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2014年4月17日木曜日

第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第7項 平氏政権滅亡のプロセス・・平清盛の死 迄


前項5-6項で“平清盛が起こした1179年11月14日の軍事クーデターは1167年に成立し始めた平氏政権を”完了“させる結果とはなったが同時にその直後から消滅するプロセスに向かうトリガー(引き金)にもなったと述べた。以下にその理由と政権が消滅して行くプロセスを記述して行く。極めて端的に言えば平氏政権の消滅は平清盛の急死と共に起こるのである。

1:平清盛・平氏一門のクーデターによる政権運営がその直後から消滅に向かった理由

理由-1・・人材が居ない状態でスタートした“俄作りの軍事政権”であった事

1179年11月14日の軍事クーデターで39名の公卿並びに院近臣を解任し、後任には平氏一門はじめ、親・平氏派の公家等が任官した。例えば配流された松殿基房の代わりには清盛の女婿で亡き盛子の養子であったまだ19歳の近衛基通が関白に就いた。近衛基通は更に内大臣そして内覧という重職にも就いた。政務に全く未熟な彼がこうした役割を与えられた事は、如何に平氏一門の軍事政権に人材が居なかったかを現している。

この近衛基通(生1160年没1233年73歳)の名前は5-5項で“3人の平氏一門の女性“について記述した時に登場している。盛子が8歳で近衛基実に嫁いだ2年後に夫の基実が24歳で急死し、その時に別の夫人との間に遺した男子がこの近衛基通(当時9歳)である。10歳で後家となった盛子がその後養母として23歳で死ぬまで後見した人物である。

この近衛基通という人物は73歳まで生きるが、生涯を通じて話題の多い人物であった。九条兼実の玉葉には後白河法皇との男色関係があった事、後白河法皇第一の近臣となった事などが記述されており、又、慈円の愚管抄では無能の人物だと酷評されている。若い時期に摂関家の氏の長者に就く等、平清盛・平氏一門に拾われた人物だが、最後は後白河法皇の寵臣となっているのである。

更に次章で記述する事になるが、平氏一門が滅亡し、鎌倉幕府が成立する最終局面で源義経と兄・源頼朝との関係が悪化し、義経が頼朝を滅ぼそうと“頼朝追討”の院宣を後白河法皇に要求したが、その際にこの近衛基通が後白河法皇への仲介の労を取ったその責任を後に問われ、全ての任を解かれ篭居させられるという節操の無い人物であった様だ。この様な人物であったが“俄作り”の平清盛・平氏一門軍事政権としては、摂関家を支配下に置くという形式上の目的もあって彼を利用したのである。

その他の目立った人事としては平宗盛の弟で後に南都(興福寺)を焼き払う役目を負う事になった平重衡が高倉天皇と親しかった関係で安徳天皇の乳母夫に任命され、且つ安徳天皇の蔵人頭になっている程度である。

肝心な平清盛自身はクーデター終了後に再び福原に引き揚げ、京都の政治には参加せず実権だけは持ち続けるという変則的な政権運営となった。又、平氏一門の棟梁であった平宗盛も政権には直接参加していない。こうした点からも5-6項でも記述した様に、後の鎌倉幕府と比べると最初の武士政権としての完成度はかなり低いと言わざるを得ない体制であった。

理由-2・・宮廷・貴族社会からは高倉院政の正当性が問題視されていた事

清盛の軍事クーデターから5カ月後の1180年4月に高倉天皇が1歳半の安徳天皇に譲位しまだ18歳と7カ月という若い高倉上皇の誕生となった。これに拠って“上皇+直系の天皇”という院政を行う条件は整えたが、幽閉されていた後白河法皇は勿論、宮廷並びに貴族社会がこの院政を承認した訳では無く、平清盛が軍事力を以て強引に作った“高倉上皇+安徳天皇”の院政であると言われた事が平清盛・平氏一門政権の大きな弱点であったと言えよう。治天の君である後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した状況下で行った高倉天皇から安徳天皇への譲位にも正当性が無く、宮廷・貴族社会は清盛の武力の前に黙ってはいたが、決して承服したものでは無かったという事が弱点として最後まで残るのである。

理由-3・・慣例を破って高倉上皇を厳島神社に行幸させ、延暦寺までをも敵に回した事

更に平清盛は間違いを重ねた。それは上皇となったばかりの高倉上皇を慣例を破って平氏一門が保護する厳島神社へ真っ先に行幸させた事である。この事で園城寺(三井寺)、興福寺だけでなく、両寺と常に反目し合っていた平氏一門が帰依する比叡山延暦寺までをも怒らせる結果となった。そしてこの3寺がこれを機会に団結して反平氏色を鮮明にするという最悪の状態を招いてしまったのである。

これまで平清盛は政治的にバランス感覚に優れていると何度も評して来たが、1179年の武力クーデター以降の清盛の一連の行動を見る限りでは強引さが目立つばかりで、周囲を敢えて敵に廻す様な行動が多く、政治的バランス感覚を欠いた政治判断が目立つ様になるのである。

理由-4・・全国の所領没収が大混乱を生んだ上に“以仁王”が師と仰ぐ天台座主最雲か
ら以仁王に譲られた所領を没収した事

1179年のクーデターで平氏一門は後白河法皇並びに院近臣達から、多くの知行国を奪い、平氏一門や親・平氏の貴族達に分配した。平家物語に拠れば、日本全国66ケ国の中、平氏一門の知行国はその半分に及んだと言う。この事に拠って従来の院政下の目代に代わって新たに平氏一門や家人がその職に就く事になり、既存の支配秩序の大混乱と反発を全国的に広める事になったのである。

こうした一連の領地没収の中で、清盛から軍事クーデター後の采配を一門の棟梁として任された平宗盛が“以仁王”から城興寺領を没収した事が大問題を引き起こす事になる。この所領は“以仁王”が師と仰いだ天台座主・最雲から譲られたものだったからである。以仁王は激怒し、全国的に起こる“反・平氏運動”の挙兵の最初のトリガー(引き金)に繋がるのである。

前項でも記述した様に、平清盛は後白河法皇の“清盛・平氏一門排除”の行動に追い詰められ、止むに止まれぬ状況から強引に軍事クーデターに訴え、その結果成立した“俄か造りの政権”であった為、既述した様に高倉院政の基本的正当性の疑問も含めて、全国の所領の半分を平氏一門で占めると言うバランスを欠いた政策など、そのスタート直後から周囲、並びに全国的な反発を招く施策が多かった。その結果、一気に消滅に向かう多くの要素を抱えていたのである。

2:以仁王と源頼政の連携

全国的な反・平氏の動きの先鋒となったのが幽閉された後白河法皇の第三皇子の以仁王と、清盛の信頼が厚かった源頼政の二人であった。二人が共同して平氏打倒の狼煙を挙げる訳であるが、その展開について記述して行く前に、先ずは二人の人物像を簡単に紹介して置こう。

2-(1):以仁王(もちひとおう)・・(生1151年没1180年6月20日29歳)

後白河法皇の第三皇子である。同母姉に歌人として有名な式子内親王(生1149年没1201年)が居る。以仁王自身も英才の誉れが高く、詩歌、書、特に笛に秀でていたとの記録がある。8歳年上の第一皇子、守仁親王が二条天皇になった経緯は既述の通りであるが、二条天皇の思わぬ早い崩御の後に二条天皇の遺志で、まだ赤児だった六条天皇が即位するが、後白河法皇はその六条天皇を無理やり退位させ、寵愛する建春門院滋子との間に出来た第7皇子の憲仁親王を高倉天皇として即位させる展開となった。

この間、以仁王も常に皇位継承の有力候補という立場であった。しかし彼は第三皇子であるにも拘わらず親王宣下を受けていない。これには平氏出身の建春門院滋子(平滋子)の妨害があって阻止され続けて来たのが理由だとされ、以仁王は従って平氏一門に対する強い恨みを持っていたと“平家物語”には記されている。しかし、院政期に親王宣下を受けるのは原則として正妃(皇后・中宮・女御)の皇子、又は仏門に入った皇子(法親王)だけだとされる。その点から以仁王の母親・成子は女御にも成っていない身分の低い女性であった事、又、以仁王は幼少時には仏門に入ったが12歳の時には還俗しており、この点からも親王宣下を受ける根拠は無かったのである。この様な状況から、建春門院慈子が阻んだという平家物語に書かれた事は当たらないと言える。

清盛の1179年11月の軍事クーデターの結果、平宗盛が以仁王が所有していた城興寺領を没収した。更に1180年4月には高倉天皇が譲位し、安徳天皇が即位するという展開となり、ここで以仁王が皇位を継承する道は完全に断たれた。治天の君である父の後白河法皇を差し置いて平清盛が強引に行った皇位継承問題に対しても“正当性が無い”として以仁王は激しく反発したのである。

この様に以仁王からすると彼の人生の全てが平清盛・平氏一門に拠って邪魔され、奪い取られて来たとの強い思いがあったとの説があるが、以仁王としてはこの様に正当性の無い、しかも脆弱な組織の平氏一門の政権を葬り去るべきだと考え、自らが先頭に立って“平氏一門打倒”の戦いの旗揚げをする事を決意したのである。彼の決起は結果に於いては失敗し、討死するが日本全国に放った以仁王の令旨はその後の平氏一門打倒の源平合戦の狼煙となって平氏一門が滅亡し、鎌倉幕府が成立するという歴史の大きな転換点を作る動きとなるのである。

2-(2):源頼政・・(生1104年没1180年6月20日76歳)

源頼政は以仁王と連携して76歳の老体にも拘わらず平氏打倒の戦いの先鋒を担い、彼も又討死する。以仁王同様、彼の行動が結果として源平合戦(治承・寿永の内乱)で源氏が勝利する事へ繋がり、鎌倉幕府成立へと展開する起点となったのであるから源氏にとっての大功労者の一人である。

NHK大河ドラマ・平清盛では俳優、宇梶剛士が演じた役柄である。彼は1104年生まれであるから1118年生まれの平清盛よりも14歳も年上である。保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)両方の戦いで平清盛と共に勝利側にいた武将である。とりわけ、平治の乱の第二幕で源義朝、頼朝、義平等、源氏の主だった人々が敗北し、池禅尼(平宗子=女優和久井映美)の嘆願で命拾いをした頼朝以外の主だった者が討ち死、又は処刑された戦いであったが、源頼政は平清盛側に付き、勝利者となった。こうした経緯から平清盛の信頼を得て、晩年は清和源氏出身者としては突出した従三位公卿にまで出世した人物である。

その源頼政が平氏一門の専横に不満を募らせ、以仁王と組んで最後には平清盛を裏切る形で平氏打倒の挙兵の先頭に立つたのである。諸国の源氏に以仁王の令旨が伝えられるという流れの中で以仁王との平氏打倒の計画が露見し、準備不足のままで挙兵を余儀なくされ、平氏軍との宇治平等院の戦いで敗れ自害する。76歳であった。

3:何故親王でもない“以仁王”が大きな影響力を持ったのか・・八条院暲子内親王の猶子(親族又は他人の子を自分の子としたもの。養子)だった以仁王の力

2-(1)の記述で以仁王が平氏一門に対して恨みや不満を強く持っていた事は紹介したが、彼が発した“平氏一門打倒の令旨”並びに彼の“挙兵”が何故大きな影響力を持ったかについてその背景、理由を説明して置きたい。

彼が平氏一門打倒の旗挙げを決心した理由には既述した様に過去からの様々な恨みや不満を平氏一門に対して抱いていた事は事実と思われるが、清盛のクーデター後の処理を任された平宗盛が以仁王の“城興寺領”を没収した事が彼の積年の恨み、不満に火をつけたのである。更に翌1180年4月に平清盛が主導した、正当とは思われない安徳天皇の即位も以仁王として許せない、我慢のならない出来事であった。しかし如何に以仁王が平氏一門に怒りを覚えていたとしても、日本全土に勢力を持つ強大な相手に打倒の為の挙兵を行うという大事を決心させ、全国に自分の名前で平氏打倒の令旨までを発する事が出来た背景は何処にあったのであろうか。

答えは以仁王という人物自身が既述した様に優秀な資質を備えた人物であった事がベースにあった事は勿論だが、何と言っても彼が“二大院領荘園群”の一方の伝領者である“八条院暲子内親王”という天皇家の強力な応援者がバックに居り、その猶子だった事である。
後白河法皇の第三皇子であった以仁王は第一皇子、第二皇子と同じ様に仏門に入れられた。第一皇子が仁和寺から還俗して二条天皇となった事は既に記した。以仁王は仏門の師であった天台座主、最雲が死去した為に還俗していたのである。

八条院暲子内親王(生1137年没1211年8月)は亡き鳥羽法皇に最も可愛がられた皇女であり、母親は鳥羽法皇が寵愛した美福門院得子(女優松雪泰子)である。こうした強大な権力、並びに財力を持った父母から八条院暲子内親王が引き継いだ荘園は全国に二百数十ケ所に及ぶ大・院領荘園群だったのである。

こうした強いバックを持つていた事で、以仁王は親王では無かったが周囲からは“正統な皇位継承の権利を持つ天皇家の皇子”として受け止められていたのである。

4:以仁王と源頼政が挙兵に至るプロセスと討死に至る結末

1179年11月14日の平清盛の軍事クーデターは後白河法皇と松殿基房並びに院近臣達の所謂“守旧派”が畳みかける様に行った挑発的な平氏一門排除の動きが原因であった。それに平清盛が堪忍袋の緒を切り、平氏一門の生き残りを賭けて軍事手段に訴える事に踏み切らざるを得なかった状況を5-6項で記述した。

平清盛が後に源頼朝が幕府を開いた時の様に、武士政権としての確立の為に新たな組織構想や人事構想を時間を掛けて準備した上で軍事クーデターに踏み切ったものでは無かった。

後白河法皇を幽閉し院政を停止させた行動から始まり、関白松殿基房・師家父子の配流、藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使等31名)を解官させた人事、全国の所領の没収方法の全てがクーデターであるから当然とは言うものの、その後の機能を全く考えていない懲罰一辺倒の計画性のないものであった。

この事自体もこの項の冒頭に述べた様に、この“軍事政権”が早期に消滅する要因となったが、何と言っても、5カ月後の1180年4月に治天の君・後白河法皇が幽閉され、院政が停止されたという異常事態下で清盛が強行した高倉天皇の譲位と安徳天皇の即位(践祚は1180年2月)であった。この皇位継承には正当性が無いという不満と風評が全国に広がる事になり、反・平氏勢力に決定的な打倒運動への口実を与え、全国的な平氏打倒運動へと火をつけたのである。

更に平清盛は敵を増やす行動を重ねる。それは上皇となった高倉上皇を厳島神社へ真っ先に行幸させた事である。この事は親・平氏一門であった比叡山延暦寺を怒らせ、園城寺(三井寺)、興福寺と連携して平氏一門に抵抗するという、更なる事態の悪化を招くのである。
次々と反・平氏勢力を増やし、彼等に多くの抵抗の口実を与え、その結果先頭を切る形で以仁王の挙兵並びに平氏追討の令旨が全国へ伝達されるという状況になったのである。以仁王のこの二つの行動はそれまで分散していた反・平氏勢力を糾合する大きな力となったのである。

以仁王と連携して武力部隊を担ったのが源頼政である。源頼政の挙兵のトリガー(引き金)については諸説があるが紹介して置こう。

平家物語には源頼政の嫡男・源仲綱の愛馬を平宗盛が気に入り強引に献上させた。嫌々乍ら愛馬を献上した源仲綱の態度に腹を立てた平宗盛がその馬に“仲綱”という名前を付け“仲綱!!”と呼びながら鞭を当て乗り回していた。子息に対する侮辱的仕打ちと受け止めた源頼政が怒り、同じく平氏一門に不満を持つ以仁王に挙兵の話を持ち掛けたというトリガー説である。平家物語らしい他愛のない話であり史実とは信じ難いが軍事クーデター以後は兎に角、平清盛・平氏一門の行動、施策には周囲を敵に廻す多くの失政と言われるものが続いた事は否定出来ない。この話も平氏一門の専横ぶりと源氏への軽侮が源頼政に拠る反・平氏の挙兵に結びついた事を言わんが為の逸話であろう。

もう一つ、源頼政が挙兵するに至ったトリガー(引き金)に関する話がある。それは園城寺(三井寺)攻撃の責任者として源頼政が平氏一門から指名された事が挙兵の引き金になったという説である。源頼政は1179年11月、清盛による軍事クーデターが起こった頃に出家しており、出家した身で園城寺攻撃を指揮する事は出来ないとしてこの命令を拒んだ。この平氏一門に反抗した行動で罰せられる前に以仁王側に寝返り、共闘を決断したとする説である。源頼政の篤い仏教信仰を背景としたトリガー(引き金)話である。

こちらの説の方が真実味はあるが、何れにせよ、以仁王と源頼政の共闘の動きとなった共通の切っ掛けが安徳天皇が治承4年4月22日(グレゴリオ暦1180年5月18日)に即位した時点にあった様だ。皇位継承という“治天の君(天皇家)”の専権事項とされた行為までに平清盛・平氏一門の手が伸びた事に対する怒りであり、これ以降、二人の反・平氏運動は加速し具体化して行くのである。

4-(1):1180年3月、園城寺による後白河法皇と高倉上皇の誘拐計画

清盛は強引に高倉天皇を譲位させて上皇とし、安徳天皇を1181年4月22日に即位させ、(践祚は1181年2月21日)高倉院政の形を整えた。しかし乍らこの事は各方面に反感を沸騰させる事になる。その中で園城寺が先頭に立って、延暦寺、興福寺に呼びかけて後白河法皇と高倉上皇を誘拐して寺内に囲い込み、後白河法皇を幽閉状態から解放し、前関白松殿基房の解放も行った上で“平氏討伐命令”を得ようとする動きを計画した。

決行日として選んだのは高倉天皇(直後に上皇)が“厳島神社”に行幸する3月17日である。ところが興福寺からの使者が鳥羽殿に幽閉されていた後白河法皇にこの計画を伝え、驚いた後白河法皇は平宗盛に事の全容を暴露するという展開となった。その為、園城寺による誘拐計画は失敗に終わったのである。何故、後白河法皇が平宗盛にこの誘拐計画を明らかにしたのかについては、後白河法皇自身がこの様な計画に巻き込まれる事による身の危険を感じたからだと考えられる。

4-(2):1180年4月9日、以仁王が平氏追討の令旨を下す

以仁王は源頼政と謀って“最勝親王”と称して諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を下した。彼は親王宣下も受けていないから“令旨”を出す資格は本来無い。令旨とは皇太子、皇后、親王、諸王などの命令を伝える文書の事とされるから、以仁王の場合は“御教書”と呼ぶべき文書であったが、既述の様に彼は八条院暲子の猶子であった事から、世間に対しては親王並みの影響力を持つ人物であった。従って“令旨”でまかり通ったのであろう。因みに天皇の命令文書は“宣旨”、上皇の命令文書は“院宣”である。

令旨の内容は、吾妻鏡や平家物語に拠るとその形式や文言に差異はあるものの、要旨は壬申の乱の時の天武天皇になぞらえて“皇位を騙し取る平氏一門を討って皇位に就くべき事を宣言する”というものであったと伝わる。参考に以仁王の令旨を下記に紹介して置く。

“清盛法師並びに宗盛等は威勢をもって狂暴に振る舞い、国を傾け、百官万民を混乱させ、五畿七道を掠(かすめ)め取り、後白河法皇を幽閉し、関白基房ら法皇の近臣を流罪にしたりして皇室をあざむき叛(そむき)き、仏法を破滅させている。もしこの挙兵に応じない場合は、清盛法師の従類と見做し、死罪その他の罪過を科すであろう。もし味方して戦功があれば、私が即位した後、必ず願い通りの恩賞を与える。”

以上の令旨の文面で分かる様に、以仁王は皇位に就く事に触れている事から、都では皇位簒奪を謀った謀反人として扱われたとする説がある。

4-(3):源行家が以仁王の令旨を携えて全国に走る

1180年4月9日に以仁王の令旨を携えて京を発ち、全国に走ったのが源行家である。諸国の源氏に決起を促し、山伏の姿で4月27日には源頼朝に令旨を伝えたとされる。

この源行家(生1142年頃没1186年6月1日)という人物は保元の乱で敗れ、息子の源義朝に斬首された河内源氏の源為義(俳優小日向文世)の十男である。従って源義朝(俳優玉木宏)や源為朝(俳優橋本さとし)の弟に当る。兄義朝に味方して平治の乱では敗れたが熊野に逃れ、約20年間雌伏した後の1180年に摂津源氏の源頼政に召し出されて以仁王の令旨を伝達する役割を与えられたのである。

行家はその後、甥の源頼朝の配下には入らず、同じく甥に当る木曽(源)義仲の配下に入った。独立心の強い人物であった様で、木曽義仲が討たれ、自分も源頼朝から討伐される危険が迫ると今度は頼朝と不和となっていた源義経と結び 後白河法皇に源頼朝追討の院宣を出させ、四国地頭となった時期もあった。この源義経・行家に賛同する武士達は少なく、結局は和泉国、畠中城に潜伏中に捕えられ、1186年6月に斬首されるという最期であった。年齢は44歳位であったと伝えられる。

4-(4):平氏は鳥羽殿に幽閉していた後白河法皇を八条坊門烏丸邸に移す

後白河法皇誘拐の企てを知った平氏側は後白河法皇の身の安全を考え、1180年5月14日に幽閉先をより安全な京市中に遷した事が百錬抄並びに玉葉に書かれている。又、翌5月15日には以仁王の臣籍降下を行い“源以光”と称して土佐への配流を決めた。しかし以仁王は女装して園城寺(三井寺)に脱出したのである。

4-(5):平氏一門に拠る報復、園城寺攻撃が行われる・・1180年5月21日

後白河法皇の誘拐計画を謀り、又、以仁王の脱出先になる等、園城寺(三井寺)の反・平氏行動に対して平清盛は園城寺攻撃を決意する。いよいよ仏門に対する平氏一門の武力行使が開始されるのである。軍勢は清盛の弟、平頼盛(俳優西島隆弘)、経盛(俳優駿河太郎)、教盛(俳優鈴之助)、清盛の子息の平知盛、重衡、そして亡き重盛の子息で清盛の孫に当る平維盛、資盛、清経という具合で、まさしく平氏一門を挙げての攻撃体制であった。

この園城寺攻撃の大将に上述した“源頼政”が命じられた事から最早、平清盛はじめ平氏一門を欺き通す事は不可能と判断し、源頼政はこの夜自邸を焼き、子息の仲綱、兼綱等一族を率いて園城寺に入り以仁王と合流したのである。

この事は九条兼実の玉葉の5月21条に書かれているのだが、ここ迄平清盛を欺き通した源頼政という人物は大した度胸の据わった老武将である。

4-(6):“橋合戦”で以仁王・源頼政軍は敗れ、両者共に討死する

1180年5月23日に以仁王と源頼政軍は園城寺(三井寺)で対応を協議した。この間に“明雲”の仲立ちで比叡山・延暦寺は源平のどちらにも加担せず、中立の立場とさせる交渉に成功した事は平氏側にとっては大きかった。5月25日に以仁王・頼政軍は1000騎を率いて園城寺を脱出し、南都・興福寺へ向かった。平家物語には、平氏一門は2万8000騎で追ったとあるがこの数は誇張であろう。玉葉には平氏軍の先発隊として、藤原忠勝が300騎を率いて平等院で以仁王・源頼政軍に追いついたとの記述がある程度だが、精々数千騎程の軍勢だったのではなかろうか。翌5月26日の様子が公卿、中山忠親の日記・山槐記の5月26日条に記されている。頼政の軍は僅か50騎に減っており、夜間の行軍に疲れた以仁王は何度も落馬するという体であった。頼政軍は仕方なく宇治橋の橋板を外して平氏軍を防ぎ、平等院で休息したとある。

宇治川を挟んで両軍は暫く対峙した。平家物語にはこの様子を“橋合戦”として詳しく記している。源頼政は宇治川を渡った平氏軍と平等院で戦い、以仁王を逃がそうと奮戦したが及ばず、渡辺唱の介錯で腹を切ったとある。76歳の肝の据わった老兵の最期であった。

以仁王は30騎程に守られて辛うじて平等院から脱出したが、平氏軍の藤原景高の軍勢に追いつかれ、山城国・相楽郡光明山鳥居の前で矢で射られ、討ち取られたと吾妻鏡に記されている。29歳であった。

以上の様に以仁王と源頼政による反・平氏一門の挙兵は両者共に討死という結果となったが、彼等の行動と以仁王の令旨が全国の反平氏勢力に与えた影響は大きかった。源頼朝はじめ木曽(源)義仲等、諸国の源氏、並びに大寺院が各地で蜂起し、平氏一門の滅亡へと繋がる源平の内乱(治承・寿永の内乱)が拡大して行ったのである。


5:平清盛、最晩年の行動と源平合戦の戦況・・福原遷都断行と総大将平維盛軍の敗戦

政治的バランス感覚に優れ、無用な敵を作る事を避けて徐々に中央政治に進出し、重要な地位を獲得して来た清盛であったが、1179年11月の軍事クーデターで後白河法皇を幽閉し、院政を停止させた頃からの行動は徒に敵を作る結果となる行動が多く、それまでの平清盛の慎重な行動とは異なる面が目立つ様になる。その為、平清盛の最晩年は、丁度最晩年の豊臣秀吉が明国への進出を謀って無謀な朝鮮出兵をした事と全く同じ様に、慢心と独善と焦りからの行動が多かったのではないかと批判される事が多い。

ところが、最近、研究が進むにつれて、福原遷都をはじめ後述する貨幣経済の導入等、平清盛が果たそうとして果たせなかった施策の中には、時代の寵児と評価されるに値する大局観を持った平清盛ならではの深慮遠謀が見られるものが多かったと再評価されている。上述した様な後白河法皇という“稀代の暗君”と評された“治天の君”の統治時期と重なった事で、クーデターという禁じ手を使った結果、以後、平清盛は周囲を敵に回すというアゲインストの状態に自らを追い込んでしまったのである。

後白河法皇が開始した“平清盛並びに平氏一門排除”の動きに以仁王の挙兵、追討令旨の伝播、反・平氏挙兵の全国的広がりへと状況は清盛・平氏一門にとって改善される事は無かった。清盛・平氏一門の対応には多くの瑕疵(かし)があった事がこれ程の反・平氏運動を呼んだ訳であるが、清盛が生きた時代が早過ぎ、彼の遠大な新時代への構想の実現を許さなかったという事であろう。

以下に平清盛が急死する迄の最晩年の諸施策と、以仁王挙兵以降の全国的に広がる源平の戦い(治承・寿永の内乱)の状況、平氏一門にとって戦況が悪化して行く状況について時系列に記述して行く。

5-(1):福原遷都を断行・・1180年6月2日

以仁王と源頼政による平氏追討の戦いが終結した直後の1180年5月末に清盛は後白河法皇、高倉上皇そして安徳天皇を伴って”福原遷行”を発表した。遷都とは発表せずに、6月2日に福原への行幸が行われ、行宮(あんぐう=仮宮)が置かれた。6月11日に内裏となった清盛の弟、平頼盛(俳優西島隆弘)の邸で遷都についての議定が開かれ、皆が初めてこの遷行が遷都であった事を知ったのである。

平清盛が何故、福原の地に遷都を考えたかの理由は下記2つだとされる。

理由①:寺院勢力に囲まれた京の都は危険

以仁王・源頼政の平氏追討の挙兵に園城寺(三井寺)、興福寺が加担した事、延暦寺に関しては“明雲”の仲立ちで今回は加わらなかったが、何時、平氏打倒の反旗を翻すか分からない状態であった。

既述した様に当時の人達の考えでは寺院勢力に対して武力を用いる事は憚られたのである。一方で寺院勢力は朝廷への強訴など、政治的干渉行動が頻繁となって来て居り、時には狼藉に及ぶなど、強訴による被害は罪の無い都の人々に及ぶ状況にあった。こうした状況は平氏一門にとっても危険であり、平清盛はこうした有力寺院勢力に囲まれた京都から福原への遷都を考えたのである。この考えは奈良時代末期に第50代桓武天皇が平城京から長岡京そして平安京に遷都した時の考えと共通している。

理由②:真の武士政権を確立する為には貴族層の古い習慣や考え方からの解放が必要

桓武天皇が平安京に遷都してから既に380年を超えていた。京の都では後白河法皇をはじめ、伝統的貴族層と寺社勢力が団結していて、強引な軍事クーデターによって第72代白河天皇(即位1072年退位1086年)以来の“院政”体制を停止させた平清盛・平氏一門に対しては、クーデターの直後から反発する勢力が現れていた。

平清盛は当時の日本社会にとっては新参者である武士層が主導権を持った政治を行う為には、天皇家と貴族層との共存体制に拠る政治が400年近くに亘って醸成されて来た“京の都”から脱出する必要性を強く感じていたのである。

後に鎌倉幕府を成立させる事になる源頼朝が“平清盛無くしては武士政権の登場は在り得なかった”と叫ぶNHK大河ドラマ・平清盛の冒頭の部分を紹介したが、結果的には清盛の趣旨を果たす事が出来なかった福原遷都ではあったが、源頼朝が清盛に学ぶ処が多かった事は確かである。源頼朝は京の都の朝廷政治・貴族社会の影響を排除する為、物理的にも離れた鎌倉の地に幕府を開いたのである。平清盛が福原に遷都を考え、僅かな期間ではあったが実行した目的と頼朝が鎌倉に幕府を開いた目的は共通していたという事である。

5-(2):源頼朝、木曽義仲の挙兵

1180年4月27日に源頼朝は以仁王の令旨を叔父の源行家から受け取った。頼朝が挙兵に踏み切ったのは、3-(2)で令旨の趣旨を紹介した様に、以仁王の令旨を受け取った以上、挙兵しなければ“以仁王”からの罪科を受ける事になる。又、平氏一門からも令旨を受け取った諸国の源氏に対しては追討が掛かる事は必至であり“それならば機先を制して挙兵する”という流れであったと思われる。

この様な背景であったから、頼朝の挙兵は先ず縁故のある坂東の豪族達に声を掛け、小さな規模から始まったのである。最初の血祭に上げられたのが1180年8月17日の伊豆国の目代・山本兼隆であった。これによって頼朝は先ず伊豆を制圧したのである。

1180年8月23日に頼朝軍300騎は石橋山の戦いで敗れた。この時、源頼朝軍を破った平氏方は大庭景親、熊谷直実等3000騎であった。能の演目“敦盛”で有名な熊谷直実はこの戦いの後、平氏方から寝返って源頼朝の御家人となるのである。この敗戦で頼朝は命からがら真鶴岬から船で現在の千葉県の先端、安房国に脱出する。頼朝が関東を平定するのは1183年2月であるから未だ2年半程先の事である。1180年11月には木曽(源)義仲も信濃国小県郡依田城で挙兵した。

5-(3):総大将平維盛が富士川の戦いで大敗北。祖父清盛は激怒する一方で劣勢な戦況から判断して福原から京へ再び戻る(還都)という痛恨の決断に追い込まれる

  
平維盛(生1158年没1184年5月10日27歳)は清盛の嫡男,重盛の嫡男だから清盛にとっては直系の孫、つまり嫡孫であった。15歳の1173年に鹿ケ谷の陰謀事件の首謀者、藤原成親の次女を正室に迎えていた。1179年に父重盛が病死し、嫡男の維盛に遺領されていた越前国が後白河法皇、松殿基房に没収された事が清盛の軍事クーデターの大きな要因であった事は既に述べた通りである。

藤原成親が首謀者となった鹿ケ谷の陰謀事件を期に病死に追い込まれた平重盛の遺児である平維盛を東国追討軍の総大将に任ずる等、清盛は心配りをしていた。それには理由があった。藤原成親(俳優吉沢悠)の妹を娶っていたという事で、平氏一門の中で立場を失った父、重盛の病死後、同じく藤原成親の娘を娶っていた平維盛も平氏一門の中で孤立気味の状態になっていたのである。こうした事情から重盛の一族が離反する事を懸念した清盛は嫡孫の平維盛を盛り立てる事に拠って平氏一門の結束を固めようとしたのである。従って、以仁王の挙兵の際にも維盛は平氏軍の大将軍として宇治の戦いに臨んでいる。又、東国追討の総大将にも任じられたのである。

平維盛を有名にしたのはその美貌であった。建礼門院右京太夫集には、光源氏の再来と称され、平家嫌いの九条兼実でさえもが、玉葉に“容顔美麗、尤も歎美するに足る”と評した程の美貌だった様だ。しかし、この様に美貌の誉れ高い平維盛ではあったが、残念ながら肝心の武将としての資質には問題があった。後に記す東国追討軍の総大将として出陣した時の戦歴は惨憺たるものであった。富士川の合戦、倶利伽羅峠の合戦共に大敗を喫したのである。玉葉の記事には1184年2月の一の谷の合戦の前後に密かに陣中から逃亡し、高野山に入って出家した事が記されている。又、1184年3月に熊野参詣の後、入水自殺した説(平家物語)4月頃に病死(源平盛衰記)した説等があるが、いずれにしても武運つたなく27歳でこの世を去っている。

こうした身内の人事に寛容過ぎた処が平清盛の大きな弱点であった。凡庸な平宗盛を後継者に選び、上記した様な温情から平維盛を重要な戦いの大将に任ずる等、結果に於いて平氏一門が次第に窮して行く事になったのである。

以下に源平の合戦(治承・寿永の内乱)で平氏軍が惨敗を続け、終に清盛が福原遷都からわずか半年後に京に還都する迄の戦況を順に記述する。

いきなり鉢田の敗戦の惨状を見せつけられ怯えた平維盛軍

華々しく福原を出発した総大将平維盛軍であったが、平家物語に書かれている3万騎に及ぶ大軍では無く、5000騎程の軍勢というのが後世の研究者達の結論である。行軍中、比叡山延暦寺の衆徒達の妨害を受け、又、近江源氏の挙兵が相次ぐ等、意気が上がる坂東武者の勢いの一方で、京の都での安寧な生活が染みついた平維盛軍には、東海・東山道の武士達が勇んで参加、集結するという気配は殆ど無かった。

1180年10月16日に平維盛軍は駿河国・高橋宿に着いたが、そこでいきなり目にしたのが鉢田の戦いの惨状であった。甲斐源氏の武田信義・安田義定軍に敗れた遠江国(とうとうみ)の目代・橘遠茂はじめ、80名の打ち首が晒されていたのである。橘遠茂らの軍勢を戦力として当てにしていた平維盛軍はこの惨状を見て、源頼朝軍の本隊と交戦する前から自軍が圧倒的に不利である事を悟ったのである。

:戦う前から負けていた富士川の戦い・・1180年10月20日

玉葉には上記の様に鉢田の敗戦の惨状を見ただけで怯えてしまい、富士川に着陣したものの、川を隔てて武田軍と向き合うやいなや平氏軍の中から数百騎が恥も外聞も無く総大将・維盛を見捨てて敵方の源氏方へ走った事が記されている。

平家物語には、平氏軍の兵力を7万の大軍と記しているが、最初からその様な大勢の武士を集める事が出来なかった上に、上記の様に早々と敵方に寝返った兵士も多く、実態としては玉葉の記述が正しく、1~2千騎程に激減していたものと考えられる。

そもそも平氏軍には戦闘に慣れていない兵士が多かった。上記、橘遠茂軍の惨状を見てショックを受け、敵軍への寝返りも続くという有様であったから軍全体が疑心暗鬼という状態に陥っていたのである。更に若い総大将・平維盛は逸る一方で、参謀役の平氏譜代の家人・伊藤忠清(俳優藤本隆弘)とは軍議で常に意見を異にしていたと伝わる。こうした不利な戦況から、参謀・伊藤忠清は撤退を主張したが、勇猛果敢に逸る平維盛は真っ向から反対した。こうした軍上層部の対立はますます平氏軍を混乱させた。そもそも士気の高くない兵士達は伊藤忠清の撤退案を支持するという具合で、平維盛軍は纏まりを欠く状態だったのである。

有名な、数万羽の水鳥が一斉に飛び立つ音を敵の夜襲と勘違いして、平氏の軍勢が慌てふためいて総崩れとなったという話の真偽についても諸説がある。山槐記には1180年10月20日の夜半、平氏軍は戦う前から武器さえも放置して一目散に逃げ出したとある。実態は一戦も交える事無く、平維盛を総大将とする遠征軍は瓦解していたと記されている。

平清盛は僅か10騎で京に逃げ帰った平維盛に激怒する一方で、都を再び福原から京に戻す(還都)という痛恨の決断をする

富士川合戦で一戦も交える事も無く、わずか10騎で逃げ帰った平維盛に対して清盛は“何故敵に骸を晒してでも戦わなかったのか、おめおめと逃げ帰ったのは家の恥である”と激怒し、平維盛が京に入る事を禁じたと、山槐記・玉葉の双方に記されている。平家物語には清盛が激怒し、維盛の島流しを命じ、侍大将伊藤忠清には死罪を命じたと書かれているが、激怒した事は事実であろうが島流し、死罪の話は史実とは異なる。

富士川合戦における平氏軍の大敗は反・平氏側を勢い付かせ、源平の内乱が全国へ広がる事を決定付けた。京に近い近江や若狭でも反・平氏勢力がより激しく蜂起する状況へと繋がったのである。

こうして1180年11月末に、清盛が真の武士政権を作るという遠大な理想を抱いて実施した福原遷都を僅か5カ月で断念し、再び京に戻るという痛恨の決断を下さざるを得ない状況に追い込まれたのである。

この通史を書くに当って第四章から第六章までの“中巻”のタイトルを“武士層の出現に拠って始まった混乱と闘争の500年の歴史”としたが、一国の都が福原に遷都によって移され、そして僅か半年後に再び京に戻るという大混乱に加えて、源平の内乱が次第にその規模と激しさを増す状況にあり、当時の世情はまさしく“中巻”のタイトルそのものの騒然たる状況だったのである。

:何故東国では反・平氏の動きに同調する勢力が多かったのか

東国で反・平氏の動きが大規模に起こった背景には元々、河内源氏と東国武士との主従関係がベースにあった処に、平氏一門が乗り込んで来た事でその永年の関係が壊された事に対する反発が大きかった事が理由であると元木泰雄・五味文彦氏等多くの専門家が指摘している。

1179年11月14日の平清盛の軍事クーデター後に、平氏一門が院並びに院近臣達から多くの知行国を奪った事で、それ迄の地方の支配秩序が大混乱する事になった。東国でも河内源氏と東国武士の主従関係で守られて来た秩序が新たな平氏一門や家人が乗り込んで来た事に拠って従来の秩序が乱された東国武士が大いに反発し、迷う事無く反・平氏運動に加担したという事である。

6:死の3カ月前迄、決して諦めずに状況改善に挑み続けた平清盛の諸施策

平清盛の1179年11月14日の軍事クーデターは何度も記した様に、度重なる後白河法皇並びに松殿基房を代表とする伝統を重んずる守旧勢力が新しく台頭した武士層を排除しようとした動きに対して、平清盛が止むに止まれず、軍事クーデターという最後の手段に訴えた、日本の歴史上初めての“武士層”による旧体制の打破、“時代変革行動”だったと捉える事が出来よう。

それだけに既述した様な様々な前例破りの施策が執られる結果となり、クーデター後の平清盛、並びに平氏一門は周囲の多くを敵に廻す事になった。中でも1180年2月の安徳天皇の践祚、4月の即位、並びに高倉上皇を誕生させた動きは、“治天の君(天皇家)”の専権事項である皇位継承問題に武士層(平清盛)が、しかも後白河法皇を幽閉している異常事態の下で主導したという事で、反・平氏の動きを決定付けたと何度も記述した。

この様にして1180年4月以降、以仁王の挙兵を合図の狼煙として、強引過ぎた平清盛・平氏一門の動きは全国的な平氏討伐の動きに格好の口実を与え、治承・寿永の内乱は拡大して行ったのである。

日本の歴史の最大の特異性は今日迄125代に亘って“日本国の元首”として“天皇家”が継承されているという事実である。建国以来、日本の歴史が育んで来た“天皇家の超越的権威”は時代の寵児“平清盛”と雖も尊重せざるを得なかったという事を思い知らされる結果が待っていた。それ程に天皇家(後白河法皇)を幽閉した行為、皇位継承問題を差配した清盛の行為がクーデター以降の厳しい反発となって返って来たのである。

初の本格的武士政権を根付かせる為に清盛が英断した福原遷都もこの様な平氏一門にとってアゲインストの風が吹き荒れる情勢となった為、僅か半年足らずの1180年11月末に再び京に戻る(還都)という事になった。福原から再び京に戻った理由を平清盛が貴族や寺社に妥協し、譲歩せざるを得なかった結果であるとする説があるがそれは当たらない。富士川合戦の敗北に見られる様に反・平氏の内乱は全国化しており、京に近い近江や若狭でも反・平氏の勢力が蜂起する有様であった。こうした思わしくない状況に対処するという明確な目的があった為、平清盛は福原遷都を諦め、再び400年の都、京に戻ったのである。

平清盛はこの時点で平氏政権の維持、平氏一門の繁栄を決して諦めていたのでは無い。それどころか清盛は京の都に戻ると直ぐに、次々と以下に列記する巻き返しに打って出たのである。

6-(1):近江に於ける源氏の追討

1180年12月に清盛は継妻時子との次男で、勇猛果敢で知られる平知盛を大将とした追討軍を送り、近江の源氏を破り12月中旬には、ほゞ近江地方の平定に成功した。これには延暦寺の荘園が平氏側に協力をして兵糧の提供や謀反人の追捕にも力を貸した事が大きい。この時点ではまだまだ平氏一門に巻き返すだけの力が十分にあったのである。

6-(2):高倉上皇の病状悪化で後白河法皇の幽閉を解除する

1179年11月14日の軍事クーデターで平清盛は後白河法皇を幽閉し、院政を停止させたが、幽閉と言っても後白河法皇を監禁していた訳では無い。1180年3月に園城寺(三井寺)が後白河法皇を誘拐し、解放しようとした計画が露見し、幽閉先を鳥羽殿から京市内の八条坊門烏丸邸に移した事は既述したが、この措置もあくまでも後白河法皇の身の安全を第一に考慮した結果である。

平清盛が行った幽閉にしても、又、先の平治の乱の第一幕で藤原信頼と源義朝軍がクーデターを起こして後白河上皇(当時)と二条天皇を幽閉した場合もクーデターに拠る幽閉で天皇家の人々を乱暴に扱った訳では無い。上皇なり天皇の機能を発揮出来ない様な状態にしたという事である。

1180年4月以降、高倉院政体制に形式上は成っていたが、この時にも既に高倉上皇の体調は思わしくなかった。福原遷都、以仁王の挙兵等、高倉上皇の身の回りでは混乱と闘争が常態化して行った。こうした状況が高倉上皇の病状を更に悪化させて行ったのである。1180年11月末の福原から京への還都も高倉上皇の病状に大いに障ったに違いない。

こうした高倉上皇の体調悪化に対して清盛は、万一の事態に備えて後白河法皇の幽閉解除を京に再び還都した直後に行ったのである。しかしこの措置は決して平清盛が後白河法皇に屈辱的譲歩をしたという事では無い。あくまでも高倉上皇の健康の万一の場合に備えた処置であって、後白河法皇の政務も清盛が死去するまでは一切再開させていない。

6-(3):園城寺の焼き討ちと興福寺焼き討ち

園城寺(三井寺)焼き討ち

1180年12月11日に清盛は以仁王の挙兵を擁護し、後白河法皇と密接な関係にあった園城寺の焼き討ちを決断する。この追討軍の指揮官は清盛の八男、時子との息子、平清房であった。平清房は後に一の谷の戦いで23~24歳で討ち死する人物である。この焼き討ちで園城寺は金堂だけを残して全てが灰燼に帰した。福原からの還都を決断した平清盛にとっては強烈な反・平氏運動が吹き荒れる状態を巻き返す策として不退転の決意でこの園城寺焼き討ちを決行したのである。

2014年の10月末に私も園城寺を訪ねたが、JR琵琶湖線の大津駅から徒歩でも行ける。何故、園城寺の通称が三井寺なのかについては、天智天皇・天武天皇・持統天皇の3人の天皇が産湯として使われた霊泉(井戸)があるからだと寺のパンフレットに書いてある。実際にこの井戸は現在も重要文化財として残されている。天武天皇が壬申の乱(672年)で滅ぼした大友皇子の皇子、大友与太王が建立した由緒ある天台宗の寺だけに、国宝の金堂、左甚五郎作と伝わる龍の彫刻、重要文化財の本尊、如意輪観音像等、広大な境内には見るべきものが多くこの寺も一度は訪ねる事をお勧めする。

興福寺攻撃で南都は灰燼に帰す

園城寺の焼き討ちから僅か2週間後の1180年12月25日に清盛は継妻時子との息子で五男(時子の息子としては三男)の平重衡を大将として興福寺を攻めさせる。重衡は4万の兵を率いて南都へ向かい、興福寺側が築いた城塞を打ち破って進攻した。

山槐記に拠ると火を放ったのは興福寺の僧なのか平氏軍なのかは分からないと記している。高橋昌明氏は、平清盛が福原から京に再び戻らねばならないという痛恨の決断をする条件として平氏一門には“園城寺や興福寺へ断固たる討伐を行う事が京に都を戻す前提条件である”事を承知させていたという史実からも火を放ったのは平氏軍に違いないと結論付けている。興福寺に放たれた火は、仏像、経典の全てを焼き尽くし、東大寺に飛び火。大仏殿、南大門も猛火に包まれ、盧舎那大仏もドロドロに溶けてしまった。戦死した僧は1000人に上り、犠牲になった人数は3500人に上ると平家物語に記されている。

清盛からの厳命に忠実に動いた平重衡は、本陣とした般若寺の門に僧兵の首を掛け、更に30人の僧の首を京に持ち帰って晒し首にした。こうした平清盛、並びに平氏一門による寺院への容赦無い攻撃と焼き討ちという前代未聞の所業を目の当たりにした都の人々は、改めて平氏一門・軍事政権の恐ろしさを知り、平氏一門離れが一層加速したとされる。

この興福寺攻撃の史実から、平重衡という人物は無慈悲な極悪人と伝わるのだが、その実像は勇猛果敢、且つ、常に他人への心配りを忘れない人物だったとの逸話が多く残っている。平重衡は1184年2月の一の谷の戦いで源範頼・源義経軍に大敗し捕虜となる。梶原景時に拠って鎌倉に送られるが、重衡の人物としての器量に感心した北条政子は彼を厚遇したと伝わる。源頼朝も重衡を慰める為の宴を設けたとの記録も残っている程の人物だった様だ。

重衡に関わるその他の逸話も多く残っており、室町時代以降には能“重衡”が成立している。しかし、1185年3月に壇ノ浦で平氏一門が滅亡し、戦後処理の一環として重衡によって南都(興福寺)を焼き払われ、多くの僧侶が殺された報復として、南都(興福寺)の衆徒から強く身柄の引き渡し要求があり、平重衡は6月23日に木津川畔で斬首され、般若寺門前に梟首されたのである。29歳であった。

6-(4):平氏一門の棟梁、平宗盛を畿内惣官職に就ける・・1181年正月8日

上述の様に、平清盛は福原から京に都を戻した(還都)後に矢継ぎ早に近江、伊賀、伊勢の源氏勢力を制圧し、又、園城寺、興福寺の焼き討ちを決行した。しかし、駿河以東は既に源頼朝の支配下に入って居り、北陸道では木曽義仲が急速に勢力を拡大するという状況であった。

この状況に対処する為に清盛は1181年正月8日、平宗盛を“畿内惣官職”に任じた。これは限られた範囲の知行国主の権限を越えて、より広範囲、横断的に畿内・伊賀・伊勢・丹波を軍事支配出来るという権眼を持つ新たな役職であった。

平清盛が最晩年に考案したこの役職は、征夷大将軍に匹敵する画期的、先進的な職掌であると元木泰雄氏は評している。従来の小規模な私郎従(武士団の郎党・家の子)を中心とした軍制から脱却して、畿内、近国に渡る広範囲な軍事的直轄支配をする事を目的としたこの軍制を考案した事は、武士政権としての平氏政権の性格を如実に表したものだとされる。源頼朝が鎌倉幕府を開くに当たって、守護・地頭を設置した事も平清盛の畿内総官職に倣ったものとされる。源頼朝は多くの事を平清盛から学びとっていたという事である。

6-(5):高倉上皇の崩御(1181年1月14日19歳5カ月)と後白河院政再開時の対策
を講じる

高倉天皇は後白河法皇と寵愛された平滋子の皇子として1161年に生まれ、後白河法皇と二条天皇との父子の主導権争いの谷間に居たが、二条天皇の崩御で6歳と7カ月で皇位に就く事になった。

父、後白河法皇が院政を敷く下で天皇時代を過ごし、1179年11月14日に舅(しゅうと)に当たる平清盛が起こした軍事クーデターの後に、今度は清盛の主導で18歳半という若さで皇子の安徳天皇に皇位を譲り、上皇となったのである。実質的には平清盛の政権下で、形だけの傀儡の院政であった。後白河法皇・二条天皇・平清盛の三人の政争に翻弄され続けた20年に満たない短い人生であった。

高倉天皇(上皇)が父・後白河法皇と平清盛の関係が常に一触即発という状態にあり、終には破綻する状況下で何故、平清盛との関係を強化したのかについては、清盛の娘、中宮徳子との仲睦ましい関係も影響したであろうし、二人の間に1178年に言仁親王(後の安徳天皇)が誕生したという事情もあろうが、そもそも高倉天皇が後白河院政からの独立を志向していた事がベースにあった。1178年には清盛と連携して“新制17条”を発布している程の信頼関係が両者にはあったのである。

高倉上皇の体調は福原に遷都した頃には既にかなり悪化しており、その後も病状の回復は思わしく無かった。そこで清盛としては高倉上皇の万一の崩御に備える覚悟を決め、上記した様に後白河法皇の幽閉を解除したのである。平清盛、並びに平氏一門の政権にとっては高倉上皇が崩御となれば、それは後白河法皇の院政が再開される事を意味した。天皇家との共存体制を組む事によってのみ、平氏政権を継続する事が出来るという事を熟知していた平清盛は高倉上皇を欠いた僅か2歳の安徳天皇との共存体制で政権を維持する事は現実的で無いとしてその対策に腐心するのである。

清盛は決して後白河法皇の政務への復帰は許さなかったが、一方では後白河法皇による院政が再開される事にも備え、後白河法皇の力が余りにも強大にならない様に、後白河法皇の近臣とされる人物の職を予め解いて置くなど、清盛生来の政治的バランス感覚は最晩年でも衰えなかった。そして更に清盛は娘の御子姫君(みこのひめぎみ)を後白河法皇の後宮に入内させている。

7:平清盛の急死・・治承5年閏2月4日(グレゴリオ暦1181年3月20日)64歳

清盛は京の都の改造を始めていた。院御所や内裏を六波羅や西八条の平氏の拠点に近い場所に移すなどの整備に着手した。しかし、以仁王・源頼政の反乱を狼煙として全国各地に既に広がっていた反・平氏の挙兵の動き、寺院の反抗は収まらなかった。更に平氏一門の東国遠征軍は大敗を喫し、そして1181年に入った正月早々に高倉上皇は崩御となり、平氏一門に対する難事は雪崩の様に続いていたのである。

こうした状況下での平清盛の心労、ストレスは想像を絶するものであったと思われる。そして終に清盛は治承5年2月27日、突然の頭痛と高熱に見舞われ“源頼朝の首を墓前に供えよ”と遺言して閏(太陰暦の当時、閏年には1カ月が加えられ、閏月と称した)2月4日に息を引き取ったのである。64歳であった。グレゴリオ暦でこの日は1181年3月20日に当る。因みにグレゴリオ暦は1582年にグレゴリウス13世がユリウス暦を改正して制定した太陽暦であるが、日本でも1872年(明治5年)12月3日を1873年(明治6年)1月1日として以降、今日もグレゴリオ暦を採用している。

清盛の急死については後世、マラリアを発したとの説が有力であるが、清盛の健康を蝕んだのは過度のストレスであったと思う。平清盛でなくとも上記の様に極めて重大なトラブルが連続するという事態に身を置けば、如何に頑健な人間であっても、その殆どは過度のストレスで清盛と同様の病状に陥るのは必至では無かろうか。為政者のトップが現職中に急死した事例として、1980年6月に70歳で亡くなった大平正芳首相の例と2000年5月に62歳で亡くなった小渕恵三首相の例を思い出す。この二人の場合も当時の複雑な政局状況からの過度なストレスがその急死の引き金となったのである。

死を覚悟した平清盛は“死後は全て宗盛に任せてある。是非、宗盛に協力して欲しい”と側近の僧侶“円実法眼”を後白河法皇の元に遣わし奏上させたが、後白河法皇からは何の返事も無かったと伝わる。そうした後白河法皇に対する憤怒の中に清盛の病状は更に悪化し、死去したのである。

この様に時代の寵児・平清盛は500年に亘って続いた、天皇家と貴族層(藤原氏)によって統治されていた日本という国の政治体制に新しい風穴を開け、武士層の出現によって始まった混乱と闘争の500年の歴史の第一走者としての役割を果してこの世を去り、次の走者、源頼朝へと歴史のバトンを渡したのである。平清盛の遺体は荼毘に付され、円実法眼が首に掛け、清盛が日宋貿易の為に築いた大輪田泊(おおわだのとまり)の経が島に納められたのである。

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