の背後に居たと思われる“後白河上皇”では無かったという事である。

この事からも先に述べた12月9日のクーデター事件で藤原信頼が標的としたのが信西入道であった事がはっきりとする。“平家物語”では信頼の標的を“後白河上皇”としているが全くの間違いである事の証明になろう。

藤原信頼が後白河上皇に何らかの不満を抱いて後白河上皇の住む三条東殿を襲ったのなら、藤原信頼と後白河上皇が敵対関係にあった事になる。既に記した様に後白河上皇に寵愛されて異常な昇進を遂げた藤原信頼が後白河上皇に反抗する理由は関係する資料からは一切見い出せない。

後白河上皇と藤原頼信との寵愛関係を知っている以上、藤原公教は二条天皇を担ぐ事になる。そして“官軍”の立場に居る藤原信頼側から“二条天皇”を奪い取る作戦を実行に移すのだが、この脱出作戦についてはその綿密さから“二条天皇”にその旨を伝え、事前の承諾を得ていたものと考えられる。

この作戦を実行する事によって“藤原公教”は後白河上皇と対抗しなくてはならないリスクもあった。しかしその辺はベテラン公卿政治家の公教である。あくまでも“天皇家”に弓を引く事だけは避け、攻撃対象を藤原信頼とその軍事部隊である源義朝に絞る事で綿密な作戦を、しかも注意深く練り上げたのである。その策が後述する仁和寺への“後白河上皇”の脱出となる。

こうした藤原公教の策謀が出来上がった頃には最大の軍事力を持つ平清盛は既述の様に無事、熊野詣から六波羅への帰還を12月17日に終えていた。

藤原公教側の謀略の内容とは第一に上述した様に“二条天皇”を藤原信頼から奪還する事、そして第二にその“実行部隊”として“平清盛”を用いる事であった。そして清盛を味方につける事に成功したのである。

13:平清盛は何故藤原公教の策謀に加担する事になったのか

平清盛の政治的バランス感覚の良さと言うか悪く言えば“風見鶏”的政治センスは熊野詣から六波羅に戻った翌日に早速発揮される。先ず、亡き“信西入道”の息子“成憲”を絶縁して藤原信頼を安心させる。そして次に藤原信頼の息子であり清盛の娘を嫁がしている藤原信親を信頼の許に遣わして熊野詣から戻った挨拶と上記“成憲”との絶縁を伝えさせた。更に恭順を意味する“名簿(みょうぶ)”の提出を藤原信頼側にするという周到さであった。

その平清盛が何故、親戚でもある藤原信頼を討つという“藤原公教”の謀議に加担する事を承諾したのであろうか。

平清盛と源義朝とのライバル意識は12月9日のクーデター事件、つまり“平治の乱の第一幕”の時点と12月25,26日のクーデター事件、つまり“平治の乱の第二幕”の時点とでは大きく異なっている点に注目する必要がある。

まず、平治の乱の第一幕、12月9日の藤原信頼の信西入道に対するクーデター事件の時点では“平家物語“などに書かれている様な平清盛と源義朝との間に強いライバル意識があったとは考えられ無い。“平家物語”は源氏と平氏の争いに焦点を当てて書かれた“物語”であるから全てのストーリーを源氏と平氏との対立を軸として組み立て、殊更に清盛と義朝を対抗させているのであろう。

従って“保元の乱”の後の論功行賞で平清盛との差に源義朝が不満を持ち、それが源義朝を藤原信頼に加担させ、清盛の留守を狙って決起したというストーリー展開としているが史実とは異なる。

繰り返すが、平清盛と源義朝との間には父祖の代からの大きな官位、職位の差がついていたのだから源義朝が“保元の乱“後の論功行賞を不満として清盛を逆恨みする理由は無い。、12月9日のクーデター事件で源義朝が藤原頼信に加担したのは以前から源義朝が藤原信頼の配下にあったという流れが主たる理由である。

”愚管抄“には源義朝が信西入道にも恨みを抱いていたと言う話も書かれている。

平清盛の娘が信西入道の男子に嫁いだ事で両者が親戚関係となった事は記したが、同じ様に源義朝も娘を信西入道の男子に嫁がせようとしたが信西入道が断ったという話である。それを理由に源義朝が信西入道を恨み、それが12月9日の藤原頼信の信西入道に対するクーデターに義朝が加担した理由だとしているのだが、クーデターを決意したのはあくまでも藤原信頼であり、源義朝と信西入道との間の“破談話”が平治の乱の起爆剤になったとする話はありえない。

慈円が書いた“愚管抄”は“平治の乱”の60年後の1221年に成立した書物である。

“源平の合戦”という当時、日本史上最大の“武士層同士に拠る政争”の内乱の結果、源氏に拠る“鎌倉幕府”が成立して凡そ30年、次々とその源氏の3代の将軍がこの世を去り(頼朝1199年、頼家1204年実朝1219年)1221年には承久の変が起るという状態で、鎌倉幕府もまだ非常に不安定な時期に書かれた歴史書である。

従って“愚管抄”という一級資料でさえもが“源氏と平氏との対立構造”に記述内容が偏り勝ちになっているという欠点がある。慈円は“保元の乱”のまさに当事者であった関白藤原忠通の子息であり、九条兼実の弟と言う人物であるが“愚管抄”を書いた当時の資料の制限、彼の持つ情報の限界という事からも後世、学者達が収集した関連資料、その後の史実展開と照らし合わせるとその記述内容に多くの整合性がとれない部分があるのは仕方のない事である。

何故平清盛が藤原公教の策謀に加担する事になったかの話に戻ろう。

結論から言うと、伝統的貴族層から見て藤原信頼に朝廷政治を任す事は出来ないという藤原公教の説得に“清盛”が同意した事に加えて、その藤原信頼に加担して急激に地位を上げ、急速にライバルとして無視出来ない存在になった源義朝をこの際“潰して置く必要性”を清盛が強く感じた事が主たる理由であろう。

源義朝と清盛との関係で言えば、12月9日の信西入道追討のクーデター事件以降“平清盛”にとって状況は一変したと言える。即ち12月9日のクーデター事件後、藤原信頼は悲願であった“右近衛大将”に就いた。そして源義朝も信西入道追討の軍功として四位“播磨守”に就任し、更に、当時13歳であった子息の“源頼朝”までもが“右兵衛佐”に任じられたのである。

保元の乱が“武士層”の中央における地位を飛躍的に向上させたと5-2項で書いたが、その中では“平清盛”が抜きん出ており、源義朝と源義康(足利尊氏の祖)が続いていた。この中、源義康は保元の乱の翌年,1157年に没しているから平清盛と源義朝の二人が最強の“武士団”として残っていた。

源義朝に対して断然、抜きん出ていた平清盛にとって、12月9日のクーデター事件後の藤原信頼体制下で源義朝が大出世した事は看過する事の出来ない事態であり、まさに平清盛と源義朝との激しいライバル意識はこの時点から“平清盛”側にも一種の危機意識として強く生まれて来た事であろう。

藤原公教(ふじわらきんのり)としても最大の軍事力を持つ“武士団”平清盛の参加は絶対条件であった。平清盛は先述した様に、熊野詣から六波羅に戻った直後に新たな権力者となった“藤原信頼”に恭順の意を表わす行動をとる一方で、上述した源義朝に対抗する必要性からもそれまでの全ゆる方面への“中立的立場”を解消して、藤原信頼を裏切る形で藤原公教の“信頼討伐”の謀略に加担する事を決めたのである。

14:二条天皇の大内裏から六波羅亭への脱出策を成功させ“官軍”の立場を奪取する

グローバル世界となった今日、世界から見て“日本の特異性”とされる事柄を説明する為には、それらの“特異性”が由来する“歴史的根拠”を一つ一つ記述する事に拠って説明する事が一番分かり易かろうと強く感じた事が結果として私が上巻、中巻、下巻に亘る“日本通史”の記述作業をする事になった理由である。

この5-3項の記述からも、日本の歴史上の主たる戦闘においては“官軍”の立場を得る事が“勝者”になる為の条件であり、それを“平治の乱”という具体的史実で知る事が、結果に於いて“日本の特異性”を知る上で非常に役立つと思うのである。

“官軍”の立場とは、すなわち“天皇家”を自分の側に確保している事であり、それが勝者としての条件だったと言えるのである。

勿論、長い日本の歴史の中には例外のケースもあった。

“保元の乱”では例外的に両陣営が天皇家(崇徳上皇と後白河天皇)であった。又、次の第六章で記述する鎌倉幕府の時代の1221年に“承久の変”が起き、鎌倉幕府は後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇の“天皇家“の三人の上皇と戦って勝利した。このケースも例外である。

更にこれも第六章で述べるが、足利尊氏が第96代後醍醐天皇(即位1318年退位1339年)と戦った際に、自分の側に“天皇家”が居なかった事を重大視して、新たに“光明天皇”(北朝第2代天皇:即位1336年退位1348年)を立てるという奇策を用いた。その直後に後醍醐天皇が吉野に移って南朝を樹立し、以後、半世紀以上に亘る“南北朝”の対立の時代が始まるその端緒となった天皇である。それ程、自分の側に“天皇家“を確保している事が
”勝者“としての条件であった事を歴史が証明している。

幕末の鳥羽伏見の戦いも薩長軍の勝利は“錦旗”を掲げて“官軍”である事を天下に誇示しながら戦った事が勝利に大いに貢献したと伝えられている。

12月9日の平治の乱第一幕の戦いで信西入道に対するクーデターを成功させた藤原信頼・源義朝軍は後白河上皇、二条天皇父子を大内裏の内に確保し、“官軍”として勝利したのである。繰り返すが“平治物語“はじめ、当時書かれた書物にある様に天皇、上皇を幽閉したのでは無かった事は明らかである。

12月25日、26日の“平治の乱第2幕”は“二条天皇を内裏から脱出させる”という藤原公教一世一代の大作戦であり、協力者は二条天皇派と言われる藤原経宗、藤原惟方であった。そして実行部隊が“平清盛”であり、脱出先は平清盛の“六波羅亭”と決まったのでる。

この作戦が見事に成功した事は“百練抄”にも書かれている。25日の夜に二条天皇と中宮妹子が“六波羅亭”に脱出した事と後白河上皇が“仁和寺”に脱出した事が記されている。

“愚管抄”には詳細にこの脱出劇の様子が書かれているのでその記述から25日の二条天皇の脱出劇の詳細を紹介して置こう。

二条天皇を内裏から清盛の六波羅亭に脱出させる大仕事は清盛と藤原尹明(ただあきら)の二人が担当したとある。内裏の内は尹明が担当し、二人の女官にも手伝わせて二条天皇の脱出劇を綿密に計画し実行した。内裏の外に脱出してからが清盛の担当で、臨時の“御所”となる“六波羅亭”で丁重に二条天皇を迎え入れたのである。

二条天皇を内裏から脱出させる作業はそう簡単では無い。先ずは大内裏で火事を起し、頼信・義朝部隊の注意をその火事に逸らし、その隙に二条天皇を予め用意して置いた牛車に導き、六波羅亭まで向かうと言う大作業であった。

二条天皇を六波羅亭を臨時の“御所”として迎え入れる事は藤原公教(きんのり)・平清盛側にとっては“官軍”になる事を意味する。しかし、天皇が天皇である為には“三種の神器”も天皇と共に内裏から脱出させなければならない。“愚管抄”には藤原尹明(ただあきら)が筵(むしろ)を二枚用意して二条天皇が歩く道を作り、三種の神器の中の“剣と璽(じ):天子の印章=勾玉”を運んだ様子までが細かく記されている。三種の神器の中で残った“八咫鏡“の記事が無いがこれは後述するが藤原信頼方の”源師仲“が保持していた。

従ってこの場で六波羅亭に持ち出せたのは上記”二種の神器“だけであった。

先ずは“二種の神器”を牛車に運び入れた後に火事騒ぎを起し、この騒ぎの間に二条天皇が牛車に乗り移り六波羅亭に向い、午前2時頃に到着したと記している。藤原尹明の働きは念が入ったもので、天皇の身辺に必要な琵琶、和琴、殿上の椅子までも六波羅亭に夜明けまでには全て運び入れたと言う。こうして六波羅亭が臨時の“御所”となったのである。

こうした史実からも平治の乱第2幕の事件に関する“平治物語”等の記述内容には間違いが多い事が分かる。

例えば12月9日の第一幕の事件で藤原信頼・源義朝軍が後白河上皇と二条天皇を幽閉状態にしたと書いているが、史実は以上の様に“藤原尹明”がたった一人で二条天皇の脱出という大作業を行った。

もし、後白河上皇、二条天皇が幽閉されていたのなら、信頼側は監視の兵を何人もつけていたであろうし、火事に注意力を逸らさせたとは言え、のんびりと二条天皇の歩く道に筵を引きながら牛車まで歩いてもらい、更には上述の“神器”のみならず天皇の身の回りの品物まで牛車に積み込む等の大作業が出来るものでは無い。

日本の歴史上で、臣下の立場に居る者が“天皇家”に対して殺戮は勿論、幽閉等の挙に出た例は“殆んど無い”と記述した。

この様に平治の乱の史実からも証明される様に“天皇家”の“権威”と“格式”が常に重視されて来た事が“日本の特異性”なのである。

上記で“殆ど無い“と書いた理由は”例外“はあったと言う事であり、鎌倉幕府以降に起きた例外事例は上述したが、実はここで記述している”平清盛“もその”例外“となる人物になってしまう。次の第5-4項でその経緯を詳細に記述して行くが、平清盛はこの”タブー“を犯してしまうのである。

1179年の事であるから”平治の乱”からは20年も後の事となるが“後白河院”並びにその近臣達による種々の策謀に堪忍袋の緒を切った清盛は、後白河上皇を”幽閉“し、院政を停止させるという挙に出る。そしてこの事が一挙に”平氏追討“の口実を全国の”反平氏勢力“に与える結果となり”源平内乱に拠る平氏一門の滅亡“へと歴史が展開するのである。この事については次項5-4項で詳しく記述する。

“平治の乱の第2幕”12月25日、26日のクーデター事件では二条天皇が女装をして内裏からの脱出に成功したという有名な話が“平治物語”に記述されている。

“平治物語“は鎌倉時代の前期に成立した全3巻の軍記物語であり”保元物語”の姉妹編とされる作者不明の“物語“であるが、平重盛(俳優窪田正孝)と義朝の長男の源義平との一騎打ちの描写等は活劇を観る様で、多くの人々に好まれる書物である。

しかし“平治物語”はあくまでも“物語”であり、史実との整合性という面では必ずしも正確では無い。同じく鎌倉前期の1221年に最初の3巻が成立したとされる”平家物語“と混同される事が多いが、平家物語は平氏の栄華と没落を主題とした”叙事文学”であり、内容はあくまでも”歴史書”である平治物語とは異なる。

”平家物語“の作者は”信濃前司行長“という説が有力だが、南北朝時代まで何度も増補、改訂が行われ、とりわけ琵琶法師によって語られた事によって広く愛好された”文学書“として知られている。

“平治物語”に書かれた二条天皇が女装をして内裏を脱出したという逸話を以下に簡単に紹介して置こう。

二条天皇に女装をさせて牛車で脱出する案が藤原経宗と藤原惟方によって綿密に練られた。経宗は後白河上皇の従兄弟であり、その関係から皇子である二条天皇の立太子の時代からの近臣となった。藤原惟方は美福門院得子に仕えた関係から美福門院得子が推した二条天皇に仕えた。従ってこの二入は共に“二条天皇派”と呼ばれる近臣である。

二条天皇は即位前には“仁和寺の利発な美少年”との評判が高かった事は繰り返し記述して来たが、二条天皇が少年時代から女性の様な姿と美しい顔立ちであった事からこの逸話が生まれたのであろう。

17歳になっていた二条天皇は女装をして牛車に乗った。中宮の妹子(よしこ)他、数人の女房達も同じ牛車に乗っていた。御所の藻壁門(そうへきもん)で源義朝配下の武士の尋問を受けたとある。藤原惟方がとっさに“北野神宮へ参拝に行くのだ”と返答をしたが疑われ、敵側は松明(たいまつ)で牛車の中を確認したと言う。“もはや之までか”と皆が覚悟をしたが幸いにも敵側の武士(金子十郎家忠)は女装した二条天皇に気づかず無事検問を通過出来たという話である。

内裏から六波羅亭までの担当は“平清盛部隊”であった。清盛の嫡男平重盛(俳優窪田正孝)と清盛の弟頼盛(俳優西島隆弘)が兵300騎で牛車を護衛して無事六波羅亭に二条天皇を迎え入れたと記述している。

ここに六波羅亭は臨時の“御所”となり、藤原公教・平清盛側がこの瞬間“官軍”と成ったのである。

15:後白河上皇の行動

 12月9日の平治の乱の第一幕は“藤原信頼・源義朝”軍に拠る“信西入道追討クーデター”であり、上述した様に“後白河上皇”は藤原信頼側に立って信西入道の梟首命令を出したものと考えられる。

後白河上皇はこの第一幕の事件を起こした藤原信頼(俳優塚地武雅)を異常に寵愛した本人である。従って“平治の乱”が後白河近臣の藤原信頼によるクーデターだけでは終わらず、攻守所を変えて、藤原公教、藤原経宗、藤原惟方を代表とする伝統的貴族層に加え、実行部隊としての平清盛までもが参加した“藤原信頼”追討の2回目のクーデター事件へと展開した事で“後白河上皇”は微妙な立場になった。

平治の乱の第2幕は“後白河上皇”が後押しをして第1幕の勝者となった“藤原信頼”が逆に追討されるクーデターなのである。しかも藤原公教主導による綿密な謀議が行われ、“二条天皇”を六波羅亭に確保し、“官軍”の立場を“反信頼側”が奪取するという展開になったのである。

ここでもし後白河上皇が藤原信頼側に付いたまま、双方が第2幕の軍事衝突を起す事になれば“保元の乱”と同じ様に“天皇家同士”の争いとなったのであるが、そうはならなかった。後白河上皇はここで藤原信頼を見限って大内裏内の“一本御書所”を脱出したのである。

後白河上皇の脱出劇の様子も“愚管抄“に記されている。

藤原惟方が後白河上皇に“二条天皇は六波羅亭に脱出した”事を通告したのである。藤原公教が惟方に指示したのであるがこの作戦は実はリスキー(危険)なものと言える。
つまり、12月9日事件で明らかに藤原信頼に信西入道に対するクーデターを指示したと考えられる“後白河上皇”が“二条天皇”の内裏脱出を聞いた時点で取り得る行動は下記③通りあったからである。

すぐさま藤原信頼に伝え、信頼と結託する事 ② 藤原公教・藤原経宗・藤原惟方・平
清盛側のクーデター側に鞍替えする事③両者から距離を置き、中立の立場に身を置く事、以上3通りの選択肢である。

藤原公教の作戦がリスキーであったと述べたのは二条天皇の脱出を伝えた事で①の行動を後白河上皇がとったかも知れないからである。しかし老練な伝統的貴族である藤原公教は“後白河上皇”の行動として①はあり得ないと読んでいた。

そして後白河上皇は③を選んだ。具体的には12月25日の夜に“一本御書所”を脱出し、異母弟の入道覚性親王が居る“仁和寺”に赴いたのである。

ここに藤原信頼は“官軍”の立場を奪われ、ただ一人頼りとした“後白河上皇”にも中立の立場を取られた事によって完全に孤立したのである。


16:六波羅亭の“臨時御所”で、伝統的貴族層を心服させた“平清盛”の言動

平清盛は政治的バランス感覚に優れ、人心を捉える事に長けた人物であるという事は之まで随所で紹介して来たが、12月25日の“平治の乱第2幕”でもそれが如何なく発揮された。その様子も“愚管抄”に詳しく書かれている。

“保元の乱“でも”平治の乱の第1幕のクーデター事件“でも貴族層はつとめて無関心を装い、只々急激に変化する政治並びに社会構造の変化の中で己の伝統的身分がどうなるのかに不安を募らせていた。

亡き鳥羽法皇の遺志を遵守すると見られた信西入道の独裁的政治手法に耐えたのも、彼には伝統的貴族層に対する一応の理解があったからである。その信西入道が12月9日のクーデターによって抹殺された。藤原信頼という政治能力の無い、後白河上皇に寵愛されただけの新興貴族が僅か2週間前に朝廷の政治権力を握ったと思った途端に、今度は藤原公教が二条天皇近臣の藤原経宗、藤原惟方を抱き込んで“二条天皇”を内裏から脱出させ、六波羅の平清盛の館を”臨時の御所“とするクーデターを起こしたのである。

政治的“大混乱状態”は果てしなく続く様相であった。

伝統的貴族層は“保元の乱”で貴族層のリーダー的存在であった“摂関家”を失っていた。
従って上述の様に“保元の乱”の後でも“平治の乱の第1幕の信西入道追放クーデター”の後でも不安の中で“無関心”を決め込むしか身の処し方が分からないという状態だったのである。

しかし、12月25,26日の“平治の乱の第2幕”で“藤原公教”はこうした貴族層を味方として取り込む策に出た。二条天皇を内裏から脱出させることに成功した12月25日の夜中(26日)に京の都中の貴族達に“二条天皇が六波羅亭へ脱出した”事を触れて回り、且つ六波羅亭(臨時の御所)へ参集する様、呼びかけたのである。

そしてその席に既に貴族層のリーダーの地位から陥落していた旧摂関家の“藤原忠通(俳優堀部圭亮)”と嫡子“基実”も呼ぶ事を貴族達に諮ったのである。

ベテランで且つ経験豊富な政治家であり、伝統的貴族層の纏め役的存在であった藤原公教としてはこの際バラバラになっていた“貴族層の大同団結”の場としようと考えた上での提案であった。この歴史的な協議の場には当然“二条天皇”の姿もあった。

伝統的貴族層の中には今や敵となった“藤原信頼”と婚姻関係にある“藤原忠通父子”を招集する事に難色を示す雰囲気が強かった。“貴族層の大同団結”がこの場の主題であり、そこで藤原公教が平清盛にも意見を求めたのである。

“摂関はこちらからお迎えしなければならないお方であり、自らお出で頂くとは、真に有難い事である”と清盛は答えた。平清盛という人物は“冷酷で乱暴、且つ悪辣な専制政治家”のイメージで後世伝えられているが実像は全く違う。

義母である“池禅尼(女優和久井映美)“の懇願に妥協して源頼朝の命を助けた事例に見られる様に、又、この夜の話に見られる様に、バランス感覚とTPOをわきまえた行動を取る事が出来、人心を引き付ける事に長けた政治家でもあったのである。

平清盛の発言を聞いて、集まった主だった貴族達は冷静さを取り戻すと共に清盛に対して之までの社会秩序を守る事の出来る人物“との評価を下した。この場はその後の清盛にとっては実に重要な場となったのである。

”平治物語”には関白、太政大臣、左右大臣、内大臣、公卿、殿上人など貴族達が我も我もと六波羅亭の臨時御所に馳せ参じたと記述されている。

ここに、二条天皇を迎え“官軍”となった“藤原公教”達は,さらに加えて“伝統的貴族層”の賛同を得た体制となった。あとは今や一夜にして“賊軍“となった藤原信頼・源義朝軍が戦闘に入る事無く”降参“して来るのを待つばかりかと思われたのである。止めを刺すかのように翌12月26日に二条天皇は”藤原信頼追討の宣旨“を平清盛に与えた。

17:配下であったはずの源義朝に“愚か者”と罵られた藤原信頼の醜態

二条天皇には内裏を脱出され、唯一人、頼りとなる筈の“後白河上皇”も仁和寺へ脱出となった事を知り、大慌てで大内裏に駆けつけた藤原信頼、源義朝、そして源師仲(もろなか)の様子が師仲の証言という形で“愚管抄”に記されている。

この3人の中、源師仲について紹介して置こう。5-3項14の記述の処で二条天皇が内裏を脱出する時に天皇の証とされる三種の神器のうち”八咫鏡(やたのかがみ)”だけは持ち出せなかったと書いたがこの“源師仲”が持っていたのである。彼は保元の乱以降、政治の実権を握った信西入道とは敵対した人物であった。従って平治の乱の第1幕、信西入道追討のクーデターでは当然のことながら藤原信頼側に付いた。そして12月25日、26日の“平治の乱の第2幕”のクーデターでは一転“賊軍”として戦う羽目になったのである。

“愚管抄“には26日の朝、内裏に駆けつけた3人の様子は”茫然自失の体“であったと記している。その姿は今日でも目に浮ぶ様な気がする。

二条天皇の内裏からの脱出、後白河上皇までも仁和寺に脱出されてしまったという失態の責任は全て“藤原信頼”にあるとして源義朝は“日本一の愚か者”と上司の立場にある藤原信頼に罵声を浴びせたと言う。この悪口雑言に対して藤原信頼は返す言葉も無く、ただ惨めに黙っていただけだったと記述されている。

18:合戦に堂々と挑んだ源義朝と途中で逃げた藤原信頼と源師仲

平治の乱については記述の少ない“百練抄”であるがこの場面については記述がある。“愚管抄”の記述と整合性を取る形で状況を紹介すると以下の通りとなる。

源義朝はすでに自分達が“賊軍”の立場となった事、総勢3000騎は下らない清盛軍と戦って勝てる筈が無い事を悟っていた。源義朝が東国から軍勢を集めていなかった理由は、藤原信頼の政権が続くものと考えた事、又、温厚な平清盛が親戚関係にある藤原信頼を裏切る行為に出る事はあるまいと考えていた事である。

藤原信頼は巨体ではあったが小心者であった。一夜にして“賊軍、謀反人”の立場に陥った事態に只々狼狽するばかりであった。従ってこの時点から“平治の乱第2幕”の主導権は既に潔く死を覚悟した源義朝に完全に移っていたのである。

貴族である藤原信頼は“賊軍、謀反人”の立場になった時点で全面敗北と考えた。あとは如何に許しを請うかだけを考えていたのであろう。今更合戦に及ぶなどという事は全く考えていない。しかし破れかぶれの源義朝は合戦必至の覚悟をしていた。

“いざ合戦”と逸る源義朝に主導権は移っていた為、全く勝ち目の無い合戦をするという展開にすっかり臆した藤原信頼の顔は真っ青になり、ガタガタと震えていたとの記事がある。討死を覚悟して内裏から出陣した源義朝軍に仕方なく途中までは従う格好はみせたものの、京の街路に出た処で源師仲共々逃げ去ったのである。

19:源義朝の覚悟と奮戦

“保元の乱“の結果、武士達に下された刑は”斬首“であった。12月26日の段階で二条天皇から”追討の宣旨“が下り”賊軍“に成り果てた自分には死罪しか無い事を源義朝は覚悟していた。従って全く勝ち目の無い”戦い“に挑んだのである。

一方の藤原信頼や源師仲の貴族達は“保元の乱”の量刑からして“流罪にはなるだろうが命だけは何とか助かりたい”とだけを必死に考えていた。従って藤原信頼は先ずは戦う事を避けて逃げ出し、延命工作に走った。そして源師仲は三種の神器のうちの”八咫鏡(やたのかがみ)”を差し出す事で減刑を請おうと考え、彼も又、戦う事を避けたのである。

死を覚悟して戦う源義朝軍は平清盛軍と洛中で激突した。戦力は圧倒的に清盛部隊が勝っていた。平家軍は3000騎を数えたのに対して義朝軍は数百騎で戦ったのである。双方の奮闘ぶりも“平治物語”等に記されているので興味のある方は参照されたい。ここでは要点のみを記す。

平氏の大将は若干23歳の清盛の長男、平重盛(俳優窪田正孝)であった。“今の元号は平治、都は平安京、そして我らは平家。平の文字が三つも揃ったこの戦い、負ける筈は無い”と味方を鼓舞し、大いに士気を高めたと言う。

一方の義朝の長男、当時19歳の源義平(悪源太の異名で知られた猛者)の勇猛果敢な戦いぶりも書かれている。東国を拠点に武芸を磨いて来た義平部隊は僅か10数騎であったが500騎の重盛軍を相手に奮戦したとある。都育ちで半ば貴族化していた平家軍とは熟練度でかなり優っていた様だ。

源義朝と頼朝父子の闘いぶりも“平治物語”に書かれている。平家のこの場の大将は清盛の異母兄弟の平頼盛(俳優西島隆弘)である。この戦場でも武芸に熟練した戦いぶりで源義朝、頼朝の父子部隊は優勢で平頼盛軍を六波羅に敗走させたとある。

軍勢としては圧倒的に劣勢であった源義朝軍は以上の様に奮戦したが、いかんせん多勢に無勢で次第に疲れ、新手の兵士を次々と繰り出す平家軍が優勢に変わり、終に源義朝軍は本拠地の東国を目指しての敗走となる。ここに平治の乱の第2幕目、12月26日の武力闘争は“伊勢平氏平清盛軍”の勝利で終結したのである。

20:敗者の結末

20-(1)藤原頼信

史実に残る記録では藤原信頼は巨漢であった様だ。又、風貌とは別に肝っ玉の小さな人物だとも記されている。藤原信頼の最期の様子については“平治物語”“百練抄”そして“愚管抄“それぞれに違った描写がされている。平治物語には信頼が東国への脱出を急ぐ源義朝に追いつき、一緒に連れて行って欲しいと頼む醜態の場面が書かれているが史実としてその様な事は無かった様である。

次に一番信憑性があるとされる“愚管抄”の記述を紹介しよう。

藤原信頼は自分を寵愛してくれた後白河上皇に助命と減刑を縋る(すがる)べく、仁和寺に往く。しかし“後白河上皇”が信頼の助命や減刑の為に動いた様子は見られない。要するに信頼は見捨てられたという事である。

“保元の乱”の時の量刑を見ると、武士には極刑で臨んだが貴族達には流刑など比較的に軽い刑であった。しかし“平治の乱”における公卿、藤原信頼に対する刑は、取り調べも無しに即刻斬首という異例の厳しさであった。

公卿の死刑は第52代嵯峨天皇(即位809年退位823年)の時代の810年に“薬子の乱”で藤原薬子の兄藤原仲成が死刑に処せられて以来、実に350年振りの事であった。

平治物語には同じ藤原信頼方に付き“謀反人”とされた藤原成親(俳優吉沢悠)が職を解かれただけの刑で済んだとある。それは藤原成親が清盛の嫡子平重盛(俳優窪田正孝)の妻経子(女優高橋愛)の兄という関係から重盛が減刑を懇願し、それに清盛が応じた事が記されている。

公卿“源師仲”は“長秋記”の作者、源師時の三男である。源師仲は三種の神器の中の“八咫鏡”を持って逃げ、“八咫鏡を守った”事を口実に減刑を要請すべく自ら六波羅亭に出頭したが下野(現在の栃木県)への配流は免れなかった。

藤原信頼に対する厳しい刑の話に戻ろう。一体誰が彼に事件の弁明の機会も与えず即日六条河原で斬首刑という厳しい刑を下したのであろうか。

平清盛は刑の執行を命じられた立場であってこの時点では藤原信頼に対する処罰権は無い。
従って12月25日、26日の“平治の乱の第2幕”を謀議した“藤原公教”を中心とした藤原経宗、藤原惟方の二条天皇派が決定した刑であったのであろう。

伝統的貴族層である彼等の判断としては、あれこれと藤原信頼から事件全体の“情報”を聞き出せば、場合によっては却って無用な混乱の種が更に撒かれる危険がある。それよりは一切の罪を“信頼”に負わせて混乱した事態を兎に角、終わらせる方が先決であると考えたのであろう。

あれ程藤原信頼を寵愛した後白河上皇からも“真相の究明の意図”も無く、一切の助命の動きも無かった。藤原信頼は“謀反人”としての事件の全責任を負わされ“口封じの為”でもあるかの様に即日斬首されたのである。

藤原信頼はさぞ無念であったと思われる。12月9日の“平治の乱の第1幕”信西入道追討クーデター事件の背後には既述の様に“後白河上皇”の存在があったものと考えられる。。その意を受けて藤原信頼はクーデターを実行した。12月26日の武力衝突も藤原信頼自身は既に二条天皇の内裏からの脱出によって“賊軍”の立場となっており、合戦をする積りは無かった。しかし、残された道が死罪しか無いと自暴自棄となった源義朝が合戦へと暴走した事に巻き込まれただけだとの思いがあったはずだ。

しかも信頼自身は“日本一の愚か者”と罵倒され、怒り狂う源義朝を引き止める事が出来る状態には無かった。この様な事から信頼としては“平治の乱の第2幕”の合戦で二条天皇に弓矢を引く意図は自分には全く無かったと弁明したかったのであろう。

こうした言い訳をする機会も一切与えられず、哀れにも最後まで助命を懇願し続けながら12月27に藤原信頼は六条河原で斬首されたのである。26歳の若さであった。

20-(2):源義朝そして源義平等“義朝の子供達”の処分

後に鎌倉幕府を開いた源頼朝の父親である源義朝という人物の生涯を振り返ると、相当な剛の者であった事が分かる。

“平治の乱の第2幕”のクーデターで藤原信頼が内裏から二条天皇のみならず後白河上皇までもが脱出した事に気付かず一夜にして“賊軍”の立場に落としめられた事を知った時の源義朝の“怒り心頭”の様子は容易に想像出来る。義朝は八幡太郎義家が築いた源氏のかっての名声を父祖の代で一気に失った状態から彼一代で再び盛り返す勢いで頑張って来た人物であった。

平氏の大軍の前に終に東国への敗走を決めたのも鎌田正清(俳優趙珉和)の制止があったからで、制止がなければ自ら臨時の“御所”となっていた六波羅亭に切り込み、討死したであろうと伝えられる。

東国を目指して敗走する源義朝一行は何度も平家軍からの“落ち武者狩り”の襲撃を受けた。長男で勇猛果敢で知られる源義平(悪源太義平)は再び京に上り清盛暗殺の機会を窺う中に捕えられ斬首となった。

12歳だった頼朝も1160年2月9日に捕えられ、斬首される処を平清盛の義母である池禅尼(平宗子=女優和久井映美)の助命要請に清盛が折れ、伊豆に流刑とした話が“平治物語”に書かれている。その後鎌倉幕府を開く話を含めて多くの人々が周知の史実である。

常盤御前を母とする源義経は1159年生まれであるからまだ1歳、牛若と称した赤児であった。兄達の今若、乙若は出家、義経(牛若)も出家を前提に命を救われたのである。こうして義朝の遺児達の助命を受け入れた史実からも平清盛が非常に情に厚い人物であった事が分かると共に、こうした清盛の人柄が次項で詳述する経緯を辿って“平家政権”が短命で終わる事に繋がる大きな要因であったのであろう。

子供達とはぐれ、家人鎌田正清(俳優趙珉和)と共に鎌田正清の甥である長田忠致(おさだただむね)、景致父子の家に辿りついた源義朝であったが、恩賞目当ての父子に裏切られ、入浴中に襲撃され最期をとげた事も“平治物語”に記されている。1159年12月29日、源義朝は38歳であった。

その場所は今日の愛知県知多郡美浜町であり、“野間大坊“の境内には木刀が山の様に供えられている。丸裸で襲撃された義朝が”“我に木太刀の一本なりともあれば“と無念の叫びをあげながら討たれたという故事に因んだものだという事である。

21:平治の乱の終結と後白河上皇と二条天皇父子の政争の始まり

21-(1)平治の乱の勝者

“平治の乱”は1159年12月に2幕に亘るクーデター事件を経て、時の最高権力者が次々
と葬り去られる結末となった。葬り去られたのは信西入道(藤原通憲)であり、藤原信頼であった。

さらに“保元の乱”で中央の政治を動かす存在に躍り出た“武士層“は平氏と源氏の二強に絞り込まれていたが、その二強の中の源氏が源義朝の政局の見誤りと暴走によって消え去り、平清盛の平氏が生き残る形となったのである。

21-(2):平治の乱後の伝統的貴族層

“平治の乱“の第2幕の12月25日と26日のクーデター事件で臨時の”御所“となった六波羅亭に藤原公教の呼びかけで関白、太政大臣、左右大臣、内大臣等、主たる公卿、伝統的貴族達が参集した事は述べた。彼らは亡き鳥羽法皇、この時点では存命であった(ほゞ1年後の1160年11月23日に没)中宮美福門院得子が正当な後継者としていた第78代二条天皇(即位1158年退位1165年)を担いで、荒れに荒れた朝廷政治を元の姿に戻し、只ひたすら安定した政治体制を求めたのである。

しかし結果として“平治の乱“は日本の天皇家と貴族層による政治体制の終焉をもたらした政争となった。

そして皮肉にもそのお膳立てをしたのが8カ月後にこの世を去る伝統的貴族層を代表する“藤原公教”だったのである。

“武士層の出現と台頭”が、それまでの天皇家と貴族層に拠る安定した日本の政治、社会体制に“混乱”を持ち込んだ、と前項で繰り返し述べて来たが、まさに“平治の乱”は武士層が貴族層に代わって以降の日本の政治、社会体制の中で“指定席”を確保する事になる事件だったのである。

21-(3):突然の“後白河上皇”の復活劇


2幕に亘る“平治の乱”で痛手を蒙ったのが“後白河上皇”である。

“平治の乱”の第1幕のクーデター事件で自ら信西入道を抹殺し、第二幕では寵愛した藤原信頼を失なうという展開で“後白河上皇”は二人の力のある側近を一挙に失った。そればかりかこうした一連の政争クーデター事件の結果、多くの側近達も離反したのである。

平治の乱が終結した1159年末時点では二条天皇側に伝統的貴族はじめ多くの勢力が付き、後白河上皇は影の薄い存在であった様だ。この時点で二条天皇は16歳、父親の後白河上皇は32歳であった。

ここで後白河上皇に復活のチャンスを与える事件が起こる。

二条天皇派の代表格である藤原経宗と藤原惟方が“後白河上皇の治世が終わり二条天皇の治世が始まった”と公言し、調子に乗り過ぎたこの二人が1160年の正月、後白河上皇が藤原顕長(ふじわらあきなが)の屋敷の桟敷で往来人を招いて歓談する事を楽しみにしていたのだが、“上皇が庶民と気軽に話す事は如何なものか”と桟敷に板を打ち付けて封鎖してしまったという事件である。後白河上皇は若い時から“今様”に熱中した事は紹介したが、遊女や下層民を招いたり、こうして庶民と交わる事を楽しみとしていたのである。

“愚管抄”に拠ると、この無礼な振る舞いに激怒した後白河上皇が平清盛に“泣いて頼んで”1160年2月20日、この二人を“禁裏中”で逮捕させたるという事態に発展した。そして藤原経宗、藤原惟方の両人は1160年3月11日に配流となるのである。

この些細な事件は後白河上皇が二条天皇派に対する反撃の機会となり、結果として平清盛に“朝廷政治の中央”に大きく進出する機会を与える事になる。

現代でも全く同じことであるが物事が順調に進んでいる時ほど注意をしないと、こうした些細な事から崩壊が始まるという事をこの史実が証明している。まさに“好事魔多し”という事である。

平治の乱以後全く影の薄かった後白河上皇が二条天皇派の代表格であった“藤原経宗”と“藤原惟方”を逮捕した事には大きな意味があった。後白河上皇が我が子の二条天皇の目前で彼の近臣二人を内裏の中で、それも今や周囲に敵なしの軍事力を持つ平清盛の手によって逮捕させたのである。

この事は周囲に対してすっかり沈んでいた“後白河上皇”の存在感を強くアピールする事になったのである。

上述の中で後白河上皇が平清盛に“泣いて頼んで”禁裏中(内裏)で二条天皇の側近の二人を逮捕させたと記述したが、何故この様な些細な事件で“後白河上皇”が息子とは言え天皇である“二条天皇”に対してそこまで強硬に出る事が可能であったのであろうか。

実はほゞ同時期に父である“後白河上皇“が強硬な態度に出る事が出来る伏線となる重大な事態が二条天皇を巡って生じていたのである。

21-(4)大皇太后“多子(まさるこ)”の入内騒動が二条天皇離れを起こしていた

後白河上皇の復活劇の背景としては、時流に乗っていたはずの二条天皇側に大きな問題が存在していた。その問題は二条天皇を支持していた伝統的貴族層を離反させる程の大問題であった。“平家物語”に“二代后(にだいのきさき)”の話として語られている藤原多子(まさるこ)に関わる入内問題である。

保元の乱で敗れ、戦死した藤原頼長(俳優山本耕史)の養女となり1150年に11歳で近衛天皇に入内した藤原多子は16歳で未亡人となった。絶世の美女であったこの大皇太后多子は1160年時点ではまだ20歳、17歳の二条天皇が彼女を寵愛する様になり、何と彼女の入内を望むという展開となり、大騒ぎとなったのである。

大騒ぎになった理由は、この問題が政治的に大きな障害を抱えていたからである。その障害とは“二条天皇”は美福門院得子の皇女“妹子”を既に后としていた。そしてこの“妹子“こそが、美福門院得子が当時、仁和寺で修行していた”孫王(後の二条天皇)“を還俗させて天皇に即位させるに当って、彼女を入内させる事が前提条件だったからである。

この騒動に養母として美福門院得子が猛烈に反対し、二条天皇に対して抗議した事は言うまでも無い。婚姻が比較的自由であった当時においても天皇妃の場合は全く別で、再婚などは憚られていた上に“多子大皇太后(先々代の天皇の后)”という立場であった彼女の再入内は“二代后”となる事を意味し、もっての外だったのである。

実父である後白河上皇も二条天皇を諫止した。多子大皇太后自身も“二代后”は恥辱であり固辞、多子の実父である藤原公能も辞退を申し出たが、17歳の若さと“平治の乱の第2幕”以降、伝統的貴族達が二条天皇を担いで結束した事に自信を深めていた事、さらには父親である“後白河上皇”への対抗心も芽生えて来た時期でもあり、二条天皇は周囲の反対を押し切り“主命”として強引に“多子入内”を推し進めたのである。

“帝王編年記“によれば多子の入内は1160年正月26日である。

この結果、美福門院得子の皇女“妹子”は内裏を離れ、母親美福門院得子の屋敷に移り住むという事態となった。こうした事態が上述の藤原経宗、藤原惟方による“藤原顕長”邸の“桟敷板事件”より前に起きていたのである。

こうした背景があった為に、1160年の2月に二条天皇派の“近臣“二人が些細な事で”後白河上皇“によって内裏で逮捕され、3月に流罪とされるという事態となっても公卿達の誰もが黙認したのである。

”二代后“という二条天皇の蛮行に対する怒りによって二条天皇離れが起き、後白河上皇が息を吹き返すのである。そしてこれらの事から“天皇家”は“後白河上皇”と“二条天皇”との間の確執が拡大して行く。

依然として“天皇家”にも強力な“治天の君”という存在も無く、平治の乱の第2幕のクーデターでリーダーシップをとった“藤原公教”も1160年8月にこの世を去り、周囲の貴族達の中から新たに有力なリーダーが現れる事も無いという状況であった。

ここで、政治的バランス感覚に優れ、上述した様な経緯で伝統的貴族層からの支持も得て来た“平清盛”が最大武力集団を率いる存在というだけでなく、最有力の政治家としての存在として一挙に朝廷政治の中心人物として駒を進めて行く。

“平治の乱“並びにその後の状況も併せて平清盛一人が”勝者“となって行く状況が急速に整って行ったのである。

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