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2014年4月17日木曜日

第二章 天皇家の出現までの日本列島の状況と日本民族の特異性
第5項 古代日本の公的名称について


“日本”と言う国の特異性、日本人という民族の特異性について考えていると、どうしても建国の歴史から話をする事になる。第4項までで、建国の歴史、すなわち天皇家の登場の話までを記して来たが、そもそも”日本”と言う国号が何時、どの様な経緯で、誰によって決められ使われたのかについても簡単に紹介して置きたい。これについても詳細に記述された小林敏男氏の”日本の国号の歴史”など多くの専門書が出ているので興味をお持ちの方は参照される事をお薦めする。

そもそも国号についての議論は日本と言う国家が形成され、その中での対外関係、国際関係の中で生じて来た訳である。話はそれるが、天皇号も第33代の推古天皇あるいは第40代の天武天皇から呼称として用いられ始めたと言われる。それ以前の天皇の名前例えば神武天皇も”かむやまといわれびこのみこと”が日本式の呼称であり、”神武天皇”とは中国風の贈り名であった。これを”漢風諡号(カンフウシゴウ)”と言い、死後の天皇を讃えて献上された名前なのである。有名な”聖徳太子”も当時はそのような呼称では無い。正式の呼称は”厩戸王子(うまやどのおうじ)”である。

日本国号の話に戻ろう。中国の”漢書”から、日本列島は”倭国”と呼称されていた事がわかる。この”倭”と言う文字を”ヤマト”と日本列島では読んでいたと言われる。
三国誌に出てくる”邪馬台国”は”ヤマト国”の漢字表記であると言われる事から“ヤマト王権”つまり“天皇家”による日本列島の制覇と邪馬台国との関連付けをする議論はあるが、少なくとも4世紀以降、”ヤマト”の地名が国内的に”国の呼称”として成立したのではないかとの説(小林敏男氏等)もある。

”倭”と言う呼称は中国王朝が用いたものであって、その読み方は日本列島内では”ヤマト”であったと思われるが、この呼称は我が国の方から能動的に使ったのでは無く、中国側の呼称を受動的に選択したものであった。

そもそも”倭”という呼称も“女王卑弥呼”の呼称と同様に中国王朝が周囲の民族、国を属国扱いし、卑しんだ表現であった事はその“倭”(背が曲がってたけの低い小人の意)とか“卑”(いやしい)という字を中国人が使った事からも分かる。
従って当時から日本側としてもこうした中国側の日本に対する呼称を変えさせたいと考えていた事であろう。

対外的に読まれることを目的とした日本初の正史である”日本書紀”の編纂の時にも”日本”と言う国号をめぐる議論が始まっていたとの記録が残っている。
何故”倭書紀”でなくて”日本書紀”なのかの議論が平安時代の初期から中期にかけてされた。"倭”は受動的な選択であったが上記のように好ましくない呼称であり、対外的な表記として”日本”と言う国号に変更する事は中国王朝との対等な関係を求める我が国からの主体的な動きによるものであり、重大な意味を持つ事である。

中国唐代の歴史を記した”新唐書”には670年の遣唐使(630年~894年の間に16回行われた)は未だ日本側の書類には”倭国”と称していた事が記録されている。
”倭国”から”日本国”と言う国号を使った最初の遣唐使は702年頃に遣わされた”粟田真人”であるとの記録がある。

中国皇帝に対する親書に初めて“日本国”と記した天皇は第42代文武天皇であり、名宛の中国側皇帝は、唐王朝の有力者を殺し”武周革命”を起して中国史上空前絶後の“女性皇帝”となった”則天武后”であった。

従って、厳密に言えばこの時の中国王朝は”周王朝(690年~705年)”であるが則天武后の死後直ぐに息子の中宗が復位して再び”唐王朝”に戻したと言う複雑な時期であった。

何故国号を変えたかの理由については、北宋時代の”唐会要”(961年)に”則天の時、自ら言う、其の国日出ずる所に近し、故に日本国と号す”との記事がある。

又、1470年に書かれた”善隣国宝記”にも”其の国日の出ずる所に近し。故に号して日本国と日う”と記されている。次章で紹介するが、第33代推古天皇時代から我が国は中国王朝との対等な関係を目指して、組織の近代化は勿論、法的体制、並びに国内諸体制の整備を急ぎ、積極的な外交を展開し始めたとされる。

有名な、607年の遣隋使に持たせた国書の”日出ずる処の天子日没する処の天子に致す。恙無きや”と記した文面も”日本”と言う新しい国号に変えようとするきっかけの一つであろう。こうした国号変更のニーズに目覚め、日本からの遣唐使に、我が国の主体的な選択として“国号変更の国書”を持たせ、そして終に中国王朝に認めさせたのである。

古代からの“倭国からの中国王朝への朝貢”そして遣隋使、遣唐使の派遣は、まだ統一国家として纏まっていない“倭国王“として中国王朝の”権威“を利用する為であったり、当時、圧倒的先進国であった中国王朝からの優れた文物、文化並びに情報収拾などの意味があった。

冊封体制を広げようとする歴代の中国王朝に対して古代日本は実質的な“中国の属国”になる事は無かったし、朝鮮半島の諸国、他の中国周辺諸国とは違って、中国王朝に“臣下の礼を尽くす為の朝貢”では無かった事が、推古天皇、聖徳太子による上記文面となったのである。

次章では、隣国に強大な隋王朝、唐王朝と言う存在を抱えながら、外交を含めて今日の日本の基礎を作ったと言える“飛鳥時代の3天皇”について今日の問題にも触れながら記述して行く事とする。

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