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2014年4月17日木曜日

第二章 天皇家の出現までの日本列島の状況と日本民族の特異性
第2項 古代日本列島は周辺諸国に征服される事無く建国されたのか
      =中国、朝鮮半島の記録からの検証=


(1)考古学から得られる古代日本の状況について

3万年前と言われる後期旧石器時代に日本列島に人が住んでいた痕跡は多数発見される。
しかし本格的に貝塚が発見されたり、小規模な竪穴式住居が発見されたり、家犬の飼育の痕跡が見られるのは縄文時代前期(紀元前7000年~)からの遺構からである。
弥生人は一体何時からこの日本列島の住人になったのであろうか。
稲作は中東の史跡、などからこの地球上では10,000年以上前から行われていたとされる。

日本ではそれよりはかなり遅いが、紀元前1000年頃の北九州から近畿地方に稲作が行われていた形跡が見られる。福岡県の板村遺跡からは縄文時代末期と思われる水田が発見されたり、金属器も発見されている。 一般に縄文時代は紀元前400年頃までを言うから、板村遺跡はまさに縄文時代と弥生時代の境目を示す貴重な遺跡であり、こうして弥生人が住み着いて来た事がうかがえる。

古代日本列島では縄文人に代わって、稲作技術を持った渡来人が移り住み、稲作等、農耕技術を広めて行き、弥生人として人口も拡大してゆく訳であるが、その方法は平和的であって、先住民を武力等によって征服して行くという形では無かった事が遺跡から証明されている。

専門家の研究によっても、古代に日本列島が中国、朝鮮半島からの騎馬民族や渡来人によって武力的に征服されて、土着の信仰、祭祀行事、言語等が途絶えた形跡は無いと言う事も検証されている。

参考までに島貫基久氏による古代の人口推計を紹介しておこう。紀元前4世紀頃の日本列島の人口は60万人程で、その殆んどが東北地方に住む縄文人だったと言う。紀元2世紀に入ると九州、近畿、中国、そして四国地域に弥生人が入り、日本列島全体の人口は略、倍近い110万人程に増え、奈良時代の750年頃には近畿地方の人口が急増して日本列島全体では540万人になったとしている。

奈良時代の人口構成は、考古学的検証からは、九州並びに西部の日本に弥生人が移り住んで来て、東海、中部、北陸、関東、そして東北地方にかけては弥生人よりも縄文人の比率が圧倒的に多かったものとされている。

こうした検証からも、古代日本列島に、弥生人が稲作技術を持って朝鮮半島を経て、九州、中国地方に入って来たのであろうと言う事が分る。弥生人は、鉄製農具など金属文化を持っていたが、武力による征服という方法ではなく平和的に日本列島に移り住んで来た。
稲作の道具の発展状況も近畿以西に比べると、東海、中部以北地域は遅れていたのでは無かろうかと推定されている。

(2)古代日本列島の支配者は誰か、隣国による侵略はあったのか

日本列島に漸く農耕が始まり、所謂、弥生時代に入った紀元前400年の頃、中国には、”孔子”と言う大思想家が既に活躍して居た事、又、中国の多大な影響下にあった朝鮮半島も、遥かに先進国であった事を改めて認識して置こう。この頃、日本列島には、まだ文字文化が無い時代で、何の記録も存在していないが、中国並びに朝鮮半島には日本列島に関する記録が残されており、それによって、古代日本国の統一、創建に至る状況を推論する事が
出来る。

最も古い記述は古田武彦氏などが主張している後漢時代の王充の著“論衡”(AD紀元後90年頃)に既述されているものだと言う説だ。

学会ではこの説はマイナーであるが、“論衡“は著名な書物であり、王充も有名な学者であるからここに書かれた”倭人“を果たして日本列島からの”倭人“と同一の人達を指すのか否かで意見が大きく分かれているという事である。

ともあれ、“論衡”に拠れば、時代は大きく遡って、紀元前10世紀頃、古代中国の”周”の成王の時代と言うからBC紀元前1025年~BC1005年頃に”倭人暢草を貢す”と言う記事が見られると記しているのである。

暢草とは一種の香草で“縁起物”として周時代の天子達が飲んだとされるが、この頃の日本はまだ縄文時代であり、稲作もまだ伝わっていない時代にそうした香草を周の天子に献上するとは考えられないし、紀元前1000年の大昔の日本列島にそうした事を行う何らかの国の様な形が存在していた事も考えられないとするのが主流の考えである。

いずれにせよ、これだけの情報であり、又周時代の通貨が貝塚から出土する事など、考古学的検証も加えられてはいるが分らないのが現状である。日本列島に人類がこの時代に住み着いていた事は確かであるので、“群落程度”のものは形成されていた状況であったのであろうと言うのが定説である。

二番目に古い日本列島に関する記事は、漢書地理誌の”楽浪(現在の平壌付近)海中に倭人あり、分かれて百余国。歳時、謁見”と言う有名な記述である。これは紀元前17年の日本列島の様子を書いた記事とされる。  まだ、百以上の小国家に分かれた状態ではあるが、徐々に国として統一されようとする段階にあった事は記事から推察出来る。

三番目に古い記事は、さらに80年程時代が進んで、後漢書の記述となる。 紀元57年に”倭奴国王、後漢に貢献。(光武帝から)金印賜綬”の有名な記事である。
  
この記録については私が中学生の時に 学校の歴史教科書で習った記憶がある。江戸時代(1784年)に甚兵衛と言うお百姓が偶然水田耕作をしていた時に金印を発見したと言う事である。場所は現在の福岡市東区志賀島だとされている。
  
この頃、”奴国”が当時の日本列島を代表していたのだと言う説の論拠を与える極めて説得力を持つ後漢書の記事とそれを裏づける金印の出土であった。

これについても偽造説だとか諸説があるが、 少なくとも”奴国”の国王と称した当時の日本列島を代表した”王”が居た事には違いない。金印は中国王朝がそう簡単に与えるものでは無い。圧倒的に“銅印”であったらしい。“銀印“ とか金メッキ印ですらほんの僅かだと言われるから、”奴国の国王“に与えられた”本物の金印“は稀有だと言われている。

漢時代の中国の天子から“夷蛮の国王“に”金印“が与えられたのはこの他の例としては当時は”夷蛮“の国とされていた雲南省の”嗔王(てんおう)“への金印しか無いのである。

後漢(西暦25年~西暦220年)の初代皇帝である光武帝(在位25年~57年)から貢献を認められて金印を与えられたと言う事であるから、この”奴国”はそれなりの力を持った国だったと考えられる。 2012年の5月に奴国があったであろうとされる志賀島(しかのしま)に行った。福岡空港から車で1時間程の距離で美しい島に到着した。金印が発見された場所も訪ねたがこの朝鮮半島に極めて近い地点に立ってみると、日本と言う国が、古代から中国、朝鮮半島との外交関係に腐心と苦心を重ねて来たのであろうという事が想像される。

詳しくは後述するが、7世紀に入って日本は律令国家としての歩みを始めた。そして、まず急いで整える必要があった事は朝鮮半島、そして強大な中国王朝に対する国防であった。その施策の一つとして、この志賀島こそが防衛拠点の一つであり、万葉集で多くの歌が乗せられている”防人”が多く駐屯していた島なのである。

志賀島のすぐ西隣にある能古島(のこしま)も同じ目的で防御の島となった地点である。

 第38代天智天皇の時代に百済再興の為に行った“白村江の戦い(663年)”で唐、新羅連合軍に大敗した事をきっかけに防衛に対する危機感は高まり、防人の制度が増強されたのである。防人の制度は646年に始まり、826年に廃止されるまで180年に亘って続くのであるが、島国であり、海岸の防衛線が非常に長いわが国の為政者が、古代からいかに日本列島の防御に腐心して来たかを実感する事が出来る史跡であった。

周辺諸国からの侵略に対する防御の為の極めつけの遺跡が、二度にわたる元寇(文永・弘安の役)に対する防御壁跡、そして多くの蒙古兵士を捕らえ処刑した時の首塚などが残る史跡も訪問した。

当時(1274年)の元寇では壱岐、対馬はすでに蒙古・高麗連合軍によって占領され、嵐が来なかったならば本当に日本は中国の元王朝によって本土に上陸され、征服されたであろうと実感させる史跡である。

さて、古代日本の統治がどの様に進んで来たのかについての検証に戻ろう。
古代日本について書かれた四番目の記事としては、同じ後漢書の東夷伝に書かれている紀元107年の記事である。”倭国王師升等・・生口百六十人、願請見”と言う記事である。
学者の間ではこの一行の文章の解釈をめぐって、種々の議論があるが、此処では戦争捕虜とか、奴隷の様な人間(生口)を160人も献上したと言う記事からも、”奴国”以上に勢力を持った”倭国王”が上述の“金印を下された記事”から50年後に出現していたものと推定出来る。
しかし、最後の”願請見”と言う文章からは、この”倭国王師升(等)”は160人もの捕虜を後漢の王に献上し、倭国王としての正当性を中国王朝から認めてもらうべく、”金印”を要求(願請見)したのだが、貰う事が出来なかったという解釈がされている。
上記した様に“金印”はそう易々と賜る事が出来ない事がこの記事からも良く分かる。

この”倭国王師升(等)”は別の記述には”倭面上国王師升”とあったり”倭面土地王師升”とある事から、一体何処を統治していた”王”なのだろうかの推論があれこれされているが、類似の地名が今日でも残っている事などから、”福岡県みやま市山川町””佐賀県神埼郡吉野ヶ里町吉田” ”佐賀県三養基郡”の3説が有力だとされている。

いずれにしても、この”倭国王”も九州北部地域で勢力を持っていた大豪族であったと言う共通点がある。この国については、記紀の”スサノウの命”に結びつけたり、諸説があるが、これだけの資料からその後のヤマト王権、つまり天皇家と結びつける事には無理があろう。

五番目に古い日本列島の状況を記した記述は同じく後漢書にある”倭国大乱”の記事である。紀元後147年~189年の間の日本列島は大乱状況で、誰が統治しているのか分らない状態であったと書いている。古代日本史の研究家である澤田洋太郎氏は、筑後(現在の福岡県南部)にあった”狗奴国”が強大になり”奴国””面上国”その他諸国に戦闘を仕掛けた為、九州地区を中心に、日本列島は大乱状態に陥ったものと推定されるとの説を展開している。

多くの国がその難を逃れる為に東方に移動したと言う説は、考古学的には弥生式遺蹟が三世紀以降、急に九州東部に多くなったとか、記紀の神武天皇の東征の話に結びつける学者もいるがいずれも古代日本列島統一の決定打とはなっていない。

六番目の記事が、後漢書に残る西暦172年頃にこうした大乱状態の日本列島を邪馬台国の女王卑弥呼が収めた、と記したものである。
”倭国乱れて相攻伐する事、年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と日う”と言う有名な記事である。

女王卑弥呼の名前は有名であるがここで重要な事は ”共に~立てて”と言う文面であろう。当時、大乱状態の日本列島を収める方法として、諸国が平和裏に話し合いによって”邪馬台国の女王卑弥呼”を倭国の王として共立した”という。古代日本列島に特異な”倭王選び”のシステムがあった事が記述されていると言う事が重要なのである。
この事によって、当時の日本列島には、まだ圧倒的な武力によって大乱を納め平定するという大勢力が出現していなかったと言う事が分ると同時に呪術を能くする、しかも女性を話し合いで”倭国”を代表する”倭王”として決めると言う、”共立”というシステムがあった事が分るのである。

七番目の記事はこれも”卑弥呼”の記事であるが、後漢が滅び、魏、呉、蜀の三国時代となり、三国志の中の”魏志倭人伝”に出てくる記述である。卑弥呼が西暦238年に魏王朝に遣使して”親魏倭王の称号と金印紫綬を授与される”と言う記事である。

卑弥呼が最初の記事に現れてから、66年後の記述であるが、若くして”共立”され、且、長命の女王だったとすれば、不可能な事とは言えない。この倭人伝には当時の日本列島には20余国と書いてある。漢書地理誌に書かれた”分かれて百余国”と言う状態から日本列島が纏まって統治されつつあった事が分る。

さらに邪馬台国女王卑弥呼と魏王朝との交渉関係の記事は卑弥呼が西暦248年に死亡するまでの間に5回出て来るが、いずれも当時の邪馬台国と魏王朝との関係が分る貴重な記述である。仁藤敦史氏の説によれば、当時”卑弥呼”が共立された要因は卓越した宗教的な資質と共に、当時の農耕生産の面でも、又、武器確保と言う面でも、鉄資源確保が重要であり、九州以東の諸国が結束する必要があった。その為の外交ルートを一本化する為の窓口として邪馬台国が”倭王”として共立されたのでは無いかとしている。いずれにしても大切な事は、こうした記事からも、当時の日本列島には列島内の諸国を武力で制圧し、統治する強大な勢力がまだ現れて居ないという事にある。

この事は、邪馬台国の女王卑弥呼は”共立”されて”倭国王“となったと言ういわば”脆弱“な王権であった為に、国内的にも後ろ盾として中国の王朝の権威が必要であり、”倭王として朝貢“していたという事であろう。中国への朝貢によって卑弥呼としては魏王朝から”親魏倭王”の称号をもらう事、“金印そして銅鏡”を与えられる事が重要だったのである。
それらは”威信財”と呼ばれ当時の”倭王”にとって、国内での自らの権威、権力の維持拡大にとって非常に重要なものであった。

日本の教科書にこうした古代日本列島の状況を詳しく取り上げない理由を専門家から聞いた事がある。それは”きちんとした裏付けとなる日本の書き物、などが無い限り中国、朝鮮半島の書類から日本の古代史として決め付ける事は出来ない”と言う理由であった。
もしそうだとすると、日本の教科書で古代史を歴史として詳しく取り上げる事は今後ともほぼ無いであろうと言う事になるのでは無いだろうか。

繰り返すが、この時代の日本にはまだ文字が一般的に導入されていない“文字文化導入前”の状態の国だったのであり、従って日本人によって書き残された記録などは存在し得ないのである。日本に文字が入って来たのは百済からの渡来人である王仁(わに)によってだと伝わる。日本書紀に王仁の記述があるがそれに拠れば王仁が渡来したのは第15代応神天皇の時代だとあるから4世紀頃の事となる。

文字文化が彼によって導入され、それが日本列島に普及するのはそれから更に後の事であるからそれ以前の日本列島の古代史について、記録があるとは思えない。
教科書に載せる歴史とは文字による記録を主たる資料とするならば、日本の教科書が1世紀から5世紀頃の日本列島の歴史について取り上げる事は現在も殆んど無いが今後も難しいと言う事であろうか。従って学校の歴史教科で取り上げる1世紀から5世紀頃の日本列島の古代史は殆んどが考古学的アプローチに拠るものとなっているのはこうした事情に拠るのである。日本の学生が文字導入前の古代史について辛うじて、歴史学として教科書から学べる範囲は、考古学的裏付けがあって尚且つ木簡なり竹簡なり何らかの日本人による書き物が得られた範囲と言う事になってしまうのは問題である。

八番目に出てくる重要記述はこれも又、魏志倭人伝の記事である。”卑弥呼以て死す(西暦248年)あらためて男王を立つ。国中服さず、こもごも相誅殺する事千人。また卑弥呼の宗女台与、歳十二を立てて王となす。国中ついに定まる”と言う内容である。邪馬台国は女王卑弥呼が死んだ後に男の王を立てたが、内乱状態に陥ってしまい、そこで僅か12歳の卑弥呼の親戚にあたる女性を王にすると国が治まったと言う記事である。この”台与”も呪術的な能力に長けていた様である。

倭人伝の記事によると当時の倭国の身分階層は ”大人-下戸-生口”の順番となって居り、支配層の”大人”が行う紛争解決の方法は軍事的手段であった。これでは行く行くは共倒れになってしまうと考え、こうした状況を回避する為には”大人を超えた権威、つまり宗教的な資質を有した者を王にする必要があった。従って”卑弥呼”そして続いて”台与”が”共立”されたという事である。

西暦265年に邪馬台国の”女王台与”が魏を継いだ西晋(265年~311年)に遣使をしたと言う記事があるがこの記事を最後に、この後、一世紀以上の間、倭国に関する中国の正史の記事は無い。邪馬台国はこれ以上の国としての拡大は無かったものと考えられる。

当時の”国”がどの様な状態であったかを知る為に、福岡空港から車で2時間程の佐賀県にある吉野ヶ里遺跡に行った事がある。弥生時代(紀元前5世紀~紀元3世紀)の3世紀前半の集落跡を再現した極めて大規模な史跡である。

周辺のムラを含めて5400人の集落の跡だと言うから、当時の日本の推定人口が110万人程(島貫基久氏)からすると極めて大きな集落である。この集落の”王”は相当に力を持った人であり、当時日本列島に多数存在した一つの”国”の様子を見る事が出来たと思っている。

弥生時代に入って、稲作が渡来人からもたらされると農耕の為の鉄はじめ金属機具によって生産性が高められ人口も飛躍的に増加して行ったが、武器類も多様になり、農耕地を巡っての争いも増えて来たと言う。吉野ヶ里遺跡でも外敵の侵入から守る為の堀が巡らされ、10メートル位の高床式の物見櫓がいくつも建てられているのを見る事が出来る。

兵士の詰め所、穀物の倉庫、王や支配層が住む地域、祭祀を執り行い、そして会議を行う主祭殿があり、中国王朝から下賜された銅鏡などを使って、祭司がうやうやしく、田植えの時期や、刈り取りの時期などを伝えていた様子が良く分かる遺跡である。
全体で福岡ドーム 6個分の広さの集落遺跡には物見櫓、倉庫、一般の人々の居住地も区分けされていて、3世紀前半にすでに支配する者と支配される者がはっきりと分れていた様子が分かる。 この時期には集落と言うよりも規模が大きくなり、国としての運営がなされ、人々はそれぞれの役割を分担していた様子が分かる。
今から2000年も前に、ある程度の国の機能と形態がすでに整い始めていたのだな、と感心させられた吉野ヶ里遺跡訪問であった。

こうした古代日本列島時代から始まる小国家郡が数世紀に亘る歴史的積み重ねを経て、4世紀にはそれらを纏める強力な”天皇家”の出現によって一つの国へと統一されて行ったのであろう。

九番目の当時の日本列島の様子を知る事の出来る資料が”広開土王碑”である。

広開土王とは朝鮮半島の高句麗(313年~668年)の第19代の国王で高句麗の全盛時代を築いた王である。その彼の功業、武勲を刻した石碑で西暦414年に建立された。現在の中国の吉林省集安にある世界遺産である。その中に西暦391年の記事として下記の文面があるが、碑文に欠損がある為、内容の解釈については諸論がある。

”そもそも新羅、百残(百済)は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし倭が391年に海を渡り、百残(百済)、加羅、新羅を破り、臣民となしてしまった。”と碑文を解釈する日本の学者が多い。この碑の文面から、日本列島の大きな変化が読み取れる。つまり、邪馬台国時代から130年近く経ったこの頃になると、倭王選びは”共立”という平和的な方法で決めた時代は終り、日本列島には強大な武力を持って統一をはかり、且、朝鮮半島に乗り出すという勢力が現れたと言う事が分る日本にとっては極めて意義深い碑である。

天皇家による国内制覇が邪馬台国に代わって4世紀には始まったものと解釈できる。
古事記、日本書紀に第14代仲哀天皇の后である神功皇后の新羅遠征の話がある。この広開土王の碑の文言と神功皇后の新羅遠征の話とを関連付けて解釈する学者もいるが、史実とするのには無理がある。いずれにしても、碑文に書かれた西暦391年迄には”天皇家”による日本列島の統治が始まっていたと考えるのが、他の関連資料からも自然だと考える。

広開土王碑に書かれた西暦391年を”記紀”の記述と合わせてみると、第16代仁徳天皇の時代にあたる訳だがこの広開土王碑の文言だけでは情報が少なすぎて断定する事は出来ないが仁徳天皇の皇子である第17代履中天皇のいずれかに該当する可能性はある。

十番目の記事が中国南朝の宋(西暦420年~479年)の歴史書である”宋書の倭国伝”に出て来る”倭の五王”についての記述である。

西暦413年(倭王讃)から西暦478年(倭王武)の日本列島の五人の”王”が晋王朝(倭王讃が朝貢したとの記述がある)と宋王朝(倭王珍、済、興、武が遣使を送ったという記述がされている)に対して行った外交の状況を伝える記事がそれだ。この資料が貴重な点は、日本列島の”倭王”五代が中国王朝への朝貢なり遣使をした記事に加えて、西暦478年に五人目の”倭王武”が南北朝時代の宋(西暦420年~478年)に入貢し、且、彼の”上表文”が載せられている事である。
この上表文では日本で自分が王権を引継いだ事が記されていて、この記事から”倭王武”とは第21代雄略天皇に該当するのでは無いかと、かなりの確度で推論する事が出来るのである。
 又、この上表文に父親と兄が俄かに亡くなったという表現がある。文面に書かれた“父親”とは”第19代允恭天皇”と考えられるし、兄は第20代安康天皇という事になる。
この安康天皇は古事記には暗殺された天皇として記録されている事で有名な天皇である。
  
兎に角、125代にわたる歴代天皇の中で、暗殺されたと言う記録があるのはこの安康天皇の他には日本書紀に記されている西暦592年、蘇我馬子との確執によって殺された第32代崇峻天皇の2代だけだ。従ってこの上表文で”俄かに亡くなった”という文面と安康天皇が即位して僅か3年足らずで“目弱王(メヨワノミコ)”に暗殺されたと言う古事記の記事とが符合するのである。そうした意味でこの上表文は貴重、且つ興味のある資料である。

“倭王武“の上表文には朝鮮半島の西暦478年頃の様子も書かれている。当時の倭国と関係が近かった百済(紀元346年~紀元660年)が高句麗(紀元前37年~紀元後668年)と戦争状態にあり、”倭王武”としては宋への遣使を出したいが、高句麗軍に道を阻まれて、遣使も果せないのだという言い訳を記している。

広開土王碑文にも西暦399年に百済をめぐっての倭国と高句麗の戦いがあった事、翌400年には新羅救援の為に倭国と戦い撃破した事、さらに404年に帯方地方で高句麗が倭国軍と戦った記事などを総合して解釈すると、この時期、”倭国”が高句麗、新羅、百済に関連した朝鮮半島との戦闘を展開していたと言う事が解る。こうした史実を知る上でもどちらも隣国の資料ではあるが、日本にとっては非常に貴重な“上表文”の記述並びに“広開土王碑文”だと言えよう。

加えて“上表文”には、高句麗を退治しようと大軍を出征させようとしていた矢先に、父親(允恭天皇)と兄(安康天皇)が相次いで死亡した為に高句麗遠征を果たせない無念さを書いている。古来、日本列島の”歴代の倭王”が、大国中国に対して朝貢を繰り返し、必要であった中国王朝からの権威を獲得して来た事は上記した記録の通りであるが、この”倭王武”(第21代雄略天皇)の時代になっても中国王朝に官爵授与を認めて貰う迄、何回も朝貢、遣使を行っていた事がこの上表文ではっきりと分る事が重要である。

具体的には倭王武(雄略天皇)は宋王朝に”百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王”のタイトルを与えて呉れる様、要請していた。宋書にはこの讃、珍、済、興、武の”倭の五王”の中の記事として最初の二人については朝貢した年代などが記されている。西暦421年に最初の”倭王讃”が宋に入貢し、425年には司馬曹達を遣使した事が記されている。二番目の”倭王珍”についても西暦438年に入貢したとの記事がある。彼も宋王朝に対して安東将軍倭国王と言う官爵を正式に求めた事が記されているから古代日本の統治者が誰であったかを検証する為には非常に貴重な記録であったのである。

以上古代日本列島の状況を考古学、そして、中国王朝、朝鮮半島の記録から紹介して来た。
日本の古代史が考古学的見地からのものに制約される理由は、既述したように文字文化が普及していなかった時代の事であるからだとは何度も述べたが、上記の様に、中国、朝鮮半島の記録が残っていた事は実に幸いである。

これらの資料と考古学上の発見等から、九州地区にもたらされた中国、朝鮮半島からの農耕技術、武器、等“弥生人”による渡来文化が生産性向上による人口増加をもたらし、集落規模の拡大をもたらした一方で、豊かになったが故の争いの規模の拡大ももたらしたのである。 そして4世紀にはその覇者である”天皇家”が終に登場し、日本列島を代表する”倭王”となったものと結論づける事が出来るものと考える。

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