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2014年4月17日木曜日

第五章 院政の始まりと武士層出現に拠る混乱の時代の幕開け
第8項 清盛の死後平氏一門滅亡のプロセスが始まる
・・木曽義仲の登場と平氏一門都落ち


―はじめにー

平清盛が後白河法皇と松殿基房の結託による露骨な平氏一門排除の挑発的な行動に対して終に堪忍袋の緒を切り、軍事クーデターを行い、後白河法皇の院政を停止させ、1167年5月に平重盛に国家的軍事・警察権が与えられて以来、営々と築いて来た初の武士政権を自ら武力を用いて1179年11月に“完了”させる事になったという事を前項で記述した。

“完了”という言葉を使うのには意味があった。クーデター以降、清盛並びに平氏一門に対する反発は全国的規模で広がった。とりわけ高倉上皇・安徳天皇を誕生させた清盛の治天の君・後白河法皇を差し置いての強引な差配は決定的な反・平氏運動を惹起したのである。

その先鋒となったのが大院領荘園群の領主である“八条院暲子内親王”の猶子であり、彼女をバックとした“以仁王”であった事が反・平氏運動に正当性をより一層強く与え、全国的に広がる事になったのである。

平清盛という巨星が堕ちた後、平氏一門という巨大なグループを引き継いだのが平宗盛という凡庸な棟梁だった事が平氏一門の不幸であった。清盛時代の政治権力の回復を彼の力量に期待する事は無理にしても、全国の半分の領地を占めた程の平氏一門が、追われ追われての漂流の4年間の果てに壇ノ浦の戦いで一挙に滅亡するという悲劇に到る事は避けられた筈である。

治天の君・後白河法皇は一度ならず二度までも平氏一門に生き残りの和平提案をするが、平宗盛はそれを拒絶し、ひたすら“平氏一門滅亡の道”を選ぶ結果となった。清盛が意を注いだ“天皇家との共存体制”の維持を宗盛は2回の後白河法皇側からの和平提案を拒絶する事で終息させ、木曽義仲に共存相手を乗り換えた後白河法皇によって“追討対象”となり、終に“都落ち”に到るのである。

5-8項では政権の返上から、木曽義仲の入京によって平氏一門が都落ちをする事、そして木曽義仲を利用した後白河法皇が、清盛に対したと全く同じ様に木曽義仲を直ぐに排除対象とし、次に源頼朝を使って義仲を滅ぼす過程を記述する。

5-8項は以下の3テーマが主題であり、この3テーマを時系列に記述して行く事とする。

平宗盛による平氏政権の返上と後白河法皇からの和平案の拒絶
後白河法皇が新しい共存相手として選んだ木曽義仲の入京と平氏一門の都落ち
後白河法皇に切捨てられた木曽義仲の反撃による60日天下と滅亡

1:平宗盛による平氏政権の返上と後白河法皇からの和平案の拒絶

1-(1):平氏政権の返上

平清盛が死の直前まで日本初の武士政権の維持と平氏一門の存続、繁栄の為にあらゆる策を講じた事は前項で記述したが、途半ばにしてこの世を去った。治承5年閏2月4日、グレゴリオ暦では1181年3月20日の事である。

後事を託された平宗盛はその翌日にあっさりと後白河法皇に是までの父・平清盛はじめ、平氏一門の所業を謝罪し、恭順の姿勢を示すというオマケを付けて“政権返上”を申し出た。これによって平清盛が命を懸けて守ろうとした平氏政権はあっさりと消滅したのである。治承5年閏2月5日(グレゴリオ暦1181年3月21日)の事である。

この結果1179年11月14日の清盛の軍事クーデター以来停止されていた、後白河法皇の院政が復活し、同時に八条に移っていた安徳天皇も閑院御所に戻る事になった。一方、清盛が整備していた首都機能再整備事業も全て解体される結果となり、清盛が死の直前迄命を賭して行った政策の殆どが中止されたのである。

平清盛が平氏一門の為にと努力した諸施策を政権共々かくもあっさりと放棄した平氏一門の棟梁・平宗盛の動きによって、平氏一門の後退は誰の目にも明らかとなったが、宗盛はこれに止どまらず、更に“平氏一門の滅亡”へと繋がる愚策を重ねて行くのである。

1-(2):清盛が考案した“畿内惣官職”に固執し、源氏追討の続行を奏上する

平宗盛からの政権返上を受けて、後白河法皇は早速、公卿議定を開き“源氏追討の中止”を決定、それを平宗盛に伝えた。しかし宗盛は“源頼朝の首を墓前に供えるのが父・清盛の遺言である”と主張し、後白河法皇からの“戦闘中止”の提案を拒否したばかりか逆に平重衡を源氏追討使として遣わす為に院からの書状発給を要求したのである。

平宗盛は父・清盛が抑えていた後白河院政の再開を認める一方で、軍事的な権限を平氏一門が掌握し続ける事に拘った。つまり、あくまでも父・清盛の遺言を愚直に遂行する為、源氏追討の戦いを続行する事に固執したのである。

こうした宗盛の主張には1181年3月10日の墨俣川の戦い(岐阜県安八郡)で平重衡軍が源行家軍を破ったという背景があったからである。この勝利が凡庸な政治家・武将であった平宗盛に誤った自信を持たせた為に、後白河法皇の停戦勧告を拒絶し、源氏との戦い継続に固執させる事になったのである。この結果が平氏一門が滅亡へと繋がる事になる事を読み切る能力が平宗盛には無かったという事である。

1-(3):1181年8月、源頼朝も平氏との和平案を後白河法皇に提示するが平宗盛はこの
提案をも拒絶する

平氏軍は墨俣川の戦いにこそ勝利したものの、実態の戦況は兵糧が尽き始める等、先行きには苦戦の兆候が現れていた。そして1181年6月の横田河原の戦で敗北し、北陸道では反乱が起きる等、日々戦況は悪化していた。しかし、平宗盛が総帥としてこうした戦況並びに先の展開までを分析していたかどうかは疑わしい。

この時期、源頼朝軍の状況も苦しかった。関東地方の平定は終えていたが1181年~1182年にかけての“養和の大飢饉”が日本全国を襲っていた事に加えて、上洛をする為にはまだまだ政治的、並びに軍事的にも不十分な状態であり、平氏一門との戦いを続けて行くには苦しい時期であった。そこで源頼朝は後白河法皇を通じて平氏との和平の働きかけをしたのである。

玉葉の8月1日の条に書かれているが、頼朝の提案内容は、“源氏としては天皇家に対して謀反の意思は全くない。天皇家の意向に沿わない平氏一門を討とうとしているだけである。又、平氏を滅亡させる事を目的として戦っているのでも無い。天皇家は昔の様に源氏と平氏の双方共にお使いになったらどうか”という趣旨の和平提案であった。

平宗盛が冷静に自軍の戦力分析、今後の展開を含めた戦況分析を行っていればこの時点で源頼朝からの和平提案を受け入れるべき絶好のタイミングだったのかも知れない。しかし平宗盛は“亡き父・清盛の遺志は頼朝の首を墓前に供える事である”事に愚直に拘泥し、頼朝の和平提案を受けた後白河法皇からの斡旋をも拒絶したのである。この様に平宗盛が二度にわたる後白河法皇からの停戦提案を拒絶した事によって、以後、後白河法皇は平氏一門との共存体制を完全に打ち切り、以後の源平の戦いは源氏と平氏との私闘と位置付けられる事になる。平氏一門は滅亡へと向かって行くのである。

2:後白河法皇が新たな共存相手として選んだ木曽義仲の台頭と平氏一門の都落ち

1182年は“養和の大飢饉”があった為、源平の内乱(治承寿永の乱)に大きな動きは無かった。2月に清盛の異母弟の平教盛(俳優鈴之助)が勢力を増して来た木曽義仲追討の為、北陸道に向かった事が記されている程度である。

平氏軍は遠征の為の兵糧に苦労すると言う状況に陥っていた。院宣に拠って諸国の荘園から兵糧米の徴収を行っていた状況にも暗雲が立ち込めたのである。上述した様に後白河法皇からの和平提案を二度も拒絶した事で、源平の戦いは“私闘”と位置付けられる様になり、中央の貴族層からは“私闘であるのだから平氏一門が院宣を要求して戦費を調達をしている事はおかしい”との批判が出始めたのである。

1183年になると戦況に大きな変化が現れる。その先鋒となったのが木曽義仲軍の進攻であった。木曽義仲軍の進攻によって平氏一門は都落ちを余儀なくされる事になる。以下に木曽義仲が平氏一門を“都落ち”に追い込むまでの経緯を記述する。

2-(1):倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲軍に致命的敗北を喫した平維盛軍・・1183年5月11日

以仁王の平氏追討の令旨に呼応して、木曽(源)義仲は信濃国で挙兵し、平氏方の“城助職”軍を横田河原の戦いで破り、北陸道方面での勢力を拡大した。これに対して平氏軍は平維盛・平行盛・平忠度などを中心とした10万の大軍を北陸道へ送った。5月9日、平氏軍の先鋒であった平盛俊が“般若野”の戦いで敵の奇襲に敗れ、退却を余儀なくされた事でいきなり苦しい状況に追い込まれた。

5月11日、源平盛衰記に“木曽義仲軍が数百頭の牛の角に松明を括り付け平氏軍に向けて放った”と書かれた事で有名となった“倶利伽羅峠の戦い”が始まった。木曽義仲が本当に数百頭の牛を利用したかどうかについては史実としては疑問がある様だ。いずれにせよ木曽義仲軍は5万、一方の平維盛が率いる平氏軍は総勢10万の大決戦であった。

木曽(源)義仲(生1154年没1184年)は源頼朝・義経とは従兄弟で、源頼朝の7歳年下、義経よりは5歳年上である。1183年3月に木曽義仲の叔父が源頼朝に対抗して挙兵し、この叔父を義仲が保護した事から源頼朝とは対立関係にあったが、西では平氏一門との戦いが始まり、東では源頼朝との対立という状況を打開する為、自分の弟を源頼朝の人質として差出し和睦していた。

戦闘巧者と伝わる木曽義仲は、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が寝静まった夜間に大きな音を立て乍ら夜襲を仕掛けた。之に驚いた平氏軍は大混乱に陥り、唯一敵軍が囲って居ない方向へと逃げ出した。これが倶利伽羅峠の断崖であった。倶利伽羅峠は富山県と石川県との境にある砺波山(となみやま)の峠である。パニック状態の平氏軍の多くがこの谷に追い込まれ、追い落とされ、結果として平氏の10万の軍勢の中8万が壊滅したとされる。又もや平維盛が指揮した戦いでの大敗北であり、維盛は既述した1180年の“富士川の戦い”と全く同様の大敗北を喫したのである。

何故、平維盛軍は同じ過ちを繰り返したのであろうか。玉葉の1183年6月5日条には、大将軍(維盛)と三人の侍大将(盛俊・景家・忠経)が互いに主導権争いをし、指揮系統の混乱が倶利伽羅峠の戦いでも繰り返された為だと記している。具体的には、盛俊と景家は平氏一門の棟梁・平宗盛の家人であり、忠経は平維盛の家人であった。つまり平氏一門の中での主流(平宗盛)と非主流(平維盛)との間の主導権争いで指揮系統に混乱が起きたという事である。

源平合戦中の重要な戦闘現場で味方同士がその様な状態であったとは、全く何をか言わんやである。平氏軍の大敗も当然の帰結であったと言わざるを得ない。更に、翌1183年6月には木曽義仲・源行家軍は加賀の篠原の戦いでも平氏軍に勝利している。

2-(2):連戦連敗の平氏一門が都落ちを決断し、木曽義仲が後白河法皇を奉じて入京

戦況悪化に加えて延暦寺も木曽義仲軍への加勢を決定する

この頃の日本の状況は鴨長明(生1155年没1216年)が書いた日本三大随筆の一つとして有名な“方丈記(成立1212年)”に詳しく書かれている。史実としても1181年~1182年と続いた全国的な大飢饉“養和の飢饉”で京中の道端には餓死者が溢れており、諸国の餓死者は数万人に及んだとの記録がある。方丈記に拠れば大飢饉・大火・大地震・旋風などの天災に加えて、福原遷都の事を人災として当時の“五大災忌”という表現を用いて記述している。こうした自然災害が重なる中で、“私闘”と位置付けられた源平の内乱が続けられている事が、平氏一門に対する世間の悪評を増幅したのであろう。

“倶利伽羅峠の戦い”そして“篠原の戦い”でも既述した様な大敗北を喫した平氏一門は頼りにした延暦寺にも見放されると言う展開になる。延暦寺は木曽義仲軍に味方する事を決めたのである。

木曽義仲軍の追撃に加えて、延暦寺を含めた興福寺、園城寺(三井寺)の寺社勢力の全てを敵に廻すという状況に平氏一門の棟梁・平宗盛も終に観念し、安徳天皇の生母である建礼門院徳子を訪ね“都落ち”を告げる事になった。建礼門院徳子は泣く泣く承諾したのである。

:後白河法皇の雲隠れと平氏一門の都落ち開始…1183年7月24日

平宗盛は安徳天皇だけで無く、後白河法皇にも都落ちを共にする様願い、あくまでも天皇家を奉じた“官軍”の立場を保持しようとした。ところが事態を事前に察知した後白河法皇は1183年7月24日、秘かに法住寺殿の御所を抜け出し、比叡山(鞍馬とする説もある)に逃れたのである。仕方なく平氏一門は後白河法皇の同行無しに1183年7月25日の早朝、6歳の安徳天皇と三種の神器と共に西国を目指して都落ちを開始したのである。

その際、栄華を誇った六波羅や西八條の邸宅は勿論、平氏一門が居住していた邸宅、関係施設の全てを焼き払った為、京の都は一瞬にして焦土と化したのである。尚、安徳天皇に付添って都落ちした公卿が僅かに3人であったという事からも、後白河法皇を初め、殆んどの公家達はこの時点で既に平氏一門に見切りを付けていた事が分かる。

平氏一門は福原にも立ち寄り、一時的とは言え内裏であった施設をはじめ、福原の平氏一門の邸宅、関連施設をも全て焼き払い、船で西海を経て九州の大宰府まで落ちて行った。

:木曽義仲が後白河法皇を奉じて入京。“治天の君“としての超越的権威で木曽義仲を       利用する後白河法皇

1183年7月28日に木曽義仲が源行家と共に後白河法皇を比叡山から保護し、奉じて入京した。この時点では“傲慢だった平氏一門を追放して呉れた英雄“として木曽義仲を都の人々は大歓迎した。東(木曽)から日の出の勢いで後白河法皇を保護して入京した木曽義仲を”朝日将軍“と呼び讃えたのである。

吉記には後白河法皇が京に戻った直後の議定で、“平氏追討か或はひとまず和平をして安徳天皇と三種の神器の奪還を優先させるか”が議論されたが、後白河法皇は木曽義仲と源行家に平氏一門追討の院宣を下す事を決めたと記述されている。

平宗盛から政権を返上された時点から後白河法皇は再び“天から超越的権威を与えられ、何人にも制約される事の無い治天の君”に戻っていた。しかも唯一人自分に制約を課していた平清盛は存在しない。源平の内乱(治承・寿永の内乱)が続く混乱した状態の中で後白河法皇は“治天の君”としての既述した様な確固たる“信念”を持って臣下の武士層に対して行動して行くのである。

木曽義仲の保護によって無事に京に戻った後白河法皇であったが、木曽義仲であれ、源頼朝であれ、どの陣営からも一切の制約を受けずに、天皇家(=国家)にとって最も役に立つ相手を選ぶという”超越的権威に基づいた局外中立的立場“に立って行動したのである。

その具体例が上記した議定の結果、木曽義仲と源行家に平氏一門追討の院宣を下す一方で、近臣の院庁長官・中原康定を鎌倉の源頼朝の元に遣わし、上洛を促すという二股を掛けた動きを平然と行うという具合であった。

前項で記述した様に、後白河法皇が信念として持つ“治天の君としての自分には天から超越的権威が与えられているという”考え方は、臣下の武士層は利用するだけ利用する一方で、用済みとなった途端に掌を返すように切捨てるという事であった。

武士層がこうした後白河法皇の過去からの行動パターンを全く知らなかったとは思われない。1159年末の平治の乱では近臣の信西入道を切捨て、藤原信頼を見殺しにした。1169年末に起きた嘉応の強訴事件では延暦寺側との約束を反故にして世間を仰天させ、逆に報復人事で対抗した。そして1177年の鹿ケ谷の陰謀事件から平清盛・平氏一門排除の動きを露骨に展開し、清盛にクーデターを起こさせる状況に追い込み、その結果は前項で記述した様に平氏政権を返上させたのである。

こうした史実から言える事は、天皇家が建国以来積み上げて来た権力、取り分け“権威”は後白河法皇が信念として抱いた様に歴史の積み重ねを経て“超越的権威”として天皇家に付随しこの国の岩盤として根付いていたという事である。

武士層としても天皇家の権威を借りる事は重要な事であった。“治天の君”後白河法皇から平氏追討の院宣を下された諸国の源氏からすれば彼らは平氏追討に対する正当性を与えられた事になり、それ故に次々と蜂起したのである。木曽義仲もその一人であった。義仲は平氏一門の都落ちの際の同行を拒否し、比叡山に身を隠していた後白河法皇を保護する形で奉じて1183年7月27日に京の都に入ったのである。

:公卿議定で後白河法皇の入京に貢献した源氏の勲功順位が決る・・1183年7月30日

平氏一門の人々が溢れていた京の都に平治の乱で源義朝が敗退して以来20数年振りに木曽義仲軍の源氏の白旗が靡き人々は大いに歓迎したと言う。源氏は完全に天皇家(後白河法皇)を奉じる正当な”官軍“としての立場を得たのである。

後白河法皇が京に戻って早速開かれた公卿議定で勲功評価が決められた。勲功の第一は源頼朝、第二が木曽義仲、第三が源行家という順であった。更にこの議定の場で京中に横行していた狼藉の取り締まりが木曽義仲に委ねられた。

3:後白河法皇が早くも木曽義仲を見限り、“排除”の行動に出る経緯

3-(1):木曽義仲入京時の京の都の悲惨な状況と木曽義仲の不運な悪評

平氏一門が既に都落ちをし、その際に邸宅等全てを焼き払った為に焦土化した事に加えて京の都は“養和の大飢饉”による惨状があった。方丈記によると大飢饉で15万人の人口の中4万人が餓死したとある。こういう状況下で軍勢を伴って入京せざるを得なかった木曽義仲も不運という他は無い。兵糧も満足に確保出来ず、腹を空かせた兵士達が民家に押し入って略奪をしたり、収穫前の青田を軍馬のエサにする等の悪行を重ねる結果となった。この為、一時の歓迎ムードは忽ちの中に消え失せ、木曽義仲軍に対する評判は入京早々悪評に変わって行ったのである。

3-(2):木曽義仲の生い立ちと後白河法皇の不興を買う事になる素地

木曽(源)義仲は長野県の木曽で育った人物であり、京の都の貴族社会などの常識に対する知識も無く、ましてや天皇家(後白河法皇)との接し方、礼儀作法などについては知る由もなかった。ところが生来、豪放磊落な性格だった義仲は礼儀作法、物の言い様など、京の都では重要とされる事を気にする事も無く自由闊達に振舞っていた為、何かと京の人達とのすれ違い、誤解を生じていたのである。結果として粗野な人物として京の人々の評判を落として行った事が逸話として残されている。

前項でも記述した様に、後白河法皇は勿論の事、守旧派の貴族層は元々急激に台頭して来た武士層を歓迎していない。“自分には天から超越的権威が与えられている“との強い信念を持つ後白河法皇にとって、平氏一門を都から追い出し、自分を保護して入京させた木曽義仲の当面の役目は終わった。入京後も利用価値があるかどうかは今後の様子を見てからだと言う事であった。もし、利用価値が無ければ、掌を返す様に切捨てるだけの事だとするのが治天の君・後白河法皇の考え方である。そうした後白河法皇の心情を知らない木曽義仲は忽ちの中に後白河法皇の”虎の尾“を踏む事になる。

3-(3):後鳥羽天皇の即位問題に介入する行動をとった義仲に激怒した後白河法皇

木曽義仲の保護を得て京の都に戻った後白河法皇にとって最大の問題は安徳天皇と三種の神器が平氏一門の手に在る事であった。その返還の交渉を行ったが平宗盛は容易に応じなかった。後白河法皇は“治天の君”としての権限・権威を用いて都に留まっていた高倉上皇の二人の皇子の中から尊成親王を選び、第82代後鳥羽天皇(践祚1183年㋈8日、即位1184年7月28日、退位1198年)として先ずは践祚(せんそ=天皇の位を受け継ぐこと)する事を決断した。この時、後鳥羽天皇は満3歳の幼児であった。

皇位の象徴である“三種の神器”が無い状態で天皇の践祚を行う事は、流石の後白河法皇としても望ましい事では無かったが、政務の停滞を解消し、平氏討伐を更に進める為にも天皇が京の都に居ないという異常事態は後白河院政にとっても早く解消したい事態であった。しかし平氏一門との交渉で安徳天皇と三種の神器の奪還は実現されなかった。そこで後白河法皇は安徳天皇が在位中にも拘わらず、第82代後鳥羽天皇に皇位を継承させる事と三種の神器の無い侭、天皇践祚を強行する事に踏み切ったのである。

こうした異例の形で皇位継承を行う事に後白河法皇は悩み、占いや、博士達の意見などを募るなど手を尽くしたとされる。その結果、寿永2年8月20日(グレゴリオ暦1183年㋈8日)に三種の神器の無いまま、後白河法皇が院宣を与える形で後鳥羽天皇の践祚が行われたのである。

ここで注目したいのは後鳥羽天皇の“即位式”は一年後の1184年7月28日に行われたという史実である。後白河法皇はこの間1年間、あらゆる手を尽くして安徳天皇と三種の神器を平氏一門から奪還すべく平宗盛と交渉を重ねた事が分かる。しかし平宗盛は依然として拒絶を続けたのである。宗盛の真意は測り兼ねるが、こうした宗盛の頑なな態度が結果として三種の神器奪還の為にだけ源平合戦が壇ノ浦の戦い迄続行される事になり、安徳天皇の入水を含めた平氏一門の滅亡という悲惨な結末となったのである。

結果として三種の神器の中、八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は奪還する事が出来たが、残る、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)だけは海中から回収されなかった。三種の神器が揃うのは第84代順徳天皇(即位1210年退位1221年)即位の際に伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を“宝剣と見做す”という苦渋の決断を後鳥羽上皇がする迄続くのである。

1年間待ったが平宗盛が三種の神器返還交渉に応じなかった為に、後白河法皇は三種の神器無しに後鳥羽天皇の“即位式”を行う事を決断した。この様な事情から後鳥羽天皇(上皇)のはその治世を通じて三種の神器が揃わなかった天皇、及び上皇であった。この事に後鳥羽天皇は生涯、強いコンプレックスを抱いていたと伝わる。又そうしたコンプレックスが殊更に後鳥羽天皇の天皇権力、権威に対する拘りに繋がったと考えられる。後鳥羽天皇が鎌倉幕府成立後に源氏三代が相次いで死亡した後の混乱に乗じて“承久の変”を起こし、天皇権力の復権に挑んだのも三種の神器に由来するコンプレックスが根っこにあったという事である。

話を後鳥羽天皇の即位時点に戻そう。皇位継承問題はこの様に天皇家にとって最重要事項であった。継承者の血統の正統性と伝統的形式が重要視されるのである。天皇家の中の最高権威者である“治天の君”であった後白河法皇にとって皇位継承者を決める事は何人も犯す事の出来ない“専権事項”である。

先に平清盛が高倉天皇を譲位させ、安徳天皇の即位に関与した事が命取りになった事を記述したが、何と木曽義仲は亡き以仁王の遺児で第一皇子の“北陸宮”こそが皇位継承者として相応しい、義仲が北陸宮を担いで戦ったからこそ平氏追討、平氏一門の都落ちという大功が可能であったのだと比叡山の俊堯を介して後白河法皇に強硬に主張したのである。

一介の武将に過ぎない木曽義仲が皇位継承問題に口を挟む事は許されない事である。この事は後白河法皇はもとより、伝統、格式、そして形式を重んじる公卿達の怒りを買ったばかりか粗野な人物として疎まれ、以後、後白河法皇は掌を返すように“木曽義仲の切捨て”の行動に出るのである。

3-(4):京から追い出す為に後白河法皇は木曽義仲に西国への出陣命令を出す
・・義仲は平氏との水島の戦いで惨敗する(寿永2年閏10月1日)

平宗盛が後白河法皇からの和平提案と頼朝からの和平提案の両方を拒絶した事で、朝廷にとって源平合戦は両者間の“私闘”と位置付けられる様になった事は既述の通りだが、治天の君・後白河法皇はこうした”内乱状態“を早く終息させる事を望んでいた。従って源平の内乱を終息させる事が出来る人物であれば誰にでも“追討の宣旨”を下す用意があった。既述した様に後白河法皇は“局外中立”の立場をベースとしていたから、誰とも共存体制を組む事はしなかったが、この時点で最も評価していたのは源頼朝であった。

嘗ては“英雄”として京に迎えられ、後白河法皇も木曽義仲に越後国を与える等、高く評価した時期もあったが、既述した様な入京時の兵士の略奪に始まり、後鳥羽天皇の皇位継承問題に介入した事などで、今や“混乱の元凶、排除の対象”と見做されていたのである。

そこで後白河法皇は木曽義仲に平氏追討の為に西国に向け出陣する事を命じた。これは体良く木曽義仲を都から追い出す意図だったのである。寿永2年10月1日(グレゴリオ暦1183年11月24日)に木曽義仲軍は備中水島(倉敷市玉島)で平氏軍と戦う。この水島の戦いは“金環日食が起る日”に当った珍しい合戦として記録されている。

2014年からすると831年前の寿永2年閏10月1日(グレゴリオ暦1183年11月24日))は95%太陽が欠ける金環食が起った日であった。朝廷の機能として、暦の作成に携わっていた平氏一門は当日の正午頃から皆既日食に近い現象が起きる事を事前に知っていた。ところが、一方の木曽義仲軍は当然こうした自然現象を全く知らなかった。100艘余り5000人の木曽義仲軍の兵士は金環食に因る突然の暗闇に大いに動揺し、大混乱に陥り、200艘7000人の兵士を繰り出していた平氏軍との海上戦に惨敗したのである。

平氏一門はこの時期、拠点を讃岐の屋島に置いていたが、この海上戦の大勝利によって勢力を回復し、再び京の都に戻る事も視野に、再度福原の拠点を挽回する事になった戦いであった。

木曽義仲軍のこの敗戦は、後白河法皇にとっては“木曽義仲は最早、役に立たない存在”と見限る戦いとなった。平清盛・平氏一門に対する排除行動を露骨に開始した時と同様に後白河法皇による“木曽義仲排除”の動きも次第に露骨になって行くのである。

4:法住寺合戦で木曽義仲が60日天下を取るまでの経緯

4-(1):前哨戦としての“鼓判官事件”

平家物語に“鼓判官(つづみほうがん)事件“という話が載っている。後白河法皇が木曽義仲に対して掌を返した様な一連の”排除の動き“が既に始まっていた時期に起きた些細な事件ではあった。後白河法皇側も木曽義仲側も互いに強硬な態度を崩さなかった事で”法住寺合戦“と呼ばれる後白河法皇自身も戦いの当事者として関与するという戦闘に発展する切っ掛けを作った事件である。

木曽(源)義仲は、1183年7月末の入京後に後鳥羽天皇の皇位継承問題に介入した事で後白河法皇はじめ、その近臣、並びに公家達から顰蹙(ひんしゅく)を買った事は記したが、その後も伝統と格式を重んじる京の都での木曽義仲の立居振舞いが改まる事は無かった。こうした状況の延長線上でこの事件は起った。

事件の要旨は、鼓判官(つづみほうがん)と呼ばれ、天下に鼓の名手として聞こえた北面の武士・壱岐判官の平知康を木曽義仲が愚弄した事が端緒となって争いとなり、後白河法皇の院の御所を木曽義仲が襲うという“法住寺合戦”と呼ばれる戦闘に繋がった事件である。

荒れ果てた京の都で木曽義仲軍の兵士は食糧、衣料を求めて略奪を重ねた。こうした事態に対して後白河法皇は近臣の平知康(鼓判官)を木曽義仲の元に遣わし“狼藉を鎮めよ”との下知を伝えた。木曽義仲はこの下知に対して承諾の返答をしなかったばかりか、使者の平知康に向かって“貴殿を鼓判官と言うのは多くの人から叩かれたからなのかそれとも張られたからなのか”とからかった。侮辱された平知康は激怒し、後白河法皇に“木曽義仲は馬鹿者であり将来必ず朝敵と成る危険が大の人物であるから追討すべきである”と進言したのである。

既に木曽義仲を見限り、排除を決めていた後白河法皇である。平知康の話を聞いて、延暦寺の明雲、園城寺の円慶法親王はじめ、伯耆守・源光長等武士達に木曽義仲追討を命じるという展開になった。こうした状況を見て木曽義仲陣営の源基国は木曽義仲を見限って後白河法皇側に鞍替えする等、義仲離れが続いた。こうした逆風の動きに対して義仲の腹心の今井兼平は後白河法皇への恭順を薦めたが木曽義仲は聞き入れず“こうした事態に陥ったのは全て鼓判官・平知康の中傷によるものだ”と怒りを募らせ反撃の体制をとったのである。

こうした木曽義仲軍の姿勢を知った平知康も後白河法皇の院御所がある法住寺殿に兵を集めるという事態に発展した。

4-(2):法住寺合戦で木曽義仲が後白河法皇を幽閉する(1183年11月19日)

後白河法皇は先に木曽義仲を平氏追討を名目に西国に出陣させ京の都から追い出した。既述した“水島の戦い“で義仲は大敗を喫していたのである。この時後白河法皇は同時に使者、中原康定を遣わし、1183年10月14日付けで源頼朝に宣旨を下して東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与えた院宣を下している事が百錬抄に書かれている。

既述した様に後白河法皇としては既に木曽義仲を排除の対象と決めた処に、平氏との水島の戦いで義仲が大惨敗した事を知り、その武力には京の都の治安を任せる程の力が無い、と見限ったのである。木曽義仲は明確に切捨ての対象となったのである。

水島の戦いに惨敗し、僅かな軍勢で京に引き揚げて来た義仲は留守中に後白河法皇が源頼朝の上洛を促すと共に、上記の院宣を源頼朝に下した事を知り、激怒した。そして後白河法皇に対して源頼朝を追討する院宣を出す様迫ったのである。後白河法皇に見捨てられ、手負い状態となった木曽義仲にとって眼前の敵は平氏一門から源頼朝に代わっていたのである。勿論、後白河法皇が源頼朝追討の院宣を出す要求に応じる事は無かった。

1183年11月4日には、源義経が指揮する頼朝軍が不破の関にまで迫っていた。この報に力を得た後白河法皇は11月16日には法住寺殿の武装化を進め、戦闘の体制に入ったのである。法住寺合戦が行われた法住寺は、当時後白河法皇の院庁が置かれていた場所であり、現在の三十三間堂の西側一帯にあった。現在は法住寺と共に養源院という寺が建っており、当時の様子とは大きく異なっている。

法住寺は前章で後白河法皇が好んだ、当時“今様”と呼ばれた唄を現在の住職が伝えている事、山科に居た大石内蔵助が吉良邸討ち入りの成功を祈願した寺である事、そしてサザエさんの作者、長谷川町子さんがその佇まいを好んだ寺であった事などを紹介した寺である。2014年4月に訪ねた時には法住寺の横に建つ養源院の辺りに後白河院政時代の院庁があったと寺の方が説明して呉れた。養源院は豊臣秀吉の側室、淀殿が亡父・浅井長政の21回忌の法要時に建立し、寺の名前は浅井長政の院号から来ているとの事であった。

法住寺合戦の話に戻るが、源頼朝軍の入京が間近いという報と周囲の源氏が競って後白河法皇側の味方に加わると言う状況に後白河法皇は益々強気になる。木曽義仲に対して直ちに西下して平氏討伐に向かえとの事実上の洛外退去を命じ“院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば謀反と見做し、木曽義仲追討の院宣を下す”との最後通牒を出した事が玉葉、吉記、そして百錬抄の何れにも記されている。

こうした後白河法皇の威嚇に追い詰められ、逃げ場の無くなった木曽義仲は武士層が院御所(=天皇家)に対して武力行使に及ぶ、という前代未聞の行動に出たのである。

11月19日、まさに“窮鼠猫を噛む”の状態に陥った木曽義仲軍は兵力こそは7000人程に減ってはいたが、法住寺殿を武力攻撃し、後白河法皇側として戦った延暦寺の明雲、園城寺(三井寺)の長史・円慶法親王、源基国、源光長などが戦死し、木曽義仲軍の勝利に終わった。後白河法皇は捕えられ、五条、藤原邦綱の館に幽閉された。又、3カ月前に(1183年8月20日)後鳥羽天皇として践祚(この時点ではまだ即位式は行っていない)したばかりの3歳の天皇も二条通りの閑院殿に幽閉されたのである。

前項第5-3項の平治の乱の記述で、1159年12月に藤原信頼・源義朝軍によるクーデターで後白河上皇が幽閉状態に置かれたと述べた。その後1179年11月の平清盛による軍事クーデターでも後白河法皇は幽閉されている。そして今回、1183年11月の法住寺合戦でも幽閉されたのである。生涯に3回も幽閉された後白河法皇の人生が象徴する様にこの時期の日本の状況はまさに、この著作の中巻のタイトルとした”武士層の出現に拠って始まった混乱と闘争の500年の歴史“そのものだったのである。

院御所(天皇家)を襲撃をした前例としては、平治の乱の第一幕のクーデターで、信西入道(俳優阿部サダオ)一派を捕縛する事を目的として、藤原信頼(俳優塚地武雄)が源義朝軍(俳優玉木宏)を使って行った例がある。この時は史実としての裏付け資料は無いが、明らかに後白河上皇(当時)が裏で糸を引いていたと考えられ、今回の法住寺合戦での院御所襲撃とは状況が異なる。2回目の平清盛による軍事クーデターの時も、後白河法皇は清盛に謝り、許しを願ったと伝わる。つまり、過去の院御所の襲撃での結果は、いずれの場合も後白河院は幽閉されているが、後白河法皇側に戦闘を仕掛ける態勢があった訳では無い。

しかし今回のケースは状況が異なる。今回の法住寺合戦は後白河法皇側にも木曽義仲軍と戦闘をする意志があり、実際に戦闘が行われ、敗れ、そして幽閉されたのである。

この戦いの大将軍には“鼓判官・平知康”が就き、比叡山、園城寺等の寺院勢力、それに源光長・光経父子等の武将を合わせて総勢2万人が法住寺殿に立て籠もり官軍を形成した。一方の木曽義仲軍は7千程と劣勢であったが、義仲軍が法住寺殿に火を放つと大将軍の“鼓判官・平知康”の部隊が真っ先に逃げ出し、その後は我先にと官軍の部隊が逃げ去ったとされる。

戦闘に慣れていない寄せ集めの“官軍”は敗れ、この戦闘で後白河法皇側として戦った戦死者の中に15年前の1168年2月に清盛が臨終出家をした時の導師を務めた天台宗の座主、僧明雲、園城寺(三井寺)の長史、円慶法親王が含まれている。明雲は紆余曲折の後に後白河法皇の近臣と成りこの戦闘に参加したのであるが、同じ天台宗の座主という立場であった慈円は後に愚管抄に“僧として戦闘に参加するなどあるまじき行為だ”として明雲を厳しく批判した事は既述の通りである。

木曽義仲軍はこの法住寺合戦で後白河法皇の官軍と真っ向から戦いそして勝利した。武士層が武力闘争で天皇家と真っ向から戦い勝利したというケースは、約40年後の1221年に鎌倉幕府軍が“承久の乱”で後鳥羽上皇軍に勝利するケースの先例となった訳だが、当時としては前代未聞の大事件だったのである。

5:木曽義仲が政権を略奪し60日政権を成立させた直後に滅びる

5-(1):木曽義仲の60日政権の成立

平清盛のクーデターを記述した際には“略奪”という表現は当たらない・・と記述したが、法住寺合戦の後に木曽義仲が後白河法皇を幽閉し、60日に及ぶ彼の政権を成した状況はまさしく“略奪”という表現が当てはまる。

1183年11月20日に木曽義仲は戦死した天台宗首座の僧、明雲の首を川に投げ捨て、源光長始め100人以上の首を晒した事が玉葉に書かれている。この木曽義仲に協力したのが、松殿基房であった。4年前に後白河法皇と結託して平清盛並びに平氏一門の排除を画策し、清盛の軍事クーデターの結果捕えられ、配流されたあの人物である。11月22日に松殿基房の子息、松殿師家を内大臣・摂政とする“木曽義仲政権”が成立した。

11月28日に中納言・藤原朝方はじめ43名(49名とする説もある)の官職を解いた事が玉葉、吉記、そして百錬抄の全てに記されている。こうした強引な手段での政権の成立であった事、加えて、既述した様に、木曽義仲は入京時から評判が良くなかったという事から益々京の人々は木曽義仲から離反して行ったのである。12月1日付けで木曽義仲は、左馬頭に任官し、軍事の全権を掌握し、政権としての形式を整えて行った。

そして12月10日には“源頼朝追討の院庁下文”を出させ、ここでも形だけは“官軍”の立場を整えたのである。これらの状況については、公家で内乱期に蔵人頭・院別当の職にあった吉田経房の日記・吉記に書かれている。ここまでが木曽義仲にとって、束の間のピークの期間であった。

5-(2):木曽義仲が源義経・範頼軍に滅ぼされて滅亡する・・1184年1月21日

1184年に入ると得意絶頂だった木曽義仲政権に早くも暗雲が立ち込める。1184年1月6日に木曽義仲に“鎌倉から源頼朝の大軍6万が出陣し、既に美濃国に達している”との報が入る。後白河法皇を直接戦闘相手として院庁への襲撃、そして幽閉を行った事は、平清盛がクーデターを行った直後から世間の非難を浴び、世間を敵に回した為に一気に後退を余儀なくされた状況と全く同じであった。天皇家を敵に回す事は武士層にとってのタブーであり、義仲の周辺にも反・木曽義仲の動きが強くなって来るのである。

如何に武力を備えた武士層であっても、天皇家との共存体制を構築する事に拠ってのみ、政権は存続し得るという大原則を破った木曽義仲軍に対して、公家衆は勿論、付き従う兵士も激減して行った。逆に攻める源頼朝軍にとっては“謀反人を討伐する”という大義が与えられ、兵士達は益々意気軒昂となって行くのである。

狼狽した木曽義仲は、ここで平宗盛に平氏一門との連携を打診したと言う。凡庸な人物と評されていた平宗盛はこの案に乗ろうとしたと伝わるが、武闘派で知られる弟の平知盛が“木曽義仲が先ず平氏一門に降伏する事が条件だ”として譲らなかった為、義仲との反・鎌倉大連合構想は実現しなかった。

この時期の日本は西に平氏一門、京の都には木曽義仲、そして東には源頼朝が居て、互いに覇権を争うという状態であり、中国の三国志時代の状態であったと言える。

玉葉の1184年1月15日の記事には、木曽義仲はこうした八方塞がりの状況を打開する為、朝廷を動かし、自らを“征東大将軍”に任命させたとある。吾妻鏡には”征夷大将軍“と記述してあり、長い間、どちらが正しいのかについて学説が定まらなかったが、山槐記に、1192年に行われた源頼朝に対する”征夷大将軍”への任官までの経緯が記述されてあり、その分析から木曽義仲は“征夷大将軍”では無く“征東将軍”に任官したという史実が明らかになった事は既述の通りである。

1184年1月20日、源義経・源範頼が率いる6万の頼朝軍と宇治川の合戦となる。木曽義仲軍は7000の兵力で交戦した。多勢に無勢で、勝敗は明らかであった。瀬田の戦いでも敗走し、この戦いで生き残った木曽義仲軍の兵士は僅か13騎であったとされる。

史実としての信憑性は疑わしいが、鎌倉時代に成った源平盛衰記には木曽義仲と常に行動を共にした巴御前の逸話がある。当時27歳であった巴御前は木曽義仲と共に戦い、最後迄生き残った僅か5名の中の一人とされる。物語では木曽義仲に諭されて泣く泣く戦列を離れ東国に落ち延びたと記しているが、他の一級資料には何処にも巴御前に関する記述は無い。

1184年1月21日、木曽義仲は近江国粟津(現在の滋賀県大津市)の戦いで討死する。享年31歳であった。木曽義仲の嫡子、志水義高は源頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉に居た。父親、木曽義仲の状況を知り逃亡を図ったが1184年4月、頼朝の命で討たれた。ここに木曽義仲の60日間の天下は終わり、又、木曽義仲の家系も絶えたのである。

5-(3):義仲寺(ぎちゅうじ)

義仲寺は木曽義仲が討たれた粟津ケ原、現在の大津市馬場1丁目にあり、旧東海道に面したこの寺に義仲の墓所がある。京阪電車の膳所駅からは徒歩で5分程の処である。2014年の10月末に訪ねたがこの寺は何度も荒廃を重ねたが、1967年11月に国の史跡に指定された事が寺のパンフレットに書かれている。

凡そ100~150坪の余り広くない境内には“巴御前”の巴塚がある他、“芭蕉翁墓“がある事に驚いた。俳句を趣味とされる方には周知の墓所なのであろうが元禄7年(1694年)10月に大阪で亡くなった芭蕉翁が不運な生涯に終わった木曽義仲に同情し、生前から”骸は木曽塚に送るべし“との遺言をしていた事に拠ったとの事である。

その他、芭蕉翁が度々滞在して句会を催したと伝わる“無名庵”などがあり、多くの芭蕉翁フアンにとっては聖地なのであろう。

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