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2014年4月17日木曜日

第二章 天皇家の出現までの日本列島の状況と日本民族の特異性
第3項 古事記、日本書紀と編纂意図について


これまで考古学的検証ならびに中国王朝、朝鮮半島の記録を軸に古代日本列島がどの様な状況であったか、その日本列島がどのような経緯で纏まり始め、最終的に天皇家によって統一されて行ったのかについて推論も混ぜながら述べて来た。

そして宋書の”倭の五王”の記録になると我が国自身の手による歴史書である古事記、日本書紀の記述内容とかなり整合した内容になって来ている事を検証した。
神話から始まり、天皇家の統治を正当化する目的の為に書かれた歴史書であるから、古事記、日本書紀には史実として問題が多いとする意見も多いが、古事記には歴代天皇の醜聞に値する記述も書かれていて必ずしも皇統礼賛の本では無い事が分る。

又、古事記に書かれている神話からは”日本建国の趣旨”とも言うべき、自然礼賛、森羅万象の全てを”神”として崇めると言う縄文時代からの日本文化の息吹を感じる事が出来る。アメリカ合衆国の自由平等の建国趣旨、中華人民共和国の共産主義による建国趣旨とはかなり異なるがこの考えが地球上で最古の国体を維持して来た日本という国の太古からの建国の趣旨なのである。

古事記、日本書紀はいずれにしても、古代日本の歴史を紐解く重要な資料として貴重である事には変りは無い。この項では多くの専門書にも書かれているが、古事記と日本書紀の編纂目的等について簡単に触れておこう。

古事記は元明天皇の時(712年)に完成した日本最古の国内向けに書かれた歴史書である。
天武天皇が稗田阿礼に何度も読み唱えさせていた過去の天皇の系図、業績の話を、天武天皇の死後元明天皇の命を受けて、太安万侶がまとめた歴史書である。

そもそも、この太安万侶の存在も疑わしいとする学者が居たが1978年に奈良の平城京に近い茶畑から偶然に太安万侶の墓である円墳が発見され、古事記偽証説に決着がついたのである。

古事記には編纂者である太安万侶による”序”の言葉があるから面白い。言ってみれば編纂の趣旨と大まかな内容説明が太安万侶自身の言葉で書かれている。上巻、中巻、下巻の3巻で上巻は神代の物語、中巻は神武天皇から第15代の応神天皇までの記事、そして下巻は第16代仁徳天皇から第32代、初の女帝である推古天皇までの記事で終わっている。

一方の日本書紀は720年に成立した日本最古の勅撰の歴史書である。海外の人々が読む事を想定して書かれた“国史”である。 天武天皇の皇子である舎人親王が総裁となって編纂に当たっているが、彼は形式的な責任者であって実質上の編纂の権力者は持統天皇の異母妹であり第43代女帝であった元明天皇、その娘であった第44代元正天皇、並びに曽我氏を滅ぼし当時急速に台頭しつつあった当時の右大臣、藤原不比人だと言われている。

日本書紀は全30巻で神代の話は上下の2巻だけ、あと28巻は神武天皇から第41代持統天皇までの各天皇について書かれている。

古事記も日本書紀も共に第40代天武天皇が編纂の発案者であったと言われるが、明らかに編纂の目的は異なっている。学者の竹田恒泰氏の解釈に拠れば”古事記は英語で言えばNational History” であり”国民の歴史”とでも理解したら良いだろう、そして日本書紀は”Japanese History"つまり、対外的に伝えたい”日本の歴史”であると言う程の違いがあると言うことである。つまり、古事記は国民の歴史であるから、”日本人が日本の歴史を学ぶ場合に最も必要な事が書いてある歴史書物”であり、日本書紀は”海外の人達が学ぶ場合に適した日本の歴史書、すなわち場合によっては海外の人々にとっては知る必要の無い日本民族独自の事柄は捨象し、中国の”漢書、後漢書、三国史”の形式を真似た、対外的な”日本の正史”として書かれた歴史書物”と言う違いがある・・と説明されている。

古事記と日本書紀の詳細な比較については専門書をお読み頂くものとして此処では詳細は省略し、Pointとなる数点にだけ触れて置きたい。

①古事記は国民の歴史書であるから日本語を前提として書かれているが、日本書紀は大体、漢文で書かれている

②古事記では上、中、下巻のうち、上巻全てを神話に充てている。つまり、神話を非常に重視している。一方の日本書紀は全30巻のうち、神話には2巻しか費やしていない。
大黒様の話で有名な”稲羽の素兎の話”など出雲の大国主神による国造りの神話などは殆んど書かれていない。

③皇統、天皇の事績については古事記では”中つ巻(ナカツマキ)”に初代の神武天皇から第15代応神天皇迄が書かれている。内容としてはあくまでも神の子孫が日本列島の統治者として降臨し、次第に”神から人へ”として事績を重ね行くという流れでの皇統図を記している。古事記の”下つ巻(シモツマキ)”には第16代仁徳天皇から第33代推古天皇までが書かれているが、例えば第24代仁賢天皇からは系譜だけで物語は全く無い。
皇統とそれに纏わる貴族、氏族、豪族等の序列を書くことも重要な目的であった言う事が読み取れる。

④一方の日本書紀は3巻から30巻までを使って、初代の神武天皇から第40代持統天皇までを書いている。例外として”欠史八代”と称される第2代綏 靖天皇から第9代開花天皇については、崩御の年齢、宮廷の場所、御陵の場所、皇后の名前、皇子、皇女の名前などについて書かれているだけで、事績(旧辞)については全く書かれていない。この点では古事記と共通している。

この歴代の天皇の中で第39代天武天皇だけには壬申の乱の記事を28巻に書き、即位後の事績を29巻に書くなど一人の天皇で2巻を占めている。

そもそも古事記、日本書紀編纂の意図が本格的に律令国家国としての体裁を整え、中国、朝鮮半島の諸国などと比較して見劣りのしない、国としての体制、組織、防衛体制等を整える事を急ぎ、強く意識していた天武天皇から発せられた編纂事業であった事からすれば、至極当然の事であり、納得の行く事である。

逆に歴代の天皇の記述としては、二人の天皇で1巻の場合もあるし、3人の天皇で1巻の場合など記述の仕方に軽重がある。

こうした日本書紀の各天皇の記事であるが、第26代継体天皇以降の記事は、かなり歴史的記述として信憑性の高いものであり、蘇我蝦夷によって天皇に擁立され、第1回目の遣唐使を送った第34代舒明天皇から第40代持統天皇の巻は実録と言えるものだと言われている。

⑤両書物の編纂意図について
古事記には“天皇家の統治者としての絶対性”と“その他の国内の豪族、氏族の家格についての公式な評価、歴史的経緯”を書き記す事によって“天皇家”に対する“序列”を明らかにすると言う目的があったものだと言える。

一方の日本書紀は既に推古天皇の時代から大和王朝が抱いていた中国王朝に対する劣位をどう解消し外交的危機感を払拭する為に律令体制初め国内の統治強化の為の組織化を進め、当時としての“近代化の為の諸施策”を天武天皇自らのリーダーシップによって講じていた最中に書かせたものである。

従って編纂の発案者である天武天皇の“意図”は唐を意識し日本が新羅(356年~935年)よりも古く、神が開いた貴い国である事を“唐に対して主張する”事を一つの目的とした海外用の史書でありその点で古事記とは大きく異なる書物なのである。

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