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2014年4月17日木曜日

第三章 日本の基礎を作った飛鳥時代の三天皇
第1項 推古天皇


①推古天皇とは

古事記に書かれている最後の天皇が第33代推古天皇である。現在までの125代を数える歴代天皇のうち女帝は10代を数えるが、重祚(一度退位した天皇が再び皇位に就く事)した第35代皇極天皇と第37代斉明天皇とは同一人物であり、第46代孝謙天皇と第48代称徳天皇も同一人物である。従って今日までに8人の女帝が存在した事になる。推古天皇はその最初の女帝なのである。

②推古天皇の家系

国会をはじめマスコミも”女系天皇””女性天皇”について盛んに議論した時期があったが、過去10代(8人)の女性天皇の誕生はいずれも特別な場合、事情があって天皇の位に就いたというケースのみである。
しかもいずれの場合も昨今議論された“男系の天皇の血を引き継いだ女性天皇”、“男系の天皇の血を引き継いで居ない女性天皇“なのかという論点で言えば、全てのケース共、例外無く父方が天皇であった”男系天皇の血を引き継いだ女性天皇”であった。

父親が天皇の血筋を引き継いでいない”女系天皇”が出現した例は無いのが125代に亘る天皇家の継承の実態である。

推古天皇の父親は日本書紀には552年(元興寺縁起には538年とある)の仏教伝来時の天皇であった第29代 欽明天皇である。 母親は蘇我稲目の娘、額田部皇女である。 天皇家が世界史の上でも稀な125代に亘って今日まで継承されて来る事が可能であった理由については次章で記述するが、女帝推古天皇が誕生したバックには当時大臣(オオオミ)として勢力を伸ばして来ていた、当時の新興勢力であり、豪族のトップであった蘇我氏の存在があった。

蘇我氏が勢力を伸ばした大きな要因として”仏教伝来”に乗じた事があると言われている。
”八百万の神”にまつわる地域信仰を崇めて来た古代日本にとって、仏教を受容するか否かは非常に大きな政治問題であった。こうした場合に拮抗する勢力の間で政治権力争いが生ずるのはいつの時代も同じである。

当時の強力な豪族であった物部氏が必ずしも仏教排斥論者であったのでは無い等、諸説があるが、一般論としては、仏教推進派であった新興の蘇我氏を阻もうとする物部氏(大臣)との間に争いとなったとされている。 そして天皇家との結びつきを強めていた蘇我氏が政争に勝ち、物部守屋が討たれ、その後物部氏は衰退するという歴史ストーリーである。従って第33代女帝推古天皇の誕生とその後の政治には、“蘇我氏”と“仏教”と“聖徳太子”、この3点セットが欠かせないのである。
 
③第32代崇峻天皇暗殺事件と第33代推古天皇の誕生

推古天皇の父親である第29代欽明天皇の皇子が第30代敏達天皇である。この異母兄である敏達天皇と結婚し、皇后となり、後に125代に亘る歴代天皇の中で最初の女帝として即位したのがこの項で記述する推古天皇である。日本書紀の記述によると”姿色端麗、進止軌制”とある。つまり”容姿が端麗で礼儀正しく、且つ、節度のある女性であった”という“推古天皇評”である。又非常に頭脳も明晰、かつ公正な女性であって、土地の支配権を拡大しようとした、外戚で且つ重臣でもあった蘇我馬子に対しても、“公地を私人としての貴方に譲るような政治をした事が後世に伝われば私も貴方も大いに批判される”としてきっぱりと断ったと言う話が伝わっている。

夫の敏達天皇が崩御し、第31代用明天皇が即位した(585年)。この用明天皇は推古天皇と母親が同じ同母兄であった。病弱であった用明天皇は在位わずか3年、疱瘡で崩御したと伝わる。そして第32代崇峻天皇となった。当時の皇位継承問題には天皇の母方であった蘇我氏の力が大きく働き権謀術策も大いに用いられた。物部氏(守屋)を滅ぼした蘇我氏(馬子)の力は絶大で、この第32代崇峻天皇誕生にも関わっている。そして自らが強引に天皇の座につけたこの崇峻天皇を暗殺(592年)したのも叔父に当るこの蘇我馬子であると言う事が日本書紀にも記録されている。

125代に亘る天皇の中、暗殺された事が正史である日本書紀に記録があるのは2例だけだと前章で紹介したが、その2例目の天皇がこの第32代崇峻天皇なのである。

日本書紀に記述されている暗殺の理由は至極単純である。ある日、猪が崇峻天皇に献上された。それを前にして崇峻天皇が”この猪の首を切ると同じ様に憎い人の首を切りたいものだ”と言ったとの事。この言葉を聞きつけた蘇我馬子が自分に対する言葉だと解釈し、身の上の危険を察知して崇峻天皇を暗殺したとの記述である。

如何に当時の蘇我氏の権力が強大であったかを知る事の出来る話である。ちなみに蘇我馬子は626年に死亡しているが、其の墓が有名な明日香村にある総重量2300トンの”石舞台”では無いかと言われている。果たして蘇我馬子の墓であるかどうかは、例によって記録などが無い為、”定説”とまでには成っていないが、墓の作られた様子、規模等から推察しても、当時最大級の豪族の墓である事が確かであり、蘇我馬子の墓説が有力だと言う訳であろう。崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子がその後、その為の何らかの罪を負ったと言う記録は一切無い。然しながら流石にその後の政治的混乱は大きかった様である。皇位継承順位からすると第30代敏達天皇、つまり推古天皇の夫の別の后との間の皇子が継承するか、聖徳太子(厩戸皇子)も天皇に即位する候補に挙ったであろう。しかし、結局は、上述の様に人望もあり美貌で且つ頭脳明晰、加えて女性の持つ呪術的素質を持っていたと言われる当時39歳であった元皇后、“額田部皇女”が周囲から請われるままに第33代推古天皇として即位する事になったのである。

勿論、外戚である蘇我馬子の力が強く働いた事は言うまでも無いが推古天皇の本心は息子である”竹田皇子”を天皇にしたかったのでは無いかと伝えられている。日本書紀に言う様に推古天皇の人柄は”姿色端麗、進止軌制”であって決して自らが好んで日本最初の女性天皇の地位に就いた訳では無い様だ。

近鉄南大阪線の上の太子駅で降り、レンタサイクルで30分程走ると推古天皇と竹田皇子が一緒に祀られている御陵がある。当初は植山古墳に埋葬されていたが、その後この地、山田高塚古墳に改葬されたと古事記に記されている。ここでも彼女の最愛の息子とされる竹田皇子と一緒に埋葬されている。最近の新聞記事で今上天皇と皇后のご希望として天皇陵については質素にすべし、天皇と皇后の御陵を合葬して欲しいとのご希望があった、と宮内庁から報道された。

これについては美智子皇后から天皇陛下との合葬では、甚だ畏れ多いという事で否定されたとの報が直後にあった。天皇と皇后の合葬の前例としては後の天武天皇と持統天皇の例がある。美智子皇后が合葬が恐れ多いと若し本当に言われたとすればその理由は持統天皇は確かに天武天皇の皇后ではあるのだが後に天皇に即位している。その点の違いを以って恐れ多いと表現されたのであろう。

日本の天皇、皇后の立場は古代から”人民の為に祈る”存在であった。推古天皇がその遺言である遺詔に残した言葉は、古来からの日本の天皇の共通した考え方を表している  ものとして紹介しておこう。
  
宮内庁から報道された上記、天皇陵に関する今上天皇、皇后の考え方、さらにはマスコミが伝えた東日本大震災直後に被災地をお二人で訪問された時の、体育館で膝を床にお付けになって避難民の苦労をねぎらう今上天皇、皇后の自然なお姿も、以下の推古天皇の遺詔との共通点が多いのである。

”比年(この頃)五穀登らず(作物の実りが悪い)百姓(おおみたから=民は)大きに飢う(大変飢えに苦しんでいる)其れ、朕が為に陵を興てて厚く葬る事勿れ。(だから私の為に莫大な費用を掛けて立派な墓を作って祀る必要は無い。)便ち竹田皇子の陵に葬るべし。(従って私は息子である竹田皇子の墓に祀ったら良い)” この遺詔からは其の他に、若くして亡くなった最愛の息子の竹田皇子を天皇に就ける事が出来なかった推古天皇の無念さも感じられるのである。

いずれにしてもこうして推古天皇は外戚にして重臣の蘇我馬子と、摂政としての聖徳太子に実際の政治を任せる形で自らが皇位に就き、以後36年間に亘って、国内政治体制の整備、隋と言う強国をはじめとする外交問題への対応という課題を抱えながら、日本最初の女帝として628年に75歳で崩御する迄、その在位期間を全うしたのである。

④推古天皇時代の国内体制の整備

こうした状況を背景に第33代推古天皇は6世紀の天皇家の中心地であった磐余(いわれ)、現在の奈良県桜井市から飛鳥の豊浦宮(とよらのみや)に移り、即位した。592年の事である。

近鉄吉野線の 橿原神宮前(かしはらじんぐうまえ)駅でレンタサイクルを借りて東に30分も走ると推古天皇の時代の史跡が沢山残っている。豊浦宮跡は現在は向原寺となっている。寺の一部から豊浦宮の建物の一部が発掘され一般にも公開されていたので見学させて頂いた。
建物は残っていないが柱の遺構、太さ等から当時としては相当に大規模の建築物であった事が推定される。推古天皇は蘇我馬子を叔父(外戚)に持つと言うことは既に述べたが、馬子が大陸伝来の技術、百済からの技術をフルに使って飛鳥を開拓したと言われている。

ダム湖まで造ったという事だがこれらに関わる資料は狭山池博物館に展示されているものがある。推古天皇が即位する3年前の589年(581年に既に文帝が隋という国自体は起していた)に、150年間に亘った南北朝分裂時代の中国が“隋”によって統一されていたのである。強大な隋統一王朝の出現という周辺諸国の背景の時期であった。

朝鮮半島では346年に百済が、356年に新羅が起こり、紀元前37年頃から扶余族が起した高句麗との3国時代で、互いに攻防を繰り返していた時期である。こうした時期に推古天皇は聖徳太子を摂政として政治の実権を蘇我馬子と共に任せ、諸施策を打って行った。
この三人に拠る“トロイカ体制”と言っても良いのであるが、諸施策は聖徳太子が発案、実行して行ったものと考えられている。

隋の出現等、外交政策が非常に重要となって来た推古天皇の治世ではあるが、それらは後述するものとして、先ずは徐々に天皇家を中心とした中央集権的国家を目指して、国内の体制作りに注力した時期であった。代表的な施策として有名な冠位十二階の制度の目的と十七条憲法制定の目的を紹介しておこう。

④-1:冠位十二階の制度制定に至る当時の政治背景について

天皇家が日本列島の統治者となる以前から、“倭の国王”と称されたリーダー達が中国王朝や朝鮮半島の国に常に関心を払い、何らかの交流を続けて来た事は前章で記述した。
そもそも“独立した国家”とは如何いう状態を指すのであろうか。それは時代によって異なろうが“国土を自らの手で守る事が出来、自らの手で憲法を作る事が出来、国の祭祀に外国の干渉を受けない、国民の教育を自ら行う事が出来る状態の国”が“独立した国”と称される最低限度の“定義”だと言われている。

推古天皇の時代とは、7世紀に近い時代であり、何よりも中国大陸に”隋”(589年~618年)という強大な統一王朝が出現したと言う客観情勢が“国”としては重要な事であった。
聖徳太子、蘇我馬子とのトロイカ方式の政治をとった推古天皇(在位592年~628年)が素早く対応した施策はその隋王朝に早々と“遣隋使”を派遣した事であった。

日本書紀には607年、608年、そして614年の合計3回の遣隋使が記録されているが実は
”隋書”には既に600年にも遣隋使の派遣があったとの記録があるのである。之に関しては“隋書“の記録の方を信じても良いのではないかと思われる。そうだとすれば、推古天皇の政権が如何に積極的にこの”超大国隋“に接近して制度、文物の輸入に勤めると同時に、併せて日本の国としての”体制整備“の必要性を感じ取って隋との外交に努力しようとしたかが分るのである。

(ア)何故遣隋使を急いだのか

西暦600年に第一回目の遣隋使を送っていた事については“隋書“の記録を信じて良かろう。そうするとこの時の日本からの国書には”倭王”と称していたものと思われる。日本国と称するのは”遣唐使”以降である事は前章で述べた。そしてこの隋王朝への遣使は前章で記述した倭の五王の中の”武”(第21代雄略天皇と考えられている)が西暦478年に南北朝時代の”宋”に上表文を携えた遣使を行って以来、実に122年振りの中国王朝への遣使となるのである。

目的としては当時の先進国としての隋からの文化、制度等の輸入が主たる目的であった事は明白であるが、国防的にも強大な統一国家として出現した隋王朝と朝鮮半島の新羅との微妙な関係もあり、当時の“ヤマト王朝”としてはそれらの諸国との争いは避けたい、事を構えたく無い、と考えた事も大きな理由であろう。中国の歴代王朝は東アジア諸国との“国際秩序を維持”する為の外交政策として、“朝貢”をして来た周辺諸国の君主に対しては、官号、爵位などを与えて君臣関係を結び、その地域の統治を認める、と言う施策を取っていたのである。従って“中華思想に基づく統一王朝”と周辺諸国との関係は“宗主国と藩属国”と言う図式であり、周辺諸国は日本も含めて“従属的関係”に中国王朝の“考え方の中”では置かれていたのである。

これを”冊封体制”と言うが朝鮮半島の諸国は日本の状況と比べると実質的、物理的に完全な“冊封”関係にあったのである。日本は古くから倭王が中国の王朝に”朝貢”をして来た事は前章で記述したが、中国王朝の冊封体制に入って居た訳ではない。朝貢とは君臣関係を表す政治的儀礼であると同時に貿易の一形態だと理解した方が良かろう。倭の五王の中の最後の倭王”武”(雄略天皇?)の朝貢を最後に、日本は記録上も中国王朝に“遣使”なり“朝貢”を行っていない。倭王”武”(雄略天皇?)が遣使した478年の翌年に遣使していた宋が滅び”齊”が起こり、その後”梁”に取って代られる等、中国情勢が安定していなかった事も日本が長く朝貢を行っていなかった理由の一つであろう。

さらに朝鮮半島も高句麗、新羅、百済の間に常に攻防が繰り返されており、日本書紀によれば600年に新羅が任那を攻めた事に対して、日本は新羅に出兵したとある。此処が重要なところだ。つまり、隋王朝と冊封関係にある新羅に日本が派兵したと言う事は、日本が隋王朝に対して派兵したと取られ兼ねないのである。そこで隋王朝に対する政治的儀礼を果たし、親善外交を行い、更には文化の輸入という意図を持った第1回目の遣使を西暦600年に行ったと思われるのである。中国王朝への遣使は実に122年振りであり、この政治的決断を行った推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子による3人の”トロイカ内閣”の海外情勢の変化に対する外交的感覚の鋭さが分る。

(イ)何故冠位十二階制度(603年)17条憲法(604年)が制定されたのか?

しかしながらこの第1回目の遣隋使で推古天皇内閣は隋の文帝(高祖)からは“倭国の政治の有り様、社会制度は国際社会では通用しない、国としての体制も不備、且つ礼儀も無い国だ、先ずはその辺から改めるべきだ”と一蹴され、軽くあしらわれて帰国した様子が“隋書”の東夷伝倭国条に書かれている。

その時の日本からの使者が無冠の者であった事もそうした隋側の対応の原因であったと思われるが、確かに隋から指摘された通り、当時の日本には位階の制度も無く、大国である中国の隋王朝と対等に外交を行う国としての体制すら整っていなかったのである。そこで、迅速に対応した推古天皇、摂政聖徳太子が整えたのが、603年12月5日に聖徳太子による”冠位十二階”の制度制定である。

(ウ)冠位十二階制度の概要

日本を天皇を中心とした中央集権国家にし、身分制度を確立する事を目的とし、更には、それまでの“氏姓制度を根本的に見直した改革”がこの冠位十二階制度である。徳、仁、礼、信、義、智をそれぞれ大小に分け、合計十二階から成る官位の制度を決め、この制度によって、身分の上下に関わらず、能力のある役人を登用する仕組みが整えられた。我が国初の”個人の功労”によって昇進を決めて行くという画期的な制度である。又、誰から見ても官僚としての身分が分る様に、冠の色、飾りで明確に区別したのである。具体的には、色別とし、上から、紫、青、赤、黄、白、そして最下位が黒の6色とし、夫々に濃淡色を作る事で合計12色、12の位分けとしたのである。

(エ)冠位十二階制度のその後・・・律令制の位階制度への過渡期的対応としての位置づけ

聖徳太子に拠るこの制度は豪族を序列化し、氏姓制度の下での氏や姓に捉われる事なく、優秀な人材を登用する事を目指すものであったと同時に天皇がこの官位の任命を行う事によって豪族に対する天皇の権威を高める目的もあった。

然しながら大臣や大連と言った最上級の”姓”に属する豪族は官位十二階の最上級である”大徳”よりも依然として上位に置かれる等、旧システムを残した不完全な面もあった。
そして制定の後も紆余曲折を経て、律令制の下での位階制度へと移行して行くのである。
その意味であくまでも過渡期的な制度であったのである。

④-2 十七条憲法(604年)は官僚、貴族に対する道徳規範、“朝廷“の語源が八条に。

600年の第一回目の遣隋使が隋の文帝(高祖)から”倭国の政治は道理に合わない、改めるべきだ”と一刀両断された事は、国として対等な立場でこの強大な中国の王朝と良好な外交関係を作り上げ、文化、制度、を学び入れ、そして朝鮮半島での影響力を確保したいと考えていた、推古天皇、聖徳太子、そして蘇我馬子による“トロイカ政権”にとってはいきなり出鼻を挫かれ、全く相手にされない事が判明し、相当なショックであったものと思われる。

上記、冠位十二階の制度を整えた翌年の604年には矢継ぎ早に“官僚並びに貴族に対する道徳的な規範”を17条に亘って事細かに規定したのである。これが”17条憲法”である。
日本書紀にその全文が記述されているが、第一条の有名な”和を以って貴しと為す”から始まって、公人としての“役人に対する訓戒”であり、今日の我々が読んでも違和感を覚える事柄は無い。冠位十二階の制度も同じであるが、天皇の権威を高めて行く事がこの政権の最重要事項の一つであったから、第三条には、臣下としての天皇に対する服従の心得を切々と説いている。又、第八条には役人は早く出仕して必ず遅くまで仕事をしなさいと書いてある。

”朝廷”という言葉は ”朝早く来て、仕事をする事が一番大事”だと言うことが語源だそうだが、この第八条がその由来であるとされる。あとは役人として税の徴収は国司や国造が勝手に取るな、天皇だけがこの国の主人であるのだ(12条)とか、公務には私心を捨てて当たれ(15条)、嫉妬心を抱いてはいけない(14条)などの心掛けが書かれている。
そして最後の第17条の”物事は一人で判断するよりも皆の知恵を集めて、議論をして判断しなさい”で締めくくっているのである。

⑤-1.対外諸施策: 正しい隋周辺の状況分析による外交上の勝利を遣隋使国書で得る

上述の様に、第一回目の遣隋使で受けた推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子内閣のショックから、すぐさま官位十二階と十七条憲法の制定、施行に動いた訳であるが、強大な隋王朝に対して決して怯んでいた訳では無い事が607年に行った第二回目の(日本書紀の記述ではこれが第一回目の遣隋使とされている)遣隋使として渡った、有名な小野妹子に持たせた国書の文面に表れている。

”日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや”の極めて有名な文面である。中国の歴代王朝は周辺諸国を臣下として扱い、対応して来た訳であるから、臣下の礼をとらず、自らを”天子”と称し、対等の外交関係を明確にした”倭国からの遣使国書”の文面に皇帝煬帝は激怒し、会見はおろか小野妹子の命も危ぶまれたと伝えられている。

前の項で“グローバル化への対応は決して21世紀の人々が初めて遭遇した状況でもなんでも無い、その時代時代で密度、内容、スピード、ツールの違いはあり、当然今日のグローバル化の影響度とは質も量も異なるが、人間が活動する以上、古代から、必ずグローバル化という現象はは必ず起っていたし、時の為政者はその時々で対応に心を砕いていたのだ”と記述したがこの小野妹子を遣使とする事例も例外では無い。

隣の中国大陸に強大な隋王朝の出現を見た、当時の我が国の推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子内閣の海外情勢の把握、分析、その上での対応力は見事であったと言えよう。そしてそれを凝縮したのが上記の有名な“遣隋使小野妹子に託した国書の文面”だったのである。
繰り返すが、推古天皇、聖徳太子内閣は“隋王朝との対等な外交”をあくまでも目指した。第一回目の遣隋使で学んだ推古天皇、聖徳太子内閣は先ずは批判された国内体制を整え、中国の王朝をモデルとする当時の国際社会で通用する“国としての体制“を迅速に整えたのである。その上で当時の隋を取り巻く国際情勢を分析し、607年の遣隋使派遣、小野妹子に持たせた対等外交を意図した勇気ある日本の”天子“からの”国書“という文面問題へと繋がったのである。

推古天皇、聖徳太子内閣の国際情勢分析は以下の通りであった。つまり、隋王朝は朝鮮半島の“高句麗”に度々出兵しては撃退されるという状況であり、しかも、それを繰り返していた。こうした状況から隋王朝としては日本を敵に回し、高麗とでも手を組まれたら甚だ厄介な事態になると考えるであろうという分析結果を出したと思われるのである。

600年の遣隋使で“倭国は国の体を成していない非礼な国”と当時の“隋の文帝”に批判され、いわば追い返された状況に学び、国内の体制を迅速に整え、国際社会に通ずる外交諸施設までを7年間足らずの間に整えた推古天皇、聖徳太子内閣にはそれらの体制整備を短期間に成し遂げたという自信もあったと思う。そして、607年、遣隋使“小野妹子”に上述の隋との対等外交を望むという姿勢を鮮明にした“問題の国書”を持たせたのである。

煬帝を烈火のごとく怒らせた最大の文言は、推古天皇自身を“天子“と称した点にあると言われている。あくまでも隋王朝との対等な関係を迫ったこの有名な文面を書くに至ったのには外交姿勢としての深い意味がある。つまり、上述した様に、推古天皇、聖徳太子は隋王朝が上記した様な“国際状況”に置かれている事を分析した結果、今こそ隋王朝との対等な外交が出来るチャンスであると決意し、あえて意識して“天子”という表現を用いたのだと伝えられているのである。当時の日本側の情報収集力、分析力、そしてその結果としての隋王朝の反応に対する読みは見事に当ったのである。

繰り返すが、朝鮮半島の高句麗との苦しい戦争状態が続く隋王朝としてはこの際は”倭国”と敵対するよりも、友好的な関係を結んでおいた方が得策と考えているであろう。そして場合によっては我が国と組んで高句麗を”南北から挟み撃ちに出来る“と考えているに違いない、と読んだのである。

こうした隋側の外交上の思惑から、煬帝は遣使小野妹子にも会い、無事に帰国させたのである。しかし一度は“文帝”時代には“未開の国、国の体を成していない”とした“倭国”との対等な外交関係を推古天皇、聖徳太子の思いのままに“隋の煬帝”が結ぶ筈が無い。

これに関する有名な話として小野妹子が煬帝からの返書を持たされ、且、煬帝の家臣である”裴世清”と共に日本に帰国した時の話がある。実は隋の皇帝”煬帝”からの返書の内容は”倭国”をあくまでも臣下扱いをしたものであり、小野妹子としては帰国後に推古天皇、聖徳太子に見せる事の出来ない屈辱的内容であったと伝わっている。そこで命を張って気転を利かせた小野妹子は”帰国途中、百済で煬帝からの返書を盗まれてしまった”として煬帝からの返書を終に推古天皇、聖徳太子に見せなかったと伝わっている。

こうした小野妹子の気転が功を奏し、翌年には第3回遣隋使が行われる事に繋がるのである。その遣隋使に再び小野妹子が選ばれているところを見ると、前回、隋からの帰途中に煬帝からの返書を奪われたと言う重大な失態に対して推古天皇、聖徳太子からは流罪などの罪に小野妹子が問われなかったのは明白である。

こうして念願の対等外交という“国としての形式上での勝利”を勝ち取った意味はその後の外交姿勢という面では大きい。その意味で当面の目的を果たした推古天皇、聖徳太子内閣は、更に先進国“隋”から大いに学ぶ為に、多くの留学生も送り込んだのである。
僧旻(みん)、南淵請安(みなみぶちしょうあん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)が隋に渡り、中央集権制度、律令制、税制などを学んで帰国し、後に行われる”大化の改新”という我が国としての大改革作業に大いに役立つ人材になるのである。
  
推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子をリーダーとする大和朝廷と友好関係を結んでおいた方が得策であろうとの考えは、朝鮮半島にも伝播した。

高句麗、百済(新羅は大和朝廷とは前述した様に交戦状態)とも積極的な人的交流が広まった。高句麗からは僧恵慈(えじ)が来日し、そして百済からは僧恵聡(えそう)観勒(かんろく)が来日して、仏教、暦、天文、地理、音楽、薬学など当時の最新の文化を伝えたのである。

⑤-2 600年の遣隋使後に行った国際化対応の施設、小墾田宮(おはりだのみや)の造営

西暦600年に行った第一回遣隋使の結果、”国家体制は元より、遣使の官位も定かで無い様な、はなはだ道理に合わない倭国”と酷評された事をきっかけに、官位十二階の制度や憲法十七条を制定するなど、国としての体裁を早急に整えた事は述べた。又、その内容についても簡単に紹介した。

遣隋使を継続する際には、“隋王朝からの答礼の使者“等、外国からの使者を迎える施設の建設が必要な事を学んだ推古天皇、聖徳太子は、当時朝廷が置かれていた”豊浦宮“からすぐ近くの場所に”小墾田宮(おはりだのみや)“を造営したのである。日本書紀によると603年とあるから、物凄く急いで造営した事が分る。隋の文帝(高祖)からの屈辱を跳ね返そうと必死になっていた推古天皇、聖徳太子が遣隋使を続ける意図をはっきりと持ち、其の為に隋王朝から指摘された“国としてのあらゆる体制、設備”等の不備を、隋王朝から来訪するであろう“使者”を意識して立派な迎賓館としての“小墾田宮”の造営を急いだのである。この建設は新たに隋からの使者が来る前に終えた。こうして当時としてのグローバル化に対応出来る施設の完成、役人等の地位が色で識別する事が出来る冠位12階の制度など隋からの使者の目に見える形で全ての体制整備を、しかも短期間で完了させたのである。
  
“小墾田宮”は外国の使者を迎えるという目的の為に造営された画期的な建物だと言われている。推古天皇、聖徳太子内閣は、こうして日本としては初めての”外国に向けた政治”を行ったと言われる、象徴的な建物を完成させ、当時としてのグローバル化への対応を行い”首都”としての体制を整えた。この小墾田宮(おはりだのみや)跡は近鉄吉野線の橿原神宮前駅で降りてその地区にあるレンタサイクルで訪ねたのだが、15分程東に走った田んぼの真ん中に高い木が目印となっているだけの状態であった。日本書紀には“これによって、全ての朝廷機能を整え、更には中国王朝はじめ外国からの使節の来訪に対しても立派に対応できる施設が整い、大規模で立派な”都”の造営となった“ と記されてはいるのだが、上記の様な状態で、残念ながら当時の”立派な建造物“は何一つ残っていなかったのである。

この小墾田宮の存在も全く分からなかったのだが、偶然に1987年(昭和62年)に明日香村の雷丘(いかずちのおか)近くの水田から”小墾田宮”と書いた土器が見つかった事で史実が証明されたのである。更に目印の高い木だけが史跡となっている小墾田宮の近くに“向原寺”があるが、その寺の地下深くから、最初に推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子が都を築いたとされる”豊浦宮”の跡も発掘された事はすでに述べた。現在は”向原寺”となっている処にその史跡は埋まっていたのであるが、その”豊浦宮”に使われたのであろう、太い主柱だったと考えられる史跡が数箇所発見された。その太い主柱を抜き取った痕跡などを今日でも見学する事が出来るので是非一度訪れる事をお勧めしたい。

それらの柱の土台であったに違いない石が抜き取られた痕跡も数箇所あって、これらの事から、”豊浦宮”を廃脱してこれ等大きな柱材や土台石などの資材を小墾田宮造営に使用したのではないかと考えられている。こうした推古天皇、聖徳太子、そして蘇我馬子を含めた当時の我が国のリーダー達の努力と慧眼によって、日本に対する屈辱的評価で始まった遣隋使は隋王朝から”貴方が海の彼方の国にあって朝貢した事を嬉しく思う”という返書を貰うという状況にまで一気に隋王朝の評価を上げる事に成功したのである。

”外圧によって歴史が変わって行く”と言う事は島国という宿命なのであろうか、今日でも多くの事例があるが、日本の歴史上でもしばしば外圧による大きな影響があった。グローバル化は何も21世紀特有の現象でも何でもない事なのだと繰り返して強調して来たが、飛鳥、奈良時代にも既述した様な“隋”からの“外圧”対応の為に当時の我が国としては大きな“変化“があったのである。”小墾田宮”は“隋への対応”として整えられた都となった訳であり、日本の都のモデルとなり、以降“都”としてのその基本的な形態が受け継がれる事になるのである。推古天皇、聖徳太子内閣をはじめとして、この後もわが国は“遷都”を繰り返し乍ら、国造り、より機能的な“主都”造りを行って行く。

遷都を繰り返す事による財政面の苦しみを抱えながらも“夫々の時代のグローバル化”対応の都造りの歴史を重ねて行くのである。

こうした積み重ねの結果、約200年後、終に“平安京(京都)”という“都の完成”へと繋がり、その平安京はその後1000年も我が国の“首都”として固定される事になるのである。

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