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2014年4月17日木曜日

第四章 天皇家が今日まで存続する事に不可欠だった藤原家との500年の“共存体制”の歴史
第5項 天皇家政治権力の衰退と藤原摂関家の絶頂期


前項で記述した様に第61代の朱雀天皇(在位930年~946年)から第65代花山天皇(在位984年~986年)に至る半世紀は、その間に村上天皇期(在位946年~967年)の名目的な“親政”を行った時期はあったが“権威として温存された天皇家”と“実権を持った藤原摂関家”と言う形が明確になった時期であった。つまり政治力を持った、気骨のある天皇が登場する事が無く、藤原氏が摂政、関白職を独占するばかりか、常設する事に成功し“摂関家“と呼ばれ政治権力並びに経済力において”絶頂期“を迎える事になる。

藤原兼家~藤原道長~藤原頼通の3代へとリレーされ、政治権力、経済力、そして文化面の全てに於て“全盛時代”を享受するのである。以下にその栄華を極めた藤原摂関家の3人の権力のリレー状況について記述して行く。

5-1:身内の政争に勝利した藤原兼家(生929年没990年)

前項で藤原兼家の中央政治への登場過程を紹介したが、兼家は遡る事半世紀程前に醍醐、朱雀、村上天皇期に摂政あるいは関白として“天皇家”を支えた藤原忠平の孫に当たる。
又、兼家の父親は祖父藤原忠平の子で、忠平死後に村上天皇が“関白”を置かなかった為に右大臣として活躍した藤原師輔である。

藤原兼家の時代には既述して政争を勝ち抜き、以後は他の豪族との政争も無い状況であった。然しながら権力争いは人間の本性なのであろう、今度は“藤原摂関家内部での政争”が繰り返される時代となるのである。

藤原兼家は次兄との不仲による“いじめ”を耐えて最後には関白職に就いた人物である。
長兄の“藤原伊尹“は円融天皇の摂政にもなり、太政大臣にまで上った人物だったが、49歳の若さで972年に死亡した。

そのあとを継いだ次兄の藤原兼通と藤原兼家との不仲、確執は有名であり兼家は結果として次兄兼通存命中は相当に陰湿な扱いを受け続けるのである。弟の兼家は有能な人物であったのであろう。弟の兼家に出世競争で先を越された次兄藤原兼通ではあったが、紆余曲折の末に終に関白、太政大臣に上り詰めるのであるが弟の兼家との確執は消えず、確執を抱えたまま977年に52歳でこの世を去る。次兄兼通の弟兼家に対する恨みは相当に根深いものがあったのであろう、死の間際に及んでも二人の確執は続き、関白職を望んでいた弟の兼家には譲らず従兄弟の頼忠に譲ったばかりか、兼家の職を“治部卿”に格下げしてから死亡するのである。
こうした仕打ちを次兄から受けた兼家ではあったが、次兄死亡後は円融天皇に入内させた娘の詮子が980年に皇子を生み、986年にはその皇子が6歳で第66代一条天皇(在位986年~1011年)として即位すると、その“摂政”となり以後3代に亘る“藤原摂関家の栄華の時代”に入るのである。

前項までは藤原氏の先人達が“天皇家“と如何に”共存”して行くかを腐心し、その間に割り込もうとする他の豪族や藤原氏を排して“皇親政治”を行おうと画策した“天皇家“との数々の政争にどの様に勝利して来たかについて記して来た。

この項で記述する藤原兼家、道長、そして頼通の時代は“摂関職”という要職、政治権力は先人達の働きのお陰で藤原氏にとっては戦う必要も無く、既に確保されたものになっていたのである。

従って、この時期の藤原摂関家の3代の黄金期は“天皇家“との婚姻関係を更に強固なものにし、合わせて”荘園拡大“等、経済的な基盤を更に拡大していく時代を生きる事に全勢力を傾けた時代なのである。

藤原兼家は長男道隆、次男道兼、5男道長という跡継ぎを残して990年に62歳で後顧の憂い無くこの世を去るのである。ここで一般にはあまり馴染みの無い藤原兼家に関する周辺の情報を紹介しておこう。

兼家には数人の妻が居たがその一人が“陽炎日記”の作者である“藤原道綱の母“として知られており、又、彼女の和歌は百人一首に取り上げられている。そうした点からは夫の藤原兼家より著名な人物である。百人一首の歌は“なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものかは知る”である。この歌でも夫兼家がちっとも立ち寄って呉れない事を嘆いている。“陽炎日記“の内容も夫藤原兼家との結婚生活への恨みとか、道長の母親となる”時姫“との間に夫、藤原兼家を巡っての競争の話、息子道綱の成長の記録などが書かれている。この日記は975年頃の成立と伝わるから兼家は既述したように次兄兼通との不仲の真っ最中の時期であった事が分かる。この“陽炎日記“こそが”女流日記の先駆けと言われ、後の清少納言や紫式部の文学にも大きな影響を与えたものと言われている。

兼家の時代、道長、頼通の時代にも共通するのだが、国内では政敵は殆ど追い落とした後で、藤原摂関家内部での勢力争いがあった程度であった事に加えて、中国、朝鮮半島の周辺諸国の状況は相変わらずの“無風状態”が続いていると言う“ラッキー”な時代であった。

常に脅威であった隣国の“唐”は907年に既に滅び、960年に“宋”として統一される迄の“十国分裂時代”であった。又、長年に亘って日本に遣使をしていた“渤海”は926年に“契丹”に滅ぼされ北アジアは混乱状態であった。 又、朝鮮半島でも新羅が消滅し、936年に“高麗”が半島を統一すると言う之も又混乱状態であった。

5-2:藤原道長の登場と躍進への経緯(生966年没1027年)

第3項で紹介した10人の中の⑨人目が藤原道長である。“この世をば、我が世とぞ思う望月のかけたる事もなしと思えば”の歌は余りにも有名である。この歌は道長自身が書き残した“御堂関白記”には載っていないが“大納言藤原実資“が、当時の政治状況を詳しく書き残した”小佑記“に書かれている。

状況は1018年道長52歳の時である。3人の娘が改築された道長の“土御門第”に一同に会した時に詠ったものである。彰子は第66代一条天皇の皇后であり、この時は“太皇太后“であった。妍子は第67代三条天皇の后でこの時は”皇太后“そして三人目の娘の威子はこの年元服したばかりの第68代後一条天皇の中宮として入内していたのである。
まさに“権威としての天皇家”と“権力の藤原摂関家“の”共存体制“が揺ぎ無い政治体制として完成した当時の状況を象徴する”道長絶頂期の歌“である。

(ア):兼家の五男道長がどの様にして政治権力を得たのか・・兄達の早死

父藤原兼家が990年にこの世を去った後“藤原氏の長”となったのは既に関白職を継いでいた長子の藤原道隆であった。この時点で道長はまだ24歳と若く、一方13歳年上の長男道隆は娘の“定子”を元服したばかりの一条天皇に入内させ、この年990年に中宮になっている。 藤原道隆家は“中関白家”と呼ばれて当時の朝廷の政治勢力の中心に居た。

しかし道隆は政治権力を存分に発揮する間も無く995年に43歳の若さで没するのである。
道隆の後は道長の6歳年上の兄、藤原道兼が継ぐのだが驚く事に兄から関白を継いだ僅か7日後に死亡してしまうのである。 これを“道兼の7日関白”と言うが、こうした兄達の急死に拠って995年に突如として“藤原道長時代”が訪れるのである。まだ30歳にならない道長であった。この時道長は右大臣であった。兄達は一条天皇の関白職であった訳だが、若い道長は関白には就かず“内覧”に昇進する。

“内覧“とは律令制下での”令外官“であり、今日の会社で言うと”社長室長“とか”経営企画本部長“と言った役職に近い。機能としては、律令制下での組織として、二官八省の中の”太政官“が関与する全ての事項、天皇に奏上される全ての文書をチェックし、それらの政務を処理するという重要な役職に就いたのである。因みに、道長はその生涯において、“摂政職”には後で就くが“関白職”に就くことは一度も無かったのである。

この様に道長は995年に兄達が相次いで病死した事によって一気に政治の中心勢力に躍り出たのであるが、翌年の996年には第4項でも記述した“長徳の変”が起こり更に道長飛躍の年となるのである。事件の内容は繰り返さないが、女性問題から花山法皇を間違えて弓矢で射たのが“中関白家藤原道隆”家の“権中納言藤原隆家”であり、それを弟に命じたのが兄の“内大臣藤原伊周“であったから大事になった。

結果は既述の通り二人が流罪となった訳で、道長にとってはこの事件によって“中関白家”として藤原摂関家の中心に居た“長男家“が中央の政治の舞台から姿を消すと言う幸運な事態が転がり込んで来たのである。この”長徳の変“の半年後の996年7月に道長は左大臣へと若干30歳の若さで昇進するのである。”戦わずして道長に栄華への切符を与えた”事件であった。

5-3:道長時代の政治、経済、文化

藤原道長は1027年に62歳でこの世を去るから、996年に左大臣へ昇進した時期から計算しても凡そ30年間の“栄華の時代”を生きた事になる。“藤原摂関家”が政治権力、経済面において道長の時代がピークであったと言う事は、逆に、道長の時代の末期には衰退の影が見え隠れし始めていたと言う事である。

藤原氏が優秀な歴代の人々の功績によって勢力を拡大する事態が起こる事によって、政治の権限と言う観点からも、経済力という観点からも、飛鳥、奈良時代からの“天皇を中心とした律令国家を作る”事を目指した“天皇家”と“藤原氏”との”共存体制“の形には大きな変化が生じて来ていた事は先に記述した通りである。

その時代、その時点に於ける”天皇家と藤原氏“との”力のバランスによって”共存体制“のあり方は変化しながらも、”共存体制”という“形“だけは崩壊させなかったのである。

“天皇家”は奈良時代の聖武天皇期以降、政治力の弱体化を露呈し、継承すら危険な時期もあったが、その度に時の藤原氏の政治力に助けられ、“共存”する事に拠って乗り越えて来た。そして、平安時代に入ってからの“摂関職の常設”という体制に至ったのである。

経済面での“荘園”の発達、拡大は時代を経るに従って、“律令制本来の姿”である“公地公民制”との大きな政治体制上での“矛盾”を露呈して来るようになる。
しかし“政治権力”の面でも“経済体制”の面でもこうした大化の改新以来“天皇家“が当初目指した体制からの矛盾、乖離が“藤原氏自身”に拠ってもたらされた事態であった事は“天皇家の今日までの継承”という結果から見れば幸いな事であったのかも知れない。
何故ならば、政治、経済の両面共当初“天皇家”が目指した“律令国家”体制からすれば“崩壊”に近い状態ではあったが“藤原氏”はこの間“天皇家”との“共存体制”を“破棄”し、“天皇家を廃止“して別の体制を日本に構築するという道を選択しなかったからである。

この時期、既に地方で起こっていた“武士”の台頭など、時代の変化はひしひしと押し寄せて来ていた。新たな政敵も現れ”天皇家”と“藤原摂関家”との“共存体制”のあり方も、遠く藤原不比等が描いた“後宮政策に拠る天皇家との密接な関係作り”だけでは双方共に生き残る事が困難な時代が忍び寄って来ていたのである。

しかし、こうした新しい変化が起きていた時期に“藤原道長と藤原頼通”は結果的には“無策”であった。従って、さしもの栄華を享受した“藤原摂関政治”は終焉を迎える事に繋がって行ったのである。

ここではそうした終焉に至る展開への繋がりを頭に置きながら、それらに対応出来なかった道長、頼通二人の“栄華の時代”を記して行きたい。

(ア):“荘園”の起りとその発展、道長時代の荘園について

天皇中心の政治体制による“律令国家体制”のベースは“公地公民”であった。しかし、時代を経るに連れて、より多くの人民を養い、国家財政を富ませるという視点からはこの制度には無理があった。今日の共産主義国家も“資本主義的私的所有”をある程度認めないと、働く人々にインセンテイブが働かず結果として“国の富を増やす事が出来ない”と言う教訓を学んだのと全く同じ様に、古代日本の為政者も耕作地を飛躍的に増やす必要に駆られて“公地公民制”に手を加えたのである。

具体的には奈良時代に“開発農地の増加”を推進すべく“土地の私有化”を認める法律が出される。723年の“三世一身の法”がそれである。この法律が出されたのは平城京に遷都してから13年後、第44代女帝元正天皇の時であり藤原不比等が死去後の721年に右大臣になっていた“長屋王”が政治の中心に居た時である。

この“長屋王”は不比等の子供達、藤原四兄弟の“政権奪還”の動きにあってその地位を6年後の729年には追われてしまう人物であるが、その政変については既に述べた通りである。この法は本人、子、孫の三代に限った“期限的私有”を認めるものであり“律令制”が大原則とした“公地公民制”をかろうじて守る制度ではあったが“私有”と言う“人間の意欲”を満足させるものでは無かった為に墾田開発は進まなかったのである。

そこで、20年後の743年に“墾田永代私財法”が第45代聖武天皇の下で制定された。この法律は“藤原四兄弟”が天然痘の大流行で揃って737年に病死した後に、聖武天皇に重用され左大臣にまで昇進していた“橘諸兄”時代に出来た法律である。この橘諸兄も藤原弘嗣の乱や続く藤原仲麻呂との政争によって長屋王の場合と同じ様に追い落とされるのである。“初期荘園“の出現に関わる法律を作った勢力が共に”藤原氏“によって追われ、これら”公地公民“という当時の律令国家体制の大原則を崩す”土地の私有化”を許す法律のメリットを最も享受するのがその政敵を追い落とした“藤原氏”となるのである。

“墾田永代私財法”が出来てからは中央貴族、大寺社、地方豪族などが活発に開墾を行う様になる。こうして“大規模土地所有”が出現し現地には管理事務所(これを荘と呼んだ)や倉庫等を備える様になる。之を“初期荘園”と呼び“公地公民”を原則とした当初の“律令制”が崩れて行くのである。

こうして起こった“初期荘園”は平安時代に入ると“免税農地”が大規模化して“免田寄人型荘園”と呼ばれる荘園へと発展する。この段階では“公地”のみならず“公民”までをも“ 私的支配”する様になる。こうして確保した“私有地”には中央政府から“租税徴収”の為の厳しい検査が入る。これは開発した当人にとっては厄介な点も多く、むしろ中央政府の有力貴族、有力寺社等へ開発した田地を“寄進”し、その見返りに“保護、利益”を得る方が実質的に得策でありこうした動きが法の執行が厳しく行われた畿内地域で特に活発化して行く事になるのである。

皇室、摂関家、大寺社はこうした“寄進地系荘園”保有の主体となり、政治面で“天皇中心政治”が弱体化して行く状況と相俟って、為政者達自身が自らが目標としていた“律令国家体制”を徐々に崩壊へと導いて行ったのである。

藤原道長の時代には全国に膨大な“荘園”を所有し、経済的基盤、政治的基盤共に“全盛期”を享受した。“荘園制”の肥大化に対しては、歴代の天皇は“荘園整理令”を出して抑えようと何度もして来た。それにも拘わらず藤原摂関家の荘園は増え続けたのである。

藤原道長がこの世を去り、宇治平等院(1052年)で有名な頼通も関白の座を去った1069年に第72代後三条天皇は強力な整理令(延久の荘園整理令)を出すのだが、時すでに遅しで、この天皇の強い意向をもってしても効果が無かったと伝えられる。 この後三条天皇は藤原氏出身の母親を持たない天皇であり、従って摂関家の荘園をも対象とする荘園整理令を出すと言う強い行動に出たのであるが、相変わらず人々が時の権力者に対する“寄進”行為は増え続けるという状態で何度も出された“荘園整理令”は破綻という状況になるのである。

この時代以降も権力者の荘園保有は増え続け、藤原摂関時代が終焉し、以後“院政時代”に移るのであるが、逆にこうした“荘園の受領層”が“院政“の取り巻き連中となり、助ける側になるのである。さらに荘園は武家が政権をとる平安末期から12世紀後半にかけてその規模に於いて”最盛期“を迎えるのである。

イ:荘園支配者の変遷と終結の歴史

平家の時代が終わって鎌倉時代になると守護、地頭が権力者として登場する。そして特に地元に根ざした武士である“地頭”によって荘園の支配権が“簒奪“される事態が発生する様になる。そもそも”地頭“の設置は源頼朝が義経の謀反に対して1185年に時の後白河法皇から任命許可を得て配置した事に始まるが、頼朝による”武士権力の時代“とは、源頼朝と共に戦い、その報酬として御家人と言われる武士が”領地を頂きその御恩に対して奉公する“という事をベースとする新しい統治の仕組みであった。

これを“封建制”と呼ぶが、律令制の“公地公民制”の時代、“荘園制”の時代とは異なる土地所有の形が現れ、従来の“荘園領主”も徐々に形骸化して行く事になる。

時代はとんで1352年に足利尊氏によって“室町幕府”が開かれるが“荘園”はまだ存続していた。 ただ支配形態は、中央貴族、寺社、武士、在地領主など、その所有、支配の形は“重層的”且、複雑に絡み合う状態であった。そして応仁の乱を境にわが国は“戦国時代”となる。

この時代になると国単位で戦乱を抑える為に“守護の権限強化”が認められ、これを逆手にとった“守護”が“荘園を支配”する状態になり、結果として彼らが“守護大名”として“戦国時代の権力者“として勢力を伸ばして行く様に変化して行くのである。

又、こうした動きの一方で、“惣村”と呼ばれる“自立した村落”も出現するケースもあった。関東地区ではそれが更に大規模化した“郷村”が出現したケースもある。この様に、様々な土地の領有の形態があったが、緩やかにではあったが、確実に“荘園”は解体して行ったのである。そして戦国時代も末期になると“守護大名”をベースとした”戦国大名“の出現となる。彼らによって地域支配は強化され、”荘園“を奪い、家臣や寺社に与える様になる。
“荘園“はこうした”蚕食”によって食い尽くされて行ったのである。そして“荘園制度”にとどめを刺したのが1580年以降行われた“豊臣秀吉”による“検地”である。之によって“一つの土地には一人の耕作のみを認める”と言う制度となり、重層的な土地所有の状態も解消された。 ここに“荘園”は完全に解体されたのである。

(ウ):取り立てた功績が認められない藤原道長の国内政治と社会状況

藤原道長が権力の中枢に居た“藤原摂関家の絶頂期”の日本の社会情勢、政治情勢は上記の様に律令制の崩壊過程であった。 既に有力な武士団が台頭しており、特に地方の行政は“土着受領型豪族”が実権を握っていた。そうした“受領任せ”と言う状況が広がり、中央の天皇家、貴族による政治は“空洞化”が起きていた時代であった。

こうした状況に“藤原道長政権”がさしたる政策を講じた形跡は見られず、種々の記録によると当時の治安は悪く、都の中ですら群盗対策は放置の状態であったと言う。

又、天皇家、藤原摂関家を初めとする貴族、寺社などに拡大する”寄進型荘園“を護衛する為の”武士“が増え、中央貴族は傭兵として”武士“を抱えたり、寺社でも多くの”僧
兵“が登場する世の中となって来たのである。

道長の政権の時代は既述した様に996年に第66代一条天皇時代に右大臣から左大臣になった頃からと言える。この頃から以降に藤原道長は中央政府の実力者としての活躍がスタートするのである。政治の中心に躍り出てから20年を経た1016年に、道長は何かと確執があり、重い目と耳の病気を抱えていた第67代三条天皇を強引に譲位させ、娘“彰子“と一条天皇との間に生まれた第二皇子を”第68代後一条天皇“として僅か8歳で即位させ、その摂政に就くのである。そして既述の通り、次々と3人の娘を入内させ、その3人の娘が夫々に皇后となり、1018年の“この世をば~”の和歌に繋がる“栄華の時代”を謳歌する事になるのである。

この間30年間と言う長期の“藤原摂関家栄華の時代”を送って、道長は1027年に61歳で没する。“藤原摂関家”が政治権力を握り、“天皇家“は国家の権威として”祭祀“”国家儀式“を主催するという役割分担が藤原道長の時代には、はっきりとしていたのである。ある意味では”今日の天皇家の機能“と”政治権力“との分担状態に近い形が道長の時代の姿であったとも言えるのである。

当時の朝廷の“儀式”については弘仁(第52代嵯峨天皇)貞観(第56代清和天皇)延喜(第60代醍醐天皇)の三代に亘って“官撰儀式書”が作られた。 現在は“貞観儀式書”しか残っていないが、“天皇家“並びに”平安貴族“にとって”儀式“に精通している事が当時の中央で重用される為の主要な要素となっていたのである。

(エ):平安時代の遣唐使の状況推移と道長時代の対外関係

上記の様に国内的には大きな時代の変化と言う波が忍び寄っていた時期にも拘わらず、道長はそれらの変化に対しては“無策”の政治姿勢のまま“摂関政治絶頂期”と称される“道長政権”時代を謳歌していた。何度も繰り返すが、こうした無策政治が可能であったのは奈良時代後半の記述の処で述べた状況と同様、政治の要諦である“外交問題”にさしたる大きな問題や危険が無かった状態が続いていたからであり、且つ脅威となる政敵が不在であったという状況に因るのである。

周辺諸国の状況を繰り返すと、まず巨大王朝であった“唐”は道長が生まれる60年も前の907年に“朱全忠”によって滅ぼされ、その後の分裂時代を経て、960年に”宋“として統一王朝が出来たばかりと言う状況であった。“唐“こそが、既述して来た様に、飛鳥時代から日本が崇敬し、恐れ、戦い、そして国家体制を学ぶ手本とした国であった。その手段が危険を冒しながら何度も行った”遣唐使“であった。その“遣唐使“の役割も唐の衰退によって空海、最澄が渡った803年~804年が実質的な最後となった。 法律、仏教、並びに”唐物“として珍重された品物の輸入、留学生の派遣などを行った”遣唐使”は200年に亘る役割を終えていたのである。

“国家作り“としての遣唐使は役割を終えていたが、”貿易“という形での”唐“との交流は続いて居り、貿易としての”遣唐使“に努力した天皇もいた。第54代仁明天皇である。

当時は国としての公式な遣唐使派遣は中断状態が続いていた為、危険な遣唐使船の航海技術が失われており、その為、何度も航海に失敗したと伝えられる。それにも拘らず仁明天皇は遣唐使船を出す事を繰り返した。

838年、強引に大宰府から出航した遣唐使船は無事に到着し、翌839年に同じ大宰府に帰着する。この事は道長が生まれる130年も前の事であるが、当初の国家目的と言う崇高な目的の為の遣唐使では無く、危険を冒しての“貿易船”の派遣であった。

こうした仁明天皇の行為からは、天皇家はじめ、平安貴族の間では“唐物”に対して依然として非常に強い“憧れ”があった事が分かる。記録によれば仁明天皇はこうして危険を冒して手に入れた“唐物”の“受け入れ儀式“を仰々しく行い、それらの品々を陳列し、そして貴族連中に分け与えると言う大イベントショーを行ったと言う。こうする事で”天皇の権威“を誇示する事も目的の一つであった様だ。

菅原道真が10年に亘る“黄巣の乱”(875年~885年)も起こり、唐は衰弱しており、最早日本として学ぶものは無い、従って遣唐使は中止すべきである”との建議を894年に宇多天皇に提出し、国と国との公式な遣唐使は廃止されていた。

藤原道長の時代の中国は“宋”が統一王朝となっていたが、国として正式な交流は無い時期であった。その他の周辺諸国では北アジアに668年に滅びた高句麗の後に、ツングース系の“渤海”が起っていた。天武天皇時代に興った国であったが、926年契丹に滅ぼされるまで260年も存在した国である。この国は能登半島なども含め、日本に使節を34回、長い期間に亘って送って来るなど頻繁に交流があったのである。

渤海の後に“遼”の時代になったが、北アジア地区には抗争が多くあった時代であり、日本との間に積極的な交流は無かった。又朝鮮半島も新羅(356年~935年)の後に興った“高麗”とも、この時期、積極的な交流は無く、総じて“国際的に日本は孤立していた”時期であったと言えよう。

ただ、1019年4月に女真人(刀伊)が対馬、壱岐、そして筑前に“入寇“すると言う大事件が起きた。これが道長時代の唯一の外交問題であったが、この時道長は出家をした直後であり、この来襲に対しては大宰府権師の藤原隆家が撃退し、事無きを得ている。

この藤原隆家の名前は一度記述した事を覚えている方も居られよう。“長徳の変”で兄の内大臣藤原伊尹の代わりに矢を射たあの男である。あの事件を繰り返して記述すると、ハレンチ色事法皇の花山法皇が兄伊尹の女性に手を出した(実はその女性の妹の方に法皇は通い始めたのであった)ものだと誤解して、兄の意向を受けて法皇に矢を射た弟である。その罪で藤原隆家は出雲に流された事は既に記した通りである。あの事件からすでに23年が経っており、あの藤原隆家は40歳になっていた。そしてこの時点では大宰府権帥として赴任していた時期であったが、ここでも持ち前の勇気と潔さは変わっておらず、刀伊入寇と言う国防上の大事を中央政府の援助一切無しで自ら撃退したのである。

この事で藤原隆家は“日本の領土に上陸した敵軍を最初に撃退した人物”として有名を馳せる。この“刀伊入寇事件“に対しても道長の中央政府は”無策“であり藤原隆家の勇気とリーダーシップに拠る撃退によって”外的侵入“と言う日本国としての難を逃れたのである。

(オ):道長時代と平安文化

道長の長兄、中関白家”と呼ばれた関白藤原道隆は娘“定子”を一条天皇の中宮として入内させた。“枕草子“で有名な清少納言はその定子に仕えていた。枕草子が完成するのは1001年頃と言われているから、皇后定子が25歳の若さでこの世を去った1000年12月の直後の完成と言う事になる。

又、藤原道長の娘“彰子”も1000年の2月に同じく一条天皇の中宮となった。皇后定子はこの年の12月に亡くなるのであるが、この時点で一条天皇は皇后定子と中宮彰子を同時に持ち“一帝ニ后”という初めてのケースが一年弱は続いた事になる。中宮彰子は源氏物語で有名な紫式部を抱えていた。54巻からなる源氏物語を紫式部が書き始めたのは夫の藤原宣孝(のぶたか)と死別した1001年からではなかろうかと言われている。

源氏物語全54巻がどの時期で完成したのかは不明であるが、紫式部が中宮彰子に使えていた1005年から1006年頃かと言う説が多い。又、全54巻は、完成してから一度に世に出されたのでは無く、数巻ずつ世に出されて行ったと言うのが通説となっている。

外交の処で記述した様に、道長時代の日本は、国際的に“孤立状態”であったからこそ、清少納言、紫式部の文学作品を代表にした“国風文化が発達した時代なのだ”と結論付けるのは短絡な意見であろうと思われる。仁明天皇の貿易船の例で既述した様に、“唐風(中国)”文化、物品への貴族を中心とする“渇望”は根強いものがあり、積極的に中国始め外国の物品の輸入は行われ続けていたのである。

国として、遣唐使が廃止されるなど、公式の国交は展開されて居らず、“鎖国状態”に近い状態ではあったが“唐物”に対する価値観、要望、理解は相変わらず強いものがあり、貿易等によって、ある意味ではむしろ、より深まって行った時代であったと理解すべきであろう。従って嘗ては“国と国との外交“が中心であった対外関係がこの時期には”貿易主体の対外関係“に大きく変化して行った時期である点に注目する事が重要なのである。そしてこうした動きの延長線上に“宋”との“貿易“を自ら先頭に立って進め、後に政治権力を得る事になる”平清盛“の時代へと繋がって行くのである。

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