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2014年4月17日木曜日

第四章 天皇家が今日まで存続する事に不可欠だった藤原家との500年の“共存体制”の歴史
第4項 藤原摂関家の常設化に至る経緯


4-1:醍醐天皇の親政(在位897年~930年)時代と藤原忠平の登場

醍醐天皇は左大臣藤原時平が909年にこの世を去り、右大臣の源光も913年にこの世を去った後は、“延喜の治”と後世呼ばれる“親政”を行った。既述の“延喜の荘園整理令”を出したり、“延喜格式“の整理に拠って”律令制の維持“に努力したのである。

藤原氏の政治勢力は、この時期には以前の“良房、基経”時代程の強引さは無く、その意味では力を失ってはいたが、藤原時平の後を受けた、弟の“藤原忠平”も醍醐天皇の信任を得て、“右大臣”として“天皇親政“を支えていた。天皇家と藤原氏との”共存体制“が緩やかに進行していた時期である。

藤原忠平の名は余り馴染みは無いがこの人物は後に朱雀天皇の“摂政”を務め太政大臣にも上る。この時期に藤原氏は又しても有能な政治家に恵まれたのである。

この藤原忠平をあえて特筆するならば“平将門の乱”を起こす将門がまだ14~15歳の頃に都に出て朝廷勤めを経験したのだがこの時仕えた“主人“がこの忠平だったのである。

4-2:律令制の矛盾露呈過程と藤原氏の関わり

藤原氏は紆余曲折はあったが律令国家の成立を助け天皇を中心とした中央集権国家造りに祖の鎌足、不比等時代から代々尽力して来た。しかし既述の様に、爾来、200年以上を経るにつれて、国自体の規模の拡大、経済状態の変化、それらに伴う藤原氏自体の政治的立場に当然の事ながら変化が起こるのである。

具体的には、“律令国家体制”そのものに、多くの矛盾状態が現れて来ていたのである。
例えば、“公地公民制”の原則に対する藤原氏等の“荘園”の拡大であり、866年に藤原良房が得た“人臣摂政”そして888年“阿衡事件”の末に基経が就いた“関白”職を藤原氏が独占すると言うあり方も本来目指した“天皇中心の律令国家の姿”からは逸脱するものである。

こうした状況に対して第60代の醍醐天皇、第62代村上天皇は律令制本来の“親政”を行う事に舵を切る。既に述べた“延喜の荘園整理令”を出したり、“延喜格式”を整理して律令制の補強をするなど、後の村上天皇時代と合わせて、“延喜天暦の治”と称される“親政”を行って“天皇を中心とする律令国家”の原点復帰を目指したのである。
しかし、”天皇家“の後継者に醍醐、村上両天皇の様な政治力のある天皇に恵まれた訳では無い。藤原家は”天皇家の人材枯渇”状態に乗じて“天皇家との共存体制”の形を徐々に良房、基経が獲得した“摂政関白“という地位を”藤原家”独占のものとして“常設“すると言う形で固めて行くのである。

4-3:第61代朱雀天皇(在位930年~946年)即位と“摂関”の復活

父親の醍醐天皇が930年に45歳の若さで崩御し、僅か8歳で即位したのが朱雀天皇である。母親は関白藤原基経の娘であったが、当時は菅原道真の怨霊を真顔で信じた時代であったから、この母親は朱雀天皇を幼児の頃から一切御簾の外に出さないで大切に育てた。
結果、この幼帝は気の弱い、優しい性格の天皇であったと伝えられている。

この幼帝に“摂政”として就いたのが醍醐天皇の信任厚かった基経の子“藤原忠平“である。既に909年にこの世を去っていた藤原時平の弟である。この朱雀天皇の時代の935年に天下を揺るがせた“平将門の乱”が関東で起き、翌936年にはこの乱に呼応したかの様に藤原純友の乱が四国で起こる。

二つの乱は夫々940年と941年に、平将門と藤原純友の死で決着する。この時、朱雀天皇は僅か13~14歳であり、これらの乱の収拾を行ったのが藤原忠平であった。彼はこの時すでに61歳の老政治家であったが、朱雀天皇を摂政、太政大臣として助け、後に関白としてこの難しい時期に、“気は優しいが軟弱”な朱雀天皇を助けて乗り切ったのである。

4-4:名目だった第62代村上天皇(在位946年~967年)の皇親政治への復活

この軟弱な朱雀天皇を譲位させ、弟の第62代村上天皇を即位させるべく動いたのは藤原忠゛平の子である“藤原師輔”であった。村上天皇即位時には忠平は既に66歳になっていた。
しかし、平将門と藤原純友の乱(承平、天慶の乱)で朝廷の財政は逼迫しており、村上天皇の必死の“倹約”政策で経済を安定させ乗り切り、“天暦の治”と讃えられたが、実態は舅でもある関白藤原忠平の“財力”によってこの財務危機を乗り切ったのである。

村上天皇即位3年後の949年に藤原忠平は死亡する。村上天皇はその後関白を置かなかった。この事から“皇親政治復活の天皇”と称されるが、上記のような財政状態であり、藤原氏の財力を頼まざるを得ない状態であった事、政治面でも、実権は忠平の子で左大臣になっていた藤原実頼、そして同じく忠平の子、右大臣藤原師輔が握っていたというのが実態であった。

こうした史実からも“村上天皇の皇親政治”と後世は讃えるが、名目だけだったと言えよう。村上天皇が後世、評価されるのは政治面よりも“平安文化を開花させた天皇”としてではなかろうか。ユニークな日本の楽器である“琴”“琵琶”に精通した天皇であったし、和歌にも優れ、“後撰和歌集”の撰集は有名であり、自らも“清涼記”を表してもいる。又、和様書道の基礎を開き、小野道風、藤原佐理、藤原行成の“三跡”を輩出する文化期の天皇として有名なのである。

村上天皇は967年に41歳の若さで崩御するが、小野道風も同じ年に73歳でこの世を去っている。村上天皇の生存中は、村上天皇の多大な内政改革の努力があったが、実態は、政治的にも、財力的にも、巨大勢力となっていた“藤原氏”との“共存体制”無しにはあり得ない“天皇家”の状況であったのである。

崩御100年後に子の昭平皇子を祖とする“村上源氏”が“公卿系源氏”として勢力を拡大し、白河院の時代には当時の全公卿の過半数を占めるように成り、“藤原摂関家凋落“の大きな要因となる。生存中は何かと藤原氏の強い圧力下にあっただけに泉下の村上天皇は漸く溜飲を下げる事が出来た事であろう。

4-5:奇行の第63代冷泉天皇(在位967年~969年)の即位で藤原氏による摂関職の常設化への動きとなる

今上天皇で第125代目となる訳であるから、第63代は丁度真ん中当たる。この天皇の前後から、“天皇家”にとっては余り幸せでは無い時期が続く。だから、表題の“藤原氏による摂関職の常設“化がなされる様になったとも言えるし、”天皇家の権力も権威も凋落の危機“にあった時代だとも言えよう。

まずは、960年に、後述する藤原道長の祖父の藤原師輔が死亡する。師輔は村上天皇の皇后藤原安子の父親でもあった有能な政治家であった。又、この年960年は平安京遷都以来一度も焼失した事が無かった“内裏焼失”という不運に見舞われた年でもあった。

967年には“天暦の治”と後世讃えられる村上天皇が41歳で崩御、ここで即位したのが問題の“奇行”の冷泉天皇である。その奇行振りの詳細については平安後期の学者で後三条、白河天皇時代に朝典儀礼などについて書き残した“大江匡房”が17歳で即位したこの天皇の数々の奇行を記しているのでそちらを参照願いたい。

即位の直後から“奇行”の連続の困った天皇で、明らかに“精神的に病んだ天皇”であった事は間違い無く、場所を選ばぬ数多くの奇行、前代未聞の政務中の奇行も記録されておりこの天皇を擁立した左大臣藤原実頼は終に僅か2年でこの天皇を引きずり下ろす事になった。ではそもそも村上天皇の数多居る皇子の中から何故この“精神的に病んだ、奇行の皇子”が即位したのであろうか。この史実からもこの時期には”天皇家”と“藤原摂関家”との“共存体制“は明らかに”権威として存在するだけで充分な天皇家“を”政治権力と財力を握る藤原家“が祭り上げ、擁立していた状況であった事が分かる。

だがいくら、“祭り上げるだけの天皇家”であった当時だとしても流石にこの奇行の天皇には、即位時点から藤原家としては困惑した事であろう。結果として僅か2年で退位となるのであるが、当時の天皇擁立のプロセスとしては、時の権力者、藤原実頼、師輔がこの冷泉天皇が、まだ、生後間もない幼少の時に皇太子として決めてしまうというプロセスが通例であったのである。

村上天皇の急な崩御を受けて、その皇太子が天皇に即位したと言う自然の流れであったのである。生後間もない幼児の時点で後継者としての皇太子に就ける事自体に人物を見極めないプロセスであり、冷泉天皇の場合にまさしく天皇即位という重大事項に対する擁立のプロセスを軽視したリスクをまともに蒙ったのである。流石の藤原家としてもまさか冷泉天皇がこれ程迄の奇行の天皇になる事を幼児期には見抜けなかったと言う事であろう。

17歳でこの奇行の冷泉天皇が即位した訳であるが、この天皇を“補佐”せねばならない事は誰の目からも明らかであり、その結果として途絶えていた“関白職”に藤原実頼が就くのである。上記の様に“権威“としての”天皇家“と”政治権力“としての”藤原家“との”並存システム“は既に確立はしていた訳ではあるが、この就任以降、藤原氏による”摂関職“が常設となるのである。

この事を捉えてこの“精神的に病める17歳の皇太子を敢えて天皇即位へと進めたのは藤原氏による”摂関職常設化“への策略だとする説もある。969年にこの奇行続きの19歳の冷泉天皇は弟の第64代円融天皇に譲位させられるのである。

4-6:第64代円融天皇(在位969年~984年)即位と周囲に敵なし状態の藤原摂関家

周囲の豪族を数々の政変で既に追い落して来た藤原氏ではあるが既述の新たな政敵が育って来ていた。“賜姓皇族”とりわけ勢力を伸張して来た“公卿源氏”である。
円融天皇の擁立に関しては“安和の変“と呼ばれる政争が起り、公卿源氏で左大臣に昇進していた”源高明“がこの擁立に反対した為に密告され大宰府に流されるという結果になった。こうして“公卿源氏勢力”までをも追い落とす事になった藤原摂関家の藤原実頼は冷泉天皇の関白職から今度は10歳で即位した円融天皇の“摂政”として補佐する役職に就くのである。こうして第61代朱雀天皇が930年に即位して以降第72代白河天皇が1072年に登場する迄の実に150年間程の期間に亘る常設状態の安定した“藤原摂関期”を迎えたのである。

政治体制の視点からはこの時期は“律令国家”体制の維持の努力が行われる一方で、その実態は天皇家と“共存体制”を築いて来た藤原家自体が“天皇中心の中央集権国家”並びに“公地公民制”という律令国家の根本を壊すと言う存在であったのである。
中央の政治に於いては”藤原氏による摂関職の常設化“と言う形で藤原氏が政治を牛耳る”黄金時代“を間近に迎えていたし、公地公民制どころか、藤原氏の”荘園“は全国に拡大を続けていたのである。

円融天皇は15年間天皇の地位にあったが、この間僅か10ケ月で即位した幼帝の摂政として藤原実頼が就きその後を藤原伊尹が同じく摂政を引き継いだ。そして天皇が元服すると、藤原兼通、頼忠らが次々と常設の関白職に就いた時期であった。円融天皇が天皇として自ら政治を執る事は実態としては全く無く、984年に僅か25歳で17歳の第65代花山天皇に譲位するのである。

この新帝花山天皇の即位は既に政治権力、経済力に於いて、向う処敵無しと言う状態であった“藤原摂関家”を更に強力にし、全ての権力を独占する好機となったのである。

政略的であったのかそうでは無かったのかは判らないが“新帝花山天皇”も父親“冷泉天皇”に負けない程の奇行の天皇であったのである。
この天皇の即位も、先帝の円融天皇が即位した際にわずか10ケ月の赤子であった時点で既に皇太子に決まっていた事から次期天皇に即位する事は決定していたのである。

古代日本では天皇としての素質などを吟味してから即位は決められた時期があったが、政治の実権を藤原氏が獲得していたこの時期には、血筋だけで次期皇太子、そして結果としての天皇即位が決められていた時期であった。従って花山天皇の即位プロセスも当時通例として行われていた天皇即位決定のプロセスで決められたのである。

二代前の“冷泉天皇”の皇子であることから、血筋の面から“花山天皇”も“精神的に病んでいる”と言う可能性はある訳だが、当時はそのような、遺伝学上の推論などはしなかったのであろう。伝えられている話に拠ると、譲位を決断した円融天皇としては、花山天皇は兄、冷泉天皇の皇子であるのだから自分が退位する際には、この皇太子(花山天皇となる)に譲位する事が順序であると、兄弟の間で約束されていたと言うのである。

4-7:繰り返された奇行天皇即位と“藤原摂関家黄金時代”の到来

984年に先帝円融天皇の後を受けて奇行の多かった二代前の冷泉天皇の第一皇子である第65代花山天皇(即位984年~986年)が17歳で即位する。やはり父親冷泉天皇の血筋を受け継いだのであろうか、親譲りの奇行がいきなり起こる。天皇に即位する即位式の場で、傍で働く女子に目をつけ“その場でハレンチな色事行為に及んだ”事が記録されている。

この件に止まらず、花山天皇は生涯を通して、この種の色事スキャンダルに終始した天皇であり、父親と全く同じく僅か2年、19歳で退位させられるのである。そしてこの退位劇は藤原氏としてはさらなる勢力伸張の機会となり“藤原摂関家黄金時代“へと結び付いて行くのである。

藤原氏の⑩人リストの8番目に書いた“藤原兼家”がこのチャンスを捉えたその人物である。当時右大臣であった“藤原兼家”は長子の藤原道兼を使って奇行の花山天皇を元慶寺に連れ出し騙して出家をさせてしまう。父子2代続けて、僅か2年の在位での天皇の位からの強制退位となったのである。権力絶頂期の藤原摂関家も親子二代で続いた奇行天皇の登場には流石に手を焼いたものと思われる。藤原氏がこの時期の様に天皇の即位に関して絶大な決定権を持つ以前には宇多天皇が“賜姓皇族”から天皇としての素質を見抜かれて“臣籍”から再び引き上げられて天皇として即位した例に見る様に、又、皇太子の立太式もそうであった様に、“政治能力、人物としての能力を相当に考慮して天皇の人事は決められていた”のであるがこの時期になると“天皇家”の存在は“皇統として正当な血筋さえ継承していれば政治的能力は不問”と言う“お飾り的天皇”と言う存在になってしまっていた事が分る。

強制的に譲位させられた花山天皇は“花山法皇”となる訳だが色事スキャンダルは一向に治まらず終に996年、花山法皇が28歳の時に起こった“長徳の変”が藤原兼家の息子である藤原道長に“出世“の大きなチャンスを与える事に繋がるのである。

この事件も大江匡房(おおえのまさふさ)(生1041年没1111年)の“江記”に書いてあるので詳細は省略するが、時の内大臣藤原伊周が自分の女性を奪いに来たものと勘違いして屋敷に来た花山法皇を弟の権中納言藤原隆家に弓で射させるという色事スキャンダルが起きたのである。

これは内大臣藤原伊周側の早とちりで、花山法皇が通い始めた女性は伊周の相手の女性では無く、その妹の方であったという喜劇のような事件であった。間違いだった上に時の“花山法皇”を弓矢で射たという事は大事件であり、藤原伊周並びにその弟の藤原隆家は夫々太宰府権師と出雲に流されたのである。この伊周は藤原道長の甥に当たるのだが、日頃から道長との間に確執があり、この事件後の道長による処断は厳しかったものと伝わっている。道長にとっては伊周を追い落とす又と無い好機であり、之によって道長は右大臣から左大臣へと出世する事になった。

花山天皇(法皇)の名誉の為に彼が後世に残した文化面での多くの功績について記して置こう。伊勢の熊野那智大社の記録によると花山法皇は千日の滝篭りを行ったとある。信心深い人物であったのだろうか。現在も続いている“西国三十三箇所巡礼”は花山天皇(法皇)が始めた“観音巡礼”がその元となっていると言われる。その他、建築、絵画、工芸、造園、そして和歌などには優れた文化人であったらしい。“拾遺和歌集“を撰したのも花山天皇(法皇)である。

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