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2014年4月17日木曜日

第四章 天皇家が今日まで存続する事に不可欠だった藤原家との500年の“共存体制”の歴史
第3項 平安時代初期の藤原氏の権勢伸張と天皇家との攻防


3-1:平安時代の記録“六国史”について

日本の古代国家の成立から平安時代初期迄の日本の歴史書としては以下の六つの“国史”が記録されている。
前章で記述した飛鳥3天皇については、神代から持統天皇期(697年8月)迄を記録した“日本書紀”の記録が主となっており、この章で記述している事は“続日本紀“の記録に拠るところが大きい。

天武天皇が中国王朝に倣って国の統治者として“正史“作成の重要さに着目し”日本書紀“の編纂に着手した事が以後、続日本紀(697年~791年:主編纂者:藤原仲麻呂)日本後紀(792年~833年:主編纂者藤原冬嗣)続日本後紀・・等の”正史“編纂へと受け継がれて行く。最古の歴史書として“古事記”があるが、古事記は上記“六国史”とは書かれた趣旨が異なり又内容も異なる部分がある事は既に述べた通りである。

“六国史“は中国、朝鮮半島諸国等、海外の人々に向けて書かれた”国としての正史“という明確な役割がある。一方古事記は神代時代からの神々が引き起こす生々しい争い、自然との関わり、国産み神話などを通して”日本建国の精神“が読み取れる生々しい神話、天皇家の内部での血生臭い事までもが書かれている。史実との整合性は兎も角としても、日本国創建に至る神話の意味、天から降臨した神がこの国を統治するまでの過程でどんどん人間界と同化してゆく過程の物語、そして仁徳天皇以降の”下つ巻“からの来物語は人として”天皇“の物語として書かれている。従って”日本の建国の趣旨、過程“の歴史を勉強したいと思う人々にとっては、先ずは“古事記”を読む事が必要であるし、役立つと思うのである。

“六国史“の話に戻るが、”続日本後紀”は第54代仁明天皇の時代を記述した“正史”であり、833年から850年迄を記録している。後述する藤原摂関政治の確立に大きな貢献をした藤原良房らが中心となって編纂した。5番目の正史が第55代“文徳天皇実録“(在位850年~858年)である。この天皇は藤原良房の甥っ子であり藤原氏による摂関政治がいよいよ軌道に乗って来る時代の記録である。初の関白となる藤原基経が主たる編纂者であった。

六国史の最後が“日本三代実録”である。政敵“菅原道真”を追い落とした事で悪名高い“藤原時平”がその”道真“と共に編纂者となって、858年から887年の時期、つまり第56代清和天皇から第58代光孝天皇の三代を記録した正史である。ちなみに道真と時平の政争が起こるのは901年の事である。

日本最初の正史“日本書紀”は古事記と同じく天武天皇の命によって編纂が開始されたが後の五つの“国史”は全て“藤原氏”が主たる編纂者である。この事からも、藤原氏は祖鎌足以降、すでにこの六国史が編纂された時点でも200年以上に亘って、時には天皇家と対立しながらも、結果において、天皇家と共存する形で日本の政治体制を型作って来たのである。藤原家自体が天皇家を滅ぼし、取って代わろうと言う動きは、時代を経れば経る程不可能となって来たのであろうし、又、実質的政治権力と言う意味からも、藤原氏にとってもあまり得策では無くなって来たのであろう。

結果として以下に記すように、藤原家は天皇家との“共存体制”という道を選択した訳であるが、こうした“二人三脚体制の選択”が今日迄、天皇家が継承されて来た決定的と言える程重要な要因であった事が明白である。
そうした点に焦点を充てて天皇家と藤原氏との共存関係が平安時代を通してどの様に展開して行ったかを以下に記述して行く。

3-2:第49代光仁天皇(在位770年~781年)即位と藤原百川の登場

政争続きだった奈良時代も末期に入り、770年に62歳という高齢で光仁天皇が即位し政治的には漸く落ち着いた時代に入る。光仁天皇は我々にはあまり馴染みの無い天皇ではあるが天智天皇の孫に当たり、僧道鏡事件の後の仏教改革を行ったり、綱紀粛正、蝦夷対策を行うなど続く第50代桓武天皇による政治改革の露払い的役割をした天皇である。

この光仁天皇擁立に貢献したのが藤原氏式家の百川である。又百川は兄の藤原良継そして当時左大臣であった北家の藤原永手と手を組んで道鏡追放の暗躍をした人物である。
百川は桓武天皇が即位する2年前の779年に48歳の若さで没しているが、桓武天皇擁立の中心人物であった事もあり、桓武天皇は彼の子孫、藤原緒継を重用する事に繋がって行く。
恵美押勝(藤原仲麻呂)以降後退していた藤原氏を再興する人物がこの様にタイムリーに又しても現れた訳である。

3-3:第50代桓武天皇即位(在位781年~806年)

桓武天皇と言うと“平安京遷都”を想起する人が多い訳だが、実はこの天皇はその前に“長岡京”遷都も行っている。二度の遷都を行った天皇である。桓武天皇は781年に即位した直後に2大事業に取り掛かる。第一の事業はなかなか中央の朝廷政府に服従しなかった“蝦夷”の統治事業である。5代前の聖武天皇が即位した724年に蝦夷は大きな反乱を起し、朝廷側は対抗として宮城県に多賀城を設置して蝦夷反乱の鎮圧と陸奥地方の経営の拠点とした。以後、既述した様な政争続きもあって放置されていた蝦夷地域であったが、桓武天皇は即位後本格的に蝦夷、陸奥地方の制圧に乗り出すのである。

NHKのドラマでも取り上げられていたが蝦夷の人々は首領“アテルイ”の下に東北地方で独自の自治国家状態の平和な生活を送っていた。 桓武天皇は何度も朝廷軍を送る。蝦夷は善戦を続けていたが“アテルイ”の軍は次第に追い込まれて行った。万葉集の編者として有名な大伴家持も桓武天皇によって一度、この蝦夷征討の“陸奥鎮守将軍”に任じられている。兎に角、蝦夷の征服は政治の重要テーマとして桓武天皇の治世の大半の期間を費やしたのである。

即位後21年も経った802年に坂上田村麻呂を征夷大将軍に起用し、岩手県に胆沢城を築き鎮守府を置いて前進、803年には盛岡の紫波城を拠点とするなど、徐々に陸奥地方の支配の仕上げに当たらせたのである。桓武天皇は806年3月に70歳で崩御するが、多大な戦費と治世期間の大部分を蝦夷地征服に費やした訳で蝦夷の部族が中央の朝廷への服従に相当に抵抗した事が分かる。

桓武天皇治世の第二の事業が二度行った“遷都事業”である。 そしてこの二度に亘る“遷都事業”はその後の日本の歴史上二つの重要な結果をもたらすのである。
一つ目の結果とは、以後1000年の長きに亘る固定した都“平安京”を終に出現させた事である。これは100年以上前に天武天皇が目指した“国の都”の“あるべき姿“であったし、それを桓武天皇が実現して後世特筆される事業となった事である。
二つ目の結果は、この時点で藤原氏と天皇家との共存体制が組まれてから既に150年程が経過しており、この桓武天皇の時代以降さらにその共存体制を進めたと言う事である。
藤原氏の側から言うと、他の豪族を完全に退けて日本の歴史上“最強の豪族”としての地位を不動のものとした時期であったと言う事である。

日本の古代国家成立の時点から、飛鳥、奈良時代の歴史を記述して来たが、その経過において藤原氏は既述した様に、天皇家と厳しく対立する時期もあったが、結果において“天皇家と共存”する政治形態を“選択“する事によって、双方共が”繁栄する“という形を作ったのである。

この選択の意味は当時既に“天皇家”として確立していた“権威”を奪い取る事は既に不可能に近い状態になっていた。そこで藤原氏の選択はそうした古代からの天皇家の“権威”を共存という形で“利用”する事に的を絞ったのである。結果、藤原氏は“摂関政治”と言う形での政治権力の掌握と”荘園の拡大“による莫大な経済力の確保と言う果実を得る事になるのである。
後述する“摂関政治”と言う天皇家との政治面での共存関係は平安京に遷都した桓武天皇の時代に既にその“萌芽”が見られる。

摂関の中の“摂政”と言う職に就いたケースは“推古天皇時代の聖徳太子”の例がある。それは“皇親摂政”であってむしろ実態は天皇に即位しないで皇太子という立場で政治を執った点では中大兄皇子(後の天智天皇)
のケースと全く同じ政治形態であり、むしろ“称制”と言うべきであるとする学者も多い。

天皇の家臣である藤原氏が後述する様に“摂政”の地位に就くのは“人臣摂政”と言う事であり、この形態を作ったのは藤原氏が初めてである。天皇家との共存体制を推し進める形で実質的且つ重要な“政治権力”を藤原氏が獲得したのである。

後に藤原氏は“摂関政治”と言う形を作り上げ、“天皇家を強力な政治権力と財力で支える”という仕組みを徐々に作り上げて行くのであるが、桓武天皇の時代からその基礎作りが始まっていたのである。

“政治権力者”はこの藤原氏が平家の台頭によってその政治権力を失い、以後は鎌倉、室町幕府、戦国大名の覇者としての織田信長、豊臣秀吉そして徳川幕府へと政治権力者は変わって行く。明治維新で“王政復古”となるが実質的“政治権力”は内閣、国会が握るという変遷の歴史を辿る。そして太平洋戦争に突入し、終戦後の混乱期を経て今日の政治状態を迎えている訳である。

こうした権力者の変遷はあっても“天皇家”の“権威”は1700年以上を経た今日でも継承されて来ているのである。これは世界でも稀有、特異な状況であるのだが、天皇家を国家の“権威“として中心に据えて置くという“体制”、天皇家を国家の表看板とする“日本の国体”がすでに桓武天皇の時代にはほぼ岩盤のように出来上がっていたのである。

以下に、その藤原氏が実際に、どの様な経緯でまず史上初の“人臣摂関”の地位を確立して行ったかについて記述して行くが、一言で言えば繰り返される様々の政争をタイムリーに勝ち抜き、然るべき次の布石を打って行くと政治能力のある人材、苦境に立たされても藤原家としてその度に乗り越えて行くだけの豊富な人材が存在したという事に尽きよう。

3-4:長岡京遷都と“藤原種継”暗殺事件

桓武天皇1回目の遷都事業に功を挙げたのも藤原氏であった。即位後丸3年後の784年6月に桓武天皇は信任していた中納言、藤原宇合(うまかい)の孫に当たる藤原種継を遷都建設の責任者に任じて長岡京の建設に着手した。 東西4.3キロ、南北6.5キロの規模と伝わるから大規模な都である。天武天皇がそれまで天皇が代わる度に遷都を繰り返していた習慣を改めて“都の固定化”を目指した事は記述したがその後も藤原京、平城京、と遷都は繰り返されていた。

平城京を最後に都が固定化される可能性もあったのだが、既述した様に鬱病的と伝わる“聖武天皇”時代に入ると天皇による政治は不安定となり又、政争も続いた為、741年には恭仁京(くにきょう)に遷都し、744年には“難波宮を皇都“とし、一時は紫香楽(しがらき)への遷都すると言う状況もあった時期も含めると、僅か6年の間に狂ったように遷都を重ねると言う状況であったのである。

大地震や火災が多発した為、この鬱病的聖武天皇は結局745年の5月に元の“平城京”に戻るのである。桓武天皇も結局は2度の遷都をした。長岡京に関わらず、何故天皇が交代すると“遷都”を繰り返すのかについては、新しい天皇が旧都時代に勢力を得た豪族などの“旧勢力”を振り落とす為である場合もあるし、遷都と言う大事業を新たに起こす事によって“新帝”のスタッフの確保等、彼の政権の“新たな勢力結集”を行うと言う重要な狙いもあったものと考えられている。

長岡京への遷都の理由については“続日本紀”に書いてあるはずなのだが、後述する“大事件”が起こり結果的には僅か10年間の遷都で終わった為か、詳細な記録が残っていないのではっきりしない。桓武天皇も過去の天皇が行ってきた遷都と同様の理由で平城京から長岡京への遷都を行ったのであろう。

長岡京への遷都は工事着工から僅か半年後の784年11月に“強行“された。従って当然の事ながら”都“としての体裁もまだ整っていなかったものと思われる。784年9月に台風があり平城京も難波京もかなり被害を受けた事が、まだ建設も完了していない時点で遷都を“強行”した理由の一つであろうと言われている。

しかしながら遷都した翌年の785年に責任者であった藤原種継が政敵の“大伴継人”等によって暗殺されると言う事件が起きるのである。 しかもこの事件は桓武天皇の異母兄弟で当時皇太子であった早良親王が絡んでいたとの疑いに発展し、立腹した桓武天皇は彼を廃太子とする。早良(さわら)親王は淡路島に配流されるがその際、抗議の断食をして結果は“憤死”するという悲惨な結末となるのである。

早良親王が憤死した後に皇室や藤原氏に病死者が重なったり疫病が流行った。この時代は“怨霊”を恐れる事が多く桓武天皇も早良親王の“祟り”に悩んだと伝えられ、史実として800年に“崇道天皇”という“尊号”を早良親王に追贈し死者の霊を弔ったのである。
遷都わずか10年で長岡京を“廃都”とした理由はこの事件によってこの地が“怨霊の地”となったからだけでは無い。歴代の天皇にとって治水事業は多くの“民”の為にも重要な事と考えられており長岡京近辺の治水事業が十分で無く桓武天皇は洪水にも悩んでいたと言う。“怨霊の地”となってしまった事に加えて、”治水“も難しい事が分かった”長岡京“を廃都とし、今度は”治水調査“を十分にした結果、再度”平安京“への遷都を決心したのである。

長岡京に関する史跡は多くないが、大阪の枚方市の”交野“に”継縄屋敷(けいじょうやしき)“と呼ばれている場所があるとの事で探して見ているが残念ながらまだ捜し当てていない。桓武天皇に忠誠の限りを尽くし卓越した政治家としての能力は無かったが、63歳になって漸く右大臣に上った藤原南家の藤原継縄(つぐただ)の別荘跡だと伝わる場所である。この時期は既述の藤原百川、種継などが勢力を持っていた時代であった為、継縄には政治的活躍の記録は無く“続日本紀”の編者一人としてその名が残っている程度の右大臣であった様だ。藤原継縄(つぐただ)について興味ある記録としては彼の夫人が“百済王明信”という朝鮮半島系の美人妻であり、桓武天皇がお気に入りで、しばしばその枚方市交野の“継縄屋敷”に通ったというゴシップが残されているので枚方市交野を御存知の方には興味のある話であろうから紹介をした。

3-5:1000年の都となる“平安京遷都”と藤原氏

上述の経緯から平安京に遷都するのであるがより詳細な遷都の理由を知りたいにもその時代の正史である“日本後紀”には恣意的とも思われる欠落がある為上述の推定しか出来ない。793年に藤原小黒麻呂らが指名され山背国(遷都後に山城国と改名)の視察、調査を開始したとの記録がある程度の記録である。実際の遷都は翌794年の10月だからこの平安京も相当に建設スピードが早かった様だ。

この章のテーマは“天皇家”が今日まで継承されて来た主たる理由が400年余に亘る藤原氏の存在にあると言う事を記述する事であり、ここに記述している桓武天皇期にも優秀な藤原氏が登場する。藤原氏が続々と人材を輩出する事が出来た事が、世界でも稀有な今日までの“天皇家”の継承の最大ポイントだと述べたが、敢えてここで既に記述した藤原氏、そして今後記述して行く藤原氏の名前も含めて“藤原氏を代表する10人”を掲げて見る事にする。

始祖である藤原鎌足はこの10人からは敢えて除いた。この10人ばかりで無く有能な人材を必要な時期にタイムリーに輩出して来たからこそ天皇家との“共存”体制を構築出来た訳である。従ってこの10人の他にも挙げるべき藤原家の人々は多数存在するのだと言う事を前提に敢えて特に際立った、且つ有名な10人の藤原家の人々を列挙した訳である。

①    藤原不比等(生659年没720年):鎌足の子、大宝律令の整備など律令国家確立に尽力し、天皇家との関係を強める
②    藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂):不比等死後勢力を伸張するも全員が737年に天然痘で死去
③    藤原仲麻呂(生706年没764年):叔母光明皇太后の生存中に強引な手法で政権奪取し、恵美押勝として専横政治を行うが道鏡を除く政争で破れ処刑という最期となる
④    藤原百川(生732年没779年):桓武天皇に信任を得、娘を嫁がせる
⑤    藤原良房(生804年没872年):866年応天門の政争で勝利し、第56代清和天皇時代に初の“人臣摂政”となる
⑥    藤原基経(生836年没891年):良房の甥。第57代陽成天皇を廃し、第58代光孝天皇の初の“関白”となる。
⑦    藤原時平(生871年没909年):政敵“菅原道真”を失脚させ荘園整理令を出すなど、崩れつつあった“律令体制維持“に貢献した
⑧    藤原兼家(生929年没990年):村上天皇の下で“天暦の治“を行ったが皇女3人と密通した。皇女降嫁によって天皇家との繋がりを強めたが”限りなき色好み“と称された。右大臣師輔の子である。又道長の父親である。策略で冷泉、円融天皇時代に”摂関職“を”常設“としたと言う藤原氏が政治権力を得た功労者である。
⑨    藤原道長(生966年没1027年):第66代一条天皇に娘“彰子”を入内させ、その後3代の天皇の外戚として“藤原摂関家絶頂期”に生きた
⑩    藤原頼通(生992年没1074年):摂関政治全盛期として実質的には最後の摂政、関白となった人物。末法思想の下で“宇治平等院鳳凰堂”を建立する。

上記10人の藤原氏のうちで既に④の藤原百川までは記述を終えているので、⑤以下の藤原氏について記述して行こう。

桓武天皇によって築かれ、遷都した平安京は唐の都“長安”を模したものであり、都として最重要課題であった“治水工事”という観点からも当時としては万全を期した“本格的都造り“であった。東西4.6キロメートル、南北5.3キロメートルの平安京は平城京よりも大規模な都でありその後明治維新によって江戸に遷都されるまで実に1000年に亘って日本の都となるのである。

上述した“六国史”のうち“日本後紀“が正史として792年から833年の間の記録をしているので”平安京遷都の記録“はここに詳しく記されている筈なのであるが不可思議な事だが全部で40巻あるものと記録されているものの遷都に該当する時期の記録つまり第一巻から第四巻までが存在していないのである。
“日本後紀”のこの時期の記録編者は藤原冬嗣、藤原緒継であった。その編者の一人藤原緒継は本来、上述の特筆すべき⑩人の藤原氏の中に入れたい程、優秀な人物であった。
平安京遷都から僅か10年後の805年に藤原緒継は桓武天皇に政府の財政難から“これ以上の平安京の造営を中止する事”並びに“蝦夷征討も多大な出費が重なっており民を苦しめる事であり従って中止する事”の建議をした。長岡京に続く平安京への遷都、そして長期に亘る蝦夷征服事業は、桓武天皇の二大事業であったが、財政的に相当な負担となり、国の財政状態は危機的なレベルであったのであろう。

平安京が1000年に亘って日本の“都”として以後固定化された理由には、こうした国家としての財政難状態があった事も大きかったのであろうし、時代も9世紀に近くなり、国全体の統治規模も飛鳥、奈良時代と比較して多岐に亘り、且つ、大規模なものとなって来ていたのである。

3-6:“藤原摂関家”として“天皇家との共存体制”を確立するまでの人々

(ア):初の“人臣摂政”制度の道を切り開いた巧妙な大政治家“藤原良房”の登場

藤原氏は歴史に登場した多くの豪族を退け天皇家と“共存“する形で勢力を伸ばして来た。 それには他の豪族に見られなかったその時々に傑出した人材の登場に恵まれた事が幸いしたのだが、そのベースに”天皇家に取って代わる“という行動では無く、あくまでも”共存”するという姿勢を貫いた”藤原家”としての長い政治活動の結果であったと言える。

具体的には天皇家と外戚関係を作るばかりで無く、“摂関政治体制”と言う形で天皇家と藤原家が”並存する“形を確立して行った事にあるのだが、この体制が可能となったのは、祖、藤原鎌足が天智天皇に絶大な信頼を得た事に始まり、上述した藤原百川に至るまでの長い期間をかけて築いた天皇家との“共存関係”があったからこそである。

これを土台にして、⑤藤原良房から⑥基経⑦時平⑧兼家そして⑨道長が夫々の時代の政争に勝利して200年余に及ぶ“藤原摂関時代”と言われる時代を築き上げ、それを長い期間に亘って守り抜いたからである。

その第一番手として初の“人臣摂政”と言う地位を得た上記⑤“藤原良房”がどの様な経過でその地位に至ったかを簡単に紹介する。

良房が中央政治に登場するのには、三段跳びよろしく、3回の“天皇家が絡んだ大きな政変”
つまり“皇位争い”があった。親の代も含めた、3段階に亘る政変に藤原良房は勝利して、“初の人臣摂政”と言う地位を以後、藤原氏が独占する事に導いた非常に重要な人物である。

これらの政変での勝利をベースに藤原氏は後に“天皇が元服した後も引き続いて政治権力を掌握し続ける形、“人臣関白”の地位をも得て世に言う“藤原摂関家”となるのである。

以下に良房が“摂関政治”体制を築くことに至る三段階の政争について父親冬嗣の時代も含めどの様な経緯を経て、又どの様な役割を果したのかについて記述する。

(イ):藤原薬子の変と藤原式家の没落、藤原北家による“藤原摂関家”時代の到来

藤原良房の父親は冬嗣でありその曽祖父が藤原房前(ふささき)である。この一族は藤原北家と称されたが藤原良房の登場前は藤原宇合(うまかい)を祖とする百川、その子の緒継、百川の甥の種継など“藤原式家”の人々が政治の中心に居た。

しかし、桓武天皇の時代が過ぎ、子の第51代平城天皇から嵯峨天皇へ譲位した後に“藤原薬子の変”が起り、藤原式家は没落する。まずこの政争を簡単に記そう。

桓武天皇を継いだ平城天皇は病弱で、即位後僅か3年で同じ母の弟の嵯峨天皇に譲位し、平城上皇となった。療養の為平城上皇は“平城京”に行く。そしてその後宮に居た藤原薬子を寵愛する様になる。又、薬子の兄である藤原仲成も重用する事によってこの二人が平城上皇のバックで政治権力を得る様になる。その後”平城京“で療養していた平城上皇は健康を回復し盛んに”平城京の造営“作業を開始するばかりか上皇としての様々な指令を出す様になり、平安京の嵯峨天皇からの指令との”二所朝廷“と呼ばれる事態が続く様になるのである。

平城上皇の取り巻きとなった藤原仲成と薬子兄妹が長岡京遷都の作業の中で暗殺された藤原種継の子であった事も何かの因縁であろう。この兄妹は平城上皇を後押しして、都を再び“平城京”に戻すと言う動きをするのである。
桓武天皇が805年に藤原緒継と菅原真道に“天下の徳政”と言われる議論をさせ、既述した様に“平安京の造営を中止”してからまだ間も無い時である。朝廷の財政状態は相変わらず苦しく、平城上皇による“平城京の造営命令”に対して、嵯峨天皇は烈火のごとく怒り、強く非難していたのである。

それでも止まない平城上皇一派の動きに嵯峨天皇は“平城上皇は万代宮として平安京に遷都した桓武天皇の意に背き天下を乱している”と宣言し、先ず薬子の兄の藤原仲成を逮捕し、その後に妹の藤原薬子を宮中から追放すると言う処置に出たのである。
810年に起こった“薬子の変”と呼ばれるこの政争は、嵯峨天皇の側に圧倒的に正当な理由があった。藤原薬子も自殺に追い込まれ、この変は極く短期間に終息し大掛かりな武力闘争にもならない中に終息するのである。

桓武天皇に重用された“式家”の藤原氏にはこの時期、不運がつきまとった様である。先ず既述した様に種継が長岡京で暗殺されるという事件がおこり、そして、平城上皇に寵愛された藤原薬子、兄仲成もこの様に滅ぼされる結果となる。藤原宇合を祖とする“式家”が没落し藤原北家と主役を交代する事となる事件が続いたのである。

代わって政治の中心に躍り出たのは、藤原“北家”の冬嗣である。見方に拠ってはあくまでも藤原一族の中での主役交代であって他の豪族の出る幕は巡って来なかったのである。

この時代までに他の豪族は悉く藤原氏によって追い落とされており、こうした政争があっても、藤原氏が瓦解するという事にはならず、藤原四家の間での“政争”となっていたのである。

薬子の変の収拾に貢献し、嵯峨天皇の信頼を確実にしたのが藤原冬嗣であった。この冬嗣は藤原良房の父親である。当時はまだ官位は高く無かったが、嵯峨天皇が、この薬子の変に対応する為に設けた“蔵人所”の“蔵人頭”に冬嗣が任命されたところから、“良房”の後の出世へと結びついて行くのである。因みにこの変が起きた時には良房はまだ6歳の子供であった。

話はそれるが、嵯峨天皇と高野山を開いた“空海”との結びつきは以下の史実の様に非常に深いので紹介して置く。
遣唐使として派遣された空海は僅か二年足らずで密教の教えを早々と習得して帰国する。 しかし、国の方針と違った空海は都に入る事を許されず苦境に立たされていた。嵯峨天皇が空海に帰依し、都へ入る事を許し、817年からの高野山を開山する事を許すのである。嵯峨天皇のお陰で高野山は832年に完成するのである。

(ウ):承和の変と藤原良房

奈良時代から平安時代にかけては兎に角天皇が交代する度に政変が起きた時代であった。天皇家自体が日本における”権力者“なのか”権威者”なのかの位置付けがまだ“国の体制”の中で安定していなかった時期であった。又、取り巻く“豪族”達の状況も、盛衰を繰り返していたし、恵美押勝(藤原仲麻呂)や僧道鏡の政争の様に”天皇家“の継承を危うくする様な動きも見られた時代であった。

そうした中で天皇家自体にも、聖武天皇、女帝孝謙天皇(重祚して称徳天皇)時代のように、自ら権力、権威の弱体化を晒し結果、藤原仲麻呂(恵美押勝)の専横を許し終には僧道鏡に“皇位”を譲りかねない事態に陥った事もあった。

こうした非常に危険な事態の中で、天皇として立派な露払い役を果たした第49代老帝光仁天皇を藤原氏の尽力で擁立し無事に第50代桓武天皇へと繋げる事が出来たという事は天皇家継承の危機を救った大きな働きであり、この働きが今日まで天皇家を継承する事が出来た大きなポイントであったと言えよう。

こうした天皇家継承の危機的時期を乗り越えて以降は既述した様に平安京という“固定都”への“遷都”という大事業も成し遂げる。この時期になると“天皇家”は藤原氏との“共存体制”を整え、安定し、“天皇家が目指す律令国家作り”を進めて行くのである。

こうして歴史を振り返って見ると、“天皇家の継承”も随分危険な時期があった事が分かる。兎に角、結果として“天皇家”は奈良時代からの内政の混乱期を乗り切り、平安京遷都を行いその後も後述する承和の変(842年)、応天門の変(866年)などの政変を繰り返していた。前の項でも述べたが、幸いだったのは、こうした不安定な時期に、周辺諸国から日本を征服しようとする動きが無かった事である。大帝国“唐”もすでに全盛期を過ぎ、内乱の兆しが現れていた時代であり北アジアの“渤海”、朝鮮半島の“新羅”とも比較的平穏な関係の時期であったのである。

嵯峨天皇は823年、37歳で弟の第53代淳名天皇(在位823年~833年)に譲位する。
この時期の藤原氏は冬嗣が右大臣から左大臣に昇進しており、ここから摂関政治を築く“北家”全盛時代へと繋がる訳であるがこの時点ではまだ先の“薬子の変”で政治勢力を失う事になる“式家”の中で“藤原緒継”が桓武天皇、嵯峨天皇時代の多大な功績によって右大臣、そして冬嗣の後の“左大臣”として名を連ねている事が分る。しかし、藤原緒継を最後に、“藤原式家“からは政治の重要ポストに付く人物の名前は消えるのである。

藤原良房が政治の中央に登場する第2番目の政争が842年、嵯峨上皇が崩御した直後に起きる“承和の変”と呼ばれる政変である。
承和9年(842年)嵯峨上皇が崩御し、上皇の皇后(嵯峨皇太后)と近かった藤原良房側が政敵であった橘逸勢(はやなり)と伴健岑に謀反の言いがかりを付けて追い落とした“政争”である。時の天皇は、嵯峨天皇の皇子であった第54代仁明天皇(在位833年~850年)である。良房の妹が入内し仁明天皇との間に皇子“道康親王”が誕生する。一方で淳名天皇が即位した823年に橘氏と伴氏は淳名天皇の皇子であった“恒貞親王”をすでに皇太子としていた。ここで当然の事ながら次期天皇を巡っての政争となったのである。これが”承和の変“である。藤原良房はここで豪腕ぶりを発揮する。恒貞皇太子は廃され、妹と仁明天皇との間の皇子を皇太子にすべく、橘逸勢、伴一派に謀反の言いがかりをつけて、追い落としたのである。この良房が強引に皇太子に擁立した“道康親王”が後の第55代文徳天皇となるのである。

この政争では藤原良房の強引さが目立つばかりで政争の道具とされた“恒貞親王”には同情するものがある。結果として皇太子の地位を廃された“恒貞親王”は橘逸勢と伴一派によって自分が皇太子に就いた時点から、将来皇統継承問題が起きる事を予知し、この時点で皇太子に就く事を何度も辞退したと伝わる。案の定、政争の道具にされ、結果、皇太子を廃された“恒貞親王”は出家してその後に“大覚寺”の開祖となった人物である。

政治は“力”であるから、こうした強引な手段で政争に勝利した良房のその後の出世はすさまじく、850年に仁明天皇が崩御し、“甥“に当たる上述の”道康皇太子“が第55代文徳天皇として即位し、いよいよ政治史に名高い”藤原摂関政治“の幕開けを迎えるのである。

(エ):藤原良房躍進を決定付けた政争“応天門の変”(866年)

橘逸勢と伴健岑を“承和の変”で追い落とし中央での勢力を増した良房は15年後の857年、甥の文徳天皇の下で人臣として3人目の“太政大臣”にまで上り詰めていた。人臣の太政大臣の最初の例は恵美押勝(藤原仲麻呂)で二人目が僧道鏡である。
良房が太政大臣になったのは甥でもある“文徳天皇”が病弱であったのでそれをカバーする為ーであったが翌年の858年に31歳の若さで崩御、第56代清和天皇がわずか9歳で即位する事となった。

従ってこの幼帝も太政大臣であった良房が補佐すると言う流れになる。この時点で良房の他には左大臣に“源信”、右大臣には藤原良相が就いていた。話はややそれるがこの“源信”は“賜姓皇族”でありこうした皇族がこの時代に多く登場する様になるので少し説明をして置きたい。

良く桓武平氏、清和源氏と言うが律令制下の役人の任官等の記録である“公卿補任”には831年に上述の源信(みなもとのまこと)が“参議“に序せられたと言う記事がある。
平安期に入ると皇族の数も増え皇族から“源氏”などの“姓”を賜って“臣籍”に下るようになった。これを“賜姓皇族”と呼ぶのである。

その多くは“朝廷皇族”として存在したのだが、源氏の場合は嵯峨天皇の皇子が臣籍に下ったのが興りである。源信は嵯峨天皇の皇子である。その後同じ源氏ではあるが、清和天皇系源氏、宇多天皇系の源氏、村上天皇系の源氏などは“武士の間に勢力を伸ばして行く源氏”が現れる。有名な“源義家“に始まる”武勇の家“として”源頼朝に繋がるのは上記の中の“清和源氏”の流れである。

“平氏”も同じく賜姓皇族である。桓武、仁明、文徳、光孝天皇の子孫であるがこの流れは後述する“平清盛”時代に栄華を極める事は御存知の通りであるが、“武勇の家”と言うよりも“朝廷貴族”としての面の多い一時代を築いて、結果として源氏に滅ぼされると言う流れになるのである。

“応天門の変“は866年に起こる。 藤原良房が台頭するステップとなった3段目の政変である。この政変を描いたのが国宝”伴大納言絵詞“である。上、中、下3巻の絵巻物は多くの人が一度は教科書でお目にかかった事があると思う。この絵巻物は平安時代の末期に(1177年説もある)後白河法皇が描かせたとも言われるが、応天門事件の顛末が上、中、下の3巻に分けて描かれている。

東京日比谷の出光美術館の所蔵で、国宝の為、時期を限って一般公開されるので実物をご覧になる事をお勧めする。作者は常盤光長と伝わっている。

藤原時平が編纂の責任者の一人であった六国史の六番目“日本三代実録”(858年~887年の記録)にこの“応天門の変”の内容についての記録がある。866年の3月に平安宮の応天門が炎上し“左大臣源信が放火した事件だ”と当時の政敵であった”大納言伴善男“と右大臣藤原良相が訴えた。その後、実は訴えた“大納言伴善男”の犯行である事を目撃していた証人が現れ、半年後の8月に話は逆転、左大臣源信は晴れて無罪となる一方、大納言伴善男、右大臣藤原良相側の犯行と判明した事件である。

この政争の結果、大納言伴善男雄は遠流となったが右大臣藤原良相は重い処分を免れた。
彼は藤原良房の弟だったからだとも言われるが、政治の中枢からは以後退いた。

当の藤原良房は当時、健康上の理由もあって朝廷にあまり出ていなかった時期なので直接この変に関わったとは考えられていないが、事件勃発の当初から、左大臣“源信”の無実を信じ、彼を擁護して清和天皇には“真実を慎重に調べた上で犯人を挙げる様”進言していたと言われる。 良房自身は太政大臣に就いてから丸9年を経た政界を知り尽くした62歳の老政治家であり、彼の進言には重みがあった事であろう。

良房の指摘の通り、結果は事件から5ケ月後の8月に上述の“ドンデン返し”の決着となったのである。この”応天門炎上事件”後、左大臣“源信”は無罪となったが主犯となった“大納言伴善男”、“右大臣藤原良相“共に中央の政治から退くと言う結果となり政府は一挙に弱体化したのである。こうした状況が62歳、政治を知り尽くしている“良房”に更なる“一段階飛躍”するチャンスを与えるのであるから藤原良房と言う人物の強運さが分かる。

この時点で清和天皇は18歳に達し、既に元服をしていたがこうした中央の朝廷政治状況に対して良房に“摂政”という重責の“詔“を与えるのである。
ここに”人臣初の摂政“が誕生したのである。

清和天皇は既に元服しているので、後世ならば“関白に就く”のが妥当ではあったのだろうが、この時点ではそうした公式の機能、職位は存在していなかった。“関白職”が日本に正式に登場するのは約20年後の事である。

オ):藤原基経(生836年没891年)と関白職が定着するに至る経緯

藤原基経は良房の兄の子である。従って甥子と言う事になり年齢は良房の32歳も下である。
第56代清和天皇も例に漏れず病弱であった為、876年に僅か27歳で9歳の幼帝、第57代陽成天皇に譲位する。この陽成天皇は基経の妹の子であり、天皇家との結びつきは“不比等以来の後宮政策”を守って維持され続けて来ていたのである。

当時、上級の官職の左大臣には嵯峨天皇の皇子であり“賜姓皇族”の源融(みなもとのとおる)が就いていた。しかし、藤原家の”後宮政策“がここでも功を奏して、基経は兎に角、幼帝で甥に当たる陽成天皇の”摂政“に就くのである。

この時基経は40歳であった。そして4年後の880年には44歳の若さで“太政大臣”の地位に上る。この昇進の理由は“摂政”に就く基経の地位が左大臣源融通よりも低い官位である事は不都合であり、その調整、バランスを取る為のものであったと伝えられる。

ここに藤原不比等以来、連綿と続けて来た“天皇家との共存体制”がいよいよ結実して来たのである。

この陽成幼帝は882年に15歳で元服するが、基経はそのまま摂政の職に留まっていた。
その理由は当時、関白職は上記した様に“令外官”ではあったが、律令制の規定の外に設けられた官職であり、はっきりとした役割が定まっていなかった事に加えて、“摂政は天子也、関白は臣下第一の人也”と言う理解があって、身分的には“摂政”の方が”関白“よりも上位の様な状態にあったからだと言われている。藤原基経は良房の様に“政争“を重ねて強引に自分の地位を上げて来たという経歴は持たなかった人物ではあるが、この時期以降は、かなり強引な手段によって自らの政治的地位を強固にして行くのである。

その(1):陽成天皇を強制的に譲位させ傀儡の第58代光孝天皇を即位させる(884年)

陽成天皇と政治の実権を握っていた“摂政基経“とは、天皇が元服して以降、しばしば意見が対立する様になった。そこで基経は強引に光孝天皇に譲位させるのである。そこで陽成天皇は”三種の神器“を持って二条院に移ってしまったという逸話がある程の事件であった。藤原家の政治権力が天皇家との“共存”という形は取っているものの、政治の実権と言う面では既にこの時点になると“天皇家を凌ぐ”ものになっていた事が分かる。

ここで擁立した“光孝天皇”は55歳で即位した。仁明天皇の第三皇子という点で血統だけは正しいが政治の実権は藤原基経が太政大臣として握って居り全くの傀儡天皇であった。

この時点で藤原基経は“関白“と称してはいないが、政治体制としては実質的にはこの時点で“関白政治”が始まったと捉える学者も多い。

その(2):“阿衡の紛議“で宇多天皇(在位887年~897年)に”関白の職権“を明確にさせる(887年11月)

基経の傀儡だった光孝天皇は即位後僅か3年余で崩御する。次に即位する第59代宇多天皇は極めてユニークな天皇である。光孝天皇の皇子であるが、“源定省”と名乗る“賜姓皇族”であったという経歴を持つ。つまり、一度は臣籍に下っていた皇子なのである。しかし相当に優秀な若者であったのであろう、その政治的才能を見出されて“皇籍”に復帰し天皇に即位したと言う人物なのである。

それだけに、この天皇は後世“寛平の治”と言われる政治改革を行った“切れ者天皇”であった。それだけに当時、政治権力を我が物にしようとしていた時期の藤原基経とは色々と軋轢を起こす結果となった。

具体的には後に有名な“政争”の悲劇の主人公となる”菅原道真“を重用するなど、藤原氏の勢力と真っ向から対抗する諸策を試みた天皇である。

藤原氏と宇多天皇との軋轢となる第一の事件は早くも887年、20歳のこの気鋭の宇多天皇が即位した直後に、当時51歳、ベテラン太政大臣となっていた藤原基経との間で起きる。
基経が“宇多天皇からの詔の文言”に議論をふっかけ若かった宇多天皇を困らせたと言う”阿衡の紛議“である。内容は宇多天皇が太政大臣だった藤原基経に対して“関白の政務に対する詔“を出したのだがその文言に中国で用いられる”阿衡“と言う文字が“関白”を指す意味として用いられていたのである。この“詔”を書いた“橘広相“を政敵とするいわば基経側の”藤原佐世“が言いがかりとして、”阿衡の職は実権のない職の意味である“と基経に知恵を入れたのである。

藤原氏の強大な勢力にブレーキをかけるべく“菅原道真”等を重用するなど、張り切っていた新進気鋭の宇多天皇の出鼻を挫く絶好のチャンスと捕らえた老獪な太政大臣藤原基経はここで“宇多新帝“を困らせる行動に出たのである。

宇多天皇が出した上記の“詔”を撤回するまでは、基経は“関白職”を受けなかったばかりか半年間一切の政務を執らなかったのである。宇多天皇は止む無く基経に折れ“関白於太政大臣”という文言の“詔”に書き改め漸く基経はこれを受け入れた。

先の詔を起草した“橘広相“は罷免されこの政争のもう一人の当事者”藤原佐世“の勝利となったの。大宰府に左遷される政争はこの”阿衡の紛議“の13年後に起きるのであるが、この紛議の仲裁役が”菅原道真“だったのである。

厳密に言えばこの紛議が収まった時点で“関白”という独立した官職名が確立した訳では無い。“関白”という語が定着するのは半世紀後の939年に朱雀天皇が藤原忠平に”詔”するまで待たねばならないが、実質的に最初に関白職に就いたのは藤原基経であり、それは887年11月だと理解する学説が主流なのである。

(カ):藤原時平(生871年没909年)と菅原道真(生845年没903年)の確執と政争

既述の表の⑦番目の藤原時平は政治家としての功績よりも“菅原道真”を大宰府に左遷した“大悪人”として知られている。
この有名な政争“昌泰の変”を客観的に分析すれば一方的にこの藤原時平が悪人だとは思われない。藤原家の若手ホープ藤原時平と学者出身で異例の出世を遂げていた“熟年菅原道真“の出会いの時点から、この二人の”政争“は始まっていたものと言える。

藤原時平は上記“阿衡の紛議”で宇多天皇が天皇に即位した早々から確執のあった藤原基経の長男なのである。切れ者宇多天皇は藤原氏の独走にブレーキをかける意図を最初から持って学者菅原道真を重用するなど改革心の強い天皇であった。

891年、その関白藤原基経がこの世を去る事によって事態に変化が起こる。時に時平は若干20歳、宇多天皇は24歳、そして菅原道真は時平よりも2周りも年長であった。
身分制度の厳しい当時であったが、宇多天皇の重用もあって菅原道真は時平の父親藤原基経の死後、朝廷の重職である“蔵人頭”に抜擢されている。こうした道真の破格の出世に対して、周囲の貴族達からもかなりの反感を買っていたと伝えられる。

こうした状況を背景に、藤原基経の死後、宇多天皇は息子の藤原時平に対して仕打ち的対応を開始する。先ずは当時20歳の時平を若さを理由に用いなかったばかりか、藤原氏が占めて来た“摂関職”をも以後置く事を止めたのである。

この処置によって930年に醍醐天皇が崩御し第61代朱雀天皇が即位し、時平の弟である藤原忠平が“摂政”として復活する迄の約40年間に亘って“藤原摂関”を排した“天皇親政時代”を宇多天皇は招来したのである。

897年に宇多天皇は僅か12歳の第60代醍醐天皇(在位897年~930年)に譲位する。
そして自らは上皇となり更には出家して初のケースとなる“法皇”になった。

この宇多法皇が新帝、醍醐天皇に“藤原時平は年若く素行が悪いと聞くから、彼には顧問をつけて指導せよ“と伝え、”権大納言菅原道真と共に政治を行う様に“と指示したのである。宇多法皇の“藤原嫌い“は生涯を通じて徹底したものであった。

藤原時平と菅原道真との“政争”の原因は後の“神皇正統記”や“扶桑略紀”にも書かれている様に、元々藤原基経に対して遺恨に似た感情を抱いていた“宇多天皇”が原因を作った事が明白である。
性格的にも時平と道真とは合わなかったのではと思われる。学者であり生真面目な菅原道真に対して、藤原時平はどちらかと言うと大まかで豪放な人情家タイプの人物であったとの記録がある。こうした性格の全く異なる二人が政治の執行面で宇多天皇(法皇)によって組み合わされ、顧問役を仰せ付かったと愚直に受け止めた菅原道真は生真面目に時平が打ち出す政策に“異”を唱え、修正させたと伝わる。

更に道真は醍醐天皇に代替わりした後も、彼の後援者である“宇多法皇”を頻繁に訪ね上記のような宇多法皇からの時平を抑える指示を持ち帰っては自らの政策を通す一方で時平を政務から干す様な行動を取ったと伝えられている。
こうした状況をバックに、終に901年の“昌泰の変”に至るのである。

日本人は昔から史実における敗者に同情し、応援をする傾向がある。こうした日本民族の感情も一つの“日本の特異性”となるのではないかと思われ程の徹底振りである。

この”昌泰の変“もその後伝えられた書物、読み物、歌舞伎を含む演劇などでも一様に悪役が藤原時平で悲劇の主人公が“菅原道真”となっている。そして菅原道長を藤原時平が理不尽にも政権の座から追い落とすと言うストーリーとなっている。

“昌泰の変“と称されるこの”政争“の史実は宇多法皇と息子の醍醐天皇との“親子政争“でもある訳である。宇多上皇(法皇)はこの時点でまだ34歳の元気盛りの法皇であり退位した後も上皇、そして法皇としてあれこれと若い息子の醍醐天皇の政治に口出しをした。この史実は“寛平御遺訓戒”として残っている。宇多天皇自身、既述した様に、即位の経緯からしても生来、相当な出来物、政治的にも切れ者天皇であった訳だが、退位後のこうした口出しに対して、後に白河上皇が始めた“院政”の初期の形に等しいのではないかと指摘する学者も多く“前期院政”だとする学者もいる程のものであった。

こうした状況を若干17歳ではあったが、醍醐天皇も鬱陶しく思っていたものと思われる。
さすがに父親の宇多法皇にその不満をぶつける訳にも行かず、その矛先は生真面目な学者政治家“菅原道真”に向けられたのである。

宇多天皇(法皇)に重用されその指示を神のお告げとも思う“菅原道真”は醍醐天皇の父子間の鬱憤も知らずに、只々、律儀に宇多法皇からの指示を代弁者として伝え、且つ自らの政治に反映させようと努力を重ねたのである。加えて、お決まりの次期皇位継承に関わる政争が起こり、これが直接の原因となって“昌泰の変“へと発展したのが史実である。

次期皇位継承問題の詳細は醍醐天皇側が仁明天皇の子孫である元良親王を候補としていたのに対して、宇多上皇(法皇)側は重用する菅原道真の娘婿に当たる“斉世親王”を候補に上げた為これを引き金として“政争”となったのである。昌泰4年(901年)1月醍醐天皇は突如、右大臣菅原道真を大宰府権師に左遷、更に宇多上皇(法皇)側に組した“源善”並びに藤原時平の弟、“藤原忠平”などを処分したのである。

これに対して父親でもある宇多上皇(法皇)側は反発に出るのだが、ここが後世の本格的“院政時代”と大きく異なる点なのだが、当時の宇多上皇(法皇)側は強力な武士団を抱えていない時代であった為、武力抗争に訴えるにまでは至らず、あえなく醍醐天皇側に屈したのである。

以上が菅原道真が大宰府に追いやられた有名な”昌泰の変“の背景と、政争の内容である。

巷間伝えられる“菅原道真が悪人藤原時平から、一方的に不当な扱いを受け、言われも無い讒言で左遷され、無念のうちに死に、怨霊となって祟り、後世、学問の神として崇められる様になる“という話と、こうした史実との間には、かなりの違和感、隔たりを覚えるのである。


(キ):藤原時平の政治力

上述した様に宇多天皇は“目の上のたんこぶ“であった藤原基経が死ぬと跡継ぎの藤原時平の若さを口実に菅原道真などを重用してそれまでの“藤原政治”からの刷新を行い後世“寛平の治”と呼ばれる“親政”を行った事は既述の通りである。

こうして一時弱まった藤原氏の政治勢力を“醍醐天皇”との“共存体制”を再度築き直す事によって挽回したのが“藤原時平”なのである。
上記の“昌泰の変”で菅原道真等の政治勢力を醍醐天皇とのチームワークで一掃し、その後は醍醐天皇を助けて902年に“延喜荘園整理令”によって律令制の維持に努め、六国史の最後である”日本三代実録“の編纂を行った人物である。

更には律令制を補強する意味での”延喜式“の編纂にも多大の貢献をした事が記録に残っている。菅原道真を追い落とした悪名ばかりが巷間伝えられているが、上述の様に、醍醐天皇と藤原時平の“共存体制期”は後世“延喜の治”と称される立派な内政を行った時代なのである。

藤原時平は909年に39歳の若さで亡くなるが、醍醐天皇は930年に45歳で崩御するまで33年間在位するのである。

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