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2014年4月17日木曜日

第二章 天皇家の出現までの日本列島の状況と日本民族の特異性
第4項 日本民族について


国の形態を”国体”と呼ぶ場合に、共和国と君主国に分けられる。
共和国とは国民が大統領、国家主席などを選ぶ国であり、社会主義の共和国と自由主義の共和国がある。前者は中国、後者は米国、フランスなどが代表的な国であろう。
君主国には絶対君主制、専制君主制、そして立憲君主制又は象徴君主制の3通りがある。

絶対君主制、専制君主制は、”朕は国家なり”で有名なフランスのルイ14世(在位1643年~1715年)を代表として16世紀~18世紀のヨーロッパに出現した統治権が君主に集中した状態である
大日本帝国憲法下の天皇は立憲君主制の下での天皇である。

明治憲法の下での明治天皇の権能は絶対的であったように言う人々がいるがそれは間違っている。旧憲法下での日本は”立憲君主制”であった。つまり君主(日本の場合は明治天皇)の権能を“憲法によって律する事が出来る”体制であって、この事は旧帝国憲法の第4条に明記されている。

実は大日本帝国憲法制定時に元老はじめ多くの人々が明治天皇の権能に制限を付けるこの第4条を除去しようとしたが伊藤博文が押し切ったとの事である。
従ってアジア・太平洋戦争後の現在の新憲法と帝国憲法下とでは天皇の権能に実質的にはさしたる違いは無いのである。

旧憲法下においても明治天皇も、大正天皇も、そして昭和天皇も極めて例外的なケースを除いて、天皇自らが“決断を下した”という事例は無い。
詳しくは慶應義塾大学の竹田恒泰氏の論文”天皇は本当に主権者から象徴に転落したのか?”を参照されたいが帝国憲法下においても天皇は自由に政治を行えた訳では無いのである。

話を本題に戻すが日本のこうした”天皇制”という国の形態はどの位続いているのかの議論もある。前項の検証結果からも4世紀に現在の天皇家が古代国家郡を纏め上げ、統一した事は間違いなかろう。従って古事記、日本書紀が記述する年紀をそのままに受け取って“日本は皇紀2700年(昭和15年、1940年に皇紀2600年を盛大に祝ったのであるが)の歴史を持った国であるとする説には史実との整合性から大いに疑問がある。

前の項で中国の歴史書、広開土王碑の記録から判断して記紀が記す神武天皇即位のBC(紀元前)660年頃から日本列島が“天皇家”によって統治されていたという説には無理があるとしても、遅くとも4世紀以降に天皇家が日本列島の統治者として出現し、以降この皇統を継続している事は確かである。つまり、日本という国が今日に至る迄、少なくとも1700年近くに亘って同じ皇統で引き継がれて来た国である事には違いが無いのである。
こうした観点からすると、日本は現存するこの地球上の国々の中で最古の国であると言う事に間違いない。

同じ国体を維持して来ていると言う意味では、デンマークが日本に次いで世界で2番目に古い国であり、現在の王室の継承期間の長さは約800年程である。3番目に古い国が英国であり、現在の王室の継承期間は750年程だと言われている。デンマークと比べてもイギリスと比べても日本の天皇家の方が900年以上も古い事になり、我が国はまさに世界最古の国と言う”ブランド”を持った国なのである。

ロシアはロマノフ王朝が市民革命で倒されソヴイエト連邦となり、そのソ連と言う国体も1991年に解体され現在のロシア共和国に生まれ変わった。従って今日の“ロシア”と言う新しい国体は僅か20数年の新しい国体の国なのである。隣国の中国は民族間の興亡の歴史であって、その歴史、言語、文化、伝統なども次々と征服し、交代した王朝や新しい政治体制によって塗り替えられ、時には断絶され、抹殺されて来たと言う分断された歴史を持つ国である。

古代日本国の建国の項で記したように、紀元前から中国大陸には強力な王国が生まれ、興亡を繰り返して来た。ただ、そうした強力な王朝も、長く続いても300年程で他民族、又は他王朝によって滅ぼされて来たという歴史の国である。

現在の中華人民共和国は1949年10月1日に毛沢東による中国革命の成功によって成立した“共産主義”を国是とする新しい国家、国体の国であり、その憲法の第一条にはその旨が明記されている。従って同じ古い歴史を持つ日本とは違って、国体乃至王朝の興亡が続いている13億の中国国民にとって数千年のそうした歴史、民族性、文化、思想はその都度、塗り替えられ、断絶されて来たのである。

だから、中国国民には日本民族の様に、長い時間をかけて、継承され、共有化され、時代を超えて育まれ、今日でもなお、国民全体に共通した伝統的行動規範となっている様なものは意外に少ないと言われている。

漢民族、満州民族、蒙古民族など多数の民族が夫々の文化を持ち、言語も数多く抱え込んだ中華人民共和国という国は今日では“共産主義”を国家憲法の軸に据えて成り立っている。歴史的にも“中国”と言う国は支配民族、王朝が何度も交代しながらも4000年の歴史を持つ国だと言う事を誇りとしているのである。

我々からすれば、連続した統一国家では無く、あの大地で国家の興亡が繰り返され、民族も、言語も、文化も異なる国家が交代して来た“4000年の歴史”では無いのかと思うのだが中国人はそうは考えていない。 それでは一体何が“4000年続いて来ている誇り高き中国の歴史”だと言わせているのかに付いて検証して置く必要がある。

答えは”中華思想“だと言う事である。中国と言う国は漢民族、満州民族、モンゴル民族、ウイグル民族、チベット民族など多種多様の民族から成り立ち、しかも広大な地域を擁する国である。歴史的にも異なる民族による支配がなされ、王朝交代は数え切れない程経験して来た。

こうした広大且つ他民族の国、中国が一つの国として纏まる事が出来たのは中国4000年の歴史を貫いて来た太い糸、“中華思想”と言う糸が共産主義の国となった今日でも“中国国家”の軸であり、それだけは変わらないとするのである。

“中華”という言葉自体は“中夏”が語源だと言う。“夏”という国に基づくものだが、この国は紀元前2070年頃から紀元前1600年470年存在した中国最古の王朝とされる国だ。 

この国が実在したのか否かについては、考古学資料も発掘され、近年では実在論が優勢になって来ているがまだ確立された論では。実在の有無については専門家の今後の研究に委ねる事として、“中華思想”がどのようにして生まれたかについて論を進めたい。

現段階ではBC(紀元前)221年に中国を初めて本格的統一国家としたとされる“秦”が民衆を治め、占領した民族に統治者として認めさせ、納得させ、同化させる為の“権威”として用いたのが“我々の祖先は夏である”“我々の出身は中原、中夏である”という“夏”の権威であったと言うのである。

中国の人々は誇らしげに“歴史上殷王朝が“漢字”を発見し、秦の始皇帝が統一の為に編み出したのが“中華思想”だ“と語る。以後の王朝もこうした“夏”の権威を使って周辺国、他民族を服属させる“統治システム”として”中夏=中華思想“を用いて来た訳である。

中華思想を用いて統治者としての“正当性”を確保した上で上述した”銅印“”銀印“そして”金印“などの他、官位を与えるなどで更なる王権の権威、威徳を加えると言う統治の仕組みである。

こうした“冊封体制”を整え、古代中国王朝、特に“漢”の時代にはこうした“冊封システム”が発展したものと言われている。このシステムの大元が上述の”夏“の権威であったのである。

こうした“中華思想による統治システム”は以後の異民族の王朝にも引き継がれ、利用されて来た。辛亥革命によって“皇帝による支配”は終わるのだが“中華思想”は引き継がれた。
当時の孫文は“漢、満、モンゴル、ウイグル、チベットの5民族を以って一つの中華民族を形成すべきである”と述べた。又、中華人民共和国建国に当って、毛沢東も“中国人民は多数の民族が一つの民族、中華民族として結合した民族である”と宣言している。

この様に“中華思想、システム”こそが今日の中国を纏める基本的“考え方“となっている事を理解して置く事が尖閣諸島問題、相次ぐ反日運動などの問題への対応など、中国と言う誇り高い”中華思想“を4000年もの長きに亘って貫いて来た隣国とお付き合いする場合には極めて大切だと思うのである。

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