menu,css

2014年4月17日木曜日

第三章 日本の基礎を作った飛鳥時代の三天皇
第2項 天智天皇


① 天智天皇登場以前の政治状況

前項の第33代推古天皇時代に隣の中国には“隋”という強大な統一王朝が出来、それに脅威を感じて聖徳太子、蘇我馬子とのトロイカ内閣では国としての対外対策、そして国内の体制作りを急いで行う事に尽力した事は既に述べた。日本が国家として内外共に認められるようになったのは何時なのか、については専門家の間には“七、五、三、で綱引きをしている”と小林恵子氏は指摘する。七世紀の聖徳太子の時代から天武天皇迄の時代だという専門家、倭の五王時代の五世紀だとする専門家、そして邪馬台国の女王卑弥呼が現れた三世紀だとする説である。

この章はその七世紀の3人の天皇について記述している訳であるが、推古天皇の時代は諸施策を“摂政”として取り仕切った聖徳太子が622年に亡くなり、推古天皇を擁立し支えた大豪族の叔父、蘇我馬子も626年に亡くなった事に拠ってそのピークの時代を終えるのである。

推古天皇は田村皇子と山瀬大兄の皇位継承の候補者二人を呼び、群臣の言葉を良く聞いて政治を行うよう命じたと言う。推古天皇の人柄を良く表わす事柄であるがその推古天皇も628年に75歳で崩御する。 蘇我馬子の後継者である蘇我蝦夷宅で群臣会議が開かれた。蘇我蝦夷は亡くなった聖徳太子の十七条憲法の第17条”物事は一人で判断するよりも皆の知恵を集めて、議論をして判断しなさい”という条項を形の上ではきちんと守ったのである。その結果、蘇我蝦夷が推す田村皇子が第34代舒明天皇として629年に即位する事になった。形の上では政変などの問題を起こすことなく行われた皇位継承ではあったが、蘇我蝦夷、入鹿親子という蘇我氏の勢力が舒明天皇期には飛躍的に伸び、蘇我氏専横の時代が到来したのである。

表面上は波風が立つことなく行われたこの舒明天皇即位の時点から、実態では蘇我氏の専横ぶりが現れており、16年後の645年に中大兄皇子(後の第38代天智天皇)と中臣鎌足等によって行われる朝廷内でのクーデター事件、つまり蘇我入鹿殺害と言う乙巳(いっし)の変の種がすでに芽生えていた訳である。

蘇我蝦夷、入鹿親子の専横内閣であった舒明天皇の治績として挙げられる事は少ないが、第一回の遣唐使の派遣を630年に行った事は特筆される事柄であろう。 遣唐使は、唐が衰退し、最早メリット無しとして、菅原道真が建議し、第一回目から260年後の894年に停止となる迄、これ以降20回近く行われる事になる。隋に続く中国を統一した大帝国、唐の出現は当時の日本にとっては、ますます脅威であり、当初は政治、外交的な意味からも海路の危険を犯しながらも遣唐使を行なう事は不可欠であったものと思われる。

舒明天皇は在位12年間、641年に崩御された。 蘇我蝦夷、入鹿専横内閣の時代であるから、親子は朝廷を小高い山の上から見下ろす”甘樫の丘”(あまかしのおか)に”上宮門””谷宮門”(うえのみかど、はざまのみかど)と称するそれぞれの邸宅を築き、自分達の子供を”王子”と呼んでいたと言われる。この邸宅が築かれたのは蘇我入鹿が殺される1年前の644年の事だと伝わっている。

”甘樫の丘”には近鉄電車の橿原神宮駅で降り、駅の近くにある”レンタサイクル”を借りて30分も走ると行く事が出来る。確かに飛鳥寺はじめ、“飛鳥全体”を見下ろす事が出来る場所であった。

舒明天皇の崩御に伴い次の天皇の擁立に当たっては、いよいよ蘇我氏の専横ぶりが色濃く出て来る。有力候補の一人であった聖徳太子の息子である山背大兄王をまず排除し、いわば繋ぎとして舒明天皇の皇后が“第35代皇極天皇”として642年に即位した。蘇我氏の力による即位であったのである。前にもコメントをしたが皇極天皇は今日までの125代に亘る歴代天皇のうち、8人(10代)を数える”女性天皇”の中の二人目の”女性天皇”なのである。余談だが、女帝皇極天皇の父親は舒明天皇の弟王であって、その点から皇極天皇は天皇家の父系の血統を受け継いでいる”女性天皇”である。

以前国会などで、皇室典範改訂などの議論として“女性宮家問題”が議論された事があった。その時、その女性宮様が一般男子と結婚して生まれた人物が将来“天皇になる資格があるか無いか”をマスコミが取り上げた事があった。正に天武天皇時代に明確にした“正当な天皇家の継承”とは何であるかに関する議論であった。

言うまでも無く、上記したように皇極女帝の場合もいわゆる”女系天皇”の例では無い。女系天皇とは“天皇家の血筋を全く引かない男性を父親とする天皇の出現”の場合である。、上記の様に日本の歴史上、残る6人の”女性天皇”の全ての場合も、父親は天皇の血を受け継いだ”女性の天皇”であって天皇であった父親の血を全く継がない“女系天皇”が継承した事例は全く無いのである。

話を元に戻そう。蘇我蝦夷、入鹿親子の専横ぶりについては記述したが、女帝皇極天皇を即位させた翌年、643年に蘇我蝦夷は国政を息子の入鹿に譲り、翌年644年には天皇の勅許を得ずに”官位十二階”の最高位である”紫冠”を息子の入鹿に与えたと言う。更には
”大臣”の職を天皇の勅許も得ずに息子の入鹿に譲ったのである。まさに蘇我氏の専横極まれりと言う処である。息子の入鹿は、人望の厚い聖徳太子の子息、山背大兄王を生かしておく事に不安を抱き、襲撃して葬り去るという暴挙に及ぶのである。この息子入鹿の暴挙には流石の父親蘇我蝦夷も怒り狂ったと伝わるが、時すでに遅しであった。

最近マスコミ界を騒がせた実力派ニュースコメンテイターの息子が考えられない様な幼稚な手口で窃盗事件を起こした事が思い起こされる。この息子は逮捕され、息子を甘やかした父親の責任が世間で問われ、親子共々マスコミ業界から墜落するという結果になった。この話題と蘇我親子の専横政治とでは、スケールの大きさ、影響度に於いて比べ様もない訳だが、何時の世にも共通する甘やかされた親子が辿る転落への道と言う点では共通した社会現象なのだなと思わせるのである。大化の改新と言う一連の政治改革の端緒となった中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)を中心としたクーデター、乙巳の変(いっしのへん)によって蘇我入鹿が殺されるのは二年後の事である。

② 蘇我入鹿殺害(乙巳の変)によるクーデターの敢行  

 蘇我氏の専横ぶりは朝廷を無視するまでにエスカレートしていた。蘇我氏打倒に最初に動いたのは中臣鎌足(後の藤原鎌足)である。中臣氏は神官を職とする家柄であり仏教振興をかざして政治を専横していた蘇我氏を憎んでいた。“ 蹴鞠”の席で懇意となったと伝えられる中大兄皇子を担ぎ、さらには蘇我氏の長老であった 蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、クーデターのチャンスを狙っていたのである。

クーデター実行の日は645年6月12日、大雨の日であったと言う。 朝廷では新羅、百済、高句麗からの”調”を受け取る儀式、(これを三韓からの進貢と呼ぶ)が行われる日であり、使者も来日し、女帝皇極天皇は勿論だが、大臣蘇我入鹿も必ず朝廷に出仕するという事を確認した上でのクーデターの実行だったのである。蘇我入鹿は殺された。翌日6月13日に父親である蘇我蝦夷も大邸宅に火を放ち自害した。この火事で620年に聖徳太子と共に蘇我馬子が編纂したと言われる”天皇記”が消失されたが、同じく編纂された”国記”は救い出されたと伝わる。 ここに蘇我専横政治は終息を迎えたのである。

③ 第36代孝徳天皇即位とその背景

乙巳(いっし)の変は別の観点からは蘇我氏の専横を許した歴史上二人目の女帝皇極天皇に対する“異議申し立て行動”でもあったと言える。中大兄皇子(後の天智天皇)にとっては母親ではあるが、皇極天皇は即日、6月14日に強制退任させられる事になる。

この天皇強制退位に関しては唐から”女帝”の国は不安定になると評価されていた事からも、女帝皇極天皇をクーデターと同時のタイミングで廃したものだとも言われている。

次の天皇には母親皇極天皇としては、クーデターの中心人物でもある息子の”中大兄皇子”を推したと伝わるが、当時まだ20歳そこそこの若輩であった事、当時改新派の勢力は朝廷内ではまだ圧倒的な力を持つまでにはなっていなかった事などから、当時の皇位継承順位で上位に在った叔父の軽皇子が即位し、第36代孝徳天皇となったのである。
クーデターによって政治的には不安定な状態を招来した訳であるから、当時の朝廷における保守派との均衡をとった形での孝徳天皇の即位だと考えられる。

④ 天皇中心の政治を目指した孝徳天皇と皇太子中大兄皇子の政治

我々が中学校時代に習った時代の教科書では大化の改新すなわち“蘇我入鹿暗殺事件”と教わった様な記憶がある。しかしそれは正確な歴史理解では無い。正確には”乙巳の変”と呼ばれるクーデターを皮切りに飛鳥時代に強大な政治力を発揮していた蘇我氏を中心とした豪族政治から天皇中心の政治へと変えて行った諸施策を総称して“大化の改新”と呼ぶのが正しいのである。乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれるクーデターはその発端であるが、この“暗殺事件”自体で”大化の改新“が成された訳では無い。孝徳天皇を擁立して始まった”天皇中心の政治”のブレーンとなったのが新政府の”国博士”に任じられた高向玄理(たかむこのくろまろ)や僧旻(そうみん)であり、クーデターの中心となった中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)に新しい国のあり方についての思想を教えたのが南淵請安(みなみぶちしょうあん)であった。

このブレーンとも言うべき3人は共に608年に小野妹子と共に遣隋使として派遣されたが、その間に中国王朝の激変に遭遇した為、結局30年近くに亘って中国に滞在したのである。
僧旻は632年に、そして高向玄理と南淵請安は640年に帰国した。この3人は留学生として隋、並びに唐の進んだ学問や政治組織、その他の知識を学んだばかりか、隋帝国が滅亡し、唐大帝国が建国される過程をつぶさに自分の目で見て来たのである。

こうしたブレーンを用いて”大化の改新”と言う大作業に乗り出した孝徳天皇、中大兄皇子、そして中臣鎌足というTopチームではあったが、結果において、孝徳天皇の在位期間(645年~654年)に打ち出した改新の諸施策は意気込みばかりが先行したきらいがあり、必ずしも実効は上がらなかったと評価されている。然しながら下記に挙げるいくつかの治績は記述するに値する。

第一には孝徳天皇が即位した直後にそれまで日本には無かった”元号”を定めた事である。
だから、日本の最初の元号は”大化”なのである。第二の治績は孝徳天皇が行った遷都である。孝徳天皇は645年12月に“都”を現在のNHK大阪支局のビルが建つ”難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に遷都したのである。

現在この難波宮跡は大阪歴史博物館として見学する事が出来るし、当時の倉庫の遺構なども含めた宮廷関係の史跡の説明も丁寧にしてくれる。豊臣秀吉の大阪城ばかりが有名な大阪だが”大化の改新時の日本の都”であった事を知っている人は意外と少ないのではなかろうか。大化の改新に意気込む孝徳天皇がこの地を選んだ理由の一つは、積極的に”唐”をはじめとした海外からの情報を集めようとする姿勢の現れである。当時の遣唐使の船は,まずは大阪の住吉大社で海上安全の祈願を行い、住吉津から出発し、瀬戸内海を通り、福岡に寄港するという海路であった。

福岡から先の海路は、其の時の朝鮮半島諸国との関係如何によって、北路、南路、南島路に分かれたが、いずれにしても出発の地は遣隋使の時代もそうであったが常にこの難波の地であった。又、帰港の地も同じく難波の地であったのだ。難波の地は古くから海外との接触の窓口という意味で要衝の地であり、蘇我氏から政権を奪還し、天皇中心の政治を目指した”大化の改新実行チ―ム“としては古き政治体質がこびりついた飛鳥を離れ、新天地を求めてこの“難波の地”に都を定めたのである。ちなみに、この難波宮全体が完成するのは着手から7年後の652年であった。

しかし、孝徳天皇、皇太子中大兄皇子の政治チームは、余りにも急激な改革を進める孝徳天皇と中大兄皇子側との間に仲違いが生じ、終には分裂してしまうのである。結果、654年に孝徳天皇が悲嘆に暮れた状態のまま崩御する迄の極めて短い期間の”首都“難波宮時代は幕を閉じたのである。

第三の孝徳天皇の治績は“大化の改新に情熱を燃やした”この天皇が行った数々の政治制度面での改革である。

(1)646年正月に孝徳天皇は”改新の詔の発布”という形で政治制度面での諸改革を行った。概要は下記であるがいずれもその後の政治の軸となる非常に重要なものが多い。

ア:豪族の私有地(田荘)私有民(部民)を公地公民とする
イ:戸籍と計帳を整え公地公民に貸し与え、税をとる班田収受の法を定める
ウ:租庸調の税制を整え、又、国郡制度を整備した

さらに孝徳天皇は大臣、大連を廃止し、太政官を置いて、左大臣、右大臣による政治体制とする大規模な組織変更を行ったと伝わるが、本格的な律令中央官制へと繋がって行くのは孝徳天皇期から後の事であり、地方支配の改革についても実質的に完成をみるのはずっと後の事である。

(2)649年八省百官を定める。

この記事は日本書紀に孝徳天皇が国博士の高向玄理と僧旻に詔を発して定めたとあるが、律令制の中央官制 がこれによって整ったのだと日本書紀の編者が殊更に強調しようとしたきらいがある、と学者からは指摘されている。何故ならばこの八省百官の制度はこの649年のものが最初のものだと記録されているが、40年後の第41代持統天皇時代の 690年に飛鳥浄御原令が施行された際にもこの八省百官の制度の記事が出て来る。又、この制度が名実共に完成したのはさらに20年後の701年、第42代文武天皇時代の大宝律令の施行まで待たねばならないと言われている。こうした経緯、実態からも、孝徳天皇が実施したとされるこの八省百官の制度への”改新”は、孝徳天皇の時代には実態が伴っていなかったのでは無かろうかと言うのが通説となっている。

⑤孝徳天皇政治の結末

以上の様に“大化の改新”と言う理想に燃えて”天皇中心の政治”を志した孝徳天皇であったが、その片腕であるべき皇太子、中大兄皇子が、性急な改革を進める孝徳天皇に他の豪族同様、反発を強めて行くという不幸な状態であった。

蘇我入鹿を殺害した”乙巳の変”の時に首謀者であった中臣鎌足(後の藤原鎌足)は最初は孝徳天皇(当時の軽皇子)をクーデター実行の仲間に引き入れようとしたのだが”人物的に器が小さい”と見て中大兄皇子(後の天智天皇)に切り替えたという話があるが、多分そうした”理想は高いが人物の小ささ”が孝徳天皇即位後の政治のからまわりという形になって仕舞ったのであろう。

孝徳天皇が主導しようとした”大化の改新”は難波長柄豊碕への遷都、改新の詔による諸施策の打ち出しなど、それまでの蘇我氏など豪族が前面に立った政治を改め”天皇中心の政治”への切り口となったと言う面では意味が大きかったが、性急過ぎた政治の進め方に肝心の皇太子中大兄皇子からの反発を招き、終に653年に中大兄皇子が飛鳥に戻ってしまうと言う事態に至ったのである。そして中大兄皇子に続いて、母親である皇極前天皇、大海人皇子(後の天武天皇)等も飛鳥に戻ってしまい、大いに張り切って遷都までした第36代孝徳天皇は654年、失意のうちに崩御すると言う顛末であった。

⑥第37代斉明天皇即位

孝徳天皇には有間皇子が居た。時の皇太子であった中大兄皇子は孝徳天皇と対立して飛鳥に戻って来てしまっていた。こうした状況もあって王族内の重鎮となっていた皇極前天皇が再び第37代“斉明天皇”として655年に即位した。これを重祚(ちょうそ)と言うが、現在まで125代の天皇のうち、この例と約百年後に聖武天皇の娘である第46代孝謙天皇が 第48代称徳天皇として重祚した二例があるだけだ。いずれの場合も女帝のケースであった。

女帝斉明天皇は自分の目の前で起こった”乙巳の変”の舞台であった飛鳥の板蓋宮(いたぶきのみや)に再び都を戻して即位した。そして再び飛鳥の地を“都”として再開発する事を決意するのである。 重祚した時に斉明天皇はすでに60歳を超えており、内政としては658年と659年の二回、阿倍比羅夫を北方に遠征させ、日本国としての統治範囲を津軽を含め、北方に広めたと言う功績が挙げられよう。まだまだ当時の大和朝廷の統治範囲は現在の日本全域に及ばず、狭い範囲であったのである。   

年間の祭事にも関わる”暦”今日で言う”カレンダー”の作成は明治維新までは朝廷の重要な役割であり管理事項でもあった。それに関連する”時の管理”を天皇家が行うという事を企図して660年5月に中大兄皇子が“水時計”を作ったと言う記述があるが、朝廷が主たる統治の機能として行った”祭祀”にも“時”の管理は“暦”の管理にも繋がる関連した朝廷機能として注目に値する。

 女帝斉明天皇と中大兄皇子がこうした内政を進めている間に、朝鮮半島では大きな変化が起こる。659年に始まった唐・新羅連合軍による百済攻撃である。そして翌660年7月に百済が滅亡するという結果になるのである。日本にとって百済の滅亡は国際情勢把握の重要な情報窓口を失い、文化等受け入れのルートをも失うと言う重大事であった。

 ⑦ 白村江の戦いと斉明天皇の崩御

この時期、日本の朝廷には百済の王子が滞在していた。一種の人質の様な立場であったと言う。名は”余豊璋”である。崩御した孝徳前天皇は”親唐政策”派の天皇であった。この外交政策の違いも斉明天皇と中大兄皇子が飛鳥に舞い戻って仕舞った大きな理由の一つだと言われている。斉明天皇と中大兄皇子の政策は”反唐政策”であり、同じく”反唐政策”の下で唐と戦っていた朝鮮半島の”高句麗”に外交使節を出していたのである。

こうした当時のグローバル政治情勢を背景下、滅ぼされた百済の残党は日本に居た、百済王子の”余豊璋”を立てて百済の再興を計ろうとして日本に百済王子の返還を求めて来た。
そればかりか、日本に対して唐、新羅連合軍と戦い、百済復興を果たす為に援軍を出して欲しいとの要請を斉明天皇、中大兄皇子のもとに出して来たのである。こうした日本の利害関係も絡んだ朝鮮半島の大変化に対して、斉明天皇と中大兄皇子は百済再興を計るべく、唐と新羅の連合軍に戦いを挑む為に日本からの援軍を送る事を了承したのである。

この意思決定は、当時の大統一王朝である唐という大国に、我が国が戦線布告したという事である。当時、どの程度敵側の戦力分析をした上での決断であったかは分からないが、相当に大胆な決断であった事に間違いは無い。

ところが当の斉明天皇は自らが軍を率いて筑紫に出陣する途中の661年に“崩御”して仕舞うのである。後に白村江の戦いと言われるこの戦いが始まる前に斉明天皇は崩御された訳だが、斉明天皇の息子であり皇太子として支えた中大兄皇子が”反唐政策派”であった事は分るが、果たして斉明天皇までが”反唐”であったかどうかは疑わしいとされている。
百済再興と言う大唐帝国を相手にしたこの戦いに勝ち目が殆んど無かった事は明らかであり、それでも戦いに及んだという誤りは何故起きたのであろうか。

当時の斉明天皇と中大兄皇子政権には後ろで控える大唐帝国と直接交戦するのでは無く、朝鮮半島の新羅だけが戦う相手なのだという誤解、あるいは情報不足があったのでは無いかと後世評価される程、結果として惨憺たる敗北を白村江に於ける唐との戦いで喫したのである。

中国が古くから”中華思想”で周辺諸国に相対していた事は史実からも知られているが、、この時期の日本は朝鮮半島の諸国に対しては日本を”中華”と見做していたのでは無いかと思われる程の大胆な動きをしていた。百済の再興に乗り出し、唐と新羅連合軍と戦って勝利出来ると考えた当時の外交上の情報収集力の未熟さ、中大兄皇子等、朝廷トップのグローバルな面での視野の狭さが指摘されるところである。朝鮮半島の諸国だけを相手に、日本を”お山の大将”と考えてしまうという所謂 ”小中華主義” に日本が陥ってしまったのでは無いかと思われるこの時期の外交の未熟さと言う点では、日清戦争から日露戦争を経て、第一次世界大戦へと、強引に参戦し、その後満州事変へと進み、終には日中戦争へと戦線を拡大して行く動きに似たものが当時もあったのであろうかと思わせるのである。

政治は結果論である。昭和初期からの朝鮮半島ならびに満州、そして中国への日本の進出がバックに控えていた巨大なアメリカ合衆国との軋轢に発展し、遂にはアメリカ合衆国との直接戦争になってしまう危険性を当時の政治家、関係者は十分に推論していたはずである。しかし結果はアジア太平洋戦争に至り、敗戦の憂き目に至ったのである。こうした1300年後の日本の姿と重なる、情報不足、外交力不足の結果としての大国、唐との戦争突入が白村江の大敗北であった。

⑧ 直ぐには天皇として即位しなかった天智天皇の”称制時代”

斉明天皇の突然の崩御によって、今度こそは皇太子であった中大兄皇子が天皇に即位するものと思うがこの時点でも即位しない。645年の”乙巳の変”からすでに16年が経っている。なぜ天智天皇が何度も即位の機会がありながら即位しなかったのか、又は出来なかったのか、については”謎”であり、諸説があるが斉明天皇の崩御から668年に漸く即位するまでの7年間は皇太子のままで、実態としては天皇の職務を代行したのである。これを”称制”と言う。天智天皇はこの“称制時代”に数々の歴史的事態に関わっているのである

ア:白村江の戦いの大敗北(663年)

日本は唐と海上戦で大敗した。日本軍は4万人を超える兵士を送り、唐軍は約2万人の戦力であったと言われる。この大敗で称制時代の天智天皇は大唐帝国の脅威をまざまざと見せつけられたのである。

イ:近江大津宮(大津京)に遷都(667年)

”小中華主義”に陥っていたと思われる当時の日本が朝鮮半島に対してのみ、関心を持ち、強国“唐王朝”を含めた当時の“アジア情勢”分析を十分に行っていなかった事が結果として白村江に於ける大敗北に繋がった事は既述の通りである。

バックに存在していた”大唐帝国”の脅威を指揮官として直接味わった天智天皇のショックは相当に大きなものであったのであろう。百済が完全に滅びそして高句麗との戦いにも唐が勝利し、その時点では唐と連合していた新羅もそのうちに唐の支配下に置かれいずれ大唐帝国は本格的に日本に攻め込んでくると言う脅威を中大兄皇子(天智天皇)が抱いたと言う事は無理のない事である。

そこで直ぐに着手したのが、難波(大阪)からも遠く、飛鳥からもずっと内陸となる近江大津宮(大津京)への遷都である。過日この大津京の史跡を訪れたが、民家が密集する地域にわずか50坪程の区画に碑が立っているだけであり、短かった都の面影は残念ながら今日では殆んど残っていない。

ウ:防人制度の実質的整備
大伴家持が編集者の一人である”万葉集”には100首を超える”防人歌”が載せられている。防人は制度としては大化の改新の際に整えられた制度とされるが、上記の白村江の戦いで大敗し、大唐帝国の脅威を知った称制時代の中大兄皇子が敵の進攻に対する防衛を急ぎ、軍事拠点として“大宰府”を構築する一方で対馬、壱岐、筑紫など、西国の辺境を守る為の最前線部隊として”防人”を 実質的に整備して行ったのである。

この防人は今日の国境警備兵であるが、3年の兵役を課せられ、3000人程が常に勤務していたと伝えられる。集められた兵士の中核が何故東国からの兵士であったかの理由については大敗した白村江の戦いでとりわけ西国からの兵隊で組織した部隊が壊滅した為、以後の兵の補給は西国からは困難となった為だと考えられている。

話はそれるが、万葉集に何故100首を超える”防人歌”が載せられたのかについては次の様に言われている。

大多数の人々が文盲の時代である、しかも防人兵士は農民が主である。大伴家持は当時、兵部省輔(現在の防衛省次官)であった。そこにおける役人としての任務と彼が万葉集の編集者でもあったと言う偶然の産物だと言う訳だ。担当役人として大伴家持は難波で毎年恒例として行われていた1000人の交代防人用員としての出陣式に出席していた。

この重々しい雰囲気になりがちな出陣行事には入隊式後の”宴”が催されたと言う。酒も振舞われ、私的感情が流出し、そうした状況に加えて、東国人の生活には、元々歌を作る慣わしがあった事が重なって、防人が任地に出発するに当たってその胸中を歌にしたものをまとめて兵部省に献じる事が以前から慣行となっていたと言うのである。

自身が優れた歌人であった大伴家持であるからこうした慣行によって防人から献上された”歌”にいたく感心した様だ。

その中から拙劣な歌は除いて、93首を万葉集の巻20に“防人の歌”として納めたのである。その他の巻にも”防人の歌”と思われるものが載せられており、全部で100首以上が載せられるという結果になった大伴家持と万葉集に関する偶然の話の真相という事である。

 家族の中心を防人として3年以上に渡って引き抜かれる家族の負担は相当に大きかったようである。防人の制度は646年から始まり、白村江の戦い(663年)で唐軍に壊滅的大敗を喫してから本格的に整備される様になった訳であるが、時代の変遷によって内容は変化して行った。制度として平安時代初期の第53代淳和天皇時代の826年に完全に廃止されるまで実に180年間に亘って続くのである。


エ:甲子宣(かっしのせん)・・・664年
      
663年の白村江の戦いの大敗北は実質的責任者である”称制中大兄皇子”にとっては始めから勝ち目の無い戦争に突入したと言う事で、諸豪族からの責任追求が強かったと言われている。こうした状況に対してすでに述べた対外防備の諸施策に加えて内政改革の実施も要求される状況であったものと思われる。その具体的施策が664年に”皇太子の立場で称制を行なっていた天智天皇が発令した内政改革の諸施策で”甲子宣”と呼ばれるものである。

何故この”甲子宣”が歴史の観点から重要なのであろうか。その内容にも注目すべきものがあるが、それよりもこの発令を弟である”大海人皇子”(後の天武天皇)に命じてさせた事がその後の歴史展開の上で大いに意味があったからなのである。

中大兄皇子(天智天皇)としては内政外交とも問題を抱える状況下で、人望もあった弟の”大海人皇子”を政治の正面に立てて内政改革の諸施策を実行する方が政権として“安定”すると考えたからであろう。それ程白村江の戦いの失敗は後の天智天皇、当時の称制中大兄皇子の信用失墜だった訳である。

 ”大海人皇子”はこの時点では天皇が不在で、中大兄皇子が皇太子のままで”称制”を行っていた訳だからいわば当時の朝廷のNO.2の立場にはあったが”大皇弟大海人皇子”と呼ばれる微妙な立場に居た。こうした状況も後の”壬申の乱”が起きる伏線となっていたのである。歴史には必ず”原因”があるが 天智天皇の息子である大友皇子との関係も絡んで後述する”皇位争奪戦”すなわち”壬申の乱” に何故突入して行ったかを理解する一つの出来事として役立つ事柄であろう。その ”甲子宣”の主な内容は下記である。

(1)官位26階制度
(2)大氏、小氏、伴造など氏上(うじのかみ)を決定
(3)民部、家部の制度 

これ等の施策の目的は中央豪族を官人化し、当時はまだ広く豪族による私民の支配状況が残っていたものを国家権力による統制の手を加えようとするものであった。こうした認定や登録を国が行う事により王権の浸透が企られる事になる。

当時、白村江の戦いの出兵などで中央並びに地方の豪族達が共に大きな痛手を受けていた事も天皇家を軸とした政治をより可能とする背景となっていたものと考えられる。この”甲子宣”はこうした国家が政治を先導して行く先がけの施策として、歴史上、大きな意味があるものとされる所以なのである。

⑨ 第38代天智天皇として即位する・・668年

皇太子中大兄皇子として7年間の”称制”時代を経て、終に天皇として即位したのが668年の事である。古代日本の基礎を作り上げた3人の天皇の一人として挙げたが、その治績の大半は、645年の乙巳の変 にはじまり、上記”称制”の時代までの治績が主たるものとなる。 即位後も”天皇中心の政治”を推し進め、大唐帝国に倣った”律令国家”を作る事を目指した天智天皇ではあったが、古代国家日本の萌芽期の天皇であり、強大な唐王朝の動向に常に脅威を感じながら、それに対抗し得る国内体制を急がねばならないと言う内政外交の両面の課題山積状態の天皇だった訳である。

心情的には一時として安らぐ時の無い天皇であったものと思われる。その為であろうか、天智天皇は即位してわずか4年も経たぬ671年に崩御となるのである。長い期間に及んだ皇太子時代、称制時代、そして漸く天皇に即位した後も内外共に厳しい状況は変わらず、心労は続いたものと考えられる。天智天皇を見舞った“心労”の主たるものを挙げると以下の3つの事柄であろう。

(1)    第一の心労・・中臣鎌足の病死

 近江大津宮に遷都した翌年の669年に”乙巳の変”の立案者でありその後も、内臣として政府の中核人物として、皇太子中大兄皇子を支え続けて来た”中臣鎌足”が病没した。臨終に際して天智天皇は鎌足に後の”正一位”に該当する”大織官”という最高の官位と共に”藤原の姓”を与えたのである。この”藤原鎌足”が後に栄華を誇る藤原氏の祖となった瞬間である。

(2)    第二の心労・・唐が“平壌”まで進攻する

 より大きな天智天皇の心労は即位して間もなく白村江の戦いで大敗を喫したあの“大唐帝国と新羅の連合軍”が永年、手を焼いて来た“ 高句麗”をも終に滅ぼし、大唐帝国の拠点を“平壌”にまで進めて来た事である。白村江の戦いの大敗北でより内陸の“大津”への遷都までを行った天智天皇ではあったがこうした唐の状況に、ますます恐怖心を強くしていたものと思われるのである。

然しながらこうした古代日本の状況は後の日本にとって別の面での大きな副産物を提供してくれたのである。こうした朝鮮半島の大変化、すなわち百済滅亡と高句麗滅亡は迫り来る大唐帝国の脅威に対して 防人の制度、水城建設などの国防体制の強化、国としての国内体制の整備を急がせたばかりでなく、多くの 難民が 押し寄せるという事態、古代日本における大規模の“渡来人の集団移住”という事態を生じさせたのである。

 弥生人が大陸から稲作技術を持って渡来し、先住民としての縄文人と混血して後世の日本民族となって来たのと同じ様に、この時期の最大級の朝鮮半島からの王族、貴族を含んだ日本への渡来によって、工業技術面、文化面で大陸の最先端の文化がもたらされたばかりか、当時の朝廷が目指す”律令国家の早期整備” に相当な力となったものと考えられる。

又、こうした歴史の過程からも、”日本人”とは太古の時代から渡来人を自然体で受け入れ、文化、技術、さらには仏教など宗教までをも柔軟な姿勢で受け入れ、それまでの日本固有のものと時間をかけて混血させ、日本独特のものとして育成して行くという従来からの日本民族の持つDNAを一層磨き上げる事に貢献した歴史的に重要な時期であったと言う事が言えるのである。

皇統の研究家でもあり、憲法学者である竹田恒泰氏は”今日の”在日”と呼ばれる人々もきっと今後も過去の歴史と同じ様に混血を繰り返し、時間を経て、之までの歴史同様、遠い将来の日本人の祖先となる人々である”と説明している。

(3)第三の心労・・大友皇子(息子)か大海人皇子(弟)かの後継者問題

 天智天皇の皇太子には弟の大海人皇子(後の第40代天武天皇)が就いた。弟である為”皇太弟”と呼ばれた。ところで 天智天皇には寵愛し、重用したと伝えられる息子の大友皇子が居た。大海人皇子が皇太弟なので大友皇子を皇太子として後継者に据える事は出来ない。そこで 天皇即位後3年目の671年正月に人事を行い”太政大臣”という国家運営の中枢となるポストを大友皇子の為に新たに設けた。 いわば現在の内閣総理大臣的ポストに就けたのである。 “太政大臣”というポストが日本の政治組織に初めて見られる例であり、そして左大臣には蘇我赤兄を就け、右大臣には中臣金を就けて補佐をさせると言う政治体制を敷いたのである。

こうした人事が天智天皇崩御後の次期天皇即位問題に複雑な事情を生じさせ、後述する大海人皇子と大友皇子との 間の”壬申の乱”という皇位継承戦争(672年)へと繋がるのである。歴代の天皇の表を見ると天智天皇が崩御した後の天皇として大友皇子が第39代弘文天皇として皇位に就いた事になっているが、日本書紀が書かれた当時には弘文天皇即位の記述は無い。明治時代になってから公式に即位が認められた天皇なのである。
 弘文天皇が天皇に即位した事は日本書紀にも記述されていない。その理由は日本書紀の編纂を命じたのが壬申の乱で天皇の位を争った当の“ 天武天皇”(大海人皇子)であったのだから当然だとも言える。兎に角日本の歴史上、内戦としては最初の大規模な皇位継承戦争を経て即位し、次項で記述する数々の治績を残し“天皇の中の天皇“と位置づけられていた天武天皇と皇位を争った大友皇子であったから、歴史上では長い間天皇に即位した事は史実として認められていなかったのである。

次項“天武天皇”の中で詳細に述べる事にするが、 天智天皇としての本音は当初から弟で人望があった大海人皇子に皇位を譲ろうとしたのでは無いか、と伝わる説もある。いずれにしても結果として天智天皇の遺児、大友皇子の周囲の豪族達が絡んだ複雑な政治権力争に発展し、”壬申の乱”へと繋がったのである。

内乱を起こす火種ともなり兼ねない皇位継承問題が天智天皇の短い天皇在位期間中の大きな心労であった事は間違いなかろう。果せるかなこの年、天智天皇の崩御直前の671年11月に大海人皇子(後の天武天皇)はNo.2のポジションであった“皇太弟”の地位を辞退し、その結果、大友皇子が皇太子の地位に就くという展開となり、上記した様な当時としては史上最大規模の内乱になるのである。
  
⑩    天智天皇の治績と、わずか4年未満での崩御

(1)庚午年籍の整備(全国規模の戸籍調査)

 670年、天皇即位2年後に”庚午年籍”を整備した。これは残念ながら現存しないが、全国規模で行われた事が確認出来る日本最古の戸籍である(続日本紀)。この戸籍は平安中期までは残されていた事が知られている。天智天皇としての狙いは律令体制による支配体制の整備をする事が目的であった。当時は役人と言えども文字を使う事の出来る人が少なかった時代であり、しかも“豪族”の勢力がまだ強く残っていた時代である。従ってこの戸籍作りで、地方豪族の“私有民”までをも漏れなく登録する事が出来たかは甚だ疑問ではある。ところで、カバーする範囲は狭かったが、こうした戸籍を作る動きは古くから見られる。540年頃の欽明天皇にも戸籍を作った記録が残っているが、この時の戸籍も地域的に限定的であったし、主として渡来系の人々を支配する事が目的であったと言われている。こうした戸籍作成上の困難さ、不備はあったものの、兎に角こうした全国規模の”庚午年籍”という戸籍が天智天皇によって整備された事は、天皇家が全国規模で民衆を把握する事となったと言う点で意味が大きいのである。

 これに拠って、十分では無かったとは言うものの、物資や労働力だけで無く、大規模な兵の調達が可能となり、以後の戦争のあり方を大きく変える事になったと言われる。つまり兵員調達の助けとなる等、以後、大掛りな戦争の遂行が可能となったと言われる。天智天皇崩御後に起こった”壬申の乱”の際には大規模な兵の徴集を行なうのにこうした戸籍の整備は非常に役立ったのでは無いかと言われている(慶大竹田恒泰氏)。

(2)近江令の制定

671年に制定された近江令は 日本最初の令(国家制度全般について定めた法典)と言われているが、これも又現存しないので本当に施行されたのかどうかについては否定的な学者も多い。いずれにしても、当時先進国であった”唐”の律令制度を見習い、法律、制度の完備した中央集権的な法治国家の建設を目指して天智天皇と中臣鎌足(藤原鎌足)が中心となって編纂したものと伝わる。遡ること26年前に、当時としての近代国家への脱皮を目指して、蘇我入鹿を殺害し、大豪族“蘇我氏専横政権”に対して二人が中心となってクーデターを起した己巳の変から四半世紀を費やして整えた法典であった。

この近江令が制定されたのは668年と言うから、中臣鎌足(死の直前に 藤原の姓が下賜される)が亡くなる1年前の事である。上述した様に、近江令が実際に施行されたかは定かでは無いがこの令が編纂され、制定されたと言う記録は、鎌足の伝記(大織冠伝)や弘仁格式の序にも記述があるので間違い無かろう。

その内容は全く不明で断片すら残っていないのが甚だ残念ではあるが、これが後の天武天皇が編纂を命じ、天武天皇崩御後の689年に持統天皇によって施行された飛鳥浄御原令(あすかきよみがはらりょう)に繋るのである。

実際に近江令が施行されたかどうかは別にして、施行を命じたのが政務の最高責任者の立場、太政大臣の地位に就いていた天智天皇の皇子の大友皇子だったのか、それともこの時点ではまだNo.2の立場に残っていた”皇太弟”大海人皇子だったのかも判然としない。

天智天皇が崩御直前に息子可愛さの余りであろうか、大友皇子を日本最初の“太政大臣”に就けた事が“皇太弟”であった大海人皇子派の反感を買い、当の“皇太弟”が辞任と言う行動に出たのである。天智天皇としては複雑な心境であったであろうが結論として弟の大海人皇子の“辞任”を認めたのである。そして、 672年1月7日に上述して来た様に日本の最も困難な時代のリーダーとして永年尽力して来た天智天皇は46歳の若さで崩御となったのである。

”秋の田の かり穂の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ”という和歌は百人一首の冒頭に載せられている天智天皇の歌である。天智天皇は優れた歌人でも在った。繰り返しとなるが、天智天皇は古代日本国の創建期と言う非常に難しい時期に我が国のリーダーとして“大化の改新”のきっかけとなった“クーデター”を起こすなど20代から46歳で崩御するまで日本国の内、外政の基礎作りに生涯を捧げた天皇として今日でも最も評価される天皇の一人なのである。

天智天皇の崩御には謎が多く、暗殺説もあるがそれらの根拠は12世紀に出された”扶桑略記”等、かなり時間が経ってからの記述に基づくものであってそれらの説の信憑性は疑わしいのでここでは省略する。

0 件のコメント:

コメントを投稿