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2014年4月17日木曜日

第三章 日本の基礎を作った飛鳥時代の三天皇
第3項 天武天皇


① 天武天皇と天智天皇との関係

異説を唱えて侃々諤々それを展開する事が専門家と称する人々の一つの使命でもあるから天智天皇と天武天皇の出生についても諸説がある。ここでは第34代舒明天皇を父とし、皇后であり第35代皇極天皇(後に重祚して斉明天皇)となった母親を共に同じくする“兄弟天皇”であったと言う説を採る。二人の年齢差についても諸説があるが兄の天智天皇の5歳下と言う定説が自然であると考える。従って天智天皇がまだ中大兄皇子時代に中臣鎌足等と645年に蘇我入鹿を宮殿で暗殺すると言う”クーデター(乙巳の変)”を起した時には、天武天皇(当時は大海人皇子)はまだ15歳だったと言う事になる。従って、彼はこのクーデターには直接関わっていなかったものと考えられる。

天武天皇(大海人皇子)は生まれつき勝れた容姿を持ち、文武に勝れ、又 天文に知識が深く占術を能くしたと伝わっている。推定で175センチメートル程の身長ではなかったかと言う事が後年墓が暴かれた事に拠って伝えられている。

天智天皇の項で述べたが、大海人皇子は母親である斉明天皇の崩御後に兄の皇太子、中大兄皇子(天智天皇)がすぐには天皇に即位せず”称制”として政治を執っていた時期に”皇大弟”として兄の片腕となって政務を助けている。前項で述べたが兄の天智天皇は称制時代に”白村江の戦”に挑み、唐・新羅連合軍に大敗する等、内政、外交共に一時期危機的失政状態にあった。この危機を回避すべく兄の中大兄皇子(天智天皇)は弟大海人皇子(天武天皇)を”皇太弟”として政治の表に立てて彼に”甲子宣”(かっしのせん)を号令させるなどして、難局を乗り切ったことは前項で記述した通りである。

天武天皇(大海人皇子)と言う人物は若い時から人望があった様である。天智天皇と弟の天武天皇の兄弟仲が良くなかった、との説を万葉集の歌人としても有名な額田王(ぬかだのおおきみ)を二人で奪い合った話などを例に挙げて面白おかしく展開する専門家もいるが兄弟二人が協力して成した政策その他の史実からは必ずしも兄弟仲が悪かったとは言えまい。皇太子時代の中大兄皇子(天智天皇)と叔父である孝徳天皇がその政治姿勢において仲違いに陥り、中大兄皇子はじめ、母親の前皇極天皇、並びに中臣鎌足(藤原鎌足)等、主たるメンバーが現在の大阪にあった難波宮から再び飛鳥に戻ってしまったと言う事件が起こったがこの時に大海人皇子(天武天皇)も兄と行動を共にしているのである。

この様に兄の天智天皇はその時代の政治の中核にあって内外共に悩み多い一生を送った訳であるがそうした政治的に非常に難しい期間中、弟の大海人皇子(天武天皇)は常に兄に協力的であった。然しながら、前項で記述したように天智天皇が寵愛したとされる息子の大友皇子が成長するに及んで天智天皇側に変化が生じ、672年1月に天智天皇が崩御した時点では大海人皇子(天武天皇)は事前に存命中の兄(天智天皇)に出家を願い出て許可を得て吉野に引き下がっていたと言う複雑な状況にあったのである。

天智天皇崩御の後に、日本書紀の記述には無いが、まだ若かった大友皇子が極めて短い皇太子の期間を経て天皇に即位したと言う状況があったのでは無いかと考えられる。この事は水戸黄門の話で有名な水戸光圀が著した“大日本史”の研究でも書かれているし、その後の多くの歴史家の研究でも、天皇に即位した事に間違いは無い、と言う方向でほぼ確認されていた。従って、王政復古の大号令によって明治維新政府になった直後の明治3年(1870年)にこの大友皇子が第39代弘文天皇として即位したと言う事が初めて公式に認められる迄大友皇子の即位という史実は無視されて来たのである。

大海人皇子が吉野に篭った時点から近江(大津)の大友皇子(弘文天皇)を擁する朝廷側と吉野の大海人皇子(天武天皇)側との関係は一触即発の ギクシャクした状態であったのであろう事が推察出来る。何故ならば天智天皇が皇太子、そして称制(天皇代行)時代も含めた相当に長い期間、弟の大海人皇子(天武天皇)が“皇太弟”として補佐をし、天智天皇の後継者と見做されてされていたからである。

天智天皇自身も大友皇子が成長する迄は、後継者として弟の大海人皇子(天武天皇)を後継者と考え、誰の目にもその様に映っていたものと伝えられる。それが上記した様に、天智天皇の最晩年になってどんでん返しの様に覆り、その後の展開を察知し、身の危険を感じた大海人皇子(天武天皇)が述べたような吉野への退却行動をとり、結果として取り巻きの豪族達の思惑、勢力争いも絡めた近江朝廷側と吉野サイドとの間のギクシャクした関係が頂点に達して、当時としては歴史上最大規模と言われる“皇位争奪戦、壬申の乱”へと繋がって行ったのである。

第33代推古天皇までを書いた古事記に、この大友皇子(第39代弘文天皇)の即位の記事が無いのは古事記が書き留めた第33代推古天皇の後の天皇の時代の事であるから、当然の事であるが、第40代(日本書紀では弘文天皇を認めていないので現在より1代少なかった)持統天皇までを既述した日本書紀には、もし大友皇子が即位したのであれば記述されるべき対象期間の天皇であるのだが、一切書かれていない。前項、天智天皇の処で記述した事を繰り返すが、日本書紀の編纂を命じたのが他ならぬ天武天皇であった事、そしてその天武天皇が最も力を注いだ事の一つが、日本の統治者としての“天皇家”の正当性を国の内外に認めさせる事、さらにはその“天皇家”が神代の昔から代々正統に継承されて来た事を書き記す事にあったのだから、言わば内乱の形で皇位を争う形になってしまった事は天武天皇としては残念な事でもあり、従って大友皇子の即位については書く訳には行かなかったのであろうと推測出来るのである。さらに、日本書紀は日本国初の正史として海外諸国、特に中国並びに朝鮮半島諸国に読まれる事を意識して書かれた歴史書であるから、歴代天皇の継承における血統の正しさに加えて、治績を記すという事も主要な目的であった。その点からすると、皇位継承の大戦争を戦った大友皇子の天皇即位と言う史実があったとしても、ほんの僅かの期間の即位でもあり、しかも後世に書き残す様な治績も無い事も日本書紀の記録から抹殺された理由でもあったのであろう。

② 壬申の乱とその意味

天武天皇について記述する為には、壬申の乱について記述しない訳には行かないので簡単に触れて置く。専門家の説の中には、天智天皇の皇統から皇位継承ルートを強引に奪った人物として天武天皇を描くものがあるが、一部既述した様に、大海人皇子時代から、人望も厚く、政治手腕も認められていた人物であり、こうした流れは必然なのでは無かったのかと思われるのである。

③-1 大海人皇子(天武天皇)の近江朝廷からの脱出劇
   
前述したように兄天智天皇と弟大海人皇子(天武天皇)のそれまでの信頼関係は671年正月の天智天皇 による大友皇子の太政大臣任命という事から崩れ始めたものと考えられる。
 天智天皇は長い間右腕として協力して来た弟、大海人皇子を後継者と決めていたものと伝えられている。しかし前項で書いた様に、晩年にそうした考えが覆り、溺愛している大友皇子に皇位を譲りたいのが天智天皇の本心である事を察知した大海人皇子は、むしろ天智天皇崩御の後に自分の身に危険が及ぶ事に備える行動をとるのである。

何故ならば大友皇子の周辺には、左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、等5人の重臣が固めており、天智天皇の崩御後は彼等の地位の保全も考えて、大友皇子の即位を支持し、結束を固めていた事を大海人皇子は知っていたと思われるのである。従って大海人皇子は天智天皇の崩御の前に自ら大友皇子の即位を薦め、自分は出家して吉野に引き込む事を願い出て、病床の天智天皇から許可を得たと伝えられるのである。大友皇子周辺の蘇我氏系の大豪族が、人望もあり、政治的実績も残して来た大海人皇子を邪魔とする状況が出来上がっており、天智天皇崩御前に大海人皇子が決断した必死の脱出劇であった。

ところで、多くの人は蘇我氏は645年のクーデターで入鹿が殺され、父親の蝦夷も翌日自害した事によって、嘗ての大政治勢力はこの時点で 一掃されたと考えるが、誤解である。大豪族蘇我氏は蝦夷、入鹿の蘇我氏宗本家が先の“乙巳の変”(いっしのへん)で滅亡しただけで、蝦夷の弟、蘇我倉麻呂の系統は息子の”蘇我倉山田石川麻呂”がクーデターの時には中大兄皇子側に加わっていた為、むしろその功績によって、右大臣に任じられているのである。又、 蘇我倉麻呂のもう一人の息子、曽我赤兄と連子も、共にそれぞれ天智天皇内閣の左大臣と右大臣に任じられており、宗家は滅亡したが、大豪族”蘇我家”はその後も一定の勢力を保持していたのである。

 後述する大海人皇子(天武天皇)と大友皇子との“壬申の乱”で、大友皇子側のメンバーであった為に蘇我赤兄はじめ 敗戦に拠って滅びた蘇我一族もあったが、ここでもしぶとく蘇我連子の系統の蘇我安麻呂の系統は 生き残るのである。

同じ蘇我氏であっても、大海人皇子(天武天皇)側についた蘇我氏一族もあった。その一族は天武天皇の信任を厚く得て”石川朝臣”と言う新しい姓氏を賜って生き延びるのである。しかしその僅かに生き延びる事に成功した“蘇我氏系石川氏”は平安京へ桓武天皇が遷都する迄の約100年後までは命脈を保ったのだが、馬子から数えて7代目となる“石川真守”が公卿となった記録を最後に、終に歴史から姿を消したと言うのが”大豪族蘇我氏” の顛末である。

いずれにしても、日本の歴史上、蘇我氏の果たした役割はその後の”藤原氏”程では無いが、6世紀から8世紀末迄、古代日本の創建期をリードした大豪族として非常に大きい。
ある時期には天皇家を助け、ある時期には天皇家を凌駕する政治権力を持つなど、天皇家と共に古代日本の“国造り”に貢献した大豪族であった事は間違い無い。

②-2 壬申の乱の展開

672年6月22日の大海人皇子の”吉野脱出”と言う行動に始まった壬申の乱は丸1ケ月後に近江(大津)の朝廷の大友皇子(後に第39代弘文天皇として認められる)が自殺して終結するのである。こう書いて仕舞うと簡単な戦いだった様であるが、色々な面で前例の無い戦いであった。一つには、日本の歴史上、天皇側に反旗を翻した軍は殆んどが鎮圧されているがこの壬申の乱だけは皇位に無かった側、つまり反乱を起こした側が勝利し、皇位を奪う結果になった。こうした結果になった理由の一つには朝廷に大きな力を持つ中央大豪族であった蘇我氏に長い期間抑圧されていた地方乃至、中小の豪族が天智天皇の崩御によって俄かに後継者となった若干24歳 の大友皇子とそれを取り巻く蘇我氏側に付くよりも長い間後継者として目され天智天皇を右腕として支えて来た政治実績を持つ大海人皇子(天武天皇)を支持する豪族が多かった為であると伝えられている。

大海人皇子は天智天皇の晩年になって俄かに太政大臣になる等、いわば突如登場した格好の大友皇子によって追放された形となった。こうした状況から、天智天皇崩御後の自身の身の危険を察知した大海人皇子は自ら出家し吉野へ引き下がった訳であるが、こうした大海人皇子の境遇に人々の同情を集めたという点もある。政治実績に加えて、人望もあった大海人皇子には従者である吉野宮の舎人、美濃、尾張、伊賀地方の豪族、そして大伴氏を中心とする大和地方の勢力も従い彼らが戦力の主流となった。政治の政策面で言うと、大海人皇子(天武天皇)は親新羅、反唐政策であり、真逆の親唐政策をとる大友皇子等、天智天皇崩御後の近江政権の行く末に不安を感じていた豪族達が非常に多かったという事情もあったと思われる。

その理由は、先年の百済救援軍として白村江の戦いに参加し唐の軍に大惨敗したばかりの地方豪族達はいずれ大唐帝国は日本を侵略して来るであろうと考えていたのである。その根拠は、白村江の戦い日本が大惨敗(663年)した直後の665年に唐の”郭務”が254人もの多数の兵を率いて“唐使”として 戦後処理の交渉に来ており、さらに、667年にも同様の圧力を日本にかけて来ていたのである。そうした状況下、翌668年に唐は終に高句麗をも滅ぼしたのである。

こうした状況を兄の天智天皇を支える立場で経験していた大海人皇子(天武天皇)の外交政策はあくまでも“反唐政策”であり、外交上”親唐政策”を取らざるを 得なかった兄の 天智天皇の政策は理解するものの、真逆であったのである。畿内以外の豪族の中には、以上の様な状況から、大海人皇子と同様に”唐”に対する不信感と強い反感を抱いている者が多く居り、その点からも大海人皇子(天武天皇) 側に付いた豪族が多かったものと考えられる。

一方の大友皇子は若い上に人望も余り無かった。蘇我臣赤兄など近江朝廷側の重臣としては、現在の自らの地位と立場上から、止むを得ず大友皇子側として戦ったものと思われる。要するに近江朝廷側は大友皇子が即位した当初から内部が分裂、動揺していた状態であったと思われるのである。

戦いの経緯は省略するが、古代日本で最大の兵力、吉野側だけでも3万を超える兵力を動員した壬申の乱は672年の6月22日の吉野側による挙兵に始まり、わずか1ケ月後の7月23日の近江側の大友皇子の自殺によって終結する。

この壬申の乱は、天智天皇と天武天皇の政策の違いが直接的原因で起こったものでは無い。
蘇我等、大豪族と中小豪族との抗争が要因の一つではあったが、主体的要因であったとも言い切れない。要は、藤原鎌足の死によって政界の支柱が失われていた事、天智天皇が崩御された事によって大海人皇子側が大友皇子率いる若き近江朝廷の政策に強い危機感を抱いていた処に、立ち上がったばかりの律令体制下で非要職にあった人々の不満が爆発した面等が重なってこの政争になったものと言えよう。

②-3 壬申の乱後、他豪族に比べて天皇家の力を決定的に強くした天武天皇の政治力

短く見積もっても1700年を越える期間に亘って天皇家は“万世一系”の継承を今日まで行って来た。こうした長期間にわたる王家の継承は世界でも稀な例である。天皇家の今日に亘る長期に亘る継承が可能であった理由には様々な要因があるが、その重要な要因の一つに、天武天皇期に代表される様に”天皇家が絶大な政治権力”を持って強力にこの国の統治に当った時期があったという実績が非常に大きい。その代表例がこの項で記述している天武天皇なのである。

”天武天皇”の時代に国家としての体制を整える事は勿論、後世に繋がる天皇家の”権威”作りまでをも成し遂げたのである。

天武天皇は既に記述して来た様に、古代日本における、最大規模の国内戦争とされる”壬申の乱”の勝利によって第40代の天皇(日本書紀では既述した様に第39代)として即位する。この皇位争奪戦争によって、それまで天皇家と拮抗していた蘇我氏をはじめとする大豪族の財力等は大いに疲弊する結果となった。この乱の特徴はそれまで強大であり一つに纏まっていた伝統的豪族が分裂して戦ったという点にもあり、この戦いの結果、勝利した天武天皇サイド、取り分け”天皇家”の財力、武力等が、他豪族に比べて“群を抜く”と言う結果に繋がった事なのである。

大海人皇子は673年2月に飛鳥浄御原宮で第40代天武天皇として即位する。戦後処理として大友皇子(弘文天皇)は自殺し、右大臣であった中臣金は死刑に処せられた。しかし、彼より上位の左大臣であった蘇我赤兄と巨勢比等は流刑で済んだ。古代史上、最大規模の国内戦争としては非常に軽く寛大な処置であった。使える人材は即位後も用いたのである。この辺にも天武天皇のリーダーとしての器量の大きさが窺われるのではなかろうか。

こうした寛大な処置のお陰で中臣鎌足(藤原鎌足)の子である藤原不比等などは極刑に処せられた右大臣の中臣金と同じ”中臣氏”ではあったのだが”天武天皇政権”では律令撰定と言う非常に重要な役割を与えられ、その後の”藤原摂関家”に繋がる栄華の基を築いて行く事になるのである。最高位の左大臣の地位にあった蘇我赤兄が流刑で済まされたのに対して地位の低かった中臣金が死刑に処せられたのは何故であろうかとの疑問を抱く人が多い。その理由は“大海人皇子の夫人の一人が蘇我赤兄の娘だったから刑を軽くしたのであろう”との推論も正しくない。正しくは、”壬申の乱は氏族間の権力闘争では無く、個々人の争いでありその結果それぞれの氏族内が分裂した政争であった”と理解すると分かり易いのである。大海人皇子(天武天皇)サイドで戦功が大いに認められたのが”大伴氏”である。それまで不遇であった大伴氏は壬申の乱における武勲によって中央政界に復帰し大伴安麻呂は 大納言にまで昇進する。その子が大伴旅人であり更にその子が”大伴家持”である。後に万葉集と言う偉大な文化を結実させる人物である。そして“武”の大伴氏、“文”の藤原氏と言う形で以後二大勢力となって行くきっかけが“壬申の乱”だったのである。

④ ”天皇中心の政治”を実現した天武天皇の数々の治績

この第三章では飛鳥時代の三人の天皇が駅伝リレーの様に、夫々の状況に対応した役割を果たし、次々とバトンタッチをして、隋、唐と言う強大な統一王朝が成立した中国の脅威に対応した事を記述する。白村江の戦いの様な大失敗を経験したが、中国、朝鮮半島との難しい外交を切り抜けながら、新しい国の体制作りをし、当時におけるグローバル化を果たし乍ら、今日の日本の礎を築いて来た飛鳥時代の3人の天皇なのである。

この地球上には古代エジプト王朝の歴史、メソポタミア地域に栄えた王朝の歴史、ローマ帝国の歴史、そして中国大陸の王朝の興亡の歴史等、日本よりも遥かに古い時代に、大規模な文明を切り拓き栄えた国々の歴史があった。そしてその殆んどの場合は、それらの国々王朝が内圧、外圧による興亡を繰り返し、消滅し、又新たな征服者による国、王朝が歴史を刻んで行くという歴史であった。

従って、この著の冒頭でも述べた様に今日の世界の国々の中で、同一の王家の系統が今日迄国家のリーダーとして継承し続けて来ているというケースは甚だ少ない。ましてや500年以上に亘って同一家系の“王朝”が継承されて来ている国は極めて稀である事は既述した通りである。そうした稀な例の中でも日本の天皇家が“少なく見積もっても1700年以上“に亘って継承されている事例は断トツの長さである。2番目に長いとされるデンマークでも約1000年、三番目に長いのが英国王室で950年なのである。

中国、ヨーロッパ諸国の歴史は古代、中世、そして近世に入ってからも王朝そのものが交代したり、他民族国家との間の興亡を繰り返して来た。他民族、国家によって王朝が征服され、歴史、文化がそっくり塗り替えられたと言う経験を中国はじめ西欧諸国は何度も経験して来たのである。

中国は1911年の辛亥革命で終に長く続いた“王朝時代”が滅びた。こうした大変革を経験した中国、そして今日現在ほゞ13億人から成る他民族国家を、一つの国として纏める事はとてつもなく大変な事であろう。現在の中国は共産主義国家であるが、旧ソビエト連邦の共産主義は遂に潰れた、そして多くの共産主義国家は同様に倒れた。しかし今日現在中華人民共和国の共産主義は多くの国内的問題を抱え乍らも纏まって動いている様に見える。

そうした問題だらけの国家、中国を支えている“求心力のある思想”は共産主義国家となった今日でも太古から中国国家の求心力となって来た“中華思想”である事に変わりは無いと伝えられる。幾多の王朝の変化を経験し乍らも、中国の国家としての“求心力”となって来た“中華思想”の起源は、中国最初の古代王朝とされる(まだ実在が完全には証明されていないが)“夏王朝“にあるとされる。その後に続いた始皇帝に拠る”秦王朝“以降のどの王朝も自らの起源を”夏王朝“に在るものとし、こうした考えが”中華(夏)思想“として中国の国家を継ぐ者の”正統性、権威づけ“として根付き、以後連綿と継承されて来たと言うのである。この事については既に述べた通りであるがこうした求心力(中華思想)で国の纏まりを作り上げてはいる事が中国という国、民族を理解する上での要諦であるが、日本の様な天皇家と言う”同一王朝“の継承という面では何度も途切れている国なのである。

ロシアも1917年の2月革命によってロマノフ王朝が滅び共産主義によるソビエト連邦が成立した。
そして、この体制も1991年12月に崩壊し、新たにCIS(独立国家共同体)体制になって今日を迎えている。その意味からすれば今日のロシアは建国されてから僅か20数年の非常に若い国という事になる。

何故日本では天皇家が今日迄1700年以上に亘って”継承”されることが出来たのか、の理由は上述した様に、まずは”天皇家“自体が財力、武力に於いて日本の歴史において”絶対的な強大な権力”を持ってこの日本国を率いた時代があった事である。そして、そうした力に加えて、古代から国家祭祀の主たる主導者であった事、そして天智天皇の項で記述した様に“時”の管理から、“暦”を管理するなど、次第に統治の幅を広め、深さを増して行ったという実績が大きかったのである。さらに天皇家がこの項で記述している飛鳥時代の3天皇によってほゞ100年間に亘る我が国としては最も難しい時代をうまく切り抜け、その結果を天武天皇が古事記や日本書紀という形で後世に残した事も大きな要因であろう。

3人の天皇によるこうした重要な治績の積み重ねは、”日本の歴史と文化の担い手”としての“天皇家”という側面も生じさせ、他の豪族では最早、獲得する事が出来ない迄の絶対的な”権威”が備わる事に繋がる。そうした“天皇家”を更に強固にしたのが、天武天皇による“天皇家の統治者としての正統な継承”を世に示す為の種々の工夫であった。これについては後述するがこれらの施策を評価して天武天皇を“天皇の中の天皇”と評価する学者が多いのであろう。
3人の天皇の治績の全てが巧く行った訳では無い。外交面では非常に巧みに周辺諸国と付き合い、戦う事に拠る浪費を避けてこの国を徐々に富ませて行った時代もあった。又一方では情報不足の為であろう、その為に判断を誤り、強大な“唐”と戦い(白村江の戦い)、初めて国力の弱さに気づかされ以後危機感に苛まれた天智天皇治世の一時期もあった。いずれにせよ結果として、飛鳥時代という日本国の揺籃期の難しい外交関係を乗り切り、中国に出現した隋、唐という強大な”統一王朝“、そして先進国であった朝鮮半島諸国に伍して行ける当時としてのグローバルスタンダードの”国造り“の中心となったのが飛鳥時代の3天皇、並びにそれを支えた人々だったのである。

その3天皇による”古代日本の礎作り“と言ういわば”駅伝レースのアンカー役として登場したのが“天武天皇”であり、その治績には“天皇の中の天皇”としての特筆すべきものが数多い。以下にそれらを簡単に紹介しておく。

③-1 国家の基礎は法体系の整備也・・・飛鳥浄御原令から大宝律令までの礎作り

天武天皇は”乙巳の変”にはじまる”大化改新”の状況を少年の頃から見ていた。天皇の権力を強め中央集権的な律令体制の構築を理想とした”大化の改新”と言う大作業は叔父の孝徳天皇、そして母であり重祚によって二度女帝となった皇極天皇、斉明天皇、そして兄であり、この間の事実上の推進者であった天智天皇の新しい国造りの状況を”皇大弟”の立場として目の当たりにして来たのである。

隣国の中国では、隋、そして唐という強大な統一王朝が出来、周辺諸国を常に脅かしており、日本も”白村江の戦い”で唐・新羅連合軍に大敗北を喫するなど既述の様に内外共に問題を抱えた政治的揺籃期でもあったが”壬申の乱”に勝利する事によって”天武天皇時代”を迎えたのである。

大海人皇子時代にこれら全ての天皇の政治を目の当たりにし又、関与する立場にもあった彼にとっては天武天皇として即位した後の政治目標は”大化の改新 で目指した方針を結実させる事である”と極めて明白であったものと思われる。他豪族と天皇家との力関係も、即位した時点では大きな差が生じていたと言う恵まれた情勢下であり、天武天皇が具体的に目指したものは“天皇を中心とする中央集権的政治の完成であり、律令体制のさらなる整備”であった。

律令体制の整備と言う面では、天智天皇の近江令(668年)をより整備した”飛鳥浄御原令”の編纂を681年に命じた。この”令”の施行は天武天皇崩御後に皇后であった持統天皇時代の689年の事となる。天武天皇の精神はさらに”大宝律令”として持統天皇が701年に完成させ、政治目標の大きな一つであった”律令国家”としての基本法典が出来上がるのである。大化の改新のスタートとなった”乙巳の変(645年)”から目指した”律令国家”の体制整備は実に半世紀以上もの時を費やして漸くここまで辿り着いたのである。
   
政治と言うものは”専制君主”的地位でも築かない限りなかなか短篇急には進まないものである。”乙巳の変”と言うクーデターを起こし、それまで専横政治を欲しいままにしていた蘇我蝦夷、入鹿と言う大豪族による支配を排除し得た中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足(藤原鎌足)と言う強力なチームでさえも、既に述べて来た様な多くの苦労と、多大な時間を要して一歩一歩律令国家への改革を進めて行ったのである。この辺が異民族などによる征服によって一夜にして体制が覆る大陸諸国の経験との大きな違いなのであろう。
    
飛鳥3天皇による国造りの場合は大変革を行う場合にも、国内的には既得権益を守ろうとする大豪族勢力があり、周辺では隋、唐等の強大な統一大王朝という油断ならない存在があった。朝鮮半島諸国は中国王朝からの常態化した圧力の下にあり、日本を取り巻く周辺諸国の情勢はこの時期、常に不安定な状況だった。飛鳥の3天皇はじめ当時の為政者としては、巧みな外交こそが生命線であったであろうし、一方ではそうした状況下で、国内の対抗勢力を抑えながら一気に改革を進めて行かねばならないと言う非常に緊迫、且つ困難な時期であったと言える。

天武天皇は当時としてのグローバル世界への適切な対応が必至という政治的、外交的に非常に難しい飛鳥時代の日本を国際的にも通用する国として作り上げた3人の天皇による“駅伝リレー”のアンカー走者であった。古代日本が当時の国際社会の国家立派に生き残って行く諸施策を早期に実行する手段として、”天皇中心”の体制を作り上げる事が最も有効だと判断して、そうした体制作りに焦点を絞った政治体制を築き、諸施策を早期に成し遂げたと言えよう。

以下に紹介する天武天皇の諸施策はいずれも古代日本が国家として、唐はじめ周辺諸国に伍して生き残る事が出来たその“礎”となったものと考えられるのだが、これらも決して天武天皇一代だけの卓越した政治力によって為されたものではない。この章で記述して来た飛鳥時代の3人の天皇の夫々の政治体制、つまり、推古天皇ー聖徳太子ー蘇我馬子の政治、それを引き継いだ天智天皇ー藤原鎌足による政治、そして駅伝リレーのアンカーとしての天武天皇の”専制君主的天皇中心政治”という政治の駅伝リレーのタスキが巧く繋がれて来た事に拠って漸く為されたものなのである。

天武天皇の諸施策は”天皇中心の政治”が状況的に可能であったが故に、それまでの日本に無かった新しい施策、それも国として根幹となった事柄が多い。一方、天智天皇時代の施策の中には、まだ天皇家の力も他の豪族と比較して圧倒的と言える程には強大ではなかった為、例えば大和朝廷時代の豪族の私有民である部曲(かきべ)を復活して認める”民部家部”の設定を行った事例など、旧来の体制との妥協的施策もあったのである。

財力、武力においても他豪族を凌いだ天武天皇はこの”部曲(かきべ)”を675年に廃止した。更に王臣や社寺に与えた山林なども収公している。これらの史実からも天皇の権力がかなり強大なものになっていた事が分るし、何よりも、わずか16年という短い治世の間に飛鳥時代の偉大な3人の天皇政治のアンカーとして、古代日本の礎を築く諸施策を次々と実施して行った天武天皇は、強力な”リーダーシップ”を持った卓越した政治家であった事が良く分かるのである。
    
③-2 ”専制君主的皇親政治”と称される”天皇中心政治”と”人事”政策

 天武天皇政治の最大の特徴は一切大臣を置かず、天武天皇自らが直接に政務を見たと言う事である。そして皇族の諸王に要職を分掌させたが、その皇族にも天武天皇に対する一切の権力への干渉をさせない体制を整えた。これを”皇親政治”と称するが、実態は天武天皇による”専制政治体制”である。”専制政治”と聞くと多くの人が”悪政”を連想しがちであるが、事、天武天皇に限っては立派な治績を積み重ねている。

国内的にも対外的にも日本国が生き延びる事が出来るか否かの極めて重要であった飛鳥のこの時期に天武天皇というリーダーを持った日本国は幸運だったのではなかろうか。

こうした天皇への権力の集中政策の一方で、才能によって役職に就く事が出来る制度を設けたり、才能がある庶民には畿外の者、時には渡来人の子であっても宮廷への出仕を認めるなどの改革も行った。天武天皇の”公正”な人柄を示す史実として”吉野の盟約”と言われる”皇位継承争い防止策”が挙げられる。後に徳川家も同じ様に本家、御三家による後継者ルール、更には”長兄”優先というルールを遵守させる事に拠って、過去の歴史上必ず起って来た”後継者争いによる世の乱れ”に歯止めを掛け、安定した政権維持に努めたが、古代日本において、その基礎的考えを示したのが天武天皇であり、この”吉野の盟約”であった。

即位後6年経った679年に天武天皇と皇后(後の持統天皇)は成長した自分の子4人と兄天智天皇の遺児2人を伴って吉野宮に行幸する。そして天武天皇と皇后は計6人の皇子を分け隔て無く遇すると共に、6人は共に協力し合う事を約束させたのがこの”吉野の盟約”である。

全く同じ趣旨から、毛利元就が毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人の子に結束を説いた”教訓状”を書いたが、この話は、1557年の事であるから、この吉野の盟約(679年)から880年も後の事である。天皇家、将軍家、大名家、どの場合でも同じであるが、政権の乱れ、弱体化は前任者の死亡による後継者争い、とりわけ兄弟間の争いに付け入ろうとする周囲の人々の権力争い絡みが多い。天武天皇自らが古代日本最大の皇位継承争い、”壬申の乱”を経験した為に、そうした事を繰り返さない為の智恵であったものと思われる。

その他の全てにおいて6人の皇子を平等に扱った天武天皇であったが、ただ一人に絞らねばならない”皇位継承”だけは平等という訳には行かず、子供達、天智天皇の遺児達にこの盟約によって、はっきりとした皇位継承の序列を言い渡したのである。

具体的には、天武天皇自身の子である草壁皇子ー大津皇子ー高市皇子の順とし、天智天皇の遺児は天皇の後継者からは外された。この吉野の盟約は他にも重要な約束事があるのだが、草壁皇子を後継者とすることを皆に認めさせる事が主たる目的ではなかったのかと考えられている。

この盟約から2年後の681年に草壁皇子は皇太子になっている。天武天皇は後継者から外された天智天皇の遺児等との争い防止策として、草壁皇子には天智天皇の娘を娶らせ、大津皇子にも同じ様に天智天皇の皇女を娶らせるなどの配慮をしている。この草壁皇子が娶った天智天皇の娘が紆余曲折を経て、天武天皇から三代後、つまり持統天皇、その子供である文武天皇の次の第43代元明天皇として即位するのである。

天武天皇が第一の天皇後継者とした草壁皇子に娶らせた天智天皇の娘であり、後述する経緯によって元明天皇として707年に即位する訳であるがこの女帝については紹介しておきたい事が多い。治績としては708年の和同開珎の使用開始があり、710年の平城京遷都がある。又712年に古事記編纂が完成した時の女帝でもある。話は戻るがこの元明天皇の即位は“皇后を経ないで天皇に即位した最初の例”と言う特記が付けられる。その理由は既述の様に、彼女は”草壁皇子の后”であった。その夫が後述するが、皇太子のまま病死してしまうのである。従って彼女は“皇太子妃”ではあったが”皇后”の経験は無いと言う訳である。息子である第42代文武天皇も病弱であった為に文武天皇が僅か10年で譲位した為に母親の彼女が繋ぎとして即位した、と言う巡り合わせの結果の女帝なのである。

今上天皇、皇后陛下の意向も考慮し、崩御された場合には“火葬”をし、且つ葬儀を簡素にすると言う話が2013年の11月に宮内庁から発表され話題となった。天皇が火葬された最初の例が天武天皇の皇后であり、後に第41代女帝として即位した持統天皇である。そして持統天皇の遺言(遺詔)として葬儀を質素にする(薄葬)事が申し付けられ、崩御の後に火葬された骨は夫の天武天皇陵に合葬されたとの記事(日本経済新聞)もあった。

ところで美智子皇后が“今上天皇との合葬は恐れ多い”と言われたとも伝えられたが、今上天皇からはご希望として美智子皇后との合葬という話を出されたと言うのである。そこで、美智子皇后の方からその話を強く辞退されたのだが、その理由も新聞の記事に添えられていた。要は持統天皇の場合は天武天皇の皇后であったと同時に後に、天皇に即位した方なのだから皇后である自分のケースとは異なる、と言う事を美智子皇后は“恐れ多い”と表現されたと言う事である。

さて、天武天皇の治績の話に戻ろう。歴史の皮肉と言おうか、自らの後継者問題等に対して、あれこれと配慮した天武天皇であったが、崩御後の後継者問題は、残念ながら、全く天武天皇の思惑通りのスムーズな天皇後継と言う訳には行かなかったのである。
まず第一に”乱”にこそならなかったが、天武天皇が崩御された(686年9月11日)直後に二番目の皇位継承順位に居た”大津皇子”に対して謀反の罪が問われ、686年10月25日にわずか24歳で彼は死を賜るという事件が発生したのである。

第二に、第一番目の皇位後継者であった皇太子草壁皇子は即位しないまま689年に27才の若さで病死して仕舞うのである。そもそも草壁皇子は皇太子でありながら、天武天皇崩御の直後に何故天皇として即位しなかったのであろうか。その理由については、草壁皇子がまだ若かったという事と、天武天皇崩御直後に起こった上述の大津皇子の事件があって、朝廷内の雰囲気が草壁皇子の即位を許さなかったからであろうと言われている。

こうした後継者に関わる事件(大津皇子)、不幸(草壁皇子)が続いた為、結果として天武天皇の皇后が686年からの”称制”期間を経て、690年に第41代持統天皇として即位し、上述した様に、文武、元明天皇へと引き継がれて行くのである。 

③-3 大王から天皇へ

天武天皇は基本的に天智天皇の政治路線を継承し、”大化の改新”で目指した諸施策を実現して行った。個々の施策の詳細は此処では省略するが、古代日本国の国としての体制を天皇を中心の、天皇専制的体制によって短期間に作り上げて行った。専制君主的な天皇中心の政治を推し進めた訳であるから、天武天皇の諸治績には”日本で始めて”と言う冠が付くものが多いし、又今日迄も引き継がれて来ている事績が多い事は既述の通りである。

まさしく、古代日本の礎を築いた飛鳥の3天皇による”国造りリレー”のアンカー走者に相応しい事績の数々である。以下にそれらのいくつかを紹介しておこう。

先ずは、それまでの呼称が”大王”から”天皇”へと変わった事である。この事については第二章の5項でも簡単に触れた。これについても“ 推古天皇の時代から天皇と呼称されていた”のではないか等、諸説があるが、遅くとも天武天皇の時代には、それまでの”大王” から"天皇”と称する様になった事がはっきりとしているのである。
この“呼称が変化した事”の意味するところは、単なる国内諸豪族の中での”最強豪族”であると言う“天皇家”の地位が、隣国中国、 朝鮮半島の諸国に対して、充分に伍して行ける国際社会に通じる”統一国家日本の元首”としての地位に“格上げされた”と言う事なのである。まさに飛鳥時代は我が国にとって非常に重要な当時のグローバル化対応に成功した時代であったのである。

こうした”天皇家”の地位の変化は、その地位の”継承”と言う問題にも変化をもたらし、結果として“世界最古の同一血統”が継承され続ける事になる”天皇家”を国の主軸、骨格として以降存在させて行く結果となるのである。

天武天皇が腐心したのが、天皇家もそれ迄は他の豪族と変わらない一豪族としての”継承”のあり方であったものを”国を代表する天皇家の継承のあり方”へと変える事であった。その結果天皇家の継承問題は以後、国としての“最重要課題”となるのである。

こうして“国としての重要課題として大切に継承される仕組み”となった天皇家の以後何世紀にも亘る“継承の実績”はいよいよ天皇家を”権力”だけで無く、歴史と言う時間の積み重ねに裏づけされた”権威”をも併せ持つ存在へと高めて行く事になるのである。その結果日本における天皇家は時を重ねるにつれて、次第に、時の権力者を含めて、何人もその政治的実権は兎も角、“国家の軸としての権威”については“犯し難い存在”になって行くのである。

天武天皇時代に発揮した“政治権力”は時代によって紆余曲折があり、平安時代以降、藤原摂関家に握られ、その後は平家に握られ、その後、武家が実権を握る等の歴史を辿り、今日の議会制民主主義の形となる。しかし天武天皇が同時に作り上げた“天皇家の権威”については時代と共に日本の岩盤の様に”確立”され、継承されるのである。その結果、天皇家は滅亡する事無く今日迄存続し今日では世界で最古の1700年以上の同一家系の継承となっているのである。

天皇の継承問題は”天皇の崩御”と言う避けて通れない事態に絡んで起るものである。この崩御と言う事態への智恵として”諡号”(しごう)を贈る”葬送儀礼行事“が古代中国では行われていたが、これに一工夫を加えて日本独自の”諡号“を贈るという方法に変えて、天皇家の”権威継承行事”として確立したのも天武天皇の時代だと言われている。こうした行事を天皇崩御の毎に繰り返し行う事によって天皇家が正当に継承されたと言う事を天下に知らしめる機会とすると共に、天皇家の権威を天下に示す一つの“礎”として利用したのである。

③-4 和風諡号

諡号(しごう)とは帝王等貴人が死んだ後に生前の治績に対する評価に基付いて贈られる”名”であり”呼称”と解釈しても良いものである。重要な事は、天皇家に関して贈られた”和風諡号”制度は”崩御した天皇が正統な血筋の継承者である”と言う事を高らかに天下に称え、葬送儀礼の一環行事(これを殯、モガリと言った)の場で”諡号を贈る”と言う制度として整えたと言う知恵にある。

天武天皇が“和風諡号”を贈る儀式によって、正当な天皇家の継承者である、とした血筋とは“男系天皇の血筋”を引く天皇である。前項でも述べたが、この天武天皇が明確にした天皇家の継承における“正当な血筋”と言う大原則は決して破られる事が無かった。

1700年を超える天皇家の継承実績から誕生した歴代125代の天皇の中、”女性天皇”が8人、重祚した2例を含めて10代を数えるが、そのうち男系天皇の血筋を全く引かない”女系天皇”と称すべき女帝の即位の例は全く無いと言う事も述べた。”正統な血筋の継承者”である事を前の天皇の崩御の際の葬送儀礼の場を利用して”和風諡号”を与えると言う儀式を行うという知恵が古代日本で制度化された意味は大きかったのである。

こうした当時の”智恵”がその後の長い日本の歴史の中で”天皇家”が”権威”として存続されて来る事が出来た一つの重要な理由となったのである。

天武天皇期の様に“権威づけ”と“正当な天皇家の後継者”を天下に知らしめると言う明確な意図を持って行われた訳ではなかったであろうが、天武天皇期以前にも“和風諡号“を与えると言う事があったと言う説もある。和風諡号制度そのものの起源についても諸説がある。仏教が伝来した時の欽明天皇に贈られたのが最初だとする説もあるし、確実なものとしては”続日本紀”の記録にある天武天皇の皇后であった”持統天皇”に贈られた“日本根子天之広野日女”が最初の”和風諡号”であるとする説もあるが、いずれにしても天武天皇期に頂点に達した“天皇の権威”がこうした“諡号を与える”という儀式をより権威のある行事にしたのである。この和風諡号を贈る制度はその後、平安時代の、第54代仁明天皇(即位時期833年~850年)迄は行われていたと言う記録があるので、少なくともこの時期までは続けられていたのであろう。天皇家の”権威確立”と”血筋の正当性の継承”という天武天皇の悲願が兎も角も後継者によって受け継がれて行った事の証明である。

ところで初代天皇とされる神武天皇の”神倭伊波礼毘古命”(かむやまといわれびこのみこと)と言う呼び名を”和風諡号”と呼ぶ人もいるがそれは慣例的にそう呼ぶのであって実際にはここで言う”和風諡号”とは異なる。後述する“漢風諡号”なのである。
”和風諡号”は上述の様に飽くまでも与える意図がはっきりとしており、葬送行事の場で儀式として崩御した天皇に贈られた名称であった。

③-5 漢風諡号

上述の”和風諡号”を贈るという葬送行事の儀式は、天皇家の血筋並びに継承の正当性を有力豪族並びに全国民に知らしめると言う点で素晴らしい知恵であった。このそれ迄には無かった儀式は天皇家の権威を高める事にも大きく貢献し、先人に拠るこうした知恵の積み重ねも今日迄天皇家が日本の“権威”として継承され、存続して来た大きな理由の一つである。もし、日本が今日に至る長い歴史の間に、例え一度であっても中国等の諸外国、又は他民族国家によって征服されていたら、こうした“儀式”の積み重ねは途絶えたばかりか廃止されたであろう。天皇家の継承に関しては兎に角、小さな儀式と云えども途切れる事なく継承され、代々積み重ねられて来た結果、無視する訳にも行かない程の大きな“権威”として日本国の岩盤として根付く迄になったと言う事である。

和風諡号の他に天皇に”漢風諡号”が贈られた時代があった。”神倭伊波礼毘古命”(かむやまといわれびこのみこと)が初代天皇、神武天皇の“漢風諡号”である。又、第16代の天皇の漢風諡号は大雀命(おおさざきのみこと)である。この天皇の御陵は大阪の堺にあり世界最大の規模の墓である。これがどの天皇であるかは直ぐにお分かりであろう。”仁徳天皇”である。

こうした”漢風諡号”は壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)のひ孫に当る淡海三船(おうみのみふね)が奈良時代の762年から764年に一括して定めたと“釈日本紀”(鎌倉時代)に 記録されている。

淡海三船が一括して定めたのは初代神武天皇から第44代元正天皇(即位715年~724年)迄であるとされるがこれについても諸説がある。いずれにしてもこの”漢風諡号”の制度は第58代光孝天皇(即位884年~887年)迄は行なわれたとの記録があるが、律令政治が10世紀に崩壊すると共に一度は途絶えたのだが驚くべき事に幕末になって復活するのである。具体的には第119代光格天皇(即位1779年~1817年)、第120代仁孝天皇(即位1817年~1846年)そして明治天皇の父親である第121代孝明天皇(即位1846年~1866年)の3代の天皇には”漢風諡号”が贈られたのである。

天皇の呼称については漢風諡号や和風諡号の制度が無くなった後は”院号”で称したり、崩御後に追号と称して、皇居の宮の名前、譲位後の御在所の名称をとって呼ばれる等、様々なケースがある。明治以降は“一世一元制”になると共に年号を以って”帝号”とする事が決められた。崩御後に明治天皇、大正天皇、昭和天皇と呼称される、現在私達に馴染みのある制度となったのである。この呼称はあくまでも崩御後のものであって現在天皇の位に就かれている天皇の正式な呼称は”今上天皇”である。この様に天皇の呼称については時代の経緯によって様々であり、又諸説があるが興味のある方はそれらについての専門書もあるので参照されたい。

③-6 ”倭”から”日本”へ

第二章第5項で702年の”遣唐使”を送る際に持たせる対外的な文書に初めて”日本国”という国号が使われた事を紹介した。又日本書紀編纂の時にも国号についての議論があった記録があると言う事にも触れた。いずれも天武天皇の治世の直ぐ後の事である。この事からも"倭”に代えて”日本”という国号を定めたのは”天武天皇”であり、そもそも”天皇”と言う呼称も最初は”天武”という只一人の偉大な“君主”の為に用いられた”尊称”であったとする説もある。(熊谷公男氏)熊谷氏の説によれば“天武のような優れたカリスマを継承する為に天皇という呼称を日本国の君主の号とする事が定められた”と言う事である。
まさに天皇の中の天皇に相応しいのが”天武天皇”だと言う説である。

③-7 内外共に戦争が無かった”天武天皇”時代

古代日本最大規模の内戦”壬申の乱”を経て即位した天武天皇であり、且つその治世期間はわずか13年間であるからその間、国内に戦争が無かった事は不思議ではない。対外的にも一番脅威であった唐は新羅と朝鮮半島の支配を巡って争っていた状況にあり、両国が共に日本を味方にすべく通交を求めて来ると言う具合で、周辺諸国との関係は天智天皇時代と比較すれば好転していた時期であった。兄天智天皇が百済再興の為に唐・新羅連合軍と白村江で戦い大敗を喫した状況を天武天皇は目の当たりにしている。その敵対した相手の新羅も一方では常に唐からの独立を画策しており天武天皇が即位した673年には逆に日本との関係修復の為の使節を送り込んで来ていたと言う目まぐるしく変わる朝鮮半島の状況であった。

天武天皇は、公平且つ冷静、そしてバランス感覚を備えた人物であったのだろう、こうした状況にはあったが、軍事的には安易に新羅に加担する事もしなかったし、逆に朝鮮半島に対して征服の為や干渉の為の軍事行動などは一切起こさなかった。

一方、低姿勢で関係修復を求めて来た新羅とは互いに使者をやりとりする事で大陸の文化を積極的に摂取すると言う策を取り、逆に白村江の戦いで破れた強大国“唐”に対しては一切使者を遣わさず、日本国としては冷静に,且つ大敗後の体面を繕った外交姿勢をとったのである。

後の章で既述するが、日本の長い歴史の中で、優れた為政者は天武天皇と同じ統治態度であったと言える。つまり、諸外国、とりわけ大国であった中国などとは、巧みな外交姿勢によって吸収出来るものは巧妙に吸収し続ける一方で、その国との基本的外交姿勢は一定の距離を保つと言う関係を維持し、日本としては常に毅然とした態度で独立国としての対面を保っと言う政治スタンスである。例としては足利義満、徳川家康などにもそうした外交姿勢が見られる。

一方で対外政策に失敗し戦争に突入する等、我が国を窮地に陥れる結果になった時代のTopに共通する政治姿勢は、まず第一に海外の情報収集力の不足が在ったり、又、一定の情報収集のルートは確保していたが、それらの情報源がそもそも偏っていたり、情報の伝達ルートや、ルールに欠陥があったケースが殆どであった。更には外交人事の不手際も加わって戦力分析を誤り、結果として正しい外交判断をする事が出来ずに無謀な戦争に突入したのであった。そうした例としては、第二回目の元寇(1281年)での外交の拙さが挙げられる。

二回目の元の来襲が起きる前の1279年に元のフビライは当時手を焼いていた南宋を日本と手を組むことに拠って包囲する目的を持ってその使者を日本に送って来た。
ところが当時の情報網としてはその“南宋”に頼っていた鎌倉幕府には正しい情報は入らなかった。結果として北条時宗はその使者の話も聞かずに殺してしまう。そして2年後の元、高麗連合軍の襲来という結果になり幸運な暴風雨の襲来によって蒙古軍が本気で日本への上陸を考えていたこの戦いを防衛はしたが決して勝利では無かった。鎌倉幕府にとってこの二回に及ぶ元寇による疲弊は大きく以後衰退の一途を辿って行くのである。

応仁の乱に始まり以後戦国時代と言う国家騒乱の時代に陥れた元凶は足利義政による求心力の全くない政治姿勢だと言われている。又朝鮮半島経由で明国を征服し、天皇までをも北京に移そうと本気で考え、朝鮮出兵を行った晩年の豊臣秀吉の外交政策は誇大妄想に駆られた失政だと後世評価されている。

昭和に入ってからは、幾度もの英米との戦争回避のチャンスがあり乍らも国連脱退(1933年)をし、日独伊三国同盟(1940年)、日ソ中立条約(1941年)を結んで、米英との太平洋戦争へと最悪の結果に導いた松岡洋祐の偏った外交姿勢と、そうした外交を追認して来た斉藤実首相から近衛文麿首相に至る歴代の首相などの戦争に至る外交判断も複雑な諸事情の結果とは言え、歴史的には“外交力の拙劣さ”の一言で片付けられてしまうのである。

いつの時代でも戦争は尊い人命を含め、国力の浪費である。しかし同時に古来、戦争は人類が避ける事が甚だ難しい事柄でもあった。そもそも即位時に大きな戦いを経験した天武天皇は更なる戦いに拠る国力の浪費を回避する事に意を尽くす一方で、着々と国家造りを目指した。当時のグローバル世界にあって揺籃期の古代日本国にとっては内外共に極めて大切な時期に“天武天皇”と言う優れたリーダーを得た我が国は幸運であったと言えよう。

③-8 遷都を繰り返していた“都”の複都制、並びに”固定化”を考え、更には”富本銭”を鋳造した天武天皇の内政
     
 天武天皇は”都”に対する考えでも新機軸を出そうと試みた。壬申の乱に勝利した後、暫くは美濃に留まりその後父母(舒明天皇、斉明天皇)が都とした“ 飛鳥岡本宮”に新宮を建ててそこで政務をとった。天武天皇崩御2カ月前の685年7月20日にこの宮は”飛鳥浄御原宮”と名付けられた。天武天皇は、都を複数置くべきだと言う考えを出し683年12月17日に30年程前に孝徳天皇が築いた”大化の改新”の象徴でもある”難波宮”を都とする詔を出し官人達には難波に家、土地が必要な者は国に請求せよと命じた事が記録されている。こうした資料も大阪歴史博物館の10階の展示場に行くと見学する事が出来る。

又、天武天皇時代に日本で初めて鋳造された貨幣として話題になっている”富本銭”も展示してある。私が学生時代には日本最古の貨幣は”和同開珎”だと習ったものだが1998年に飛鳥池の遺跡からこの”富本銭”が出土した為、701年(和銅1年)に発行された銅銭よりもこちらの方が古いのではと言う議論になっていて学会ではまだ決着が付いていないとの事である。日本書紀の天武12年(683年)に銅銭が鋳造されたという記事があり、将にそれを裏付ける”富本銭の発見”によって現在、従来の”貨幣史通説” は再検討を迫られているのである。これに関する学説の一つは”富本銭”の用途は”まじない”であって和同開珎の様な流通貨幣では無かったとするものでありこうした用途の面からもまだ決着はついていない。

 大阪の”難波宮”を“陪都”として修営した事に続いて翌年の 684年には信濃にも都を置きたいとして天武天皇は視察の使者を派遣したがこの地での都建設は未着手で終わった。こうした”複都制”の一方で天武天皇は天皇が代替わりする毎に主たる”都”を移して来た旧来の慣習を改め、永続的な”本格的な都”を建設する抱負を 抱いていた。本格的な壮大な都を建設しそれを首都として”固定化”する一大事業の発想である。その為の適地の調査を始め、この構想に基づいて着手されたのが大和三山に囲まれた”藤原京”である。

残念ながら天武天皇在位中(673年~686年)には完成せず皇后であり第41代持統天皇の時代に完成し694年に遷都する事になるのである。”藤原京”の遺構は現在の奈良県橿原市木之本町にあり80年程前の昭和9年から発掘がされ現在でも発掘作業が進められている。私も現地を訪ねて見たが900メートル四方の宮は四方を高さ5メートル位の大垣と濠で囲まれた歴史上最初の本格的な”唐風都城”であったとされる。この”藤原宮”を含めた全体の”藤原京”の広さは東西5.3キロメートル、南北4.8キロメートルである。後の平城京そして1000年の都となった平安京をも凌ぐ古代最大の都市であったとされる。

この”藤原京”時代の701年に律令国家の基本法典として飛鳥浄御原令をさらに整えた”大宝律令”が完成する。この藤原京にしても、飛鳥浄御原令にしても、いずれもが天武天皇存命中には完成せず皇后であった持統天皇に引き継がれたものであるが、企画、立案 は共に”天武天皇”であった。そして今一つ歴史上重大な事がこの”藤原京”から発せられている。それは初めて”日本”と言う国号を使用した国書を携えた”遣唐使”がこの”藤原京”から出発したと言う事である。

この様に天皇中心の政治を行い中央集権国家の確立を図った天武天皇は彼の治績の仕上げとして”固定都市”藤原京建設と言う一大事業の“礎”をも築きこの藤原京が完成する8年前に崩御された訳だが彼の”固定首都”と言う発想自体は次の時代へ確りと受け継がれて行き、藤原京から平城京、そして1000年の都となる”平安京”へと繋がるのである。

現在も発掘中の”藤原京”の現場は主要な建物の柱などの跡を示す目印程度の物が置かれているだけの 原っぱ状態の史跡であり今日の段階では訪れる人も少ない様だ。しかし、歴史的には上述の様に天武天皇の治績の云わば締めくくりを示すものとして意義深い史跡である。3代の天皇が住んだ内裏、政治並びに儀式を行った大極殿、朝堂院、役所の建物などが立ち並んだ中国式を模した壮大な”藤原京”は天武天皇の皇后であった 持統天皇、若くして亡くなった皇太子、草壁皇子の子である文武天皇、そしてその母親である元明天皇の3代が生活をし政治を行った古代日本の重要な16年間の都(694年~710年)だったのである。

③-9 政治の要諦は”軍事也”

壬申の乱と言う古代日本における最大級の戦争に勝利した天武天皇の治世の時代には、戦争が国内外共に無かったと記述した。巧みな外交と内政の賜物であると言えよう。
対外的には虎視眈々と朝鮮半島と日本列島征服を狙う超大国”唐”の存在があった。兄、天智天皇の側にあってその苦労を見ていた天武天皇は一方では軍備を最優先した。
”備えあって憂いなし“と言う考えであり天武天皇は684年に ”凡そ政(まつりごと)の要は軍事也”との詔を発した記録が残っている。国軍と言われる程の規模の軍隊はまだ無かったが”官人武装政策”をとり、文武官人には兵馬を整えさせるなど全国的な”兵制”を整えた。大化の改新で廃止された地方豪族の国造(くにのみやつこ)が従前持っていた支配下の人民からなる ”国造軍”がそのまま続いていて、それが当時の軍隊の中心であったという説、北山茂夫氏の説に拠れば”軍団”が当時すでに 出来ていた等諸説がある。不詳な点は多いがいずれにしても天武天皇が国家として ”軍事”を政治の要諦と考へ外国からの攻めに対する防衛面の備え、そして国内統治の為の強力な軍事組織等、諸施策を進めていた事は明らかである。

③-10 八色の姓(やくさのかばね)の制定と冠位48階の制定

八色の姓の制度は、684年10月に定められた新しい身分制度である。その目的には諸説があるが天武天皇が天皇中心の国家体制を整える為には天皇家、皇族の地位を高める必要がありその為の制度と考えて良かろう。 具体的には、旧来の身分制度では、臣・連・伴造・国造という身分秩序であったが、そうした身分秩序の上に真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)の全く新しい姓を上位の階級として付け加えた制度である。天武天皇の考えは、天皇並びに皇族の地位を高める事によって”皇親政治”を進め易くする目的があったが同時に旧来の地方の大豪族を解体する事、上級官人と下級官人の家柄を明確にする事、中央の貴族と地方の豪族とを身分的にもはっきり区別する事などによって中央集権国家としての政治体制を強力にする為にこの身分制度を制定したものと伝えられる。一方に於いて細かい気配りを重視した天武天皇はこうした新しい身分制度を決めるに当って、各個人各氏族ベースでは努力次第で上位に上がれる可能性を作り出す仕組みをこの制度によって新たに整えたのである。

具体例としては”壬申の乱”で功労のあった豪族に最上級の”真人”の姓を与えてた。ちなみに”真人”という姓は天皇家の末裔とされる家系のものと規定しており、天武天皇の崩御後に贈られた”和風諡号”(わふうしごう)にはこの”真人”と言う姓が使われている。然しながらこの”八色姓の制度”は天武天皇の崩御後に形骸化してしまう。例えば二番目に地位の高いとされる”朝臣”(あそん)の姓は天皇家直系ではないが遠縁に当る皇親と呼ばれる家系、蘇我氏、巨勢氏など大豪族に与えられたが奈良時代、平安時代に至ると、源・平・橘・藤の四つの姓が隆盛になって来てその末裔の殆んどが”朝臣”になってしまったり時代を経る中にいつの間にか”朝臣”の方が”真人”よりも姓の序列では上位に置かれるなど天武天皇の意図した”八色の姓”の制度そのものが意味の無いものになってしまうのだが我が国の歴史上で天皇中心の中央集権国家を作り上げる為に用いられた身分制度の仕組みとしては重要かつ巧みな制度であったと言えるのである。

685年に天武天皇はそれまでの”冠位26階”を改めて”冠位48階”を制定している。この制度も努力をした者に報いると言う天武天皇の施策で、その考え方は全く同じであり、より細かく冠位を定める事によって広く人材を登用する為の官位26階を改良した制度であった。

③-11 ”国家は歴史と 文化也”

今日のようにグローバル世界になり、人、物、情報、マネーなどがあたかも国境が無いかのように行き来する状態になると”国家”とは一体何なのであろうか?と言う単純な疑問が改めて沸く。その疑問に対する答えを1300年以上も前の日本のトップであった天武天皇は明確に示し政策として実行した。国家である以上”領土”を守る事によって人民の生命と財産を守る事は国のトップとしての主要な政策であり、その答えが”軍事”であるとして既述した様な施策を実行している。そして今一つ、天武天皇は国家として重要な施策として”歴史と文化を育て守る事”を実行している。海外から取り入れた新しく優れた文化を日本の固有文化と融合させ新たな日本文化として育成する事、そして日本の歴史を記録として残して行くという事を行った。この歴史と文化に関する膨大な作業を1300年以上前に天武天皇が国として重要な作業として位置づけた事が彼の卓越した能力なのである。

今日の様にグローバル化の時代に本格的に突入すると多くの人々が好むと好まざるとに関わらずに海外での駐在を経験させられる事になる。又、日本にも世界中からの多くの人々が日々訪れて来る。2020年に再び東京でオリンピックが開催されるが、IOC(国際オリンピック委員会)からは“日本らしい文化を世界中に示すオリンピックを期待する”と言うコメントが寄せられている。

若い海外駐在経験者から良く聞かされるのは、初めて日本から出て海外で駐在生活を経験したり、海外の人々と仕事を一緒にした時の経験談である。それは”私がつくづく反省させられた事の一つに、自分が日本の歴史、文化について海外の人々から質問されても十分な答えが出せず非常に恥かしい思いをした”という話であった。

外国、乃至は他民族によって征服された経験も無く、異民族文化を押し付けられた経験も無く、それでいて1700年以上に亘る天皇家と言う”権威”を国家の傘として頂いた”歴史”と”文化”の中にどっぷりと浸かって居る日本人は ややもすると常に国境を巡る争いの中で”国家”と民族の”文化”を命懸けで守って来た諸外国の人々に比べると歴史と文化は当然そこにあるものだと考えがちとなる欠点がある事に気付かされるのである。今日では取り立てて日本固有の文化を学ぶ努力もしないし、日本自体を意識もしない日本人が増えていると言われる。日本の固有の文化にしても、そこに在る事が当たり前と長い間考えて来た日本人にとっては、日本の文化を大切にして来なかった面もある意味では当然であった。結果として次第に日本の文化の継承自体が危ぶまれる事態になっている今日である。そして残念な事だが、そうした傾向は特に最近になって強くなって来ているのではないかと危機感さえ抱く人々が多いのである。

かく言う私も外国生活で日本文化に対する無知を反省した一人であるが、現在の日本の歴史、日本文化に対する教育の不十分さはグローバル化が国民一人一人のレベルで深まる今後は大きな問題となろう。今日の様にメデイア、IT機器等の進化によって物理的な国境が無くなって来た状況下では“国家とは文化である“と言う時代が来ているし、豊かな日本文化、特異な日本の歴史はグローバル時代の”日本の誇れるブランド“でありそれを海外の人達に伝える事が出来ない事は日本人としての大きな損失だと思うのである。

天武天皇は国としてのあらゆる制度の整備に加えて、国の根幹となる”日本民族の歴史と文化”についても重要な功績を後世の我々に残してくれた天皇である。以下にそれらの一部を紹介して置こう。

(1) 古事記、日本書紀の編纂

これについては既に第二章で詳しく述べたので省略するが,古事記、日本書紀共に、その完成は天武天皇の崩御後となった。内容は共に天皇家に拠る日本の統治を正当化するという点で共通する。その内容、意図については種々の批判もあり、史実との整合性を云々する学者もいるが共に日本に現存する最古の歴史書であり、これらの書物が無ければ、全てを中国、朝鮮半島諸国の歴史書の記述に頼らねばならないのだから、古代日本の史実を研究する為にも非常に貴重な書物を残してくれたと素直に感謝したいものである。

“記紀”以前にも620年に聖徳太子と蘇我馬子による“天皇記”“国記”が編纂されたとの記録があるが残念ながら現存しない。いずれにしても国家にとって自らの手による歴史書が極めて重要である事を1300年以上も前に強く認識していた天武天皇がいかに政治家として卓越した感性と能力を持ち、そして古代日本の国家としての“礎”を立派に築いた天皇であったかが分かる。後世、最大級の評価が贈られる所以であろう。

(2) 地方祭祀を国家祭祀として管理した天武天皇の統率力

天武天皇自身は天文の知識に篤く、宗教や超自然的力に感心が強く、さらに神仏への信仰心の非常に厚い人物であったと伝えられている。こうした事から予言者的能力も備えた人物であったと考えられるし、自らが”神”と仰がれる様な”カリスマ性”を身に帯びた天皇であった様だ。又、日本民族古来の神の祭りを重視し地方の祭祀を国家祭祀に引き揚げる事によって日本固有の民族意識の高揚と日本民族としての一体感を作り出すという治績も残している。

天皇家の祖を天照大神とし、各地に存在する伝統的な神との位置付けを体系化する事によって各地方と天皇家との神を通じての一体感を作り出し究極的には天皇家の権威と権力の強化となる事に繋げたのである。具体的には伊勢神宮を日本の最高の神社とする道筋を付け現在の場所に建てたのが天武天皇である。この項を書いている2013年は20年に一度行われる伊勢神宮の式年遷宮の年であるがこの行事を開始したのも天武天皇である。

諸説があるが、伊勢神宮の”斎王”として自らの娘の“大来皇女”を初めて送り出したのも天武天皇だと伝わる。仏教も天武天皇は手厚く保護をした。壬申の乱の直前に剃髪をし、天智天皇の許可を得て出家し吉野に退いた事は既に述べたが、天皇として即位後も”金光明経”を宮中並びに各寺で説かせるなど仏教保護に関する数々の治績も伝えられている。

神道という面で各地の伝統的な祭祀と伊勢神宮を頂点とする国家祭祀との結びつきを作り上げて全体の把握、管理体制を整えたのと同様に仏教の面でも全国に氏寺を盛んに造営し更には”家”毎に仏舎を作って礼拝供養するようにとの詔を685年に下している。

この様に国家神道に加えて仏教までをも”国家仏教”として管理される体制としたのである。古代国家としての日本は徐々に天皇中心の国家、中央集権国家を目指して飛鳥時代の3代の天皇の好リレーによってその体制作りを行った。そのアンカー走者、第40代天武天皇によってその完成を見るのである。

軍事、外交、国内政治体制、そして宗教、並びに歴史文化に至る迄、隅から隅まで国としての体制が正にこの章で記述した飛鳥時代の3天皇の好リレーによって整えられたのである。

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