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2014年4月17日木曜日

第二章 天皇家の出現までの日本列島の状況と日本民族の特異性
第5項 古代日本の公的名称について


“日本”と言う国の特異性、日本人という民族の特異性について考えていると、どうしても建国の歴史から話をする事になる。第4項までで、建国の歴史、すなわち天皇家の登場の話までを記して来たが、そもそも”日本”と言う国号が何時、どの様な経緯で、誰によって決められ使われたのかについても簡単に紹介して置きたい。これについても詳細に記述された小林敏男氏の”日本の国号の歴史”など多くの専門書が出ているので興味をお持ちの方は参照される事をお薦めする。

そもそも国号についての議論は日本と言う国家が形成され、その中での対外関係、国際関係の中で生じて来た訳である。話はそれるが、天皇号も第33代の推古天皇あるいは第40代の天武天皇から呼称として用いられ始めたと言われる。それ以前の天皇の名前例えば神武天皇も”かむやまといわれびこのみこと”が日本式の呼称であり、”神武天皇”とは中国風の贈り名であった。これを”漢風諡号(カンフウシゴウ)”と言い、死後の天皇を讃えて献上された名前なのである。有名な”聖徳太子”も当時はそのような呼称では無い。正式の呼称は”厩戸王子(うまやどのおうじ)”である。

日本国号の話に戻ろう。中国の”漢書”から、日本列島は”倭国”と呼称されていた事がわかる。この”倭”と言う文字を”ヤマト”と日本列島では読んでいたと言われる。
三国誌に出てくる”邪馬台国”は”ヤマト国”の漢字表記であると言われる事から“ヤマト王権”つまり“天皇家”による日本列島の制覇と邪馬台国との関連付けをする議論はあるが、少なくとも4世紀以降、”ヤマト”の地名が国内的に”国の呼称”として成立したのではないかとの説(小林敏男氏等)もある。

”倭”と言う呼称は中国王朝が用いたものであって、その読み方は日本列島内では”ヤマト”であったと思われるが、この呼称は我が国の方から能動的に使ったのでは無く、中国側の呼称を受動的に選択したものであった。

そもそも”倭”という呼称も“女王卑弥呼”の呼称と同様に中国王朝が周囲の民族、国を属国扱いし、卑しんだ表現であった事はその“倭”(背が曲がってたけの低い小人の意)とか“卑”(いやしい)という字を中国人が使った事からも分かる。
従って当時から日本側としてもこうした中国側の日本に対する呼称を変えさせたいと考えていた事であろう。

対外的に読まれることを目的とした日本初の正史である”日本書紀”の編纂の時にも”日本”と言う国号をめぐる議論が始まっていたとの記録が残っている。
何故”倭書紀”でなくて”日本書紀”なのかの議論が平安時代の初期から中期にかけてされた。"倭”は受動的な選択であったが上記のように好ましくない呼称であり、対外的な表記として”日本”と言う国号に変更する事は中国王朝との対等な関係を求める我が国からの主体的な動きによるものであり、重大な意味を持つ事である。

中国唐代の歴史を記した”新唐書”には670年の遣唐使(630年~894年の間に16回行われた)は未だ日本側の書類には”倭国”と称していた事が記録されている。
”倭国”から”日本国”と言う国号を使った最初の遣唐使は702年頃に遣わされた”粟田真人”であるとの記録がある。

中国皇帝に対する親書に初めて“日本国”と記した天皇は第42代文武天皇であり、名宛の中国側皇帝は、唐王朝の有力者を殺し”武周革命”を起して中国史上空前絶後の“女性皇帝”となった”則天武后”であった。

従って、厳密に言えばこの時の中国王朝は”周王朝(690年~705年)”であるが則天武后の死後直ぐに息子の中宗が復位して再び”唐王朝”に戻したと言う複雑な時期であった。

何故国号を変えたかの理由については、北宋時代の”唐会要”(961年)に”則天の時、自ら言う、其の国日出ずる所に近し、故に日本国と号す”との記事がある。

又、1470年に書かれた”善隣国宝記”にも”其の国日の出ずる所に近し。故に号して日本国と日う”と記されている。次章で紹介するが、第33代推古天皇時代から我が国は中国王朝との対等な関係を目指して、組織の近代化は勿論、法的体制、並びに国内諸体制の整備を急ぎ、積極的な外交を展開し始めたとされる。

有名な、607年の遣隋使に持たせた国書の”日出ずる処の天子日没する処の天子に致す。恙無きや”と記した文面も”日本”と言う新しい国号に変えようとするきっかけの一つであろう。こうした国号変更のニーズに目覚め、日本からの遣唐使に、我が国の主体的な選択として“国号変更の国書”を持たせ、そして終に中国王朝に認めさせたのである。

古代からの“倭国からの中国王朝への朝貢”そして遣隋使、遣唐使の派遣は、まだ統一国家として纏まっていない“倭国王“として中国王朝の”権威“を利用する為であったり、当時、圧倒的先進国であった中国王朝からの優れた文物、文化並びに情報収拾などの意味があった。

冊封体制を広げようとする歴代の中国王朝に対して古代日本は実質的な“中国の属国”になる事は無かったし、朝鮮半島の諸国、他の中国周辺諸国とは違って、中国王朝に“臣下の礼を尽くす為の朝貢”では無かった事が、推古天皇、聖徳太子による上記文面となったのである。

次章では、隣国に強大な隋王朝、唐王朝と言う存在を抱えながら、外交を含めて今日の日本の基礎を作ったと言える“飛鳥時代の3天皇”について今日の問題にも触れながら記述して行く事とする。

第二章 天皇家の出現までの日本列島の状況と日本民族の特異性
第4項 日本民族について


国の形態を”国体”と呼ぶ場合に、共和国と君主国に分けられる。
共和国とは国民が大統領、国家主席などを選ぶ国であり、社会主義の共和国と自由主義の共和国がある。前者は中国、後者は米国、フランスなどが代表的な国であろう。
君主国には絶対君主制、専制君主制、そして立憲君主制又は象徴君主制の3通りがある。

絶対君主制、専制君主制は、”朕は国家なり”で有名なフランスのルイ14世(在位1643年~1715年)を代表として16世紀~18世紀のヨーロッパに出現した統治権が君主に集中した状態である
大日本帝国憲法下の天皇は立憲君主制の下での天皇である。

明治憲法の下での明治天皇の権能は絶対的であったように言う人々がいるがそれは間違っている。旧憲法下での日本は”立憲君主制”であった。つまり君主(日本の場合は明治天皇)の権能を“憲法によって律する事が出来る”体制であって、この事は旧帝国憲法の第4条に明記されている。

実は大日本帝国憲法制定時に元老はじめ多くの人々が明治天皇の権能に制限を付けるこの第4条を除去しようとしたが伊藤博文が押し切ったとの事である。
従ってアジア・太平洋戦争後の現在の新憲法と帝国憲法下とでは天皇の権能に実質的にはさしたる違いは無いのである。

旧憲法下においても明治天皇も、大正天皇も、そして昭和天皇も極めて例外的なケースを除いて、天皇自らが“決断を下した”という事例は無い。
詳しくは慶應義塾大学の竹田恒泰氏の論文”天皇は本当に主権者から象徴に転落したのか?”を参照されたいが帝国憲法下においても天皇は自由に政治を行えた訳では無いのである。

話を本題に戻すが日本のこうした”天皇制”という国の形態はどの位続いているのかの議論もある。前項の検証結果からも4世紀に現在の天皇家が古代国家郡を纏め上げ、統一した事は間違いなかろう。従って古事記、日本書紀が記述する年紀をそのままに受け取って“日本は皇紀2700年(昭和15年、1940年に皇紀2600年を盛大に祝ったのであるが)の歴史を持った国であるとする説には史実との整合性から大いに疑問がある。

前の項で中国の歴史書、広開土王碑の記録から判断して記紀が記す神武天皇即位のBC(紀元前)660年頃から日本列島が“天皇家”によって統治されていたという説には無理があるとしても、遅くとも4世紀以降に天皇家が日本列島の統治者として出現し、以降この皇統を継続している事は確かである。つまり、日本という国が今日に至る迄、少なくとも1700年近くに亘って同じ皇統で引き継がれて来た国である事には違いが無いのである。
こうした観点からすると、日本は現存するこの地球上の国々の中で最古の国であると言う事に間違いない。

同じ国体を維持して来ていると言う意味では、デンマークが日本に次いで世界で2番目に古い国であり、現在の王室の継承期間の長さは約800年程である。3番目に古い国が英国であり、現在の王室の継承期間は750年程だと言われている。デンマークと比べてもイギリスと比べても日本の天皇家の方が900年以上も古い事になり、我が国はまさに世界最古の国と言う”ブランド”を持った国なのである。

ロシアはロマノフ王朝が市民革命で倒されソヴイエト連邦となり、そのソ連と言う国体も1991年に解体され現在のロシア共和国に生まれ変わった。従って今日の“ロシア”と言う新しい国体は僅か20数年の新しい国体の国なのである。隣国の中国は民族間の興亡の歴史であって、その歴史、言語、文化、伝統なども次々と征服し、交代した王朝や新しい政治体制によって塗り替えられ、時には断絶され、抹殺されて来たと言う分断された歴史を持つ国である。

古代日本国の建国の項で記したように、紀元前から中国大陸には強力な王国が生まれ、興亡を繰り返して来た。ただ、そうした強力な王朝も、長く続いても300年程で他民族、又は他王朝によって滅ぼされて来たという歴史の国である。

現在の中華人民共和国は1949年10月1日に毛沢東による中国革命の成功によって成立した“共産主義”を国是とする新しい国家、国体の国であり、その憲法の第一条にはその旨が明記されている。従って同じ古い歴史を持つ日本とは違って、国体乃至王朝の興亡が続いている13億の中国国民にとって数千年のそうした歴史、民族性、文化、思想はその都度、塗り替えられ、断絶されて来たのである。

だから、中国国民には日本民族の様に、長い時間をかけて、継承され、共有化され、時代を超えて育まれ、今日でもなお、国民全体に共通した伝統的行動規範となっている様なものは意外に少ないと言われている。

漢民族、満州民族、蒙古民族など多数の民族が夫々の文化を持ち、言語も数多く抱え込んだ中華人民共和国という国は今日では“共産主義”を国家憲法の軸に据えて成り立っている。歴史的にも“中国”と言う国は支配民族、王朝が何度も交代しながらも4000年の歴史を持つ国だと言う事を誇りとしているのである。

我々からすれば、連続した統一国家では無く、あの大地で国家の興亡が繰り返され、民族も、言語も、文化も異なる国家が交代して来た“4000年の歴史”では無いのかと思うのだが中国人はそうは考えていない。 それでは一体何が“4000年続いて来ている誇り高き中国の歴史”だと言わせているのかに付いて検証して置く必要がある。

答えは”中華思想“だと言う事である。中国と言う国は漢民族、満州民族、モンゴル民族、ウイグル民族、チベット民族など多種多様の民族から成り立ち、しかも広大な地域を擁する国である。歴史的にも異なる民族による支配がなされ、王朝交代は数え切れない程経験して来た。

こうした広大且つ他民族の国、中国が一つの国として纏まる事が出来たのは中国4000年の歴史を貫いて来た太い糸、“中華思想”と言う糸が共産主義の国となった今日でも“中国国家”の軸であり、それだけは変わらないとするのである。

“中華”という言葉自体は“中夏”が語源だと言う。“夏”という国に基づくものだが、この国は紀元前2070年頃から紀元前1600年470年存在した中国最古の王朝とされる国だ。 

この国が実在したのか否かについては、考古学資料も発掘され、近年では実在論が優勢になって来ているがまだ確立された論では。実在の有無については専門家の今後の研究に委ねる事として、“中華思想”がどのようにして生まれたかについて論を進めたい。

現段階ではBC(紀元前)221年に中国を初めて本格的統一国家としたとされる“秦”が民衆を治め、占領した民族に統治者として認めさせ、納得させ、同化させる為の“権威”として用いたのが“我々の祖先は夏である”“我々の出身は中原、中夏である”という“夏”の権威であったと言うのである。

中国の人々は誇らしげに“歴史上殷王朝が“漢字”を発見し、秦の始皇帝が統一の為に編み出したのが“中華思想”だ“と語る。以後の王朝もこうした“夏”の権威を使って周辺国、他民族を服属させる“統治システム”として”中夏=中華思想“を用いて来た訳である。

中華思想を用いて統治者としての“正当性”を確保した上で上述した”銅印“”銀印“そして”金印“などの他、官位を与えるなどで更なる王権の権威、威徳を加えると言う統治の仕組みである。

こうした“冊封体制”を整え、古代中国王朝、特に“漢”の時代にはこうした“冊封システム”が発展したものと言われている。このシステムの大元が上述の”夏“の権威であったのである。

こうした“中華思想による統治システム”は以後の異民族の王朝にも引き継がれ、利用されて来た。辛亥革命によって“皇帝による支配”は終わるのだが“中華思想”は引き継がれた。
当時の孫文は“漢、満、モンゴル、ウイグル、チベットの5民族を以って一つの中華民族を形成すべきである”と述べた。又、中華人民共和国建国に当って、毛沢東も“中国人民は多数の民族が一つの民族、中華民族として結合した民族である”と宣言している。

この様に“中華思想、システム”こそが今日の中国を纏める基本的“考え方“となっている事を理解して置く事が尖閣諸島問題、相次ぐ反日運動などの問題への対応など、中国と言う誇り高い”中華思想“を4000年もの長きに亘って貫いて来た隣国とお付き合いする場合には極めて大切だと思うのである。

第二章 天皇家の出現までの日本列島の状況と日本民族の特異性
第3項 古事記、日本書紀と編纂意図について


これまで考古学的検証ならびに中国王朝、朝鮮半島の記録を軸に古代日本列島がどの様な状況であったか、その日本列島がどのような経緯で纏まり始め、最終的に天皇家によって統一されて行ったのかについて推論も混ぜながら述べて来た。

そして宋書の”倭の五王”の記録になると我が国自身の手による歴史書である古事記、日本書紀の記述内容とかなり整合した内容になって来ている事を検証した。
神話から始まり、天皇家の統治を正当化する目的の為に書かれた歴史書であるから、古事記、日本書紀には史実として問題が多いとする意見も多いが、古事記には歴代天皇の醜聞に値する記述も書かれていて必ずしも皇統礼賛の本では無い事が分る。

又、古事記に書かれている神話からは”日本建国の趣旨”とも言うべき、自然礼賛、森羅万象の全てを”神”として崇めると言う縄文時代からの日本文化の息吹を感じる事が出来る。アメリカ合衆国の自由平等の建国趣旨、中華人民共和国の共産主義による建国趣旨とはかなり異なるがこの考えが地球上で最古の国体を維持して来た日本という国の太古からの建国の趣旨なのである。

古事記、日本書紀はいずれにしても、古代日本の歴史を紐解く重要な資料として貴重である事には変りは無い。この項では多くの専門書にも書かれているが、古事記と日本書紀の編纂目的等について簡単に触れておこう。

古事記は元明天皇の時(712年)に完成した日本最古の国内向けに書かれた歴史書である。
天武天皇が稗田阿礼に何度も読み唱えさせていた過去の天皇の系図、業績の話を、天武天皇の死後元明天皇の命を受けて、太安万侶がまとめた歴史書である。

そもそも、この太安万侶の存在も疑わしいとする学者が居たが1978年に奈良の平城京に近い茶畑から偶然に太安万侶の墓である円墳が発見され、古事記偽証説に決着がついたのである。

古事記には編纂者である太安万侶による”序”の言葉があるから面白い。言ってみれば編纂の趣旨と大まかな内容説明が太安万侶自身の言葉で書かれている。上巻、中巻、下巻の3巻で上巻は神代の物語、中巻は神武天皇から第15代の応神天皇までの記事、そして下巻は第16代仁徳天皇から第32代、初の女帝である推古天皇までの記事で終わっている。

一方の日本書紀は720年に成立した日本最古の勅撰の歴史書である。海外の人々が読む事を想定して書かれた“国史”である。 天武天皇の皇子である舎人親王が総裁となって編纂に当たっているが、彼は形式的な責任者であって実質上の編纂の権力者は持統天皇の異母妹であり第43代女帝であった元明天皇、その娘であった第44代元正天皇、並びに曽我氏を滅ぼし当時急速に台頭しつつあった当時の右大臣、藤原不比人だと言われている。

日本書紀は全30巻で神代の話は上下の2巻だけ、あと28巻は神武天皇から第41代持統天皇までの各天皇について書かれている。

古事記も日本書紀も共に第40代天武天皇が編纂の発案者であったと言われるが、明らかに編纂の目的は異なっている。学者の竹田恒泰氏の解釈に拠れば”古事記は英語で言えばNational History” であり”国民の歴史”とでも理解したら良いだろう、そして日本書紀は”Japanese History"つまり、対外的に伝えたい”日本の歴史”であると言う程の違いがあると言うことである。つまり、古事記は国民の歴史であるから、”日本人が日本の歴史を学ぶ場合に最も必要な事が書いてある歴史書物”であり、日本書紀は”海外の人達が学ぶ場合に適した日本の歴史書、すなわち場合によっては海外の人々にとっては知る必要の無い日本民族独自の事柄は捨象し、中国の”漢書、後漢書、三国史”の形式を真似た、対外的な”日本の正史”として書かれた歴史書物”と言う違いがある・・と説明されている。

古事記と日本書紀の詳細な比較については専門書をお読み頂くものとして此処では詳細は省略し、Pointとなる数点にだけ触れて置きたい。

①古事記は国民の歴史書であるから日本語を前提として書かれているが、日本書紀は大体、漢文で書かれている

②古事記では上、中、下巻のうち、上巻全てを神話に充てている。つまり、神話を非常に重視している。一方の日本書紀は全30巻のうち、神話には2巻しか費やしていない。
大黒様の話で有名な”稲羽の素兎の話”など出雲の大国主神による国造りの神話などは殆んど書かれていない。

③皇統、天皇の事績については古事記では”中つ巻(ナカツマキ)”に初代の神武天皇から第15代応神天皇迄が書かれている。内容としてはあくまでも神の子孫が日本列島の統治者として降臨し、次第に”神から人へ”として事績を重ね行くという流れでの皇統図を記している。古事記の”下つ巻(シモツマキ)”には第16代仁徳天皇から第33代推古天皇までが書かれているが、例えば第24代仁賢天皇からは系譜だけで物語は全く無い。
皇統とそれに纏わる貴族、氏族、豪族等の序列を書くことも重要な目的であった言う事が読み取れる。

④一方の日本書紀は3巻から30巻までを使って、初代の神武天皇から第40代持統天皇までを書いている。例外として”欠史八代”と称される第2代綏 靖天皇から第9代開花天皇については、崩御の年齢、宮廷の場所、御陵の場所、皇后の名前、皇子、皇女の名前などについて書かれているだけで、事績(旧辞)については全く書かれていない。この点では古事記と共通している。

この歴代の天皇の中で第39代天武天皇だけには壬申の乱の記事を28巻に書き、即位後の事績を29巻に書くなど一人の天皇で2巻を占めている。

そもそも古事記、日本書紀編纂の意図が本格的に律令国家国としての体裁を整え、中国、朝鮮半島の諸国などと比較して見劣りのしない、国としての体制、組織、防衛体制等を整える事を急ぎ、強く意識していた天武天皇から発せられた編纂事業であった事からすれば、至極当然の事であり、納得の行く事である。

逆に歴代の天皇の記述としては、二人の天皇で1巻の場合もあるし、3人の天皇で1巻の場合など記述の仕方に軽重がある。

こうした日本書紀の各天皇の記事であるが、第26代継体天皇以降の記事は、かなり歴史的記述として信憑性の高いものであり、蘇我蝦夷によって天皇に擁立され、第1回目の遣唐使を送った第34代舒明天皇から第40代持統天皇の巻は実録と言えるものだと言われている。

⑤両書物の編纂意図について
古事記には“天皇家の統治者としての絶対性”と“その他の国内の豪族、氏族の家格についての公式な評価、歴史的経緯”を書き記す事によって“天皇家”に対する“序列”を明らかにすると言う目的があったものだと言える。

一方の日本書紀は既に推古天皇の時代から大和王朝が抱いていた中国王朝に対する劣位をどう解消し外交的危機感を払拭する為に律令体制初め国内の統治強化の為の組織化を進め、当時としての“近代化の為の諸施策”を天武天皇自らのリーダーシップによって講じていた最中に書かせたものである。

従って編纂の発案者である天武天皇の“意図”は唐を意識し日本が新羅(356年~935年)よりも古く、神が開いた貴い国である事を“唐に対して主張する”事を一つの目的とした海外用の史書でありその点で古事記とは大きく異なる書物なのである。

第二章 天皇家の出現までの日本列島の状況と日本民族の特異性
第2項 古代日本列島は周辺諸国に征服される事無く建国されたのか
      =中国、朝鮮半島の記録からの検証=


(1)考古学から得られる古代日本の状況について

3万年前と言われる後期旧石器時代に日本列島に人が住んでいた痕跡は多数発見される。
しかし本格的に貝塚が発見されたり、小規模な竪穴式住居が発見されたり、家犬の飼育の痕跡が見られるのは縄文時代前期(紀元前7000年~)からの遺構からである。
弥生人は一体何時からこの日本列島の住人になったのであろうか。
稲作は中東の史跡、などからこの地球上では10,000年以上前から行われていたとされる。

日本ではそれよりはかなり遅いが、紀元前1000年頃の北九州から近畿地方に稲作が行われていた形跡が見られる。福岡県の板村遺跡からは縄文時代末期と思われる水田が発見されたり、金属器も発見されている。 一般に縄文時代は紀元前400年頃までを言うから、板村遺跡はまさに縄文時代と弥生時代の境目を示す貴重な遺跡であり、こうして弥生人が住み着いて来た事がうかがえる。

古代日本列島では縄文人に代わって、稲作技術を持った渡来人が移り住み、稲作等、農耕技術を広めて行き、弥生人として人口も拡大してゆく訳であるが、その方法は平和的であって、先住民を武力等によって征服して行くという形では無かった事が遺跡から証明されている。

専門家の研究によっても、古代に日本列島が中国、朝鮮半島からの騎馬民族や渡来人によって武力的に征服されて、土着の信仰、祭祀行事、言語等が途絶えた形跡は無いと言う事も検証されている。

参考までに島貫基久氏による古代の人口推計を紹介しておこう。紀元前4世紀頃の日本列島の人口は60万人程で、その殆んどが東北地方に住む縄文人だったと言う。紀元2世紀に入ると九州、近畿、中国、そして四国地域に弥生人が入り、日本列島全体の人口は略、倍近い110万人程に増え、奈良時代の750年頃には近畿地方の人口が急増して日本列島全体では540万人になったとしている。

奈良時代の人口構成は、考古学的検証からは、九州並びに西部の日本に弥生人が移り住んで来て、東海、中部、北陸、関東、そして東北地方にかけては弥生人よりも縄文人の比率が圧倒的に多かったものとされている。

こうした検証からも、古代日本列島に、弥生人が稲作技術を持って朝鮮半島を経て、九州、中国地方に入って来たのであろうと言う事が分る。弥生人は、鉄製農具など金属文化を持っていたが、武力による征服という方法ではなく平和的に日本列島に移り住んで来た。
稲作の道具の発展状況も近畿以西に比べると、東海、中部以北地域は遅れていたのでは無かろうかと推定されている。

(2)古代日本列島の支配者は誰か、隣国による侵略はあったのか

日本列島に漸く農耕が始まり、所謂、弥生時代に入った紀元前400年の頃、中国には、”孔子”と言う大思想家が既に活躍して居た事、又、中国の多大な影響下にあった朝鮮半島も、遥かに先進国であった事を改めて認識して置こう。この頃、日本列島には、まだ文字文化が無い時代で、何の記録も存在していないが、中国並びに朝鮮半島には日本列島に関する記録が残されており、それによって、古代日本国の統一、創建に至る状況を推論する事が
出来る。

最も古い記述は古田武彦氏などが主張している後漢時代の王充の著“論衡”(AD紀元後90年頃)に既述されているものだと言う説だ。

学会ではこの説はマイナーであるが、“論衡“は著名な書物であり、王充も有名な学者であるからここに書かれた”倭人“を果たして日本列島からの”倭人“と同一の人達を指すのか否かで意見が大きく分かれているという事である。

ともあれ、“論衡”に拠れば、時代は大きく遡って、紀元前10世紀頃、古代中国の”周”の成王の時代と言うからBC紀元前1025年~BC1005年頃に”倭人暢草を貢す”と言う記事が見られると記しているのである。

暢草とは一種の香草で“縁起物”として周時代の天子達が飲んだとされるが、この頃の日本はまだ縄文時代であり、稲作もまだ伝わっていない時代にそうした香草を周の天子に献上するとは考えられないし、紀元前1000年の大昔の日本列島にそうした事を行う何らかの国の様な形が存在していた事も考えられないとするのが主流の考えである。

いずれにせよ、これだけの情報であり、又周時代の通貨が貝塚から出土する事など、考古学的検証も加えられてはいるが分らないのが現状である。日本列島に人類がこの時代に住み着いていた事は確かであるので、“群落程度”のものは形成されていた状況であったのであろうと言うのが定説である。

二番目に古い日本列島に関する記事は、漢書地理誌の”楽浪(現在の平壌付近)海中に倭人あり、分かれて百余国。歳時、謁見”と言う有名な記述である。これは紀元前17年の日本列島の様子を書いた記事とされる。  まだ、百以上の小国家に分かれた状態ではあるが、徐々に国として統一されようとする段階にあった事は記事から推察出来る。

三番目に古い記事は、さらに80年程時代が進んで、後漢書の記述となる。 紀元57年に”倭奴国王、後漢に貢献。(光武帝から)金印賜綬”の有名な記事である。
  
この記録については私が中学生の時に 学校の歴史教科書で習った記憶がある。江戸時代(1784年)に甚兵衛と言うお百姓が偶然水田耕作をしていた時に金印を発見したと言う事である。場所は現在の福岡市東区志賀島だとされている。
  
この頃、”奴国”が当時の日本列島を代表していたのだと言う説の論拠を与える極めて説得力を持つ後漢書の記事とそれを裏づける金印の出土であった。

これについても偽造説だとか諸説があるが、 少なくとも”奴国”の国王と称した当時の日本列島を代表した”王”が居た事には違いない。金印は中国王朝がそう簡単に与えるものでは無い。圧倒的に“銅印”であったらしい。“銀印“ とか金メッキ印ですらほんの僅かだと言われるから、”奴国の国王“に与えられた”本物の金印“は稀有だと言われている。

漢時代の中国の天子から“夷蛮の国王“に”金印“が与えられたのはこの他の例としては当時は”夷蛮“の国とされていた雲南省の”嗔王(てんおう)“への金印しか無いのである。

後漢(西暦25年~西暦220年)の初代皇帝である光武帝(在位25年~57年)から貢献を認められて金印を与えられたと言う事であるから、この”奴国”はそれなりの力を持った国だったと考えられる。 2012年の5月に奴国があったであろうとされる志賀島(しかのしま)に行った。福岡空港から車で1時間程の距離で美しい島に到着した。金印が発見された場所も訪ねたがこの朝鮮半島に極めて近い地点に立ってみると、日本と言う国が、古代から中国、朝鮮半島との外交関係に腐心と苦心を重ねて来たのであろうという事が想像される。

詳しくは後述するが、7世紀に入って日本は律令国家としての歩みを始めた。そして、まず急いで整える必要があった事は朝鮮半島、そして強大な中国王朝に対する国防であった。その施策の一つとして、この志賀島こそが防衛拠点の一つであり、万葉集で多くの歌が乗せられている”防人”が多く駐屯していた島なのである。

志賀島のすぐ西隣にある能古島(のこしま)も同じ目的で防御の島となった地点である。

 第38代天智天皇の時代に百済再興の為に行った“白村江の戦い(663年)”で唐、新羅連合軍に大敗した事をきっかけに防衛に対する危機感は高まり、防人の制度が増強されたのである。防人の制度は646年に始まり、826年に廃止されるまで180年に亘って続くのであるが、島国であり、海岸の防衛線が非常に長いわが国の為政者が、古代からいかに日本列島の防御に腐心して来たかを実感する事が出来る史跡であった。

周辺諸国からの侵略に対する防御の為の極めつけの遺跡が、二度にわたる元寇(文永・弘安の役)に対する防御壁跡、そして多くの蒙古兵士を捕らえ処刑した時の首塚などが残る史跡も訪問した。

当時(1274年)の元寇では壱岐、対馬はすでに蒙古・高麗連合軍によって占領され、嵐が来なかったならば本当に日本は中国の元王朝によって本土に上陸され、征服されたであろうと実感させる史跡である。

さて、古代日本の統治がどの様に進んで来たのかについての検証に戻ろう。
古代日本について書かれた四番目の記事としては、同じ後漢書の東夷伝に書かれている紀元107年の記事である。”倭国王師升等・・生口百六十人、願請見”と言う記事である。
学者の間ではこの一行の文章の解釈をめぐって、種々の議論があるが、此処では戦争捕虜とか、奴隷の様な人間(生口)を160人も献上したと言う記事からも、”奴国”以上に勢力を持った”倭国王”が上述の“金印を下された記事”から50年後に出現していたものと推定出来る。
しかし、最後の”願請見”と言う文章からは、この”倭国王師升(等)”は160人もの捕虜を後漢の王に献上し、倭国王としての正当性を中国王朝から認めてもらうべく、”金印”を要求(願請見)したのだが、貰う事が出来なかったという解釈がされている。
上記した様に“金印”はそう易々と賜る事が出来ない事がこの記事からも良く分かる。

この”倭国王師升(等)”は別の記述には”倭面上国王師升”とあったり”倭面土地王師升”とある事から、一体何処を統治していた”王”なのだろうかの推論があれこれされているが、類似の地名が今日でも残っている事などから、”福岡県みやま市山川町””佐賀県神埼郡吉野ヶ里町吉田” ”佐賀県三養基郡”の3説が有力だとされている。

いずれにしても、この”倭国王”も九州北部地域で勢力を持っていた大豪族であったと言う共通点がある。この国については、記紀の”スサノウの命”に結びつけたり、諸説があるが、これだけの資料からその後のヤマト王権、つまり天皇家と結びつける事には無理があろう。

五番目に古い日本列島の状況を記した記述は同じく後漢書にある”倭国大乱”の記事である。紀元後147年~189年の間の日本列島は大乱状況で、誰が統治しているのか分らない状態であったと書いている。古代日本史の研究家である澤田洋太郎氏は、筑後(現在の福岡県南部)にあった”狗奴国”が強大になり”奴国””面上国”その他諸国に戦闘を仕掛けた為、九州地区を中心に、日本列島は大乱状態に陥ったものと推定されるとの説を展開している。

多くの国がその難を逃れる為に東方に移動したと言う説は、考古学的には弥生式遺蹟が三世紀以降、急に九州東部に多くなったとか、記紀の神武天皇の東征の話に結びつける学者もいるがいずれも古代日本列島統一の決定打とはなっていない。

六番目の記事が、後漢書に残る西暦172年頃にこうした大乱状態の日本列島を邪馬台国の女王卑弥呼が収めた、と記したものである。
”倭国乱れて相攻伐する事、年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と日う”と言う有名な記事である。

女王卑弥呼の名前は有名であるがここで重要な事は ”共に~立てて”と言う文面であろう。当時、大乱状態の日本列島を収める方法として、諸国が平和裏に話し合いによって”邪馬台国の女王卑弥呼”を倭国の王として共立した”という。古代日本列島に特異な”倭王選び”のシステムがあった事が記述されていると言う事が重要なのである。
この事によって、当時の日本列島には、まだ圧倒的な武力によって大乱を納め平定するという大勢力が出現していなかったと言う事が分ると同時に呪術を能くする、しかも女性を話し合いで”倭国”を代表する”倭王”として決めると言う、”共立”というシステムがあった事が分るのである。

七番目の記事はこれも”卑弥呼”の記事であるが、後漢が滅び、魏、呉、蜀の三国時代となり、三国志の中の”魏志倭人伝”に出てくる記述である。卑弥呼が西暦238年に魏王朝に遣使して”親魏倭王の称号と金印紫綬を授与される”と言う記事である。

卑弥呼が最初の記事に現れてから、66年後の記述であるが、若くして”共立”され、且、長命の女王だったとすれば、不可能な事とは言えない。この倭人伝には当時の日本列島には20余国と書いてある。漢書地理誌に書かれた”分かれて百余国”と言う状態から日本列島が纏まって統治されつつあった事が分る。

さらに邪馬台国女王卑弥呼と魏王朝との交渉関係の記事は卑弥呼が西暦248年に死亡するまでの間に5回出て来るが、いずれも当時の邪馬台国と魏王朝との関係が分る貴重な記述である。仁藤敦史氏の説によれば、当時”卑弥呼”が共立された要因は卓越した宗教的な資質と共に、当時の農耕生産の面でも、又、武器確保と言う面でも、鉄資源確保が重要であり、九州以東の諸国が結束する必要があった。その為の外交ルートを一本化する為の窓口として邪馬台国が”倭王”として共立されたのでは無いかとしている。いずれにしても大切な事は、こうした記事からも、当時の日本列島には列島内の諸国を武力で制圧し、統治する強大な勢力がまだ現れて居ないという事にある。

この事は、邪馬台国の女王卑弥呼は”共立”されて”倭国王“となったと言ういわば”脆弱“な王権であった為に、国内的にも後ろ盾として中国の王朝の権威が必要であり、”倭王として朝貢“していたという事であろう。中国への朝貢によって卑弥呼としては魏王朝から”親魏倭王”の称号をもらう事、“金印そして銅鏡”を与えられる事が重要だったのである。
それらは”威信財”と呼ばれ当時の”倭王”にとって、国内での自らの権威、権力の維持拡大にとって非常に重要なものであった。

日本の教科書にこうした古代日本列島の状況を詳しく取り上げない理由を専門家から聞いた事がある。それは”きちんとした裏付けとなる日本の書き物、などが無い限り中国、朝鮮半島の書類から日本の古代史として決め付ける事は出来ない”と言う理由であった。
もしそうだとすると、日本の教科書で古代史を歴史として詳しく取り上げる事は今後ともほぼ無いであろうと言う事になるのでは無いだろうか。

繰り返すが、この時代の日本にはまだ文字が一般的に導入されていない“文字文化導入前”の状態の国だったのであり、従って日本人によって書き残された記録などは存在し得ないのである。日本に文字が入って来たのは百済からの渡来人である王仁(わに)によってだと伝わる。日本書紀に王仁の記述があるがそれに拠れば王仁が渡来したのは第15代応神天皇の時代だとあるから4世紀頃の事となる。

文字文化が彼によって導入され、それが日本列島に普及するのはそれから更に後の事であるからそれ以前の日本列島の古代史について、記録があるとは思えない。
教科書に載せる歴史とは文字による記録を主たる資料とするならば、日本の教科書が1世紀から5世紀頃の日本列島の歴史について取り上げる事は現在も殆んど無いが今後も難しいと言う事であろうか。従って学校の歴史教科で取り上げる1世紀から5世紀頃の日本列島の古代史は殆んどが考古学的アプローチに拠るものとなっているのはこうした事情に拠るのである。日本の学生が文字導入前の古代史について辛うじて、歴史学として教科書から学べる範囲は、考古学的裏付けがあって尚且つ木簡なり竹簡なり何らかの日本人による書き物が得られた範囲と言う事になってしまうのは問題である。

八番目に出てくる重要記述はこれも又、魏志倭人伝の記事である。”卑弥呼以て死す(西暦248年)あらためて男王を立つ。国中服さず、こもごも相誅殺する事千人。また卑弥呼の宗女台与、歳十二を立てて王となす。国中ついに定まる”と言う内容である。邪馬台国は女王卑弥呼が死んだ後に男の王を立てたが、内乱状態に陥ってしまい、そこで僅か12歳の卑弥呼の親戚にあたる女性を王にすると国が治まったと言う記事である。この”台与”も呪術的な能力に長けていた様である。

倭人伝の記事によると当時の倭国の身分階層は ”大人-下戸-生口”の順番となって居り、支配層の”大人”が行う紛争解決の方法は軍事的手段であった。これでは行く行くは共倒れになってしまうと考え、こうした状況を回避する為には”大人を超えた権威、つまり宗教的な資質を有した者を王にする必要があった。従って”卑弥呼”そして続いて”台与”が”共立”されたという事である。

西暦265年に邪馬台国の”女王台与”が魏を継いだ西晋(265年~311年)に遣使をしたと言う記事があるがこの記事を最後に、この後、一世紀以上の間、倭国に関する中国の正史の記事は無い。邪馬台国はこれ以上の国としての拡大は無かったものと考えられる。

当時の”国”がどの様な状態であったかを知る為に、福岡空港から車で2時間程の佐賀県にある吉野ヶ里遺跡に行った事がある。弥生時代(紀元前5世紀~紀元3世紀)の3世紀前半の集落跡を再現した極めて大規模な史跡である。

周辺のムラを含めて5400人の集落の跡だと言うから、当時の日本の推定人口が110万人程(島貫基久氏)からすると極めて大きな集落である。この集落の”王”は相当に力を持った人であり、当時日本列島に多数存在した一つの”国”の様子を見る事が出来たと思っている。

弥生時代に入って、稲作が渡来人からもたらされると農耕の為の鉄はじめ金属機具によって生産性が高められ人口も飛躍的に増加して行ったが、武器類も多様になり、農耕地を巡っての争いも増えて来たと言う。吉野ヶ里遺跡でも外敵の侵入から守る為の堀が巡らされ、10メートル位の高床式の物見櫓がいくつも建てられているのを見る事が出来る。

兵士の詰め所、穀物の倉庫、王や支配層が住む地域、祭祀を執り行い、そして会議を行う主祭殿があり、中国王朝から下賜された銅鏡などを使って、祭司がうやうやしく、田植えの時期や、刈り取りの時期などを伝えていた様子が良く分かる遺跡である。
全体で福岡ドーム 6個分の広さの集落遺跡には物見櫓、倉庫、一般の人々の居住地も区分けされていて、3世紀前半にすでに支配する者と支配される者がはっきりと分れていた様子が分かる。 この時期には集落と言うよりも規模が大きくなり、国としての運営がなされ、人々はそれぞれの役割を分担していた様子が分かる。
今から2000年も前に、ある程度の国の機能と形態がすでに整い始めていたのだな、と感心させられた吉野ヶ里遺跡訪問であった。

こうした古代日本列島時代から始まる小国家郡が数世紀に亘る歴史的積み重ねを経て、4世紀にはそれらを纏める強力な”天皇家”の出現によって一つの国へと統一されて行ったのであろう。

九番目の当時の日本列島の様子を知る事の出来る資料が”広開土王碑”である。

広開土王とは朝鮮半島の高句麗(313年~668年)の第19代の国王で高句麗の全盛時代を築いた王である。その彼の功業、武勲を刻した石碑で西暦414年に建立された。現在の中国の吉林省集安にある世界遺産である。その中に西暦391年の記事として下記の文面があるが、碑文に欠損がある為、内容の解釈については諸論がある。

”そもそも新羅、百残(百済)は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし倭が391年に海を渡り、百残(百済)、加羅、新羅を破り、臣民となしてしまった。”と碑文を解釈する日本の学者が多い。この碑の文面から、日本列島の大きな変化が読み取れる。つまり、邪馬台国時代から130年近く経ったこの頃になると、倭王選びは”共立”という平和的な方法で決めた時代は終り、日本列島には強大な武力を持って統一をはかり、且、朝鮮半島に乗り出すという勢力が現れたと言う事が分る日本にとっては極めて意義深い碑である。

天皇家による国内制覇が邪馬台国に代わって4世紀には始まったものと解釈できる。
古事記、日本書紀に第14代仲哀天皇の后である神功皇后の新羅遠征の話がある。この広開土王の碑の文言と神功皇后の新羅遠征の話とを関連付けて解釈する学者もいるが、史実とするのには無理がある。いずれにしても、碑文に書かれた西暦391年迄には”天皇家”による日本列島の統治が始まっていたと考えるのが、他の関連資料からも自然だと考える。

広開土王碑に書かれた西暦391年を”記紀”の記述と合わせてみると、第16代仁徳天皇の時代にあたる訳だがこの広開土王碑の文言だけでは情報が少なすぎて断定する事は出来ないが仁徳天皇の皇子である第17代履中天皇のいずれかに該当する可能性はある。

十番目の記事が中国南朝の宋(西暦420年~479年)の歴史書である”宋書の倭国伝”に出て来る”倭の五王”についての記述である。

西暦413年(倭王讃)から西暦478年(倭王武)の日本列島の五人の”王”が晋王朝(倭王讃が朝貢したとの記述がある)と宋王朝(倭王珍、済、興、武が遣使を送ったという記述がされている)に対して行った外交の状況を伝える記事がそれだ。この資料が貴重な点は、日本列島の”倭王”五代が中国王朝への朝貢なり遣使をした記事に加えて、西暦478年に五人目の”倭王武”が南北朝時代の宋(西暦420年~478年)に入貢し、且、彼の”上表文”が載せられている事である。
この上表文では日本で自分が王権を引継いだ事が記されていて、この記事から”倭王武”とは第21代雄略天皇に該当するのでは無いかと、かなりの確度で推論する事が出来るのである。
 又、この上表文に父親と兄が俄かに亡くなったという表現がある。文面に書かれた“父親”とは”第19代允恭天皇”と考えられるし、兄は第20代安康天皇という事になる。
この安康天皇は古事記には暗殺された天皇として記録されている事で有名な天皇である。
  
兎に角、125代にわたる歴代天皇の中で、暗殺されたと言う記録があるのはこの安康天皇の他には日本書紀に記されている西暦592年、蘇我馬子との確執によって殺された第32代崇峻天皇の2代だけだ。従ってこの上表文で”俄かに亡くなった”という文面と安康天皇が即位して僅か3年足らずで“目弱王(メヨワノミコ)”に暗殺されたと言う古事記の記事とが符合するのである。そうした意味でこの上表文は貴重、且つ興味のある資料である。

“倭王武“の上表文には朝鮮半島の西暦478年頃の様子も書かれている。当時の倭国と関係が近かった百済(紀元346年~紀元660年)が高句麗(紀元前37年~紀元後668年)と戦争状態にあり、”倭王武”としては宋への遣使を出したいが、高句麗軍に道を阻まれて、遣使も果せないのだという言い訳を記している。

広開土王碑文にも西暦399年に百済をめぐっての倭国と高句麗の戦いがあった事、翌400年には新羅救援の為に倭国と戦い撃破した事、さらに404年に帯方地方で高句麗が倭国軍と戦った記事などを総合して解釈すると、この時期、”倭国”が高句麗、新羅、百済に関連した朝鮮半島との戦闘を展開していたと言う事が解る。こうした史実を知る上でもどちらも隣国の資料ではあるが、日本にとっては非常に貴重な“上表文”の記述並びに“広開土王碑文”だと言えよう。

加えて“上表文”には、高句麗を退治しようと大軍を出征させようとしていた矢先に、父親(允恭天皇)と兄(安康天皇)が相次いで死亡した為に高句麗遠征を果たせない無念さを書いている。古来、日本列島の”歴代の倭王”が、大国中国に対して朝貢を繰り返し、必要であった中国王朝からの権威を獲得して来た事は上記した記録の通りであるが、この”倭王武”(第21代雄略天皇)の時代になっても中国王朝に官爵授与を認めて貰う迄、何回も朝貢、遣使を行っていた事がこの上表文ではっきりと分る事が重要である。

具体的には倭王武(雄略天皇)は宋王朝に”百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王”のタイトルを与えて呉れる様、要請していた。宋書にはこの讃、珍、済、興、武の”倭の五王”の中の記事として最初の二人については朝貢した年代などが記されている。西暦421年に最初の”倭王讃”が宋に入貢し、425年には司馬曹達を遣使した事が記されている。二番目の”倭王珍”についても西暦438年に入貢したとの記事がある。彼も宋王朝に対して安東将軍倭国王と言う官爵を正式に求めた事が記されているから古代日本の統治者が誰であったかを検証する為には非常に貴重な記録であったのである。

以上古代日本列島の状況を考古学、そして、中国王朝、朝鮮半島の記録から紹介して来た。
日本の古代史が考古学的見地からのものに制約される理由は、既述したように文字文化が普及していなかった時代の事であるからだとは何度も述べたが、上記の様に、中国、朝鮮半島の記録が残っていた事は実に幸いである。

これらの資料と考古学上の発見等から、九州地区にもたらされた中国、朝鮮半島からの農耕技術、武器、等“弥生人”による渡来文化が生産性向上による人口増加をもたらし、集落規模の拡大をもたらした一方で、豊かになったが故の争いの規模の拡大ももたらしたのである。 そして4世紀にはその覇者である”天皇家”が終に登場し、日本列島を代表する”倭王”となったものと結論づける事が出来るものと考える。

第二章 日本の特異性の認識と歴史が必ず持つ因果関係
第1項 総括


アメリカ合衆国には独立宣言書があって建国の趣旨が明確に述べられている。又建国記念日は独立記念日の7月4日で誰でもが知っている。又、中華人民共和国には中国共産党による建国の趣旨が明確に記されている。日本では1872年(明治5年)、明治新政府が古事記、日本書紀の伝承として神武天皇が即位したとされる2月11日を紀元節として国民の祝日として来たが、アジア、太平洋戦争後の昭和23年(1948年)に廃止された。

昭和42年(1967年)に”建国の記念日”として再び同じ日を、国民の祝日として公式には祝っているが、何せ、記紀の記述から採った神話の世界からの祝日であり、国民一人一人に実感が無い。我々が海外の人々から”日本国はどの様に創建され、その趣旨はどのような事だったのか?”と質問されたら、一体どの様に答えるのであろうか?

 ”2000年近くも前からあった国なんだヨ”程度の答えしか出来ないのが実態かも知れない。
 我々が小学校、中学校、そして高等学校で習った日本史のどの教科書にも”日本国設立の趣旨”は書かれていない。太古の昔であるから、近代国家の様に建国の趣旨などは分らないのは仕方が無いにしても、 何時、誰が、如何言う状況と過程を経て、日本と言う国を創建して行ったのかを今日の教科書には明記しているものは無い。

勿論、専門家による、日本国創建に関する書物は数多く出されているが、何しろ日本には、まだ文字文化が普及する以前の時代の話であり、これが定説だ、として教科書に載せられた日本国統一までの過程に関する定説は無い。1300年程前に編纂された”古事記”(712年)や、対外向け公式国史としてほぼ同じ時期に編纂された”日本書紀”(720年)の記述内容をそのまま、日本国建国の歴史とする事には当然の事ながら無理がある。

戦前の教育はそれでも、古事記、日本書紀の記述内容を日本建国の定説として扱って来た。

古事記は上、中、下の3巻から成っている。”上つ巻”は天皇家の祖先にまつわる神代の記述であり、邇邇芸命(ニニギノミコト)の天孫降臨の神話の部分は、朝鮮半島南端にあった、”伽那国”の始祖が天から降りたと言う伝承話に酷似している。

”記紀”編纂の時には非常に多くの中国、朝鮮半島の書物を参考にしたと言われているから、引用した可能性はある。天皇家のルーツが朝鮮半島にあると言う話があるのも、当時圧倒的な先進文化を持っていた中国大陸、朝鮮半島であったから、不思議では無い。私が受けた戦後教育での日本史は連合国軍の占領政策の統制下のものであり、、どの教科書も、縄文時代の日本列島の人々の生活の様子、弥生時代への移行に関わる住居の様子、農耕器具の変化、集落の様子など、考古学的観点からの”日本国のはじまり”の内容であった。

こうした石器、土器、等が、どの様な状態で発達して来たか、武器が石器、から鉄製の武器、その他の金属を使う武器に変化して行った事と、古代日本が国としてどの様に統一されて行ったのかには重要な関係がある 訳だが、教科書的には一切触れていない。

何事も無から有は生じない訳であるから古代日本が小さな集落状態から、規模を拡大し、国と呼ばれる集落規模に発展し、その中から多くの国単位を纏め上げて行く勢力が現れ、当時既に先進的文化、経済力、して武力を有していた中国王朝、朝鮮半島に存在した強国の侵略に備えた、と考えるのが自然であろう。

ただ、充分な資料も無い2000年以上も前の日本列島の状況を詳細に検証する事が、今回の私の著述の主たる目的ではない。それらについては多くの専門家にお任せして、私としては ①天皇家が何時から古代日本列島の統治者として現れたのか、②古代日本列島の歴史として先進国であった中国王朝、朝鮮半島の諸国に武力で征服された事があったのか、 この2点について検証する事から始めたい。