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2014年4月17日木曜日
第三章 日本の基礎を作った飛鳥時代の三天皇
第3項 天武天皇
① 天武天皇と天智天皇との関係
異説を唱えて侃々諤々それを展開する事が専門家と称する人々の一つの使命でもあるから天智天皇と天武天皇の出生についても諸説がある。ここでは第34代舒明天皇を父とし、皇后であり第35代皇極天皇(後に重祚して斉明天皇)となった母親を共に同じくする“兄弟天皇”であったと言う説を採る。二人の年齢差についても諸説があるが兄の天智天皇の5歳下と言う定説が自然であると考える。従って天智天皇がまだ中大兄皇子時代に中臣鎌足等と645年に蘇我入鹿を宮殿で暗殺すると言う”クーデター(乙巳の変)”を起した時には、天武天皇(当時は大海人皇子)はまだ15歳だったと言う事になる。従って、彼はこのクーデターには直接関わっていなかったものと考えられる。
天武天皇(大海人皇子)は生まれつき勝れた容姿を持ち、文武に勝れ、又 天文に知識が深く占術を能くしたと伝わっている。推定で175センチメートル程の身長ではなかったかと言う事が後年墓が暴かれた事に拠って伝えられている。
天智天皇の項で述べたが、大海人皇子は母親である斉明天皇の崩御後に兄の皇太子、中大兄皇子(天智天皇)がすぐには天皇に即位せず”称制”として政治を執っていた時期に”皇大弟”として兄の片腕となって政務を助けている。前項で述べたが兄の天智天皇は称制時代に”白村江の戦”に挑み、唐・新羅連合軍に大敗する等、内政、外交共に一時期危機的失政状態にあった。この危機を回避すべく兄の中大兄皇子(天智天皇)は弟大海人皇子(天武天皇)を”皇太弟”として政治の表に立てて彼に”甲子宣”(かっしのせん)を号令させるなどして、難局を乗り切ったことは前項で記述した通りである。
天武天皇(大海人皇子)と言う人物は若い時から人望があった様である。天智天皇と弟の天武天皇の兄弟仲が良くなかった、との説を万葉集の歌人としても有名な額田王(ぬかだのおおきみ)を二人で奪い合った話などを例に挙げて面白おかしく展開する専門家もいるが兄弟二人が協力して成した政策その他の史実からは必ずしも兄弟仲が悪かったとは言えまい。皇太子時代の中大兄皇子(天智天皇)と叔父である孝徳天皇がその政治姿勢において仲違いに陥り、中大兄皇子はじめ、母親の前皇極天皇、並びに中臣鎌足(藤原鎌足)等、主たるメンバーが現在の大阪にあった難波宮から再び飛鳥に戻ってしまったと言う事件が起こったがこの時に大海人皇子(天武天皇)も兄と行動を共にしているのである。
この様に兄の天智天皇はその時代の政治の中核にあって内外共に悩み多い一生を送った訳であるがそうした政治的に非常に難しい期間中、弟の大海人皇子(天武天皇)は常に兄に協力的であった。然しながら、前項で記述したように天智天皇が寵愛したとされる息子の大友皇子が成長するに及んで天智天皇側に変化が生じ、672年1月に天智天皇が崩御した時点では大海人皇子(天武天皇)は事前に存命中の兄(天智天皇)に出家を願い出て許可を得て吉野に引き下がっていたと言う複雑な状況にあったのである。
天智天皇崩御の後に、日本書紀の記述には無いが、まだ若かった大友皇子が極めて短い皇太子の期間を経て天皇に即位したと言う状況があったのでは無いかと考えられる。この事は水戸黄門の話で有名な水戸光圀が著した“大日本史”の研究でも書かれているし、その後の多くの歴史家の研究でも、天皇に即位した事に間違いは無い、と言う方向でほぼ確認されていた。従って、王政復古の大号令によって明治維新政府になった直後の明治3年(1870年)にこの大友皇子が第39代弘文天皇として即位したと言う事が初めて公式に認められる迄大友皇子の即位という史実は無視されて来たのである。
大海人皇子が吉野に篭った時点から近江(大津)の大友皇子(弘文天皇)を擁する朝廷側と吉野の大海人皇子(天武天皇)側との関係は一触即発の ギクシャクした状態であったのであろう事が推察出来る。何故ならば天智天皇が皇太子、そして称制(天皇代行)時代も含めた相当に長い期間、弟の大海人皇子(天武天皇)が“皇太弟”として補佐をし、天智天皇の後継者と見做されてされていたからである。
天智天皇自身も大友皇子が成長する迄は、後継者として弟の大海人皇子(天武天皇)を後継者と考え、誰の目にもその様に映っていたものと伝えられる。それが上記した様に、天智天皇の最晩年になってどんでん返しの様に覆り、その後の展開を察知し、身の危険を感じた大海人皇子(天武天皇)が述べたような吉野への退却行動をとり、結果として取り巻きの豪族達の思惑、勢力争いも絡めた近江朝廷側と吉野サイドとの間のギクシャクした関係が頂点に達して、当時としては歴史上最大規模と言われる“皇位争奪戦、壬申の乱”へと繋がって行ったのである。
第33代推古天皇までを書いた古事記に、この大友皇子(第39代弘文天皇)の即位の記事が無いのは古事記が書き留めた第33代推古天皇の後の天皇の時代の事であるから、当然の事であるが、第40代(日本書紀では弘文天皇を認めていないので現在より1代少なかった)持統天皇までを既述した日本書紀には、もし大友皇子が即位したのであれば記述されるべき対象期間の天皇であるのだが、一切書かれていない。前項、天智天皇の処で記述した事を繰り返すが、日本書紀の編纂を命じたのが他ならぬ天武天皇であった事、そしてその天武天皇が最も力を注いだ事の一つが、日本の統治者としての“天皇家”の正当性を国の内外に認めさせる事、さらにはその“天皇家”が神代の昔から代々正統に継承されて来た事を書き記す事にあったのだから、言わば内乱の形で皇位を争う形になってしまった事は天武天皇としては残念な事でもあり、従って大友皇子の即位については書く訳には行かなかったのであろうと推測出来るのである。さらに、日本書紀は日本国初の正史として海外諸国、特に中国並びに朝鮮半島諸国に読まれる事を意識して書かれた歴史書であるから、歴代天皇の継承における血統の正しさに加えて、治績を記すという事も主要な目的であった。その点からすると、皇位継承の大戦争を戦った大友皇子の天皇即位と言う史実があったとしても、ほんの僅かの期間の即位でもあり、しかも後世に書き残す様な治績も無い事も日本書紀の記録から抹殺された理由でもあったのであろう。
② 壬申の乱とその意味
天武天皇について記述する為には、壬申の乱について記述しない訳には行かないので簡単に触れて置く。専門家の説の中には、天智天皇の皇統から皇位継承ルートを強引に奪った人物として天武天皇を描くものがあるが、一部既述した様に、大海人皇子時代から、人望も厚く、政治手腕も認められていた人物であり、こうした流れは必然なのでは無かったのかと思われるのである。
③-1 大海人皇子(天武天皇)の近江朝廷からの脱出劇
前述したように兄天智天皇と弟大海人皇子(天武天皇)のそれまでの信頼関係は671年正月の天智天皇 による大友皇子の太政大臣任命という事から崩れ始めたものと考えられる。
天智天皇は長い間右腕として協力して来た弟、大海人皇子を後継者と決めていたものと伝えられている。しかし前項で書いた様に、晩年にそうした考えが覆り、溺愛している大友皇子に皇位を譲りたいのが天智天皇の本心である事を察知した大海人皇子は、むしろ天智天皇崩御の後に自分の身に危険が及ぶ事に備える行動をとるのである。
何故ならば大友皇子の周辺には、左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、等5人の重臣が固めており、天智天皇の崩御後は彼等の地位の保全も考えて、大友皇子の即位を支持し、結束を固めていた事を大海人皇子は知っていたと思われるのである。従って大海人皇子は天智天皇の崩御の前に自ら大友皇子の即位を薦め、自分は出家して吉野に引き込む事を願い出て、病床の天智天皇から許可を得たと伝えられるのである。大友皇子周辺の蘇我氏系の大豪族が、人望もあり、政治的実績も残して来た大海人皇子を邪魔とする状況が出来上がっており、天智天皇崩御前に大海人皇子が決断した必死の脱出劇であった。
ところで、多くの人は蘇我氏は645年のクーデターで入鹿が殺され、父親の蝦夷も翌日自害した事によって、嘗ての大政治勢力はこの時点で 一掃されたと考えるが、誤解である。大豪族蘇我氏は蝦夷、入鹿の蘇我氏宗本家が先の“乙巳の変”(いっしのへん)で滅亡しただけで、蝦夷の弟、蘇我倉麻呂の系統は息子の”蘇我倉山田石川麻呂”がクーデターの時には中大兄皇子側に加わっていた為、むしろその功績によって、右大臣に任じられているのである。又、 蘇我倉麻呂のもう一人の息子、曽我赤兄と連子も、共にそれぞれ天智天皇内閣の左大臣と右大臣に任じられており、宗家は滅亡したが、大豪族”蘇我家”はその後も一定の勢力を保持していたのである。
後述する大海人皇子(天武天皇)と大友皇子との“壬申の乱”で、大友皇子側のメンバーであった為に蘇我赤兄はじめ 敗戦に拠って滅びた蘇我一族もあったが、ここでもしぶとく蘇我連子の系統の蘇我安麻呂の系統は 生き残るのである。
同じ蘇我氏であっても、大海人皇子(天武天皇)側についた蘇我氏一族もあった。その一族は天武天皇の信任を厚く得て”石川朝臣”と言う新しい姓氏を賜って生き延びるのである。しかしその僅かに生き延びる事に成功した“蘇我氏系石川氏”は平安京へ桓武天皇が遷都する迄の約100年後までは命脈を保ったのだが、馬子から数えて7代目となる“石川真守”が公卿となった記録を最後に、終に歴史から姿を消したと言うのが”大豪族蘇我氏” の顛末である。
いずれにしても、日本の歴史上、蘇我氏の果たした役割はその後の”藤原氏”程では無いが、6世紀から8世紀末迄、古代日本の創建期をリードした大豪族として非常に大きい。
ある時期には天皇家を助け、ある時期には天皇家を凌駕する政治権力を持つなど、天皇家と共に古代日本の“国造り”に貢献した大豪族であった事は間違い無い。
②-2 壬申の乱の展開
672年6月22日の大海人皇子の”吉野脱出”と言う行動に始まった壬申の乱は丸1ケ月後に近江(大津)の朝廷の大友皇子(後に第39代弘文天皇として認められる)が自殺して終結するのである。こう書いて仕舞うと簡単な戦いだった様であるが、色々な面で前例の無い戦いであった。一つには、日本の歴史上、天皇側に反旗を翻した軍は殆んどが鎮圧されているがこの壬申の乱だけは皇位に無かった側、つまり反乱を起こした側が勝利し、皇位を奪う結果になった。こうした結果になった理由の一つには朝廷に大きな力を持つ中央大豪族であった蘇我氏に長い期間抑圧されていた地方乃至、中小の豪族が天智天皇の崩御によって俄かに後継者となった若干24歳 の大友皇子とそれを取り巻く蘇我氏側に付くよりも長い間後継者として目され天智天皇を右腕として支えて来た政治実績を持つ大海人皇子(天武天皇)を支持する豪族が多かった為であると伝えられている。
大海人皇子は天智天皇の晩年になって俄かに太政大臣になる等、いわば突如登場した格好の大友皇子によって追放された形となった。こうした状況から、天智天皇崩御後の自身の身の危険を察知した大海人皇子は自ら出家し吉野へ引き下がった訳であるが、こうした大海人皇子の境遇に人々の同情を集めたという点もある。政治実績に加えて、人望もあった大海人皇子には従者である吉野宮の舎人、美濃、尾張、伊賀地方の豪族、そして大伴氏を中心とする大和地方の勢力も従い彼らが戦力の主流となった。政治の政策面で言うと、大海人皇子(天武天皇)は親新羅、反唐政策であり、真逆の親唐政策をとる大友皇子等、天智天皇崩御後の近江政権の行く末に不安を感じていた豪族達が非常に多かったという事情もあったと思われる。
その理由は、先年の百済救援軍として白村江の戦いに参加し唐の軍に大惨敗したばかりの地方豪族達はいずれ大唐帝国は日本を侵略して来るであろうと考えていたのである。その根拠は、白村江の戦い日本が大惨敗(663年)した直後の665年に唐の”郭務”が254人もの多数の兵を率いて“唐使”として 戦後処理の交渉に来ており、さらに、667年にも同様の圧力を日本にかけて来ていたのである。そうした状況下、翌668年に唐は終に高句麗をも滅ぼしたのである。
こうした状況を兄の天智天皇を支える立場で経験していた大海人皇子(天武天皇)の外交政策はあくまでも“反唐政策”であり、外交上”親唐政策”を取らざるを 得なかった兄の 天智天皇の政策は理解するものの、真逆であったのである。畿内以外の豪族の中には、以上の様な状況から、大海人皇子と同様に”唐”に対する不信感と強い反感を抱いている者が多く居り、その点からも大海人皇子(天武天皇) 側に付いた豪族が多かったものと考えられる。
一方の大友皇子は若い上に人望も余り無かった。蘇我臣赤兄など近江朝廷側の重臣としては、現在の自らの地位と立場上から、止むを得ず大友皇子側として戦ったものと思われる。要するに近江朝廷側は大友皇子が即位した当初から内部が分裂、動揺していた状態であったと思われるのである。
戦いの経緯は省略するが、古代日本で最大の兵力、吉野側だけでも3万を超える兵力を動員した壬申の乱は672年の6月22日の吉野側による挙兵に始まり、わずか1ケ月後の7月23日の近江側の大友皇子の自殺によって終結する。
この壬申の乱は、天智天皇と天武天皇の政策の違いが直接的原因で起こったものでは無い。
蘇我等、大豪族と中小豪族との抗争が要因の一つではあったが、主体的要因であったとも言い切れない。要は、藤原鎌足の死によって政界の支柱が失われていた事、天智天皇が崩御された事によって大海人皇子側が大友皇子率いる若き近江朝廷の政策に強い危機感を抱いていた処に、立ち上がったばかりの律令体制下で非要職にあった人々の不満が爆発した面等が重なってこの政争になったものと言えよう。
②-3 壬申の乱後、他豪族に比べて天皇家の力を決定的に強くした天武天皇の政治力
短く見積もっても1700年を越える期間に亘って天皇家は“万世一系”の継承を今日まで行って来た。こうした長期間にわたる王家の継承は世界でも稀な例である。天皇家の今日に亘る長期に亘る継承が可能であった理由には様々な要因があるが、その重要な要因の一つに、天武天皇期に代表される様に”天皇家が絶大な政治権力”を持って強力にこの国の統治に当った時期があったという実績が非常に大きい。その代表例がこの項で記述している天武天皇なのである。
”天武天皇”の時代に国家としての体制を整える事は勿論、後世に繋がる天皇家の”権威”作りまでをも成し遂げたのである。
天武天皇は既に記述して来た様に、古代日本における、最大規模の国内戦争とされる”壬申の乱”の勝利によって第40代の天皇(日本書紀では既述した様に第39代)として即位する。この皇位争奪戦争によって、それまで天皇家と拮抗していた蘇我氏をはじめとする大豪族の財力等は大いに疲弊する結果となった。この乱の特徴はそれまで強大であり一つに纏まっていた伝統的豪族が分裂して戦ったという点にもあり、この戦いの結果、勝利した天武天皇サイド、取り分け”天皇家”の財力、武力等が、他豪族に比べて“群を抜く”と言う結果に繋がった事なのである。
大海人皇子は673年2月に飛鳥浄御原宮で第40代天武天皇として即位する。戦後処理として大友皇子(弘文天皇)は自殺し、右大臣であった中臣金は死刑に処せられた。しかし、彼より上位の左大臣であった蘇我赤兄と巨勢比等は流刑で済んだ。古代史上、最大規模の国内戦争としては非常に軽く寛大な処置であった。使える人材は即位後も用いたのである。この辺にも天武天皇のリーダーとしての器量の大きさが窺われるのではなかろうか。
こうした寛大な処置のお陰で中臣鎌足(藤原鎌足)の子である藤原不比等などは極刑に処せられた右大臣の中臣金と同じ”中臣氏”ではあったのだが”天武天皇政権”では律令撰定と言う非常に重要な役割を与えられ、その後の”藤原摂関家”に繋がる栄華の基を築いて行く事になるのである。最高位の左大臣の地位にあった蘇我赤兄が流刑で済まされたのに対して地位の低かった中臣金が死刑に処せられたのは何故であろうかとの疑問を抱く人が多い。その理由は“大海人皇子の夫人の一人が蘇我赤兄の娘だったから刑を軽くしたのであろう”との推論も正しくない。正しくは、”壬申の乱は氏族間の権力闘争では無く、個々人の争いでありその結果それぞれの氏族内が分裂した政争であった”と理解すると分かり易いのである。大海人皇子(天武天皇)サイドで戦功が大いに認められたのが”大伴氏”である。それまで不遇であった大伴氏は壬申の乱における武勲によって中央政界に復帰し大伴安麻呂は 大納言にまで昇進する。その子が大伴旅人であり更にその子が”大伴家持”である。後に万葉集と言う偉大な文化を結実させる人物である。そして“武”の大伴氏、“文”の藤原氏と言う形で以後二大勢力となって行くきっかけが“壬申の乱”だったのである。
④ ”天皇中心の政治”を実現した天武天皇の数々の治績
この第三章では飛鳥時代の三人の天皇が駅伝リレーの様に、夫々の状況に対応した役割を果たし、次々とバトンタッチをして、隋、唐と言う強大な統一王朝が成立した中国の脅威に対応した事を記述する。白村江の戦いの様な大失敗を経験したが、中国、朝鮮半島との難しい外交を切り抜けながら、新しい国の体制作りをし、当時におけるグローバル化を果たし乍ら、今日の日本の礎を築いて来た飛鳥時代の3人の天皇なのである。
この地球上には古代エジプト王朝の歴史、メソポタミア地域に栄えた王朝の歴史、ローマ帝国の歴史、そして中国大陸の王朝の興亡の歴史等、日本よりも遥かに古い時代に、大規模な文明を切り拓き栄えた国々の歴史があった。そしてその殆んどの場合は、それらの国々王朝が内圧、外圧による興亡を繰り返し、消滅し、又新たな征服者による国、王朝が歴史を刻んで行くという歴史であった。
従って、この著の冒頭でも述べた様に今日の世界の国々の中で、同一の王家の系統が今日迄国家のリーダーとして継承し続けて来ているというケースは甚だ少ない。ましてや500年以上に亘って同一家系の“王朝”が継承されて来ている国は極めて稀である事は既述した通りである。そうした稀な例の中でも日本の天皇家が“少なく見積もっても1700年以上“に亘って継承されている事例は断トツの長さである。2番目に長いとされるデンマークでも約1000年、三番目に長いのが英国王室で950年なのである。
中国、ヨーロッパ諸国の歴史は古代、中世、そして近世に入ってからも王朝そのものが交代したり、他民族国家との間の興亡を繰り返して来た。他民族、国家によって王朝が征服され、歴史、文化がそっくり塗り替えられたと言う経験を中国はじめ西欧諸国は何度も経験して来たのである。
中国は1911年の辛亥革命で終に長く続いた“王朝時代”が滅びた。こうした大変革を経験した中国、そして今日現在ほゞ13億人から成る他民族国家を、一つの国として纏める事はとてつもなく大変な事であろう。現在の中国は共産主義国家であるが、旧ソビエト連邦の共産主義は遂に潰れた、そして多くの共産主義国家は同様に倒れた。しかし今日現在中華人民共和国の共産主義は多くの国内的問題を抱え乍らも纏まって動いている様に見える。
そうした問題だらけの国家、中国を支えている“求心力のある思想”は共産主義国家となった今日でも太古から中国国家の求心力となって来た“中華思想”である事に変わりは無いと伝えられる。幾多の王朝の変化を経験し乍らも、中国の国家としての“求心力”となって来た“中華思想”の起源は、中国最初の古代王朝とされる(まだ実在が完全には証明されていないが)“夏王朝“にあるとされる。その後に続いた始皇帝に拠る”秦王朝“以降のどの王朝も自らの起源を”夏王朝“に在るものとし、こうした考えが”中華(夏)思想“として中国の国家を継ぐ者の”正統性、権威づけ“として根付き、以後連綿と継承されて来たと言うのである。この事については既に述べた通りであるがこうした求心力(中華思想)で国の纏まりを作り上げてはいる事が中国という国、民族を理解する上での要諦であるが、日本の様な天皇家と言う”同一王朝“の継承という面では何度も途切れている国なのである。
ロシアも1917年の2月革命によってロマノフ王朝が滅び共産主義によるソビエト連邦が成立した。
そして、この体制も1991年12月に崩壊し、新たにCIS(独立国家共同体)体制になって今日を迎えている。その意味からすれば今日のロシアは建国されてから僅か20数年の非常に若い国という事になる。
何故日本では天皇家が今日迄1700年以上に亘って”継承”されることが出来たのか、の理由は上述した様に、まずは”天皇家“自体が財力、武力に於いて日本の歴史において”絶対的な強大な権力”を持ってこの日本国を率いた時代があった事である。そして、そうした力に加えて、古代から国家祭祀の主たる主導者であった事、そして天智天皇の項で記述した様に“時”の管理から、“暦”を管理するなど、次第に統治の幅を広め、深さを増して行ったという実績が大きかったのである。さらに天皇家がこの項で記述している飛鳥時代の3天皇によってほゞ100年間に亘る我が国としては最も難しい時代をうまく切り抜け、その結果を天武天皇が古事記や日本書紀という形で後世に残した事も大きな要因であろう。
3人の天皇によるこうした重要な治績の積み重ねは、”日本の歴史と文化の担い手”としての“天皇家”という側面も生じさせ、他の豪族では最早、獲得する事が出来ない迄の絶対的な”権威”が備わる事に繋がる。そうした“天皇家”を更に強固にしたのが、天武天皇による“天皇家の統治者としての正統な継承”を世に示す為の種々の工夫であった。これについては後述するがこれらの施策を評価して天武天皇を“天皇の中の天皇”と評価する学者が多いのであろう。
3人の天皇の治績の全てが巧く行った訳では無い。外交面では非常に巧みに周辺諸国と付き合い、戦う事に拠る浪費を避けてこの国を徐々に富ませて行った時代もあった。又一方では情報不足の為であろう、その為に判断を誤り、強大な“唐”と戦い(白村江の戦い)、初めて国力の弱さに気づかされ以後危機感に苛まれた天智天皇治世の一時期もあった。いずれにせよ結果として、飛鳥時代という日本国の揺籃期の難しい外交関係を乗り切り、中国に出現した隋、唐という強大な”統一王朝“、そして先進国であった朝鮮半島諸国に伍して行ける当時としてのグローバルスタンダードの”国造り“の中心となったのが飛鳥時代の3天皇、並びにそれを支えた人々だったのである。
その3天皇による”古代日本の礎作り“と言ういわば”駅伝レースのアンカー役として登場したのが“天武天皇”であり、その治績には“天皇の中の天皇”としての特筆すべきものが数多い。以下にそれらを簡単に紹介しておく。
③-1 国家の基礎は法体系の整備也・・・飛鳥浄御原令から大宝律令までの礎作り
天武天皇は”乙巳の変”にはじまる”大化改新”の状況を少年の頃から見ていた。天皇の権力を強め中央集権的な律令体制の構築を理想とした”大化の改新”と言う大作業は叔父の孝徳天皇、そして母であり重祚によって二度女帝となった皇極天皇、斉明天皇、そして兄であり、この間の事実上の推進者であった天智天皇の新しい国造りの状況を”皇大弟”の立場として目の当たりにして来たのである。
隣国の中国では、隋、そして唐という強大な統一王朝が出来、周辺諸国を常に脅かしており、日本も”白村江の戦い”で唐・新羅連合軍に大敗北を喫するなど既述の様に内外共に問題を抱えた政治的揺籃期でもあったが”壬申の乱”に勝利する事によって”天武天皇時代”を迎えたのである。
大海人皇子時代にこれら全ての天皇の政治を目の当たりにし又、関与する立場にもあった彼にとっては天武天皇として即位した後の政治目標は”大化の改新 で目指した方針を結実させる事である”と極めて明白であったものと思われる。他豪族と天皇家との力関係も、即位した時点では大きな差が生じていたと言う恵まれた情勢下であり、天武天皇が具体的に目指したものは“天皇を中心とする中央集権的政治の完成であり、律令体制のさらなる整備”であった。
律令体制の整備と言う面では、天智天皇の近江令(668年)をより整備した”飛鳥浄御原令”の編纂を681年に命じた。この”令”の施行は天武天皇崩御後に皇后であった持統天皇時代の689年の事となる。天武天皇の精神はさらに”大宝律令”として持統天皇が701年に完成させ、政治目標の大きな一つであった”律令国家”としての基本法典が出来上がるのである。大化の改新のスタートとなった”乙巳の変(645年)”から目指した”律令国家”の体制整備は実に半世紀以上もの時を費やして漸くここまで辿り着いたのである。
政治と言うものは”専制君主”的地位でも築かない限りなかなか短篇急には進まないものである。”乙巳の変”と言うクーデターを起こし、それまで専横政治を欲しいままにしていた蘇我蝦夷、入鹿と言う大豪族による支配を排除し得た中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足(藤原鎌足)と言う強力なチームでさえも、既に述べて来た様な多くの苦労と、多大な時間を要して一歩一歩律令国家への改革を進めて行ったのである。この辺が異民族などによる征服によって一夜にして体制が覆る大陸諸国の経験との大きな違いなのであろう。
飛鳥3天皇による国造りの場合は大変革を行う場合にも、国内的には既得権益を守ろうとする大豪族勢力があり、周辺では隋、唐等の強大な統一大王朝という油断ならない存在があった。朝鮮半島諸国は中国王朝からの常態化した圧力の下にあり、日本を取り巻く周辺諸国の情勢はこの時期、常に不安定な状況だった。飛鳥の3天皇はじめ当時の為政者としては、巧みな外交こそが生命線であったであろうし、一方ではそうした状況下で、国内の対抗勢力を抑えながら一気に改革を進めて行かねばならないと言う非常に緊迫、且つ困難な時期であったと言える。
天武天皇は当時としてのグローバル世界への適切な対応が必至という政治的、外交的に非常に難しい飛鳥時代の日本を国際的にも通用する国として作り上げた3人の天皇による“駅伝リレー”のアンカー走者であった。古代日本が当時の国際社会の国家立派に生き残って行く諸施策を早期に実行する手段として、”天皇中心”の体制を作り上げる事が最も有効だと判断して、そうした体制作りに焦点を絞った政治体制を築き、諸施策を早期に成し遂げたと言えよう。
以下に紹介する天武天皇の諸施策はいずれも古代日本が国家として、唐はじめ周辺諸国に伍して生き残る事が出来たその“礎”となったものと考えられるのだが、これらも決して天武天皇一代だけの卓越した政治力によって為されたものではない。この章で記述して来た飛鳥時代の3人の天皇の夫々の政治体制、つまり、推古天皇ー聖徳太子ー蘇我馬子の政治、それを引き継いだ天智天皇ー藤原鎌足による政治、そして駅伝リレーのアンカーとしての天武天皇の”専制君主的天皇中心政治”という政治の駅伝リレーのタスキが巧く繋がれて来た事に拠って漸く為されたものなのである。
天武天皇の諸施策は”天皇中心の政治”が状況的に可能であったが故に、それまでの日本に無かった新しい施策、それも国として根幹となった事柄が多い。一方、天智天皇時代の施策の中には、まだ天皇家の力も他の豪族と比較して圧倒的と言える程には強大ではなかった為、例えば大和朝廷時代の豪族の私有民である部曲(かきべ)を復活して認める”民部家部”の設定を行った事例など、旧来の体制との妥協的施策もあったのである。
財力、武力においても他豪族を凌いだ天武天皇はこの”部曲(かきべ)”を675年に廃止した。更に王臣や社寺に与えた山林なども収公している。これらの史実からも天皇の権力がかなり強大なものになっていた事が分るし、何よりも、わずか16年という短い治世の間に飛鳥時代の偉大な3人の天皇政治のアンカーとして、古代日本の礎を築く諸施策を次々と実施して行った天武天皇は、強力な”リーダーシップ”を持った卓越した政治家であった事が良く分かるのである。
③-2 ”専制君主的皇親政治”と称される”天皇中心政治”と”人事”政策
天武天皇政治の最大の特徴は一切大臣を置かず、天武天皇自らが直接に政務を見たと言う事である。そして皇族の諸王に要職を分掌させたが、その皇族にも天武天皇に対する一切の権力への干渉をさせない体制を整えた。これを”皇親政治”と称するが、実態は天武天皇による”専制政治体制”である。”専制政治”と聞くと多くの人が”悪政”を連想しがちであるが、事、天武天皇に限っては立派な治績を積み重ねている。
国内的にも対外的にも日本国が生き延びる事が出来るか否かの極めて重要であった飛鳥のこの時期に天武天皇というリーダーを持った日本国は幸運だったのではなかろうか。
こうした天皇への権力の集中政策の一方で、才能によって役職に就く事が出来る制度を設けたり、才能がある庶民には畿外の者、時には渡来人の子であっても宮廷への出仕を認めるなどの改革も行った。天武天皇の”公正”な人柄を示す史実として”吉野の盟約”と言われる”皇位継承争い防止策”が挙げられる。後に徳川家も同じ様に本家、御三家による後継者ルール、更には”長兄”優先というルールを遵守させる事に拠って、過去の歴史上必ず起って来た”後継者争いによる世の乱れ”に歯止めを掛け、安定した政権維持に努めたが、古代日本において、その基礎的考えを示したのが天武天皇であり、この”吉野の盟約”であった。
即位後6年経った679年に天武天皇と皇后(後の持統天皇)は成長した自分の子4人と兄天智天皇の遺児2人を伴って吉野宮に行幸する。そして天武天皇と皇后は計6人の皇子を分け隔て無く遇すると共に、6人は共に協力し合う事を約束させたのがこの”吉野の盟約”である。
全く同じ趣旨から、毛利元就が毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人の子に結束を説いた”教訓状”を書いたが、この話は、1557年の事であるから、この吉野の盟約(679年)から880年も後の事である。天皇家、将軍家、大名家、どの場合でも同じであるが、政権の乱れ、弱体化は前任者の死亡による後継者争い、とりわけ兄弟間の争いに付け入ろうとする周囲の人々の権力争い絡みが多い。天武天皇自らが古代日本最大の皇位継承争い、”壬申の乱”を経験した為に、そうした事を繰り返さない為の智恵であったものと思われる。
その他の全てにおいて6人の皇子を平等に扱った天武天皇であったが、ただ一人に絞らねばならない”皇位継承”だけは平等という訳には行かず、子供達、天智天皇の遺児達にこの盟約によって、はっきりとした皇位継承の序列を言い渡したのである。
具体的には、天武天皇自身の子である草壁皇子ー大津皇子ー高市皇子の順とし、天智天皇の遺児は天皇の後継者からは外された。この吉野の盟約は他にも重要な約束事があるのだが、草壁皇子を後継者とすることを皆に認めさせる事が主たる目的ではなかったのかと考えられている。
この盟約から2年後の681年に草壁皇子は皇太子になっている。天武天皇は後継者から外された天智天皇の遺児等との争い防止策として、草壁皇子には天智天皇の娘を娶らせ、大津皇子にも同じ様に天智天皇の皇女を娶らせるなどの配慮をしている。この草壁皇子が娶った天智天皇の娘が紆余曲折を経て、天武天皇から三代後、つまり持統天皇、その子供である文武天皇の次の第43代元明天皇として即位するのである。
天武天皇が第一の天皇後継者とした草壁皇子に娶らせた天智天皇の娘であり、後述する経緯によって元明天皇として707年に即位する訳であるがこの女帝については紹介しておきたい事が多い。治績としては708年の和同開珎の使用開始があり、710年の平城京遷都がある。又712年に古事記編纂が完成した時の女帝でもある。話は戻るがこの元明天皇の即位は“皇后を経ないで天皇に即位した最初の例”と言う特記が付けられる。その理由は既述の様に、彼女は”草壁皇子の后”であった。その夫が後述するが、皇太子のまま病死してしまうのである。従って彼女は“皇太子妃”ではあったが”皇后”の経験は無いと言う訳である。息子である第42代文武天皇も病弱であった為に文武天皇が僅か10年で譲位した為に母親の彼女が繋ぎとして即位した、と言う巡り合わせの結果の女帝なのである。
今上天皇、皇后陛下の意向も考慮し、崩御された場合には“火葬”をし、且つ葬儀を簡素にすると言う話が2013年の11月に宮内庁から発表され話題となった。天皇が火葬された最初の例が天武天皇の皇后であり、後に第41代女帝として即位した持統天皇である。そして持統天皇の遺言(遺詔)として葬儀を質素にする(薄葬)事が申し付けられ、崩御の後に火葬された骨は夫の天武天皇陵に合葬されたとの記事(日本経済新聞)もあった。
ところで美智子皇后が“今上天皇との合葬は恐れ多い”と言われたとも伝えられたが、今上天皇からはご希望として美智子皇后との合葬という話を出されたと言うのである。そこで、美智子皇后の方からその話を強く辞退されたのだが、その理由も新聞の記事に添えられていた。要は持統天皇の場合は天武天皇の皇后であったと同時に後に、天皇に即位した方なのだから皇后である自分のケースとは異なる、と言う事を美智子皇后は“恐れ多い”と表現されたと言う事である。
さて、天武天皇の治績の話に戻ろう。歴史の皮肉と言おうか、自らの後継者問題等に対して、あれこれと配慮した天武天皇であったが、崩御後の後継者問題は、残念ながら、全く天武天皇の思惑通りのスムーズな天皇後継と言う訳には行かなかったのである。
まず第一に”乱”にこそならなかったが、天武天皇が崩御された(686年9月11日)直後に二番目の皇位継承順位に居た”大津皇子”に対して謀反の罪が問われ、686年10月25日にわずか24歳で彼は死を賜るという事件が発生したのである。
第二に、第一番目の皇位後継者であった皇太子草壁皇子は即位しないまま689年に27才の若さで病死して仕舞うのである。そもそも草壁皇子は皇太子でありながら、天武天皇崩御の直後に何故天皇として即位しなかったのであろうか。その理由については、草壁皇子がまだ若かったという事と、天武天皇崩御直後に起こった上述の大津皇子の事件があって、朝廷内の雰囲気が草壁皇子の即位を許さなかったからであろうと言われている。
こうした後継者に関わる事件(大津皇子)、不幸(草壁皇子)が続いた為、結果として天武天皇の皇后が686年からの”称制”期間を経て、690年に第41代持統天皇として即位し、上述した様に、文武、元明天皇へと引き継がれて行くのである。
③-3 大王から天皇へ
天武天皇は基本的に天智天皇の政治路線を継承し、”大化の改新”で目指した諸施策を実現して行った。個々の施策の詳細は此処では省略するが、古代日本国の国としての体制を天皇を中心の、天皇専制的体制によって短期間に作り上げて行った。専制君主的な天皇中心の政治を推し進めた訳であるから、天武天皇の諸治績には”日本で始めて”と言う冠が付くものが多いし、又今日迄も引き継がれて来ている事績が多い事は既述の通りである。
まさしく、古代日本の礎を築いた飛鳥の3天皇による”国造りリレー”のアンカー走者に相応しい事績の数々である。以下にそれらのいくつかを紹介しておこう。
先ずは、それまでの呼称が”大王”から”天皇”へと変わった事である。この事については第二章の5項でも簡単に触れた。これについても“ 推古天皇の時代から天皇と呼称されていた”のではないか等、諸説があるが、遅くとも天武天皇の時代には、それまでの”大王” から"天皇”と称する様になった事がはっきりとしているのである。
この“呼称が変化した事”の意味するところは、単なる国内諸豪族の中での”最強豪族”であると言う“天皇家”の地位が、隣国中国、 朝鮮半島の諸国に対して、充分に伍して行ける国際社会に通じる”統一国家日本の元首”としての地位に“格上げされた”と言う事なのである。まさに飛鳥時代は我が国にとって非常に重要な当時のグローバル化対応に成功した時代であったのである。
こうした”天皇家”の地位の変化は、その地位の”継承”と言う問題にも変化をもたらし、結果として“世界最古の同一血統”が継承され続ける事になる”天皇家”を国の主軸、骨格として以降存在させて行く結果となるのである。
天武天皇が腐心したのが、天皇家もそれ迄は他の豪族と変わらない一豪族としての”継承”のあり方であったものを”国を代表する天皇家の継承のあり方”へと変える事であった。その結果天皇家の継承問題は以後、国としての“最重要課題”となるのである。
こうして“国としての重要課題として大切に継承される仕組み”となった天皇家の以後何世紀にも亘る“継承の実績”はいよいよ天皇家を”権力”だけで無く、歴史と言う時間の積み重ねに裏づけされた”権威”をも併せ持つ存在へと高めて行く事になるのである。その結果日本における天皇家は時を重ねるにつれて、次第に、時の権力者を含めて、何人もその政治的実権は兎も角、“国家の軸としての権威”については“犯し難い存在”になって行くのである。
天武天皇時代に発揮した“政治権力”は時代によって紆余曲折があり、平安時代以降、藤原摂関家に握られ、その後は平家に握られ、その後、武家が実権を握る等の歴史を辿り、今日の議会制民主主義の形となる。しかし天武天皇が同時に作り上げた“天皇家の権威”については時代と共に日本の岩盤の様に”確立”され、継承されるのである。その結果、天皇家は滅亡する事無く今日迄存続し今日では世界で最古の1700年以上の同一家系の継承となっているのである。
天皇の継承問題は”天皇の崩御”と言う避けて通れない事態に絡んで起るものである。この崩御と言う事態への智恵として”諡号”(しごう)を贈る”葬送儀礼行事“が古代中国では行われていたが、これに一工夫を加えて日本独自の”諡号“を贈るという方法に変えて、天皇家の”権威継承行事”として確立したのも天武天皇の時代だと言われている。こうした行事を天皇崩御の毎に繰り返し行う事によって天皇家が正当に継承されたと言う事を天下に知らしめる機会とすると共に、天皇家の権威を天下に示す一つの“礎”として利用したのである。
③-4 和風諡号
諡号(しごう)とは帝王等貴人が死んだ後に生前の治績に対する評価に基付いて贈られる”名”であり”呼称”と解釈しても良いものである。重要な事は、天皇家に関して贈られた”和風諡号”制度は”崩御した天皇が正統な血筋の継承者である”と言う事を高らかに天下に称え、葬送儀礼の一環行事(これを殯、モガリと言った)の場で”諡号を贈る”と言う制度として整えたと言う知恵にある。
天武天皇が“和風諡号”を贈る儀式によって、正当な天皇家の継承者である、とした血筋とは“男系天皇の血筋”を引く天皇である。前項でも述べたが、この天武天皇が明確にした天皇家の継承における“正当な血筋”と言う大原則は決して破られる事が無かった。
1700年を超える天皇家の継承実績から誕生した歴代125代の天皇の中、”女性天皇”が8人、重祚した2例を含めて10代を数えるが、そのうち男系天皇の血筋を全く引かない”女系天皇”と称すべき女帝の即位の例は全く無いと言う事も述べた。”正統な血筋の継承者”である事を前の天皇の崩御の際の葬送儀礼の場を利用して”和風諡号”を与えると言う儀式を行うという知恵が古代日本で制度化された意味は大きかったのである。
こうした当時の”智恵”がその後の長い日本の歴史の中で”天皇家”が”権威”として存続されて来る事が出来た一つの重要な理由となったのである。
天武天皇期の様に“権威づけ”と“正当な天皇家の後継者”を天下に知らしめると言う明確な意図を持って行われた訳ではなかったであろうが、天武天皇期以前にも“和風諡号“を与えると言う事があったと言う説もある。和風諡号制度そのものの起源についても諸説がある。仏教が伝来した時の欽明天皇に贈られたのが最初だとする説もあるし、確実なものとしては”続日本紀”の記録にある天武天皇の皇后であった”持統天皇”に贈られた“日本根子天之広野日女”が最初の”和風諡号”であるとする説もあるが、いずれにしても天武天皇期に頂点に達した“天皇の権威”がこうした“諡号を与える”という儀式をより権威のある行事にしたのである。この和風諡号を贈る制度はその後、平安時代の、第54代仁明天皇(即位時期833年~850年)迄は行われていたと言う記録があるので、少なくともこの時期までは続けられていたのであろう。天皇家の”権威確立”と”血筋の正当性の継承”という天武天皇の悲願が兎も角も後継者によって受け継がれて行った事の証明である。
ところで初代天皇とされる神武天皇の”神倭伊波礼毘古命”(かむやまといわれびこのみこと)と言う呼び名を”和風諡号”と呼ぶ人もいるがそれは慣例的にそう呼ぶのであって実際にはここで言う”和風諡号”とは異なる。後述する“漢風諡号”なのである。
”和風諡号”は上述の様に飽くまでも与える意図がはっきりとしており、葬送行事の場で儀式として崩御した天皇に贈られた名称であった。
③-5 漢風諡号
上述の”和風諡号”を贈るという葬送行事の儀式は、天皇家の血筋並びに継承の正当性を有力豪族並びに全国民に知らしめると言う点で素晴らしい知恵であった。このそれ迄には無かった儀式は天皇家の権威を高める事にも大きく貢献し、先人に拠るこうした知恵の積み重ねも今日迄天皇家が日本の“権威”として継承され、存続して来た大きな理由の一つである。もし、日本が今日に至る長い歴史の間に、例え一度であっても中国等の諸外国、又は他民族国家によって征服されていたら、こうした“儀式”の積み重ねは途絶えたばかりか廃止されたであろう。天皇家の継承に関しては兎に角、小さな儀式と云えども途切れる事なく継承され、代々積み重ねられて来た結果、無視する訳にも行かない程の大きな“権威”として日本国の岩盤として根付く迄になったと言う事である。
和風諡号の他に天皇に”漢風諡号”が贈られた時代があった。”神倭伊波礼毘古命”(かむやまといわれびこのみこと)が初代天皇、神武天皇の“漢風諡号”である。又、第16代の天皇の漢風諡号は大雀命(おおさざきのみこと)である。この天皇の御陵は大阪の堺にあり世界最大の規模の墓である。これがどの天皇であるかは直ぐにお分かりであろう。”仁徳天皇”である。
こうした”漢風諡号”は壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)のひ孫に当る淡海三船(おうみのみふね)が奈良時代の762年から764年に一括して定めたと“釈日本紀”(鎌倉時代)に 記録されている。
淡海三船が一括して定めたのは初代神武天皇から第44代元正天皇(即位715年~724年)迄であるとされるがこれについても諸説がある。いずれにしてもこの”漢風諡号”の制度は第58代光孝天皇(即位884年~887年)迄は行なわれたとの記録があるが、律令政治が10世紀に崩壊すると共に一度は途絶えたのだが驚くべき事に幕末になって復活するのである。具体的には第119代光格天皇(即位1779年~1817年)、第120代仁孝天皇(即位1817年~1846年)そして明治天皇の父親である第121代孝明天皇(即位1846年~1866年)の3代の天皇には”漢風諡号”が贈られたのである。
天皇の呼称については漢風諡号や和風諡号の制度が無くなった後は”院号”で称したり、崩御後に追号と称して、皇居の宮の名前、譲位後の御在所の名称をとって呼ばれる等、様々なケースがある。明治以降は“一世一元制”になると共に年号を以って”帝号”とする事が決められた。崩御後に明治天皇、大正天皇、昭和天皇と呼称される、現在私達に馴染みのある制度となったのである。この呼称はあくまでも崩御後のものであって現在天皇の位に就かれている天皇の正式な呼称は”今上天皇”である。この様に天皇の呼称については時代の経緯によって様々であり、又諸説があるが興味のある方はそれらについての専門書もあるので参照されたい。
③-6 ”倭”から”日本”へ
第二章第5項で702年の”遣唐使”を送る際に持たせる対外的な文書に初めて”日本国”という国号が使われた事を紹介した。又日本書紀編纂の時にも国号についての議論があった記録があると言う事にも触れた。いずれも天武天皇の治世の直ぐ後の事である。この事からも"倭”に代えて”日本”という国号を定めたのは”天武天皇”であり、そもそも”天皇”と言う呼称も最初は”天武”という只一人の偉大な“君主”の為に用いられた”尊称”であったとする説もある。(熊谷公男氏)熊谷氏の説によれば“天武のような優れたカリスマを継承する為に天皇という呼称を日本国の君主の号とする事が定められた”と言う事である。
まさに天皇の中の天皇に相応しいのが”天武天皇”だと言う説である。
③-7 内外共に戦争が無かった”天武天皇”時代
古代日本最大規模の内戦”壬申の乱”を経て即位した天武天皇であり、且つその治世期間はわずか13年間であるからその間、国内に戦争が無かった事は不思議ではない。対外的にも一番脅威であった唐は新羅と朝鮮半島の支配を巡って争っていた状況にあり、両国が共に日本を味方にすべく通交を求めて来ると言う具合で、周辺諸国との関係は天智天皇時代と比較すれば好転していた時期であった。兄天智天皇が百済再興の為に唐・新羅連合軍と白村江で戦い大敗を喫した状況を天武天皇は目の当たりにしている。その敵対した相手の新羅も一方では常に唐からの独立を画策しており天武天皇が即位した673年には逆に日本との関係修復の為の使節を送り込んで来ていたと言う目まぐるしく変わる朝鮮半島の状況であった。
天武天皇は、公平且つ冷静、そしてバランス感覚を備えた人物であったのだろう、こうした状況にはあったが、軍事的には安易に新羅に加担する事もしなかったし、逆に朝鮮半島に対して征服の為や干渉の為の軍事行動などは一切起こさなかった。
一方、低姿勢で関係修復を求めて来た新羅とは互いに使者をやりとりする事で大陸の文化を積極的に摂取すると言う策を取り、逆に白村江の戦いで破れた強大国“唐”に対しては一切使者を遣わさず、日本国としては冷静に,且つ大敗後の体面を繕った外交姿勢をとったのである。
後の章で既述するが、日本の長い歴史の中で、優れた為政者は天武天皇と同じ統治態度であったと言える。つまり、諸外国、とりわけ大国であった中国などとは、巧みな外交姿勢によって吸収出来るものは巧妙に吸収し続ける一方で、その国との基本的外交姿勢は一定の距離を保つと言う関係を維持し、日本としては常に毅然とした態度で独立国としての対面を保っと言う政治スタンスである。例としては足利義満、徳川家康などにもそうした外交姿勢が見られる。
一方で対外政策に失敗し戦争に突入する等、我が国を窮地に陥れる結果になった時代のTopに共通する政治姿勢は、まず第一に海外の情報収集力の不足が在ったり、又、一定の情報収集のルートは確保していたが、それらの情報源がそもそも偏っていたり、情報の伝達ルートや、ルールに欠陥があったケースが殆どであった。更には外交人事の不手際も加わって戦力分析を誤り、結果として正しい外交判断をする事が出来ずに無謀な戦争に突入したのであった。そうした例としては、第二回目の元寇(1281年)での外交の拙さが挙げられる。
二回目の元の来襲が起きる前の1279年に元のフビライは当時手を焼いていた南宋を日本と手を組むことに拠って包囲する目的を持ってその使者を日本に送って来た。
ところが当時の情報網としてはその“南宋”に頼っていた鎌倉幕府には正しい情報は入らなかった。結果として北条時宗はその使者の話も聞かずに殺してしまう。そして2年後の元、高麗連合軍の襲来という結果になり幸運な暴風雨の襲来によって蒙古軍が本気で日本への上陸を考えていたこの戦いを防衛はしたが決して勝利では無かった。鎌倉幕府にとってこの二回に及ぶ元寇による疲弊は大きく以後衰退の一途を辿って行くのである。
応仁の乱に始まり以後戦国時代と言う国家騒乱の時代に陥れた元凶は足利義政による求心力の全くない政治姿勢だと言われている。又朝鮮半島経由で明国を征服し、天皇までをも北京に移そうと本気で考え、朝鮮出兵を行った晩年の豊臣秀吉の外交政策は誇大妄想に駆られた失政だと後世評価されている。
昭和に入ってからは、幾度もの英米との戦争回避のチャンスがあり乍らも国連脱退(1933年)をし、日独伊三国同盟(1940年)、日ソ中立条約(1941年)を結んで、米英との太平洋戦争へと最悪の結果に導いた松岡洋祐の偏った外交姿勢と、そうした外交を追認して来た斉藤実首相から近衛文麿首相に至る歴代の首相などの戦争に至る外交判断も複雑な諸事情の結果とは言え、歴史的には“外交力の拙劣さ”の一言で片付けられてしまうのである。
いつの時代でも戦争は尊い人命を含め、国力の浪費である。しかし同時に古来、戦争は人類が避ける事が甚だ難しい事柄でもあった。そもそも即位時に大きな戦いを経験した天武天皇は更なる戦いに拠る国力の浪費を回避する事に意を尽くす一方で、着々と国家造りを目指した。当時のグローバル世界にあって揺籃期の古代日本国にとっては内外共に極めて大切な時期に“天武天皇”と言う優れたリーダーを得た我が国は幸運であったと言えよう。
③-8 遷都を繰り返していた“都”の複都制、並びに”固定化”を考え、更には”富本銭”を鋳造した天武天皇の内政
天武天皇は”都”に対する考えでも新機軸を出そうと試みた。壬申の乱に勝利した後、暫くは美濃に留まりその後父母(舒明天皇、斉明天皇)が都とした“ 飛鳥岡本宮”に新宮を建ててそこで政務をとった。天武天皇崩御2カ月前の685年7月20日にこの宮は”飛鳥浄御原宮”と名付けられた。天武天皇は、都を複数置くべきだと言う考えを出し683年12月17日に30年程前に孝徳天皇が築いた”大化の改新”の象徴でもある”難波宮”を都とする詔を出し官人達には難波に家、土地が必要な者は国に請求せよと命じた事が記録されている。こうした資料も大阪歴史博物館の10階の展示場に行くと見学する事が出来る。
又、天武天皇時代に日本で初めて鋳造された貨幣として話題になっている”富本銭”も展示してある。私が学生時代には日本最古の貨幣は”和同開珎”だと習ったものだが1998年に飛鳥池の遺跡からこの”富本銭”が出土した為、701年(和銅1年)に発行された銅銭よりもこちらの方が古いのではと言う議論になっていて学会ではまだ決着が付いていないとの事である。日本書紀の天武12年(683年)に銅銭が鋳造されたという記事があり、将にそれを裏付ける”富本銭の発見”によって現在、従来の”貨幣史通説” は再検討を迫られているのである。これに関する学説の一つは”富本銭”の用途は”まじない”であって和同開珎の様な流通貨幣では無かったとするものでありこうした用途の面からもまだ決着はついていない。
大阪の”難波宮”を“陪都”として修営した事に続いて翌年の 684年には信濃にも都を置きたいとして天武天皇は視察の使者を派遣したがこの地での都建設は未着手で終わった。こうした”複都制”の一方で天武天皇は天皇が代替わりする毎に主たる”都”を移して来た旧来の慣習を改め、永続的な”本格的な都”を建設する抱負を 抱いていた。本格的な壮大な都を建設しそれを首都として”固定化”する一大事業の発想である。その為の適地の調査を始め、この構想に基づいて着手されたのが大和三山に囲まれた”藤原京”である。
残念ながら天武天皇在位中(673年~686年)には完成せず皇后であり第41代持統天皇の時代に完成し694年に遷都する事になるのである。”藤原京”の遺構は現在の奈良県橿原市木之本町にあり80年程前の昭和9年から発掘がされ現在でも発掘作業が進められている。私も現地を訪ねて見たが900メートル四方の宮は四方を高さ5メートル位の大垣と濠で囲まれた歴史上最初の本格的な”唐風都城”であったとされる。この”藤原宮”を含めた全体の”藤原京”の広さは東西5.3キロメートル、南北4.8キロメートルである。後の平城京そして1000年の都となった平安京をも凌ぐ古代最大の都市であったとされる。
この”藤原京”時代の701年に律令国家の基本法典として飛鳥浄御原令をさらに整えた”大宝律令”が完成する。この藤原京にしても、飛鳥浄御原令にしても、いずれもが天武天皇存命中には完成せず皇后であった持統天皇に引き継がれたものであるが、企画、立案 は共に”天武天皇”であった。そして今一つ歴史上重大な事がこの”藤原京”から発せられている。それは初めて”日本”と言う国号を使用した国書を携えた”遣唐使”がこの”藤原京”から出発したと言う事である。
この様に天皇中心の政治を行い中央集権国家の確立を図った天武天皇は彼の治績の仕上げとして”固定都市”藤原京建設と言う一大事業の“礎”をも築きこの藤原京が完成する8年前に崩御された訳だが彼の”固定首都”と言う発想自体は次の時代へ確りと受け継がれて行き、藤原京から平城京、そして1000年の都となる”平安京”へと繋がるのである。
現在も発掘中の”藤原京”の現場は主要な建物の柱などの跡を示す目印程度の物が置かれているだけの 原っぱ状態の史跡であり今日の段階では訪れる人も少ない様だ。しかし、歴史的には上述の様に天武天皇の治績の云わば締めくくりを示すものとして意義深い史跡である。3代の天皇が住んだ内裏、政治並びに儀式を行った大極殿、朝堂院、役所の建物などが立ち並んだ中国式を模した壮大な”藤原京”は天武天皇の皇后であった 持統天皇、若くして亡くなった皇太子、草壁皇子の子である文武天皇、そしてその母親である元明天皇の3代が生活をし政治を行った古代日本の重要な16年間の都(694年~710年)だったのである。
③-9 政治の要諦は”軍事也”
壬申の乱と言う古代日本における最大級の戦争に勝利した天武天皇の治世の時代には、戦争が国内外共に無かったと記述した。巧みな外交と内政の賜物であると言えよう。
対外的には虎視眈々と朝鮮半島と日本列島征服を狙う超大国”唐”の存在があった。兄、天智天皇の側にあってその苦労を見ていた天武天皇は一方では軍備を最優先した。
”備えあって憂いなし“と言う考えであり天武天皇は684年に ”凡そ政(まつりごと)の要は軍事也”との詔を発した記録が残っている。国軍と言われる程の規模の軍隊はまだ無かったが”官人武装政策”をとり、文武官人には兵馬を整えさせるなど全国的な”兵制”を整えた。大化の改新で廃止された地方豪族の国造(くにのみやつこ)が従前持っていた支配下の人民からなる ”国造軍”がそのまま続いていて、それが当時の軍隊の中心であったという説、北山茂夫氏の説に拠れば”軍団”が当時すでに 出来ていた等諸説がある。不詳な点は多いがいずれにしても天武天皇が国家として ”軍事”を政治の要諦と考へ外国からの攻めに対する防衛面の備え、そして国内統治の為の強力な軍事組織等、諸施策を進めていた事は明らかである。
③-10 八色の姓(やくさのかばね)の制定と冠位48階の制定
八色の姓の制度は、684年10月に定められた新しい身分制度である。その目的には諸説があるが天武天皇が天皇中心の国家体制を整える為には天皇家、皇族の地位を高める必要がありその為の制度と考えて良かろう。 具体的には、旧来の身分制度では、臣・連・伴造・国造という身分秩序であったが、そうした身分秩序の上に真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)の全く新しい姓を上位の階級として付け加えた制度である。天武天皇の考えは、天皇並びに皇族の地位を高める事によって”皇親政治”を進め易くする目的があったが同時に旧来の地方の大豪族を解体する事、上級官人と下級官人の家柄を明確にする事、中央の貴族と地方の豪族とを身分的にもはっきり区別する事などによって中央集権国家としての政治体制を強力にする為にこの身分制度を制定したものと伝えられる。一方に於いて細かい気配りを重視した天武天皇はこうした新しい身分制度を決めるに当って、各個人各氏族ベースでは努力次第で上位に上がれる可能性を作り出す仕組みをこの制度によって新たに整えたのである。
具体例としては”壬申の乱”で功労のあった豪族に最上級の”真人”の姓を与えてた。ちなみに”真人”という姓は天皇家の末裔とされる家系のものと規定しており、天武天皇の崩御後に贈られた”和風諡号”(わふうしごう)にはこの”真人”と言う姓が使われている。然しながらこの”八色姓の制度”は天武天皇の崩御後に形骸化してしまう。例えば二番目に地位の高いとされる”朝臣”(あそん)の姓は天皇家直系ではないが遠縁に当る皇親と呼ばれる家系、蘇我氏、巨勢氏など大豪族に与えられたが奈良時代、平安時代に至ると、源・平・橘・藤の四つの姓が隆盛になって来てその末裔の殆んどが”朝臣”になってしまったり時代を経る中にいつの間にか”朝臣”の方が”真人”よりも姓の序列では上位に置かれるなど天武天皇の意図した”八色の姓”の制度そのものが意味の無いものになってしまうのだが我が国の歴史上で天皇中心の中央集権国家を作り上げる為に用いられた身分制度の仕組みとしては重要かつ巧みな制度であったと言えるのである。
685年に天武天皇はそれまでの”冠位26階”を改めて”冠位48階”を制定している。この制度も努力をした者に報いると言う天武天皇の施策で、その考え方は全く同じであり、より細かく冠位を定める事によって広く人材を登用する為の官位26階を改良した制度であった。
③-11 ”国家は歴史と 文化也”
今日のようにグローバル世界になり、人、物、情報、マネーなどがあたかも国境が無いかのように行き来する状態になると”国家”とは一体何なのであろうか?と言う単純な疑問が改めて沸く。その疑問に対する答えを1300年以上も前の日本のトップであった天武天皇は明確に示し政策として実行した。国家である以上”領土”を守る事によって人民の生命と財産を守る事は国のトップとしての主要な政策であり、その答えが”軍事”であるとして既述した様な施策を実行している。そして今一つ、天武天皇は国家として重要な施策として”歴史と文化を育て守る事”を実行している。海外から取り入れた新しく優れた文化を日本の固有文化と融合させ新たな日本文化として育成する事、そして日本の歴史を記録として残して行くという事を行った。この歴史と文化に関する膨大な作業を1300年以上前に天武天皇が国として重要な作業として位置づけた事が彼の卓越した能力なのである。
今日の様にグローバル化の時代に本格的に突入すると多くの人々が好むと好まざるとに関わらずに海外での駐在を経験させられる事になる。又、日本にも世界中からの多くの人々が日々訪れて来る。2020年に再び東京でオリンピックが開催されるが、IOC(国際オリンピック委員会)からは“日本らしい文化を世界中に示すオリンピックを期待する”と言うコメントが寄せられている。
若い海外駐在経験者から良く聞かされるのは、初めて日本から出て海外で駐在生活を経験したり、海外の人々と仕事を一緒にした時の経験談である。それは”私がつくづく反省させられた事の一つに、自分が日本の歴史、文化について海外の人々から質問されても十分な答えが出せず非常に恥かしい思いをした”という話であった。
外国、乃至は他民族によって征服された経験も無く、異民族文化を押し付けられた経験も無く、それでいて1700年以上に亘る天皇家と言う”権威”を国家の傘として頂いた”歴史”と”文化”の中にどっぷりと浸かって居る日本人は ややもすると常に国境を巡る争いの中で”国家”と民族の”文化”を命懸けで守って来た諸外国の人々に比べると歴史と文化は当然そこにあるものだと考えがちとなる欠点がある事に気付かされるのである。今日では取り立てて日本固有の文化を学ぶ努力もしないし、日本自体を意識もしない日本人が増えていると言われる。日本の固有の文化にしても、そこに在る事が当たり前と長い間考えて来た日本人にとっては、日本の文化を大切にして来なかった面もある意味では当然であった。結果として次第に日本の文化の継承自体が危ぶまれる事態になっている今日である。そして残念な事だが、そうした傾向は特に最近になって強くなって来ているのではないかと危機感さえ抱く人々が多いのである。
かく言う私も外国生活で日本文化に対する無知を反省した一人であるが、現在の日本の歴史、日本文化に対する教育の不十分さはグローバル化が国民一人一人のレベルで深まる今後は大きな問題となろう。今日の様にメデイア、IT機器等の進化によって物理的な国境が無くなって来た状況下では“国家とは文化である“と言う時代が来ているし、豊かな日本文化、特異な日本の歴史はグローバル時代の”日本の誇れるブランド“でありそれを海外の人達に伝える事が出来ない事は日本人としての大きな損失だと思うのである。
天武天皇は国としてのあらゆる制度の整備に加えて、国の根幹となる”日本民族の歴史と文化”についても重要な功績を後世の我々に残してくれた天皇である。以下にそれらの一部を紹介して置こう。
(1) 古事記、日本書紀の編纂
これについては既に第二章で詳しく述べたので省略するが,古事記、日本書紀共に、その完成は天武天皇の崩御後となった。内容は共に天皇家に拠る日本の統治を正当化するという点で共通する。その内容、意図については種々の批判もあり、史実との整合性を云々する学者もいるが共に日本に現存する最古の歴史書であり、これらの書物が無ければ、全てを中国、朝鮮半島諸国の歴史書の記述に頼らねばならないのだから、古代日本の史実を研究する為にも非常に貴重な書物を残してくれたと素直に感謝したいものである。
“記紀”以前にも620年に聖徳太子と蘇我馬子による“天皇記”“国記”が編纂されたとの記録があるが残念ながら現存しない。いずれにしても国家にとって自らの手による歴史書が極めて重要である事を1300年以上も前に強く認識していた天武天皇がいかに政治家として卓越した感性と能力を持ち、そして古代日本の国家としての“礎”を立派に築いた天皇であったかが分かる。後世、最大級の評価が贈られる所以であろう。
(2) 地方祭祀を国家祭祀として管理した天武天皇の統率力
天武天皇自身は天文の知識に篤く、宗教や超自然的力に感心が強く、さらに神仏への信仰心の非常に厚い人物であったと伝えられている。こうした事から予言者的能力も備えた人物であったと考えられるし、自らが”神”と仰がれる様な”カリスマ性”を身に帯びた天皇であった様だ。又、日本民族古来の神の祭りを重視し地方の祭祀を国家祭祀に引き揚げる事によって日本固有の民族意識の高揚と日本民族としての一体感を作り出すという治績も残している。
天皇家の祖を天照大神とし、各地に存在する伝統的な神との位置付けを体系化する事によって各地方と天皇家との神を通じての一体感を作り出し究極的には天皇家の権威と権力の強化となる事に繋げたのである。具体的には伊勢神宮を日本の最高の神社とする道筋を付け現在の場所に建てたのが天武天皇である。この項を書いている2013年は20年に一度行われる伊勢神宮の式年遷宮の年であるがこの行事を開始したのも天武天皇である。
諸説があるが、伊勢神宮の”斎王”として自らの娘の“大来皇女”を初めて送り出したのも天武天皇だと伝わる。仏教も天武天皇は手厚く保護をした。壬申の乱の直前に剃髪をし、天智天皇の許可を得て出家し吉野に退いた事は既に述べたが、天皇として即位後も”金光明経”を宮中並びに各寺で説かせるなど仏教保護に関する数々の治績も伝えられている。
神道という面で各地の伝統的な祭祀と伊勢神宮を頂点とする国家祭祀との結びつきを作り上げて全体の把握、管理体制を整えたのと同様に仏教の面でも全国に氏寺を盛んに造営し更には”家”毎に仏舎を作って礼拝供養するようにとの詔を685年に下している。
この様に国家神道に加えて仏教までをも”国家仏教”として管理される体制としたのである。古代国家としての日本は徐々に天皇中心の国家、中央集権国家を目指して飛鳥時代の3代の天皇の好リレーによってその体制作りを行った。そのアンカー走者、第40代天武天皇によってその完成を見るのである。
軍事、外交、国内政治体制、そして宗教、並びに歴史文化に至る迄、隅から隅まで国としての体制が正にこの章で記述した飛鳥時代の3天皇の好リレーによって整えられたのである。
第三章 日本の基礎を作った飛鳥時代の三天皇
第2項 天智天皇
① 天智天皇登場以前の政治状況
前項の第33代推古天皇時代に隣の中国には“隋”という強大な統一王朝が出来、それに脅威を感じて聖徳太子、蘇我馬子とのトロイカ内閣では国としての対外対策、そして国内の体制作りを急いで行う事に尽力した事は既に述べた。日本が国家として内外共に認められるようになったのは何時なのか、については専門家の間には“七、五、三、で綱引きをしている”と小林恵子氏は指摘する。七世紀の聖徳太子の時代から天武天皇迄の時代だという専門家、倭の五王時代の五世紀だとする専門家、そして邪馬台国の女王卑弥呼が現れた三世紀だとする説である。
この章はその七世紀の3人の天皇について記述している訳であるが、推古天皇の時代は諸施策を“摂政”として取り仕切った聖徳太子が622年に亡くなり、推古天皇を擁立し支えた大豪族の叔父、蘇我馬子も626年に亡くなった事に拠ってそのピークの時代を終えるのである。
推古天皇は田村皇子と山瀬大兄の皇位継承の候補者二人を呼び、群臣の言葉を良く聞いて政治を行うよう命じたと言う。推古天皇の人柄を良く表わす事柄であるがその推古天皇も628年に75歳で崩御する。 蘇我馬子の後継者である蘇我蝦夷宅で群臣会議が開かれた。蘇我蝦夷は亡くなった聖徳太子の十七条憲法の第17条”物事は一人で判断するよりも皆の知恵を集めて、議論をして判断しなさい”という条項を形の上ではきちんと守ったのである。その結果、蘇我蝦夷が推す田村皇子が第34代舒明天皇として629年に即位する事になった。形の上では政変などの問題を起こすことなく行われた皇位継承ではあったが、蘇我蝦夷、入鹿親子という蘇我氏の勢力が舒明天皇期には飛躍的に伸び、蘇我氏専横の時代が到来したのである。
表面上は波風が立つことなく行われたこの舒明天皇即位の時点から、実態では蘇我氏の専横ぶりが現れており、16年後の645年に中大兄皇子(後の第38代天智天皇)と中臣鎌足等によって行われる朝廷内でのクーデター事件、つまり蘇我入鹿殺害と言う乙巳(いっし)の変の種がすでに芽生えていた訳である。
蘇我蝦夷、入鹿親子の専横内閣であった舒明天皇の治績として挙げられる事は少ないが、第一回の遣唐使の派遣を630年に行った事は特筆される事柄であろう。 遣唐使は、唐が衰退し、最早メリット無しとして、菅原道真が建議し、第一回目から260年後の894年に停止となる迄、これ以降20回近く行われる事になる。隋に続く中国を統一した大帝国、唐の出現は当時の日本にとっては、ますます脅威であり、当初は政治、外交的な意味からも海路の危険を犯しながらも遣唐使を行なう事は不可欠であったものと思われる。
舒明天皇は在位12年間、641年に崩御された。 蘇我蝦夷、入鹿専横内閣の時代であるから、親子は朝廷を小高い山の上から見下ろす”甘樫の丘”(あまかしのおか)に”上宮門””谷宮門”(うえのみかど、はざまのみかど)と称するそれぞれの邸宅を築き、自分達の子供を”王子”と呼んでいたと言われる。この邸宅が築かれたのは蘇我入鹿が殺される1年前の644年の事だと伝わっている。
”甘樫の丘”には近鉄電車の橿原神宮駅で降り、駅の近くにある”レンタサイクル”を借りて30分も走ると行く事が出来る。確かに飛鳥寺はじめ、“飛鳥全体”を見下ろす事が出来る場所であった。
舒明天皇の崩御に伴い次の天皇の擁立に当たっては、いよいよ蘇我氏の専横ぶりが色濃く出て来る。有力候補の一人であった聖徳太子の息子である山背大兄王をまず排除し、いわば繋ぎとして舒明天皇の皇后が“第35代皇極天皇”として642年に即位した。蘇我氏の力による即位であったのである。前にもコメントをしたが皇極天皇は今日までの125代に亘る歴代天皇のうち、8人(10代)を数える”女性天皇”の中の二人目の”女性天皇”なのである。余談だが、女帝皇極天皇の父親は舒明天皇の弟王であって、その点から皇極天皇は天皇家の父系の血統を受け継いでいる”女性天皇”である。
以前国会などで、皇室典範改訂などの議論として“女性宮家問題”が議論された事があった。その時、その女性宮様が一般男子と結婚して生まれた人物が将来“天皇になる資格があるか無いか”をマスコミが取り上げた事があった。正に天武天皇時代に明確にした“正当な天皇家の継承”とは何であるかに関する議論であった。
言うまでも無く、上記したように皇極女帝の場合もいわゆる”女系天皇”の例では無い。女系天皇とは“天皇家の血筋を全く引かない男性を父親とする天皇の出現”の場合である。、上記の様に日本の歴史上、残る6人の”女性天皇”の全ての場合も、父親は天皇の血を受け継いだ”女性の天皇”であって天皇であった父親の血を全く継がない“女系天皇”が継承した事例は全く無いのである。
話を元に戻そう。蘇我蝦夷、入鹿親子の専横ぶりについては記述したが、女帝皇極天皇を即位させた翌年、643年に蘇我蝦夷は国政を息子の入鹿に譲り、翌年644年には天皇の勅許を得ずに”官位十二階”の最高位である”紫冠”を息子の入鹿に与えたと言う。更には
”大臣”の職を天皇の勅許も得ずに息子の入鹿に譲ったのである。まさに蘇我氏の専横極まれりと言う処である。息子の入鹿は、人望の厚い聖徳太子の子息、山背大兄王を生かしておく事に不安を抱き、襲撃して葬り去るという暴挙に及ぶのである。この息子入鹿の暴挙には流石の父親蘇我蝦夷も怒り狂ったと伝わるが、時すでに遅しであった。
最近マスコミ界を騒がせた実力派ニュースコメンテイターの息子が考えられない様な幼稚な手口で窃盗事件を起こした事が思い起こされる。この息子は逮捕され、息子を甘やかした父親の責任が世間で問われ、親子共々マスコミ業界から墜落するという結果になった。この話題と蘇我親子の専横政治とでは、スケールの大きさ、影響度に於いて比べ様もない訳だが、何時の世にも共通する甘やかされた親子が辿る転落への道と言う点では共通した社会現象なのだなと思わせるのである。大化の改新と言う一連の政治改革の端緒となった中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)を中心としたクーデター、乙巳の変(いっしのへん)によって蘇我入鹿が殺されるのは二年後の事である。
② 蘇我入鹿殺害(乙巳の変)によるクーデターの敢行
蘇我氏の専横ぶりは朝廷を無視するまでにエスカレートしていた。蘇我氏打倒に最初に動いたのは中臣鎌足(後の藤原鎌足)である。中臣氏は神官を職とする家柄であり仏教振興をかざして政治を専横していた蘇我氏を憎んでいた。“ 蹴鞠”の席で懇意となったと伝えられる中大兄皇子を担ぎ、さらには蘇我氏の長老であった 蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、クーデターのチャンスを狙っていたのである。
クーデター実行の日は645年6月12日、大雨の日であったと言う。 朝廷では新羅、百済、高句麗からの”調”を受け取る儀式、(これを三韓からの進貢と呼ぶ)が行われる日であり、使者も来日し、女帝皇極天皇は勿論だが、大臣蘇我入鹿も必ず朝廷に出仕するという事を確認した上でのクーデターの実行だったのである。蘇我入鹿は殺された。翌日6月13日に父親である蘇我蝦夷も大邸宅に火を放ち自害した。この火事で620年に聖徳太子と共に蘇我馬子が編纂したと言われる”天皇記”が消失されたが、同じく編纂された”国記”は救い出されたと伝わる。 ここに蘇我専横政治は終息を迎えたのである。
③ 第36代孝徳天皇即位とその背景
乙巳(いっし)の変は別の観点からは蘇我氏の専横を許した歴史上二人目の女帝皇極天皇に対する“異議申し立て行動”でもあったと言える。中大兄皇子(後の天智天皇)にとっては母親ではあるが、皇極天皇は即日、6月14日に強制退任させられる事になる。
この天皇強制退位に関しては唐から”女帝”の国は不安定になると評価されていた事からも、女帝皇極天皇をクーデターと同時のタイミングで廃したものだとも言われている。
次の天皇には母親皇極天皇としては、クーデターの中心人物でもある息子の”中大兄皇子”を推したと伝わるが、当時まだ20歳そこそこの若輩であった事、当時改新派の勢力は朝廷内ではまだ圧倒的な力を持つまでにはなっていなかった事などから、当時の皇位継承順位で上位に在った叔父の軽皇子が即位し、第36代孝徳天皇となったのである。
クーデターによって政治的には不安定な状態を招来した訳であるから、当時の朝廷における保守派との均衡をとった形での孝徳天皇の即位だと考えられる。
④ 天皇中心の政治を目指した孝徳天皇と皇太子中大兄皇子の政治
我々が中学校時代に習った時代の教科書では大化の改新すなわち“蘇我入鹿暗殺事件”と教わった様な記憶がある。しかしそれは正確な歴史理解では無い。正確には”乙巳の変”と呼ばれるクーデターを皮切りに飛鳥時代に強大な政治力を発揮していた蘇我氏を中心とした豪族政治から天皇中心の政治へと変えて行った諸施策を総称して“大化の改新”と呼ぶのが正しいのである。乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれるクーデターはその発端であるが、この“暗殺事件”自体で”大化の改新“が成された訳では無い。孝徳天皇を擁立して始まった”天皇中心の政治”のブレーンとなったのが新政府の”国博士”に任じられた高向玄理(たかむこのくろまろ)や僧旻(そうみん)であり、クーデターの中心となった中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)に新しい国のあり方についての思想を教えたのが南淵請安(みなみぶちしょうあん)であった。
このブレーンとも言うべき3人は共に608年に小野妹子と共に遣隋使として派遣されたが、その間に中国王朝の激変に遭遇した為、結局30年近くに亘って中国に滞在したのである。
僧旻は632年に、そして高向玄理と南淵請安は640年に帰国した。この3人は留学生として隋、並びに唐の進んだ学問や政治組織、その他の知識を学んだばかりか、隋帝国が滅亡し、唐大帝国が建国される過程をつぶさに自分の目で見て来たのである。
こうしたブレーンを用いて”大化の改新”と言う大作業に乗り出した孝徳天皇、中大兄皇子、そして中臣鎌足というTopチームではあったが、結果において、孝徳天皇の在位期間(645年~654年)に打ち出した改新の諸施策は意気込みばかりが先行したきらいがあり、必ずしも実効は上がらなかったと評価されている。然しながら下記に挙げるいくつかの治績は記述するに値する。
第一には孝徳天皇が即位した直後にそれまで日本には無かった”元号”を定めた事である。
だから、日本の最初の元号は”大化”なのである。第二の治績は孝徳天皇が行った遷都である。孝徳天皇は645年12月に“都”を現在のNHK大阪支局のビルが建つ”難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に遷都したのである。
現在この難波宮跡は大阪歴史博物館として見学する事が出来るし、当時の倉庫の遺構なども含めた宮廷関係の史跡の説明も丁寧にしてくれる。豊臣秀吉の大阪城ばかりが有名な大阪だが”大化の改新時の日本の都”であった事を知っている人は意外と少ないのではなかろうか。大化の改新に意気込む孝徳天皇がこの地を選んだ理由の一つは、積極的に”唐”をはじめとした海外からの情報を集めようとする姿勢の現れである。当時の遣唐使の船は,まずは大阪の住吉大社で海上安全の祈願を行い、住吉津から出発し、瀬戸内海を通り、福岡に寄港するという海路であった。
福岡から先の海路は、其の時の朝鮮半島諸国との関係如何によって、北路、南路、南島路に分かれたが、いずれにしても出発の地は遣隋使の時代もそうであったが常にこの難波の地であった。又、帰港の地も同じく難波の地であったのだ。難波の地は古くから海外との接触の窓口という意味で要衝の地であり、蘇我氏から政権を奪還し、天皇中心の政治を目指した”大化の改新実行チ―ム“としては古き政治体質がこびりついた飛鳥を離れ、新天地を求めてこの“難波の地”に都を定めたのである。ちなみに、この難波宮全体が完成するのは着手から7年後の652年であった。
しかし、孝徳天皇、皇太子中大兄皇子の政治チームは、余りにも急激な改革を進める孝徳天皇と中大兄皇子側との間に仲違いが生じ、終には分裂してしまうのである。結果、654年に孝徳天皇が悲嘆に暮れた状態のまま崩御する迄の極めて短い期間の”首都“難波宮時代は幕を閉じたのである。
第三の孝徳天皇の治績は“大化の改新に情熱を燃やした”この天皇が行った数々の政治制度面での改革である。
(1)646年正月に孝徳天皇は”改新の詔の発布”という形で政治制度面での諸改革を行った。概要は下記であるがいずれもその後の政治の軸となる非常に重要なものが多い。
ア:豪族の私有地(田荘)私有民(部民)を公地公民とする
イ:戸籍と計帳を整え公地公民に貸し与え、税をとる班田収受の法を定める
ウ:租庸調の税制を整え、又、国郡制度を整備した
さらに孝徳天皇は大臣、大連を廃止し、太政官を置いて、左大臣、右大臣による政治体制とする大規模な組織変更を行ったと伝わるが、本格的な律令中央官制へと繋がって行くのは孝徳天皇期から後の事であり、地方支配の改革についても実質的に完成をみるのはずっと後の事である。
(2)649年八省百官を定める。
この記事は日本書紀に孝徳天皇が国博士の高向玄理と僧旻に詔を発して定めたとあるが、律令制の中央官制 がこれによって整ったのだと日本書紀の編者が殊更に強調しようとしたきらいがある、と学者からは指摘されている。何故ならばこの八省百官の制度はこの649年のものが最初のものだと記録されているが、40年後の第41代持統天皇時代の 690年に飛鳥浄御原令が施行された際にもこの八省百官の制度の記事が出て来る。又、この制度が名実共に完成したのはさらに20年後の701年、第42代文武天皇時代の大宝律令の施行まで待たねばならないと言われている。こうした経緯、実態からも、孝徳天皇が実施したとされるこの八省百官の制度への”改新”は、孝徳天皇の時代には実態が伴っていなかったのでは無かろうかと言うのが通説となっている。
⑤孝徳天皇政治の結末
以上の様に“大化の改新”と言う理想に燃えて”天皇中心の政治”を志した孝徳天皇であったが、その片腕であるべき皇太子、中大兄皇子が、性急な改革を進める孝徳天皇に他の豪族同様、反発を強めて行くという不幸な状態であった。
蘇我入鹿を殺害した”乙巳の変”の時に首謀者であった中臣鎌足(後の藤原鎌足)は最初は孝徳天皇(当時の軽皇子)をクーデター実行の仲間に引き入れようとしたのだが”人物的に器が小さい”と見て中大兄皇子(後の天智天皇)に切り替えたという話があるが、多分そうした”理想は高いが人物の小ささ”が孝徳天皇即位後の政治のからまわりという形になって仕舞ったのであろう。
孝徳天皇が主導しようとした”大化の改新”は難波長柄豊碕への遷都、改新の詔による諸施策の打ち出しなど、それまでの蘇我氏など豪族が前面に立った政治を改め”天皇中心の政治”への切り口となったと言う面では意味が大きかったが、性急過ぎた政治の進め方に肝心の皇太子中大兄皇子からの反発を招き、終に653年に中大兄皇子が飛鳥に戻ってしまうと言う事態に至ったのである。そして中大兄皇子に続いて、母親である皇極前天皇、大海人皇子(後の天武天皇)等も飛鳥に戻ってしまい、大いに張り切って遷都までした第36代孝徳天皇は654年、失意のうちに崩御すると言う顛末であった。
⑥第37代斉明天皇即位
孝徳天皇には有間皇子が居た。時の皇太子であった中大兄皇子は孝徳天皇と対立して飛鳥に戻って来てしまっていた。こうした状況もあって王族内の重鎮となっていた皇極前天皇が再び第37代“斉明天皇”として655年に即位した。これを重祚(ちょうそ)と言うが、現在まで125代の天皇のうち、この例と約百年後に聖武天皇の娘である第46代孝謙天皇が 第48代称徳天皇として重祚した二例があるだけだ。いずれの場合も女帝のケースであった。
女帝斉明天皇は自分の目の前で起こった”乙巳の変”の舞台であった飛鳥の板蓋宮(いたぶきのみや)に再び都を戻して即位した。そして再び飛鳥の地を“都”として再開発する事を決意するのである。 重祚した時に斉明天皇はすでに60歳を超えており、内政としては658年と659年の二回、阿倍比羅夫を北方に遠征させ、日本国としての統治範囲を津軽を含め、北方に広めたと言う功績が挙げられよう。まだまだ当時の大和朝廷の統治範囲は現在の日本全域に及ばず、狭い範囲であったのである。
年間の祭事にも関わる”暦”今日で言う”カレンダー”の作成は明治維新までは朝廷の重要な役割であり管理事項でもあった。それに関連する”時の管理”を天皇家が行うという事を企図して660年5月に中大兄皇子が“水時計”を作ったと言う記述があるが、朝廷が主たる統治の機能として行った”祭祀”にも“時”の管理は“暦”の管理にも繋がる関連した朝廷機能として注目に値する。
女帝斉明天皇と中大兄皇子がこうした内政を進めている間に、朝鮮半島では大きな変化が起こる。659年に始まった唐・新羅連合軍による百済攻撃である。そして翌660年7月に百済が滅亡するという結果になるのである。日本にとって百済の滅亡は国際情勢把握の重要な情報窓口を失い、文化等受け入れのルートをも失うと言う重大事であった。
⑦ 白村江の戦いと斉明天皇の崩御
この時期、日本の朝廷には百済の王子が滞在していた。一種の人質の様な立場であったと言う。名は”余豊璋”である。崩御した孝徳前天皇は”親唐政策”派の天皇であった。この外交政策の違いも斉明天皇と中大兄皇子が飛鳥に舞い戻って仕舞った大きな理由の一つだと言われている。斉明天皇と中大兄皇子の政策は”反唐政策”であり、同じく”反唐政策”の下で唐と戦っていた朝鮮半島の”高句麗”に外交使節を出していたのである。
こうした当時のグローバル政治情勢を背景下、滅ぼされた百済の残党は日本に居た、百済王子の”余豊璋”を立てて百済の再興を計ろうとして日本に百済王子の返還を求めて来た。
そればかりか、日本に対して唐、新羅連合軍と戦い、百済復興を果たす為に援軍を出して欲しいとの要請を斉明天皇、中大兄皇子のもとに出して来たのである。こうした日本の利害関係も絡んだ朝鮮半島の大変化に対して、斉明天皇と中大兄皇子は百済再興を計るべく、唐と新羅の連合軍に戦いを挑む為に日本からの援軍を送る事を了承したのである。
この意思決定は、当時の大統一王朝である唐という大国に、我が国が戦線布告したという事である。当時、どの程度敵側の戦力分析をした上での決断であったかは分からないが、相当に大胆な決断であった事に間違いは無い。
ところが当の斉明天皇は自らが軍を率いて筑紫に出陣する途中の661年に“崩御”して仕舞うのである。後に白村江の戦いと言われるこの戦いが始まる前に斉明天皇は崩御された訳だが、斉明天皇の息子であり皇太子として支えた中大兄皇子が”反唐政策派”であった事は分るが、果たして斉明天皇までが”反唐”であったかどうかは疑わしいとされている。
百済再興と言う大唐帝国を相手にしたこの戦いに勝ち目が殆んど無かった事は明らかであり、それでも戦いに及んだという誤りは何故起きたのであろうか。
当時の斉明天皇と中大兄皇子政権には後ろで控える大唐帝国と直接交戦するのでは無く、朝鮮半島の新羅だけが戦う相手なのだという誤解、あるいは情報不足があったのでは無いかと後世評価される程、結果として惨憺たる敗北を白村江に於ける唐との戦いで喫したのである。
中国が古くから”中華思想”で周辺諸国に相対していた事は史実からも知られているが、、この時期の日本は朝鮮半島の諸国に対しては日本を”中華”と見做していたのでは無いかと思われる程の大胆な動きをしていた。百済の再興に乗り出し、唐と新羅連合軍と戦って勝利出来ると考えた当時の外交上の情報収集力の未熟さ、中大兄皇子等、朝廷トップのグローバルな面での視野の狭さが指摘されるところである。朝鮮半島の諸国だけを相手に、日本を”お山の大将”と考えてしまうという所謂 ”小中華主義” に日本が陥ってしまったのでは無いかと思われるこの時期の外交の未熟さと言う点では、日清戦争から日露戦争を経て、第一次世界大戦へと、強引に参戦し、その後満州事変へと進み、終には日中戦争へと戦線を拡大して行く動きに似たものが当時もあったのであろうかと思わせるのである。
政治は結果論である。昭和初期からの朝鮮半島ならびに満州、そして中国への日本の進出がバックに控えていた巨大なアメリカ合衆国との軋轢に発展し、遂にはアメリカ合衆国との直接戦争になってしまう危険性を当時の政治家、関係者は十分に推論していたはずである。しかし結果はアジア太平洋戦争に至り、敗戦の憂き目に至ったのである。こうした1300年後の日本の姿と重なる、情報不足、外交力不足の結果としての大国、唐との戦争突入が白村江の大敗北であった。
⑧ 直ぐには天皇として即位しなかった天智天皇の”称制時代”
斉明天皇の突然の崩御によって、今度こそは皇太子であった中大兄皇子が天皇に即位するものと思うがこの時点でも即位しない。645年の”乙巳の変”からすでに16年が経っている。なぜ天智天皇が何度も即位の機会がありながら即位しなかったのか、又は出来なかったのか、については”謎”であり、諸説があるが斉明天皇の崩御から668年に漸く即位するまでの7年間は皇太子のままで、実態としては天皇の職務を代行したのである。これを”称制”と言う。天智天皇はこの“称制時代”に数々の歴史的事態に関わっているのである
ア:白村江の戦いの大敗北(663年)
日本は唐と海上戦で大敗した。日本軍は4万人を超える兵士を送り、唐軍は約2万人の戦力であったと言われる。この大敗で称制時代の天智天皇は大唐帝国の脅威をまざまざと見せつけられたのである。
イ:近江大津宮(大津京)に遷都(667年)
”小中華主義”に陥っていたと思われる当時の日本が朝鮮半島に対してのみ、関心を持ち、強国“唐王朝”を含めた当時の“アジア情勢”分析を十分に行っていなかった事が結果として白村江に於ける大敗北に繋がった事は既述の通りである。
バックに存在していた”大唐帝国”の脅威を指揮官として直接味わった天智天皇のショックは相当に大きなものであったのであろう。百済が完全に滅びそして高句麗との戦いにも唐が勝利し、その時点では唐と連合していた新羅もそのうちに唐の支配下に置かれいずれ大唐帝国は本格的に日本に攻め込んでくると言う脅威を中大兄皇子(天智天皇)が抱いたと言う事は無理のない事である。
そこで直ぐに着手したのが、難波(大阪)からも遠く、飛鳥からもずっと内陸となる近江大津宮(大津京)への遷都である。過日この大津京の史跡を訪れたが、民家が密集する地域にわずか50坪程の区画に碑が立っているだけであり、短かった都の面影は残念ながら今日では殆んど残っていない。
ウ:防人制度の実質的整備
大伴家持が編集者の一人である”万葉集”には100首を超える”防人歌”が載せられている。防人は制度としては大化の改新の際に整えられた制度とされるが、上記の白村江の戦いで大敗し、大唐帝国の脅威を知った称制時代の中大兄皇子が敵の進攻に対する防衛を急ぎ、軍事拠点として“大宰府”を構築する一方で対馬、壱岐、筑紫など、西国の辺境を守る為の最前線部隊として”防人”を 実質的に整備して行ったのである。
この防人は今日の国境警備兵であるが、3年の兵役を課せられ、3000人程が常に勤務していたと伝えられる。集められた兵士の中核が何故東国からの兵士であったかの理由については大敗した白村江の戦いでとりわけ西国からの兵隊で組織した部隊が壊滅した為、以後の兵の補給は西国からは困難となった為だと考えられている。
話はそれるが、万葉集に何故100首を超える”防人歌”が載せられたのかについては次の様に言われている。
大多数の人々が文盲の時代である、しかも防人兵士は農民が主である。大伴家持は当時、兵部省輔(現在の防衛省次官)であった。そこにおける役人としての任務と彼が万葉集の編集者でもあったと言う偶然の産物だと言う訳だ。担当役人として大伴家持は難波で毎年恒例として行われていた1000人の交代防人用員としての出陣式に出席していた。
この重々しい雰囲気になりがちな出陣行事には入隊式後の”宴”が催されたと言う。酒も振舞われ、私的感情が流出し、そうした状況に加えて、東国人の生活には、元々歌を作る慣わしがあった事が重なって、防人が任地に出発するに当たってその胸中を歌にしたものをまとめて兵部省に献じる事が以前から慣行となっていたと言うのである。
自身が優れた歌人であった大伴家持であるからこうした慣行によって防人から献上された”歌”にいたく感心した様だ。
その中から拙劣な歌は除いて、93首を万葉集の巻20に“防人の歌”として納めたのである。その他の巻にも”防人の歌”と思われるものが載せられており、全部で100首以上が載せられるという結果になった大伴家持と万葉集に関する偶然の話の真相という事である。
家族の中心を防人として3年以上に渡って引き抜かれる家族の負担は相当に大きかったようである。防人の制度は646年から始まり、白村江の戦い(663年)で唐軍に壊滅的大敗を喫してから本格的に整備される様になった訳であるが、時代の変遷によって内容は変化して行った。制度として平安時代初期の第53代淳和天皇時代の826年に完全に廃止されるまで実に180年間に亘って続くのである。
エ:甲子宣(かっしのせん)・・・664年
663年の白村江の戦いの大敗北は実質的責任者である”称制中大兄皇子”にとっては始めから勝ち目の無い戦争に突入したと言う事で、諸豪族からの責任追求が強かったと言われている。こうした状況に対してすでに述べた対外防備の諸施策に加えて内政改革の実施も要求される状況であったものと思われる。その具体的施策が664年に”皇太子の立場で称制を行なっていた天智天皇が発令した内政改革の諸施策で”甲子宣”と呼ばれるものである。
何故この”甲子宣”が歴史の観点から重要なのであろうか。その内容にも注目すべきものがあるが、それよりもこの発令を弟である”大海人皇子”(後の天武天皇)に命じてさせた事がその後の歴史展開の上で大いに意味があったからなのである。
中大兄皇子(天智天皇)としては内政外交とも問題を抱える状況下で、人望もあった弟の”大海人皇子”を政治の正面に立てて内政改革の諸施策を実行する方が政権として“安定”すると考えたからであろう。それ程白村江の戦いの失敗は後の天智天皇、当時の称制中大兄皇子の信用失墜だった訳である。
”大海人皇子”はこの時点では天皇が不在で、中大兄皇子が皇太子のままで”称制”を行っていた訳だからいわば当時の朝廷のNO.2の立場にはあったが”大皇弟大海人皇子”と呼ばれる微妙な立場に居た。こうした状況も後の”壬申の乱”が起きる伏線となっていたのである。歴史には必ず”原因”があるが 天智天皇の息子である大友皇子との関係も絡んで後述する”皇位争奪戦”すなわち”壬申の乱” に何故突入して行ったかを理解する一つの出来事として役立つ事柄であろう。その ”甲子宣”の主な内容は下記である。
(1)官位26階制度
(2)大氏、小氏、伴造など氏上(うじのかみ)を決定
(3)民部、家部の制度
これ等の施策の目的は中央豪族を官人化し、当時はまだ広く豪族による私民の支配状況が残っていたものを国家権力による統制の手を加えようとするものであった。こうした認定や登録を国が行う事により王権の浸透が企られる事になる。
当時、白村江の戦いの出兵などで中央並びに地方の豪族達が共に大きな痛手を受けていた事も天皇家を軸とした政治をより可能とする背景となっていたものと考えられる。この”甲子宣”はこうした国家が政治を先導して行く先がけの施策として、歴史上、大きな意味があるものとされる所以なのである。
⑨ 第38代天智天皇として即位する・・668年
皇太子中大兄皇子として7年間の”称制”時代を経て、終に天皇として即位したのが668年の事である。古代日本の基礎を作り上げた3人の天皇の一人として挙げたが、その治績の大半は、645年の乙巳の変 にはじまり、上記”称制”の時代までの治績が主たるものとなる。 即位後も”天皇中心の政治”を推し進め、大唐帝国に倣った”律令国家”を作る事を目指した天智天皇ではあったが、古代国家日本の萌芽期の天皇であり、強大な唐王朝の動向に常に脅威を感じながら、それに対抗し得る国内体制を急がねばならないと言う内政外交の両面の課題山積状態の天皇だった訳である。
心情的には一時として安らぐ時の無い天皇であったものと思われる。その為であろうか、天智天皇は即位してわずか4年も経たぬ671年に崩御となるのである。長い期間に及んだ皇太子時代、称制時代、そして漸く天皇に即位した後も内外共に厳しい状況は変わらず、心労は続いたものと考えられる。天智天皇を見舞った“心労”の主たるものを挙げると以下の3つの事柄であろう。
(1) 第一の心労・・中臣鎌足の病死
近江大津宮に遷都した翌年の669年に”乙巳の変”の立案者でありその後も、内臣として政府の中核人物として、皇太子中大兄皇子を支え続けて来た”中臣鎌足”が病没した。臨終に際して天智天皇は鎌足に後の”正一位”に該当する”大織官”という最高の官位と共に”藤原の姓”を与えたのである。この”藤原鎌足”が後に栄華を誇る藤原氏の祖となった瞬間である。
(2) 第二の心労・・唐が“平壌”まで進攻する
より大きな天智天皇の心労は即位して間もなく白村江の戦いで大敗を喫したあの“大唐帝国と新羅の連合軍”が永年、手を焼いて来た“ 高句麗”をも終に滅ぼし、大唐帝国の拠点を“平壌”にまで進めて来た事である。白村江の戦いの大敗北でより内陸の“大津”への遷都までを行った天智天皇ではあったがこうした唐の状況に、ますます恐怖心を強くしていたものと思われるのである。
然しながらこうした古代日本の状況は後の日本にとって別の面での大きな副産物を提供してくれたのである。こうした朝鮮半島の大変化、すなわち百済滅亡と高句麗滅亡は迫り来る大唐帝国の脅威に対して 防人の制度、水城建設などの国防体制の強化、国としての国内体制の整備を急がせたばかりでなく、多くの 難民が 押し寄せるという事態、古代日本における大規模の“渡来人の集団移住”という事態を生じさせたのである。
弥生人が大陸から稲作技術を持って渡来し、先住民としての縄文人と混血して後世の日本民族となって来たのと同じ様に、この時期の最大級の朝鮮半島からの王族、貴族を含んだ日本への渡来によって、工業技術面、文化面で大陸の最先端の文化がもたらされたばかりか、当時の朝廷が目指す”律令国家の早期整備” に相当な力となったものと考えられる。
又、こうした歴史の過程からも、”日本人”とは太古の時代から渡来人を自然体で受け入れ、文化、技術、さらには仏教など宗教までをも柔軟な姿勢で受け入れ、それまでの日本固有のものと時間をかけて混血させ、日本独特のものとして育成して行くという従来からの日本民族の持つDNAを一層磨き上げる事に貢献した歴史的に重要な時期であったと言う事が言えるのである。
皇統の研究家でもあり、憲法学者である竹田恒泰氏は”今日の”在日”と呼ばれる人々もきっと今後も過去の歴史と同じ様に混血を繰り返し、時間を経て、之までの歴史同様、遠い将来の日本人の祖先となる人々である”と説明している。
(3)第三の心労・・大友皇子(息子)か大海人皇子(弟)かの後継者問題
天智天皇の皇太子には弟の大海人皇子(後の第40代天武天皇)が就いた。弟である為”皇太弟”と呼ばれた。ところで 天智天皇には寵愛し、重用したと伝えられる息子の大友皇子が居た。大海人皇子が皇太弟なので大友皇子を皇太子として後継者に据える事は出来ない。そこで 天皇即位後3年目の671年正月に人事を行い”太政大臣”という国家運営の中枢となるポストを大友皇子の為に新たに設けた。 いわば現在の内閣総理大臣的ポストに就けたのである。 “太政大臣”というポストが日本の政治組織に初めて見られる例であり、そして左大臣には蘇我赤兄を就け、右大臣には中臣金を就けて補佐をさせると言う政治体制を敷いたのである。
こうした人事が天智天皇崩御後の次期天皇即位問題に複雑な事情を生じさせ、後述する大海人皇子と大友皇子との 間の”壬申の乱”という皇位継承戦争(672年)へと繋がるのである。歴代の天皇の表を見ると天智天皇が崩御した後の天皇として大友皇子が第39代弘文天皇として皇位に就いた事になっているが、日本書紀が書かれた当時には弘文天皇即位の記述は無い。明治時代になってから公式に即位が認められた天皇なのである。
弘文天皇が天皇に即位した事は日本書紀にも記述されていない。その理由は日本書紀の編纂を命じたのが壬申の乱で天皇の位を争った当の“ 天武天皇”(大海人皇子)であったのだから当然だとも言える。兎に角日本の歴史上、内戦としては最初の大規模な皇位継承戦争を経て即位し、次項で記述する数々の治績を残し“天皇の中の天皇“と位置づけられていた天武天皇と皇位を争った大友皇子であったから、歴史上では長い間天皇に即位した事は史実として認められていなかったのである。
次項“天武天皇”の中で詳細に述べる事にするが、 天智天皇としての本音は当初から弟で人望があった大海人皇子に皇位を譲ろうとしたのでは無いか、と伝わる説もある。いずれにしても結果として天智天皇の遺児、大友皇子の周囲の豪族達が絡んだ複雑な政治権力争に発展し、”壬申の乱”へと繋がったのである。
内乱を起こす火種ともなり兼ねない皇位継承問題が天智天皇の短い天皇在位期間中の大きな心労であった事は間違いなかろう。果せるかなこの年、天智天皇の崩御直前の671年11月に大海人皇子(後の天武天皇)はNo.2のポジションであった“皇太弟”の地位を辞退し、その結果、大友皇子が皇太子の地位に就くという展開となり、上記した様な当時としては史上最大規模の内乱になるのである。
⑩ 天智天皇の治績と、わずか4年未満での崩御
(1)庚午年籍の整備(全国規模の戸籍調査)
670年、天皇即位2年後に”庚午年籍”を整備した。これは残念ながら現存しないが、全国規模で行われた事が確認出来る日本最古の戸籍である(続日本紀)。この戸籍は平安中期までは残されていた事が知られている。天智天皇としての狙いは律令体制による支配体制の整備をする事が目的であった。当時は役人と言えども文字を使う事の出来る人が少なかった時代であり、しかも“豪族”の勢力がまだ強く残っていた時代である。従ってこの戸籍作りで、地方豪族の“私有民”までをも漏れなく登録する事が出来たかは甚だ疑問ではある。ところで、カバーする範囲は狭かったが、こうした戸籍を作る動きは古くから見られる。540年頃の欽明天皇にも戸籍を作った記録が残っているが、この時の戸籍も地域的に限定的であったし、主として渡来系の人々を支配する事が目的であったと言われている。こうした戸籍作成上の困難さ、不備はあったものの、兎に角こうした全国規模の”庚午年籍”という戸籍が天智天皇によって整備された事は、天皇家が全国規模で民衆を把握する事となったと言う点で意味が大きいのである。
これに拠って、十分では無かったとは言うものの、物資や労働力だけで無く、大規模な兵の調達が可能となり、以後の戦争のあり方を大きく変える事になったと言われる。つまり兵員調達の助けとなる等、以後、大掛りな戦争の遂行が可能となったと言われる。天智天皇崩御後に起こった”壬申の乱”の際には大規模な兵の徴集を行なうのにこうした戸籍の整備は非常に役立ったのでは無いかと言われている(慶大竹田恒泰氏)。
(2)近江令の制定
671年に制定された近江令は 日本最初の令(国家制度全般について定めた法典)と言われているが、これも又現存しないので本当に施行されたのかどうかについては否定的な学者も多い。いずれにしても、当時先進国であった”唐”の律令制度を見習い、法律、制度の完備した中央集権的な法治国家の建設を目指して天智天皇と中臣鎌足(藤原鎌足)が中心となって編纂したものと伝わる。遡ること26年前に、当時としての近代国家への脱皮を目指して、蘇我入鹿を殺害し、大豪族“蘇我氏専横政権”に対して二人が中心となってクーデターを起した己巳の変から四半世紀を費やして整えた法典であった。
この近江令が制定されたのは668年と言うから、中臣鎌足(死の直前に 藤原の姓が下賜される)が亡くなる1年前の事である。上述した様に、近江令が実際に施行されたかは定かでは無いがこの令が編纂され、制定されたと言う記録は、鎌足の伝記(大織冠伝)や弘仁格式の序にも記述があるので間違い無かろう。
その内容は全く不明で断片すら残っていないのが甚だ残念ではあるが、これが後の天武天皇が編纂を命じ、天武天皇崩御後の689年に持統天皇によって施行された飛鳥浄御原令(あすかきよみがはらりょう)に繋るのである。
実際に近江令が施行されたかどうかは別にして、施行を命じたのが政務の最高責任者の立場、太政大臣の地位に就いていた天智天皇の皇子の大友皇子だったのか、それともこの時点ではまだNo.2の立場に残っていた”皇太弟”大海人皇子だったのかも判然としない。
天智天皇が崩御直前に息子可愛さの余りであろうか、大友皇子を日本最初の“太政大臣”に就けた事が“皇太弟”であった大海人皇子派の反感を買い、当の“皇太弟”が辞任と言う行動に出たのである。天智天皇としては複雑な心境であったであろうが結論として弟の大海人皇子の“辞任”を認めたのである。そして、 672年1月7日に上述して来た様に日本の最も困難な時代のリーダーとして永年尽力して来た天智天皇は46歳の若さで崩御となったのである。
”秋の田の かり穂の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ”という和歌は百人一首の冒頭に載せられている天智天皇の歌である。天智天皇は優れた歌人でも在った。繰り返しとなるが、天智天皇は古代日本国の創建期と言う非常に難しい時期に我が国のリーダーとして“大化の改新”のきっかけとなった“クーデター”を起こすなど20代から46歳で崩御するまで日本国の内、外政の基礎作りに生涯を捧げた天皇として今日でも最も評価される天皇の一人なのである。
天智天皇の崩御には謎が多く、暗殺説もあるがそれらの根拠は12世紀に出された”扶桑略記”等、かなり時間が経ってからの記述に基づくものであってそれらの説の信憑性は疑わしいのでここでは省略する。
第三章 日本の基礎を作った飛鳥時代の三天皇
第1項 推古天皇
①推古天皇とは
古事記に書かれている最後の天皇が第33代推古天皇である。現在までの125代を数える歴代天皇のうち女帝は10代を数えるが、重祚(一度退位した天皇が再び皇位に就く事)した第35代皇極天皇と第37代斉明天皇とは同一人物であり、第46代孝謙天皇と第48代称徳天皇も同一人物である。従って今日までに8人の女帝が存在した事になる。推古天皇はその最初の女帝なのである。
②推古天皇の家系
国会をはじめマスコミも”女系天皇””女性天皇”について盛んに議論した時期があったが、過去10代(8人)の女性天皇の誕生はいずれも特別な場合、事情があって天皇の位に就いたというケースのみである。
しかもいずれの場合も昨今議論された“男系の天皇の血を引き継いだ女性天皇”、“男系の天皇の血を引き継いで居ない女性天皇“なのかという論点で言えば、全てのケース共、例外無く父方が天皇であった”男系天皇の血を引き継いだ女性天皇”であった。
父親が天皇の血筋を引き継いでいない”女系天皇”が出現した例は無いのが125代に亘る天皇家の継承の実態である。
推古天皇の父親は日本書紀には552年(元興寺縁起には538年とある)の仏教伝来時の天皇であった第29代 欽明天皇である。 母親は蘇我稲目の娘、額田部皇女である。 天皇家が世界史の上でも稀な125代に亘って今日まで継承されて来る事が可能であった理由については次章で記述するが、女帝推古天皇が誕生したバックには当時大臣(オオオミ)として勢力を伸ばして来ていた、当時の新興勢力であり、豪族のトップであった蘇我氏の存在があった。
蘇我氏が勢力を伸ばした大きな要因として”仏教伝来”に乗じた事があると言われている。
”八百万の神”にまつわる地域信仰を崇めて来た古代日本にとって、仏教を受容するか否かは非常に大きな政治問題であった。こうした場合に拮抗する勢力の間で政治権力争いが生ずるのはいつの時代も同じである。
当時の強力な豪族であった物部氏が必ずしも仏教排斥論者であったのでは無い等、諸説があるが、一般論としては、仏教推進派であった新興の蘇我氏を阻もうとする物部氏(大臣)との間に争いとなったとされている。 そして天皇家との結びつきを強めていた蘇我氏が政争に勝ち、物部守屋が討たれ、その後物部氏は衰退するという歴史ストーリーである。従って第33代女帝推古天皇の誕生とその後の政治には、“蘇我氏”と“仏教”と“聖徳太子”、この3点セットが欠かせないのである。
③第32代崇峻天皇暗殺事件と第33代推古天皇の誕生
推古天皇の父親である第29代欽明天皇の皇子が第30代敏達天皇である。この異母兄である敏達天皇と結婚し、皇后となり、後に125代に亘る歴代天皇の中で最初の女帝として即位したのがこの項で記述する推古天皇である。日本書紀の記述によると”姿色端麗、進止軌制”とある。つまり”容姿が端麗で礼儀正しく、且つ、節度のある女性であった”という“推古天皇評”である。又非常に頭脳も明晰、かつ公正な女性であって、土地の支配権を拡大しようとした、外戚で且つ重臣でもあった蘇我馬子に対しても、“公地を私人としての貴方に譲るような政治をした事が後世に伝われば私も貴方も大いに批判される”としてきっぱりと断ったと言う話が伝わっている。
夫の敏達天皇が崩御し、第31代用明天皇が即位した(585年)。この用明天皇は推古天皇と母親が同じ同母兄であった。病弱であった用明天皇は在位わずか3年、疱瘡で崩御したと伝わる。そして第32代崇峻天皇となった。当時の皇位継承問題には天皇の母方であった蘇我氏の力が大きく働き権謀術策も大いに用いられた。物部氏(守屋)を滅ぼした蘇我氏(馬子)の力は絶大で、この第32代崇峻天皇誕生にも関わっている。そして自らが強引に天皇の座につけたこの崇峻天皇を暗殺(592年)したのも叔父に当るこの蘇我馬子であると言う事が日本書紀にも記録されている。
125代に亘る天皇の中、暗殺された事が正史である日本書紀に記録があるのは2例だけだと前章で紹介したが、その2例目の天皇がこの第32代崇峻天皇なのである。
日本書紀に記述されている暗殺の理由は至極単純である。ある日、猪が崇峻天皇に献上された。それを前にして崇峻天皇が”この猪の首を切ると同じ様に憎い人の首を切りたいものだ”と言ったとの事。この言葉を聞きつけた蘇我馬子が自分に対する言葉だと解釈し、身の上の危険を察知して崇峻天皇を暗殺したとの記述である。
如何に当時の蘇我氏の権力が強大であったかを知る事の出来る話である。ちなみに蘇我馬子は626年に死亡しているが、其の墓が有名な明日香村にある総重量2300トンの”石舞台”では無いかと言われている。果たして蘇我馬子の墓であるかどうかは、例によって記録などが無い為、”定説”とまでには成っていないが、墓の作られた様子、規模等から推察しても、当時最大級の豪族の墓である事が確かであり、蘇我馬子の墓説が有力だと言う訳であろう。崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子がその後、その為の何らかの罪を負ったと言う記録は一切無い。然しながら流石にその後の政治的混乱は大きかった様である。皇位継承順位からすると第30代敏達天皇、つまり推古天皇の夫の別の后との間の皇子が継承するか、聖徳太子(厩戸皇子)も天皇に即位する候補に挙ったであろう。しかし、結局は、上述の様に人望もあり美貌で且つ頭脳明晰、加えて女性の持つ呪術的素質を持っていたと言われる当時39歳であった元皇后、“額田部皇女”が周囲から請われるままに第33代推古天皇として即位する事になったのである。
勿論、外戚である蘇我馬子の力が強く働いた事は言うまでも無いが推古天皇の本心は息子である”竹田皇子”を天皇にしたかったのでは無いかと伝えられている。日本書紀に言う様に推古天皇の人柄は”姿色端麗、進止軌制”であって決して自らが好んで日本最初の女性天皇の地位に就いた訳では無い様だ。
近鉄南大阪線の上の太子駅で降り、レンタサイクルで30分程走ると推古天皇と竹田皇子が一緒に祀られている御陵がある。当初は植山古墳に埋葬されていたが、その後この地、山田高塚古墳に改葬されたと古事記に記されている。ここでも彼女の最愛の息子とされる竹田皇子と一緒に埋葬されている。最近の新聞記事で今上天皇と皇后のご希望として天皇陵については質素にすべし、天皇と皇后の御陵を合葬して欲しいとのご希望があった、と宮内庁から報道された。
これについては美智子皇后から天皇陛下との合葬では、甚だ畏れ多いという事で否定されたとの報が直後にあった。天皇と皇后の合葬の前例としては後の天武天皇と持統天皇の例がある。美智子皇后が合葬が恐れ多いと若し本当に言われたとすればその理由は持統天皇は確かに天武天皇の皇后ではあるのだが後に天皇に即位している。その点の違いを以って恐れ多いと表現されたのであろう。
日本の天皇、皇后の立場は古代から”人民の為に祈る”存在であった。推古天皇がその遺言である遺詔に残した言葉は、古来からの日本の天皇の共通した考え方を表している ものとして紹介しておこう。
宮内庁から報道された上記、天皇陵に関する今上天皇、皇后の考え方、さらにはマスコミが伝えた東日本大震災直後に被災地をお二人で訪問された時の、体育館で膝を床にお付けになって避難民の苦労をねぎらう今上天皇、皇后の自然なお姿も、以下の推古天皇の遺詔との共通点が多いのである。
”比年(この頃)五穀登らず(作物の実りが悪い)百姓(おおみたから=民は)大きに飢う(大変飢えに苦しんでいる)其れ、朕が為に陵を興てて厚く葬る事勿れ。(だから私の為に莫大な費用を掛けて立派な墓を作って祀る必要は無い。)便ち竹田皇子の陵に葬るべし。(従って私は息子である竹田皇子の墓に祀ったら良い)” この遺詔からは其の他に、若くして亡くなった最愛の息子の竹田皇子を天皇に就ける事が出来なかった推古天皇の無念さも感じられるのである。
いずれにしてもこうして推古天皇は外戚にして重臣の蘇我馬子と、摂政としての聖徳太子に実際の政治を任せる形で自らが皇位に就き、以後36年間に亘って、国内政治体制の整備、隋と言う強国をはじめとする外交問題への対応という課題を抱えながら、日本最初の女帝として628年に75歳で崩御する迄、その在位期間を全うしたのである。
④推古天皇時代の国内体制の整備
こうした状況を背景に第33代推古天皇は6世紀の天皇家の中心地であった磐余(いわれ)、現在の奈良県桜井市から飛鳥の豊浦宮(とよらのみや)に移り、即位した。592年の事である。
近鉄吉野線の 橿原神宮前(かしはらじんぐうまえ)駅でレンタサイクルを借りて東に30分も走ると推古天皇の時代の史跡が沢山残っている。豊浦宮跡は現在は向原寺となっている。寺の一部から豊浦宮の建物の一部が発掘され一般にも公開されていたので見学させて頂いた。
建物は残っていないが柱の遺構、太さ等から当時としては相当に大規模の建築物であった事が推定される。推古天皇は蘇我馬子を叔父(外戚)に持つと言うことは既に述べたが、馬子が大陸伝来の技術、百済からの技術をフルに使って飛鳥を開拓したと言われている。
ダム湖まで造ったという事だがこれらに関わる資料は狭山池博物館に展示されているものがある。推古天皇が即位する3年前の589年(581年に既に文帝が隋という国自体は起していた)に、150年間に亘った南北朝分裂時代の中国が“隋”によって統一されていたのである。強大な隋統一王朝の出現という周辺諸国の背景の時期であった。
朝鮮半島では346年に百済が、356年に新羅が起こり、紀元前37年頃から扶余族が起した高句麗との3国時代で、互いに攻防を繰り返していた時期である。こうした時期に推古天皇は聖徳太子を摂政として政治の実権を蘇我馬子と共に任せ、諸施策を打って行った。
この三人に拠る“トロイカ体制”と言っても良いのであるが、諸施策は聖徳太子が発案、実行して行ったものと考えられている。
隋の出現等、外交政策が非常に重要となって来た推古天皇の治世ではあるが、それらは後述するものとして、先ずは徐々に天皇家を中心とした中央集権的国家を目指して、国内の体制作りに注力した時期であった。代表的な施策として有名な冠位十二階の制度の目的と十七条憲法制定の目的を紹介しておこう。
④-1:冠位十二階の制度制定に至る当時の政治背景について
天皇家が日本列島の統治者となる以前から、“倭の国王”と称されたリーダー達が中国王朝や朝鮮半島の国に常に関心を払い、何らかの交流を続けて来た事は前章で記述した。
そもそも“独立した国家”とは如何いう状態を指すのであろうか。それは時代によって異なろうが“国土を自らの手で守る事が出来、自らの手で憲法を作る事が出来、国の祭祀に外国の干渉を受けない、国民の教育を自ら行う事が出来る状態の国”が“独立した国”と称される最低限度の“定義”だと言われている。
推古天皇の時代とは、7世紀に近い時代であり、何よりも中国大陸に”隋”(589年~618年)という強大な統一王朝が出現したと言う客観情勢が“国”としては重要な事であった。
聖徳太子、蘇我馬子とのトロイカ方式の政治をとった推古天皇(在位592年~628年)が素早く対応した施策はその隋王朝に早々と“遣隋使”を派遣した事であった。
日本書紀には607年、608年、そして614年の合計3回の遣隋使が記録されているが実は
”隋書”には既に600年にも遣隋使の派遣があったとの記録があるのである。之に関しては“隋書“の記録の方を信じても良いのではないかと思われる。そうだとすれば、推古天皇の政権が如何に積極的にこの”超大国隋“に接近して制度、文物の輸入に勤めると同時に、併せて日本の国としての”体制整備“の必要性を感じ取って隋との外交に努力しようとしたかが分るのである。
(ア)何故遣隋使を急いだのか
西暦600年に第一回目の遣隋使を送っていた事については“隋書“の記録を信じて良かろう。そうするとこの時の日本からの国書には”倭王”と称していたものと思われる。日本国と称するのは”遣唐使”以降である事は前章で述べた。そしてこの隋王朝への遣使は前章で記述した倭の五王の中の”武”(第21代雄略天皇と考えられている)が西暦478年に南北朝時代の”宋”に上表文を携えた遣使を行って以来、実に122年振りの中国王朝への遣使となるのである。
目的としては当時の先進国としての隋からの文化、制度等の輸入が主たる目的であった事は明白であるが、国防的にも強大な統一国家として出現した隋王朝と朝鮮半島の新羅との微妙な関係もあり、当時の“ヤマト王朝”としてはそれらの諸国との争いは避けたい、事を構えたく無い、と考えた事も大きな理由であろう。中国の歴代王朝は東アジア諸国との“国際秩序を維持”する為の外交政策として、“朝貢”をして来た周辺諸国の君主に対しては、官号、爵位などを与えて君臣関係を結び、その地域の統治を認める、と言う施策を取っていたのである。従って“中華思想に基づく統一王朝”と周辺諸国との関係は“宗主国と藩属国”と言う図式であり、周辺諸国は日本も含めて“従属的関係”に中国王朝の“考え方の中”では置かれていたのである。
これを”冊封体制”と言うが朝鮮半島の諸国は日本の状況と比べると実質的、物理的に完全な“冊封”関係にあったのである。日本は古くから倭王が中国の王朝に”朝貢”をして来た事は前章で記述したが、中国王朝の冊封体制に入って居た訳ではない。朝貢とは君臣関係を表す政治的儀礼であると同時に貿易の一形態だと理解した方が良かろう。倭の五王の中の最後の倭王”武”(雄略天皇?)の朝貢を最後に、日本は記録上も中国王朝に“遣使”なり“朝貢”を行っていない。倭王”武”(雄略天皇?)が遣使した478年の翌年に遣使していた宋が滅び”齊”が起こり、その後”梁”に取って代られる等、中国情勢が安定していなかった事も日本が長く朝貢を行っていなかった理由の一つであろう。
さらに朝鮮半島も高句麗、新羅、百済の間に常に攻防が繰り返されており、日本書紀によれば600年に新羅が任那を攻めた事に対して、日本は新羅に出兵したとある。此処が重要なところだ。つまり、隋王朝と冊封関係にある新羅に日本が派兵したと言う事は、日本が隋王朝に対して派兵したと取られ兼ねないのである。そこで隋王朝に対する政治的儀礼を果たし、親善外交を行い、更には文化の輸入という意図を持った第1回目の遣使を西暦600年に行ったと思われるのである。中国王朝への遣使は実に122年振りであり、この政治的決断を行った推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子による3人の”トロイカ内閣”の海外情勢の変化に対する外交的感覚の鋭さが分る。
(イ)何故冠位十二階制度(603年)17条憲法(604年)が制定されたのか?
しかしながらこの第1回目の遣隋使で推古天皇内閣は隋の文帝(高祖)からは“倭国の政治の有り様、社会制度は国際社会では通用しない、国としての体制も不備、且つ礼儀も無い国だ、先ずはその辺から改めるべきだ”と一蹴され、軽くあしらわれて帰国した様子が“隋書”の東夷伝倭国条に書かれている。
その時の日本からの使者が無冠の者であった事もそうした隋側の対応の原因であったと思われるが、確かに隋から指摘された通り、当時の日本には位階の制度も無く、大国である中国の隋王朝と対等に外交を行う国としての体制すら整っていなかったのである。そこで、迅速に対応した推古天皇、摂政聖徳太子が整えたのが、603年12月5日に聖徳太子による”冠位十二階”の制度制定である。
(ウ)冠位十二階制度の概要
日本を天皇を中心とした中央集権国家にし、身分制度を確立する事を目的とし、更には、それまでの“氏姓制度を根本的に見直した改革”がこの冠位十二階制度である。徳、仁、礼、信、義、智をそれぞれ大小に分け、合計十二階から成る官位の制度を決め、この制度によって、身分の上下に関わらず、能力のある役人を登用する仕組みが整えられた。我が国初の”個人の功労”によって昇進を決めて行くという画期的な制度である。又、誰から見ても官僚としての身分が分る様に、冠の色、飾りで明確に区別したのである。具体的には、色別とし、上から、紫、青、赤、黄、白、そして最下位が黒の6色とし、夫々に濃淡色を作る事で合計12色、12の位分けとしたのである。
(エ)冠位十二階制度のその後・・・律令制の位階制度への過渡期的対応としての位置づけ
聖徳太子に拠るこの制度は豪族を序列化し、氏姓制度の下での氏や姓に捉われる事なく、優秀な人材を登用する事を目指すものであったと同時に天皇がこの官位の任命を行う事によって豪族に対する天皇の権威を高める目的もあった。
然しながら大臣や大連と言った最上級の”姓”に属する豪族は官位十二階の最上級である”大徳”よりも依然として上位に置かれる等、旧システムを残した不完全な面もあった。
そして制定の後も紆余曲折を経て、律令制の下での位階制度へと移行して行くのである。
その意味であくまでも過渡期的な制度であったのである。
④-2 十七条憲法(604年)は官僚、貴族に対する道徳規範、“朝廷“の語源が八条に。
600年の第一回目の遣隋使が隋の文帝(高祖)から”倭国の政治は道理に合わない、改めるべきだ”と一刀両断された事は、国として対等な立場でこの強大な中国の王朝と良好な外交関係を作り上げ、文化、制度、を学び入れ、そして朝鮮半島での影響力を確保したいと考えていた、推古天皇、聖徳太子、そして蘇我馬子による“トロイカ政権”にとってはいきなり出鼻を挫かれ、全く相手にされない事が判明し、相当なショックであったものと思われる。
上記、冠位十二階の制度を整えた翌年の604年には矢継ぎ早に“官僚並びに貴族に対する道徳的な規範”を17条に亘って事細かに規定したのである。これが”17条憲法”である。
日本書紀にその全文が記述されているが、第一条の有名な”和を以って貴しと為す”から始まって、公人としての“役人に対する訓戒”であり、今日の我々が読んでも違和感を覚える事柄は無い。冠位十二階の制度も同じであるが、天皇の権威を高めて行く事がこの政権の最重要事項の一つであったから、第三条には、臣下としての天皇に対する服従の心得を切々と説いている。又、第八条には役人は早く出仕して必ず遅くまで仕事をしなさいと書いてある。
”朝廷”という言葉は ”朝早く来て、仕事をする事が一番大事”だと言うことが語源だそうだが、この第八条がその由来であるとされる。あとは役人として税の徴収は国司や国造が勝手に取るな、天皇だけがこの国の主人であるのだ(12条)とか、公務には私心を捨てて当たれ(15条)、嫉妬心を抱いてはいけない(14条)などの心掛けが書かれている。
そして最後の第17条の”物事は一人で判断するよりも皆の知恵を集めて、議論をして判断しなさい”で締めくくっているのである。
⑤-1.対外諸施策: 正しい隋周辺の状況分析による外交上の勝利を遣隋使国書で得る
上述の様に、第一回目の遣隋使で受けた推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子内閣のショックから、すぐさま官位十二階と十七条憲法の制定、施行に動いた訳であるが、強大な隋王朝に対して決して怯んでいた訳では無い事が607年に行った第二回目の(日本書紀の記述ではこれが第一回目の遣隋使とされている)遣隋使として渡った、有名な小野妹子に持たせた国書の文面に表れている。
”日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや”の極めて有名な文面である。中国の歴代王朝は周辺諸国を臣下として扱い、対応して来た訳であるから、臣下の礼をとらず、自らを”天子”と称し、対等の外交関係を明確にした”倭国からの遣使国書”の文面に皇帝煬帝は激怒し、会見はおろか小野妹子の命も危ぶまれたと伝えられている。
前の項で“グローバル化への対応は決して21世紀の人々が初めて遭遇した状況でもなんでも無い、その時代時代で密度、内容、スピード、ツールの違いはあり、当然今日のグローバル化の影響度とは質も量も異なるが、人間が活動する以上、古代から、必ずグローバル化という現象はは必ず起っていたし、時の為政者はその時々で対応に心を砕いていたのだ”と記述したがこの小野妹子を遣使とする事例も例外では無い。
隣の中国大陸に強大な隋王朝の出現を見た、当時の我が国の推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子内閣の海外情勢の把握、分析、その上での対応力は見事であったと言えよう。そしてそれを凝縮したのが上記の有名な“遣隋使小野妹子に託した国書の文面”だったのである。
繰り返すが、推古天皇、聖徳太子内閣は“隋王朝との対等な外交”をあくまでも目指した。第一回目の遣隋使で学んだ推古天皇、聖徳太子内閣は先ずは批判された国内体制を整え、中国の王朝をモデルとする当時の国際社会で通用する“国としての体制“を迅速に整えたのである。その上で当時の隋を取り巻く国際情勢を分析し、607年の遣隋使派遣、小野妹子に持たせた対等外交を意図した勇気ある日本の”天子“からの”国書“という文面問題へと繋がったのである。
推古天皇、聖徳太子内閣の国際情勢分析は以下の通りであった。つまり、隋王朝は朝鮮半島の“高句麗”に度々出兵しては撃退されるという状況であり、しかも、それを繰り返していた。こうした状況から隋王朝としては日本を敵に回し、高麗とでも手を組まれたら甚だ厄介な事態になると考えるであろうという分析結果を出したと思われるのである。
600年の遣隋使で“倭国は国の体を成していない非礼な国”と当時の“隋の文帝”に批判され、いわば追い返された状況に学び、国内の体制を迅速に整え、国際社会に通ずる外交諸施設までを7年間足らずの間に整えた推古天皇、聖徳太子内閣にはそれらの体制整備を短期間に成し遂げたという自信もあったと思う。そして、607年、遣隋使“小野妹子”に上述の隋との対等外交を望むという姿勢を鮮明にした“問題の国書”を持たせたのである。
煬帝を烈火のごとく怒らせた最大の文言は、推古天皇自身を“天子“と称した点にあると言われている。あくまでも隋王朝との対等な関係を迫ったこの有名な文面を書くに至ったのには外交姿勢としての深い意味がある。つまり、上述した様に、推古天皇、聖徳太子は隋王朝が上記した様な“国際状況”に置かれている事を分析した結果、今こそ隋王朝との対等な外交が出来るチャンスであると決意し、あえて意識して“天子”という表現を用いたのだと伝えられているのである。当時の日本側の情報収集力、分析力、そしてその結果としての隋王朝の反応に対する読みは見事に当ったのである。
繰り返すが、朝鮮半島の高句麗との苦しい戦争状態が続く隋王朝としてはこの際は”倭国”と敵対するよりも、友好的な関係を結んでおいた方が得策と考えているであろう。そして場合によっては我が国と組んで高句麗を”南北から挟み撃ちに出来る“と考えているに違いない、と読んだのである。
こうした隋側の外交上の思惑から、煬帝は遣使小野妹子にも会い、無事に帰国させたのである。しかし一度は“文帝”時代には“未開の国、国の体を成していない”とした“倭国”との対等な外交関係を推古天皇、聖徳太子の思いのままに“隋の煬帝”が結ぶ筈が無い。
これに関する有名な話として小野妹子が煬帝からの返書を持たされ、且、煬帝の家臣である”裴世清”と共に日本に帰国した時の話がある。実は隋の皇帝”煬帝”からの返書の内容は”倭国”をあくまでも臣下扱いをしたものであり、小野妹子としては帰国後に推古天皇、聖徳太子に見せる事の出来ない屈辱的内容であったと伝わっている。そこで命を張って気転を利かせた小野妹子は”帰国途中、百済で煬帝からの返書を盗まれてしまった”として煬帝からの返書を終に推古天皇、聖徳太子に見せなかったと伝わっている。
こうした小野妹子の気転が功を奏し、翌年には第3回遣隋使が行われる事に繋がるのである。その遣隋使に再び小野妹子が選ばれているところを見ると、前回、隋からの帰途中に煬帝からの返書を奪われたと言う重大な失態に対して推古天皇、聖徳太子からは流罪などの罪に小野妹子が問われなかったのは明白である。
こうして念願の対等外交という“国としての形式上での勝利”を勝ち取った意味はその後の外交姿勢という面では大きい。その意味で当面の目的を果たした推古天皇、聖徳太子内閣は、更に先進国“隋”から大いに学ぶ為に、多くの留学生も送り込んだのである。
僧旻(みん)、南淵請安(みなみぶちしょうあん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)が隋に渡り、中央集権制度、律令制、税制などを学んで帰国し、後に行われる”大化の改新”という我が国としての大改革作業に大いに役立つ人材になるのである。
推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子をリーダーとする大和朝廷と友好関係を結んでおいた方が得策であろうとの考えは、朝鮮半島にも伝播した。
高句麗、百済(新羅は大和朝廷とは前述した様に交戦状態)とも積極的な人的交流が広まった。高句麗からは僧恵慈(えじ)が来日し、そして百済からは僧恵聡(えそう)観勒(かんろく)が来日して、仏教、暦、天文、地理、音楽、薬学など当時の最新の文化を伝えたのである。
⑤-2 600年の遣隋使後に行った国際化対応の施設、小墾田宮(おはりだのみや)の造営
西暦600年に行った第一回遣隋使の結果、”国家体制は元より、遣使の官位も定かで無い様な、はなはだ道理に合わない倭国”と酷評された事をきっかけに、官位十二階の制度や憲法十七条を制定するなど、国としての体裁を早急に整えた事は述べた。又、その内容についても簡単に紹介した。
遣隋使を継続する際には、“隋王朝からの答礼の使者“等、外国からの使者を迎える施設の建設が必要な事を学んだ推古天皇、聖徳太子は、当時朝廷が置かれていた”豊浦宮“からすぐ近くの場所に”小墾田宮(おはりだのみや)“を造営したのである。日本書紀によると603年とあるから、物凄く急いで造営した事が分る。隋の文帝(高祖)からの屈辱を跳ね返そうと必死になっていた推古天皇、聖徳太子が遣隋使を続ける意図をはっきりと持ち、其の為に隋王朝から指摘された“国としてのあらゆる体制、設備”等の不備を、隋王朝から来訪するであろう“使者”を意識して立派な迎賓館としての“小墾田宮”の造営を急いだのである。この建設は新たに隋からの使者が来る前に終えた。こうして当時としてのグローバル化に対応出来る施設の完成、役人等の地位が色で識別する事が出来る冠位12階の制度など隋からの使者の目に見える形で全ての体制整備を、しかも短期間で完了させたのである。
“小墾田宮”は外国の使者を迎えるという目的の為に造営された画期的な建物だと言われている。推古天皇、聖徳太子内閣は、こうして日本としては初めての”外国に向けた政治”を行ったと言われる、象徴的な建物を完成させ、当時としてのグローバル化への対応を行い”首都”としての体制を整えた。この小墾田宮(おはりだのみや)跡は近鉄吉野線の橿原神宮前駅で降りてその地区にあるレンタサイクルで訪ねたのだが、15分程東に走った田んぼの真ん中に高い木が目印となっているだけの状態であった。日本書紀には“これによって、全ての朝廷機能を整え、更には中国王朝はじめ外国からの使節の来訪に対しても立派に対応できる施設が整い、大規模で立派な”都”の造営となった“ と記されてはいるのだが、上記の様な状態で、残念ながら当時の”立派な建造物“は何一つ残っていなかったのである。
この小墾田宮の存在も全く分からなかったのだが、偶然に1987年(昭和62年)に明日香村の雷丘(いかずちのおか)近くの水田から”小墾田宮”と書いた土器が見つかった事で史実が証明されたのである。更に目印の高い木だけが史跡となっている小墾田宮の近くに“向原寺”があるが、その寺の地下深くから、最初に推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子が都を築いたとされる”豊浦宮”の跡も発掘された事はすでに述べた。現在は”向原寺”となっている処にその史跡は埋まっていたのであるが、その”豊浦宮”に使われたのであろう、太い主柱だったと考えられる史跡が数箇所発見された。その太い主柱を抜き取った痕跡などを今日でも見学する事が出来るので是非一度訪れる事をお勧めしたい。
それらの柱の土台であったに違いない石が抜き取られた痕跡も数箇所あって、これらの事から、”豊浦宮”を廃脱してこれ等大きな柱材や土台石などの資材を小墾田宮造営に使用したのではないかと考えられている。こうした推古天皇、聖徳太子、そして蘇我馬子を含めた当時の我が国のリーダー達の努力と慧眼によって、日本に対する屈辱的評価で始まった遣隋使は隋王朝から”貴方が海の彼方の国にあって朝貢した事を嬉しく思う”という返書を貰うという状況にまで一気に隋王朝の評価を上げる事に成功したのである。
”外圧によって歴史が変わって行く”と言う事は島国という宿命なのであろうか、今日でも多くの事例があるが、日本の歴史上でもしばしば外圧による大きな影響があった。グローバル化は何も21世紀特有の現象でも何でもない事なのだと繰り返して強調して来たが、飛鳥、奈良時代にも既述した様な“隋”からの“外圧”対応の為に当時の我が国としては大きな“変化“があったのである。”小墾田宮”は“隋への対応”として整えられた都となった訳であり、日本の都のモデルとなり、以降“都”としてのその基本的な形態が受け継がれる事になるのである。推古天皇、聖徳太子内閣をはじめとして、この後もわが国は“遷都”を繰り返し乍ら、国造り、より機能的な“主都”造りを行って行く。
遷都を繰り返す事による財政面の苦しみを抱えながらも“夫々の時代のグローバル化”対応の都造りの歴史を重ねて行くのである。
こうした積み重ねの結果、約200年後、終に“平安京(京都)”という“都の完成”へと繋がり、その平安京はその後1000年も我が国の“首都”として固定される事になるのである。
第三章 日本の基礎を作った飛鳥時代の三天皇
はじめに
我々が教科書で習って来た古代日本の歴史は考古学的アプローチによる極めて断片的なものであったと言う事は前章で記述した通りである。
日本にはまだ文字が導入される以前なので、日本人自らによる記録は無いが、弥生時代後期には日本列島の九州地区はじめ近畿地方などに集落規模を超えた”国”と言える規模の集落が“存在”していた事は中国、朝鮮半島の記録から明らかである。
然しながら、日本の教科書では“中国王朝や朝鮮半島の記録を鵜呑みにした日本史“は受容出来ないと言う理由によってそうした中国の歴史書などを基にしたわが国の建国論は認めず”考古学のアプローチによる裏付けがあった場合にのみ、そうした中国王朝、朝鮮半島の記述による日本建国に関する議論を受け入れる“という姿勢であった。
従って、古代日本列島の歴史、日本という国の創設期に関わる歴史の学習は極めて断片的に教えられて来たのである。日本国の建国に関わる歴史、日本国創建期の歴史は、学童(小学生)生徒(中学生)、学生(高校・大学生)どの時期を捉えても、教科書で学べる“日本の古代史“にはストーリー的面白さも無く、周辺国との関係にもあまり触れる事も無く、勿論古事記、日本書紀が記述している内容と中国の歴史書等に記述された事との比較、因果関係に検証を深く行う教科書などは用意されて居なかったのが私が学生であった1960年代までの教科書の状態であり、それは今日でも基本的に変わらないと言われている。要するに日本建国に関する歴史教科書の記述内容は”考古学の域を出ない極めて無味乾燥“なものなのである。
従って日本建国に関する諸説、そして“定説“を教科書で学ぶ機会を一般の学生が得る事は無いが、専門家による古代日本の歴史に関する著書は多いし、当時の周辺国の状況を知る事の出来る書物も多い。古代日本が創建されて、奈良、平安時代へと今日の日本のあらゆる事象がそうした歴史との繋がりを持って来たのだと言う事をストーリー性を持って知る事が真に日本という国を知る上では大切だと考えるのである。
そもそも私がグローバル化する世界を目の当りにし、“日本と言う国、国民の特異性”について後輩の為に書き残して置く事の必要性を感じた理由を記して置こう。
私はシカゴ駐在時の1995年に日米協会で“赤穂事件”、一般に“忠臣蔵”として知られる日本人の間で最も人気のある“史実”について講演をした。この時の米国人の反応は意外なものであった。日本人には美しい忠義話も米国人は全く違った観点から、全く違った歴史背景から観るし、日本では英雄である赤穂47士の行動に対して批判的な意見さえも聞かれたのである。こうした経験から、この赤穂事件を主題にしつつも、話を敷衍して“日本人の考え方の特異性”そしてその後の“日本社会の経済面を含めた成長”にもこの赤穂事件の影響が少なからずあった事を記述するに止めようと思っていたのである。
然しながら、いざ赤穂事件並びにそれ以降の日本社会の動きについて記述するにつれて、世界の国々と比較して明らかな特異性があり、その拠って来たる背景を誰もが納得出来る様に記述する為には日本の建国期の事から記述しない事には不可能だと考えたのである。
結果、古代から現代までの“通史”的記述に拠って“日本の特異性”を論ずる事になったのである。
歴史には必ず起承転結的な繋がり、関連性がある。日本の場合は既に何度も述べた様に世界でも稀有な他民族、国家に拠って征服された経験の無い“継承の歴史”がある。
従って国の原点である“日本国の創建期の歴史”がとりわけ重要だと考えるのである。
だが、既述して来た様に中国、並びに朝鮮半島諸国に残る歴史書の中の記述、史跡に残る記述だけを鵜呑みにして日本建国期の歴史教科書を作る訳には行かないと言う理由から“日本国の建国に関する教科書上の定説”は無い状態である。しかし、教科書に載せる様な定説は無いが、優れた論文も多いし、説得力のある建国論も多いのではある。
逆に日本にはまだ文字文化が無い時代の事であるだけに、学説と称する物、著書の中には裏付けは勿論、論理性に乏しい”言いっ放し”的な、奇をてらった説も多い。“受けを狙っただけ”の無責任な説を展開する歴史家も散見される。この様な状況であるから、学校側が“定説”として国の教科書に取り上げる事が出来ないと言う事情も分るような気もするのである。
だが問題もある。こうした国として定説の無い状態の日本の建国の歴史は、結果的に人々の日本の建国の歴史に対する関心を失わせ、日本の古代史、ひいては歴史全体に対する軽視という社会現象を招きかねない。
為政者による国内諸問題への対応には勿論正しい歴史認識が不可欠であるが、グローバル化する世界情勢の下では、説得力のある海外諸国を含めた歴史認識、隣接諸国を始め我が国の諸外国との接触に関する史実知識を積み重ねて置く努力無しには複雑化する外交問題には到底対応出来ないのが今日のグローバル外交の基本だと思う。
2013年時点で大きな問題となっている中国との尖閣諸島問題や韓国との竹島問題、文化遺産問題等のややこしい外交問題はグローバル化の進展によって、今後はますます日常茶飯となるであろう。その点からするとグローバル化が密になり、外交問題の内容も多岐に渡るであろう今後は、歴史的な経緯、事実を政治家が熟知し、しかもそれらを適宜、説得できる方法を駆使して、且つ、滔々と述べる事が出来るか否かの能力が国の外交力に大きく影響して来よう。
浅薄な為政者が例えば中国や韓国との外交交渉において、全く説得力の無いその場限りの主張、確認されている関係史との整合性を全く欠いた稚拙な外交対応を万一にも犯せば、それはわが国の国家百年の損失となり兼ねない、取り返しのつかない事態に繋がる。
そうした観点から、“歴史学”は之までのどの時代よりも重要な学問、必要知識に位置付けられる今日なのである。
今日の私達、並びに為政者が史実から外交交渉の巧拙によって日本が結果としてどの様な道をその後歩んだかを学んで置く事は重要である。その事例を後段でも紹介するし、別の章を設けて紹介もする。
要は、ますます複雑化するグローバル化時代の外交交渉は之までの歴史の事例と同様に難題であるが“国益”を守ると言う観点からも重要な事は、先ずは“古代日本創建の精神、状況”を学び、共有化して置く事がそのベース知識となろう。
そして、その後の歴史への展開、必ずある因果関係の把握が必要である。その上で、現代に至る迄の国内の歴史、関係した諸外国との歴史を“日本通史”として学び、必ず歴史上の前後の関係の整合性を学んで置く事である。その上で今日の状況との因果関係を確りと捉えておく事が歴史を教える側としても重要なPointだと思う。
グローバル化時代の一般人にとっての“日本国の歴史“とは”ある時代部分に精通する”よりも今日の日本の社会状態、現象等についてその理由、根源について説明が出来る“日本通史”の知識がより有用であり、ある程度のレベルで日本人全体がそうした知識を“共有”している事こそが大切な時が到来したと言えよう。
私も”日本の通史”を知って置く事の必要性、重要性を海外に長く関与しただけに強く感じた一人であり、その経験を踏まえて少しでも後輩諸君のお役に立てればと思って、この“日本の特異性、その拠って来たる処を知る為の日本の通史”を記述する事となったのである。
古くからの諺に”愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ”とあるが、多少歴史を学ぶと驚く程古代日本の為政者の考えて来た事も、現代の為政者が直面している諸事も、根っこには大きな差が無い事に気が付く。今日のグローバル化はIT機器やメデイア網の発達でその速度、密度、頻度、浸透度、そして影響度において世界を大変革しつつある。しかし“グローバル化”と言う現象は何も我々現代人だけが経験している事ではないのだ、という謙虚な気持ちを持つ事が大切である。
類人猿の時代からかなり長い時間を経過してほぼ現在の人類に進化してから約7万年と言われている。その起源は現在のアフリカ大陸と言う説が主流であるが、この間に集団化が進み、夫々に分かれた集団は拡大を続けると共に移動も続けていたと言われる。起源のアフリカ大陸を振り出しに人類はインド、中東、中国、ヨーロッパ、オーストラリア、そしてアメリカ大陸へと世界中に移動を続けたのである。夫々の地域で夫々が適正を育みながら進化を遂げ、次第に夫々の地域で農耕に拠る定着生活と支配、従属関係を生じた社会集団を作り上げ、それが“国家”規模へと次第に成長して行ったという極めて大まかな歴史である。
拡大と移動を続けた人類が他の集団と遭遇するのは必然の事であり、その時点の、夫々の集団にして見れば、異民族、異文化との遭遇であり、その時点での“グローバル化”であったはずである。
従って“グローバル化”と言う言葉が今日の我々だけが経験している全く未経験の、新しい現象だと考える事が大きな誤りである。“グローバル化の波”は古代から地球上のあらゆる場所で常に起きていた現象であったと考えるべきなのである。
島国であるとは言え、中国、朝鮮半島とは隣接状態にあった“古代日本”もそうした”グローバル化“の波の影響を常に受けながら、対応し、その為の社会組織、ルール、等、絶えず変化を繰り返して来たと言う基本認識を持って歴史に向かう事を忘れてはならない。
“グローバル化”が世界人類70億人ベースで、濃密に展開される今日だからこそ、日本国としての“通史”は勿論だが、少なくとも隣国諸国との関係史については、日本の太古時代から今日に至る迄の最低限の正しい歴史知識、認識をなるべく多くの日本人が“共有”する必要がろう。日本の建国からの歴史、隣国との関係史に関する知識は之までの様に特定の歴史専門家とか、歴史にロマンを求める歴史愛好家だけが知っていれば良いという時代は過ぎた。
日常、グローバルに世界の人々とBusinessを展開する人々、旅行者として世界の人々と接する人々、世界からの来訪客を日本で迎える人々、文化面で世界の人々と接する人々等、立場は夫々に異なっても、今日すでに、そして今後はますます、我々日本人の一人一人が多かれ少なかれ“グローバル化”の波に対応せざるを得ない時代なのである。
今日の様にはグローバル化が日常的でも無く、濃密且つ急速で無かった時、又、生まれてこの方、ずっと日本を離れる事も無く“日本の特異性”の壁の内側だけで過す事が出来ていた時代には“古代の日本が如何であったか”とか“日本国の創建当時の様子、精神は如何であった”とか“対外関係に当時のリーダー達がどの様に腐心し、対応して来たのか”等は日常生活にはどうでも良い事であった。ましてや日本の歴史は今日では”世界最古の国”と言う誇るべき”ブランド“を持っているのであるが、既述した様に”建国当時の古代日本の歴史は神話から始まったり、文字文化が無い時代の話であった為に史実としての裏付けは中国の史書に記述された事や史跡に残る記述しか無いと言う理由から、教科書では日本人全体が定説として共有する事も無かった。
結果的に今日までも日本の建国の歴史に付いては”分りもしない古代国家の歴史などは専門家と考古学者のロマンに過ぎないのだから彼らに勝手にやらせて置けば良い事だ”と言う風潮で通り過ぎて来たと言う事情があったし、反省があるのである。
日本の国として共有する建国当時の日本の歴史についての定説が無い事が、専門家と言われる人々の間での諸説紛々と言う状況を生み出している。ある学者は”言語学の視点”から、ある学者は”文化人類学の立場”と断りながらも極めて特異な日本の古代史論、建国論を展開している。結果的に日本の太古、建国の歴史は今日迄天皇家が厳然と継続し“同じ国体”が維持されて来ているという”世界最古の国”と言う事だけは認めながらも、肝心な“建国の精神”“建国の経緯“についてはいまだに百家争鳴状態であり、共有された”定説と言うものが無い状態“に変わりは無く、勝手な自論展開が盛んな状態なのである。
ところが上記した様に今日では状況が変化して来ている。我々国民一人一人が何らかの事情で世界と接触せざるを得ないという状況に晒されているし、2020年に確定した東京オリンピックの開催が近づくにつれて、ますます世界の人々は日本と言う国に注目して来よう。世界最古の国“日本”については世界中の人々から多くの疑問、質問が浴びされよう。そうした時に”自国に就いて語れない”という極めてお粗末、且つ、自分としても情けない状況は避けたいものである。
日本の建国は神話の世界から始まったとする古事記、日本書紀をそのまま説明して之が日本の“建国の歴史”だと世界に説明する人は居ないであろう。誰でもが納得できる“日本建国までの推移、其の中で登場する天皇家による統治の始まりと経緯”について、日本人、日本国として共有できる“定説”作りはグローバル時代の日本の国としてそろそろ必要なのではなかろうか。勿論推論の域を出ない事は百も承知の上での“定説の共有化”に留まる話である。私としては、一級資料、史跡、学説を総合しての整合性、その他から前章に纏めた様なストーリーで日本建国の歴史を理解するのが今日段階でのデータからは説得力のある、妥当な“日本建国期の歴史”だと思っている。今日段階ではこのストーリーで世界に伝える事に大きな間違いは無かろうと考えている。
日本の太古からの歴史は余りにも昔の事であり、今日の状況と結びつかないと割り切ってしまって、若者はじめ殆んどの人々古代史に対する関心が薄いと言う状況は残念な事である。前章で述べて来たように相撲一つをとっても太古からの歴史があり今日まで国技として残っているのにはそれなりの理由がある事を我々日本人としては忘れてはならないのである。
世界最古の国であり、異民族国家によって突如征服され其れまでの歴史、文化の連続性を奪われた事の無い日本の歴史には必ず連続性があり、因果関係がある。それらは今日まで何らかの形で繋がって来ており、逆に今日の状況を辿って日本の古代の歴史に繋げる事が出来ると言う楽しさがある。従ってグローバル時代のBusinessManの話題の一つとして、今日の状態から日本の古代の歴史を説明出来る事も可能で、有用なコミュニケーションTooLとなる事もあろう。相撲に限らず例えば茶道にしても能、歌舞伎、これらの話題から日本の古代国家創建の話に繋げる事は幾らでも可能なのである。
今日では多くの人々が海外生活を体験する様になり、否が応でも“世界の中における日本人”という立場を意識せずには居られ無くなって来た。海外駐在をしたBusinessManが例外なく口にする事は”日本人でありながら日本の事を知らなさ過ぎた”と言う反省である。
世界の人々から見れば日本と言う国は天皇制と言う国体を少なくとも1700年以上に亘って継続している稀有な存在である。さらにその長い歴史上、国と言う体制が整ってから一度も外国の王朝、民族によって征服された事が無い為、他国には無い支配階層から一般庶民にまで浸透した社会倫理、共通した考え方を非常に長い時間をかけて醸成するという事が出来た国なのである。
その結果、日本固有の文化が一人一人の日本人に染み込むと言う状況を作り出した訳であるが、国全体の規模でこうした古い文化を維持して来ているという例はこの地球上の国であまり無い。海外の人達が日本に来るとこうした“特異な文化の匂い“がするのであろうか。 ”日本と言う国は何かが違っている”と言う印象を強烈に与える様だ。しかし日本の中にどっぷりと浸かっている多くの日本人はそうした特異性には当然の事ながら気が付かない。今日では大分薄らいで来たとは言うものの日本人に浸透した社会倫理、共通した考え方の代表例として”忠誠心””義理””武士道”と言う倫理観の匂いが海外からの人々にはするらしい。
これ等の歴史的根源については後の章で記述するが、例えば通常我々日本人が持っている“倫理観”も非常に長い時間をかけて“日本流倫理観”として育成され、日本人全体に醸成された“特異な“ものであるらしいのである。
今日流の“グローバル世界”に生き、そして今後も生き続ける我々日本人として、最低限の
“日本の歴史知識”は之までとは比較にならない程重要だと記述した。日本の途轍もなく長く、膨大、且つ複雑な歴史の中から、私の70年の人生経験、10年の米国駐在体験、今日も続く50年近くに及ぶ私の“グローバル化”体験の中から、今後の日本を背負い、今後のグローバル世界に向う後輩達に役立つと思う事柄をPickUPして紹介する事がこの著作の役割だと考えている。そしてこの著作から日本の史実を知って貰い、“日本の特異性”とはどの様な事柄であり、その拠って来たる処の歴史を紐解き、それらが、どの様に醸成され、今日迄引き継がれて来たのか等を理解してもらう、その一助になれば幸いと考えるのである。
例えば日本の”宗教”も長い時間をかけて日本独特のものとなったという事を紹介しておこう。仏教は第29代欽明天皇の時代に百済の聖明王から伝えられたが、いわば外来物の仏教を保護しようとする新興の勢力、蘇我氏とこれを阻もうとする物部氏の勢力争いが起こり蘇我氏が勝利した。仏教は推古天皇の時代に入ると、摂政として政治を任された聖徳太子と時の豪族の頂点に居た蘇我馬子によって保護をされ隆盛を極めて行く。
日本と言う国の特異性であろう、日本に渡来した新興の”仏教”をもその後長い時間をかけて日本固有の”神道”と習合(異なる二つ以上の教義などを折衷する事)させて仕舞うのである。飛鳥時代を経て奈良時代となると仏教はますます隆盛を極め、平安時代に入り、”本地垂迹説”と言う日本独特の神仏習合思想を生み出す。仏、菩薩が本地(これを本地仏と言う)であって人々を救う為に神の姿となって現れる(垂迹)と言う考え方である。
こうした宗教の考え方は仏教自体がインドで興った時にヒンズー教からも沢山の神を入れていた例があるので決して日本の“Original”とは言えないかも知れないが、紆余曲折を経て、最後には“神道”側が妥協した格好となって“本地垂迹説”の下に日本的“神仏習合”という形になった歴史である。
海外の宗教の例では、排他的、一神教的なケースが多く、日本の“神仏習合”の例では日本の各地では先行していたはずの“神道”側が良くぞ後発の“仏教”を受け入れたものだと誰しもが思う流れなのではなかろうか。
日本古来の神道には、”万物に八百万の神が宿る”と言う考え方であり、万物を等しく崇拝する。従って“神道“には元々教義も無く教祖も居ない。神道と仏教が”習合“した本地垂迹説こそが”日本の特異性”である”和の精神“の代表格であるとも言えるのであろう。
明治初年の”神道国教政策”によって神仏が分離され、“本地垂迹説が消滅”するまでの約1000年間もこの宗教面における“和の精神”は定着し、続いたのである。
私達日本人は慣れてしまっているから不思議とは思わないが海外の人達は節分の”豆まき行事”が成田山で行われる一方で各地の神社でも行われたり、七五三のお祝いが同じようにお寺で行われ、又神社でも行われる事に首をかしげ、必ず質問をして来る。
“まめまき行事”も本地垂迹説から来ている1000年以上の歴史から醸成された“和の精神”に基づく日本文化の“特異性”の一つの例なのである。
熊野古道で有名な世界遺産でもある熊野三山を訪ねた事がある。速玉大社、那智大社、そして本宮大社の順に参詣した。那智の滝に感激しながら熊野大社を参詣した後に、その大社のすぐ横に立派な寺院があるのには驚いた。この寺が”熊野青岸渡寺”である。
これこそが本地垂迹説に基づく“神仏習合の典型”を観る事の出来る代表的観光スポットだと言われている。
日本古来の神道と渡来の仏教とを習合させた”宗教”はこうして以後1000年以上の時間をかけて日本独特の“仏教”として、そして“神道”として”日本の文化”の中で醸成されて行くのである。日本がこの間に異民族国家によって征服されたとしたら、こうした二つの宗教の”習合”と言う流れはその時点で途切れていた事であろう。
異民族国家の征服を経験しなかった事があらゆる面での日本民族のこうした”鷹揚さ”を育くみ続けて来たのだと言えよう。
この日本民族の“鷹揚”さ“和の精神”が世界の宗教上でも珍しい日本流の”本地垂迹説”を誕生させその後1000年以上もの間、紆余曲折を経ながらも続いて来たのであるが、こうした流れは、世界最古の天皇家という国体を少なくとも1700年以上、同じく紆余曲折を経ながらも維持して来ていると言う史実にも通ずる事なのである。
こうした2、3の例をあげただけでも日本と言う国は”特異”な国なのであろうし、こうした例が幾らでも挙げられる訳であるから、初めて日本を訪れた海外の人々には成田空港や東京駅に到着した瞬間に“特異な国”の匂いが紛々とするのであろう。
私は10年以上のアメリカでの駐在経験、仕事上での各国の人々とのお付き合いの経験が比較的に多く、日本と言う国を海外との比較で見る事が出来る日本人の一人であるかも知れない。
まだ外国駐在を経験していない若い人々から”日本を出てグローバルに活躍する為には何を勉強したら良いですか?”と聞かれる事が多いがそうした場合の答えは、”コミュニケーションの道具としての外国語は必要であるが日本人としてのアイデンテイテイーを発揮しないと相手にされないから日本の歴史知識と日本固有文化に関する何か一つでも身に付けて置く方が良い”とアドバイスする。
一方で、相手が話題にもしていない時に、又は果たして興味を持っているかどうかも分からない時点から日本の事を一方的に喋り出すのは危険であろう。これはBusinessTalkをする場合にも鉄則である。
まずは相手の国の歴史とか、会社について事前に勉強しておき相手の話から聞くという
”聞き上手”の姿勢から始めるのが人間関係の基本でもあり、グローバル世界でも同じ事である。日本人の考え方、文化は世界から見ると“特異な点”が多いから、まずは相手の話を聞いたその上で考え方の違い、差などをお互いに指摘し、交換しながら楽しく会話を進めると相手もこちらの話に興味を持ってどんどん乗って来る場合が多い。
こうした基本を守りながら慎重に話題なり意見を交換するようになれば相手も日本との違いに興味を深めながら自分の話をさらに切り出して来るものだ。この様にして自分を理解してもらいそして相手に対する知識を大きく増やしてゆく事が“文化、考え方が大きく違う可能性のある海外の人々”とのCommunicationを開始する場合の最大の注意点なのである。繰り返すが日本、日本人の文化、社会倫理、考え方には“特異”な点が多いのである。いきなりまくし立てて相手をびっくりさせてしまってそれ以降のコミュニケーションの一切が断絶してしまい兼ねない危険は避けたい。
相手も日本の歴史、文化に興味を少しは抱いているはずだ。幸いにして日本の歴史は気が遠くなるほど長いし、話のネタはいくらでもある。又、文化にしても日本の文化は時間を永く掛けて醸成され、“特異”で奥深いものが多い。文化の中にも外国からの影響を受けたものも多い。そこから時間を掛けて”日本独特”なものになって来たものも多い訳だ。こうした面からも話の”ネタ”には事欠かないのである。要はその場の相手の関心度に合わせてどの時代の如何いう史実紹介が話題として相応しいかを選ぶ事が大切だという事なのである。
尖閣諸島問題、竹島問題等、日本の離島の領有問題がこれからの世界エネルギー資源獲得、漁業資源獲得、海底鉱物資源獲得、各国の防衛問題との絡み、さらには環境問題との絡みも含めて我が国にとって、ますます煩わしく、且つ極めて重要な外交上の課題になって来よう。こうした尖閣諸島、竹島問題を含めた外交交渉、紛争解決に歴史の知識を以って見事に解決した事例がある。
幕末から明治維新にかけて大活躍した人物の一人に長州藩の高杉晋作が上げられる。1864年の8月に英国、フランス、米国、オランダの四カ国連合艦隊が下関砲撃を行い長州側が破れ砲台が連合国に占拠された。和議交渉が行われ、高杉晋作が長州側の交渉の全権を委ねられた。この講和会議の通訳をしたのが伊藤博文であり彼が後に残した記録がある。それによると連合国側はあまたの条件と同時に”彦島の租借”を要求して来た。
高杉晋作は他の提示条件はほぼ全て受け入れたがこの彦島(現在の山口県下関市彦島)の租借については頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせる事に成功したのである。高杉晋作は自身、かつて藩から派遣されて清国が西欧の列強によって植民地化されて行く状況を実際に見聞しており”領土の期限付き租借”とは即ち植民地化であると言う事を深く見抜いていたからである。伊藤博文はその記録で、”高杉があの時、うやむやにしていれば、彦島は”香港”になり下関は”九龍半島”になっていたであろうと語っている。
ところでこの交渉で高杉晋作はどのようにして連合国の要求を跳ねつけたのであろう。決め手は日本の歴史書を沢山持ち込み、滔々と相手に語り、説得に成功したと言うのである。高杉晋作は”日本書紀”からの彦島の由来を説き、吾妻鏡に記された平家の拠点の一つでもあった“彦島”が日本人にとって極めて重要な島である事、そもそも日本列島全体が神代の時代から一つの国として創建されていた事、従って離島を含めて日本列島国として神代の時代から成り立った一国からその一部分を切り離す事は絶対に出来ないと主張したのである。
高杉晋作の日本創建時代からの歴史観に基づいた話には説得力があり、さしもの連合国側も彦島の租借を断念したと言う話である。まさに愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶと言う事を代表した史実として我々も参考にすべき話である。
日本の古代からの身分制度の変遷、権力と権威の変遷についても大まかな流れだけは理解しておくと今日の日本の状況を説明する際に役立つ。日本の歴史は連綿と引き継がれて来ており全ての事象にはその拠って来たる歴史を辿れば必ずその因果関係を紐解く事が可能なのである。兎に角1700年以上にも及ぶ長く、膨大な歴史の積み重ねがある日本の事であるから、いくらグローバル時代のBusinessマンに“日本通史の知識は不可欠だ”と私が力説しても、2000年になんなんとする日本史の全ての時代に精通すると言う事は専門家ならいざ知らず一般の我々には不可能であるし又その必要も無いと思うのである。
”詳細に亘って記述した専門書程の内容は無いが、日本の特異性がどのような歴史過程を経て今日迄継承されて来たのかに焦点を絞り、その理解の為に必要な歴史上の関連事項をカバーする事に注力した日本通史”として書かれた著作だと理解して読んで頂ければ充分だと考えている。日本と言う国、民族の特異性を理解する為に史実から最低限知っておくべき事柄、特に海外の人々から見ると特異に映る日本国、日本民族の社会慣習や倫理観などが拠って来たる処の歴史的背景を出来るだけ紹介するのがこの著全体の基本的な目的なのである。
一体、日本と言う国、日本人のどういう点が米国並びに海外諸国との比較で大きく異なっているのであろうか。それは私の“体験”から学び、発見し、相手から指摘され、そして納得した事柄も多い。私は米国で学童だった3人の子供、女房と共に家庭生活を体験し、留学生として学生生活も経験した。又大都市での米国人を相手とするBusiness経験、ヨーロッパ、中国人、韓国人、インド人とのBusinessも経験した。更には最も先鋭的と言われる米国の労働組合の実態を思い知らされた米国の鉄鋼会社で経験もある。そこでは既述した様に日本の会社に於ける“労使協調”“全ては会社があってこそ”と言う“和”の図式とは全く異なる体験もして来たのである。
こうした様々な機会における諸外国の人々との接触の経験から、日本人そして日本と言う国が他の諸外国の人々、社会とは明らかに異なった価値観、社会慣習、社会の仕組み等があり、それらは具体的にはどの様な点なのか、状況なのかについて、かなりの時間を掛けて漸く理解し、身体が覚えた事も少なくないと言う事である。
そしてそれらの“特異性”は殆どが日本の古代からの歴史に由来するものであり、従ってそこに焦点を充てた“日本の通史“を記述して置く事が後輩の為に役立つ事だと考えたのである。
結果として“日本の通史“を記述するような形になったが余りにも膨大になる為、あくまでもグローバル化時代に即した”諸外国から見た日本の特異性“について、その起源、由来に焦点を絞った。従って”日本の特異性“の由来に余り関わらない事項や史実については一切記述していない。その点からすると”不完全な通史“である点は御容赦願いたい。
私がビジネスマンであったのでBusinessを通じて我々が接する海外の人々が関心を抱く”日本社会の特異性、日本人の特異性“に絞った”日本通史的著述“である訳だが、読者がもっと詳細な関連する歴史を学びたいという箇所が生じた場合には是非、より突っ込んだ勉強をして頂きたい。ある意味ではこの著作が読者にそうした歴史探求の興味の呼び水なる事が出来ればこの著作をした意義が倍加されるもので非常に喜ばしい事である。
第一章で2011年3月11日の”東日本大震災”の時に世界中の人々に賞賛された日本人の行儀の良さ、被災者自身が自分より困った他の被災者を優先し、譲るという国民性を海外の人々がメデイアを通して目の当たりにし、驚き、”これが日本のサムライ精神か”と大評判となった事を紹介した。兎に角、海外の人は日本人という民族は彼らからすると理解できない行動、言動に接すると、必ず”これがサムライ精神なのか”とステレオタイプ的に評価する。1995年(平成7年)の1月に神戸大震災が起きた時、米軍が直ぐに応援部隊を送り込むと日本政府に申し出た事があった。それを当時の村山内閣は断った。私は当時米国に駐在していたのであるが折角米軍が援助のOfferをしたのに断って来た日本の態度に驚き、これを称して”これが日本のサムライ精神なのか”とメデイアが大きく伝えていたのを今でもはっきりと覚えている。
要するに日本人と見ると世界の人々は”サムライ精神”に結びつけ、日本人の行動で“特異性”を感じた場合には“武士道精神、サムライ”で片付けようとしていると考えておくと良いだろう。
“武士道精神“とか”サムライ精神”の話題になった時に備えて、我々日本人は代表的な”史実”の一つや二つは知識として用意しておいた方が良いであろう。”武士道”に代表される日本人の”忠義”に関わる話題がその場のTPOに合う場合は”忠臣蔵”として知られる”赤穂事件”の史実が格好の材料だと思う。然しながら日本人に“忠臣蔵”で代表される“忠義心”等が醸成されるのは国が創建されてからずっと後の事である。
従って、後の章で詳細に赤穂事件(忠臣蔵)の史実を紹介し、日本人の行動の一つの“特異性”である“忠義心“について記述するが、その前に日本国の創建に関わる史実について読者と知識を”共有“して置きたい。
この第三章の以下の項では飛鳥時代に今日の日本の基礎を築いたと考えられる3人の天皇の政治について記述して行く。飛鳥時代に主として、この後の項で記述する3人の天皇が行った”外交施策”がどの様なものであったのか、飛鳥時代の天皇をはじめとする為政者がどの様な諸外国の状況を背景として政治を行っていたか、その時に活躍した3人の天皇が、夫々の時代を背景にして、何が国益に最も適うかを考え、外交施策に腐心したのか、そして対応を誤れば属国にされ兼ねなかった状況に対して、強国に対抗しうる国内体制をどう整備して行ったのか等の史実に焦点を合わせて記述して行きたい。
後述する様にこの章で取り挙げる三人の飛鳥時代の天皇は共通して“外交政策”を重視した政治を行った。しかしそれよりずっと前の為政者、つまり既述した理由によって我々が歴史教科書では余り習っていない弥生時代の末期とされる2世紀頃から既に日本列島のリーダー達の誰もが中国王朝、朝鮮半島との頻繁な交流を重要視して来たのである。つまり、我が国のリーダー達は古代から“グローバル化の波”に対して来た歴史なのである
我が国のリーダー達は古来、時には朝貢という形をとりながら、いたずらに争いをする事を避けながら、隣国の強国、中国、朝鮮半島の国からの文化、文明機器、渡来人の積極的受け入れ等、打つべき手を巧みに打ち乍ら次第に国力を付けてゆくという努力を積み重ねて来ていたのである。そうした積み重ねによるベースがあってこそ、天皇家が登場し、日本の支配を開始する4~5世紀以降、比較的早い時期に“先進的な国としての基礎作り”が可能であったのだと言う事を理解して置く事が重要である。
日本と言う国、民族が”世界でも稀な単一民族国家だ”と考えている人は今日では殆どいないし、間違っている。古代から積極的な中国、朝鮮半島との人的交流、朝貢を行い、先進技術を導入するなどの実績を積み重ねて来た国なのだ、と言う歴史認識が日本の古代史の理解としては正しい。今日では誰もが異論を挟まない様に中国大陸、朝鮮半島から弥生人が渡来したが、彼らは決して武力的に先住の日本列島の民族を制圧するという事が無かった。そうした弥生人は平和裏に古代日本に稲作技術を導入し、金属製の農機具によって生産性を飛躍的に上げ、そして人口が飛躍的に伸びる結果となった。
弥生人は先住の縄文人達と混血して以後の日本民族を形成して来たと言うのが日本民族の古代からの発展の歴史なのである。古代日本国家の建設の過程は前章でも記述して来た様に、弥生人その後の渡来人や周辺諸国の興亡の影響という当時の海外との関係無しには有り得なかった。そうした状況下で奴国、邪馬台国、そして天皇家の出現と言う歴史を経て古代ヤマト王権が確立しその天皇家が当時の“倭国”を率い、国号も”日本”に変更する事を中国王朝に認めさせて行くと言う歴史が飛鳥時代に展開して行くのである。
日本は島国であると言う地理上の幸運が当時遥かに先進国であった中国王朝や朝鮮半島諸国からの攻撃、征服と言う災いを逃れ続ける事が出来た地政学上の利点ではあった。
一方で古代の島国“日本”は常に中国、朝鮮半島諸国への関心を持ち、朝貢などの方法によって必要な情報を入手し、対外政策としての備えは怠らなかった事が後述する飛鳥3天皇による“日本の礎作り”に繋がったと言うのが日本の古代の歴史である。
既述して来た様に日本は“島国”であったからこそ太古の時代からかなりの関心と注意力をもって中国並びに朝鮮半島の国々との交流を行い、又、当時のリーダー達が腐心して来たのが実態である。江戸時代に徳川三代将軍家光が”鎖国令”を出し、表面上は1639年からペリー来航の1853年まで江戸幕府はオランダ、中国との貿易のみに限定し、しかも長崎の出島一港に限ったと言われているが、実態はそれほど極端な国際的孤立政策では無かった。
武士階級、一般庶民がキリスト教を信仰する事は禁止した。それが鎖国の目的の一つであったからだ。その理由は単純明快であった。“将軍”こそが最高の忠誠を捧げる対象であり、当時の社会の規律を保つ基本であるとする幕府の意図に対して、西欧の宗教は“God,そしてキリスト”を崇める最高の対象とする。従ってこうした外来の宗教が国内に蔓延する事は極めて不都合な事であったからである。しかし、ここでも日本民族の“特異性”なのであろう、又、島国の為であるかも知れない、江戸時代の幕府による“鎖国政策”下でも日本民族固有の“外国に対する関心”“文物への好奇心”を完全にシャットアウトする事が出来なかったのである。九州の島津藩、仙台藩などは独自に海外の取引をしていた形跡があるし、対馬藩はその藩主である宗氏の努力によって、李氏朝鮮と江戸幕府との良好な関係を保つ事に成功したのである。対馬藩にとっても李氏朝鮮との交易は重要であったし、友好関係維持の為に宗氏は、幕府と李氏朝鮮の間で取り交わされた国書を改ざんする事もしばしばであったと伝えられている。それ程宗氏は積極的に李氏朝鮮との外交を重要視し、関係を密接にして行ったのである。この対馬藩は将軍が代わるたびに行われた朝鮮通信使の先導役を務めた。数百人の規模で朝鮮通信使の行列は江戸までを練り歩いたと言う。この行列は文化交流も兼ねた江戸時代を通して庶民も楽しみにした大イベントでもあったのである。
この様に古代から日本の為政者にとって“外交“は最重要の課題であった。従って、日本の歴史を学ぶ上で、平和時であれ、戦争状態であれ、其の時々の為政者がどの様に”外交“を展開し、腐心したかについて学んで置く事は最重要の事柄だと思う。
以下の3項に分けて日本国にとって創業期とも言える飛鳥時代の代表的な3人の天皇とその時代背景を取り上げて、これら3人の“日本の礎を築いた天皇”がどの様な対外政策を講じて来たかに焦点をあてて記述して行く。