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2014年4月17日木曜日

第三章 日本の基礎を作った飛鳥時代の三天皇


はじめに

我々が教科書で習って来た古代日本の歴史は考古学的アプローチによる極めて断片的なものであったと言う事は前章で記述した通りである。

日本にはまだ文字が導入される以前なので、日本人自らによる記録は無いが、弥生時代後期には日本列島の九州地区はじめ近畿地方などに集落規模を超えた”国”と言える規模の集落が“存在”していた事は中国、朝鮮半島の記録から明らかである。

然しながら、日本の教科書では“中国王朝や朝鮮半島の記録を鵜呑みにした日本史“は受容出来ないと言う理由によってそうした中国の歴史書などを基にしたわが国の建国論は認めず”考古学のアプローチによる裏付けがあった場合にのみ、そうした中国王朝、朝鮮半島の記述による日本建国に関する議論を受け入れる“という姿勢であった。

従って、古代日本列島の歴史、日本という国の創設期に関わる歴史の学習は極めて断片的に教えられて来たのである。日本国の建国に関わる歴史、日本国創建期の歴史は、学童(小学生)生徒(中学生)、学生(高校・大学生)どの時期を捉えても、教科書で学べる“日本の古代史“にはストーリー的面白さも無く、周辺国との関係にもあまり触れる事も無く、勿論古事記、日本書紀が記述している内容と中国の歴史書等に記述された事との比較、因果関係に検証を深く行う教科書などは用意されて居なかったのが私が学生であった1960年代までの教科書の状態であり、それは今日でも基本的に変わらないと言われている。要するに日本建国に関する歴史教科書の記述内容は”考古学の域を出ない極めて無味乾燥“なものなのである。

従って日本建国に関する諸説、そして“定説“を教科書で学ぶ機会を一般の学生が得る事は無いが、専門家による古代日本の歴史に関する著書は多いし、当時の周辺国の状況を知る事の出来る書物も多い。古代日本が創建されて、奈良、平安時代へと今日の日本のあらゆる事象がそうした歴史との繋がりを持って来たのだと言う事をストーリー性を持って知る事が真に日本という国を知る上では大切だと考えるのである。

そもそも私がグローバル化する世界を目の当りにし、“日本と言う国、国民の特異性”について後輩の為に書き残して置く事の必要性を感じた理由を記して置こう。
私はシカゴ駐在時の1995年に日米協会で“赤穂事件”、一般に“忠臣蔵”として知られる日本人の間で最も人気のある“史実”について講演をした。この時の米国人の反応は意外なものであった。日本人には美しい忠義話も米国人は全く違った観点から、全く違った歴史背景から観るし、日本では英雄である赤穂47士の行動に対して批判的な意見さえも聞かれたのである。こうした経験から、この赤穂事件を主題にしつつも、話を敷衍して“日本人の考え方の特異性”そしてその後の“日本社会の経済面を含めた成長”にもこの赤穂事件の影響が少なからずあった事を記述するに止めようと思っていたのである。

然しながら、いざ赤穂事件並びにそれ以降の日本社会の動きについて記述するにつれて、世界の国々と比較して明らかな特異性があり、その拠って来たる背景を誰もが納得出来る様に記述する為には日本の建国期の事から記述しない事には不可能だと考えたのである。
結果、古代から現代までの“通史”的記述に拠って“日本の特異性”を論ずる事になったのである。

歴史には必ず起承転結的な繋がり、関連性がある。日本の場合は既に何度も述べた様に世界でも稀有な他民族、国家に拠って征服された経験の無い“継承の歴史”がある。
従って国の原点である“日本国の創建期の歴史”がとりわけ重要だと考えるのである。
だが、既述して来た様に中国、並びに朝鮮半島諸国に残る歴史書の中の記述、史跡に残る記述だけを鵜呑みにして日本建国期の歴史教科書を作る訳には行かないと言う理由から“日本国の建国に関する教科書上の定説”は無い状態である。しかし、教科書に載せる様な定説は無いが、優れた論文も多いし、説得力のある建国論も多いのではある。

逆に日本にはまだ文字文化が無い時代の事であるだけに、学説と称する物、著書の中には裏付けは勿論、論理性に乏しい”言いっ放し”的な、奇をてらった説も多い。“受けを狙っただけ”の無責任な説を展開する歴史家も散見される。この様な状況であるから、学校側が“定説”として国の教科書に取り上げる事が出来ないと言う事情も分るような気もするのである。

だが問題もある。こうした国として定説の無い状態の日本の建国の歴史は、結果的に人々の日本の建国の歴史に対する関心を失わせ、日本の古代史、ひいては歴史全体に対する軽視という社会現象を招きかねない。

為政者による国内諸問題への対応には勿論正しい歴史認識が不可欠であるが、グローバル化する世界情勢の下では、説得力のある海外諸国を含めた歴史認識、隣接諸国を始め我が国の諸外国との接触に関する史実知識を積み重ねて置く努力無しには複雑化する外交問題には到底対応出来ないのが今日のグローバル外交の基本だと思う。

2013年時点で大きな問題となっている中国との尖閣諸島問題や韓国との竹島問題、文化遺産問題等のややこしい外交問題はグローバル化の進展によって、今後はますます日常茶飯となるであろう。その点からするとグローバル化が密になり、外交問題の内容も多岐に渡るであろう今後は、歴史的な経緯、事実を政治家が熟知し、しかもそれらを適宜、説得できる方法を駆使して、且つ、滔々と述べる事が出来るか否かの能力が国の外交力に大きく影響して来よう。

浅薄な為政者が例えば中国や韓国との外交交渉において、全く説得力の無いその場限りの主張、確認されている関係史との整合性を全く欠いた稚拙な外交対応を万一にも犯せば、それはわが国の国家百年の損失となり兼ねない、取り返しのつかない事態に繋がる。
そうした観点から、“歴史学”は之までのどの時代よりも重要な学問、必要知識に位置付けられる今日なのである。

今日の私達、並びに為政者が史実から外交交渉の巧拙によって日本が結果としてどの様な道をその後歩んだかを学んで置く事は重要である。その事例を後段でも紹介するし、別の章を設けて紹介もする。

要は、ますます複雑化するグローバル化時代の外交交渉は之までの歴史の事例と同様に難題であるが“国益”を守ると言う観点からも重要な事は、先ずは“古代日本創建の精神、状況”を学び、共有化して置く事がそのベース知識となろう。

そして、その後の歴史への展開、必ずある因果関係の把握が必要である。その上で、現代に至る迄の国内の歴史、関係した諸外国との歴史を“日本通史”として学び、必ず歴史上の前後の関係の整合性を学んで置く事である。その上で今日の状況との因果関係を確りと捉えておく事が歴史を教える側としても重要なPointだと思う。
グローバル化時代の一般人にとっての“日本国の歴史“とは”ある時代部分に精通する”よりも今日の日本の社会状態、現象等についてその理由、根源について説明が出来る“日本通史”の知識がより有用であり、ある程度のレベルで日本人全体がそうした知識を“共有”している事こそが大切な時が到来したと言えよう。

私も”日本の通史”を知って置く事の必要性、重要性を海外に長く関与しただけに強く感じた一人であり、その経験を踏まえて少しでも後輩諸君のお役に立てればと思って、この“日本の特異性、その拠って来たる処を知る為の日本の通史”を記述する事となったのである。

古くからの諺に”愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ”とあるが、多少歴史を学ぶと驚く程古代日本の為政者の考えて来た事も、現代の為政者が直面している諸事も、根っこには大きな差が無い事に気が付く。今日のグローバル化はIT機器やメデイア網の発達でその速度、密度、頻度、浸透度、そして影響度において世界を大変革しつつある。しかし“グローバル化”と言う現象は何も我々現代人だけが経験している事ではないのだ、という謙虚な気持ちを持つ事が大切である。

類人猿の時代からかなり長い時間を経過してほぼ現在の人類に進化してから約7万年と言われている。その起源は現在のアフリカ大陸と言う説が主流であるが、この間に集団化が進み、夫々に分かれた集団は拡大を続けると共に移動も続けていたと言われる。起源のアフリカ大陸を振り出しに人類はインド、中東、中国、ヨーロッパ、オーストラリア、そしてアメリカ大陸へと世界中に移動を続けたのである。夫々の地域で夫々が適正を育みながら進化を遂げ、次第に夫々の地域で農耕に拠る定着生活と支配、従属関係を生じた社会集団を作り上げ、それが“国家”規模へと次第に成長して行ったという極めて大まかな歴史である。

拡大と移動を続けた人類が他の集団と遭遇するのは必然の事であり、その時点の、夫々の集団にして見れば、異民族、異文化との遭遇であり、その時点での“グローバル化”であったはずである。

従って“グローバル化”と言う言葉が今日の我々だけが経験している全く未経験の、新しい現象だと考える事が大きな誤りである。“グローバル化の波”は古代から地球上のあらゆる場所で常に起きていた現象であったと考えるべきなのである。

島国であるとは言え、中国、朝鮮半島とは隣接状態にあった“古代日本”もそうした”グローバル化“の波の影響を常に受けながら、対応し、その為の社会組織、ルール、等、絶えず変化を繰り返して来たと言う基本認識を持って歴史に向かう事を忘れてはならない。

“グローバル化”が世界人類70億人ベースで、濃密に展開される今日だからこそ、日本国としての“通史”は勿論だが、少なくとも隣国諸国との関係史については、日本の太古時代から今日に至る迄の最低限の正しい歴史知識、認識をなるべく多くの日本人が“共有”する必要がろう。日本の建国からの歴史、隣国との関係史に関する知識は之までの様に特定の歴史専門家とか、歴史にロマンを求める歴史愛好家だけが知っていれば良いという時代は過ぎた。

日常、グローバルに世界の人々とBusinessを展開する人々、旅行者として世界の人々と接する人々、世界からの来訪客を日本で迎える人々、文化面で世界の人々と接する人々等、立場は夫々に異なっても、今日すでに、そして今後はますます、我々日本人の一人一人が多かれ少なかれ“グローバル化”の波に対応せざるを得ない時代なのである。
今日の様にはグローバル化が日常的でも無く、濃密且つ急速で無かった時、又、生まれてこの方、ずっと日本を離れる事も無く“日本の特異性”の壁の内側だけで過す事が出来ていた時代には“古代の日本が如何であったか”とか“日本国の創建当時の様子、精神は如何であった”とか“対外関係に当時のリーダー達がどの様に腐心し、対応して来たのか”等は日常生活にはどうでも良い事であった。ましてや日本の歴史は今日では”世界最古の国”と言う誇るべき”ブランド“を持っているのであるが、既述した様に”建国当時の古代日本の歴史は神話から始まったり、文字文化が無い時代の話であった為に史実としての裏付けは中国の史書に記述された事や史跡に残る記述しか無いと言う理由から、教科書では日本人全体が定説として共有する事も無かった。

結果的に今日までも日本の建国の歴史に付いては”分りもしない古代国家の歴史などは専門家と考古学者のロマンに過ぎないのだから彼らに勝手にやらせて置けば良い事だ”と言う風潮で通り過ぎて来たと言う事情があったし、反省があるのである。

日本の国として共有する建国当時の日本の歴史についての定説が無い事が、専門家と言われる人々の間での諸説紛々と言う状況を生み出している。ある学者は”言語学の視点”から、ある学者は”文化人類学の立場”と断りながらも極めて特異な日本の古代史論、建国論を展開している。結果的に日本の太古、建国の歴史は今日迄天皇家が厳然と継続し“同じ国体”が維持されて来ているという”世界最古の国”と言う事だけは認めながらも、肝心な“建国の精神”“建国の経緯“についてはいまだに百家争鳴状態であり、共有された”定説と言うものが無い状態“に変わりは無く、勝手な自論展開が盛んな状態なのである。

ところが上記した様に今日では状況が変化して来ている。我々国民一人一人が何らかの事情で世界と接触せざるを得ないという状況に晒されているし、2020年に確定した東京オリンピックの開催が近づくにつれて、ますます世界の人々は日本と言う国に注目して来よう。世界最古の国“日本”については世界中の人々から多くの疑問、質問が浴びされよう。そうした時に”自国に就いて語れない”という極めてお粗末、且つ、自分としても情けない状況は避けたいものである。

日本の建国は神話の世界から始まったとする古事記、日本書紀をそのまま説明して之が日本の“建国の歴史”だと世界に説明する人は居ないであろう。誰でもが納得できる“日本建国までの推移、其の中で登場する天皇家による統治の始まりと経緯”について、日本人、日本国として共有できる“定説”作りはグローバル時代の日本の国としてそろそろ必要なのではなかろうか。勿論推論の域を出ない事は百も承知の上での“定説の共有化”に留まる話である。私としては、一級資料、史跡、学説を総合しての整合性、その他から前章に纏めた様なストーリーで日本建国の歴史を理解するのが今日段階でのデータからは説得力のある、妥当な“日本建国期の歴史”だと思っている。今日段階ではこのストーリーで世界に伝える事に大きな間違いは無かろうと考えている。

日本の太古からの歴史は余りにも昔の事であり、今日の状況と結びつかないと割り切ってしまって、若者はじめ殆んどの人々古代史に対する関心が薄いと言う状況は残念な事である。前章で述べて来たように相撲一つをとっても太古からの歴史があり今日まで国技として残っているのにはそれなりの理由がある事を我々日本人としては忘れてはならないのである。

世界最古の国であり、異民族国家によって突如征服され其れまでの歴史、文化の連続性を奪われた事の無い日本の歴史には必ず連続性があり、因果関係がある。それらは今日まで何らかの形で繋がって来ており、逆に今日の状況を辿って日本の古代の歴史に繋げる事が出来ると言う楽しさがある。従ってグローバル時代のBusinessManの話題の一つとして、今日の状態から日本の古代の歴史を説明出来る事も可能で、有用なコミュニケーションTooLとなる事もあろう。相撲に限らず例えば茶道にしても能、歌舞伎、これらの話題から日本の古代国家創建の話に繋げる事は幾らでも可能なのである。

今日では多くの人々が海外生活を体験する様になり、否が応でも“世界の中における日本人”という立場を意識せずには居られ無くなって来た。海外駐在をしたBusinessManが例外なく口にする事は”日本人でありながら日本の事を知らなさ過ぎた”と言う反省である。
世界の人々から見れば日本と言う国は天皇制と言う国体を少なくとも1700年以上に亘って継続している稀有な存在である。さらにその長い歴史上、国と言う体制が整ってから一度も外国の王朝、民族によって征服された事が無い為、他国には無い支配階層から一般庶民にまで浸透した社会倫理、共通した考え方を非常に長い時間をかけて醸成するという事が出来た国なのである。
 
その結果、日本固有の文化が一人一人の日本人に染み込むと言う状況を作り出した訳であるが、国全体の規模でこうした古い文化を維持して来ているという例はこの地球上の国であまり無い。海外の人達が日本に来るとこうした“特異な文化の匂い“がするのであろうか。 ”日本と言う国は何かが違っている”と言う印象を強烈に与える様だ。しかし日本の中にどっぷりと浸かっている多くの日本人はそうした特異性には当然の事ながら気が付かない。今日では大分薄らいで来たとは言うものの日本人に浸透した社会倫理、共通した考え方の代表例として”忠誠心””義理””武士道”と言う倫理観の匂いが海外からの人々にはするらしい。

これ等の歴史的根源については後の章で記述するが、例えば通常我々日本人が持っている“倫理観”も非常に長い時間をかけて“日本流倫理観”として育成され、日本人全体に醸成された“特異な“ものであるらしいのである。

今日流の“グローバル世界”に生き、そして今後も生き続ける我々日本人として、最低限の
“日本の歴史知識”は之までとは比較にならない程重要だと記述した。日本の途轍もなく長く、膨大、且つ複雑な歴史の中から、私の70年の人生経験、10年の米国駐在体験、今日も続く50年近くに及ぶ私の“グローバル化”体験の中から、今後の日本を背負い、今後のグローバル世界に向う後輩達に役立つと思う事柄をPickUPして紹介する事がこの著作の役割だと考えている。そしてこの著作から日本の史実を知って貰い、“日本の特異性”とはどの様な事柄であり、その拠って来たる処の歴史を紐解き、それらが、どの様に醸成され、今日迄引き継がれて来たのか等を理解してもらう、その一助になれば幸いと考えるのである。

例えば日本の”宗教”も長い時間をかけて日本独特のものとなったという事を紹介しておこう。仏教は第29代欽明天皇の時代に百済の聖明王から伝えられたが、いわば外来物の仏教を保護しようとする新興の勢力、蘇我氏とこれを阻もうとする物部氏の勢力争いが起こり蘇我氏が勝利した。仏教は推古天皇の時代に入ると、摂政として政治を任された聖徳太子と時の豪族の頂点に居た蘇我馬子によって保護をされ隆盛を極めて行く。

日本と言う国の特異性であろう、日本に渡来した新興の”仏教”をもその後長い時間をかけて日本固有の”神道”と習合(異なる二つ以上の教義などを折衷する事)させて仕舞うのである。飛鳥時代を経て奈良時代となると仏教はますます隆盛を極め、平安時代に入り、”本地垂迹説”と言う日本独特の神仏習合思想を生み出す。仏、菩薩が本地(これを本地仏と言う)であって人々を救う為に神の姿となって現れる(垂迹)と言う考え方である。

こうした宗教の考え方は仏教自体がインドで興った時にヒンズー教からも沢山の神を入れていた例があるので決して日本の“Original”とは言えないかも知れないが、紆余曲折を経て、最後には“神道”側が妥協した格好となって“本地垂迹説”の下に日本的“神仏習合”という形になった歴史である。

海外の宗教の例では、排他的、一神教的なケースが多く、日本の“神仏習合”の例では日本の各地では先行していたはずの“神道”側が良くぞ後発の“仏教”を受け入れたものだと誰しもが思う流れなのではなかろうか。

日本古来の神道には、”万物に八百万の神が宿る”と言う考え方であり、万物を等しく崇拝する。従って“神道“には元々教義も無く教祖も居ない。神道と仏教が”習合“した本地垂迹説こそが”日本の特異性”である”和の精神“の代表格であるとも言えるのであろう。
明治初年の”神道国教政策”によって神仏が分離され、“本地垂迹説が消滅”するまでの約1000年間もこの宗教面における“和の精神”は定着し、続いたのである。

私達日本人は慣れてしまっているから不思議とは思わないが海外の人達は節分の”豆まき行事”が成田山で行われる一方で各地の神社でも行われたり、七五三のお祝いが同じようにお寺で行われ、又神社でも行われる事に首をかしげ、必ず質問をして来る。
“まめまき行事”も本地垂迹説から来ている1000年以上の歴史から醸成された“和の精神”に基づく日本文化の“特異性”の一つの例なのである。

熊野古道で有名な世界遺産でもある熊野三山を訪ねた事がある。速玉大社、那智大社、そして本宮大社の順に参詣した。那智の滝に感激しながら熊野大社を参詣した後に、その大社のすぐ横に立派な寺院があるのには驚いた。この寺が”熊野青岸渡寺”である。
これこそが本地垂迹説に基づく“神仏習合の典型”を観る事の出来る代表的観光スポットだと言われている。

日本古来の神道と渡来の仏教とを習合させた”宗教”はこうして以後1000年以上の時間をかけて日本独特の“仏教”として、そして“神道”として”日本の文化”の中で醸成されて行くのである。日本がこの間に異民族国家によって征服されたとしたら、こうした二つの宗教の”習合”と言う流れはその時点で途切れていた事であろう。
異民族国家の征服を経験しなかった事があらゆる面での日本民族のこうした”鷹揚さ”を育くみ続けて来たのだと言えよう。

この日本民族の“鷹揚”さ“和の精神”が世界の宗教上でも珍しい日本流の”本地垂迹説”を誕生させその後1000年以上もの間、紆余曲折を経ながらも続いて来たのであるが、こうした流れは、世界最古の天皇家という国体を少なくとも1700年以上、同じく紆余曲折を経ながらも維持して来ていると言う史実にも通ずる事なのである。

こうした2、3の例をあげただけでも日本と言う国は”特異”な国なのであろうし、こうした例が幾らでも挙げられる訳であるから、初めて日本を訪れた海外の人々には成田空港や東京駅に到着した瞬間に“特異な国”の匂いが紛々とするのであろう。

私は10年以上のアメリカでの駐在経験、仕事上での各国の人々とのお付き合いの経験が比較的に多く、日本と言う国を海外との比較で見る事が出来る日本人の一人であるかも知れない。

まだ外国駐在を経験していない若い人々から”日本を出てグローバルに活躍する為には何を勉強したら良いですか?”と聞かれる事が多いがそうした場合の答えは、”コミュニケーションの道具としての外国語は必要であるが日本人としてのアイデンテイテイーを発揮しないと相手にされないから日本の歴史知識と日本固有文化に関する何か一つでも身に付けて置く方が良い”とアドバイスする。

一方で、相手が話題にもしていない時に、又は果たして興味を持っているかどうかも分からない時点から日本の事を一方的に喋り出すのは危険であろう。これはBusinessTalkをする場合にも鉄則である。

まずは相手の国の歴史とか、会社について事前に勉強しておき相手の話から聞くという
”聞き上手”の姿勢から始めるのが人間関係の基本でもあり、グローバル世界でも同じ事である。日本人の考え方、文化は世界から見ると“特異な点”が多いから、まずは相手の話を聞いたその上で考え方の違い、差などをお互いに指摘し、交換しながら楽しく会話を進めると相手もこちらの話に興味を持ってどんどん乗って来る場合が多い。

こうした基本を守りながら慎重に話題なり意見を交換するようになれば相手も日本との違いに興味を深めながら自分の話をさらに切り出して来るものだ。この様にして自分を理解してもらいそして相手に対する知識を大きく増やしてゆく事が“文化、考え方が大きく違う可能性のある海外の人々”とのCommunicationを開始する場合の最大の注意点なのである。繰り返すが日本、日本人の文化、社会倫理、考え方には“特異”な点が多いのである。いきなりまくし立てて相手をびっくりさせてしまってそれ以降のコミュニケーションの一切が断絶してしまい兼ねない危険は避けたい。

相手も日本の歴史、文化に興味を少しは抱いているはずだ。幸いにして日本の歴史は気が遠くなるほど長いし、話のネタはいくらでもある。又、文化にしても日本の文化は時間を永く掛けて醸成され、“特異”で奥深いものが多い。文化の中にも外国からの影響を受けたものも多い。そこから時間を掛けて”日本独特”なものになって来たものも多い訳だ。こうした面からも話の”ネタ”には事欠かないのである。要はその場の相手の関心度に合わせてどの時代の如何いう史実紹介が話題として相応しいかを選ぶ事が大切だという事なのである。

尖閣諸島問題、竹島問題等、日本の離島の領有問題がこれからの世界エネルギー資源獲得、漁業資源獲得、海底鉱物資源獲得、各国の防衛問題との絡み、さらには環境問題との絡みも含めて我が国にとって、ますます煩わしく、且つ極めて重要な外交上の課題になって来よう。こうした尖閣諸島、竹島問題を含めた外交交渉、紛争解決に歴史の知識を以って見事に解決した事例がある。

幕末から明治維新にかけて大活躍した人物の一人に長州藩の高杉晋作が上げられる。1864年の8月に英国、フランス、米国、オランダの四カ国連合艦隊が下関砲撃を行い長州側が破れ砲台が連合国に占拠された。和議交渉が行われ、高杉晋作が長州側の交渉の全権を委ねられた。この講和会議の通訳をしたのが伊藤博文であり彼が後に残した記録がある。それによると連合国側はあまたの条件と同時に”彦島の租借”を要求して来た。

高杉晋作は他の提示条件はほぼ全て受け入れたがこの彦島(現在の山口県下関市彦島)の租借については頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせる事に成功したのである。高杉晋作は自身、かつて藩から派遣されて清国が西欧の列強によって植民地化されて行く状況を実際に見聞しており”領土の期限付き租借”とは即ち植民地化であると言う事を深く見抜いていたからである。伊藤博文はその記録で、”高杉があの時、うやむやにしていれば、彦島は”香港”になり下関は”九龍半島”になっていたであろうと語っている。

ところでこの交渉で高杉晋作はどのようにして連合国の要求を跳ねつけたのであろう。決め手は日本の歴史書を沢山持ち込み、滔々と相手に語り、説得に成功したと言うのである。高杉晋作は”日本書紀”からの彦島の由来を説き、吾妻鏡に記された平家の拠点の一つでもあった“彦島”が日本人にとって極めて重要な島である事、そもそも日本列島全体が神代の時代から一つの国として創建されていた事、従って離島を含めて日本列島国として神代の時代から成り立った一国からその一部分を切り離す事は絶対に出来ないと主張したのである。

高杉晋作の日本創建時代からの歴史観に基づいた話には説得力があり、さしもの連合国側も彦島の租借を断念したと言う話である。まさに愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶと言う事を代表した史実として我々も参考にすべき話である。

日本の古代からの身分制度の変遷、権力と権威の変遷についても大まかな流れだけは理解しておくと今日の日本の状況を説明する際に役立つ。日本の歴史は連綿と引き継がれて来ており全ての事象にはその拠って来たる歴史を辿れば必ずその因果関係を紐解く事が可能なのである。兎に角1700年以上にも及ぶ長く、膨大な歴史の積み重ねがある日本の事であるから、いくらグローバル時代のBusinessマンに“日本通史の知識は不可欠だ”と私が力説しても、2000年になんなんとする日本史の全ての時代に精通すると言う事は専門家ならいざ知らず一般の我々には不可能であるし又その必要も無いと思うのである。

”詳細に亘って記述した専門書程の内容は無いが、日本の特異性がどのような歴史過程を経て今日迄継承されて来たのかに焦点を絞り、その理解の為に必要な歴史上の関連事項をカバーする事に注力した日本通史”として書かれた著作だと理解して読んで頂ければ充分だと考えている。日本と言う国、民族の特異性を理解する為に史実から最低限知っておくべき事柄、特に海外の人々から見ると特異に映る日本国、日本民族の社会慣習や倫理観などが拠って来たる処の歴史的背景を出来るだけ紹介するのがこの著全体の基本的な目的なのである。

一体、日本と言う国、日本人のどういう点が米国並びに海外諸国との比較で大きく異なっているのであろうか。それは私の“体験”から学び、発見し、相手から指摘され、そして納得した事柄も多い。私は米国で学童だった3人の子供、女房と共に家庭生活を体験し、留学生として学生生活も経験した。又大都市での米国人を相手とするBusiness経験、ヨーロッパ、中国人、韓国人、インド人とのBusinessも経験した。更には最も先鋭的と言われる米国の労働組合の実態を思い知らされた米国の鉄鋼会社で経験もある。そこでは既述した様に日本の会社に於ける“労使協調”“全ては会社があってこそ”と言う“和”の図式とは全く異なる体験もして来たのである。

こうした様々な機会における諸外国の人々との接触の経験から、日本人そして日本と言う国が他の諸外国の人々、社会とは明らかに異なった価値観、社会慣習、社会の仕組み等があり、それらは具体的にはどの様な点なのか、状況なのかについて、かなりの時間を掛けて漸く理解し、身体が覚えた事も少なくないと言う事である。
そしてそれらの“特異性”は殆どが日本の古代からの歴史に由来するものであり、従ってそこに焦点を充てた“日本の通史“を記述して置く事が後輩の為に役立つ事だと考えたのである。

結果として“日本の通史“を記述するような形になったが余りにも膨大になる為、あくまでもグローバル化時代に即した”諸外国から見た日本の特異性“について、その起源、由来に焦点を絞った。従って”日本の特異性“の由来に余り関わらない事項や史実については一切記述していない。その点からすると”不完全な通史“である点は御容赦願いたい。

私がビジネスマンであったのでBusinessを通じて我々が接する海外の人々が関心を抱く”日本社会の特異性、日本人の特異性“に絞った”日本通史的著述“である訳だが、読者がもっと詳細な関連する歴史を学びたいという箇所が生じた場合には是非、より突っ込んだ勉強をして頂きたい。ある意味ではこの著作が読者にそうした歴史探求の興味の呼び水なる事が出来ればこの著作をした意義が倍加されるもので非常に喜ばしい事である。

第一章で2011年3月11日の”東日本大震災”の時に世界中の人々に賞賛された日本人の行儀の良さ、被災者自身が自分より困った他の被災者を優先し、譲るという国民性を海外の人々がメデイアを通して目の当たりにし、驚き、”これが日本のサムライ精神か”と大評判となった事を紹介した。兎に角、海外の人は日本人という民族は彼らからすると理解できない行動、言動に接すると、必ず”これがサムライ精神なのか”とステレオタイプ的に評価する。1995年(平成7年)の1月に神戸大震災が起きた時、米軍が直ぐに応援部隊を送り込むと日本政府に申し出た事があった。それを当時の村山内閣は断った。私は当時米国に駐在していたのであるが折角米軍が援助のOfferをしたのに断って来た日本の態度に驚き、これを称して”これが日本のサムライ精神なのか”とメデイアが大きく伝えていたのを今でもはっきりと覚えている。

要するに日本人と見ると世界の人々は”サムライ精神”に結びつけ、日本人の行動で“特異性”を感じた場合には“武士道精神、サムライ”で片付けようとしていると考えておくと良いだろう。

“武士道精神“とか”サムライ精神”の話題になった時に備えて、我々日本人は代表的な”史実”の一つや二つは知識として用意しておいた方が良いであろう。”武士道”に代表される日本人の”忠義”に関わる話題がその場のTPOに合う場合は”忠臣蔵”として知られる”赤穂事件”の史実が格好の材料だと思う。然しながら日本人に“忠臣蔵”で代表される“忠義心”等が醸成されるのは国が創建されてからずっと後の事である。
従って、後の章で詳細に赤穂事件(忠臣蔵)の史実を紹介し、日本人の行動の一つの“特異性”である“忠義心“について記述するが、その前に日本国の創建に関わる史実について読者と知識を”共有“して置きたい。

この第三章の以下の項では飛鳥時代に今日の日本の基礎を築いたと考えられる3人の天皇の政治について記述して行く。飛鳥時代に主として、この後の項で記述する3人の天皇が行った”外交施策”がどの様なものであったのか、飛鳥時代の天皇をはじめとする為政者がどの様な諸外国の状況を背景として政治を行っていたか、その時に活躍した3人の天皇が、夫々の時代を背景にして、何が国益に最も適うかを考え、外交施策に腐心したのか、そして対応を誤れば属国にされ兼ねなかった状況に対して、強国に対抗しうる国内体制をどう整備して行ったのか等の史実に焦点を合わせて記述して行きたい。

後述する様にこの章で取り挙げる三人の飛鳥時代の天皇は共通して“外交政策”を重視した政治を行った。しかしそれよりずっと前の為政者、つまり既述した理由によって我々が歴史教科書では余り習っていない弥生時代の末期とされる2世紀頃から既に日本列島のリーダー達の誰もが中国王朝、朝鮮半島との頻繁な交流を重要視して来たのである。つまり、我が国のリーダー達は古代から“グローバル化の波”に対して来た歴史なのである

我が国のリーダー達は古来、時には朝貢という形をとりながら、いたずらに争いをする事を避けながら、隣国の強国、中国、朝鮮半島の国からの文化、文明機器、渡来人の積極的受け入れ等、打つべき手を巧みに打ち乍ら次第に国力を付けてゆくという努力を積み重ねて来ていたのである。そうした積み重ねによるベースがあってこそ、天皇家が登場し、日本の支配を開始する4~5世紀以降、比較的早い時期に“先進的な国としての基礎作り”が可能であったのだと言う事を理解して置く事が重要である。

日本と言う国、民族が”世界でも稀な単一民族国家だ”と考えている人は今日では殆どいないし、間違っている。古代から積極的な中国、朝鮮半島との人的交流、朝貢を行い、先進技術を導入するなどの実績を積み重ねて来た国なのだ、と言う歴史認識が日本の古代史の理解としては正しい。今日では誰もが異論を挟まない様に中国大陸、朝鮮半島から弥生人が渡来したが、彼らは決して武力的に先住の日本列島の民族を制圧するという事が無かった。そうした弥生人は平和裏に古代日本に稲作技術を導入し、金属製の農機具によって生産性を飛躍的に上げ、そして人口が飛躍的に伸びる結果となった。

弥生人は先住の縄文人達と混血して以後の日本民族を形成して来たと言うのが日本民族の古代からの発展の歴史なのである。古代日本国家の建設の過程は前章でも記述して来た様に、弥生人その後の渡来人や周辺諸国の興亡の影響という当時の海外との関係無しには有り得なかった。そうした状況下で奴国、邪馬台国、そして天皇家の出現と言う歴史を経て古代ヤマト王権が確立しその天皇家が当時の“倭国”を率い、国号も”日本”に変更する事を中国王朝に認めさせて行くと言う歴史が飛鳥時代に展開して行くのである。

日本は島国であると言う地理上の幸運が当時遥かに先進国であった中国王朝や朝鮮半島諸国からの攻撃、征服と言う災いを逃れ続ける事が出来た地政学上の利点ではあった。
一方で古代の島国“日本”は常に中国、朝鮮半島諸国への関心を持ち、朝貢などの方法によって必要な情報を入手し、対外政策としての備えは怠らなかった事が後述する飛鳥3天皇による“日本の礎作り”に繋がったと言うのが日本の古代の歴史である。

既述して来た様に日本は“島国”であったからこそ太古の時代からかなりの関心と注意力をもって中国並びに朝鮮半島の国々との交流を行い、又、当時のリーダー達が腐心して来たのが実態である。江戸時代に徳川三代将軍家光が”鎖国令”を出し、表面上は1639年からペリー来航の1853年まで江戸幕府はオランダ、中国との貿易のみに限定し、しかも長崎の出島一港に限ったと言われているが、実態はそれほど極端な国際的孤立政策では無かった。

武士階級、一般庶民がキリスト教を信仰する事は禁止した。それが鎖国の目的の一つであったからだ。その理由は単純明快であった。“将軍”こそが最高の忠誠を捧げる対象であり、当時の社会の規律を保つ基本であるとする幕府の意図に対して、西欧の宗教は“God,そしてキリスト”を崇める最高の対象とする。従ってこうした外来の宗教が国内に蔓延する事は極めて不都合な事であったからである。しかし、ここでも日本民族の“特異性”なのであろう、又、島国の為であるかも知れない、江戸時代の幕府による“鎖国政策”下でも日本民族固有の“外国に対する関心”“文物への好奇心”を完全にシャットアウトする事が出来なかったのである。九州の島津藩、仙台藩などは独自に海外の取引をしていた形跡があるし、対馬藩はその藩主である宗氏の努力によって、李氏朝鮮と江戸幕府との良好な関係を保つ事に成功したのである。対馬藩にとっても李氏朝鮮との交易は重要であったし、友好関係維持の為に宗氏は、幕府と李氏朝鮮の間で取り交わされた国書を改ざんする事もしばしばであったと伝えられている。それ程宗氏は積極的に李氏朝鮮との外交を重要視し、関係を密接にして行ったのである。この対馬藩は将軍が代わるたびに行われた朝鮮通信使の先導役を務めた。数百人の規模で朝鮮通信使の行列は江戸までを練り歩いたと言う。この行列は文化交流も兼ねた江戸時代を通して庶民も楽しみにした大イベントでもあったのである。

この様に古代から日本の為政者にとって“外交“は最重要の課題であった。従って、日本の歴史を学ぶ上で、平和時であれ、戦争状態であれ、其の時々の為政者がどの様に”外交“を展開し、腐心したかについて学んで置く事は最重要の事柄だと思う。

以下の3項に分けて日本国にとって創業期とも言える飛鳥時代の代表的な3人の天皇とその時代背景を取り上げて、これら3人の“日本の礎を築いた天皇”がどの様な対外政策を講じて来たかに焦点をあてて記述して行く。

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