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2014年4月17日木曜日

第四章 天皇家が今日まで存続する事に不可欠だった藤原家との500年の“共存体制”の歴史
第1項 天皇権力の衰退を招いた聖武天皇~称徳天皇期の政権争いと藤原氏との共存体制の基礎作り


1-1:藤原氏台頭の原点となった藤原不比等(生659年没720年)

藤原不比等は鎌足の次男であるが、天智天皇の皇子だと言う説もある。
天武天皇の時代に不比等だけが“藤原姓”を名乗る事が許され、太政官に就任している。他の藤原一族は“中臣姓”とされた事なども、不比等が天智天皇の皇子であるとの説の根拠となっている。

不比等と天皇家との関係では、697年の文武天皇の擁立に功績をあげ、娘をこの文武天皇に嫁がせるなどの政略を行っている。

更に、この文武天皇の皇子が後に第45代聖武天皇になる訳だが、この天皇に娘の光明子を入内させた事が天皇家と藤原氏との婚姻関係による政治的結びつきを強いものとした点で後の共存体制作りの大きな礎となったのである。

具体的には藤原仲麻呂の強大な朝廷での権力掌握に繋がる事になるなど、その後、輩出する後継者によって、天皇家との共存関係を不動のものとする“藤原摂関家時代“へと展開して行くのである。

藤原摂関家は道長時代に絶頂期を迎え、律令制の崩壊、武家の台頭等、時代の変化の中で衰える訳であるが、こうした藤原家の存在無しには今日迄の天皇家の存続は有り得なかったと言える。

そうした天皇家との共存体制の礎を作り、積み上げて行った藤原家代々の偉大な政治家の出現は天皇家にとってもラッキーな事であったと言えよう。

藤原氏の氏寺として有名な国宝の興福寺を建立したのもこの不比等であり、701年に施行された大宝律令の編纂に多大の貢献をし、708年には彼として最高位の“右大臣”に昇進する。又、710年の平城京遷都を主導したのも彼である。

不比等の最後の仕事は養老律令の編纂事業であった。この事業には718年から着手したが、2年後の720年に不比等は死亡する。奇しくもこの年は天皇の権力を最大化とし、皇親政治を推進し、皇統の正しき継承こそが日本にとって最重要だと主唱した天武天皇が編纂を命じていた日本最初の正史“日本書紀”が完成した年であった。
養老律令は藤原不比等の死からほぼ40年後の757年に藤原仲麻呂によって公布、施行される事になる。

以上が藤原不比等の年代記であるが、不比等が後世の藤原一族の繁栄の為に残した政治上の功績も実に大きい。

以下に不比等の功績をまとめて置こう。

1-2:不比等が残した藤原一族繁栄の仕組み

(ア):天皇家との外戚関係強化・・・後宮の影響力を重要視
  
上述した様に不比等は娘を天皇に嫁がせるなど、後宮に於ける勢力掌握に注力した。
不比等の死後に藤原四家が勢力を拡大する事が出来たのも、後述する藤原仲麻呂(恵美押勝)が強大な政治力を発揮出来たのも、聖武天皇の皇后となった不比等の娘、光明皇太后のバックアップがあったからである。後宮とのパイプを強くした不比等の政略が功を奏したのである。

(イ):四家に独立させ、朝廷での政治力を拡大

律令制に移行する前の古代日本の政治形態は“氏族合議制”であり、一族からは一人だけが朝廷政治に参加出来た。律令制に移行し、太政官制の政治の仕組みになったとは言うものの、当初はまだまだ旧来の“氏族合議制”の伝統が残っていたのである。
ここで不比等が考えた策が、自分の四人の子供を四家に分けて独立させる、という事である。藤原氏はこれによって、南家、北家、式家、京家の四家に分かれ、各家を単位にして朝廷政治に参画出来ると言う道を開いたのである。

これによって旧来の“氏族制政治”は漸く崩れ、不比等らが尽力した“律令制政治体制”の中における太政官機構の官僚の地位を“家”として獲得出来るようになった。
政治的にも旧来の氏姓制度の打破にこの“藤原四家独立”という策が役立った事は大きい。そして、こうした事が効力を発揮したのは藤原四家夫々が、有能な人材を豊富に輩出する事が出来たと言う、藤原家の優秀さがあったからであろう。


1-3:不比等の死後の皇親勢力の復活を“長屋王の変”で失脚させた藤原四兄弟時代

上記のように藤原不比等は文武天皇の外戚として政治の中心になって行った。しかし、病弱の文武天皇は在位わずか10年の707年に、25歳の若さで崩御、急遽、母親が第43代元明天皇として即位する。

藤原不比等が死亡し、彼の右大臣の後任は天武天皇の王位継承第三順位だった高市皇子の子“長屋王“であった。ここで、藤原氏としての“朝廷内での政治勢力”と言う面での危機が訪れた訳である。右大臣“長屋王”の夫人は藤原不比等の娘であり、不比等存命中は“義理の息子”でもあり、藤原氏の手中にあったが、不比等の死後、日本書紀の編纂の指揮をした天武天皇の皇子、舎人親王も朝廷で要職に就くなど、“長屋王”を頂点とした、藤原氏以外の“皇親勢力”が朝廷での勢力を伸ばした。

この時点では藤原氏の政治勢力は一歩後退であったが、挽回のチャンスはすぐに訪れた。
元明天皇の後もその娘が第44代女帝元正天皇として、ピンチヒッター即位となったが、10年足らずで本命の第45代聖武天皇に譲位したのである。

聖武天皇には不比等の娘、藤原光明子が嫁いでいる。後の光明皇后である。この光明子が既述した不比等が打った“後宮政策”として後の藤原氏躍進にとって大きな力となるのである。

聖武天皇が即位した724年時点では天武天皇の孫“長屋王”が左大臣に昇任し、4年前の720年に日本書紀の編纂を完成させた天武天皇の皇子舎人親王など“皇親勢力”が朝廷での政治勢力の中心にいた。ここで生前不比等が手を打って置いた策が生きる。

息子の藤原武智麻呂(南家、当時41歳)、房前(北家、同40歳)、宇合(式家、同27歳)、麻呂(京家、同26歳)が不比等が策した“後宮の力の利用”そして“四家独立制による朝廷政治力確保”を活用して早速勢力巻き返し策としての“政争”を起こすのである。

詳細は省略するが、“長屋王に国家転覆の疑いあり”との密告に始まり、藤原宇合率いる軍勢によって“長屋王”は敗れ、自殺に追い込まれた。この政争は聖武天皇が即位した僅か5年後の729年の事でありこの“長屋王の変”で“皇親勢力”は追い落とされたのである。この変の直後に藤原四兄弟は聖武天皇に嫁いでいた妹の光明子をそれまで前例の無かった“臣下から初めての皇后”とするなど着実に中央朝廷政治に於ける勢力を強化して行く。

さらに長屋王の地位には藤原武智麻呂が右大臣を経て、左大臣に登り、四兄弟夫々が朝廷での重要な地位を占めて行ったのである。まさに亡き不比等が打って置いた“四家独立による朝廷政治勢力の拡大策”が見事に花咲いたのである。

1-4:藤原四兄弟の突然の死と妹、光明皇后による奈良大仏建立提案、そして橘諸兄と吉備真備の台頭

然しながら僅か8年後の737年にとんでもない不幸に見舞われる。世に言う“藤原四兄弟の死”である。折からの天然痘の大流行によって先ずは、藤原北家の祖、藤原房前が死亡する。3カ月後に、京家の祖、藤原麻呂が死亡、ほぼ時を同じくして、729年の“左大臣長屋王の変”で政敵を追い落とし、自らが左大臣に上り詰めた“藤原武智麻呂”も病死した。その1ケ月後には当時朝廷が注力していた“蝦夷征伐”に功績があり、多賀城を設置した藤原式家の祖、藤原宇合も病死したのである。

こうした四人の兄弟の前代未聞の禍に怯えた妹の光明皇后は聖武天皇を動かして奈良の大仏建立に動いた話は有名である。

藤原不比等がベースを作り、四兄弟が実現した強大な勢力も、“藤原四兄弟の相次ぐ死”によって橘諸兄、吉備真備、僧玄肪などの勢力に取って代わられてしまうのである。

橘諸兄は藤原武智麻呂病死後の738年1月に右大臣、そして743年には左大臣にまで上り詰める。

1-5:藤原広嗣の乱

橘諸兄、吉備真備、僧玄肪内閣が738年の辞令で藤原宇合の子である藤原広嗣に太宰少弐辞令を下したのを吉備真備と僧玄肪による“左遷“と感じ、広嗣は右大臣であった橘諸兄に対して”この二人を処分すべし“と言う趣旨の上表文を書いて抵抗した。

これが逆に朝廷に対する謀反と解される結果となり、740年9月、藤原広嗣は1万余の兵力で大宰府で反乱を起こす。誇りある藤原式家の御曹司としては、黙って引くことが出来なかったのであろう。然しながら結果は2ケ月後に佐賀県の唐津で藤原広嗣は処刑されてしまうのである。
藤原家の実家思いの光明皇后との関係もあり、聖武天皇は間に立って広嗣を都に召還すべし、など人事上の努力をしたと伝わるが、結局は大乱になった。こうした政争に怯えた聖武天皇は、伊勢、美濃に逃げるなどを繰り返し、744年には大化改新の時に一度都となった“灘波宮”を再び“皇都”と決めるなど大いなる狼狽振りを見せたのである。そしてこうした動揺の5年後の749年、たまらず、皇太子に立てていた娘に譲位し、第46代孝謙女帝が誕生し、政治は左大臣になっていた橘諸江が牛耳る事となる。

後世、聖武天皇が鬱病的気質の天皇だと伝わるのは、こうした一連の行動からなのであろうが、この時期、天皇家、藤原家双方にとって、政治権力が大いに後退した時期だと言えよう。

1-6:藤原仲麻呂の登場と橘諸兄、橘奈良麻呂の追い落とし

こういう事態に藤原家にとっては“中興の祖”的な人物が現れる。藤原南家の祖、武智麻呂の次男、仲麻呂である。聖武天皇が749年7月に娘の孝謙天皇に譲位し、藤原家出身の光明子は光明皇太后となった。彼女は人望も厚く、政治力も備えていた人物だと伝わる。又、彼女は実家、藤原氏思いだったとも言われ、この事が藤原氏を救うのである。

“紫微中台“と言う組織が光明皇太后の為に置かれ、その長官に甥に当たる藤原仲麻呂が任命された。これによって仲麻呂は事実上の政治の最高権力者に躍り出るのである。“紫微中台“とは光明皇太后としての命令を施行し、兵権を発動する機能までを持つ所謂、令外官であった。

この令外官が藤原仲麻呂の政治力もあって、次第に国家の実質的な最高権力機関、軍事機関へと変貌するのである。僧玄肪はこの時点では既に死亡しており、橘諸兄、吉備真備は藤原仲麻呂の台頭に拠って左遷され、橘諸兄は失意のうちに病死する。

藤原家の三度目の危機脱出は藤原光明子(光明皇太后)と甥の藤原仲麻呂の協力で成しえたのである。藤原仲麻呂の政治手法は聖武天皇の譲位も仲麻呂が力ずくで行ったと伝えられるほど強引なものであった。橘諸兄の子で政敵、橘奈良麻呂一派を皇太子擁立争いで追い落とすと共に、757年には仲麻呂を殺害する謀議を企てたとして処罰、橘奈良麻呂一派を一掃する為に合計443人の処刑、並びに流刑の処置という徹底したもので仲麻呂専横体制を築いたのである。

1-7:傀儡天皇の擁立と恵美押勝(藤原仲麻呂)専横時代の終焉

藤原仲麻呂の強引な政敵攻撃はさらに進む。橘奈良麻呂一派が擁立していた皇太子を強引に廃位とし、自分が子飼いにしていた大炊王(おおいのおう)を皇太子とし、758年に第47代淳仁天皇として即位させた。藤原仲麻呂の傀儡天皇である。

日本書紀の編纂者として有名な舎人親王がこの淳仁天皇の父親でありこの即位後に仲麻呂は“恵美押勝”の名を天皇からもらうと共に“恵美家印”を獲得してそれによって天皇家の専権であった“貨幣鋳造の権利”も手にする。

実質的に独裁権力を持った“皇帝”的な立場にまで権力を伸ばしたのである。この章では天皇家との共存体制を築いて行く藤原家がテーマなのであるが、この時点では仲麻呂が果たして天皇家を将来とも存続して行こうと考えていたどうかが疑われる。

その事由の例として、記録に“舎人親王”に“皇帝”の称号を与えたばかりか、淳仁天皇に自分を“朕が父”と呼ばせていた事などが挙げられる。

時の天皇に対して、臣下に当たる者が“国王”的に振舞った例は、後の足利義満のケースもあるが、恵美押勝の例が最初のものであろう。こうした恵美押勝(藤原仲麻呂)の権勢の頂点は人臣として初の太政大臣に上り詰めた760年であろう。この時点を境に恵美押勝の勢力の凋落が始まる。

先ずは叔母であり、最大の後援者でもあった光明皇太后が760年にこの世を去った事であり、そして決定的な事は続いて起こった“道鏡”の登場である。

藤原仲麻呂は傀儡の“淳仁天皇“を即位させる為に自分の従兄妹である孝謙天皇を譲位させた。“孝謙太上天皇“となって政治的には引き込んでいた彼女が44歳の時に病気になった事から“道鏡“が登場する。

看病禅師であった僧道鏡が傍にあって看病に当たり、完治させ、その後二人の間には深い信頼関係が生じ、孝謙太上天皇(上皇)は道鏡を寵愛するようになるのである。
そして重用された僧道鏡は政治力も持ち合わせた人物であり、中央の政治にも影響を及ぼす存在になって来る。こうした状況に“淳仁天皇”が反発し、結果、恵美押勝と組んで、孝謙太上天皇、道教、それに吉備真備を政敵とする政争に発展するのである。

762年に孝謙太上天皇が淳仁天皇から国政の重要な機能を取り上げ、掌握するという詔を発するという事態に至り、一挙に恵美押勝と淳仁天皇側が政治権力を失うという結果になるのである。最終的に武力衝突となり、764年に恵美押勝、淳仁天皇側が敗北という結果になり、淳仁天皇は廃位され淡路島に流刑となり、翌765年に無念の内に没するのである。専横を極めた恵美押勝(藤原仲麻呂)は殺されここに彼の時代は終息するのである。

何故、あれほど強大な政治勢力を築いた藤原仲麻呂が脆くも凋落したのかについては、上述の経緯の裏に藤原氏の同族内にも、“藤原南家”だけが繁栄する事に対する反発も強かったと言われる。

1-8:皇統継続最大の危機となった第48代女帝称徳天皇と道鏡時代(764年~770年)

この僅か6年の期間がここまで皇統継続を守って来た天皇家が“断絶”する最大の危機の時期であったかも知れない。藤原仲麻呂(恵美押勝)と淳仁天皇を滅ぼした孝謙太上天皇は764年に再び第48代称徳天皇として即位する。そして僧道鏡を寵愛する余り、この女帝は“道鏡を次の天皇に”と真剣に考えていたのではないかと思われる言動、記録が残されているのである。まさに天皇家にとって天武天皇があれほど意を注いだ“正当な皇統の継承”の最大級の危機的状況にあった6年間であったと言える。

僧道鏡は現在の大阪府八尾市の出身だと伝わる。2013年の4月に弓削道鏡と称徳天皇に関する史跡を訪問した。看病禅師として当時の孝謙上皇(後の称徳天皇)の病気を治し、信任を得て、その後寵愛され、765年には“太政大臣禅師”と言う破格の出世をするのである。さらに、兄弟、親族も次々と貴族に取り立てられた。こうした天皇としてあるまじき政治姿勢からも、鬱病体質だったと伝わる父親、聖武天皇の血筋を女帝称徳天皇は引き継いでいたのであろうと考える史家が多い。

女帝称徳天皇は東大寺に対抗すべく“西大寺”の建立を行う。鎮護国家祈願として、道鏡の為に建立した訳だが、現在では往時の面影も規模も無いが、当時を偲ぶ史跡としてこの寺を訪れてみるのも良いと思う。近鉄で奈良市にある“大和西大寺駅”で降りると徒歩ですぐの場所にある。

道鏡に関わる史跡としての“弓削神社”は大阪八尾市の志紀駅の近くにある。同神社も訪ねたが、弓削道鏡についての説明碑があるだけの小さな神社であるが、当時は天皇の地位をも手中に収めかけた道鏡ゆかりの数少ない史跡であり、一度は訪ねてみる価値はあると思う。

独身女帝称徳天皇の道鏡への寵愛は終に766年に道鏡に“法王”の地位を与え、且つ、天皇と同じ“輿”に乗る事を許す迄にエスカレートする。そして769年に歴史上余りにも有名な“宇佐八幡神託事件”が起こるのである。この事件の詳細は専門書に譲るが、宇佐神宮(大分県)の八幡神が“道鏡を天皇とすれば天下が泰平になる”との神託を称徳天皇へ奏上すると言う展開になる。称徳天皇から確認の使者“和気清麻呂”が派遣され、結果は“臣が君に入れ替わる事があってはならない”との“道鏡不適格”の神託を得た事を称徳天皇に奏上する。この“和気清麻呂“の勇気ある行動は、流石の称徳天皇に”道教の天皇即位“を断念させるのだが、怒った道鏡によって和気清麻呂は”大隈国“へ流される結果となる。まさに“和気清麻呂“が”天皇家断絶の危機”を救ったのであるがその裏には藤原百川、藤原永手が裏で暗躍し、道鏡の皇位継承を阻止したとの記録が残っている。

自ら招いた前代未聞の皇位継承問題が不発に終わり、意気消沈もあったのであろう、女帝称徳天皇はこの事件からほぼ1年後の770年8月に53歳で崩御するのである。
後ろ盾を失った道鏡は称徳天皇崩御の直後に下野の国(栃木県)に左遷され、2年後の772年に死亡する。

ここに、聖武天皇、娘の女帝孝謙天皇(称徳天皇)時代は終わるが、日本がこの時代に天皇家の断絶という事態も起こり得たこの様な政争に明け暮れして居られたのも、この時期には隣国の強国“唐帝国”も玄宗皇帝が楊貴妃との蜜月時代(745年)であり、女帝孝謙天皇が即位し、藤原仲麻呂が専横政治をしていた時期には“唐“では安緑山や史思明の反乱(755年~763年)の対応で精一杯の時期であり、飛鳥3天皇時代の様な対外関係の緊張感が無かった時代であったからであろう。

又、朝鮮半島周辺もこの時期は新羅、北に興った渤海国も日本には好意的な姿勢で対応していた時期と言う幸運があったのである。

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